2 :
考える名無しさん:2005/07/12(火) 22:15:19
2−チェ
4 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 00:13:20
こっちが本ちゃんだろう
5 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 00:14:59
正義は勝つので本物のこちらが残り、偽物は沈むと思う。
7 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 00:24:34
Beyond Good and Evil だと岸じゃないんじゃないの
9 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 00:52:38
ニ一千ェ
「(権)力のへの意思」そのものは読んだことないけど
他の著作の中でもよく出る言葉だからちょいと聞いてみる。
「力への意思」と「権力への意思」
どっちが適切だと思うよ?両方の意味があるだろうとは思うけど。
解説とかを読むと「権力への意思」が推されてる感じだけど、
作品そのものを読むと単に「力への意思」の方が
しっくりくるのが多い気がする。
一応脳内変換で適宜使い分けはしてるけどねぇ
11 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 01:16:28
制度や道徳などは、力の具体的な現象化でそれは権力、
それらを世界に現象化した源が力への意志ではないか。
12 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 01:18:45
力はともかく、権力とは何ぞや?を問おう。
13 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 01:26:34
ニーチェはタルムードには言及してますか?
カバリスティックニーチェ
15 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 12:32:58
16 :
考える名無しさん:2005/07/13(水) 18:22:10
薔薇十字団とニーチェは関連があるんですかね?それとも嘘なんですか?
ちゃんとおしえてください。
17 :
前スレ 前スレ 前スレ:2005/07/13(水) 21:37:50
18 :
考える名無しさん:2005/07/18(月) 22:23:58
!!
19 :
前スレ 前スレ 前スレ:2005/07/19(火) 12:58:58
21 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 04:17:07
こっちが本ちゃんですから。
22 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 05:47:51
ニーチェより偉大な哲学者って居るの?
23 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 06:36:29
24 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 08:29:52
>>16 ニーチェが薔薇十字団と関係あるわけないでしょ?ああいうの
一番、嫌いなひとだよ。
25 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 08:48:05
1イエスとキリスト教は関係ない
2西洋の哲学者はほとんどがインチキ
3キリスト教が戦争を生み出す
どれも事実
26 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 08:57:13
1:関係ないことない。イエスが現れたから、キリスト教がうまれた
から。もちろん、ローマ帝国の政治に利用されたことは確かだけど、
真剣に思索したひとたちは何人もいた。
2:インチキって、どういう意味? インチキじゃないものの例を
あげて欲しいね。
3:ほんとうの原因は別で、大義名分としてキリスト教が利用される。
27 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 14:34:03
聖書のソースとなる最初の古代の文献はヘブライ語とアラム語
で書かれた。そうした古代の文献には、色々と違ったものがあり、
それを採択・編集して集めたものが聖書にすぎない。
何か事実があったから聖書にも書かれたとはいっても、
聖書の元となる資料はいくつもあり、旧約・新約聖書だけでなく、
聖書外典もあり、選ばれた真実のほかに、消えた真実があって
もおかしくない。それは編集されたものであるので、各権力者の
思惑も絡む歴史の中で、全くそのままの形で残っているわけが
ない。
ソースは、ある程度推測はできても完全に再構築することは
できない。そこが曖昧になっている「現行聖書」は、信仰の
対象としてははなはだ疑問だということになる。そういうもので
あるかぎり信仰など困難。
28 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 14:38:11
29 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 14:40:00
30 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 17:38:41
『両性具有―ヨーロッパ文化のなかの「あいまいな存在」の歴史』
パトリック・グライユ
キリスト教社会において両性具有がどのように理解され迫害
されたかというのが良く判る。
本書の特色はこの第3部「審問」の存在でしょう。両性具有者
たちが現れる17-18世紀フランスの裁判記録からはじまる。
我々非西欧人には理解しにくいのですが、両性具有者の性と
結婚は、キリスト教にとっては重大な問題となっていたようです。
そのため、彼らの「結婚」がしばしば法廷で裁かれる対象とな
りました。あいまいな存在は、驚異であるのか罪であるのか、
どちらにしても、排除しようという動き(時には死刑であり、
時には結婚の禁止)が支配的です。
大概の場合、医学者たちが比較的寛容であるのと対称的に。
31 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 17:59:34
拝啓。結局、私は神であるよりは、はるかにバーゼル大学教授でありたいのです。
しかしかみに世界創造を神のためにやめさせようとしてまで、
私はあえて自分の我欲を張ったことはありませんでした。
私の謙虚さを圧迫し、また不快でもあることは、
結局、私が世界の中のあらゆる名前であると言うことです。
また私の子供たちがどうかと申せば、ちょっと邪推も入りますが、
「神の国」にはいるもの全てが神から出てくるとは限らないのではないかと考える次第です。
私たち芸術家には人を教化することは出来ないものです。
私はカイパスを鎖に繋がせてしまいました。
私も去年ドイツの医者たちに酷く長ったらしいやり方で十字架にかけられました。
ヴェルヘルム・ビスマルクとあらゆる反ユダヤ主義者は罷免されよ!
バーゼルの人達から尊敬を受けている私をみくびることもないこのレスを、貴方は利用できます。
---------------------------------------
1889/1/6 ブルクハルト宛
32 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 01:17:38
ニーチェは社会学者って言い方もできるような気がするんだけど、どう思う?
文献学者だと思う……ってことじゃないよね。
でも社会の中に力への意志を見いだして何をしたかったか、と考えると
社会学でもない気がする。
34 :
考える名無しさん:2005/07/24(日) 08:19:59
ニーチェの思想は現実では全く適用できないとかいう永井の言ってることは当たってる気がする
哲学自体が・・
>>32 社会学ではないけど、
アンチ・オイディプスには、「道徳の系譜」は最高の人類学の本って書かれてるね。
キリスト教は邪教です!について皆様のご意見お聞かせください。
いいとこ…わるいとこ…
ニーチェはキリスト教を超えて思想を打ち立てた
東洋で仏教を超えて思想を打ち立てられないか?
40 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 02:31:34
試しにお前が打ち立ててみれ
41 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 11:41:38
>>41 高校の倫理教科書を読め!
ちゃんと実存主義って書いてあるわ!
……日本の教育って大丈夫か?
43 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 15:56:12
ハイデガーは大思想家と言われているが、ニーチェはそれ以上だろ?
44 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 16:09:54
>>34 そういう永井こそ、まるで神懸りではないか。「私・今・そして神」(講談社
現代新書)を読んであきれた。
45 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 16:30:09
「現代思想としてのギリシャ哲学」(古東哲明著、ちくま学芸文庫)によると、
ソクラテスもプラトンも、神懸りの精神異常の宗教者であった。彼らが重視
されるのは、後世、キリスト教徒の哲学者達が、自分達に都合のよい学者を
特に取り上げただけではないか。それとは知らずに有り難がっているのが、
日本の哲学者達である。
46 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 18:13:59
>>42 あなたは教科書の上でしか学問できない人。
ニーチェは「実存主義」って自ら標榜したか?
何より、ニーチェはハイデガーやサルトルみたいに「実存」を中心に据えて語った人ではない。
……マニュアル君を大量生産してしまった日本の教育って大丈夫か?
47 :
41:2005/07/26(火) 18:20:18
>42
高校生は実存主義レベルで生きるのが吉なんだよ。
大学受験前に「諸価値の転換」されても困るがなw
>46
まってくれ。ハイデガーが実存主義なんて初歩的ネタはやめてくれ。
当人が名指しでサルトルを批判してるだろ
48 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 18:26:34
ニーチェが、少なくとも実存主義の嚆矢だったことは明らかである。サルトル
やハイデガーに、ニーチェの影響が皆無だとも。それこそ、実質に迫らない
教科書盲信だろう。
49 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 18:38:08
>48
所々言いたいことが良くわかんないから円滑な言語ゲームが出来ん。
「遊び」の気持ちでいこうや。
ニーチェを実存主義的に読解するのは戦後直後辺りまであったしそのての本もあったね。
でも実存主義の基本はキルケゴールなんでないの?
彼の「実存的不安」とニーチェの「大いなる健康」は違くない?
あとさ、ハイデガーがニーチェについて論文書いてるんだから「影響が皆無」ってのは良く分からん。
「永劫回帰」と「力への意志」接合させてその後ピピトからその点を反論されたよなぁ。
ねぇ?
50 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 19:44:19
>>49 >後ピピトからその点を反論されたよなぁ。
その反論の要旨を教えて下さい。勉強になりますので。
哲学の本は、言葉が判りにくいので、読まないことにしています。
今回の超訳は別ですが。あと、「道徳を基礎付ける」(講談社現代新書)」
も、訳書ですが、日本語の書き下ろしよりも判りやすく、感銘を受けました。
51 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:14:18
超訳って?
道徳を基礎付けるって?
誰の本
52 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:28:11
>>51 超訳とは、「キリスト教は邪教です!」(講談社+α新書)」。ニーチェの
「アンチクリスト」の和訳。この板にもスレが立っています。
「道徳を基礎づける」(フランソワ・ジュリアン著、講談社現代新書)は、
フランス人哲学者である著者が孟子を論じた本で、呉智英が、当時、「文句
なく本年度の最高傑作」と評していました。これだけの本を、日本人の哲学者
ではなく、外国人に書かれたのは口惜しい。
東洋哲学は、ニーチェに通じるところが多い。西洋哲学よりも、人間性の本質
を洞察している。
53 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:30:05
ニーチェはスピノザとゲーテのパクリ
54 :
49:2005/07/26(火) 20:48:23
>>50 極力分かりやすく言うと、
「永劫回帰の思想と力への意志の思想には連続性は厳密には存在せず、
ハイデガーの行ったニーチェ解釈はハイデガーの個人的思想の証明にニーチェを利用したに過ぎない」
ということ
でもさ自分は教える立場じゃないけど、読まなきゃ面白くないと思うけどね。
読まずに哲学を論議するのは、
「練習せずに試合に勝ちたい」「基礎体力つけずに本番の試合がしたい」みたいなことじゃない?
そういうのって違うと思うよ。数学の答えだけ知っても、次に自分で問題を作ったり答えを導き出せないなら時間の無駄じゃないかな
55 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 21:01:49
>>54 ご教示ありがとうございました。それは、ハイデガー批判ですね。
ニーチェの「永劫回帰」と「力への意思」は、人間の唯一の普遍としての
生の欲求という基本的本能に基盤を置く点で、「連続性は厳密に存在する」
と思いますが。
哲学とは、他人の思想を学ぶことではなく、現実に立脚して自分の頭で考える
ことだと思います。
56 :
42:2005/07/26(火) 21:09:59
>>46,47
いや、ニーチェを実存主義で括ってるような教科書で勉強してるから
「日本の教育って大丈夫か?」と書いたんだが。
そういやハイデガーも実存主義って書いてあったような……
>>54 >ハイデガーの行ったニーチェ解釈はハイデガーの個人的思想の証明にニーチェを利用したに過ぎない」
ハイデガーはニーチェ批判してたぞ。確か。
ハイデガーのニーチェ解釈に問題があると言う人も多いが、
ハイデガーの解釈は基本になっているようにも思える。
ハイデガーの解釈をみんなで修正する、みたいな。
57 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 21:12:23
58 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 05:39:35
哲学が役に立たないのって哲学が理屈だからじゃないの?
まあ、ドゥルーズのニーチェもハイデガーの修正版だし。
60 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 20:23:42
ニーチェはキルケゴール読んでないみたいだな
61 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 20:30:19
役に立たないわけではない
あたりまえだろ。
それどころか、マックス・ウェーバーも読んでないしプラグマティズムも知らないし、
量子力学や相対性理論の知識も持ってないみたいだ。
>>60 岩波文庫の『死に至る病の』あとがきによると、
キェルケゴールは「せむし」だったらしい。
ツァラトゥストラの「救済」の節に「せむしの男」が出てくるが、
もしかしたらキェルケゴールを意識してたのではないだろうか
と思ったり。
完全に憶測だけど、裏付ける(もしく否定する)資料を探してるところ。
研究者じゃないし真剣には探してないがねw
何か知ってる人情報ください。
キルケゴールは背骨の具合がよくない人だったのかい?
それは初耳だ。
65 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 21:26:11
66 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 05:51:12
詩人哲学者ニーチェage
67 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 09:21:34
キルケ、読んでて、何も語らないわけがなかろう。
あの、おしゃべりニーチェが。
68 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 12:29:55
キルケゴールについては1888/2/19のゲオルクブランデスへの書簡で
触れられているけど、ちゃんとは読んでいなかったような感じだね。
デンマーク語は分からなかったみたいだし。
ツァラトゥストラを書いた時はキルケゴールのこと知らなかったと
思いますが、どうなんですかね。
69 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 13:36:41
当時はドイツ語に訳されてなかったのか
訳されてなかった可能性はある。今の日本みたいに出版即翻訳という時代じゃない。
ただ、キェルケゴールはドイツ語が堪能だったようなのでドイツ語訳くらい出しててもいい気がする。
……いや、堪能だから出させなかったのか?
71 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 15:26:03
キルケゴールはドイツ語ダメだったっんじゃなかった?
72 :
63:2005/07/29(金) 23:48:15
改めて『死に至る病の』解説(あとがきじゃなかった)
と『ツァラトゥストラ』の「救済」を読んでみると、
やっぱりキェルケゴールを意識してるような気が・・・
すこし真剣に裏取りたくなってきたかも。
>>68 >1888/2/19のゲオルクブランデスへの書簡
興味ありますので、
よければその資料が何に載ってるか教えてください。
73 :
考える名無しさん:2005/07/30(土) 10:05:55
ニーチェの場合分析というより直観だな
74 :
考える名無しさん:2005/07/30(土) 12:21:09
>>72 ニーチェ全集〈別巻2〉ニーチェ書簡集2 詩集 ちくま学芸文庫
ISBN: 4480081321
75 :
63:2005/07/30(土) 19:59:31
ニーチェは派手に余計なことをしたな
派手に必要のないことをした
77 :
考える名無しさん:2005/07/30(土) 23:02:42
>>76 社会に対しては な。
しかし、この上なく偉大な仕事を成した。
78 :
考える名無しさん:2005/07/30(土) 23:11:02
なんでニートはニーチェが好きなんですか?
79 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 01:34:07
・原典読んでなくてもなんとなくかっこいい考えを引用できる物書きの最右翼である
・自分以外の他者が懸命に生きている姿を馬鹿にして鬱憤を晴らすのに都合よく引用できる。
・世間に理解されずとも反世間的な言葉を述べ続けて最後に発狂→その後評価高まる、という
図式にあこがれる。
こんなとこだろ。
>>79 キリスト教徒と、イエスの生き様そのものだな
81 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 01:38:34
ニーチェはイエスを憎悪すると共に親近感も抱いていたしな。
ニーチェは自分の表現スタイルで得もしてるが損した部分も大きい。
82 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 03:43:07
この板ニーチェ好きな人多いみたいだけどなぜ?
83 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 03:54:31
↑3年前の別冊宝島この新書がすごいによると
ニーチェの新書は8冊で哲学者トップだからな。
ちなみに次点はプラトンとヘーゲルで3冊だ
84 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 04:44:18
>>77 社会と言うより全ての人類に対してだと思うが
85 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 06:21:31
ニーチェは「おしまいの人間」と言っていたが、現在生きている人間が「おしまいの人間」らしい。そのうち何割かが超人に進化するらしい。(ってもう進化は始まっちゃってるけど)
何この糞スレ
87 :
考える名無しさん:2005/07/31(日) 23:56:47
キルケゴールが実存の基本とあるが、ハイデガー、サルトルの扱う実存とは全く意味の異なるものといろんな著作で読んできたが。特に反論ではないす。ニーチェの原著を読み通し、生涯も知った今、話せるならと書いてみた次第
88 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 01:20:48
もともとニーチェは人気あるだろ
90 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 01:41:13
ニーチェが人気があるのは、根本的には彼の思想の意義もあるだろうけど、
表面的には、彼の激しい論調が、好きな人には堪らないからだろう。
激烈な口調は、その思想の同調者にとっては快感にほかならないから。
なんとなく、かっこよさみたいなのを感じるんだと思う。
91 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 02:42:55
確かに格好良さは認められる。それて悪いが激烈な口調の文体ならバタイユが上かなと。「有罪者」の賭けの魅惑などはまさに意識と同化してくる文体。
ニーチェの書くエロ本なんて読んでられないだろうが、
バタイユはエロ本書きとしても才能あるからな。
そこら辺の差だろ。
93 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 02:53:23
少し前の権力(力)への意志の訳語による示唆している意味の違いについてだが遺稿で「まさにすべての生命のあるものにおいてもっとも明瞭に示され得るのは、自らを維持するためではなく、より多くなるために、それがすべてのことを行なうということである」と書き留め。
94 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 02:56:18
ニーチェはよく知らないけど多くの人が魅力的に感じるのはわかりました
俺も大杉栄好きだしな
もちろん思想にも魅力感じるけどなにより言い方や生き方にも魅力を感じてるのかもしれん
そんな私におすすめ書籍をば
95 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 03:04:35
93〜。彼(N)は次のように“力への意志”を公式化している。「どれだけ多くの抵抗、苦痛、拷問に意志が耐え、そして、それの利点に変えることを知っているかということによって、私は意志の力を評価する」
〔遺稿〕 つづく
96 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 03:40:05
95〜。権力と意志について再び。権力(力)はより多くなろう(日本語おかしい?)となろうとする意志であり、意志はより少ないものを求めるということはありえない。つまり同義語だと。
97 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 03:48:00
ちなみにNはルー・ザロメに一辺倒でプラトニックで終。だったはず。エロについて精工は唯一お互いが悦ばしいことを与えあえるすばらしいこと。と書いている。ところで今プラトンの原著読んでるんだけど、プラトニックラブってもしかしてプラトン由来?。
17世紀の哲学者を読めば「権力への意思」にあたるものはヨリ精密に述べられてるのに。
哲学音痴ニーチェはレトリックに頼った分だけ信者を獲得したが敵も増やした。
100 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 04:02:59
ニーチェの言い回しがわかりずらいのって翻訳だからか?
原文だともっとスムーズに書いてあるのか?
101 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 04:10:12
お薦め希望の方お待たせ(^o^;。僕のお薦めは中公新書 藤田 健治著 『ニーチェ』〜その思想と実存の解明』。Nの生涯の流れとともに、この時期に書かれた作品が解説してありまするので、解りやすいです。読破もよし。僕にとって原著読破のよい友になりました。
102 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 04:33:45
Nは「悲劇の誕生」で酷評を受けて以来、以降のほとんどの作品を自費出版した。中には、友人に送る冊数だけを発表したものもある。 評価されだしたのが死後でキリストに準えて信者獲得というなら解るが、ワーグナーの作品の大衆化に幻滅したNに目論みなどない。
三島の新書ではなく藤田のほうを推す理由が知りたい
イデオロギーで音楽を聴くニーチェの感性大嫌い
105 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 04:43:21
原著と書いたのが間違っていたら誤る。翻訳で原典と書くべきだったか?以降直す。
106 :
ハル:2005/08/02(火) 06:13:44
我々は「末人」である。
存在が希薄になり固体としての存在性が失われ社会に溶かし込まれ事実に縛られ創造力を失い精神病院にでも走らねばならない何もない終わりの人である。
ニーチェは最後まで神が憎かった。
世界に復讐したかったのだろう。
彼は結局ルサンチマンだった。
何故か!
彼はまぎれもない「哲学者」!
事実分析しか出来ない「学者」!
何という皮肉か!
彼は彼自身で「超人」への道を失わせたのだ!
我々はそうなってはいけない。
壊れながらさらにそれを超越しなければならない。
超人!
それは哲学を超えなければならないのだ!
哲学を放棄しなければ超人にはなれないのだ!
さっさと哲学放棄して、この板からも消えてくれよ
108 :
考える名無しさん:2005/08/02(火) 19:42:19
理由の前に三島の新書は読んでいない。ただ僕にとっての良書を挙げただけです。『ニーチェ哲学研究』関塚と三島の新書はどちらを推すか?とりあえず前スレが見れいま重複したものがあったらツッコミヨロシクです m(__)m
ニヒリズムは到達すべきあるものである。
超人への飛躍など、非論理的なヒステリーでしかない。
110 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 03:53:58
ニーチェを論理的に読む?ニーチェはその無意識を読まないと字づらを追っていても解読出来ないよ。俺の意見はニーチェは不完全な予言者。ニーチェの思想は現在進行中
111 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 19:25:34
>>109 >ニヒリズムは到達すべきあるものである。
そのような恣意的な「目的意識」こそ、ニーチェが最も嫌悪したもの。彼は、生物
としての人間の本質を述べたに過ぎない。
ニーチェが全く理解できていないのでは。
112 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 20:21:47
ソクラテス、プラトンを初めとする観念まみれの西洋哲学者たちには、
ニーチェの理解は絶対に不可能だと思う。思考の基盤が全く異なるの
だから。
却って、一般の生活者にとっては容易に理解できる。人間性の本質を
捉えているからだろう。
113 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 20:36:56
恣意的な目的意識を嫌悪したとかいって、
「ニーチェだって超人(恣意的なもの)を目指せ(目的意識)と言ってる」という捉らえ方だって出来るだろう?
単なる言い方の違いじゃないか。
114 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 21:00:54
>>112 >一般の生活者にとっては容易に理解できる。
うーん。どうだろう。一般の人もなおのこと他人の作った観念に洗脳されてる面があると思う。
>>113 「目的」というものの考え方では測れないものがニーチェにはある。
きっと、あなたが目的という観念に支配されているんだよ。
115 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 21:08:19
>>114 >うーん。どうだろう。一般の人もなおのこと他人の作った観念に洗脳
>されてる面があると思う。
一般の人は、他者との係わり合いの中で生存してゆくための智恵としての
社会常識には洗脳されているかもしれないが(そもそも、この洗脳がなけ
れば、共同体における共生は不可能)、哲学者のように生活から遊離した
人為的な観念には、洗脳されてはいない。
116 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 21:11:56
>>114 なんだか神格化が過ぎてきもいけど、別にそれはどうでもいいとして。
支配されていようといまいと目的であろうとなかろうと、結局同じ。
それで何の問題が?
117 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 21:21:50
>>115 社会常識の基盤がニーチェの敵だべさ
すなわち道徳、まぁ限定してその中に含まれる奴隷道徳が。
118 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 23:08:11
>>117 ニーチェは、生の欲求という基本的本能を有する生物としての人間を基盤とする。
超人とは、到達すべき目標ではなく、このような人間のあるがままの姿であった。
ニーチェが批判した道徳は、キリスト教や哲学が人為的に作り上げた観念としての
道徳であり、人間の共生のための技術としての道徳までも否定するものでもなく、
また否定できるものでもない。
ニーチェは、人間の生の欲求の本能から、共生のための共同体形成・維持の本能が
発生することには思い到らなかった。ここに彼の限界がある。
勿論、キリスト教は、生の欲求の本能さえ否定している。
119 :
考える名無しさん:2005/08/03(水) 23:17:08
多くの日本人の精神状況って、
ニヒリズムそのものだと思うのだけど、
とすると、多くの日本人は超人なのかな?
平然と生きてるしw
ニヒリスムの中で平然と生きられるのはむしろ末人だと思うがどうか。
>>118 >ニーチェは、人間の生の欲求の本能から、共生のための共同体形成・維持の本能が
>発生することには思い到らなかった。ここに彼の限界がある。
その共生を理想とするのがスピノザであり、ニーチェはスピノザを道徳的だと批判していた。
反面、スピノザを自分の先行者だと評していたので
おまいさんのニーチェ論は結構いい線いってると思う。
>>118 共生のための共同体形成・維持が生の欲求の本能から ではなくて、
それこそ、共同体を形成せざるを得ない「弱さ」によるものだとしたら?
人は一人では生きられないなんて言うけど、
それは社会的な生き物としての「人間」を指すと思う。
「人間」ではなく一動物としての「人」ならとりあえず一人で生きられる。
それこそ本能の世界で。
おたくの意見は自分としても納得できるものがある。
だから、否定意見としてではなく、こちらからの一つの問題提起として
受け取って欲しい。
122 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 00:39:29
>>121 >一動物としての「人」ならとりあえず一人で生きられる。
動物としても、独りでは生きられないと思いますよ。まず、生存の基盤としての
自然が不可欠。それに、衣服は、獲物を獲る道具は、ということになる。
そもそも、独りでは、種族維持のための生殖活動ができない(笑)。
共同体性は、人間の根源的本質です。聖書でも、神はまず人間を「男と女に造った」。
>>122 でもそれって自然と共生はしてないよな? 自然の動物を殺して喰う訳だから。
種族維持がほんとに本能かは怪しいもんだぞ……種が滅んでも、打てればいいじゃん。
あと聖書引用すんのよそうや。ニーチェスレだし。
124 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 00:57:08
〉〉111 〔sage〕 上の命題は置いといて。「そのような恣意的な『目的意識』こそ、Nが最も嫌悪したもの」って何の根拠?
Nの言う受動的ニヒリズム、能動的ニヒリズムは、それ自身の積極的な自己主張となるとき、すでにそれ自身を克服している。〜岩波哲学小辞典。
「わたしは常に自己自身をみずから超克しなくてはならないものである」(Z2部)。及び「千一の目標」(Z1部)。恣意的な『目的意識』こそ、Nが最も嫌悪したのか? 理解してないんじゃない?と放つ前に自分の解釈を断定するのはどうかなと思うよ。
〉〉113 いい反論!
125 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 01:09:59
>>123 人間も自然の一部。すべての生物にとって、自然との共生とは、食うか食わ
れるかということ。食物連鎖という現象もある。生物は、自然と闘いながら
それに適応し、生存に努めてきた。
あなたには性欲がないのですか。
聖書でさえもそう言っているという趣旨。ニーチェも聖書を多数引用している。
>>123 他の生命を犠牲にして自己の生命を維持することを「共生できてない」と言うなら、
共生できてる生命体なんていないわけで。
>>125,126
じゃあ喰われる動物はバカだな。人間と共生しなければいいのに。
自然=共生だったら宇宙全体も自然なわけだら共生=自然で
共生という言葉の意味がわからなくなる。とりあえずここで言う共生って
共生する両者納得ずくでの話だよな? 共生したりしなかったりできるんだったら。
>あなたには性欲がないのですか。
仮に性に関して、性欲だけがあって、種の保存の本能が無い人間がいても不自然ではないと思う。
つまり最近の言葉でいう「無理打ち」して妊んだ女が自殺しても別に平気、とか。
……俺はそういう人間では無いが。
2行目のさいごは「共生=宇宙で」だ。間違えた。すまん。
129 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 13:01:47
>>124 西洋哲学でニーチェを理解するのは不可能。思考の拠って立つ基盤が全く異なる
から。今ドゥルーズの「ニーチェ」(ちくま学芸文庫)を読んでいるが、見当は
外れな理屈ばかりこねてる感じ。
ニーチェの思考の基盤は、「人間とは生の欲求という基本的本能を有する生物に
過ぎない」という、極めて単純だが、人間についての唯一の普遍の事実である。
西洋哲学の思想の基盤は一体何か?普遍の基盤など皆無な、観念の遊戯にしか見
えないが。キリスト教の影響があまりにも大きいのだろう。
清水真木のニーチェはくそつまらない
>>129 むしろ生の欲求に正直でエディプスコンプレックスすら認めないのがドゥルーズの哲学だと思うが……
観念が大事だとも思わないが、観念が小難しくて嫌だったら学問板こなきゃいいのに。
132 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 18:25:00
>>129 ドゥルーズの『ニーチェ』は駄作だよな。
『ニーチェと哲学』はどうなんだろう。読んだことないニダ
133 :
121:2005/08/04(木) 19:35:16
>>121で言ってた一人で生きるは「人間社会を離れて無人島で一人で生きる」
くらいの意味で取ってほしいのだが。
無人島で一人で生きる羽目になったら、そりゃ無理だと言って即、死を選びますか?
社会からの隔絶がどうして自然からの隔絶にまで一気に話が飛ぶかなァ
種族維持は生の本能の一部。まず生きていなきゃ喰うも寝るも生殖もないだろ。
一人じゃ生殖行為できないってのは確かだが。
そんなわけで、俺の言ってる共生は人間社会の共生
「互いに助け合うことにより生産性を高める生き方ができる」ってこと
これが、生を高めるための「強さ」から来るものなのか?(
>>118ね)
それは実は「弱さ」ゆえに共生せざるを得なかっただけではないのか?
という疑問
(共生により生産性が高まるのは結果論ではないのか ってこと)
134 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 20:21:26
>>133 無人島で生きるにしても、それまでに先人を含む社会から得た種々の智恵が
必要でしょう。これも、共同体形成・維持の本能の結果。ある人は、これを
「力としての歴史」と呼んでいる。「社会常識」と言ってもよいだろう。
人間は、裸の「生の本能」だけで、共同体形成・維持本能の結果としての
「力として歴史」がなければ、そもそも人間にはなれない。狼少女は、生の
本能はあったが、「力としての歴史」を身につける機会を奪われたために、
結局人間にはなれなかった。
前にも述べたように、ニーチェは、生の本能から派生するこの共同体形成・
維持の本能に思いいたっていない。釈迦もキリストも同様である。
共生には、「強さ」も「弱さ」もない。ただひたすらに生きるための営み
です。自己を含む共同体が崩壊すれば、自己の生存も不可能になるからです。
自他の死への恐怖を含む道徳も、他者への思いやりも、すべてこの共同体形成・
維持の本能から生まれる。宗教などから「教えられる」べきものではない。
議論の対象だった121が降臨したな。
>>134 >無人島で生きるにしても、それまでに先人を含む社会から得た種々の智恵が
>必要でしょう。
そういう知識は所与の条件なので共同体に含める論法には無理があるのでは?
>狼少女は、生の
>本能はあったが、「力としての歴史」を身につける機会を奪われたために、
>結局人間にはなれなかった。
彼女はオオカミの共同体の中で数年間生きているので論点が違うのでは?
>自己を含む共同体が崩壊すれば、自己の生存も不可能になるからです。
自分を含む共同体が崩壊すれば著しく生産性が落ちて死んでしまうな。
結局のところ121が133で提示した問題は全く解決されていない。
個人的には生の本能から発生した共同体維持を本能に含めるのは間違いだと思う。
生の本能から他者を疎んじることができないのは自明だが、道徳を本能から導けるのか?
ゾロアスター教以前の信仰では生け贄も珍しく無かったし、生け贄を禁じている仏教やキリスト教は
ゾロアスター教以降に影響を受けながら成立したものだ。
これは共同体の意志は本能ではないと考える理由になる。証明には至ってないが。
136 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 22:44:49
>>135 知識も、共同体における共生の智恵の蓄積である。
狼少女は、「人間」にはなれなかった。
生産性だけでなく、自己の生命自体も含む。共同体は、多数の自己の集まり。
他者を殺すことは、自己も殺されることになる。
道徳の根源である、自他の死への恐怖は、まさに生の本能から発生する。
生贄は、宗教の儀式。宗教、特に創唱宗教は、開祖の精神異常から生じ、本能を
抑制・変容・破壊する。ゾロアスター教は最古の創唱宗教だが、旧約聖書においても
生贄は著しい。キリスト教は、異教派・異教徒の大虐殺という違った形での生贄が存
在する。宗教を離れた生活においては、自他の死への恐怖は、道徳の中核として厳然
として存在したものと推測する。
本能に基かない道徳は、必ず破綻する。共産主義やキリスト教における「道徳観」が
その好例。
その破綻した道徳が世界最大の宗教な訳だが。
つか、上の3つは135に対する反論になってないぞ。お題目を唱えただけじゃん。
オオカミ少女だってオオカミとして狩りを覚えて「力としての歴史」を獲得した訳だし。
勝手に問題を整理させてもらうが、
1,人間の能力的な限界から共同体を構築する。
2,よりおおきな力を求める本能から共同体が不可避的に発生する。
この二択だと思うが121が見てたらレスしてくれ。
この問題設定で合ってるなら「力としての歴史」は問題にならない。(両方に関わるから)
あと、本能から発生したものを本能と呼べるのか(2について)という疑問は残る。
たいていの場合共同体以外の選択肢はないが、哲学はもっと根源的な学問だろう。
138 :
考える名無しさん:2005/08/04(木) 23:50:06
>>137 オオカミではなく、「人間」になれなかったと言ってるでしょ。共同体は
種ごとに構成される。
生存のための能力的な限界があるからこそ、より大きな力を求める。その
2択は論理破綻。
「基本的本能」から種々の本能が派生しても、ちっともおかしくない。
「根源的」とは、具体的に何?
139 :
121:2005/08/05(金) 01:07:38
>>137 適切な言葉で簡潔に表現するのは難しいな。
133で書いたのを乱暴な具体例で述べると
1、個々の力では国家権力に抵抗できない国民が手を組んで革命を起こす。
(無力ゆえに群れざるを得ない)
2、国家権力に一人ででも対抗できるゴルゴ13が効率的に仕事をこなす為に他人と手を組む。
(群れる必要は別にないがより上を目指すために。だから137の「不可避的」
ってのはいらないかなと思ったけど本能的に選ぶのなら必要かなとも思ったり)
みたいな感じ。
これでうなずいてもらえるなら、多分考えてるところは大体一緒だろうとは思う。
>>138 狼少女は人間になれなかったというのはむしろこっちの主張に当てはまる。
人間という共同体の外で一動物として一人でただ生きるために生きたのだから。
(姉妹で狼に育てられたらしいから厳密には違うだろうが)
人間社会の共同体から外れてという意味での一人。
"狼と一緒にだから一人じゃない"ではここではお門違い。
ちーっと眠いのであんまし推敲せずに書き込むけど許しとくれ
>>138 根源的という言葉は違ったかも知れないが、
俺を含めて誰も共同体を指向することに異論はない。
しかしなぜそういった状況、選択が発生するのかを含めて検討する学問だと考えて書いた。
語義が違うという批判なら悪かった。許してくれ。
選択肢に関して、別に論理破綻していないとは思うがスレを読み返してみた。
1,より強い生を求める欲求から共同体を構築する。生産性を高めることを目的としている。
2,人間は共同体なしには生きられない弱さ(不安?)を持っており、共同体を構築した結果生産性が高まる。
といったところだろうか。なんにしろ121はレスしてくれ。
今度は「生産性が高まらないことから不安が生じるので論理破綻」とか反論されそうだが。
>「基本的本能」から種々の本能が派生しても、ちっともおかしくない。
確かに矛盾点はない。だがそもそも本能って何だ?
