1 :
それだけではない!:
2 :
考える名無しさん:03/06/21 23:00
2げっつなわけだが(*´∀`)
3 :
それだけではない!:03/06/21 23:01
なお、「国家論大綱」は未完に終わることが確定している。
第一巻上・下は出版されるが、第二巻の刊行は未定。
予定していた第三巻は刊行されず、その内容の一部を
第一巻に盛り込んだ。
4 :
それだけではない!:03/06/21 23:06
三浦つとむのファンで、そのつながりで
滝村を読んでいた人にはショックなことも書いてある。
6 :
考える名無しさん:03/06/21 23:09
こういう、スレが一番つまらんな。
実社会に適応できないにおいがする・・・
古うーって感じ。買って読む香具師、ちょっとイネーだろ。
20年遅い。
大変な労作ではあるが、本人以外誰も読まん可能性が大きい。
丸山批判本しか読んだことないなり
滝村さん、まだ生きておられたか。
マンマは食べておられるか。
なんとか生き永らえてほしい。
このごろ吉本親子の援助はないんだろうか。
私がかって立てたタキムラスレは、レスが9個で落ちたけどね・・・。
しかも、まともなレスは2、3個だけ。
玄和会関係の人たちがカキコしてくれたら、もう少し長生きするかも・・・。
私の中で、この人のベストは「マルクス主義国家論」だな・・・。
1の名前に笑ってしまった。
あの威勢の良さ、好きだな。
>>3 未完に終わるのは滝村先生の健康状態と経済状態が理由だとのこと。健康状態が
どれだけ回復してるかで話は違って来ます。
先生が月に一度の講習会を開けるだけの健康状態を取り戻していれば、5千円〜
一万円の参加費で10人集まれば5万円〜10万円の収入になります。20人集
まれば10万円〜20万円の収入になります。
いくら滝村先生の読者が少ないと言ってもそれぐらいの人数は集められると思い
ます。だから先生の健康次第ですね。先生の健康状態が大丈夫であれば私が参加
者を集めてもいい。
宮崎県立看護大学の教授になる道もあるけど、私的な講習会を開いたほうが滝村
先生には合ってると思うな。
>>4 三浦つとむのファンだとショックなことって何ですか?私はお金がないので
「国家論大綱」まだ買えません。
本屋で飛ばし読みしただけだと、三浦批判は分かりませんでした。
おせーて!!
>>15 健康状態って、どのくらいお悪いのでしょうか?
宮崎県立看護大学って、なにか関係あるんですか?
ここのスレは、関係者以外に意味不明のレスが多すぎます。
誰にも理解できるように書いてください。
>>17 どのくらい悪いのかは私も分かりません。以前、訪ねたときは自宅療養中で面会
することも出来ないとのことでした。
宮崎県立看護大学というのは「ふにゃぽん氏」が書き込んだように滝村先生の元
同志・南郷先生の奥方である薄井先生が学長をやっている大学です。関係者の間
では別名「弁証法大学」などと呼ばれているらしく、南郷先生の直弟子が何人か
教鞭を取っているみたいです。
三浦つとむ繋がりや南郷継正つながりで(教授としての実力は十分なのを前提に
しての話ですよ)、そこの教授になれれば経済的には安定するかなと思った次第
です。
>>16 まったく、ひさびさに来てみたら、教えてちゃんが多いな・・・。
まあいい。
>>16さんは、当然「弁証法はどういう科学か」は読んでるよね?
タキムラ氏が、今回批判しているのは、三浦氏の「弁証法」という
方法論の3大法則への還元論です。
あれを一種の形式主義として、エンゲルス的俗流解釈としています。
そういえば、「マルクススレ」で、かつて私がOFW氏にいろいろお教えしてもらっていたときに、
OFW氏も三浦氏に対し、同様のコメントをしておられました。
くわしくは、「国家論大綱」のP316〜317を、図書館か大きな書店
(かなり大きな所、たとえば新宿、紀伊国屋以上じゃないとダメでしょう。高田馬場、ホウリン堂にもありませんでしたから)
で借りるでも、立ち読みするでもして下さい。
>>17 >健康状態って、どのくらいお悪いのでしょうか?
>宮崎県立看護大学って、なにか関係あるんですか?
具体的な病名等や、病状などは知りません。
おそらく、勉強のし過ぎによる過労が原因でしょう。
宮崎県立看護大学とは、私が
>>14で挙げた、南郷 継正氏の奥さんが、
学長を務めているところです。
>>19 >まったく、ひさびさに来てみたら・・・・
ふにゃぽん氏が前に訪れたのは今日の15:09ですよ。そして次に訪れたのが今日
の15:55です。たった46分を「ひさびさ」と感じることが出来るほど密度の濃い
時間を過ごしてらっしゃるとは・・・・。
あなたに敬意を表します(笑
>>20 煽りにマジレスするのもバカらしいが、
今日以前に訪れたのが、かなり前という意味です。
御自分が振ったネタに対するレスには、なんのコメントも寄せず、
人の揚げ足取りにのみ発言するあなたは、よほどエライ方なんですね・・・。
あなたに敬意を表します(笑
22 :
それだけではない!:03/06/22 16:58
南郷は「彼の体調不良は彼の理論に内在する根本的錯誤のあらわれである」
とか言いそうだな。
私はドイツ語学者関口存男のファンでもあるのだが、関口の場合は明らかに
その関連が認められる。
>>14 空手をやってる人って、なぜかヘーゲル=マルクス的弁証法が
好きな人が多いですね。なぜかな?『資本論の誤訳』を書いた
たしか広西元信という人も松濤会だったかの館長だか会長だかでしたね。
ご存知ですか?
サヨは
しね
>>21=ふにゃぽん氏
失礼しました。P316〜317を読んでみます。感謝、感謝です。
ふにゃぽん氏って南郷関連のスレでもレスしてますよね?玄和会の会員の方で
すか?
>おそらく、勉強のし過ぎによる過労が原因でしょう
あなたのこの発言は南郷先生の「滝村は実践せずに勉強ばかりしてる」との発
言から来てるのでしょうか?何の根拠もなく病因など分かるはずもないですか
らねえ。
以前、滝村スレを立てたくらいだから滝村ファンかと思いきや、南郷つながり
の興味なんですねえ。
>>23 松涛会って江上茂の?広西元信さんて知りませんでした。空手スレになってし
まいそうですね(笑
私は滝村のマルクス主義国家論の権力論をそのまま使用して司法試験の憲法を
理解し,それを得点源にして司法試験に合格しました。現在は弁護士です。
その学恩は忘れません。
ごめんなさい。敬称は略しました。
>ふにゃぽん氏
玄和の人かと思って「ゆさぶり」をかけたのに乗ってこなかったな。
>一方的弟子さん
すごいですね。もしかして「国家論大綱」の前書きに書いてある弁護士の人?
32 :
滝村ビギナー:03/06/25 22:18
一方的弟子さん、こんにちは。
私は滝村先生の「マルクス主義国家論」は持ってるけど「国家論大綱」は持っ
ていません。前に会ったとき「『国家論大綱』が出来たら過去の本は全部いら
なくなる」なんて言ってましたが、まだ手に入りません。
一方的弟子さんは滝村先生の本で権力論を勉強したのなら私に教えて下さい。
「マルクス主義国家論」、読んでもチンプンカンプンです。
滝村国家論を「日々生起する政治現象の解明に役立てる」って例えばどうやる
んですか?
33 :
滝村ビギナー:03/06/25 22:25
あと、国家や国家権力を論じるのに<共同体・即・国家>と<共同体・内・国
家>と両方とも共同体を中心に考えるんですかね?
共同体って先ず分かんない。
34 :
考える名無しさん:03/06/25 22:55
ところでのう虚構に支配されたマクベスは実体であるはずの自分が
「影」に過ぎないと気付くんじゃ。
しかしもうそのときは手遅れなんじゃ。
35 :
滝村ビギナー:03/06/25 22:58
36 :
考える名無しさん:03/06/25 23:06
>>35 ねぇ、聞いて。
「ここ」というのはパラレルワールド上では確定するのは難しいのよ
37 :
滝村ビギナー:03/06/26 06:43
38 :
滝村ビギナー:03/06/26 06:57
>考える名無しさん
「マクベス」は岩波文庫で460円ですな。読んでから出直します。
39 :
滝村ビギナー:03/06/28 15:42
「国家論大綱」買いました。金額的に勇気がいりました。
三浦つとむ批判、ありましたねー。「私は三浦の後継者などではない」って。
彼は言語学者で社会科学者ではないとかも書いてましたねー。
ことあるごとに「弁証法」を口にしていたオッチョコチョイの哲学者が「ヤクザ
にも民主主義はある」などと言っていたのを思い出す、なんて書いてもいたな。
天才型の人らしい発言ですな。
40 :
滝村ビギナー:03/06/29 15:04
>>34 >考える名無しさん、『マクベス』(新潮文庫)一日かかって読みました。普段
本なんか読まないから時間かかっちゃって・・・。
>虚構に支配されたマクベスは実体であるはずの自分が「影」に過ぎないと気付
くんじゃ
これは何を意味してるんですか?
@『マクベス』という作品は当時のスコットランドやイングランドの実状が反映
されたものだという意味。
A魔女の予言に振り回されたマクベスが、その時々に感じた苦悩は自分の行為か
ら発した反映であることに気付いたということ。
B王位に付いたマクベスが自分の地位や特権が物質世界の反映だということに気
付いたという意味(これは「マクベス」からは読み取れなかったけど)。
Cそれ以外の意味。
どれですか?無視しないで教えてね♪
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/02 20:37
『国家論大綱』第一巻(下)が発売になります。発売日は7月7日だそうです。
「上」がほとんど売れてないのに、勇気ある出版社だ。
この本のせいで倒産しなければよいが。
43 :
滝村ビギナー:03/07/02 23:13
なんだ、考える名無しさん、いたんですか。逃げないで下さいよ。
自分の書き込みについて説明も出来ない人が「実社会に適応できない」もない
でしょ。
↑あほう!
名前を書かないと、みんな「考える名無しさん」になるんだよ。
オレは、ずっと上のほうの香具師とはまったく別人です。
いっしょにするな!
45 :
考える名無しさん:03/07/03 01:39
46 :
考える名無しさん:03/07/03 02:17
さすがにあなただと感心しています。
47 :
滝村ビギナー:03/07/03 05:51
>44
そうだったんですか。失礼しました。私は滝村ビギナーであるとともに2ch
もビギナーでして・・・・。
はじめまして。
滝村ビギナーさん、『王権誕生』(講談社・日本の歴史2)をお読みになりましたか?
考古学者の寺沢薫氏が書いたものですが、ここでは、滝村氏の研究が生かされています。
現在の日本古代史家たちは、厳密な意味での「国家の成立」を7世紀以降(律令体制成立=国家成立)としたり、
あるいは6世紀の「国造制」=国家成立としたりするのが通説ですが(中には邪馬台国まで遡る論者もいるけど)
、寺沢氏は、滝村氏の「共同体ー即ー国家」「部族国家」規定を全面的に導入することで、
定説を完全に覆してしまいしました(寺沢さんについては『国家論大綱』上p384〜387で言及しています)。
なにはともあれ、寺沢氏を読んでみてください。そうすれば、滝村氏が、どういう意図で<共同体ー即ー国家>
なんて奇異な概念を編み出さざるをえなかったか、よくわかるのではないでしょうか?
滝村国家論の入門には、『ニッポン政治の解体学』(時事通信社)が一番良いのではないかと、個人的には思います。
私の田舎のカーチャンなんか、「いやあ、おもしろい。中川一郎が自殺した原因が初めて分かった!」なんて
言ってましたもん。滝村氏の「アメリカ論」は今後の日本の将来を考える上で、極めて重要な指摘が為されていますし(NHKの日曜討論見てたら、京大の中西輝政氏が、それに依拠して発言してました)
滝村氏は、思想的には、20代後半で、マルクス主義を捨てちゃってますね。1972年の講演論文(『アジア的国家と革命』P266〜7)を読むと、はは〜んと分かりますよ。
それに、もともと、「思想的」な発言は極力控え「社会のアナリスト」に徹していた人ですから、『マルクス主義国家論』収録の論文(とくに第一部)なんて、まだ22歳のときのもので、いま読むと確かに未熟だし、マルクス主義の枠内で語るべきではないと思います。
ところで、22さん。関口存男といえば、日本最高といわれるドイツ語学者で、たしか一度もドイツにいったことないのに、とんでもない語学力を身につけたという話を聞いたことがあります。
留学経験ないって本当でしょうか? 本当なら、凄いとしかいいようがないな。
49 :
滝村ビギナー:03/07/05 07:06
>>48さん
ありがとうございます。『王権誕生』探してみます。感謝、感謝です。
50 :
滝村ビギナー:03/07/05 15:18
>48さん
48さんは詳しくて羨ましーですなー。とりあえず『ニッポン政治の解体学』か
ら読み始めることにしましたよ。現代の事実レベルの記述が多くて読みやすそ
うなんで。
でも最初の方に「石原慎太郎は自民党にいる限り総理・総裁はもとより派の領
袖としても、かつがれることはない!」と書いてますね。私、政治は全然わか
りませんけども、いろいろ社交パーティーに顔を出すと「石原総理」の声も聞
くのですが・・・・。
都知事を投げ出して総理になるのか分かりませんが、・・・・。
うーん、興味出てきましたよ、滝村政治論!!
滝村理論には、「意志」概念が出てくる。
これは三浦つとむ、津田道夫なんかもつかっている概念だ。
「国家意志」なんて言われると、所詮擬人法じゃあないかという気もしてくるし、
近代主権国家についての、擬人的な表象にとどまるような気もする。
>>51 > 「国家意志」なんて言われると、所詮擬人法じゃあないかという気もしてくるし、
> 近代主権国家についての、擬人的な表象にとどまるような気もする。
私もちゃんと理解できてませんが、国家を人になぞらえているわけではなく、
人間の意志のなかで国家活動を規定しているものを国家意思と呼んでいる
のではないでしょうか。
53 :
考える名無しさん:03/07/06 17:29
54 :
滝村ビギナー:03/07/06 17:33
みなさん、出来るだけ個別のHNを使って下さい。
ふにゃぽん氏が立てた過去スレの9を越えられたことを感謝いたします。
56 :
三浦・滝村ファン:03/07/06 18:15
『国家論大綱』上下巻、けっこう高い買い物ですが、それだけの値打ちがありますね。
特に、私などは、自分の仕事との関係で、下巻の「第八篇」や「補論」を仕事に生かせるのではないかと考えています。
一見すると哲学とは無関係な政治学書であるけれども、この本は、内容においても、その理論構成の仕方においても、ヘーゲル『論理学』を読み解く
場合の、重大なヒントが隠されています。カントとヘーゲルの学的位置づけへの言及(両者の認識論的関係や、ヘーゲル『法哲学』批判など)も重要ですが、
私がとくに感銘を受けたのは、
「国家権力の実質的構成」(第四篇)→「国家権力の形式制度的構成」(第五編)→「国家権力の現実的構成」(第六篇)→「国家・国家権力の現実的構成」(第七篇)
という理論構成です。まだ全部読んだわけではありませんが、上巻の五篇まで読んでみて、この本は、ヘーゲル論理学の猿まねなどではなく、
ヘーゲルの<方法>的真髄を、内容的にも構成的にも汲み上げる形で、
社会科学を展開している…と感じました。
いまどき「弁証法」なんて役に立つのか?…、「弁証法」は科学か哲学か?…という問題を考えるとき、『国家論大綱』は、科学(特に社会科学)とヘーゲル哲学の関係を論じるときの、決定的な鍵が隠されていると思います。
この点は、自分なりに一応の答えが出ているので、いずれ別の場所で、キチンと展開したいと思っています。
57 :
三浦・滝村ファン:03/07/06 18:18
連続での書き込み失礼。
『国家論大綱』は、滝村氏のご病気のため、内容的に「未完成品」で、もっと突っ込んで論じて欲しい箇所もあるのですが、理論的にも思想的にも、
非常に読み応えがあります。それに、決して難解ではない。
現代の政治・社会・思想状況を真剣に考える上で、有益な指摘に満ち溢れていると思うので、政治学専攻でない人でも、読みごたえあると思います。
政治を論じると言うことは、結局は<社会>全体を論じることになるわけですから、『国家論大綱』は、政治学・法学はもちろん、歴史学、あるいは教育学、認識論・論理学のような領域の研究者にとっても、示唆に富んだ有益な内容となっています。
滝村国家論は、一部の日本史・東洋史研究者を除けば、政治学・法学の世界では完全に無視されています(ときどき剽窃はされてるようですが)。
これは、滝村国家論が、政治学・法学の通説とかけ離れているだけではないと思います。旧帝大系列ではないということ、滝村氏の特異なキャラクター、あまりの毒舌ぶりなど、アカデミズムのギルド社会では到底受け入れられないということです。
三浦氏も言語学会ではほぼ黙殺ですが、現在、情報工学系の最先端分野で、三浦言語学を生かす研究が精力的に進められているそうです。
最新流行の言語学・記号学ではまるで役に立たず、結局、忘れ去られていた三浦言語学が、ぜんぜん畑違いの分野で蘇るというのは、痛快な話で、遠くから、研究の進展を祈念しています。
58 :
三浦・滝村ファン:03/07/06 18:20
またまた連続書き込み失礼。
51 三郎さんへ。
52さんが仰るとおり、滝村氏は、「国家意志」を「擬人法」というレベルで使ってはおりませんね。国家を、意志を持った「人格」ないしは「生命体」になぞらえているわけではないですから。
私は滝村ファンであり、かつ、時枝・三浦言語学のファンでもありますが、別に滝村や三浦を盲信しているわけではなく、
オカシイところがあれば率直にオカシイと言おうと考えています。しかし、滝村国家論への無誤解を眼にしたら、きちんと、指摘しようとも思っていますので、あえて指摘させて戴きました。
因みに、国家に意志があるか否か?……という問題は、ドイツ国法学の「国家法人説」を巡る論争で取りざたされたものです。
国家=法人という規定は、行政訴訟で国を訴えるようなケース、つまり法技術論的レベルでなら別に問題はないのでしょうが、国家とはなにか?…という学問的・理論的レベルでは、大問題でしょうね。
しかし、この議論は、『国家論大綱』第一部下巻の目次を読むと、滝村氏は第八篇で論じているようですので、これ以上は述べません。
59 :
滝村ビギナー:03/07/07 20:51
本屋に「国家論大綱」(下)ありました。「わが学的研鑽過程」は非常にシビア
な内容で、繰り返し読もうと思います。
60 :
三浦・滝村ファン:03/07/09 22:25
59 滝村ビギナーさんへ。
たしかに。
前のレスにも書きましたが、『国家論大綱』はけっして難解ではないです。
文章は巧いとは思えないが、読みにくくはないと思います。
それと、具体的な事例を論じたところがめっぽう面白い。
下巻を手にして、いきなり「ファシズム国家論」「国家と宗教」から読みはじめたんだけど、
「ユダヤ人排撃の意味」とか、「政教分離」とか、メチャクチャ面白いですよ。
それと、第七篇の小項目「飛び地・大使館地」のところとか。
審陽の脱北者事件(例のハンミちゃん一家の件)を念頭に置き、
「大使館地は領土か否か?」を考えるのは、いい理論的思考力の訓練になります。
61 :
考える名無しさん:03/07/11 08:58
>>59 滝村氏が講師をしていた大学ってどこですか?
それと、そのときの講座名は、「国家論ゼミ」とかだったの?
62 :
それだけではない!:03/07/11 18:34
>>61 確か立正大学だったはず。
「流行の『社会史』とは何か?」を発表したときの肩書きも立正大学でした。
平均年齢の高そうなスレでつね
65 :
考える名無しさん:03/07/12 01:18
古いとか言ってる人もいるみたいだけど
滝村以上の国家論をやってる人なんているの?
「ある人にとっては誰々が、滝村より上に見えるんだろう」
という観点からでもいいので教えてちょ。
いまんところ滝村信者なのでこれでいいのかなと思って。
ちなみに33歳ですが。他の方は?
66 :
滝村ビギナー:03/07/12 03:30
>65
私は良く分からないのですが・・・・。
吉本隆明氏は「マルクス主義の立場で最も良い国家論は滝村だ。でもM・フー
コーの国家論は違う立場で良い国家論を作れる」と書いていた記憶が・・・
67 :
考える名無しさん:03/07/12 04:19
>>66 65です。どうも。
フーコーですか。
ですが吉本さん自身は国家の定義として滝村を踏襲(?)してますね。
最終評価としては吉本さん的には滝村をとってるように
素人ながら思います。
でも参考になりました。
ところで吉本がでたついでに
<共同幻想>と<第三権力>とは概念・理念的にどういう関係
にあるのかずっと謎なんですが
このスレで教えてくださる方おられませんでしょうか。
お願いします。
>>67 ><共同幻想>と<第三権力>とは概念・理念的にどういう関係
>にあるのかずっと謎なんですが
いま、手許に滝村氏の著作がないので、(というより、私はこの人の著作を一冊も持っていない、
だって、どこにも、古本屋にさえ置いてないんだもん。でも、ほぼ全ての本は図書館で借りて読んではいる。)
氏の学説から直接引用することは出来ませんが、私なりの解釈を述べれば、次のとおりでしょうか。
まず、「第三権力」とは、安直に言えば、その時代のその空間を支配するGewaltのことです。
それはマルクス主義の歴史観から言うと、「全ての歴史は、階級闘争の歴史である。」という
マルクスの言葉が示すように、歴史の原動力とは、二つの対極にあるMachtの、実体的、観念的闘争であるということです。
(例 「古代社会」での自由民と奴隷、「近世」での王侯貴族とブルジョワ、「近代」でのブルジョアとプロレタリア 等)
で、なにが「第三」かというと、そうした相対立する二つのMachtの、支配者になりえた集団が、
ある意味でその二つの勢力から相対的に独立して、「第三の」権力として、その社会全体の、一般的支配者として君臨するGewaltのことです。
次に「共同幻想」ですが、それはその「第三権力」が、実は彼らの個的、特殊的利益に過ぎない
ある価値観を、それをあたかも社会全体のための普遍的、一般的利益であるように、
あらゆる宗教、教育、メディア等を通じて、共同体の全構成員に「幻想」させることです。
これは、現在の北朝鮮などを見ると、一目瞭然でしょう。
>>68 ○その社会全体の、一般的支配者として君臨することです。
×その社会全体の、一般的支配者として君臨するGewaltのことです。
70 :
滝村ビギナー:03/07/12 08:35
>67さん
吉本さんが最終的に滝村先生をとっているというのは吉本さんのどの著作
から分かるのでしょうか?私は『吉本隆明が語る戦後55年』第四巻で
「滝村のように緻密で体系的な作業を私はやりたくない。そこで見つけた
のがフーコーの国家論です」とか読んだ記憶がありますが・・・。
>ふにゃぽんさん
「第三権力」とは「支配者になりえた集団」ということですが、具体的に
は「何」でしょうか?ブルジョアとプロレタリアの上に君臨する集団とい
うのは「何」なんでしょうか?
71 :
滝村ビギナー:03/07/12 09:11
>67さん
ついでに、滝村先生ご自身は否定してるみたいですが、吉本隆明さんも
「滝村の国家論は三浦つとむの国家論を発展させたもの」と捉えてるみ
たいですね。
>>70 滝村ビギナーさん。
>「第三権力」とは「支配者になりえた集団」ということですが、具体的に
>は「何」でしょうか?ブルジョアとプロレタリアの上に君臨する集団とい
>うのは「何」なんでしょうか?
原則として、「近代」以降のいわゆる「先進諸国」では、その国の政府、政権は、
「議会制民主主義」の精神にのっとった、「選挙」という形での全国民の承認を経て成立した、
「全国民の、全国民による、全国民のための」公的機関、という形をとっています。
ですが、実情は、経済的Macht=「事実上の社会の支配者」の意を汲んで動かされる機関だということです。
つまり、一種の「羊頭狗肉」=「ブルジョア等の傀儡政府」だということです。
これは、たとえば現代日本を例にとれば、「公共性の高い機関」であるがゆえに、
その本来なら、公共の利益に還元されるべき利潤を享受しておきながら、
「負の財産」=「不良債権」の処理等を、国民の税金で賄う銀行、およびそれに与する政府、官僚等を
見ていただけれお判りでしょう。
>>71 ちなみに、南郷氏もそれに同意権です。
74 :
滝村ビギナー:03/07/12 11:11
>72
ふにゃぽんさん、ありがとうございます。勉強になりました。
>67さんは吉本さんにも詳しいようですが、是非、教えて下さい。私の
読んだ「吉本隆明が語る戦後55年」第四巻は1996年頃の著作みた
いです。そこに、「今までフーコーのことを結局は機能主義なのだ!と
言って来たが、どうもそういう乱暴な区分けが出来なくなって来た」と
語っています。そして「フーコーの手法を使えば滝村とは別の国家論が
作れるかもしれない」と語っています。
吉本隆明のフーコーに対する最終的な見解はどういったものでしょうか?
>>74 滝村ビギナーさん。
申し訳ないです。
吉本さんのことに関しては、まったく知りません。
フーコーと対談したということくらいしか、知識はないです。
すんません・・・。
>>74 >吉本隆明のフーコーに対する最終的な見解はどういったものでしょうか?
ただ、5、6年前に「新しい教科書をつくる会」が話題になったとき、
「西尾 幹二は、たとえばフーコーを完全に消化した蓮見 重彦のような徹底性を、
ニーチェに対して持っているか」
みたいなことを言ってたのを、憶えてます。
参考になるか、どうかは判りませんが・・・。
77 :
滝村ビギナー:03/07/12 11:40
>76
ふにゃぽんさん、ありがとうございました。当たってみます。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
あのお、ふにゃぽん氏、
近代以降の「政府、政権」が、形の上では「公的機関」であるが、
>実情は、経済的machtt=「事実上の社会の支配者」の意を汲んで動かされる機関だと>いうことです。
>つまり、一種の「羊頭狗肉」=「ブルジョア等の傀儡政府」だということです。
と概括なさっていますが、それって、三浦や津田道夫、さらには、三浦・津田「国家意志説」を吸収した日本古代史家の石母田正、滝村さんをパクッた田口富久治の国家観であって、まるっきり違いますよ(『国家論を巡る論戦』参照)
80 :
滝村ビギナー:03/07/12 16:38
>歴史学徒さん
こんにちは、以前「玄和スレ」でお見かけしました。
第三権力って何ですか?
>>68 詳細なお答えありがとうございます!!
ただ、せっかくですので疑問の趣旨をもう少し解説させてください。
第三権力についてはおっしゃるとおりと思います。
共同幻想については
>個的、特殊的利益に過ぎない
というのは吉本が共同幻想に対してとっている価値的な立場(の一部)としてはそうだと思うのですが
私のわからないことは 存在論的な共同幻想との関係なのです。
あくまでも疑問内容を伝えるための例えとして書いてみますが、例えば
「第三権力と共同幻想は同じもので、文脈的に使い分けられる」
この場合ですと、ふにゃぽんさんの言ったような、
吉本の共同幻想批判が押し出されるときに共同幻想という
タームが使用されるということになるでしょうか。
「共同幻想は第三権力のあくまでも表象的側面を言ったものである」
こうだとすると国家論の本体は第三権力ということで
私のあたまはすっきりするんですが、
『共同幻想論』を読む(ほとんど理解できない)と
すくなくとも三つ目の権力が成立するより幻想過程の方が歴史が古いように思えるのが…
「共同幻想の方が広い概念で、その内部構造として第三権力がある」
ただし、共同幻想の方が広いというのは国家以外にも
共同幻想という語は適用されるという意味で理解するとあたりまえの話なので
国家を総体として本質的にとらえる時には
共同幻想の方が優越的な概念で、第三権力は分析概念というような説という感じ。
どれも間違いだろうとなんとなく思うのですが
存在論的な疑問という意味合いがすこしでも
通じればと思って書いてみました。概念の布置として自分の頭での整理がつかないもんですから…。
>>70 すいません。これは私があさはかでした。すくなくとも
最終的に、というのは注意すれば避けられた表現で申し訳ない。
ご指摘の内容から察するに、時期的な問題もあるのかもしれません。
吉本の本もあまり手元にないもので、
すぐに引用できません、というかどの本だったかまったく
覚えていないので探すのが厳しいですが
吉本が国家とは何かを説明するときに
読者としてはまず「共同の幻想で… という口上を予想したわけですが
そうは言わずに、3,4行で第三権力がなぜ第三なのかを解説して
第三権力である、と書かれてました。
前後に滝村の名前もなく、(こいつは… とも思いましたが)
第三権力を、説としてではなく、真理として吉本は扱っているんだな、と判断したのです。
(典拠出せなくてすいません)
三浦つとむについては言語がらみの著作はむかし読みましたが
共同体や弁証法にかかわる著作は読まなかったです。
>>79 歴史学徒さん。
スンマセン。どう違ってます・・・?
「国家論をめぐる論戦」は読んでますけど、持っていないので確認しようがないです。
よろしければ、御教授願えますか?
>>79 歴史学徒さん。
あっ、決して論争をふっかけようとか、
皮肉を言おうとかいう意図は、まったくありません。
ただ、私に間違いがあるなら、そこを具体的に指摘していただきたいです・・・。
>>74 またいいかげんなことを書くことになりますが、私の知っていることは
吉本のフーコーへの評価は、マルクスとは別の見地で世界全体を把握し、また実践にも応用できる原理論を作った、
マルクス以後では唯一の思想家という評価。
それとこれはマリクレールで読んだので
ハイイメージ論にか母型論に収録かわからないですが、その中で
フーコーの思想の通りに世界史が歩んでいくのではちょっと困るのだ
というようなことを言っていたように思います。
その内容は、あくまでも私なりの理解ですけど
フーコー的な<知>の布置によってすべてが相対化され、
古い布置に新しい布置がとってかわるというのが世界史なのではなく
そういう面もあるにしても
この問題は解決した、といえるような位相、この問題では
この立場が正しいと言えるような位相があるということをはっきりさせたい
という趣旨だと考えています。
86 :
滝村ビギナー:03/07/12 21:01
>>85 65さん、非常に興味深い指摘をありがとうございました。いずれにしても吉
本隆明もミッシェル・フーコーも一度は通らねばならぬ通過点だと認識しまし
た。無視することの出来ない大物だと・・・。
間違っていようが何だろうが、あなたの書き込みは私の叩き台になります。ど
んどん書き込んで下さい。
出来るならば「65」というHNではなく、もっと肉感的なHNにして下さい。
>>86 65です。2chは正確なソースを出さないとすぐ叩かれるので神経をつかいます。
いつまでも65じゃまずいなあとは思っていたので、肉感的かどうかわかりませんが
HNつけてみました。以降これで書き込みます。ウォム
ところで滝村ビギナーさんは何ゆえに滝村に取り組むことに?
>WOMさん
友人が滝村先生のファンだったんです。それで薦められて神田の古書店で「マルクス主
義国家論」を5千円で買いました。その翌日に八王子の古書店で同書が100円で売っ
ていたのはショックでしたけど。
でも買ったはいいけど難しくて理解できないので滝村先生に会いに行ったんです。
実際に会ったら先生が素敵な方だったんで、著書を理解したいという気持ちがさらに高
まったんです。
だから政治問題とかは本当は関心が薄いんです。
会いに行った、っていうのはすごいですね。
ぜひそのときの印象はもうすこし詳細にお聞かせください。
いつごろの話なんでしょうか。
私は逆に神田で友人に「マルクス主義国家論」を買わせたことが
あります(¥2500)
今思うと自分で買っておけばよかった。そのときは自分にとって
滝村がそんなに重要じゃなかったので…。
期待アゲ
第三権力というのは、支配階級と被支配階級の上にたって、両者の対立を調整
し社会を安定させるものではないでしょうか。
社会を安定させることは、現状の支配階級による支配の維持につながるわけで、
形式的に社会全体の利益を目的としながら、実質的に支配階級の意思を貫徹させている、
というのが第三権力の特徴なのでは、と私は理解しています。
>>72 何度も言うように、私は滝村氏の著作を一冊も持っていません。
それで、歴史学徒さんがいらっしゃらいので、
>>72の私の見解の誤謬と言われたものを、自ら修正すると、次のようになるのかな?
たとえ、形式上、あるいは場合によっては内容上も「社会の全構成員のための第三権力」
が形成されたとしても、「自由主義経済」=「経済の無法状態」が外部に
存在する以上、そこでの最大実力者のMachtから、「完全に無関心にはいられない」
=「必ず、なんらかの形で、浸透される。」
その結果として、「そうした経済的実力者の利益に沿った政策」=「おうおうにして、社会的(=経済的)弱者にとっては、
抑圧的な行政」が、経済の側面のみならず、政治の側からも容認された形で、実践される。
したがって、
>>90で>52氏がおっしゃるように、
>形式的に社会全体の利益を目的としながら、実質的に支配階級の意思を貫徹
という結果を生む、と。
何度も言うように、私自身では、この論の真偽をはっきりさせることが出来ません。
どなたか、検討キボンです。
ふにゃぽんさん、滝村ビギナーさん、VOWさん、52さん、こんにちは。気分をあらため、H・Nを「歴史学徒」から「酢豆腐」に変えました。
ようやく『国家論大綱』下巻を読み終えました。こりゃあもの凄い。
この大系構成の展開は、徹底的に考えに考え抜かれ、【これ以外にない!】というところまで論理的に煮詰められていると思います。
哲学はヘーゲルをもって終わった‥‥という名言は、実感できました。
惜しむらくは「草稿」レベルで出版されたことです。滝村さんのお体が心配ですが、ぜひ改訂版を出して戴きたいと思います。
「第三権力」についてですが、滝村さんは「第三権力」規定を上巻の379ページと427ページで簡単に触れ、
「詳しくは本論第九章32章参照」としています。
なぜ、詳細を「理論的総括」の方で展開したのか?‥‥いま考えているところです。「<近代>における<第三権力>完成の意義」の項目の後に、
「国家権力の能動性と<階級性>」を持ってきているところを読むと、その意図はだいたい分かるような気がしますが、これは、迂闊なことを言えないな‥‥と感じています。
もう一回、上巻から読み直したいけど、時間が取れるかどうか。
因みに、「第三権力」の「第三」には、
a)社会の諸階級・階層の上に君臨する、超然たる<第三者的>な政治的権力
b)対立する二大<階級権力>の上に立つ特殊な<第三の>権力
という「二つの意味」が込められていると、滝村さんは述べています(下巻347・404)。
93 :
悩める滝村ファン:03/07/13 12:34
「ニッポン政治の解体学」で、「国際通貨ユーロは実現しない」と断言してたけど、できちゃった。その辺滝村先生はどう考えてるのだろう?
ふにゃぽんさん、近代以降の「政府、政権」が、形の上では「公的機関」であるが、
>実情は、経済的machtt=「事実上の社会の支配者」の意を汲んで動かされる機関だと
>いうことです。
>つまり、一種の「羊頭狗肉」=「ブルジョア等の傀儡政府」だということです。
という概括は違う‥と、私は言いました。その理由は、次のような意味でです。
「国家権力」が、「公的」であるのは、なにも「形の上」だけではないと、
滝村国家論では位置づけられている(私が理解した限りでは)。
「公」的というのは、<社会>全体を<国家>として構成・組織化し、その<社会>全体の秩序維持を担う
という意味である。近代以降の国家権力は、社会的諸権力・組織から、実体的な組織・制度としても、分化独立している。
この<公>権力としての<国家権力>を、
とくに、<階級権力>との対比で大きく把握すれば、<第三権力>と規定することができる。
国家権力による<社会>全体の秩序維持という、
国家活動の「実質」は、<統治>と<行政>という二重の原理に
基づいている(<統治><行政>の概念規定は、『国家論大綱』の根幹に据えられた二重原理で、上巻「第四篇7」で展開されてます)。
この<統治>活動を担う国家権力を、経済的macht=「事実上の社会の支配者」の意を汲んで動かされる」
「ブルジョア等の傀儡政府」と概括したら、単なる国家権力=階級権力論になってしまう。
しかし、国家の<統治>活動はあくまでも、国家権力中枢の<統治>のプロたちが、
プロとしての独自の専門的力量を発揮する形で、独自の意志決定を行っている。
日々経済活動にいそしむ経済人・企業人たち(資本家たち)は、<統治>は<統治>のプロに委ねている。したがって、国家権力の活動は、
資本家の「意を汲んで動かされる」なんてレベルで位置づけられない、ずば抜けた能動性的独自性を持っている。これが、社会的分業としての<政・経分離>ということの、厳密な意味である。
<統治>のプロたちによる活動は、「経済的macht=「事実上の社会の支配者」の意を汲」む場合もあれば、
彼らの反対を押し切ってしまう場合もある。
どちらにしても、<統治>諸階級・階層、諸産業・業種、あるいは、特定のテーマに応じて結集したあらゆる社会的諸組織の利害と意志が、
直接反映するわけではない。
ふにゃぽんさんの概括を「違う」と言ったのは、以上のような意味です。
>「国際通貨ユーロは実現しない」と断言してたけど
どこで「断言」してます?
「統一通貨の実現は、少なからぬ経済的メリットがある」
とした上で、しかし、「そのための過程」において、
「国民的諸階層や社会的弱者への多様な国家的保護として現れる
国内行政自体を、そっくり否定し廃棄するような蛮行をとり続けなければならないとしたら、
一体どうなろうか? 間違いなくとん挫する」(P151)
これ、まったく正確な把握でしょう?
「通貨統合後」の展望は、『国家論大綱』にも書いてますね。
ちなみに、社会科学者が社会現象を「予測」することは、どういう意味があるか?‥
滝村さん、マルクスを批判して書いてますね。
『ニッポン政治の解体学』の行間を読むと、「滝村さん、通貨統合は無理と予想してるのかな?」
と推測したくなりますよね。だから、92さんが「断言」と解釈したくなるのは分かります。
けど、
「国内行政自体を、そっくり否定し廃棄するような蛮行をとり続けなければならないとしたら」
という、限定を付けてるところが抜け目が無いというか、経済評論家みたいな不用意な「断言」をしないところが、さすがだと思いました。
もっとも、対談の『世紀末時代を読む』には、座談で調子に乗ったような、けっこう不用意な発言があるけど、
評論家が「予想」を立てて大恥かくような不用意さではない。
酢豆腐さん。
どうもです。
>>96 >「ブルジョア等の傀儡政府」と概括したら、単なる国家権力=階級権力論になってしまう。
たしかに、そうですね。
その場の勢いで書いて、思わず暴走してしまいますた。
>>98 >評論家が「予想」を立てて大恥かくような不用意さではない。
私も気をつけねば。
101 :
ふにゃぽん:03/07/13 14:29
なにせ、自分で、
>>68 >ある意味でその二つの勢力から相対的に独立して、「第三の」権力として、その社会全体の、一般的支配者として君臨するGewaltのことです。
と言っておきながら、つい脱線してしまいますた。
どうもありがとうございました。
102 :
ふにゃぽん:03/07/13 14:46
<近代>以降の、すなわち、形式上にせよ政治は、「議会制民主主義」の登場により、
なにものにも、不条理なGewaltには侵されない、という原理が登場した以上、
そこから当然導き出される、「政治」と「経済」の分離には注意を払わねばなりませんね。
しかし、たとえば日本の現状を見ると、やはり相対的にせよ「経済的Macht」の
政治への介入は見て取れますね。
「銀行」などを例にとっても、大きいところほど、「公的資金の投入」という恩恵にあずかってますし、
その「公共的ありかた」ゆえに、「公衆の利益」ののために役立たねばならないのにも関わらず、
=真の社会的(=経済的)弱者である、中小企業や、一市民に過ぎないサラリーマン世帯への、
理不尽極まる、貸し渋り、貸し剥し、等が見受けられますので・・・。
>100 どうもです。実はわたし、92さんへのレスで、「迂闊」やってます。
92さん、いま、気付きました。
「行間」を読めば‥といいましたが、「文脈」を追えばでした。
>>97 >社会科学者が社会現象を「予測」することは、どういう意味があるか?・・・
>滝村さん、マルクスを批判して書いてますね。
酢豆腐さん、素敵な指摘ありがとうございました。私、もともとは理系の、そ
れも工学系の人間なんで先入観を持ってたかもしれません。
ご指摘の「社会科学者の「予測」」について書かれているのは『世紀末時代を
読む』ですか?
105 :
悩める滝村ファン:03/07/14 00:46
酢豆腐様
レスありがとうございました。同書153頁で
「これを要するに、経済統合は成ったとはいえ、同盟諸国が、
国家の国家たる所以の<統治>に関わる統一的政治・軍事政策や、
統一通貨の実現はもとよりのこと、<国家行政>の実質を占める
経済・社会政策を、統一的に重ね合わせることは、不可能である」
と記述されています。これを「断言」と受け取るのは私だけでしょうか?
(一般書だから滝村先生も筆が滑った?)
>>89 WOMさん、私が滝村先生と会ったのは去年の冬頃だったと思います。もう随分
とお体の調子が悪いようで、お話しすることも出来なかったのですが、『流行
の「社会史」とは何か?』のコピーを下さいました。何か大学講師をしていた
ときの教材として使っていたものが余っていたみたいです。
みなさんのレスを読んで、前提となる事実が不足してるのを痛感するばかりです。
107 :
考える名無しさん:03/07/14 15:02
いやあ,滝村先生が大学の講師をしていたとは知らなかった。やはりご出身
大学でしょうか?講義を受けた方が羨ましい。
滝村ビギナーさん。
工学部系の方ですか。時枝・三浦言語学が工学系で注目されてるらしいですね(三浦さんの追悼祈念集にその研究グループの方が寄稿しています)。
社会科学における「予測・予想」について書いているのは、『国家論大綱』上巻「本論・第四篇・9章・2 金融政策B」の「補注」です。
滝村さんが言っていることを論理的に追求していくと、非常に根本的な議論(社会科学はなぜ<科学>といえるのか?)に、繋がるものだと思います。これ論じるのは、こういう場ではむりですね。
迷える滝村ファンさん。
これは失礼しました。たしかにはっきり言っておりますね。私はユーロを論じた当該箇所をさっと読んだだけで引用してました。まさしく「迂闊」です。
『大綱』の方では、「通貨・金融政策」は「予想外に順調」と修正してますね。
まあ、EUの内部状況に関する報道を見る限り、統一通貨の今後は不透明にして不安定って感じでありますし、滝村さんの言う
「国内行政自体を、そっくり否定し廃棄するような蛮行をとり続けなければならないとしたら」
という、前提条件を考えながら、EUの今後を見ていく必要があることは、間違いないですけど。
おお、滝村スレが100を超えるとは!
