永井さんの<私>ってみなさんどう解釈していますか?
<私>というものは思惟する能力とかあるのでしょうか?
「魂に対する態度」で、<私>は特定の人物から離れることはできない、特定の人物から離脱した
<私>は想像することもできない、と言っているので、<私>は知覚や表象、思惟する能力のない
単に世界の中心性、もしくわ世界の原点のようなものを単に表すだけの形式的な概念だと僕は理解
しているのですがどうでしょうか?
永井さんはそのような世界の中心性、世界の原点性をがなぜか自分に備わっているのに驚いているだけ....
だけど永井さん自身が<私>という言葉を使用する時、もっと何か具体的な中身を指して用いている
気がするのですが。そうすると、その何かに接近していたのは、むしろヴィトゲンシュタインや「省察」
のデカルトだと思うのですがどうでしょうか?
すいません、長たらしく不明瞭な文を書いてしまって。もうすこし明瞭に書けるように努力します。
意義のない、言葉遊びというのは、私のようなのをいうのであって、
「言葉遊び」をする者同士で、遊び続けていれば、それは「言葉遊び」に
とどまらない、事実上の影響を作り出してしまう面があるのではないですか?
言葉を聞いて、さしたる説得性も無いのに了解して行動する人間は、
大勢いるのですから。
そうであれば、遊びが節度ある範囲にとどまるように、ルールなり工夫なりを
しようとするのは、意義のあることだと思いますよ。
世の中には、沈黙しない人の方が多いのです。
僕の文章が単なる「言葉遊び」と理解してよろしいのでしょうか?
そうであれば、その言葉はどのような意味、価値判断を込めて使用しているのですか?
もし、<私>を言うことが単なる言葉遊びであり、「そんなことはやめてほしい、それは嘘も百回
言えば真実になるような議論にすぎない(言いすぎですが)」と言いたいのであれば反論したいです。
まず真剣な言語行為と、不真面目で遊戯的な言語行為を区別する明確な区別がこの現実に存在するのでしょうか?
少なくとも哲学者がやっている言語ゲームは本人達は遊びでやっているのではありません。僕自身も含めて。
それが他の人達からは単なる言葉遊びにしか見えない、というのであればしょうがないですが。
ただ、真剣に事柄の真相を突き止めようという愚直なまでの哲学者がいることはわかってほしいです。
僕は<私>について真面目に考察してくれるレスを望んでます。
考える名無しさんの言っていることは「言説の効果」のことでしょう。
親切なお言葉ありがとうございます。
本題に戻ると、永井さんは<私>を永井均という人間から分離して考えているように思うのですが、
でもじゃあ、そのとき永井均を対象化してしゃべっているのは<私>なのでしょうか?<私>に思惟
する能力がないならしゃべることもできないはずです。でも永井さんの文章を読んでいるとそのように
読めてしまいます。
永井さんが<私>の視点から、永井均自身を含めたこの世界全体についての述べることなどできるの
でしょうか?それは単に永井均という世界内の一人の人間の言葉でしかない。
僕には永井さんが言いたいことが<私>では言えていない、という直感があるんです。
<私>は世界の中心性、原点性を現す形式的な概念でしかない。
でも永井さんが言いたいことはその<私>をも備えた具体的な何かだと思うのです。
その何かをうまく表現する言葉がまだ僕にはないです。
あくまでも仮説ですが、デカルトの「省察二」のまさに懐疑の究極にまで達した精神に、
独在性、独今性をプラスしたものが永井さんの言いたいことだろうと思うのですがどうでしょうか?
この際、永井さんが言いたいこととは関係なくてもいいのですが、これが僕が言いたいことです。
もちろんこの精神はもはや懐疑の究極にまで達しているので、もはや己が身体を持ち、一人の人
間ということすらわからない状態にきている。だからもはや、「それ」とも「この」とも指示できない。
「存在のかたまり」とでも言ったほうがいいのかな。もちろんそれが、世界そのものです。
あくまでも「省察二」の精神です。「省察三」になると神が出てくるから。
永井さんも「<私>のメタフジィックス」でデカルトの精神に触れているが、デカルトが独我論を
放棄する過程を攻撃することで終わってしまう。
デカルト本人の方法的懐疑はあくまでも、炉部屋の中での安全な懐疑だとすれば、ヴィトゲンシュタイン
はその懐疑を半ば真剣に持ちながら生活を送った人と言えるのではないか?永井さんの、そのような
ヴィトゲンシュタインの懐疑には本気(文字どうりの意味で)で付き合っていないので、永井さんの独我論
は形式的な議論に堕してしまうのではないか?つまり永井さんは独我論的境地では生きていない。
哲学的には考察するけども。もちろんそのほうが幸福だろうけど。
永井さんの議論の形式性にはこんなところに由来しているのではないでしょうか?
こんにちわ。
>>5 >永井さんは<私>を永井均という人間から分離して考えているように思うのですが、
でもじゃあ、そのとき永井均を対象化してしゃべっているのは<私>なのでしょうか?
〈私〉が永井という人間の能力を使って語っていると考えては?
>僕には永井さんが言いたいことが<私>では言えていない
しかし、なぜかそれは伝わっています。独在性は言語ゲームのなか
には決して入ってこないのです。が、そうして、「言語ゲームと本質的に
無関係であるという仕方で、言語ゲームと関係するのである。」・・・のです。
>>2 >
世の中には、沈黙しない人の方が多いのです。
でも実際には沈黙してる・・・。
ビタミンさん、レスありがとうございます。
>〈私〉が永井という人間の能力を使って語っていると考えては?
ということは<私>には何か意思する能力があるのでしょうか?僕の考えではそんな能力は<私>
にはありません。<私>は、ある一人の人物に備わった世界の中心性、原点性、比類なさ性、つま
り独在性を表すだけの形式的な概念なのですから。
言語ゲームの中では独在性は伝達不可能ということを僕は問題にしているのではありません。(もちろん
、そのようなことをすべて考慮したうえで僕は述べているのですが)
文字どうりの意味で、永井さん自身が言いたいことが、永井さんが独在性にこだわるあまりに
言えていない、と僕は思っているのです。独在性にこだわるあまり片手落ちの議論になっている。
落ちたほうを補完するのが、デカルトの精神だったり、ヴィトゲンシュタインの様々な考察だと
思っているのです。
独我論の出発点は唯一の比類なき「存在のかたまり」で、それが、なぜか独在性をプラスしたデカルトの
精神だった。この精神は自分が人間であることや身体を持つことは定かではないが、かろうじて思惟したり
意思したり、疑ったり、信じたりすることができる。そして、なぜかその精神が身体を持った特定の一人
の人物だった。
永井さんは、<私>が特定の人物から離れることを想像することができない、と言っているけど、
それは永井さんが想像=空間的、延長的イメージを描いているから当然のことだ。独在性をプラス
した思惟する精神であれば、特定の人物から離脱可能である。思惟と想像は違う。<私>をこの
ような精神に変形したほうが独我論に具体的な中身を与えると思うのですが?
ヴィトゲンシュタインは「存在のかたまり」が、なぜか一人の人間として生きなければならないことに、
心底驚いているし、苦痛を感じていると思う。
上記の僕の議論は事柄をかなり哲学的に歪曲して再構成したものですが、こんなふうに僕は考えてます。
永井さんの功績は言語ゲームの中での独我論の語りについて考察したことだと思う。
「・・・と本質的に無関係であるという仕方で、・・・と関係する」、
この言い方って、思考(言葉)の限界でもがくとき、ついしちゃうよ。
ぼくちんもそう言っちゃうときあるから、
そうとしか言えなくなっちゃうのは分かるんだけど、
結局そう言うまでのプロセスをどれだけ分節化できるか、に重要性があるのであって、
つまり「・・・と本質的に無関係であるという仕方で、・・・と関係する」
という言い方の価値を決めるのは、この言い方に内実を与えるプロセスなのかな?
この言い方って「否定神学的」って評すれば、いいの?なんか泥沼気分・・・。
なかなか難しいんですが、とりあえず…。
>10
>ということは<私>には何か意思する能力があるのでしょうか?僕の考えではそんな能力は<私>
>にはありません。<私>は、ある一人の人物に備わった世界の中心性、原点性、比類なさ性、つま
>り独在性を表すだけの形式的な概念なのですから。
永井のいう<私>は、必ずしもそういうものではないと思われます。
『転校生とブラック・ジャック』では、≪私≫は、(今見えているもの全体を指して言う)「これ」とか、
「世界」とかと、同じ意味であると論じられているので(と私は思う)。
中田氏の言う「存在のかたまり」と、それほど違うものとは限らないんじゃないかと。
ただ、その辺は、読んでもわかりにくいとは思います。
まるで的外れかもしれませんが、一応。
>11
>独在性をプラス
>した思惟する精神であれば、特定の人物から離脱可能である。
思惟する精神
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
( ・∀・)←特定の人物
( )
| | |
(__)_)
↓↓↓↓↓↓
特定の人物から離脱した、思惟する精神
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(身体がない)
もし、中田氏がこういうことを主張したいのだとすると、それは不可能ではないかと。
特定の人間(猿とかロボットとかも含まれるかも)のものではない思考とか精神というの
は、理解不能でしょう。
そんなことを言いたいわけではないか。スマソ
15 :
考える名無しさん:01/10/23 17:13
>>1 ><私>というものは思惟する能力とかあるのでしょうか?
<私>という表記は「これが私である」という<事実>を表すために使われている
だけなので、<私>そのものが思惟能力を持っている必要はないように思う。
『転校生とブラック・ジャック』でも「自己意識のない≪私≫」というような話が
でていた。
色々な書き込みありがとうございます。
>12 僕も否定神学的に考えたくなる時もありますが、なんとか思索を続けてます。僕は、私という
語の日常的な用法を分析しているのですが、私というのは単に発話している特定の人物を
のことを指しているだけで、独在性を現すのに別に無理して使わなくてもいい気もしてきます。
>14 某スレ66さん。僕が11で言っていることを、独り言のように理解すれば、11のことは理解可能
だと思っているのですがどうでしょう?「離脱」という語が間違いかもしれませんでしたね。「離脱」
を「疑っている」という言葉で言い換えたいです。特定の人物であることを疑っている。「省察」をじ
っくり読めばわかるのですが、デカルト本人も物質の証明や、自分の身体の証明が完全な証明から
導き出せないと認めてます。ただ常識に訴えて、自分の身体や物質の存在をを本気で疑うことは分別のある
人がすることではない、と言うだけ。(賢明な判断ですが)明証判明に認識できるのは、私の精神と
神のみ。僕は神は不必要だと思っているので、明らかなのは私の精神のみ。こんなふうに考えること
ができるとするなら、私の精神のみが世界そのものである、と思考可能では?もちろん、すぐ感覚的
なものがその思考を邪魔するが。
「転校生とブラックジャック」は読んだことありますが、この本やたら難しく感じます。まだ理解し
きれていません。ただ永井さんが独在性の概念でもって、様々な思考実験をして遊んでいる、
まさに独在性の形式的な議論に堕していると感じてしまうのですが。そんなことより道徳の問題
と独在性がどう交わっていくのか、考察していくほうが実りあると思います。
これは何度強調してもし過ぎることはないと思うのですが、<私>を語るやつは一体誰なのか
?「これ」とか「世界」とか語るやつは何なのか?その辺が永井さんの議論で不明瞭だと考えま
す。彼の議論だと、語っているのは、ある時は永井という人間、ある時は永井という人間をを対
象化している何か、そのような視点のズレがあると思う。そこをもうちょっと考察してほしい。だか
ら僕は苦し紛れにデカルトの精神を持って、このズレを統一しようと考えたのです。
ちなみに「存在のかたまり」なんてアホッっぽい表現やめたほうがいいかもしれませんね。
>語っているのは、ある時は永井という人間、ある時は永井という人間
をを対象化している何か、そのような視点のズレがあると思う。
誤解してたらごめんなさい。てへへ。
永井さんの文脈だと、それを語っているのは、現実的には永井という人間
だけど、論理的には〈私〉が永井とは別の思推する何かに、結びついてい
てもよかった、しかし、実際には永井という人間に偶然の結果、結びつい
ているので、上のように語らざるをえない。でも中田さんはこの差異を
もっと明確にして欲しい、ということでしょうか?中田さんが問題にし
ているのは〈私〉と《私》の差異の事では無いのですね。・・・???
>>16 酔っていてゴメン。しかし中田ちゃん、根詰めすぎも体に悪くてよ。
ぼくちんは君の書いたもの、面白いのだ。
>「私」という語の日常的な用法を分析している
やっぱりあれかしら、『探求』のヴィトゲンシュタインみたいに
教える人と学ぶ人の原-コミュニケーション(?)の場面に即して
色んな言語ゲームにおける「私」の諸用法をチェックしてるのかしら?
ちなみに的外れな質問なんだけど、永井さんに哲学させ、本を書かせるのは、
<私>かしら、それとも言葉そのものかしら。
言葉に襲われて語る、という感覚、永井さんあるのかな(ないか・・・)?
19 :
考える名無しさん:01/10/24 10:37
中田さん。
<私>は「見物者」ですよ。
思考」「欲望」「感情」なんでもいいけど、それらは<私>を中心に見た場合、その「属性」という見方ができると思うよ。
そもそも、永井の著作以外に哲学書を読んでないような厨房が書き込みすること自体、間
違ってるのかなあ…まあ、永井関係スレだからいいですよね(わら
例えば、「赤い色が見える」というのは、心の中に赤いものが現れる…というようなことで
はなく、公共的な場で、赤い物と青い物を識別するなどのしかるべき行動ができる、とい
うことである。
というような、どっかで聞いた話をだいぶ捻じ曲げていそうな発想を、とりあえず前提に
してみます。これを勝手に精神活動一般に拡大してしまうと、「「精神活動ができる」とい
うのは、公共的な場で、精神活動と認められるようなしかるべき行動ができる、というこ
とである」となると思われます。
(例えば、難しそうな文章を見てウンウンうなったり、思いついたことをメモしたりブツ
ブツつぶやいたり、まとまったら2chに書き込みしたりすることが、精神活動である。内
面に何かある、とかいうのは、必ずしも必要ない)
そうすると、≪私≫というのは、精神活動ができることとは関係なさそうですね。≪私≫
というのは、そこから世界が開けている原点であるにすぎず、精神活動と認められる行動
を全くとれない≪私≫というのも、想像可能だと思われます。
でも、どう見ても、中田氏の論じてることとは、だいぶずれてるよなあ ( ;´Д`)
公共的な場で認められる精神活動ではない(とくに、言語で表現できない)純粋に内面的
なものについては、どう考えたらよいのか、自分にはよくわからんのです。その辺のこと
が、問題を言語で表現することにこだわっている永井の態度と関係あるのかなあ、と勝手
に思ってるんですが。
まず色々な書き込みありがとうございます。こんなに書き込んでくれる人がいるとは望外の喜びです。
論点が錯綜しているので、なるべく明瞭に書くように努力します。
>15 「自己意識のない<<私>>」について。これはかなり哲学濃度の高い概念ですね。僕はこれには否定的です。
半ば捏造された概念だと思う。こんなもの持ち出されたら独在性についてあれこれ考えて、悩んだり、独在性
的感覚からくる他者や現実との葛藤って何なの?と思う。自己意識がないなら、こんな葛藤起こらないと思うのだが。
僕は「存在のかたまり」が一人の人間でならざるをえないことにこだわりたい。スピノザが<<私>>を実践した
と思う。「論考」のヴィトゲンシュタインもそう。しかし、スピノザは下界に戻ってこなかったが、ヴィトゲンシュタインは戻って
きた(「哲学探究」)僕は、そうゆうヴィトゲンシュタインに敬意を表したい。
永井さんの時おり見られる現実をバカにしたような発言は、やっぱ彼がスピノザの立場にあることを示しているんだよね。
だから、永井さん文章から独在性から由来する現実にたいする身悶えがあまり伝わってこない。ある意味彼はスマートすぎる。
彼の議論の形式性もここにあると思う。僕は永井さんに独在性と道徳がどう交わるのか真剣に考察してくれ、と声を大にして言
いたいです。それが彼をいやおうなく下界に引きずり込むと思う。僕は<<私>>にはあまり興味が持てません。
何度も同じことを言うようですが、<<私>>を述べているのは誰なのだろうか?こっちのほうが僕としては問題です。
>19 その文章はスピノザを想起されるのですが、何か関係がありますか?
「見物者」と言うと「観想者」のことを思い浮かべてしまいます。
でも何か見ているということは、何者かであるのではないでしょうか。その何者というのは一人の人間でしょう。
スピノザは一人の人間としての自己意識を消去したかっただろうけど、うんなものは無理なんで下界に戻ってこい!
と言いたい。たぶんこれはほとんど届くことが不可能な声でしょうが。
>17
>20 なんとなく問題が明確になってきました。僕が強調したいのは<私>も<<私>>もそれが一人の
人間の内で起こっていることである、それがこの問題の認識の欠かせない出発点だと思う。しかも
その一人の人間というのが私(中田)である。私しか、なぜか<私>や<<私>>は起こっていない。
というか、ほかに起こりようがないし、それ以外の可能性を確かめようがない。(火星の思考実験
なんて意義があるのかな?<私><<私>>を人間の同一性の問題と関連させることは意義があるか)
この現実をまず直視することが欠かせないと思う。たしかにこの現実はビタミンさんのいうとうり論理
的には偶然だけど、それがすべての問題の始まりじゃないかな。永井さんにはこの偶然性を真正面
から引き受ける覚悟が足りないと思う。その点ヴィトゲンシュタインは真剣に受け止めたと思う。
だから永井さんの言葉は、ある時は人間永井の視点から、ある時は<私>の視点から、ある時<<私>>
の視点から述べられるように感じられると思う。だけどやっぱ本家本元は人間永井でしょう?そこから
しか言葉は発せない。ヴィトゲンシュタインの文章には、そのような視点の使い分けはないと思う。
彼はこの偶然性を真剣に生きたから。
ビタミンさん僕が言いたい視点のズレってわかってもらえたでしょうか?具体的に言うと永井さんが一人だけ
現実を超越できるかのような言葉に視点のズレを感じます。こういう言葉を僕は、<私>や<<私>>の視点から
の言葉と位置づけています。ヴィトゲンシュタインの言葉も、違う惑星から来た宇宙人みたいな言葉だけど使い分け
がないぶん、これは現実に生きている人間ヴィトゲンシュタインの言葉だなー、と実感できます。永井さんが独在性
と道徳の問題をちゃんと考察するようになれば、地に足のついた使い分けのないシャキッとした言葉、つまりああこれは
人間永井の言葉なんだなー、と実感できるようになると思うのですが。
僕も14さんの最後の文章はよくわかります。
>(とくに、言語で表現できない)純粋に内面的なものについては、どう考えたらよいのか、自分にはよくわからんのです。
僕もわからないです。こうゆうこと考え出す泣きそうになるんですが(笑)
ただ、哲学の言語ゲームをすることで、言語で表現できないものが間接的な形で現れているじゃないでしょうか?
独在性は、言語ゲームには本質的に無関係なかたちで関係すると言いますが、思いっきり哲学の言語ゲームには
関係している、というかそれが哲学の言語ゲームを突き動かす原動力として働いている、というかたちで関係する、
と言えるのではないでしょうか?
17>中田さんが問題にしているのは〈私〉と《私》の差異の事では無いのですね。・・・???
僕の文章を読めばわかるとうり、僕は、そのような差異を問題にしたいわけではありません。むしろ、そんな差異
はあまり意味があるのかな?と思います。僕は、<<私>>は哲学者が捏造したものだと思っているから。たぶん
<<私>>は哲学者の夢のような願望を表しているんだろうな。哲学者の理想郷でしょうな、<<私>>の世界は。
でも、うなものは君の願望だよーうなものは実際にはないよー、と僕は何回でも言い続けましょう。
>20 ≪私>>というのは、そこから世界が開けている原点であるにすぎず、精神活動と認められる行動
を全くとれない≪私≫というのも、想像可能だと思われます。
僕が問題としているのは、その想像しているやつは誰だ?なのです。
>18 泥酔小鳥さん。永井さんに本を書かせるのは永井という人間でしょう。それは間違いない。
永井さんは自分は<私>が自分に備わっていることに驚いているんじゃないの?
普通に、私という語を、実際の日常でどう使用でしているのか、を分析していたのですが、言語を学ぶ
場面というのは思いつきませんでした。かなりそれはいいアイデアですね。私という語が使えない
人間を考察してみるのもおもしろそうです。
そう考えると、人間永井を対象化して語っているのも、永井さんです。
まあその場合、人間永井の超越論的反省と言えばいいじゃないかと思う。
色々考えた結果、永井さんの過ちをつけとめたな、というところまできたように感じます。
それは今日は記します。
永井さんの<私>理論の批判的検討。永井さんの混乱は「私」という語の乱用にあり。
永井さんの誤謬、混乱は、私という語を独在性を表すために使用することにあると思う。
私という語を独在性を表記するためにつかうことで、何かありもしない精神的実体を捏造している。それを具体的な例を挙げながら
検討します。
永井さんは、なぜ僕は存在するの?という問いから始める。そして、その問いは人間永井の存在を問うているのではなく、なぜか
人間永井に付着した<私>の存在を問うているのだという。しかし、そうすると、<私>が、なぜ僕は存在するの?とあたかも問う
ているように読めてしまう。「僕」とは発話者のことを指すんだからね。そこで、<私>の精神的実体化が起こっている。だけど、単にこ
の問いは人間永井が問うているだけでしょ。正しい問い方は、なぜ私(人間中田)に、独在性が備わっているのか?です。
問いの発話者をちゃんと人間に据えねばならない。
提案。独在性の表記としての<私>を廃棄すること。「私」という語は発話者を指す語なのだから。「私」という語を採用することにより
あたかも<私>がしゃべっているかのような幻想を与えてしまう。しかも実は<私>という語を使用することで、<私>という語を使用
する人間本人自身が、その幻想に巻き込まれてしまうんだよね。
独在性は、単に私(人間中田)に備わっている、世界の中心性、原点性、存在の仕方の比類なさ性を現しているだけです。
<私>という語の精神的実体化は、永井さんが、「魂」という語をしようすることからも読み取れる。
「魂に対する態度」という本は、上記の幻想の中での思考と読める。
もう一つ例を挙げましょう。
永井さんは、永井に付着した<私>が、人間永井から消えたとしても誰にも気づかれない、という。気づかれない、という言葉
使いにまさに、<私>の精神的実体化が起こっているんだよね。だけど、本当の独在性は、そんな思考実験している人間永井
にしかないんだよ。文字どうりの意味でそこにしか独在性はない。永井さんは<私>を使って様々な思考実験をするけど、本当
の独在性は、そんな思考実験をしている人間永井にしかない。すごく独在性というのはデリケートな概念だと思うけど、永井さんは
そこがわかっていない。
正しい問い方はいくつか考えられる。
独在性を備えた私(人間中田)が、なぜ存在するのか?
なぜ私(人間中田)に、独在性が備わっているのか?
なぜ存在のかたまりが、私(人間中田)という一人の人間なのか?
独在性は、絶対に独在性を問題としている人間と切り離せない。<私>は、人間永井じゃなくて、ほかの
人間に付着することも可能だった、っていうけど、それは嘘独在性を問題としているだけで、本当の独在性
はそんな思考実験をしている人間永井にしかない。
僕が考えるに、独我論的問題は主に二つの問題から成り立っている。認識論的(心理学的)問題と存在論的問題。
他人の心は認識できるのか?という認識論的(心理学的)問題。この場合思考は外向きになっている。
私(人間中田)は、なんて比類のない存在の仕方をしているのだろう?これはなんなんだ?誰も、私(人間中田)
がこんな存在の仕方をしているということがわからないのか?誰も、私が(人間中田)こんな存在の仕方をしていること
を考慮してもくれないのか?、という存在論的問題。この場合思考は内向きになっている。
他にも真性独我論として、他者は存在せず、私の世界が世界そのものである。私の死とともに世界も終わる、という
問題もあるが、僕はそれを認めない。そんなことを認めるのはやぶさかではないが、だったらそんなこと他者に語らない
でくれ、と言いたい。真性独我論者の哲学は、自分が死ぬまで自分の独我的思いを沈黙し通すことによってしか達成
されないと思う。
そんな人がいたとしても、単にひっぱたけば目を覚ます問題と思うのだが。それでも目を覚まさなかったら、「サヨウナラー」と
言うしかないか。
やっと永井さんの概念装置の中で考えることから脱せそうです。独在性を表記するのに「私」という語を使用することが間違っている
、それによって<私>の精神的実体化が起こっている、という確信が正しいか、もう一度彼の諸著作を読み返して確かめたいと思います。
>25
><私>の精神的実体化が起こっている。
>正しい問い方は、なぜ私(人間中田)に、独在性が備わっているのか?です。
>独在性は、単に私(人間中田)に備わっている、世界の中心性、原点性、存在の仕方の
比類なさ性を現しているだけです。
一応
>>20のような考え方を前提にすると、確かに、考えるのは特定の人間です。その人
間が、なぜか≪私≫である、ということになると思います。よって、
>23
>>20 ≪私>>というのは、そこから世界が開けている原点であるにすぎず、精神活動と
認められる行動を全くとれない≪私≫というのも、想像可能だと思われます。
>僕が問題としているのは、その想像しているやつは誰だ?なのです。
この問いに対する答えは、想像しているのは特定の人間(14)であって、それがなぜか
≪私≫である、ということになると思います。
ただ、<私>の精神的実体化というのが、よくわからないんですが…。
>27
><私>は、人間永井じゃなくて、ほかの人間に付着することも可能だった、っていうけ
ど、それは嘘独在性を問題としているだけで、本当の独在性はそんな思考実験をしている
人間永井にしかない。
このあたりの話は、可能世界という考え方とか、物理的に不可能(かもしれない)ことに
ついての思考実験の意義とかが関係してくるようなので、厨房にはわかりにくいんですが
…。とりあえず、現在は例えばAという人間が≪私≫であるが、これからBという別の人
間になる、ということは、超越論的に不可能なのだそうですが。
(『転校生とブラック・ジャック』第3章、第5章より)
超越論的に不可能って何なのか、誰か教えて(わら
>28
>他人の心は認識できるのか?という認識論的(心理学的)問題。この場合思考は外向き
になっている。
この問題は、永井は論じていないですよね。そのかわり、他者とは可能世界である、とい
う考え方(『転校生とブラック・ジャック』第6章)が独特なんだろうか。
>他にも真性独我論として、他者は存在せず、私の世界が世界そのものである。私の死と
ともに世界も終わる、という問題もあるが
これは、永井の議論とは関係ないと思うのですが…。
32 :
考える名無しさん:01/10/25 20:47
33 :
考える名無しさん:01/10/25 20:50
↑ 上のリンク間違いです(^^;
「独我論を論破してください」スレです 失礼しました
34 :
幼児的全能感:01/10/25 21:26
<私>というのは単に主体の視点の事では。
他人が自分と同じように主体の視点を持っているか客観的に検証できない
事を立脚点に独我論が生じる。
「客観的」と言っているものも主体の産物であるという事から現象学。
僕は中田さんの問題意識をどうやら理解できないようなので、しばらく
傍観しようかな。なんか気になることがあったらレスに挑戦してみたいと
思います。ぼくは〈私〉の存在の「偶然性」に大変、心惹かれる。そして
「ブラック・ジャック」という神の視点について。誰も原理的に知ることが
出来ないけれど、本当はそうであること、っていうものに興味がある。
「転校生とブラックジャック」にでてきたE君は僕の問題意識を大体において、
代弁してくれたと思うな。つまり僕はE君と似て哲学的にレヴェルが低いんです
ね。 まあ、このスレは個人的に好きなので、中田さんや、みなさんの考えを
教えて下さい。
まず最初にことわっておきたいのは、多分僕が構想する独我論と、永井さんが構想する独我論は違う、ということです。
今、僕は永井さんと僕はどこが違うのか、その差異を明確にするための思索に集中しています。だから、僕が、永井さん
のここが間違い、と言っても、たぶん僕の独我論の基準から、永井理論を裁断しているのでしょうな。だから、このスレは
永井理論を叩き台にして、僕の独我論を構想する場です。それでもよかったら、身に来てください。スレの名前に永井さんの
名前を使ったのはちょっとまずかったかな。ごめんなさい、永井さん、勝手に名前使わせていただきます。また、永井さんの名前
にひきつられてきた方すいません。僕は、もう僕の独我論しか語ることができません。
14さん、28は単に僕が考えを整理するために書きました。もちろん、28は永井さんに関係ないことはよくわかってました。
混乱させてすいません。
ただ、永井理論を一回カッコに入れて、もう一回自分の頭で独我論のことを考えようよ、って呼びかけのつもりで28は書きました。
以上のことを念頭において僕の文章を読んでください。
ただ、中心軸がないと議論が混乱するので、独我論の第一人者である永井さんを中心に据えればいいと思ってます。
他に前置きとしては、僕は<<私>>がまだよくわかっていない、のかな?みなさんの文章を読んでそんな感触をおぼろげながら
持ちます。「転校生とブラックジャック」をよく読んで勉強してきます。
あとは、<私>の精神的実体化ですが、何度も言うようですが、独在性に私という語を使うことが、すべての混乱、錯覚の源のような
気がしているのです。その僕の混乱の結果が、<私>の精神的実体化、という文章なのです。私という語はだって発話者を指す
言葉でしょ。私という普通日常的によく使う語を、独在性を表記するために<私>という奇妙な概念に変形させることが問題。その時
私という語が持っている日常的な意味が、<私>という語の意味に感染する可能性があるし、それが実際起きていると思う。
そのいい例が永井さん本人だし、僕も一時は、私という語の日常的意味と、<私>という独在性の意味をごっちゃにしていた。
そうゆう混乱、誤解を防ぐために<私>という表記はよろしくない、と思っているのです。
僕は独在性って、ある人間に備わった性質と考えているのです。もちろん、その人間は私(人間中田)しかいない。たしかにそれは
歴史的に例がない一回的で唯一の出来事だ。まさに奇跡的だ。だが、僕はそれにとまどいを感じている。この出来事に対処するた
めの方法なんてどの本にも書いてないし、誰も教えてくれない。僕はこの事態がなんなのか考えている、というわけです。
だけど<私>と表記することにより、それがあたかも一つの存在者のように理解されてしまうし、永井さんもそのように理解している。いい例が、
「魂に対する態度」にでてくるような、あの枝分かれ分岐点のような図。<私>はエリザベス女王でもよかった、とかいうやつ。
<私>を存在者のようにみなして、人間永井という存在者と同列に置くことはカテゴリーミステイクだと思うのですが。
独在性は存在者ではなく、あくまで存在の仕方にかかわる性質なんですよ。
だから、ビタミンさんが問題とするような偶然性の問題は僕にはあまりない。たしかに私(人間中田)に独在性が備わっている
のはなんの理由もないけど、だからって今、私(人間中田)に備わっている独在性が他の人間に付着することができる、なんて
考えるのは錯覚ですよ。<私>を存在者と見立てることからくる錯覚です。
<私>の存在の比類なさ、と表現すること自体、何か<私>という精神的実体、存在者がいるかのような錯覚を与える。
僕が提案したい表現は、
私(人間中田)の存在の仕方の比類なさ、です。
あと、僕が永井さんの理論と食い違う所は、永井さんが、この世界は私の世界だから、私はなにをしてもよい、
という表現にある。
僕の考えでは、独在性は、私(人間中田)に備わる比類なき存在の仕方に関わるだけです。そこから、まるで
私が世界の限界かのような結論を与えることはできない。別にある個人がなにをしてもよい、のは自明の事実
だけど、独在性を盾にとって、私はなにをしてもよい、という議論には欺瞞性を感じる。独在性という前置きはいらなくて
単に私は私のしたいことをするでいいじゃないか。
僕は永井理論って、たんに人間永井の精神的問題をただ存在論的問題に転化している部分が多いじゃないか?と思っている。
永井さんはレイ,モンクの「ヴィトゲンシュタイン」の書評で、ヴィトゲンシュタインは精神的な意味で独我論を問題にした、と言って
自分は存在論的に独我論を問題にしたい、みたいなことを言っているけど、そうスパっと精神的問題と存在論的問題を分けることが
できるのだろうか?精神的な意味での存在の感じ方が、存在論的な問題に影響を及ぼすことがあると思うのだが。僕にはある面では
永井さんが現実から逃避したいがために、<私>という存在論的な問題に逃げ込んでいる、っていう印象がぬぐえない。
だから僕は道徳と独在性はどう交わるのか、考えてほしいと常に思っている。
ここで述べたことは、実在論な問題に対する理解が絡んできて難しい問題ではありますが。
たぶん僕が考えている存在論と、永井さんが考える存在論はだいぶ違うんだろうな。
永井さんは、私が世界全体を包んでいるような表象を持っているけど、僕は独在性って、単に歴史に
類例がない特異な存在の仕方にただ関わってる、と考えているので。
僕が考えたいのは、独在性の問題が人間の生にどのような影響を与えるのか、なんですね。
>34<私>というのは単に主体の視点の事では。
視点というのが適切な表現かどうかわからないけど、そのような視点を持たざるを得ない主体の生に
僕は興味があります。
僕も神のような視点を昔は夢見ていたけど、やっぱり独在性を備えた一人の人間として生を送らざるを得ない
、という事態に僕は驚きを感じるし、問題を感じる。つまり僕も昔は神のような視点に平然と身を置いていたわけです。
でもやっぱ僕って、一人の人間であらざるをえないんだね、ということから僕の思索は始まっている。永井さんの思考とベクトル
が逆なんだろうな。永井さんは天上界に行こうと行こうとする。僕は逆に下界に戻ろう戻ろうとしている。
>36 一種の暴言ですね。すいません。スレは誰の所有物でもないですからね。僕に自分の思索を
書き込む場をください、という表現がいいですね。まあやっぱこれは永井スレなので、永井理論
についてみなさんどう考えているのか教えてください
超越論的に不可能って、世界の構造が絶対そんなことは許さない、ってことじゃないかな。どんなに時間がたって
科学技術は進歩しても。昔は人間が空を飛んだり、まして月へ行くなんて不可能と考えられたけど、今は可能となった。
つまりそれは超越論的に可能だった。
41 :
幼児的全能感:01/10/26 16:58
ところで中田さんは不思議の輪MLにいた中田さん?
心脳問題MLの方へは参加されてますか?
>41 たぶん違う中田さんだと思います。
閑話休題
どうやら僕は「転校生」前の古い永井さんを考察の対象としていたので、これからはなるべく永井理論を最新の著作
「転校生」に限定して論じたいと思います。で、これからはしばらく「転校生とブラックジャック」の注釈でもしようかと思います。
序章
「私が存在するとは、いま存在することである。私が数十年間、永井均として存在しつづけたきたという事実は、
いまなぜか私が永井均であるという事実に基づいて、今作り出されている。私の存在は単なる奇跡であるから、
それはいつでも消滅しうる。だが、消滅しても、それは誰にも知られない。だからある意味で、それは決して消滅
しない。また、ある意味で、消滅したときすべてが終わる。」(P6-7)
永井均的独我論は、すべて、神の視点の想定がなければ成り立たない。神の視点を想定して独我論を考えない大森壮蔵さんの
ほうが人間的な意味での独我論的感覚はある。永井独我論にはそれが希薄である。永井的独我論、それは神の視点を想定しな
ければ成り立たない。これは何度強調してもいいと思う。<私>は他の人間でもありえた、という思考実験も、火星の思考実験も
神の視点がないと成り立たない。どちらが<私>なのか確かめるのは神の視点に立たなければ無理だからだ。
むしろ、こう言ったほうがいいのではないか?ここの文章で言う「私」とは神のことではないか?「私」を神と言い換えても意味が通じる
と思う。永井さんは、神が一人の人間になぜか内属しているのに驚いているだけなのではないか?逆に言えば、なぜ永井さんは
自分が神の視点を想定できることをを問題としないのか?その神の視点の想定が、永井的問題のすべてを作り出しているのに。
一人孤独な神がいる。(一人しか原理的にいないのだから、本当は孤独とも言えないのだが。孤独とは他者がいて用いることのできる
言葉だ)それが私だ。
一章
(P26-27)の図。永井さんも、この図は神の視点からの図と言っているが、なぜ人間永井がこんな視点を
想定できるのか自体を不思議と思わないのだろうか?
「いやいや、今の話は「これ」ということで、君と僕とに共通の世界の世界を指せるという前提があるけど、それは
できないんだ。きみとぼくに共通の「ぼく」なんてないのと同じことで、きみとぼくとに共通の「これ」なんてないんだ」(P23)
この言葉がおかしいな。なんで一人間である永井さんが共通の「これ」なんてない、と言えるのだろう?ただ、共通がどうか
わからない、というのが一人間としての言葉ではないか?こうゆう言葉を読むと、あなたは何様だ、神か!と少し腹立たしく
思う。上記の引用文をおかしいと思わない人はたぶん、永井さんに相当洗脳させられている人でしょう。
「学生K うーん、むずかしいな。ますます初歩的になりますが、そもそもなぜ、ぼくとKとが違うものでありうるのか」(P30)
そりゃ、K君が神の視点をあまり理解していないからでしょう。K君が普通の人間という証拠。でも、こうゆう意見が一番ま
ともだし正論だと思う。K君をバカにする人はたぶん相当永井さんに洗脳されている。
「でもほんとうは、そのうちのひとつが、まさにこれなんだよ。それが現実だ。それが出発点だ」(P34)
彼は一体何を言おうとしているのか?すこしおかしさ爆発なんだけど。この発言はかなり私的言語っぽ
いし、私的言語として理解しないと永井さんが言わんとしたいことがすり落ちる。公共的発言として理解
すれば、発言の真意が見失われる。難しいすね、私的言語問題。
ちなみ、この章で永井さんは「これ」という言葉を多用しているけど、彼は元来、指示できないものを指示
しようとがんばっている。そしてここには正誤の可能性がない。(公共的に確認できない)世界内に事物で
たとえば、「このイス持ってきて!」という「これ」の用法は確かめることができる。指示したイスを持ってこな
ければ、発話者が「違う、違う、このイスだよ」と間違いを正すことができる。しかし、この章でも永井さんの
「これ」は、そんな用法ではない。まさに「これ」の私的言語的用法の連発。絶対にこの意味での「これ」は
他者には何を言っているのかわからないはず。でもなぜかこの章全体が、「これ」を多用しながらも話が通じ
合って議論しているんだよな。おかしいよな。この章全体が奇妙な会話だ。この章全体をおかしいと思わない
人はかなり永井さんにやられています。僕のような立場を学生Mとして登場させてくれよ、永井さん。
この問題は二章でまた触れるでしょう。
二章
「もし「青い」と言うなら、本当は青くないことがありえ、それが他者から指摘される可能性がある。しかし、青く
見えるものが本当は青く見えてない可能性はない。もう一つは「私」という点である。もし「D」と言うなら、私が
自分がDであると思い込んでいるだけである可能性は考えられるが、「私」にはそれがない。誰も自分が「私」
であると誤って思い込むことができない。そう思う限り、「私」であるという思いはつねに正しく、そこに誤りの可
能性がない。」(P42-43)
永井さんによると、それが意味論的な誤りえなさ、と存在論的誤りえなさである。
しかし、そもそもここに正誤の基準自体がありうるのであろうか?永井さんが誤りの例を挙げていないのがその
なによりの証拠だ。例を挙げ様にもあげられないだろうな。正誤の基準がないところに、誤りえない、と言う
のはおかしくないか?そもそも規則というのは、規則に従っているのか、いないのか基準がありえるところで
規則と言えるのではないだろうか?そうすると公共的に確認できない私的規則をそもそも規則と呼べるのか?
それは語義矛盾ではないのか?
