原始佛教 その14

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701暇人:2005/08/24(水) 02:41:17 ID:s0sh2pM2
>>665
。。。さん ご指摘ありがとうございます。

>老死を超えるとは、老死の反復を乗り越える、
>もはや老死を繰り返さない、という意味ではないですか。

ですね。テキストを忠実によめば そう読めると思います。

>手や足や顔や髪の毛がどうして「己」であろうか

私はそこらへんを、
「手や足や顔や髪の毛」は、「己」ではあるが、
「己のもの」ではない と仏教は語っているのではないかと
おぼろげですが、今のところ考えています。

「手や足や顔や髪の毛」も己の思いのままにならない。
己の思いのままになれないものを「わがもの」と誤解に立ち、
モノゴトを判断している生き様に「苦の根本原因」があると
言っているのではと 想像しています

702暇人:2005/08/24(水) 02:47:39 ID:s0sh2pM2
(*)さん それと下田正弘先生の作品紹介のページの紹介
有難うございます。

書評で名著「涅槃経の研究--大乗経典の研究方法試論」を読み、
是非拝読したいと年来思っていましたが 果たせぬままに、
今に至っております。
このページを週末などにじっくり読ませていただきたいと思います
ありがとうございました。
703机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/24(水) 08:48:23 ID:6bu/BWag
素人どの

禅宗において「信仰の度合い」という書き方はどうかとおもうが・・・
やはり説明せようとせば、そういう書き方にならざるをえない。

学校で教えるのは、そういう矛盾性も孕んだ教学ですね。
それが悪いわけでなくて、説明せようとせば、そこには何らかの矛盾性はでてくる。

でも、説明とすれば上手な説明です。

一休の遺偈とか、慧能の無学とか、乞食信心とか、いろいろな捉えかたがあるけど、
信仰?が篤くても全てを美化してるわけではないです。
704無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 10:47:34 ID:0B4RxwJ+
輪廻問題(釈尊は輪廻を説いたか?)の本質は

(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は業報思想を肯定した。

の2つの真理が矛盾しているために発生しているということだ。
705無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 12:34:26 ID:0B4RxwJ+
>>704
さて、この矛盾は、現代的な感覚で
輪廻を「形而上の問題」と位置付けることにある。

解脱は、三明を得ることで達成される。
三明の1つの能力が宿命通、すなわち、過去世を知ることである。

おそらく、禅定中に己の過去世がイメージされたのであろう。
その過去世が、妄想なのか、客観的事実なのかは、この際問題にはならない。
それが、禅定中に体験できることであるのであれば、その体験をした当人にとって
過去世は「形而上の問題」ではなくなっているわけである。

したがって、
(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は三世にわらる業報思想を肯定した。
(3)釈尊は輪廻を説いた。
は、矛盾無く成立する命題である。
706無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 12:42:05 ID:0B4RxwJ+
>>686 :名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 22:07:39 ID:goU1VDpk
> なお、私は輪廻説に関しては彼とほぼ同意見なので、役不足かもしれませんが場合によってはお相手いたしましょう。
さて、私は「釈尊は輪廻を説いた」と考えます.
役不足を自認する方の、レスを希望します。


-------
やくぶそく 3 【役不足】
(1)俳優などが与えられた役に満足しないこと。


(2)能力に対して、役目が軽すぎること。
「―で物足りない」

(Web辞書より)
707。。。:2005/08/24(水) 13:05:46 ID:OSvlMrMs
>>670 さん。

>自意識は肉体が無いと生じないのでまったくのナンセンス。

ブッダには有余涅槃と無余涅槃があり(余は正字で)、無余涅槃は
肉体を持たないブッダ=如来の「自意識」だと理解しているのですが。

全国の神社仏閣でお祀りされている、神々、諸仏はすべて「肉体を持たない
自意識」なのではないですか?
708。。。:2005/08/24(水) 13:07:53 ID:OSvlMrMs
>>676 先日、梅原先生のご著書を立ち読みしたけど、五蘊の定義が間違ってた。。
709。。。:2005/08/24(水) 13:09:54 ID:OSvlMrMs
五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