とにかく、滝村さんのご健康を祈りたいですね。
ぜひ、第二巻の歴史編と第三巻の学説史編を出していただきたい。
「まえがき」によれば、第二巻は手持ち原稿が1300枚はあるらしいし。
『大綱』に「フーコー権力論」の検討は「別の機会」にと書いてある。
『世紀末時代を読む』でも言ってたんで、おそらく草稿はあるんだろうから、
ぜひ、読んでみたいよ。
>107
『大綱』にも「ある私立大学の教養部」と書いてますね。
どんな講義してたのかな。
111 :
それだけではない! :03/07/14 19:07
>>106 滝村ビギナーさん
レスありがとうございます。去年とはいっそうの驚きです。
またそのお具合で、お会いになられるとは滝村先生の誠実なお人柄が
感じられますなあ。107さんの言うように、講義を受けた方がうらやましいです。
工学と両立しながら滝村国家論を極めるのもたいへんでしょうが
お互い、ぜひゆっくりと滝村国家論に学んでいきましょう。
うるところが大きいのは間違いありません。
>前提となる事実が不足してるのを痛感するばかりです
誰でもそう感じているとも言えますし
これから学んでいくというのは、羨ましくもありますよ(笑)
私にとっても滝村の<研鑽>は若い時の、衝撃であり、羨望であり
反省と情熱を共に迫る支えでありました。
(と思うとまだまだ怠けてるなあ、がんばらなくっちゃ)
>>110 草稿であっても読んでみたいですね、ほんと。
滝村先生の健康をお祈りしましょう。
>>67 >>81 で出した疑問について、他の方も仮説でいいのでお聞かせ願えませんでしょうか。
自分なりに、このスレをもとにあらためて考えてみた内容としては
第三権力が第一権力と第二権力にまたがる、全体的で公的な
存在性を獲得するときの、公的という観念の<現実性>が
共同幻想である、
というふうになるかなと考えました。批判、お待ちしています。
上の考えで、納得のいっていないところは、
共同幻想という概念が、国家にかぎらず、人のさまざまな共同的ありかたに
適応可能な概念であり、範囲が広い。
一方の第三権力は、なによりも国家論として打ち立てられた概念である。
(だからこそ国家がなぜこれだけの普遍的権力体として存在していられるかの
謎を解き明かしてると思える。)
しかし私の上の考えでは、第三権力の方が包括的な概念になっていて
ほんとうにそれでいいのかと我ながら疑問に思うわけです。
私なりの「第三権力」へ解釈は、酢豆腐さんらにははるかにおよびませんが
第一、第二権力がいわば地べたで対立しているのに対し、観念的に位階の違う、
上位でかつ両方にまたがった存在である、というところです。
このことは奥行きの深い物の見方を提供してくれているように私には思えます。
第三権力が両方にまたがった存在であるということは
両者の争いを調停する上位存在であることを含んでいますが、
それは国家が<正義>という立場を独占していることを意味します。
これは国家権力が本質的に「強力」であることを納得させてくれます。
また戦争は、争いを正義として調停することを本質とするはずの国家が
争いの一方当事者として立ち現れるという、「異常」事態である
と考えさせられます。
また強大で、なんらかの正当性をもった権力というのは
決して一方の勢力が自己のパワーを拡大していくだけでは獲得することができず
一度自分を捨ててでも、第三(権力)の、第二勢力との共有性のある
位相を獲得しない限り、掌握することはできない、ことがわかります。
これは、ただ勢力を拡大していけばいいかのような
単純な権力論の誤謬を、明晰に訂正してくれます。
間違ってたら指摘してください。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
共同幻想というときの「幻想」とは、人間にとっての有意味性、というぐらいの意味で読むのがいいのではないかと考えています。
アッタマいいなー、大秀才!
>115
これは国家権力が本質的に「強力」であることを納得させてくれます。
『国家論大綱』買ったけどまだ読んでない者ですが、目次読むと、VOMさんのまとめ、微妙に
意味が違うような気がする。(偉そうないい方ですみません)
「強力」をstattsgewaltという意味に解釈すると、あくまでも、
国家権力stattsmachtという<本質>の
<実存形態>ではないでしょうか?
<国家権力>も、それから<国家>も、<組織>として構成され、
その<組織>の維持のために、軍隊とか警察というより特殊な<組織><機関>が
「組織としてのgewalt」「統治手段としてのgewalt」と位置づけられているように思います。
>また戦争は、争いを正義として調停することを本質とするはずの国家が
>争いの一方当事者として立ち現れるという、「異常」事態である
「争い」を「調停することを本質とするはずの国家」というのは、
ある国家内部で、社会のゴタゴタを調停したりするケースが想定されます。
ここでWOMさんがいう「国家」は、<国家権力>ですよね。
他方、戦争は、国と国同士が、紛争で外交決着つかないときの、最終手段ですよね。
これは、<国家権力>というより<国家>レベルの問題だと思います。
したがって、WOMさんがおっしゃられるのを読むと、
<国家>と<国家権力>が同一地平で、いっしょに論じられているように感じます。
こうすると、
サゲ進行で、前レスの前半部分について一言補足。
WOMさんが<権力>を<支配力>という意味でお使いになっておられるなら、
わたしの前半の指摘は、取り越し苦労なんですが、
「強力」という表現が、gewaltの訳語として使われることが多いので、
あえて言及した次第です。
121 :
ふにゃぽん:03/07/16 20:13
>>119-120 ><国家>と<国家権力>が同一地平で、いっしょに論じられているように感じます。
この辺は、<共同体ー間ー国家権力>と、<共同体ー内ー国家>の違いと解釈できるのかな?
>>119-120 おっしゃるとおり、国家権力と国家との間にとくに区別をもうけずに論じてました。
逝ってきます……
宮田和保ってヨヨギじゃなかったの?
前著は、たしか大月書店でしょ?
すくなくとも正統派マルクス主義、あるいはロシア・マルクス主義でしょ?
>122
情報どうもです。三浦さんの影響を受けたと公言する経済学者かあ。
三浦つとむは、左翼な人たちの「主流」(共産党。社民も含む)にとって、もう許容範囲なのかな。
ま、滝村さんは絶対に左翼からは受け入れられないだろうなあ。
滝村国家理論を受け入れること自体、左翼としての自己否定だもん。
>三浦つとむは、左翼な人たちの「主流」(共産党。社民も含む)にとって、もう許容範囲なのかな。
たしか、「弁証法はどういう科学か」で、「全ての国が軍隊を持っているのに、
なぜ、ひとり我が国だけ持てないのか?」みたいなこと言ってましたからね・・・。
40年前の我が国の「マルクス主義者」で、あんなこと言ったのは、あの方だけでしょうね・・・。
スレ違いにつきsage.
128 :
考える名無しさん:03/07/17 12:56
>127
そんなこと言ってないよ。
>127
ふにゃぽん様、それは『弁証法はどういう科学か』の何ページに書いてあるのですか?
test
>たしか、「弁証法はどういう科学か」で、「全ての国が軍隊を持っているのに、
>なぜ、ひとり我が国だけ持てないのか?」みたいなこと言ってましたからね・・・。
上の文章の「?」が反語の意味であれば(一見そのようにとれる文章と思います)
三浦氏は私の見た限り、そのようなことは言っていません。
ただ、「?」が疑問の意味、つまり「日本が再軍備しない理由は何だろうか?」
ということであれば下のように言及しています。
「再軍備反対という理念を不信用のものとし、かつそれを
傷つける最も確実な方法は、それを度はずれに誇張することです。
日本は《今後どんなことがあっても絶対に》軍備や徴兵はしないと
主張することです。相手は、ソ連や中国も大きな軍備を持ち徴兵制度
をとっているではないか、なぜこれらの国のことをいわないで日本の
再軍備にばかり反対するのか、ソ連や中国の手さきになって日本を
売ろうとするのか、自分たちの手で自分たちの国を守るのはあたりまえで、
命がおしいからとそれに反対するのはいくじなしの臆病者だ、などと
考えるでしょう。どういう条件の下での再軍備反対か、どういう条件に
あるからこそソ連や中国の軍備は正当なのか、それをあきらかにしなければ
ほんとうの説得力を持ちません」
(『弁証法はどういう科学か』p.117.《》内はゴシック体による強調)。
また、軍隊ということに関してはp.199に革命勢力が権力を奪取する
ために「役人の入れ替え、軍隊の解散と再組織などが、どうしても
必要になります」とありますね。
訂正:「日本が再軍備しない理由は何だろうか?」
→「日本が再軍備できない理由は何だろうか?」
スレ違い失礼いたしました。
戦後の空想的平和主義は、社会主義妄想と絡み合って、リアリズム派とナイーブ派、その中間派に別れますね。三浦さんは
リアリズム派の本音をチラリと漏らしたんでしょう。
歴史を見れば、共産主義者が権力握ったら、社会主義<政治>革命と、それに続く
社会主義<社会>革命の過程で、軍隊と治安警察を駆使して大量虐殺・粛正をやるわけだから、
バリバリの共産主義者なら、戦略上「再軍備反対」を唱えても、本音は違う。
昔、田原総一郎が、社会党イデオローグの向坂逸郎にインタビューしたとき、日本が社会主義になったら軍備を持つのは当然って発言してた。三浦さんは、戦前からのマルクス主義者だから、当然この立場ですね。
このリアリズム派に対して、ナイーブ派は、
日本が、憲法九条を守り、非武装・中立を貫いている限り、攻めてくる国などありえない。だから、憲法違反の自衛隊はいらない。
廃止するか規模縮小して、災害救助機能だけ残す。
起訴間近の辻元清美が、「憲法九条は、平和を守るドラエモン」なんて言ってたが(雑誌で見た)、これが典型。
この手の発想だと、万が一攻められたら?…、あるいは、攻めてこないまでも、ガンガン脅かし掛けられたら?…という問い自体が成立しない。
日本国憲法は、あくまで日本国民にのみ遵守義務がある国内法に属し、
中国にも韓国にも北朝鮮にも遵守義務なんてないし、尊重するもしないも自分の勝手なんだが、そういうことは一切
考えない。そういう意味で「ナイーブ」派なんですよね。
いま、『国家論大綱』読み直し始めてるんですけれども、
滝村さんと三浦さんの関係、なんとなく分かってきたような気がします。
矛盾論みたいな言い方ですが、滝村さんは、
<三浦さんの後継者であり、同時に後継者ではない>
ってことではないでしょうか?
どういうことかというと、三浦さんが言語学の領域で完成させた
<規範論>の偉業(ヘーゲルから学的に再措定)を継承・発展させているという意味で、滝村さんは、三浦さんの後継者です。
しかし、三浦<規範>論は、あくまでも言語学で創出した<規範>論
です。それをそのまま権力論・国家論にもってきても、『大綱』みたいな大系にならない。
いくら個別意志→特殊意志→国家意志と拡大しても、三浦・津田国家意志説では、学的国家論にならない。
ましてや、三浦さんの本領である言語学以外の「啓蒙的仕事」、いわゆる「三浦弁証法」
の継承者なわけがない。
滝村さんの真意は、そのあたりにあるような気がします。
それと、下巻の後書きで、三浦さんを意識して書かれたと思われるところには、じーんときましたねえ。
>>126 このサイトの工藤 某って、たしか「レーニン批判の時代」で
三浦さんに「下衆な男」って一蹴されてましたよ。
(私はビンボーなため、本持ってないので、例によってページ指定とか出来ません・・・。
スンマセンです・・・。)
136 :
ふにゃぽん:03/07/19 10:10
ふにゃぽんさん、『国家論大綱』買ってやってくださいよ。
>>137さん。
上下巻合わせて、16000円・・・。
今のところ、手がでません。
ですが、滝村氏の著作のことだから、いつ絶版になるか判らないので、
近日中にムリしてでも、購入します。
みなさん、
>>136は参考までに・・・。
お金がなくて下巻、まだ買えません。来月の給料でなんとか・・・・。
立ち読みした「あとがき」での「学的究明の過程で出立時に把持していたマル
クス主義者としての「人間解放」思想を破り捨てざるを得なかった」というと
ころにジーンと来ました。
ちなみに玄和関係の人は学的究明が進む中で、初期の思想性を改めざるを得な
い状況ってないんですかねー。
>>139 >ちなみに玄和関係の人は学的究明が進む中で、初期の思想性を改めざるを得な
>い状況ってないんですかねー。
ちなみに、南郷氏も機関誌で、「国家は死滅しない。」といってます・・・。
もう7、8年前の話・・・。
テレビつけたら、なんかTBSの筑紫、アメリカを裁く国際民衆法廷って、
バカサヨクの提灯ニュース流してたんだが、
こういうバカサヨクって、ブッシュは裁いても、
金日成もフセインも裁かないんだよな。つーか裁けない。
その理由の一つとして、民主と専制の区別が、サヨクにはちゃんとできてないってことがある。
滝村国家論をちゃんと勉強して、こういうバカサヨクを理路整然と粉砕できるようになりたいよ。
142 :
考える名無しさん:03/07/24 21:59
>>140 南郷氏も機関誌で、「国家は死滅しない」といってます・・・・
でも南郷氏は現代革命を支持する立場の人間なんでしょ?武道講義シリーズが
出版されてからも、そんなこと書いてましたよね?1990年代の話ですよね。
143 :
考える名無しさん:03/07/26 10:08
>でも南郷氏は現代革命を支持する立場の人間なんでしょ?
>武道講義シリーズが出版されてからも、そんなこと書いて
>ましたよね?1990年代の話ですよね。
どこにそんなこと書いてました?
144 :
考える名無しさん:03/07/26 15:14
本が手元にないから正確じゃないけど、第二巻だかの前書きで「自分が名前を
残す方法は二つしかなかった。一つが革命を起こすことで、もう一つが名著を
残すこと」とか読んだ記憶。
「現代革命を起こすこと」が自分を歴史に刻み付ける選択肢として存在したと
いうのもスゴイな、と。
でも弟子には「公務員になれ!」だから矛盾は感じたけどね。
『国家論大綱』再読。精製されざる未完成品であることが、惜まれる。腑に落ちないところ、疑問に思うところもあるけれども、とにかく構成が素晴らしく、それだけに、ほんとうに惜しい。
というのが、とりあえずの感想です。
それと、三浦さんの功績(規範論)には、触れておくべきではないかと…。
でも、三浦さんが生きていたら、「科学者」三浦の業績を生かしながら、
「哲学者」三浦を解体してくれたこと、本望だと思うのではなかろうか?
滝村スレがここまでいくとはうれしい限りです。
国家論大綱がでるまで、滝村さんの消息すらわからなかったので。
ケイソウの営業の方にお会いしましたので
滝村のほかの本もこの機会に復刊してもらえるよう宜しくお願いしてきました。
皆さんその際には買ってくれますよね。
148 :
考える名無しさん:03/07/31 07:41
ケイソウだと『北一輝』『国家の本質と起源』『国家論をめぐる論戦』『丸山
政治学』ですね。
149 :
考える名無しさん:03/08/01 10:40
「国家論大綱」の最後のページに
>>148さんが挙げている書籍のタイトルと値段が
書かれていたけど、あれは再販決定ってことじゃないの?
150 :
考える名無しさん:03/08/01 18:57
三一のほうはダメですか?聞くところによると『唯物史観と国家理論』や『ア
ジア的国家と革命』をつくった頃のスタッフは一人も残っていないらしい。
>>148 『国家の本質と起源』はだいぶ前から品切れ状態、
『国家論をめぐる論戦』、『丸山政治学』×2は
ttp://www.keisoshobo.co.jp/の 健作に引っかかるので在庫があるみたい.
『北一輝』は比較的最近まで(とていっても2、3年前)新宿紀伊国屋に在庫があるのを
見たことがあるけれど、今はどうでしょう?
まあ、『国家の本質と起源』以外は古本屋(ネット上も含めて)でも意外と良く見かけるので
結構簡単に入手可能では?
その他の本(含、三一、『革命とコンミューン』新旧)も念入りにチェックを入れていれば
発見不可能ではないので、どうしても入手したいようだったらがんばってみる価値はあるかも。
152 :
考える名無しさん:03/08/01 21:07
そうそう、一週間前にも早稲田の古本屋で『革命とコンミューン』と『アジア
的国家と革命』売ってたよ。
もうだいぶ昔、滝村さんと一度だけお会いしたことがありますが、
「私は秀才ではない」とおっしゃっていたのが印象的でした。
滝村さん曰く、
「デビューが早かったので、早熟の秀才と言われたことがあるが、自分は、世間一般に言われる秀才ではなかった」
そうです。
その話の脈絡で、
まだ実力がないのに、たまたま運良くデビューするのは、ある意味で不幸なことだ。日本では、まわりにチヤホヤされて、結局スポイルされるパターンが、非常に多い。
自分も、もし『北一輝』レベルでいい気になっていたら、あのレベルで終わっていただろう…とも、おっしゃっていました。
後書きを読み、その言葉の意味するものが、よく分かりました。
とも。
154 :
考える名無しさん:03/08/04 23:54
test
155 :
考える名無しさん:03/08/10 03:21
結局国家はどうなるの?
156 :
考える名無しさん:03/08/10 03:27
158 :
それだけではない!:03/08/17 20:01
「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」で上野のカリキュラムは
「英米式」の「必要な文献をシナリオどうりに配した膨大な読書量を
こなすことで、その分野については短期間で国際水準の議論が
出来るようになる方法」であると紹介されていた。
私は芹沢・滝村の対談本を読んでいたので「これは分業の止揚による
国家の廃絶をめざしているのだな」とわかった。
ある人がこのくだりを「英米ではこんなカリキュラムは無い」
と批判していたが、この人は上野の意図を読み取れていない。
159 :
考える名無しさん:03/08/17 20:47
>>158 芹沢、滝村の対談本、オレも持ってる。
あれで柄谷、岩井をクソミソに批判して
いたが、なかなか説得力があった。
滝村、もっと評価されてもいい。
160 :
考える名無しさん:03/08/17 22:46
>>159 >あれで柄谷、岩井をクソミソに批判していた
詳細キボンヌ
161 :
考える名無しさん:03/08/17 23:14
>>160 「世紀末時代を読む」ですよ。
part3現代思想の陥へい
「終わりなき世界」批判から始まり、柄谷得意の`単独者,批判に
おわりまつ。けっこーぼろくそ(それもわりと的確)
ポストモダンかぶれ学者の陳腐さを一刀両断してます。
図書館でも借りれますから、ぜひご一読を。
162 :
それだけではない!:03/08/17 23:17
芹沢、滝村の対談本のあと、太田出版から
「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の翻訳が出た。
巻末に柄谷の論文があり、それはあきらかに
滝村のことを念頭において書かれている。
くらべて読むことをおすすめする。
163 :
考える名無しさん:03/08/18 00:00
164 :
それだけではない!:03/08/19 05:09
158の訂正
×英米→○欧米
×シナリオどうり→○シナリオどおり
二つ目のは小学生低学年レベルの間違いだ、恥ずかしい。
柄谷のあとがきをパラパラとめくってみた。
選ばれるものと選ぶものの恣意性っていう言語学的発想が過度に抽象的にすぎる。
法的言語として表現される国家規範としての特殊性を把握できるはずがない。
166 :
考える名無しさん:03/08/29 01:32
けっきょく売れなかったようだ、無念。
(´・ω・`)
168 :
考える名無しさん:03/08/29 11:03
一気にドバーっと売れる本じゃないでしょ!
169 :
考える名無しさん:03/08/29 20:51
一気もなにも。
発行1000部で、よく売れても500部程度でしょ?
170 :
考える名無しさん:03/08/29 23:15
昔の滝村本は初版発行3000部くらいだったから、
やっぱ、今は売れないんだろうな。
171 :
考える名無しさん:03/08/30 17:02
>>166 売り上げ部数ってどこで調べることが出来るのですか?
>>170 昔はどんな人たちが買ってたんだろう?「試行」読者とかかな?
発行部数や売り上げ状況は、出版関係者に聞けば分かる。
173 :
考える名無しさん:03/08/31 00:26
>>170 昔は相当に売れたみたいね。ちょっと前に国分寺の古本屋で立ち読みしてたの。
「状況」とか「弁証法研究」とか「状況分析」とか革命思想関連の本が一杯あ
るとこで「滝村さがしてるんですけど・・・」って言ったら「今時、滝村読む
やつがいるとはね。頼もしいなあ」とか言って。何が頼もしいんだか?
別に革命運動はやらないですよ、オジサマ
オジサマは全共闘?
175 :
考える名無しさん:03/08/31 00:44
>>174 年代はそのぐらいでしたね。60歳前後じゃないかな?
滝村さんの読者層は、吉本ファン、三浦ファンと重なる。
後は歴史学者(特に日本史東洋史)。
廣松渉さんも、滝村さんのことを高く評価してたんだけど、
、滝村さんに、ボロクソいわれたため、その後はいっさい滝村のタの字も出さなくなったらしい(廣松門下の方から聞いた話)。
177 :
考える名無しさん:03/08/31 15:05
毎日新聞読んだか?完売御礼だって。
178 :
考える名無しさん:03/08/31 17:42
>>176 滝村の広松批判とはどのようなものですか?
>>177 読んでないけど、完売?信じられん。
詳しい記事、ギボンヌ。
180 :
考える名無しさん:03/08/31 18:12
滝村信者必死だなw
181 :
考える名無しさん:03/08/31 18:21
182 :
考える名無しさん:03/08/31 19:08
滝村信者キモい
183 :
考える名無しさん:03/08/31 19:31
滝村みたいなマイナーでも変質アンチは付くんだな。
>>179 当該記事は8/27付夕刊「憂楽帳」欄。
勁草書房の話として、上下巻とも完売見通しなので重版をきめた、とさ。
184 :
考える名無しさん:03/08/31 22:22
>>176 滝村さんが「国家社会主義」関連の研究をしてたのは南郷さんと付き合いがあ
る頃だよね。5・15事件とか2・26事件とか、あと三島由紀夫関連とか、
武道家の政治絡みに関わる論述をしたのは南郷さんを意識してたの?
『北一輝』のあとがきでも南郷さんの名前を出してるし・・・・。
初版1000部。重版500部か。
まあ、あの厚さ、あの値段で重版は立派なほうだろう。
通勤途中の電車の中で読みたいので、文庫で出して欲しいのだがそうもいかないだろうな。
あれをカバンの中に入れて持ち歩くのはちょっと無理があるよ。
187 :
考える名無しさん:03/09/01 18:44
>>184 >武道家の政治絡みに関わる論述をしたのは南郷さんを意識してたの?
>『北一輝』のあとがきでも南郷さんの名前を出してるし・・・・。
滝村さんは、玄和会の段位(たしか二段)を持ってるよ。
たぶん、名誉段だろうけど・・・。
それと、南郷氏に論文の書き方を、イロハから教えたのもた滝村さんだよ。
188 :
考える名無しさん:03/09/02 20:49
>>187 滝村さんと南郷さんは具体的にはどういう関係だったんですか?「マルクス主
義国家論」の初版を見ると、南郷さんの近所に住んでたみたいだけど?
189 :
考える名無しさん:03/09/03 12:01
>>188 滝村、南郷ファンには常識だけど、ご存知ない?
(あっ、イヤミじゃないからね?)
まず、二人とも主に論文を発表する場が、
吉本 隆明主催の同人誌「試行」だったという意味で、
同人同士。
加えて、滝村氏は否定するかもしれないが、二人とも
三浦 つとむを師として持つこと。(南郷氏の場合は、あくまで私淑という意味だけど)
したがって、同じ世界観(唯物論)、方法論(弁証法)の信奉者だということで、
二人は基同志(今はどうか知らん)。
>、南郷さんの近所に住んでたみたいだけど?
これは私も気づいてたけど、それが偶然なのか、なにか意味があるのかは解らん。
>189
三浦さんも滝村さんも、個別科学者、理論家だけども、
思想はまるっきり違うよね。
>>189 ありがとうございます。でも、それは既に知ってることばかりです。ゴメンな
さい。
刊行されてる著作だけでは伺えない情報ください。例えば、滝村さんが南郷さん
の所で空手を習ってたのは知ってましたけど、弐段まで行ったというのは初めて
知りました。
私的には茶帯で止めたと聞いたことあったので。なんでも防具をつけて殴りあう
とこまではやらなかったらしい。
他にも、何か知ってる人いましたら、お願いします。
193 :
考える名無しさん:03/09/04 21:47
>192 :考える名無しさん :03/09/04 19:43
9月7日の朝日新聞書評欄は必見!
http://book.asahi.com/review/index.php?info=s&no=8 インタビューを受ける体力・気力があることにほっとする。
情報サンクス。体の方、だいじょうぶなのかなあ。でも、嬉しいな。
>178
遅レスすみません。
具体的な批判は、『革命とコンミューン』で廣松さんの本を書評してるやつかな。
これは、短い文章なので、ぜひ一読してください。
廣松さんは、一般教養と献学的な読み込みは凄いのかもしれないが、
哲学者だから当然かも知れないが、現実具体的な諸問題を論じさせると、切れが悪いと思います。
194 :
考える名無しさん:03/09/05 14:34
>>192 見たけど,どこに書評・インタビューがあるんですか?判りませんが...
朝日新聞に取り上げられて少しは売り上げ部数も増えるかな。
197 :
考える名無しさん:03/09/07 09:00
小林よしのりか、彼の信者にあの本に対する反論を書いてほしい。
198 :
考える名無しさん:03/09/07 09:13
副島 隆行か、西部 ススム、カンサンジュでもいいや。
199 :
考える名無しさん:03/09/07 09:43
9月7日・朝日新聞書評欄より
<時代を超えた本質の探究>
ヒト、モノ、カネが軽々と国境を越えて移動する「グローバル時代」といわ
れている。流行の先端を競う本が書店にあふれている中で、いかめしいタイト
ルの大冊は反時代的にも映る。
「高校時代から学んだマルクス主義の理論では、資本家と労働者の階級対立
がなくなれば国家は死滅するはずでした。ところが、プロレタリア独裁の革命
権力は三権分立を否定したため、専制国家以外にあり得なくなった。70年代
半ばにそれに気ずき、頭が真っ白になりましたね」
以来30年、イデオロギーの色眼鏡を外して、古今東西の政治理論の「錯誤
と欠陥」を批判的に吟味し、公的権力が社会全体を組織化する「統治の論理」
を独自に探求してきた。その方法論は、歴史的に最も発展した形態をモデルに
過去へさかのぼっていくヘーゲル、マルクス的だ。その点、近代国家理論の祖
ホッブズが原子論的な個人から出発し、人工的な国家の必要性を論理的に導き
出したのとは対極にある。
「国家は、内外危機に対する社会総体の政治組織。いわば社会というアンコを
包んだ饅頭の皮が国家です。現在のようなグローバリゼーションといえども、
国家の認めた範囲内でしか起こり得ません」
本書はユートピア的夢想を許さない。国家の本質を見極めたうえで、現代世
界の潮流を見よーそうした硬質のメッセージが読み手に伝わってくる。
自ら「一介の素浪人」という在野の政治学者。特定の組織に属さず、10年
ほど大学の非常勤講師をしたほかは、雑誌への寄稿や著書で生計を立ててきた。
出版社に勤めていた奥さんの支えも大きかった。
近年の体調は、網膜疾患、腎臓結石などの疾病・故障が多い。しかし「少し
休んで、可能なら第二巻の完成にかかりたい」という。
(文・西岡三夫)
200 :
考える名無しさん:03/09/07 11:13
「現在のようなグローバリゼーションといえども、
国家の認めた範囲内でしか起こり得ません」
本書はユートピア的夢想を許さない。国家の本質を見極めたうえで、現代世
界の潮流を見よーそうした硬質のメッセージが読み手に伝わってくる。
千金の重みがありますなあ。
国家はじょじょに死滅するだの、国境を越えてグローバルだのと言ってる人たちは、
超大国アメリカにしても、従属国・日本にしても、<国益>という一点から、グローバリズム
を進めたり緩めたりするわけで、そのところをわかってないヤツが多すぎる。
201 :
考える名無しさん:03/09/07 11:31
9月7日・朝日新聞書評欄の感想
>現在のようなグローバリゼーションといえども、
>国家の認めた範囲内でしか起こり得ません
この部分は別に間違っているわけではないが、これがもとで大きな過ちを犯している。
国家の認めた範囲内でしか起こり得ないという結果論から、グローバリゼーションを
包む饅頭の皮」をたる国家の原理をでっちあげているだけだ。
つまり、この結果論から、経済と国家の問題を単なる国家の問題に不当に還元してい
るというわけだ。
しかも、これでは抽象的な1国を扱えても、国家間を扱えない。
ひどい時代錯誤。
グローバリゼーションを包む饅頭の皮」をたる国家
訂正
グローバリゼーションを包む「饅頭の皮」たる国家
203 :
考える名無しさん:03/09/07 12:35
>201
>国家の認めた範囲内でしか起こり得ないという結果論から、グローバリゼーションを包む「饅頭の皮」たる国家をでっち挙げてるだけだ
意味不明なんですが。
国家は「社会を包む」のであって、「グローバリゼーション」を「包む」ものではないでしょう。
204 :
考える名無しさん:03/09/07 12:42
比ゆ的にいえば、「社会というあんこを包む饅頭の皮」
この比ゆが適切かどうかはさておき、
<社会>そのものと、<国家としての社会>を原理的に区別するところは、『国家論大綱』の
面白いところだった。この原理的峻別ができないと、グローバリズムは国家を無化する、解体するって妄想を帰結する。
201のいう、
>国家の認めた範囲内でしか起こり得ないという結果論
>この結果論から、経済と国家の問題を単なる国家の問題に不当に還元してい
>るというわけだ。
>しかも、これでは抽象的な1国を扱えても、国家間を扱えない。
>ひどい時代錯誤。
これ、具体的に説明していただけますか?
『国家論大綱』の具体的な叙述に即して。
とくに、<社会>と<国家としての社会>の峻別の問題と、グローバリゼーションがどう関わってくるのか、
具体的にお願いします。
206 :
考える名無しさん:03/09/07 12:55
そうだよな。今日もテレビでドンキ・ホーテの深夜の薬剤の販売が8月一杯で
中止になったと言ってたな。お客の反応も良く、売り上げも良かったらしいが、
ただ「違法行為」ということらしい。それに対して石原都知事を初めとする東
京都は薬剤の深夜販売を推奨しているそうな。
国家内活動でも国家外活動でも、国家に認めさせることが実践的にも重要だと
感じたよ。
しかし、朝日新聞の書評は核心をズバリ付いてると感じた。西岡三夫とは何者
だ?
おまえと同じサヨ
208 :
考える名無しさん:03/09/07 14:09
>>206 その番組見た。
くだらない規制はどんどん廃止すべきだよな。
糞官僚を黙らせろ!
209 :
考える名無しさん:03/09/07 14:27
>>206 論点が間違っている。深夜販売が禁止されているわけではなく、
鈍器が薬剤師や薬種商の賃金をケチって、白黒のテレビ電話で
相談させて薬を販売しようとしているから問題になっているんだよ。
210 :
考える名無しさん:03/09/07 14:45
国が規制から手をひいて黙れば産業はうまくいくという見本だな。
201のレス待ちってとこかな。
>>209 論点自体は間違ってないだろ?むしろキミの論点のほうが間違ってるぞ。
より具体的・詳細的に「どこに規制をかけてるか?」の問題じゃないからな。
キミが言うように各店舗に深夜でも薬剤師を常駐させて深夜販売が再開されて
も、それはオレの言葉でいえば「国が認める形態をとった」ということだから
な。知識的な詳しさで他人に喧嘩をふっかける典型的な受験秀才野郎だな!
結局おれの批判に対するまともな回答は無しか。
というか人がいないようだな。
201でも明記してるように、201はあくまで朝日の記事に対するもので、
本なんかもってないし読む予定もない。
回答の内容次第では買って読んでもいいよ。
ということで、まともな回答待ちということで。
>>213 お前の「批判」の文章が説明不足だから
反論のしようがない
もっと展開しる
>>201 >経済と国家の問題を単なる国家の問題に不当に還元しているというわけだ
朝日の記事にそんなこたあ書いちゃいないだろ?寝ぼけたことを書きなさんな!
216 :
考える名無しさん:03/09/08 01:35
ここで滝村批判を展開しているヤシらは、滝村に負けず劣らずの学的研鑚を積んでいる
自信があるヤシらばかりなんだろうから、どこかにちゃんとした形の論文を発表してくれよ。
皆、
>>201は辞書に載っていた難しいと201が思った言葉を書いて、カッコつけた
かっただけなんだ。
>>213の返答をみれば分るように、簡単な文章の読解も覚つかない程度。
そんなに苛めるな。
>>216 201はアホだがこういう恫喝はいかにも団塊世代だな
>>201 >国家の認めた範囲内でしか起こり得ないという結果論
>この結果論から、経済と国家の問題を単なる国家の問題に不当に還元してい
>るというわけだ。
>しかも、これでは抽象的な1国を扱えても、国家間を扱えない。
>ひどい時代錯誤。
これを具体的な事例にあてはめて説明してみて。
別スレで質問を受けたので、少しおじゃまを・・・
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1046489087/540 >「プロ独化」→「三権分立の撤廃」→「専制統治の必然化」
前にも書いたが、滝村国家論については不勉強とて、階級国家論をば。
唯物論的な立場からは、人間の共同性は、生産関係つまり社会的生産に
関する諸個人間の相互依存関係に根ざし、階級つまり生産手段の所有に
基く社会成員の区分と共同性との桎梏が<政治的な事柄>をもたらすと
考えます。つまり、社会の中に階級対立がある限り、共同性は疎外され、
国家と呼ばれる幻想の共同体として諸個人・諸階級の上に屹立すると。
たとえば、革命当時の旧ソ連の内部には、2割に満たない労働者の外に、
自営農民、自営企業主等の諸階級が存在しており、それらの利害は相互
に対立していた。<階級として組織された労働者>が不在ないし弱体で
あったが故に、むしろソヴィエト国家の強権化をもって社会を統治する
必要があり、「プロレタリア独裁」ではなく、ノメンクラツーラ(党官僚、
軍人、国営企業家)の独裁そして書記長の個人独裁が必然化されたと言え
ます。政治経済的には社会主義ならぬ国家資本主義体制と呼ぶべきかと。
221 :
ふにゃぽん:03/09/10 22:47
>>220 OFWさん、出張レスをありがとうございます。
では、<階級として組織された労働者>が、明確に唯一にして絶対の階級として統治されれば、
<即ー専制>ということにはならないと?
<階級として組織された労働者>の中には、当然、指導層と被指導層、
行政の立案者と実行者、等の<階級>は成立しているはずであり、
その上層部が、新たな政府において独裁を必然化させる、ということは考えられないでしょうか?
222 :
考える名無しさん:03/09/11 00:37
>>220 221
社会主義専制国家論で滝村さんはこのあたりの話を展開してるので、
一度読まれてみてはいかがでしょうか。<階級として組織された労働者>であろうとなかろうと、三権分立がないところには、専制国家しか生まれないことを論じていると思います。横レススマソ
223 :
考える名無しさん:03/09/11 00:40
国賊懲罰
224 :
考える名無しさん:03/09/11 01:01
哲学板の奴って、一般的にみると
さんまのからくりテレビの加藤淳だね。
226 :
考える名無しさん:03/09/11 02:44
滝村竜一の関心事
それは、まっとうな国家運営とは何か?
これにつきる。
この動機がわからない椰子は、
何を読んでも、読み違える。
時代としての思想・哲学・学問。
おわかりか?
>>226 だから説教調をなんとかしろって
国家論について本質を知った風な事を匂わせるのも良いけど、
そういう「弟子」が一番キモイ
228 :
考える名無しさん:03/09/12 00:01
ところで朝日新聞に載ったら、やっぱりかなり売れ行きは伸びたですか?
>>221(ふにゃぽんさん)
>指導層と被指導層、行政の立案者と実行者、等の<階級>
とは不正確でしょう。トロツキーも言うように、
「階級とはマルクス主義者にとっては、この上なく重要な、しかも科学的
に限定された概念」
ttp://www.marxists.org/nihon/trotsky/1930-2/ss-honsitu.htm であり、ある社会における経済的構造(生産関係)によって規定される
客観的な存在です。一定の生産様式における生産者と生産手段との関係
(所有関係)が、当該社会における階級区分を決めるのであり、純政治
的な指導・被指導あるいは命令・服従関係が階級を決めるのではない。
実際、コミューン、工場委員会、労働者評議会といった組織は、日々の
生産労働と緊密に結びついた政治組織であり、現行の形式的な三権分立
や政経分離(政治学と経済学の分業含む)を超えた、実践的な(統治で
はなく)自治の機関でしょう。
>>222 >三権分立がないところには、専制国家しか生まれない
歴史的な三権分立思想は、絶対君主とブルジョアジーとの対立の中から
出てきたもので、王権vs民権という<主権の対立>の一表現だった。
(モンテスキュー自身は法官貴族(司法)の階級利害を代表していた。)
つまり、主権の統一が三権分立の前提です。「法の支配」とはあくまで
法の下での人間の統治(行政)を言うから、立法という人間による法の
定立は法の支配とは矛盾する。それが立憲国家の秘密です。
現行の日本は、形式的には三権分立の民主主義だが、政体(国体)は
立憲君主制(議院内閣制、最高裁長官の任命制等)であり、いつでも
憲法改正なしに、そのまま専制国家になり得る。と言うより、実質的に
はブルジョア独裁でしかない。
OFWさん。ありがとうございました。
失礼ながら、まだ納得のいかない点がいくつかあるのですが、
そのことに関しては、また別の機会によろぴくお願いします。
232 :
考える名無しさん:03/09/12 20:10
>>228 ただいま急伸中。朝日さん、ありがとう。
>>232 このスレも、新参者が来て、息を吹き返すといいね。
234 :
考える名無しさん:03/09/14 13:35
やや売れ行きが伸び悩みに入りつつある。
1刷1000がまだ残ってるし
2刷300が全然はけない。
みなさん頑張ってください。
235 :
考える名無しさん:03/09/15 09:21
今、800冊売れてんだってさ。アノ手の本で、しかもあの値段で、これだけ
の期間で、大したもんだ。2刷されただけでビックリした。
丸山真男シリーズなんか一刷のままでしょ?
236 :
考える名無しさん:03/09/15 12:01
たしかに今どき、嬉しい誤算。
一部だが良心的な読書人は確実に存在する。
別スレで恐縮だが、青木孝平『コミュニタリアニズムへ』なども
おそらく同じ本物の読者層に注目され、売れているのだろう。
日本の本好きと目利きは、まだ捨てたもんじゃないという証左だ。
>230
>OFWさん
いきなり飛び入りですみません
ひとつ質問をさせてください
なんで独裁だと問題となるんですか?(不当の扱いを受けるのですか?)
(もちろん私も独裁は問題であると考えますが)
ネット上の「ここ」は論理的なものだが、物理的な媒介手段が必要であり、
必ずサーバや回線が実在する場所があると言うのが唯物論とて、再度。
>>237(兄さん)
>なんで独裁だと問題となるんですか?
正当性とは、何らかの基準・規範に内容が合致していることと言えるで
しょうが、近代の政治思想では、民主主義が普遍的なものと考えられて
います。その基礎には「すべての人間は自由平等であり、自決の権利を
もつ」というルソー流の人民主権(Sovereignty rests with the people. )
の思想・精神があるでしょう。
独裁とは、何らかの組織において、特定の個人や集団が自己の特殊利害
のために他の成員の主権を無視することですから、上記の定義によれば
正当性はないということになります。
さし当たり、以上が教科書的・形式的解答ですが、悟性的な政治学では
その解答がはらむ自己矛盾をめぐって、紛糾が絶えないようですね。
>234、235、236さん
本当に売れて欲しい。増刷と聞いたときはびっくりしましたよ。
それと、朝日の記事には感激しました。
私は一回しかお会いしたことはないけど、やつれた姿を写真で見たときは、
涙が出そうになりましたよ。
『国家論大綱』を、日本の政治学者・法学者に読んで欲しいのは当然だが、
政治家・官僚(またその志願者)にこそ読んで欲しい。
フニャポンさんもOFWさんもぜひ買ってやってくだされ。
241 :
考える名無しさん:03/09/16 03:45
あれ、独裁と専制はちがう概念じゃなかったっけ?
>>240 真面目な話、日本の政財界(それに学会)には、
純原理論的な「学」の軽視があるから
読まれないと思うよ
東洋の悪い意味での実学志向が仇となっている。
大戦後のアメリカ追従も。
こういうのが読まれる可能性があるのはヨーロッパかな?
243 :
考える名無しさん:03/09/17 00:08
>>240 スイマセン。
その朝日の記事の日付をお教え願えないでしょうか?
購入しようと思いますが、値段が値段だけに・・・
最後に残った理論的木鐸(?)といえる滝村竜一氏です。
多くの示唆があるに違いない。
よろしくお願いします。
244 :
考える名無しさん:03/09/17 00:24
245 :
考える名無しさん:03/09/17 01:09
246 :
考える名無しさん:03/09/17 01:30
このスレだけ見れば1万部くらい売れてる勢いなんだけどね。
都心の大型書店のぞいたら結構売れてる雰囲気だったが
実際はそうでもないんだろうな
1000部超えたら、奇跡だ。
249 :
それだけではない!:03/09/21 23:07
滝村さんの写真って
「ニッポン政治の解体学」のカバーと今回の朝日新聞の記事以外に
ありますか?
250 :
考える名無しさん:03/09/22 03:23
たしか「国家の本質と起源」の帯に若い頃の横顔が写っていたと思った。
髪の長かった頃。
うちのおやじが、笑点に出てる落語家みたいな顔
っていってたな。
252 :
考える名無しさん:03/09/24 02:26
アマゾンのレビュー見たか、酷いぞ。
>たとえば、国家に関する滝村の「学的・本質論的把握」によれば、
>対外的社会防衛を憲法で禁じる日本は国家の体をなしていないゆえに、
>税金を払う必要はないと主張している。
雑に読めばそう読めるようなところはあるがね。しかし
「(そのような国家に租税等を)強制的に徴収する資格はない」がどうして
「税金を払う必要はない」に脳内変換されるんだろうね。
253 :
考える名無しさん:03/09/24 02:38
「私設軍隊により、実力で払わなくても済むなら払わなくてよい」
まで、脳内変換されますた。
笑点の誰に似てるんですか?見た所誰にも似てませんが?
