1 :
考える名無しさん :
2006/08/07(月) 21:47:29
2 :
考える名無しさん :2006/08/07(月) 21:48:21
最近の邦訳 『アデューAdieuー―エマニュエル・レヴィナスへ』藤本一勇訳、岩波書店 『デリダとの対話―脱構築入門』高橋透ほか訳、法政大学出版局 (ジョン・カプートとの対談) 『パピエ・マシンPapier machine』(上下巻)中山元訳、ちくま学芸文庫 『生きることを学ぶ、終にApprendre à vivre enfin』鵜飼哲訳、みすず書房 『声と現象』林好雄訳、ちくま学芸文庫 『テレビのエコーグラフィー―デリダ〈哲学〉を語る』原宏之訳、NTT出版(スティグレールとの共著) 『デリダ, 脱構築を語る−シドニー・セミナーの記録−』谷徹ほか訳、岩波書店 『名を救う 否定神学をめぐる複数の声』小林康夫ほか訳、未来社 『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(T)(U) 『エコノミメーシスEconomimesis』湯浅博雄・小森謙一郎訳、未来社 『触覚Le toucher、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』松葉ほか訳、青土社 『たわいなさの考古学 L’archéologie du frivole―コンディヤックを読む―』飯野和夫訳、人文書院
3 :
考える名無しさん :2006/08/07(月) 21:49:39
『割礼告白』鵜飼哲ほか訳 みすず書房 『時間を与える──贋金』 みすず書房 『哲学の権利/法から哲学へ』みすず書房 『ならずものたち』 みすず書房 『散種』 法政大学出版局 『哲学の余白』高橋允昭ほか訳 法政大学出版局 『ヴェール』エレーヌ・シクスー共著 郷原佳以訳 岩波書店 『フッサール哲学における発生の問題』高橋哲哉ほか訳 サイエンス社 『浮薄の考古学』 白水社 『マルクスの亡霊たち』藤原書店 『条件なき大学』 月曜社 『信と知』湯浅博雄 未来社 『海域』若森栄樹訳 書津心水 『葉書』 水声社
4 :
考える名無しさん :2006/08/07(月) 21:55:13
>>4 >どうもデリダ房君はソースをデリダの著作だけに限定したいみたいですね。
呼びかけて推奨しているだけで、強制ではない。
このスレタイ自体が厨臭いので、先に立った方を
本スレにすることで問題ないだろ。
7 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 07:53:15
8 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 12:48:28
9 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 14:41:21
>>5 「強制していない。ソースをデリダの著作だけに推奨してるだけ」ですか。
詭弁ですね。2ちゃんで強制なんて成り立たないんですから。
「聖書からの引用以外のキリスト教の議論は推奨されない」はいいんですか。
出だしですでにデリダ教徒だけで楽しみましょうと宣言しているようなもの。
ついでにスレが終了する前に先手とは小ズルイですね。それほど批判が怖いの。
下種な態度が気に入らないので別スレを立てさしてもらいました。
>>9 ソースをデリダの著作だけに限定して論じろとはどこにも書いてないだろ。
ただ、デリダを論じるなら、デリダの著作を少しは読んでからにしろと言っているだけだ。
11 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 20:21:34
>>10 「神様はいない、よってキリスト教は無効」という類の論を避けようとするデリダ教徒の
あがきを批判したまで。神の存在の立証責任はキリスト教徒の方にある。デリダの意義の
立証責任はデリダ教徒にある。「聖書・デリダを読めば判る」なんて論は単なる逃げ。
デリダがすごいならそのすごさをレスで説明してみたら。
12 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 21:24:21
デリダが神だなんて誰も言ってない。 ここはデリダのスレッドなんだから、デリダを批判したければ、少しはデリダを読んで来いよ。 でなきゃ只の荒らしだろ。
13 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 22:37:14
論のアナロジー・類比を理解できんとは。 神の不在という批判を展開するのに聖書を読む必要性はない。 神の存在の立証責任はキリスト教徒にある。 「聖書に神は存在すると書いてある」は無意味。 デリダに意義があるかという問題において、 デリダの意義を提示する義務は君達の方にある。 出てこない場合は意義なしと結論される。 「デリダ(聖書)を読めば判る」なんて無意味。
14 :
考える名無しさん :2006/08/08(火) 23:08:27
デリダを読めばその意義が分かるなんて言ってない。 批判したければ、デリダの著作に即して批判しろと言っているだけ。 おかしな言い掛かりをつけるな。
15 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:07:40
キリスト教を批判したければ聖書に則して批判しろと言ってるのと一緒www
16 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:13:28
キリスト教と聖書の関係と、デリダとデリダの著作の関係とは違うだろ。 そもそもアナロジーが間違っている。 お前はデリダの著作を読んだ途端、デリダの信者になるとでも思っているのか? 哲学のテキストを批判的に読むということもできないのか?
デリダの著作の内容ではなく何をもって「デリダ」と言っているんだ? デリダの風貌を批判したいのか?デリダの人生を批判したいのか? 批判の対象が空虚だろう。
18 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:28:09
デリダってアメリカの新批評(New Criticism)の手法だけ盗んで手法の目的 そのものは逆転させて、堕落させただけのような気がするけどな。
19 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:31:39
デリダの土俵に上がって相撲を取るよりも土俵そのものを覆すほうが批判として有効だろうが。 それが怖いから「デリダの著作に即して批判しろ」なんて無駄な主張をしている。
20 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:33:03
>>19 >デリダの土俵に上がって相撲を取るよりも土俵そのものを覆す
だからこのスレを荒らしているのか、お前は。
よほど文学好きでなきゃ、パイドロスを読んで エクリチュールを主題化するなんて思いつかないはず。
>>20 かまうなかまうな。
>>19 デリダの著作ではなく何を批判しているんだ。
お前にとって批判対象は任意でいいんだから、自分の親父でも批判してろ。
23 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 09:24:45
>>18 新批評(ニュークリティシズム)か。半世紀前のもんだな。
「テクスト外を排斥してテクスト自体の読みにだけ専念する」
だからデリダの先駆であることは間違いない。
24 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 10:52:09
>>18 逆でしょ。後続のアメリカの文学研究家が、デリダの手法
(だけでなくフランスの現代思想)を使って、新批評を
葬り去り(イェール学派など)、デリダはアメリカで有名
になった。
25 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 11:22:25
>>22 デリダは空論。脱構築の定義さえも存在しない。定義があると主張するので
したらそれを掲示してください。それとも「デリダの著作のどこかに書いてある。
俺はどこに書いてあるか知ってるが教えてやらない。デリダを読め」と逃げるつもり。
26 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 11:40:50
27 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 11:56:58
>>25 「正義」「肯定」の定義を言ってみろ。
そうしたら提示してやるよ。
約束する。
29 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 12:44:19
>>26 それはデリダがドイツ語のDestruktionの適訳を選んだ過程の説明。
「デリダの脱構築はハイデッガーの解体と一緒」でいいの。
ついでにこの場合、「脱構築の定義は何」が「解体の定義は何」に
転化されるだけ。
30 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 12:58:43
>>28 宇宙の起源を証明してみろ。
そうしたら神の存在を証明してやるよ。
約束する。
正義論・肯定論などの哲学は存在しない。仮に存在すると仮定して、
正義・肯定の定義ができない場合はその論は空論となるだけ。
脱構築の定義など存在しない、空論である、ということを暗に認める発言。
ついでに「肯定」は論理学において提示された命題を真であるとすることですね。
正義の定義は確立していません。道徳論において「正議論」などが幅を利かせていない
理由の一つですね。
31 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 13:12:32
そろそろ喧嘩やめな
32 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 13:22:25
33 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 13:23:44
>>29 解体君を黄泉の国から復活させるおまじない。
>>30 なんで「定義」が「起源の証明」にすりかわってるの?
脱構築:
言説の無根拠な前提(しかしながらあらゆる言説は無根拠の前提から始めるほかないが)
を暴き出し、その言説の閉じた論理のシステムから排除された他なるものを言説自体をずらす
ことで救いだす作用、操作である。
だから「正義」でもあるしラディカルな「肯定」でもある。
35 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:29:31
だから「正義」でもあるしラディカルな「暴力」でもある。
36 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:33:03
「言説の閉じた論理のシステム」なんって脱構築者の妄想の産物。 「言説の閉じた論理のシステム」があたかもあるように隠蔽し、 「正義」の名のものと解体する近代的な理性主体の暴力思想。
37 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 14:33:47
38 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 14:43:55
39 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 14:53:39
>>37 John Rawlsの論じているのは公平としての正義(Justice as Fairness )
さらにこれはあくまでも枠組みの展開のための仮定。正義を公平性であると
捉えた場合においてどのような社会が正義かと論じている。Justiceの定義を
仮定するのとJusticeの定義を決定するのは別。
それぞれコテか番号をつけてやってもらえんかね。 誰が誰がわかりにくいのだが。
41 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 15:01:36
>>39 正義論と無知のベールを混同してますね。誤読です。
42 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 15:32:18
<デリダスレ内紛構図> 解体くん・・・デリダ原理主義批判者→はい、「デリダ」スレッド その3 デリダ房君・・・デリダ萌え原理主義者→一者1スレを無視してスレ乱立中 ■ ミシェル・フーコー Michel Foucault 2 ■ ■ ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 3 ■ ■ ジャック・デリダ Jacques Derrida 4 ■
43 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 15:45:56
今時デリダかよ恥ずかしすぎるwww
44 :
285 :2006/08/09(水) 16:11:08
>>41 混同はそっち。
彼の正義論の部品としてJusticeAsFairnessとVeilOfIgnoranceがある。
45 :
解体丸 :2006/08/09(水) 16:15:46
Destruktion=解体=Deconstruction Abbau=ばらす 和解案 Deconstruction=解築 釣られたいなら相手になるよ。
>>36 ぴかぁ〜ともあろう人が、がっかりだ。
脱構築は暴力さ。それはそうさ。でも近代理性の暴力と混同しちゃだめだよ。
近代理性の暴力は暴力を隠蔽する暴力だろ。
47 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 17:23:39
>近代理性の暴力は暴力を隠蔽する暴力だろ。 ん?これはフーコー的規律訓練権力?
48 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 21:10:50
>>34 いまだにデリダからの引用出せないね。
ついでに
>だから「正義」でもあるしラディカルな「肯定」でもある。
そんじゃあ、ド・マンはなぜ親ナチ・反ユダヤ人の過去を隠したの。
ハイデッガーのナチっぷりはどう説明するの。
なんでデリダは二人を擁護したの。
単に「卑怯」でもあるし臆病な「偽善」でもあるんじゃない。
49 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 00:26:41
>>29 >「デリダの脱構築はハイデッガーの解体と一緒」でいいの。
よくないよ。全部読んだ上で言ってる?
ハイデガーと一緒なんてデリダは言ってないよ。
50 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 01:03:38
2ちゃんねるで意見言うのに全部読まなきゃならんのかね?w
>>48 デリダがハイデガー、ド・マンを擁護したというソースを希望。
どのように擁護したのか。デリダの著作か発言から引用して示して下さい。
ちなみに。
思想と生き方とに必然的な関係があるのか?
52 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 09:16:18
>>50 論で勝てないから「お前XX読め」で逃げてるんだよ。
53 :
52 :2006/08/10(木) 09:18:39
ついでに
>>34 いまだに自分の出した脱構築の定義のソース出せないね。
ついでに51と34は多分一緒。
54 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 10:07:01
>>26 デリダ本人がDeconstructionの定義を否定してる。
>>48 >ド・マンはなぜ親ナチ・反ユダヤ人の過去を隠した
別に隠したという事実はないって。死後にジャーナリスティックに騒がれただけで。
>ハイデッガーのナチっぷりはどう説明するの。
それは批判されてるだろ。ただハイデガーとハイデガーの哲学とは分けて考えろよ。
>なんでデリダは二人を擁護したの。
別に擁護していない。批判すべきところは批判し、
彼らの著作の評価すべきところは評価すべきだと言っただけ。
デリダはむしろナチ関与をスキャンダルにして騒いだ軽薄な
連中を批判したから、そいつらにそう誤解されている。
お前を含めてな。
56 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 16:04:41
>>53 ヘーゲルの弁証法って知っていますか?いわゆる正反合っていうやつです。
それはデリダの脱構築と違ってまともな概念だと思う?
57 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 16:11:46
>>55 面白い見方ですね。ド・マンは彼のナチ協力者としての過去を隠したのか、
さらにデリダがド・マンのナチ協力者としての過去を擁護したのかという
問題。これとは別に思想家と思想は分けて考えるべきだという主張の有効性。
58 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 16:22:40
ソース主義というのはあくまで事実確認を可能にするものとして存在すると 思います。学術誌でも脚注に引用先を記述するのが普通で全文を丸写しする なんて事はありません。議論において「デリダを読め」などの論旨は2ちゃ んであろうとなかろうと意味のある反論ではないと思います。自ら論・要旨 を述べてその引用先を示すのが筋だと思います。
「読め」というか「勉強しろ」なんだけどな 哲学だってさー、他の学問と同じように勉強が大変なんだよね 論理学の問題集をシコシコ解いたり、日常的には使えない語学を学んだり 哲学史を暗記したり、ゼミで理論的な問題について考えたりさ 哲学を語るということにもそうした下積みがちゃんとあるんだよね ソースうんぬんはいいけど、最低限の知的なバックボーンがないのにさ デリダがいい加減だのどうだの言うのは、ちょっと馬鹿げてると思うのさ 「読む」ってのは、そのなんだ、哲学を語るにあたっての最低限の手続きの一つであってさ それなしには真っ当なものとは見なされない所作なんだよね ま、ソース君にはどうでもいいことかもしんないけど
脱構築の定義のソースを示せっていうのは、三段論法の定義のソースを示せ、って言うようなものだよね。 脱構築っていうのは書き方・読み方なんだから。 どこどこにこう書いてあります、ってものじゃない。 デリダは書くこと(=読ませること)で脱構築のやり方を示しているんだから。
だからこう言えばいい。 脱構築はデリダの著作のいたるところにある。 なんでもいいから読んでみればいい。 どれがお勧めかは、親切な諸兄方が教えてあげればいい。
63 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 18:01:58
「ド・マンはナチ協力者としての過去を隠したのか」 ポウル・ド・マンは社会党の党首でありベルギーの副首相であったアンリ・ド・マンの甥です。 ナチの侵攻後アンリ・ド・マンは占領者と協力するよう呼びかける公的声明を出しナチ下の政府 において活躍。戦後はスイスに逃亡。解放後のベルギー政府に反逆者と宣言されスイスで没します。 若いポウル・ド・マンが有力紙であったLe Soirに就職できたのも叔父の影響、あるいはコネで あったと考えられています。ポウル・ド・マンが書いた文芸批評の抜粋です。原文は英訳です。 「ここにおいて現代イタリア詩の概略、さらにファシズムの環境においていかに美しく独創的な詩が 花咲くことができるかをを見ることができる。.........ファシスト政権は人民の教育者として重要 な市民そして戦士としての魂に反するような領域のものでも、あらゆる源泉から詩人がインスパレー ションを求めることの完全な自由を与えている。」 「ユダヤ人の理知性、教義を吸収する一方でその教義から冷酷に距離を保つ才能は執筆において要求 させる明確な分析において非常に稀有な特質である。しかし、にもかかわらずユダヤ人作家は常に二 流であり、....重要な集団、特に文学のジャンルにおいて決定的な影響をもった集団ではない。さら にこれは西洋の知識人にとって慰めになることである。つまり文化の代表とも言える文学の分野において、 ユダヤ的影響から彼ら自身を守ることができたのは彼らの活力を証明するものである。もしわれわれが 外部の集団から抵抗も無しに侵略されることを許すのであればわれわれの文明の未来に希望は存在しない。 ヨーロッパの生活のあらゆる側面におけるユダヤ的介入にも関わらず、その独創性と特徴を維持できたこと により、われわれの文明はその基礎的特質が健全であるとこと示したのである。よってヨーロッパから隔離 されたユダヤ人植民地の創設につながるユダヤ人問題の解決は西洋の文学的活動において後悔される結果を もたらさないということが理解できる。全体として取るに足らない幾人かの文人が失われるだけで、以前と 同じように進化の高位の法則に基づいて発展しつづけるであろう。」
64 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 18:17:42
>>61 >脱構築の定義のソースを示せっていうのは、三段論法の定義のソースを示せ、って言うようなものだよね。
詭弁。例えばアリストテレスの三段論法の定義はちゃんとアリストテレスの
著作に存在する。彼によれば「いくつかの仮定が存在する場合において、な
にか別のことが必然として帰着する論」であると明記している。もちろんも
っと具体例に基づく詳しい説明も存在する。脱構築はデリダの創造であるの
だからデリダ本人がその定義を掲示していないのは非常に問題である。また
脱構築が何であるかも決まっていないのにそれに基づいて論を展開すれば
空論でと批判されるのは当然。
65 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 18:27:01
>>64 デリダは問題と「格闘」してないんだよ。
ちゃんと突き詰めて、もうこれ以上厳しいからと「沈黙」するところまでは
考えないんだよね。
だからデリダに対する批判はご存知のように絶えないんだ。
割り込んで失礼。 これだけで退出します・・・。
66 :
63 :2006/08/10(木) 18:54:23
>>63 ベルギーで組織的なユダヤ人弾圧が始まるのは1940年の終わりごろ。ヒットラーがドイツ国会議事堂で
この戦争によって「ヨーロッパのユダヤ人種が殲滅」されると宣言したのが1941年一月30日。ベルギー
で政府がユダヤ人の出国の許可を停止したのが1941年二月。ド・マンの「現代文学におけるユダヤ人」が
載ったのは1941年3月4日。1941年八月にベルギーのユダヤ人が最初にアウシュビッツに送られる。同じ月
の二十日にド・マンはHet Vlaamsche Landに載せた記事で現代文学の常軌を逸脱するような傾向の責任は
ユダヤ人にあると宣言。終戦までに二万五千人のベルギーユダヤ人が強制収容所で死亡。ド・マンがガス室
の存在を知っていたと論じるわけではないが、ユダヤ人の出国許可が停止され逆にユダヤ人が南方に強制
送還されているのは誰の目にも明らかな事実。さらに戦後にド・マンが謝罪を行ったという事実はない。
悪名高い叔父を持つことを考えると文人・学者としての道がベルギーで閉ざされていたのは明らか。しかし
ベルギーには他にもナチ協力者はたくさんいたので別の道を選ぶことはできたはず。しかし連合国側である
アメリカでこのような過去を持つ者を大学を含めた公機関が雇うなど考えられない。ド・マンはアメリカに
渡り、過去には一切触れずにイエール大の教授になり没したわけだが、これを「別に隠したという事実はないって。
死後にジャーナリスティックに騒がれただけで」 ですますことができるのだろうか。
>>64 Deconstrutionのね、「定義」が慎重に避けられるのはね
「定義」というものには、体系への帰属という問題、現前しないものの隠蔽という問題
そして哲学の再自己固有化という問題が含まれているからなんだよ
>>65 そうだね、プロテインだね
68 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 19:02:26
>Deconstrutionのね、「定義」が慎重に避けられるのはね 慎重=強迫性神経症だね。
今、手元に『尖筆とエクリチュール』があります(正確には引越し間もないのでダンボール箱の中ですが)。
一度通読したんですが何が書いてあるのかサッパリわからず読みとおすのがやっとでした。
盆休みに再読してみようかと思いますのでいくつか教えていただければありがたいです。
>>62 この本でも脱構築の手法が使われてますか?
というかそもそもこの本はお勧めですか?
>>65 この本は具体的にどのような哲学的問題を扱ってるのでしょうか?
70 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 20:14:47
>>69 二つ目の問いに関しては、それなりに明確に答えられる
デリダ自身が当の著作の冒頭で「女性」と答えていたはず
ニーチェとハイデガー、時に精神分析学を経由して
デリダの関心事―エクリチュールと関わることの問題―へと繋がっていく
72 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 20:53:12
>>67 デリダは定義を避けていると言っていない。Deconstructionは分析でも批評でもない。また手法の
ようなものではなく「事象(Event)」であると述べている。事象であるならDeconstructionが生じ
る時に何が起こっているかという問題が存在し、この問題に対して「簡易で正式な回答」を持って
おらずこれまでの全ての著作はこの多大な問題を答えようとする試みであると述べている。定義し
ようと試みてはいるが成功していないだけ。避けているのではない。
http://www.hydra.umn.edu/derrida/letter.html 如何に整然とした論を持つ文であろうとも突き詰めていけば究極には矛盾が存在し、それによって
文全体がDeconstructする。この解体・解築・崩壊をいかに理解すべきであるかがデリダの取り組ん
だ問題の本質。自分個人として「意味の意味とは何ぞや」などの考察は不毛でありデリダは幻と格闘
するドンキホーテであるという見解であるが、どちらにしてもデリダ房はデリダ房であるがゆえにデ
リダの取り組んだ問題の本質を理解していない。
73 :
解体丸 :2006/08/10(木) 21:06:43
修正案 Destruktion=崩壊 Abbau=ばらす Deconstruction=解体
74 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 21:22:23
>>67 (笑)それじゃスローガンみたいなもんじゃんか。
デリダは一応学者だろ?
せめて自分が言い始めた言葉くらいは定義すべきだな。
75 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 21:30:29
>>67 言葉の意味、定義をはっきりさせられないというのは曖昧ということだよ。
なにも言ってないに等しいことになるな、デリダは。
77 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 21:53:30
>>76 ついにヤケクソかい(笑)
なんか見苦しいぞ、そいう悪態は。
幼稚園児じゃないんだからさ・・・。
78 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 21:54:03
なにもないよ
>>64 >脱構築はデリダの創造であるのだからデリダ本人がその定義を掲示していないのは非常に問題である。
ヘーゲルの弁証法は?本人は定義していないぞ。
81 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 22:33:26
自著のなかで他人の用語の訳語としてやむをえず選んだ単語が、 自分の思想の「固有名」のようにして二十世紀思想史に特筆大書 されるにいたったときの一人の著作家のとまどい!
特筆大著されると思ったのにそうならなかった戸惑い!
83 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 22:54:05
>>80 ヘーゲルの弁証法という記述自体が誤り。俗に言われるヘーゲルの弁証法とは
フィヒテとシュリングがカントに基づいて勝手に述べたもの。ヘーゲルの著作
に定義が載っていないのは当然。
84 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 00:02:32
>>51 >>55 >別に擁護していない。批判すべきところは批判し、彼らの著作の評価すべきところは評価すべきだと言っただけ。
デリダのド・マン擁護
(1)ド・マンはナチの虐殺の全責任者ではない。ド・マンをヨーゼフ・メンゲレと比較するなどの行
為は行き過ぎである。(pg821, Biodegradables: Seven Diary Fragments, 15 Critical Inquiry
812 (1989))
(2)渡米後のド・マンの批評論(作品の批評において作者は無関係。歴史的背景も意味をなさない)を
隠れ免罪論であると論じるのは公平ではない。(pg640-51 Like the Sound of the Sea Deep Within
a Shell: Paul de Man's War, 14 Critical Inquiry 590,1988 )
(3)若いころのド・マンがナチ擁護、反ユダヤの記事を書いたのは事実であるが彼の全人生をこの若
きころの一エピソードで断じるのは公平ではない。(pg650-651 Paul de Man's War)
(4)ド・マンの「現代文学におけるユダヤ人」はその背景を適切に理解した上で読めば両義に取ること
ができる。ド・マンの記事は低俗・俗悪な反ユダヤ主義から距離を保っているものであり、このこ
とを考慮すると彼の記事はそのような俗悪な反ユダヤ主義に対する非難であると読むこともできる。
(pg625-26,Paul de Man's War)
(1)納得。(2)ド・マンにとって都合のよい主張であったのは確か。(3)若きころの過ちとはいえ
未成年の過ちではない。さらに一度も謝罪を行わず自らの経歴を隠してアメリカの大学に就職。その経歴全
部が偽りであったと非難されて当然。(4)次は「我が闘争」を脱構築してください。
85 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 00:10:11
脱構築はハイデガーの解体を引き継いだものであるというのは 『グラマトロジーについて』p.51にある。 脱構築はデリダの思想の固有名では決してない。が、 どうしてもデリダ自身による定義が知りたいというのなら、本を手に入れて この前後を詳しく読んでみればいい。 われわれがここで・・・言語学においてまたそれによって行われて得るような或る作業 について語っていること(いわゆる「脱構築」の作業)は、けっきょくのところ、言語学が存在論という、 またとりわけ存在という基礎的語概念を解体(これがDestruktionでありdeconstruction) するに至るであろうかぎりにおいてしか・・・言い得ない。 ・・・そうすると、『存在と時間』によって開始された問いの秩序に従って、 またフッサール現象学の諸々の問いを徹底化しつつ、おそらく次のように言ってもよいだろう。 すなわち、この突破口(言語学)は学それ自体には所属してはおらず、 そのように存在的領域や領域的存在論の中で生まれるかのように見えるものは、 権利上そういったものには所属しておらず、すでに存在のといそのものと再び 結びつくのだ、と。
86 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 00:10:35
二つのデリダスレで競争になってるwww
87 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 00:24:44
>>84 それは誰の文章なのですか?
どうやって調べたのですか?
ついでに、あなたはどういうかたなのですか?
2ちゃんねるはすごいですね。あなたみたいな方もいる。
88 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 00:44:04
89 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 12:12:35
>>32 順序が逆。
デリダがアメリカで広く知られるようになったのは、新歴史主義批評が出てくる前。
新批評(戦前〜戦中)
↓
脱構築批評(イェール学派 70s)
↓
新歴史主義批評(80s以降)
ちなみにデリダはフランス構造主義とヌーヴェル・クリティックの
批判者として出てきた。
ニュークリティシズムの方法論自体は、構造主義以前の原始的
なものでデリダがその手法を盗むなんてありえない。
>>18
90 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 12:43:16
>>89 ほんまに必死やね・・・。
>>32 までさかのぼるんかいな。
いくらなんでも「デリダがその手法を盗むなんてありえない」とは断言できへんやろ。
極論もいいとこやんか、大変な粘着気質やでおまえ。
話しはなあ、冷静に自分を見つめながらするもんやで。
91 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 12:52:06
>>89 1ページの詩に対して20ページの論文を書くのが新批評。
一節の詩に対して80ページの論文を書くのがデリダ。
そういう意味では新批評のほうがデリダより原始的。
背景資料を無視するところは一緒。
92 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 12:53:39
93 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 13:05:13
>>90 そんなに粘着に見える? ちょっと亀レスしただけなんだが。
「断言」ではなく、普通に推論できることだよ。
ニュークリティシズムの手法をデリダが盗んでいたとするなら、
デリダの影響を受けた脱構築批評が、新批評の手法への批判
として出てきたことは成り立たなくなるでしょ。
>>91 そういう意味で両者に共通点がある、ということなら了解。
ただその種の精読主義は、国語の先生でも言ってることで、、、
94 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 13:09:23
>>91 もうかんにんしたったら。
>>89 は青息吐息の瀕死状態やんか。
当のデリダ自身が断言はしいひん人間の代表格ちゃうの?
