1 :
井上筑後守:
2 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 02:13:58 0
4 :
考える名無しさん:2009/05/28(木) 17:24:29 0
大乗って本来の釈迦の教えじゃないでしょ
5 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 18:42:50 0
春秋時代の中国に諸子百家が林立し、中でも孔子の興した儒家が白眉として持て囃されたように、
釈尊の活動時期頃のインドにも六師外道などの形で多くの宗教家が派生し、
中でも真俗二諦の中道を説く釈尊の教えが白眉として持て囃され、中国や日本にも導入された。
「孔子の教えこそは儒家の教えであり、孟子や朱子の教えは儒家の教えではない」
なんていう人間がいないのと同じように、龍樹や空海らの教えもまた仏教の教えではある。
個人ではなく系統こそを重視することが東洋教学に対する模範的な勉強姿勢となる。
6 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 18:55:23 0
最も、儒家は世俗の教えであり、仏教は超俗の教えであるあたり、
儒家と仏教の間に何もかもの共通性を見出せるわけではない。
インドにおいて世俗性や家庭性を重視していたのは仏教よりもバラモン教のほうであり、
バラモン教以上に超俗を重視した仏教は中国でいえば道教格にあたる。
中国:儒家(世俗)⇔道家(超俗)
インド:バラモン教(世俗)⇔仏教(超俗)
という対応関係が存在し、白眉である教学の世俗超俗が中国とインドで
あべこべになっている。国全体でいえば中国のほうが世俗性を重視する面が強く、
インドのほうが超俗性を重視する面が強いために、このような結果を呈した。
バラモン教から聖典(ヴェーダやウパニシャッド)や聖伝(各種法典)を
受け継いでいるヒンズー教も、実は中国で言えば儒教格にあたる。
「道家よりも儒家を重視するんなら、インドでも仏教よりヒンズー教を重視するのか?」
と聞かれた、これも「いいえ」と答える。中国の世俗思想だからこそ
儒家を重視するのだし、インドの超俗宗教だからこそ仏教を重視する。
それぞれの国の特質に応じての臨機応変な長所の称賛が望まれる。
7 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 19:29:41 0
一番尊重するインド宗教哲学が仏教ではあるにしても、
自分自身が聖道の仏教者としてやっていく気などは毛頭ない。
聖道仏教の基本たる出家第一主義は、儒家の三綱五常と致命的に衝突する。
仏教教学と儒家教学の実践を両立させることは、原理的に不可能なもの。
今の日本仏教なら僧侶の妻帯も許されているにしたって、
それは結局あくまで、誰も彼もが浄土門に流れてしまってるだけの話で、
空海や道元が活躍していた頃並みの本格的な聖道門のほうが滞っているだけだ。
浄土門以外の大乗仏教には、(厳格な)出家第一主義の復活を促す一方で、
自分自身は儒家教学に沿った士人大夫としての人生を目指していくもの。
それはインドで宗教で言えば、仏教者よりもバラモンやクシャトリヤの
生活規範に近似するものではあるが、別にヴェーダやウパニシャッドを生活の
拠り所にするわけではなく、昔からの日本人らしく四書五経らを参考にする。
とりあえず今度は「新儒学」こと朱子学の入門書である「近思録」に取り掛かる。
徳川幕府のご用達でもあった朱子学の基本中の基本文献、このハンドルには
まさに打ってつけの書物。仏教のほうが実践できないぶんだけ熱心に学び取る。
8 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 21:11:23 0
出家第一主義が復活し、寺院の世襲制が廃止されたとて、
宗門の側が人材不足に悩むような必要はまずない。
今の世の中、今すぐにでも出家したほうがいいような奴らばかりだから。
重罰の科せられる主犯格や重大共犯格は別として、
全員に懲役刑を科してたら刑務所の収容員数を超えてしまうような
微罪の従犯格に対する便宜措置、聖道門での得度。
知識だけはある、ただ、善悪の分別も付かないままに働いてしまった、
九九を知らないままに高等代数学を勉強してしまったような奴ら。
教義上の知識を取り込むには差し障りはなく、むしろ有能ですらある。
ただ、その腐れきった根性を厳しい修行で叩き直すことが重大だ。
寺院から逃げ出さないよう刑務所並みの塀の増築が必要になったりな。
9 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 22:48:11 0
女であれば、微罪程度なら、優しい奥さんになることでも償われる。
マヌ法典での男尊女卑は、女ですら自主的に婦徳を具える
日本や中国の側からすれば酷烈に過ぎるように感じた。しかし、
コーカソイドの女は、あれ程にも締め付けないと暴れ回って仕方ない
のかもしれないとも思った。性欲のために何もかもを蔑ろにする禽獣。
あくまで基本の女性愛は、究極の婦徳を示したアマテラス神話に
依りたいもの。ただ、コーカソイド特有の性欲の蟲が湧き始めた
時には、必要悪としてのマヌ法典もまた参考にしていく所存。常に
日本の女としてのみ振る舞わんとする姿勢が、無駄な苦労を省く。
10 :
井上筑後守:2009/05/30(土) 19:30:19 0
困った。
疎かにしていいような話が一つとしてない、「近思録」には。
抽出して寸評しようにも、取捨選択のしようが全くと言っていいほどない。
全てを寸評してたんじゃもはや一冊の本になる。非常に困ったもん。
タチバナ教養文庫版の注釈者である湯浅幸孫氏の「朱子学は
宋代に完成しすぎて後代に発展の余地がなかった」という言も適当な
言ではないと分かる。孔子や孟子によって提示された普遍道徳学が
朱子らによって大成され、大幅な修正や変更もないままに今に至る。
陽明学が朱子学ほどの完成度を持たないのは、大塩平八郎の乱の
失敗などからも分かる通り。情に訴える甘さすらも排した宋学の精髄。
近思録だけでもすでに完璧であることは分かる。しかも朱子学にはまだ
「朱子語類」という膨大な文献群が控えている。まだ抄選しか読んだこと
がない。時代的には800年前という、新しすぎず古すぎない程度の産物。
近現代の日本人が大政奉還によって捨て去った東洋の精神学の首領、
再評価だなんてチャチなことはせず、これだけに専念する覚悟すらせよ。
11 :
井上筑後守:2009/05/30(土) 22:02:48 0
引用程度を躊躇してても仕方ないんで、
書くべきことを書くため程度に寸評していく。
「聖人は天地と其の徳を合わせ、日月と其の明を合わせ、四時と其の序を合わせ、
鬼神と其の吉凶を合わす。君子は之を修めて吉なり。小人は之に悖って凶なり」
(タチバナ教養文庫「近思録」一・一より)
天地の理を会得して徳を積むことは、気の屈伸(呼吸)としての鬼神との折り合わせとして
吉祥となることであり、君子聖人はこの吉祥こそを追及している。小人はこれを怠って
不吉に見舞われるし、悪人ともなればわざわざ鬼神との折り合わせに反発して大凶ともなる。
天地万物の中には自然も含まれる。むしろ自然のほうが人為などよりも遥かに大部分を占める。
その自然である部分を東洋人は基本、調和すべき仲間として捉え、極端な詮索は避けてきた。
しかし西洋人はその自然を征服の対象として捉え、壊しちゃ造りの実験場と化してしまった。
調和すればそれで吉祥であるはずの自然を無闇に侵害することで、不吉を超える大凶の限りを
尽くしてしまって、このまま行けば温暖化や食糧不足などによる破滅が見えきっている。
この大凶なる現状を、さらなる科学技術の発展によって乗り越えるか、それとも東洋流の
自然との調和に基づいて解消するか。結論を言えば、その両方ともが望まれる。
科学技術によって破壊し尽くしてきた程度に、科学技術によって問題を補修解消し、
壊した分だけ直すマッチポンプが済み切った先に、これ以上無駄な大凶破壊を行わない
自然との調和に基づいた文化文明の興隆が促される。江戸時代のような完璧エコ社会に。
勧善懲悪と断悪修善、悪いことをやめさせるまでと善いことだけをするまで、どちらもでいい。
12 :
井上筑後守:2009/05/30(土) 22:16:38 0
「仁は天下の公、善の元なり」
(同文庫「近思録」一・一一)
仁は「仁愛」とも言う通り、「愛」に比較的近い意味を持った理念。
ただ愛と違うのは、仁には天下を重んずる公共性が伴っていること。
天下国家を治めんとする正しさに基づいて人を愛する、それが仁。
誰か一人か数人程度を愛することは仁に値せず、仏教だけでなく儒家でも卑しまれる。
ただ仏教と違って、儒家は天下の理に沿うほどの愛は「善の元」として貴ぶ。
愛を場合によって貴ぶこともあれば卑しむこともある。殊更に愛執を卑しむ仏教と
比べて、儒家はまた別個の理解のための度量を要する。天下を重んずる大人としての。
13 :
井上筑後守:2009/05/30(土) 22:44:35 0
「人の性は本善なり。革む可からざるもの有るは何ぞや。曰く、其の性を語れば、
則ち皆な善なり。その才を語れば、則ち下愚の移らざるあり」
(同文庫「近思録」一・一四)
人は誰しもが性善ではあるが、才覚によって善悪上下が分かれる。性懲りもなく悪いことをしよう
とする愚かしさは、根本の部分からの人間としての本性には根ざさない「構造」でしかない。
思考の技巧を凝らそうとする戯れは、始めから人間としての正しい活動を為そうとする性質
には基づいていない。ただ無駄なことをしでかす才覚のウレシ具合のみがそれを為そうとする。
天才は人間性が馬鹿になっている所で生まれやすい。ゆだやみたいな。人間性を確保した上で
しかも天才である空海や道元とは全く格が違う。天才にとってこそわきまえられにくいのが善悪だ。
14 :
考える名無しさん:2009/05/30(土) 23:36:19 O
甘利斐前上(あまりびぜんのかみ)
15 :
考える名無しさん:2009/05/31(日) 00:08:28 O
六十四卦暗記してますか?
古事記日本書紀等以外で
神道を勉強するのに良い本ありますか?
17 :
井上筑後守:2009/05/31(日) 21:48:44 0
記紀は教派神道の根本的な拠り所であると同時に、日本国史の冒頭でもある。
延喜式や交替式のような規範集も入っている国史大系が、実は全て「神典」と呼ぶに値するもの。
吾妻鏡や延喜式を愛読していた家康公などは、徳川実紀に基づいて名を連ねることとなった。
日本史上において真に主導的な役割を担った人間は誰でも、後代において神道の継承者とされ得る。
国家神道として国際社会に打って出た前科によって見えにくくなっている、日本国の正統としての神道。
多くの国民が今でも何気なく大金の寄進をしたりしている、国内における最もな信頼性の本源。
とはいえもちろん、日本国史は儒家や仏教の影響も大きく受けてきているので、
何もない所から生まれたにしてはあまりにも精緻過ぎる場面の多い国史の内実を、
(先人もそうしてきたように)儒家や仏教の教学を参考にして学び取ることもまた望ましい。
聖徳太子の十七条憲法もまた、全くのオリジナルとしてではなく、儒家思想と仏教哲学の絶妙な
折衷である点にこそ意義があるので、儒家や仏教の純粋教学を学ぶことで、ただ凄い人扱いされている
だけでしかない聖徳太子の、内奥にまで遡った別の意味での凄さを計り知ることができるようになる。
神道の底抜けな信頼性の根拠を知るためには、最新の考古学資料にも頼る必要がある。
古典文献としては千数百年前程度の、さして古くもない記紀を教義的な拠り所としている神道が、
実は一万六千年〜三千年前の縄文時代からの伝統に深く根ざしているものであることなど、
字面だけでは計り知れない即物的な側面における神道の奥義が垣間見られることとなる。
口伝ばかりでほとんど文章としての伝承を遺してくれなかった神道の真義に到達するためには、
学び取ろうとする側にもまた不誠実さを捨て去った、きめ細やかな内心からの正念が不可欠となる。
>>17 ありがとうございます
少しづつでも読んでいこうと思います
19 :
考える名無しさん:2009/06/01(月) 00:43:04 0
貝原益軒の養生訓って読みましたか?
20 :
考える名無しさん:2009/06/01(月) 01:58:04 O
貝原さんて何を意味してるんかいなあ?草間さん同様わからないなあ。金貸しは人間の背中を追いかけて人の裏しかみないし下しかわからな。そうすると日蓮だね
21 :
井上筑後守:2009/06/01(月) 22:26:34 0
>>19-20 養生訓はまだ読んでないけども、儒者が書いたからには、儒学に悖るようなことは
書いてないだろう。ただ研究するだけの学者ではなく、実践まで持っていく儒者ならば。
宋代以降に儒学が革新的な発展を見せた痕跡はないので、後代にも十分に教学が
継承されていたかどうかを確かめる資料として考えればいいだろう。宋代から現代までの
間だけでなく、春秋戦国時代の興隆期から宋代の中興期までにも、あまり儒家の革新的
な発展は見られない。仏教などと比べても、儒家は頗る変革に対して保守的な教学。
今度変革が起こるのも千年後ぐらいだと思っていたほうが、楯突くことへの諦めは付く。
近現代の金満主義の喧騒も、儒家にとっての中だるみである時期の暇つぶしだと思えば。
支配道徳である儒学を重んじた武家階級とはまた別に、四民制では下半分にあたる
「工商」によって形作られた町衆文化というのがまた別にあって、井原西鶴の好色物や
近松門左衛門の心中物など、武家階級の男らしさや礼儀正しさとはまた別の潮流を
作り出している。女々しく放蕩や悲劇にも奔るあたり、西洋文学にも近似しているし、
日本画のような、宗教性とあまり密接でない芸術作品も町人階級によって形作られた。
武家社会だろうとも、今の世の中で持て囃されているような小人文化がある程度は
認められていたのであって、そのような階層の人々に支持されていた日蓮宗も、
カルト化しない程度であれば全否定するわけにはいかないものでもある。
武家と農家の下に置かれる制約の下での、無難な放蕩ならば許してやるもの。
22 :
井上筑後守:2009/06/01(月) 23:02:18 0
貞観政要、呻吟語、宇下人言、日暮硯・・・
今では「リーダーのバイブル」なんて触れ回りと共に、「経営者必読の書」などと
謳われることもある為政者の書。文章をドグマ化させてしまう「バイブル」という比喩
も編纂者の意図に沿わないし、何よりも「経営者」に参考にされることが心外だろう。
上記の書物などはあくまで、資本主義社会ではなく封建主義社会での帝王学書。
士農優先工商劣後が、隅々まで風潮として行き渡っていた時代の産物だから、
いかに財界権力を抑えつつ世の中をうまく治めるかを学ぶ時にこそ真価を発揮する。
今のような資産家即ち支配者状態の世の中では、真価が発揮できないだけでなく、
曲解されて不公平な為政の参考にすらされかねない。支配者が資産家でもあるという
前提が、根本的に江戸時代までの東洋の為政者の意向に真っ向から反している。
資産家は別にいてもいい。江戸時代にも三井や住友のような富豪は存在していた。
ただ、それは決して為政者ではなく、町衆という身分相応の立場における成功者に
すぎなかった。商工階級が支配階級とも化す僭越、あたかも洪水に何もかもが呑み
込まれているかの如く。洪水のさ中に自分らだけが乗る箱舟などを作るのではなく、
洪水を根本からせき止める治水事業こそが必要とされる。商工業の適度な抑制が。
23 :
井上筑後守:2009/06/02(火) 13:16:46 O
GMも破綻したしな。
(精神や生命とは逆という意味での)物質の氾濫を思う存分に野放しにする時代から、
うまく塞き止めて適度に制御する時代への転換期に差し掛かっている。
そのためにこそ、人間の本性としての精神を重んずる東洋教学の適用が望まれる。
物質の制御のために唯物主義を用いたんでは、マルで氷でダムを築き上げる
ようなもので、氷解温度を持つ物質の洪水などに耐えられたもんじゃない。
土砂やコンクリートのような、物質たる水とは別個の組成を持つ固体に相当する精神が
完全な治水を達成する一方で、適度な放水の制御機能をも兼ねるもの。
江戸時代に興された三井や住友が、現代でも一流の資本グループとして通用していることからも
精神を上とし物質を下とする序列機構が、決して物質文化の発展を停止させるものではないことが分かる。
「鬼平」でも25両(約125万円)の包金(通称切り餅)がバシバシと使われてたりする。
あぶく銭を伴わない即物経済では、あの時代も結構裕福な時代だったようなんで、心配はいらない。
安心して後は任せなさい。
24 :
考える名無しさん:2009/06/02(火) 17:37:11 0
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25 :
考える名無しさん:2009/06/02(火) 18:14:32 0
ピュッピュッピュッつつ
26 :
考える名無しさん:2009/06/02(火) 22:22:03 O
たった一つだけの地球。たった一度きりの受精。
直後に受精膜が張り巡らされて、侵害も離脱も不可能な、完結した命の胎動が始まる。
母なる太陽の光に照らされて、これからもスクスクと成長し続ける、地球人類という子供。
むしろこれからこそ、立派な一体の人間としての自覚を持った成長が始まる。
そこかしこで殺し合いの火花を散らしていた、個体としての意思の覚束ない肉塊であったのが
受精による独立生命体としての胎動の開始により、一律した考えを持つ立派な人間として成長していく。
※ 易経やデメーテル神話では、大地のほうを母と見なしているが、
これは天(太陽)こそを母と見なすアマテラス神話に比べれば時代遅れ。
太陽を母と見なし、地上の山や海を山幸海幸といった子供たちの活動場所と見なすことで、
地上の統一を十分に俯瞰する余裕ができ、本当に地球人類社会が統一された場合に
何千年も前からその感覚を日本人に先取りさせておく役割を果たしてきた。
日出ずる処の者としての威厳は、実は地球人類の統一にまで及んでいた。
27 :
考える名無しさん:2009/06/02(火) 23:10:03 O
地球人類社会という天下が、受精(玉を噛み噛み)によって統一された瞬間から、
母たる女は地母神から太陽神へと格上げされる。
子供を戦地にやって殺させてしまうような悲劇を払拭し、
まとまった生命体としての人類を天上から照らし出す、無量光明の慈母となる。
今はまだ日本人しか把握できていない、地球人類社会という大和社会の一体感、
日本全国並みに人類社会が和合できたなら、自ずと母たる女は
全世界における最高太陽神としての地位を確立する。
陰陽斯開から陰陽完結へ。
人類の文化文明を、まさに陰に陽に統率してきた陰陽五行が、
陰性の代表たる女までをも太陽と化してしまうことにより、
完全陽性社会としての地球人類社会を完成させてここに終わる。
28 :
井上筑後守:2009/06/04(木) 20:25:39 0
例えば、蒸し暑い真夏の炎天下に吹く風は、熱気を冷ます、善い風。
逆に、肌寒い真冬の寒空に吹き付ける風は、余計に寒くなる、悪い風。
特に気温や湿度には何の変哲もない春や秋にでも、
肌を軽く撫でる程度のそよ風は、風流で心地よい、善い風。
洗濯物や屋根瓦を吹き飛ばすような暴風は、迷惑な、悪い風。
気温や湿度も何の変哲もない時期の、風量もそよ風とも暴風とも
言い切れない、どうとも言えないような中途半端な風こそは、無記の風。
人間にとって善くも悪くもない、ただの風。故に無記の風。
無記の風だろうとも、病原菌や塵埃を吹き運んできて、人々を病気に
罹らせるような場合もある。だからってこの風が無記でない、悪い風に
なるのではなく、病原菌や塵埃といった悪を内包した、有覆無記の風となる。
風であることとはまた別のこととして、善悪への差し障りを呈する、有覆無記。
もちろん、病原菌も塵埃も一切内包していないような無記の風は、無覆無記。
29 :
井上筑後守:2009/06/04(木) 20:46:16 0
上記の「風」に基づく善悪無記の区別でいえば、
寒空に吹き付けたり、洗濯物や屋根瓦を吹き飛ばすような寒風暴風は、
典型的な悪人の所業に例えられうる。他者を直接傷つけたり殺めたりする、
分かりやすい犯罪はこのような、風が風であることにより悪い場合に比肩される。
ただ、風が風であることによっては何ら悪い原因にはなっていない場合、
無記である風がさらに病原菌や塵埃を吹き運んできた場合には、
当該の風は有覆無記となる。この、有覆無記の風にあたるような人間、
自分自身では何も悪いことをした覚えはないのに、教育などによって自然と
劣悪な言動に走ってしまったり、犯罪者に金を貢ぐような仕事に就いてしまったりする。
これがいま極めて多い類の人種。身に何の覚えもないのに、知らず知らずの内に
(自分とはまた別の)悪に加担してしまっている、有覆無記の人間が、今の
世の中において「真っ当な労働者」扱いされているほぼ全ての人間を占める。
権力犯罪者やヤクザは本より悪人である。有覆無記ですらない、ただの悪人。
しかしそのような、病原菌や塵埃に値するような悪と、自分たちは全く別個の存在である
という自負から(あながちそれも全くの間違いではない)、無記の風にあたる
多くの一般市民が、無意識の内に病原菌や塵埃を含有させられることで、
悪を撒き散らす助けをしてしまう、有覆無記の風と化してしまっている。
30 :
井上筑後守:2009/06/04(木) 21:05:20 0
さらに言えば、「風」という例えは、孫子の「風林火山」の比喩からも分かるとおり、
「行動的な人間」の有り様として扱われることが多い。
風が強いということは、蒸し暑い炎天下などには心地よい、善いものとなるが、
真冬の寒風であったり、物を吹き飛ばすような暴風である場合には悪い風となる。
そしてもちろん、病原菌や塵埃を媒介する場合にも、より強いほうが有覆無記の
風としての度合いが強くなる。悪を内包する無意識従犯の風。風が風であること
によって悪いか悪くないかは別として、寒風と暴雨と病原菌や塵埃を内包する場合と、
いずれもが被害者である人間の側からすれば悪いこととなる。あたかも風が強い
ことと同じように、人間が行動的であることにも、必ずしも善い結果をもたらしはしない
根拠がこれほどにも揃っている。にもかかわらず今の人間は誰しも無駄に行動的だ。
あたかも炎天下に暑熱を冷ましてあげようとするような、善い結果をもたらすことを
確信した上での行動などは皆無なのに、とにかく何でも行動に移す。寒風だろうが
暴風だろうが病原菌や塵埃を媒介しようが、とにかく吹き荒れる、ADHDという強風。
むしろ吹かないほうが善かったり、あるいはそよ風のように優しく吹き付けることで
雰囲気を和ませたりのほうが、ずっとマシではあるんだが、強風であることばかりに
こだわる現世の悪癖に囚われて、誰しもが有害無益な吹き付けをやめられないでいる。
人間は必ずしも「風」である必要すらない。「林」のように潜むことも、「火」のように
侵すことも、そして「山」のように動かないことも、いずれもが臨機応変な人間の有り様。
戦国最強の武将だった武田信玄も掲げていた風林火山。家康公も三方々原の戦いでの
惨敗以来、参考とし続けることで戦国の最終勝利者となり得た。有り難い教えである。
>>30訂正:
×寒風と暴雨と病原菌や塵埃を内包する場合と、
○寒風と暴風と病原菌や塵埃を内包する場合と、
32 :
考える名無しさん:2009/06/05(金) 13:31:10 0
風林火山の「林」と「山」ってダブってない?w
33 :
井上筑後守:2009/06/05(金) 15:37:42 O
隠れ潜んでたって、裏でコソコソといらんこと策謀しまくるような奴らもいる。
逆に何の臆面もなく街中を歩き回ってた所で、結局は何もしていない殿様もいる。
前者は人前で出来ないような後ろめたいことをやっているからこそ隠れるしかなく、
後者はそんなことは一切やってないからこそどこにも隠れたりする必要がない。
全地域全方面における汎用性を尽くせば、山のように動かないことのほうが
遥かに出し惜しみなく公開できる度合いが高く、逆に風のように
ビュウビュウと動き回ることのほうが、色々と方々で問題を起こして
隠蔽せざるを得ない部分を作ってしまう割合が大きい。
「孫子」はあくまで道徳書ではなく兵法書だから、
戦乱状態における勝ち抜きの法則を羅列しているだけ。
戦乱を必要としない平時には却って不必要な疑獄を呈するような要素も含んでいる。
兵法では戦国一を誇った武田家も、最後には亡ばざるを得なくなったのは、
権謀術数に入れ込みすぎる軍学の偏重による所が大きい。
人間的な交渉の余地のないただの戦好きは、勝頼と、その騎馬軍を葬った
信長との代で終わったんだ。
34 :
井上筑後守:2009/06/05(金) 17:05:01 0
犯罪者は、宇宙の真理にも天下の道理にも背いているが故に、孤独だ。
宇宙や天地を形作る、ありとあらゆるものが自分の敵となるから、
自己愛と、自分の仲間内の友愛だけでしか孤独を紛らわせられない。
でも道徳者は、宇宙の真理や天下の道理に則しているが故に、全く孤独でない。
宇宙や天地を形作る、ありとあらゆるものが自分の味方だから、
自己愛もいらなければ、仲間内だけでの友愛なども全くいらない。
一時的に犯罪者同士の仲間内のほうが名目上は多くなり、道徳者のほうは
少なくなったり、あるいはいても分裂させられたりしたところで、結局は
宇宙の真理や天下の道理に則している側のほうが、普遍的かつ圧倒的な
多数派だから、いつかは形勢を逆転できるだなんてことも決してない。
宇宙の真理や天下の道理を敵に回している者は、目の前の人間としての
相手だけでなく、自分たち以外のありとあらゆる全ての存在が敵である。
人間が必ずしもそうであるのではなく、おまえらが特例的にそうなだけだ。
人間であろうとも道理や真理に則すことは全く可能で、むしろそのほうが普通だ。
今の地球上でも47億人程度はできていて、あとの20億人ができてないだけだ。
35 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 01:25:39 0
養生訓は未だ読んでらっしゃら無かったのですか
私は実際に実践しているのですが体の調子は良いですよ
文も平易で読み易かったです
岩波文庫版だと和俗童子訓と言うのも収録されているのですが
其処に書かれている読書法・読書論も為に成りました
思い邪なし。
37 :
井上筑後守:2009/06/06(土) 22:21:09 0
詐欺同然の金の流れに携わっている商工民の分際で、
高潔な士人大夫と対等に渡り合おうだなんて時点ですでに無理がある。
つまらない悪の苦しみの内側でしか生きられないその無様さを
せいぜい恥ずかしみつつ、平身低頭額づきつつの救済を乞い求めるか、
もしくは今まで通り、開き直っての放蕩無頼三昧を貫き通すか。
手前勝手の因果応報で、極重に苦しんでるのを見物してるのも楽しいし、
泣く泣く泣き付いてきて、必死のお助けを乞い求めてくるのもまた楽しい。
どっちに転んだって楽しいし、転ばなくたって別につまらなくはならない。
憎らしさ極まって暗殺でも企てようとて、無辜の市民に手をかけたんじゃ、
無辜の市民の「人権」を保障することで、利権の収奪をごまかしてきた
自分たちの大義名分が根本から崩れ落ちて、実質上と名目上との両面に
おいての、押しも押されもせぬ犯罪集団への「成り上がり」が決定する。
(表向きの罪状を徹底隠蔽する犯罪集団はテロリストよりもタチが悪い)
38 :
井上筑後守:2009/06/06(土) 22:22:41 0
自滅が必定であるプライドの保全と、プライドを捨てきった延命の志願と、
人類史上「最悪」の権力犯罪集団がいずれを選択するのかが見もの。
犯罪集団が「最大」や「最強」や「最高」であることには何の意味もない。
それらは無辜の市民からの借り物でしかない上、奪い奪われるという依存
非依存の関係上、殲滅戦においては犯罪集団が負けて無辜の市民が勝つ
構図が定まっている。犯罪者が専らであるのはあくまで最悪であることのみ。
自分も別に特攻玉砕兵士の末裔ではない、屈辱の十字架を背負わされつつ
生き延びてきた者の子孫なんで、延命が選ばれたからとて他人事でもない。
本当に潔く死ぬよりは、辱められつつも生き伸びることを選んだ者同士、
複製故の演技を一枚噛ませつつの、額づかせになることはわきまえている。
あくまで額づかせであることには変わりはないがな。平身低頭の乞い求めには。
国敗れて山河あり。英仏亡んで宝物返還さる。
始めから他人のふんどしでしか相撲を取ってこなかった連中が
反則負けを喫し、世界中がロンパリの曇り空から日本晴れへと大転換。
人生楽もあれば苦もある。だから基本的にぐらいはいつもみんな楽しかれ。
所詮は商売。そこが限界。命を投げ出してかかる者と比べて詰めの甘さが残る。
命を粗末にするという意味ではなく、最善を尽くすという意味での。
本気を出している47億人と、決して出せない20億人。
大人である47億人と、幼稚園児同然の20億人。
数を稼ぐことで、却って深刻となった生活力の有無の断絶。
ゴチャゴチャと汚い柄の付いたTシャツから、真っ白いムスリムの宗教衣へ。
無駄なことをさせない矯正としては、一日五回の礼拝もなかなか実用的かもな。
41 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 14:21:11 0
もう誰も見てないスレww
独りを慎む。
43 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 16:56:57 0
無意味スレ
44 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 19:17:31 0
「公は則ち一、私は則ち万殊。人の心の同じからざること面の如きは、只だ是れ私心」
(タチバナ教養文庫「近思録」一・二七より)
天下の道理に則した公共性ともなれば、必ずたった一つなのであり、にもかかわらず
ギャーコラギャーコラと烏合の衆のごとくわめき回る奴らがいるのは、全部私情の行き過ぎのせいだってんだ。
私利私欲私益私情、とにかく自分が自分がのミーイズムで、混沌なる論争のための論争を作り出して
それでよしとする、3+3は7か8かを言い争う世界。そういう場所に公共性の把持者は踏み入らない。
3+3=6の如き当たり前の道理を補足して、その堅持だけに特化する以上は、私情同士での
争いになど踏み入らず、烏合の衆どもがどうしようもなくなって、助けを願ってきた時に、
その態度の従順さ粗雑さ如何によって、救いの手を差し伸べてあげたりあげなかったりする。
仲良く喧嘩する要領の、おっさん同士での甘噛み友愛関係などには与することなく、
ただ独り高潔さを保つことによって、自ずから満足となる。ただあるがままで完成しており、
もちろん実用も可能な名刀のごとき人間こそは模範的な儒者である。地上の聖賢たる。
45 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 19:18:42 0
「无妄之を誠と謂う。欺かざるは其の次なり」
(同文庫「近思録」一・三〇)
妄念妄言妄動を排すことが誠意的であることの基本であり、嘘を言わないなんてのはそのついでのこと。
不誠実な寓意の中には、他者を欺くのと同然ではあるものの、それを糾弾して問いただしたりしたなら
「それはこれこれこういう意味ですので、別に欺いたわけではありませんが?」と、うまいこと逃げ道を
用意している場合などがあり、虚言かどうかで糾弾しきれない場合などがある。複雑怪奇な契約書や
理論書を持ち出してきて被害者を煙に巻いて、うろたえている隙に利益をせしめたりなんてのも詐欺師の
常套手段。こういった虚言かどうかが明確にしにくい詐欺師の詭弁も、妄念や妄言や妄動であるという
不誠実の条件を満たしていることは一見して明白なので、「おまえの言動は見るからに不誠実だから
取り合わない」とつっぱねりゃあよろしい。いかなる理論的虚飾によっても不誠実さは取り繕えないから。
契約が正しいか間違っているか以前に、誠意的か寓意的かから取捨選択の対象としていくがよい。
46 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 19:21:26 0
「性は則ち理なり。天下の理、其の自る所を原ぬるに、未だ不善有らず。喜怒哀楽の
未だ発せざる、何ぞ嘗て善ならざらん。発して節に中らば、則ち往くとして善ならざるなし。
発して節に中らず、然して後に不善を為す。故に凡そ善悪を言えば、皆な善を先にし悪を
後にす。吉凶を言えば、皆な吉を先にし凶を後にす。是非を言えば、皆な是を先にし非を後にす」
(同文庫「近思録」一・三七)
非常に有名な朱子の常套句「性即(則)理」の原典。情念(喜怒哀楽)の発現する以前の、
中正の保たれた状態における人間の本性は善である。情念の発した後にも、節度を保って礼儀正しく
していれば善のままでいられるんだが、節度を超えて、感情の起伏を無闇に増大さすウレシと化して
しまえば、悪になる。小学低学年ぐらいまでの子供はみんなそうで、感情を押し殺せずに全身全霊を
尽くしての喧嘩なんかもしまくるもんだが、まだ身体能力が低いから、めったに致命傷にまでは至らない。
でも、大人が全力で喧嘩なんかすれば、あっという間に殺し合いに発展する。腕力だけでなく武力
などにまで頼り始めて、社会を巻き込んでの陰惨な戦乱へと発展してしまったりもする。
それらも全て、情念の節度を保てない人間としての未熟さから来ているものだから、感情の発する手前の、
当然のこととして善いものであった前提としての人間の本性に立ち返り、感情の焼け付きを抑えた
思考や言動にのみ終始する。さすれば人間は自然と善くなるし、吉祥となるし、是となる。
前提としての善さや吉祥さや是から踏み外された所にこそ、悪さや不吉さや非があるものなので、
踏み外しといた言い訳で「これこそは俺の道だ」なんて開き直るのもバカバカしい。前提である本性を
見定めているか見失ってしまっているか、詰まる所そこにしか人間の有り様は還元され得ないものだから。
近ごろ体調不良で寸評が滞っていた。
原典も参照せずに、ただ言いたいことを適当に言ってるほうが簡単に書ける。
近現代の「純文学」だなんだもみんなそうで、資本主義社会での
あぶく銭を膨れ上がらせるタネとして盛大に利用されてる。
そういうものはもういらない。全く新しいものを創り出しているようでいて、
実は昔の説話の劣化コピーでしかないような小人の戯れ言、小説。
書くのも簡単だが、書く所からすでに過去の記憶を消費してるだけで、何も生産していない。
真の生産はむしろ、原典を引用しつつの付言などの中にこそ見受けられるもの。
原典と比しておかしかったりすりゃすぐに分かるから、劣化コピーなんかもできない。
古の聖賢の言などを参考にする以上は、完コピの上で乗り越えることが鉄則であり、
原典を疎かにするような不誠実さはすぐにはねられる。そこにこそ誰しもが戻るべきもの。
撰述、引用が基本である東洋教学の誠実なペースに戻っていくことだ。
48 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 20:51:58 0
「性は天より出で、才は気より出づ。気清ければ則ち才清く、気濁れば則ち才濁る。
才は則ち善有り不善有るも、性は則ち不善無し」
(同文庫「近思録」一・三九)
>>13に共通する、性と才を(天)理と気とに分ける見方。性は性だけなら天の道理に
基づくものの、人間にはもちろん才もあって、清浄な本来のままの才覚は善となるものの、
粗野な情報にかき乱されて濁り腐れば悪となる。今の学力テストやIQテストによって長短が
褒貶される才覚ってのは、むしろ後者のほう。濁って悪くなってりゃなってるほどいいとされる。
もちろん学力テストなどの中には古文や漢文もあったりするから、全てが濁悪だなんてことも
言えないが、少なくとも清濁併せ呑んだ才覚が求められるし、さらにはみそくその才覚までもが
進路によっては求められたりもする。清浄な才覚、古文や漢文の善さこそが分かる才覚と、
悪巧みにも使われる濁った才覚とは明確に分別して、できることなら清浄な才覚を伸ばすことを
目指すべきだし、汚濁の才覚は決して積極的に求めたりはせず、最低限の甘受に止めるか、
もうすかっりやめちまうかしたほうがいいわけだ。地球人類みんなにとってそうであることだ。
性は理であり才には清濁ある、天下たるこの地球上どこに行っても厳密に通用する道理だ。
49 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 20:54:49 0
「性は万物の一源、我の私するを得る有るに非ず。惟だ大人のみ能く其の道を尽くすと為す。
是の故に立てば必ず倶に立ち、知れば必ず周く知り、愛すれば必ず兼ね愛し、成れば独り成らず。
彼の自ら蔽塞して吾が理に順うことを知らざる者は、則ち亦た之を如何ともするなし」
(同文庫「近思録」一・四六)
大人は情念の焼け付きや才覚の濁り腐りを抑え止めて、万物の本源たる性理の道に則る。
独走にも偏知にも偏愛にも独り勝ちにも与せず、並走全知兼愛共成を心がける。この逆がまあ、
小人の典型的な有り様で、行き過ぎた情念や濁りきった才覚ばかりに引きずられて、処置不能な
様相を呈する。さらに救いようのないのは、どこぞやの心理学者あたりが、前者のような
性理に則った大人を「内向型」と呼び、後者の情念や濁才に塗れた小人を「外向型」と呼んだり
して、明確に救いようの有無という点で開きのある大人と小人とを、ひとしなみに扱う風潮を
作ろうとしたりする。解析学の微分積分とも並んで、価値のあるものとないものとを理論で混同する
みそくそ処理の深刻例と化している。だから儒学や朱子学を心理学などのペースで研究するのは
禁物で、必ず儒学は儒学のペースで、朱子学は朱子学のペースでこそ勉学研鑽せねばならない。
異学異見を混ぜ込んで純良な学問の足を引っ張るような真似をしてはいけない。勉強するぐらいなら。
実用に際して他流派と対峙せざるを得ない時も来るだろうて、やはり立ち位置は固めておかないと。
50 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 20:58:53 0
「心は性情を統ぶるものなり」
(同文庫「近思録」一・四八)
読んでの通り、性+情=心だ。朱子学の別名である「性理学」は、心の内でも真に理に即している
性こそを扱う厳密な学術たることを示す。性は理に即すものの、情は即すとは限らないから、朱子学の
立場からすれば「心理学」などという学術が存在していることからしてすでにおかしい。性情を統べた
心が、全体的に理に即すことをストイックに追い求める陽明学が心理学であることはまだ認めやすい。
でも、別に情を理に即させることを追い求めているわけでもない、ただの勝手気ままな心に対する
研究が「心理学」だなんて呼ばれるのは明らかにおかしい。鍛錬も研鑽もされていないただの心が、
即座に理であるなんてことは朱子学は全く保証していない。心は「誤」りだって多く犯すものだから、
実はいま普通に「心理学」と呼ばれている学術は、正確には「心誤学」である。心の誤りに
いちいち突っ込みを入れて、適当な名前を付けて病気に認定するばかりでしかない、心誤学。
心が性と情とに分かれて、性は誤らないが情は誤りうるというような、心の内実に対する精密な
分析があって、初めて心の効果的な統御も可能となる。心理学(と呼ばれている心誤学)によって
聖人や賢人が生み出されたなんて話はとんと聞かないが、朱子学によっては、数え切れないほどの
聖人賢人が生み出されて、江戸時代までの極東社会の平穏無事を全面的に司る役割を果たせてた。
それで全くよかったわけだ。朱子学だけで人間の心は完璧にプロデュースされていた。三角関係に
悩み込んで自殺するだなんて無様は明治以降にのみ生じたもの。ただそれ以前に還ればいいだけの話。
51 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 22:24:23 0
「凡そ物は是の性有らざるなし。通蔽開塞に由り、所以に人物の別あり。蔽に厚薄有るに由り、
故に知愚の別有り。塞がるものは牢として開く可からず。厚き者は以て開く可くして、
之を開くや難し。薄き者は之を開くや易し。開けば天道に達し、聖人と一なり」
(同文庫「近思録」一・四九)
「性即理」と共に、有名な朱子学の常套文句「格物致知」にも使われる「物」という文字、
後のほうで「物我一理」という言葉も出てくるあたり、「大学」の頃から使われている
儒学上の「物」というのは、ヒンズー教でいう「梵」に近い意味を持っているんだと思われる。
宇宙の究極真理、とまでいくとちょっと世俗道徳とはかけ離れすぎるんで、もうちょっと素朴な
言葉によって、ブラフマンに値するような「もの」を指そうとして、そのまま「物」となった。
何でもかんでもモノ扱いされる今の世の中において、儒学上の「物」は常に通用するかといえば、
ほぼ通用する。「物理学」の「物」も儒学でいう「物」とほぼ一致するし、物理学的な意味での
「物質」もまた儒学の「物」に近い。また「物質文明」とか「物質主義」とかいった、
精神や生命を軽んじてすら物質に偏重する意味がこもる場合の「物質」もまた、儒学でいう
「物」の内に含まれる。儒者は物を「成す(支配する)」べきものであると考え、
決して成されて(支配されて)はならないものと考える。刀剣を武士が上手に扱うごとく、
人間自身が物質を支配できている時に、聖人にも紛う物我一理の境地が開ける一方で、
「モダン・タイムス」のチャップリンのように、機械の歯車に右往左往させられる、
人間の側が物に支配された状態を、愚かで塞がった状態と見なしているもの。
52 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 22:25:18 0
決して物質の暴走を埒外に置いていたのではなく、選択的に物質からの支配を忌避していた
朱子学影響下の日本が、文明開化以降に機械化を進めていったのも、要は嫌々なものだったということ。
日本刀や西陣織で済ませられりゃそれでよかったものを、巨大戦艦や戦闘機まで造っといて壊すハメになった。
物質を無視するのではなく適切な制御下におくことが信念であった儒学下の日本人にとって、鈍重すぎる
機械文明に携わらせられることは、やればできなくもないが、なるべくしないでおきたい部類のものだった。
大量生産大量消費の本拠地はもはや日本から中国へと移行しているものの、果たしてそれでいいものだろうか。
あんなバカでかい国が日本やアメリカ並みの物質主義にのめり込んでいって、この地球は耐えられるだろうか。
その中国こそが昔は作り出して、今は捨て去っている儒学が説く物我一理。
まずは物の分かる人間になることが急務。
53 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 22:36:47 0
まずは物の分かる人間になることが急務。 PIKARRR
PIKARRR まずは物の分かる人間になることが急務。
まずは物の分かる人間になることが急務。 PIKARRR
PIKARRR まずは物の分かる人間になることが急務。
54 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 22:41:41 0
宮川大輔的にはうそがいけないことがわかったようじゃな。
下でいうと競輪選手から言わせるとダメみたいじゃ話しちゃ。
どうにか話してくれんかの?
55 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 22:55:31 0
まあ何でもねえ。足利は2段したまで正面から受けたはずだ。
ただ3段したがあった。最後9段下まであったようだが実際は
4段くらいだろう。ナーラクにしても自然(じねん)逆らったのが
悪い。清和源氏は基本幼少に受けてたって勝たんと家督は告げない。
それだけじゃないないが前がある限りいつまでたっても負けん。
56 :
井上筑後守:2009/06/07(日) 23:17:13 0
「格物致知」の他に、「格物窮理」ってのもあるんだね。
こちらのほうがむしろ格物致知よりも上の境地に当たるってさ。
日本語の「物理学」の語源はたぶん、この辺りから来てると思うんだが、
もちろん朱子学は今で言う物理学ではないし、もちろん今で言う心理学でもない。
形而上の概念夢想への帰納を徹底的に排し、現実論に特化された学問故、
現代の語法上の物理学や心理学におけるような研究成果は何一つとしてない。
物理学や心理学は、重量物の落下や光線の振る舞いや精神病患者といった、
観察者である自分自身とはまた別個の何ものかに対する研究を旨とした。
しかし朱子学は、それを勉強せんとする本人自身の精微深遠な研鑽を旨とした。
規矩準縄を幾何学のような概念夢想に用いたギリシャ人と、自らの礼儀正しい
振る舞いの模範とした中国人や日本人との分かれ目が、挙句の果てには
物理学や心理学と朱子学という、巨大潮流として分派するに至った。
一時は朱子学のほうが物理学や心理学に押され、礼儀作法もことごとく
反故にされつつあったものの、格物窮理を自制に用いる堅実さが功を奏し、
物理学は物理学としての限界を見出しての自滅、心理学は性理学たる
朱子学と比しての完成度の低さを咎められての壊滅を喫した。
結局は、自己に堅実たるものこそが物の理を窮めてもいる。
咬ませ役の敵がいなくなって、やっと朱子学もまたその本領を発揮し始められる。
黒板に懸垂線を描いてる時よりも、剣を振ってる時のほうがよっぽど物理に即す。
その、物理に即すことの限りないすがすがしさの境地こそを、みなと共に。
57 :
考える名無しさん:2009/06/08(月) 00:02:10 0
このスレにはあの変なAAが貼られないな
ルサンチマンとか言うの
いつもおもしろいわかりやすい。この人大人。
59 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 21:48:09 0
「聖人の道は、耳に入り、心に存し、之を蘊めば徳行となり、之を行えば事業となる。
彼の文辞のみを以てする者は、陋なるかな」
(同文庫「近思録」二・二)
聖人の徳行というのは、良質な知見を蓄える所からすでに始まっているのであって、
事業として開始されることは、「行」としてもついでということになる。
ただ存在するだけでも艶冶であり、実用しても鋭く斬れる名刀、どちらかといえば、
ただ存在していることのほうに価値があり、斬ることのほうがついでですらある。
何かをしないことには存在価値が見出せないなんてものは、事実始めから大した価値がない。
何もしなくともただそこにいるだけで重々無尽の価値が溢れ出てくる知足円満なる領域、
世俗道徳を司る儒家においてすらその意義が尊ばれる。仕事によって形作られる世俗においてすら。
60 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 21:49:33 0
「聖賢の言は、已むを得ざればなり。蓋しこの言有れば、則ちこの理明らかに、この言無ければ、
則ち天下の理闕くる有り。(中略)後の人、始めて巻を執れば、文章を以て先と為し、平生の為る所、
動(やや)もすれば聖人より多し。然れども之れ有るも補う所無く、之れ無きも闕くる所靡し」
(同文庫「近思録」二・五より)
上記の二・二の引用にも関連する格言。聖賢も言葉を述べることはあるが、決してそれは文芸(文辞)
などが目的なのではなく、天下を治める上での仕方のない場合に限っている。ただ存在しているだけでも
十二分に勝ちのある聖賢が、言行によって己が身を取り繕う必要など少しもなく、ただ己の矮小さを
取り繕わんがために言行を飾り倒す小人とは全く非なるもの。同じように文章書いてったって全く違う。
日ごろの作文量では、かえって聖賢などよりも多かったりする小人への批判が、二・五においてはかなり
辛辣に展開されている。朱子にも多少癇癖があったというし、儒者にはかなり怒りっぽかったりなどの
人間くさい側面があって、そこが坊主などとは明確に異なる。喜怒哀楽のない状態なんていつどこでも
保ってられるもんじゃないから、お寺に籠もっているわけにもいかない儒者の場合は、情念が破綻して
悪念と化さない範囲での情感の吐露は存分に認められている。思いに邪すらなければ、怒りもするもんだ。
61 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 21:51:39 0
「明に非ざれば則ち動之く所無く、動に非ざれば則ち明用いる所なし」
(同文庫「近思録」二・一二より)
正しい知見がなければ正しい行動も為しえないし、行動しないんなら当然知見も用いられない。
ただ存在するだけでも価値のある聖賢とて、あくまで実用されることを前提には置いている。
いかなる名刀といえども、やはり斬るために存在することには変わりなく、「無用の長物」で
あることは決して良しとされない。実用にも値してこそ、ただ存在するだけでも価値がある。
それでいてやはり朱子学は不用意な行動は控える。「知行合一」の陽明学と比べて、あくまで
善知の後の善行を重んずる。風が寒風や暴風にもなるのと同じように、行動が劣悪であることなど
いくらでもあるのだから、行動第一思考第二ではただ体育会系になるだけでなく、悪人にすらなる。
何の見境もない行動のための行動は、少なからず悪行のための悪行である部分を内包してしまう。
病原菌や塵埃を内包する有覆無記の風にもなってしまう。今一度行のための知が見直されて然るべき。
知行分裂は最悪だし、知行合一は理想的だが非現実的なので、せいぜい善行のための善知の蓄えに勤しむ。
行動に移そうと思えば移せる善い知見を蓄えて、行動するとなれば純良となるように備えておく。
知と行の実用的かつちょうどいい関係性が朱子学においては研究されている。
62 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 22:55:08 0
「懈意一たび生ずれば、便ち是れ自棄自暴なり」
(同文庫「近思録」二・三五)
怠け心(懈意)がいけないなんてのは、誰にでも分かっているようなことだけども、
しかもそれが「自暴自棄」ですらあるという、厳しい格言。
性とはまた別のものとしての情が行き過ぎて、自暴自棄と化すことが悪の本質であると、
道体篇第一章などにも書いてあったが、それは現実の状態でいえば「怠け」に値する所で起こる。
他者の利益を収奪して手っ取り早く食いつなごうだなんて犯罪の発端も、堅実な労働を忌む怠惰意識にこそある。
せっせと勉強したり働いたりする人間には怠惰意識がなく、故に犯罪に手を出すこともない。
犯罪者でも詐欺活動に邁進したりすることはあるが、たとえどんなに行動的だろうとも、
犯罪者というのはより根本的な部分で怠惰的である。堅実な労働を忌むこと、無職者以上ですらある。
犯罪者が真っ当な労働に就き直すためには、長期のお勤めなども必要になるから、無職者以上に真っ当な労働から
逃げ続けている。怠惰は行動をしないことに止まらず、犯罪という行動によってより積極的にすらなり得る。
だから「怠け心は悪の発端である自暴自棄にすらなる」といえる。犯罪者の本質に怠惰意識もあるから。
全く根拠もなく断定しているのではなく、理由があってのこと。何もしないことが犯罪だなんて妄断とは違う。
63 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 22:57:22 0
「人力行を要すと謂う。亦只是れ浅近の語なり。人既に知見能らば、一切の事皆な当に為すべき所、
必ずしも著意するを待たず。纔に著意すれば、便ち是れ箇の私心有り。這の一点の意気、幾の時に能え得ん了」
(同文庫「近思録」二・五四より)
「まずなんでもやれ」という、それは浅はかな言。知見がよく満たされれば、自ずとすべきことは見えてくる。
そうでもなく無理にやろうとすれば、私情が先走ってさほどのこともできやしない。
まず知見があり、次いで行動がある。知行合一の陽明学とは大いに異なる朱子学の主知主義。
一方で決して実用性のない知識の偏重も認めない。善用に値する知識こそを選別蓄積して善行の糧とする。
程度の嗜まれた知見の尊重、微妙かつ理想的な朱子学の本髄。真の理想は常に微妙な所にある。
ドカンと一発キメちまってそれでお仕舞いなんてのは、小人の嬉しがりには格好のエサになるものの、
真の理想を究めんとする聖人君子の嗜好するところではない。万古不易なる天下の道理に親しんで
大満足の境地に達する、肥えた舌や目や耳を持つ、大人の追い求める微妙壮大なる本質。食い物は甘けりゃいい、
見た目は派手ならいい、音はキンキンしてりゃいい女子供には、食べたり見たり聞いたりしてみた所で、
やっぱりその価値が分からない、高尚故の楽さ楽しさ、低俗な楽さ楽しさよりも普遍的に楽で楽しくもあるその価値が。
64 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 23:01:42 0
「古の学者は己れの為にし、其の終りは物を成すに至る。
今の学者は物の為にし、其の終りはは己れを喪うに至る」
(同文庫「近思録」二・六六より)
>>51-52でも挙げたような、「物」への関わり方の変遷。昔の学者ほど自制によって物を支配していたんだが、
今の学者は始めから物の傍観的な分析に特化して、我を見失って逆に物に支配される有り様となる。
800年前の宋代にもすでに古今の比較からそのような憂慮がなされていた。昔であればあるほど人間は自制的であり、
今になればなるほど物質的となっている、人間の歴史ってのは概ねそうである。今の世の中が物質の洪水に
見舞われているのも、別段西洋ばかりが原因ではなく、人類全体での精神的劣化の結果ともなっている。
ただ、そのような物質優先精神劣後を「ダメなもの」として、物質の洪水のせき止めに特化していたのが
朱子学を始めとする東洋教学なのに対し、却って「素晴らしいもの」として礼賛推進してきたのが洋学である。
規矩準縄を文様や礼節のような、精神性の養育に用いてきたものと、奴隷制や原爆のような物質の氾濫に
用いてきたものと、根幹になっている規範(規矩準縄)は同じであった上で、善用か悪用かに二分化してしまった
のが人類の歴史である。善用が先んじ悪用が遅れたぶん、人類はまだ生存を保てている。悪用が先で善用が
後だったりすれば、とっくの昔に人類は亡んでいる。そうではなく、縄文土器やヴェーダや四書五経が先に生まれ、
ピラミッドやホメロスや聖書が後に生まれたからこそ、時間差の猶予で、人類は物質文明の氾濫の中でもまだ
生き延びられている。物質しか必要とされない世界に人間は必要ない。ただ精神の持ち主であるが故に、
物質とは明確に違う人間が、物質に先んじて生まれた確固たる証拠を持つからこそ、人間はまだ健在である。
そしてこれからも健在であり続ける。物質主義が亡んだとて人間は生き残るが、逆はあり得ない。
精神を持つが故に、ただの物質よりも宇宙の真理や天下の道理と近い所にいられもする、人間ゆえの特権があるから。
精神的人間であるが故にこそ、天地万物と己を親しくする機縁にも恵まれている、その優秀さの持ち主であるから。
65 :
井上筑後守:2009/06/08(月) 23:26:24 0
「性静なる者は以て学を為す可し」
(同文庫「近思録」二・六八より)
物静かであってこそ学びなさい。ゴチャゴチャと雑念に囚われている内は
正しい知識と誤った知識の見分けも付かず、却って正しい知識を捨てて誤った知識を
追い求めたりもしてしまう。自分自身も昔はそうだったからこそ言えること。
カビたご飯の七色変化よろしく、見た感じ聞いた感じのド派手さこそを考え抜いている
悪い知識と比べれば、本質的な真理や道理を捉えるに特化された善い知識は地味にも見える。
悪い知識の騒がしさに馴らされている現代人の思考も、急には止まれない自動車の如く、
せわしく動き続けている場合がほとんどだから、物静かであることには努力すら必要とする。
朱子学で座禅に倣って始められた静座もそのための一つの手段。結跏趺坐までいかなくとも、
落ち着いて物事を考える心の余裕を、静かに座って蓄えてみる。座ったとて物書きなどの仕事
に追いやられたんじゃ動き回ってるのと同じ。何もしないでただ静かに座る。やってそうで
誰もやってないこと。意図しないで自然とそうなることなど今の時代にはまずないので、
何もしない時間を作る一つの名目として、静座を目指してみるのもよろしい。
あたかも鯉が滝を登るかのように、現代人には至難の業なれど。
66 :
考える名無しさん:2009/06/09(火) 01:34:09 0
東洋 西洋って分け方が古いな
67 :
考える名無しさん:2009/06/09(火) 01:43:42 0
まあ何もねーよほんっと荒れ野だ。それから荒野にたった人間を
まちでみるとみんながんばって外国人と付き合ってたりしてんだ。
ひとりだけ幸せになるわけにはいかねーもんなあ。
だからはやく持ち場につけ
>>1の定義だと、人類の七、八割方が東洋になるからな。
「一般人類社会」である所の、東洋の亜流である
西洋だけを除け者にした、半ばイジメ同然なスレだ。
全人類社会の中に西洋という小さな部落があって、
それ以外は全部東洋。釣り合わないっちゃあ釣り合わない対比。
常識的に、正統な学問即ち東洋教学となって、わざわざ「東洋」と
冠するまでもなくなるようになれば、それに超したことはない。
お母さんが子供に「早く勉強しなさーい」と促す勉強からして
四書五経や朱子語類になれば、もはやこんなスレもいらない。
時代を先取りしたスレとして、記念に保存される程度で十分。
西洋は、今でこそ占有面積も大きく広がってはいるが、自分らの文化
文明の根幹となっている地域(ギリシャ、イスラエル)は極めて小さい。
基本的な文化文明の発祥地たる、中国やインドからして「それぞれの世界」と呼べる
ほどにも巨大であり、合計で西洋全体の人員規模をも上回ってしまうという恐ろしさ。
全く水増しなしで25億人以上の規模を持つ、あまりにも次元の違いすぎる存在。
人類の文化文明は確かに多種多様である。これほどにも次元の違う文化文明が
地球上で共存しているという奇天烈さ。あまりにも濃くて大きすぎる文化文明と、
あまりにも薄くて小さすぎる文化文明との並存。古今東西の基本文献は図書館
などに行けば大体閲覧できるもんだが(イスラム関連は不備が多かったりするが)、
ただ両方ともを読み比べただけじゃ、「同じ文章」であることへのひとしなみから、
濃くて大きいほうの文化文明を見くびり、薄くて小さいほうの文化文明をかいかぶる
傾向に陥ってしまいがち。
そうならないためには、十分な遠近感を以て方々の文化文明に接する覚悟を要し、
それさえできたなら西洋だけを除け者にする必要なんかもなくなる。ただ、元来からの
潜在的価値の落差のわきまえの徹底のために、一時的に濃くて大きい東洋文化文明
を尊重し、薄くて小さい西洋文化文明を忌避の対象としている。遠近感の行き届きにより、
大人には大人に、小人には小人に相応の接し方が自然とできるようになれば、不当な
差別に見えるような区別はなくなる。乾栗陀識が体得されるほどの奇跡ではあるが。
北朝鮮が「ピョンヤンは東洋のエルサレムだ」ってな。妥当な所だな。
東洋には東洋で落ちこぼれがいて、それがちょうど西洋のエリートと同等ぐらい。
全ての東洋社会はさらにそれに上乗せされる。それで初めて
ものの見方が妥当になる。地球人類社会を営む上でちょうどよい知見となる。
日の出ずる処ほど貴く、日の没する処ほど卑しい、聖徳太子やスフワラルディーの
思想哲学にも裏打ちされた、真に普遍的な地球観が完成する。
71 :
井上筑後守:2009/06/09(火) 22:37:14 0
「形して後に気質の性あり。善く之に反れば、則ち天地の性存す。
故に気質の性は、君子性とせざるものあり」
(同文庫「近思録」二・八〇)
人間としての形体を成してから生じる人間ゆえの性よりも以前に、天地万物に即した本性が
遍在している。その本性に比べれば、人間ゆえの性なんてのは性の内に入らないとすら言える。
生殖とは無関係にただ姦淫したいという欲望は、生殖のために性交して子孫を残そうとする
生物としての本性に比べれば副次的であり、最悪の場合「姦淫第一生殖第二」なんて転倒夢想にも
発展してしまったりする。そうではなく、生殖の価値は認めるものの姦淫の価値は劣後する
「生殖第一姦淫第二」の正立論理に基づけば、副次的な気質の性を捨てて天地の性を採る英断となる。
今の人間が一般に「性」と聞いて思い浮かべる性もまた、朱子学の言う性即理に基づいていて、
生殖第一姦淫第二という本然の性にまで遡れば、性も確かに理に適ったものであることが分かる。
レイプだの売春だのといった、姦淫が独り歩きし過ぎたが故に引き起こされる性犯罪もまた
生殖という本然の性を蔑ろにした好色の行き過ぎによってこそ引き起こされる。性も情も併せた
心こそは全て理であるとする陽明学と比べて、情念が姦淫第一生殖第二のような致命的な転倒も
引き起こしかねないことを考慮に入れているから、朱子学は情を抜きにした性のみを理であるとする。
巷で言う性問題ってのは、情念が本性を蔑ろにしている状態こそを言うのだから、本当は性問題
ではなく「情問題」ですらあるんだが、言葉の使い方が錯綜しまくっている現代人にはなかなか
納得しにくい話となっている。漢字や日本語には本来厳密な定義が備わっていて、漢文や古文
だけに基づけば少しも誤った言葉遣いなどないんだが、基本文献からして誤謬の塊である洋学が
導入され始めたことにより、言葉遣いから大間違いであるものがそこら中に氾濫しきっている。
言葉遣いがグチャグチャである虚しさを物質の構築で紛らわしたりもする、元来は一切東洋人
には必要のなかった悪癖が、わざわざ導入されて今に至る。言葉から大満足だった時代が懐かしい。
72 :
井上筑後守:2009/06/09(火) 22:40:33 0
「天に非ざる莫し。陽明勝てば、則ち徳性用いられ、陰濁勝てば、則ち物欲行なわる。
悪を領して好を全うするは、其れ必ず学に由るか」
(同文庫「近思録」二・八二)
誰しもは天(太陽)からの光を浴びることで生じた存在であり、そうでないものなどない。
より日光に照らされて明るく生きたなら、徳性が養われるものの、十分な日光を受けることなく
暗く濁った所で燻ってたなら、本来あるはずの徳性も萎びて、物欲ばかりが溜め込まれていく。
スフワラルディーの照明論と同じで、やはり日光の明暗に基づいて人間性の明暗善悪も決まると
朱子学でも説明されている。灼熱の炎天下で生き抜いたアラブ人、太陽に最も近い地上最高峰たる
世界の屋根、ヒマラヤを擁するインド・ネパール人や中国人、太陽の出ずる処に居を構えた日本人、
段階は違えども、いずれもが太陽に親しもうとする何らかの特性を備えて来ていて、故にこそ、
一概に悪くなかったり善かったりする文化文明の発展に貢献してきているんだが、そうであること、
天に親しむ善良さの価値が、陰鬱な物質主義を嬉しがる近現代の世界に置いては全くの反故にされ、
ピラミッドの奥底で独りおびえ隠れる陰気な精神のほうが、むしろ貴重なもの扱いされたりしている。
光を愛する善良さを推し進め、闇を好き好む劣悪さを鎮圧するためには、勉強がやはり必要である。
儒学もそうだし、仏教もそうだ。アラブから日本に至る「光明の弧」における学問であれば、
光を愛し闇を憎む程度の方向性は厳密に付けられている。もちろん闇を好み光を嫌う異学雑学は
却って逆効果になるわけで、今はもうそれは洋学のことだと分かりきっているから、取捨選択に躊躇
はいらず、適切な勉強によって光明に親しむ正善さを養う決断を迷う必要はどこにもなくなっている。
73 :
井上筑後守:2009/06/09(火) 22:43:17 0
「其の心を大にすれば、則ち能く天下の物に体す。物未だ体せざる有れば、則ち心外有りと為す。
世人の心は、見聞の狭きに止まる。聖人は性を尽くして、見聞を以て其の心を梏せず、其の天下を
見ること、一物として我に非ざる無し。孟子の心を尽くせば則ち性を知り天を知ると謂えるは、
此れを以てなり。天は大にして外無し、故に外有るの心は、以て天心に合するに足らず」
(同文庫「近思録」二・八三)
心が広いことが、そのまま天地万物との合致となる。合致できない限りにおいて「外界」を認識する。
天地万物の理に沿う壮大さに比して、狭量な見聞に止まる矮小さは、外界へのコンプレックスを抱かせる
原因となって、その外界への「侵略」を考える無様さへとも発展する。十分に心を広く持つことで、
外界との圧力差を感じない万物斉同の境地に達し、外のない世界観を抱く。重力加速度の大きさからして、
大部分の物質は地面に止まらざるを得ないこの地球上に、人類の外界を持たない世界観は確立される。
宇宙には宇宙でまた別の世界観が適用され、これもまた外のない宇宙観となる。最善を尽くせば
自ずと人間の世界観は外のない境地に達してしまう。無上の満足を得られる心の広さは確かにある。
そこまで到達できない狭い心の持ち主が、外を侵さんとする。心理学でいう「外向型」の人間よりも、
実は「内向型」の人間のほうが心は広い。語感上逆に思えるこの心理学用語も、やはり不適切なもの。
もはや外側を想定もできないほどに万物を考慮し尽くしているからこそ、外を侵そうなどとは考えない。
天下の道理や宇宙の真理とも完璧に合致している大満足の境地。全く人間に可能なものであり、
何千年も前から東洋ではそれこそが着実に嗜まれてきた。己の小ささに不安を抱いて、外側へと侵略を
目論まねばならないザマのほうが、絶対的に後輩であり、しかも少数派でもある。アラブから日本までの、
面積ではむしろ狭めな領域に地球人類の大部分が属しているのも、それで満足ができていたからこそによる。
太陽の光に親しみ、善良さを養って心を広く持つ、人として大満足な境地を恒常的に享受できているから。
何もしないより楽で楽しい善良さは東洋だけにあり、
何もしないより辛く苦しい劣悪さは西洋だけにある。
両者の格差は何もしていない人間にとってこそ顕著であり、
楽しかろうが辛かろうがとにかく動き回る人間にとって
ほど分かりにくいものである。
苦楽の両極端への奔走と比べれば、何もしないことは死に近く、
死を恐れる者にとって、何もしないことほど恐ろしい生きた人間の有り様はない。
何もしない人間とて、生きてはいる。生きた上で何もせず、無記故の無苦楽から
純善故の純楽への僅かな伸び上がりをしては、また元へと戻る生活を嗜む。
基本となっている素地が、死に近似する無記無苦楽であるだけで、
意図的に善悪苦楽を享受する自由度はむしろ行動依存者よりも高い。
常にADHD気味の状態でしかいられないよりは、静動自在であったほうが