書いてて思ったのだが、独在性セミナーって一種の奇妙なセミナーだよな。あんまり参加したくない。話が通じ合っていること自体
なにかちょっと変だし、つーか本当おかしい。信仰宗教のセミナーっぽいよな。(参加したことないので想像ですが)いちばん、まとも
というか洗脳されていないのはE君やK君かな。C君は単なる哲学かぶれ。F君はたしかに頭が切れる。うまいねF君、技が。F哲学が一番
進化する可能性を持っているような。その点C哲学は発展の可能性がないような....L君は永井さんのスポークスマンみたいだし。
個人的にK君のレポートが見たい。
第三章以降は次回にお預け。真剣、独在的しゃべり場、今日はこれまで。(もちろん、みなさんは
これまで、とは言わず、どんどんご意見書き込んでください。)
とりあえず、わかりそうなところだけ、なんか書いてみます。
>45
>永井さんによると、それが意味論的な誤りえなさ、と存在論的誤りえなさである。
ええと、意味論的な誤りえなさと存在論的な誤りえなさの区別は、多重人格者の話のことでは?
私は暑いと思っているにもかかわらず、私の口からは「私は寒い」という言葉が飛び出た。
(ここで、暑いと思っている人格をP、「私は寒い」という言葉を出させた人格をQとする)
意味論的な誤りえなさとは、「私は寒い」という言葉の中の「私」とは、その発話者(この
場合はQ)を指していることの誤りえなさである。
存在論的な誤りえなさとは、暑いと思っているにもかかわらず自分の口からは「私は寒い」
という言葉が飛び出るなどという、妙な体験をしているのは、私(この場合はP)である
ということの誤りえなさである。
で、永井の言う≪私≫とは、存在論的な誤りえなさのほうに出てくる「私」というものの
ことを指している、と私は思ってるんですが。なので、存在論的な誤りえなさのほうの「私」
は、上では「この場合はP」とか書いていますが、本来は固有名では指せないはずです。
…だと思うんだけど、あんまり自信がないので、誰かチェックしてえ(笑)。
それと…
>しかし、そもそもここに正誤の基準自体がありうるのであろうか?
ここは、どうなんでしょうね。
この辺の議論は、「私的な感覚というものは(嘘をついているのでない限り)その本人が感
じればあるのであり、感じなければないのである」という考え方に基づいているように思
われます。よって、本人にとっては、正誤の基準はちゃんとある、ということになるようです。
(あまり自信ないけど、『ウィトゲンシュタイン入門』の関係する個所を参照)
しかし、この考え方自体に問題があるのかも、という気もします。。
>>47 ウィトゲンシュタインの「感覚日記」の話を聞いたことあるかな?
私的感覚の判断は誤りえないがゆえに、基準が存在しないということ。
原理的に反証が成り立たない判断、
「判断の事実」そのものが「判断の妥当性を判定する基準」となってしまうとき、
そのようなものを基準とは呼ばない。
逆に言えば、基準がないからこそ、その判断は誤りえない。
>48
47の文章は、『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)P177の以下のような記述に基づいて
書いたつもりでした。
しかし、「何であれ私に正しいと思われることが正しい」とは、私的言語の特性という
よりはむしろ感覚言語の特性、つまり「感覚は私的である」という文法的事実の言い換え
でしかない。「感覚」の文法に支えられていなければ、正しいと思われることが起こると
までは言えても、正しいと思われることが正しいとは言えない。そして、後者のように言
えるということは、正しさについて語ることができるということである。正しいと思われ
ることが正しいとは、正しいと思われないことは正しくないということであり、ここには
きわめて明瞭な正誤の区別が存在するからである。歯医者が何と言おうと、私の歯は私に
痛く感じられれば痛いのであり、私に痛く感じられなければ痛くない。だからといって
「痛い」という語が無意味だという人はいないだろう。
でも、例によってダメダメなことを書いてしまったような気もする。
とりあえず、私的言語の話は難しいのでおいといていただくとして、「私の歯は私に
痛いと感じられれば痛いのであり、私に痛く感じられなければ痛くない」というのは
成立しないんでしょうか。
これが成立しないとなると、少なくとも私の永井理解(非常にどうでもいいもんですが)
は大きく間違っている、ということになりそうなので。あと、『転校生とブラック・
ジャック』の第2章も、たぶん大きな問題を抱えていることになるでしょう。
>46
>書いてて思ったのだが、独在性セミナーって一種の奇妙なセミナーだよな。あんまり参加したくない。話が通じ合っていること自体
>なにかちょっと変だし、つーか本当おかしい。
これは、まあ、そのとおりですね(笑)。
永井の議論の多くに言えると思うんですが、このような議論は実は永井均さんという
一人の人間のひとりごとにすぎないのではないか。あるいは逆に、このような議論が
他人に理解され、議論として成り立つということは、実は比類の無い<私>なんてものは
ないんじゃないか、せいぜい多くの人に共通する≪私≫があるだけなんじゃないか。
こういう疑問が、おそらく永井の議論の最大の問題なんでしょう。
僕の理解力の及ぶ範囲で書きます。
>45
多重人格の話なのか。固有名では指せないと思う、に同感。永井さんは固有名でさせるようなものを問題としている
のではないと思うから。
>本人にとっては、正誤の基準はちゃんとある、ということになるようです。
私的感覚でこのようなことを言えるとするなら、私的言語でも同じようなことが言えるのかな?本人にとっての正誤の私的基準
というようなものを認めるのと認めないのでは、「これ」の私的言語的用法の理解に大きく影響すると思う。ただ、これは軽々しく
論じることができない問題だな。
48>基準がないからこそ、その判断は誤りえない。
僕は基準がないのに、なぜわざわざ、「誤りえない」、というのかがよくわからないです。
それとも、14さんが歯医者の例で言うように、感覚の公共的基準と私的基準の拮抗が問題となっているのかな。14さんの挙げる
Wに言わせると、感覚において私的基準のほうが、公共的基準よりも正しい、ということになる。逆にMKさんのWだと私的基準
というものを、そもそも基準と呼ばない。(「判断の事実」そのものが「判断の妥当性を判定する基準」となってしまうとき、
そのようなものを基準とは呼ばない。)
議論が難しくなってきたので、ここはゆっくり行きましょう。永井さんも哲学とは過程を楽しむことだと言っているし。
まず僕自身の問題として、僕は永井的言葉に従えば<<私>>よりも<私>に興味がある。<<私>>は本当に哲学者が安易に捏造
している概念だよ。どうして<私>から<<私>>に安易に飛躍できるのかが僕にはわからない。僕は神ではないから、僕の<私>
と他者の<私>が同じものかどうかわからないはずなんだけどね。僕たちは永井さんについて議論しているけども、まったく違った
ことを本当はお互い考えているのだけども、なぜか議論が通じ合っているだけかもしれない。
ただ14さんの言うように、永井のさんの一人言と言ったり、単に<<私>>しかない、と言ったりして、僕は問題
を片付けたくないな。(笑)その点F君の現実世界と可能世界という対概念が突破口を与えているようには
思う。
あと、僕は少し前に、<私>の精神的実体化と言ったのは、>43で神と言ったのと同じことを言っていると思う。
二章
「さて、どちらが、どちらに支えられているのだろうか。存在論的な誤りえなさというものは、常に、意味論的誤りえなさ
の単なる実例であるにすぎないのだろうか。それとも逆に、意味論的な誤りえなさは、他者においてもまた存在論的な
誤りえなさがある仕方で存在しているという想定に依存しているのだろうか。おそらく、この相互依存関係は本質的で
ある。「私的」という概念の、容易には捉えがたい哲学的意味がそこにあると思う」(P44)
この文章、僕にはあまりよく意味がわからないのですけど。だれか解説してくれないかな。他者を引き合いにだしている
ところの意味が特にわからない。(「私的」という概念の、容易には捉えがたい哲学的意味がそこにあると思う」)どうゆう
筋書きで、こんな落ちになったのかよくわからん。
>僕は基準がないのに、なぜわざわざ、「誤りえない」、というのかがよくわからないです
そもそも「基準がある」「基準に従っている」とはどういうことか考えてみよう。
それは何かを判断した時、それが誤っている可能性が保存されていること。
ある判断に対して、「場合によっては誤っていると言い得る立場」からの承認が与えられてはじめて、
それを「基準に従った判断」と言うことができる。
よって、私的感覚の判断は原理的に反証が成り立たない、つまり誤りえないので、
基準に従っているとは言えない。
誤りえない判断は、本来基準がない限り正しくも誤りでもなく、単なる「判断の事実」でしかない。
だから、誤りえないということを「常に正しい」というのは本当は不適切。
「正しい判断」とは「誤った判断」から積極的に区別されてはじめて成り立つ。
いわば、私的感覚の判断は正誤不分離の判断。
そこに区別を与える、自己を超越した立場からの審級があってはじめて判断の正誤が生まれる。
>54 誤りえない判断は、本来基準がない限り正しくも誤りでもなく、単なる「判断の事実」でしかない。
だから、誤りえないということを「常に正しい」というのは本当は不適切。
「正しい判断」とは「誤った判断」から積極的に区別されてはじめて成り立つ。
いわば、私的感覚の判断は正誤不分離の判断。
そこに区別を与える、自己を超越した立場からの審級があってはじめて判断の正誤が生まれる。
明瞭な言葉でわかりやすかったです。
特に「だから、誤りえないということを「常に正しい」というのは本当は不適切。」という言葉には納得。
MKさん詳しそうなので、質問してもよろしいですか?私的言語って、可能なんですか?不可能なんですか?
私的言語は、自分にしか意味がわからない言語のことですよね。暗号のようなものを考えると可能なように
見えるのですが...ただ、私的言語の存在を他者に認めようとさせようと他者に伝達してしまう時、私的言語
は私的言語でなくなってしまう、ということかな。
ところで、永井理論って玄人筋の人には興味持たれていないのかな?そうゆう人の参戦もぜひ期待したいのですが....
玄人筋に言わせると、永井さんの文章は中学生の文章だそうです。中坊の文章なら興味持ちようにも持てないのは
当然ですが。もしくは僕の文章がクソだから、レスを付ける気にもならないのか?それなら僕のことは無視をして、なん
か書いてほしいのですが。頼ンマス。
56 :
考える名無しさん:01/10/31 19:11
中田くん。まず改行のコツを覚えよう
>>55 私的言語は不可能ということになってる。
この結論は恐らく覆らないだろう。
そのことを示す好例がウィトゲンシュタインの「感覚日記」という思考実験。
内容はこれまでに大筋で説明したようなこと。
つまり、私的言語が可能ということは、規範に従った言語ゲームを私的に営めるということで、
自分にしか分からないある感覚を『E』と呼び、その感覚の出現を日記に記すという私的言語ゲームを考えると、
先に述べたように、その判断は正誤不分離であるため、「規範に従った」言語ゲームは成り立たないことになる。
自分にしか解けない暗号というのは、私的言語とは言えない。
暗号解読のアルゴリズムは公的言語で記述可能なはずで、それは単なる公的言語を用いた独り言ということになる。
実際に誰にも聞かれなかった独り言が私的言語というわけではない。
因みに私は玄人ではないので、玄人の事情に関しては分からないので悪しからず。
永井という人の<私>という概念は間接的に知り、いろいろと考えさせられた。
ただ、どうも見ていると≪私≫という概念まであるようだが、そこまで詳しくは知らなかった。
えっ。《私》ってゆうのは言語ゲームに回収され、
公共的な意味をもった単独性のことではないの?
帯に「〈私〉は《私》ではない」って書いてあるけど、
この俺の独在性は単独性じゃないよん!ってことでしょう?
>>58 要するに、語られる自分が《私》、語りえぬ自分が<私>ということかな?
>>59 そう言ってもいいと思います。ダメ・・・?
〈私〉と言っても《私》としてしか伝わらない・・・。
>54
>私的感覚の判断は原理的に反証が成り立たない、つまり誤りえないので、
>基準に従っているとは言えない。
>誤りえない判断は、本来基準がない限り正しくも誤りでもなく、単なる「判断の事実」でしかない。
なるほど、正誤不分離の判断なのだから、正しいとは言えないわけですね。誤りえないと
は言えるとしても。
しかし、「私は歯が痛い」と判断するときには、内面的にああいう感じがある時には歯が痛
いのである、という基準があって、それに従った正しい判断をしている、というような気
分がどうしても残るような気がします。正しいとは言えないとしても確かだ、とか明らか
だ、とかなんとか。
そういう気分を持ってないことには、少なくとも私には永井の議論は理解できなくなって
しまうので、不正確を承知で無理やり書いてみます。
私が「私は歯が痛い」と判断するのは誤りえない。私の私的な感覚のことなんだから明ら
かだ。しかし、私は他人の私的な感覚については知りえない。すると、他人が「私は歯が
痛い」と判断するのは、誤りえないんだろうか。誤りえないのだとしても、私の「私は歯
が痛い」という判断の誤りえなさは、そのような一般論とは違う特別なものなのではないか。
これを、53の『転校生とブラック・ジャック』からの引用につなげてみると…
>53
>意味論的な誤りえなさは、他者においてもまた存在論的な
>誤りえなさがある仕方で存在しているという想定に依存しているのだろうか。
これは、私が「私は歯が痛い」と判断することの誤りえなさ(存在論的)を出発点にして、
それと同じような誤りえなさが他人の「私は歯が痛い」という判断にもあるのだと想定す
る、ということだと思われます。
>存在論的な誤りえなさというものは、常に、意味論的誤りえなさ
>の単なる実例であるにすぎないのだろうか。
これは、そもそも一般に「私は歯が痛い」という判断は誤りえないものであり(意味論的)、
私の「私は歯が痛い」という判断が誤りえないのも、一般的な誤りえなさの一例にすぎな
い、ということだと思われます。
…もっとも、話の落ち自体は、よくわからん(笑)。
>>61 >しかし、「私は歯が痛い」と判断するときには、内面的にああいう感じがある時には歯が痛
>いのである、という基準があって、それに従った正しい判断をしている、というような気
>分がどうしても残るような気がします。
「私は歯が痛い」という判断は、「私は歯が痛い」という公的言語の使い方を学習することではじめて可能になる。
よって、その判断の正しさは私的に確かめられるのではなく、公的基準に照らしてのみ確かめられる。
例えば、後天的に手足などを失った人が、無いはずの自分の手足の痛みを訴える幻痛というものがあるが、
この幻痛は言語習得以前に手足を失った人間には現れないという。
痛みの存在自体が、それを表現する言語の習得によってもたらされるということ。
「痛い」という言葉を不自由なく使える人間がいたとすると、
彼は「痛みが存在するならば、痛みを言語表現する」と言えるが、この対偶をとると、
「痛みを言語表現しないならば、痛みは存在しない」ということになる。
「今私は何も痛みを感じない」と言ってもなお、実はその人は痛みを感じていたということはありえない。
極端な場合、「痛い」という言葉そのものを学習しなかった人間には痛みは存在しないことになる。
というわけで、基本的には「私は歯が痛い」という言葉の使用がその歯の痛みを在らしめているので、
歯の痛みがまず生じ、内的な基準に従って「私は歯が痛い」という判断が妥当だと決まるというのは一つの錯覚。
しかし、ではこういう錯覚がなぜ起きるのか、誰もいない所で一人転んでもその痛みがはっきりと判断できるのはなぜか、
といった話になるだろう。
これに関しては、抽象的かつ超越的な他者がそれぞれの判断に際して擬制されるといった、
少し込み入った話になるが、興味があれば大澤真幸の第三者の審級理論を読んでほしい。
第3回心脳問題研究会(Qualia III) 講演、参加者募集
今回は「私」(in the sense of 永井均)に絞って議論したいと思います。
日時、場所:2001年11月3日(土曜日)午後1時〜午後4時
ルノアール新宿区役所横店2階「マイスペース」第2会議室
新宿区歌舞伎町1-3-5 相模ビル2階
PROGRAM (変更されることがあります)
1、開会の挨拶
午後1時
2、第6回 qualia ml最も印象に残った投稿賞 塩谷賢氏に対するpresentation
ceremony
午後1時〜午後1時10分
3、講演(15分+議論5分くらい?)
塩谷賢「個別性の起源」
茂木健一郎 「私の心、他者の心、表象化の能力」
池上高志 「second causation」
長井清香 「生物における時間」
タケサカ 「<私>の同一をめぐる連続性」
羽尻公一郎 「私」の志向性と「言語」の志向性
以下未定。講演募集中。
午後3時頃〜 <私>の起源についてみんなで議論
http://www.qualia-manifesto.com/qualia3.html
飛び入りは可能なのかな。
突然スミマセン。M.Kさん
≫63
>例えば、後天的に手足などを失った人が、無いはずの自分の手足の
>痛みを訴える幻痛というものがあるが、 この幻痛は言語習得以前に
>手足を失った人間には現れないという。
この詳しいソースありますか?ご存知でしたらぜひ教えてくだちい
>>66 ネット上にソースあるか分からないな。
ただ、少し考えてみれば当たり前のことだよ。
言語習得前に事故で足を失った人がいたなら、
彼は自分の足の状態に関して「足が無い」以外の「足が〜」といった述語を
一度として妥当なものと認められることがない。
当然、自分自身でもある感覚を「これは足の痛みだ」と判断する根拠は全くない。
というより、「ある感覚」の存在を認知した時点で、
それは何らかの妥当な言語表現を与えられる特定の範疇に属していることになる。
「どこでもない痛み」をまず感じて、その後推論的に「残るは失われた足の痛みだ」などと判断はできない。
もしそんなことが可能なら「私はどこでもない痛みを感じる」という言明を確信をもって言えなければならない。
しかし、当然その言明の妥当性は他者はおろか自分でさえ確かめる術が無い。
なぜなら、そもそも「それ」が「痛み」という言語表現が妥当なものか、
さらには「感覚」という言語表現が妥当なものかということにさえ、確信を持つ根拠が無いのだから。
よって、彼が「私は足が痛い」という言葉を確信を持って言うことは原理的にありえない。
追加
もし、そんな人が「私は足が痛い」という言葉を確信して発言できると言えるなら、
それは健常者が「私は尻尾が痛い」という言葉を確信して発言できるということと同じ意味で可能と言えるだろう。
>>67 しかし、言語習得前に事故で足を失った人も後に「足が痛い」という言葉を習得することは可能でしょう。
言葉を習得することが可能なら、それを使用することも可能です。
「足が痛い」という言葉を知っているのに、それを使うことができないというのは変な話ではないですか。
それとも、言語習得前に事故で足を失った人は「足が痛い」という言葉を習得することができないのでしょうか?
私にはそうは思われません。
言語習得の原理は検証主義的にではなくホーりスティックに考えるべきだと思いますが。
横レス失礼。
ファントムペインについてはラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー
『脳のなかの幽霊』が有名ですね。言語との関係で語っていたかは覚えて
ませんが。確か言語能力を持ったヒトでも、手足などを失った場合必ずしも
幻痛を感じるとは限らない、遺伝的な素質(?)によるものがある、幻痛を
持った者でも痛みが後に消える場合もある、とか書いてあったと思います。
関係ないけど攻殻機動隊スレでも書いた『イージス』という漫画でも主人公
がその症状を持ってます。
ネットに幻痛と言語能力の関係について書いてあるものがありましたが、何を
参考にしたかは書いてありませんでした。
>>69 >「足が痛い」という言葉を知っているのに、それを使うことができないという
>のは変な話ではないですか。
初歩的な勘違いです。
その場合、後で学習して「足が痛い」という語を使用する事はできますが、確か
な足の痛みを伴わない、という事です。
>>69 70さんが言ってるけど、正誤に関係なくその言葉を使用できることと、
言語ゲームの基準に従った妥当なものとしてその言葉を使用できるということは違う。
>>70 まあ、それはともかく、言語習得以前に手足を失った人には、
幻痛が起こりえないという点は考える価値があるね。
>>71 「正誤に関係なくその言葉を使用」する、その言語は私的言語を意味
します。
「言語ゲームの基準に従った妥当なものとしてその言葉を使用できる
ということ」は公的言語を習得するということです。
言語を習得するということはそれ自体言語ゲームに従った言葉の使い方
を知るということです。そうでなければ私的言語が可能だいうことに
なります。私的言語を認めなければ「正誤に関係なくその言葉を使用」
することは認められませんよ。
とにかく、言葉を習得することは言語ゲームに参加することなのです。
ですから、言葉を使うことは常に公的なことなのです。痛みそのもの
といった私的なものとは関係がないことに注意してください。
>>72 >>69での「言葉の習得」というところに誤解がある。
言葉の習得が言語ゲームへの参加を意味するなら、
言語習得以前に足を失った人は「私は足が痛い」という言葉を習得できない。
(「彼は足が痛い」という言葉なら習得できるが。)
言葉の習得は、その言葉を言語ゲームの規則に従った妥当なものとして使用できるということで、
そのためには、原初的には、同じ言語ゲームに参加する他者からの承認を必要とする。
例えば、言語習得過程の幼児が転んで足から血が出ているという状況を他者と共有した時に、
「私は足が痛い」と言い、同時に他者からその使用法の正しさを承認されていることを確認してはじめて、
彼は「私は足が痛い」という言葉を習得しうることになる。
しかし、言語習得以前に足を失った人はいかなる状況においても「私は足が痛い」という言葉の使用法を
他者から妥当なものと承認されることがない。(虚偽の発言としてなら話は別だが)
決して他者から妥当だと承認されない言葉を人は習得することができない。
「正誤に関係なく」という表現は誤解させやすかったかな。
つまり、嘘や演劇の台詞としてなら、そういう人にも「私は足が痛い」と妥当的に言うことができるが、
本当に自分の足の痛みを訴える意味で「私は足が痛い」と確信をもって言うことはできないということ。
その言葉の使用法が正当化された経験がないのだから当然といえば当然。
>56 改行します、すいません。29で神様に怒られてはいたのですが(笑)
>64そんな研究会があったのですね。
>61.62.63
ちょっと誤解していたらすいません。
この議論を見ていると、14さんとMKさんは噛み合っていないじゃないかな。
MKさんの言っていることは正しいと思うのですが、ただ文脈が違うじゃないでしょうか。
ここで僕と14さんが問題としているのは、永井さんの「転校生とブラックジャック」における意味論的誤りえなさと
存在論的誤りえなさとの相互依存的関係であって、けっして正常な感覚の言語的判断云々という問題ではない気がする。
MKさんは「転校生」の二章を読んだことはございますか?
永井さんが想定する人物は、かなり変わったやつで、普通の人には痛みの感覚と思われているの
について、「くすぐったい」と言ったり、普通の人には赤く見えるものを「青い」と言ったりするやつなんですよ。
(詳細はやっぱり本文を読んでください)
で、意味論的誤りえなさというのは、普通の人には赤く見えているのに、そいつが「青い」と言えば、たしかに
言語的間違いを正すことはできるけど、そいつには青く見えていたのに、本当は青く見えていない可能性はない
っていうことなんですよ。
ここではやっぱり言語を超えた、他人の内面みたいなもの、その人の私的な判断が問題になっている。という意味で14さんが言うような
話につながってくると思います。
膝をすりむいて血を出している状態の時、そいつが「くすぐたったい」と言ったら、「そこは痛いというべきなんだよ」と
言語的には間違いを正すことができるけど、そいつがくすぐったいと感じてて、本当はくすぐったくない可能性はない
という話。誰も他人の内面的間違い(?たぶんこうゆうべきじゃないんだろうな。本当は間違いではないのだから)
を正すことはできない。という意味での意味論的誤りえなさ。その意味論的誤りえなさは、私は私であると誤って
思い込むことのできない存在論的誤りえなさと相互依存関係にある。
>45の最初の僕の突っ込みの入れ方がまずかったのかな。
>62 14さんありがとうございます。
引用文の意味がようやくわかってきました。
14さんも落ちはわかりませんでしたか(笑)僕には、ただ、すこし強引すぎる落ちだな
という気がするだけですね。
次に私的言語の話をしたいのですが、これも僕の問題設定が間違ってました。
もしかしたら、私的言語の話ではなくなる可能性があります。すいません。
僕が言いたかったのは、ある人が普通に言語を使用することができて、言語的間違いを指摘される
ことはないのだけれど、実はその人にとってある言葉は他人とは違った意味を持っている、という話。
青いと言うべき場面で、ちゃんと「青い」と言うのだけれど、実はその人にとってそれは赤く見えている。
だから、その人は実は赤を青と混同しているわけですよね。
こうゆう場合、その人にとってだけ「青」という語は、他の人とは違った意味を帯びている、と言うことはできるのかな?
語の意味はその使用説に従えば、その人の「青」の意味と普通の人の「青」の意味になんの違いもないのですが。
これは私的言語問題と言えるのかな?
こうゆう観点から永井さんの「これ」という語の意味を問題としたいのですが....
独我論的問題設定において、他者が正常な言語ゲームを営んでいる、というだけでは満足しないのではないでしょうか。
他者が、膝をすりむいて血を出している時、ちゃんと「膝が痛い」と言うのですが、実は彼にとっては、「痛い」
という言葉でくすぐったさをあらわしている、という懐疑が頭をもたげる。
(他人から見れば痛む振る舞いをしていると思われるのだけれど、実は彼にとってはくすぐったい感触がしている、という例もありうる)
このような懐疑を設定した時、私の感じる痛みと、他者の感じる痛みは本当に同じものなのか?
という問いが成り立つと思います。
他者を意味了解のレベルで捉えるならば、ここにはなんの問題もないのです。
彼は(振る舞いも含めた)正常な言語ゲームを行うのですから。
ただ、独我論者は意味了解のレベルにはとどまらない、自己と他者の内面的なものを問題としたい
と思う。
じゃないと、大森さんの「他者の痛みは意味不明」という独我論的言葉が理解できない。
補足。大森さんの言葉は、意味了解のレベルを超えたものが
意味不明である、と言っていると僕は理解しています。
少々、無理な解釈ですが。
あと他人の経験の意味という問題は重層的な問題で、他者の経験の意味は、振る舞い(行動主義的観点)
や言語使用(言語ゲーム)に還元しきれるのか?
それらを超えた内面的なものの意味の次元は成立するのかどうか?
永井さんにデカルト入門書いて欲しいな
「痛み」という言葉の意味には、内面的な感じのようなものは全く関わらない。そういう
ものは無くてもかまわない。というような議論に対して、永井は以下のように(私の理解
が正しければ)論じていました。(「他者」という『<私>の存在の比類なさ』に収録され
た論文を中心に、適当にまとめた)
子どもが言語を教えられる時点では、公共的な脈絡に従って、痛みを感じるべき場合に感
じているものが、痛みであると教えられる。くすぐったさを感じるべき場合に感じている
ものが、くすぐったさであると教えられる。例えば、殴られたときに感じているものは、
それがどういう感じであろうと必然的に痛みであり、くすぐられたときに感じているもの
は、それがどういう感じであろうと必然的にくすぐったさである。
よって、子どもが殴られた場合には、くすぐったさを感じていることはありえないとされ
る。もしも、殴られた子どもが「私はくすぐったい」と主張したら、周りの大人は「それ
は、くすぐったさではなくて、痛みなんだよ」と教えることになる。
一方、言語をすでに習得した大人は、その教えられた基準に従って、自分の感じているも
のが痛みなのかくすぐったさなのかを判断する。その人が、痛みと教えられたものを感じ
れば「私は痛い」と主張し、くすぐったっさと教えられたものを感じれば「私はくすぐっ
たい」と主張する。
よって、大人が殴られた場合には、なぜかくすぐったさを感じている、ということもあり
うる。殴られたのであろうとなんであろうと、その人がくすぐったさを感じているのであ
れば、「私はくすぐったい」と主張することになる。
つまり、子どもが言語を習得するときには公共的な基準に従って教えられ、言語を習得し
た大人は、その基準に従って、自分の内面的な感じについての判断をする。だから、内面
的な感じは、痛み・くすぐったさ等の言葉を使用するのに関わってくる。
…ええと、だからなんなんだ、と聞かれるとアレですが(笑)。
とりあえず、私は、以上のような議論に乗っかって、感覚についての判断は一定の基準に
従った判断というイメージを持っています。それが哲学的に正しいのかどうか、と言われ
ると、自信は…ないよう ( ;´Д`)
>76
>他者が、膝をすりむいて血を出している時、ちゃんと「膝が痛い」と言うのですが、実は彼にとっては、「痛い」
>という言葉でくすぐったさをあらわしている、という懐疑が頭をもたげる。
>このような懐疑を設定した時、私の感じる痛みと、他者の感じる痛みは本当に同じものなのか?
>という問いが成り立つと思います。
これについて、79のような考え方からすると、以下のようになると思われます。
その人をAとすると、Aは、子どものときから、膝をすりむいたときに感じているのは痛
みである、と教えられてきた。もしもAの感じているものを他人が感じることが可能であ
れば、その感じは、くすぐったさと呼ばれるようなものであったのかもしれない。しかし、
Aの感じているものを他人が感じることは不可能であるのだから、他人は、Aが膝をすり
むいたときに感じているのは痛みである、と教えるしかない。Aもその基準に従って、痛
みという言葉を学ぶしかない。
すると、Aが見事に日本語を習得したあかつきには、膝をすりむいたときに感じているの
は、痛みである。嘘をついているのでない限り、実はくすぐったさを感じている、などと
いうことはありえない。もしも他人がその感じを持っていたら…などということとは関係
なく、Aは痛みとして教えられた感じを持ったのだから、Aは痛みを感じているのである。
これでいくと、結局、私が痛みを感じているときと他人が痛みを感じているときでは、同
じような感じを持っている保証はないことになります。でも、永井の議論は、それで別に
かまわないという考え方のようですね。
81 :
考える名無しさん:01/11/05 20:05
横やり&過去ログちゃんと読んでない者ですが。失礼します
>>79 > 子どもが言語を教えられる時点では、公共的な脈絡に従って、痛みを感じるべき場合に感
> じているものが、痛みであると教えられる。くすぐったさを感じるべき場合に感じている
> ものが、くすぐったさであると教えられる。例えば、殴られたときに感じているものは、
> それがどういう感じであろうと必然的に痛みであり、くすぐられたときに感じているもの
> は、それがどういう感じであろうと必然的にくすぐったさである。
これに関して、ウィトゲンシュタインは探究の1部244節で以下のように書いていますが
> だが、どのようにしてその名と名指されたものとの結合が作り出されるのか。この問いは、
> どのようにしてひとりの人間が感覚の名の意味を学ぶのか、という問いと同じである。たと
> えば<痛み>という語の意味。ことばが根源的で自然な感覚の表出に結びつけられ、それにと
> って代わるということ、これは一つの可能性である。子供がけがをして泣く。すると大人た
> ちがその子に語りかけて、感嘆詞を教え、のちには文章を教える。彼らはその子に新しい痛
> みのふるまいを教えるのである。
14氏の
>>79でのまとめを見る限り、永井氏は感覚の語の導入に関して
ウィトゲンシュタインとは違う見解を持っているということなのでしょうか
>81
私は永井の著作以外、哲学書をまともに読んだ試しのない厨房なので、まともな答えがで
きるかどうか心もとないですが…。詳しい人のツッコミが恐い(笑)。
>永井氏は感覚の語の導入に関して
>ウィトゲンシュタインとは違う見解を持っているということなのでしょうか
感覚の語の導入に関して違う見解を持っている、ということなのかどうかは、よくわかり
ません。
ただ、ウィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い」というような言明は、うめき声などの痛
みの表出と似たものであって、何らかの基準によって検証される命題ではない、と考えて
いたそうです。
だから、「私は、私は歯が痛いということを知っている」というような主張はおかしなもの
である、ということになるようです。
…『探求』から引用してる人にこんな事を改めて言って、どうすんだよ ( ;´Д`)
一方、永井の議論だと、私は、私は歯が痛いかどうかを基準によって判断するのであって、
「私は、私は歯が痛いということを知っている」と言うことも、別におかしなことではな
い、ということになると思われます。
うろ覚えですが、『ウィトゲンシュタイン入門』のなかに、「正常な大人に関しては、感覚
について本人だけが知ることができ、他人は知ることができない、という場合があり、そ
の逆の場合はない」というような記述があります。
(もっとも、自分の内面的な感覚について知る、ということと、内面的でない外の世界の
ことについて知る、ということを、全く同じに考えているわけではないんだろう、と思い
ますが)
だから、感覚について知るとか判断するということについては、永井とウィトゲンシュタ
インは考え方が違うみたいですね。
>>82 ふむふむ。なるほど。
> 一方、永井の議論だと、私は、私は歯が痛いかどうかを基準によって判断するのであって、
> 「私は、私は歯が痛いということを知っている」と言うことも、別におかしなことではな
> い、ということになると思われます。
確かにこのような立場を取るならば、永井とウィトゲンシュタインは
別の見解を持っていると言えるでしょうね。
クリプキの「規則遵守論の系としての反-私的言語論」により近いのかな
私は永井の著作にきちんと触れた事がないのであまり横から口出しすべきではないのでしょうが
……機会を見て『ウィトゲンシュタイン入門』も読んでみよう。
なんにしても、「私には青く見える」と言った場合、そのときに指している物が本当は
青くないこと(私は幻覚を見ているとか)はありえても、私には本当は青く見えていな
いことはありえない、という誤りえなさがあるのでないと、『転校生とブラック・ジャック』
の第2章は成り立たないような気がします。だから、そのような誤りえなさが怪しいも
んだ、ということになると、困ってしまうんだよな(笑)。
それはおいといて、強引に別のネタを振ってみます。
>80
>結局、私が痛みを感じているときと他人が痛みを感じているときでは、同
>じような感じを持っている保証はないことになります。でも、永井の議論は、それで別に
>かまわないという考え方のようですね。
私の痛みと他人の痛みが違ってもかまわない、というのは、ちょっと不正確だったかも
しれません。永井は、独我論者が他人の心を問題だと考えるのは、問題感覚の誤解では
ないか、と考えているようです。
でも、何がどう誤解なのか、ということを必ずしも十分に論じていない気がします。そ
れでいまいちわかりにくい部分が多いのではないか、と勝手に思ってみたりする。
>83
うろ覚えはまずかろう、ということで、関連した部分をいちおう引用しておきます。
…ペイシェンスとは一人で行うトランプ占いのゲームであり、それを他人と
一緒にやることはそのルールによって禁止されているという意味で不可能である。それと
同じように、他人の感覚を「感じる」ことはその文法規則によって禁止されているという
意味で不可能である。つまり感覚は文法的に私的なのである。
したがってまた他人の感覚を「知る」こともできない、と言えるかどうか、に関するこ
の箇所のウィトゲンシュタインの議論は、最晩年の『確実性の問題』の問題意識に通じる
ものである。だが、私的言語の問題を考えるときには、むしろ無視した方が話がはっきり
する。正常な成人に関しては、たとえば歯が痛いかどうかを、自分だけが知ることができ、
他人は知ることができない、という場合があり、その逆の場合はない。これは、いま述べ
た感覚の私的性格からのまったく当然の帰結に過ぎない。「知る」という語の使い方につ
いて細かい詮索をする前に、まず、このことを認めるべきである。
(『ウィトゲンシュタイン入門』p173〜174)
こういう考えが一般的なのかどうかは知りませんが…というか、ウィトゲンシュタイン解釈
としては、きっと一般的じゃないんだろうなあ(笑)。
まず、永井さんとWの感覚についての見解がそもそも違う、というのは教えられました。
それとともに、「転校生」の二章の論旨がやっとはっきりしてきました。
(つい最近まで二章は何を全体として問題としているのかすらわからなかったです)
二章の題名は「私的規則の本質」だけど、MKさんやWからすれば、そもそも私的規則というもの
を認めないのではないか。
規則の名に値するものは、ちゃんと他者が正誤を指摘することができるものに限る(公共性による吟味)
MKさんやWからすれば、自分だけにしか、その判断の正誤の基準がわからないものを
そもそも規則に従った判断とは呼ばない。
私的規則の典型的な例が感覚。自分による自分の感覚の判断を、規則に従った判断とするのか、どうか
それが大きな分岐点だと言うことですね。
そのような私的規則を仮にでも認めた上で、やっと以下の永井さんの問題につながると思う。
「さて、私的規則(私的言語)の可能性の問題とは、この「人間たちの一致」と独立に、個人の内部での
一致(にあたるもの)が成り立ちうるのか、という問題であった。ここで「私的(private)」とは個人的という
意味ではなく、内面的という意味である。孤立した個人が問題なのではなく、他人からチェックされること
のない「心の中」が問題なのである」
私的規則が成り立つためには、他人からチェックされることのない、自分による私的な感覚の判断を、
常に同一の基準(規則)でもって下せることが可能でなければならない。それが可能でなければ、私的規則
(この場合私的感覚)は成り立たない、という議論だと思う。
そして、自分が常に同一の私的規則に従ってることをどのようにして、検証できるのかどうか、という問題を
以下の文章で論じている。
でも、最初のクリプキのクワス懐疑論駁の議論からすると、そもそもそんな検証必要ない、という結論なのかな?
オレはある一定の私的規則に従っているんだ、というその人の言明が、最終的に私的規則の根拠となる。
その私的規則を裏で支えるのが、意味論的誤りえなさと存在論的誤りえなさ。
この誤りえなさは、私的規則からの帰結とも、私的規則を支えるものとしても
両方解釈できる余地があると思う。どうだろう?
永井さんは帰結のように書いていると思うが....
また、>45の僕の突っ込みは、永井さんにしたら、その問いに意味がない、と一蹴されるのだろう。
もしくは。>47の14さんの反論が的確ということ。
>84 私の痛みと他人の痛みが違ってもかまわない、というのは、ちょっと不正確だったかも
しれません。永井は、独我論者が他人の心を問題だと考えるのは、問題感覚の誤解では
ないか、と考えているようです。
でも、何がどう誤解なのか、ということを必ずしも十分に論じていない気がします。そ
れでいまいちわかりにくい部分が多いのではないか、と勝手に思ってみたりする。
いや、普通に独我論的に他人に心などあるのか?という問いだったら、十分独我論的じゃないかな?
(独我論的なのを誇ってもしょうがないだけど、笑)
だけど、自分の痛みと他人の痛みは同じか?という問いはたしかに独我論的ではなかったかも?
単にそれは心の哲学の問題。
しかし、問題感覚の誤解ってなんなんだよ(笑)
本当の独我論的問題感覚って一体どうゆうもんなんだ?
僕は理論的な判断プラス倫理的な判断も含めて、永井さんの独我論的問題感覚は理解できないし
理解したくない(笑)
その理解できなささとは何か、理解したくない、という思いはどこから
湧き上がってくるのか、という問いに僕は今は答えられないけど。
ただ、愛憎って同じコインの裏表て言うからな。
永井さんと僕は仲間内の内ゲバみたいなものかもしれない。(笑)
こんなこと言ったら元も子もないが。
しかし、独我論をもっとよく勉強したい場合何を読めばいいのだろう?
誰か教えて。
とりあえずまっさきに思いつくのが、永井さん、大森さん、ヴィトゲンシュタインの諸著作
なのだが。
読み込みようによっては、独我論的に読めるものでもいいですわ。
その典型がデカルトの「省察」
まあ、独我論なんて、他人から教えられるようなものではない問題の筆頭だから
誰か教えて、と言うのも変なのだが。
このなにが変か、と聞かれると具体的に論じることができない.....
問題の大きさの前に思考がおののいて、何も考えることができなくなる。
<私>なんてのは、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」だろ。
私を語るためには私から外に出なくちゃいけないけどそんなことは無理。
いくら喚いたって無駄だ。
>>85 (および
>>86)
これは全く私の私見なのですが。Wは探究244節〜246節辺りで「私が(私の)痛みを知る」と
「他人が(私の)痛みを知る」では「知る」という語が異なる使われ方をしていると考えて
いるように思えます
後者の用法は尺度や基準に基づく「知る」ですが、前者の用法は「感じる」や感嘆詞の
言い換えとしての「知る」ではないかと。以下に2つほど引用します。
「すると、あなたは、<痛み>という語が本来泣く事を意味している、と言うのか。」----
その反対である。痛みという語による表出は泣く事にとって代わり、泣く事を記述するわけ
ではない。(『探究』, I-244)
われわれが「記述」と呼んでいるものは、特殊な適用のための道具である。その際、機械の
スケッチ、切断面、技術者の手元にある尺度付きの立面図を考えよ。ひとが諸事実の語による
映像として記述を考えているなら、それには誤解されやすい部分がある。ひとはおそらく、壁
にかかっているような画像しか考えないだろうから。それが端的に、ものがどのように見え、
どのような状態かを映し出しているように見えてしまう。(このような画像はいわば遊んでいる
のである。)(『探究』, I-291)
>>89 > しかし、問題感覚の誤解ってなんなんだよ(笑)
> 本当の独我論的問題感覚って一体どうゆうもんなんだ?