五蘊=色、受、想、行、識、=人の肉体と精神(&神経系)(活動)ですよね?
710。。。:2005/08/24(水) 13:14:56 ID:OSvlMrMs
>>684
>「識あるが故に、名色あり」
>世俗の常識とは逆に、意識があるが故に心身があると縁起の法では説かれる。

無明あるが故に行あり
行あるが故に識あり
識あるが故に名色あり

無明なければ名色なし。如来は名色を持たない。

と私も思います。


711。。。:2005/08/24(水) 13:18:44 ID:OSvlMrMs
>>688
>来世を認めないのを断見者と断定するあなたの理解がおかしいのですよ。
>来世を認めてしまえば常見に墮します。

来世がない=断見
永遠に続く来世がある=常見

因と縁により来世は変わる=六道の輪廻あるいは涅槃=仏陀の教え
712机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/24(水) 13:20:39 ID:6bu/BWag
>五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

これは勝義諦の説明ですし、

>五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

これは世俗諦の説明で、ようは意味は同じ。

「すべての事象」→色
「五蘊皆空」→空

ようは、色即是空。
同じです。
713。。。:2005/08/24(水) 13:29:52 ID:OSvlMrMs
>>701 暇人さん 
>「手や足や顔や髪の毛」は、「己」ではあるが、
>「己のもの」ではない と仏教は語っているのではないかと
>おぼろげですが、今のところ考えています。

色;あなたの肉体は「己」ではないですよ。
受、想、行、識;精神活動、感受、想い、考えも「己」ではないですよ。
無常なるも=苦なるものはすべて「己」ではない。

それでは「己」=「自意識」は無常、苦、空ではないのか?
「己」が苦であれば、もう救いはどこにもないわけですが。
仏陀は、苦集滅道と語った。すなわち救いは有る。したがって
「己」は無常=苦ではない。

無始の昔より無限の未来まで、六道を輪廻しついには涅槃に入る「自意識」
は無常ではないし苦でもないのです。

(無始の昔、無限の未来;ヒトの時間への理解の錯誤から来た表現。
時間なんて本当はないんですよ。)

以上、稚拙ですが、昨夜の私の思索結果です。
714。。。:2005/08/24(水) 13:39:42 ID:OSvlMrMs
>>704 無宗ださん

(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は業報思想を肯定した。

形而上のいくつかの命題に対して沈黙した。ではないですか?
無記はすごく限定的ですよね。
確か一つには時空の問題がありましたよね。時空の問題は現代人
でも分かりませんものね。(物理好きの方はお分かりなのかも?)
そのほか心と身の問題とか、如来の死後の問題とか。

>2つの真理が矛盾しているために発生しているということだ。
仏説に矛盾なし?だと思いますけど。
715。。。:2005/08/24(水) 13:42:56 ID:OSvlMrMs
>>705 がありましたね。 ↑これは訂正の要ありですね。

でも、無記は(たしか10個の)限定的な命題のみです。
来世に関しては、如来の死後は問題になっているけど、人の
死後は無記に含まれなかったはずです。人の死後は仏陀はよく
語っていますものね。
716。。。:2005/08/24(水) 13:45:58 ID:OSvlMrMs
>>706 役不足って役者に対するほめ言葉なんですよね。
「あんな役なんて、〜さんにはホント役不足!」とか。
でもこの語の思い違いを利用して相手のご贔屓をいぢめる
というテクニックもよく使う。
717。。。:2005/08/24(水) 13:48:42 ID:OSvlMrMs
>>712 机様、なるほどそういう定義もあるんですね。
それじゃあ、梅原さんの著書も読んでみないと。まだ読んだことがないので。