255 :
考える名無しさん:03/09/24 15:03
>>252 別のきっちりした書評で対抗しとけ
直接批判するのは無駄
256 :
考える名無しさん:03/09/25 10:32
売れ行きが鈍ってきたぞ。
みんなもっと宣伝して回れ。
257 :
考える名無しさん:03/09/26 22:31
>254
きくぞうが病みつかれた感じ(これ、俺のおやじの主観ね)。
滝村さんって、どっからどう見てもインテリに見えないとこがイイ。
昔はよく工員に間違われて(近所に工場があって)、
あんちゃん、「仕事たいへんだねえ」「あ、どうも」なんて近所の人と挨拶を交してたそうな。
>>240(酢豆腐さん)
取り合えず、購入済。これも昔のツケかな・・・。
259 :
考える名無しさん:03/09/27 11:47
>>257 笑った。たしかにインテリには見えないね。
260 :
ふにゃぽん:03/09/28 08:46
この人の存在って、日本の(場合によっては世界の)ストゥーデント・ムーブメントが
生み出した唯一の成果ですね。
>>258 OFWさん。「国家論大綱」読了されたらレビューか感想をいただけませんか?
(つっても、それまで生きてるかな?このスレ)
おいおい、OFWは、購入したとは言ってるが、読むとは言ってないだろが。
263 :
考える名無しさん:03/09/28 23:44
>>261 OFWさん。「国家論大綱」読了されたらレビューか感想をいただけませんか?
ふにゃぽん氏、自分で読んで自分で感想まとめた方がいいと思うYO!
ネットで流れる人様のご意見を参考にする前に。
264 :
考える名無しさん:03/09/29 19:14
>262
個人として購入済み。大学図書館にも購入要請。
けど、はねられるかも。
公共図書館にも購入申請した方がいいかな。
265 :
考える名無しさん:03/09/29 20:05
このスレ、地味なテーマで熱烈なファソがいるわりに、レスのレベルが
低すぎるのがおもしろい。
266 :
考える名無しさん:03/10/01 06:38
>>265 >レスのレベルが
>低すぎるのがおもしろい。
あんた、このスレをちゃんと最初から全部読んでいるのか?
>>266 うん。同じところをぐるぐる回っているよね
>>267 おまえがレベルの高いレスの見本をみんなにみせてやれ
269 :
自虐的レス :03/10/07 16:19
>>265 その理由は、滝村のファンは、滝村が学的遺産として残した結論、つまりファンに
とっては本来暫定的な予想ないし仮説としての性格しかもちえないはずの滝村の
理論的見地を、そのまま自己にとっても結論であるかに安易かつ絶対的に受容して
しまい、決してそれを個別専門的追究を通じて独自に批判・検討・確証し、自己の
結論にまで高めて提出しようとはしていないからです。
(このレスは滝村氏の文章の語句を一部変えたものです。)
代行印
270 :
考える名無しさん:03/10/07 20:35
269氏は、滝村ファンに精一杯の皮肉を言いたいんだろうが、
あなたは、他人の学説・理論を、<知識>として学び、<知識>レベルで生かす研鑚(この生かし方にも多様なコースがある)と、
厳密に<理論>的に再措定する研鑚との論理的区別が、
きちんとできてないと思いますね。
269氏の発想を突きつめると、滝村を理解できるためには、滝村と同様の研鑚を積まないといけないって、
極端な話になっちゃうんですよ。
271 :
考える名無しさん:03/10/07 21:28
269の元の文って学者に対する批判でしょ。
273 :
考える名無しさん:03/10/09 01:41
>>271 滝村国家論に限らず、人様の学説・理論を学ぶ場合、
1 読者的アプローチ(自分の社会的諸問題への全般的な<思想>的また<理論>的関心から、ある学説・理論を読む)
2 実践的アプローチ(自分の政治思想的実践に先行学説生かす)
3 学問的アプローチ
3は、大きく二つに分かれる。すなわち、
3a 政治学専攻ではないが、自分の専門領域で、滝村国家論を<摂取>しようというアプローチ
3b 政治学専攻であり、第二の滝村を目指し、滝村国家論の継承・発展・批判・克服を目指すアプローチ
滝村が言っている「個別専門的追究を通じて独自に批判・検討・確証」という場合、国家論の継承・発展・批判を目指す歴史科学=社会科学の後進を、つまりは政治・社会の<理論>家としての学者を、主として念頭に置いてるでしょう。
社会科学以外の領域では、滝村と同じ研鑚を積み第二の滝村を目指す!ってなものではない。あたりまえの話だけど。
それ以外のアプローチの場合、別に第二の滝村を目指すというわけではなく、自分の問題意識、切実な課題に照らし合わせて、滝村国家論を読み、その理論を<摂取>する。
滝村国家論を自己の専門に生かしている、また、生かそうとしている人たちが、
その<摂取>のために積み重ねている研鑽は、滝村がやったみたいな、政治学的研
鑽を何十年とは違う次元のものでしょうね。
私が<知識>レベルと言ったのは、
1から2,さらに3aまでのアプローチを含めてのことです(3aの場合は、1・2と、3bの間のグレーゾーンだから、単純に類型化できないし、実際は、1にも様々なコース・レベルがあるんで、話は簡単ではないんだが)
>273
たとえば、3bのようなケース、寺沢薫『王権誕生』での滝村国家論の受容が当てはなるでしょうね。
275 :
考える名無しさん:03/10/11 19:04
『国家論大綱』の売り上げに貢献するため、
大学、県立図書館、市立図書館に購入申請したぞ。
このスレのみなさんにも、お願いします。
276 :
考える名無しさん:03/10/11 21:53
>>275 俺の市の図書館に頼んだら、購入してくれないで、
都立図書館からの借り入れとなったぞ・・・。
俺の住んでるとこ、○N市という、三十年以上、共産市制が続いていた、
悪名高き町なのに。
これも、マイナー故の哀しさか?
あるいは、アカほどこの人を嫌うという定説どおりか?
277 :
考える名無しさん:03/10/11 22:23
古本屋で上下12000であった。
>>276 >俺の市の図書館に頼んだら、購入してくれないで、
都立図書館からの借り入れとなったぞ・・・。
俺の住んでるとこ、○N市という、三十年以上、共産市制が続いていた、
悪名高き町なのに。
これも、マイナー故の哀しさか?
あるいは、アカほどこの人を嫌うという定説どおりか?
両方でしょうなあ。
左巻きの人たちはみんなイヤ〜ッに思ってるし、
いささか好意的な方々も、敬して遠ざけるところがありますからねえ。
ところで276さん、そこ、私が学生時代住んでたところですよ!!
279 :
考える名無しさん:03/10/13 23:16
これって、まだ読んでないんだけど、「試行」の73,74号に滝村さんが書いてたのと同じ?
>279
最初の序論と総説第一編は雑誌掲載分と構成は同じだが、内容は多少違う。
雑誌掲載文にはなかった「補論」の補充文と「補注」がおもしろいです。
281 :
考える名無しさん:03/10/14 00:25
たしかに知の欺瞞は嫌らしい表現があるような気がする。嘲笑に近いかもしれないような感じはうける。
だけど、知の世界というか、今までいた柄谷的世界の狭さがない。
自然科学というのは、フェアな感じがするんだよ。
左より好きの文壇や、現代思想界隈でしか通用しない理屈とは違う気がする。
282 :
考える名無しさん:03/10/14 00:33
滝村ってスリムじゃなかったの?
滝村はsweetでしょ。
284 :
夕焼け段々のPiro:03/10/16 02:25
265に同意。皆さん著作そのものの評価をしてみたらいかがですか・・・
「試行」掲載論文や他著作と「大綱」の理論的変遷(発展と見るか転換とみるかは別にしても)
の少なくとも区別と連関をきちんと読み取ることが最も基本なのではないでしょうか。
285 :
考える名無しさん:03/10/16 15:10
>284
なるほど。わたしは浅学非才の身ですので、勉強したいと思います。
piroさんの評価をお聞かせ下さい。
286 :
夕焼け段々のPiro:03/10/16 16:42
考える名無しさんへ
「浅学非才の身」などと言うことは全く必要ないと思います。私は少なくとも
269自虐的レスさんが言うような
>滝村のファンは、滝村が学的遺産として残した結論、つまりファンに
>とっては本来暫定的な予想ないし仮説としての性格しかもちえないはずの滝村の
>理論的見地を、そのまま自己にとっても結論であるかに安易かつ絶対的に受容して
>しまい、決してそれを個別専門的追究を通じて独自に批判・検討・確証し、自己の
>結論にまで高めて提出しようとはしていないからです。
というような見地にはたちません。このような論の立て方をすると多くの人は
押し黙るしかなくなるのです。これは一昔前の「左翼」特有の傲慢さです。
「意見・反論があるのだったら全面展開してみなよ!」式の言い方は何も生み出さないのです。
この傲慢さの代表格が今日も残滓を残しているとはいえ若き滝村であり、60年代の吉本隆明です。
まあでもここが「ほれる」「入れ込む」「ファンになる」要因でもあるのですが・・・
ここに参加している多くの人はそうなのかもしれませんね!
文体ひとつとっても、このなかでも出ていますが三浦つとむと比較すれば理解できる
はずです。
私自身の評価はここでは書きませんが、というより書ききれない。
各自の思想信条の立場で真しに「格闘」すればよいことです。
「滝村国家論」の評価はかなり昔ですが雑誌「道」に特集が2回ぐらい組まれたはずです。
287 :
考える名無しさん:03/10/16 19:57
夕焼け段々のPiro さん、はじめまして。
>「意見・反論があるのだったら全面展開してみなよ!」式の言い方は何も生み出さないのです。
>この傲慢さの代表格が今日も残滓を残しているとはいえ若き滝村であり、60年代の吉本隆明です。
ここのところ、よくわからないのですが。
「意見・反論があるのだったら全面展開してみなよ!」式の言い方というのは、具体的にはどういうことでしょうか?
いちおう滝村さんも吉本さんもほとんど読んでますが、そういう趣旨の発言はしていないと思うのですが。
>文体ひとつとっても、このなかでも出ていますが三浦つとむと比較すれば理解できるはずです。
これも、おっしゃりたいことが、いまいちよくつかめない。三浦さんと「比較すれば」なにを「理解」できるのでしょうか?
べつに言いがかりを付けようと思って、こんな疑問を出してるのではないことをご理解下さい。
正直、なにをいわんとしているのか、よくわからないので、あえておたずねします。
>「滝村国家論」の評価はかなり昔ですが雑誌「道」に特集が2回ぐらい組まれたはずです。
これは、夕焼け段々のPiro さんが、あの執筆陣の一人ということですか?
それから、きになったのですが、
>皆さん著作そのものの評価をしてみたらいかがですか・・・
とおっしゃっているのに、
>私自身の評価はここでは書きませんが、というより書ききれない。
というのは、ちょっと筋が通らないのではないでしょうか?
288 :
夕焼け段々のPiro:03/10/16 21:43
さっき書き込んだつもりですが失敗?再チャレンジ
ところでこのサイトの「考える名無しさん」というのは同一の方なのでしょうか?
一般論として述べるならば、特定の個人の主義・主張・理論に対して話し言葉で
あれ、書き言葉であれ、うまくまとめられないけれども「ちょっとどこか違うような気がする」
「うまく言えないけれども違うんじゃない」ということはないでしょうか。
個別や部分の批判や問題点の指摘はできるけれども全体・総体の批判まではできない。
ということはないでしょうか。それに対して「お前の言い方は個別的、部分的だから
批判を認めない」「批判をするのであれば代替案を出せ」というような言い方が1970年代前半
には良くされていたということです。
滝村が雑誌「共和国」で当時の一般?論壇にデビューした頃の文体(この言葉は私の使い方で、
表現のスタイルと言い換えても問題ありません。あまり気にしないでください)は批判を許さない
という「意気込み」「情熱」「気合」が感じられたのです。これは強い共感を呼ぶと同時に、
学者先生に強い反発というよりも結果「無視」という風潮も生み出したのです。
柴田某・影山某・田口某に対する批判などはその典型です。
吉本については「吉本花田論争」が代表でしょう。これについては論争史的にはスガ秀実が要約しています。
三浦つとむについて言えば文体的には「ものの見方考え方」にも代表されますが、多くの人が理解できる表現。
つまり関心ある人であればある程度誰でも意見批判が述べられる関係性の構築を理論家は考えるべきです。
このことを理論家は軽視すべきでないと私は考えています。
いわゆるレーニンの「国家論」に対する批判でも滝村の批判と三浦の批判ではどちらが説得力をもつかは
読めばわかるはずです。批判の到達点は2人とも大差ないと私は理解をしています。
ここでの書き込みは私は自由にその時の考えを気楽に述べ合うサイトと考えています。
自らの理論的見地を長々と述べるべき場ではないと考えています。
仮にもし機会があれば私は雑誌の「情況」か発売不確かな「アソシエ」がテーマから判断
して現在の媒体では良いと考えています。
289 :
考える名無しさん:03/10/16 21:50
アホか?
考える名無しさんは同一か?プッ。288も来て、あんた、何言ってんの。
情況かアソシエだ?あれは二つともブント連合の機関誌だぜ。
どっちも500部しかでてない同人誌だよ。あんなもん、このスレより
読者が少ないぜ。プッ。
290 :
夕焼け段々のPiro:03/10/16 22:41
「考える名無し」さんは自らの書き込み、主張の「ずれ」「ぶれ」に気がつかないようですね。
残念なことです。短文ほどその主張の核心がでるものです。名前をふせて「全書き込み」を
第三者に読ませたら結果ははっきりするでしょう。
>情況かアソシエだ?あれは二つともブント連合の機関誌だぜ。
>どっちも500部しかでてない同人誌だよ
このような指摘は何も生産的ではない。「ブンド連合」などという死後を
持ち出す意味は不明ですが、出版業界も左翼「業界」ももう少し最新の的確な情報
を入手する必要がありそうですね。出版業界に限定しても
滝村国家論を取り上げることが可能な活字媒体はあるのですか?
滝村隆一が気の毒になるね!!289は「共産趣味者」と同列の類でしょう。
気分だけは若い時の滝村気取りの「唯我独尊」というのが面白いですね。
滝村は「唯我独尊」と批判されてもそれに耐えうる理論内容をもっていたのですよ。
>いちおう滝村さんも吉本さんもほとんど読んでますが
とのことですが再検証が必要なのではないでしょうか
「論語読みの論語知らず」という伊呂波短歌もありますが・・ご自愛を
291 :
考える名無しさん:03/10/16 23:12
夕焼け段々のPiroさんには話のネタフリとして
「国家論大綱」への「個別や部分の批判や問題点の指摘」を書いて欲しいな。
>>290 あのー、みんな知ってることなので、今さら書きにくいですが
「考える名無しさん」というのは、名前を書かないでカキコすると
みんな「考える名無しさん」になるのです。
「主張のずれ」とか「ぶれ」とかじゃなくって、ほとんど全部
別人がかいてるんだと思うんですけど……。
293 :
夕焼け段々のPiro :03/10/16 23:58
私の無知で申し訳ありませんでした。「トリビアの泉」のようにへーとは言いませんが
やはりという感じです。私のように特定のネームにした方がやりとりがより生産的に
なるような気もするのですが・・・「郷に入れば郷にしたがう」のがよさそうですね。
私が書き込んだ290の末尾3行は287と289の方が同一の方でなければ申し訳ありませんでした。
夕焼け段々のPiro さん、レス番号287です。290は僕ではありません。共和国」をご存じとは、僕よりもはるかに年輩の方と推察いたします。
>特定の個人の主義・主張・理論に対して話し言葉であれ、書き言葉であれ、うまくまとめられないけれども
「ちょっとどこか違うような気がする」「うまく言えないけれども違うんじゃない」
ということはないでしょうか。
個別や部分の批判や問題点の指摘はできるけれども全体・総体の批判まではできない。
ということはないでしょうか。それに対して「お前の言い方は個別的、部分的だから
批判を認めない」「批判をするのであれば代替案を出せ」というような言い方が1970年代前半
には良くされていたということです。
というご指摘は、当時の雰囲気を伝えるものとして貴重です。僕も、こういう人たちをたしなめたことがあります。
じつは、南郷継正ファンのメーリングリストに、「お前の言い方は個別的、部分的だから
批判を認めない」発想を批判した文章があります(そのメーリングリストの遺産ってコーナーにあります)。
もしかして、そこの方ですか?
ただ、上記引用の言葉につづけて、
>滝村が雑誌「共和国」で当時の一般?論壇にデビューした頃の文体(この言葉は私の使い方で、
表現のスタイルと言い換えても問題ありません。あまり気にしないでください)は批判を許さない
という「意気込み」「情熱」「気合」が感じられたのです。
などと批判するのはフェアではないです。
滝村に「批判を許さない」「意気込み」「情熱」「気合」が感じられたというのは、Piroさんの「感じ」です。
滝村が「批判を許さない」と述べていれば、Piroさんの批判は成り立つけど、
滝村の著作にそんな箇所はないはずです。滝村の該当個所を具体的に指摘しないかぎり批判は成立しないと思います。
三浦先生については、話し出すと永くなるしので、この2ちゃんで論じるのはやめましょう。
piroさんからは、昔の70年代時代の貴重な話をぜひお聞きしたいので、今後ともよろしくおねがいします。
295 :
夕焼け段々のPiro :03/10/17 01:15
レス番号287様へ
ちょっとした書き込みが私の誤解を含めて「反応」があるのが面白い。これが「2チャンネルの力」
と言われているものでしょうか。私は1950年生まれです。
南郷継正メーリングリストは全く知りません。メールで見知らぬ人とこのような
やり取りをすることが初めてです。292さんご指摘ありがとうございました。
>滝村が「批判を許さない」と述べていれば、Piroさんの批判は成り立つけど、
>滝村の著作にそんな箇所はないはずです。滝村の該当個所を具体的に指摘しないかぎり
>批判は成立しないと思います。
という見解は滝村が「批判を許さない」と論文・著作のなかでこのような表現で具体的に
述べているということではありません。その意味ではご指摘のように私の印象です。
会社の会議でもあることですが「批判・反論が許されないような雰囲気」
「反論を拒絶するかのような雰囲気」と同種の感覚です。
「革命とコミューン」のころは私も若いし「論破してやる」ぐらいの気概は私も持った
ことがあるのですが、しかしドイツ語も含めた素養が若干ないときちんと読み込めない
と感じた記憶があります。「批判を許さない」「意気込み」「情熱」「気合」は私は
肯定的に捉えています。だからこそ私は今もこだわり続けているということもあります。
ただ論争する=批判・相互批判をする「態度」ではないだろうと当時は思っていました。
当時の時代状況の否定的反映でもあるのですが「理論闘争」で「白黒」をつける
(極端には大学を去る、党派から去るということもあったのです)雰囲気があったのです。
私は単身赴任で手許には仕事以外の本は置いていませんので、どの部分に上述した
雰囲気を感じたかは必要があれば指摘することはできます。おそらく柴田・影山等々
当時の共産党系の教授・学者批判の部分だったと思います。
夕焼け段々さんの登場は貴重です
なんと1950年生まれのばりばりの団塊世代。
時代の生き証人ですから、御発言にマジで期待しています
297 :
考える名無しさん:03/10/18 16:44
このスレもたいしたものだ。団塊のオジサマが乱入してくるなんて!
確かに名前を記入しないと皆「考える名無しさん」というのは一考の余
地があるかもしれない。スレ内論争が成立しにくい。
質の悪いカキコもあるけれど、このスレはいいほうですよ。
しかし、滝村のスレッドがここまで伸びてるとは。
このスレの初めの方に何度か書き込んだところ、
年長の友人に、滝村スレに書き込んでますねと言われ苦笑しました。
なんか恥ずかしいなあ。
ところで、アマゾンのレビュー読んだけど、あれ書いた人の滝村への愛憎の念、アンビバレンツな感情、ものすごくよくわかる。書いた人はきっと、昔のマルクス主義者時代の滝村国家論の、忠実なファンだったんだろうな。
それと、朝日の「この人に合いたい」のインタビュー、滝村国家論は「あらゆる幻想」を許さないってのは、核心をずばりついていて感心した。
昔、滝村国家論を勉強していくうちに、自分の「幻想」が無惨に解体されていくのを感じ、ひやっとした覚えがある。マルクス主義国家論者の本なのに、全編これ「社会の国家的構成の必要かつ必然性」の執拗な論証。戦慄した。
あの朝日の記者も、そういう思想的体験があるのかな。
299 :
考える名無しさん:03/10/29 22:34
夕焼け段々のpiro氏は全共闘世代だけあって手練れ感ありあり。
俺も291氏のカキコに同意。
話のネタフリとして「国家論大綱」への「個別や部分の批判や問題点の指摘」を書いて欲しいな。
滝村の「有事法制」論とかさ。
300 :
考える名無しさん:03/10/29 22:38
300やな
301 :
考える名無しさん:03/10/29 22:40
今日はイマイチ盛り上がりに欠けるな。
で、滝村はドイツ語が読めるようになったのW
こいつ、デビューの頃から語学オンチのひどさが馬鹿にされていた。
駄本の『革命とコンミューン』が懐かしいよ。
スレ違い。政治板へ行け。
滝村は哲学音痴だぜ。
毛針じゃ釣れないよ。
>>302 団塊オヤジに聞きたいんだけどよ、
語学堪能であるがゆえに滝村以上の成果を上げた奴って誰よ?
俺は滝村の問題構成にそう関心はないが、
そういう発言って負け犬じゃねえの?
306 :
考える名無しさん:03/11/07 22:16
久しぶりに読むと、最近の書き込みは少し前の書き込みと違い「思い入れ」
よりも書き込み者の「思い込み」「つぶやき」の書き込みが多いですね。
302氏の>こいつ、デビューの頃から語学オンチのひどさが馬鹿にされていた。
>駄本の『革命とコンミューン』が懐かしいよ。
この方は思うに私と同年代か、それ以上の方でしょう。
滝村が話す方は別にして「語学オンチ」というのはあまり
聞いたことはない。若い人には<注>が必要かもしれませんが
そのような風評を立てたのは当時の構改派の一部か若きへーゲリアン
の一部でしょう。駄本なる評価もこの本で批判をされた
「気分はマルキスト中身はサンジカリスト」の人たちの滝村に理論的に
反駁できない感情的評価でしょう。
305さんは302氏への疑問?私も団塊オヤジに属するようですから私の私見を
述べれば「語学堪能」という意味はいろいろと取れますが、翻訳的哲学の領域では
山本義隆と長谷川宏でしょう。この二人は研究対象とその役割こそ正反対とは言え
山本義隆は理論の紹介と深化。長谷川は理論の解読と普及という意味では
間違いなく「語学堪能」の成果と言えると思いますよ。滝村も含めて同時代の
一般的に評価できる研究者だと思いますよ。
滝村国家論解読のポイントは滝村自身が「大綱」そして91年以降の
「試行」論文も含めて自ら吐露(反省?自己批判?)していることと
書かれた滝村理論の変遷の落差を読み取ることが肝要だと思います。
ここのテーマに即して簡単に言えば「大綱」を「書かれた滝村理論の最高の到達点」
と評価するか否かということです。続きはまた。
307 :
夕焼け段々のPiro:03/11/07 22:18
306の書き込みは私です。
つまらないことですが,滝村さんは選挙ではどこに投票されるんでしょうね.
309 :
考える名無しさん:03/11/17 17:12
東京駅地下街の「八重洲古書館」に「国家論大綱」が
上下セットで一万円で売ってた。
>308
小沢を評価してたから、民主?
んなこたあないだろなあ。
昔滝村さんが、小沢の法制的形式主義をばちって批判シテたが、いまの
小沢はその欠点がもろ出てる。
小沢は「革命児」のレベルで終りなのかなあ。
311 :
考える名無しさん:03/11/25 18:45
312 :
考える名無しさん:03/11/29 16:06
くだらんコメントですみませんが、
滝村氏が語学音痴という噂は、ちょくちょく聞きますね・・・。
著作には、マルクスのドイツ語原典からの引用が多いですが、
実際にはどうなんでしょう?
313 :
考える名無しさん:03/11/30 23:10
っていうか日本語がおかしいときがある。
国家論大綱は特にそれが目立つ。編集の人は目を通さなかったんだろうか?
314 :
考える名無しさん:03/12/01 00:24
アマゾンの「国家論大綱上」からの、貼り付けです。
どんな読者が多いのか、想像できて、興味深いです。
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315 :
考える名無しさん:03/12/01 01:51
吉本はこの手の国家論はみんなインチキだって言ってるが、
それはそうだよ。
>315
この手の国家論
ってなに?
317 :
考える名無しさん:03/12/02 00:20
滝村以外の国家論だろ。
318 :
考える名無しさん:03/12/02 00:23
319 :
考える名無しさん:03/12/02 00:30
320 :
考える名無しさん:03/12/03 08:54
この人のペンネームって、かっこいいですね。
由来を知ってる人、教えてちょ。
321 :
考える名無しさん:03/12/03 10:04
大体,滝村さん,南郷さん,富樫さんと,日本語が変な人が多い。だから中身
も変とは思わないけど,何となく信用性が減殺される感じは否めない。
誰か日本語校正してあげてよ。
具体的には,主語と述語の不一致,句読点の欠落,文書が長過ぎどの文がどの文
に掛かっているのかが不明確で複数の解釈が可能になってしまうこと,などなど
322 :
考える名無しさん:03/12/03 16:06
>>321 そもそも、富樫某はどうあれ、滝村、南郷両氏の文章は、
あの密度の概念を、たかだか百数年の歴史しかない近代日本語で表現しようと
するのだから、ある程度は仕方ないような・・・。
なにより、ドイツ語で「指示代名詞」にあたる部分の表現を、
両者とも、従来の学者のように「〜するところの」という字句に頼らず表しているので、
無理もなかろうかと・・・。
323 :
考える名無しさん:03/12/03 16:53
315 名前:考える名無しさん :03/12/01 01:51
吉本はこの手の国家論はみんなインチキだって言ってるが、
それはそうだよ。
316 名前:考える名無しさん :03/12/01 02:06
>315
この手の国家論
ってなに?
流れからいって滝村国家論のことでしょう。
324 :
考える名無しさん:03/12/03 21:09
325 :
考える名無しさん:03/12/06 12:06
でも「この手」に青木孝平は入らないと思うよ。
紀伊国屋書店が放火されたって本当?
327 :
考える名無しさん:03/12/07 01:29
328 :
考える名無しさん:03/12/07 02:11
マルクス国家論ではあっても、マルクス主義じゃあない。
それにマルクスを使っても左翼同伴文化人じゃなく、
どちらかといえば保守派に近い。コミュニズムじゃなく
コミュニタリアニズムだからね。
329 :
考える名無しさん:03/12/07 02:15
>>314 なんで滝村の読者と青木の読者が一致しているんですか。教えて。
330 :
考える名無しさん:03/12/07 02:20
石原新太郎の正しさを理論的に証明したのが滝村さ。
331 :
それだけではない!:03/12/09 17:33
朝日新聞の出版広告によると「大綱」第一巻上が三刷までいってる。
やっぱり待ってた人が沢山いたんだろうな。
332 :
考える名無しさん:03/12/10 00:18
1刷1000部。2刷300部。3刷も300部でしょうか?
333 :
考える名無しさん:03/12/10 16:15
いつの朝日新聞?
334 :
考える名無しさん:03/12/10 16:25
335 :
それだけではない!:03/12/25 11:12
1972年に出版された「現代詩手帖臨時増刊号:吉本隆明」が復刊されました。
これには滝村さんの 「共同体=即=国家の概念」という論文が掲載されています。
この論文は本に収録されているのでしょうか?私は見覚えがありません。
↑これって、何をいっているのですか。
>ふにゃぽんさん
取り合えず、流し読みながら、8割がた読了。
滝村氏の著作は今回初めて読みましたが、さすがに、この道一筋の研鑽
ぶりが出ていて、本格的な理論書です。読み応え十分で、価格も納得。
ただし、ヘーゲリアンかつマルクス派として、多くの不満が残ったのも
確かです。具体的な詳細は措くとして、初対面(笑)の感想としては、
1.権力論は、優れている
政治的事象には固有の法則性があり、経済的要因に直接還元できない
理由として「<政治的>事象が、特殊に観念的な事象」(上巻p56)で
あること、そして、権力本質の観念性(規範的意志の客観性)および
社会的権力の遍在性に焦点を当てている点は、慧眼と思う。
2.国家論については、基本的な点で賛成できない
しかし、そのことは、国家論においては注意が必要であり、唯物論
から観念論に転落する恐れがある。結局のところ、<国家><社会>
そして<共同体>の区別と同一性如何という問題に帰着するでしょう
が、「共同体ー即ー国家」(上巻p375)に足を掬われているような。
>ふにゃぽんさん(つづき)
3.マルクス(主義)については、通俗的な誤解を共有している
旧“社会主義”国家体制、社会的分業、階級概念、科学と弁証法等、
表面的な理解で済ませていると思える点が散見されます。
「レーニンは、俗流唯物論者であって、その認識はおなじみの機械的
反映論である。」(下巻p415)などと言うのは、さすがに勘弁と。
・・・といったところです。
いずれにせよ、対象の本質を押さえ、かつ事柄の全範囲を網羅しようと
する体系化への意図の下にまとめられているから、“議論のたたき台”
として、非常に有益かつ生産的なものになり得る、と言えます。
具体的にコメントすべきですが、時間と、それなりのエネルギーが必要
ですので、個別の論点については、流れに応じて、随時マターリとて。
取り急ぎ、誤読を恐れず、印象批評まで。
340 :
ふにゃぽん:04/01/04 14:05
>>338-339 OFWさん。ありがとうです。
やや遅レスになって、すんませんです。
結局、滝村氏は、マルクスを「卒業」してしまった方だから、
それゆえの過去に自分が依拠したイデオロギーとの「距離のとりかた」=「転向?後の自説との乖離の説明の仕方」
が、現在でもマルキストであるOFWさんから見たら、やや稚拙に見えるのかもしれません。
いずれにしても、好意的な感想をありがとうございました。
よろしければ、また意見をお寄せ下さい。
ageちゃいます。
341 :
考える名無しさん:04/01/05 01:48
マルクスを卒業するなら、ヘーゲルも卒業せにゃあかん。
この点で、滝村隆一さんより青木孝平さんの方がえらい。
342 :
考える名無しさん:04/01/05 02:17
>「レーニンは、俗流唯物論者であって、その認識はおなじみの機械的
>反映論である。」
この著者は今まで何やってたの?って感じ
343 :
考える名無しさん:04/01/05 02:22
暁や、吉本隆明読むが吉
344 :
考える名無しさん:04/01/05 02:26
てゆーかフーコーなんて存在しないかのような権力論が信じられん。
345 :
考える名無しさん:04/01/05 20:27
>>338の
>「共同体ー即ー国家」(上巻p375)に足を掬われているような。
だとしたら今時とんでもない本ですね。
青木さんのように国家をフィクショナルなものと考える視点がないのですかね?
ふにゃぽんさんはこういうところで論陣も張れないのですか?
346 :
考える名無しさん:04/01/05 22:38
「<国家><社会>そして<共同体>の区別と同一性如何という問題」なんて、
『マルクス主義国家論』等で、30年も前に解決済みですよ。
<共同体−即−国家>についての理解が、全然できていませんよ。
たぶん、共同体=国家、なんて理解しているのではないですか?
再読、三読を願います。
>「レーニンは、俗流唯物論者であって、その認識はおなじみの機械的
>反映論である。」
この部分に批判があるようですが、できればもっと具体的に展開
していただきたい。
>>346 >「<国家><社会>そして<共同体>の区別と同一性如何という問題」
>『マルクス主義国家論』等で、30年も前に解決済みですよ。
未読にて、『国家論大綱』との違いが分からないので、乞う説明。
当時は吉本隆明の『共同幻想論』が流行っていたが、確かに似ている。
>たぶん、共同体=国家、なんて理解しているのではないですか?
「=」(イコール)とは通常、何らかの相等性(例:太郎の身長=花子
の身長)を表わすが、共同体と国家とは広さや価値において同等ではなく、
滝村氏もそう主張してはいない、と理解しているが。
>できればもっと具体的に展開していただきたい。
レーニンが「俗流唯物論者」ではなく、その認識論が「おなじみの機械
的反映論」でもないとの根拠かな?(滝村氏は無根拠に逆を言うが)
試みに『哲学ノート』や『唯物論と経験批判論』等の認識論関連の著作
を読めば、彼が優れた弁証法的唯物論者であるということは分かるし、
特に、政治実践の中での多くの啓蒙的な言明は、凡俗の観想的学者には
真似できない、現実的かつ弁証法的な思考を示していると。
348 :
考える名無しさん:04/01/11 01:17
>『哲学ノート』や『唯物論と経験批判論』等の認識論関連の著作
>を読めば、彼が優れた弁証法的唯物論者であるということは分かるし
別に『唯物論と経験批判論』読んでもレーニンが特に優れてるとは思わんが。
ただしレーニンはヒトラー同様、悪魔的な政治的天才だから、政治的実践の中で、俗流唯物論のレベルをはるかに超えた理論的センスを見せるというだけの話で…。
こんなことは、観念論者でも、天才的な人だったらよくあることだよね。
レーニンの『唯物論と経験批判論』の次の個所なんか、おもいきり俗流唯物論なんだけど。
「思考の『対象的真理』とは思考によって真に反映される対象(=「物自体」)の存在を意味するものに他ならない」
>>348 >「思考の『対象的真理』とは思考によって真に反映される対象
>(=「物自体」)の存在を意味するものに他ならない」
スレ違いにならない程度に、レーニン論をば。
件の著作は、ご承知のように、当時の党内に広がっていた観念論的傾向、
特にマッハ主義的な現象主義、を批判するために書かれたという背景が
重要でしょう。マッハは、カントの「物自体」を廃棄して、対象的真理
とは思考によって構成された現象に過ぎず、物自体は存在しないとした
(『感覚の分析』等)。それを踏まえた反論として、「真に反映される」
とは、“機械的に”反映されることではなく、対象の見かけ(知覚、表象)
を概念的に再構成して、対象的な真理を能動的に反映させるということ
です。それは、認識の実践的かつ弁証法的な在り方を踏まえての謂いで
あり、どこに受動的・観想的・機械的な反映論があるのかな?
事物(言明含む)は、他の事物との関連や文脈から切り離して抽象的に
捉えてはならず、それが置かれた状況において具体的にその本質を捉え
よ、とはレーニン自身の言葉。
夫馬さん、もうおやめになったら?
いまどきレーニンの唯物論にこだわるのも、すごいレトロというか、
あんまり議論してもしょうがないと思うんだが、行き掛かり上、ややくわしくレスしときます。
レーニンが『唯物論と経験批判論』でやってるのは、延々数百ページを
費やしながら、
唯物論者は、「客観的真理としての感性的世界から出発」する。
「客観的(すなわち対象的)真理」「対象(物自体)の存在」は不可知ではなく、それを認識することができる。
このシンプルな主張をひたすら繰り返すこと。 もちろん真理は不可知ではない。現実の世界が、我々の意識から離れて、
我々の意識とは関係なく客観的に「存在」するというのも、唯物論のイロハだ。しかし、ここで大問題なのは、
「客観的真理としての感性的世界」、あるいは「対象的真理」=「対象(物自体)の存在」という「真理」のとらえ方。
レーニンは、「対象的真理」=「客観的真理」=「対象(物自体)の存在」
=「絶対的自然」とする。「真理」が客観的実在であり、
我々の意識から離れて、我々の意識とは関係なく客観的に
「存在」するものだと考え、『哲学ノート』でも、
「客観的真理」=「外的現実性」=「真に在るもの」と規定している。
ようするに、客観的に存在する「対象」としての「真理」を、我々が
正しく「反映」することこそが、我々の頭脳に「真理」が
到来することだという発想。「客観的真理としての感性的世界」
なんて発想は、一見すると、その通りだと思う人もいるだろうが、これは、認識論的には正しくない。
「真理」は、あくまでも我々の認識それ自体なんであって、
別に「対象」となる客観的事象そのものが、「真理」というわけ
じゃない。ここのところを見誤ると、どうしても俗流解釈にいきつかざるをえない。『唯物論と経験批判論』の
「絶対的真理と客観的真理」の解釈がその典型(国民文庫上巻P179)。
皮肉なことに、彼が罵倒してやまむ
新カント派系列の発想スレスレのところにまで転落している。両極端は一致する?
とにかく当該箇所を読んでみてください。すぐ分かるから。
唯物論の問題はこれくらいにしておくけど、だいたい、レーニンの国家暴力機構論は、国家を階級支配の道具としか
位置付けられないレーニンの限界に規定されていて、さらに、
国家意志も法規範も論じることのない階級国家論の限界は、
唯物史観理解の限界に、さらにさらに、彼の唯物論の限界に規定されている
というのが、オーソドックスな理解だと思うが?
『唯物論と経験批判論』は反映論を脱してないと思うが
「哲学ノート」で自己批判して、主体の実践的能動性をベースにした
唯物論になってるんじゃないの。
こういう認識はミーチン経由で日本のマルクス正統派にも入ってきてるが、
このへん三浦や滝村の評価が雑だと思うんだよね。
代々木系は素朴唯物論ってステロタイプがあるようで。
このへんハッキリしないと、逆に西田哲学とかヘーゲル主義に取りこまれる。
最近の滝村は、生活危機の連続で偏屈になってるんじゃないの。
国家論大綱で三浦に対してさえ毒づいてるのには頭抱えちゃったよ。
354 :
考える名無しさん:04/01/12 07:52
レーニンがウンたらカンたらってのはどうでもいいから、最近のイラクへの自衛隊
派遣の問題とかの具体的な政策に回答を与えて下さい。
社会科学者は社会的な現象を予測しないってのは理解不能。何のための科学なの?
ミーチンやレーニンか・・・・10代の頃はそういう固有名詞で勉強した気がしたも
んだ。
>>352(346さん?)
レーニンの認識論については、お終いにして・・・
>国家意志も法規範も論じることのない階級国家論の限界
現在、日本政府は日本国家を代表して、イラク派兵を推進している。
それは、国会で決議されたイラク特措法に準拠している。
国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
故に、イラクへの派兵は国民の総意として、合法的かつ適切である。
という官僚的な答弁に対して、滝村国家論は如何なる立場かな?
>>355 一つ訂正
誤:イラク派兵
正:自衛隊のイラク派遣
・・・“正しい”官僚用語に慣れていないな(笑)
357 :
考える名無しさん:04/01/12 11:46
>354
>社会科学者は社会的な現象を予測しない
そんな粗雑な言い方はしてないでしょ。
352等は私ではありませんが、私のいいたいこともだいたい同じです。
>特に、政治実践の中での多くの啓蒙的な言明は、凡俗の観想的学者には
>真似できない、現実的かつ弁証法的な思考を示していると。
ただ、この部分に関しては、全面的に賛成です。レーニンは、学者としては
俗流唯物論に足を引っ張られてイマイチ業績を残せませんでしたが、
実践家としては大変優れており、随所に「現実的かつ弁証法的な思考を示してい」
たと思います。
>357
誰がどう粗雑で、誰がどう粗雑じゃないの?
私は別に<滝村が>『国家論大綱』で社会科学者は社会的な現象に対して予測を
しない」などと言っているなんて書いた覚えはないよ。
原文が手元にないけど、滝村自身は該当箇所で、数学的に「いつかを」決定す
ることは出来ないと書いてたんじゃない?うろ覚えだけどね。
私が書いたのはこの滝村スレッドの過去レスを意識してだけどね。
354君、キミが一番粗雑なんだよ。
私は352には引っ掛かりがありますよ。
>階級国家論の限界は唯物史観理解の限界、ひいては唯物論の限界に規定され
ている
これこそ非常に粗雑だね。昔、南郷継正が日本拳法の「武術とは自己の中に眠
っているものを目覚めさせる道である」というような発言をいきなり世界観の
話にスリ変えたのと同じくらい粗雑でバカげてる。
世界観に対する理解からくるんじゃなくて、科学としての徹底さが結果として
世界観につながって来るんじゃないの?
>357
>私は別に<滝村が>『国家論大綱』で社会科学者は社会的な現象に対して予測を
>しない」などと言っているなんて書いた覚えはないよ。
はあ????
あなたは
>354
>社会科学者は社会的な現象を予測しないってのは理解不能。
とハッキリ言ってるんだよ。この発言は、滝村に対してのものでしょう?
あなたは、滝村が「社会科学者は社会的な現象を予測しない」
って言ってると思いこみ、それは「理解不能」と批判してるんだよ?
>原文が手元にないけど、滝村自身は該当箇所で、数学的に「いつかを」決定す
>ることは出来ないと書いてたんじゃない?うろ覚えだけどね。
「原文なし」の「うろおぼえ」と告白なさったのにはワラタ。
滝村氏は、個々の恐慌の正確な日取りを数学的正確さで予想するという、発想そのものがナンセンスとは言ってるが、「社会科学者は社会的な現象を予測しない」なんて一言もいってないよ。
うろ覚えってのは怖いねえ。
他人のことを「一番粗雑」なんて悪口言う前に、我が身を振り返った方が宜しいのでは?
あらあ、間違った。
訂正
>357→>360
364 :
考える名無しさん:04/01/14 00:38
全世界は国防を無くす必要がある。戦争ガ起こる可能性を無くすために。
>>364 むしろ「全世界は国家を無くす必要がある。戦争とは国家と国家の争い
であり、そうなれば戦争したくてもしようが無くなるから」では?
また、国際社会とテロとの“新しい戦争”に対する国防については如何?
366 :
それだけではない!:04/01/14 14:30
>>333 12月9日付けの朝日朝刊一面の最下段の出版広告です。
>>365 国家を無くせば戦争ではなく内戦の世の中になる。
>>357=362
だからお前は自分のアホさ加減を棚に上げて突っかかるなってーの!!