以前、永井が講義で「問題なのは他人じゃなくて、自分だ」と(いう趣旨の事を)
言っていたそうです。とすると、独我論者が問題とすべきなのは「他人のX」ではなくて
「自分のX」だ、という事なのでしょうか。
(幾多の<<私>>が可能な中で、なぜこの<<私>>が<私>なのか、とかかなぁ)
>89
>普通に独我論的に他人に心などあるのか?という問いだったら、十分独我論的じゃないかな?
以下は、私の勝手なまとめですが…。
(1)私は私の痛みを感じることはできるが、他人の痛みを感じることはできない。これ
は文法的に言えることである。よって、「私は、他人が本当に痛みを感じているかどうかわ
からない」とか、「他人には本当に心があるかどうかわからない」というのは、文法的に決
まっていることであり、ある意味では当然のことである。
(2)(1)が認められるならば、独我論者が、他人の心について論じることにより独我論
を解決しようとするのは、おかしな試みということになる。
つまり、独我論者は、他人の痛みについて確実に知ったり、他人の心がちゃんと存在する
ということを確かめられれば、独我論は解決される、と考える場合がある。しかし、(1)
より、他人の痛みや他人の心について自分と同じように知ったり感じたりすることは、文
法的に不可能とされるのである。とすれば、他人の心について知ろうとしたところで、そ
れはもともと無理だ、ということになる。
よって、他人の心について論じることにより、独我論を解決しようとする試みは、もとも
と無理のあることをやっているのである。
(3)無理の生じている例は、他人と、他人そっくりのロボットをどう区別するか、とい
う問題である。
この問題について、他人の心を問題にする論者は、次のように言うことがある。「他人やロ
ボットに心があるかどうかは、外に現れる振る舞いなど、公共的に確認できることによっ
て判断するのであって、本人にしか知りえない内面のようなものがあるかどうかによって
判断するのではない。例えば、転んで膝をすりむいた人が痛そうにしていれば、その人は
たとえロボットだったとしても、痛いのである。その人だけが持っている内面的な感じな
どは、問題にならない。」
しかし、そうすると、私についても同じように言わなければならないだろう。つまり、私
に心があるかどうかも、外に現れる振る舞いなど、公共的に確認できることによって判断
するのである。例えば、私が転んで膝をすりむいて痛そうにしていれば、私は痛いのであ
る。私だけが持っている内面的な感じなどは、問題にならない…。
…なんだそりゃ?それはやはり変ではないか。
というわけで、私は(3)のような話は変だと思うので、永井の議論の方がいいかなあ、
と思っています。
しかし、(3)のような話は変ではない、と堂々と主張する人があらわれたら、どうしよ(笑)。
>90
>しかし、独我論をもっとよく勉強したい場合何を読めばいいのだろう?
私は、野矢茂樹氏の『哲学航海日誌』が参考になりました。と言うか、実は最初は永井氏の
議論がまるで理解できず、野矢氏の方がいいや、と思っていた(笑)。
しかし野矢のような議論だと、やはり(3)のような変な話に近い疑問(まったく同じでは
ありませんが)が出るような気がして、永井の議論に転向した、というわけで(笑)。
あのお〜、
あなたたちの議論を全部読んだんだけどお〜、
あなたたちはもっと現実を見つめたほうがいいと思うのお。
もっと世の中に出ていって社会を知るべきだと思うのお。
生身の人間ともっと付き合う必要があると思うのお。
わたしたちは一人じゃ生きていけないわけなのよお。
わかるぅ?
ちょっと、まずいことを書いてしまったので…。
>95
>私は、野矢茂樹氏の『哲学航海日誌』が参考になりました。
>しかし野矢のような議論だと、やはり(3)のような変な話に近い疑問(まったく同じでは
>ありませんが)が出るような気がして
これは大ウソなので、撤回いたします。『哲学の謎』には、やや似たような話が出てきていて
あとがきによると野矢氏は永井氏とそういう話をしたことがあるそうです。そちらとごっちゃに
なってました。
ああ、また厨房ぶりをさらしちゃったよ ( ;´Д`)
「ヴィトゲンシュタイン読本」に収録されている
「デカルト批判.私的言語の議論」 著 伊藤邦武
「規則の認識論」 著 松坂陽一
なんかを読んでみますと「転校生」の二章の議論は、ヴィトゲンシュタイン解釈としての
の妥当性や哲学的な妥当性としても、白(正)とも黒(誤)ともはっきりさせることのできない
グレーな領域にあるように思います。
(もっとヴィトゲンシュタインに詳しい人に助けを求めたいのですが)
特に松坂さんの論文が永井さんの議論に近かった。
松坂さんは意味論的誤りえなさに近いことを言っている。
二章の議論は結局クリプキか反クリプキか、だと思う。
でもグレーの領域を考えるのが一番楽しいよね。
二章についての議論は僕にとってすごくためになりました。
あと永井さんの「ヴィトゲンシュタイン入門」のP171-181に出てくる
私的に規則に従うことと、私的な規則に従うことの区別が啓発的だった。
もういっかー二章は。来週あたりから第三章以降でもいこうかな。
(でも、まだ二章の議論でなんかあったら教えてください)
>94の(3)の議論はなかなかいい議論だと思うな。
まだその点について何か考えていることがありましたら教えてください。
自分の心が問題か、なるほど。
「哲学航海日誌」ってそうゆう議論もしていたのか。
噂でしか聞いたことがなかった本だけど。
ありがとうございます。読んでみます。
>93の文法的事実というものにちょっと強引なツッコミをします。
文法的事実ということは、それは言葉の規約ということですよね。
(規約=人間が取り決めたこと)
するとそれは超越論的なものとはいえないから、いつかその規約が変化することも
ありうるのかな?
つまり将来、私と他人という概念の文法的事実の変化の可能性。
たとえば将来人類はニュータイプのように覚醒して、他人の痛みも感じる
ことができるようになるとか。
それとともに私と他人の文法的事実も変化する。
永井さんの<私>は語りえぬもの説が、今まで多数でてきたのでそれについて一言。
沈黙にもいろんな質があると思うんだ。
(1)もうすでに永井さんの表現形態で満足してしまった沈黙
(2)単に知的修行がないためすぐに思考停止に陥る沈黙(力量不足による沈黙)
(3)くたびれはてるほど自分で色々考えたあげくの沈黙(ヴィトゲンシュタイン)
(4)永井の議論が間違っているため無視を決め込む沈黙
僕が>90で言ったのは(2)です。
それに僕は、そもそも永井さんの表現形態に不満がある。
だが全部が間違っているとも思わない。
また、特に永井さんの哲学的直観は本物だと思う。
ものすごい問題提起をしていると思うが、あの表現形態はどうにかならんかな?と疑問に思うだけです。
>96あなたたちはもっと現実を見つめたほうがいいと思うのお。
もっと世の中に出ていって社会を知るべきだと思うのお。
生身の人間ともっと付き合う必要があると思うのお。
わたしたちは一人じゃ生きていけないわけなのよお。
わかるぅ?
よくわかりません(笑)どうしてそのような言葉が出てくるのか一文一文詳しく説明してください。
たぶん永井さんの読者って評判悪いんだろうな。
永井さんの文章はひきこもりが好きそうだから、そのような人たちへの注意なのかな?
え、そしたら僕は引きこもり?
全然そんなことはなくて、バリバリ外に出ていますが(笑)
それとも哲学をしているものは現実を知らず、社会を知らず、人付き合いも乏しいから
現実に飛び込んで、社会に揉まれ、いろんな人と交流して
自分を鍛えて出直して来い、ていう警句なのか?
特に「わたしたちは一人じゃ生きていけないわけなのよお」という言葉がよくわかりません。
別に僕は一人だけで生きているなどと皆目思ったことはないのですが....
でもある意味、人間は一人で生きるものだ、というのは単に文法的事実にすぎないものですが。
102 :
幼児的全能感:01/11/11 21:39
1 哲学的議論は、あくまでも真理の探究のための手段であり、「共同探求」の場である。
1.1 哲学的議論に参加できる者は、すでに持ってしまっている現在の自分の考えに
疑いを抱いており、他者との議論を通じてそれを訂正し、真理に近づけたいという願望
を持っている者でなければならない。
1.1.1 哲学的議論の場は、第一に、真理へ向けて現在の自分の考えを捨てていく
ための自己吟味の場であり、第二に、他者のそのような自己吟味に協力する場である。
(現在の自分の考えに確信を持っている者、他者の哲学的探求に協力する意志のない者
は、この議論の場に参加することは出来ない。)
1.1.2 哲学的議論をする者は、現在の自分の哲学的見解よりもこの哲学的吟味の
精神に、より高い価値を与えているのでなければならない。
1.2 哲学的議論をする者は、真理を求めてアイデアを出し合うのであって、相手の
考えを論駁して自分の考えを相手に認めさせるための「討論」をするのではない。
(哲学的議論は決して「白熱」させてはならない。)
1.2.1 どんな場合も決して「断言」をしてはならない。そもそも、自分の考え
を「主張」してはならない。自分の現在の考えとその論拠を−論拠の方に重点を置い
て−できるかぎり丁寧かつ明確に説明し、その中で、わからないところ、あやしいと
思うところを、つまり自分の現在の「問題」を提示するように努力しなければならない。
1.2.2 他者はその考えをできるかぎり深く丁寧に理解し、疑問に思う点は個別的
に質問し、間違っていると思うところはその理由をできるかぎり丁寧かつ明確に述べ、
代案が出せるときにはできるかぎり丁寧かつ明確にそれを語らなければならない。
質問や反駁や代案の提示は、それを通じて自分自身が真理へ近づけるという願望に
支えられたものでなければならない。
1.2.3 質問や反駁を受けた者は、できるかぎり丁寧に応答し、受け入れるべき
ものは受け入れ、受け入れられないものはその理由を述べなければならない。わから
ないところ、なお考えるべきところは「わからない」「もっと考えないと今は答えら
れない」と明言して、後の考察のために残しておかなければならない。
1.2.4 自分の発言内容に−それがたまたま自分の発言であったと言うだけの理由
で−固執することはゆるされない。
1.2.5 議論の場で問題に決着をつけようとしてはならない。議論は、その問題
について後で(ひとりで)考えるための単なる素材にすぎない。
2 哲学的議論は各自の長期的な哲学的探求のための一手段に過ぎない。力の及ぶ限り
丁寧にゆっくりと、生涯を通じて持続的に哲学する意志を持つ者のみが、それに参加
する資格がある。
『転校生とブラックジャック−独在性をめぐるセミナー』永井均著 pp.178-180
素晴らしかったので勝手に引用しましたです。
なんかしらんが、また随分と「〜してはならない」ばかり並んどるなぁ。
>102 とうとうそれを引用してしまいましたね。
1.2.5までは別に問題ないでしょう。
問題は2ですな。
2 哲学的議論は各自の長期的な哲学的探求のための一手段に過ぎない。力の及ぶ限り
丁寧にゆっくりと、生涯を通じて持続的に哲学する意志を持つ者のみが、それに参加
する資格がある。
特に最後の一文。「生涯を通じて持続的に哲学する意思を持つ者」なんて、この世に何人いるのだろう?
永井さんは若気のいたりや、気まぐれで哲学的議論をすることを戒めている。
2を厳密に取るなら、本当に哲学的議論なんて限られた人としかできないなー。
実際そうなんだろうけど....
.
木田元さんの「偶然性と運命」という本を読んで思ったことがあります。
この本で偶然性が二つの系列の出会いとしてとらえられていることが面白い。
僕が、ある人Aさんや、ある物aに人生の上でたまたま出会う、という出来事に偶然性が感知される。
ここで重要なのはまず、偶然性が人間の視点から捉えられるということ。
つまり上記の出来事を神のごとき視点から俯瞰的に眺めてその偶然性を云々するんじゃなくて、
僕という人間の立場から偶然性が感知される。
だから僕が、Aさんの立場から、その偶然性を感知することもできない。
AとB、二つの系列があったとしたらどちらか一方の側からしか偶然性は感知されえない、
ということだ。
そしてここに二つの偶然性がある。
Aの系列から感知される偶然性とBの系列から感知される偶然性。
さて、前口上はこれぐらいにしておいて永井さんの議論に移ると....
永井さんは<私>が、なぜか人間永井に付着したことの偶然性を問題としている。
上の出会いの偶然性をここに適用してみると、永井さんはどちらの側からの
偶然性を問題としているのだろうか?
もちろん、<私>でしょうな。
つまり<私>が偶然性を感知している。
しかし、そうすると<私>が何か精神的実体に見えはしないだろうか?
僕が前から再三<私>の精神的実体化と言っているのはこのことなんですが......
まあ、永井さんが神の視点ごときものから偶然性を問題としているなら、僕の批判はあてはまらないだろうけど。
あと不思議に思うことがあるのだが、人間中田の立場から、なぜ私に<私>が付着
したのか、と問えないのだろうか?
もしくは、<<私>>しかないのであれば、私(人間中田)になぜ、他の<<私>>ではなく
この<<私>>が付着したのか?と問えるとも思うのだが.....
「転校生」の三章の議論で言えば、人間太郎の立場から、オレ(人間太郎)に次郎の
記憶や身体が移植されても、<私>は、オレ(人間太郎?この場合次郎か?)に
残存しているだろうか?という問い方は可能だろうか?
永井さんの議論って、なんか<私>に肩入れした議論なんだよな。
だから僕には<私>が精神的実体化したようなものに見えてしまう時がある。
神の視点のような客観的視点から<私>と人間永井の偶然的接触が問題とされているのか
それとも、<私>の立場から、人間永井への偶然的接触を問題としているのか
ちゃんとはっきりしてほしい。
あと、人間永井から、<私>との偶然的接触を問題とするような視点はあるのか?
思うのだが、永井さんが問題としたものを、永井さんの概念を使用せずに語りだせないだろうか?
どうも永井さんの言葉を使用する時、違和感を感じる。
やっぱり、永井さんは「私」という語に意味を過剰な付与しすぎだよ。
<私><<私>>なんて「私」という語の乱用。
「私」という語に引きずられることによって、永井さん本人が部分的に、
何かの錯覚に巻き込まれているとしか思えない。
入不二さんとの論争も、「私」という語にひきずられて、何か瑣末な口ゲンカをしているようにしか見えない。
ところで、この哲学掲示板には長い長い永井スレの伝統があるのですね。
僕は新入りなのでよくわかりませんでした。
http://mentai.2ch.net/philo/kako/949/949674059.html これを見ると、もう永井はいいよ、てな感じ。
僕の個人的な希望なのですが、このスレを永井さんが
問題としたものに関心を持つ人だけのスレとして純化したいと思うのですが。
強調点は永井さんという個人的人間ではなく、その問題の方。
問題至上主義といきましょう。
そして、その問題を永井さんの概念にこだわることなく語りだそうと努力する人のレス
がほしい。
個人永井さんについてのスレは、ちゃんと上記のスレがありますし、棲み分け
もいいのではないかと。
>99
> 文法的事実ということは、それは言葉の規約ということですよね。
> するとそれは超越論的なものとはいえないから、いつかその規約が変化することも
> ありうるのかな?
自分で書いた言葉ですが、「文法的事実」って、不適切な表現だったのかなあ ( ;´Д`)
他人の痛みを感じることはできない、というのが事実の問題だとすれば、それに反する事
実(例えばテレパシー)が出てきたらどうするんだ、ということになりますよね。
93あたりで言いたかったことに、よりましな表現を与えるとすれば、むしろ以下のように
言うべきでしょうか。
他人の痛みを感じることはできない、というのは、どんな事実があるのかという問題では
なく、「他人」とか「痛み」とかに関する文法規則の問題である。よって、例えば、他人が
殴られたときに私が痛みを感じた、というようなことが起こったとしても、それは文法規
則によって、「私が私の痛みを感じた」とされるのである。「他人の痛みを感じた」という
ことは、規則によって、ありえないこととされるのである。
しかし、以上のように言ったとしても、問題はあまり変わらないんですかね。以下のよう
なツッコミが可能と思われます。
文法は言葉の規約であって、今の取り決めとは異なる別の取り決めをしても、別にかまわ
ないんじゃないか。例えば、今の「他人」とか「痛み」とかに関する文法規則のかわりに、
「他人の痛みを感じる」という言葉を認めるような文法規則を採用したって、別にいいじ
ゃないか。とくに、もしもテレパシーのようなことが可能になったとすれば、なお「他人
の痛みを感じる」という言葉を文法によって禁じなければならない理由が、あるんだろうか。
…うう、こんな難しい話、シラネーヨ(笑)。誰か教えて。
>>107 僕は、〈私〉は存在の「核」として、別に実体と考えても
いいと思うのですが・・・?
また永井(そして僕も)は〈私〉が人間永井に乗っかってる
ことを問題にしているというよりも、
この〈私〉が、なぜ他ならぬ、この〈私〉なのか?という
ことではないでしょうか?
〈私〉が何かに乗っかってる事そのものよりも、
〈私〉の存在の偶然性そのものに永井は問題を感じて
いると思います。まあ、永井はよくこの2つを一緒に
して話すことが多いようですが。
>109
>僕には<私>が精神的実体化したようなものに見えてしまう時がある。
ちなみに私が永井の議論から勝手に得たイメージというのは、とんでもないもんです。
<私>は14という人間が死んでも存続可能だったり、<私>は14その他の人間・動物等
から離れて空中をフワフワ浮かぶことも可能だったり、とても正気ではない(笑)。それに
比べれば、永井の議論そのものは、まだ常識的だ、と思うくらいですね。
中田氏が「<私>の精神的実体化」と呼んでいるのは、このようなことでしょうか。だと
すると、私としては、永井さんは私よりは<私>の精神的実体化をしてないと思います、
と答えたい(笑)。
まあ、私のデムパなイメージなんかは、どうでもいいので放っといて…。
>108
>あと不思議に思うことがあるのだが、人間中田の立場から、なぜ私に<私>が付着
>したのか、と問えないのだろうか?
永井の議論の仕方(と私が受け取ったもの)に従えば、以下のような理由によるでしょう。
そもそも<私>の存在が全ての前提であって、その<私>に特定の人間としての性質
(身体はどれか、記憶内容は何か、など)があるのである。
特定の人間がまず存在していて、その人間に世界が開ける原点としての性質がある、とい
う順序なのではない。
よって、14という一人の人間がまずいて、そいつが「なぜ私に<私>が付着したのか」と
問う、という順番にはならない。
…と書いてみても、中田氏の問いに答えたことにはならんですね。中田氏は、永井と別の
議論の仕方を探っている、ということなので。しかし今の私には、永井の議論に乗っから
ない形で何か書くのは、難しいなあ。
やっぱり、いつまでたっても内向きね。
やはりあなたがたはもっと外に目を向けるべきね。
世の中にはいろいろな出会いがあるわ。
出会いを恐れちゃダメね。
もっと世界の外に目を向けること。
そうすれば、本当に考えるべき問題はなんなのか自ずと見えてくるはずよ。
>115
せっかくツッコミを入れるんだったら、「あなたがたは、どうしてそんなに、外に目を向けて
いるの?本当に独我論者なら、他人と議論をすることなどまったく無意味、と考えるはず
じゃない?」とでも言っていただいたほうが、面白いです(笑)。
>112 規約が変われば「私たちが痛い」という表現も可能かもよ。
もしくわ、ニュータイプにまで覚醒すれば、そもそも人称自体の文法が変化するかも。
>113 ビタミンさんの語り口からすると、あまり独我論的感性が伝わってこないのですが.....
単に<私>の存在の偶然性だけが問題であるとすれば、別に世界の存在の偶然性だけでも
すむような気もします。
世界に存在を付与し、世界を開く一人ぼっちの孤独な神(永井の言葉で言えば<私>)が
なぜ僕は存在するの?とただ自問しているだけのようにも見える。
重大なのは、その神がなぜか一人の人間でもある、というところにあると思います。
僕が真に永井的感覚に共感しているのは、この世界の中で、同じ人間であるのに、
なんでこんなにも他人と僕は違うありかたをしているのだろう、というようなフレーズです。
「子供のための哲学」P34-35のような言葉
もしかしたら、僕は<私>がなぜ存在するのか?という問題にはあまり興味がないのかもしれません。
もう存在しちっまているからしょうがない、という思いがある。
それよりも問題なのは<私>なようなものが存在しちまった後のこと。
つまり<私>が一人の人間であること。
それが一人の人間として存在し、生きることに困惑を生じさせますね。
と、僕は感じてます。
>113 僕は、〈私〉は存在の「核」として、別に実体と考えても
いいと思うのですが・・・?
そもそも、僕は独在性とやらを<私>と表記し、人間から分離させる思考実験を
おこなうこと自体に抵抗があります。
分離させなければ<私>が実体などという錯覚も生みだされないとは思うのですが。
第一、なぜ、独在性を<私>と一人称で表記するのかがわかりません。
もし永井さんのやっていることが神のつぶやき系であるなら、
それは哲学史上そんな目新しいことではないと思うな。
ヘーゲルやスピノザなんてまさに別々の仕方でつぶやいていたと思う。
ただ彼らにはなくて、永井さんにはあると(僕に思われるもの)は
その神が、他人とはまったく違うありかたをした一人の人間でもあること
に十分自覚的であったこと。
「子供のための哲学」の子供の頃の独我論的問題への初心表明は
真に心に打たれるのだが.....
しかし、大人になって哲学理論を学びだすと、なにか神のつぶやき系に
変質していくような.....
>114 その電波なイメージが、神のつぶやき系かと思われます(笑)
そもそも14さんは永井さんのどのようなところに惹かれますか?
>116 いいツッコミだ。掲示板に書き込んでいるだけでも、かなり
外向きだと思われます。
議論なんかしていたら、真の独我論者に怒られるかも。
やっぱり、いつまでたっても内向きね。
>115 やはりあなたがたはもっと外に目を向けるべきね。
世の中にはいろいろな出会いがあるわ。
出会いを恐れちゃダメね。
もっと世界の外に目を向けること。
そうすれば、本当に考えるべき問題はなんなのか自ずと見えてくるはずよ。
まず、このスレの議論の何が問題なのか、はっきりさせてくれないと何が何だかわかりません。
まみださんが結局何が言いたいのかよくわからんのですよ。
<私>について議論することに問題があるのか、哲学をすることに問題があるのか、
それが問題であるとするなら、なぜそれが問題となるのか、
どうゆう意味で問題となるのか詳細に説明してください。
そもそも、なぜこのスレにだけ、そのようなレスをつける気になったのですか?
じゃあ、まみださんが真に問題と思うものは何ですか?
教えてください。
>114の電波なイメージは、ホント神のつぶやき系だと思うな。
僕も最初永井さんを読んだとき、そんなイメージ受けたから。
ただ、そうなってしまうと、複数の神の中から、どうやって唯一の真の神で
ある私を抽出するか、っていうつまらない話になってしまう。
人間の視点で、独在性を論じたほうが実りあると思う。
それがいろんな方向に議論をつなげていけると思うし。
たとえば道徳とか。
>115
他者との出会いに恐れているのではなく、自分の存在に恐れているのです。
外に逃げることによって、その恐怖から目をそらすことができたらどんなに
いいことか。
>120
>そもそも14さんは永井さんのどのようなところに惹かれますか?
私が一番面白いと思うのは、独我論を語ったり、他人の語った独我論を理解したりすると
いうことを、問題にしているところですね。そんなことは考えてもみなかったので。
私は永井の著作を読んで、<私>の存在の比類無さを理解した。そこまではいい。
…しかし、この文章を書いたのは永井均さんという一人の他人であって、<私>じゃない
ではないか。<私>じゃないやつが<私>について語っているとは、一体どういうことだ?
これが、私には本当に不思議ですね。
私は、<私>の存在自体は自明のような気がするので、特に驚いたりするような気分は、
あまりありません。存在してしまったものは仕方ないだろう、という気がします。だから、
どっちかというと、<私>の存在よりも、永井や(永井の理解するところの)ウィトゲン
シュタインのような、他者の存在のほうが、気になるんですね。
まあ、もしも私が独力で永井のような議論を組み立てることができたなら、<私>の存在
こそが第一に問題になったのかもしれません。しかし私は、まず始めに永井の著作を読ん
で理解する、という順番で問題に触れたわけです。だから、では永井というのは何なんだ、
こんな奇妙な議論を私に理解させたやつは何者なんだ、と感じざるを得ないんですな(笑)。
>118
>そもそも、僕は独在性とやらを<私>と表記し、人間から分離させる思考実験を
>おこなうこと自体に抵抗があります。
私が114で書いたようなデムパには、そりゃ抵抗を覚える人も多いか(笑)。
ただ、「私は痛い」ということが誤りえない、とか、他人の痛みを感じることは文法規則に
よって禁じられている、と言うためには、≪私≫と特定の人間(少なくとも、特定の身体)
とは、別のものであると考える必要があると思われるんですが…。
例えば、14(仮名)である私は、なぜか14(仮名)の歯のあるあたりではなく、永井均と
いう他人の歯のあるあたりに、痛みを感じたとします。そのとき、「私」で指示される者と
14(仮名)という特定の人間とを、全く同じものと考えれば、「私は歯が痛い」というこ
とは誤りになるでしょう(というか、何と言うのが正しいのかわからないですね)。
そのような場合でも、「「私は痛い」というのは誤りえない」とか、「私が、永井均という他
人の痛みを感じることは、ありえない。痛みを感じているのは私である」というためには、
「私」で指示される者と14(仮名)という特定の人間とを、区別しなければならないでし
ょう。そこで、特定の人間と区別された≪私≫が問題にしなければならなくなります。
(ここは一般論として成り立っても問題ないような気がするので、<私>ではなく≪私≫
にしておきます。)
…うう、書いてみたのはいいけど、なんか自分でも疑問点が多すぎる ( ;´Д`)
126 :
Mao_UNIX:01/11/17 05:42
<私>というのは、「世界の中心性、世界の原点性」のことだと思います。
これは、『論理哲学論考』の「五・六」に出てくる「主体」(五・六三三)
=「世界の限界」(五・六三ニ)=「哲学的な自我」(五・六四一)のこと
だと思います。
***
五・六三一 思考し表象する主体なるものは存在しない。
「わたくしの見出した世界について」という表題のもとに、わたくしが、一冊
の書物を著したとしよう。その書物は、わたくしの肉体について報告するで
あろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないか
などについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、
というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える
方法なのである。つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のも
の、それが主体である。
***
この主体は、「肉体」のみならず「心理学であつかう人間の心」でもない。
「肉体」や「心理学であつかう人間の心」は、世界の中に続し、アポステリ
オリなものだからだ。
また、<私>を見ている<私>は、いない。<私>のみがいる。
永井が問題にしているのは、<私>は、こんなにも特別で、言語の限界を超えて
いるはずなのに、どうして、言語で語られ、したがって、他人に理解できてしま
うのかということではないかと思います。
この矛盾が永井が問題にしたいことではないでしょうか?
>126
まず、<私>は、「論考」を否定した上で成り立っているのだから、哲学的自我ではないでしょう。
哲学的自我という一般論の話になったら、それは私がいなくても成り立つ話だ。
><私>というのは、「世界の中心性、世界の原点性」のことだと思います。<
それは僕が初期の頃に述べたやつですよね。
僕の文章を見てもわかるとうり、それじゃあ、永井さんが問題としているものがすり落ちていると、僕は感じているですよ。
もっと、永井さんは具体性のあることを問題としているじゃないかな.....
それにもし、永井さんの<私>がそんなことを言いたいのなら、僕はもう永井さんから離れるしかないな。
永井さん自身も道徳について考えているように、僕も独我論ゆえに引き出される具体的な
帰結について考えたいですよ。
言語ゲームにおける独我論の語りの問題というのは、永井的問題の一側面にしかすぎないと思うのだが。
>124
鋭い指摘だと思うな。
もうちょっとそのへん膨らましてほしい。
たしかになんで独我論を語ってしまうのか?
自分自身が独我論的事態を理解するためにも、言葉でもってそのような事態を表現しようとする、
というのが一つの答えじゃないかな。
>125の議論を読んでいると、それはもう<私>の範囲を超え出ていないか?
そうゆうかたり口だと、<私>に具体性が帯びている。
>125の議論の圏内だと、「私とは何か」という問いのほうがいいような.....
ちなみに<私>に具体性を帯びたものを、僕は「神」と表現しているのですが.....
>127
>自分自身が独我論的事態を理解するためにも、言葉でもってそのような事態を表現しようとする、
>というのが一つの答えじゃないかな。
確かに、独我論について考えたり理解したりするのにも、言葉によらざるを得ないですね。
しかし、言葉を使ってしまったら、実は問題にしたいはずの<私>は、どこかに逝ってし
まう。そのことは、124に、さらに独今論的な考え方を加えてみると、よりはっきりする
ような気がします。
つまり、独我論を貫けば、<私>について他人が語っているのはおかしい。それだけでは
なく、独今論も貫けば、過去の私が<私>について書いたことを見直して理解したり、未
来の私に向けて現在の私が<私>について書き残しておく、ということも、やはり、おか
しいことになるでしょう。
というわけで、言葉を使う以上、本当に<私>をとらえることは無理だ、ということにな
る…のかな?よって、コミュニケーションは世界を架空化する…のか?
しかし、そうだとすると、そもそも本当にとらえたい<私>というのは、いったい何なの
か、という気がしてきます。他人の議論はおろか、過去・未来の自分との議論(?)すら
成り立たないようなところで、何かをとらえた、とか理解した、ということが、本当に言
えるのか。<私>の存在というのは、実は何らかの錯覚である、という可能性はないのか。
そう考えると、<私>について語りうるのかどうか、という問題も、単なる言語上の形式
的な問題というわけではないような気がするのですが。
でも、<私>は存在せず≪私≫だけが存在する、なんて言い切ったら、E君に殴られるしねえ(笑)。
というわけで…。
>126
>永井が問題にしているのは、<私>は、こんなにも特別で、言語の限界を超えて
>いるはずなのに、どうして、言語で語られ、したがって、他人に理解できてしま
>うのかということではないかと思います。
私は、その問題は重要だと思っています。
ただ、他人に理解されるか否かなどということは、二の次であって、<私>が現に存在し
ていることが全ての始まりなのである、とも言える気がします。<私>の存在がなければ、
他人に理解されるもへったくれもないはずなので。
…でも、今書いたこの文章も、やっぱり一般論として成り立つものなんだよな(笑)。
C君とE君の喧嘩は、一体どうやって決着がつくのでせうか。
>127
>>125の議論を読んでいると、それはもう<私>の範囲を超え出ていないか?
>そうゆうかたり口だと、<私>に具体性が帯びている。
そう言われてみると、確かに、125の内容は<私>とは別みたいですね。テレパシーにつ
いて考えてみると(やったことがないので想像ですが)、そういう気がします。
つまり、「私は今、私ではなく、永井均の痛みを感じた」というような表現が可能になった
としても、この文章の最初に出てくる「私」の存在について問題にすることができるでし
ょう。(2番目に出てくる「私」は、14(仮名)という特定人のことになるのかな?)
…しかし、そうすると、「私は痛い」ということの誤りえなさと<私>・≪私≫との関係に
ついて、私は何かdでもない勘違いをしてたのかなあ ( ;´Д`)
130 :
考える名無しさん:01/11/20 18:05
改行を・・・
>128
なんとか自分のわかる範囲で書きます。
まず、14さんは<私>は言語では表現できない、って言いますけど、僕はね、14さんは
<私>とは違うことを問題としているように思います。
14さんが考えているのは、何か無色透明の自己というものが最初にあるんだけど、
言語によってそれが汚染されて、その無色透明の自己にどうしてもたどりつけない、っていう
議論だと思います。
永井さんも「<私>の存在の比類なさ」所収のソシュール論文で同じような議論をしていたと思う。
言語は自己差異化の機能を果たすというのかな。
公共性と私秘性の対立というか...
もしくは、自分を言語によって規定していくことに、自分の何かが失われていく、という感覚。
あとC君とE君の対立も、F君のレポートが調停していると思うだけどね....
C君が可能主義者で、E君が現実主義者。
そして永井さんの議論をするためには、どちらも必要。
E君も、永井さんの独在性セミナーに参加してベラベラしゃべっている、ということは
不可避的にE君はC君の立場に片足突っ込んでだよね。
だけど、E君は自分の立場を主張する時には、現実主義に立ち戻るだけ。
たしか、E君が永井さんにたしなめられている場面があったよね。
「E君は、何を理解してC君の立場を否定しているのかな、そこを問題と感じないのかな」っていうような。
何ページか忘れたけど。
知性による理解の段階では、みんな可能主義者。
だけど、いざ存在の段階に移った時、みんな現実主義者になる。
存在と知性の乖離っていうのかな.....
まず僕は、永井さんの議論を形而上学的感覚の問題として位置づけてみたい。
つまり、どのような時、永井的感覚、もしくは、それに似たような感覚を覚えるのか?
その時「論考」の視の比喩や、永井さんの自分が世界の中心にあるような図は忘れたほうがいい。
あれは端的に邪魔だと思う(笑)
中心化された世界とかいって、あんなのありえない。
神の視点にでも立たない限り。
だけど僕は言いたい。あなたもただの一人の人間ですよって。
どこの視点から中心などと言っているのか。
中心云々、そこから世界が開ける云々は忘れたほうがいいと思う。
いつ独在感覚を覚えるのか?
それはまず、自分の存在が世界の存在を支えている、っていう感覚からくるんじゃないか?
なぜ独在かと言えば、私以外の存在者が世界の存在を支えているとは感じられないから。
その時、私は神にでもなったような気分を覚えるわけだ。
たしかに他の人も神なのかも知れないけど、それを知りうるような視点は存在しない。
他者の形而上学的感覚はわからない、というのかな。
大森さん風に言えば、私の心の形而上学的感覚が世界全体を満たしている、と言うのかな。
存在と知性の乖離ってさっき言ったけど、他者の形而上学的感覚は概念的には理解できるけど、
その知性による理解はどこまでいっても他者の存在感覚には追いつかない。
>132
>中心化された世界とかいって、あんなのありえない。
>神の視点にでも立たない限り。
>だけど僕は言いたい。あなたもただの一人の人間ですよって。
>どこの視点から中心などと言っているのか。
この辺が、考え方が食い違うところなのかなあ。
私にとっては、現に、世界は14(仮名)という一人の人間からのみ開けていて、他の人か
らは開けていません。これは神の視点でも何でもなくて、事実そのままです。
中田氏は、中田も14(仮名)も永井均もマイケル・ジョーダンもみな一人の人間であるこ
とに変わりはない、と言っているように見えます。それは、自分と他人は、人間であるこ
とには変わりはなく、自分だけが特別であるなどとは言えない、ということを前提にして
いるように見えるのですが。
永井はむしろ、そういう、全ての人間を平等に客観的に眺めているような視点を、神の視
点と呼んで、否定的に扱っている気がするんですが…。そういう視点からすれば、私の存
在を比類無いものだと考えることは無理でしょう。
もっとも、他人にとって世界がどう見えているか、ということは、私には知りえないこ
とですよね。ひょっとしたら、14(仮名)や永井にとっては、世界は自分からのみ開け
ているのではあるが、中田氏にとっては、そうではなく、中田氏と他の人間に大きな違
いが無いような世界になっているのかもしれない(笑)。そんな可能性も、否定はできな
いですよね。
もしも本当にそうだったら、多少、不気味だという気もしますが…。
まあ、夢があっていいか(笑)。
ちょっと誤解があると思うな。
>133
> 私にとっては、現に、世界は14(仮名)という一人の人間からのみ開けていて、他の人か
> らは開けていません。これは神の視点でも何でもなくて、事実そのままです。
その「世界」という概念が問題です。
僕の世界概念はたぶん14さんと違うんだろうな。
僕にとって、僕から開けて、僕だけ生々しく感じられる世界だけが本当の
世界と言いたくなるんだけど、そうじゃない。
僕の世界概念は、僕から開ける世界、14さんから開ける世界、
永井さんから開ける世界、そのような諸世界の総体です。
普通に考えればこのような世界概念は想像不可能だけど、概念的には理解できるでしょ。
それにまさか、14さんは僕と同じ世界に住んでいない、とは思わないでしょ。
僕は世界とは三次元のような単純なものではなくて、もっと複雑な構造をしていると思っているんだけどね.....
で、このような図式で考えると一見全ての人間を平等なように見えるけど
でも、やっぱりそのような図式を理解しているのは僕、中田世界からなんだよね。
ここで僕の独我論的身悶えが起こる。
どうやったら上記のような諸世界の総体である世界概念の中に安住できるのか?と。
僕は独在論を徹底的に突き詰めると、本当に私だけまったく違う世界に住んでいることになると思うよ。
文字どうりに永井さんの言葉を受け取るなら、僕や14さんは永井世界の住人なんだよ。
それ以上でもそれ以下でもありえない。
僕や14さんが、いやこれは僕から開ける世界だ、て反論することはできない。
独在性を文字どうり受け取るなら、反論は許されないだよ。
(だから本当は独在性セミナーってものすごくナンセンスなんだけどね)
僕が神の視点といって非難しているのは、永井さんが世界全体を表象して、すべての人間を自分の世界の中に取り込んで
独在論を考えること。
僕も神の視点に立って、永井さん以下すべての人間を自分の世界に取り込んだとする。
その時、僕の神の視点と、永井さんの神の視点が対立する。
両立不可能。
まったく違う世界同士の闘争になると思うよ。
どちらもどちらで、いや僕から開ける世界こそ唯一の現実世界だ、と主張しあうわけだ。
こうゆうことはきりがないし、僕は永井さんと同じ世界に住んでいると思うから、
そのような神の視点に立つのはやめて、もう一回同じ世界に住んでいる人間
同士の立場で話し合おうよ、と僕は提案しているわけだ。
だから、僕は永井さんに、ねえ下界に降りてきて、と言っている。
僕が自分を世界の中心と言うのはやめよう、と言っているのは以下のような
僕の思考プロセスによります。
まず、神の視点にたって世界全体を表象する。
で、その世界の中心に自分が存在する、と考える。
永井さんが言っている世界の中心化がこのような思考プロセス
ではないなら、僕の非難は当たらないけど。
というか、ぜひそうであってほしい。
これは、独在論を考えた順番というものに、僕と永井さんのスタンスの違いが現れている。
永井さんの言葉を文字どうりに受け取るなら、この世界は永井世界であって
それ以下でもそれ以上でもない。
で、そこに僕はおかしさを感じるわけだ。
あー、そうなのか僕(中田)は永井世界の住人なのか、とは思わないでしょ。
でも、永井理論を植え付けられた僕が素直に永井さんにリプライするなら、
うん、僕は永井世界の住人なんだね、わかった、と言うしかないでしょ。(笑)
たぶん推測するに永井さんは、あまりこのような反論を受けたことがないと思うな(笑)
そのように反論されたら困るから(笑)
なんとか相手を自分の土俵に持ち込みたいからね。
そうすると本当に永井さんは独在の闇に沈んで恐怖感を味わうと思う。
(でもたぶんあの人のことだから恐怖感なんてないんだろう。
俗人の僕にとってはかなり恐怖ものだけど)
でも現に永井さんの文章を読んで、そう反応する人もいる。(意地悪な気持ちも込めて)
そうすると永井さんがかわいそうだから、まああれは永井さんの独り言と見るか
単に無視するかのどちらかで対処するとなる。
僕は、それは永井さんのいままでの思索を無駄にすると思うから
なんとか両者を調停しよう、っていう立場なんだよね。
僕はやっぱり永井さんの思索を後世に生かしたい。
ただ、本当に永井さんに反撃したいなら、そうか僕は永井世界の住人なのか
って言うのが一番だろうね。
そもそも永井さんの土俵に上がらない。
僕が不思議に思うのは、なんで相互性の原理を放棄して、
独在論を考えようとしているのに、永井世界以外の世界を
永井さんが考えようとするのか?
<<私>>なるものを考えだしたってことは、<私>の存在の比類なさを考えてた時よりも
純粋な独在性の理論から見れば、かなりの後退だよ。
(ただ、それでいいとも本人は思っているのかな?)