それを断言しちゃってるわけやし、もう誰が見ても終わりやで。
信者にまでな、落ちてしまってるという事やろ。
95 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 13:18:33
>>93 世の中はなあ、いろんなことが起きるねんて。
本人も知らないうちに批判対象に同化しているっちゅうことはなあ、
しばしばあるねんて。
硬直した思考はな、あかんゆうことや。
「ありえない」ゆうのは断言やんか、それを覆そう思ってもなあ、無理やで。
もっと冷静になってな、本来の自分を取り戻した方がええで。
そしたら実りのあるスレになるやんか。
96 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 13:45:34
脱構築って何で正義なの。
99 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 15:13:46
100 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 18:37:02
デリダってハイデッガーの哲学と政治は関係ないって論じたよね。 解体・脱構築と倫理と無関係ならそれでいいけど脱構築が正義と 主張するなら無理のある論。
101 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 21:02:36
102 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 21:08:01
質問 デリダの思想って哲学にどう関係があるのですか。
103 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 21:15:05
>>100 いや、別に分かっているけどできないってことは普通にあるし。
思想と人生には必然的な関係はないよ。
104 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 21:26:01
105 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 21:27:48
>>100 脱構築が正義だとは言ったが、それが
デリダが正義だとかハイデガーが正義だとかということと同じになるのか?
どういう思考回路をしているのか・・・
106 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 22:00:33
>>105 >>34 >言説の無根拠な前提(しかしながらあらゆる言説は無根拠の前提から始めるほかないが)
>を暴き出し、その言説の閉じた論理のシステムから排除された他なるものを言説自体をずらす
>ことで救いだす作用、操作である。だから「正義」でもあるしラディカルな「肯定」でもある。
いまだにデリダの著作からソースを掲示できていないことはおいといて、もし上記の定義が正しい
としよう。この場合、論の誤りを指摘するのは「正解」にしか過ぎない。「正義」ではない。
107 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 22:03:23
>>84 長文レス乙。今時ここまで脱構築叩きに熱を上げる人も珍しい。
>(3)若きころの過ちとはいえ未成年の過ちではない。
>さらに一度も謝罪を行わず自らの経歴を隠してアメリカの大学に就職。
ド・マンは1955年の段階(当時は博士課程の学生)で、
ハーヴァード大の評議会から、対独協力の嫌疑について釈明を求められ、
公式に応答したことがあったので、自らの過去を隠したわけではない。
つまり関係者の間では、この問題はド・マンの生前から知られていた。
よって「経歴隠し」の非難はあたらない。
興味のある方は、M.マックィラン「ポール・ド・マンの思想」新曜社
p201-202辺りを参照。ちなみにこの本は、ド・マンの思想全体を
バランスよく纏めていて、良書。
108 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 22:21:46
現代の法哲学者たちはデリダかポパーばっかり読んでる
109 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 01:15:09
>>107 イェール大にはド・マンと同じ経歴を持つ教員がいました。名前はVladimir Sokolov。ロシア生まれでイエ
ール大で二十年間も教鞭をとっており、反共の立場でも有名でソビエトのユダヤ人のイスラエル移民を支持
する声明にも署名しています。1972年これに反発したKGBがナチスドイツ占領下のロシアでまだ二十代の彼が
ナチ協力者として新聞に記事を寄稿していた事を暴露。彼はナチスがロシアから撤退すると共に敗戦間近の
ドイツで新聞記者として就職。敗戦後アメリカに移住。この事実にイエール大は騒然。幾人もの職員がソコ
ロフの解職を要求。最終的に教授陣にソコロフは辞任を迫られます。その後レーガン政権によりアメリカの
市民権を剥奪されカナダで没する。同じ大学の教員であり殆ど同じ経歴を経ているド・マンはさぞびくびく
していたことでしょう。
ド・マンはハーバード大では新聞社を退職したあと一時期ナチ抵抗運動に参加したと主張している。ド・マ
ンの主張以外にこれを確認する資料はない。イエール大の就職において元ナチ協力者として働いた経歴を履
歴書に記述したわけでもない。就職後に親しい同僚には事実を明かしていたようだが、「ド・マンの同僚で
あったイエールフランス語教授のピーター・ブルーク氏によると........最低でも一人の教授はド・マンの
過去を知っていたがこのことには一切触れる事がなっかたという。別の教授によると幾人かの教授は事実を
知っていたがド・マンが看板教授であるがゆえに沈黙していたという。ド・マンがいかなる過程でイエール
大に就職することになったかの問題の議論は(学部では)避けられている」。イエール学派がド・マンとグ
ルで「経歴隠し」に加担していただけ。ド・マンとイエール学派そのものが偽善と非難されて当然。
http://www.opinionjournal.com/diary/?id=110008115
110 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 01:18:47
>>108 立法者意思の謎が解けると勘違いしてるんじゃない。
111 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 01:31:35
ポール・ド・マンねえ・・・。
どおくまん の方が面白いけどな。
113 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 01:58:43
法学って神学と似てて、なんで法を守んなきゃいけないのかなんて結局理由がないのよw
人種差別に関して殊更なにも考えていない人間が 今さらのようにド・マンや他のNazi協力者、その業績を叩いても滑稽なだけ 過去にナチ・シンパの記事を書いたド・マンを擁する「イエール学派そのもの」が 偽善的だ、信用ならないというレッテル張りはNaziよりもNazi的 ユダヤ人だから悪い論法の代りにイエール学派だから信用ならない論法を使用し すべての災厄をユダヤ人になすりつける代りにイエール学派になすりつける 大戦後のエジプトでユダヤ人排斥の片棒をまっさきに担いだ 「もろもろのイズムをめちゃくちゃに混同していた連中」とそっくりだ
115 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 02:44:59
なんでデリダスレが二つも同時進行してるんだ? しかも、もう一つは3がないんだけど??
116 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 04:33:26
>>115 アンチデリダ論に先手を打つ目的で算数のできないデリダ房が
「○○も読んでないくせに」という要旨でデリダ4を立てた。
117 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 07:21:44
>>114 ナチ擁護の非難はナチであるとはナチな論ですね。
118 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 09:19:15
>>106 法は・・・本質的に脱構築可能である。・・・法としての正義のこのような脱構築可能な構造こそが、
同時に脱構築の可能性を保証しているのだ。もしも正義それ自体というようなものが、法の外
あるいは法のかなたに存在するとしたら、それを脱構築することはできない。同様にまた、
もしも脱構築それ自体というようなものが存在するとしたら、それを脱構築することはできない。
脱構築は正義なのである。
『法と力』
私がいい加減な自作の文章をデリダの文章として書いたのではないという保証はない。
示しようがない。引用の正しさを確かめる唯一の方法は、お互いがその著作にあたることだけ。
だからあなたは『法の力』を読んで確かめること。ページ数は書かない。
読んだ証拠としてあなたが記してください。
119 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 10:08:39
>>116 それじゃあ、重複スレ削除依頼をした方がいいんじゃないかな?
>>119 【5:222】な ん で も 哲 学 input に統合すればよしw
>>109 >イエール学派がド・マンとグルで「経歴隠し」に加担していただけ。
検索&翻訳乙。全く粘着だね。翻訳するのはいいが、
何故以下の文を都合よく訳し忘れたんだ?
(his collaborationist past was known to his former colleagues at Harvard)
>>107 でも記したが、ド・マンの過去はイェール大でもハーヴァード大でも知られていた。
だいたい順序が変。イェール学派が形成されたのはド・マンがイェール大に就職した後。
経歴隠しなどできない。つまりイェール大はド・マンの経歴を知った上で雇用した。
よって「イェール学派とグルで経歴隠し」と言うことは出来ない。下らないのでsage
122 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 14:38:11
「実際僕はいまでも、断言を回避するため条件法を頻発し、関係詞節の連なりにより あらゆる図式を曖昧にしてしまうデリダのフランス語を読んでいると、時折苛立ちで 頭が痛くなる。」『郵便的不安たち』東浩紀、P272
123 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 16:08:55
>>119 誰かがデリダ4の削除依頼を出したと言っていた。
124 :
考える名無しさん :2006/08/12(土) 19:52:46
条件法のところはデリダの意見ではないということでもあり、 かえってわかりやすくなるところでもあるのだが。 日本語では条件法のニュアンスが出ないためわかりにくい。
125 :
考える名無しさん :2006/08/13(日) 11:41:38
お盆のせいかソース坊が撃沈されたせいか、勢いがなくなった。
126 :
考える名無しさん :2006/08/13(日) 15:04:14
>>121 イエール大はデリダと同じ経歴をもつロシア人の教官を辞職させた経緯がある。
デリダの経歴は一部の同僚に「秘密」として知られていたと書いてある。
さらに学部(イエール学派)の看板教授(Star)であったので、表に出さなかったとある。
127 :
考える名無しさん :2006/08/13(日) 16:21:23
これは酷いww どうやらデリダとド・マンの区別さえつかないらしい。 翻訳ソフト頼りがバレバレです。
128 :
考える名無しさん :2006/08/13(日) 16:30:04
>>127 >>87 のデリダのド・マン擁護を踏まえた上での議論です。
ついでに翻訳ソフトが"Star member of the club"を「看板教授」なんて
訳にできるわけないだろ。
129 :
128 :2006/08/13(日) 16:31:24
それはさておき、『法の力』の翻訳は酷い。
131 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 07:07:31
>>130 学部生ならまだしも大学教授が訳してなんでそんなにヘボイの。
132 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 08:05:11
法律は変えられるが、 現行の法は守られなければならない この原則はたんに命令的なものではなく、先験的である。 さもなければ、我々が共に拠っている社会的な基盤が脆弱で不安定な状態になってしまうことは必然の帰趨であるから。
133 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 16:35:06
>>132 無視されている法律も多いぞ。
ついでに先験的であるのは必然の帰趨なんてどうして言い切れるの。
134 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 18:11:56
135 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 21:19:20
院生の勉強にもなるし銭も稼げることを考えれば美味しい副業ですね。
136 :
考える名無しさん :2006/08/14(月) 22:21:20
デリダの文章はよく読めば明快。 条件法の頻発で読めなくなる、なんてことはない。 フランス語の勉強が足りないだけ。
138 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 14:16:41
139 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 16:27:39
厳密に読んでみると何の意味も成さなかったり、非常に単純なことは無理に 難しく書いてるのがデリダの文章。翻訳が大変なのは当然。
140 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 16:35:03
良心的な学者・研究者・翻訳者なら訳さないよね。
141 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 17:45:07
理解できない馬鹿ほど人のせいにするんだよな。
142 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 17:53:53
デリダ本人が自分の言ってること理解できてないようですが。
143 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 18:49:14
チョムスキーもデリダはチンプンカンだと言っていた。
144 :
考える名無しさん :2006/08/15(火) 22:59:46
>>143 そりゃあチョムスキーにはわからんでしょう。
主張できない立場から主張する文学を哲学してみろだぜ?
146 :
考える名無しさん :2006/08/16(水) 00:23:55
>>144 他の教授に聞いても説明できるもんは居らんかったとさ。
読んでも分からないなら黙ってればいいのに。
148 :
考える名無しさん :2006/08/16(水) 02:22:20
解るものが存在しないって事じゃない。
149 :
考える名無しさん :2006/08/16(水) 05:59:32
底が浅いことが判ったってことです
低能なレスが続いてますね。
151 :
考える名無しさん :2006/08/16(水) 17:37:17
デリダは電波。
152 :
考える名無しさん :2006/08/16(水) 21:32:48
>>151 同じ電波の君が言うんだから間違いない。
153 :
151 :2006/08/16(水) 22:17:37
理解できない馬鹿ほど人のせいにするんだよな。
154 :
考える名無しさん :2006/08/17(木) 11:28:32
>>152 と、同じ電波の君が言うんだから間違いない。
155 :
考える名無しさん :2006/08/17(木) 11:57:14
先進国の多くの人々は、人類の科学はすばらしくまた神はやさしい方なので、次第に減ってくる化石燃料の代わりも科学が何かにかすばらしいエネルギーを開発してくれるだろうと思ってた ところが恐るべき大自然の法則は人類に原子力と自然エネルギー以外にはなにもエネルギーが用意されてないという恐るべき「事実」を用意したのである 原子力があるといっても原子力で使うエネルギーの7割も8割をも調達するわけには行かず 自然エネルギーは太陽光でも風力でも使うエネルギーの半分を取り出すには恐るべき規模の投資がいる死できたとしても時間制約がきびしい、24時間強いいつでもエネルギを得るわけではない そこで先進国はいやまだ今は時代が来てない、あまりとおくなく、いつかはすばらしいエネルギーが出てくるだろう、そして経済規模をちじめないためにはその日までは化石燃料を現在のようにに 多く使うのをやめるわけにはいかないという態度をとっている 太陽光風力を直ちに大規模にという人は少ない こういう大自然の恐るべき「法則」と人類の現状という下部構造はもはやいろんな上部構造を生んでる 世界の過激派は先進国は非常になんかおかしいという観を持ってるかもしれない また哲学好きの人たちのあいだでは未来はまだまだいろんな可能性があるというのは嘘でじつはすべて決まってるんではないかという抽象論=上部構造に走る人たちも多くでる
156 :
考える名無しさん :2006/08/17(木) 12:54:53
日本人科学者と欧米哲学者の交流は結構ありますよ。 近代の実証科学は欧米で生まれたものであり、欧米の哲学者は 科学における実証主義の重要性をキチンと理解している。 また、欧米の哲学者のなかには自然科学の素養を持つものも 少なく無く、科学者とキチンと意思疎通できる。 翻って日本の状況を見ると、このスレを読むまでもなく、 ・哲学者は自然科学に対してあまりにも無知である ・無知の結果として、哲学者は自然科学を蔑視する ・自然科学に対する乏しい知識を自由気ままに濫用しており、 科学者と意思疎通できない といった問題があります。 論理学や分析哲学をやっていると基礎論関係者から、 こういった文句を聞かされるわけですw
157 :
考える名無しさん :2006/08/17(木) 18:11:22
分析哲学も現代フランス思想と同じ言葉・記号遊び。
158 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 00:37:41
>>157 分析哲学・論理学の歴史は長い。
フランス現代思想と一緒にするでない。
159 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 03:34:36
>>139-154 あたりにいるアンチデリダ厨房よ。
もっとがんばんなさい。応援してるから。
でもオウム返しはなしでやってねw
160 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 07:26:58
>>158 論理学の歴史は長い。
分析哲学の歴史の始まりはハイデッガーと同じ時期。
161 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:03:12
分析哲学は論理学から派生しているが明確な区別はされていない。 一般的に分析哲学を論理学と言っても間違いではない。
>>161 >一般的に分析哲学を論理学と言っても間違いではない。
アホ、間違いだ。19世紀に分析哲学は存在しない。
163 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:15:58
>>158 学者間でも「論理学」として話しをすすめる人は実際多い。
特に大きな問題ではないからそれでもいいと思うよ。
164 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:19:47
165 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:21:32
アカデミズムの世界では「フランス現代思想」は嘲笑の対象。 同列に扱われたら大抵の人は怒ります。
166 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:24:53
自演の醜いスレで呆れた
168 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:59:24
「分析哲学」ってのは、ラッセルの記述理論あたりが英米圏の哲学界で有名に なったあたりが起源なんだろうから、当初は論理学と関係が深かったんだろうけれど、 一方では英米圏の哲学にかんしては、特に論理学とは関係がないものも「分析哲学」 って呼ぶようだしなあ。逆の方から見れば、論理学は20世紀のように数学基礎論 の一分野として研究されているとは現在では必ずしも言えないだろうし。 やっぱり区別した方がいいんじゃね?
169 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 14:03:42
>>168 実際は専門家の間でも厳密に区別されて論じられているわけではないからね。
特に大きな問題は無いと思うよ。
170 :
副島 隆彦 :2006/08/18(金) 14:06:03
西洋思想が今いる場所は仏教・儒教が2000年前に通過した場所だ。 仏教・儒教の伝統を捨てて西洋思想に傾倒した軽佻浮薄な連中は バカにされて当然。 日本の自然科学者の中には仏教・儒教などの東洋思想への造詣が 深い者が少なくない。また、欧米の哲学者・科学者が東洋思想に注目し始めて 既に100年以上たつというのに、未だに西洋思想の受け売りをする人は 学問の大きな流れを見る目が無い。東洋思想を学ぶ企業経営者は多いが、 西洋思想は完全に無視されている。東洋思想よりも格段に劣っていることが 素人の目にも明らかだからだ。 数学や理論物理は教科書を読めば誰だってロジックを理解できる。でも、直観が 働くレベルまでイメージを膨らませて理解するには、並外れた修練が必要だし、 そのレベルまで理解しないと研究を始められない。高校から大学、修士までは 大天才と呼ばれていても、研究レベルでは雑魚扱いされるし、その多くが 崩れ去っていくのが数学と理論物理。
またコピペ荒しか。解体厨粘着だな。
172 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 14:19:55
量子弁証法を理解できないと、全てが荒らしに見えるようだな。
173 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 14:44:39
最近の分析哲学のやってることはフランス現代思想と同じぐらい馬鹿らしい。 「山本隆が富士山に単独登頂しました」の述語の意味を長々と分析して論文が 一本書きあがったりする。ついでに「無意味」と「有意味」の区別をつける という元々の目的は完全に失敗。最近は形而上の観念論を分析するなど やってることの本質はフランス現代思想と変わらない。
174 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 14:47:20
>>173 ここはデリダスレ。
分析哲学スレに逝け。
175 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 18:27:49
辿れば馬鹿ヘーゲルの責任。
176 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 19:08:26
> 専門家の間でも厳密に区別されて論じられているわけではないからね。 分析だか何だか知らないが、ともかく哲学と論理学を区別しない「専門家」なんて、 俺は一人も見たことないぞ。
177 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 21:42:10
>>176 またブンセキ野郎か
スレ違いだぞ、他の野郎もまとめて分析哲学スレでやってくれ。
バカタレ。
178 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 22:00:36
『ソシュール小事典』より P207〜208 [フーコー・ドゥルーズ・デリダ] この三人のうちで、ソシュールの批判的乗り越えを主題的に展開しているのはデリダである。 彼は『グラマトロジーについて』(1967)において、ソシュールからヤコブソン、マルティネ にいたる音韻論中心の言語学の伝統のうちに、音声言語に特権を認め、つまりは意識の自己への 現前に真理の基本的形式を見るロゴス中心主義を認め、その乗り越えをはかっている。 その際彼は、やはりソシュールにはじまりながらイェルムスレウに引き継がれる形式主義− 記号論的観点から、音声言語と文字言語とを等価的に扱う立場−に必要な変更をくわえることに、 その乗り越えの一つの手がかりを見いだす。したがって、デリダにとってソシュールはいわば両義的な 存在いうことになろう。しかし、ソシュールのラングを記号学的な価値体系というその本質な 次元でとらえるならば、ソシュールが音声言語に特権を認めたという前提そのものからして 誤りなのであるから、彼のばあいも、ソシュールの遺産の継承という点では、あまり問題に なりえないことになる。
>>176 『論理の哲学 知の教科書』飯田 隆 編
でも嫁。
180 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 22:50:10
181 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 23:36:15
なんでデリダになるとフランス語がそのまま使われるの。 ソシュールだとかエクチュールだとか。 J-POPみたい。
ソシュールってフランス語だったのかw
183 :
考える名無しさん :2006/08/19(土) 19:43:33
ソシュールは健、って感じだよな
184 :
考える名無しさん :2006/08/19(土) 22:19:52
デリダの入門書でいいのあったら紹介してください
>>181 頼むから、ソシュールはどうやって訳すのか教えてw
186 :
考える名無しさん :2006/08/20(日) 07:16:11
ソシュールって誰。
187 :
考える名無しさん :2006/08/20(日) 07:20:50
ギュンター・グラスがSSだったてのド・マン事件と似てる。
188 :
考える名無しさん :2006/08/20(日) 21:18:40
>>186 フランス現代思想なんて文芸批評・文化論・心理学・女性論・社会学あたりの
終わってる科目で流行っただけで哲学科では無視されている。
よって知る必要なし。
>>188 ドゥルーズやフーコーで博士論文書いた人知ってますが。
フランス現代思想は、ますます哲学史の基礎知識になりつつありますよ。
哲学で学位取得した人間なら、それくらい分かってるって このスレで粘着しているのはホンモノのアレな人だし あんまり相手にしないほうがよいよ
博士号がユルユルになったってだけだろ。単に。
192 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 04:23:07
>>189 哲学「史」っていうか思想史ってことだろ。論理学・形而上学・認識論。
哲学の基本分野ではフランス現代思想は鼻糞ほどの価値しかない。
193 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 04:25:25
フロイトだろーがヒットラーだろーがケインズだろーが思想史なら何でも 博士論文になる。
/ ̄ ̄\ / _ノ \ | ( ●)(●) . | (__人__) それはどう考えてもおかしいだろ・・・ | ` ⌒´ノ 常識的に考えて・・・ . | } . ヽ } ヽ ノ \ / く \ \ | \ \ \ | |ヽ、二⌒)、 \
195 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 08:28:27
ファシズム(ナチズム)は思想ではないとでも主張するつもりですか。 当然ヒットラーの思想の研究で博士論文を取ることはできます。 つまり思想史の一環としてのデリダについての博士論文の存在は その哲学における価値の糞の証明にもならないわけです。
196 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 13:11:20
>>192 当たり前だ。その基本分野の伝統を崩そうとしたのがフランス哲学なんだから。
197 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 15:04:22
フランス現代思想の研究は思想史ではなく、哲学研究として十分成立します。
198 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 17:57:05
>>197 Citation Indexで調べればデリダがちゃんとした哲学の分野でいかに無視
されているか一目瞭然。
199 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 18:14:34
どこの索引?無視してる方がおかしいでしょう。
200 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 19:17:09
ISIだろ。
201 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 19:22:18
アメリカの大学の哲学科は、ヨーロッパ哲学の動向を殆どカバー出来てないからな。 偏りが酷い。
202 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 19:36:53
フランス現代思想なんてフランスの大学の哲学科でも無視されてるよ。
203 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 19:44:56
んなこたーない
204 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 20:53:53
ケンブリッジ大がデリダに名誉博士号を授与することを決定した時にケンブリッジ大 プラス、アメリカやフランスの哲学科の教授が中心になって書いた抗議文の一節。 "Many French philosophers see in M. Derrida only cause for embarrassment, his antics having contributed significantly to the widespread impression that contemporary French philosophy is little more than an object of ridicule."
205 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 21:06:07
それ知ってる。 抗議文は受け入れられず、デリダは無事授与されたんだよな。
文学を知らんようだな?
207 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 21:49:00
>>205 哲学部の反対を押し切っての多数決投票の結果。
デリダが本家哲学で無視されている事実は変わらない。
208 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 21:59:04
それ、十数年以上前の話なんだが
他の学問と同じで、哲学も一枚岩じゃないんですけどね 英語圏だけで哲学が行われているのではないのに デリダが「ちゃんとした哲学の分野」(?)で無視されているという結論を いったいどこのCitation Indexから引き出してきたのかと(藁
210 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 22:18:14
哲学の基本が論理学・認識論・形而上学であるのは英語だろーが フランス語だろーがドイツ語だろーが一緒。 デリダが哲学以外の学科で重宝されたという事実は世界共通。
211 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 22:21:41
すいません ここ頭いい人多いらしいからお願いに来たんですけど他板に論破してほしい奴がいるんですが どなたか協力してもらえませんか?
kwsk
213 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 22:38:15
>>210 形而上学ねぇ
アリストテレス的な意味で使用されることもあるし
(「存在としての存在」の解明の学)
デカルト的な意味で使用されることもあるし
(自然学という幹、そして医学・機械学・道徳学という枝葉を支える根本的な学)
それともカント的な意味で使用されることもあるし
(伝統的形而上学の批判の学、転じて理性の批判的分析の学)
一言で形而上学といっても、たくさんあるんだよね
哲学って、正直な話
基本を学び終える前に、人生終わっちゃうんだよね
分量がさ、死ぬほど多くてね
215 :
考える名無しさん :2006/08/21(月) 22:54:17
デリダはいいぞ。基本なんて無視して哲学できるんだから。
デリダほど、基本ができてない者に読めない哲学者はいないんだが。
217 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 01:26:43
In the eyes of philosophers, and certainly those working in leading departments of philosophy throughout the world, M. Derrida's work does not meet accepted standards of clarity and rigor. 基本ができている者はデリダはスルーだろ。
基本ができてないから抗議文なんて書くんだよ。
219 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 02:50:53
ミイラ採りがミイラになってしまわぬように いかなる否定神学的な働きにも囚われず 一人の生者として それも倫理的な、人との関わりを忘れない生者として どのようなスタンスとスタイルがあるだろうか
220 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 06:05:29
名誉博士号の一件は、デリダを「哲学者」として祭り上げることで 哲学そのもの貶めようという文学者どもの陰謀ですよ。
221 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 07:56:10
>>221 そんな十数年前の大学政治のゴシップ記事をさもありがたそうに引用してくる君こそ何者?
そんなものは散々批判されているし、どうでもいい。
君がデリダが哲学ではないと主張するなら、初期のフッサール研究でも読み、
どう哲学でないのか、ここで自分で論証してみればいい。
ネット上の拾い物の記事に頼るなよ。
223 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 11:16:41
フランス現代思想がトンデモ扱いされている現実から目を背け続けるのはツライだろ>222
224 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 11:20:23
デリダ本人が脱構築の定義をしていない。 定義なしに論は成り立たない。 論なしに哲学は存在しない。 不在の立証迫るのは知的欺瞞。 貴方がデリダの論・主張で哲学である物を示すべき。 それを検証した上でデリダが哲学であるかどうかが判断される。
225 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 11:43:35
>デリダ本人が脱構築の定義をしていない。
まだそんなこと言ってるのか。
>>72 を読み直せ。
それにデリダのフッサール研究や、プラトン、ヘーゲル、
ハイデガー研究等々を一読すれば、これを哲学研究でない、
と言い張る方が不思議だ。哲学でなければ何だと言いたいのか?
どういう意味でこれらが哲学研究でないと言いたいのか?
全く分からない。
226 :
224 :2006/08/22(火) 11:49:44
>>226 じゃあそれでいいじゃないですか。定義してないわけじゃないんでしょ。
脱構築はEvent(出来事)である。云々。それでいいでしょ。
228 :
光のマナ識、希望のあらやしき :2006/08/22(火) 12:06:16
清和源氏一流と聖武平家と足利尊氏と室町幕府の問題、新田義貞の亡霊
229 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:27:28
足軽。
230 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:28:03
>>227 本人が脱構築のEventを表現できないと宣言しています。
自分としては「アタリマエ。アホ。」
231 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:39:35
松平定信
232 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:43:42
日蓮宗と鎌倉幕府。がんじん、親鸞、一遍上人
233 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:48:38
おれってダ〜リダ
234 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 12:52:03
イタリア
235 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 13:38:05
「物自体は存在するが、 人は形而上的にしか動けない」 この定式が先験的であるならば、歴史の先人たちは(とりわけ自由度の高かった権力者たちは)すでに直覚的にであれそれに気づいていたはずだが、 ヘーゲル的にいって世界は本質に向かって回帰するものであるならば、 政治的には民主化、経済的には自由化、哲学的には実存哲学に直面し、かつそれらの諸条件の中で生存することではじめて その意味するところが前景化され意識化される条件が整ったことになる。
236 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 14:30:02
しかしこのスレは自演レスが多いなぁ・・・。
237 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 20:58:28
238 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 10:36:26
>>237 エロ本は・・・本質的に脱構築可能である。・・・エロ本としてのポコチンのこのような脱構築可能な構造こそが、
同時に脱構築の可能性を保証しているのだ。もしもポコチンそれ自体というようなものが、エロ本の外
あるいはエロ本のかなたに存在するとしたら、それを脱構築することはできない。同様にまた、
もしも脱構築それ自体というようなものが存在するとしたら、それを脱構築することはできない。
脱構築はポコチンなのである。
239 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 20:29:45
>>236 Derrida4でがんばってる貴方ほど大変ではありませんよ。
240 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 21:06:30
>>238 「正義」と「法」でなくても任意のXとYでこの文が成立するっていうことを言いたかったんだろ?