善悪苦楽の享受すら思いのままとなり、善楽と悪苦の分別も明確となる。
本当に全く何もせずにいろというのではなく、
何もしない所に然るべき人間の有り様を見い出し、
そこから自由自在な行動へと移って行く、
立ち居振る舞いのメリハリを付ける所から
いま一度人生をやり直してみればいい。
ただそれだけのこと。
75 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 18:28:24 0
「善を明らかにするを本と為す。固く之を執れば乃ち立つ。之を拡充すれば則ち大、
之を易視すれば則ち小。人能く之を弘むるに在る而巳」
(同文庫「近思録」二・九三)
儒学の根本は善の解明にこそあり、これを堅持することでまず道徳が確立される。
その上で己を磨き上げていけばより大きくもなり、適当にほっとけば小さくもなってしまう。
道徳には一定の法則があり、まずこの法則に到達できるか否かで極端な落差を生む。
「食人も人間の生贄もいけない」というような、道徳の普遍法則の把握に辿り着けるか否か、
辿り着けない限りで救いようのないカルト宗教にのめり込んでしまったりもする。
かといって法則に辿り着けたらそれで終りだなんてことはなく、何時如何なる場合においても
法則の把握を堅持し、より多大なる普遍法則に与かることが道徳者の積極的な責務となる。
賢者はそれを努力によって実現し、聖人はもはや努力するまでもなく自然とその境地にいる。
ここで道徳確立の大小を比較強調しているのは、聖人とまではいかない賢者に対する教訓といえる。
適当に置いておいたんじゃ取りこぼして矮小化してしまいかねない自らの徳性を、
さらなる努力によって養生拡大していけというお達し。最低限の道徳者(庸徳者)程度の
自覚しかない自分個人にとっても手痛い教訓となっている。仏道の聖徳とまではいかずとも、
儒家の道徳でも細長く険しい道があるものであり、決して見くびってはならないものといえる。
76 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 18:31:42 0
「内外を合せ、物我を平しくす。此に道の大端を見る」
(同文庫「近思録」二・一〇五)
内心と外物との流動性の合致により、物我一理の境地に達し、大体の道徳法則への視野が開ける。
善の解明が道徳の確立ともなるあたり、物我一理こそは善の究明でもあるといえる。
儒家に比べれば神秘性が高いとはいえ、ヒンズー教の梵我一如もまた、善の本質を究めるもの。
諸法無我とすらなる仏者の境地は、もはや善の究明ですらなく、善悪への法愛を断ち切った先にある
普遍的な真理法則の究明に特化される。儒家もヒンズー教もゾロアスター教も善性への特化が
前提としてあり、善悪すら達観してしまう仏教の教学は東洋教学内でも別格のものといえる。
概ね善良である東洋教学の中に、さらに善悪の公平な審査の役割を担う仏教という流派が存在する。
善良主義寄りの審判だから、善の側に贔屓目であると思われがちになるが、善であるということは
事物の道理に明らかであるということであり、悪であることは逆に道理に反するということなので、
悪ではない善の側からこそ善悪の等分な判定もまた可能となる。悪の側からでは善悪の審判は
善悪のみそくそにしかならない。清濁併せ呑んで両者を公平に審判する、「公平」という言葉の
定義上からも、善良である側の審判でなければ公平とはならない。無理矢理悪の側が裁判などを
開いたところで、それは公平ではない。公平さは始めから悪ではなく善の側のものだから。
借り物でしかない公平さはいつだって根本的に悪贔屓だった。東京裁判もパール判事のみが
公平な審判を下した。公平であることの実績は今もうすでに善良である側にのみあり、
劣悪である側にはない。大量の不当利得を銀行に預金させているスイスも少しも中立などでない。
最低でもムスリム世界裁判所に委託する所からしか、公平な審判などはあり得ない。悪いこと
ばっかしてきた負の実績などを審判能力とは認められず、むしろ司法権の剥奪理由とすらなる。
77 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 18:34:11 0
「人の血気固より虚実あり。疾病の来るは、聖賢も免れざる所なり。
然れども未だ古え自り聖賢にして、学に因りて心疾を致すものを聞かず」
(同文庫「近思録」三・四より)
人間の身体としての壮健や疾病は、聖賢だからって完全に制御できるってもんでもない。
ただ、正しい学問によってノイローゼを被るだなんて話は未だ嘗て聞いたことがない、という。
勉強でノイローゼになるってのは、近ごろの学歴社会などではよく聞かれることだ。
それもやっぱり本物の勉学だからではなく、学問のフリした泥棒講座なんかを勉強させられるから
病気になるだけの話。人間の善良さ正しさを養う本物の学問であれば、病気になるどころか健康となり、
毎日を伸びやかに煩いなく過ごせるようになる。もちろん致命的な問題に接した時の
対応の仕方なども養われて、悪を懲らして善を勧む、人間としての正しい振る舞いも癖付けられる。
思考と言及と行動と、全てが正しく善いものとなる。ゾロアスター教に限らず全ての東洋教学は
一概な正しさ善さこそを、人間の全ての有り様に対して付与する。正しさ善さを付与するようなフリを
して、その実、裏で犯罪に代表される悪思悪言悪行を促進するような劣悪な学問モドキも、今の世の中には
沢山あって、そういうものを服毒すれば余計に不健康となって、自殺願望すら芽生えることこれ請け合い。
自分も昔はそうだったからこそ言える。悪い情報ばかり取り入れて二進も三進もいかなくなった
自分自身の経験からして、そういう悪い勉強を決してしないことをお勧めする。悪い勉強まで取り入れて
善い学問によって浄化する、密教のごとき荒行も不可能ではないが、極めて困難なものなので、
よほどの覚悟でもない限りはお勧めしないし、失敗したからといって恨みっこなしでお願いしたい。
今現在も多くの人間が陥っている、悪の苦しみの地獄に興味本位で入ったりはしないよう喚起しておく。
78 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 19:29:38 0
「問う、人学に志有り、然れども知識蔽固し、力量至らざれば、則ち之を如何せん。
曰く、只だ是れ知を致せ、若し智識明らかならば、則ち力量自ずから進まん」
(同文庫「近思録」三・一一より)
生半可な知識を実行に移すぐらいなら、ただ知識を蓄えることに特化しておけ。
知力が満たされて道が開けたときに、自然と実行性もまた付いて来るものだから。
陽明学の知行合一とは明確に一線を画す、伊川らの言に基づいた朱子学の主知副行主義。
行動的人間には凡そ三種類あり、一つは自分自身の知見は全くなくただやらされることをやるだけの者(一番目)、
ある程度は自分自身の知見に基づくが、知見が不十分であるが故に行動も何かがおかしい者(二番目)、
自らの行動を、厳密に考え抜いた自らの透徹した知見によって為す者(三番目)とに分かれ、
朱子学も陽明学も二番目を排して三番目を選択し、一番目にしか与かれない下民を先導しようと
考えていることは共通している。ただ、二番目の人間がそこら中に蔓延っている今の世の中で
知行合一なんかに基づいたんでは、十分な効能を発揮する余地がない。よく見聞を広めて知識を養った上で、
十分な効能を持つ実行にこそ移す。陽明学と比べて一見した魅力は低くとも、確かな現実性に基づいている
その堅実さが、極東社会を朱子学一色に染め上げる程の功績も残した。
表向きは大政奉還などにより儒家教学が排された近現代においても、本当に正しいと確認された
ことのみをなす堅実さが多くの極東人に潜在的に備わっていて、危うきに近寄らぬ君子の素養が徹底されている。
そうとも知らない外人は、不可解に穏健な日本人のことをただ臆病扱いしたりもするが、それこそは
東洋の叡知に基づいた、嘗ての教育の賜物であるのであり、厚かましさが欧米人並みかそれ以上であるような
中韓人らのほうが、実は朱子学のような真の叡知からは遠ざかってしまっている。日本人でも相当に劣化している
人間も多くいるから、あまり他国を批判できたもんでもない。ただ自らの研鑽にこれからも専念していく所存。
79 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 19:31:53 0
「凡そ文字を看れば、先ず須らく其の文義を暁るべし。
然る後其の意を求む可し。未だ文義をば暁らずして意を見るもの有らざるなり」
(同文庫「近思録」三・二三)
文章はまず書いてある通りの意義こそを重視せよ。
その上で含意を読み取るような便宜を図れ。
中学や高校の国語の授業でも、裏読みや行間読みが教えられたりする。教えている文章も推理小説とかだったり
するんで、そりゃあ裏読みや行間読みがなけりゃあ下手な読者扱いされてしまうだろう。でも、そのような
アクロバティックな読書法は、四書五経の如き大説に対しては却ってうがち過ぎた読み方となってしまう。
食人はダメ、人間の生贄もダメ。まさにそこに書いてある通りのことがすでに限り無く重要なことであり、
寓意を読み取るような無駄手間には何の意味もない。三文小説あたりならそれでよくとも、大説はよくない。
ただでさえ言い伝えることが困難な壮大な教えを、わざわざ不当寓意なんかを含ませつつ仄めかす余裕なんか
どこにもないから、誠意的に記された文章はまずその誠意に沿って、文面の価値を重視せねばならない。
そのような偉大な大説を三文小説などと比べる場合にも、寓意ではなく誠意の比較こそを旨とする。
寓意である部分を比較したりしたんじゃ、いちいち寓意の含ませまで考慮していない(そんな余裕はない)
大説のほうが面白くないということになり、寓意満タンな三文小説のほうが面白いということにすらなってしまいかねない。
文章の寓意を読み取るなんてことは、文章オタクにとっては楽しみかもしらんが、文章によって現実の徳性こそを
養うことを目的とする士人大夫には全くつまらなく、しかも現実の徳性を養うことのほうが、文章遊びに耽溺する
ことなどよりも普遍的に遥かに楽しいもの。虚実両者を踏まえた上で、やっぱり本当に圧倒的に楽しい、現実の振る舞い
の正しさのために文章も読む、その場合に適切な読書対象となる大説の読み方は、寓意よりも文義の誠意であれ。
重箱の隅をつつくような意地汚い読み方は大説を読む時には捨ててしまえ。小人として大説を読むのはやめろってこった。
80 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 21:26:40 0
「吾が道は釈氏の、一見し了って便ち空寂に従って去くが如くなるに非ず」
(同文庫「近思録」三・四二より)
釈氏とは、仏陀こと釈尊のこと。中国思想では、儒教も仏教も道教も全て等分に見定められ、
その中で優位を競い合ったりしている所が、神儒仏に権威性が定まりきっている日本とは違う。
一見一聴して悟りを開くというのは、仏教の中でも特に禅に見られる仏心主義であり、
重層な階梯を追って悟りを開く密教などとはまた方向性を異にしている。朱子学が興隆した宋代に
仏教と言えば禅だった。中華風仏教である禅を対抗馬として、朱子学は学問の王道を説く。
道教はまだ、老荘思想が親密な影響を与えている一方で、禅は完全にライバル扱いとなっている。
一切衆生悉有仏性、三歳の稚児にも教えを乞い、八十歳の老人にも教えを説かんとする自由思想が、
窮理のための恒久的な努力の必要性や年功序列を重視する、宋儒の立場からすれば受け入れられない。
学問の王道はそのような天才志向によらず、日進月歩の勉学によってこそ嗜まれるもの。
天才は愚か、秀才すら認めない。知能指数の高低などで道理の把握は左右され得ない(かといって
極端な白痴などは除く)、善悪禍福をわきまえる大人の知見は、本当の大人でないと理解されない。
20億人の幼稚園児の知見も、たった1人の大人の知見に及ばない。儒学ならそうである。
禅や密教ならまだ別として、宗教である以上に学問中の学問である朱子学がそこに威儀を認める。
81 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 21:30:44 0
「来書に云う、易の義本と数に起ると。則ち非なり。理有りて後象有り、象有りて後数有り。
易は象に因りて以て理を明らかにし、象に由りて以て数を知る」
(同文庫「近思録」三・五〇より)
易占によって示し出される大義は、六十四卦の数理構造によって導き出されるのかといえば、そうではない。
まず、数がどうだというのではない、定性的な理解があって形象があり、その次にやっと定量的情報としての数がある。
易によって形象を扱い、それによって定性的な理解に照らし合わせ、ついでに定量的な数量情報も知らされる。
仏教もまた、数的な概念論を「取るに足らないもの」として無記に付し、数などとは全く別の所にある
善悪禍福を論及の対象とする。人間に限らず、動物や植物に至るまで、あらゆる有機的生命体は、自然法則に対する
定性的な理解を持ち、己の成育を最適たらしめんと努力している。まとまった物体を一個二個と数え上げる
定量的な情報処理は、天才チンパンジーあたりから始まって、人間はこれを莫大に扱っている。
高度の知的生命体であるから、定量的な情報処理が可能である一方で、定性的な理解もまた一貫して備わっている。
定性的な理解を蔑ろにすることで、定量的な情報処理を得てきたのではなく、定性的な理解のついでに
定量的な情報処理も発展させてきた。定性的であることが本であり、定量的であることが末である。
数的であることが第一であって、定性的な理解が第二だなんてのは、数学者が数学をやっている時と、
コンピューターあたりにのみ適用されること。日々の生活ともなれば数学者も定性的な理解に頼らざるを得ないし、
道徳か犯罪かといったような善悪の問題に関しては、数的概念論を全くの無記に付さねばならない。
数は無記であり、しかも無覆無記であるべきもの。善悪に関連さすことで有覆無記となることも避けるべきこと。
清濁併せ呑む陰陽五行も、定性と定量両方を扱った上で、定性を優先し定量を劣後する。数であることはあくまで二の次。
数の魔力に囚われることこそは、金融主義や物質主義に没落してしまう原因中の原因ともなっているから。
82 :
井上筑後守:2009/06/11(木) 21:33:06 0
「釈氏は天地を錙銖にす、至めて大なりと謂う可し。然れども嘗て大を為さざれば、
則ち事を為すことは得ず。若し之に一銭をあたうれば、則ち必ず乱れん」
(同文庫「近思録」三・七一)
仏教の世界観はまことに甚大で、百千万億の仏が毛穴の中にいるといった具合。李白の白髪三千丈も真っ青。
だけどもそれらは全て、世俗とのしがらみを断ったお寺の中でのみ保全される代物。
実際に為政に参加して思想哲学を実践することなどはないのだから、極めて脆いものであると言える。
一銭でも恵んでやれば取り乱すだろうという、ちょっと見くびり気味の仏教に対する批評である。
大乗仏教なら衆生の救済も念頭に置いているし、布施も一つの慣習として取り決められている。
中国に入ってきた仏教の大部分も大乗なんだから、的外れなんじゃないかと思われるかもしれないが、
何しろ儒教は出家も超俗も認めないバリバリの仕事人スタイル、今でいう官僚や政治家にも値するものを
創始者の孔子からして兼任していたわけで(ただしそんなに目立った成果はない)、実用性のない思想哲学は
どんなに高尚で立派だろうとも賞味するに値しないものとする。総力を挙げて仏教への帰依を誓った日本の
十七条憲法に値するような統率規範もない中国においては、相当に直接的な仏儒の対決が垣間見られ、
それが日本ほどの国を挙げての教学の凝縮が見込めない原因になる一方で、傍目には面白いものとなっている。
完成品をただ味わうのとは違い、試行錯誤によって新たな教学を精製していく活気が、多少羨ましくもある。
この漢スプラッシュは真似できないな
女は子を産むお人形さん。
高台院や芳春院のような婦徳の持ち主であれば、
夫に気兼ねせずどんどん自分から意見を言ってもらっても構わないが、
築山殿や淀殿のような姦婦悪女である以上は、徹底的に言行を慎ませて
不吉の種と化すのを防ぎ止める以外に余地はない。
名君名将に女運がないのは諸葛孔明の頃からの習わし。
せいぜいてなづけられるまで暴れ回れ暴れ馬。
85 :
井上筑後守:2009/06/13(土) 20:00:25 0
「虚器に水を入れば、水自然に入るが如し。若し一器を以て之に実たすに水を以てし、
之を水中に置かば、水何ぞ能く入り来らん。蓋し中に主有れば則ち実つ、
実つれば則ち外患入る能わず、自然に事なし」
(同文庫「近思録」四・一〇より)
水で満たされた器を水中に投入しても水が入り込んでいかないように、敬意や忠誠で本心が
満たされた人間は、外界から色々と鬱陶しいちょっかいを出された所で、惑うことなく自然といられる。
敬意や忠誠とは、本心の内圧のことであり、あたかも酒に酔うかのように徳で満たされる状態を指す(詩経)。
ちょっと敬ってみました、忠誠を誓ってみました程度のお試しによって本心が徳で満たされることなどはなく、
全身全霊を呈しながら敬いや忠誠に専念して、初めて徳で満たされることとなる。
このことを逆に「己を虚しくする」という。徳に満たされることは却って己を虚しくすることとなる。
徳性と我執とは相反した関係にあり、どちらかを立てればもう一方が蔑ろにされる。私情を排せば公正さは増す。
単なる自我の喪失とは違って、公共性という確かな主体性のために、我執に右往左往する副体性を捨てる。
自我の確かさからしても、自我喪失状態の白痴<我執の鬼っ子≪物我一理の大人という関係にあり、
公共性に即した大人の自我は、主体性を見定められないガキの自我などよりも確固普遍たるものとなっている。
そして、公共性と一致した大人の自我を固めるためにこそ有効となるのが、敬意や忠誠によって我が心を実たす、
己を虚しくする志しである。己を虚しくすれば自我は却って確固となる。逆に思えるこの微妙さにまず気付くこと。
86 :
井上筑後守:2009/06/13(土) 20:02:35 0
「敬して失うこと無きは、便ち是れ『喜怒哀楽の発せざる之を中と謂う』なり。
敬は中と謂う可からず、但だ敬して失うこと無きは、即ち中なる所以なり」
(同文庫「近思録」四・一八より)
敬意に本心が満たされることで、外患によってその本心が左右されることがなくなる。
ここに中庸の真髄もある。敬意を持つことは、土下座などの恭しい行動によって現れる点からも、
中立的というよりは、あえてへりくだる一概さを持っている。でもその一概さが、中正を欠いた偏重で
取り巻かれている現実の世の中と相殺されることで、総合的に見れば本心の揺るぎなさとなって現れることとなる。
不誠実や蔑みが蔓延している一般社会の実情に応じて、一概な誠実さや敬いを嗜むことで結局は中正を得る。
傍観者に止まらない、社会の内側での主体的な活躍者として振る舞って、しかも中正である。
傍観者として観察が中正であることは、科学者などが専門としているところ。しかし、観察の正しさを保つために、
傍観者としての科学者たち自身の振る舞いは無責任なものとなり、原爆開発の推進に署名したりもしてしまう。
それは少しも社会人として中正ではなく、自らの立場を特権階級に追いやるものですらあるので、
そんな人間が増大する社会は、中正さを欠いた格差社会となること必至。じゃあ学問なんか捨ててしまえ
というのかといえば、もちろんそんなこともない。科学のような観察の中正さばかりを偏重する学問以上に、
社会人としての振る舞いが中正であることを重んじる学問を優先すること。もちろんそれは儒学などのこと。
主観性が迷妄と化してしまうカルト宗教(聖書教)に反発することで発展してきた科学が、
自らの社会人としての無責任さを反省し、主観的でありしかも公正である完全なる学問に道を譲る。
本質的に無記を扱う科学が、無闇に膨張して有覆無記と化す危険性もまたそれによって制御される。
87 :
井上筑後守:2009/06/13(土) 21:10:21 0
「道に入るには敬に如くは莫し。未だ能く知を致して敬に在らざるもの有らず」
(同文庫「近思録」四・二五より)
道を知るためにはまず敬うことが一番。道をわきまえる前からとにかく敬っておけ。
結局道をわきまえた所には、自ずとあふれ出る敬意が生ずるものであるから。
知識には道徳的である場合と犯罪的である場合とがある。真正な道徳学たる儒学で「知」といえば必ず
道徳的な知識のことを言う。泥棒講座でしかない犯罪的な知識を蓄えれば、敬意は増すどころか減って行き、
逆にできる限り他者を軽んじようとする侮蔑のほうが増して行く。道徳と犯罪が綱引きの両端であるように、
尊敬と侮蔑もまた綱引きの両端たる。一概に敬いたければまず蔑むことは遠ざけるに尽き、
その上でどうしても蔑まなければならないような悪人のみを蔑む。犯罪も侮蔑も完全に捨て去って、
一概かつ高尚な道徳(聖徳)や敬意を育む仏教とは違って、儒学はかなり道徳尊敬と犯罪侮蔑の衝突を
考慮に入れていて、悪が存在するからこそ成立しうる勧善懲悪に奔走している。それでいて儒学の
本分は道徳や尊敬にある。純善として純悪や善悪みそくそをやっつける、正義の味方故のこの上ない享楽。
変な言い方だが、儒家は「悪の責任」を悪者に丸投げする。悪いことを考え抜いてやらかすせせこましさを
自分たち以外の悪者に任せきって、自分たちはそのやっつけに徹してしまう。非常に無責任な純善である。
元より善であることは責任的であることなので、善が無責任であるとは、比較的責任が軽いということ。
完全に善のみであり、しかも善故の真理として独立独歩たる仏教などと比べて、善ではあるものの悪を
やっつける方面に得意である。刹那的なのに、悪も少なくない現実に応じて永続的でもある、説明困難な
完全中間管理職としての特権。そこに13億を超える東ユーラシア大陸の民が潜在的に群がっている。
理解することがすごく辛いのに、無視するわけにもいけない、一種異様な領域がいま認知された。
88 :
井上筑後守:2009/06/13(土) 21:12:08 0
「人を動かすこと能わざるは、只だ是れ誠の至らざるなり。
事に於いて厭倦するは、皆な是れ誠に処すること無きなり」
(同文庫「近思録」四・二八より)
誠実さが足りず、うまく人を動かせないというのは、特に説明するまでもない常識。
ただ、その己の至らなさ故に動かない人々への逆恨みから、相手の弱みを握って強制的に動かすような、
犯罪行為による人事を目論もうとする問題が今では頻発している。誠実さによって人間関係を確立する
手堅さがどこにもなく、後ろめたさだけでほとんどの人事が左右されている現状、これが「厭倦」を生む。
何もかもがしょうもない、つまらなく苦しいものばかりでしかない、ただ人間関係のしがらみだけによって
必要でもない労働を続けている、悪い仕事ばかりに関わらされる苦悩、始めから誠実であればそんなことはない。
続けることがつまらなく、切ったほうが楽しい、しがらみによる人事。
続けるほうが楽しく、切ったほうがつまらない、誠実の限りを尽くした人事。
敬意という本心の圧力が己の虚しさとなり、外面上の虚しさは引き付けあって不満のない人間関係を築き上げる。
敬い尽くした時、もちろん誠実さの限りも尽くされている。心身の内外に対する考察を尽くした学問は、
主観客観の分裂を超えて、人事を含むあらゆるものを最適な方向へと導く指針を明示している。
>>84 無能で浅はかなダメ人間の、精一杯のあがきなんだ、それ。
有能な人間なら考えもしない事だよね。余裕がない事で。
コンプだらけの汚い自意識晒してご苦労さん。
90 :
井上筑後守:2009/06/13(土) 22:06:09 0
「人の心は常に活せんことを要す。則ち周流すること窮まりなく、一隅に滞らず」
(同文庫「近思録」四・三五)
滞留することのできない人間の本心を、
以前(四・一〇)は器に例えて、水が満たされた状態を「徳に満ちた状態」とも呼んだ。
川のように流れ続けて限りのない心を、水の張られた器のように内圧の保たれた状態と化す、
一見矛盾しているように思われることを、儒家はよく修学者に強要する。それこそは中庸の証。
風のように動くことも、山のように動かないことも、孫子の兵法であれば必要とされる。
それと同じように、相反する二つの条件を満たして中正を守る微妙さが常に儒家でも遍在している。
「十人の話を同時に聞いた」という聖徳太子の伝説は極端にしても、相反する二つの意見を聞いてうまいこと
裁決を下す、裁判官としての素養を儒者は蓄える。その一方でやはり儒者は積極的な社会参画者でもある。
法治社会における裁判官は裁判だけの公正な審査に徹する。審理対象者からの賄賂を避けるために、
専用の官舎に引きこもって暮らさせられるような便宜も図られる。科学者と同じで、社会的な責任性を欠いた
傍観者に徹することで中正を守ろうとする、コストパフォーマンスの悪い振る舞い。そこに裁判官の限界もある。
自分自身が積極的な人間関係に没頭しつつ、社会全体の利益も考慮した公正さを担う、汎用道徳学の大成者としての
孔子の存在意義が現代人の心外にあり、あまり活躍的とも思われないその政治社会的な振る舞いが、実は
多数派の道徳者のあるべき姿として計算し尽くされている。多数派ともなりうる程の汎用的な道徳者の姿。
敬う限りにおいて道徳を保て、見くびる限りにおいて罪を犯し続ける、道徳と犯罪の関門に立つ、孔子という存在。
「早く(関門を)くぐろうよ」という誘いは、犯罪者から道徳者に対しては安易だが、道徳者から犯罪者に
対しては難儀となる。犯罪に留まることは簡単でも、道徳へと解き放たれることは難しい、人間性の法則に依り。
可愛い可愛いお人形さん。
しかも子供も産む。
他に何も言うことはありません。
女の素晴らしさはこれだけで言い尽くされている。
言葉数が多すぎることを恥じる程にも。
後は不純物でしかない。
犯罪者ごときに無能扱いされる覚えはないわな。
誰しもにとって有害無益な犯罪の才能にかけて有能ではあるだろうがな。
むしろないほうが偉い類の有能さ。躁鬱を悪化さすだけの有能さだ。
なにか、女ならではの内面の素晴らしさでもあるのかなあー?と思いきや、
ポッポポポー
だったもの。
スカスカで安易なだけの女の中身。
だから、仕方ないんで夫唱婦随にしておくわけ。
男は中身、女は外見と出産機能。
大事な決め事では男に譲る優しさが、
逆説的に女の内面の素晴らしさともなるから。
どこまでも限りなく、優しい奥さんであられたまへ。
94 :
井上筑後守:2009/06/14(日) 19:29:35 0
「未だ感ぜざる時に知は何所に寓すと言うもの有り。曰く、『操れば則ち存し、
舎つれば則ち亡ぶ。出入時なく、其の郷を知る莫し』。更に怎生ぞ寓する所を尋ねん。
只だ是れ操る有るのみ。之を操るの道は、『敬以て内を直くす』るなり」
(同文庫「近思録」四・四六)
感じ取られもしない内から、どこかに普遍的な知覚対象が存在するのかといえば、そうではなく、
知覚する人間と対象との相互作用によって、初めて対象は新規の知見として現出する。
観察は常に観察対象をかき乱しているのだから、観察している時に察知される対象が、
観察していない時も同じ振る舞いをするのかといえば、そんなことは全く分からない。
今まさに重大な犯罪被害に遭っている人間が、被害者であるに応じて、災禍のドミノ倒しを防止すべく
なるべく消極的な行動に徹していたとする。その人間は、犯行が解消された後にもぐうたらしてるのかと言えば、
そんなことは全く分からない。のぞきのような犯行によって見られている人間と、全く見られていない
人間とは、同一人物だろうとも全くその言動が変容し得るし、変容するほうがむしろ健全ですらある。
犯罪行為によって何かが得られると言うような妄念に協力してあげようだなんて考えを絶対に持たず、
悪いことをされたに応じて相手を怒ったり蔑んだりもする。意図的に「嫌な観察対象」となってあげている。
観察者と観察対象とを、犯罪加害者と被害者にすら分裂させてしまうような、緩慢で劣悪な学芸ごっこでは
何ら得られる所がなく、自らが誠意的な学究となることで初めて得られる優良な知見の存在を示唆している。
寓意ではなく誠意や敬意によってこそ得られる、優良で楽々な知識の体得。今はまだそこまではいかない。
便所の落書きとして寸評をメモってる程度。犯罪者が逮捕されるまではその程度であり続ける。その必要があるから。
95 :
井上筑後守:2009/06/14(日) 19:32:48 0
「大率ね把捉すること定まらざるは、皆な是れ不仁なり」
(同文庫「近思録」四・五九)
仁義を尽くせば、何事も大体の見通しが付く。仏教でも真理のことを「諦(たい)」というように、
道理や真理はある程度把捉してしまうと、それ以上を見込めないような大まかな概観に行き着く。
日本刀も微妙な形状の個体差はあれど、折り返し鍛錬の片刃や、両手で握れる柄といった、大まかな形状は共通している。
それは刀という道具の扱いようを極めた結果、自然とその形状に落ち着いていったからであって、
もはやそれ以上の革新的な進化のしようがないという諦めが付いているから。もちろんその共通した形状の
範囲内において、さらなる名刀の精製を目論むことは全く可能であるにしろ、基本的な製作基準までもが覆されることはない。
日本刀の形状に限らず、万事万物にはそれ以上極めようがないというような一定した段階が存在していて、
仁義を尽くす人間は自らもそこに落ち着くんだが、不仁の人間は極められた真理や道理にも満足できず、
すでに定まっている真理や道理に抗ってまで色々と迷惑行動を続け、犯罪者と化してアジトの穴にもぐる。
道徳の概観も四書五経らによって大体は把捉されているし、真理の概観も仏典らによって大体は把捉されている。
より完成度を高めることは全く可能で、四書五経らによって把捉された道徳も、宋儒によってより煮詰められたりした。
でも道徳や聖徳が、四書五経や仏典によって把捉された以上に革新されるなんてことは、もはや考えられないこと。
悪いことをせずに善いことをする、悪を懲らしめ善を勧める、これ程にも当たり前な原理を覆すことなど決してできやしない。
にも拘らず不仁者は、四書五経や仏典によって示された、大まかな道徳や聖徳の枠組みにすら反して犯罪を続ける。
真理も道理もある程度は把捉が定まっているのだという、諦められた大人の見解を受け入れられず、
まだ何かが変えられる、「ウィーキャンチェンジ」とほざきよる。必要なのは変革ではなく温故知新であるのに。
とっくの昔に道徳や聖徳の概観を把捉し終えている、正され終えたものを受け入れる大人しさ。それがあれば他は何もいらない。
96 :
井上筑後守:2009/06/14(日) 19:34:54 0
「心定まるものは、その言重くして舒なり。定まらざるものは、その言軽くして疾なり」
(同文庫「近思録」四・六一)
道理や真理の把捉が概ね完成し、揺るぎなく定まった心を得た人間の言葉は、心と同じくゆったりとしている。
道理も真理も諦められず、変革ばかりを嬉しがる未熟者は、心も定まらず、言行もどこか病的であり続ける。
女々しい派手さ加減にこだわるんであれば、むしろ未熟者の振る舞いのほうが奇抜で面白がられたりする。
聖賢の言行は、揺るぎないが故に一見して地味ともなる。七色変化の未熟者と比べて、セピア色程度の落ち着いた配色となる。
色彩の魔術が衆生の心を惑わして、戦乱のような誤った方向へと導くことがあるのも経験上は知っている。
だからって聖賢の側が色彩で勝負するってのも間違いで、ただそのような子供だましに右往左往させられる愚かしさを
気付いた人間から各自卒業していくよう促すのみである。陰陽五行は清濁併せ呑んだ上で、汚濁を遠ざけ清浄を近づける
自主性こそを重んじる。世俗社会が完全に清浄となることなど不可能であるのは分かりきっているから、
完全粛清などではなく優劣の徹底程度の処理に止める、清浄優先汚濁劣後。清浄肯定汚濁否定の仏教などからすればゆるい。
でもそのゆるさが勧善懲悪の実現性を高めもする。お寺にこもらずとも社会の内側で確かにそれが実現できる。
孟子は場合によって臨機応変を肯定したり否定したりした(「孟子」参照)、これこそは本物の臨機応変といえる。
何ものをも把捉しつつ、それでいて何ものにも囚われない不惑の境地、確かにある程度という大まかさでは到達できるものだ。
97 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 11:55:05 0
ちょっと質問していいかな。
>>96 勧善懲悪、と出たけれど、その裏で、
かならず、ヒーローが堕していく物語ってのが、日本人の好みでもあるよね?
才人超人が泥まみれになるのを見て、哀れと思い、美化する過程って、
いわゆる嫉妬心、やっかみの昇華でもあるんだけど。
井上筑後守さんはその物語性についてはどう思うの?物語自体が悪とは思う?
>ヒーローが堕していく物語ってのが、日本人の好みでもあるよね?
いいえ。全くそんなことはありません。
ヒーローなりの努力や苦労が好まれることはありますが、
それも現実に即したヒーローであることを求めるまで。
日本人が特筆して嫉妬ややっかみをヒーローに当てこすることなどない。
そんなのはスーパーマンやSWあたりをつくったどっかの国にある程度。
ヒーローに嫉妬ややっかみを当てこするなんて、日本人にとっちゃ堕落以外の何ものでもない。
何百億と制作費を投じた大スペクタクル映画でも、シナリオがそうなだけでゴミも同然になる。
武家装束に陣笠に十手に捕縛のお縄だけでも、最高の勧善懲悪劇はつくり上げられるのに、
わざわざつまらないシナリオをあてこすって、コストパフォーマンスを地に落としてやがる。
そういうムダが日本人は嫌いだから。弱虫は弱虫同士で、好色一代ものか曽根崎心中でも
やってなさいってこった。町衆文化もあるにはあるが、それは勧善懲悪とは全くの別物だから。
英雄と悲劇を混同する古代ギリシャ以来の悪癖を、日本に持ち込むのはやめてもらおう。
元祖裸族!
ギリシャ人♪
101 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 14:45:58 0
>>98>>99 確かにそうなんだよね。
正義であるのに、こんなにまで虐げられる主人公や何かの物語、ドラマ、を見る層ってのは、
だいたいが俗臭にまみれている。
ただ、人情ものというくくりでその物語を見ると、系譜は江戸時代までさかのぼるし、
儒教ともつながってくる。
儒教の事は、そんなに勉強した訳じゃないんだけど。
それでも、儒教自体がルサンチマンの産物だ、という説もあるくらいなんだよ。
実際どうなんだろうね。
井上筑後守さんの文章からはそんな気配は感じ取れないけど。
102 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 14:53:30 O
やまねのきもちヤットコム
103 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 14:54:29 O
ヤクザのあやまちズットコウ
「儒教がルサンチマンの産物だ」なんてのは、
「日本人とユダヤ人は似ている」ってぐらいのトンデモ意見だ。
そりゃあ、目と耳と鼻の穴と手足を二つずつ持っていて、
二本脚で歩く程度には似てらあ。
現実を見定めた意見と、ただそうであって欲しいというだけの願望とを
混同するのはいい加減やめろってこった。
105 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 15:24:22 0
トンデモかねえ。
まあ、
>二本脚で歩く程度には似てらあ。
>いい加減やめろってこった。
会話して↑こういうの読みたかっただけなんだけどね^^
かぶりつきで読ませてもらいました。どうもどうも。
106 :
井上筑後守:2009/06/15(月) 18:11:07 0
町衆文化は、士農工商でいえば「工商」にあたる、儒家教学上の被差別階級でこそ
発達していったもの。儒家に近似するどころか、反発することで興隆したとすら言える。
その精神的な支柱になっているのも、開祖からして幕府に楯突いて罰せられた日蓮宗あたり。
同じく開祖が罰せられたにしても、別にお上に楯突いたからなわけでもない浄土教と比べても、
妬みやっかみを当てこするような陰湿さが比較的多めなもの。もちろん日本国内での話で
あって、どこもかしこも善良さに対してこそ積極的である、日本の中ではむしろ必要悪だったほう。
創価学会員が普通の日本人と比べて浮いてるのからも分かるとおり、変則的な存在に過ぎない。
付いて来られない小人の多さと、付いて行かなきゃならない偉人の多さと、
両者を繋ぎ止めようとするともがらの少なさとに感服する。
誰にでもできるのに誰もしようとしない、そのせいで誰にもできないことをやる、
中正の堅持者としての冥利に尽きる、今の自分のありのままの姿。
大して美しくもないが、極端に醜くもない、その有り様も含めての中正。
カッコいいとか美しいというよりは、微妙不可思議な仏像の造形にも沿う、
よく分からない変なもの、外見がそうであることと引き換えに中正であるものの冥利に尽きる。
構造であるものは全てだが、構造でしかないものは
ほんの一部分の落人でしかない。よかったな。
109 :
井上筑後守:2009/06/18(木) 22:32:17 0
「夫れ人の心正しく意識なれば、乃ち能く中正の道を極めて、充実光輝あらん。
若し心に比しむ所あらば、義の不可なるを以て之を決す。」
(同文庫「近思録」五・七より)
「『他山の石、以て玉を攻く可し』を解す。(中略)譬えば君子と小人処るが如し。
小人に侵陵せ為れば、則ち修省畏避し、心を動かし性を忍えて、増益予防す。
此くの如くなれば便ち道理出来たらん」
(同文庫「近思録」五・一五より)
君子が小人と親しむことは、中正を欠く愚行となるから、「残念ながらダメです」と断れ。
然れども、どうしても付き合いを強制される以上は、小人ごときに対して自省を期待するのではなく、
明らかな小人から君子への不当な侵害である場合だろうとも、君子の側が自主的にその経験を
自己研鑽の道具として活用せよ。他山の石で玉を磨けという「詩経」の言葉もそういった意味を持つから。
「下学して上達す」という論語の言葉を、あまり上等でない問題から学んでいくと考えるなら、目に余るような
小人凶族の暴挙も、戦乱期における、ある種の「下学」として、一つの上達の道という風に考えられるのかもしれない。
とはいえそれは決して模範的な見習い対象としてではなく、完全なる反面教師、悪例としての意味である。
戦乱状態の春秋時代に、武術ばかりに頼らない文治を目指した孔子の興した儒教が、漢や江戸といった泰平の時代の
御用学として大いにその真価を発揮した。孔子の著作と言われる「春秋」などを読んでも、戦乱期における人間の
生き様から、孔子もまた生き残りの法則としての道徳と、自滅の法則としての不徳(犯罪)との違いを見定めていた。
110 :
井上筑後守:2009/06/18(木) 22:34:18 0
「徳」とは、分かりやすく言えば「善悪二元論を超えた一元論における善」であるといえる。
「善」という呼び方は、「悪」という闇に対する光としての比較概念でしかなく、真に悪を打ち滅ぼして
善こそを打ち立てようとする人間は、もはや善を善と呼んではならず、徳とのみ呼ばなければならない。
特に状態程度を指定しない、単なる善であれば「徳」、悪を懲らし善を勧む積極的な善であれば「道徳」、
悪を断ち尽くし善のみを修める、消極的ではあるものの完全に純粋なる善であれば「聖徳」などと呼ぶことが勧められる。
儒家でも道家でもよく使われていて、仏教でも釈迦が「大徳婆伽婆」などと称されたりもする(「教行信証」など)。
東洋の聖賢が当たり前のように使いこなしているにも関わらず、その本意がなかなか読み取りにくい「徳」という
言葉の意味を(辞書で引いても数多くの意味が載っている)、善悪でいえば善であり、しかももはや悪との傍観的な
比較すら捨て去っている、実践突入型の正善であると捉えたなら、場合分けによらず何時如何なる状況によっても
通用する普遍的な教学を、東洋の先人たちが積み重ねてきたことに気付くことだろう。
111 :
井上筑後守:2009/06/18(木) 22:54:00 0
「己れを罪し躬を責むること無かる可からず。
然れども亦た当に長く留めて心胸に在りて悔と為すべからず」
(同文庫「近思録」五・二三より)
常に自省の念を持ち続けることが肝要であるけれども、
いつまでもクヨクヨして心疾と化すような偏屈も禁物である。
適度な運動は身体の壮健を促進するよい負荷となるけれども、過剰な運動は却って故障を招く原因となる、その
内心版とでも言うべき格言で、適度な自省が人格の向上を促す一方で、過度な自省は自虐と化してしまうという中正論。
国家神道で大日本帝国を称した明治以降戦前までの日本人が、自省を欠いた極端な自尊に走った一方で、
敗戦後は一気に、微塵の自尊心もない自虐一辺倒と化してしまった。どちらも中正を欠いた極端志向でしかなく、
「今が自虐的だから今度は戦前の自尊主義に戻れ」ってのもおかしな話で、自省と自尊の釣り合いを十分に取れていた
明治以前にまで戻ることが一番望ましい。自尊の躁、自虐の鬱、適度な自省が双極性障害を全面的に解消さす。
(根拠のない)自尊をアングロサクソン、(根拠のありすぎる)自虐をゲルマンに役割分担させきっている
白系アーリア人の慢性精神異常も、過不足のない自省によってこそ治療される。ニュートンとゲーテ両者への処方箋だ。
112 :
井上筑後守:2009/06/18(木) 23:22:26 0
「欲する所は必ずしも沈溺せず。只だ向かう所あるは便ち是れ欲なり」
(同文庫「近思録」五・二四より)
欲望も適度であれば溺れ去ることもないんだが、
我を忘れてしまってまでの好き好みは問題である。
金も物も、ある程度有為な文化文明に興じる人間である以上、捨て切れはしないんだが、
「物流のためにある」という金の本質的意義や、「人間自身の豊かさのためにある」という物の本質的意義を
覚悟した上で金や物に接するのと、そうでないのとでは非常な落差を生ずる。人間の命を直接左右する食や、
さらにその食以上に人間の積極的な生存を司る善良さ、善悪二元論を乗り越えた所にある善良さとしての徳を
「金や物よりも本質的に貴いものである」とわきまえられることで、人間はどこまでも限り無く厳密に生の楽しみを謳歌する。
実際の社会において金を司る商民、物を司る工民、食を司る農民、徳を司る士人を、優先する順番に配した「士農工商」。
徳や食の本質的意義が著しく軽視される近現代においても、結局は徳や食が生産するものを、物や金が消費することで
人類はこれまでにも生き延びられてきている。物や金が徳や食を食わせてるのではなく、徳や食が物や金を食わせてやってる。
四民平等でもはや存在しないものとすらされてしまっている、工民や商民の上に立つ、永劫普遍の優位者たる
士人や農民としての自認者が未だにどこかに実在してくださっていることで、初めてまだ地球人類は生き延びられている。
徳や食があるだけでも人間は生きられるが、物や金があるだけでは人間は生きられない。一ヶ月もしない内に全員餓死する。
とわの昔、宇宙開闢から現代に至り、しかも未来永劫に至るまで、真の支配者が交替することなどは決してないのだ。
113 :
考える名無しさん:2009/06/19(金) 01:22:32 0
このスレは原典に自説(注釈)を書き込むスレですか?
114 :
考える名無しさん:2009/06/19(金) 09:13:26 0
くせになる文章だのう。
115 :
井上筑後守:2009/06/20(土) 20:53:55 0
「舜の四凶を誅するが如き、怒り四凶に在り、舜何ぞ与らん。
蓋し是の人怒る可きの事あるに因りて之を怒る。聖人の心本と怒りなし。
譬えば明鏡の如し。好き物来る時は便ち是の悪しきを見る。鏡何ぞ嘗て好悪あらん」
(同文庫「近思録」五・二七より)
古の賢王舜が、四凶を誅罰する時に怒ったとて、確かに相手どもに紛れもない罪があったのであって、
そのように実在する罪悪に応じて聖人は怒りもするし、同じく実在する盛徳に応じて機嫌良くなりもする。
少しだって聖人の側に私心があってそうなるのではなく、あたかも鏡に諸物が映り込むようにそうなる。
怒りこれ即ち悪の根源として、完全に断ち切ることこそが「聖」であると仏教などでは考えられる。
私娼をアガメムノンに掠め取られて、怒って戦線を離脱したアキレスの「イリアス」中の振る舞いなどからも、
私情にかられて怒り狂うのは愚かしいことだと分かるのだけども、憎悪などによって外物に囚われる煩悩を
社会人までが完全解脱するわけにも行かず、結局はアキレスの如き愚行に走って、不誠実故の戦局の悪化にも加担する。
そのどちらでもなく。煩悩の赴くままに怒り狂うでも、煩悩も怒りも捨て去るのでもなく、煩悩だけを捨てて
公務のための怒りだけを残す。事実として罪悪が極重である現実社会に、渦中の世俗者として対応する上で、
怒り狂って罪人どもと同じ穴の狢と化すことを避け、かといって何もかもを許し尽くす白痴となることもない、
情勢の大局を見計らって、それでもいけないものに対してこそ怒り、自己を律する上での「主流の感情の流れ」を
その怒りに沿わせていくようにする。公的な喜怒哀楽が主流となることにより、私的な喜怒哀楽が自然と
すぼまる一方で、一般人から敬遠されてしまいかねないような、超俗の聖人然とした無感情となることも避ける。
一般人と同等かそれ以上に感情的であって、しかもその感情が公共性にも沿っているという、正義の味方の基本要件。
泣いたり笑ったりもあった上で、しかも善いってのが、他者の信奉心をくすぐる義人の有り様となる。
>>113 特にそうと決めてはいないけども、ただ私見だけを適当に
述べるよりは、原典を参照しながらのほうが高級感も漂う。
東洋教学は、典拠もはっきりしないようなそぞろごとの多弁は
言行不一致を招く忌まれるべき行為とされる。勉強は推奨されるし、
物書きもちゃんと典拠に沿ったものであれば容認される。
宋代以降の中国や日本に、目立った儒家教学の発展がほとんど
ないのも、原典にしっかりと倣っていた証拠でこそあるのであって、
批判どころか評価の理由にすらなるもの。先人に無駄な楯突きを
することなく堅実な勉学に励んで、大変よくできましたといったもん。
もちろんこれは、丸々そのままの体得こそが最高であるという程にも
完璧である学問を勉強する場合の話。精神病患者の思いつきみたいな
劣等な学問を丸写しで勉強したところで、そのまま病気が移るだけだ。
健康で優良な人間を育てるための学問をしっかり学ぶ。それが一番だ。
117 :
井上筑後守:2009/06/20(土) 21:32:44 0
「聖人は己れの感を責むるや多きに処り、人の応を責むるや少なきに処る」
(同文庫「近思録」五・二九)
聖人はできる限り人から多くのことを学び取ろうとするが、
他者を相手にした自論の展開はなるべく控えめにしておく。
典拠も示さないような適当な暴論の羅列こそは、聖人の控えるべき最たるものといえる。
とにかく自分の意見で、相手を征服して支配下におきたいという僭越さこそは小人の所有物で、
聖人はむしろ誰しもの意見を取り入れつつ、また誰しもにとって納得のいくような最小公倍数的意見、
もしくは最大公約数的意見の精練に励む。総論も各論もまとまった完成品となす職人精神。
そのような、誰しものためになる意見を精製し、所有した人間は、誰しものためであるが故に
自分自身の利益も疎かにしない一方で、同時に誰しもの利益にもなる公共性の体現者となる。
これが、儒家で言う所の「聖人」。仏教だと衆生の救済は大乗でしか約束されていないので、少し事情が異なる。
大乗に限れば仏教も同じく、自利と利他との両立を修行によって体得する。儒家こそは、自他の利益を
2500年以上の昔から育み続けてきた張本人であって、大乗仏教も歴史的にはこれに後続しているもの。
中国は儒家が国学だったし、日本もインドより中国のほうが近くにある関係で、潜在的に
仏教よりも儒家を身近なものと考える風潮があって、小乗より後輩である大乗仏教が、儒家や神道を
より近親の教学とする中国人や日本人にとっては受け入れやすかった。今でも特にその部分に
変更の必要性は見受けられない。小乗仏教も今まで通り東南アジアあたりで頑張っててもらえれば。
118 :
井上筑後守:2009/06/20(土) 22:03:18 0
「思叔僕夫を詬詈す。尹川曰く、何ぞ心を動かし性を忍びざると。思叔慙謝す」
(同文庫「近思録」五・三一)
思叔が怒って僕夫を罵倒した時に、尹川は「なぜ心を奮い立たせて
耐え忍ばないのか」と注意した。それを聞いて思叔は反省したという。
怒りを堪えることが、乱心を鎮めるどころか、さらに奮い立たせることでこそ嗜まれるという逆説。
これも「主流の感情の流れ」が、世間一般への普遍的な識見に基づいていて、私情に基づいて怒ってしまった
場合などに、主流の側の感情を奮い立たせることで、私情の怒りを萎縮させようとする場合にこそ有意であること。
人間が公私の分別を十分にわきまえて、その分別を積極的に活用しようとする時、
そうでない場合と比べて真逆の選択肢すら提示されることがよくある。怒りを静めるために却って心を
奮い立たせたりする。だから、公私をわきまえた大人と、小人の言動がことごとく噛み合わなくなったりもする。
大まかな概観を汲み取って、それに沿わんとする大人と、概観も汲み取れず好き勝手やろうとする小人と。
分別が向こう側まで貫通しているか、それとも止まり穴にとどまっているかで、致命的に言行が逆転する。
言行が向こう側の道理に通じている大人、止まり穴で跳ね返って全部自業自得と化してしまっている小人。
本当に大まかな概観を完全に把握してしまう思い切りのよさが大人にはあり、小人にはない。
後一歩という所でいつも小人は寸止めに終り、煩悩界への退却に甘んじざるを得ない。
そのさらに向こう側、警察署の入り口をくぐった向こう側にある、道理に通じた大人の領域、
やることなすこと大体は的中するめでたい領域に、勇気を持って突き抜けていくがいい。
119 :
井上筑後守:2009/06/20(土) 22:54:36 0
「不仁を悪めば、是れ不善未だ嘗て知らずんばあらず。徒だ仁を好むのみにて不仁を悪まざれば、
則ち習いて察らかならず、行いて著らかならざらん。是の故に徒善は未だ必ずしも義を尽くさず、
徒是は未だ必ずしも仁を尽くさず。仁を好みて不仁を悪み、然して後仁義の道を尽くさん」
(同文庫「近思録」五・三五)
善を好むだけではなく、悪を憎まなければ道理の十分な把握は覚束ない。
善たる仁と悪たる不仁への適切な好悪の配分により、仁義の道も尽くされることとなる。
やはり儒家は、仏教などと比べて感情的な面が多く見受けられる。空海の十住心論でいえば
愚童持斎心、十段階中の二段階目にしかならない、感情の横溢が少しとして戒められていない領域。
ただ、感情がうまく使いこなされる。善を愛し悪を憎む、善悪好悪の順不同な連動が極めつけられることにより、
感情の横溢が悪を懲らし善を勧む、どこまでも限りなく厳密に後味の悪さを残さない爽快さだけで埋め尽くされる。
善を嫌い悪を好んだ状態で、感情をどこまでも放蕩させた結果、人間は精神病にもなる。
もちろんそこまで転倒しきった価値観の堅持も容易ではなく、ゆだや人ぐらいしかそこまでキメちゃいない。
大体は、善悪好悪の順不同な連動が不全状態と化してしまうことにより、善悪みそくそとなって、
善を嫌い悪を好んだという確固たる自覚もないままに徐々に精神を蝕まれ、死よりも苦しい悪の人生に赴く。
仏教はそれを感情の捨離によって解消しようと目論むが、儒家は感情の破棄ではなく、
善悪好悪の順不同の徹底の下での、主流の感情のさらなる横溢によってこそ解消しようとする。
仏教の解消手段が理念的なら、儒家の解消手段は実践的、前者が理論的で後者が技巧的とも言える。
儒家と仏教の両立を、十七条憲法下で図ってきた日本人としての立場からすれば、
誰しもに絶対にどちらかだけを選取しろなどと強要する必要もないように思う。
儒家に付こうが、仏教に付こうが、両者の二股だろうが極端な問題は生じない。
悪より善を優先するという面においては、両教学は確かに共通しているものだから。
120 :
井上筑後守:2009/06/21(日) 21:09:33 0
「病みて牀に臥し、之を庸医に委ぬるは、之を不慈不孝に比す。
親に事うつもの亦た医を知らざる可からず」
(同文庫「近思録」六・一四)
親が病に臥しているのを医者に任せっきりにしたりするのは不孝になる。
介護すらできるだけ自分でやれという慈しみに溢れた格言。
六・一六では「乳母を雇うこともなるべく避けて、どうしても必要になるのなら
二人以上を雇って、乳母自身の子供を蔑ろにさせないよう便宜を図れ」という話も載せられている。
第六章の「斉家之道(家道)篇」は、全面的に繊細な家内事が提示され、中国人の孝行主義の磐石さが垣間見られる。
これが日本だと少し変わって、親孝行はもちろん重視されるが、家事は女が主導権を握る所が少し中国とは違う。
「男子厨房に入らず(荘子)」ともある通り、中国でも些細な家事は女の仕事という考え方があるが、
日本では家計も妻がやりくりしたりして、「女即ち家」という程にも、主婦と家との同一化が進んでいる。
亭主はやっぱり夫であるにしろ、妻は主であることを主張するまでもなく家の一部である、家の中枢、家の神さんであるという、
母体と家財とを分け隔てなく捉える主婦信仰が息づいている。だから日本人としてみれば、男として家内の問題に
口出しし過ぎる中国人の姿勢は少し違和感があるんだが、それにしたって言ってることは確かに正しい。
ルソーの「エミール」みたいに、粘土をこねて人型でも作るかのような傍観的子育てを提示するでもなく、
一家全体の体裁を踏まえた上での育児こそが表される。そのほうが子供にとっても負担が少なくて済むもの。
家全体の体裁に基づいて厳しい教育を受けるのならば、「あなたにだけは成功してもらいたいの」みたいな、
全ての重荷を押し付けられて勉強をさせられる場合よりも厳しくたって構わないぐらい。そのせいで厳しいのならば、
子供だってそうそうにはグレるわけにもいかなくなる。自分一人のためだけの勉強ではないとわきまえるから。
121 :
井上筑後守:2009/06/21(日) 21:10:18 0
夫や妻や子供や祖父母らがまとまって家族となり、近所付き合いや村よりも小規模かつ磐石な人間関係が整えられる。
さらにそこから村や町や市や国や地球へと関係を広げていく。取っ掛かりとしての人間関係が、磐石な家族であるか否かが、
それ以上に大規模な人間関係に進んでいく場合にも、磐石たることの材料となる。本物の家族からこそ始まる社会。
天下の本は国であり、国の本は家であり、家の本が人である(孟子)。どれ一つとして抜かすことはできない段階性といえる。
122 :
井上筑後守:2009/06/21(日) 22:07:07 0
「伊川先生曰く、賢者下に在り、豈に自ら進んで以て君に求む可けんや。苟し自ら之を求むれば、
必ず能く信用せらるるの理なし。古人の必ず人君敬を致し礼を尽くすを待ちて後に往く所以は、
自ら尊大為らんと欲するに非ず。蓋し其の徳を尊び道を楽しむの心是くの如くならざれば、
与に為す有るに足らざればなり」
(同文庫「近思録」七・一)
「君子の時を需つや、安静にして自ら守る。志に須つ有りと雖も、恬然として将に身を終えんと
するが若し。乃ち能く常を用うるなり。進まずと雖も志に動くものは、其の常に安んずる能わず」
(同文庫「近思録」七・二)
賢者は自ら君主に仕えたいなどと乞い求めるべきでなく、君主の側からの敬意や礼節を尽くした
招き入れがあって初めて仕官に応じるべきである。もちろんそれは決して自分が尊大でありたいからではなく、
そうでない限りは信用の伴った充実した仕事ができないからだ。
敬意と礼節の伴った、相応な招き入れがあった場合こそが君子にとっての「時」でもあり、
それまでは、賢者たる君子は息を殺しての平穏無事を保つ。例えその時が来なかろうとも、
そのまま平気で人生を終えんかの如く。これもまた平常心を保つための正しい心がけである。
仕官ができないから辛い辛いと憂えたり、逆に仕官が決まったからといって有頂天になって浮かれたりでは、
碌な仕事もできないのが目に見えているから、雇われる雇われないの左右に関わらず、毅然としていることが最善である。
123 :
井上筑後守:2009/06/21(日) 22:07:51 0
「六韜」の仮託対象でもある名軍師太公望を雇い入れる時、文王は太公望がやっている釣りが終わるのを
じっと待ち続けていたという伝説もある。しかも太公望は、曲がっていない真っ直ぐな釣り針を、水中に投入することもなく
水面上にぶら下げっぱなしだったともいう。それでいて太公望は、文王の子である武王を補佐するなどして、
暴君紂王の支配する殷帝国の放伐に貢献したという。雇い主と雇われる師との間に、仕事をうまくいかせる意気投合が
必要となり、そのための取っ掛かりとして、雇う瞬間の敬意や礼節が重んじられる。取っ掛かりもうまくいかなかったような
雇用関係が、少しだって途中からうまくいきだすような保証はなく、始めから意気投合していた場合ほどの成功は見込めない。
当たり前のように今の世の中の雇用人事は、判子を捺して採用みたいな「契約」が常套手段とされている。
面接だなんだで適合性を査定した所で、結局最後は契約するか否かが問題とされるのだし、動物か物品のオークションみたいな
試験だ面接だで人事をまかなうのは、雇う側と雇われる側、どちらもが誠意を欠いた機械的事務関係だけでの満足にとどまる。
そのような人事だけでほとんどの仕事が済まされるサラリーマン社会は、それによって成し遂げられることもまた限られている。
金融や物品の運用規模を膨れ上げさせることはできたって、道徳を嗜むことはもちろん、飢餓人口を減らすことだってできない。
劣悪でない善良な人間性(徳性)を磨き上げることにより、概ね何もかもが平穏無事に繁栄するめでたい世の中は、
事務処理でしかないような雇用関係で達成できるようなものでは決してなく、敬意や礼節の十二分に伴った雇用関係、
契約よりも誓約を、寓意よりも誠意を優先した関係性の下での仕事によってこそ叶えられる。ちょうど太公望と文王の関係のような。
「万物一体の仁」についての見解をお聞かせください。
>>124 万物斉同は中国思想宗教の基底理念だ。何もかもが結局は一つの法則にまとまるとする
陰陽五行は、それだけでも陰陽家という形で独立的な潮流を生み出してはいるものの、
儒家や道家にも易を通じて連綿と受け継がれて行き、それぞれの潮流ならではの実践を伴う。
道家はよく言われる「無為自然」の境地への帰趨。道を人工ではなく自然の中に求める。
儒家はその逆の「有為人工」への挑戦。世俗社会に突入して行って、正義を貫く壮健さに長けている。
法務や戦闘などの一定事物の研究に徹している、法家や兵家だと表向きの陰陽からの影響は薄まるが、
法家を重んじた始皇帝も焚書坑儒の際、易経だけは焚書の対象としなかったなど、
どうしても捨てきることの出来ない現実の道理法則として一目を置いていた所はやはりある。
>>95の近思録からの引用でも分かる通り、人間はある程度仁義を尽くせば何事に対しても
大まかを把捉してしまえるだけの才能を備えている。物の道理を十中八九見通した大人の知見を
初めて文書化したのが易であり、その記述内容に沿うならば、百発百中とまではいかなくとも、
大間違いの重犯罪にはならない程度の庸徳を嗜むことができるようになる。人間が思索を凝らす場合の
セットがある程度揃っているという点では中国思想とギリシャ思想も近似するが、現実世界の基本法則たる
陰陽五行への把捉が備わっていたか否かが両者では大きく異なり、それにより正義や道徳を基底的に
具えられたか、犯罪へと走ってしまったかにも大きく分かれた。万物の大まかな概観を把捉することにより、
自分自身までもがその内側においていかに振る舞うべきであるかを恒常的に納得し続ける大人しさ。
縄文土器から文明を始めているか、ピラミッドからしか始められなかったかの違いと同じで、
実相への忠実さにおいて持つものと持たざるものとの間の決定的な落差を生み出し続けて来ている。
126 :
井上筑後守:2009/06/25(木) 22:24:36 0
「大人は否の時に於いて、其の正節を守りて、小人の群類に雑乱せられず。身は否と雖も道の亨るなり」
(同文庫「近思録」七・五)
活躍する機会がないからって、士人大夫が小人の仲間入りをすることなどは決してなく、
道を守り通すことで、万物を大まかに把捉し、其の内側での自らの適切な振る舞い方をも養っておく。
純粋な陰陽家であれば、天地万物の道理の捉え方はもっぱら易占に限るんだが、儒家であれば易経以外の四書四経等、
現実の事例に対する施し方を具体的に示した多くの参考書に頼ることができるし、道家にも色々な専門学がある。
易占の際、50本の筮竹の内、1本だけを取り出して使わずにおく、この一本の太極が陰陽五行思想であるとするなら、
実際に占った際に結果を示してくれる49本の筮竹が儒家や道家などの諸子百家であると考えてもらえればいい。
陰陽五行は、現実の問題に対する直接的な帰納対象としては抽象的還元的に過ぎる所があり、世の中全体を動かすような
非常に大きな問題に当てはめる場合に、多少有効になったりする程度。ただ、直接的に陰陽五行を用いずとも、陰陽五行を
基底理念とした思考というのが多くの場面において有効となり、世俗の徳治なら儒家、軍事なら兵家、法務なら法家、
超俗なら道家といった風に、場面場面における、天地万物の大まかを把捉した思想哲学宗教が中国において派生してきた。
儒家や兵家だと徳川家康とか武田信玄とかいった風に、それらを実践した伝説的かつ現実的な大人物がいるのに対し、
陰陽家となると役行者とか安倍晴明とか、急に呪術的でいかがわしい人間ばかりが名を残しているようにも思える。
儒家も兵家も含めて、中国思想で陰陽五行に影響を受けていないものなんて一つもないんだけども、旧態依然の陰陽だけに
止まる場合と、より実践的な儒家や兵家に進んだ場合とで、相当な温度差が生まれてきているのも確かなことだ。
呪術や迷信をあまり好まない自分みたいな人間であれば、むしろ儒家のような世俗道徳の実践者のほうにこそ
陰陽五行の実践者としても、より正統性を見出したりもする。占いではなく基底理念として陰陽五行を用いる人々のほうに。
基底理念としての万物斉同、陰陽五行の実践に対するもっと積極的な研究や評価がなされてもいい頃かと思われる。
127 :
井上筑後守:2009/06/25(木) 22:54:13 0
「その力に資りてその有を利とせざれば、則ち能く人の勢を忘る」
(同文庫「近思録」七・三七)
相手の権力や利得におもねっているようでは、
その勢いばかりに囚われて、本当に親しく交わることなどできない。
世俗道徳の実践者である以上、儒家が金や力を完全否定することはない。ただ劣後する。
適量を超えた金や力は、それらを手に入れるために蓄積した罪悪が祟って自滅をも引き起こしてしまう。
だからどちらかといえば疎かにしがちな徳や食を優先して、貪りに陥ってしまいがちな金や(力の拠り所となる)物を劣後する。
それを前提として人とも付き合う。徳や食を優先し、金や物は否定はしないにしろ劣後する相手同士で付き合う。
それが日本では武家階級となり、「花は桜木、人は武士」とも言われるほどに、人間の鑑として謳われてもいたわけだ。
大小二本の刀を差す点から、武士は軍事偏重者であるかのように勘違いされることも多いようではあるものの、
武家の始まり、源平の時代から日本刀っていうのは戦時の主力兵器ではなく、弓矢や槍や鉄砲で殺し回った後に
最低限の武装として携帯しておくものであったわけ。平時の文治社会においても、「主力兵器」は四書五経のような
権威文書であり、打ち首から斬り捨て御免、自らの不手際による切腹までの、刑罰処理の道具として日本刀も機能した。
そのような文武両道の鑑としての武士の立ち居振る舞いの美しさからも、士農工商が遵守されざるを得なくなった所があり、
金の持ち主である商民や、物的力の創造者たる工民が(その小ざかしさの甚だしさすらをも取り押さえられて)劣後されざるを
得なくなった所以でもある。文武両道の徳治は、いかなる商工の華美よりも上の正しさ真さ楽さ楽しさをもたらすものである。
後代の人々の実践によって上の記述が証明されてもいる。本当に親しく交われる人間関係の重畳さの数多い提示によって。
128 :
井上筑後守:2009/06/25(木) 23:18:36 0
「人多く貧賤に安んずと言う。その実只だ是れ計窮まり力屈し、才短く営画すること
能わざるのみ。若し稍や動かし得ば、恐らく未だ肯て之に安んぜざらん。
須是ず誠に義理の利欲より楽しきを知れば、乃ち能くせん」
(同文庫「近思録」七・三八)
貧乏なほうが幸せだなんてのは、大体がそうでしかいられないが故の負け惜しみでしかなく、
目の前に金が転がってくればあっという間にそっちのほうに転んじまうのが関の山だ。
利欲を貪るよりも、義理人情に厚いことのほうが本当に面白いのだと分かった時に、初めて貧富貴賎などにも動じなくなる。
「武士は食わねど高楊枝」という、やせ我慢の代名詞としてよく用いられる言葉、
武士の正学たる朱子学が実は、ただの貧乏故のやせ我慢などは否認している。そんなものに大した価値はないと。
利得や権力の貪りを超えた所にある、義理人情の楽しさを知覚できた時にこそ、本当に利得や権力に囚われない知見が養われる。
天地万物を大まかに把捉した時、初めて利得や権力よりも、義理や人情のほうが普遍性を具えていることに気付く。
把捉対象が万物に至らない場合も、形而上の夢想によって、万物を大幅に脱線してしまっている場合にもそうだとは分からない。
現実に実在する天地万物の道理に忠実であることにより、義理や人情を利得や権力よりも優先することが、普遍的に
面白いのだと初めて分かる。天地万物ってのは意外と微妙な概念である。概念として捉えるなら微妙で特殊なものではあるものの、
現実の切実な事物として捉えるなら、天地万物こそはどこまでも有機的で滞りがなく朗らかであり、故に楽しく面白く、
天地万物以内や以外であるものは、極端に無機的で滞りばかりで後ろめたく、故に苦しくてつまらない。
ある程度は格物致知や窮理の経験があって初めて分かる、天地万物であるものと、必ずしもそうではないものとの違い。
年食ってるから分かるってわけでもなく、適当な考察の研鑽があって初めて分かる。現実と概念、切実と妄想の真贋。
真贋の鑑定士を目指したわけでもないような人間は、専門家の言う事にでも従っておくのが一番だし、無難だといえる。
129 :
考える名無しさん:2009/06/26(金) 07:32:29 0
やっぱりなあ。本にもそう書いてあったのか。
これが儒教の本質だよね
長文が多いスレッドだよなあ
長文は読んでない。
それだけ差が開いていく。
真剣に書いているのがわかるしオレは読んでいるよ。
井上さんは旅行にでも行ってるの?