14さんに聞いてみたいのは、僕が、ああこれは14世界なんだね、って反応したらどうする?(笑)
独在性セミナーにそうゆう学生を参加させたらおもしろいかもしれない。
「これは君の世界なんだよ」
っていう言葉にも、どこか越権行為の臭いを感じるんだよね。
どのような視点から、このような言葉が出てくるのか?
「いや違うよ、これは永井さんの世界であって、僕の世界ではないよ」
て反論されたら永井さんはどう答えるのだろうか?
もし僕が世界中の人にそのような反応されたら、本当にものすごい恐怖感、孤独感を感じるだろうね。
ただ、このような反応が、上で見た「神々の闘争」の情景に近いかもしれない。
どうやったって「これは君の世界だ」なんて言えないだよ。
もし僕が永井さんにそう言われたら自分の大事なものを侵犯された怒りをこめて、
「いや、これは永井さんの世界ですよ」って答えるかもしれないね。
もちろん、僕も「いや、これは永井さんの世界ですよ」なんて言えない
だけど、先に永井さんが越権行為をしているから、僕も越権行為をして
いいじゃないかな?
ただ、こうなるとつまらない議論になるから、こういう「神々の闘争」はやめて、
普通の人間的地平から話し合いましょう、と僕は言っている。
もしくは完全に沈黙してほしい。
どこだったかな、独我論を語ってしまうのは、退廃したロゴスの形態だって言ってたよね。
たしかに永井さんが自分の独我論的直感に素直に従うなら、沈黙したほうがいい。
「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」という本でも、語ることそのことに道徳性が感じられる、
と言っているから、もし永井さんが道徳嫌いなら、完全に沈黙するべきだよ。
この「べき」も永井さんいとって道徳っぽく感じられるのかな?
思いついたことだけ、ぱらぱらと書いてみます。
>136
>文字どうりに永井さんの言葉を受け取るなら、僕や14さんは永井世界の住人なんだよ。
>それ以上でもそれ以下でもありえない。
たしかに、文字どおりに受け取れば、そうなるでしょうね。これを「E君主義」と名づ
けてみたりする。
ただ、<私>じゃなくて≪私≫に関する議論なら、他の人間と議論が成り立っても別に
いいような気がしますが…。
>135
>僕の世界概念は、僕から開ける世界、14さんから開ける世界、
>永井さんから開ける世界、そのような諸世界の総体です。
ああ、なるほど。すると私とは違いますね。
私が「私の世界」と言っているときには、14(仮名)から開けている世界をイメージし
てます。なので…。
>まさか、14さんは僕と同じ世界に住んでいない、とは思わないでしょ。
いや、14(仮名)(にとっての≪私≫)と中田氏(にとっての≪私≫)は、別の世界に
住んでいる、と言わざるを得ないですね(笑)。
中心の違う世界は端的に別の世界だ、と、どっかに書いてあったっけ。
もっとも、諸世界を平等に眺めるような立場については、永井の著作にはあまり書いて
いない気がします。多分、独我論を論じるには、そんなもんは邪魔だ、ということなん
でしょうね。
しかし、では違う世界同士で話が通じたりするのはどういうことなんだ、とか聞かれる
と、きついですね(笑)。通じるもんはしょうがないし、通じてるぶんには特に問題ない
だろう、と、なんとなく思っているだけです。
>138
>僕が不思議に思うのは、なんで相互性の原理を放棄して、
>独在論を考えようとしているのに、永井世界以外の世界を
>永井さんが考えようとするのか?
それは多分、自分以外には誰にも理解されないはずのE君主義を、なぜか理解している
人が他にいたからじゃないですかね。そのせいで、永井世界以外の世界についても考え
ざるを得なかったんでしょう。『<子ども>のための哲学』は、そんなふうに読めます。
だから、もしも、永井の議論を知った人全員が「そのとおり、あなたの世界だけが唯一
の世界なんです」と返事をしたら、確かに面白いことになったのかもしれない(笑)。
…でも、考えてみると、小学校の作文のエピソードが、この話に関係ありそうですね。
永井は、この世界は自分のために演じられている舞台である、という作文を書いた。そ
して、先生が「いや、この世界は僕の世界だ、君などは僕の世界の登場人物にすぎない」
と返事をするのを期待していた、という話です。
そうしたら、永井はその先生と、独我論者同士の友情(?)ができそうな気がしたんだ
そうな。ということは、永井の感情、気分としては、他者は本当に存在しないという恐
怖などは持っていないんでしょう。多分。
そういうのは、独我論者の気分としては、おかしいのかなあ。
ちなみに自分の話をすると、私は、以前に、電話で話している相手に向かって、「あなた
の声は確かに聞こえている。しかしあなたが今、本当に存在しているかは、わからない」
という、ソボクな独我論的発言を行ったことがあります。永井の議論が頭に入るように
なった時より前です。今から考えると、いかにも厨房だ、と恥じ入らざるを得ないなあ ( ;´Д`)
そのときに相手が本気で「何をアフォなことを言ってる、自分は存在してるに決まってる」
と返してきたせいもあって、今では、他人がちゃんと存在していることには確信を持っ
てます。中田氏がかりに「これは14(仮名)の世界だ」といったとしても、失礼ながら、
嘘としかみなさないでしょう。
うーん、これも、変なのか?
>141
>しかし、では違う世界同士で話が通じたりするのはどういうことなんだ、とか聞かれる
> と、きついですね(笑)。通じるもんはしょうがないし、通じてるぶんには特に問題ない
>だろう、と、なんとなく思っているだけです。
きついだろうがなんだろうが、そのへんを思いっきりとっちめたいね(笑)
>中心の違う世界は端的に別の世界だ
別の世界である、という言葉の意味が問題だよね。
ここで言われる世界概念の中身。
僕の世界概念は、別々の諸世界を含みこんだ世界だから、ただ僕の世界概念と
永井さんの世界概念には存在論的次元での差異がある、ってだけ言えば、永井的世界概念
と中田的世界概念は両立する。
別に両世界に相反するものはない。
だから、なぜ僕と14さんの話が通じるかと言えば、中田世界と14世界が、上記の僕が考え出した中立的世界
という別の存在論的次元での同一地平にちゃんと存在しているから。
ただね、永井さんが、僕が考え出した世界概念も認めないと言うなら、どうしようもないな。
>142
>そういうのは、独我論者の気分としては、おかしいのかなあ。
前に14さんが言ったように独我論的問題感覚は他者が問題なのではなく、自分が問題じゃないのかな。
他人の世界は普通にあったっていいんじゃない?
だけど、この自分の世界は何なんだ?って、独我論者は驚くんじゃないかな。
だから、永井さんの子供の時のエピソードを解説するなら、これは自分の世界だ、って先生(他者)に
言う必要はなくて、自分で自分の世界のことを自問自答すればいいんじゃないのかな?
他人に聞いたって自分の世界のことなんか誰も教えてくれないよ。
<<私>>についてのリプライはちょっと待って。
あまりこの概念について考えたことはなかった(笑)
このところ哲学書から遠ざかって脳みそが狂牛病のようなのだけど、
自分が理解する限りで<私>とは次のような思考実験から定義している。
考えている「私」がゾウリムシのように分裂するとしよう。その時
人格や脳内の記憶はもちろんのこと、遺伝子の構造、細胞の配置、
その他の特性など「私」の持っているすべての属性が、分裂後の
「私1」と「私2」に引き継がれるとする。つまり「私1」と「私2」
の組成はまったく代わりがないとする。このとき、第三者にとって
「私1」と「私2」は分裂する前の「私0」から区別することができ
ない。完全に特性を引き継いでいれば同一人物としか認識できない
のである。ただし、同一人物が二人存在することになる。それでは
「私」の心はどうなるのか。私は唯物論的立場をとるので、心も、
「私1」と「私2」とでまったく同一のものとして分裂して存在する
と考えるが、ここでいう「心」は「たましい」と置き換えてもらっ
て何ら問題ない。つまり「私1」と「私2」は分裂した瞬間同じ魂を
持っている。ただし分裂した直後より、「私1」は「私2」の魂を
窺い知ることはできなくなり、「私2」にとって逆も然りである。
それでは、最後に残る<私>はどうか。これはわれわれの知る限りに
おいてあらゆる万物に対する理学的法則によっても必然的に選択
できないものである。「私1」が「ああ、私だ。」と確信すれば
「私1」が<私>なのである。それでは「私1」が<私>であったなら
「私2」は<私>ではないのか?いや、「私2」が「ああ、私だ。」と確信しない理由など何もない。むしろ「私1」と「私2」は分裂
したときの位置を除けば何一つ差異はないのだから、「私2」が
<私>を確信するほうが理にかなっている。つまり、これを<私1>、
<私2>と仮に表すとすれば、魂のレベルまで「私1」=「私2」が成立したとしても、決して<私1>=<私2>にはなることはあり得
ない。
(<私>とはそもそも<私>の世界にただ一人しか存在しないので、
表記そのものが不適格であるが、とりあえず<私1>と<私2>の
世界は別々に存在する、とみなす。これは議論すべき問題に
なるであろうが余裕がない)
この2つの<私>は定義から言うまでもなくまったくの別人で
ある。そして、<私>が<私1>になるか<私2>になるかは、分裂
したあとの、当の<私1>、<私2>自身にしか判らず、そして
<私1>が<私>と認識した時点から、<私1>にとって<私2>という
ものは何ら意味を持たず、単にまったく同じようなことを考えた
りする「私2」という、その他大勢と同じレベルでの別人になる
のである。
(ここで1と2は入れ替え可能である。というよりも、1,2という
番号の振り分け自体がまったく恣意的であることに注意)
ところで、
人間はゾウリムシのように分裂はしない、としても、クローンで
自分と遺伝子レベルでそっくりの個体に記憶を移そうとするなら、
脳みそ自体をすげ替えれば目標は達成するのか?脳自体を複製
するという考えをするのではなければ<私>という属性は脳に付随
するように思えなくもない。この疑問は私の中ではまだ解決して
いない。永井の著作を再読する必要がありそうだ。
>143
>僕の世界概念は、別々の諸世界を含みこんだ世界だから、ただ僕の世界概念と
>永井さんの世界概念には存在論的次元での差異がある、ってだけ言えば、永井的世界概念
>と中田的世界概念は両立する。
>ただね、永井さんが、僕が考え出した世界概念も認めないと言うなら、どうしようもないな。
何というか、扱っている問題や興味・関心の向いている方向の違い、という気がします。
永井も、諸世界を平等に扱うような考え方自体を否定しているわけではないと思います。
ただ、独我論とか独在性に関する議論をする場面では、そのような考え方をすることは
できない、ということではないかと。
それで、諸世界を平等に扱うことを前提にする問題(社会制度など)については、興味
がなく論じる気はない、というのなら、まあ永井さんがそういう趣味ならば、他人が口
出しする必要はないかなあ、と、私は思っています。私もそういう問題にはそれほど興
味がないし。
もっとも、そのような14(仮名)の態度は、世の中の権力闘争で勝ち残る力を持たない
弱者が、観念的な議論での勝利に最後の拠り所を求めたものであり、ルサンチマンの現
われである、という糾弾は、受けなければならないかもしれない(笑)。
>きついだろうがなんだろうが、そのへんを思いっきりとっちめたいね(笑)
はあ、とっちめられるのか(笑)。
まあ独在性セミナーとかいうのは、他人には理解されないはずのことをブツブツつぶやき
あい、また他人のつぶやきを自分のこととして勝手に利用しあう、という、へんてこな
場であることは、間違いないですけど。
こういう場が必ず成り立ってしまう、というのはどういうことなのかなあ、<私>は本当に
比類ない存在なんだろうか、というのが私の疑問ですが。
それと、他人に対してわざわざ「これは君の世界だ」と言ったりするのは、確かに越権行為
なんでしょう。別の考え方をしている人が、永井のような考えを押し付けられるいわれは、
ないですね。
唐突に話題を変えるのはなんですが、<私>に関する議論を、道徳とか他の問題につな
げることは、私は難しいんじゃないかと思ってるんですが。他の問題について論じる場
合は、たいてい、自分と他人とを平等に扱うことを前提とすることになるでしょう。そ
のような場で、<私>の存在は特別なんだと吠えてみたって、場違いだと言うしかない、
という気がするので。
そうは言いながら、14(仮名)の個人的経験の中で、永井の独在性に関する議論が14
(仮名)の道徳についての考え方に影響を及ぼした、ということは、ないわけではない
んですけどね(笑)。そんなことがあるのは変だ、と、私自身は思っています。
ちょっと時間がないので今日は手短にまとめます。
>何というか、扱っている問題や興味・関心の向いている方向の違い、という気がします。
それがわかっただけでも収穫ものだ。
あと、どうなんだろ、僕は諸世界をけっして平等に扱っているつもりはない。
それに平等に扱わなくても、社会制度や道徳は語れると思う。
「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」で、形而上学から倫理学への移行は当然と、永井さんは
言っているけど、僕もその移行は自然だと思うな。(安彦さんはそれを不自然と思っているけど)
だから
>そんなことがあるのは変だ、と、私自身は思っています。
僕は、変とは全然思わない。
僕は独在というものは、すごくわかる。
というか当然の事実。
ただ、この独在というものが、どのような存在論のレベルで言われているのか?
僕は永井さんの世界概念にすごく不自然さが感じられるし、もっと世界概念を明確にしてほしいと思う。
150 :
考える名無しさん:01/11/29 17:47
つーか思考実験ってのが抵抗ある
でね、僕は中田世界と14世界は別の世界だ、っていう意味での交通不可能性
があるとしたら、「論考」的な意味で世界を限界づけ、世界の中のものでもなく
形而上学的意志のレベルであるのではないか?
(この形而上学的意志は、経験世界の中の意志ではないので心理学の対象ではない)
この形而上学的意志が倫理を担う。(「論考」6.423)
この意味で中田世界と14世界は全く違う世界である。
それぞれの世界を限界づける、この形而上学的意志がまったく違うから。
僕は<私>に、この形而上学的意志も付け加えたいね。
昔<私>って具体性がないな、それじゃ僕は不満足、みたいなこと僕は言ってたでしょ。
今思うと、この意志が足りなかった、っていうことで謎がある程度解けた。
「<私>のメタフィジック」風に言えば、<私>は不在の実体なんだけど
僕はこれを不在の精神的実体と読み替えたい。
(余談ですが、「<私>のメタフィジック」の四章を読み返したところ、今とあまり
変わらないな、と感じました。むしろ、昔のほうが切れ味がいい気がした)
「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」の議論では、思いっきり
永井さんの<私>の形而上学的意志がぷんぷん匂ってくるんだけどね。
もし<私>に比類なさがあるとしたら、むしろこの形而上学的意志によって、
と言ったほうがいいと思うな。
純粋な存在論のレベルで、<私>の比類なさをだすのは難しいよ。
純粋な存在論のレベルで、<私>の比類なさをだしてもいいけど、
そうすると完全な沈黙しか待っていないと思う。
152 :
考える名無しさん:01/11/29 17:58
>145
>人間はゾウリムシのように分裂はしない、としても、クローンで
>自分と遺伝子レベルでそっくりの個体に記憶を移そうとするなら、
>脳みそ自体をすげ替えれば目標は達成するのか?
このへんは、『転校生とブラック・ジャック』に、もろに関わりそうですね。
とりあえず、「脳みそをすげ替える」ことと、
「脳みそについて分子レベルで正確な情報をとり、その脳みそを処分する。その後、
とった情報をもとに、新たに脳みそを作り直す」こととは、同じことなんですかね。
同じだとすれば、『転校生』の議論が、そのまま使えるでしょう。
同じとすれば、今の≪私≫から見て、未来のある時点にいるどんな人間が≪私≫になるかと
いうと、心理的な継続性のあるやつ(同じ脳みそを持ってるやつ?)であるらしいですね。
もっとも、≪私≫は今しか存在しなんだから、未来の≪私≫なんてものはそもそも≪私≫
に似ているだけの他人にすぎない、という言いかたの方が、14(仮名)の頭には入りやすい
ですが。
ありゃ、確認しないで割り込んじゃった。失礼。
まず言っておきたいのは、本当に独在性を痛切に感じている人は、
多分永井の議論は無視するか、理解できない、と言うか、
「そうね、これはあなたの世界だね」と言って、そっぽ向くと思う。
つまりまともに取り合わない。
だから本当は>124の14さん見たいに、<私>を理解した、なんて口が裂けても言えないだよ。
それは独在のプライドが許さない。
(永井さんの悲劇は、あまり独在を感じない人にだけ相手にされることにあるだろうね)
でね、僕は永井さんは独在という事態の問題感覚を少しつかみ損ねている、と思っている。
僕は、独在という事態がまずあるんだけど、永井さんの議論は一つの亜流にすぎないと思っている。
独在を、もっと別様な言葉で噛み砕ける。
(中心化された世界というのは、永井さんなりの独在という事態の一つの表現にすぎない)
あと、永井さんは、<私>を人間から分離したいようだけど、それは無理だと思うよ。
別に思考実験するのは自由なんだけど、僕にとっては、独在という事態の解明に
あまり貢献しないことだと思っている。
<私>を人間実在依拠型で把握してほうが、独在という事態の
本質を逆に解明していくことができると思う。
あと、14さん道徳とかの話になると、急に歯切れが悪くなるように感じるのですが。(笑)
それは<私>の思考実験に逃げることで、現実から逃避しているだけじゃないかな。
僕は社会制度や道徳なんて<私>を消去することで成り立っていると思うよ。
そのへんの事態を解明していかなきゃ。
14さん、道徳の話になると、常識の力に哲学パワーが負けている気がする。
まあでも常識の力に負けて我慢していると、それこそルサンチマンをためこむよ。
だから、独在性を痛切に感じるのなら、正面切って<私>の立場から道徳や社会制度のことを
考えたほうがいいと思う。
横レスですが、
>まず言っておきたいのは、本当に独在性を痛切に
>感じている人は、 多分永井の議論は無視するか、
>理解できない、と言うか、 「そうね、これはあなたの
>世界だね」と言って、そっぽ向くと思う。
>つまりまともに取り合わない。(
>>154)
この文の「永井」は「中田」で置換してもよいのでしょうか?
154−155を読む前に思いついたんですが、独在性について他人と議論することを(変
なことをやってるとは思いつつ)認める人間が、独在性に関連させつつ道徳について他
人と議論することを認めないのは、矛盾してるのかもしれないですね。
で、14(仮名)はなぜ矛盾したようなことを書いていたのか、理由を考えてみると、
@ 独在性についての議論は、究極的には、この<私>だけのための議論である。他人が
面白いことを言っていたら、勝手に自分のこととして利用すればいい(笑)。また、自分
の言ったことが他人に利用されるのも、究極的には<私>には関係ない。
A しかし、あることがよいとか悪いとかいう発言は、他人にも認められないことには意
味がない。例えば「私は人を殺してよい」と言ったって、それが社会に認められなけれ
ば、無意味だ。
よって、@とAは性質の違う議論なんだから、くっつけるのは無理だ、と考えていたよ
うです。でも、あんまり根拠がない気がする(笑)。
今日はちょっと時間がないですが、@Aは本当に性質が違うのか(例えば、道徳につい
てひとりごとをブツブツつぶやくことは無意味なのか)、考え直した方がいいかもしれな
いですね。
なお、感覚的には、14(仮名)は、私は何をやってもいいんだ、と考えてるタイプの人
間です。ただ、それを言ってみても仕方ないだろう、と今のところは思ってるわけです。
『「私」とはなにか、「私」とは客観的な諸関係のアンサンブルだ。』というテーゼ
がある。しかしこのテーゼを口にしたとたんに発生する「私」がある。
「私」は、スーパーマーケットの棚に並んだキャンベルスープの缶だ。買われなければ「私」
は存在しない。耐えるしかない。
この耐える時間に、独我論を、紡ぎ出す。夢は夜ひらく。となりの缶と異なる<私>。誰にも見えないからこそ
確実に存在する<私>。
しかしながら外部は実在する。堤防を越えて襲い掛かる濁流の恐怖。
だとすると、二元論しかない。デカルトだ。
ええと、中田氏と14(仮名)との間で、永井の議論に対する見方がどう違うのかを明ら
かにしてみようという観点から、14(仮名)が永井の独在性に関する議論をどう見てい
るのかについて書いてみました。
でも、お前は何遍同じことを書いたら気が済むんだゴルァ!と言われそうだよう ( ;´Д`)
感覚的には、14(仮名)から開けている世界が唯一本当の世界である、という感覚は、
なくなりようがありません。例えば、永井均という他人が「永井均から開けている世界
こそが唯一の世界である」と言ったところで、それは私の世界にいる他人がなにやら変
なことを言っている、ということに過ぎません。
もっとも、感覚がそうだからといって、それが正しい考え方や言葉づかいと言えるかど
うかはわかりません。
例えば、感覚的には、「他人には心がない」とか「私が生まれる前には宇宙が存在してい
なかった」とかいう感覚もありますが、それは正しい言葉づかいとは言えないと思われ
ます。(でも、これには反論がありえるかな)
だから、14(仮名)から開けている世界が唯一本当の世界である、ということが、考え
方・言葉づかいとしても正しいと言えるかどうか、検討する必要があるでしょう。そし
て、考え方・言葉づかいについて検討するには、他人の議論を参考にしても、別にかま
わない気がします。
そういう発想からすれば、永井の著作を読む理由は、「私」「世界」「他者」などについて
の論理とか文法規則とかについて検討し、正しい考え方・言葉づかいことを探るためだ、
ということになるでしょう。永井の議論のうちとくに興味深いのは、『転校生』に出てく
るような思考実験とか、『ウィトゲンシュタイン入門』に出てくるような言語についての
議論だ、ということになるでしょう。
しかし、これでは最大の問題が残ることになります。つまり、考え方・言葉づかいとか
いうものが正しいか否かは、なにも14(仮名)である私だけの問題ではなく、誰にでも
当てはまるものになるわけです。<私>の特別さは、どっかに逝ってしまいます。する
と、やっぱり、特別の<私>なんてものは何かの錯覚であって、せいぜい誰にでも当て
はまる≪私≫があるだけなのかなあ、という気がしてきます。
いくら14(仮名)が間の抜けた脳みそを有しているからといっても、<私>の特別さに
ついて積極的に議論しているのは、14(仮名)ではなく永井均とかいう他人である、と
いうことには、気づかざるを得ない(笑)。
要するに、14(仮名)は、永井の議論は世界を正しく見るための梯子である、と見てい
ます(?)。だけど、その梯子をかけてくれた永井均さんというのは何者なんだろう、と
か、他にも同じ梯子を使って上ってくる人がいる(らしい)というのはどういうことだ
ろう、と悩んでいるわけです(??)
で、このような見方に対しては、以下のような疑問が考えられます。
(これが、中田氏の疑問と一致しているかは、わかりませんが)
そもそも、私の存在が特別であるということと、「私」「世界」などについての考え方・
言葉づかいの検討とは、関係があるのか。重要なのは、14(仮名)の存在が特別である、
ということである。「私」とか「世界」という、誰もが使う言葉について、考え方・言葉
づかいの検討なんてものを行えば、一般的に成り立つ議論になってしまって、14(仮名)
の存在という特別なものがどっかに逝ってしまうのは、当たり前ではないか。
永井がそういう検討を行うのは、ウィトゲンシュタインの独我論に引きずられすぎてい
るのではないか。「私」という言葉の検討などではなく、14(仮名)という特別のもの
にこだわるべきではないのか。
この疑問については、検討する必要があるかもしれません。14(仮名)が特別の存在で
ある、という考え方をしてはいけない理由が、本当にあるのかどうか。
永井の議論に乗っかって言えば、14(仮名)と<私>とは区別して考えることができ、
そして特別なのは<私>であって14(仮名)という一人の人間ではない、ということに
なります。しかし、14(仮名)と<私>との区別は、感覚などについてのウィトゲンシ
ュタインの議論に絡めたものであって、他人の感覚などの問題とごっちゃになっている
かもしれません。他人の感覚などの問題を横に置いておけば、14(仮名)の存在をその
まま問題にしたって、かまわないのかもしれないですね。
あと、14(仮名)は存在しているが<私>は存在していないことが考えられるか、とい
う議論もありますが、正直言ってその議論は私にはよくわかりませんので、パス(笑)。
>156
別に中田と読み替えても結構です。
というかそれが正常な判断だと思います。
でもね、じゃあ、何を理解して、そのような無視の反応が生まれるのか?
そこが永井さんのいうように問題のキモじゃないですか。
僕も永井さんに同意して、これに問題を感じる人にだけ議論に加わってほしい。
ここに問題を感じない人は、いくら独在を痛切に感じる人でも、
たぶん僕や永井さんの議論は戯言にしか聞こえないでしょう。
でも、それで全然かまわないと思います。
>157
例えば「私は人を殺してよい」と言ったって、それが社会に認められなけれ
ば、無意味だ。
なぜその言葉が社会に認められないのか、を
徹底的に考えることが哲学じゃないかな。
1.2の区別は安彦さん的だね。
形而上学と倫理学を同次元で論じるのはカテゴリーミステイクだっていう。
でも、僕は、そんなことは関係ない、と反論したいね。
むしろ永井さんにならって、形而上学から倫理学への移行は構造上の
必然だと言いたい。
14さんに、「なぜ悪いことをしていけないのか」の議論をぜひ熟考してほしいと思う。
あと僕は倫理というものは究極的には対他的なものではなく、自分自身に対するものだと思う。
レイ.モンクの「ヴィトゲンシュタイン」の最初に、「論理と倫理は自分自身に対する責務である」
っていうオットー.ヴァイニンガーの言葉があるけど、まさしく僕もそうだと思う。
永井さんの倫理観もそんな感じだね。
永井さん風に言えば、自分の世界の倫理と言うのかな。
人間永井自身でさえ、永井世界の倫理のために考慮する一つのファクターにすぎない、と言う。
この感性は本当好きだね。
14さんの特別さを議論する方向でいいと思います(笑)
もともと、<私>なんて、思考実験するために捏造された概念だと思いますので。
だけど、永井さんの議論だとそれはだめなんだよね。
どうしても永井さんは<私>と人間永井の偶然的出会いを問題として成り立たせたいからね。
だけど、僕から見ればそれは、永井さんの議論固有の擬似問題のような気がする(笑)
(ただ、どうなんだろ、この議論もまだ全否定はできないような....(笑))
14さんが14さんの特別さを探求したいなら、いつまでも永井さんの用語に頼ってちゃだめだと思うよ。
他者に互換不可能な自分固有の言葉を語りださねば。
>160のような議論をそのまま進めればいいと思う。
ただ、あくまでも存在論のレベルを確保した上でね。
人間論的に、人間14の特別さ云々という議論は、永井さんの思索を無駄にする。
問題を定式化してみたいと思っているのですが。
独在というのは、一体どのような事態なのか?
(ちなみに<私>と独在はイコールではない。
永井さんの<私>は、独在という事態から、永井さんが永井さんなりに引き出した帰結にすぎない)
端的に、この問いが中心的な問いになるのではないか?
そして独在という事態が、他者、言語、道徳、社会制度などの問題に
どのように波及するのかも問題となってくる。
独在という事態のみに限れば、それは公共的に議論することは可能だと思う。
<私>と人間永井の固有性が引っ付いているから、永井さんの議論に他者が介入する
余地がないだけ。
独在という事態を、それぞれの人間の固有性に引っ付ける話は別次元の問題。
まだ、僕は独在という事態がほとんど何も理解していないのに、永井さんの表現が
真理をついているとはあまり思わない。
独在って、本当は空気の存在のようにあまりにも自明すぎることだけど、いったい気づくと
とんでもない問題だな。
僕は問題の真相に気づいた時びびったね。
永井さんやヴィトゲンシュタインの表現は、彼らなりの独在という問題に対する一つのびびりかただと思ってます。
今まで議論が堂々巡りの感があったのですが、
>164の問題の定式化をどうでしょうか?
自分が一体どのような場所でもがいているのか、その場所をまず明確にしませんか?
たしかに>159にあまり新鮮味がない。
何度同じこと書いたら気が済むんだゴルァ!
>163
>>160のような議論をそのまま進めればいいと思う。
いや、議論を進めるネタが思いつかないんですけどね(笑)。そういう議論もできなくは
ないかなあ、と思っただけで。
14(仮名)が特別だと言うときには、やはり、感覚などについての特別さが重要だと思
います。つまり、永井均その他の人間が殴られても痛くないが、14(仮名)が殴られる
と痛い、とかいう話です。こういう話を全く考慮に入れずに、14(仮名)が特別だ、と
言うのは、難しい気がします。
しかし、こういう話を考慮に入れれば、心とか感覚についての一般論になってしまいが
ちなわけですね。
うーむ、やはり無理だ(笑)。私の脳みそでは、感覚などと切り離して14(仮名)の特
別さを考えるのは難しいです。むしろ、
>>114で書いたような、感覚などを持っている
<私>が14(仮名)という人間と切り離されてフワフワ浮かんでいる、というデムパな
イメージを活かしたほうが、ネタが浮かぶかもしれない。
>164
>問題を定式化してみたいと思っているのですが。
そうですね、明確に定式化できれば、それに越したことはないです。出来るかどうかわ
からんけど(笑)。
とりあえず、思ったことを勝手に書いてみます。
私が、感覚的に重要だと感じるのは、私が存在しなければ、ある意味では、何も存在し
ないのと同じだ、というものです。雑に言えば、以下のようになります。
私が死んでも、世界が無くなったりするわけはない。しかし、私が生まれる前はどうだ
ったんだろう。私が生まれる前には、世界はなかったのではないか。もちろん、14(仮
名)の誕生と世界の誕生との時間的な先後で言えば、世界が先に決まっている。しかし、
ある意味で、私が生まれたということが、世界の存在の前提になっているのではないか。
(ここで言っている「世界」とは、「14(仮名)から開けている世界」といったような
意味ではなく、まあ普通にイメージされる(?)世界です)
さて、ここで言っている「ある意味」とかいうものに、まともな意味を持たせることが
出来るかが問題ですが…。
それは後にしよう(笑)。とりあえずは、私の持っている感覚を述べ立ててみました。
あと、道徳との関係について、ちょこっと。
まず、私が独在性の問題というときにイメージしていたのは、主に166−167あたりの
問題です。だから、少なくとも私の感覚としては、道徳と関係あるわけがない。
そんなわけで、永井が独在性と道徳とを結び付けて論じているのも、いまいちピンと来
ません。永井にとっては関係があるんでしょうが、私にはどうしても、道徳というものの
成り立ちを客観的に解明した(よって、誰にでも一般的に当てはまる)議論に見えます。
まあ、むりやり結び付けるとしたら…歯医者が何と言おうと、私の歯は私に痛いと感じ
られれば痛いのだ。同様に、他人が何と言おうと、私によいと感じられたことはよいこ
となのだ…。
こりゃ、たいして面白くないですね(笑)。もともと私は、私が人を殺してよいと感じた
ら殺してよいのだ(そう感じることが多いというわけではありませんが)、と思っていた
ので、あえて独在性をくっつける必要はない気がします。
それから…
>155
>僕は社会制度や道徳なんて<私>を消去することで成り立っていると思うよ。
それは、そのとおりだと思います。道徳や社会制度というものは、そうやって成り立た
せるしかないんでしょう、きっと。
だから、もしも私に権力が与えられて、道徳や社会制度を作る立場に立ったとしたら、
やはり<私>の特別さなんてものを考慮に入れずに、作らなければならないでしょう。
もちろん、他人にバレないように私だけが得をするルールを作れれば、そっちの方がいい。
というか、もちろん、それを目指します(笑)。しかし、完璧に他人にバレないようにル
ールを作ることが出来れば、私だけが得をすることが誰にもわからず、結局、<私>の
特別さを考慮しないルールだということになるでしょう。
まあ、現行のルールの問題点とか、他人にバレずに利益を上げている奴とかを炙り出す、
という作業には、もちろん社会的意義があると思います。しかしそれは、社会思想家(?)
とかいう人々の仕事だろう、と。
あとは…
>162
>僕は倫理というものは究極的には対他的なものではなく、自分自身に対するものだと思う。
これも、そのとおりだと思います。しかし、自分自身の倫理というものを、わざわざ他
人に公表しなくたって、いいんじゃないかと。14(仮名)は聖人君子であるわけでもな
いし(笑)。
もっとも、「〜すべきだ」「〜してはいけない」などと感じたときに、それは本当に自分
自身の倫理と言えるのか、それとも道徳・社会制度がそうさせたのか、という区別は問
題になりそうですね。
>159
要するに、14(仮名)は、永井の議論は世界を正しく見るための梯子である、と見てい
ます(?)。
これは端的に間違いだと思う。
永井さんの形而上学は、永井さんだけが使用できる梯子だから。
別に永井さんの梯子を使ってもいいんだけど、僕にとってそれは特定の宗教の
信者になることと同じなように見える。
僕は永井さんの梯子で登っていく人たちを見て、何か違うんじゃないか?、
とつぶやくでしょう。
僕の努力は、永井さんの議論から離れつつ、独在を確保しながら存在論
のレベルを個別化するような次元を切り開いて、なおかつ中田の特別さを
議論する方向へと向かっていくこと。
だから、まず
独在というのは、一体どのような事態なのか?
という問いを考えてくれましたか?(笑)
要はさ、僕は独我論的言説を生じさせているような根源まで遡行している。
>167で言っているような、14さんの形而上学的感覚を直接的に共有して
くれる他者がいないのは独在という事態からの一つの帰結なんだよ。
自分の感覚に対する他者の不可侵性、自分の意思決定に対する他者の不可侵性、
自分の世界に対する他者の不可侵性、自分の存在感覚に対する他者の不可侵性、
どれもこれも独在というある意味自明すぎることから生じている。
あまりにも自明すぎて誰もがその事態に軽々しく慣れきっているのに、僕はそこにとまどいを
感じているわけだよ。(14さんはどうかわからないけど)
>167 ある意味で、私が生まれたということが、世界の存在の前提になっているのではないか。
まず、「ある意味」という留保が、14さんが真正独我論者ではないことを物語っている。
でも、じゃあなぜ真正独我論者にはならないのか、というのを考えてみたらおもしろいじゃない?。
あとここでいわれている世界概念を、詳しく説明してください。
僕の感想としては、14さんが生まれて、14世界が生まれた、っていう単純なことのように感じる。
一方で僕が考えているのは、なぜ14さんがこのような言葉を語りたくなるのか?
その原因に遡行しているわけです。
その原因が独在という事態だと今のところ思っている。
独在を安直に世界という概念と引っ付けるから、中田世界とか14世界という
永井さんみたいな議論につながってしまう。
>168
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」を読みました?
永井さんの道徳の系譜学はたしかに一般論。
でも永井さんは、その系譜学に自分の独在論という形而上学が
補われねばならない、と言っているじゃない。
>あえて独在性をくっつける必要はない気がします。
だったら法野谷さんみたいな、単なるわがまま論になります。
普通に14さんはエゴイストだ、って言われるだけ。
だけど、永井さんの議論で言えば、人間永井の不利益になることでさえ、
永井世界の倫理のために行うときもある、というのもありになる。
14さんの論理で言えば、人間14さんの利益になることしか14さんはできなくなる。
それじゃつまらなくない?(笑)
単に人間14さんの欲望に従った行動は美しくないよ。
(単に美学上の争いなのかもしれないけど)
形而上学の領域を補うことで、行為の概念を、人間世界の論理から
外れるような行為の概念をつくりだすことができるのだよ。
たとえば、僕がある人を助けるために自分が死んでしまったとする。
社会を僕の行為を道徳的で慈愛心あふれる行為として賛美するかもしれない。
でも僕は、いや中田世界の倫理のためにそうしただけだよ、と遺書を残したとする。
さて、では社会はこの言葉をどう解釈するか?
たぶん社会は、何とかこの言葉を人間世界の論理に取り組もうと、この言葉を
英雄の言葉として賛美するかもしれない。
でも僕の真意はそこにはないのだよ。
他人に賛美されるために、それが道徳的に善であるがゆえに、
自分が行ったたのではなく、単に中田世界の倫理のためにしたのだから。
まあ、でもこの言葉が社会が容認できる余地はないでしょう。
同じような論理が、悪事にも使えるから。
これが、道徳は<私>の次元を消去した上で成り立っている、ということの説明。
14さんの論理で言えば、自分の行為は人間世界の論理からしか導き出さなきゃいけないし、
人間世界の論理で解釈されざるをえない。
あと、どうも倫理という言葉に道徳的匂いがこびりついていますね。
僕の倫理観で言えば、人殺しでさえ、それは倫理の名で行ってもよいことになる。
だから、僕が倫理と言ったからと言って聖人君子みたいなものを思い浮かべている
わけではない。
ちなみに永井さんは、自分はものすごく道徳的だ、と言って
いるけど、僕もその言葉には同意します。
永井さんは道徳的だと思う。
大庭さんみたいな人の方が逆に道徳的な感性が鈍いし、あまり道徳的でもないと思う。
(ちなみに僕も自慢じゃないけど人一倍道徳的だと思ってます(笑))
永井さんは、道徳という経験的なものを超越論化しすぎる、という安彦さんの指摘は当たっている。
ここには独在論とのねじれた関係がある。
独在論を貫き通したい永井さんとって、共在の思い出である道徳は
人一倍意識されざるをえないだよね。
>170
>だから、まず
>独在というのは、一体どのような事態なのか?
>という問いを考えてくれましたか?(笑)
はあ、これに対する、とりあえずの答えは、
>167
>私が、感覚的に重要だと感じるのは、私が存在しなければ、ある意味では、何も存在し
>ないのと同じだ、というものです。
これのつもりだったんですけどね(笑)。
例えば「全てのことは私の心に現れるものに過ぎないのだから、私が生まれる前には何
もなかった」と言っても、大体同じような感覚は表現されてます。ただ、これだと普通
の独我論とあまり変わらなくなるし、中田氏の指摘のように、14(仮名)という人間が
生まれて、それによって14の心が生まれた、というだけの事ではないかとツッコミが
入るでしょう。
だから、別の表現を使ってみたんですけどね。単に誤解されやすくなっちゃっただけか。
改めて言い直すと、私が「独在」というときにイメージしているのは、(「他人」とか「世
界」とかに関する細かい議論をそっちのけにすれば)私だけが存在するという独我論的
な感覚です。それをできるだけ素朴に(?)表現しようとしたら、167のようになって
しまったんですが。
そういうわけで、167で言っていた「世界」というのは、文字どおり全てのものです。
宇宙も地球も自分の両親も永井均も、また物理法則も日本語の文法規則も全てです。
(なお、これと違う「14(仮名)の世界」「永井の世界」というような「世界」の意味
も、そのうち説明しなければ、とは思ってるんですが…。今のところ適切な説明がまと
まってないので、後日にさせていただきます)
…今度は、「何をいまさら」と言われるよなあ ( ;´Д`)
改めて、問題を定式化しようと言われたので、できるだけ素朴に自分の感じる問題を表
現しようと思ったんですが。
で、私のほうから言わせてもらうと…
>170
>一方で僕が考えているのは、なぜ14さんがこのような言葉を語りたくなるのか?