あまりにもセンスがなさ過ぎ。
エロ本としてのポコチンってなんだよw
で、何ページに書いてあったんだ?
241 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 21:20:24
読んでないよ。あの抜粋も糞な内容。 デリダって意義のある発言したことあるの。
242 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 21:21:48
脱構築って何でもありって事だろ。
はい、その通りです
244 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 21:52:42
"The Force of Law: The Mystical Foundation of Authority." Cardozo Law Reviewの11巻 1990年。
245 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 22:03:17
246 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 22:04:42
「相対主義は正義」って叫んでるのと一緒。
アホがまた暴れまわっているようですが ここはひとつsage進行でお願いします
248 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 22:09:32
>>118 は「脱構築は正義」の一番重要な引用ではない。
249 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 22:22:19
246の解体くん頑張ってるね。 その調子でスレの盛り上げ頼んだよ。 まあ俺の策略通りではあるんだがw
匿名性によって発生する話者錯誤の問題について 話して↓
251 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 08:13:01
強迫観念にかられていると誰がレスってるのか 無意味に妄想するようになるからな。
252 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 15:03:44
『知の教科書・デリダ』廣瀬浩司、林 好雄 著 ってどうよ? 反デリダ専門家の諸君。
253 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 15:47:24
なにがって、何が? 知の教科書シリーズの一冊だろ。
254 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 17:25:25
>法は・・・本質的に脱構築可能である。・・・法としての正義のこのような脱構築可能な構造こそが、 >同時に脱構築の可能性を保証しているのだ。もしも正義それ自体というようなものが、法の外 >あるいは法のかなたに存在するとしたら、それを脱構築することはできない。同様にまた、 >もしも脱構築それ自体というようなものが存在するとしたら、それを脱構築することはできない。 >脱構築は正義なのである。 『法と力』 キリストは・・・本質的に創造主たる神である。・・・キリストとしての愛のこのような神的贖罪こそが、 同時に神の可能性を保証しているのだ。もしも神の愛それ自体というようなものが、キリストの外 あるいはキリストのかなたに存在するとしたら、それを神と見なすことはできない。同様にまた、 もしも神それ自体というようなものが存在するとしたら、それを創造することはできない。 神は愛なのである。『キリストの愛』 論拠の無い主張の連続。宗教と変わらない。
255 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 17:34:03
>>252 「○○も読んでないくせに」で王様が裸である事実から
論点をそらそうとしている。
そうだね、プロテインだね
>>254 法と正義の部分を、キリストと愛に置き換えただけではなく、勝手に改変してるな。
こじつけもいいところ。
わざわざ相手にしなくていいよ〜 こういう構ってちゃんは無視しとけばそのうちいなくなるから 反論したくなる気持ちは分かるけどな
まったくその通りですね。
なんつーか「脱構築は正義である」っていきなり論理飛躍しているような希ガス
261 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 20:01:27
デリダ房もレベル低いけど、アンチデリダ房も感情論ばかり。 良い勝負だよオマエら(笑) 一生やってろ、ボケ。
262 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 21:32:35
デリダでレベルの高い議論は不可能。 「脱構築は正義なのである」ってこれのどこが哲学。
そうだね、プロテインだね
264 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 21:39:55
いや、ビタミンだよ。
265 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 21:52:21
カルシウムってことも考えられるぞ。
揚げるなよ うるさい豚が寄ってくるから
267 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 22:16:02
醜い自演レス。 プロテインバカは神出鬼没だな。
だから「脱構築は正義である」の「正義」ってどんな正義なのさ?
269 :
考える名無しさん :2006/08/24(木) 22:25:26
オマエらデリダがどうしたの前に社会常識でも小学生と一緒に マナベや。 特にプロテイン馬鹿はいったん死んで生まれ変わってコイ。 ゾウウリムシにでもな。 ば〜か。
>>268 かったりーけど、簡略に説明すりゃあいいんだろ
1.「法」は明証的な一般的形式であるが、「正義」の核心には
一般的形式に含みえない「特異な他者」との関係がある
2.「脱構築」は、言語に明証に表される図式
つまり一般的形式から逃れてしまうものの権利を認める
3.「正義」と「脱構築」はともに、一般的な図式から排除されてしまうもの
「特異な他者」を肯定し、それと関わる
「脱構築は正義である」という時に言われているのは
一般的図式に表される明証的なもの以外を排除しようとするロゴス中心主義とは異なり
「脱構築」と「正義」がともに「特異な他者」を認め、肯定するということであって
「脱構築」が正義のヒーローや判決を下す裁判官だという意味ではない
それから、脱構築が「法」ではないという含意もあるんだろ
あー、クソめんどくせー
つか、まずググレよ
『法の力』は英訳なんかもネットで読めるからよ
>>271 ありがとうございました
ということはあなたと私はその「正義」とかいうものとは関係性の薄いものであるということですね
英語なんて読めません、すいませんでした
それと元の文が一行なので簡略に説明というのはせいぜい三行程度の説明だと思っていました
以上です
273 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 00:02:32
「一般的形式」と「特異な他者」を先に定義しろ。 無意味な主張が連続する空論。
そうだね、プロテインだね
275 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 00:17:56
いや、ビタミンですよ。
276 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 00:58:45
>>273 いいかげんにしろ。
「無意味」と「空論」をまず定義してから言え。
278 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 01:23:35
>>271 定義されていない「ことば」で説明してもしょせんは「空論」。
「ことば遊び」の批判は免れないな。
>>278 俺にアンカーするんじゃねーよ、クズ
誰もてめぇになんか話し掛けてねぇよ、勘違いすんな
280 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 01:41:31
>>279 バカやろう、字面しか追えないノータリンが偉そうなこと言ってんじゃねえよ。
説明にもなってねえんだよ、ボケ。
281 :
279 :2006/08/25(金) 01:44:12
本当にここはよくバカが釣れますね いい釣堀です^^
282 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 01:45:40
>>276 「何の一般的形式」なのか。何をもって一般から「特異」となるの
か説明されていない。よってこれは「間違えでさえもない」論の典型。
こういうのを無意味・空論・出鱈目などと馬鹿にするのは一般的形式。
そうだね、プロテインだね
284 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 01:49:22
>>281 そそ、オマエみたいなクソ馬鹿でも釣ったつもりで釣られてる真性バカがな。
てめえの頭に自分でアンカーでも打ちつてろ。
285 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 01:51:43
286 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 03:01:56
デリダは左翼と一緒。 立場が弱いからリンチ。
287 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 09:36:18
ド・マンと解体ネタは賞味期限が切れたから今度はデリダのハイデッガー擁護でも 叩くか。
もうここはどう見てもネタスレだから、何でもいいと思うよ
んだね、残念だ
290 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 13:19:08
>>273 「特異」は存在論的な意味と捕らえればよい。
で、そのときの一般的っていうのは把捉における一般化のことで、
例えば人間だったら「男」で十把一絡げに捉えたりすること。
特異な他者の思考は、さしあたっては固有名の理念を掲げることで行える。
こんなことは哲学の基本中の基本、普遍論争のことを知っていれば分かることだろ。
291 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 13:21:04
>>282 まず「説明」という言葉を定義しろよな。
そうしなきゃ「間違えでさえもない」論の典型でしかないし
無意味・空論・出鱈目の模範的書き込みでしかない。
292 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 13:25:02
>>273 「一般的形式」と「特異な他者」をまず定義しなければ
きみはなぜ理解できないのかを自己分析する必要がある。
そうでなければ無意味な説明要求が連続するうわ言でしかない。
ああ、いいねネタって。笑えるから。
294 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 14:20:12
>>290 >>291 >>292 把捉(はそく)=しっかりつかむこと。とらえること。
十把一絡げ(じっぱひとからげ)=いろいろなものを雑然とひとまとめにすること。
小難しい言葉を使う割には問題の本質には何も答えていない。
存在論は対象物の分類・区別の本質を考察するわな。
TypeA(一般)とTypeB(特異)の区別の本質は何。
これにはTypeAとTypeBを上位で統合するClass@が何かを定義しなけらばならない。
その後でClass@に「一般と特異の区分が成り立つか?」という問題が起こる。
今のところClass@がなんであるかは掲示されていないから貴方の発言は論理的に無意味。
僕の要求してる「説明」が何かこれで理解できたでしょ。
こんなことは哲学の基本中の基本。貴方の発言は無意味・空論・出鱈目。
295 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 14:29:47
ついでにデリダは「問題の本質(Class)」の定義はあいまいにしたまま 形容詞(Type)で遊ぶだけだから非常に難解であると同時に無意味な空論 になっちゃうわけ。デリダ曰く「DeconstructionはEvent。何が起こっ ているかは解らない。でも正義」。こんな出鱈目は哲学とは言えない。
296 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 15:26:16
>>294 特異と一般はtypeの話ではないでしょう。
>>290 普遍論争云々ってのは蛇足かと。
typeの話でこだわるのなら、type化できないものを理念として「特異」と
言っている、と考えるべき。
言語は対象の把握を一般化することで行うほかない。
そこからこぼれ落ちるものが必ずある。
それをなんとか語ろうとするのが脱構築のめざすところ。
「語り得ないものを語ろうとする試み」と言われたりするのもそういう意味。
ちなみにtype、classという概念枠を使うのはかまわないのだけれど、
class@にもそこからこぼれる特異なclass*があるはずだ、という
批判にはどう答えます?本質の本質の本質の・・・って無限後退しますよね。
297 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 16:45:16
Class@=正義、一般的形式=法律、正義ー法律=特異な他者=脱構築=正義の核心 なの。 「特異と一般」と発言して相違関係を述べたのだからいまさら区別していない(Type の話ではない)なんて論理的に無理な主張。何をもって一般とするのかを示してくれ ないとその外にある「特異な他者」がなんであるか判別できない。ついでに脱構築の 起こす「特異と一般」の外にある「特異」、「特異の特異」って?が発生する一方で、 判別の漏れを「判別」して「脱構築は正義」って主張したら「判別の外にある漏れの 判別」って自己矛盾に陥るよ。そっちも解ってるみたいだけど「脱構築は正義」なんて 主張は右に転んでも左に転んでも「Error. Please reboot」。懐疑主義は不毛。 ついでにclass@からこぼれる特異なclass*が存在する場合、その存在が認識された瞬間 にType@とType*を取り込むClass$が出現するから問題ない。
さ あ 盛 り 上 が っ て き て ま い り ま し た
伊勢田さんも日記に書いてたけどさあ、哲学者も国際会議っていうか 哲学上の立場を離れたフォーラムみたいなのがあればいいのにね。 「脱構築も世間的に有名になったんでここらでひとつちゃんと定義しときましょうや」みたいな感じで。 もちろんそんなの無理だと内心思いつつ書いてるわけですが。
≫ついでにclass@からこぼれる特異なclass*が存在する場合、その存在が認識された瞬間 にType@とType*を取り込むClass$が出現するから問題ない あの、それだと無限に冪集合ができちゃいますが・・・
>>294 まず「本質」を定義しろ。話はそれからだ。
あいかわらず無意味で出鱈目なうわごとだな。
303 :
考える名無しさん :2006/08/25(金) 23:49:14
>>300 理解の蓄積の進歩が無限であることに問題があるとは思えません。
例えば科学っていうのはそういう風に進歩するもんですが。
「常に現時点での理解を超えたものがある!」と叫ぶことに意義が見出せません。
例えば法律でも現行の法律でカバーできない特異事例が出現した場合その不条理を
解決するために法解釈で辻褄を合わせる、あるいは新しい法律を議会で発令して
根本解決するのが筋ですが。
>>303 はぁ、「無限」って、どういう意味の「無限」ですか
どこの誰の理論における「無限」か、はっきりして貰えませんか
カントール?ゲーデル?
それとも、もっと現代の数学者の理論における「無限」ですか
305 :
考える名無しさん :2006/08/26(土) 01:36:00
>>304 >判別の漏れを「判別」して
判別の漏れは判別できない。脱構築される。
306 :
考える名無しさん :2006/08/26(土) 01:46:17
>>304 「無限」って言葉だけにばかみたいに反応するな。
文脈からわかるだろ。
class$にはまた特異なclass+が存在して
そうすると新しくclass#が出現して・・・
って終わることがない、って意味だよ。それを無限、って言ったらなにか問題あるか?
無限で終わらないなら問題が解決しないじゃない。
どうせ知ったかなんだろ
309 :
考える名無しさん :2006/08/26(土) 02:21:07
つまらないレス。 「無限」の意味ごときでもめてる。 デノテーションとコノテーションの違いも解らんようだな。 レベル低し。
>>309 ,/”” ”ヽ
,/ __ _ ゛
/ /““ “” ヽ |
| / -━ ━.| |
| |. “” l “ .|.|
(ヽ | r ・・i. ||
りリリ /=三t. |
|リノ. |
| 、 ー- " ノ
| ”ー-- "|
「間違え」って勘違え?
ほほう
314 :
考える名無しさん :2006/09/10(日) 19:10:16
『デリダ なぜ「脱―構築」は正義なのか』 斎藤慶典著 NHK出版9月28日税込価格:1,050円ISBN:4140093358 ジャック・デリダの世界の捉え方を読み直し、現実と本体との間に走る亀裂を鮮やかに浮かび上がらせるスリリングな試み。
315 :
考える名無しさん :2006/09/14(木) 09:57:40
316 :
考える名無しさん :2006/09/14(木) 09:58:21
4.プログラム: ○ 一日目 10:30-12:00 開会式、総会 13:00-14:20 古荘真敬 (山口大学) 「「原因」と「理由」の彼岸への問い ――ハイデガーの哲学的企図の再吟味――」 司会: 宮原勇 (愛知県立大学) 14:30-15:50 斎藤慶典 (慶応義塾大学) 「哲学の「終わり(Ende)」に寄せて」 司会: 古東哲明 (広島大学) 16:00-17:20 伊藤徹 (京都工芸繊維大学) 「「哲学の終焉」と作ることへの問い」 司会: 高山守 (東京大学) ○ 二日目 10:00-11:20 児玉斗 (グライフスヴァルト大学) 「理性とは何の謂いか ――ニーチェとハイデガーを繋ぐ導きの問い――」 司会: 菊地恵善 (九州大学) 11:30-12:50 西山達也 (東京大学) 「ハイデガーとデリダ、対決の前に ―― retrait概念の存在論的・政治的画定――」 司会: 藤本一勇 (早稲田大学) 14:00-15:20 上利博規 (静岡大学) 「デリダ、アドルノ、ハイデガー ――超越論からの離反の行方をめぐって――」 司会: 廣瀬浩司 (筑波大学) 15:30-16:50 港道隆 (甲南大学) 「世界ラテン化におけるハイデッガーとデリダ」 司会: 加藤恵介 (神戸山手大学)
317 :
考える名無しさん :2006/09/14(木) 21:50:06
ヨーロッパは血縁や血統で日本では氏と姓などで物事をみる。ヨーロッパは血ぬられている。血で血をぬるような争いが、日本の問題は深い。
318 :
考える名無しさん :2006/09/25(月) 20:35:24
>>309 カタカナ言葉を重宝するのもレベルが低いぞ。
NHK出版の『デリダ』(斉藤著)軽く読んでみたけど、文章に癖がある。 「デリダに対する対話」という文体で書かれてるから、違和感がある。 普通なら 「デリダは〜と考えた」 とかだけど この本は 「あなたは〜と考えましたね」 てなふうになってる。 あまり読まなかったから、内容の評価はできないけど、あんな文体にする意味が不明・・・ 普通に書けばいいのに
>>320 訂正
×「デリダに対する対話」という文体
○「デリダとの対話」という形式
ウヨとサヨの二項対立を脱構築するとどうなるの?
323 :
考える名無しさん :2006/10/28(土) 20:44:45
>>322 ウヨとサヨを突き詰めるとファシズムとコミュニズムという同じ独裁主義に行き着く。
これで二項対立がつぶれる。べつに脱構築以前の論述法でも導ける。ていうか脱構築
自体が以前の論法を再ブランドしたに過ぎない。
324 :
考える名無しさん :2006/10/30(月) 02:36:48
吉本さんが柄谷行人さんから聞いたという 話。 柄谷さんがジャック・デリダとニューヨークで 会った時のこと。 デリダは、柄谷さんに、「お前の著作を通り過ぎなけ ればどうしても前に進めない、と思えば、みんな 日本語を一生懸命勉強するだろう。なのになぜお前は わざわざ英語で本を書くのだ」と言ったという。
325 :
考える名無しさん :2006/10/30(月) 09:55:00
たまの休み
326 :
考える名無しさん :2006/11/03(金) 16:22:44
デリダ『名を救う ―― 否定神学をめぐる複数の声』小林康夫(?)・西山雄二訳(未来社 2005年)
否定神学に関するデリダのテクスト。しかし、ディオニュシオス・アレオパギテスや
クザーヌスのテクスト、トマスの『神名論註解』を一度でも覗いたことのある人には、
何の新味もないだろう。否定神学の複数化ということから、このテクストそのものが
疑似対話風に書かれている。否定神学は一つの学説として総称できるものではなく、
そこに複数のあり方が響きあっており、言語表現の可能性の限界を精査しようとしている
のだといったことは、彼らの考えていることそのままで、解釈とも言えない。そもそも、
複数的で体系化しえないものだから対話篇にする、あるいは言語的に表しえないから×印
をつける(ハイデガーの「存在」の×印)などは、およそ哲学的訓練を受けたとは思えない
幼稚さである。むしろ、ディオニュシオスとその註解を行ったトマス、さらにその影響を
受けながら「知ある無知」という否定神学の特殊ヴァージョンを構想したクザーヌスなどを、
「体系的」かつ「概念的」に語っていくことのほうが、よほど意味があると思えるのだが。
ただしそうした点では、訳者のひとり西山雄二氏が書いた解説は立派。それに比べて、
自分は何もしておらず、「名だけ救われた」とくだらないことを書いている小林康夫氏は情けない。
http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/newbooks2006.html
329 :
考える名無しさん :2006/11/04(土) 08:55:07
何で同じ内容のスレが乱立してるの。 Jacques Derrida 4はヨイショスレみたいだけど。
■ ミシェル・フーコー Michel Foucault 2 ■ ■ ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 3 ■ ■ ジャック・デリダ Jacques Derrida 4 ■
331 :
考える名無しさん :2006/11/06(月) 22:41:50
フランスオタクって総じて引きこもりなの。
>>324 それは本人が批評空間の鼎談で言っていたことでしょう。
333 :
考える名無しさん :2006/11/08(水) 00:03:52
また無意味な議論に終始してるのか・・ これだからデリダは信用するなと何度も・・
デリダなんてdelだ
335 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 21:11:36
925 :キタコレ :2006/11/11(土) 01:25:24 『絵葉書─ソクラテスからフロイトとその彼方へ(仮)』 上巻「送る言葉」若森栄樹・大西雅一郎訳 は水声社より十二月刊行予定 「文学界」2006年12月号 P349
「送る言葉」って武田鉄矢みたいだね。
337 :
脱構築の定義 :2006/12/22(金) 14:01:45
■[哲学用語]脱構築 デリダの哲学の枢軸をなす方法概念。それは単なる否定や破 壊を意味するのではなく、対象の内部にとどまりながらその 土台を揺さぶり内側から自壊を起こさせることであり、その 中に潜んでいた新たな可能性を目覚めさせようという戦略。 それは既成の概念や構造を引き受けつつ、侵犯するという両 義的な身振りでもある。デリダは、西洋形而上学の総体の全 面的な解体を目指すおのれの戦略を示す概念として、この 「脱構築」という言葉を使った。パロールのエクリチュール に対する形而上学的優位を転倒させ、両者の根底に意味作用 一般の可能性の条件として原エクリチュールを見出す分析は、 脱構築の典型的例である。
338 :
考える名無しさん :2006/12/22(金) 23:08:37
すいません、質問なのですが、原エクリチュールの読み手って、いまデリダ以外にいるのですか? レスつくかなぁ
マジレスしようか。
>>338 「原エクリチュールの読み手」ってのが、まずおかしいだろう。
原エクリチュールとは、これこれの作家のこれこれの作品の原エクリチュールはこれである、
と指差す対象ではないのだから。丁寧に説明しようかと思ったが、
ちょっと大変なので林好雄&廣瀬浩司の本から引用してみる。
「デリダは、パロールであれエクリチュールであれ、言語を発言させる活動=作動(jeux)、
その活動=作動を可能にする、言語の差異的構造(つまり差延)をエクリチュール(原エクリチュール)と呼んでいる。」(林・廣瀬『デリダ』p.84)
(なお、「戯れ」という誤解を招く訳語の原語はjeuxで、活動とか作動とか言った方がもっとニュアンスは近いと思う)
差異的構造のことなんだから、これへの読み手、と言うのは何か間違っているのだが。
あるいは、斎藤慶典本から別の書き方をしているところを抜粋してみようか。 「「差延」が私たちの思考の挫折であるのは、その帰結とおぼしき個々の「もの」たちが現に私たちの眼の前に姿を現しているのに、 それを産み出したはずの当のもの方は《いつもすでに》失われているがゆえに(それが「遅延」ということだった)、 現象からいわば本体への通路があらかじめ失われているからだった。 私たちの語法からすれば、まず「何」かが「存在」していて、然る後にそれが「現象」するのだが、 事態のこのレヴェルでは、現象にいたるはずの「何」かが不在なまま、すでにその何かはもう「現象」してしまっているのだ。 それは言ってみれば、<印鑑(という本体)のない印影(現象)>、つまり、 痕跡だけが遺っていてどこを探してもその痕跡を遺したはずの本体が見つからない、といった事態なのである。 世界の内にはかの「差延」の効果であるらしい<差異に基づく何らかの形象(形あるもの=見て取られたもの=現象)>が すでに書き込まれているのだが、それが与えられた《最初のもの》であって、 それ以外のどこにも「何」かの存在する場所はないのだ。 この「最初のもの」は、《「何」ものかの》現象のはずであるにもかかわらず、である。 これはすなわち、「最初のもの」はそれが最初のものであるにもかかわらずはじめから二重化されているということ、 つまり「最初のもの」はいつもすでに自己の「反復」であるということにほかならない」 (斉藤『デリダ』pp.30-31)
「現象するもののこのような構造をデリダは「エクリチュール」と呼んだ。 それは「書かれたもの」ならびに「何かが書き記されること」そのことの構造を名指しているのだが、 その内実は(すでに明らかなように「内実」という言葉はここではふさわしくないのだが) 先に見た<本体が不在なままの痕跡>である。(…) ここで痕跡とは世界の内に形あるものとして遺され・存在しているもののすべてであるから、 「書かれたもの(エクリチュール)」といってもそれは普通の意味での文字ばかりではない。 聞こえるもの、触れられるもの、匂いのするもの、味のするものも、 ……およそ現象していると言いうるもののすべてが「痕跡」であり、 ここで言う「書かれたもの(エクリチュール)」なのだ。」 (同上、p.36。投稿の便宜上、一箇所の言葉を改めた。) 原語の構造としてのエクリチュールを、斉藤は「現象」として広く語りなおしているが、 これは逸脱と言うほどのものではないだろうし(俺としてはこっちの方がしっくりくる)、 デリダ自身の論もそういうものなんじゃないかな。
原語の → 言語の
言語を発言させる → 言語を発現させる
さて、338の発言を、当人の主旨とは離れるならば、 「デリダが切り拓いた差異的構造(差延)の議論を、 現在さらに展開あるいは検討し直している、興味深い論者はいるのか?」 と読み換えることもでできるだろう。 これについては、俺は寡聞にしてよく知らない。 デリダ自身の議論の水準が高いし、ハイデガーを批判的に乗り越えたデリダを、さらに乗り越える なんてことがそう簡単にできるとも思えないし。 もちろん、そういうガツンとした論があるなら、大いに興味を持って読みたい。 ただ、『言葉にのって』でもデリダ自身が、また林・廣瀬本などで二人が 「デリダ以後の現象学の展開」といったことを言っているように、 現在はデリダからの引継ぎとさらなる議論が開始されつつある、 あるいはすでにある程度されている、という段階なのだろう。 (現象学というのはそもそも「形而上学批判としての奇妙な哲学」として開始しているのだから、 この話は、特に「すでに権威なき現象学が覇権を求めてデリダを取り込もうとしている」というような意味はなく、 割に適切な流れではある。メルロ=ポンティの晩年期を見てると、デリダを思わせる箇所も無いわけではないしね。) とりあえず、最近俺が読んだものとしては、 長滝祥一偏『現象学と二十一世紀の知』(ナカニシヤ出版)所収の廣瀬論文が面白かったかな。 デリダの後でメルロポンティ晩年の「肉」概念を読み直し、ドゥルーズにおける襞と多様体を論じ直す、みたいな感じだった。 まだ序論的な段階に止まっている論旨だったのが難点だったけど。
345 :
考える名無しさん :2007/01/02(火) 14:36:52
新年あげ
346 :
考える名無しさん :2007/01/03(水) 19:18:57
「デリダ―きたるべき痕跡の記憶」廣瀬 浩司読んでますが、またひどい本ですね。 典型的なダメ解説書ですね。デリダ教の司祭が更新しながら、デリダマンセーを 叫んでいるだけ、中身がない。 同じように痕跡を語った、「デリダ論―『グラマトロジーについて』」スピヴァクがあるのに、 良くもこんな糞本書けたものですね。
日本人でマシな人は誰ですか?
348 :
考える名無しさん :2007/01/03(水) 19:34:49
>>339-341 言語を発言させる活動?
活動を可能にする、言語の差異的構造?
まず「何」かが「存在」していて、然る後にそれが「現象」するのだが?
<印鑑(という本体)のない印影(現象)>?
これって存在論なの?現象学なの?
こうやって改めて、痕跡(エクリチュール)論を読むと、
一種の神秘主義以外のなにものでもないな。
神秘主義じゃない、相対主義ないが繰り返されるが、
結局、痕跡(エクリチュール)がなにかを説明できる人はいないだろう。
349 :
考える名無しさん :2007/01/03(水) 19:44:51
>>744 ここで、「思考」の代わりに「理念」を代入せよ。「理念」こそ「価値の尺度」の「転轍手」なり。
「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念では
ない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』はきわめてしばしば転轍手として軌道
を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。
つまり、
『何から』wovonそして『何へ』wozu『救われる』ことを欲し、また−−これを忘れてはならないが−
−『救われる』ことができるのか、その基準こそが世界像だったのである。」(M.ウエーバー「宗教
社会学論選みすず書房1972年10月25日p.58)
そして、これは世界歴史で見られることだけでなく、われわれの「改心(回心)」や「目から鱗」
などの現象をも説明することが可能となる。
のみならず、われわれの日常性の中の非日常現象と再度の日常化現象(カリスマの日常化現象!)