ありがとうございました。
718名無しさん@3周年:2005/08/24(水) 13:49:46 ID:tC6U1JPV
神道的ですが、分り易かったよ。
http://www.eonet.ne.jp/~musubi-81
719名無しさん@3周年:2005/08/24(水) 16:44:47 ID:vF8fQ2ij
>>716
へえー
720電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 20:31:28 ID:IbHt4CCv
>>690
あんた、誰と話してるんだ?いい加減妄想やめにしたら?
読み返すと、あんたが文法音痴なのはよくわかる。abhisamaya文脈と関係の無い複合語
示してどうするの?abhisamayaを動詞で読んでどうするの?

いつ、私が和辻哲郎を持ち出した?頭の悪い発言してんじゃねーぞ。気持ち悪い奴だな。
721。。。:2005/08/24(水) 20:50:13 ID:OSvlMrMs
>>720 さん、梵語のご専門家ですか?
所詮は表音文字言語、漢語ほどは語彙力はないのでは?
漢文訳で意味はカバーできてないのですか? とか思っています。

言語ばかりやっていて、仏道修行はおろそかにならないのですか?
文面から察するに、かなり「瞋恚」の領域が肥大化しているようにもお見受けしますが。

五蓋;
疑いの心、瞋恚の心、貪欲なる心、
落ち込み物憂くなる心、浮き足立ちいらいらする心、

このあたりをコントロールするのが、仏道入門だと思うのですが。

瞋恚の心、荒々しい言葉を収められますように。驕慢なる心も打ち崩されます
ように。合掌。
722電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 21:05:09 ID:IbHt4CCv
とりあえず、(*)は格関係もきちんと押さ切れない屁たれ文法なんだけど、
例の属格に読むと言ってた唯一の根拠、その註をもう一度読むべしだね。

これで、馬鹿との接触は終わり。別所にて論理学講義を始める。

@基礎固め
形式論理学からはじめ、命題論理学と記述論理学の一応の習得を目指す。
A応用準備
上記基礎範囲での虚偽論の習得を目指す。
B発展1
様相論理(http://akademeia.info/main/math_lecturez2/math_yousouronri.htm 参照)や多値論などの
現代論理学を概観
Bその発展形態、例えば時空様相論理など、石飛さんが不可能だと断定される錯誤を指摘

方向性としては分析哲学と考えていただいて差し支えありません。哲学板でこちらのロマー
も多いので、参加されたい方は「14」スレッドで挙手お願いいたします。解りやすく解説したいと
思います。
723電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 21:07:44 ID:IbHt4CCv
>>721
私は心をコントロールしてワザと装っています。
そのことは少しお話したことのある人は知っています。
ネットキャラです。
724無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 23:50:53 ID:u9H7V09e
>>714-715
> 形而上のいくつかの命題に対して沈黙した。ではないですか?
> 無記はすごく限定的ですよね。
そうですね。十無記または十四無記と呼ばれているようですね。
なぜ、それを形而上の問題というふうに一般化したかというと、
それは私が佐倉哲氏の影響を強く受けているからですw

佐倉氏がよく引用する経典に、「一切」とはなにかを説いたものがあります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
<--
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
-->
これをみると、釈尊は経験・観察できる世界(形而下)を「一切」と呼び、
これに関してのみ語ったと推測できます。
725無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 23:51:59 ID:u9H7V09e
そして
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html
<--
ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、
見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)
-->
このように、「そのような種類の問い」という言い方をしている経典もあるようなので、
「そのような種類の問い」=「形而上の問題」と言っても不都合はないかと考えます。

ちなみに佐倉氏は輪廻に関しては、
方便として説いただけで、基本的には形而上の問題として無記を通したと考えているようです。


ところで、
霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?
726暇人:2005/08/25(木) 00:48:01 ID:HLnyE5sY
http://page.freett.com/Libra0000/070.htmに
和辻さんの引用のこの部分///////
「かく色受想行識が無我であると言わるるならば、無我のなせる業はいかなる我に触れらるるか(16)」という問いに答える仕方が、まさにこのことを示している/////////