>その原因に遡行しているわけです。
>その原因が独在という事態だと今のところ思っている。
これは、意味がよくわからないのですが…。
私が独我論的な感覚を持ったり、また疑問を感じていたのは、昔からずっとそうだった
のであって、原因は何だと聞かれても、答えようがないです。
感覚自体の原因ではなく、そのような言葉を語りたくなる原因は何かと聞かれたら、(理
屈で考えるとおかしいですが)自分と同じような独我論的感覚を持っている人が他にも
いるようなので、何か話をして、疑問を解決するなり何なりの収穫を得たい、というこ
とです。そして、特に永井という人の議論は自分の厨房な発想よりもずっと優れている
ように見えるので、これを検討するのは特に有益だろう、と思ったわけです。
>>167で言っているような、14さんの形而上学的感覚を直接的に共有して
>くれる他者がいないのは独在という事態からの一つの帰結なんだよ。
>自分の感覚に対する他者の不可侵性、自分の意思決定に対する他者の不可侵性、
>自分の世界に対する他者の不可侵性、自分の存在感覚に対する他者の不可侵性、
>どれもこれも独在というある意味自明すぎることから生じている。
このあたりも、私にはよくわかりません。自分の感覚が他人と共有されないことは、文
法規則によることであって、誰にでも当てはまるんじゃないでしょうか。
ただ、そのような文法規則自体を考え直したりすることは、できるかもしれませんが。
例えば、もしもテレパシーみたいな事が可能であるとすれば、実は自分の感覚に対する
他者の不可侵性なんてものは絶対のものではなく、何らかの事態からの帰結であると言
えるかもしれません。
あるいは逆の発想で、他人は私と同じように心を持っていて、感覚を感じるんだ、と
いうことを、改めて疑ってみるとか。
ただ、私がこういう発想ばかりをしているのは、まさに永井信者になりきってしまって
いるためであるかもしれないので(自分ではわからないけど中田氏にはそう見えるのか
もしれない)、できれば、
>僕の努力は、永井さんの議論から離れつつ、独在を確保しながら存在論
>のレベルを個別化するような次元を切り開いて、なおかつ中田の特別さを
>議論する方向へと向かっていくこと。
>要はさ、僕は独我論的言説を生じさせているような根源まで遡行している。
このあたりについて、もう少し説明してください。
あと、真面目な話、永井の道徳に関する議論は、私には何を言っているのかつかみきれ
ていないんです。『なぜ悪いことをしてはいけないのか』も読んだんですが、いまいち議
論の道筋がつかみきれない。
これについては、また考えてみます。
178 :
考える名無しさん:01/12/07 17:01
>>177 あの本ただの喧嘩にしか思えんよ。
どっちもムキになってんじゃん。あとがきのへんの弁明はしょうもない。
>164の続きになると思いますが、
二つに問題が定式化できると思う。
1 独在とは一体どのような事態か?(及びそこから波及してくる問題も議論の対象となる)
2 中田の特別さとは一体何か?
この二つは別個に議論しなきゃいけないと思っている。
永井さんの議論は、この二つをドッキングした形。
で、永井さんは、自分の特別さをただ1の次元に依存して語っているだけ。
(最近は自分の特別さを倫理とかでも語りだすようになったけど、でも基本はかなり存在論に依存している)
独在が、誰にでもあてはまる「私」の文法規則のような一般論でも全然かまわない。
ただ、一般論での独在ですら、まだまだ解明が不十分じゃないのかな。
独在から波及していく枝葉の問題が山積されていると思う。
だからこれが、まず問題1に当たる。
ここまでが独我論の領域。
2はたぶん独我論自体とはあまり関係ないんじゃないかな。
(もちろん大きく両者は関係していくるけど、議題そのものは違うと思う)
私の存在の奇跡性とかの、私の特別さは独我論とは関係ないと思う。
永井さんの議論で言えば、C君のレベルを徹底的に解明して、そしてE君の
レベルに移行すると言えばいいのかな。
でもE君が、E君の特別さを宣揚するのに独我論的言説だけを持ち出すのでは不十分。
(「だけ」という語を強調したい)
14さん、も2のレベルを1のレベルに依存して語っているだけ。
ある人間の特別さを表現するのに、たとえば普遍化不可能な倫理、
行為の次元を補わなければいけないんじゃないか?
(永井さんも最近それに気づいたのかもしれない)
純粋な存在論の次元だけでは、私の比類なさをだすのは難しい、というのはその意味。
もちろん陰に陽に1のレベルを考慮した上で、2のレベルが議論される。
14さんは、独在という事態を問題としているのか、
それとも14さんの特別さを問題としているのか?
両方を問題としていたとしても、両者は別個に論じなければ
いけない問題だと思う。
永井さん本人は、そんなこと気にしなくて、両方を含みこんで論じていてもいいのだれど、
後続の人間はそれではだめだと思うよ。
>169で言ったように、永井さんの梯子そのものをそのまま使えるのは永井さん本人
だけなんだって。
あれは永井専用の形而上学なんだから。
僕が永井さんから学んだことは、ああ存在論や形而上学は個別化してもいいんだ、ていう点。
だいたい永井さん本人は、永井の特別さだけを語りだそうと努力しているのに、
それをそのまま他人が使えるわけないじゃん(笑)
>僕の努力は、永井さんの議論から離れつつ、独在を確保しながら存在論
>のレベルを個別化するような次元を切り開いて、なおかつ中田の特別さを
>議論する方向へと向かっていくこと。
この言葉が分かってきましたか?
このように論じることもできるな。
中田の特別さを論じるのに、いろんな道があるのだと思う。
永井さんが発見したのが、存在論の道や、倫理の道ではないかと。
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」の永井さんの議論が、この二つの道を
ドッキングした形で論じている好例だと思う。
ただ、この本やたら難しいのは同意するよ(笑)
僕も何回か読み込んでやっとわかってきた。
14さんもがんばってください。
182 :
考える名無しさん:01/12/07 20:22
議論の流れから外れてしまいますが、<子供>のための哲学を読んで
思ったこと。前半の「なぜぼくは存在するのか」のところに魂の存在
証明の話が出て来ますね。拷問にかけられることになった人物Bに
科学者が「お前の記憶を消そう」「それで別人Aの記憶を植付けよう」
と。それでその人の恐怖心がなくなるか、という話。そのあとさらに
Aのオリジナルな記憶を消す、AにBの記憶を植え付ける、AとBの体を
入れ替える、と続いて、それでもなおBの恐怖心は消えないだろう、と
結論されてますが、ここでAとBの脳を入れ替えるとどうなるでしょう。
Bであった<わたし>の脳は<A>に移植されたわけです。このとき
<わたし>は拷問にかけられる恐怖心から開放されるのではないで
しょうか。
183 :
考える名無しさん:01/12/07 21:10
その類いの思考実験はたんに恣意的であり意味がない
184 :
考える名無しさん:01/12/08 13:36
185 :
考える名無しさん:01/12/09 01:53
179-180を読んだら、何となくイメージがつかめてきた気がします。
そうだなあ、私の推測によると、中田氏は私よりも独我論的な感覚が少ないのか、また
は他人に対して誠実な性格をしてますね(笑)。
私が最初から、独我論的な態度をとっていた方が、話がわかりやすかったかもしれない。
>180
>だいたい永井さん本人は、永井の特別さだけを語りだそうと努力しているのに、
>それをそのまま他人が使えるわけないじゃん(笑)
このへん、14(仮名)と中田氏との感覚の違いが現れてますね。
独我論的な感覚にそのまま従うとすれば、永井が永井の特別さだけを語り出そうとして
いることは、たいした問題にはなりません。永井の「私の存在は特別だ」という議論のう
ち、必要な部分のみは、自分のこととして読み替えて利用します。14ではなく永井の特
別さが語られているところは、無視すりゃいいだけです。
なにしろ、私のみが特別なんだから、永井が「私は特別だ」と言ったって、そんなもん
は嘘に決まってる(笑)。なんだか知らないけど、私の世界の登場人物はときどき面白い
ことを言うなあ、とくに永井さんの話はとても役に立ったよ、ありがとう。というだけ
のことです、感覚的には。
私が、このような感覚が正しいのか、それとも単なる錯覚なのか、という問題にこだわ
っているのも、感覚にそのまま従えば、答えはわかりきっているからです。つまり私は、
永井の議論を当然のように自分のこととして読み替え、永井の特別さなどというものを
無視して、平気な顔をしてるんですな。
そうだなあ、今までの私の態度が曖昧だったですかね。
「私だけが特別だ」というのは、感覚としてはともかく理屈としては成り立たない、と
思っていたので、そういう感覚をそのまま表現するのは避けて、適切な考え方・言葉
づかいを探ろう、という態度をとろうとしてたんですが。
というわけで…
>179
>1 独在とは一体どのような事態か?(及びそこから波及してくる問題も議論の対象となる)
>2 中田の特別さとは一体何か?
>独在が、誰にでもあてはまる「私」の文法規則のような一般論でも全然かまわない。
>E君が、E君の特別さを宣揚するのに独我論的言説だけを持ち出すのでは不十分。
>ある人間の特別さを表現するのに、たとえば普遍化不可能な倫理、
>行為の次元を補わなければいけないんじゃないか?
こういう中田氏の定式化は、私の目には、私だけでなく他の人間もそれぞれ特別な存在
でありうる、ということを前提にしてしまっているように見えます。中田氏はC君のよ
うに、一般的な≪私≫というものを認めて、その上でその一例である≪私≫がなぜ特別
なのかを問題にしている、と見えます。
E君だったら、そんなものは特別でも何でもない、なぜかEである<私>だけが特別な
んだ、と言うんじゃないでしょうか。
だから…
>E君が、E君の特別さを宣揚するのに独我論的言説だけを持ち出すのでは不十分。
>(「だけ」という語を強調したい)
>14さん、も2のレベルを1のレベルに依存して語っているだけ。
これに対する返事は、私は2のレベルは問題にしておらず、そもそも1,2のレベルとい
う区別をしていない。問題にしているのは、(1のレベルをもっと独我論的にした(?))
私の存在は本当に唯一特別なものと言えるのか否か、ということのみだ、というものに
なります。
つまり…
>180
>両方を問題としていたとしても、両者は別個に論じなければ
>いけない問題だと思う。
そうは思わない、ということですね。そういう議論をするとすれば、それはC君が正し
いという結論が出た後の話だ、と私は思います。
まあ、理屈としては、C君が正しいように見えなくもないんですけど(笑)。
>186
> そうだなあ、私の推測によると、中田氏は私よりも独我論的な感覚が少ないのか、また
> は他人に対して誠実な性格をしてますね(笑)。
まず、素朴な質問だけど独我論的な感覚って何?(笑)
議論している内にわけがわかんなくなってきた。
これをまず14さんなりに定式化してくれますか?
微妙なんだよ。
僕から見れば、永井さんの言説をそのまま受け入れる14さんのほうが独我論性が薄い
ように感じれる。
<私>は永井さんにしか付着していないんだから。
<私>を人間14に付着したものと理解するなら、それは14さんの単なるミスりーディング
であるし、永井さんの宗教に入信していることになると思う。
(でも永井さんの言葉に忠実である僕のほうが永井さんにはまっている可能性もあるのだが。
こればっかりは他者の判断が必要かもしれない。)
まあ誠実なんだろうな。多分。
自分で言うのもなんですが育ちがいいんだろう。(笑)
こればっかりは自分にもどうしようもないわ。
>そうだなあ、今までの私の態度が曖昧だったですかね。
ストレートに14さんの言葉を紡いでください。
そうすれば僕との対立点も鮮明になってくると思う。
でもなんとなくわかってきました。
14さんは純粋に存在論のレベルだけで、14だけにあてはまる存在の比類なさを
表現したいんですな。
ここでは14以外の存在者はみんな存在論的に同質な存在者ということが前提でね。
>174 改めて言い直すと、私が「独在」というときにイメージしているのは、(「他人」とか「世
界」とかに関する細かい議論をそっちのけにすれば)私だけが存在するという独我論的
な感覚です。それをできるだけ素朴に(?)表現しようとしたら、167のようになって
しまったんですが。
そういうわけで、167で言っていた「世界」というのは、文字どおり全てのものです。
宇宙も地球も自分の両親も永井均も、また物理法則も日本語の文法規則も全てです。
(なお、これと違う「14(仮名)の世界」「永井の世界」というような「世界」の意味
も、そのうち説明しなければ、とは思ってるんですが…。今のところ適切な説明がまと
まってないので、後日にさせていただきます)
認識論的な細かい突っ込みを入れると、私だけが存在する、というのが真理だと
14さんは思っているのですか?
もしそうなら、それをどうやって14さんは知ったのですか?
これは誤謬かもしれないよ。
そんな独我論的感覚は錯覚かもしれないよ。
感覚だけ云々するなら、だれだって大ぼらふけるからね。
14さんが問題にしているのは、現にそうであることなのか、
それとも本当は真実はこうなのではないか、という真にあることなのか?
ちなみに僕が独在という時、少なくとも私=世界そのもの、という
ものではありません。(永井さんもそうではないと思う。
「永井さんは「私の世界」と「私の」っていう所有格をつけるからね)
私=世界そのものは、世界独我論と言って。
これは独在論ではないと考えます。
まあ、ともかく「世界」の意味をもうすこし明確にしてください。
14さんの論理で言えば、14さんが死ぬと僕も闇の中に消えてしまう、
ということになるのですか?
>182
その議論は、『転校生とブラック・ジャック』の3章で詳しく論じられてるので、そち
らをどうぞ(笑)。その思考実験がいろいろ検討され、記憶が入れ替えられたにもかかわ
らず<わたし>がBであり続けるという考えは、否定的に扱われています。
つまり、『<子ども>のための哲学』の思考実験の結論に対して、『転校生』では否定的
です。
とりあえず、今わかる範囲で言うと、『転校生』では、これから行われる手術についてど
う考えるかと、手術が行われてしまった後のことが区別されていて、この区別は重要だ
ということになっています。『<子ども>』では、その区別がきちんとされていなかった
ような気がしますが、多分そのせいで、『転校生』と『<子ども>』では結論が違うよう
です。
さて、僕の定式化がこの問題において妥当である、とするのはどうすればいいのだろうか?
>私の存在は本当に唯一特別なものと言えるのか否か、ということのみだ
この文をどう解釈するかどうかだろうね。
14さんはこの文で、僕の定式化が妥当ではないとしてるけど、
僕の定式化は、この文で言われていることをまさに問題としているのだけどね。
どうもC君経由で、E君レベルに以降することが14さんには納得がいかないらしい。
でもそもそも、永井さんに付着した<私>を、人間14に付着した<私>として
理解している時点で、14さんはC君の立場に立っているよ。
逆に<私>を受け入れない僕のほうがE君に近い。
そもそもC君とかE君とかは忘れてよ。永井さんの議論から離れるために
僕は新たな定式化の努力をしているのだから。
理解しやすいようにあくまで比喩としてC君、E君と言っているだけです。
いや、「私が存在しなければ何もないのと同じだ」というような感覚は、永井の著作に興
味を持つような人ならみんな持っていると思い込んでたし、同時に、そういう感覚をそ
のまま表現しても仕方ないとも思ってたので、あらためて説明することは考えていなか
ったんですけど…。
>189
>私だけが存在する、というのが真理だと
>14さんは思っているのですか?
>そんな独我論的感覚は錯覚かもしれないよ。
そういう感覚を持っている、というだけです。もちろん、錯覚かもしれません。
この感覚には正しいところがあるのかどうか、錯覚だとしたらどういう錯覚なのか、と
いうようなことを検討するために、永井の著作を私は読んでいるんですが。
>14さんの論理で言えば、14さんが死ぬと僕も闇の中に消えてしまう、
>ということになるのですか?
これも、感覚としては、そんな感じです。(ただ、14という人間の死ではなく、14とは
区別された「私」の存在の消滅ですが)
以上が、正しいかどうかを度外視した、私が持っている感覚の話です。
次は、「世界」という用語について…。
>189
>ちなみに僕が独在という時、少なくとも私=世界そのもの、という
>ものではありません。(永井さんもそうではないと思う。
>「永井さんは「私の世界」と「私の」っていう所有格をつけるからね)
>私=世界そのものは、世界独我論と言って。
>これは独在論ではないと考えます。
え、そうだったんですか?
『転校生』の1章などでは、「私」「世界」「今見えているこれ」を同一視すると言ってい
たので、てっきり私=世界そのものという(または、それに近い)議論だと思っていた
んですが。「私の」という限定がついているのは、世界は「永井の世界」「14(仮名)の
世界」「ウィトゲンシュタインの世界」というように複数存在していて、その中で唯一特
別なものはどれかといえば「私の世界(永井にとっては、永井の世界)」である、という
意味だと理解していたんですが。
なんか、やっぱり、「世界」という言葉でイメージしてるものが全然違うみたいですね。
いま私が持っているイメージを、無理やり言ってみると…。
普通の(?)独我論者は、「私の心のみが存在し、全てのものは私の心に現れるものにす
ぎない」というようなことを言いますね、多分。ここで言われている「私の心」と、大
体同じものが、14(仮名)がイメージしている「世界」です。「14の世界」「永井の世界」
「…の世界」というのは、独我論者が言うような「私の心」が複数存在するとした場合
の、「14の心」「永井の心」「…の世界」と大体同じものです。
永井が言っている「世界」というのは、大体そういう意味だと思っていたんですけど…
もちろん、私のイメージが間違っている可能性は大いにあります。
次は、<私>という用語について…。
>188
><私>は永井さんにしか付着していないんだから。
><私>を人間14に付着したものと理解するなら、それは14さんの単なるミスりーディング
>であるし、永井さんの宗教に入信していることになると思う。
ここで言う、<私>がある人間に付着しているということは、その人間が世界の中心で
あるとか世界が開けている原点である、という意味ですよね。
すると、世界は14(仮名)から開けています。これは事実です。永井が何と言おうが、
この事実は動きようがありません。
もっとも、永井が「世界は永井から開けている」と言っていることからして、永井から
開けている世界というのもあるんでしょう。しかし、私にとってはそれはあくまで想像
の産物みたいなものです。
だから、繰り返しになりますが、私は永井が本当に言いたいこと(世界は永井からのみ
開けている、ということ)を無視し、世界は14から開けている、と勝手に読み替えて、
利用してることになります。中田氏がそのことを指して、14は永井の真意を理解してい
ないと指摘しているのなら、それはそのとおりです。
しかし、現に私にとって、世界は14からのみ開けているのだから、私にとっては永井
の真意など知ったことではありません(笑)。
また、世界が14から開けていることは事実なのだから、私がそのように言うことを指
して「永井の宗教に入信している」と指摘されているのは、私には何のことだかよくわ
かりません。私は、ただ事実を述べているだけです。
多分、中田氏の言う「<私>の付着」とか「世界の原点」という言葉の意味が、私とは
違っていることによるんでしょうが…。
(以上の文で言っている「世界」は、193で書いたような意味です)
逆に、中田氏に聞いてみたいのですが、「<私>が永井にしか付着していない」というの
は、どういう意味なんでしょう。永井以外の人間が、そういうことを本気で言うという
ことは、14(仮名)の理解によれば、「永井だけが心を持っている。自分も含め、永井
以外の人間は、心を持っていない」というのと、大体同じ意味になるんですが(笑)。
確かに、永井の真意は、そういうものなのかもしれません。しかし、他人がそれを真に
受けることはありえないし、あるはずがない(だから、他人が永井のそういう主張を聞
いたときは、自分のために勝手に読み替えるのが当然)と、14(仮名)は思っているん
ですが…。
「世界」という用語のイメージを、雑でいいから、さっさと書けばよかったなあ ( ;´Д`)
193みたいなものだったら、「お前は客観的なものの存在を認めないDQNなのか、ゴルァ!」
とかいうツッコミが入ると思ったので、もうちょっとまともな言い方をしようと、ぐずぐず
してたんですが。
あのう、ほかの皆さん、永井はもっときちんと論じている(あるいは、14(仮名)の理解は
全く間違っている)ので、永井がDQNだとは思わないでくださいね。
14さんのは唯心論的独我論です。
ようは14さんは私の心だけが存在すると言いたそうだから。
これは永井さんの独在論とは全く違うものです。
永井さんの独我論は、存在論的な意味だから、心云々という話は
出てこないのに、14さんは心云々と言っているから。
永井さんの独我論、ヴィトゲンシュタインの独我論、僕の独我論(もっとも僕は独我論
というより、私の特別さに重点を置いている)、14さんの独我論がありますね。
それぞれの独我論は力点が違うますね。
それぞれ、どう違うのか説明すると長くなるんですが、永井独我論だけまず
簡単に説明しましょう。
永井さんは自分が存在する何十億年も前から宇宙が存在してきたことを認めてます。
彼は普通の意味での世界を前提してますよ。
ただ、その宇宙の中に「あれ」でも「それ」でもない、まさに「これ」(つまり<私>)
が存在しているのは何なんだろう?って問いかけてるだけです。
「これ」の特別さを言えるのか言えないのか、ってもがいているだけです。
「あれ」でも「これ」でもない「これ」がなぜ永井に付着しているのか?
それだけを永井さんは問うている。
自分の心なんぞ永井さんは問題としているわけではない。
で、人間永井に付着した「これ」を表現するために永井さんは
ただ<私>という語を用いているだけです。
本当は<!>だって、<?>でもいいんです。
なんでもいいだって。永井さんに付着した「これ」を表現できれば。
で、なぜ<<私>>というのも考え出したかというと、14さんみたいに、
永井さんに付着した「これ」を表現するために用いている<私>という語
を、人間14に付着した「これ」のように読み替えてしまう人がいるから。
僕から見れば、僕は永井さんの「これ」は絶対理解することはできないと思っているから、
読み替えの運動すら起きないだけどね。
皮肉ですけど、14さんみたいな人がいるから、永井さんは<<私>>という
概念を作らざるえなかったのですよ。
つまり永井さんは自分の「これ」だけを表現するために<私>という
概念を作ったのに、14さんは、自分の「これ」を表現するのに使って
いいんだ、という言うほうに逆に僕は驚きを覚えますね。
永井さんにとって普通の意味で、他人も物質も存在してますよ。
永井さんがこだわっているのは、永井さんに付着した「これ」だけです。
「これ」は、なぜ生まれたのか?なぜ、よりによって人間永井に付着したのか?
「これ」の特別さなど本当に言えるのか?
永井さんの問題は、14さんが問題にしているものと違うと思います。
「これ」は存在です。
ただハイデガーが言う「存在」とは違う。
永井さんにとっては、自分にだけ現れている「存在」だけが問題だから。
14さん、「存在」を理解できますか?
「存在」は心とは全然違うものです。
>193の議論なんかを見ると、むしろ14さんの唯心論的独我論は、
古典的だと思います。
外界は存在するのか?
他者は存在するのか?
物質は存在するのか?
こうゆう問いは、昔から哲学者たちが喧々諤々と議論してきた問題だからね。
フランスのスピリチュアリズム(代表はベルグソン、僕はライプニッツとかも入れて
いいと思っているけど)みたいに、哲学史には唯心論的伝統があるけど
(心、もしくは魂のみが存在するのであって、物質は本当は存在しない)
14さんは、それを過激に独我論化した唯心論的独我論とでも言うような
ものです。
200 :
考える名無しさん:01/12/11 16:55
今最も熱いスレ
14さんの唯心論的独我論が真理であるとするのに越えるべき課題を
僕なりに提示してみたいと思います。
1 他者は存在しない、ということをどのように証明するのか?
もしくは、他人が存在するのかわからない、からといって、
自分一人だけが存在する、という結論が必ず引き出される
、ということではない。自分一人だけが存在するということを
どのように証明するのか?
2 外界は存在しない、ということをどのように証明するのか?
外界が存在するのかどうかわからないからといって、外界
の非存在が証明されるわけでもない。
3 物質が存在することがわからないとしても、物質が存在しない
という証明にはならない。物質の存在は如何に?
4 他者は自分と同じような特別な存在者ではない、とどうやって
証明するのか?他者も特別な存在者であるかどうかわからない
としてもだからといって、他者は特別な存在者ではない、というこ
とには必ずしもならない。
5 根本的な問題とし、14さんの唯心論的独我論を他者が理解する余地
はあるのか?ないとしたら、それを語ることに意味があるのか?
雑なんですかこんな風にまとめてみました。どうでしょうか?
(もっとキッチリ整理しようと思えばできそうですが)
14さんの問題にとって的外れな質問でしたらすいません。
>194 逆に、中田氏に聞いてみたいのですが、「<私>が永井にしか付着していない」というの
は、どういう意味なんでしょう。永井以外の人間が、そういうことを本気で言うという
ことは、14(仮名)の理解によれば、「永井だけが心を持っている。自分も含め、永井
以外の人間は、心を持っていない」というのと、大体同じ意味になるんですが(笑)。
確かに、永井の真意は、そういうものなのかもしれません。しかし、他人がそれを真に
受けることはありえないし、あるはずがない(だから、他人が永井のそういう主張を聞
いたときは、自分のために勝手に読み替えるのが当然)と、14(仮名)は思っているん
ですが…。
だいたい僕の文章を読んでわかっていただけたでしょうか?
まず永井さんは心を問題としているわけではない。
自分のために勝手に読み替えてもいけない(笑)
読み替えてもいいけど、僕はそれを永井宗教に入信したものと見るでしょう。
ようは僕はそうゆう人たちに軽蔑のそぶりをを見せたいわけです。
あと14さん、自分の感覚的言語ではなく、真理を述べることができるように
努力してください。
僕は真理を知りたいので。
203 :
考える名無しさん:01/12/11 21:23
横はいり失礼。このスレッド、さっとしか読んでません。
あと14氏のレスは殆ど読んでません(ごめんね)
僕は永井への駄目出しなんてどうでもいいので
中田さんの考えてる独在論を早くみてみたいですね。
それはやはり永井均を入り口にしないと
理解できないものなんでしょうか?むしろ逆に
そんなつまんないのは放っておいて一から作り直したほうが
すっきり分かり易いものになるんじゃないかな、案外。
それに永井均は、(ひょっとしたら確信犯的に)
ありもしないかしごく単純な問題をさも問題らしくみせようと
わざと話を紛らわしくさせているようなふしがあるし。
『子ども』『転ブラ』をさっと読んで僕のぼんやりと抱いた印象ですが。
ああ、やっぱり、もっと表現に気を使ったほうがよかったですね。わざわざレスしてい
ただいたのに申し訳ないです。
私は、「私の心だけが存在する」ということが真理だと言いたいわけではないです。
ただ、永井の言っている、「私」と「今見えているこれ」を同じものとみなすこととか、
<私>が消滅すれば全てが終わるということとか、他者とは可能世界であるということ
等について、雑なイメージを書いてみたわけです。
(永井の議論を他人が何らかの形で理解できる可能性を前提にして)
>196
>永井さんは自分が存在する何十億年も前から宇宙が存在してきたことを認めてます。
>彼は普通の意味での世界を前提してますよ。
もちろん、そうです。
ただ、不正確を承知であえて言ってしまえば、「私の心だけが存在する」という間違った
考えを持つ人がイメージしているものと、永井の言っている「私」とか「これ」とか「世
界」とかが、大体対応してるんじゃないか、という趣旨だったんですが。
例えば、<私>の存在の奇跡性、偶然性についての、以下のような文章から持つような
イメージです。
日本には「命あっての物種」というなかなか感じのいいことわざがあるけれど、この言
い方を使うなら、この<奇跡>あっての物種ということが、当然考えられる。だって、そ
れがなかったなら何もなかったのと同じではないか。自分が生まれる前のことや、死んだ
後のことが気になるのも、いったん生まれてきたからであって、自分が一度も生まれてこ
ない世界の過去や未来(とはいつだろう?)のことなんかに興味がもてるわけがない。しかも、
自分が生まれてこない世界というとき、自分がいない地球を上空からながめている自分を
想定しがちだけれど、そういう自分もいない世界が、いま問題になっている世界なのだ。
もし、この「〜あっての物種」という側面がなければ、この<奇跡>だけを特に重視する
理由はないだろう。永井均が存在することも、自然法則が現にあるようにあることも、す
べて奇跡的なことなのだから。
だから実は、この<奇跡>あっての物種という事実こそが、独我論というものの本質な
のではないだろうか。この<奇跡>がいったん起こった後では、この<奇跡>なしにも世
界は存在する、と考えるべき根拠はもちろんある。しかし、それは、ひょっとしたらこの
奇跡の内部で与えられる根拠にすぎないのでは……。
(中略)
だから、ひょっとするとぼくは、小学校三年生のころ、蒙昧状態から脱したのではなく、
蒙昧状態に入った(入れられた)のかもしれない。宇宙があり、地球があり、そこにたく
さんの人間が生まれ、そのうち一人がぼくであり……という理解は、ひょっとしたらまち
がいなのかもしれない。世界は、ほんとうはそのようにはできていないのかもしれない。
文字どおり、この<奇跡>だけがすべてなのかもしれない。外界も他者も、ふつうの意味
で存在することはもちろんだ。だが、そうしたすべては、結局はこの<奇跡>あってのこ
となのかもしれない……。
(『<子ども>のための哲学』65頁以下)
ちなみに、私はこういう発想を、E君主義と呼んでいます。
>197
>で、なぜ<<私>>というのも考え出したかというと、14さんみたいに、
>永井さんに付着した「これ」を表現するために用いている<私>という語
>を、人間14に付着した「これ」のように読み替えてしまう人がいるから。
>皮肉ですけど、14さんみたいな人がいるから、永井さんは<<私>>という
>概念を作らざるえなかったのですよ。
これも、確かにそのとおりなんでしょうけど…。
ただ、永井自身、ウィトゲンシュタイン本人にしか理解できないはずのウィトゲンシュ
タインの独我論を理解してしまった、ということを問題にしていますよね。
そのように、<私>は実は誰でも理解できるようなものであって、特別なものとは言え
ないんじゃないか…というのが、重要な問題であると、私は思っていたんですが。
まあ、私のそんな感想を聞いても、永井が喜んだりしないのは、確かでしょうね(笑)。
しかし、中田氏のように<私>は理解されないということを徹底するのなら、『<子ども
>』の前半にある他人に理解されるか否かの話とか、『転校生』で行われている≪私≫に
関する議論とかは、永井の本来の問題とはほとんど無関係であって、永井はどうでもい
いことをやっている、ということになりますね。
確かに、中田氏は前にもそんなことを書いていました。私は自分が永井の議論を理解し
ている(可能性がある)ことを前提にしていたせいで、<私>と≪私≫の違いに関する
議論を面白く読んでいたため、そのときは中田氏の真意がわからなかったんですが。
そうですね、いろいろありましたが(笑)、中田氏と14(仮名)の態度の違いが、だい
ぶはっきりしたような気がします。
>203
>僕は永井への駄目出しなんてどうでもいいので
>中田さんの考えてる独在論を早くみてみたいですね。
>それはやはり永井均を入り口にしないと
>理解できないものなんでしょうか?むしろ逆に
>そんなつまんないのは放っておいて一から作り直したほうが
>すっきり分かり易いものになるんじゃないかな、案外。
そうですねえ、『転校生』なんか、読んでたら頭が痛くなりますからね(笑)。興味が持
てない人は、読む必要がないでしょう。
このスレは、私が変な方向に引っ張ってしまっていたかもしれません。中田氏に期待し
ましょう。
14さん、やっとわかってきてくれましたか。
形而上学的議論には、その人の自発的理解力が必要だから、
14さんが自分の頭で考えて真相に気づくのに待っていました。
>204ただ、不正確を承知であえて言ってしまえば、「私の心だけが存在する」という間違った
> 考えを持つ人がイメージしているものと、永井の言っている「私」とか「これ」とか「世
> 界」とかが、大体対応してるんじゃないか、という趣旨だったんですが。
全然違う。もっとも、その誤解の原因もわからないでもない。
僕も初期の頃、唯心論的独我論風に永井さんを読んでいたと思う。
なぜそうなるのか?
独在性を表記するのに<私>って一人称を使用したり、「僕はなぜ存在するの?」
みたいな問いを用いるから。
こうすると<私>がしゃべっているように見えちゃうんだよね。
永井さんと池田晶子さんの対談をに書いてあるのだが、問題感覚は<私>
が担っていて、考えたりしゃべったりしているのは人間永井だそうな。
どうしようもないな、この人(笑)
そんな形而上学的区別をどうやって確かめるんだ!
永井さんの引用文も、永井世界に限ってはそうなんじゃないの?
ってリプライすればいい。
永井さんにとっては自分の世界だけが問題なんだから。
で、このような神のつぶやき系に対して他人は口出しできないんだよ。
デカルトやライプニッツやスピノザやヘーゲルやベルグソンに
誰が口出しできるのですか?
だれが言ってもこの人たちは他人が言うことに耳を貸さないだろうね。
イッチャッテルから。
(だから、永井さんに下界に降りてきてよ、と僕は言っている。)
>>207 >デカルトやライプニッツやスピノザやヘーゲルやベルグソンに
>誰が口出しできるのですか?
この箇所はたんにのりで書いてるだけなんだろうけど、
それはいいすぎじゃないかな?
機会があったらデカルトやライプニッツの書簡を
読んでみてよって言いたくなる。
このスレの主旨とはあまり関係ない話しでスマソ。
14さん唯心論的独我論じゃないの?(笑)
結構これつきめてくれたらおもしろいだろうな、と思ってたのに。
僕は密かに、唯心論的独我論も考えてみようかと思っている。
>205
そこのヴィトゲンシュタイン解釈なんですが、「<私>のメタフィジックス」
の議論ですよね。
第一部四章のところ。
僕はそこに大いに問題を感じている。
永井さんがそこでヴィトゲンシュタインの独我論を驚くほど理解できた、
と言っているけど、これね.....
困難な哲学的コミュニケーシュン云々って歯切れが悪いし。
(そこまできっちり論理的に話が進んできたのにここだけなぜかごまかしがあるように感じられる)
たぶんこっから永井さんの独我論の堕落が始まっているのではないか。
ヴィトゲンシュタイン本人が、上記の永井さんの言葉を聞いたら、たぶん激怒して
永井さんを殴りつけるかもね、と僕は勝手に推測している。(まさにE君みたいに)
ああヴィトゲンシュタインが生きていたら永井さんとのやりあいが面白いだろうな。
だから実は<<私>>の概念の最初の原因は永井さん本人かも。
独我論の残骸とかいって、永井さんが勝手につくりだしているだけじゃないか?
>203
永井確信犯説は僕も感じている。
なんか死ぬ直前に「全部ギャグでした」って言いそうで怖いんだよな(笑)
語っている時点で、永井さんがちょっと信じられない。
本気で永井さんが考えているような独我論を信じているな完全に
沈黙すると思うのだが......
>208
いやノリじゃなくて本気なんですが......
たしかにデカルトを言いすぎかもしれないけど、後の四人は僕は
自信を持って言える。
違うのなら、そうではないことを詳しく話してもらえるとありがたいのですが。
僕は誤りを犯してまで自説に固執するつもりは全然ありませんので。
もちろん僕は根本的な部分での話ですよ。
表面的には他人の話に大いに耳を貸すでしょう。(とくにライプニッツはそんな感じだと思う)
でも根本的な部分ではどうかな?と僕は疑っている。
>203
永井さんは必ずしも入り口にしなくてもいいじゃないかな。
僕が考えていることは、かなり永井さんと違うと思うから。
だけど、やはり永井さんのおかげで僕の思索が進むのは事実なので
永井さんにも言及したほうがいいかな、と思ってます。
まだ構想中なのでもう少し待ってください。
>161 170 179 180
なんかの議論が今の僕の限度です。
>208
僕の勉強不足なのも否めないので、彼らの書簡集などもっと読んでみて
もう一度考え直してみます。
でも今のところ僕はあのような確信を持ってます。
他人の形而上学に対してどう反応すればいいのか?
この問いをいつも>207で言ったような哲学者の著作を読む時、いつも
抱きかかえてます。
誰か、これは、っていう考えがありましたら教えてください。
212 :
考える名無しさん:01/12/17 14:35
age
僕であるとはどうゆうことか?
倫理的 一人の人間を任されている
一人の人間を任されている、とはどうゆうことか?
まず僕は一人の人間として生きていかねばならない、ということである。
そして一人の人間の人生をどうこうするのは、すべて僕次第である。また、
一人の人間を任されることにより、そのほかの多数の人間とも関係を持つ
ことでもある。
すべての倫理学は、僕が一人の人間として生きることを前提にして構築
されている。僕はその前提をも疑問にさらし、その前提を問題として包
括するような倫理学を考えてみたいのだが。
一人の人間として生きる事を自明視しない場合、どのような倫理学を考え
られるのか?
すまん、ひとつだけ質問させてくれ。
私という存在の「特別さ」「比類無さ」が出発点らしいけど、なんで自分が特別だって思うの?
それとも自分は特別だって思いたいってこと?
それとも自分は特別であるべきだってこと?
くだらない質問に見えるだろうが、この「出発点」について説明してほしい。
>214
自分を特別扱いせざるえない、というのが僕の正直な実感です。
永井さんは自分が特別であることを当然と思っているけど、でも僕は元々それを
当然とは思いたくなかったのです。
しかし現実を素直な目で直視した場合、やはり自分を特別あつかいせざるえない
ように世界をできている、と僕は考えました。
僕の個人的な願望を括弧にいれて、世界を省察した場合、僕は自分が特別である、
というのがごまかしきれない真理であると今僕は思ってます。
>なんで自分が特別だって思うの?
それは真理を知ることを欲する僕の哲学的理性が単にそう教えているだけです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
で、その特別さとは一体何なのか、存在論的、認識論的、倫理的に色々今
考えている次第です。
あと注意してほしいのは、僕が私の存在の特別さを云々するとき、人間である
一個人としての中田の特別さを云々しているように他人には見えるけど、それは
違う、ということです。
僕が自分を特別扱いせざるをえないと思う一例としてこんなものを挙げて見ます。
人間は皆平等であったらいいな、というのが僕の昔の信念としてありました。
現実には富の不平等、才能の不平等など様々な不平等がありますけど、少なくとも
僕自身は、すべての人間に平等に接していたい、という願望がありました。
でもこの平等さを極限にまで貫徹しようとした時、論理的にそれはできない、
と僕は思ったのです。だって、僕は他の人と中田を同列において対応するこ
とができるのでしょうか?できないでしょう。
僕は天使でもなんでもないから、まず人間中田の面倒を見なければならない。
僕は僕を特別扱いせざるをえない、というのはその意味です。
唯一一人の人間の内側から生きざるを得ない僕は特別な存在ですし、
それに付随して僕が内側から生きている唯一の人間中田も特別な存在
ということになるでしょう。
僕がすべての人間であったら、僕は自分を特別扱いするのをやめるかもしれません。
でも、それは単なる妄想でしょう。
今見てきたような平等性からの、私の特別さの抽出は僕個人の妄想みたいなところがあって
間違いがどっかにあると思うだけど、だれかそれを指摘してくれませんか?
(僕自身が、どっかおかしいな、と思っている)
>216を書いてて思ったのですが、僕の特別さにも二つある。
永井さんなら<私>とでも表記するような僕と、人間中田を
指す場合の僕。
(ちなみに>216の文章は、この二つの僕が混在してます。
読みにくくてすいません)
私のかわいい娘は私にとって特別な存在だ。
これはほとんどの親が否定し得ない本能的な感情だと思う。
だから特別な娘を持つ私も特別な存在だということになる。
しかし、哲学的瞑想にふけっている時の私は、
それとは別の私なのだ。
どちらも本当の私である。
生きている実感をより多く伴うのは前者の私であるが、
だからといって前者がより本物の私だということにはならない。
私は、矛盾する二つの私の折り合いをつけながら
生きていくしかないのだと思って生きている。
>中田さん
たんに自分が自分を特別扱いせざるをえないとか、あれでもそれでもない「これ」が重要だ
とかいう話なら、個別性と単独性の区別で済んでしまうと思うのですが。
自分にとって自己と他者は平等ではない、ということから「自分の特別さ」に重点がうつって
いくのはなぜなんだろう。「他者にとって自分は特別でない」ことをどう思いますか?
こういう発想はあまり形而上学的じゃないかな。雑でごめんね。
あと、ナルシシズムという概念についてどう思いますか?
ごめんなさい、こんなつまらない議論なんかしたくないのでしょうが。
>214 >219
すまん。書いた後考えたのだが、僕が今考えているのは>179の話で言えば
1に当るのですよ。
「特別さ」とか「比類なさ」の話は1の話をとことん突き止めた後の話なので、
今の所それは僕の眼中にありません。
だから、僕が考えていることが誰にでも当てはまるような話であったとしても
全然かまわない。
僕が今一番問題としているのは、僕が人間として生きる、ということはどのような事態なのか?
という問いとでも表現できそうなものなのです。
僕は自分が人間として生きていることに心底不思議に思っている。
この事態は一体何なのか?それを僕は知りたいだけです。
(この問題の発端を後でもっとくわしく論じてみたいのですが)
比類なさの問題は、存在と知性の乖離の問題として僕は今のところ位置づけてます。
(それを>132で僕は言ってましたね。)
永井さんも、自分が言いたいことはすべて概念の必然性として読み替えられてしまう、
と言っているじゃない。
まず僕の説明が下手なのを認めます。
(一気にまとめて整理して書けばわかりやすいのでしょうが、
このスレは僕の覚書みたいなノリで書いてますので許してください。
ただ、そのぶん生の思考には触れることができると思います。)
言えば言うほどこんがらがってくると思うのですが、これだけは
はっきりしています。
根本的には、僕の問題と永井さんの問題は関係ありません。
永井さんの話は僕にとって補助線にすぎません。
>219「他者にとって自分は特別でない」ことをどう思いますか?