の説明にもなる。
すなわち、「われわれは現実世界を
(A)「異質なものの絶対的に一回的な継起
(B)「同一なものの繰り返し」
という互いに融合しえない根源的な二重の視点から見ている。」(中島義道「後悔と自責の哲学」
河出書房新社2006年4月30日p127)
「ほとんどの人は大部分の時間(B)の世界に留まり、時折魂を揺さぶられる出来事(Ereignis)
に遭遇して、ふっと(A)の世界を垣間見、だが、「生きてゆかねばならない!」という叫びとともに以前
のように「同一のもの」を計算する生活(物質的ならびに観念的な利害関心の支配する日常生活)に舞い戻る。」
(op.cit.p.129)
>>346 まあ解説書という書き方にずいぶん甘えてるよな。デリダ論とは言い難い。
>>348 …まあ、お前がグラマトロジー読まないで引用だけ読んだのはわかった。
352 :
考える名無しさん :2007/01/04(木) 03:29:29
>>351 つまんないレスやめろよ。
これに続くのは、
「なら痕跡がなにか説明しろよ。」
「お前にはわからねえよ」
「ほらわからないから逃げた」
「自分で勉強しろ」
・・・・・
だろう。もうそういうのいいからw
フロイトのエスとかいってるが、デリダってあちことでケンカ売るわりには 知識がにわかなんだよな。どういう性格してたんだろう。
柄谷ぐらいの明晰な能力があれば良かったんだろうが
>知識がにわか ソースor例証求む。
356 :
考える名無しさん :2007/01/04(木) 04:42:37
>355 どこまで理解してる?
痕跡がなにかというのは難しいですね。 一番感覚的にわかりやすかったのが、フロイトのマジックメモの例ですが、 フロイトは科学ですから実在としての無意識について言っているわけです。 さらに無意識に書かれたようのものとフロイトは言っていますが、 実際文字というよりも物質的なものを強調していて、 デリダはあくまで、それを存在論的に読んでいるということでしょうか。 そうするとまたわかりにくのですが・・・
どうわかりにくいの? 何と何が絡まってわかりにくいの? 物質の価値と人間の価値がどうなっている現代なの?
359 :
考える名無しさん :2007/01/04(木) 18:12:52
あげ
360 :
考える名無しさん :2007/01/20(土) 02:36:10
痕跡とかわかりくいわけないじゃん。意味そのまんまでしょ。
361 :
考える名無しさん :2007/01/20(土) 09:14:54
対象を見る、って言うだろ? でも対象とそれを見てる俺は同じレヴェルで物なんだよ。 ってことだよ。
362 :
考える名無しさん :2007/01/20(土) 10:05:08
もっとふつうにわかりやすくたのむ
363 :
考える名無しさん :2007/01/20(土) 13:13:52
モノを書いた時の自分と、今それを読んでいる自分は別の物体になってるのよ。 主体の際限無き書き換えが常に起こってるわけ。差延は何にでも、誰にでも働いてる。 人間もモノなの。ってゆーか機械なの。
364 :
考える名無しさん :2007/01/20(土) 17:27:10
痕跡を物質的なものと見るのは違うのではない?機械というのは問題外?
人間の行動が常に生命の根本的原則を守らず、 しばしば健康を失ったり、社会的にまずい立場になることを選択してしまうのは、 人間にはそもそも「生命の根本的原則」がないからであり、 また無事生き残った個体の行動原則が「生命の根本的原則」として上澄みされるからだろう。 そうして考えると、死んでいく人間と言うのは、故障したパソコン、 機械、壊れる道具とまったく同じレヴェルだ。 そして仮にすべての人間がいつか死ぬ(=永遠に生きるものはいない)なら、 すべての人間は最終的な観測において皆機械と同等な存在だ。 痕跡については、(人間とは限らない)機械が残すログや、その機械独特の動きの痕跡、 つまり「機械的なシステムの構造への推察の道を残した無意味」のようなものと解釈する。 そしてそこからその「道」を正確にたどるのが現象学の理想としたら、 有機体哲学などはそれ(道)を誤読する可能性へのシステム的言及、 デリダは誤読と正道の中の「痕跡」における永久連鎖とその突き詰めの原理的、 または存在論的突き詰めの不可能を「脱構築」としてしているのかも。 言語構造の差異の形式は、あえて「痕跡」の突き詰めを停止して、 ある有限な段階で停止することで社会的言語ネットワークのシステムと その成長可能性を残したものなのかも。 だから「原エクリチュール」は「痕跡の奥」の一応の定式化的なものと 個人的に解釈してる。
366 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 10:33:52
痕跡は、「決して現前しなかった過去」という言葉に特徴的で、物質的なものではなく、事後的に あらわれるものです。 署名の例でいけば、署名は毎回微妙に違い同じものはありませんが、その起源に「同じもの」 を保証する「なにか」があるために、毎回微妙に違っても自己同一性を証明しつづけるように、 錯覚されます。この「なにか」が痕跡(エクリチュール)です。これだと超越論的なものだと 思われますが、痕跡が散種、差延として語られるとき、そこには微妙な違いや書き間違いの 反復の可能性があります。 実際には署名は、微妙な違いや書き間違いなどのズレの可能性(散種)こそが、 超越論的な自己同一性という錯覚を産みだしているということです。
367 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 10:55:45
「無限にズレて反復される可能性」 柄谷は事後性を「命がけの飛躍」と言いました。人は署名するときに、それが自己同一性を 保証する根拠などどこにもないための、いつも「命がけの飛躍」を行っています。しかしこの恐怖を ごまかすために、署名には同じものを証明する(超越的な)同一性があるように、思いこむのです。 コミュニケーションとは、本当は「命がけの飛躍」の連続ですが、人はこれを分かりあえる確かな 意味があると思いこむことで、伝わらないという恐怖をごまかすのです。そしてこのズレつづける という「命がけの飛躍」の反復が差延であり、超越論的な「確かな意味」を支えているのです。 超越論的な「確かな意味」を支えるズレつづけるという「命がけの飛躍」の反復は、実際に 反復された回数ではなく、「無限にズレて反復される可能性」です。 人はパロールによるコミュニケーションするときには、目の前にいることで、現象学的に 「確かな意味」が伝わると考えますが、実際は無限にズレて反復される可能性としての 痕跡(エクリチュール)によって、支えられているのです。
>現象学的に「確かな意味」が伝わる 意味が現前するといえばいいだけなんだが。 あと、ロイル本なんかでもいわれているように、デリダ自身は「エクリチュールとしての」音声にも眼を向けているんだよね。 で、講義などをむしろ重視していたり。十川幸司が「非常に魅力的な講義で、 私にとってはラカン派などより精神分析の場のようなものだった」と言ってるのが、何となく腑に落ちたくだりではあった。 反復可能性(イテラビリテ)が超越論的な意味の現前を支える? んな議論あったっけ? それだと、たとえばもう一つのデリダスレで突っ込まれた流れになったのと同様、 正義が現前するみたいな言い回しと区別がつかないんじゃないの。 違ってたらスマン
369 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 20:56:07
370 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 21:04:22
>>368 つーか音声とかエクリチュールとかって区別する必要ないよな。
聴覚と視覚で受容器は分かれても結局脳に伝わる信号としては同じなんだから。
もっと言えば味覚も触覚も嗅覚も区別する必要は無い。
371 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 00:05:27
>>370 知覚と信号の対応関係は差延してるので
そういう脳還元主義は簡単に脱構築されるな。
372 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 00:24:42
>>371 いや、知覚=信号でしょう。
それに意味を付けたがると差延が関係する。
373 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 00:29:43
>>372 知覚=信号と解釈する時点で意味は発生しているよ。
噛み合ってないね。 音声もエクリチュールも解釈されるまではただの信号だってことだろ。 音声も文字も匂いも差延が働いてるっつーこった。
375 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 01:07:54
>>374 違う。そのただの信号こそエクリチュールなんだよ。
つまり解釈以前の痕跡。そして既にそこには差延が働いている。
「信号」と呼ばれればもうそれは解釈された存在になってしまう。
>>375 君説得すんのは疲れそうだ。
そこの部分は一旦置いといて、視覚やら聴覚は区別する必要はあると思うか?
信号だろうが、信号以前だろうが、物質であって、 問題は、痕跡を物質と見ていいのか そこに「決して現前しなかった過去」という可能性が失われている。
379 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 10:14:05
リアリティとは痕跡である。 署名は、本人が手書きで書くという現前性によって、自己同一性を証明します。しかし毎回微妙に違う 署名が自己同一性をしめす根拠などありません。署名とは言語ゲームの内部の約束でしかあり、毎 回、「命がけの飛躍」を行っているリスクの高い行為です。 デリダはこの現前性、自己同一性を脱構築します。署名という同一の反復のフリを、「命がけの飛躍」を 行うことで差延であると言います。すなわち署名は痕跡=エクリチュール(差延する存在)です。 ここまでは、ヴィトゲンシュタイン的なのですが、ヴィトゲンシュタインは最後期に言語ゲーム内の「確実 性」がいかに生成するを考えました。 デリダはそこに解を与えているといえます。署名は毎回微妙に違うという1回性によって、自己同一性を 保証する署名であり得ています。「命がけの飛躍」という差延があるから、現前性なのです。現前性と は、差延(ズレること)=痕跡である。人は「命がけの飛躍」によって、現前性を感じる。 これは実はラカンに近い。ラカンのリアルとは現実界であり、「命がけの飛躍」とは現実界への欲望で す。しかしその手前で「幻想」のリアリティを与える送り返されてしまう。 現前性は痕跡としてのズレる可能性によって保証されるというとき、存在論ではないと思います。しかし デリダはフロイトのマジックメモを参照するなど、精神分析的な意識モデルを存在論的に捉えることで 「現前性は、痕跡である。」であることを思考したように、ここからメディオロジーなどの、伝達モデルへの 展開の可能性が開かれます。ありありと伝わる情報が痕跡であるとき、差延される伝達経路の問題が 見いだせます。
380 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 10:32:48
デリダが言っているのはその真実は痕跡である暴露するのでなく、 真実は痕跡によってして存在しえないことを開示するということです。
381 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 10:39:13
真実を支える痕跡の構造を明らかにすることです。どのようなズレによりその真実は支えられているのか たとえば恋のマジックは彼女に裏切られ続けることにあり、彼女に対する過去、未来の可能性を開きます。人は予定調和な人に恋をしません。
382 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 13:27:17
大胆に自然主義的に語れば人が同一性という現前性を維持するためには差異を必要とする。 差異(現実界への命がけの飛躍)を「欲望」し、反復へ回収すること(差延)で、事後的に反復としての同一性(言語ゲーム=象徴界)は維持される。
383 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 15:37:01
並兵よー、スレの流れ見て話せよ。
波平=びかぁ〜はコピペしてるだけ
385 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 00:56:52
>>375 とりあえずデリダ以外読んでないのはわかった。
>>385 ここはデリダスレだからいいんじゃね?
君はデリダ読んでなさそうだが?
マルクス、カントを読めといっている。 デリダはただのゲームだ。
>>387 誰だ君は。
>>386 うん。デリダスレだからいいんだけど、デリダ以前のハイデガーとか読んだ?
信号云々はハイデガーも扱ってるんだ。彼が下敷きにしているユクスキュルを
知っておくとデリダの著作に対する考え方は変わるよ。
389 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 13:26:44
>>388 グラマトロジーを読んでいればあらためてユクスキュルなど読む必要はない。
ハイデガーの記号論についても、グラマトロジーより内容の濃い議論ということはないし、
ハイデガーを読んだからといってグラマトロジーがわかりやすくなるわけではない。
そもそも、ハイデガーと一言にいうが、膨大な数の著作がある。
具体的にはどれかね。
>>389 そんなことはない。デリダとハイデガーの連関を読むことは、デリダの理解を
豊かにできる。
>>388 のいうユクスキュルの問題は、デリダにも引き継がれて
「動物」の問題を形づくっているだろ。
>ハイデガーの記号論についても、グラマトロジーより内容の濃い議論ということはないし、
>ハイデガーを読んだからといってグラマトロジーがわかりやすくなるわけではない。
こう言う問題ではない。わかりやすくなるとかわかりにくくなるとか。ハイデガー
抜きのデリダって一体ありえるのだろうか?グラマトロジーの抹消記号(信号)
とハイデガーの「有の問いへ」の「存在」にふられた抹消記号(信号)の関連性
など、挙げたらきりないぞ。デリダに触れれば、ハイデガーにも触れなくてはと
少なくとも思うはずだ。
>>388 のユクスキュルの問題はハイデガー『形而上学の根本諸概念』で
詳しく論じられているから読んでみろよ。ユクスキュルを読む必要がないとか
ハイデガーの内容が濃い薄いとか、デリダがわかりやすくなるとか、そう言う問題じゃ
ないって事が少しはわかるぞ。デリダとハイデガーのほとんど分離不可能な問題から
デリダがハイデガーに見えてきたり、その逆とかな。複雑なからみ合いを読むことを
お勧めする。
真面目なスレの流れに感動した。
>>390 388だけどホントすまんな。長文打ってもらって。
そこまでしてくれるとは思わんかった。
>>389 あなたもデリダに関して結構勉強なさってるようだから、また色々教えてくれ。
393 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 18:45:04
>>390 しっかりと文献研究をするのなら、おっしゃる通りだ。
言い方がまずかったのは謝罪する。申し訳ない。
ただ、一言。
デリダにおける動物は一つの「問題」といったものではない。
デリダの問いの原動力とでもいうようなものだ。
ハイデガーにとっての動物はやはり、人間(という言い方自体が問題だが)
に対して劣った存在者として描かれているのは確かだろう。
394 :
390 :2007/01/24(水) 18:58:53
>>393 デリダが「精神について」で、ハイデガーの「動物」に対する人間中心主義
を指摘する場面がある(石は無世界、動物は世界貧困、人間は世界形成的)。
確かにデリダが指摘するとおりでも読めるんだが、俺が先にあげた「根本諸概念」の
「動物」の章を読んでみると、ハイデガー自身そこは慎重なんだよ。
ハイデガーは、「無世界・世界貧困・世界形成」とそれ等の存在様態を提示する
のだが、はっきりとそれは「優劣ではない」、「人間が動物より高等」という意味ではない
といっている。むしろ「人間中心主義」としての通俗的な人間と動物という「位階」ではない形で
この区分は理解されなければならない、という。ハイデガーはむしろこれまでの「位階」ではない
無生物と動物、人間の存在の様態として理解することで、通俗的な優劣から
は遠ざかっていると読める。
395 :
390つづき :2007/01/24(水) 19:06:29
しかし、「世界」というか「存在」を基準にすると、それは「位階」ではない 存在様態として、無世界、世界貧困、世界形成とはいいながら、やはりハイデガーは 「世界」基準の区別をしているのは確か。デリダが、ハイデガーの区分がハイデガー自身を悩ませている と指摘するのは「精神について」でいわれているとおり。そこには無生物と動物、人間の間に 「差延」が働いているからな。ハイデガーは「差延」関係とはいえなかったわけだ。 でも、デリダはハイデガーを人間中心主義として断罪しているわけではない。 むしろ、ハイデガーが「位階」の脱中心化をしながらも、それでもなお、悩まされる「差延」を読むことで 、ハイデガーの動物論を受け継いでいるともいえる。 ここは、一挙に答えは出せない。すくなくとも、君の言う「劣った存在者として描かれている」と言い切る ことはできない。むしろデリダはそれがわかっていたはずだ。 ユクスキュルもこの問題に絡む。だからデリダにとってハイデガーは重要なんだ。
よし、皆でハイデガー読もう。
397 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 13:49:46
ユクスキュルについてなんだが、 われわれの時代においてはもっと優れた生物学の知識を得ることができると思われる。
398 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 15:48:30
しかしだね、生物学が発展することでユクスキュルの業績が消えるわけではないのだよ。
399 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 15:51:43
ユクスキュルやこのスレのデリダ、あるいはドゥルーズを通過したなら 生物にこだわる必要はないと気づくはずだ。 植物の生成変化、分子の生成変化などありますからね。 それらの視点を与えたユクスキュルはやはりすごいすごーいのだ。
400 :
400の貴公子 :2007/01/28(日) 15:52:51
頂いていきますよ、と。 あーポケモンしてー。
どうせハイデガーでユクスキュルとか言ってるやつって木田元の解説本あたりの受け売り。 ハイデガー(の解説本)が言ってるからユクスキュルゆくすきゅる言ってるだけだろ?
402 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 15:56:13
>>401 お前がそれしか読んだことないからだろ。
無知をさらすなよ。
ポストモダンの限りなき相対化に歯止めをかけるのがユクスキュルですからねっ。
今でも十分に通用するわけです。
>>402 >ポストモダンの限りなき相対化に歯止めをかけるのがユクスキュルです
これこそ典型的な無知の発言だろ。
そもそもおまえはユクスキュル読んでるのかよ。
まともにユクスキュル読んでたらそんな発言はできない。説明できもしないくせに。
404 :
390 :2007/01/28(日) 19:29:51
>>401 >>403 俺は不勉強だから解説本の存在は知らなかった。別に解説本から入っても
いいとは思うが。デリダのハイデガーの動物論批判の原典をさがしたら「根本諸概念」
にたどりついて、そこの動物論読むと、ハイデガーは単なる「劣った存在者」と動物をおいている
わけでもないんだなと、わかっただけだな。そこでハイデガーはユクスキュルにかなり
言及している。そしたら、ドゥルーズもアガンベンもこの議論にかんでいるということが、
わかった。俺は読んだつもりでいたんだが、この議論からさかのぼってやっと気づいた。
ユクスキュルもそれで始めて、文庫で読んだだけだしな。その程度のことだ。
ただ君は見苦しいけどなw
405 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 21:46:18
>>404 オレもドゥルーズとユクスキュル一緒だと思った。
機械も生成変化も環境世界に大きく影響受けてるんだろう。
アガンベンはまだ勉強不足だからわからん。
>>403 わからん時は素直にそう言った方が可愛いぞ。
教えてくださいって言えってんだ。
406 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 23:07:22
ハイデガーの動物は死なないんだよ・・・。
407 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 23:29:40
>>402 >ポストモダンの限りなき相対化に歯止めをかけるのがユクスキュルです
笑えるwwww
>説明できもしないくせに。 説明して欲しいようだからするわ。 ポストモダンの際限なき相対化を止めるのはヒトの身体だって意味だ。 自分の身体を離れて思考することは難しいからな。 主体などない、と言う相対主義はヒトという生物でなければいけない以上 常に主体化されるためそこでストップがかかる。ってことが言いたかったんだが。
>>408 ポストモダン=主体などない=相対主義
この短絡が完全に通俗的で萎えるな。
少なくともデリダはとは全く関係ない話。
多分ハイデガーとも関係がないだろう。
そういう生物としてのヒトとは一線を画すのが現存在だからな。
現象学が影ながらひきずっていた「自同者」の理論を告発するレヴィナス-デリダ 彼らの議論をちゃんと見れば分かるように、「ポモ理論=主体の相対化」ではありません いくらなんでもそんなに単純じゃないです
411 :
考える名無しさん :2007/01/29(月) 00:47:38
ポスモダの主体や人間などは、そもそも、その「イメージ」だったんだろ。
412 :
考える名無しさん :2007/01/29(月) 01:03:06
>>412 わからんわからんって言ってるだけじゃねーか。
>>409 デリダとも関係あるだろ。言語の意味を決定するのは人間の身体なんだから。
身体のメタファーから言語は決定されざるを得ない。
メルロ=ポンティの「肉」を考えてもらえば分かると思うのですが 狭義では現象学的な還元の操作、広義では知的営為から導き出されるような そうした単純な「身体」の話をしているのではないんですけど・・・
>>414 >言語の意味を決定するのは人間の身体
根本的に間違ってるな。身体論やってる奴でもここまで馬鹿じゃない。
アフォーダンス位のことは言うだろう。とは言え、
デリダもハイデガーも身体が意味を決定するなどとは絶対言わない。
言語の意味を決定するのは、敢えて言えば「存在」であり、
「存在」にバツ印が付くところの「差延」だな。
417 :
考える名無しさん :2007/01/29(月) 22:20:22
おいおい、意味は決定しないけどな。
>>416 知らないのにアフォーダンスとか言うなよ。
デリダやハイデガーが身体が意味を決定するとはそりゃ言わないだろ。
しかし意味は決定されなければ人間は生活なんぞできん。
そしてそれを決定する大きな要素が身体だ。
「私にはわれわれがはっきりと明言できるような「事実」などあるとは思えないのです。 マルクス主義を代表するテクストとか、この矛盾とか、この弁証法による解決とか 形而上学のこの支配とかいった、ほかのものの存在を許さぬようなものの存在が私には信じられないのです。 しかし他方で、レーニンにしたがって次のようにいうこともできるでしょう ―物質はそれに「固有の性質」を持っており、「客観的な現実としてわれわれの意識の外部に存在する」と。 この提言に含まれたすべての要素が、それぞれ容易ならない問題を定義することは、認めなければならないでしょう」 (ジャック・デリダ 『ポジション』) 「現前」、そして「意味」という複雑な織布を構成するかぎりにおいて「身体」は尊重されるべきものだと思います しかし、「身体」が他(「身体」以外)のものの存在を許さない根源の言説を構成した瞬間 「身体」はデリダが懸命に解除しようとした西洋形而上学の罠にはまり込んでしまいます また、「意味」の決定(?)にしてもそうなのですが、デリダやクリステヴァを挙げるまでもなく ヴィトゲンシュタインの教える―学ぶの理論(言語ゲームという観点)からしても 意味の先験的な一義的決定というものが揺さぶられ コミュニケーションにはつねに不安がつきまとっていることが垣間見えます
420 :
考える名無しさん :2007/01/30(火) 06:25:46
亡霊性というのは、身体と関わるよな。
亡霊という言葉自体も身体がない、って意味だからな。 こんな風に言語にしても意味にしても、まず身体がなければ生まれない。 デリダがそれを扱ったかどうか俺は知らんな。
>>418 >デリダやハイデガーが身体が意味を決定するとはそりゃ言わないだろ。
なぜデリダやハイデガーがそう言わないのかよく考えてみることだ。
ここはデリダスレだしね。
>>421 デリダのいう身体は亡霊としての身体だから、
生物としてのヒトが生きているような身体とは全く違うんだよね。
だからデリダはメルロ=ポンティを厳しく批判している。
それを一緒にして身体論として語られても全く見当違いなものになる。
423 :
考える名無しさん :2007/01/30(火) 19:49:40
ここで対立しているかに見える、いわゆる亡霊の身体と、意味を決定する(決定しない)、 身体なき身体性のようなものはそんなにかけ離れても無いんじゃないのか? 現前することによって消える身体、パレルゴン。そう言う意味で、身体はデリダも 問題にしているからな、テクストという身体、資料体、「詩は哲学の身体である」。 ナンシーの「コルプス」。 メルロポンティを批判しながらもその「肉」はやはり相続しているしな。 生物学的な肉体とか、即時的な実体としての身体、本質とはデリダは違うにしてもな。 そう言う意味で、身体性が意味を決定する(決定しない)というのは、そんなに間違って ないと思うんだがどうだろうか。むしろ、デリダは「身体はない」とは絶対に言わないはずだし。
424 :
考える名無しさん :2007/01/30(火) 22:14:56
つーかデリダスレだからってデリダの思想しか扱っちゃいけないことないだろ。 ちょいちょいここはデリダスレだぞって言うやついるな。
>>424 誰もデリダしか語っちゃいけないなんて言ってないだろ。
デリダに無関係なことは話すなと言っているだけ。
426 :
考える名無しさん :2007/02/04(日) 15:41:50
あのー テレビというメディアはエクリチュールなんでしょうか?
この世にエクリチュールでないものなどない。
428 :
考える名無しさん :2007/02/04(日) 18:53:40
>>427 女子高生が出てきて「だるいー」とか言ってるのもエクリチュールなんですか?
当然です。
430 :
考える名無しさん :2007/02/05(月) 03:49:35
じゃパロールはエクリチュールですか?
パロールとイコールにしてしまうことはできないと考えているが 確か『声と現象』に「音声的エクリチュール」の話が出てくる
432 :
考える名無しさん :2007/02/05(月) 13:14:27
( ´,_ゝ`)プッ
『 精神分析の抵抗 』(仮) ジャック・デリダ/鵜飼哲ほか(訳) 予価2,520円 (2007年4月 刊行予定)
434 :
考える名無しさん :2007/04/24(火) 12:11:04
age
436 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 13:56:36 0
「精神分析の抵抗」購入あげ
437 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 17:26:07 0
間違って『精神分析への抵抗』購入あげ
438 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 17:36:19 O
十川幸司のその本まだ売ってる? それもう版元品切れのはずなんだけどw
十川の本じゃなくて、デリダの新刊のことだろ
あぁそうだった。 仮に版元品切れでも本屋によってはずっと売れなくて残ってる可能性もあるし、別に不思議ではない。
442 :
考える名無しさん :2007/07/07(土) 12:20:14 0
本日15時より、一橋大学で、 デリダ派の有名人 ガヤトリ・スピヴァクが 「人文学における学問的アクティヴィズム」 と題して講演をする模様。 行った人レポお願いします。
ユクスキュルがハイデガーに影響を与えた ことを指摘されたのは木田元先生の独創なのでしょうか。 だとすれば、けっこうすごい業績だという気がするんですけど。
アホか。そんなことにも気付かんヤツはお前だけだ。 ユクスキュルの系譜を辿らないでモノ考えようなんて不勉強どころじゃすまんぞ。
水声社 『絵葉書 1』 ジャック・デリダ/若森栄樹、大西雅一郎訳 7/- \4,200
トンでも思想のポストモダンを広めるやつは全員詐欺師です。
>>445 これって、Carte postalの訳?
448 :
考える名無しさん :2007/08/04(土) 00:47:51 0
それ以外の何に見えるのだ?
ホント、それ以外なにに見えるんだ
まあ、carte postalは、「絵」葉書 と逐一一致するわけではないので、そう理解しようかな。 郵便カード、とか訳すと今度は変な日本語になるし。
郵便葉書、じゃダメなの?
ジャック・デリダ著 『イスラームと西洋』 アルジェリア生れのデリダの平和を望む遺言 A5 210頁 1785円 978-4-411-00377-5 駿河台出版社
454 :
9月下旬の新刊 :2007/09/21(金) 09:25:52 0
とうとうキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!! 藤原書店 『マルクスの亡霊たち』 ジャック・デリダ/増田一夫訳・解説 9/- ¥5,040
455 :
考える名無しさん :2007/09/21(金) 21:36:06 0
待望だな。 予約したけど、何でこんなに値段が高いんだ?
456 :
考える名無しさん :2007/09/21(金) 21:42:27 0
>>455 ぐちゃぐちゃ文句言うなら、原著のPBで嫁や!
それに値段なんて、こんなもんだろ。
ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』なんて
一般ピーポー向けの馬鹿売れ本でも、5000円はする。
457 :
考える名無しさん :2007/09/21(金) 22:11:24 0
おいまじかよ。 パトチカまだ買ってないのにぃ・・・ また5000円の出費か、貧乏学生にはつらいなぁ。 買うけど
他のデリダ本のページ数と価格と版元知名度のバランスから考えても、藤原の今回の値付けはちょっとひどいと思ったw 青木書店が『来るべきデリダ』を2800円で出してるってのに!