私の念頭にあったのは>97の酢豆腐さんのレス
>社会科学者が社会現象を「予測」することは、どういう意味があるか?・・・
>滝村さん、マルクスを批判して書いてますね・・・
であって滝村自身のコメントではない。だからそのことを「滝村本人に対して
書いたのではない」とレスした後で、お前のアホな書き込みだ。
一般的に科学者が将来おこるであろう現象に対して予測を与えるのは当たり前
であって、それが自然科学と社会科学で精密さに異なりが生じるのは当然だ。
だから一般的に「社会現象に予測を与えること」自体において滝村はマルクス
を批判などしていない。
そして私の「ウロ覚え」という表現も、滝村の発言を一字一句間違わずに引用
しているわけではないという意味で「ウロ覚え」だが、内容の本質的な部分で
まったく正当な書き込みだ。
字句的正確さを求めるお前のナンセンスさは、すでに滝村が『国家論大綱』で
批判してるんだよ、バ〜〜〜〜カ〜〜〜〜!!!!!!
お前の書いた「数学的正確さで予想する」って書き込みが、どうして「社会的
現象を予測しない」に繋がるんだ?それは酢豆腐氏の「滝村がマルクスを批判
して云々」という文章があるから出てくるんだよ!
批判の為の批判はやめろ、クズが!!
腹立たしいから、もう来ない。
なに、この人?
ずいぶんと品性下劣な書き込みですな
370 :
考える名無しさん:04/01/15 09:32
本スレッドも少々あれてまいりましたが、みなさん気を静めて国家論について
語り合いませう
354=360=368
のレスには言葉を失ったよ。
自分の勘違いを指摘されたら素直に訂正すれば済むのに。酢豆腐さんのレスまで出して
逆上して論理的に支離滅裂な言葉を連ねて恥の上塗り。
けどこういう人は
>腹立たしいから、もう来ない。
と言ってもまた来るんだよな。
372 :
考える名無しさん:04/01/16 01:02
>>355のOFWさんの質問に滝村の本を宣伝してる人が答えないのは印象悪いよ。
ものすごく大事なポイントだと思うけど。
OFW氏の問いは曖昧で反応のしようがないんだが。
イラク派兵にかんする「官僚的答弁」にたいして
滝村国家論は如何なる立場かという問いは、思想的に是か非かってことなのか?、 この「官僚的答弁」の理論的分析は如何ってことなのか?
この官僚的答弁にあらわれた統治主体の問題は『国家論大綱』で理論的に分析されてる。OFW氏は『国家論大綱』読んでるんだから、まず自分でそれを要約してみて、それから批判的にコメントして、みんなどう思う?って問題提起するのが先だと思うが‥。
イラク派兵は、滝村国家論の立場で思想的に是か非か?ってのは、問い自体が生産的ではないよ。このスレの滝村ファンの中には、イラク派兵に賛成の人も反対の人もいるはずだし、賛成する意見の中にもいろんな理由があるし、
反対にもいろんな理由があるだろう。滝村国家論の立場ではどうか?って一括りにして問われてもな亜。
国家は存立するがゆえに存立するという
ウェーバーや社会システム論のような形式的同義反復に
滝村もハマってるんじゃないのか? と言いたいのでは。
とすれば、彼らと同じく国家は死滅しないという結論に
滝村が達したのも無理もない。
>>374 >この官僚的答弁にあらわれた統治主体の問題は『国家論大綱』で理論的
>に分析されてる。
どの辺りでしょう?(できればページを教示して欲しい。)
少なくとも、官僚的な統治主体の主張を(理論的に誤りと)問題視する
ような記述は見当たらなかった。
近代国家権力が植民地を獲得しようとする「帝国主義」政策について、
それを学者として理論的にあるがままに受け入れている部分はあった。
「いうまでもなく<植民地>とは、<近代>以降の先進的国民国家による、
後進的諸国への政治的支配と属領的包摂をさしている。したがって
それは、・・・支配共同体による・・・<帝国>的国家領域[領土]と
しての構成と、本質的には何ら変わりがない。」(下巻p.121-122)
そして、全編を通して「国家は合理的な存在である」というイデオロギー
が一貫していると読んだ。
・・・上記は、誤読だったかな?
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ウンコ喰らえ
\
 ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽヽ
___ ──┐ | |
/ \ 、i,, / | |
/ ..... ..... \ 、,.i,,.;:"' ゙`´ー,"、-.,, 、 ∬ ノ ノ ┐
| ・ ・ |" ゙ ヽ ・〜 ヽヽ .┴
| )●( | / ,イ ゙i ──┐ | |
\ -. ノ ( ノ,;(`;、ノ ∬ 〜∞ / | |
\____/ ゙i-、_,v-ーヽ、 く ;;゙、;;;';) ノ ノ ┐
| | ヽ、 ).;!':;'.ノ ∫ ヽヽ ┴
,ノ ノ __ノ ノ,;:(;,:;( ∬ ──┐ | | | |
(__,ノ (_,ノ´,;";:・':;'゙`ヾ / . | | | |
゙;"''∵ ' :"‘ ノ ノ ノ
官僚は国家になりかわり、ときどきの時代的世界を先取り的に把握し、実践的に対処する<統治主体>として現れる。
いくら、ボク国家なんて大キライだあ〜、ボク地球市民、国家なんて関係ないも〜んとわめいても、
これが否定できない圧倒的に冷厳な現実。そしてこの現実を、次のような理念が支えている。
すなわち、政治家官僚の<統治>は、<統治主体>としての国民が、
自らを<統治>することである=<統治主体としての国民>という理念。
イェリネクに典型的に見られるこの発想に対して、滝村は次のように書いていて、なかなか興味深い。
「<統治主体としての国民>というのは、馬鹿げた幻想に過ぎない。いいかえれば、これは、統治権力としての国家権力による、国民的。統一的社会の、
<国民国家>としての組織的構成であり、国民的・統一的レベルにおける<政治的共同体>の、より大きく幻想的な創出である」
>全編を通して「国家は合理的な存在である」というイデオロギーが一貫している
OFWさんの「合理的」がどういうレベルで使われているのかよくわからないが、OFWさんの国家への憎悪の感情はひしひしと感じられる。
国家は不合理だ、でも、滝村は国家を「合理的」だと思ってる、ケシカラヌ!とでもいいたいようですね。
理論家が提出した理論書に向かって、国家は悪だ不合理だ、いくない!‥という自分のイデオロギー的思想的立場を剥き出しにして、
国家=不合理って姿勢が貫かれてない、それではだめだなどという`注文”をつけても、意味無いんだが。
OFW氏は、「理論」的な把握と「思想」的態度を直接的に重ね合わせてしまっていて、だから、次のようなとんでもない事を言う。
>近代国家権力が植民地を獲得しようとする「帝国主義」政策について、それを学者として理論的にあるがままに受け入れている部分はあった。
歴史的事実とその把握が、なんで「学者として理論的にあるがままに受け入れている」になるのかな?
<近代>の帝国主義も、<前近代>の支配共同体支配(その極限としての<帝国>的構成)も、「本質的になんら変らない」というのは、その通りでしょう。
そのことを「『国家は合理的な存在である』というイデオロギーが一貫している」証拠として挙げるなんて、いくらなんでも、ちょっとひどすぎ。
訂正
誤 <近代>の帝国主義
正 <近代帝国主義>の植民地支配
>>378 >国民的・統一的レベルにおける<政治的共同体>の、より大きく幻想的
>な創出である
できれば、出典と引用箇所を明示して欲しいが・・・(著作権上も)
もし「幻想的」が、マルクスの用法のように、「非現実的」を含意する
なら、それは不条理なイデオロギーだと言っていることになる。
しかし、吉本隆明の用法のように、「幻想的」が単に「観念的」と同義
なら、それは必ずしも不合理とは言っていないことになる。
さて、どちらかな?
>「合理的」がどういうレベルで使われているのかよくわからないが
>理論書に向かって、国家は悪だ不合理だ、いくない!
不合理とは別に悪ということではなく、言説(理論含む)が現実に合わ
ないということ。善悪といった倫理的判断は関係なし。
>>379 >歴史的事実とその把握が、なんで「学者として理論的にあるがままに
>受け入れている」になるのかな?
そうではなく、
>少なくとも、官僚的な統治主体の主張を(理論的に誤りと)問題視する
>ような記述は見当たらなかった。(
>>376)
ことの証拠として、イラク派兵(=帝国主義的侵略)に関連すると思わ
れる記述を挙げ、事実の把握に留まっていて、問題視などはしていないヨ
と言ったわけ。
相変わらず「官僚的な統治主体の問題」の回答無しだが、
>>378が回答?
>「官僚的な統治主体の問題」の回答無しだが、
>>378が回答?
ん? 『国家論大綱』読んでるあなたなら、378が回答になっていることくらい、理解できると思ったんだが‥。
ま、そこまでおっしゃるなら、まず話を出発点に戻して、あなたの論理的曖昧さを徹底的に洗い出して、決着をつけることにしますよ。
あなたは、
>現在、日本政府は日本国家を代表して、イラク派兵を推進している。
>それは、国会で決議されたイラク特措法に準拠している。
>国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
>故に、イラクへの派兵は国民の総意として、合法的かつ適切である。
と言ってますね。あなたが創作(?)したこの「官僚答弁」なるものが、実は、まるで非論理的なんですよ。一つ一つ、あなたの創作(?)「官僚答弁」を吟味していきましょう。
>現在、日本政府は日本国家を代表して、イラク派兵を推進している。
>それは、国会で決議されたイラク特措法に準拠している。
これはその通り。事実として間違っておりません。では次の文言。
>国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
これもまあ、その通り。だが、
>国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
という文言を、「故に」という接続詞で、
>故に、イラクへの派兵は国民の総意として、合法的かつ適切である。
と繋げるのはまるっきりナンセンス。
「国会」が「民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている」<ゆえに>、政府・執行機関の活動がそのまま「国民の総意」であると、等式化できるわけがない。また、法に基づく「合法」な<統治>が即「適切」なわけでもない。
まず、「国会」で可決した法に基づいているが<ゆえに>、政府・執行機関の活動がそのまま「国民の総意」であるかどうかという問題。
議会制民主主義国家では、国家意志の形成・支配に、国民諸層が
<国家構成員>として直接また間接に関与する構造が成立している。
いいかえれば、国民が<国家構成員>として、国家権力中枢を直接間接に
規制することが可能になっている。しかしそのことは、現実の
<統治>活動がそのまま「国民の総意」とイコールであることを意味しない。
もちろん、<国家権力構成員>として国家権力中枢を占める政治家・官僚は、
国民の代表である。政治家は国民の代表として、選挙を睨み支持率を勘案し、
官僚は各種世論の動向をたえず気にせざるをえない。
しかし、その<統治>活動では、政治家が、ときには財界・各種支援団体・
後援組織の意向を無視し、国民の囂々たる批判にも頓着することなく政策を
遂行することもある(そういう意味で前スレに、「官僚は国家になりかわり、
ときどきの時代的世界を先取り的に把握し」と書きました) 。
官僚の場合には、政治家以上にフリーハンドで国家的見地から、とても
「国民の総意」とはいえない政策を断行することもある。
そして、とても「国民の総意」とはいえない政策が、その時代には
囂々たる非難を浴びながら、後世、「適切」だったと高く評価されることも、
歴史のゴミクズに捨てられることもある。逆に、「国民の総意」として
歓迎された政策が、後世、愚劣と切って捨てられることもあれば、
やはり「適切」だったと評価され続けることもある。
ここまで言えば、なんで、わざわざあなたが創作(?)した「官僚的答弁」に、
滝村の「統治主体としての国民」批判を取り上げたか、おわかりになることと思います。
>国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
故に、イラクへの派兵は国民の総意として、合法的かつ適切である。
という、あなたが創作(?)した「官僚答弁」に
滝村の「統治主体としての国民」批判を対置すれば、その論理的ナンセンスさを
浮かび上がらせうことができるからです。
「国会は民主的選挙で選ばれた、国民各層の代表で構成されている。
故に、イラクへの派兵は国民の総意」と繋げる発想には、政治家・官僚が
「国民の代表」であるがゆえに、その具体的政策もまた「国民の総意」という発想であり、
この発想には、民主主義国家では「国民が統治主体であるからこそ、統治の具体的展開=政策もまた国民的総意」
とする「統治主体としての国民」発想が前提になっている。
「国民の代表」がやることなんだから当然その政策は「国民の総意」
という発想を、いわば盾の<表>とするならば、「国民が統治主体」という発想は、
盾の<裏面>なのです。だからこそ、あなたの文言に対して、滝村の「統治主体としての国民」批判を対置して見せたのです。
最後に、
>イラク派兵(=帝国主義的侵略)に関連すると思わ
>れる記述を挙げ、事実の把握に留まっていて、問題視などはしていないヨ と言ったわけ。
という言葉を読む限り、相変わらず自分の思想的立場から、「問題視」してないのに
ご不満のご様子。繰り返すけど、理論家の理論書に、お前は学者としてイラク派兵を
「どう思うんだ、問題視しないのか、ええ???」と問うても
、生産的ではないんですよ。
>>381 >しかし、吉本隆明の用法のように、「幻想的」が単に「観念的」と同義
吉本話はたしょうスレ違いっぽいけど、「幻想的」が単に「観念的」と同義
というのが吉本さんの用法といえないんじゃないのかね。
吉本さんは対幻想は残るが共同幻想は死滅するとかいってるわけで
「幻想的」が単に「観念的」と同義ならば
吉本さんは観念のない共同性を考えてることになる。
けど観念のない社会はないわけで…。
387 :
三浦・滝村ファン:04/01/19 14:56
OFWさん、385さん、こんにちは。なかなか議論が白熱しているようですね。
まあマターリいきましょう(いい歳してにちゃん用語使うのはハズカシイな)
OFWさんが提起なさった論点はなかなかおもしろいというか、
国家論の核心に関わる問題でしょ。386さんのおっしゃる
「統治主体としての国民」理念に関わる問題であるのですが、
これを、政治における「少数者支配」の現実と、国民主権の「多数者支配」
の理念の<矛盾>として考えると、わかりやすいのではないでしょうか?
私は政治学の素人ですから、うまくまとめられるかどうか分かりませんが、
だいたい、次のように概括できると思います
(この問題への理論的解答は、『国家論大綱』全体がそのまま解答になっている
のですが、とりあえず、第一巻P135以下からまとめてみます)。
388 :
三浦・滝村ファン:04/01/19 14:59
1 民主主義国家であろうと専制国家であろうと、<統治>の現実的在り方は、国家権力中枢
を占める政治家官僚が、国家意志の形成と支配において、
<統治主体>としての強度の実践的能動性主導性を発揮するものである。
、個々の政策においては、国民各層の「総意」に必ずしも拘束されず、
ときには「総意」に反する政策を強引に推し進めることも珍しくない。
その意味で、<統治主体>としての国民というのは、幻想にすぎない。
389 :
三浦・滝村ファン:04/01/19 15:07
2 しかし、このことから、「国民主権」理念を、「単なる観念的な統治手段」と
貶めて把握することは出来ないし、また、「国民主権」は単なる空虚な理念と
切り捨てることは、民主主義と専制の概念的区別ができない、理論的に無能を
暴露するものでしかない。
議会制民主主義国家では、<国民主権>理念のもとに、国民は<国家構成市民>
として<市民権>を付与され、国民諸層が自らの政治的権利を行使
することで、政治家官僚による政治的意志決定に直接間接に関与する。
390 :
三浦・滝村ファン:04/01/19 15:09
3 現実をみれば、「国民主権」理念は、議会制民主主義という客観的
現実的<制度>として、<国家・国家権力>の現実的構成として、
構造的に展開されているのであって、国民諸層が国家意志の形成ー支配に
直接間接に関与し規制していることは紛れもない現実である。
政治家は、「国民の総意」とかけ離れた政策を採り続ければ落選という
懲罰を受けるし、直接は選挙の洗礼を受けない官僚もまた、
各種マスコミを通じた国民的世論を無視することはできない。
その意味で、<少数者支配>の現実と<多数者支配>の理念は、
一つの<矛盾>として定立されているのであり、近代以降の議会制民主主義
国家は、この<矛盾>の定立とその解決を、政治的に<構造化>している
(この点が、<専制>国家との本質的相違である。)
私はほとんど議論に参加できませんが
一応たたき台としてまとめてみました。
三浦・滝村ファン様。
自分も三浦・時枝言語学支持者なんです。三浦先生の文才の十分の一でも滝村氏に
あればと考えます。
国民が国家構成員の水準で政治主体と成ることと、政治家・官僚(国家権力構成員)が<統治主体>として躍り出る
ことは相対的な区別と連関にあると理解しました。
><少数者支配>の現実と<多数者支配>の理念は、一つの<矛盾>として定立されているのであり、近代以降の議会制民主主義
>国家は、この<矛盾>の定立とその解決を、政治的に<構造化>している(この点が、<専制>国家との本質的相違である。)
との纏めは民主主義と専制概念、それから独裁概念を考える土台となると思います。
>>353 >「哲学ノート」で自己批判して、主体の実践的能動性をベースにした
>唯物論になってるんじゃないの。
頁でいうとだいたいどのあたりになりますか?
>>392 「認識論における実践」の項を熟読されたし。
岩波文庫上巻204頁、国民文庫上巻181頁から。
『哲学ノート』をひさしぶりに読みました。
『唯物論と経験批判論』と水準は変りませんね。
人間の意識の「創造」性なんてのは唯物論系の
哲学者ならだれでも言うことで。
レーニンはどこかで、最も進歩的な階級の中でも
無能な指導者は存在するが、これは階級社会では避けられない
なんてアフォなこといってるんだよね。
指導者の問題を社会的基礎に還元して論じるはっそうそのものが
俗流唯物論なんですよね。
大杉栄の取り巻きと発想はかわらん。
昔『哲学ノート』は『大論理学』を読むいい手引きになる
と言われてよんだが、手引きにはならなかった。
読書ノートを作るお手本には成ったけどね。
レーニンがやってるのは、ヘーゲルの個々の箇所を挙げて
これは唯物論に接近してる
ここは弁証法的と指摘してるだけの話しなんですよね。
ほしゅ
397 :
考える名無しさん:04/02/03 23:24
芹沢俊介やほかなんにんかが書評したってほんと?
398 :
考える名無しさん:04/02/04 00:06
ファンよ、三浦、滝村に続くことができるようにしろ。
むろん、これは俺に対する言葉でもある。
三浦は学的実践があって始めて学は理解できることを主張する。
俺はつい最近ヘーゲルも三浦もわかりはじめてきたような気がする。
うそはよくないですよ。
ばかもよくないですがね。
383以下の論述に対するOWFさんの回答はまだですか?
>401
そんな物言いはいかがなものか
383以下さんにもOFWさんにも
失礼かと。
>>402 いえ、貶めるような意図はないんですよ。二人のやりとりは
勉強になるんで、早く見たいそれだけです。次はOWFさんの番だと思って。
ただ誤解を招くようなら申し訳ないです。
404 :
考える名無しさん:04/02/15 22:37
良書
405 :
考える名無しさん:04/02/20 23:57
ググッたら某国立大学で
『国家論大綱』を授業で使ってるらしいことが判明。
406 :
考える名無しさん:04/02/21 09:40
407 :
考える名無しさん:04/02/22 00:03
探したがわからん・・・
おれもわからんかった。
誹謗中傷をしているわけでないので、わざわざ名前をふせる必要も無いと思うが?
いまググッたら見つからなかったが、
中部地方の国立N大学(?)の学生のホームページ
に、授業のために『国家論大綱』買わされたという記述あり。
>>409 だから名古屋大学ならそう書けばいいだろ。
なんでわざわざ伏せ字を使うんだ?
国立大で教科書に滝村を使うのに何か問題があるとでも言うのか?
411 :
考える名無しさん:04/02/27 17:26
ふーん、ナマイダナマイダ・・・
413 :
考える名無しさん:04/02/28 12:26
二巻で17.000+消費税。
注文したら書店のおばさん大喜び。
やはり経営きついんだろうな。
414 :
考える名無しさん:04/02/28 12:31
馬場の古本屋で出ているよ
415 :
考える名無しさん:04/02/28 12:46
そう言えば、剽窃盗用した男を滝村が糾弾したことがあるのだが、三浦はそれをたしなめたことがあった。
滝村は三浦をまったく無視したな。
たしかに三浦も俗流のところがあることはあった。
しかし滝村のような学者を生み出すきっかけにもなっているんじゃないかな?
三浦はある意味マルクス中興のきっかけになっているんじゃないかな?
思想としてのマルクスは死んでいるが、方法としてのマルクスは滝村が言うように不滅だよ。
>>409 悲惨だな授業で使うとはいえ高すぎる・・・
417 :
考える名無しさん:04/02/29 01:35
>>416 専門書なんてそんなもんだろ。
高すぎる、ということはない。
>>417 どう考えても高すぎるだろ。誰だお前は?
専門書は需要が少ないので普通の価格だと思いますよ
申し訳ないのですがこれを買う経済力がないのはすでに負け組
(学生さんだとしても)
420 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/02/29 01:55
≧(´▽`)≦アハハハ
>>419 申し訳ないのですが、負け組なんて使う貴方おつむのほうが気になります・・・
ここは滝村スレですよ?資本主義マンセーですか?面白い人ですよ、貴方は。
(学生さんだとしても)
>>421 ではあなたは何をしたいのですか?
あるいは、何になりたいのかと問うても良いでしょう
本を読む金もないとぼやいてそれで終わっていては
資本主義を批判するフィールドに立つこともできません
(資本主義マンセーですか? そんなわけはないでしょう)
実践することには常に困難がつきまとうことを
あなたはよく知っているのではないでしょうか
月に30くらいは本を買います。ほとんど古本です。ブックオフも常連です。
読むのはその半分程度です。負け組なので金はないが月に二、三万は本に使います。
(学生です)
それで勝ち組の貴方は一体どれほどのものなのですか?
学生で負け組ってどういう表現でしょうか?まだ学生だと思っていたのですが、
どうやったら勝ち組になれますか?
医学部に行ったら教科書が一冊8,500円だと
安いと感じられるそうだ
医学部は一冊三万くらいするやつとかも結構ある。
でもたかだか一授業で一万五千は高い。当たり前だけど授業なんてのは一つでは
ないわけで。それに授業で通読なんてとても無理だろうな。
でも結局マルクスをテキストにした方がいいんじゃないかな。どうせ読むなら。
『国家論大綱』再読。病気のため「未完成品」というのは、ほんとうに
惜しい。構成はもの凄いのだが、内容を見ると展開不十分のままの項目がある。
それと、ご病気のためなのか、参照した実証史学上の史資料が
やや古いような気がする(おそらく90年代中盤以降の歴史的史資料はあまり参照できていない
のではなかろうか?)
そのため、解釈上のミスと思われる点があった。
滝村さんのご健康の回復を祈る。
とにかく第二巻以降を出版して欲しいものだ、
427 :
考える名無しさん:04/03/22 15:29
>>426 よく読み込んでいるようだね。
わたしは違う分野なので、今のところは拾い読みしかしていない。
そうそう、ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という定義の論理的な説明ができそうだよ。
論理の性格の在り方からできそうなんだが。
これはその内にどこかでやるよ。
428 :
考える名無しさん:04/04/04 08:28
>>427 >これはその内にどこかでやるよ。
どこでやるの?早くやって。
429 :
考える名無しさん:04/04/04 14:49
尖閣上陸・靖国落書き事件のシナ人有罪。中共が、日本側に善処要求。
滝村三権論をお読みの方なら、シナのガイキチぶりがおわかりでしょう。
【北京11日=伊藤正】 今年八月、靖国神社のこま犬銅像の石の台座に「死ね」とカラースプレーで書くなどし、器物損壊罪で有罪判決を受けた
在日中国人が、中国で「英雄」扱いされ、本人も「中国人の面子を守った」
と胸を張っている。インターネット・サイトには、不当判決との非難が殺到、
中国外務省も判決を遺憾とし、日本側に善処を要求した。
この中国人は、東京都在住の会社員、馮錦被告(三一)。小泉純一郎首
相が八月十三日、靖国神社を参拝したことに憤り、翌十四日夜、単身で神社に行き犯行に及んだ。逮捕された馮被告に対して、中国人社会ではその
勇気をたたえる声が高まった。人民日報のホームページでは、馮被告の行動を支持ないし理解する人が91%に上った。
中国政府は事態を重視、外交ルートで日本側に寛大な措置を求めてきたが、
東京地裁は今月十日、馮被告対して懲役十月、執行猶予三年の判決を言い渡
した。これが伝わると、ネット上には対日抗議のメールが殺到。 中国外務省
は、同夜、「遺憾」とする章啓月報道官の談話を発表した。
章報道官は十一日の定例会見で、「公共の場所で宗教施設へのペンキ噴霧は、中国でも犯罪になるのに、なぜ遺憾なのか」との産経新聞の質問に対し
「事件には特殊な政治的背景があり、単純な刑事事件ではない」と説明。日本側が「公正かつ合理的に処理するよう望む」と述べた。
中国側の主張には、党の支配下にある自国の司法制度と日本の独立した制
度を同一視し、過去の幾つかの中国がらみの裁判同様、この判決も日本政府
の「差し金」として批判する傾向があるようだ。 中国では一九九八年、天
安門の毛沢東の肖像画にペンキを投げつけた労働者に長期の懲役判決が出た
ことがある。
430 :
考える名無しさん:04/04/04 14:52
ぷっ自民党の教科書かよ
431 :
考える名無しさん:04/04/04 14:53
もちろん小泉総理の愛読書だよ。
432 :
考える名無しさん:04/04/04 14:54
ちんぱんふくだくんもなー
433 :
考える名無しさん:04/04/04 14:55
uki!
434 :
考える名無しさん:04/04/13 03:47
ヘーゲル訳した人のやつ出ましたねえ。速攻で買ってしまったけど...
ご意見は?
435 :
考える名無しさん:04/04/13 06:43
滝村とのつながりは?
436 :
柄谷行人 ◆WcOabcjNAM :04/04/13 06:51
あなたが一番よく知っている筈ですよ。
437 :
考える名無しさん:04/04/13 11:33
>>434 >ヘーゲル訳した人のやつ出ましたねえ。
何ですか? 何が出たんですか?
438 :
考える名無しさん:04/04/13 11:46
439 :
考える名無しさん:04/04/14 01:12
なんで『論理学』が『論理科学』なんだ?
442 :
考える名無しさん:04/04/14 23:52
原題を考えろ!
それより、購入した人の感想求む。
「解説」等に何か有益なことが書いていなかった?
それにしても767ページって、文庫サイズ?
443 :
考える名無しさん:04/04/15 16:56
大北恭宏って人は、論研系というよりもヤマギシ会シンパだったヘーゲル翻訳家の牧野紀之の弟子だよ。
444 :
考える名無しさん:04/04/15 17:27
>442
原題Die Logikを考えれば「論理科学」になるという解釈?
でもそうなると、
エンツィクロペディー(哲学的諸学の大系)の「哲学的諸学」は、
「哲学的諸科学」になっちまうよ。
Wissenschftを「科学」と訳すか、従来通り「学」「学問」と訳すかは、
一見どっちでもよさそうだが、「哲学」と「他の諸科学」を厳密に区別するヘーゲルの学問観を考えるうえで、
重要な問題じゃないかな
詳しい人のご意見求む!
WissenschftはWissenschaftです。
スペルミスみっともない
446 :
三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/04/15 17:33
クッ
447 :
考える名無しさん:04/04/16 00:22
(^Д^)ギャハ!↑みなさん、この人のレスどう思いますか♪なんてありきたりなんでしょうね♪
誰もが皆、一瞬つけてみたくなる発想のレスです♪
しかし、賢明な人はその自らの短絡的思考を野放しにする事を嫌がり、
こういうレスは控えます♪しかし、この人はしてしまったのです(^^;
「誰もが思い付くような事」を堂々と♪
この人にとってこのレスは何なのでしょうか♪
このレスをしている間にも時間は刻々と 過ぎ去っているのです♪
正にこの人のした事は「無意味」「無駄」でしかありません♪ああ・・・何ていう事でしょう(^^;ワラ
図星で泣いちゃうかも(^^;ワラ
449 :
考える名無しさん:04/04/16 01:12
>>448 おまえ、意味分からんぞ。滝村スレに来る人間とは思えない。
>>448 おまえ、意味分からんぞ。滝村スレに来る人間とは思えない。
>>447 田舎の分校に勤めながらヘーゲルの翻訳にうち込んでた人。
出版関係の人からそう聞いたけど、牧野の本にも名前出てるらしい。
>434
注は多いすかね?
注がないヘーゲル薬は困る
453 :
考える名無しさん:04/04/19 13:14
>>452 本文中の語句に、※を打つ形での注はまったくありません。
ただし、本書をもっと詳しく理解できるように、
「訳者による注解」が約80ページついています。
様々な術語の解説です。
>453
ありがとう。
wissenshaftを科学と訳してもさしつかえない、いや、そう訳すのがヘーゲルの学的態度に合致すると思います。
滝村さんが『世紀末時代を読む』で嘆いているように、現在、自然科学こそが真に科学らしい科学で、社会科学(や文化諸科学)は
実験的実証も数理的論証もできないから厳密には科学ではないとか、社会科学や文化科学を真に科学化するには自然科学の方法を導入
しなければならないとかという俗論が横行しています。
そういう俗論を俗論として断固斥けたのがヘーゲルだと思います。
その観念論的粉飾とアプリオリズムの限界にも関わらず、自然科学礼賛、あるいは
カント系の発想と抱き合わせの実証至上主義と峻別される、ヘーゲルの学的態度こそが実は<科学>的である、
ということをはっきりさせるため、wissenshaftを科学と訳した方がいいと思うのです。
ヘーゲルは、経験的な実証学は「哲学的諸学」に非ず、また、「哲学」は数学からその方法を借りてくることは出来ないと
喝破しています。どういうことかというと、経験的に確証可能な実証的成果の現象的・機能的記述など学的とは言えないし、
「哲学的諸学」は、内容を捨象した形式論理では扱えない対象を扱っているのだ、いうことでしょう。
ヘーゲルは、直接目に見えない<真理>を把握し、事象の内容そのものから論理必然的に<真理>を展開することこそが
真に「学的」なのだと位置づけていて、これは、経済学のマルクス、政治学の滝村、言語学の三浦という
三人のヘーゲリアンに継承され、体系的著述として結実しているのが、『資本論』と『国家論大綱』だと思います。
過去レスざっと読んで見ました。
415 :考える名無しさん :04/02/28 12:46
そう言えば、剽窃盗用した男を滝村が糾弾したことがあるのだが、三浦はそれをたしなめたことがあった。
滝村は三浦をまったく無視したな。
初耳です。詳細をお聞かせ下さい。
たしかに三浦も俗流のところがあることはあった。
しかし滝村のような学者を生み出すきっかけにもなっているんじゃないかな?
三浦の俗流なところというのはどういうところなでしょうか?
457 :
考える名無しさん:04/04/24 08:29
age
458 :
考える名無しさん:04/04/25 17:22
age
>>456さん。
>三浦の俗流なところというのはどういうところなでしょうか?
誰も答えないみたいだから、レスしておくと、
三浦氏の「学者」というよりは、「啓蒙家」の面のことではないかと・・・。
滝村氏は読者を選んでいる、というよりは、自分の文章がどんなに難解なものになろうと、
その概念を貶めてまで、易しくしようとはしない。
ところが三浦氏は、「弁証法はどういう科学か」に見られるように、
普段、学術書など絶対読まないような人にも解るように書いている。
今で言うと、井沢 元彦のようなものでしょうか?
三浦氏のそうした面を指しての発言だと思います。
なんと、今武道板見てみたら、
私と全く同じことを言っている人がいた・・・。
ちとビックリ。
461 :
考える名無しさん:04/04/27 08:32
峰流婆氏、時間があるんだったら武道板に帰ってきて
峰流婆さんへ。こまめに書き込む時間がないので、一挙にまとめて連続カキコします。
>三浦氏の「学者」というよりは、「啓蒙家」の面のことではないかと・・・。
おっしゃりたいことは分かります。
ただ、峰流婆さんレスの文言だけ見ると、「学者」と、「啓蒙家」を対立させて議論をなさっているように誤解されかねない、と思います。
「学者」であることと、「啓蒙家」であることは、矛盾するものではないですから。
「学者」三浦の側面と、「啓蒙家」三浦の側面というように問題を立てるべきではなく、
むしろ、「科学者」三浦と、「哲学者」三浦を、その区別と関連において位置づけ、三浦さんのこの二面性が、
「啓蒙家」三浦の功績と罪責をどう規定しているか………と議論を組み立てた方が、いいのではないでしょうか?
これを具体的に論じるのは、2ちゃんでは無理なのですが、一応、簡単に、自分なりの考えをまとめておきたいと思います。
「科学者」三浦の「啓蒙家」としての凄さは、『日本語はどういう言語か』や『こころとことば』などの啓蒙的小冊子を読めば、一目瞭然だと思います。
吉本隆明が『日本語はどういう言語か』を評して、「この小冊子は、啓蒙的なスタイルを取っているが、内容は極めて高度かつ画期的で、文学作品を分析する上で、これほど有益な書物は、内外のいかなる諸文献にも無い」と感嘆しました。
その意味で、峰流婆さんのおっしゃる
>自分の文章がどんなに難解なものになろうと、その概念を貶めてまで、易しくしようとはしない。
というのは、『日本語はどういう言語か』や『こころとことば』などの系列の啓蒙書に関しては、まったく当てはまりません。
>普段、学術書など絶対読まないような人にも解るように書いている。
ことが悪いはずがなく、それは素晴らしいことです。『日本語はどういう言語か』『こころとことば』は、言語学には疎い私のような素人にも、その内容を素直に受容できるようにわかりやすく書かれていて、著述家としての三浦さんの底知れぬ力量を感じます。
『日本語はどういう言語か』や『こころとことば』などの系列の啓蒙書は、『認識と言語の理論』などの主著のエッセンスが凝縮され
(わかりやすく、しかし内容は些かもレベルを落としていない)三浦理論の入門書です。
しかし、『弁証法はどういう科学か』その他の啓蒙書(『こう考えるのが正しい』など)の系列は、もちろん「科学者」三浦の全業績を踏まえたもので、
その意味で優れた啓蒙書であることは間違いないのですが、『日本語はどういう言語か』や『こころとことば』などとは<質>が違う。
この<質>の違いは、「科学者」三浦と「哲学者」三浦の区別と連関を考える上で、極めて重要だと思います。
三浦さんの「学者」=科学者・文献学的批評者としての業績は、
1 時枝言語過程説を創造的に発展させた。
2 規範論を再措定することで、学的国家論のための<基礎の基礎>を用意した(ただし、三浦国家意志説では学的国家論にはなりえず、あくまで<基礎の基礎>)。また、組織論・指導者論でも良い仕事を残した。
3 文献学的批評者として、『毛沢東主義』『マルクス主義の復原』『マルクス主義と情報化社会』などの著作で、古典の文献学的解釈に基づき、通俗マルクス主義への優れた批判を展開した。
この三点だと思います。これは不滅の業績で、吉本隆明風に言えば、
「日本のマルクス主義の水準は三浦つとむで、おそらく世界でもっともすすんでいる。これは、廣松渉あたりでマルクス主義を云々する柄谷や浅田には、絶対に理解できないことだ」
ということでしょう(吉本さんの原文では「滝村隆一」のことを言っているのですが)。
『弁証法はどういう科学か』その他の啓蒙書の系列は、この三点を踏まえて提出されており、その意味で
三浦理論の優れた啓蒙的入門書なのですが、『日本語はどういう言語か』や『こころとことば』などの系列と決定的に違うのは、
「啓蒙書」であるがゆえに「啓蒙書」にありがちな通俗化がほどこされ、そうであるがゆえに、「哲学者」三浦の悪い面がもろに出ているところです。
連続カキコ失礼します。あと二つほどで終わります。
「弁証法はどういう科学か」その他の系列は、当時の中卒の勤労大衆にも分かるように、弁証法を、
身近な切実な生活レベルで役立てられるように意を払ったものでした。弁証法の有効性を入り口にして、
意欲的な青年を共産主義に誘導する。
これこそが、三浦さんが、「弁証法はどういう科学か」等の啓蒙書に込めたモチーフです。
このモチーフゆえに、いわゆる「三大法則」を具体的に例証するべく、ことわざから唯物史観、
中ソ論争から剰余価値説まで実例として総動員する<極端な例証主義>の姿勢を
取ることとなります。その結果、「科学者」三浦の比類なき卓越性からかけ離れた、
「哲学者」三浦としての限界を晒すことにも成りました。歴史・国家・社会に関わる発言は、
当時のお粗末な反帝反スターリン主義左翼とくらべてさえ、一段とレベルが下がります
(というか、これは、滝村さんが言うように、優れた科学者ゆえに、その歴史・社会・思想認識はお粗末にならざるをえないとという
パラドックスで、ノーベル賞クラスの科学者が奇妙なイデオロギー、宗教的迷信に囚われる事例と、本質的には同じです)
そして、もっと深刻なことは(これは極めて重要なことで、2chで論じる事柄ではないですが、端的に述べると)、
三浦さんの『弁証法とはどういう科学か』その他の系列の著書が、エンゲルスを読むガイドとしては優れていても、
ヘーゲルを読むガイドにはなりえないばかりか、いわゆる「三大法則」の例証主義の根本姿勢に立つ限り、
ヘーゲルの全体像をエンゲルスの枠組みで切り取った理解に陥りかねない、ということだと思います。いわば、ヘーゲルを「最低の鞍部」(本多秋五)で乗り越えることになりかねないのです。
『弁証法はどういう科学か』は、そういう限界を弁えて、健全な批判精神を以て読まないと危険な「啓蒙書」です。無批判的に盲信すると、吉本さんが言っているように、
「三浦の弟子の中には、弁証法のマニュアルを振り回し、閉じた世界で天狗になっているものがいる」ということになってしまいます。
連続カキコ失礼しました。
しつこい連続カキコ、すんませんです(これで打ち止めです)。
いま、『胸中に火の柱あり』(三浦つとむが遺したもの)をぱらぱらと読み返してますが、
「真理は単純である」というあまりにも有名な言葉を読むたびに、実に深いなあとしみじみします。
真理は単純である。三浦さんの規範論にしても、滝村さんの権力本質論にしても、南郷さんの技の創出と駆使の論理的区別にしても、
「あたりまえだよなあ〜〜言われてみれば」です。
でも、これまで、だれも明快に、びしっと概念化できなかったので、「真理」を「単純な」姿態にまで純化するのはやはり凄いことで、
しかもそれを体系的著述に結晶化するのは、もっと凄いことなのだなあと思います。
468 :
考える名無しさん:04/04/27 21:23
>>467 同意!!!同意の上で書き込みたい。
>びしっと概念化できなかったので
びしっと概念化できてるんですかね?滝村先生の(私は「国家論大綱」を読んでない
のでそこではキチンと書かれてるかもしれないが)「国家とは何か?」は結局、どう
いう概念だったのですか?随分前に「試行」の「領土とは何か?」(だったと思う、
多分)という論文で「滝村の国家論は共同体内国家と共同体即国家との二元論だなん
てバカなこと言ってるのがいるが・・・・その両者に共通する「国家」という概念は
かくかくしかじか・・・・」とか読んだ覚えがある。
南郷さんの「技の創出と駆使の論理的区別」も「あたりまえ」のようで本当に理解でき
てますか?私には「今のままではカクカソウヨウの想いがする」と言っておきたい。
>>461さん。
せっかくですが、あの無門厨があのスレに出入りしている間は、
正直、関わりたくないです。
ですが、あのスレを立てたのはやはり私ですので、責任上、私のレスが必要と思われる時が来たら、
また戻らせていただきたいと思います。
三浦・滝村ファンさん。
真に有意義なレスをありがとうございます。(もちろん皮肉とかじゃありません。)
>>465 >歴史・国家・社会に関わる発言は、
>当時のお粗末な反帝反スターリン主義左翼とくらべてさえ、一段とレベルが下がります
滝村氏も「国家論大綱」で、「三浦氏はあくまで言語学者であり、社会科学への影響はゼロだった。」
と、吐き捨てるような口調で、ご自分の三浦学説との関わりを否定していました。
南郷氏も、「三浦さんには専門がない」と述べていいたとも聞きいてます。
実際には、三浦氏の仕事は「権力論」、「美学」、「言語学」、「人生論」、「認識論」と実に多岐にわたっているのですが、
真に「学的水準」にあるのは、「言語研究」のみで、彼の全ての仕事を鳥瞰してみると、
そこには皮肉にも彼の師、エンゲルス同様、「体系性はなし」ということになり、
なお意地悪く見ると、たしかに全てにわたって「弁証法」「唯物論」が貫かれているが、
それは、あたかもかのエンゲルスが批判したような「デューリング病」でさえなかったか、
という疑問も湧いてきます。
(つづく)
>>466 >ヘーゲルの全体像をエンゲルスの枠組みで切り取った理解に陥りかねない
ここもおおいに同意です。
同じ「マルクス理解」でも、正統的に「マルクス・またはヘーゲル」から入った者と、
「エンゲルス」を啓蒙のハシゴとして使った者では、当然その「弁証法理解」も違ってきます。
前者の典型であるかのOFWさんも以前、別スレで「弁証法の三大法則」という発想を鼻で笑ってました。
>>466 >「三浦の弟子の中には、弁証法のマニュアルを振り回し、閉じた世界で天狗になっているものがいる」ということになってしまいます。
この悪しき典型とも言える人間を、先日約一、二名相手にしたので、しばらくはまともな思考活動が出来なくなるほどでした・・・。
【マジレス】玄和会・南郷 継正・正統本スレ【望ム】
http://sports6.2ch.net/test/read.cgi/budou/1067257921/l50 また何かあったら、ご教授ください。
当方、三浦、滝村氏の著作は、主要なものはほとんど読了してますが、
いかんせん、手持ちのものがほとんどないもので・・・。
471 :
考える名無しさん:04/04/28 08:17
>>470 >この悪しき典型とも言える人間を、先日約一、二名相手にしたので、しばらく
>はまともな思考活動が出来なくなるほどでした・・・
それはいけませんね。三浦・滝村ファン氏のような方との討論を通じて、まとも
な思考活動を取り戻さねばなりません(W
連休前に連続カキコ失礼。
468さんへ。
>びしっと概念化できてるんですかね?滝村先生の(私は「国家論大綱」を読んでない
>のでそこではキチンと書かれてるかもしれないが)「国家とは何か?」は結局、どう
>いう概念だったのですか?随分前に「試行」の「領土とは何か?」(だったと思う、
468さんがお読みになったのは、『試行』ではなく『アジア的国家と革命』収録論文での発言かと思います。
滝村さんの<国家>の本質規定は、初期から現在まで基本的に一貫していると思いますが、
『国家論大綱』では、「67年当時の問題提起の意義と限界」という項目をもうけて、
「もちろん<国家>の規定も、その内容的把握という点では、「決して誤ってはいない」が、
「直観的レベルに止まっている」としています(そりゃそうだ、まだ22〜3歳のときの概念規定だもの)。
この点は、初期の滝村国家論から後期への発展に関わる、決定的に重要な問題だと思いますので、
私が拙い要約をするのもなんですから、直接『国家論大綱』を参照なさってみて下さい。
>南郷さんの「技の創出と駆使の論理的区別」も「あたりまえ」のようで本当に理解できてますか?