今な、ちょっと別の作業をしていて、文筆までなかなか手が回らないんだ。
もちろん金になることじゃなく、ここで書いていることにも関係のあること。
金融物質主義者に適当な慎罰を与える作業。そのうちここでも発表する。
もちろん手があいたら今までどおり書いていく。近思録もまだ半分を過ぎた所。
熱心であることと気長であることの両立が、大人の本分の一つでもあるから。
136 :
井上筑後守:2009/07/02(木) 22:42:38 0
「天理の正を得て、人倫の至を極むるは、堯舜の道なり。その私心を用い、仁義の偏に依るは、霸者の事なり。
王道は砥の如し、人情に本づき、礼儀に出づ。大路を履んで行くが若く、復た囘曲するなし。霸者は曲径の中に
崎嶇反則して、卒に与て堯舜の道に入る可からず。故に誠心にして王たらば、則ち王たり。之を仮りて霸たらば、
則ち霸たり。二者その路同じからず。その初めを審にするに在るのみ」(同文庫「近思録」八・二より)
天下の道理に素直に即す正しさを持ち、人倫の極みたらんとすることが古の聖王の道、王道であり、
私心に囚われて偽者の仁義を標榜するヤクザは覇道にあたる。王者は砥石のごとく平坦であり、人情や礼儀を重んじ、
必要もなく裏道回りなどをしない堂々たるあり方に徹する。覇者はその逆で、複雑怪奇に入り組んだ迷路へと入り込み、
安んじようのない多動性障害と化して、王道に決して達することができない。至心に王者たろうとするものこそは
王者となり、王者のフリした姑息者はどこまでも覇者に止まる。両者は全く別物であり、首尾一貫して別路を辿る。
王者と覇者とが別物だっていうことが今の世の中ではほとんど認知されていないし、認知された所で「多少違う程度」に
思われている場合が多い。しかし、両者はただ別物なだけでなく、互いに相反するものですらある。正当で誠意的で道徳的な
あり方を堅持したままに、王者たらんとするものが王者となるのに対し、不当で寓意的で犯罪的なあり方にまでも手を
付けつつ王者たらんとするものは、真の王者になれることはなく、どこまでいっても偽者の王者、覇者に止まる。
覇者であるからには天下の泰平を維持することもできず、下民を虐げつつの遊蕩などにも耽って自滅を招く。
突発的な暴力の備蓄度では王者を上回ることすらあろうとも、社会統治を蔑ろにしてまで自分勝手に走るあり方が、
どうしたって支配者としての程度の低さの原因となる。
137 :
井上筑後守:2009/07/02(木) 22:43:42 0
覇者として天下統一を為した後で、王者へと移行することもできないのかと考えたくもなるが、どうも無理なよう。
覇道の限りを尽くした始皇帝や信長や秀吉が一代限りの隆盛で衰亡し、武力を抑えつつ王道に徹した劉邦や家康が
長期政権の樹立を成功させた。ああだこうだと理論で説明する以前に、歴史が王道と覇道の個別性を物語っている。
王道の堅持と覇道の拡大とでは、全く別個の素養が必要となり、少しも両方の素養に互換性がない。覇道を拡大させる
能力が王道の堅持にも用いられることは不可能だし、その逆もまた然り。強いて言えば、王者のほうは堕落することで
覇者としてもある程度成功できる余地があるが、覇者としてよりも王者としてのほうが自分の能力を最大限に発揮できる上、
事後の展開も有利に働くんだから、王者の素養の持ち主でいて、わざわざ覇者になりたいだなんて思うことはない。
逆に覇者はなりたくても王者にはなれない。そこが覇者よりも王者が優位である所以と言え、孟子が王道を覇道の
上に置いたのも、その辺りの優劣に基づく。荀子や韓非子のような反対者もある一方で、やはり孟子のほうが一段上にいて、
孔子に準ずる亜聖として扱われる。優劣という点でどこまでも順列は順当であり続ける。論及対象であれ論者自身であれ。
138 :
考える名無しさん:2009/07/05(日) 06:14:26 0
金融関係の人はw
インテリヤクザとか警察とつながってるからあんま深入りしない方良いよ?
そんなんに関わってる時点でこの人も危ないのかと思う。
スレは面白いけどね
関わってるんじゃなくて、徹底的な無関係を決め込んでいる。
そんなものなんぞなくても人間は生きていける、
むしろそのほうが有益にすら生きていけることの実践的実証。
鬼平ですら投機で予算を増やしたというから、
全く関わらないってのも潔癖に過ぎる生き方だとも思う。
ただ、今の金融物質主義があまりにも悪質に過ぎるから、
それに応じて一時的に完全なる無視を決め込む。
士農工商の序列が徹底されるまでの便宜措置である。
今の警察でも、上司から部下への訓示として漢文が用いられたりするという。
それでいて権力犯罪者を黙認していたりもする、それもある意味予想の範囲内のことだ。
別に江戸時代にも、火盗改含む警察組織が最高機関だったわけじゃない。
その上に多くの目附役がいて、さらにその上に松平定信公のような名君がいたわけだ。
あまりにも潔癖すぎて、方々から辟易の声が上がった程の賢君が。
その部分が今は定信公ではなく田沼と化していて、
士農工商の箍が外れてしまっているぶん、昔よりもひどい。
支配階級であるものの腐敗の是正は、本質的には如来のような絶対者が司り、
実質的な刑事のみを鬼平のような警察身分が担当する。
中間管理職に徹することで、警察教学としての儒家も本領を発揮するものだから、
政変への直接的な関与などは考えなくていい。逮捕できる時に逮捕すれば、それで。
141 :
考える名無しさん:2009/07/05(日) 19:51:30 O
一即多、多即一ということを言葉の上ではなく、実践の上で体得しなければ、
自分自身のために生きることも、全体のためにも生きることも難しいだろう。
142 :
井上筑後守:2009/07/05(日) 23:09:08 0
うまくいく時だけ取って付けたようにうまくいき、うまくいかない時はてこでもうまくいかないような、
そんな作為の塊のような人生を送らされ続けている近現代の大部分の一般人に
天地自然の道理を捉え、我が物とするかのような生き様は、遥か彼方の御伽噺にも等しい。
人間の恣意によって司られている事物が、ありのままの自然よりも普遍的であるなんてことが
あるはずがなく、例え幾何学的に普遍的だとかいった所で、風化や劣化の存在する現実の世界で
最後には崩れ落ちて跡形もなくなる運命にある。ただ自然に則して最善を尽くすことのみが
普遍的であり、有為であれ無為であれ、人間の文化文明の普遍性もそこにこそ極まる。
いい加減自然に逆らったり、自然を無視したりすることをやめて、自然に則して
文化文明を発展させていく方向性への修正が必要な時期となっている。
別に原始時代に還ったりするのではなく、自然に則す範囲で高度な文化文明も形作っていく。
そのためにはまず天地自然の道理を素直に受け入れて、無理のない生き方を覚える必要がある。
何もかもをするのも、全く何もしないのも、どちらも人間としての自然な生き方に沿っておらず、
適度な活動によって無理を最小限に抑える、素直な生き方の取戻しが誰しもに付与されてみよ。
恣意の独り歩きを抑え、悪すぎたり善すぎたりすることのない汎用的な生き方を取り戻してみろ。
143 :
考える名無しさん:2009/07/05(日) 23:12:29 O
万物一体の仁、帰太虚、事事むげ、重々無尽、即身成仏、みんなドラッグで体験できますよね
しらふで体得できればそれに越したことはなかろう。
副作用で自殺級の苦痛を味わわされるようなこともないんだから。
薬を買うための代金を強奪したりする必要もない。
コストパフォーマンスが段違いなのが、正統教学と、薬やカルトとの最もな差異だ。
地球上の資源を八割以上独占したって、やっぱりカルトはどこか辛いんだ。
あたかも海水で喉を潤そうとするかのような徒労、
根幹中の根幹の言動規範であるカルト教義の適切な廃棄によってのみ払拭される。
人類社会の表舞台から当分の間は去る覚悟とも共に。
146 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 00:02:05 O
うーん
大麻より肉食の方がカルトだとおもうんだけどね〜
147 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 00:05:13 O
デモクラシーもカルトだよ
148 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 00:14:37 O
易やコトダマやシンクロニシティや宇宙人やサイ科学などを安易にカルトだと決めつけるのは
やはり 体験 したことがないんだと思うよ〜
そういう偏見を育てた教育自体が カルトだよ〜
容易に情報は漏れないけど各国政府や軍も血眼になって研究してるよ〜
東洋教学は古神道や密教や易や気功やチベット医学などもあるんだよ〜
149 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 00:40:21 0
何をもってカルトとし、何をもって正統とするかという点には、
個々人で多くの見解の別れがあるかと思われる。
創価とかオウムとか、カルトであることが確定している部類に関しては意見が一致しようとも、
中には曖昧な段階のものも多いし、カルトなのに一般には正統扱いされているものもある。
ただ、ここで自分が「カルトである」と定義しているのは、「犯罪を正当化する宗教や学術」
のことで、逆に「正統である」と定義しているのは、「道徳を堅持する宗教や学術」のことだ。
さらに犯罪とは、単なる実定法違反に止まらず、他者の利権を収奪して自分が生き延びるという、
犯罪の本質である共食いの要件を少なからず満たしている事物のことであり、逆に道徳とは、
そのような犯罪をなさずさせず、なされたものには適切な慎罰を与える一概な善良さのことであり、
この定義だけに依るならば、犯罪でないものが道徳であり、道徳に反するものが犯罪であるという
相反定理が成り立つ。故に犯罪を正当化する宗教や学術はカルトであって正統ではなく、
道徳を堅持する宗教や学問はカルトでなく正統であるという相反定理もまた連動して成り立つ。
これはあくまで、自分自身の個人的な言葉の定義。正統とかカルトとか道徳とか犯罪とかいった
言葉を別のニュアンスで用いることは方々で見受けられる。別に一つの言葉に一つの意味のみが
備わっているとは限らなく、定義を狭めて論議をなすことは、ただ語意の錯綜による誤解を防ぐ
ことを目的とするから。定義の曖昧な言葉での散漫な論議をできる限り排さんがためのもの。
オウムが日本人の脳裏に深く焼き付けたな、
「犯罪を正当化するのがカルト」だと、一連の反社会行動によって。
外国での扱いはともかく、日本でなら「カルト」は
犯罪を正当化する宗教や学術を指す言葉として、概ね通用する。
例え和製外国語としてだろうとも。
古めかしい「邪教」なんて言葉よりも、今はこのほうが分かりやすいだろ。
「元来日本にはなかったもの」という意味も込めて、
外国語をそのままあてがっといたほうが適当なところだ。
カルト集団が根絶されれば、「カルト」という言葉ごと
この日本から消え去ればいいわけだから。
151 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 01:44:44 O
三島由紀夫事件や空海が帰国早めたのや大塩平八郎の乱や中江藤樹の脱藩なども犯罪だけどね〜
犯罪の本質が共食いであるのは、共食いこそは種族としての
人類の破滅に直結する、想定し得る限りで最低最悪の事態だからだ。
法律を守ることが道徳で、破ることが犯罪だという考えは、
どちらかといえば犯罪の側にとって有利であり、道徳の側にとって不利に働くもの。
「強盗殺人をしなければ罰する」という悪法ですら、一応は想定し得る。
道徳違反である共食いや、それに準ずる行為が犯罪であるという完全な定義からすれば、
法律を守るか破るかという基準はワンクッションもツークッションも置いていて、
上記のような誤った作為すら介在してしまいかねない。
人間は最善を尽くせば必ず道徳を守るし、最悪を尽くせば犯罪に走る。
法律を守るか否かという作為的な基準よりも、そのほうが人間の本性に即しているから。
一概に善であるものは徳となり、一概に悪であるものは罪となり、
単なる日和見が法律となる。罪を犯させて罰を科すマッチポンプにすらなってしまう、
犯罪律の部分集合としての実定法律。2500年前に儒家などはそれを卒業していた
というのに、いつの時代も相変わらず衆生は同じ過ちを繰り返す。
子産が仕方なく犯した過ちを、何べんも。
153 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 04:50:16 0
カルトを根絶やしにする事は出来ないんだから、
時間をかけて感化させてしまえばいいんだよ。
それに、宗教法人にも税金をかけて、管理下に置けば良い。
154 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 09:41:30 0
感化するためには、いつまでも隠蔽したままにしておくわけにもいくまい。
人類史上未曾有の奇禍である、最低最悪かつ最大級のカルトが、
未だに正統な宗教の一つ扱いされて野放しになっている事態を、そのままにしてはおけない。
ユダヤやプロテスタントの一部がカルトであることは今さら指摘するまでもないが、
教義の内実を東洋教学などと比較しつつ厳密に鑑みる限り、本義からしてカルトである
聖書教が全体的に犯罪の正当化を内在していることがどうしても否めず、伝統宗教として
それなりの体裁を保っているカトリックや正教にまで、
>>149の定義に基づいたカルトの烙印は
及ぶこととなる。あくまで「主張」ではなく「事実」として、犯罪の正当化を完全に根絶している
四書五経や仏典などと比べれば、聖書の内容が犯罪を正当化する寓意に満ち溢れている
ことを断定せざるを得ない、残念ながらそうせざるを得ないことを消極的にでも明示する。
155 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 09:42:18 0
デシメーション(計画的自殺)などのかつての悪習を見る限り、聖書教が単独で
健全な社会を育むことが不可能であるのは、旧来からの普遍的な事実であり、
仏教やゾロアスター教と聖書教の混交宗教であるマニ教教徒だったアウグスチヌスらによって
自殺が禁止されたりすることで、初めて今までも社会的宗教としての体裁を保ててきた。
それでもやっぱり聖書圏という文化圏総力を挙げての、外界に対する犯罪的侵略行為は
収まらず、民主主義や共産主義や独裁主義などの脱宗教型のイデオロギーや、科学技術の
発展までをも促しながら、それでも潜在的な聖書主義者であるが故の、権力犯罪の正当化は
払拭できず、パレスチナにもイラクにもアフガンにも侵攻し、アフリカなどに餓死者も生んでいる。
犯罪を正当化した上で治療しようとするマッチポンプではなく、元からなくそうとする道徳意識、
犯罪なんてないほうが楽しいのだという聖徳意識の育成などによって、カルトを即座に根絶
させるとまではいかずとも、軽減させる。カルトへの集中的な攻撃ではなく、道徳や聖徳を希求
する正統教学の、カルトに対する優位を明示することによって、必然的にカルト災禍をすぼませる。
正統派だけの独裁と化してカルトを廃絶するなんてのは、カトリックと異端派みたいな「カルト同士」
の間にこそあったもので、本物の正統とカルトなら、大人と子供のように余裕をもって付き合える。
全く段階の違う宗教や学術であるもの同士、長幼の序を誤りすらしなければ、うまいくはずだ。
156 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 10:23:19 O
>>143 薬物によって一時的にわかった気分になるのと、
日々の中で着実に体得していくのとではまるで違う。
大麻にしても、今では大学生も遊び感覚でやって一時的に平和な気分になっていて本当にくだらない。
そして大麻は不良少年には覚醒剤への入口にもなっている。
要するに大麻自体は害が低いのだけども、
それから派生する害悪は実はかなり大きいのだ。
だからこそ大麻を軽く考えるのは止めたほうがいい。
薬物やカルト教義による疑似体験では、言動の徳性が伴っていない。
むしろ犯罪含みの遊蕩と化していて、正統教学の修学による体得とでは
言動の徳性の有無という面で、相反した結果をすら招いてしまっている。
精神と肉体が結局は不可分であるように、内心と言動もまた不可分なもので、
言動が犯罪でしかない内心の陶酔は、内心だけで見てもやはり、言動上の
道徳を堅持した内心と何かが違っている。安定度も違うし、質の高さも違う。
道徳の堅持や聖徳の追求によって得られる内心の安楽や楽しさは、
薬物やカルト教義による陶酔とはやはり根本的に違っていて、普遍的に
見れば前者のほうが後者よりも楽で楽しい。極端な躁鬱への双極化ではなく、
純善による純粋な安楽や楽しさ、そこにのみある随一の楽々が確かにある。
158 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 11:19:47 O
ラスタファリーやサドゥに言ってくださいよん
159 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 11:30:28 O
大麻はアマテラスのよりしろじゃなかったっけ?
縄文遺跡からも大麻の種が見つかってる
戦後生まれの大麻取締法とプロパガンダが数千年にわたる民族的な信仰と智恵に勝るとは思えないなぁ
大麻即ち乱用薬物かね? 窪塚くん。
注連縄に使われるのは藁縄が一般的だが、縄として使うなら麻縄も大して変わらんだろ。
悪用できるものを悪用せず、縄文土器のような善用に徹するのが日本人の美学だ。
古代エジプトよりも10000年前からの、規矩準縄の正当ないし不不当利用。
161 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 14:40:54 0
縄文土器は世界最古の「文明」であって、「文化」ではない。
数万年前の、壁画や彫刻の遺跡が欧州などで見つかっているし、
近ごろは骨を使った笛なんてのも発見されている。
そして何より「石器」が人類文化の起源であり、
石器時代の黒曜石などの加工から、武家社会における刀剣崇拝に至るまで、
これまた日本で一貫して尊ばれてきた、単純な器物の崇高なる扱い。
もちろんこの面(文化)でまで、日本のウリジナルを主張するつもりなどは毛頭なく、
ただ縄文土器のほうが世界最古の「文明」であることについてのみ確言しておく。
文明の根幹である規矩準縄の内の一つである縄、その縄の積極的な活用。
あたかもそれが、奴隷拘束や巨大建築の設計施工に用いられる可能性を
見越していたかのような、縄目文様の土器へのあてがい。素朴で小規模で
あることが、奴隷拘束や巨大建築のための悪用の大規模さと比較して、
かえって平穏さを帯びていて好ましい。大したことないからこそ素晴らしい、
人類初の文明、縄文文明。小学校の工作あたりからみんなでやり直す手だて。
162 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 17:10:45 O
日本の太古神代は現代人の想像以上に高い精神性を持っていたとおもうんですが
専門家のかた教えて下さい
163 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 18:36:37 0
>本義からしてカルトである 聖書教が全体的に犯罪の正当化を内在していることがどうしても否めず、
キリスト教自体が犯罪誘発性を備えてるって、聖書の一体どこの章よ?
具体的に指摘しないと全然説得力ないよね?引用しなよ。ここだと。
聖書はレトリックだらけだから、曲解しようと思えばいくらでも出来るから、
「ここを俺はこう読んだ」ってのはなしだよ?
聖書の解釈の中に犯罪誘発性があるとしたら、それは誰のものだという事になるし。
そもそもは、キリストというひとがこんな生き方をしました、こんな事を言いました、
それだけの記録書でしょう?
本義と言えば、「この人キリストは偉い人」それだけでしょ?
164 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 19:13:41 0
ttp://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img/12362397490134.jpg このまんまだ。
人間の生贄の正当化、食人の正当化、共食いの正当化、犯罪の正当化。
「礼記」や「左伝」でも、殷紂や宋公による食人や人間の生け贄の
記述があり(前スレの74や、前々スレの431や432を参照)、
そのような反道徳的行為、本質的犯罪行為に手を出したことが祟って、
殷紂は武王に滅ぼされ、宋公は成王に完敗して配下に落ちた。
四書五経にも同じようなことが書かれた上で、「不吉な悪例」として説明されている。
しかもこっちはかなり正確な史実。共食いなんかに手を出す人間はダメになって
当然だという現実を冷酷に指摘している。でも福音書は違って、共食いである食人、
人間の生け贄に祭り上げられたイエスが、刑死してしかも復活するという
フ ィ ク シ ョ ン によって共食いを正当化し、信者に共食いを本質とする
犯罪を推進するようけしかけることとなっている。
多少読み方を変えたりした所で、当にズバリと明示しようとしていることが
共食いの正当化、人間の生け贄の正当化なわけだから、それを信じたことによる
罪悪の積み重ねのカルマから逃れることなど、そうそうにできたもんではない。
信じることをやめようとしたところで、現実の行動が重大な犯罪行為と化しているから、
なくなく強制的に信じ続けさせられる破目となる。いつまで経っても逃れられない因縁。
犯罪の正当化の不可能性(人間の生け贄の復活の不可能性)を受け入れた上で、
相応の罰にも服する勇気、聖書なんかのどこを読んだってそんなものは載ってない。
聖書五経や仏典や神典に頼らない限りは、いつまでも罪悪の辛苦の内側にいる。
×聖書五経
○四書五経
166 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 19:44:14 0
ベラスケスの磔刑はキリストを最大限美化したけど、それだけの話だよ。
美しい罪人だった、ということを表現した訳だ。
当時のローマでは反逆罪で逮捕されて死刑になった、それだけだよ?
はりつけは罪を犯すとこうなるという見せしめだけど、
神への生け贄じゃない。
やっぱり拡大解釈してるじゃん。
167 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 19:53:34 0
そうそう。追加。
生け贄にされたのはキリストじゃなくて、
貼付けにされたキリストに捧げられた子羊だよ。
キリストの側近が捧げた。
だから子羊の肉は外人がクリスマスに食べるんだよ。
人間が羊を食べて共食いになるの?おかしいでしょ
刑死後に復活して神の国へと昇天したんだろ?
散々そう書いてあるだろ? 新約の中に。
旧約のほうは、本尊のエホバが覗き趣味な所が犯罪だな。
「犯罪の核」とまでは言わないが、相手が同意もしていないのに続ける
執拗な盗聴や盗撮は、相手の怒りを最大級に膨れ上がらせる所が、
また別の犯罪の本質的側面を現しているといっていい。
犯罪加害の本質、イエスの磔刑のほうは犯罪被害の本質。
旧約による犯罪加害の正当化と、新約による犯罪被害の正当化とが
あいまって、犯罪全体を正当化して推進する地獄絵図の出来上がり。
新約クライマックスの、ヨハネ黙示録の阿鼻叫喚さも有名なもの。
169 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 20:23:14 0
>刑死後に復活して神の国へと昇天したんだろ?
違う違う、復活だのは弟子の幻視だってのは、聖書読む時の約束事になってる。
それに何?エホバが覗き趣味・・・?w
真理の深みを覗きたいってのが覗き趣味で犯罪なら、
井上さんの写経だって何のつもりなの?
犯罪を追求して正したいってのは、
覗き的な行為とエゴの発動、自己正当化なしには出来ないじゃん。
170 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 20:35:36 0
関連してる問題がもうひとつ。
金融業者に関わりになりたくないのに向こうから関わってくる、
なんて、アコムなんかには縁のない人間には信じられない発言してたよね?
金融業者なんて、金を借りる以外では普通関わらない。
知り合いが金融業者なら、発生する問題に関しては常識でスルーだ。
つまり井上さんが悪徳系金融業者にひっかかってるってことになるけど、
ない金を捏造しようとしてるのは犯罪じゃないの?
ヒットラーの贋札なんか、大犯罪だよね?
東洋教学の学者や宗教家は、基本、正典の裏読みや斜め読みをしたりはしない。
書いてあることがそのまま正当で誠意的で道徳的だから、そのありのままの内容
を体得しようと心がける。けれども聖書主義者は、正典である聖書に対してから
裏読みや斜め読みを心がけ、色々と屁理屈を唱えつつ、実際にやってることは
犯罪の正当化と推進、聖書に書かれてあることそのままの実践となっている。
正典に書かれてあることをそのまま実践することには変わりないが、
道徳の堅持という困難な実践を何とか為そうとするのと、やってしまえばたやすい
犯罪という実践を理由付けつつ結局はしてしまうのとが、東洋教学と聖書主義とでは
全く異なる。難行と易行に根本的な言動規範が分かれていて、それでいて
東洋の易行たる念仏宗で「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」ときた。
実は難行よりも易行のほうが現実的には辛く苦しかったのだという、事実の露呈。
行業が少なからず、易行である犯罪含みであることこそは、人間の辛苦の根源だった。
ttp://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img/12362397490134.jpg どう見たって辛く苦しそうなその姿、易行たる犯罪の正当化、だから辛く苦しい。
逆なようでいて実はそうだった。悪いことなんかするよりもしないでいるほうが楽だという
あられもない真理。何もしない楽々さ
ttp://sekaisanpo.jp/blog/img/DSC_0091.JPG
道徳と真理って、同じ段階の言葉ではないんだな。
道徳にも真理があれば、犯罪にも真理がある。
論語レベルだと極めて素朴な提示に止まっていた儒家の人間道徳が、
朱子学などまで行けば、相当に深遠な道徳真理へと昇華されていった。
聖書主義も同じだ。真理の探究であるには違いないが、ただそれが
犯罪の真理である。人間が罪を犯すことによって到達する真理だ。
聖書圏で派生した哲学や科学もその内に入る。
儒家も聖書主義も、世俗道徳とか犯罪推進とかいった、ある種の人間の行動を
伴った真理探究、俗諦の思想宗教であるのに対し、仏教は人間の行動を
徹底的に抑え付けた上での真理探究、真諦や真俗二諦の思想宗教にあたる。
真理の教学といえば一にも二にも仏教。儒家の本分は道徳堅持だし、
聖書教の本分は犯罪推進。真理という観点で究極的でありたくば仏者であれ。
犯罪である盗聴や盗撮には基づかない衆生の傍観、ストイックな自己探求
による真諦への到達。真理こそを掴み取りたければ、結局はそこに帰着する。
173 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 22:32:32 0
>>162 専門家ではないが、古事記の神代篇は相当に読み潰してるほう。
縄文土器の工作規模の小ささを見ても分かるとおり、
太古の日本人はとにかく「平穏無事」」だった。最小限の言動で
最大級の結果を得る御得志向。ズルとすら言ってしまいたいほどの。
記紀神代篇にも、とてつもなく大きな事件とかが書いてあるわけではなく、
出産とか、夫の仕事場での大活躍とかの、どこにでもある一方で、
そのせいで重要さが蔑ろにされやすい事物を丹念に評価している。
文献としての記紀は、コーランとほぼ同時期という、「古代文献」の
最々終段階に位置するもの。それ以前が古代で、それ以降が人間自身
の主導的な発展に転換した、転換点あたりに生まれた、古くて新しい古典。
ただ、その精神は縄文時代や石器時代から連綿と受け継がれていて、
古代文献としては最後輩に位置する代わり、太古の人類文化文明の
卒がない、罪も他愛もないあり方を自然な形で記したものとなっている。
日本に限らず、地球上いたる所で太古の人類ってのはあんな感じだった。
それがピラミッドとか奴隷制とかを創り始めたせいで、色々と面倒なことに
なり始めた。ホッブズやロックやルソーが言ってた「自然状態」が、
一番マシなルソーの推定以上に純然不悪に満ちていたことの証拠。
人間が性悪ではなく性善であることの証拠。記紀にしろ縄文土器にしろ。
174 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 22:33:17 O
簡単に言えば、万物一体の仁の世界観と、
万物の外に全てを超越した神をおく世界観では相互理解は難しい。
なんか善い方法でもあればいいんだけどね
175 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 22:45:18 0
イスラムと東洋教学は、そこまで衝突しない。
超越神だからこそ、人間の感覚程度で全把握するのは不可能であるとするイスラムとは。
人間自身の勝手な恣意を超越神に仮託しようとするからこそ、聖書教と東洋教学とは相容れない。
恣意が万物の外側に飛び出るはずなどがなく、ただそれは万物の内側だけでの誤謬に
止まっているから。万物の正しさたる仁と、万物に基づく誤謬とが相容れないのは、別段不可解なことでもない。
仏教も「三千大千世界」という形で、この世界の外側にも通用する真理を提示しようとする。
ただそれはちっとも恣意に基づいておらず、(楽なものを善い、苦しいものを悪いとするとかの)
人間自身の思考形式の原理を突くことにより、思考である以上はどこの世界に行ってもそうであらざるを得ない
本質的な定義を取り扱っている。だから仏教の真理は本当に三千大千世界で通用するものとなっている。
それ以上還元しようのない自我の根幹へと到達して無我と化す、牆壁瓦礫ですらある仏性である。
176 :
考える名無しさん:2009/07/06(月) 23:13:09 O
そう。
東洋教学では超越神などないとすればいいんだけど、
超越神を奉る彼らは無茶苦茶に喧嘩が強いんだよ(笑)
井上さん、どうすればいい?
177 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 23:21:16 0
あんまりいい言葉ではないが、正統な仏教を誰しもにとっての「金科玉条」
とすることが、道徳教学である儒家と、犯罪カルトである聖書主義のような、
互いに相反する思想宗教の間接的な相互理解に繋がるだろう。
悪人正機でもって、道徳と犯罪の勝負で道徳側に軍配を上げたのも、浄土教含む仏教サイド。
少しもえこひいきなどをしたのではなく、善悪苦楽の根本真理をゴロリと投げ出したことで
自然と道徳を犯罪の上に置かせることとなった。真理を提示しただけのごく公正な審判、
その仏教が道徳者側犯罪者側、立場の違いを超えての尊崇の対象となれば、一対一では
取り付く島のない道徳者と犯罪者なども、ワンクッションを置いた穏便な関係を育める。
法律のワンクッションでは犯罪者ばかりに有利に働き、道徳者には不利に働くが、
正統な仏法がワンクッションであるなら、双方にとって平等な傍観者となってくれる。
難行だが本質的に楽々である道徳、本質的に辛苦だが易行である犯罪、
互い違いに優位性が肯定されて、ちょうどいい具合となる可能性がある、と思う。
自分は分からない。仏教は専門でない上、修行によって奥義を体得しようだなんて気もないから。
自分とは別の仏教の専門家を介することで、犯罪主義者との付き合いももうちょっと
穏便に済ませられるようになる、かもしれない。池田大作みたいな仏教もどきじゃダメだ。
本物の正統な仏法の体得者、坊さんでなけりゃあ、そんな大役は務まりゃあしない。
儒家にも聖書教にも一目置かせていられるほどの人々、思い当たりがないこともないが、
自分から先に仲人をお願いするのは気が引ける。ちゃんとした坊さんが仲人であるんなら
結婚してやってもいいという、意思表示だけしておいて、あとは機が熟すのをじっと待っている。
身分不相応に活動しすぎな仏教勢力と、同じく分不相応に動かなすぎな潜在的儒家勢力である
自分との交替が促される。大作よりはまだ若いし、カルトでもない。あいつを捨ててこっちに来い。
重要なのは
『三次元空間座標を移動する素粒子の運動はフラクタル的に∞通り』
だという事です。つまり、
『人間の狂信する宗教(という物理現象)』
も、全ては素粒子の運動なので、まあ何でも成立すると。
どれも何でもアリ。無限通り。
宗教の定義よりも
http://www.youtube.com/watch?v=G0nmVUU_7IQ&feature=related の方がよほど真理に近い。なんせ
『宗教という記号も、人間という物質の運動も、
∞通りある通りのうちの数種』
なので、フラクタル的に運動は無限通りのうちの一種が選択される。
∞通りのうちの、一種の選択。これが
『人類史・万人の行動・宗教観』の正体ですぞ?
人間の狂信する記号も図形も宗教的物理的運動も
『無限通りのフラクタルの一種』でしょうね。OK?
179 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 23:46:17 0
無限通りの選択肢を全把捉する以前に、人間は死ぬから。
寿命であれ、夭折であれ、刑死であれ。
その内側で最善を尽くそうとすることが、無限の選択肢の可能性に煩わされて
存命中の行業が最低最悪と化すのと比べて、マシであることは当然のことであるといえる。
仏教は人間の思考の原理を把捉する。いくら無限の選択肢が広がっていても、
それを把捉しようとする人間の思考はいつだって正統な仏法に基づいている。
だからいつだって仏教に基づいて善いとされたものは楽で、悪いとされたものは辛い。
悪いものばかり執拗に追い求めている聖書主義が、小細工で楽になるだなんてことは、
あえて悪いものを選び取ろうとする聖書主義者自身の自業自得によって閉ざされている。
無限の選択肢も、それを享受しようとする人間自身の自業自得の前では無力と化す。
180 :
井上筑後守:2009/07/06(月) 23:59:57 0
フラクラルは1000年以上の昔から東洋では尊崇されてきたんだがな。曼荼羅という形で。
「大まかに把捉する」限りでは、西洋教学の重大要素は全て大昔に
東洋教学によって把捉されている。フラクタル含む非線形方程式は、最原初の微分要素
を持たない無限次元系だから、いかなる大規模コンピューターによっても把捉しきれることはない。
ただ「フラクタルみたいなものがある」ということが分かっていたことだけで、
大まかを把捉するという東洋教学の本分は達成されており、どうせ把捉しきれることのない
フラクタルに対する把捉の仕方としては、むしろより適切なものですらあった。今の西洋以上に。
曼荼羅を尊崇対象とするのは、主に仏教の密教系。本当のことを言えば、地獄や鬼畜といった
三悪趣をも把捉対象とする全方位型の完全仏教。今の聖書主義者が蠢いている三悪趣も
知った上で劣後しているつわもの中のつわものたち。聖書圏すら自分たちの一部としている。
>>179-180 >仏教は人間の思考の原理を把捉する
快苦こそが根源では?∞通り存在する快苦のうち、何通りかが今、存在し、
『快を感じ苦を感じない為』のみに変化(思考・行動)する。
>仏教に基づいて善いとされたものは楽で、悪いとされたものは辛い
無執着無影響ですね。よって、常識や本能の洗脳から解放され、
普遍的な感覚を感じるべきでは?例えば、夕陽を見て美を感じるなら
万物を見て美を感じれば、普遍的。
>フラクラルは1000年以上の昔から東洋では尊崇されてきたんだがな
貴殿や私の記号自体もフラクタルの一種でしょう。よって
『∞年の前から、∞通りの記号の配列の一種として、
俺や貴殿のこの文章が存在していた』
訳でしょう、厳密には。つまりこれは俺が打った文章というか
『∞年の前から、∞通りの記号の配列の一種として存在していたのが選択された』
だけであって、仏教の教義もそうでは?
で・・徹底した無執着や普遍性だと、仮説ですが、
どの感覚からでも快を感じられるような方法、要は
物理的現象に作用し快苦をコントロールするのではなく
赤でも青でも音でも熱でも、全ての感覚で快を感じられるように、
感覚の研究をすべきではないでしょうか?
コストパフォーマンスが悪すぎる。
お念仏でも唱えてたほうがよっぽど楽で、しかもタダだ。
なもあみだぶnamoamidabu、みんなで唱えてろ。
183 :
井上筑後守:2009/07/07(火) 13:19:09 O
麻薬は三悪趣でしか認められないが、酒は三善趣でも認められる。
人道である儒家も節度を保った酒宴を認めるし、天道であるヒンズー教や神道にも
神酒(みき、ソーマ)信仰があり、悪い酒と善い酒とを選別する取り決めが
「マヌ法典」などにも出てくる。
仏教は認めない。飲酒を殺生や偸盗とも同等の大罪とする(「大智度論」など参照)。
酒飲む坊主なんてそこら中に見られるが、あれも本来は破戒行の内。
本当に戒律に従うなら、飲酒も肉食も妻帯も全ていけないことになる、イスラムよりも厳しい法度。
だからこそ本物の仏教ならば、三善趣と三悪趣を合わせた六道全体を傍観できる素養を持つ。
とにかく徹底的に何もしないウルトラニート、だからこそ全てを俯瞰し、根本真理にも到達できる。
自分のことじゃない。飲酒も肉食もやってるし、妻も娶る予定。
六道全体を俯瞰する素養などには欠けていて、ただ三善趣の内側での振る舞いに徹するのみ。
六道全体の外側に身を置いて公正な審判に徹する人々、科学者でも裁判官でもなく、本物の仏教僧侶。
浄土教だと「戒律なんか守れない」って始めから音を上げてるから、
仏教であるには違いなくとも、少し意味合いが変わってくるが。
>>177 >池田大作みたいな仏教もどきじゃダメだ。
別に私は所属しておりませんが、定義次第では徹底した仏教では?
つまり
『日本人の狂信する常識も、宗教の一種』
なので、それなら
『日本の中で最大規模の原理主義的な宗教』
を崇めるのも面白いと思う。つまり
『常識教』という宗教に対抗できるから。
世間が常識を崇めるなら、それも一種の狂信なので、
池田大作を常識のように狂信するのも、定義次第ではおかしくない事で、
常識に対抗できる狂信で極めて面白いと思う。
なので、格差社会では、負け組が勝ち組に馬鹿にされない方法として、
池田大作を常識のように崇め、その集団に所属するのも
なかなかアリじゃないですか?少なくとも、その集団では
勝ち組負け組は常識教ほど煩くは無いと思う。
わざわざ肯定してあげなくたって、
今まさに「庶民の帝王」だから。あのじじいは。
大手メディアも乗っ取って、アホな芸能で一億総白痴化にも貢献してらあ。
仏教だろうが神道だろうが、カルトであればやることは大して変わらなくなり、
カルトの親玉な聖書主義へと近似していく。戦前は国家神道、戦後は創価、
「近代化」の名の下に聖書主義を取り入れざるを得なくなったに応じて、
仕方なく正統派もトカゲの尻尾的なカルトを派生してしまっているわけだ。
>>185 >大手メディアも乗っ取って、アホな芸能で一億総白痴化
白痴化ですって?それは
『低年収やブサイクなどと負け組を定義し嘲笑う常識』の方がよほどそうでは?
一応、というかおそらく、創価内では
常識で定義されるところの勝ち負けは無いでしょう。
つまりカルトってのも定義であり、別に貴殿がカルトと定義しようが
一部の負け組にとっては、簡単に仲間を作れる楽園では?
少なくとも創価に入ってれば、創価のリア充には馬鹿にされ難いと思う。
>戦前は国家神道、戦後は創価
神道と創価では世間への影響が全く別では?
神道=ベースはおとぎ話 創価=ベースが哲学、理屈に沿った苦の削除
あと思うのですが、創価がカルトなら、外国人からすれば
日本のクリスマスや神社のお参りもカルトでは?
要は、負け組にとって役立つので、別にカルトと定義しなくても
一つの『日本の文化』で成立すると思う。
カルトってのは言ったモノ勝ちで定義次第で∞通り。OK?
187 :
井上筑後守:2009/07/07(火) 23:26:12 0
ここで言ってるカルトの定義は
>>149に書いてある通り。
近現代に蔓延する邪教の意。
別に無理にこの定義に従えとは言わん。
ただ、この定義に沿わない限りは話が噛み合わなくなるだけだ。
複数人数間での議論が有意義であるためには、数多ある
一つの言葉への定義を、あえて統一する必要がある。
たった一つの超越神のみに帰依するなどよりも、遥かに重要なことだ。
唯一神に帰依したって信者間での分裂は起こるが、
定義を引き締められた言葉での思考を持ち寄る人間間に分裂はない。
自分勝手な定義を黙認し続ける所にこそ近現代の錯綜の真因がある。
188 :
考える名無しさん:2009/07/08(水) 05:45:03 0
昔の中国人てなんであんなに偉大なのに
今はあんななの?
189 :
考える名無しさん:2009/07/08(水) 06:54:04 0
>>188 偉大な部分と愚劣な部分と、昔から両方ある。
食人の暴君殷紂、元祖焚書始皇帝、凌遅刑に人豚に纏足、
やばい部分は聖書圏並みかそれ以上にやばくて、
それとはまた別に賢聖がいる、陰陽の調和が成っている。
愚劣な部分が隆盛している時期には、君子士人は
無闇に社会的な活動を心がけず、自学自省に特化する。
今もどこかにいるはずなんだが、いるにしたって徹底的な
安静を決め込んでいる。伏龍と昇龍のめりはりを付けて。
>>169 犯罪をしないという道徳を堅持することによって得られる真理もあれば、
覗きのような犯罪を推進することによって得られる真理もある。
いずれであれ社会的な活動によって得られる真理、俗諦には違いなく、
社会活動から隔絶した所で得られる根本真理、真諦に比べれば
真理としての純度が劣るというのは、
>>172にも書いたとおり。
毒をもって毒を制す、犯罪によって犯罪を取り締まろうとする考え、
火盗改とか、今の警察の公安とかにもある程度はあるが、
必要もなくなされる積極的な犯罪を打ち滅ぼした以上は、
自分自身は犯罪をやめるという誓約があって初めて正当となる。
必要もないのに積極的に犯罪を働く側に付いてしまったんじゃ、
もはやただの犯罪者であり、罪を犯させて罰を科すマッチポンプともなる。
清濁併せ呑むはずだったのがみそくそになって、善いか悪いかで
言った場合に悪くなる。頂点の支配者だろうとも、積極的に犯罪を
嗜好すればそうなる。たとい地位が高すぎて取り締まれる人間が
いなくなろうとも、悪いことをして苦しむ自業自得からだけは逃れられず。
>>170 言ってることの意味がよく分からない。
博打などをけしかけて間接的に借金を強要するのは、悪徳金融などにはよくあること。
借金だけでなく博打にも手を出さなくて、初めて連中との無関係を決め込める。
もちろん自分はどちらにも手を出してはいない。自業自得システムに一切を手を出していない。
それでもいちいち関わってこようとするんだから、もはや強盗にも等しい奴らだ。
個々人による偽札作りが大罪であるのももちろんだが、
社会全体が偽札同然のあぶく銭で動いている今の世の中全体が犯罪同然と化している。
地球資源の八割以上を独占している中で、「先進国」だけで適当にやっているマネーゲーム、
関わらなければ死ぬなんてこともないし、関わったからより楽しく生きられるなんてこともない。
金単体での信用や価値はとっくの昔に地に落ちている一方で、食糧やモノといった
人間生活にとって必要不可欠だったり、重要だったりする存在までもが金で動かされている、
だからどうしても金を無視しきることもできない。一万円の投機で一億円にでも
なるような金で、おにぎり一つや卵一個も取り引きされる。生活のために使われる金と
遊びのために使われる金との温度差が開きすぎて、結局はこれが地球上の
飢餓人口を増やす原因ともなってしまっている。
食のために使われる金、モノのために使われる金、金のために使われる金とを
単位から分断して、それぞれ同士の両替に一定の制限をかけるなどの便宜があればいい。
金融主義者どもは全員ペリカででも遊んでて、地下帝国から一切出てこなくなけりゃいい。
193 :
井上筑後守:2009/07/08(水) 18:59:30 0
道徳的な俗諦を希求した儒家が、約5000年前(伏羲が「易」を編纂したとされる時期)から
2300年前(四書五経中最新の「孟子」「礼記」「左伝」などが編纂された時期)あたりまでに成立し、
超俗の真諦を希求した仏教が、約3200年前(「リグ・ヴェーダ」における閻魔神話など)から
1800年前(龍樹菩薩や大乗仏典の大成時期)あたりまでに成立し、犯罪的な俗諦を選取した
聖書教が、約2600年前(バビロン捕囚期に怨み節の旧約編纂開始)から1900年前(キリストの
でっち上げによる新約の編纂完了)あたりまでに成立した。
成立時期でいえば、道徳的俗諦を専門とする儒家が第一子の長男で、超俗的真諦および
真俗二諦を専門とする仏教が第二子の次男(ただし完成時期は遅れる)で、犯罪的俗諦を
専門とする聖書教が第三子の妹うさぎ。ただし本当はオカマちゃんの三男。
真理としてみれば仏教が最高であるものの、成立時期では若干儒家のほうが早い。
儒家が易経詩経書経といった古来の文献を正典とするのに対し、仏教は古代バラモン教典である
ヴェーダやウパニシャッドを継承しない上、最大級の聖典である大乗仏典の成立が、小乗仏典は愚か、
聖書よりも成立が遅れる。歴史的に見れば仏教は決して「最年長の先輩」であるというわけではなく、
だからこそ永久不変の根本真理の把捉にも特化されている。歴史とすら無縁である真理の把捉者。
194 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 04:56:45 0
万葉集はお読みになったかな?
195 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 05:36:06 0
>>191 抽象性にひいちゃったようだけど、主語は?
覗き、毒を盛って毒を制すつもりがくそみそテクニックっていうのは、
文脈上エホバが覗き、くそみそをやっているとして、
それは具体的にエホバ教の行為のどの部分を指してるの?
>>192 なんだ、債権者だとかいうから借金でもあるのかと思った。違うのかな?
金融業者を遠巻きに眺めながら何か言う事も出来なくはないからな。
>もちろん自分はどちらにも手を出してはいない。
>自業自得システムに一切を手を出していない。
おいおい、2ちゃんが「自己責任の掲示板」要するに自業自得の場所と言われてるのは聞いた事あるよな?w
犯罪者の温床で、たびたび警察の取り締まりの対象になってる事も?
狂信者のたまりばだからな。井上さんは、そういう人を、ここで観察してる訳か?
それで宗教性とむすびつけて糾弾していると。
>>194 残念ながらまだですわ。家に何冊も蔵書があるのに。
権力犯罪黙認状態な現代に、平穏な古文を読む気にはなかなかなれなくて。
>>195 みそかくそかで言えば、旧約はみそでもみそくそでもなく、純粋なくそだ。
酒飢薔薇がマスコミにあてた挑戦状を書いてた時の心理状態あたりに比肩されるもの。
やってることはただの犯罪加害でしかないんだが、エホバだかバモイドオキ神だか知らない
脳内超越神への依存によって、少しも罪の意識を自覚できなくなっている。
結局人間が故意の犯罪加害をなす時にはあのような、何らかの犯罪の正当化が脳内で働いていて、
だから結局は自他共に害悪ばかりしかもたらさない犯罪加害を為す過ちを犯してしまうという、
心理面における犯罪加害の原理を如実に提示しているのが、旧約の特質だ。
2chの自業自得なんて、「愚かなこと書いて恥ずかしい」ぐらいのことでしかないはずだ。本来は。
こんなとこに書こうが書くまいが、犯罪者は犯罪者として犯罪に手を出していただろうし、
加藤のようにブログで犯行前の心境を露呈していた場合もある。
もちろん「投稿者をストーキングして逐一監視下に置きます」だなんて書き込み規約にも書いてなく、
そんなだったら初めから書いてないし、それでもやってたとすれば、やってたほうが一方的な加害者となる。
相手の許可も得ず強制的になされる監視、全く人を信じてないその姿勢が、却って被害者の怒りを煽り、
罪を犯してやろうというような「毒食わば皿」意識をも催させる。監視者のほうも根本的な道義性を
欠いているから、「同じ穴の狢」と化そうとしている被害者をうまくなだめることもできず、
却って「罪を犯させて罰を科すマッチポンプ」の材料をでっち上げられると意気揚々ともなる。
そういう姿勢が全体的に、必要もない不義に満ちており、道徳か犯罪かで言えば、
完全に犯罪の側に身を堕す結果となっている。バモイドオキ神に奉仕してるつもりな酒鬼薔薇となっている。
毒を以て毒を制してるつもりになっている、害悪の「元凶」。
全体を俯瞰してみれば、最低最悪の重犯罪者は外でもない、自分たち自身こそのみであるという
本当の現実認識、状況把握に欠けているアホの所業。
犯罪者ってのはいつだってどこかが抜けているのだという証拠だ。
197 :
井上筑後守:2009/07/09(木) 08:53:51 0
どちらかといえば、宗教性は「最低限」に止めおいている。
最低限に止めるということは、捨て去るということではなく、必要な限りにおいて甘受するという意。
現実的に幼稚さや恐怖もある程度は初期的に帯びている人間が、成熟した大人として振る舞うためには、
宗教とまでは行かない教学、戒律とまではいかない礼儀、信仰とまではいかない敬意などが必須なのであり、
それらまでをもカルトの狂信とみそくそにしてかなぐり捨てたんじゃ、人間は餓鬼になる。
内心においても外面の言動においても、大人しい余裕に欠けたクソガキになる。50歳でも60歳でも、
儒家や神道のような伝統教学に裏打ちされた仁義礼節を尊ばないことには、いつまでも餓鬼であり続ける。
地獄や畜生と共に三悪趣の中に入れられる餓鬼。非宗教・無信仰のつもりでいて、実はただの餓鬼、
伝統教学を捨て去って「近代化」とやらを為してきた、近現代の人類のほとんどが餓鬼と化していて、
知らず知らずのうちに畜生天使と地獄悪魔の対決に翻弄させられる破目となっている。
人間としての中庸さには全く欠いている餓鬼道、道徳ぐらいは堅持しようという大人しさを
意図的に趣向して、儒家などの司る人道ぐらいにまでは昇格しない限り、いつまでも餓鬼でいる。
今の世の中、なんとなく適当に暮らしているだけで真っ当な人間になれるだなんて思ってたら、大間違い。
そこら中に愚民白痴化のサブリミナル効果は働いていて、自然としてれば却って餓鬼になって
しまうように工作されている。今日もテレビじゃ創価タレントどもがくだらない芸を見せ続けている。
安心すべきでない現状を安心する以上に、普遍的な道徳に安住するそれ以上の安心を得よ。
【現代版十住心論】
(↓住心) (↓代表的な教学) (↓本家「十住心論」での心識)
犯罪加害住心第一:ユダヤ、プロテスタントの心識(地獄道に相当) ─┐
犯罪被害住心第二:聖書教末端被害教徒の心識(餓鬼道に相当) ├─ 異生羝羊心
犯罪加害被害住心第三:正教、カトリックの心識(畜生道に相当) ──┘
犯罪防止住心第四:イスラム、戦国期の武士の心識(修羅道に相当) -┐
道徳保全住心第五:儒家、泰平期の武士の心識(人道に相当) ───┴─ 愚童持斎心
道徳向上住心第六:神道、道家、インド教の心識(天道に相当) ───── 嬰童無畏心
聖徳入道住心第七:声聞乗 ──────────────────── 唯蘊無我心
聖徳確信住心第八:縁覚乗 ──────────────────── 抜業因種心
聖徳頒布住心第九:菩薩乗 ──────────────────── 他縁大乗心、覚心不生心
聖徳究明住心第十:一仏乗 ──────────────────── 一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心
199 :
井上筑後守:2009/07/09(木) 19:24:23 0
カトリック、プロテスタント、その他非聖書圏の被害者などの分け隔てなく、
末端被害教徒である聖書教徒が「犯罪被害住心」の餓鬼であり、
正教やカトリックの上位信仰者が「犯罪加害被害住心」の畜生であるという点が、
少し分かりにくいけども、非常に重要な部分だ。
犯罪加害の正当化の教科書である旧約だけを信仰するユダヤや、
そのユダヤと裏で癒着しているキリスト教派であるプロテスタントが
「犯罪加害住心」であるが故に地獄だってのは、聖書の本質(犯罪の正当化)を汲み取った上で考えてみれば
まだ分かりやすいとこだが、そのユダヤやプロテスタントと対立関係にあるはずのカトリックや正教が
「犯罪加害原理主義」の逆である「犯罪被害原理主義」に基づいているのかといえば、実はそんなことがない。
キリスト教ってのは、新旧約聖書両方を信仰する宗教。イエスの磔刑による犯罪被害の正当化を
教科書化した新約を主要な正典とする一方で、犯罪加害の教科書である旧約もまた、それに準ずる正典とする。
犯罪被害を正当化した新約だけを信仰したんじゃ、「右の頬を打たれれば、左の頬も差し出せ」の要領で、
本当に一方的な犯罪被害者でしかい続けることができなくなる。それじゃあちっとも信じることに
「うまみ」が見出せないから、やっぱり正統派のキリスト教であるはずのカトリックや正教でも旧約を信仰する。
200 :
井上筑後守:2009/07/09(木) 19:26:36 0
ローマ法王も裏で幼女の妾を囲っていやがる。
ユダヤやプロテスタントが確信的に犯罪加害を嗜好する一方で、カトリックや正教は
犯罪被害も肯定しつつ、結局は犯罪加害による利益の収奪にもある程度乗り出している。
いずれも犯罪加害を正当化しているのには違いなく、ただ正教やカトリックの場合は犯罪被害も
同時に正当化する、そこが確信的な悪霊悪魔であるユダヤやプロテスタントと比べて、
正教やカトリックが白痴天使と見なされる所以。ドストエフスキーやダン・ブラウンなどによって。
ただ、上に書いたような宗教的な話ってのは、特に「信仰が厚い」とされる「宗教的優等生」に限っての話。
聖書圏の内側でも、誰しもがそこまで聖書主義を“敬虔”に信仰しているわけではなく、
多くの人々が何となく聖書教に随順する程度に止まっている。それらの人間こそは、
ユダヤやプロテスタントの優等生みたく犯罪加害主義に染まりきっているわけでもなく、
正教やカトリックの狂信者みたく犯罪加害被害を同時に肯定するような白痴状態とも化せず、
「犯罪被害原理主義」に服せられている。犯罪被害の正当化である新約のみへの信仰を強制されている。
ttp://contest.thinkquest.jp/tqj2001/40584/01/population.html 総人口で言いえば6億人程度、中国やインドの半分前後に止まるサハラ以南アフリカが、
人口比率的に見ても突出して飢餓人口が多く、餓死者数や所得の低さでも突出している。
このサハラ以南アフリカのほとんどの国が、五割以上の聖書主義者を擁する聖書圏。
今でも続々と餓死し続けている、中南部アフリカの女子供たち、彼らこそは典型的な聖書教末端被害教徒。
十分な教育も受けられず、読み書きもできないままに何となくキリスト教を信仰させられて、
十字架におっさんがはりつけられてる像を見て、「ああ、これが偉い人なんだ」と思い込み、
自分も同じように苦しい苦しい人生を送ろうと心がけ、タダ同然の賃金で希少資源などを採掘しては
上位の聖書教徒に貢ぎ、それを糧にして犯罪加害原理主義者ないし犯罪加害被害原理主義者である
上位聖書教徒たちは大もうけして、世界の支配者をも気取り始める。
201 :
井上筑後守:2009/07/09(木) 19:28:13 0
そういう犯罪被害主義の信仰によって、上位聖書教徒への貢ぎ物を強要されている「純粋新約信仰者」ってのが、
聖書教末端被害教徒のこと。聖書なんか一度も読んだことない日本の下層階級の兄ちゃんが、
ロザリオにピアスにドクロのシルバーアクセで気取ってたりする。ああいうのはみんな末端被害教徒なのであって、
別段宗教的に敬虔であろうともしないことが、そのまま犯罪加害原理主義者である旧約信仰者への貢ぎ物となっている。
それはものすごく愚かなことで、自分から好き好んで利益を収奪されて嬉しがってる、馬鹿者のクソ餓鬼なわけだけども、
ただ、有罪なわけではない。どんなに面白がってロザリオだのなんだのの聖書主義への服従告白アイテムを
身に付けたりしたところで、それらはあくまで新約信仰、犯罪被害主義信仰に止まっている。
犯罪被害者となることが偉いという、どうしようもないような詐欺に遭ってる点、すこぶるアホな人間ではあるものの、
それはあくまで被害者としてだから、加害者と違って有罪であることはない。新約だけでなく旧約も信仰する、
あるいは旧約だけを信仰するといった、犯罪加害の正当化を確信的に信仰し、それを実践することで被害者から
利益をせしめてきた、上位聖書教徒こそは有罪に値する。カトリックプロテスタント正教ユダヤいずれにも関わらず、
旧約をも信仰することによって、実地に犯罪加害をなしてきてしまった人間こそは有罪であり、そうでなければ無罪。
202 :
井上筑後守:2009/07/09(木) 19:30:22 0
意識的無意識的にであれ、新約のみの信仰に止まり、加害者たちに利益を収奪されていくのを認めきっている
末端被害教徒たちについては、コーランを始めとするイスラム教義に基づく洗脳解除、さらにはインドや中国などを
発祥とする優良な東洋教学に基づいた学習治療があてがわれて然るべき。犯罪加害者ではないので刑罰は必要ない。
それとはまた別に、新約だけでなく旧約も信仰してしまったり、旧約だけを信仰してしまったりしたことによって、
犯罪加害の正当化や推進にも手を出してしまった上位聖書教徒に対しては、洗脳解除や学習治療だけでなく
(むしろそれら以上に)、実地の刑罰をも必要とする。服役であれ、極刑であれ、罪に対する罰は厳然たる。
近い将来、「聖書圏」なんてものはなくなって、インドや中国やアラブなどから教育者が派遣されつつ、人工的に改善
されなおしていく、実験地域へと今の聖書圏が化すことになるだろう。そうでなければ破滅して人類全体が亡ぶしかない。
非聖書圏は何も変わる必要はない。根本になっている教学が正当かつ正統なものであり、作り変えるどころか保全を
心がけるべきものですらあるから、まったく単体での改変は要しない。ただ、中国の共産主義だとか日本の資本主義だとか、
聖書圏に強要されて泣く泣く受け入れてしまった聖書圏特有のイデオロギーなどは、非聖書圏だろうとも破棄して、
それなりの復調を目指す必要がある。だから結局人類社会全体がある程度は変わっていく。聖書圏は刷新されて、
非聖書圏は元に戻る。資源の分配もあんまり偏らない、適当な世の中へと戻っていく。東洋主導の言い方でいえば。
203 :
信濃川:2009/07/09(木) 19:51:58 O
蔵のつく名字でしょ?俺のあっちがその名字だけどあれがコード0音大、財閥、殺意、ランクB。で逆に足利ヤマンバ家系があるわけだがw
204 :
信濃川:2009/07/09(木) 20:13:25 O
村田兆治が広島出身ということはあるが遠州の紅林がいてこそ光があった。ともあれ村田兆治は福島別れだな
205 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 22:01:11 0
こんな板哲学じゃない・。みんなしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねおれはさる。
モンキー
207 :
考える名無しさん:2009/07/10(金) 05:44:04 0
たしかに哲学のスレではないな
208 :
考える名無しさん:2009/07/10(金) 05:52:42 0
>>196 >結局人間が故意の犯罪加害をなす時にはあのような、何らかの犯罪の正当化が脳内で働いていて、
>だから結局は自他共に害悪ばかりしかもたらさない犯罪加害を為す過ちを犯してしまうという、
>心理面における犯罪加害の原理を如実に提示しているのが、旧約の特質だ。
まあね。確かにあれは犯罪者心理と似てる。
ただ、宗教が病人や犯罪者の妄想と区別されるのは、一定以上の人間がそれに賛同するかどうか、
何人以上の人間がこれこれこういう確立した立場の人間が賛同しているなら、よしとしましょう、
そういう側面がある。
旧約は、壮大な愛、ほどこしについての記録書でもあるから。善として見れる部分もある。
だから、一概にくそとは言い切れないんだよ。
聖書を曲解して犯罪を起こす人間がくそというだけ。
209 :
考える名無しさん:2009/07/10(金) 06:12:15 O
易の六十四卦くらいは暗記しましょう
志ある皆さま、ともに絶学を継いでまいりましょう
>>208 曲解ではない。愛だ平和だともっともらしい理屈を付けつつも、
結局は地球上の資源を八割以上も独占する権力犯罪に手を出している
聖書圏の人間の行業全体が、極めて模範的な聖書主義の実践となっている。
愛としてみれば、聖書の提示する隣人愛や友愛は、天地万物の公共性に基づいた
儒家の仁愛はおろか、万物を無差別に愛する墨家の博愛志向にも劣る。
気の合った仲間内だけで犯罪加害を共謀して、外界から利権を収奪することを
正当化する、最も程度の低い類の愛。誓約ではなく契約に基づく悪魔の愛。
平和のほうも、「剣をもたらすために来た」イエスが罰されるとかの、銃刀法の起源。
江戸時代には武家階級が帯刀を許された一方で、警察組織である奉行所や火盗改
は十手やさすまたのような軽微な武具での取り締まりを要求されていた。それで
ちゃんと江戸の治安は守られていた(鍵をかける戸締りが必要のないほどに)。
今は逆で、ナイフ一本でも持ち歩くことが許されない一方、警察官たち自身は
拳銃のような殺傷能力を持つ武器を携帯している。警察身分のほうが一般の武士
よりも弱小な武具で取り締まりを済ませてたのとは裏腹に、今の警察は一般市民
よりも強大な武器を持つことで市民を強制的な支配下においている。支配者が
必要以上の暴力を備蓄することで市民を完全に抑え付ける、程度の低い治安維持、
平和の維持が聖書教によってもたらされたもの。権力者が重大犯罪に手を出した
ところで少しも市民の側がそれを強制排除できる機会を持たない、不健全な社会。
銃砲刀剣の所持がある程度許されているアメリカなども、一般市民が所持を許されて
いる武器よりも遥かに強大な兵器を支配階級が備蓄することで同じ様相を呈している。
権力者が民衆の反抗を恐れて極端な軍事備蓄に回る、最悪のコストパフォーマンス
をもたらす、臆病さだけが取り柄の平和。人間はある程度は争おうとする生き物である
ということを見越した上で、定寸の日本刀程度の最低限かつ有効な武装の内側でほぼ
全ての争いを解決していた江戸時代のほうが、結果的には遥かに平和な時代だった。
「十人殺せば殺人鬼、十万人殺せば大英雄」のチャップリンの喜劇用語を
そのまま真に受けて、数をこなした権力犯罪を正当化し続ける隣人愛主義者ども。
2300年前の昔から孟子などがそれを認めていない。
人を殺すのに刃物を以ってすることも、悪政を以ってすることも全く変わりなく、
等分に戒められて然るべきだと「孟子」第一巻四節などにも書いてあるとおり。
群れをなした途端に無責任な暴徒と化すのは、何より本人たち自身が小人であるからで、
君子士人であれば、たとえ大勢の中に入って政治手腕を振るおうとも、誰しもにとって
利益をもたらす公共性の維持を心がける。努力すらすれば誰にでもなれる境地。
最初からその選択肢をかなぐり捨てて、「みんなで世界を侵略しようぜ」状態な、
個々人から集団にいたる西洋人の行業の余すことなき愚かしさその全てが、
「孟子」よりも成立の遅い聖書の記述に基づいてこそなされてきたもの。
まさにこれこそはオカマちゃん妹うさぎな所以。ぴょんぴょんプリプリどんだけー、な。
近現代に旧来の聖書教を改善する目的で創作されたはずの
西洋特有の哲学だ科学だ政治学だ経済学だイデオロギーだも、
その全てが地球人類社会全体の福利厚生を考える上では、全くの無価値と化す。
今だって地球上の資源の八割以上を独占することによって成り立っている上位聖書圏。
そのような利益の不当な独占を前提とした上で取りまとめられている社会、
消極的な活動が人類のためにならないとも、積極的な活動が人類のためになるとも言えない。
また個々人の生活を見てみたところで、一つ一つの労働が「人間が生きる」という
切実な目的に沿っている場合が極めて少なく、一生懸命田畑を耕して食糧を生産することも
労働になれば、違法カジノの支配人になることもまた一種の労働として扱われる。
労働が個々人や人類社会にとっての切実な利益目的であるか否かという面において、
今の「先進国」における労働の大部分がみそくそと化しており、利益独占型部落社会の
運営のために捏造された哲学科学政治学経済学などを研究することもまた、くその内に入る。
違法カジノの支配人とも大して変わらない、利益独占型部落社会での学術関係者。
四書五経も仏典も隅っこに置いといて、スミスだヘーゲルだマルクスだばかり研究してる奴ら。
そいつら全員違法賭博容疑で逮捕だ。上位聖書教徒と同じく、
権力犯罪加害への加担によって食ってる奴らだ。
213 :
井上筑後守:2009/07/10(金) 12:55:48 0
>>209 易の注釈書や解説書で良質なものがあれば、教えていただければ幸いです。
六十四卦暗記とまではいきませんが、本田済氏注釈の「易」は読みました。
こんな難解な量子宇宙哲学の書物が、人類最古級の古典であるというのが、驚愕ものですな。
4、5000年前のエジプトやバビロニアの古典なんて、小学生の作文みたいなものばかりなのに。
「占い」というレッテルに基づく過小評価を払拭して、もっと読み直されて然るべきなのは確かかと。
直江兼続の「愛」って前立にあしらわれた兜が、近ごろ面白がられて取り沙汰されるだろ?
あれも本当は儒家の仁愛や仏教の慈愛こそをあらわしているわけで、
歌舞伎町のホストクラブの看板の「愛」なんかとは、全く意味が違うわけだ。
ホストクラブの「愛」に近いのが、聖書のほうの「愛」だ。
旧約にも「神殿男妾」なんてものが出てくらあ。
気に入ったホストに貢ぎ通して、底の抜けたズボンのポケットに手を入れて
ホストの一物をニギニギしながら飲み交わしてやがる、オカマちゃん妹うさぎだ。
歌舞伎町や二丁目から出てくんなってんだ。
×神殿男妾
○神殿男娼
衆道(男色)は昔の日本などにもあったが、そんなものに宗教性や学術的価値など一切認めちゃいなかった。
ただそんな奴らは「陰間者(かげまもの)」として、一般に揶揄されていたばかりのことだ。
重要視してないから持ち上げもせず、無理に取り締まろうともしない。
何か重大なことだと勘違いしている奴らこそが、執拗に面白がったり、その反動で厳禁したりする。
肯定的であれ否定的であれ、そういうものを正典にまで載せたことが、
著者や儲の品性の下劣さをあらわしてんだ。エロ本なら構わなくとも、正典なら問題アリなことだ。
時と場合とを逸脱しているから。
216 :
考える名無しさん:2009/07/11(土) 08:07:27 0
井上筑後守
↑これはなんと読むのですか??
いのうえちくごのかみじゃないのか?