藤原書店はいつも高いよ。 紙が異様に厚くて無駄に金かけてるんだよなぁ。
461 :
考える名無しさん :2007/09/22(土) 15:49:52 0
>>460 でも、そっちのほうがいいじゃん。
ちょっとした合間に読書するとき、新書やPBのような安物の造り
だと他人に見られたりしたとき「ぷッww」て笑われそうで怖いし。
特に法政大学出版は本当に造りが雑で、教養厨丸出しなイラストが
ついてたりで、あまりに痛々しくて外で読めない。
そんなスノッブな根拠は要らん。
法政はいっつも同じ装丁(最近はちがったりすることもあるけど)だけど、いい本出してるし文句言う気にはならないけどなぁ。 なんとなく翻訳がちょいアレなのが多い気がするけどね。 まぁ翻訳出してくれるだけありがたいから、文句言えないけど
464 :
考える名無しさん :2007/09/22(土) 22:41:46 0
バーナールの『黒いアテネ』第一巻が翻訳出たって。 詳細は自分でぐぐってね。 それと先に刊行されてた第二巻も藤原出版で上巻5000円下巻6000円 ってかなりのメジャーな本の割りにめちゃくちゃ高かった。 でも、この装丁大好き。 六法や岩波の哲学辞典や弁当、ノートPCなどをひっちゃかめっちゃか 入れてる俺のリュックに入れても、傷一つないww
バナールっすか。いわゆる数学的清廉さのある真正な起源としてのギリシアではなく、 むしろアジア性があり、エジプトやアフリカ諸文化との購入が既にしてある、みたいなギリシア観を持ち出したので有名な論のやつかな。 まだ訳されてなかったというのが驚愕だった…
466 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 15:55:27 O
一巻と二巻で出版社も訳者も違うってどういうことよ?
>>461 そんなことを気にしてると、デリダの亡霊に呪われるぞ。
468 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 23:27:11 0
>>466 だって、1巻は原著出版から約10年後ぐらいに
翻訳開始して10年以上かかってるみたいで。
そんな遅い仕事してるから逆転されたんだと思う。
それに俺はFランク以下の専門学校で
繊維学専攻だから哲学なんて難解なものは片手間じゃ知り得れない。
リベラルアーツの一環として学んでる程度だし。
蛇足だが、英語できるならMary Lefkowitz,Maclean Rogersの
『Black Athena Revisted』なんかも解説書がわりにして
並行して読むのも面白い。
>>467 デリダの亡霊って何のメタファー?
469 :
468 :2007/09/23(日) 23:35:45 0
>>463 カイヨワの『戦争論』なんて装丁酷いよ。
白地に赤のスケッチ画が書かれてて、日の丸を連想させるデザイン。
タイトルも『戦争論』だし、読まれてるところをカイヨワなんて
知らない人がみたら、「右傾化した若者」っぽく見られてなんかイヤだ…
トドロフのコンスタンの伝記も表紙に花柄の紋様が散りばめられてて
思春期の女の子の読み物っぽくて、可愛らしすぎて、なんかイヤだ…
法政出版はデザイニスト変えたほうがいいと思う。
「デザイニスト」っていうのか?「デザイナー」じゃないの?
デザイナーだよな。ところで、「ブックカバーかければ?」「表紙はがして持ち歩けば?」と すかさず突っ込まないこの板はいいな。脱線で盛り上がるぐらいならスルーするというこの矜持。
基本的に本屋さんのカバーがかかってるから気にならない。
473 :
考える名無しさん :2007/09/24(月) 22:43:28 0
被害妄想っぽいけど、馴染みの本屋(喜久屋書店)で俺って絶対にキモがられてて、 本屋でカバーをつけてもらえない。 他の人にはつけてるところ見たのに、レジで俺の番になると 「カバーお願いします」と言っても、「ただいまカバー用紙をきらしております」 と早口でレジ打つのねえちゃんから言われるし。 ずーっと顔を下に向けたままだし。 絶対にキモがられてるよね。 なるべく、社員(男性)さんがいる開店時か昼食時か店閉め前に行くようにしてる。 一応、繊維学専攻ってこともあって身だしなみには気をつけてるつもりなんだが… こういうとき、デリダ先生ならどうするだろ? ヴィトゲンシュタイン先生なら例の「火打ち棒」暴れるんだろうけど。 段々話の内容が脱線の度合いが色濃くなってきたな…
ちくま学芸文庫レベルのカバーデザインならいいんだけど・・・
475 :
考える名無しさん :2007/09/24(月) 23:02:20 0
>>474 どんなの?
できれば、画像うpるかアマゾンかどこかのリンクお願いしまつ。
>>473 安心しろ、俺なんてまず間違いなくつり銭は手渡しなんてことないし。
電車では座ると必ず横には席が空く。それくらいキモイ。
デリダ先生ならなんつうか知らんけど、キモイからカバーかけないってのは一つの応答なのかね?
『法と力』を読んでガックリ。 デリダってバカなんだな、無駄話が大杉。
478 :
473 :2007/09/25(火) 01:12:58 0
>>476 心中お察しします。
レジ打ちのねぇちゃんからすれば、「私の視覚範囲内から早く消えて欲しい」
ということなんだと思う。
俺も電車で隣の席が空く…キモいっていうのも障害者認定してくんないかな?ww
>>477 だからこそ、哲学書なのに行間を読む楽しみがある。
>>478 デリダは哲学者じゃないし。
批評家か執筆家がいいとこ。
ちなみにこれ欧米アカデミズムでの多数評価だから、
俺に文句言うなよな。
行間というより、想像力を駆使して自分で勝手に考えるしかないじゃん
あの書き方は。
480 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 01:40:45 0
>>479 教えてくれてありがとう。
じゃぁ、欧米の小林秀雄みたいなものと考えればいいのかな?
>>480 いや、小林秀雄ではないみたい。
正直言うと、「なに言ってんだろ、こいつ」的な色合いが強い。
クワインはデリダに対して中立的で対外的には評価していたけれど
これは方便で、パトナムなんかに「雑な仕事ですね…」とか言ってたらしい。
ソールAクリプキは学生にデリダについて聞かれて、
「彼は何も言ってないに等しい。だから答えようがない」って言っているしね。
アメリカのアカデミズムでは思いの外評価が特に低い。
482 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 02:08:39 0
>>481 ここまで評価が低いとは思わなかった…
クワイン先生も大好きだったのに、氏がこんなこと言うとは。
じゃぁ、バーリンあたりもアメリカあたりじゃ評価は
低いのかな?
481さん詳しいですよね。
そういう学者間での評価って、どうやって知るのですか?
僕はリベラル・アーツの一環として哲学を学びたいのだけど、
本だけじゃなく、論文も読まなければならないのでしょうか?
>>482 バーリンについての評価は知りません。
やはり分析哲学の本国では批評系はどうも分が悪いみたいですよ。
>そういう学者間での評価って、どうやって知るのですか?
ああ、単純に後輩がアメリカに留学していたんで聞いたり、資料を見せて
もらっただけです。
>僕はリベラル・アーツの一環として哲学を学びたいのだけど、
>本だけじゃなく、論文も読まなければならないのでしょうか?
どうでしょうねえ?
ただこれはその後輩から教えてもらったことですけれども、クワインはこう言ってたそうです。
「全ての本を読むことは私にはできません。全てのことを頭に入れることも私にはできません。
しかし、全てのことについて考えることは、私にもできます。」
含蓄のあるお言葉ですが、クワインはどうも「他人の考えを知ること」よりも「自分で考える
ことの重要性を学生達には常々説いていたようですよ。
参考になりましたかね?又聞きですみませんです。
484 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 03:02:48 0
>>483 丁寧なレス、ありがとうございます。
批評系は評判悪いのですか…読み物のジャンルを少し刷新した
ほうがよさそうですね。
自分で考えることですか…僕の考えは休むに似たりだからなぁww
まだ全般的に基礎的な知識が不足してるので、それから再度振り返って
みようと思います。
というか、流石デリダ板ですね。
こんなに丁寧なレスをもらえたのは久しぶりです。
>>484 いえいえ、とんでもないですよ。
又聞きですから、後輩の。
デリダがアメリカでの評判を決定的に落としてしまったのは、「デリダ−サール論争」
だそうです。
デリダの『有限責任会社』で書籍化されていますが、サールは自分の論文掲載は一切
断ったそうです。
私もサールの気持ちはよくわかりますね…。
ご存知のようにサールは今や分析哲学の重鎮です。
デリダも喧嘩した相手が悪かったですね。
それを受けての例のクワインがパトナムに対してぼそっと言った言葉らしいです。
>>479 みたいなことを無責任に書く人間が丁寧なレスをしていると思われる
このとんちんかんなやり取りをする程度のやつしかいないのか。
また聞きじゃなくて有限責任会社くらい自分で読んでから批判しようぜ。
あと、どういう意味でサールの気持ちがわかるのか。恥さらしもいいところ。
487 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 04:20:17 O
やっぱこの手の話題は、デリダフリークには耳痛いみたいだね。 勿論きちんと『有限〜』に当たるのも重要。 しかし、又聞き、と切り捨てるのでは無く、 そういう評価も広く共有されてるって現実もきっちり把握しとこうぜ。 感情的に「恥さらし」なんて言ってるのを見ると、まるで教祖が批判されてキレた信者みたいだよ。 君もデリダ読みの端くれだろう?
488 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 09:36:07 O
あの本読んだが デリダがサールを論破して サールは逃げた
489 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 15:43:20 0
サールはデリダに論破はされてないだろ。
サールはデリダとの中々かみ合わない論戦に、またそうした状況を作り出した
張本人のデリダにあきれちゃったわけでしょ。
サールは分析哲学だからシンプルな表現でデリダにシンプルにつめよる。
デリダはなんともまとまりのないことばっかり言って「口答え」する
反論でなく「口答え」だからね、サールだっていやになるよな。
デリダ全般についてはデリダの邦訳された全著作を読んでないから俺の意見は言えないけれど
『有限』はデリダによる欠席裁判と編集作業による「ルサンチマン」の発露だろ。
妄信的デリダ信者を抜かせば、それは極めて多数を占める世界的な評価なんじゃないの。
だいたいさあ、デリダ教信者ってなんで「是々非々」っていう態度がないのかね?
デリダを本当に好きで読んでる俺なんかにはものすごくウザイんだけどな。
「勝ち負け」みたいなことしか言えない
>>488 なんかはサールの本だって読んでないんだろ。
だってさあ、日本人学者にすら直接会って批判されて黙り込んじゃってたのしってるよな、
もちろん?デリダデリダって言っててそれ知らないんなら、信者に問題ありだぜ。
ちなみに「I」「M」「T」「K」の四人ね。
何かにかこつけて強く主張したい事があるようだが ブログにでも書いたらどうです?
>中立的で対外的には評価していた アメリカでデリダに何らかの賞だったかを与えるときがあって、クワインが批判側にいたような気がするんだが…。 この時期のジャーナリズムでのデリダの語られ方は、アメリカでのアカデミズム一般における受容を物語っていたような気がする。 あとは、ローティのニーチェへの評価なんかとある程度似ているんじゃないかな。 「哲学なのだろうかこれは」という。と同時に、デリダ派も一定いる、という風土でもあり、 ニューヨークタイムズでのデリダ訃報記事への反対署名は、アメリカ内でのそうした層がいかにいるかを見せてつけていた。 余談だが、最初期のデリダがクワインの論文を仏訳してたりもする。
あと、『有限責任会社』でのデリダからの批判の仕方については、 「あの書き方でいいのか」ってのが一つあるんじゃないかな。 サールとデリダはいわば、論旨がずれてるわけで、どっちもどっちだという気はするんだが…。 俺はデリダの方が好きではあったりする。 ただね、分析哲学におけるサールのポジションと影響力とサールにおける論旨の必然性と、 デリダにおけるあの議論の必然性というのがあって…(こんな軽く「必然性」と言ってはいかんだろうけど)、 「論争」というものが往々にしてそうであるように、各々のやりたいことが違っているために、 単に騒動と化してしまうという面になり、両者どちらかが「こっちに分があり」と言う局面に陥りがちだよね。 よって 論旨:それぞれにおいて二人の主張は意味がある 批判方法:アカデミズム内のルールに沿ってるかどうか だけの問題になる みたいな、自分で書いててもどうしてもうんざりするような、不毛な方向に議論が主売れbンするような気がするな。 ただ、デリダのオースティン読解の骨子を分析哲学側が興味深くとりあげたといったような動き(つまり三つ目)があったのかどうかは興味あるけど。
主売れbン → 収斂 中身のない長文でも申し訳ない
494 :
486 :2007/09/25(火) 20:25:48 0
>>487 どういうやつを信者と呼ぶのかは知らないが、デリダの文学主義的と
呼ばれる問題、ハイデガーすれすれのレトリックの問題・・・さまざま
デリダを批判する切り口はあると思うが、少なくとも、そういう批判に対して
耳をふさげとは一言も言っていないつもりだ。
しかし、読んでいない「有限責任会社」のサールの気持ちがわかるって、
あなたはテレパシーでも使えるのでしょうか?たしかにデリダはテレパシー
を分析していたわけで、遠隔−読解というのがあなたに働いてるのかも知れないけどw
サールの問題にしろ、デリダはオースティンの言語行為論の「区分」を脱構築
しようとしているのであって「行為遂行性」をデリダはとりこんでもいるわけだ。
遂行性と確認性のあいまいさを否認するサールの無意識を精神分析した
テクストともいえるからな、「有限責任会社」は。
英米の分析哲学からのデリダの相対化というのは興味あるし、批判すべき問題は
あると思うが、並行性もあるわけだろ。クリプキと固有名詞をめぐる並行性、
「ウィトゲンシュタインとデリダ」という本もあるが、そこに並行性を求めることだって、
可能なんだからな。
一番恥知らずだと思ったのは、また聞きだから俺に文句を言うなと言いながら、
読んでいないテクストでデリダを批判するという卑怯な態度だな。批判するにしても
引用まではしろとは言わないわけで、何らかの論点についていうならわかるけど。
後輩の話だの、また聞きだの、お前恥ずかしくないのか?
495 :
486 :2007/09/25(火) 20:31:04 0
後この流れでいけば、
>>492 がまとめてくれたので一応は、不毛な
テレパシー合戦をすることはないと思うな。
サール・デリダ「論争」について陥りがちな不毛さを措くと、 >平行性もある この点だよね。たしかにステーテンの議論や、ニコラス・ロイルのデリダ本の言及でも 見え隠れするものがあって、意外に対立だけではない局面もあるんじゃないかな、と思わせされる。 そんな俺は、ティモシー・クラークのハイデガー本について宮崎裕助がSITE ZEROで書いたレヴューを読んで、 いそいそと読み始めている。アメリカと言っても一応いろいろいるんじゃないかな。 まあ、ロイルやクラークも英文学研究のポストにいるし、トマス・ロックモアもドイツ観念論研究の部署にいるようだから、 アメリカでの哲学研究のポストにはあまり食い込んでない印象は受けるが。 また違う部署となると、佐藤啓介が紹介しているような、マーク・C・テイラーなどのポストモダン神学のラインかな。
>>484 もちろん邦訳の「有限責任会社」は読んでるよ。
それから
>>487 は別の人だから、念のため。
錯綜してるから誰が誰だかわからないが、又聞きの件は実際本当にそうなんだからしかたないだろ?
向こうでコピーしてきた夥しい数の資料関係を説明を受けながら教えておもらったわけ。
>読んでいない「有限責任会社」のサールの気持ちがわかるって、 あなたはテレパシーでも使えるのでしょうか?
コンテクストから読了済みってわからなかったか?すまなかったな。
でも普通わかると思うけどね。
>遂行性と確認性のあいまいさを否認するサールの無意識を精神分析した
>テクストともいえるからな、「有限責任会社」は。
それがデリダのピントがずれているところだと思うけれどね。
問題は「オースティンの言語行為論」が発端でしょ?
それをすり替えた議論にするのは、デリダふだからとかいうことではなくて、
「・・・議論として、論理学的観点からみても奇怪である・・・」(クワイン)という発言の
とおりであると思うけれども。
>>486 は冷静な視点を持つとか議論には不向きなタイプのようだね。
君のようなタイプって「デリダ信者」というより「デリダかぶれ」だよね実際は。
しかも同じことを何回も繰り返すだけ。
粘着気質だけは、デリダと同じだと思うよ。
ちなみに、
>>489 が俺には一番近いいけんだけれど、「K」って誰だろう?
それはわからないなあ。
498 :
486 :2007/09/25(火) 21:59:36 0
499 :
486 :2007/09/25(火) 22:03:43 0
>>497 あと間違えてほしくなかったら、一応何番かくらい便宜上識別できるように
したらどうだろう。論理学的な観点からも。
あと、また聞きからの批判を擁護するとはご立派な論理性ですね。
無責任極まりないやつが分析哲学と思われないようにもっとしっかりしてほしい。
少なくとも、分析哲学も一枚岩ではないということをもう少し勉強すべきではないだろうか。
ごたくはどうでもいいんだよ
500 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 22:25:29 0
>>486 はさあ、何が言いたいのそもそも?
さもご立派な論を立てているかのごとくいってるけれど、デリダをクワインが批判したら、
パトナムが同意したら、アメリカのアカデミズムでは不評という事実を披露したら、不愉快
だから、いろんな対抗レスに対して毒づくと。
「ごたくはどうでもいいんだよ」って誰にどういう趣旨で言ってるのかなあ?
文章内容が滅茶苦茶じゃない?
誰もあんたの見解を問題にして、あんたの人格を攻撃してるわけでもないんだし。
発狂してわめくほどのレスじゃあないんでは?
わけわからないよ、あんたの異常反応は?
501 :
考えない名無しちゃん :2007/09/25(火) 22:37:15 0
フランスの左派系哲学者でエコロジストのアンドレ・ゴルツ氏(84) と妻のドリーヌさん(83)がパリ南東のオーブ県にある自宅で並んで 死亡しているのを近親者が発見した。 心中したとみられる。 AFP通信が24日報じた。
502 :
486 :2007/09/25(火) 22:42:38 0
>>500 信者とかかぶれというレッテルだけで苦しまぎれに乗り切ろうとしているだけで
何も言ってない。唯一いったのは、また聞きでもいいじゃないかっていう馬鹿な発言だけ。
まずそれについてきっちり説明してから、大きな口をたたくこと。
俺への応答としては
>>496 のきちんとしたレスだけで十分尽くされているので、
ごみみたいなゴシップでの立論は何にもいみはもたない。デリダと分析哲学
の並行性、分析哲学とひとくくりにすることの危険性・・・などなど、俺の興味と重なる
所が参考になった。
少なくとも、また聞きや、読んでいないサールの気持ちがよくわかる
テレパシーの持ち主をどういう理由で擁護できるのか教えてくれよ。
お前の、意見が近いから賛成するっていう節操のなさは、いかがなものなんだ?
俺は何度でも言うが、デリダの文学主義的だったりハイデガー的な
レトリックの危険性がないとは言ってない。
>>496 の出した、ロックモア
によるデリダの批判も、またハイデガーのテクストに対する政治的な介入の問題
なども考える必要はあるとも思っている。
問題は読まずにサールの気持ちがわかったているかぶれでも信者でもない
テレパシーの持ち主のご都合主義、これはお前のご都合主義でもあるが、
それに対して形式的に切れてやっているんだから、早く気づけよ。
503 :
考えない名無しちゃん :2007/09/25(火) 22:54:56 0
>>486 しつこくて本当に申し訳ないんだけど、おまえの言ってることがさっぱりわからんのだよ?
あやまって済むなら、何かについてこの場で謝罪はさせてもらうよ、もちろんね。
その「ご都合主義」とかさあ、唐突になんなの?
「擁護」ってなによ?
「それに対して形式的に切れてやっているんだから、早く気づけよ。」これも
全体の文脈から完全に独立しているねえ?
おまえさあ、日本語はちゃんとできるのか?
ひどいよ、今回のレスは特にひどい。
なにを激怒してんの、このスレで?おまえさんニートだろ?俺は某シンクタンクの
研究員をやっているけど、仕事くらい教えてくれよ。
504 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 22:57:55 O
「また聞き」という事態に過剰に反応・嫌悪を示し、 生のテクスト体験との階層秩序的二項対立を作り上げ、 伝聞は二次的な、汚染されたものであるとして、ナンセンスなものとして葬り去ろうとする。 そこには一体どんな欲望が働いているのだろうか。
「サールの気持ちもわかる」程度の発言のあげあしとっておもしろいのか? 又聞きに基づいたその人の意見なら疑問も持つが、又聞きを紹介したに過ぎないのだからそんなに噛みつく必要性はないのでは?
んだね。あと、俺も
>>496 で大した議題を言えてるわけでもないので…。
507 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 23:11:54 O
まあとりあえず落ち着け
508 :
486 :2007/09/25(火) 23:12:34 0
>>503 お前は馬鹿だからもう放置でいいが、お前が一番取り乱してるレスしてるよなw
俺はシンクタンクとか言い出したらもうおしまいです。ありがとうございました。
>>504 「伝聞」だから俺は全く責任をとれない、でも、読んでないサールの気持ちはわかるし、
そこからデリダのことも読まなくてもわかる、という状況と、「伝聞」、「噂」の構造的
問題を一緒くたにして、それを利用するお前の欲望をまず考えたほうがいい。
デリダが生のテクストと「伝聞」、「フィクション」の分離不可能性を述べることと、
伝聞だけで話すやつと、少なくともデリダのテクストに基づいて話すやつとの
ここのでの対立を無化したらだめだろ。そういうのは脱構築とは言わない。
何でも一緒なんですよっていう相対主義的なバカ読解こそお前のようなへたれがやる。
お前もまた無責任の方便としてのデリダ利用をしているだけだ。
さもそれっぽく書いてもお前の無責任さは隠せないよ。まずお前の
その対立無化の欲望こそ分析されるべきだろう。
509 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 23:20:28 O
まあまあ、
>>497 も読まずに批判してるわけじゃないみたいだしさ、
とりあえず落ち着きなよ。
510 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 23:24:48 0
511 :
考える名無しさん :2007/09/25(火) 23:27:52 O
いわゆる「分析哲学」と「ポスト構造主義」の対立みたいに見えちゃうから、白熱してしまうのだろうか。 そこで、ワンクッション置いて違う角度からってことで、ガダマーとデリダの論争について語ろうぜ。
512 :
考えない名無しちゃん :2007/09/25(火) 23:38:02 0
>>486 そうか、やっぱりニートか。
こっちから言ってやったんだよ、図星じゃあ仕方ないよね。
名前は少しだけ違うからもう区別つくよな?
>>508 の文章も滅茶苦茶なんだもん、どうしたの?
おまは基本的に批判対象ではないし、こっちは伝聞を紹介してやっただけ。
簡単に作文できるような程度の話ははさあ、作文しなよ、ニートのあんちゃん。
こんなに短い文章すら作文に手間取るようじゃあ、笑いものだぞ。ぼく、きいてるかい?
操作子とかいう未定義の扇動用語はむやみに使わないことね、まず。
脱構築の意味は結局デリダも定義出来なかったしね。
それから後半は
>>504 へ「へたれ」か(笑)
失礼な奴だね、ぼくちゃんは。
手に負えなくなると、投げ出すニート特有の「切れてしまう状態」。
もう俺以外の人にも程度がみぬかれちゃったね。
こんな2chなんかで、マジ切れする奴ってまだいたんだ。
面白かったよ、いまさあ、会社の連中が見て大笑いしているんだけど、
おまえみたい本当に程度が低い人間にはみんな優しいよ、荒らさないから
誰もね。さいなら、ニートのヒステリー坊や、バイバーイ(笑)
彼はただ「シンクタンク」言いたかっただけと違うのかと まあ、サール・デリダ論争に関しては 論争というわりには論が噛み合ってないというのが大方の見解じゃねーの?
514 :
486 :2007/09/26(水) 00:04:13 0
>>513 ハイデガー・カッシーラー論争も読んでいてなんて噛み合わない
論争だと思ったもんだが、つまり用語の意味合いが全く違う。
カッシーラーは現存在なんて全く想定していないのに、ハイデガーは
現存在から話し始める。あれは歴史的な新カント派との絡みで読めば
いろいろ読めるとしても。
じゃあ、サールとデリダは全くかみ合ってないかというと
>>492 のいういみで、
あれをアカデミックの枠内でかみ合っているかといえば問題がある。
デリダの応接が公平なものだったかも含め。
でも、思想的な並行性はあったともいえる。デリダは行為遂行性、言語と行為の
間を考えてたわけで、サールとデリダの間にはテレパシーがあったと考えてもいいとは思うんだよね。
ちょっと上の方でクリプキとデリダはまったく相いれないようなレスがあったけど
読んでみると固有名の問題で重なっていると読める。そういう並行性を
見つけるというのは意義があることだと思う。
蛇足をつければ、シンクタンクとニートという対立軸をもってくるようなやつが、
まともに読めているとは思えないけどね。シンクタンクなんて器用な人がなるもんでしょ
515 :
考える名無しさん :2007/09/26(水) 00:45:17 O
君ら、そろそろいい加減にしときなさい。
503=512の必死ぶりにワロタw
↑↑ 同感ですね でも定期的に湧いてくる刺客を返り討ちにしたようでいて 何にも理解していないデリダニ513と514ですか まあ痔炎ですけどね哀しい一人芝居さね 一句 デリダニは 秋の虫なり 潰して遊べ
518 :
考える名無しさん :2007/09/26(水) 15:55:29 0
>>517 あはは、デリダニかあ、上手いこと言うじゃん
でもさあ、そのデリダニは悪気はないと思うよん。
そいつ、空気読めないだけだからねん。
器用コンサル氏もさあ、せっかくいいレスしてくれたんだから
もっとオレたちの知らない伝聞おしえてよ。
デリダニ氏は無視すればいいじゃん
オレも伝聞を聞きたいよん。
ま 翻訳本も誰かの翻訳だから
伝聞のようなもんだけれどねん♪
「郵便」じゃなくて「伝聞」ね、 いい言葉がこのスレから誕生したな。 じゃあ、以下みんなで、 「伝聞」について語ろうじゃないか!