南郷さんの「技の創出と駆使の論理的区別」について、「あたりまえだよなあ、言われてみれば…」と言ったのは、
私自身の武道体験に基づいています。
私はへぼ選手で、周囲から期待されてたわりにイマイチ伸びなかったのですが、その自分の体験を論理的に反省してみると、
南郷さんが説いていた、「技の変化と崩れ」の論理を、<悪しき実例>として辿っていたことに気付きました。
また、私の父親は私など足下にも及ばぬ名選手でしたが、父親の稽古方法が、南郷さんの説く
「見事な技の創出」を、実地に辿っ<良き実例>だったのです。
そういう体験から、南郷さんの『武道の理論』『武道の復権』の理論的有効性を認めるようになりました。
「技を創る・使う」の論理的区別を、囲碁やテニスなどと対比させて、「待ち時間」の有無の
問題から理論的に展開したのは、やはりもの凄いですよ。
峰流婆さんへ。
「歴史・国家・社会に関わる発言」の「レベル」云々は、私の言い方が不正確で、誤解を招いたようです。
これは前レスにも書きましたが、三浦さんの<科学者>としての偉大さが、<思想>的愚劣さを必然化するという、
<悲劇的なパラドックス>の問題だとご理解いただければと思います。
三浦さんの人格的な大きさ偉さ、その勇気と知的誠実さは、著作からひしひしと伝わってきますし、
『唯物弁証法の成立とその歪曲』の後書きで、奥様がお書きになった 晩年のエピソード、『胸中にあり火の柱』に載っているソ連科学アカデミーへの
公開質問状を読むと、なんというか、その悲劇性は、せつないですよね。
三浦さんは、マルクス主義を<科学>だとこころから信じて、終生マルクス主義者のまま一生を終えました。
三浦さんは、自己の学問的な研鑽の中で、ヘーゲルと、その弟子であるマルクス・エンゲルスの理論的学的成果の凄さを感得し、
自己の学的研究に見事に生かしてきました。私は三浦さんの業績を三点にまとめましたが、この業績の質は、
間違いなく世界最高ですよ。
ヘーゲルの文献学的読解だけだったら、甘粕石介・寺沢恒信・許萬元といったアカデミシャンの方がより詳しく精密、
その著述も、三浦さんの啓蒙的著述よりも「体系的」(?)ですが、私が前に挙げた三点の業績と比較すれば、三浦さんとは比べものになりません。
しかし、三浦さんが、自己の学的研鑽の中で成果を上げ、ヘーゲルおよびマルクス主義への信頼を深めれば深めるほど、
<ヘーゲリアン・マルクス主義派>の思想的猛毒・その異様な邪悪さ・徹底的な冷酷さと非人間性を、根底的にひっくりかえすことが
困難になる。この点は展開すると長くなるのでこれ以上は言いませんが、
どうか、この<思想>と<科学>の深刻な区別と関連の問題を、単純素朴に、三浦さんの<理論><科学>の「限界」の問題に還元して理解なさらぬよう、お願いします。
>滝村氏も「国家論大綱」で、
「三浦氏はあくまで言語学者であり、社会科学への影響はゼロ>だった。」と、吐き捨てるような口調で、ご自分の三浦学説との関わりを否定していました。
これは、峰流婆さんの引用が正確ではありません。
「…彼の(三浦の・引用者注)学的本領は、言語学にあり、
マルクス主義者のとしての本領は、
エンゲルス晩年の二〜三の小冊子から摘み出した『弁証法』神学の、啓蒙的解説にあった」
「三浦によるマルクス主義の啓蒙的解説は、いわば片手間の余技にすぎず、もちろん、
社会的諸学への影響もまったくない」
三浦の「学的本領は、言語学」、「マルクス主義者のとしての本領」が、「『弁証法』神学の、啓蒙的解説」というのは真実ですが、「社会的諸学への影響もまったくない」というのは、違います。
「社会科学」と「社会的諸学」は区別して論じるべきですが、
まず、「社会的諸学」中、実証史学では、原口清の維新史研究
(特に原口史学の学風を確立した『戊辰戦争』)に決定的な学的影響を与えている。これは、原口さん自身が明言しています。
ついで、「社会科学」への影響は、滝村さんの業績がまさしくそれです。
三浦規範論という<礎石>なしには滝村国家論という
重層的立体的な大系的高層建築はありえなかったでしょう。
ただし、三浦規範論をそっくりそのまま頂戴して国家論を展開しようとしても、
科学的国家論を構築できないことははっきりしています。
三浦・津田国家意志説がその限界点で、比喩的に言えば、三浦さんの国家論は、<礎石>はあるが
<建物>がないのです。
『北一輝』以降の理論的高度化のもの凄さを考えれば、滝村さんが、<俺は三浦理論の後継者じゃねえ!>と
言いたくなる気持ちはわからないでもない。
そりゃそうでしょう。実際に<建物>を立てたのは俺だという自負があるでしょうし。
でも、やはり三浦規範論なしにはさん滝村国家論さんはありえなかったという、
<礎石>の意義を忘れては成りません。そういう意味で、
<社会と歴史の科学的理論の系譜>
において、ヘーゲル・マルクス・三浦・滝村のラインは、確実に繋がっております。
それと、三浦さんの『弁証法とはどういう科学か』では窺いしれませんが、<その主著群を注意深く読めば>、
三浦さんのヘーゲル理解は、「エンゲルスを啓蒙のハシゴとして使った者なんてレベルの低いものではないと
分かるのではないでしょうか。
>「三浦さんには専門がない」
これを、三浦さんへの肯定的評価としてではなく、否定的評価として言ってるとしたら、とんでもない間違いですね。
だいたい、峰流婆さん自身が、
>真に「学的水準」にあるのは、「言語研究」のみで
とおっしゃっているのです。三浦さんの「言語研究」が「真に『学的水準』にある」と「おっしゃりながら、「三浦さんには専門がない」という言葉を受け入れるのは、自己撞着というものです。
南郷さんが、「三浦さんには専門がない」などというお粗末なことを言うとは信じたくないのですが、もし言ったのだとしたら、おそらく、三浦さんの次の自己告白を誤解なさったのでしょう。
「…なにが専門かと質問されても、『なんでも屋』でどれにきめていいか困るような状態なので、やむなく哲学者という名前に甘んじなければなるまい」
「私の独学は(中略)特定の個別科学を勉強するというのではなく、謎解きによって具体的な問題を論理的に扱う思惟訓練として始り、続けられていったところに特徴がある」
三浦さんのこういう告白を、表層的に理解すると、なんでも屋で「専門なし」としか理解できないのですが、
実際は、三浦さんの学的成長は、最初から最後まで<個別科学者>として自己を鍛え成長させていて、三浦さんは、その道を、端的に「暗号学から言語学へ」と表現しています。
「三浦さんには専門がない」など、
三浦の学的業績を少しでも理論的に省みれば、絶対にでてくるはずがない妄言ですね。
>真に「学的水準」にあるのは、「言語研究」のみで、彼の全ての仕事を鳥瞰してみると、
>そこには皮肉にも彼の師、エンゲルス同様、「体系性はなし」ということになり、
三浦さんに「大系性」がないですか…。
科学者・三浦の業績に、「大系性」がないという意味なのか、
哲学者・三浦の仕事に「大系性」がないという意味なのか。
もう一度繰り返しますが、ヘーゲルの文献学的読解だけだったら、講壇哲学者の方がより詳しく精密でしょうし、
その著述も、三浦さんの啓蒙的著述よりも「体系的」(?)です。
しかし、私が前に挙げた三点の業績と比較すれば、講壇哲学者は三浦さんには遠く及びません。
ヘーゲルを以て哲学は終わったというのは、ヘーゲルの<大系>が解体された後、その<大系>の学的止揚は、
政治学・経済学・言語学等の<個別科学>の<大系>へと継承されるという意味です。
あらゆる個別科学を超えた「世界の大系」の類を構想するのは、ヘーゲルを生かじりした哲学専攻者がよくかかる病気で、まあそれも一種のデューリング病でしょうね。
「個別科学」への精進を強調し実践し、輝かしい成果を収めた三浦さんが、一番嫌ったのが、その種の大系妄想でした。
三浦・滝村ファンさん。
南郷氏が、「三浦さんには専門がない」と言うのを、私は直接聞いたわけではないので、
それがどういう状況で、どんな文脈の中で使われたかは、不明です。
武道板に行けば、教えてくれる人がいるかもしれません。
ただ、三浦氏の主要著作を押さえた上で、私個人の印象を言わせてもらえば、
三浦氏が手をつけたジャンルは、たまたま独学者、三浦つとむの関心領域の中に入っていたもので、
したがって、偶然的かつ散漫で、それらの間の相関性は、それほどないように思われます。
「認識論」に関しては、南郷氏の指摘するごとく、一般論に始終し、実在レベル(たとえば、唯物論の立場からなる、脳細胞レベルからの掘り起こし)
での論及は、ほぼ皆無のように思われます。
それと、「三浦美学」ですが、これは常に議論の中身が、「『唯物論学者』=『マルクス主義学者』にとって、藝術を扱うにあたって、真に対象とするものは何か?」
というテーマが主で、「『美』とは何か?」、「人間があるものを『美』と感ずる『認識』とは何か?」
といったような、「哲学史上」では、アリストテレス、カント、ヘーゲル等が、おのおのの立場から出してきたような回答
=「藝術問題の真の『核心』」は、ほぼ全く説かれていないように思います。
ですが、それを以って「三浦美学」が即ー「つまらないもの」だとは思いません。
なにしろ、「南郷武道学」と同じで、三浦氏以前に、そういう問題に対してさえ、正答を出した学者はいないのですから。
なんか、スレ違いになってきたな・・・。滝村スレにつきsage。
三浦スレ、立てようかな・・・。
>>472 三浦・滝村ファンさん
いえ、私が読んだのは確かに『試行』でした。1975年頃のやつですよ。当時の私
は三浦つとむと南郷継正を読むためだけに『試行』を買っており、吉本隆明も滝村隆
一もパラパラと眺めるだけでした。だから本文はあまり記憶に残っていないのですが
例の「広義と狭義の二元論うんぬん」という部分だけは印象深く残っているというわ
けです。
『アジア的国家と革命』でも同じような記述があるわけですか?参照してみます。
「67年当時の意義と限界」を読んでみました。しかし貴方は滝村さんの書籍に深く深
く入り込めていますよね。感嘆するほどです。私にはなかなかに難しいです。三浦・
南郷なら結構入り込めるんですけどね。どうも政治現象・権力現象への関心が希薄だか
らでしょう。「この偉大な政治学者の業績を理解しなければ・・・」と頭では思うので
すが「こころ」がねー・・・・
480 :
考える名無しさん:04/05/02 11:18
>>472 可能であるならば貴方の武道体験をお聞かせ願えませんか?スレ違いになってしまう
かもしれませんが。
「へぼ選手」の中身がうかがいたいのです。論理的に理解しやすいように囲碁やテニ
スと対比させるのも結構なのですが、武道の世界で創出と駆使を同一の稽古あるいは
試合で行っているところはマズありません。比率の問題はあるでしょうけれども。
それに選手としての成績を「技の変化と崩れ」に求めるというのも通常はなかなかに
困難なことです。何故なら通常は駆使の内容・レベルそのものの問題だからです。
あなたの体験を開陳することは、南郷氏が著書で書いていない素晴らしい部分を明ら
かにすることになるかも知れません。
として
481 :
考える名無しさん:04/05/02 12:23
私個人は三浦つとむの書籍はつまらなく感じています。扱っている事実も物足りない
し、当然に論理のレベルも浅く感じます。
南郷氏が著書で「三浦は亡くなる数年前まで学的世界のトップにいた」と書いたくら
いだから私の理解が足りないのでしょうけれどね。
あと南郷氏が「三浦には専門がない」と言ったのは自分の実践的な取り組みによって
事実が変化するような場を持っていなかったということでは?
つまり「実践家」ではなかった・・・・と。
憶測だけどね。
いいんじゃない。面白い,論理のレベルも深い書籍でお勧めは?
483 :
考える名無しさん:04/05/07 13:00
>>482 それが『国家論大綱』。やっとスレタイに戻ってきたね。
ふっふっふっふっふ、「哲学は自己へ還る円である」
部分でなく全体をみなければならない、ということだが、
どうすることが全体をみることになるのだろうか。
物事は常に部分しかみえないのではないか?
485 :
考える名無しさん:04/06/06 02:07
>>481 >当然に論理のレベルも浅く感じます
身の程を知れ!! 馬鹿者が!!
486 :
考える名無しさん:04/06/06 18:59
>484
これはまた重大な問題を…。
2chで論じるのは困難な議論になりそう。
滝村さんの初期から後期の学的展開を顧みると
(また、初期マルクスから『資本論』に至る成長過程を追跡すると)、
その歩み自体が、この問題への解答になってえいるとは思います。
>485
そういう罵倒はしないほうがいいと思います。
滝村さんの言う国家の性質は、どの程度の精度で成り立つものなのでしょうね。
すべての歴史的な国家にあてはまると考えていいのでしょうか。
たとえば、国家の誕生の過程は、共同体が他の共同体との間の戦争・交易を
通して自他の区別を明確にしていく過程である(だいぶ意訳ですが)という指摘は
すべての国家にあてはまるものなのでしょうか? それとも例外は必ず存在する
のでしょうか?
488 :
考える名無しさん:04/06/08 16:50
>>487 イスラエルなどあてはまらない例はいくらでもある。
国家論大綱をよめば、ご自分の問いが的外れなものだと
わかると思う。
484さんといい487さんといい、
> 大きな問いを投げ掛けておられて、どう答えたらいいか,難しいな…。
> とくに487さんの問いは、<世界史>と<個別歴史>の問題に
> つながる問題でありますなあ。
>
>
> 488さん、487さんの問いは「的はずれ」ですかねえ。
> この問いに、きちんと答えられるかどうかで、滝村国家論をどれだけ理解できているのかはかることができる、
> ナイスな問いだと思いますよ。
w
>>489 2行目以降に引用符がついているのがわけわからん。
こういう書き方されると見た瞬間読む気なくすよ。
抽象的に定義された本質論を自分がイメージしやすいような言葉に置き換えて
表現した時点で、それはどこか一般性を失ったものになるのかも知れない。
国家の成立の話でも、「外的諸関係に規定される」という点からみると、
イスラエルなどはまさにそうであるわけで。
ただ、滝村さんの言う国家の成立過程というのは、ほんとは「国家という概念」
の成立過程なのではないだろうか。
そうすると近代のイスラエルという国家の成立にそのままあてはめられるべき
ものではないのは当然と言える。
…全然わかってなくて申し訳ない。
493 :
考える名無しさん:04/06/19 14:45
>滝村さんの言う国家の成立過程というのは、ほんとは「国家という概念」 の成立過程なのではないだろうか。
全然違うよ。
>>493(=488)
あなたはただ者ではありませんね。
ご専門はなんでしょう?
495 :
考える名無しさん:04/06/20 01:21
>>494 なんで「全然違うよ。」だけで、「ただ者ではありませんね」となるんだ?
オレは493だが、488ではないし。ただ者だし。
496 :
鬼女 滝村先生の教え子だぞゴラッ!!:04/06/22 23:00
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| ロロ :.| | | | | | | |
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497 :
考える名無しさん:04/06/22 23:01
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| ::.| |__|__| | (__)_)
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498 :
考える名無しさん:04/06/22 23:08
♪こわれてきえた〜 从"、;从
(( ; ;"; :、)) ドカーソ
((; ;.;")) ); ;";) )
o ∧_∧ アアン ((; ;.;")) ); ;";) ) ;; .;))
⊂二´⌒ つ T∀T)つ ((; ;.;"((; .;"));.;")) ; ;.;")) )
議論続けてチョ
この人の研究ってルーマンの機能的社会論以降、
もしくはアルチュセールの国家のイデオロギー装置論以降の
研究の成果って取り入れられてるの?
別に新しいものがいいって訳じゃないけど、
未だにヘーゲル、エンゲルスかよ、ハア、っていう気になるんですけど。
>>489 そのテの学説については、滝村氏は主に叩き台として使うのみで、
自身の学問形成の材料とすることは、ほぼ皆無。
滝村氏自身も、マルクス以降の社会科学者は、
ウェーバーすら二流扱い。
前に軽く「論理実証学」の批判をしてたな・・・。
501 :
考える名無しさん:04/06/24 20:36
>>500 論理実証学ってどういうの?それの何が悪いの?
502 :
考える名無しさん:04/06/24 21:41
たしかヘーゲルとマルクスを社会科学上の2大巨頭に上げていたと思った。そんでマルクスの
社会科学上の学説は当時のブルジョア社会学者たちの研究成果に大きく依存してるようなこと
書いてたと思った。
>>501さん。
失礼ながら、あなたは本当に哲学板の人間ですか?
ttp://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t3.html ここ読んでおいて下さい。
滝村氏の著作は、当方一冊しか手許にないので、
うろ覚えで書くしかないが、「論理実証学」については、
たしか「国家論をめぐる論争」で、だいたい以下のように言ってたように記憶しています。
「『論理実証主義とは、哲学史上、ずっと『ドイツ観念論』の後塵を拝してきた『イギリス経験論』が、
『科学』、『実証』の鎧を身にまとい、換骨奪胎されたものに過ぎない。」
滝村氏の著作をお持ちで、検証可能な方、修正があれはお願いします。
論理実証学などない。それをいうなら論理実証主義。
>>504さん。
あっ、修正サンクスです。
私としたことが、「ミイラ取りがミイラ」でした。
まったくもって、恥ずかしい・・・。
506 :
考える名無しさん:04/06/25 01:31
>>499 おまえに対して、ハア、っていう気がするよ。
自分自身で対象と関わる、ということが全く分かっていないだろ。
きっと、哲学を勉強するとは、哲学者の著作を読むことだと思っているはずだ。
経済学の勉強とは、経済学者の書いた本を読むことだと思っているはずだ。
自らが「国家」という対象に、格闘レヴェルで関わって、国家の論理を浮上させえた本物の学者滝村隆一に対して、
素人レヴェルで、何がルーマン、アルチュセールか。笑わせるな。
>>506 確かに素人だけど、その考えは少し精神主義的な気がする。
学問において「格闘」も大事だけど、
有用性とかアクチュアリティも同じくらい重要なんじゃないの。
508 :
考える名無しさん:04/06/25 02:21
>>507 論理がめちゃくちゃ。
「格闘」と「有用性」と「アクチュアリティ」を同列に並べるのがおかしいって分からない?
対象と格闘レヴェルで関わる必要があるというのは、学問構築の方法についていっているのだから、
「対象と格闘するのも大事だけど、先人の本を読むことも同じくらい重要」という指摘なら、まだ分かる。
そもそも、本当に有用性のある学問体系とは、自分で対象とまじめに関わって、
自分でそこから論理を引き出して体系化した結果創出されたものだ。
論理的にいうならば、科学的に創出した学問体系だからこそ、
見事に使用できる(つまり有用性がある)ということだ。
509 :
考える名無しさん:04/06/25 02:29
貧乏学生うざいよ
滝村に執心とか馬鹿丸出し
どれだけ本人が「格闘レヴェル」で「まじめに」対象に取り組もうが、
どれだけそのことを本人がアピールしていようが、
そんな主観的な基準は、ある著作の良さを判定するのにクソの役にも
立たんよ。むしろそういう「精神主義」(507の言い方を使えば)は
クールに著作の論理を読み取ったりその可能性を救い出したりする
のに妨げになるんじゃないか。
当人がいかに無関心であろうと、一つの読み方として、
アルチュセールやルーマンといった現代の理論との関連において、
滝村国家論の可能性を新しい角度から説明できるとするなら、
それはそれでいいと思うんだがな。違うか?
>>508
511 :
考える名無しさん:04/06/25 02:51
>>509 俺は貧乏学生でもない(もちろん金持ち学生でもない)し、滝村に執心もしていない。
>>510 典型的な大学人的考えだと思う。
クールに読み取れる著作の論理なんて、しれてると俺は思っている。
現代思想なんてクールに読み取れるから人気があるし、
ヘーゲルなんてクールに読み取れないから人気がない。
ヘーゲルの論理を読み取れるようになるには、
自分が修行してヘーゲルの高みにまで登りつめる必要がある。
>>511 「クール」という言葉に引っかかったのかもしれないが、
「冷静沈着」とか「虚心坦懐」とかで言い換えてもいい。
「自分が修行してヘーゲルの高みにまで登りつめる」というが、
(語学を含め)冷静に技術的な読み方を学ばなければ、
歯を食いしばって100万回読み直してもヘーゲルの理解には
つながらないだろうね。暗記ぐらいはできるようになるかも
しれないが。
そして「正確な」読み方は、単にヘーゲルのテキストの字面だけを
追ったところで掴めないものだ。ドイツ語の勉強やヘーゲルを取り
まく様々な書物にも同時に取り組まなければならない。それを
すべて含めて「修業」というのなら、私はそれを否定しないが、
少なくともあなたのような抽象的な精神主義でいくよりも、
楽しくやった方が結果的に長続きすると思う。
513 :
考える名無しさん:04/06/25 03:38
>(語学を含め)冷静に技術的な読み方を学ばなければ、
>歯を食いしばって100万回読み直してもヘーゲルの理解には
>つながらないだろうね
>様々な書物にも同時に取り組まなければならない
やっぱりこういう発想なのね。
対象から論理を引き出すとか、学問とは論理の体系であるとかいう意味が分かります?
>>513 分かりますよ。それは言うまでもないことだから。
論理のないところにいかなる理解もない。ゆえに
論理のないところには対象の把握も学問体系もありえない。
そんなことあたりまえでしょう?
515 :
考える名無しさん:04/06/25 03:46
それじゃあまず、論理とは何かを説明してみて。
>>515 論理という語を持ち出したのはあなたでしょう?
そういう論法は狡いな。そういう問いを人に投げ掛け
たければ、まず自分の理解を示すのが筋でしょう?
517 :
考える名無しさん:04/06/25 03:59
だってあなた、「言うまでもない」っていってるじゃん。
518 :
考える名無しさん:04/06/25 04:00
「あたりまえ」のことならぱっと説明できるでしょ?
狡いもへったくれも、そんな言い方をしていると、あなたは分かっていない人と思われますよ。
>>499 まったく取り入れられていない。この人は最近の文献を
まったく読んでいない様子。全体に勉強不足。
私見では、日本人の国家論ということでなら、
廣松渉『唯物史観と国家論』の方が上。
>>503=峰流婆さん
「そこ」読んだけど良く分かりません。平易な例を使って平易な文章で難解に
説明してる感じがします。
要するに「ルーマンやアルチュセールは論理実証主義だ」と。
それよりも峰流婆さん、滝村さんの本、買いなさいよ。しかも「国家論をめぐる
論戦」だったらまだ在庫はありますよ。一冊しか手許にないのに貴方は本当に
滝村読者の人ですか?
521 :
考える名無しさん:04/06/25 17:54
>>519 笑わせるな。
しかもよりによって広松とは。
522 :
考える名無しさん:04/06/25 19:07
正直言って私にとっては
有用性=受け売りのしやすさ。
滝村はその点で有用性が低い。
滝村並みに勉強してないと使い物にならない。
523 :
考える名無しさん:04/06/25 19:09
滝村は理系の教養レベルw
>>522 > 有用性=受け売りのしやすさ。
> 滝村はその点で有用性が低い。
> 滝村並みに勉強してないと使い物にならない。
おれは270氏じゃないけどさ、
滝村を使えるようになるには、滝村なみの研鑽を
って発想は
.270
で決着済みじゃね?
526 :
考える名無しさん:04/06/26 00:14
>>503=峰流婆さん
私は『国家論大綱』しか持っていませんが、その「はじめに」の2頁に
「それは、学的・本質論的把握が、対象の現象的姿態の背後に、内的な仕組みと
論理的関連を把握するところにある、という学的・方法的発想である。それは、
近代社会学諸学の主流の経験論的・実証主義者のように、現象論的レベルでの
経験論的認識を、どんなに掻き集め、また積み重ねても、真の学的・理論的認識
とはなりえない、という発想である。」
とあります。『国家論大綱』くらいはお買いになった方がいいですよ。
>>513 >対象から論理を引き出すとか、学問とは論理の体系であるとかいう意味が分かります?
「政治学者なら現実の政治現象を対象に据えて、そこから論理を引き出すべきで
あって、他の政治学者の文献の研究などしなくていい」ということですか?
私にはちょっと言い過ぎだという気がします。学説史の勉強なんかもやっていい
んじゃないかな?いや、やるべきじゃないのかな?
>>510さんの発言に特別おかし
なところはない気がします。
>>527 横から失礼しますが一言だけ.501さん,それは誤解ですよ.
滝村さんのその文は,論理実証主義とまっこうから対立するヘーゲル・マルクスの
学的方法について述べたものです.
>>528 >ヘーゲル・マルクスの学的方法について述べたものです。
ご指摘、ありがとうございます。私はてっきりプラトンの方法だとばかり誤解
してました。
501さん。
確かに、おっしゃる通りです。
面目ない。
しかし、言い訳がましくなりますが、
当方、極貧状態により一度読んだ本を買う余裕はない。
ただ、ご指摘通り「国家論大綱」だけは金を貯めて購入して、
本格的に勉強せねばな、と思います。
マルクス以降の「現代思想」も、
一面では「学的反面教師」=「叩き台」として押さえておくべきかもしれません。
さんくすデス。
>>530 >当方、極貧状態により
お気持ち、お察しいたします。私も同じ境遇なものですから・・・・。
532 :
考える名無しさん:04/06/27 02:15
>>527 >「政治学者なら現実の政治現象を対象に据えて、そこから論理を引き出すべきで
>あって、他の政治学者の文献の研究などしなくていい」ということですか?
そこまではいっていない。しかし、文献研究よりは、「現実の政治現象を対象に据えて、そこから論理を引き出す」
ことの方が、学問にとっては本質的。自らの頭脳を使ってね(もちろん再措定も含む)。
ただ正直に言うと、イチローが小学生の素振りを参考にするか? イチローが小学生のバッティングを「取り入れていない」として、
「勉強不足」などと非難するヤツがいるか? などと思ってしまう。
以下は三浦つとむ『弁証法・以下に学ぶべきか』より。
「わたしたちは、いま、著作に述べられた真理が多いか少ないかと、学者としてすぐれているか
劣っているかを比べてみた。一致する場合と、一致しない場合とあることが分かった。一致しな
い場合を調べてみると、この比較が実は外面的・現象的な取り上げ方でしかないことも分かる。
著作は手が機械的に動いて作られてものではない。そこには頭脳の媒介がある。著作に述べ
られた真理は、現実の世界からくみ取ってこられたものであるから、著作と現実の世界の間に
は頭脳を媒介とした結びつきがある。真理が多ければ、それだけ現実の世界との結びつきも大
きいことは確かである。しかしそれは、著作者の頭脳が自力で現実からくみ取ってきたか、それ
とも他のものの頭脳がくみ取ったものをもらい受けたかと、直接の関係を持つものではない。と
ころが、学者としての優劣はこの自力か他力かに関係してくる。」
533 :
考える名無しさん:04/06/27 02:16
「著作は、人間の主体的活動の産物である。著作に述べられた真理が多いか少ないかを論ずる
のは、主体の活動を一応考察からのぞいて、現実の世界と著作の内容とをつきあわせて比べる
ことを意味する。ここから直ちに学者の優劣を引き出してくる人たちにしても、これらの著作が学
者によって書かれた事実を無視しているわけではないが、活動そのものを検討して優劣を論じよ
うとせず、産物だけを取り上げているのである。今の唯物論者と称する人々には、こういう間違っ
た態度を取るものが少なくない。方法論的な反省をしないので、検討が必要な場合にも主体の活
動を無視してしまうのである。だから観念論者に、「主体性を無視している」と、痛いところをつか
れるのである。こういう間違った理論を、マルクス・レーニン主義であるかのように説いて、マルク
ス・レーニン主義の信用を傷つけるのである。(このような偏向を、客観主義と呼ぶ。)
結論はこうである。著作に述べられた真理の多少と、学者としての優劣は一致するが、それは
一定の主体的条件においてのみ正しく、ある主体的条件においては誤りである。
ディーツゲンの正しい評価も、主体的条件を正しく取り上げて初めて可能であることに、注意し
よう。」
534 :
考える名無しさん:04/06/27 22:37
やっぱり三浦さんは「哲学者」(板倉聖宣)であるし「非専門家」(南郷継正)だと
感じた。『弁証法・いかに学ぶべきか』は捨てちゃったけど、『弁証法はどういう科
学か』一冊あればいい。
イチローだって柔軟性のみで高い評価を受けているわけではあるまい。
535 :
考える名無しさん:04/06/27 22:45
上の『弁証法・いかに学ぶべきか』の記述は何を語っているのかな?要するに「マル
クスやエンゲルスに比べて著作に述べられた真理が少ないからといってディーツゲン
が彼らに劣ってるとはいえないよ」ということかな?
それ以外に何があるのかな?打撃技術を追究するイチローに「バットを持ってないと
バッティングは出来ないよ」と語ってるのかな?イチローからすれば「ハア?」って
ところじゃないのかな?
536 :
考える名無しさん:04/06/27 22:54
ディーツゲンといえば南郷さんの「マルクス・エンゲルスを含めて唯物論者は認識論
がまったくダメだがディーツゲンだけはいい」という記述が気になるね。ぜひとも、
詳しく語って欲しい。
滝村スレだけど三浦さんですでにスレ違いっぽいから、南郷さんを語っても文句はない
でしょ?
でも南郷さんの「三浦さんの文章には学問的な深みがほとんどない」という指摘は当た
ってると思うし、どっちをとると言われれば他力でもいいから詳細な専門知識だな。
537 :
考える名無しさん:04/06/28 00:08
『弁証法・いかに学ぶべきか』を引用した意図は、文献研究よりは、自らの頭脳を使って
「現実の政治現象を対象に据えて、そこから論理を引き出す」 ことの方が、学問にとって
は本質的ということをいいたかったからだ。本を読むことが学問することではない、という
ことだ。
イチローの話は、その道の第一人者(イチロー、滝村)が、なんで低レベルなもの(小学生、
アルチュセール等)を取り入れる必要があるのか、といいたかったわけ。
538 :
考える名無しさん:04/06/28 01:13
南郷さんは「マルクス・エンゲルスを含めて唯物論者は認識論がまったくダメ」なんていっていないはず。
ディーツゲンの認識論は合格だというようなことは言っているが。
539 :
考える名無しさん:04/06/28 13:12
「イチローと小学生」を「第一人者と低レベルなもの」と論理化するところが
非専門という気がする。
要するに例え話ってのは頭の体操にしかならん気がする。
ああ、アルチュセールを取り入れなきゃならん理由はないだろうね。たぶん。
政治学を完成させていない我々(失礼)がその方法論を一般的に語るのは難しいと思います。
>>532 > そこまではいっていない。しかし、文献研究よりは、「現実の政治現象を対象に据えて、そこから論理を引き出す」
> ことの方が、学問にとっては本質的。自らの頭脳を使ってね(もちろん再措定も含む)。
試しに何か一つ、滝村さんが解いていない具体例について「現実の政治現象を対象
に据えて、そこから論理を引き出す」ことをやってみて貰えませんか?
そうしていただければ「学問にとっては本質的」の意味も少しは明確になると思うのですが。
tesyt
542 :
考える名無しさん:04/06/28 21:20
>>540 「判例による法創造」に対する考え方が「国家論大綱」の中でも
新稿と旧稿で微妙に食い違うのでそこを考えてみては?
こういうところは自分で答えを出すしかない。
私は考えてみたけど、結論は出なかった。
今のところ、多分判例の力は限定的な弱いもので、
アメリカが司法の判断で揺れるのは、統治の不安定さの
表れではないか、と思っている。
543 :
考える名無しさん:04/06/28 21:50
滝村氏の読者って、専門家でもないのにやたら凄く偉そうな人がいるよな。
氏の言葉を借りて人の批判をするときだけ元気になる。
でも自分から発展的な意見を述べることはない。
まあ読んでると自分も頭が良くなった気になるのは分かるけどさ。
そういう意味で
>>540の具体例で考えよう、というのはいい提案だと思うよ。
545 :
考える名無しさん:04/06/29 00:17
546 :
考える名無しさん:04/06/29 08:43
>>544 私からするとチミのほうが偉そうだが?
そんで、チミが何かを批判してるのも分かるのだが、チミの発展的な意見って
何だ?
「専門家でもない」ってのならケルゼンやルーマン、アルチュセールなんて名
前が出てきたら「ハイ、勉強しときます」って答えておくのが非専門家には無
難だろ?
単に現実の対象から論理を抽出するということばかりに拘っている御仁に対し
て「先人の研究成果を弁えていることも学者の主体的条件じゃないの?」と提
案することは<専門家的な意見>ではないが<発展的な意見>だと思うが、
いかがかな?
547 :
考える名無しさん:04/06/30 19:34
司法についての分析はもっと多くの人に知ってもらいたい。
だってこんなこと書いてるやつがいるんだぜ。
http://www4.diary.ne.jp/user/417438/ <民衆法廷は、平和を願う民衆が、自分たちの手で作り上げていく
平和のための法廷です。国家が民衆を逮捕したり投獄する「権力
法廷」とは対極にある新しい法廷運動の試みです(略)民衆法廷は、
国家権力が行うようなリンチ裁判ではありません。民衆法廷は、
国家が法的正義をないがしろにしている現実に対する批判として、
少なくとも守られるべき価値が何であるのかを示すものです。事実と
論理に基づいて、国家や国際機関に国際法を守らせる運動です。
もちろん、騒乱状態で行われる「人民裁判」とはまったく別物です>
とのことですが
<民衆法廷には、被告人に弁護人を付さなくてはなら
ない理由がないことです(略)もともと「裁判というからには弁護人が
不可欠だ」という考え方には何ら根拠がありません。弁護人のいない
法廷はいくらでもあります。第1に、歴史的には長い間、刑事訴訟は
裁く者と裁かれる者の二面構造でした。江戸時代の奉行による裁判
ドラマを思い出してください。当事者(検事と被告人)と裁判所という
三面構造は近代的な法廷でようやく確立したものです>
548 :
考える名無しさん:04/07/07 12:55
>>547 民衆法廷というのは、とてもタイムリーな話題ですね。自分の専門のほうが
忙しいので、ボチボチと勉強しておきます。
>>542 > 「判例による法創造」に対する考え方が「国家論大綱」の中でも
542さん
こういうご指摘は,たいへん勉強になります。
旧著(『北一輝』以降の)と『大綱』を比べれば、
旧著>>『大綱』と思えるところもあり
『大綱』>>旧著と判定できるところもある。
『大綱』は「未完成品」である以上、その差異を責めるのは酷だろうと思いますけど、
『大綱』には?ってなとこはけっこうある。
542さんは法学関係の方でしょうか?
私は門外漢のトーシロウなので、お教えいただければと思っています。
542さんの仰有られる
>「判例による法創造」に対する考え方
の「微妙な食い違い」というのは、正直よくわかりません。もう少しご説明I頂ければ幸
いです。
> 今のところ、多分判例の力は限定的な弱いもので、 アメリカが司法の判断で揺れるの
は、
統治の不安定さの 表れではないか、と思っている。
これも、542さんのお答えをまたねばなりませんが、
「判例の力は限定的な弱い」ということと、
「アメリカが司法の判断で揺れるのは、統治の不安定さの 表れではないか」
というのは、理論的に別次元のお話ではないでしょうか。
>>547 >>548 「民衆法廷」の方々は、純粋に政治的、ありていに言えば左翼利権屋的に動いている
方々で、すれっからしの確信犯ですから、なにを言っても無駄だと思います。
司法権の本質のがどうしたこうしたなんて、眼中に
ないだろうし、オウムとか統一教会と変わらないレベルの方々ですから。
>>480 > 「へぼ選手」の中身がうかがいたいのです。スレ違いになってしまうかもしれませんが。
この間、母校の援のためインターハイ県予選の個人戦を観戦してきました。実に十数年ぶりです。わが後輩たちは全員一回戦負けのふがいない結果に終わりました。
聞けば、稽古方法も稽古内容も、私が高校時代と同じでした。
>武道の世界で創出と駆使を同一の稽古あるいは 試合で行っているところはマズありません。
480さんが想定しておられるのは、古武道系ですか?
私が嗜んでいた武道では、「創出と駆使を同一の稽古あるいは 試合で行っているところはマズありません」などということはありませんでした。
私の母校、また、私の出身県にかんする限り、「創出と駆使を同一の稽古あるいは 試合で行っている」のが普通です。
私たちが高校時代は、一週間ほど基礎的な型の反復練習、すぐに練習試合、即地方予選、勝てば県大会、運動能力に恵まれ運がよければベスト4か準優勝
だいたいそんな感じです。
まあ、だから、いまだにインターハイ優勝選手の出ない後進県なのでしょうが、オリンピック選手を排出している名門校の選手と話をすると、別に稽古体系は私たちの母校と変わりませんでしたね。稽古量が桁外れに違うだけで。
> それに選手としての成績を「技の変化と崩れ」に求めるというのも通常はなかなかに 困難なことです。
別に「選手としての成績を「技の変化と崩れ」に求め」ているわけではないのです。
技を、崩して使えば、試合には使いやすく、それなりに有効だが、崩した技をいったん技化してしまえば、もはや、正しい技へ復元できません。
私は自らその過程を辿ったわけです。
以上、「スレ違いにならない程度」」かどうかわかりませんが、480さんへのお答えです。
>>549 542さんの仰有られる
>「判例による法創造」に対する考え方
の「微妙な食い違い」というのは、正直よくわかりません。もう少しご説明I頂ければ幸
いです。
大綱第一巻上 584ページと658ページをご覧ください。
ひょっとしたら私の誤読かも知れません。
「判例の力は限定的な弱い」ということと、
「アメリカが司法の判断で揺れるのは、統治の不安定さの 表れではないか」
というのは、理論的に別次元のお話ではないでしょうか。
542に書いたように考えを詰め切れてはいません。
また、アメリカのように最高裁判事の任命が政治的な大問題になる背景の
考察は滝村理論の理解にとって大変有益だろうと思っています。
>>550 そうでしょうか?私も門外漢ですので良く分かりませんが、歴史上「民衆法廷」
と呼ばれたものは現実に存在するのでしょう?
ネットで調べましたら、「民衆法廷」の歴史はベトナムにおけるアメリカの戦争
犯罪を裁くために開かれた「ラッセル法廷」に始まり、湾岸戦争の戦争犯罪を裁
くための「クラーク法廷」、2000年12月の「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦
犯法廷」、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷などがあると。
ちょっとは考えてもいいんじゃないの?
>>551 私は古武道も好きですが、現代格闘技も齧りました。というかスポーツでも「創出
と駆使を同一の稽古で行っている」というのは余り頭に浮かばないものですから。
門外漢ですから的外れかもしれませんが体育学では「全習法と分習法」というので
しょうか?私の高校の空手部では基本的なフォームを習ったらフォームの正確さや
スピードを養うために鏡の前でシャドートレーニングを繰り返しました。そして突
きや蹴りの威力を養成するために大きくて重いサンドバックを突いたり蹴ったりし
ました。それらは決して組手ではありませんし、試合でもありません。シャドーは
シャドーですし、サンドバックはサンドバックです。
野球のピッチャーでも試合の中で打者を打ち取りつつ球に威力を出していこうとす
るのは少ないのでは?私の高校でもピッチャーはバスタオルを持って鏡の前でシャ
ドーピッチングにいそしんでいましたよ。オリンピックにもある競技で全習法のも
のって何ですか?
>>553 > 大綱第一巻上 584ページと658ページをご覧ください。 ひょっとしたら私の誤読かも知れません。
554さんの仰有られる通り、「誤読」だと思いますよ。 大綱第一巻上 584ページ(584〜5の新稿)と、
「658ページ」(は658〜9の旧稿)に書いてあること、「微妙な食い違い」なんてありませんもん。
「個々の裁判判決」を通じた「法的規範の実質的な定立」と、一般的諸法の「定立」は、
<原理>的に違うレベルのものだというのは、『唯物史観と国家理論』以来、滝村さんが一貫して強調してきたことで、
私のような法学ビギナーでも、すっと腑に落ちるほど論理的だと思いますよ。
> 「判例の力は限定的な弱い」ということと、
> 「アメリカが司法の判断で揺れるのは、統治の不安定さの 表れではないか」
> というのは、理論的に別次元のお話ではないでしょうか。
> 542に書いたように考えを詰め切れてはいません。
542さんは、問題の建て方そのものがおかしいと思いますよ。
「判例」に、<一般的諸法>と同じ<法的規範力>があるわけがない。これは法学を学んだ学ばない
以前に、まともな常識があれば、だれでもわかることでしょう。
しかも、その話と、
「アメリカが司法の判断で揺れるのは、統治の不安定さの 表れではないか」
という議論は、ぜんぜん別次元の議論です。
「判例の力は限定的な弱い」という話は、法治国家がかかえる法治のあり方の問題です。
ところが、「アメリカが司法の判断で揺れる」とか、「アメリカのように最高裁判事の任命が政治的な大問題になる」
いうのは、アメリカ特有の政治構造の特殊性の問題。
次元がまるきり違いますよ
>>555 ここは滝村スレですから、この手のネタはまあほどほどに…ですけどね。
「全修法」というのは初めて聞きました。
日本の体育会の下部組織は、そんなこと、知らないで指導してるんじゃないですか?