九州北部だと思うが。
つーかいつまでカオスな議論する気なんだw
カオスではなく、弘法大師の十住心論体系に裏付けられた、極めて秩序立てられた議論だ。
どうせ純粋な東洋教学だけの話をしても、自分を含む堕落しきった現代人たちが
江戸時代以前の先人たちに敵うはずはないんだから、堕落の根源である西洋教学との比較で
話におまけを付けていくぐらいしか、別段新しく見るべき部分はない。
>>198の現代版十住心論も、上位の住心ほど重点的に論及している本家十住心論のほうが
これより優秀なのは決まりきってるわけで、異生羝羊心である聖書主義なんか卒業しきって
どんどん上へ上へと上っていく段階になれば、自ずと道を逸れた話も減っていく。
それに連れて勉学者たち自身の程度も高まっていくわけだ。徐々にではあるが。
219 :
井上筑後守:2009/07/13(月) 22:13:59 0
坊さんや警察組織も含め、誰しもがあまりにも罪悪の黙認へと堕落しきってしまっている時代、
例え今すぐに改善されていく方向転換がなされようとも、本当に復調できるのはまだまだ先の話。
東洋教学の実践までもが復元されること、近現代の文化文明構築のいずれよりも困難なものとなるが、
ただ元々のままに復元するのは、それはそれで東洋教学の意向に必ずしも沿っていないことになる。
臨機応変もまた東洋教学のいち本分。地獄餓鬼畜生の三悪趣があまりにも増大し過ぎている
今という時代に合わせて、昔ならそれほど重要視されていなかった部分を活用してみる手もある。
たとえば「孟子」。孔子が人倫の帝王として君臨し、その言行録である「論語」などに基づいて、
今でも多大なる評価が寄せられているのは皆知るところだが、それに比べて孟子の評価や知名度は低い。
ところがその孟子の言行録である「孟子」こそは、性善説惻隠の情易姓革命禅譲放伐王道覇道規矩準縄、
儒家教学上の重要概念のオンパレードで、人間道徳の基本中の基本ばかりを述べている「論語」と
比べても、学術的な程度が遥かに高く、職人技とでも呼ぶべき精緻さに満ち溢れている。
220 :
井上筑後守:2009/07/13(月) 22:15:17 0
同じことが釈迦に対する龍樹などに関しても言えるし、もうちょっと時代が下れば、法然に対する親鸞、
栄西に対する道元などの、教学の実践的活用までもが期待される。浄土宗や臨済宗が昔から代表的な
大乗仏教として崇められてきた一方、浄土真宗や曹洞宗はまだまだ伸び代のある、手付かずの宗派。
それどころか大乗仏教全体が、世界的に評価をされているようでいて実はされておらず、小乗仏教からの
流用でしかない部分の教学が評価されるに止まっている場合がほとんど。無我の境地や悪業からの解脱
なんてのは、本来小乗で済まされるもの。唯識も中観も法華も華厳も密教も、それだからこその特質が
評価されるまでにはまだ至っていない。だからこそ創価みたいなエセ仏教が蔓延ってしまったりもしている。
孟子も龍樹も親鸞も道元も、教学の内実が究めて機能的で、ただ尊崇するだけにとどまらない、
学術的な研究対象としての価値が高い点が共通する。かといって今の洋学者風情の、敬意もへったくれも
あったもんじゃない餓鬼同然の研究姿勢ではなく、限り無い尊崇を伴いつつの、冷静な研究こそが望ましい。
孔子や釈迦や法然や栄西が円熟の境地にある一方で、弟子や後輩に甘んじつつ縁の下の力持ちである、
いまだ十分な理解の届いていない人々。いずれをも尊崇しつつ、後者の重点的研究によって理解を補完する。
221 :
井上筑後守:2009/07/14(火) 03:46:25 O
大乗仏教の側からすれば、小乗仏教は大乗仏教の一部となる。
原始経典も「阿含部経典」として、さほど重視はされないにしろ大蔵経の中に入れられるし、
鑑真和尚が日本に持ち込んだ律宗も、上座部と同等の戒律集となっている(「八宗綱要」などを参照)。
あくまで小乗の自利に利他を上乗せするのが大乗の姿勢。
だから会三帰一などもあるにしろ、基本は小乗を排斥せず、ただ大乗と比べた場合に劣後する。
逆に小乗は大乗を認めない。本来の釈迦の教えをねじ曲げたものとして排斥する。
確かに「荘厳さ」という点で、大乗仏教は元来の仏教の素朴さを大きく逸脱していて、
バラモン階級だった龍樹菩薩らの器用な作り込みの手が加わっていることが明らか。
じゃあそれらの荘厳によって、仏教の本義までもがねじ曲げられているのかと言えば、
正統な宗門に限って言えばそんなことは決してない。カルトはともかく。
断悪修善という仏教の本義に基づいて、あらゆる大乗の正統教義が律されており、
真宗の悪人正機ですらがそのご他聞に漏れない。非常に分かりやすい反面、
言動はおろか考察においてすら疎かにしてしまいがちな、断悪修善という理念。
あえて確約することで得られる人間の思考規範や言動規範、それが仏教。
そうでありさえすれば何でも仏教であり、そうでなければ何も仏教でない。
実際に人間が全人生を託して実践するのは極めて困難ながらも、
最終的に目指すべき到達点として、いつでも心の片隅に置いておくがいい。
坊さんや敬虔な在家信者でなくとも、煎じ詰めればどうしたって従わざるを得ない
人間の思考や言動の真理として、半ば警戒的にだろうとも意識しておけばいい。
善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、を。
222 :
考える名無しさん:2009/07/16(木) 14:27:03 0
シェイクスピア最高!!
病院で暗記でもしてなさい。
「レインマン」のレイモンドのように。
やっぱやめとけ。病状が悪化するから。
退院後の現実復帰に備えて、カーリダーサにしとけ。
たとえ文面上はつまらなくても、現実で実践すれば
こっちのほうが絶対に楽しいから。
あと、吉川英治の「牢獄の花嫁」もな。
シャイクスピアのソネット美しいお^ω^
妄想はいつでも貴女の頭の中に。
現実の行動に移した時点で犯罪。
>井上筑後守様
しかし、貴殿の存じ上げる事も
『執着しまくってて』「何かに影響されまくってる」ので、
原始仏教的な根源的な
『苦痛を減らす』という目標に反しておられませぬか?
善悪は∞通りでしょう。価値も品性も。
かような事を
『洗脳され狂信して定義づける』ことが、苦に繋がるのでは?
糞味噌一緒の通り、善悪とかはどうでもいいのでは?
『苦痛か否か』が重要で。
とりあえず私は、人間=化学反応と感じまして、
品性・醜美・性・感情といった類を克服しましたぞ?
あと極論で貴殿の論も崩壊しまする。
例えば私は、品性を追求し日常会話も無表情機械的で、
極端な善に走って、幼少期の頃殴った人に毎日祈ってるし。
下らぬ話よ
228 :
井上筑後守:2009/07/18(土) 19:39:25 0
苦楽は分かるだろう。よっぽどのキチガイでもない限り、大体が苦楽の受容については一致する。
ただ、善悪は誰にでも分かるわけじゃない。苦楽と厳格に連動している普遍的かつ根源的な善悪、
それが分かるのが真の大人で、分からずに右往左往するのがガキだ。
なにが善でなにが悪かと言われても、それは全く時と場合によるんで、具体的には示しにくい。
「犯罪者の逮捕」ですら、悪法に基づく不当逮捕なんかによって不善化されてしまうことがある。
全く同じ事物が時と場合によって善となったり悪となったりする。分析的には全くつかみ所のない
善悪を全身全霊を以って把捉し、善を拾い悪を避ける、苦しくなくて楽しい人生を送れるようになる。
それは事実可能なことで、そうなるまでには相当な努力も必要なものの、なれればこの上なくマシだ。
いかなる科学的考察などを踏まえるよりも無理がなく、宗教的狂信などを踏まえるよりも無理がない。
人間として苦しくなく楽であるための、最も直接的かつ普遍的な手段、罪福異熟の道理に基づく根源的
な善悪の把捉と、その適切な処理。適切な処理とは、断悪修善だったり、勧善懲悪だったりのこと。
楽である善や、苦である悪を把捉したわけだから、当然のこととして善を優先し悪を劣後する。
そうでない、錯綜した善悪であれば話はまた変わってくる。最も、もうそんな話に関わりたくもないが。
私は究極的には善悪は存在しないと思います。
戦争や暴力を行使する相対的に余剰エネルギーをピラミッド建設とか万里の長城を建設するとか経済を度外視した
超国家的NWOによる建設プロジェクトに託すしか平和はありえないと思います。不可能ではありますが。
それは現世の人々に対するアピールはなく、未来の人々に対する壮大な「芸術品」と位置づけられるべき建造物であります。
永劫回帰の宇宙におけるある到達点を建設するのであります。
その建造物に携わる労務者以外の人々は農作物を育てる人々のみであります。
唯一のエネルギー源である太陽の恵みから頂いた食物を食って、ひたすら巨大建造物を造り続ける。
夜は夜の営みをひたすら続ける。不可能ではありますが。
231 :
井上筑後守:2009/07/18(土) 20:55:23 0
善悪が存在しないのではなく、善悪とはまた別に善悪でないものが存在する。
釈迦が「取るに足らない」として無記答とした形而上的概念論、これをそのまま「無記」という。
科学も数学も無記の内に入り、善悪とは無関係だからそれだけで良くも悪くもなりはしないが、
善用されることによって無害な無覆無記となり、悪用されることによって有害な有覆無記となる。
西洋型の、文化性に欠ける金融物質主義的文明が、科学や数学の活用によって成り立っているのは
重ねて言うまでもないことだろうが、中でも科学や数学を暴力に活用することが有害であり、
巨大インフラに活用することが無害だと
>>229は言いたいんだろうが、自分に言わせればどちらも有覆無記。
支配者の悪念に民衆が振り回されて、必要もないような重労働に駆り出されて死傷したりもする。
インフラの土方もそうならば、戦争の場合の歩兵などもそう。結局莫大な無記構造に隷従させられて
不自由で平和でない生活を送らされることには変わりなく、過剰な無記構造全体が本当はないほうがいいもの。
232 :
井上筑後守:2009/07/18(土) 20:56:39 0
巨大なビルだとか橋だとかによって楽しんだりしてるようでいて、楽しんでいる時にはまた別の
何らかの善かるべきところがある。巨大な無記に、ほんの少し善の花を添えて楽しませたりする。
本当は無記なしで善だけであっても楽しい。支配者の悪念を排した善であるぶんだけ、より楽しい。
善でも悪でもないが故に、それ単体では本当は楽しくも辛くもない無記という不純物を一切排して、
純粋な楽しさの源である、純粋な善だけを抽出したのが仏教。その善の世俗における積極的な活用法を
抽出したのが儒教。だから数珠や十手程度の些少な物品だけで、巨大なビルや橋よりも遥かに
楽で楽しい体験をさせてくれたりもする。何もしないから辛くなかったり、凶悪犯罪者が正当な警察力に
よって逮捕されるから楽しかったりする。人間の楽さ楽しさの精髄を精選しているのが東洋教学。
だから無記である科学や数学を全くと言っていいほど介しない。にもかかわらずではなくだからこそ楽で楽しい。
233 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 21:21:42 0
リア王
234 :
井上筑後守:2009/07/18(土) 21:23:40 0
近現代になにが増大したかといえば、悪と無記とが増大した。
一概な悪と、善悪でないもの。この内の、善悪でない無記主義のことを、
自分は個人的に「善悪みそくそ」と呼んでいる。
科学者であるとか数学者であるとか、自分たちの専門が善悪とは関わりが
ないからといって、いざ善悪を扱うとなれば、極めて粗略に扱う。
どちらをも、自分が審判を務めるゲームの対戦相手か何かのように扱う。
そういう不誠実な善悪に対する姿勢が、悪の側にとっては全く構わなくとも、
善である側にとっては限り無く腹立たしい。全身全霊を賭けて自分が把捉した
善悪を単なるゲームのコマ扱いする、その不誠実さに「敵性」を見出す。
悪と善悪みそくそ(無記と自認)はつるめるものの、善と善悪みそくそは
つるめない。このままだと2対1で不利になるから、善である側は自らを
断悪修善と勧善懲悪に分担し、前者を司る仏教が真の安楽をも司り、
後者を司る儒家が真の楽しみをも司る。
どんなに悪であるものや善悪みそくそであるものが最善を尽くした
ところで、決して超えられない断悪修善の安楽さや勧善懲悪の楽しさ。
今まで悪や善悪みそくそに徹して来た側が、自分たち独自の断悪修善や
勧善懲悪を創設しようにも、断悪修善や勧善懲悪の養育に対してこそ
二千五百年以上もの間最善を尽くしてきたのが仏教や儒家なわけだから、
今さら始めた所で敵うはずがなく、素直に先輩に倣ったほうが利口でもある。
ここに書き込んだ私があなたにとって悪でありました。
失礼いたしました。
ところで、「十手」は何に使われるのですか?
236 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:08:57 0
シェイクスピア読まないのー?
>>235 十手で銀行強盗ができるかね?
>>236 鬼平全巻読んだら考えてやってもいい。
シェイクスピア全集より多いし、自分もまだ読んでないがな。
ホモではなく、彼のごく個人的な「絶対神」への憧憬で彩られていると、認識しました。
239 :
井上筑後守:2009/07/19(日) 00:06:18 O
鬼平ぐらいならなれるんだ、自分でも。
家康公や松平定信公ともなれば、目指すことも恐れ多いが、
HNに使ってる井上筑後守よりもさらに下の、高々四百石程度の旗本なら、
自分の血筋と比較しても無理のないあたり、落とし所として。
若い頃は放蕩三昧で、家督を継いで所帯を持ったら立ち直ったのも、メリハリが付いていてよい。
享年50歳は若干早すぎるが、それでも聖徳太子や信長よりも長生きだし、
後腐れのない当時の人々の生きざまを代表しているようで悪くはない。
だから、楽しいってことだ。尊崇とかじゃなく、ただ楽しいだけだ。
小説中で火盗改の財政が火の車なのを本人が嘆いている描写がよくあるが、あんなのは当たり前だ。
凶悪犯罪者を捕縛して処罰するという、最高に楽しい仕事をさせてもらえてたわけだから、
私財を擲って財政赤字を補填してたぐらいでちょうどいいもんだ。
一生を最高に楽しみきって、人生を終えた江戸っ子の粋。
見習うどころか、あそこに“陥って”出て来られなくなることを恐れるほどの世界だ。
愉快な棒を振りかざしての追っかけっこ。
無上の楽しみ、一本うどん屋も井上真改で脳天かち割ってお陀仏だ。
まさか読んでくれるってレス帰ってくるとは思わなかった・・以外だ
どうせ鬼平全巻読み終えた頃には、シェイクスピアなんて何の価値もないことに気づいて改心してるだろうから、
その時になってまだ撹拌ピアス読めだなんて戯言をほざいてるかどうか試してやらあ。
こっちはまだ「徳川家康」も読みくさし。大坂の役の手前で止まってる。
推理小説じゃないんで後の展開は分かりきってるんだが、それでも楽しみだ。
ハッタリでない、あるがままの楽しさがそこにあるから、安心もできるんだ。
まだ見ぬ楽しみばかりを追い求めようとする貪欲さを、若い内に発散しきって大人になるのが重畳だ。
読んでもいないのになぜ価値が分かるんだお(^ω^?
ハムレットとロミオとジュリエットぐらいは読んでるわけだ、訳文でも。
まあ、対象年齢十歳以下ってとこだ。
日本人だと十歳前後でウレシを貶め合って自重するようになる。
それまではウレシがれたところで、その後はもうない。
鬼平も子供の頃から楽しめなくもないが(若干きつい性描写もあるが)、
こっちは子供からお年寄りまで漏れなく楽しめる、読者のウレシなどに頼らない
普遍的な楽しみ(勧善懲悪)を帯びたエンターテイメントとなっている。
「家康」や「鬼平」も小説だから、四書五経のような大説と比べれば学問とすら呼べない、ただの楽しみ。
小説(戯曲含む)であって、しかも大して面白くもないなんてのは最低最悪なわけで、
その最低最悪さ加減を楽しもうとするウレシの倒錯が、現実の行動では犯罪にもなったりするから問題だ。
お酒とタバコは二十歳になってから。ウレシは十歳まで。両方とも法規定していいな。
次はマクベスやリア王あたり?
いっそ原文で挑戦してみたら??
最近は論語や老子とか孟子とか仏典など英訳で読むようにしてる
英語の勉強にもなって一石二鳥
英語でよむななぜかすんなり入ってくるきがするんだよね 頭に。
近々、「南総里見八犬伝」は原文で挑戦するつもりだ。
元祖勧善懲悪劇。坪内逍遥に貶められた江戸の精髄を原典から復活さそう。
日本が極東だから、日本に近い国や社会の文献や言語ほど善くなり、遠い国や社会の
文献や言語ほど悪くなる。太平洋も相当に広いから、アメリカももちろん遠くて悪い。
漢語やサンスクリットぐらい勉強しても損はないにしろ、やはり日本語が一番。
自分に自身のない人間こそが色々と外に依存対象を探すんだ。
女や子供ならそれでもいいが、大人の男はそれじゃダメだ。
鬼平も信仰対象なんかではなく、実際になれる役として捉えるんだ。
実際になった時にはもうちょっと体裁が変わるにしても、基本的な模範として。
外国語ひとつでも分かるの?
漢文抜きでね
漢文を抜くな。
250 :
井上筑後守:2009/07/19(日) 21:19:05 0
仮に自分が、今のセンター試験の配点や内容を改定するなら、
国語の古文漢文を各100点の200点満点にして、現代文を付属で50点満点にし、
外国語も100点満点で、代わりに仏学(学術的な仏教研究)を100点満点で導入し、不足点数を補充する。
(外国語にはヒンディー語とアラビア語も入れて、ドイツ語と韓国語と、英語のリスニングは省く)
世界史は、中国史やイスラム史に重点を置いたものに改定した上で点数を保留(インドには歴史がない)、
日本史も縄文時代からの発展を、東洋史との連携性に重点を置いたものに改善した上で保留、、
公民は四書五経などの、より堅実な社会道徳倫理を重視したものに変更した上で点数保留、
数学は200点満点から100点満点に変更し、内容も微積分を縮小して代わりに線形代数を取り入れる。
物理や化学、生物や地学などすべて50点満点にして内容を薄め、代わりに選択科目数を増やさせる。
理科学系の配点が大幅に減少したぶんは、アレで補充する。例のアレだ。
物理にも幾何にも哲学にも被るが、理科でこれから必修になるのは数学よりこっちだ。
実相に即した無理のない無記、無覆無記を記した金融物質主義封印の書。
どうしてもまだやりたい無記文明の発展はこれと照らし合わせて、やっていいかどうか許しを乞え。
ど田舎に道を通すぐらいの仕事はまだ許されるかもしれん。採算が取れなくても知らんがな。
251 :
井上筑後守:2009/07/19(日) 21:57:23 0
いま現在もうすでに、現代漢語である中国語話者のほうが、英語話者よりも多いからな。
母国語として使ってる数なら、ヒンディー語やアラビア語ですら英語よりも多い。外国語を
学ばなきゃならないってんなら、英語よりも中国語やヒンディー語やアラビア語のほうが重要だ。
でもサンスクリットは古代漢文と同様、現代での実用性は皆無。いわんやパーリ語やマガダ語をや。
東洋は歴史が古すぎて、太古の隆盛の時代の言語が今そのまま通用することがほとんどないから、
現時点で通用する東洋外国語を勉強したからって、古典文献の解読にそのまま役立ちはしない。
日本語だって、江戸時代の文献を何の勉強もなく解読するのは日本人でも困難。
有機的で深遠な表現能力に長けているからこそ、修得も難しければ文法の流行り廃りなどもある。
東洋教学向けの外国語の勉強ってのは、生半な覚悟でできるもんじゃなく、またすべきでない。
未だに命がけの帰依をしている人々が多くいる教学の言語、覚える以前に敬わなければならない。
敬意を欠いた友愛隣人愛のグローバリゼーションを全体的に萎縮させるために、英語ごと外国語
習得の必修度は減らしとく。省くには英語話者も多すぎるんで、完全に省きまではしないが。
252 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 02:35:17 O
公田連太郎先生の著書を読みましょう
易経講話全五巻は五〜六万円しますが…
その他 呻吟語や至道無難禅師集など
253 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 04:40:39 O
こういう宗教の世界って本当に真面目でストイックな世界ですよね。
人生を少しも遊ぼうと考えていない。素晴らしい。
ぼくは相争う哲学の論争や、宗教上の教義の食い違いによる争いに巻き込まれたくない。
主観的世界を構築しようなどとも思っていない。学問や芸術など何とも思っていない。
僕の内で感じる強烈な無常感、最深の悲しみを解決するには宗教的修行が必須だと思っている。
ただ真面目に真理一路に修行していたい。
真理に帰依するための宗教的熱情は確かにある。
まずはお念仏からだな。至心に信楽して欲生するお念仏。
できそうでいて意外とできないもんだ。特に犯罪者なんかだと。
255 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 15:43:40 0
>>252-
自作自演乙。
「犯罪者」はこいつ>1の口癖。
256 :
井上筑後守:2009/07/23(木) 22:20:55 0
自分の言う「犯罪」ってのは、
>>149にも書いたとおり、単なる実定法違反に止まらない
理念としての犯罪性(共食い)に即した思考や言動全てを指している。
他者の利権を不当に侵害して強奪し、自分が生き延びたり、金銭面や物質面で肥え太った
生活を送れるようになったりすること。殺人であれ傷害であれ窃盗であれ強盗であれ詐欺であれ、
より犯罪らしい犯罪ってのは、実定法違反としても「共食い」という原理に基づいていることが分かる。
銃刀法違反とか飲酒運転とか、それだけでは全く共食いの要件を満たさない犯罪も実定法違反の
中にはあるが、ピストルや刃物で他者を不当に殺傷した、飲酒運転で人を轢き殺したとかの
実際に実害を引き起こしてしまった時には、やはり共食いという要件を満たすことになる。
だから本当は刀剣の所持や飲酒運転を取り締まるのではなく、所持した刀剣や飲酒運転によって
他者に実害を及ぼした人間を、より厳しく罰することのほうが、犯罪の処分としては適当である。
でも今の日本では、刀剣の所持や飲酒運転は、それだけで犯罪扱いになる。
法律万能主義は、本質的に犯罪でないものまでをも犯罪にしてしまうことがある実例となっている。
そういう意味での犯罪、実定法違反であるというだけの意味での犯罪と、いま自分が強調している
「犯罪」という事物は必ずしも一致せず、共食いという原理に即して扱っているここでの「犯罪」
のほうが、実定法違反としての犯罪よりも厳密なものとなっている。悪法違反かどうかなどよりも
共食いに即しているかどうかを照らし合わすことが、より厳格な犯罪の有無軽重の判断基準となる。
257 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 01:24:29 0
で、自演だったの?w
258 :
井上筑後守:2009/07/25(土) 02:21:45 O
>>252 「易経講話」「呻吟語」「至道無難禅師集」
近隣の図書館の在庫を検索してみましたが、全部持ち出し禁止でした。
調べものならよくとも、通読はなかなか難儀ですなあ。
仏典も般若心経や法華経などの超有名所を除いて、ほとんどが持禁。華厳経ですらそう。
まだまだ東洋教学は深奥の研究の敷居が高い。
そのせいで創価みたいなエセ東教をのさばらせてしまってもいる。
大政奉還、廃仏毀釈の禍根を取り除くには、まだ多くの労力を要するようで。
259 :
井上筑後守:2009/07/25(土) 11:34:27 O
古代中国などの、原漢文の重要古典籍については、
「始めは訳文だけでもいいから、抄選・抄訳だけは避けろ」というのが個人的な勧め。
二十四史のような歴史書や、三國志演義のような小説ともなれば、
元より原文対照の釈文が出回っていない場合がほとんどだが、
四書五経レベルの正典ともなると、原文対照の精釈が増える一方、抄文の出版が異様に増える。
これが中国古代思想の、精髄の理解への致命的な妨げとなっていて、
「孟子」のような重要理念の塊みたいな典籍が抄選された時には、たまったもんじゃない。
とにかく全部読め。どんなことを書いてあるか一度は俯瞰しておいて、
後から重要だと思う部分だけを原文まで遡って読み抜いたりすればいい。
小説と違って内容が切れ切れになっている場合の多い漢文の大説。
だから抄選しやすいんだが、抄選して勉強になってるのはあくまで著者自身だけだから、
全文を読み通す所から、誰しもにとっての正典の理解が始まると考えたがいい。
260 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 13:22:12 0
自演乙・・
今度論語・孟子英訳で読むお(`・ω・´)
今度満漢全席に下痢汁かけて食べてみるお(`・ω・´)
(`・ω・´)?
論語・孟子=満漢全席
下痢汁=英訳
基本的な熟語(規矩準縄とか)は原文ままである
日本語訳や読み下しのほうがいいのはもちろん。
(`・ω・´)??
英語ができることが何の価値もないぐらいの事実は受け入れろよ。
別に美女が美女である価値が毀損されるほどのことでもないんだから。
女が世の中を主体的に形作ってきたことなど、一度もない。
あらゆる文化文明の構築を脇役としてのみ担ってきた、種の保存という
より重大な役割の負担者。文化文明の側が半壊するに
応じて、もうちょっと社会的地位も見直されてくるところ。
そう言う貴方はどれ位英語が出来るのですか?
268 :
井上筑後守:2009/07/28(火) 11:06:49 0
ここで話すことじゃない。
もう読んだ主要文献:
四書五経、孫子、老子、朱子語類(抄)、
法句経、般若心経(暗記)、金剛般若経、法華経、浄土三部経、中論、
臨済録、無門関、十住心論、秘蔵宝鑰、教行信証、正法眼蔵、歎異抄、
古事記、日本書紀(訳文)、コーラン、ヴェーダ(抄)、ウパニシャッド(抄)、
バガヴァッド・ギーター、マヌ法典、アヴェスター(抄)、その他洋学の作文多数。
まだ読んでない主要文献:
孝経、武経七書(孫子以外)、荘子、菅子、韓非子、史記、菜根譚、
華厳経(抄訳は読んだ)、大般若経、大日経、金剛頂経、碧巌録、
風土記、万葉集、源氏物語、平家物語、今昔物語、ハディース、
千一夜物語、ヤージュニャヴァルキヤ法典、マハーバーラタ全文、等等。
あくまで主要中の主要文献。委細を含むと膨大な数になる。
洋学の作文は主要なものを読み尽くした時点でもう底が見えたが、
東洋教学は全く見えない。勉強し尽くすなどということが個人にはありえない。
どれだけ自分自身の一生でできる限りの高みまで上れるか、
上には上がいるから少しも孤独なんかじゃない。ニーチェとは違い。
「山高きゆえに貴からず、樹あるをもって貴しとなす」という弘法大師の言の通り。
洋学はあくまで、ごく少数部落の天才バカボンの思いなしでしかないが、
東洋教学は現30億人を超える大多数の人々の総意を代弁したものだから、
一人や二人の人間にその全てを把捉することは不可能とした上で、
それでもできる限りのことを尽くすという最善志向の対象となる。
逆に何もできる限りのことなどやらず、易いほう易いほうへと逃げ延びていく
最悪志向の対象こそは洋学であり、こちら側にも「最も」を尽くす趣きはある。
ただ、その趣きが善ではない悪である、できる限り悪を尽くす趣きとなっている。
できる限り善を尽くす東洋教学とは、尽くそうとする趣きがあるのは同じでも、善悪の側面で真逆である。
だから結局相容れない。綱引きの競争相手同士のように、親睦する余地がない。
お互いがそうでないことこそを目指して来た者同士、優劣勝敗を確定しないことには和解のしようもない。
30億人???
インドと中国だけで25億人、日本や東南アジアも併せれば30億人以上。
これら全ての人々の総意が東洋教学。
ギリシャやイスラエルみたいな小国の、しかも被支配層を奴隷状態に置いていた
愚鈍な支配層の思いつきが洋学。少数派であって、
しかも総意を代弁していない邪悪の源。
発祥の仕方からして東洋教学と洋学では決定的に異なる。
全てに利する善徳と、一部分だけに利する罪悪と、質・量・古さ全てが段違い。
腐敗が広がるようにして拡大していった洋学、それでも本質的な雄大さが桁外れな東洋教学に
現時点での支持者数でも勝てていない。
純粋な東洋教学圏30億人に、犯罪の推進ぐらいはやめた最低限大人な
アブラハム教圏、イスラムをさらに加えて、合計40億人以上。
権力犯罪を推進までしようとするお子ちゃま犯罪精神圏、
聖書圏20億に対する包囲網の敷設が確立されている。
ギリシャから学問が始まったお(`・ω・´)
お得意の哲学でも、実はインドのウパニシャッドのほうが先だし、
詩でもホメロスよりヴェーダ讃歌や詩経のほうが先だし、
世界最古の歴史書も実はヘロドトスじゃなく書経のほう(ただし一部欠落)。
ほとんどの学問がギリシャよりも中国やインドで先に生まれていて、
ただ、規矩準縄を礼節の規範ではなく科学に用いたことや、
女の子趣味の文芸を先に発展させてきた点だけがウリジナル。
インドや中国にもマハーバーラタやカーリダーサ、演義物などの文学はあるが、
後発な上、あまり重視されてはいない。人間は小説ではなく大説によってこそ生きる。
大人の書物である四書五経や二十四史や仏典、ヴェーダやウパニシャッドなどを重視して、
文学はそこまでいけない庶民の慰み物としてばかり認知されてきた。
もちろん時代小説や歴史小説などの、史実に近い話を分かりやすく描いた文学は
勉強にもなるんで、単なる文学よりはもうちょっと上扱いしていい。
「徳川家康」とか「宮本武蔵」とかは、大人でも読める文学になっている。
「鬼平犯科帳」も最高に楽しい。勉強の合間の息抜きにちょうどいい娯楽だ。
科学的思考方はプラトンとアリストテレスからだお(`・ω・´)
んでまあ、科学は東洋では生まれもせず、発展もしなかったわけだ。
農耕とか紙とか火薬とか活版印刷とか羅針盤とか養蚕とかカーボンナノチューブとか、
「技術」の面では相当に貢献しているのに、「理論」の面では成果らしい成果をほとんど
挙げておらず、数式もほぼ完全にアルファベットやギリシャ文字で形成される。
(ただし数字はインド発祥であり、「0」もインド人が発見している)
結局、科学が完全に現実の物事を説明することなどはなく、多少合っていたとか
その程度までしか精度を稼げない。定規やコンパスで幾何学図形を描くよりも、
定規のようにすっくとしたいい姿勢でおり、コンパスのように規則正しく振る舞うほうが
現実の物事は穏便に嗜まれる。釈迦も科学のような概念論を「無記」とするし、
中国インド両方において、科学のような概念構築をあえて選択しなかった歴史がある。
概念構築を選択しなかった代わりに、礼節を貴ぶ道徳や、永久不変の真理を選んだ。
科学はもう終わっている。とある事情によって完全に終結し、あとはその応用だけに
限られている。しかもその応用方法は易経や宇宙開闢讃歌とさして変わらないものになる。
2500年の科学発展の歴史は、実はそれ以前の中国古典やインド古典以下でしかない
徒労に止まる結果となった。概念遊びをしてる暇があったら礼節を学ぶべきだったんだ。
西洋にあと残っている長所は、美女が多いことぐらい。
男が美男であることなんて、陰間兼任の小姓になるぐらいの価値しかない。
文化文明の構築ではなく、種の保存の責任者である女が美しいこと、
それぐらいは今でも取り柄として残されている。むしろ女が美しすぎるからこそ
西洋の男が矮雄化していった所もあるから、
結局は男が強いことと、女が美しいこととは相反するということだ。
孔明の嫁選び、家康公の築山殿に懲りての身分の低い妻選び等にあやかり、
強い男でありたいのなら、あまり美しすぎない女、昔は美しかっても
今はもう老けておばちゃんな女ぐらいが相手としてちょうどいいんだろう。
しかもそれを可愛がんなきゃなんない。「今でも十分綺麗だよ」とハゲましてやらんと。
プラトンの作品で失われた物はないお(`・ω・´)
古代の全集がそのまま今に伝わってるお
これは凄い事だお(`・ω・´)
実在がほぼ確かな中で、最古かつ代表的な哲学者といえばヤージュニャヴァルキヤ。
ヴェーダで育まれた詩的成果を、「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」などの
初期の代表的なウパニシャッドにおいてアートマン哲学として展開する。
ホメロスの詩文学を基に概念論哲学を展開したソクラテスやプラトンよりも数百年先んずる。
ウパニシャッド文献の膨大さも言い直すまでもない。本当は一人で作っちゃいないものを
あたかも一人で作ったかのような署名の強調もしない。多くの人々の総意こそを代弁しているから。
また、同じく実在がほぼ確かで、最古かつ代表的な宗教家といえばザラスシュトラ。
モーセなんか実在してないから。旧約の剽窃元でもあるアヴェスターなどにおける登場人物、
宗教を宗教として金科玉条化した最初期の人物。善くも悪しくも絶対的宗教の提唱者となった。
ヤージュニャヴァルキヤの生まれたインドと、ザラスシュトラの生まれたイランにおいて、
純粋で体系的な哲学や宗教が発明された。それ以前にはまだ漠然としていた人類文化が
「教学」として純粋化された初めての事例。2600〜2800年前で、プラトンや旧約よりもずっと早い。
教学を純粋化する精神は、優良さの側面では釈迦や孔子に発展的に継承され、劣悪さの側面では
プラトンやイエスに深刻的に継承された。善くも悪しくも「彼岸の軸」であった教学提唱者。
善良さで釈迦や孔子に勝てることはないんだが、ただ最古であるという点では重要な存在といえる。
で、あなたはブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドとやらを読んだの?
未読じゃないよねまさか
280 :
井上筑後守:2009/07/30(木) 04:40:27 0
>>268に書いた通り、抄訳で読んだわけだ。
ウパニシャッドって早い話が「インド哲学全書」だから、全文を読む読まないの話じゃないんだが。
今でもインドのどこかで新たなウパニシャッドが編纂されているのかもしれないし。
「熟睡」が解脱の境地だってのは、ありそうで他になかった話だ。
夢を見てどうこうってのはよくあるが、夢を見る程度の浅眠は解脱としても浅く、
夢すら見ない深い眠りこそが梵我一如に値するとさ。
なかなかそこまでの境地にいけないもんだなあ。今の時代には特にな。
「全ては私と同じだ」という悟りによる無上の安心の獲得、「私なんてない」という仏教以上に
今の時代における実現は困難なのかもしれない。私は何が好き、私は何が嫌い、
偏愛偏憎での分裂戦乱が促されてばかりの世の中。寝ても悪夢ばかりを見る。
だからなかなか寝られもしない。意識の途絶えた睡眠が完全である時に解脱の境地があるのなら、
同じく意識のない死滅状態も解脱の一つと言える。熟睡のある所に死への恐怖などないのではないか?
毎晩死と同じ超意識状態と化すことで解脱を体験する。毎晩やっていることがその内永遠になるだけ。
「永眠」という死の呼び方は、実は比ゆではなく事実なんだろう。熟睡を睡眠とするならば。
起きて働き尽くし、寝ても夢ばかり、それだと死への恐怖も募ってしまって当然。
言動もなく、思考も意識もない、万物の真理(梵)に私が帰る時、熟睡すれば毎晩やってくる上、
いつかはずっとそうなる。真理を遥か遠いものではなく、身近に感じられる手立ての一つとなるだろう。
いやいやそうじゃなくて「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」は読んだの?
amazonで検索したけどなかったよ
なんていう本に収録されてるの?
聞き方が強圧的になってきたな。
すっと化けの皮が剥がれるな。対抗する気満々の身の程知らずが。
カワイコぶるよりも、敬意を包摂した礼儀のほうが大事なんだぞ?
別に対抗はしてませんが
上記のヴェーダはどこに収録されて入れるのですか?
それを聞いてどうすんの?
「抄訳を読んだ」といえば「全訳を読んでないくせに」とケチを付け、
「全訳を読んだ」といえば「原文を読んでないくせに」とケチを付ける。
とにかくケチを付けて揚げ足を取りたいって魂胆が丸見えだぜ?
少しも生産的な議論を進められる見込みがないぜ? お譲ちゃん。
285 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 01:57:36 0
>>282 化けの皮が剥がれた、つうかとっくに剥がれてるが
のはてめえのほうだw
286 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 07:51:22 0
まあまあけんかはおよし。
ドーナッツあげるから半分こにわって食べようね
287 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 11:40:24 0
288 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 13:40:52 0
しかも
>ヴェーダで育まれた詩的成果を、「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」などの
初期の代表的なウパニシャッドにおいてアートマン哲学として展開する。
とか言ってるし。読んでないのになんでわかるの?w
今度から中国教学スレっていうスレにしてくれ
ほとんど中国の事しか語ってないから
【孔子】中国教学総合スレ0004【孟子】
これで行けよ
1に挙げているヒンドゥー教やジャイナ教や日本哲学やイスラム哲学に就いて
全然語って無いからな
こっちの方がスレ内容に即している
◆【春秋】中国思想全般スレッド【諸子百家】◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1216690817/ 中国思想単体の話題は上記のスレでどうぞ。
東洋教学全体の連関も考慮に入れる、東洋教学のメインスレがここですので。
インド哲学や中国思想が、IEやOEなどのアプリケーション単体であるなら、
「東洋教学」という枠組みは、それら全体を起動させるOS環境だといえる。
昔からそれに近いことをやっていたのは、密教あたり。ただ、イスラムや聖書教、
洋学までをも考慮に入れていたわけではないし、基本はあくまで仏教だった。
地球社会の教学全体を考慮に入れた上で、普遍的な東洋教学の構築を目論む、
今までにありそうでなかったことで、一部に偏ったりの不備もまだ見受けられる。
まあ、9999スレかけて、少しずつ枠組みの普遍性を確立させていこうじゃないか。
今世界中どこにいっても、至るところ中国製品で溢れ返っている、
粗悪品も多いし、もちろん悪い中国人も多いにしろ、中国は一応「物作り」で勝負している。
日本が工業製品の「質」で席巻したのに対し、中国は「量」で席巻している。
別に手放しに褒めるべきようなことでもないが、ただ右から左へと金を動かすだけで
何も生み出さずに得している奴らよりはまだマシ。士農工商の「工」だから、「商」よりは上。
今の国際競争に没入する危険を冒しつつも、最低最悪と化すことからだけは踏み止まっている。
最低最悪である金融至上主義にまで手を出していない、だからこそまだ貧しくもある。
奥地の村落に「これでも21世紀か?」と思わせるような原始的な風俗が散在している。
それこそは金融主義によって外界から資本を巻き上げる権力犯罪にまで手を出していないから。
文化大革命やチベット・ウイグル問題などで多大なる死傷者を出していて、毎年の死刑者数も
1000人を超える、ただ、それは基本国内問題としてなしていることであって、外界への侵略ではない。
チベットやウイグルに対してやっていることと同等かそれ以上のことを、中国政府は漢民族に
対してもやっている。全体的に統治体制が厳しすぎるが故に、嫌がって独立を求める集落もある。
ただ、チベットやウイグルが独立するよりも、地球資源の八割以上を独占し続けている欧米社会が
禁治産社会認定を受けて、中国やインドやアラブにも公平に資源や金が分配されるようになれば、
わざわざ中国から独立するまでもなく、アジア大陸全体の社会水準や生活水準が向上し、
「衣食足りて礼節を知る」という管子の言葉に沿って、中国も豊かな文化性を取り戻すだろう。
つまるところ、チベットやウイグルにしわ寄せをしている真の犯人は欧米社会だってことだ。
「セブン・イヤーズ・イン・チベット」で、横暴な中国共産党員が登場していたが、それ以上に
無礼なのは、ダライ・ラマの教師や親代わりを務めたことを強調するハインリヒ・ハラー自身だ。
罪過の種を東洋の奥地にまで撒き散らそうとする失礼極まりなさ、それ以前に共産主義も
ユダヤの捏造。不必要な悪因苦果は何もかも欧米社会こそがまり散らしてんだ。中国でも。
東洋教学の印象は、未だに地味ではあるだろう。
洋学のような七色変化はあえて捨て去って、素朴な堅実さに徹している。
そうであることをひっくり返して、見てくれの華美さを存分に飾り立て、
逆に洋学のほうをセピア色一色に色褪せさせるのがいいのかといえば、決してそんなことはない。
お世辞にも易しいとは言えない部分が、東洋教学には山とある。
天台宗の千日回峰行も服役並みかそれ以上の苛酷さを伴うし、鬼平も斬り合い上等の修羅であるには違いない。
そうであることを引き下ろして、易いものを好き好む人間にまで門扉を開く必要などは少しもなく、
ただ「嫌だけど最後にはどうしてもそこに帰結せざるを得ないもの」であり続ければそれでよい。
婦女子を寄せ付けないおっさん爺さんたちの美学、分かりやすくて簡単なものばかりを追い求める
今の大部分の一般人にとっては、あくまで口に苦い良薬であり続ける。
そうであり続けたいものの、残念ながら破綻が見え透いていて、いつまでも続けられない犯罪礼賛の易行道、
もういい加減どうにかしなきゃならなくなって、それでも嫌なんだが、仕方なく、泣く泣く選択し直す難行道。
東洋教学はそういう意味での難行道であるだけで構わない。無駄に装飾が施されたせいで、
「刑務所でも同じようなことをやっている」と、わざわざ罪を犯して刑務所に入ろうとする人間すら現れかねない。
どこまでも果てしなく純粋に苛酷なだけなんだが、本質的には善徳であり、故に楽楽である難行中心の東洋教学。
どこもかしこも安易である反面、本質的には罪悪であり、故に辛苦である洋学との吊り合いを保てるもの。
井上さんて肉たべるの?
坊さんじゃねえし。浄土真宗のですら。
肉食+妻帯だ。肉食と妻帯でワンセットだ。
どっちもおんなしようなもんだという、たま〜に露骨な仏道の見解の一つだ。
でもこれも決していい加減なもんじゃない。
日本では、肉用獣の屠殺業が昔から卑しめられていた。
ケガレ信仰によるんだが、実はこの典拠の一つになっているのがスサノオ神話。
アマテラスの機織部屋に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込んで女中をショック死させ、
アマテラスを天岩戸に閉じこもらせた。この話が元になって屠殺業、皮革業、
精肉業などが卑しめられるようになって、いわゆる部落差別となった。
それほどにも日本での肉食には、本来は重たい意味がある。
屠殺の卑しみが国家創世神話とすら結び付いている、非常に稀有な事例。
妻帯は僧侶故の禁忌であるにしろ、衆生ですら憚っていた肉食にも活路を与えた
親鸞聖人の悪人正機は、日本ならではの被差別階級解放の意義も持っている。
廃仏毀釈の国家神道によって、江戸時代まで真宗などの庇護下にあった部落階級が
一挙に大差別を受けることとなり、その陰惨さは島崎藤村の「破戒」などに詳しい。
これは明治以降の話。大昔からずっとそうだったのではなく、明治以降になって
初めて噴出し始めた大問題。屠殺業を擁護する手立てを失ったが故の惨事。
仏道が明治以前並みに復旧することで、部落差別が緩和されるという効果もあるわけ。
もうちょっと漢字減らして文章書いたほうがいいよ
読みにくくて仕方が無い
ネットで気軽に使える漢和辞典ってなかなかねえよなあ。
英和辞典や和英辞典はいくらでもあるのに。
漢字こそは、小さい頃に徹底的に習い込んでおくべきものなんだろなあ。
ただ大量の字を覚えておくだけじゃなくて、一つ一つの字に込められてる意義を味わう。
親鸞聖人の「鸞」なんて、小学生のころ何回も何回も書き込んだ覚えがある。
中型の漢和辞典だと、「ソ*」に次いで画数の多い漢字(30画)なんで、印象に残ってた。 * 鹿 ←こんな字
こんな複雑な漢字を実用する機会が本当にあるのか?と思いきや、仏教や儒学だといくらでもあるんだな。 鹿鹿 (33画)
「ソ」も「正法眼蔵」で本当に使われてるのを初めて見て、ああ、すげえ奴らだなと思った。坊さんってのはと。
漢字も漢語も日本語も使い抜いて、究極の域に達してんだ。密教関係だと梵語まで出てくるし。
言語学的な魅力の高さも東洋教学には備わってるんだが、如何せん難しすぎるのが問題か。
ギリシャ語やドイツ語やフランス語とは難易度が桁違い。英語と比べればもはや同じ星の言語だとも思えない。
あまりにも難解すぎる言語の修得者であることが、日本人に簡易言語の最たるものである英語の
修得度を落とさせている。中国語は文法が英語に似てるんで、中国人だとそんなに英語習得には難儀しないよう。
でも日本人は文字として最難解の漢字を使ってて、しかも文法としても最難解な日本語まで使っている。
最難解の二乗三乗で、もはや簡単であるものこそが難しい。そんな人間が一億二千万人ほど極東にいるわけだ。
299 :
井上筑後守:2009/08/10(月) 23:31:23 0
昭和54年に、曹洞宗宗務総長の町田宗夫師が、「日本に部落問題はない」「100年ほど前にあったことで
今はない」などの発言を世界宗教者平和会議で行ない、報告書中の「部落問題」に関する項を削除し、
同和団体などからの糾弾を受け、これが高じて曹洞宗は今でも「人権」「平和」「環境」という、仏教教義
としては馴染みの薄いモットーを掲げ続けている(曹洞宗・曹洞禅ネットwww.sotozen-net.or.jp/を参照)。
部落問題は、確かにある。ただ、あくまで明治維新による廃仏毀釈以降の話。
廃仏毀釈と大政奉還で仏教勢力や儒家勢力が強制退場をさせられ、国家神道と洋学の表裏一体による
近代主義的社会体制が打ち出されて、神道のケガレ信仰を緩和させる手立てを失った以降に初めて
部落問題は生じた。島崎藤村の「破戒」にそんな話は載ってないし、「カムイ伝」でもまるで江戸時代から
部落問題が存在していたかのような描写がなされている。でも、「破戒」には文明開化以前の部落階級の
処遇は全く描かれていないし、「カムイ伝」には坊さんもお寺も全く出て来ない上、武士も儒教道徳からは
著しく逸脱した極悪非道を平気で嗜んでいる。江戸までの部落階級の処遇への察知が全くいい加減で
あることがいずれも一致していて、それは結局、廃仏毀釈や大政奉還といった、明治維新文明開化の
負の側面から目を逸らしているからに他ならない。有効な社会機構としてのお寺や武家を排したが故に、
屠殺のケガレを容認する手立てがどこにもなくなった。国家神道はもちろんのこと、洋学にも部落問題を
真摯に解決するほどの素養はどこにもない(西洋に部落問題なんかはないんだから当然といえば当然)。
芝公園の増上寺は、あえて風水で不吉とされる場所に移築されたものだし、江戸城もあえて粗末な造り
とさせていた。仏教や儒家にはケガレや血みどろを十分に受け入れる度量があった。士農工商の下に
穢多非人を置いてたなんてのは、士農工商の上に皇族華族がいる日本に限っての特殊な事情で、
儒家だって本当は屠殺業を卑しむような慣習は全くない。犬も食うぐらいに肉食を極めていた思想。
ケガレ信仰という、神道の負の側面を十分緩和するに値するのは、洋学ではなく仏教や儒家のほう。
明治以降の仏儒排除によってこそ生じた部落問題が、仏儒の復権によってこそ本当に解消される。
300 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 00:09:29 O
だからな何を持って穢れになるかって話だよ?全員でアートマンを消したんだって。それ以外に汚れようがねーだろ。かわいそうな人たちは立ち直りもはえーんだよ。きしょくわりー
301 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 00:41:05 O
だから苦しみを受け入れるということはああいったものを受け入れて生むということだ。例えば日蓮はうまいけど情念は消えねーから知者でも穢れはありえるんだ。南あきなは真田が何世代も掛けてあそこまで引き上げた芸術にはなるんだ。情念は糞みたいに消えさらない。
座禅が座禅を座禅するようにして、腐敗が腐敗を腐敗してきた奴ら。
腐敗を積み重ねるシステム全体が最終的に腐敗して、それで終わる。
ちなみに、座禅が座禅を座禅するシステムは、最終的に座禅させられたからといって痛くも痒くもない。
むしろ無駄な仕事をさせられなくて済むからありがたいほど。ありがたや〜ありがたや〜
要は、「首尾一貫しているだけ」ということだ。何もかもが。
座禅は座禅を、腐敗は腐敗を首尾一貫してるだけだ。
今に始まったことじゃなく、昔からずっとそうだ。
このまま最後まで突き進んでいけば、それでいいだけ。
例え八十億劫の罪滅すといえども 人間四百年掛かるわ。心して掛かれ。
306 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 03:19:10 0
>>298 現代の言語学では言語に優劣はないですよ
あと日本語に似ている言語は世界中にいくつもありますよ
いわゆる膠着語というものです
それと英語が簡易言語というのいささかどうでしょうか
307 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 05:28:51 0
308 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 10:52:19 0
簡易言語圏の欧米人が作り込んでる言語学が、言語の優劣なんかを主張するわけがないわなあ。
イギリス発の宗教多元主義と一緒。領分が劣悪であるものこそが根拠のない平等を主張する。
禅や浄土によってこそ提示される、根拠のある絶対平等の境地とは似て非なるもの。
事実、差のあるものを無理に平等化しようとして、優れたものの長所を頭ごなしに殺いでいる。
その上劣ったものの短所も放任される。西洋版絶対平等主義であるはずの共産主義が
失敗したのも、長所を伸ばし短所を埋め合わす、平等主義としての真の素養を欠いていたから。
簡易言語には簡易言語なりの使い途があるわけだ。
数式とかプログラミングとか、あと洋楽の歌詞とか。
言語上の詩歌としての完成度が高すぎて、日本語の歌詞をどぎついメロディやリズムに乗せるとおかしなことになる。
玉鋼は日本刀のような単純な器物に用いてこそ映える。車などのからくり機械に用いるのは銑鉄で上等。
310 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 13:28:25 0
>>299 >「カムイ伝」には坊さんもお寺も全く出て来ない上
登場する。ちゃんと読んでみろ。日置が天領になって
草加竜之進が代官に就任したあとのエピソードで
どういう坊主が登場し、どういう役割を果たしているか。
あと、肉食を卑しむ思想こそ、仏教伝来以降のものだよ。
311 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 13:31:05 0
あと、日本において仏教と儒教がどういう関係にあったか
江戸時代の朱子学者あたりの文献を読んで確認してごらん。
江戸時代、日本のほとんどの儒学者は仏教に対して
否定的な思想をもっていたよ。
312 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 14:33:42 0
>>310 「すべての仏教が肉食を肯定した」なんて一言も言ってない。
肉食妻帯の容認を教義上の重要理念として掲げている真宗に限っての話。
「カムイ伝」は漫喫でざっと読んだだけで仔細までは覚えてないが、
仏教勢力が有効な役割を担っていた覚えが全くと言っていいほどない。
穢多や非人に真宗や日蓮宗の坊主が救いの手を差し伸べていた美談など、
史実にはいくらでもあったはずなのに(末木文美士「日本仏教史」など参照)、
全く救いもへったくれもない被差別階級と非人がなり、ルサンチマンを解消する
ために凶悪な侍へと復讐を誓う忍者と化すっていう、フィクションにも程がある。
313 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 14:35:26 0
>>311 東洋教学は決して、お友達同士でのなあなあばかりではない。
お互いをある程度評価しつつも、自身の教学こそが最高だという健全な競争を伴う。
朱子も最初は禅を修学して、座禅などの価値を認めつつも、より世俗性を重視する
儒教へと後に転向した。「近思録」にも禅や道家からの影響色濃い記述が多く見られる。
儒学をしっかりと修めれば、経世済民のための最善を当然のこととして尽くすようになる。
仮にそれのできていない武士がいたとしても、それは儒学を修められていなかった場合。
儒学を修めたせいで極悪非道になるなんてことはなく、あたかも「侍だから極悪非道
だった」とでも言わんばかりの「カムイ伝」の描写は明らかに事実誤認となっている。
元より忍者が一番活躍していたのは、キリシタンものさばっていた戦国時代。
家康公も最低限の必要悪として服部半蔵などを用いていた。そのしがらみがあって
江戸時代にもある程度伊賀者や甲賀者が残留していた記録はあるが、その頃には
もはや過去の遺物、泰平の時代における無用の長物と化していた。
「徳川将軍家は乞食坊主の出身」だなんてのも、別にひた隠しにしてたわけでもなく、
家康公自身、先祖の時宗にまつわる念仏を重んじていた。そして何より徳川幕府が
個別的に被差別階級を虐げたなんて事実自体が存在しない。四民制の下に穢多非人
を置いたなんてのは明治以降の創作、もしくは皇族華族との対比に基づいてのこと。
ケガレ信仰の根源である神道一色に日本全国が染まったことでこそ、部落問題は
救い難いものとして深刻化した。敗戦後、国家神道が終焉したはずにもかかわらず
同和利権なんてものが取り沙汰されるのも、近現代社会を実務面で取り仕切ってきた
洋学に、部落問題を解決するほどの素養がないから。ケガレ信仰という日本固有の
問題を煎じ詰めるには、洋学はそれ自体があまりにも穢れすぎているから、ケガレを
嫌がるという、清浄さの価値を知るが故の問題を解消するためには、みそくそではなく
清濁併せ呑む、精神的上位者による真の絶対平等措置が施されなければならない。
「清濁併せ呑む」は清がやる。
「みそくそ」はくそがやる。
上位であるものと下位であるものと、
いずれが率先して主導するかによって決まる、平等化措置自体の優劣。
315 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 15:51:55 0
>>310 「荒魂の巻・朝露」にほんの1ページ出てくるだけじゃねえか!
しかも協力を申し出たのに、即座に竜之進に突っぱねられてる。
権力者の経済の行き届かない所でこそ衆生を救済していた、
仏教勢力の活動がまったく描かれちゃいない。片手落ち両手落ちにも程がある、
「カムイ伝」での坊さんやお侍さんの描写。いくら忍者や百姓が主役とはいえ、
スケープゴートを捏造し過ぎ。やはり近現代の創作なんだなあと思うな。
資本主義陣営だけでなく、社会主義陣営にも事実誤認があるわけだな。
仏教こそ部落差別に荷担していたんじゃね?
差別戒名問題とか知ってるだろ?
仏教が肉食を忌むからこそ、肉関係の仕事が差別されたのでは?
317 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 17:25:34 0
>>308 あなたは本当に言語について視野が狭すぎますね
簡易言語とか言い出すなら
日本語も古代からずいぶん簡易になったんじゃあないですか?
そもそも簡易言語ってのが間違いです
318 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 18:54:47 0
西←イギリス語―ドイツ語―ギリシャ語―アラブ語―梵語―漢語―和語→東
東に行けば行くほど難解な言語になり、西に行けば行くほど簡易な言語になる。
難解なものはそのぶん取り回しもしにくく、簡易なものは取り回しがしやすい。
侵略植民した外国や外界に修得を強制しやすいのも、簡易言語ならではの長所。
その点確かに日本語は負けてる。国際権力犯罪加害を増長さす面で確かに
日本語は不向き。大東亜共栄圏へ日本語の頒布を目指した大日本帝国が
鬼畜米英に敗れたのもある意味当然のこと。不向きなことはやらないがマシ。
319 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 19:55:31 0
簡易言語って何?
分かんない
文字が簡素。文法も単純。語彙も少量。表現も画一的。
あと、「道徳」を意味する言葉(moral)が「寓意」という意味
を同時に備えていたりもする。道徳即ちほのめかしという
致命的な誤謬を伴っていたりもする、誠意に欠ける言語。
道徳の本質は誠意であり、しかも誠意と寓意とは相反する
という事実を理解できない言語。そういうのが簡易言語。
321 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 21:08:49 0
その考えが誠意に欠けてない?
322 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 21:21:47 0
昔、中国のとある地方の若者が官吏の試験に合格し、
都へと上るに際しての小さな祝祭が催されることとなった。
その祝祭に、とある老翁が現れて、若者にこういった。
「龍にはな、顎の下に一枚逆さに生えた鱗があってな、その鱗に
触れるとたちまち龍は怒り狂って触れた相手を食い殺してしまうそうな」
そう言ったきり老人はその場を立ち去ってしまった。
周囲の人々は、「なんだ、ボケ老人のたわ言か」と揶揄したが、
当の若者は「いえいえ、あれはどんな人にでも触れられたくない、
怒りを催す部分があるのだという教訓なわけです。そうしてあの老人は、
都で仕事に就いた時の心構えを諭してくれたわけです」と釈した。
周囲の人々は、若者の理解のよさに感心し、都に上ってからも
その若者は一級の官吏として存分な活躍を果たしたそうな。
これが「韓非子」にも載っている故事成語「逆鱗」の由来。
「逆鱗」という言葉には、社会生活を穏便に運んでいくための道徳的な意味がこもっている。
でも、この「逆鱗」という言葉を若者に対して説明した時の老人の態度は、
あえて全てを説明せずに、若者の理解度を試そうとした、「寓意的」な態度であり、
これは老人が若者よりもずっと年上の先達であったからこその態度。
決して老人の若者に対する態度が道徳的、つまり誠意的だったのではなく、
老人の説明した「逆鱗」という言葉の意味こそが道徳的だっただけのこと。
323 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 21:22:55 0
然るに、寓意的な老人の態度と、道徳的な「逆鱗」という言葉の意味とは別物である。
決して「道徳は寓意である」だなんて混同が起こらないのは、「逆鱗」という言葉の意味こそが
誠意に満ちており、主体的な道徳性を伴っているから。老人が寓意的な態度によって説明して
いるにもかかわらず、説明している「逆鱗」という言葉はそれとは独立して誠意的、道徳的である。
そういうことのない世界、何もかもを寓意で塗り固めて、「逆鱗」のごとき道徳的主体性を
伴った言葉や理念をどこにも持たない世界において、道徳と寓意とは同一視されてしまう。
正当で誠意的であることによってこそ道徳であるということが、いついかなる場合においても
あり得ないが故、ただただ寓話で仄めかし続けてればそれだけで道徳になるとすら思い込んで
しまう、その結果相手の「逆鱗」に触れてブチ切れさせたりすることともなる、犯罪寓意となる。
(crimoral)
道徳即ち寓意であり、故に不当で寓意的で犯罪的であるという、「moral」しか存在しない世界に、
「逆鱗」のごとき、真に道徳的な教訓はどこにも存在せず、何もかもが道徳不在のままに
処理される、極端に効率の悪い世の中と化してしまっている。漢語や日本語で「道徳」と
書いているほどに誠意的な道徳がどこにも存在しない、簡易言語によって形成された文化文明、
それらの文化文明に塗れている社会、行動即犯罪となり、何もしないほうがまだマシな世界となる。
324 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 22:02:27 0
漢語や和語のような本格言語に基づいて「道徳」と書いたり呼んだりしているほどの
倫理的意義を持つ言葉が、簡易言語には存在しない。イギリス語ももちろんだが、
たぶんドイツ語やフランス語にも存在しない。「道徳感情論」や「道徳形而上学原論」
は誤訳。正しくは「犯罪寓意感情論」や「犯罪寓意形而上学原論」となる。
道徳も訳せないような簡素な言語で物を言うことを憚って、日本人は本能的に英語の
修得を拒んでいたりもする。中国人だともっと過激で、道徳を知らない野蛮人を存分に
見下して、適当にあしらう程度の気持ちで英語を覚えたりする。でも日本人は、そこまで
清濁併せ呑みきれない人間が大部分。自国が英語圏より大きいか小さいかという点も、
中国人と日本人との間に、英語に対する達観の完全不全の差を開かせているだろう。
現時点ですでに漢語(中国語)話者は英語話者よりも多い。しかも世界最古の常用語
でもある。質・量・古さで世界一である漢語よりもさらに難解な日本語の話者であるという、
あまりにも次元の違いすぎる境遇が、日本人にいつまでも世界での立場のあやふやさ
をもたらし続けている。世界最高の言語話者であるという、自覚するにはあまりにも偉大
すぎる事実を、本人たち自身というよりは周囲の外人こそがわきまえてやるべきだ。
325 :
井上筑後守:2009/08/11(火) 22:47:45 0
>>316 浄土真宗聖典第二版補注9にも、
戒名としてインドの被差別民「旃陀羅」の名を部落民に用いた話がある。
ケガレもあるし、そのせいでの差別もある。
決してそうである事実を無視して根拠のない平等を主張するのではなく、
旃陀羅であるものにまで身を堕しても救われようという、現実を注視した
切実な平等志向が、親鸞聖人の悪人正機などには込められている。
いくら「末世」と言われていたとはいえ、今のような重大権力犯罪までもが
跳梁跋扈していたわけではない、親鸞聖人の生きた鎌倉時代初期、
聖人が悪人正機を主張する機縁となったのも、まだ存在しなかった
近代レベルの権力犯罪などではもちろんなく、日本でもインドでも
被差別部落だった屠殺業者などの存在だっただろうと思われる。
部落階級であるものが「カウボーイ」などとして持て囃されている国も
あった。鎌倉時代よりはずっと後の産物であるにしろ、被差別階級を
無理矢理のし上げてしまう、暴力的革命主義は結局のところ
少しも真の差別を解消できてはいない。屠殺業は普通の人間から
すればやっぱり恐ろしい。生きた牛や豚を打ち殺してかっさばき、
肉塊により分けるおどろおどろしさを無理矢理正当化するよりは、
おどろおどろしくはあるもののある程度は存在せざるを得ない必要悪
として受け入れ、屠殺のケガレを真摯に乗り越えて絶対平等の浄土を
欣い求めることが、本当に旃陀羅であるものに対する真の救いとなる。
326 :
考える名無しさん:2009/08/14(金) 01:50:19 0
今度英語の原書でバイロンの詩を読もうと思っている
ショーペンも愛好してたから楽しみだ
327 :
井上筑後守:2009/08/14(金) 12:54:13 0
エジプト神話にも、西方に死後の楽園が存在するとの伝承があった(矢島文夫「エジプトの神話」)。
これが多分、ゾロアスター教などと共に仏教まで影響をあたえて、西方浄土信仰となった。
阿弥陀仏のまします十億万刹の彼方の西方への往生を選択本願とする浄土教は易行道とされる。
中央の大日如来、東方の阿しゅく如来、南方の宝生如来、北方の不空成就如来らもいる中で、
西方の阿弥陀如来からの無量の威光によって救われんとする他力が、一番簡単な方法となる。
日の出ずる東方たるインドや中国、日本などの人間からすれば、西方は安易さの象徴となり、
安易であるにはあるなりの信仰対象ともなった。日没する処の簡易言語によって形作られた社会、
簡易であるにはあるなりの価値もあれば、無価値もある。人間性に関しちゃ全くの無価値で、
かえって有害ですらあるが、人間性を蔑ろにしてきたにはしてきたなりの、特殊な文化文明の
構築もある。ゴキブリやナメクジも同じ地球上の生き物である程度には、認めなければならない。
328 :
考える名無しさん:2009/08/14(金) 13:06:17 O
他力は鎌倉から明治時代に掛けて弥陀の他力を望みとする人間の本質に本願を持つちからなれど餓鬼の知力から本願を見破ること知ることは難しくなっている。簡易言語については左脳の発達により知るということが文明の害になっているね。
329 :
Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2009/08/15(土) 00:15:30 0
>>326 ああ、いいねえ。
私は、ホワイトヘッドが愛好したワーズワースなんか読んでみたい。
ロバート・ブラウニングとかも良さげだよね。
330 :
考える名無しさん:2009/08/15(土) 00:39:52 0
>>329 ワーズワースはわたしも読んでみたいですねー
ショーペンも読んでたみたいです
ロバート・ブラウニングというのは知らないのですが
こちらも興味が湧いてきました
しかし今はシェイクスピアとバイロンを読んでみたいですねー
331 :
考える名無しさん:2009/08/15(土) 10:18:59 O
「自覚聖知」とは禅にある言葉ですが、自覚が大事でしょうね。
浄土門の「親鸞ひとりがためなりけり」もそうかもしれない。
犯罪被害者の分際でカッコつけたってしゃーない。
いわんや、犯罪加害者の秒際をや。
態度の意地汚さですら、権力犯罪下という現象の映し鏡でしかない。
そこは少しもカッコ付ける所じゃない。
カッコ付けて内面の醜さを撹乱隠蔽すべきような所じゃ。
加害者を嬉しがらせるような虚飾にも一切協力せず。
内面も醜く、外面も煎じ詰めれば醜いだけな今、
内外共にカッコよくなることを誓う今後。犯罪が取り締まられてからの。
少しだって犯罪という現段階の問題の核から目を逸らさない。
あって余計であり、なくて別に困らない犯罪という有害無益への
最善なる処理姿勢を崩さず、もっと善い方法があればすぐにでも
そちらへとなびく。もちろんそれは強制的に取り締まる以外にないんだが。
少しも「劇的」でないところが、悲喜劇お構いなく
劇的であることばかりを求めるウレシどもに対する最大級の罰だ。
ただ寝転んで何もしないだけ、王君の補佐としての役目に徹して、挑発攻撃されてもただ引き下がるだけ。
特にこれといった悲喜劇に加担していない所も含めて、釈尊や孔子の真の聖賢たる所以だ。
ウレシを喜ばせる所なんかに、聖賢たる所以など存在しない。
全宇宙全人類の利得を考慮するが故に、かえってそのような利己主義者への分け前は減る。
利己主義こそが不必要な悲喜劇を招くものだから、対処法としての平穏無事を決め込む。
334 :
考える名無しさん:2009/08/16(日) 02:07:18 0
今さら読む価値が全く見出だせないのはもちろんだが、だからといって、
大量破壊兵器を大量保有した凶悪犯罪者に「読まなきゃ殺す」などと
脅迫された日にゃ、嫌々ながらも読むしかないだろう。
無理に異常犯罪者なんかに抗って無駄死にするのも、ウレシには劇的に見えかねないから。
どこまでも適当に、適当に、無難であるほうへと流れ落ちて行く。
それが権力犯罪被害者あたりには分相応の態度。匹夫の勇なんかよりよっぽど。
何しろ、相手は「犯罪者」なわけだから。
対等な競争での敵やライバルではなく、犯罪者。
無理に対抗心を燃やしたりなんかしたところで、
「キ○○イがうつった」扱いされるだけでしかない。
常人には百害あって一利なしな犯罪者への対抗。
全く対抗しないことこそは唯一有効な対抗となる。
337 :
考える名無しさん:2009/08/16(日) 23:44:43 0
905 :考える名無しさん:2009/08/16(日) 01:48:39 0
「無理子さん、ボッ、僕と付き合ってくだしゃいいー!!」
「こちらこそよろしくお願いします」or「ごめんなさい」
的な、ねるとん止まりの男女関係にはもうさよなら。
有無を言わさず貰い受ける、ウチの財物として。
これがこれからのトレンド。古くて新しい温故知新。
ウンともスンとも言わないフィギアばかり愛でてたオタクたちには朗報だ。
その要領のままで生身の女を娶れ。樹脂人形なんかにぶっかけてないで
生肉にぶっかけれ。そういう風にできている生き物に対して。
金剛不壊
儒教ってそんなに善を目指す教学だったけ?
