1 :
考える名無しさん :
2006/02/01(水) 23:12:54 教えてください
2 :
考える名無しさん :2006/02/01(水) 23:18:30
申し訳ありませんでした。 私は40才。独身。対人恐怖症の清掃員です。この年になって 貯金もなく、未来に希望もありません。たぶんこのままいつか 静かに死んでいくと思います。私の人生で唯一素人の女性と性交を したのは大学1年の時でした。相手は1学年上の女性で綺麗な人でした。 ただその人は精神を病んでおり、その後すぐに休学しました。正上位で セックスしてるとき私の目を見ながら「無様だな、惨めだな、え、おい」とか 言い続けていて怖かったのをおぼえています。それでも私は必死に腰を 動かし続けていました。これがセックスなんだこれがセックスなんだと頭の中で 言い続けていました。その人はずっと私を罵倒し続けていました。今思えば 壮絶な光景です。 あれから20年経ちました。私は今日も2ちゃんをしています。
3絶
ソシュール→おじさん 構造主義→おじさんたち
5 :
考える名無しさん :2006/02/02(木) 22:14:20
言語学板にソシュールスレが一つしかないのにはビックリ
6 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 00:43:17
誰か語ってくれよ
7 :
キチガイ :2006/02/07(火) 00:57:29
構造から意味がたちあがるというだけの話だが おまえらにはわからんとおもう
8 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 18:30:15
9 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 18:47:23
でもなんで自分の著作の出版に否定的だったんだろうか。 あれだけの才能とすばらしい業績を持ちながら。 天才とは不可解な代物である
巨大烏賊とプテラノドンの闘い
11 :
8 :2006/02/07(火) 19:24:57
>>9 非常に良い質問です
これは、この「ソシュールの思想」を読んでもらうのは早いけど、
すぐ知りたいならば、ソシュール自身の理論を理解するとある程度分か
ってくる。言語が差異の体系であるならば、そこには絶対的な言語への
信頼性、通じて人間存在を揺るがす問題が大きく横たわっていたことへ
の深い疑念があったのではないだろうか。つまり、ソシュールは絶対的
なコミニュケーションなど存在しないということを理論的に提出した初
めての人で、それゆえに天才であったわけで、この辺りは、ソシュール
の思想そのものにも繋がってくる。
12 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 19:50:14
>>11 の続き
代表書「一般言語学講義」そのものでさえ、直接本人から聞いた割に
ずいぶん弟子同士の食い違いがはなはだしく継ぎ接ぎだらけです。
ソシュール自身が行ったのは言語学批判であるが、それが<近代西欧
知>そのものへのアンチテーゼになったことからも明らかで、自らの
地盤を揺るがすことになることは現代のメディアの有様を見ても明ら
か。自分の説が間違って伝わって悪影響が出ないかぐらいのことは、
当然考えていた。
それ以外のことばっかりに言及している
14 :
8 :2006/02/07(火) 19:56:48
>>12 の続き 道徳の相対化を行ったのがニーチェならば、<近代西欧
知>の地盤となる言語そのものが相対的なものであると提起したのが
ソシュールです。ソシュールからバルト、ラカン、レヴィ=ストロー
ス、フーコー、デリダらが影響を多く受けた。デリダのソシュール批
判なぞは「一般言語学講義」をそこまで精緻に見ていたわけではない
ので的外れな意見が非常に多く参考にならないですww。
15 :
8 :2006/02/07(火) 20:03:06
以前は丸山圭三郎スレがあったからこのことは説明する必要がなかった だけで、わざわざ現地まで行って調査していることからもあまり疑問視 されなかった。日本の2ちゃんねるでは丸山=ソシュールの流れがあった からでソシュールの直接のスレは立たなかったこともある。
16 :
8 :2006/02/07(火) 20:12:12
17 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:13:13
丸山以外は?
18 :
8 :2006/02/07(火) 20:25:19
バンヴェニストの一連の著書、チョムスキー等が有名。 レヴィ=ストロースが構造人類学を作った基礎になったヤーコブソン もある。 ただし、原著まで追求した人は世界中でも丸山圭三郎だけです。 最もよい影響を受けたというならメルロ=ポンティではないかと思わ れる。テクスト関連ならばバルトも良い。
19 :
8 :2006/02/07(火) 20:35:47
日本に出ている「一般言語学講義」は丸山圭三郎を「無視」している ところがあってある意味危険な部分も無くはない。原著ならエングラ ー版を当たるのが妥当かもしれないが、断章形式になっていることが 仇になっている。
20 :
8 :2006/02/07(火) 20:39:38
ソシュールを根源的語ることは言語=テクストの網の目を縫っていく 作業なので安易にカキコ出来ない構造が厳然としてある。従って、影響 を受けた構造主義の思想家からソシュールについてどう解釈したか、そ れについてどうかと意見するのが妥当と思います
21 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:39:41
何で今さらソシュールなのでしょう? 「言語の恣意性」などはもう古典のチョムスキーがひっくり返した でしょう?
22 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:40:35
構造主義などももうダメダメでしょ。 ブルバキは失敗したしね。
23 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:42:05
今はやはりホスト構造主義の時代でしょ。 2チャンネルの時代ですね。 「ぴろーーーん。うそぴょーーーん」のね。
24 :
8 :2006/02/07(火) 20:47:11
>>21 これについては、バンヴェニストも同様の批判をしているのです。
しかし、ソシュール自身は主知主義を明確に否定していた。
動物学者、人類学者、それに言語学者たちは、分節言語なるものにつ
いて公衆に語るとき、あたかもそれが、誰にとっても全くわかりきった
概念であるかの要に語っている。彼らはそこで≪分節≫というものを、
ことばに与えられた≪一連の観念≫のごとき精神的事実と混同している
のである。
と言っている。
25 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:49:14
ソシュールの思想で現在も残るのは、アナグラム研究だと思う。 「言語が世界に対して開かれている」事はじゅうようだよね。 しかし、現在、この研究を進めるには情報理論的なアプローチが もっとも適していると思う。 日本にはアナグラムなんてないしね。
26 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:53:56
ソシュールの思想、さっそく買いました
27 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 20:54:46
>>24 ありがとう。「文節化」についてソシュールはこだわりがあったのだね。
だけど、現在、その方向で研究を進めるには、やはり情報科学が
もっとも強力な武器になると思う。哲学では無理ではないのかな?
もちろん、ガンでお亡くなりになる直前まで文字通り命をかけて
研究された丸山先生は立派だと思う。
28 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 21:07:38
>>25 自分へのリファーです。
でも、アナグラム研究とか言うと輸入文化になっちゃうね。
翻訳すると、「ナウい」は死んだ。「ゲロゲーロ」は生き残った。
と言ったところだよね。
29 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 21:13:33
>>27 自分へのリファーです。暇なので。
例えば、特定の文化の時間軸を含む確率分布を仮定して(でっち上げて)
その文化からの「特定の」文節化の分布への隔たりを情報論的に
カルバックライブラーのダイバージェンスで測る。そしてそれが
最小になる文節化とは?とかね。
30 :
8 :2006/02/07(火) 21:27:16
>>27 実際、80〜90年代の記号論派の凋落は、差異の中に差異があるこ
とを忘れていたと言ってよく、最終的に主観的解釈によってしまうと
いうことになってしまった。ソシュールは言語によって言語を語ると
いう無意味さには気付いてた。このことは
>>8 を読むと分かる。アナグ
ラム研究もそれから発生したわけです。しかし輸入文化としてしまう
のではなく、このインターネットの検索機能から、この情報氾濫、さら
により情報が細分化されたこの状況は、根源的にソシュールのパロール
の問題が解体されているとは言えない。
つまるところ、人はなぜこれほどの言語によるコミニュケーションを
行うに至ったかという問題でもある。丸山圭三郎はソシュールのこの問
題を継承しつつ生命論に手を出した。それの内容には意見が欲しいけど
充分「哲学的」な問題だと思います。
31 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 21:28:35
共感覚 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 共感覚(きょうかんかくsynesthesia、ギリシア語で「共」+「感覚」)とは、 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感が未分化である人間の赤ちゃんの さまざまな感覚が関連しあうこと。例えば、7という文字に青い色を感じたり、 音階のミの音に緑色を感じたり、ハンバーグの形が苦い味に感じたりする などである。その後の成長による感覚の発達にともなってこうした 共感覚は失われていく。しかしながらたまにこうした共感覚を保持したまま の大人もいる。 共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる人は「色聴」と いわれる。絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。 音を色で判断しているとすれば、音を判別するとっかかりが通常より 多いことも一因と考えられる。 日本人には色聴が多いといわれるが、少なからず、ヤマハ音楽教室が 階名教育の際に使用している色(赤=ドなど)が影響しているといわれる。 一種の後天的な共感覚と言えよう。
32 :
8 :2006/02/07(火) 21:34:49
>>27 情報科学的アプローチも有効か
>>27-28 の展開に期待します。
私は「ポスト構造主義」が明確な「武器」かといえば非常に疑わしい。
いや否定的でもあります。日本でも欧米でも高級サロン的政治の道具に
凋落している状況は目に余るし、人間の生命を脅かすまでのパラダイム
にまではとても無理と思ってます。これは釣りですw
33 :
考える名無しさん :2006/02/07(火) 22:36:46
蛇足 丸山さんという人、真面目な業績と裏腹にとても面白い人で、 大のカラオケ好きで300曲のレパートリーがあるとか、マンガ で「工業哀歌バレーボーイズ」で「この「下品さ」はただごと ではない!(笑)」と雑誌で絶賛していたというww
34 :
9 :2006/02/07(火) 22:38:03
>>9 の者です。ご助言ありがとうございます。
>>8 さんは専門家の方ですか? ずいぶん詳しいですね。
ちょうど丸山氏の『ソシュールの思想』と『ソシュールを読む』を
買ってそのままだったので、この機会に読んでみます。
私がソシュールに興味を持ったのは、小林秀雄が『本居宣長』の評論上
で明らかにソシュールの言語=認識という思想を応用して、宣長という
人物の業績を解析していたからでした。
最近は、コンディヤックの『人間認識起源論』という岩波文庫が、
その言語=認識論的に再評価を浴びているとかで、購入していました。
35 :
8 :2006/02/07(火) 22:41:06
>>34 大学時代のゼミの先生が「記号論」を専攻していた関係です
ソシュールはその先生より研究してしまいましたw
36 :
8 :2006/02/07(火) 22:47:41
37 :
8 :2006/02/07(火) 23:00:18
ソシュールの思想は人文科学という狭い分野で限定しているとあまり面白みが ない(それでも構造主義を生み出した流れだけでも面白いけど)。 オタク達の「萌え」の構造を分析するならこれほど面白いツールもないと思 う。差異の中に差異があるという永久に終わらない<分節化>が人間の欲望と どうシフトするのか、丸山圭三郎氏は「文化のエロティシズム」でその様を暗 示していた。
38 :
8 :2006/02/07(火) 23:05:33
>>37 それこそ生物学やら動物行動学とクロスオーバーさせたり、ゲシ
ュタルト心理学と融合したりと方法はかなりあると思う。
理数系でもプログラミング言語と情報処理でソシュールを援用してい
る動きもあった気がする(この辺は詳しくは無いが)。人文系は
>>30 で
述べた様に哲学的領域まで掘り下げることも可能です。
39 :
8 :2006/02/07(火) 23:09:23
人工知能である対象を<言分け><身分け>していくことにかなり近づ いているのではないか。そもそも多くの「経験」で差異の網目を多重に フレーム化、モジュール化は全く別の分野からソシュール理論の裏づけ ではないか、とも考えられないだろうか?
言語相対仮説ってあるけど、サピアやウォーフとかにしたって 言語が認識を決定してるなんて極端なこと言ってたわけじゃないだろ?
同時に二つの色を見せて区別させると、その2つの色を区別する語を持たない言語を母語とする 人間も、区別する言語の話者と同じ成績なんだってさ。 記憶がかかわるとそれも変わってくるらしいけど。
>>37 「文化のエロティシズム」って著書もあったっけ?
「文化のフェティシズム」の間違いでは?
>>40 そうだけど、言語が、広くいえば個別文化が、ヒトの脳の進化発達に
影響を与える可能性はあるんじゃない?
44 :
8 :2006/02/07(火) 23:59:19
>>40 このことについてはまだ議論があって当然です。ところが実は、
ソシュールは色彩論や音韻論をよく読みますとそうだと言っています。
勿論物理的限界が前提の話として聞いてください。
例えば、文明社会(便宜上)に生きる我々は視力が6.0も必要な
いわけでサバンナに生きる原住民は何キロも先にある動物を識別する
能力が事実としてある。さらに現在では確認できないがまだそれほど
文明人がフィールドワークしていなかった頃(100年近く前)はエス
キモーは上半身裸になって氷の上に寝ても凍傷にならず、そのまま海
に飛び込んだとか現在では信じられない「事実」が多数見受けられる。
(勿論、物理的限界はあっての話)
人間は共同体が共有するラングが意識や無意識に逆作用を及ぼすと
いうことを言っていた。レヴィ=ストロースは未開と思われた社会に
も我々でも考えられない程の複雑な社会構造があることを述べている。
文明社会に生きている我々では普段考えている「常識」を超えた、
認識、構造が横たわってます。インドあたりに行けばそのことがよく
わかります。
さらに例で、ピストルに打たれて死ぬ確立は物理的には実はとても低
いのですが、ピストルによる死亡率は大半がショック死です。これは
ピストルの持つ記号性=象徴が身体にまで影響を与えた例です。
>>41 のつづきだけど、同時にじゃなく、再認させると
区別する語を持たない人間の成績は区別する語を持つ方より
わるくなるらしい。
記憶がかかわると言語が認識に影響を与えているみたいだね。
46 :
8 :2006/02/08(水) 00:10:10
>>42 これは間違いw すいません
でもどこかでそういう丸山氏の論文を見かけたのでごちゃになってまし
た。何せ15年も前なのでw
>>44 の続き 文化というラングは我々にとんでもないほどの影響を様々
に及ぼしている。藤田紘一郎氏が日本の清潔主義に警鐘を鳴らしている
のはこのことなんですよ。「貧しい」という意識が人間を惨めにさせる
という逆説が成立するのもその一例でみんなが同様に現代より貧しかっ
た戦後にそんな意識は発生する余地はなかった。皆がそうだったから。
されど自分の家族だけがその時代に戻されたら人間の意識に変容を及ぼ
さざるを得ない。そこに自分の家族と他の家族との差異が発生するから
です。貧しさのあまりショックで死ぬなんてことはしょっちゅう聞きま
す。
47 :
8 :2006/02/08(水) 00:21:29
>>40 これはまだ私も研究しているところで、すごくナーバスな問題な
んですよw
>>41 、
>>45 その例はありますよ。ただし年齢により認識のばらつきも
あります。
幼少時のまだ言語的に未分化な時にバイリンガルにしやすいという例を
聞いたことはないですか?それなどは好例で認識が記憶に関連する以上に
構造化が早期な方が良いというのは、大人になっていくとその構造化の上
にさらに包括的な構造化の負担が大きい為と大脳生理学でいうところのシ
ナプス構造でいわれてます。
文化という網目が縛る以上に人間が生活できるキャパは想像している以
上に大きいことは研究中ながら大脳を研究している方から聞いたことがあ
ります。北斗神拳の名セリフではないですが、火事場の馬鹿力は実在しま
すw
48 :
8 :2006/02/08(水) 00:22:47
おもしろい。
50 :
8 :2006/02/08(水) 00:37:23
>>47 の続き 文化人類学はこの様な報告の宝庫なので一々引用は長くな
るので控えますが、宗教的儀式が人間の身体を強靭にして鉄の刀を叩き
折った「神」が降臨した儀式などもその例です。
レヴィ=ストロースがソシュールを研究したのはこの様な文化的交流
が頻繁にあってその為の構造ツールとしてソシュールが最適だったとい
えるでしょう。ポスト構造主義は「構造」を静的に捕えすぎてはいまい
かという批判がありましたが、当然構造は恒常的ではあっても「不変」
ではありません。その都度捉えなおさなければいけない。
そろそろ仕事で朝が早いので最後に
メルロ=ポンティの知覚についての名言を
世界とはわれわれの知覚している当のものである
哲学とは己れ自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である
51 :
8 :2006/02/08(水) 00:48:50
「お前はすでに死んでいる」と火事場の馬鹿力にどんな関係があるんですか?
53 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 00:55:57
>>52 人間は通常潜在能力の30%しか使っていないが北斗神拳は残りの
70%も引き出す、っていうあれでしょw
なるほど!
それだから、殺人事件になりました。
>哲学とは己れ自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である こういうのは共感する。 でもソシュールは哲学の構造主義の文脈で取り上げられるのは 多分迷惑かもしれないね。
57 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 01:17:57
>>56 ソシュールはメルロ=ポンティと合ってないからそうかもしれな
い。メルロ=ポンティは意外と知られてないけど、フッサール文庫の全
5万頁ある資料に目を通して「知覚の現象学」を興した努力家だから、ソ
シュールについてもかなりオリジナルな解釈をしているし、ある意味丸山
的かもしれないw
でも俺がソシュールなら許すけどw
5万頁ぜんぶ?
59 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 01:35:36
>>58 事実らしいが、後期分のみという説もある。ちなみに「知覚の
現象学」は後期を参考にしたというのはガチらしい。少なく見積もって
も2〜3万頁は目を通しているだろう。どちらにしても執念を通り越した
怨念すら感じるがww
60 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 01:43:29
「イデーンII」は?
61 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 01:54:29
例えば、どんな概念?
63 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 11:35:19
読んだという事実と参考文献として上がっているということと、どんな概念と 言われると返答が非常に難しい。メルロ=ポンティ自身「知覚の現象学」での 参考文献には上がってないけど、「見えるもの見えないもの」にはイデーンU を参考にした概念が訳注の中にある。「裸の事象」という概念 むしろ後期の影響は晩年の「見えるもの見えないもの」の方が強いと思われ る。あとは調べてください。
加賀野井秀一『知の教科書 ソシュール』 町田健『ソシュールと言語学』
65 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 14:39:39
>>64 ソシュール? 誰それ? って人には良いかも
66 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 20:08:28
フッセルに代表される現象学は「まともな」学問の 前段階だよね。植物学でもはじめは分類学だったしね。 それから、差異の差異である、分子生物学が発展していくのだよね。
67 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 20:15:05
哲学や思想の世界でいつも疑問に思うのは、日本人は、 「哲学やりましょ」といってシャッチョコバッテ哲学やって、 また、フツーの生活にもどるよね。でも、ヨーロッパ人は セネカのような2流の哲学者でも、「俺は信奉するぜ」と生活の 価値観と一体になっているところがあるよね。もちろん、 アホも多いわけだけどもね。 なぜ、(過激なところもある)日本のお笑い界に注目しないのだろう。 根性ないね。
68 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 20:23:21
ここに赤い玉が三つあります。 ここに赤い玉は三つありますか? ということだよね。
69 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 20:43:19
>>65 だめだよ(きんちゃん風に)
みんな、そんな文献学のようなことばかり言っていては!
哲学しなさい。
もっとも日本では文献学で哲学者として食っていけるのだよね。
70 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 21:05:57
じゃー哲学問題を出すね。 さっきと同じだけど、 ここに白い玉がひとつありまう。 ここに白い玉がひとつありますか?
71 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 21:12:28
もう一つね。これは探求(Zettelだったかな) なぜ犬はうそをつくことが出来ないのでしょうーーか?
ソシュールなんて哲学じゃないし そもそも言語学では認知意味論ですでに乗り越えられてる 無意味
73 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 21:30:55
>>72 認知言語学や認知意味論は過激に面白いのですが、
これらはコンピュー太にのらないのよ。
のっても、実世界で使えないのよね。
そーれはね、理論としてはダメダメね。(マダマダね)
>>73 ソシュールなんて誰も真面目にやってないと思うけど。
案外ソシュールがメジャーなの?
意味論関係で言語学知ってるけど。
75 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 21:38:17
>>74 こーれはいい人を見つけたね。
今、チャンネル理論はどうなているの?
76 :
8 :2006/02/08(水) 21:57:54
ソシュールの理論自体が言語学者で哲学ではない、という意見は多いのです がこれは表層還元論的すぎます。ソシュールの理論自体は細部で修正される所 はあるが、その根幹の思想はまだ全然問題視されてないのが現実。 つまる所、言語でもって言語を語ることの無意味さに気付いたこと。人はな ぜこの様な言語を持ったコミニュケーションを取り始めたということにシフト することの方が大きな問題ではある。 確かににブランドのファッションを着替えるかの如く脱ぎ捨てる代物ではな く、少なくとも現代思想にこれだけ大きな影響力を持ちえた思想ではあるわけ だから、サルトルやヘーゲルが有効性を持たないのとは全然違う話ではないだ ろうか。マルクスに至っても理論的有効性は除外しても資本主義に疑問符を投 げかけたことは全然解決されてないし。ソシュールはブランドファッションだ と思っているなら止めとくことをお勧めします。
77 :
8 :2006/02/08(水) 22:14:52
多くの人は誤解しているが、人が思想するのは、二種類ある
一番目は
他者に対して自分が優位に立つ自己実現の道具と錯覚しているケース。
二番目は
体内から自分の存在根拠を考えてしまうために必要として思想しているケース
ソシュールは流行とは裏腹に実は後者であって、その無意味性には苦悩
していた。
>>8 を読むとそう考えざるを得ない。ハイデガーやサルトルや
デリダにも何か優位に立とうとすポーズが伺える。真面目ではあるだろ
うが、何かを隠している。私はそういう誤魔化す思想が嫌いなだけなの
です。
丸山圭三郎が直接デリダと対談して、結論をはぐらかされたことに憤り
を覚えたらしいが、よくわかる。
78 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 22:17:33
>>76 サルトルとボーボワールなんて
「こいつら、心から言ってないだろ。うそついてるぜ」
なんてね。
つーか、ソシュールの思想って? ハイデガーやサルトルのほうが万倍いいよ。
80 :
8 :2006/02/08(水) 22:25:57
>>78 実は読んでそう思いましたw。
>>77 この後者が「哲学」と呼べるなら私はそう思いたい。
ソシュールという人物そのものは充分「哲学」している言語学者でしょ
81 :
考える名無しさん :2006/02/08(水) 22:32:30
>>74 デイヴィドソンの論理学を用いたの意味論では、「心」を持ち出す
よね。しかし、これは厄介なものにさらに厄介なものを
持ってくることにならない?
ソシュールの思想は、ただの思想。 ハイデガーもサルトルももっと深いよ。 深いというと笑われるが。
83 :
8 :2006/02/08(水) 22:47:37
>>79 ハイデガーらが提起している問題がどうでも良いとは思わない
ハイデガーもニーチェの問題を引き継いでいるし哲学初心者は読んで
も良いと思う。
それはサルトルやデリダもそうでしょう。ヘーゲルにしたって、そ
の時代問題となった理性の問題を突き詰めた。それは評価する。
その時代の問題点を鋭く指摘する点では充分天才性はある。
しかし、問題が面白いからといって、その後の道筋が明確かどうかは
これまた別問題で、特にヘーゲルなどはキャバクラでボッタくられた
気分にさせられた。どう考えてもおかしいと思った。
サルトルとて安手の思想ばかりあるのではない。しかし弁証法の融
合という実存主義がある種の実体主義にすりかわり、表層においての
混乱を取り去れば本質的実体がすぐ表れるかの如く考えさせる様にな
った。されどどうにも本人が真面目だからという理由ではなく本人が
本当に苦悩しているかどうかで思想を選ぶ様になったのは私にもそれ
なりの理由があってのことです。若い方は
ハイデガーやサルトルのほうが万倍いいよ。
というのはわかる、私は、充分に打ちのめされたからそう思うわけで
読むなとは言いません、あしからず
>>83 いや、あなた、ヘーゲル読めてないでしょ。
ヘーゲルは、シュリングの焼きなおしですよ。時代も何もない。
ヘーゲルだけ読んでも分からないよ。
哲学史が含まれているんだからさ。
サルトル=実存主義っという理解も乱暴すぎるよ。
本質実体なんていう言葉は使ってない。
ソシュールは、個別の学問での理論であって、思想ではない。
85 :
8 :2006/02/08(水) 23:03:07
>>82 正直言って言葉が足りなかったら申し訳ない。
>>83 にも書いたが
私は深いかどうかで思想家を判断してないので。それならハイデガーな
どは充分深いと思うわけ。
ソシュールはパロールに最終的にこだわっていた。これはソシュール
の言説のみでは無理なのは知っています。少なくとも現代科学や生物学
等も必要と思っている。ただの思想と揶揄するならどこがどうまずいの
かをお教え下さい
86 :
8 :2006/02/08(水) 23:11:41
>>84 本質的実体かの「如く」です
よく読んで下さい。これは「結果」です。そう受け止められたという
ことです。
>>85 いや、思想じゃないなら、私も知りませんよ。
専門じゃないんだから。
でも、いちおここは、言語学板じゃないし、思想としてのソシュールでしょうよ。
構造主義も含まれているわけだからさ。
だとすると、個人的にソシュールは深くない。
というのは、結局個別の学問だからね。
というわけです。
88 :
8 :2006/02/08(水) 23:17:23
>>84 いや、読めてないですw途中で投げました。
西欧哲学史が背負う歴史的意味、内部からそれ自体を規定しているもの
のみが真とする言語的閉鎖性、自己陶酔とも取れる熱望が至上の善とす
る態度が嫌だからです
>>86 ただの思想というのは、フロイトのようにある特定の学問分野で、科学的なアプローチを経ずに
思索的な活動を行うという意味ですよ。
ハイデガー、サルトルの場合、べつだん思索に目的があるわけじゃあない。
ソシュールが使用した「共時態」と「通時態」という区分は 現実的な対象としてあるのではなく、あくまで認識論的な理論装置であることは理解できる けれど、ソシュールの理論の射程を測るとなるとかなり厄介だと感じている 例えば「通時態」をどう捉えるか (共時態間の単純な比較で事足りるのか、そうでないのか)が違うだけで ソシュールはまったくの皮相な言語学者でしかないという評価と 単なる言語学者にとどまらない白熱した知性を持つ 言語哲学者だという評価に分かれると思う ソシュールやソシュールに直接影響を受けた哲学者を専門的に学んでいる訳ではないので ソシュールに関してはこの程度のことしか言えないなぁ んー、専門の人がいるみたいだけど、訊きたいことがあったら質問してもいいのかな?
91 :
8 :2006/02/09(木) 00:25:27
丸山圭三郎著「ソシュールを読む」より (A)substance (B)forme ―――――――――――― ―――――――――――― 構造 |・実体的同一性と差異の| |・関係的同一性と差異の| 特 | 世界 | | 世界 | 定 |・自然的図と地の均衡 |――→|・恣意的価値の均衡 |=共 |・種のゲシュタルト | |・文化のゲシュタルト | 時 ―――――――――――― ―――――――――――― 態 ―――――――――――― ―――――――――――― |・実体的変化 | |・関係的変化 | 通 歴史 |・個の変化 |――→|・価値の変動 | 時 |・偶発事の発生 | |・現象の発生 | 態 ―――――――――――― ―――――――――――― 特定共時態はクーンのパラダイムとほぼ近い意味 通時態とは構造史(histoire structurale)と見做せる
92 :
8 :2006/02/09(木) 00:32:14
>>訂正ww (A)substance (B)forme 構造・実体的同一性と差異の世界 ・関係的同一性と差異の世界 ・自然的図と地の均衡 ――→ ・恣意的価値の均衡 ・種のゲシュタルト ・文化のゲシュタルト 歴史・実体的変化 ・関係的変化 ・個の変化 ――→ ・価値の変動 ・偶発事の発生 ・現象の発生 特定共時態はクーンのパラダイムとほぼ近い意味 通時態とは構造史(histoire structurale)と見做せる
93 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:35:04
●戦中戦後の世代(1910〜1935) 戦争を経験し日本を見事復興させ今の日本経済を作り上げた最強の世代 戦国時代の武将なみのレベルの高さで感服。一部勘違いあり。 ●混乱の世代(1936〜1944) 終戦、復興の混乱期に幼少時代を過ごす。運だけが全てを決めてしまった世代。宝くじ大好き。 ●団塊世代(1945〜1949) 自分達が日本を作り上げたと思ってる"超"勘違い世代。 お前らが作ったのは借金。キチガイ多し。 行動力や根性は多少は持ち合わせているがたいした事は無い。 唯一評価できるのは繁殖力の高さ。 ただしあまりにも高すぎて未だにエロイ事件を起こすのもこの世代。 日本を滅ぼそうと密かにたくらんでいる。もういいから早く団体で中央線にダイブして欲しい。 ●団塊の金魚の糞世代(1950〜1959) 団塊と一緒に踊ってただけの世代。自主性なし。下の世代にも疑いを持たず踊ること(Yesマン)を求める傾向あり。 上が団塊で且つ人口減少期に生まれた為競争は緩やかで勘違いが増殖。団塊の劣化コピー版。 ●バブル世代(1960〜1969) 未だにバブルもう一回とか言ってるバカや、バブル後の脱力感で魂まで抜けた奴が多い 金銭感覚が狂ってるため消費率は高めなのが救いだがほとんどは無能。企業内でがん細胞化している世代 ●団塊Jr(1970〜1974) 親世代の団塊に反発するも就職難で返り討ちにあう。 世代人口が一番多いにもかかわらず出生率を下げていたりと、 繁殖力は極めて低い。 団塊の付けを一手に引き受けているのもこの世代。100年後の日本史には悲惨な世代として登場予定 ●無味無臭世代(1975〜1979) いたの? ●無気力世代(1980〜1984) あきらめモード全開。やる気ナッシング。パラサイト多すぎ。 気持ちはわかるが、仕事しろよと。 愚痴らせたり文句言わせたりすると最強な所や、他人に頼りまくるところは団塊そっくり。 近親憎悪からオヤジ狩りという文化を生み出す。 ●DQN世代(1985〜1995) セックルセックル!小学生のうちから無駄なセックスしすぎ。おまえら大丈夫かよマジで?あんま期待して無いけど頑張って。 ●日本終焉を見守る世代(1996〜) 戦後動き出した日本の鼓動がゆっくりと止まるのを見守ることになる世代。彼らの未来は暗く冷たい。
94 :
8 :2006/02/09(木) 00:37:04
(A)substance=実質の次元 (B)forme =形相の次元 と訳されてます
95 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:38:11
無気力世代(1980〜1984)は社会問題化しているから資料は十分で、 日本終焉を見守る世代(1996〜)は、単なる予想の範囲に留まっているが、 DQN世代(1985〜1995)をどういった社会現象を指標にしているのか 全くわからないな。
幾つかの共時態間、つまり差異のシステム間の比較が「通時態」なのか? 「面の歴史」をイコール「通時態」としてしまうと 差異が差異として戯れる解体と生成のダイナミズムが欠けてしまわないか? それから、「均衡」のなかにもある種の「歪み」みたいなものがないと 変化の相が見えなくない?
97 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:48:29
1985〜1995の丁度中間たる1990年頃からバブル崩壊が起こっている。
98 :
8 :2006/02/09(木) 00:48:41
ソシュールの提起した方法によれば、共時的断面に目を据え、その俯 瞰図と俯瞰図とを比較することによって体系総体の不連続的変化を記述 するのが通時的研究であるということになります。
99 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:50:30
1995年はオウム事件が起こってるな。
100 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:54:55
となれば、共時態と共時態の狭間に見出される差異 それが「通時態」であるということですか? 一種の均衡状態としてのシステム、「共時態」 しかしそれはなぜ更なる差異化を、つまり異なった「共時態」へと 移ろいゆくのでしょうか?
101 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:55:39
1985年は特筆すべき事件は無い。
102 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 00:58:41
ただ、気になるのが1989年にコンクリ事件とM事件が起こっている。
103 :
8 :2006/02/09(木) 00:59:04
ソシュール「一般言語学講義」(SM 71-1516) 通時的事象と共時的事象の対立は出来事と体系の対立である。つまり、 通時的事象はいくつかの<出来事>にすぎない ソシュールは交互に捉えるべきと言ってます。そこに見えてくるもの をある意味しつこく記述する
104 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:02:35
「通時態」というのは、あくまで「記述」可能なものであるということ それがソシュールの主張だということですね ちなみに原文では<出来事>にはなんという語が充てられていますか よろしければ教えてください
105 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:02:41
思想シーンでは、浅田彰現象ってとこかな。 90年台に入れば、宮台が活躍を始めるから、 ニューアカデミズムと、遅れてやって来た社会学世代が 混交する時代と言ったところか。
106 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:04:36
だが、思想シーンでの宮台の活躍を後押ししているのは、 DQN世代ではない、無気力世代ぐらいだと言えるだろう。 丁度、ぴかぁ〜あたりの世代が宮台の言論を支持している。
107 :
8 :2006/02/09(木) 01:05:22
>>100 そうです
ソシュール「一般言語学講義」(手稿 1、断章番号3283・15)
「言語の研究を深めれば深めるほど、言語の中のすべては歴史であるこ
と(…)すなわち言語は事象から構成されていて法則から成っているの
ではないこと、コトバにおいて有機的に見えるものはすべて、実は偶然
であり完全に偶発的であるという事実がわかってくるのである」
108 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:08:08
重要なのは、DQN世代がどういう社会的アクションを起こしたになる。 1990〜の宮台のフィールドワークが対象とした人間の年齢層が、 DQN世代と合致するか、これがキーとなる。
109 :
8 :2006/02/09(木) 01:10:41
<出来事>evenements(1、2番目のeの上に´)
110 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:12:56
1990〜の宮台のフィールドワークの対象となった人間は、 年齢層がおそらく現在25〜となるから、DQN世代ではない。 これだと無味無臭世代(1975〜1979)と、無気力世代(1980〜1984)が、 範囲に入ることになる。
111 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:16:08
しかし、仮に無気力世代(1980〜1984)だとすると、 宮台がフィールドワークを始めた年から、対象となる人間が、 年齢が十代ギリギリかそれ以下となるので、これはありえない。 だから、宮台のリサーチでは、対象となった世代は、 無味無臭世代(1975〜1979)であると判明する。
112 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:18:17
それから、DQN世代(1985〜1995)の社会的行動が把握できなくても、 その両親の年齢層が、どの世代かどうかは見ることができる。
113 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:20:08
>>107 ソシュールのその言葉には
「真理を探し求めるにあたっては、予期せぬものに出会うことを予期せよ。
真理は見出しがたく、見出されたときには人を途方に暮れさせるものだから」
というヘラクレイトスの断章との一種の共鳴を感じますね
>>109 ホワイトヘッドの有機体の哲学でも
「event」という語が好んで使われているのにも何か類縁性を感じます
差異の体系と有機体の哲学、どちらも関係性を重視し
確定的な総体を前提しないという点で
ポストモダニズム前夜の知的な地平の移り変わりを
見て取ることができるように思えます
114 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:22:48
20〜30が第一子誕生の年として、親の世代は、 子の年齢+20〜30として考えることができる。 DQN世代(1985〜1995)なら11〜21に+20〜30で、 親の年齢が31〜41と考えられる。
115 :
8 :2006/02/09(木) 01:23:39
ソシュールの歴史観はエピステモロジークで、歴史の偶然性と非連続性 の問題であり、因果律に支配される機械論やそ反対に未来のユートピア を設定する目的論的歴史観を否定してます <出来事>は<偶発事>と読み替え可能です。
116 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:30:00
この年齢範囲なら、親の世代が1965〜1975年になる。 バブル世代(1960〜1969) 団塊Jr(1970〜1974) 無味無臭世代(1975〜1979) これがDQN世代(1985〜1995)の親の世代構成になる。
117 :
8 :2006/02/09(木) 01:31:04
シーニュの表現=内容について(SM73 2136) 「表にはさみを入れれば裏も切れてしまう一枚の譬えを思い出して欲し い。形態と機能の研究は同じものなのだ。したがって(共時的研究にお ける)区分をたてることは、人が考えるほど容易なものではない。従来 のこうした区分はいずれも、実際面では役に立たないこともないが、こ れらの区分を示す境界線をいくら合理的に引こうと試みても、確固たる 足場を得ることは出来ないのである」
言い換えれば、ソシュールの歴史観は 「絶対知」や「最後の審判」を、つまり最終審級を、歴史の目的を前提しているような 俗流のヘーゲル的史観やユダヤ‐キリスト教的な歴史観と手を切っている そういう事でしょうか? となれば、明証的なものには回収されない何かを なにかしらの「残余」を、学問の手をすり抜けてしまうなにかを 暗に示唆しているように見えますね
119 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:35:57
主要構成から浮かんでくるDQN世代(1985〜1995)の親が、 少しズレがあるが、団塊Jr(1970〜1974)の親が像を結ぶ。
120 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:39:27
DQN世代(1985〜1995)の親である団塊Jr(1970〜1974)の特長は以下。 >●団塊Jr(1970〜1974) >親世代の団塊に反発するも就職難で返り討ちにあう。 >世代人口が一番多いにもかかわらず出生率を下げていたりと、 繁殖力は極めて低い。 >団塊の付けを一手に引き受けているのもこの世代。100年後の日本史には悲惨な世代として登場予定
121 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:42:07
「となれば」以降は
>>117 に引用された文章に対するレスね
122 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:44:08
1970年に誕生している芸能人から大枠のイメージを獲得できる。 音楽ではミスチル桜井やTM西川、お笑いでは長井秀和や岡村隆史がいて、 まだ、比較的若いと言える世代になる。少なくとも初老ではない。
123 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:47:56
家庭的には、30〜40前後の親から、マーケティングの 中心的存在となりやすい層になるだろう。 商品の消費も、家庭的に言えば、一番多い時期にあたる。
124 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:52:50
DVDのハードディスク機能や、パソコン関連全般における、 商品の消費を、DQN世代(1985〜1995)の親が活発にしていると 考えて良いので、子供もそれを同じように消費するようになると 推測できる。
125 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 01:55:46
パソコンでのトラブルなどから起こる社会的問題に関しては、 DQN世代(1985〜1995)が一枚噛んでいることがありえて、 そこから幾つかの帰結を導ける。
126 :
8 :2006/02/09(木) 02:02:40
>>118 それゆえに苦悩していたということでしょう。
そろそろ仕事もあるので失礼します
あとソシュールの提唱するランガージュはひとり言語能力のことではなく、
シンボル化能力のことを指す概念です。
ロラン・バルト「零度のエクリチュール」
「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形
態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも
のであった」
<記号の体系>(système de signes)ではなく<規則の体系>(sistème de règles)
でもあることをチョムスキーやその亜流が見損なっていることを付記しておきます。
深夜2時からの仕事か
>>126 ええ、分かりました
バルトの本は家にあるので読んでおくことにします
おやすみなさい、それではまた
129 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 06:16:56
いつのまにかえらいスレになってるな
130 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 06:37:42
このスレおもろい ところで丸山氏と町田氏どちらの著作が入門に最適?
131 :
質問 :2006/02/09(木) 17:34:58
あらゆる概念は言語による恣意的な世界の分節化によって生じるとされますが 世界の分節化という概念がない状態でどうやって世界の分節化が生じたのでしょうか?
132 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 17:41:31
>>130 丸山氏ですね。
町田氏は止めといた方がいいでしょう。
133 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 17:54:02
8はちょっと胡散臭いな。
134 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 18:55:59
胡散臭さすら出さない133よりマシだろう
135 :
8 :2006/02/09(木) 20:15:44
>>131 非常に濃い質問ですw
メルロ=ポンティ「知覚の現象学」(T・p292)
「事物の命名は、認識のあとにもたらされるのではなくて、それはまさ
に認識そのものである」
つまり、世界が分節化=差異化されると同時に、主体の意識の方も同時に
分節化=差異化されるということです。
突き詰めれば認識論的問題になっていきます。
136 :
8 :2006/02/09(木) 20:24:39
>>135 の続き
つまり世界の分節化という概念が無い状態という「実在」があって、
世界の分節化が生じたということではなく、意識で分節化を生じ、同時
に世界の分節化が生じたとも言え、ほぼ同時に起こったということでも
あります。
137 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 20:25:32
生物には生得的に区別する機能、 つまり、パターン認識機能が備わっています
138 :
8 :2006/02/09(木) 20:44:12
「ソシュールが与えた最も大きい影響は、同一性と差異をめぐる発想の転 換、すなわち同一性からではなく差異から出発するという発想であり、 それは現代思想の基本的なものの見方の一つとなっている。たとえば、 現代人の重要な問題の一つはアイデンティティにかんする欲求である。 だがアイデンティティは自己同一性と直訳されるように、人びとが「自 分は自分であること」の同一性にこだわる時にアイデンティティの問題 が生じるのだ。現代では多くの人びとは民族や宗教や固有の文化などに 自分のアイデンティティを求めている。だが現代思想は同一性への欲求 より他者の異文化といった差異を重視するのだ。それは同一性(アイデ ンティティ)をもとめる欲求が、時として他者の排除や抑圧をもたらす からである」 小阪修平著「図解雑学 現代思想」
図解雑学・・・
140 :
8 :2006/02/09(木) 22:05:59
>>138 わかりやすいので引用しましたまでですw
とても、ラディカルに書かれているとはいえませんが、小阪修平は80年代から
「編集能力」は高いと思っていました。
141 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:10:05
8は加賀野井っぽさが駄目だね。 メルロポンティーを持ってくるところなんてそっくり。
静的な構造の理解から動的な発生論的な議論へと移っていく点や 徹底的な記述(フッサールは現象学をはじめ「記述的心理学」と呼んだ)を要求する点で ソシュールと現象学には接点があると思われます (また、記述しえない「何か」へ、いやむしろ記述の、明証性の 理解するということの、意味があるということの不可解さへ傾斜していくという点でも) あのさ、『エクリチュ-ルの零度』を読み返してみたんだけど 昨日引用された部分が見つからなかった(森本・林訳のちくま学芸文庫版) 引用部が具体的にどのあたりに書いてあるのか教えて欲しい
143 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:31:42
引用ってどこ?
144 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:32:34
126 :8:2006/02/09(木) 02:02:40
>>118 それゆえに苦悩していたということでしょう。
そろそろ仕事もあるので失礼します
あとソシュールの提唱するランガージュはひとり言語能力のことではなく、
シンボル化能力のことを指す概念です。
ロラン・バルト「零度のエクリチュール」
「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形
態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも
のであった」
<記号の体系>(système de signes)ではなく<規則の体系>(sistème de règles)
でもあることをチョムスキーやその亜流が見損なっていることを付記しておきます。
145 :
8 :2006/02/09(木) 22:33:33
ソシュール「一般言語学講義」 「(SM96 159)個々人には分節言語能力と呼ぶことができる一つの能力があ る。(…)しかし、これはあくまで能力に過ぎず、外から与えれるもう一つの もの、すなわちラングなしにはこれを行使することは事実上不可能であろう。 (…)ランガージュは抽象的なものであり、それが現前するためには人間存在 を前提とする。(250)このようにランガージュ能力とラングを区別することに よって、我々は、ラングに<産物>の名を与えることができることがわかる。 これは社会的産物なのである。(261)ランガージュは、常にラングによって現 前すると言えるであろう。」 意味というものは文のレベルで生れる。個々の語単語では、何の意味ももって いない
146 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:33:35
>ロラン・バルト「零度のエクリチュール」 >「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形 >態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも >のであった」 これか。
147 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:35:22
>>146 は、丸山の本のどっかに載ってたような気がする。
どっちにしても、バルト本体じゃないな。
>>145 だからこそ、ソシュールの影響を受けた人たちが
「テクスト」や「プロブレマティック」の研究へと向かったと訳ですね
149 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:43:04
というか、 >ロラン・バルト「零度のエクリチュール」 >「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形 >態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも >のであった」 この謎が放ったらかしなんだけど。
>意味というものは文のレベルで生れる。個々の語単語では、何の意味ももって いない。 しかし例えばある文Aは同等の意味の単語Bに置き換えられるのではないか?という疑問がわきます。 「この世のありかたを考える」という文は「哲学」という単語に言い換えられるのではないですか?
151 :
8 :2006/02/09(木) 22:45:44
>>142 ちくま文庫のはわかりません。
みすず書房の「零度のエクリチュール」内の「記号学の原理」を参考
に(159p)に同様の文がありますが、丸山圭三郎はフランス語版を
直訳して引用してますので文が違うかもしれません。私は丸山圭三郎
の「ソシュールを読む」の孫引きをしました。
みすず書房版は「ソシュールは、統合的なものと連合的なもの(われ
われのこれからの用語では体系的なもの)とが、精神活動の二つの形
態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域か
ら足を踏み出していたことになる。」とあります。
152 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:47:19
ああ、なるほどね。
153 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:49:52
>私は丸山圭三郎の「ソシュールを読む」の孫引きをしました。
やっぱそうか。
>>147 はあってたな。
>>151 ちくま版には「記号学の原理」は所収されてないね
見つからないのも仕方なかったんだな
おかげで四回も読み直したよ(笑)
155 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:53:57
みすず版にしか入ってないからな。
156 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 22:57:36
ちくま版も手軽だろ?
157 :
8 :2006/02/09(木) 22:58:03
>>150 (SM96 159)
「人間はたとえば歌う能力を持つが、社会が指導しなければ、曲を作る
ことはできないだろう」
(SM104 645・646)
「言語は音のイメージと、心的対立の上に成り立つ体系である。綴織に
譬えてみよう。重要なことは、一連の視覚印象なのであり、色調の組合せ
が織物の意味を形成するのであって、糸がどのように染められたかという
ようなことではない」
(SM 104 644)
「言語をチェスゲームに譬えてみよう。対立させられた価値の働きが可能
でさえあれば、駒を作っている材質(象牙とか木とかの)を知ることはほ
とんど意味を持たない。」
個々の語が担っているのは差異だけなのです。その差異が意味化するの
は、文脈の中に比喩すれば色調の組み合わせ、他の盤上の駒との関係の
中に置かれる時だけであるとなります。
158 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:00:23
>>157 >個々の語が担っているのは差異だけなのです。その差異が意味化するの
>は、文脈の中に比喩すれば色調の組み合わせ、他の盤上の駒との関係の
>中に置かれる時だけであるとなります。
ようするに、
>「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形
>態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも
>のであった」
>この謎が放ったらかしなんだけど。
ってことだわな。
159 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:01:33
>「ソシュールは連辞的なものと連合的なものとが、精神活動の二つの領域を形 >態に対応するのではないかと予測していたが、これは言語学の領域を超えるも >のであった」 基本概念は分かってるから、 先に展開させないと意味ないよ。
160 :
8 :2006/02/09(木) 23:02:08
>ちくま版には「記号学の原理」は所収されてないね そうなんですかwww それは申し訳ない。「記号学の原理」が載ってないのは非常に残念です。
>>156 手軽だがじっくり読むとなると結構面倒ジャマイカ?
『記号学の冒険』(みすず書房)などの方がじっくり読むには楽だった記憶がある
162 :
8 :2006/02/09(木) 23:08:32
>>159 ここからが本題になりますがww
前説がすごい長かったけど、
ソシュールと構造主義の話になればレヴィ=ストロース、ロラン・バル
ト、ラカン、あとはフーコーとデリダとなりますがどこから始めるべき
か
163 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:09:28
連辞的なものと連合的なものから始めればいいんでない?
164 :
8 :2006/02/09(木) 23:10:40
>>162 フーコーとデリダは正確には「構造主義」という枠には入らないが
影響を受けたということになれば含めて話をした方が良いと思います。
165 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:12:32
8は何を論じようとしてスレを立てたの? 論じたかったことを言ってみればいいんでない。
166 :
8 :2006/02/09(木) 23:17:23
>>163 (SM75 2019)
「我々が語るのは、連辞のみである。そのメカニズムは恐らく、我々が
連辞の型を頭脳の中に持っていて、それらの型を用いる時に連合語群を
介入させているのである(…)それぞれの連合群の内部で、何を変えれ
ば単位を差異化し得るのかということを、我々は知っている。だから、
連辞が作り出される瞬間には連合群が介入しているのであって、連合群
なしには連辞は形成されないと言えるのである。」
167 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:18:52
フロイトの精神分析(精神を一種の「経済」とみる)、マルクシズム(言うまでもなく「経済」) フッサールやハイデガーの現象学、マルセル・モースらの社会学 これらとの繋がりなしに「構造主義」を語ることは難しいだろうね
169 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:23:43
170 :
8 :2006/02/09(木) 23:43:16
>>165 私が立てたスレではないですよwソシュールの誤解を解いている
うち、質問に答えるうちにこうなりました。本当ですw
>>167 ラングは連辞・連合関係が<構成された構造>によるものという
ことで、連合を選択能力の結果、連辞を結合能力の結果によるものの謂い
です
171 :
考える名無しさん :2006/02/09(木) 23:51:50
8はソシュールの原資料を解析した丸山の仕事を評価すると、 そういう認識でよろしいか?
172 :
8 :2006/02/09(木) 23:55:28
>>171 >ソシュールの原資料を解析した丸山の仕事を評価する所まではそう
です。もっとも、その後の生命論については正直異論もある。
今仕事の呼び出しがありました。今日の所はこれでw
時間帯が不規則な仕事か。
だな それから、丸山の仕事にあまり詳しくないので 誰か詳細を知る方、「生命論」についての情報をお願いします
175 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 00:02:22
>その後の生命論については正直異論もある。 町田とか加賀野井と同じ認識ってことだな。
176 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 00:03:04
>>176 すげーぶっちゃけですね
今、本屋開いてないし、そこをなんとか><
178 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 00:10:37
絶版で買えないのか?
180 :
8 :2006/02/10(金) 20:31:53
>>179 用語が難しいですからw でも分かると文化現象の構造分析が面白くな
りますね。
民俗学や文化人類学はこれを知ってるかどうかで面白さが全然変わって
くる
181 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 20:36:33
183 :
8 :2006/02/10(金) 21:33:39
>>182 なるほど、言語板の方が散々な有様なのはよく分かりました。
言語哲学者としてソシュールを定義した丸山圭三郎のこのコテハンは
何なんでしょう………?
>加賀野井さん本人の口から丸山圭三郎氏に破門されたとカミングアウ
トしてるのは知らなかった。何があったんだ。
何となく推測はできるが…
184 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 21:49:09
破門とかはどこに書いてあるんだ?
加賀野井秀一はどうよ?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1006330170/l50 51 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 02/04/17 07:09
加賀野井さん、『月刊言語』5月号にこんなこと書いてる。
自著『20世紀言語学入門』(講談社現代新書、1995)について、
「自画自賛は見苦しいが、よくもこれだけコンパクトなスペースにこうも大量の
情報を盛りこめたものだ、と、われながらそう思う。がんばって書いたなあ。
若かったんだなあ」
丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店、1981)について、
「いうまでもなく、わが国にソシュールの真価を知らしめた画期的な著作である。
かく言う筆者は、後に丸山圭三郎氏より破門されてしまったが、その筆者が推薦
するのだから掛値のない良書である」
トンクス
188 :
& ◆8S1oXfpM5M :2006/02/11(土) 00:02:41
笛がふたつあるとする。A,Bとする。 Aを吹くとAを聞いた人は「シェー」をする。 Bを吹いた場合は聞いた人は「両手を上げる」 A,Bは単一の情報源でコーディングされている。 この場合、笛A,Bはソシュールの言う言語であろうか?
189 :
& ◆xfvx2QuQRA :2006/02/11(土) 00:09:01
鈞ちゃんが「ピロローーン」と言うと二郎さんが 「とびます、とびます」と言う。その繰り返し だが、二人の間ではどんどんとコミュニケーションが 進んで行く。これはソシュールの言う言語現象であろうか?
>>188 >A,Bは単一の情報源でコーディングされている
そのアンフラ・ランガージュはなんなの?
コーディングが可能となる要素がすでにあるってことだよね
なにせコーディング(コード化)されてるんだから
191 :
考える名無しさん :2006/02/11(土) 05:28:09
>>190 こんにちは。
この場合、単一の情報源でコーディングされているので
AとBとでは音色が異なりますがAとBは全く同じ言語をしゃべること
になります。
192 :
考える名無しさん :2006/02/11(土) 05:36:32
トートロジーはどうなんだろう? 連続体が入ると「不完全」でそれだけじゃないけど、 まあ、ほとんどトートロジーを話しているわけだよね。 論理学では。で、トートロジーはソシュールの言う 言語かな?