お断りだ
522 :
考える名無しさん :2007/09/26(水) 18:20:18 0
「伝聞」か、難しいテーマになりそうだな…。 器用コンサルが言ってた「伝聞」は普通に使う〔伝聞〕とは確かに違うよね。 「メタ伝聞」と言い直したほうがはっきりしそうだ。 デリダニが批判した《伝聞》は〔伝聞〕に近いように思える。 器用コンサルの「メタ伝聞」とはどういうことか、つまり語の意味の側面が 明らかにスライドしているということだ。 ラカンとソシュールはこの辺の定義が違うから、ここではソシュールの意味での上記述としよう。 ではデリダニは器用コンサルの「メタ伝聞」に気づいていなかったのかというと、そうではない だろう。むしろデリダニは器用コンサルの「メタ伝聞」を受け取っている。しかしそれを無視した。 これは戦術的なものだろうか、そうではないみたいだ。とするとデリダニは器用コンサルの「メタ伝聞」 をあえて隠蔽して〔伝聞〕という常用漢字の意味であることを強行した。 隠蔽するということは都合が悪いから隠蔽したわけである。 思い切って核心に一足飛びしよう、器用コンサルのディスクールはデリダニにとっては羨望の他者のディ スクールであり、器用コンサルは「父の名」としての存在とも化したのだろう。 俺の「伝聞」序章のほんの一部はこんなところかな。
「論争」の不毛さ といわれた路線そのものをやってる馬鹿がいるな。 こういう展開、こういう言及の対象にされるがゆえに「不毛」だといわれたはずなんだが。
524 :
考える名無しさん :2007/09/26(水) 19:38:50 0
>>523 へ
違うよ
「論争」には「不毛な論争」と「重要な論争」がある
どちらも結果であり、解釈する人間ごとに違う
「不毛」だといわれたはずなんだが→「不毛」だ といわれた はず なんだ が
上のように文を分解してみよう
断定 伝聞 不確定 断定 疑問
このように単純に一文を抜き出しただけでも筆者の「心の揺れ」が見て取れる
この筆者(推定デリダニ)は自分の意見がが決定されてしまうことを極度に恐れているのだ
不安なる「自己」の表出は「断定」し「負けない」ためにはあらゆる表現を駆使する
しかしそれは意識的行動ではない
「負けない」ための「必死の抵抗」は自らの論を分裂させる
そして筆者(推定デリダニ)はシュレーバーのように「言葉」ばかりか「存在」すらも喪失する
そう、これが「逃走犯」の悲しい末路なのだ
筆者よ、これを「明記」しさらに「銘記」したまえ
精神の自死から逃れるためにはそれしかないのだから
き‐よう【器用】[名・形動] 1 からだを思うように動かして、芸事・工作などをうまくこなすこと。また、そのさま。「手先が―だ」「―に箸(はし)を使う」 2 要領よく、いろいろな物事を処理すること。また、そのさま。「何事も―にこなす」 3 抜けめなく立ち回ること。また、そのさま。「世渡りが―だ」 4 不平不満なく、受け入れること。いさぎよいこと。また、そのさま。 5 すぐれた才能のあること。また、その人。
やっぱりひぐらしはおもしろいな
ごめ誤爆
528 :
考える名無しさん :2007/09/27(木) 21:03:55 0
「マルクスの亡霊たち」を買ったが4940円と言われ、高いなと思い 思わず「グフェ!」といってしまい、店員が唖然とした。
529 :
考える名無しさん :2007/09/27(木) 21:07:21 0
「マルクスの亡霊たち」を買ったが5040円と言われ、高いなと思い 思わず「グフェ!」といってしまい、店員が唖然とした。
530 :
考える名無しさん :2007/09/27(木) 21:10:53 0
「マルクスの亡霊たち」を買ったが5140円と言われ、高いなと思い 思わず「グフェ!」といってしまい、店員が唖然とした。
今まで人文書を買ってきてるのなら、その値段は普通に買えるくらいの感覚になってると思うのだが・・・
532 :
考える名無しさん :2007/10/02(火) 19:03:05 0
「マルクスの亡霊たち」を買ったが5140円と言われ、高いなと思い 思わず「アーーォ!」と言ってターン一発決めた後に腰を落としキンタマを掴むような動作をしてしまい、 店員が唖然とした。
値段がどうこうではなく、フジワラの本を買うときには「てめー、足元見てぼったくりやがって 、おまいの師匠の佐藤金三郎が生きてたらピース缶ぶつけられるぞ」という怨念から意図せずして 奇声を発してしまうのよ。
藤原はこの前だしたハイデガー×ラクー・ラバルトの方が割高感があったなぁ。
今ちくま学芸文庫の『声と現象』を読んでいます。 これが一冊目のデリダで、すごく苦戦しながら少しずつ読み進めているのですが、 お訊ねしたいことが二つあります。 1.p67の注釈に音声的エクリチュール(=表音文字)というのが出てきます。 これはエクリチュールの純粋な音声的部分らしいのですが、それってパロールと同じなのでしょうか? 2.あと音声的エクリチュールというのは人間の五感のうち聴覚に対応していますが、 他にも嗅覚的エクリチュールや触覚的エクリチュールというものはないのでしょうか? どなたかご教示頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
536 :
考える名無しさん :2007/10/11(木) 11:12:22 0
亀田切腹age
537 :
考える名無しさん :2007/10/14(日) 19:12:40 0
うはー誰も答えてくれないー
>>537 答えてくれないのではなく、
全員の合意を得れるような答えなんて無いから
答えられない、と考えるべきじゃないかな。
というか、答えを求めるような読み方はよくないな。
もうちょっと批判的に読まないと、肝心なところが
見えてこない。答えがわからないからこそ、
解釈がいろいろあるからこそ、デリダは何冊も本を
出版できたわけだ。
はっきりとした答えがあるなら、デリダの主張は
コピー用紙一枚で終わってしまう。
539 :
考える名無しさん :2007/10/15(月) 00:00:04 0
じゃあデリダ初心者の俺が答えてみる。
>>535 1.音声的エクリチュールは、=表音文字と書いてるように
単に表音文字のことを指しているのではないのかな。
パロールは純粋な発話行為でしょ。
まあデリダの言うエクリチュールの意味って文脈によって違ってくるから
よくわからんけど。
>>535 嗅覚も触覚も、それが感覚として感じられるのならそこに差異化が起こってる
はずだから、当然触覚的エクリチュールというのもあるだろう。
ただしそれを目に見える形で表現するのは難しいだろうけど。
540 :
考える名無しさん :2007/10/15(月) 00:56:19 0
>>538 、
レスありがとうございます!
答えを求めずに批判的に読む……そうできるように頑張ってみます。
解釈がいっぱいあるのは分かるんですが、僕みたいな初心者だとただの誤読になってしまう
恐れがあるのでこれからもよろしくお願いします。
>>539 の説明は分かりやすかったです。ありがとうございます。
エクリチュールってシニフィアンって言葉と置き換えられるイメージで読んでます。
一番質問したかった聴覚以外の五感に対応したエクリチュールの回答が得られて満足しています。
点字やモニュメントの「LOVE」とかって触覚的エクリチュールだなって思ってたんです。
>>535 触覚的エクリチュールってのは、点字の問題として展開できる議論かもね。
542 :
考える名無しさん :2007/10/15(月) 18:33:15 0
視覚と聴覚は脳の中で別な風に処理されているという話もあるから、 その辺に注目して解釈しなおして何かに応用してみると面白いかもね。 もう誰かやってるかな。
543 :
535 :2007/10/17(水) 10:39:13 0
>>541 、
>>542 嗅覚についても、例えば「公衆便所」とか「ワキガ」とかいう文字見たらなんか臭くないですか?
エクリチュールから匂いがすることもあると思うんです。
触覚と組み合わせると、点字から錆びた鉄の匂いがする場合、その点字は
触覚的で嗅覚的なエクリチュールということになりますね。
そして点字を撫でている時に音がするならその場合は聴覚的エクリチュールになる。
ていうの考えたんですけどどうでしょう?
サイエンス社で高橋とかが訳しているのかと思ってたが、そのうちおじゃんになったがちゃんとみすずが出してくれるのね。 でも、合田さんか・・・デリダとか平気なのかな?
合田は以前、『ユリシーズ・グラモフォン』訳したよ。 合田の出自はメルロだったと思うから、割に遠くないはずだが。
547 :
考える名無しさん :2007/10/26(金) 23:39:19 0
合田さんは何でもこなせる気がするw
でも、結構訳が雑だって聞いたことあるけどなぁ、合田。 いや、実際に細かく検討したことないから偉そうなこといえないけど。
>>544 のは共訳だね。
多分荒金という若手に下訳をやらせて
合田が手を入れるというパターン。
出来は下訳次第。
550 :
考える名無しさん :2007/10/27(土) 10:59:15 0
荒金のフランス語の授業出てたが、とてつもなくつまらなかったw あまり切れ者という印象も受けなかったな。 ただフランスに留学してたみたいだし、一応フランス語力はあるんじゃない?
おお、デリダの修論の邦訳がでるのか。 以前あの本は、デリダが23才のときの作だと知って 腰を抜かした記憶がある。
552 :
考える名無しさん :2007/10/27(土) 22:47:49 0
さすがノルマル。 秀才ではなかったと聞くが、それは面接に限ってのことだったんだろうな。
553 :
考える名無しさん :2007/10/28(日) 01:02:18 0
YO、自称「学燈」さんらよ 何、社会の木鐸自任してんだよ あんたらに誰もそんな期待してねぇよ 日本社会は<分>社会なんだよ 才(ざえ)は目出度くとも、分を知らぬは恥ww 以上が、普遍的民威の一具現の芟言だ
>>550 荒金って建築学科出身なんだな・・・変わりもんだ。
『マルクスの亡霊たち』帯に載ってた告知 近刊 別冊『環』13 ジャック・デリダ 〈講演〉「赦し、真実、和解――ジャンルは何か?」(生前最後の講演) デリダ 〈講演〉「希望のヨーロッパ」 デリダ 〈対談〉「言葉から生へ」 デリダ+シクスー 〈鼎談〉「映画『デリダ、異郷から』をめぐって」 ファティ+鵜飼哲+増田一夫 〈寄稿〉バディウ/カムフ/浅利誠/鵜飼哲/藤本一勇/増田一夫/港道隆/守中高明ほか
環の特集はつまらんのが多いが・・・
557 :
考える名無しさん :2007/11/04(日) 15:39:42 0
うむ
>>3 >『フッサール哲学における発生の問題』高橋哲哉・檜垣立哉
>ほか訳 サイエンス社
これどうなったんすかw
559 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 00:49:48 0
ボツでしょ 今度合田が出す
>>558 ボツになったけど、みすずから違う人の翻訳で今月でるよ。
2007年11月21日発行予定 フッサール哲学における発生の問題 [著者] ジャック・デリダ [訳者] 合田正人 [訳者] 荒金直人 A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/360頁 定価 6,720円(本体6,400円) ISBN 978-4-622-07352-9 C3010 えっと、360ページで6720円はボリすぎかと・・・ せめて5000円にしてくれよ。
>>561 >定価 6,720円
高杉。。。とても手が出ない。。。
いつも思うんだけど、学術書って、高い→売れない→どんどん高価に→売れない… 負のスパイラルなんだよな。これじゃ、いずれ破綻するわな。 「ホームレス中学生」みたいなクソ本は学術書とセットで売れよw
>>563 それいいなww
「ホームレス中学生」目当てで買って、学術書はブクオフヘ→安く買えるww
いつも思うんだけど、みすずって他の出版社より割高だよね。
こっちは4000円か。何故だかお得に感じるwww
>>568 ページ数で割れば納得できるし、人文書だから理解できる。
みすずの一ページ18円はさすがにねー。
みすずは明日倒産するかもって会社だから仕方ないよ・・・。
フッサール哲学における発生の問題 LE PROBLEME DE LA GENESE DANS LA PHILOSOPHIE DE HUSSERL 著者 ジャック・デリダ 訳者 合田正人 訳者 荒金直人 ジャック・デリダが20代で書き上げた最初の著作である。1953年から54年に修士論文として執筆され、周囲の強い勧めにより1990年にようやく刊行された。 本書でデリダは「発生」の問題を導きの糸として、驚くべき精密さでフッサールの思考の道程を辿っていく。 〈この道のりの全体を支配する問いは、すでに、「いかにして基盤の起源性がアプリオリな綜合でありうるのか。いかにしてすべてが錯綜から始まりうるのか」というものだ。現象学的言説が構築される基盤となるすべての境界が、 このようにして、「混交・感染」の運命的な必然性によって問いただされることになる。〉(「はじめに」) フッサールとともに、フッサールに反して、幾重にも折り畳まれ練成していく特異な思考の道筋は、現象学が当時及ぼしかつ蒙った影響への見取り図を与えながら、脱構築のスタイルを予告するものである。 弁証法から差延へ、代補や痕跡の思考へ、のちに展開される思索のすべてが萌芽の形で凝縮された、哲学者デリダの出発の書。 買うしかないな!
印象、デリダらしいくない感じの本だな。 俺は昔のデリダより最近のデリダの本ばっかり読んできたせいか、なんか体系的になってるまじめな文章だと違和感が・・・ 比較的最近の著作だとほとんどが公演がもとになっているせいか、こういった体裁ではないんだよね。 昔の本を見てもこういう感じではないし、やっぱり学生の頃の論文だから、こういうスタイルにせざるおえなかったんだろうね。
修論なんだから、らしくないのは当然かと・・・
574 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 18:34:04 O
詩文3科目軽量入試脳の馬鹿田生は、哲学専攻のくせに、「記号論理学は抽象的すぎてわからん」などとほざき、 ポモや、自分の数学ル・サウンチ鏝を晴らすためだけの浅薄な相対主義・反自然科学に熱を揚げるww あわれ滑り止め馬鹿田生www 878 考える名無しさん sage 2008/01/07(月) 02:16:16 0 確かに早稲田生は頭悪いヤツ多いと思うよ。 しかし、ルサンチマンの塊は教員の方だよw ポストモダンマンセー厨はほとんどがフランス哲学、 フランス文学のヤシだ。 難解な言葉いじくって思想してるかっこいいオサレな俺様的な 自己陶酔オナニー臭しか感じられなくて、 私もこいつらは不愉快だ。 ポストモダン厨は頼むから、仏文行ってくれ。
結局、環の特集買った人いるの? 近くの本屋ではずっと山積みなんだけどw
今回の環の別冊は、メンバーはそう悪くないけど、いかんせん値段が。 3800出すなら、ハイデガーとかのテキスト買いたくなってしまう。 2000前後ならもうちょっと買う気になるんだけどね。 でも環はバックナンバーが消えにくいから、3年以内にこの号もつい買ってしまうと思うが。
ふたこと って事はエッセイが2つ?
「ユリシーズ グラモフォン」は英語で読んだが、極めて不愉快な内容だった。
ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)
¥ 2,310
「今となってはジョイスについて何かを書くのは非常に困難である。が、ジョイスについて何かを語るのはもっと難しい。そうではあるが、何かを話すよう努めてみたい-。」デリダによるジョイス論。
http://www.amazon.co.jp/dp/4588007238
578 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/14(木) 01:19:11 0
『時間を与える──贋金』 みすず書房 どなった?
月曜から「条件なき大学」が出るとのこと。 しかし、こんなの買う気が起きないな。
それしょっちゅう言われてるよなぁ。 さすがにショボイと言われていたのは「雄羊」「フィシュ」だけど、その他の小著は小著だけど大事みたいな扱い。 翻訳されているものについての話だけど
個人的にはデリダ最後の書であるL'animal que donc je suisを早く訳して欲しい
583 :
考える名無しさん :2008/02/28(木) 06:59:26 0
東浩紀の「動物化するポストモダン」ってのはデリダのその アニマルなんとかってのから来てるのか?
>>583 むしろコジェーヴのヘーゲル講義から。
しかし東の議論では、コジェーヴの動物論と不可分な、
弁証法と歴史の停止・終焉という主題が掻き消えてちょっと意味不明。
デリダの言うハイデガーにおける人間/動物の区分とは何の関係もないと思う。
しかし動物化するポストモダン刊行より以前に
東自身がこのデリダ/ハイデガーの議論にかんして論文書いてるから、
一見つながっていそうな奇妙な受容があるのかもしれない。
コジェーヴにおける動物論、ハイデガーにおける人間/動物の境界論については、
それぞれコ『ヘーゲル読解入門』、ハ『形而上学の根本諸概念』が、その議論の発端にあたる。
この二つについて、小著ながら安価に手に入る本で言うと、アガンベン『開かれ』がある。
585 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/28(木) 09:14:59 0
アガンベン『開かれ』にあるように、人間/動物というのは人類学機械として、 西洋思想の根底に流れてきたもので、要するに「人間の尊厳」という倫理の基本。 人間(の尊厳)は動物との差異でしか見いだせない、という。 当然、ヘーゲル−ハイデガーコジェーブとつながっている。 それでも、コジェーヴの動物論は、ヘーゲルの人間/動物、歴史の終焉を 継承していて、東はコジェーブそのまま。 ヘーゲルの歴史の終焉では、フクヤマも有名だけど、 結局、東もフクヤマも資本主義(経済)が最終形ってことでしょ。
東=ヘーゲルってのは謎だなwwwデリダはどうしたwwww
587 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2008/02/28(木) 09:29:02 0
ヘーゲルによればホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間であ るためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然と の闘争がなけれならない。対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、 消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモード が変わっていく戦後アメリカ消費社会は、彼の用語では、人間的というよりもむしろ「動物 的」と読まれることになる。 「動物化したポストモダン」 東浩紀 (ISBN:4061495755) ホモ・サピエンスは、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機 会、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。・・・この人間発生装置 (人類学機械)は、人間が見つめると自分の姿がつねにすでに歪んで猿の容貌として見え るような一連の鏡からなる、ひとつの光学器械なのである。人類とは「人間の形をした」も のとして構成された動物であり、この動物が人間的たりうるためには、人間ならざるものの うちにみずからを認識しなければならないのである。 「開かれ」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:458270249X)
>ヘーゲルによれば デリダ派の東がなぜ「ヘーゲルによる」んですか?wwwwwww
デリヘルってどうよ?
590 :
考える名無しさん :2008/02/28(木) 10:33:53 0
珍奇な我流ヘーゲル論開陳すんな、この腐れ豚=ハゲ
>>588 波平の論旨はさておき、
デリダとヘーゲルが密接に関わってるってのは事実なんだよ。
だいたい、日本知識人は、私の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」と、佐々木毅(現東大総長)の 「アメリカの保守とリベラル」(講談社学術文庫)が現れるまでは、現在のあるいは、この100年ぐらいの、現代 アメリカ政治知識人たちが、一体どういう人たちであり、どういう思想を持っていて、それはヨーロッパの知識人の 伝統から、どのように分岐していったのかまったく分からなかったのだ。 政治思想系の日本の知識人たちというのは右(保守派)だろうが、左(リベラル派)だろうが本当にひどいものなのだ。 昔、大繁栄したドイツ思想や、ドイツ哲学の研究者や、フランス思想の紹介・解説専門の知識人たちも今から考えれば 相当にひどかった。しかし、日本の文科系で一番頭のいい者たちは、70年代までは、ドイツ語かフランス語に熱中した 人々だ。英語系は馬鹿だけが行った。真面目に、一生懸命、ドイツ語やフランス語を勉強して、なんとかこの独仏思想系 の秀才たちがヨーロッパの知識と伝統に接近しようとした、涙ぐましい努力は、私も同情するし馬鹿にしない。誰が やってもあんなものだっただろうから。きっと生来秀才だった日本人たちが、真剣に「文化移植」使用としてもこの程度 だったのだ、と憐れみの気持ちで同じ東アジアの原住民知識人として共感できる。
ところがアメリカ理解となるとこれが桁違いにひどくなる。今もひどい。 「一体、アメリカ合衆国なんかに政治思想 なんかあるのか?」という態度で、岩波・朝日文化の連中が、ずっとそういう感じで何十年もやってきた。彼らが、 ソビエト思想の精神的な奴隷だったから、ではなくて、そもそも、英語でアメリカ知識人から、しっかりとした 「世界基準での政治思想」を学んだ人間がいないのだ。また日本でアメリカ研究をやる連中が、政治思想も思想センス もないうえに輪をかけて頭が悪くて、「政治思想」というのは、そもそもこういうものなのだ、という理解の基本枠が ない人々だ。このような生まれたときから政治思想理解の適正を欠いた人間たち(即ち、日本の大学の文学部出の アメリカ研究のような連中)が、アメリカ思想を自分たちの縄張りとしてやってきた。自分は左翼ではない、という 信念だけに支えられて。本間長世(成城学園園長)に、最大の責任がある。 この人が、公然と、アメリカのロックフェラー系に見込まれて育てられた、「日本人アメリカ研究学の一番偉い先生」 だものだから、日本のアメリカ研究(アメリカン・スタディーズ)は世界最低にならざるを得なかったのだ。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P226~227
とりあえず東スレ行けよ 何のことかと思ったぞ
余白 下でたよ
下巻は背表紙を見るかぎり、藤本単独訳となっている。 まあ、高橋訳を下敷きに参考にはしてると思うけど。
>>597 昨日、本屋で見かけたが、
既訳との関係はなぜか触れられていなかった。
600 :
598 :2008/03/06(木) 13:16:14 0
素朴な疑問なんだけど、■ ジャック・デリダってスレ無くなってるね。ちょっと前まであったような気がしたんだけど。 「形式と意義作用」は高橋訳を、 「署名 出来事 コンテクスト」は廣瀬訳をそれぞれ持ってるから、余白下を熟読したときには、 訳語の異同対照を整理してここに投下してもいいよ。まあ、忘れたごろに書くってことで。 「署名〜」は『有限責任会社abc』にも入った新訳もあるから、何気に3種類も翻訳あるんだね…。
大学本も出るけど、『言葉を撮る』も出るってさ。 デリダの本は良く出るなぁやっぱり人気あるのかな?
>>601 あれ? 誤って透明あぼん処理でもかけてたのかな。
一覧から見つけられなかったよ。URL教えてくれてありがとう
『声と現象』を映像化してる飯村とかいう人の話聞いてきたけど意味不明だった
わざわざドゥルーズスレの馬鹿レスを貼りまわらなくたっていいよ。
デリダ読んでます。履歴書に書いたら突っ込まれたよ。
突っ込まれるのか! どう突っ込まれてどう対処したか興味あるな・・・
デリダって聞いたことないけど、デリダってどういう本書く人なのー って聞かれた。でも良くわかんないから、よくわからない。って答えたら違う話にw
611 :
考える名無しさん :2008/03/14(金) 11:47:59 0
出利田
>>610 無難に進行してよかったね。変にマイナス評価を食らう流れになってない。
今日のぼやき「722」 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも 私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、 大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。 (中略) 過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの 哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、 大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。 (中略) 急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。 そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を 日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想 を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、 はやく実現しなければ、いけない。
私は、日本知識人として、己を失うまい、と心に決めている。己の立っているこの貧困なる知識の土俵が、 どんなに、東アジアの一種族としての劣悪なるものであるとしても、それは構わない、と腹を据えてきた。 しかし、嘘はつくまい、と念じきた。 この土俵と劣等な知識環境の中にあっても、知ったかぶりの高踏知識遊戯―即ち、やたらと気まじめぶった 学者の論文のこと。この知識環境で友人たちさえ読んでくれないような難解な文章を書くこと―はすまい、 決めてきた。日本の文科系の大学講師たちのほとんどは、アホである。 彼らの知識は外国に持ち出して、全く通用しない。言語の壁を横に置いたとしても。この書き方を、私は これからもやめない。どんなに嫌われようが、煙たがられようが、やめない。 副島隆彦「日本の秘密」P43
616 :
612 :2008/03/29(土) 17:31:05 0
マイナスにもプラスにもならずに、単に通過しただけかと思った。
言葉を撮る良さそうだねDVDつきだしさー。 俺付録に釣られるタイプなんだよねー。
618 :
考える名無しさん :2008/04/04(金) 23:49:12 0
ジャック・デリダ―他者への現前
教育者として、被写体として、絆として
鵜飼哲×西山雄二
■2008年4月24日(木)18:00開場 18:30開始
会場:ジュンク堂書店 新宿店8F喫茶
☆入場料1,000円(1ドリンクつき)
☆定員…40名
☆受付…7Fカウンターにて。電話予約承ります。
脱構築の哲学者ジャック・デリダが死去して三年半が
経とうとしています。もはや私たちは彼が生きて語る姿
を見ることはできません。しかし彼の肉声は、彼の講義
を受けた者たちの記憶と、彼の自伝的映画のうちに、残
されています。彼はどんな教育者だったのでしょうか。
また、彼は被写体としてどう振舞ったのでしょうか。つ
まり、デリダの《他者への現前》とはいかなるものだっ
たのでしょうか。彼と間近に接した鵜飼哲さんと西山雄
二さんに語っていただきます。
ジャック・デリダ『条件なき大学』(月曜社)および、
デリダ+ファティ『言葉を撮る』(青土社)刊行記念。
http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk-shinjyuku.html#20080424shinjuku
↑なんだこれ〜〜〜? いつから学問はFANクラブに成り下がったんだ? 日本の哲学ってこんなのばっかなのか? 人の講義を聴くのならわかるが、著名人の講義をネタに人を集めてその人を批評してどうすんの? これが学問???ダメダコリャ ワハハハッハハハハハハッ
いや、デリダの講義スタイルが独特なのは、関連文献読んでると割と出てくるだろ。 十川幸司(精神分析)は留学時代にデリダの授業受けて、 パリ大のラカン派の講義よりもほとんどセッションめいた刺激を受けた、 あそこに精神分析があるかのようだった、とか書いてる。 で、西山が『条件なき大学』の巻末に添えた文章は、教育者としてのデリダのスタイルに絡めたものだし、 まあ鵜飼はデリダと交遊のあった人だしね。 ゴリゴリに政治的なことばかり留学時代にデリダに話して、デリダを仰天させたとか、 ちょっと伝説めいた話なら噂で聞いたことはあるな。 まあ、それはともかく、「書籍刊行イベント」でしょ、この枠。ジュンク堂でやるんだし。 たかだか刊行イベントの内容ごときに、「学問」とか「日本の哲学」とかご大層なこと言うな。阿呆か。
鵜飼さんにGlasの翻訳がどうなってるか 誰か聞いて下さい。お願いします。
622 :
考える名無しさん :2008/04/05(土) 17:00:15 0
ポストモダン(笑) 単なるソフィスト(笑) 形而上学を散々叩くのに最も形而上学らしいソフィストたるポストモダン(笑)
形而上学という言葉をただの叩き文句だと思ってるあたりに見識がうかがえますね!
>>623 622は622の文をコピペしてまわってるだけのバカのようだよ
うん、623を書いた直後、別のスレで発見して、ミスったと思った…
5/23 ならず者たち みすず書房 鵜飼高橋訳
ちなみに304ページの値段は4200円
デリダ ジェフ・コリンズ 著 ビル・メイブリン 著 鈴木 圭介 翻訳
デリダ ジェフ・コリンズ 著 ビル・メイブリン 著 鈴木 圭介 翻訳 ちくま学芸文庫 文庫判 240頁 刊行 06/10 ISBN 9784480091352 JANコード 9784480091352 予価1,155 円(税込)
哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁 スタンレー・カヴェル 中川 雄一 訳 税込価格 : \3,990 (本体 内容説明 日本では知られざる米国の大哲学者の全貌。哲学と人間の生との密接な関わり を明らかにし、デリダのオースティン批判に徹底的に論駁。
631 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 17:51:13 0
「声と現象」を読んでいますが、ぶっちゃけデリダの差延ってどうなのでしょう。 要するに、記号の同一性はいかに認知されるか、ということですよね。 それを差延という原理で説明するのはわかるのですが、 実際に同一性の認知でそのようなことが行われているか、というのはかなり疑問ですね。 特に現前化しなかった過去、現前化しない未来、など超越論的に語りますが、 そんな神秘主義はいらないと思います。 ウィトゲンシュタインの「規則に従う」という行為論の方がしっくりくる。 デリダはあまりに言語で説明しようとして、結局超越論から抜け出せていないのでは。
632 :
486 :2008/05/19(月) 21:37:11 0
>>631 まったく的外れなので「ウィトゲンシュタインとデリダ」を読みましょう。
「同一性の認知」などデリダは論じていません。
633 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 22:11:47 0
>>632 たとえば・・・
音素や書記素は、ある作用や知覚の中に姿を現わすたびごとに、ある意味ではいつも必ず別
のものであるが、ある種の形式的同一性によって繰り返され、識別されるのでなければ、一般
的に記号として、また言語として機能することができない。この同一性は、必然的にイデア的で
ある。したがってそれは、必然的に表象=代理を含んでいる。つまりイデア性一般の場である
表象としての表象=代理を、再生的反復一般の可能性である準現在化=再現前化としての表
象=代理を、また一つ一つのシニフィアンという出来事がそのたびに代用であるかぎりにおい
て、代表象としての表象=第二を含んでいるのである。この表象=代理的な構造はシニフィカ
シオンそのものであるのだから、私は、ある種の無際限の表象=代理性に根源的に巻き込ま
れることなしに、「実際の」言述に着手することはできないのである。P113-114 「声と現象」
634 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 22:17:30 0
あと、ウィトゲンシュタインは、「問い」を残したわけで、 いろいろな読解があるわけですから、デリダに近づけて読むことが可能であるし、 また実際近くもあるけど、一般的ではないですよ。
635 :
486 :2008/05/19(月) 22:58:18 0
>>633 同一性が事後的な構成だって話だ。「認知」も事後構成されるわけだが、
お前がいうような「記号の同一性はいかに認知されるか」という転倒した問題措定
をデリダは批判しているんであって、それ自体を提起してるわけじゃないぞ。
それがいいたかっただけだ。
あと、デリダは超越論を端的には否認していない。フッサール論と
「名を救う」の否定神学の問題を読めばよくわかるはずだ。
哲学は不可避に超越論を可能にする宙づり構造を刻印している・・・云々。
デリダが現象学に評価を与えているのでも分るだろ。
しかしこの錯綜した問題は、たんにデリダは超越論だという問いでは
片付けられない。デリダなら「はいであり、いいえである」と答えるだろ。
準−超越論など、デリダは工夫している。
>>634 一般的かどうかに何でこだわってるのか教えてくれ
636 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 23:17:46 0
>>635 なぜキレてるの?