と、「色受想行識が無我」という教説がありますが この続きのパーリ文は
"Taü kiüma¤¤atha bhikkhave, råpaü niccaü và aniccaü và"ti? Aniccaü bhante. です
それは/何、いかなる 考えた 他の方法で 比丘らよ 色 常住の va〜va か・・・か 無常 尊者よ
比丘らよそれを いかに考えたか 「色は常住か無常か」 と。 「尊者よ 無常です」
ここでいう「色」は、我々個人の身体のことでしょう。
身体が無我というのは、「身体が己か、己でないか」とではなく、「身体が、常住か無常」と反問されています。
つまり色「無我」は、身体が私ではない のではなく、 身体は仮に和合して現象している一時状態である
という意味だと私は 今のところ解釈してます
727机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 07:18:22 ID:7UD5iam6
>>717
>五蘊=すべての事象

というのは、つまりは「五蘊は色」というていますね。
「五蘊は色」という捉えかたをする人は、なかなかいないですよ。
(梅原氏は達観した捉えかたです、学者には珍しいですね)
「五蘊は心作用だから色じゃない」。とかね・・・
心作用も色作用も、これは色になります。→色心不二
ここにいう色心は、いわゆる世俗諦で、
これを勝義諦にしますと色心の分別がなくなります。
これを般若心経いおいては「五蘊皆空」と記してあるわけです。

いうに、
三有も三界も、これは世俗の話ですね。
勝義になりますと、三有も三界もないわけです。
この理こそが空なるわけです。


728暇人:2005/08/25(木) 07:29:05 ID:qyhK8eij
>五蘊=すべての事象
私は梅原さんのその発言を読んでないが、
「五蘊=色」と捉えているわけではないと思います。
「五蘊」を「即物的な事象すべて(色)と精神的事象のすべて(受想行識)」と
把握されての「五蘊」=「すべての事象 」ではないかと
729机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 08:13:53 ID:7UD5iam6
>>728
>「五蘊」を「即物的な事象すべて(色)と精神的事象のすべて(受想行識)」と
>把握されての「五蘊」=「すべての事象 」ではないかと

即物的な事象(色作用)も、精神的事象(心作用)も、いわば事象として同じなわけですから、
私が逝ってることと何ら変わらないですね。

事象というのは、それで「色」になるわけです。→色心不二
ですから、五蘊は事象ならば即色になるわけです。
いうに梅原氏は、勝義諦にての言い回し。
勝義だろうが、世俗だろうが、意味は同じですが、
達観しないと、勝義諦の言いまわしはなかなか出来ないもんです。


730机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 08:24:01 ID:7UD5iam6
  (つづき)
事象というのは、つまりは縁起ですから、縁起なるものは全てが色です。

事象⇔縁起⇔色。となります。
この理を空といいます。
731電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/25(木) 09:55:03 ID:mWJ7KAta
>>726
>身体が無我というのは、「身体が己か、己でないか」とではなく、「身体が、常住か無常」と反問されています。
>つまり色「無我」は、身体が私ではない のではなく、 身体は仮に和合して現象している一時状態である
>という意味だと私は 今のところ解釈してます

【身体について】

主張   : 無我 → 常住or無常
排除要素: 色「無我」は、「身体が私ではない」
結論   : 身体は仮に和合して現象している一時状態

上記排除要素の説明は不親切ではあるが、言いたいことはわかる。しかし、「己」「身体」の
説明が必要だな。で、原始仏教での”rUpa”は外界のことには着目せず、人間の身体だと
言うのは外してないと思うけど、外界も含むという反論からはどう答えるの?「仮に和合」って
仏教用語だね。使う文脈を外しているのはいいとして、あんたの翻訳論からも外しているよ。