永井さんの口マネになるけど、形而上学的議論では他者の立場に立つことは
できません。
できない、(本当はできるのだけど。それだけ人間の知性は優れているから)
というか他者の立場に立ちたくない。
それこそ他者を冒涜していると思うから。
ちょっと時間がないので雑になってすいません。
(あとで時間があればわかりやすく詳述したいのですが)
まず214さんの問題をちゃんと提示してくれますか。
でないと答えようにも答えられません。
ナルシシズムについては今度答えます。
本当に今度わかりやすくまとめて書くよ(笑)
すまん。クソ文章だ。
僕のほうこそ意味不明な質問をして御迷惑をおかけしました。
「特別さ」っていう言葉の意味を読み違えてたかな。(本当はよくわからん)
僕は中田さんが「真理を知ることを欲する」なんて言って面倒臭いことをやってる動機を
知りたい、それを知ることで自分の考えが変わるかもしれない、と思っただけです。
わかりやすくまとめてくれるのはうれしいです。でももっとこのスレにふさわしい議論が
あるだろうから、無理しないでね。今日はクリスマスです。ピース。
「特別さ」という言葉は誤解を伴うようだし、僕自身が「特別さ」の
豊穣な意味をつかみきれていないので、とりあえず「比類ない」という
語を使用しましょう。
「私の存在は比類ない」
この命題は、「自然の存在は比類ない」という命題と同様に
世界の構造を示そうとするような命題である。
ただこの命題は形而上学的命題なので客観的に証明すること
は不可能であるから、知性の直観知によって把握されるしか
ないような命題である。
>私という存在の「特別さ」「比類無さ」が出発点らしいけど、なんで自分が特別だって思うの?
>それとも自分は特別だって思いたいってこと?
>それとも自分は特別であるべきだってこと?
思うも何も、僕の知性の自発的理解力が世界はこのように
できているのではないか、と教えているだけだよ。
この問題とナルシシズムは関係ない。
自愛の感情から「私の存在は比類ない」と言っているわけではない。
ナルシシズムとは一応経験科学の概念でしょ。
このような形而上学的議論に関係ない。
「私の存在は比類ない」
というのが本当に言えるのか言えないのか、という問題は
>224の問題とは別問題である。
>223
動機か。
僕もヴィトゲンシュタインと同じで不意打ちに弱いんですよ。
少し考えさせてくれ。
自分の存在の特別さにこだわるのは、若さの証明だ。
悪い意味じゃないよ。
芸術家とか、創造に携わる者は、それにこだわる人が多いと思うけど、
年とるにつれて、そんな事考えなくなるよなぁ。
228 :
永井さんの:01/12/28 12:12
229 :
考える名無しさん:01/12/28 14:22
永井氏の著作ではないんだね。青山さんってどこの人?
>223
質問よろしいですか?
なんで哲学することを「面倒くさい」ものと思うのですか?
214さんの問題についてもう少し情報をくれると
助かるのだが。
せっかくだから的確に答えたい。
いや、「なぜ僕は哲学をするのか」っていう質問に短刀直入に
答えることはできるんだけどさ、どうもその答えは214さんを
満足させることはできないと思ったんだよ。
だから214さんの問題をもう少し知ってからのほうがカキコ
したほうがいいと思いました。
僕は常識に味付けしたような議論、散漫な議論にはウンザリ
してるので、身もふたもない直球を投げてくれるとおもしろ
いのでカキコしがいもあると思っているのですが。
233 :
考える名無しさん:02/01/02 07:04
ちょっとスレの流れとあんま関係ないけどさ。
C君の立場を単純に、<私>論について理解しながらも
その語り得なさを過大視するあまり永井説に対して批判していると読むことはできませんよね。
うろ覚えで非常にすいませんが、
C君に言わせれば独在性が成り立たないのと同じくらい単独性も存在しない。
これは鉛筆か何かを例にとって言われていたと思いますが、
それによるとこの鉛筆の<この>性は、実は見せかけの議論であって、
目の前の鉛筆は鉛筆一般の一例に過ぎないのだという趣旨だったように記憶しております。
この過激な議論をどう考えていますか?
私はC君に、君の恋人は「恋人」一般の一例に過ぎないのかと尋ねたくなりますが。
>233
うろ覚えじゃ困るのですが....
愛は本当はお話にすぎないのであれば、現にいる恋人は
「恋人」一般の一例に過ぎない、というのも成り立つと
思う。
で、僕は永井さんの愛論に非常に説得力を感じてもいる。
永井さんの愛論は「翔太と猫のインサイト」参照。
これは前々から言いたかったことなんですが、永井さんの問題の
本質はE君とC君の拮抗それ事態だと思っている。
つまり自分が特別なのも不思議だし、それが他人に伝わることも不思議
なものだと永井さんは考えていると思う。
素朴にE君的な考えだけが永井さんの問題では全くないと思う。
235 :
考える名無しさん:02/01/02 21:04
E君って見かけに反して意外に読みが浅い気がするな。
F君がたまに見せる知性の輝きに打たれる…。
C君の反骨精神も素敵。
マッタリとしてるとこ、悪いんだけど。
「<子供>のための哲学」についての読書感想文を書きます。
僕は永井の「子供のための哲学」を読んで、永井の<私>論が破綻
していると思いました。って、読書感想文風に書いたら嫌がられそうだか
ら、普通にいきます。
僕が主張する破綻点は二つある。まず、最初に、これは永井自身も認
めるであろうが、永井の独我論は定義によって破綻していると言える。
永井は「私」ないし意識には三種類のものがあるとしている。つまり
人格的意識、非人格的意識、個別化された非人格的意識つまり<私>で
ある。永井によると、<私>が示す人物はこの世に1人であって、他者
が述べる<私>は<私>ではない。従って永井の述べた<私>は<私>
ではない。なぜなら、永井は私(TIII)にとっては他人であるからである。
永井はこの批判が正しいと理解するであろうが、彼はそれでも、これを
拒絶しなければならない。私は永井にとって他人なのだ。だから、永井の
論に同意する者が存在してはならない。たとえ、永井のものと完全に同じ
論述であっても、それが他者によって書かれたものである限り、永井は
拒絶しなければならないのだ。
237 :
鬼神ぴかぁ〜:02/01/10 05:04
「〜にとって」の危険性を理解していない。
つづきです。
破綻しているという第二のものについては、永井はおそらく了解しないかもしれない。
して、その破綻とは、「子供のための哲学」にある次のような図式に見られる。
ここでは、永井=B、他人=A、大文字を身体、小文字を記憶として、
0, B(b)
1, B( ) A(a)
2, B(a) A( )
3, B(a) A(b)
4, A(a) B(a)
この図を書いた後、永井は、<私>は6番目の左であると主張する。しかし、いったい
どういう根拠で右ではなく左であると言えるのだろうか? 永井は、<私>は記憶では
ないから、一番目の左には依然として私が張り付いていると主張する。しかし、身体で
もないから、4番目の左も依然として<私>なのだと永井は言う。では次の図式ではどうか?
0, B(b)
1, (b) A (a)
2, A(b) (a)
3, A(b) B(a)
4, A(a) B(b)
これは記憶と身体を入れ替える順番を逆にしただけだから、当然、依然として左である
と言うであろう。しかし、これは実際には
0, B(b)
1, (b) A (a) B( )
2, A(b) (a) B(c)
3, A(b) B(a) (c)
4, A(a) B(b) C(c)
であるのかもしれない。この4番目の右端は最初の左の列と同じである。ただ、他人がCに
変わっただけである。つまり、永井の<私>とはまったく任意の人物に張り付くことができ、
しかも、何人でもかまわないのだ。が、こうなるともはや、個別化された非人格的意識として
の<私>とは言えない。しかし、永井自身が認めているように、「私」が単一(特別)である
という驚きは誰にだってあるものだ。それは、たとえ上のAもBも「私」であったとしても同じ
であろう。よく考えてみよ。もし、あなたが本当にあなたであるとともに彼であるという状況を。
彼の中の<あなた>はあなたと同じように感じているはずだ。
要するに永井の<私>とは如何なる根拠ももたない独断によって作られた概念であり、
それゆえ、任意の人物に貼り付けることができるのだ。
>要するに永井の<私>とは如何なる根拠ももたない独断によって作られた概念であり、
>それゆえ、任意の人物に貼り付けることができるのだ。
あのな永井は〈私〉を作り出したわけではなく、その事実に驚いてるの。
そしてその結びつきは偶然である。
>>237 >単純ですね。
どうも。
>>238 >「〜にとって」の危険性を理解していない。
たぶん、そのとおりだと思う。
で、なに?
>>240 >あのな永井は〈私〉を作り出したわけではなく、その事実に驚いてるの。
それは理解してる。作られたと言っても、何らかの企てがあって作ったのでは
ないだろう(「気付いた」とかに置き換えてもかまわない)。この点は、永井を信
頼している。しかし、驚き自体は誰にでもあることでしょ。これは永井も認めてい
るはず(しかし、第一の理由で拒絶するかもしれないが)。
>そしてその結びつきは偶然である。
いや、永井の世界においては、全ての生物が永井の<私>かもしれない。
これは永井には否定できない。<私>を永井に貼り付ける根拠はないのだから。
>永井の世界においては、全ての生物が永井の<私>かもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マジ?
現実的には永井という特定の人間に張り付いてるというのが
永井の世界だろ。「〜とって」がそこでも入り込んでる。
つーか、ぴかー保育スレで「ぴかーは分裂がどったらこったら」っていう
意味がなんとなく理解できた気がする(w
永井は知らんけど。
永井の面白さってドコらへんにあるの?
245 :
考える名無しさん:02/01/10 07:11
け。面白さの一つや二つも書けんのかい。
あ、間違った。
>>236の
>永井は「私」ないし意識には三種類のものがあるとしている。つまり
>人格的意識、非人格的意識、個別化された非人格的意識つまり<私>で
>ある。
四種類だった。非人格的意識はいわゆる魂のことで、世界に唯一ではない。
そこで永井は、さらにもう一つ、「私」の概念を導入しているのだった。
それが
>>236で問題になっている<私>です。ということで、上は
>永井は「私」ないし意識には四種類のものがあるとしている。つまり
>人格的意識、非人格的意識、個別化された非人格的意識、さらに、独在的な
>非人格的意識、つまり<私>である。
に訂正。
>現実的には永井という特定の人間に張り付いてるというのが
>永井の世界だろ。
ごめん。上にあるように誤解を与えたかもしれん。
永井の<私>が永井という特定の人間に張り付いてるとしても、
TIIIの<私>がTIII という特定の人間に張り付いているなら、<私>
というのが魂と同じような普遍性を持ってしまう。<私>がこの世界に
一つしかないとするならば、この世界は永井だけの世界でなければな
らない、と彼は主張している。ということで、もし、TIIIが永井と同じ定義で
話すなら、「そうじゃない。私(TIII)の世界だ」と主張しなければならない。
しかし、彼の論法(第二点のウイリアムズ・永井・榑林説)は最後の
AもCも<私>であることを許してしまうので、依然として世界は永井のもの
であるかもしれないが、特定の人間には張り付かなくなる。
また、僕が描いた図には、省略があるけど、具体的操作にはあまり意味が
ないはずなので間違ってないと思う。本読んだ人がいたら指摘して。
248 :
考える名無しさん:02/01/10 13:32
>239
>0, B(b)
>1, (b) A (a)
ここの操作がよくわからん。
(b)と、記憶のみ書いてあって、大文字のBがないのは、この時点では記憶が身体と
結びついていない、ということですか?
そういう幽霊みたいなものを、永井が想定しているのかどうか。
>>248 永井の本には
1, B( )
2, B(X)
3, B(a) A(a)
4, B(a) A( )
5, B(a) A(b)
6, A(a) B(b)
とあります。この図が
>>239の初めの思考実験にあたるのですが、Xが何を
意味しているのか、この本には書かれていません。しかし、5でもともとB
にあった記憶(b)が突然現れているので、その間、どこかに保存されて
いたとしか考えられないしょう。永井は記憶は霊魂ではないと主張してい
ますが、上にある個別的された非人格的意識は「一般的な用語では霊魂に
近い」と述べています。
今回のイチャモンは、榑林によって付け加えられたと言う5から6への
段階にあります。最初の段階で身体に張り付いているかのように振舞う
<私>が、この段階では記憶に張り付いたかたちになっている。永井は、
おそらく、<私>というものは身体にも記憶にも「張り付く」ようなもの
ではないのだと主張していますが、実際にはどちらかに張り付いているの
です。そして、同じとしか思えない第一段階と最終段階では反対のものに
張り付いています。このようなことが可能なら永井の気分次第で任意の人物
に<私>を貼り付けることが可能になってしまいます。実際、たとえ僕の
>>239 を永井が拒絶したとしても、永井は<私>は他の人物に移動可能だと明言し
ているのですから、「<私>が特定の人物にあることの驚き」というのは、
消滅してしまったと同然でしょう。これを理解するのに、次のような思考実験
をしてみることもできます。つまり、何兆分の一秒といった間隔をおいて、<私>
が全人類の間を駆け回っていると。たとえこんなことが起きようとも<私>が
それに気付くことはありえません。<私>には記憶がないのですから、個々人の
記憶の整合性を乱すことはないはずです。もし、<私>が意識の役割をも果たし
ていたとしても、「意識が飛ぶ」という疾患の人が現にいるくらいですから、こ
れくらいの不在は問題ないことないかもしれません。
「私」が特別である理由は意識という私ではなく、記憶という私の方にあるの
だと思います。
また間違えをハケーンしました。今度のは瑣末ですが、
>>239の
最初の実験の最後は4, A(a) B(b)に訂正です。ワリィ。
深夜にまた来ると思います。
まず初めに言っておきたいのですが、TVさんは永井さんが問題
としているものを理解できないと思いますよ。
TVさんの文章をあちこちのスレで散見して思うのですが、TVさん的
世界観には<私>はあってもなくてもいいようなものだと思うからです。
>246
まず<私>は意識的存在者ではまったくありませんよ。
過去レス見ましたか?
<私>を心的なものととらえてはいけないことを散々議論したのですが....
また<私>にまつわるコミュニケーションの問題も散々議論したのですが...
まず「<私>のメタフィジックス」から読むことをお薦めします。
あと<私>の移動の問題については「転校生とブラックジャック」
を読んで見てください。
また「子供のための哲学」に関しては、
認識論的独我論と独在論の明確な区別、
独在性をめぐる第一ラウンドと第二ラウンドの区別を
頭に叩き込んでいると永井的問題がわかりやすくなると
思います。
あと注意すべきものとして永井さんの<私>は、既存の哲学の概念では
理解できないものですから、ちゃんと永井さんの問題関心にそって永井
さんの本を読まないと全く恣意的な理解になってしまいますよ。
TVさんが指摘するような第一の破綻点は、誰もが了解済み
のことであって、何か鬼の首でもとったかのように書きたて
なくてもいいと思うのですが....
「にとって」の危険性ってわかりませんか?
「にとって」の視点をとっている時点で、永井的問題とは
違う方向へとTVさんは行ってしまっているのですよ。
あと他のTVさん文章なんですが、僕にとって永井さんの論が恣意
的にズタズタに切り裂かれた残骸にしか見えないのでコメントしよ
うにもできません。
どうもTVさんはアクが強いせいか、永井さんのことを語っている
つもりなのに、ただ自分のことを語っているようにしか見えないの
ですが...
中田さん、レスどうも。
僕の文章に不快感を持たれたようで、申し訳ないです。他スレにある僕の
スレを見られたなら、もう、おわかりかと思いますが、批判的であることが僕の
やり方なので、ご了承下さい。
永井の書く文章は極めて明快だと思います。永井は「子供のための哲学」の
第二ラウンドにおいて、「私の考えは、他者には理解できない」と述べていますが、
それは間違いだと、僕は断定します。
>>251 >TVさん的世界観には<私>はあってもなくてもいいようなものだと思うからです。
もちろん、僕の世界観と永井のものは違うでしょう。しかし、だからと言って、僕が
永井の世界観を理解できないということにはなりません。ただ、正しいものとして了解
しなければ、永井の世界観にリアリティーを感じることはないでしょう。が、そんなことは
当たり前のことであって、永井にしても、あの本の<私>についての箇所で相対主義
云々を論じているわけではありません。
>>253 >TVさんが指摘するような第一の破綻点は、誰もが了解済み
このスレのカキコは斜め読み程度しかしていませんし、永井の<私>については
「子供のための哲学」しか知りません。しかし、この本の中で述べられている論は
(批判するに十分なほど)明瞭です。
永井は一個の世界(この世界)には唯一つの<私>が存在すると述べています。
中田さんは神の視点というものを強調されていますが、この世界というのは、各人の
脳内の世界や観念の世界というものを指すのではなく、ここに唯一実在する客観的な世界
のことを指しているはずです。
>>236 で僕が書いた「永井も認めるだろうけど」というのは
このことを言っています。しかし、このことから帰結してくるのは、「私の考えは、他者に
は理解できない」ではなく、「他者には同意できない」です。にもかかわらず、永井は「私の
考えは、他者には理解できない」と述べているのはなぜか? (中田さんにしても、
>>252 で同様のことを書いておられますが)。 これは「驚き」といものを他者と共有できないと
感じているからに他ならないでしょう。僕は、この点に関する永井の記述に混乱があると
見ます。いいですか? 世界が永井だけにあるのでしたら、それは奇跡だ。驚くべきことで
あろう。そして、そんなことは誰とも共有できないでしょう。しかし、共有できないのは言語
ゲーム云々ではなくて、
>>236 のパラドックスがあるからなのです。
中田さんは永井に見られるある種の真実性が、
>>236にある当たり前のことと、相対主義的に
自明なことに還元されて消滅する、と僕が主張しても了解するのですか?
つまり、僕が
>>236でやったのは、そういった解体の準備なのです。
>>251 >まず<私>は意識的存在者ではまったくありませんよ。
僕は<私>を通常言われるような意識的存在者と断定していないはずですよ。
非人格的意識などと言って、意識との親和性があるかのごとく書いているのは永井
の方じゃないですか? しかし、これにしても、「<私>がなくても何も変わらない」
という言うように、永井が言いたいことは明快なのですが。
>>253 >「にとって」の危険性ってわかりませんか? 「にとって」の視点をとっている時点で、
>永井的問題とは違う方向へとTVさんは行ってしまっているのですよ。
そんなもったいぶった言い方やめて下さい。それはテクニカルタームですか?
>>241で、分かってないかもと言ってるのですから、 教えてください。
あと、後半の特定性についてはどうですか?
僕の文章が気に入らないというなら、気を付けて書くようにしますが。。。
256 :
考える名無しさん:02/01/11 13:11
>249
> 今回のイチャモンは、榑林によって付け加えられたと言う5から6への
>段階にあります。最初の段階で身体に張り付いているかのように振舞う
><私>が、この段階では記憶に張り付いたかたちになっている。永井は、
>おそらく、<私>というものは身体にも記憶にも「張り付く」ようなもの
>ではないのだと主張していますが、実際にはどちらかに張り付いているの
>です。
この疑問はもっともだと思う。
『転校生とブラック・ジャック』によると、ウィリアムズ・永井・榑林説というのは、
実は暗黙のうちに、身体の時空的連続性という基準を使っていたらしい。つまり、
最初に<私>であったBの身体に、あれこれと手術が加えられれば、それはみな<私>
に起こったことだ、というわけ。
だから、「AとBの身体を入れ替える」というのは、本当は間違いなんだろう。「Bの
身体に整形手術をどんどん加えていき、Aの身体そっくりにする。Aの身体についても
同様にする」と、本当は書くべきだった。
この辺の細かい議論に興味があるなら、『転校生』を読んでみるのがよろしいかと。
>>256 うん、もともともウイリアムズの説(説というものではないと思うのですが)
は、ああいう思考実験によって、一般人は身体を自分を考えるということが
明らかになるっていうものだったと解釈しています。
というより、そもそも、物理法則や心とは独立の<私>について、ああいう
思考実験を行うことで何がしかが分かると考えるのがおかしいのだと思います。
>だから、「AとBの身体を入れ替える」というのは、本当は間違いなんだろう。「Bの
>身体に整形手術をどんどん加えていき、Aの身体そっくりにする。Aの身体についても
>同様にする」と、本当は書くべきだった。
魂や霊魂についての一般的な議論はそうですね。物質は代謝されるし、記憶は変化する
しかし、変わらない「私」がいる。こういう話とどこが違うのでしょうか? 単に、独在性
や言語ゲームといった哲学的な用語を使って構成しただけとは思いたくないのですが。。
あまりにも僕の文章に無理解なのでレスする気もなくなるのですが....
一応永井さんの名誉のためにレスします。
単独性と独在性の区別はついていますか?
<私>と<<私>>の区別はついてますか?
>234で言われているようなE君とC君の拮抗、という
問題の意味がわかりますか?
これらを勉強してから再度レスに挑戦してください。
たぶんTVさんがいくら騒ぎ立てても、永井さんにしたら「あ、っそう」
で終わってしまうと思うのですか....
ようは、TVさんは永井的問題には縁がないんですよ。
だからTVさんはTVさんでこんなところで無駄骨折ってないで
自分の体型構築に専念していたらどうですか?
>257 魂や霊魂についての一般的な議論はそうですね。物質は代謝されるし、記憶は変化する
> しかし、変わらない「私」がいる。こういう話とどこが違うのでしょうか? 単に、独在性
> や言語ゲームといった哲学的な用語を使って構成しただけとは思いたくないのですが。。
こういった「私」把握は、デカルトやカントが延々論じているですよ。
それと永井さんの<私>をごっちゃにしないでください。
デカルト的自我とカント的統覚と永井的<私>の区別
がついてからレスしてください。
まずは哲学者のそれぞれの概念を性格に区別できるように
なるように勉強してください。
あと「<私>のメタフィジクス」から読むことを本当
お薦めします。
永井さんが自分の問題にたいしてどういった思索の道のり
をたどってきたか追想起してくるといいと思います。
あと>103に永井さんが書いた「哲学的議論のための要諦」が
あります。
これは素晴らしいので読んでみてください。
哲学的議論は、普通の議論、討論とどこかどう違うのか
わかります。
TVさんの文章は怖いんですよ。
単に相手を屈服させるだけのような文章で、全然相手と
共同で真理を探求しようという気配が見られません。
相手を思いやる気持ちに欠けていると思います。
ちなみにこのスレで僕の見解もかなり進化しています。
だから昔の僕のレスは誤読ばっかだし、僕独自の意見も
混じっているのでそれを気をつけてください。
永井さんと僕がどこがどう違うのかわかればなおさら
いいとは思っているのですが....
余談。
永井さんがヴィトゲンシュタインについて言っていることを
そのまま繰り返します。
僕は永井さんがなぜ人気があるのか不思議ですね。永井さんは
まず自分のために、少なくともごく少数の人のためだけに哲学
しただけなんですけどね....
(ここから僕の独断と偏見です。)
まあ単なる好奇心を満たすためにはいい見世物なんでしょうな。
それはそれで哲学産業が生き残っていくためにいいでしょう。
みんな本買ってくれるし....
TVさん
<私>の移動の問題についてはとにかく「転校生とブラックジャック」
を、TVさんと永井さんが考えていることはどこがどう違うのか知りたい
なら「<私>の存在の比類なさ」をお薦めします。
永井さんはこの本で、永井さんと問題を共有できない人には
議論に入ってこないでほしい、と言っています。
僕なりにパラフレーズすれば、永井さんの問題を問題に即して
本気で考えようとしない人には議論に入ってほしくない、となり
ましょうか。
中田さん、了解しました。
でも、あれについての批判は聞きたいので、それはいいでしょうか?
264 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/12 09:58
永井さんはウィトの
「わたしに見えるものだけが真に見えるものである。…」
を読んで「おおっ!」と感じたようだけど、その時点でそれはもう
「独在性」の哲学から「後退」してるんじゃないだろうか。
独在性は絶対に、絶対に、絶対に、理解されてはならないもんね。
そこで理解されるのは単独性であって、言語ゲームの世界だ。
つーか、永井の他者論て、それが「何故か理解できてしまうんだ!」
という「思い」から生み出されてると思う。論理ではない!?(事実でもない…かも)
で、永井は独在性と言語ゲームによる単独性との無限拮抗運動を
スタートさせちゃうんだけど、本当なら(?)別にそれをスタートさせなくても
いいじゃん、て思う。だって両者は実は全く無関係なんだし、ただ「沈黙」がある
だけ。「無関係の関係」なんて言ったって、本当に「無関係」だし。
ただ、これは「沈黙せざるを得ないから仕方なく沈黙する」訳ではなく
それ以前の「単なる沈黙」なんだけど。
関係ないけど、いつかぼくは「神の視点」に立ちたい。
>265
びたみん君おひさしぶりです。
理解できてはならない、と何故言えるのかな?
それが永井的問題のキモじゃない?
ここでは永井さん本人もまだ語り出す力がないようだけど。
ところでびたみん君
僕が存在する、という時、強調点は「僕」と「存在する」どちらに問題を
感じるのかな?
「僕」を強調するなら永井さん、
「存在する」を強調するならハイデガーかな。
たぶん両者が織り交ざったものがびたみん君の問題だろうけど...どう?
あと「存在することは惨めだ」って言うけど、それはどうして?
なぜ価値論と存在論が交錯してしまうんだろ?
そこに何か問題を感じないんだろうか?
「生」と「存在」がここでは交錯していないだろうか?
(もしかしたら「僕の生」と言ったほうが適切かもしれない?)
「子供のための哲学対話」はものすごくいいね。
永井さんの本の中で一番好きだ。
「翔太と猫のインサイト」は大学の授業に使うため、という下心があったせいか
縛りがかかった生硬さがあったけど、この本はそんな縛りはないから、思いっきり
伸び伸びと書いているので永井さんの哲学心が素のままででている。
既存の哲学概念にも縛られていないから、他の専門書よりも哲学的に奥が深い。
永井さんは猫にたくして、びたみん君の好きな神の視点を語りだそうと
しているね。インサイト、ペネトレ、猫語を使う永井さん(笑)
>>265 すばらしいレス。
中田の優しさが伝わってくるね。
268 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/14 04:05
>>265 >理解できてはならない、と何故言えるのかな?
問題の構造は理解できるかもしれない。
んでも、「実質」は理解されないでしょうね。
独在性はぼくだけに付与されてるのが現実だから。
でもみんな、「ほう、なるほどね…」って言うけれど。
>強調点は「僕」と「存在する」どちらに問題を感じるのかな?
これは重要な問題だと思うけど、いまはまだ切り離す事ができないな。
〈私〉が存在していない世界での「存在」を想定することはできるし、
それはそれで不思議ん。んでも、現実として〈私〉は存在してるし、
その独在性が「存在」をいっそう引き立たせてる感じがする。
でも、この二つをある程度分けて考えることが必要なんだろうね。
ぼくは、まだ問題を(永井的問題を含めて)掴んでないんだと思う。
中田さんは〈私〉に重点を置いてるようだね。
存在が惨めだというのは、つまり「ぼくが存在することの惨めさ」なの
かもしれない。ぼくが存在するってことは、「ただ存在する」ってことが
できないことに繋がる。だから、それが「惨め」なのかな。
でも、ぼくが存在していない世界での「存在」にも何か惨めさを感じる。
しかし、ぼくはやはり価値観と存在論を混ぜこぜにしてるのかも。
今はまだその点に関して深く考えられないや…。
269 :
考える名無しさん:02/01/14 04:06
あ
270 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/14 05:42
>>266 「子供のための哲学対話」は確かに素晴らしいなぁ。
これは独在性哲学に限らず、永井均という哲学者の
哲学的態度がモロに出てる本だと思う。
青い鳥の話で、「〈もともと青かった〉ってことに、あとから変わった。」
ってゆうのとか、ものが「〈存在するから見える〉というように見える。」
というのは特に震えたなあ。でも「転・ブラ」最終章で述べられていた
考古学的視点の意味はよく分からなかったけど。
ああ、「ニンゲンのココロ」も素晴らしかった。
他に「!!!」と思ったやつ。
「君自身が深くて思い苦しみを味わった事があるなら、それと同じ種類の苦しみ
を味わっている人だけに、君は救う事ができる可能性がある。そういう場合
だけ、相手が助けてもらった事に気が付かないような助け方ができるからね。」
「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていける
ってことこそが、人間が学ぶべき、何より大切なことなんだ。」
思わず「永井教」になってしまいそうな文章だから危険度が高いけど…。
ところで、この人はそんなに「猫」が好きなのかな。
いっつも猫…。ぺネトレってなんていう意味か知ってる?
インサイトは洞察みたいだけど。
また著作を読み返そう。
>268
>独在性はぼくだけに付与されてるのが現実だから。
なぜ「ぼくだけ」と言えるのかな?
びたみん君がこう言う時、神の視点に立ってない?
関係ないけど、僕は僕が存在しなければなかったような
<現実>を問題にしている。あってなくてもよかったような
<現実>。この<現実>とは何なのだろうか?と思索している。
僕も「僕」と「存在」は最終的には切り離すことができないと思っている。
でもまずは両者を分離して考えて見ることも有益だろうね。
それによって「僕」と「存在」が何なのか、わかってくるものもあると思う。
あと僕が存在しない「存在」に、なにか純粋さを感じるのにも、
びたみん君個人の高次の道徳心が示されている、とは言えないだろうか?
それは永井さんにも言えてね、永井さんが<私>の存在に比類ない大切さが
示されている、と言っているような時にも永井的道徳観が表れているだよね。
永井さん本人は、そのような価値判断は道徳的世界から借りてきているものだと
いうことを自覚しているようだけど。
それが最終的に「僕の生」と「存在」を切り離せないことに
つながっているのかも。
無色透明の「存在」を希求している時点で、そこにその人の
道徳的(?)価値判断が含まれている....
人間は価値判断をせざるをえない。それが人間が自分の「生」を
保ちつづけるための可能性の条件でもあるから....とは言えない
だろうか?
で、存在している僕はまさしく人間として生きている...
274 :
考える名無しさん:02/01/14 18:22
スレ違いですが、永井さんについて少し質問させてください。
ある書物の論文だか学会での講演原稿だかで(柄谷批判かなんかだと思います)、
永井は理性を「省察的理性」と「解釈的理性」に区別しています。
そしてニーチェは解釈的理性だけが理性だと見なした点に誤りがある、といってます。
みなさんはこの点についてどう思うでしょうか。
僕自身はまだ考えがまとまってないのですが、これは哲学全体における
分析哲学の位置付けにも関係すると思います。
>270「君自身が深くて思い苦しみを味わった事があるなら、それと同じ種類の苦しみ
> を味わっている人だけに、君は救う事ができる可能性がある。そういう場合
> だけ、相手が助けてもらった事に気が付かないような助け方ができるからね。」
> 「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていける
> ってことこそが、人間が学ぶべき、何より大切なことなんだ。」
いい感性してますね。僕もそのへんがいちばん好きななところ。
で、それは僕の経験則からしても間違っていないと思う。(特に最初
の文章なんかは...)
こいつ泣きたくなるほどいいやつだなー、って感じちゃうね。
あと上品と下品の区別。これは生まれつきのものだから変えられないのに
ペネトレは変えられる、みたいなこと言ってたけど、その答えは言われないで
終わっちゃうんだよね。(僕の読み忘れかな?)
あと僕がそこに存在したことの不運さだけは、どんなに頭で理解しようとしても
拭えない、ってとこ。これは独在性とも関係してきて興味深い。
存在したことに不運、幸運ってのが言われるのもやっぱり「存在」と「生」
が密接に繋がっていることを示すんだよね。
ペネトレの意味は僕もpenretrationから来ていると思う。
276 :
考える名無しさん:02/01/14 18:33
>>274 極めて興味深いが、これは別のスレたてなきゃできないでしょう。
>274
僕の文脈で語らせていただきます。
哲学は生まれたときから、価値論(道徳、倫理など)、真理論(認識論、意味論など)
存在論(形而上学)が分かちがたく結びついてきた。この三位一体が哲学と言っても
いいのではないだろうか?哲学者は皆これらの領域において思索をめぐらした。この
三位一体を解きほぐし相互の連関構造を解明していくのは容易な作業ではない....
これが僕の基本的なスタンスです。で、>274について言うと、
仮説(>273の続き)
人間には自分の生存に都合のいいものを善、都合の悪いものを悪と価値判断して
しまう原始的な感情が備わっている。(ちなみにこの段階での善悪は「原始的善悪
」)その感情と理性が結合としたとき、その理性は「解釈的理性」となり「善悪」
は抽象的な概念となる。だからこの感情と理性が結合させないで、理性そのものを
自在させた時「省察的理性」もありうるのではないか?
僕は省察的理性の存在に賭けてみたい派だね。
ただ、価値論と真理論が完璧に分離可能なのかどうか?という厄介な問題がある。
人間が理性の担い手(神や天使が理性の担い手ではない)である限り、理性が上記
の原始的感情に汚染させるのは必然的ではないか?とも言えるのかな?
とするとニーチェが正しい?
分析哲学の位置付け、というの問題自体がよくわからないのですが.....
278 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/15 19:27
>>272>>273 >なぜ「ぼくだけ」と言えるのかな?びたみん君がこう言う時神の視点に立ってない?
…あ。そうなんだよなぁ。
上から全てを見おろすことは出来ないんだよね。ちくしょう。
>無色透明の「存在」を希求している時点で、そこにその人の
道徳的(?)価値判断が含まれている....
…ああ!そうなんだ。
「まっさらな存在」は穢れなきもので、僕の生がそれを汚してしまう感じ
があるわけで、そこには前者が「より良い」ものとして想定されている。
やはりそこには明確に「価値」が入り込んでいる。…うわーん。
慎重になる必要があるんだね。。。
でも、事実と価値を完全に分けることはできるのだろうか?
価値判断に汚されない(?)純粋な事実判断なんて可能なのかな。
実は事実判断も価値判断の一つ、、、なんてことはないのかしら…。
神には可能かもしれない。
なんか中田さんのレスを見ると、「躊躇」してしまう。戸惑いを感じてしまう。
それは、中田さんの真摯な思考や、その哲学的態度が、ぼくの怠惰で適当な
哲学的態度を映し出すからだと思う。
修行しなくちゃ。
>264
なぜ僕がびたみん君の言いたいことが理解できない点も含めて理解できてしまうのか
が永井的問題の核心でもある。この点については永井さんも「私のメタフジィックス」
以来認識の向上があまり見られない。永井さんも何百時間も考えたけどまだわからない
だろうね。その苦痛が「転ブラ」p152にも吐露されている。本当は理解していなく
て錯覚かもしれないけど..次のC君の言葉は示唆的である。
「だから現に語られていないじゃないかな。理解の錯覚が作りだされているだけの
ような気がするんだけど、いやまだそれ以上のことは言えない」p122−123
ただこの理解が錯覚かどうかを確かめる視点を人間は持たないだろうね。神なら可能
かもしれないけど。二つのポイントがあるのかな。伝達者が本当に独在性を言えている
かどうかを確かめられるような視点が存在しない。もし言えているとしても受け手がそ
れを理解したのかどうか確かめるられるような視点が存在しない。
>279のような議論に僕は愛の話もからめたいだよね。永井さんの愛は
お話にすぎない、という考えは独在性との関連が深い考えだと思う。
>270
考古学的視点というのは永井さんなりの愛の形だよ。
それも不可能な愛の形。
ただこうも言える。愛の不可能性が愛の可能性の条件でもあると。
独在性に引き付けて言えば、独在性を語ることの不可能性が独在性
を語ることの可能性の条件でもあると。
(ちなみに「愛」と「独在性」の意味が前半の不可能性で言われてい
ることと後半の可能性で言われていることで微妙に違うね)
んー僕が考えた割にはいいね。自画自賛(笑)
ついでに言うと僕はD君とG君の哲学の骨格がまだわからない。
誰かかいつまんで教えて。
「子供のための哲学対話」で重要なとこ。
「いやなことほど、心の中で反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたり
たくなるんだよ。忘れてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われてし
まうような気がするのさ」
これは人間の奥深い真実をついている。なんでこうなるんだろ?人間の場合
不幸がその人のアイデンティティーを形成する場合が多いのはなぜだろう。
しかも不幸を味わった人のほうが異様に陰湿な攻撃性が増す。幸福な人の攻撃
性はもっとカラッとしているだろうね。道徳がすべてルサンチマンから発して
いる、というのもあながち間違ってはいない。
なんで「重大なもの」が失われてしまう、と感じてしまうのだろうか?
独在性の不運と関係しているのかな?
あと人生体験マシーン。なぜ「本当の人生」を求めてしまうのか?
「翔太とインサイト」の培養脳なんかの話より言われているような
ものをよりもこっちのほうが哲学的に重大なことが語られていると
思うな。
>278
お褒めのお言葉ありがとう。
うわついた態度では哲学はできないだろうね。
永井さんがみんな本気で哲学してないよ、って言うのはみんだうわついて
いるからだと思うよ。
うわついた態度にならないために哲学的に重要なものと重要でないものと
区別を見極める目が必要だろうね。そして重要でないものは無視することが
大事。そうすればうわついた態度が哲学することを邪魔しなくなる。
見極める目は、哲学していけばいくほど洗練されて上達していくだろうね。
永井さんも言うように遊べば遊ぶほど、その遊び場で通用する力がついてくるよ。
283 :
考える名無しさん:02/01/18 06:31
>>234>つまり自分が特別なのも不思議だし、それが他人に伝わることも不思議
>なものだと永井さんは考えていると思う。
どんなときに「他人に伝わった」なんてことを思ったんでしょうね。
他人に伝わったことを不思議がるまえに
他人に伝わったと思ってしまったことを不思議がって
しかるべきのようなきがするんだけど。
>283
>どんなときに「他人に伝わった」なんてことを思ったんでしょうね。
たぶん283さんのようなリプライがあった時じゃないかな?
で、何が283さんに伝わったのか、そして何が伝わっていないのか
その境界設定を今永井さんはしていると思うだけど、その境界設定
すら不可能なんじゃないかな.....と僕は思っていたりもする。
否定や誤解、同意が言語ゲームの内でやり取りされる中で伝達されている
ものは何なのか?
その正体すらよくわからない非常に特殊なコミュニケーションであることは
たしかだ。
285 :
考える名無しさん:02/01/19 03:25
>否定や誤解、同意が言語ゲームの内でやり取りされる中で伝達されている
>ものは何なのか?
>その正体すらよくわからない非常に特殊なコミュニケーションであることは
>たしかだ。
言語ゲームっていうのは
「ことぱのやり取りだけが全てなんであって、そのやりとりによって
何かが伝達されているとかゆーことを想像するのはナンセンスだよー、」
てゆー考え方なんじゃなかったっけ?
>285
そうです、ナンセンスですね。Wは永井さんによれば言語ゲーム
の概念によって独我論をまさに論駁しようとしたのですからね。
だから、>284は中田的言語ゲーム概念と受け取ってください。これはWが
考える偏狭な言語ゲーム概念とは違います。僕の言語ゲーム概念にはプラトン
的イデアの伝達みたいな思考法も含まれます。(哲学的コミュニケーション
をどう考えるかが問題でしょう。Wはこんなコミュニケーションは圧殺したか
ったでしょうが。そのためにまさに「言語ゲーム」の概念を作ったのだろうね。
Wの言語ゲーム概念には哲学が占める位置がないじゃないかな。僕の言語ゲーム
概念にはちゃんと哲学が占める余白はありますが。Wが当初その概念を作ったもく
ろみに反して(笑))
「何かが伝達されている」という形でしか独在性をめぐるコミュニケーション
は捉えきれないと僕は今思ってます。
僕はやはり哲学的コミュニケーションにおいてプラトンのイデア的思考と
想起説というものはやはり必要なんじゃないかなと思っている。(これは
永井さんが言う「間接的伝達」と似通った概念枠組である)さすが哲学
の創始者だけのことはあるなーと思うよ。(Wも「論考」では同じような
ことやっているだけどね)
287 :
考える名無しさん:02/01/21 01:52
>(ちなみに「愛」と「独在性」の意味が前半の不可能性で言われてい
>ることと後半の可能性で言われていることで微妙に違うね)
どうゆうことですか?