193 :
8 :2006/02/11(土) 12:34:03
トートロジーが一つの言語(ラング)なのは確かなのですが、言語活動が、観 念と物質の未分節領域<メニング>、ソシュールが<実質>substanceと呼んだ カオスに同時に働きかけ、これを不連続化<差異化>することによって、初め て表現=内容という一つの単位を生み出すのです。
194 :
8 :2006/02/11(土) 12:39:46
>>193 ソシュールの理論の欠点は、言語構造に階層性を設けなかった
ことで、論理学でパラドックスが生じるのはこの階層性を混同するこ
とで発生するとラッセルは言うが、不正確な部分も否めない。正確に
言えば論理学で生じるパラドックスはある限定的な<言語構造>を宿
しているからで、そのパラドックス自体が現実世界(生活世界)にお
いて存在しない、というケースもあり得る。
195 :
8 :2006/02/11(土) 12:55:03
>>194 の続き
論理学では部分の総和を全体と定義していますが、現実世界(生活世界)
では全体は部分の総和より大きくなります。なぜなら、人間の認識が足
し算の様なもののみではなく、掛け算の形を取ったり、はたまた、9×9
=81の様に9+9+9+9+9+9+9+9+9=81とせずその論理構造に依拠
してすぐ81と結びつけることを人間は平気で行う。思惟の経済が働いて
いる為です。これは認知科学で結構話題にはなってますが、人間の認識
は結構いい加減であるにもかかわらず、現実世界でそれほど不自然に感
じない。そこに人間の生命論が必要となる理由があるのです。
196 :
考える名無しさん :2006/02/11(土) 16:05:44
>>194 ラセッルの"Lamified Type Theory"は紆余曲折を経て、
論理学では現在は「語られるもの」(対象言語)と「語るもの」
(メタ言語)を区別して嘘つきのパラドックスを回避しますね。
もちろん意味論はその後もいろいろと発展しているわけですが。
>正確に
>言えば論理学で生じるパラドックスはある限定的な<言語構造>を宿
>しているからで、そのパラドックス自体が現実世界(生活世界)にお
>いて存在しない、というケースもあり得る。
これは何につて言及しているのですか?嘘つきパラドクスは自己言及
に由来すると思うのですが。そして自己言及は日常言語でもあるのでは?
>>8 さんは何をしている人なのかが最も興味があったりして。
197 :
8 :2006/02/11(土) 16:47:40
>>196 あるクレタ島人が自分を当然含むことになるすべてのクレタ人は
嘘つきだと言う有名なパラドックスがありますが、これは「意味」と
言語の「境界性」を混同したという意味で、そういう問題は存在しない
のです。「クレタ島人」という語をいかに精密に分析しても何も出てこ
ないのです。恒常的、実存的に「クレタ島人」という物は存在しなく、
擬似的に成立させ、そこに含まれた諸現象や諸事物の共通項という幻想
をもとに「クレタ島人」という日常言語が成立しているにすぎない。
自己言及は日常言語にはあり得るが、自己言及のみが日常言語を成立
させている要素ではなく、生活世界は暗黙的に成立している空間でもあ
りそれをまざまざと信じざるを得ない知覚構造とつながっているわけで
す。そこに含まれる語が静的で変化しないという条件でのみ成立すると
いうのが論理学の弱点でその条件が動的であるなら論理学を支える「境
界性」は崩壊します。つまり花は花と呼ばれたとき、それはすでに花で
はなくなると言ったのはブランショでありますが、そこには認識論とし
て花という観念と花という恒常的、実存的幻想は同一ではないというこ
とです。現象学的に言えば臆見(ドグサ)ということになります。
普段は気にせずとも現実世界は<信念の体系>によって成立している
思惟の経済の世界であると考えるとどうでしょう。
198 :
8 :2006/02/11(土) 16:49:58
>>196 職業は元営業マンで現在は肉体労働者とでも言っておきますw
大学名は特定されたくないので明かせませんが、社会学部卒です。
芋か
200
201 :
考える名無しさん :2006/02/11(土) 19:23:52
今中々熱いスレ
202 :
& ◆r5mmMKolO6 :2006/02/11(土) 19:53:30
>>197 ふーむ。
言語の「意味」は我々の生物学的、共同体的なtacit knowingから
規定されており、その「境界」は固定されていない。
したがって、論理学で言う「嘘つきのパラドクス」は存在しない。
クレタ島人と言った時にはもう「逃げ去ってしまっているぜ」という
ことですか。
論理は「近似」として成立すると思ったけど、こんなに「激しい」
からダメダメかな。
>>198 「会議」が多いからあれは肉体労働ですか。
203 :
8 :2006/02/11(土) 20:24:32
>「会議」が多いからあれは肉体労働ですか。
…まあそんなもんですw
>>202 論理学はある静的な境界条件であることによって成立する。
数学や論理学が「役に立たない」と言っているわけではないですよ。
こういう言い方をすると反論が出るので自己弁護(笑)しときますが、
論理にしろ数学にしろ、構造主義にしろ、常に更新を続けなければ、
その論理に破綻をきたしてしまう。パソコンでウィルス情報を更新し続
ける様に更新しなければ破綻をきたすということはあらゆることに言える
と思います
極めて単純な話をすれば、他者を問題にする場合、自己をその対象
に飛び込むことでしか獲得出来ず、それゆえに「危険」な「指標」と
して認識され得るということです。ハイデガーは企投とか気遣いとか
の言い方で記述しているが、他者はその周縁に現れる。民俗学は、その
表れ方で、鬼とか魔力=魔性とかで言い表す。文字通り他者との関わ
りは境界争いでもあるが、言語はコミニケーションの手段では断固と
してあるわけです。では何ゆえに他者が問題になるのか?
ラカンは、「鏡像段階」の理論を提示しました。これは欠点もある理
論ではあるが示唆するところもある。私が言いたいのは、他者の介在が
無しに自己の周縁を実現できないということです。
社会学で社会の存在なしに自己を実現できないという言い方があるが
これは正確ではない。自己は1人でも自己足りえるが、その輪郭=周縁
に両義性が残余してしまうということである。
204 :
8 :2006/02/11(土) 20:35:57
>>203 の続き
言語は身体を通じての意味であり、行為そのものである。 他者との関わり
を拒否してしまったら、ただ現象を眺めていれば良いということになり、まし
てや哲学は不要となるw
自己の分身、それが人間であろうが、動物、植物であろうが、コミニュケー
ションしなければ人間の巨大で過剰な脳は持て余してしまう。オタクが、フィ
ギュア、アニメに何らかの「対話」をするのは生き物ではなく、自己の分身に
過ぎないのかもしれないw
「単一の情報源でコーディングされている」という言葉の意味がわからない。 「単一のコーディングルールでコーディングされている」ならわかるんだが。
206 :
考える名無しさん :2006/02/11(土) 20:48:33
てゆうか、しろうとだろ。
207 :
8 :2006/02/11(土) 23:12:34
>>205 情報源=ソース(source)はルールroleとは同一ではない。
そもそもコード化自体に論理的法則が内在しているのではなく、認識論的恣
意性しかない。ボボボーボ・ボーボボのギャグがある子供のカオスそれ自体を
楽しむという行為だからではないかと思う。子供は秩序や法則を破壊すること
の方を好み、やがて成熟してくると、コード化によって新たな論理を創造する
ことを楽しむ、しかしやがてそれも破壊するという円環構造があり、それは繰
り返される。まるでシヴァ神の創造と破壊のダンスの様に永遠と繰り返される
人間存在の両義的な面がある。大人になろうが、必ずしも創造行為に快楽を見
出すとは限らず、いやむしろ幼児性を引きずって破壊と創造を繰り返すのが人
間の性ではないだろうか…。
>>207 >情報源=ソース(source)はルールroleとは同一ではない。
ソースがルール役割と同一ではない?
ソースとルールは役割が違うということ?
そりゃ違うとはおもうけど・・・。
何が言いたいのか全然わからない。
209 :
8 :2006/02/11(土) 23:48:05
>>208 現象学的に言えばソースを思惟対象(コギターツム)と言い、
ルールを思惟(コギト)、そこに思惟作用(コギタチオ)が挟まるが…
もっと分かりやすく言います。情報源というのは認識(思惟)対象の
ことで、視覚、聴覚、触覚等五感で形成されるイメージのことを言い、
ルールというのは今まで経験を積み重ねてきた自分自身=自己のことで
す。自己は経験を積み重ねてきたコードの「構造」を意識に内包してい
ます。自己→対象と意識を向けるときコード化が生じますが、普段何で
もないときは、ルールとソースに差異が少なく改めて了解事項を増やさ
なくてすみます。
210 :
8 :2006/02/12(日) 00:00:22
>>209 の続き
しかし、
>>188 、
>>189 に対して
>>190 と回答しているのは、ランガージュでも
ってする思惟作用(コギタチオ)でも全く今まで自己が築いてきたコードの
「構造」でも妥当できない(理解不能)わけです。しかし、こちらに危機を
及ぼすことは「保証=了解」があるわけですから、コードの「構造」=共同
幻想が崩壊するから笑いが生じるのです。もし
>>188 、
>>189 の内容が自分に
降りかかって襲ってくるとしたらこれは恐怖になるわけです。笑いと恐怖は
その境界線が明確か不明確かで決定されているわけです。アンフラ・ランガ
ージュというのは理解の外にある性質の象徴化…そういう意味らしいです。
211 :
8 :2006/02/12(日) 00:07:27
>コードの「構造」=共同幻想が崩壊するから笑いが生じるのです。 に補足すれば、笑いは共同幻想という緊張から開放されるから笑いが 生じるわけで、他者は自己を投影した身体性でもあるから、例えば、 転んで血みどろになったら笑いではないし、ころんでカツラでも取れ たら笑いになるわけです。この違いをお笑い芸人が切磋琢磨している ので素人が偉そうなことを言うつもりはないですが…自己を脅かす内 容が一律ではないので絶対性で考えていただきたくないのですが。 この説明でお分かりいただけました?
212 :
8 :2006/02/12(日) 00:18:31
>笑いと恐怖は その境界線が明確か不明確かで決定されているわけです。 これは長年マンガを読んで分かってきたことなんですが、コード化が徹 底され、自己と対象の境界線がはっきりしたマンガはギャグになり、自 己と対象の境界線が不明確(現実性として迫ってくる)ものは恐怖にな るのです。対象に如何に没入できるかにあることが第一点 第二点として、共同幻想の崩壊度、常識を根底から覆す度合い、普段 見えない役割、演技を解体する行動の大きさにある。当然このベクトル が大きくなれば「過激さ」が大きくなるわけです。 恐怖マンガの描けるマンガ家はギャグマンガも上手というのはこの二 点をしっかり認識しているからこそなんです。手法を変えればたちまち ギャグに変身するマンガをいくつか知っています。伊藤潤二とか楳図か ずおとか…あと逆パターンとして古谷実とかがそうでしょう。
213 :
8 :2006/02/12(日) 00:39:19
214 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 10:32:43
>>209 > もっと分かりやすく言います。情報源というのは認識(思惟)対象の
>ことで、視覚、聴覚、触覚等五感で形成されるイメージのことを言い、
>ルールというのは今まで経験を積み重ねてきた自分自身=自己のことで
>す。
では、その「ルール」は、私が
>>205 で申し上げた「コーディングルール」とは別のものですね。
あなたが、そういった意味で、
>>205 の「コーディングルール」を解釈されているとすると、
私の申し上げたい意図があなたには伝わっていないと思います。
215 :
8 :2006/02/12(日) 10:37:20
>>214 「コーディングルール」をどのような意図であなたが解釈され
ているか、説明していただけると助かります。
216 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 10:45:42
>>215 意味(セマンテックス)を記号(コード)に置き換えることです。
217 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 10:48:50
>>216 ちょっと補足
意味(セマンテックス)を記号(コード)に置き換えること = コーディング
意味(セマンテックス)を記号(コード)に置き換えるルール = コーディングルール
218 :
8 :2006/02/12(日) 11:09:30
>意味(セマンテックス)を記号(コード)に置き換えることです なるほど、わかります。 私はルールという言葉は不適切かもしれない、と指摘したかったという ことなんです。ソシュールの記号学は、ランガージュによって音とイメ ージの仲を取り持つという言い方が正しく、ルールというと実体論的に 聞こえてしまいます。勿論あなたはそういう意味で使ったわけではない と思いますが。 しかるにソシュールの記号学にも欠点がないわけではない。これはメ ルロ=ポンティとも多分加賀野井とも違う見解だと思いますが、<記号 学的言語>ではシニフィアン、シニフィエという<意識化された言語> を基礎に無意識的な作用を付け加え動的モデルを構築するという形を取 るためどうしても無理が発生する。 意味の形成は文化の次元と生物学の次元と本質的に異なるわけではな い。意味の形成は<記号学的言語>では説明できないのです。
219 :
8 :2006/02/12(日) 11:10:24
220 :
8 :2006/02/12(日) 11:22:15
>>202 >言語の「意味」は我々の生物学的、共同体的なtacit knowingから
>規定されており、その「境界」は固定されていない。
の指摘は言語の本質を突いている。私も同様の解釈なんですがここではテーマ
から大きく脱線しますので
>>168 >フロイトの精神分析(精神を一種の「経済」とみる)、マルクシズム(言うまでもなく「経済」)
>フッサールやハイデガーの現象学、マルセル・モースらの社会学
>これらとの繋がりなしに「構造主義」を語ることは難しいだろうね
ここら辺りを説明したい
221 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 11:28:49
222 :
8 :2006/02/12(日) 11:42:16
>>205 >「単一の情報源でコーディングされている」という言葉の意味がわからない。
>「単一のコーディングルールでコーディングされている」ならわかるんだが。
この場合
>A,Bは単一の情報源でコーディングされている
>そのアンフラ・ランガージュはなんなの?
>コーディングが可能となる要素がすでにあるってことだよね
>なにせコーディング(コード化)されてるんだから
つまり、ある単一の情報源というのは笛A,Bの音ということになり、 笛のメロディ
にはないということですかね…。
実は
>>213 に似た問題を出したはずですが、うけをねらって残したわけではないで
すよ。これもあらかじめコーディング(コード化)がなされていたということにす
ぎない。つまり打ち合わせ済みということにすぎない
223 :
8 :2006/02/12(日) 12:03:01
>>222 これ以上の説明は厳しい…。
>「単一のコーディングルールでコーディングされている」
同語反復になっている
→「コード化」=恣意的結びつき、そのものにルールが塗り籠められている
わけではありません。
あとは考えてください。<記号学的言語>には限界があるのはこういう
循環論になるからです。
224 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 14:12:41
本来ルールとは気付いたらルールになっていただけにすぎないわけでしょ。 次元の異なる対象のカップリングがルールと呼ばれているにすがない
225 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 14:39:53
>>222 不勉強ですいません、
>アンフラ・ランガージュ
の意味を知らないので、全体として意味がわかりません。
いろいろ調べてみましたが、どうしてもわからないので教えていただけませんか。
>>223 >同語反復になっている
規則とその適用は同語反復とはいえないと思いますが。
その考え方だと、「刑事訴訟法で告訴する」も同語反復ということになりますよ。
>→「コード化」=恣意的結びつき、そのものにルールが塗り籠められている
> わけではありません。
何か「ルール」という言葉に特殊な意味を前提されているように思いますが。
私は、恣意的結びつき、そのものをルールと呼称しているわけです。
「塗りこめられるルール」などという、話題に上っていない概念をなぜここで
導入しなければならないのかわかりません。
226 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 14:52:31
規則とその適応というシステムには必ず逸脱という突然変異が生じる そのように規則と適応というシステム自体がオートポイエティックに変化する 生きたシステムなのである
227 :
JOJO :2006/02/12(日) 15:16:52
英語でインフラです。発音が大口の「エ」に近い、nは読まないが、ンを付けて 読んでるように聞こえるからでしょう。 すいません。正確には循環論と言うべきでした。 法律はもともと法律の言説を法律で定義しているから広義では循環論=同語反復になると ということも言えます。Aを語るのにA内の言説で説明はできないというのは、 ゲーデルの不完全性定理で言われていたり、ヴィトゲンシュタインが「言語の限界 が思考の限界」と「論理哲学論考」で論じられたりしてます。難しいことなんです があるAを語るときA内に含まれる言説を用いて説明すると必ず循環論≧同語反復に 陥ります。ソシュールが言語で持って言語を語ろうとしたことの限界でもある のです。論文を書く人によくこの間違いに気付かないことも多いので要注意です。
228 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 15:58:28
>>217 そもそも「意味」(セマンティック)と「記号」を別モノだと言いうるのか?
「記号」を変様させたものが「記号」なのであって
記号の体系(共時態)には「記号」以外の何か(「意味」(サンス))は認められない
認めてしまうと「記号作用のない意味(サンス)」(デリダ『声と現象』)を
前提することになるが、これはもとより「考えること」ができない
直観的な「意味」の現前から「記号」が発生するという誤解があるのだろうと思う
言い換えれば、「記号」、「差異」よりももっと「根源的な何か」が
それこそが「記号」を生み出しているという誤解が
そしてその誤解は記号の記号性を抹消してしまい
記号と切り離すことのできないわたしたちの思考のシステムを見誤らせてしまう
229 :
8 :2006/02/12(日) 15:58:43
230 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 17:21:58
>>227 (JOJOさん)
>ゲーデルの不完全性定理で言われていたり
これは実際の日常言語では何に対応するのだろう?
基礎論では連続体の濃度の集合(実数)を入れた公理系で
でてくるのだよね。
私は、日常言語には不完全性定理は成立しないと言いたい。
なんてね。
「記号が生じる前には何らかの観念が必要だ」という説と 「観念は記号の生成とともに発生する」という説ではどちらが正しいか(ソシュールは後者)を比べる便法はありますか?
232 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 19:52:05
論考は一階の述語論理だから「完全性定理」が成立しますね。 だから、「語りえぬものについては沈黙しなけらばならない」 がダメダメよ。とした方がすっきりするかもしれませんね。 つまり「論考」について語ることを許さなくてどうするの?と。 論理学では「対象言語」と「メタ言語」と区別しますね。 もちろん、ハチさんの言うようにこれではダメダメなのですね。
233 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 19:56:16
> 基礎論では連続体の濃度の集合(実数)を入れた公理系で > でてくるのだよね。 あたりまえのことですが、不完全性定理は自然数論から成り立ちますよ。
234 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 20:04:17
>>233 ありがとうございます。間違っていました。
対角線論法を使っているのですね。
235 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 20:32:56
>>233 いい(聞ける)人を見つけるとね。
加算無限の場合、ゲーデル数で証明できるのは有理数
、証明できないのは無理数と言う理解でいいの?
(勉強しちゃおう、便利だな)
236 :
8 :2006/02/12(日) 20:40:55
>>232 >つまり「論考」について語ることを許さなくてどうするの?と。
>論理学では「対象言語」と「メタ言語」と区別しますね。
>もちろん、ハチさんの言うようにこれではダメダメなのですね。
>>233 > 基礎論では連続体の濃度の集合(実数)を入れた公理系で
> でてくるのだよね。
>あたりまえのことですが、不完全性定理は自然数論から成り立ちますよ。
そうなんですよ。ありがとうございます。忘れてました。
常に思い出すことも必要ですね。
237 :
8 :2006/02/12(日) 20:58:53
>>231 ちなみに前者です。数学的公理系の様に論理構造でまとめるという、当初のソシ
ュールとはここで対立します。言語の「意味」は我々の生物学的、共同体的な
tacit knowing規定されている、と考えているからで、結果論として「観念は
記号の生成とともに発生する」という説を取るソシュールに首肯できる部分も
あるが、そこには通時的なものを置き忘れているのが伺える。つまり上部原理
を常に更新し続ける言語化できないtacit knowingの存在…、階層構造化のモ
デル無意識的な領域を前提に構築できなかった理論的限界がここでようやく
おぼろげながらでもわかってくるはずです。
238 :
8 :2006/02/12(日) 21:04:42
>>227 なんかステハン変わってて、レス先も書いてないんですが・・・・。
推測してレスしないといけないんでしょうか?
>>228 そういう考え方で言うのならば、
意味記号(個人的な記号)から言語記号(他者と共有している記号)
への変換、ということになるんでしょうか。
とりあえず、何らかの変換(コード化)が存在することは確かでしょう。
241 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 21:11:59
242 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 22:01:51
mowgli syndrome って学術的に認められた名前なんかな。 Googっても出てこんけど。
244 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 23:30:54
>>242 これがソシュールとどうつながるんだ、と直観で分かったら結構賢い。
ラングが形成されるとどこまで改変できるのか、また生活文化が人間の
身体とどう結びつくのか、また言語、文化現象、身体性とどう結びつく
のかという問題でもある、と俺は思うが
245 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 23:33:43
>>242 昔インドで発見されたオオカミ少女の話を思い出す…
246 :
考える名無しさん :2006/02/12(日) 23:57:49
言葉は話せないが、たいへん絵のうまい自閉症の少女がいた。 彼女になんとかして言葉を教え込んだ。 そうしたら、前のような絵が書けなくなってしまった。 概念を獲得したのがいけなかった。
247 :
考える名無しさん :2006/02/13(月) 00:05:29
実験とはかけ離れたハンパな事例でなんやかんや やたらと風呂敷を広げるのが哲学板か
思い出したように逸話から何か言ってみたりってのが多すぎるな。 哲学ネタは、昔の人ができる限り最新かつ正しいだろう情報を使って判断したっつーのが多いのは仕方がない。 だからといって、今の俺たちが逸話のまんまそれしか土台にしてないってのはどうしょうもないよ。 しかも、哲学と言われている話題の中でも言語とか人間の思考プロセスみたいな話してるときには特に。
250 :
考える名無しさん :2006/02/17(金) 10:13:32
ソシュールとフロイトってなにか関連性ある?
251 :
考える名無しさん :2006/02/17(金) 12:14:01
二人とも、ものごとの背後に潜んで、 ものごとを成り立たせるシステムを考えたこと これは、直接観察できる実体ではなく、概念として存在するものである このようなモノではないコトという関係性である 構成概念というものを描いたのである それがフロイトの無意識である
>>250 上のほうで名前が挙がっている(故)丸山圭三郎さんが、たしか、
ソシュールとフロイト(またはラカン)とマルクスとは、思想的にも
非常に似通っている、なんてことを盛んに言っておられたね。
253 :
考える名無しさん :2006/02/20(月) 06:02:57
凄い自演
255 :
8 :2006/02/20(月) 13:24:18
>>254 自演するほど落ちぶれちゃいませんけど…まあいいです。
今日は休暇ですからたまたま覗いてみましたが、忙しい中、
R・バルト「零度のエクリチュール」(みすず書房)を読み返し、
茂木健一郎「脳とクオリア」など読んでました。
ソシュール論はもう少し待って下さい…。
二行目がなんだかとても蛇足な気がする
257 :
8 :2006/02/22(水) 13:26:59
>>252 >上のほうで名前が挙がっている(故)丸山圭三郎さんが、たしか、
>ソシュールとフロイト(またはラカン)とマルクスとは、思想的にも
>非常に似通っている、なんてことを盛んに言っておられたね。
ソシュールはパロールに潜む言語形成する力にひどく拘っていた。
似通っているのは問題意識と拘り方。言語を形成するということは、ラングと
いう社会的言語=共同幻想の境界条件を作り出す人間とは何なのだという点。
それぞれの用語がひどく違っているし、バルト的に言えば楔の入れ方がとても
一定でないが、問題意識を見つめる<まなざし>に近いものがあることはいえ
ます。
258 :
8 :2006/02/22(水) 13:34:39
>>257 の続き
ソシュールの思想はレヴィ=ストロース的構造主義を超える「問題意識」
持っていた点は否定できない。80年代の記号論ブームはバブル真っ盛り
の頃、商品消費の「戦略」として「消費」されてしまった感が強い。特
に、これはバルトによる「記号論」解釈の功罪が大きいと思っているの
だが、バルトが文化を見つめる分析はソシュールの分析とそれほど大き
な隔たりがあるわけではない。問題はソシュールの言語を形成する生命
論に至ろうとする問題意識を切り捨て、ツール化してしまったことは批
判しないといけない。
259 :
8 :2006/02/22(水) 13:47:33
>>258 の続き
バルトはツール化した「記号論」をあっさりと切り捨て、形式化を脱
出する旅に出てしまい、「テクストの快楽」、「恋愛のディスクール・
断章」等を出して80年に交通事故で亡くなる。その時、バルトは、「記
号論」に見切りを付けたのは限界表明と受け取り、そこに潜む「問題意
識」を忘れたまま現在に至る…というわけです。概ね、凡庸な学者はそ
れをソシュール理論の限界と同一視し、記号論もブームの一過性として
忘れ去られることとなる。構造主義とポスト構造主義にしても、連続性
を持ってきちんと見つめ直す必要があるわけで、「問題意識」を忘れ去
られたまま流行の服を替える様に思想の潮流があるわけではないのです。
その過渡期に丸山圭三郎さんは冒険の旅に出たわけであるが、これは
「問題意識」を継承して学問の超領野を意識したということです。
学問の超領野を意識しないと問題は明快に見えてこない…このことはは
っきり言っておきたいことです。
260 :
考える名無しさん :2006/02/22(水) 20:21:32
>>255 > 茂木健一郎「脳とクオリア」など読んでました。
ハチさん、こんにちは。「脳とクオリア」は本屋さんでちょっと立ち読み
しただけなのですが、どーも、茂木健一郎はレトリックだけの人の
よーな印象がありますね。レトリックを取り去ると当たり前のことしか
言ってないようなね。
261 :
8 :2006/02/22(水) 20:47:47
>>260 あれはテレビや小著においての「演技」だと思いました。
「脳とクオリア」のガイドは
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0713.html ↑ここを読むと物理学に興味ある人は読みたくなるはず。
私がなぜこの本を読もうと思ったのは、同じく立ち読みで本をパラパラ
とめくっているうちにこの一文に出くわしたからです。
《ある言葉の意味は、その言葉体系の中の他のすべての言語との関係に
よって決まる。》(茂木健一郎「脳とクオリア」p211)
これをマッハの原理に似て相対的視点に立った、否定しがたい命題と言
い放った。これはソシュールだ…と思った。クオリア論には懐疑的なが
らもとりあえず購入して読んでみた。物理学の変換式等が非常に難解な
がら読みきり、これはマッハの「認識の経済」論による脳科学の本で、
内容はこれまた難解なホワイトヘッドの哲学に近い。いきなり読むとこ
んな人間だったのだとカルチャーショックを受けるはず。少なくとも、
物理学と論理学、数学で脳を解析するという行為がただごとではなく、
記述方式も後半になると現象学的になるという変な本ではあります。
262 :
8 :2006/02/22(水) 21:00:27
>>261 の続き
この認識は実体論を排除して、相対的認識論は脳においても「実証性」
があることを裏付けているのですが、そもそも
「脳細胞はニューロンのよる発火がなければ存在は無いのと同じ」
ということを言い放って哲学領域(そんなものは無い方が良いが)を
脅かす主張をしている。例えば臨床実験でかなりのデータがあり、学会
では「常識」なのですが、電極を指し大脳にある局在箇所に微弱な電流
を流すと色々な視覚映像が出現したり、色々な臭いを感じたりするそう
です。存在は生理学的なものを通じて認識を達成されるのは、ここまで
くると疑いようがないのですが、まあこのことを話し続けるときりがな
のでこの辺でやめときます。
263 :
8 :2006/02/22(水) 21:25:12
大学時代、物理学者、哲学者マッハの「感覚の分析」を読んだのですが、 未だに、哲学、物理学両分野からこれを完全否定することが不可能な テーゼを引用しておきます。 「真に無条件の恒常性などというものは存在しない。われわれは、ひた すら、諸条件を看過したり、過小評価したり、常に与えられているもの と考えたり、随意的に度外視したりすることによって、恒常性に到るの である。ありとあらゆる恒常な場合を包括する恒常性が唯の一種類だけ 存在する。それは、結合(または関係)の恒常性である。実体や物質も 決して無条件に恒常的なものではない。」(p269) もちろんこの哲学を有名にしたのはアインシュタインの相対性理論であ ることは言うまでも無いのですが、マッハは相対性理論を批判したのは 意外と知られていない。なぜなら光を基準にしたから過渡的な理論とし て厳しく非難したからだ。光に「妥協」したと言ったわけです。 現在の物理学では知られているが、光はブラックホールや重力場等で 「速度」が変化する。これまた光は重力という制限が発見されたという わけです。「認識の経済」は物理学の話だけではなく、哲学の話でもあ るのです。
264 :
8 :2006/02/22(水) 21:30:38
つまり、関係として捉えていこうとする認識これがソシュールとマッハ に共通していること、そしてこの認識論が現代思想の「構造主義」とい う潮流を生み出したわけです。特にレヴィ=ストロースのサルトルとの 論争は有名ですが、これはここでいうところの相対性認識論による近代 至上主義への批判と捕らえることも可能なわけです。
8さんは博学でつね。 でもバルトがあっという間に終わってマッハになってる。 一人で完結してる。 レベル低くても他の人との対話があった方が面白いよ。 元々対話であり産婆術だったんだろ?
266 :
8 :2006/02/22(水) 22:51:50
>>265 バルトは難しい。きりがない…という意味で。多元的解釈を許すからw
どうしても「モード」の仕掛け人でもあり、エクリチュール、ディスク
ール、テクストといった用語の活用のセンスがすごい…と思う反面、キザ
だなって思ってしまう(これは趣味の問題なので気にしないで下さい)w
バルトを知るなら「表徴の帝国」(みすず書房・ちくま学芸文庫)と
いう日本論を書いているので参考に読んでみると面白い。実は理論的面で
有名にしたのは「零度のエクリチュール」「記号学の原理」「テクストの
快楽」。あと「サド・フーリエ・ロヨラ」等どれを読んでもそれなりに
面白い。はっきり言って私は大学で「記号論」のゼミを専攻していた関
係で、バルトを語り出すときりが無いし、結構読んだ。そのため意識的に
強引に切り替えたごめんなさい。
では「構造主義」としての位置づけで書いてみましょう。
267 :
8 :2006/02/22(水) 23:14:17
>>266 の続き
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0714.html 「テクストの快楽」ロラン・バルト↑の手引き
バルトを語る前に用語を説明します。これは避けて通れないので。
ポスト構造主義の思想家でフーコー、デリダ、ドゥルーズ等
フランスの思想家が使ってますしその意味でも覚えておいてください。
テクスト (text:原語は編み目。原文、テキスト)、
エクリチュール(écriture:書くの名詞形、書字とか書法とかの言い方が
あるが日本に適当な訳語がない。私は書くことを通じた
文体、集合観念という考えで捉えて欲しい。
文脈で、文体、記録、書類、文書等)
ディスクール (discours:言述、言説、話とか訳される、これまた説明
が難解な用語。文脈によってはスピーチ、談話、等)
⇔langue、≧palole
268 :
考える名無しさん :2006/02/22(水) 23:26:06
おいおい テクストもパロールも綴りが間違ってるよw
269 :
8 :2006/02/22(水) 23:40:05
>>267 バルトは、文学におけるテクストとは作者がただ読み手に伝える
だけでなく、「読ませる」ことを通じてたえず新しい意味を解釈、生成、
という運動の中で織られる織物のようなものだという発送があります。
しかもこれは文学だけでなく、文化全般にまで拡大した。その領域は
、モード、映画、写真、神話分析などに及んだ。日本においては、蓮實
重彦などがダイレクトに影響を受けている(もっとも彼の個性のせいで
思わぬ射程に論が進む人)。主著は「モードの体系」であり、「記号論」
を勉強する人間の基本書になっている。広告業界、ファッション業界で
これを読んでいる人は少なからずいる。
文化現象を何かある見方に固定するのではなく、広がりをもった複雑
な意味の現象と捉えたことが何より(当時は)新しかった。文化を独自
な意味作用を生む記号と捉えたこと、この転換が優れていた。
彼の日本論「表徴の帝国」では日本では歌舞伎の隈取り(独自の迫力
の表現)や竜安寺の石庭(庭であって庭でない)等のものを「意味の囚
われない記号を楽しむ国」と見た(日本人からみればそうではない、と
いう反論はあるが、キリスト教社会から見れば重苦しい「意味」に囚わ
れていると思っている)。また東京の皇居が大都会の中に「何も無い空
間」がないが存在することに驚いている。西欧は大聖堂や王宮や広場と
いう「中心」から街が広がっている構造がある(このことは河合隼雄も
日本における「中空構造」として指摘している。伊勢神宮等、中に入る
ごとに何もない空間が広がる構造が日本の精神構造を表現していると指
摘)。彼が日本をフィールドワークしたものと読むと面白いと思います。
270 :
8 :2006/02/22(水) 23:59:10
>>268 訂正:palole→parole、text→texte
時々英語とごちゃになる… ごかんべんをw
彼の名を有名にした「零度のエクリチュール」(1953年)(ちくまは
「エクリチュールの零度」という題名でしたっけ?)。彼37歳の時で
す。エクリチュール…書かれた文章の「意味=構造」が色々な時代に
おいて多元的な「解釈」を持って通過していったと指摘している。
つまり歴史的にみて「絶対的な」エクリチュールなるものはなく、
そこには解釈が多元的に意味は広がる(拘束条件はあっても)ことを
論じている。つまり階級的なエクリチュール、職人的エクリチュール
など社会的にこうでなくてはいけないと規定していないが、見えない
<制度>に縛られていると読んだ。またディスクール(言説)も私達
が接する「現実」にまで到達しているわけではないと指摘している。
この辺の論旨はフーコーの<エピステーメ>等の用語でさらに発展させ
ている。(ちなみに「零度」というのは何も意味しないことを意味する
記号のことで、よくゴルゴ13が「………」と使うのはこれ)
273 :
8 :2006/02/23(木) 00:24:22
>>271 これは今でも言われているが「………」とはよくマンガで使われ
る様になっているが、バルトは不在、中性的「意味」が籠められていると
いう、実にバルトらしい言い方をしている。つまりそこは不在であるがゆ
えに読むものがそこに意味作用を形成して塗りこんでしまうという。
「すなわち…沈黙とはそこでは、ふたつの層の間に楔を打ち込み、語を
暗号文の断片というより、光、空虚、殺戮、自由のように爆発させる、ひ
とつの同質の詩的空間なのである」
「零度のエクリチュール」(みすず書房版・p71)
さらに零度は主体に自由な解釈を許そうという語からの開放のために空虚
な地帯を作り出し、書き手が「意味」の責任から開放されるのだと続く。
この辺の論旨がバルトが喰えない所ですwww
文学でつね 意味作用の責任は負っている? 読み手の主体はある?
275 :
8 :2006/02/23(木) 00:32:16
>>272 読み手に読まれるということです。
>>273 零度は書き手、読み手が語の拘束を受けずに自由になる空間で
あると論じている。このくらませっぷり(ごまかし)が「ふざけるな!」
と当時は思ったが今思えば外れていない。
276 :
8 :2006/02/23(木) 00:44:06
バルトは文語(過去を背負う文体)から開放されるには別の方法として 白いエクリチュールを創造せよと解いている。これは法(モード)から 開放された形式、零度のエクリチュールが必要いう。 されど「…不幸にも白いエクリチュールほど不実なものはない。自律 運動がはじめに自由があった場所自体で練り上げられ、硬化した形式の 網がますますスピーチの最初の新鮮さを圧迫し、あるエクリチュールが 不定の言語にとってかわって再生する。作家はついに古典派となり、そ のプリミチーフ(原始的な)創造活動のエピゴーネン(追随者)と化し、 社会はかれのエクリチュールをひとつの流儀にかえ、それもまた自らの 形式的神話のとりことしてしまう」で終わっている。現在の文学の世界 だけでなく、テレビ番組等の今の状況を予言しているが投げっぱなしな んですよwwバルトさん…。
277 :
8 :2006/02/23(木) 00:59:26
バルトを読むと現在の日本の批評家がなぜ賞賛をしたのかはよくわかる。 はっきりいって文体もフランス独特の散文体でもないのにレトリックに 満ちているし、さすが文芸批評家と思わせる。バルトは自分を教授とか 批評家とか定義されることを嫌い、争い(批評)を差異に切り替えた人 で80年代から現代に到る文芸批評で彼の影響を受けていない文芸批評家 は恐らく一人もいないであろう。このスタイルはかなりマネされている。 そう…ここまで語ればわかると思いますが、バルトを語るとどこにも たどりつかない。じゃどうすれば良いのかという骨針、方向がない。 つまりその作業に出た矢先に交通事故で死んでしまったからです。彼は 公にはしてないがゲイでマザコンだったらしい。結構ハンサムなのに… 生涯独身でした。ミッシェル・フーコーとも交際して別れたようだ。
278 :
8 :2006/02/23(木) 01:23:49
ソシュール理論の波及効果 言語学以外の構造主義 レヴィ=ストロース、ラカン、バルト アルチュセール、フーコー(彼はポスト構造主義ともいえますが、過渡期 などで説明の必要がありそう) 哲学ではメルロ=ポンティ 順番から言って次はラカンあたりかな…これまた難解なんだけど (アルチュセールは読んでないので概略しか知りません。マルクスの 再生に興味なかったからですが)
279 :
8 :2006/02/23(木) 01:26:58
>>278 の続き
質問が無かったら、ラカンを語りたいです。
質問があったらカキコよろしくお願いします。ラカンを説明するのは
気合がいるし、纏めるのが時間が必要なので
今日はこれくらいでおやすみなさい。
280 :
8 :2006/02/23(木) 18:23:51
281 :
8 :2006/02/23(木) 18:28:44
>>280 ジャック・ラカンを説明すると退屈なので、フロイトの系譜が
現代思想の位置づけとしてどうなのか、日本でフロイト理論はどうな
のか、この辺を説明した方が面白い気もするが… 岸田秀とか絡める
と楽しいんだが。
282 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 18:33:50
ラカンは構造主義者じゃない!と言ってみる・・・
283 :
8 :2006/02/23(木) 18:40:33
>>282 正確には「構造主義」を口に出してスローガンにしたのは、レヴィ=
ストロースだけですよね。知ってます。ラカンも確か「自分は構造主義
者じゃない!」と言っておられるわけでまあ、ぴかぁ〜 さんの言う通り
なんですが。
284 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 18:45:11
いや、いって見ただけですから(笑) 中期の象徴界の「無意識は言語のように構造化されている」は もろ構造主義です。 続きをどうぞ・・・
285 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 18:54:58
ぴかぁ〜の知ったかが始まったぞw
286 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 19:05:14
>>284 >「無意識は言語のように構造化されている」
有名なテーゼで正確には
「無意識はランガージュ(言語活動)と同様に構造化されている」
といいますが、ランガージュは言語活動一般をさしてます。
ランガージュは
丸山圭三郎解釈では、(frag=ソシュール原資料の断章)
「ランガージュは、人類を他の動物から分別するしるしであり、人間的
な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力」(frag.3283.8)
らしく、さらに丸山はリビドー、エロティシズムに非常に近いエネルギー
と定義しているが…
この当時ソシュールのテキストは誤解多数の「一般言語学講義」に、
集約されているので、訳し方もまちまちらしい。従ってラカンの文脈から
して言語活動あたりが適当ではないかと思われる。フランス語は隠喩・換喩
等のレトリックが多いので訳し方を間違えると全然違うことになる危険な
言語ww
287 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 19:11:38
さすがソシュール派ですね。言葉にうるさい(笑) ランガージュ(言語活動)というのが大きなポイントですね。 ラカンは精神分析ですから、それまではパロールを重視していた。 ランガージュ(言語活動)重視は、中期の構造主義への大きな転換であったわけですね。
288 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 19:19:32
知ったかでよく言えるなw
289 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 19:24:42
しかも松岡正剛のページから画像の無断転載してるしw
290 :
8 :2006/02/23(木) 19:30:23
「無意識はランガージュ(言語活動)と同様に構造化されている」 というのは、ラカンによれば、任意の主体(他者)によって話される 言語活動とした。これはいささか複雑な物言いだが、ラカンはソシュール の原資料のことを知らず、自分で独創的にランガージュを定義したらしい。 つまりラカンの解釈によれば無意識は「他者との交流」によって発生す る存在とした。ここからややこしいが、自己としての誰かは、いつも自分 のことを語っているつもりになっている。しかし自分のことを語ろうとす ればするほど、そのランガージュはいつの間にか他者を語っていると言い 放った。つまり他者との語らいと比較でしか自己を規定できないからです。 岸田秀はネオテニー(幼形進化)の理論を取り入れ、人間は本能の形式 が壊れた動物と主張したらしいが、ラカンもネオテニーの理論は気にして いたらしい(「エクリT」みすず書房)。 しかしラカンも<シニフィアン連鎖>という言い方で欲望のグラフを作 成して(「エクリV」みすず書房)心(もしくは魂)からもはみ出してい ることを見抜いた(この辺は記号論のコノテーションと同じで意味連関が 膨れ上がる<過剰>性と同じ)。 S ― s ラカンはこういう表記をした。(ラージSがシニフィアン、スモールsがシニフィエ) シニフィアン連鎖とはソシュールや記号論と同じでシニフィアン (Sa=S)、シニフィエ(Sé=s)でシニフィアンが優位とする主張でこれは ソシュールに間違いなく由来するもの。
291 :
8 :2006/02/23(木) 19:46:57
フロイト理論は実体論を逃れられないという欠点や理論的構造欠陥 が否定できないのだが、ラカンはフロイト解釈する側に問題があると した。つまりフロイトの曖昧な点を読む側を分析するというある意味 バルト的な戦略を取った。ラカンは「リビドー」を外すというフロイト 理論の脱臼(保留)を行って、患者の意味「構造」を分析した、結局は 無意識の他者性に達成してしまったという意味では結果論としてバタイ ユの言説に近くなってしまった。 実を言えば、岸田秀というフロイト派の方がいる。この人の内容は 晦渋極まりないラカンの文章と打って変わって全然明快に文化現象を分 析して語っているが、非常に違う言説だが実はラカンと共通点が結構あ る。
292 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 19:52:19
8よ、気をつけろよw
前見た時は、ぴかぁ〜のブログにあのグラフの図が無断転載してあったぞ。
8が
>>280 で出したリンクを出したから分かったものの、隙あれば無断でパクるからなw
293 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 19:58:14
ラカンはフロイトだけで語ると見えないです。 ある意味で、ハイデガーそのものですから。 注)雑音がうるさいですが、無視してください。 ボクのいくところ、いくところににつきまとう 頭のおかしい子ですから、放置願います。
294 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:01:55
ぴかぁ〜のブログを見たら、なんとあのグラフが消えているじゃないか。 8がリンク出したんで、パクったのがばれると思って外したんだろw
295 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:04:12
>>293 松岡正剛のサイトからの無断転載を指摘しているだけですが、何か?
296 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:13:45
8はなんで自分にレスするんだ?
297 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:15:35
ぴかぁ〜って本当に、人間としての器が小さいよね。
298 :
8 :2006/02/23(木) 20:17:36
共通点として 1 本能形式をなくしているとした 2 無意識が社会的言説の構造を持つとした(岸田はフロイト理論は社 会心理学であるとした。 3 意味は無意識にある「他者」が決めたものとした 岸田秀もラカンの翻訳をしているので、理論のことは知っていたが、 引用形跡が全く無いがどうして共通項が多い。私は「構造主義」とい うのは、言説を徹底的に分析してその意味内容との格闘から生まれた 運動と自分の中で定義している。まあ個人的見解ですが。 柄谷行人が「マルクスの可能性の中心」という本を出したが、ラカ ンと岸田なら「フロイトの可能性の中心」となるだろう。いずれにし てもフロイト理論の有効性と欠点を双方とも同じベクトルで見ていた ことは確か
299 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:24:33
対話するつもりが無いならブログでやったらいいじゃね?
300 :
8 :2006/02/23(木) 20:30:16
>>298 の続き
丸山圭三郎の様に「ソシュールの可能性の中心」とまで語る必要は今
感じてないんですが、少なくとも自分以外の他者が「彼は何ゆえ語り
どう考えていたのか」を理解するということは「哲学」的認識論の問
題として重要ですし、バタイユなんかもそういう読まれ方をすると、
面白いのかもしれまいし、十分哲学じゃないですか。自分は他者と如
何に理解に到達するのかはフッサールの言説では少ないけど、それこ
そ「現象学」と「構造主義」は導入部が違う様に見えて問題意識は似
ていませんか?どうでしょう…
301 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 20:33:32
>私は「構造主義」とい >うのは、言説を徹底的に分析してその意味内容との格闘から生まれた >運動と自分の中で定義している。まあ個人的見解ですが。 岸田は良く知りませんが、 哲学史的な構造主義の位置づけは、物そのもの、現象(認識世界)に、 続く、象徴界(言語=無意識)の第三項の導入にあると、言われていますね。
302 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:35:40
>岸田は良く知りませんが、 岸田すら読んで奴がラカンを語るとは…… さすが、ぴかぁ〜クオリティーw
303 :
8 :2006/02/23(木) 20:42:52
>>301 無意識≧他者=言語と規定しているラカンやバタイユの言説に即す
ならぴかぁ〜さんの理解は正しいと私は思います。
近代は理性による自己の克服を至上のものとしていたが、その地盤を揺る
がしたのは他ならないニーチェとフロイトだと思います。ニーチェは道徳に
潜む権力を告発した(「道徳の系譜」)この系譜と構造主義の流れを組む、
言説分析、構造理解の二つが大きいと踏んでいます。
つまるところ、例えば、マルクス主義が謳歌されていて、イデオロギーに
陶酔する人間の深層を見つめることができなかったとこう読んでますがどう
です?
304 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 20:44:47
>>303 無駄無駄。
岸田すら読んでないんだから、
ラカンだって、8に何か言わせようとして適当にキーワード
並べてることに気付けよ。
305 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 20:59:25
>>303 マルクスの商品分析をフロイトの夢分析は同じ構造だと、
ジジェクはいいます。さらにマルクスは下部構造としての
経済活動をあげます。
その意味では、理性の下部構造を分析した者として、
ニーチェ、マルクス、フロイトをあげることができます。
そしてこの3人ともがダーウィンに影響されていることは、
忘れてはいけないでしょう。
だから、マルクス主義は、人間の深層を見つめてはいました。
しかしそれを実践へ展開するときに、失敗するのだと思います。
それはニーチェも同じで、超人思想、永久回帰など。
これは哲学家の宿命ですね。分析はすばらしいが、実践するときに躓く。
ヘーゲル、フッサール、ハイデガーなどもしかりです。
306 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 21:02:27
>ニーチェ、マルクス、フロイトをあげることができます。 >ヘーゲル、フッサール、ハイデガーなどもしかりです。 確実に保障するが、一冊もぴかぁ〜は読んでないぞ。
307 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 21:15:38
>>305 私はラカンの孫弟子のジジェクは読んでないが、柄谷行人が
「マルクスの可能性の中心」で下部構造との分析や、マルクスの商品
分析、貨幣=物象論がフロイトに似ている構造があったという意味で
はそうだと言えるが、これはマルクスの理解がそこに及ばず労働価値
説にいきなり飛躍してしまった。アルチュセールはこれを認識論的切
断といっている。人間の深層を見る視点があったことはあったが、マ
ルクスの言説は明らかに分裂している。それをさらに教条的にマルク
ス主義ともなれば、道徳的熱狂とイデオロギーが人間主義前期マルク
スの解釈と融合することで燃え上がった。労働価値説は明らかにおか
しい。人間主義的な部分がマルクスにあったからといっても、これは
間違っています。
308 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 21:20:36
物質から来ました
309 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 21:21:29
vipだろ?
310 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 21:22:06
いや物質だってば
311 :
8 :2006/02/23(木) 21:29:01
>>305 マルクス、エンゲルスの「責任」は明らかにある。分析と実践
が多くの場合失敗するのは、人格的立脚がないからで、その意味では
ヘーゲルも同様ではないかと思われる。私はヘーゲルの失敗は「絶対知」
という<神>を志向したという意味で鋭かったがそこにに至ろうとする
弁証法的展開が明らかに理性的な「虚偽」であり、そこにはヘーゲル的
な恣意的な理解でしかない。弁証法は魅力ある理性的展開であるが価値
はないと思っている。ニーチェもデュオニソスという非理性を志向しな
がらそれを超人思想という偶像に狂喜するあまり、そこにおけるプロセ
スを理性的に永遠回帰という「証明」をやらかしてしまった。徹底的に
疑うべきだったと思う。早急すぎたと思っている。
ハイデガーはまだ読むべき示唆があると思うが、最終的に矛盾がある。
312 :
8 :2006/02/23(木) 21:38:44
>>305 ハイデガーの存在論=世界理解の志向がどうしても納得できな
いのは、そこにおける関心が何なのか、そして認識としての飛躍はい
かなる形で達成されるのかに難点がある。その意味でそこに潜む近代
的な文化の恣意性を見抜けなかったということです。
フッサールの現象学には他者性に対する理解が少ない。現象学自体は
<還元>プロセスは思考法としては結構臨床医療の分野で利用されてい
る。もっともその中でも多くはメルロ=ポンティだったりするのだが。
特に幻肢の現象についての考察はかなり有効度が高いという臨床報告
も多いようです。フッサールの思想はともかくとしても、<現象学>の
利用価値はまだあるようです。もっともこれは<哲学領域>なる<幻想>
を排除してでの話ではありますが。
313 :
8 :2006/02/23(木) 21:40:56
>>312 の続き 非常に長くなりましたが、その意味で現象学と構造分析
という手法はまだ有効性があると踏んでいます。問われなければならな
いのはそこに至る志向プロセスを如何に相対化して記述することが可能
か…ここが問われなければならないと思いますがどうです?
314 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 21:51:48
マルクス論、ハイデガー論などの詳細の議論はありますが、 哲学とは人間の「症候」である、ということでしょう。 あれが、正しい、間違いといってしまった時点で、すでに躓いている。 またローティ的にいえば、分析と実践の統一は諦めなければならない。 大きすぎる話ですが。
315 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 21:57:44
>その意味で現象学と構造分析という手法はまだ有効性があると踏んでいます。 どのような意味で有効化ですね。 たとえば認知科学の世界では、クオリアなど、いまごろ現象学が回帰して います。 あるいは最近の社会分析では、まだ構造主義的な分析は有効でしょう。 「歴史は終わった」、「哲学は終わった」とヘーゲルから受け継いだ、 コジェーブの言葉があります。コジェーブはソシュールとは別の 構造主義の父のような人です。 哲学は、文学の一分野なのか、なにかまだ有効なのか。
316 :
8 :2006/02/23(木) 22:00:57
>>314 症候? 「病」という意味ですか?
>分析と実践の統一は諦めなければならない。
これには異論がありますね。そもそもそれを諦めたら「哲学」や思想の
存在価値が無くなってしまうじゃないですか…。
(個人的には良い意味で無くても良いと思ってますがw)
317 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 22:01:54
→どのような意味で有効かですね。 話が発散しすぎていますね。このようなことを議論するスレでは ないんでしょうね。
318 :
8 :2006/02/23(木) 22:11:27
>>315 >たとえば認知科学の世界では、クオリアなど、いまごろ現象学が回帰しています。
これはそうです。その意味ではです。
メルロ=ポンティの細かい点はミスもあるが、全体として<生理的なも
の>を通じてでしか身体から世界認識は達成できないという着眼点は評
価すべきでしょう。一部非難もあるようですが、これについて異論があれ
下さい
構造分析手法は、一部でしか有効性を持たないということではなく徹底
的に構造分析による相対化と現象学と併用しなけば「哲学」に明日はな
いでしょう、多分。どうです?
319 :
8 :2006/02/23(木) 22:13:28
>>317 まあそうなんでしょうが、関心あればどうぞwww
320 :
8 :2006/02/23(木) 22:27:40
質問・意見があったらカキコよろしくお願いします。 次はフーコーを目論んでますが… 今日はこれくらいでおやすみなさい。
321 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 22:37:13
>>319 いきなり発散した話もなんなので、ボチボチレスさせてもらいます。
がんばってください。
322 :
考える名無しさん :2006/02/23(木) 23:23:15
あーあ、8にぴかぁ〜が寄生しちゃったよw これからぴかぁ〜はパクリ放題だね。
このスレ面白いなぁ。いいスレ見つけた。 ぴかぁ〜粘着もいるにはいるが邪魔にならない程度のほどよい茶化しが絶妙な味わいだ。
324 :
考える名無しさん :2006/02/24(金) 03:18:28
現代思想だいっきらい ソシュールなんてどうでもいい
325 :
考える名無しさん :2006/02/24(金) 04:09:27
うわああああああああああああああああんわかんないyooooo
326 :
8 :2006/02/24(金) 18:47:51
>>320 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0545.html ミッシェル・フーコー「知の考古学」
フーコーはやたらと「難解」だって言われている。
けれどインターネット社会の今フーコーの理解のやり方自体を変えていかない
とおそらく「難解」のまま終わってしまう。特に彼の「人間の終焉」の言説は
注意しておく必要があります。
フーコーは十八世紀末以前に<<人間>>は実在しなかったと爆弾発言をかました。
これは「言葉と物」(p328)で述べられている内容であります。彼のエピステ
ーメの概念やこの「人間の終焉」の言説は勿論ソシュールの影響によるもです。
その言葉を精密に理解すれば、manは女性を意味しないが以前は男性と女性は別
の生物として捕らえられ、キリスト教社会では女性の主体性は存在しなかったと
言える。つまり生物学的人間は近代に至って出来上がった<概念>による構築物
であるいったわけで、言葉の理解を拡張してフーコーは時代による<知>の集合
として捕らえなおす主張を始めた。
また当初、精神病理学を目指していた中「狂気の歴史」「精神疾患と心理学」
「臨床医学の誕生」等に向けられた<まなざし>は「狂気」=精神病というも
のが時代で如何なる形で捉えられ<権力>による排除が行われたという意味で
一貫している。
327 :
8 :2006/02/24(金) 18:59:15
>>326 フーコーが「難解」と言われる理由はいくつかありますが
1 彼がフランス独特の散文体によるレトリックの文体の名手で、文構成が
日本の述語が後部にくる文体と合わない
2 彼独自の専門用語、<知>や<エピステーメ>、<言説(ディスクール)>、
<言表(エノンセ)>、<アルシーフ(集蔵体)>、<表象>などの翻訳に
よる誤解。実際用語の多くはフランスの高校生レベルでも分かる用語なのだが
厳密に翻訳しようとする日本人による弊害
328 :
8 :2006/02/24(金) 19:11:37
>>327 の続き つまるところ、用語さえ理解すればフーコーの言っている
ことは
「現代は見えない他方からのまなざしからの<権力>に囲まれている」
「近代的人間はヨーロッパの総合知による構築物にすぎない」
「エピステーメ(パラダイムと言っても良い)は考古学的切断がある」
「中世には<精神病>存在せず、近世において時代の理解を超越したも
のとして<排除>する構造が実現した」
「やがてそれが精神病院という<垣根>を作り囲って排除した」
「エピステーメは時代によってアルシーフという規則で集約され常識・
前提として時代の知を動かす」
「性愛は時代によって変化している文化だ」など
フーコーは独自の哲学というより、実践的な思想が主な主張で現代でも
多くの議論がかもし出される思想家と言える
329 :
8 :2006/02/24(金) 19:15:43
>>328 の続き
まとめるとこんな感じかな…あと84年にエイズのよる敗血症による死亡
とホモセクシャルであったことも重要ですねw彼がゲイであったことは
彼のマイノリティ(社会的少数派)についてもまなざしで一貫している
とは思いますが。彼がゲイであることの濃い発言でもどうぞw
330 :
考える名無しさん :2006/02/24(金) 20:15:43
お前フランス語できるの?