それで?そこからどう展開するの?そのままじゃ尻切れだよ。
732。。。:2005/08/25(木) 10:13:37 ID:qzn+CDEN
みなさん、コメントありがとうございました。

ちょっと難しくて分からない。しばし呆然。

ゆっくり考えて見ます。
733。。。:2005/08/25(木) 11:50:16 ID:qzn+CDEN
>>724 仏陀は見たこと=真理だけを語るんですよね。

でも、その「見たこと」の範囲がかなり一般人とは違うと思う。
例えばテーラガータでは、必ず皆さん、涅槃を得る際には、三明を得ているのです。
三明具足、三明六通を得た人の認識範囲だと思うんですよね。

そして「後有を受けざることを知る」。一般人は「後有」を受けそうですよね。

【調べました】仏の十号から、ウキペディア
明行足(みょうぎょうそく、vidyaacaraNa-saMpanna (sanskrit))
宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
734。。。:2005/08/25(木) 11:58:17 ID:qzn+CDEN
>>725 テーラガータ(岩波文庫)から

17 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる
愚鈍な人は、糧を食べて肥る大きな豚のようである。くりかえし母胎に入っ
て迷いの生存をつづける。 ダーサカ長老


「くりかえし母胎に入って迷いの生存を続ける」んですよね。
私もそう思う。迷いを断たない限り、迷いの生存は続く。
735。。。:2005/08/25(木) 12:01:34 ID:qzn+CDEN
>>725

>ところで、
>霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
>といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?

「わたし」「己」「自意識」だと思っています。

頭脳、思考、記憶などはむしろ肉体に属すると思っています。


736。。。:2005/08/25(木) 12:41:23 ID:qzn+CDEN
>>726 暇人さん

色受想行識=五蘊 は 非我ですよね。 「我」の所有物です。

「我」は「わたし」「己」「自意識」=「霊魂」=「こころ」「ハート」です。
 
五蘊は空であり、老死あり、死後には壊れます。

「わたしのこころ」は輪廻し、迷いのハートは繰り返し母胎に入ります。
天に昇る心もあれば、地獄に落ちる心もあるでしょう。
因&縁に応じ流転し、ついにはニルバーナを得て如来になることもあるの
です。

因と縁に応じ流転するが故に無我(恒常で確固たるアートマンではない)
なのでは。

以上、わたしの見解でした。
737無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/25(木) 12:55:10 ID:EIofqd95
>>733 :。。。:2005/08/25(木) 11:50:16 ID:qzn+CDEN
> >>724 仏陀は見たこと=真理だけを語るんですよね。
>
> でも、その「見たこと」の範囲がかなり一般人とは違うと思う。

そうですね。
涅槃寂静なんていわれても、解脱しなければ理解は不能。

対機説法で、相手が理解できる範囲のことを
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
<--
ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、
「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、
今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、
つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、
はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。
それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。
このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、
神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。
-->
といった態度で説いたのでしょう。
自称専門化が、内輪でしか理解不能なギャグをいって喜んでいるのとは、一線を画しています。

http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
このページからたどれる

サクルダーイ大経(マハーサクルダーイ・スッタ)
 サクルダーイ大経五  … 経験実証
http://tetugaku.fc2web.com/butten/saku-b5.htm
この内容もそれを裏付けています。
738。。。:2005/08/25(木) 13:35:04 ID:qzn+CDEN
テーラガータ

240 この世で信仰心の無い親族たちのあいだで、一人でも信仰あり、
聡明な知慧あり、つとめをまもり、戒めを実行しているならば、親族たちの
ためになる。
241
242 かれらは、過ぎ去り、死んでしまいました。かれらは三の天界で
安楽を得ています。わたしの兄弟たちや母は、欲するがままに望みをかな
えて楽しんでいます。 パッシカ長老

..........
欲するがままの天界とは、いわゆる欲天なのだろうか。それが三の天?
親族たちが欲天に生まれて、ちょっとはほっとするけど(地獄よりは)、
また輪廻して堕ちて行くんでしょうに。
........................................