「勧善懲悪」の語源は、「左伝」成公十四年の「懲惡而勸善」。
忠臣蔵に南総里見八犬伝、シェイクスピアヲタの坪内逍遥に貶められた後も
数々の時代劇等を通じて、武家社会の勧善懲悪精神は連綿と受け継がれてきた。
戦隊ヒーロー物のリーダーが必ずレッドなのも、「論語」などにおける「朱色」の重んじに依る。
決して共産主義の赤でないのは、レッドと共にブルーやイエローやグリーンやブラックやピンクも
出てくる所からも分かるとおり。多様な価値観がある中でのリーダーであることが善いということ。
仏教だって本当は諸悪莫作衆善奉行(法句経、正法眼蔵等)、断悪修善(秘蔵宝鑰等)を
主目的とする。縁起だなんだと抽象的な概念で薄められようとしているのは、それだけ今の
世の中が悪や善悪みそくそに塗れているから。儒家や仏教の刀身である勧善懲悪や断悪修善は
はじに置いといて、鞘や拵である諸々の概念ばかりを偏重している。敵に回すにはあまりにも強大
偉大過ぎる相手の、明らかな敵性の証拠から目を背け、配下となることを何とか避けようとしながら、
不相応な友好他愛を押し付けようとする。どこかわだかまりの残り続ける関係で有り続ける。
「勸善懲惡」
「斷惡修善」
「春秋左氏傳」や「祕藏寶鑰」での正しい字体。分かりやすい言葉でも、漢字ならここまで荘厳される。
アルファベットやギリシャ文字じゃ、どんな訳し方でもこの味わいまでは分かるまい。
しかも、ここにこそ中国・印度両超超大国が生んだ東洋教学の精髄が込められている。
悪を懲らし善を勧む、善悪という対極を夫唱婦随の如く見事に調和させている勧善懲悪と。
悪を断って善を修める、悪からの依存を離れた純善の推進に特化された断悪修善と。
極めて簡明直截ながら、印中両国の旺盛な心意気が、それなりの区別も伴いつつ示されている。
やたらとでかい割りに、その存在意義が今の外国人にとっては分かりにくい状態であり続けている。
それもやっぱり勧善懲悪や断悪修善といった、巨象の総合的な正体を見抜けないでいる群盲だから。
中共の暴虐、カースト制の大差別、メディアで取り上げられているような部分を見ると余計分からなくなる、
全盛期の古典を読み返したりすることによってこそ計り知れる、地球一、二である超巨大社会たちの正体。
日本の歴史で言えば、江戸時代が勧善懲悪の時代、平安時代が断悪修善の時代。
犯罪を根絶はさせられていなかったが、鬼平のような悪を懲らす正義のヒーローが大活躍していた江戸時代、
弘法大師らの魔力によって本当に犯罪を根絶し、死刑一つない、源氏物語のような雅も生み出した平安時代。
前者は250年程度、後者は350年程度、初期や末期の錯綜時期を省いても、やたらと何もなかった時代。
大戦争や大革命のような国家レベルの悲喜劇が完全に排されていた、平穏無事の限りを尽くした時代。
それも要するに勧善懲悪や断悪修善が尽くされていた時代。儒家や仏教の総力が発揮されていた時代。
長く太い割りには、何もなかったり、似たような王朝の交代劇ばかりだったりするような印中の歴史と共に、
仏教や儒教の入れ替わり立ち代りの能力の発揮が行なわれていた、日本の歴史も見直されることとなる。
極端に過剰な悲喜劇性を伴ったりはしない平穏無事、にもかかわらずではなくだからこそ善かったということ。
勧善懲悪や断悪修善が尽くされた先に、だからこそ平穏無事だった無数の事例が印中や日本にあるから。
それであなたは現実世界で断悪修善と勧善懲悪を実践しているの?
読書の中で思いを馳せてるだけとかじゃないよねまさか
344 :
井上筑後守:2009/08/21(金) 17:18:09 0
もちろん、「最善」を尽くしているさ。
なかなか分かりやすく勧善懲悪や断悪修善を実践できない
時代であるにはあるなりの、最善をなあ。
お侍さんとお坊さん、実践上では、若干どころか全くの別物にすらなってしまう
勧善懲悪と断悪修善にも、明らかに共通しているのは、「最善を尽くす」という点。
悪を懲らすのと悪を断つのと、実践方法が別でありつつも個々人としての最善を尽くしている。
今の政治家や役人が誠意ある対応を求められた時に「善処します」などと
ほざくことがよくある。でも善処ってのは、善であるか悪であるかという場合に
善を採るという程度の、ゾロアスター教的な二元選択主義でしかない。
でも勧善懲悪や断悪修善の場合は、善悪がある場合に善を採るなんてのは当たり前。
そこからさらに、善きもの同士の間でさらに善きものを目指し、悪いもの同士の間に介在させられた
時もできる限りマシであることを目指す。あらゆる時と場合において最善を尽くすことが求められる。
今という時代、この時この場合において最善を尽くすといえば、何といっても「犯罪はしない」
のが最善。もちろん大昔から、犯罪をしないぐらいの取り決めは当然のこととしてあった。
仏教で犯罪の禁止が厳重に取り決められているのはもちろんだし、
鬼平だって兇族を一網打尽にするために、浪人を装って仲間に加わるようなフリをして
途中まで盗み働きを協力したりするものの、最後には必ず犯人どもを取り押さえていた。
行動即犯罪とまで言えるほどの今の世の中で、悪を懲らしたり善を修めたりするのはなかなか
非現実的ではあるから、犯罪をしない程度のことができればそれだけでも最善は尽くされている。
もちろんそこからさらに懲悪や勧善修善に進められたらそれに越したことはない。
ただ、現時点において最善であるのは何といっても悪いことをしない、断悪の実践。
罪悪とのみそくそ処理を伴いつつの懲悪や勧善修善以上の価値を持っている。
345 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 20:11:01 0
書き込み率が下がって来たね
そろそろネタ切れかな?
漢文をちょっとかじった程度で、ネタ切れもあるまい。
古文なんかまだほとんど手も付けちゃいない。
そして何より、人類史上最大級の古典文献群である大蔵経もある。
自分一人じゃ、到底網羅のしようがないことへの諦めは確かにある。
大蔵経の本格的な研究も、あくまで本職の坊さんにお願いしたい所。
研究体制を用意して、主要部分を研究することまでが自分にできること。
一人や数人での、自己愛友愛プレーでどうにかなるもんじゃない。
347 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 20:51:11 O
そうではない。心の方向とは心の生きる方向。心の生まれる方向だ。何が妨げになっているか?何が障害になっているか?何を動かすべきか?それはすべてに対峙しているのだ。最後まで見て異端ない。
なんか、東洋古典に書いてあるから正しい
西洋古典に書いてあるから間違い
みたいになってきてない?
あなたが西洋嫌いなのはわかるけどさ
血ぃ昇ってるんだ。はやく。
350 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 21:31:20 O
念の起こるはこれ病
続けざるはこれ薬
一切の善悪
すべて思量すること勿れ
351 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 21:32:27 O
生きながら死人となりて
なりはてて
心のままに
なすわざぞよき
教学や文化文明での東洋優位西洋劣位は、
聖徳太子の日の出外交や、スフラワルディーの照明論などの確かな根拠がある。
日出ずる処、陽光に親しもうとする者の到達地点である東洋と、
日没する処、陽光を嫌う者の避難場所である西洋と、
自然と両者の形作る文化文明に、上手下手、優劣の明暗が生じた。
それでは東洋とは逆に、西洋が完全なる暗黒文化、
暗闇だけに依存した文明であるのかといえば、そうではない。
東洋よりも比較的暗い文明、陽当たりが悪かったが故の多少陰湿な文明であるのみ。
光がある限りにおいて人間は生き、多少光に恵まれたり恵まれなかったりするのみで、
結局の所古今東西、あらゆる地球人類の文化文明が、光の扱い方を問題としているには代わりない。
光の扱い方が上手かったり下手だったりしたせいで、文化文明の優劣も生じた。
だからこそ、十万億刹の西方にも無量“光”寿仏、阿弥陀如来がいらっしゃるわけだ。
どんなに西方へと逃避し尽くしたとしても、結局は人間は光から完全には逃れられないことの証拠であるわけ。
353 :
井上筑後守:2009/08/23(日) 23:20:37 O
東洋だけで独立して、絶対的な善悪は認められない。
ただ西洋と比べてより善徳に親しもうとする趣きがあったのみ。
同じく西洋だけにも、絶対的な善悪は認められない。
ただ東洋と比べてより罪悪を嗜もうとする趣きがあったのみ。
ほんの数百年前まで完全なる独り歩きだった、東西それぞれ。
東洋のほうも、それが普遍的な善徳だという自覚もないままに善徳の修習に努め、
西洋のほうも、それが普遍的な罪悪だという自覚もないまま罪悪の積重に努めた。
だからこそ東洋古典には、善悪二元論を離れた所にある一元的な善を意味する
「徳」という言葉はよく出てくるものの、「善」という言葉まもでがそんなに特筆して多くは出てこないし、
西洋古典も執拗に悲喜劇などを描き込む一方で、それが現実の実践に
落とし込まれた場合に致命的な罪悪となることは、つとに指摘されていない。
354 :
井上筑後守:2009/08/23(日) 23:22:29 O
それらが善悪でいうところの善、善悪でいうところの悪であるという
各個たる自覚もないままに、善徳や罪悪の積み重ねを続けてきた東洋や西洋。
今になって優劣が確定したものの、東洋が西洋と比べての優位を目的として善徳を積み重ねたこともなければ、
西洋が東洋と比べての劣位を目的として罪悪を積み重ねてきただなんて事実もない。
ただ、結果としてそうだった。
善徳の源である陽光に親しんだ東洋が優位となり、罪悪の拠り所となる暗闇を追い求めた西洋が劣位となった、
結果としてそうなっただけで、誰もそうであることを確信的に追い求めていたわけではなく、
ただ「宗教」とか「学問」とかいった、目的が漠然とした枠組みの内側だけで、最善を尽くしてきただけ。
東洋人も自分たちなりの教学の枠組みにおいて最善を尽くし、しかもそれは本当に最善を尽くしていた。
西洋人も自分たちなりの教学の枠組みにおいて最善を尽くし、残念ながら逆に最悪を尽くしてしまった。
今までにも全地球人類がそれぞれに最善を尽くそうとしてきたことに変わりはなく、
またこれからも最善が尽くされることだろう。
東洋人であれば、これまでのままで首尾一貫していることで最善が尽くされ、
西洋人であれば、何もかもをやり直すことで最善が尽くされる。
お互い最善を尽くす手段は真逆であるにしろ、
これまで通り、これからも最善を尽くそうとする意気込みだけは、全く同じであり続ける。
サキヤ格言集は読まないのですか?
もしくは読みました?
「善と悪とは誰にでも分かる。混ざった時に区別できるのが賢者である(ウェブ上の名言集より)」
なかなかいいこと言ってんな。善悪みそくそのより分けはゾロアスター教が発祥だが、
ラマ教含む密教にもある程度の影響は及ぼしてたんだろうな。
仏教中でゾロアスター教の影響色濃いのは他に浄土教がある。
「善悪などない(華厳経)」ともある華厳思想を拠り所にする禅などとは少し違う。
善悪って世俗の問題だから。善因楽果悪因苦果の罪福もあくまで世俗での話。
神仏と無縁な自業自得によって形作られる、人界での問題。
坊さんは完全に人界から隔絶してるから問題ないが、相も変わらず世俗の内側で
活動している人間が「善悪などない」などというのは、逃げ切れてない現実逃避となるぞ。
>>356 今度10月に岩波文庫のサキャ格言集復刊されるようですよ
ところで論語は誰の翻訳で読んでいますか?
色々と出ていますが挙げると、岩波・講談社学術文庫・中公文庫などが出ていますが
岩波版しかもっていないんですが、他のも当たるべきでしょうかね
今月から刊行され始めた「高僧伝(全四冊)」の訳も注目だな。
でも、同時発売の西洋文学や近現代思想の目録を見ると、
やっぱり岩波文庫もみそくそだと思うがなあ。
「論語」は岩波文庫版と、講談社学術文庫版の「論語新釈」と、
「中国古典名言事典」の抄訳で読んでいる。
やっぱり岩波文庫版が一番卒がない通行本で、「論語新釈」は
戦前の昭和天皇への謹呈版で、文庫にしては随分と豪華。
名言事典版は「旅のお供に」という程度。研究には値しない。
「論語」は本文からしてごくごく分かりやすいものなんで、
それだけを集中的に研究するよりは、「孟子」や五経に進みつつ
対照してみることが、論語のほうのより重層的な理解にも繋がる。
「詩経」の趣意を「思い邪なし(為政第二)」と評した気持ちも、
「既に酒に酔いぬ、既に徳に飽きぬ(詩経・大雅・既酔)」などの
無邪気な格言の参照によって確かに明らかになる。
儒学の入門書であると共に精髄でもある論語、最大級に
活用する上では相当に広範な研究分野が広がっている。
>>358 高僧伝も余裕が出来たら読んでみたいですね
「論語新釈」は昭和天皇への謹呈なんて偉く凄い本ですね
取り敢えずはこれ、買って見ます。
詳しいレスありがとうございまーす
360 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 04:04:04 0
自作自演スレ
晒しあげ。
361 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 10:36:12 0
「小さくても気の利いた少年は、『君は徳のある人間になりたいか』と聞かれると、皮肉な目付きをするであろう。
しかし、『君は君の友達よりも強くなりたいか』と聞かれれば、かっと両眼を見開くことであろう。」
(フリードリヒ・ニーチェ『若き力への意思』『人々への言葉』)
362 :
考える名無しさん:2009/08/25(火) 10:37:48 0
[脱構築の一般的定義]
「形而上学の脱構築(deconstruction)とは、ハイデガーの『存在論の歴史の解体(Abbau, Destruktion)』に示唆を受けたモチーフである。」
「脱構築」の実践とは、「形而上学的諸概念の階層秩序的二項対立の解体作業として整理できる。
階層秩序的二項対立に対して、脱構築は一般に、劣位におかれたものが何らかの形で
優位におかれたものの可能性の条件にかかわっていることを示し、両者の境界線が厳密には決定不可能であることを暴露することによって、
規制の価値序列とは別の関係、別の〈他者との関係〉の可能性を開こうとする。」
(『フランス哲学・思想事典』弘文堂 1999年)
363 :
井上筑後守:2009/08/25(火) 10:53:29 0
西洋に漢字で「徳」と書くほどの立派な徳(
>>353参照)は微塵もなければ、
その徳を現実レベルの政治で実践できた人間も一人もいない。
逆に数多の悲喜劇を、それが現実には単なる罪悪にしかならないこと
を撹乱隠蔽しつつ実践してきた罪人悪人はいくらでもいる。
善徳に重きを置いてきた歴史と、罪悪に重きを置いてきた歴史と、
長い長い年月の重層が、東西の言動規範を相反させてすらいる。
364 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 18:47:12 0
徳は得である
>>354 井上さんも西洋人らにも光を見出したんですね
思い付く限りでも、最も苦しいこじつけによってではあるがな。
過失の罪を故意と同等には問えないのは「マヌ法典」などにもあるとおり。
いくら自己洗脳・自己欺瞞とはいえ、欺きの内側でのみ
罪を犯し続けてきた西洋人の責任をそう多くも問えまい。
財産没収→禁治産処分→精神治療→服役→・・・
どの段階まで現実に執行されるかのさじ加減は十分に配慮されて然るべき。
東洋教学は体の健康にも役立つね
東洋人は長寿が多いのも分かるかも
民主が当選してしまったよ!
井上さんの意見は?
日本はどうなるんだろうか・・
国民投票では、民主主義しか当選しない。
“民主”党であれ自由“民主”党であれ、国民の意思を尊重するフリをしたへつらいばかりがウケる。
他にはせいぜい共産主義や独裁主義が、泡沫政党としてわずかな支持を受ける程度。
まかり間違っても、君臣の序列を徹底する封建主義が支持されるなどということはない。
為政者と民衆とは、さながら夫と妻のよう。
本来は夫の側が妻をめとり、しっかりと自分に付いてくるよう促す夫唱婦随が理想だけれども、
国民投票を含む、民主主義の完勝を大前提とした出来レースの下では、
決して夫たる為政者の側が妻たる民衆をめとることが許されず、
必ず妻の側が夫を選ぶこととなり、レディーファーストを標榜する軽薄家に安々と付いて行き、
当選後も到底夫唱婦随とは呼べない、
夫の妻への媚びへつらいばかりで塗り固められた、陰惨たる政治ごっこが横行する。
今の社会制度では根本的に実現しえない所にこそ、本当に善いものがある。
有無を言わさず妻をもらい受けて、家財として丁重に保護し、
責任を妻に丸投げする民主主義の場合以上に、妻である民衆の「利権」を尊重する。
人権ではなく利権。利権が守られれば自然と人権も守られることとなる。
それなのに民主主義者が利権ではなく人権の尊重を標榜するのは、
実質性など無いに等しい割りには聞こえのいい人権という言葉に衆目を群がらせることで、
本当に実質的な利権のほうの、自分たちへの我田引水から目を逸らさせるため。
人間は汚ならしい生き物。
利権のためには他者の人権ぐらい平気で踏みにじる。
本当は、民主主義下でも民衆の利権はおろか、人権すら必ずしも守られちゃいないんだが、
もはや人権という言葉が、家畜として飼い慣らされきった民衆への焼き印と化し、
不満はあるのに何が不満なのか分からない、思想哲学から完全に丸めこまれた、
全国民総洗脳化社会が確立されている。
まあ、つまらないことだ。
あって余計でありなくて別に困らない、あるよりはないほうがいい政治欺瞞、
引いては権力犯罪までもが相も変わらず横行している社会、
とにもかくにも、そうであるからつまらないという点に結論は集約される。
余りにもつまらなさすぎて、まだ何もしないほうがマシなほど。
何もしないことで社会参画を拒絶するほうがよっぽど楽で楽しい。
いや、それだって大して楽しくはないが、欺瞞や犯罪が無闇やたらと横行する社会に
関わるよりはまだ楽しいという、消去法的な選択。あくまで。
欺瞞も一掃され、犯罪も企まれる側から摘発されていく健全な社会へと没入していけたならば、
それに勝るものはない。何もしない以上に楽しいのはあくまで、一概に善いことだけ。
それが無理だってんなら、何もしないだけだ。辛く苦しいだけの悪いことをするよりは
まだマシな、何もしないに従事するだけだ。現時点における最高権威たる、何もしないに。
この何もしないって難しいですよね
必ずしも行動することが善い方へ向かうとは限りませんよね
でも現代の人間はやたらと何かと行動したがるように感じます
そしてやたらと物に溢れていますし
そんなもの本当に必要なのか、と思うものまで
TVも付けたら宣伝だらけでとにかく物を買わせようとしています
あと外に出ると騒音だらけ
一番の騒音の原因は車なんですが、あれで相当現代人の聴力は低下してるんじゃ
ないですかね
「何もしない(無為)」ってのは、あくまで仏教や道家の理念。儒家とは違う。
「論語」子罕第九・二八に、孔子の門弟子路が「悪いことをせず、何も求めなければ、
善くないことなど起こりえない」と主張してたのを、孔子が「その程度では善とはいえない」
と批判する話がある。他にも憲問第十四・三に「安住の場ばかりを求めるのは士人ではない」、
陽貨第十七・二二に「何もしないぐらいならゲーム遊びでもやってたほうがマシだ」とあるなど、
過度の退却性を戒める言葉が多く遺されている。儒者であるなら本当はバリバリ働くべき。
でも、顔淵第十二・二に「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」ともある通り、人様に迷惑を
かけるような過度の悪事にだけは手を出すなという、適度な制動ももちろん利いている。
だから憲問第十四・三九に「世の中が乱れている時には世を避ける」ともあるし、
逆に衛霊公第十五・五では、何もしないことによってですら世の中を平定した
舜の功績が讃えられたりもしている。
常人にとって一番善いのは、あくまで善い仕事に励むことであるとした上で、善い仕事が
ない非常事態に限って無為だったり、ゲーム遊び程度に止めおくことが許されるのが儒家。
そうでなく、無為を本当に完全肯定するのが道家や仏教。世俗的には本当に何もしない。
悪いことをして苦しむ自業自得ばかりの俗世に見切りを付けて、退避にこそ価値を見出す。
座禅も念仏も世俗的に何もしない代行としてこそ為されるもの。大変な修行に励むことで
世の中のほうでの悪いことをする余裕がなくなることも、本当は見越されている。
完全に世俗的な活動を自粛するか、それとも善い仕事に限って積極的に参加していくか、
断悪修善か勧善懲悪かは、最終的には個々人の選択にかかっている。自分個人としては
勧善懲悪のほうを選択する所存であるけども、断悪修善を選択する人間がいたとて決して
咎めはしない。坊さんはもちろんのこと、主婦だってある意味断悪修善の選択だといえる。
人類の半分以上は大昔から断悪修善であり続けてきた。だからこそまだ人類もある。
何もしないことに何かをすること以上の価値を置くことはそれだけで、実は人類のパワー
バランスを逆転させるほどの意味を持っている。西洋>東洋だったのが東洋>西洋になるし、
男>女だったのが女>男にもなる。ただ何もしないことに重きを置くだけでそうなるんだから、
一体近現代の人類は何をやってたんだろな?ということにもなる。不必要に悪いことばっか
して自業自得で苦しみ続けてきた徒労。お疲れ様でした。善い仕事もできないような人たちは
みんなもう休んで余生を全うしなせえ。もちろんそれも、何もしないことが偉いとした上での話。
キリスト教が嫌いなら必然的に墨家も嫌いなるよね
全くならない。墨家の博愛は、隣人愛や友愛よりも、むしろ仁愛に近しい類の愛。
仁愛ほどの公共性はないものの、博愛もまた仁愛と同じく「全愛」を追い求めるもの。
「偏愛」こそを追い求めている隣人愛や友愛のほうからこそ程遠い。
そしてキリスト教だけを執拗に嫌うだなんてこともない。
極端な偏愛家集団への、制裁措置としての村八分を講じているのみ。
自分たちの理念からの過ちを認めるのであれば、いつだって許されるもの。
聖書によってではなく、聖書ではダメであることを認めることによって、許される。
正式名称「権力犯罪聖書」であるところの、通称「聖書」によってではなく。
井上さんの視力を教えて下さい
ある意味インド哲学も洋学じゃないかね
>>376 非常によくない。0.01とかそのあたり。
眼精疲労もひどく、アイシングやブルーベリーで何とかごまかしてる。
文字の扱いすぎで本当に失明した例も、諸橋徹次氏やオイラーなどがある。
眼球の寿命が尽きると、視力回復手術でも治らなくなるそうな(原哲夫談)。
人間の目は、一生二次元に付きっ切りでいられるようにはできてないんだな。
>>377 「アブラハム教か否か」であれば、西洋+アラブとそれ以外が分かれる。
「コーカソイド系か否か」であれば、欧米+アラブ+インドとそれ以外が分かれる。
区分の仕方によって、インドやアラブやアフリカの立ち位置は大きく変わる。
じゃあ東洋教学と洋学を分かれさす区分は何かといえば、「非カルト・反犯罪か否か」。
中国、インド、アラブ、日本その他、凡そ西洋教学(洋学)と無関係である文化圏の
教学すべてが非カルト・反犯罪を旨とし、洋学を生み出した聖書圏こそが犯罪カルト。
日本にも創価やオウムなどの形である程度は犯罪カルトもある。でもそれは決して
東洋教学としては正統ではなく、むしろ聖書主義や洋学にこそ近似するもの。
カルトや犯罪を論理的前提として容認した上で、推進させた挙句にやっと制動する
マッチポンプのポンプ役が洋学で、マッチ役が聖書教ないし聖書主義。
カルトや犯罪を推進しようとする論理的前提すらなければ、わざわざそれらを深刻化
させてから死に絶えない程度に抑え付けてみる低コスト高パフォーマンスの徒労に
奔走する必要もなくなる。そのための参考になるのが東洋教学。洋学ではないという
意味での。アラブから日本まで、日出ずる処の性根明朗な教学がそれを実現する。
>>378 ありがとうございます
パソコンのやりすぎは健康に悪いんでしょうね
目にも体にも
疲れた眼球に、タオルやまぶたを介さず、直接清潔なアイスノンなどを軽く押しあてると、
みるみる凍ってたのが溶けてブニャブニャになり、翌日からは当分疲労が軽減される。
目薬や洗眼よりもよっぽど効果があり、しかも眼球の保護膜を洗い落としたりもせずに済む。
モニターや携帯の画面を見続けているような眼は、軽い火傷状態にあるといっても過言ではなく、
夜間にまで活動を延長させる照明器具も、眼球に休息時間の切り詰めを強要する。
モニターも電気照明もなかった前々世紀までの人々は、
よっぽどの勉強家でもない限りは、眼球の疲労をさほど気にする必要もなく、
日が登り沈むまでの白昼の明るさの中でこそ、最善なる生活を営んでいたわけだ。
そこでこそほぼ全ての東洋教学も醸成され、しかも日の光に親しむ東洋人としての本領をも発揮していた。
東洋だろうが西洋だろうが、昼夜を問わず光源に与れる近現代とは違って、
日の光にこそ親しんでいたものと、むしろ忌み嫌っていたものとの格差が開き続けていた。
西洋人はともかく、東洋人にとっては、今一度日の光への親しみによってこそ育まれてきた
自分たちの文化文明の優秀さを見直すためにも、日の光の価値をも考え直してもらいたいもの。
闇よりも光を、夜よりも昼を好き好んで来た真正なる陽性さをわきまえてもらいたいと、
深夜に有機EL画面の携帯から書き込んだりしてみる。分不相応にも。
382 :
考える名無しさん:2009/09/13(日) 23:54:13 0
最近書き込みが滞ってますね
イスラム哲学やイスラム系の学術って過小評価されてますよね
やけに。
重要そうな文献もほとんど未邦訳ですし。
384 :
井上筑後守:2009/09/14(月) 23:28:03 0
>>382 現時点においてこれ以上伸びることが見込めない。このスレは。
インドやアラブの多くの文献が未邦訳。それだけでなく
漢文や大蔵経も、一部の主要文献が抄訳などされている程度で、
戦前の国訳版などはただの読み下しでしかなく、一般人には到底判読不能。
自分一人で全てを判読しようにも、それ以前にこの眼球の寿命が尽きる。
研究すべき文献はまだ今までの何千何万倍とあるのに、
東洋教学に対する研究姿勢が極端に杜撰な現状では、
十分な研究が物理的に不可能となっている。
大蔵経がデータベース化されようが、英訳されようが、真に誠実な
人間による研究を待つ、誠実な文献の研究への少しの手助けにもならない。
今の世の中では超人扱いされるほどの道徳者を大量生産することで
やっと十分な研究が可能となる、超超人たちによる超超巨大古典分権群。
有志者を募っても、有能者が集まるとは限らない。問題山積な現状だ。
>現時点においてこれ以上伸びることが見込めない。このスレは。
何故ですかそれは?目に病気でもしたのですか?
そういえば最近目の疲労についてかかれてますし
アラブの書物には私は憧れますねぇ
アラビア語最近学ぼうかとも思っています
386 :
井上筑後守:2009/09/15(火) 23:41:46 0
ある程度最善を尽くすと、それでも越えられない絶対的な壁の存在に気付く。
東洋教学は一人や二人で研究し切れるような代物ではない。
全てを研究し尽くすどころか、一、二合目あたりで確実に眼球の寿命が尽きる。
別にいま眼が見えなくなりそうになってるわけじゃない。かなり疲れてはいるが。
東洋教学を全把捉することを、今までの研究姿勢に対する眼の疲れから
計算してみた結果、確実に失明する。全てとは言わず、
一、二割把捉できた時点ですでに確実に失明する。どれほどの学習能力の
持ち主であろうとも、人間としての身体構造の凡その限界には逆らえない。
陸上100mの記録が10秒を切ろうとも、2秒や3秒になるのは無理なように。
このスレを9999まで伸ばせたとして、それでも把捉できなさそうな感じ。
自分独りで一生のうちに伸ばせるのは、数百スレまでがいいとこ。
ここでやり抜いたとしてもそうだし、どこでやったって結局凡その結果は同じ。
個々人の人間としての限界を、個々人の中の一人として感じている。
弱音を吐くことは最善すら尽くしていない場合に起こるが、限界に気付くことは
最善を尽くそうとも起こりうる。限界に到達しても桁外れの先がある領域。
387 :
考える名無しさん:2009/09/16(水) 01:08:00 0
そうですか・・
東洋教学は漢文だけでも膨大なのに(新釈漢文大系だけでも100超えてるんでしたっけ)
朱子だけでも500巻以上あるんですよね。もうこの時点で一人では無理ですよ。
更に仏典、ヴェーダ、イスラム学術。
眼に就いてですが一度眼科で定期健診を受けると安心しますよ
眼精疲労自体がなにか眼病を誘発するかどうか分かっていないんじゃないかな
因果は無関係らしいとか。
実際勉強読書しまくりのひとでも目は健康の人とかいくらでもいるでしょう。
389 :
井上筑後守:2009/09/19(土) 21:11:35 0
別に自分の眼が心配だとかってことではなく、
東洋教学の全把握が、個々人の身体機能では物理的に無理だという実例の提示。
とはいえ、ついこの前千日回峰行を満行した天台宗の坊さんのように、
人間の限界を超える人間なんてのもあり得るものだから、
決して弱音を吐いたりはせず、これからも自分なりに出来る限りの務めは果たす所存。
390 :
井上筑後守:2009/09/19(土) 21:45:11 0
391 :
井上筑後守:2009/09/19(土) 21:46:53 0
象嵌や細密彫刻のような専門技術による加工はまだ施していないし、
柄糸の巻き方もまだ未熟で、修繕改良の余地はまだまだある。
それにこれ、実は、バールやエア工具や水道管のプラグなどを材料に
流用して作成したもの。材料の組成を分析すれば、すぐに現代物だってばれる。
寸法も一部メートル法に頼っているし、精巧なレプリカをすらも全く目指していない。
むしろ現代の工業材料や寸法合わせを用いたほうが、江戸時代の手工芸品よりも
良質に作れたりもする。十手は棒身に玉鋼を使うわけでもないんで、当時の
下手な鍛冶職人が作るよりも、バール鋼のS-53Cを用いたほうがよっぽど頑強になる。
ということはつまり、十手は現代の工業技術で作成したほうが良質になりやすい
ということで、鎌倉時代には頂点を迎えていた日本刀などと違って、まだまだ
向上改善の余地があるということ。誰でも知っているのに誰もその真価を知らない、
儒家教学に基づく勧善懲悪の確かなる顕現である、十手。クラシカルな思い出に浸る
ためではなく、悪や善悪みそくそのはびこる現代における、勧善懲悪のための
実践道具としての活用こそが待たれる。
剣は槍に負け、槍は弓矢に負け、弓矢は銃に負け、
銃は大砲に負け、大砲は核ミサイルに負け、そして核ミサイルもまた十手には負ける。
随分と手間のかかった鼠の嫁入り。それでもまあ、泰平が取り戻されるのならよしとしよう。
392 :
井上筑後守:2009/09/20(日) 07:59:36 0
>>357 「サキャ格言集」、一足先に古本で手に入れてしまった。定価以下で。
カバーにも書いてあるが、相当に辛口だ。
現代人には辛口すぎて近寄りがたいかもしれないが、確かに仏法に根ざしてもいる。
大乗仏教の信徒らしく、罪福を念頭においた上での自由自在な答弁が展開される。
でもそれは、罪福すらわきまえられていない現代人にとっては、
鋭利な日本刀のように恐怖感を抱かせるものであるに違いない。
武家社会においては、十分な道徳に基づく刀剣や十手の活用がわきまえられていた。
だから侍が日本刀みたいな鋭利な刃物を持ち歩いていても問題がなかった。
道徳もないままに日本刀なんか裸で持ち歩いたんじゃ、特A級の危険人物扱いになる。
でも十分な道徳が伴えば、いかなる法律家よりも公正な裁量者にすらなりうる。
ただの辛口じゃニヒリストにしかならないが、罪福のわきまえがあるから
サキャの場合はニーチェやショーペンハウアーのようなニヒリストとは化していない。
辛口の先に確かな救いがあり、善因楽果という福徳の価値がわきまえられている。
自分の辛口もこのようでありたいと思う。多分すでにこんな感じに見られてるんだろうが。
118
賢者は貧しくても
格言で人を喜ばせる。
愚者は金持ちになっても
喧嘩で自他を焼きつくす。
192
憎悪のもととなる返さない借金
悪い法律と悪いうわさ
悪い家系と悪い行い
増やさなくてもおのずと増える
(岩波文庫「サキャ格言集」より)
393 :
考える名無しさん:2009/09/21(月) 01:48:58 0
孫子論語荘子 いい本だと思うけどあまり染まらないほうがいいと思うよ
韓非子や荀子を真に受けるなってんならまだ分かるが?
一般人が手にする良書の最たるものだろうに→論語孫子荘子
坊さんみたいな専門家向けである仏典以上にも。
395 :
考える名無しさん:2009/09/22(火) 04:24:18 0
キーワード【 犯罪 道徳 こと もの 東洋 教学 聖書 】
勉強されてるんですね
聖書 いい本だと思うけどあまり染まらないほうがいいと思うよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8 聖書(せいしょ)は
1. ユダヤ教およびキリスト教の教典(没)。
2. 儒教において聖人の記した書。 ←←←
今世紀から、「聖書」といえば新旧約聖書ではなく、四書五経などのことを差すようになります。
西暦も廃止され、孔子没年の2488年前を東暦紀元とします(東洋人は生年よりも没年を尊重する)。
今世紀は東暦で25世紀にあたります。12年後の2500年祭、新世紀祭が待ち遠しいものです。
399 :
考える名無しさん:2009/09/27(日) 03:42:41 0
正直もう書くの飽きてきただろw
いま、他の所に大量に書いてるから。
内容は「論語を中心とした四書五経のおさらい」ってとこ。
ここで書いてることよりも少し程度が低い。
そっちが済んだらまたこっちに戻ってくる。
401 :
考える名無しさん:2009/09/27(日) 15:46:10 0
どこで?
402 :
井上筑後守:2009/10/02(金) 02:02:50 O
2chじゃないんでここにリンクは貼らないが、
しかし、あまりにも程度が低すぎる。
典拠のほとんどを「論語」に頼ったのに、それでも付いて来られる人間が一人か二人ぐらいしかいない。
犯罪に傾倒し過ぎた人間の、いかに道徳への復帰の困難なことよ。
これは、ここでの論及ももう少し考え直したほうがいいかもしれない。
「近思録」は、あまりにもレベルが高すぎる。
本当はこれも朱子学の入門書でしかないんだが、朱子語類もまだ訳される見込みが立ってないし、
今ここでやっていることは性急に過ぎるように思う。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
「近思録」の全読はもう終わってるんだが、もう少し程度を下げた所に立ち返ってみたいと思う。
403 :
考える名無しさん:2009/10/02(金) 02:17:35 O
易学気学人相など
東洋占術から入るのもいい
通俗から高尚まで東洋思想は懐が深い
個人的には大学で東洋占術学の学部学科すらあってもいいと思ってる
心理学はいらない
404 :
考える名無しさん:2009/10/02(金) 02:42:22 O
吾十有五にして学を志し 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順(みみしたが)う
405 :
井上筑後守:2009/10/02(金) 11:47:16 0
>>403 心理学やめるんなら、代わりに大乗仏教の唯識論を純粋学術として取り入れるといいな。
現代心理学は実質「末那識学」だから。理性を司る阿頼耶識も迷妄を司る末那識も学ぶ
唯識のほうがより公平かつ普遍的な本物の心理学であるといえる。
心を性と情に分け、性の理と情の迷妄とを個別に考える朱子学もその点では心理学以上。
わざわざ理性を貶めて情念を持ち上げる現代の心理学は、明らかに公平さを欠いている。
性も情も理であると見なす陽明学はともかく、理性と迷妄を等分に捉える朱子学には及ばない。
いずれにしろ程度の高すぎる話か。「論語」すらまともに理解されていない今の時代には。
仏教だけでなく儒学にも相当な発展性があるのに、現代人の側がその教えに真摯に耳を
傾けようとしないせいで、論語ぐらいにまでも理解が及ばない。現代人の側の自業自得だ。
406 :
\:2009/10/02(金) 12:27:52 0
唯識論はケン・ウィルバーも大変興味をもっていましたね。
407 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:41:39 0
サンスクリットで読んでいるんすかぁ?
法華経や浄土三部経等。
408 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 02:26:01 O
挺身的歴史…東洋史
堕落的歴史…西洋史
409 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 14:19:07 0
まだそんな事言い続けてるの?
410 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 15:10:06 0
西洋ばっかに走るのも中二臭いが
安易に東洋に走るのもそれまた中二臭い
普遍的に東洋史のほうが西洋よりも優良だから。西洋史の劣悪さと比べて。
歴史書からして、世界最古なのが四書五経中の「書経」だし、
質・量・古さの全てにおいても「春秋三伝」のほうがヘロドトスの「歴史」を上回る。
さらには「史記」から延々と二十数史もの正史が中国では編纂され続けてきた。
日本もそれに倣って「日本書紀」から「徳川実紀」まで、延々と正史を紡ぎ続けてきた。
歴史に対する扱いの真摯さが、東洋と西洋では決定的に違う。
善いことをすればそれが善いこととして書き残されるし、
悪いことをすればそれもまた悪いこととして書き残される。
善いことだろうが悪いことだろうが、悲喜劇として嬉しがれたらそれでよしとし続けてきた
西洋史が重罪と戦乱ばかりに塗れてきたのに対し、自ら顧みての添削を続けてきたが故にこそ
東洋史は、犯罪や戦乱を消し去るまではいかないまでも(インドはそれすらできてるが)、
相当に軽減して制御できたものとなっている。歴史を自ら正して行こうとする堅実さの賜物。
やはり「春秋経」を編纂した孔子や、「史記」を書いた司馬遷らの業績であるだろう。
412 :
井上筑後守:2009/10/05(月) 19:13:08 0
書経の編纂時期は今から約3100年前だそうな(中国古典新書「書経」より)。
一部焚書坑儒後の改作が入ってるが、ぶっちぎりで世界最古の歴史書だ。
中国 インド その他 (縄文土器・・・16000年前)
インド神話(口伝)・・・7000年前
エジプト神話・・・6000〜4000年前
易経・・・5200〜3000年前
ギルガメシュ叙事詩・・・4000年前
詩経・・・3200〜2800年前 ヴェーダ・・・3200〜2800年前
書経・・・3100年前
ウパニシャッド・・・2800〜2500年前
ホメロス叙事詩・・・2700年前
礼記・・・2500〜2200年前 旧約聖書・・・2500〜2000年前
左伝・・・2500年前
論語・・・2400年前 原始仏典・・・2400〜2000年前 ヘロドトス作品・・・2400年前
プラトン作品・・・2350年前
アリストテレス作品・・・2320年前
孟子・・・2200年前
史記・・・2100年前
大乗仏典2000〜1800年前 新約聖書・・・1900年前
世界最古級(易経)からそこそこの古さ(孟子)まで、年代配分のバランスが取れているのが四書五経。
太古の昔から延々と長大な真理哲学を羅列し続けているのがヴェーダやウパニシャッドや仏典など。
ヘレニズムからヘブライズムから、全体的に東洋古典よりも三回りほど成立の遅い西洋文献。
413 :
井上筑後守:2009/10/05(月) 19:14:05 0
ずいぶんと右下のほうの作文ばかりが偏重されているが、上には上がいるという分かりやすい図示
>>412。
エジプト神話やギルガメシュ叙事詩が完全に過去の遺物と化しているのとは違って、
四書五経やヴェーダやウパニシャッドは今でも健在な古典文献だ。
中には最先端の理工学書よりも先を行ってるような記述すら垣間見られる。
質・量・古さの全てで西洋を上回り、しかも温故知新ですらある完全無欠文化文明が
あるんだから、そりゃあそっちのほうに飛びついて当然だ。
ほんのこの前まで劣悪な作文ばかりに拘泥していた自分こそを恥じるもんだ。
414 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 20:13:25 0
古さでも勝負するなら日本の古典や著作家は西洋に負けている事に
なるんだがそれでも良いのか?あくまで古さで勝負の話だが
量の面でもプラトンやアリストテレスやホメロスの方が源氏物語や古事記
や日本書記より上だし
日本人は遺伝的には6割がた中国人と一緒だし。
弥生時代から徐々に渡来してきた、大陸の系統である人々。
ちょうど孔子や孟子や諸葛孔明らが活躍していた時期の移住者。
小乗仏教にそのまま大乗仏教が上乗せされたように、
古代中国人(弥生人)+縄文人の上乗せ版が日本人であると考えて差し支えない。
後から上乗せされたんだから、歴史的に遅れるのは当然。
後乗せサクサクのコーランでなんとか聖書の毒性を中和したイスラムとも同じ。
むしろ聖書の剽窃元である文化文明を創り上げたのも、
現イスラム教徒である人々(イラン人、イラク人など)の祖先だったわけで。
現時点での古典文献の占有者と、元々の編纂者は同一とは限らないんだ。
神道は元々、日本国を包括するパッケージングとして企図された形式体系であって、
何らかの宗教的正典を拠り所とするようなものではない。
“宗”典がないんだから本当は“宗”教ですらないんだが、それでもあえて宗教的な正典を
擁立するとすれば、それは記紀から始まる国史大系や延喜式などの格式となる。
「古事記」には儒学の正典である「論語」の渡来が、「日本書紀」には仏教の渡来が記されている。
その後の国史でも儒学や仏教の活躍が目覚しく、戦国時代にはキリシタンまでもが渡ってきた。
それら全てが神道の正典、すなわち「神典」。縄文時代から続く日本史全体が神道ありのままの姿。
宗教や学問である以上に、国家社会全体を企画する根本システムであるのが神道。
そこまでの完成度を誇っているのは、他にはイスラムぐらいしかない。
最古級の教学と比べれば、後から造られたには造られたなりの付加的な長所がある。
417 :
井上筑後守:2009/10/05(月) 21:36:57 0
孔子も「論語」の中で、
「未開民族に王様がいるのは、中国に王様がいないのにも及ばない(八イツ第三・五)」
などと、あくまで中国の伝統文化が優れているとした上で、
「たとえ東方の未開の地だろうとも、君子がそこに住めばむさくるしいことはない(子罕第九・一四)」
という風に、儒学的素養の忠実な継承者である君子が、東夷で成功することを予言している。
下手に異端の学を新造したりせず、中国やインドと比べればずっと小さい(ただしギリシャや
イスラエルよりは大きい)極東の島国の住人としての身分をわきまえて、
儒学や仏教の(神道の庇護下での)忠実な実践に徹していたのが日本人。
だからそんなに日本人独自の思想哲学なんてのは多くない。
聖徳太子や弘法大師の業績もあくまで、大陸教学の模範的な受け入れの下に成り立っている。
全く新規なものを生み出すには、日本ですら小さすぎる。
いわんや、ギリシャやイスラエルやドイツやイギリスをや。
ローマ帝国やアメリカのような大国は文化的な素養に乏しく、ギリシャやイスラエルのような
小国が(劣悪とはいえ)新規の文化製造を担っていた西洋とは逆で、ローマやアメリカよりも
さらに巨大な中国やインドのほうが文化的主導者となり、日本やタイのような小国のほうが
大国文化の模範的な受容に回っていたのが東洋。ただでさえ膨大な教学をさらに日本などで
凝縮させたのが東洋教学。腐ったリンゴが周囲までをも腐らせるように拡散していったのが
西洋教学。大が小へと、小が大へと。発展の仕方からして真逆であるという注意点がある。
何を持って劣悪なんていってるのが意味不明
具体的に何よ?
「大人は何も分かっちゃいない」なんて、子供のよくいう文句でありますがね?
確かに分かっちゃいない大人もいる。子供のころ夢見たような「優良」さすら見失ってしまっている大人。
未だ子供のように「劣悪」であるままの大人。子供と同等でしかない年齢上の大人こそは、確かに優良さを分かってない。子供と同様に。
子供のころ夢見た優良さを本当に実現し、まさに自分自身が優良であるものと化した大人ってのは、また確かにいる。
自分自身はまだ劣悪であるから、夢見はするもののまだ優良さの正体までをもは見えていない子供。
結局そのまま優良さを見つけられず、年取っても劣悪なままでい続けてしまった大人。
この二つには優良さの正体が見極められず、本人自身が劣悪さのみに甘んじてしまっているせいで、優良であるものが本当には分かっていない。
劣悪なままでいてしまった大人はもちろんのこと、優良さを夢見つつも自分自身はまだ劣悪なままである子供もまた、本当には分かっていない。
子供のころ誰しもが夢見た優良さを、現実において着実に実現しているのが東洋教学。
お侍さんにお坊さん。子供のころ夢見た姿とは相当に外観が違っている。でもそれは、夢が現実に実現された姿であるから。
未だ優良さを本当に把捉はできないでいる夢見る子供が、追い求めていたものの正体こそは東洋教学。
特撮ヒーローやロボットアニメなんかで夢見ていた先の先の先に、本質的な根本性として存在していたのが東洋教学。
それは、子供のころの夢を実現した大人のみが納得できるもの。未だ本人自身は劣悪である子供と、
劣悪なまま年食っちまった大人には分からないもの。劣悪な大人はもう絶望的でも、子供ならまだこれから理解できる可能性のあるもの。
子供のころの拙い夢をそのまま実現しようとして、子供ゆえの劣悪さまでをも延長してしまっている大人こそは、劣悪なままでいる。
大人は子供とは違って、練成された思考能力や作業能力がある。だからこそ実現できる本物の優良さがある。
大人が大人の思考能力や作業能力に応じて実現した優良さこそは本物の優良さであり、未だ漠然としていた子供のころの夢の中の優良さ以上に本物である。
子供のころの夢をそのまま大人が実現する以上に、現実に大人が実現した優良さとして、本物となっている。
子供のころには想像も付かなかったような現実を直視して、その現実に合わせて、実現する優良さの形式をも変えて行っている。
だからこそ子供のころに、何とも知れず追い求めていた優良さを、大人になって本当に現実で会得している。
大人は子供とは色々と違っていて、成長して自分自身も変わっていくように、追い求める対象である優良さの外観も変わっていく。
恋人同士や夫妻が成長しながらも一緒にいるように、お互いの変革を認め合いつつ関係性を堅持する。そこにこそ本物の優良さがある。
子供のままでいようとして、子供のままの夢を持ち越したピーターパンこそは劣悪な大人になってしまう。
自分自身の成長をも見越した上で、それでも信念を違えずにいようとする堅実な姿勢こそは、本物の優良さに辿り着く。
もうちょっと簡略化すると、
1.子供は限界能力からして劣悪。
2.限界能力は優良でも、それを発揮できていない大人は劣悪。
3.限界能力を最大限に発揮できている大人こそは優良。
1と2は劣悪で、3だけが本当に優良。
限界能力を発揮している大人。責任ある大人こそが本当に優良。
子供のころ漠然と夢見ていた優良さも、結局はそこに帰結する。
自分たちの所まで下がって来る大人ではなく、
大人であるにはあるなりに毅然とした大人こそは、
子供までもが本当に追い求めているヒーローでもある。
たとえその想像は拙かったにしても、大人らしい大人こそは子供が本当に追い求めていたものでもある。
子供から大人まで、本心から本当に追い求めているのが優良さ、本心から本当に忌み嫌っているのが劣悪さ。それが「実」だ。
実の場合でいう所の優良さが忌み嫌われたり劣悪さが追い求められたり、
優良さと劣悪さが等分視されたりするのが「虚」だ。
そして虚実入り交じっているのがこの世界だ。
実であるものが実であり、虚であるものが虚であるのも確かな一方、
虚実が入り交じっているのもまた確かな事実だ。
程度の違いこそあれ、昔からずっと変わってない現実の有り様だ。
だから物事の虚実を見分けた上での、断悪修善や勧善懲悪が普遍的な真理や道理にもなる。
誰しもが本当に追い求めているものの実現こそはそれだから。
虚実が見分けられないままに、適当な善悪の判断で断悪修善や勧善懲悪に臨んでも、ちっとも真理や道理にはならない。
罪福にも基づく本物の善悪がわきまえられた上での断悪修善や勧善懲悪こそは、
老若男女誰しもにとって本当に納得のいく真理や道理となる。
近ごろはもう、このスレに限らず、携帯やPCに向き合うことからして億劫になってきた。
結局これらも、劣悪な人間とのコミュニケーションツールでしかない。
直接顔見せするのは畏れ多いような、万年土下座人種を相手にするだけでしかないから。
未熟故にどうしても劣悪であらざるを得なかったかつての子供が、
成長するにかけての自らの変化を受け入れられず、
劣悪さを持ち越したままに成長してしまい、その結果呈しているのが近現代の高度金融物質化社会。
金や物を使い倒すことにかけては相当にやり込んでいる。
それですら武将や武士の金策や刀の扱いなどに洗練度では及ばないんだが、
一応金や物の物量投入的な活用に関しては相当な所まで行っている。
でもそれはちっとも、子供から成長した大人自身が最大限の力を発揮できている姿ではない。
オモチャの山に埋もれていた子供が、そのまま身体的にだけ成長してしまった姿であって、
金や物以上にも実際大切なものがあることに気付くことの出来る大人が、
そうであることを見越してまで実現する最善の結果からは程遠い。
泰山を小脇に抱えて渤海を一跨ぎにする以前に、
目上の者の目前で恭しい態度を取れた時にこそ、人としての最大限の力が発揮されている。
子供の頃には決してその真価が知れず、大人になっても必ずしも受け入れられるとは限らない克己復礼。
最大限の力が発揮できるなら、当然できて然るべきこと。
携帯やPCが使いこなせること以上にも、心身内外が充実している大人にだけできること。
インターネットの活動より現実の方が大切ですよね。
だから、偉大であるのはあくまで、何もしていないことだ。
ここに書き込んでいることが別に偉いわけではないのはもちろんのこと、
自分自身の日々の具体的な様態の内のどれかが偉いだなんてことも決してない。
行動規模としては大したことでないにしろ、それらも結局「やってしまっていること」だから。
偉大さの順位では、何もしないこと>仕方なくやってしまっていること≫必要もなくわざわざあえて好き好んでやること。
やってしまっていることである以上は、たとえ有為である中で最も偉大なことであろうとも、何もしないことには及ばない。
眼耳鼻舌身意、色声香味触法、あらゆる感覚による吟味とは隔絶された所で無為であることに満足し、
有為の方面で致命的な罪悪などに手を出さずに済ませていることが、総合的に偉大であるのみ。
現実にそうであること、何もしないことの偉大さを念頭において、それでも仕方なくやってしまうことについては
できる限り矮小に止めおいていることが、思考言及即転倒夢想、行動即犯罪である今の現実の社会において
自分が偉大である最もな根拠。ここの発言とも日々の行状とも根本的には無縁。
先天後天いずれにもおいて、無為の真理に逆らわずにいることこそは真髄。
上質な無為(仏教)>とりあえず無為(道家)>優良な有為(儒家)≫劣悪な有為(カルト)
有為と無為の境界線近くにあるのが儒家と道家で、
いずれも仏教エリートの空海に言わせれば「愚童」や「嬰童」程度の扱い。
無為を嗜む中でも特に超俗の真理を究めているのが仏教。
そこまでいかなくとも、無為を尊重するぐらいのことであれば道家や儒家程度でもできる。
何もしないことが極上ではあるが、ある程度は人間は何かをしてしまう。
しからばやってしまうことはなるべく消極的に止め、無為を尊重する生活を保全することで、
有為としての比較的な優良さまでもが見据えられる。
わざわざ必要もなくあえて好き好んで何もかもをやろうとする、積極的な有為と比べて
比較的(有為よりも優良な)無為に近い処にある有為であるが故に、比較的優良な有為ともなる。
表向きは社会的な活動を促す儒家も、乱世には世の中から距離を置くような有為と無為の分別がある。
だからこそ、有為であるにしても、慎ましやかで善良な有為たり得ている。
最低限いつでも無為を尊重しておく心の余裕が、結局は善思善言善行の根本的な糧にもなるから。
時には何もしない事も大切だと思いますが、
それとは逆に世を変えて行こうと考えるのは駄目ですか?
無為を尊重しつつ世の中を変えていくことが、
結局は世の中を善い方向へと変えて行くことにも繋がる。
インドの歴史や、日本の平安時代や江戸時代が、さして大事件も起こらない平穏無事なものであったから
無視するのではなく、奇を衒うようなことが何もなされなかったことをより格別なものであるとして尊重する。
何もしないままに何百年何千年と満足していられる、真の平和の尊重。
戦争と戦争の合間なんていう、休憩期間でしかないような平和とはまた別物の。
ノーベル賞をもらうことですら一つの事件になるから、ガンジーはそれすらをも辞退した。
本当に平和を突き詰めた先にあるのは、積極的な政治活動以上にも、無為自然であることだから。
世俗での活動に没入していくとしても、その先に見据えておく明確な展望があって然るべき。
何よりもその展望の実例を所有しているのが東洋人の長所。歴史的に本物の平穏無事を幾度も実現している。
今すぐそれを再現できず、自分の存命中に実現できなくとも、最終的に目指すべき到達地点の保持者たれ。
金瓶梅はエロエロです。紅楼夢はプラトニックです。
どちらの条件も満たしているのが源氏物語ですら。
万物は我が物なれば、誰かだけを執拗に偏愛する必要などどこにあろうか。
万有愛護の大精神、いわゆる「仁」です。
西洋嫌いならクラシック音楽とかも聞かないのか?
堅実な長男:中国
聡明な次男:インド
無難な三男:アラブ
罪人の長女:欧米
病人の次女:アフリカ
みんなみんな愛すべき子供たち。
罪を償い、病も治して、一家団欒を迎えようではないか。
日本が無いぞw
日本は北極星(「天皇」の語源)。
世界がひっくり返っても何も変わらない、宇宙の中心。
「政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし」
「道徳による政治が達成されれば、あたかも北極星に全ての星がお辞儀しているようになる」
(「論語」為政第二・一より)
10億人単位で人類全体の責任を考える、大局的な視野を。
朝鮮や東南アジアやオセアニアもあぶれるが、細かいことはまた別の話。
「君子は周して比せず。小人は比して周せず」
「君子は誰しもに親しんで一部におもねらないが、小人は一部におもねって広く親しまない」
(「論語」為政第二・一四より)
広く親しんで一部におもねらないのと、一部におもねって広く親しまないのと、
どちらが柔軟でどちらが頑固かぐらい、すぐ分かりそうなものなのに。
今まさに一部におもねって広く親しめずにいる人間には、
その程度の公平な理解すら覚束ないのだろうか。
難解な哲学でも数式でもなく、一見当たり前であるような
普遍性への理解度の差が、君子と小人とを別つのだろう。
万物をただ愛するのは、博愛でしかない。
対等な関係において誰しもが愛し合う、「人類みな兄弟」止まりの愛。
万物を愛し、しかも護ろうとするのが仁愛だ。
自らが保護者として誰しもを愛でる、「人類みな家族」にまで届いた愛。
だから仁愛は、偏愛であっても例外的に夫婦愛や家族愛は認める。
それらは万有愛護の精神たる仁愛の、個人関係における生き写しであるから。
天下国家の基たる家族の愛護が、結局は万物の愛護へとも繋がるから。
奴隷同士として友達か恋人になろうと思っていた相手が、
あろうことか自分たちの主人を倒して王座に付こうとしている。
しかも今度は奴隷制ではなく、封建制を全世界に敷こうとしている。
もはやそんな相手とどう付き合えばいいのか分からない、
内心アワアワして取り付く島がないといった所。
こちらとしては、奪い取る準備が整った所。
439 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 16:54:02 0
法家やイスラム哲学の話題はまだでしょうか?
その辺の事務処理的な学術は苦手なんで、代わりに書いてくれてもいいよ。
いま武経七書を読んでるし、次は史書にでも挑戦しようと思う。
この辺になると、原文・読み下し・訳文全揃いなんてのが激減するんで、難儀する。
新釈漢文大系には「孫子」と「呉子」以外の七書は入ってないし、「史記」もまだ未完だし、
「十八史略」が入ってる時点で、史記以外の中国正史を出すつもりもないらしいし。
訳行から参加するのもいいんだが、それだと内容の吟味が今までよりも疎かになりかねない。
ここで原文ままの研究までをも始めるのはさすがににやりすぎだろうし。
表面ばかり研究されて、内奥にまでは誰も届いていないものの扱いように、まだまだ暗中模索。
441 :
考える名無しさん:2009/10/21(水) 04:13:16 0
事務処理的な学術とは果たしてどういう意味でしょうか?
私は因みに法家やイスラム哲学を語れる程の力量を持っていません
すいません
性に対する情、阿頼耶識に対する末那識、
洋学でいえば精神に対する現象、意志に対する表象を扱うような学問のことだ。
性が本で情が末、たとえ最大級に穏便な処理を施すことが目的であっても、
情を主題に物事を処理することは、性を念頭に物事を扱うことには決して及ばない。
性よりも情を優先している時点で本末転倒だから、性の理を蔑ろにすることともなる。
朱子学は性を扱うし、陽明学や仏教も性と情を総合した心全体を扱う。
インド以東の王道的な東洋教学は、そこまでの研究を主題とし、
心の内でも濁りやすい部分である情だけを研究対象とすることは異端とされる。
中国なら法家がそれに当たっていたし、インドでも六師外道などの中にそのような派閥があった。
それで、東洋と西洋の折衷であるイスラムの哲学や法学、商学などが、
情を主題に扱う事務処理的な学術の中では、最低限無難さを守っているもの。
性を抜きにした情を扱うことは、やもすれば西洋の現象学や経済学のように、
人間の劣悪さを助長するものにすらなりかねないんだが、イスラム学術はそのような
堕落に陥りやすい情を扱う限りで、最低限の正当性を守ることに特化している。
稼いだ金は即座にザカート(喜捨)され、投資は必ず実業と不可分であることを
義務付け、銀行は利子を取ることを禁止する。商業や投資や銀行なんていうものを
始めから本気で扱うことの少ない東洋教学の内では、最も事務処理的な内実を持つ。
だからこそ、金融物質主義の行き過ぎによって崩壊の危機に立たされている今の世の中を
実務面から救済する可能性を秘めているといえる。優良ではあるもの理想に過ぎる
精神主義とはまた別のものとして、劣悪であるにはあるなりに穏便な現象の事務処理を担う。
443 :
考える名無しさん:2009/10/21(水) 17:17:27 0
>>442 ザカートが事務処理的ですか成るほど。
お一つ聞きたいのですが金融関係について
やけに嫌悪感を示していますが銀行なんかは利用して
ないのですか?
嫌いというか、苦手なんだよ。
近ごろじゃ、無駄な買い物をしただけでも嫌な気分になったりする。
それは、今の世の中を形作る、金融や物質を主体とした文明の危うさを察知してのもの。
目的が正当だろうが不当だろうが、とにかく金や物を動かしとけばそれでいいっていう、
全民衆総出での多動性障害の裏側で、アジアやアフリカの多くの人々が貧困や飢餓に喘いでいる。
とはいえ「それが可哀相だから」なんてのは、ごく表層的な理解に止まる偽善でしかない。
我ら先進国の人間こそは、それらの人々を困窮へと陥れている。
人間同士での共食いによる他者の食い潰し、それによって豊かになっている、
だから気分が悪い。可哀相だなんだ以前に、自分たちの罪業故の自業自得での不機嫌がある。
「餓苗の者を見ては、食便ち美からず(「近思録」聖賢気象十四・一九より) 」との通り、
自分自身の機嫌を損ねる自業自得だからこそ、共食いにまでも手を出しつつの
金融や物質の行き過ぎを忌む。現実を直視して、しかもナイーブでいれば誰でもそうなる。
445 :
井上筑後守:2009/10/22(木) 02:36:00 O
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった賤者であっても道を譲る。
しかし、自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(「孟子」公孫丑章句上・二より)
いいい言葉だな。全くもって、素晴らしい言葉だ。
自ら反省して正しくないと思っても、相手が賤者なら道を譲らなかったり、
自ら反省して正しいと思っても、相手が大群なら道を譲ってしまうような連中ばかりなのにな。
弱者を相手に無理を押し通す自由、強者を相手に道理を引っ込める民主。
方向性としては、優良なほうから劣悪なほうへと堕ちて行ってるに違いない、正義以上の力の優先。
じゃあ今度は力を棄てて正義一辺倒になればいいのかってえと、それも違う。
正義なき力は暴力、力なき正義は無力。そして正義と力の程よい兼ね合わせこそは、何にも増して最善かつ最強となるに違いない。
446 :
考える名無しさん:2009/10/22(木) 02:39:31 0
>>444 >近ごろじゃ、無駄な買い物をしただけでも嫌な気分になったりする。
無駄な買い物とは何なのでしょうか?
宜しければ教えてくれませんか?