331 :
8 :2006/02/24(金) 20:53:40
>>330 辞書首っ引きですが読めます。
大学時代、フランス語を取っていたが、先生がフーコーを知ってました。
「『言葉と物』ああ、あれね中学生の歴史ぐらいの用語しってればわかる
レベルだよ。実際高校生にもかなり読まれていたし。でも内容は高度だよ
ね…あんなものがベストセラーになるフランスは怖い国だね(笑)」
と言っていたし、大学の図書館に行って原書も辞書首っ引きで読んでみた。
たしかにエピステーメはギリシャ語だけど文脈でわかるし、ディスクール
とかもスピーチくらのニュアンスで流通しているしエノンセとかも文面
ぐらいの意味なら流通している。つまりフランスは換喩表現の幅が日本と
非常に違う。フランス語は同じ語でも幅が非常に広い。つまり「詩的」な
んです。レトリック表現に長けているというより、フランス語はひとつに
籠める意味のキャパシティがでかいわけです。
ソシュール理論になりますがフランス語と英語の対応で説明しますと
mouton(マトン)=sheep(シープ・羊)+mutton(マトン・羊肉)
bœuf(ベフ)=ox(オックス・牛)+beef(ビーフ・牛肉)
ちなみにオックスフォード(Oxford)という地名は牛の渡し場という
意味から来ている。英語の対比から見てもフランス語のより英語の方が
語の分裂が多い。これのせいです
>>331 フランス語は同じ語でも幅が非常に広い
それって語彙が少ないだけでしょ?
333 :
考える名無しさん :2006/02/24(金) 21:25:04
ますます現代思想がキモくなってきた
334 :
8 :2006/02/24(金) 21:41:25
>>332 蛇足ついでにこういう事例がある。皆さんの意見も聞きたい
物理学者ファインマンが来日したとき
「日本語はその場に応じて三つも四つも言い換えがある」として
「こんな国語は僕の性に合わない」と日本語の勉強をやめてしまった
とか、5ヶ国語を話す日産のカルロス・ゴーンが
「日本語は話せそうだが(日本語で)書類を書くのは(今からではおそ
らく)無理だ」
と言った逸話がある。これは日本語が高度に分節性を持った言語でしか
も単語で漢字、ひらがな、カタカナまである。
来日したラカンが日本語のような文字の使い方をする人々には精神分
析は(もしかしたら)必要ないのではないか、と言ったそうです。つま
り漢字の音・訓読み(中国、日本との分節性)、ひらがな、外来語に使
用する「カタカナ」という文字、つまり読み替えを意識的に行える語な
のではないかと言いたかったのではないだろうか。外のものを取り入れ
ながら、しかもそれを外のものと意識できる日本語独自の分節性は日本
のナショナリズムの深層の何かを暗示してないだろうか?
(柄谷行人「日本精神分析」より)
335 :
8 :2006/02/24(金) 21:57:29
>>334 の続き
つまり、日本が単一民族と意識できるのはこの通時的分節性が高いか
らと言われている。
>>332 で指摘していますが、じゃなぜ語彙が少ない
=分節性が低いといえるのか?
西欧と日本では詩の構成からして全然違う。この辺は重要な問題では
ある私は思いますが。人によっては「つまらん」ことかもしれまんが。
336 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 22:08:40
ある意味で日本人はとても海外に開いていますね。 国際規格などができると、まめにそれを受け入れ取り入れる。 たとえばアメリカなどいまだにフィートなど、容易に変更しない。 しかしこれは逆に、日本が素朴な単一民族的な安心の支えられている からかもしれないですね。
337 :
8 :2006/02/24(金) 22:26:24
>>336 日本語は言語による外部からの侵入に(表面上は)柔軟に受け
入れつつも同時に排除しているという二重構造がある。これが西欧に
なると単位・通貨・基準を誇示(もしくは固持)しようとしている。
日本は言語(外来語)の侵入に柔軟というか排除を簡単にしてしまう。
これは非常に日本という国が言語に立脚した統一性が高いことがいえます。
日本語は外国語との差異の比較が難しいじゃないかという意味ではソシ
ュールの理論に難点があるのではないかという反論がいまだに後を絶た
ないのですが、逆に日本語の恣意性の高い<差異化>こそ唯一特殊なケ
ースで未だに議論が絶えない。今韓国にいってごらんなさい。最近まで
中国語・漢字・日本語の看板があったのに、今や国がハングル語に統一
して言語の締め出しをしてしまった。これは何を意味するのか…
338 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 22:36:17
ハイコンテクスト/ローコンテクストというのがありますね。 日本はハイコンテクストと言われています。 コンテクストの「同じもの」性の強い結びつきという幻想が、 外部に柔軟であり、排他である、ということですね。 ローコンテストでは柔軟であるという余裕がなく、 排他的になる。 今韓国は単に国策では?
339 :
8 :2006/02/24(金) 22:46:39
>>337 の続き
例えばロシア語を例に取れば(外来語が結構多い)、、CTOПは外来語で
英語の読みのままストップと読みますロシア語のアルファベット表を参
考にしまして読み方変換しますと
C→és T→té О→ó П→pé となりほぼストップに近い形で読み
ます。これではロシアは言語によるイデオロギーの統一は無理です。
ハングルも古代の日本語の読み方に近いのではという報告もあるぐらい
ですし、言葉(パロール)は日本に強姦されたために文字という記号に
よる復権かもしれませんね。
340 :
8 :2006/02/24(金) 22:54:52
>>338 国策なんですがいみじくも無意識レベルで無視できない問題点
ではあります。つまり韓国は自己を回復するためには、中国やロシアの
様に外来象形文字を排除することだと考えたのではないかと思われる。
フランス語、ドイツ語、英語になると、読み方(シニフィアン)での
差異化が強いが、結構共通のスペルも見受けられる。これは、ラテン語
に端を発して(日本に譬えれば)方言レベルで差異化が起こったと言える
わけであるがロシアや韓国などは歴史的に外圧により屈服の歴史の方が
多かったからこそ、人類学的にいえば象形文字による共同体の復権を形成
したのだといえると思います。
342 :
考える名無しさん :2006/02/24(金) 23:02:14
それは、単純 に日本と違って自分の国が大好きだからじゃないんですか?
343 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 23:02:21
簡単にいうとナショナリズムの台頭ですね。 なぜいまナショナリズムか。 アジアの日本バッシング、日本の嫌韓、 イスラムとアメリカの対立。 世界が小さくなりすぎたのですね。 長期的な言語構造の変化と、短期的な意識(ナショナリズム)を 対比するのは無理があるような気がします。
344 :
8 :2006/02/24(金) 23:11:14
>>341 これは私独自の解釈+岸田秀+レインの理論を述べれば
外的自己=シニフィアン(視覚・聴覚・イメージ)つまり標識・文字
内的自己=シニフィエ(概念・意味)としたらどうですか?
(R・D・レインの用語「外的自己」「内的自己」を使って表記)
外的自己は表の顔つまりタテマエ、仮面のことで
内的自己は裏の顔つまりホンネのことです
レインによれば、人間のこの二面性は分裂病(統合失調)におこる症状
として現象学的に記述していますが、この相互の遊離の差異が大きけれ
ば大きくなるほど自己同一性を保つことができなくなるという。つまり
外的自己・内的自己が国民感情の集合体と捉えるとわかる。
この記述方式は岸田秀の「ものぐさ精神分析」にならって書いてます
ので間違っていたら岸田批判として許してくださいw
345 :
8 :2006/02/24(金) 23:31:37
>>344 もちろん、単純化は危険なのは承知してます。岸田秀はフロイト理論を
国を一つの人格として外的自己、内的自己にわけて歴史的に記述してい
る。もちろん大雑把な部分も否めないが、ものすごく明快ではある。
一度読んでみるのをオススメします。
少なくとも、共同幻想=ラングが個々の意識の集合表象ならば、ソシ
ュールは21歳の時の論文で「インド=ヨーロッパ諸語における母音の原
初体系に関する覚書」の中で母音の差異化が国レベル(共同体レベル)
での構造を歴史的に記述している。こんな簡単だったら楽ですが、古代
少なくとも言語(ラング)は共同体の共通項であったのは間違いない。
従って世界が縮小化したのは情報通信の発達によるわけですが、そう
なれば言葉シニフィアンかシニフィエによる差異化を促進することにな
るわけです。
例えば「テラワロスwwwwwwwwwwww」と書けば自分の「属性」=自己同一性を
表明しているのと同じで方言は自分の故郷を確認する意味でも自己同一
性を一時的にせよ回復する安心感を与えそれが共同幻想を形成している。
本気で受け取らないで下さい。こういう見方も面白いと思うだけにし
てください。
346 :
8 :2006/02/24(金) 23:58:08
>>342 さんは良いことを言った。韓国が自己欺瞞による強迫神経症にかか
っているとも分析できるわけですwww
これまた岸田秀的に分析する韓国の反日教育は有名ですが、日本人を観
察するにつれてどうもイメージと違うぞという内的自己の意見を抑圧し
反日=外的自己との認識の差は遊離し、自己同一性を回復しようとする。
内的自己が強固に抑圧されるにつれ自分の観察結果が信じられなくな
り自己欺瞞によって神経症と同じ自己防衛機制が働き、日本に対する文
化の拒絶となって表れる。
日本のマンガは面白い、されど日本の文化だ。韓国自身の欺瞞を覆い
隠す意味で日本の文字記号を排除することであたかも韓国自身の文化で
あるかのような錯覚=新たな欺瞞を作り出すことでしかなかった。
韓国が日本に対して強固に自己主張をやまないのは、かつてアメリカ
がインディアンを虐殺して国を形成したことを抑圧したことや湾岸戦争
やイラク侵攻などの正当性のない一方的攻撃を抑圧する様子とよく似て
いる。自己欺瞞を抱えたまま判断を信じられない状態が続行すれば人間
は他者を圧倒する行動に出る。これと全く同じと思います。
まあこの理論は笑い話ですませて欲しいですがw
347 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 00:04:45
二つの危険がありますね。 一つは、歴史主義的な誤謬。先ほど言った、言語構造という長期的なものを、 短期の現象に短絡する。これこそがナショナリズムそのものになる。 もう一つは、構造主義的な危険ですね。ポスト構造主義的にいえば、「国という人格」、 統一した言語(ラング)のような静的な内部信仰そのものが、外部を排除している。 それでも、ボクも世界的なナショナリズムの台頭は言語の影響が大きいと思っています。 それはネットの影響です。ネットがテクストをベースにしているということです。 たとえば最近は、韓国は身近になり、ドラマなどテレビでやってます。ここではパロール とともに、表情などの情報があります。しかしハングル語のHPを見たことありますか。 HPのまで「立ちすんで」しまいます。それは徹底的な「疎外感」です。 さらにアラビア語などではさらに強烈です。 ワンクリックでいけるのに、徹底的に疎外されるというネットの世界。 それは噂で「中国の掲示文で日本バッシングが行われている」としか伝わりません。 日本人同士でもそうですね。このようなテクストのみのコミュニケーションでは、 コンテクストの共有が難しく、意味の宙づりが起こります。 心理学的にもテキストのみの交換では、相手がきつく感じるというデータがあります。
348 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 00:12:24
ネットがこれだけ爆発に普及する。 意味が宙づりされ、コミュニケーションが失敗するのに、 みなが2ちゃんねるに向かう。 すなわちナショナリズムの否定的にばかりとることはない、 ということです。たとえば、日韓は確実に近づいて、だから 軋轢が生まれる。そしてこの融合は止まらない。 たとえば昨年の中国での日本バッシングデモに参加した中国人を 取材すると、家の中、日本製品だらけ。そして個人的には 必ずしも、日本人をそれほど嫌っていない。 ある意味で、ノリなのですね。そしてこのノリを生んでいるのが、 ネットでの呼びかけだった。2ちゃんねるの「祭り」と同じなのですね。
349 :
8 :2006/02/25(土) 00:25:30
>>347 私は構造主義と現象学の相対性認識論者なんですがww
ただ私は一つの国を<生命>と見る視野は現時点で必要と思ってますが
言語による通時的レベルでの分析を縦の糸とするなら、
共時的レベルでの横の糸の現象学的分析も必要になると思います。
現象学的分析はとりあえず自明と思っている認識を宙吊り(還元)して
記述する方法ですがこの方法がインターネットのよる情報検索で
ぴかぁ〜さんに認識するプロセスを記述していただけるとありが
たいですがw
350 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 00:30:04
>言語による通時的レベルでの分析を縦の糸とするなら、 >共時的レベルでの横の糸の現象学的分析も必要になると思います。 何回か出てきましたが、これがよくわかりません。 言語の差異の体系は共時的では? 共時的レベルでの横の糸の現象学(フッサール?)とは?
351 :
8 :2006/02/25(土) 00:34:57
>>347 >国という人格」、 統一した言語(ラング)のような静的な内部信仰
そのものが、外部を排除している。
これは正しいと思います。なぜなら現時点で<国家幻想>というか、
<共同幻想>を支えているのは<言語=ラング>です。
ぴか〜さんが指摘した通り、現在世界中の情報が飛び交うITの時代にお
いて<共同幻想>を最も確認できるのは物理的な空間での境界ではなく
<言語=ラング>です。それはテキストレベルで音声言語による対話が
厳しい状況の中ならそこには記号としてのエクリチュール<文体=ラン
グ>が最も<共同幻想>を確認できる効率の良い手段だからです。
もっともそのことによって国家交渉する政治レベルと国民感情のレベ
ルは一層拍車をかける形で差異が一層広がることになります。
352 :
8 :2006/02/25(土) 00:36:21
353 :
8 :2006/02/25(土) 00:41:17
>>350 この場合、
>>351 で書いた様な自分の視点に立ち返って考え
直すことを言います。これは勿論日本についての記述ですがw
つまり<共同幻想>を考え直す場合自分を通じて<日本>というものを
如何に認識するに至ったかを考え直すということで、当然自分史として
振り返ることも意味します
354 :
8 :2006/02/25(土) 00:49:54
相対性認識論というのは、ある制約し続ける境界条件(前提)を意識 した上で関係として捕らえるということです。一般でいうところの 構造主義は構造を前提にしている必要条件を置き忘れているが、この 関係を捉えた上でその前提をこれまた関係で捉えなおすことです。 つまり終わりがなくいつまでたっても現時点で言えるとしか結論が つかないんですが、その前提という端緒を常に志向し続ける態度のこ とでこれが最も重要です。従って一つの国を語る場合、隣国や関係を 持った国との言語の関わりあいも含めて、考察することです。 この方法論はかなり使えますので覚えておくと良いでしょう
355 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 00:51:07
>>351 デリダはエクリチュールの引用可能性(物質としての文脈からの切り取られこと)を
指摘しましたが、ネットのコピペ天国はそれを表しています。
かつて、2ちゃんでニューヨークテロをネタにしたコピペが流行りました。
それは、2ちゃんねるの中ではネタで済んだが、誰かがそれを英訳して、アメリカの
掲示板に貼り付けて、大問題になりました。アメリカ人には2ちゃんねるのノリは
絶対に伝わらない。ネットではそのような事が起こっています。
ここで起こっているのは、「言語」間の差異の体系のようなものですね。
軋轢が言語圏という内部を浮き彫りにする。差異が<共同幻想>を生む。
356 :
8 :2006/02/25(土) 00:59:07
>>355 差異が<共同幻想>を生む。
正確に言えば差異化が共同体内部に受け入れるものと排除するものを
同時に作り出していると言えると思います。
言語圏というのは良い言葉ですこれは使えそうw
357 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 01:06:56
>>356 ポスモダ的には、受け入れるものと排除するものが差異化を生み、
共同体幻想を生むという順序なんですね。
システム論でもそうですが、動的作動が、静的幻想を生む。
静的幻想は「存在しない」んです。
ネットでは、ナショナリズムというよりも、言語圏で差異化が
生まれるとボクが思います。
グーグルは、言語差をなくす全訳化技術を目指していますが。
コンテクスト(文脈)は訳せないでしょうね。
これは、デリダのエクリチュールの「散種」に繋がります。
358 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 01:19:53
↑おまえもう30代だろう
359 :
8 :2006/02/25(土) 01:24:40
連続書き込み制限で遅くなりました。 ところで文字は人類学の話では特に象形文字は伝達手段の外に呪術的な意味も あったらしいですが、現時点では、世界を突き動かしているダイナリズムは <言語圏>という キーワードに集約されそうです。国のことを語りだすと脱 線が続くのでこれくらいにしておきたいです。 今日のところはお休みなさい。 この問題はちょっと考える時間を下さい 次回日本での構造主義〜ポスト構造主義への系譜。70年代〜80年代は得意 技なので語ろうと思います。この場合お勧めの著書も紹介したい。
360 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 01:32:10
361 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 04:25:41
ふむふむ。なるほど
362 :
8 :2006/02/25(土) 20:38:14
>>359 70年代山口昌男の登場からニュー・アカデニズム(ニューアカ)の時代
に突入した背景はバブル経済に突入するのに呼応する形で重厚な思想より、軽
妙な思想を好まれる形での転換をもたらしたけど、<知と戯れる>という影響
だけなら今でもその系譜が残っている。実際商品として思想が流通するという
ことが起こったが、本来の思想の中身を問うことをしていたのかどうか、ここ
を問い直すべきかと思います。
大きくは70年代は山口昌男の構造主義の系譜と、廣松渉の科学哲学の系譜が
あったけれども文章の語り口からしても全く違うし、そもそもムーブメント自
体どれだけの人間は思想の中身を読んでいたのかも疑問に思う。
山口昌男「文化と両義性」と廣松渉「もの・こと・ことば」からして文体も
全く違う。山口昌男の「中心と周縁」トリックスター(道化)論、演劇論、な
んかも紐解いても意外と理論背景は変わってない。そういう意味では一度理解
されればその「構造」において読み直せばすむといったことも生じやすい。
廣松渉「もの・こと・ことば」などを読むと数学用語や論理学とか「事的世
界観」といった漢字の多い硬質な文体だ。勿論思想の中身を読んで議論した人
も多いであろうが入門するにはあまりに敷居が高い。こういった潮流はマルク
ス主義が問い直されパラダイムといった大げさなものではなく知的であること
が「必要」と思った時期という面もありそう。リアルな世代よりもう少し若い
世代である私としてはその知的雰囲気みたいなものを嗅ぎ取る程度のことしか
できないので、紹介に移りたいと思う。
※ちなみにここで紹介している本は一度読むことをおすすめします。
363 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 20:54:44
ハチさん、こにゃにゃちわ。 よーく考えよー、考えててみるとお金は大事だけど、 この世の中は「もの」でなく「こと」なんだよね。 ふしぎだなー。
364 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 20:57:57
いや、8の言ってることはオーソドックス過ぎる。
365 :
考える名無しさん :2006/02/25(土) 21:02:11
>>364 ちがうよ。ハチさんは「エロ」松さんの話をしているだけだよ。
366 :
8 :2006/02/25(土) 21:02:20
その中で現在でも発行している「現代思想」という雑誌、ここを中心 にその思想潮流がかなり窺い知れる。三浦雅士編集長時代の「現代思想」 のエネルギーはすごいものがあった。「臨時増刊総特集・現代思想の109人」 (1978年)などは思想家紹介としてはこれ以上ハイセンスでかつ的確な 本を出すエネルギーは現在にはないと思われる。80年前後はこの本を読 めば最新の思想がほとんど手に入るほどのエネルギーがあったが、メデ ィアの分散化や編集長辞任もありそこまでのエネルギーは残っていない と思われる。故人となった丸山圭三郎と廣松渉を除けばまだ現在でも活 躍している方々ばかりだ。 個人個人について語りたい場合は別スレもあるのでそちらへ 私としては、他には紹介したい本としては 浅田彰 「構造と力」「逃走論」 吉本隆明 「共同幻想論」「言語にとって美とはなにか」 蓮實重彦 「表層批評宣言」「映画 誘惑のエクリチュール」「映画の神話学」 柄谷行人 「日本近代文学の起源」「隠喩としての建築」「日本精神分析」 栗本慎一郎「幻想としての経済」「パンツをはいたサル」「意味と生命」 中沢新一 「雪片曲線論」「カイエ・ソバージュT〜X」 岸田秀 「ものぐさ精神分析(正・続)」 三浦雅士 「私という現象」 あたりかな…
367 :
8 :2006/02/25(土) 21:09:31
>>364 オーソドックスですよねw ここは私の趣味の話に入って
しまうのであえてブレーキをかけてます。はいw
私が個人個人をどう思っているかとか他にはどうかとか
他にどんな本がいいかとか、個人的意見があればどうぞ。
368 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 00:02:07
フーコーのあとに日本の思想に飛ぶのも唐突ですね。
369 :
8 :2006/02/26(日) 00:15:41
>>368 フーコーの問題にでも戻りましょうか?
日本の思想と絡めるか、日本の思想の方を進めるか
ぴかぁ〜さん次第ですw
370 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 00:27:25
>>367 ハチさん、こんにちは。
元コント55号の欽ちゃんはどう思いますか?
欽ちゃん自身の才能、思想性というよりも全盛時の時代における
位置づけですが。
やはり、現代の「神」、「語りべ」はお笑い界なのかな?
ソシュールとも関係するよーな。
371 :
8 :2006/02/26(日) 00:42:58
>>370 今ものすごい質問したのを知ってますかwwww?
私はお笑いが「カオスの縁」を更新するものでなければ関心がないで
すね。私は欽ちゃんは全盛期における位置づけですよ。コント55号をリ
アルで聞いたわけではないのでコメントは難しい。むしろドリフとたけ
ちゃんマンの世代ですから。リアルで聞いた「欽どん」はその時は「安
心感」に浸れるが今は何があったか忘れるぐらいです。
忘れるくらいなら番組自体に大した「哲学」がなかったと思っている。
忘れられないと言えば高校時代、夜中にやっていた「カノッサの屈辱」が
忘れられないwあのラディカルな歴史パロディは何なのかと思った。
末井昭は言った、エロ本に思想は必要ないが「哲学」は必要だと、末井
は行動哲学者だと思う。彼の行動自体が「哲学」を引き起こしている。
間違っても彼の言説でではない。
372 :
8 :2006/02/26(日) 00:47:30
>>371 の続き お笑いは解説を加えると面白くなくなるとよくいいます。
多くは手品の種明かしみたいなものだからかもしれない。ソシュール的
に言えば「赤信号みんなで渡れば怖くない」でしょか?解説するまでも
ないですが、あっと驚く「カオスの縁」を更新したのと思った。
373 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 00:48:45
>「カオスの縁」 この板のこの単語を使うのはボクだけだと思っていました(笑)
374 :
8 :2006/02/26(日) 00:55:29
>>373 最近また物理学を勉強中でしてw
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」→「ファインマン物理学」
に入ってます。
でも大学時代、マッハと相対性理論、ゲーデルの不完全性定理、
W・ハイゼンベルグの不確定性定理はある程度覚えた。相対性認識
論者の私の思想背景はこういうところです。でもプリコジンの複
雑系や散逸構造論にはまだアナロジーが過ぎると疑問がありますが
375 :
8 :2006/02/26(日) 01:08:14
>>374 の続き お笑いはラディカルさと思考スピードが速くなくて
は生き残れないと思っている。上方漫才は思考スピードは速いがラ
ディカルさが足りない傾向があるし、関東圏はラディカルな奴が比
較的いるが思考スピードが足りない傾向がある。この両立ができた
奴は有名になれるでしょう多分。綾小路きみまろなんかはとてもラ
ディカルだと思いますよ。
376 :
8 :2006/02/26(日) 01:36:49
そろそろ寝ます。おやすみなさい
おっちゃんやるな。
378 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 13:23:34
「相対性認識論」は造語ですか。 「相対性」はマッハから来ているのですね。 プリコジンの散逸構造論は熱力学で、アナロジーではないです。 カウフマンなどの複雑系はアナロジーが過ぎるかもしれませんが。
379 :
8 :2006/02/26(日) 13:46:58
>>378 うまく書けてなかった。申し訳ないw
熱力学としての散逸構造論でもって生命論を解こうとするところに
プリコジンの「無理」が出ていると言いたかった。生命現象はそれだ
けでなく、それでこそ身体に埋め込まれた「経済的共同体」を説明し
ようとしたところに補完される色々な神経化学とか生理学とかをもっ
と包括的に捕らえなおすべきだった。さらに動物行動学も。
380 :
8 :2006/02/26(日) 13:49:58
>>380 初代生命(LUCA)の発生を解く鍵になることは私も「混沌から
の秩序」を読んで直観したが、この自己組織化を複雑系やカオス理論
をもって解けるのかどうか…この辺が懐疑的でもっと包括的前提を置
き忘れている気がしてしょうがない
381 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 14:03:05
そこでルーマンのオートポイエーシスですよ。
382 :
8 :2006/02/26(日) 14:16:05
>>381 物理学は手当たり次第読んでるわけではなく、芋づる方式で
読んでるのでご説明のほどw
ヴァレラは物理学に近いかもしれないが、 ルーマンは社会学なので、物理学とは関係ないかもね。
384 :
8 :2006/02/26(日) 14:24:53
>>382 社会学部出身者なのに、社会学者の本が好きになれなかった私。
卒論だって現象学的身体論です。ルーマンと言われて誰それ?と思って
しまった私は異端者ですねw
385 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 14:50:18
>>379 複雑系で、ブリゴジンの散逸構造論はポイントですが、
ブリゴジンは直接、生命現象に言及していましたっけ?
ヴァレラのオートポイエーシスには神経系システムからきた、複雑系です。
河本によると
第二世代 自己組織化
段三世代 オートポイエーシス
ここでは、ルーマンがあまり関係ないかも。
386 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 15:07:07
>>379 プリコジンの散逸構造論は、自己組織化の物理的に証明された一現象で、
自己組織化は様々な複雑な形態が、アナロジー的に思考されています。
いわば、その一形態が神経化学から思考されたオートポイエーシス(自己産出)です。
一つだけ確認させてください。 第二世代までは物質現象を記述することはできたんですが、 生命現象になると無理が出て来たんですね。 そこで生命現象をあつかう第三世代システム理論が重要になってきたんです。
388 :
8 :2006/02/26(日) 15:13:37
389 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 15:17:52
一つだけ確認させてください。 生命現象になると無理がでるとは、自己産出性ですね。 第二世代までは、外部があり内部があった。そこに境界が発生する。 しかし第三世代は自ら内部、境界を産出する。 それでも第二、第三は河本的ですね。 第二自体まだよくわかっていないからです。
390 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 15:22:50
第二、第三の分類は河本的
391 :
池田構造主義科学論者 :2006/02/26(日) 15:31:17
>>390 たとえば、
生命体⊆オートポイエティック・システム⊆オートノミー・システム
という捕らえ方について妥当だと思われますか?
392 :
8 :2006/02/26(日) 15:34:09
>>386 生命内部の「生命時計」なる時間演算子を提出している
「存在から発展へ」
ここが極めて難解。どうも「カオスの縁」がこの辺らしく、時間を
秩序づける演算式が埋め込まれていることに示唆がある。生命現象を
置き忘れた社会科学は客観性の神話に結びつき、人間の集団としての
社会と個人の生理現象を無視した非個人的な結論に到達せざるを得な
い。個人の生理現象の集合は、社会の生理現象を反映していることは
明白。ここに自己組織化は集団現象にも適応できるとは思っている。
されどこれは、コミュニケーションとしての言語にキーワードがある
と思う。人間が他の生物と明白に分けているのはこの分節性のあるコ
ミュニケーションとしての言語、パロールではないかと直観している。
最近ダーウィンがいみじくも気がついていながら全く誰も考察され
なかった「喉頭器官」がある。
393 :
8 :2006/02/26(日) 15:44:41
>>393 喉頭つまり「のどちんこ」のことでこれが明確にサルと違う。
人間は食べ物を飲み込みながら息ができない。しかしサルはできる。
時々気管肢に詰らせ、咳き込んだ経験もある方もいるはずだが、どう
もこれが言語を話す際の分節化を可能にした要因らしいことまでは分
かってきた(なぜ?といわれてもいまのところ不明)
この分節化と言語は生命現象から考察されないと解けないし、集団
としての<共同幻想>を維持してるのは<言語圏>である。こういう
考察の仕方もありかとw
394 :
8 :2006/02/26(日) 15:54:52
<言語圏>をもっと象徴(シンボル)として包括的に捉えるという方法 もある。<言語圏>の他にR・ドーキンスは文化遺伝子(ミーム)は、 脳の中にあるニューロンに実在するものではないか(「延長された表現 型」)で述べているが、これを最近の用語で「クオリア」と言い変えて もいい。我々を日本人たらしめているのは<言語圏>という集合である がさらに分節化した個々の小共同体の説明ができない。志向される「何 か」を仮定する場合、色々な言い方で言い換えると浮かび上がってくる こともある。
395 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 16:08:42
>>392 >ここに自己組織化は集団現象にも適応できるとは思っている。
>されどこれは、コミュニケーションとしての言語にキーワードがある
>と思う。人間が他の生物と明白に分けているのはこの分節性のあるコ
>ミュニケーションとしての言語、パロールではないかと直観している。
これはもはや一般的な見解では?
ルーマンのシステム論しかり、様々な人類学しかり。
だたこの板には、生命現象と社会科学を素朴に短絡する人が多いですが、
「自然主義的な誤謬」には十分注意する必要があるでしょう。
396 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 16:22:55
>>394 ここでの<言語圏>はラカンの象徴界に近いのではないのでしょうか。
象徴界は本質的に主体の内面にある、それぞれのものです。
そして共有されているだろうことによって、あたかも統一された共同体が
存在するようにして、共同体自身が現れる。
最近はラカンはオートポイエーシス的に解析されたりしています。
397 :
8 :2006/02/26(日) 16:30:31
>>395 私は断言を避けている。なぜならそうアナロジーを感じるの
ももっと別の「何か」がそうさせている可能性だって否定してない。
それこそ脳のしくみが分かったからといって「総て」が分かると
は言っていない。還元主義に思われるもは最も嫌なのであえて付け
加えておきます。そもそも地球というガイアがあると「仮定」して
生物と重力の関係はまだ生命現象を説明するには全然不十分で、重
力が一体何なのかは物理学でまだ明確な答えも出ていない。重力と
いう現象を前に生命発生の<境界条件>を明示することは現時点で
はできない。
ヴェイユは重力にある<神>を感じていたのは全く根拠のないこ
とではなく、兄の数学者アンドレ・ヴェイユの影響で彼女は物理学
も結構知っていた。最新のアインシュタインの「相対性理論」と数
学に関する考察の興味深い考察もある(「科学について」)。
ここを徹底的に追い込みその上部階層(端緒)を志向して記述し
てこそようやく浮かび上がるものでしかないからだ。仮説を立てて
もそれが間違いであることは物理学の分野でも同じなのだから。
398 :
8 :2006/02/26(日) 16:37:43
>ここでの<言語圏>はラカンの象徴界に近いのではないのでしょうか そうですね、私はユングの物理的遺伝の難点を排除した「元型」という クオリア、集合的無意識はこのことと近いかもしれません。R・ドーキ ンスはミーム(文化的遺伝子)は脳内のニューロンに実在するのでは ないかと明確に示唆している(「延長された表現型」)がミームが文化 を伝播する表現型なのだとしたら、クオリアも現時点ではそうと考えら れている。
399 :
8 :2006/02/26(日) 16:45:13
>>398 の続き ユング批判としては物理的遺伝という難点があることを
除けば集合的無意識も<言語圏>≒象徴界とも言える。ただし、それが
脳内でどの様なプロセスをもって形成されるのかは現時点では全くわか
らないのですがw
>>397 で言った重力という<神>は「ガイア」という生命発生を条件づけ
る<境界条件>であるとシモーヌ・ヴェイユはおそらく言いたかったの
ではないか…。彼女の生涯は常に重力に縛られることで自分の臨界点を
追い詰める哲学だったと自分の中では解釈している。重力という<神>
は人間に何をさせたかったのか…そう感じていたのではないかと思いま
すね。
400 :
8 :2006/02/26(日) 16:51:53
>>397 の補足 R・ファインマンは哲学者の数学的神話と安易に物理現象
を記述していい気になっている理系学者の両方を批判していた。結局、
物理学は現時点で端緒の学問でしかないのに、それを客観的な<神>
とすりかえるが如きの短絡主義を批判していた。そのことを謙虚に受け
止めるべきでしょうね
401 :
池田構造主義科学論者 :2006/02/26(日) 17:00:45
ミームが脳に局在するという説は知りませんでしたね 私はミームは共時的、つまり縦のコミュニケーションと 通時的、つまり横のコミュニケーションのカップリングだと認識していました。
402 :
8 :2006/02/26(日) 17:06:23
>>398 メルロ=ポンティにしても「見えるもの見えないもの」で見え
るものにすべてあらわれる<境界条件>をひどく気にしていた。これ
は生命は満ち溢れている、手がかりはこの世界そのものだということ
につきる。しかし未完のまま亡くなってしまった。だからこれ以上の
言説は得られない。後期ヴィトゲンシュタインにしても「言語ゲーム」
ですでにコミュニケーションが成立する他者としての人間は気にして
いたが、残念なことにヴィトゲンシュタインにしてもここで完結して
いる。ここまでくると西洋的知がいささか邪魔になってくるときもあ
るが、まだ私は現時点でふんばってるw
403 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 17:18:59
ようは人間と動物、精神と身体の断絶の問題ですね。 それを<言語圏>、<ミーム>、<クオリア>で 繋ごうとする。ここに心身(心脳)問題があります。 すなわちこの「断絶」にセンシティブでなければならない。 とうことですね。 ヴィトゲンシュタインにしても「言語ゲーム」の成立に、 クリプキ、デイビットソンなどは「共同体」を想定しました。 これはラカンの象徴界に繋がりますが、これは明確なあるものでなく、 神性(人々が共同体があるという信じること)によって保証される。 あるいは、ラカンは「性関係は存在しない」といいまいた。 人間は動物のようにアプリオリな生殖のための性関係を 持つことはできない。
404 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 17:20:31
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」
405 :
8 :2006/02/26(日) 17:24:02
>>401 「利己的遺伝子」の方が有名で「延長された表現型」でこの言説
があるのを忘れられているがこれは「事実」書かれていました。
「脳がシナプスの結合様式として情報を保存しているとすると、ミーム
は原理的にはシナプス構造の明確に決まった様式(パターン)として顕
微鏡下で見ることができるはずである。また、脳が情報を「散らばせた」
かたちで保存しているとすると、ミームは顕微鏡のスライド上には局在
しないことになるが、それでもなお、ミームを脳のなかなかに物理的に
に定住するものと私は考えたい」(「延長された表現型」p212)
この頃(1982年)はCTやMRIなど実用化には厳しい状況だったので、顕微
鏡という発言は許されると思うが、明確に言っています。
406 :
池田構造主義科学論者 :2006/02/26(日) 17:33:17
なるほど だからネオ・ダーウィニストのドキュンスは馬鹿にされていたんですね たしか無責任な言いっ放しの後は、ミームについて言及してないですよね?
407 :
8 :2006/02/26(日) 17:35:24
>すなわちこの「断絶」にセンシティブでなければならない。 とうことですね。 そうです。この底のしれない「断絶」、クレバスが横たわっている >あるいは、ラカンは「性関係は存在しない」といいまいた。 >人間は動物のようにアプリオリな生殖のための性関係を >持つことはできない。 その辺はバタイユの言説でも明解で、性の<形式>がどう見ても動物の それとは違う。ラカンはネオテニー(幼形進化)の説を気にしていた。 どうして人間はネオテニーが起こったかはまだわかりません。しかし、 このことによって人間の育児期間が格段に延長されてしまった。 文化人類学の成果でどうも人間の育児は小規模の共同体の中で子供を 養育する様な<機能性>の面影がある。実際子育ては老人が孫を育てた 方が精神も安定して成長する「事実」があるが、<何か>が共同体のバ ランスを崩壊させてしまった。これが文明人の末路と思われる。
408 :
8 :2006/02/26(日) 17:37:52
>>406 この頃の<限界>=<カオスの縁>だったのだと思いますねw
409 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 17:45:33
ラカンはネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。 人間は早熟で生まれ、統一した自我を持たないために、 生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。 それは人間がそのはじめから自分が他者へと疎外されている。 それを取り戻すために、欲望は他者の欲望である。 ここに他者との「断絶」があります。
410 :
8 :2006/02/26(日) 17:47:31
411 :
8 :2006/02/26(日) 17:57:11
>>409 ラカンの説がどこから仕入れたかはあまり気にしてなかったが
鏡像段階がいかにして起こるか、
>>410 の説もひどく気になっているが
買うのもちょっとww
統一した自我を持てなくなった「原因」でこれだって言えるにはあま
りに
>>410 を決め付けるには厳しいかもしれないが、人間が先天的に精
神分裂を持って生れてきているのではないか、というのはラカンは、
「エクリV」の中で過剰なリビドー(欲望)がはみ出しているグラフか
らも明らかではないかと思われる。こう来るとバタイユの<過剰>とか
エロディシズムというキーワードも気になってきます。
412 :
8 :2006/02/26(日) 18:01:40
>>411 の続き ただ私は逆にパラノイア(偏執症)になることもありう
るし、精神分裂だからと言い切れるか、決め付けるわけにはいけない。
これでは実体論になってしまう。ただここでバタイユの<過剰>を持
ち出すまでもなく欲望のエネルギーが「シニフィアン連鎖」からはみ
出している、ここに問題の<中心>が見えてくる。
413 :
8 :2006/02/26(日) 18:04:11
>>413 ここでようやく進化論からの大きな<脱線>がありましたが、
<中心>が見えてきた気がしますがどうですか?
414 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 18:26:47
>>413 精神分析的な、パラノ/スキゾ(神性症/精神病)は、オディプス/アンチオディプスと
いうことでしょ。精神分析では、人間はみな神経症です。それは、社会的な去勢
(オディプス・コンプレックス)によるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、
「死の欲動」(フロイトの快感原則の彼岸)と言われます。
ラカンでは精神病は、象徴界の排除と考えられますが、ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」も、
それに繋がります。去勢以前に人間には原初的な器質的な欲動(生の欲動)がある。
ドゥルーズの「器官なき身体」は病気ではなく、去勢される前の力ですね。
ここでは、死/生が断絶があります。そしてここに戻ります。
>ようは人間と動物、精神と身体の断絶の問題ですね。
>それを<言語圏>、<ミーム>、<クオリア>で
>繋ごうとする。ここに心身(心脳)問題があります。
心身(心脳)問題=人間/動物、精神/身体、死/生
これは、人間の倫理的ものも含め、西洋哲学が維持している断絶です。
そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析にもあります。
これに対抗するのが、進化論の系統ですね。進化という連続性が「断絶」を解体する。
だからダーウィンは進化論の公表に尻込みし、そして大きな社会的な問題になった。
科学は進化論の系統にあります。認知科学、心理学。
科学では唯一、精神分析が「断絶」と継承しています。
415 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 18:40:06
この「断絶」の本質は、1回性(唯一性)と反復性です。 すなわち動物とは違う人間、身体に還元されない精神とは、「この私」という代替のない 1回性です。 科学は、本質的に反証可能性という還元主義的ですね。 たとえば心理学でも人間の1回性を扱うのでなく、統計学的に行動をあつかう。 統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。たとえば身体に ついて、同じ身体が多数存在していることから、医学、認知科学は成立する。 しかし精神は、代替がきかない、そして同じものはなく、ただ一つなのです。 精神分析はなぜ精神分析学ではないのか。人間を扱うと言うことは、 一人一人、1回1回が唯一なのです。 だからラカンのネオテニー(幼形進化)はあまり重要ではない。いわば、「断絶」が 先にあり、後付けなのです。(笑) そして科学は唯一性を扱うことができない。「この私」と扱えない。 そして科学が人間を扱うときに、「この私」を多くのうちの一人に抑圧する。 このことにセンシティブでなければならない、ということですね。
416 :
8 :2006/02/26(日) 18:44:35
>>414 ダーウィンの人間とサルの「断絶」を進化論における自然淘汰で説明が
つくのかはいまだにホットな議論ではあります。遺伝子の98.8%がチンパンジ
ーと同じなわけでどう考えてもこれだけでは説明がつかない。
それこそこれほどのサルとの差異があることは遺伝子では説明のつかない現
象が数多く横たわっている。遺伝子レベルではアフリカでたった一人の女性の
遺伝子(通称イブと呼ばれている)から人間は発生しているといわれているが
どう考えてもこれはおかしい。考古学的物証が挙がらない限りこの議論は終わ
らないと思われる。
唯一の<手がかり>は脳という問題。ぴか〜さんとそこで一致してくるわけ
で、私もかなり回り道をしたけれど問題はそこに潜んでいると思います。
417 :
8 :2006/02/26(日) 19:02:51
>だからラカンのネオテニー(幼形進化)はあまり重要ではない。いわば、「断絶」が 先にあり、後付けなのです。(笑) 問題はその<背後>でしょうね。何ゆえそうなったか…
418 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 19:09:03
ついでなので、続けます。この象徴界(科学大系も含めて言説、あるいは社会)には 穴があります。ゲーテルの不完全性定理の消失点(断絶)、自己言及という「この私とはなにか」に 答えられない。そして逆説的にこの答えられないことが、「この私」の存在を支えている。 たとえば、ハイデガーではこの切れ目からの「良心の呼び声」によって、現存在の 唯一性が支えられる。そしてラカンでは、対象aあるいはファルスですね。 象徴界から現実界へ開いた穴。 たとえば、八さんにしろボクにしろ、懸命に統一した世界像を造ろうとしています。 しかしその世界像は失敗する、なぜなら、世界像をつくろうとする八さんの唯一性、 「この私は誰か」という穴はふさがらない。 すなわち、この世界像の形成が、「この私は誰か」という穴を塞ごうする欲望、 神経症的な所作である、ということです。 この「断絶」の本質(恐ろしさ)はここにあります。ラカン的には、「メタ言語は存在しない」。 誰も俯瞰した、メタになった世界像を組み立てられない。八さんも、ボクも その一部である、ということですね。
419 :
8 :2006/02/26(日) 19:14:50
>>417 の続き
大学の専門分化の<制度>の中では中々こういう議論が出てこないw
もっとも<創造的>かつセンシティブな超領野的に見てこないとまった
くわからない迷路に迷い込むばかりだ。この、認識論=存在論の問題に
ついてはいかがでしょうか?科学的知の問題、村上陽一郎は文化の科学
というものの実在を指摘している。複雑系で一時期、カオスの縁を<創
発>と言っていたがもともとこれはマイケル・ポランニーの用語だった。
私はアナロジーが過ぎると思っているが、認識の中に存在の<手がかり>
があるとは考えてます。ここでようやく「哲学」的な問題に立ち戻るわ
けですが、そもそも<知>とはなんなのかと
420 :
8 :2006/02/26(日) 19:18:21
>>418 そうです。統一的に捕らえようとする欲望がそうさせているとし
か言いようがないのですがw 普通の人間はここらで納得するんですねw
421 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 19:27:12
>>415 ぴかちゃん。
>統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。
なぜそう思うの?
それはfrequentistの立場で、Bayesianは違うよ。
でね、このごろは機械学習でもBayesianが主流になってるよ。
オートポーシスオートサンオトサンオカネアルカイイオンナイルヨ。
422 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 19:30:54
>>421 ベイズ理論ですか。どのように違うかもう少し説明願います。
423 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 19:37:22
>>422 ぴかちゃん。
「ベイズ理論」とゆーコトバで言われるのはね、もっと狭いの
だけどね。Bayesianでは確率を「信念」として考えるのだよ。
だから、分布のパラメータも確率変数になるのだよね。
でもでも、今でもfrequentist vs, Bayesianでセッションが
できちゃうのだけどね。
オートポーシスオートサンオトサンオカネアルカイイオンナイルヨ。
424 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 19:47:11
>>423 エセとはいいませんが、残念ながら、末端議論ですね。
本論とはあまり関係がないと思いますよ。
425 :
池田構造主義科学論者 :2006/02/26(日) 19:49:23
いろいろ突っ込みどころがありすぎて突っ込む気にさえなりませんが、一点だけ。 条件付け確率は不確実性を未来のわからなさではなく 情報・知識不足によるわからなさと捕らえます 既に事は決定しているが、知らないから不確実なんだと。 ですから、この時の確率は主観的なものになります 未来は誰にたいしても開かれ、客観的なものでありますが 情報・知識不足は個人差があり、その意味では主観的なのです そして、ベイズの逆確率ですが これは結果から原因を逆に推定していく構造です 不確実性の出来事に直面した時に複数の要因を想定した場合 そのどれが真の原因なのかを推定しようというものです 数式ははしょりますが、情報の蓄積とともに 主観が変化していくさまを表現したモデルになっております
426 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 19:58:16
>>425 勉強会込みですから、
どんどん突っ込んじゃってください。(笑)
∧_● (・∀・∩)<ラッキーこんな所にウンコーが落ちてる (つ J / ヽ ノ し (.....)
428 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 20:27:48
>>ぴかちゃん、ハチさん、こんにちは。 でね、脳の神経細胞は入力が入ってくるとビビビビビ〜〜とね 出力を出すのだけど、同じ入力にはいつも同じではなくてね、 「確率的」に振舞っちゃうの。そこで、いまではBayesianで 解析してやろうというのが主流みたいだよ。イギリスのケンブリッジ なんか「極真総本部」みたいだよ。でも茂木さんは セクシーではないと言って嫌いみたいだけど。
429 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 20:35:32
>>424 ぴかちゃん。
たとえばね、ケンブリッジのDavid MacKayさんのホームページを
見てごらん。これはね、「マッケイ」と読むのではないよ。
「マッカイ」とね読まないとね。
>>425 これは、ベイズの定理でBayesianのごくごく一部だよね。
コクゴクゴックンアーオイシカッタ。
430 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 20:41:24
まとめ: 社会思想が脳理論に迫ってきている。例えばデイビッドソンは「心」を 脳の神経細胞に帰着させよーとした。 したがって、脳の解明が理科系だけでなく重要である。 現在は脳の数理的な解明はBayesianでアプローチするのが主流である。 オートポーシスオートサンオトサンオカネアルカイイオンナイルヨ。
>>428 突っ込みどころ満載ですが一点だけ
「セクシーじゃない」の前には
池上高志風に言うとを必ず付けてください
ルールです
432 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 20:50:18
>>431 レスありがとうございます。
でもねえ、>425の説明を読むとねえ。
(わかっちゃうものもあるのだよね)
433 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 20:55:00
>>430 認知科学も終わったと言われつつ、オーポエブームも去りつつあり、
ベイズブームが来るかどうかですね。
「ニューロン」「クオリア」「オーポエ」「ベイズ」
ここにあるのは、まさに「断絶」であり、否定神学ですね。
何ができるか、でしょうね。
434 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 21:01:23
>>431 まあ、私にとってはどうでもいいのだけどね。
親切心から。
>突っ込みどころ満載ですが一点だけ
こーゆーレトリックは使わない方が良いと思うよ。
皆見ているからね。
オートポーシスオートサンオトサンオカネアルカイイオンナイルヨ。
>>433 断絶というのは河本氏の言う
存在の裂け目と若干違いがあるかも知れませんが
その裂け目をいかにしてつなぐ=カップリングしていくかが課題なんでしょう
436 :
8 :2006/02/26(日) 21:06:26
>>428 その「確率的」ってのがどこまでの言っているのかが極めて怪
しいけど、身体からのフィードバックや思惟がいつも同じ様に考えてい
るわけではないですからね、 その説を極端化すると脳機能局在が成立し
ないことになってしまう。
何たって新陳代謝や身体機能の<統合形式>ではあっても部分の総和は
全体にならず、全体は部分の総和以上になりますからw
今のところは過渡的にしかお答えできません。
ちょっと考えさせて…議論して脳がバクハツしそうでw
>>420 の続き
「知」の迷宮に迷い込まずに今のところは「整理」が必要でしょう
まあ、すぐ「結論」を急ぐ<私>も怪しいものだと思いますw
今日のところはここらで落ちようと思います。ここまで議論出来たことに
感謝します。また必要とあらばお呼び下さいw 質問・ご意見あればカキコ
して下さい。覗いてみてまた研究してまいりますw
437 :
考える名無しさん :2006/02/26(日) 21:08:56
>>433 ぴかちゃん、こんにちは。レスありがとうございます。
(私も暇だなあ。逃げていたりして)
>ベイズブームが来るかどうかですね。
確かでない物事を扱うのに、デンプスター&シェイファーとかいろいろ
あったのですが、結局、Bayesで扱うのが理論的に唯一の方法です。
だから、「Bayesで脳を知ろう」でよくてこれはブームでないのだけど、
>否定神学ですね。
結局、メタフィジックスはなくなってしまうのかなあ?