「記号の同一性はいかに事後的に認知されるか」ってことね。
ウィトゲンシュタインはデリダの準−超越論的?準−形而上学的な「エクリチュール」を
認めないだろう。デリダが同一性を存在論的な「エクリチュール」の運動に求めるならば、
言語ゲームの訓練による習得、アスペクト認知など、行為論的な身体の運動性に求めるだろう。
形而上学的な言説(哲学)批判の手法としては差延は有効でも、それもまた
行為論的な運動性を排除する立場でしかない、じゃないかな。
哲学言説内の戯れ、でしかない。
これの何が問題であるかといえば、行為を排除することで、実際に経験的に
社会に働きかける実在論としては、思弁すぎて弱いということ。
637 :
486 :2008/05/19(月) 23:27:22 0
きれてないですよ
>>636 ウィトゲンシュタインの「規則」は超越論的だぞ。
>行為論的な運動性を排除する立場でしかない
デリダがオースティンの行為遂行性の発見を
20世紀の大発明といってるのは知ってるよな。
差延の運動は、行為遂行性と事実確認の差異を
「遂行的」に構造化している、といえばいいだろうか。
デリダ=戯れというのはすごく通俗的なデリダ像だと思うぞ。
>社会に働きかける実在論としては、思弁すぎて弱いということ
ネグリなんかが批判している意味ではわかるが、ただネグリ
とデリダは遂行=労働で複雑な関係になっているから、そこは
考慮しないといけないと思うがな。
実在論というより「存在論」だろうな。しかし、デリダは「なぜ潜在論なのか」
というんじゃないだろうか。ここはハイデガーとの絡みも外せないしな。
せっかくちゃんと読んでるようなので、デリダ=戯れっていう変な先入観は
持たないほうが良い。戯れはハイデガーの存在論でも重要な概念だからな。
戯れを差延と行為遂行性、存在論とどう読むかだろうから。
638 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 23:44:47 0
>ウィトゲンシュタインの「規則」は超越論的だぞ。 正確には、超越論的ともとれるということ。ウィトゲンシュタイン自身は超越論を語らない。 >差延の運動は、行為遂行性と事実確認の差異を >「遂行的」に構造化している、といえばいいだろうか。 それはあくまでデリダ側からの見方。オースティンの言語行為論はもっと行為論、経験論に近い。 差延の運動は、行為遂行性と事実確認の差異を言語存在論的に、決定不可能にするとすれば、 それでも経験論、行為論的には、行為遂行性と事実確認は違うだろうと。 これは社会学のトーク論、メディア論に近づくわけだが。 >デリダ=戯れっていう変な先入観は持たないほうが良い。 先の意味で、一周していっているつもりなんだけど。哲学思想的な強力さ、ラディカルさは認めているが、 それでも社会に実働的に働きかける経験論としては、思弁すぎて弱いと思う。 まあ、ネグリだけではなく、サヨ一般的には認められないのは当然。デリダじゃ革命は起こせない。
639 :
486 :2008/05/19(月) 23:51:54 0
>>638 メディア論にしたら、それこそ革命なんかにならないだろw
>ウィトゲンシュタイン自身は超越論を語らない
それは問題だと思うがな。無−基底についてウィトゲンシュタインは
問いを出しているだろ。確かに内在的にだが。にもかかわらず、
無基底としての規則の問題は、デリダの準超越論に近づく。
ハイデガーの世界−無基底、デリダの差延、ウィトゲンシュタインの
規則の連関を読んだほうがよほど遂行的だと思う。
一周してないぞ。おそらく、ネグリ−ハイデガー−デリダの
つながりを、読んでないんじゃないのか?
640 :
考える名無しさん :2008/05/19(月) 23:59:32 0
>ハイデガーの世界−無基底、デリダの差延、ウィトゲンシュタインの >規則の連関を読んだほうがよほど遂行的だと思う。 それがすでに形而上学的であるわけ。 言語論で説明しようとすれば、ウィトゲンシュタインは デリダ的読解に近づかざる終えない。 それを否定するわけではないが、ウィトゲンシュタインが 規則に従うは、訓練によって身につけるという行為論を 無視することになる。 >一周してないぞ。おそらく、ネグリ−ハイデガー−デリダの >つながりを、読んでないんじゃないのか? ネグリなどだす必要はない。サヨは言語による説明は無理だから、 革命(行動)するわけだから。
641 :
考える名無しさん :2008/05/20(火) 00:05:13 0
すごく素朴な問いなんだけど、いままさに僕たちに行っている 「記号の同一性を事後的に認知する」時に、ほんとに超越論的な差延が 働いているか?ってこと。 たとえば、言語を持たない動物も同一性の認知を行っているわけだけど、 差延がおこってるの?
642 :
考える名無しさん :2008/05/20(火) 02:45:58 0
>>630 非常にいい本ですね。
なんたってカヴェルだから。
デリダとは次元が違う。
分析哲学系にデリダごとき雑文家が意見したのが間違いのもと。
次元が違うってよりも系譜が違うだろ
>>642 またくだらない代理戦争を煽ってんじゃねーよ
カヴェルはサールとはまた全然違う。
おまえなにも知らないんだな。
>>642 たしかに「有限責任会社」は見苦しかったよな
>>644 人物が違えば思想の内容が違うのはあたりまえ
デリダファンクラブの会員はレベル低杉
646 :
考える名無しさん :2008/05/20(火) 19:21:56 0
ねえねえ、有限責任会社って読んだんだけど、 明らかにサールがデリダのこと誤解っていうか誤読しまくりなだけかと。 それに対してデリダがウキウキして徹底的にやりこめてるのはちょっと 子供っぽいと思うがな。
647 :
考える名無しさん :2008/05/20(火) 20:05:33 0
>>646 まあな、有限〜みたいな本をサール抜きの欠席裁判みたいに出したところで
意味はないし。
逆にサールが有限〜みたいな本を書かなかったところが大人だよね。
なんか有限〜のデリダってさあ、まるで2ちゃねらーみたいな幼稚さと感情
むき出しなところがあって、ウンザリなんだよなあ。
>>643 確かに。
いいこと言いますな。
雑文執筆と分析哲学では全く別ものですから。
『有限』が面白いのは、サールに売られた見当外れな喧嘩を 無視すればいいものをデリダが本気で買ったってことだろ。 ガチの論争とはどういうことかというメタ考察を含めてデリダは実践した。 まぁサールは喧嘩をふっかけた相手が悪かった。
そうではなくて、デリダの思想というのは、批判としてでなければ、 存在できない。自立的として思想としては思弁的に空虚。
なんでこんな論点ばかりに話題が終始するんだろ。
デリダを読まないで批判してる思弁的に空虚な寄生虫が一匹紛れ込んでるから。
デリダが人気が出たのは哲学がマニアックな芸術作品に 落ちぶれた証拠
654 :
486 :2008/05/20(火) 23:56:24 0
>>651 デリダ批判しようと、分析哲学持ち出すやつがバカだからだろw
物理学でいえばヒモ理論みたいなものだろ。思弁が思弁を積み上げる
656 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 02:57:19 0
哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁 スタンレー・カヴェル 中川 雄一 訳 税込価格 : \3,990 (本体 内容説明 日本では知られざる米国の大哲学者の全貌。哲学と人間の生との密接な関わり を明らかにし、デリダのオースティン批判に徹底的に論駁。
657 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 03:15:01 0
哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁 スタンリー・カヴェル著 中川雄一 訳 四六 ● 336頁 発行日:2008年5月 ISBN:978-4-393-32309-1 春秋社 税込定価:3,570円 エマソン、ソローというアメリカ思想の後継者であり、近年のウィトゲンシュタイン新解釈の立て役者 でもある大教養人カヴェルが、哲学とは何であるかを根源的に思索。みずからの半生というかぎりなく 私的なもののなかに哲学の営みを探り、そこに見出される「哲学を語る」の考察から、有名なデリダの オースティン批判が的はずれであり、むしろデリダのほうが哲学を特権化し、日常の抑圧に加担するも のであることを、独特の文体で暴いていく。 さらにの考察は、芸術であるオペラにひそむさまざまな哲学的課題の探究へと導かれていく。 おそらくは日本の読者がこれまで体験したことのない哲学の万華鏡世界。 いまだ日本ではほとんど知られていないアメリカ哲学の巨人が登場。 分析哲学を知悉しつつ、分析哲学ではないアメリカ固有の哲学の現在形を存分に堪能できる一冊。
658 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 03:40:26 0
サールの言うことが真実ならば、「有限責任会社」は出版人とデリダが結託して 作った「出来レース」になるよね。(「conversation with John Searl」参照) つまり、サールはやりたくも無い試合に突き合わされてとりあえず、職分で応答をしていた いたのだが余りにもデリダがまともに付き合おうとしないものだから「馬鹿らしくなって応答をやめた」って いうとるよ。 サールからしたら「なんで、こんなことせなあかんのやーー」って感じがムンムン、とりあえず 本人の公式のコメントではそういうことになってるし、出版物として「不毛」とまでいってる。 いわば、喜劇でしょ。ありゃ
659 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 07:41:17 0
>>658 全くそういうこと。
デリダって小賢しいんだよ。
有限の出版が最初から前提にあって、デリダとしてはサールに「ネタ」を提供して欲しかった。
デリダの書物って全部似た様なもんじゃん。
単一テクストのしかも文字面(エクリチュール)の批判のみ。
思想の流れなんて関係なし、メタレベルももちろん関係なし、表層というより
上っ面だけの駄文だよ。
660 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 08:07:54 0
>>658-659 それは明らかにサールの負け惜しみなんだが。
やりたくもない試合って言うわりにはサールの最初の論文は
感情向きだしでデリダを攻撃しているんだが。
それもデリダの論文誤読しまくりのひどいもんだし。
まともに付き合おうとしないって、まともに付き合おうとしてないのは
明らかにサールだと思うよ。
661 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 09:04:13 0
デリダが言っていることは、差異と遅延の偶然が同一性へ転倒しているというだけのこと。 それは別にデリダの前から言っていること。それをハイデガーにつなげて、存在論的に 語ろうが、たいした意味はない。 だから簡単にいえば相対主義。そうではなくと言いはるだろけど、ぶっちゃければ相対主義。 デリダは論争することでないと、建設的に見えない。なにも言っていないんだから。 言葉でなにかを建設使用とすれば、形而上学を免れないんだから、 デリダと論争しても意味がない。デリダは論争する事でないと、建設的に見えない。
ためにする議論はもうやめようよ。
>>661 言っていることが適当すぎでお話にならない。
基本書の声と現象とか、グラマトロジーぐらい嫁
別に論争はしてないだろ。
フッサールやルソーの綿密な再検討をやってるから。
まさか過去のテクストに対峙することを全部「論争」
と言おうするほど馬鹿ではいないと思うが。
664 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 14:20:07 O
デリダに批判された哲学の研究者がいうことはいつも同じ。「そんなことはいわれなくてもわかってるw」 建設的というのはあえてやること。誰もそれが完全だなどと思っていない。
665 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 20:55:38 0
デリダは言語原理主義だから、ウィトゲンシュタインや言語行為論は認めないだろう。
666 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 21:20:43 O
デリダの時代はもう終わってる デリダ的なものにはみんながうんざりしている
XXの時代はもう終わってる XX的なものにはみんながうんざりしている 何かを言ったようで何も言ってない無意味な言明の典型的な例。 カルナップがこういうのを厳しく批判していたのを思い出した。
668 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 21:47:18 0
「柄谷グループって『天皇制』じゃね?」、と造形大の学生ごときに突っ込まれる、浅田彰と鵜飼哲。
XXがこういうのを厳しく批判していた 権威に頼っただけの無意味な言明の典型的な例。 オレがこういうのを厳しく批判していたのを思い出した。
670 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 22:19:44 0
造形大が「権威」か馬〜鹿(爆笑)
671 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 22:29:55 0
ある意味で私はデリダのオースティン論に対して準備が出来ていた。 なぜなら、1977年に、私は高揚と失望のうちに『グラマトロジーについて』の英訳を読み、 声と書字に関する議論を知っていたからだ。「署名 出来事 コンテクスト」についても同じ ことが言えるのだが、、『グラマトロジーについて』という本は日常言語学という出来事を 否認しているように思われた。あるいは、日常言語哲学が結局のところ古い問いと古い答えを 継続すろものでしかないとみなしているように思われた。 [『哲学の〈声〉デリダのオースティン批判論駁』スタンリー・カヴェル著・P98より]
サールとデリダはお互いまるでかみ合ってない。 あの本はバカみたいでおもしろくももないよ。
673 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 22:32:07 0
三流の帝京大学教授より、一流の東京大学教授を目指すべきだって浅田が言ってたの知らねーのか(爆笑)
「三流の帝京大学」教授より、「一流の東京大学」教授? 「三流」の帝京大学教授より、「一流」の東京大学教授? どっちやねん?
675 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 22:45:53 0
下だったら、わざわざ「帝京大学」とか「東京大学」とか言わず、 「三流の大学教授より、一流の大学教授を」でいいんじゃね
676 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 22:51:37 0
デリダは「署名 出来事 コンテクスト」に署名しておきながら、哲学が署名に重んじうるという事実を皮肉る。 デリダは浅薄さに興じているのだろう。彼は自分の発表原稿にその場で署名することを提案する。彼の名前が 所定の真に三つの異なった仕方で刻印される。頭文字の「J・D」がひとつ、頭文字の下に(ビジネスレターで そうするように)手書きの署名の複写がひとつ、その下に手書きの"署名"を印字ないし印刷したものがひとつ、 ヒステリックで強迫神経症的な反復やら言葉遊びやらに…。 [『哲学の〈声〉デリダのオースティン批判論駁』スタンリー・カヴェル著・P201より]
>>675 そかそか。
まあ、浅田はもうアカデミズムにいるとは言えない状況だからかなり効くな。
>>671 >>676 カヴェルの新刊邦訳はけっこう面白そうだな、しかし、もう入手できたのか?
まだ売ってないはずだが?
関係者の書き込みなんじゃないか?
そうがよなあ。 関係者はいいなあ、ちくしょう。
680 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 23:13:47 O
>>667 言ってるだろ
ポモを読んでアホになった奴の典型
みんなデリダにはうんざりなんだよ
>>680 しつれ〜い。
カヴェルの文章は真っ当な文章だね、気負いが無くて。
関係者のお方、もう少しアップしてくださいよ。
683 :
考える名無しさん :2008/05/21(水) 23:26:22 0
デリダは「差延」によってカリスマ性を獲得した。 これこそが思弁と現実の違いだ。
なんでデリダ信者はヒステリックで、強迫神経症的なやつらが多いんだろ? …って書いたら、カヴェルが上の文で言ってた。
分析哲学万歳! みたいな主張だと、分析哲学も救われない程度には ヒステリックで馬鹿な言明はどっちもしているだろう。
686 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 00:32:00 0
>>685 おいおい落ち着け。
もうすでに君は「ヒステリックで馬鹿な言明」に、なっちゃっているじゃないか。
だから
>>684 のような質問がでるんだよ。
カヴェル=分析哲学っていうそもそもの前提が間違い。
688 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 00:59:46 0
>>687 そんな前提してないんじゃない。
それに、そんなことにばっかりこだわっているから
「ヒステリックで、強迫神経症的」っていうカヴェルの言説に合致するんだろ。
689 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 01:06:08 0
引用文を読む限り、デリダへの本格的な批判というより、 単なる与太話のような感じなんだが。。。 訳のせいかもしれんが。カヴェル大丈夫かよ。
おまえごときが心配せんでも大哲学者は健在だ 与太郎が読めば与太話にしかならんだろうな(合掌)
691 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 01:33:19 0
>>690 カヴェルが一流の哲学者だってのはいいとしても
だからといって何でも正しいってわけではないし、
それに従う必要もない。
引用された文章から判断するとデリダ批判としては幼稚だね。
だよね…。私はカヴェルに興味があるので、この本も買おうかと思ったんだが、 引用箇所の選択が微妙なのか、ちょっとなあ。
自分、分析房だけど、サール/デリダ論争ってもっと面白く読めるんじゃね? 言語から志向性とか行為、心といった人間を担い手とする事象に向かうサールタン (つまり人間に興味のあるサールたん)と、言語から言語の物質的な存在の不思議さ (文字の存在論)に向かうデリダたん。 言語が通じることを前提にしてどうして通じるんだべ?心とか信念体系とか志向性 って何だろと問うサールたそと、言語が通じるとか通じない以前に、言語つーか文 字って面白くね?線じゃね?形じゃね?じーっと見てるとキモくね?と物神化すれ すれに言語を物質として扱うデリダたそ。 そんな真逆な両者が言語行為論という「言語(物質)かつ行為(人間)」という クロスオーバーな概念を前にして互いのスタイルで信仰告白するというプロレ ス。。そんな感じで読めないかね。実際デリダたそも、言語の物質性を前提にし て、信念の問題(無意識も信念体系に入るとして)を好き勝手に展開しているわ けで。案外、すれちがってもいないと思うんだ。もちろん、命題の形に記述でき ない信念なんて、サールは認めないと思うけどさ。 もっといえば、サールにおける信念つーか心のモデルとデリダにおける信念つーか 心のモデルが違うというか、デリダは信念という明示的なエコノミーを駆動する無 意識のエコノミーを問題にしている(心の二層モデル)けど、サールにとって心は デリダみたいな二層構造ではなくて、信念からなる一枚岩なんだよね(ほんとかよ) 。 サールとかオースティンはある程度読んでる(つーかまぁ、理解している) つもりではいるんだけれども、デリダは十分に理解してないから、頓珍漢な こと言ってたらごめす。ただ分析とポストモダソは源流が一緒だと思うから (現象学つーかフッサール受容つーか)別に極東島国日本で無理矢理けんか させる必要もないんではないかと漏れは思うわけで。
694 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 02:44:57 0
カヴェルを実際に読まずしてどうのこうの言っても意味はない。 引用箇所だけ読んで、良いとか悪いとかよく言えるな、ボンクラども。。。
695 :
692 :2008/05/22(木) 03:09:05 0
>>694 買う意欲の問題なんだが。
だから単に「引用箇所の選択が微妙」だからであって、この本は面白いのかもしれないが、
とフォローしているわけだが。
カヴェルについて即どうこう言うつもりで言ってないよ。
しかし、このスレに沸く層の大半に言えることで、
>実際に読まずしてどうのこうの言っても意味はない。
>引用箇所だけ読んで、良いとか悪いとかよく言えるな
「引用箇所」を「人の言及箇所」で置き換えると、このスレでよく出てくる現象に対する批判にも取れる、
基本的に誠実な態度だね。
696 :
691 :2008/05/22(木) 03:14:10 0
>>694 >>657 のカヴェルの原書ってこれか?
A Pitch of Philosophy: Autobiographical Exercises
http://www.amazon.com/dp/0674669819/ だとしたら、これ別にデリダ批判が主旨の書物じゃないだろ・・・
amazon.com だと「SEACH INSIDE!」で中身が少し分かる。
「デリダのオースティン批判論駁」なんて副題つけてるが
そんな副題は原書にはついてない。副題は「自伝の演習」。
多分カヴェルはこんな副題をつけて訳書を出されることを
望まないだろうね。
確かにデリダに批判的な議論もしているんだろうが、
こんな副題をつけ、そこに過度に焦点を当てて、
カヴェル対デリダの対立を煽っているのだとしたら、
捩じ曲がった悪意があるとしか思えんな。
この訳者ブーヴレスとかも訳してるみたいだし、
ポモ嫌いでこんなことしてるのか?
穿ち過ぎかもしれないが。
697 :
486 :2008/05/22(木) 03:26:32 0
>>693 まっとうな意見だと思う。
>もっといえば、サールにおける信念つーか心のモデルとデリダにおける信念つーか
心のモデルが違うというか、デリダは信念という明示的なエコノミーを駆動する無
意識のエコノミーを問題にしている(心の二層モデル)けど、サールにとって心は
デリダみたいな二層構造ではなくて、信念からなる一枚岩なんだよね(ほんとかよ)
特にこの部分。デリダはある意味、さールの精神分析をしてるわけだ。
サールさん、あなたの抑圧している無意識は何ですかって。
おれも、分析哲学とデリダは並行関係で読む方が面白いと思っている。
デリダはクリプキのモチーフをいくつか借用してるみたいだしな。
ポストモダンだのなんだのいって分析哲学でためにすること書いてる
馬鹿は死ななきゃ治らないw
698 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 03:32:31 0
>>696 本を売るためなんじゃないですか。
タイトルは重要だし。
訳者の中川雄一は現代フランス哲学が専門ですね。
邦題は『哲学の〈声〉』、「デリダのオースティン批判論駁」はサブタイトルで凄く小さい。
699 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 03:49:03 0
ぶっちゃけ、ラカンなんて学んでも雑談以外にメリットはない。 若いんなら、そんなもんに貴重な時間を使わないでほしい。 認知科学分野からみたら、ただの与太話にすぎないんだから。 ラカンには制御モデルが無いので、言いっ放しのこじつけ理論モドキ。 それは、つねに事後解釈でしかなく、都合よく辻褄合わせをしているに他ならない。 過去しか語れないものは、理論では無い。ただの茶飲み話。 もちろん、暇潰しのネタとしての価値は十分あるがな。血液型性格占いとか。 理論として語りたいならば、未来を語れないとダメ。 疑似科学理論の多くは一回性というタイプ論に逃げ込むが、現代科学はそのような フェノタイプに逃げることなく、ゲノタイプに挑み続けた結果、 現在の成果を挙げている。 要素還元主義などという昔ばなしを持ち出してお茶を濁しても無駄。 現にラカンは患者をろくに治療できなかった。 理論が機能していなかった何よりの証拠だ。
700 :
486 :2008/05/22(木) 03:51:04 0
701 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 03:57:05 0
哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁 スタンリー・カヴェル著 中川雄一 訳 四六 ● 336頁 発行日:2008年5月 ISBN:978-4-393-32309-1 春秋社 税込定価:3,570円 エマソン、ソローというアメリカ思想の後継者であり、近年のウィトゲンシュタイン新解釈の立て役者 でもある大教養人カヴェルが、哲学とは何であるかを根源的に思索。みずからの半生というかぎりなく 私的なもののなかに哲学の営みを探り、そこに見出される「哲学を語る」の考察から、有名なデリダの オースティン批判が的はずれであり、むしろデリダのほうが哲学を特権化し、日常の抑圧に加担するも のであることを、独特の文体で暴いていく。 さらにの考察は、芸術であるオペラにひそむさまざまな哲学的課題の探究へと導かれていく。 おそらくは日本の読者がこれまで体験したことのない哲学の万華鏡世界。 いまだ日本ではほとんど知られていないアメリカ哲学の巨人が登場。 分析哲学を知悉しつつ、分析哲学ではないアメリカ固有の哲学の現在形を存分に堪能できる一冊。
良い流れだったのに。
>>699 のバカレスで台無し。
704 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 09:27:09 0
構図的には簡単で、経験論の流れである分析哲学は、超越論がタブーなんだよ。 それに対して合理論は、カントに典型的に超越論を導入しても、丸く収まるようとする。 だからその時点で議論すれば、サールは穴だらけ、デリダの論の方が良くできている。 サールからすれば、だからなに?でしかない。
>>704 >経験論の流れである分析哲学は、超越論がタブーなんだよ。
分析哲学を専門にしているが、こんなの始めて聞いたよ。
分析哲学系の議論に、超越論的な問題構制はいくらでも見出せる。
クワインしかり、デイヴィドソンしかり、クリプキしかり。
706 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 10:24:28 O
なんの反論にもなってないんだけど
707 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 10:28:44 O
クリプキそのもの超越論じゃないだろ。キミどこの大学?
分析哲学をよく知らない私だが、このタイトルだけで十分面白そうなので買ってみた。 教えてくれてありがとう。
710 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 11:01:48 O
>>708 おまえが読み直せ。そんなことじゃ卒業できないぞ
711 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 11:18:39 O
クリプキの超越論へのギリギリ寸止め。そこに不自然さが残ろうと。これこそ分析哲学の神髄。
712 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 18:29:57 0
サールの論文「差異ふたたび:デリダへの反論」を持っている人っているの?
それ、土屋俊が訳してる論文だっけ?多分、原文もってる。
714 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 23:13:55 0
>>712 いないでしょう。
それでサールがどうとか言っている人がいるんだから
まったくお笑いですよ。
715 :
考える名無しさん :2008/05/22(木) 23:17:53 0
>>713 せっかくだ、みんなに披露してやってくださいよ。
>サール「差異ふたたび」 昔の、現代思想の増刊に載ってたやつ? コピーなら持ってるけど…未読。
未読じゃあ話にならんな 持っていないも同じこと
なんだ、披露って意見披露のことか。そりゃ確かにできないな。
719 :
考える名無しさん :2008/05/24(土) 01:00:26 0
カヴェルの新刊、サールみたいに感情的じゃなくて いいかもしれないねえ 後で感想を簡単に書きます
カヴェルの新刊はいいよ。 説得力あるしね。うん。 あとデリダ以外についての記述が大半だけど、面白いよ。
おいおい、カヴェル本、訳やばいぞ。エアって誰?系統的ってライルのテクニカルタームだから 、勝手に別の単語に使用しちゃあかんでしょ。よくわからない新語を使って訳すのやめようよ。 日本語も崩壊。原書の方が読みやすい。 別に専門家じゃない人が訳しちゃだめだというわけではない。みじかにいる専門家に訳や訳語のチェッ クをしてもらうことは、専門書においては最低限の常識じゃないか?そういったことを怠るから、 悲惨なことになる。ねぇ、出版社も分析+デリダ=うまーとかいう利益のこと考えて出版するのも いいんだが、ちゃんとチェックしようよ。編集って何のためにいるの?小間使いじゃないでしょ。 操縦しようよ。特に、こういった分析オタ以外の人にも興味を抱かせることができそうな論題ならな おさらだよ。はー、久々にorzな気持ちになった。
日本語がやばい人からそんな事言われても・・・・・・
エアくらいわかるだろ・・・ アルフレッド・エイヤのことじゃないの?
春秋社ってことは、青土社から移った、 認知・アフォーダンス関係のあの人が編集してるのかな、と思ったらそうじゃなかったな。 小林公二とあったが、この人が分析系のシリーズやってる人なのか(そっちはあまり買ってないので未チェック)。
2008年7月18日発行予定ならず者たち [著者] ジャック・デリダ [訳者] 鵜飼哲 [訳者] 高橋哲哉 四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/304頁 定価 4,200円(本体4,000円) ISBN 978-4-622-07373-4 C1010
727 :
考える名無しさん :2008/06/06(金) 16:46:23 0
デリダってほんと読むの大変だな。 脱構築ってようは、皮肉、ほめ殺しだから、 どこまでがネタでどこまでがベタか、読むのが大変。 フッサールはこういった、私はこう反論するって対立項で 語ってくれれば、それほどむずかし内容でもないと思うんだけど。 確かに対立項で語ると、今度は自分が脱構築される可能性が 高いけど、別によいじゃん。哲学史そのものを一つの運動として考えれば。 みんなわかっているけどリスクおこして、言い切っているわけでしょう。 なんか一人だけ、足をすくわれないように必死という感じでやだな。 それに、わかりにくい文章で、神秘主義的なカリスマ性まで 獲得して、せこいと思うよ。 生まれ的に複雑だから、人を信用できないかね。 悲しいやつだよ・・・
皮肉や褒め殺しか? はじめてきいたよそんな評価。
>>727 ここまで見当違いなデリダ批判ははじめて見たwww
レトリック(修辞)という意味だろう。 一般的な見解。
>>729 そうかな?