>287
前半が子供の愛を語っていて、その子供の愛の不可能性の認識が、大人の愛の
可能性の条件、とでも解釈できると思う。愛も経験を積まないと理解できない
ということでもあるのかな。もしくは独在性の認識が、愛を大人の愛へと昇華
させる、とでも言えるかな。
独在性の意味の違いは思案中です。
「ニヒリズムからの出発」読みました。
「子供ための哲学」には書いてない永井さんが見れて楽しかったです。
290 :
考える名無しさん:02/02/09 23:15
中田さんは年幾つ?
291 :
考える名無しさん:02/02/10 06:05
>289
「ニヒリズムからの出発」って、どんな文章でしょう。
どこで読めますでしょうか。
教えてもらえませんか?
>290
ご想像におまかせします。それでだいたい合っていると思います。
>291
「ニヒリズムからの出発」っていう本ですよ。その中に永井さんの論文が掲載されています。
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」と同じナカニシヤ出版さんの倫理のシリーズの一つ
です。(森岡さんのニヒリズム論(宮台さんを扱ってます、笑)とかあっておもしろいです
よ。ちなみに今思うと森岡さんの永井論は全然的が外れてはいるけど、それはそれで違う方
向の思索としてはいいのではないかと思ってます。)
永井さんの論文の内容としては「ニヒリズムからの倫理」、「ニヒリズムと哲学」とでもく
くれるかな。
永井さんは<<私>>を使い出したようだけどそれでいいのかな?
それこそ言語が作り出す錯覚なのではないか?
たしかにこのへんの問題は哲学というものの根幹に属するような事柄で
容易に結論がだせないような.....
>284みたいな問題をどうやったら解きほぐせるか?
「転校生」でも永井さんが言うように永井さん以外にAからL哲学を扱える人が、
永井さんとディアレクティークしなきゃダメだろうな。永井さんの独白だけではも
う手に負えないと思う。この手に負えなさがまさに人を哲学に駆り立てるのではな
いか?(笑)この手に負えなさがまさに、哲学は他者を必要とする謂れではないか?
昨日、永井さんの「転校生とブラック・ジャック」と「ルサンチマンの哲学」を買いました。
で、今「ルサンチマンの哲学」を読んでますがニヒリズムの対立概念として唯物論
が出されている所に疑問を感じました。
偶然に耐え切れず必然的な根拠を見出そうとする事をニヒリズムの本質とするなら、
その心性は唯物論にもあるからです。
唯物論がキリスト教的な神や「大きな物語」を殺したという側面はありますが、相対化
されえない普遍的な価値として唯物論が新たな「神」になっているように思います。
これは東浩紀の言う「大きな非物語」として見る事ができるのではないかと考えてます。
296 :
考える名無しさん:02/02/12 19:19
共通項があっても対立概念に。
相対化を免れたら神以外。今や
神とは相対化されうる者をいう。
唯物論の絶対化は崩せないと
しても、唯物論の魅力は、今後
一層、ニヒリズムに晒されうる。
?
298 :
考える名無しさん:02/02/20 05:19
「子供のための哲学」の永井の肝心な部分の議論は論点先取に基づく虚偽論証であり、あの程度の議論では誰も納得できない。
彼は別の本でもっと他の議論を展開しているのだろうか?
299 :
考える名無しさん:02/02/20 05:33
具体的に提示してくだされ。
300 :
考える名無しさん:02/02/20 05:39
>>299 「ある人物が心理的にも肉体的にも存続していながら、その人物が<私>であったりなかったりすることが可能だ」
とかいうところのことですよ。
読み返してみます。
302 :
考える名無しさん:02/02/20 10:58
永劫回帰する給料泥棒
不勉強な詐欺師かつ嘘吐き
誹謗中傷だけするひとよりましです。
306 :
考える名無しさん:02/02/22 00:22
age
>>305 その台詞、永井先生にいってくださいね。
308 :
考える名無しさん:02/02/22 02:41
>>305 >その台詞、永井先生にいってくださいね
は?
309 :
考える名無しさん:02/02/22 15:23
二種類の平等。平等欲は、他の人をみな自分のところにまで引きずりおろしたがるか
(ケチをつけたり、黙殺したり、足をすくったりして)、またはみんなとともに自分
をも引き上げたがるか(ほめたり、助けたり、他人の成功をよろこんだりして)、と
いう具合も現れうる。
ニーチェ「人間的、あまりにも人間的1」300節
永井につっかかる人はこの言葉をまず反芻してみましょう。
>>309 気の利いた引用句を披瀝しあって楽しむゲームは、なんというか、教養レベルの
学生同士のゲームとしては面白いかもしれないけどね、有象無象の名無し相手に
することじゃないYO! 失笑を売っているようなものでは? 誰か買う奴いるか?
「お前もな〜」「おれもな〜」というフレーズの方がよっぽど気が利いてるとは
思わない?
>>307 たしかに時たま幼稚と思えるような態度で暗に罵倒してる時あるよね。罵倒された方がいやだろうけど、
べつに誹謗中傷ではないと思う。
>310
思わない。まあ309の引用はあまり効果的じゃないけど。
「子供のための哲学対話」っていう児童向けの永井本読んだんですけど、
上下感覚に関する件って、面白いですね。
地上の認識枠だと、地上の重力圏から放れた遠近法を捉えられないんですね。
312 :
考える名無しさん:02/02/23 11:33
>>311 >幼稚と思えるような態度で暗に罵倒してる時あるよね。
は?どの事?
313 :
考える名無しさん:02/02/23 12:03
>>311 >「子供のための哲学対話」っていう児童向けの永井本読んだんですけど、
全く読めてないな、馬鹿じゃないの。
永井の言う「子ども」は児童向けという意味じゃないだろう。
>上下感覚に関する件
何それ?
314 :
考える名無しさん:02/02/23 12:14
>311
時たま妙にねちっこく愚痴ってませんか?具体名忘れたけど。
>312
永井氏の書いた「子供のための哲学対話」(たしかこの題名)って児童書があるの。
犬と子供の対話で進めていく、そういうはっきり子供向けの短い本があるの。
結構永井氏本人の人生観が入ってるような気もするけど、結構面白かったんだよ。
新書の「<子ども>のための哲学」のことじゃない。
あ、犬じゃなくて猫だったかもしれない。
317 :
考える名無しさん:02/02/23 14:11
永井 永井 永井とメカ永井 永井 永井 永井とメカ永井 永井 永井・・・・
何が言いたいんじゃわりゃ
319 :
考える名無しさん:02/02/23 17:43
320 :
Sandy:02/02/23 17:43
>>311 >たしかに時たま幼稚と思えるような態度で暗に罵倒してる時あるよね
入門書しか読まない連中にはありがたい存在だろうな、ということは
想像できる。ビート某的な乱暴さがあって、それはそういう連中には
わかり易すく見えるだろうから。でもさ、仲間内の論争ごっことか、
出典隠しのオリジナル論もどきとか。「みてらんない」という文章が多
い。漏れ的には。出典不明だから自説なのかと思うと、「翻訳書」系・
先人系の書物にネタが転がっていたりして結構笑える。
322 :
考える名無しさん:02/02/24 12:00
>>321 はぁ?
何が根拠でそんなこと言えるの?
つっかかるのも、ほどほどにしなよ
>出典不明だから自説なのかと思うと、「翻訳書」系・先人系の書物にネタが転がっていたりして結構笑える。
どこらへんがそうなのか具体的に言ってもらえると、じつは参考になる。
なんか荒れてますね(笑)
永井さん自身も「転ブラ」あたりで、自分は人間的にはダメだ、って自覚している
だからさ、プライベートな部分をたたいていてもしょうがなくない?哲学的な部分
をちゃんと批判していかないとさ(放言だけじゃ逆に自分の無能さを証明しているだけ
だよ。まあ永井さんも放言は多いけど(それはご愛嬌、逆に僕はそうゆうところにわざわざ
しつこくつっかかる人を変に感じる)、哲学的な部分の放言はあまりないと思う、どう?
それにそうゆう放言があってもそれは、実は、僕はこんな問題を考えているんだよ、一緒に
考えてみない?、っていう呼びかけであって、永井的真理の押し付けとは、僕自身は感じない。)
、永井さんは哲学者としては「偉い」というふうになっっちゃうよ。
>出典不明だから自説なのかと思うと、「翻訳書」系・
>先人系の書物にネタが転がっていたりして結構笑える。
僕もどこらへんがそうなのか具体的に言ってもらえると参考になって助かる。(笑)
まあ、永井さんの性格を考慮すれば、問題自体を考えるのに必死で、誰それが
何を言ったかなんて興味がないじゃないの?まあ、哲学研究者としてはあるまじき
行為だけど。(笑)だから自分の考えがオリジナルなものかどうかにも興味がないと
思う。問題自体を自分自身で考えるのに必死だから。「自分自身」で考えるのが
哲学だからね。自分が考えたことが過去に誰か言ってたとしても哲学としての価値
は減少しないと思うよ。まあ、それも哲学研究者としては良くないけど。
中田さんみたいな大人の方が足繁く通って来て下されば、たぶん荒れません。
>322
公衆トイレのあのドアの向こうから「紙をくれ」という声が聞こえたとする。
その場合君ならどういう対応がベストだと思うのだろう?
1.あほ、とわらいつつ、黙って立ち去る。
2.「紙の用意を確認してからトイレは使おうね」と言ってやる。
3.ティシュ・ペーパーを投げ込んでやる。
4.その他。
>323,324
困ってもいないのに、紙だけは要求しているように見える。仮に紙を渡しても「これは紙ではない」とか「こんな紙では使えない」
とか「量が足りない」とか文句をいうのだろう。
>325
人違い。2ちゃんねるはこどもの来るところではないYO!
324のように「熱血先生なら何を言ってもOK」という糞味噌発言が大人の発言と
みなされるようではまともな議論なんて望むべくもないと思える。
324は何をいっているか無自覚みたいだし。
ここのようなミーハー・スレでは、カリスマを持ち上げることだけが意味があって、
少しでも彼を批判しようものなら322みたいなやつが出てきて荒れる。らしい。
321や322が何をいったとしても荒れているようには見えないという視点もあるのに。
教師のレベルは弟子を見ればわかる。ということか。(w
>>326 悪口だけいっちょまえ(例えが下手糞だが)で、言ってることに内容ないね。
age
>>326 >仮に紙を渡しても…文句をいうのだろう。
無用な推測はけっこうですので、紙を渡してください。
>326
なんかイヤなことでもありました?(笑)
まず「荒れている」についてですが、僕は303あたりのレスから「荒れているな」と
思ったのですが。325さんもそれを踏まえたレスだと思います.......
322さんも326さんもいったい何が問題なんですか?
それがよくわからないのですが。
1 哲学者永井均、そしてその哲学
2 大学教師、哲学研究者としての永井均
3 永井均の人間性
4 永井均に群がる人達
1以外の批判について僕はあまり関心ありません。
別に2−4への批判もいいだろうけど。
まずはさあ1を批判してよ、と僕個人は願ってます。
永井さんの哲学観を批判するもよし、独在論や倫理学を批判するもよし。
ちゃんとした批判もなく罵倒しあっているだけだから、僕は「荒れている」と言っただけで
まっとうな批判なら「荒れている」なんて言いませんよ。
>322さんにしても具体的なことを全然述べてませんし。
せめて「先人系の書物」の固有名だけでも挙げてよ。
放言についてですが。
これも永井さんのネタ提供のためのリップサービスだと思わないかな?
多少初学者にとっつきやすくして本が売れやすくするためだろうし。
まあ、そうゆう放言にだけ関心を持っちゃう読者も読者だろうけど。
(322さんも326さんもそうゆう読者かも?永井哲学の内容に関する議論が
いっこうにされないから)
永井さん自身も「転ブラ」の「談話室」みたいなのにだけ関心を持つストーカー
みたいな奴は困る、って言ってなかったっけ?
そもそも放言をする永井さんが許せないのか、そうゆう放言を「ご愛嬌」と言って
済ます僕が許せないのか、どっちですか?
言論の自由が保たれているだし、本人が言いたきゃそれでいいんじゃないですか?
それに小気味いい放言ができるのも一つの才能だよ。
ビート某さんも田中某元外務大臣もそれが人気上昇に一役買っているんでしょう?
僕からすれば326さんのほうが「ミーハー」にしか見えないですけど。
理由は何度も言うように永井哲学の内実に踏み込んでいないから。
僕は真剣に踏み込んでいるのに。
>仮に紙を渡しても…文句をいうのだろう。
文句なんてケチくさいことしませんよ。永井さんを丸裸にしましょうよ。
>ここのようなミーハー・スレでは、カリスマを持ち上げることだけが意味があって、
>少しでも彼を批判しようものなら322みたいなやつが出てきて荒れる。
これは326さんの単なる思い込み。
少なくとも僕は永井さんをカリスマなんてつゆほどに思っていません。
そんなこと言っている暇があったら何度も言うように永井哲学の内実
に踏み込んでくださいよ。
「私」にこだわって生きていた人間が、あるひ「」を捨てようと決意したら
どうなるのだろうか。
334 :
考える名無しさん:02/02/28 22:28
>>324 >実は、僕はこんな問題を考えているんだよ、一緒に
>考えてみない?、っていう呼びかけであって
そんなこと永井は言わないと思いますがね。
正確に言うなら、
俺はこういうこと考えてきたんだけど、同じこと考えてる人はいるかな? いたら一緒に考えてみない?
て感じじゃない?
336 :
考える名無しさん:02/03/02 13:56
>>335 もっと正確に言えば
「<私>の考えを、同じように考えてるロボットがいて、それらが<私>について
の考えを深めてくれると、永井にとってはうれしい」
って感じじゃない?
337 :
考える名無しさん:02/03/02 14:12
338 :
考える名無しさん:02/03/02 15:54
永井氏は、たとえば「他者」ってのを、主題としては語らないでしょ。
ある存在者と主題として語ってしまうっていう語りのありかた自体に、事象の理解を歪める力が潜在しているって洞察が基本にある。
「<私>」ってのも、主語として(「<私>は」というように)使うようなものではないでしょ。本当は。
<>ってのは抹消記号×の変形。「<私>」は、存在論的な議論の俎上で用いられる記号でしょ?
なんつうか、これを交通可能な自我論の俎上で扱ってしまうと、336みたいな物言いになってしまうと思うんですが。
おれも理解が足らないかもしれないけど…。
永井氏の議論は、飽くまでも「他の誰でもないこの私が存在しているという、この奇妙さは何だろう」ということをつきつめていく過程だから、
その種の疑問を覚えたことがなかったり、少なくもと興味が抱けない人には、はじめっから誤解を生じ易いのものなのじゃないかと思う。
解釈的理性と省察的理性の違いってやつを永井氏は言うけど、つまり解釈的理性は事象を解釈することで新たな意味体系をつくりあげる作業だけど、省察的理性は既存の意味体系を事象の本質理解へ向けて掘り崩していく作業だってことだよね。
永井氏の議論は、言うまでもなく後者だから、同質の問題意識からその議論に参加するひとは歓迎するって感じじゃないですかね。
>>337 自分の議論が誰かによって深められるってことで「うれしい」ってことね。
「<私>の存在の比類なさ」の「はじめに」とか、
あと「子供のための哲学」とかにもそんなことが書いてたけど
まあ、こんなことはどうでもいいことだよな。
>>338 「交通可能な自我論の俎上」ってのは?
>333
どうなるんでしょうね(笑)
ただ、<>って、一つの永井的実践的、倫理的態度なんだよね。
純粋存在論の境地を示すだけではないと思う。
<>の記号でこそ、他者の他者性を開示できる、なんて言っている時、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」
を読んだ時、「子供のための哲学」で通俗的道徳の根拠づけを拒否する感じが独在論の感じと似ている、と言っ
ている時などに僕はそう思う。
>ある存在者を主題として語ってしまうっていう語りのありかた自体に、事象の理解を歪める力が潜在しているって洞察が基本にある。
これは確実にありますね。付け加えて「事象の理解を歪める」とともに、そうゆう語りかたでは自分が言いたいことが他者に伝わらない
、という洞察があると思う。
<>って永井的コミュニケーションの方法なんだよね。自分だけを語ることで他者とコミュニケーションする。
自分だけを語ることによってしか、他者に伝えられない何かがある、という洞察があると思う。
永井さんのそのような趣味を理解できない人は永井さんからすれば粗野な人間ということになるだろうし、永井さん
のそうゆう趣味は、もっと繊細な趣味をお持ちの人からすれば粗野の趣味だろうと思うだろうし。
まあ趣味の違いかな。
たぶん永井さんの議論を完全に理解した上で(つまり永井的コミュニケーションが理解できないからではなく)
、永井的コミュニケーションを拒否する人もいると思う。
(文字どうりの意味で。で、当然僕の語り方もものすごく粗野ということになる)
趣味の違いがすべて、ってことなのかな?
>336
なぜロボットから、そのような反応が返ってくるのか、かが永井的問題なんじゃないの?
やっぱり自分と同じ様な人間がいるのかもしれない、っていう疑問を<<私>>で表わそうと
していると思う。
ちなみに永井さんの<>も、永井さんより繊細の趣味をお持ちの方であれば
「交通可能な自我論」ということになると思います。
まあ永井さんにダメだしをするとすれば、なぜ永井さんの議論が全くわからない人
が出てくるのか、をちゃんと考察してほしいですね、認識の徒なんですから。
永井さんの議論がわからない、というのも世界の一つの諸相ですからね。
だから、
>永井氏の議論は、言うまでもなく後者だから、同質の問題意識からその
>議論に参加するひとは歓迎するって感じじゃないですかね。
そうだとしても、永井さんは異質な問題意識から議論に参加する人も
歓迎しなければいけない。たとえ永井的問題意識から議論がずらされ
ていくとしても。
>なぜロボットから、そのような反応が返ってくるのか、
>かが永井的問題なんじゃないの?
>やっぱり自分と同じ様な人間がいるのかもしれない、っていう疑問を
><<私>>で表わそうと していると思う。
永井本人がどうかということは別にして、
むしろ、逆にそんな反応が返ってくることの違和感、つまり
<私>と同じではない(それゆえ自分と同じ人間なんていない)
のに、「ロボット」が言語ゲームではそこまで語れる
ということの「気持ち悪さ」の指摘が「独我論」でいいたいこと
なんじゃないでしょうか?
つまり、自分と同じような人間なんて疑問はそもそも出ないのでは?
要するに、中田さんは実存主義者ですね。実存主義的永井解釈。
永井はもっと形式主義で、<今>とか<現実>とかとの形式の類
似性を探ることに興味を持っている。
344 :
考える名無しさん:02/03/19 14:02
>>永井さんにダメだしをするとすれば、なぜ永井さんの議論が全くわからない人
が出てくるのか、をちゃんと考察してほしいですね
俺はね
単に永井はガキなんだとおもう
345 :
考える名無しさん:02/03/19 14:03
たとえばレトリックというのをわからないやつとかいるじゃん
大人の会話にはいれないやつ 多分そういうやつ
346 :
考える名無しさん:02/03/19 14:07
誰もが自然と了解して行っている言語ゲームに
どこか常に「ウソ」を感じてしまうんだねきっと。
ぎゃくにいうと「ホント」っていうのを突き詰めないと気が済まない。
子の両者から生まれたのが<魂>なんだなーと思う。
347 :
考える名無しさん:02/03/19 14:10
子どもはこどもらしく。
348 :
考える名無しさん:02/03/19 14:19
永井の世界には カラタニのいうような
どうにも煮ても焼いてもくえないような「他者」というのが欠落しているよね。
というよりも永井にとっては全世界が不思議!なのか。
カラタニにも「他者」ないけど。
349 :
考える名無しさん:02/03/19 14:24
なんかカラタニ読んでると
そとにでたいーといううめきがいつも聞こえてくる。
哲学バンで感覚的な表現ばかりですいません。
その人がどういう人であるか、とか、その人の思想の一般的印象とか、
そういう種類の話ではなく、ここでは、哲学の中身そのものについて
立ち入った議論をするのではないのですか。中田さーん。
351 :
考える名無しさん:02/03/19 16:04
だすな。
あちきはは <魂>はたとえ工場でうまれたのであってもかまわない
という永井のあの一文にビビビとしびれてしまっているのです.....
352 :
考える名無しさん:02/03/19 21:53
永井の本読むと目が回ってくる。<<私>について語る>ついて語る<私>と堂堂巡りになっちゃうんだよな〜〜
哲学書なれしている人にはそうでもないんだろうけど。
軽いトリップ感があって楽しいけど、「結局なんだったんだろう…?」と言う読後感がなんとも・・・(^^;)
353 :
考える名無しさん:02/03/19 23:27
>>352 問題を解いた先には答えがある、答えさえでてしまえば問い自体には意味がなくなってしまうという考え方、
これから解放された。それがなんともいえない爽快感ではあった。
しかし彼の問いの立て方の出発点が宗教的なのかな。
この世で俺しか存在しない時、
そもそも倫理なんてないと思うんだが。
>>353 永井均のは存在論だもの。
存在を倫理と結びつけるとそれはソクラテスの詭弁に陥ると、永井均的には言えるんでないの?
存在は善という断言の拒否。
個人的には、そこにつよい興味があるけど。
355 :
考える名無しさん:02/03/19 23:58
>>354 存在論というのはわからんのですが、
彼の問いとその答えは最終的には善悪という価値の否定
彼岸までいってるけど
なぜその問いが発生したのかというのは、どうしても言語ゲームの世界外のことだと
思わせてしまう何かが彼の論にはある気がしてしまうのだ。
>言語ゲームの世界外のことだと思わせてしまう何か
<魂>(という比喩で表現される本来それ自体は語り得ない実体)。
道徳的善悪は、言語ゲームの内部で肯定されたり否定されたりする事柄に過ぎない。
357 :
kinako:02/03/22 15:22
永井という人は学問的にも思想的にも全く偉くないけど、
彼が発見し、拘った問題そのものは、正真正銘のホンモノで、
ここも含めて、すべての人がそこまで登れていない。
かつて中田は、《私》を貶めていたけど、そうじゃない。
<私>の不可避的な《私》化、と、
それにもかかわらず、そこで失われるものこそ(→だけ)が実在する、
ということこそが問題のすべてなのだ。
哲学史的には、<神>と《神》、新しくは、<現実>と《現実》も、同型で、
しかも、デカルトとライプニッツを見れば分かるように、
それらすべてが相互に内容的にも連関している。
ここが解ければ、哲学(その中心的な部分)は終わるのではないか。
>kinako
もっと語ってみてほしい。
>343
僕は「転ブラ」よりも、「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」の議論のほうが
おもしろい、っていう意味では実存主義的ではあるのかもしれないけど。(あえて
つっこんで言えばニーチェ的)
でも永井的議論と実存主義は全然違いますね。
永井さんと実存主義は
1 <私>の存在は偶然である。
2 <私>は永井均でなくてもいることができる。(と考えることができる)
3 <私>は他者には理解できてはならない。理解できてたとしたら
それは<<私>>である。
という点で違うと思います。1、2はいうまでもないし、3も実存主義にはないでしょう。
サルトルに「私の議論は理解されてはならない」という身悶えがあったでしょうか?
(この身悶えがあるかないかでかなり言説の質が変わってくると思う)
><私>の不可避的な《私》化、と、
>それにもかかわらず、そこで失われるものこそ(→だけ)が実在する、
>ということこそが問題のすべてなのだ。
「<私>存在の比類なさ」の時期までの永井さんみたいな感じですね。
「転ブラ」で言えばE君ってところかな。
「転ブラ」圏内で言えば<私><<私>>を使った言語ゲームは一体なんな
のか?ってところに問題の重心が傾いているとも思うのだけど。
>かつて中田は、《私》を貶めていたけど、そうじゃない
うん、たしかにかつてはそうだけど、今はそうでもないですよ。
>344
いやそういうことじゃなくてさ。
独在論が分かるか分からないかで、かなり世界の見方、人生の見方
が違ってくる。(特に<私>は永井じゃなくてもよかった。ってのは
だいぶ人生の物の見方に影響を与えていると思う。「なぜ悪いことを
してはいけないのか」の「徹底的利己主義」はこれを利用してできて
ものだし)
その分かる分からないの分岐点はどのようなにして出来るのか?
ってのを知りたいんですよ。
他者が問題となってますが、何度も言うようですけど、永井さんに
他者はいますって。いなきゃそもそも独在論なるものを語るはずな
いもん。永井さんには他者の影がつきまとっている、っていうとこ
ろがわからない。でないと、なぜ悪いことをしてはいけないのか」
で永井さんが永井さんに「語る」ことを強いている道徳感覚を、執
拗に問題としていることが分からない。
本当に他者がいないならまさに沈黙ですよ。
沈黙こそが究極の道徳拒否。
最近考えたんですが、永井論の独自性は「<私>は偶然永井均である」
ってところにあると思えてきました。じゃないと、「なぜ<私>は永井
均の利益に奉仕しなければいけないのか」みたいな言葉言えないもん。
これはまさに永井さんが史上初めて生み出した考えだと思う。
363 :
哲学初心者:02/03/23 08:24
最近、哲学に興味持ちはじめて、永井均のウィトゲンシュタイン入門を買って
読んでいるのですが、初っ端から躓いてしまいました。問題は22ページ
の内容なんですが、言ってることがさっぱりわかりません。論理が破綻している
と思ってしまうのです。だれか理解できた方います?いたら、もう少し詳しく
説明していただけないでしょうか。よろしくおねがいします。
364 :
哲学愛好者:02/03/23 15:16
>363
『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)か『<私>の存在の比類なさ』
(剄草書房)か、どちからを先に読むことを勧めます。『翔太と猫のインサイト
の夏休み』(ナカニシヤ出版)では、水槽の中の脳の話とつながっていて興味深
く、個人的にはここをもっと展開していほしいと常々思っているのですが。
365 :
哲学初心者:02/03/24 06:55
>>364 了解です。今日本屋にでも行って探してこようかと思います。
でも恐らくウィトゲンシュタイン入門は私には理解できないと思います。
正直言って鬱です。「<子ども>のための哲学」も分かるかどうか、、、
>>363 22ページの内容ってどんなんでしたっけ?
367 :
ある日 めがさめたら:02/03/24 09:53
<子ども>から「おとな」になっていたのかな
おともだちだった野良猫のおはなしも 突然ききとれなくなってしまった
野良猫のなまえもわすれてしまった
あたらしく ヤーという名前をつけてやった
368 :
考える名無しさん:02/03/24 10:25
てか永井さんってかっこいいと思います。外見も含めて。
本当に偉大なかたですね。
369 :
kinako:02/03/25 17:47
>360
E君ではなくその逆でもある。
逆に《私》について語るときにも<私>を参照せざるをえない。
なぜなら、もうすでに<私>が存在しているから。
しかし、そのことの意味が他人に通じたときにはすでに《私》化している。
哲学的な原理は、むしろ《現実》と<現実>の対比にあるような気がする。
その意味ではF君(ちなみにFは女性?)が重要。
しかし、倫理的には、コミュニケーションは虚構化するというE君の主張がやはり重要だ。
これは自己意識の成立そのものが虚構性を孕むということで、
人生は原理的に芝居であるという意味を含むと解する。
370 :
考える名無しさん:02/03/25 17:53
永井さんは<私>が、なぜか人間永井に付着したことの偶然性を問題としている。
上の出会いの偶然性をここに適用してみると、永井さんはどちらの側からの
偶然性を問題としているのだろうか?
もちろん、<私>でしょうな。
つまり<私>が偶然性を感知している。
しかし、そうすると<私>が何か精神的実体に見えはしないだろうか?
僕が前から再三<私>の精神的実体化と言っているのはこのことなんですが......
まあ、永井さんが神の視点ごときものから偶然性を問題としているなら、僕の批判はあてはまらないだろうけど。
371 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/03/25 20:58
>>369 >逆に《私》について語るときにも<私>を参照せざるをえない。
せざるを得なくないと思うよ。
何故なら、〈私〉なんて世界に存在していなくても、《私》に関する
議論が平然として行われていることは充分可能だから。
372 :
考える名無しさん:02/03/26 14:24
結局<私>がなんなのか、さっぱり分からん。
373 :
考える名無しさん:02/03/27 11:43
>>372 だからそれは語りえぬものだとゆうてるやん
374 :
考える名無しさん:02/03/27 12:59
>>373 だから語りえぬものを何でみんなそう分かっているのかってことや。
375 :
考える名無しさん:02/03/27 14:01
永井の子供ための哲学にある<私>の向こうのもう一つの奇跡って奴か。
永井が<私>という言葉を出した途端に「<私>」という言葉をめぐる言語ゲームが
始まっただけなのかもしれませぬ。
377 :
kinako:02/03/27 18:26
>>371 二つの反論が考えられる。
1、《私》についての議論だけがなされることはありえない。
《私》は<私>との対比でしか問題にできないから。
だから、フィヒテのような哲学者も実は<私>を問題にしてた。
2、いやそうではなく、<私>はもう存在している、それがすべての出発点。
<私>なんて存在しなくても、というのも、存在してしまった後の話。
存在しなかった場合も、存在してからしか考えられない。
しかも、もう存在するその世界の内部から。
ところが、2のような反論も、読む人には、1のような反論に読みかえられる!
379 :
考える名無しさん:02/03/28 12:29
偽問題の典型だよ。永井均の「私」って。
380 :
考える名無しさん:02/03/28 14:05
語りえないもの、と言われたら素直にそう受け取るしかない。
理解するとか、そういった次元にはもうない。
>>380 いやいや、何でそう言っている当の本人がそう理解しているのか、ってことでしょ。
語りえないものを語りえないものだと、なぜ永井が知っているのか。
382 :
>>374:02/03/28 15:34
普遍的に述べようとすると、<私>が<私>ではなくなって、「私」になら
ざるをえないから。
ちゃんと読めやゴルァ!!!
いえいえ、みなさん。
そういう形式的な読み替えが問題なのではないと思いますよ。
端的に、たくさんの人間のうちの一人がなぜかこの私であるということ、
すべての出発点であるはずのこの端的な事実が、
およそ学知のメスが入れられない説明不可能なありかたをしていること、
にもかかわらず、それを引きうけて生きざるをえないということ、
これが問題なんですよ。
だから実存主義的に解釈するのが正しい。
そう解釈すれば、偽問題もくそもない。
それ以外に問題なんて何もないくらい問題ですよ。
そうじゃないですか。
>369
人生は芝居だけど、人生が存在すること自体は芝居じゃない。
読み替えとか、そういうのは、このズレのことでしょ。
だから、存在し生きていくことの、
この異様さそのものを問題にしているんだと思うよ。
>>382 そうじゃなくてさ。
<私>について語ろうとすると「私」の話になっちゃうって言うんでしょう?
それは分かってるの。
でもね、そもそも語れないものについて何で知っている人がいるのかって聞いてるの。
<私>について語ろうとしても語れない、だったら実はそんなものはないんだっていう
ことにはならないの?
どうして語れもしない<私>とかいうものがあると知っているの?
385 :
>>374:02/03/28 22:07
あんたは全てのことが語りうる、と、思っているのかい?
386 :
考える名無しさん:02/03/29 02:06
生きていることと、存在していることは、違うことだと思う。
永井はそう考えてる。実存主義的解釈なんてまったくまと外れだと思うが。
「実存」って言葉にしたって、ハイデガーがなんで「存在」ではなく「実存」なんて言い方をしたと思うの?
「存在」を客体的に論じることの誤謬を少しでも是正しようとしたからだろう。
>>385 そうは思ってないよ。
でも<私>は語りうるものでもないし、当然目に見えたり手で触れたりするもの
ではないのでしょ?
そうすると、どうして<私>が存在するって分かるのかなって。
388 :
考える名無しさん:02/03/29 15:51
>>なっち
>343と>383で、言ってることが矛盾してるんじゃない?
389 :
>>374:02/03/29 20:28
だからおれたちにはわかんねーっつーの
390 :
幼稚園除籍2号:02/03/29 20:55
マジスレなんでしょ。もっと、原理的に考えようよ。
例えば、ピアニスト一家の話や片目が義眼の師匠筋の見解じゃなくて。
記号論とか情報理論、現象学経由であらかた解決つく問題だし、フーコーとか柄谷とか出てきたら終わりジャン。
だから、サッカーとかあさま山荘とか性病の話をしよう。マジでそっちの方が時代の要請に合うし、第一それも女の存在には負けるし、勝てないよ。
391 :
考える名無しさん:02/03/30 00:21
ウィトゲンシュタイン入門で引用されてる『青本』の
独我論の部分は完全に誤解。言語は実在に責任を持たない。
「私」という言葉も例外ではない。
392 :
考える名無しさん:02/03/30 18:15
>>391
「誤解」という話はつまらないよ。だから、どうしたの? と思うだけだもの。
>388
矛盾していたかも知れない。私は実存主義的に解釈する、と言うべきだった。
>386
ハイデガーがどう関係するのかわからない。
実存というのは本質との対義語で、
この対義は現実性と可能性の対比と重なるから、
結局<現実>と《現実》との対比にも重なるんじゃないか。
だから、私は最終<現実>主義者です。
わかってもらえるでしょうか。
394 :
考える名無しさん:02/04/07 13:34
中田さん、最近見かけないね。
395 :
考える名無しさん:02/04/09 15:21
青山拓央『タイムトラベルの哲学』を読んだ。
以前に中田さんが疑問視していたG君説というのは、
この青山説をモデルにしてるんじゃないのかな?
この関係はすごく興味深い。色々な意味で。
>393
実存主義っていう言葉は誤解を招くからあまり使わない方がいいと
思うのだけど。永井さんは個人という単位で思考することを嫌って
いると思うし。
>だから、私は最終<現実>主義者です。
これを言って相手に理解されるということはどうゆうことか?
ってところが問題のミソでは?
>391
「なぜ悪いことはしてはいけないのか?」の大庭さんの永井批判みたいな
感じですね。
>386
存在することと生きることをそんなにすっぱりと
区別できるのかが問題ですよね。<私>が生きていなければ
何も存在しはしないし、<私>が存在するのであれば、<私>
は生きている、ということだ。>340で言っているように<私>
は存在論的にも、倫理的にも解釈できる。どちらか一方を排除する
ことはできないと思う。永井さんやみなさんが問題を感じている
事柄というものはそうゆうものでは?
問題を解いた先には答えがある、答えさえでてしまえば問い自体には意味がなくなってしまうという考え方、
これから解放された。それがなんともいえない爽快感ではあった。
独在論が分かるか分からないかで、かなり世界の見方、人生の見方
が違ってくる。(特に<私>は永井じゃなくてもよかった。ってのは
だいぶ人生の物の見方に影響を与えていると思う。「なぜ悪いことを
してはいけないのか」の「徹底的利己主義」はこれを利用してできて
ものだし)
それとも哲学をしているものは現実を知らず、社会を知らず、人付き合いも乏しいから
現実に飛び込んで、社会に揉まれ、いろんな人と交流して
代案が出せるときにはできるかぎり丁寧かつ明確にそれを語らなければならない。
質問や反駁や代案の提示は、それを通じて自分自身が真理へ近づけるという願望に
僕という人間の立場から偶然性が感知される。
だから僕が、Aさんの立場から、その偶然性を感知することもできない。
AとB、二つの系列があったとしたらどちらか一方の側からしか偶然性は感知されえない、
ということだ。
僕が真に永井的感覚に共感しているのは、この世界の中で、同じ人間であるのに、
なんでこんなにも他人と僕は違うありかたをしているのだろう、というようなフレーズです。
「子供のための哲学」P34-35のような言葉
もしかしたら、僕は<私>がなぜ存在するのか?という問題にはあまり興味がないのかもしれません。
もう存在しちっまているからしょうがない、という思いがある。
それよりも問題なのは<私>なようなものが存在しちまった後のこと。
つまり<私>が一人の人間であること。
それが一人の人間として存在し、生きることに困惑を生じさせますね。
と、僕は感じてます。
永井均はなにか無敵のようですね。学会でも。
永井俊哉がけっこうシステム論からいいせんいってたとおもわれ。
オオバタケシはだめ。
>なっちさん、kiankoさん、374さん
そう簡単に<私>か<<私>>っていうのを決定できないのが
問題のキモでは?だから、永井さんもE君とC君の対話という
形で問題を突き詰めている。
>284 >293を読んでみてください。
>だから、フィヒテのような哲学者も実は<私>を問題にしてた。
この言い方は曲者だ(笑)。だったら主観を問題にしていた哲学者は
みんな<私>を問題としていた、ってなってしまいますよ。
で、なっちさんはE君的なのかな?結論が性急すぎるような.....
やっぱE君的な人って、哲学すること自体はあまり好きじゃないのかな?
>379
具体的に説明してくれると永井さんも助かると思いますよ。永井さん自身も
自分は変な錯覚に捕らわれているのではないか?って問いかけてるじゃない。
(「<私>の存在の比類なさ」)
>369
>人生は原理的に芝居であるという意味を含むと解する。
これは「<私>のメタフィジックス」でもう言っていることだし
今更言われても......
ん?>397 >398は嫌がらせなのかな?
>370 >397 >398にしてもそれは過去の僕でさ。
今の僕とは全然違いますよ。それを引用されてもね。
>250ぐらいが分岐点ですんで。
まあ>250以下のレスは誤読の山として笑ってやってくださいな。
蛇足。
「哲学の木」での永井さんの哲学することの喜びと悲しみと誇りに
ついての文章はよかった。初めて一読した時はとても熱くなってし
まった。特に誇りについては.....同意と反感が入り混じった微妙な
感じを覚えたな。
独在論の軌跡
出発点 「<私>のメタフィジックス」
初期 「「魂」に対する態度」
中期 「ヴィトゲンシュタイン入門」
「<子供>のための哲学」
「<私>の存在の比類なさ」
後期 「転校生とブラックジャック」
「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」
参考にしてみてください。(期の移り変わりは理論的変化を示している)
405 :
考える名無しさん:02/04/12 12:44
>400
『<私>のメタフィジックス』で「人生は芝居である」なんて言ってたっけ?
何処?
もし言っているとすれば、E君というのはかつての自分のことで、
現在の考えではないということになるんじゃないかな。
<私>によって、「輪廻」という現象を考えることができるんじゃないかな。
実際に人は輪廻するかどうか、ということではなくて、「輪廻」とは「理論
的に」ありえることなのか、あるいは何か意味があるのか、という問いに答
えることができるはずだ。
Aという人が死に、Bという人に生まれ変わったとして、それを検証するこ
とは不可能であり、またBにとって前世のAという人生の記憶が失われている
以上、BにとってのAの人生は、他の凡百の人生となんら変わりなく他人事で
ある。希に前世の記憶がある、と主張する人もいるけれど。
しかし、AもBも<私>であることはありえる。だとすれば、人が輪廻すると
すれば、少なくとも、そのことには意味がある(けれどもそれも検証は不可
能だけどね)。
わたしが死んで、生まれ変わった人物(あるいは動物?)が、<私>ではな
いならば、そんな輪廻など無意味だし、そもそも輪廻とは何がどうなること
なのか、さっぱりわからないことになってしまう。
407 :
考える名無しさん:02/04/13 00:38
あの、ちょっと質問なんですけど。
私が人物BがBとして存続しながら、その人物は<私>ではない、っていうことを想像できる
方っています?
408 :
kinako:02/04/13 15:01
>407
文字通りにとれば、想像できない人はいないだろう。
もともと人物Bが<私>でなければいいのだから。
そうではなく、<私>である人物Bが・・・という意味だとするなら、
分裂の思考実験で十分だと思う。だが、分裂が何を意味するかは問題。
>404
とすると、実は「マンガは哲学する」が後期の最初の著作だったのでは。
>400
だから、この種の議論はすべてもう永井がやってしまっているのだ。
その先に、何があるのか、何が言えるか、が問題。
これは本物の哲学的思索が必要とされる。難しい。
(主観を問題にしていた哲学者がみな<私>を問題にしていたわけではなく、
例えば明らかにサルトルは<私>を問題にしていない。あれは人間論だから。)
409 :
考える名無しさん:02/04/13 20:25
410 :
考える名無しさん:02/04/14 00:11
>408
>もともと人物Bが<私>でなければいいのだから。
?