>>434 あなたのような自己の主張に乏しく他人の発言まかせで
いつでも逃げられる位置にいる人を相手にしても無駄ですから
439 :
こて :2006/02/26(日) 21:22:39
やっぱコテつけないとね。
440 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 21:29:04
>>435 オーポエのカップリングも意味が広いですが、
心身問題をクリアーできるのか、ということですね。
おそらくこれだけでは難しい、と思います。
>>437 グーグル、ヤフなど、ベイズばやりですね。
なにができるか、ということだと思います。
もう少しその可能性を語ってもらえると、ありがたいですが。
>>437 氏にはキツいことを言ってしまいましたが
氏はいつもそれらしいことだけ言うだけで言葉たらずなんですね
ですから、「じゃあ何?」の部分が無いんです
私の知らない分野に詳しそうなんでそこらへん突っ込んで語ってみてください
まずは、私が書いたベイズ理論での不備について書いてみてください
442 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 21:41:32
おじゃまします。個人的なまとめに入ります。 ご迷惑でも、これがボクのスタイルなので・・・(笑) ■「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く 精神と身体の「断絶」 ラカンのネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。人間は早熟で生まれ、統一した 自我を持たないために、生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。これに よって人間はそのはじめから自分を他者へと疎外されている。そしてそれを取り戻すために、欲望は 他者の欲望である。ここに他者との「断絶」があります。そして、動物と人間の断絶があります。 さらにラディカルには、ラカンは「性関係は存在しない」といいました。人間は動物のようにアプリオリな 生殖のための性関係を持つことはできない。 また精神分析的な、パラノ/スキゾ(神性症/精神病)は、オディプス/アンチオディプスということ でしょ。精神分析では、人間はみな神経症です。それは、社会的な去勢(オディプス・コンプレックス)に よるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、「死の欲動」(フロイトの「快感原則の彼岸」)と 言われます。
443 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 21:42:23
ラカンでは精神病は、父の名(象徴界)の排除と考えられます。ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」も、 それに繋がります。去勢以前に人間には原初的な器質的な欲動(生の欲動)がある。ドゥルーズの 「器官なき身体」は精神病という病気ではなく、去勢される前の本当の生命の力ですね。ここには、 死/生が断絶があります。 精神と身体、人間と動物、死と生の「断絶」の問題です。それを「象徴界」、「ミーム」、「クオリア」などで 繋ごうとする。ここに心身(心脳)問題があります。これは、人間の倫理的ものも含め、西洋哲学が 維持している「断絶」です。そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析も 同じ「断絶」を維持しています。 これに対抗するのが、進化論の系統です。進化という連続性が「断絶」を解体する。だからダーウィン は進化論の公表に尻込みし、そして公表によって大きな社会的な問題になった。科学は進化論の 系統にあります。認知科学、心理学。科学では唯一、精神分析が「断絶」と継承しています。
444 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 21:43:14
「断絶」による唯一性 この「断絶」の本質は、1回性(唯一性)と反復性です。動物とは違う人間、身体に還元されない精神、 私だけが引き受ける一回性としての死とは、「この私」という代替のない一回性です。科学は、本質的 に反証可能性という還元主義的です。たとえば心理学でも人間の1回性を扱うのでなく、統計学的に 行動をあつかう。統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。たとえば身体に ついて、同じ身体が多数存在していることから、医学、認知科学は成立する。 しかし精神は、代替がきかない、そして同じものはなく、ただ一つなのです。精神分析はなぜ 精神分析学ではないのか。人間を扱うと言うことは、一人一人、1回1回が唯一なのです。そして 科学は唯一性を扱うことができない。「この私」と扱えない。そして科学が人間を扱うときに、「この私」を 多くのうちの一人に抑圧する。このことにセンシティブでなければならない、ということですね。
445 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 21:44:37
「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の成立に、クリプキ、デイビットソンなどは「共同体」を想定 しました。これはラカンの象徴界に繋がりますが、これは明確にある象徴界(社会)ではなく、神性 (人々が共同体があるという信じること)によって保証されています。 この象徴界(科学大系も含めて言説、あるいは社会)には穴があります。ゲーテルの不完全性定理の 消失点(断絶)、自己言及という「この私とはなにか」に答えられない。そして逆説的にこの答え られないことが、「この私」の存在を支えている。たとえば、ハイデガーではこの切れ目からの 「良心の呼び声」によって、現存在の唯一性が支えられる。そしてラカンでは、対象aあるいは ファルスです。象徴界から現実界へ開いた穴。これは否定神学システムと呼ばれます。 たとえば、みな懸命に統一した世界像を造ろうとしています。しかしその世界像は失敗する、なぜなら、 世界像をつくろうとする人の唯一性、「この私は誰か」という穴はふさがらない。ラカン的には、 「メタ言語は存在しない」。誰も俯瞰した、メタになった世界像を組み立てられない。ボクたちもその一部 である。ということです。 この世界像の形成は、「断絶」を越えたいという欲望、「この私は誰か」という穴を塞ごうする欲望 であり、それが神経症的な所作である。そしてこの「断絶」の本質(恐ろしさ)は、「断絶」塞ごうという 欲望が「断絶」を開くということです。
446 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 23:07:07
>>425 >そして、ベイズの逆確率ですが
>これは結果から原因を逆に推定していく構造です
このように考えるとベイズ論とはデータベース的ですね。
将来に起こることを事をいくつか想定し、それぞれの確率を計算する。
たとえば予測で言えば、創発があります。自己組織化などは、
カオスチックで初期条件によってなにが起こるかわからない。
最近のベイズブームは、グーグル、ヤフなどで活用されたことにあります。
特にグーグルは、ネット世界のすべての知を再編成しようとすると
豪語しています。
これは、ネット上の創発性、カオスチックな(カオスの縁的)動きを、
データベース的に管理しようとすることでしょう。
>>446 一つだけ確認させてください。
ベイズの本質は学習型だということです
つまり、統計と異なり、データが無かったり、
たった一つ段階の推定から始められるのです
そして、新しい情報が付加され蓄積していくたびに
確率が正確性を増して推移していきます
こうして、ベイズでは情報の蓄積とともに
統計と変わらない結論を導けるようになるのです
また、今までの情報を一から洗い直す必要もなく
最新の情報だけをアップデートしてゆけば
洗い直したのと同じ確率が導けるのです
448 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 09:59:11
>>447 本来、結果とは、不確実で、カオスチックで、自己組織的であるが、
ベイズでは、先にデーターベース化された結果が、学習によって、
事後的に確証されていくということですね。
統計ですから、概念的には反復によって起こる確率(仮にそれが複数回
繰り返された場合の確率)ということですね。
だから1回性のカオスチックで、自己組織的な結果は、排除される。
449 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:35:23
■「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く 精神と身体の「断絶」 ラカンのネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。人間は早熟で生まれ、統一した自我を 持たないために、生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。これによって 人間はそのはじめから自分を他者へと疎外されている。そしてそれを取り戻すために、他者の欲望を 欲望する。ここに他者との「断絶」があります。 そして、これはヘーゲル的な、「人間」という欲望する動物と「動物」という欲求する動物の断絶が あります。さらにラディカルには、ラカンは「性関係は存在しない」といいました。人間は動物のように アプリオリな生殖のための性関係を持つことはできない。 また精神分析では、人間はみな神経症である、と言われます。それは、社会的な去勢(オディプス・ コンプレックス)によるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、「死の欲動」(フロイトの「快感原則 の彼岸」)と言われます。
すいません誤爆です
451 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 16:29:43
ベイズを少し見ましたが、ここでいう主観とは心理主義の取り入れですね。 客観=功利主義からずれる人間の主観=心理主義 すなわち反復される主観であり、一回性ではない、ですね。
452 :
8 :2006/02/27(月) 17:01:23
453 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 17:35:20
>>451 「暗黙知」ですか、お待ちしています。
追記、張らせていただきます。
454 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 17:36:12
■否定神学システム=3項システム このような否定神学システムとは、外部から流入する不確実性をある一元的な意味へと変換し、 統一した世界像へと組み込むことによって、主体という自己同一性を維持するシステムであると、 考えることができる。ただこのような否定神学システムは、脳でも身体でもなく、位相的に存在する 主体の維持システムである。だから外部は、また身体外、脳外ではない。たとえば身体そのものは 外部である。 ラカン的には「現実界→解釈項(象徴界)→想像界」の図式になる。これは、パースの記号論の三項に 繋がると言われる。「断絶」の向こう現実界(外部)から内部へ進入するカオスティックな情報は、 解釈項としての象徴界(言語)によって変換され、想像界という統一した世界像としての「空想 (ファンタジー)」を形成する。そこではファルスとして自己同一性の空想も形成されることになる。 さらにラカンでは、「断絶」の向こうの現実界を享楽と呼ぶ。享楽はそれに近づくことによって主体が 崩壊するものであり、象徴界によって禁じられた(去勢された)ものである。そして禁じられている故に 欲望が目指される。しかし主体が崩壊する前に、空想化して、欲望は空想を追いかける。しかしそれは 満足を与えないために、欲望はトライし続ける。 たとえばこのようなシステムは人工知能でも再現可能のように思われる。しかし人工知能に欠けている のは、解釈項としての象徴界である。ラカンにおいて象徴界は大文字の他者との言われる。この変換 の正当性は信頼(神性)によって保証される。そして「欲望とは大文字の他者の欲望である」と言われる ように、欲望の対象であり、原因となる空想を想起し、象徴界を新陳代謝させるという自己組織的な システムである。
455 :
考える名無しさん :2006/02/27(月) 17:37:31
3項システムとオーポエとの関係性は?
110 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 12:32:21 しろうと嫌われてるなあ
457 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 19:31:07
>>455 3項システムとオーポエについては、いくつか言及がありますね。
斉藤環、河本、ホフマイヤー
内部オーポエ(想像界、象徴界)と外部オーポエ(現実界)の
カップリングみたいな感じになるのではないでしょうか。
458 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 19:33:39
「断絶」(切れ目)を介したカップリングみたいな感じになるのではないでしょうか。
腹抱えて笑いました。 かえって免疫力がつきました。 ありがとうございます
460 :
8 :2006/02/27(月) 20:09:58
参上しましたw 始めにお断りしますが、マイケル・ポランニーに関する私が思う難点 だけを申し上げておきます。されどこの難点はポランニーの理論のこと ではなく、実証性批判は一切ございません。 ポランニーは記述する際に層の理論がありますが、上部と下部は上に も下にもほぼ無限に広がりを見せるシステムとして論じております。し かし記述する際にそのレベルの混同が多く見受けられる部分があり、ち ょっと読みにくい部分が出る場合がある。この点のみです。 ちょうどこの本が出たての頃は批判と賛同の真っ二つで、西欧知に毒 される者からは拒絶が、賛同の方々は積極的に受け入れた。されどこの 本は言語的知(明示知)を否定しているわけではない。むしろ、非言語 知を忘れてはならず、その上で言語的知は成立しているといっているか らだ。一部では(特に竹田青嗣の批判例)構造主義的な読み込みしかで きない西欧知を前提としていると全く誤解する話になってくるので、あ らかじめお断りしておきます。ちなみに、この理論を批判することは、 自らの認知構造を否定することと同義語であることを申し上げておきま す。日本に発行されているマイケル・ポランニーに関する著書は全て読 んでます。その点は申し上げておきます。あと面白いことにマイケル・ ポランニーは<英語圏>と<日本>では受け入れられてますが、フラン スやドイツなどでは殆ど知られていない(私が知らないだけかもしれな いが)のも不思議な現象と思う。
461 :
8 :2006/02/27(月) 20:22:18
エイドスとヒュレー、現象と物自体、意識と無意識、深層と表層、のような二層構造ではなく、 無限に連なるシステムの階層として捉える発想はすばらしいね。
463 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 20:26:23
>マイケル・ ポランニーは<英語圏>と<日本>では受け入れられてますが、 >フランスやドイツなどでは殆ど知られていない(私が知らないだけかもしれな >いが)のも不思議な現象と思う。 当然のような気がします。フロイトのぶつかるのでは。
464 :
考える名無しさん :2006/02/27(月) 20:28:54
>>447 気にするなよ。君は文系だね。
Bayesについて本当に理解したいなら、灯台出版会から入門書がでてるよ。
お礼にはおよばないよ。
>>464 もしかして、繁枡の?
でw?
自分の力で表現してごらん
生徒たちが纏めた一般言語学講義でシニフィエ-シニフィアン、言語の恣意性なんてものが注目されたものだから、 ソシュールも二層構造連中の仲間と思われがちだけど、アナグラム研究をしていたという事実から言って、 彼もポランニーのように、上部と下部の無限の連なりと、上下のフィードバックは想定していて、 あくまで各階層のシステムとしての独立性についてだけ講義で語ったということなんではないのかと思う。
467 :
8 :2006/02/27(月) 20:44:50
>>461 「創発」という用語はマイケル・ポランニーが始めて提唱した
用語であることは前に書きましたが、これを生命論として提唱したのが
ポランニーが始めてだった。生物が自己組織化的運動の中に非生命シス
テムの境界条件を制御する上位レベルとその制限を受ける下位のレベル
の関係がある。この上位レベルが行う制御を周縁制御の原理と呼んだ。
当時はこれを批判する向きもあったがどうも認知システム(大脳・身
体)もこの構造が埋め込まれており、単なるアナロジーで済まないもの
いや生命の根源に関わる問題であるとようやく知られる様になってきた。
この<包括的存在>を確立することを、非生命的存在からの生命の創発
(Emergence)と呼んだ。これが複雑系の理論の端緒となり、カオス理論
にシフトする形で広がり始めたわけではあるが、この理論は現在の物理
学・化学、認知科学などで知れ渡っている。
また大脳生理学の分野でも幻視の治療に認知のメカニズムに「潜入」
し独自の「鏡箱」を提唱したラマチャンドランも彼の影響が大きいこと
を洩らしている。意外と彼の本を「流行」の産物が如き読み方をする人
が多いことは残念であるが、「創発」という現象は大脳生理学のクオリ
ア出現の問題でもあるらしく、大脳の中が階層構造であったり、彼の示
唆した内容を本気で考えていた人は当時は栗本慎一郎だけだったが、い
ずれにしても私にとっても大きな影響を受けたことは正直なところです。
468 :
8 :2006/02/27(月) 21:01:52
>>463 フロイトの言説に囚われているのは正直悲しいかな…。
医学の臨床結果を持っても否定は出来ないんですが、恐らくこの理論
を認知の「外部」が如き読み込みをする誤解があるがこれは間違い。
これは「知る」ということが生命発生の境界発生から創発して上部の
システムへシフトするのは進化論の分野も見逃している「力」の構造
であり彼はそう<信じた>。
>>466 ソシュールから離れている様で実は言語発生の仕組みを論じる
為にすごい回り道をしてますが、このシステムは知ること=在ることは
同じことであると断言してます。認知のメカニズムが大脳生理学の成果
を調べても彼のいわんとするところが決してアナロジーではなく「事実」
を語っていることが始めてこの本を読んでから10年たってわかった。
彼は個人的(これからは人格的と読み替えます)なものを置き忘れた
道徳完全主義・科学客観主義を批判し、「信じること」「責任をもつこ
と」についての再提起を行った。一部では宗教的言説がうっとうしいと
馬鹿な日本人らしい拒絶があるが、今の人文科学における人格的拒否の
客観的言説が「無責任」と同義語であることは今更いうまでもない。
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 21:14:02
>>468 フロイトを知った文化では、インパクトが少ない、ということです。
言語化できない「知」=無意識、言語化できる「知」=前意識、あるいは超自我
システム論自体は古い概念ですからね。
カントでもすでに生命を有機構成(オーガニゼイション)として説明していた。
ベルクソン、ベルタランフィなど、生命について考察多々あり、
自己組織化(セルフオーガニゼイション)をポランニーの発明のようなことは、
無理がありますね。
ボクの印象では、「創発」「暗黙値」という日本で言葉が流行りましたが、
それは、ビジネス、ノンフィクションサイエンス系など文系の書物でしたね。
正直、システム論関連で、ポランニーは聞いたことがない。(笑)
>>468 そうですね。
俺は良く知らないが、ぴかぁ〜が、マルクス、フロイト、ソシュールの相似性について語ったフランス人がいた、
と紹介していたが、それもやはりフロイトにとらわれ過ぎた見方の一例なのではないかとおもう。
ソシュール、ハイデガー、ポランニー、ケストラーは、
システム論的「人格」主義とでも言うようなものを見据えた人たちだろうとおもう。
>>463 極端な言い方をすれば、フランス人はポランニーが読み取れない、
ドイツ人はハイデガーで間に合っていた、そんなところじゃないですかね。
471 :
8 :2006/02/27(月) 21:20:12
>>468 の続き すでに大脳生理学で言語発生の条件がソシュールの言説
とかなり一致しており、関係を構築する、ニューロンの刺激を受けない
細胞は「無い=存在しない」のと同じということは非常に重要なことで
ある。
ところでスワヒリ語で「釘をたたく」ことを「ンドンドンド」と言う
らしい。音の円環からアナグラムで相対的関係でいけば「ドンドンドン
」になるし、ソシュールの言説はかなり先見性があったと言ってよい。
しかるに他者を知ることは、自己を投出=潜入することであり、自己
を持って他者を理解するわけであるから極めて危険な行為である。しか
しこの身体≦精神の潜入がなければ自転車はおろか自動車にも乗れない
のだから。このことをメルロ=ポンティが論じようとしたことでフッサ
ールにはなかった論旨であった。従ってメルロ=ポンティにおける両義
性という概念も<カオスの縁>と言い換え、精神を上部レベル、身体を
下位のレベルと変えて読めば彼の論旨はすごくよくわかる。メルロ=ポ
ンティは知覚における身体と精神を並列的に記述したところに難点があ
るが、マイケル・ポランニーも彼からは影響を受けた。本国フランスで
は勿論こんな読み込みはされておらず、<論理的>つじつまが合わない
から放置プレイを決め込むありさまである。
人間には存在を規定する「知」と「外部」を両面持つが故に矛盾をか
かえることとなった。ポランニーもこの人間の可能性(ポテンシャル)
に正直悩んでおり、最後の授業では「神よ!」と言って締めくくったと
いう。
472 :
8 :2006/02/27(月) 21:34:30
>>469 「印象」で語ることは極めて危険ですからね。フタをあけるま
では現象学的還元(エポケー)するのが良いですね。フロイトは初めて
「外部」を語ったという意味では評価しているが、ユングはそれだけで
はないと批判した。つまりユングが志向していたのはこのことではない
かと思われる。従って「暗黙知」における無意識の探求に出た。従って
オカルト呼ばわりされているが、「内感」と呼ばれるポテンシャルが人
間を引き上げ、「不意の確証」に出会う。これは抽象論では無く、暗黙
知のメカニズムは恐らくに人間の「最後の砦」ではないかと思われる。
これが崩壊すれば狂気が心を蝕み論理構造も崩壊するであろう。
>>470 その臨界点で「創発」もあると思われるが、今のところ私もこの
理論に「確信」が持つのに10年かかった。私は西欧知の<臨界点>は
「知っている」が言葉で表すのにはまた10年くらいかかりそうだw
急がばまわれですな、旦那。
474 :
8 :2006/02/27(月) 21:41:55
>>472 の続き 古い新しいという色分けも危険かもしれないですね。
「新しい」という「古い」言い回しには正直飽き飽きしている私ですが
回り道も確証が得られる一つの方法ですから。ポランニーもアインシュ
タインが16歳の頃にすでに相対性理論の内感があったと、アインシュタ
インに手紙を出して立証したという。つまり言語で語るのにその<手が
かり>への、<潜入>によってその理論に到達するのはそれから何十年
も後なわけであるから私はぴか〜さんにがんばって欲しいと思いますが
ねw
475 :
8 :2006/02/27(月) 21:47:23
>>474 の続き 勿論紆余曲折あって間違いが発見される危険性もある。
だからこそ世界探索の道具創りに勤しんでいる現代の西欧知すらも、
一時確信を保留して経験の中から「実感」そして「確信」が得られる
わけですから、古い言い方ではありますが「失敗を恐れてはならない」
わけですよ。アインシュタインにしてもエーテル風があると思ってい
たし、それが間違いであると突き詰める段階で分かってきたわけですか
ら。
え?今日はこういう終わり方なの?
477 :
8 :2006/02/27(月) 22:18:06
>>476 まさか、ここからが長いw突き詰めると暗黙知と外部の連関が
如何に分離しているか、いやぴか〜さんの言い方で「断絶」という問題
がある。ポランニーもなぜ「分離」しているのかには正直悩んだ。
おそらくそれぞれが全く人間の意識でもって規定が不可能な領域という
意味では共通しているのではあるが直観と想像力の縁が揺らげば精神病
に至るという「爆弾」も持っている。問題はここである。つまり暗黙知
が「人間の最後の砦」という点は断言できるが、人間は内部に「外部」
が埋め込まれている。従ってここを如何に規定しうるかということにな
る。「理性」では恐らく無理ではないかとは考えている。
478 :
8 :2006/02/27(月) 22:24:53
>>477 直観と想像力を分かつ言説がまだない以上、西欧知の可能性も
ないこともないが、これだけでは不足なのは事実。それこそ、大脳の
構造をしっかり調べ<精神分析>との折り合いを規定してこないこと
には大変危険であると思われる。精神病の多くが薬物療法で改善が見
込まれるからと言って決してそれだけではなくまだ<未知の領域>が
横たわっているのもまた事実。さらに認知障害という問題が一体どこ
までを言う言説なのかという、フーコーが言っていた狂気の問題もあ
る。ここはかなりセンシティブな問題です。それこそサヴァン症候群
の様な問題もあり<制度>の問題は全然かたづいてないからです。
479 :
8 :2006/02/27(月) 22:34:02
>>478 の続き 西欧的知はジレンマに陥っている。このことは認めない
と話が進まない。しかるにそこで再規定しなおすことが迫られている。
<知>と<外部>の問題は極めて綱渡りであり、社会学の多くが無責任
な言説の虜になっているし、現代の客観信仰は問い直されないといけな
い。だからといって科学的知が世界を説明になっているというある意味
恐ろしい言説が無矛盾であるのか、それこそ<神>に聞かないと分から
ないかもしれないがwだからといって信頼にたるしろものなのかどうか
これまた極めてナーバスです。この点について詰めていかないといけな
いのではないでしょうか?
480 :
8 :2006/02/27(月) 22:38:59
>>479 の続き バタイユは西欧における<神=外部>にかなりしつこい
追求をした。私はその知は脱構築では哲学というものを解体は無理と
思っている。この点においてはデリダを批判しないといけないが、言説
の虜になるか言説は信頼に足りうるか、<未来>に保障がない以上、こ
のジレンマを如何に脱出しうるのかはやはり問われないと思いますが
どうですか?
ぴかあさん まとめて
ぴかぁ〜には無理です。
483 :
8 :2006/02/27(月) 22:56:40
今日のところは明日早朝から出張で、仕事の関係で早く寝たいので よろしくお願いします。意見・質問・疑問点あればカキコよろしく お願いします。
484 :
考える名無しさん :2006/02/27(月) 22:59:03
8は誰の哲学をベースに話を進めたいんだ?
>全く人間の意識でもって規定が不可能な領域 絶対に規定(理解)不可能な領域がある、とポランニーは言っているのですか? 「内部に埋め込まれた外部」とはどういうものなのですか? 「領域」というように範囲が限定されるならば、 あくまでそれは、我々が自己の身体から発して段階的に、 あるいは、別の説明の次元へと意識が移されることによって可能なんじゃないですか? ただ、いかなるものにも限界があるので、「すべてを」「同時に」意識することは不可能であり、 常に意識されたものの背後に意識されていないものがあるとは言えます。 それだけのことではないのですか? 人間が理性によって「外部」(未規定なもの?)を規定し尽くすことができない、 というのは、人間の理性にも限界があるはずなので、その通りでしょう。 しかし、仮に「暗黙知」が非理性的なものであるとして、 暗黙知によっても、もちろん同様に、規定しつくすことなどはできないはずです。 ですから、「すべてを規定しつくす方法はないのか?」という問いの立て方には、 不毛なものを感じます。 「断絶」というのは、上位のシステムと下位のシステムがなぜ別のものであるのか、 なぜ上位下位といった階層の連鎖が形成されるのかということでしょうか?
ようするに進化だろ。 動物的な瞬間の反射活動の低次回路や人間的な思考活動の高次回路の違いですね。
487 :
8 :2006/02/27(月) 23:39:04
>>485 寝る前にレスがあったので最後に付け加えておきます。ポランニー
は「全く人間の意識でもって規定が不可能な領域」というのはあると「個人的
知識」でいっております。特に最後の章の苦しい発言は彼の正直な告白でしょう。
それこそ宇宙そのものであり、<神>とも言えるのかもしれません。
二番目の質問にはそうとしか言えません。なぜではなく「そう」だからです。
(この辺は「暗黙知の次元」「個人的知識」を読んでいただきたい)
三番目の質問はそうですが自立的に同時に統合を行っている暗黙知は意識の上
に上らないだけで「ほぼ」「同時に」包括的存在を形成しているとしかいえない
からです。この辺は今の私でもわかりません。
私はすべてを規定しつくす方法はないのか?という言い方には語弊があった
のは認めます。常に端緒を更新することでしかありえないからで、されど信じる
ことを置き忘れるから「不毛に」感じるに過ぎないのです。
最後の質問こそ議論されてしかるべきでしょう。私も煮詰めたいw
「私」が「すべての答え」を持ってるなら悩まず議論しませんからw
488 :
8 :2006/02/27(月) 23:43:04
>>484 ポランニーが私のベースにはありますが、それこそ「すべて」
ではないですよ。「私」の中では「どれどれ」等といったことではな
く「有機的」に溶け合っていますので「どれ」と言われると困りますw
489 :
8 :2006/02/27(月) 23:43:44
たまたまあたった語源学系のサイトは知的外外延収拾としては 参考になったが 次逝け。 ああ、平和・・・。
491 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 00:34:58
八さんは、ポランニー、ラマチャンドラン、栗本慎一郎、ソシュール、メルロ=ポンティ、ユング、
バタイユ、デリダ、フーコーとアクロバティックですね。ボクなりに、まとめるてみます。
キーワードはボクがいう(精神と身体の)内部と外部の「断絶」ですね。
>>462 さんが二層構造といっていますが、たとえばカントの現象と物自体では、
現象とは人間が認識する内部であり、現実(リアリティ)であり、物自体は人間が認識できない外部
です。そこには「断絶」があるのです。そして構造主義は、「断絶」の近辺にある第三項である
「無意識」を発見したのです。だからこの「断絶」がいかに繋がれるか、ということがこのスレの議論
の論点です。
たとえばボクは、
>>454 で否定神学システムによって、内部と外部のあり方を説明しました。
>このような否定神学システムとは、外部から流入する不確実性をある一元的な意味へと変換し、
>統一した世界像(内部)へと組み込むことによって、主体という自己同一性を維持するシステム
>であると、 考えることができる。
>ただこのような否定神学システムは、脳でも身体でもなく、位相的に存在する
>主体の維持システムである。だから外部は、また身体外、脳外ではない。たとえば身体そのものは
>外部である。
492 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 00:39:52
特にここで、ボクはラカンを元に、内部を中心に、構造主義的(無意識=象徴界)に語ました。
そして外部は身体、そして不確実性としてしか語りませんでした。
これは、西欧知?大陸哲学的には外部を語ることにストイックなのことです。
ここがフロイト=ラカンとユングを分けた点です。
たとえばフロイトは内部と外部の「断絶」、あるいは内部寄りに無意識をおきました。
子供ころに手に入れた内部が抑圧され、「断絶」を埋めているのが無意識という「知」です。
それに対して、ユングは無意識を拡張し、「元型」にいたります。これは、生まれる前からの
先天的な外部にある「知」です。
フロイトはまさにこの先天的な「知」においてユングを批判したのですが。
大陸哲学では外部に「知」はない。そこには「断絶」があるのです。
だからラカンは「性関係は存在しない」といいました。
>>442-445 に示しました。
>精神と身体、人間と動物、死と生の「断絶」の問題です。それを「象徴界」、「ミーム」、「クオリア」などで
>繋ごうとする。ここに心身(心脳)問題があります。これは、人間の倫理的ものも含め、西洋哲学が
>維持している「断絶」です。そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析も
>同じ「断絶」を維持しています。
>これに対抗するのが、進化論の系統です。進化という連続性が「断絶」を解体する。だからダーウィン
>は進化論の公表に尻込みし、そして公表によって大きな社会的な問題になった。科学は進化論の
>系統にあります。認知科学、心理学。科学では唯一、精神分析が「断絶」と継承しています。
493 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 00:42:22
しかし進化論系である、認知科学などは、この外部の「知」を語ります。 八さんのいうポランニーでは「言語的知(明示知)/非言語知」です。 たとえば、八さんの場合は、ポランニーによって、 >「知る」ということが生命発生の境界発生から創発して上部の >システムへシフトするのは進化論の分野も見逃している「力」の構造 >であり彼(ポランニー)は<信じた>。 上部/下部が内部/外部に相当します。そして外部をポランニーの場合は、 「進化論の分野も見逃している「力」の構造」=外部から内部への「力の構造」を 「暗黙知」、「創発」として示したのです。 >つまりユングが志向していたのはこのことではないかと思われる。従って「暗黙知」における >無意識の探求に出た。従ってオカルト呼ばわりされているが、「内感」と呼ばれるポテンシャルが >人間を引き上げ、「不意の確証」に出会う。これは抽象論では無く、暗黙知のメカニズムは恐らくに >人間の「最後の砦」ではないかと思われる。 >これが崩壊すれば狂気が心を蝕み論理構造も崩壊するであろう。 そして八さんは、構造主義的(ソシュール)、現象学的(ポンティ)の断絶部と、 ポランニー的、認知科学的な外部をつなげることが試みるのです。
494 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 00:42:59
>メルロ=ポンティにおける両義性という概念も<カオスの縁>と言い換え、 >精神を上部レベル、身体を下位のレベルと変えて読めば彼の論旨はすごくよくわかる。 >認知のメカニズムが大脳生理学の成果を調べても彼のいわんとするところが決して >アナロジーではなく「事実」を語っていることが始めてこの本を読んでから10年たってわかった。 >大脳生理学で言語発生の条件がソシュールの言説とかなり一致しており、関係を構築する、 >ニューロンの刺激を受けない細胞は「無い=存在しない」のと同じということは非常に >重要なことである。 >問題はここである。つまり暗黙知が「人間の最後の砦」という点は断言できるが、 >人間は内部に「外部」が埋め込まれている。従ってここを如何に規定しうるかということになる。
495 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 00:53:36
再度まとめると、 想像界(イメージ)+象徴界(言語)という内部と、現実界(身体)という認識外の 外部があり、「断絶」があります。動物では、象徴界(言語)はなく、内部と外部が繋がり「断絶」が ありません。しかし人間には「断絶」があり、それを埋める語りで、象徴界(言語)=無意識がある。 これが構造主義的な「人間」像です。 では外部(身体)とはどのようなもので、どのように繋がれ、断絶されているのか。それは進化論的に 動物的な人間として語られます。それは脳神経学であり、心理学であり、認知科学である。 八さんによると、外部の画期的な、極限的な、そしてオカルトチックな点に、ポランニーの「暗黙知」 がある、ということです。
496 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 01:02:18
問題は「断絶」です。人間と動物の断絶、精神と身体の断絶。 これはただ安易に、進化論的に連続性で語らないこと、 このセンシティブがもつことです。 八さんがポランニーを選んだのは、「断絶」にセンシティブであるための 微妙な位置、まだまだオカルトチックに取られかねない点ですね。
497 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 01:16:06
構図を書くと 内部(精神) 想像界(現象) 断絶 象徴界(言語、無意識) 外部(身体) 外部知、現実界(物自体) 断絶・・・構造主義、フロイト、ラカン 外部知・・・ポランニー、ユング 現実界(物自体)・・・脳神経学、認知科学 ・外部知の存在は証明されていない。オカルトとも言われる。 ・動物には断絶はない。
498 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 01:33:49
ボクがポランニーを良く知りませんが、 フロイト、ラカン派ですから、外部知の存在には、否定的ですね。 ピンカーやチョムスキーなどのように、脳(身体)=現実界(物自体)に 言語の原的な認識構造=あることを認識する存在認識はあると思いますが、 それが、暗黙知というところまで体系化されているとは思いません。 暗黙知なる知は、後天的な無意識で説明できるのではないでしょうか。
499 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 01:43:59
実は「暗黙知の次元」は持っているが、読んでない(笑)
500
哲学はなんでもないことをなんでもあるように大風呂敷を広げ迷子になるのがお得意ですから
502 :
8 :2006/02/28(火) 10:00:39
>>497 仕事の休憩時間の合間にw 少しぴか〜さん訂正下さい
栗本は暗黙知、ユング的な無意識領域を(先天的な)内知、暴走機関車の「欲
望」(欲求でなく)を外部(バタイユがエロティシズムと呼んだもの)と言い
ました。言語的知を外知と呼びました
この辺はキチンとご理解下さい。欲望としての外部、内知、外知は分かてお考
え下さい。
>実は「暗黙知の次元」は持っているが、読んでない(笑)
あるなら読んでくださいよ、変な偏向は持たずにw
503 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 10:37:37
呼び方はそれぞれですが、このスレでの分類は、以下のようになると思います。 内部・・・精神、後天的(アポステリオリ) →バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我、ラカンの象徴界 「断絶」 外部・・・身体、先天的(アプリオリ) →暗黙知、ユング的な無意識領域、ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界 薄い本なので読み始めました。構造主義前の本なのですね。 書かれた時代が重要だと思います。 認知科学の先駆けなのがわかりますが、今となっては、上述の分類での 内部知と外部知が混同されていると思います。
外部=系統的に運命づけられたハード機能 内部=固体的に獲得するソフト機能
505 :
8 :2006/02/28(火) 11:00:34
>>503 勿論難点があるところもあるが、正直この線引きもすごい難しい
と思っています。
思考が更新を続けなければならない理由は、徹底的に欲望支配の言説
が潜り込まずに知を獲得し、そこを詰めていかなければいけない訳は
脳の構造そのものにある、つまり「考えない」ことは欲望に支配される
ことと同様であるからで、その意味では徹底的に疑う目も否定しては
ならない。が、「確信」を持ったならそのことを<信じる>しかない。
現象学でいう<妥当>がなければ思考は前に進んでいかないからです。
問題は教条的に客観視することを拒否する態度こそ最も重要で、しかし
最後まで疑い続ければそれこそ、疑うことの魔力に支配され考えをやめ
ることと同様の結果を招く。人間は有限の生命であるからこそどこかで
<限定された妥協>をせねばならず、謙虚になるところも必要でしょう。
その意味で哲学も<必要>なのかも知れません。
506 :
8 :2006/02/28(火) 11:04:27
>>505 の続き 仕事の休憩がもう終わりますのでこれで失礼します。
バタイユのエロティシズムに関して夜9:00以降論じてみたいと思います。
ラカンの<欲望>との差異は正直気になっているので色々見解を下さい。
では。
機械?
508 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 14:20:43
ポランニー「暗黙知の次元」を読みました。ボクなりの感想です。 まずこれは、構造主義以前であるということ。すなわち認識論→(ソシュール的)言語論転回 以前であること。 そして認識論のうちの現象学を根底にしていること。すなわち精神分析系フロイトと心理学系 フッサールで、フッサールを継承し、フロイトには一切触れていないということ。 これらの注意が必要でしょう。 まず、現象学は本質的に独我論であり、内部に閉じます。だからいかに「断絶」を越えて、 内部から外部にでるかが、大きな問題です。この世界の実証性であり、さらには他我の存在です。 ポランニーは、認識を明示的統合と暗黙的統合で考えます。 明示的な統合は意識された要素を、組み立て全体とする。これは現象学の志向性でしょう。 だから、内部の作動であり、「断絶」は越えられません。 それに対して、暗黙的統合は、意識でなく、意識の裏(身体)で行われる統合です。 ここでは部分の総和以上の結果として統合されます。これが「創発」と呼ばれます。 暗黙的統合は、意識の外、身体側の作動であり、「断絶」を越えている、ということです。 だから他我問題も、身体による創発的な力によって、他者に情報が伝達されるとされます。
509 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 14:21:23
しかし外部での作動とされる暗黙知は、(ソシュール的)言語論転回以前であることと 無意識的な作動についての話なのに、フロイトについては一切触れられていないことから、 (ソシュール的)言語論転回以後として、読み直す必要があります。 暗黙知は、言語化されない知とされますが、ここでの言語は意識的ということであり、 構造主義ラカンのテーゼ「無意識は言語活動のように構造化されている」は考慮されて いません。 たとえば、暗黙知の例で出てくる例、教育によって道徳が内面化されるは、 フーコーの規律訓練型権力に対応するでしょう。 あるいはプラトンの規則のパラドクスも、ヴィトゲンシュタインの規則のパラドクスに対応します。 これらは、外部でなく、内部、すなわち言語(無意識)の作用と考えられています。 さらに、その他の例において、後天的な言語獲得を考慮せずに考えられないのでないでしょうか。 (この当たりは、ポランニーの例を考えるよりも、最新の認知科学を参考にする方がよいでしょう。) すなわち、ポランニーの暗黙知は、無意識(象徴界、言語)も内包されており、 (ソシュール的)言語論転回以後から見ると、「断絶」の外部の作動とすることがむずかしいのでは ないか。 さらには、仮に暗黙知が外部の作動としても、結局、「断絶」をいかに越えるのかは、 ただ創発的な力というだけで、明確にされていません。
510 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 14:22:18
ポランニーの「創発」は、システム論的には、ゲシュタルト、有機構成、階層論で説明されます。 これを、無生物から生物へ、進化論の推進力、社会統合の力として、広く転回されますが、 ここに新しさがあるかは、やや疑問です。 むしろ暗黙知として、この創発=生命的な力を現象学的志向性とつなげたものところは、 現象学の新たな転回ではないでしょうか。最近の認知科学で現象学が使われていることを 考えると、認知科学の走りとも言えます。 正直いえば、宇宙論、進化論、認識論、現象学、倫理という壮大な世界を、「創発」のみでつなぐのは、 今となっては、カルトチックであると言われても仕方がないとは思います。 鉱物(宇宙論)/生命(進化論)/人間(認識論、倫理) 統一論においては、断絶はこのように2カ所あります。 統一論を俯瞰して神話を語りたいのは人間の欲望ですが、やはり「断絶」にセンシティブでないと、 ダメなんですね。
511 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 14:25:54
あくまでボクなりの感想ですのであしからず。
512 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 15:19:55
追記 やはり、(ソシュール的)言語論転回と混同するのは、違いますね。 暗黙知は、意識の外、身体側の作動であるということは、以下のように説明されます。 >> ある人間による身体の巧みな動作は、別な人間が認識できるリアルな存在である。 しかもそれは、ただそれを包括することによってのみ認識できるリアルな存在なのである。 また、このリアルな存在を包括する行為は、その行為の対象たる「動作」と類似の構造を もっている、と。P62 他のすべての暗黙知の事例において、包括する行為の構造と、その行為の対象たる 包括的存在の構造は、一致する。P63 << だから言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は 存在論的な次元を開き、リアルである。 たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承のように、 体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に同期する。 そこに主体と客体と要素とした高次の統合(創発)が生まれる、というようなことでしょう。 たとえば社会も言語をもとにした幻想の共同体ですが、その下部に人間という「行為」が 統合された、創発性が働いている、というようなことでしょうか。 「断絶」を「行為」の創発性が越えるというのは、ルーマンのシステム論にも繋がります。 ボクは、このような同期を「他者からの呼び声」と呼びました。動物では同期しているが、 人間では同期は失われているが、ただ遠くから呼びかけている。 だから、コミュニケーションは必ず失敗する。「独我論」世界からは人は抜け出せない。 ということです。 そしてこのように「生物学的な同期」は動物にはあるが、人間では「断絶」しているというのが、 大陸哲学的です。
513 :
8 :2006/02/28(火) 15:37:11
仕事休憩中にコメント
確かに
>>510 の通り「神話」かもしれませんね。ただ、生態系システムと
して語れない社会学は「意味」を持たないと思いますがね。
実はマイケル・ポランニーの物理化学の功績は「カオス理論」の端緒だ
ったのはご存知ですか?彼が提示した「吸着ポテンシャル理論」は複雑系
やカオス理論でかなり研究が進んでいます。具体的には活性炭の脱臭効果
がそうですが、原子や分子が物質に引き寄せられる効果を言いますが、こ
れは分子が「場」のポテンシャルエネルギーの相互効果に吸着したり乖離
したりする現象のことで発表してから認められるのに20年かかったらしい。
量子論でこの効果の裏づけが得られたわけですが、これは雲や空中の分子
があたかも「生命」を持つかの「如く」振舞う様にポランニーは注目した
からでしょう。もっとも性急しすぎたという部分はぴか〜さんの言う通り
でしょう。しかしこれまた<揺らぎ>=<カオスの縁>なんでしょうが、
この「断絶」を埋めるべくはこれからのことでしょう。
一度「吸着 ポテンシャル」でグーグルしてみてください。面白いです
よwおっと休憩終了w
『暗黙知の次元』は科学哲学の書であることを忘れないで欲しい。
515 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 16:22:14
>>513 それは外部での成果ですね。だから関係ない、むしろ弊害なんです。
外部で成果をあげた人がその延長で内部をかたる、自然科学で優秀だからそれを人間に展開することが間違いのもとなのです。
これを養老猛化と呼びましょう。養老猛の話は結構すきなんですが、
あれは彼の脳科学の成果と関係はないんです。彼が脳科学などを生きた中の彼なりの人生訓でしかない。
この混同は成功者が神聖化されること例ですね。
516 :
8 :2006/02/28(火) 16:51:57
>>515 仕事が終わったのでコメント。
>>510 浅い読み方をするウブな素人
はそう読むという意味では、正しいですね。ぴか〜さんはいい指摘してま
すが。「誤解」が多いのはそこなんですがね。もっとも、私もなんとも思
いませんけど。別に神聖化の過程なんかは私は全然興味ないですが、要は
一過した整合性を持っているかどうか、最終的にはこれだけですから。
ポランニーの「知と存在」を読めば分かりますが、ポランニーは吸着ポテ
ンシャル理論が受け入れられなかったのは残念であるが、別にそれは、社
会として正常であると「責任」こそ述べられなければならないと謙虚に語
っている。
彼は極めて冷静だ。私も冷静であるが。
科学的価値とは@厳密さ A体系的重要性 B主題の本質的興味であると
した。これだけである。「知と存在」には科学哲学としての彼の冷徹な形
でまなざしを忘れない一方でBこそが科学的推進力になりうるという意味
で否定していない。ただ素人による有害な干渉については警戒しなくては
いけないことはくどいほと書いてある。経済的動機による何世紀もの人類
を誤らせていたのは実用上のことである(原爆の例をだすまでもないが)
そのことについて「言説」は警戒と責任をもたなければならないとしてい
る。
実際フーコーの「知の考古学」はこの様な言説に関する集蔵体とエピス
テーメの関係であるとか極めてセンシティブな問題でもポテンシャルを志向
することは科学を推進する力になることは「事実」なんでしょう。また、ポ
ランニーは科学共同体がなぜ言説を受け入れたり拒絶したりするかにも注目
している。彼は暗黙の知が働いているとしている。ただポランニーも人間的
な権威を理念化しすぎているきらいがあるのだが(日本においての学内派閥
とか)権威構造については少々無防備すぎる。この辺はフーコーの権力論か
ら考察するのが正しいのではないかと思われる。
517 :
8 :2006/02/28(火) 17:11:28
>>516 一般の素人が受け入れた印象でもってある人間の評価すること
と実際の物理学での「実証性」のポテンシャルを混同することは分けて
お考えのことと思いますが(もっとも日本の評論家連中は多くこの間
違いをやらかしてますが)、少々文脈がそう受け取られかねないので
ご注意の程
518 :
8 :2006/02/28(火) 17:22:30
>>515 について
すいません。フォローが強いのはポランニーは「例外」と言いたいだけ
ですから。もっともポランニーの神聖化は断固として反対ですが、ただ
「人格的」に凡庸な現象と一緒に語られるといらだちを覚える人も見え
ますので(結構このスレにも多く見受けられます)。
519 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 17:24:41
訂正させていただきました。 ■ポランニー「暗黙知の次元」は素朴な形而上学か? ポランニーはブレンターノに言及するなど、「現象学」を根底にしているのではないでしょうか。 現象学は本質的に独我論であり、「内部」に閉じます。だからいかに「断絶」を越えて、「内部」から 「外部」へ向かうか、の問題があります。この世界の実証性であり、さらには他我問題です。 ポランニーは、認識を「明示的統合」と「暗黙的統合」に分けます。「明示的な統合」は意識された 要素を、組み立て全体とするという、現象学の志向性に近いでしょう。だから「明示的な統合」は 内部の作動であり、「断絶」は越えられません。 それに対して、「暗黙的統合」は、意識でなく、意識の裏(身体)で行われる統合です。だから 「暗黙的統合」は、「断絶」の向こう「外部」です。これによって、世界の実証性であり、さらには 他我問題は解決されます。
520 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 17:25:46
しかしこのような意識外を語る場合には、フロイトの精神分析の無意識、そしてそれに繋がる 構造主義系の(ソシュール的)言語論転回と比較することが必要でしょう。特のポランニー「暗黙知の 次元」では、フロイト、あるいは構造主義の無意識への言及がありません。 暗黙知は、「言語化されない知」としてしめされていますが、ここでの「言語」は「意識的」ということで あり、ラカンのテーゼ「無意識は言語活動のように構造化されている」に代表されるような「無意識の 言語」については、考慮されていません。 たとえば、暗黙知の例で出てくる例、教育によって道徳が内面化されるは、フーコーの規律訓練型権力 に対応するでしょう。あるいはプラトンの規則のパラドクスも、ヴィトゲンシュタインの規則のパラドクス に対応します。これらは(無意識的な)言語の作用と考えられています。さらに、その他の例の顔の 認識なども、後天的な言語獲得を考慮せずには考えられないのでないでしょうか。
521 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 17:26:49
このように考えると、ポランニーの暗黙知は、無意識(象徴界、言語)の作用と考えられます。では 「暗黙知」と無意識の差異はどこにあるのか。 >> ある人間による身体の巧みな動作は、別な人間が認識できるリアルな存在である。しかもそれは、ただ それを包括することによってのみ認識できるリアルな存在なのである。また、このリアルな存在を包括 する行為は、その行為の対象たる「動作」と類似の構造をもっている、と。P62 他のすべての暗黙知の事例において、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の 構造は、一致する。P63 << これは、言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は存在論的 な次元を開き、リアルである。たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承 のように、体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に「同期」する。そこに主体と客体 と要素とした高次の統合(創発)が生まれる、というようなことでしょう。たとえば社会も言語をもとにした 幻想の共同体ですが、その下部に人間という「行為」が統合された、「創発」が働いている、というような ことでしょうか。 そしてこのように「生物学的な同期」は動物にはあるが、人間では「断絶」している考えるのが、 大陸哲学的であり、安易な「同期」は形而上学である、となるでしょう。 ちなみに、ボクは、このような「同期」を「他者からの呼び声」と呼びました。動物では「同期」している が、人間では「同期」は失われ、「断絶してている。ただ遠くから呼びかけられている。だから、 コミュニケーションは欲望されるが、必ず失敗する、と考えます。
522 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 17:30:59
きびしん評価ですが、大陸哲学では、ポスト構造主義以降、 いまは、これぐらいの批判哲学言説が一般なんです。
523 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 17:33:59
鉱物(宇宙論)/生命(進化論)/人間(認識論、倫理) ポランニーの時代は、創発性が新しく、統一的に 創発性があるということで語れたと思いますが、 現在の議論は、全体に創発性は働いているとして、 断絶とはなにか、だと思います。
524 :
8 :2006/02/28(火) 17:55:53
>>520 素朴な形而上学的言説と受け取りかねない部分が「暗黙知の次元」
のみ読み込む際、誤解はあります。かなり簡潔にかかれているので実証性と
いうことなら「個人的知識」に書かれてます(さらに実証性を問いたい
場合はさらに「知と存在」、簡潔にポラニーを知りたい場合はR・ゲルウ
ィック「マイケル・ポラニーの世界」を読んでください)
(A)意味付与 (B)意味読解 (C)人格(人・個人)の三つの構造がある
とした。この三つが三角形を形成し言語が形成されるとしている。したが
って(C)が暗黙知であるわけで「無意識は言語活動のように構造化されて
いる」つまり近位項から遠位項へ意味を注目する「潜入」ということは、
意味を内在化させるということで無意識レベル(暗黙知レベル)で構造
化がなされるということです。ソシュールとの違いは平面的相対記述か
上下の階層化モデルかの違いであります。ポランニーは明示知(言語知)が無ければ
非言語知も成立しえないという関係にこそ語られなければならず、ただ言
語表現する際に下位のレベルの意味解体が起こるということを指摘している。
ラカンは言語で語りにくい場合あえて質問の中断をし、イメージの意味を
記述するという精神分析を行ったことはご存知と思いますが、このことと
全く矛盾してません。つまり言葉で語ろうとすると言葉につまるだけで、
言語的に構造化(この場合階層化)されていると言えます。
階層化モデルとして@音声A単語B文C文体(スタイル)D文芸作品
など提出してます。階層化モデルは完全ではありませんが、限界制御の
原理が上下の関係を明確に語っている(「暗黙知の次元」を参照)
>鉱物(宇宙論)/生命(進化論)/人間(認識論、倫理) それは何なの?ポパー?
>>521 >断絶
動物であれ人間であれ、隣接する上下の階層は、
異質なシステムでありながら、フィードバックし合う、
というのがポランニーの考えでは?
527 :
8 :2006/02/28(火) 18:22:59
>>521 この辺についてですが、私的にはこう考えています。
意識自体が<過剰>であり、多くの動物が無意識の海の中にいると見る
方が妥当で無意識は欲求と知(暗黙知)から成り立っており、認知のメ
カニズムは無意識レベルで内在化されている。
されど意識は<過剰>=言語(ラング)であるから普段は欲求を抑圧に
かかりそのことによってリビドーは意識の上に上ろうと必死になる、あ
る時その意識と無意識の断絶(境界)を潜り抜け<過剰>によって大き
く燃え上がる。
これは別のベクトルで語ればバタイユの言う<蕩尽>にもなるであろう
がしかしこれが全てではない。
以外と忘れられているのが「脳内麻薬」の問題で人間だけが「負のフ
ィードバック」が存在せず、快感物質を運ぶA10神経は無髄神経と言われ
ている。<過剰>に快感物質が運び込まれ意識で抑圧することでリビド
ーは変質し、あるときは病気に、あるときはバクハツする。
快感物質では大きく2種類ある
ドーパミン「燃える」快感
セロトニン「萌える」快感(このわけ方は私の独断です)
もちろん同時に放出されることもあり、この快感物質が脳の構造化を
促している。つまり全く違う方向からですがw
>「負のフィードバック」が存在せず 負のフィードバックとは例えばどういうものですか?
529 :
8 :2006/02/28(火) 18:34:33
>>521 私は意識と無意識の間に深い断絶があると申し上げてますが、これは
脳の大脳辺縁系が<過剰>に大きくなったことから生じた「業」とも言える
が、どうしてその様にサルから<進化(退化?)>したのかは実証されてませ
んが「事実」です。精神分析的言説も良いのですが、私は臨床医学や生理学的
言説も放り込む「必要」があるとは思います。
530 :
8 :2006/02/28(火) 18:42:09
>>528 簡単に言えば、例えばこたつは「正のフィードバック」と「負の
フィードバック」が相互に制御して温度を一定に保つことができますが
、「負のフィードバック」が無ければ、温度の上昇を止めることが出来
ず、オーバーヒートを起こす現象に似ているでしょう。つまり自省が聞
かず<過剰>に快感物質が出る限り出てしまうことを言います。
なるほど、よく分かりました。 進化の過程で、ブレーキのぶっ壊れたサルが文明を作り、 ブレーキを後天的に身につけるようになったということですね。 荀子の性悪説を彷彿とさせます。
順序として、身体などの「要素」を先に見るべきだということですかね?
533 :
8 :2006/02/28(火) 19:28:25
>>526 同感です
>>532 自転車に乗っている時、意識を手足に向け厳密化しようとする
と、バランスを崩して倒れてしまいますが、他者を観察することである
程度の要素のデータを取ることはできます。従ってメルロ=ポンティは
自分が精神病になるわけにもいかないから臨床資料からあたったのはそ
のためでしょう。
>>530 バタイユの言説は具体的に何なのかと言えば、人間の脳に埋め
込まれた「制御不能の快感構造」そのもののことです。そうすると、バ
タイユのいわんとすることがかなり明解にわかるようになります。
つまり「制御不能の快感構造」=「呪われた部分」=「エロティシズム」
であるわけです。つまり「エロティシズム」の延長で「他者」を見ている
わけです。
この頃脳みそを見ることは解剖学的データが全く無かったが、バタイユ
があと20年長生きしていたら恐らく脳の解剖に取り付かれたはずである。
何といってもこれほどエロティシズムを追及した人が実行しないわけが
ないと思いますがw
「エロティシズムは人間の意識の中で、人間における存在とは何かを
問題とするところのものである」つまり意識自体だ
「エロティシズムは人間の内面生活の一面である。エロティシズムは欲望
の対象を外部に求めているために、私たちはとかく思い違いをしているの
である」(以上「エロティシズム」より)
間違いなく、バタイユは人間に<外部=他者>が埋め込まれていると見た。
断絶している理由は、制御不能の快感構造とこの<過剰>な意識を持つ脳
そのものであると見ています。思惟するのも<過剰>を前提とした問いに
他ならず、いつかは解体(蕩尽)される日がくることを示唆しています。
534 :
8 :2006/02/28(火) 19:36:43
>>533 の続き ちなみに脳に麻薬が効くわけは、麻薬が脳内麻薬の分子
構造が似ているからで、脳内に毒物が入ることを防ぐ門をうまくごまか
しているかららしいです。極論を言えば文明が発展した所に麻薬が無か
ったことは厳密な意味でも有り得ず、それこそ文明の影に麻薬ありと言
ってもいいすぎではないのかもしません。
(ちなみに脳内麻薬のドーパミン=燃える快感、セロトニン=萌える快感
という定義はいかなるもんでしょwwww)
535 :
8 :2006/02/28(火) 19:41:57
>>531 栗本さんはそれを「パンツ」といったのです
536 :
8 :2006/02/28(火) 20:06:51
>>533 についての補足
バタイユの言説に矛盾を感じておられる方々は、この制御不能の快感
構造に向けた言説が西欧哲学言説の矛盾そのものを表面化している。フ
ーコーはだからこそバタイユを評価した。哲学的言説は全く違うベクト
ルで組み立て直すならこのことにこそ求められるべきで、だからこそ、
彼が否定するのは意識であり、ニーチェが永遠回帰というつじつま合わせ
の言説に急ぎすぎたのと違うのはここではないかと思います。
バタイユは西欧においては意識こそ理性であり他者であり外部であった
とこう言いたかったはずである。それは本来必要でない<過剰>であると
こうも言いたかったはずである。だから私は再三脳の構造を理解すること
が哲学的言説を解体するであるとこういいたいわけです。
537 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 20:14:39
>>536 >だから私は再三脳の構造を理解すること
>が哲学的言説を解体するであるとこういいたいわけです。
利根川進先生も"resolution of メタフィジックス"を言って
いますね。
538 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 20:15:32
>>524 >したがって(C)が暗黙知であるわけで「無意識は言語活動のように構造化されて
>いる」つまり近位項から遠位項へ意味を注目する「潜入」ということは、
>意味を内在化させるということで無意識レベル(暗黙知レベル)で構造
>化がなされるということです。
暗黙知は「身体の行為がリアルである」わけですから、これは無理があるのでは
ないでしょうか。
あと
>>527 もそうですが「無意識」をどのような意味で使うかですね。
フロイトも時期によって違いますが、身体側の外部におくときに、
言語側の内部に場合があります。
ラカンは、「無意識は言語活動のように構造化されている」というように、
内部ですね。
仮に「自転車の乗り方を体で覚える」ような、暗黙知があるとして、
暗黙知の本質は、ポランニーがいうのは、言語コミュニケーションは失敗するが、
暗黙知(行為)は「断絶」を越えて、他者に伝達される、といっていることです。
539 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 20:17:16
>間違いなく、バタイユは人間に<外部=他者>が埋め込まれていると見た。 >断絶している理由は、制御不能の快感構造とこの<過剰>な意識を持つ脳 >そのものであると見ています。 暴走しましたね。(笑)エロティシズムは文化(言語)ではないのでしょうか。 >(ちなみに脳内麻薬のドーパミン=燃える快感、セロトニン=萌える快感 >という定義はいかなるもんでしょwwww) エロティシズムを身体、脳(外部)で感じるとしても、問題はソフト(内部)ではないですか。 これだと、薬物投入も、エロティシズムでも変わらないですね(笑)
540 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 20:21:45
>>534 >この頃脳みそを見ることは解剖学的データが全く無かったが、バタイユ
>があと20年長生きしていたら恐らく脳の解剖に取り付かれたはずである。
構造主義者(コジェーブの弟子)たるバタイユにはこれはまずないでしょう。
なぜポランニーが欧州で受け入れられないか、と同じ理由です。
「性関係は存在しないのです」
エロティシズムしかり、文化的なものは身体(脳)反応に
還元することはないのです。
欲望はどこまでも社会的な行為なのです。
>>536 >だから私は再三脳の構造を理解すること
>が哲学的言説を解体するであるとこういいたいわけです。
意味分からん。
脳科学に還元したら、たんなる心理主義じゃん。フッサール以前ですよ。
東浩樹がいろいろゆってるね。 あれも断絶認識ということでいいのかな。
>>542 いろいろではわかりません。
なんですか?