生物学上は廃れた概念だ(Wikiによると「本能行動」という成句としてしか使われないらしい)
ここは哲学板だから使ってもかまわないと思うが、
だったら生物学的な説明が心理学的な説明や社会学的な説明に対して優位に立つ理由はない。
生の本能から共同体が演繹されるまでの経緯を心理学的に説明したら本能ではないことになる。
ただし現実的には生の本能は否定できないだろう。
かぶった……
>>139 オオカミ少女を「人間のゲノムを持ったオオカミ」と見なしてしまえば問題はない。
この話の流れでオオカミ少女が例として出てくること自体がおかしいのだ。
121の考える問題点は137と(ちょっと違うが)ほぼ同じと見なしてよかったんだな。
138は140の二択を考えているようだが、そっちの問題も重要だな。
俺も眠い……ねよ
142 :
考える名無しさん:2005/08/05(金) 10:21:15
ニーチェってあの時代にしたら自分語りする方なの?
143 :
考える名無しさん:2005/08/05(金) 15:59:47
ニーチェは強者の論理。比較的豊かではあるものの社会的弱者である
中産階級には毒。工業社会における中産階級(=サラリーマン)が
ニーチェに染まっても、結局ネットウヨになるのが関の山。
144 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 01:52:06
いや、そういう読み方は古いよ。僕はニーチェをノストラダムスのように解釈している
奴隷であるリーマンや弱者のオタやニートがニーチェをどう読むか、
というスレを特別に立ててもいいかもな。
いや、お前ニーチェなんか読んでる場合じゃないだろ資格の参考書
を読めというレスで終了してしまうかもしれんが。
狼に育てられた少女というフィクションの実態は、たしか捨て子の精神薄弱児
であって、狼に育てられたというのは嘘だったとか。
ほ乳類だって高等なものになっていくと親の狩りの姿を見なてないと
狩りのやり方を学習できない。
人間を考える上で変な前提や特殊な例を持ってきても意味無いと思う。
ニーチェの対談集とかあったらいいが、あの時代は対談本とか皆無だろうな。
対談って近代的だな。
アンディ・ウォーホル編集長の雑誌『インタビュー』
>>147 書簡集読めば良いんでない。
ニーチェって自分が後世に名を残すことを確信していたから、
自分が書いた手紙の写しを全て保存していたらしいね。
150 :
44:2005/08/06(土) 15:46:47
151 :
44:2005/08/06(土) 15:49:18
152 :
44:2005/08/06(土) 15:50:28
生だの普遍の事実だのにしがみつくのって非常にニーチェらしくないけど。
どっかで作り上げられたニーチェのイメージを投影してるだけなんきゃないかな。
それからキリスト教が「生の欲求」を否定してるというのは出鱈目。
だいたい、生を軽んじる者が病人を看てまわるかい?
イエス自身が行ったのは律法主義体制への預言者側からの変革運動。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者
のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ:7-28)
律法の書である旧約の権威にひれ伏すのではなく、自らが神とつながっている権威ある者だという
姿勢を示して、現体制を批判したわけ。
154 :
44:2005/08/06(土) 17:17:18
>>153 イエスが、生の欲求や種族保存という、生物としての人間の本能をどこで
認めていますか。むしろそれらを否定しているのではないのですか。
ニーチェは、キリスト教が説く「弱者への憐れみ」は、相手方の生の否定
だと言っているのです。
イエスはそこを去って、会同にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々は
イエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と
尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたたちのうち、だれが羊を一匹持っていて、
それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらないものがいるだろうか。人間は
羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり
良くなった。ファイサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した
(マタイ:12-9)
このイエスの行為と言葉がどんな風に「相手方の生の否定」なのかね?
156 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 19:03:12
イエスは何度も「生命」という言葉を使っているよ。一度新約聖書を読んでごらん
157 :
44:2005/08/06(土) 20:52:38
>>155 >>156 聖書くらい読んでますよ。宗教板で、聖書学校で6年間学んだという方から、
聖書を完全に理解していると誉められましたが、何か?有り難がって、無批判
に聖書を読むため、聖書を一番理解していないのは、クリスチャンではないで
すか。
聖書の言葉には、矛盾、嘘、偽善、冷淡さが無数に存在する。例えば、「私
を信じなければ裁かれる」とか「永遠の命」などは、どう考えますか。前者
は「我良し」の脅迫であり、後者は生命の否定です。
イエスが病気を治した、というのは、発達した現代医学から見れば、すべて
「嘘」です。
本当に弱者に対する「愛」があるのなら、言葉だけの憐れみではなく、相手を
強者にするために「行動」すべきでしょう。弱者を憐れめば、ますます弱者に
なるだけです。
158 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 20:56:57
>宗教板で、聖書学校で6年間学んだという方から、
>聖書を完全に理解していると誉められましたが、何か?
幸せそうだな
159 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 21:17:39
ああ、権威にすがるのは弱者だ。
160 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 21:31:40
ニーチェは狂って死んだ。
神を否定するからだよね。
161 :
121:2005/08/06(土) 21:52:55
>>140 応えるタイミング逃したけど、そんな感じ。
137より(同一でしょ?)いい感じにまとまってると思う。
テキトーっぽい返事だけど気持ちは一応真面目です。
162 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 22:17:46
>>157 聖書を完全に理解してるだって?
聖書における「霊」には7〜8個の意味があるんだが、言ってみてくれ。
ダニエル書がいつ何のために書かれたのか答えてみてくれ。
それからヨブ記における主とサタンの関係を説明してみてくれ。
あと、ソロモンの神観念を解説よろ。
エレミヤにおける個の意識の発生も知ってるよな?
ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス」は、ヘブライ語だとどのような意義があるかも答えて。
イエスは「私」と言うべきところをしばしば「人の子」と言ってるんだが、これには
どんな意味があるかも答えてくれ。
163 :
44:2005/08/06(土) 23:21:08
>>162 聖書の矛盾、嘘、偽善、冷淡さ、人間性の洞察や人間に対する「愛」の
欠如を理解しているという意味でしょう。イエスが統合失調症の患者で
あることにも言及しました。
ちなみに、私が読んだのは、4福音書だけですよ。それ以上は読む気が
しなかったから。そんな難しいことは判りませんので、是非教えて下さい。
そもそも、聖書自体に根拠はありませんから。
文句があったら、私を誉めた「聖書学校で聖書を6年間学んだ元クリスチャン」
の方に要ってね。
164 :
考える名無しさん:2005/08/06(土) 23:32:04
>>163 この場において無関係なその元クリスチャンを十字架にかけるような言動。
あんたは聖書を理解してるんじゃなくて、すでに知っている。
キリスト教の持つ病理をすでにその身の中に持っている。
165 :
通りすがり:2005/08/06(土) 23:36:34
>ヨブ記における主とサタンの関係を説明してみてくれ。
悪魔と使い魔
俺は
120=123=127=128=135=137=140=141
>>153 キリストが生の欲求に正直ならただ自分の健康のために奇跡を使えばいいと思う。
もし余裕ぶっこいて他人の治療してるなら神様信じてないヤツも異教徒もみんな治してやればよい。
>>161 両者はちょっと違うんだが……
何にせよ俺は共同体への指向は本能ではないと思ってるよ。
本能だったらよっぽど頑張らないとヒキコもれないよね。
>>165 ワロタ
167 :
44:2005/08/07(日) 00:04:43
>>164 クリスチャンの方へ質問ですが、「十字架にかける」という言葉は、良い
意味でしょうか、それとも悪い意味でしょうか。
常識的には、悪い意味のようだが、イエスの十字架上の処刑により、弟子達
の精神錯乱が生じ、そのためにイエスが神格化されキリストと成ったのなら、
良い意味だとも思えます。十字架に架からなかったら、イエスは当時多数存
在した「イエス」という名の人々のうちの一人で、ナザレの大工の、気が狂
った息子に過ぎなかったわけですから。
是非教えて下さい。
>>163 >聖書の矛盾、嘘、偽善、冷淡さ、人間性の洞察や人間に対する「愛」の
>欠如を理解しているという意味でしょう。イエスが統合失調症の患者で
>あることにも言及しました。
なんだ?それが
>>162に対する回答か?
統合失調症気味なのはお前だろ。
大法螺吹いていることを指摘されたときの答えは
「調子こいて凄んでしまって、すいません」だ。
169 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 00:34:15
このスレ「小さき人間ども」の「大いなる黄昏」って感じ。イエス・キリストに対するルサンチマンがムンムン
170 :
44:2005/08/07(日) 00:39:10
>>168 あなたは、聖書からそれが読み取れませんか。初めから有り難がらないで、
現実に立脚して、眼光紙背に徹して批判的に読まないからですよ。
表面だけの、抽象的で、尤らしい言葉に惑わされてはなりません。
>>170 あんたはニーチェのキャッチフレーズを繰り返してるだけだろうに。
>>162で挙げたような問題をしっかり考えるということを真面目な
キリスト教徒や学者はちゃんとやってるぜ。もちろん問題とするべき
点は聖書にはもっとたくさんあるけどな。
まともな聖書学に触れてから、ニーチェの言っていることを検証してみることだな。
「初めからありがたがって批判的に読むことを知らない」のは、ニーチェに対する
あんたの態度なんだよ。
172 :
44:2005/08/07(日) 01:14:49
>>171 私とは違って、ニーチェは聖書を十二分に研究した上で、キリスト教を批判
しているのではないでしょうか。何しろ彼は牧師の息子ですから。
173 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 01:24:41
>>167 あんたのニーチェ理解は字面のみってことがよく分かった。
クリスチャンじゃないが一つ答えてやろう。
イエスが十字架上で磔にされ死んだ(そして神格化された)。
それは"イエスにとって"よかったことか?わるかったことか?
それは、わからない。
望んで死を迎え入れてたかもしれないし、まだ生を望んでいたかもしれない。
"イエスにとって"大工の気の狂った息子として一生を終えることが
よかったことか?わるかったことか?
それもわからない。
何も知らずに気楽に生きてたかもしれないし、精神錯乱で苦しんでいたかもしれない。
そこにどうして外から彼の死に対して余計な意味付けを与えるのか。
死んで神格化されるのだから、その死には意味があった(お望みとあらば「良かった」) などと。
一言で言えば「余計なお世話」というやつだ。
(この「余計なお世話」すなわち「苦しみに対する意味付け」を
必要とするものはいる。長くなるので割愛。)
彼女にフラレタ・・・
「彼女はあなたにふさわしくない女性だったのですよ
(ふられてよかったじゃないですか)」
うるさいボケェ
>>172 「牧師の息子」のいう聖書解釈なら頭っから信用しちゃうんだね
威勢がいい割にはけっこう権威に弱いタイプ?
44さん
ニーチェ初心者です。
「弱者に同情してはならない。それは相手の存在を否定し、傷つけることになる」
というようなことが神崎繁氏の『ニーチェ』に書かれていました。
他者が苦しみと対峙する、その苦しみを回避させてはならない、と。
ニーチェは弱者を忌避し、強者を礼賛しているのでしょうか?
では、いくらあがいても強者になれないものはどうすればいいのでしょう?
弱者は弱者というだけで、存在さえも否定されなければならないのでしょうか?
ご教示ください。よろしくお願いします。
176 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 10:53:28
>>175 社会的な強者を目指すことを意味しない、ということを念頭において
強くなろうとあがくのなら、ニーチェの言うところの弱者ではない。
177 :
175:2005/08/07(日) 11:06:14
>>176さん
さっそくの回答、ありがとうございます。
>強くなろうとあがくのなら
これは『力への意志』と解釈してもよろしいでしょうか?
自らの弱さを売り物にしない、自己申告することで逃げない、
今の自分よりもより高い方向へ、より強いほうへ飛翔しようとすること、
それは成長と呼ぶものでしょうか?
178 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 11:13:02
社会的な強者は十分に強者だし、社会的弱者は十分に弱者でしょう。人間は社会的動物なんだから。
そこんところを曖昧にしたまま強い弱いを論じても文学青年風の青臭い抽象論で終わりますよ。
ニーチェみたいに
179 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 11:30:16
>>178 >人間は社会的動物なんだから。
ここに重力の魔が潜む。
180 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 11:38:39
あたしは、この重力や気圧のもとでしか生きられませんから。
そんなに重力がお嫌いならあなた一人で無重力の彼方に飛んでってくださいな。
181 :
44:2005/08/07(日) 11:43:43
>>176 ニーチェのいう強者・弱者とは、社会的なそれを言ってるのでしょうか。
強・弱は、心の持ち方次第。社会的な強者でも弱い者(弱い部分)はあるし、
弱者でも強い者(強い部分)ある。
ニーチェはむしろ「社会的な強者・弱者」の概念を否定しているのではない
でしょうか。
182 :
175:2005/08/07(日) 11:44:46
例えば、ニーチェは早くに父親を失いました。
また、彼を悩まし続けたさまざまな病気がありました。
一家の支柱を失ったこと、病気、これは社会的弱者ですよね?
このような体験から彼は強者になることを希求したと思われますが、
彼の提唱する「強者」とはどのようなものなのか、よくわかりません。
社会的強者なのか、あるいは、そうした階層をはるかに凌駕したものなのか・・・
「ツァラトゥストラは「重力」に逆らって、ひとつの高みに立って語っているのである」
『ニーチェ』神崎繁(p76)より
183 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 11:52:10
>>175 貴方はニーチェの思想を読み違えている
ニーチェの思想はそのような思いやりのない冷淡なものではないよ
何故、ニーチェが弱者を口汚く批判するのか??
それは必ずしも一般的な意味での「社会的な弱者」とニーチェの言う「弱者」が一致するとは限らないからだ
ニーチェの言う「弱者」とは怨念と復讐感情を腹の底に潜ませている者のこと
確かに社会的に惨めな境遇に置かれている人がそのような劣等感情を持ちやすいのは事実なんだが
しかし、だからといって必ずしも全ての貧しい人がルサンチマンを抱えているわけではないし、中には富んでいる人よりも
高潔な人物だっているかもしれない
それとは逆に、権力者の中にも怨念と復讐感情の権化みたいな奴がいて、そういう俗物が他人を食い物にしながら社
会でのしていくということも結構よくあることなんだな
そして、そういう人間が幅をきかすようになると社会や文化そのものが息苦しいものになる
何故ならニーチェ的な弱者は高い徳を持つ者に対して嫉妬して足を引っ張ろうとするから
そういう人間が幅をきかすようになれば、畢竟、足を引っ張り合う息苦しい社会になる
ニーチェが徹底的にこの弱者を排撃したのは、この弱者の嫉妬と怨念によって強者の持つ高い徳と特質が破壊されかねないから
ニーチェのキリスト教批判の主眼はそれ。教会のドグマによって中世ヨーロッパは暗黒の時代になったわけで
184 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 11:58:27
>教会のドグマによって中世ヨーロッパは暗黒の時代になったわけで
100年前の通俗歴史観をどうもw
185 :
183:2005/08/07(日) 12:06:01
>>184 そう言うなら通俗的でない現代の歴史研究が描き出す中世ヨーロッパ像を提示してくれ
異端審問や魔女裁判をやっていた時代だぞ
186 :
44:2005/08/07(日) 12:06:57
>>182 >彼の提唱する「強者」とはどのようなものなのか、よくわかりません。
あらゆる観念や社会的要素を排除し、生物としての生存本能に基いて生きる
ことを、強者だと言ってるのではないでしょうか。
彼が、生存本能から派生する共同体形成・維持の本能に思い至っていない
という、彼の限界については、すでに指摘した通りです。
この派生的本能を、生存本能の一部だと考えれば、彼の思想は完成します。
即ち、彼が批判する道徳の問題も、無理なく獲りこめます。しかし、キリス
ト教や西洋哲学は、いかなる意味でも生存本能ではない。
187 :
175:2005/08/07(日) 12:09:29
>>183さん
大変丁寧な長文の回答、ありがとうございます!
>ニーチェの言う「弱者」とは怨念と復讐感情を腹の底に潜ませている者のこと
…なるほど。
そういえばニーチェはドストエフスキィに傾倒していたこともあるそうですね。
例えば『罪と罰』 の高利貸しの非情な老婆はそうした意味では「弱者」ですね。
(社会的にはお金が有る境遇にも拘わらず・・・)
そして、娼婦という社会的には最も蔑まれた最下層にあるソーニャは泥中の蓮のような
高潔なこころの持ち主です。
ソーニャは、重力に逆らって、ひとつの高みに立つ人間だと解釈できますが、
いかがでしょう?
わたしの解釈が間違っておりましたら、再度ご指摘いただけるとありがたいです。
188 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 12:12:46
>異端審問や魔女裁判をやっていた時代だぞ
それらが始まったのは中世末期で、本格化したのは宗教改革に対する反宗教改革の流れの中でのこと。
そもそも、中世においては民衆レベルではキリスト教に関するこまごまとしたことはあまり浸透してなかった。
浸透してくるのは宗教改革以降、宗派争いが激化して各派が一種のキャンペーンに励んだ結果。
この程度のことは相当以前から常識だけどな。
189 :
183:2005/08/07(日) 12:18:33
>>182 >彼の提唱する「強者」とはどのようなものなのか、よくわかりません。
ニーチェの言う「強者」=ルサンチマンを持たない者。自然な自己肯定感を持つ者。自分より強い者や自分に無い徳を持つ者を素直に評価し、憧れ、
それらを手本とすることによってより高みに行こうとする意志を持つ者。
確か竹田青嗣さんのニーチェ解釈もこんな感じだったと思う。
だから、ニーチェ的な「強者/弱者」は一般的な意味での「社会的強者/社会的弱者」に必ずしも一致するわけではないんだよね
ただ社会的強者に高い徳が備わりやすくて、社会的弱者が卑屈になりやすい傾向があるのも事実なんだが(重力の魔)
190 :
44:2005/08/07(日) 12:25:35
>>187 >そういえばニーチェはドストエフスキィに傾倒していたこともあるそう
>ですね。
ニーチェは、ドストエフスキーは批判しているのではないですか。とても
相容れる思想とは思えません。むしろ対極的です。
ニーチェが「高潔なこころ」などという言葉を使ったとしても、それは「精
神的・観念的」な意味ではなく、あくまで肉体的なものであると思う。
191 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 12:32:33
>>189 >ただ社会的強者に高い徳が備わりやすくて、社会的弱者が卑屈になりやすい傾向があるのも事実なんだが
この点においてはキリスト教道徳発生前の話になるんじゃないかな。
現代では弱者が自らの弱さを武器にして"力"を、"社会的な力"を得る。
弱者ゆえに社会的強者になれる構図がキリスト教道徳と同時に発生した。
そして強者が社会的弱者となり、再度引用するが、
>社会的弱者が卑屈になりやすい傾向があるのも事実
なのであるよ。そして、強者がルサンチマンに飲み込まれる。
ルサンチマンスパイラルだ。
192 :
44:2005/08/07(日) 12:32:46
>>189 >確か竹田青嗣さんのニーチェ解釈もこんな感じだったと思う。
西洋哲学者には、ニーチェの理解は不可能。思考の「基盤」が全く異なる
のだから。
193 :
183:2005/08/07(日) 12:35:20
>>187 申し訳ない
ドストエフスキーは読んだことがないのでコメントすることができないです
ただ175さんのレスを読む限りでは筋が通っている解釈に聞こえます
>>188 それは初耳でした。世界史の知識は大学受験レベルのものしか持ちあわせていないもので
ただヨーロッパはギリシア、ローマ時代には世界でもっとも先進的な文化を持っていたのに、中世で文化的に大きく後退し
イスラムに大きく水をあけられていたのは事実だと思うんだけど
194 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 12:50:26
> 西洋哲学者には、ニーチェの理解は不可能。
・・・・・・2ちゃんねるだなあ。
おまえら風俗ではたらいている廃人ども
さっさと死ね
エイズが発症するまであと何日だ?
196 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 13:08:06
>>160 ディオニュソスの弟子を自称する者が発狂しなければ
逆におかしい。
197 :
183:2005/08/07(日) 13:13:14
>>190 >ニーチェが「高潔なこころ」などという言葉を使ったとしても、それは「精
>神的・観念的」な意味ではなく、あくまで肉体的なものであると思う。
その言い方はちょっと違うんじゃないかと
ニーチェの言うところの「高潔さ」や「本能の清潔さ」を計る尺度は、ひとえに「ルサンチマンを抱いているか否か」
に尽きると思う。そして、肉体的に劣った者はルサンチマンを抱きやすいというだけのこと
肉体的な劣等により生じたルサンチマンによって捏造された精神的価値をニーチェは批判したわけで
>>191 >現代では弱者が自らの弱さを武器にして"力"を、"社会的な力"を得る。
ユダヤ人のルサンチマンが奴隷道徳として結実したみたいに、弱者のルサンチマンが結託して大きな社会的権力
を形成するのを社会に多く見受けることができますね
現代の日本で弱者権力が猛威を振るっているのもその辺が原因なのかも
198 :
175:2005/08/07(日) 13:14:31
>>186 44さん
回答、ありがとうございます。
>あらゆる観念や社会的要素を排除し、生物としての生存本能に基いて生きる
>ことを、強者だと言ってるのではないでしょうか。
そうですね。ヒトは生まれた以上、本能的に生きようと欲します。
その生存本能は最も原初的な欲望であるかと思われます。
では 、生きるために「弱肉強食」が大手を振ってまかり歩いたとしたら、
人間社会は大変な混乱を招きますよね。。。
人間は社会的な存在であるゆえに互いを殺さないでいいように共同して生きて
いますから。 それについては以下の、
>彼が、生存本能から派生する共同体形成・維持の本能に思い至っていない
>という、彼の限界については、すでに指摘した通りです。
という44さんの私見であると承りました。
もし、ニーチェがもう少し思想を発展させていけば、その辺をクリアできたので
しょうね。
199 :
175:2005/08/07(日) 13:15:13
>>190 44さん
>ニーチェは、ドストエフスキーは批判しているのではないですか。とても
>相容れる思想とは思えません。むしろ対極的です。
わたしはニーチェの思想に関しては初心者ですので、下記の引用をいたしますね。
――ニーチェがドストエフスキーを読むようになったのは、1887年2月に
『地下室の手記』をフランス語で読んで以来ということになっている。(略)
ドストエフスキーはニーチェの「精神的同類」と考えなければならないのかもしれない。
たしかに、異常なまでの自尊心、それと裏腹な傷つきやすさ、さらにはそのように傷つけ
られまいとする頑な拒絶の反動としての相手への無際限の同化の希求、それら拒絶と
希求のめまぐるしい反転、こういった「気質上の同質性」は二人の間に顕著である
――『ニーチェ』神崎繁(p74)より
200 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 13:15:57
>現代の日本で弱者権力が猛威を振るっているのもその辺が原因なのかも
弱者権力の代表者は誰ですか?
201 :
175:2005/08/07(日) 13:16:25
>>189 183さん
たびたびのレス、感謝です。
>ニーチェの言う「強者」=ルサンチマンを持たない者。自然な自己肯定感を持つ者。
>自分より強い者や自分に無い徳を持つ者を素直に評価し、憧れ、
>それらを手本とすることによってより高みに行こうとする意志を持つ者。
ああ、何だかものすごく理想的な人間像ですね。
こうしてみると、ニーチェの人間観は非常にまっとうであり、高邁な思想の持ち主で
あったのですね。
いわゆる、一般に浸透しているシニカルな視線とはほど遠いですね。
>ただ社会的強者に高い徳が備わりやすくて、社会的弱者が卑屈になりやすい傾向が
>あるのも事実なんだが(重力の魔)
確かにそれはいえます。恵まれている人は余裕がありますから、他者を貶めなくとも
いいのですよね。。。
202 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 13:17:13
>>199 入門書の引き写しばかりされても・・・
恥ずかしくない?
203 :
175:2005/08/07(日) 13:17:18
>>193 183さん
>ドストエフスキーは読んだことがないのでコメントすることができないです
>ただ175さんのレスを読む限りでは筋が通っている解釈に聞こえます
ありがとうございます。
わたしにとりましてニーチェは未知の領域です。
両者の思想が対立するものなのか、あるいは、一見対立しているように見えても
根底に流れているものは同質のものなのか、よくわからないもので。。。
183さんのご意見は、神崎繁氏と同じであるとお見受けしました。(
>>199)
204 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 13:23:18
「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。
わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。
それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。
・・・さあこの重力の魔を笑殺しようではないか!」
(F・ニーチェ 『ツァラトゥストラはこう言った』 氷上広廣訳 岩波文庫 P65)
邦訳でいいから原典を読めよ
「重力の魔」とは、理由付けや意味付けのこと
弱者はこれを用いて強者を理解し、説明し、引き摺り下ろす
「わたしはすべての体系家を信用せず、彼らを避ける。体系への意志は正直の欠如である」
(F・ニーチェ 『偶像の黄昏』 原佑訳 ちくま学芸文庫 P21)
もっとも程度の良い者でさえ、いま現にここで起こっていることをそのままは肯定せず、
体系を、背後世界を構築し、理由付けした上でしか肯定できない
大抵の場合、この理由付けや説明は、強者を、世界で気ままに振舞っている強者を
貶めるために行なわれる
ニーチェの語る超人は、この説明付けを、背後世界を必要とする人間を超えている
という意味で超−人であり、戯れる子供であり、物理的社会的な強さからは、
つまり人間的なパースペクティブからすればとてつもなく弱い可能性さえある
205 :
183:2005/08/07(日) 13:40:46
>>200 >弱者権力の代表者は誰ですか?
代表者は分からんw
ただ典型的な例として「女性団体」とか「フェミニスト」なんかが挙げられると思う
ニーチェ自身も「この人を見よ」の中で「できの悪い女性ができの良い女性に嫉妬しているだけだ」とファミニズム
を批判しているわけで
>>201 >いわゆる、一般に浸透しているシニカルな視線とはほど遠いですね。
「権力への意志」とか「蓄群」といったニーチェ用語の持つ不気味な響きが原因かと
あと、ニーチェの超人思想が誤用されて、ナチスのプロパガンダに利用されたことがニーチェのイメージをひどく悪いもの
にしたという意見をよく聞きますね
206 :
183:2005/08/07(日) 13:49:01
>>204 >「重力の魔」とは、理由付けや意味付けのこと
>弱者はこれを用いて強者を理解し、説明し、引き摺り下ろす
うーん、自分としては社会的関係性の中で強者が弱者によって引き摺り下ろされること自体を
「重力の魔」と解釈してたんだけど・・・・
ちょっと本棚漁って読み直してきます
207 :
44:2005/08/07(日) 13:52:42
>>197 >ニーチェの言うところの「高潔さ」や「本能の清潔さ」を計る尺度は、
>ひとえに「ルサンチマンを抱いているか否か」に尽きると思う
ニーチェの「生の哲学」とは、そんな安っぽいものとは違うよ。だから西洋
哲学では、ニーチェは理解できない。思考の基盤が全く異なるのだから。
208 :
44:2005/08/07(日) 13:59:52
>>206 >ちょっと本棚漁って読み直してきます
すぐに他人の考えに飛付かないで、現実に立脚して自分の頭で考えてね。
だから、日本の西洋哲学が、いつまでたっても「借り物」に過ぎないのです。
209 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 14:11:15
認識がすべてって言った人ですか?
210 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 14:48:10
突出や漂泊しようとしている者や孤高を目指そうとする者の足を集団で引っ張ろうとする者達が「弱者」。要するに出る杭を打ちたがるタイプ
211 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 15:13:20
弱者が集団になって強者に権利を求める、というのは、
現代のリベラリズムに通じる政治的手法。
ニーチェが言ってるのは超個人主義の右派とかわらん。
212 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 15:14:07
引きこもりや落ちこぼれが強者なんですか。引きこもりや落ちこぼれを
笑う者が弱者なんですか。ニーチェは弱者のための哲学なんですか。
213 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 15:15:51
引きこもりや落ちこぼれは弱者だよ。素直に考えよう。
ニーチェは弱者にも強者の戦略を取るように迫る思想で、
現実的ではない。
214 :
(^д^)/:2005/08/07(日) 16:19:27
神のみぞしる事かたるべからず
神の味噌汁事語るべからず
215 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:36:34
>>212 引き籠りはともかく、集団からはみだしたら落ちこぼれなのか?
だとしたら、ニーチェの哲学は落ちこぼれのための哲学ということになるな
ニーチェは「他人と同じであることを良しとする集団主義」や「大衆迎合主義」を蓄群道徳と呼んで批判したわけだから
「本来の自分になること」を最上の価値としたニーチェの思想とは対極にある考え方だ
しかし、ニーチェの主張の正しさは歴史的に見れば明白だ
何故なら、いつの時代も文化を発展させてきたのは孤高の人達であったのだから
蓄群はその利益を享受するだけで新しいものを何も生み出さない
216 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:37:22
>>212 如何にしてキリスト教が権力を握りえたのかという点を考えればよいと思います
動物社会では決して主人とはなりえないガリオタでも偉くなれることを、
そしてガリオタであっても牛耳ることのできる人間の社会のその構造を、明らかにしたのがニーチェ
しかし、なぜガリオタが、キリスト教がマッチョ軍人さえも手玉に取ることができたのか
まず、キリスト教(ユダヤ教)は背後世界、天国や地獄、神の審判という物語を構築し
隣人を愛せ、盗んではいけない、殺してはいけない等等の規律を持ち出し
神の審判やこれらの規律が絶対的に存在するかのように振舞う
そして、キリスト教は神の審判やそれらの規律から自己肯定をする
「こうした苦しみや貧困は天国に行く者には不可欠である」云々
また同時に、強いものたちを、そしてその振る舞いを、先の規律や背後世界によって否定する
「あのように振舞うものたちに神は天国を用意されない」云々
そして、キリスト教は、説明的言語(ディスクール)によって
論理的にガリオタが肯定される世界の見方を、ガリオタが評価される視点を、
そして神の審判やら死後の世界を構築している
人が言葉を使う動物であり、人は言葉のルールに従って、つまり論理に従って推論しつつものを見る
そう、キリスト教はこの点を利用して、奪い殺す強者をみずからの描いた物語に従属させる
死後の世界という誰も知らないところや神という誰も知らない視点を導入し
そこを出発点として、基盤として、キリスト教は物語る
出発点や基盤については誰もウソともホントとも断言できないのだが
それを取りまく物語がとてもうまく説明されているので説得されてしまう
そうして、人々を論理的に説得することにより、
ガリオタマンセーが真理であるかのような世界観を人々に与える
物理的な強者であれなんであれ、人は論理的にものを考え、それに従って世界観や序列を考える
そう、ニーチェは僧侶が、ガリオタがどうして権力を握りえたのかを暴くと同時に
ニートでもヒッキーでも勝つことができるその方法を教えている
ニートやヒッキーが経済的肉体的強者にどうしても勝ちたいのであれば、キリスト教に倣って
ニートやヒッキーを肯定する物語を、神を、死後の世界を、ルールを捏造すればいい、と
217 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:46:03
今週のダヴィンチでジョジョの荒木の特集があって、
いまさら荒木はニーチェ読んでるなと気づいた
218 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:47:37
ニーチェ思想の描き出す理想の社会は足を引っ張りあう社会ではなくて、強者が高貴な生き方の模範を示し、
弱者がそれを手本に高みを目指す、互いに高めあう社会なんだと思う
219 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:49:33
乞食であっても高貴に生きたディオゲネスの様に、
ニートもルサンチマンを捨てて高貴に生きればよいであろう。
問題なのは弱者がニーチェ思想を普通の人への攻撃のために使ってるっぽいことだな。
まず最初に自分が批判されるべきだろう
221 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 16:55:59
>>220 「普通の人」って何だよ?
それこそニーチェの批判した標準的であることを良しとする集団主義ではないのかね?
>>218 >ニーチェ思想の描き出す理想の社会は
>足を引っ張りあう社会ではなくて、
>強者が高貴な生き方の模範を示し、
>弱者がそれを手本に高みを目指す、
>互いに高めあう社会なんだと思う
ものすごくわかりやすく説明されたので、
これで納得いった。
223 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 17:00:30
それじゃあ、共産主義者と一緒だがね
224 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 17:03:33
↑
俺の定義する普通の人:
高校のころ部活とかバンドとかやってて、そこそこよい彼女(氏)がいて、
つまり平均的な青春があって、平均以上の大学入って、
まあこれから結婚して30代で年収が500〜800万ゾーンの会社に
入りたいなと思ってる大多数の日本人。
推測だけどニーチェにはまってる奴の大半は、
こういうふつうの人たちの人生以下だったから、
それを価値否定する事だけに熱を挙げているのではないかな。
だってこんな普通さを否定する絶対的根拠なんてないでしょ
225 :
218:2005/08/07(日) 17:05:10
>>222 そう言って貰えると嬉しい
てか、実は竹田青嗣の受け売りなんだけどなw
226 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 17:16:48
>>224 そりゃ傲慢だよ
君の普通は普通じゃない。かなり恵まれてる
227 :
224:2005/08/07(日) 17:29:35
そうかなあ。とりあえず客観的に言えるのは給料のデータ。
日本人全体の平均年収は1200万だぜ。
そんで全体の7割を占めるサラリーマンの平均が500万円。
228 :
226:2005/08/07(日) 17:35:40
>>227 まぁ、いいや
何が普通かはさておき
そういう普通さが正しいと思うなら、そういう風に普通に生きていけばいいだけじゃん
それなのにどうしてこのスレで言われてることを気にする?
自分の正しさに確信があるなら、別に何を言われようが気にはならないはずだろ
それとも君の正しさは他人との相対的な位置によってしか証明できないものか?
229 :
224:2005/08/07(日) 17:47:12
いや、ニーチェの思想を全否定しているわけではないよ。
よく生きたいと思わない人は誰もいないだろう。
ただ目指すべき超人が何なのか誰も具体的に示せないようだし(俺もわからん)、
弱者が行いもなさずに普通の人を口だけで叩くのは、
それこそニーチェの否定するルサンチマンではないのという事。
ツァラトゥストラでもそういうエピソードがあったしな。
230 :
226:2005/08/07(日) 17:54:33
>>229 ニーチェの思想云々の話じゃないだろ
要するに君がこのスレで行われている議論に普通であることを良しとする自分の価値観を否定されたような
不快感を感じたってことじゃないの?
231 :
226:2005/08/07(日) 18:04:19
世間的な価値観に浸りこんで平穏無事に暮らしたいと思うなら、迂闊にニーチェ思想なんかに足を踏み入
れない方がいい
そういう人にとってニーチェの考えは危険思想でしかないだろう
ニーチェ自身も発狂して死んだわけだし
質問です。
会社で統率的な地位にある人は社会的強者です。
けれどもその人が、力ある部下を育てようとせず、足を引っ張るような行為に
及ぶのは、力のある部下へのルサンチマンや、自身の地位の保身のためです。
力ある部下はやがてその人を脅かす存在になるからです。
はたしてこの人は強者といえるのでしょうか?