246 以前にはそなたには信仰があった。しかしいまはそなたに信仰が
無い。そなたのものは、そなたのものにほかならない。わたしには悪行は
存在しない。
247 信仰ははかないもので、移ろいやすいものである。
   〜   聖者はどうしてそんなことに、心を浪費するであろうか。
サーティマッティヤ長老。

.............

前段の信仰と、後段の信仰は別なものなんですね。前者は肯定され、後者は
否定されている。前者は三宝への信仰であり、後者は神への信仰。
...
739名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 16:31:26 ID:Al/rqX19
何で電波はああも品がないんだろう?
そこいらの浮浪者のおっさんみたいだ。。。
740名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 17:07:09 ID:bxjy7d22
電波など、まともな研究者なら相手にしないよ。
741名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 17:36:30 ID:BV79DoGl
生まれ変わらない技術が阿含経に書かれている。

私は、体得した。
742名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 19:09:29 ID:gAQYeQAW
↑実行委員長?
743電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/26(金) 00:27:14 ID:g6WFgubI
で、以下のように(*)の妄想が炸裂していくのだ。

============================================================
上を石飛さんの論理式に書き換えると A * B, B*C となるでしょう。
A: 苦と老死の出離についての思索
B: 老死の縁についての思索
C: 老死の縁は死だという直感

苦と老死の出離についての思索中に「老死の縁が生である」という直感がひらめいたということでしょう。

我々はpaJJAya を属格と考えます。ですから「知の符合」となるわけです。
そして属格は「 A に属する B」を意味し「B∈A BはA の要素である」となるわけです。
複註であるMahAvaggaTIkAが《この慧が生起し》と解釈するのは、この属格と取っていると
考える以外ないからです。他の訳では方法や理由、起源を示す具格や奪格と読んでいます。
ですが、それではこの註とは矛盾するはずです。つまり具格や奪格では《この慧が生起し》とはならず、
「慧から符合」あるいは「慧によって符合」が生起しとならなければならないからです。
つまり《この慧が生起し》とは解釈できない。ところが属格なら可能です。
「慧の符合が生起し」なら《この慧が生起し》と解釈できることは分かるでしょう。
雜阿含經の「起無間等知」もまったく以上を支持しているでしょう。
744無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 12:58:47 ID:rTimnp0V
>>150 :名無しさん@3周年:2005/08/02(火) 13:32:14 ID:mVbWWzx+
> 「即正思惟 起無間等知」はTassa mayha? bhikkhave, yoniso manasik?r? ahu pann?ya abhisamayoの定型。

>>198 :名無しさん@3周年:2005/08/04(木) 09:38:49 ID:UVGDdmVc
> 現観が原始仏教を語るときの共通認識としてどのようであるかの一例。
>
> 『ゴータマ・ブッダ_釈尊の生涯』 <原始仏教1> 中村元選集・第11巻 春秋社 P.173 L6-
> そこでわたしはこのように思った、
> 「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。そのときわたしには正しい注意と智慧とから
> 現観(abhisamaya さとり)が起こった、「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
>
> 註:
> SN.12,10(mahASakyanumi Gotamo),1-2(vol.2,pp10-11)『雑阿含経』第12巻(285)大正2、P.79c-(中村註による)
> 上記「〔正しい注意と〕智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった」はさとりとして縁起を示す定型句。>>150さん参照

さて、現観に関する論点は、いったい何なのか?
現在、論点は次の2点だと私は考えます。

前提:中村元訳の、
>正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった、
>「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
をリファレンスとします。
745無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 12:59:42 ID:rTimnp0V
【論点1】リファレンスの部分を、

正しい注意と智慧とから
「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と
わかった。

いうふうに「ahu + abhisamayo」に関して、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった、
ではなく
・わかった。
と意訳することに、どんな問題があるのか?