544 :
8 :2006/02/28(火) 20:59:38
>身体の行為がリアルである
これはわかりますが、そもそも身体を「制御」しているのは人格(個人)で
あり、これは連続性で持って語っていかないとダメではないでしょうか?
階層レベルで語っていくなら人格(便宜上「精神」としますが)は身体の制御
をするが、身体のレベルでは精神に「制限」を与えていると言えるわけで、
これはダイナリズムで語っていかないと「意味」が見えてこない。「言葉」
ではなく言葉の持つ「意味」に注目していただきたい。暗黙知的には矛盾
してません。精神は身体の意味です(栗本慎一郎「意味と生命」より)
>エロティシズムは文化(言語)である
なら言語は外部であり社会でもあるわけです。この辺の連続性は「確信」が
ありますが、明示が難しいレベルです。研究著書で大木幸介著「脳・麻薬・文明」
を読んでみてください
>>540 これは<過剰>に冗談が入ってますw本気にするとは(笑)
>>541 いえ、フッサールの現象学が脳の研究に利用されてます。なぜなら、
脳のニューロン構造は実体でなくニューロン相対的構造としてしか記述ができない
のが現実だからです。(茂木健一郎「脳とクオリア」を参考)
たしかこのことは前書いたと思ったがすいません
545 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 21:09:48
内部・・・心、後天的(アポステリオリ) →想像界、象徴界(言語、無意識) 、バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我 断絶 外部・・・身体、先天的(アプリオリ) →暗黙知?、ユング的な無意識領域、ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界(物自体) 脳神経学、認知科学 なぜ、内部と外部の断絶にセンシティブでなければならないのかは、もう一度いうと、 たとえば、エロティシズムを脳の快感物質に還元すると、これは外部であり、 先天的(アプリオリ)ということになります。 先天的なものは、遺伝子によって決定され、進化によって変化する。 すると、進化という変化単位を、文化や、人の寿命と比べると、長すぎて、 エロティシズムはほとんど「真理」です。 すなわちボクたちの脳には、人の個性、文化に変わらず、「これがエロティシズムだ」 というものがあるということになります。 あなたがなんといおうと、これがお前のエロティシズムだと、「真実」と 突きつけられるわけです。
546 :
8 :2006/02/28(火) 21:12:16
>>544 の続き
何度も申し上げますが、物事は関係でしか捉えられず、そこには、ある
境界条件でしか妥当は有り得ないからです。これが私の相対的認識論です。
従ってある関係の上位のレベルを志向することでしかこうだとしか、
いえません。従って私は意図的にいろいろな言い方で言い換えしてます
が、結局は認知科学は相対的記述の境界条件を研究することでしか、上位
のレベルはわかりません。私は還元主義者ではもちろんありませんので
それこそ、上位下位階層の途中で「予感」以上のことは語れません。
申し訳ないですが。
それこそ発見のプロセスは一義的な記述では有り得ないといったのは
ほかならぬポランニーであって、英文も最初はわからなくとも何度も読
んでいると「意味」が浮かび上がる経験はないでしょうか?
残念ながら私を「理解」いただくなら今まで勧めた本を読んでいただ
かないことにはわからないかもしれません。その意味では私の敗北かも
しれないのですが(笑)ある制約を受けた関係でこうだとしかいえませ
ん。申し訳ないですが限界表明します。
547 :
8 :2006/02/28(火) 21:19:06
意識/無意識はどうしても相対化できない、だからこそ相対化するこ とがなお重要なんです。ある経験の出来事でしか、「意味」は表現で きないからです。いい議論ができたと思います。勉強します。 ではまたお会いしましょう。
548 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 21:38:34
>>546 たとえばポランニーという、「暗黙知という身体の行為がリアルである」というのは、
ポンティの身体論にも繋がるもので、現象学的な展開でしょう。
ハイデガーの道具性とも繋がり、面白いですね。
ただポンティの両義性でもそうですが、単純な心身の両義性ではないように、
「断絶」にセンシティブです。
文化としての心があり、遺伝という身体がある。たとえば、認知科学でも
身体の機能を語るのはよい、それを人間性のようなつなげるとき、
「断絶」を横断するときに、センシティブでなければならない。
そしていかにつなげるかだと思います。
その意味で、大陸哲学は、徹底的に心側に臨界点を探るのです。
それがボクは、ラカン、デリダ、ドゥルーズなどだと思うのです。
(フロイトは「断絶」にセンシティブではないですね。)
一方で、英米系、特に心理学、認知科学は、進化論流れで、
「断絶」にセンシティブでない。ゲーム脳的なことを簡単にいいます。
どう敗北されたのか、よくわかりませんが(笑)
素朴な認知科学系の人が増えている中で、構造主義など米系の知見もあるので、
面白い考察ができるのだと思います。これからも頑張ってください。
ユング派や仏教?などでは無意識は想定しない。 すべて意識だととらえるのである。 それは、表層意識から深層意識へと階層性をなしていると。
ネタぎれ?
551 :
8 :2006/03/01(水) 14:43:39
>>550 ネタ切れじゃありません。ジャーゴン(専門用語・業界用語)の論議に
移る必要はないと思っただけです。如何に明解に述べようとも専門用語を語る
ことに自己陶酔を覚える前に撤退したかっただけです。だから横断的に色々な
言い換えをして、できる限りわかりやすく語ろうとしただけです。明解に語る
ことを忘れる方が多い中(ぴか〜さんにもいえるかもしれないが)、成るべく
難しい問題を分かりやすく語るという経験を積まれることを期待します。私は
出版社にいて、営業マンでしたからこのことを痛切に感じる一方、分かりやす
いからといって安易に受け止め誤解されるジレンマに苦しんだから忠告してお
きます。
552 :
8 :2006/03/01(水) 14:52:25
>>550 の続き 言葉に囚われるな!そのことをソシュールは最も警戒し
たことで、ポスト構造主義から現代に至る系譜は、ジャーゴンによる差
異の戯れに埋没していることを申し上げ終了とします。
553 :
哲学野郎 :2006/03/01(水) 14:56:25
なんか今、個人サイトで『新思想創造論議同盟』
ってやつがすごいらしいね。知ってる?
結構有名らしいよ。きっと未来の思想部門1位だね。
BIGLOBEで新思想創造論議同盟って検索すると出てくるよ。
特に掲示板がすごいらしい。
みんな参加してみれば?まだ人が少ない見たいだけど
凄まじい急成長だよ?
↓掲示板のアドレスはこれらしい↓
http://bbs7.fc2.com/php/e.php/deathnote/
554 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 15:01:23
「言葉と病い」豊永武盛 って本があるんだけど、氏の持論から考えると、 音の表現とイメージ内容はあながち恣意的とは言いがたくなるんだよ。 まあ、検証するのは難しいんだけど。
555 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 19:20:22
556 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 19:40:53
パッピプパキレルガエルイヌロン。
→・← ←・→
558 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 20:32:17
>>557 ホニョ〜オオロンロンビッパヨンパルザンゴタンケロ!
559 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 21:07:21
8よ〜〜〜。 ぴかあーよ〜〜〜、何か分けわからないこと言ってくれよ〜〜。 みんなどこ行ったんだ〜〜。何か面白しれえこと言ってくれよーー。 ....The wind Crosses the brown land, unheard. The nymphs are departed. Sweet Thames, run softly, till I end my song.
終わりだな
561 :
考える名無しさん :2006/03/06(月) 16:34:57
ソシュールってなんで言語学板でシカトされてんの?
562 :
考える名無しさん :2006/03/06(月) 16:45:34
>>561 言語学板の住民においても、ソシュールは現代言語学の祖という認識があるが
しかしソシュールを専門的に研究しているやつはあんまりいないだろう
あそこの住人の多くは、おそらく生成文法か伝統的国文法のプロパーで
あとは応用言語学(日本語教育)とか言語情報処理とかいろいろだけど
ソシュールは古典過ぎて、基礎として知ってはいても、研究対象としている
やつはあまりいないと思う
本当は、ソシュールとチョムスキーだどうだとか、議論できるやつがいれば
いいんだけど、そこは言語学板のレベルの低さというやつだな
564 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 19:57:15
565 :
考える名無しさん :2006/03/09(木) 11:59:06
「ソシュールのアナグラム」(水声社) ジャン・スタロバンスキー
>>561 言語学を批判して一般記号学を提唱した人だから?
ソシュールは言語学を転覆させるようなことを目論んだ人というより、 従来の言語学が縦軸だとすると横軸を新たに設けようとした人だともう。
そうやって言語学に都合がいいように解釈して取り込んじゃうのね
言語学者はソシュールをそのように他者的に捉えてはいないと思うが・・・ ソシュールに批判されたとかソシュールをとりこむとかいう認識の人はあんまいないような
570 :
考える名無しさん :2006/03/17(金) 06:48:38
ソシュールは生前まとまった著書は残さなかったらしいから おそらく死後弟子たちがまとめた『一般言語学講義』あたりだろう
>>569 > ソシュールに批判されたとかソシュールをとりこむとかいう認識の人はあんまいないような
だからそれが、都合がいいように解釈(=無毒化)して取り込んじゃうという意味。
573 :
名無し募集中。。。 :2006/03/18(土) 02:55:46
構造主義を一からとなるとやっぱソシュールから入るのがいいの?
574 :
考える名無しさん :2006/03/18(土) 11:45:24
レヴィ=ストロースの『神話論理』がとうとう刊行されるらしい。 4月中旬、みすず書房より、全5巻で。 初回は『生のものと火を通したもの・神話論理1』で 早見洋太郎訳で、A5判560頁・予価8400円。
>>572 とりこむってのは、自分以外の他者に対して行う行為だろ
ソシュール以後の言語学はソシュールがベースになってるから
ソシュールをとりこむも糞もない
572の奴は「ソシュールの可能性ABCのうち、言語学はAしか見てない」 って言いたいんじゃね? 572は俺とは他人だから知らねえけど だからといってBC要素に何を持ってくるか言わねえから話がゴミになってるんだと。 つーか、もしそれが記号論とかだったら嫌だな
577 :
考える名無しさん :2006/03/19(日) 18:27:02
>>574 >『生のものと火を通したもの・神話論理1』
生のものは食あたりの可能性があるので進められません。
冗談ではありません、ジョウダンズです。
578 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 15:26:36
ははは
>>575 >>576 あと、ソシュールの場合は、講義ノートの問題もある。
ソシュールをベースにしたとされるソシュール以後の言語学は、
一般言語学講義に基づいている。
しかしご存知のごとく、そのノートには・・・
580 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 10:35:30
ラカンはソシュールのぱくりってことで
579ってアホ? 自分だけ分かってるとか思ってるの?
>>582 582って真性のアフォ?
ご存知のごとく・・・って書いてあるのが読めないの?
>583 「ご存じのごとく」はそれ以前の3行には係ってないんだが 自分で何を書いたか分かってないくらいバカなの? まあ575と576にそんなレス付けてるバカだからしょうがないか 言語学がくみ取れていないソシュールと突っ込まれて何も 言えてないバカがプルっていようにしか思えない 単にそれをかきゃいいのに、突っ込まれるたびに逃げるだけ だから叩かれるんだよ って書いても理解出来ないんだろうな
俺が馬鹿だからなのか、よく状況がのみこめないんだが
>>584 は何をファビョってるの?
586 :
584 :2006/03/31(金) 23:03:57
笑った バカが逃げた
587 :
584 :2006/03/31(金) 23:06:37
568.572のアホが出てこないと話にならないんだがな ああ、ここ哲学板だったね バカが無限後退しながら喚くための板なんだよね
588 :
考える名無しさん :2006/04/12(水) 10:45:13
ソシュールって名前の響きで得してるよね
589 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 04:10:46
肝心なデリダを忘れとる
590 :
考える名無しさん :2006/05/25(木) 00:45:12
∩( ・ω・)∩ばんじゃーい
591 :
考える名無しさん :2006/05/28(日) 02:15:45
593 :
考える名無しさん :2006/06/29(木) 10:20:17
594 :
MEME1 :2006/07/01(土) 02:00:49
8さんこんなところにカキコんでいたんですね。 MEME1です。 元気そうで何よりです。 たまたま、「意味と生命」で検索したらここに来ました。 あいかわらず、たくさん書き込みますね。営業のせいもあるんですかね。 時間差で、もう来ないのかもしれませんが、一応痕跡を残しておきます。 また、どこかで出会えるといいですね。
595 :
考える名無しさん :2006/07/01(土) 23:23:40
え?
596 :
考える名無しさん :2006/08/10(木) 15:18:34
597 :
考える名無しさん :2006/08/17(木) 19:53:18
ソシュールをちゃんと読んでるやつ、少ないんだろうなぁ・・・。
598 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 08:24:28
と読んだこともないヤツは思ってます。
599 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:08:17
↑ 少なくともオマエは読んでないようだな。
600 :
考える名無しさん :2006/08/18(金) 12:34:10
丸山圭三郎を再評価すべきだ、そろそろ。
601 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 18:56:53
我が師 ソシュール せんせー
丸山さんは深読みしすぎ
603 :
考える名無しさん :2006/09/23(土) 23:55:52
深読みする丸山氏、いい学者だ。
604 :
考える名無しさん :2006/10/19(木) 12:42:21
深読みで間違ってるのは駄目だろ
605 :
考える名無しさん :2006/10/20(金) 04:06:23
深読みせずして、進歩なし。
606 :
考える名無しさん :2006/10/20(金) 07:02:56
丸山圭三郎の本をソシュールの反訳と いった人がいたけど どういういう意味か 丸山圭三郎は文献をにぎって 公開しなかったということか。
607 :
考える名無しさん :2006/10/20(金) 08:03:29
>>606 それはない
ゴデル、エングラーが原資料を公開していて
それを丹念に読んで「講義」の歪曲を明らかにしたんだから。
608 :
考える名無しさん :2006/10/21(土) 11:39:49
丸山はいち早く「ソシュールは旧来の言語学を超えようとした存在であり言語哲学と言ってもいい」と 言っていたが、当時の日本の言語学界は「妄言、ソシュールを誤読している」など 猛反発にあった。 飯田隆の『言語哲学大全・全4巻』が2002年に完結してみると、丸山の思考のベクトルは 決して間違っていなかった事が読み取れる。 ソシュールを言語哲学者としても何ら問題は無い、もちろん丸山も言語哲学者であった。
609 :
考える名無しさん :2006/10/22(日) 18:57:57
ソシュールあるから、今さらいらねえよなぁ
>>607 そっか、そりゃ、「講義」に依拠してソシュール学を
築いた連中からしてみりゃ面白くないだろうね。
611 :
考える名無しさん :2006/10/26(木) 17:20:23
>>610 丸山はフランス文学研究者で言語学プロパーでは無いからよけいにプロパーから
反発をくらった。
しかも丸山は英語も仏語もペラペラで専門的な議論が出来る上級者レベルだったから
デリダやドゥルーズその他の大御所達にだって直接ばんばん議論した。
残念なのはその記録を録音とか残さなかったから、大っぴらにはなってないが…。
デリダは竹田に論破されたのが有名だけど、その前に80年代すでに丸山が「グラマトロジーについて」を
批判する切り出し方で完全論破しているという事実がある。
612 :
考える名無しさん :2006/10/26(木) 19:55:15
>>611 丸山圭三郎著「文化とフェティシズム」
P167〜 第三章「3.ソシュールとデリダ」のことね。
P173
「私の話を聞いたデリダは、一見デリダらしからぬ社交的笑みを浮かべて
《それを伺って安心しました》と言った。
>>612 ほんの一部しか書いてないけどね
デリダと丸山は複数回議論してるから。
栗本慎一郎が「パンツを脱いだサル」でデリダを辛辣に批判しているのも
わかるね、丸山から色々と聞いてるから。
デリダは偉大だと思うよもちろん、でも丸山は我々が考える以上に偉大な存在
なのかもしれないね、交流があった井筒俊彦も一目置く存在だった。
614 :
考える名無しさん :2006/10/27(金) 00:56:57
丸山は廣松と柄谷に完全論破されてたが?
逆だ、廣松と柄谷が丸山に論破されているというのが事実。
616 :
考える名無しさん :2006/10/27(金) 12:34:38
つうか後期丸山は完全に電波だったな・・・
>>612 それはたしか、記憶が定かじゃないけど、丸山氏がデリダ氏に向かって、
自分からみたソシュールの思想とデリダさんのそれとが異なっている面はありつつも
意外と近い関係にあると思います、とか言ったことにデリダ氏が応えた言葉だよね。
つか、晩年の祖シュールも電波だった
619 :
考える名無しさん :2006/10/27(金) 13:49:24
思い切って飛躍しない思想ほどつまらんものはない 偉大な学者ほど晩年は逸脱した思考を披露している 丸山の後期にしても実際読んでいるヤツいないだろ 風評だけで判断するのが衆愚というものなんだよね
620 :
考える名無しさん :2006/11/02(木) 04:51:19
言葉の連想による思想の運動が起きにくい日本で丸山氏のような存在が 在ったことは確かに快挙と言えるけどソシュールと同じでいかんせん 主著がないのがもったいない。
621 :
考える名無しさん :2006/11/02(木) 11:19:59
丸山はあまりにも死が早すぎた 最晩年は北山修とか河合隼雄に「今一番興味があるのはユングなんです」って 言ってた。 言語に徹底してこだわってきた人が真逆のユングを思想に取り入れたとき どんな思想が出てくる楽しみだったのに。
ビートたけしさんのテレビ番組(だったかな?)に出演なさって 日本のカラオケ文化論かなにかを語っていたよね? いまはこういう方向の関心に向いてしまったのかと思ったもん。
日本語が変だった。こういう方向に関心が向いて
624 :
考える名無しさん :2006/11/05(日) 09:53:36
ソシュール以前ってシニフィアンとシニフィエ的な概念ってまったく 存在しなかったんですか?ありそうなものですが
625 :
考える名無しさん :2006/12/05(火) 19:38:50
あ
626 :
考える名無しさん :2006/12/06(水) 09:41:53
丸山の後継者っているの?
中大文学部出身のあれがいるだろ
加賀野井秀一、前田英樹、立川健二 の3人衆が弟子とされてる人たちでしょ ほかにも末永朱胤とかいるけど、名前挙がるのは上の3人だな
立川っていま何やってんの? つか生きてんの?
630 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 21:21:06
ソシュールの最大の功績をおしえれ
631 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 21:49:40
1 人間は<言語>によって世界観を構築し、 その世界観を通じて見たい様に見えている生物である。ということを論じた。 (今のイスラムや北朝鮮の状況がそれを物語っている) 2 その<言語>は我々の意識せざる部分(敢えて無意識とは言わなかったが) について言及した先駆者(フロイトが「夢判断」を出版した年にソシュール は死去した)。 3 人間が動物を最も隔たっている部分は<記号>というものに<欲望>を持つ ということに最終的に気づいた(最初はラングにこだわり、最終的にはパロール に至り、アナグラム研究で頓挫したが……)
632 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 21:57:28
4 記号は差異によって成り立ち、そこに恣意性という概念を導入した。 (現代社会の記号の差異化の差異化という状況の分析の先駆者) 5 しかし、言語が実は<無意識的>な個人的発話行為<パロール>が ラング<社会的言語観>との、これまた<差異>でしか見出しにくい ことは分かっていたが、まだ何がそれを生み出しているかはまだ言及 できてない。(現代でも大脳内の「クオリア」の問題でもあり現代でも 分かってないのだが……。つまり人間は何によってそれを質感として いるかということで極めて哲学的課題は現代に至るも不明のまま)
633 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 22:05:53
長く書いてみたが、最大の功績が、人間の最も他の生物と違う<言語>に ついて意識的に操作して<記号>でもって社会を獲得してきた生物である ということを初めて論じた学者であるということ。この<無意識的>に 根ざした<意識的>に<記号>を操るということを言及したことが最大の 功績。もっと言ってみれば我々は「自分はこうだ」といってはみるが、そ れは我々の意識せざる「環境」や自己の思惑を超越した身体的「何か」に 無意識的に突き動かされる不気味な<構造>こそソシュールの真骨頂であ るといえる。フロイトよりソシュールの方が文明観への追求が深く、それ ゆえに深いと思う。
634 :
考える名無しさん :2007/01/23(火) 04:13:26
なるほど。馬鹿なおれでもよくわかりました。 ソシュールがこの時代に生きてたらどうなってたんだろうな
635 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 11:52:13
ソシュールをレヴィ=ストロースの構造主義と同列視しては理解を誤る。
636 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 12:14:12
長く書いてみたが、最大の功績が、人間の最も他の生物と違う<言語>に ついて意識的に操作して<存在>でもって社会を獲得してきた生物である ということを初めて論じた学者であるということ。この<意識的>に 根ざした<無意識的>に<存在>を操るということを言及したことが最大の 功績。もっと言ってみれば我々は「自分はこうだ」といってはみるが、それ は我々の意識せざる「世界内存在」や自己の思惑を超越した身体的「延長」に 無意識的に突き動かされる不気味な<気づき>こそハイデガーの真骨頂である といえる。ニーチェよりハイデガーの方が文明観への追求が深く、それゆえに 深いと思う。
637 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 08:42:18
レヴィ=ストロースはソシュールの言語学を継承しているわけではない。 「親族の基本構造」(1945)を見てもソシュールへの言及は無いに等しい(注で 1回のみ)。初期のレヴィ=ストロースが影響を受けたのはヤコブソン、特に音韻論 であって深く掘り下げた形跡はまるでない。ところが事は単純ではない。後々、 調べてみると、ヤコブソンの理論的基礎にソシュールは決定的な寄与をしており、 レヴィ=ストロースにせよそれを受けたバルトやその他の構造主義者にせよ、 そのことを師ってのち、淵源に遡ってソシュールを研究するに至ったのである。 そそて現在では文化人類学者にとってえソシュール理解は必須になっている。 「ソシュール小事典」(丸山圭三郎編)
638 :
633 :2007/01/27(土) 08:54:34
>>636 うまく書いているね。確かに「存在」も「言語」であり<記号>
であるのは間違いない。ソシュールとハイデガーは切り口は全く違うのだが
近いことは言ってるようですね。さらにハイデガーが褒めた、メルロ=ポンティ
はかなりソシュールの「一般言語学講義」を読み込んでいてこの本の内容の
矛盾点を、自分で研究して自分の考えで論旨を立てている。彼の異能さが
伺える。その結果、ソシュールの言語観と驚くほど酷似している形になった。
なるほど、おもしろそうだなあ
640 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 12:22:46
ポンティについては加賀野井がなんか書いてたような
ポンティいうな
じゃあ、ポンたん
643 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 20:15:34
Jカラーの「ソシュール」ってどう?
644 :
考える名無しさん :2007/02/19(月) 16:13:30
講義の新訳買う?
645 :
考える名無しさん :2007/02/26(月) 00:40:29
丸山の『生命と過剰』第二部、復刊しないかなあ
646 :
考える名無しさん :2007/02/27(火) 22:06:59
>>643 結構いいよ。文庫版なら安く買えるからお得。
丸山スレがないみたいなんでここで訊くけど、 丸山とクリステヴァってなんらかの接点はあったのかな
接点って? つき合っていたとか?
イェムスレウとかどうよ
650 :
考える名無しさん :2007/03/18(日) 16:46:02
捕手
うわ、名前間違えてたw そんなの出てたのか、サンクス 本人の著作はなかなか邦訳で出てこないねえ
653 :
考える名無しさん :2007/04/02(月) 23:27:12
講義の新訳出たね
654 :
考える名無しさん :2007/05/07(月) 05:02:45
前田英樹とかどう?
655 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 02:23:11 0
656 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 22:36:49 0
ソシュール言語学にはやっぱり量子論の影響があったんでしょうか?
657 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 22:43:43 O
なにがやっぱりだ馬鹿 影響あるわけねーだろ
どうかんがえても時系列的にあり得ません。 ありがとうございました。
いや、アナグラム研究のうちに予測していたのかもしれない
寧ろ量子論の構築は本質的にはソシュールの業績だと思う。 物理学者のはただの後追い。
火星語研究、誰か翻訳しないかな
662 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 08:14:19 0
>>660 ですよね? むしろそっちのほうの答えを期待していたんです。
663 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 23:21:43 0
量子論と記号学ですか、非常に興味深い話ですが、確かに 一つのものを定義する為にそれ自体を用いて定義することは できないという点で共通項もあります。但しこれは認識論的問題 なのか、それとも人間の脳内の問題なのか。 ナーバスな問題を孕んでいる気もしますが、今一ついい言葉 が見当たらない。
アメリカでは、学問(サイエンス)というのは、「自分の打ち立てた仮説(理論)を、実際の、現実の社会の中でみずから、 ポリシーメイカー(政策立案実行者)として実験してみて、その結果を冷酷に検査すること」なのである。 これを、positivism (人為的実験証明主義とでも訳すか)と言う。このポジティビズムを、「実証主義」などと、訳して、 分かった気になるな。この世で、実証できるのは、自然学問(代表、物理学)系の実験だけだ。こえは厳密に同じ条件で 誰がやってみても同じ結果になるものだから、これは本当に学問(サイエンス)なのだ。 ところが、人間社会を対象にする学問、すなわち、ソシアル・サイエンス(私は、社会学者という訳語が嫌いだ)は、本当に サイエンスとして成立しているか、ものすごく、今でも怪しいのだ。なぜなら、現実の人間社会を使って実験証明(ポジティ ビズム)するというようなことは、できないからだ。ソシアル・サイエンスとは、それでも、一応、次のようなものだ。 人間社会を刺し貫く諸法則を発見すること。かつそれは、個々の人為や願望から独立した客観であり、同一条件でなら、 世界中どこにでも存在するものでなければならない。そしてそれらを、冷酷に記述することである。 だから、これは、文学即ち、=下等学問=夢の世界との混合=人文(じんぶん)=今の北朝鮮の人間たちと同じ =カルトの世界=幼児の並みの人々=なのに自分を知識人だと勘違いしている日本の文芸愛好的読書人階級。 これらの、一切を排除したものの考え方のことである。ところが、このソシアル・サイエンス(政治学、経済学、社会学、 サイコロジーの4つ)がアメリカでも、1980年代に、どうも、うまく行かない、ということが、判明し始めて、それで、 世界的に困った事になったのである。アメリカ行動科学(ビヘイビアラル・サイエンス)という、壮大な学問体系は、 50年代にアメリカで起こり、そして80年代には崩れ去ったのだ。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P37〜38
sage
667 :
考える名無しさん :2007/09/01(土) 19:02:41 0
age
sage
669 :
考える名無しさん :2007/10/13(土) 09:33:40 0
頭の可笑しい言語オタク
670 :
考える名無しさん :2007/10/18(木) 00:19:24 0
ラングって、言語の英語読みのようだね
671 :
考える名無しさん :2007/10/24(水) 21:30:16 0
【新刊】『思想』2007年第11号 特集=ソシュール生誕150年 思想の言葉 野村英夫 デリダからソシュールへ ─「音声中心主義」の行方─ 松澤和宏 ソシュールのグラマトロジー ─『一般言語学講義』を読むデリダを再読する─ 宮ア裕助 比較文法を批判してソシュールが考えたこと 阿部 宏 恣意性をこえて ─概念の設定と共有の問題─ 山口裕之 ソシュールのアナグラム ─シーニュの詩学─ 岡村民夫 テクスト論を試みたソシュール ─『サンスクリット語における絶対属格の用法に ついて』の中で展開された記号学─ 川本 暢 ことばの二重になった本質について 前田英樹 沈黙と饒舌 ─ソシュールとドゥルーズの出会い(損ね)─ 大山載吉 不安の継承 ─ソシュールとバンヴェニスト─ 小野 文 言語システム 河本英夫
sage
673 :
考える名無しさん :2008/01/29(火) 23:33:36 0
674 :
考える名無しさん :2008/01/29(火) 23:36:02 0
675 :
考える名無しさん :2008/01/29(火) 23:38:06 0
676 :
考える名無しさん :2008/01/29(火) 23:43:04 0
「狼」という単語が存在しない地域ってたとえばどこでしょう?
678 :
考える名無しさん :2008/04/02(水) 21:03:24 0
ソシュール研究の世界的権威にくだらない質問をしたオッサン2人はよくよく反省してほしい おかげで質問が打ち切られてしまった・・・
679 :
考える名無しさん :2008/04/04(金) 01:25:23 0
何の話?
量子論の影響はあったと思うよ。 ただし、ソシュールの量子論の理解は生半可だけど。
681 :
考える名無しさん :2008/04/04(金) 16:10:29 0
>>679 デ・マウロが日本にやってきて、公開講義をやったんだ
そしたら、高校の先生みたいな雰囲気のオッサンが
「時枝批判を知っているか」とか「ヴィトゲンシュタインとソシュール学の横断的研究はあるか」とか
講義と関係ない、なんだかわからない質問をしていた
682 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 01:46:55 0
デ・マウロは『意味論序説』でウィトゲンシュタインも扱ってるから、無関係ではないな それにしたって40年前の本だが
時枝批判マジ重要
684 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 14:20:07 0
国内的には重要問題だけど、時枝氏が批判の対象にしていたのは 弟子が編纂した『講義』の、さらにその小林英夫の翻訳で のちに発見された資料にもとづけばその批判そのものがほとんど無効化されてしまう なかんづく、ソシュールにそういう光をあてたのが、ゴデル、エングラーにつづき、デ・マウロその人であってみれば その彼にこんな日本の国内問題を訊くのは、ちょっと恥ずかしいよ
685 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 00:31:26 0
ソシュール理論で革命的なのは 言語に先立って存在する概念、超越的シニフィエを否定し、『言語=名称目録観』を否定したことだけど ラングの中に投げ込まれた俺たちにとっては、構造はすでに完成されてて シーニュは事物の代理であるかのように見えるはずだよね? そのとき、 言語記号の恣意性、示差性、否定性は、一体どういうふうにしたら納得されるんだろう バリバリのチョムスキアンや、唯物論者に、なんていったらいいんだろう ソシュール自身がやったように、個別言語学の具体的な研究を通さないとダメかな? それとも、なんらかの生産活動を通して、俺たちでも直接経験しうるものなのだろうか・・・ 「動いているのは太陽」だというのは、自然な実感だけど 天動説より地動説のほうが、計算モデルとしてはるかに説得力をもっている また、無意識は目に見えないけど、催眠術などによって、かなり説得力をもって示せる さっきいった言語記号の性質は、どういう場面でいちばん説得力があるのかな・・・・
686 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 00:42:26 0
日本のソシュール研究は事実上、丸山でストップしたまま。 ソシュールに忠実というよりも、多少問題があっても進歩的な方が面白い。 そういう意味において、丸山はそれなりに頑張ったよな。
687 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 00:53:49 0
うん、俺は好きだったな丸山圭三郎。楽しさを教えてくれた どこまでがソシュールで、どこからが丸山の思想なのか、区別がつかないほどに深く読み込んでる そういう形でしか、生きた思想は伝わらんよね あの時代、1980年代の日本の現代思想ブームもかなり追い風だった
688 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 01:01:23 0
よく丸山を批判する言語学者がいるけれど、そういう学者ほどちゃんとした ソシュール研究の本とか出していないし、実際、丸山の「身分け」「言分け」って かなり鋭い考え方だったと思うしね。 後期の丸山みたいに、挑発するくらいの思想でないと、書く意味がないと思うし…。
689 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 01:31:58 0
まあ、ソシュール思想の本質のうちには、認めるか、認めないか、っていう決定的なところがあるからね いまやってる仕事の土台を崩しちゃうから、きっと劇物のように、扱いに困るんでしょう 言語学者は狭い意味での科学的であることにこだわるし(自然科学の模倣としての) せいぜい、「二人のソシュール」「三人のソシュール」のうちの一人目だけをとりいれるのが精一杯・・・ 言語が哲学的考察の対象だったりした形而上学的な伝統がなく 単に言語学的分析の一技法として矮小化して受け止めてしまうと、その発展性はわからない気がする 丸山さんは文学畑の出身だそうだから、そういう偏見から最初から自由だったのかもね 「身分け」「言分け」、用語としても優れていたね ソシュールも考えに考えた末「シニフィアン/シニフィエ」にたどりついたそうだけど 同じぐらい、訴えかけてくる・・・日本語にうまくのってる。腑におちる
690 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 01:46:00 0
丸山の言語学者としての活動期間は実質十数年だから、 そう考えると、凄い人だったよね。 廣松渉と対談している本があるけれど、むしろ廣松の方が劣勢だったし。
691 :
8 :2008/04/12(土) 16:58:11 0
仕事が急がしすぎてごぶさたしてた。 ネットが発展する前に丸山圭三郎氏は亡くなってしまいましたが、 むしろ現在の方が記号学として、現在の構造を分析すると非常に示唆 することは多いと思う。グーグルやヤフーといった検索エンジンがもたらした 新たな記号構造と統計分析による情報の「振るい落とし」は如何に不自由 な問題をもたらしたか。
692 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 17:02:32 0
sage
693 :
考える名無しさん :2008/04/13(日) 00:26:28 0
>>691 ネットの言説空間で、いくつかの「中心‐周縁」を生み出している、と思う
黎明期におけるインターネットは、書籍や論文の検索・引用を助ける、中心集約的な、
おそらくは「理性的な」システムだった
だが読み手=書き手の相互性が高まると、たとえば狭義の「意味」だけではなく「感情」も示唆するようにもなる
これまで以上に大量の規約(コンベンション)の使用によって、それは可能になる
ネットの特色として、その規約がものすごい速度で更新され続けている
記号としてリッチになったかというと、そうではなく、むしろ言説以前の何かを暗示する、
シグナル的性格が強化されているように思う
言語も商品のロジックに近づく
(SEOの問題、検索されやすいユニークな商品名、IMEが好んでおこなう変換への傾き、等々)
ネット利用者は、それぞれが属する言説空間に、溶けるようにして同一化していくが
それらの「島々」を結びつける、架空の国家がGoogle
ネットの言説を二項に分ければ、Googleでの検索を想定している/していない
になるかと大げさに空想してみた
694 :
8 :2008/04/13(日) 06:42:01 0
速度の問題がありますが、極めて相対的な尺度でしかない。 量的に随時更新されていく「情報」は、或る意味巨大な「脳」の様に ある中心がある様に見えて、その「情報」の関係付けているだけに 過ぎないのではないだろうか? 脳に障害が生まれると「世界認識」にずれが生じるから、重要な器官 であることは間違いないけれども、そこが「中心」で全てであるかという とそうではない。身体と脳が「関係」を持つからこそ、そこに、ある「精神」 とか「力」なるものが生まれてくるわけです。 関係を持つこと、情報の「交換」による巨大な「感情」を生み出す言説 「空間」としてのインターネット。Googleがこれほど巨大な「空間」を 生み出すに至ったのは、フリーソフトの「再配分」しているからであり、 広告収入という「税」が収入になるわけであるが、ここに強制的な営業 があったわけではなく、これは経済人類学的には「自主的」な<互酬> から発生している。このことがとてつもなく重要なことです。
695 :
8 :2008/04/13(日) 06:51:48 0
Linuxが良い例で、このOSはソースコードを公表していることが、ある意味 「平等性」と「利便性」があるわけで、MicrosoftもこのOSについて、当初は 裁判による法的措置を取ったが、EUからは「独占禁止法」で訴えられる羽目 になった。何が言いたいかというと、フリーソフトを提供するこということは、 その収入は「募金」か「広告収入」しかないわけで、このインターネットという 空間は市場交換より、互酬や再分配のほうが巨大な影響を与えていること になる。考えてみれば当たり前のことで、人間の生理から言えばこの方が、 人間の「自然」に近いからである。このことは、M・モースの「贈与論」(絶版) を読むとよくわかる。
696 :
8 :2008/04/13(日) 07:14:12 0
経済学的な話が出てきているからソシュールとどう関係があるという 声がありそうであるが、交換価値としての「貨幣」や「金融」もある意味 記号でしかない。しかしその「記号」であるが、単なる「記号」ではない。 ボードリアールはこの点が全然弱い(バタイユを持ち出したいけれど 出せない事情があるとしか思えない)。展望や処方箋を持ち出すくらい は親切心というものだ。 言語(記号)空間であるインターネットの問題は、記号学で読み解く と非常に面白い。古代の中国では、自分の不満や意見を演説できる 壇上があって、そこでは何をいっても問題ないという公開演説場が あったそうだ(現在の中国では考えられないけれど、中国はどうも退化 しているらしい)。そこでは当然野次もあり、聞かない自由もある。 しかしそれ故に精錬されて「公共性」が生まれる。しかしインターネット に唯一中心があるとすれば、WWWしかないわけで、これはアメリカ にあるわけだ。もともとインターネットはアメリカの軍事目的の情報網 から生まれているわけで、実際は色々なサイトを自由に閲覧できる 権限をアメリカ軍は持っているはずである。
697 :
8 :2008/04/13(日) 07:19:50 0
しかしそれを閲覧したからといって極めて重要な「政治的」な内容や 放って置いても問題のないものは何もしないのであろうが、閲覧や 削除を自由自在にできる権限をアメリカが持っていることは覚えてお いて損は無いであろう。
698 :
考える名無しさん :2008/04/14(月) 01:00:46 0
ベルクソン的な脳機能観ですね ネジが一本欠けただけでも機械は正しく動かなくなる、だからといって、ネジがその機械全体を代表しているわけではない あるいはまた、洋服が掛けられているフック……そのフックが落ちれば、洋服もいっしょに落ちる、だからといって、フックを検査してみてもその服の何かがわかるわけでもない とはいえ、ここで脳のたとえを持ち出された点については困惑をいなめません なぜなら私は、唯一の中心ではなく、いくつかの、いえいくつもの中心が錯視されることについて語りたかったのですから 速度の問題は、相対的ですが、そのゆえにこそ重要であると思います 何に対して相対的か?ネット外の言説に対して、です。とくに、新聞・雑誌との対比が興味深いと思われます Googleがもたらした革命は、言説から、そのテンポラリー性を薄めたことにも見受けられます。検索を実行すれば、今日のデータと、一年前のデータが、同じ平面に現れます ではこの際、情報としての価値を示す指標は何か?それは鮮度ではありません その筆頭は、おそらく被リンク性、すなわち他のテクストとの相互連関性です 私はそこに架空の引力圏を見ました 南極のペンギンたちが、寒風に耐えようとして「押しくらまんじゅう」をする光景をご覧になったことがありますでしょうか。外側にいるペンギンは、寒いので、なるべく中へ中へとずれ込もうとしているのだそうです そして、いまひとつの指標は、検索ヒット率、ある検索語句を通して検索されたとき、求めていたものとしてそのページが選ばれる度合です このとき、検索者が探していた、想像の裡のページと、実際に検索されたページは、範列的な関係にあるとはいえないでしょうか Googleとは、地理的にも時間的にも離れた言説を、検索語句によって束として結びつけ、パラディグマティックなジャンプを可能にする装置なのではないでしょうか
699 :
考える名無しさん :2008/04/14(月) 01:01:52 0
Googleが「知の再分配」のメディアであるという観点から語られることがありますが
そのためにはまず何を再分配しているのか、の検討が必要になるでしょう
フリーソフトの概念ですが、このフリーは「有償」の対立項ではなく、プロプライエタリとの対比において、ユーザが自由に中身を閲覧し、改変することができるオープン性に力点があることはいうまでもありません
たしかに、プレーヤ・ビューワ、あるいはゲームなどでは、それ自体が「遂行的」であり、データはそこで行き止まりを迎えます
しかし、大多数のツール、あるいは基本ソフトウェアにあっては、それは新たなデータを生み出すための装置であります(掲示板、ニコニコ動画、2ちゃんねるの「絵師」など)
個々のソフトウェアが果たす役割についてさらなる分析、分類が必要でしょうが、概観的には以下のようにいえます
データが、データを加速度的に、累乗的に産み出しているのがこれまでの経緯なのだと
(商品の喩えは、このような観点から持ち出したものです)
「贈与」について語られるのは、もっともです
フリーソフトは元来、見返りを求めて作られ配布されるものではないのですから……(シェアウェアとの違い。また、最近、βバージョンをフリーで提供し、製品バージョンは有償で、という販売戦略もありますが)
オープンソース・ソフトの開発者は、それで収入を期待しているわけではないでしょう。彼らを動かしているのは、集団的・集中的な営みによって「より良いソフトウェア」を作り上げたい、という情熱なのではなかったでしょうか
モースの「贈与」も、けっして無償で与えられるものではなく、むしろ贈られた者に返礼を促す「重荷」であり、交換、循環をうながすものでした
(企業としてのGoogleの収入形態と、フリーソフトの提供者の目線は、同列に語れるものではないと思います)
インターネット、そしてその前身のARPANETが軍事目的、とくに核攻撃後の運用を目指して開発されたものだ、という説は一般に広く受け入れられていますが、それ以外の角度からの歴史の掘り起こしも行われているようです
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2-%E5%96%9C%E5%A4%9A-%E5%8D%83%E8%8D%89/dp/4791760212
700 :
8 :2008/04/14(月) 23:52:12 0
>>698 突然内容の飛躍があったことは申し訳ありません。
この点は順を追って説明する必要に感じます。
まず、大脳の「構造」が「身分け/言分け」構造と非常に親近性があるという
こと。大脳新皮質が過剰に発達した人類は「言分け」構造そのものを肥大化
して、尚且つその欲望=エロティシズムをセーブする歯止めが逆に油圧エンジンを
圧縮する如く、そのまた次のエネルギーを爆発的に生み出すサイクルへと
変貌する。「身分け」とは、人類以外にも身体として持ち得る「構造」ではある
が、それは人類以外は「身分け」を「意識」できない。人類以外は無意識の海
を漂う存在である。
701 :
8 :2008/04/15(火) 00:06:58 0
>なぜなら私は、唯一の中心ではなく、いくつかの、いえいくつもの中心が錯視されることに ついて語りたかった 世界の中心から外れてしまったという意識は、 「境界」を作り続ける存在としての「言語」が過剰に噴出した結果ではない だろうか。そもそも、M・フーコーによれば、「人間」という言葉はたかだか 300年程の歴史しかなく、それ以前に「人間」は「存在」していなかったと 言った。このことは「言語」が自己の世界を逆規定しているということを いいたいわけだ(ソシュールと合わせてフーコーを語らせると面白いかも しれない)。それ以前は相互に蛮人扱いや、そもそも同じ血を持つ存在と は見ていなかったし、相互の民族を化け物扱いや妖怪や物の怪の類に 見えていたという。このことは、民俗学や文化人類学の著書を読めばいく らでも例は見つかる。人種差別や民族対立がそうは簡単に無くなりはしな いのは、そもそも、自分以外にある種の「断絶」があるからだ。
>>700 >人類以外は無意識の海を漂う存在である。
アホ〜。
無意識は言語によって作り出されたもの。
亀に無意識があるかボンクラ。
703 :
8 :2008/04/15(火) 00:13:32 0
そもそもこれだけ「言語」が氾濫している時代は近代から現代にかけて のある種の「特殊」な状況であるという歴史認識を持つ必要があります。 ブッシュマンの夫婦は朝から晩まで終始ほとんど会話をしないという。 それは、互いを分かち合えた存在だから(文明人とやらはその内容を クサイとか揶揄するだろうが)、もしくはその必要がないからである。 だが、現代における「言語」の氾濫が騒がれて久しいが、これだけ情報 が生まれては消えていくと「共同幻想」を形成するゆとりもなく、ある種の 手ごろなコニュニティに「引き篭もる」人々があとを絶たなくなるのは、 「情報の洪水」を防ごうとする一種の防御反応なのかもしれない。
704 :
8 :2008/04/15(火) 00:17:16 0
>>702 無意識というのは意識の対立の言葉としてしか存在しない
から貴方の指摘は正しい。されど、それ以外のうまい言葉が見つからない
ので良い言葉があれば教えていただきたい。私もそれは重々承知
で使用してますが。
705 :
8 :2008/04/15(火) 00:21:15 0
>>702 そのことは承知してますが、うまい用語が思いつかなかった
のです。無意識が意識の対立からでしか存在しないのですから、
貴方の指摘は正しいです。されど、「魂」とか「精神」というのも少し
違う気がする。(亀に「魂」があるのか?それは観察すれば分かる
と思う)
706 :
8 :2008/04/15(火) 00:27:35 0
同じ内容を2回書き込んでしまったのですが、 そもそもこの内容を踏み込むと、生命の問題に究極のところ 行き着いてしまうので、それは別の機会に書き込みたい。 無意識とは「言語」である。だが、それはA=Aといっているに過ぎない わけで、それでは論理学の証明となんら代わりがない。されど、 <暗黙的>に<理解>される構造が<言語>は確実にあるわけ で、そこのことを今のところは突き詰めていきたいと考える。
>>705 >無意識が意識の対立からでしか存在しない
そこも違う
意識と無意識は二項対立ではありません
精神活動の両面であり、基本的には同じものの違った領域というだけのこと。
708 :
8 :2008/04/15(火) 00:33:46 0
J・ラカンは「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」 といったが、それ以上の深い追求がなく、それこそ、鏡像段階の理論 の様に堂々巡りではないだろうか?そこで、私は全く別の切り口を意図的 に放り込むことで、議論の硬直化を避けることは意図的にしてますの で議論の飛躍があればご了承下さい。説明しますので
>>706 >無意識とは「言語」である。だが、それはA=Aといっているに過ぎない
わけで、それでは論理学の証明となんら代わりがない。
そこも違うんですよ
言語は無意識の条件なんです。
言語≠無意識ということです。
あなた波兵くんでしょ?
もう少し基本的なことを勉強した方がいいですね。
小難しく分ったような文章を書いても、無意味ですから。
710 :
8 :2008/04/15(火) 00:38:28 0
>>707 言葉の定義の問題にもなりそうですが、言語によって「境界」
が生まれる以前ならそうでしょう。されど、ユングやフロイト等の定義する
この意識と無意識とやらは対立ではないにしろ、言葉を定義するには
非常にやっかいなしろものですよ。貴方はどうお考えですか?
>>710 ここはソシュールが主のスレですよね
ならば、ソシュールによる定義そのままです。
それが質問の答です。
712 :
8 :2008/04/15(火) 06:53:53 0
>>709 あなた波兵くんでしょ?
残念ですが違います。ぴか〜=波兵というのはわかりますが。
>>710 あとソシュールは生前に「無意識」という言葉は一度も使用してません。
「無意識」という言葉は始めて使用したのはフロイトです。もっとも、ソシュール
もそれに近いことは、ラングやパロール(発話行為)等で色々と述べてますが。
713 :
メタP ◆p1AdJ397o. :2008/04/15(火) 10:19:27 0
>J・ラカンは「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」 >といったが、それ以上の深い追求がなく、それこそ、鏡像段階の理論 ラカンはそこから、シニフィエに対するシニフィアンの優位、 シニフィエのシニフィアンの連鎖へ向かうわけです。 構造主義言語学を大胆に取り入れていきます。
714 :
8 :2008/04/15(火) 23:24:04 0
>構造主義言語学を大胆に取り入れていきます。 この点については同意します。 S SA=S ― s SE=s と表記した。 シニフィアンの優位があることを見抜き、 ソシュールを大胆に取り入れている。 どこに表記されてたか忘れましたが「魂は、身体に対する無意識の機能 の総計による仮説」である。と述べた箇所でひどく印象に残っている。 では、なぜそうなったのか?問題はその先ではないだろうか。
715 :
8 :2008/04/15(火) 23:33:47 0
実は、私は色々工夫して比喩的な表現を駆使している点でラカンの スタイルは面白いのだろうとは思う。晦渋極まる表現が多すぎるのと 逆説的表現が多いので、私にはどうしても好きになれないが、 自己を形成するのに、<他者>を媒介しなければならないという危険 を犯す必要があるということに気づいており、「他者の欲望」を媒介する ことが自己に接近する近道であるという逆説がなりたつことを述べている ところは、なるほどと思わせた。ただ、ラカンのスレではないので、 この辺でやめておきます。
>>714 この板でソシュールや構造言語学について語れる人間はいないから
反応は期待しない方がいいよ
ラカンはならそれ以上に誰も解っていないし
717 :
メタP ◆p1AdJ397o. :2008/04/16(水) 00:07:05 0
ソシュールを大胆に取り入れている? ソシュールのs/Sと、S/sと転倒する。 そしてシニフィアンの連鎖・・・シニフィエは延滞される。
718 :
8 :2008/04/16(水) 20:56:39 0
名づけることで、世界に「境界」を生み出す。有名な話ですが虹が七色と 日本人は認識してますが、別の国では六色で、その差異が視覚レベルでも 初めは認識できない。外部からその「定義」や「説明」があって始めて 「理解」が及ぶ。 このことは重要で、フーコーの述べる様に、現代で言うところの 「人間」はたかだか300年程度の歴史しかないわけで、「愛」という言葉は もっと古いであろうが、それでも1万年もあるとは考えられない。その行為 を名づけることで初めて社会的認識に到達するわけで、パロールからラング、 ランガージュとシフトされる認識論は重要である。そもそも、その「名づけ」 が生じるまでその問題は存在しなかったわけで、「いじめ」もその行為自体 は過去からずっとあったが、共同幻想を帯びて初めてそれは「問題」として、 理解された。それはある「共同幻想」からずれや、亀裂が生じることで生ま れる。従って、文化人類学的な理解とまた、「問題」を「問題」として理解 されるという、ある意味<哲学的>な苦悩や、認識が生じるという根本的な 追求が出てくる。
719 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 22:10:05 0
視覚は数千万色を見分けている。 これに比し色彩に関する語彙は極めて貧弱で、 100通りも色の名前を知っていればいいほうであろう。 言語化(名付け)するとは極めて祖雑な抽象であるといえる。 しかし、名付け以前にそもそも問題が「無かった」というものか どうかは別である。
720 :
8 :2008/04/16(水) 22:46:32 0
付け加えておくと「無かった」というのは語弊があるかもしれない。 人間は見たいように<暗黙的>に事物を見ているのであって、それを 意識的に制御しているわけではない。これは錯視やだまし絵を見る とある「条件」を持って<経済的>に認識していることに気づくことも ある。つまりそこにはE・マッハの言う「認識の経済」が働いていると いえる。潜在的にある「問題」あっても顕在化されるのは、ある文化の 共同幻想や共通感覚のずれや亀裂が発生することで生まれる。 従って、意識的はほぼ顕在化されない「問題」という言い方が正確で しょう。
721 :
8 :2008/04/16(水) 22:58:36 0
さらにその共同体が共有する言葉で表現したとき、その言葉(ラング) が逆作用を及ぼし、人間の意識や無意識を縛ることさえある。 日本語はその意味で<特殊>な言語ではあるが、外来語をカタカナ 表記することや、音読み、訓読みで、外国のラングを防ぎつつ取り入 れるという器用な言語スタイルを持つ日本語というシステムは、ある 地層(深層)を突き崩すことなく堆積させている。 英語になるとsushiやotakuとかmangaという日本語がそのまま取り 入れらたが、これが100年や200年とか長い時間が経つと多くの人々 から辞書やネットで調べない限り明瞭に語源が理解できなくなるだろう。
722 :
8 :2008/04/16(水) 23:07:15 0
アメリカはその地層が浅い為、その深層の中心を持つため、「正義」 なるものを振る回し、正義の名を借りた戦争に駆り立てる。なぜ戦争 に駆り立てるかと言えば、共同体の共同幻想が著しく崩れてきたため、 その恐怖から共同体が<外部>にそのアイデンティティの補完ゆえに 戦争することで、優位の満足という形で補填をするわけである。 多くの人がさすがに理解しているとは思うが「絶対的な正義」なる ものは存在しないし、極めて主観的かつ相対的な概念である。 こんな事例は数えきれない程歴史の本にはあるので取り上げないが いやという程見せ付けられているはずです。
723 :
8 :2008/04/16(水) 23:14:33 0
道徳も相対的な概念である。F・ニーチェが「道徳の系譜」で取り上げて いる様にある種の階級による相対的な観念として認識され記述されている。 そもそもソシュールは生前に1冊の本も出版していない。彼の弟子達 による講義録「一般言語学講義」もひどく歪曲された(あるいは原意から外れた) 解釈がなされている。丸山圭三郎はこの点を丹念に研究したので、 ソシュールがこういったからこうだ、という意見はあまりに粗雑な話に なるし、スレがいくつあっても足りないので詳しくは 丸山圭三郎著「ソシュールの思想」(岩波書店) を参考にしてください。
724 :
考える名無しさん :2008/04/16(水) 23:31:26 0
>>8 「共同幻想が崩れて」これは幕末の状況でも同様で、庶民は依拠すべき
「お上」(権威)を幕府から朝廷に乗り換えたのであった。
しかし、その由縁は外圧にあったのであって、内発的な変革とは言い難いもの
であった。
この場合「正義」は単に「グローバルな状況への無理な適応」だけであって
現今の日本と何ら変わりはなく、違いがあるとすれば「国民国家の終焉」であろう。
725 :
8 :2008/04/16(水) 23:49:34 0
>>724 この辺は岸田秀の「ものぐさ精神分析」(中公文庫)に書かれて
ますね。「正義」なる言葉が一人歩きしています。そもそも外圧が
あったからこそ、「正義」というヒステリーが起こったとも言えるし、
もともと人間が社会を形成するのは、外部(他界)に対する恐怖
の所以です。
>>721 で語った通りで、ラングは共同体の人間の意識や無意識を
縛りに掛かった典型的な例として記述してます。
>>724 いい加減なこと言ってやがる。
外圧って何よ。説明してみなよ。
坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟らの動きは何よ。
外圧を持ち出すのはメタな説明を要するからでしょ?