233 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 18:48:12
>会社で統率的な地位にある人
会社のオーナーなら強者。部下には働いてもらえばもらうほどよい。
雇われ管理者は弱者。保身の為に部下の足を引っ張るのはルサンチマン。
234 :
232:2005/08/07(日) 18:58:58
>>233さん
お返事ありがとうです。
>雇われ管理者は弱者。保身の為に部下の足を引っ張るのはルサンチマン。
ニーチェのいう強者はルサンチマンのない人間ですよね?
ですから、たとえ管理職にあっても部下にルサンチマンを抱く人間は
弱者と解釈してもいいでしょうか・・・?
235 :
44:2005/08/07(日) 19:20:59
>>234 なんだか話が矮小化しているね。ニーチェのいう強者・弱者とは、社会的な
ものではなくて、もっと高次元のものではなかろうか。ルサンチマンは弱者の
表象の一つであって、その本質ではない。
弱者とは、いかなる状況であれ、自己の生に自信の持てない者、即ち、生の
欲求が内的・外的要因により抑圧・弱体化されている者のことであろう。
その結果として、他者にルサンチマンを抱く。
236 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 19:24:23
誰が強者か弱者かなどという質問にはまったく意味が無い
程度の差こそあれ、誰でも多かれ少なかれルサンチマンを抱えているものだ
人間が社会生活を営み、他者と関わっていく以上、ルサンチマンは決して避けて通れるものではない
社会を形成して人の間で生きるからこそ”人間”なのであり、それをしないならばただの動物に過ぎない
そういう意味でルサンチマンは極めて人間的な感情だと言える
もしも、ある人がルサンチマンを克服したのならば、その人をもはや人間と呼ぶことはできないだろう
ルサンチマンを克服した存在、それをニーチェは超人と呼ぶ
お分かりだろうか?人間とは動物と超人の間に張り渡された一本の綱なのだ
237 :
224:2005/08/07(日) 19:28:30
>>230 不快感というならば
ニーチェ思想を弱者の宗教に貶めたことに対する不快感だね
238 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 19:28:59
>>231 なるほど!ニーチェに親しみを感じるあなたは特別で、世間的な普通の人とは違うのですね!
結構結構!!ww
239 :
44:2005/08/07(日) 19:43:50
>>236 >ルサンチマンを克服した存在、それをニーチェは超人と呼ぶ
>お分かりだろうか?人間とは動物と超人の間に張り渡された一本の綱なのだ
前半での言いたいことはよく判るが、ルサンチマンの克服や超人となることを
目的としたら、それは彼の批判する道徳や宗教と変わらない。
彼の言ってることは、つまるところ、人間はその本来の姿である動物に帰れ、
ということではなかろうか。
240 :
232:2005/08/07(日) 19:52:38
>>235 44さん
初歩的な質問に答えていただき、ありがとうございます。
>なんだか話が矮小化しているね。
・・・すみません、卑近な例として挙げてみました。
>弱者とは、いかなる状況であれ、自己の生に自信の持てない者、即ち、生の
>欲求が内的・外的要因により抑圧・弱体化されている者のことであろう。
>その結果として、他者にルサンチマンを抱く。
これは自分に自信のない者、それゆえに他者に対して劣等感や敵意を抱く者のことで
しょうか?
241 :
232:2005/08/07(日) 19:54:31
>>236さん
>程度の差こそあれ、誰でも多かれ少なかれルサンチマンを抱えているものだ
>そういう意味でルサンチマンは極めて人間的な感情だと言える
・・・そうですね。ルサンチマンのない人間は皆無でしょうね。
そして、このルサンチマンこそが人間を動かしている原動力ともいえるでしょう。
けれども、負の方向に行き過ぎると歪んだ人間ができあがるのも事実です。
>ルサンチマンを克服した存在、それをニーチェは超人と呼ぶ
>お分かりだろうか?人間とは動物と超人の間に張り渡された一本の綱なのだ
目の覚めるようなご意見です!
ありがとうございました。
242 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 19:57:45
>>239 「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは克服されるべきある
ものである。----超人とは大地の意義である。----わが兄弟たちよ、わた
しはあなたがたに切願する、大地に忠実であれと」(『ツァラトゥストラ』第1部)
超人とは人間を克服し、ルサンチマンから自由になった存在のことである
そのため超人は「天上の世界」、「天国」、「あの世」といった彼岸の世界を必要としない
それが故に超人は大地の意義そのものであると言う事ができる
243 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 19:59:57
>>238みたいな茶々を入れる人を大いに軽蔑せよ。とツァラトゥストラに書いてなかったっけ。後半の「ましな人間」の所をよめば超人予備軍について書いてあるよ。解釈は難しいけどね
244 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:04:01
>>241 「人間とは動物と超人の間に張り渡された一本の綱なのだ」
この言葉は「ツァラトゥストラはこう言った」の本編の中で実際に語られた、ニーチェ自身の言葉ですよ
何か感じ入るところがあったならば、原典にあたってみることをお薦めします
245 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:04:58
超人を目指しているわけでもなんでもない普通の人間を「弱者」呼ばわりして非難するのを
みると、正直カチンとくるわけよ。
そういう弱者批判の構造は、ニーチェが批判するところのキリスト教のやり口と変わらないんじゃないかい?
246 :
44:2005/08/07(日) 20:06:46
>>240 >これは自分に自信のない者、それゆえに他者に対して劣等感や敵意を抱く者のことで
>しょうか?
そういうことです。しかし、その自信とは、一度きりの、いまここの生への
自信、永劫回帰の悟りに基く自信です。
247 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:09:44
>>245 キリスト教は弱者を批判しないよ。ローマ皇帝が垂れる慈悲より
はるかに大規模な弱者救済活動を行ったのでキリスト教は人気が出たのだ。
248 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:11:22
>一度きりの、いまここの生への自信、永劫回帰の悟りに基く自信
誰にでも理解できるように、具体的・論理的に説明してください。
ここは宗教板やオカルト板ではありませんので。
249 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:11:56
250 :
232:2005/08/07(日) 20:12:37
>>244さん
ありがとうございます。
実は「ツァラトゥストラはこう言った」は数年前に一度だけ、読んだきりです・・・
そして、今回書き記していただくまでその言葉が本編にあったことなど
すっかり失念しておりました。
さっそく今夜からでも再読してみようと思います。
ちなみに今手元にあるのは、岩波文庫版の上下巻で訳者は氷上英廣氏のものです。
251 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 20:14:50
いうなればニーチェの主張は米国共和党。キリスト教は米国民主党。
どっちの意見もありえるし現に対立しているが、どっちが正しいともいえないもの。
252 :
232:2005/08/07(日) 20:19:53
>>246 44さん
たびたびのレス、ありがとうです。
>そういうことです。しかし、その自信とは、一度きりの、いまここの生への
>自信、永劫回帰の悟りに基く自信です。
…なるほど。
今この瞬間に得られる自信、それは努力の結果得られるものではなく、
通常概念で言われる「自信」とは異なるもののようですね。
永劫回帰の悟りに基く自信とは、とても大きくまた深いものであるように
思えました。
253 :
44:2005/08/07(日) 20:34:52
>>248 生存欲求という基本的本能を持った生物としての人間を思考の基盤とする
のですから、宗教やオカルトとは対極的なものです。
要するに「徒に理想など追い求めるな。いまここの生こそすべてである」と
いうことでしょう。
「永遠(永劫)回帰」という訳語が悪い。永遠が回帰するのか、永遠に回帰
するのか、さっぱり意味がわからない。
「永遠に回帰する(eternal recurrence)」、即ち「今ここがすべて」と
解する。
>>251 言えてる。右翼対左翼も同じ。ニーチェは、生物としての人間の本質上、
前者こそ正しいとする。
254 :
44:2005/08/07(日) 20:46:47
"Eternal Recurrence"は、「永遠に回帰する」でもやっぱりマズイね。
「永遠(名詞)に対して回帰する」の意味にも取れるから。「絶え間ない
反復」の方がよいか。いずれにせよ「永遠回帰」という訳語は意味不明。
変更する必要がある。
255 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 21:08:58
>>245 例えばこう考えてみて欲しい
日本人の普通の人が普通に生きるために、どれくらいのコストがかかっているか
中国の13億人がもし日本人と同じ生活水準になったら地球の自然環境は破綻するわけだが
俺たちのライフスタイルが俺たちの知らないところで自然を徐々に蝕んでいるわけだ
それを指摘された時、お前さんは「俺は普通に生きているだけだ。批判されるのは筋違いだ」と開き直るのかね?
256 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 21:14:50
255の続き
人間は社会生活を営み、他者と関わることで生きているわけで、自分の知りえないところで他人に影響を与えている
だから、「普通に生きていれば平穏無事だし批判されることもない」みたいな都合のいいポジションは存在しない
ともすれば自分の幸福のために、何かが犠牲になっているかもしれない
ニーチェが喝破したのは、自称「善良で普通の人達」がどれほど冷淡で厚顔無恥であり、多くの社会的犠牲を生み
出しているということ
彼らは自分自身が善良であることを疑うことがない。そして、延々と犠牲を生み出し続けている
ニーチェの大衆批判の主眼はそこにあるわけで
257 :
255:2005/08/07(日) 21:25:28
要するに無責任なんだよ
世間的な価値規範に同一化し、主体的な決断を放棄することによって、自分の行為の影響について責任をとることも無い
他人と同じであることによって自分の正しさが保証されると思い込んでる
これぞまさにニーチェの言うところの「蓄群」、ハイデガーの言うところの「世人」だ
258 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 21:37:02
>>255-257 で、お前は普通の人を批判さえすれば、自分が修行僧みたいな禁欲生活をしなくても
自分の責任を軽減できると思いこんでる冷淡な大馬鹿野郎なわけだ。
気付いてても変える行動しない奴が最も責任が重いだろう。
259 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 21:47:16
>>258 俺は自分の信念と哲学に基づいて、自分の行動を決定している
その行動に伴う諸々の影響に関して責任を棚上げするつもりは毛頭ない
そして、俺は自分が善良な人間で他人から非難されずに済む立場にあるだなんて思っちゃいない
自分の行為が他人に悪影響を及ぼすんじゃないかと常に自問自答しているし、批判ならいつでも聞く用意がある
260 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:21:32
44が絶対に哲学プロパーではない件
学部卒でも絶対に言わないようなことを平然と述べている
「彼の言ってることは、つまるところ、人間はその本来の姿である動物に帰れ、 ということではなかろうか。 」
ニーチェは、ルソーのように動物に帰れだの文明を捨てろなどとは言ってないし
また、彼は原初的人間の社会を人間があるべき本来の理想的状態として見ることはない
「そういうことです。しかし、その自信とは、一度きりの、いまここの生への 自信、永劫回帰の悟りに基く自信です」
先にもこれを批判している人がいたが、こう自信ありげに書いておいて
「永遠(永劫)回帰」という訳語が悪い。永遠が回帰するのか、永遠に回帰 するのか、さっぱり意味がわからない。 」
のようなことを平然と書けちゃうのはちょっとオツムが足りていない
261 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:22:26
>>260のつづき
ニーチェの「永遠回帰」を理解するには、西洋哲学を貫くの理想主義(Idealism=観念論)の流れを理解し
理想主義の前提をひっくり返したならば、イデアなしで世界を見たならば、どうなるかということに思い至らねばならない
ニーチェの(彼の生きていた当時に発表された)「質量保存の法則」に基づく思考
{『生成の無垢』の下巻(ちくま学芸文庫)の一章である「『ツァラトゥストラ』によせて」に詳しい}
彼の考えによれば、もはや神がなく、イデアがないのであれば、事象に絶対的な目的はないということになり
また絶対的な目的がないということは終わりがないということであり、すべては無限に繰り返しうるということになる
また、すべては物質に過ぎず、すべては物質の配列であり、これもまた絶対的目的をもたず
すべての配列が、すべての現象が、すべての仮象が無限に繰り返しうるということになる
そして、終わりの可能性だけが、物質の配列のうちに、すべてが無限に反復されながらも存在しない
世界が終わりの可能性を有しているならば、その可能性は反復の内ですでに実現されたであろうが
そうなれば世界は静止したままであろうが、世界はいまだ運動をつづけており
「諸力の世界はいかなる静止もこうむることはない」のであり、世界には終わり=最終目的地などない
理想主義の転覆(マルクスの唯物論もプロレタリア独裁という「理想」的状態を置いているので、ニーチェにとっては
理想主義であろう)および極限まで唯物論を推進する反−理想主義的視点において現れるのが「永遠回帰」
の世界観であり、その思想である
262 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:22:59
>>261つづき
また、ニーチェのこの世界観はプラトン的・ヘーゲル的な弁証法的な世界観と対立する
彼の世界観は蓄積・解消・進歩などを前提とする弁証法的な世界観とは相容れない
プラトンの「イデア」やヘーゲルの「絶対精神」のような差異の否定の状態から
現実に発現している差異を見ず、反復される差異をそれ自体において肯定するニーチェの世界観
このように、多様性の回帰を肯定する思想として「永遠回帰」を見ることもできる
(ドゥールーズの『ニーチェと哲学』などを読んでもらえればよい)
あの程度の哲学史の知識で「「永遠に回帰する(eternal recurrence)」、即ち「今ここがすべて」と 解する。」
などと書くのは笑止である。とりあえず、ニーチェを読む奴はまず哲学史をざっとでいいから眺めてから読め
263 :
44:2005/08/07(日) 22:35:20
西洋哲学では、ニーチェの真意は理解できないのでは。彼は実質「仏教徒」
ですよ(アンチクリスト)。仏教を西洋哲学で本当に理解できますか。
西洋哲学を根底から覆したのがニーチェだと思います。
264 :
166:2005/08/07(日) 22:36:48
>>262 基本的に同意、だがここはニーチェスレなので262のニーチェ論を語ってくれれば、
ドゥルーズを引き合いに出す必要はないと思う。
かくいう自分は最近になって無人島を読んでいるが。(狂人の二つの体制は読了)
265 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:50:27
>>262 恐れ多いですが先生、僕は違うと思います。ニーチェの突拍子もない思想は彼の無意識を読んでいくしかないと思われます。超人思想の補助線がダーウィニズムとカルヴァニズムだと思われます。
266 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:51:51
ソクラテスはインド思想の影響を受けているという人もいる。
西洋の中で哲学とは西洋本来のものとは異質な東洋の思想であるのです。
267 :
44:2005/08/07(日) 22:52:15
>>262 >とりあえず、ニーチェを読む奴はまず哲学史をざっとでいいから眺めて
>から読め
既成観念の先入観に囚われないで本を読み、現実の人間や社会と照合して
自分の頭で考えることも必要なのでは。さもなければ、いつまでたっても、
哲学が他人の思想の「借り物」またはその「模倣」であることを免れない。
268 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:52:52
>>263 「西洋哲学 / 仏教徒」
こんな大雑把なくくりで、よく何かを論じる気になれるもんだと、ちょっと呆れた。
倫理の授業を受けたばかりの高校生程度の発想だよ。
269 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 22:54:16
>>267 その、勉強したくない際の言い訳だって、どこかからの「借り物」だしな
270 :
44:2005/08/07(日) 23:00:59
>>268 高校生程度の発想とは、文献に依存し、専ら他人の見解をあり難がって
拝聴するあなたのことです。すこしは、自分の頭を使ってはどうですか。
哲学とは、本を読むことや「知識を得る」ではありませんよ。
271 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:02:56
もっとニーチェの話をしようよ。ニーチェの超人思想に従えば
他人を憐れむのも哀れみを受けるのも拒否するんだろ???
それなら最悪乞食になればいい。そういう覚悟で生きれば
いいじゃないか。
272 :
166:2005/08/07(日) 23:08:26
>>270 だからといって手前勝手に主張し合っても議論にならない。
44氏がそうだとは言わないが、常識レベルの哲学史もふまえずに
哲学の議論はできない。
>>271 乞食って高みかなぁ……そんなこと無いと思うんだけど。
清貧なんて言われても信じられないだろ。
273 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:13:14
>>272 憐れみを受けるぐらいなら乞食のほうがマシ…って気概でしょう。
実際に職を持たなかったりケコーンしなかったスコラ哲学者など
いたようなので、自立心が旺盛でかつ経済的に満たされない人が
哲学にはまるのかと。
274 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:17:48
>>263 似ている点はあるかもね
でもね、仏教もまた終わりを、解脱そして涅槃という最終目的を置いているでしょ
仏教においては、現世は解脱や涅槃に至るための苦行「として」肯定されるわけ
生成し現象するすべては、解脱や涅槃の手段として捉えられ、理由づけられた上で肯定される
もしくは否定されるんでしょ仏教って(間違っていたらスマソ)
ならば、ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』で遊戯する子供を
三段階の存在の変化(ラクダ→獅子→子供)の最上位に置いたことを思い起こして欲しい
「幼な子は無垢である。・・・ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。
ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である」
(F・ニーチェ 『ツァラトゥストラはこう言った』(上)氷上訳 岩波文庫 P40)
ニーチェの描く幼な子は、生起する現象を仏教のように目的づけず、解脱とか涅槃とかいう目的なしで肯定する
これがどういうことかお分かりですか?
ニーチェは仏教とも安易なヘーゲル主義(J・L・ナンシーなら「帝国主義的に」読まれたと言うでしょう)とも異なります
幼な子の肯定はどこへも従属しない。仏教がそうするように、ヘーゲル主義者がそうするように
目的=終わりから論理的に生起する現象を、差異を、肯定する彼らとニーチェの考えはは異なります
つまり、仏教とニーチェはそうした点において異なる
>>270 アルチュセールでも読んで、いかに革新的な思想でも過去の方法に依っているかを
またデリダを読んで、過去にすでに語られた理論に依らなければ考えることが、
考え始めることができないということを学んだ方がいいよ
人は、母国語の中で、制度の中で、ゲームの中で、突如として目覚める
一からすべてを自らに依り、自らにおいて始めることはできないんだよ
275 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:18:42
肉体と精神があって、肉体の変様に連想が及ぶと精神に変化が起こる。
だから、肉体の変様への連想を断ち切ることで精神性を高めようとす
るのがニーチェの理論。
で、先回りして、変容を利用しようと考えるのが肯定・合理的な理論。
ま、選択は自由だけど・・・
276 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:26:39
やっぱり五島勉先生に「ツァラトゥストラ」を解読してもらうしかないですね。これぞテクストの快楽!
277 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:28:48
まずエジプト以来の帝国主義、物質主義に染まって、
それから東方的なニーチェを追体験しないと感動が薄れるでしょう。
278 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:32:16
ニーチェは否定の神
ところで、神は死んだ
279 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:36:51
ニーチェも理念専攻。プラトンと変わらない。
それで状況適応的な大衆を軽蔑する。大衆が担ぐ神を否定するが、
教祖的な人物を称揚するので実のところあんまり神を否定してない。
超人がやっぱり分かりにくいな。
特にドゥルーズなんかのスピノザが入った超人論は、
末人との区別が殆どつかない。
両者とも、旧来の価値観を否定したり、彼岸の世界を否定して、
善悪ならぬ良いと悪いの世界に生きてるし。
かつて宮台はコギャルを超人に見立てて、その後裏切られたわけだが
別に末人に見立ててもあんまり変わらない。
281 :
44:2005/08/07(日) 23:45:26
>>274 他人の考えだけでなく、あなた自身の独創による考えも、常に付け加えて
下さい。学問とは、従来の見解の紹介などではなく、それを一歩進める
ことです。
ニーチェは、「ヨーロッパは、仏教を受け入れるほどにはまだまだ成熟
していない(アンチクリスト)」と言っていますが、これに対するあなたの
ご説明とご意見をお聞かせ下さい。
282 :
考える名無しさん:2005/08/07(日) 23:46:35
歴史的文脈から切り離された超人は、実社会では末人。
ネットウヨとか、その水準。
283 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:01:53
>>281 仏教的なナイアリスム(虚無主義)とキリスト教的ナイアリスムの差異を見ましょう
キリスト教は神への負債(原罪とキリストの磔刑)を背負った者として人間を考える
だが、仏教の考える人間にはキリスト教のような負債は存在しない
キリスト教は神への負債から人間の悲惨を必然として説明する
仏教は、生は理由なく老いや病いや死に常に脅かされていると必然として認識する
どちらも生を必然的に悲惨なものと見る虚無主義であるが、仏教は生とは理由無しに
容赦無しに悲惨であるということを認識しているが、キリスト教はそうではなく原罪ゆえに、
エデンからの追放ゆえに、人間の生は悲惨であると認識し、他の生(神の国)において
人間は、人間の生は悲惨でなかったと仮定する
これで仏教的虚無主義とキリスト教的虚無主義の違いが分かりましたよね
そして、ニーチェがなぜ仏教をキリスト教よりも優位に置いたのかも(生の認識において仏教の方がシビア)
284 :
44:2005/08/08(月) 00:04:41
>>274 >「幼な子は無垢である。・・・ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転
>する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である」
この言葉から見ると、ニーチェは既成観念に害されていない幼子を人間の
理想としているようですね。「超人は大地の意義そのものである」という
のも同様な意味だと思います。
このようなニーチェの思想を、いわば既成観念の塊である西洋哲学で説明・
理解しようとするのは、矛盾だと思いますが。
285 :
166:2005/08/08(月) 00:11:43
\
>>284 幼子の特徴は大人(既成のもの)に毒されてないことばかりじゃないと思うが。
>>276 人選が悪すぎる。
286 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:21:19
>>284 本当に『ツァラストゥラはこう言った』を読んだのか?
読んでいないなら、まずは読め
話はそれからだ
どう考えても読んでいないようにしか思えない
「この言葉から見ると、ニーチェは既成観念に害されていない幼子を人間の理想としているようですね。」
この「幼な子」がどのようにニーチェによって説明されているかを
つまりテクストにおいて幼な子がラクダや獅子との連関で説明されていることを、まるで分かっていない
獅子もまた「我欲す」と言う者であり、既存の価値体系に縛られていない
では、獅子と幼な子の存在論的境位はどう違うのか、どこに差異があるのか
君がそれをどう考えるのかを述べてみて欲しい
独りで独創的に考えるのもいいが、テクストなしで思想家を論じるのはルール違反ではないか?
そして、読んでもいないのに他人に説明を求めるのは失礼だと思うがな
287 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:22:33
ニーチェは比喩表現力が抜群に豊か。才能の証。
288 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:24:48
ニーチェは元気が出る。自己啓発本のはしり。
289 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:33:35
>自己啓発本のはしり。
ワラタ
>>286 あれって三者の変化自体が、また繰り返す(永遠回帰)って感じにも見えるんだけど、
深読みのしすぎ?
どの解説書読んでも書いてないんだよね。
291 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:37:39
人間は死んで人生をやり直しても結局同じことかもしれないけど、
今をがんばろう!!!ってのが永劫回帰では???
つまり実存主義っぽい。がんばろうって感じ。
292 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:41:22
人間の「今」は、常に過去・未来を意識する今だから、
動物みたいにはいかないし、動物を目標にする必要もない。
今今今と繰り返し主張するばかりでは、青臭い青年の主張の粋を出ない。
293 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:43:12
>>292 >今今今と繰り返し主張するばかりでは、青臭い青年の主張の粋を出ない。
まったくその通りで、イギリス保守派哲学などからは無視される程度の代物でしょう。
しかし本を一冊読んで共感する青年が多いのもまた事実。
294 :
44:2005/08/08(月) 00:43:40
>>286 >独りで独創的に考えるのもいいが、テクストなしで思想家を論じるのは
>ルール違反ではないか?
日本語になっていない翻訳でテクストの細部まで読むことよりも、中心思想
を捉えることのほうが重要だと思う。
テクストを読むだけで、自分の独創的な考えを提出しないのは、ルール違反
ではないのですか。
295 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:55:01
学問においては独創それ自体には価値はない。
独創とか共感に第一の価値を置きたいのなら、芸術とか文学の
分野に手を出しな。
296 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:57:21
ほぅ。
297 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 00:59:47
>日本語になっていない翻訳でテクストの細部まで読むことよりも、中心思想
>を捉えることのほうが重要だと思う。
哲学書や思想書の翻訳が読みにくい・日本語じゃない、というレスがちらほらあったけど、
全部こいつか〜。 諸概念が複雑に絡む文を読むのが苦手なだけだろ。
つまり、「哲学っぽいものに憧れるが哲学書を読むことが出来ない馬鹿」
298 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:02:22
>>294 286はまず事実確認をしろと言ってるだけじゃないのか。
互いが(ある程度)前提となる共通認識の土俵の上に立たなければ、
まとまる話もまとまらない。
それと、ニーチェの思想があんたに捉えられてないのは
>>163、
>>164、
>>167、
>>173のやり取りからも分かる。
あんたの独創的な考えってのは、単に独りよがりなたわ言だよ。
補足で言っておくが「それなら分かるように説明してくれ」
と言っても応えてはやれん。
四則演算のできない人間にいきなり微積分を教えれないのと一緒だ。
別に逃げと取ってくれてもかまわんがな。
299 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:03:26
ニーチェは危険な思想家です。どっちかと言えば、というより断然読まないほうがいいです。
人生を狂わせる危険性が大いにあります。人生を良くする思想では全くありません。むしろ悪くします。
ニーチェについて議論することは不毛です。
ニーチェは腕のいい釣り師です。
300 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:07:37
文献学者としては死亡宣告がなされちゃったんで、釣り氏として生きることにしたんでしょ。
301 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:08:05
ニーチェは最初の文学青年だよ。最初だから意味がある。何でも最初はエライ。
302 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:11:23
ウェルテルを真似て鬱自殺した大量の青年こそが最初の文学青年。
19世紀末の人間をさして「最初の文学青年」とは・・・
303 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:35:18
アレクサンドル・コジェーブがG・バタイユの思想を「ヘーゲル主義の彼岸」と呼んだけど
同じようにニーチェの思考の手法を無際限の弁証法、絶対知なき弁証法として捉えることはできる
(特に『権力への意志』周辺のニーチェならば)
ただし、ニーチェの語る「幼な子」は理由を持たずどこにも帰属しない(戯れ、横滑りを起す)ので、
存在=現前する知というパルメニデス的伝統にのっとる体系では、「幼な子」は存在しえないし、
「幼な子」はその体系にとって重大な違反となるので
ニーチェの手法を単純に弁証法的(回帰構造)と呼ぶべきかどうかは判断しかねる
(ヘーゲルの体系はすべてを説明する。説明されないものは存在しない)
そう、ニーチェの手法は形式的には反復しているように見える
『ツァラトゥストラはこう言った』のテクストの構造がまさにそうであるように。
ツァラトゥストラは独り山に十年篭った後、山を降り、その足で町に向かい市井で論じたが、
人々に失望し山に帰り、洞穴で信者たちやマシな人間に語るが、最後には洞穴を独り出て行く
テクスト冒頭の山を独り降りるツァラトゥストラと最後に洞穴を独り出て行く彼はどう違うのか、何が変わったのか
決定的な「夜」が来た後、ツァラトゥストラは洞穴を出る
そう「深い真夜中は何を語るのか?」、真夜中は彼に何を語りかけたのか
しかし、それは語りうるものなのだろうか?
独りどこかへ出て行くという形式は保持されている
しかし、洞穴を出た彼はどこへ向かおうというのだろうか
冒頭部のように教えを垂れに行くのでもなく
304 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:45:47
>ニーチェの語る「幼な子」は理由を持たずどこにも帰属しない
これ、よく分からないんだけど、「理由をもたない」というのは、因果の秩序に従わない
ということだろ? そんな存在があり得るのか?
305 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 01:59:38
>>304 J・デリダがバタイユを論じた『制約経済学から一般経済学へ』の中で
ヘーゲルの「支配」とバタイユの「至高性」がどう違うのかを論じているけれども
その議論が「獅子」と「幼な子」の差異、ひいては「幼な子」の西洋形而上学における
特殊な位置を考えることの参考になるかと思われる
そして、ニーチェがどうしてポストモダンの思考の大きな支柱になっているかが分かると思う
306 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 02:07:13
>>305 ちょうど手元にあるんで、頁を指定して引用してみてくれ。
307 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 02:21:23
>>306 こっちのテクストがユリイカの1973年のバタイユ特集号である件
(意味の時代―≪支配≫と≪至高性≫)の節で「笑い」や「明証性」に関する議論のあるところ
その章を頭から読んでいけば、すぐにぶちあたる
「支配」と「至高性」に差異に意味がないという部分
そして、すべてを、死でさえも、意味の中に、体系の中に取り込んでいく
ヘーゲル主義とバタイユひいてはニーチェの「笑い」の対立
308 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 02:26:55
>>307 今読んでるんだけどさ、このデリダのテクストは「否定性」を意味付けして回収するか
どうかを論じてるわけだろ?
「因果の秩序に従わない存在があり得るのか」ということとはあまり関係ないんじゃないか?
ところで、「無意味に笑う」ことがどんなに素晴らしいかが、さっぱり理解できんのだけど。
309 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 03:07:39
ガハハハハ
って健康っぽいじゃん
>>308 「因果」ではなく、否定性によって形作られた「体系」もしくは「論弁」といった方がいい
そこではすべてが「〜のため」に従属し、協働している訳さ
「死」が、「死」の否定性が絶対知の条件(たとえば『精神現象学』の序文)として回収されるように
「否定性は常に肯定性の裏面をなしており、その共犯者なのである」
そう、ヘーゲルは、彼の体系は否定性を起点としてまた基点としておくけど
なぜかその否定性は「絶対知」という限界を有し、体系の中で閉じてしまう
≪否定的なもの>について、そしてそれによって物語っているにも関わらず
では、≪否定的なもの≫を、絶対的自由の状態にある「幼な子」を
「至高性」を、まじめに、字義通りに、肯定性の裏面無しに語ろうとすればどうなるだろう
「≪否定的なもの≫に保証された裏面がそもそもあるわけではない」のだから
「≪否定的なもの≫が肯定へと換位されるがままになっていることなど、もはやありえないのであ」って
≪否定的なもの≫のその発露は論弁の内にはそもそも回収しえないということが明らかになる
≪否定的なもの≫としての「至高性」、これをいかなる支配も受け付けぬニーチェの≪否定的なもの≫
としての「幼な子」とずらして読めると解釈する
ニーチェの「幼な子」にせよバタイユの「至高性」にせよ、その≪否定的なもの≫の発露は体系を震るわせる
それは彼らの表現で言えば「笑い」になるだろう
また、「笑うことは認識であるという」バタイユの言葉を思い出して欲しい
「笑う」とは、弁証法が、論弁が、体系が根本的には、悲劇ではなく喜劇であるということ認識することだ
(ヘーゲルは人間を悲劇的に描くが、ニーチェやバタイユは悲喜劇として描く)
311 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 03:34:43
やっべー、まとまってないやつ送信しちまった
312 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 03:50:36
>>310 >「因果」ではなく、否定性によって形作られた「体系」もしくは「論弁」といった方がいい
>そこではすべてが「〜のため」に従属し、協働している訳さ
目的因の批判として論じているならわからないでもないが、
その論で起成因までも批判できるのかい?
何度も言うようで申し訳ないが、「因果性から自由な存在がありうるのか」という話だぞ?
(ニーチェに戻して言えば、彼はカントのこの議論を真剣に読む資質にかけていたと思うね)
313 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 04:41:27
>>312 それって永井均が『これがニーチェだ』で批判している(同書P130など)点だよな
ニーチェは超越論哲学の試みを全く理解してないっていう
カントが理性の限界を措定したのと同じように、ニーチェは≪否定的なもの≫の構造に関して
、つまり限界を置くことができないということを超越論的に述べたということはできない?
たしかに、永井さんの言うことももっともだと思うよ
ただ「世界内のある存在者やある現象が世界全体を解釈的に構築しているという発想は哲学的に幼稚である」
ということをニーチェに当てはめるのは少し乱暴だと思うがな
花は蕾を否定し、実は花を否定する
因果性を科学的な「石を投げると重力に従い放物線を描く」のように捉えると
この議論は間違いなく平行線を辿ることになる(カンティアンとへーゲリアンの議論のように)
論弁に回収されるとは、蕾は花「のために」存在するとされること
蕾は蕾自身によって意味あるものなのではなく、花によって否定されることで意味あるものとなっている
こうしたものの考えがヘーゲル的なものの考え(因果性の捉え方)なのだ
一方で、カントは花がどうして花として捉えられるのかの認識構造を明らかにする
「時間・空間のセンスデータが悟性によって云々」
カントが語る認識構造は人間であれば誰しも持っているものであって、
いつでもどこにあっても花は花として人間には認識されるという因果性を提出する
意味の連綿としての因果性(ヘーゲル)と一対一対応の因果性(カント)
これを考慮に入れないと訳の分からんことになる
314 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 11:15:12
ポストモダンなど知らず、ニーチェが何を言っていたかなど気にもとめずに一生懸命「〜のため」に生きている人間は逆説的にニーチェが勧めた生き方をしている場合が多い
315 :
44:2005/08/08(月) 13:39:32
>>283 読めと言われて、仕方なくアンチクリストの仏教に関連した部分を再読してみたが、
あなたの言っていることとは大分ニュアンスが違いますね。
第一に、ニーチェの仏教とキリスト教に対する態度は、「批判の程度の差」などでは
なく、前者を賞賛・肯定し、後者を完膚なきまでに批判し否定しているのです。
その理由として、前者は後者よりも「百倍も現実主義的であり」、「神という概念が
除去された、歴史が私たちに示す唯一の実証主義的な宗教であり」、「道徳概念の自
己欺瞞をすでにおのれの背後におきざりにし、『善悪の彼岸』に立っている」などを
挙げている。
また「仏陀の教えは何ものにもまして「復讐の、忌避の、ルサンチマンの感情におち
いらないようにつとめる(「敵対によって敵対は終わらず」とは、全仏教の感動的な
織り返し句である)」と言っている。
さらに「仏教は、ただ完全性の獲得のみ熱望するような宗教ではない。すなわち、完
全性が常態なのである」とも言っている。
ニーチェは「神は空想上の存在」と言っているので、仏教が在外の神を認めないこと
が、仏教肯定の大きな要素であると思う。
要するに、仏教は生を肯定し推進する宗教、キリスト教は生を否定し破壊する宗教
で、「対極的」なものだと言っているのです。ニーチェの仏教理解からすれば、彼を「実質的な仏教徒」だと言っても決して誤り
ではない。西洋哲学とは全く異なって基盤に立っているので、前者によっては理解も
解説も不可能なのである。哲学とは、西洋哲学だけではない、はるかに古く膨大な
東洋哲学の体系が存在するのです。
ただ、ニーチェは、仏教思想の中核としての「縁起(空)」(個は他との関連において
のみ存在し得る」には触れていない。竜樹にまで手が回らなかったのは、致し方ない
ことだろう。
316 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 19:19:26
「不可避的に生ずるのは生に対する軽蔑を憎悪。仏教。
ヨーロッパの実行力は集団自殺へと引き込まれていくであろう」
(F・ニーチェ 『生成と無垢 下巻』 原佑他訳 ちくま学芸文庫 P648)
「仏教徒たちは悪のうちに何か非論理的なものへの、すなわち、
その目的が否定さるべき手段を肯定することへの衝動をみとめている
このゆえにかれらは欲情の側からのすべての衝動を忌避する
たとえば、けっして復讐するなかれ!けっして敵となることなかれ!