私は空手の世界は知りませんが、少なくとも、私が所属してた世界は、そうでしたし、
いまでもそうですよ。
技の創出と駆使の区別をふまえたた稽古体系なんて、あったら、
ちびっっこ○○大会とかいう小学生の冠大会を、やりませんて。
「小学生の大会は、慎重に考えないとね?」と、宴曲に関係者に言ったら、不思議そうな顔されましたよ。
」
558 :
考える名無しさん:04/07/09 00:36
>>551-557間の、玄和会関係者とおぼしき方々。
武道板の南郷スレに来てくださいよ。
あっちは、もうネタがなくて困っているのですから、
このスレの上でなされた話題は、そっちの方で是非お願いします。
561 :
考える名無しさん:04/07/09 21:22
そうよな、葡萄タネは無いほうが食い易いからな。
でもN郷師範はここチェックしてるんだわな、ちゃっかりと。
563 :
考える名無しさん:04/07/16 00:08
滝村氏の健康状態って、どのくらいヤバイの?
564 :
考える名無しさん:04/07/19 09:49
↑知ってどうすんだよ。何が出来んだよ。
565 :
考える名無しさん:04/07/20 19:57
病状を知っても何もできはしないさ。せいぜいより早い回復を願うだけさ。
でも、その人の仕事を評価したり、その人の発表するものが気になって追
い続けている読者なら、その人が病気になったと聞いたら、病状が気にな
ると思う。
少なくとも、僕は知りたいと思っています。
結局法政上がりが思想とかを志しても
この結果か。。。
法政しか出られなかったんなら、
一般の勤め人になるに限るね☆
567 :
考える名無しさん:04/07/21 00:25
本物のバカっているよね。
受験勉強と学問なんて、全く関係ないのに。
568 :
考える名無しさん:04/07/21 00:44
この人、なんで「社会学部卒」なのかね?
若かりし受験生時代、「社会学」の言葉に、
「社会諸科学の統合学」のような幻想を持っちゃったのかな?
>>567 必然的な関係は無いが相関関係はあるぞ。
頭に浮かべてみろ。いい仕事をしている学者を。
殆どが東大京大卒だろう。
570 :
考える名無しさん:04/07/21 01:44
>>569 はあ〜? 誰のこと?
そもそも「いい仕事」って何?
571 :
考える名無しさん:04/07/21 19:12
学歴などどうでもいい話だが
浦和高校の同級生の人と偶然しりあって若き滝村さんのエピソード
を聞いたことがあるよ。
浦高が一番東大合格率の高かった時代に浦和高校トップクラスで入学、ビリで卒業
学校の勉強ぜんぜんやらない授業にもろくにでないでマルクスレーニンカントヘーゲルばっか
読んでたらそうなるでしょというお話
572 :
考える名無しさん:04/07/21 21:23
573 :
考える名無しさん:04/07/21 21:37
キキキw
574 :
考える名無しさん:04/07/21 23:27
この人、大学を卒業したのがかなり遅かったですね。
浪人&モラトリアム留年でもしたのかな?
575 :
考える名無しさん:04/07/22 18:51
>>571 プロフィールに「倉敷市出身」とあるから、岡山育ちで
大学に入ってから埼玉に住み始めたのかと思ってた。
576 :
考える名無しさん:04/07/23 10:57
私もそう思った
577 :
考える名無しさん:04/07/28 23:37
あげときます
578 :
考える名無しさん:04/08/01 18:43
ここも夏枯れかな?
579 :
考える名無しさん:04/08/02 18:40
滝村国家論のどこが優れているのか?
滝村国家論の他にはない独自性は何か?
誰かコンパクトに説明してみて。
580 :
考える名無しさん:04/08/03 19:38
↑
てめーが押さえてないから尋ねているのか?
ひとさまとの差異を確認したいのか?
ただカキコしているだけなのか?
581 :
考える名無しさん:04/08/03 22:22
いや、単に滝村、滝村っていってる人が、
本当はどのくらい滝村を理解しているのか知りたくて。
しばらく勉強していると、何となく分かったつもりになるけど、
いざ人に説明しようとするとすっきりしない、ということはよくあるよね。
そんな人が多いのじゃないかと思ってね。
582 :
考える名無しさん:04/08/04 06:51
で?
滝村って
なに系のマルキストなの?
一言で纏めてくれないと
わかんねーーー
583 :
考える名無しさん:04/08/04 07:12
>>582 もうマルキストじゃねーよ。
「国家論大綱」くらい読め。
>>583 往生際が悪いですね。これも柄谷さんに連絡しておきますよ。
585 :
考える名無しさん:04/08/06 07:04
>>583?
読ま無えーよw
プ
つか
もまえマルクシズムなんにもわかってねーだろ?
あー
国革とか
鉄砲から政権が〜
とかがマルの国家学説とか思ってんじゃねーのか?
>もうマルキストじゃねーよ。
↑
出身だよ出自
うんこが
死ね
586 :
考える名無しさん:04/08/07 00:36
587 :
考える名無しさん:04/08/07 00:58
ぞちあ〜れ まはと
しゅた〜つ まはと
おこみっしぇ まはと
588 :
考える名無しさん:04/08/07 04:19
581は夕焼けにゃんにゃんのピロ
とかいう全狂闘世代のじじいコテハンじゃねえのか。
このスレはレベルが低いとえらそうに言うくせに、
レベルの高いレスの見本をみせろといわれて、
2chで議論はできないと逃げたヘタレ
他人に厳しくテメーに優しい椰子。
589 :
考える名無しさん:04/08/07 21:08
ああ、また糞スレ化。
590 :
考える名無しさん:04/08/07 21:09
わだいが ないから
591 :
考える名無しさん:04/08/08 14:41
>>584 柄谷さんって柄谷行人?柄谷行人の「『歴史哲学』のパロディーが『ブリュメール18日』
だっていう指摘をどう思う?
592 :
考える名無しさん:04/08/08 17:20
593 :
考える名無しさん:04/08/08 18:08
>>592 いや、
>>598氏は、他人に説明させてどれだけ理解してるか知るよりも、自分で説明
してみて自分がどれだけ理解してるかを知るほうが自己のプラスになると言いたかっ
たんじゃないのかな?ただ、ちょっと表現が汚かっただけ、だと。
594 :
考える名無しさん:04/08/09 20:06
うーん、判るような、違うような。
595 :
考える名無しさん:04/08/18 21:11
先日さいたま市に行ったとき
県立浦和図書館に立ち寄りました。
滝村さんも近くに住んでたはず、
若き日の滝村さんも来館したんでしょうね。
596 :
考える名無しさん:04/08/21 03:58
県立浦和図書館には以前『唯物史観と国家理論』が置いてあったのに、
今は亡くなってしまったみたいだな。
597 :
考える名無しさん:04/08/21 14:26
あ、メンゴ。オレが頂いたもんねー・
598 :
考える名無しさん:04/08/21 21:42
近所の古本屋に国家論大綱が一冊置いてあって少々汚れてるんだがこれは買いかな?
この人の本は読んだこともないしどんな人かも知らないけど。
600 :
考える名無しさん:04/08/24 18:26
文芸社の『エンチュクロペディー』(訳:大北恭宏)が参考文献に滝村さんを挙げている
のはビックリした。というか、というか、帯や前書きに南郷さんとの出会いがあったから
ヘーゲルの翻訳をしたという記述があったのにビックリした。
滝村国家論では学問的にみて
「永住外国人地方参政権」付与はOKなの?
本ぐらい自分で読めんのか?
>>601 > 滝村国家論では学問的にみて
> 「永住外国人地方参政権」付与はOKなの?
滝村国家論を読んでなくても、
ごく普通の知性と常識があれば わかるでしょ。
「永住外国人地方参政権」付与なんぞ最悪の政治的選択だよ。
シビアな極東アジアの地政学的位置
、支那人朝鮮人にアタマが上がらない病的なまでに自虐的なサヨク残存勢力の跳梁跋扈。
そんな中で、こういう愚挙を推進するんだから、どうしようもないね
604 :
考える名無しさん:04/08/26 00:03
>603
差別主義クソウヨハケーン
ちゃんと中国といえよ
侵略の代償は払わんといけんからね
605 :
考える名無しさん:04/08/26 07:39
>>603のような低学歴ウヨはもうたくさんやが
>>604のよーな馬鹿左翼もいい加減死ねや
>>605 > >>603のような低学歴ウヨはもうたくさんやが
俺が低学歴だと思う根拠は?
俺がウヨだと思う根拠は?
お前のウヨ、サヨの定義は?
お前ちゃんと展開できるのか?
自分でちゃんと展開しないで人を低学歴だのウヨだの
言うのはレッテル張りつーんだよ。
607 :
考える名無しさん:04/08/26 10:26
>>606 まあまあ、怒るな。603の言ってることはまったくの真実だからw
608 :
考える名無しさん:04/08/26 12:16
606さん、まあまあ、怒るな。607の言ってることはまったくの願望だからw
609 :
考える名無しさん:04/08/29 18:32
605逃げたな。
あ、608=605?
610 :
考える名無しさん:04/09/01 11:28
帰ってこいよ、帰ってこいよ、帰ってこーいよー♪、ってか。
611 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/09/11 03:37:48
軍事経済のリスクは雪達磨式に膨らみ、既に米国の国債赤字を発行限度額にまで押し上げている。
戦争はもともとハイリスク・ノーリターンなのである。
それにも関わらず米軍主導の経済運営を一体どこの国が望んでいるのかである。
表向き米軍に逆らわないのは単に米軍が世界最大の軍事国家であり、資本主義経済の利権を独占しているからであり、ひとたび世界に目を向ければそれこそ奴隷文明のハイリスクが渦巻いているのである。
軍事経済はそのリスクの切れ端に過ぎない。
実に狭い価値観の中で我々は背後から突き動かされているに過ぎないのである。
米国が我々のアイデンティティーを弾圧し、軍事経済を正当化してきたのなら、そこに最初から正義などあろうはずもなかったのである。
【米国主導の奴隷文明、すべてのリスクは弱者から被る】沖縄・琉球民族
http://homepage3.nifty.com/darkelf/
612 :
考える名無しさん:04/10/01 00:24:48
『国家論大綱』は第二巻以降が出る可能性はあるのだろうか?
613 :
考える名無しさん:04/10/01 17:42:30
出たとしても、こちとらの関心事はその値段だぜよ。
614 :
考える名無しさん:04/10/02 02:07:50
値段なんかに関心は全くない。
2万円といわれても、全然平気で払います。
615 :
考える名無しさん:04/10/02 12:11:35
ううッー、羨ましいっつーか、悔しいっつーか、金を持ってるヤツは何処にでも
いるんだ。
資本制社会だね。
616 :
考える名無しさん:04/10/02 13:59:19
>>615 滝村隆一の『国家論大綱』だからこそ、いくらでも払うといってるんだよ。
別に金をたくさん持っているわけではないし。
むしろあまり持っていない。
617 :
考える名無しさん:04/10/02 18:26:20
僕も615さんと同じく超羨ましいです。
第一巻でさえも未だ購入できてません。
この12月にはバイト先から"お疲れさん"
と呼ばれているボーナスの類が、もし
出れば絶対買います。
618 :
考える名無しさん:04/10/03 00:19:34
>>617 第一巻って、早く買わないと品切れになるんじゃないの?
過去の著作も、入手するのにかなり苦労したよ。
南郷継正全集も、第二巻はすでに品切れだし。
619 :
考える名無しさん:04/10/03 09:47:10
617です。
僕は裕福じゃないんで、最初っから古本ねらいに決めてます。
でも、"お疲れさん"が希望通りの金額ならば、新刊で絶対購
入します。
>>612 第一巻の前書きによれば
原稿はだいたいできてるらしいから、
後は健康状態と出版社の意欲次第なんだろね。
621 :
考える名無しさん:04/10/03 13:26:47
618さんが正確ならば、刊行確実と。
残るはセンセが原稿の推敲・校正に耐え
る健康状態にあるかだな。
622 :
考える名無しさん:04/10/06 20:55:01
そんでも、けっこう楽しみじゃんかよ。
623 :
考える名無しさん:04/10/06 20:57:48
まあ、楽しみは判るが、あんま期待すんなよ。
624 :
考える名無しさん:04/10/06 20:59:01
てやんで、こちとらの勝手だろが。
四の五のぬかすな。
625 :
考える名無しさん:04/10/07 09:27:06
それでは、六と七ではいかがかな。
>>614 > 値段なんかに関心は全くない。
> 2万円といわれても、全然平気で払います。
全然のあとは否定で結ばんとだめよ
例 全然だめですよお
ぜんぜん 【全然】 (副)
(2)あますところなく。ことごとく。全く。
「一体生徒が―悪るいです/坊っちゃん(漱石)」「母は―同意して/何処へ(白鳥)」
628 :
考える名無しさん:04/10/08 18:50:46
↑請出典。
全然
(下に打ち消しの語をともなって)
ちっとも〜〜〜ない
まったく〜〜〜ない
「私はそのとき食欲が全然ないのに気がついた」(大岡昇平 「野火」)
{俗語}
ものすごく 非常に
「全然すばらしい」
学研国語辞典より
630 :
考える名無しさん:04/10/09 11:07:28
↑やっぱそうか。
628ではありまちぇんけど。
学的世界でも、ずばぬけた業績を残した研究者が、生存中にはさして評価されず、
死後かなりたってからおおきく、ときに過大といえるほど評価される事態がしばしばある。
もちろんこれには、時代的世界の推移と変化にともなう<思想的要因>がからんでいる
場合も少なくないが、たいていは研究者の特異な性格が大きく作用している。
これは、学的技量の修練と獲得に生涯専心したことからくる、人物狷介、社交性の欠如
といった、いわゆる人格上の欠陥である。
しかしその死後、それを知る関係者が鬼籍にはいれば、後世の学者によって、学的業績が
純粋に取り上げられ、検討される。
そして彼らは、いったいこれほどの業績が、なにゆえこれまで正当に評価されなかったのかと
首を傾げることになる。
「国家論大綱第一部」上巻273頁
滝村先生も、かかる運命を辿るのか。
632 :
考える名無しさん:04/10/15 01:37:36
南郷さんって、昔靴屋?
633 :
考える名無しさん:04/10/15 13:12:06
なぬ、むかつく屋さんってか。
634 :
考える名無しさん:04/10/16 07:45:46
南郷=アペレウス
>>631 存命中に評価されてるじゃん。
まだマルクス主義が元気だった頃に。
マルクス主義が退潮するとともに近代政治学化するし、
けっこうあざといと思うが。
636 :
考える名無しさん:04/10/16 09:12:08
つーことは、センセはサヨがらみだけでなくって、学会でも
評価されてるって理解でいいんか?
>>635 >
>>631 > マルクス主義が退潮するとともに近代政治学化するし、
こんな「評価」、どっからでてくるのかね。
滝村国家論、初期の『マルクス主義国家論』から「国家論大綱」まで
、骨格はまったく変わってないんだよね。
きょういてきだよ、その論理的一貫性は。
某MLで仕切ってるOって何もん?
まだ、したことないけど、あれじゃー投稿する気うせる。
反論意見に投稿不可なんって白けるネ。
除籍される前に退会しよっと。
641 :
rom戦:04/10/28 00:00:26
あのMLの管理人って、どこかの忍者の弟子だよね。
で、そこって結構神棚とかデカクテ・・・
なんで、唯物論を旨とする三浦弁証論を語る椰子が神棚祭ってるのかって笑ってしまうw
層価なんだろ
>>641 習俗なんだから、べつにおかしくはないんじゃねえの。
おれだってお盆にはお盆用の仏壇つくって拝んでるし、
稽古前には黙想→神前に礼!やってるし。
唯物論だけどさ、おれ。
644 :
考える名無しさん:04/10/31 20:01:08
浅香唯物論
>>640 > 反論意見に投稿不可なんって白けるネ。
> 除籍される前に退会しよっと。
なにもここで愚痴かかんでも
俺もあそこROMってるけどさ
三浦 滝村 ヘーゲルを話せる
人が前にいたっぽいが
もういないみたい(´・ω・`)
>>645 あそこの管理人も、三浦の「弁証法はどういう科学か」を対象にしているなら、もう少し組織論を学べって言いたい。
どうしてROM専がいるのか、どうしたらいいのかを考えるべきかと。
だって、あのMLの購読者って、70人くらいいるのに常時参加してるのはホンの数人。
二桁にも満たない筈。
>>646 あの人の物言いは相手のことちょっと見下しているような
雰囲気があってちょっとあれだよな
このスレの活性化のために
具体的な政治問題をお題みたく
出して、みんなで意見出し合うってどうだ?
>>648 > このスレの活性化のために
「国家論大綱」の読書会ってのはダメ?
650 :
考える名無しさん:04/11/10 08:47:35
>>649 読書会、やろうぜ。
まずはあなたが、適当なところまでのレジュメを作って、
それについて一定期間議論して、
また次の範囲のレジュメを作って、っていうのはどう?
651 :
考える名無しさん:04/11/10 11:25:26
ひとまかせにするな、って学校で習ったろうが。
652 :
考える名無しさん:04/11/10 11:52:55
いや、649が言い出したことだから。
653 :
考える名無しさん:04/11/10 19:00:38
「わかった、そんじゃオレがやる。」ってな快男児はおらんのかいな。
わしもヒトのことは悪しくは言えんが、こんなジジイにこんな心配さ
せんで欲しいぞえ。
654 :
考える名無しさん:04/11/12 23:21:29
うーむ、『国家論大綱」のレジュメか。
>>649,650
せっかく買ったのに難物過ぎて本棚の肥やしにしてしまっている
おれのためにも是非とも頼む。
ちなみにおれは絶対参加しない。
>>655 自分で読んで自分で考えて
自分で現実と照らし合わせて
ちゅう作業をやって苦しまないと
実にならないぞ。
レジュメつくるなんて堅苦しく考えると大変だから
読んで、章ごとにわかんないとこ、疑問に思うことを
箇条書きにして書き出してこの場で討論する
くらいの感じがとっつきやすいのでは?
657 :
考える名無しさん:04/11/15 23:13:42
>>653 > 「わかった、そんじゃオレがやる。」ってな快男児はおらんのかいな。
> わしもヒトのことは悪しくは言えんが、こんなジジイにこんな心配さ
> せんで欲しいぞえ。
653の声に応じるやつがでてこんと、このスレ終わり
658 :
考える名無しさん:04/11/15 23:23:08
負け犬の論理だな
659 :
考える名無しさん:04/11/16 01:38:29
南郷継正主宰の研究会が編集した『学城』って雑誌読んだ?
国家論を扱った論文が二本、どちらも滝村隆一を批判的対象としているようだ。
『国家論大綱』は「未完成品」だから批判的対象にもなっていない。
今後の展開が楽しみ。
>>659 > 『国家論大綱』は「未完成品」だから批判的対象にもなっていない。
それおかしな理屈だなあ。
『資本論』は「未完成品だから批判的対象にならない」ちゅう理屈となえたら
笑いもんになるぞ。
単純に、初期の滝村国家論は相手にできるけど、まだ「国家論大綱」
を論じるレベルにありませんってことだと思ったけどなあ。
現在の南郷自身が、滝村を越えたと思っているから、弟子も追従しちゃうんでしょう。
>>653 > 「わかった、そんじゃオレがやる。」ってな快男児はおらんのかいな。
なんてこといわれたら、滝村ファンとしちゃあだまちゃいられねえ。
「序論 <政治>とはなにか についての予備的考察」
だけだけど、レジュメというかメモを文章化してUPしようかいね?
怪しいシロモンだけど。
だけど、ちゃんと怪男児二号三号が続いてくれないと、困るんだけども
663 :
考える名無しさん:04/11/16 19:05:29
664 :
考える名無しさん:04/11/16 19:46:40
階段児二号も、怪談児三号も快男児一号の後についてくがな。
そやさかい、後顧の憂いは要らんで。
665 :
峰流婆:04/11/16 23:14:12
>>659-660 そういえば、4〜5年前に私も出席させていただいた
技術講習会で、南郷先生はこんなことをおっしゃってました。
「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのか?
それはほとんどの政治学の学者センセイたちが『国家とは何か』が解ってないからだ。
シェークスピアという者には『政治』がだいたい解っていたようだ。
京都大学の○×先生にも(名前失念 峰流婆)解っている。
だが、それでも大半のセンセイたちには解らない。
これは、『認識論』が『認識学』にならないのと同じことだ。」
このときも、滝村先生の名前はスルーだったので、
一瞬「あれ?」と思ったものです。
これは南郷先生が、かつて師事し、かつ人生最大の好敵手とまで言った
滝村先生を、いまでは批判対象か自説の叩き台くらいにしか思っていないのか?
あるいは、滝村先生の偉大性は、いまさらあえて持ち上げるまでもないものとしているのか?
その後、少し考え込んだものです。
『学域』おれも購入したけど、うまく説明出来ないんだが
玄和系の書籍を読んだ時に感じるある種の不快感がぎゅーっと
濃縮された雑誌だと感じた。まだまともに読んでないけどね。
>>665 > 「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのか?
こんな低レベルな疑問を口にするやつには、当然、現場で批判が出たんだろうな?
ううう〜っ、酔った勢いで書いちゃったんで若干訂正。
> 「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのか?
こんな低レベルな疑問を口にするお方には、当然、現場で、こころあるサムライが、
諌言なさったんだろうな?
669 :
考える名無しさん:04/11/17 02:40:26
>>666 あんたの印象なんか書かれても、どうしようもない。
俺的には、「玄和系の書籍」を読んだときに感じるある種の快感がぎゅーっと
濃縮された雑誌だと感じた。
こんな事書かれてもどうしようもないだろ?
主体性の問題なんだよ。
>>667>>668 どの辺が低レベルなんだ?
自分の答えも書かずに、分かったようなことを言うな。
670 :
考える名無しさん:04/11/17 11:30:32
カリカリすんなって。書き逃げこそ2ちゃんよ。
>>669 昨晩は酔ってたんで、ま、勘弁してくだされ。「低レベル」は言い過ぎたな。
> 「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのか?
これは滝村国家論をひととおり読んだ人が、ふと感じる初歩的疑問ではあるよね。
僕もこの手の初歩的疑問を感じたことあるし.
でも、滝村国家論がどうこうというより、社会科学の歴史、
国家論、政治学、経済学の基礎文献読み込んで、現実を見ながら
じっくり考えれば、自ずから解消する疑問なんだよね。
「初歩的」というのはそういう意味。
> 「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのか?
これを『資本論』と経済学の関係に置き換えて考えれば
話がわかりやすいんだよね。
> 「経済学の世界には『資本論』はあるのに、
なんで『資本学』と命名されないのか?
資本の研究は、経済学の核心というか中核ではある。
けど、経済学は、その「資本」の理論的解明を中核にしながら、
経済社会構成の理論的分析を課題とする。
だからこそ、「経済学」と言われる。
政治学は、国家・国家権力を理論的に解明する国家論が中核になるけど、
政治学の学的対象は、国家・国家権力に限定されない。
経済であろうが社会的意識諸形態であろうが、社会的諸関係の総体を
<権力>現象に即して取り上げる。
だから、政治概念は国家概念に解消されないし、
政治学は国家学に解消されない(ドイツ国家学みたいに)。
いいかえれば、政治学から別個に独立した「国家学」という学的領域はない。
>665
南郷さんは武道理論がご専門で、業績を上げた方だと思うけど、
社会科学や政治学の門外漢なんだから、国家論や政治学に精通してるような大言壮言を耳にしても、
峰流婆さんは、マジで受け止めない方がいいんじゃないかな。ま、結局は峰流婆さんの主体性の問題だから、
僕がこんなこと言うのは、よけいなお世話かもしれないけどさ。
滝村さんなんか傲慢は傲慢だけど、大言壮言はしない人なんだよね。
岩井克人を批判するときでも、「私は経済学は素人です。政治学の万分の一も研鑽していません」
と断った上で、岩井の『資本論』誤読に限定して批判してる。つまり学者としての分をちゃんとわきまえてる。
南郷さんの話は、もうこれくらいでいいんじゃないかな。
つうか今の社会科学の連中の議論とつながないと死ぬって。
叩きでもいいから。
675 :
↑:04/11/18 16:44:21
キティー?
676 :
怪男児一号:04/11/18 23:17:34
えー、『国家論大綱』序論のメモを文章化してみました。自分の問題意識から引っかかってきた箇所をメモって、
それに思いつくままコメントしたものです。
自分のホームページ作ったら滝村国家論の読書ノートでも載っけようかとおもってるけど(いろいろ生活面で忙しくて
いつになるかわからん)、その前にまず不完全版を「このスレの活性化」のために。
僕がUPするのは「序論」だけで、後は、656さんがおっしゃるように、快男児二号三号四号…とリレーして欲しいな。
とりあえず『国家論大綱』読んで、レジュメでなくてもいいから、そんな堅苦しく考えなくていいから、
わかんないとこ、疑問に思うととこを、箇条書きに、章ごとに書き込み、それをもとに勝手に言い合うだけで、
「読書会」になると思う。『国家論大綱』だけじゃなく、滝村さんの過去の本の感想とか、滝村さん関連人脈情報とかも
織り交ぜて、がんがん発言して欲しいな。66さんがおっしゃるように、現実の問題でもいいと思う。
前に、ドンキーの深夜営業とかの話あったけど、そういう話もおもしろい。あと思想的に微妙な話も。
僕は、議論=フェアプレイの<試合>(どんな手を使おうが勝てばいい真剣<勝負>ではなく)だと思ってるんで、
インテリの変なプライド(自分が間違ってると分かってるくせに見栄張って自説に固執する心理)はもとからないし、
<理論>と<思想>を正確に弁別した正々堂々とした滝村批判は望むところ。学問は信仰ではないからね。
滝村批判ゆるすまじなんて意識はさらさらない。
ただ、このスレ読んでちょっとだけ危惧を覚えるのは、『国家論大綱』読まないで(あるいは買わないで)、
人のレジュメとか要約だけを読んで済ますような、不埒な人がいるんじゃないかということ。
人のレジュメとかメモはしょせん他人のものだし、読んでも身に付かないのは、小説の解説読んでも、
その小説の神髄を味わったことにならないと同じなんですわ。で、UPしたのには、当該頁は載せませんでした。
「序論 <政治>とは何かについての予備的考察」
(1)これまで<政治>はどう理解されてきたか
従来<政治>概念の二種類
A 政治=国家[権力]説
ドイツ国家学・国法学を典型とする伝統的発想
<政治>現象を、国家的支配に関わる特殊な事象と把握。
国家学は、国家[権力]を対象とし、
a 国家[権力]の組織・制度、それを直接規制する法制を対象とする「国法学」
b 国家[権力]の現実的諸活動を取り上げる「国家社会学」
に分化する。
{その問題点}
1 方法的問題
「国法学」と「国家社会学」に二元化する発想は、新カント派「存在」と「当為」の方法的二元論の機械的適用。
2 理論的欠陥
国家[権力]の組織・制度、その法的構成は、あくまでも、現実社会での「国家の現実的諸活動」の<ために>
、その諸活動を合理的・効率的に遂行する<ために>、組織され構成されている。
そして、その「国家の現実的諸活動」は、現実の<社会>を舞台に展開され、
現実の<社会>から根本的に規定され、大きく制約されている。
したがって、国家の組織・法制度それ自体を、現実の<社会>を舞台に展開される「国家の実質的諸活動」と切り離して、
形式的に「それ自体」取り上げても、学問的にはまったく無意味である。国家・法の理論的解明から、
その<社会的内実>の追及を、脱落させてはならない。
《批判的コメント》
ドイツ国法学は、「存在」と「当為」の二元論を方法的な前提としている。この二元論は、どんな学問的意義を担って展開されたのか?
「<当為>は常に<当為>から導き出され、<存在>からは導き出されない」
この方法的標語が象徴しているように、「存在」と「当為」の二元論は、「存在」から「当為」が生まれる道筋を拒む。
というか、「存在」を論理的に捨象した上で、「当為」を、<それ自体>純粋に追及する発想に、ならざるをえない。
その限りでは、「観念論」的である(反映論の実質的否認)。そのため、「当為を存在から切り離すのはナンセンス」とか、
「当為が存在から導かれないというのは観念論」と、“唯物論”的な批判が、投げ付けられてきた。
しかし逆に見れば、「存在」と「当為」の区別という<方法>的意識を持っているからこそ、俗流唯物論者にはまともに扱えない人間の精神活動、
とくに<意志>に関わる観念領域を、扱うことができた。<観念>(国家・法・宗教・思想等)を、<それ自体>として、自立的・自律的な領域として設定し、
理論的かつ実証的に追及してきたのは、新カント系の俊才たちだった。
したがって、国家・法・宗教・思想を、<それ自体>として、真正面から理論的に解明しようとする(あるいは、政治的実践的課題として、
国家・法・宗教・思想と正面から向き合おうとする)マルクス主義者は、その人が意欲的で有能であればあるほど、必然的に、新カント派発想の受容、
唯物史観の実質放棄ということに、ならざるをえなかった。
そういう理論的また思想的背景から、十九世紀後半以降の政治思想状況を見れば、ベルンシュタインら新カント系社会主義登場の必然性も了解できる。
この「存在」と「当為」の方法的二元論は、ドイツ国家学にどのような形で現れているか?……。ドイツ国法学は、一方では
(a)「社会(事実)」とは峻別される「国家(法)」(イェリネク)を学問領域ととして設定することで、「国家」を、いわば「当為」の体系として構成することになる。
その徹底的形態がケルゼン「純粋法学」。国家は、「当為」が「当為」を導き出す上級→下級への段階的法規範体系。 他方では、
(b)「国家(法)」とは峻別される「社会(事実)」という発想から、<国家>に対する<社会>からの根本的規定性・制約性という問題
(マルクス主義国家論の唯一核心的な主題)を、いわば「存在」に属するものとして、「国法学」から切り離す(イェリネクの場合は、
国法学と国家社会学の二元論的併存。ケルゼンの場合は、国法学の「純粋」化)。
哲学的系譜から見ると、滝村国家論のドイツ国法学批判は、「存在」と「当為」の方法的二元論に対する、
ヘーゲルの学的正嫡による徹底的な批判である。『国家論大綱』の篇別構成を見れば、その体系構成<それ自体>が、
ドイツ国家学的「体系」への<体系>的批判になっているのがわかる。そういう意味で、まさしくこれこそヘーゲル!である。
ヘーゲル以降、何人も優れたヘーゲル研究者が生まれ、特に日本では、『精神現象学』研究の金子武蔵、
「ヘーゲル『論理学』研究ではいきつくところまでいった」とまで言われる許萬元などがいる。しかし、社会科学の分野で
、ヘーゲルを<体系>的に継承発展させるという、言葉そのものの意味で真の<学的ヘーゲリアン・マルクス派>は、
残念ながら滝村だけである。絶滅危惧種である。保護すべし!
間違ってました
656さんは664さん
66さんは648さん
B 政治=社会権力説
政治現象を国家[権力]に限定せず、社会的権力の特殊なあり方として位置づける。国家も一つの社会的権力にすぎない。
英米多元的国家論を典型とする。
【この発想の歴史的背景と思想的意味】
大陸法系とは対局に立つ英米法系の国々で形成・発展。ロック以来の市民的政治理論の系譜。
多元的かつ多様な社会的権力によって、専制的な国家権力は規正・制約されるべし。国家の独立的強大化、肥大化を抑制するべし……という
思想的意義が込められている。
{その問題点}
政治現象を、社会的<権力>現象一般に解消するため、社会的<権力>と区別される<政治>的権力の特質が見落とされる。
政治が、社会の中で多様かつ普遍的に現れる「支配・統制」一般に解消される。
《批判的コメント》
滝村は、Aの政治=国家[権力]説と、B政治=社会的権力説は、ちょうどコインの裏表の関係にあるとする。
Aは、国家権力を正面から取り上げる。しかし、<社会>からの根本的規定性を実質的に切り捨て、<社会的内実>抜きの、
空虚な国家法制的形式主義となる。
Bは、国家権力を、多様な社会的権力との絡み合いの中で位置づける。しかし、国家権力を社会的権力の一つにすぎないとしたことで、
なぜ、政治権力が、社会権力一般と区別され、特殊に<政治>権力とされるのか、
社会権力が<政治>権力に転化する「決定的な契機」はなにか?……、さらには、
なにゆえ、国家権力が最大・最高の<政治>権力であるのか、その特質は?……という本質論を構成できない。
AとBは、相互の欠陥を、相互に補いあうような関係にある。しかし、それは、国家[権力]に焦点を合わせるか、
社会的権力に焦点を合わせるかの違いはあっても、<国家権力>を、<社会>との「大きな有機的・統一的連関」の中で位置づけながら、
<社会>とは「相対的に独自な存在」としてトータルに把握できていない。その意味で、どちらも「同一の方法的根本錯誤から生じた」ものと言える。
滝村国家論は、そのAとBの折衷ではなく、双方を統一的に批判・解体する(弁証法的に言えば<止揚>)ものと言えるだろう。
『国家論大綱』の篇別構成(「本論 国家とは何か?[一般的国家論])を見ると、
まず、第一篇〜第三篇で、国家[権力]を論じる前提としての「社会構成論」、「<社会>の<国家>的構成」の現実的・歴史的必然性を、
一般的に論じた後、
第四篇 国家権力の実質的構成
第五篇 国家権力の形式制度的構成
第六篇 国家権力の現実的構成
第七篇 国家・国家権力の現実的構成
第八篇 国家の観念的・思想的構成
と展開していく。弁証法的にして唯物論的というのは、まさにこういう展開の仕方を指すのだと感嘆する。
以上が、
「序論 <政治>とは何かについての予備的考察」
(1)これまで<政治>はどう理解されてきたか
までの分です。
(2)<政治>とはなにか?
(3政治学の<方法>について)
は後ほど。とりあえず、(1)これまで<政治>はどう理解されてきたか
をネタに語っちゃってください。
しかし、怪男児二号三号4号…が現れてくれないと、
僕のやってること、思い切り徒労だな。
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒)快男児一号さま 乙チャーハン!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J
貴方 凄いよ
快男児さん、御苦労様。
これだけきっちりディープにやられると、
後に続きにくいと思うくらいきちんとつくりましたね。
671も貴方でしょうか?
「学問の世界には『国家論』はあるのに、なんで『国家学』がないのかは、
「経済学の世界に『資本論』はあるのに、
なんで『資本学』と命名されないのか?を考えればよい
このアナロジーには思わず膝を打ちました。
686 :
考える名無しさん:04/11/21 16:54:39
>>685 そんなこと、南郷継正関係の本を読んでたら常識。
生理学じゃなくて、生理常態論って言ってるし、
病理学じゃなくて病体論と言っている。
これらは医学の構造論なんだよ。
問題は、そういうことを言っている南郷関係の学者が、
あるいは本人が、「国家学」と言っている点なんだよ。
>>671みたいな、誰でも気付きそうな素人レベルの考えで、
南郷関係の学者を判断してはいけないと思うよ。
687 :
672:04/11/21 18:22:46
>>686 >
>>685 > 問題は、そういうことを言っている南郷関係の学者が、
> あるいは本人が、「国家学」と言っている点なんだよ。
僕も南郷武道論ファンだけど、武道論以外の南郷さんのへんな発言を耳にしても、
いや、師範のことだから、きっと低レベルの自分には理解できないなにか深遠な意味があるに違いない!
みたいな,悪い意味での信仰心はないんだよ、僕は。
一部の南郷ファンには、そういう宗教性を感じる。
南郷師範レベルにならないと、南郷批判などできるわけがない。
偉そうな批判をするな!
そういう問答無用の非学問的態度を平然と口にする輩が存在する。
これに似た発想が、<知識>の学びと<論理>能力の開拓を区別しないで、「ヘーゲルを理解するのは、ヘーゲルのレベルに到達しなければ無理だ」
とか、「滝村のレベルに立たなければ滝村批判はできない」とかさ。
そういう態度、発想は、上達論的にはもちろん、認識論的にも完全に間違いなんだけど、南郷信者にはなかなか理解できない。
だから、南郷さんが滝村さんを軽んじるような発言をしたりすると、
「師範が滝村氏を批判する以上、師範は滝村氏を超えたに違いない」
みたいな方向に暴走する。そういう信者が、南郷さんへの疑問が生じても、「いや、自分の理解が浅いからだ、自分の修行が足りないからだ」
と自分で自分を押さえていると、どうなるか?
ある時点になると、南郷理論なんてぜんぶデタラメじゃないか!
みたいな、信仰の裏返しの信仰放棄になっちゃう。
南郷さんが「学的国家論」を単に「国家学」と言い変えてるだけなのか、
政治学から別個に独立した「国家学」という学的領域を考えてるのか、どちらともとれる。後者だとしたら、
政治学と国家論の関係を、徹底的に突き詰めきれてないってことでしょうね。
でも、そこまで突き詰めた人って滝村さんだけなわけだし、
素人の南郷さんがそう言ったとしても、別にしょうがないんじゃないの?
「学城」の人も、研鑽が進めばいずれ変わらざるえないと思うよ。
もう、南郷さんの話はこれでやめとく。
どうしてもしたいって人は、武道板でやりゃあいいんだよ。
688 :
考える名無しさん:04/11/21 19:50:15
>>687 あんたの言うことにも確かにもっともな点もあるが、
あまりにもレベルの低い南郷批判、滝村批判が多いのも事実。
689 :
考える名無しさん:04/11/21 21:07:01
653じゃけんど、検査入院とやらから帰宅してみたら、
何と怪男児一号殿がやってくれてるがのう。
ジジイじゃけんど、キッチと拝読させてもらがのう。
いや、ほんと楽しみ、楽しみだがのう。
690 :
考える名無しさん:04/11/22 11:43:36
おい、ジジイよ、楽しみ過ぎて昇天なんかすんなよ。
「序論 <政治>とは何かについての予備的考察」
(2)<政治>とはなにか?
社会的権力現象が、ある特殊な<契機>を呑み込んだとき、それは<政治>的現象へと転化する。
その<特殊な契機>とはなにか?
「<社会全体>、つまり<統一社会的>という契機を内的に繰り込んだとき、<権力>現象は、国家権力を軸とした<政治>的権力現象、簡単には、<政治>現象へと転化する」
A)「純粋的かつ典型的な<政治>的事象」
<社会の統一的秩序と枠組み>に関わる事象(軍事・外交・治安など)は、「純粋的かつ典型的な<政治>的事象」
B)経済・文化・社会的諸領域の個別的・特殊的事象の<政治>的事象への転化
本来は<政治>的ではない事象が、ひとたび、<統一社会的>という「特殊な契機」を呑み込んだとき、それは<政治>的性格を帯びる。<社会全体>に関わるという意味で<政治>的。
{例}
自動車メ−カ−の事故隠しは、それ自体としては、一民間企業の不祥事にすぎない。しかし、それが度重なり長期化し、問題の背景の根深さがマスコミなどで問われ、国土交通省の交通<行政>が指弾されるようになれば、<社会全体>に関わる問題として、<政治>問題化する。
《批判的コメント》
「序論 <政治>とは何かについての予備的考察 (2)<政治>とは何か?」だけ見ると、<政治>の本質規定を、簡潔な形では定式化していない。
これは、『国家論大綱』に限らず、『北一輝』以後の滝村の特徴であり、<政治>の本質概念の簡潔な定式化は、73年の『北一輝』が最後である。
では、初期の滝村の<政治>の本質規定は、どのようなものだったか?
「……<国家>の本質としての<政治的支配>とは……<国家権力>による<支配>」<統制>一般にあるわけでもなければ、また従来のマルクス主義者
がくりかえし主張しているごとく、搾取階級が被搾取階級をいままで通り支配しておくために、『国家』という暴力機構によって抑圧することにあるのでもなく、
最も[象徴的]にいえば、支配階級の特殊利害が、[直接的]にではなく、様々に[媒介]されて、何よりも、社会の法的秩序維持という[普遍的な形態(形式)とともに、
実質的(内容的)]に貫徹されるところにある。 換言すれば、<政治的支配>の本質は、かかる[形式的かつ内容的]支配の二重性において
実現されているのだから、形式的な『支配統制』か、内容的な[階級抑圧]か、といった単純な一元論的発想では、とても正解できないのである」(『北一輝』)
この定式化と、「序論 <政治>とは何かについての予備的考察 (2)<政治>とは何か?」を、<方法>的意味と、<理論>的意味の面から、比較してみる。
(1)方法的意義
滝村は、『国家論大綱』序論で、<政治>を、<社会全体>に関わること、<統一社会的秩序と枠組み>というレベルで位置付けている。
この「統一社会」という<枠組み>は、<理論>的にはもちろん、<思想>的にも極めて重大である。
『国家論大綱』序論の議論は、一見すると、<政治>的=<公>的としか把握されていないように、見える。
しかしそう考えると、滝村は、<政治>=<公>という常識的発想に転落したのではないか?……という疑問が生じる。ここから、滝村は初期の方がいいとか、後半になると理論的に落ちるとか、近代政治学化したというような、“批判”も出てくることだろう。
だが、上に引用した定式は、『国家論大綱』全体を読めば、滝村の政治本質論として一貫しているのが了解できる。
滝村は、第四篇から第八篇までの展開した後に、その「理論的総括」に至って初めて、「第三権力」概念を提示し、「国家の階級性」を論じている。
1 <統治>と<行政>として現れる国家的支配の「実質」(第四篇)
2 その「実質」に対応する政治「形態」の問題(第五篇)
3 そして、「実質」と「形態」の統一として、国家権力と国家の具体的な「現実」的態様を説く(第六・七篇)。
4 その展開を承けてはじめて、「国家の階級性」の問題が位置付けられる。
従って、『国家論大綱 一般的国家論 国家とはなにか?』は、その全体が、
「支配階級の特殊利害が、[直接的]にではなく、様々に[媒介]されて、何よりも、社会の法的秩序維持という[普遍的な形態(形式)とともに、実質的(内容的)]に貫徹される」
という、<政治的支配>の過程的構造(三浦的に言えば)を、体系的に論証するものとなっている。
これは、
a)対象の内在的本質性の必然的顕現=概念の必然的展開の壮大な体系という点で、まさに<弁証法>的であり、
b)階級社会的基礎から、いかに必然的に<国家という幻想の共同体>が必然化されるか、その大きな<媒介>的行程の理論解明という点で、まさしく<唯物論>的である。
(2)理論的意味
「序論 (2)<政治>とは何か?」を<理論>的にみれば、常識的な<政治>=<公>発想とは、根本的に異なるのが分かる。
滝村国家論では、<公>という概念は、「<社会全体>ないし<統一社会的>という意味においてのみ、意義を持つ」。
「<社会全体>ないし<統一社会的>という」枠組みを現実の歴史的前提に、最も発展した国家的支配に即して、<政治>概念を開拓し、
その応用として、社会の「政治」「権力」現象を説明する。
しかし、<政治>=<公>という常識的発想には、滝村が繰り返し繰り返し強調する「統一社会的」という「特殊な契機」が、
概念的にきちんと組み込まれていない。いいかえれば、<公>を、現実の歴史的<統一社会>というレベルに限定せずに把握している。
どういうことか?