727 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 07:11:58 0
8は相当頭よさそうですね by1分で流し読みした素人
728 :
考える名無しさん :2008/04/25(金) 07:58:57 0
自演乙
8はパレルゴンw
何故、今更…
731 :
家出猫 :2008/04/25(金) 18:16:46 0
実存主義がなぜ否定されるのかクマでもわかるように説明してくれ とくにサルトル
「実存が本質に先立つ」とか、自分と他者とか、主体と歴史とか の二項対立の構図に一貫して見られる<主体>偏重の <主体>概念が古臭い
>>731 「実存が本質に先立つ」とか
よく考えたら
「意味不明なこと」
だった。
734 :
考える名無しさん :2008/04/26(土) 22:13:02 0
実存主義 (じつぞんしゅぎ) とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在 (essentia) に対する現実存在 (existentia) の優位を説く思想。 実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して「実存」とした。語源はex-sistere (外に立つの意) 。 古代哲学では、ヘラクレイトスのロゴスの思想の影響下に、イデア論を構想したプラトンを批判的に継承したアリストテレスが、 第二実体 (普遍者) と第一実体 (個物に対応) との区別を提唱し、これが継承される形で、中世哲学で、本質存在と現実存在との 区別が説かれるようになった。普遍論争では、本質存在の優位を主張する実念論と、現実存在の優位を主張する唯名論が対立 した。
735 :
考える名無しさん :2008/04/26(土) 22:13:20 0
近代哲学では、ヘーゲルが、理念と現実との不可分性を説いて 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的」であると した。これに対抗して、神の前に立つ単独者としての、自己自身の 「実存 (existenz) 」を問題としたキルケゴールは、実存哲学のはし りともいわれる。 「主体性が真理である」として神から与えられた可能性を実現する ことに生の意義を見出したキルケゴールに対して、神の死を宣言し、 能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否 定する実存主義の系譜の先駆者として、1930年代、ドイツのマルテ ィン・ハイデッガーやカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が 図られ、第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせることになる。 第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった 実存主義は、サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きる ための自己拘束) の思想に見られるように社会参加色が強く、 1960年代の学生運動の思想的バックボーンとなった。 この制度に対する個人の重視 (主にサルトルの思想) は、1970年 代に入ると、構造主義などから批判を受け、低調になっていくが、 実存思想そのものは広く受け入れられた。 また、同じく「私」に焦点を当てる芸術や文学、心理療法との相性 も良く、特にロジャースらが始めた心理療法には「今、現にここに 存在している私」を問題とする実存主義の強い影響が見られる。 実存主義を哲学のみならず、文学、芸術などにも拡大解釈する場 合 (オットー・フリードリッヒ・ボルノウなど) 、パスカルやドストエフス キー等も実存主義者だと解される場合もある。
736 :
8 :2008/04/26(土) 22:22:55 0
実存「主義」となったことで、バルトやフーコーに批判されているけれど、
そもそも、「私」なるものは、「外部」から制限、制御されたもので、
ほとんどが、意識によって、理性によって支配しきることは不可能で
しょう。どうも欧米はそこをなんとかしようと四苦八苦しているけれど、
ソシュールから連綿と続く「構造」を問題にした人々は(構造主義と
言いたいけれど「構造主義」を謳ったのはレヴィ=ストロースだけな
んだけどね。今年の11月で100歳なんですね、びっくり)
>>729 パレルゴンじゃないですよ。そんなヒマじゃないですし
737 :
8 :2008/04/26(土) 22:29:13 0
文章が途切れてしまった。 ソシュールから連綿と続く「構造」を問題にした人々は人々の周りに や人間の内面で制御できない「存在」を問題にしたわけで、それを、 「構造」として記述しようとしたわけです。バルトが「モード」を問題に して、「テクストの快楽」によって、言語による言語の解体をしようと したのかは、社会なる奇怪な存在そのものが、現代人の尺度からは あまりにかけ離れてきて、逸脱、暴走が始まったことも原因の一つ であろう。 「構造分析」の手法はまだ有効な部分もある。だが、それを唯一無二 の方法とするのには意義を唱えるけど。あらゆるベクトルで分析するのが 有効。
738 :
考える名無しさん :2008/04/26(土) 22:50:16 0
ハイデガーを実存主義の系譜に連ねるのは、誤解だろう(由ないことじゃないが) ソシュール自身は、構造が第一義とまでは言ってないよな 第2回講義なんかで、単位が生みだされる過程に心を砕いてるのを見るかぎり ハイデガーの気遣いとかに近い、心的な過程を強く思い描いていたように思う そこで話者の主体性、意志か無意識か、という問いを立てちゃうと、アポリアになる
>>731 本質ってのがある。この本質とはラベルみたいな物であり、
このラベルは貼ったり剥がしたりすることが出来る。
本質存在のラベルを、貼ったり剥がしたりする事が可能なのが、
現実存在である。つまり実存であるこの私である。
しかし構造主義は、「そんな簡単にラベルを張り替え出来るものではない」と
批判する。構造主義にとっては、ラベルも構造の一部であり、
本質と実存は相互に影響を及ぼし合っているから、実存だけを優先的に
見るのはおかしいのだ。
例えば、日本で生まれ育った人が、ある日アメリカに移り住んだとしよう。
そこでラベルだけは「日本人」から「米国人」に変えることは出来たとしても
どうして日本人から米国人に変えようとしたのか? その行動は無意識の内に
構造によって決められているのだ。実存が本質のラベルを貼りかえたのは正しいが
その実存の動きは構造に決められている。
モイラ=マサーハル〜 あの本、版元切れかよ・・・初版美品もってるんだが、恐くて書き込みできなくなった
これ、何年ごろの著書? 文化のフェティシズム以前?以後?
>>742 本書は、1994年4月20日、夏目書房から刊行され、2001年4月25日、
改訂新版がちくま学芸文庫より刊行された。そうです
>>744 記号学の入門としてはコンパクトで、わかりやすい。
ただし、或る程度勉強した人には物足りないかも。
「現在を生きることは<死を包みこんだ生>をピアノ・フォルティシモに味わうことであって、 いつかは<死に至る生>を慌ただしく享楽することではないように思われる。」 を実質的な擱筆とした丸山カッコヨス
747 :
考える名無しさん :2008/06/03(火) 19:44:12 0
カコヨス
ソシュール「一般言語学講義」〜コンスタンタンのノート
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3% 83%AB%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E
8%AC%9B%E7%BE%A9%E2%80%95%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%
E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/413080250X
バイイとセシュエが編集してしまった「ソシュール一般言語学講義」(岩波書店)
のものよりかなり精緻で、よくまとまっている。また訳文もかなり平明で、↑の
様な読みにくさが少ない。
これと合わせて、丸山圭三郎の「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」
(岩波書店)を読むといい
749 :
考える名無しさん :2008/06/22(日) 21:11:52 0
>>748 丸山圭三郎が「量と質においても他の追従をゆるさないもの」という
お墨付きだそうです
「1958年初めにゴデルが第二回講義の聴講生ゴーティエから入手したコンスタンタンのノートは、 全くの新資料として注目された。これは、第二、第三回の講義を詳細に記録したもので、 特に後者については、『講義』の主要部分を成しているデガリエの第三回講義ノートを 質、量ともに大きく上回っている(デガリエの8冊283ページに対し、コンスタンタンの11冊407ページ)。 この新資料は、エングラーの『校訂版・一般言語学講義』に収められ、以後の研究に 重要な足がかりを与えた。」 (『ソシュール小事典』大修館書店 p95) こういう有意義な翻訳が、手に入れやすい価格で発行されるのはありがたいね まだ読んでないけど、中身は、第二、第三回講義からの抄訳? それにしても、リードランジェもコンスタンタンも、よくあれだけの分量を講義中にノートできるよなあ…
751 :
8 :2008/06/23(月) 18:55:28 0
>>750 第三回の1冊〜3冊の途中、7冊〜10冊までとのことです。
残りは写しから書き起こすことが困難であったこと等から訳出してないとのこと
752 :
8 :2008/06/23(月) 18:55:51 0
>>750 第三回の1冊〜3冊の途中、7冊〜10冊までとのことです。
残りは写しから書き起こすことが困難であったこと等から訳出してないとのこと
753 :
8 :2008/06/23(月) 19:04:51 0
書き込みがダブってしまいました。 書店にあったので購入してみました。 1冊\3,000なのに購入してみました。100年以上前の本とは思えない程、 面白い。何より、読み始めからヨーロッパの方言が地域語から国語になる というシステム的な分析は現在でも有効な程するどい。なぜソシュールが 長期に渡って読まれてるか改めて分かる。飽きがこないからだ。
ありがとう 『講義』に正面からぶっつけてきたわけだ その成立をあらためて批判しよう(洗い直すという意味で)という意図はあきらかだね 「私にとって興味を持ち続けていられるのは、つまるところ、個々の言語の、目を楽しませる 側面でしかないのです…つまり、ひとつの言語が、これこれの起源をもったどこかの民族に 属するがゆえに他のすべての言語と異なると言えるような、ほとんど民族史的な側面にしか 心を惹かれていないのです。 (中略) 一般的言語とはどういう種類の対照であるかを示す必要性が、絶えず私の歴史に対する 喜びを損ねてしまうのです。ところが私はといえば、一般的言語にかかずらわないで済むこと ほど願わしいことはないという人間なのですから皮肉なものです。」 (1984年1月4日付 メイエ宛書簡) このへんのジレンマ、興味深いですよね 神は、その重荷を背負えるだけの力をもつ人を選んで、それを背負わせる…という
>>748 第三回講義だけなんだよな、それ。
第二回講義がないし、結局資料だから
断片的なノートの翻訳で読みにくい。
一般の読者にはバイイとセシュエが編集した版で十分。
実際こちらの方がソシュールのテキストとして影響力
をもったのだし内容的にも厚いのだから、
早くこちらの新訳版を出して欲しいよ。
とりあえずデ・マウロ『校注』復刻すべきだな 『講義』はソシュール言語学の、というより構造主義のバイブルとして有名になりすぎた 『講義』というテクストにたいして豊かな倍音を奏でた反論も数知れないから、一度は踏まえるとして 最初に読むのはどうなのかな…という気もする
>>755 バイイとセシュエが編集したものを最初に読むのはどうかと思う。
内容的には厚いかもしれないけれど、順序が錯綜していたり、十分に
内容が精査されていないところもある。影響力があったことは認めるが
必ずしもそれが読むに値するかどうかは疑問が残る。丸山圭三郎氏は
その内容をラディカルに「ソシュールの思想」「ソシュールを読む」で
追求しているし、始めはこちらから読むのがいいと思う。それから、
「講義」を読んだ方がいいと考える。十二分に整理してから取り掛からない
と混乱を引き起こしかけない。まあ分かってる人は別と思うけど。
758 :
8 :2008/06/25(水) 12:36:36 0
>>748 2/3読んでみた。文章の流れは分かりやすい。
ただし、ランガージュ、ラング、パロールを言語活動、言語、発話等に訳す
が適当かどうかは疑問が残る。ランガージュは言語のシンボル能力のことを
指しているし、ラングに関しては社会的な概念も含めているので、この辺は
読んでいく上で踏まえておいたほうがいいでしょう。
前田英樹が『ソシュール講義録注解』のなかであたえた注が秀逸と思うので引用。 amazonに新品在庫がまだ一冊あった 第二回講義 1908年11月30日 「水と空気の比喩。大気の圧力が変化すれば、水面は一連の諸単位に分解される。それが波、 =実質を成さない仲介の連鎖だ。この波動は、思考とそれじたいでは無定形なあの音連鎖との和合、 何なら交配を表わすといってもいい。それらの結合は、一個の形態を生みだす。」 ↓ 「一個の形態」はune forme で、これは「形式」「形相」の意味にも解しうる。実際、バイイとセシュエの 解釈はそうなので(…)ソシュールにとって「形態(forme)」とは「単位」の別名、ややできのわるい別名 にほかならないだろうが、バイイとセシュエには彼が使う波の比喩は言語が実質を還元したあとに残る 形式体形(形相)であることを示すたとえに映っている。形式体形としての言語という発想は(…) 二十世紀のあらゆる関係論的思考に流れこむ源流のひとつなのだ。 この源流を創ったのはバイイとセシュエであって、ソシュールではない。 それなら、波の比喩はいったい何を語っているというべきか。講義録の文脈はこれ以上ないくらい あきらかだ。言語が音を「素材」とすることは重要ではない。重要なのは、それが視覚=空間的でない こと、その発生が<図>対<空虚>の二項対立に還元しうるものでないことである。 波が「単位」の比喩であることははっきりしている。ひとつの波はべつの波から分離し、つぎに起こる 波のしたに消えかかろうとする質的差異化の持続のなかでしか<ひとつの単位>ではない。 「思考=音」が実在する質であるのは、その実在がとりもなおさずそうした質的差異の自前の産出 であるからなので、差異ないし「区分」をあらかじめ支え、受け入れるような<思考>と<音>は、 つまり「実質」は、はじめからどこにも存在しようがない。そういう「実質」をただ一回きりで区切り、 居座ってしまう「形相」とは何だろう。 つまるところ、「形相」の観念は視覚=空間的なひとつのイメージに依存しており(…) 波の比喩が拒んでいるのは、視覚=空間的な差異の原理だが、バイイとセシュエは、この比喩 じたいがすでに持っていた視覚=空間的な性質を新たに、徹底的に引きだしてしまう。
「形式体形」は「形式体系」のタイポでした。謹んで著者にお詫び。 第二回講義の前半4分の1の「序説」とよばれる部分を訳出し、かなりディープな注をつけてある スタティックな構造に還元してしまえない、動きとしての記号単位の発生に注目した、 ベルクソンとソシュールの対話みたいな読み ときおり、表現がちょっと詩的すぎる部分もあるけど、なかなかの好著だと思う
761 :
8 :2008/06/28(土) 20:43:30 0
>>759 この辺りは丸山圭三郎著「ソシュールを読む」(岩波書店)(絶版)
にかなり突っ込んだ読解(P41〜44)があるので、調べてみるといいでし
ょう。
ソシュール「一般言語学講義」(岩波書店)(小林訳)断章1828〜1831
「思想と向かい合っての言語(ラング)独特の役割gは、観念を表現するため
に資料的な音声手段をつくりだすことではなくて、思想と音との仲を取り持つ
ことである。ただしそれらの合一は、必然的に単位の相互限定に落ち着くこと
になる。ほんらいこんとんたる思想も、分解するや、明確にならざるをえない。
それゆえ思想の資料化があるわけでもなく、音の精神科があるわけでもない。
いささか神秘めくが、「思想・音」は区分を内含し、言語は二つの無定形のか
まりのあいだに成立しつつ、その単位をつくりあげるのである。なんなら空気
が水面に接触するさまを想い浮かべられたい。気圧がかわると、水の表面は
分解して一連の区分、すなわち波となる、この波動こそ、思想と音的資料との
合一の・そしていわばつがいの観念をいだかせるのである。」
762 :
8 :2008/06/28(土) 20:50:42 0
そして、原資料のリードランジェのノート(丸山訳) 「ランガージュが思考に対してもつ特有の役割というものは、その音的、 または物質的手段となることではなく、思考と音の仲介的場を創ることで あって、その結果(未分節の)思考と音は否応なしに個別の単位を形成 する。もともとカオス的性格をもつ思考は、それがランガージュによって 単位へと分解され、配分されるが故に、明確なものとならざるを得ない わけである。次のようなことははっきりと否定せねばならない。つまり、 有用な音素である音によって、思考が物質化されるなどと考えてはなら ない。これは思考=音なる存在が生み出す分割こそ言語学の究極的 単位であるという、一種神秘的な事象なのである。
763 :
8 :2008/06/28(土) 21:13:08 0
>>762 つづき
「音と思考は、これらの単位によってしか結びつくことはできない。二つの
無定形な塊の譬えとして、水と空気を考えてみよう。気圧が変われば、
水の表面は一連の単位へと分解される。これが波である。これは空気と
水の中間にある連鎖であって実質を形成しはしない。この波動が二つの
結合を表し、いってみれば、思考と、それ自体は無定形な音の連鎖との
合体を表している。二つの組み合わせが一つの形相(フォルム)を生み
出すのである」
違いとしては、「講義」の方は、バイイ、セシュエが資料を元に大胆な解釈
をして、「言語(langue)独特の役割」としている部分で、
リードランジュほか学生のノートの全ては「ランガージュlangage特有の役割」
となっていることです。そもそもバイイ、セシュエはソシュールの弟子では
あったが、自分達も講義を持っていたために一度として、ソシュールの講義
を受けたことがないという「事実」にある。つまりソシュール解釈が面白いのは
ある意味資料の伝言ゲームとなっているそのものが、ソシュールの思想の
正しさを立証しているという逆説が成り立つ(関係の世界において意味を持つ
のは差異だけである)。
編者は「ランガージュlangageとラングlangueが混同され、今度はラングlangueと
シーニュsigneが同一視されている」(「ソシュールを読む」丸山圭三郎著p50)
など結構あり、コンテクストを切り離して読んでしまったために、恣意性への
無理解に至ったということだ。
764 :
考える名無しさん :2008/06/28(土) 21:25:59 0
ちなみに、ラングをR・ドーキンスのいう「ミームmeme」とするとどうなるのか? 考えると面白い。 ソシュールのラングはそう解釈すると極めて現代的な意味を持つし、 最近「神は妄想である」 という著述を書いたドーキンスは<神が>極めて不確定な社会的規範や ら、秩序を司る存在の比喩として伝播したということが言いたいらしい。 宗教がかつては<権力の意志>でもあった時代から久しいがそもそも 、宗教という構造もそんなに簡単に覆せない社会的・文化的なタブーを どのように論じていくのかはお手並み拝見といきたいものだ。
765 :
考える名無しさん :2008/06/28(土) 23:25:54 0
>>761 絶版ちゃいまんねんで。
まだ売ってるやろ。
哲学板らしからぬ、真面目で誠実なスレだw
コンスタンたんのノート だったらもっと売れたはず
768 :
考える名無しさん :2008/06/29(日) 07:25:35 0
>>764 ドーキンスの「ミーム」を「ラング」とするのはマズイと思うよ。
「ミーム」は文化の継承みたいな意味でしょ。
「ラング」は言語体系のことだから、全然言語学的に違う。
「ミーム」=「ラング」にしたとすると、それはチョムスキーの生成文法に堕する。
ちなみに、第一回、第二回、第三回の『講義』はノートをそのまま訳しただけの
日本語訳が、出ているでしょ。エディット・パルクと東大出版でね。
769 :
8 :2008/06/29(日) 10:16:41 0
>>761 重版したんですね。一時期全然手に入らない時期がありまして。
>>768 確かにそのままにするとまずいですね。但し、如何なる形で文化
継承が行われるのかを徹底的に洗いなおす必要はあると想います。
チョムスキーの生成文法とは意見を異するけれど、<記号>、<言語>、
が如何に生み出されるのか。そこが重要になってくる。
ラング(langue)… …社会制度であると同時に個人的事実である(丸山圭三郎)
パロール(parole)…個人の言行為であると同時にそのディスクールという実践を
通じて社会性を獲得し、発話場をも含めた現実の状況の中
のなかで社会関係を樹立する側面もある。(丸山圭三郎)
また、「あらゆる瞬間に、コトバは構造であると同時に歴史である」
この辺の両義性を理解する必要があります。
私は「文化形成は<制度>である」と考えてます。
770 :
8 :2008/06/29(日) 10:47:14 0
ラングのこの二重性は、丸山さんのソシュールの読みでいちばん輝いている部分だね 「コトバは構造であると同時に歴史である」に関しては (この「コトバ」が、あえて多義的につかってあることを踏まえて) 「コトバはすでに作られた構造であると同時に、構造を突き崩すはたらきでもある」 だから、歴史参与の営みでもある、ということなんだろうけど 歴史という語をつかっちゃうと、それは話者にとって心理的実在なのか、などちがう問題を ひき起こしてかねないね。ソシュールは、そういう問題を充分に警戒していた 通時的同一性、それは言語学者が抽出した、神の視点の産物ではないのかって 言語が制度である、くらいのことは、すでにホイットニーがいっていたことだし ソシュールの苦労はさらにその先にあった ドクサのなかのウア・ドクサ、目の下の目…そういう薄気味わるい存在 たしかに言語は制度だけど、それは他のいっさいの文化諸制度とは異なっているよ 他の比喩によって言語を語ることはできないよ それにしても、もしソシュールが、予告されていたパロールの言語学について 講義を行っていてくれたなら・・・
772 :
8 :2008/06/30(月) 20:37:14 0
>>771 他の比喩によって言語を語ることはできない。
その通りですね。文化現象をそのまま制度というには正直迷いもあるし、
あえて括弧で括ったのは、現象学的還元(丸山さんは記号学的還元という言葉を
使ったけど)の意味で慎重に考察したかったからです。
ただ、そのまま語ることは不可能でも、徹底的に語ることで浮かび上がらす
ことは出来ないのだろうか?そうは考えます。
こういった問題については、慎重のうえにも慎重をかさねたいですね ソシュール、丸山的な行きかたを参考にするなら それまでの歴史言語学や、文化についての物象化されきった常識の無根拠性をあばき それらの言説を自壊にみちびく…という ある種消極的な解体の作業がまっさきに必要でしょう さらにそのあとは、ウロボロスよろしく自分自身の解体さえはじめる、という作業がまってる なぜそんなやっかいなことになってるかというと 私たちがすでにある特定共時態のなかに頭の先までどっぷりつかってるから そんな私たちが歴史を追おうとすると、すでに眼前にある<単位>をよすがとして その変遷を追うことになる すると、時代によって、また見る人の視点の数だけ、任意の歴史が書ける history = story telling では、通時的視点を忘れて、過去に存在した特定共時態のなかにどっぷり漬かって それをよみがえらせれば…ということになると、それは本居宣長がやろうとしたこと 学問としても立派だけど、やっぱり多くは読みを競う story telling の領域にはいる (ソシュールの『覚え書』もこの方法か?) となると、残りは汎時的視点の設定、つまり記号の発生という人間的条件を追うこと ただしそれは歴史的なゲネシスじゃなくて、「いまここ」での不断の発生に光をあてること (私たちはことばを話すたびに、その都度契約を結びなおしている) まんま丸山ですけどね
774 :
8 :2008/07/01(火) 22:16:31 0
そもそも、通時態としての言語学と共時態としての言語学を如何にバランス を取っていくのか、それはつまり、<特定共時態>としての「ラングは、<価値> や<意義>のレベルに属し、パロールに属するのは<意味>sensである」 と丸山は述べた。 <意味>の属性は各レベルで立ち現れ方が変わってくるとう、極めて有機的 な存在性がある。これは記号学の場合は並列的に関係性で境界が決まって くるものであるが、ランガージュ(言語活用)としてのパロールは、階層性での 行為ではないか。丸山は<身分け構造>と<言分け構造>と上下に分けて、 <言分け構造>による<過剰>性が、人間としての特異性及び、 <生命としての過剰>にドライブを掛けたということを述べている。 もう少し長生きしていたら、ジョルジュ・バタイユの様に生命論としての文学の 「毒」に身を投じたかもしれない(どうも彼は元々は文学を目指していた様だ。最後 の著作の「ホモ・モルタリス」のエピローグは「赤の”ひとかた”」という自作の 物語である)。
775 :
8 :2008/07/01(火) 22:29:01 0
丸山の真骨頂は<生命論>に身を投じた所がすごいわけで、学者として では無く、「思想家」としての丸山は正直評価したい。 竹田青嗣は丸山圭三郎をかなり徹底的に批判しているが、思想家として 自らの身を投じる勇気の無い竹田にそこまで言う資格は正直無いと思う。 もはや縦割りの学際的な学問という存在意義自体が、この現代においては <古い>。 それにしても、全く違う学問の分野の情報工学からソシュールを評価し 翻訳をすると全くニュアンスまで変わってくるというのはどういうことであろうか? 内容をまだ全て分析していないけれど、極めてすんなり内容が頭に入ってきた 東京大学出版会のものと、エディット・パイク版の様に旧来の厳密な翻訳で そもそも内容の立ち現れ方にこれほど違いが出るというのも面白い。 哲学書を文系の人が翻訳するのではなく、別の分野の学者に翻訳させた方が 面白いかもしれない。逆に文系の人が理系の著書を翻訳させるのがいいのかも しれない。その様は横断的な視点が得られると思っている。
776 :
8 :2008/07/01(火) 22:47:53 0
ソシュールの場合、包括的全体としての<全体のニュアンス>を読み込んだ 上で、文章の流れの中で翻訳を試みた方が読みやすい様だ。ソシュールは 用語を厳密に定義するのを極度に嫌っているきらいがあちこちに見受けられる みたいで、用語も記号学的に<関係性>の中で現れ方は変化する用語として ラング、ランガージュ、パロール等を使用していた様で、両義的になるのはその ためではないかと思う。 恣意性としての記号の宿命を徹底的に意識していたわけで、シニフィアン、 シニフィエという極めて不自然な結合を如何に表すのかを悩んで、言語による 言語を語るという限界に追い詰められたのではないか。そして、アナグラム研究 に走ったのではないか。その意味でソシュールの翻訳は極めて難しいのでは ないか。特にフランス系の文体によくある、散文系の多様で自由度の高い文章 は日本人には翻訳が難しい。それは、語の価値に差異がありすぎるからで、 詩等を翻訳するのとはわけが違う学術書は、そこに巨大な障壁がある。 例えば、フーコー等の様に散文体の上手な書き手の内容を日本人の学者 が翻訳すると、ある語の<価値>が日本語の<価値>との差異がものすご くあるから、新語を作り、翻訳するとまるで、暗号文の様になるという結末に なる。特に哲学書などひどいものである。いっそ漢字を使用するのを避けて みてはと思う文章に出くわすこともある。
777 :
8 :2008/07/01(火) 22:58:29 0
他の国のコトバに毒されるのを防ぐために、日本人は漢字を使用する か、カタカナを使用するという<防御策>を無意識に使用する民族で、恐らく 他の言語にはない特徴がある。これは柄谷行人が「日本精神分析」で述べた ことであるが、「この点に関しては」同意である。これは、ひらがなで書かれない 語は日本という通時態には取り込まれず、<内部としての他者>として<記号 学的還元>を無意識にしているのではないかという疑問も抱く(そこまではいい すぎかと思うが)。そもそも「おもう」というコトバを諸外国の言語に翻訳するのは 不可能であるし「あわれ(あはれ)」とか古語にそういうものが多いが、漢字や、 カタカナの語は比較的他言語に翻訳はしやすい様だ。
778 :
8 :2008/07/01(火) 23:09:47 0
日本人にとって、漢字やカタカナの使用は「記号学的還元」なのかもしれない。 ただ断定はしない。諸細目にこだわりすぎると全体の意味を破壊するというのは 人間なら誰しも持っている経験であるが、ソシュールを読む場合、それがとても 重要ではないかと思う。エディット・パルク版で第一回、第二回の編者、小松英輔 は自分の論文をソシュールの重要なこの翻訳書に放り込むという「暴挙」をやっ ている。 そんなことは別の機会でいいではないか。どうも「自己満足」のきらいが 拭いきれない。ただし、ルビを振って多様性の余地を翻訳文に入れている点 と、厳密に補足を入れている点は評価したい。
779 :
考える名無しさん :2008/07/02(水) 02:01:53 0
>>778 8はいい事を書いているのだから、sageないでレスをして欲しいな。
哲学板では、唯一真面目なスレだと思うよ。
慎重を通り越して全然冗長。 しかも不純物が多すぎる。
「わかる」ということへの無邪気な信頼が感じられますな
782 :
8 :2008/07/02(水) 07:00:34 0
>>780 文章が長いのは申し訳ない。思いついたことをすぐ記述する癖があるので。
不純物というのは如何なる<意味>なのか、多分ソシュール的に記号学的に記述
してほしいかと考えるけれど、まあテーマに添って限定的に記述する様にします。
但し、<不純物>を取り除くのは他者が如何なるものを<純粋物>として範疇に
しているかは、関係性でしか浮かび上がらせることは出来ないので、根本的には
無理かと思いますが。それに丸山圭三郎自身がかなり冒険の旅に出ているので
有る意味テーマから逸脱するのは、面白いかとは思うけどw。
783 :
8 :2008/07/02(水) 07:14:32 0
>>781 <わかる>ということは有る意味<信頼>するということと同義語
なわけで、<理解>なるものも突き詰めていけば不明点が必ず発生する。
<知>はそういう危険な領域が存在するし、勿論それによって危険な失敗も
生まれうる。<わかる>ということは<分かる>と書く。
これはソシュールの「講義」や丸山の著書を読んだ私としては嫌という
ほど思い知らされているわけで、無邪気ではなく<危険>だとするのが
正確ですよねwソシュールを読むと「自我」というものが社会の中で位置付
けられた<自己>としての不気味な<何か>を感じざるを得ないわけで
ソシュールを読んでいくとそういう記号の無根拠性が人間をどこへ連れて
いくのかという不安を時に考えざるを得ない。つまりソシュールと同じ
悩みが付きまとうのですよ。だから文章が長いのもこんな恐ろしいことを
自分の胸のうちにしまっておくは怖くてしょうがないからという情けない
理由もあるからなんでしょうね。
「(…)何故なら、すべての理論は近代的な意味での(したがってハイデガーに批判された)アレーティア
としての真理の提起ではなく、解釈の解釈としての<物語>に過ぎないと自覚しているからです。
しかしながら特定パラダイム内での<物語>の妥当性は、そのパラダイム内の信憑性の別称でもある
ヴェリタスとしての真理がもつ説得性とリアリティ、さらにはエロティシズムの有無によって左右されます。」
(『生命と過剰』丸山圭三郎, p257)
>>8 が己れをひっさげて事物と直截に対峙する領域に「自らの身を投じる」というなら、それはとても結構
ただしその場合、世界を語ることはそのまま己を語ること…こちらとしても、まともに応答しようと思ったら
>>8 のありかたについてしかじか言わないでは済まなくなる
これ、あんまりやりすぎるとスレの趣旨にそぐわないと思うので、さらっと端的に
>>8 が策略をもって夢の<転移>のような語りかたを採っていることは十分感得されるよ
(「スキゾ・キッズ」(!)ニューアカ時代の名残っぽい雰囲気もまた)
微小な点を相互に結びつけることで、本来は語りえないものの輪郭を浮かび上がらせるといったプラン
ただ、その結果として成ったものには、読み手に委ねてるところがおおき過ぎるきらいがある
>>8 はこのスレの読み手の能力を信頼しすぎじゃないかww
それにしても、そのはやさで書けるのは素直にうらやましい…
で
>>8 に質問なんだけど
一つの視点に固定することなく、ぱぱっと場面が切り替わっていくその書き方は、まるでショッピングで
サイズ違いや色違いのものをいろいろと、ためつすがめつしているようにも見えるんだ
身体なり事象なりという指向対象があらかじめあって、それをぴったり覆えるような表現を探しているよう
別の言いかたをすると、丸山の<生の円環運動>は垂直なアプローチだが
>>8 の動きはどうも水平方向のようなんだよね
>>8 にとって「指向対象」はあらかじめ存在するの?
785 :
8 :2008/07/03(木) 08:27:15 0
>>784 なかなか鋭い指摘ですね。年がばれそうで嫌なんですがw
ただ私としては、浅田彰が言う様に飛び回って逃げ回れるとは思え
ない。このこの社会的惰性体である<ラング>は人間の身体構造に
まで影響を及ぼす程強烈なものですし、そもそも思想する人間は、
より我が強いので有る意味不自由な状況に置かれ易いでしょうね。
私は、読み手に肝心な部分については委ねる気はありませんけど。
あと<垂直>というのは<通時的な>という意味で<水平>という
のは<共時的>と捕らえていいんでしょうか?
「指向対象」はあらかじめ存在するのか、という質問ですが、
漠然とした予感めいたものを持ってはいますが、それをすぐ言語化し
ろと言われても現時点では無理です。分かってたらこうまで記述しな
いですし、それが<過ち>かもしれないので、じれったいかもしれま
せんが承知の程。
但し、ソシュールの悩んだ問題というのは、とどのつまり、
「この様な言語能力を持つ人間とは何なのか」ということで、極めて
哲学的かつ科学的な悩みだといえます。だからいろいろな意見があっ
て結構だと思いますよ。その方がいいでしょう。
切り口は間違ってはいないが、 >「コトバは構造であると同時に歴史である」 とは、ソシュールの入口であり、中心であり、全体だ。 ソシュールの描く言語構造の世界は極めて明快で美しい。 二束三文の文化論で隙間を埋めたい衝動に駆られるのは、 その明快さを誤解しているからだ。 ラング、ランガージュ、パロール、共時態、通時態といった 最重要用語も、今や、言語学の専門家以外の多くの人によって訳出や解説がされている。 それだけに、様々な説明のされ方を目にするわけだが、 訳出の正誤に捉われずにその構造を理解することが求められる。 (〜の訳をあたれば良いというものもない) ソシュール以前以後の言語学との比較なども不可欠なヒントとなるだろう。
ニューアカといった入門書を読んでいるうちは、ソシュールなど簡単なものだと思っていた。 改めてソシュールが分かるようになる頃には、ニューアカなど何の役にも立たなくなる。
浅田は単なる人間百科事典 知識の宝庫かもしれないけれど、完全な論文集は一冊も出していない サヴァン症候群(自閉症)の人と同じだ クリエイティヴな力は全く無い だから京大も辞めたんだ
無反省に浅田の言説をコピペするか、サヴァンに例えるか、100か0が多いなw マンセーにしてもアンチにしても、 きちんと読み込んだ上で、中身の検証をしたらどうか?
ついでに、闘争→逃走としたのは皮肉と照れ。 真顔で受け取ってどうする? 自身も妄信的フォロワーも、現実に背を向けているうちに 重要な時代の遷移を見逃した。
791 :
8 :2008/07/04(金) 00:31:17 0
>>790 浅田彰が本気で書いてないというのは同意できるが、どうも行動が
政治的で<嫌>な所がある。好みの問題かもしれない。「構造と力」とか、
「ヘルメスの音楽」とか、まあ世渡り上手かなって思うけど。
792 :
8 :2008/07/04(金) 00:57:43 0
いや、こんなことをコメントしても仕方ないですねw そもそもソシュールは構造というより、システムという用語を多く用いてい るし、ある意味「構造」という用語よりも<現代的>かもしれない。 構造という用語より、システムという言い方のほうが、<動的>な意味合 いが強く感じるかと思うので、こちらを使用していくが。 そもそも文化現象そのものが<疎外>であり、<制度>というより、 <物語>である。 それは社会的惰性態としてのラングにはそれなりに、集団の深層である <願望>の中心があり、それを盲従しているから社会のなかで多くの人間 が凡庸のまま生きていけるわけだが、中には<異人>として、ストレンジャー として中心から周縁に追いやられる人間もいるわけで、多くの強制もされず 止むにやまれず哲学する者や、どうしても<物語>に服従できない人間が そうなりやすい。だが、<引きこもり>とか<うつ>とかの現代の問題の 場合は<物語>が差異の体系から尺に合わないと感じている人が増えた というより、メディアにより強化され、増えたという面も否定できない。 今の時代、ある意味多くの凡庸な人間は、現代に対して過度の期待は していない反面程度の差こそあれ、そこそこ問題ないならかまわないと 思っている人の方が大半だと思いますね。未婚者や離婚者が増えている のも、「なんとなく面倒な社会の<物語>に加担したくない」と消極的、 かつ無意識的に(これは意識的ではないと断言する)考えているからでは ないだろうか。
793 :
8 :2008/07/04(金) 01:33:07 0
ソシュールは言語体(ラング)によって色の認識の差異があることを「講義」 で述べているが、ちなみにヨーロッパとアメリカと日本では印刷に関する色の 認識幅が大幅に違うことからも裏づけされている。アメリカではマゼンダ、イエ ローが強い等、国によって色彩感覚(スペクトル)まで規定されている。 これは民族による<身分け構造>と言語による差異の体系である<言分け 構造>が混在した形での共同幻想を構築している。このことは丸山も「ソシュ ールを読む」でも書かれていた内容である。WEBをやっていても分かるが、 欧米でのHPの色使い、東南アジアでの色使いに明確な違いがあったり、 写真の色分解や色補正がアメリカは何でこんなに赤っぽいのか、なんでこんな 過激なモデルの胸や腰の補正、合成を行うのか、考えると、その文化が何を エロティックに感じたり、フェティシュを持ち、差異もあることが良く分かる。 誰かこのことを分析した人間はいませんか?
文化が色づかいをとおして自身を表現してるわけじゃあなく そういう色づかいそのものが現象=辞項であり文化であるわけで (まずそういう抽出そのものが妥当かを検討するべきだろうけど) 異なる体系に属する辞項をどうやって比較したらいいのだろう? 私たちから見た、私たちの体系に組み込まれた、「輸入された」アメリカの色補正について語るのか それとも、もうすこし迂遠に、人類一般に共通な傾向をまず抽出し、そこからの隔たりを計るのか ようするにソシュール的には、これは擬似問題にすぎないのではないかと (デ・マウロとかバルトにきいたら何かこたえてくれるかしら) 虹の話で言われているのは、<身分け構造>はなんら自然的状態ではありえず <言分け構造>によって浸食され変形されている、といういわば否定的なあり方を述べたもの それを裏返して、ポジティブな事象について語るのは、また別の話だよね とはいえ、話としてはおもしろい着眼ですね。白人にとっては肌の色がピンクであることは 健康や富や若さを連想させて好印象なようですし(エンバーミングが参考になるかも…) それかあってかアメリカのTVは、みょうに赤っぽく、紫っぽいですよね
>>791 それは、どの本が売れたか?といった類の話でしょ?
浅田の姿勢やニュアンスやファッションを指差して
良いとか悪いとか言っているどんぶり勘定なもの言いはウン万回読まされています。
浅田について、80〜90年代の国内における批評活動は高く評価できる(世界に届くほどではなかった)し、
ICCを経て京都造形芸術大ということにも、何か期待できるものはあるとは思う。
ただ、理論家としてはどうか?
浅田の何についてのどういう言説、または浅田の示したテーゼなどを取り出して、
今の時代にどの程度通用するものなのか、一つずつ検証するように読まれると良いでしょう。
構造と〜からもう25年です。慎重にやっている場合ではない。
>>792 わかるとは分けることですね。
発明と発見の違いは分かりますか?
ソシュールを理解することと、言語の仕組みを理解することは違う。
著名な著者や訳から入り、精読を志すことは当然だが、
咀嚼することなしに言葉の切り貼りをやっているうちは
ヴィトンのバッグなら〜、グッチの財布なら〜と言っているのと変わらない。
↑を読んだところ、まずラングとランガージュについて理解を整理されるのが良いです。
今までに読んできたものは初期化して。
このことが、あなたの文化論にも大きな変化をもたらすことを期待します。
構造主義とポスト構造主義はご存知の様ですが、現象学への理解が全くないようです。
構造主義とポスト構造主義の違いについても、今一度確認されるのが良いでしょう。
引きこもりもうつも特に現代的な病というものではないと思う。
そのような言葉ができたのが最近であることと、
そういった言葉によって、多くの事例が記録・報告されているということ。
過去1500年ぐらいを見渡しても、今ほど識字率や税金の徴収率が高い時代や社会はない。
>>793-794 アフォーダンス - ギブソン、佐々木
風土 - 和辻
797 :
8 :2008/07/04(金) 20:46:55 0
>>796 発明と発見の違いが〜。
創造的行為の度合いというニュアンスがあるかと思いますが、そこに明確な線を
引くのは難しいのではないかとは考えます。
ただ次のことは言えます。
発明…<過剰>を伴う創造的行為。欲望を地盤にした内容。
発見…<創発>を伴う創造的、及び偶発的行為。<知>を地盤にした内容。
これはあくまで便宜上のものとして承知しておいてください。
ゴッホのひまわりを岡本太郎が描くことはできない。 アメリカ大陸はコロンブス以外の人や航路によっても発見されることはありえた。
799 :
8 :2008/07/04(金) 22:38:00 0
>>796 病名が作られることによって、<精神病>が生まれたという認識は勿論
ありますよ。フーコーとかドゥルーズ=ガタリとかそんなことを言ってた覚えが
ありますね。ただそれが時代によって「病い」と捉えられなく、積極的な意味
があったとか、社会的な<役割>があったとか色々ある。
現象学への理解については、評価はしてますよ。フッサールとか、
ハイデガーや、特にメルロ=ポンティを主に読んでましたけど。身体論につ
いては、異説や反論の多い領域でしょうが、概ねの範疇で私は評価してます。
ただ現象学的方法は正直時間がかかる。けれど有効ではあるとは、
思いますよ。だから一度括弧に入れて(エポケー)に入れて徹底的に
相対化相対化する為に矢面に立って、切り刻まれることは別に私はかまわ
ない。
800 :
8 :2008/07/04(金) 22:55:28 0
>>796 初期化は必要ですね。その点は賛成です。
ただし「現象学への理解が<全くない>」というのは、
「この短い文章から<価値判断>をしている現象」ということでは?
私ならそれすら括弧に入れて眺めてみる必要があると思います。
こんな短い文章で相手が何者かを特定するのは2chでよくあること。別に
どうとも思いませんが、相手が分からないなら、対話形式で論を進めるのが
基本という気もする。だがそう思っている私の<意識>も怪しいもの。
闇なべの様に論が運ぶというこの<不気味さ>は言語というものの、
<不気味さ>ではないだろうか?
あと、<語>の差異についてですが、どれが重要であるかなどは、それ
こそ記号論者の<恣意的な>分析や視覚に頼るはめになる。それこそ、
徹底的に相対化を進めて分析するならともかく、差異の中にも差異がある
ことを忘れてしまってついには「甘い」分析に終着する羽目になるのでは
ないだろうか。だからかつて80年代辺りからはやった「〜記号論分析」とか
は衰退するのは当然だと思う。
801 :
8 :2008/07/04(金) 23:11:28 0
構造主義とポスト構造主義の違いなどは私は全然重きにおいてません。 はっきりいってどうでもいいです。まあそういう<現象>としては興味が ないこともないですが、そんなものより<事実>に迫りたい。 <事実>なるものが、この社会においては隠されているどころか、生の <現実>に迫ることすら危うい。文化現象そのものが共同幻想であるし そんな<物語>やら<パラダイム>もいつかは消滅したり、破壊された り変質したりする。 他者に目を向けてもヒントはあってもお助け舟なんかない。 けれど、<知>としての<確信>がどうしても残ってしまうし、最終的に は中途半端と言われ様が<判断>する必要もあるだろう。 学者というのは危険な領域に果敢と挑む者と、そんな領域に飛び込むぞ といい続けて結局足踏みして、重箱の隅をつつき続ける者、学問を<政治> の場としてしか考えない者、ちょっと知っていればモテそうだからとかまあ 色々いる。だが敢えて危険な領域に果敢と挑む者を笑う人は私にしてみれ ば、最も嫌いな人種で、また応援をせずに<無意識に>足を引っ張る人種 はその次に嫌いです。
802 :
8 :2008/07/04(金) 23:24:07 0
善悪じゃないんです。そういう生き方もありでしょう。 サラリーマンで営業をしている私は、泥にまみれてますよ、正直頭にくる お客もいますよ、幸い成績は悪くないですから足を引っ張る同僚もいますよ。 飲みに行ってどうでもいい話で花が咲いて内心嫌になることも多いですよ。 だがそれが<物語>でありお金を稼ぐための経済的なプロレスです。 自分の考えなどお構いなしに家庭に<演技>を強いられる社会こそ、 何なのだとは考えないだろうか?この辺は自前の考えです。なぜソシュー ルを最近読んでるかといえば現実に強いられているラングとか<物語> を徹底的にもう一度相対化しなおそうと思ったからで、大学時代読んだ 内容を読んでいく内に全くソシュールが違う<内容>が見えてきたから よし、もう少し深くさらに読んでみようかと思ったからです。
803 :
8 :2008/07/04(金) 23:34:12 0
ようやく休みを取ることができたので、疲れから内容が愚痴っぽくなってたら すいません。 だから私は<個人的動機>があるからで、分けの分からない会社での演技 や、酒の席でのどうでもいい話に付き合わされるよりは数倍ましなわけですよ。 社会というのは元々他者とのコミュニケーションの場としての意味合いもあって しかるべきであったが、「社会に経済が埋め込まれていた」ものから、現代は 「経済が社会を制御する様になった」ことこそ問題で、それはありとあらゆるもの を差異に還元しようとする「システム」になったことにあるという気はする。 反論多いに結構です。私にはそう見えてしまうんです。
804 :
8 :2008/07/04(金) 23:37:14 0
なんだかんだいっても 「2ch上のエクリチュール」 「2ch上のテクストの快楽」ということにしておきましょうw
>「社会に経済が埋め込まれていた」ものから、現代は「経済が社会を制御する様になった」ことこそ問題 ↑これは良い。こういう問題に集中して取り組んで、きちんと解決し切るような経験をしないといけない。 >ありとあらゆるものを差異に還元しようとする「システム」になったことにあるという気はする ↑これまた間に合わせで取ってつけたような・・・。気のせいです。
806 :
8 :2008/07/05(土) 08:35:14 0
>>805 記号においては差異しかないわけで、絶対的な価値などない世界
というか<共同幻想>の世界に住んでいるわけで、生の現実には触れる
ことは出来ない。ソシュールの言葉を借りれば「社会・歴史自体がラングで
ある」わけで、<不自由な>惰性体の中で生きている。経済が社会を制御
する様になったということは、<市場交換>が貨幣という一元的な<価値>
に集約され、その計算可能性によって、つまり計算数量の差異(コストとか
価格)に還元するという現代の特殊事情がここ100年当たりで発生したと
いうことが大問題なわけです。K・ポランニーによれば<貨幣>による一元
的な<交換価値>による社会こそ、今までの歴史を通じて特殊な事態という
という認識が必要です。それこそ貨幣という<価値>の差異に還元するという
「システム」になったという言い方が正確でしょう。
807 :
8 :2008/07/05(土) 08:55:05 0
ここ100年当たりといったのは、その<市場経済>が社会を制御しはじめ た年数を言っているわけで発生年数ではないことは補足しておきます。 K・ポランニーの影響を受けたI・イリイチによれば「貨幣化される社会活動」 や「貨幣化されにくい領域」とが同時に発生していたわけであるが、それを シャドゥ・ワークと捕らえ、企業が利用客や消費者にセルフサービスを含む セルフヘルプをスマートに強要していくことを予言した。 事態はまさにその通りになったわけで、サービス(奉仕)に貨幣価値な ど本来は存在しなかったのに、そこに<価値>を引きずり出し(無理やり 作り出す)、産業の一領域を確保するに至った。 互酬(K・ポランニー:相互の贈与行為)に本来「奉仕の行為」も含まれて いて、互酬が社会を円滑に動かすオイルの様な、人間の贈与行為であった し、最も人間らしい行為であった。
808 :
8 :2008/07/05(土) 09:09:39 0
「人間は金じゃない」というより、現代において「金は人間の命より重い」 というコトバの方がサラリーマンの私でなくとも「説得力」があるのは、以上 の背景があるからではないか。マルクスは「労働価値」なる全くありもしない 「概念」を提示した(このことは現代での派遣社員の問題がそれを如実に 表している)が、全てを貨幣価値に集約するという<暴力>的行為が人間 の生理感覚を「より」壊す結果となった。江戸時代、税が高いといわれていた が、シャドゥ・ワークは含まれていなかったし、実は相対的に見れば<農民> は東北や一部の地域以外はかなり豊かであったことが「実証」されている。 このことは網野善彦の一連の著作を読むとよい(網野善彦は中世日本の識字 率の異常な高さを指摘しているが、このことは、ソシュール言語学的にも 日本の古文の分析は面白いだろうから誰かやってみてください)
809 :
8 :2008/07/05(土) 09:21:41 0
江戸時代には、現代でいうところの「企業」の萌芽が見受けられることと、 現代の報酬システムとは全く違う形態であったことがある。奉公とは 「住み込み修行」なわけで、擬似的な家族の一員となるし、給与なるもの は現代と違って、勉強させてもらって、さらにお金まで貰えるという感覚で あった(現代でもそういう感覚を持った社長の企業は結構あるけど)。 従って日本がいち早く「企業」のシステムを取り入れることができたのも 萌芽的な地盤が「たまたま」あったからに過ぎないし、結果的にそうなった に過ぎない。
810 :
8 :2008/07/05(土) 09:30:36 0
以上のことから、現代は貨幣を媒介せずほとんどのことが 出来ないという<不自由>な時代なわけで、ロハスは その反動であろう。 (このことは社会生活を営んでちょっと考えればわかること)
812 :
8 :2008/07/06(日) 09:39:25 0
>>811 栗本をかなり参考にしてた時期がありました。それは認めます。
彼も「パンツを脱いだサル」以降は現代を語るのは若い人に譲った。
それに私は彼の信者でもなんでもないし、長い間読んでいたというだけに
過ぎない。それに私の蔵書は彼以外の本の方が圧倒的に本棚には多
いのですが、真剣に「人間はこれから生きていくべき存在か」ということ
を「脱いだサル」には書いてある。
この最後の結論には私も異論がある。徹底的に知性を磨かないといけ
ないということは賛同する。しかし、私は<貨幣>からの過剰な攻撃に対
してだけは、攻撃性、建設性を許すという下りには納得し難い。それなら
ガンジーの様に無抵抗を徹底的に貫けと言った方がいい。その方が<過
剰>を<蕩尽>する極地であるし、世界人口も減った方がいい。
ここからは私の論旨であるが、インターネットや情報過多のこの時代に
「今進行中の社会や世界を観察して、一次的な抽出」すら可能とは考え
られない。それに資本主義経済システムも「計算可能性」自体の<限界>
の露呈してしまった現代では、もう資本主義に魅力は全く感じられない。
かといって共産主義の様に実践の難しく、人間の欲望を汲み取れない
内容には異論がある。丸山も述べていることであるが、人間が生きていく
為に必要なカロリーはとても少ないはずで、一日3000カロリーどころか、
500カロリーでも問題ない。それで私も<実践>を試みた。なんと体重が
全く変わらないし、仕事に全く支障も無い。病気も<実践>してからほと
んどしなくなった。
813 :
8 :2008/07/06(日) 09:57:40 0
>>811 この10〜20年、資本主義経済にも多くの新しい要素
が付加されつつある
逆でむしろ資本主義経済が矛盾を引き起こしているから<物語>を続行
する為に無理やり要素を追加しようとしているからではないでしょうか?