【論点2】リファレンスの部分を、

正しい注意から知の符合(ひらめき)が起きた。
「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。

いうふうに「pann?ya」を属格と考えることは可能か?
746無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 16:00:23 ID:rTimnp0V
>>735 :。。。:2005/08/25(木) 12:01:34 ID:qzn+CDEN
> >霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
> >といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?
>
> 「わたし」「己」「自意識」だと思っています。
>
> 頭脳、思考、記憶などはむしろ肉体に属すると思っています。

ちらっと、ひらめきました。
ひょっとしたら、これは形而上の問いだから無記だったのではなく、
問いが不適切だったから無記だったのかもしれません。

アンドロイドにおいて
ソフトウエアとハードウエアとは 同一である/別異のものである。

という問いに答えることは可能だろうか?
無理なのではないかな。

確かに現状、コンピュータの
ハードとソフトは店頭では別々に販売されているわけだが、
動作状態において、これを区別できるのか? それに意味はあるのか?
ということです。
747。。。:2005/08/26(金) 18:44:12 ID:VW/HONp4
>>746 無宗ださんこんばんは。

色;はハードウエアだと思うんですよ。
受、想、行、識;はソフトウェアとその機能。

そして、ソフトウェアのファンクションは「自意識」と密接につながっていて、
両者は別物なのか、一体なのか、無記としか言いようのない状態。すなわち、
ヒトの理解を超えた状態なのではないかと思います。

ブッダのQ&Aは、Q自体が仏陀により設定された重要な命題なので、設問
不良のため答えなしということは無いと思います。

無記=ヒト(人類)の理解の範囲を超えるテーマ、では無いですか?
748。。。:2005/08/27(土) 10:00:08 ID:vo23Zun5
五蘊と自己(アートマン)について

テーラガータ
1160
五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると
見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
− 毛の尖端を矢で射るように。

................................................

やはり、自己は五蘊、とくに受、想、行、識ではなかったのですね。
749無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/27(土) 10:01:46 ID:yyfbWjjE
>>745
【論点1】に対する回答として、素人でも比較的わかりやすいのは、
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/612
くらいか?
何故に「プラークリット」なる語句がパーリ語と並列で出てくるのかはよくわからんが。
この主張を読んでみると、「理論理解」のみを「わかる」と解釈し、
「先験的理解」を「わかる」とはいわないと考えているようだ。
私は「現觀」は「先験的理解」のひとつで、「わかる」でもいいと考える。

「先験的理解」を「わかる」とはいわないとすれば、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった」を「わかった。」と意訳することは誤り
であるが、
「現觀」も一種の「わかる」だとすれば、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった」を「わかった。」と意訳することによって
 情報の欠落が発生する
ということに過ぎない。つまりわかったはわかったでも、
【ふっと、そのからくりのすべてを目の当たりに生じる】ようにわかった
という詳細が欠落する。

たとえば、
「彼は、√2が無理数であることを、数式をまじえ、背理法で示した」

「彼は、√2が無理数であることのを証明した」
と書き換えると、背理法を使用したという情報が欠落するのと似たようなものである
私は考える。
750無宗だ ◆4eP.G3wMrs
>>745
【論点2】に関しては、

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/629
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/644

にて、「属格とは理解のしようがありません」と書かれているが、
この根拠が、
・文法的な根拠
・文脈的な根拠
・その他の根拠
のどれなのか私に理解不能。

暇人さんの
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/683
を読むと、
<--
>具格、与格、奪格、属格のどれであっても いいわけね。
んだ いいのだ 訳者の自由だな。 一つの正解があるわけではない。
これだけの可能性があるのだ。
-->
文法的に間違いではなく、文章として意味が通じれば良いという主張ですね。

格変化表は、ttp://www.manduuka.net/pali/ このサイトの

ttp://www.manduuka.net/pali/p/pdisp.cgi?tb=na&bm=aaf
この表でいいのかな? だとすれば、処格も候補のひとつか?