――ここで最高の価値尺度をあたえているのは、疲労した者の快楽主義である」
(F・ニーチェ『権力への意志 上巻』原佑訳 ちくま学芸文庫 P165)
{他に挙げるなら『道徳の系譜』の第三論文、『悦ばしき知識』の宗教の起源についての断章(ちくま学芸文庫P389)など}
『アンチクライスト』における表現から―「いずれもデカダンス宗教である」、「ふたつのニヒリズム的宗教」
確かに、『アンチクライスト』において、ニーチェはキリスト教に対して仏教の優越を認めている
しかしながら、キリスト教に比べれば仏教の方がニヒリズムとして洗練されていると言えるだけである
『道徳の系譜』を締めるニーチェの言葉―「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する」―
そう、仏教もまたキリスト教同様に、、人間的なもの、動物的なもの、物質的なもの、
官能、幸福と美、あらゆる外見や変化や生成や願望や要求から逃れようとする生に対する嫌忌に冒されている
また、仏教の肯定は間に合わせとしての部分的肯定である
つまり、生の多様性、生成、官能、幸福と美などを否定し、無を肯定する
では、ニーチェは?
「何ごとも現にそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。
・・・必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ。いわんや、それを隠蔽することではさらさらない。
あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわりに他ならぬ。――そうではなく、必然を愛すること・・・」
(F・ニーチェ 『この人を見よ』新潮文庫 西尾幹ニ訳 P72)
「運命愛」―キリスト教はもとより仏教からもまた遠い
317 :
44:2005/08/08(月) 20:16:17
>>316 ニーチェの言葉をただ引用するだけでは意味がない。年代順に並べて、その思想の
発展と成熟を追うべき。「アンチクリスト」は、最晩年の作品。彼は、牧師の子と
して、青少年時代は熱心なクリスチャンだった(初期遺稿断片)。
しかし、彼の仏教批判も、一面ではすべて当たっている。そのことは、むしろ、彼
の仏教に対する偏らない深い理解を示すものである。
「アンチキリスト」において、彼はキリスト教に対する仏教の「優越を認めた」
のではない。前者を断罪、否定し、後者を賞賛、肯定しているのである。
彼のキリスト教批判の価値は、現在のキリスト教の状況に鑑みて判断されるべき
である。
318 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 21:30:43
>>317 ここに来て「断罪」なんて語を軽々しく使えるとは
ほんとニーチェの著書の上っ面だけの理解としか思えんわ。
319 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 21:43:31
>>317 はいはい、それじゃあ『道徳の系譜』あたりから話をしようか
それでは、このテクスト群、この三論文の中のどこに仏教肯定がある訳ですか?
次に、中期の『悦ばしき知識』や『ツァラトストゥラ』のどこに仏教肯定があるんですか?
それから、『アンチクライスト』は論争的な著作であることを忘れてはならない
論争においてまま見られる手法―ひとつを持ち上げることでもうひとつを低く見せる―、
仏教を高く評価することで相対的にキリスト教を引き下げるという手法が採られただけであって
かのテクストは仏教を礼讃しているわけではない
それから、君の読んだ仏教のテクストはなに?
そのどこの部分がニーチェと結び付くのか、テクストの著者・出版社・引用ページを添えて書いてくれないかな
こっちは根拠となるテクストを晒して、君にそのテクストの批判的な読みを許しているのに
それに対して君は根拠となるテクストを晒さず、自分の脳内だけで話を進め
こちらの批判的なテクストリーディングを許していない状態なんだけど、こういうのはアンフェアじゃない
最後に、まぁ答える必要もないけど、君が仏教をこれほどまで持ち上げなくてはいけない理由は?
(「キリスト教は邪教です!」のスレにも書き込んでいるようだけど)
320 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 21:53:08
>>44 おまいは一般的な、ではなくニーチェの言うところのキリスト教者。
321 :
44:2005/08/08(月) 22:17:18
>>319 文献学者ではないので、「テクストごっこ」には興味がありません。中核的
思想を考えることが重要。テクストには、中核思想の把握を妨げる瑣末なこと
も沢山書かれている筈です。
中核思想であれば、入門書数冊で十分。
仏教を持ち上げているのではなく、キリスト教批判をしているのです。仏教
や他の宗教一般の批判も、いくらでも出来ますよ。
322 :
考える名無しさん:2005/08/08(月) 22:44:47
>>321 話にならないな
君のやっていることは相手に批判を許さない独断論、悪い意味で宗教でしかない
「テクストごっこ」という批判は結構だが、論拠となるテクストをこちらに見せないのは
聖書をひたすらに信者の目から隠した中世のカトリックがやったことそのものだよ
323 :
166:2005/08/08(月) 23:18:07
>>321,322
それ以前に著者やメッセージではなくテクストがある、というのが
現代の解釈学の基本なんだが。
44はその中核思想をニーチェのどの主張から受け取ったのか示すべき。
もしできないならここはニーチェスレだから、
自分の主張したいことのスレたててそっちでやってくれ。
すぐ流れると思うが。
324 :
44:2005/08/09(火) 00:05:12
>>322 入門書は、専門の学者がテクストの精読の結果に基き、自分の解釈も
加えて書いたもの。仏教の入門書は、書店にあふれています。但し、
数冊を読み比べることが必要。中核思想は自ずから浮かび上がります。
中世のカトリック信者たちも、聖職者の説教を通じてイエスの教えの
中心思想は理解できたと思いますよ。ルターが、「聖書のみ」「信仰のみ」
などと言って、聖書を印刷してばらまき、皆が勝手に読み、細部の言葉に
拘泥して解釈しはじめたから、キリスト教は却っておかしくなった。ルター
の「改革」お蔭で、どれほどの紛争が発生するようになったかという、歴史
上の事実を直視する必要があります。
>>323 専ら書かれた言葉だけに依存し、重箱の隅をつつくように瑣末な言葉までも
追い求め、結局は大きな流れや原理を見失うという、解釈学の問題点につい
ても、十分に警戒する必要がある。
少なくとも、アンチクリストは全文を精読したし、入門書数冊や哲学史にも
ざっと目を通しているので、彼の思想の全体像は判りますよ。細部に囚われず、
常に著者の言わんとすることの根本を、現実の人間や社会と照合しながら、
自分の頭で考えることが最も大切。本に読まれてはなりません。孔子もそう
言ってるでしょ。著者が何を言ってるかも大切だが、自分がどう受止め、批
判し、改良し、血肉とするかのほうが、遥かに重要なことなのです。要は他
人の思想の操り人形や奴隷にならないことです。
325 :
166:2005/08/09(火) 00:21:21
だから、どこから中核思想をえたの?
アンチクリストは現代語訳読んだだけだけど仏教をべた褒めした下りは見あたらない。
(キリスト教より仏教のほうが遙かにマシとか書いてあったような気がする)
中核思想がニーチェに由来するもので無いならスレ違いと考えるのが妥当。
血肉の思想だからってスレ違いやっていいの?
326 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 00:30:02
旅行から帰ってきて、えらいスレッド伸びてるなーと思って、見てみたら、やっぱりそうだよな…(´・ω・`)
327 :
44:2005/08/09(火) 00:32:20
>>325 まず、テクストを精読しましょう(笑)。「アンチクリスト」(「反キリスト
者」、原佑訳、ちくま学芸文庫)の、20から23まで(188頁から195
頁)。
328 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 00:44:54
「少なくとも、アンチクリストは全文を精読したし、入門書数冊や哲学史にも
ざっと目を通しているので、彼の思想の全体像は判りますよ。」
そうなんだーってさ、166さん
まぁ、学部一年生でもこんな恥ずかしい戯言を平然と語るヤシはまずいないんだが・・・
中核思想もいいけど、ニーチェのテクストを読む楽しみは、たまにこいつアホじゃないのかって
記述がボロボロ出てくるところなんだよな
「それが君の健康に必要なら、さぁどうぞ!それになんのことがあろう!だが、そのために
騒ぎ立てるな!生野菜のことを熱狂的に語るのは、笑うべきことだ、――そんなことをする者は
あまり頭が良くないのだ!」
(F・ニーチェ『生成の無垢 上巻』 原佑他訳 P530)
これを読んだ時は、いやー、爆笑したね
この断章は入門書では絶対紹介されないけどね
「生野菜のことを熱狂的に語るのは、笑うべきことだ」ってサイコ―じゃない
読書においても、楽しむこと、軽やかであることを忘れたらいかんよ
読書は気晴らしっていうのが、ニーチェの考えなんだしさ
329 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 00:48:49
>「それが君の健康に必要なら、さぁどうぞ!それになんのことがあろう!だが、そのために
>騒ぎ立てるな!生野菜のことを熱狂的に語るのは、笑うべきことだ、――そんなことをする者は
>あまり頭が良くないのだ!」
>(F・ニーチェ『生成の無垢 上巻』 原佑他訳 P530)
ワロタw
330 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 00:53:11
>読書は気晴らしっていうのが、ニーチェの考えなんだしさ
だったら訓胡学やらないで入門書で気晴らしでもいいじゃん。
44もバカだけどスノッブはもっとバカだねえ
331 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 00:54:09
「この人を見よ」の目次を見たときはおったまげたな
332 :
44:2005/08/09(火) 01:01:39
>>329 「生野菜のことを熱狂的に語っている」のが、まさに現在の哲学者の姿です。
ニーチェは、西洋哲学全体を、抜本から批判していることをお忘れなく。
333 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 01:07:23
「ニーチェのことを熱狂的に語っている」のがおまいらです。
>>327 うーん、とりあえずテクストが今手元にないので明日当たってみるが、
アンチクリストの188に仏教を全肯定する内容がかいてある、
でも316によると権力への意志の165ページでは仏教は
「疲労した者の快楽主義」と批判されてるわけだ。
ここに矛盾が発生するわけだが、317は「最晩年の作品」だから正しい、と。
権力への意志は遺稿だからいつ書かれたかわからんぞ?
権力への意志の内容がニーチェの真意を反映しているか問題はあるが、
それなら319の言うようにアンチクリストは論争的な著作だったりする訳だ。
むしろどっちをとるのが妥当か議論すればいいのだが、
44は321で「テクストごっこ」と逃げ口上。どうしたもんかね。
>>332 >ニーチェは、西洋哲学全体を、抜本から批判していることをお忘れなく。
スピノザは? 少なくとも「西洋哲学だからダメ」という頭のよくない批判ではないはず。
335 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 01:19:49
>>330 まぁ、スノッブというかバカというかフリークだね、そうスーパーフリーク!
アナリスクはやらないけど、アナリシスでカタルシスを覚えるスーパーフリーク!
「読書とは私を、ほかでもない、私一流の本気から休養させてくれるものなのだ」
(F・ニーチェ 『この人を見よ』 西尾幹ニ 新潮文庫 P49)
確かに、ニーチェにとっては読書は気晴らしなんだけど、
「さあ、来るがよい!君たち楽しい書物よ。才知に富んだ、聡明な書物よ!」(同掲書 P50)と語り、
その上「・・・私はパスカルを読むのではなく、愛している」(同掲書 P51)とさえ語るフリークな訳さ
「愛してる」って、おいおいヒゲのおっさーんヤバイよって感じだろ
まぁ、もともと24かそこらでバーゼル大学の文献学教授になったくらいだからさ
ニーチェもまた極度の書物フリークなんだよ
それに、あの嫌みったらしいまでの古典の引用とか見ても分かるように
あいつ自身がスノッブ中のスノッブだと思うがね
336 :
44:2005/08/09(火) 02:27:43
>>334 >アンチクリストは論争的な著作だったりする訳だ。
キリスト教社会において、あれほどの徹底的なキリスト教批判をやれば、
信者たちの反感を買うのは当たり前。「論争的」というのは、学問上では
なく、専ら宗教上のものでしょう。西洋哲学者のほとんどは、すでにキリ
スト教に汚染されている筈ですから。ニーチェが殺されなかったのが不思
議な位です。イエスだけは評価したからでしょうか。ニーチェの自己防衛
策かも。
>スピノザは?
彼は、ニーチェが高く評価した、ほとんど唯一の西洋哲学者ではないですか。
その理由は自明でしょう。スピノザは、あるがままの自然そのものを「神」
とした。「神=自然」なら、自然だけで十分で、「神」はもはや不要だから、
その不要な「神」を取り除いたのがニーチェです。
>>313 遅レスで済まないが、反ヘーゲル主義のためにニーチェを担ぎ出している文脈と、
>>312での俺の疑問を混同してないかい?
ちなみに俺にはヘーゲルの「論理」はさっぱり分からない。
「花は蕾を否定し、実は花を否定する」? なんじゃ、こりゃ?
蕾→花→実は現象として契機関係にあるだけで、原因−結果の関係にあるわけではないだろ。
例えば花の原因は、花を構成する細胞や、養分や、周囲の気象であって、蕾ではない。
科学的に把握した場合と平行線をたどり云々というレベル以前だという気がする。
338 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:41:02
>>336 ・スピノザの「人格神」批判は、神そのものを不要としているわけではない。
・スピノザにおいても、自然は能産的自然と所産的自然という相に分けて考えられている。
・スピノザは宗教心(迷信ではなく)を持つことが「道徳上」好ましいとする立場をとっている。
・スピノザが行った聖書批判のポイントは、「聖書(あるいは宗教)を真理性という観点から
捉えてはならない」ということである。
以上、スピノザとニーチェを表面的に短絡させるのは浅はかであろう。
339 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:42:52
>彼は、ニーチェが高く評価した、ほとんど唯一の西洋哲学者ではないですか。
ニーチェがスピノザを読んで評価したという実証的な文献はあるのかい?
彼がはまったのはショーペンハウエルだったはずだが。
>44は入門書と超訳を読んだだけで西洋哲学全体を敵に回して大暴れできる気でいるだけでしょ
そういう気にさせる力みたいなもんは確かにあるよ、ニーチェの文章には。
「そういう気」にさせてくれるだけで、実際には歯が立たないんだけど。
ニーチェが自分で書いたもののなかにあるに決まってるでしょ?
実証的な文献もへったくれもないよ。
342 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:48:10
>ニーチェが自分で書いたもののなかにあるに決まってるでしょ?
決まってるわけね。どの文章?
343 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:50:56
そんなもの自分で探せよ。ニーチェがスピノザを評価していたのは
有名すぎるくらい有名な話だ。君がしらないだけ。
344 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:53:25
>>343 「悦ばしき知識」333でスピノザに言及してるけどさ、この「評価」は、肯定的な
評価だと思うかい?ん?
道徳の系譜では肯定的に評価していたな。
346 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:57:44
>>345 「道徳の系譜」第1章5節では思いっきり批判してますが?
347 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 02:59:46
2章25節でも批判してるな。
>>336での憶測だけの文章がいかにインチキなものか、よく分かったよ。
348 :
44:2005/08/09(火) 03:03:25
>>338 >スピノザの「人格神」批判は、神そのものを不要としているわけではない。
スピノザにとっては、外在の神ではなく、あるがままの自然そのものが神なの
だから、自然即神が必要なのは当たり前。その意味で、彼は最も敬虔な宗教者
である。事実彼は「有徳な無神論者」として、信者たちからも尊敬された。
ニーチェがスピノザに対して、自己の優れた先駆者としての感情を抱いていた
のは事実。
349 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:04:50
>>346-347の例は「善悪の彼岸」での章と節だった。すまん。
「道徳の系譜」ではどちらかといえば肯定的評価だ。
350 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:07:42
>ニーチェがスピノザに対して、自己の優れた先駆者としての感情を抱いていた
>のは事実。
だから、ニーチェがスピノザを「自分の先駆者」だと考えていたという「事実」は
どこから分かるんだよ?
そういうテキストをあげろといっている。
351 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:10:37
>>348 だからよ、スピノザは「神は不要だ」とは全く述べていない。
まず第一に神を認識しなければ何も認識できないといっている。
それはあるがままの自然そのものを認識することとは違うぞ。
352 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:12:24
ドゥルーズの戦略にのっかって、スピノザをニーチェに還元して理解した気になる奴が
増えている。問題が多い。
353 :
44:2005/08/09(火) 03:23:45
>>350 取り敢えずは「超訳」にはっきり書いてある。超訳がテキストを反映して
いないと言うのなら、自分でその個所を指摘して、訳者に文句を言ってくれ。
思想全体から考えれば、ニーチェがスピノザに親近感を抱くのは当然ではな
いだろうか。テキスト、テキストと叫ばないで、少しは自分の頭で想像力を
働かせたらどうか。英米人は、頭カチカチで柔軟性や創造性のない人間を、
"He lacks imagination."という。
354 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:32:43
>>353 超訳でない、まともな「アンチクリスト」では、一箇所だけ、序文17節でスピノザの名前が
でてくるが、とても肯定的評価をしてるとはいえないが。
超訳では「スピノザこそ私の先駆者である!」とか書いてるのか?
笑っちゃうんだけど。
超訳をさらに超えて、「捏造」だろ。
355 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:38:40
>>353 スピノザは理性的認識や経験的認識に劣る、最低次元の認識を、imaginatio と呼んでいたっけ。
「妄想」を他人に押し付けるくらいなら、イマギナチオーを欠いているのはむしろ誇らしいな。
356 :
44:2005/08/09(火) 03:46:47
哲学は、精密機械ではない。思考の基盤次第で、また時と場合と気分によっ
て、百人百様。また、言語自体の表現能力は、極めて限られている。
その思考の基盤を思考することが、哲学の本来の役目の筈。思考など、基盤
次第でどうにでも変わるのだから。ニーチェは、その基盤自体を思考した
人だと思う。
いずれにせよ、哲学とは、生活者の生活感情に理屈をつけただけのものであり、
また、そうでなければ意味がない。
テキスト、テキストというが、そのテキストの信憑性はどうか。著者の
真意を完全に反映しているという保証があるか。著者の考え違いや、間違い
や、その後に考えを変えた可能性はないか。編集者による改竄はないか。
聖書という理由だけで、その一字一句を無謬だと信じこむ福音派と同じこと
になるよ。
357 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 03:53:05
>>356 >哲学は、精密機械ではない。思考の基盤次第で、また時と場合と気分によっ
>て、百人百様。また、言語自体の表現能力は、極めて限られている。
哲学を、世界観や思想と混同するなよ。百人百様なままでほったらかすのは決して哲学ではない。
>いずれにせよ、哲学とは、生活者の生活感情に理屈をつけただけのものであり、
>また、そうでなければ意味がない。
感情に理屈をつけるのは決して哲学の仕事ではない。感情では届かない場所で思考するのが哲学。
>テキスト、テキストというが、そのテキストの信憑性はどうか。著者の
>真意を完全に反映しているという保証があるか。著者の考え違いや、間違い
>や、その後に考えを変えた可能性はないか。編集者による改竄はないか。
そういうことは編集者による改竄があったことを実証してから言え。
てめーの思い込みだけで、テキストに書いてないことを著者の思想に押し付けるのは
極めて悪質。
358 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 04:01:22
>44
君がニーチェの超訳に心酔していることは十分に伝わった。
ただしニーチェを論じる能力がないことも十分に伝わった。
心酔していること自体には何も文句はない。
ただし論じようとするなら多くの強力な批判にさらされるだろう。
心酔している幸せな感情を害されたくないのなら、もう書き込まないほうがいい。
359 :
門外漢:2005/08/09(火) 04:04:06
う〜む。どうやら、ニーチェはスピノザについて微妙な言い回しを
しているらしいね。門外漢のために、問題になっている部分を引用
してもらえないだろうか?
360 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 04:08:19
え?まさか、手許にテキストがない状態で書き込みしてる人なんているの?
ニーチェの翻訳全集が文庫本で買えるこの時代に?
361 :
門外漢:2005/08/09(火) 04:12:45
・・そうか。悪かったよ。少しくらい門外漢に親切にしてくれても
バチは当たらないのに。
362 :
44:2005/08/09(火) 04:40:18
>>354 超訳ではなくて、「フランツ・オーヴァーべク宛1881年7月30日付
書簡」かな。
「僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者だろう!僕はほとんどスピノザ
を知らなかった。僕がいま彼をもとめたということは、ひとつの「本能的な
行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、−−認識をもっとも力づよい情熱と
するーー僕の傾向にそっくりだというだけでない。彼の説の五つの主要な点に、
僕はまた僕の姿をみたのだ。このもっとも異常な、もっとも孤独な思想は、ま
さにこの点で僕にもっとも近いのだ(以下略)。」
363 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 05:38:51
>>362 その略以下も書いてやろうか?
「彼は意思の自由、目的論、道徳的な世界秩序、非利己的なもの、そして悪を否定する。
文句なしに相違点も存在するにしろ、それらは時代や文化、学問の違いにむしろ帰せられる。
全体として、僕の孤独、まるでとても高い山にいるようにしばしば僕の呼吸を困難にし、
脈拍を早める僕の孤独は、すくなくとも二人の孤独なのだ。」
スピノザにおいては、必然性という概念でもって、現実を、神に由来するもの・隅々まで
合理的で神聖なものと捉えている。
ニーチェは、必然性を、「理解不可能な運命」であり、あらゆる合理的根拠を欠いた力、
あらゆる生物にのしかかる重荷として捉えている。で、わけがわからなくても、この重荷を
愛して、重荷だと感じなくなればいいという態度だろ。
「理性的認識」に対する態度がまるで異なる両者を、表面上の主張の類似性だけで
一緒くたにして考えてはならない(ニーチェ自身が書簡で一時の熱狂のあまりに書いているごとく)。
ニーチェは別の場所ではスピノザの体系を「哲学的隠遁者の概念の蜘蛛の巣張り」と呼んで
揶揄しているが、理性的認識をどこまで徹底できるかを追及するスピノザとは肌が合わない
のだろう。
364 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 06:03:05
ニーチェのテクストばかりこねくり回していて超人になれますかな
365 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 06:39:02
超人になれなくても・・
ニーチェ何でもウンチク博士にはなれますよ。
ニーチェ読者のみなさんは、ヒルの脳髄を研究しています。
366 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 06:54:06
367 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 06:55:45
>>367 :(*):2005/08/08(月) 23:06:11 ID:gkXbPPYr
> 水野 弘元「tathAgata(如来)の意義用法」『印度学仏教学研究』, 9(5-1) 1957
> に明らかですよ。ジャイナだけでなく、マハーバーラタ等にも出てくることが書かれている。
レスありがとうございます。
http://forum.nifty.com/fworld/indonesia/candi/candi050.htm > ◆マハーバーラタについて
> 古代インドの叙事詩(サンスクリット語)で成立時期は紀元前400年〜紀元後200年ころとされています。
>(長い間にわたって、次々とお話が追加されていったらしい)
とあります。
仏教において如来という言葉が使用された以降に成文化したものではないでしょうか?
> 水野 弘元「tathAgata(如来)の意義用法」『印度学仏教学研究』, 9(5-1) 1957
において、
tathAgata(如来)の由来に関しては
何か言及されていなかったでしょうか?
;' ':;,, ,;'':;,
;' ':;,.,.,.,.,.,,,;' ';,
,:' ::::::::、
,:' / \ ::::::::',
:' ● ● :::::i.
i ''' (__人_) '''' :::::i キリスト教さえ滅びれば、あの子と
: ::::::::::i お付き合いできるのに
`:,、 :::::::::: / こうなったら仏教信者になって超人になってやる
,:' : ::::::::::::`:、
,:' : : ::::::::::`:、
>「それが君の健康に必要なら、さぁどうぞ!それになんのことがあろう!だが、そのために
>騒ぎ立てるな!生野菜のことを熱狂的に語るのは、笑うべきことだ、――そんなことをする者は
>あまり頭が良くないのだ!」
要するに哲学なんかやめろって言いたいんだなニーチェは!
370 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 11:49:50
仏教徒ウザ杉!!
ニーチェは『悲劇の誕生』で既に読者に「インドでは無くギリシャに向かえ」
と呼びかけているのに。
仏教を誉めているのだって、「無への帰滅」を説く仏教はキリスト教と比較
して、より正直な点でマシだと言っているだけ。
俺様の見解によると、仏教などはバラモン教の百姓向けバージョンに過ぎん。
バラモン今日ってどんな宗教?
仏教は完成度高い宗教だろ
372 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 12:15:19
>>337 「例えば花の原因は、花を構成する細胞や、養分や、周囲の気象であって、蕾ではない。」
となると、花の原因は無数に存在することになるよね
つまり、花の原因を記述する単純な命題は存在しない
それどころか、花の単純で絶対的な記述もまた
カントはあくまで因果というやつを、思惟の、認識のア・プリオリな形式、カテゴリーまでに限定した
なぜなら、因果を思弁的に論じる続けていくと存在根拠にまで遡ってしまうから
そう、アリストテレスやデカルトやスピノザと同様に、超自然的な(一者とか神)に行き着いてしまう
カントの批判哲学においては、そう見えることは、その因果はカテゴリーによって説明するだろうから
モノの側の「起生因」を因果とは認めないだろうね
また、ヘーゲルの因果は、連綿と繋がった論弁の内ではじめて現れる
ただし、現れる因果は一つではなく、多様である
「タネを撒いたから、この花は咲いている」と因果を認識する者もいれば
花を生物学・植物学の知識からその因果を説明する者もいるし
生物もまた化学だと考え、その考えに基づいて因果を語る者もいる
そして、これらのどれも意味ある因果の説明である
しかし、これらの記述が意味を露呈するのは、それぞれ異なった意味の連綿
つまりそれぞれの論弁のうちであり、それが同じ記号であっても同じ意味が現れる訳ではない
逆説的な話だが、因果とは意味のつながりにおける意味のつながり方である
ヘーゲルは弁証法的に止揚された認識とそうでない認識に差を認めるので
認識されたものの記述もまた多様なものとなる
まぁ、そういう訳なのさ
そう、それから、できれば専攻を教えてもらえると話しやすい
(こちらは現代仏哲、バタイユやレヴィナスが専門)
373 :
44:2005/08/09(火) 12:21:55
>>363 スピノザが、「神概念」という殻をまだ身につけているという点で、ニーチェ
の肌に合わなかったのだろう。これは、時代や環境の差で致し方ないこと。
ニーチェは、スピノザのいわば「改良型」なのである。しかし、「人間を含
む自然そのもの」を思考の基盤としている点で、ニーチェが親和性を感じる
西洋哲学者が、スピノザの他にいるだろうか。
西洋哲学は、一体何を思考の基盤としているのか。思考など、基盤次第でどう
にでも変わりうるのである。
哲学者は、重箱の隅をつつくようなテキストの詮索はいい加減にして、自分
自身の頭による思考にもっと多くの時間を費やすべきだろう。他人が何を言
っていようとドーでもよいこと。重要なのは、現実に立脚して、他人の見解
を批判し、乗り越え、自分自身の思考を築き上げることではないだろうか。
それが、学問なのである。
374 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 12:40:36
>>372 >そう、アリストテレスやデカルトやスピノザと同様に、超自然的な(一者とか神)に行き着いてしまう
デカルトやスピノザは、近接原因を重視する近代科学の子であって、無限に原因を
遡った果てに神を見出すという手法はとらない。
デカルトならば有限者のうちの無限の観念の原因として直接に神を見出すし、
スピノザならば自己原因としての実体についての命題を展開しながら、それを
神と同一視するだろう。
>となると、花の原因は無数に存在することになるよね
そう、花という一現象は周囲の無数の原因から成り立った結果なのであって、
断じて「蕾の自己否定」などではない。
375 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 12:49:45
>>373 >しかし、「人間を含む自然そのもの」を思考の基盤としている点で、ニーチェが親和性を感じる
>西洋哲学者が、スピノザの他にいるだろうか。
スピノザは「自然」を見出したのは、徹底した合理主義・理性主義の結果。
19世紀のドイツ人のように、はじめからロマンティックな「自然」について思いをめぐらす
という思想環境のもとで自然を考えるのとはわけが違う。ニーチェは屈折したロマン主義者だよ。
表面的な主張の類似性にばかり気をとられてないで、お前の好きな「思考の基盤」とやらを
きちんと考えたらどうだ? それは、テーゼとして仕上がった部分ばかりを追いかけてないて
証明や論理展開を丹念に読んでいくということだ。
376 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 13:01:15
>>373 44=134だったな
>>134 >無人島で生きるにしても、それまでに先人を含む社会から得た種々の智恵が
必要でしょう。
自らの頭で考えるにしても、それまでに先人を・・・(ry
重箱の隅をつつくようなテキスト詮索は必要だぞ。
不必要にひけらかさなければいいだけ。
詮索されて都合が悪い者が、その必要性を否定する。
今、ここでテキスト詮索されてる奴みたいにな。
377 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 13:08:07
>>374 うーん、参ったな
カントとデカルト・スピノザらの差異を見て貰えないとどうしようもないんだよな
近接原因を重視しているとは言え、その探求は、思弁は神・一者に行き着いてしまうよね
つまり、彼らはカントと違って理性の限界を見極めてないの
でも、カントは、人間が認識できる因果を認識の形式、カテゴリーの域に留めるよね
あくまでモノの存在理由には手を出さないの
ね、そこは違うよね
それから、ヘーゲルに関してだけど、確かにこっちの説明がまずかったと思う
弁証法的世界観においては、花は花として単独には存在しないってことを
さきのレスで言いたかったんだけど、弁証法の理解については大丈夫だよね?
さておき、弁証法的世界観からすると、花の存在、花の意味は花「ではない」何かを前提とするわけ
(ロゴス=存在の原理を見て取ってね)
だから、花は蕾によって否定されていると言えるの(同時に肯定されてもいるんだけどね)
378 :
44:2005/08/09(火) 13:36:41
>>375 「屈折したロマン主義者」とは、えらく抽象的で曖昧な言葉ですね。具体的な
定義が必要。哲学者は、自分でも具体的な意味のわからない抽象語を使っては
ならない。
西洋哲学における「証明や論理展開」の基準は何?自然科学では、厳然として
存在する自然という確固たる基準が存在するが、哲学でそれに相当するものは
何?哲学における「真理性」の検証は、どうやって行う?
西洋哲学こそ、「他人がテーゼとして仕上げた」部分ばかりを追いかけている
「観念の遊戯」にしか思えないが。それこそが、まさにニーチェによる批判の
対象ではないのか。
379 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 14:13:28
>>377 カント以前を一まとまりにしてしまうというのはどうなんでしょ?
例えば、デカルトは永遠真理創造説でもって、「神は1+1が2でないでない世界を作りえた」
として、合理性を神の意思に根拠付けようとするが、スピノザの場合は、そのような世界は
合理的でない故に神をそれをなしえないとしている。徹底的に理性的な神。
俺はカントの理性に対する態度には懐疑的。かれは「帝国の中の帝国」を作り、なおかつ
その帝国の統治権を定めようとした人間に思える。
>までモノの存在理由には手を出さないの
ただし、現象の存在理由については徹底的に追求し、それを人間の能力に還元してる
わけだけど、そこで自然と人間を切り離したのか、それでもつながっているのか、
つながっているとしたらどのようにつながっているのかが、どうもよく分からない。
380 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 14:18:03
>>378 ドイツロマン主義の伝統は知ってるか?
「理性と科学」を重視し「宗教批判」に向かっていった啓蒙主義に反対して
「歴史と自然と直観」を重視し新しい宗教的態度を追求した風潮だ。
381 :
44:2005/08/09(火) 14:35:53
>>380 ニーチェが、「生存本能を有する生物としての人間」という唯一の普遍を
思考の基盤とすることのどこが「宗教的態度」?頭のてっぺんからの、現実
上の根拠皆無な観念を基盤とする宗教や哲学とは対極的だと思うが。ニーチェ
による宗教や哲学批判のポイントは、まさにそこにある。
382 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 14:48:05
>>379 内容・形式ともにとてもいいレスだね
ただ人のレスを批判するだけでなく、自分の立場を明確にしてくれるとこちらもレスしやすい
君の指摘するとおり、カント以前を全部ひっくるめるのはちょっとやりすぎだね
ただ、自分は、カントの批判哲学は西洋哲学史にとってそれくらい重大なものだと考えている
スピノザに関してだが、彼の神は理性的過ぎると思うんだよね
というのは、その神は「存在のために原因を持たない存在」だったよね
これって人間の理性がただしいとかまちがってるとか判断できるリミットを超えちゃってない?
そう、スピノザの体系は非常に理性的なんだけど
理性的判断を超えた直観、超理性がないと巧く機能しないんだよね
うーん、それからカントに対する手厳しい意見だけど、まぁそれはその通りだと思うよ
でも、現象というか認識というかカテゴリーつうかは、自然と人間の関係の構造だと思うんだよね
ある意味では切り離されてもいるし、また見方を変えれば切り離されてもいない
現象や認識は、人間の理性と自然との関わりだからね
でも、あまりにも禁欲的に、抽象的に、はっきり言えないところは切り捨てちゃうから
自然と人間を切り離しているようにも見えるよね
あー、ニーチェスレなのにごめんなーみんな
383 :
44:2005/08/09(火) 15:04:00
>>382 現実上の根拠はゼロの、無意味な観念の遊戯。ニーチェのカント批判に
答えてね。
ニーチェによる哲学批判を逃れるために必死なようだが、永久に逃れられ
ないよ。
385 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 15:06:46
>>381 あんたの決まり文句の、「生存本能を有する生物としての人間という唯一の普遍を
思考の基盤」とか何とかいうやつだけどさ、
ニーチェがそう述べていることはどのテクストを読めば書いてあるのかな?
386 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 15:09:21
>>383 ニーチェはカントを「読んでない」だろ。
読んでいたら、超人思想でカントの超越論的統覚とそっくりな図式を持ち出しながら
それに気付かず能天気にカント批判してご満悦という態度をとるわけがない。
>>386 フーコーかデリダに似たようなことを言われてたような気がする。
ギリシャ以外の哲学教養はかなりお粗末で、特にカントが全然読めてないって。
388 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 15:13:50
389 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 15:15:46
>>382 スピノザの神は「存在のために原因をもたない存在」ではなく、
「存在のために他を必要としない自己原因」。
この「自己原因」というとんでもない概念がスピノザの神概念のアルファでオメガ。
理性的過ぎるというが、そもそも理性の極限に神があるのだから・・。
ニーチェについて言えば、彼は有限な個々人が「自己原因」足りうるし、それを
目指すべきだと主張している点で、とんでもなく傲慢な思想家であると思う。
390 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 15:22:38
>>387 >ギリシャ以外の哲学教養はかなりお粗末で、特にカントが全然読めてないって。
これはフーコーが読めてないのではなく、ニーチェが読めてないという指摘だよね?