イランではリッター21円でガソリンが取引されているのに、日本では180円
とかになっているこの数字の魔術をどう考えていくのか。日本も輸入に頼っ
ている国であるので、ありとあらゆるものの物価が高くなり仕舞いには、
食料すらままならない状況すら近づいているということにいい加減気づく
べきだ。さらにバイオ燃料の開発によって世界での食料不足に拍車を
掛けているという時代に、人間の可能性として<身分け構造>と<言分け
構造>を徹底的に分析して<身分け構造>を構築しなおすことこれが
現時点での私の課題。
814 :
8 :2008/07/06(日) 10:09:23 0
>>811 それと現代の<論壇>とやらには正直食傷気味なんです。
まあ読んでみることにしますが…。時間は下さい
815 :
8 :2008/07/06(日) 13:44:35 0
192のレスで 哲学者として、プライド・学界からの反論への恐怖 自分の無知への恐怖が、過度に難解に書く事を 要請したとも言えないでしょうか? 実は私も彼の本を読んでそう思った。その後、<論壇>を切り捨てて 現代社会の分析に<移民>してしまった。重労働が嫌だと言っていた という。私と結構年代が近い東の気持ちも分かるし、ファッションとして の<論壇政治>が色濃く残るこの業界であるし、面倒くさくなったのだ ろう。しかし、若さから無理に他者に合わせた背伸びをしたって感じが しなくはない。他人のペースに合わせて酒で肝臓を悪くした私も人の事 はいえまい。
816 :
8 :2008/07/06(日) 14:11:20 0
>>811 ジャーゴン(ある特定の専門家や仲間内でしかその意味が分からない
言葉や言い回し、用語)の比率が高いスレですねw
私も人のことは言えないでしょうから、平坦になるべく書く様にしましょう。
というか、ソシュールや関連の文献以外で引用は極力控える様にします。
感想ですが、あのスレッドのテーマが東浩紀だからしょうがないって気が
しなくもないですが(彼が今のままでは茂木健一郎すら越えられないなっ
て思うが)現代日本の抱えた散文的というか、多様性ということを逆手に
とって突破口を見出そうとする感性は嫌いではないが、それをノヴェル・
PC・おたく等を主にその可能性そうとすることが甘い。根源的な<知性>
の広がりが非常に少ないからだ。必要ならば文系に限らず理系の分野
(例えば、物理学や生物学等)に殴りこみを掛ける意欲程度はないと
理系の学者にいい様に陵辱されることはもう必然だろう。
文系の人種には変に理系に対するコンプレックスがあるけど、それは
そもそも学校での数学の教え方が悪いってのもある(アメリカ等でもそれ
は似た様なものらしい。ファインマン談)。
でもそんな偏見(ドクサ)も排除して果敢に挑戦してみるのもいいだろう。
「ファインマン物理学」(1〜5巻)があるが、数式が分からなくとも十分に
面白いし、最近は色々な紹介本も増えたので読んでみて欲しい。
817 :
8 :2008/07/06(日) 14:46:14 0
>>811 パレルゴンさん言いたい放題ですね(笑)
最近の理系の著書を甘く見てはいけない。コンピュータの発達によって、
かなり不明だった脳の研究も解明されたことと、「心」の所在はさらに不明
になってしまってること、現在の科学的研究についての限界も露呈され
てきた。
そのことについて文系からのコミニュケーションを待ちわびているのに
一向に音沙汰がないから乗り込んで侵略されている状況に対応してあ
げないといけない。もっと理系の著書も紹介してもいいだろうに。
はっきりと言っておきたい。東京大学出版会のソシュールの「講義」の
第三回を翻訳したのは情報学の理系の方々だ。しかも、用語の適合性
については難があっても、読みやすさという点ではエディット・パルク版の
比較にならない程いい。文系の学者諸氏の翻訳はありがちな「悪文」ぞろ
いときている。始めから敷居を高くしてどうすると思いたい。
818 :
8 :2008/07/06(日) 14:58:18 0
>>811 計算は表現仕方でまったく見方が変わるし、資本主義経済
と大枠で見なくとも、サラリーマンをやっている諸君なら「計算は嘘を
つく」程度のことは、口には出さなくとも「経験」で分かっていることだ。
反社会学講座
パオロ・マッツァリーノ著
ttp://mazzan.at.infoseek.co.jp/ (彼のサイト:上の文章を全て読めます。すごい太っ腹です)
従って、多変量解析とかクラスター分析とか色々統計学が分析
方法を開発するが、それもなぜか「ずれ」が生じてくるのか、
そのヒントがこの本にはある。
819 :
8 :2008/07/06(日) 15:04:46 0
ここまで述べてきてソシュールに戻ると、つまるところ資本主義経済 を徹底的に相対化するためにはソシュールのこだわったパロールや ランガージュの問題、つまり認識と行為する人間の問題になってくる わけで当然ながら、欧米の文系論壇程度では修まる問題ではない。 従って論壇プロレスから<反則技>と言われようが、柔道で言う <三角締め>の様な脱出不可能な技を持ち出すことも辞さない ぐらいは必要ではないか。
820 :
8 :2008/07/06(日) 15:08:57 0
生命論は<危険な領域>です。しかし、その辺をシカトして哲学を 語るというのは本来的目的を喪失しているとしかいいようがない。 人間が哲学するのは<生命>としての問題です。
>>813 > 逆でむしろ資本主義経済が矛盾を引き起こしているから<物語>を続行
>する為に無理やり要素を追加しようとしているからではないでしょうか?
認識の仕方次第です。
> イランではリッター21円でガソリンが取引されているのに、日本では180円
>とかになっているこの数字の魔術をどう考えていくのか。
価格は需要と供給のバランスに因って決定されます。
原油、原材料の高騰と共に、日本の物価は10%強値上がりしているしており、
その値上がり分のほとんどが中近東に流れているとのこと。
アメリカやヨーロッパに流れているわけではないところがポイントです。
先進国が途上国に対して、資源のない国が資源のある国に対して税金を納め始めたと言う人もいました。
>>814 >それと現代の<論壇>とやらには正直食傷気味なんです。
>まあ読んでみることにしますが…。時間は下さい
論壇の外に目を向けてください。TVやニュースのレベルでも良いトレーニングになりますよ。
今、現実の社会、世界で起こっている事態について、直ちに(さらには正確に)言語化するのが批評の役割です。
読みなれた本を二度読み三度読みしていないで、
>敢えて危険な領域に果敢と挑
んでみて下さい。
822 :
8 :2008/07/07(月) 22:02:00 0
>>821 あなたの方がこのスレには相応しい様です。暫く研究します。
あとはおまかせします。
823 :
考える名無しさん :2008/08/18(月) 05:56:05 0
ラカンはわからん
sage
825 :
考える名無しさん :2008/09/28(日) 20:06:49 0
826 :
8 :2008/10/05(日) 10:40:50 0
>>821 久しぶりに覗いて見ましたけど、やはり口だけだった様です。
「やれるものならやってごらん」と引っ込んだことにしてましたが、
「やっぱり」と思いました。残念です。
821さんも所詮はつっかかってきただけの人の様だ。
827 :
8 :2008/10/05(日) 10:44:48 0
一つだけはっきりしておきたいことがある。 私は現代の<世界>の<批評>に全く興味が無いです。 私は興味が沸けば動きますが、関心が無いことには全く動きません。 好奇心が沸かないからです。関心があれば「政治」「経済」「生物学」 や「人類学」や「物理学」であろうが節操無く根拠を研究する人間ですが、 未来の予測やこれからの世界のことをどうしたいのかということは 関心がない。
828 :
8 :2008/10/05(日) 10:48:39 0
私は人間という存在がこれからも地球上で「生きるべき」存在かという ことには、明確に疑いを持っていて、地球のことを考えたらイの一番に 人類は滅亡することであるという「答え」を持っているからです。
829 :
8 :2008/10/05(日) 14:58:16 0
あらゆる生命を平等に考えるなら、人間ほど他の生命に甚大な被害を 及ぼしている存在はない。食われる為に他の生命を栽培、飼育して やがて刈り取る……。生物学に詳しい御仁なら他にそういう生命がある ことを知っているはずですが、人間はそれを制御無しに欲望に任せて 生産というあたかも希望をいだきそうな「虚偽」の言語をもって本質を 覆い隠そうとする。それを人間は「美徳」と思い込んでいるなら、もっと 深く考え直すべきだ。
830 :
8 :2008/10/05(日) 15:32:08 0
従って、政治という劇場をどうこうより、その底辺に流れる人間の存在 こそもっと関心を払うべきで、言語を意識的に操る人間の表層の物語に あまり関心はない私ではあるが、その深層(実体的な意味ではなく)に ある現象には関心がある。だからその物語を規定している、言語という 存在にひとまず好奇心が動いているわけです。
拡大解釈って、後代の学者ってのは先代の学者の説や理論や思想を拡大解釈して発展させるもんだろ。 忠実なコピペ厨にとどまっていてどうする?
833 :
考える名無しさん :2008/10/24(金) 21:22:39 0
>>831 ソシュール自身の理論に明晰さの点で問題があり、記号は人間の認識や思想や心理のすべてを支配する
といった拡大解釈を許すようなところがあったような気もするが。
834 :
8 :2008/10/24(金) 22:54:45 0
最近仕事が忙しくなっていて、覗いてなかったですが、
>>832 さんの意見は
正しいし、私はソシュールの指摘が鋭いとは考えていますが、理論が明晰
であったとは思っていない。逆に言えば不明な所も多い。ソシュール自身は
友人への手紙等で「自分は言語学者に向いてない」とか色々愚痴をこぼして
いたし、理論としては不十分な所が多分にある。それは悩んでいた結果と
好意的に捕らえているが、鋭く繊細な感性が逆にカオスの領域に突入する
のを踏みとどまってしまったのかもしれない。そんなことは死んでしまった人
がどうだったとかは、日本の大学に数多くいる「訓詁学者」様にまかせておけ
ばいい話。過去にマルクスの訓詁学者風土を醸し出した「模倣病」というか
コピペ病が蔓延していたではないか。記号学的には、このコピペというものは
極めて根源的な認識の問題を孕んでいるわけで、確かに新しいものを生み出す
契機として「模倣」することはゼロにすることは不可能である。しかし最近の
作品群(あらゆるメディアを含んで)で安易な模倣が多すぎないか?
835 :
8 :2008/10/24(金) 23:05:09 0
これは、人間の「社会」というものがが同一性を保とうとする、一種の 安全装置というか、集団心理の問題でもある。されど、認識論の考え や記号学的な考えからは、コミニュケーションや情報交換の問題でも あるし、サイトのリンクを安易にコピペするより、創造性を持ってオリ ジナルな展開をもっと必要としている気がする。 だから丸山圭三郎の「冒険性」を高く評価しているし、そのオリジナル の理論については私も参考にしている所も多いけれど、私は丸山の 理論には根源的な不足を感じているが、それはまだ語っていこうとする 前に死んでしまったからそれを強く批判しないだけだ。死人に口無し。 というではないか。だが、言った中で間違いは指摘していくというのは 必要だろう。
836 :
考える名無しさん :2008/10/24(金) 23:05:56 0
>>834 そういうまともなことが言える人が世の中少な過ぎますよね。
飛躍しない論理に可能性なんか無いと私は思います。
丸山も大きく飛躍しましたが、そのおかげて様々な課題も示しました。
偉大な学者ってみんなそいう側面がありましたから。
いずれソシュールの遺稿も翻訳されるでしょうから、それも楽しみです。
837 :
8 :2008/10/24(金) 23:19:18 0
続き
>>831 さん、このスレの文章を読みましょうよ。
このスレッドの多くを書き込んでますが、私はかなりオリジナルな
解釈をしつつソシュールが如何に現代思想の一連の人々に影響
を与えたかを書いてますから。
そこに根拠があるかどうかはきちんと読んで欲しい。
(多分面倒だから読んでないかもしれないですが)
でも、安易に反論したいという「気分」は理解できなくも無い。
「アジ」に対して「野次」を飛ばすのは昔からあったし。
でも、まあ最近は情報が安易に入ってくる時代で、その「根拠」を
調べようとする熱意を持った人間は少なくなっているし、むしろ何が
「正しい情報」なのかを解釈する前に翻弄され、疲弊してしまうから
その安全な「認識」で無意識に「妥協」しようとするのが今の時代の
「共通認識」かもしれない。生物は情報が多い(集団密度が高い)
環境に遭遇した場合は、集団の大多数に従う傾向にあるという、
元来生命の多くが持っている行動心理が働くからだ。こんなことは
動物学者ならすぐに指摘するだろう。
838 :
8 :2008/10/24(金) 23:26:13 0
「根拠」を調べていこう。それが今の時代を揺らがず中心を沿えて、生きて いける唯一の方法だと「私」は考えてる。されど、その「根拠」も発見によって 書き換えられていくが、しかし発見があるから、物事の認識も深まっていく し、情報を編集して生き抜く「智恵」も強化されていく。哲学をするなら、 哲学以外、理系、生物学、物理学の著書も読んでみることもその「智恵」 を強化するフットワークを養える。テレビを見る以上に自分で「調査」する ことを忘れては駄目だろう。その方が何倍も重要な方法論でしょう。
839 :
8 :2008/10/24(金) 23:35:19 0
「模倣」とは集団で生活を営む生命が、色々な外圧から身を守って いく遺伝子に書き込まれた行動心理であるが、人間はそれを、物理 的なものに留まらず、未来を予想するという「過剰」なイメージが恐怖 を助長し、複雑かつ不条理な行動をも起こすに至った。現在では、 人間の想像力(創造力)はプラスの方向にもマイナスの方向にも働き うる。さらに人間はマイナス(−)にマイナス(−)をかけてあたかもそれ が実体を持ちうるかの様に認識や解釈を生み出すということを発見した のはソシュールをヒントにして、丸山圭三郎が「文化のフェティシズム」 で指摘している。最近のマンガやアニメやライトノベルではそれを無意識 にかつ少数の人が商品として大量生産している。
840 :
8 :2008/10/24(金) 23:44:25 0
私も90年代にこのことが疑問に思って調べた時代があった。 直接言えば「説教くさい」し「鬱陶しい」かったり、拒絶を生み出すが メタファーやオブラートに包んだりした話法や、象徴的に換喩や隠喩 や寓意を用いて無意識に没入しやすくするという「構造」が浮き彫り にするという、「諭し」の方法の様である。ある意味自己開発セミナー も直接の働きかけより第三者に言わせるという「さくら」の技法を 使用するが、これと同じ方法ではないか。だから、エヴァ等は流行し たし、隠れたメッセージに熱狂的なファンがついたではないか。
841 :
8 :2008/10/24(金) 23:58:51 0
脱線してしまった
>>821 で語ったことですが、テレビという「情報を再分配するメディア」
は本当に機能して、信頼に足りうるのか?という根源的な問題を提出出来て
ますか?事件報道は、マスコミの報道仕方によっていくらでも解釈は可能で
あるし、寧ろ当たり障りのない解釈を強制していることすら伺える。これは、
コメンテーターという仕事が視聴者にある問題を複数に解釈される前に、
当たり障りの無い所で「手打ち」のコメントを出すとシナリオは決まってます。
コメンテーターだって報酬があるんですから。でも昔は小室直樹がテレビで
の生放送中、田中角栄の功績を無視して常識的立場から意見していた
小沢遼子を足蹴にして、「検察官は死刑だ!」と叫んで猛烈に怒ったという
伝説等は現代では生まれまい。それほど現代はテレビ放送というものに、
面白味がなくなっている。
842 :
8 :2008/10/25(土) 00:09:42 0
マイナスの「記号構造認識」いうのは、現代の文化を解釈する上で非常 に重要な考え方で、現代にヒットする作品の構造分析でかなり応用が利く。 丸山圭三郎は「言葉と無意識」でドラクエのヒットの要因をあっさりと 分析してみせた。実はドラクエのヒットは作品に「本質」が無いという 現在でも「とんでもない意見」かと思われるが、日本人の自己同一性 が揺らいでいた若年層がドラクエを購入することで、共通の話題を生み出 す契機になりうるからで、作品そのものに根拠があったものではない というものだ。だがこの時代ファミコンを持っていない少年等友人との 会話すらついていけないという不遇ならまだしも、仲間に入れてもらえない という弊害もあったくらいだ。全面的に同意してないが首肯出来るところ も多い。
843 :
8 :2008/10/25(土) 00:18:40 0
東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生」とかいう本で「環境分析的読解」 とかいう手法にして美少女ゲームやらを分析しているが、丸山の様に 集団心理や「社会化」という根源的な問題に対する追求が全然ない。 むしろ無意識にその問題から身を引いていさえいる。従って根源性への 追求が無い学者の意見は鋭い所があっても、単なる高級な言葉遊びに 過ぎずましてや「思想」とは呼べまい。
844 :
8 :2008/10/25(土) 00:31:12 0
続き そもそも「ポストモダン」って何? そんな外来語を恥ずかしげも無く前面に出せるのは、あまりに 厚顔無恥なのか、それとも、そういっている自分に陶酔しているのか? 私なら恥ずかしくって表を歩けませんよ。 リオタールだかフランスの思想だか知らないが、一般大衆はそんな ことを認識せずに集団行動を無意識に行っているではないか。 そっちの方になぜ問題の関心がいかない?
845 :
8 :2008/10/25(土) 01:08:48 0
>>831 さんは「言語学板」からの訪問者でしたか。
なるほど。言語学板でのソシュールの猛烈な叩きは見てましたが
もっと横断的に見ていきましょうね。未だにスレの住人の大半が
岩波書店版を読んでいるあたりどんな年齢層の方々なのか
首を傾げますけどね。大体、ソシュール影響の大きさは事実な訳で、
ソシュールの功績がどうこうより、事象の「根拠は何か」の方が大切
でしょう。私も何度も繰り返してますけど、訓詁学的なことには全然
関心がないんですよ。なぜ調べたかは、ソシュールの思想の追体験
をしてより「根拠」を深めていこうと考えたからですよ。言語学も狭い
世界ですから、重箱の隅をつつく様な講釈屋が多すぎる板ですね。
もっと自分の頭で考えましょうよ。だから「哲学板」の方がソシュールは
面白いんですよ。
846 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 01:16:09 0
>>845 御存じでしょうが、
『ソシュールのアナグラム』ジャン・スタロバンスキー著 水声社
も、ソシュールの遺稿をほとんど並べて訳しただけの本で面白いですよ。
848 :
8 :2008/10/25(土) 01:39:15 0
>>846 えwwwwww ……いやです。
どこからこんな電波スレを探してきたかと思えばオカルト板ですか。
統合失調の原因は情報認識に関する境界性発生が主な要因で、
それは多くは人間の脳の構造の連関に関係している等、色々原因
があるけれど、最近は薬物療法で回復率も上昇してるよね。
もしかして、
>>846 さん、自分の頭でのみ解釈しているとオカルト的に
なるといいたい?w よく読んでみると、これは「プロレス的」に書き込み
されていないかい? 嘘をどこかで「知っていて」積極的に書き込んで
新たな「なるほど・ザ・ワールド」を作っているし、それを楽しんでいる
感じも見受けられるけど。私は、結構現実主義ですよ。
849 :
8 :2008/10/25(土) 01:55:37 0
>>847 ありましたね。そんな本。ボードリアールが結構読んでたと
話題になってかどうかという。
>ソシュールの遺稿をほとんど並べて訳しただけの本で面白いですよ。
「並べて訳しただけ」って辺り、貴方も分かってますねw
ソシュールがアナグラムに取りつかれたのには、理論の構築より
言語の「創造性」ということに着目した結果ということではないでしょうか?
結果としてソシュール自身は「失敗した」と思っているらしいが、
ソシュールが理論を構築するにあたっての「手がかり」になったこと
は言える。
私はソシュールの訓詁学者ではないし、本は読んだけれど、
日本人の私が読むには苦痛だったし、あまり内容を覚えてないです。
850 :
8 :2008/10/25(土) 01:58:50 0
でも日本語って結構アナグラムがあるけれど、ネタって言葉だって 元々は種から生まれたわけで日本語の方がアナグラムが多いって 気もする。業界用語も結構こういったアナグラムを多用する傾向に あるけれど、何でそういう傾向にあるのかはまだ不明な点です。
851 :
847 :2008/10/25(土) 02:05:03 0
ソシュールの「言語学」は言ってみれば「微分」なんですね。 とことん言語を解剖学的に見ていって、最後はイェルムスレウのような「音韻論」 という語の最小単位に至る。 英米の言語哲学はむしろ逆で、彼らは言語の出来るまでではなく、言語ができた後の ことを問題にしています。 ですから、私の中ではソシュールと英米言語哲学は無理なくつながっています。
852 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 07:20:46 O
ソシュール? 言語の構造を発見しました。 その考え方が構造主義という考え方に一般的に広がりました。
853 :
8 :2008/10/25(土) 09:24:49 0
ソシュールの影響を受けたイェルムスレウが「微分」だったという のはそう思うけれど、ソシュールは「微分」だったかどうかという点 はちょっと違う気もする。寧ろ関係認識論的な考え方で、どちらかと 言えばエルンスト・マッハの「相対的認識論」の立場に近いでしょう。 ソシュールはシニフィアンとシニフィエがどちらかが本質ではなく、 それが奇妙な結合を生み出すことで意味や価値が発生するという立場 を崩してなかった。
854 :
8 :2008/10/25(土) 09:39:33 0
ところで先日ノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授 は「対称性の破れ」についての説明を 「大勢の客が丸いテーブルにぎっしり着席している。各席の前には皿、ナイ フ、フォーク、ナプキンが置いてあるが、左右どちらのナプキンが自分に属 するかわからぬほど左右対称になっている。そのとき、だれか一人が右側の ナプキンを取り上げれば他の客もそれにならい、とたんに対称性が自発的に 破れてしまう」 と語っている ソシュールの恣意性は全くこの様な概念のことを言いたいようだ。 マッハは相対性理論を生み出すヒントをアインシュタインに提示した が、マッハの認識論もそういった比較的恒常的に安定した関係性の問題 を提示した。ソシュールとマッハの認識論をぶつけ合うとかなり面白い 論議ができるし、とても二人の論旨は深いところで繋がっている。
855 :
8 :2008/10/25(土) 09:43:39 0
マッハは「感覚の分析」でこう述べている 「実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、 残るのは感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現われ、 絶えず離合集散を繰りかえしている一元的世界、つまり<現象>の世界だけである。 それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現われるし、 <自我>と呼ばれうるような複合体も現われうるような両義的な世界である。 これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。 この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つない・・・ 経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである」 こうなってくると現象学とも繋がってくる。
856 :
8 :2008/10/25(土) 09:47:26 0
このスレが終ったら、マッハとソシュールの関係というスレでも立ててみます
857 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 09:58:15 0
>>854 アインシュタインは10台の前半で「相対性理論」について結論を出していました。
これは「暗黙知」で有名なポランニーがアインシュタインに直接会って聞いた事実です。
それを証明するのに何十年もかかったそうです。
858 :
8 :2008/10/25(土) 10:05:58 0
思い出したが、丸山圭三郎もゲシュタルト(形態・形相・形を表すドイツ語) についてしきりに述べていたが、フッサールもマッハの「感覚の分析」に影響を 受けて、『瞬間的に集合を集合として捉える」現象(大勢の人,鳥の群れ)において、 集合がシンボル的に捉えられている点に注目し『図形的契機』、さらにシンボル的 な捉え方が二次的な点で『準質的契機』という概念を提唱して『現象学』への第一 歩を踏み出した』様だが、この時代は全く違う分野の学者が深いところで非常に近い 思想を持っていたことを意味し、人間は色々な視点を持ち出すことで、理解も深まる わけだから、ソシュールを認識論に枠を広げることは別におかしいとは思わないです。
859 :
8 :2008/10/25(土) 10:08:55 0
>>857 そうでしたね。「暗黙的」には「相対性理論」の結論はアインシュ
タインは出してましたが、後追い的にマッハの認識論に依拠し、「言語化」
を追従した、というべきでした。補足説明ありがとうございます。
そのとおりです。
860 :
8 :2008/10/25(土) 10:13:23 0
最終的には「知」の問題と「生命」の問題は繋がっていますが、いまだに ホットな話題なので、慎重に話していこうと思ってます。 ちなみに茂木健一郎はソシュールは岩波書店のものしか読んでないらしい のでお知り合いの方は最近の「講義」の方も薦めてください。
861 :
8 :2008/10/25(土) 10:25:14 0
あるコトバを生み出す前に、その概念は人間の言語レベルでは認識され ない、ということは極めて重要な考え方で、愛という言葉も西欧において は比較的新しいコトバなわけで、日本においてそのコトバが輸入された 時には不道徳な概念として、隠喩的に用いるしかなかった わけで、「愛」と翻訳され始めたのは明治以降なわけで、それ以前に、 「愛」というコトバは全く流通してなかった。「情」や「義」は儒教の 考えから流通していたが、最終的に一般化されたのは戦後からなんですね。 このことを日本において指摘している女性は非常に少なく、私の知ってる 限りでは江戸学者の田中優子氏ぐらいです。このことを一般の女性の前で言おう ものなら大半の女性を敵に回すでしょうw
862 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 10:29:44 0
>ソシュールを認識論に枠を広げることは別におかしいとは思わないです。 そうですね、私もそう思いますし、そういう考え方をするべきだと思います。 ソシュールは「ラングは記号学のパトロン」だというようなことを言っていますが、 これをさらに進めて考えると、「ラング」は人間の意識にとっても「パトロン」なんですね。 丸山の『言葉・狂気・エロス』のP216にあります、「最後に、筆者の敬愛する日野敬三氏から 聞いた話を書きとめとえおこう。家庭が貧し過ぎて小学校にも行けなかった日本のある女性が、 老年になって独学で読み書きを習ってから、こう語ったという。「夕日がこんなにきれいだと は知りませんでした」。」 「ラング」は人間の認識の幅を大きく更新してくれるものです。しかし言語外の分節というも のも同時に「ラング」を獲得しても人間は使用していると思います。「イメージ」のことです。 この両者の関係に、私は個人的興味があり勉強しています。
863 :
8 :2008/10/25(土) 11:03:43 0
その意味においてある単語やコトバが生み出される前にその知識が無け れば「環境世界」においてカオスの状態であるのと同じで、ただ単に 動物的な無意識の反応があるだけであり、人間だけが世界を「言分け」 している。「時間」や「空間」も数学的知識や測量の技術や幾何学的な 「知識」が無ければ時間も一直線に流れていくものとして認識も無かった わけで、これは人類学の成果を紐解けばかなり出てくる。 >「夕日がこんなにきれいだと は知りませんでした」 非常に象徴的な下りですよね。そうなんです。世界を言語によって 分節するということは「イメージ」を生み出すということであり、これ は「イマジネーション(想像力=創造力)」の問題であり、「クオリア」 の問題であり、世界にリアリティを生み出す原動力の問題で、これは、 人間が動物とは違って自然から疎外されているからこそ擬似的に生み出 された「環境」なんだといえると思います。人間は自然を生のままでは 認識出来ないという非常に難しい哲学的な問題なわけです。経験や認識 の幅を言語によって大きく更新するという行為は、やがて西欧において は「科学」と呼ばれるわけです。ホワイトヘッドやポランニーはこういう 論旨があるわけで、「知」のレベルで考えていかないと多分深いところ は理解が難しいと思います。
>>863 ええ、全く8さんの意見に同意します。
私は丸山のほとんど全ての活字化されたものに目を通していますが、亡くなる直前の丸山は
ユングに対して非常に興味を持っていたんですね。それは通常の意味でも「ユング」への興
味とは意を異にしていると思われます。
河合隼雄や北山修との対談でそのことを述べていました。
徹底的に言語の問題に取り組んできた丸山の先にはやはり「イメージ」があったんですね。
当時は私にも理解しかねましたが、今は大いに共感できます。
865 :
8 :2008/10/25(土) 11:40:19 0
ユングの集合的無意識は、遺伝する様なことを言ってしまったから、 ユングの論旨には最終的には欠陥があったかと思いますが、象徴を如何 に文化的な<モノ>として共有化されうるか、イメージは<ラング>に よって制御を受けているわけです。 しかし、集合的無意識とラングは全く違う概念で違う用語ではありま すが、実は人間の持つイマジネーションと知のレベルからは近似的な所 もある。言語というものは分節性があるとはいえ、こういう両義性という 部分もあるわけです。概念の「構造」分析をすると、人間が何に恐怖を 持つことであり、そこに「魔性」を感じるかという文化人類学の問題と も繋がっていくわけで、ユングは最終的には文化人類学者から猛烈な批判 にされされた(レヴィ=ストロースを筆頭に)が、象徴を如何に扱っていく という考え方は、絶対視しない限り文化相対的に扱っていけば、非常に 面白い。問題も出てくる 例えば、臨死体験は文化によっても表れ方が変わっていく様で脳内で 構成されたイマジネーションはそれほど強烈なんです。それはその<文化>にお ける宗教的観念、ラングへの強烈な<恣意性>の問題でもあるわけです。 茂木健一郎と河合隼雄と対談した際、ある雑誌を読んでましたが、 結構意見が食い違っている様で、結構深いところでは同意している様に も見受けられた。特に<科学>において否定されているとはいえ、安易 に人々のイメージを否定すべきではない、という点については私も同意 したい。
866 :
8 :2008/10/25(土) 11:51:03 0
文化人類学者が長い間フィールドワークすると、その土地の<言語>でもって 夢を見るそうです。私の知人もそうでした。これはイマジネーションとて、 社会的なものからそう簡単には切り離せないということを意味しており、この スレで何度となく述べているが、文化が変われば生理的反応すら制御を受ける のが<ラング>という恐ろしさなわけです。ある狩猟民族は立ったまま眠ったり するし、つま先でひざを曲げて座った方が落ち着くとか色々例証に事欠かない のです。これは身体図法という問題で、マルセル・モースが取り上げ始め、 最近でようやく議論が出始めている問題です。明治以降と江戸時代ではそもそも 歩き方すら違っていたということは言われてます(例:なんば歩き)。 明治時代には100キロ以上の荷物を担いで何里も歩く商人がいたということは 現代では信じがたい人も多いでしょうが、当時では当たり前だったんで、しかも そういう身体図式があったからなんですね。
867 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 12:20:00 0
>>865-866 >ある狩猟民族は立ったまま眠ったり
するし、つま先でひざを曲げて座った方が落ち着くとか色々例証に事欠かない
のです。これは身体図法という問題
はい、存じ上げております。
そこは極めて重要な視点ですよね。
「ラング」「イメージ」「身体行為」というものはしっかりとつながっていて
かつ、相互に影響も与え合っているんですよね。
そういうことから言っても、アインシュタインが幼少時から相対性理論のような
複雑なことをイメージできたのも、彼の内部では極めて複雑な相互作用が見事に
生じていたんでしょう。
現代人は「イメージ」の部分が相当に失われてしまいました。
しかし「ラング」や「記号」は氾濫しているわけです。
よく「火事の馬鹿力」なんて言って、実際に女性が子供助ける為に何トンもある
大きな車を持ち上げてしまったなんていう例がありますが、筋肉組織や骨がそれ
に耐えられない、という科学者の決まりきった発想とは違う次元の「協調作用」
が働くことは、決して日常的にも珍しいことではないのですね。
大脳の確か85%以上は覚醒時、抑制の機能であるということですが、これはつま
り外部情報などをほとんど排除しているそうなんです。
先進国の現代人がここを突破するのは極めて難しいことなのかもしれませんね。
868 :
8 :2008/10/25(土) 12:30:18 0
イマジネーションを分析することは、文化的相対性や身体図式を徹底的 に相対化する必要がある様です。それは記号学であったり、現象学であ ったり、文化人類学の手法であったり、物理学なら量子論的な考えであ ったりする訳で、物事は過渡的な議論としておく<比較的恒常性>とし ておき、その中でより普遍性を追求していくという方法論を構築してい く必要がありそうです。 ところで非常に変な話ですが、「ツンデレ萌え」というのは、多くの 国では通じません。これは文法の問題で多くの国は主語と動詞が前の方 にあるからではないかとも言われており、ラングによって物事の言いた いことをはっきりさせなければいけない言語であり、その恣意性がある からだとも言われてます。多くの国でコトバで述べたことを非常に正確 に伝えることを義務付けられており、それは文化同士の緊張感やら、コ ミュニケーションによって形成されたことは明らかです。このことは、 エディット・パルク版に言語の伝播の問題として述べられているが、文 化的接触の緊張から非常に近い集落同士がまったく違う言語を形成して いったことからも分かる。
869 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 12:51:12 0
基本的に「言語」というものは発するにせよ、書かれるにせよ受け取り手と自分との 対立を招くことの方が多いんですね。 ここに「ラング」の持つ特異な「志向性」を見ることができると、私は思うわけです。 大学で講義を聴いても、「よくわからん、本当にそうかなあ…」というように疑問を 持つのも発話者への「抵抗」だと私には思えます。 「ペンは剣なり」とも言いますが、やはり「対立的」なものなのでしょう。 ソシュールは「言語の何故」を徹底的に問いましたが、英米の言語哲学は出来上がった 「言語」が織りなす「文章」を問題にしています。 英米言語哲学は「分析哲学」、「心の哲学」としてそのフィールドを広げていますが、 私にはこのやり方は確実に行き詰るという、不思議な確信があります。 結局、「イメージ」が抜けているんですね。もちろん「心の哲学」には「イメージ」も 出てきますが、それは「イメージ」というものが既知のものとしてあるというスタンス です。 8さんがおっしゃるような「イマジネーションの分析」では決してないわけなんですね。 そういう意味においても新しい方法論の構築というは非常に重要であると思います。 ちなみに「オートポイエーシス」というものがありますが、あれは水増し思想であると しか私には思えません。
870 :
8 :2008/10/25(土) 12:56:01 0
>>867 もちろん物理的に限界はあるとは思います。ただ現在の多く
の人が思っている以上に限界点は結構高いのではないかとは考えてます。
例えば、睡眠時間とて、1日に何時間なのかはこれまた文化によって違う
わけで、人間は集団やある自然に適合する為にそういった許容範囲が
大きくなった様ですが、では何でそうなったのかは不明のままです。
時間や空間の認識についても、遠近法で描くことは結構最近の出来事
なわけで、それまでは描きたいものを遠近法とは無関係に描いてたこと
は明らかです。ラングはもしかして時間や空間認識すら影響を与えては
いまいかという疑義を私は持っています。
真木悠介(見田宗介)の「時間の比較社会学」はまだ論旨が甘いところ
もあるが、ある文化の時間認識は必ずしも一定ではないことは分かって
くる。
(どうでもいいが長男があの「ドラゴン・ハーフ」の見田竜介で次男が見田
航介とは、どんな家族なんだこれw)
871 :
8 :2008/10/25(土) 13:06:37 0
オートポイエーシス(自己創出)という概念は、どうにもシステム論として、 円環的な構造そのものに問題があるし、これは階層構造で述べていかないと 恐らくいたちごっこではないだろうかと考えてる。 まず脳の問題、身体があっての脳なわけで身体もある意味「情報」を持って いるわけで、脳はイメージを持っているが、もしかしたら脳内に「クオリア」は 見つからないだろうと私は考えている。この様な身体論は次スレで述べていきたい ですが言語ももしかしたら…、いやちょっと大分飛躍しそうになったのでここ はまだ結論を保留したい。
872 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 13:11:29 0
>>870 「ラング」は価値の体系ですから、時間というものを分節し、そして価値付けたと言えるでしょう。
空間認識にしても、社会的な枠組みの中でラングによってしっかりと規定されてしまっているよう
ですね。
「社会」や「常識」からいかに逸脱できるかが、全ての学者の勝負どころではないでしょうか。
やはり決められた枠組みや、生活感覚という規律から人間は逃れられませんから、そういうことが
者を考える場合でも自己規制のように働いてしまう。脳機能が抑制機能であるのと同じですから、
親和性もありますし。
人間は感覚やイメージが少し変化するだけで、劇的に思考が変わります。それはもう見事に…。
そこでアインシュタインのように「何かをつかんで」から日常の証明に入るべきなんですね。
自らの「イメージ」に制限を設けてはいけないと私も常々思っています。
873 :
8 :2008/10/25(土) 13:28:35 0
>人間は感覚やイメージが少し変化するだけで、劇的に思考が変わります。 そうなんですね。私もサラリーマン生活が長いですがら、このことはリアル に分かりますね。そもそも引きこもってPCばかり戯れていらっしゃる御仁と で運動しない人と、バリバリに体を使う人とでは考え方がすさまじく違いが でますよね。私は営業職なので、頭も使うは、体も使うので、いつの間にか フットワークが身についた様です(私はこの中間ですかね)。 「社会」や「常識」を徹底的に相対化して違う「パラダイム」を提出してい くことが取り合えず必要でしょう。 あるインディアンは、「西欧の人々は頭で考えるからいけない」ということ を言っていたが、これは身体から来る認識を無視すべきではないという教訓と して私は密かに持っているが、頭でっかちになったら所詮は机上の空論で終わ る。どうも論壇にはこういう御仁が多いらしい。
874 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 13:48:32 0
ジャック・ラカンという精神分析学者がいましたが、彼のセミネール(講義録)を読むと、 その構造主義者としての面以外に、非常に身体感覚で講義をしていく、つまり思いつきで 進めていくことがほとんどであることに驚きます。 ラカンというと、とかく難解、ガチガチの理論派という印象ですが(実際そうなんですけ れども・笑)平気でユングについての言及なんかをしているところが結構あります。 ラカンの思想が正しいかどうかは甚だ疑問ですが、ああいう複雑な構成の思想を話すとい う「行為」とそれまでの「イメージ」が劇的に違うというところに注目しないラカン派の 皆さんは非常に気の毒な存在だなと(笑) ラカンの理論よりも、発想法に注目してラカンを読んだ方がよっぽど面白いのいですが。
875 :
8 :2008/10/25(土) 14:29:54 0
>>874 私はラカンについては結構言及してないし、
大分昔に「エクリT・U・V」を読んで内容も忘れかかってます。
ラカンについては「鏡像段階の理論」と「シニフィアンの優位」以外は
あまり参考にしてない。これはラカンが最終的に著書をあまり書かなかった
がゆえに起ったことと、晦渋的な言い回しや安易な数学的記号の流用が
あったことなどがある。実はラカンはあまり理論構築をしたくなかったので
はないかという気もする。しかし私がどうしても評価しきれないのは、そも
そも何でそんなにフロイトに拘るのかということである。
876 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 14:54:30 0
>>875 そうですね、ラカンは臨床経験がちゃんとある精神科医でもありますから、
むしろフロイトの読解なんていう回り道をせずに、自身の症例からおこせば
良かったのではないかと私も思います。
彼の「エクリ」全く面白くもないですし、編集には娘婿のミレールが関わり
過ぎているので、そこもスタティックな印象を受けるところだと思います。
丸山も後期に拘ったように、フロイトやラカンの「精神分析学」という考え
方は結構面白いですよ。
フロイトの精神分析は「経験論」なんですね。フロイト自身が大変な癇癪も
ちで、ヒステリー持ち、そして神経症でもありました。
彼は患者の症状を自分の内的イメージに沿って考えていくんですね。もちろ
んエディプスコンプレックスや汎性欲説のように疑問を持たざるを得ない箇
所がいっぱいありますが、経験論的に神経症や精神病を捉えようという発想
自体は非常に有効な方法の一つだと私には思えます。
対してラカンは経験論ではないのですね。客観論であり観念論ですが、ラカ
ンが示した大文字の他者や小文字の他者といった対象関係の理論については
それなりに評価していいのではと思います。
ラカンのシニフィアンとかは駄目ですよ、一切の意味を定義せずに乱用して
いるだけで、理解できるような代物ではありませんから。
877 :
8 :2008/10/25(土) 15:09:19 0
>>876 ラカンも結構読んでいて苦痛だった覚えがあります。
私個人は「シニフィアンの優位」もイメージが記号によって制限を受けているという
「コトバ」のイメージを、記号によって縛り付けていると読み替えてます。
あとこのテーゼを思い出した
「人間はランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです」
むしろこっちの方が丸山圭三郎が参考にされたと思わしきテーゼでしょう。
>>877 いま、フランスまで留学してラカンを勉強しても結局ラカンから離れて他の
ことを専門にしている学者も出てきましたね。
その一方では、ラカン関係の入門書や解説書は後を絶ちませんが…。
8さんのおっしゃるように、ラカンの考え方は記号によって何でもかんでも
縛られているのと同じことですよねえ。
あと、記号と言えばパースがありますよね。
パースは「記号論」ですか。私はパースにも興味がありますので読んでいま
すが、中々面白いですね。ソシュールとの違いがまたユニークでもあります。
879 :
8 :2008/10/25(土) 15:25:04 0
>ラカンは一切の意味を定義せずに乱用している そもそもラカンの精神分析学はそんなにすごいとは思ってないけど 言い換えやメタファーの使用することが興味深いわけで、この板 でもラカンの用語を駆使しているしつこい住人がいるけれど、ラカン はそもそもなぜメタファーをする行為そのものが無意識への手がかり だったと考えてた節があるらしく、どうもそっちに目を向けないとラカン はワカランようだ。つまりラカンが何ゆえにメタファーを多用するのか を「精神分析」やればいい。どうもラカンは自らを「精神分析」したかっ たようだ。
880 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 17:57:16 0
パースは直接の著書を読んだことがないんですが、 「ソシュールとの違いがまたユニーク」という点を教えてください。
881 :
8 :2008/10/25(土) 18:06:41 0
パースは大学時代に「記号論」の講義を取った時に聞いたっきり になっているので、内容をかなり忘れてます。すいません
882 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 00:48:13 0
>>881 『パースの記号学』『アブダクション』米森裕二 著 がいいですよ。
それにこの二冊は定評がありますから。
883 :
8 :2008/10/26(日) 09:51:41 0
ありがとうございます。読んでみます。 ソシュールとの違いやユニークな点等寸評でいいので 教えてもらえますか?
無知を恥ともせずに貧弱な感想をひけらかすのは、自前の思想でも何でもない。 ましてやそれをソシュールの名のもとに書き散らすなど。 丸山圭三郎はここまでひどくなかった。
886 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 15:01:55 0
>>883 そうですねえ、結局パースは「言語学」ではありませんから、ソシュールのように
「ラング」についての考察はありません。
パースの思想は多様ですが、こと「記号論」ということに限って言えば、人間の「記号」
の認識過程についての記述というものを追求しています。窓の外から遠くに「煙」が立ち
昇っているのが見えれば「火事」が起こっている、というように推測するような、現象の
「記号」としての認識過程もパースなりに明らかにしています。それらの手法は極めて
「論理学」的な方法であり、このパースの流れが現代の言語哲学にも大きな影響を与えました。
本当はもっと複雑なのですが、極々簡単にガイドするとこういう感じでしょうか…。
それから『ソシュールとアナグラム』についての感想を言い忘れていたのですが、『講義』
と違って、大変「経験論的」な考察をしているように私には思えました。『講義』は科学的
な考察ですが、『〜アナグラム』はま真逆な視点から追求しようという姿勢が感じられます。
そうなってくると、『講義』自体の科学的・客観的な考察に納得がソシュールにはスタティ
ックに感じられてしまったのかもしれません。そういうソシュールの内的変化、つまり「経験
論的」思考がめばえたことが、『講義』の思想と対立してしまったという面も多分にあるでしょう。
ソシュールの一番悪い所って?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gengo/972303107/702 名前:名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日:2008/10/24(金) 10:02:58 0
丸山圭三郎氏のソシュール理解でちょっと分からないというか、明晰でないと感じるのは、
シニフィエ(意味されるもの、記号内容、所記)とレフェラン(指向対象、指示対象)とを
混同してはならないと読者に再三にわたって警告しているにもかかわらず、結局のところ、
丸山氏ご自身もこの二つを一体のものと見なす理解に与しているように思われるところ。
シニフィアンス(意味するもの、記号表現、能記)とシーニュ(記号)とを混同したり、
シニフィエとレフェランとを混同して語っているところがソシュール自身にもあると丸山氏
は著書(『ソシュールを読む』岩波書店)のなかで指摘してもいるから、ソシュール自身にも
使用された概念に一貫性を欠くところがあったのかもしれない。
ソシュールの言語理論ができあがっていく過程を時系列的に厳密に見ないとなんとも言えないけど。
888 :
8 :2008/10/26(日) 19:22:08 0
>>883 パースに関してはM・ポランニーが少々言及しているけれど、日本
においてはフランスからの現代思想の潮流の影響からほとんど読まれな
かったというか、あまりに先鋭的すぎてそれを評論する土俵すらなかった
というのが正しいかもしれない。パースの生涯を調べましたけど、非常に
かわいそうですね。
>>885 あと、別に知らないことは、知らないというのは別にいいじゃないで
すか。パースもアブダクション(仮説形成)としての論理を考えていたわけ
で著書で発表する際は合理的に編集されるから簡潔かつ整然としている
だけで、推論から検証、論証、この繰り返しなわけで、著書で発表するな
らこんな駄文は下らないとして一笑するのはいいけどね。
丸山はパースについてはほとんどしゃべってないのは、まだ当時はあま
り日本に全然紹介もされていなかったし、本場のアメリカでもまだ功績は
評価されていてもまだ一般的には評価が遅れていたからなわけで、時代
の状況を考えても仕方が無いという部分もある。
889 :
8 :2008/10/26(日) 19:33:27 0
ちなみに、あまり知られていないことであるが、M・ポランニーは、 暗黙知の三組構造について、パースを参考にして読み替えて考 えたものです。 『暗黙的認識は三つの共同作因を一つに結合する。この三一(三組) 構造は「AはBに対してCを意味する」というパースの三一構造に類似 している。しかし、わたしはむしろその代わりに、AというひとはBという 語にCという対象を意味させることができるし、あるいはそうでなければ、 AというひとはBという語をCという関係に統合できる、と書きたい』 「知と存在」マイケル・ポラニー(ポランニー)
890 :
8 :2008/10/26(日) 19:41:56 0
パースの生涯を考えるとどうしてもヴィトゲンシュタインやニコラ・テスラ を彷彿させるところがある。金銭感覚には全く疎いところや、コミニュケ ーション能力の破綻性があるところや、ストレンジャー的な所を持った天 才と思われるけれど、特異なのは左脳と右脳を同時に別々のことを考 えて行動できたという(アインシュタインも同じことができたという)能力 で、また三叉神経痛(昔なら顔面神経痛)の苦痛からコカインを服用し はじめたことがさらなる不幸だったのかもしれない。
891 :
8 :2008/10/26(日) 19:58:59 0
大体パースの時代はまだ植民地時代から脱却している時代で、 アメリカの科学がまだ本格的になってなかった時代なわけで、 周りの人々が遅れていたというよりはパースが特異だったという わけで、30から40代には重力の研究や地磁気の研究をすで行って いたというのは驚いた。 周りから理解されなかったが故の不幸というべきかとは思う。 まあ今にして思えばあまりに広大なパースの思考に周りはついて いけなかったのかもしれない。 最近パースを評価する人が増えてきたというのはパラダイムがやっと こさ追いついてきたと考えるべきで、こんなことは歴史上珍しくは ないけれど、ちょっと永いですね。日本ではアメリカの哲学思想を あまり好意的に評価する人が少ないのは無意識的な拒絶感が強い からなのかもしれない。特に戦後からそんな感じ。
892 :
8 :2008/10/26(日) 20:02:36 0
>>882 「パースの記号学」は手に入れました。読んでみます。
「アブダクション」はまだ手に入れてません。
893 :
8 :2008/10/26(日) 20:28:35 0
少し読んでみた。学生時代の大学の先生はパースを本当に知らなかったって 今にして思った。 あと、ソシュールは記号を二項関係として、パースは三項関係として 解釈している。これはポランニーを解して理解できた。 ソシュール signifiant(記号表現)/signifie'(記号内容) パース 記号(sign)/対象(object)/解釈項(解釈内容)(interpretant) パースは認識論を包摂していたという点でソシュールより上である と思える。ただし、そもそもこれは目指していた方向が全然違うとも 考えられる。 関連性の無いな純粋な直観などありえないというデカルトに真向から 喧嘩を売ったところは評価したい。これはマッハを読んでたのでショック は小さかった。あと現象学を提唱していたことは本当に驚いた。フッ サールの自然的態度と戦わせてみたら面白そうだ。
894 :
8 :2008/10/26(日) 20:29:07 0
少し読んでみた。学生時代の大学の先生はパースを本当に知らなかったって 今にして思った。 あと、ソシュールは記号を二項関係として、パースは三項関係として 解釈している。これはポランニーを解して理解できた。 ソシュール signifiant(記号表現)/signifie'(記号内容) パース 記号(sign)/対象(object)/解釈項(解釈内容)(interpretant) パースは認識論を包摂していたという点でソシュールより上である と思える。ただし、そもそもこれは目指していた方向が全然違うとも 考えられる。 関連性の無いな純粋な直観などありえないというデカルトに真向から 喧嘩を売ったところは評価したい。これはマッハを読んでたのでショック は小さかった。あと現象学を提唱していたことは本当に驚いた。フッ サールの自然的態度と戦わせてみたら面白そうだ。
895 :
8 :2008/10/26(日) 20:49:17 0
896 :
8 :2008/10/26(日) 21:10:37 0
>>887 あと最後に、
「(丸山)私はこのランガージュとラングという概念をソシュールに
そのまま依っているのではない。ソシュールはもっと単純な考え方
なので、ソシュールに対する批判もあるんです。ソシュールも自然と
文化を分けてしまって、自然の方は階層的であれ何であれ、発見
モデルでいくと考えてしまう。しかし文化の方は恣意的価値の世界
だからそうじゃないといった言い方をしている。これは非常におかし
いんで、せっかく立てた彼のランガージュ、ラング理論が生きてこな
い」
丸山圭三郎・栗本慎一郎「対話 意味と生命と過剰」
(「現代思想 〜増頁特集=マイケル・ポランニー〜」掲載)
丸山にしたってソシュールを批判しているところはあって、だから
こそ、独自の路線に出て行ったわけで、こういった文章による物証
もなければ分からないのは「創造力」や「アブダクション」による
論証が薄いのではないだろうか?
どう考えたって「文化とフェティシズム」以降は言語学者でありながら
とか自らの分析的な視角を捨てて冒険の旅に出たのは、ソシュール
に対する不満もあったからなわけで、それは読めば明らかなはずだ
が。何度もいうが、コピペを止めて原本を当たりましょう。
897 :
8 :2008/10/26(日) 21:32:03 0
パースはかわいそうですが、やはり時代のパラダイムを理解するという 視点が無かった(共通感覚ともいう)ことが不幸だったかなって気もする。 ソシュールは天才だったが、言語学者であったことやコミュニケーション に長けていただけ幸運だったかもしれない。天才性ではパースの方が 上である反面失った能力もあって、長らく評価されなかった。 (コカインの影響もあるかもしれない) けれど、天才性は病的な部分を抱えることが多く、ソシュールやポラン ニーの様に人格者の方が珍しい訳で、ヴィトゲンシュタインやランボー やアインシュタイン等、どこか孤独な印象があるのがほとんど。 その意味では幸か不幸かは考え方次第かもしれない。
898 :
8 :2008/10/26(日) 21:35:30 0
自前の思想を持ちえるのははっきり言ってほとんどは、天才の仕事では あるけれど、私などは努力はしているが自分で考えているが思想と呼べる とはとても思ってない。「自ら考えてみろ」とは言っているけれど、 「自前の思想を持て」とは言った覚えはない。本当に優れた仕事なら、 周りを救えるが、凡庸な人間がそれを振り回しても迷惑なだけだろう。 そこは弁えているつもり。思考実験が妨げられるならあっさり 引き上げます。
>>896 そのレス、
>>887 の論点とズレてしまっているなあ。
ソシュールは、レフェランとシニフィエの区別をしているけど、
丸山はその区別をあえてしなかった、ということでいいのかな?
>>896 > が。何度もいうが、コピペを止めて原本を当たりましょう。
原本は当たっているから出てくる疑問なんですけどね。
『ソシュールを読む』『文化のフェティシズム』でもそれ以降でも
丸山さんはぜんぜん変わっていませんよ。ソシュールから飛躍している
というのなら、『ソシュールを読む』以前から飛躍している。
901 :
8 :2008/10/26(日) 22:05:32 0
>>899 説明が難しいのですが、ソシュールの講義の1、2、3回で
内容に食い違いが出ているというのは私も知ってます。丸山は
敢えて無視したってより、第3回の講義をベースにして最終的な
ソシュールの至った点と解釈している向きもある。さらにこれは
散逸していた原資料とまた講義録で若干の食い違いもあったり
どちらが「本当にソシュールの考えだったのか」という疑問もある。
しかしこれは訓詁学者としての伝統的な視点から逸脱し始めた
丸山圭三郎にしてみればどうでも良くなった可能性が高い
902 :
8 :2008/10/26(日) 22:24:44 0
>>900 この疑問について言えば、
「ソシュールの思想」ですでにオリジナルな解釈は始まってるわけで
「ソシュールを読む」でオリジナルな構造理論が
「文化のフェティシズム」で言語学的な視角を放り出した感じですが、
まあ決め付けたのは謝りますが、それならコピペはなお止めましょうよ。
質問事項というか質問の意図すら分からないとこっちもどう答えるべき
か迷うじゃないですか。まあいいです。
丸山の思想の中心は人間の生命のカオスを問題にしたかった
ようで確かに一貫して記号学に依拠しつつ同じことを言っている
感じも強かった気がする。
ただ弟子であった中尾浩によれば、
「広義にとらえれば物語を、厳密には小説を「書く」ことだった。
書かれた結果としての物語とかあるいは理論を目指していたの
ではないのだ」
とある。しかも
「(丸山)科学というのは巨大なフィクションですからね」
丸山圭三郎・栗本慎一郎「対話 意味と生命と過剰」
(「現代思想 〜増頁特集=マイケル・ポランニー〜」掲載)
と言っている。
903 :
8 :2008/10/26(日) 22:38:10 0
(丸山)科学というのは巨大なフィクションですからね このことは一体何を意味するのか。つまり、人間は世界を見たい様 に見て世界を「創造」して解釈しているのではないか、という確かな 確信があったのではないかということで、死の前に出版した「ホモ・ モルタリス」は小説であった。中尾浩も指摘しているが、「ことばとは 何か」というテーマで生の運動を書きたかったのではないかと考えら れる。つまり自らの行為そのもの……。一般の言葉でこれを「文学」 と呼んでいる。 若い頃は文学青年であったらしく、短編小説もいくつか書いている。 つまり若い頃の夢を現実世界で実践してみたくなった、世界という 物語を書いてみたくなったのではないかと私は解釈してる
904 :
8 :2008/10/26(日) 22:39:20 0
参考文献「言葉とは何か」丸山圭三郎(ちくま学芸文庫) 中尾浩のあとがきから
905 :
8 :2008/10/26(日) 22:50:25 0
これで答えになっているかは怪しいけれど、丸山は実践が思想であり、 文学に成り得るからこそ、厳しく「言葉とは何か」「生命とは何か」と疑問に 思ったことを書くという行為を通じて、自らのパースペクティブを構築して 自らの物語を書こうとしたのではないか。そんな気もする。 いずれにしてももはや故人となってしまった人で、弟子の方々も丸山の 最終的なプロセスには疑問を持って離れていったから、リアルにどう考え ていたかという解釈が難しいんですね。
906 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 14:54:00 0
>>896 その点からすると、丸山はソシュールよりもフンボルトに近いように思うのだが、いかが?