「鯛の天ぷら」だ。
玩物喪志
449 :
井上筑後守:2009/10/31(土) 19:00:28 0
いま、史書の熟読に入る前準備として、岩波新書の「中国の歴史」を読んでみてるんだがな、
「貧しきを憂えず、均しからずを憂う」という、孔子の言らしき言葉を何回も引用してるんだが、
正確には「寡なきを患えずして均しからざるを患い、貧しきを患えずして安からざるを患う(論語・季氏第十六・一)」なわけだ。
被治者の多少以前に生活水準が均しいことを願い、貧富以前に安寧を願うという高潔な理念の提示であるのに、
あたかも「貧しくてもいいから生活水準が一定であればいい」とでもいうような、儒家教学の曲解がなされている。
貧富のいずれかでいえば富裕であるに越したことはなく、ただそれが斑(むら)を生むことを忌んでいる。
階層社会での上位者が清貧に徹することで、被治者との格差が減るということはある。
だからって誰しもに貧困を強要するのはおかしい。誰しもが豊かであることこそは儒家の根本理念。
誰しもに貧しさを強要するのが儒家だと思い込んでいたんじゃ、拒否反応を起こすのも仕方なく、
「中国の歴史」での儒家の扱いも形骸的なものである上、中国共産党によって持ち上げられた秦始皇をそのまま讃美してる。
この作者、「論語」も自己名義で出版してるのに。解釈の違いが人によって多少あるとはいえ、
わざわざ悪く解釈して中国史まで中共寄りに見てるんだな。今の世の中、落ち度のある学者なんてこの人に限らないから、
この人だけ責めても仕方ないけどな、もう故人だし。とにかく中国史の知識を一通り踏まえ直しておくために「中国の歴史」は読んでおく。
金で買えるものなんて、所詮はたかが知れてる。
451 :
考える名無しさん:2009/11/04(水) 06:52:54 0
でも金が無いと本が買えないよ
今は昔の良書は絶版になってたり古本でしか
手に入らないのもあるし
下らない本は一杯あるけどね
金で買えるものに全く価値がないってんじゃない。
ただ、金で買える程度のものの価値は、金ですら買うことのできない
ある種の高潔さの価値には及ばないってことだ。
金は物しか動かさないし、しかも大量生産大量消費のガラクタばかりしか動かさない。
本物の日本刀などはもはや流通経路が確定し切ってて、金があっても目星のものが買えるとは限らない。
高級な物品であってもそういうことがあるし、物品すら超越する満足の境地、
「浩然の気」などともなれば、金によってかえってそれが毀損されることにすらなりかねない。
金で買えない金で買える以上のものもあるし、金で買おうとして余計遠ざかっていくものもある。
器物を超えた所にある道理、形而下のいざこざとはまた別のものとしての形而上の浄心。
一度でも辿り着いたなら、それを軽んじることの惜しさを知り、
金満によってそれが蔑ろにされることをも恐れるようになる。
仏教の解脱とかとはまた別物の、人としての素朴な趣きの一種であるといえる。
メディアとしての信頼度で言えば、現時点では
1位:本
2位:ネット
3位:新聞
4位:テレビ
ってとこ。
ほんのこの前までネットの信頼度は新聞やテレビ以下だったが、もはや追い抜いた。
信頼の置ける本との参照の上で言ってることだから、間違いない。
ただ、メディアの中で一番信頼度の高いはずな本の中にも、
やっぱり信頼の置けないものはある。聖書がその最悪例。
人類社会の不信の核もまた本であって、結局メディアの範疇で
「この媒体だったら大丈夫だ」なんて保証できるものはどこにもない。
絶対に信頼の置ける正しさは、結局は自分の内側にこそ育むのが一番。
自ら育んだ正しさを最終的に本などとしてまとめたとしても、
やはり「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(易経・繋辞上伝)」ということになりかねない。
一人の人間が一生をかけて育んできた意趣を、発言や文書によってまとめ尽くすのも無理があるし、
仮にまとめ尽くせたとしても、もはやそれを読み尽くせるだけの暇のある人間もいない。
だから、第一義としてはまず自らが最善なる見識の持ち主であり、
二義的三義的にその見識を人々にのべ伝えていくようにすべきである。
まず内省があって、次に外向がある。内外いずれかの選取ではなく、順序を追った総取りこそは最適。
>ほんのこの前までネットの信頼度は新聞やテレビ以下だったが、もはや追い抜いた。
同意
455 :
考える名無しさん:2009/11/08(日) 10:51:04 0
>>453 まったくそのとおりだ。
日本の先人の学問には恐れ入るものがある。古代支那も含めよう。
「愛して而も其の悪を知り、憎んで而も其の善を知る」
(「礼記」曲礼上第一より)
この高潔さを誰しもに学ばせたいもんだ。
好きか嫌いかで何もかもを左右する、
蛮族の風習からいい加減卒業せねば。
457 :
井上筑後守:2009/11/15(日) 11:43:14 O
「善悪同じければ、則ち功臣は倦む」
(中公文庫「三略」上略より)
善悪の分別を付けることは、一つの戦略なわけだ。
善悪みそくその緩慢さに対して、自分たちが颯爽となることでの優位を示す。
同じく上略内の「軍讖」という兵法書からの引用で、
「善を善として進めず、悪を悪として退けず。賢者は隠蔽され、不肖は位に在れば、国は其の害を受く」
ともある。勧善懲悪が国家戦略としてすら有効であることの論拠となっている。
徳川家康公の愛読書でもあった武経七書の内の一、三略だ。
458 :
考える名無しさん:2009/11/16(月) 12:29:58 O
小人を遠ざけ悪まずして厳にす
天山とん
君子は○○、小人は××・・・
「下流」として忌み嫌いながらも、結局君子は小人のこともよく見ている。
濁世を完全に遠ざける聖者とは違って、君子は世の中の運営者たらんともするから、
大受せず小知する限りにおいての小人の面倒はよく見るものだ。
460 :
考える名無しさん:2009/11/18(水) 09:16:08 O
あまりにも強すぎて読者の感情移入が見込めないから
主人公からは外されているような類いの、漫画の最強キャラなんかが、
自分自身の強さに対しては絶対の自負を置いている一方で、
気にかけている子弟や後輩などに対しては案外、親身になって相談に乗ってやってたりする。
そういう所が君子にもあるのだと思う。
まだまだ愛憎渦巻く煩悩のさ中にはあるものの、その中における強者ならではの
子愛を帯びた振る舞いというものがあるのではないかと思う。
漫画や小説だと、読者層からして弱者である場合が多いんで、
そういう最強キャラは脇役にされていることが多いが、
読者からしてモノホンの強者である場合が多い四書五経などの大説においては、
まさにそのような最強キャラのあり方が、君子のあり方として主体的に描かれている。
461 :
考える名無しさん:2009/11/18(水) 10:13:42 0
相変わらず面白い比喩つかって書きますね
表現が分かりやすい
462 :
井上筑後守:2009/11/26(木) 20:03:42 0
岩波文庫から出た新版で、久しぶりに「老子」を読み直してみたが、
これはある意味、儒家以上にも現実的な要素を持った思想だと言えるな。
「上士は道を聞かば、勤めて之を行なう。中士は道を聞かば、
存するが若く亡するが若し。下士は道を聞かば、大いに之を笑う」
(岩波文庫「老子」第四十一章より)
優れた人間は道徳の堅持に努め、中ぐらいの人間は努めたり努めなかったりし、
最低の人間は道徳を嘲笑う。結果、道徳を堅持する君子こそは小人に嘲笑われることともなる。
「左伝」定公十年春に、実際に孔子が敵国に臆病者扱いされて威嚇され、
王君を補佐する任務に徹して引き下がる話があった(前スレの406参照)。
道徳者ってのは小人から見れば嘲笑うほどにもみすぼらしかったりもする。
そのような傍観的事実を儒家の場合は隠しまではしないものの、あまり積極的には語らない。
そして「君子は○○、小人は××」という風に、君子を賞揚して小人を卑しめる
一方的な記述ばかりを羅列する。儒家のほうが実務に臨む君子の心境に間隙を入れず
即している、だから老子の上記のような言とは違って、「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」
(岩波文庫「論語」・里仁第四・八より) というほどにも、主体的に道徳への信奉を吐露する。
463 :
井上筑後守:2009/11/26(木) 20:04:31 0
儒家の道徳への姿勢が絶対的なものであり、善悪を相対化しない主人公的な
立場を崩さないのとは違って、道家は善悪をも相対化して万物を等分視する、
大人をも超えた老成の境地に自らを置く。とはいえ出歯亀級の傍観者になるのではなく、
あくまで何もしないこと(無為)を実践手段とする。何も欲せず何もしないことで、
見ることも聞くこともあたわない「道」と自らを一体化させ、治めようとせずに万有を治める
理想の王者に自らがなることを、「老子」においてはまだ目指している。「荘子」だと
それすらなくなり、世俗から完全にかけ離れた自由人とまでなってしまうわけだが。
「賢を尚ばざらば、民をして争わざら使む。得難きの貨を貴ばざらば、
民をして盗を為さざら使む。欲す可きを見さざらば、心をして乱れざら使む」
(岩波文庫「老子」第三章より)
賢人を登用するような、儒家においては望まれるような善政も否定して、
財貨を囲うような、プラトニストあたりが好みそうな悪政も否定する。
世の中をどうにかしようという欲望から全否定することで、善悪の喧嘩を
両成敗してしまう、異生羝羊心や愚童持斎心のさらに上にある嬰童無畏心。
「赤子(嬰童)」の比喩も「老子」第五十五章に出てくる。
464 :
井上筑後守:2009/11/26(木) 21:51:19 0
動物でいうなら、善悪の分別もなく、ただ欲求のままに動き回るのが「羊」だ。
異生羝羊心の「羝羊」は雄羊という意味で、「易経」大壯の「羝羊、藩に觸れて、其の角を羸しむ」
が典拠なのだと思われる。別に羊が悪一元主義にまでなるとも思えないが、
伏羲氏や弘法大師も公認のたとえなので、まあこのままでおいておこう。
んで、善悪の分別を付けて、善徳の欲求のために活動するのが「犬」だ。
羊と同じで欲求芬々たりはするものの、遏悪揚善程度の方向性は見極める。
だから羊が欲求のままに動き回り、自らの角を垣根に挟んで苦しんだりしてばかりなのとは違って、
それらの羊を飼い馴らす手伝いをする牧羊犬などにもなれる。愚童持斎心の儒家にあたる犬。
そして、善だろうが悪だろうがとにかく欲求を抑え、徒労を省くのが「猫」だ。
羊のように見境なく動き回るのでも、犬のように方向性をわきまえて動くのでもなく、
まず動かない。何か個別の事物のために役立ったりすることから完全否定する、猫。
嬰童無畏心の道家やヒンズー教がそうで、仏教もまた結局其の上に立っている。
世俗にまつわろうとする欲求を捨てることが最善であるという、超俗志向の
宗教的な重大さはむしろ、道家などよりも仏教のほうが多く用意してくれてるんだが、
「正法眼蔵」にも引用されている「足るを知る(三十三章など)」や、「欲せざるを欲す(六十四章)」など、
超俗志向による欲求の解消が、方向性を見定めない欲求者よりはもちろんのこと、
方向性を見定める欲求者以上にも優良となる根本的な論拠が「老子」などに多く載っている。
Wikiでいま読んだが、雄羊だけが角が曲がりくねってて、雌羊はまっすぐなんだね。
何となくは知ってたけど、だから垣根に角を挟んで苦しむ羊はオスだけなんだね。
迷妄のさ中にある男は、必ず女よりも下なわけさ。
中国思想が男尊女卑を標榜できるのも、あくまで善悪みそくその迷妄を排してるから。
最も、中国思想の王道である儒家の属する人道よりも、さらに一段階高い天道に
ほぼ全ての女を持っていってしまう究極奥義を、神道が持ち合わせてたりするんだがね。
悪道でも女房の尻に敷かれ、人道でもやっぱり天照ラスよりは下、
優性遺伝子の女にはどうしたって敵わないのが、男のさがなんだねえ。
井上先生、始めまして
数年ぶりに哲学板を覗きましたが
もはや日記帳板といえるほど
くだらないスレッドだらけの中、このスレッドは光っていますね
勉強させていただきます
467 :
考える名無しさん:2009/11/29(日) 15:20:36 0
世の中が乱れている時には余り文学や小説や詩等の娯楽類は読む気が
中々しませんよね。上の方にも既に書かれて居ましたが、平和な古文よりも
人間道徳書に就いて書かれた四書五経等、現実に即した書物の方をどうしても
手を伸ばしてしまいます。
468 :
井上筑後守:2009/11/29(日) 21:22:50 0
上質な文芸類が価値を発揮しにくいというのには同意見だがね、
それに開き直って最低品質の三文小説が薄利多売されているのも、
宣伝過剰の情報戦争下における悪癖の一つでもあるんだがね。
今日は家内で、ちょっとした「本のリストラ」を決行した。
早い話が本の整理なんだが、善い本と悪い本とその他を分別してみた。
確実に必要で何度でも読める本、主に東洋教学関連の本と、
今はまだ本気で読めないにしても、いつかはちゃんと読みたい東洋古典文学と、
それなりに史実に基づいてる歴史時代小説などを「善い本」として本棚によく調えて並べ、
本当はもう読みたくないんだが、いますぐに捨て去ると文明構造上問題のある
理工学書を戸棚の中などの、取り出せなくはないものの目立たない場所に置き、
もう全く読みたくなく、文化文明的にも全く必要性のない西洋文学や西洋哲学、
西洋宗教などの「悪い本」をダンボール箱にしまい込み、いつでも手放せる状態にした。
469 :
井上筑後守:2009/11/29(日) 21:23:48 0
近代以降の日本の純文学も、西洋文学に順ずるものとして同様に処理した。
主に東洋関連である「善い本」と、ほぼ洋学ではあるもののすぐに手放すわけには
いかない理工学関係の「無記(善でも悪でもない)の本」とを手元に残し、
理工学以外の西洋関連である「悪い本」を処分する準備ができた。
その結果、蔵書の内の約三分の一程度がダンボール箱に納まった。
HNの「井上筑後守」もそうであったように、自分も一時期西洋文化に入れ込んでいた
時期があったので、今になって整理してみたらかなりの本が西洋関連であると分かった。
読み通している本もあれば、パラパラとめくって大体の要領をつかんだ本もある。
ただ、集めてるというだけなら、主要な西洋の古典文献は概ね集め尽くしていた。
東洋古典のほうはまだ基本文献すら集めきれてはいないが、それでも西洋古典よりは
遥かに多い。そしてまだ今ある全てを読みきれているわけでもない。これだけでも
西洋文化に対する東洋文化の度量の広さが見て取れるというわけ。
470 :
やみ:2009/11/29(日) 21:42:52 0
もし北陸に浅井長政が守護をやり越前朝倉が滋賀の大名なら構図はまったくちがっていただろうし
もし織田信長がいちはやくしたに下がっていたら豊臣秀吉は北陸ではなく東北へ進行していただろう。
そうするとするがは越後の平らに籍をゆずっていただろうしもしそうならとうほくはぜんぜんちがったとちになっていただろう。これがでたらめといえようか?
471 :
井上筑後守:2009/11/29(日) 21:44:24 0
「善でも悪でも無記でも万物斉同!」ってのが、老荘の主張であるのは分かってるんだがね、
それも知っててあえて分別してみた。老荘よりはむしろ勧善懲悪の孔孟でありたいという気持ちから。
今すぐにダンボール箱本を捨てたり売ったりするつもりはなく、
高額で買い取ってくれる古本屋なども探しつつ時勢を見計らう。
糞尿ですら漢方薬にしてしまう「本場」の度量のほうを、もうちょっと期待してやれ。
そのような度量は自分を含む日本人にはない。老荘を昔の日本が全肯定しなかった気持ちは
自分にはよく分かる。陰陽五行を逸脱した完全陽性を旨とした、日本人特有の性分により。
老荘が日本で受け入れられ出したのは、かえって近代以降だったりもする。
夏目漱石も「こころ」の初版装丁に自分で荘子の文句を書き込んでたりするし、
坪内逍遥の「逍遥」も「荘子」内篇の「逍遥遊篇」に由来する。中国を含む全世界の陰性と
日本人が初めて対峙したのが明治時代だった。「暗」の輸入のためにこそ「明」が必要とされたのだ。
>>468 全体的に同意です。
「善い本」と「悪い本」とみそくそせずにしっかり分けるのは
良い事ですよね。現代は何の本でも只読書していれば良い風潮があるなかで
偉いですよ。
「善い本」と「悪い本」の他に、「無記の本」もある。
人間にとって善いとも悪いとも言えない、人間性から乖離した概念論の本。
上では「理工学書」と呼んだが、数学書や幾何学書などもその内に入る。
釈迦はそのような非人間的概念論を不実として無記答に付した。だから「無記」という。
僧侶を目指すぐらいならこのような論書も捨て去らなければならなくなるが、別に自分は
目指すつもりはないし、事実として今の世の中は莫大な無記構造に司られてしまっている。
いまこの瞬間に完全に無記の概念論がなくなっただけで、高層ビルは倒壊し、
交通機関は大事故を連発し、情報網は頓挫してこのネット通信も使えなくなる。
本当は人間にとって一概な福徳を及ぼしているわけではないんだけれども、
今すぐ捨て去ったんじゃ大規模な災禍をもたらすことが見え見えである無記構造、
理工学や数学に基づく機械文明構造を、殊更な善徳と比べて劣後はするものの、
防災のためにまだ保全はしておくわけだ。
理工学や数学は、目指したことのない人間にとっては全くの未知の領域だろうが、
確かにそういうものは一定以上存在していて、しかも現人類の生命線をも司っている。
否が応にもそうなんで、放射性廃棄物を処理する要領で、気長に処分していく必要がある。
もう書かなくなっちゃったのか
短い間だったな
「其の天を遁れ、其の性を離れ、其の情を亡ぼし、衆を以て為す。故に其の性を鹵莽にする者は、
欲悪の薛、性の?葦蒹葭と為り、始め萌すや以て吾が形を扶け、尋いで吾が性を擢く。
並く潰えて漏発し、出ずる所を択ばず、漂疽疥瘍,内熱溲膏是なり」
(世界古典文学全集「荘子」雑篇・則陽篇第二十五・五より)
天の遍き照明から逃げ隠れ、性から逃れて情を濁し、大衆に雷同して、理に即す性を蔑ろにしている者は、
情欲の自業自得によってわが身を亡ぼし、葦のように有害無益な雑草となる。始めは自分のために
大きくなっても、結局は理性から離れた因果として腐乱し、腫瘍や潰瘍や熱病や糖尿のようになる。
荘子はこの評を、長梧の役人が「いい加減な耕作をすれば稲は育たず、真面目に耕作すれば稲は育つ」
という言を聞いた後に述べている。稲作にとっては葦もまた邪魔な雑草であり、ちゃんと田畑を耕さない
せいで生えてしまう邪まな存在と捉える。「人間は考える葦である」などとどこぞやのエセ思想家が
主張してたが、葦であることは別段人間の初期条件なわけでもない。人間の本性である真面目さを
毀損し、情念が濁されてゴシップの蟲と化した時に、初めて田畑をも侵害する葦のごとき雑草となる。
最悪そうなるのであって、本来はそうではない。悪知恵ばかり溜め込んだ思考回路付きの葦などに
なってはいけない。「葦」というたとえは、無為自然のエコロジストにとってこそ悪例であるわけだが。
476 :
井上筑後守:2009/12/23(水) 20:33:18 0
リンクも貼らずに言い訳もあんまりしたくないが、前言ったとおり他の所に大量に書き続けている。
それであんまりこのスレが伸びない。自分ひとりで伸ばして行くには荷の重すぎるスレでもあるし。
共に勉強できる相手がいればまだ伸びようもあるが、おまえら全然漢学や仏学は知らないだろう?
中高で漢文の授業に読み下し方を習ったり、日本史で南都仏教や平安仏教、鎌倉仏教などの
史実について多少学んだ程度で、具体的な漢学や仏学の内容理解についてはからっきしだろう?
近現代教育が生んだ悲惨な現状、本当に大切なことこそをろくに学んでない近現代人の全様相。
「葦」の比喩のように、悪例を正当化するような悪学に惑溺して正学をかなぐり捨ててもいる。片手間では
無理な正学(「史記」儒林列伝より)の大成のためには、新たな学問所の設立ぐらいは必要だろうな。
477 :
考える名無しさん:2009/12/23(水) 22:38:51 O
毎日易経こうじを音読してるから暗記してしまったよ
だけど論語は読んだことない
老荘でんしゅう録へきがん録むもん関さいこんたんいんしつ録呻吟語の訳文を読んだくらいで漢詩もよくわからないよ
全くの独学だし でも何だか心和むし時々泣けるので十分だよ
学者やインテリや本読みなんかになりたくないんだよ
478 :
考える名無しさん:2009/12/24(木) 00:45:38 O
67
479 :
井上筑後守:2009/12/24(木) 10:04:38 0
本読みとか勉強とか糞喰らえな東洋教学もまたある。「荘子」知北遊篇第二十二・一などがその論拠。
老荘や禅は不文律を重んじるし、陽明学は「思い立ったらすぐやれ」の知行合一・原始体育会系。
それらはそれらでまた一つの東洋教学な一方、本読みや勉強を重んじる東洋教学もまた別にある。
修練の度合いで心識を十段階にも分ける真言密教、論語を飛ばし読みしただけでしかられる朱子学、
仏教や儒学において競争制を設け、学問の王道を突き進んできた主人公的教学がある。
学者といえば、実務に一切携わらない聖人となって、世の中を外側から覗く出歯亀的なものとして
一般には忌み嫌われたりもするけども、それはプラトニズムに端を発する洋学特有の病理だから。
中国では文官や武官と共に「学官」なるものがいて、重厚な学問的素養をそのまま実務に転ずる
ことも一つの選択肢として認められていた。そりゃああくまで、儒学や大乗仏教が実践を重んずる
学問宗教でもあったからで、有閑階級として一日中ボーっとしてればいい洋学とは違ってたから。
部分的に主知主義的だろうとも、あくまで実践の余地を残しつつ勉学に励むのが儒学などだから。
30近くまで研究室に引きこもっていた今の大学の博士や修士が、いざ就職となると、プライドばかり
高いくせに全く使えないので持て余されたりする。そりゃあ10年以上も洋学一辺倒になってたんだから
当然の話。だからって別に、出歯亀プラトニズムを宗教的信仰対象にすらしてしまう西洋の悪習に
倣ったりする必要もない。実際に臨機応変に実践できる正しい学問、儒学や朱子学などを勉学の対象
としたならば、30どころか40や50になってもまだまだ伸びていく。50を過ぎて遂に政治家としても
功を成した孔子のように、雌伏の時期が決してくすぶりではなく本物の実力の修養期間となる。
480 :
井上筑後守:2009/12/24(木) 10:23:22 0
俺は別に、今の世で言う高学歴でもないが、
残念ながら学歴ってのも多少は必要なもんだと思う。
ある程度以上大きな社会では、何らかの階層構造を設けないことには、競争意識が削がれて
共産主義のように自壊してしまう。そのための手段として、かつての日本やインドでは世襲制が
採用されて、日本だと多少の身分の移動はできても、それぞれの身分の上下関係は徹底されていた。
でも、世襲制はある程度成熟した国で徐々に出来上がっていけるものであって、到底一朝一夕で
成せるものではない。あまりにもせわしなく破壊と構築を繰り返す今の時代に適応するには
世襲制はまだ早すぎるんで、残念ながらやはり学歴などに即した実力主義がまだ継続する。
ただ、その学歴の内容が、洋学教育機関でしかない今の大学や大学院の履修歴であるのがダメだ。
たとえ部分的に漢文や漢籍を習ったりしても、その勉強の仕方はやはり洋学特有の分析的な
ものでしかなく、略称取意によって即座な実践の対象とする元来の漢学や仏学に即してはいない。
実践を意識した漢学や仏学を勉強した時にやっと、その勉強は不勉強よりも有益なものとなる。
全く実践も想定しない漢学や仏学は特に有益でもなく、その勉強期間に働いてたほうがまだマシ。
漢学と洋学を同時に勉強したり、洋学だけを勉強したりしたんじゃ、もはや勉強しないよりも有害。
世の中に迷惑をかけることで自分が生き延びるお荷物になる。しかもそのような勉学の素養が
今の世の中では学歴としてまかり通ってすらいる。学歴が嫌な印象を持たれるのも当然の話で、
本当に世のため人のためになる勉学の素養が確かな学歴として認められれば、そうではなくなる。
2ちゃんなんかに何のために書き込んでるの?
バカバカしくならない?
こんな荒れ果てた板で
どこで何を書いたって、何も変わりゃせんよ。
総理大臣からして「友愛」な国で、どんなに格式張った所に赴こうとも、
五つの天下の達道(「中庸」二十章より)の内の君臣、父子、夫婦、兄弟の序列はわきまえられず、
最後の朋友の関係ですら「己れに如かざる者を友とすること勿れ(学而第一・八より)」という
論語の忠告を破った悪友付き合いばかりになる。どこにも儒学の本格的実践を
前提とした場所は現存しないから、最悪の遠隔的人間関係しかない2chで書こうが、
大手大学の講堂で講義しようが関係ない。今の大学にも「儒学部」は一つもないしな。
483 :
井上筑後守:2009/12/24(木) 19:57:05 0
自学自習が主要な目的なら、書き込む所はチラシの裏でもここでも、本当にどこでもいいわけだ。
みんなに知られたい、意見を聞いて頷かれたいというのなら話はまた別で、
大手出版社の編集者に媚びを売ったりもするだろうが、そうではないから。
勉強はあくまで自分のためで、結果的にそれが「修己治人」となって(「論語」憲問第十四・四四参照)、
「格物致知誠意正心」の後の「修身斉家治国平天下」にもなる(「大学」一章を参照)。
内向を突き詰めることで外向的な成果をも修める。自利と利他両者を両立させる大乗仏教とも同じ。
外向に奔走し過ぎて内向的な側面の自己をいい加減にし、自分にも他人にも害悪しか及ぼせなく
なったりする。まず内向を突き詰めることで結果的に外向的成果をも挙げる。
「修身斉家治国平天下」の前には、必ず「格物致知誠意正心」がある。
この順序を取り違えると益を得るどころか害すらをも及ぼしてしまう。
ユングなどは内向優先外向劣後の人間を「内向型」と呼び、
外向優先内向劣後の人間を「外向型」と呼んで、両者を同等扱いしたりもしたが、
普遍的な害益の度合いでは、明らかに内向優先外向劣後のほうが有益無害で、
外向優先内向劣後のほうが有害無益だ。決して同列に扱えるものではなく、
内向的研鑽を最終的に外交的成果にも導く、「格物致知誠意正心修身斉家治国平天下」の
正しい順序に基づく人間性の確立こそは、唯一無二に至善である人間のあり方だ。
学歴が無いとどんなに正論でも話すら聞いてもらえませんからね
私はそれを体験したので有名な大学に入りました
その時点でもはや「佞人(衛霊公第十五・一〇)」だね。殆ういね。
かといって、ユダヤの聖書学者にコンプレックス丸出しのまま挑みかかって
いって、策略にはまって磔になったイエスのようになってもいけないがね。
洋学なんて、科挙試験に四回落第して太平天国の内乱を引き起こした
洪秀全が入信したキリスト教の支配下で作り込まれたものなんだから、
たとえトップであろうとも本物の儒学や仏学と比べれば中卒にも等しい。
頭の使い方を根本的に間違ってるせいで、どんなに頑張っても徒労に終わる
回し車のネズミ状態と化している学閥などを、全く頼りにする必要はない。
無理に取り入ろうとする必要もなく、挑戦しようとすらする必要はない。
全く次元の違う、真の上知に遊歴する格別の学問領域がまた別にあって、
それが実践性を伴った本物の儒学や仏学にあたる。文献の細部に茶々を
入れて、それで学問だと思い込んでるような出版社のお手伝いさんではなく、
ただひたすら学知のために専心することで、国や天下までをも動かしてしまう、
重畳なる真の正学の修得が、そのままそれだけで何よりの満足を呼び込む。
たとえ誰一人として自分に付いて来られなくとも、万物は吾が学知によって
征服されているが故、孤独を感じるなどということもない。誤った学知こそは
孤独による寂しさを呼び込み、学閥などとして群れてなければいられなくなる。
邪学には友愛が必要でも正学には必要ない。とはいえ正学の修得によって
それぞれに優秀な知見を具えた者が集まれば、それはそれで群雄割拠にもなるが。
486 :
井上筑後守:2009/12/26(土) 00:23:23 0
「道徳とは何か?」と、スミスやらカントやらが何千何万言を重ねて弁じ立てている。
ああだこうだと概念をこねくり回した挙句、結局一つも明確な答えを出せずに終わる。
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」が、道徳やっちゅーねん。
「善悪の彼岸」などと大層な主題を掲げといて、「真理は女だ」「女は淫婦になった」
だのと、個人的な怨みつらみばかりをべちゃくちゃと並べ立てるニーチェくん。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」が、善悪の彼岸やっちゅーねん。
487 :
井上筑後守:2009/12/26(土) 00:27:32 0
概念の虚構に溺れてにっちもさっちもいかなくなってる羊学者の著述を、
さらに自分たちの金科玉条に掲げて自論を展開しようとするいまの学者。
おたくらが性懲りもなく探求し続けようとしている論題の数々は、何百何千年も昔に
たった一言や二言ばかりで東洋の賢人聖人に答え尽くされてんだよ。
それなのに、とっくの昔に提出されている本物の答えからは目を背けて、
もはや議論する必要もないような原則問題をのらりくらりと議論し続け、
それで大学の研究費やら講演料やらをせしめようとしている。詐欺師もいい所だ。
そんな詐欺師と同列扱いされるのを避けるために、学者の看板すら未だ掲げずにいる。
ただひたすら自分は自分の修練に特化して、元から届かない所にいたのが
さらに遠ざかっていっている。こちらは確かにそれでも満足だ。
危うい媚びへつらい合いに近づきすらせず、遠ざけてもいる、2500年来の
正しい教えに沿っているから、後世の評価も保証されている。むしろ佞人としての
醜態を改めようともせずに晒し続けている、今の学者たちの今後を憂慮すらしている。
豹は死して皮を留め、人は死して名を留む。美名も汚名も留められるんだから大変だ。
488 :
考える名無しさん:2009/12/27(日) 23:53:49 0
曹操の墓が発見されたね
489 :
井上筑後守:2009/12/28(月) 13:26:53 0
賛否両論の肝雄である曹操も、関羽や張飛のような英雄らしい英雄も、
いい年になるまで戦い抜いてから死んでいってるから、不完全燃焼感は全くない。
本尊であるイエスからしてわずか33で死に、そのまま天国に昇ったことに
なっている、極度の老年嫌悪が西洋では未だに残っていて、年取った女なんか
整形やら何やらで無理矢理若作りしたり、逆に諦めて一気に老け込んだりする。
全く老成文化がないのが西洋。むしろ老成にこそ価値を見出すのが東洋。
「年取っても若い」ではなく、「年取って老けたからこそ魅力がある」ともなる。
自らを人類史全体の中で考えた時に、経験を積んでよく立場をわきまえていく、
劉備のように仁義の王者として振る舞うか、曹操のように乱世の覇者として振る舞うか、
はたまた関羽のように文武両道の人情家として振る舞うか、張飛のように猛々しくあるか。
天寿を全うするまでの、全ての人生の模範になる先人がキラ星の如く多くいるので、
年取ったからって方向を見失って右往左往するような必要はない。
今度は自分がどれぐらい後世への模範として振る舞えるかと、挑戦意識すらわく。
490 :
井上筑後守:2009/12/29(火) 00:15:42 0
「夫れ世に希いて行ない、比周して友とし、学は以て人の為にし、
教えは以て己れの為にす。仁義の慝、輿馬の飾は、憲為すに忍びざるなり」
(世界古典文学全集「荘子」譲王篇第二十八・八より)
世の中の風潮に迎合し、広く親しまない一部のおもねり合いだけの友人関係を作り、
勉強は人に見せびらかすためにやり、教育は自分が利益を得るためにやる。
――ここまでは「論語」などにも見られる典型的な小人の振る舞いなんだが、
そこに「仁義を盾にした邪ま」や「車馬の飾り立て」をさらに並べる。
仁義を重んずる君子が決して陥ってはいけない小人然としたあり方と、仁義こそが直結されている。
ずいぶんとひねくれた論及で、四書五経のような字面上の儒学だけを鑑みれば
そんな意図を持たないことは明白なんだが、実際に君子たらんとして「論語」などを読み、
かえって君子の言動規範と共に取り上げられている小人の言動規範(「比して周せず」など)のほうに
なびいてしまった「腐れ儒者」も多かったんだろう。
「君子は○○、小人は××」と数多く並べ立てられている経書の論述は、
あくまで小人でない君子であることを目指すための指標ではあったはずだが、
結果として好ましくないような小人の振る舞いまでをも広く流布してしまった結果となり、
道徳と共に犯罪を、孔子と共に盗跖をも生み出してしまったわけだ。
491 :
井上筑後守:2009/12/29(火) 00:56:34 0
人類の積極的な罪悪の積重の起源は聖書だが、「善悪」という判断基準の起源は四書五経。
人類最古の古典「易経」にすでに「遏悪揚善」という言葉が載っていて、これが最古の善悪の定義。
伏羲氏や文王らの意図を律儀に受け継いで、遏悪揚善を「勧善懲悪」にまで孔子が押し上げた。
善悪は「善」が賞揚されるべきもの、「悪」が押し止められるべきものとして原初から「定義」されているので、
そういった意味を持つ「遏悪揚善」が載っている易経をも継承した儒学は、当然のこととして勧善懲悪に臨んだ。
善悪は勧善懲悪に付されるのが定義上当然のことであり、善悪の定義からのオリジネーターである経書も
全体的に勧善懲悪を基調とするようになった。ただ、経書が孔子によって整理されるより100年ほど前に
「善神信仰」たる拝火教がイランで勃興し、それを剽窃する形でまもなく「悪神信仰」のユダヤ教が
バビロン捕囚中の古代ユダヤ人によって作り込まれた。善悪を「遏悪揚善」という人間自身の定義に
基づいて提唱した易経とは違い、拝火教もユダヤ教も善悪を抽象化して超越神に仮託してしまった。
「天使と悪魔」みたいな稚拙な善悪の偶像化以上にも、善悪をより深刻な形で絶対化してしまい、
よく善悪をわきまえた上で勧善懲悪に臨むのとは違って、ただ信仰だから善を重んじたり、悪を重んじたりする。
絶対超越神への他力本願に基づいて善悪の分別を丸投げする。善の神であるアフラ・マズダーやアラーを
信じた拝火教やイスラム教はまだしも、悪の神であるエホバやキリストを信じたユダヤ教やキリスト教は
致命的な災禍をもたらす結果となった。ただ善悪を人間自身の定義として初めて提示した「易経」ではなく、
善悪を抽象的に絶対化する超越神信仰までもがもたらされたことで、悪への一概な奔走も生まれてしまった。
492 :
井上筑後守:2009/12/29(火) 00:57:21 0
超越神信仰など存在しない中国での思想だから、老荘の論述はあくまで善悪の内実を事細かに
解きほぐしたものとなっていて、その上で善悪なんてものを提唱してしまったが故のマッチポンプ災禍を
全般的に否定する。孔子も盗跖もコインの裏表みたいなものだと。道徳や犯罪といった、現実の切実な
善悪に基づいてそれらをひとしなみにする。だからその論述をそのまま善悪信仰のコーカソイド系宗教に
適用するのは難しいんだが、老子や荘子が言わんとしていることを汲み取れば、善悪を高度に抽象化
する類の宗教などに対してもその審判は及ぶだろう。
今はもはや道家の論敵だった儒家も勢力を持たず、世界的にカルト災禍のほうが著しい。
悪も否定する一方善も否定する、万物斉同の無為自然の公平な視野。そういうものも中国にはあり、
善悪を人間自身のものとして体系化した儒家と共に、最も普遍的な人類文化文明の指標となっている。
493 :
井上筑後守:2009/12/29(火) 12:20:10 0
「荘子」盗跖篇などを鑑みるあたり、やはり中国思想単体では、善悪の優劣はまだ曖昧なものだったようだ。
「耕しもせず食い、織りもせず着る士人などというものをおまえが讃美してるから、俺みたいなのもアリなんだ」と、
大盗賊の跖に孔子がめったくそに論破される。架空ではあるにしろ、作中の孔子も孔子で、
全国の諸侯を震え上がらせてやりたい放題である盗跖に、まともな手段での出世方法を勧めたりする。
それ以前に犯罪者は服罪しないことにはまともな社会人に復帰できない。武を全く修めていなかった孔子には
実力で腕力旺盛な盗跖を取り押さえるなど思いも寄らなかったという設定のようだ。
儒学的素養の持ち主でいて、黄巾族や火付盗賊を片っ端から蹴散らしていた関羽や鬼平のような
文武両道はかなり後世の話で、文治一辺倒の古代儒学には、盗賊のような積極的な犯罪者までをも
処理する考えはなかったようだ。佞人も犯罪者もただ「小人」扱いで、それほど事細かに論じたててはいない。
文武両道の勧善懲悪で盗賊までをも蹴散らす進化的な儒学は、それはそれで後代に発展したが、
あくまで実力で道徳者が犯罪者を上回ったもので、実力がないんなら未だ善悪の優劣は定かでない。
善は楽に帰し悪は苦に帰す、罪福異熟を唯識などを通じて普遍的に把握した仏教によってこそ、
善悪の絶対的な優劣は定まり、「諸悪莫作衆善奉行」が「一つの主張」ではなく「真理の言葉」として確立された。
中国浄土教開祖の曇鸞も、善悪を相対化してしまう道教の仙術書を焼き捨てて浄土教に入信したという。
儒家で肯定された勧善懲悪が道家で一旦否定され、仏教でまた断悪修善という形で再認される。
この三つを仏教>道家>儒家の順位に付した弘法大師も、やはり断悪修善を「秘蔵宝鑰」などにおいて是認する。
ライバルの多かった諸子百家中で儒家がのし上がったのも、仏教による善性の勝利宣言が後押しした所もある。
494 :
井上筑後守:2010/01/02(土) 20:40:52 0
あけましておめでとう。2chらしく正月二日目に初カキコ。
>>493で取り上げた「荘子」盗跖篇の問答は、道家としては全くアリなものだ。
大犯罪者盗跖が大道徳者孔子をこてんぱんに言いのめす、儒家にとっては甚だ
受け入れ難いお話も、「何もしない」ことが基本姿勢な道家では全くアリなことだ。
「論語」や「礼記」や「左伝」中の孔子の行状が、史実に即した実録的なものであるのに対し、
「荘子」における寓話の登場人物としての孔子の言動は全くの創作。
「経書を捨て去って人心を得た」とか、明らかに史実に反する寓言も見られる。
それでも荘子の言であるから構わない。王君からの斡旋も蹴って無為自然に徹した
荘子の言であるから、実際には何らそれらの言は実現されず、空想の域に止まってるから。
実際の世の中に迷惑をかけない全くの絵空事であるなら、犯罪者の道徳者に対する勝利すらアリ。
実際の重大犯罪者も刑務所の中で老荘でも読みながら自らを慰んでいればよろしく、
出所後も畑仕事あたりのまともな職業について二度と世の中に迷惑をかけない。
それによってただ迷惑をかけなくなるだけでなく、十住心論において儒家の愚童持斎心よりも
さらに上の順位である嬰童無畏心にも居られる。悪いことを実際にやると愚童持斎心よりも下の
異生羝羊心に陥るが、しないでただ思い浮かべるだけに止めれば嬰童無畏心になれる。
悪いことも思い浮かべるだけで実際にしなければそれなりの高尚さを持つ。
刑務所に入った瞬間から実践的な道徳者以上になる道を歩み始める。
495 :
井上筑後守:2010/01/03(日) 10:01:57 0
新春の読み初めとして久々に「易経」を読んでるが、また色々と新しい発見がある。
「蒙を発く。もって人を刑するに利ろし」(岩波文庫「易経」蒙卦より)
「刑」という語は現代語だと「法規を正す」とよく言い換えられ、この文庫版でもそうなっている。
しかし、徳治社会では成文法は基本なく、「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」の
道徳律に沿って即座に罪が罰せられていたから、「法」とは言わずに「刑」と呼ぶ。
「君子は刑を懐い、小人は恵を懐ふ(論語)」や「礼楽刑政(礼記)」などの用例から分かるとおり。
現代の「刑罰」という言葉と比べればかなり広い意味でも、確かに刑罰という意味も
含まれている「刑」で「童蒙」を啓発していく。蒙卦は童が象なので、子供すなわち蒙昧となる。
最原初の易の時点からすでに、東洋では子供を未熟さ蒙昧さの象徴としてのみ考え、
特にそこに独立的価値などを見出してはいない。ただそれは啓発によって伸ばすべきもの
とだけ考えられる。しかも教育者のほうが強制的に教えるのではなく、子供のほうから
進んで学ぶのがよい。陰柔には積極性を促したり、陽剛には消極性を促したりと、
一筋縄ではいかない臨機応変な態度姿勢が易では貫かれ、結果としてそれら全てが
遏悪揚善の開物成務に向いている。何もかもを無為自然にほっとく道家とは明らかに異なり、
これが儒家の教典四書五経ないし十三経の一つとして数えられるのも必然といえる。
496 :
井上筑後守:2010/01/03(日) 10:32:13 0
「孚ありて攣如たり。富その隣と以にす」(岩波文庫「易経」小畜より)
心から手を取り合って隣人と富を共有するという、どこぞやで聞いたような発想。
武経七書「三略」中略の「遠きを釈てて近きを謀るは佚して終有り」とも符合する、
おそらく「三略」のほうがこちらを参考にしたのだろうと思う。ただ、この釈遠謀近的な発想は
「小畜」という卦におけるもの。「風天小畜」ともいい、風が天上ばかりで吹いて地上に及ばず、
草木にまでその恵みが及ばない状態で、殷紂に虐げられて民に恩恵を及ぼせない文王の
悲哀までもが込められているのだという。武経七書も軍政という非常事態を司る奥義書で、
誰しもに隈なく利益が及ぶ「遠きを柔らげ近きを能くす(書経)」る状態こそは理想である。
釈遠謀近で富を隣人と共有するのは、あくまで乱世のような非常事態に限って認められる。
伏羲氏が5200年前に八卦を作り、3100年前に文王が六十四卦を整理し、この卦も生まれた。
明らかに人類最古級の教え。古くてしかも正しいことを言ってるんだからこの上ない。
497 :
井上筑後守:2010/01/03(日) 10:49:18 0
「遐きを遺れず、朋亡ぶれば、中行に尚うを得ん」(岩波文庫「易経」泰卦より)
小畜とは対照的な、最もめでたいとされる卦「泰」におけるお告げ。
天地陰陽の気が和合して、上のものと下のものとの疎通が行き渡り、君子の道が開かれ小人の道が閉ざされる。
そこにおいてこそ遠方の利益までをも図り、我田引水のための朋友関係を捨てて、
万物に利して我が利ともする仁義が通るようになる。「三略」だとこのような釈近謀遠は
なかなか成果を挙げにくい手段として敬遠される。それすら通るのは泰卦というめでたい卦だからで、
君臣の調和もよく取れている。「中庸」は「天下の達道」を君臣>父子>夫婦>兄(昆)弟>朋友の順に帰すが、
中でももっとも重要な君臣の義が十分わきまえられることにより、人間関係の中では最も粗雑な横の繋がり、
朋友の関係は閉塞していく。身分上下の秩序が整えられることは、めでたいことである。
自由平等ばかりがいいものだと思わされている現代人にとっては唐突にすら感じるであろう、古からの吉祥観である。
498 :
井上筑後守:2010/01/03(日) 11:40:09 0
「茅を抜くに茹たり。その彙と以にす」(岩波文庫「易経」否卦より)
泰卦と逆にあたる最も不吉な部類の卦「否」で、また芋づる式の朋友関係が認められる。
時と場合によって全く真逆のことを告げる易占、一人の人間の思想信条としては
破綻したものとしてすら扱われかねないが、易という体系全体で見れば確かにそれは
一つの方向性を保てていて、それが「遏悪揚善(大有)」だといえる。
とはいえその遏悪揚善も、泰卦や否卦のような吉祥や不吉が極まっている卦に
おいては、過剰な推進を止められたり、推進したって無駄扱いされたりもする。
どこまでも判断の滞留の存在しない、流動的な存在性ないし不在性の中行を営む。
それが結局は正しいことだから。現実世界の実相に即した最善なる人間の有り様だから。
時の流れを通じて風化していく凝り固まりを人間の側が捨て去って、
完全に現実の実相に密着していく方法を載せているから、甚だ不可解なもの
であるにしても、確かに易は「この世界」における最高の安定性を誇っており、
以て世界最古の古典となるにも至った。易以前や易と同時代にも全く文書が作られなかった
なんてことはないだろうが(人類最初の文書にしては易は完成度が高すぎるから)、
それらは風化に耐えられずに亡んでいき、真の普遍性を持った易だけが残った。
たとえピラミッドやスフィンクスが完全に崩れ落ちて塵芥と化しても、易のほうは残る。
なにもこの世界に対峙してひっかかる所がないから、風化のしようのないが故に遺されていく。
長いですな
ちかごろ武経七書とか老荘とか、文面でとやかく論じ立てにくい類いの書を読んでいたが、
やはり儒学の聖典だと語りやすい。旺盛に論じたてることを目的にも書いてあるから。
七書の一つである「司馬法」には「(突入戦に際しては)書は親しきをも絶つ」とすらある。
それは確かにそうなんだろうが、老荘も含め、すでに書きたててしまっているものが
書物の価値を否定するのは自己否定に陥ってしまっている。もちろん文章ばかりへの
狂信もいけないが、実践的な向学材料に乏しい昨今、文書を拠り所に勉学を為す以上は、
その範囲内において最善を尽くしている書物のほうにより価値を見出すわけだ。
「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(繋辞上伝)」を見越した上で、なるべく意を尽くそう
としている言、言を尽くそうとしている書の意や言を汲み取る所に儒学の本懐がある。
501 :
井上筑後守:2010/01/04(月) 10:27:10 0
「父の蠱を幹す。小しく悔あれども、大咎なし」(岩波文庫「易経」蠱卦より)
先代の腐敗壊乱が甚だしい時に、仕方のない非常手段として後代が正していく。
「三年父の道を改むること無きは、孝と謂うべし(里仁第四・二〇)」や
「子は父の為めに隠す(子路第十三・一八)」など、父子の序はあくまで守られることを
理想とするが、本当にどうしようもない状態に陥っている場合はやはり改める。
論語や孟子などの四書の段階だと憚られる酷薄さが、五経にはまだ残っている。
五経は天地万物の普遍性に則っている部分が大きいのに対し、
四書はより人工的な改善を加えていこうとする積極性を伴っている。
「孟子」の性善説などはその最たる例。あえて性は善なりと表明することで、
善性を養おうとする積極性を高めていく。「易経」もまた基本は遏悪揚善だが、
現実の苛酷な様相に対峙した場合に、人間にはどうしようもなくなる場合も甘受していて、
この蠱卦のように特に酷い腐乱状態においては、父母の過ちをも正していく
孝行には悖る選択も認める。やはり悔いは残るんだが、まだマシな選択として。
502 :
井上筑後守:2010/01/04(月) 10:40:08 0
四書(というか正確には「論語」と「孟子」)は理想論、五経は現実論。
五経が自力での聖賢への道を切り開いていく上での研究書となるのに対し、
四書は他力の人間が孔孟などの大先生の教えに従っていく教科書である。
孔孟に教えてもらうだけなら四書、自分も孔孟のようになろうと思うなら五経。
別段孔孟が神様なわけでもなく、模範的な五経等の修得者であっただけの
話だから、何もかもを頼りにする必要もなく、自力の修得も目指していいわけ。
503 :
井上筑後守:2010/01/04(月) 11:06:15 0
「天の神道を観るに四時たがわず。聖人神道をもって教を設けて、天下服す」(岩波文庫「易経」観卦より)
日月星辰の普遍的な動向こそは「神道」であり、神道によって天下を治めていく。
「中国古典名言事典」などでは、この「神道」は日本神道の神道とは別物だと言っているが、
「神道(しんとう)」という語がここから引用されたであろうことは想像が付く。
古事記の序文にも「陰陽斯開」とあるし、神道が易の影響を色濃く受けているのは明らかな事実。
ただ、中国古来の易と明らかに違うのは、神道には「日月星辰」のうちの「日」と「月」への崇拝は
アマテラス信仰やツクヨミ信仰といった形で確かにあるのに対し、「星辰」に対する信仰が全くない。
日本神道の長である天皇が、道教で「北極星」を表す「天皇大帝」にちなみ、
「政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰が其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし(為政第二・一)」
などの北極星崇拝も参考にして、北辰(北極星)よりは格下にあたる全ての星辰崇拝を取っ払った。
天皇の下では全日本国民は一家であり、わざわざ北辰以外の星を崇める必要はない。そして
星辰を崇拝する全世界の人間は「論語」の上記の言に沿って、衆星として中心たる北極星に拝礼する。
日本独自ではなく中国の思想などを参照した時に、初めて見えてくる、日本建国に秘められた野心がある。
504 :
井上筑後守:2010/01/04(月) 11:39:14 0
「窺い観る。女の貞に利ろし」「女の貞とは、亦醜ずべきなり」(岩波文庫「易経」観卦より)
門や洞窟の奥底から外を窺い見るようにして視野がせまいことは、
家庭を守る貞節な女の場合などであれば構わないが、男としては恥ずべきこととなる。
「出歯亀」であることは女々しいことである。金もないのに毎日たらふく飲み食いしてくる
亭主をいぶかしんだ妻が、亭主の後をつけると墓場で葬儀の供え物を掠め取ってたという
「孟子」離婁章句下・三四の逸話などは、家を守る妻のあり方としてそう悪くはないものだが、
世の中で堂々と働くべき夫までもがこんな覗き趣味であったりすることは致命的となる。
なぜ人間は覗きをしようとするのかといえば、視野を狭めて部分的なことを重点的に処理
したいからだったり、自分が観察していることを相手に気取られたくないからだったりする。
これらは自分の仕事だけに専念すべき小人だったり、上記のような家を守りたがる妻
だったりであれば適切にもなるんだが、世の中全体を動かすような、大局的な視野を必要
とする仕事に就いている君子などにとっては百害あって一利なし。出歯亀故の女々しさが
世の中のほうにまでうつって何もかもが陰鬱になる。傍観的な観察は下民が君主を仰ぎ見る
には吉祥でも、君主が下民を監視するには不吉となり、観卦はもちろん前者を意味する。
後者であることは恥ずべきことなので、それ以上積極的に語られることはない。
井上どうすればええんや
506 :
井上筑後守:2010/01/04(月) 13:21:31 0
「无妄の疾あり。薬することなくして喜びあり」「无妄の行くは、窮まるの災いあるなり」(岩波文庫「易経」无妄卦より)
虚妄なく真実に即している无妄は、病に陥りながらも薬に頼らず快癒するなどの福徳に与る。しかし、
真実だからといって突き進みすぎると災いにもなる。「禍転じて福と成す」ならぬ「福転じて禍と成る」。
占いを完全否定して不吉な鬼門を突っ走り、それでも悪人正機によって救われる浄土教徒とは逆で、
占いを信用して吉祥を突き進み過ぎることで禍に陥ったりする。易ならそのことに対する注意までも載っていて
迷信が行き過ぎるなどということもないが、近ごろの粗悪な占いだの心理テストだのにそこまでの配慮はない。
占いとして使うんなら、易もある程度他力的な意味合いを持つが、占いのお告げとして出てくる言葉は
結局は自力の精進を助けるものに尽きていて、全ての判断を任せっきりにするような不誠実な態度では
全く頼りがいがない。易はあくまで正善さのために用いられてこそ効果を持ち、悪いことに利用されても
大した価値を持たない。近年の社会が重大な決断ほど占いを排したりするのは、その決断が悪いことの
実行のための決断だったりするからで、正しさの積み重ねのための重大な決断が易占に頼られていた
かつての中国などとは違うところである。正しいことならどんなに重大な決断にも協力するが、
間違っていることならどんなに瑣末な決断にも協力しないのが易占だといえる。
易占は、もはや頼りにできる助言者すらいないほどに
立場が孤高下してしまった為政者が、決断を依存する最後の砦としていた。
管仲や晏嬰や子産らをプロトタイプとして、孔子が完成形となった
有能な王君の補佐者、さらには諸葛孔明のような天才軍師など、
国政のトップ以上にも頭脳的な率先者の役割を果たす名士が後代になると
現れ始めたが、「書経」の記録範囲のようなそれ以前の太古においては、
最高責任者たる王君が私心を排した自己判断のための道具として易占を用いた。
とはいえ上記のとおり、易占は「悪い決断」には協力しない。
悪い状況における善後策、善い状況における保全策などを提示し、
決して善い状況を悪くしたり、悪い状況をさらに悪くしたりしようとするような
願望には与しない。いついかなる時機や場所においても用いられる一方、
用いることによる効果はただ遏悪揚善に尽きている。期待する効果が
それでもいいんなら、今でも易は決断材料として十分な価値を持っている。
唯識の言葉を借りて言えば、易は末那識の迷妄を抑えて阿頼耶識の理知に即した言動を促す。
粗悪な占いや心理テストだと却って迷妄を増長させたり、理知と迷妄のみそくそになったりするが、
正統な易占ともなれば、全ての占いの結果は迷妄を抑えて理知を伸ばすようになっている。
易占の的中率は15%程度だという。占いなんてものはいずれでもこんなもんだが、
迷妄に囚われて1%も正しい判断のできなくなっている人間が依拠対象とすれば、
正しいを判断をできる確率は15倍以上にもなり、自分で独断するよりよっぽどいい結果を得る。
もちろん占いなんかに頼らず、正しい判断をできる賢人を頼りにできればそれに越したことはないが、
迷妄に囚われてる人間ってのは概ね極度の人間不信に陥っていて、他人の発言に素直に
耳を傾けられなくなってたりするし、耳を傾けたところで結局自己の独断のほうを優先したくなる。
人が人に対峙する、人間関係も正しく営もうと思えば色々と煩わしいもので、
それがまだ自分には無理そうだって時に、憎む相手もいないから恨みっこなしな占いあたりに
頼るのが最善となる場合もあるだろう。独断で迷妄をさらに増長するよりはまだマシなものとして。
509 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 10:46:27 0
「憧憧として往来すれば、朋爾の思いに従う」(岩波文庫「易経」咸卦より)
ソワソワと多動性障害のように行き来していれば、一部の友人が付いてきてはくれるだろうが
誰しもを心服させるだけの重厚さは備わらない。感官も焼け付いて些細なことに一喜一憂する。
動き回って何かを得ようとすることは、根本的に自らの威厳を削ぐこととなり、
覇者としては認められても王者としては甚だ素質を欠いた姿となる。
出歯亀が女々しいのと同じで、如才のないことは婦道ではあっても大夫のあり方ではない。
人間の身体の中で最も鈍感な部分――背中のように鈍重であってこそ、威厳もまた備わる。
不動であることは王者としての大前提。それにすら反して何をしたって何もうまくいくはずがない。
510 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 11:27:07 0
「君子以て小人を遠ざけ、悪まずして厳しくす」(岩波文庫「易経」遯卦より)
峻厳さには愛憎が付き物だと考えられがち、「飴と鞭」などという発想はまさにその内。
憎悪がないなら溺愛もない。君子が愛憎に囚われて小人を扱うことが弊害になる場合、
もはや他人行儀に扱うのは簡単で、今の政府や自治体などはまさにそうなっている。
しかし、それでは為政者と被治者の疎通が滞り、それぞれにおける腐敗の様相を呈するので、
愛憎を伴うことなく厳しい統治を行なう。所詮は支配者と被支配者であるから、
両者が平等であるだの、あるいは下民のほうが主権者であるだのの虚妄は通らず、
為政者としての身分をわきまえて、過剰な情欲に囚われた統治を避ける。
もちろん完全に愛憎を捨てるというのもおかしい。王君が下民を愛したり、
十手持ちが盗賊を憎んだりはむしろあったほうがいいもの。ただ、為政者の
被治者への感情は、あったほうがいい場合もあれば、ないほうがいい場合もある。
身分の違いがわきまえられた感情はあったほうがよく、わきまえられずに不当な癒着を
生む感情はないほうがいい。為政者が統治のために愛憎をうまく使いこなすことが何より。
511 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 11:58:30 0
「父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、夫は夫たり、婦は婦たり、而して家道正し」(岩波文庫「易経」家人卦より)
「論語」顔淵第十二・一一に「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」とあり、家道中で最も重大な
父子の序にさらに君臣の序が上乗せされた。その理由は論語なら微子第十八・七などにあるし、
「易経」の説卦伝にも「夫婦が家族を作ることで父子の関係が生まれ、父子が社会を形作ることで君臣の関係が生まれ、
君臣の関係が生まれたことで初めて礼儀が必要になった」とあることからも、儀礼上の秩序に基づけば
この逆順で「君臣父子夫婦」の序列が正しい順番となり、以て「三綱」として後世にも確立されることとなった。
>>497などで引いた「天下の達道」は、「君臣父子夫婦兄弟朋友」の順番で、三綱の後にさらに兄弟と朋友を付け足す。
「易経」家人卦とは「兄弟」「夫婦」の順序が逆になっているが、とにかく「君臣」「父子」「夫婦」「兄弟」の四つが、
上下優劣の関係を徹底すべき縦の繋がりであるのに対し、最後の「朋友」だけが上下優劣を問わない横の繋がりに当たる。
家道ではないので「易経」の家人卦には出てこないし、他で出てきても
>>497や
>>509など悪い意味の場合が多い。
父子・夫婦・兄弟は家内の関係であり、卑俗の関係である朋友よりは上のもの。その家内よりさらに儀礼上は上になる
君臣の関係ももちろん、朋友よりも上。君臣>家庭>朋友であり、君臣と朋友は社会的な関係であるのは共通するが、
ちゃんと身分秩序を保った君臣なら家庭よりも上になる一方、秩序を守らない朋友だと家庭より下になる。
秩序がちゃんと保たれているかどうかで、社会は家庭よりも上か下かに二分化される。厳粛な社会道徳を重んずる
儒家が家庭内秩序をも重んじるのは、それが無秩序な朋友関係よりは上である一方、秩序立てられた
君臣の関係には従順な、秩序と無秩序の間に挟まれる敷居としても適当であるからだ。
512 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 12:11:12 0
(君>臣)>(父>子)>(夫>婦)>(兄>弟)>(朋=友)
という、天下の達道そのままの秩序が守られていれば、最後の「朋友」の関係は抑制される。
しかし、「友愛」なりなんなりで逆に朋友の関係のほうが偏重されて、
(朋=友)>(兄=弟)>(夫=婦)>(父=子)>(君=臣)
という風に、一つ一つの上下関係が平均化されて崩壊してしまうことになれば、
父子よりは夫婦のほうが、夫婦よりは兄弟のほうがという風に、
成熟を必要とする家庭関係よりも、幼稚なままの家庭関係のほうが好き好まれるようになる。
核家族社会なんてのは、親子の関係が個人主義によって希薄化され、
わざわざ父子夫婦の序列を保つことが億劫がられ、親子や夫婦でも友達みたいな
いい加減な意思疎通しかできず、いつでも家庭が崩壊の危機にさらされた状態となっている。
父子夫婦兄弟の家庭内の序列は、社会上の序列が君臣>朋友であることが徹底されることで
初めて保たれる。朋友>君臣であったり、君臣=朋友であったりでは、家庭内の序列も
保つだけ無駄扱いされる。王君と臣下という、もっとも儀礼上厳かな秩序が保たれた時、
それに倣う形で父子や夫婦や兄弟といった家庭内の序列も厳格化されていく。どちらかといえば
君臣が先で家庭は後。君臣の関係と共にこそ礼儀秩序もまた生まれたのだから。
513 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 12:46:17 0
君臣父子夫婦兄弟朋友の天下の達道の秩序は、
士農工商の四民制の秩序などと同じで、最初と最後の秩序付けが徹底されれば
自然と中間の秩序も成り立っていくもの。
支配階級である「士」と、最も利殖を得やすい産業である「商」とが徹底的に分離されて、
士は農や工の上に、商は農や工の下に置かれれば、自然と農や工の秩序も定まる。
それと同じく、社会における君臣の秩序が徹底されれば、無秩序の最たるものである
朋友は狭まっていき、自然と父子や夫婦や兄弟の関係も君臣の序に倣うようになる。
ただ、君臣の関係も「天皇陛下と臣民」なんていう、二極化した関係では危うい。
天皇公家将軍大名上士下士農工商といった風に、緩やかかつ絶対的な秩序が
隈なく頒布されて、不埒な友愛を差し挟む余地を公けからはなくしてしまう。
公的な関係は全て君臣の関係に付され、私的な関係でのみ朋友の関係が認められる。
朋友のための権力濫用などは決して許されず、大臣格であろうとも切腹級の罪となる。
514 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 17:10:20 0
「損せずしてこれを益す。(中略)臣を得て家なし」(岩波文庫「易経」損卦より)
誰しもに利益をもたらして自らをも損なわない、正大な仁義による統治を志せば、誰しもがそれに臣服して、
あたかも天下万人が一家であるかのようになり、個々の家の事情を気にする必要もなくなる。
まず、万人に利して我が利とする誠意に満ちた王君があり、その王君に臣下が心から服従して秩序を整える。
さすれば万人は一つの家族のようになるから、君臣の序列の確かさがそのまま
家庭内の父子や夫婦や兄弟の序列にも及ぼされる。これが、君臣父子夫婦の序の三綱ないし、
君子父子夫婦兄弟朋友の天下の達道の本旨にあたる。
あくまで心を通じ合わせた誠意的な君臣の関係があって、その後に父子夫婦兄弟の家庭内秩序がある。
家庭内秩序だけを正そうとしたって、世の中の側が君臣を軽んじて朋友一辺倒なんじゃ為す術もない。
天下万民が一家となる時に用意して、天皇家は姓を持たないままでいる。
確実に三綱や天下の達道を実現する材料は揃っていて、
ただ世の中のほうがその秩序の完成を嫌がって、相も変わらず乱れ続けている。
もう随分といい年でもあるのに、未だにガキんちょのままのお友だち関係を続けてる。
515 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 17:12:20 0
「号ぶことなかれ。終わり凶あり」(岩波文庫「易経」夬卦より)
夬卦は重大な決断の意で、「王庭に揚ぐ。孚あって号ぶ」とあるのは、朝廷において
君子が小人の罪を高々と読み上げ、その非を万民に隈無く知れ渡らせることを意味する。
危険は伴うが必要なことなので、まず自らの領有地から対処を行っていくなどの工夫が必要となる。
君子に対しては慎重に慎重を期すことを促すが、小人に対してはもはや「泣き叫ぶだけ無駄だ」とする。
小人への諦めの促しが上記の夬卦上六のお告げ。君子は声を大きくし、小人は小さくせよ。
断罪の決行に向かう時の心構えとして、この卦は拠り所としやすい。
当たり前ながら、小人の罪を朝廷のような公けの場で告発する、
罪のために適当かつ必須な手段も冒頭から提示されている。
何もかもを見えない所で勝手に処理してしまおうとする隠蔽体質蔓延る現今においては、
この部分からわきまえねばならないということもあるだろう。
516 :
考える名無しさん:2010/01/05(火) 17:18:28 0
筑後守は、なんとも片手落ちで不徹底だねwww
真の老成の美学はサプリメント先進国のアメリカにこそ在るというのに・・・www
517 :
井上筑後守:2010/01/05(火) 18:31:17 0
ブラックアフリカやアフガンの平均寿命を
40代に落ち込ませながらの老成ねえ・・・
他国からの略奪を伴う化学研究などに依らずとも、医食同源の中華料理や
漢方薬などによって、大人数なりの長寿(72歳)を得ている中国のほうが、
世界最高の平均寿命である日本ほどではないにしても、まだマシだねえ。
もっとも、自分自身はまだ老成を重んじる年頃でもないんでね。
年相応の隠居が必要なのは、自分とはまた別の、どっかの誰か。
女の旬も老人並みに早かったりするし、一概に年齢だけで判断もできないがねえ。
518 :
井上筑後守:2010/01/06(水) 10:06:31 0
「羸豕孚に踟躅たり」(岩波文庫「易経」女后卦より)
常用漢字が一つもない難読語。「るいしまことにてきちょくたり」と読み、
痩せ細った豚が血気盛んで手に負えない状態を意味する。
「痩せ犬」とか「痩せ狼」とかいった侮蔑は歴史時代小説などでたまに出てくるが、
暴飲暴食の象徴としてアブラハム教圏で忌み嫌われ、特にイスラムでは
禁忌とされる豚が、痩せ細ることで却って発情するという聞き慣れない描写。
しかもこれは「女后(これで一字)」の卦主である初六のお告げ。
身持ちが悪くて娶るに値しない淫乱女の卦。そこで出て来る痩せ細った豚(羸豕)。
どうも「豚」というのが女のことのようで、ダイエットにはげむことで女はさらに淫乱になる。
痩せようが太ろうが豚は豚。むしろ貪り食って丸々とした食肉になるほうがマシですらある。
問題は太ってるか痩せてるかではなく、本性が豚であるか豚でないかということ。
食欲にしろ性欲にしろ貪欲に過ぎるものが、豚のようであるとして品性を疑われる。
とはいえイスラムなどとは違って、中国では養豚も盛ん。豚食も豚革も豚毛も
旺盛に使いまわす。ダメなものとしての豚の存在性がよく分かってるから、
今さら突き放すまでもないということ。よく分かりもせずに忌み嫌うから突き放す。
519 :
井上筑後守:2010/01/06(水) 10:20:48 0
アフガンのテロリストに武器を売り渡してるのもアメリカなら、
それによる戦乱を鎮圧しに行ってるのもアメリカ。
奴隷貿易などでアフリカを荒廃に陥れたのもアメリカなら、
ユニセフなどでその焼け石に小水をかけてるのもアメリカ。
災禍もアメリカだし、その災禍を頭ごなしに片付けようとするのもアメリカ。
結果としていつも棒引きやそれ以下。マッチポンプでもいいからとにかく
何か旺盛な活動をやっていたい、痩せても太っても貪欲でいる豚の有り様。
娶るにも値しない淫乱女。火事場泥棒は火付盗賊改方とは相容れない。
520 :
考える名無しさん:2010/01/06(水) 11:45:15 0
CIAと言う一組織の陰謀に過ぎないんだがねwww
奴隷商人はイギリス人だよ、アメリカは高い金だして買ってただけ。
ユニセフを通じてのアメリカの援助のお陰で終戦直後の日本がどれほど助けられた事か。
サプリメント先進国アメリカの方が、農薬入りの中華料理や動物虐殺の漢方薬の中国よりも
遥かにマシだと思うが・・・www
CIAやMI6みたいな非合法組織を公的に飼い馴らしてる時点で、
アメリカやイギリスは紛れもないマフィア国家なんだわな。
中国や日本にもマフィアやヤクザはいるが、あくまで非公式の私的な組織に過ぎない。
ロシアにもKGBがあったが今はもうなく、モサドのあるイスラエルなど、
犯罪組織を公けに認めている国家は、今は旧西側のごく一部に止まっている。
空襲や原爆やABC包囲網による禁輸政策などで、戦前の日本を荒廃に陥れたのもやっぱりアメリカ。
今の中国に衣料品やら何やらの生産のための重労働を課し、劣悪な労働環境や自然破壊を
促しているのもやっぱり欧米社会。ポンプが欧米である時、いつもマッチも欧米。
あって余計であり、なくて別に困らない有害無益。ここでももう独立して論じるのは憚られるのでsage。
不健全な生活があってのサプリメント、CIAがあってのFBI、MI6があってのMI5・・・
どんなに大規模であろうとも、常にマッチのためのポンプしか用意してないのが欧米。
マッチポンプ全体を根絶させた後の、真に健全な生活を営むための用意はどこにもない。
起こってしまった災禍を頭ごなしに処理する以前に、災禍を未然に防ぐ徳治に務めていたから、
江戸の警察組織などはすこぶる少人数や軽装備で済み、飢饉や火山の噴火などのどうしても
避けられなかった災禍による世相の荒廃などに応じて、順次火盗改などの特務機関を設置していた。
決してCIAやMI6みたいな犯罪組織とみそくそに付されていたのではなく、どうしても世の中が乱れて
しまった場合にやむを得ず組織されたものだった。もちろんその頻度も今に比べれば極少で。
523 :
考える名無しさん:2010/01/06(水) 13:18:01 0
違うよ・・・www
アメリカには日本のような公的な健康保険、国民皆保険制度が無いからだよ。
保険に入るには高い金だして民間の保険会社に入るしかないからだよ。
何千万人も無保険者がいるんだよ、アメリカには。
だから、医者や病院に頼らなくても良いように進んでより健康になるために
ジムや道場で運動したりよりからだに良い栄養健康食品をみんなが求めているの。
だからサプリメントが世界一発達したんだよ、決して不健全な生活からなどでは無い。
なんでそんなにサプリメントにこだわるのか知らんが・・・w
俺も眼病予防でブルーベリーの錠剤を飲んでたりするが、
やっぱりそれもパソコンや携帯みたいな発光情報媒体を使ってるからだ。
昔ながらの蛍雪の明かりで勉強したりすれば、もっと目も休まるだろう。
私的であれ公的であれ、何らかの高度医療に頼らなければならないのは
それだけ高度に不健全な文明生活を送っているからでもある。
「医者が病気を、弁護士が犯罪をインドに持ち込んだ」とはガンジーの言。
「○○の罪を犯せば、××の刑に処す」みたいな成文法も、
それを公然に晒したことで罪の犯し方までもが頒布される結果となった。
高度な法学だの医学だのの形成はそれ自体が、多大な疾病や犯罪
行為をも生み出す。医療以前の健康、法律以前の道徳はまた別にある。
「欧米にもこんなにいい所がある」みたいな話もいつかはしたいんだがな。
今はまだ全体的に善悪みそくそ過ぎるから、善い部分を評価しようとすると
必ず悪い部分の一緒くたが付いてくる。みそくそである以上は、一旦だけでも
十把一絡げに断罪されねばならず、隅々まで浸透してしまっている毒素を
十分に浄化してからでないと、善い部分の評価もまだ覚束ない。
部分の抜け駆け的な救済を許すと、誰しもが不平を訴えて収拾がつかなくなる。
カンダタだけが蜘蛛の糸をよじ登るのは許されず、地獄全体が浄化されて然るべき。
526 :
井上筑後守:2010/01/06(水) 23:52:29 0
日本語訳が全くなく、近現代の解説書なども極些少ながら、
「君子危うきに近寄らず」など、有名な格言も多く載っている
春秋三伝のうちの「春秋公羊伝」と「春秋穀梁伝」の原文をざっと閲覧したが、
意外とどちらも短いんだな。いずれも左伝の四分の一程度。両方併せても左伝の半分。
現行の五経のうちの一つとして「左伝」ばかりが重宝されているのも、別にえこひいきではなく、
もっとも詳細な春秋経の解説書でもあったからなわけだ。今まで「四書五経」という定型句を
多用してきたが、別に春秋三伝全てや孝経などを総合した「十三経」という呼び方でも
大して変わらない。中国本土ではむしろ十三経という括りのほうが通例であるぐらい。
もちろん日本での主要な経書の受容のあり方としての四書五経でも構わないんだが。
527 :
井上筑後守:2010/01/11(月) 11:06:26 0
「言うことあるも信ぜられず」(岩波文庫「易経」困卦より)
困窮状態にある人間には、どんなにもっともらしい言葉でも信用できない。
魔法をかけられて誰にも予言を信じてもらえなくなったトロイアの女王カサンドラなどとは違い、
この卦においては君子だろうが誰だろうが、言って説明してやるだけ無駄手間になる。それは、
発言者側に落ち度があるという以前に、困窮によって視聴者の側が絶え間ない疑心暗鬼状態
に陥ってしまっているから。何物をも信用しない貧しい心に陥ってしまってる人間というのは、
情報の正誤などを本気で読み取ろうとはせず、ただ安いとか面白いとかの目先の利得ばかりに
囚われる。それなりの金を出して本物の物品を手に入れるよりも、100円ショップで済ませようとする。
しかもそれは財政的に貧乏である場合に限らず、大金を得ても心が貧しいままでいたりすれば
あろうことか、大金を出して偽者を買うような愚までをも犯す。逆に貧乏であっても、本物こそを
重んずる心の豊かさがあれば、安値で買えるものから本物を求め続け、金を得た場合にも
本当にその金を出して買う価値のあるものだけを買う。結果、金を得たときの使い方も堅実になり、
貧しい心のままに財物を振り回す場合と比べて、財物の扱いも丁寧になる。困卦の意味する
困窮とは、財物の貧富というよりは、一人一人の内面からの貧富を意味している。
心が豊かなら金銭的に貧しくても人の話を真摯に聞けるが、心が貧しければ金銭的に豊かでも
話ひとつまともには聞けない。そして心の貧富と財物の貧富は必ずしも一致も連動もしない。
財物の貧富以前に心の貧富を制御する気高さこそは、真に心の豊かさをも育む。
528 :
井上筑後守:2010/01/11(月) 11:55:25 0
「君子豹変す。小人は面を革む」(岩波文庫「易経」革卦より)
大きな変革に際して、君子は根本から潔く豹変するものの、小人は変革に付いて行けず、
せいぜい面の皮を革める程度。今まで蔑んでいた相手に表面だけで媚びへつらったり、
逆に媚びへつらっていた相手を蔑みの面で見下したり。革命というと何となくフランス革命
などの暴力革命への印象から、王君のほうが民衆に付いていかされるというイメージがあるが、
古来からの意味での革命とは、君臣の関係の守られた秩序内で政権が移行することを意味する。
もちろん孟子の易姓革命論などもその意味での革命だから、禅譲だろうが放伐だろうが、
君子が先導者となり、小人が君子に付いていくという陽唱陰和の関係は崩さない。
岩波文庫版の解説には、「シナにも孔子の尊王主義と孟荀の革命肯定論と二種類ある」と
指摘しているが、荀子はともかく、孟子の革命肯定論は決して、孔子の君臣秩序肯定と相反するもの
ではなく、新たな王君を立てるための革命だからこそ「姓が易わる」ともいう。大統領や総書記が代わる
ごとに最高権力者の姓も変わる共和制や共産制などを肯定してたんなら、始めから「易姓革命」などとは言わない。
万世一系の天皇家を擁する日本人だからこそ特別に拒否反応を示す、孟子らをも含めた革命論。
天皇家には姓がなく、特定の家だけに利権を集中させることを古来から否定しているから、実は孟子の
易姓革命論とはぶつかってもいない。よく内実を鑑みれば、ある種の革命はそんなに恐れる必要もないと分かる。
529 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 12:08:17 0
ぴかぁ〜?