確かに脱構築が皮肉ほめ殺しとは全くの見当違いだろうけどさ。
>>727 > みんなわかっているけどリスクおこして、言い切っているわけでしょう。
> なんか一人だけ、足をすくわれないように必死という感じでやだな。
> それに、わかりにくい文章で、神秘主義的なカリスマ性まで
> 獲得して、せこいと思うよ。
ここは結構いいとこ突いてるんじゃないかなあ?
> 生まれ的に複雑だから、人を信用できないかね。
> 悲しいやつだよ・・・
これは全くの余計。
732 :
考える名無しさん :2008/06/06(金) 19:51:45 O
脱構築を単なる解体とおもっているやつが多い。自壊させることを、誉め殺しというのはよいところついてるよ。
脱構築は、テクストの自壊を通じて可能性の中心を救い出すんだから 誉め殺しじゃなくてむしろ「殺し誉め」だな。
734 :
考える名無しさん :2008/06/10(火) 14:34:17 0
脱構築が何だかわからんが、 確かなことは、 役に立たんということだ。
735 :
sage :2008/06/11(水) 04:09:37 0
>736 そういう「断言」を振り回す人々がいるかぎり、脱構築は続くんだろうな。
続くけど役に立たんと
日夜デリダ研究に勤しむ人々のスレはここですか?
739 :
考える名無しさん :2008/06/13(金) 18:47:38 0
そうみたいよ
ちくまからデリダのマンガでたね。
742 :
考える名無しさん :2008/06/24(火) 15:51:14 0
結局、 「脱構築」 をわかってる奴はひとりもいなかった。 このスレには。 おしえてやるが 「定量→定性」 を脱構築っていうんだよ。
もっと教えてぇ〜
「もっと」といわれても、 「定量→定性」 以上のものはないのだが。
745 :
考える名無しさん :2008/06/25(水) 05:12:25 0
哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁 スタンリー・カヴェル著 中川雄一 訳 四六 ● 336頁 発行日:2008年5月 ISBN:978-4-393-32309-1 春秋社 税込定価:3,570円 エマソン、ソローというアメリカ思想の後継者であり、近年のウィトゲンシュタイン新解釈の立て役者 でもある大教養人カヴェルが、哲学とは何であるかを根源的に思索。みずからの半生というかぎりなく 私的なもののなかに哲学の営みを探り、そこに見出される「哲学を語る」の考察から、有名なデリダの オースティン批判が的はずれであり、むしろデリダのほうが哲学を特権化し、日常の抑圧に加担するも のであることを、独特の文体で暴いていく。 さらにの考察は、芸術であるオペラにひそむさまざまな哲学的課題の探究へと導かれていく。 おそらくは日本の読者がこれまで体験したことのない哲学の万華鏡世界。 いまだ日本ではほとんど知られていないアメリカ哲学の巨人が登場。 分析哲学を知悉しつつ、分析哲学ではないアメリカ固有の哲学の現在形を存分に堪能できる一冊。
何故それを今更。 しかも、これは別にデリダメインの本じゃないけどね。 結構説得力のある議論だよ。
オースティンやサールって、日本ではデリダに批判されたことでしか知られてない面もあるし(そんなことないかな?)、 今あえて言語行為論を見直してみることの意義はあるだろうな。 スレ違いだが。
主著は二人とも翻訳されているし、言語哲学やってる人には十分知られていると思うけど
デリダってそんな有名か。 哲学史でいるとウィトの後継という意味で、 オースティン、サールしらなくても、言語行為論の方が重要だろう。
日本において、現代哲学でデリダよりも有名な人は知らん。 あんだけ書き散らした本が続々と刊行されているのもすごいな。 需要があるんだろうな。
あれはある意味タレント本だから。
デリダはマイナーだ。ヒット曲がない玄人好みという感じか。 フーコー、ドゥルーズはヒット曲があるから。
753 :
考える名無しさん :2008/06/25(水) 21:22:37 0
声と現象を少しと、高橋哲也さんのデリダ、を呼んだ。 ウィ、と他者性、反復なんかがなんとなくわかったきがするので...全部読まないで判断するのは デリダ的にあれかもしれないけども。もういいかって気もしてきた。 差延や脱構築って哲学者なら誰でも感じたことのあるものだよね?それを主語、主体、西洋的 ロゴス?に対して固有名として言ったのがデリダって事で。 ただ改めて声ってなんなんだろう。パロール/エクリチュールの 権利争いは別にして。 ....となんかだらだらごめん。俺の文読んで明らかにコイツわかってないなみたい な事があったら教えてくれ。考えたい方向で引用というか展開?していくべき人 を探してるんだけど哲学者も心理学者も社会学者も数多すぎるよね
>それを主語、主体、西洋的 >ロゴス?に対して固有名として言ったのがデリダって事で。 固有名????
755 :
考える名無しさん :2008/06/25(水) 22:25:04 0
そうか...ええと名前の固有性を実在や、「アプリオリな存在」みたいに いってるわけでなく偽造されうる?反復可能なしかし権利を与える事に 価値のある概念として、「差延」や「脱構築」。脱構築は典型的な 偶像破壊とは違うか
???
>>753 はデリダとか言う前に日本語の勉強をしたほうがいい
758 :
753 :2008/06/26(木) 00:19:11 0
そういう「フレーズ」もエクリチュールとして言う価値はありそうだね。 主体的声の権利の上でかつ切り離すー記号的位置づけ、対象化が「表現」同様難しい。 書き方が唐突な感じでごめんね。専門的に調べてる人とのやり取りの仲で大きな齟齬 がないか確かめたいんだ
キモイ
760 :
486 :2008/06/26(木) 00:33:45 0
>>758 いいたい事を好意的に解釈すれば、反復可能性と独異性の問題を
デリダは論じている、といいたいのだろうか。
お前の言ってる固有名を、イテラビリテとすればだけどな。
ただ単純にデリダは独異性を与えたり与えなかったりする問題ではない。
偶像破壊とも違うと思う。
デリダはいつでも、どっちでもないんだ。
762 :
753 :2008/06/26(木) 14:41:35 0
イテラビリテは何なのかわからないけど.... デリダは哲学に特有の独異性だとか 、正しいもの、実在するものは最初で、最小の、現前において充実した直感 を得られるものであるみたいないわゆる現前の形而上学の流れを批判した人だと思ってる。 固有名やその独異性は↑みたいな部分で得られるのではなく、繰り返される反復の中で得られる 、得られうる、みたいな。 ただ固有も何も全部反復の中で生まれたり消えたりするのだと俺は思ってる。 素の自分だの本当の私だのみたいな最近の文化も含めてね。こういう部分に 脱構築を「本当」のこととして、権利を持つ固有を与えて言っていくのは意味があると思ってる。 偶像破壊と脱構築の違いは問いよりも責任から始まっているというかそのへんな感じ。 ある意味逆弁証法的に進むというか。合一させうる意味を求めてはいない
>>762 なんでそんなに日本語が下手なんだ。
なんでそんなにえらそうなんだ。
いってることめちゃくちゃなのに。
脱構築が偶像破壊なわけがないだろう。
偶像破壊ならニーチェでも、構造主義でもなんでも良いだろう。
そんなこと高橋本のどこに書いてるんだよ。
あんな簡単な本も理解できないって頭悪すぎだろう。
感じだけで、わかったふりするな。
もう一度高橋本を読んでこい。
高橋本呼んでも、デリダはわからないがw
764 :
753 :2008/06/26(木) 16:54:34 0
えらそうだったか...ごめん。 ...いや偶像(idea)破壊は偶像破壊でしょう。てかそもそも 哲学の本業でしょう。ただパロールからではなく、しかしそれは不可能だから 最小限の選び取られた暴力を持ってってのが脱構築なのかなって思ってる。760の人?
ideaとidolaは違うだろ
766 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 16:57:57 O
自分で哲学の本業といっちゃったよ。では哲学=脱構築? 脱構築されちゃったね
767 :
753 :2008/06/26(木) 17:10:07 0
語源はよくわからんごめんw わかるけどさ、まったいらにしてハイ脱構築じゃ無知の知と 変わらないでしょ。「決定」を暴く、断言しない、俳中律に 陥らない。でもそれだけじゃ何も肯定できない。責任を持つためには なにかしらの断言....「断」はほんとデリダに怒られそうだなw有言実行 の有言かな?を言わなければならない。 本業=本質=実在やらそのものやら存在やら=哲学そのものみたいな受け取り方は デリダが嫌うんじゃないのかね?
768 :
486 :2008/06/26(木) 17:52:48 0
>>767 途中で読むのをあきらめずに、デリダに少しでもこだわる気があるのなら、
読んだほうがいいぞ。
>。「決定」を暴く、断言しない、俳中律に
>陥らない。でもそれだけじゃ何も肯定できない。責任を持つためには
>なにかしらの断言....「断」はほんとデリダに怒られそうだなw有言実行
>の有言かな?を言わなければならない。
少なくともデリダは、決定を暴くや、なにも肯定しない、なんてことは言っていない。
差延を単なる延期行為の不決断だとかいうレベルとおなじで、読まないやつは
自分で勝手に解釈していくな。
少しまとまった形で読んで、あと人に分るように書けよ。
>>767 は、
好意的に読んでも何を言っているのかさっぱりわからない。
769 :
753 :2008/06/26(木) 18:34:59 0
ごめん文が下手というか自分にわかるようにしかかけなくて... 少なくともデリダは、決定を暴くや、なにも肯定しない、なんてことは言っていない。 差延を単なる延期行為の不決断だとかいうレベルとおなじで、読まないやつは 自分で勝手に解釈していくな。 何も肯定しない、というかはい脱構築、で終わるなら延期行為なら 脱構築は何も肯定できなくなる、って言いたかったんだ。 決定を暴くは言ってるんじゃないかな?そこで廃された他者を 暴くというか、見つけ出すというかさ。有言の辺りは説明できそうにない 単純に二項対立をA、Bという全体とするとさ、 正しいのはAだBだ言ってる時に 「AはAだから正しい」 「AはBにこうだから正しい」 「Bはこうこうだから間違い、よってAが正しい」 「AもBも正しいとするCがある」 って時に 「Aが正しいという事には(声には)Bをすでに含んでいる(肯定してしまっている)んじゃないですか? またBが〜」 っていう言い方をするのがデリダなのかなと思う。 ただここで含んでいるってとこが皮肉っぽい言い方になってしまっていて 他者性への志向というか肯定を促す言い方が足りないんじゃないかと思うんだ。
770 :
753 :2008/06/26(木) 18:38:41 0
>>終わるなら延期行為なら 終わる延期行為なら ごめん間違い。あと途中のとこに延期行為、もしくは現代的な相対主義というか みんな違ってみんないい文化として 「AもBも正しい」
771 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 18:50:20 O
失礼だけど
>>779 は引きこもり?
コミュニケーション能力が以上低い。文はヘタだし、わかっていないのにえらそうだし
このKYさは他者と接するのひさしぶり?いや嫌味ではなく
772 :
486 :2008/06/26(木) 19:12:48 0
>>769 俺流にお前の長文を勝手に解釈すると…
前半。まず、差延は少なくとも、延期や相対主義ではない、
とだけ言っておこう。散種が多義性とは全く違うというのと同じで。
あと後半。わからんではない。二項対立は排除するものを必然的に
回帰させてしまう構造をもっている、という意味で、それが差延の問題だ。
抑圧したものの回帰、精神分析の問題でもあるな。
あと「皮肉」だけど、脱構築がイロニーと似ているという指摘はあるので、
そうとれないことがもないだろう。同じように弁証法もイロニーの動きに似ている。
差延と弁証法はではどう違うのか。一番わかるのが、幾何学の起源序文や
発生の問題で、デリダが弁証法をどのように使っているか見て行くと、
分りやすいんじゃないか。
デリダを相対主義者や戯れだけで批判してしまうのは、もったいないと思うけどな。
773 :
753 :2008/06/26(木) 20:00:33 0
>>771 何もわかってないくせにわかってるふうな調子、を連続 させるのをやめないから偉そうになるのかな?「思う」って
いちいちつけといたんだけど逆効果だったか。 って感じがむかつくんだろーなw 766みたいなんには普通に
「そのレスするエネルギーがお前にあるのがもったいないわ。 デリダの事は俺が一番わかってる!って背中に張ってかっこつけとけ
シコシコ野郎」
とも思ってるよw普段他者と会話してる中でそんなどうでもいいこと を悪口したくないしそもそも感じたくないからこーゆーとこで話したいんだ。
>>772 ...とまあそんなこんなで
一方的に話し続けてるのを好意的に読んでくれてありがとう。単純に
嬉しいよ。ついでに、勝手な解釈しあって罵倒しあうのがいいじゃないかw
多義性と受け取られればただただ延期するためにとりあえずの「元」 を作りだす思想だと受け取られるのかもしれないね。相対主義とは
全然違うと思うけど、そうとられやすいじゃんか?だからってデリダをわかってない!じゃ駄目だからさ、なんかデリダ派の人から差延を言うとき
もっと良い言い方あるんじゃないかなと思って
>差延と弁証法はではどう違うのか。一番わかるのが、幾何学の起源序文や
>発生の問題で、デリダが弁証法をどのように使っているか見て行くと、
>分りやすいんじゃないか。
>デリダを相対主義者や戯れだけで批判してしまうのは、もったいないと思うけどな。
いやもともとそんな事に位置づけるつもりはないよ、753にあるとおり誰を
通して考えを述べていくか考えてるんだ。まあ、哲学の通例というか、批判の上に
持論を述べるという形はあるだろうにしても。
>幾何学の起源序文
これ調べてみるわ。デリダの他の哲学者に対する言及よりも、起源や実在的なもの、
イデア的なものがどういう過程で「発生」するのか(もとから、アプリオリがあるわけではない)
ってとこをどういうふうに考えてるのかが気になってる。
774 :
本文が長すぎた :2008/06/26(木) 20:01:09 0
>あと後半。わからんではない。二項対立は排除するものを必然的に >回帰させてしまう構造をもっている、という意味で、それが差延の問題だ。 ちょっとよくわからない。排除される事、差延される事は自然な事であるが回帰 の度に反復される(危機の度にって書いてあったかな?)事が他者を声によって 排さないことになる、みたいなことが反復可能性であってそれはが出来れば問題 じゃないんじゃないの?ああ問題ってかそれは非常ーーに難しいって感じの意味合いならわかる
こいつ薬でラリってるんじゃねぇ?
どっちにせよ、読むことを放棄して入門書読んで 個人的なキーワードみたいなものを振りかざしながら指摘してるようでは駄目だわ…
哲板って、たまに文章ラリってるやつが出現するな…。
悪訳書を読みすぎて、汚染されたのだろう。
753は基本的に不勉強な段階のようだから、「考えたい方向で引用というか展開?していくべき人を探してる」 という文章にマジレスするとして、デリダの初期主著をじっくり読むことは割といい勉強になると思うよ。 形而上学、神学、存在論についての原理的な考察として今でも高級な部類だと思うし、 初期デリダを読むと現象学やハイデガーなどの独仏系譜をしっかり勉強する必要に迫られる。 そうなると、ちょうど英米と独仏の分水嶺となっている時期のものに触れざるを得なくなるから、 のちに英米の哲学に転がるとしても、このへんを一定やっておくと何らかの知見にはなると思う。 デリダの初期をじっくり読んでる人って実はそんなに数いない。 が、読まずしてなされる「相対主義者や戯れだけで批判」という文脈が成立してしまっているので、 486の人はそこを釘挿しているわけね。 「差延と弁証法はではどう違うのか」という視点も、 そういう意味でじっくり読んでいる人にとっては重要な問題であり、 相対主義とかじゃ片付かないわけだ。
780 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 21:13:27 0
初期の主著っていうと現象学の特権について批判していく 感じのところ?現象学を学んでる人は多いし、そっちの 理解のためにもいいのかもね。政治に関してのあたりはなんか どうも的外れな感じがして読みたくないんだ。 参照の提供をありがとう じっくり読んでないけど、戯れや皮肉や言葉遊びに終わらないもので はあると思ってる。差延はむしろ逆弁証法じゃないかとか上で言ってるしね。 まあでもじっくり読んでる人からすればどんな立場であれ不快なんだろう。 ただ、哲学者も本も多いからさ。
>>742 > 「定量→定性」
> を脱構築っていうんだよ。
厳密・正確から曖昧・ファジーへの変換が脱構築なんだ。
quontityからquorityに変化させることか?
784 :
考える名無しさん :2008/07/05(土) 23:01:06 0
厳密・正確から曖昧・ファジーへの変換 これには同意だけどそれなら 定性→定量 なんじゃないかって気がする。定量→定性ってのは数字上はこうだけど〜 みたいな場合での話? というのと量、度、質(性質)の話ってあるじゃん?そういうとこでいえば 定(量、度、質)→量、度、質 が脱構築なんじゃないかな。定への変換は脱構築って気がしない
785 :
考える名無しさん :2008/07/14(月) 11:28:46 O
デリダって、一冊だけ読むとしたら何がいいかな? 色々調べたんだけど、どうも掴みどころがなくて、何を読んだらいいか分からないんだ。 カントなら純理、ニーチェならツァラ、フッサールなら危機、みたいな感じで代表作が読みたいんだけど…。 調べる中で少し興味を持ったのは『アポリア』かな…。
>>758 代表作なら『グラマトロジーについて』でしょうね。
哲学の余白、エクリチュールと差異、グラマトロジーについて。 この三冊は興味を引く箇所が若干違うからもしれないから、どれか一冊、と言われると悩む。 「形態と言わんとする作用」からはまりだすかも知れないし… あるいはエク差異に入ってるジャベス論からかもしれないわけだ。 間違いなく初期代表作と言えばこの三作だと思う。
>>785 基本的にどれ読んでも同じことしか言って無いから安心して好きなもの読んでください。
しかし、フッサールの代表って「危機」なのか?「論理学研究」や「イデーン」だとずっと思ってたよ。
>>787 「声と現象」・・・
たしかにデリダは基本的にどれも論理展開は同じだよな。 ただ中期のテクストはかなり実験的で読みにくい。 始めに読むなら初期の三部作か、後期のがいい。
790 :
787 :2008/07/15(火) 13:06:28 0
791 :
考える名無しさん :2008/07/16(水) 23:32:02 0
脱構築ってある意味逆弁証法的に進むものとして考えていいのかな? ▽の形で
否定弁証法ってこと?
793 :
486 :2008/07/16(水) 23:55:49 0
>>791 デリダは弁証法を逆にするとは言わないだろう。ひっ繰り返してもひっくり返さなくても
弁証法は弁証法だ。
「発生の問題」を読んでみればどうだろう。序の所で、デリダ自身いかに
弁証法にとりつかれていたかを告白している。そして、弁証法から離れていく
問題も。デリダは、「発生」のなかで試みたのは、「超弁証法」の試みだと、
一応そう名づけてはいる。
弁証法が何によって駆動するのか。弁証法は何にとりつかれているのか。
ヘーゲルの精神とは何なのか・・・これらの問題から考えた方がいいと思う。
この問題は、逆弁証法とか、何かをひっくり返したりしなかったりするのとはちがう。
エクリチュールと差異に入ってる、留保なきヘーゲル主義も読んでみたらどうかな。
発生の問題ってむつかしい? フッサール入門としてはどうですか?
「発生の問題」は、デリダが23才のときの修士論文。 読みやすいけど、最初に読むものじゃない。 まずは「声と現象」と「幾何学の起源・序文」からがいい。
デリダって名づけることは愛することだと言っておきながら、親からもらった名前変えてるんだよね。 親から与えてもらったものよりも、自分でつけた名前の方がいいと思っている自己愛の強い男ってことなのかね。
ジャッキーには耐えられなかった
柄谷行人が善男に耐えられなかったのと同じだ
799 :
486 :2008/07/17(木) 19:10:48 0
>>796 デリダの愛は、愛着とかそんな素朴な愛じゃないだろ。
愛とは離れることだ。
離れることと名づけることの共通項が見つからないわけだが・・・
801 :
486 :2008/07/19(土) 05:06:40 0
>>800 単純にいえば、名付けるということは、それ自身と距離を取ること、だ。
それは対象化するというのとは違う、少なくともデリダの場合は。
何か対象がまずあって、それに名前を付けるというのがここで言われてることじゃない。
デリダのいう名付けるというのは、名付ける行為自体が、間隔化−差延
の運動そのものだということ。名付けるとは差異化するということだから。
だから名付けることが愛だというのは、この場合、間隔化−差延作用のことをさしている。
この間隔化と差延、あるいは散種の構造なくして、愛は始まらないし、愛とはこのような
誤解しないでほしいのは、名付ける主体と名付けられる客観が単純に
分離しているということじゃなくて、この構造自体が、間隔化−差延作用から
しか理解できない構造だということ。だからデリダのいう名付けと愛の関係は、
このような名付ける主体と名付けられる客体の愛着とか、執着という素朴な
愛じゃないんだ。むしろこの素朴な愛も愛着も、間隔化−差延作用の運動
によって条件づけられていると考えた方がいい。
まあ、一言でいえば、愛とは差異である、といえばいいのかもしれないが。
802 :
486 :2008/07/19(土) 05:10:39 0
>>801 ごめん文章が途中で切れた
>だから名付けることが愛だというのは、この場合、間隔化−差延作用のことをさしている。
>この間隔化と差延、あるいは散種の構造なくして、愛は始まらないし、愛とはこのような
愛とはこのような、差延や間隔化、散種の反復、切断の運動の中でしか
条件づけられないということだろう。
間隔化、差延の差異化の運動から愛を考えているわけだね。
803 :
kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2008/08/03(日) 18:23:23 0
触覚読みオワタ これはデリダの主著と考えていのかな??
804 :
kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2008/08/03(日) 18:31:08 0
>>486 さんに質問いいですか?
顔ってなんですか??
どうもレヴィナスの引用の、顔の意味だけが捉えられなくて・・・
よろしかったら教えてください><
805 :
考える名無しさん :2008/08/03(日) 18:53:59 O
恐がるなよキリエ。がんばれ
806 :
とき子・茂・みゆき・麻奈美 :2008/08/31(日) 03:09:22 0
皆さんお待ちしております。
http://www.monde-diplomatique.fr/2008/09/ Le monde diplomatiqueこの号の目玉は
デリダの未発表テキスト「マキャヴェリの忘れられた狼」。
「君主は時として獣にならなければならない」という
マキャヴェリの『君主論』の議論から、「ならず者国家」の話に
つながっていく議論のさわり。EHESSでの2001年から2003年の
セミナー「獣と君主 Le bete et le souverain」の講義録で、
ガリレから10月に第一巻が刊行されるようだ。
何か読まずとも、議論が目に浮かぶ・・・いつものデリダ節だろうなぁ。
810 :
kyrie@鬱病 ◆.RYdSpBfEI :2008/10/06(月) 22:04:21 0
>>807 いや、理解してるよ。なんなら該当箇所を挙げてもらえば、この場で解釈してもいいよ。
デリダの記述部分より、脈絡のないナンシーの引用部分の方が晦渋なんだな。
>>808 Derrida, Jacques - Seminaire La Bete et le souverain. [Galilee].
#1 : 2001-2002. 2008 : 10. 472 p. ; 24 x 15 cm.
(La Philosophieen effet). ISBN 9782718607757
br. EUR 32.00
丸山信者のデリダ批判が、あまりに哀しいことになっているので基本的な事実を確認。 デリダが『グラマトロジーについて』(1967年)を書いた時点で、 フランスには『講義』のソシュールに基づいて、ヤーコブソンやバンヴェニスト、イェルムスレウ経由、 さらにはバルト得意の自由な読解に基づいて構築された「ソシュール」像があったわけ。 この時点で、フランスで一般に読まれていた『講義』は、 今はついているデ・マウロの注釈(イタリアでは67年に出ているが)すらついていない版。 たしかに、1957年からゴデルの仕事ははじまっていたけれど エングラー版は68年以降だし、あの時点で流通していた「ソシュール」は、 基本的にはデ・マウロの注釈すらない『講義』を通して読み込まれたソシュールだったわけ。 デリダが意図しているのは、この限りでの『講義』のソシュールなのね。 これを、本来のソシュールを誤読しているといって批判するのは、 丸山が、1996年に見つかり2002年に出版されたELGの草稿を理解せずに ソシュールを批判していたと言って丸山を批判するぐらい意味がないことです。 あの時点でのソシュール受容の一光景として読むならともかくね。
813 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 10:20:42 0
岩波現代文庫 『新版 ディコンストラクション(1)』 J・カラー/富山太佳夫ほか ¥1,155 2/17
.
816 :
考える名無しさん :2009/05/26(火) 10:49:21 0
デリダを批判的に論じた文献知りませんか? できれば単行本で(紀要、学会誌除く)
818 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 10:28:52 0
精神について ハイデッガーと問い ジャック・デリダ=著 定価:1575 円 (本体:1500 円) 平凡社ライブラリー
最近新訳が出んなあ
821 :
考える名無しさん :2009/09/12(土) 01:25:18 0
みすず書房から『留まれ、アテネよ』と『ならず者たち』が出る。
822 :
sage :2009/09/12(土) 03:22:04 0
どうせ出ない。
慌てないのです
11月下旬刊の予告が出てるね。 前者は今度こそ延期はしないでしてほしい。 みすず書房 『ならず者たち』 ジャック・デリダ/鵜飼哲、高橋哲哉訳 11/20 ¥4,410 みすず書房 『留まれ、アテネ』 ジャック・デリダ/矢橋透訳 11/20 ¥3,570
キクゥ
827 :
考える名無しさん :2009/10/27(火) 16:23:44 O
懺悔
世界市民的見地における哲学への権利 ジャック・デリダ(訳=西山雄二) 『現代思想』2009年11月号 特集=大学の未来
えっ!
830 :
みや :2009/11/03(火) 10:28:19 O
やくみ
831 :
考える名無しさん :2010/01/27(水) 23:54:53 0
デリダの『条件なき大学』、脱力するような誤植がある。 あっさりがあさっり、弱冠が若干とか。
832 :
考える名無しさん :2010/02/06(土) 00:33:37 0
デリダ読むなら、どなたかが言ってましたが、『「幾何学の起源」序説』から入るのが いいんじゃないか。フッサールの本文よりデリダの序説の方が長かった。 それから『声と現象』。 差延の考えは、フッサール現象学なかでも「生き生きとした現在」という考えとの対質から生まれてきた といってもいいので。なぜエクリチュールにこだわるのかという問題意識が真正面から言及されている。 その後のレヴィナスとの関係を見るにしても、やはりフッサールとの関係が起点になるかと。 レヴィナスの<他者>は、超越論的領野の<外部>として示されるわけだから。
みな、アンチ・サルトルの視点なしに語ろうとするから、歪になる。
835 :
考える名無しさん :
2010/06/15(火) 09:25:23 0