907 :
8 :2008/10/28(火) 18:56:06 0
908 :
考える名無しさん :2008/10/30(木) 10:01:00 0
909 :
8 :2008/10/30(木) 21:41:14 0
>>908 コメントを入れておきました。
取り合えず、日本語は西欧の言語学で分析してもまず解析はできないでしょう。
これは認識論や現象学、パースの記号学や身体論を総動員しないとまず、
わからない。これは、身体の<境界性>の問題と私は考えている。
これは、言語の前提そのものが違いすぎるということであって、ソシュールは、
東洋の言語の分析を全然していなかったことが、差異の記号学で終わってしまった
原因かもしれない。これは、ソシュールとパースは全く逆の記号学であって、
どちらもメリットがあり、デメリットもある。相互に補強するのが、有効では
ないでしょうか?
910 :
8 :2008/10/30(木) 21:58:21 0
>>908 私自身は、引導を渡せるレベルとはとても恐れ多くて言えませんよw
そもそもこれはスレの住人が思っている以上に、非常に高いレベルでの議論で
あることを認識する必要があることを書き込んでおきました。身体論、認識論、
人類学、現象学等を総動員する必要があって初めてある程度、浮彫りになる
だろうかって話です。ソシュールや丸山圭三郎だけでは、とてもとても…。
>>909 >ソシュールとパースは全く逆の記号学であって、
どちらもメリットがあり、デメリットもある。相互に補強するのが、有効では
ないでしょうか?
まったくそうですね。
パースとソシュールはベクトルがほぼ真逆ですから、相補的な関係になると思いますし。
あとは言語哲学と精神分析的思考が必要でしょうか。
無意識についての言及があるのは精神分析だけですから。
912 :
8 :2008/10/30(木) 23:55:51 0
>>911 パースがフッサールの著書を読んでいたら、
「すでに形成された認識を大量に背負い込んでいる状態」であり、それを
「自然的態度」でもって望むのは、ある前提を持って世界を認識するという
「不可疑の信念」を持たざるを得ないと批判したのであろうか?
フッサールは、デカルト的信念である「我思うゆえに我あり」から開始する
ことを必要としたのは、フッサールがいい意味で凡庸だからで、パースの様
が天才であるが故の不幸ではないだろうか?
そもそも、パースは一般人と違って、右脳と左脳を同時に思考することが
出来るという稀見る脳の構造を生まれ持っていたわけで、これはピアノを
引きながら、ピアノの自ら動きを<論理的>検証が出来るという才能の問題
でパースこそが特殊と見る必要がある。つまり彼は無意識的思考と同時に
その無意識的思考を観察することが出来たと思われる。これは、通常の人間
の脳構造では不可能で<病的な思考>である。
913 :
8 :2008/10/31(金) 00:05:58 0
つまり、パースは<暗黙知>を使用している際にも、それを同時に意識的 に観察が出来たと思われる。これは解離性人格障害的であり、境界性 人格障害的の傾向があったのではないだろうか。それは伝記を読むとその ことがある程度判断できる。 パースにとっては、自らの無意識的行動も<客観的>に観察可能だった かと思われる(凡人にはそれ自体が不可能なのだが)。 パースは自らの性質を持って他者に理解を求める傾向があったかと 思われ、それゆえに理解を得られなかった。しかし、切り開いた分野があま りに広大な為、それを論理によって突破していくという力があったからこそ 後世まで名前が残ったということで、それが無かったら「異常者」で終わって いただろう。
914 :
8 :2008/10/31(金) 00:25:04 0
パースの記号学を読んでいて、論理性においては、抜群の才覚が
あり、非常にうなづくところも多い。しかし、決定的に足りないものが
あるのをずっとひっかりながら読んだ。
それは、
>>911 さんの指摘の通り、認識論一般に関すること及び、
無意識をどう観察していくかということではないだろうか。
ソシュールは記号が差異の構造を示すということを指摘しているが、
パースは類似性の関係を示すという記号認識論というか
「関係の論理学」を提唱している。これはまるっきり逆のことを考えて
いるが、これは目指す方向が逆なだけで、相互がそれほど矛盾を持
ってなく統合が出来そうな印象もあった。それはソシュールにしても
パースにしても不完全な理論体系だからで、お互いが決定的に論証
不足の感があるからではないだろうか。
915 :
8 :2008/10/31(金) 00:26:05 0
916 :
8 :2008/10/31(金) 00:38:46 0
ソシュールの記号学は、文化の構造分析において非常に良いツール になりえた。しかし、認識論への視点が決定的に無かった為、また、 差異の中にも差異があるということへの論証が薄いという欠点があった ため、多くの誤解もでた、さらに「講義」への誤解もあった。 パースの記号学は認識論を包摂するというレベルであり、分析哲学の 視点があって、ソシュールには無い、アナロジーの記号学のベクトルが あった。しかし、一般化に関して、自らの特殊性を相対化出来ておらず、 人間観察に関すること、文化一般を分析するという視点が非常に少ない という欠点がある。さらに、この時代はまだ理解の及ぶという土壌もなか ったということ、さらに論文の多くが断片的であり、連想的であったことで あって、ソシュールの様に一貫したロジックが見えにくいというパース本人 の論文の書き方にも原因がある様だ。
917 :
8 :2008/10/31(金) 00:43:20 0
パースを読む際、書かれていることを読むより、伝記を通じて何を 考えていったのかを考えて見る方が面白い。ウィトゲンシュタインも 同じことが言えるけどw
>>912-914 よくパースの伝記とかもお読みのようですね。
私も8さんの意見とほとんど変わりありません。
パースの思考パターンはやはりある種の精神疾患及び器質的要因によるものが
非常に大きいように感じられますよね。
今現在どの哲学・思想・科学の分野でも、意識の研究は進んでいるのですが、
無意識については、精神分析しか無いんですよね。
「心の哲学」という分析哲学の一分野がありますが、その中でも無意識については
ほぼお手上げ状態です。
丸山はその点、いち早く無意識についての考察を始めていましたが、志なかばで旅
立ってしまいました。
言語学や記号を学ぶ人達も、無意識を射程に入れた上で考えていかないと、もうこ
れ以上の進歩は期待できませんものね。
「ソシュールのアナグラム」を読んで、「講義」的側面からの役には立ちませんで
したが、ソシュールが真面目でスタティックな思考から、ダイナミックな思考へと
移行する寸前だったことが伺われます。
ソシュールにしても、あまりに短すぎる人生でした…。
パースの「1・2・3」とか「イコン・インデックス・シンボル」という考え方も
それでばっちり正しいということではなく、やはりパースなりの指標を示したと考
えています。実際は人間の精神活動において境界線は不分明なはずですから。
ですが、パースの思考は私達がしないタイプの思考なんですね。
ソシュールは逆です、標準理論を常に求めて研究していた人ですから…。
>>917 ウィトゲンシュタインは処女作「論理哲学論考」において最後の節「語り得ぬものは、沈黙しなければならない」が
あまりにも有名で、未だにそのフレーズがテーゼであるかのように専門家からも取りざたされますが、私には「論考」
における一つ一つの枝葉のフレーズは彼による論理展開であって、それほどの大きな意味があるとは感じられません。
そう言って、いつも専門の方からはお叱りを受けているのですが(笑)
だって「論考」はいかなるフレーズからスタートしても良かったし、いかなるフレーズで終っても良かったと思える
からです。
ウィトゲンシュタインが「論考」で重視したのは、あの論理で積み上げられた「論考」という“構築物全体”を指し
てのことでしょう。そして一つ一つの「論考」におけるツリー状の論理フレーズには巧妙に「矛盾」という論理進行
が隠れています。実はきっちりとした論理展開の「論考」という本は矛盾の塊なんです。
多分、それはウィトゲンシュタインによる痛烈な皮肉でもあったと私は考えていますが。
>>910 >>908 さんが引導を求めているのは単にソシュールと丸山圭三郎の思想についての
解釈に関することだけなんですが・・・
あのスレッドのテーマについて現時点で結論が出せるとは思われませんし。
921 :
8 :2008/10/31(金) 07:31:06 0
>>920 丸山とソシュールの解釈ですか。
どうにも「ソシュールを読む」や「ソシュールの思想」を良く読んでますよ。
しかし、これは、エクリチュールだけで、物事を解釈しようと考えてるから起きる
弊害と解釈できそうです。私の様に思想の幅を広げたり、行間を読み込もうと
考えなければ解釈にずれが生じるのは当然かと。
いずれにしても、
>>920 さん、私にかなり難題を要求してますね(笑)
むしろ、こっちに住人を呼び込んだ様が合理的かな?
922 :
8 :2008/10/31(金) 19:26:54 0
ソシュールに関しては非常に、天才的ながら謙虚な人であったことは、「講義」 を読むと良く分かる。かなり人格的にバランスの取れていた人であって、ユーモア に乏しい面もあるが、内容はかなり刺激に飛んでいる。チェスがかなり好きなの かな?ってのはよく言われる。実は人格的に安定した天才は非常に少なく、 M・ポランニーや他にガウスとかがそうらしい(他にもいるとは思うけど忘れました)。 これは、ある一種に才能を引き出すことはかなり病的な面を引き出す危険性が 強く、天才性を引き出す教育なるものはある意味非常に馬鹿げている。精々、 二流や三流に天才が出る程度は可能性としてはありそうだが、寧ろ品位を 失っては何にもならないだろうって思うけど……。でもちょっとは欲しいかもw
923 :
8 :2008/10/31(金) 19:32:23 0
哲学を行う人には大きく2種類いると思うけれど、自ら繰り出される「問題」 に対して逃げずに挑む熱意と、誠実さから来る場合と、社会性が欠落して それを補填するために自らのアイデンティティを確立する為に哲学する人 といると思う。自分はどちらかなって考えたら、大学の頃は前者で、社会性 を身に着けてからは前者に移行していったかなって感じだけどw
924 :
8 :2008/10/31(金) 19:35:36 0
でも私としても「仮に」後者でも、もう少し要領良く、生きれればって思うけ れど、なんとなくそれではあまりに人生がつまらないって感じるから思考を 駆使している。どちらにしても不器用な人生って思うけれどw。もう少しその ままにしておけないのかな?って、もっと適当に生きていけるって人から良く 言われるけれど性分なのかもしれない。
925 :
8 :2008/10/31(金) 19:53:23 0
>>923 大学の頃は後者ですねw すいません。今でも多少は後者かな?
926 :
考える名無しさん :2008/10/31(金) 19:57:53 0
哲学者や有名な科学者なんかはそうとう変な人が多かったらしいですからね。 アインシュタインしかり、マルクスしかり、カント、ニーチェ、南方熊楠…… まあきりが無いですけれどね。
カントは基本的には社交家でその中に入れるにはちょっと・・・
928 :
8 :2008/11/01(土) 11:22:14 0
>>927 カントは人格的にはともかく身体的に異形で、ずいぶん金銭に困り
若い頃苦労している。これは周りからの社会的な圧迫も強かっただろうな
って思う。第一のパターンの人なんだけど、社会的な疎外がこれを生み出す
ってこともあると思う。これを民俗学的、人類学的には「排除」と読んでる。
正確に言えば第三のパターンとも言えなくも無い。このパターンには、
母から猛烈な「排除」に見舞われたショーペンハウアーがいる。そのせいで
大の女性嫌いになってしまった。小さい頃の教育って大切ですね。
>>926 家政婦に手を出して子供を作ってしまったヘーゲルを忘れては
いけませんよ。
ホントくだらない妄想に満ちた伝記への回収が好きだよね
931 :
8 :2008/11/01(土) 11:58:06 0
伝記自体読むのは好きだったけどねw しかし、この場合はどの様な社会的境遇を持って思想を形成していたか を理解する「プロセス」として材料にしているだけ。 特に哲学とか、数学とか、学際の分野でも極北に位置する分野ほど、 そういう人物が集まる傾向が強いけれど、それを原因として還元する気は ないです(ショーペンハウアーの場合は精神分析から見てもそうとしか思え ないけれど)。 記号学的に蛇足な分析かと思う様な感じもあるかとは思うかもしれない けれど、哲学に関して言えば、その学者本人の精神世界を浮き彫りにして いる傾向が強いので、その人の伝記を見て比較検証するのはかならずしも 的外れではないと思う。
932 :
8 :2008/11/02(日) 09:38:27 0
>>882 「パースの記号学」は読み終えました。
「アブダクション」は売ってなかったのですが、「連続性の哲学」は手に入れ
ました。
ちなみに、最近ホワイトヘッドに挑戦中。大変に難解と噂が多いですが、
実際はどうなんですか?
エーコの記号論はどうなの?
934 :
8 :2008/11/03(月) 14:40:43 0
935 :
8 :2008/11/03(月) 21:04:47 0
>>906 の質問に関して補足。
(丸山)どんなに「アンチ」というものを立てても批判する短小の本質の中に
取り込まれてしまう。この間の吉本さん(吉本隆明)との対談も、それが一番
面白いところだったんです。彼の「反」という言葉を非常に気にしていて、この
ころは「非」と言われてますが、「非」と言ってもやはり難しい。僕はやはり
「反」をどんどん出していって、生の躍動の読みとしての物語を提起していき
たい。ですから「反」というものがどう可能かというためには、ともかく一旦全て
を相対化していく。しかしフンボルトも言語相対論に立つ人々も、現実を相対化
するだけで、精神や言語自体を相対化してないんですよ。僕は言語、
<言語という神>を徹底的に相対化しなきゃだめだと思うんです。
936 :
8 :2008/11/03(月) 21:10:02 0
続き ウィトゲンシュタインも言語の相対化を言おうとしてますけど、 非常にスタティック(static:静的)なんですね。”文法”という形で、あれ は簡単な関係の一次性ですからね。”ある語が意味をもつのは当た り前のことでね。前期よりはいいですけど、後期の「探求」にしても やはりスタティックだと思うんです。 丸山圭三郎・栗本慎一郎「対話 意味と生命と過剰」 (「現代思想 〜増頁特集=マイケル・ポランニー〜」掲載)
937 :
8 :2008/11/03(月) 21:11:12 0
>>932 そうですか、「パースの記号論」読まれましたか。
ソシュールのような整合性はありませんが、如何せんパースは論理学の系譜ですから
致し方ありません。
ちなみに丸山は「パースの記号論」は読んでいたそうです。というよりも英米言語哲学
にも精通していましたから。
ただ、丸山はパースのような人間の記号認識体系を考えるのではなくて、言語ができる
までの過程と、ランガージュ(象徴化能力)に拘っていました。
たぶん丸山はそれらの理論による文学の実践をそうとう意識していたのでしょう。
つまり論理の実践ですね。
939 :
8 :2008/11/04(火) 23:09:08 0
>>938 丸山がパースを読んでいたのは知ってましたが、ただ、論理学と
記号学の接合としての体系には疑問視していた様で、パースの「アブダ
クション」には「発見のモデル」として関心があった様です。
私個人にはパースを改めて読んでみて大きくこの5点は考えさせられた。
1. 「連続性」という問題
2. 「直観」という「現象」にもある論理階梯があるのではないか
3. 「アナロジー」という認識の生み出す記号学体系
(差異というソシュールの逆を行く体系への追求)
4. 「アブダクション」という「仮説形成」という「発見の論理」の発見
5. 未だに人間は「認識」に関して明確に示しえてはいないこと
940 :
8 :2008/11/04(火) 23:16:01 0
特にこの4の「アブダクション」は非常に厄介な発見で、 「何ゆえに「アブダクション」なのか」を、未だに明確に回答を示している 「論理学者」はまだいないと思っている。ポパーの様な可謬主義の様な まやかしがまかり通る程度では、論理学はまだまだだと思う。間違いは 少ない方がいいに決まってるし、より厳密に徹底的に追い詰めなくて何の 論理学か…。 これはすなわち、全く「論理学」の外側の観点から考えなくていけないから で、私がホワイトヘッドの本を取り寄せ、M・ポランニーの本を読み直して いるのにはそれなりに考えがあるからです。
>>940 ホワイトヘッドは難解ですが、色々な読みができる学者だと思います。
個人的には、クワインやデイヴィドソン、ダメットが好きなんですが。
基本的にパースもホワイトヘッドも経験論だと思います。
ソシュールは違いますね、科学的記述ですから超越論でしょうか。
やはり、8さんの挙げられた5項目を見ても「無意識」がからんでこざ
るを得ないですよね。
942 :
8 :2008/11/05(水) 22:00:17 0
ホワイトヘッドを超越論とは思わないけれど、ホワイヘッド的な世界認識 というか、ホワイトヘッド的宇宙というか、そんな感じがします。 まあ、メルロ=ポンティも「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新さ れていく経験である」といっているから、哲学というのは、広い意味では、 経験論にはなるでしょうね。 「無意識」を如何にして浮かび上がらせるか、色々方法があるが、 西欧的な精神分析ではもう限界に差し掛かっているのではないかって、 そんな不安もよぎる。さらに、「無意識」を浮かび上がらせた上で、その 純粋に取り出した「無意識」大事にするべきとはこれまた、異論がある。 意識的に思考することは必要であろうが、そう簡単に「無意識」は言う ことを聞くはずは無い。寧ろその「無意識」を徹底的に相対化して、その エネルギーを制御できないからこそ、有効活用する方法を「ある程度」 考えればどうかとは思っている。
>>942 こんばんは8さん。
ホワイトヘッドは日本でも「プロセス思想研究会」という学会がありますね。
飯田隆の「言語哲学大全」を読まれるとかなり面白いと思います。
もちろんホワイトヘッドも出てきますしね。
人間の大脳の85%は活動の抑制として働いているということは以前言いましたが、
ドラッグとか、飲酒なんかによってその抑制の枠を外すことはできるんですよね。
人間は全ての情報が入り込んだらパンクしてしまいますから、潜在的能力も封印
されてしまったんですね、いつしか。
これらは東洋的な発想ですし、最新の脳科学による発見でもあります。
ユングが考案した「能動的想像法」という瞑想のようなものですが、これも結構
やってみると面白いものです。
私は思うのです、8さんがおっしゃるように、経験論としての哲学に限界を感じる
としたならば、やはり大脳機能の抑制スイッチを一旦オフにするようなことも必要
かと。
もちろん全てオフは無理ですが、少しでもオフにできれば、「未経験の経験」を得て
そこから語りえる何かというものもあるかと思います。
それこそ、モースの報告例につながる話であると思うのですが…。
944 :
8 :2008/11/05(水) 22:17:38 0
続き 私がある程度、認識論をターゲットにしつつ、記号学、現象学、認識論 を横断しつつ、人類学や生命論を踏まえつつ、イマジネーションの問題を 考えたい。 ただ私は人類の未来のことは全然どうでもいいと思ってますし、ある意味 傍観者の姿勢、というか日和見の姿勢がある。人間だけ生き残るなんて そんな気味の悪い世界を作ることに加担するなんてそんな…。 どうにも絶望を通過すると、人は真の意味で自由をに考えられる。全て の物事に「期待」を寄せてはいけない。最近シオランが理解できたのは、 この絶望を通過する方法を学んだからだと思う。
945 :
8 :2008/11/05(水) 22:31:39 0
>>943 なるほど、ユングには若い頃結構読んだので、「能動的想像法」
という瞑想方法があったのは少し覚えてます。
>ホワイトヘッドは日本でも「プロセス思想研究会」という学会がありますね。
>飯田隆の「言語哲学大全」を読まれるとかなり面白いと思います。
>もちろんホワイトヘッドも出てきますしね。
この辺は参考にさせてもらいます。ありがとうございます。
駄文ついでに、
私は若い頃、酒やタバコを結構やって体を壊して30前後に絶望
の淵に陥ったことがあります。
これは私の純粋な経験談ですが、精神が安定してきたのは、絶望
を通過するのは実は徹底的に絶望することでしかないという逆説
的ですが成立します。ただこのままではキエルケゴールの様になる
でしょう。ただ私は
「人間の抱く一切の企図が、遅かれ早かれ人間自身に刃を向ける
ことになる以上は、理想的な社会形態を追求してもむだなことだ」
というシオランの一文を思い出したことが契機でした。これは、絶望
が他者への期待をどこかに抱くからくる絶望であったこと、自らの
絶望も他者との比較から来る絶望であったという「絶望」の正体が
判明してしまってから気分が楽になった。
>>945 そうでしたか、大変でしたねえ…。
人間はけっきょくは脳機能の限界に思考を邪魔されているわけですから、
それを超えるためにも、先人たちの方法を見習ってもいいかもしれませんね。
脳機能の拡張はそのまま思考の拡張です。
「能動的想像法」シュピーゲルマン著 「アクティヴ・イマジネーション」老松克博 著
ここら辺が手頃な実践入門書でしょうか。
とにかく、これ以上の思考水準に行く為には、現在の脳機制を突破する必要が
あると思います。
947 :
8 :2008/11/05(水) 22:46:00 0
他者はそうは変えられない、自らは変わりえるし、それしかない。 他者と比較して自分を定めるのはやめようと思った。但しこれは、自らが 本当にしたいことに気づき努力して初めて言うべきで、自らを欺く理由に すべきではない。自らを欺くとかならず「無意識」の氾濫に出くわすこと になる。自らの本心を抑圧するからだ。 知識の詰め込みが何ゆえ面白くないのかは、実践する機会を多くの学校 が子供から奪っているからで、学ぶこと、覚えることは本来的には楽しい のだが、それを人生から実践の機会を奪っているから面白くないのだ。 私も実際悩んでるから思考しているのではなく、ある意味楽しいからだ。 近代は「悩める自己」という文学や哲学の「物語」があったが、そんなもの はもう無い問題だ。
948 :
8 :2008/11/05(水) 22:51:48 0
>>946 駄文を書いてますが、そもそも哲学の方法も「悩める自己」
という近代の物語はもう相対化するところに来ている。
絶望したら、一度はキエルケゴールの「死に至る病」(岩波書店)を
突破するべきだ。但しこれをそのまま読んだら本当に「死に至る」
場合があるので、服用には注意されたし。
キルケゴールはいわゆる「背むし」で、彼自身かなりのコンプレックスを 持っていたようです。 それがレギーネ・オルセンとの一方的な婚約解消という「卑屈な精神」に現われて しまったのでしょうね。 そういうふうに考えると、キルケゴールの「超越者」なんかやせ我慢の言い訳にしか 読めませんが…。 私はキルケゴールには、厳しいんですよ(笑)。
950 :
8 :2008/11/05(水) 23:01:18 0
>>946 頭の中では繋がっている話なんですが、旨くいえないときは
課題を書き残して眠る。朝起きてすぐうつらとしているときにその課題
を見てみる。すると答えが見つかる場合がある
脳の規制を突破する方法として、脳波が変化しているときに思考する
方法等は我流ですが時折活用してます。ユングなんかは、枕元にノート
を置いて就寝して夢を見たら忘れないうちにノートに夢の内容を記帳
するということをずっとしていたのは有名です。これによって、無意識の
奥に侵入することや集合的無意識の発見をしました。実は夢の内容を
記号学的に、人類学的に分析すると自分の知らない面の発見がある
様です。私にはそういう習慣が無いです。あまり夢を見ないので。
951 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 23:09:25 0
保守的又は、攻撃的意味における権力意志の肉体差としての、 理性による権力意志の分散と転換の構造について。 不満(死)と言う抑圧感情・現象と言う壁に屈してしまうと言う事は、 それ以上の「何ものか」は存在しないとは言えない。 その「何ものか」を認められる認められない以前に、 権力構造からは逃れうる事は肉体を持つ以上は不可能である。 その境界線上で、人間は狂うようにできている気がする。 全ての矛盾を根底からひっくり返してしまうのが、結局生存欲。 生存欲にかしずくのが理性。生存欲を否定する為の理性は存在しない。 それが崩れる場合は、性欲、貧困、健康のどれかが阻害されている場合に、 おこり得ると考えられる。
952 :
8 :2008/11/05(水) 23:14:04 0
>>949 キルケゴールはある意味「余計なこと」に気づいてしまった
かわいそうな面もあって、多くの西欧における「愛」の行為が自己
犠牲という形を取って最終的には相手を犠牲にしてしまうということ
に気づいてしまったから、レギーネ・オルセンとの一方的な婚約解消
という態度に出たということも言えます。これは必ずしもキルケゴール
のコンプレックスのみで来るものではなく、レギーネは本当にキルケ
ゴールを愛してた様で多くの記録が残ってるし、その内容をキルケゴ
ールに伝えている。
されど勝手な言い草なのは私も同意見で、「超越者」たろうとする
彼の思想には理解を示せないのです。私なぞ、愛している女性が
一人なぞというのはどう考えてもおかしいのですが、キルケゴール
はそこを宗教的に考えすぎてしまった、そこが失敗なわけです。
>>952 そうですね。
そういう意味ではキルケゴールってのは「男の代表」みたいなところが
ありますよねえ。
「男の逆やせ我慢」といいかすか、それって「相手の女性」不在の一人
相撲なんですけろどね。
わかっちゃいるけどやめられないと(笑)。
954 :
8 :2008/11/05(水) 23:23:18 0
キルケゴールは、自らが哲学書を書いているという意識は無かった。 本人は宗教に関する見解を書いていると思っていた様で、哲学者なら ここを愛という行為の解剖学を行うところだろうが、キルケゴールに その視点はない。しかし、多くの人が彼を哲学者と考えるのかは、 その思考が哲学的思考に至る程深いからに他ならず思考の深さが 哲学をさせてしまった。 しかもレギーネもキルケゴールも相互に愛していたのに、別れた のは何とも……。彼は知りたくて知ったわけではないけれど、神の 前からこの矛盾から逃げるわけにはいかなかったと考えられる。 いずれにしても不幸な話で、今の人間なら「馬鹿な話」一笑に付す であろうが、彼は真剣であったし、その頃の人々の神に対する信仰 は現代の考えとまるで違うということを相対化して考える必要がある でしょう。
955 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 23:26:13 0
結局、ナルシスト論に移行する訳ですね。 それから後はファッションセンス論になってしまい、 拡散しすぎるような気もしますが・・・
そうなんですよね、まったく。 欧米思想ってやっぱり「唯一絶対神」にいきつくんですよね。 そういう意味では、日本人は幸せですよ。 「神様」との付き合い方をみんな知っているから(笑)。 よく日本人は「無神論者」って言われるじゃないですか、それ違うと思う んですよね。 むしろ「緩やかな有多神論者」なんですよね。 哲学書を読むときも、いつもそういう問題にぶつかりますから。
957 :
8 :2008/11/05(水) 23:36:49 0
>>953 よく考えるとキルケゴールと「北斗の拳」のラオウって愛に対する
考え方が良く似ていると思いませんかw? どうでもいいですねw
まず、「愛」という行為の人類の普遍性など、私は広くの女性を敵に回し
ても「否定」サイドです。これは、フーコーと考え方は一緒でそのコトバの
考古学的分析を加えて、そのコトバが無かった頃にそれは意識には登場
していなかったのだと考えます。それは遺伝子レベルで書き込まれた
動物的自己犠牲の行為を多くはそう読んでいるのです。だから私は、
テレビドラマの多くは嫌いです。されど、ドラマの制作サイドの優秀な人間
はそのことを知っているから、なおさらたちが悪い。
958 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 23:39:34 0
つまり、無駄と分かりきっていても憤懣するしかない訳で、 そこが悲しいですよね。 自分は浮気者の癖に、一本柱を望む。 そんなの現実に具現化したら戦時中やヒトラー位しか思いつかないんですがw まあ、構造としては、原生生物アメーバが危機の際に一つに固まるのと同じですよね。 別の良い言い方に変えればスイミーですけど・・・ これって差別的な例ですかね?メンドクセーナwニンゲンッテw
>>957 ええ、似てると思いますよ(笑)。
しかも古いタイプの「愛」ですよね。
自分自身が「異性を愛する」って、やってみると結構大変ですし。
もう「愛」の多様化で、それぞれが作り上げていくようなものでもありますから、
クリエイティヴな人でないと、中々良い「恋愛」も「人性」も構築できないです
よねえ。
そういう意味で、ランガージュ(象徴化能力)って大切なんですね。
みんなランガージュを鍛えなければならないんです。
960 :
8 :2008/11/05(水) 23:50:52 0
>>956 日本人のこの考え方というのはI・イリイチの言う
「コンヴィヴィアル」(共生(感覚))に近いと思ってる。
(でも現代では欧米の文明のせいで相当歪んでるとは考えてるけど)
これは古来から神話的思考が奇跡的に残っているからで、この理由
の一つは、日本語の特殊な言語性にある様で、前に書き込んだ
と思うので参考にして下さい。(参考:柄谷行人「日本精神分析」)
961 :
考える名無しさん :2008/11/05(水) 23:51:04 0
>よく日本人は「無神論者」って言われるじゃないですか、それ違うと思う >んですよね。 >むしろ「緩やかな有多神論者」なんですよね。 >哲学書を読むときも、いつもそういう問題にぶつかりますから。 日本人(他人)を論ずるのは難しいね。 私は無神論者が多いと思うが。しかし、無宗教ではない。 形骸化していようが一時的(祭り、盆)宗教だろうが、それに携わっている なら宗教はもっている。しかし、それイコール有神論者だとは言えないと思う。
いやいや、あくまでも「緩やかな」ですよ。 神を一応信じていなければ、お参りなんかもしないでしょうし、お地蔵さん なんかにだって、小便をかけれるのではないですか。 それをしない、出来ないのは、「緩やかな仏教」だからこそだと思いますよ。 密教のように修行も厳しいものから、日蓮、親鸞のようにかなり緩いものまで。 宗派が違ったって、一般の人には関係ないですから。 ぼんやりと、我々の「生」を包み込んでくれる存在が「緩やかな仏教」なんだと 思います。
963 :
考える名無しさん :2008/11/06(木) 00:04:55 0
>知識の詰め込みが何ゆえ面白くないのかは、実践する機会を多くの学校 >が子供から奪っているからで、学ぶこと、覚えることは本来的には楽しい >のだが、それを人生から実践の機会を奪っているから面白くないのだ。 実践が面白いというのは同感ですね。 ただ、学ぶこと覚えることは本来的には楽しい、というのは私とは意見が違います。 学習と生徒個人の精神環境が全く噛み合ってない限り、いくら生徒に学ばせようと しても生徒は少しも楽しくない。 全く噛み合ってない、とは、物理覚えても役に立たないと信じていたり、 ある生徒が文を読み理解するペースが1単語/1分なのに、1単語/5秒のペース で学ばせようとしていたり、など。 生徒のペースや心理,信念をうまくつかみ、誘導して、学習に興味や目的意識を抱かせる という概念が欠如していることがつめこみ教育の本質的問題だと思います。
学校教育というものは、本質的に「型にはめる」作業ですからね。 社会の鋳型にはめて、大量生産し、品質を一定に保つシステムのことです。 私も学校の授業が面白いと思ったことはほとんどありませんでした。 しかし人間と言う動物の困った性質を考えると、そういう均質化と家庭内の ある種虐待とも言えなくも無い「躾」は必要なものともいえます。 そういうことが、結果として精神の病の原因になったりもするのですが、 人間なんかほったらかしたまんまだと、殺し合い(男がほとんどでしょうが) にしかならないでしょう。…そうあと略奪、レイプ。
965 :
8 :2008/11/06(木) 07:03:30 0
>生徒のペースや心理,信念をうまくつかみ、誘導して、学習に興味や目的意識を抱かせる >という概念が欠如していることがつめこみ教育の本質的問題だと思います。 問題の中心はそこですね。そもそも学校教育は、社会の規範にずれた存在を 「排除」することに終始しているし、今のままならまあ無理でしょう。 本田和子の「異文化としての子ども」という著書がありますが、日本において は近代以後に誕生した存在であることを物語っています。かつては、労働力 として、家内の仕事を手伝っていた「子ども」が、義務教育の導入で強制的に 家庭の仕事から分離していったことがこの問題を浮き彫りにしているのではな いかといわれています。「児童」の誕生、これまた言語の問題なんですね。 教育は否定できない。躾は必要。寧ろそれを全て学校に丸投げしている 昨今の親御は責任の希薄さにあきれ返るばかりだけれどねw されど資本主義社会における均質生産的な、教育システムの功罪というの はもう少し慎重に考えることは必要ではないだろうか。 確かに楽しい部分もある学ぶこと、覚えること、されどそのスピードが問題 であるし、各個人の学ぶ目的意識によっては、嫌悪されるのは当然だと思う。 教育システム
966 :
8 :2008/11/06(木) 07:11:27 0
近代化が促される為に必要条件として (もしかしたら必要十分条件かもしれないが)文字言語の普及がある。 網野善彦氏によってようやく指摘されたことではあるが、日本における文字言語 の普及率は中世においても異常なほど高く、かつては(今でもそうなのかは知ら ないけど)ある階級の人が都合で記述したので、文字を知らない人は多かったと 言われていたが、彼の綿密なる調査でそれは間違いといわれています。 「読み、書き、そろばん」と言われた江戸時代での教育は結構中世の頃より 存在しており、農家で結構古くからの帳簿が発見されたりすることで、海上交易 が行われていたことが指摘されたり、どんどん歴史的発見は出てきている。
967 :
8 :2008/11/06(木) 07:18:14 0
江戸時代において、農家が自ら海上交易を行っていたのは、加賀や 紀州、瀬戸内海や九州などが有名ですがそうすると、農家が弱者という 今までの「水戸黄門」的な構図はまっかな嘘ということは言える。 ただし、「水戸黄門」がこれだけ長く愛されているのは、それだけ、この 構造が日本の精神的無意識に深く根ざしているからであって、むしろ このことを考えると面白い。 日本は東洋でも近代化の取り入れが異常に早かったのは、文字言語 の普及が土台にあったことは間違いなくあった。 これが相対化ということで、今まで言われていたことを徹底的に覆して 考えていくことで、偏見を捨てていくこと。これが肝要。
968 :
8 :2008/11/06(木) 12:35:25 0
過去日本における識字率は7割強とも言われており、これは同時代の中世の 東洋の諸国から見ても抜き出て高かった。つまり識字率の高さとはコミニュケ ーション能力の高さと、情報ネットワークの高さが伺える。これは非常に重要な ことで、あまり指摘が無いのが不思議なくらいであるけれど、つまる所言語能力 の問題に突き当たるので、深いところで<言語>という面で繋がってるです。
このスレタイで次スレ立てんなよ。 ソシュールあるいは構造主義を期待してスレを見ると、 全然違うことが書いてある、 っていうのはこのスレだけにしとけよ、カスども。
あ〜あ、また怒られちゃった
971 :
8 :2008/11/09(日) 09:18:21 0
最初から読んでほしいですね。まあそれは内容がどんどん拡大や紆余曲折して るから「下の方」だけ見たらそうだろう。 ここらあたりで「まとめ」に入ろうと思う。
972 :
8 :2008/11/09(日) 09:31:15 0
まず、ソシュールは、弟子による「講義」の出版によって、現代思想の 潮流に、特にフランスの思想界に非常に多くの影響を与えた。これは、 やがて日本における80年代の影響を考えたら決して小さくはないはずだ。 「ソシュール」も「構造主義」もそもそもあまりに誤解が多かったこ と、それこそその影響そのものが、ソシュールの記号学における、 「記号は差異しかない」という理論をいい意味でも悪い意味でも裏付ける 結果となった。 ソシュールも弟子による理論の解釈の間違いや語彙の分類のミスなど が多くきちんと伝わっていたとはいい難く、逆にそれゆえに思想の不十分 に伝わらなかったことが、思想界に大きな影響を与えたともいえる。 「構造主義」にしても、それを標榜していたのはレヴィ=ストロース ただ一人であって、フランスの思想界ではそれとは無関係に影響を受け、 与えつつ、世界に拡散していった。 特に西欧と日本において、ソシュールの思想の影響は計り知れなく、 現在のポスト構造主義以降にしても(この言葉はどうかと思うけれど便宜上 使用する)、現在にしても少なからず影響がある。ここまで、大筋は納得 いただけるはず
973 :
8 :2008/11/09(日) 09:41:54 0
しかし、ソシュールそのもの、構造主義とはなんだったのかということ も重要であるが、実際「真実」は何だったのか、その「根拠」について はどうだったのか、ということをきちんと考えていく必要があったので はないだろうか。日本においては丸山圭三郎がソシュールの思想から、 自らの理論を構築していった。日本においては、自前の思想を持ちえる 人が一部を除いて大変少ない。日本においては、それこそ、流行という かファッションの様にさっさとポスト構造主義にうつり、さらに目新しい 思想にと飛び移っている昨今であるが、もう現代は、思想が世界規模に 多大な影響を与えるという「物語」は終わったと考えたい。それは、IT の発展によって、個別情報発信型の社会に転換され、「情報」という名の 貨幣が流通する、情報経済が世界に影響を与えている。情報そのものが 「魔力」を持つかの様に流通し、さらに「情報」そのものを無料で再分配 を図るオープンソース型の情報提供は、「情報」に価格を付ける市場社会 原理に変換を迫っている。
>さらに「情報」そのものを無料で再分配 >を図るオープンソース型の情報提供 相変わらずこういう誤解が酷いな
975 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 09:54:37 O
言語の分析を、社会を語ることのメタファーとして扱う。これ はアイディアに違いない。仮に文化相対主義を日常の中で説い たところでその言説はなんの力も発揮しないというのは俺たち がよく知るところだ。世界がスタテックな構造の器の中で、差 違や交換という状況を描き出すものだという認識に留まること は、実に面白くない。俺たちは主体者でありたいと常に思って いる。例えばカフカは「夢/不条理」を入れ物として持ち込ん だ構造主体者ではなかったのか?モデルの設定はハード(構造) の書き換えを訴求するソフトウェアなの だよ。 (´-`)yー゜
976 :
8 :2008/11/09(日) 09:58:08 0
テーマを逸脱していた部分は否定できないけれど、現代の抱えている問題の 多くは「言語というシステム」そのものが土台で、その「情報」がどの様な テクノロジーで経済流通するかというところから考えていかないと多くは見 えてこないし、そういう意味ではインターネットにおける情報分析において はソシュールの記号学というのは、とても有効なツールになりえるし、その ツールをきちんと活用出来なかったがゆえに、80年代の「記号論」はブーム で終わってしまった。 私はソシュールの思想というのは、古くても新しい問題に対して、いや現代 の状況だから有効ではないかとも考えている。私の知るところでは、 コンピュータのプログラムのソースコードは、ある意味論理学であり、記号学 である。そもそもGoogle等の検索エンジンは品詞をクラスター化するという、 分類、整理する仕組みや、最適化、アルゴリズムについては、あまり知られて ないけれど、記号学と論理学と数学の複合的なプログラムである。
977 :
8 :2008/11/09(日) 10:04:17 0
>>974 確かに正確じゃない、価格が数値化されていないという意味に捉えて
欲しい。そもそも市場社会の貨幣による一元化の構造そのものは、かなり
揺らいできている。オープンソースにしたって、寄付を伴っているケース
の方が多いことぐらいは知っている。寧ろ「贈与」されたものに対して
「返礼」を伴うというモース流に解釈する方が正しいでしょう。逆に
この経済ではより原始社会的に贈与、返礼というスタイルに置き換えた
方がいいくらいと思っている。
>>977 ええっと、そういう意味で使いたいのであれば
フリーソフトウェア(運動)とオープンソースの違いについて
きちんと理解した上で発言した方が良いと思います。
979 :
8 :2008/11/09(日) 10:14:59 0
>>975 なかなかいい指摘である。
>俺たちは主体者でありたいと常に思っている。
というのは、私個人は不可能な願いとは思っている。
それこそ西欧の生んだ「物語」という気がする。
主体であろうとすることは、丸裸のまま現実という実在に飛び込む位に
危険を伴う。さらに日本の文化の歴史の深い所ではそんなものは動いて
おらず、「関係性」の中で自己が形成されている。<世間>とは日本独特の
「構造」を持っており、公共性とも個人性とも付かぬ概念で、<世間体>
という表層的な自己は戦後、諸外国の影響から始めて浮き彫りにされた
けれど、日本人は明確な「自己」というものを持っておらず、河合隼雄は
ユングの心理学を取り入れるにあたって、そのことを述べている。
980 :
8 :2008/11/09(日) 10:26:34 0
>>978 まあ確かにそうです。それは注意します。
人間は情報発信という行為を止める
ことは無理だと思ってる。
何ゆえ人間はコミュニケーションを取るのか、それがなぜ<言語>で
なければいけなかったのか、言語はなぜ生まれたのか、それが、人間
を縛るのはなぜか、モノにしても「情報」にしても贈与、交換、分配
、返礼をする「必要」が生じるのは何ゆえか。疑問は増えるばかり…
981 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 10:30:04 O
>>977 ローカル経済の問題だね。国家が発行する貨幣の他に、価値
交換を媒介する「ローカル貨幣」がある。クーポン券や金
券、ポイントカードなどもその性格を有する。「貨幣」の
価値交換を可能にする前提には「信用」がある。信用の醸
成には何らかの秩序やコミュニティの存在が必要だ。〈税
金→権力→還元〉俺たちは国民国家を問い直すべき時代に
差し掛かっている。これは自由資本主義経済と“今のとこ
ろ”セットだ。人が幸福であることと、この先に豊かな未
来があるという“福音”は、心の底では誰もが聴きたがっ
ている。
982 :
8 :2008/11/09(日) 10:42:12 0
>>981 K・ポランニーを持ち出すまでもなく、「贈与−返礼」という<経済>行為
の方がより人間の心理には普遍性に「近い」ということで、インターネット
上では寧ろこの経済の方が全世界に有効性を持ちえていることを裏付けて
いる気がする。
>人が幸福であることと、この先に豊かな未
>来があるという“福音”は、心の底では誰もが聴きたがっ
>ている。
確かにそうでしょう。ただ、人類学から見出される「神話」にはそれと
同じ量の「滅亡」の話も多い。これは人間はどこかで変化していくには
ある秩序を「破壊」することは避けようが無いとする考えも同時に持って
いることを意味する。どうなるのかなどというのは、預言者でもない凡人
の私にはわからない。
983 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 10:55:16 O
>>979 現在の日本に覆う世間の発生が、西欧との接触から生まれた
ってのは面白い。江戸時代の長屋では近隣のセックスの声も
筒抜けだったらしい。今とは別の世間がそこにはあったんで
しょう。武家と町人。身分が変わればまたそこに別の世間が
あるんでしょう。しかし今でも田舎に行けば、全くプライバ
シーのないような所は幾らでもある。「自己」って概念が、
他人と切り離され、他人との違いや優劣を強調することで、
自己意識というのが磨かれる。自意識ってやつですね。この
「自己」ってのは確かにシステム的ですね。共同体が力を持
つ為には、能力の高い個が寄り集まる必要がある。共同体が
競争にさらされた時、それを構成する個も競争にさらされる
。ここに自己が「システム」として描きこまれていくわけだ。
(´-`;)yー~
984 :
8 :2008/11/09(日) 11:12:33 0
>>983 日本の共同体を西欧のロジックで説明するってことは過去いくら
でも著書があるけれど、「すごい」と思った著書はほとんどない。
つまり、コトバで言われても、「それはちょっと違うでしょ」と多くの人
は考えた本は多いけれど。つまり、言われてみれば思いあたる節があるが
差異も同時に感じざるを得なかった。それを明確に述べるコトバが無かっ
たからだ。これは、逆に日本人による日本そのものを定義せざるを得なか
ったことが言える。明治から大正にかけて欧米の哲学が技術とともに
輸入され、かなり高度な所で日本文化と接合する論文も生まれている。
だから欧米のコトバの無いところに「認識」はあり得ないという考えがこのソシュ
ールや人類学的分析方法である「相対的認識論」です。
現在携帯電話が普及してますが、携帯電話が無かった頃、「どうやって
約束時間と場所を連絡してたの?」とある高校生から聞かれた時には、
正直唖然としつつも、文化やコトバが人間の想像力にも影響を与えている
って思いつつも「ぞっと」させられた。
985 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 11:16:55 O
>>982 大変、話がよく分かります。
人間の心理に近い経済ってのも、経済そのものの定義を、書
き換えていく様な話にもなってきそうな気がしますね。
ギフト経済ってアメリカ先住民の概念もある。
アヤシイ話なってきますが、要は人間の本来的な活動を阻害
する様なシステムならすぐに見直しべきできですよ。このへ
んの話になるとマルクスの亡霊が見えるんですが。><
神話などに出てくる破壊の語りのパターンも、現代に移し
かえると、これも非常に穏やかでない。みんな、このへん
で立ち止まるんでし
ょうね。世間から頭が変だって思わ
れない為にね。
本気の(誠実な)思想家が求められてる時代ですよ。
あたしに言わせやりゃね。(*^-^*)
986 :
8 :2008/11/09(日) 11:21:29 0
だが、それが人間であり、山に登って澄んだ夜の星空を子供に見せても、 「プラネタリウム見たい」と答えた子供がいたそうだ。これはコトバに よって、記号は差異を認識するのだから当然と思うけれど、80年代当時 にこのことに愕然とする人々が多かったそうだ。 つまり、それほど技術と環境が恐るべき速度で進歩した時代は無かった からで、パソコンの使える人と使えない人ではテレビを見る、見ないと 分化したといわれているが、世代や環境によってこれほど多様化した状況 も、技術と情報が複雑化しているからで、すべての情報を「教養」として 一元管理することも出来なくなってきている。多くの大学から「教養学部」 が無くなって来ている状況はこのことを裏付けている。
987 :
8 :2008/11/09(日) 11:32:03 0
>>985 マルクスの亡霊になる気はさらさら無いですけど。
ただ、彼の思想には根本的に欠陥があるからそのまま持ち出すことは
無理でしょう。
出来ることは、たった一つ。出来るだけ慎ましく生活するってことを
考えて実践していくこと。「広告宣伝」や企業の「煽り」に負けずに衝
動で物品を購入することを止め、それに負けないだけの多くの知識と
知性でもって武装すること。それを強制することに対して抵抗を続ける
こと、拒絶すること。知識を知性を身につけなければ、結局安易な考え
で妥協してしまうからで、その意味では「哲学」を捨ててはいけない。
988 :
8 :2008/11/09(日) 11:39:06 0
ひきこもりを続けたって、援助者が途絶えれば、結局現代の市場経済に 取り込まれるのがほとんどなわけで、「貨幣」から自由になるためには あまりに安易すぎる。 だから新たなるコミュニティ経済を考えたければ、そこを徹底的に、 貨幣媒介することを止めること。その意味では古来の経済の様に非常に 贈与と返礼しか残らないかもしれないが、寧ろその様が自主性が促される とは思う。
989 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 11:40:57 O
>>984 コトバのないところに認識はない。これですね。日本では
以心伝心でコトバにしなくても「おっ、わかってんな」っ
て事がある。逆にそこに言葉が入ることで誤解や語弊を生み
、関係を悪くすることがある。これは不思議な現象です。
言葉と行為の間にあるズレですね。言葉はコミュニケーシ
ョンのツールとして完全ではないのです。これは話し手の
能力へ、全面的に還元できる話じゃない。確かに歯に何か
詰まった様な感じを、パッと言葉にされるとすっきりする
事がある。これは何と何が結び付いた為でしょうか。つま
り言葉による認識とは、個別的で可変的で且つ互換性を持
ったものだという事。言葉が完全なツールでない「理由」
は、ネットワーク的であること、このコンテストの流動性
(融通性)に基づくものですね。
(*^-^*)b
990 :
8 :2008/11/09(日) 11:50:37 0
>>989 コトバというのは、コミュニケーションツールとしては、非常に
特殊なもので、文字にしても、記録を取らなくては混乱が生じたが故に
発生したと考えられている。文明は文字が無くとも存在したということ
は数多くの資料から実証されているが、無文字文明の方が長く続いてい
たということからも、関係が悪化する要因にならなかったからこそ、
生み出す必要すらなかったからなわけです。
しかし、日本においては、結構古くから文字が普及していた様で、
これは日本が単一民族国家では無かったと最近では言われており、
むしろ大陸やポリネシアや北方から民族が移り住んで国々(村落共同体)
が乱立していた様です。遠いところでは7世紀前後にはペルシア人すら
日本に来ていたくらいで単一民族というのは何の根拠もない「神話」だ。
当初は混乱が著しかった様で、天皇制という「象徴システム」が発生するまでは
多国籍の集合する島々であった。
991 :
8 :2008/11/09(日) 11:58:34 0
992 :
吉田メロウ :2008/11/09(日) 12:33:13 O
>>990 民族という概念そのものが新しいものですよね。定義の仕方
も曖昧な部分がある。(民族の同定は主に言語の違いによる
ものでしょうか)しかしことさら民族をカテゴライズする
意味(歴史的経緯も含め)がなぜあるのか。学問として洗
練させる為に、民族を問うことの意義をはっきりさせた方
がいい。学問というのはフィクションであり、まず魅力的
な公理を前提としなきゃならない。民族に纏わる自他の違
い、仲間とそうでないないものの漠然とした選別意識。ひ
ょっとしたら日本と中国の関係性は家族とその親戚くらい
の、アナロジーで考えると面白い視点の発見があるかもし
れない、だとか。
二点くらい、非常に興味深いの指摘がありますね。つまり
コトバはコミュニケーションツールとしては特殊だという
事。一般もしくは普遍ではないと言い切ってしまう辺りで
すね。もう一点は、共同体の混乱が文字文化を生んだとい
う点。混乱を整理する為に記録が必要であるというのはす
ぐピンとくる発想ですね。記録の保管者は権力者であった
ことは想像にかたくない。昔、中国のビジネスマンに訊い
たことがあります。お前の国の政情は大丈夫か?と。彼
は56の民族は漢字で繋がっているから大丈夫だと言い
ました。しかし、記録することを生んだ文字は、世界をさ
らに複雑にしたという側面もある。他民族との間の不通
と疑心暗鬼がそれで、記録することの発明はコミュニケ
ーションを複雑にしたということは間違いない。(´-`)
「原資料w」以前のソシュールから展開した思想を顧みない奴って、 最後には、ソシュールとは無縁のトンデモ思想に行き着くということが、 このスレでよくわかる。 丸山の縮小再生産w
丸山圭三郎の功罪を改めて考えさせられるスレだなあ。 言語学の特定のフィールドを持たずに ソシュールを人生思想として使ってしまう不幸。
995 :
8 :2008/11/09(日) 12:43:25 0
>>992 そのとおりと思います。
コトバはコミュニケーションツールとしては普遍性を持っているとは言い難い
のは、人類学がまだ黎明期の頃は、全然言語を交わさず家族生活を送るブッシ
ュマンの記録がある。しかし現在は多くの学者がフィールドワークと称した、
コミュニケーションを繰り返すことで、多くのコトバが必要となったという様
ことを述べた論文があった。つまり欧米諸国もナマのままの「原始生活」とやら
を変質させてしまったそうだ。共同体の外部とコミュニケーションにおいて、
交換行為は「沈黙交易」がほとんどで言語を解したコミュニケーションが当初
は多かった。
世界的に見ても優秀なソシュール研究者の弟子を生んでいるし意味はあっただろ
まともなアカデミズムが育たない日本
言語学や情報科学方面で今更ソシュールから得るアイディアなんて何もないよ。
999 :
8 :2008/11/09(日) 12:48:55 0
続き 発話行為についても、ある共同体内でそれを皆で同じものを<指示> するからそれが「コトバ」となりえる。ある共同体で、一般言語とは別に 俗語(スラング)が発生するのは、その共同体での共通認識に至って、 コミュニケーションするに都合が良かったからに過ぎず、あまり深い根拠 無く「恣意性」によっていったもの勝ちというところがある
1000 :
8 :2008/11/09(日) 12:49:39 0
1001 :
1001 :
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