530 :
井上筑後守:2010/01/11(月) 12:12:13 0
「妾を得てその子に及ぶ。咎なし」(岩波文庫「易経」鼎卦より)
鼎(かなえ)をひっくり返せば、古くから溜まっていた汚悪なかすが全て排出される。
それはちょうど、男子が妾までをも囲うことで多くの子孫を得るようなもので、吉である。
一夫多妻を一種の吉祥としている。天皇家や将軍家が多くの側室を囲っていたのも
決して色好みなどではなく、確かな思想的根拠に基づいている。男尊女卑の夫唱婦随
だったり、君子と小人の革命時にもおける序列の徹底だったりと、「易経」の内容は
あくまで前近代的な封建制に近似している。というよりも、西欧の封建制はともかく、
中国や日本の封建制は経書によってこそ形作られてきた。今でこそ女の子趣味扱い
されているような占いの、中でも最古の占法である易占こそは、現代人が過去の
遺物として忌避しているような昔ながらの封建主義社会の根源となっている。とはいえ
易経は決して、そのような封建主義を是認する思想を無闇に提示したのではなく、
事物の吉凶という確かな実相判断に基づいて提示した。善いことをもっと善くしていき、
悪いこともなるべく善くしていく、事物の根源にまで遡った遏悪揚善が自ずと夫唱婦随や
君臣秩序、さらには一夫多妻までをも是認する。多数決による民衆の恣意などは、
どうしようもない奸臣に騙されるなどして失敗に陥ることもあるが、事物の実相にまで
遡った判断は、当たらずと言えども遠からぬ、そこそこに正しい結果を常に提示している。
531 :
井上筑後守:2010/01/11(月) 12:47:51 0
「時止まるべければすなわち止まり、時行くべければすなわち行き、
動静その時を失わず、その道光明なり」(岩波文庫「易経」艮卦より)
和辻哲郎「風土」において、砂漠地帯は立って動き回る「動」の文化を生み出し、
モンスーン地帯は座ってじっくりと考える「静」の文化を生み出したという。
モンスーンのほうは、インドに関しては確かにそうなんだろうが、中国は動静の
緩急を正す臨機応変さこそが主。「孫子」の「風林火山」などもそうだし、
最原初の「易経」においてもこのように動静をよく制御するのが「光明」とする。
ただ、これは「とどまる」を意味する艮卦における言葉であり、動静のメリハリの
肝要はやはり「動」ではなく「静」のほうにあることが分かる。風のように速く
動くことは、山のように動かないことができてこそ叶う。多動性障害ならば
動くべき時でない時に動き、動くべき時に動けないような不恰好さを招く。
動くべきでない時に動き、動くべき時に動けない≦ただただ動き回る≪しっかりと止まる≦動くべき時に動き、動くべきでない時に動かない
「光明」という言葉を真に受ければ、動静のメリハリを付ける中国がユーラシア大陸では最も光明(太陽)出ずる東側で、
どっかりと座り込んで動かないインドがその次に東側で、アラブやイスラエルが西側でただとにかく動き回り、西洋とも
なれば動くべきでない時(大航海時代)には動きまくり、動くべき時(諜報組織の暗躍を始末すべき今)には動けない。
上記の不等式に基づいて大きいものほど吉祥であり、小さいものほど不吉。動静の緩急に関しての吉凶は全てここに収まる。
ぴかぁ〜なんぞ知らん。
別の場所での書き込みが一段落したから、またここに書き始めた。
五経の第一とされる易経。
個人的には既読であるものの、ここでは注釈していなかったので再読中。
これで四書五経全体の略解がここでは済む。
次は「墨子」や「韓非子」や「史記」などに移る。
儒家のライバルまで本気で勉強する気はないのと、史書は全文だと膨大なのとで
読み下しではなく訳文での註釈を予定している。仏典以外のインド古典やアラブ古典も
現時点では訳文でどうこう言ってるのだし、中国古典ばかりえこひいきし過ぎてもな。
533 :
井上筑後守:2010/01/12(火) 10:14:58 0
「夫征きて復らず、妻孕みて育わず。凶なり」(岩波文庫「易経」漸卦より)
「征きて復らず」とは言っても、戦争に行って戦死して戻ってこないだなんて話ではなく、
ただ浮気してあまり家に帰ってこないだけ。一夫多妻は認めても浮気は決して認めず、
側室は側室であくまで家中で責任を持って養うことが要求される。家の繁栄という
最も重要な目的からすれば、同列扱いされがちな一夫多妻と浮気にも天と地ほどの
差が生まれ、浮気がちな主人に不満を抱いて、自らも育児や家事を蔑ろにする
妻もまた同時に否定される。一夫多妻なら陽唱陰和が守られるんだが、浮気だと
かえって夫のほうが性愛に溺れて、女という存在に引きずられている状態となる。
吉凶という観点に基づけば、男が複数の女と通じるという点では同じはずの
一夫多妻と浮気とが、かたや吉となりかたや凶となる。吉凶は恣意的な人間の
思い込みからは大きくかけ離れた、事物の実相の普遍性を冷徹に提示する。
534 :
井上筑後守:2010/01/12(火) 10:44:31 0
「眇能く視る。幽人の貞に利ろし」(岩波文庫「易経」帰妹卦より)
本卦冒頭に「天地交わらざれば万物興らず。帰妹は、人の終始なり」ともある通り、
女が男に嫁いで(帰妹の原意)子を産み、家を保たないことには何も生まれてこない。
現代の物質文明による莫大な人工構造物も全て、女の腹から生まれた人間によって
建造されている。社会的な産業と比べて全く多様性には欠けるものの、人間にとって
もっとも重大な生産はやはり出産である。いかなる産業よりも必須かつ重要である帰妹。
ただ、その過程はあくまで陽唱陰和であるのが吉祥で、出産を司る女の側があくまで
夫に付いていくことが正しい。たとえ賢婦でありながら愚夫に嫁いだのであっても、
視力も遠近感も落ちる片目(眇)でものを見るようにして、幽静を守り通さねばならない。
>>504で取り上げた陰性の観察眼が、家を守り子もちゃんと産み育てるべき女の
あり方として、またここで認められている。世に出てバリバリ働くべきである男のあり方
としては甚だ女々しい上、門や洞窟の奥底などから、さらには片目で覗いたりすれば、
視野も狭くなる上に、視力や遠近感までもが削がれて、到底最善を尽くせなくなる。
剛健正大に最善を尽くすべき夫たる男がそのようであるならば、逆にそれを補完する
目的で妻たる女のほうが分不相応にもでしゃばり始めたりする。陽唱陰和が転倒して
最凶の状態となる。もちろん易はそうなることを勧めず、吉祥たる陽唱陰和のほうを勧める。
535 :
井上筑後守:2010/01/12(火) 11:00:38 0
易において、女や小人のあり方だったり、女や小人がそうあるべきだとされる姿などが、
儒家だと君子の立場から差別される一方、道家だと全面的に肯定の対象となっている。
醜人や障害者だったりもするものの、「荘子」に出てくる登場人物もやはり成人の男が主体。
女や子供も出てきたところで、やはり脇役としてなわけで、紫式部のような女流文芸などでは
決してないんだが、それでも「荘子」の登場人物である成人男子は、到底男らしいとは言えない、
陰湿な側面を多く具えている。しかもその女々しさが完全に肯定の対象となっていて、未だ
剛健さにこだわる孔子などのほうを逆に矮人扱いしたりする。陰陽でいえば「陰」であるはずの
人間が、精一杯正当化されて不吉の限りを尽くしている。ただ、それもやっぱり、易のような
陰陽五行の思想哲学的素地があってこそ生まれたものだといえる。陽唱陰和が目的である
易の方向性からは大きくかけ離れているものの、あくまで論及の材料は易であったりするわけ。
後世の玄学(道家の学術部門)においても、老荘や列子や抱朴子といった典型的道書と共に、
五経の中では唯一易経が研究の対象となっていたという。「論語」や「孟子」だとすでに
完全に貶められて擁護のしようもない陰性のあり方が、易経だとまだ脚色抜きでゴロリと
投げ出されている所があるので、道家にとってもまだ研究の余地があるものとされたようだ。
536 :
井上筑後守:2010/01/12(火) 11:38:08 0
「雷電みな至るは豊なり。君子もって獄を折め刑を致す」(岩波文庫「易経」豊卦より)
光の伝達速度と音の伝達速度との違いから、遠雷は電光が先走った後で、かなり遅れて雷鳴が聞こえてくる。
しかし、ごく間近に落ちた雷だと、電光と雷鳴とがほぼ同時にやってきて、電光の先走りで雷鳴に備えることもできない。
間近に雷が落ちて、雷鳴が同時にやってくるようにして、君子は裁決という電光と、刑罰という雷鳴を間髪入れずに施す。
ゆえに「雷電みな至る」が、賢明な君子による刑事行為のたとえとなる。
雷を司る天空神とされるギリシャ神話のゼウスも、雷霆を刑罰の手段として用いてはいるようだが、
その刑罰姿勢には甚だ不可解なものが多い上、本人自身も妻ヘラ以外の多くの女神や女人と浮気するなど、
到底君子とは呼べない不貞の限りを尽くしている。一つ一つの卦が切れ切れにはなっているものの、
その全てが陽唱陰和や遏悪揚善で一貫している易経とは違って、吉凶の分別は全く伴っていない。
もちろん5200年の歴史を持つ易のほうが、2700年程度の歴史に止まるギリシャ神話よりも遥かに先輩でもある。
先輩でいて、しかも吉凶の分別も付いている。質でも古さでも上なのだから、付いていくに越したことはない。
537 :
井上筑後守:2010/01/12(火) 12:07:53 0
「山上に火あるは旅なり。君子もって明らかに慎んで刑を用いて獄を留めず」(岩波文庫「易経」旅卦より)
山火事は、あたかも旅人が方々を転々とするようにしてあっという間に燃え広がっていく。さらにこれを
二重の比喩として、君子が次々と迅速に刑罰を行い、獄中を未決囚で溢れ返らせない状態に当てはめる。
またギリシャ神話だが、人類に火を与えたとされるプロメテウスがゼウスの怒りを買って、
コーカサスの山頂に磔にされて、生きたまま肝臓をハゲタカについばまれ続けるという悲劇がある。
火が人類文明の重大な拠り所の一つであるのは確かで、あらゆる動物の中でも火を用いるのは人間だけ。
焼かれることばかりを恐れて猛獣すら寄り付かない火を冷静に観察の対象とし、道具にすらしてしまう、
その高知能生物故の人間の知恵が、火付盗賊のような犯罪も生み出す一方、火盗改のような刑罰も生む。
罪を犯させて罰を科す、法治主義のマッチポンプ状態だと、火はあまり好ましい存在ではなくなり、
人類に火を与えたとされるプロメテウスが罰せられるのも仕方のないような印象も受けてしまうが、
マッチポンプ以前に罪を犯させない徳治社会であるなら、火は迅速かつ適切な刑事行為の象徴にすらなる。
己の欲せざる所を人に施さない、普遍的な道徳律に基づいて世の中を統治すれば、火は「“火”事場泥棒」の
火ではなく、「“火”付盗賊改方」の火にもなって、浮気しまくりで不可解な刑罰ばかり下すゼウスなんぞが
統治するよりもよっぽどまともな人類社会が育まれる。火が人類のものになったことが問題なのではなく、火の
扱いが不当であることが問題である。むしろ火の不当利用を好き好む輩の崇拝対象がゼウスだったりもする。
ギリシャ神話批判などは、現代人が自前の論説だけでやったところで説得力に欠ける。
いくら不吉の塊とはいえ、約2700年というそれなりの歴史を持つ文化文明だから、
さらにそれ以上の歴史を持つ五経やヴェーダやウパニシャッドなどに基づいた論及でこそ、
十分な論駁にもなり得る。ソクラテスやプラトンの出歯亀哲学も、さらに年上の伏羲や
孔子の道徳学に基づいてこそ十分に反証される。世に洋学批判者や聖書批判者などは
多くあれど、そこまでの配慮を以て論証に臨んだ人間となると、ついぞいなかった。
マルクスやニーチェもあくまで自前の哲学思想だから。いくら理詰めで言いのめそうとしても、
歴史の古さで勝てないが故の脆弱さが残る。また、歴史の裏づけは確かに論証内容自体の
普遍性にも密接に関わっている。易や詩書が3000年もの歴史を超えて残存してきたのも、
それほどにも人々に訴えかけて止まない、普遍的な含蓄が備わっているからに他ならない。
539 :
井上筑後守:2010/01/13(水) 13:15:37 0
「童僕の貞を得たりとは、終に尤なきなり」(岩波文庫「易経」旅卦より)
おそらく「童貞」の語源。旅先の宿で若者が忠信を尽くしてくれることで、吉凶でいえば吉。
この後すぐ「旅してその次を焚かれ、その童僕を喪う」という状態も提示され、こちらが凶に当たる。
>>495のとおり、「童」はひらくべき蒙に値する。蒙昧なので決して好ましいものではないんだが、
蒙昧ではあるなりに貞節でいてくれることが、それはそれで吉になる。「童」であっても「貞」ならば吉。
もちろん無知蒙昧ゆえのウレシがりなどが行き過ぎればよくない。童であるかないかでいえばないほうがいい、
しかし、たとえば、妻子も家来も多くいる壮年の家臣などであっても、目上の殿様などに対して
あたかも童貞のように貞節であるならそれは結構なことだ。童であるが故にガキくさく嬉しがりであるのは
よくなくても、童ではあるなりに貞節であることは吉となる。場合分けの妙味ここにあり。
一夫多妻はよくても浮気はいけない。童貞はよくてもガキくさく蒙昧であるのはよくない。
イスラムの一夫多妻などは男女差別として否定するくせに、「浮気は文化だ」の例の薄毛タレントの
発言は持て囃されたり。童貞は馬鹿にしても、妻子もいながらガキっぽく「ちょい悪」だったりするのは
持て囃されたり。吉祥の全く真逆、不吉の限りを尽くしている今の世の中の現状。易自体も迷信的な
占いとして軽視されている。易に書いてある通りに従ったほうが、どれほど見苦しくなくて済むことか。
540 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 18:28:37 0
やっと分かった。
易は、ある種の特殊な線形代数系を用いた、
森羅万象の「サンプリング」による定性的な解釈だ。
541 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 19:07:01 0
たとえば、六十四卦の中でも最もめでたいとされる泰卦と、
それをひっくり返したことにより得られる不吉な否卦。
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
泰 否
勘違いしてはいけないのは、卦は「下から上」に見るという点。
乾が下にあり坤が上にある泰卦こそは「陽唱陰和」の極みであり、
坤が下にあり乾が上にある否卦は陽唱陰和に反する極みとなる。
542 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 19:11:21 0
これは、線形代数の「行列の掛け合わせ」と同じく、
掛け合わせの「非可換性」を示したものとなっている。
たとえば二つの行と列
M1=(|D1〉、|D2〉、|D3〉)
┌ ┐
│〈D1||
M2 =│〈D2||
│〈D3||
└ ┘
があった場合、両者を逆に掛け合わせた場合の積は
┌ ┐
│〈D1|D1〉〈D1|D2〉〈D3|D3〉|
M2M1=│〈D2|D1〉〈D2|D2〉〈D2|D3〉|
│〈D3|D1〉〈D3|D2〉〈D3|D3〉|
└ ┘
┌ ┐
│|D1〉〈D1| |D2〉〈D1| |D3〉〈D1||
M1M2= | |D2〉〈D1| |D2〉〈D2| |D3〉〈D3||
│|D3〉〈D1| |D3〉〈D2| |D3〉〈D3||
└ ┘
となり、先にどちらを掛け合わせるかで全くその答えが替わって来る。
六十四卦において、八卦の上下が引っくり返ることで
意味が全く替わるのもこれと同等のことといえる。
543 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 19:28:51 0
西洋で初めて線形代数を編み出したライプニッツは、
(同程度の行列計算を関孝和がそれ以前にやっていた)
「易経」における八卦の法則性を研究していたという。
どうやら線形代数のアイデアも易経からもらったようで、
>>542の行列計算の記述もライプニッツのやり方に依っている。
ただ、ライプニッツが考案した線形代数は、「易経」において
用いられている代数系と比べて、遥かに自由度が高い。
たとえば、
┌ ┐
│a b c|
Mx =│d e f |
│g h i |
└ ┘
などというような、行列要素の方向性を定めない記述も許される。
しかし本家「易経」のほうは、行列要素に当たる爻(━━━、━ ━)が、
陽か陰かのいずれかの方向性を持つことしか認めない。
これは
>>542で用いた|D1〉とか〈D2|とかの、ディラックの提唱した
ベクトル記述に近似していて、|〉であるベクトルや〈|であるベクトルの
特異性を一切具体的に提示しない点がディラックの方式とは違う。
544 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 19:39:06 0
一般的な線形代数における行列要素は、abcのような恣意的な要素でよく、
ベクトル記号としてのブラケット記号|〉も、ブラ|とケット>の間に
自由な要素を差し挟んでいいことになっている。
数学や数理科学である線形代数や現代物理学と比べて、
易経に書いてあることは遥かに狭いこと、自由度が低くて一般性も低いことだが、
その自由度や一般性の低さこそが、この世界における事物のみの把捉に
特化された、限定的な「サンプリング」としての意味を持っている。
ディラックのブラケット記号は、紙面の一方向への文字の記述である以上は
右|〉か左〈|かの方向性しか持ち得ない。しかし、縦である場合の横、
横である場合の縦の記述などを認めれば、次元数を高めてブラケットの
方向性も多様化できる。さらには立体、超立体といった風に、記述形式を
多角化していくことでブラケットの方向性はどこまでも広げていける。
しかし、そんな必要は実は全くなく、ブラケットでいえば右|〉か左〈|か、
爻でいえば陽か陰かという方向性の区分けだけで、
この世界の森羅万象を全面的に把握することができる。
545 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 19:49:22 0
━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━
━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━
━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤
八卦はご存知の通り、この八つで構成されている。
これは、ある程度具体的な「行列」のサンプリングに当たる。
ただ単に線形代数上の「列」になっているということも言えるが、
六十四卦のように、八卦のうちの二つを「どちらを先に掛けるか」ではなく、
「どちらを上にしてどちらを下にするか」で結果をを判断する。
線形代数学を含む数学上の数式表記よりも、八卦や六十四卦の表記のほうが
遥かに古いので(ライプニッツは易から線形代数を思いついてすらいる)、
易の記述形式が現代の数学的記述に則っていないことを非難する余地はどこにもない。
546 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 20:17:29 0
この世界の事物の特性を「最低限具体的」にサンプリングしたのが、
5200年前の伏羲氏によって策定されたとする
>>545の八卦で、
さらにこの八卦同士の相乗効果を著したのが六十四卦。
━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━
━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━
━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━
━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━
━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━
━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
泰 損 既済 益 恒 未済 咸 否
今またおもむろに八つの卦を挙げたが、六十四卦なので当然六十四ある。
三つの爻で構成されている八卦のカップリングで、8×8=64で六十四の卦ができる。
伏羲氏が策定した八卦を神農氏が重ねて六十四卦とした。三つの爻で構成されている
八卦を重ねて六つの爻として、その象を読み取る。これが結局は端的な事後の予言にもなる。
二つの行列を掛け合わせて新たな行列を得る、線形代数の初歩的な操作とも一致する。
ただ重ねて言うとおり、易で言わんとしていることは、線形代数などよりも遥かに狭い。
この宇宙を構成しているごく特殊な事物に限ってのみの記述であり、しかもそのサンプリングの
仕方は極めて大雑把で、到底万物の隅の隅まで完全に記述しきるなどというものではない。
しかし、重ね合わされて六十四卦となる以前の八卦が三つの爻で構成されていることや、
その八卦が重ね合わされることで六十四卦となることにより示し出される事後の姿は、
人間が定性的に把捉し得る限りでの、最大級の場合例を指し示し尽くしたものとなっている。
547 :
井上筑後守:2010/01/19(火) 20:21:06 0
八卦の爻を三つではなく四つにして十六卦にしたり、五つにして三十二卦にしたりすることも当然できる。
さらにそれらを重ね合わせて二百五十六卦や千二十四卦を作ることもできなくはない。
ただ、そこまでいくともはや人間のほうが付いて行けず、「この卦の場合にはこうしろ」というような、
具体的なアドバイスの提示のしようがなくなる。三つの爻を持つ八卦を重ねることで六十四卦に
する程度までが、人間が現実の事物を対極的に把握する上での最大級の場合分けとなる。
548 :
ジャギュアレスク:2010/01/20(水) 01:08:06 0
テトラ・レンマが最初にヨーロッパに紹介されたのはいつ誰によって?
訂正:
>>542の行列計算は
┌ ┐
│〈D1|D1〉〈D1|D2〉〈D1|D3〉|
M2M1=│〈D2|D1〉〈D2|D2〉〈D2|D3〉|
│〈D3|D1〉〈D3|D2〉〈D3|D3〉|
└ ┘
┌ ┐
│|D1〉〈D1| |D2〉〈D1| |D3〉〈D1||
M1M2= | |D1〉〈D2| |D2〉〈D2| |D3〉〈D2||
│|D1〉〈D3| |D2〉〈D3| |D3〉〈D3||
└ ┘
が正しい。
>>546下段の改行はいらない。
>>547の「対極的に」は「大局的に」の間違い。
550 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 05:31:44 0
なんとまあ、
線形代数の起源まで易だったとは。
二進法のコンピュータ演算をライプニッツが
「易経」から思いついたのは知ってたが、
線形代数も丸々易の模倣だったんだな。
関孝和などの東洋人が先に線形代数を
思いついたのも、偶然ではなかったわけだ。
何千年も昔から親しんできたわけだから。
551 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 10:51:44 0
今さらながら、易経は人類にとっての「善悪」の起源でもある。
「遏悪揚善」という形で、善悪の存在性を最低限規格化した取っ掛かり。
ヒマラヤ以西における善悪の起源であるゾロアスター教よりも古く、
文王によって卦辞までもが整理されたとして、約3100年前には完成している。
善悪を超越神アフラ・マズダーに棚上げしてしまうゾロアスター教よりも
自力の善悪分別という点で洗練されており、これ以上にも洗練されているのは
易の熱心な読者でもあった孔子らによって提唱された勧善懲悪の本家儒学や、
易ではなくヴェーダなどを参考にして釈迦が断悪修善を見出した仏教あたり。
いずれももはや易のようなパズル的操作にすら依らず、自らの直観によって
善悪を分別して勧善懲悪や断悪修善に向かう独自性が備わっている。
552 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 10:52:55 0
勧善懲悪にしろ断悪修善にしろ、悪を抑制して善を賞揚するという方向性が
伴っているのは共通していて、善悪を分別してしかも遏悪揚善であるという点で、
易やインド風水の流れを受けている。そしてそのうちの易は、遏悪揚善を
天の休命に従う「吉」として、遏悪揚善に背くことを、天命にも背く「凶」とする。
しからば天命に従う吉とは何で、天命に背く凶とは何かといえば、八卦を二つ
上下に積み重ねた六十四卦の卦辞に従っているか否かということにあたる。
八卦はこの宇宙の物理構造を部分的にサンプリングした三つの爻の積み重ね。
六十四卦はその八卦を無作為に二つ抽出して、上下に非可換に積み重ねたもの。
>>546に挙げたような六つの爻の積み重ねの象から、サンプリングされた二つの
物理構造が、方向性を持って合体し、事後に現れる現象を抽象的に提示する。
その抽象性から導き出される結論が卦辞として定性的に記述され、卦辞に従う
ことが天命に従って吉となり、遏悪揚善ともなるし、逆に卦辞に背いて天命にも
背けば凶となり、以て遏悪揚善にも反することとなる。
553 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 11:09:23 0
八卦が三つではなく四つの爻を持つ十六卦であったり、
五つの爻を持つ三十二卦であったりすることもできて、
四つや五つの爻を持つ卦と、三つの爻を持つ八卦を掛け合わせて
七つの爻を持つ百二十八卦や二百五十六卦も作れるが、
線形代数における行列が、可換環上の正方行列でないことには
行列式が定義できなかったりするのと同じように、
条件があまりにも広がりすぎて定性的な理解が不可能となる。
そこまで行かず、行列としてみれば
>>549のような、3×3の
正方行列になる程度の初歩的な構造までに構築を止め、
行列成分も陰か陽という、右向きのブラケットか左向きの
ブラケットか程度の意味しか持たせない。実はそれで十分である。
人間が自分自身の直観で行列の意味を読み取れるのは
せいぜいここまでで、後は数字の定量計算ばかりに陥って
定性的な理解などが行き届かなくなる。直観による把握が
可能な限りでこの世界の構造を数理化すれば、自然と
陰陽の爻を三つ持つ八卦を二つ積み重ねた六十四卦程度になった。
554 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 11:22:10 0
何度も言うとおり、易の数理構造は今の線形代数などよりも遥かに自由度が低い。
成分も陽━━━か陰━ ━かのいずれかでしかなく、しかもこれらを三つ積み重ねた
八卦を二つ上下に積み重ねて六十四卦にするまで。本当に初歩的で、きわめて
自由度も限られた構造。それでいて易は、ピンポイントに「この宇宙」の数理構造だけを
見事にサンプリングしている。一般的な線形代数ならば、あまりにも自由度が高すぎて
この世界“だけ”を記述することができず、多くの不必要で無意味な要素を含んでしまう。
数学としての線形代数が数理科学として、シュレディンガーの行列力学などの形で
現代物理学においても提唱されたが、易はその数理科学たる現代物理学以上にも
数理構造としての自由度が低く、故にこそ現代物理学以上にも、この世界だけの
物理構造をピンポイントに記述している。これ以上自由度を高めればもはやこの世界
だけの記述には当たらなくなり、パラレルワールドなども認めなければならなくなる。
しかし、易ならばそんなものの想定も必要なく、この世界の現象だけを自己完結的に
記述する。ライプニッツが易から線形代数を思いついたとしたのなら、むしろそれは
この世界だけを簡潔に説明していた易の数理構造に、無駄なものを付け足したのだと
いえる。一般的な数学として優れているという以前に、この宇宙だけを限定して記述
する普遍的な実相判断の道具として、線形代数や現代物理学よりも易は優れている。
555 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 11:26:25 0
善悪の分別の起源はやはり易であって、今考えればそれは
特殊な線形代数系であったとも分かるが、そのような数学的な
解釈のほうが後付けであり、一般的な線形代数以上にも、
易を構成している特殊な数理構造だけが、善悪の分別をも促す。
ただただ線形代数だけを勉強したって善悪の分別は付かないが、
易を正しく勉強すれば、必ず善悪の分別が付くようになる。
数学的な裏づけ以上にも、易こそは善悪を分別していることがより重要だ。
数学は善悪を分別するとは限らないが、易は必ず分別するから。
556 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 11:56:08 0
孔子や孟子が善悪を分別しきって物事を断じまくるのも、
実はちゃんと万物の実相に即した普遍的な根拠が備わっていた。
孔子も本の綴じ糸が三回切れるまで易経を熟読していたというし(史記)、
「孟子」には易に関する記述が一切出てこないものの、「真の易の理解者は占わず」
との通り、完全に易を体得しきっているからこそ、孟子も正確に善悪を分別する。
本人たちの言動だけを見れば、もはや易の文言からも独立してしまっているが、
3100〜5200年前のうちにすでに培われていた、易による実相判断の伝統からこそ
春秋戦国時代以降における聖賢の善悪の分別も洗練されていた。「書経」や「左伝」
にも易占を用いる描写はある。最初は易経自体に依存していた所から、徐々に
易をわざわざ参照しないまでも、自ずと善悪の分別が付く人間も生まれ始めた。
(現在8回以上連続投稿不能。誰かが捨てレスしてくれれば助かる)
557 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 20:08:46 0
>>554訂正;
×シュレディンガーの行列力学
○ハイゼンベルクの行列力学
久しぶりに理数系の知識を引っ張り出してきて、かなり混乱している。
シュレディンガーが提唱したのは波動力学のほうで、
西洋人には扱い辛すぎて敬遠されていた行列力学の代わりを果たした。
そりゃそうで、東洋人もユニタリー行列だのエルミート行列だのの
多種多様な行列を想定したわけでもなく、人間が定性的に把握できる
範囲内として、初歩的な線形代数やブラケット記法と同等の
卦爻による表記を用いてきた。決してそれにより森羅万象を
完全に詳細に記述できるわけではないが、この宇宙で現実的な
様相を示す現象を的確に表すものとしては、卦爻の表記は行列力学や
ディラック物理学以上にも“切実”であるといえる。数理構造として
単純でありつつも、その単純さがこの世界のみの現象を抽象化
するものとして的確であり、別物の虚構を踏まえる必要が一切ない。
だから卦爻の表記を用いた易は、数学や現代物理学以上にも、
人間にとっての切実な問題としての善悪禍福をも判断することができる。
558 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 20:38:45 0
ttp://nukkorosu.80code.com/img/nukkorosu12766.jpg つまり、簡単に言えばこういうことだ。
現代数学や現代物理学の構築している数理構造は、
易の数理構造と比べても遥かに大きいものだが、
この世界の現象を記述するものとしては甚だ不完全な上、多くの不純物が混じる。
一方易は、数理構造としては数学や物理学と比べて遥かに小さく、
自由度が低くて特殊なものだが、その全ての数理構造が
この宇宙、この世界の数理構造を記述する範囲内に止まっている。
だからこの宇宙やこの世界以外の数理構造までをも含有してしまっている
現代数学や現代物理学と比べて、この宇宙やこの世界から
逸脱しきった大間違いを提示したりすることが決してない。
易ですらこの世界の全ての事物を完全に記述するのは無理であるにしても、
この世界の外側の虚構までをもみそくそに取り扱ってしまうようなことがない分、
この世界における善悪の分別などにおいては、易のほうが
現代数学や現代物理学以上にも優位であり、正確であるといえる。
559 :
井上筑後守:2010/01/20(水) 22:27:08 0
どうするよ、もう。
約2600年前にピタゴラスらによって提唱された
幾何学的論及による数学や科学の発展は、
この世界この宇宙を理解把握するという極みに至って、
結局は5200年前に伏羲氏が提唱した易に戻ってしまったわけだが。
西洋が長い歴史をかけてやってきたことが、その全歴史の
二倍もの長さの太古に、すでに目的が達成されていたわけだが。
西洋の目的が達成された先からこそ、東洋は道徳や聖徳といった、
より高尚な問題の究明に臨み続けてきたわけだが。
ピタゴラス(2600年前)→ライプニッツ(易を一部前借り)→ハイゼンベルク、ディラック(易の手前まで到達)→伏羲(5200年前)→神農→黄帝→文王→孔子(2500年前)→・・・
どれほど遠回りすりゃ気が済むんだ、おまえらは。
560 :
考える名無しさん:2010/01/21(木) 00:04:54 0
くだらねえ馬鹿スレまだあったのかw
って今度は占い?
占いスレの連中が来たらコテンパンにされそうだな>井上
561 :
井上筑後守:2010/01/21(木) 10:42:34 0
占いなんて本気で学んだこともないから、用語の使い方などいい加減な部分もかなりあるが、
いま分かってる範囲内の易の知識だけでも、現代数学や現代物理学が説明しようとしていた
この宇宙この世界の全体像を、易のほうがより的確な形で捉えていることが分かるわけだが。
これで易の知識がより本格化すれば、さらに近代科学のお粗末さ加減が露わになりゃしないか。
おまえらが血眼で研究している先の先に、5200年前への回帰があるなんて知らされた日にゃあ、
もう学者廃業するしかないな。ピタゴラスの時代からすれば、7800年後に今の東洋は当たる。
都市構造や建築構造などで確かに東洋は易や風水に依っている場合が多い。東京や京都も
地形の易学的選抜によって開発されて来ている。決して易は学問としても途絶えてはいない。
562 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 09:53:38 0
>>252の教えてくれた「易経講話」を図書館でパラパラっと閲覧してみたが、
清朝の学者の計算で、黄帝の活動時期が約4700年前と算出され、
ちょうどエジプトのピラミッド建設の時期と符合するという。
八卦(もしかしたら六十四卦も)の考案者である伏羲は黄帝よりも
さらに前の人物なので、計算上は易の考案はピラミッドよりも前に当たる。
陰陽の起源がエジプトにあるような書き方をしている「陰陽師」なども全くの創作。
ただ、物証はない。あくまで史学的な年代計算によって逆算されただけで、
公田連太郎氏も「どうせ分からぬことであるのだから、そういうことにしておけばよかろう」
などと適当なことを言っている。郭店一号楚墓から発見された「易経」などの竹簡から、
死海写本の発見された聖書などよりは成立が早いことがすでに物的に証明されているが、
それでもせいぜい2300年前のもの。易の起源とされる5200年前からは到底程遠い。
やはり、東洋人が易のような高尚な宇宙理解に、5000年以上前に到達していたことを
物的に裏付けているのは、縄文土器あたり。古代には縄の結び目を占いに用いていた
ことも分かっているし、規矩準縄のうちの規と矩、定規とコンパスを伏羲と女カが
持っている例の伝説的肖像画もある。ただでさえピラミッド建設や奴隷拘束のために
古代オリエント人が用いていた縄を、文様のように平和利用していた証拠ともなっている
縄文土器が、易のピラミッド以上の古さを実証する物的証拠にもなりつつある。
563 :
考える名無しさん:2010/01/22(金) 17:10:04 0
井上さん。あんた骨董収集てもしてたら?
馬鹿っぽい論理が笑えるんだけど馬鹿にしかみえない
564 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 17:29:13 0
本当はそのままで十分完成度の高い易の卦爻表記を、
あえて線形代数や量子力学上の表記に置き換えてみる。
まず、基本的な行列成分となる陰爻━ ━と陽爻━━━を
━ ━ ・・・ |陰〉
━━━ ・・・ 〈陽|
という風に、ブラケット記号を用いて置き換えてみる。
八卦や六十四卦の成分は全てこの二つの爻で成り立っているので、
線形代数系に置き換える場合も、この二つを成分として用いるだけでよい。
565 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 17:30:56 0
ブラケットは見ての通り、右〉の方向性や左〈の方向性を持っていて、
二つのブラケットを掛け合わせた積が、それぞれ
|陰〉×|陰〉=|陰陰〉
〈陽|×〈陽|=〈陽陽|
|陰〉×〈陽|=|陰〉〈陽|
〈陽|×|陰〉=〈陽|陰〉
となる。
同じ方向性を持つ陰のブラケット|陰〉同士だと、ブラ|が一つ省かれて|陰陰〉となり、
陽のブラケット〈陽|同士でも同じく〈陽陽|となり、|陰〉が先に〈陽|にかけられれば
|陰〉〈陽|となり、〈陽|が|陰〉に先にかけられればまたブラ|を一つ省いて〈陽|陰〉となる。
|陰陰〉ということは、陰の方向性を持つベクトルが自乗されてさらに大きくなるということで、
〈陽陽|ということは、陽の方向性を持つベクトルが自乗されてさらに大きくなるということで、
|陰〉〈陽|ということは、陰と陽が逆に掛け合わされて非摂動的な混沌を生み出すということで、
〈陽|陰〉ということは、陽と陰が正しく掛け合わされて方向性を持たない数(スカラー量)となり、
安定するということ。〈陽|陰〉だけがスカラーでこれ以外はベクトル。ただし|陰〉〈陽|の場合はカオス。
566 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 17:32:14 0
これらの表記に従って、まずは八卦を線形代数系に書き換えてみる。
━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━
━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━
━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━
乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤
>>545に書いたのと同じ、八卦がそれぞれ
┌ ┐ ┌ ┐
│〈陽| | │〈陽| |
乾=[〈陽| 〈陽| 〈陽|]、 │〈陽| | 兌=[〈陽| 〈陽| |陰〉]、 │〈陽| |
│〈陽| | │|陰〉 |
└ ┘ └ ┘
┌ ┐ ┌ ┐
│〈陽| | │〈陽| |
離=[〈陽| |陰〉 〈陽|]、 │|陰〉 | 震=[〈陽| |陰〉 |陰〉]、 │|陰〉 |
│〈陽| | │|陰〉 |
└ ┘ └ ┘
567 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 17:33:06 0
┌ ┐ ┌ ┐
│|陰〉 | │|陰〉 |
巽=[|陰〉 〈陽| 〈陽|]、 │〈陽| | 坎=[|陰〉 〈陽| |陰〉]、 │〈陽| |
│〈陽| | │|陰〉 |
└ ┘ └ ┘
┌ ┐ ┌ ┐
│|陰〉 | │|陰〉 |
艮=[|陰〉 |陰〉 〈陽|]、 │|陰〉 | 坤=[|陰〉 |陰〉 |陰〉]、 │|陰〉 |
│〈陽| | │|陰〉 |
└ ┘ └ ┘
と置き換えられる。それぞれを三行の行と三列の列に置き換えた表記。
易の卦は下から上に読むので、兌の行表記が[〈陽| 〈陽| |陰〉]となるように、
下から上に呼んだ場合の置き換え方に沿っている。
568 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 17:34:23 0
さて、ついに六十四卦の行列への置き換えを試みるが、
全てを置き換える前にまず、
>>541でも挙げた最も対照的な二つの卦、
泰卦と否卦の行列への置き換えを代表例として書いてみる。
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
泰 否
が、それぞれ
┌ ┐ ┌ ┐
│|陰〉 | │〈陽|陰〉〈陽|陰〉〈陽|陰〉|
泰=乾×坤=[〈陽| 〈陽| 〈陽|] ×||陰〉 |=│〈陽|陰〉〈陽|陰〉〈陽|陰〉|
│|陰〉 | │〈陽|陰〉〈陽|陰〉〈陽|陰〉|
└ ┘ └ ┘
┌ ┐ ┌ ┐
│〈陽| | │|陰〉〈陽| |陰〉〈陽| |陰〉〈陽||
否=坤×乾=[|陰〉 |陰〉 |陰〉] ×|〈陽| |=│|陰〉〈陽| |陰〉〈陽| |陰〉〈陽||
│〈陽| | │|陰〉〈陽| |陰〉〈陽| |陰〉〈陽||
└ ┘ └ ┘
となる。
最もめでたいとされる泰卦こそは、全ての行列成分が正しく掛け合わされて
ベクトルからスカラーに変化し、極めて安定的となるのに対し、不吉な否卦
のほうは、全ての行列成分が逆に掛け合わされてカオスと化し、不安定になる。
569 :
◆VEGAN.Izk2 :2010/01/22(金) 17:34:56 0
570 :
考える名無しさん:2010/01/22(金) 18:14:26 0
>>1は典型的なチョン
筑後守なんて名乗ってんじゃねえよ
572 :
井上筑後守:2010/01/22(金) 18:22:14 0
商業ペースのマスメディアで大量にがなりたてられてるだけで、
基本情報の絶対数は東洋教学のほうが遥かに多い。
ユダヤもキリシタンも原典は聖書でしかない。
四書五経よりも少なく、大蔵経の百分の一以下の分量でしかない
作文集に何億もの人間が踊らされている。焚書坑儒以上にも
優良情報の撹乱隠蔽が試みられている、情報的不遇の時代。
S極とN極を持つ棒磁石の真ん中は磁力がなくとも、
真ん中から半分に折ればまたSとNの両極を持つ二つの磁石となる。
磁力線などにも沿ったこの世界の両極性は、そのまま放っておくと
ユダヤとキリシタンみたいな対立にすらなってしまうが、
両極性をわきまえた上で最善を尽くす易のような書物に基づけば、
基づいている人間自身は両極性を超えた一化の存在たり得る。
中国もインドもアラブも、それぞれのやり方に沿った両極性の
超越を試みていて、故に西洋のような両極端への分裂がない。
|陰〉〈陽|の混沌を避けて〈陽|陰〉の調和を重んずる、心がけ方が
うまければ人類が分裂を乗り越えることは十分に可能である。
くだらない論評っていうかコンピューター数学の01と
2の3乗を元にしただけじゃん。
こんなのどっかの雑誌で読んだことあるよ。
574 :
考える名無しさん:2010/01/22(金) 18:30:10 0
>S極とN極を持つ棒磁石の真ん中は磁力がなくとも
おーい井上さん、高校出てる?
>>573 線形代数や量子力学のアイデア源が易だから。
本家本元が理論的に何を言わんとしていたのかを
突き止めてみるのも別におかしいことではあるまい。
まだこれが物理学理論として通用すると言ってるわけでもなし。
単なる数遊びとしても易は十分興味深い要素を持っている。
線形代数の表記は諸々の数学の教科書を参照。
行列のカッコが( )になってる場合も多いが、工学系の教科書や
高木貞治「代数学講義」などでは[ ]にもなってるんでこちらで。
ブラケット記法はP.A.M.ディラックの「量子力学」が元。
掛け合わせた時のベクトルかスカラーかの判別や、
ブラの省き方などの約束はこれにそのまま沿う。
>>575 量子力学で何が突き止められたか知っての上で言ってる?
そもそも量子力学って何か知ってるの?
577 :
考える名無しさん:2010/01/22(金) 18:45:11 0
>>576 磁石すらまともに知らねえのに分かってるわけねえだろw
>>574 「吸引力」と言い換えれば満足か?
そればかり勉強すれば古典物理学のほうの知識が
疎かになってしまうほどに別次元なのが現代物理学。
巨視的な問題を扱う相対論、微視的な問題を扱う量子論。
両者の咬合はまだ完全には果たされておらず(ということになっている)、
ディラックが相対論的量子力学で特殊相対論と量子論を統合させたが、
一般相対論と量子論の統合はまだできていない(ということになっている)。
巨視的な領域や微視的な領域において古典物理学が破綻することを示唆し、
しかもその現代物理学が、核爆弾や電子機器などの多くの技術革新を
後押ししている。不可思議でありながらその有効性は確実なものとなっている。
(ここでは物理学云々の話はスレ違いなので、東洋教学に
直接関連しない場合は、これ以上の書き込みは控える。)
579 :
考える名無しさん:2010/01/22(金) 18:59:02 0
>>578 んなこた聞いちゃいねえよ
真ん中に磁力はないって証明してみろよ
>ここでは物理学云々の話はスレ違いなので、東洋教学に
>直接関連しない場合は、これ以上の書き込みは控える
はいはい哲学スレじゃ最低の逃亡ね。
負け犬確定w
>>578 吸引力って・・・掃除機じゃないんだからさあ・・・
適当に科学に当てはめてるオカルト厨じゃん
相手して損した。
581 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 00:10:08 0
>>566-567でおもむろに八卦を行と列に置き換えたが、これだとたとえば
┌ ┐ ┌ ┐
|上│ │左上 中上 右上│
[左 中 右]×│中│=│左中 中中 右中│ ・・・@
|下│ │左下 中下 右下│
└ ┘ └ ┘
┌ ┐ ┌ ┐
│上│ │上左 上中 上右│
│中│×[左 中 右]=│中左 中中 中右│ ・・・A
│下│ │下左 下中 下右│
└ ┘ └ ┘
という風に、列を行に掛ける(行×列)か行を列に掛ける(列×行)かでも答えが変わり、
いずれの場合にするかが問題となるが、たとえば、いずれも上下非対称の
八卦である震卦に艮卦をかける場合、行×列か列×行かでそれぞれ
582 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 00:11:01 0
┌ ┐ ┌ ┐
│|陰〉 | │〈陽|陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉 |
頤=震×艮=[〈陽| |陰〉 |陰〉] ×||陰〉 |=│〈陽|陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉 | ・・・@
│〈陽| | │〈陽陽| |陰><陽| |陰><陽||
└ ┘ └ ┘
┌ ┐ ┌ ┐
│〈陽|│ │〈陽|陰〉 〈陽|陰〉 〈陽陽| │
頤=震×艮=│|陰〉│×[|陰〉 |陰〉 〈陽|]=│ |陰陰〉 |陰陰〉 |陰><陽|│ ・・・A
│|陰〉│ │ |陰陰〉 |陰陰〉 |陰><陽|│
└ ┘ └ ┘
となり、行列の対角成分に沿って対称的な行列(転置行列)同士となり、
これから問題とすべきような、行列成分全体の異同に関する議論の障害にはならない。
ただでも、「行列」という語の使い方にも沿って、ここでは列×行Aではなく、行×列@の
計算方式に統一して計算を進めていくことにする。
583 :
考える名無しさん:2010/01/23(土) 00:28:16 0
易を知っている俺が一言言ってみる。
そんなことじゃ森羅万象は分からないよ
東洋思想、八卦だったらもっと基本的なことから学ばなきゃ。
並び替えして、当たり前のことに自分で酔って感心してるだけ。
卦の意味すら理解できてないのにそういうこと書いてると・・・
584 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 00:42:38 0
それから、行同士を掛け合わせて
頤=震×艮=[〈陽| |陰〉 |陰〉] ×[|陰〉 |陰〉 〈陽|]=[〈陽|陰〉 |陰陰〉 |陰><陽|]
などという風に、行の範囲内で積を計算することもでき、これだけでも六十四卦と同じく
六十四通りの答えを導き出すことができるが、これでは八卦における下段の爻×下段の爻と
中段の爻×中段の爻と上段の爻×上段の爻の積しか表示されず、上段×下段や
上段×中段といった別段の爻同士の積を検証することができない。三つの爻と三つの爻の
相乗効果を全把握するためには、3×3で9通りの答えが必要で、三行三段の正方行列の
成分がちょうどこれに当たり、六十四卦の相乗効果を全て検証するのに適している。
あと「×」は乗法ではなく外積の演算のために用いられることもあるが、
ブラケットを用いる以上はこれを外積のために用いる必要がないので、
(〈 | 〉はそのまま内積を意味し、| >< |はそのまま外積を意味する)
あくまで普通に乗法の演算記号として用いる。普通の掛け算の記号として。
まだまだ単なる数遊びの段階なので、そうそう目くじらを立てなさんな。
586 :
考える名無しさん:2010/01/23(土) 01:11:29 0
爻占いっていうのは神聖なものなんだよ
数遊びなんて畏れ多いです。
587 :
考える名無しさん:2010/01/23(土) 01:14:23 0
ついでになんで六十四卦になるか意味も分かってないでしょ。
空間は三次元だね。
三軸における進退の自由度は八通り。
同様の相手に接した時の選択肢は、六十四通り。
細木数子だ動物占いだで安売りしまくっといて
今さら神聖だから畏れ多いとか言われてもねえ。
589 :
考える名無しさん:2010/01/23(土) 01:38:50 0
まだやってたのかw
易経になってからカルトになってきたなあ
>>1 おとなしく普通に教学やってりゃいいものを
一番面倒なものに手を出してこねくり回してや信者がうるさいわなw
590 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 17:58:34 0
なかなか六十四卦の数式化にまでたどり着けないが、
空間が三次元であるということは、方向性として「上下」「左右」「前後」があるということで、
上に行きながら下に行ったり、右に行きながら左に行ったりすることはできない。
必ず上下のうちの一つ、左右のうちの一つ、前後のうちの一つを選ぶ必要がある。
ということは、とにかく何らかの方向性を持つとすれば、その方向性は
上 下 上 下 上 下 上 下
左 左 右 右 左 左 右 右
前 前 前 前 後 後 後 後
の八つのうちのいずれかになる。八卦をただ単にこの八つに当てはめることで、
空間的な方向性を定義することもでき、仮に「下左前」の方向性を持った事物と対面した時に
自分はどの方向性に流れれば相手との摩擦を生まずに済むかを考えることができ、
その答えは「下右後」となる。つまり、
下
右
後
下
左
前
という組み合わせが相手の流れに沿う組み合わせとなり、これが六十四卦のうちの一つということ
にもなる(ただしどれかまではまだ定義してない)。仮に右手でパンチを繰り出して来た相手に対し、
自分も完コピで右手のパンチを繰り出したりしたところで、ただの相討ちになるだけだが、
相手の方向性を読み取ってその方向に流れることで相手のパンチを受け流し、
しかも相手の力を円回転で利用して逆に技をかけたりすることが「合気」ともなる。
591 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 18:19:49 0
上では「下左前」の方向性や、右手のパンチなどに喩えてみたが、
今度は仮に、相手が恨みを以て自分に攻撃を仕掛けてきた場合の報復として、
古から伝えられている四つの選択肢を挙げる。
1.徳を以て怨みに報う(「老子」第六十三章)
2.直きを以て怨みに報う(「論語」憲問第十四・三六)
3.怨みを以て怨みに報う(ハンムラビ法典196条)
4.服従を以て怨みに報う(マタイ福音書5:39)
1の原文は、正確には「怨みに報うに徳を以てす(報怨以徳)」。
老荘はまさにこの通りで、合気道における相手の力を逆用した柔術技などもこの実践に当たる。
2は原文もこのまま(以直報怨)で、具体例としては、幕府や藩から許可を得て行なわれていた
江戸時代のあだ討ちや、許可は得られなかったものの、吉良へのあだ討ちを果たした上で、
責任を取って四十七士全員が切腹した忠臣蔵などがこれに当たる。
3の原文は、有名な「目には目を、歯には歯を」。実例を挙げればきりがないが、
アメリカの真珠湾の後の日本への空襲や原爆投下、911後のアフガン侵攻などがこれ。
4の原文も、もちろん「右の頬を打たれれば左の頬も差し出せ」。無駄に有名な文句だが、
欧米からの略奪によってひどい飢餓や貧困状態にあるにもかかわらず、キリスト教の
押し付けによって律儀に服従をもさせられ続けているアフリカ社会などがこれに当たる。
592 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 18:29:33 0
>>591の1〜4の選択肢のうち、易は1と2の選択肢を賞揚し、3と4の選択肢を抑制する。
1と2は「怨み」という、人間の悪質な感情をこれ以上増長させず、しかも抑制させる働きを持つが、
3と4は余計に増長させる働きを持つ。3はそのまま復讐の連鎖を生むし、4は怨みを持った
加害者をつけ上がらせる。2は自分が怨みを買わずに済むように意趣返しを洗練させ、
1は「柔よく剛を制す(「老子」三十六章に同等の記述あり)」という離れ技をやってのける。
3と4は易にとっては問題外で、これらのような選択を決してしないことこそを勧める。
一方、1と2は時と場合によっていずれかが勧められる。陰柔な1がより選択として適切だと
勧められることもあれば、陽剛な2がより適切として勧められることもある。今はおもむろに
「怨みに報う」場合の選択を挙げたが、色々な場合における陰陽剛柔の臨機応変な選択を判断
するのが易の方向性。これらの点を念頭に考えていけば、易の存在性を理解しやすいかと思う。
593 :
考える名無しさん:2010/01/23(土) 18:36:06 0
井上筑後守だっけ。いいかげんにしたら?
卦はそういうように考えるんじゃない。
そんなんじゃ東洋哲学が単なる邪教に成り下がる。
古代中国の時空理論は易とは関連は薄い。時空は十二支とそれに卦徳を掛けている。
その仕組みっていうか基本的なことも知らずに合気道とかパンチとかもうね・・・
ちなみに六十四卦は方位でもなんでもない。
「時空は十二支とそれに卦徳を掛けている」がすべて。
陰陽を二の爻で現し、三つの何かで八として、天地陰陽の動きで六十四とする。
端折って書いたけどこの意味がわかるまで勉強してきてって感じだね。
594 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 18:45:17 0
>>591の2は、「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報う」と続く。
位や金品をもらうような恩徳と弁別するためにこそ、怨みには正直さで報う。
じゃあ、怨みにすら徳で報う老荘はどうするのかといえば、始めから恩徳を受けない。
王君からの贈位や贈与も拒絶して、世俗のしがらみを完全に絶った生活に徹する。
4の「右の頬を打たれれば〜」は、それだけ聞くと奇麗事のようにも思えるが、
怨みに対する報い方をも丹念に考え抜いている「論語」や「老子」の記述と比較すれば、
それが単なる暴力への屈従の勧めでしかないことが分かる。怨みに徳で報うにも
それなりの対処法があるのであり、自ら犯罪被害を増やすような不埒な積極さは、
無為自然の消極さによってこそ怨みを解消する本物の徳とは全くの別物。
「論語」も「老子」も約2400年前の成立で、約1900年前に成立した福音書と比べれば
古いにしても、約3800年前の産物と言われるハンムラビ法典に比べれば新しい。
同態復讐は孔子や老子単体にすら防ぎきれるものではないが、4700年以上前に
易を成立させた伏羲や神農や黄帝によってであれば防ぎきれる。儒家的な陽剛さと
道家的な陰柔さを臨機応変に使い分ける(縦横家のように取捨選択して統合する
のとは違う)、遏悪揚善の起源にまで遡るなら、その度量は同態復讐をも超えている。
595 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 19:03:51 0
もちろん、空間性の把握ばかりが易の本義であるわけがない。
天地万物、森羅万象を取り込めるのが易。そのうちの一つの例として空間を挙げたまで。
大雑把ながら、八卦を三つの基本粒子からなる素粒子モデルとし、
八卦の掛け合わせによる六十四卦の生成を、素粒子の衝突などにも当てはめられたり。
もちろんそこまで単純な素粒子ばかりで現実の宇宙は成り立っておらず、
原子が電子や陽子や中性子に、さらに陽子や中性子が複数のクォークといった風に、
プランクスケールレベルまで分解される(ただし現実の加速器実験でのそのレベルまでの
検証は不能)実際の素粒子と比べれば、極めて大雑把な法則性の把握に止まる。
易の創始者と言われる伏羲や神農や黄帝が、物理学を意識して八卦や六十四卦を
考案したはずもない。しかし、易も物理学も「この世界」を把握しようとしているのは変わらず、
より正確な世界把握に近づくに連れて、両者が近似していくのは当然のことであるといえる。
とはいえ概ね物理学のほうが易に近づいていってるのであって、易のほうは完全に完成している。
完成したところから3000年以上もの中国や日本の歴史の構築に貢献してきている。だから、
物理学のほうが解剖されるのは仕方なくとも、易のほうが解剖されるのは甚だ心外であるのは承知している。
物理学や幾何学が把握せんとしていたものが、実は易によって5000年以上前に把握されていたことを実証
するためにこそ数理構造に置き換えてみている。全ては伏羲氏の手の内での踊りだったことを裏付けるために。
596 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 21:21:29 0
さて、ではついに六十四卦の行列化に臨むことにしよう。
まずは現易経「周易」でも冒頭に挙げられている「乾」。
━━━
━━━
━━━
━━━
━━━
━━━
乾
┌ ┐ ┌ ┐
│〈陽| | │〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |
乾=乾×乾=[〈陽| 〈陽| 〈陽|] ×|〈陽| |=│〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |
│〈陽| | │〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |
└ ┘ └ ┘
行列成分:
〈陽陽| ・・・・ 9
|陰陰〉 ・・・・ 0
〈陽|陰〉 ・・・・ 0
|陰><陽| ・・・・ 0
行列式:
| |
│〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |
│〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |= 0
│〈陽陽| 〈陽陽| 〈陽陽| |
| |
597 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 21:27:42 0
次いで、乾卦の次に置かれている「坤」。
━ ━
━ ━
━ ━
━ ━
━ ━
━ ━
坤
┌ ┐ ┌ ┐
│|陰〉 | │|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|
坤=坤×坤=[|陰〉 |陰〉 |陰〉] ×||陰〉 |=│|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|
│|陰〉 | │|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|
└ ┘ └ ┘
行列成分:
〈陽陽| ・・・・ 0
|陰陰〉 ・・・・ 9
〈陽|陰〉 ・・・・ 0
|陰><陽| ・・・・ 0
行列式:
| |
│|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|
│|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|= 0
│|陰陰〉 |陰陰〉 |陰陰〉|
| |
598 :
井上筑後守:2010/01/23(土) 21:45:04 0
これら二つは、
>>568で挙げた泰卦や否卦並みに分かりやすい。
全ての行列成分が同じであり、必然的に行列式も0になる。
全てが〈陽陽|である乾卦の場合には、「元いに亨りて貞しきに利ろし」とあり、
全てが|陰陰〉である坤卦の場合にはただ「元いに亨る」とある。
乾は龍、坤は牝馬。いずれも天をよく駆けたり地をよく駆けたりする象徴。
その「駆ける」に関しての素質は確かなるものの、勢いあまって
驕り高ぶることが陽剛の乾卦では戒められるし、陰柔でありながら
勢いも甚だしい坤卦の場合には、主人によく付き従うように促される。
極めて推進力の高い卦であればこそ、アドバイスは制動に関するものとなる。
599 :
井上筑後守:2010/01/24(日) 13:02:42 0
>>591を少し訂正しておきたい。
「礼記」表記第三十二に、
「子曰く、徳を以て徳に報うときは、則ち民勧む所あり。
怨みを以て怨みに報うときは、則ち民懲りる所あり」
とあり、「直きを以て怨みに報う」ことも、公正な範囲内で
「怨みを以て怨みに報う」ことであることには変わりない。
だから、>591の1〜4は以下のように言い直したほうがいい。
1.徳を以て仇に報う(「老子」第六十三章)
2.直きを以て仇に報う(「論語」憲問第十四・三六)
3.仇を以て仇に報う(ハンムラビ法典196条)
4.服従を以て仇に報う(マタイ福音書5:39)
「怨み」というのは内面の感情であって、外面に行動が
「仇」として表出している場合としていない場合とがある。
世の中から許可を得たあだ討ちなどであれば、怨みを
晴らそうともそれ以上の仇の連鎖を生むことがない。
相手にさらに仕返しの機会を与えてしまうような不正な
あだ討ちが負の連鎖を生み、そこが3の2とは違う点となる。
600 :
井上筑後守:2010/01/24(日) 13:12:06 0
法治主義は、管仲や子産や韓非らによる内情暴露によって、そのお粗末さが
中国では2200年以上前に確認されており、ハンムラビ法典のごとき成文法程度で
意趣返しの正当性などが確保されるはずがないことを十分にわきまえている。
道徳律に沿ってその場その場で事態の正当不当を見極め、あだ討ちの許可を
出したり出さなかったりし、たとえ出なくとも切腹覚悟であだ討ちを果たした赤穂義士が
称賛を受けたりもする。あだ討ちを法文ではなくより根本的な正しさに基づいて吟味する
ところに「直きを以て仇に報う」もあるのであり、法典程度では「仇を以て仇に報う」止まり。
601 :
井上筑後守:2010/01/24(日) 17:36:51 0
徳治主義とは、「人間は性善である」という主張や意図的な矯正に基づいて
道徳を尊重し、以て法律の領分を簡素化させる主義のこと。
法治主義とは、「人間は性悪である」という主張や意図的な改悪に基づいて
道徳を軽視し、以て法律の領分を深刻化させる主義のこと。
いずれも法を否定しているわけではないが、
法はそれ単体では経世済民のためには不十分なものであるとし、
道徳との二人三脚や道徳への後続を徳治主義は促す。
対して法治主義は、道徳の協力などは始めから放棄し、
自分たちだけで何もかもを取り仕切ろうとした挙句、
カルト犯罪組織との二人三脚や追従すらやらかしてしまう。
結局、法律単体では世の中を十分に治めることなど不可能で、
犯罪組織との癒着なしに世の中を治められるぶん、
まだ徳治主義のほうが法治主義よりもマシなものとなる。
602 :
井上筑後守:2010/01/24(日) 17:45:04 0
603 :
考える名無しさん:2010/01/24(日) 21:59:44 0
「心邪なし」
これでいいではないですか。
604 :
井上筑後守:2010/01/25(月) 09:54:00 0
詩経もよいし、書経もよい。
ただ、易経はそれ以上ですらあるようだ。
考えられうる限りで最高のものにまで到る。
それでこそ最善を尽くす者の態度姿勢だと言える。
605 :
考える名無しさん:2010/01/27(水) 10:47:37 0
仏界の相を愛すれば即ち魔界なり
魔界の相を忘ずれば即ち仏界なり
真実修道の人は仏界をも愛せず魔界をも恐れず
夢窓疎石の言うとおり平常心こそが明鏡止水なのであろう。
気の持ちようなんてチャチなもんじゃ断じてねぇってほど不幸な人を見ました
それ以来、運のメカニズムじゃ語れないものが確かにあるんだろうと実感しております
607 :
井上筑後守:2010/01/30(土) 11:03:50 0
気の持ちようだけで幸福になったり不幸になったりするのには、確かに限度がある。
現実に本当に悪いことをしたからこそ生まれてくる良心の呵責、罪悪の辛苦は、
犯罪小説や映画などを見て仮想的に体験する辛苦などとは別物の、本物の苦しみとなる。
同じように、本当に悪いことをしないでいることによる良心の呵責の断滅の安らぎは、
存続している罪悪の辛苦をカルト教義によって埋め合わせる仮初めの安らぎなどとは別物。
罪福異熟を司る阿頼耶識は、脳内だけでの思い込みなどで嬉しがったり悲しんだりする
末那識の感覚とは別物で、諸法実相たる現実上の罪悪や善徳と共に常にあり続ける。
反実仮想や行為可能性には全く問題ありませんか?