「公」といっても、小規模の人間集団から、国家社会まで、あらゆる「共同性」が想定可能。実体的な<枠組み>として、伸縮自在、
要するにころころ変わりうるということである。
国家ばかりか企業も団体も「共同社会」だから、<「社会」あるところ常に「政治」あり>となる。 これら一定の「共同性」の中で、
諸個人間の「軋轢」「矛盾」「対立」「相剋」が、抜き差しならないシビアな敵対的状況になり、ある人間が他者への「支配」「統制」を獲得しようとすれば、
それはすべて「政治」状況。 結局、「政治」は、いかなる「社会」集団にも見られる「支配・統制」一般に還元される。
我々が常識的に「あいつは学内政治にうつつをぬかしている」とか、「あいつはなかなか政治家だからな」というように、日常の現象の中に、
「政治」や「権力」が偏在していて、国家もそれと本質は同じ……という発想である。
[補足] 「統一社会」という<枠組み>は、<理論>的にも<思想>的にも極めて重要である。
<統一社会>を現実の歴史的前提として、実体的な<枠組み>としてしっかり確定せずに、社会的・歴史的事象を論じると、様々な誤謬が必然化する。
現在の右翼、保守、サヨク、左翼、とくに左系の各種チン論には、その種の誤謬がテンコ盛りである(この点は長くなるので、省略)。
以上が、
「序論 <政治>とは何かについての予備的考察」
(2)<政治>とはなにか?
のまとめです。
ちょっといま時間が取れないっぽいんで、(3)は無期延期。
快男子二号さんに(3)をお願いします。たのんます
697 :
考える名無しさん:04/12/01 23:11:58
うおッ、この静寂は・・・・。
とにかくとにかく
.__\●/))
ヽ|・∀・|ノ 快男児あっぱれぢぁ!
|__|
< >
単語が複雑すぎて理解できない。
>697
サンクスです。
>698
単語が複雑というのは「国家論大綱」のことですか。僕のまとめということですか。
指摘して貰えば、できる範囲でお答えしたいと思うけど。
三浦の「日本語はどういう言語か」「弁証法はどういう科学か」
を読んでるけど滝村よんどらんやつに、序論のレジュメ読んで貰ったら、だいたい言いたいことはわかるといわれたんで
このレジュメでよかったかと思ったけど、もっと工夫しなきゃいけんかな。きついな
699は僕です
701 :
考える名無しさん:04/12/03 14:12:09
『言語過程説の探求』第1巻
『時枝学説の継承と三浦理論の展開』佐良木昌編(明石書店)
十二月初旬刊行だそうです。
部外者からは、
このへんの人たちのサークルって、
良くも悪くも自己完結しているように見える。
体系性があるんだろうけどさ。
滝村はともかく三浦理論には何の驚きもなかった。
704 :
考える名無しさん:04/12/03 23:59:14
>>702 このへんの人たちのサークルってなんだそれ。
三浦理論って、何を読んだんだ?
三浦つとむなんて、
滝村信者とかにしか読まれてないだろ?
若い読者はいるのか?
706 :
考える名無しさん:04/12/04 03:04:30
>>705 滝村信者「とか」って、あと南郷信者のこと?
たぶん、南郷信者の方が多くて、その中には若い人もいると思うよ。
私も20代だけど、三浦つとむ読むよ。
まあ、こんなスレに来てるんだから、滝村信者といえば、そうだけど。
三浦つとむは他の言語学者から隔絶しすぎ
708 :
考える名無しさん:04/12/04 12:41:38
>>706 >
>>705 > まあ、こんなスレに来てるんだから、滝村信者といえば、そうだけど。
私は滝村さんの愛読者でファンだけど、信者ではないよ。
三浦さんも南郷さんも読んでるけど、信者ではない。
>>708 他の学説との関係とか考えないの?
そのへんの著者たちの書物は、参照が閉じた体系をなしている。
> そのへんの著者たちの書物は、参照が閉じた体系をなしている。
意味不明。
「学城」の国家論論文二本、期待を裏切る出来。なんだかねえ。
「国家は戦争において明確な形を取る。逆に言えば国家が国家たりうることを要求されない平時においては、国家は前面に出てく
ることはない」(近藤成美)
いいたいことはまあわからないでもないが、雑な言い方だよな。「平時」だろうが「戦時」だろうが「国家」は「国家」なわけで、
こんなレベルでよくまあ滝村批判なんぞできるよ。
712 :
考える名無しさん:04/12/04 15:36:27
>>710 つくづく信者ですね。
スタンダードな学説との応接が不十分という事ですよ。
713 :
考える名無しさん:04/12/04 15:37:02
ようするに悪い意味での在野言説になっているのでは?ということ。
>>712 三浦については語る力はないから語らないけども、滝村に関しては、「他のオーソドックスな学説との応接が未対応」って事はないと思うよ。
プラトン、アリストテレスからラスキ、バーカー、マッキーバー、はてはデュルケム、ブローデルまで紹介して、
この部分は優れてる、この部分は間違っていると指摘した上で、
じゃあ、なんで、ここが優れてるか、ここが間違ってるのか、その原因は?
その原因が生まれたのは、どういう方法論に基づいている?ときちんと語ってるもの。
あ、私は「信者」じゃないからね。
715 :
考える名無しさん:04/12/04 16:03:46
>>714 滝村自身はその通りだと思うのだけど、
このスレの読者がほぼ例外なく三浦つとむ読者なのが気になった。
彼の言語学は、やはり在野というところだけが最大のアピールでしょう。
リサーチプログラムになっていない。
滝村は在野サークルを超えて読者を得たけれど…
>>711 >「平時」だろうが「戦時」だろうが「国家」は「国家」なわけで、
それはその通りで、近藤氏も「前面に出てくることはない」と言っているだ
けで何も「平時には国家が国家ではなくなる」とは言っていない。それに、
その一文の後に「平時においては〜」ときちんと書いてあるし。まぁ、まだ
連載一回目の十数ページ分で「雑」だと言うのは気が早いというものですよ。
# とは言うものの、学城が何号まで続くか、、、
717 :
考える名無しさん:04/12/05 02:30:34
>>715 三浦つとむや南郷継正の読者以外の滝村読者って、
例えばどんな人?
純粋に知りたいだけなんだけど。
そもそも滝村国家論を理解しようと思ったら、
弁証法の基礎的な用語の理解が必要で、
その弁証法用語をしっかり説いているのは
三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』だけなんじゃないかな。
だから、滝村読者は三浦読者になるのは当然だと思っていたけど。
「弁証法の基礎的な用語」が三浦経由じゃないとわからんというのが意味不明。
「三浦弁証法」というならわかるけど。
719 :
考える名無しさん:04/12/05 02:52:22
>>718 だれも三浦経由じゃないとわからんなんていってない。
基本的な弁証法用語をしっかりと説いているのは三浦だけだと言っている。
反論するのであれば、例えば「直接」「相対的独立」「対立物の相互浸透」、
あと直接弁証法用語というわけではないが、「規範」などの基礎的術語を、
しっかりと概念規定している著作を教えてくれ。
ヘーゲル
721 :
考える名無しさん:04/12/05 02:58:01
>>719 適当なことを言うな。
ヘーゲルのどこを読めば「対立物の相互浸透」の概念規定が書いてあるんだ。
三浦信者ですな
723 :
考える名無しさん:04/12/05 03:06:55
話をそらすな。
滝村隆一を理解しようと思ったら、
滝村自身も使っている弁証法の基礎的術語に対する理解が必須であり、
その基礎的術語をしっかりと基礎から説いているのは三浦つとむだけだから、
滝村読者は三浦読者になってしまう、というのが私の主張だ。
『国家論大綱』第一巻上p.81からの「社会的な規範について」などは、
三浦つとむの説明と全く同じだ。
このことからも、滝村読者が三浦読者になるのは
全然不自然じゃない。
724 :
考える名無しさん:04/12/05 03:07:50
なのに、三浦読者ではない滝村読者がいると言うことだから、
一体どういった人のことなのか、それを知りたいだけだ。
藻前のその姿勢が滝村理論を閉鎖的にしているんだってば
>>723 > 『国家論大綱』第一巻上p.81からの「社会的な規範について」などは、
> 三浦つとむの説明と全く同じだ。
「まったく同じ」というのは違う。
三浦さんの規範論は、言語学で、言語・表現などの事象に即して
創出されたものだから、当然その特殊性を帯びている。
三浦規範論を軸に、個別意志・特殊意志・一般意志という風に拡大しても、国家論の
基礎概念としての<権力>論にはならない。
三浦さんは、「規範の拘束性」の問題を言語規範や道徳などに即して提起しているが、
<権力>の<外部的支配力>と<内部的支配力>という原理的区別はない。
これは三浦さんが滝村さんと比べてレベルが高いとか低いとかの問題ではなくて、
やはり、どの分野で基礎概念を開拓したか、という<特殊性>の問題ですね。
>>723 > 滝村隆一を理解しようと思ったら、
> 滝村自身も使っている弁証法の基礎的術語に対する理解が必須であり、
別に「必須」というほどのことはない。
たしかに、『国家論大綱』では、「同一性」「相互浸透」「量質転化」など、おなじみの概念を、
必要に応じて、必要な限りで使っている。
学ぶ側が、現実具体的な政治・国家の諸問題を真剣に考え、「国家論大綱」
で、「量質転化」という言葉は、こういう現象の説明としてるのか、というように、
徹底的に追及する主体的姿勢を保つ限り、別に三浦さんを読んでなくても理解できる。
また、実際、そういう風に書かれている。
むしろ、『弁証法はどういう科学か』などを金科玉条の聖典として固定化するような信者的
立場に立つと、逆に滝村を理解できなくなる。特に、、滝村国家論の本当の難解さ、
滝村がヘーゲルに直接繋がっているという、<方法>的な最重要問題が、視野に入ってこなくなる。
そうなると、「マルクス主義の方法的解体」のような、ヘーゲルの<方法>に関わる論文を読んでも、
滝村は弁証法を捨てただの、弁証法を軽視してるだのという、誤解と無理解の泥沼にはまってしまう。
「学城」の件を語ると、信者の猛烈な反発を買うのであまり語りたくないが、
まだまだ、滝村を”批判”するなどおこがましいレベルだよ。
『国家論大綱』は「未完成品」だから扱わないなど、はっきりいって苦しい逃げだわな。
『国家論大綱』には政治概念規定がないなど、おいおい勘弁してくれよと言いたくなる。
序論で、<政治>概念の<公>という性格を<まず>押さえ、
国家を、「一大政治組織」と明瞭に規定し、「一般的国家論」を展開することで、
初期の<政治>概念が、より具体的に、より緻密に、より体系的に論証されていく。
この滝村の<方法>的意識を、『国家論大綱』の中に読めないとだめなんだよな。
二本とも、滝村国家論を前提に、滝村国家論の発想を踏襲しているが、
そのくせ、滝村国家論の概念をできるだけ使わないという方針でやってるとしか思えない。
そのためどうしても概念構成が甘くなる。
素直に、「外的国家構成」といえばすむところを、わざわざ、自分たち独自の表現をしようとするため、
「逆に言えば国家が国家たりうることを要求されない平時においては」
なんて稚拙な言い方をしてしまう。
滝村国家論の批判的継承というのは、考えれば考えるほど難事業なんだと思う。
ただ、<理論>的に継承するというのと、<思想>的に摂取し駆使すること、さらには、
<知識>として学び役立てるというのは、相対的に区別されるべきで、
<思想>的駆使と<知識>的受容は、十分可能だと思う。
この話題はこんなところで。
それより、読書会。
>>712 スタンダードな学説とやらが,実際の国家現象になんら整合性を持っていないのだから別にかまわん。
>>646 そう,ロムだけしてたらあっさり除名になった
731 :
考える名無しさん:04/12/05 23:51:13
>>730 そんなレスは先方に失礼だっつうの。ここで愚痴かくな。
732 :
考える名無しさん:04/12/06 00:00:47
化石という言葉が頭をよぎった
733 :
考える名無しさん:04/12/06 00:05:03
>>728 「国家論大綱」を所蔵する大学は
東大はじめ100校もあります。
あれだけのものをどーんと出せば、
二巻三巻まで出れば、なかなか無視できないでしょう。
継承者の登場は無理でも、
長期で見れば影響を受ける者は出てくると思います。
736 :
考える名無しさん:04/12/07 08:56:17
>>735 もちろん滝村のこの本は重要だと思う。
全くの部外者だが、買ってよかった。
しかし、
三浦つとむ以外にまともな弁証法の本がないなどの、
あからさまな信者言動をする人たちが、
この本の解釈共同体を支えているようなので、
そこは正直悲しいと思った。
737 :
考える名無しさん:04/12/07 13:38:09
>>736 一例からすべてを判断するな、バカ。
かってに悲しんでおけ。
うるせえ VIP
739 :
考える名無しさん:04/12/08 01:54:31
>>736 「解釈共同体」ってなんだよ。お前、滝村を「解釈」してるわけ?
いや、「解釈共同体」とは言い得て妙かと。要するに信者だけの閉じた空間ってことでしょう。
日本の社会科学=歴史科学系アカデミズムは、マルクス主義者・共産党の「学習」=「修行」発想と、
自然科学と新カント系の融合的発想から、直接間接の影響を被ってきた。
しかも、いわゆる「村社会」的土壌と、「徒弟制度」的あるいは「親分子分」的伝統が加わっているため、
どうしても、悪い意味で「解釈共同体」になる傾向がある。
閉じた「信仰空間」の中で、「学問」と「学習」を混同する気風が、上から下まで蔓延する。
「学問」=「学習」では、まず、先人の業績を、「真理」として<絶対的>に受け入れ、その「真理」に従うべしとされる。
そのため、表向きは、「健全な懐疑精神」を唱えながら、本音では、また実際に、
「未熟者は黙れ。修行が足りん!」「若い者にオリジナルなものを出せるわけがない!」ということになる。
滝村さんの場合、非アカデミズム、在野の場から、その手の非学問的気風(方法的には非ヘーゲル的な、先験的発想)を
粉砕しようという情熱と気概でやってきた人。
だから、本来なら、滝村ファンはいても、滝村信者がいるのは、へんな話なんですよ。滝村の本を<信頼>して読むのならいいんだけどね。
たとえば、友達から「滝村のこの本いいよ」といわれ、あいつが勧めるんだから、良い本かもしれないなと思って読む。ならいいんですけどね。
<信頼>と<信心>は決定的にちがう。これが、音楽の修行とかなら、師匠の指導をそれこそ信仰レベルで受け入れ<信心>しても、まあ、いい。
いや、信仰に近いほどの入れ込み方がないとダメだろう。
あるいは、社会科学と違い、自然科学系、実証学系の分野なら、
先人の業績をとりあえず「絶対の真理」としてスタートしても、本人に力量があれば、それなりに業績をあげることも可能。
先人の「真理」を「真理」としてとりあえず受容しても、実験的実証と数理的論証で、その<真理性>と<誤謬>を確定・修正できるから。
でも、社会科学では、「学習」と「学問」を混同し、先人の「真理」を絶対的に固定化することほど、有害なものはない。
741 :
考える名無しさん:04/12/08 10:59:14
滝村ヘッポコ国家論の介錯だろが。
社会科学は、実験的実証や数理的論証で「真理」を確定しがたい特殊性を持っている。
そのため、先人の業績・学説(他人様のってことだ)を「絶対の真理」として受容して「学習」=「修行」に入ると、
その他人の設定した枠組みでしか思考できず、その枠組みでしか現実を見ることが出来なくなる。
要するに、論理的思考枠組みが固定化するという意味で<技化>する。
賢い才子ほど、いったん、「先生の学説は正しい!」と信じてしまえば、
鈍才など及びもつかぬスピードでこの<技化>を完成させる。
その<技化>した論理的思考の枠組みで、「現実」を「解釈」する技量が高まる。
要するに、秀才ほど、いったん信じてしまえば、ものすごい優秀な「信者」となる。
しかし、中には、自分の師匠の理論的枠組みで切り取った「現実」と、ほんとうのリアルな現実とのズレが目立ちはじめ、
苦悩する者もでてくる。苦悩しつつ、「いや、まだまだ、俺の理解が足りない。修行が足りない。
いずれ、先生のレベルになれば、自分の疑問も解消するに違いない」と、自分を押さえ続ける。
賢い才子は、<技化>した「理論」を使う技量が高度になればなるほど、
そもそも、「理論」と「現実」のズレなど感じなくなる。
あるいは、感じたとしても、損得勘定、打算(ポスト、地位への思惑)から、あえて疑問を自分の内部で封殺する。
しかし、真摯で真面目なひとは、自分の信じた理論と現実の乖離が膨らんでいくと、ある時点で量質転化し、
「俺の学んだ理論は間違いだった!」と信仰放棄に走る。これが多くのマルクス主義転向者の論理と心理。
最初の、懐疑なしの「信心」というスタートライン設定が、そもそもの間違いだったと気づいても、もう遅い。
これが、信仰から出発した社会科学者の多くが辿った悲劇。
<真理>の基準は、<現実>の中にあるという、まっとうな精神を忘れた悲劇。
信者が信者でいるかぎり、こと社会科学では、「学問」はおろか、
まともな「学習」態度を取ることすらできないレベルで終わってしまう。
「学問」のスタートラインにすら立てない。
740に聞きたいんだが、
その陥穽を逃れるべく、アメリカなんかでは
学問自体を巧妙にパラダイム化していると思うんだよ。
チョムスキー派による言語学の「科学」宣言とか。
で、なにか平板な印象は否めないながらも、
かなり強力なリサーチプログラムを作り上げていて、
今では大学の学問は、旧来の師弟関係モデルというよりは、
アメリカ的なジャーナル評価モデルに近づいている。
社会科学はほぼそうなっているのではないだろうか。
滝村的な方法は現在では、
良くも悪くも人文科学的な理論研究として生きのこっているように思う。
かつ、
現在の社会科学者にとって「人文」というのが侮蔑語らしいと知った。
俺自身はまさに人文で、哲学史やっているから別に何とも思わないのだが、
学問界におけるこうした現状は、
「社会」にこだわる理論家にはキツイものがあると推察するが、いかがだろうか?
>>743 チョムスキーは思想関連のを一冊読んだだけだし、「リサーチプログラム」
などと言われても、言語学なんてほとんど分からないからあれなんだが、
> で、なにか平板な印象は否めないながらも、かなり強力なリサーチプログラムを作り上げていて、
> 今では大学の学問は、旧来の師弟関係モデルというよりはアメリカ的なジャーナル評価モデルに近づいている。
> 社会科学はほぼそうなっているのではないだろうか。
というのは、なんとなくわかる。
これは二つポイントがあると思う。
第一に、政策技術論レベルでの、社会科学の社会工学化。
これは、経済学ではかなりの程度、成功というか、政策決定の技術に資する政策論
としては高度化しているのでなかろうか?
経済現象を、<現象>レベルで論理化する場合、数理的な処理が必須となるから、
これは、社会科学への数学的方法の導入ということになる。
しかし、この発想は、まちがいなくほころびをみせている。つまり、政策学レベルでも破綻しつつあるのではないか?
話すと長くなるので、自分の問題意識に即して一点だけ言うと、現在の小泉改革、ありゃあアメリカ直輸入のデタラメ改革だが、
その根っこにある市場原理主義、あれは、「小さな政府」の純粋徹底化と表裏をなしたものだが、
問題なのは、<国民経済><統一社会>という大きな枠を抜きに、
「市場」「競争などの諸概念を純粋に、それ自体論理的に抽象し、その純粋モデルで現実を裁断する発想だということ。
方法的には、歴史的に形成された国民経済の枠を飛び越え、純粋モデルを無媒介に適用可能とする発想。
しかし、その方法ゆえに、現在、政策論としても破綻しつつあるように思う。
市場経済の「合理主義」の純粋徹底化の行き着く咲が、非合理であるというパラドックス。
これが、経済ではなく、政治現象ということになると、そもそも、政策論としてもまともなものがでてこない。
第二に、あなたは、「その陥穽をさけるために」とおっしゃったが、むしろ逆に、
アメリカの政策学って、風通しはいいかもしれないが、その「陥穽」に安住してるのではないかとおもう。
どういうことかというと、学者の仲間同士が、みんな共通の方法的発想、共通の数理的思考、
共通の思考枠組みを前提としている。その枠組みへの疑いはぜんぜんない。
その上で、
教授「スティーブ、それは違うよ」
弟子「いや、先生、私はかくかくしかじかかと」
教授「ふむふむ、なるほど、しかしね」」とフランクに、やりあう。
つまり、日本の「親分子分」的「徒弟制度」「解釈共同体」ではなく、風通しの良い「同士的解釈共同体」ではなかろうか。
745の言うとおりなんだが、
正直、日本の在野系の学者もどきが形成している妙な空間よりは、
やはりそういうアメリカ的な雰囲気の方がマシだと思う。
実際のところ、体裁はアメリカ風でも
日本の学会は以前と大差ないのが現状だ。
かといってオルタナティヴとしての在野はもっと駄目でしょう。
50歳前後の人たちが妙に分厚い層をなしていて、硬直している。
これって学会と同じ構図なんですよ。
世代論に還元したくはないけれど、
団塊世代の日本人は、戦前の日本を叩いた割には、妙な全体主義がある。
そういう意味では、
仲間内の引用ではなく、
古典を一々読み抜いた成果を書物として残すという、
滝村のとった方法はストレートで良いと思います。
例えば哲学研究でも、
アメリカ流の組織原理によって遂行されている分析哲学がありますね。
あれも、その時点時点でのArgumentは面白いのですが、
トピックがどんどん移り変わっていくばかりです。
大著を事実上書けなくして、
その代わりにジャーナルでの交流を重視する方法は巧妙なのですが、
研究の体系性は犠牲になっていますね。
その結果、何人かの分析哲学者は、
古典としてのデューイに回帰することになっています。
こうした事態は、体系を意識した書き手が必要な事を示すと思います。
在野の人たちって、時にアカデミズム以上の恣意性をみせるでしょう?
そこが致命的なのだと思います。
>>743 > 学問界におけるこうした現状は、
> 「社会」にこだわる理論家にはキツイものがあると推察するが、いかがだろうか?
結局、「社会」という場合、
a)その実体的な枠組みを確定できず、国家も企業も労働組合も「社会」としてしまう。
b)「社会」を歴史的現実的な「統一社会」レベルで確定ししない。
そのため、滝村風に言えば、政治・経済の歴史的社会的事象を、<社会構成の枠組みにおいて、社会的連関の中で
論理的に位置づける>ことができない。これは、概念が、「市場」「競争」「資本」など、諸概念が純粋モデルというか、
普遍的適用要素となっていることを意味する。
しかし、その要素モデルは、どこの歴史社会にも、一応当てはまる(その要素と共通する性格のものがある)がゆえに、
科学的解明の訳に立たない。よく当てはめができるがゆえに役立たない。当てはめは解明にあらず。
その誤りが政策レベルで採用されれば、長期でみれば被害は甚大になる。
小泉改革を進める官僚の発想には、思想的にどうのこうのではなく、
純粋にアメリカナイズされたアメリカ留学組の、方法的な錯誤を感じる。
>>749 アメリカだけがまずいんすか?
ヨーロッパにも政策学はあるでしょう?
たまたまアメリカが「帝国」ポジションにいるゆえ、
パワー行使に直結している印象があるけど、
昨今の政策の過誤を留学組ばかりに帰すのはどうなんでしょう?
>>746 > かといってオルタナティヴとしての在野はもっと駄目でしょう。
> 50歳前後の人たちが妙に分厚い層をなしていて、硬直している。
これはもう完全に同意。
>>747 > あれも、その時点時点でのArgumentは面白いのですが、
> トピックがどんどん移り変わっていくばかりです。
> 大著を事実上書けなくして、
> その代わりにジャーナルでの交流を重視する方法は巧妙なのですが、
> 研究の体系性は犠牲になっていますね。
> その結果、何人かの分析哲学者は、
> 古典としてのデューイに回帰することになっています。
> こうした事態は、体系を意識した書き手が必要な事を示すと思います。
こういう話はおもしろい。いやあ、まさにアメリカだ(笑)
>>750 いやいや、アメリカにのみ帰するわけではないよ。
当然、アメリカの政策学にはヨーロッパの伝統が背後に
あるわけで。
ただ、日本の現状では、圧倒的にアメリカの影響でしょう。
ヨーロッパでも、ドイツ系の衰退は著しいらしい。
フランス哲学なんて、少なくとも政策レベルでの影響力なんて
ほとんどないでしょう?
>>752 それと、もう一つ補足。
現状では、ヨーロッパの学的伝統は、アメリカニズムには結局勝てないのではないか?
ヨーロッパで育まれた自然科学と新カント派発想の融合を、
イギリス経験論に立脚し、その方向で方法で徹底的に純化・極端化したのが、
アメリカの社会科学だと思う。
しかも、アメリカの場合、もともと実学的発想が強く、経験技術的な政策理論
に俊才を生み出している。実際、キッシンジャーの大著『外交』なんて素晴らしいものな。
>>752 やっぱり過去のドイツを至上とみなすわけですか?
世代が違うので電波入っているかもしれませんが、
戦前のドイツ一辺倒の国家主義的な学問文化が、
戦後の左翼の「弁証法文化」では、捩れて内向したのではないかと見るので、
あまり19-20世紀ドイツのみを特権視するのは問題だと思いますよ。
廣松最晩年の「反米東亜」ぶりと、
ドイツ好きはなぜか共存可能ですよね?
ハイデガーと西田派の共闘というか。
これは思想軸が左翼だろうと右翼だろうと共通の傾向です。
枢軸国的心性なのでしょうか?
それならローマ法の伝統やバチカンやらがあるイタリア、
そしてEUで主導を取るフランスの学問もバランス良く受容するべきだと思うのです。
しかし、
いかんせん在野の人の参照は、
ヘーゲル→マルクス→レーニンの流れを前提とした、
特定時期のドイツ諸学問に偏っている。
>>754 >
>>752 > やっぱり過去のドイツを至上とみなすわけですか?
別にドイツを「至上」と見なしているわけではない。ドイツばかりに特化せず、フランスも学べイタリアもまなべというのに異論はないが、
だったら、イスラム圏の学者も中国も学ばなきゃならんよ。
どうも「あなたは、学問を、「学説」の摂取と同一視してるような気がします。
「古典を一々読み抜いた成果を書物として残すという、
滝村のとった方法はストレートで良いと思います」
という言い方を見る限り。
偉そうなことを言うようだけど、「真理」の<基準>は、現実にしかない。
現実に真理を見いだしていくプロセスで、
他人の業績をきちんと読む必要がある。
いわば、他人の本の中に、「国家とはなにか?」
を探る必要がある。
しかし、他人のほんの中の「国家像」は、あくまで他人の「国家像」
にすぎない。これを理解できないやつが信者だ。人の言った「国家像」を振り回し、虎の威を借りる狐状態。
アクション映画みて自分もなりきっちゃうのと同じ。
自分がきちんと現実と向き合って、他人の「国家像」が現実を説明できるものか?
現実のどのレベル・どの側面から抽出されたのか? その抽出は正当か?
自分が現実に向き合わなければならない。そして、自分なりの「国家像」を尺度に、人様のものを常に吟味しなければならない。
ただ、ここで誤解をまねくといけないので、言っておくと、
現実と格闘するとはいっても、<理論>的継承と、<知識>的受容に基づく<思想>的駆使
では、現実との格闘のレベルは自ずから違う。
厳密な<理論>的継承なんてことになると、滝村みたいに、それこそ四十年近く、ほとんど狂気に近い研鑽
やらなきゃ無理でしょう。
しかし、後者の場合、もっとハードルは低くなる。
しかし、ハードルは低いとはいえ、やはり、現実との格闘というのがなければ、
そもそも、他人の学説すら評価できない。
んー、もちろんおおむね同意ですよ。
でもその<現実>観ってやはりヘーゲル由来なんでしょう?
Wirklichkeit、実効的な現実というやつですね。
>>756 いや、ヘーゲルの「現実」Wirklichkeitではなく、
もっと普通の、常識的な意味の、自分を取り巻く世界という意味で「現実」ですよ。
小難しい理論書なんておそらく読んだことがなさそうな評論家で、
異様にするどい現実認識力を閃かす人いるでしょう?
逆に、廣松渉みたいに、小難しい本ばかり原書で読破してそうな人でも、
技のデパート舞の海、学説のデパート廣松渉って感じで、現実を語らせると、なんじゃ?って人もいる。
結局は、現実をしっかり見据え、現実に現れる諸問題を、あたかも「謎」ときしようと立ち向かうような姿勢と、
やたら一つの学説に拘って権威化せずに柔軟な構えの二刀流じゃなきゃだめなんだ。
団塊の世代じゃないけど、あの片のオッサンオバサンは、たしかに
硬直した人が多いし、三浦系の在野信者には、あなたのいう致命的欠陥を感じる。
昔話した人で、
「〜〜先生のヘーゲル理解は世界最高だ」(そいつ)
「どこがすごいのですか? ヘーゲルの、どこの解釈が?具体的には」(おれ)
「いや、わたしは、ヘーゲルを読む実力はまだないですから、具体的にはちょっと」(そいつ)
「でも、あなたがヘーゲル読んでなかったら、そもそも、〜〜先生のヘーゲル理解は
世界最高だっていえないんじゃあ?」(おれ)
「いや、でも、先生の話には圧倒的な説得力がある」(そいつ)
笑ったなあ。
「在野系の三浦信者」というのははなはだ不適当な表現でありまして、
訂正いたします。
正確には、ごくごく一部の、
三浦「弁証法とはどういう科学か」を金科玉条のものとする人たちをさします。
三浦支持者の中で、芸術・表現・言語、教育、看護などの分野できちんと
対象と向き合い、芸術的、あるいは科学的また実証的な態度を堅持しようとしている方々はのぞきます。
要するに、
「すべてを疑う人間は異常だが、すべてを信じる人もまた異常である」
という三浦の言葉の重みを、主体的に受け止めている人間は、「信者」ではございません。
760 :
考える名無しさん:04/12/08 20:37:18
流れに関係がなくてスマン。
以前わたしは「運動とは存在すると同時に存在しないこと」をどう理解するかということを提案したものなのだが、どこでやったら良いだろうか。
ここではちとやりにくいなあ。
いや、「ゼノン4つの逆理」山口偉也氏の本でもクソミソだったから、数年考えてきたんだが。
できれば、茶々が入らないところでやることを希望。
一応の結論は出たんだが、これからみんなの学問に役立てればと思っている。
理数系と数年自然理解と論理の関係を議論してきたが、数人は納得してくれた。
正直に言うと五人ほどの賛同者と中立的立場、十数人の反対者乃至は無視、仏教哲学に造詣が深い人はかなりの好感触、というところ。
三人の理数系が好意的だったが、いずれも大学院、研究者と水準は低くない。
特殊相対性理論の光速度一定の法則の合理的理解、ゼノンの逆説の包括的な理解、観測問題、不確定性原理はその理解の端緒になる視点を提供できるとおもう。
理数系はブルーバックス程度の知識だが、認識論的見地からだけ論じたい。
問題の性格上長くなる。
一番早い理解の方で半年から一年半かかったことを前もってお知らせします。
やはり、概要をつくってからにした方がいいですね。
けっこう面倒なので、来年の三月いっぱいくらいをめどにします。
・・・マジで一年以上混乱しましたことを考えますと、大まかなものを作って方が賢明でしょう。
>>760 どこでやったら良いだろうか。
> ここではちとやりにくいなあ。
> できれば、茶々が入らないところでやることを希望。
ここは国家論関係すれだからなあ。
ほかにふさわしいとこはあると思ういますよ
764 :
761:04/12/09 07:56:40
カントの二律背反も解明できる視点だと自負している。
簡単に言えば自然そのものと認識の関係から解明できる。
ヘーゲルの精神の哲学の序文、「反デューリング論」の一節もヒントになった。
正直に言うと認識の基礎だけだが、唯物論でしか自然は理解できないことの確立する道筋を示すきっかけにはなると考えている。
【国家】とはなにか?
北朝鮮に自国民(女性5人)を拉致され、その後
自力で脱出した2人から情報を得て、拉致が発覚した直後に、
「(残りの)三人を返さないならば、政府としてあらゆる手段を
講じて女性たちを取り戻す」と宣言し、
見事北朝鮮から自国民を取りかえしたレバノン。
これが【国家】として当たり前の対応だが・・。
いろいろと「利権」とか「弱み」とか「圧力」とかが
手枷・足枷になっている政治家、官僚が多い日本。
滝村国家論の立場から、不逞賤人をどう処理すべきか語ってクダサイ
>現実をしっかり見据え、現実に現れる諸問題を、あたかも「謎」ときしようと立ち向かうような姿勢と、
やたら一つの学説に拘って権威化せずに
それを言われると、赤面しない若い日が無かったわけではないな。 苦笑
しかし文法が苦手で、学校でたら読むことも無いだろうと思っていた人間をして言葉の学問を学ばしめる三浦の学問には魅入られたな。
三浦<学徒>なら彼の残した多様な業績を神聖化することなく相対化して深化させるのが真の<三浦>学徒だろう。
767 :
考える名無しさん:04/12/09 17:50:07
「相対化して深化させる」じゃなっくって、「乗り越える」の。
とむチャンの業績は業績として認め、後はその業績をガタガタ
にして乗り越えるの。
>>767 学説を「深化」させるってのは「乗り越える」ことでもあるわけだが。OK?
>>768 そういうことですね。
わたしは板倉聖宣氏の「新哲学入門」が指摘した論理の静的な性格ということを重視したい。
あるスレでエンゲルス及びマルクスの科学論、数学論が嘲笑されていたが、どうも根源的に現代の学問とは基本的に違うのではないかという気が、この数年考えているうちにしてきた。
南郷が永遠宇宙論を唱えるが<現代>科学では有限宇宙論をとる。
しかしビッグバン理論は何も証拠が無い。
わたしは多くの現代科学者の科学理解に疑問をもっている。
同様に数学者の数概念にも疑問をもっている。
ヘーゲルーマルクスーエンゲルスらがどのようにこれらを考えているかにわたしは興味をもった。
わたしはどうもこれから学問の概念が革められる時がこれから来るのではないか、と考え始めている。
このスレ終了?
そうだねえ
19世紀の特殊な学問理解だけを、
永遠の富とみなす人たちだけが読者だとツライかも。
>19世紀の特殊な学問理解だけを、永遠の富とみなす人たち
それこそ相対化も深化もできていないのが現状ではないでしょうか。
現代科学は産湯とともに赤ん坊を捨てているが、いまだ腐っている産湯を後生大事に赤ん坊に漬けている人もいる。
>腐っている産湯を後生大事に赤ん坊にいまだ漬けている人もいる。
マルクスもヘーゲルも三浦も相対化して深化しなければならないがそれは甚だ困難でしょう。
二十世紀の諸学問の成果がそれらに役立つのではないでしょうか。
774 :
考える名無しさん:04/12/10 14:42:08
767じゃねーが、「乗り肥える」のだー。
乗り越えるのか深化させるのか知らんが、後生大事に三浦学問を奉納したらそれは宗教だろう。
それは三浦の本望ではなかろう。
無理に乗り越えることはないが、乗り越えられた乗り越える、また深化できる人は深化したら良い。
それだけだろう。
776 :
765:04/12/11 00:13:08
>>773 二十世紀の諸学問の成果がそれらに役立つ
んなら、生の具体的問題に答えてほしい
回答お待ちしておりますです
具体的な問題ですか。
むろんそれが解決できなければ画に描いた餅にしかなりません。
わたし自身の関心では観測問題、不確定性原理とかがあります。
とりあえず少数ですが理系の方に好感触がありました。
あくまでも基本的な認識と自然との関係から解いたものです。
不完全性定理というか数の概念も入ってきます。
今年どんなビッグバン理論でも説明できない天体観測結果が発表されました。
インフレーション理論は宇宙の始まりの時に未だ確認されていない仮定を出発点にしています。
宇宙の果ては確認されていないのですが、その事実を仮定で説明している。
今までの観測結果では無限宇宙論は否定されていない。
最新科学理論が必ずしも正しいものとは限らない。
ちなみに無限宇宙論をとる科学者もいます。
ブリゴジンという今は亡き著名な科学者のお弟子さんは、時間も空間もその性質上始まりをもちえないという研究をある本で述べています。
武谷三男氏は現代科学は健康ではない、とその著書で述べています。
わたしは科学は未だ基礎において共通理解が無い学問だと理解しています。
自然観では、わたしが議論させていただいた理系の方々も必ずしも意見は一致しません。
わたしたちはこの意味でも過渡期にいるのだということてず。
この手の問題は、自説の正しさの確認が難しいですね。
そういえばカントは時間や空間が有限であることも無限であることも証明できたそうですが…
(又聞きです。内容は知りません)
カントの二律背反ですね。
わたしは一応解答しています。
認識する側は有限なんですが、される対象、つまり自然は無限です。
カントの二律背反、ゼノンの逆説は認識する側とされる側の問題です。
>>777 支那の海洋資源開発、
北朝鮮の拉致問題などを、
滝村国家論のお立場から、具体的にお話いただければ
さいわいに存じます。
>認識する側は有限なんですが
認識する場合有限が媒介になりますが、に訂正
>>743 > 俺自身はまさに人文で、哲学史やっているから別に何とも思わないのだが、
滝村さんの「思想」の科学的理論的分析手法
を生かして哲学史を研究するとか、どう?
この分野での「有限」「無限」という言葉は、「部分」「全体」という意味なのだろうか。
有限と無限の境目は何なのか。
どんなに小さな領域にも無限が含まれているのなら、人間の頭脳も無限と言える。
有限のものであっても運動するわけで、運動は無限につながるし。
有限は認識を媒介にした無限の在り方、というのがわたしの理解です。
わたしは自然は無矛盾であり、認識そのものが矛盾を引き起こすと理解しています。
いわゆるヌエ的な存在は人間が分類するからでする
生物と無生物と分類するから中間項が出てくる。
自然存在自体はあるがままにあり、けっして石自身は礫岩だろうかと分類に悩むことはない。
弁証法はあくまでも認識の問題です。
数学的理解では有限は無限から成り、無限は有限から成る、ということになります。
わたし流に理解すれば、無限である自然は有限を媒介として認識され、無限はそのまま理解できるわけではなく有限の形で理解されるわけです。
788 :
考える名無しさん:04/12/12 10:35:14
「自然は無矛盾であり、認識そのものが矛盾を引き起こす」なら、
矛盾が運動の原動力って、どう考えてるの?
対象そのものが、たとえば、石、ウィルスが分類に迷うことはないことは承知してくれますか?
その説明は面倒になります。
光速度一定の法則はご存知ですか?
このことを根拠に自説を説明しますので。
わたしは運動自体は、先験的にただ在るだけだ、と理解します。
自然は普遍的に運動する。(光速度一定の法則)
しかし運動する存在を認識は静的に捉える。
認識上の<存在>は静的ですが、自然そのものの存在は運動します。
認識上での存在は運動の否定です。
ですから、運動とは存在すると同時に存在しないこと、という矛盾になるわけです。
存在は運動変化します。
人間は赤ん坊から死ぬまでけっして同一ではありえません。
この<今>でも変化しています。
しかし、認識上では<人間>という変化しないもので捉えるわけです。
保存則では何も生まれないし、何も無くなりません。
物理上で何も生滅しないのなら、それは認識の在り方の問題です。
エンゲルスは反デューリング論で、静止は運動の一形態だ、と定義しています。
このことは静止の実在を否定しているわけです。
このことに注目してください。
794 :
考える名無しさん:04/12/12 12:01:56
国家論大綱ねえw
そもそも、資源も無い日本を、世界世論を敵に回してまで侵略
しようなんて国は存在しないわけだが。
日本にそれなりの価値が無ければ、中国辺りに併合されても欧米諸国は無関心だろう。
国としての独立性を保ちたければ戦略をもたなければならない。
個人的には他国には吸収併合されたくはない。
796 :
考える名無しさん:04/12/12 13:12:31
現状は日本は米国の飼い犬ポチで、これでも独立国かよ、
といった体たらくだが、そいつも明確な戦略に沿ったこ
とだと思う。
その戦略のへの賛否や好き嫌いは当然在るけどね。
ところで761はそれでsageているつもりなのかが気になる
後味の悪い幕切れだなこのスレ
799 :
考える名無しさん:04/12/12 18:36:30
日本はアメリカお抱えのかませ犬。
800 :
考える名無しさん:04/12/12 20:07:39
>>794 > そもそも、資源も無い日本を、世界世論を敵に回してまで侵略
> しようなんて国は存在しないわけだが。
社民党と同じ事言ってるね(w
資源があるなしと、侵略対象になるかどうかは、別次元の話なんだがな。
801 :
考える名無しさん:04/12/12 20:43:04
旧ソビエトは北海道を侵略するといいうことで、北海道に自衛隊の
駐屯地を増やしたわけだが、侵略は無かった。
それどころか、ロシアになってから公開されたソビエト時代の文書
から、侵略どころか、北海道はほとんど眼中に無かったことがわか
った。
こういう間違った妄想の分析をするから政治判断を誤る。
それに比べてアメリカはさすがである。
アメリカもソビエト脅威論ををばら撒いたが、一方でリアルな分析
と情報収集は怠らなかった。
その結果アメリカはソ連崩壊をあらかじめ予測し、経済的進出の準備
をしていた。
802 :
考える名無しさん:04/12/12 20:54:25
近代的な国家を作ろうと思ったら、天皇制をなくさないと身動きが取れない。
804 :
考える名無しさん:04/12/12 21:04:56
>>803 今の話だ。
かつて「ソビエトは怖い怖い」と吹いて回った中川某みたいな奴は、
ソビエト自滅後、北朝鮮は怖いと吹いて周り、北朝鮮が相当へっぽこ
だというのが一般市民にばれてくると、中国は怖い怖いと吹いて回る。
昔から今に至るまで繰り返されているマヌケな脅威論だ。
>>801 >リアルな分析と情報収集は怠らなかった。
それも明確なあるべき国家像をもつことから始まるんじゃないかな。
分析と収集も主体が無いと無意味ではないかと。
それに日本国土に資源はなくとも領海に存在する場合、侵略の意味はあるし。
中国なんて、フィリピンからアメリカ軍が撤退したらすぐ俺の領土だ、と侵略したしね。
恫喝外交に対してどのような対抗手段があるのか。
現実的な手段が同盟を含めた軍備以外にあるかというとそれは疑問だな。
806 :
考える名無しさん:04/12/12 21:13:02
日米安保は評価できる。
これがある限り、日本は独立国家とはなれない。
(それは決してネガティブなことではい)
日米安保は絶対に解消されない。
なぜならアメリカはパールハーバーを絶対に忘れないからだ。
アメリカは本土を攻撃した国から軍を引き上げることは絶対にしない。
9.11のときは、それをパールバーバーと重ね合わせたわけだから忘れていないのだ。
807 :
考える名無しさん:04/12/12 21:16:33
マヌケな脅威論はもういらない。
マヌケな脅威論は必要はないが、国家像と軍備は必要だ。
809 :
考える名無しさん:04/12/12 21:20:06
先住民の土地を変革して、少し前のアメリカこうではなかった、
諸外国民には分からないと言われてる民族に言われる事は少ない。
810 :
考える名無しさん:04/12/12 21:21:53
日本はアジアで覇権を握る度量がないのはアメリカが知っているからと
いってアメリカは日本への警戒を緩めるかといえば、緩めない。
811 :
考える名無しさん:04/12/12 21:23:43
>>808 国家像なんて要らない。
日米安保を中心に考えればよい。
つまり日米安保あっての日本なのであり、その逆では談じてない。
812 :
考える名無しさん:04/12/12 21:26:11
資源が無くなったら、アメリカは現状を維持できない。
資源の調達が可能であれば、特に締め付けがあろうが、無かろうが問題ではない、
資源は自国だ。
813 :
考える名無しさん:04/12/12 21:31:24
これだけ経済がグローバルになって侵略も糞もない。
先進国同士、大国同士の戦争はもうない。
アメリカもそういう前提で再編を行っている。
みんなコテハンつけてくれ。
議論に責任もってくれ
あ、それとさげ信仰もわすれずに
国家論大綱がでた後、アマゾンにひどいレビューが出た。
左翼から脱出したつもりで相変わらずピンキーな人のものだった。
だが、ピンキーもひどいが右も誉められたものではない。
そして、自分では右でもヒダリでもないつもりの連中も、一皮むけばどっちかに吸収される程度のやつらだ。
ピンキーな連中がいっそうされれば、それは悪いことではないがそうなると、
経済的衰退確実なわが国で、究極の問いが、われわれに突きつけられるだろう。
「資本主義とは?」という問いが。
「資本主義は人類史の知恵ある錯誤」という名言をのこしたのは吉本隆明だが、
資本主義の明るさよりも暗さが全面に躍り出るだろう。
今後、日本は衰退に向かうことは間違いない。日本の未来像は目に見えるようだ。
すくなくとも、ここ二十年は、アメリカの監視下のもと、
中国とロシアの影響下に置かれるだろう(中国がしぶとく分裂しないかぎり)。
そこには、圧倒的大多数の無気力な貧民と少数の活力ある富裕層がいる。
現在の国家指導層は、愚かな近視眼的発想で、それをよしとしている。
国内市場が縮んでも、海外にうってでればいいと。
しかしそうなると、社会の腐朽と溶解は不可避だ。日本の「奇跡」を支えている基盤も崩れていく(現にそうなりつつある)
そして、圧倒的な無気力な貧民をねらい打ちにする宗教的諸組織(共産党も含む)
が跳梁跋扈するだろう。
滝村の「国家論大綱」は、理論的に、そういう不毛な地平を
止揚する可能性を秘めていて、思想的意義はそこにある。
現実を語るんなら、滝村の議論に賛同するなり批判するなり、
具体的にはなしたらどうか。
817 :
考える名無しさん:04/12/13 01:11:04
ピンキーって何だよ?
>>816 熱いねえ(笑)
言ってることに同意だがここで悲憤慷慨してもしょうがないでしょう
>>817 おまえみたいなやつのことだろ
>>813 これだけ経済がグローバルになってるから、かえって国家間の抗争の可能性が高まるわけだが。
>>818 いやいや、俺のような暢気オヤジには十分な啓蒙だよ。
バブルが弾けて思ったことだが、戦後も含めて特にこの時代は明治以来の財産の食いつぶした結果ではないだろうか。
ある程度はその財産を活用できたのだが、八十年代以降は文字通りの泡であった、と。
良くも悪くもその財産は明治の先人たちが基礎を創ったのでは?
わたしはやはり教育を含めた新たな国家像を創出して百年の大計を建てるしかないと思うのだが。
科学認識論ばかりではなく、国家論も考えてみたくなったな。
821 :
考える名無しさん:04/12/13 10:13:57
どうして自慰サン連中はこうなっちまうのかな。
テメッチがくたばったあと日本がどうなろうと
知ったこっちゃねーだろが。
今が快適ならそれでご機嫌よ。
823 :
考える名無しさん:04/12/13 12:18:22
やはり、中国共産党が早く解体して、連邦制の民主国家が樹立することが
21世紀前半の最大の目標だと思う。
824 :
考える名無しさん:04/12/13 12:38:55
822さん、わかりました。
821さんではありませんが、代わりにレスしました。
825 :
考える名無しさん:04/12/13 12:47:40
ここは冷戦構造の後遺症で寝たきりのインターネットですね
>>825さん、餌に少し新鮮さが足りない。
・・・餌がスカスカで身がないよ。
滝村国家論では、理想の国家形態はどういうものだとされているのでしょうか?
資本主義でも社会主義でもない新しい何か?
たしか芹沢との共著か対談で、新たな思想を模索しているようなことを言っていたような記憶があるのだが。
>>828 P158ですね。
社会契約論の「理論」的錯誤<ゆえ>の「思想」的意義、
マルクス社会観の「理論」的素晴らしさ<ゆえ>の「思想」的恐ろしさ
という皮肉な「パラドックス」を指摘した後、次のように言ってる。
「だから、「理論」と「思想」のそれぞれに対する厳密で徹底的な検討と評価
を、ビシッとやることが重要であって、そこに「思想的」な絵を大きく描くのは、
それからでも遅くないんじゃないか、というのがもうかなり前からのぼくの考えなんです」
>>827 「国家論大綱」読んだ限りでは、理論的分析から<直接>に、「理想の国家像」や
「理想の経済システム」が導かれるわけではないけれども、その理論的分析の背後に、
「理想とする国家像」を透かし見ることはできる。
しかし、この「理想像」は、それを読んだ人間の階級階層的位置、思想的立場で
違ってくるだろう。だから、迂闊なことは書き込めないなと思ってます。
>>828 >>829 thanks
政治学はかなり遠ざかっているから、発言は控えておいたほうがいいな。
俺は認識の根幹から自然科学とか、観念としての政治の認識を基礎付けたいな。
けっきょく現実としてはどうしても枠がある。
たぶん国家は不滅だろう。
その上でどう思想を構築するのか。
最終的にはその点に行き着く。
やはりその意味で国家像を考えなければならない。
チベット虐殺か・・・
小さい僧侶がかなり殺されているそうだな。
この間「朝生」で勝谷がこのことを喋っていたが、田原が遮ったよな。
中国もまたこういうことをやる国であることを認識しないと。
哲学は現実との繋がりで考えていないとクソだな。
837 :
考える名無しさん:04/12/17 02:10:55
>>836 中心的に執筆しているIzayohiって何者?
ひょっとして
>>836氏?
ちょっと解説が一般的にすぎる気がするが。
>>837 836だけど書いているのおれじゃねえっちゅうの。
てか執筆者の名前わかるんだ、知らなかった。
839 :
考える名無しさん:04/12/19 18:14:17
仮にここに偉大というレベルの学問をと志す若い学者がいたとして話を進めよ
う。その若い学者は、若気のいたりで最初のころは弁証法を信じてかかったお
かげで学問への端緒につけたが、それを忘れて彼は弁証法を捨てたとする。お
かげで彼は何十年たっても、学問の体系化すなわち統括ができなかったという
ようなことである。しかしこれはそれだけにとどまらず、悲しいことに自分の
学問の統括より学問的レベルの低い総括すらできなかった、という現実をもつ
ことになりかねないのである。(南郷全集・第四巻より)
840 :
考える名無しさん:04/12/19 18:23:55
つい先日某大学者が、実に膨大なるある「著作」なるものを発表したが、淋し
いことにこれは学問書としての体系性はおろか、理論性さえ一貫していない
惨憺たる中身であった。何十年も学問を専攻した大学者でありながら、自分の
専門に関しての概念規定がなに一つなされていないという事実は、この書が、
いささかも体系的な学問書でないことを証明することになる、といってよいほ
どのものである。
ではなぜこの大学者はこのように理論性、体系性が欠落し、結果として、
学問体系を構築することが不可能な状態になってしまったのか。その理由は、
その大学者がある日ある時、なにも考えないままに「弁証法を捨てた」の一言
につきる。でも当の大学者には、それが原因だとは今もってまったくわかって
はいないし、これからも「ない!」はずである。(南郷全集・第四巻)
確認の方法に弁証法しかないからだ。
842 :
考える名無しさん:04/12/19 19:21:51
詭弁でどうやって確認すんだよ。
詭弁で確認するなら詭弁であるか詭弁でないかで確認できるだろ
>>840 ん?
なんだ、このスレ違いかつ意味不明のレスは?
>>840 南郷君は自分のことは体系化出来たと思ってるんかな。
「国家論大綱」に対する南郷さんのコメントですね。
ちょっとショックでした。
>>846 私も南郷武道論のファンだけど、武道論以外のお粗末発言を読んでも、
しょうがねえなあ、このおじいちゃんはと苦笑するだけで、別にショックは受けないよ。
ただ困ったことに、南郷さんを「武道論」を超えた「世紀の学問的天才」「現代のヘーゲル」みたいな
狂信的神格化をする人がごく少数存在する。
よせばいいのに、ご本人も大言壮言して、信者がまたそれを真に受ける。
しかも、彼の弟子に、大学教授・助教授がけっこういて、よけい、若い学者研究者
を従える現代のヘーゲル=南郷継正みたいなイメージを増幅させる。
信者もいい加減気づいて欲しいんだけど、なんせ「懐疑」精神をスポイルされちゃってるから、なかなか目が覚めない。
「いやいや、南郷師範のおっしゃることだから、正しいのだ。未熟なレベルで疑ってはいけない」
と自己抑制する。しかし、子供ならいざしらず、大人が、そういう状態を長期間維持するのは困難だから、
真摯で真面目な鈍才ほど苦悩する。苦悩の果てに行き着く先は、信仰放棄。
むしろ逆に、プライド高い秀才ほど、いったん先生を信じたら、まっしぐらに信仰の道を突き進む。また、
そういうタイプしか最後まで残れない。
その結果は、先生師匠の教典の枠組みでしか思考できない「優秀」な信者=観念奴隷ができあがる。
共産党の学者党員とか、みんなそうだよ。オウムの村井とか上祐も、イデオロギーの中身が違うだけで、
精神構造はいっしょだ。
「懐疑」精神をスポイルするという学問上達論は、共産党や宗教団体が確立した手法だが、
南郷さんは、武道の道場=実験場という発想から、その手法をそのまま学問に横滑りさせた。特殊性の普遍化というやつ。
これが信者を製造する諸悪の根元だと思う。
南郷さんの839、840での発言は、ほんとにお粗末なしろものだよ。
彼の悪いくせで、具体的なことはいっさい言わない。言わないで、「断定」だけはする。
「自分の専門に関しての概念規定がなに一つなされていない」というなら、簡単にでも、どういうことか、指摘してみればいいい。
滝村さんの場合、たとえば、三浦さんを念頭において批判しても、ちゃんとその根拠を言う。
ところが、南郷さんは学者じゃないからしょうがないけど、そういう学的姿勢がない。
「試行」以降の彼は、そういう悪いところが体質になってしまった。
846さんは、ショックからさめて、もう一度、839、840の南郷発言を再検討してみた方がいいよ。
そもそも、「大学者」と言われるレベルまで到達した研究者が、己の技に仕上げた方法=弁証法を、「ある日ある時、なにも考えないままに」
「捨てる」などということが、ありえるのか?
という観点から、南郷さんの発言を追求していくと、そのレベルのひどさが分かる。
学者にとって、「方法」いうものは、モノのように簡単に「捨てる」ことができない。というばかりか、
本人がたとえ、主観的に「捨てた」と思っても、その学者が己の技に仕上げた方法からは、逃れられない。
まだ初心の者なら、Aの方法を捨ててBを採用なんてモデルチェンジができるだろうが、学者としての修練を積み何十年も経たもの、それも、
「大学者」というレベルのものには、そんなことはできない。、
たとえ、主観的に「捨てた」つもりでも、その大学者は、「捨てた」と主観的に思ってるその「方法」に(無意識に)規定されて、業績を積み上げざるをえない。
「動けばそれが技になる」というのは、武道の名人だけの話ではなく、学者についても言えることだ。
マルクス主義者として、その学的手法を開拓し、技として使いこなせるレベルに達した学者が、
マルクス主義を捨てて転向しても、やはり、その後の議論に、濃厚にマルクス主義時代の「方法」的発想が脈打っている。
「ある日ある時、なにも考えないままに」「捨てる」などという南郷発言自体、学者にとって「方法」がいかに重いものか、
まるっきり理解できていないことを意味している。
南郷さんの「弁証法を捨てた」発言は、滝村さんが「マルクス主義の方法的解体」でやったエンゲルス・三浦批判への程度の低い反発だね。
あのエンゲルス・三浦批判が理解できないと、当然、滝村さんがあの論文で述べた、「弁証法の有効性」も、理解できないことになる。
だから、滝村さんが「マルクス主義の方法的解体」で述べた「弁証法の有効性」の実例が、ほなならぬ「国家論大綱」
だと理解できない。「政治とはなにか?」を、まず「その形式的側面」から規定し、その上で、
国家・国家権力の「実質」「形式的構成」「現実的構成」を展開することで、「政治的社会構成」を<理論的>に再構成していく
(したがって、「本論 国家とはなにか?」それ自体が、「国家」に即した「政治とはなにか?」の体系的解明になる)。
滝村が取ったこの体系構成の「方法」そのものが、まさしく「弁証法」なのだと理解できない。
いままで、滝村ファンと南郷ファンは重なるんで、南郷さんについては極力話さないよう配慮してきたが、とんでもない発言が飛び出したんで、
あえて言及してみました。
南郷さんも、領分をきちんと弁えて、自分の武道論、とくに「いずれ豪快にお目に掛ける」と言って何十年もたった「勝負論」をきちんと提出して欲しい。
南郷信者の大学関係者なんかいるのか?
宮崎県立看護大学はもろ南郷系だべ。
南郷氏のかみさんが学長。
852 :
考える名無しさん:04/12/21 02:04:47
>>847-849 そういった種類の南郷批判は、もう聞き飽きたよ。
あんたらも南郷信者の裏返しでしかないんだよ。
853 :
考える名無しさん:04/12/21 11:54:44
852さんよ、あんた、よう言うたがな。
855 :
考える名無しさん:04/12/21 21:47:15
852、853殿、一行レス、お疲れさまです!
批判とか疑問は大歓迎ですよ。
自分が間違ってたら即訂正する姿勢だけは、きちんと取っていくつもりだし
相手の批判が正しいと分かってるくせに、
プライドをかけて突っ張るような人間ではないよ。
ただ、批判が具体的jじゃないと困るな。具体的に指摘してくれないと。
>>852 >
>>847-849 > そういった種類の南郷批判は、もう聞き飽きたよ。
> あんたらも南郷信者の裏返しでしかないんだよ。
「そういった種類」というのは、具体的にはどういうことか。
「南郷信者の裏返し」とはどういうことか、
きちんとかたって欲しい。
答えがあれば、きちんと答えるし、あなたが間違ってたら、きちんと反論するし、
私が間違ってたら潔く認めるし。
議論をフェアな<試合>だと思ってるから。
議論を、どんな汚い手を使っても勝てばいいという<勝負>論でしか位置づけられない集団
とは違うからね。
854さん、このスレは論研の諸君の一部も閲覧してるから、レスしがいあると思いますよ。
そこで、あなたにお願いしますよ、
1 そもそも、「大学者」と言われるレベルまで到達した研究者が、己の技に仕上げた方法=弁証法を、「ある日ある時、なにも考えないままに」
「捨てる」などということが、ありえるのか?
学者にとって、「方法」いうものは、モノのように簡単に「捨てる」ことができない。というばかりか、
本人がたとえ、主観的に「捨てた」と思っても、その学者が己の技に仕上げた方法からは、逃れられない。
まだ初心の者なら、Aの方法を捨ててBを採用なんてモデルチェンジができるだろうが、学者としての修練を積み何十年も経たもの、それも、
「大学者」というレベルのものには、そんなことはできない。、
たとえ、主観的に「捨てた」つもりでも、その大学者は、「捨てた」と主観的に思ってるその「方法」に(無意識に)規定されて、業績を積み上げざるをえない。
「ある日ある時、なにも考えないままに」「捨てる」などという南郷発言自体、学者にとって「方法」がいかに重いものか、
まるっきり理解できていないことを意味している。
2 南郷さんの悪いくせで、具体的なことはいっさい言わない。言わないで、「断定」だけはする。
「自分の専門に関しての概念規定がなに一つなされていない」というなら、簡単にでも、どういうことか、指摘してみればいいい。
という私の言葉にちゃんと、コメントして欲しい。
レス番号間違って842としてた。訂正。。
859 :
考える名無しさん:04/12/22 01:12:08
>>856 あんたのレベルで「試合」はまだ早いよ。
南郷武道論をそれなりに評価してるなら、分かるだろ。
>>857 「悪いくせ」なんかじゃない。
学的直観なんだよ。
あとから具体化されるから待っておけ。
学的直観・・・。
それが「判る」君も直観なんだな(W
>2 南郷さんの悪いくせで、具体的なことはいっさい言わない。
>言わないで、「断定」だけはする。
要するに解らないヤツは読むなということだと思って いつもイライラする
彼はいつも核心部分と具体的適用についてはぼかしてるね
862 :
考える名無しさん:04/12/23 20:41:55
>要するに解らないヤツは読むなということだと思って
勘違い。
南郷氏の話題が出るとあれるな。
864 :
考える名無しさん:04/12/23 22:53:11
862=859=852
直観くん?
>>864 いや、ずっと前からここにいる一言居士でしょう。
いろんな人の投稿に一言切捨てレスをつけて遊んでいる。
866 :
考える名無しさん:04/12/25 22:48:44
>>861 > >2 南郷さんの悪いくせで、具体的なことはいっさい言わない。
> >言わないで、「断定」だけはする。
> 要するに解らないヤツは読むなということだと思って いつもイライラする
> 彼はいつも核心部分と具体的適用についてはぼかしてるね
解らない奴は解るまで何十回何百回も読めがポリシーだから。
一字一句写経しろって言われた奴いたけど、いまなにやってんのか?
867 :
考える名無しさん:04/12/25 23:07:13
>>866 なさけないぐちをぐだぐだ書くな。滝村はもうピリオドを打たれたんだよ。
868 :
考える名無しさん:04/12/25 23:27:25
ZA-KHEM
により滝村国家論は完全に止揚された
近藤成美 マルクス国家論の原点を問う
加納哲邦 学的国家論への序章―国家学構築への視点を問う
を読まなければならない
>>868 止揚もなにも、あれのどこに具体的な滝村「批判」があるわけ?
正味の話、あれの議論の中身は基本的に滝村国家論、だけんど、滝村の名前は意地でも出さない
つうポリシーで書いてるな。
>>871 >滝村の名前は意地でも出さない
あらあら、本当ならそれは寂しいなあ。
どこでも事情は同じかよ。
三浦系統にはそういうことをして欲しくないのだが。
>871
一応名前は出してるが。
批判対象として。批判の具体性はないが。
874 :
考える名無しさん:04/12/26 12:43:05
弁証法がそもそも電波だという罵倒にはどう答えるの?
分析哲学の人は全員ブルジョアかい?
875 :
考える名無しさん:04/12/26 14:54:55
そうだろが、違うのか?
>弁証法がそもそも電波だという罵倒にはどう答えるの?
どこが電波なの?
具体的に言ってもらわないと、単なる罵倒は野次でしかないし・・・
877 :
考える名無しさん:04/12/27 00:40:03
>>873 具体性はないって、これからだろ。
連載の第1回から具体論なんて、むしろおかしいだろ。
これからの展開を待つことに。
>>874 分析哲学には詳しくないのでコメントできないのが残念だが、
思想的にポパー(この人は分析哲学の範疇に入るのか?)あたりは重要なので、
『歴史主義の貧困』『自由社会の哲学とその論敵』だけは押さえてるよ。
ただその<思想>的意義は認めるにしても、
ある疑念は感じる。
自然科学で創出した<方法>が、社会科学への理論的有効性を持ちうるか?
そういう疑問だけど。
これは、文学で自らを鍛えた人が、その発想で社会や歴史を論じても
ダメだったり、逆に、社会科学で作った<方法>を自然科学に持ち出してもダメって話でもあるけど。
>857
だれも857にレスを返さないので俺がレスするわ。
857の方法の話は三浦系、南郷、薄井、庄司、滝村等も含む三浦系に
共通する基本的な視点なわけで正しい。
ところが他ならぬ南郷武道理論の創始者が、自からの基本的視点を自か
ら裏切る発言をしているところが大問題なわけで。
しかし857は、南郷系にも師範の批判は絶対赦さない
偏狭なやつばかりではないと知ってくれよ。
>877
俺は871に一応滝村の名前だけは出てるよと指摘しただけで
、「具体論」のあるなしの話をしたわけじゃない。
批判の「具体性」と「具体論」じゃ全然違うわけで、滝村名指
しの批判に具体性がない、批判として成立してないと言いたかったの。
「学城国家論」は、滝村に「政治概念」なし、「世界史の発展
史観」はヘーゲルの誤読と言い切ってる。
これは相手の全否定に等しい重大発言なのだから、そう言いき
った論文の中に、最小限の簡潔な批判の骨子を述べるのが
まともな研究者の良識。にちゃんの短文切り捨てレスじゃないんだから。
しかしこのスレも終わりだな。いろんな意味で。
┌───────────────────
│あ、どうもスイマセン、N郷スレの者が御迷惑を…
└───v───────────────
/⌒\ っ /\
/'⌒'ヽ \ っ/\ |
(●.●) )/ |: | すぐ連れて逝きますんで・・・
>冊/ ./ |: /
/⌒ ミミ \ 〆
/ / |::|λ| |
|√7ミ |::| ト、 |
|:/ V_ハ |
/| i | ∧|∧
и .i N /⌒ ヽ)
>>867 868
λヘ、| i .NV | | |
V\W ( 、 ∪
|| |
∪∪
京都大学が李登輝前総統を門前払い
31日、母校・京都大学を訪れた李登輝前総統は、事前に大学当局に対して訪問の意
を伝達していたにもかかわらず門前払いを食わされた。大学側は、『大学の自治』を盾に、
警護する警察官の入構を認めないと通達し、安全を考慮した李氏側が学内に入ることを断念した。
中国政府が京都大学に対して「李氏の訪問を認めるな」と脅迫していることが数日前の台湾日報で
暴露されており、京大が屈したという見方が広まっている。事前の通告にもかかわらず、当日になって
大学側が拒否した背景には、中国政府の脅迫と日本国内の世論の板挟みを恐れたものとみられる。李氏は、結局、
構内に入ることを断念し、そぼ降る雨の中、校門前から母校の雄姿(?)を見上げていた。
http://www.ritouki.jp/ これは酷すぎ・・・・・・京都大学は日本の恥。
883 :
考える名無しさん:04/12/31 17:51:33
大変長らく御愛顧頂きました ┌───────┐
このスレッドも (|● ● |
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ とうとう終了となりました。 /.| ┌▽▽▽▽┐ |
/ ● ● ( ┤ | | |
|Y Y \誠にありがとうございました。\.└△△△△┘ \
| | | ▼ | | \あ\ |\ \
| \/ _人| ∧∧∩゛ ∧_∧ | \り\ | (_)
| _/)/)/( ゚Д゚)/ (´∀` ) __ n \が\. |
\ / 〔/\〕 U / ∩∩ ( )o/ \ ヽ \と\ |
| | | c(*・_・) | |ヽ(´ー`)ノ_| | | (__丿 |. /\ \う | (-_-)
(__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ⊆_ ヽ_┘ └──┘(∩∩)
884 :
考える名無しさん:04/12/31 19:17:45
そうか。やー、メデタイ、めでたい、目出度いな。
何だよ、お前の頭がおめでたくなったんだな。
正月らしいか。
886 :
考える名無しさん:05/01/11 11:10:57
さーっと、気合い入れて糞スレを頑張れよ。
ここは死に損ないの腐れスレだ、遠慮するこたーねーぞ。
ガンガン逝けよ。
>>886 あたま撲たれすぎて脳細胞が量質転化、悪い方に?
888 :
考える名無しさん:05/01/28 00:48:53
滝村隆一が評価している学者、小説家、評論家など教えて。
889 :
考える名無しさん:05/01/28 01:01:16
ヘーゲル、ゲーテ。
890 :
考える名無しさん:05/01/28 23:59:13
塩野七生、司馬遼太郎(唯物史観と国家理論)。
田中美知太郎、福田恒存(世紀末時代を読む)。
891 :
考える名無しさん:05/01/29 01:32:32
『国家論大綱』では、
寺沢薫『王権誕生』、隆慶一郎『影武者徳川家康』なんかを評価してたね。
「マルクス主義を標榜する連中の業績が、方法的にも理論的にも大きな欠陥や弱点を持っているのに比べて、
吉本隆明の『源実朝』では、マルクスその人の弁証法的にして唯物論的な方法的立場の生きた見本を提示している」
(『アジア的国家と革命』)
893 :
考える名無しさん:05/01/29 23:23:44
原口清「戊辰戦争」(革命とコンミューン)
原口清「明治前期地方政治史」(世紀末時代を読む)
894 :
考える名無しさん:05/01/30 00:26:29
895 :
考える名無しさん:05/02/02 00:49:34
滝村隆一"が"ね。”を”かと一瞬・・・
896 :
考える名無しさん:05/02/02 03:39:55
「を」も面白そうだね。
実はこっそり滝村隆一を評価している大学の先生っているんじゃない?
897 :
考える名無しさん:05/02/02 11:50:00
無知な漏れに教えてタモレ。
滝村の評価ってそんなに低いの?
つーか、評価すらされていないって事?
898 :
考える名無しさん:05/02/02 22:37:53
俺の印象ではかなりマイナー。
三浦つとむの方がよっぽどメジャー。
でも、知る人ぞ知る、って感じじゃないの。
>>896 > 「を」も面白そうだね。
> 実はこっそり滝村隆一を評価している大学の先生っているんじゃない?
「内務省と明治国家形成」勝田誠治著のあとがきで
大学院時代に滝村隆一を読みまくったと書いてあった
900 :
考える名無しさん:05/03/02 00:16:41
N郷妄言に反論なしで
このスレッド終わりか?
滝村信者は根性なしやな
>>900 > N郷妄言に反論なしで
> このスレッド終わりか?
> 滝村信者は根性なしやな
あなたの立場がよくわからないが、
南郷妄言というからには、
あのお粗末発言の非学問性には
気づいているわけですね??
南郷発言がいかに支離滅裂なものでるか
簡潔に掲示してあるつもりなので、もう一度
>857
をお読みください。
902 :
考える名無しさん:05/03/15 02:03:52
>>901 まあ,私もそう思うのですが,あの発言以来ほとんどスレが寂れてしまった
のは事実ですねえ。
903 :
考える名無しさん:05/03/16 01:00:36
>>901 あんた、自分自身が南郷氏の論理に依っていること、
分かってます?
904 :
901じゃないけど:05/03/16 07:58:46
>>903 きみ、なにが言いたいの?
901氏の言ってることが、誰に依ってるか依ってないか、関係ないだろ?
901氏と南郷のどっちが正しいか正しくないかが問題で、
どうかんがえても901氏の方が方法の把握の仕方は正しいだろ。ヘーゲル系の正統的発想だよ。
903は「直観」くんだな(W
905 :
考える名無しさん:05/03/18 01:09:16
906 :
904だけど:05/03/18 06:15:59
↑
あ、「直観くん」だ(W
なんだ。それもきみの「直観」?
907 :
考える名無しさん:05/03/19 01:04:40
908 :
考える名無しさん:2005/03/24(木) 22:31:09
南郷系の某MLでこのスレの南郷批判
がとりあげられてるね
909 :
考える名無しさん:2005/03/26(土) 10:36:03
↑南郷系のMLって?
910 :
考える名無しさん:2005/03/30(水) 00:01:47
武道板の玄和会スレ、なくなったの?
911 :
峰流婆:2005/03/31(木) 21:36:36
912 :
ローカルルール審議中:2005/04/02(土) 09:00:23
↑しかしまああれだ
南郷ファンの弁証法ML
でさえ近年の南郷は眼を覆うばかりにひどい
と言われてる件について
峰さんどう考えてる?
913 :
ローカルルール審議中:2005/04/02(土) 20:25:48
テ
914 :
峰流婆:2005/04/02(土) 20:46:06
>>912さん。
>近年の南郷は眼を覆うばかりにひどい
>と言われてる件について
>峰さんどう考えてる?
失礼。それは簡単にコメントできる問題ではないし、
最近の私はどういうわけかえらく多忙なため、今お答えする余裕はありません。
近日中にまともなレスをお返しすることにします。
なお、
>>913は私ではありません。
あしからず。
915 :
ローカルルール審議中:2005/04/03(日) 01:47:58
>>912 南郷ファンが何を言っていようと、
特に何かを考える必要などない。
916 :
↑:2005/04/05(火) 00:24:22
思考停止
こわいねえ。
信仰はこわくてせつないねえ
917 :
↑:2005/04/05(火) 01:55:47
思考停止=不動心(笑)。
確かにせつないね(笑)。
918 :
ローカルルール審議中:2005/04/07(木) 09:51:21
三浦の制度論は評価しているよ、滝村は。
原口清のそれは三浦の論に依拠していると書いていたような記憶があるんだが。
>>918 たしかに三浦の制度論は一般論レベルですばらしいよね。
「国家論大綱」の三浦批判は
毒づいてる部分はアレだが、批判としてはどんぴしゃ当たってるが
三浦の功績が大きいことはたしか。
920 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 00:12:08
>>919 >「国家論大綱」の三浦批判は
>毒づいてる部分はアレだが、批判としてはどんぴしゃ当たってるが
>三浦の功績が大きいことはたしか。
メチャクチャ読みにくい文章だね。
これだけで、頭悪いことが分かるよ。
921 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 12:20:34
小沢一郎が滝村隆一の「国家論大綱」を実践している唯一偉大な
政治家と聞きましたが、本当はどうなんですか?
922 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 13:15:32
いつまでふるーい弁証法や国家論を語ってんだ?
時代は、リバタリアン、コミュニタリアン。
弁証法ではなく分析哲学。
このスレ、ジジイばっかりだろ
923 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 14:08:47
とにかく小沢に政権とらせないと始まらない。
>>922 分析哲学って,20年位前にちょっとはやって今は誰も見向きもしないやつ?
まあ,弁証法ももっと見向きもされてないが
925 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 22:01:25
滝村国家論は弁証法とも論理学とも関係ない。
いうなれば、魂の国家論だ。
926 :
ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 03:33:07
考える名無しさんからローカルルール審議中になったのか?
テストしてみよう
927 :
ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 23:37:40
>>925 関係ないわけないだろ、バカ。
「魂の国家論」というのは何となく分かるが。
928 :
ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 23:54:27
929 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 00:15:56
つうか
ここに 滝村ちゃんと読んでる人もういないんじゃねえか。
去年の今頃のレスは勉強になったけどな。
930 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:06:20
だったらよー、もう来なくてもいんだぜ。
931 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:51:58
馬鹿は安倍晋三でもまんせーしてろ。
932 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 11:40:22
なんで滝村スレが哲学板に?
933 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 11:51:38
幻想としての国家を制度論的に語るものはすべて駄目。
934 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 21:59:05
935 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 23:57:06
hoshu
936 :
考える名無しさん:2005/05/28(土) 22:05:31
某メーリングリストにここの住民らしき人が
訪問してる。
異質者排除システムが作動しつつあるが
気がついてるのかな?
937 :
考える名無しさん:2005/06/23(木) 00:39:01
938 :
考える名無しさん:2005/07/19(火) 12:06:52
ウィキペディアの滝村の項目、変更しました。
いざよいさん、OKっすか?
>>938 >1978年『アジア国家と革命』(三一書房)
的が抜けているよ
940 :
考える名無しさん:2005/07/21(木) 07:52:44
>938
乙
南郷の項目をみたが
辞典は事実的に確認確定できることだけ書かないとだめだろ?
「各学問を極めた哲学者」って…。
それはご本人が言ってるだけの話しで、ちゃんとペーパー出てるわけじゃないんだからさ。
942 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 01:19:24
いざよいって誰だよ?
943 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 00:25:47
国家論大綱第二巻まだかな。
944 :
考える名無しさん:2005/08/16(火) 15:08:12
サルベージ
>>848 そもそも、「大学者」と言われるレベルまで到達した研究者が、己の技に仕上げた方法=弁証法を、「ある日ある時、なにも考えないままに」
「捨てる」などということが、ありえるのか?
掘り返して申し訳ない。
「主観的」に捨てたわけではないんでは?本人は捨ててないつもりなのに捨ててるとか。
「マルクス主義の方法的解体」とかは読んでないのでよくわからないけど。
>>839、
>>840を見て直感的にそう思った。
946 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 17:25:04
滝村読者から見て萱野の本はどうですか?
>>945 あんまり南郷さんの言説にとらわれてると
滝村国家論に入れなくなるよ。
国家論大綱に専門に関する概念規定ないとか、
完全にでたらめだしね。
今度のやつじゃ「わが師滝村」と評価の
トーンが変わってるし、ものすごい憎悪と羨望と
愛着が入り混じってるんだろうね。彼の中では。
948 :
考える名無しさん:2005/09/23(金) 02:37:56
続巻まだ?
949 :
柄谷行人 ◆WcOabcjNAM :2005/09/24(土) 04:46:42
950 :
20年ぶりの滝村読者:2005/10/07(金) 05:35:26
滝村の「国家論体系」が三年前にすでに出ていたことを最近知り、読んでいる所です。
目次を見て一番気になったマルクス批判の個所から読んでいます。
読んでとにかく唖然としました。
「経哲」も「ド・イデ」も批判の前提となるマルクス引用がまるで間違っています、というかあまりに恣意的です。
つまり、ここでは対象(この場合マルクスの思想)から論理をつむぎだすというまっとうな方法論を放擲し、自分の頭の中だけで作り上げたマルクス像を相手に勝手な一人相撲をやっています。
彼のマルクス国家論に対する批判はともかく、マルクスの「人間的解放」思想に対する批判はまったく的外れです。
滝村の三浦に対する言葉を借りれば、滝村は「政治学者」であっても「経済学者」やまして「思想家」ではありません。「政治学者」としてのマルクス批判には聞くべきところがありますが、「思想」的なマルクス批判はまったくでたらめです。
951 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 10:13:33
∧∧
(д`* )
(⊃⌒*⌒⊂)
/__ノωヽ__)
低脳左翼950のアナル拡張運動家の俺がやってきましたよ
952 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 11:25:01
滝村さんの恣意的引用は吉本ジイサンも批判してたよね。
吉本が批判しているというのは、どこででしょうか。分かったら教えて下さい。
とにかく、最近の滝村の言動は国家の必然性を強調するあまり、一部の国家主義的、国権主義的、排外的な発想に根拠を与えているかのような感じがします。
かつての滝村の国家論は何よりもその止揚を目的としていたのに、そのたがが外れてしまって、国家って大切なんだぜ、国家は結局乗り越えられないんだぜ、みたいに一種居直りに近い所に転落しているように思えます。
954 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 12:25:26
950=952=953
自作自演ばればれ(w
955 :
考える名無しさん:2005/10/08(土) 16:47:53
952氏の自慰サンの滝村さんへの引用批判って、
定期的に刊行されてる吉本隆明の何とか資料集の
中に載ってるやつじゃないんか?
推測ですが、滝村と三浦の不和の原因は、滝村が認識の科学性の根拠として主張する「ヘーゲル・マルクス的な学的方法論」とやらにあるのではと思います。三浦から見れば、これは認識の絶対的真理性を主張する観念論に見えたのではと思います。
滝村は、悪しき体系病にかかっています。自分の体系を完結するために、その最後のピリオドとして無理なマルクス批判をでっち上げたのではと言う気がします。
彼は、いまや自分の原理を元に、国家を乗り越えようとするあらゆる試みを幻想だと否定してまわっていますが、これではかつてプロシアを真理の顕現としたヘーゲルと大差ないでしょう。
これは、吉本とも対立する所ですね。
吉本さんが滝村さんに触れたのはこれまで三回だけ。
三回とも激賞で批判はなし。
『吉本隆明が語る戦後55年』第四巻(三交社)
『情況へ』(宝島社)
『遺書』(ハルキ文庫)
一番新しい『吉本隆明が語る戦後55年』第四巻(三交社)から引用
--------------------------------------
滝村さんには、具体的でなければいくら原理的に言ってもしょうがないという考えがどこかにあって、
それで明治維新の政治過程を丁寧につかまえ、そこから国家とはなにかを逆に原理的な国家論の中に
組み入れていくという作業をきちっとやっています。
でも、滝村さんのように緻密で具体的なものを目指すのは不得手で、僕はそんなことはしたくないとという気持ちもあって、
そんなときに、フーコーの『言葉と物』を読んで、これでマルクス主義系統とは違った形で国家論をやれるとおもったわけです。
--------------------------------------
吉本さんは、滝村さんのコースは自分には「不得手」という言葉で、滝村さんとの「畑」の違いを言ってるから、
相互批判し合うような関係ではないと思ってるよ。
畑違いはそうでしょうけど、吉本は国家を開いていくということを言ってるでしょ。それは、滝村に言わせれば原理的に無意味だということになるんじゃないですか。
それに、「体系」というものをどう捉えるかは「畑」に関係ないと思います。「閉じた体系」を否定する、体系というものは一度作ったら壊さなければならないと吉本は言ってます。
こういう考え方は、とても重要だと思います。吉本は滝村を批判したことがあるのかは、私も具体的には知りませんが。
959 :
考える名無しさん:2005/10/10(月) 00:21:59
どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
行き着く先はユートピアでもなかろう。
>959 もちろん、そうです。ですから、良くも悪くも未来は開かれているということです。
滝村は一種の先験的な「原理主義に陥っているように思います。
滝村は、レーニンの認識論に対する三浦の批判などもきちんと読んだことがないのじゃないかという気がします。
>956
> 彼は、いまや自分の原理を元に、国家を乗り越えようとするあらゆる試みを幻想だと否定してまわっていますが、これではかつてプロシアを真理の顕現としたヘーゲルと大差ないでしょう。
へーソウナンダ
962 :
考える名無しさん:2005/10/12(水) 18:56:12
>どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
この手の発想には「マルクス主義国家論」の頃に滝村の批判がある。
滝村読者さんは国家を即物的に捉えてるんじゃないの?
滝村には共同体-即-国家とか広義の国家ってのがあるんだからさ。
宗教の残滓としてある国家、滝村曰く歴史上消えたことのない民族-即-国家、
表面上仲が良くても利害が対立したら即暴力機構に転化するような共同体、
単なる経済機構としてあるのではない国家、の重みをもっと怖れなさいよ、ということでしょ。
それは吉本もずっと強調していることだよ。じゃなかったら「共同幻想論」なんて書かないよ。
そういった意味での国家はなしくずしになるどころか、
原理やらナショやら美しい日本語やらハンチントンやらが大流行りじゃないの。
>国家って大切なんだぜ、国家は結局乗り越えられないんだぜ
大切だなんて思っちゃいないんじゃないの、別に。後半は上と同様。
>「体系」というものをどう捉えるかは「畑」に関係ないと思います。
大ありだよ。「自然科学」になろうとした、
あるいは表面だけなぞった諸学芸の悲惨さは今では明白じゃないの。
むしろ逆なんだよ。「畑」によって「体系」とは何かを考えなければいけない。
人間を扱う学が科学=真理の名のもとに支配を確立しようとしたのは、
フーコーはじめたくさん批判があるでしょう。
「畑」を無視した粗雑な抽象や陳腐な精神論が濫造されすぎたんじゃないっすか。
ついでに。
>どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
>959 もちろん、そうです。
962さんが言ってる通り、こういう発想は滝村-吉本ラインで共通してる批判の対象ですよ。
総じて、滝村が国家を巡るタームで言おうとしてることを理解していないように思えるんですが。
また吉本の仕事の意味を。
965 :
考える名無しさん:2005/11/11(金) 13:28:19
なお、「国家論大綱」は未完に終わることが確定している
966 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 23:42:55
あげ
967 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 12:23:41
三浦つとむが実際に研究しないで評論ばかりしていてもダメだ、と言っていたが、つい最近自然科学で未確定の分野を勉強してこのことを痛感した。
たしかに滝村が批判する俗流エンゲルスというのはある意味で正しいと思うのだが、長年学問に携わったものならではの箴言がある。
彼の三浦批判は批判に値するからだ、ということだろう。
彼の観念的な自己分裂という概念は実はとても重要なんだということがわかってきた。
自分で何かを研究すると彼らの偉大さと限界は少しわかる気がしてきている。
968 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 15:48:35
>>967 >彼の観念的な自己分裂という概念
この文脈だと「彼」は滝村を指すことになるよ。
全体的に何が言いたいのか分からないね。
969 :
967:2005/11/23(水) 18:20:02
あっ、そうとしか読めないな、悪い。
あなたが指摘した文章の「彼」は三浦つとむのこと。
sage
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