カントの「人間学」の翻訳を博士論文の副論文にしていたフーコーについてではないよね?
>>390 もともとどっちが話してたのかも忘れたから、あれだけど、ニーチェがってこと。
訂正すると、ギリシャ以降はショーペンハウアーだけはちゃんと読み込んでるといってた。
んで、やっぱりニーチェはカントに共通するところがかなりあるって感じ。
392 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 16:11:32
あんなに頭いいのにカント読めなかったのか
393 :
44:2005/08/09(火) 16:11:44
>>389 同意。スピノザにとっては、理性の働きそのものも「神」であり、必然
なのだから、「理性的過ぎる」などと言っても意味がない。
もっとも、人間は本質的に共同体なのだから、その理性も他者とほぼ共通で
あることが必要。さもなければ、共同体からの「はみ出し」、即ち狂気である。
ニーチェが「傲慢な思想家」というのは当たらない。むしろ彼は、人間の
限界を自覚し、傲慢不遜にも超越的な存在など求めない、謙虚な、かつ人間
に対する大いなる愛を備えた人間だと思う。
>>392 読めてたと思うよ。
ニーチェの思想は地に足のついた思想のはずだから、
理性の限界なんかは(自覚してても)必要としなかったんだと思う。
マクロの物理学(現実問題)に不確定性原理(理性の限界)を
持ち込んでも仕方がない。みたいな。
ただ、理性の限界を自覚しておかないと、
また新たな神を生み出すハメにはなるだろうけど、
ニーチェにはその点の自覚はあったはず。
だから"あえて"触れなかったんだと思う。
テクスト内からの根拠は示せないけどね。
395 :
44:2005/08/09(火) 17:23:25
>>385 「生の欲求」が、ニーチェの思想全体に流れる基本テーマであることも
判らないの。ハッキリ言ってなくても、ニーチェの著作のどこを読んでも
理解できるはずだが。
テキスト主義の弊害きわまれリだね。著者の真意とは、言葉ではなく、その
内容のことだよ。
それを勝手読みと言います。
著者の真意なんてものはニーチェが死んでしまった以上不明。
397 :
44:2005/08/09(火) 23:28:40
>>396 ならば、すべての西洋哲学者は、死んだ哲学者の本を、あたかも著者の真意の如く
読んだり引用したりすべきではない。
398 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:00:26
ここまでくると>44は荒らしだよな。
399 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:01:54
400 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:03:03
哲学なんて面白いかもしれないが所詮言葉遊びだ。真意だの何だのちゃんちゃらおかしいわ。
401 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:04:31
>>398 そうだな
卑しくもここは学問板だから、テクスト読まずはスルーだろ
雑談じゃないんだし、一応「ニーチェ」スレなんだから
44のレスはこれ以降スルーするのが無難だな
ここで>44の主張をまとめます
「おれが一番ニーチェの本質を理解している。テクストのどの部分にも
俺が考えるとおりのことが書いてあるはずだ。俺の考える本質が理解できない
奴は西洋哲学かぶれの馬鹿ども。おれのニーチェに失礼なこと言うな」
以後スルーということで
403 :
44:2005/08/10(水) 00:12:09
>>401 あなたらは、テクスト読んでも「理解」してるの?ニーチェスレなのに、彼の
基本テーマさえ理解できていないではないか。
404 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:13:16
科学=ガチ
哲学=言葉遊び
科学>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>哲学
405 :
166:2005/08/10(水) 00:20:23
平日だってのにみんな元気だなぁ……
夏休みか? うらやましい……
>>327 本屋でアンチクリストの20だけ立ち読みしてきたけど、
キリスト教も仏教もデカダンス宗教って内容だったぞ。
やっぱり仏教とキリスト教は批判の程度の差だと思われ。
315から議論やり直しw
406 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:21:57
>>402 それに加えて
44「俺は『アンチクライスト』だけは邦訳で精読した。他には入門書数冊を読んだ。
な、だから、俺は自分がニーチェのすべてを理解していると言えるんだ。
えっ、原典なんて・・・ありゃあおかずですよ。問題は中核思想ですよ
原典は中核思想を見る妨げになるんですよ(以下ループ)」
407 :
44:2005/08/10(水) 00:29:46
>>405 宗教は、みなデカダンスに決まってるじゃないか。
立ち読みじゃなくてちゃんと買えよ。内容の割にはモッタイナイほど安い本
だから。
それと、全文のテクストを必ず読んでね(笑)。
408 :
166:2005/08/10(水) 00:32:45
>>407 デカダンスというのが批判じゃないとでも? 言い逃れがうまいねぇ(笑)
409 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:36:41
410 :
44:2005/08/10(水) 00:46:48
>>408 「ニーチェの仏教批判は一面では当たってる」と言ってるだろ。前レス読め。
>>409 「あなたの」理解によるニーチェの基本テーマを論じて下さい。また、彼の
西洋哲学批判についてもね。ここは彼の「思想」を論じるスレですよ。文献
学ではありません。
411 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:47:22
>44が夏厨だと思ってる人がいたとしたら大間違い。
こいつは哲学板に常駐して人生哲学・マイ哲学を垂れ流している
たちの悪い引きこもりだよ。
412 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:48:55
>>410 ニーチェの思想は君の頭の中よりも、原典テキストのほうに書いてあるもんですから、すいませんね。
どっか行って下さい。
413 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:52:41
マイ哲学か。どんなしょうもない間違いでも必ず再発見されるから、
歴史に学ぶのは重要だというのがよくわかるね。
>>411 ひかるのことを言ってるのかもしれないが、彼よりは上では。
目くそ鼻くそレベルだけど。
>>412 そういうこと書くと、悪しき形而上学とか言い出しそうなレベルっぽい。
415 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:53:53
>44
よかったじゃん。「ほんとうのこと」をズバズバ言って、皆に嫌われて、孤独になれて。
君の大好きなニーチェ様のような生き様だよ。最高の信者だと褒めてくれるよ、ニーチェ様も。
416 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:54:04
ニーチェくらい疑えないと、本物の哲学者じゃないと思う。
疑うのが哲学者の仕事なんだから。
417 :
44:2005/08/10(水) 00:54:26
>>411 あなたは哲学やってるのに、自分の人生哲学・マイ哲学もまだ出来ていないの。
まずテクスト読みと「理解」から始めてね(笑)。
それと、あなたの哲学とは「感情論」のことなの?
418 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:54:53
はいはい、中核中核wxテツパイプボムww
>44御託はいいからさっさと飛べよwwチョウジントリニンゲン
419 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:54:57
原典読まないで理解したのかw
420 :
44:2005/08/10(水) 00:57:04
>>416 ニーチェの本質的批判もやったではないか。前レス読め。
421 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 00:58:00
哲学やってりゃ立派な人生哲学の持ち主だと思ってるド素人がいるようですね。
こういう人間が、勝手に哲学に憧れて、自分勝手な哲学者解釈をして、
挙句の果てに真面目な研究者を馬鹿にするようになるんだな。
てめーの生き方くらい、哲学なんぞに頼らんでも決めるわ
422 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:00:38
真面目な研究者を馬鹿にするって・・・
そりゃこんな糞の役にも立たないもんを真面目に
研究してたら馬鹿にするでしょ普通
423 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:01:09
哲学ってのは政治に関わりたいが関われない人間の
ルサンチマンに由来しているんだって。
人生哲学を学びたいなら成功した政治家や企業経営者から
学んだほうがマシと思われるよ。
424 :
166:2005/08/10(水) 01:08:44
>>410 ん? だったらやっぱり程度の差じゃないの? キリスト教と仏教って。
じゃ315は撤回、と。
ああ、あと、409の言いたい「テーマ」を汲んでやってつかあさい。
298で指摘された173番はニーチェの思想について語ってるところ。
別に俺は173に同意しないが173には誰も答えていないな。
>>417 哲学と人生哲学は違うぞ。マイ哲学というのはわからんでもないが。
425 :
44:2005/08/10(水) 01:08:53
ここの連中は、ニーチェの基本テーマさえ誰も判っていないみたいだな。
まずテクスト読んで「理解」せよ(笑)。
まあ、西洋哲学ではニーチェは絶対理解できないことは、前にも述べた通り
だから、無理も無いのかも。
426 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:10:14
>>423 へぇ、プロティノスもアヴィケンナもスコトゥスもフッサールも政治的野心の持ち主だったのか
ところで、それを実証する文献は?
427 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:12:43
>>425 >まあ、西洋哲学ではニーチェは絶対理解できないことは、前にも述べた通り
「西洋哲学ではニーチェは絶対理解できない。」
↓
「ニーチェを理解するには西洋哲学は必要ない」
↓
「西洋哲学がわからない俺こそがニーチェの理解者である」
なるほど、なるほど
428 :
天才ニーチェ信者:2005/08/10(水) 01:12:45
ニーチェの本質が分かってないようだね?
429 :
409:2005/08/10(水) 01:25:12
ここにきて「あなたの」は明らかに逃げの予防線じゃないか。
ニーチェを議論する場において、十字架にかけるの意味を質問したり、
「良い」や「悪い」を平然と使えること自体理解できてないってことだよ。
なによりも、元クリスチャンに対する責任転嫁、
どっかで超訳の役者に対してもしてたと思うけど・・・
あまりにも賎民的。
自らの意思に基づく自律の道徳が見られない。
430 :
166:2005/08/10(水) 01:25:22
>>425 1+1の答えが2になることを数学基礎論とか勉強して理解して
「1+1=2を数学で理解した」とは言わないだろう。
ニーチェを西洋哲学で理解できるか? という問題は問題の意味からしてよくわからん。
西洋哲学の範疇を超えているというならニーチェの思想を理解できるように哲学を拡張する必要がある。
ヘーゲルのいわく哲学は「一般論として語られる」のだから。
はじめから仏教でないとダメというならそれは哲学ではない。(もっともニーチェは仏教を批判している)
まあ突き詰めていけば論理学上の問題にぶち当たる可能性もあるが、そのときはそのとき。
431 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:32:14
西洋哲学2500年の歴史を一挙に覆す認識を持てるかもしれないと、
極東の猿が妄想抱いちまったんだ。
気持ちいいんだと思うよ。 周りがつべこべ言っても仕方ないよ。
そっとしとけばそのうち飽きるって。
それでもこのスレや板全体に粘着するなら徹底的に叩くのみ。
432 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:38:03
425 名前: 44 投稿日: 2005/08/10(水) 01:08:53
ここの連中は、ニーチェの基本テーマさえ誰も判っていないみたいだな。
425 名前: 44 投稿日: 2005/08/10(水) 01:08:53
ここの連中は、ニーチェの基本テーマさえ誰も判っていないみたいだな。
425 名前: 44 投稿日: 2005/08/10(水) 01:08:53
ここの連中は、ニーチェの基本テーマさえ誰も判っていないみたいだな。
クソワロタwwww
いや〜、こいつマジ頭おかしいってww
433 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:39:28
俺はニヤリズム(・A・)
アンチクリスト超訳の訳者がしばらく前にニーチェスレに来てたけど、
このにぎわいを見れば、きっと感無量でしょう(嘘
435 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 01:59:32
ニーチェネタで「超訳」だせば、こういう馬鹿が増えることくらい分かりそうなもんだが
436 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:01:37
>>435 でもさ、>44みたいなのが湧いてくるとは、「超訳」の訳者さんも想定外だったと思うぞ
437 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:03:47
元祖・オレ哲学。それがニーチェ!キリスト超えちゃったよ(藁
438 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:05:09
元祖・オレ哲学。それが>44!キリストも西洋哲学も超えちゃったよ(藁
ブログでこのスレを取り上げてくんねえかな。
440 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:08:33
44は元祖じゃないからあんまり価値がない。しかしがんばれ!
>>437 ニーチェはそういう自分の大法螺を、笑い飛ばす余裕があるから面白い。
「この人を見よ」なんて、どう考えても笑いを取るために書いている。
442 :
44:2005/08/10(水) 02:15:31
俺のニーチェをエンターティナー扱いすんなよ チンカスどもが!!
443 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:16:15
笑い飛ばす余裕があるのは現代の読者であって、それは
ニーチェをニーチェのパロディーとして読んでいるからだと思われるが。
ニーチェのパロディーを書いても有名になれないのにニーチェが有名なのは
なぜでしょう???
444 :
44:2005/08/10(水) 02:19:06
>>443 「生存本能を有する生物としての人間」という唯一の普遍を思考の基盤にした
最高の思想家だからさ!
>>443 いや、本人も笑ってるでしょ。
ツァラトゥストラの第四部とか。
パロディや聖書の格言捩りのてんこ盛り。
誰が書いたか忘れたけど、「笑うニーチェ」ってニーチェ論が邦訳されて無かったっけ。
447 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:24:12
「この人を見よ」の頃は既に半狂人状態だったというのが「定説」だが?
パロディーしてるつもりが自分がパロディーの中に入り込んで分け分かんなくなったのか?
ドン=キホーテのように。
448 :
44:2005/08/10(水) 02:25:27
いいですか。ニーチェの目的は、西洋哲学が拠って立つ基盤を崩壊させて、
西洋哲学を(自民党をではない)ぶっ潰すことなのですよ。西洋哲学を解毒
することなのです。それに対応するためには、西洋哲学も、現実上の根拠の
皆無な観念や論理ではなく、人間にとって普遍の思考基盤を考え出し、提示
すべきでしょう。
449 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:33:13
はいはい、じゃあ西洋哲学の拠って立つ「基盤」ってなんなのかな〜?
まっ、鳥頭のチョー人君の想像力豊かで容量少ない脳じゃ到底分かんないと思うけどwwww
44の正体わかった。くだらねー。
451 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 02:42:12
>>397 プラトン哲学、カント哲学も一種の記号だろ。
テクスト以外に拠り所は無いわけだが。
453 :
44:2005/08/10(水) 14:22:58
>>452 そのテクストが、不正確で、本人の真意を100%表してはいないかも知れない、
という疑問を、常に持つことが必要。
訳書の場合は、何おか言わんやである。俺は、哲学ではなくて、語学専攻だが、
翻訳には、bilingualな翻訳者によってなされない限り、通常、「無数の」誤りが
存在する。
454 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:30:00
久しぶりに超弩級のバカを発見した
44は主客一致ができるんだ。すごいね
456 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:41:09
すげー、語学専攻のヤシが居たもんだ。すげー・・・絶句するよ!
457 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:44:39
語学専攻でテクスト不要を唱えちゃってるんだから、もう手の施しようが何処にもないな
458 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:47:28
解釈なんて専門家に任せて、プラトンが言ってるように(自分には)見える
内容について考えた方がいいと思う。それが、プラトンが本当に書いている
ことじゃなくても、かまわないじゃないか。2400年も前に死んでるんだよ。
459 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:50:09
何おか
何をか
↑それを「プラトンの真意」とのたまうのがダメなんだよ。
会話ってのは共通了解への努力なんだから、相手を納得させるには
テキストから根拠持ってこないと
461 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:52:48
>>456 現代英米論理学のヤシらがプラトンやアリストテレスを積極的に読んだことは知っているのか?
読みの視点が違えば、見えてくるものは大きく変わってくる
44が名無しになって工作してるな。いい加減にしろよクズ
463 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 14:56:17
記憶の積み重ねができるからヒト。歴史だね。教育だね。
知的な高みに登れるのはヒトだけ。それは記憶の蓄積という脳の肥大がもたらした特異な能力。
>>1は過去の遺産(テクスト)をうち捨ててまで、自分解釈にこだわるのはとんでも哲学。個人の信念や宗教みたいで、ちょっと・・・。
464 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 15:00:52
いまどきの底辺大学の語学専攻→実質、ビジネス英会話学校
テクスト熟読よりも異文化コミュニケーションさ!
465 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 15:01:35
そして、俺らはここで>44と異文化コミュニケーション!
466 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 15:02:14
オレも語学専攻の人間だが、44のような大馬鹿大臣は恥だ。
「何おか言わんや」とか、日本語すらしっかりしてないのに。
何が「bilingualな翻訳者によってなされない限り」だよ。
誰が訳そうと、どんな翻訳も無数に誤るんだよ。
書いた本人が訳したものですら、伝えるところは全く変わってしまう。
テクストには無数の読み方があるから読む意味がない、というような主張で呆れるね。
44は、コミュニケーション不可能説のようなもんだ。
だから、誰も44と関わらない方がいい。
467 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 15:03:12
>>458 >解釈なんて専門家に任せて、プラトンが言ってるように(自分には)見える
>内容について考えた方がいいと思う。
ごめん、僕はイタコじゃないんで、書かれたテクストを第一に読むことからしか
内容について考えられないんです。本当にごめんなさい、電波受信能力が低くて・・
468 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 15:07:24
学問的論文では、バイリンガルかどうかなんてそれほど関係ないよ。
語学の教養がしっかりしていて、その専門領域に通暁していることのほうが
遥かに大事。 こんなの当たり前の話だけど。
>>453 テクストが本人の真意をどの程度表しているかは実証不能である。
+
本人の真意も実証不能である。
↓
テキスト解釈が問題なのであって本人の真意からは切り離さざるを得ない。
例えば「ニーチェは著作の中で本心と違うことを書いている」
あるいは「書いていない」という命題は実証できない。
学問と人を切り離して考えられないのが許されるのは小学生まで
472 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 16:12:51
テクストが嫌いならディアレクティーク(対話)するしかないだろ
書かれたもののある種の弱さについて、プラトンがすでに「不文の教説」という形にしてる
デリダとかはそれを逆手にとって、テクストの強みみたいなものを見出してんだろうけど
どちらにせよ、書いたものと書いた者の思考及び志向は別物と考えてるな
至高な私考の嗜好を施行の試行
474 :
44:2005/08/10(水) 16:29:38
>>468 自然科学では、自然という確固たる対象があり、常に照合可能だから、それは言える。
しかし、哲学は、客観的判断基準の皆無な、観念と言葉の遊戯だから、言葉とその
解釈次第で百人百様である。
また、言語による表現能力は、極めて限られていることを自覚しなければならない。
いかに精密な法律を作っても、複雑多様な現実社会の事象をすべてカバーすること
は絶対に不可能。だから、法律の世界では、法文の解釈で常にモメている。
言語学者から見れば、言語自体が「高度の専門領域」であることも忘れてはならない。
現地で生まれ、育ち、教育を受けた者と、外国人とでは、語学力はけた違いなので
ある。英語のnativeであれば、外国人が書いた英語かそうでないかを一発で判断で
きる。
要するに、テクスト(翻訳ならなおさら)に盲目的に依存してはならないということ。
>>474 >英語のnativeであれば、外国人が書いた英語かそうでないかを一発で判断で
きる。
私は日本語流暢な人が書いた日本語文を判別できませんが?
476 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 16:36:35
>>474 テクストさえ読んでねぇ奴が偉そうに騙ってんじゃねぇよ
お前が低能だってことはもう充分に分かったからさ
さっさと90分で分かる哲学シリーズでも読んでこいよ
そもそもnativeの方が常に勝ってるということは、
日本人は日本語を間違えない、と言ってるに等しい訳だが。
478 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 16:40:08
44自論乙
479 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 16:45:02
「言語学者から見れば、言語自体が「高度の専門領域」であることも忘れてはならない。 」
へー、この「言語自体」ってのはパロールのことなの、それともラングのことなの?
それともその二つを併せたものなのかなぁ〜?
で、44さんが学んだところでは、どういう研究法を用いて「言語自体」を抽出するんですか〜?
480 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 17:52:22
ランガージュじゃない?
どうでもいいけど、哲学が百人百様なら44は自分を正当化できないぞ。
481 :
44:2005/08/10(水) 18:21:27
>>479 パロールとかラングとか、そんな小難しいことではなく、ソシュール自身が
その社会生活において、読み、書き、話し、聴いている言葉です。彼の「独
り言」は除外した方がよいでしょう。
「人間」や「自己」と同様、「言語自体とは何か」を何千年間考えても、結論
など出ないでしょう。それが現実に機能している外観だけを観察する以外に
方法はありません。
聖書は、「初めに言葉があった」と言うが、これはとんでもない誤り。「初め
に生命があった」とすべきでしょう。言葉とは、生命が発生した後、各生命
間の意思伝達の手段として作られたものですから。初めに言葉があったのなら、
神はその言葉を一体誰から教わり、誰に対して使ったのでしょうか。
482 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 18:30:54
「それが現実に機能している外観だけを観察する以外に方法はありません。」
へー、その「機能している」ってのはシニフィエとしてかな、それともシニフィアンとしてなのかな?
どっちも観察(内省、コーパス)できるよね
ロラン・バルトは「人は母国語の中で目覚める」と語り
E・M・シオランは国語を故郷とみなしたよね
そう、その中に不可避に投げ込まれる訳でしょ
つまり、君が神と言葉の関係について述べたことは
人間にも適用されるってことだよねww
誰も全部一から考えること、考え始めることってのはできないよね
そうなると、君の主張する独自の思考ってなんなのかなwwww?
独自性はどこで保証されるんですかwwww
483 :
482:2005/08/10(水) 18:40:43
つまり聖書は妄想ですwwww
484 :
44:2005/08/10(水) 18:56:07
>>482 シニフェでもシニフィアンでも、兎に角、意思伝達の手段として機能してい
るという意味です。
言葉は生後周囲の人間から習得します。思考も、そうやって習得した言葉で
やるのでしょうね。オオカミ少女は、オオカミの言葉で思考したと思いますか。
私の考えに独自性があるなど、一言も言ってませんよ。むしろ、生活者とし
ての常識を語っているので、独自性など一かけらもありませんよ。ここの
皆さんからだけ、独自性を認めていただいているわけで(笑)。
485 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 19:02:54
44は原書でも読んでてください。うざいです。にちゃんねるに来るべきではないです・・・。
どーか書き込まないで!お願いします><。
487 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 19:34:10
>むしろ、生活者としての常識を語っている
>>44よ、お前が「常識」と語る瞬間にそれは常識ではなくなる。
マイ常識、なんて常識とはとても言えないからね。
488 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 19:37:33
独自性がないならせめて広範囲にニーチェの解説をするのでないと。
ニーチェと関係のない常識をここで説かれても対応のしようがないので。
489 :
44:2005/08/10(水) 19:40:17
>>485 皆さんに強要されて(笑)、今嫌々ながら「偶像の黄昏」を読んでいるが、
私の考えがますます裏付けられているだけですよ。
皆さんも原書を「翻訳」で読んで、少なくともニーチェの思想の基本テーマ
位は把握して下さい。
常識論に打ち負かされる「哲学」では情けない。
専ら他人からの「借り物」の思想や知識でななく、現実に立脚して自分の頭
で考えた見解を述べる所が2ch。だから、2chを「日本の実力」と評す
る人もいる。さもなければ、学問の進歩も無く、そもそも学問にさへなり得
ない。単なる「お授業」です。
490 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 19:44:41
44が学問を進化させるですか〜?にちゃんねるで?すごー、馬鹿居たよ><。
491 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 19:46:32
ある意味2chでは100点の書き込みだがw
>>490-491 こんな馬鹿ばっかなカキコしか出てこないくらいなら、
44のような書き込みのほうが情報量はあるだろうけどな。
くろしろか
>>492 44の書き込みは情報量はあるがキリスト教的毒が含まれてるから、
俺としては無害無益なバカな書き込みのほうがいいけどな。
叩きって行為の善悪はニーチェスレだけに抜きにして。
495 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 20:53:23
496 :
考える名無しさん:2005/08/10(水) 21:06:32
>>494 その情報量もコピペもしくはウェブで拾ってきたものでしかない可能性が高まった
だから、くろしろじゃないの?
以前彼が「ある」と「ない」スレで暴れていたときの展開に近い。
44の書き込みの情報量なんて素人向け通俗紹介本程度のものだろ
この程度の理解で「俺はニーチェの本質を理解している」とか言うから
馬鹿だと思われる
>>495-498 しつこいよ。どうでもいいし、一度書けば十分だろう。
おまえこそゴミ、消えろ。
500 :
考える名無しさん:2005/08/11(木) 12:34:45
「ツァラトゥストラ」を黙示録として読む
501 :
考える名無しさん:2005/08/11(木) 18:56:26
[sage]
読め。書くな。
502 :
166:2005/08/12(金) 02:00:18
44も静かにしていてくれそうだからそろそろ次の話題に行こう。
とりあえず話題ふっとくけど本質的な問題じゃないと思ったら
スルーして別の話題ふってくれ。
スピノザはニーチェ思想の先取りをしたと見ていいだろう。
でもニーチェはスピノザを批判もしているわけで、その理由は
道徳的であること、な訳だ。
ニーチェとスピノザが同じ思想の基盤(世界観)を持っていたとして
ニーチェとスピノザを分かったものは何だろう?
神即自然の中で肯定的な感情を持って道徳的になるのは
(ニーチェにおいて)なぜ問題視されるんだろうか?
ニーチェ自身は時代が違うから学問が違うみたいなこと書いてたけど、
学問が違うというのは蒸気機関の発達? 無意識の発見?
それとも別の何か? 意見求む。
166さんへ
スピノザとニーチェに共通点は多いと思うよ
スピノザの理想とする「理性的な人間」とかは、ニーチェの語る冷徹な「認識」をする者だしね
でも、「すべての観念は神に関する限り真である」
(スピノザ『エチカ』 第二部定理32 畠中尚志訳 岩波文庫P134)
とかがやっぱニーチェにはひっかかると思うんだよね
なぜなら、ニーチェの「パースペクティブ主義」からすれば、何時如何なる場合も
真であり真でありつづけるものってのは存在してはいけないから
常に真であり真でありつづけるイデア=真理の否定の試みとして
ニーチェの哲学をみると、やっぱスピノザとはどこかしらで袂を分かつと思う
そう、常に真であり真でありつづけるものを置くと、人間にとって絶対的に正しいこと
そしてそうでないことが発生し、その真なるものを基準とした絶対的善悪が出てきちゃうんだよね
ニーチェが言う意味で道徳的なものがさ、ポロっと出てくるわけさ
蛇足だけど、スピノザが最良のものとする「神への知的愛」とニーチェが最良のものとする「運命愛」
この両者の対比(存在論として)はおもしろいテーマだと個人的には思ったりしてる
504 :
44:2005/08/12(金) 04:01:06
>>502 その問題は、俺がすでに指摘し、自分の答えも出した筈。前レスをよく読んでくれ。
スピノザが未だ「神概念」という殻をつけていたのが、ニーチェにはウザかったの
だろう。神=自然、なら、自然だけで十分で、神は全く不要。
スピノザについては、ニーチェは「アンチクリスト」で次のように言っている。
「スピノザの想のもとでーーsub specie Spinozaeーー、そこでこんどは神がおのれ
をますます希薄な青ざめたものへと変形せしめ、「理想」となり、「純粋の精神」と
なり、「絶対者」となり、「物自体」となった....神の凋落、すなわち神は「物自体」
となったのである.....」
44がうるさいなどと言いながら、俺の「常識的見解」対して、誰一人として、哲学
的にはおろか、常識的にも有効な反論は出せないではないか。罵詈雑言で攻撃してい
るのは、キリスト教徒又はその心情的シンパであると推測する。宗教の持つ「病理」
が歴然と現れている。
505 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 04:06:25
ゾロアスターは山を降りたらしいぞ。
お前らもはやく降りてこいよ。
「想」じゃなくて「永遠の相の下に」だろ
まっとうなスピノザ読みなら、こんなことは絶対間違えないがな
君さ、この語(sub specie aeternitatis)の意味分かって使ってのかね?
507 :
44:2005/08/12(金) 04:09:05
>>504の訂正
×スピノザの想のもとで
○スピノザの相のもとで
(44註:sub specie Spinozaeだから、「スピノザの神概念では」と
したほうが、判り易い。)
508 :
44:2005/08/12(金) 04:11:17
509 :
44:2005/08/12(金) 04:19:43
>>506 「永遠の相の下に」などとどこに書いてある?そんなことでは、君はこの
文章を全く理解できていない。「スピノザの神概念では」の意味。「スピノ
ザ相のもと」では。推測しない限り意味が判らない。
スピノザの相の下=永遠の相の下
こう変換できなかったら、スピノザどころか哲学史が分かってない
どうでもいいけど、その断章さ、完全にスピノザ批判なんですけど
要するに、スピノザの体系が本質的にはイデアリスティックだっていってんだろ
ヘーゲルやカントと同じように、真理=イデアを措定してる体系だって言いたいんだろ
そう、構造的に同じデースってことだよな
なぁ、コレ、俗に言う贔屓の引き倒しじゃね
スピノザ倒れちゃったよ、どうするのさ?
511 :
44:2005/08/12(金) 05:04:22
ニーチェをドイツ語で読んでいないので推測だが、
>>504で引用した断章の
翻訳(原佑訳)は間違っているのではないだろうか。「スピノザの相のもと
で」は、最後から二番目の「物自体」の前に置かれるべきではないだろうか。
どなたかドイツ語原文を確認してみて欲しい。原文でも、かかり方ははっきり
とはしないと思うが。「スピノザの相のもとで」、神が「理想」「純粋の精
神」「絶対者」などにはなり得ないを思う。それとも、「物自体」とは、
カントへの当てこすりか。
間違ってたらすまんが、翻訳の「無数の誤り」の一つではないことを願う。
「ニーチェはスピノザを自分の先駆者だと絶賛している」という観念で、すべての
文章を読もうとすると44みたいなことになる。
Diese spannen so lange um ihn herum, bis er, hypnotisiert durch ihre Bewegungen, selbst Spinne, selbst
Metaphysikus wurde. Nunmehr spann er wieder die Welt aus sich heraus - sub specie Spinozae -, nunmehr
transfigurierte er sich ins immer Dunnere und Blassere, ward "Ideal", ward "reiner Geist", ward "Absolutum",
ward "Ding an sich" ... Verfall eines Gottes: Gott ward "Ding an sich" ...
訳文の文脈上はおかしくないし、原文見ても問題ないが・・・
514 :
44:2005/08/12(金) 05:23:26
>>512 「完全にスピノザ批判」とは言いきれない。神概念の変化を辿っているだけ。
スピノザ批判なら、前レスで挙げたスピノザ書簡での、ニーチェのスピノザ
に対する、先駆者としての随喜ともいえる賞賛との関係はどうなるのか。
外在の神を否定する点で、両者の思想の類似は、否定することは出来まい。
ニーチェは、スピノザの「神」を切り捨てることにより、更なる一歩を進めた
のである。
「老カントのぎこちなくもあり気取ってもいる偽善ぶり、それによって我々を弁証論の抜け道へと
おびきよせ、この道がさらに彼の<定言命法>へと導いていくが、否、より正しく言えば、誘惑
していくが、こうしたお芝居は、われわれ流の悪太郎を微笑させるものだ。このわれわれときては
老いぼれのモラリストや動学者連の抜け目ない術策を調べ上げることに、少なからぬ楽しみを
見出すのだ。 さてまた、スピノザが、彼の哲学〜この言葉を適切に解釈すれば、「彼の知恵
への愛」だが〜を、鋼鉄をもってするように装甲し仮装させたあの数学的形式の奇術としても、
全く同断である。スピノザは、そうすることによって、この征服しがたい処女神つまりあのパラス・
アテネにあえて挑みかかろうとする乱行者の勇気を、初っ端から縮みこませようと狙ったのだ。
隠遁的な病者のこの仮面は、なんと多く自らの臆病と衰弱を暴露していることだろう!」
(善悪の彼岸:1−5)
はいはい、これも「翻訳者の誤訳」ですか?>44
516 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 05:37:02
>>513 原文Thanks.原文の語順では間違いないようだね。スピノザによる外在の
神の否定以後の経過を言ってるのかね。神概念を、外在の神から、「理想」
「純粋の精神」「絶対者」「物自体」に変えた人は誰だか判れば教えて下さ
い。
517 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 05:41:11
>>515 「アンチクリスト(反キリスト者)」「ヴァーグナーの場合」「偶像の黄昏」
は、ニーチェが狂気にいたる前の最晩年である1888年に書かれたが、彼は
9月14日付のドイッセン宛の書簡で、この3著作の関係について次のように
言っている。「アンチクリスト」が、彼の思想の集大成・到達点であることが
覗われる。
「『ヴァーグナーの場合』と『偶像の黄昏』は、或る測り知れないほど困難で
決定的な課題のただなかでの真の気晴らしにすぎず、この課題は、それが理解
されたときには、人類の歴史を真っ二つにする。この課題の意味を簡潔な言葉
であらわせば、すべての『価値の価値転換』である。」
>>514 >ニーチェは、スピノザの「神」を切り捨てることにより、更なる一歩を進めた
>のである。
スピノザの哲学から神を切り捨てることがどんなことだか分かってんのか?
一人の哲学者の重要な概念を切り捨てるということは、ほとんど全否定するに
等しいのだぞ? 哲学の体系というのは、都合よく概念を入れ替えできるものではない。
哲学のそのような(悪く言えば) 融通の利かない側面にニーチェが敵意を持っていたのは
>>515からも明らかだろに。
>>504の引用も不十分。これではどんな文脈で述べているのか不明。
「彼ら(形而上学者)は長いこと神をつむぎつむんだので、ついには神が、彼らの運動によって
催眠術をかけられ、蜘蛛にすら、形而上学者にすらなった。そして今度は神が再びその体内
から世界をつむぎだし〜スピノザの相のもとで〜そして今度は神が己をますます希薄なもの
へと変形せしめ、「理想」となり「絶対者」となり「物自体」となった・・・神の頽落、すなわち
神は「物自体」となったのである・・・」
これはスピノザ以降の神概念の経緯を揶揄しているのではなく、「スピノザを含めて」形而上学者
が神概念をつむぎだしたことへの批判をしている。
ちなみに、ニーチェがスピノザの哲学における「自己原因としての実体=神」をきちんと把握
していたかどうかは、大いに疑問。 「スピノザの宗教批判精神は好きだが、存在と本質が一致する
実体などは受け入れられない」という態度だとしたら、哲学者の「見た目」しか見てない44と同じ。
>>517 『ヴァーグナーの場合』と『偶像の黄昏』に対して、『アンチクリスト』がどのような関係にあるか
がどこにも書かれていませんが、どのようにしたら「3著作の関係」が読み取れるのでしょうか?
>>520 ヴァーグナーの場合はよく知らないが、もともと放棄した「権力への意志」の
代わりの著作である「あらゆる価値の価値転換」の序文のような物
が「偶像の黄昏」であり、第一章にあたるのが「アンチクリスト」だったはず。
て、517に書いてあることは、似たようなことか。
523 :
44:2005/08/12(金) 11:12:52
>>518 スピノザは、実質的には無神論者です。当時もそう呼ばれていたそうです。
現代でも、キリスト教が彼の神概念を受け入れることは絶対に不可能です。
あるがままの人間を含む自然そのものが神なのですから。受け入れた途端に
キリスト教は消滅するでしょう。
アンチクリストで、ニーチェはキリスト教を激しく批判し、神、聖霊、霊魂、
罪、救い、罰、罪の赦し、などを、「空想」として、それらの実在を否定して
います(アンチクリスト 15章)。そのニーチェが、スピノザの神をも
否定することは、別に難しいことではないと思いますが。
ニーチェその他の何人でも、あるがままの自然そのものを神と呼ぶのは自由
ですが、その場合は、神概念はもはや不要ということになります。
まず何より、44はスピノザとヘーゲルの違いが分かってんのかね
なんでニーチェがヘーゲルでなく、スピノザを持ち上げるのか
その理由が分かるならば、書いて欲しいもんだ
(勿論、ふたりの体系の構造の差異からその理由を述べることができる)
弁証法という機構が理解できていなければ、安易にスピノザを持ち上げることはできない
525 :
44:2005/08/12(金) 11:32:49
>>524 カント、ヘーゲルなどのドイツ観念論哲学は、興味がないので読んだことが
ありません。現実上の根拠は皆無で、結局は、マルクス主義とナチスによる
大虐殺という結果を生み出しただけですから。
否定弁証法という機構もあるそうですね。
「かなりお粗末」とされた、ニーチェのさらに上を行くね。
527 :
166:2005/08/12(金) 11:42:35
>>504 問題点は神についてではなく道徳について、だ。
日常生活者の観点からすれば神から道徳が派生したように見えるが、
少なくともニーチェ-スピノザ主義の観点からすればそんなはずはない。
それに本質的な問題だと思わなければ別の話題を振るように、と書いたんだが?
>>519 おおっ、じゃスピノザ批判は道徳の問題のみじゃないってことか。
しかしそんなスピノザ理解だとしたら一時の気の迷いだとしても
スピノザを先駆者とは認めないと思うぞ。果たしてどうなのか……
528 :
44:2005/08/12(金) 11:49:10
>>526 「かなりお粗末な」とは、誰が、何を基準として言ってるのですか。
他人の本を沢山一生懸命読んで、「借り物」や「模倣」の見解を作り出す
ことこそ、「お粗末」だと思いますが。
「ニーチェが駄目だと言ったから」という結論に飛びついて最初から読みもしないという
効率を追った本の読み方は、全然ニーチェ的じゃないね。
530 :
44:2005/08/12(金) 12:00:51
>>527 道徳とは、共同体における人間の共生の技術。超越的なものとの関係である
宗教とは、本質的に異なる。
ニーチェに、「共同体形成・維持の本能」への考察が欠けているという
問題については、すでに指摘した通り。ここを突かれると、彼の思想は
崩壊する。しかし彼も、「全体の中での存在」ということには触れている。
共同体形成維持の本能も、彼の生の欲求という基本的本能から派生すると
考えれば、彼の思想体系も完成できると信じる。
531 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 16:53:09
「人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ
人間において愛さるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである」
(F・ニーチェ 『ツァラスゥトラはこう言った 上巻』 氷上訳 岩波文庫 P19)
「共同体形成維持の本能も、彼の生の欲求という基本的本能から派生すると
考えれば、彼の思想体系も完成できると信じる。」(by530)
「生の欲求」?、ニーチェはこの著作において、自らを滅ぼすことが
そうすることができることが、人間において愛さるべき点であると書いている
「生」の奴隷にならず「生」を省みぬ者、これが超-人ではないか
「我欲す」と猛る獅子が卑小な「生」になぞ従属するだろうか
むしろ獅子は「我欲す」を死に代えても掲げるであろう
「「ニーチェは一人の男でしかなかった・・・」
その逆、ニーチェをまさしく一人の男としては想い描かぬこと」
(G・バタイユ『内的体験』 出口訳 平凡社ライブラリー P77)
ニーチェの複数性は超-構造的、超-人間的である
ある有意味な要素、量として換算し得る要素で構成される社会とは、相容れぬ者たちの共同性
ニーチェ、チェザーレ・ボルジア、ディオニュソス―意味を、限界を、突破し、流動させる者たち
彼らの「共」はわれわれの意識に現前しない
532 :
44:2005/08/12(金) 17:35:43
>>531 ニーチェのいう「生」とは、観念を排した生物学的な「生」ではないか。
彼は、生について、「本能」「生理学的」という言葉を使っている。観念
的な生なら、彼が、観念の典型としてのキリスト教を批判する資格はない。
そのような生物学的な生に立ち帰ってこそ、本当の「共」が生まれるのでは
ないだろうか。その意味での生は、まさしく、本来的に生物であるすべての
人間にとって「普遍」だからである。それ以外の「普遍」がありうるか。
533 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 17:56:43
ダーウィニズムに対するニーチェの嫌悪
生物学的な生が真理だって?
「誰」がそのような「生」を欲しているのか
生物学的生、それは「誰」の真理なのか?
「誰」のものでもない「真理」など存在しない
これがニーチェの「系譜学」、そして「パースペクティブ主義」が明らかにしたことではなかったか
「誰しも」が生物学的生を欲すると論じることは、「生」を新たな神となすことに他ならない
(ハム的な、罰することを欲し、自らの他を決して義とは認めないユダヤ-キリストの唯一神)
そのように論ずることは、神を、そして神から道徳を捏造した僧侶と同じやり口である
534 :
44:2005/08/12(金) 19:27:44
>>533 ニーチェが批判する、ソクラテス、プラトンに始まる西洋哲学に毒された者
によっては、ニーチェは絶対に理解できないことについては、既に述べた。
「偶像の黄昏」14の、「反ダーウイン」においては、イギリスに対する彼の
「嫌悪」と共に、むしろ逆説的に述べているのではないか。即ち、「種属は完
全性という状態のうちに成長するものではない。弱者が繰り返し強者を支配す
るからであり、−−−それは弱者が多数者であり、弱者がより怜悧であるため
である。」「弱者がより多くの精神を持っている。」「強さをもっている者は、
精神からは脱却している。」
彼の言いたいのは、弱者の精神性のほうが、肉体的生、即ち生物的生よりも
強力であり、従って生物的生が衰退する、ということではないか。
彼は、生物的生を神などに抽象化しているのではなく、生はあくまで生である。
535 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 20:50:10
それは生のイデア化に他ならない
「普遍的な」生などというものは虚構でしかない
生とは「誰か」の生であり、生とは殲滅不可能の多数性である
ピラトに倣ってこう言ってみたい、「生とは何ぞや?」
君は「生はあくまで生である」というトートロージーで一体なにを意味したいのか?
この命題には、無数の意味が存在するか、そうでなければ意味が存在しない
ニーチェはパースペクティブ間を移動する
ドゥールーズはニーチェの特質を、彼の哲学の特異性をそう論じる
ニーチェの著作には、たった一つのパースペクティブしか存在しない訳ではなく
絡み合う多数のパースペクティブが存在する
存在の三態(ラクダ→獅子→幼子)のように
また病と過度の健康と健康のようにニーチェはこれらの複数の視点を移動する
一つの絶対的な基準が存在しないことを、真理が「誰か」の真理でしかないことを発見する
そう、ニーチェはこのパースペクティブ間の移動によって、それを発見する
そして、豚にも蛇にも獅子にも、いや、同時にその全てでありたいと叫ぶニーチェ
さて、「生とはあくまで生である」?
これをどう片付けるのか
豚の生も蛇の生も獅子の生もお互いにお互いのパースペクティブでお互いを排斥する
どこに「普遍的な」生がある?どこに?一体どこに?
536 :
44:2005/08/12(金) 21:24:59
>>535 「生とは何ぞや」を「考える」ことは、生ではない。「生とは生である」
以外には言いようがない。生は思考の対象にはならない。生があるから
思考が可能なのであり、その逆は真ではない。
実利的に見て、人間が自らの生をイデア化して、「神」にできるとしたら
これほど素晴らしいことはない。人間間の紛争など、昔話になる。「究極
の宗教」である。
人間である限り、自らの生物的生以上に価値があり、「神」とするに値する
ものが、一体あり得るか。
生物的生は、すべての人間にとって唯一の普遍である。人間がその仲間である
他のすべての生物と同様に。
どのようなパースペクテイブがあろうとも、それが生物的本能から発する
限り、すべて生である。
ヒント:結論だけ言う人に対して反論するのは義務でもないし効率的でもない。
538 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 22:23:01
生は何であるのかが思考できないにも関わらず、君は語る
となれば、君は思考せず語っていることになる
さて、君は正気なのか?
思考できないものを思考し価値付けするとは、正にキリスト教的・神学的な試みではないか
「生物的生」など「神」と同様に、人間の作り上げたフィクションに過ぎない
「誰」がそんな生を生きているのか(「誰」が捨象された生)
「生物的生」を、「動物的生」を虚構し、そこに帰れと言ったのルソーであってニーチェではない
思考を否定することは、人間的生を否定することになる
繰り返すが、人間であるより動物であれといったのはルソーだ
「生物的生」などに戻ることは出来ない、帰るべき楽園などそもそも存在しない
また、「生物的本能」から生をすべて語れるならば
人は本能の奴隷、そして機械でしかなくなってしまう
となれば、ニーチェの語った「我欲す」と猛る獅子はどこへ行ってしまうのだろう
「生物的本能」という主人を置くならば、死しても主人たらんとする獅子は、
そして「ひとつの自力で回転する車輪」たる幼子は存在しなくてなってしまう
>>538 私の疑問と重なってる部分があるので少しコメントさせていただきます。
一、「生物的本能」について。
「生物的本能」が真理ならば「キリスト教精神」もそれで説明できなければおかしい。
つまり「キリスト教」精神も「生物的本能」の発露だと考えるのが整合的ではないのか?
そもそも真理が抑圧されるということ自体がおかしいのではないか?
妄想で明日太陽が昇るのを防げるのか?
二、真理が「逆立ちしている」ということについて。
ニーチェはプラトンを批判して真理が「逆立ちしている」という。
だがプラトンが「逆立ち」してニーチェが「正立」しているなら地盤は共通である。
その共通の地盤とは何なのか?
プラトンが(逆立ちであれ)それに立っている以上、それは西洋哲学の基盤である。
540 :
44:2005/08/12(金) 23:15:14
>>539 横レス失礼だが、私見。
生物的本能とは、生命の保存と種族維持が基本。これは、他の動物の観察
から容易に結論できる。「キリスト教精神」は、この基本的本能とは関係
無い。逆に、それを否定している。
「真理が逆立ちしている」とは、基本的本能を基盤としていないということ。
541 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 23:26:26
>>539 1 キリスト教精神=生存本能の転倒したかたち。
権力闘争に敗れる危機に瀕している者が闘争から逃れて生き延びるため
に相互的な「愛」による共存という虚構を設けたということ。
時としてそれが自己犠牲という反=生存本能的擬態を取るとしても、
それは権力闘争の敗者が長期的に自己保存を図るための策略に過ぎない。
2 真理が逆立ちするというのは、「イデアのイデア」という虚構から
認識と存在を価値づけようとするプラトンニズムの構えへの批判。
別にニーチェが自らを正立していると言っているわけではない。
542 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 23:34:41
44という人は基地外認定ですな
543 :
44:2005/08/12(金) 23:44:36
>>539 説明のために若干補足すれば、生存のためには、食物を取り、外敵や自然
災害から喪を守らなければなからい。そのためには、五感の知覚に依存しな
ければならない。種族維持のために、異性を見つけ、性行為を行うためにも
同様である。プラトンのように、五感以外の観念を考慮すると、これらの
基本的本能の行使が不可能になる。
544 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 23:58:04
>>538 Tに関して
「明日、陽が昇る」ということは、そして「明日、陽が昇る」という命題は
ペシミストとオプティミストという異なったパースペクティブでは異なった意味を露呈する
ペシミストにとって、かの事象かの命題は苦痛極まりないものである
オプティミストにとって、かの事象かの命題は心躍るものである
そう、パースペクティブ主義のパースペクティブとはそんなものである
パースペクティブは太陽をさかしまに移動させたり、その運動を止めたりはしない
しかし、パースペクティブ主義においては、「明日、陽が昇る」ということには、
そしてその命題には、ただ一つの普遍的な意味があるとはしない
それが「誰か」に憂鬱をもたらし、また他の「誰か」には活力を与えるように
しかし、科学的な認識は事象の多様な受け取られ方を捨象する
恐らく、ニーチェが科学的な認識を嫌うのは、多様なパースペクティブを、
「誰か」を、認識することから解消してしまうからだと考える
疑問に答えてなかったら、スマンソ
それから、Uについては、まずはニーチェと弁証法の関係から見ていこうかと思われ
>「明日、陽が昇る」ということは、そして「明日、陽が昇る」という命題は
>ペシミストとオプティミストという異なったパースペクティブでは異なった意味を露呈する
馬鹿? 性格毎に、事象を表す命題の意味が変わるわきゃないでしょ〜がw
「原子は分割できない」が楽天的な人間と悲観的な人間ごとに意味が変わるかっつーの
546 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 00:07:45
>>544 ニーチェが、そのような甘ったるい精神論・感情論をどこでやっているのでしょう
か、教えて下さい。精神性こそ、彼が最も否定するものだと理解していますが。
547 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 00:12:37
44とパースペクティブ厨の二連奏がこのスレの質を著しく下げている。
パースペクティブ坊やは自分の言ってることが世の中ではふつうに
相対主義と呼ばれて相手にされていないことはわかってるかなw
548 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 01:06:59
>>547 君は、「このスレの質を著しく下げる」反論さえできないんじゃないかな。
>>543 >プラトンのように、五感以外の観念を考慮すると、これらの
>基本的本能の行使が不可能になる。
シカトすりゃあいいんだけど、どうにもこうにも・・・
「五感以外の観念」とは何?
「三角形」や「大きさ」や「正義」の理念(イデア)のことを言いたいのか?
で、こういう理念を持つと、触角や嗅覚や味覚や視覚や聴覚が使い物にならなくなるのか?
そうすると、言葉を使えているあんたは植物人間状態か?
ニーチェの初心者向け解説で聞きかじったキャッチコピー文句だけで哲学を否定できるほど
哲学は甘くはありませんぜ
550 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 01:08:24
551 :
44:2005/08/13(土) 01:20:07
>>549 五感が使い物にならなくなる、などと言ってはいない。理念(イデア)が
生存には使い物にならないと言っている。
言葉は、五感とは次元が別。共同体形成維持の本能に関する。しかし、言葉
にも、聴覚や視覚は必要。
君は、ニーチェ批判は、何も出来ないのか。何のためにニーチェを勉強してる?
批判できないのは、理解もできていないということ。
君が理解しいるニーチェの思想の基本テーマとは何?それにどんな問題がある?
552 :
548:2005/08/13(土) 01:20:23
>>550 釣りか?
君は、「このスレの質を著しく下げる」反論さえできない
=君の反論は「このスレの質を著しく下げる」どころじゃすまない
553 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 01:59:32
ねぇ、相対主義とパースペクティブ主義の違いって何?
どっちもそれ自体として存在する絶対的な真理や価値はないという点では同じで
フランス革命などの事件から神が理性に取って代わられるのを見て
神やイデアが虚妄であり、世界の運動は無目的且つ無際限な生成であり転変であり
神にせよ理性にせよ従うべきものなど何もありはしないんじゃねってことになって
となりゃあ、神やイデアや真理という不変で揺るがない観点がねぇし
そうなると存在ってのは無目的な運動であり生成となるから
なに一つ決まった位置に配置できねぇってことになって
なら、個々の運動や生成がその特異性において
他の運動・生成に意味を贈り与えまた同時に受け取っているんじゃね
そしてそれが複次的に交差して行なわれているんじゃねってのがパースペクティブ主義でOK?
んで、相対主義は個々人の認識は個々人の認識に過ぎなくて
個々人の存在には影響はないと考えるでOK?
>君は、「このスレの質を著しく下げる」反論さえできない
「スレの質を著しく下げる反論」を望む人間がいるとは・・・・
555 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 02:14:43
>>551 >君が理解しいるニーチェの思想の基本テーマとは何?それにどんな問題がある?
ニーチェは文化批評家ではあり得ても、とても「哲学者」ではあり得ない。
「真」を「生」に変えても何も変わりはしない。
いや、それどころか、理性による相互理解や事物認識を軽んずる傾向を助長する点において
学問には有害無益。
かれの「哲学批判」は哲学には届かない。
556 :
166:2005/08/13(土) 02:29:55
>>539 一に関してだけレスするが、本能という言葉自体がすでにあやしい。
生物学では本能などとは言わなくなっているようだ。
生物が生来持っている行動原則は何のために発生したかと考えると、
別に種の保存のためではない。
(種の概念を持たない生物は行動原則なしに行動することになってしまう)
つまり生来の行動原則はすべて種の保存に役立つ物だが、
そんな本能ははじめから存在しないため逆転した形で現れても不思議ではない。
それがキリスト教ということだろう。
>>551 音声言語を文字に写像した時点で言語は感覚に対して外在的な気もする。
だがパロールとラングの話題を振ったら481みたいにはぐらかすだろうな。
>>555 ニーチェは、ではなくニーチェ主義はと言うべきだろう。
キリストとキリスト教徒の関係のように。
557 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 02:30:22
>>551 >五感が使い物にならなくなる、などと言ってはいない。理念(イデア)が
>生存には使い物にならないと言っている。
わかった。「けもの」として生きるだけなら理念なんて要らないということね。
悪いけど、俺は「人間」として生きたいんで理念は捨てらんねーわ。
「けもの」になりたい人は勝手にどーぞ。ただし、「けもの」として俺に迷惑かけるなら
容赦なく殺しますからね。
558 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 02:55:34
霊感のようなものを多少信じる
余裕、遊びがない人は、ニーチェを受容し
かつ、例の境地には到底たどり着けません。
俗な麻酔がききすぎる人は、そもそも
その立場を維持できません。
559 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 10:22:15
ニーチェは論理では理解できない。なぜならニーチェは予言者だから
560 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 10:47:40
なんだ 占い師か 真面目に扱う必要はねえな
561 :
44:2005/08/13(土) 12:48:12
>>557 >俺は「人間」として生きたいんで理念は捨てらんねーわ。
人間も「けもの」のT種族ではないのか。動物分類を見よ。
その最も基本的な基盤から出発しないから、人間が狂ってくる。「けもの」
は、自己の生存のために他を殺すことがあっても、「宗教」や「思想」の
ために大量殺戮を行ったりしないし、常に助け合って生存している。その意味
で、人間とは「犬畜生にも劣る」存在。見当はズレな哲学などやる前に、動物
の生態から学ぶべし。
「人間とはけものである」という認識を忘れた宗教や西洋哲学が一体何を
生み出したか。一神教やマルクス主義やナチスによる大虐殺だけではないか。
562 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 12:56:12
↑そんで、お前は獣のくせにパソコンで2chやってるわけか。
一体どんな種類の獣だよ。
563 :
44:2005/08/13(土) 14:23:26
>>562 極限状態になれば、俺だってパソコンや2chよりも、一切れのパンを選ぶ。
それが、人間がけものであることの証拠。
他の動物も、それぞれの生を懸命に生きている。パソコンや2chより面白い
ことをやってるかも知れない。人間が彼らに成り変れない以上、判らないだけ。
564 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 17:45:01
“理念イラネ”とうそぶきながら、
“じゃあ人間やめろよ”と迫られると
“極限状態になればやめてもいい”と煮え切らない言い訳
こいつは「生きていくうえで、概念や言葉や理念など要らない」と本気で考えてるわけではない。
こういう口先だけの甘ったれ引きこもりがニーチェにハマりやすいという現実。
565 :
44:2005/08/13(土) 18:22:40
>>564 「極限状態になれば人間やめてもいい」など俺がどこで言ったか?
「極限状態になって、初めて人間に戻る」という意味だ。極限状態の
想定に基かない理念や哲学など、人間の本質を基盤としていないから、
砂上の楼閣で、全く無意味。
言葉は、本質的に共同体としての人間の生存に不可欠。要らないなどと
一言も言っていない。言葉は理念などではなく、生存のための自然発生
的なもの。「ロゴス」などではない。五感による知覚と共に、人間の
生そのもの。
566 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 18:40:20
そして、手前勝手な妄想で理念と言葉を区分けして理念批判したつもりになってる、と。
「ロゴス」が気に食わないなら、言葉を捨てろ。論理的推論もするな。
さあ、白痴として生きろ。
567 :
166:2005/08/13(土) 19:01:53
>極限状態の
>想定に基かない理念や哲学など、人間の本質を基盤としていないから、
>砂上の楼閣で、全く無意味。
考え方は間違ってるがその結論は正しい。極限状態に通用しない思想のどこが哲学か。
>言葉は理念などではなく、生存のための自然発生
>的なもの。「ロゴス」などではない。
いや、哲学は自然言語で語ることが条件になっている。
その論法ではロゴスと人間の本質からなる言語を区別できない。
568 :
166:2005/08/13(土) 19:24:07
44の言うように極限状態に身を置けば、ウミガメの肉といって人間を殺して食べるかも知れない。
つまり人間の本性には「ウミガメ」との共同性を否定するなにかが含まれている。
44が言うにはそれはけものとしての人間の本性だという。
ここで人間の本質が二重化されているが、44は相反するどちらも人間の本質だという。
議論の流れを読み返すと、まずけものとしての本質があり、
そこから共同性としての本質が導き出されるとある。(あえて本能等の間違った用語は読み替える)
けものと共同性の人間の二つの本質からダブルバインドが起き、それが精神病を引き起こすとしたら
精神病もまた人間の本質ではないか?
(>136宗教は開祖の精神異常から発生するので生け贄等もまた人間の本質である)
569 :
44:2005/08/13(土) 20:36:37
>>568 全くの見当違い。極限状態でも、ウミガメの肉は喜んで食べるが、人肉を食
べることには最後まで躊躇するであろう。これは何故か。まさに人間にビル
トインされた種族維持の本能が働くからである。
同じ意味で、自他の死に対する恐怖や、他者への憐れみも、その本能に基く。
どかの本に書いてあるからといって、本能という用語を否定する必要はない。
本能が間違いというのなら、あなたの性欲は一体何だね?
共同体形成維持の本能は、生存本能から派生するもの。人間は、独りでは決して
生存できないことを、これも本能的に知っているからである。両者はもともと
同一であり、ダブルバインドなど生じない。
精神病は、脳の機能的・器質的障害である。どんな製品でも、必ず不良品は
発生し、故障も生じる。精神病は、環境によっても生じ得る(感応精神病)。
いわゆる世界宗教は、精神病の、集団的一大転移・伝播である。「高度の精神
性は、特に伝播する。」(フロイト)
570 :
166:2005/08/13(土) 20:57:32
本能という用語はかつて生物学で使われていた用語であり、
本能といえば生物学の用語としての本能を想起するのが通常である。
生物学では「本能というもの」を認めなくなっているのだから、
用語としては適切ではない。(あえて旧来の生物学が正しいというなら別だが)
また、現代の生物学においても性欲は否定されていない。
それと、最初に人間の肉ではなくウミガメの肉を食べ、
それが人間の肉を食べるのを躊躇した結果だとしたら、それこそダブルバインドではないか。
もし二つの本質の間に矛盾、ダブルバインドが発生しないとしたら、
まず最初に捕獲が容易なもの(おそらく人間)の方から食べるべきだ。
571 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 00:12:16
ところでニーチェの推定IQはいくつなんですか?
573 :
44:2005/08/14(日) 00:59:38
>>571 IQにどんな意味があるの。「頭の良い」人間ほど、他人が書いたものや
細部にばかり拘り、全体を見落とすことが多いものだよ。
そういう人を、「本当は頭悪い」という。
574 :
↑:2005/08/14(日) 01:09:51
細部を検討できる能力への嫉妬が充満してますよ
575 :
44:2005/08/14(日) 01:24:31
>>574 細部に拘泥し、全体を見ることのできない「頭悪い」者達への、軽蔑と同情
だよ。
ところで、みなニーチェの原典を読んでる?俺は仕方なく読んでるが、彼の
思想の基本テーマは、ほとんど毎頁に明かではないか。
彼のいう「生」とは、生物学的な「生」のことだよ。抽象的・観念的・精神
的な生だとすると、彼が「精神性」を、「生」を衰弱させるものとして最も
激しく攻撃していることと、全く矛盾するではないか。
576 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 01:26:42
>細部に拘泥し、全体を見ることのできない「頭悪い」者達への、軽蔑と同情
>だよ。
同情ですか ヒヒヒヒヒ
577 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 02:15:04
402 名前:考える名無しさん 投稿日:2005/08/10(水) 00:10:21
ここで>44の主張をまとめます
「おれが一番ニーチェの本質を理解している。テクストのどの部分にも
俺が考えるとおりのことが書いてあるはずだ。俺の考える本質が理解できない
奴は西洋哲学かぶれの馬鹿ども。おれのニーチェに失礼なこと言うな」
以後スルーということで
578 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 02:26:19
「精神的な生」と「生物学的な生」を相反するものだと考えていたとすると、
ニーチェはますますスピノザから遠ざかるわけだ。
精神が肉体を衰弱させるなどという妄言はスピノザが最も嫌う理屈なのだから。
579 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 03:08:42
永井均ってこんなにルサンチマン抱えていたんだ。
ヘェー
580 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 05:47:57
>>572 どこの調べ?もっと高いような気がするが
581 :
44:2005/08/14(日) 13:23:52
>>578 スピノザによれば、人間を含むあるがままの全存在自体が「神」。精神は、存在から
発生する必然。存在から独立した精神など認めていない。
ニーチェが、(独立の)精神性が、生(存在、即ち神)を衰弱させると言いうのは、
むしろスピノザの思想と合致するもの。
スピノザの「神」は、時代の制約による妥協の産物だが、キリスト教の神とは、似ても
似つかぬ概念。「あるがままの自然(生)自体」が「神」なのだから。ニーチェは、
スピノザから一歩進めて、その不要な神概念を取り払っただけ。
>ニーチェが、(独立の)精神性が、生(存在、即ち神)を衰弱させると言いうのは、
>むしろスピノザの思想と合致するもの。
それを立証できるエチカの定義はどれ?
スピノザに盛んに言及している君のことだから、
エチカくらいは仕方なしに読んでるんだろ?>44
つーか無茶苦茶だろ>44
「生(存在、即ち神)」ってなんのことだ?w
ニーチェとスピノザの近さと遠さが分かりやすいのは「エチカ」第4部だろう。
特に
定理24「真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、
生活し、己の有を維持する(この3つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の
利益を求める原理に基づいてすること、に他ならない」
定理25「我々が理性に基づいてなす全ての努力は認識することのみに向けられる。
そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断
しない」
こういう命題を仔細検討してみることだ。
精神性あるいは理性が「生」には余計なものだという考え方はスピノザの考えとは
全く逆行する。
585 :
44:2005/08/14(日) 17:41:15
>>564 スピノザのいう理性や精神は、存在(生)から生じる必然であり、自由なもの
ではない。その理性は「認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない」
し、「生活し、己の有を維持するしか、しかも、それは自己の利益を求める原理
に基いて」しか働かない。
スピノザのいう理性とは、自己保存(生の維持)だけのためのものであり、それ
以外のものではないのである。
これは、まさに、ニーチェのいう生物学的生の欲求そのものではないか。
エチカ読む前に、まず「スピノザの世界」(上野修著、講談社現代新書)でも
読んで、スピノザの思想の基本テーマを理解すべきである。
その前に
>>575に誰か突っ込めよw
>>576の皮肉では気付かんみたいだから。
ニーチェは明文で「同情するな」って言ってるだろ。
>>585 「人間の本質は存在を含まない」がスピノザの基本認識なんだからさ、
「存在(生)」なんて書き方されると、こいつとまともにスピノザを論じ合おうと気が
なくなるんだよね。
しかも原典よりも入門書を尊重しろというスタンスだし。
ネタスレだけに書き込んでてくれよ。こっちに来るな。
>>585 ニーチェがスピノザの「自己保存(コナトゥス)」を批判してる箇所があるんだけど、
お前知らないだろ
589 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 18:17:33
ルサンチマンで潰れそうだ・・・・死にそう・・
590 :
44:2005/08/14(日) 19:01:35
ここにいるのは、スピノザ、ニーチェ学徒ではなくて、実は邪教キリスト教
の信者ではないのかな。彼らの基本テーマを理解すれば、キリスト教の崩壊
に繋がり、信者自身のアイデンテイテイが否定されることになるので、口には
出せないだけだろう。
591 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 19:18:00
むしろお前の知ったか知識のアイデンティティがどんどん崩れてるよな
だから退けないんだろうが
592 :
164:2005/08/14(日) 19:18:46
>>590 俺の書き込みに対してすっとぼけた対応(
>>167)をした奴が何を言ってるw
病気の治療の際に最も困るのは自覚症状がないこと。
そしてそれを見ようとも欲しないこと。アーメン。
593 :
44:2005/08/14(日) 19:41:13
>>586 彼のいう「同情」とは、「軽蔑・軽視」の意味だからだ。
>>588 「コナトゥス」とは、目的などない、身体から発する「衝動」のこと。
ならば、ニーチェの「生の欲求」と同じである筈だが。
>>592 思ったとおり、やっぱり信者だったな(笑)。
594 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 19:55:51
44はニーチェにラブレターを書いてるだけだよ。
生暖かくスルーしましょう
595 :
44:2005/08/14(日) 20:44:51
>>587 >「人間の本質は存在を含まない」がスピノザの基本認識なんだからさ、
そんなことが、どこに書いてある?教えてくれ。
>>591 もともと知識には依存していないのだから、アイデンテイテイの崩れようが
ない。
596 :
166:2005/08/14(日) 20:49:55
>>594 いっそのこと43まで話を戻してみるか。
ニーチェを大思想家たらしめているものは何だろう?
ニーチェアリストは多いが、彼らは同じようにニーチェを賞揚していたのか?
(バタイユ、フーコー、ドゥルーズ等)
また本能行動を認めて本能を認めなくなった現代の生物学は
ニーチェ的(反目的主義的)だと思うが、こういった影響は他分野にも見られるのか?
まあ例によって本質的な問題じゃないと思ったらスルーしてくれ。
597 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 20:53:42
>>595 >そんなことが、どこに書いてある?教えてくれ。
大事な部分は細かいところをよく読まなくても分かるんだろ?
大事な部分だけから自分で考えろよ。
他人に聞くなw
598 :
44:2005/08/14(日) 20:58:31
>>597 一本取られたなw。
スピノザの思想の基本テーマからすれば、彼はそんなことは言ってないと
思うよ。
599 :
166:2005/08/14(日) 21:02:13
水掛論か……打ち水はいいぞ。周囲の温度も下がるし、何より涼しい気分になる。
600 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 21:02:29
言ってないと思うのは勝手だが、第1部定理24で述べているのだから仕方がない。
俺は、原典を読んでない人間の妄想よりも原典テキストに基づいて考えるけどね。
601 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 21:04:54
ちなみに、その定理24の証明は「定義1から明白である」なんだよね。
エチカ第1部の定義1から明白に分かることなんだってさ。
「スピノザの基本テーマ」がよく分かっていれば容易に導き出される命題だということだ。
44はマゾ いじめればいじめるほど歓喜に泣き叫ぶ
603 :
44:2005/08/15(月) 21:12:07
>All
>>596で、166さんが折角44をスルーして、43以前へ戻って呉れたのに、
誰も答えられないのか。黙ってると、結局、44の見解が認められることにな
るよ。
俺は、西洋哲学や他人の書いたものに興味はないから、責任負わないが。
>>601 仕方なくエチカの(上)(下)を買ってきたが(岩波文庫、合計1220円也)、
こんなクソ難しい本は俺には理解できん。俺の入門書はどこ行った?
あんたは、本当に理解しているの?
訳者(畠中尚志氏)の前文「『エチカ』について」は、哲学者にしては珍しく判り
易い、達意の文章。
604 :
考える名無しさん:2005/08/15(月) 22:36:01
俺、たぶんニーチェの生まれ変われり…どうしよう…
最近、覚醒したみたい… 最近ニーチェの作品読み始めたんだけど
読み進めるうちに、先の内容がわかってるみたいで
あ、これ俺が書いたやつだ… って… どうしよう
605 :
考える名無しさん:2005/08/15(月) 23:06:25
>604
やばいよ。
出版社紹介するから、次作かいてよ。
606 :
166:2005/08/15(月) 23:06:41
>>603 お前今までの44じゃないだろ。別にどっちでもいいが。
仮に44だとしたら、44の見解が認められることになる、
認められたとしても責任負わないって、
お前、自分の発言に責任負わないの?
まあ、2chならそれも有りか……
>>604 メンヘル板行け。
ロマンチック街道
608 :
44:2005/08/16(火) 22:40:42
>>596 ドゥルーズの「ニーチェ」(ちくま学芸文庫)をちょっと読んでみたが、西洋哲学者
による精一杯の論文という感じで、学生の答案に毛の生えたようなもの(勿論、模範
答案だろうが)。彼も、ニーチェを西洋哲学で毒してしまったという感じ。
ニーチェが「価値転換」したと言ってるが、彼にはニーチェのその価値が何だかよく
判っていない。ニーチェの「力」さえも、再び観念化してしまっている。
ニーチェの「生の欲求」が、生物としての人間の生得的欲求(本能)としても捉えて
いないし、ましてや彼が否定する過去の「諸価値」と、共同体形成維持の本能との
関連などには、全く思い至っていない。俺の採点では0点。
ニーチェは、哲学ではない。むしろ、哲学者や「高位の人間」ではない平凡な生活者
たちが日常絶え間なく行っている行動や思考を、彼独特の美しい、文学的な、詩的な、
かつ饒舌な文体で書き綴っただけものである。生活者たちには、容易に理解できる思
想である。
逆説的には、哲学者ではないから、大思想家なのである。
ただし、ドゥルーズの次の言葉には感心した。
「宗教改革がそうしたようにひとが司祭を内面化したとき、つまり司祭を信者の内面
に入れたとき、宗教は廃棄されただろうか。ひとが神の代わりに人間をすえたとき、
つまり神を逐ったように見えて、実はその本質部分を、すなわちその場を保持した
とき、ひとは神を殺しただろうか。唯一生じた変化は次のことだけである。人間は
外から荷物を担わされる代わりに、自分自身で重荷を手に取り、背中に背負ったの
である。」
これは勿論、彼のニーチェの無理解から来た言葉だが。
609 :
166:2005/08/16(火) 23:23:42
>>608 ちょっと長めに書いてもらったところ悪いんだけど、
問題の理解が根本的に違うのよん。
ニーチェが哲学者でないのはまだいいとしても
ニーチェアリストは哲学者な訳で、それが哲学の歴史の中で
特定の地位を得ていたのかという問題。
簡単に言えばニーチェアリストたちの間でニーチェ理解は正しく
流通していたのかということ。(「正しいニーチェ理解」ではない)
あと、生の欲求が生得的欲求としてとらえて云々も全然違う。
ヘーゲルは花が咲くのを見て「絶対知」を目的として蕾が自己否定した、
とか思っちゃった訳でしょ。
昔の生物学者たちは動物の本能行動を見て、なんかの目的があって
本能としてプログラミングされているに違いない、とか思っちゃったわけ。
その対比でニーチェ的だと書いてる訳で44の採点はハッキリ言ってドーでもいい。
610 :
考える名無しさん:2005/08/16(火) 23:42:11
>>608 >生活者たちには、容易に理解できる思想である。
って、とてもニーチェを理解してるとは思えない奴が書いてもなー
だからって自分を哲学者の範疇に入れるなよ。
自らの理解を確信してる奴の書き込みはアホっぽい。
確信により発言する者と、手段による確信により発言する者・・・
この違いがわかってるかな?
611 :
44:2005/08/16(火) 23:58:33
>>609 だからニーチェは、西洋哲学では理解できないと言っているのです。
諦めたほうがよいと思う。さもなければ、西洋哲学で、せっかくのニーチェ
の思想を、歪曲し、毒するだけ。
あなた方の大好きな、ソクラテス、プラトン、カント、ヘーゲル、
ショーペンハウエルなどを、みな否定して、仏教を賞賛しているのですよ。
ニーチェが共感する西洋哲学者は、恐らくは、ヘラクレイトスとスピノザ
だけ。
仏教やったほうが、早手回しです。彼は、仏教もデカダンスではあるが、歴史
が私達に示す唯一の実証主義的な宗教である。.....私の用語で言えば、
善悪の彼岸に立っている、と言っているのです。
端的には、孟子が言っている、「井戸に落ちそうになった子供に思わず
手を差し伸べる」、この思想ですよ。
612 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:01:25
つーか、誰それの本質を理解していると豪語しときながら
その主著さえ手にしたことがなかった人間がなに言ってるんだ?
>だからニーチェは、西洋哲学では理解できないと言っているのです。
つまり、「西洋哲学が理解できない44のみがニーチェを理解できる」と言いたいわけか。
笑止w
613 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:04:04
それから、ニーチェ支持者のことを言いたいなら、普通は
ニーチェアリストではなくて、ニーチェアンだからな>166
614 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:13:06
仏教と儒教の区別がついてない奴の言うことなんかどうでもいい
615 :
166:2005/08/17(水) 00:21:22
>>611 一行目の「だから」が何にかかってるのかよく分からん。
>>613 一応、ニーチェ主義者のことを言っているのだがそれでもたぶん同じだろうな。
ニーチェアンか……どっかでニーチェアリストって聞いたと思うんだけどな。どこだったか……
>>615 どっかの馬鹿がニヒリストという言葉と混同したと思われる
617 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:28:12
「神がいなけりゃ皆ハッピー!生きていけりゃそれでいいでしょ。
難しいことなんか考えないで健康に生きようよ!」
こんなニーチェ像を提示して勝ち誇ってる44は池沼?
618 :
44:2005/08/17(水) 00:34:57
>>617 「生」は、思考の対象とはならない。思考は、生に依存しているのだから。
同様に、神が人間を造ったのなら、神は人間の思考の対象にはならない。
619 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:42:06
>同様に、神が人間を造ったのなら、神は人間の思考の対象にはならない。
俺は父ちゃんと母ちゃんから作られているけど、父ちゃんと母ちゃんは俺の思考の対象になるぞ。
俺を質料的に形作っているのは細胞だが、細胞も俺の思考の対象になるぞ。
インチキ思想家の物まねでくだらんアフォリズム書いてねえで、少しは考えて書けよ
620 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:50:11
それっぽい発言は、それっぽいが、それっぽいだけだ。
621 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 00:54:36
>>608 「知識人を批判し、平凡な生活者を応援する大思想家ニーチェ」
どうしてもニーチェを自分の味方にしたい低脳が考えそうなニーチェ像だな
622 :
44:2005/08/17(水) 01:47:00
>>619 アホか。父ちゃん、母ちゃん、細胞は、知覚できる(実在する)から、
思考の対象になる。神は知覚できない(実在しない)。
実在しない物を実在すると考えることを「妄想」と呼び、精神障害の症状。
>>622 そういうのって素朴実在論といって、ニーチェには全く関係ないよ。
624 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 02:05:57
>>622 憲法も国家も勇気も愛も民族も数も存在も実体も知覚出来ないんですけど。
あなたはこれらを思考の対象に出来ないんですか? 4歳児ですか?
>>624 サンタクロースが存在しないと気づいた6歳児と同じ精神状態だと思われ
626 :
44:2005/08/17(水) 02:14:49
>>624 それらの観念を基礎付ける実体(国民、国土、身体等)は厳然として実在
するから、思考の対象になる。数も、実体と対応できる。虚数については、
俺は知らん。
神=世界の創造主 ちゃんといるじゃん
628 :
考える名無しさん:2005/08/17(水) 02:21:27
>>626 数学上の概念を基礎付ける実体とやらは、脳の中の配線や紙に書かれた数学記号などだろ。
普通の言語で書かれた物語上の登場人物(サンタクロースとか)とかわらん。
もうちょっとつっぱれや。
629 :
44:2005/08/17(水) 02:30:44
>>628 数も最終的には、実体に拠って検証されなければならない、という意味。
リンゴ1個に、もう一つ加えると、リンゴ2個になるから、1+1=2
が証明される。古代人はそうやって数の概念を作り上げた。
>>626 観念を基礎付ける実体が実在していれば良いなら
神だって「聖書」っていう基礎付ける実体があるじゃねーか。
そもそも神が実在しないと証明できるのか?
631 :
44:2005/08/17(水) 02:33:02
>>627 世界は見えるが、創造主はどこにも見えない。だから、創造主は実在しない。
44も浅はかだが、キリスト教原理主義者(を装って煽ってる奴)もアホだ。
44はよくありがちな哲学初心者なんだから、もっと優しくしてやれよ。
633 :
44:2005/08/17(水) 02:38:03
>>630 聖書という物体からは、神の概念は発生しない。本などいくらでもある。
人間にとっては、(必要な場合には観測装置を使って)五感で知覚できる
物のみを、実在という。
それじゃあ「生」も実在じゃねえな。
知覚できるのは、あれこれの物質的存在及びその運動のみで「生」そのもの
など知覚した人間はいない。
635 :
44:2005/08/17(水) 11:57:25
>>634 だから、前レスで「生は思考の対象にはならない」とちゃんと言ってるでは
ありませんか。
生の「結果」として生じた身体動作や思考のみが、思考の対象となる。
636 :
166:2005/08/18(木) 00:03:50
ニーチェ思想のテーマは知覚し得ないから実在しないし、思考の対象にもならない。
ニーチェ思想から生じたテクストのみが思考の対象になりうる。
……44も言うこと変わったなぁ。
>>635 「生物学的な生」を連発して、それをニーチェの思想の基盤だと言い張っていた人物が
いまさら「生は思考の対象にはならない」と述べても何の説得力もないと思うが。
638 :
44:2005/08/18(木) 15:21:46
>>637 「生物学的な生」とは、五感で知覚可能な、「表現された生の現象」のことである。
これは思考の対象となる。
「生そのもの」は、思考の対象にならない。思考は、生の結果に過ぎないからである。
ニーチェのいう「生の欲求」とは、生物としての人間の、すべての学習された価値
や観念を取り去った、生得的生存欲求のことである。それは、人間の思考・観念・
価値の外にある。さもなければ、彼の「価値の転換」は、単に従来の価値を、新たな
価値に取り替えたに過ぎない。ニーチェは、彼のいう「生」について、必ずしもうまく
言い表せてはいない。生が、思考の外にある以上、当然のことだろう。
西洋哲学の実存主義は、生を思考し、観念化するという誤りを犯した。これは、新た
なる観念論である。
すべての思考は、生の最も直接の結果としての、五感で知覚可能な実在に根拠をおく
ものでなり限り無意味である。その思考の適否・正誤を判断する基盤が存在しない
からである。しかし、実在を抽象化すれば、それはもはや観念となる。
639 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 15:33:21
>>638 「44の定義する生」=存在、であるような実存主義ですか?
640 :
166:2005/08/18(木) 19:05:31
>>638 「生そのもの」が存在という性質を備えているかいないか思考不能であるため
その議論は無意味だと思う。
641 :
44:2005/08/18(木) 20:43:10
>>640 生の現象としての人間の身体は、人間にとっては厳然として実在する。ニーチェは、
人間にとって実在するもの(それが仮象であるとしても)を、思考の基盤とした。
神がいることの結果としての信仰も人間にとって厳然として実在するんだが…
どうも基準がわからん。
643 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 21:01:26
基準=44の手前味噌
何だ、そんな前のものにレスして!
レスは死んだんだ、誰が殺したって?
我々が殺したんだ!
645 :
44:2005/08/18(木) 21:11:19
>>642 神は、人間の五感によって知覚できないので、人間にとっては実在しない。
ゴキブリの五感では知覚でき、従ってゴキブリにとっては神は実在するかも
知れないが。
646 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 21:12:56
>>645 生そのものは、人間の五感によって知覚できないので、人間にとっては実在しない。
ゴキブリの五感では知覚でき、従ってゴキブリにとっては生そのものは実在するかも
知れないが。
ということ?
647 :
44:2005/08/18(木) 21:16:04
>>646 そうかもしれないね。ゴキブリに聞いてみてくれ。
648 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 21:27:35
>>647 生そのものは知覚できるが思考の対象にならないの???
マジでわからんよ。
ゴキブリは早く生まれすぎた!
主観的な体験に基づいた前期プラトンの方が反論に答えた
後期プラトンより魅力的なので、あんまり突き詰めてもよくないんだが、
しかし何か生を実感するような高揚感があったのなら、しかしそれは
まんま実存主義だししかし44はそれではないというし、結局
44勉強不足かな?
主観的な体験に基づいた前期プラトンの方が反論に答えた
後期プラトンより魅力的なので、あんまり突き詰めてもよくないんだが、
しかし何か生を実感するような高揚感があったのなら、しかしそれは
まんま実存主義だし、しかし44はそれではないというし、結局
44の勉強不足かな?
だめぽ
653 :
44:2005/08/18(木) 22:00:10
>>648 人間にとって、生の結果(人間の身体、行動、表現された思考)などは
知覚できるので、思考の対象となるが、「生そのもの」は対象とならない。
思考は、生の結果に過ぎないのだから。
「生そのもの」とは何かは、動物や幼児の生態観察や、人間が後天的に学習
した一切の知識、価値、観念を捨て去るという引き算方法により、窺い知ら
れるかも知れない。
しかしやはり無理か。生の結果である思考で「生そのもの」とは何かを問う
ことは、問いに対して問いによって答えることになるからである。
まあ、あまり難しく考えなくても、人間の「生」とは、生得的欲求による
肉体的自己保存だと考えておけばよいのではないだろうか。即ち、死が怖い、
腹が減る、セックスしたい、などが、生の結果である。
654 :
166:2005/08/18(木) 22:09:59
>>653 それなら結局因果関係とは何かという問題になるんじゃない?
神が存在した結果として世界があるとも言えちゃう訳だし。
あと最後の三行読む限り生について思考できてるじゃん。
概念化を拒むような根源的な生を実感してるのならそれはそれでいいじゃん。
意識と本質とか読ましてやりたいよ。そういう実感はギリシャ以来ありふれて
いるってのがわかるとおもうんだけどね。
>>655 概念化できないもんを学問に持ち込むなよ
657 :
44:2005/08/18(木) 22:41:04
>>651 >>655 「生の高揚感」「生の実感」などという甘ったれたものではなくて、人間
が生存しているという、他者にも知覚可能な、厳然たる事実だよ。
プラトンなどの妄想西洋哲学者と混同しないでくれ。
658 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 22:52:05
「弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである。
これがすなわち我々の人間愛の第一命題である。
徹底的に没落するように援助することは、われわれの義務でもある」(反キリスト)
これはニーチェ流の冗談ですか?
659 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 22:58:15
>>658 小泉政権とか米国共和党の考えってのはこのままじゃん。
世の中には弱者救済とは相反する思考形態ってのがあるのよ。
660 :
44:2005/08/18(木) 23:06:57
>>658 冗談ではなくて、ニーチェの結論。既成観念と価値観に呪縛された人間
が没落した後に、新たな、かつ真の人間が生まれる、という意味。
661 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:08:18
662 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:10:42
>>661 人間は自分の面倒を自分で見るのが原則で、弱い人間を助けるということは
怠けた人間が得をする仕組みを作ることなのでそれをすると社会全体が衰退する
という考え、またはそれに基づく政策だよ。
663 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:16:56
そのわりにアメリカは福祉とかが発達してるみたいだが
664 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:18:56
悪いけど、ニーチェの示す価値観を受け入れる義務なんて誰にもないから。
真の人間とやらになりたい奴は勝手になれ。
665 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:20:05
>>663 米国民主党はあれだ、弱い人間を自立できるところまで助けた方が
世の中が良くなるという考えだ。政権交代をするたびに民主党が
福祉を厚くして共和党が薄くする。それでバランスが取れているらしい。
666 :
44:2005/08/18(木) 23:25:54
>>664 ニーチェは、価値を否定している。価値感などではなくて、医学的、生理学
的な「事実」を指摘しているだけだよ。
667 :
166:2005/08/18(木) 23:28:11
でも医学的、生理学的に優れていることは価値に当たるわけだ。
それ以前にここはニーチェスレなので664はもうちょっと考えよう。
最終的にニーチェ批判で終わるにしても、ねぇ。
668 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:29:27
ニーチェの考える貴族の徳や古典期以前のギリシアだって根拠のないフィクションだろ。
ニーチェに共鳴して貴族精神を持ってるつもりの人間は頭がおかしい。
武士でもないのに武士の心を強調する馬鹿な日本人が多いけど、それと似てる。
669 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:29:33
>>664 レーニンは既成観念と価値観に呪縛された人間が没落した後に、
新たな、かつ真の共産主義人間が生まれるとして集団農場を作り
大量の餓死者を出してしまったよ。44が政治的指導者にならない
ことを祈るばかりだ。
670 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:31:03
>>666 >ニーチェは、価値を否定している。
そりゃ初耳。どのテキストで価値を否定している?
671 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:32:45
>>668 弱者が強者を恐れるあまりに強者の真似をするということはよくあるのよ。
子供がお化けを怖がるとお化けの真似をして恐怖を和らげるのに似ている。
672 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:38:03
>>671 自分が弱者・低脳であることを手っ取り早く否定したいために
強者の価値観を振りかざすというやつかな。
673 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:39:58
>>672 それも根源には恐怖があるのよ。しかし我々はそういうメカニズムを
フロイトが整理したから知っているのであって、ニーチェの時代には
まだそういう理論や理論に基づいた自己洞察はなかったのよ。
ちなみにニーチェがフロイトの登場を予告していたという意見はある。
674 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:42:22
>>673 >それも根源には恐怖があるのよ。
このケースでは「虚栄心」でしょ。
675 :
166:2005/08/18(木) 23:44:47
ニーチェの時代にはそういう理論が無かったのは確かだと思うが、
無意識の発見がフロイトより前であることは指摘されている。
そうなるとフロイト的な考え方が出てくるのはむしろ自然。
676 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:46:38
>>674 見栄を張るのも見くびられる恐怖があるからなのよ。
コンプレックスとか劣等感とかいう奴。俗にいう劣等感の裏返し。
しかしこういう用語はフロイト以降のものでニーチェの時代には
なかったのよ。
677 :
44:2005/08/18(木) 23:51:06
>>670 ニーチェは、そのほとんどすべての作品で、既成の価値を、「生を弱化させる
もの」として否定している。これがニーチェの基本テーマ。
678 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:53:10
じゃ生を強化させるものは何なんでしょうね
679 :
166:2005/08/18(木) 23:57:05
この流れだと問題は既成の価値じゃなくて価値一般なんじゃ……
680 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 23:58:37
>>677 じゃあ「生を強化するもの」は価値があると思ってるんだろ。
「価値」を全く否定してない。
ニーチェのいう価値についての議論がまるでわかってないな。
どうりでドゥルーズの易しいニーチェ入門を曲解するわけだ。
681 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:03:03
「あんなものは無価値です!これからはこっちのほうが価値がありますよ〜」
ニーチェはセールスマンかw
682 :
44:2005/08/19(金) 00:07:43
>>680 「生を強化するもの」として、価値ではなく、生物としての生の欲求という
「事実」を持ち出している。
ドゥルーズは、西洋哲学の観念に毒されているから、ニーチェなど理解でき
ない。
683 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:10:51
>>682 「価値なんて捨ててこれからは事実だけ考えて暮らしましょうよ」
↑
こういう主張をしてる文章を挙げてくれよ。
684 :
678:2005/08/19(金) 00:11:28
おれのことかな?
いや、全然価値があるとは思ってません。あったほうがいいなあと思うことは時々あるけど
ジル・ドゥールズさんの議論はあまりフォローしてませんが、フツーにポストモダン的ニーチェ
でいくと、価値はなんつーか、太い一本じゃなくて、あちこちに何本も拡散していく、というイメージ
あれ、それを「ツリー」と「リゾーム」で分けて説明してたのがドゥルーズじゃなかったかな
ガタリも一緒だったかな?
ともかく、そのあちこちに拡散していくそれぞれの、要は「力」の問題ではないですかね。
それにしてもこの「力への意志」の「力」って現象学の「志向性」とソックリな気がするが
「校則が厳しいと生きる気力がなくなっちゃうよ」程度の議論という予感がしてきたよ…
686 :
166:2005/08/19(金) 00:11:51
じゃあ680が「その事実を認識した上で旧来の価値を認める」と主張したら、
ニーチェ主義者は一切反論できないことになる。
価値を否定するには新しい価値を持ち込むか、価値という思考習慣自体を否定しなければならない。
ニーチェがどう考えていたかという結論はつけんが、44の説明はどちらについても成功していない。
687 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:13:54
44はオザキに嵌った過去があると言えよう
687は宇野コーホーに嵌った過去があると言えよう
690 :
44:2005/08/19(金) 00:20:11
>>686 「生の欲求」という事実も、価値と言えば言えるだろうが、観念的な価値とは
性質・内容が異なる。
691 :
166:2005/08/19(金) 00:23:27
>>684 そのポストモダン的ニーチェ理解も違うとは思うが……
ドゥルーズはニーチェ、フロイト、マルクスを現代思想の源流に据える考えを否定し、
フロイトとマルクスは現代の文化の源流だがニーチェは反文化の源流であると述べている。
家族によって生じた病を今までとは別の家族によって治そうとするフロイトと
国家によって生じた病を今までとは別の国家によって治そうとするマルクスを、
「地平線の上で脱コード化されつづけている物を再コード化する」と批判し、
ニーチェはコード化されえないものを流通させようとしていると賞揚している。
この点からも690がドゥルーズを理解していないのは事実といえよう。
686の二択でいえば後者を考えるべきなのだ。
692 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:26:35
10000円には価値があります。
働くことには価値があります。
善い行いには価値があります。
研究活動には価値はあります。
ニーチェの言葉には価値があります。
福音書には価値があります。
愛することには価値があります。
生きることには価値があります。
「価値」の意味をよ〜く考えろ。>44
693 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:26:36
694 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:28:28
ニーチェは一流のブラックジョーカー
たまにそのジョークを真に受けてナチスみたいなのが現れる危険なジョーカー
695 :
44:2005/08/19(金) 00:33:06
>>692 生の欲求そのものは、価値の外にある。すべての価値観は、生から生じる
結果に過ぎないのだから。
696 :
166:2005/08/19(金) 00:34:31
>>693 「無人島1969−1974」は3500円もするがまあ価値はあると思う。
この説明はほぼ完全に引き写しだから。(34章ノマド的思考)
……訳の問題があるという人もいるがご愛敬。
>>694 ナチスネタはむしろアセファルの面々が語り尽くしたとも言える。
何にせよナチスはもう忘れよう。
>>695 690と矛盾してるぞ。
697 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:40:46
698 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:42:09
>>695 「生きてること」が何より偉いわけか。
そうすると、弱者がより安心して生きていくために奴隷道徳を身につけるのと
強者が勝ち誇った美しき道徳を見につけるのとは等価だな。
キリスト教道徳を身につけると寿命が縮むなんていう生物学的根拠はないだろ?
699 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:42:46
>>697 バタイユが中心となって雑誌作ったりした運動
700 :
44:2005/08/19(金) 00:42:49
701 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:45:20
>>690の「観念的な価値」という言葉がおかしい。
観念と事実をばっさり二分して、価値を事実にくっつけることが出来るとでも
思っているかのようだ。
702 :
678:2005/08/19(金) 00:46:08
え〜別に援護するわけじゃないけど、「生」=生命至上主義ではないでしょう
どちらかというと、「のびのびとした」という意味じゃないの
それを、道徳が、価値が、無難な人間に飼いならす…
と、ニーチェの師匠のカリクレスも言っていたのだ
703 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:48:58
>>702 なるほど、「のびのび」してることに価値があるのか。
エミールのルソーとどう違う?
704 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 00:56:53
>>703 案外あんまりちがわないのかもよ。44がさっきレーニンみたいなこと言ってたし、
レーニンはロベスピエールを経てルソーの影響を受けているし。
705 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 03:42:24
ニーチェって釣り師だったのか…、俺本気にしてた
706 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 04:25:12
のらりくらりとテーマをずらし、論証をぼかしながらヒット&アウェイだろ?
釣り師そのものじゃん。
707 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 04:43:05
よい釣り師、わるい釣り師。
どうしてそれが生について考えたことになっているのかと聞かれたらば、
後から考えたものだからだ。
709 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 20:24:37
ゲイの出会い系で知り合った10歳以上年上のオジサンの家へ。
そしたら「これ着て責めて欲しい」と言われて、レンコン掘りというか、
魚河岸の人が着てるような胸まであるゴム長を着させられ、捻りハチマキをさせられた。
向こうは全裸。
まあこんなのもたまにはいいか、と愛撫してたら、オジサンが喘ぎ声の中、喋りだした。
「お、おにいちゃん…お、おかえりなさい…た、大漁だった?ねえ大漁だった??」
…オレは突然の、しかも想定の範囲を超えたセリフにポカーンとしてしまった。
オジサンは素に戻って、「…返事して欲しい」と恥ずかしそうにオレに言った。
プレー再開。
耳とかをなめつつ体中をさわさわと触る
「お、おにいちゃん、大漁だった?」
「ああ、大漁だったよ」
「あぁぁぁあぁすごいいいぃいぃ!、、な、なにが、、ハァハァなにが捕れたの?」
乳首を舌でやさしく舐めながらオレは答えた
「…鯛とか、、、ヒラメがいっぱい捕れたよ」
セリフを聞き、オジサンはびくんびくんと身体をひきつらせた
「はっ!はぁぁぁあんっ!イ、イサキは?イサキは、と、取れたの??」
チンコをしごく
「ああ。でかいイサキが取れたよ。今年一番の大漁だ。」
「大漁っ!!イサキぃぃ!!おにいちゃんかっこいいいいぃぃぃい ぃくううううう!」
実話です。。きっと漁師の人との幼い頃の体験というか、淡い恋心とかが
あったんだろうなあ、といろんなことを考えさせられた一夜でした。
710 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 20:38:14
多摩川。もうやめとけ
711 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 22:12:57
ニーチェがフェミニズムを批判してるって事はフェミニズムはその頃からあったのか
フェミニズムって田島みたいな奴が出てきて最近流行ったものだと思ってた
712 :
考える名無しさん:2005/08/19(金) 23:49:05
ニーチェって相当頭いいからまんまと釣りまくったな
自分でも言ってるじゃないか
「私は最も腕のいい釣り師だ」とかなんとか
713 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 02:06:44
ニーチェの「道徳の系譜」を読もうと思いますが、
誰かどんな内容か、ダイジェストで教えてくれると助かります。
あの独白調子のニーチェ節が正直苦手ですので。お願いします。
714 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 18:23:36
715 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 18:24:36
フィジー人は其(その)最愛の妻すら、少しく嫌味(いやみ)を覚ゆれば
忽(たちま)ち殺して其肉を食うと云う。
又タスマニヤ人は其妻死する時は、其子までも共に埋めて平然たる姿なりと。
濠洲の或る土人の如きは、其妻の死するや、之(これ)を山野に運び、
其脂をとりて釣魚の餌となすと云う。
716 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 18:27:51
>>713 勝てない。
くやしい。
あいつが「悪い」
俺は「善い」
717 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 18:58:32
>>716 つまりルサンチマンと善悪が階級闘争的側面もあったというこ
とでしょうか?
↑無駄口叩いてる暇あったら読めよボケ、という事です
719 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 20:16:25
>>713を書き込んですぐ読んでました。その間書き込みがあるかを休憩
がてら確認してましたが、先程読了しました。なるほど、フーコーが
絶賛するのも分かります。
>>718に書き込んだ方、失礼でしょう。
ニーチェが道徳の相対化を行った業績は大きい。さらにニーチェの哲
学は、使用上の注意をよく読んで下さいと但し書きをすべきである。
ニーチェは「方法」ではなく「問題提起」を行った。私はニーチェを
そう読み込んでいる。
720 :
166:2005/08/20(土) 20:29:04
どのような問題提起?
フーコーは系譜学というのが気に入ったのか自分でも使ってたよな。確か。
……あと、まあ2chに書き込むからには失礼上等と思って許してやれや。
721 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 21:03:57
>>720 そうですね。喧嘩を売りにきたわけではないので。
問題提起
@ 「真理を語ろうとする人は何のために語ろうとするのか」
ほとんどこの@に集約されるけれど、自己に対する誠実さという判断
基準を新たに提出している。
A 哲学者の「土台」を疑問視した。苦悩は慰みを得るものではないか。
自身の欠陥を世界の本質に由来すると見なして責任逃れをしていないか
と考えた。陽気なディオニソス的ペシミズムとして突破口を提出したが
同時にこれは、自己矛盾を抱えることになる。ニーチェの哲学は思索上
矛盾を抱えたまま強引に展開されている所があり、これが発狂にも繋が
ってはいまいかと私個人は想像している。
B真理は「誤謬」と言った。さらに「神は死んだ」と告げた
ここにもニーチェの矛盾が隠れている。世界は生成であるという「真
理」を提出しながら真理は「誤謬」と言っている。「悦ばしき知識」と
「生成と無垢」を比較すると出てくるパラドックス。それを「神は死ん
だ」と「ツァラトストラかくかく語りき」で爆弾発言をする。
722 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 21:06:28
>>714 太宰もキリスト教の本質突いてる一人だったけど
汝己を愛するがごとく〜に縛られたまま死んじゃったね…
723 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 21:17:51
C道徳批判を展開、道徳の地盤を揺るがす。
これは、「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」で道徳を解体してしまった。
ニーチェの最大の業績と影響はこれで、現在まで続く。「超人」哲学を
展開。善悪を超越し、全てを永劫回帰という繰り返しに耐える「超人」
を提出。しかし、これがニーチェの最大の「偶像」ではなかったか。
「超人」という新たな「理性」でこれを超越できるのか。西欧での最
も問題とされる疑問の中心を提出した。
Dニヒリスムを考える
ニヒリスムが現代人の根元まで降りているが、ニーチェが予言した通
りの展開となり、無視できない哲学者になった。彼が能動的ニヒリスム
を作ったが、それは着いて行くことができそうもない。
724 :
716:2005/08/20(土) 21:31:29
なかなかいい要約だね。
ちなみにAの「発狂の原因」については、
一)全く彼の思想と関係ない
二)永劫回帰と関係がある
という意見がすぐに頭に思い浮かぶな。
二)については
「不快なことは結局(歴史上の)どの人物も自分でしかないということだ」
と発狂後に述べていることから、
漏れもこの二)はあたっているんじゃないかと思う。
笑っている自分も、
泣いている自分も、
自分であることを勇敢にも引き受ける。
この引き受け方はラクダのように、では無いんだけど。
725 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 21:40:39
>>721、
>>723と非常に多くの意見が出そうですが、「ツァラトストラかくかく
語りき」で「人間が復讐から開放されること、これが私にとって最高の希望で
への橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である」というルサンチマン
の哲学を展開している。ルサンチマンというのは「怨恨」とかの訳が多いが、
不満、憎悪、傷つきやすさも含まれている。もともとはフランス語の転用らし
い。さらにニーチェは「正義感」も含めた。正義感が復讐心を含んでいるとい
う。
E「力への意思」
これについてはまだ示唆に富んでいる。かつては「権力への意思」と訳され
ていたが、これは妹エリザベートによるものでニーチェ本人にそって考えれば
「力」としたほうがしっくりくる。
Eはバタイユもかなり気にしていた。これが「現代思想」に与えた影響は大き
い。
F永劫回帰の思想
Cでも書いているが、これが「永劫回帰」なる概念で語られる必要があった
のか、という問いでもあり、ニーチェはその疑問に答えてない。
726 :
716:2005/08/20(土) 21:44:39
「人間が復讐から開放されること、これが私にとって最高の希望で
への橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である」
ってのはニーチェの本音だろうね。
でも、無理でしょう。
ニーチェ本人、よくわかっているはず。
彼の粘り強い思考がルサンチマンから出ているというのは言いがかりではあるけど、
あたっていると思うな。
727 :
166:2005/08/20(土) 22:00:30
>「力」としたほうがしっくりくる
俺も前そう思ってたが、そもそも訳語だし
ドイツ語わからないけど英語のPower、フランス語のPuissanceだとすると
権力というのがまっとうな訳語ではある。
……でも俺は未だに力の方を使う。
あと、7について、このスレのずうっと上の方で永劫回帰を反復と見なす
考え方が出ていた。(別にそれほど斬新ではないが)
ニーチェはほんとに同じことが回帰すると思ってたのか? 疑問ではある。
なんつうかね。このスレを楽しく見ている者としては
44のような妙な盛り上げ力がある人がいるといないとでは全然違うんだな。
子供のおもりのような166は自分で話題を展開するには至ってないし、
>>713=
>>719に至っては、閉鎖的で独善的でほかの参加者の気持ちを考えていない。
きみらのレスのやりとりが始まった瞬間、スレが硬化したよ。
誰も書き込まなくなったのはどうしてだと思う?
>>726 無理であるとはニーチェ本人は思ってないと思うよ。
可能性としては限りなく低くても0ではないと考えてたと思う。
ニーチェの生きてる時代は無理だった。
100年経った今も無理っぽい。
あと100年、200年、1000年、2000年後はどうか?
それとも一度文明が滅んで立ち直った時はどうか?
0でない可能性に賭ける希望くらいは持ってないと、
あの思想にはあまりにも救いがなさすぎる。
>>727 永井均氏の「これがニーチェだ」からだと、
永遠回帰については「輪廻転生」や「あの世」の否定と見れるそうだ。
今生きている以外の在り方(があると考える妄想)を
現実の今そこにある在り方に引き戻す力技。
「君には今生きているその生しかありえない。
生まれ変わって新たな生がある?あの世にて浄福が約束される?
何を言う、繰り返すが君には今生きているその生しかありえない。
(何度生きても、何度生きても、何度生きても、その生しかありえない。)」
ということの強調。↑は永井氏の解釈をさらに私の解釈を加えたものになってしまったけど、
妥当な線はいってるんじゃないかな。
730 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 22:30:29
永劫回帰というのはニーチェなりの仏教理解から来ている概念ではないかね。
つまり輪廻転生。輪廻転生という前提から来る徒労感からの脱出を描くことで
自らを仏陀になぞらえたというだけで、実際内容はあんまりないんじゃないかね?
「限界的な境位」って非日本語なんだよなあ。「境位」(さかいくらい)
「げんかいてきなさかいくらい」が力への意思ってさあ。
きょうい、って読むんじゃないんだって。
エレマン=エレメント
732 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 22:46:55
宗教を批判してるニーチェでさえ仏教を認めてるんだから
仏教って相当完成度高いって事だな
>>732 だがしかし、その仏陀は一切の信仰を持つなと説いている
仏陀は宗教を持つなと言っているんだよ、では今実在している、仏教とは何か?
仏陀というカリスマの権威を利用した、弟子が作った宗教なんだよ
734 :
考える名無しさん:2005/08/20(土) 23:45:30
仏陀も宗教批判者だったのか!それは知らなかった
ていうか本当にそんな事言ってたの?どこのソース?
735 :
166:2005/08/20(土) 23:50:00
>>728 展開できてないのは悪かったよ。でも44が去って、
書き込みが減ってから一連のやりとりが始まったんだと思うぞ。
>>729 これがニーチェだ、は昔読んだけどそれだと現状追認になると思う。
反復だとすると説明つくけどニーチェはそんなこと言ってない。(と思う)
まああの本も入門書だし永井氏は問題を解決できるのかも知れないが。
>>730,732
永劫回帰というアイディアが仏教的だというのはいいとして、
ニーチェの思想が仏教的とは全く思わない。
輪廻は今生の出来事に対して来世で報いるためにある。
回帰は報いなど無く同じものが繰り返す。
回帰と輪廻で言えば、バタイユは来世を否定している。
人物aが昨日のaや明日のaを気にするのと同じように
来世のaを気にするのは変だ、前世のaを気にするのは変だ。
地球の裏側の見知らぬ人を気にする方がまだわかる、
というようなことを書いている。(文面は違うし、出典も忘れたが)
736 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:03:29
>回帰は報いなど無く同じものが繰り返す。
前世とか来世は有るって事?
737 :
729:2005/08/21(日) 00:16:56
>>735 永遠回帰は「あの世」や「輪廻転生」などの
(断言させたもらうが)ありえない仮定に対抗する為の
ニーチェ独自のありえない仮定だと私は考えるんだが・・・
「永遠に同じことが繰り返される」も「あの世」や「輪廻」と
同じくらい突拍子もない(というよりどれも観測不可能)
な話だからね。
だから私は先に述べたように永遠回帰は現状追認であっても
「あの世」や「輪廻」に対する対抗要件だとやっぱり思うんだ。
そんなわけで私としては永井氏の解釈を取りたいところ。
「思う」だけじゃこれ以上何も言えないから、
説明できるだけの考えがまとまらない限り
この件についての発言は控えます。
738 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:24:23
整理してみよう。
「何が」永遠回帰するのか?