それらを問題にするのは仏教や老荘に任せる?
運が全てで選択の余地など無いとしか思えないのですが、、、
609 :
井上筑後守:2010/01/31(日) 01:10:14 O
運命決定論は、老荘は認めても仏教は認めない。
世の成り行きに任せきって、悪業の断滅にすら乗り出さない極端な消極さが、
「十住心論」や「三教指帰」において道家が仏教よりも下に置かれている何よりの理由だといえる。
儒家や洋学はその道家よりもさらに下にあたり、
運命を切り開こうとするような積極さを帯びながらも、その手段が「世俗での活動」という
極重のカルマから決して逃れられないものであるが故に、結局は運命に逆らえずに終わる。
運命に任せきるなりに、善因楽果の自業自得で楽しもうとするのが儒家。
悪因苦果の自業自得がいつかは救いになるなどと盲信するのとは違い、
普遍性などどこにもない世俗の宿命を割り切って、その範囲内での最善を尽くす慎しみがある。
610 :
井上筑後守:2010/02/01(月) 19:51:39 0
「易経」が、本気で研究するなら一生かけても務まらない代物だと分かり、
気長にやっていく方向に切り替えて、今は東洋文庫版の「墨子(邦訳)」を読んでいる。
墨子はどうやら、「プロトタイプ孟子」とでも呼ぶべき存在のようだ。
「コンパスと定規と墨縄と垂れ縄と水準器(法儀篇)」や、「泰山を抱えて黄河を飛び越える」など、
「規矩準縄」や「泰山を小脇に抱えて渤海を一跨ぎにする」といった「孟子」中の文言と
近似するものが多々見られる。しかし、決して孟子が墨子のパクリだったりするわけではなく、
墨子が反儒学であるのに対し、孟子は模範的な儒者たらんとする明確な違いがある。
墨子と孟子は比較的活動期間が近く、ちょうど孔子と孟子の中間の世代が墨子に当たる。
温故知新の孔丘仲尼の姿勢に飽き足らず、さらに新しい思想哲学を生み出そうとして跳ね返り、
兼愛や非攻といった突発的な極論を提示はしたものの、あまりにも理想主義が過ぎて
時代の荒波に抗いきれず、一時は「儒墨」と双璧扱いされるほどの栄華を誇りながら、
あっという間に姿を消した墨家。中にはいくつか目を見張るべき理念もあったようで、
あくまで儒家の範囲内でそれらの理念を扱う孟子に事後の活躍は託されることとなった。
611 :
井上筑後守:2010/02/01(月) 22:07:33 0
墨子が反儒学を標榜したのに対し、孟子は模範的な儒者たらんとしただけあって、明らかに
意見の食い違う点が双方にはある。それが「節葬(葬儀を簡略化する)」に対する賛否への分かれ。
孟子が墨家の節葬志向を強烈に批判し、「父を無みするもの」として排撃していたことは
「孟子」本分にも書かれている通り。しかし、墨子もそれなりに節操を勧める論拠があったのであって、
三年もの服喪を義務付けるような、当時の君父に対する葬儀の過重さに不平を抱いてのもの。
誰一人、親のために三年も服喪することのない今の世の中においては、
むしろ墨子の不平のほうが当たり前のように思え、葬儀のアドバイスを職務にすらしていた
儒家のほうがおかしいように思われても仕方がない。他にも「父が亡くなったとなれば、
遺体を棺に安置しながら、『我が父は何処に行った』などと探し回る」絶対発見不能かくれんぼを
儒者が遺族に対して促していたことを、冷ややかに暴露する話もある(非儒篇)。
612 :
井上筑後守:2010/02/01(月) 22:10:21 0
さらに墨子は、堯や舜の死に当たっての、副葬品や埋葬の規模が質素であった先例を挙げて、
「聖王も節葬をわきまえていたのに、儒者は厚葬久喪ばかりにこだわる」と糾弾する。
ここに至って、ついに墨子の主張は破綻する。
儒家は「葬式」や「服喪」の重厚さにこだわっていたのであって、
決して「墓の大きさ」にこだわっていたわけではない。
「礼記」にも、人間を忠実に模した像を副葬品とすることを禁止する話がある。
このような儒者の取り決めに反発して、始皇帝は何千もの兵士に模した像を埋める兵馬俑を
建造しもした。人間大の副葬品をいくつも共に埋めるなら、当然墓の規模も極端に大きくなる。
巨大な墓によって、いつまでも当人の死が強調されるのは儒家にとっても本意ではなく、
あくまで死んだ時に、当人の近親が精一杯悲しむことが重要であるのだとする。
生きていたものが死んだことが重大なのであって、死それ自体が重要なわけではない。
だから墨子が指摘したような墳墓の飾り立てには儒家も与せず、死後は位牌のような
小さな物品にすら魂の居所を認めもする。だから、聖王の葬られ方の質素さを根拠に
儒家の厚葬久喪を批判した墨子の主張は、行き着くところまでいけばやはり正しくなかった。
613 :
井上筑後守:2010/02/01(月) 22:50:26 0
墨子は自らの兼愛志向を「仁」とも呼ぶ(原文でも。兼愛篇中など)。
兼愛は今の言葉でいえば「博愛」であり、家族愛を重んじる「仁愛」とは別物扱いされる。
兼愛が博愛と言い換えられるのは(多少胡散臭くなる点を除けば)仕方ないにしても、
仁すなわち家族愛と決め付けられるのは、儒学に対する曲解からなる
現今ならではのパブリックイメージで、仁は元来、兼愛博愛すらをも意味している。
しかし、孟子よりも先の人物である墨子が、親族の葬儀を簡略化してまでの兼愛を
極論して失敗した前例から、仁をやはり「修身斉家治国平天下」の範囲で捉えるようになり、
修身や斉家の必須要素としての家族愛を、仁の端的な要素として認めるにいたった。
墨子の言わんとしていることは、理想的ではあるものの、理想に過ぎるのであり、
現実との折り合いを付けた儒家のような堅実さに欠ける。春秋戦国時代、理想論など
到底実現され得なかった当時において、管仲や韓非のように現実論に徹したものもあれば、
老子や荘周のように現実逃避したものもあり、さらには墨子のように現実での理想論を
説いて失敗したものもあった。儒家はそれらのいずれでもなく、理想と現実の中庸に当たる。
614 :
井上筑後守:2010/02/01(月) 22:51:34 0
孔子が道家(といま呼ばれている隠遁主義)の影響を色濃く受けていたり、
孟子の墨家からの影響が如実だったりした上で、やはり孔孟こそは中国思想の
完成形にあたる。高みにも深きにも臨まず、ある程度のところに止めおいた結果、
可もなく不可もない完全なるものと化している。
「言近くして指遠き者は、善言なり(孟子・尽心章句下・三二)」
卑近でいて、指し示しているものが深遠である言葉こそは善い言葉だ。
言葉の奇抜さばかりに真理や道理を見出そうとしている内は決してたどり着けない、
つかみ所がないからこそ含蓄のある言葉の真価を、いま一度再認せられたい。
615 :
井上筑後守:2010/02/02(火) 18:43:28 0
墨子は運命論も否定する。
士産(士人階級と産業階級)の分離が基本である儒家とは違って、
工人や農夫でありつつ政治参画を目論む、
儒家以上もの積極的世俗主義でいて、しかも運命を否定する。
「先王も善行を心がけた時にこそ治世を成功させ、
悪行に陥った時にこそ世を乱したのだから、
運命など信じずに勤労に励め」と。
仏者が言うんなら全く問題のない論。
自らが乞食に身をやつしまでしながらも罪福を捉えきる、
絶対真理把捉のために徹底を尽くす仏門においてであれば、
断悪修善の促進も意味を持ってくる。しかし、墨子の場合は、
政治にも産業にも手を出しつつの、専らな勤労礼賛の範囲に
おいて断悪修善を促すので、当然うまくいかず、滅んでしまった。
616 :
井上筑後守:2010/02/02(火) 18:57:12 0
動き続けているものには、当然運命がある。動いてる時点で
ある程度は思索を蔑ろにしており、動いたに応ずる果報を被る。
だから仏教は、絶対不動の境地にこそ運命の操作を認める。
それを知ってか知らずか、儒家は自分たちが活動的であることを
見越して「天命を知る」。善行によって楽果を被る運命に従おうとする。
仏教的見地にまで至れないような、世俗での活動者が罪福に
翻弄されることに基づき、善いことをすることで楽であろうとする。
善因楽果という運命を選択し、悪因苦果という運命を選択しない。
墨子の主張には反し、世俗での活動者には必ず運命が伴うが、
運命はいくつかには分かれており、確実に善因楽果と悪因苦果には
岐かれている。悪因苦果を選ばずに善因楽果を選ぶ程度の選択は、
運命に翻弄される運命にある、世俗活動者にもできないことはない。
617 :
井上筑後守:2010/02/03(水) 18:35:29 0
世俗での活動に、努力や精進によって運命を変えられるほどの手段はないが、
いくつかに分かれている運命の内の、マシな運命を選び取る程度のことはできる。
マシなほうを選んだからといって、とてつもなく善くなるなどとも言えないが、
最悪の苦しみぐらいからは解放される。強盗殺人の重罪を犯して苦しむよりは
まだマシなぐらいの、庸徳の堅持による常日頃のつつがなさに落ち着く。
618 :
井上筑後守:2010/02/04(木) 11:08:28 0
「悪を遏めて善を揚げ、天の休命に順う」
(「易経」大有・象伝より)
正しい天命に従うことは、むしろ推奨すらされることであり、
ベートーベンの「運命」が後ろで流れているような、
悪業に溺れたが故の悲劇的な運命に限って
嫌なものになる。「運命」が必ずしも悪いものなわけでは。
619 :
考える名無しさん:2010/02/05(金) 13:17:45 0
要は、「人事を尽くして天命を待つ」ということだな。
運命のない営利はない。
622 :
井上筑後守:2010/02/09(火) 19:38:50 0
四書は孔子の書物ではなく、後代の言行録。
五経中の「礼記」や「春秋」は孔子の創作。
当時の礼法や史実を忠実に記録したものではあるものの、やはり創作。
「易経」「詩経」「書経」こそは孔子以前の産物。
昔から伝えられている文献を、孔子が学びやすいように整理しただけ。
「述べて作らず、信じて古えを好む(「論語」術而第七・一)」という
孔子自身の発言からも分かるとおり、四書五経中で最重要なのはやはり
易と詩書の三経。ここにこそ、孔子個人の業績に止まらない、
古代中国全体の叡知が凝縮されている。もちろんそれを後代に
遺してくれたのは、孔先生なわけだが。
623 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 16:29:28 0
赤ん坊や保育園児が言葉や文字を覚えて、まともな勉強で
善悪をわきまえた大人になるのにも、相当な年月を要する。
仮に赤ん坊や保育園児レベルの善悪のわきまえのままで
年齢的な大人にまで成長したとしても、本人たちが善悪を
わきまえるためには、赤ん坊や保育園児が善悪をわきまえる
ようになるほどまでもの期間を要し、一朝一夕では到底叶わない。
むしろ成長の止まってしまった成人の身心でいて、今さら
赤ん坊や保育園児並みの成長力を期待するほうが無理がある。
幼児が善悪をわきまえていくよりも、善悪をわきまえられなかった
ままに成人してしまった人間が善悪をわきまえていくほうが至難。
だから、世の中には「刑務所」というものがある。
幼児以上にも矯正の困難な、行為能力を備えつつも善悪を
わきまえられていないとっちゃんぼうやの内で、特に深刻な
罪状の持ち主に対して、幼稚園や保育園以上もの拘束を伴い
つつの矯正を図る。大人の幼稚園ないし保育園、それが刑務所。
もう二度と出て来れなくなるのであっても、善悪をわきまえられない
放蕩のままに人生を終えるよりは、まだ満足な余生を送れる。
罪悪の辛苦の只中でしか物事を考えられない、人間にとっての
最悪の不幸の内側で人生を終えるよりは、まだマシなものとなるだろう。
数学コンプなどない。
人間にとってより重要なのは、数的形而上的な概念論などではなく、
善悪のわきまえのほうだからな。
数学や神学の知識があったとて、それらを金融強盗や
植民地支配正当化の道具に用いるぐらいなら、
むしろそいつらを収監する刑務所の看守であったほうがよい。
数学も形而上学も徳治に役立つ範囲内で勉強もするし、用いもする。
数学教授も山師程度の扱い。あんまり邪魔をするようなら入ってもらう。
2ちゃんねらー相手に説教しても煽られるだけなんだよ井上さん
数学とか関係なくて。
それを知ってるから、前は煽りは無視して自学自習の書き込みに専念してたが、
もう煽りを受けてもどうとも思わないから、しょっちゅう小便行きながら応対してらあ。
本当に人間ってのは、物事に熱中してると小便の回数が減る。たとえ身体を動かさずとも、
熱中によって頭が発熱し、膀胱に溜まるはずの水分が頭部の発汗になっちまうんだ。
だから、熱中がなくなっても応対だけしてると、何度も小便に行きたくなるわけだ。
628 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 18:43:10 0
それじゃ易の専門の話でもしましょうか。
あと、カキ氷を食べた時のような頭痛がたまにする。
いわゆる「アイスクリーム頭痛」。
今まで、熱中のために多量の血流を必要としていた脳が、
思考の冷却からあまり血液を必要としなくなり、今度は血流不足に振れきって
カキ氷を食べた時のような頭痛を催す。もちろん遥かに軽度ではあるんだが。
物事に熱中しない範囲での、脳の血液補給がまだ安定してないわけだ。
631 :
考える名無しさん:2010/02/12(金) 18:57:13 0
武士は刀は持っても、刀工でまであるとは限らないし、むしろ刀工ではないほうが多い。
また刀工ででもあったとしても、百工の技芸の持ち主であることを誇ったりはしない。
それは武士としての道徳や武芸の素養と比べれば、副次的で卑賤なものに過ぎないからな。
634 :
井上筑後守:2010/02/13(土) 10:40:01 0
記紀神話におけるスサノオのヤマタノオロチ退治で、
スサノオは酔い潰して眠らせたヤマタノオロチをズタズタに斬り裂き、
オロチの尾っぽを斬ろうとしたとき、何か硬いものに当たって自分の剣の刃が欠け、
尾の中からツムガリ(鋭利)の大刀が出てきた。これが三種の神器の内の一つ、草薙の剣。
この伝説は、スサノオに相当する日本民族の祖先が、自分たちよりも文明の
開発度で優る相手を平定したことを伝えているようだ。石剣で銅剣を斬ろうとすれば
石剣が欠け、銅剣で鉄剣を斬ろうとすれば銅剣が欠ける。石器文明に対する青銅器文明、
青銅器文明に対する鉄器文明のような、自分たちよりも文明度が進んでいた相手、
現実にはおそらく古代漢民族である弥生人や渡来人などが日本に流入してきたとき、
それぞれが文明の高度さを競い合って、あたかも胴が一つでありながら頭は複数の
ヤマタノオロチのような混沌状態と化してしまい、それを平定するために、あえて文明の
開発度では劣る範囲での策謀によって事態を解決する。それがとにもかくにも
成功したから、今まで日本は一度も分裂を来たすことなくやってこられている。
635 :
井上筑後守:2010/02/13(土) 12:50:37 0
今まだちょくちょく邦訳「墨子」を読んでいる最中だが、
孟子も部分的に理念を参考としただけあって、相当にいいことを言っている。
それでいてやっぱりどこか抜けていて、易の法則にも合致している
孔孟の完璧さと比べての不備がところどころ際立っている。
例えば「墨子」第四十七貴義篇の最期において、墨子は自らの主張が
採用されるべきことを強弁し、自らの主張を採用せずに非とばかりするのは、
あたかも岩石に卵を投げつけるようなもので、たとえ天下の卵を
投げつくしても卵のほうが割れるばかりで、岩石のほうは壊れないという。
よくわかりました。ハイハイよくわかりましたと言うほかはない。
世界中の卵を投げつけても壊れない岩石、それほどにも強固な主張。
それは確かなんだろうが、やっぱり卵を投げつけられてグチャグチャに汚れるのは下衆だ。
今でも、卵をぶつけられるのは、典型的な侮辱行為の一つとされている。
むしろ投げつけたところで相手に致命傷を負わせずに済むから卵だったりして、
これが石だったり鉄球だったい刃物だったりするほうが、投げる側にとって危ない。
本当の攻撃ではない、侮辱のための侮辱の場などにわざわざ出て行くのが、
すでに下衆の所業なのであって、儒者ならばわざわざそんな所には出て行かない。
たとえ致命傷にはならずとも、卵をぶつけられるような侮辱に取り合うところからして忌む。
それなのにわざわざそんなことを言う墨子の態度は、正しくても「出すぎた真似」に当たる。
易はどこへいった?数理的解説よろしく
637 :
井上筑後守:2010/02/14(日) 14:07:25 0
易は何十年でも何百年でもかけて研究していくべきものなので、急激な
研究の進展などを期待してはいけない。風水による地相や家相の判断も、
本当は何世代も後になって初めて効果が現れてくるほどのもの。即座に
金運の上昇するDr.コパあたりがお好みなら、そちらの方にお往きなさい。
墨子の言動で他にいけないのが、比喩表現を多用しすぎている点。
別に道家や仏教のように超俗志向で想像を膨らましてるのは結構だが、
墨子は農業や工業のような産業にまで積極的に参加する、儒家以上もの
世俗志向でいて、しかも比喩を多用する。これじゃあ悪質な詭弁混じりの
寓喩で衆生を欺く、どこぞやのカルト宗教のようになっても仕方がない。
比喩や概念論で想像を膨らましてたかったら超俗、世俗でいたかったら
大掛かりな比喩だの概念論だのは抜き。他者を奴隷使役に用いながらの
有閑階級である学者などもナシ。世の中が知識ばかりに媚びてちゃいけない。
638 :
井上筑後守:2010/02/14(日) 16:43:12 0
訳文だけでも、「墨子」の場合は、一読するぐらいで十分な代物であることが分かる。
まだ読んでないが、おそらく「韓非子」や「管子」などもその程度。
一生かけても研究しきれない易とは逆で、むしろ西洋の文献などと同類。
なにが違うかといって、易は道理に即しており、墨子や洋学は道理に即していない。
道理に即していないから言動に無理があり、無理があるから長持ちしない。
無理のない道理に即しているのが易であるとした上で、
孔孟(易の陽剛の法則に合致)≧老荘(易の陰柔の法則に合致)>墨子、韓非子、洋学等(易の法則に合致せず)
という諸子百家等の安定度の順位も定まる。易こそは「道理自体」を把捉しているんだが、
それ故複雑難解すぎてあまり実用度は高くない。文章として道理自体であるわけではないが、
もう少し分かりやすい言行録などの形を取って道理を説明している「論語」や「孟子」、
「老子」や「荘子」のほうが、道理を概括的に把握する上では役に立つ場合も多い。
カントの主張する「物自体」は、認識された上で抽象化されたり具体化されたりするだけ。
全く認識されないとするのも虚妄だが、具体と抽象とで用い方が変わってくるは確かだ。
数学ができるってだけで飯の種になるようなのは、もうナシだな。
んなら六十四卦丸暗記してるほうがよっぽど世のため人のためになる。
害悪のほうが上回るほどの利害を同時にもたらしといて、
利益の部分だけを見せびらかしてさも一概に有益であるかのようなフリをする、
マッチポンプの有覆無記であるよりは、利害共にない無覆無記であるほうがマシだ。
福だけをもたらす≧何ももたらさない≫禍福を同時にもたらす≧禍だけをもたらす
禍福を同時にもたらすぐらいなら、
何ももたらさないほうがまだ偉いわけだ。
640 :
考える名無しさん:2010/02/15(月) 15:32:28 P
>>639は井上か?
そんな数学コンプ丸出しの言い訳なんかしている暇があったら数学板でたまっている質問に答えろよ。
641 :
井上筑後守:2010/02/15(月) 19:21:17 0
墨家は士人階級の仕事に、農夫や百工といった産業階級の出身者をどしどし登用することを説いた。
そのため後続の思想家は重労働にもめげることなく取り組み、士人としての仕事ばかりを
専業としてはいなかったようだが、ことに墨子自身はそこまで働きまくっていたわけではなく、
食客として魯の政治顧問となるなどの、典型的知識人としての仕事を行なっていたようだ。
そこで「墨子」第四十九魯問篇に、魯の南方で耕作をして生計を立てている呉慮という男が出て来、
「義はとにかく行なうべきもので、口に出す必要はない」と主張する。これにたいして墨子は、
「私もそう考えたことがあるが、一人の人間が口も出さずに働くだけでできることなど小さなことだ。
しかし、弁論によって多くの人々を正しい方向へと導けたなら、それはものを言わずに働く場合
以上もの効果を発揮するのだ」と弁明した。耕作のような一般労働にも価値はあるが、弁論での
治世にはそれ以上もの価値があるのだという、産業奨励者とされる墨家にしては意外な発言。
642 :
井上筑後守:2010/02/15(月) 19:22:37 0
これもやっぱり、いいとこまでいっときながら、やっぱりダメな論及の部類。
墨子は士人階級の仕事と、産業階級の仕事を同列に扱って、同等のものとしての優劣を論じる。
そして士人階級の仕事に対して軍配を挙げる。あたかも大人と子供が同じ土俵で相撲をして、
大人が子供に勝つようなことを言う、当たり前でも士人の態度としてよろしくない部類。
士人と産業従事者ではまったく立場が違う。士人には士人なりの、産業従事者には産業従事者なりの
職分があるのであり、「士農工商」という形で絶対的な身分の区別までもが取り決められる。
士人の仕事のほうが世の中に与える影響が大きいにしても、士人だけで世の中を作ることもできず、
食糧を作る農夫、生活必需品を作る百工、それらの流通を助ける最低限の商民らがいることで、
それら三民を指揮する士人の存在も必要となってくる。それなのに四民を不当に平等視して、
同列での競争を促そうとするから、あたかも大人の子供に対する優位、男の女に対する優位のような、
当たり前すぎて本当は論及すべきでもない、士人の産業従事者に対する優位を強弁するという
はしたない言動が墨子の場合は際立ってしまっている。たとえ正しいことを言っていても、
その態度が気に入らない部類に入ってしまっている。
643 :
井上筑後守:2010/02/15(月) 19:24:20 0
墨子は運命否定論者なので、陰陽道による占いにも取り合わない。
「いま北に行ってはならない」という斉の易者の勧めも無視して北に行ったりしている(第四十七貴義篇)。
占いなどに囚われて言動を拘束されていたのでは、働くこともままならないからと、
労働奨励者の面目としてのこのような言動もやはり残っている。
文献としての「墨子」にも、論理学や科学、兵法などの、多くの雑学に関する記述があり、
第四十・四十二経説篇上五十三〜六〇には、ユークリッド幾何学の原形とも呼べる、幾何学に関する論及すらある。
墨子の推定活動年代はユークリッドよりも百年以上早く、実は幾何学ですらも中国が一時的に
古代ギリシャに先んじていたことを実証する例となっている。
その「墨子」第四十一・四十三経説篇下四三に、陰陽五行思想の五行が、必ずしもその通りの
勝敗関係にあるとは限らないことを説いている。五行相勝説によれば、水は火に、火は金に、金は木に、
木は土に、土は水に勝つことになるが、少量の水では大火を消すことができるとも限らない。
量の多少によって五行相勝説は通らない場合もあるのだから、陰陽五行ばかりが正しいとも限らないとなる。
644 :
井上筑後守:2010/02/15(月) 19:25:53 0
ここに、墨子の陰陽五行への見限りもうかがうことができる。墨子はユークリッド幾何学に基づくような
「数値化」にまでこだわっており、数値的な量の多少によって五行が引っくり返ることに疑問を呈す。
陰陽五行も物事を数“値”的に捉えることまでのことはせずとも、数“理”的に捉える程度のことはしており、
原点を指定しない陰か陽かの位相の違いだけを問題とする易の構造なども、このうちの数理化に匹敵し、数値化には値しない。
物事を定量化するためには数値を設定する必要があり、ピタゴラスやユークリッドに始まるとされる
西洋数学はこの数値化こそを目的とした「数値学」であり、伏羲や神農、黄帝に始まるとされる陰陽五行は
数値化はせずとも数理的に物事を考える「数理学」にあたる。本当は数理学も数学のうちに入るんだが、
数値化こそは全てである西洋ペースの今の数学においては、数値学のみが数学とされるので、
数値化を排した数理学である陰陽五行は数学扱いされなかったりもする。西洋数学などよりも
遥かに古い歴史を持っていながら、数値化しないというだけで不完全扱いされる数学の原初、
数値学ではないが数理学である陰陽五行。数値化しない範囲内で物事を論ずることの価値が
計り知れないうちは、易も五行も否定した墨子のような結果になってしまう。
645 :
井上筑後守:2010/02/15(月) 21:12:02 0
士人なら、数値化してはいけない。
数値化は百工や商売人の所業。寸法どおりにモノを作ったり、
金勘定したりの数値を扱う仕事は、物事の大まかな様相を扱う士人には相応しくない。
易や五行もあくまで数値化しない範囲、数理の範囲内での理解に徹する。
それでこそ「少量の水では大火は消せない」みたいな、
数値の多少による場合分けに囚われた、せせこましい雑念雑考に陥らなくて済む。
士人としての仕事にも携わる割りには、墨子はあまりにも多芸すぎた。
ただ農業や工業といった産業を奨励するだけでなく、力学や光学や論理学や文学、
実定法学や軍事学など、あまりにも多くの分野に食指を伸ばしすぎ、中には
ユークリッド幾何学と同等の数値学にまで、論及が及んでいる場合もあった。
全空間を構成する八つの象限の位相のような、大局的な問題の数理こそが
士人にとっては問題であるのに、それらのうちの一つの象限だけにおける
座標数値計算のような、矮小な問題だけに囚われて全体の問題が見えなくなる
弁士一曲に陥ってしまっている。
これだと、士人にとっては比較的近縁な部類に入る兵法すら学ばず、
これといった専門分野がないことを達巷の者に指摘されて、照れながら
「じゃあ御者をやりましょうか、弓をやりましょうか。御者でもやってみましょう」と
謙遜の意を表した(「論語」子罕第九・二)孔子のほうが恭しい上に、しかもよかった。
なまじユークリッド幾何学などにも手を出さず、本の綴じ糸が三回切れるほどにも
「易経」を熟読していた孔子のストイックさが、墨子の多芸多才っぷりよりも功を奏した。
本当に必要なものこそを重んじて、無駄なものに手を出さなかったことで、生き残りもした。
646 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 08:35:01 P
そんなにぐだぐだ言い訳している暇があったら、数学板の質問に答えてこいよ。
自然と上が数学板での質問への答えにもなっている。「数学板」と
いいつつも、実質的には「数値学板」となっているあっちでの質問への。
数値学は士人の仕事じゃない。せいぜい数理学までが士人の領分。
やったところで、せいぜい数値学は趣味の範囲。匿名の馬の骨からの
詳解の催促などは、態度が気に入らないだけで無視していい部類。
仮にこれが怠慢に見えたとしても、どうせお互い様の話だしな。
648 :
考える名無しさん:2010/02/16(火) 11:59:19 P
>>647 数学板での質問とは、
「<陽とか<陰とかを要素として持つ集合はベクトル空間の公理を満たしているのか?」
って奴だけど。
これのどこが数理で無いのか。
そもそも、これはお前が出した議論の前提を問うているのだから、これに答えられないということは、
お前の言っていることがただの妄言だと自ら証明する事になる。
まぁ、実際そうなんだけどな。
数理であっても、おまえみたいな不誠実な態度の持ち主を
相手にすることは、士人の仕事じゃない。
儒学では人間関係が「君臣」「父子」「夫婦」「兄弟」「朋友」の五つに大別され、
特に最初の三つが三綱として重視もされる。三綱は縦の繋がり、
兄弟はやや縦の繋がり、朋友は横の繋がり。全くの横の繋がりとして
横柄な関係が許されるのは朋友の関係のみ。そして朋友の関係はお互いが
そうであることを認めた場合に限ってのもの。お互いが認めた場合であれば、
お互いが侍と無頼者であり、十歳程度年の違う鬼平と彦十のような
大きく立場の違う者同士でも朋友となり得るが、それを認めていないのなら
朋友であることもない。身分の違いを超えて親しく付き合う手順も踏まえず、
ただ馴れ馴れしくしてくるような相手なら、斬り捨て御免にすらなり得る。
三つの爻を持つ八卦を上下に積み重ねて、六つの爻を持つ六十四卦を形作ることが、
そのまま合気道における合気の抽象化ともなるように、原初の陰陽五行の頃から
漢学は人と人との関係性を重視している。人と人とが集まり、その間に「人間」が生ずる。
数学や科学のような概念論も結局は人間が思いつき、人間であるから必ず人間関係がある。
「君臣」「父子」「夫婦」「兄弟」「朋友」の五つ(天下の達道)に全ての人間関係を還元する
儒家においては、「全くの他人」だとか、「超越者と常人」だとかいった関係性が完全否定される。
人力の及ばない天の存在もまた認めるが、天はあくまで天であり、人間とは全くの別物。
人間が天の如くか、もしくはそれ以上もの超越者であることなど認めず、人間が超越的な
傍観者であることの価値を認めないから、全くの他人という関係性も認めない。人間である
以上は君臣だったり、父子だったり、夫婦だったり、兄弟だったり、朋友だったりするのであり、
全くの他人や超越者なぞのフリをして偉そうな口を利くことは認めない。少なくとも他人や
超越者気取りの分際であることに、偉ぶる根拠など何一つ見出せず、君主や士人の如き
社会的上位者であっても偉ぶることは認めないのだから、いわんや他人や超越者をや、となる。
他人や超越者だから偉ぶっていいのだという思い込みは、すでに傍観主義への価値偏重に
基づいている。原点で直交する三本の座標軸で構成されたユークリッド空間を傍観するような
心境に陥ってしまっていて、それが偉いと思っているから偉ぶる。傍観こそはよしとする
数値学的な態度であるから、他人や超越者であろうとしていることなどを根拠に偉ぶる。別に
本当はちっとも偉くない。他人や超越者であるからといって偉いだなんてのがすでに間違い。
人と人との人間関係において、責任ある態度を振る舞うことこそは偉く、そうでないのは卑しい。
651 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 00:26:44 0
馬鹿スレ晒しあげ
>>649 どーでもいいけど数学スレの責任とれよw
自分が神になったつもりの井上さん。
世の中にゃ井上さんより物知りさんってたくさんいるのよ。
間違いを認めない、虚勢を張る。最低の東洋人として
「井上筑後の恥」を
ネット上のキャッシュに残そう。
何もかもを傍観しようとする出歯亀でいて、神気取りで他人を罵倒したり
することこそは、儒家の三綱や天下の達道に悖る不埒な態度であるというのに、
自分たちこそはそのような状態に陥っているとも自覚できず、あまつさえ
こちらを神気取りだなどと人の発言のオウム返しをして悦に入る。
見ているものだけは詳細に見えていても、自分自身を含む見ていないものに
対しては全く把握が及ばない、出歯亀特有の病状を曝け出してくれることで、
そんな所に権威などかけらもないことを証明してくれている書き込み頑張ったね。
数学板のスレは、おまえらがいなくなったらまた書き始めるから心配すんな。
どれとは言わないが、5年以上前に俺が立てたスレもまだ残ってる過疎板だから、
しばらく書き込まずともdat落ちの心配はあるまい。こちらが0020あたりに
なったらまた書き込み始めよう。もうおまえらはシャバにはいないだろうが。
井上さん人気だねw
数学板からお誘いがくるなんて。
自分が、社会的にどの程度の身分であるのかを、
このハンドルネームこそが具体的に表している。
江戸幕府大目付、下総高岡藩初代藩主、井上政重。
戦国後期に生まれ、自身も一時的にはそうであった
キリシタンの取り締まりで功績を挙げ、島原の乱
でも幕府方の上使として重要な役割を果たした。
天皇や将軍とまではさすがにいかないが、
そんじょそこらの侍や平民よりはよっぽど上。
現実的にその程度の身分で、誰にもひれ伏さぬ
わけではないが、ひれ伏さねばならない相手は
ずっと少ない部類。本当は誰しもにひれ伏さねば
ならない最底辺の火盗であるおまえらと比べれば。
656 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 13:24:38 0
いろいろものを知っていたからといって、
藩士や百姓止まりだった平賀源内や二宮尊徳が、
将軍や大名よりも社会的に偉かったわけもない。
知識の有無と身分の上下は必ずしも比例しないのは、
知識や信仰が深いから徳があるとも限らないのと同じ。
儒学も後々には漢王朝や江戸幕府において、唯尊の国教や
御用学扱いともなったが、最初からそうだったわけでは決してない。
孔子や孟子も政治家としてはあまり成功しなかったし、
朱子も宋学を大成するにあたっては異端としての弾圧を受けた。
守旧が本分なのが儒学や朱子学であるところから、新しく学を
興そうとすれば、自分たちまでもが弾圧を受ける弊害を伴っていた。
657 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 13:27:23 0
儒学の説くような道徳は、権力者が勝手に決めた虚構だなどと
勘違いしている阿呆も世には多いが、全くの勘違い。
始めに道徳があって、後から権力や権威が付いてきた。
始めから「官製」だったのは、むしろ「韓非子」や「管子」といった
法家の部類。「韓非子」は始皇帝によって即座に社会適用されもした。
今はその「韓非子」を読み始めている。
東洋文庫版邦訳「墨子」は、ほんの一部抄訳があったので、
新釈漢文大系版で省略箇所を訳文でだけ読み通しておいた。
やはり軍事基地などの寸法を何尺何丈何十歩と詳細に記述したり、
科学的な数値化が目立っており、無駄な雑学の域を出てなかった。
あくまで「墨子」は、四書五経のような儒家の経書と比べれば劣る部類。
経史子集のうちの「子」。「集」にあたる小説文学などと比べれば上でも、
「経」や「史」ほど重要なものではない。そして「韓非子」もこの「子」にあたる。
儒家のライバルであり、儒家が一尊化された漢代以降は表舞台から
姿を消した諸子百家、その中でも最も危険とされる法家の書、「韓非子」。
あくまでいけないことを書いてるのを見越した、批判的な査読の対象とする。
658 :
考える名無しさん:2010/02/17(水) 14:45:49 P
>天皇や将軍とまではさすがにいかないが、
>そんじょそこらの侍や平民よりはよっぽど上。
>現実的にその程度の身分で、誰にもひれ伏さぬ
>わけではないが、ひれ伏さねばならない相手は
>ずっと少ない部類。
リアルでこんな身分の人間が2chとか笑わせる。
こういう身分の人間が本当にいたとして、それがこんな文章書くわけないし。
だいたい、21世紀の日本で士分がどうとか、斬り捨て御免とか。
文章の内容自体で勝負できる実力もないし、それも自覚しているけど認めたくない。
そんなコンプレックスが見え見え。
数学板から逃走したのも、自分では逆立ちしてもググっても回答できない質問を突きつけられたからだし。
何なのこの上から目線と攻撃性は(笑)
コテコテの2ちゃんねらー久々に見た
660 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 18:09:21 0
西暦もいい加減、廃止しなきゃな。
いま世人が絶対的信頼を置いている科学や実定法学が、
紀元前の、古代ギリシャやローマよりもさらに前に
中国の管仲や墨テキ(墨子)、韓非らによってすでに提示され、
それらとの競争に勝ち抜いて、儒家の道徳学が国教や御用学ともなっていた。
科学や実定法などよりもさらに進んだ所に本当は儒学が存在していることを、
紀元前の人類の行状を全てうやむやにしてしまう西暦の活用でごまかしている。
科学が墨子によって人類史上初めて提唱された上で廃れたことはもう述べたが、
いま普通に「法学」と呼ばれている、実定法にまつわる学問も、
春秋戦国時代末期の思想家、韓非によって大成され、一時は始皇帝に
取り入れられて統一秦王朝の政治原理として用いられもしたものの、
暴政極まってあっという間に滅び、後に儒学を国教とする漢王朝に
取って代わられたのは周知の通り。むしろ儒家よりも先に戦国時代の
収拾に一役買った法家、その法家の基本原理を説いた「韓非子」。
漢代以降の中国でも、江戸時代の日本でもなく、今の世界の現状をも述べている。
漢や江戸と比べれば文化面でむしろ退化してしまっている、「何を今さら」な
法律万能主義が、今の世の中の基本原理でもある。儒家に相当するいっぱしの
道徳学が一切存在せず、管仲よりは後代のローマ法に始まる法律万能主義を
執拗に続けてきた禽獣の群れ、文化蛮族西洋人の無理なあてがいにより、
今さら日本や中国までもが法律万能主義と化している。それしかなかった西洋では
まだ仕方なくとも、仁義道徳というさらに優秀かつ最新な政治原理を持っている
日本や中国においては、法律万能主義もまた過去の遺物への退行にしかならない。
661 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 18:24:11 0
数学板でも、まだ結構興味深い質問を承っており、むしろ積極的に答えたいぐらい
なんだが、あまりにも態度が無礼すぎて、返答するわけにもいかなくなっている。
無礼な相手にまで馬鹿正直に答えたんでは、こちらまでもが無礼となって貫目を下げてしまう。
ちゃんと態度を正して問うてくるのなら、決して一切質問に答えないなんてこともない。
「井上筑後守」というハンドルネームも、実際にもその程度に止まる役職であるのだから。
普遍的な位階としてはは、江戸幕府の役職はみな、非常に低い範囲に止まっている。
頂点の征夷大将軍からして「将軍」。これは三国志でいうところの関羽や張飛の最高身分
と同等にあたり、漢中王や蜀漢皇帝を名乗った劉備元徳にも決して及ばない位階。
しかも、この位階は、今の内閣総理大臣や、国務大臣などよりも格下の身分に当たる。
徳川幕府は征夷大将軍以下、全ての武家に対して勝手に朝廷から高官位を頂戴することを
禁止し、武家でありながら右大臣ともなっていた豊臣秀頼を大坂の役で自刃もさせた。
公家でもないくせに高官位をもらいたがる、織田豊臣五七五三の桐の時代の悪習を全廃し、
武家である以上は官位などで朝廷に依存せず、権威に寄りかからない権力機構に徹した。
662 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 18:34:33 0
ただ、まあ武家なりの官位として、井上政重も「筑後守」を頂戴していたわけだが、
幕府において最高にあたる征夷大将軍でも、今で言うところの「東京都知事」程度の役職。
鎖国政策によって国政があまりまとまる必要がなくなり、都道府県知事の親分格な
東京都知事が棟梁として全国をやりくりしていたようなもん。もちろん今の知事よりは強大。
大名も、今よりはずっと強大だった県知事程度のもの、下総高岡藩主だった
井上政重は、今の
━╋━ ┃━╋:
┗┓ ┃┏╋
━┛ ┗┗┛
県知事ってとこ。しかも上総は含めないので、今の
━╋━ ┃━╋:
┗┓ ┃┏╋
━┛ ┗┗┛
よりもさらに小さい、弱小県の県知事程度のものだったわけだ。
663 :
井上筑後守:2010/02/17(水) 18:43:02 0
地方の県知事程度の役職であったればこそ、下民の話も直接聞けていた。
礼儀を正そうが正すまいが、献金を持っていかないことには話も聞いて
くれない今の政府などとは違って、ちゃんと礼儀を正して話を持っていけば、
聞き入れてもくれたからこそ、下民たちもひれ伏すなどして敬っていた。
それほど位階の高くない、地域に密着した役職だからこそ尊敬もされていた。
今の政府高官などより遥かに低位の、将軍や大名だからこそ敬われていたのであり、
絶対に声の届かない雲上の存在だから、鳩山や小沢は平気でこき下ろされる。
頂点と底辺しかないピラミッドと化している今の社会とは違い、お上にまで話が
持っていかれる社会。だからこそ礼儀作法が重要だったのであり、お上に絶対に
話の届かない社会では、もはや礼儀もいらない。絶対的な地位の隔絶こそは
無礼を許すのであり、話をちゃんと聞いてやる所にこそ無礼が許されない。
礼儀が、今の政治献金の代わりだったわけだ。なんと安いことか。
それすらも出ししぶって、TVや新聞の中では政治家や官僚を
存分にののしっときながら、ちゃんと裏で金は渡してる。
礼儀の代わりに献金で話を聞いてもらってる。
まあ、早い話が「賄賂」だ。公然と認められている範囲での賄賂。
士人と産業階級の分断もないので、高級官僚の天下りなどもやりたい放題。
四民制を排し、身分の上下による礼儀を徹底しなくなった結果、
当然のこととして横行するようになった賄賂や天下り。
資本主義社会である今の日本を引っ張っているものの正体。
紛れもなくそうでしかあり得ない。身分も礼儀も糞喰らえで、
金とモノこそは全てであるのなら、必ずそうでしかあり得ないのだ。
いくら批判しても身から出た錆。礼儀などどうだっていいというのなら、当然そうなる。
665 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 00:52:22 0
書いてて恥ずかしくないのかとマジで思う。
固定ハンドルで長文書き続けると多かれ少なかれ自分を暴露することになるだろうから
恥ずかしい人は恥ずかしいだろうね。
議論してて個人の識別が必要なときとか発言に責任持ちたい時は
固定ハンドルつけるのが良いのかもしれないけれど。
「爾の室に在るを相るに、尚お屋漏に愧じず」
(「詩経」大雅・抑)
たとえ家の部屋の奥であっても恥じるようなことはしない。
小人閑居して不善を為す。見えない所にいるからといって
やりたい放題の出歯亀志向は、そのまま小人の所業。
あからさまな悪行は全てひたかくしにしたとしても、その
後ろめたさは瞳の濁りや容貌の不自然さ、言動の卑屈さ
などとして自然と表に現れてくる。故に君子は独りをも慎む。
四書五経中では最も先に読むべきとされる儒学入門の書、
「大学」六章にすでに書いてあること。二宮金次郎が今の
中学二年にあたる年に、芝刈りをしながら読誦していたともいう。
この程度のことができないんじゃ、いくら数学や法学などが
分かったところで、精神レベルは中学中退止まりということになる。
668 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 12:36:47 0
著作権への拘泥者は、ただの商売人だ。
孔子が五経や論語の著作権を主張したことも、
老子が道徳経の著作権を主張したこともない。
朱子ですら、主著の「近思録」はほぼ引文集で、
「朱子語類」も後代に弟子によってまとめられたもの。
聖徳太子や空海や親鸞の主著もほとんど引文。
本物の聖賢は著作物の所有権などにこだわらない。
商売人じゃないから。
聖賢の本業は著述や弁舌ではなく修身や修行だ。
その結果、金言が生まれたり生まれなかったりもする。
しかも言葉ではなく行動選択(「何もしない」を含む)が
修身や修行の結果ともなるわけで、全てが著作物に
還元されるとも限らない。漢籍や大蔵経等、豊富な
著作物を蓄えながらも、東洋教学に文章依存は
基本存在しない。何もかもを文言に還元するロゴス
信仰が、東洋でも通用すると思ったら大間違い。
671 :
井上筑後守:2010/02/18(木) 13:50:00 0
聖賢は、発言だけでなく、行動選択の面においても優れている。
釈迦や老子の、確信的に諸悪莫作や無為自然を嗜もうとする態度姿勢は、
何かをやろうとして少なからず罪を犯してしまっている、どのような活動者よりも優れている。
さらには儒学の大成者である孔子や孟子の、乱世に仁政を行なおうとして結局できなかった、
「何もしなかった」のではなく、「何もできなかった」行動選択ですらもが、相当に優れている。
それは、ちょうどいま読んでいる「韓非子」の著者である韓非が、自らの思想が取り入れられるのを
望むあまり、悪政の対症療法というマッチポンプ系の法律万能主義を打ち立てて、
実際に始皇帝に取り入れられ(ただしその頃すでに韓非は自殺していた)、
賄賂政治や焚書坑儒、全人民に莫大な労役を課しての王宮や陵墓の建設などを
助長してしまったことに比べれば、仁政を試みながらも失敗したという
一見情けない行動選択すらもが、墓穴を掘るようなある種の行動選択よりも
まだ優れたものになるのだということを裏付ける史実上の事跡となっているから。
個人的には、仁政を試みて失敗した、結局自分では何もできなかった孔子や孟子の
態度姿勢のほうが、確信的に何もしないでいた釈迦や老子の態度以上にも好感が持てたりする。
男だったらせめて、世の中で成功してやろうという野望ぐらいは内に秘めておくべきだ。
優しい奥さんになることが夢な女ならともかく、少なからず世に出て働こうとする男ならば、たとえ
その野望が甚だ実現困難なものであろうとも、せめてでも志しぐらいは捨てないでおきたいものだ。
672 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 13:51:10 0
で、どの本の引用なの?
その本に興味があるの?
新釈漢文大系
国訳漢文大成
中国古典文学大系
世界古典文学全集
岩波文庫
講談社学術文庫
ちくま学芸文庫
東洋文庫
タチバナ教養文庫
・・・・・・
商売人が興味があるのは、
ただどの商品が売れてるかだけだからな。
別に自分で読んで勉強する気もなく。
大学教授ですらそうだったりもするが。
675 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 14:18:13 0
で、どの本なの?
676 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 15:58:21 P
井上はどうして名無しになったり固定になったりするの?
自演しているの?バカなの?死ぬの?
クッキー切れただけで「自演」w
678 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 17:29:39 0
>>675 多くの文献の読み下し方や訳し方を参照して、最善のものにさらに手を加えたりしている。
だから特定の文献だけを参考にしているとは限らない。
白文だけならここにもあるしな。
ttp://chinese.dsturgeon.net/index_gb.html ただでさえ著作権意識の薄い中国の、さらに何千年も昔の古典。
作者名を明記するような、体裁上の著作権保護すらとっくの昔に放棄され、
人類万民に共有の財産となっている。
それこそは、本当に正しい著述姿勢のあり方でもある。
逐一作品に署名したり、発見した法則に自らの名前を冠したり(例:ゼノンのパラドックス)といった
自意識過剰こそは知見の共有を妨げるし、その程度の行状の人間の作品や発見の価値などもたかが知れてる。
署名の必要すらない金言や法則、略抄取意でも揺るがしようのない含意を持つものにこそ、真の普遍性がある。
679 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 18:26:39 0
くどいのは無礼だ、
681 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 20:03:39 P
>>678 >発見した法則に自らの名前を冠したり(例:ゼノンのパラドックス)といった自意識過剰
へ 、ゼノンが自分でゼノンのパラドックスって名づけたんだ。
数学史を覆す大発見だから、論文にして学会誌に投稿した方がいいよ。
エベレスト山も、本人が名前を冠したわけではなく、
後付けで「エベレスト」と呼ばれるようになっただけ。
普遍的な金言や法則であるはずのものに、人間ごときの
名前を冠しようとする風潮からして、自意識過剰に過ぎる。
諸子百家がみんな敬称(〜子)で呼ばれて、
孔丘や孟軻といった本名でわざわざ呼ばれないのとは逆。
発言者や発見者である本人自身への敬意は欠いたままに、
自意識過剰を助長する署名の痕跡だけは残そうとする、
洋学特有のマーキング第一の悪習を持ち込まないように。
683 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 21:49:05 P
>>682 でも、ゼノンは自分で「ゼノンのパラドックス」って名づけたんですよね。
こんな大発見はぜひ発表すべきですよ。匿名でも構わないけど。
発表したけりゃ自分ですりゃいい。
署名付きでな。
電柱の根元に片足を上げて。
685 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 22:57:59 P
>>684 そんな、見えないものは発表できませんよ。
あ、もしかしたらゼノンが自分で「ゼノンのパラドックス」って名づけたなんてデタラメなんですね。
敬語を使えばそれだけで礼儀を尽くしたことになると思ってるような不埒者相手でも、
超俗にことかけてあることないこと適当に書きまくってる荘子程度の態度で接すれば、
別段どうということもないわけだね。それもまた一つの人間のあり方であり、
全否定はしないが、そういう時には責任をもって世に乗り込んでいこうとする
礼節第一な儒家のほうは頭を引っ込める。むしろ、隠遁主義である道家以上にもな。
687 :
考える名無しさん:2010/02/18(木) 23:44:58 P
>>686 つまり、ゼノンが 自分の名前を発見したパラドックスに付けたなんてデタラメなんですね。
南進している象の背中の上で、北に向かって進む蟻。
象の進行方向と逆走していることだけが普遍的で、
象の進行する方角が変われば自分も変わる。
象が北に進めば蟻は南に、東に進めば西に、西に進めば東に・・・
などと、政務の場では決して用いてはいけないような
遠まわしの比喩表現でも用いてみる。
689 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 00:27:46 0
ごまかしがきかなくなってくる井上さん
器が知れたようなものbyその筋の兵法家。
690 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 03:32:10 0
東洋は犯罪大杉で麻痺してるんでしょう
犯罪のデパート 東洋大学
・東洋大女子学生 ホームレスに放火 殺人未遂
・東洋大男子学生 息子を殴り急性硬膜下血腫
・東洋大陸上競技部(箱根ランナー部門) 強制猥褻
・東洋大バレー部 試合会場の他大学で盗撮
・東洋大ボクシング部 覚醒剤1キロを密輸
・東洋大野球部 部員イジメ、部員寮から出火
・東洋大法学部教授 薬局店主に調剤報酬の不正受給を指導して詐欺容疑で逮捕
・東洋大経済学部教授 銭湯で高級時計窃盗
・東洋大空手部 新入生に飲酒させ川に飛び込めと命令、溺死 隠蔽図るが発覚
・東洋婚活ババア フェリス卒と学歴詐称 埼玉婚活大量殺人事件で逮捕
・09ミス東洋 kawaii専属AVデビュー『絶対に声我慢しなきゃダメ』 『学校でセックchu』
ゼノンのパラドックス自体にも、ゼノンのパラドックスを研究してるような
学会や団体にも大した価値はないのでどうでもいいな。
作文や発見に署名して悦に入ってるような趣き全般を批判している時に、
「本人自身が付けたかどうか」なんていう重箱の隅突付きで
いい気になっている蟲さんたちがこだわってる問題など。
692 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 10:21:09 P
>>691 > ゼノンのパラドックス自体にも、ゼノンのパラドックスを研究してるような
> 学会や団体にも大した価値はないのでどうでもいいな。
これらの価値が理解できないだけですね。
自分が理解できないものは価値が無いと断ずる。小物ですな。
> 作文や発見に署名して悦に入ってるような趣き全般を批判している時に、
> 「本人自身が付けたかどうか」なんていう重箱の隅突付きで
> いい気になっている蟲さんたちがこだわってる問題など。
いやいや、「作文や発見に署名して悦に入ってるような趣き」にとって、
「本人自身が付けたかどうか」は本質的な問題でしょう。
署名って他人がすることができるんでしょうか。
その本質的なことでデタラメを吹かし、追求されると重箱の隅だと強弁して問題の矮小化を謀る。
いやいや、素晴らしい小物ぶりです。
それより、ハンドルの付け方とか、
>>655のような喧伝の仕方とかの方がよほど自己顕示欲が高いのだが。
これも小物感があっていい味だしていますよね。
693 :
井上筑後守:2010/02/19(金) 10:27:11 0
いま読んでいる筑摩叢書版の邦訳「韓非子」によれば、
現行でもっとも信頼のおける韓非子の注解付きテキストは、
江戸時代の福山藩士兼儒学者だった太田方全斎による「韓非子翼毳」で、
中国本国の各種注解と比べても優れているため、これを訳出上の底本ともしたそうだ。
そのせいか、筑摩叢書版の訳者(本田済氏)は、わざわざ時代劇調の
古い言葉遣いで「韓非子」本文を訳している。別に江戸幕府が官製したわけでもない、
いち藩士の(火事による原稿の消失なども乗り越えた)悪戦苦闘の結晶を根拠に、
あたかも韓非子が江戸時代の精神原理ででもあったかのような訳し方をする。
とんでもない話で、韓非子は江戸時代ではなく、立憲制を冠し始めた
明治以降の日本の精神原理でこそある。さらには中国共産党が政権を握った
中華人民共和国建国後の中国の裏の根本原理でもある(表上はマルクス主義)。
古きよき時代の日本や中国では、いち藩士が趣味で編纂していた程度の代物が、
今の時代にこそ全世界の精神原理となってしまい、諸々の問題をも生じている。
人間の悪念の存在性を肯定した上でそれをどう事務処理するかを考え尽くす、
法律万能主義の当然の帰結としてのマッチポンプを述べ尽くしている代物。
時代劇調の訳文は気に入らないが、現代の病理を看破するために読んでおく。
694 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 11:10:37 0
695 :
井上筑後守:2010/02/19(金) 12:14:33 0
「墨子」や「孟子」や「荘子」に出てくる規矩準縄が、「韓非子」第二巻・有度第六にすでに出てきた。
しかも他にも羅針盤や升など、墨子や孟子や荘子よりも後代ならではの付け足しと一緒に。
「墨子」では規矩準縄はただ仁政の規範として提示され、「荘子」ではそれが否定の対象となった。
「孟子」では、規矩準縄を仁政のための具体的手段としての「礼儀」の比喩として用いていたが、
「韓非子」では、今の実定法にあたるような「法規」こそを規矩準縄や羅針盤などに喩えている。
礼儀もまた礼法として体系化することができ、「礼記」や「延喜式」などの形で文書化されてもいる。
「礼記」では、実定法の遵守を正すためのより積極的な手段としての礼儀の価値までもが説明
されているんだが、韓非はこの礼法ではなく、信賞必罰の実定法規こそを直接論述の対象とする。
696 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 12:27:39 0
自分が読んでるのは筑摩叢書版の古本だが、
同じものがちくま学芸文庫からも再版されている。
岩波文庫や中公文庫、新釈漢文大系などでも韓非子は
現行品が多く出回ってる。別に入手困難なわけでもない。
大体、図書館や古本屋も知らんのかという話でもあるが。
698 :
井上筑後守:2010/02/19(金) 12:49:37 0
「虎が犬を征服できるのは、その牙と爪があるからであり、
牙や爪を犬に与えたなら、虎は犬にすら征服されるだろう」(「韓非子」第二巻・二柄第七)
君主以下、全ての人間に自由の余地を与えず、法規によって完全な征服の対象とする。
頼まれてもいないのに寝ている上司に着物をかけた部下を罰する、信賞必罰こそは
虎の牙や爪だという。そうかも知れないが、「能ある鷹は爪隠す」でもあるのであり、
礼法の体系化で実定法規の殺伐さを埋め合わせようとする儒家とは違って、
信賞必罰という部分ばかりを露骨に書き立てる韓非の姿勢は非常にいやらしく、
洋学の出歯亀志向やマッチポンプ志向にも比肩するところがあり、
執拗な露骨さだけでいえばそれ以上かもしれない。
東大法学部卒である三島由紀夫の代表作「金閣寺」の主人公は吃音だったが、
法律万能主義の韓非もまた吃音だったそうだ。どす黒い人間の暗部を露骨に
まくし立てる皮肉志向が、吃音となって表向きには現れてくるのかもしれない。
吃音なわけじゃないが、自分も込み入った人間の深層心理などについて口述
しようとすると、舌足らずになることがたまにある。そういうことを口にしようとする
ところからして、すでにあまりよくないことなのだろうと思う。
699 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 12:59:01 0
700 :
井上筑後守:2010/02/19(金) 13:01:49 0
信賞必罰の法治主義こそは「絶対支配」の顕現なのであり、
「自由」や「民主」の象徴であるなどという主張が、全くの詭弁であることを裏付けている。
将軍以下の幕府機構が、官位を下げて地域に密着した統治を実現できていたのは、
実定法以上にも礼法を重んずる徳治社会だったからで、総理大臣や国務大臣など、
君主の一つ下程度の高官位からの支配を現政府が目論んでいるのは、法治主義だから。
支配者と被支配者の間に絶対的な断絶を生む、完全征服完全支配こそは法治主義の本分。
その殺伐さを隠蔽するために、表向きは「自由」だの「民主」だのというフレーズを掲げとく。
自由や民主でないからこそ、自由制や民主制に真っ向から反しているからこそ掲げている。
絶対支配絶対征服こそは法治主義の本質だから、辛酸な本質から目を逸らさせるために
ガラにもないアメをばら撒いている。舞台裏の殺伐こそは本質である、舞台での飾りつけ。
701 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 13:21:48 P
>>697 まぁ、確かに絶版本でも、古書店や図書館はたまた出版時に入手 などで読むことができるけど・・・。
お前の場合、本物の資料ではなくて脳内資料を読んでいるだろうと思われているんだよ。
トンデモ線形代数とか、出典を執拗に示さないとか、ゼノン名付け問題とかを考えると正当な推測だな。
702 :
井上筑後守:2010/02/19(金) 13:52:59 0
自分がそうなら相手もきっとそうだ、いや必ずそうに違いないという
ルサンチマン旺盛な輩には、そう思われるのかもな。
いずれにしろ身の程もわきまえずに人様を「お前」呼ばわりする
無礼者の評価などどうだっていいことだ。むしろ嫌われたほうがいいぐらい。
「子貢問いて曰く、郷人皆なこれを好せば如何。子の曰く、未だ可ならざるなり。
郷人皆なこれを悪まば如何。子の曰く、未だ可ならざるなり。郷人の善き者は
これを好し、其の善からざる者はこれを悪まんには如かざるなり」
「子貢がお尋ねした、『誰しもに好まれるのはいかがでしょうか?』
孔子は言われた、『それじゃ不十分だ』
『誰しもに嫌われるのはいかがでしょうか?』
孔子は言われた、『それも不十分だ』
『善人に好まれて悪人に嫌われるというのには及ばない』」
(「論語」子路第十三・二四)
容量オーバー寸前なので、次スレ。
【聖徳太子】東洋教学総合スレ0004【スフラワルディー】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1266554390/
703 :
考える名無しさん:2010/02/19(金) 15:43:49 0
誰からも好かれる兼愛非攻を説いた墨家。
誰からも嫌われる信賞必罰を説いた法家。
いずれも数値科学や実定法学等、現代社会を支配征服している
学術体系を提唱した上で、道徳学である儒家に競争で破れて
廃れていった、まさに過去の遺物であるもの。
善人には好まれて悪人には嫌われる、
人間的な好悪の念を超越した普遍的な中庸を説いた
全学問中の主人公・儒学の前では、科学や法学ですらもが
大した価値を持ちえず、早々に撤退せざるを得なくなったのだった。
人間的というか、人間性を逸脱した過剰な好悪にこそ墨家や法家は囚われていた。
善でも悪でもみそくそに溺愛する墨家の白痴、何もかもを嫌悪する法家の悪霊。
西洋などだと、それらが人間の好悪の全てとされ、善を愛し悪を憎む分別をわきまえた
好悪などのほうがむしろ知られていないわけだが、東洋では却ってそのような、分別の
ある好悪のほうが主体にあたり、分別のない溺愛や嫌悪のほうが少数派となっている。
科学や法学こそは人間の好悪を超えたものだと、今の人間は考えている場合が多いが、
溺愛志向の墨テキがユークリッドよりも先に数値科学を提唱したり、嫌悪志向の韓非が
モンテスキューなどよりも遥か以前に「法の精神」をあられもない形で露呈していたり
するのを鑑みるあたり、科学や法学もまた、決して人間の好悪から離れて考えられる
ものではなく、むしろ分別を備えた好悪に止まる儒家以上にも、分別を逸脱した好悪の
激情に囚われることでこそ生み出されてきたことが分かる。科学や法学自体は無機質で
あろうとも、それを作ったり発見したりしてきた人間自身は、非道い情念に囚われている。
オリンピックを見ていて思うんです
努力家・秀才の演技というのは見ていて苦しくなるが
天才の演技というのはどうしてあれほど楽しいのだろうか
確かに、楚漢戦争における劉邦方の臣下の中でも、
天才的な知謀で漢を帝位に押し上げる、韓信や張良の活躍は見るからに面白いものの、
焚書坑儒を逃れるためにアル中の狂人を装っていたレキ食其や、故郷に使いに行ったきり
馴染んでしまって帰って来なくなる陸賈などの、儒者陣営の有り様は見るからに地味だ。
有事にはやはり、神算鬼謀を尽くす兵家のほうが見るに面白く、
堅実さに徹する儒家のほうが地味なものとなってしまう。
ただ、それはあくまで君主の言うことを聞く臣下、兵士であるからこその話。
頂点の王様からして項羽のような武威に猛る暴君であり、そのせいで有能な臣下を失っていくよりは、
自分で率先して指揮を取り始めた途端に敗走してしまう、劉邦のような人望家であったほうがいい。
見た感じの面白さは下々に任せて、お上は堅実さに徹するのが一番。
若者にはやりたいようにやらせて、年寄りはそのフォローを考えてやるのが最善。
上下共々身分をわきまえる、越権の恐れのない安定した世の中に、活躍すべきものの活躍もある。
708 :
考える名無しさん:2010/02/20(土) 16:24:51 P
>自分がそうなら相手もきっとそうだ、いや必ずそうに違いないという
>ルサンチマン旺盛な輩には、そう思われるのかもな。
井上自身が一番当てはまる件について。
>逐一作品に署名したり、発見した法則に自らの名前を冠したり(例:ゼノンのパラドックス)といった
>自意識過剰こそは知見の共有を妨げるし、その程度の行状の人間の作品や発見の価値などもたかが知れてる。
少しでもアカデミックな雰囲気に触れたことがある人間だと、逆立ちしてもこんなこと(発見した事柄に自分の名前をつける)は考えも及ばない。
それこそ、学卒の卒業研究レベルでも。
では、どんな人間がそんなことを思うだろうか。
・自分の功績を認めて欲しくてたまらない
・他人が認めてくれる功績を残すなど思いも寄らない
・自分より優れた功績を認めることができない
・日頃から自分の凄さを自分で喧伝している
ような人間だ。井上以上に当てはまる人間はいない。
井上は、自分を認めて欲しくてたまらない。
しかし、認めてもらえるようなことは何もできない。
だから、自分で自分の凄さを喧伝するしかない。
また、それ以外の方法(自分で喧伝せずに認めてもらう方法)の存在など思いもよらない。
だから、人の名前のついた事柄は自分で名づけたとしか考えられない。
書いていてだんだん哀れになってきた。
自分で名前を付ける/付けないなんてのは枝葉末節のそぞろごとだ。
学術的発明や発見や論述であるはずのものに、人間如きの署名を冠しようなんてのが
全般的に、史跡に落書きして停学処分を受ける修学旅行生並みの所業で、幼稚にも程がある。
ただ署名にこだわる輩が幼稚なだけでなく、そんな連中が
発明したり発見したり論述したりしている物自体からして、やっぱり大したことがない。
自らの記名などにこだわらず、最大最強最高の発明や発見や論述を試みる聖賢の
それと比べれば、発明物や発見物や論文自体からして大した価値を持っていない。
仮に表向き凄いように見えたとしても、核物理学が原子力発電と同時に核爆弾を
もたらしたように、人間にとって利害両方をもたらす諸刃の剣である場合がほぼ全てで、
しかも利よりも害の分量のほうが概ね多い。利よりも害の多いマッチポンプ構造の
発明や発見や論述を、利の部分だけを見て丁重がり、結果的には全世界に対して今まで
以上の害悪をもたらして、それを解消するためにさらなるマッチポンプ構造の開発に惑溺する、
喉の渇きを潤すために海水を呑むが如き愚行を続けてきたのが、署名第一な洋学界の全構造。
710 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 22:03:50 O
711 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 22:16:54 O
712 :
考える名無しさん:2010/02/21(日) 22:19:02 O
713 :
考える名無しさん:2010/02/22(月) 00:51:23 0
あーあ
晒されちゃったな。
ただ口先で述べるだけでなく、
手取り足取りでないと相手が理解できない要素があまりにも多い。
未だその部分の適切な教示が為されないのは、
果たして誰の責任やら。
715 :
考える名無しさん: