952 :
DISCORD:03/09/25 00:13
>>951 柄谷は読んでいるが、青木は読んでいない、という立場からで恐縮ですが、ちょっと
書きます。
歴史的に「内部に取り込まれてきた他者」を「共同体」と呼ぶのならば、共同体で
資本主義に対抗するのは無理ではないでしょうか。資本制以前ならば、ある「共同体」
のグランドデザインはその「共同体」生成以前にある程度予測可能だった。剰余労働
は目に見える形で搾取されていたからです。しかしながら、資本制というのは、交換前
には「外部にあったはずの他者」を、交換後には予測不可能な形で取り込んでしまう
装置だからです(この過程は不可視です)。なので、資本制は否応なく歴史的に始まっ
てしまったのだから、「商品経済的な所有を共同体的な所有に変える」という空想的な
社会主義は駄目だ、というのがマルクスの真意だと思うのですが。
商品経済は共同体と共同体の間に始まり内部を侵食するのであって、
完全に内部化されものではないのです。
↑にも書きましたが、剰余の搾取というのは、イデオロギー的批判であり
必要労働と剰余の関係は、階級とは何の関係もありません。
資本主義の始まりはまさに「否応なく」であり、歴史的必然ではありません。
商品経済的所有は外部から包摂する表層的形態であるというのが、倫理的批判の根拠であり、
資本主義の内的弁証法などというヘーゲル的形而上学による必然的社会主義論より
はるかに形式論理的整合性があると思うのですが。
954 :
DISCORD:03/09/25 01:00
>>953 「商品経済的所有は外部から包摂する表層的形態である」という部分を勝手に読むと、
まるで「内発的な深層」がどこかにあって、それを取り戻すのは倫理的である、という
主張に見えます。これでは単なる疎外論になるので、まずいのでは?
内発的な深層などという「実体」があるなどというつもりは、さらさら
ありません。ややレトリックに問題があったと反省してますが、
いいたいのは、商品経済にあらかじめ労働などという根拠があるわけではなく、
諸品経済が労働を包摂する資本主義において、労働それ自身が価値を生むかのような
転倒した合理性が生じるということです。
956 :
DISCORD:03/09/25 03:10
改めて私の基本的認識を書いておきます。みなさんから批判等いただけたら幸いです。
1 封建制を母胎として、もしくはその崩壊として、偶然に資本制が誕生した。ただし、
事後的に見れば(ヘーゲル的歴史観で見れば、換言すれば人間理性の歴史認識能力で
見れば)すべての歴史は必然であるから、そのシステムは合法則性を持つ。
2 資本制においては(二重の自由を持つ労働者が存在し、すべての事物が商品とされる
可能性のあるシステムにおいては)、人間理性は事物の価値を計るさい、「抽象的人間労働」
という共通単位しか持つことが出来なくなる。
3 抽象的人間労働を価値の尺度とすると、労働者が自分の生産物を買い戻す、という形で
「等価交換でありながら資本家が労働者から剰余労働を搾取できる」ということが可能になる。
もしくは、剰余労働は等価交換(実は不等価交換)という搾取においてしか顕現することが
出来なくなる(実は後者のほうが重要)。
4 よって、資本家の善意(福利厚生)、もしくは法の強制(高税率の大きな国家)による「搾取
した剰余労働の社会への還元」つまり社会民主主義や共同体主義では問題は解決しない。資本論
「シー二アの一時間」と同じ誤謬である。
5 ならば、どうするか。それは私にもわかりません。意見下さい。ただ、資本制の主体的な乗
り越えなど、資本家の立場からも労働者の立場からも絶対に不可能な気がします。
957 :
考える名無しさん:03/09/25 08:48
封建制あるいはそれ以前でも共同体間の商品交換、市場、貨幣流通、賃労働などは
存在したのであり、偶然にとかいきなり資本制が出現したわけではないでしょう。
封建制の内部でも市場・貨幣流通経済・商品生産の拡大は本源的蓄積を進め、共同体を分解させ、労働力以外の何も持たない
「個人」が生み出されてきたわけです。
958 :
考える名無しさん:03/09/25 09:16
歴史上存在した全ての共同体は、資本主義経済システムには経済的競争において
勝てず、解体する必然があったと言えます。
残存している共同体(らしきもの)は必ず経済的後進性を伴っていると言えるでしょう。
(経済的後進性は文化や人間性などの後進性を意味しはしませんが)
>封建制の内部でも市場・貨幣流通経済・商品生産の拡大は本源的蓄積を進め
この部分だけ、違います。本源的蓄積は、イギリスの羊毛工業のための
放牧地の必要から、共同地の囲い込み(エンクロージャ)として権力的におこなわれました。
要するに労働力の商品化は土地の商品化と表裏一体です。
共同体の間の商品経済は、5000年以上前からありましたが、
これが共同体の内部を侵食した本源的蓄積は300年ほど前に
「偶然に」「いきなり」おこなわれ、資本主義は誕生したのです。
960 :
考える名無しさん:03/09/25 09:36
日本では、これまで「会社」という擬似共同体が終身雇用、年功序列、コネ的つながりなどに
よって、共同体帰属感を提供してきたわけですが、それも崩壊しつつあるわけです。
>>968 違います。資本主義という市場経済は共同体を侵食しつう
共同体という支えがなければ存在できないのです。
たとえば資本主義は商品による商品の生産として
なんでも生産できるようにみえますが、
肝心の労働力だけは、資本主義的に生産できません。
労働力の再生産とそのプールは、やはり家族や地域という
共同体に依存しなければなりません。
また歴史的にも共同体の残存は、経済的後進性や生産力と
なんの関係もなく、主として外から侵入する資本の有機的構成に
規定されます。(自由主義期の産業資本は、労働力の吸収性にすぐれ、
共同体の解体を促進したが、ぎゃくに帝国主義期の金融資本や株式会社は、
過剰労働力を滞留させ、共同体を拡大し補強した。)
>>960 そのとおりですが、資本の生産過程(労働力の消費過程)における会社
という擬制共同体に代わって、労働力の再生産過程にこそ
ほんものの共同体の可能性があるというのが、青木孝平氏の
コミュニタリアニズムの提起だと理解しています。
963 :
考える名無しさん:03/09/25 09:51
>>959 本源的蓄積は地主や大商人の資本蓄積と土地から切り離された農民などの無産者が生じる
過程であり、江戸時代の日本でも農家の次三男以下は多くの「小作」→「無産者」と成って行ったのでは
無いでしょうか?
このあたりは様々な意見があるようですが。
>>963 後発の資本主義である日本では、高度な資本そのものが
主として外国から移入されたために、共同体の解体を緩慢にし
そのような無産者の形成が見られたのは事実です。
しかし、これはイギリスのような原理=典型的な
純粋資本主義の話と区別されるべきでしょう。
なお961の文頭に
>>968と書いたのは
>>958の間違いでした。
うひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょ
966 :
考える名無しさん:03/09/25 10:37
>労働力の再生産過程にこそほんものの共同体の可能性が
労働力の再生産過程とは、大まかに言えば、仕事以外の「暮らし」そのもの
でもあるかと思いますが、大きく分けると、労働のための活力の維持・回復と
次世代労働力の育成になるかと思います。
967 :
考える名無しさん:03/09/25 10:52
そのほかに、もっともマルクスや宇野が重視した
過剰労働力の維持がありますよ。
失業者としての相対的過剰人口をはじめ、病人、障害者、老人などは
商品経済的なギブ・アンド・テイクでは絶対に生きていけませんから。
なんかこのスレ、青木派コミュニタリアンに乗っ取られたみたいになってきたぞ。
OFW派ヘーゲリアンや柄谷派カント主義者、ちっとはガンバレよ。
誰も「下痢気味ヘーゲル」や「貨幣論」スレどころか、このスレの過去スレさえ読んでないし。
毎度同じ批判に対して、同じ事をOFWが律儀に答えるだけ。
970 :
考える名無しさん:03/09/25 11:17
具体的にどんな「共同体」をイメージできるんだ?
971 :
考える名無しさん:03/09/25 11:31
例えば、家族という共同体の使命は資本主義適合的人間を育てることだろ?
たしかに家族は資本主義のもとに形成されますが、労働力自身は
資本そのものによって再生産できません。このことが絶えず
資本に包摂されない過剰労働力を生みだすことになります。
そこでは直ちに、過剰人口は市場でどのように生存を維持するかという
マルクス・宇野的問いが発せられるでしょう。
家族はたしかに資本主義に適合的な人間をつくりだしますが、同時に
ギブ・アンド・テイクの権利義務関係に収まりきれない、したがって
「自由・平等・所有・ベンサム」といった近代リベラリズムからはみ出した
イデオロギーをたえず生み出します。この諸刃の剣が家族という共同体なのです。
973 :
考える名無しさん:03/09/25 12:58
個人が労働力以外の何物も持たないと同様、家族という共同体も、その多くの
機能を剥ぎ取られ貧困化してきた。家族から労働環境は疎遠なものとなり、教育機能も大幅に
低下した。外食産業、レトルト食品なども家事を楽にはしたが、その分食生活が豊かに
なったとは言えない。
974 :
DISCORD:03/09/25 13:22
>>972 柄谷派カント主義者(笑)から一言。共同体という言葉が安直に使われている気がします。
「人間の再生産は超歴史的に普遍なことで、それを担ってきたのが家族という共同体である」
というテーゼはストレートに受け入れるわけにはいかない。それは確かに資本には包摂され
ない部分があるかもしれないが、その部分は「贈与=お返し」という別の交換原理に支配され
ている。しかし、賃労働者核家族は贈与分の価値を賃金で充当しなければならないから、
>>労働力自身は資本そのものによって再生産できません
というのは確かとしても、資本はそれを調整することは出来る。つまり、すでに=つねに間引
きのなされた家族としてしか資本制の中では「家族」は成立しないのでは。
975 :
考える名無しさん:03/09/25 13:32
日本では普通1〜3名の子育てしか出来ないが、東南アジア低開発国では、
子供10人も珍しくない。一見豊かな日本の貧困さが、このような形で露呈
している。
・・・・・
次スレキヴォンヌ
>>974 「人間の再生産は超歴史的に普遍なことで、それを担ってきたのが家族という共同体である」
そんなこと、誰もいってませんよ。
資本主義市場経済が家族をつくったのであり、家族という共同体は近代家族以外にありえません。
これは自明のことです。しかし家族という共同体の内部関係としての贈与=返礼原理と
共同体の外部における市場の売買という商品交換原理を、同じ「交換」といってしまうのは
あまりに乱暴です。共同体内の互酬はマルクスのいう人格的依存関係で人間相互の結びつきを緊密にする
のに対し、市場の商品交換は物象的依存関係で人間相互の関係を排他的な利害関係にします。
資本主義がつくりながら完全に資本主義的に編成できないジレンマを上では「両刃の剣」と表現したのです。
979 :
考える名無しさん:03/09/25 15:42
980 :
考える名無しさん:03/09/25 15:48
江戸時代は家族ではなく家じゃないの?
女中や下男やウマ込みで
981 :
DISCORD:03/09/25 16:06
>>978 いや、まず「人間の再生産は超歴史的に普遍なことで、それを担ってきたの
が家族という共同体である」というのをあなたが言ったというのではなく、
資本制以前にも家族はあったという自明のことを言っただけです。
あなたのいう「近代家族」とは「賃労働者による核家族」というふうに私は
取っていて、それは資本制の中でしかありえないというのは同意。
ただ、私は市場の商品交換は排他的関係を構築し、共同体内の互酬は人間相互
の結びつきを緊密にする 、という意見には反対です。確かに商品交換原理と
互酬原理は違う。しかし、違うもの(現実的人間労働)を同じものにしてしまう
(抽象的人間労働)商品市場経済の中で形成された近代家族はもともとそのような
交換原理の区別を内包することが出来ない。あなたの言う「両刃の剣」を持つ共
同体というのは、ただ想像的に考えられた幻想のような気がします。
>>
981
そうでしょうか?
近代でも、家族の中で、たとえば親が子の扶養に対価を請求したり
夫婦が商取引をしたりするでしょうか?もし家族内で取引をする
家族があったら、それは概念上、破綻家族であり、事実上の離婚と
いうべきだと思います。家族は外部に対して市場経済で臨み、
内部は家計の合一による互酬扶助の共同体であると定義できると
思いますが、それでどこがダメなのか、私にはわかりません。
983 :
考える名無しさん:03/09/25 17:00
近代家族は労働力の再生産のシステムだから駄目だけど、封建的「家」を
破壊したから良い、ということでは?
984 :
DISCORD:03/09/25 17:10
>>982 いや、極端にいうと前資本制家族から見ると、近代家族は破綻家族なのです。
たしかに「親が子の扶養に対価を請求したり、夫婦が商取引をしたりする」
というのは表層的には見えない。しかしあくまでも「贈与」の源泉は賃金で
あるので、主観的にどうあろうと「親が子の扶養に対価を請求したり、夫婦
が商取引をしたり」しているのです。家計を経済主体と見ることこそ、マル
クスのいう「経済学的誤謬」であり、柄谷のいう「事後の思考」ではないで
すか?
985 :
考える名無しさん:03/09/25 17:29
>>984 シャドウワークとか「消費妻」などはどう考えるべきか?
みなさん、誤解しているようなので、もう一度確認しておきます。
私は、資本主義以前に家族はなかったと言っているのです。
私は青木孝平の本でこの考えを知ったとき、目を開かされる思いがしました。
それは、こういうことです。資本主義以前の社会では、社会の全体が
共同体的・互酬的に編成され、市場は局部的でした。そういう社会では
そもそもどこまでが家族で、どこからが外部なのか、判然と区別することはできません。
上でどなたか書いていたように「家」は共同体に溶け込んだ共同体社会の一部なのです。
これに対して、労働力の商品化によって市場経済が共同体を解体したとき
人間はアトム的個人になるはずでした。しかし資本主義は人間を完全にアトムには
できず、最小限の労働力再生産の単位を共同体としてつくった。つまり
社会全体が商品経済で寸断されたとき、商品経済の介入できない領域がはじめて
家族として定義できるようになったのです。
もしDISCORDさんのいうように、内部も事実上商品経済であるなら、
家族を定義することは不可能になってしまいます。むしろ家族の内部が
商品経済化されるのは、きわめて現代的な家族の解体現象というべきでしょう。
マルクスも資本論で、労働力の価値は妻子の再生産費を含むと規定しています。
987 :
DISCORD:03/09/25 18:06
>>986 >>986 ああ、なるほど。「資本主義以前に家族はなく、社会全体が商品経済で寸断
されたとき、商品経済の介入できない領域がはじめて 家族として定義できる
ようになった」というのはラジカルでいいと思います。青木を明日の夜まで
に速攻で読んで、またレスしたいと思います。ありがとうございました。
>>985 コミュニタリアンの立場からすれば、貨幣換算されないシャドーワークは
フェミニストのいうような「不払い労働」ではなくて、むしろ共同体的な労働のあり方として
評価されるんじゃないの?
「アンチ・オイディプス」で外出
991 :
考える名無しさん:03/09/25 18:30
そういえば沖縄じゃ親が居なくても皆が子供を育ててくれるって
安室奈美江が言ってたな。離婚しちゃったが。
992 :
考える名無しさん:03/09/25 18:37
近代家族って、その営み丸々が労働力再生産労働だろ。
愛と別に、そいう行動文法に囲まれているというこった。
シャドーワークなんて概念は大甘だよ。
>>947 分かりやすい説明をありがとうございます
>もう少し複雑だと思いますが、ひとまず、そうだと言っておきます。
ありがとうございます、複雑な表現は私には難しすぎるようです
>市場合理的な人間の意識が、市場を越えられないのは、形式論理的に言って当然だと思いますが。
ここにひっかかりを感じるのです
人間の意識を市場合理的としたのは誰でしょうか?
私は、それは合理性原理の導入であると思います
合理性原理はアプリオリに正しい前提でも経験的な推測でもありません(少なくとも私はそう考えます)
合理性原理は「真理」と呼べる代物ではありません、合理性原理を正しいと考える理由はどこにもないと思われるからです
合理性原理は、説明的状況モデルを活動させる最小原理であり、現実に人間が合理的に活動するかどうかとは全く別に考えられるべきと思います
この箇所の説明では、理論の内部において語られる「人間」と理論の外部において語られる「人間」が同じ「人間」として扱われているように思われます
私は、法則の修正不可能性が論理的に思考した結末であるとは到底思えませんし、
このような態度をとる説明方法は、パラドクスを招くか、具体的に何も語れないかのいずれかの状況に陥るだけだと考えています
>ですからマルクス、少なくとも資本論は、資本主義の崩壊などという予言をどこにもしていません。
マルクスは資本主義のシステムの内部における反復性、もしくは循環性と言えるような法則を指摘したのですよね?
その法則からひとつの未来の姿を予測することは私には妥当に思えます
994 :
考える名無しさん:03/09/25 18:53
ある意味、労働と非労働(例えば家族関係)の区別が、まさに資本主義労働
を成立させたとも言えるかもしれない。
「この行為は消費だ」「この行為はお金にならない」そういう区別が労働力
商品を精神面から確固たるものにするんだろうな。
続き
>>947 >法則を利用や改善などできず、廃絶するしかないというのは、まさにそういう意味です。
ここに私のマルクスに対する二番目の批判をさせてください
私は、マルクスの資本主義分析から導き出される帰結には道徳的に許しがたいものを感じます
法則を改善するといったものはまず不可能でしょうし、利用するのも簡単なことではないでしょう
人間が資本合理性を超えることなど、できないかもしれません
しかし、超えることができないからといってそこから生じる不幸を全く回避できないわけではない、そうではないでしょうか?
法則を破棄しなくても弊害を最小限に留める方法はあるのではないでしょうか?
マルクスがどのように考えていたかについて、『資本論』を半ばで放り出した私には理解できませんが(1、2巻のみ読みました)
もし、マルクスがイデオロギーそのものの廃絶を考えていたとするならば
道徳的ユートピアの存在を求める素朴さを私は感じます
>可能性としては、社会の内部になお市場の合理性に包摂されない
>具体的な生活世界(コミュニティ)が確実に存在し、そうした生活世界の倫理性が社会の内部、かつ資本主義の外部から
>資本主義批判の可能性をもつことです。人間は頭のてっ辺からつま先まで、すべて近代合理主義だけで生きていくことは
>できないということです。ポランニーはマルクスにならって、これを市場と社会の対抗運動と呼びました。
「具体的な生活世界が確実に存在し・・・」とありますが、それが確実に存在する必要性はあるのでしょうか?
また、私が資本論解説書で読んだレベルの理解では、資本主義の崩壊は市場競争の終了から導き出されるものと理解しています
ここに市場合理性を利用できる可能性がありそうに思えます(具体的に内容を提示できないのですから無意味な言葉です、すみません)
私には、イデオロギーの打破を考えるよりは、市場合理性による弊害を最小限に留めるシステムを考えた方が、もっとマルクスの理論から多くを学べると思います
>マルクスは市場の法則をしりましたが、未来は何も知りませんでした。
>それゆえ人間の主体性を信じ、そこに未来を賭けたといえるのではないでしょうか。
何かを賭けるという行為を私は否定しません
全ての人間は賭けを行っています(多くの自然科学者ですら)
しかし、賭けるにしても、もっとやれることがあるのではないでしょうか?
私は賭けという行為を否定したくありませんが、「賭け」という名目の上に放り出された理論には嫌悪感を感じます
私のようなマルクスをきちんと読んでもいない人間が勝手な意見を言うことはマルクス研究者にはとても失礼なことと思います
無礼を承知で、ご教授いただければ幸いです
1000
亀レス野郎w
999 :
考える名無しさん:03/09/25 19:21
はっ
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1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。