740 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:35:55
永井っていうか永井の文章って何か好きになれない
741 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:43:01
仏陀が何も信仰するなって言ったのは嘘なんだな
742 :
166:2005/08/21(日) 00:49:02
>>736 前世や来世は語る価値が無いってこと。
>>737 なるほど……この件に関してお互い「思う」だねぇ……すまん。
少なくとも回帰はキリスト教の新生は否定されるし、来世での報いもない。
永井氏の考え方でもその点では問題ない。
>>741 釈迦は神の声を聞いて仏の法を世に広めようと思ったのだ。
743 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 00:49:38
745 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 03:21:53
>>743 信仰しろって言ってるんじゃないのかq?
746 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 04:54:58
ニーチェが「弱者のルサンチマンから生まれる奴隷道徳」と言ったのは現代では「会社主義」や「産業倫理」にあたる。日本人はニヒリズムの深淵を「会社の論理」と自分の人生を重ねる事でごまかしている。ニーチェの様なニートになるかアントルプルナールなる事はしようとしない人が大半
747 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 08:29:30
会社の朝礼で某倫理教本を読み上げなければならないけど、
自らが率先してそれをやらなければならない役目なんでかなり鬱。
ただのハウトゥ本に倫理的価値を付加しやがって・・・
748 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 13:54:31
死にたい
749 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 15:21:51
>>743 信仰するななんて一言も言ってないじゃんw
750 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 15:25:39
仏陀が死ぬ前に教団を解散した事が誤って仏陀が信仰を否定したことになってひろまっているものとおもわれるよ。
要するに耳学問しかしてなくて
ろくに本読んでないってことね
752 :
考える名無しさん:2005/08/21(日) 16:18:27
>>746 「会社論理」
もちっとはっきり言えば?ピクミンだって
754 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 19:21:06
「”われらは禁断のものを求むるなり”。この旗印の下にいつか私の哲学が勝利を収める日も来るであろう」(この人を見よ)
ニーチェ思想は完璧に敗北して、マルクス主義は復活する可能性はあってもニーチェは絶対に無いと永井が言ってたが。
755 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 19:22:53
絶対など無い
756 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 19:28:10
人類はもうすぐ離婚します
757 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 20:01:04
>>754 さしあたりの現状じゃ永井さんの言う通りだろうな。
はるか未来に期待age
758 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 20:11:26
ニーチェは現代哲学やポストモダンの祖のように思えるよ。
そこでは哲学と文芸批評とが混交している。いや、唯の文芸批評ではないか。
これらは一見、哲学の大衆化のように見えるが、実はまがい物のような気がするよ。
しかしカントの平和論と同じで、長い目で見れば違うかも知れないよ。
フランスにおける、哲学と文芸批評が混交したスタイルの祖はサルトル。
ニーチェには文学の素養も哲学の素養もないよ。
760 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 11:52:30
「マルクス主義は復活する可能性がある」(笑)
死にぞこないが寝言たれていますね。
マルクス主義の復活はないが、マルクス自体は読まれてるじゃん。
762 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 12:05:46
ヘーゲルやマルクスは結局人類の幸福に貢献しなかったということで、
読まないよう指導されている人も増えているようだけどね。
763 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 12:54:12
マルクスほど人類に影響与えた哲学者もいないぞ。
哲学界としては浜崎あゆみ並のヒットだ。
カントとかヘーゲルは別にいなくても人類の歴史に影響与えないからな
764 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 17:35:33
ニーチェの思想にはエントロピーの法則が考慮されていないらしいけど、
なんかまずいことあるの?
765 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 20:53:23
エントロピーの法則って何?
>>764 科学的に見ても正しい思想を作ろうとして必死扱いて物理の勉強をした
ニーチェの苦労が無駄になる。
767 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 21:08:14
いや、でも収縮説では宇宙は縮まってまたビッグバンを起こすらしいから、
あながち永劫回帰が間違いともいえないぞ
768 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 21:08:57
>科学的に見ても正しい思想を作ろうとして
ニーチェってそんな事しようとしたの?
769 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 21:14:44
ビッグバン直後の宇宙と収縮した宇宙とを同じものだと考えたのは
人生最大の誤りだった、とかホーキングが行っていなかったっけ。
宇宙が収縮し始めたとたんに時間が逆戻りする訳じゃないからね。
クソレスしちゃったよ。
771 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 23:21:03
>>765 エントロピーってのは複雑さ・乱雑さ・無秩序さを現す物理量。
元々熱力学から来てる。
10℃の水100ccと20℃の水100cc混ぜたら15℃の水200ccになるわな。
慣れないと感覚的に納得しにくいだろうけど、
混ざり合って"安定した状態"「ではなく」
混ざり合って"無秩序状態"になってると見なされる。
10℃の水100ccと20℃の水100cc→混ぜ→15℃の水200cc 可能
15℃の水200cc→分離→10℃の水100ccと20℃の水100cc 不可能(原理的に可能でも難しい?)
10℃の水と20℃の水が各々分離していた方がより便利な(エントロピーが小さい)状態。
混ぜずに使うこともできるし、混ぜて使うこともできる。
既に混ざってる状態(エントロピー大)だと
分離できないからそのまま使うことしかできないでしょ。
まぁこのくらいの説明じゃよく分からんだろうから興味があるなら
講談社ブルーバックスの『マクスウェルの悪魔』をお勧めする。
>>764 ニーチェは平等主義(みんな混ざって均一化)も批判してたから
むしろエントロピーの法則の上等な状態(エントロピー小)を保とうとしたと思われ。
考慮してたかどうかは知らんけどね。
僕はニーチェは「社会的なマクスウェルの悪魔」と思ってるよ。
>マクスウェルの悪魔
アマゾンにないんすけど
773 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 01:36:22
マクスウェル→マックスウェル
ありがちなミスだなw
771の視点はなかなか興味深いね。
ニーチェが悪魔というのが思想的に意味深だ。
有益な悪魔なんだけど。
哲学はエントロピーを増大させるだけのゴミ学問w
しかしプリンシプルとして確立されたのは全学問の中でも最速の部類
776 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 10:59:35
個々の哲学者を後の時代の自然科学との比較で裁いちゃいかんよ。
そもそも職業的哲学者というのは同時代の問題を発見し文献学的に根拠付けるヤシだろ?
それは分析哲学ってやつのことか?
哲学は金持ちか暇人か変人の道楽だな
古代ギリシアでは日常のことは全て奴隷にやらせていた
そして自分たちは地中海の陽をあびながら哲学や数学や芸術に励んでいたってわけさ
780 :
44:2005/08/25(木) 22:31:46
アクセス禁止を食らっている間に、「善悪の彼岸」と「道徳の系譜」とを読了したが、
ニーチェの思想の基本テーマは、前レスでも述べた「生物としての人間の生存欲求
(本能)」であることの確信には、いささかの揺るぎがなく、むしろ強化された。
この生の欲求に最も反するものとしての、キリスト教道徳に対する批判は、上記2著
においても一貫している。
しかし、ニーチェは、これもすでに述べたように、共同体形成・維持の本能が、生の
本能から派生するものであることに、思い至らなかったから、彼の道徳論はいささか
無理があり、生彩を欠く。
それにしても「生物としての生の本能がすべての思考の基盤」という極めて簡単な
原理を、よくあれほど敷衍して、饒舌に語れるとは、驚き以外の何物でもない。
ところで、西洋哲学における思考の基盤は、一体何ですか。思考など、基盤次第で
ドーにでもなるものなのです。
781 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 22:33:16
>>780 観念が実在するという実在論だよ。これには不幸な歴史があるんだが、事実としてはそうだ。
782 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 23:09:23
783 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:05:14
真理とは、しばしば大いなる不適応である。
784 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:27:08
>>781 観念実在論とは、撞着語法のような気がします。そもそも、実在とは、
専ら物質について言えること。共同体である人間界においては、不特定
多数人がその五感でほぼ同一に知覚できる物を、実在と言います。例外は
皆無です。
一方、観念は、各人の脳内で百人百様。仮に「共通の」観念が存在する
としても、それは先人の影響による後天的な学習の結果であり、先入観に
過ぎません。その先入観の典型が、キリスト教の「神概念」でしょう。
ニーチェは、思考の基盤として、実在する人間において観察可能な、生得的
の「生の欲求」という、人間にとって唯一の普遍を思考の基盤としたこと
が、大思想家である所以だと思います。
785 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:30:28
唯物論、観念論とも実在論に含まれる。
実在が観念か物かで分かれる。
786 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:31:31
>>784 しかしそれだと、「人間は善について他人とどう合意を持てるか」という
哲学のそもそもの問題に答えらないのです。つまり哲学以前に戻ってしまっている。
むつかしいですね。
787 :
44:2005/08/26(金) 00:48:21
>>785 観念の実在を、一体どうやって検証できるのでしょうか。たとえば、ユーレイ
の観念が「実在」するなどと言われると怖いですよね。「神概念」も同様。
>>786 ニーチェの思想は、西洋哲学を根底から覆して、西洋哲学以前に戻っている
からこそ、価値があるのです。それが、ニーチェは西洋哲学では理解できない
理由です。
すでに述べたように、ニーチェは、生の本能から派生する共同体形成・維持
の本能に思い至っていない。これが彼の大きな限界です。道徳も善も、この
本能から極めて容易に説明することが出来ます。
>>784は44でした。
788 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 00:56:18
ニーチェは神学批判においてはカントにかなわず、観念論破砕においてはマルクス
にかなわず、哲学史家としてはハイデガーにかなわない中途半端な哲学者。
素朴唯物論者が本能を崇拝か・・・
前世紀に社会ダーウィニズムが流行するわけだ・・
791 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:02:07
>>784のような名無し書き込みが途中あったということは、
44は他にもやってるな。
こういう自称哲学批判者はまずたいてい自演常習者なんだよね。
792 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:08:03
>>789 観念と物というのは主体と対象に対応しているので心-物二元論が
克服されない限りどうしようもないでしょう。
その両極が神と物質かもしれませんが。
793 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:11:27
>>787 >観念の実在を、一体どうやって検証できるのでしょうか。たとえば、ユーレイ
>の観念が「実在」するなどと言われると怖いですよね。「神概念」も同様。
ユーレイの観念はあるだろ? 「死んだ人間の魂がこの世に彷徨い出てきたもの」 ほらね。
ただ、誤った観念であるというだけさ。
実在といえば物質と同値だと考えてしまうお前さんが浅はかなんだよ。
>>792 デカルト流の心身二元論(精神と物質は独立の二実体である)への批判は哲学史上
腐るほどありますけど。
その両極が神と物質というのもどうでしょうか。意味がよくわからない。
そういう思想があるんですか。
795 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:17:34
>>794 心と物という両極から、連想ゲーム的に神と物まで行ったと思われる
796 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:18:55
>>794 そらもう山のように。物質を底辺に、いろんなものを頂点にした
ピラミッドをいろんな人が考えています。
797 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:21:50
マクロコスモスとミクロコスモスの一致、あるいは照応(コレスポンダンス)って奴ですよ。一致しないという説もありますが。
798 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:25:50
>>794 能動的主体の極限が神であり、対象的存在(能動性は無い)の極限が物質
ですね。
>>793 普遍論争ですね。ニーチェは「真理とはそれなくしてはある特定種が生きていかれない
ような誤謬のことである」と言いましたが、つまりは、真理や普遍は人間にとって
有益な誤謬である限り存在する、というある意味、実念論者であるといえると思います。
ニーチェを齧った人の多くがアレルギーのように真理や普遍を忌避するのは滑稽ですよね。
でもまあ、初心者は誰でもセンセーショナルな物言いにひかれるわけですから、
放っておけばいいんじゃないですか。
800 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:35:08
>>799 告白しちまえば、俺もリア厨の頃はニーチェが好きだったよw
ニーチェをかじらなくても、真理という言葉にある種の
うさんくささを感じるのは現代人ならごく普通の感覚では。
802 :
44:2005/08/26(金) 01:45:54
>>793 「誤った観念」と「正しい観念」との判断基準は、具体的には何?
「観念」は、各人の脳内で百人百様だから、「誤った」「正しい」など
ということを、一体誰がどうやって判断するのか。
「実在」という言葉は、物質についてのみ使うべきだね。観念については、
「存在」という言葉を使ったほうがよい。「神概念」のように、両者を混同
する愚か者が多いから。
>>800 根拠の皆無な西洋哲学に毒された者は、ニーチェに反感を覚えることを教わる。
>>798 それは誰の意見ですか。スピノザ、ライプニッツ、シェリングあたりとも違いますよね。
>>800 わたしもですw 今も違う意味で好きですけどね。
804 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:51:26
>>801 「日本で最も高い山は富士山である」は真である。
「今外は快晴である」は偽である。
「明治維新は革命であった」は真か偽かは即座には判断しかねる。
現代人であろうがなかろうが、「真」それ自体にどんな胡散臭さがあるんだ?
付け焼刃の相対主義じゃ真理の観念自体はびくともせんよ。
805 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 01:54:54
>>802 >「観念」は、各人の脳内で百人百様だから
ほう、観念は脳の中にありますか。
それじゃあ、観念は空間的存在ですね。
もちろん、物質のように実証可能ですね。
結論としては、観念はちゃんと実在しますね。
>>804 「真」と「真理」は違うでしょう。
辞書的な意味でも、「いつどんなときにも変わることのない、
正しい物事の筋道。真実の道理」と書いてある。
今現在最も高い山は富士山だが、それはいつどんなときにも
変わることがないのかどうか?というのが真理かどうかという
議論になると思うが。
>>805 観念は脳の機能である。
機能は空間的存在でもないし、物質のように存在しているわけでもない。
例えて言うならば、運動のようなものだ。
運動している物質は実在するが、運動そのものが実在しているわけではない。
808 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 02:17:17
>>806 真と真理が違うなんて、それこそ日本人限定の話をされても困る。
君はtruth-valueとかtruth-tableという言葉を知らんのかね?
809 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 02:18:46
>>807 >運動している物質は実在するが、運動そのものが実在しているわけではない。
その考えが、まさに伝統的な西洋形而上学の根本であると、いつか君が気付くことを願おう。
810 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 02:27:43
働 け よ
811 :
44:2005/08/26(金) 02:28:55
>>799 西洋哲学者は、彼らの言う真理が、実はそのような誤謬であることを自覚し
ていない、ということが、ニーチェの言いたいことではないですか。
ところで、「初心者」ではないあなたは、ニーチェ自身は、何を根拠として
「真理は誤謬である」と判断したのかという基本的な点を、理解しています
か。
>>805 観念を生じる脳細胞は、物質として実在するが、その機能としての観念その
ものは知覚できないから、実在ではない。
そもそも、人間界は共同体なのだから、(物質が)実在するということは、
その成員の不特定多数人がほぼ同一に知覚できるということ。さもなければ、
「妄想」「幻覚」と呼ばれる。
812 :
44:2005/08/26(金) 02:36:50
>>804 それらの真偽の判断は、すべて現実界との照合による。そして、現実界とは、
五感で知覚される世界をいう。
813 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 02:38:31
>>811 ということは、「時間」も「社会」も「言葉」も実在しないということですね。
あなたの意見はわかりました。
814 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 03:03:08
はいはいころすころす
>>811 あなたは西洋哲学確立以降(これはポスト・ソクラテスととって良いのですか?)
そしてニーチェ以前までの哲学を西洋哲学、西洋形而上学と呼び、素朴実在を根拠としない
空論としていっしょくたに無効宣言しますが、話はそんなに簡単ではないと思います。
西洋哲学、西洋形而上学の本質、と一言で言い切るものが存在しないからです。
確かに、物質に対しての精神の優越、キリスト教神学の多大な影響などは傾向としてあり
ますが、あくまで傾向であって、それが破産すると西洋哲学全てが破産するようなもの
ではない。もう少し、誰々の思想、○○的××論はニーチェによって完全に粉砕された、
みたいに具体的に書いていただけるとありがたいです。
>西洋哲学者は、彼らの言う真理が、実はそのような誤謬であることを自覚し
>ていない、ということが、ニーチェの言いたいことではないですか。
その通りだと思いますが、これが直ちに、素朴実在論に基づく生物学的事実という現実が
全ての根拠だという主張になるわけではありません。
ニーチェは批判者ですから、視点の「変更」そのものが重要なのであり、新たな絶対的視点の
提示をしようとしたのではない。そう読んでしまうと、俗っぽい社会ダーウィニズムしか出て
こない気がします(このへんは反論されるかもしれないが)。
あと、「真理は誤謬である」はなかなかやっかいな文だと思います。私は「真理は、人間独自の
必然的仮像である」くらいの表現のほうがニーチェ思想を言い表していると思う。
ニーチェは真理や普遍がない、と言っているわけではないのです。
むしろあると言っている。
816 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 03:19:09
>>815 >あと、「真理は誤謬である」はなかなかやっかいな文だと思います。私は「真理は、人間独自の
>必然的仮像である」くらいの表現のほうがニーチェ思想を言い表していると思う。
ただし、そうするとニーチェが揶揄しまくったカントと同じになるという罠。
ニーチェ自身がカントを読んでたらもうすこし慎重な文を書いただろうが、
まあ、仕方ないね。哲学に関しては素人に毛が生えたような人なんだから。
>>816 そうそう。結局は「判断力批判」でカントが展開した目的論と区別がつかない
と言わざるをえない。ポスト構造主義者らのアクロバティックな読みを別に
してリテラルにニーチェを読んでみると、でカントとどう違うの?
という問いにニーチェはほとんど答えていないと思いますね。
818 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 04:06:42
結局、仏教が真理ってことか
>>808 宗教で真理という時は、時間や空間を超えて真であるという
意味が含まれていると思うが。
これは日本人限定の考え方?
820 :
44:2005/08/26(金) 10:17:47
>>815 ソクラテスやプラトンは、精神異常の宗教信者だったそうですが、若しそうだと
すれば、西洋哲学の起原そのものが、怪しげなことになる。
>>816 カントの思考の基盤は何ですか?それが「生物としての人間の生の欲求本能」で
なければ、ニーチェの批判をもろに受ける対象となる。ニーチェがカントをよく
読んでいないことなど、問題ではない。あまりアホらしくて、読む気がしなかった
だけでしょう。
821 :
44:2005/08/26(金) 10:40:06
皆さんのお話には、カントを初めとするドイツ観念論哲学者の名前ばかりで(マル
クスも、唯物論者を自称しているが、実はヘーゲル直系の観念論者)、イギリス
建研論が出てこないのは不思議ですね。思想に偏りがあるのでは。カントに始まる
観念論は、結果としてマルクス主義による大虐殺を生み出しただけ。初めから問題
にならない。
ニーチェも、イギリス経験論を批判しているが、それは、彼の国民意識に基く感情
的な要素が多く、完全な否定にはなっておらず、また否定できるはずがない。ニー
チェの真の好敵手は、妄想に過ぎないドイツ観念論ではなく、イギリス経験論では
ないでしょうか。
822 :
44:2005/08/26(金) 10:42:35
823 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 12:03:12
屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、ベジタリアンになるでしょう。
ポール・マッカートニー
「仏教」「地獄絵図」ってキーワードで検索してみてください。
というよりしてほしいと思う。
ひよこはオスだとわかると数十匹袋に入れられて圧迫されて叩き殺される。
食肉される牛は最後涙を流すこともあるらしいです。
片脚を鉄のチェーンで縛られ逆さまに吊るされ、宙に浮く。悲鳴を上げる。
牛は自らの重い体重を支えられず、
吊るされた脚は脱臼し骨がバキとへし折れる音が解体場に鳴り響き、
牛の頭は人間が持ってきた解体する大きなまな板のよな台に首が乗って目は充血し、
パニックになり鳴きつずける。
人間はノコギリのような刃物で首に切れ目を入れ、
その瞬間に動脈が切れ大量の血が滴る。。
・・・生きてる鶏を吊るして羽をむしりとり首を切って、
中には動脈でつながり意識ある鶏を熱湯に放り投げフタをする。
俺このサイトみてから改心した。
「牛の作文1、2」ってコーナー見て人間は戦争をやめろだとか平和を願ってるけど、
家畜の動物たちに待ってるのは地獄。安楽死させてると思ってた。
もしくはガスの中で意識薄れていく中で死んでいってると思った。
だけど、現実はそうじゃなかった。涙というよりショックで肉食べれなくなった。。
人一人がベジタリアンになると80の命が救われるらしいです。
俺は宗教あんま信じてるほうじゃないけど
そんなんじゃなくて普通にベジタリアンになろうと思った。俺が食べないことで
少しでも殺される数が減っていることになるならいいやなんて思った。。
グロテスクな映像は見なくていい。命ってなんなのか。文章だけでも読んでほしい。
ここを覗いた人が何かしら家畜たちに対して感じてほしい。
国道16号線を走っていた時、
赤信号で止まって前のトラックの隙間から見えた牛と目が合った。
大きな瞳がすごく潤んで見えた。。
それから16年間肉は食べていませんって書き込みに泣いてしまった。
霜降り和牛が高級品だと知っているのでしょうか
825 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 12:09:00
826 :
166:2005/08/26(金) 13:36:52
久しぶりに来てみれば……
>>820 それは815の主張と全くかみ合っていない反論だと思う。要するに反論になってない。
起源が怪しいからその後も怪しいとするとデカルトをふまえたスピノザに共感するニーチェはおかしい。
>>821 >カントに始まる
>観念論は、結果としてマルクス主義による大虐殺を生み出しただけ。初めから問題
>にならない。
その論法で言えばショアーを引き起こしたニーチェこそ問題にならない。
マルクス主義がダメなのはいいがそれは別問題である。ソヴィエトはマルクス主義的ではない。
>>819 論理学で真というのは時間と空間を超えて真だということだ。
827 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 13:43:30
ニーチェの思想って矛盾してる気がしてきた
828 :
44:2005/08/26(金) 14:55:02
>>826 君が44をスルーしたのだから、君も、そんな他人の「借り物」「受け売り」
の思想ばかりでなく、自分自身の思想の体系を構築してみろよ。
スピノザもニーチェも、西洋哲学の毒を残していることは指摘したとおりだが、
少なくとも彼等はそれを実質的には克服しているとは思わないかな。
デカルト、スピノザ、ニーチェを同列にしながら、マルクス主義とソヴィエ
トを同列にできないのは矛盾であり、意図的な言い逃れに過ぎない。マルクス
主義とソヴィエトとの関係のほうが、はるかに密接ではないか。
表面的に見れば、ニーチェとヒットラーの思想は確かによく似ている。しかし、
ユダヤ教から発生した一神教の思想(ニーチェが批判して止まなかった)が、
現在、人類の癌細胞であることは明白であり、ヒットラーは、この癌細胞は
全摘出以外には治療法はないことを、素朴に直感していたのではないだろうか。
それに、前レスで、ニーチェとナチスとの関係を否定したのは、確か君では
なかったか。
最近の研究結果によると、ナチスによる犠牲者は2500万人、これに対し
マルクス主義による犠牲者は1億人。この数字をどう見るか。
829 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 14:57:26
屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、ベジタリアンになるでしょう。
ポール・マッカートニー
「仏教」「地獄絵図」ってキーワードで検索してみてください。
というよりしてほしいと思う。
ひよこはオスだとわかると数十匹袋に入れられて圧迫されて叩き殺される。
食肉される牛は最後涙を流すこともあるらしいです。
片脚を鉄のチェーンで縛られ逆さまに吊るされ、宙に浮く。悲鳴を上げる。
牛は自らの重い体重を支えられず、
吊るされた脚は脱臼し骨がバキとへし折れる音が解体場に鳴り響き、
牛の頭は人間が持ってきた解体する大きなまな板のよな台に首が乗って目は充血し、
パニックになり鳴きつずける。人間はノコギリのような刃物で首に切れ目を入れ、
その瞬間に動脈が切れ大量の血が滴る。。
・・・生きてる鶏を吊るして羽をむしりとり首を切って、
中には動脈でつながり意識ある鶏を熱湯に放り投げフタをする。
俺このサイトみてから改心した。
「牛の作文1、2」ってコーナー見て人間は戦争をやめろだとか
平和を願ってるけど、家畜の動物たちに待ってるのは地獄。
安楽死させてると思ってた。
もしくはガスの中で意識薄れていく中で死んでいってると思った。
だけど、現実はそうじゃなかった。涙というよりショックで肉食べれなくなった。。
人一人がベジタリアンになると80の命が救われるらしいです。
俺は宗教あんま信じてるほうじゃないけどそんなんじゃなくて
普通にベジタリアンになろうと思った。
俺が食べないことで少しでも殺される数が減っていることに
なるならいいやなんて思った。。
グロテスクな映像は見なくていい。命ってなんなのか。文章だけでも読んでほしい。
ここを覗いた人が何かしら家畜たちに対して感じてほしい。
国道16号線を走っていた時、赤信号で止まって前のトラックの隙間から
見えた牛と目が合った。大きな瞳がすごく潤んで見えた。。
それから16年間肉は食べていませんって書き込みに泣いてしまった。
830 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 15:00:23
>>826 それでは、
>>804の富士山云々というのは誤りでいいんだよね。
一時期の日本では最も高い山は富士山ではなかったわけだし。
832 :
166:2005/08/26(金) 16:22:00
>>828 いや、論法の問題を指摘しているのだが。
>スピノザもニーチェも、西洋哲学の毒を残していることは指摘したとおりだが、
>少なくとも彼等はそれを実質的には克服しているとは思わないかな。
だとしたら西洋哲学の中からその毒を克服した哲学者が出てくる可能性は有るのに
西洋哲学自体を否定するのはなぜか。
そういう哲学者はすでに哲学者ではない、と言うかも知れないが現代人は
バタイユすら哲学者と分類している。(本人が否定しているにもかかわらず)
>デカルト、スピノザ、ニーチェを同列にしながら、マルクス主義とソヴィエ
>トを同列にできないのは矛盾であり、意図的な言い逃れに過ぎない。マルクス
>主義とソヴィエトとの関係のほうが、はるかに密接ではないか。
どちらも同列に語るべきではない。
>それに、前レスで、ニーチェとナチスとの関係を否定したのは、確か君では
>なかったか。
改めて、マルクスとソヴィエトの関連性を否定する。
826と矛盾すると思うかも知れないが、826で「その論法で言えば」と断っている。
44は主張する権利を有する。これは当然のことだが、
反論に対して稚拙な応答しかできないのならば議論にならない。
議論をするためにはもうちょっと勉強を。説教がしたいのならば宗教板へ。
>>831 地理的に言う「日本」の定義がその一時期と違わないのであれば、
当然、そういうことになる
833 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:16:39
>>832 >だとしたら西洋哲学の中からその毒を克服した哲学者が出てくる可能性は有るのに
>西洋哲学自体を否定するのはなぜか。
西洋哲学の「思考の基盤そのもの」を覆さない限り、その毒を完全には消すことは
できない。だから「否定」と言っている。ニーチェは、まさにそれを試みたので
ある。
>改めて、マルクスとソヴィエトの関連性を否定する。
ソヴィエトは、マルクスの教義の「無意味な」実験ではなかった、とでも言うのか。
君は、マルクス教の信者だということだな。
今村仁司は、その著書「マルクス入門」(ちくま新書)の中で、すでに破滅した
マルクス理論を懸命に擁護しているが、マルクスは「人間は精神的動物である」
という前提に立っており、彼の唱える下部構造には、上部構造である筈の精神論
がたっぷりと含まれている。唯物論と自称しながら、内容は西洋観念論そのもの
である。
>議論をするためにはもうちょっと勉強を
君の言う「勉強」とは何?ひたすら本を読み、他人の借り物の知識と思想を蓄積し、
原理ではなく、言葉の枝葉末節を追求することか?それこそ、小学生の「お勉強」
なみの稚拙さではないか。それは、「学問」ではない。従来の見解を批判し、自分
自身の体系を構築するに足りる「脳味噌」がないということだ。
834 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:29:41
835 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:55:43
728 名前:考える名無しさん 投稿日:2005/08/20(土) 22:24:30
なんつうかね。このスレを楽しく見ている者としては
44のような妙な盛り上げ力がある人がいるといないとでは全然違うんだな。
子供のおもりのような166は自分で話題を展開するには至ってないし、
>>713=
>>719に至っては、閉鎖的で独善的でほかの参加者の気持ちを考えていない。
きみらのレスのやりとりが始まった瞬間、スレが硬化したよ。
誰も書き込まなくなったのはどうしてだと思う?
836 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 21:54:00
166さんが、44を毛嫌いするのは、44がどの本にも書いてない、トンデモ説
を持ち出すからだと思うよ。しかしね、本に書いてあるからという理由であり難が
ったり、正しいと思い込むのが大間違いのもと。事実、書店の書棚にあふれている
哲学書には、大したことは書いてない。特に、観念論哲学などは、現実を突き付け
れば、一発で吹っ飛ぶ砂上の楼閣ばかり。論破するのは、赤子の手をひねるような
もの。2ちゃんねらーなら、誰でも簡単にできる。キリスト教も同様。
これに対し、経験論哲学、プラグマテイズム、それに実証的宗教としての仏教などは、
手強い相手。厳然として実在する人間自体を、思考の基盤をしているから。
837 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 22:04:14
入門書数冊でその思想を極める44スタイルを流行らせよう!
838 :
166:2005/08/27(土) 00:13:48
>>836 確かに「本に書かれた哲学」が正しいと思うのは間違いの元というのもわかる。
だが、ある程度認知された学説に対して反論するにはやはりしっかりとした論拠をもって
反論してもらいたい。でなければ膨大な時間をかけて一から議論するハメになる。
……まあ自分はそもそもニーチェ得意じゃないし自分より知識のある人に書き込んでほしい。
>>833 マルクス教の信者ではない。マルクスの誤謬とソヴィエトの失敗は別だということだ。
焦点の合ってない批判は無用。
>>837 流行ったら困る。
839 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 00:26:15
>>836タイプの観念論攻撃者は間違いなく観念論と現象学の区別もつかないレベルなんだよな。
そもそも本に書いてあるから正しいという主張は誰一人してないしw
このタイプの幼稚なアカデミズム批判をして、自演がばれないと思ってんのかい?>44
840 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 03:34:09
釈迦とニーチェ、人類最深はどっち?
841 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 05:22:08
どっちもウンコ
842 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 06:41:18
843 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 11:04:13
釈迦が深く見えるような人間の浅はかさには恐れ入るね。
844 :
44:2005/08/27(土) 12:13:10
>>838 「ある程度認知された学説」って何ですか?そのような「既成の権威」に
縋り付くことこそ、ニーチェが最も批判していることですが。
常識的な質問に対しては、「膨大な時間」をかけないでも、日常語による
数行の説明で足ります。本当に理解していれば、それが可能なはず。
哲学とは、所詮は、通常人の生活感情や思考を、論理的な言葉で表現した
ものに過ぎない。さもなければ、「哲学って一体何?」ということになる。
「だれでもわかるニーチェ」(河出書房新社、定価¥1143)を、書名に
惹かれエ買ってきたが、多くの人々が、それぞれ勝手に自分のニーチェ評価
を語っている。「ある程度認知された学説」など、どうも見当たりません。
竹田セイジ先生は、哲学素人の44とほとんど同じ意見を言っています。
「マルクスの誤謬とソヴィエトの失敗は別」などと言っても、普通の人には
通用しませんよ。一昔前の、マルクス教徒の学者や文化人のソヴィエトや中共
礼賛の醜態を忘れるべきではありません。あなたは今でも「共産主義ユートピ
ア」の建設が、世界のどこかで可能であると夢想しているのですか。人間性の
洞察を欠くマルクス主義では、絶対にうまく行かないことは、賢い人々には
とっくに判っていたことことです。
>>836は、44でした。
845 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 12:20:01
>>844 マルクスの唯物論は観念論の一種だと言うけど、44君が素朴に
「物質は実在する」と素朴に言うとき、それは既に観念論なんだよ。
物質観なんてのは時代時代の自然科学によってぜんぜん変わる。
最も観念的なのが「物質」という観念。44君は本能が人間の
拠って立つところだというが、本能と言うのは環境によって
決まりきった(決定論的な)反応をするだけのものだろ?
すると人間には自由意志がないことになる。あるいは神だけが
自由意志があるということになる。神に干渉されるのは
が自由意志でありそれは災いであるという事になる。そういう
アホがこの板にもいる。しかしそういう人間や説が力を持つと、
神の視点から世界を再構築しようとするソ連やそれに似た
悲劇に繋がるんだよ。
>>845 44じゃないが、本能は大脳旧皮質および間脳の仕事、
自由意志は大脳新皮質の仕事と考えれば、
「本能が人間の拠って立つところ」と「人間には自由意志がある」
というのは簡単に両立するよ。
847 :
44:2005/08/27(土) 12:52:10
>>845 五感で知覚される物質が、実在する(と見なす)ことは、観念論ではない。
むしろ、人間の生そのものである。どんなに偉い哲学者や宗教家でも、飯
を食うとき、「この飯は本当に実在するのか」と考えて食う者はいない。
色即是空、されど空即是色である。
同様に、腹が減る、セックスしたい、(自他の)死が怖い、そして、困って
いる他者に対する憐れみも、本能、即ち生の欲求である。
自由意思は、これらの本能を基盤として成立する。この基盤を無視するのが
観念論であり、本質的に生物である人間の変容と破壊を招く。
848 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 13:52:43
>>847 意識は実在するのかい???
それと、本能万能論ということになると、たとえば殺人は本能だから殺人は正当化されるとか、
そういう展開になるんだけどそれについてはどうよ?
足元の意石に注意されよ
850 :
44:2005/08/27(土) 14:15:46
>>848 意識の発生源としての脳やその神経伝達物質は、五感で知覚できるから、
物質として実在する。意識は、脳の「機能」であり、五感で知覚できない
から、(物質として)実在しない。
「何故人を殺してはいけないか」というのは、愚かな問いである。人間に
限らず、すべての生物は、独りでは決して生存も種族維持もできないこと
を、これも本能的に知っているから、生存本能から共同体形成維持の本能
が派生する。簡単に言えば、「人を殺すのは嫌」だからであり、共同体
本能の面からは、「人を殺せば、自分も殺される」ことになるからである。
共同体は、複数の「自分」から構成されている。
仏教では、この原理を、誠に簡潔に、次のように言う。
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひき
くらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(法句経)
851 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 14:19:54
>>850 意識が実在しないとなると、意識ってのはなんなのさ?観念???
852 :
44:2005/08/27(土) 14:31:54
>>851 意識の発生源である脳細胞に聞いてくれ。死ねば意識もなくなるのだから、
意識そのものは生の徴候であり、観念ではない。「意識とは何ぞや」など
と考えることは、観念である。
853 :
166:2005/08/27(土) 16:31:21
>>850 こいつを殺したくらいじゃおいらは殺されないな、と思って殺すのはありなんだな。