よくわからないんですが。
僕には想像できません。
>そうではなく、<私>である人物Bが・・・という意味だとするなら、
>分裂の思考実験で十分だと思う。
?
でも、分裂したとしても一方は<私>じゃないんですか?
それは単に同じ自我が複製不可能ということを示している
だけのような気がするんですが。
411 :
kinako:02/04/14 13:32
>410
>僕には想像できません。
?
単に人物Bという他人が存続するだけだよ。
>分裂したそしても一方は<私>じゃないんですか?
もちろん<私>だ。そして、他方は<私>じゃない。
それで、人物BがBとして存続していながら<私>でなくなる、
という条件を満たしている。それだけのこと。
412 :
考える名無しさん:02/04/15 03:34
>>410
>>僕には想像できません。
>?
>単に人物Bという他人が存続するだけだよ。
その考え方は論点の先取りでしょう。
>>分裂したとしても一方は<私>じゃないんですか?
>もちろん<私>だ。そして、他方は<私>じゃない。
>それで、人物BがBとして存続していながら<私>でなくなる、
>という条件を満たしている。それだけのこと。
これも同じ。
さらに一つのものが分裂したという時点で既にBが存続している
とは言えないと思うけど。
413 :
考える名無しさん:02/04/15 18:28
話の順序としては、BがBのまま存続しながら<私>でなくなることを
想像できるのだから、<私>はBという特定の人物との関係は本質的なもの
ではない、というのが永井の論法でしょう?だけど、こういう論法はあまり
信頼性がない。なぜなら、直観に大きく依存しているから。しかし、411
のように「想像できない」という人がいるということはその直観は不正確
であるかもしれない可能性がある。だとすれば、こういう感覚に訴える
論法は議論のきっかけにはなっても議論そのものとしては信頼できないのでは。
そういう意味では412のようなおもいっきり直観で議論をしている人は
もっと他の論拠を提示しないと、410のような直観を共有できない人にはいつまでも
納得されないと思う。
昨日、初めて池田晶子編著の「2001年哲学の旅」を読みました。この中に、
池田晶子と永井均の対談が掲載されています。
その中で池田は、永井に対してこんな質問をしています。(p220)
「ところで、このオリジナルな永井哲学を展開しているのは、果たして永井均
さんなんですか、それとも<私>なんですか。」
それに対して永井は、一度は「<私>と永井という人とは、現実には同一であ
るわけですから」と言いながら、結局
「印象としては、問題を感じているのは<私>の方、それを推し進めるために頭
を使っているのが永井」と答えています。
ぬるい質問にはぬるい答えしか返ってこない、という一例ですが、それはと
もかく、この永井の答えは間違っているのではないでしょうか?
<私>は、行為をしたり思索をおこなったりするはずがないのと同様、何かを
感じたりするはずもないと思います。頭を使ったのも、問題を感じたのも永井。
だってそれは「世界」の中のできごとなのですから。
<私>は、ただ「在る」だけではないのか。
我思う、故に我あり。
「永井均」とは、そのように名付けられた人格的同一性を持続的に保持している存在者のこと。
>「<私>と永井という人とは、現実には同一であるわけですから」
とはつまり、<私>=永井という等式の"="を「現実」と呼んでいるだけのこと。
池田の質問は、そこに(それがまさに"="という等式で結ばれてしまっている「現実」に)必然を見ようとする者のもの。
>「印象としては、問題を感じているのは<私>の方、それを推し進めるために頭を使っているのが永井」
<私>の存在は、問題そのものであって、または<私>問題そのものの端的な当事者なのでは? 当事者でなければ、そもその問題は浮上しないはず。
「永井」という存在を、永井は人格的同一性を持続的に保持している存在者としてしか見ないのでは。
誤:または<私>問題そのものの当事者
↓
正:かつ<私>問題そのものの当事者
417 :
kinako:02/04/16 21:54
>412
論点先取の意味を知っているのかね。
407は「私が人物Bが・・・」と書いている。
どこにもその人物Bがもともと<私>だなんて書いてない。
だから「文字通りに取れば」創造可能どころか、
単に他人Bが他人Bであり続けるだけで、現実にいくらでもあること。
また、分裂によって人物Bが存続
しなくなるというなら、その論拠が必要。
それを示さねば、そういうのを論点先取と言うのだ。
>413
これは直観の問題ではなく、複数の論拠(基準)の対立の問題。
そして、『転ブラ』の永井はその点をすでに詳細に論じている。
406などもそうだが、なぜこうも、すでに論じ終わっている問題ばかり、
なされた議論を忘れたかのように、蒸し返すのだ。
分裂の問題は、人物は世界内存在者だから分裂という出来事は世界内の出来事
だが、<私>はもちろん《私》も世界そのものと相関的に唯一の存在だから、
どちらの視点から見るかで出来事の意味ががらっと変わるという点にある。
これは哲学的に実に先鋭な問題なのに、だれもそこまでついて来ていない。
永井がかわいそうだ。
418 :
考える名無しさん:02/04/17 00:24
>417
まあまあ、そう熱くならないで。
じゃあもともと<私>であったBという人物が<私>でなくなる、ということは
想像できるんですか?
あと「テンブラ」とかいう本の永井が詳細に論じているという複数の基準の対立
の問題というのを詳しく説明してもらえますか?
419 :
考える名無しさん:02/04/17 00:29
>また、分裂によって人物Bが存続
>しなくなるというなら、その論拠が必要。
>それを示さねば、そういうのを論点先取と言うのだ。
どっちもどっちだと思うけど。
でも「分裂」っていっている時点で「存続」とはちがうんでないの。
>永井がかわいそうだ。
ははは、そうだね、君が頑張って守ってあげてよ。
420 :
考える名無しさん:02/04/17 00:57
>>418 >じゃあもともと<私>であったBという人物が<私>でなくなる、ということは
>想像できるんですか?
っていうのは、
>そうではなく、<私>である人物Bが・・・という意味だとするなら、
>分裂の思考実験で十分だと思う。だが、分裂が何を意味するかは問題。
って言ってるよ。
>419
>でも「分裂」っていっている時点で「存続」とはちがうんでないの。
うーん、どうかねえ。まず「人物」っていうものを正確に定義しないと話が
進まないんじゃないの?その上で「人物が分裂する」と「人物が存続する」の
違いをはっきりさせた方がいいと思う。どのみち「分裂」の意味はかなり
ややこしくなりそうだし。でも単純に一つものがそのまま「存続」するのと
一つのものが複数のものに「分裂」するのとでは、直感的には全く違うよね。
だから「分裂によって人物Bが存続しなくなるというなら、その論拠が必要。
それを示さねば、そういうのを論点先取と言うのだ。」という417の言い分は
ちょっとおかしいと思うけど?むしろ逆に「分裂の後にもそのまま存続すると
いうのなら、はっきりとした論拠が必要」だと思う。でも「分裂」はかなりやや
こしい話になりそう。
421 :
kinako:02/04/17 18:36
>418
もちろん人格同一性原理、統覚原理、独在性原理の対立。
そして例えば人格同一性にも心理的継続性と物理的継続性の基本的対立があり、
その物理的継続性の内にも物理的性質的同一性を取るか時空連続性を取るか、
といった対立がある。常識ではないか。
>419
>420
すでにそうした議論は永井が詳論しているということが前提ではないのか。
その議論を検討して批判したり疑問を出したりするならわかるが、
まるっきり無視(読んでもいない!!!)じゃ話にもならない。
問題の中心はあくまでも統覚原理と独在原理の対立にあって、
これこそが本質と実存の古典的対立を中心化された世界論に適用した
最も先鋭な論点ではないか。
すでに徹底的に論じつくされていることを(それを知らずに)蒸し返し
ていても仕方がない。
それにしても「転ブラ」を読まずに来ている奴までいるとは心底驚いた。
こんな所にいても無駄だとわかった。
さよなら。
422 :
考える名無しさん:02/04/17 18:50
>>421 あらら、怒っちゃったよ。
短気な人ね。
読んでない奴に教えてくれたっていいじゃないの。
それにキーワードだけをちらつかせて結局何にも説明してないじゃないの。
というか説明できないのか。
残念。
それじゃあ大好きな永井は守れないですよ。
423 :
考える名無しさん:02/04/17 22:15
どうでもいいけど、ここの人たちはなぜすぐ喧嘩を始めるんですか?
さよなら。
425 :
考える名無しさん:02/04/17 22:23
宗教が存在の奇跡を神にあずけたのに対して
永井はそれを自分のものにしようとしてんじゃないのか?
つまり自分は神だと。
426 :
考える名無しさん:02/04/17 22:29
>391
>「なぜ悪いことはしてはいけないのか?」の大庭さんの永井批判みたいな
>感じですね。
まあ、それはそれとして一つの批判ではありうるんではないの。
人は、いるって。
独在性は想像力の及ばない実体で、僕らは無限の距離によって隔たれている。
それは、間違いないと僕も思う。
でも、君はすぐそこにいる。
僕は、名前を持っている。
きっと、それが生きるってことだよ。
永井さんが問題としていることは、言葉にするのが難しいことだけど、
同様に、大庭健が言おうとしている「共に生きる」という考え方も
(あんま知らないけど)、陳腐な言葉で説明できることじゃない。
二つが向かっている方向は、一緒なんじゃないか?
世界を取り戻したいと。
独在性が一人の人間に付着してしまっている事実は覆しようがない。
それこそ、死ぬ以外には。
一方で、ちょっとでも真面目で繊細な神経の持ち主であれば、
今のような時代、永井さんの言うことは容易に理解できるだろう。
時代は、そこまで来てしまっている。
たぶん、大庭さんにはその嘆きが分からない。
でも、普通に社会で生きていけば、自分も他人も同等に位置付けて
思考するのは当たり前だと思う。
他者のリアリティをひたすら言葉でのみ取り戻そうとしている行為に
変わりないと思うんだけど、どうだろう?
どうにか言語化したいんだ。
いきなりスマソ。
>kinako
どこぞの玄人筋の方とお見受けしあしたが、賭場荒らしはいけません。素人
さんに迷惑をかけちゃあ。あんさんのおっしゃりたいことは、クワインから
ルイスにいたるpossible centered worlds の議論に永井のactual centered
world論を位置づけて、その線で彼を超える議論を出すことこそが本質的なこ
とだということでっしゃろ。そりゃそうかもしれんけど、そんなことができ
るやつがこんなとこに来ているわけがないやん!
>418
想像できるかどうか(また人によってどう直観が違うか)とかが問題ではなく、
そのとき異なる基準が使われていることが問題で、そういう基準の競合関係は
「転ブラ」の永井が詳述しているのだから、まずそれを読んでからだ、とkina
ちゃんは言っているのね。永井スレである以上、そこまでは当然の主張だと思
いますけど、違う?
で、玄人の高飛車な賭場荒らしや素人の無知な蒸し返しを避けるには、やっぱ
り中田さんに出てきてもらって「転ブラ」の地道な解読を再開してもらうのが
一番だと思うんだけどなあ・・・
429 :
考える名無しさん:02/04/18 22:56
まあまあ、そんなに素人にプレッシャーをかけなさんな。
玄人なんだったら、素人に丁寧に教えてやったらいい啓蒙になるのでは。
ここに来てるのはほとんどが素人なのだから、それに永井を擁護したい
人はそうするべきだと思うが。
もちろん読んでない本は読むべきですがね。
でも、永井キャリアの長い人もいれば短い人もいるのだから、なんでも
かんでも「読んでない奴に発言権なし」みたいな事を言っちゃったら、
素人さんが気軽に参加できないじゃないですか。
430 :
考える名無しさん:02/04/25 21:56
擁護したい?
431 :
HAA〜A〜:02/05/02 10:52
転ブラの一節の意味を教えてください。
デリダの「声と現象」の私論はどんな意味なんですか。
永井とは、どう違うんですか。
432 :
考える名無しさん:02/05/04 16:43
>425
(゚Д゚)ハァ?
なんでそんな結論が出るのか、不勉強な私にも分かるように教えてください。
>>431 デリダは、「私」と発話した人は死んでも「私」という語は意味作用を続け
るという理由で、「<私>の発話には私の死が構造的に必然的だ」と言った。
そのうえ<私>が現に生きて存在してもいることは意味作用の「おまけ」に
すぎない、と。対して、永井は、そうしたすべてがそのオマケの中で起こっ
ているではないか、と言う。そして、本当に問題なのは、この後者のことが、
たまたま<私>が現に存在しているという偶然的事実(奇跡)の帰結なのか、
それともこれまた「私」という語の意味作用の構造的必然なのか、そっちの
方こそ問題なんだ、と言っている。これはkinakoがしつこく問うていた難問
だが、ここからただひとつ確実に言えることは、デリダが虚仮おどしの三流
哲学者だというだけだ。これは、まあ、確実。
434 :
考える名無しさん:02/05/05 13:01
>>433 説明うまいね。
んで、その水準の議論をするのであれば、やっぱり転校生とブラックジャック
を読んでおく必要はあるわけで。子どもための哲学までの独在論理解じゃ
イライラする人が出るのは仕方がないと思われ。
435 :
考える名無しさん:02/05/12 15:52
『世界思想』(世界思想社)という雑誌の2002年春号に、
「<私>と<今>」という論文を書いている。
たった3ページだけど纏まっている。
436 :
考える名無しさん:02/05/14 03:13
DAT逝き防止age
>408
「マンガは哲学する」はまだ読んでいませんのでわかりません。
「その先」をぜひkinakoさんに思索してもらいたいです。
>421
>問題の中心はあくまでも統覚原理と独在原理の対立にあって、
>これこそが本質と実存の古典的対立を中心化された世界論に適用した
>最も先鋭な論点ではないか。
これをもうちょっと説明してほしいのだけど....。
本質と実存の対立ね.....
まあkinakoさんの苛立ちもわかりますけどね。
>405『<私>のメタフィジックス』で「人生は芝居である」なんて言ってたっけ?
> 何処?
> もし言っているとすれば、E君というのはかつての自分のことで、
> 現在の考えではないということになるんじゃないかな。
「人生の作品化」という章を僕はそのように読んだのですが。
「現在の考え」ではない、とは言いきれないじゃないですか?
たぶん(笑)
>429
蝉風呂さんは実力派と見うけました。
蝉風呂さんにぜひ「転ブラ」を読解してもらいたいです。
僕のこの問題にたいする認識の頂点は250−300あたりですね。
その後のレスは瑣末なカキコばかりです。
(ようは進歩してない 笑)
もう一回「転ブラ」読み直してみようかな。
>435
その文章ぜひ読んでみたいですね。
>438
『転ブラ』の読解をここでやるのは、ぼくには無理です。
ひとつ理由は、ぼくは蝉風呂なので、新たな解釈なり有効な批判なりを
思いついたら、自分の名(本名)で論文として発表したいからです。
さもしい根性ですみません。
ぼくは中田さんとも他の多くの人とも違って、『転ブラ』を、そして
『転ブラ』だけを(!)、きわめて高く評価しています。
日本の哲学者は、日本で独自に始まる哲学を、自分の目で評価し内在的
に批評する能力と気概が、誰ひとりないみたい。
外国の後追いばかりで、嘆かわしいことです。
ところで名前とその指し示すものの間に
違和感を感じてる人はいませんか?
彼の議論はそこで共感できるかどうかに尽きると思うのだけど。
ウィトゲン同様。
441 :
考える名無しさん:02/06/02 12:08
>>440
意味がわからないよ。
名前とその指すものの間の違和感?
そこで共感できるかどうかに尽きるとは?
名前って?
どういうことが言いたいの?
442 :
考える名無しさん:02/06/03 18:40
永井均には「マンガは哲学する」のノリで「トータルリコール」「ザ・フライ」
「エンゼル・ハート」を哲学的に語ってホスィ。あれらの映画には永井的<私>に
関わる問題がからんでいると思う。
443 :
考える名無しさん:02/06/05 22:27
この人今でも中央で働いてるの?
見つからねえから落ちたと思ってたのに、まだあったか。
445 :
考える名無しさん:02/06/06 00:06
446 :
考える名無しさん:02/06/09 17:46
俺は永井の<私>ってのは良くわからないんだよね…。
というより、それが「問題」であるってことがわからない、と言うべきかな。
むしろ永井の倫理的な感性のほうに関心があって、それだけを取り出してみれば
ニーチェ=スピノザの線に吸収してしまえるような気もするけど、
それは独在と切り離しえないらしい。こういうのってなんじゃろな?
447 :
考える名無しさん:02/06/10 21:26
つまり、ハイデガーを経由したうえでニーチェ。ライプニッツを経由したう
えでスピノザ、ということなのね。そういう「問題」なんですよ。本当は。
ライプニッツであってデカルトでないところがみそかもね。
448 :
考える名無しさん:02/06/10 22:03
問題つーよりは、単に現実を叙述しているだけって気もするんだが…。
だから永井読んでも単なる現状認識だけなんだよね。まあ現状が
どういうものかっていうのを正しく分析するのが哲学の仕事では
あるのだろうけど。
449 :
考える名無しさん:02/06/10 22:14
何か基盤をもって思考することができない。
えー根拠の不在を逆手にとって理論を作ってるような気がする。
野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の中に、永井の
『ウィトゲンシュタイン入門』についての記述がいくつかあった。
あんまり関係ないかもしれないけど。
451 :
っていうか:02/06/11 23:39
永井さんが「タイムトラベルの哲学」の著者をなんであんなに持ち上げてるかわかんないんだよね。
永井さんのは学術的にはともかくとして、読み物として面白いでしょ。
ただ、青山某にはそれがない。
452 :
考える名無しさん:02/06/12 11:13
>>446 問題である理由は、今日の哲学(もちろん諸科学はすべて)の主流である自然
主義ないし物理主義に反する存在論だからです。彼の言うことが「現実」であ
るなら、科学や今日主流の自然主義的な哲学は基本的なところでに間違っがっ
ているか、少なくともそれらでは本質的に捉えられない「現実」が存在すると
いうことになります。これは、大変なことで、彼の倫理的感性なんか(たとえ
それがその存在論と切り離せないとしても)それにくらべればたいしたことで
はないのではないといえますね。
>>451 「タイムとラベルの哲学」は、読み物としてもすごく面白いですけど・・・
>>451 同感。論述の仕方に怪し気な手さばきが感じられた。
本人も「満足してない」って言ってたけど、あれじゃ出版する価値ないと思う。
アキレスと亀のところ以外は単なるおしゃべり。「問題感覚」はあっても思考は無かったね。
>454
具体的に批判しないと、単なる負け惜しみになるという罠
456 :
考える名無しさん:02/06/12 15:16
454は「満足してない」って本人から聞いたの?
たぶんあなたが考えてるレベルの「満足してない」とはちがうよ。
あれがほんとに単なるおしゃべりに見えるなら、思考どころか
問題感覚も共有できてないと思う。
451も「学術的にはともかく」とかつけちゃうあたり、
ルサンチマンがうずまいててやだなあ。
457 :
考える名無しさん:02/06/12 17:45
タイトラ、良い本ジャン。
訂正
間違っがって→間違って
たいしたことでないのではないと
→たいしたことではないのではないかと
ついで言うと、『タイトラ』もまた時制(とりわけ現在)の実在論を
取ることで、同じように大きな「問題」を提起している。どちらも
「学術的」に見ても、巨大な問題提起をしていることは疑う余地がな
い。問題はむしろ本格的な学術的反論がないことの方だ。日本の「哲
学者」たちは、いったい何をやっているんだろう。
459 :
考える名無しさん:02/06/12 20:24
下書き込みは、共有できない、とかルサンチマンとか付けるあたり
ダメ男だろうな。
>454は「満足してない」って本人から聞いたの?
>たぶんあなたが考えてるレベルの「満足してない」とはちがうよ。
>あれがほんとに単なるおしゃべりに見えるなら、思考どころか
>問題感覚も共有できてないと思う。
>
>451も「学術的にはともかく」とかつけちゃうあたり、
>ルサンチマンがうずまいててやだなあ。
461 :
考える名無しさん:02/06/14 23:20
>>460
なにか、くやしいらしい。
462 :
考える名無しさん:02/06/14 23:30
463 :
考える名無しさん:02/06/14 23:35
どうせ460=451だろ
どうして「学術的」に価値がないと思うのか言ってみな
464 :
考える名無しさん:02/06/14 23:59
煽りは、ほっとこうよ。
中田さん、戻ってきてくんないかなあ...。
465 :
考える名無しさん:02/06/16 22:43
<私>についてじゃないとだめなの?
『ルサンチマンの哲学』が一番面白いと思うんだけど。
ああいう話と<私>の話とは、どう関係しているんですか?
「独在と切り離せない」というのはどういう風になの?
誰か教えてください。自分の解釈でもいいので。
>465
「ニヒリズムからの出発」を読めば、独在性と彼の倫理学の関係が
よくわかると思われ。
467 :
考える名無しさん:02/06/19 02:01
>>466 ナカニシヤ出版の『ニヒリズムからの出発』に入っている「ニヒリズムとして
の哲学」という論文のことですよね? 読んでみたけど(非常に面白かったけ
ど)独在論との関係はやっぱりわからなかったよ。むしろ、ますますわからな
くなってしまった。前から思っていたんだけど、永井の本って、本ごとに雰囲
気がすごく違いませんか。永井均って何人いるの?って感じ。
いや、全体がつながっている漠然とした感じだけはわかるんだけど・・・
468 :
考える名無しさん:02/06/22 12:16
>467
読んでみると、確かに、独在論とは直接つながるようには書いていないですな。
この論文では意図的にそうしたのかも。
他の著作を合わせて考えると、
「自分と他人とを(できるだけ)同じように考えるべきだ」というのは、
重要な価値であるとされている
↓
「自分の存在は特別だ」と考えることは、独在論について考えることで
あると同時に、重要な価値とされていることを疑うことでもある
ということだと思われ。
もっとも、独在論と倫理とを本当につなげなければならないかどうかは、
漏れにはよくわからないけど。
いや、なんか違うなあ…。自分で書いておいてアレだが。
すいません、漏れにはよくわかりません。
470 :
考える名無しさん:02/06/22 17:34
「ニヒリズム〜」より「なぜ人を殺してはいけないのか」のほうが
ダイレクトに語ってなかった?要は永井的<私>は天上天下唯我独尊で、
社会性を超越してるから、社会の倫理道徳に縛られない。<私>が
人を殺さなけりゃ救われないって思えば殺すしかないっていうような
ことだった。
471 :
考える名無しさん:02/06/22 18:54
じゃ逆に善いことしなけりゃ救われないと思えばそうするしかないってこと?
もしそうだとするとつまんない話だよねえ。あたりまえっていうか。
『なぜ悪いことことを』の方を読んだとき、なんか違う感じがしたけどなあ。
読んだときはちょっとわかったような気がしたんだけど、漏れにもよくわからん。
なんか、頭悪い奴ばかりだねえ。このごろ、このスレ。
472 :
考える名無しさん:02/06/22 21:49
http://up.to/buruma ロリはここに逝ってよい!ゴラァ!
iii■∧ /
━ (,, ゜Д゜) / ━━━━━ ∧∧━━ ∧∧
| つ ∇ (゜Д゜;) (゜Д゜;)
| |┌─┐ /⊂ ヽ /⊂ ヽ
〜| ||□| √ ̄ (___ノ〜 √ ̄ (___ノ〜
∪∪ | | || ━┳┛ || ━┳┛
 ̄ ̄ ̄ ̄| | ====∧==========
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| すげー!!サンプルだけで抜けるよ!!!
473 :
考える名無しさん:02/06/22 22:41
>>471 永井の言う「倫理的」というものは思考として独立にあるんだと思う。
永井がいらだつのは、思考が持つ性格(それを倫理性と言っている。
俗的な倫理とは違うので注意)を自覚しないような言論であって、なぜ
悪いことをしてはいけないのかということも、端的には理由がないと
いっているよね。つまり、方向の違うものを混同してはいけないという
ことだと思う。
ヴィトゲンシュタインがいう「沈黙せねばならない」というのも、言及
してはならないという意味に勘違いしているひとを時々みかけるけど、
そうじゃなくて、ヴィトゲンシュタインは哲学の領域からそのような領
域を開放したかったんだよね。
474 :
考える名無しさん:02/06/24 12:52
『なぜ悪いことをしてはいけないか』では、「今日、道徳を守る唯一の方法は
哲学である」という、それまでの議論を逆転させるかのようなオモロイ結論を
導き出してたような気がする(w
475 :
考える名無しさん:02/06/24 15:25
私が永井に興味をはじめて持ったのは、知る人ぞ知る『情況』という左翼雑誌の、
「<他者>と<物語>〜間主体性の実践哲学」という鼎談において、でした。
だいぶ古い号ですが、1991年7.8合併号「特集・ポストモダン―前衛なき戦争」。
当時の私は鼎談の相方の大庭健にほぼ同意する事が多かったのですが、
大庭の論というよりも発言の態度といったものに、ある種の独善的な感じ、を受けたのを
何故か鮮明に覚えています。それとと同時に、永井の論のもつ、なにか、大きな危険性も。
476 :
考える名無しさん:02/06/24 15:28
>じゃ逆に善いことしなけりゃ救われないと思えばそうするしかないってこと?
>もしそうだとするとつまんない話だよねえ。あたりまえっていうか。
いや、だからさ。
つまんないとか、面白いとか、そういうことじゃないし。
そんなこといったら哲学自体つまらん人にはつまらんでしょ。
ただ<私>の独在論から倫理につながるのってある意味では当然だと思う。
永井先生っぽく言えば、同質的な他者の存在が前提となってるのが道徳だし、
その道徳を独在論的思考から考察すると...ってことではないかと。
ただ、そういう道徳論よりもやっぱり<私>そのものの問題の方が深いし、
>>452にもあるように、物理主義では説明できない何かにつながるかも
しれない。というか、そもそも何が問題なのかも未だに表現しきれていない
わけで。過去ログにもあったけど、この問題がクリアになれば、哲学という
もののすんごく重要な部分は解決するでしょ。つか、ヴィトゲンシュタイン
がやり残した部分というか。
私は同号に掲載された天野恵一のヤクザ映画評論が読みたくて買った者で、
哲学的な難しい話はわかりません。
永井が非常に礼儀をわきまえた、才気ある子供のような嫌なやつだという印象ぐらいしか。
ただ、鼎談ですので、彼の書物を読むと理解しがたい「沈黙」が、
話中において(例えば大庭に対しする態度として)明かになるかもしれません。参考までに。
永井・大庭の鼎談…そんなものがあったと聞くと、笑えてしまう(w
479 :
考える名無しさん:02/06/25 00:07
永井のいう「問題を提出する事のみが重要だ」という主張にどうしても違和感を
感じてしまう(もちろんあとは自由に考えるということだけど)。
また端々に見える保守的かつ抑圧的な物言い(たとえば、哲学とこういうもので
あるとか、問題を共有する者としか議論したくないとか、これは哲学ではないと
か)にも疑問を感じる。彼はもともと論理的に色々な事を考え詰めたいと思って
いたのだろうと思うけど、常に、私はそのような事は言っていないとか言えてし
まう余地を残しているように思えるし、またいろいろな言説に対して、考えてい
るようでいて実は自動的に反論や懐疑できてしまう技術を磨いただけではないだ
ろうかという疑いも抱いてしまう。
いくつかの論文(転ブラの最後のやつ(系譜学などを論じたもの)など)は好きだ
けれども、その他のものはだんだんと文章からいいわけのような印象を受け始め、
永井は考えを深める途中で何か懐疑論の罠にはまっているのではないかという気
がして、だんだんと読まなくなってしまった。
柄谷は読みたいけれど、永井は読む気がしないのは、やはり「問題を提出する事
のみが重要だ」という態度への違和感、文章からなんらかの開放への意思のよう
なものが感じられないところにあるのだろうと思う。もちろん、こういうことい
うと、永井は「じゃあいいよ」というだけなのだろうが。
480 :
考える名無しさん:02/06/25 00:41
?
>479
哲学に「なんらかの開放への意思」を求めるのが間違っているかト。
でも永井も「子どものための哲学対話」では自分の哲学的姿勢を
実生活で「建設的に」応用しようとする姿勢を見せてはいるわな。
永井・大庭の鼎談、自分も読んでみたい(w
鼎談って事は3人だよね。もう一人は誰だったんだろう?
「なぜ人を殺してはいけないのか」は、対談相手の小泉義之と話が
噛み合ってないので浅い議論しかされてない本ですが、この中に
「きみは私を殺しても良い、『だから』私はきみを殺してはいけない」
というタイトルの文章を永井が書いていて、ちょっと面白かったです。
このタイトルに永井の倫理的感性と<私>の独在性との繋がりが
端的に表れていると思いました。
「私が人を殺しても良いと認められるなら、人が私を殺すことも
認めなくてはならない」というよくある議論は、他の人と置き換え
不可能な<私>には通用しないし、
>>470にあるように
<私>の存在は社会的規範に先行してるので、<私>が人を殺しては
いけない理由はない事になります。
これは「きみ」にとっての<私>にも成り立つ事なので、
「きみは私を殺しても良い」となる訳ですが、こう議論を進めると
<私>の独在性に反するので云々…となるのはいつもの通りです。
このように独在的な<私>の比類なさを考えると、この驚くべき存在が
殺人などの暴力によって損なわれるのはよくない(社会的規範とは
違う「よくない」ですが)。やはりこれも「きみ」とっての<私>にも
成り立つ議論なので「『だから』私はきみを殺してはいけない」…
永井の考えには、このように殺人などの「悪い事」について徹底的に
考えれば所謂「悪い事」をしなくなるのではないかというのがあると
思うのですが、これも<私>の独在性と繋がった考えですよね。
まあ、永井の倫理的感覚に対する共感と<私>の独在性の問題を
共有する事は別の話だと思いますが。
それにしても、<私>の独在性の問題を共有するって
いったいどういう事なんでしょうね?
独在性について考えれば考えるほど共有など不可能な気がするし、
その一方でこのスレからも分かるように端的な事実として
共有されてる気もするし…
>>483 基本的に同感です。
でも永井は「悪い事」に関しては「生まれの良さ」とか「育ちの良さ」とか
「趣味」の問題だからどうしようもない、と考えてるような気がします。
ダメな奴は「徹底的に考える」なんてことはしない、と思っている。
485 :
考える名無しさん:02/06/26 15:01
>>479 比較にならない。
柄谷は、よくある日本の(文芸批評系の)大思想家ってやつだ。
いま人気があっても死ねば忘れられる。
それは彼の思想が時代的背景を持ち、時代にコミットしているということでもある。
永井は、おそらくは日本初の単なる哲学者というもので、
はるかにマイナーで、今後もずっとその真価は少数の者にしかわからない。
でも、もはや歴史に残ることは間違いない。
これはゼノンがあのパラドックスを考えたというだけで歴史に名を残してしまったのと同じことだ。
開放への意思がどうしたとか、そういった煤けたチャチな評価基準は通用しない。
そもそも時代的背景といっさい無縁で、時代にコミットしていない。
ああいう単なる哲学にどいう態度で接したらいいのか、
たぶん、まだ、だれもわかっていない。
日本初の歴史に名を残す哲学の誕生を素直に喜びましょうか。
それとも・・・
ともあれ、印象批評は無意味。
ゼノンに対するそれが無意味であるように。
486 :
考える名無しさん:02/06/26 15:22
野矢は?
487 :
考える名無しさん:02/06/26 20:26
>>485 私は実はゼノンのパラドックスがなぜそれほど興味深いのかまったく理解できない・・・。
まあそれはいいとして、永井の哲学は自閉的な感じがするのだが、どうだろうか。たぶん
比類なき<私>、独在性というものに関連してそう思えてしまうのだろうが、読み方が
いけないのか?それとも自閉的なのは別に構わないのだろうか。
私は永井が日本初の単なる哲学者とは思わない。だた、そのようなものを出版してしまった
初の人かもしれないが。
>487
それがわからんのじゃ、しようがないよな・・。
自閉的というか、メタフィジカルな次元の話だから、それがわからないとピンとこないはず。
永井自身、人間的な次元での「私」とか「人」とか「人間」という問題事象から自分の問題意識を洗練させて<>という表記を編み出した。
「<私>のメタフィジックス」はそれがとてもわかりやすく論述してある。
人間的な次元での「私」はあたりまえのように認めている。
489 :
考える名無しさん:02/06/26 20:38
485は哲学者を評価しすぎだな。
永井は一部のやつにしか理解できないっていってるが、
永井無茶苦茶うれてるじゃないかよ
柄谷だってうれてるが一部のやつにしか理解されてないかもしれないじゃか
まったく同じこと両方に言えるぞ
評価基準が恣意的だなー
あなたが個人的に永井がいいっていえばいいんで
とくに柄谷を貶める説得する理由なんかあるの?
なにか他をおとしめなきゃ
永井スゴイっていえないのかい
両者を評価して柄谷はダメってんなら 基準が説得力ないよ
ロマン的ね 以外と
490 :
考える名無しさん:02/06/26 20:42
歴史に残るかどうかなんかどーでもいいんでしょ
優雅に柄谷は無視しておれは永井にリアリティーを感じるぐらいがいいね
比較しちゃダメよ、永井的じゃないんでない
491 :
考える名無しさん:02/06/26 20:48
1永井スゴイッて基準と
2柄谷『より』永井スゴイッて基準の違いだね
1と2を混同してるようなきが
492 :
考える名無しさん:02/06/26 20:50
2は、個人の趣味ってことにならない他者には?
どう
493 :
考える名無しさん:02/06/26 20:51
あっまちがえた
たぶん ごめん
494 :
考える名無しさん:02/06/26 20:59
1が個人的で他者にわかんなくて(わかんねーやつにはわかんねー)
2がかっこつき社会の基準で永井は無視するんでない、どーでもいーじゃんと
どうよっ
495 :
考える名無しさん:02/06/26 21:01
別に比較はしなくてもいいと思うけど、両者並べた場合、コミュニケーションとれそうで
とれないようなのがちょっと興味深い。
>>485 ああいう単なる哲学にどいう態度で接したらいいのか、たぶん、まだ、だれもわかっていない。
いや、わかっていると思うが。やっぱり普通は公表しないんだよ。永井は個人的なやむない(?)理由で
そうしているだけだというのは押さえておいた方がいいと思う。
496 :
考える名無しさん:02/06/26 21:10
おっしゃることはわかるんですが
永井は個人的に好きだが(ぼくは柄谷もてきとーによんでますが)
そのスゴサを人にいうもんじゃないような(しつこくてわるいね)
でもいいたくなってしまうという。ここがおもろい
公表する必要もないですしね。
だから人前にみせてさースゴイですねーってのは永井的じゃないね
まーぼくは性格わるいんでちょっとはすごいぞといってもいいんだけど
いかが
497 :
考える名無しさん:02/06/26 21:14
でも あなたは健全ですねー
とほめおとす
498 :
考える名無しさん:02/06/26 21:17
496のぼく文はちょっと酷い わるい
499 :
考える名無しさん:02/06/26 21:22
じゃあどういう哲学者が人に見せて「すごいですねー」になるのぉぅ
500 :
考える名無しさん:02/06/26 21:27
それに関してはですね。ぼかぁわかんないんですね
ごめんなさい。
ただ永井はちょっとちがうんじゃないかと
そういうことを言いたくなるってことをどうかんがえるかじゃないかな
いっしょに考えよゥ そうだー
501 :
考える名無しさん:02/06/26 21:46
ちなみに整理すると
1永井をスゴイッていう基準
2柄谷『より』永井のがスゴイッて基準
1と2は違うんですね。だから1の基準を2に適用はできません。
2には2の基準が(あるだろう/あるはずだ/ないかな?)ので、
勝手に評価の土俵をどちらの側も提示できないんですね。
どうかしら、
502 :
考える名無しさん:02/06/26 21:49
2の基準を提示する欲望ってのは永井的なニーチェのルサンチマン
になりやすくない?
どうよっ きいてるっ えっ きいてないっ あっそ
503 :
考える名無しさん:02/06/27 00:37
中学生と『〈魂〉に対する態度』を読んでます。
恥ずかしいコンプの人だ、というのが、
彼らのリアクションですね。
504 :
考える名無しさん:02/06/27 02:57
しょーもないレッテルではあるがw
505 :
考える名無しさん:02/06/27 11:00
いや中学生はただしい
>>485 基本的に賛成です。でも、そいうことをここで言っても単なるファンとしか理
解されないんですよ。下から3行目の・・・の所に勝手に僕の考えを入れさせ
てもらうなら、永井についてではなく、問題について、具体的にはたとえばE説
とH説の違いとか、F説とG説の関連とか、あるいはD説の独立の美技とか、そう
いうことについて「哲学的議論」をすべきであり、いわゆる永井ファンの方に
は申し訳ないが、それ以外にすべきことなどないと考えます。
このスレではかつて中田氏がそうされていたし、その後はたしかkinakoとか
蝉風呂だとかが、多少そういう議論をしかけていましたが、他の人たちがつい
てこれなくて、結局、みんな嫌になってやめてしまうんですよね。そして、い
まのような「印象批評」などというより単なる馬鹿話になると、急にレスが
増える!
結論は要するに2chはどうしようもないという、実は誰でも知っていること
の確認になってしまいそうなので、ひょっとするとそうではないかもしれない
ということを示す試金石として、「問い」を出してみます。
1、『転ブラ』119頁6行目には「初発に」という語が見られるが、これ
と時間との関係はどうなっているのか。また、これとの関係で、Eは超越論的
要請が立てられてしまえばそのとき同時にそうでない可能性も立てられてい
ると言うが、この主張は正当化できるか。できる(できな)とすればいかな
る根拠でか? なたこれと120頁のDのヴィトゲンシュタイン解釈との関係
は?
2、『転ブラ』133頁で、Gは未来と過去との対比を持ち出している。この
主張は正しいだろうか。正しいとすればいかなる理由でか。誤っているとすれ
ばその根拠は何か?Eならば過去についても未来と同じことが言えると言って
しまうとも思われるが、それは何がまずいのか。あるいはまずくないのか。
2、『転ブラ』143頁で、Eは「それをどう説明するんだ」と言っている。
このとき彼はどのような「説明」を求めているのか。どのような(種類の)
説ならか彼を満足させることができるか。たとえばなんらかの宗教的説明
が彼を満足させる可能性があるだろうか。あわせて宗教の本質は何か。
いまたまたま読み返していた箇所からあげたが、このわずか20頁少々
の間だけでも、あげれば他にもきりがないほど哲学的問いが詰まっている。
余計なおしゃべり(印象批評や背後詮索)をやめて、(例えば)これらにつ
いて哲学的議論だけをするという選択肢が考えられると思います。
実際、ゼノンについては現にみんなそうしているます。ゼノンのパラドッ
クスの意義が理解できない人は単に黙っています。あれが実はパラドックス
ではないという綿密な論証も、もちろんあります。
もしまともなレスがあり、哲学的議論そのものがが盛り上がるようなら、そ
のとき僕自身の考えも出して、議論に加わりたいと思います。
507 :
?1/4?3?μ?3?n@?e^?u¨?N:02/06/27 14:52
506はよくわかってんな。
485は実は印象批評になってんだよな。
あの文章は非永井的ですね
508 :
考える名無しさん:02/06/27 16:54
駄レス507は無視して506から
509 :
考える名無しさん:02/06/27 23:47
2chには向いていない。
ちなみにゼノンのパラドックスがパラドックスではないという議論の肝を教えてくれないかな。
素人にはだめか。
510 :
考える名無しさん:02/06/28 03:42
永井にとって、問題は永井の〈私〉なのであって、
俺とは関係ない。
だから読む必要も感じない。
>>510 永井の本は単純におもしろいのであって
永井の哲学を自分の哲学とかって思っちゃうやつがうざいだけ
讀んでおもろいもん
512 :
考える名無しさん:02/06/28 12:38
とりあえず答えられそうな所だけ書いてみる.
>1、『転ブラ』119頁6行目には「初発に」という語が見られるが、これ
>と時間との関係はどうなっているのか。
127頁冒頭の「最初というのは、今という意味なのか」というやりとりが、この
答えになっていると思われる。つまり、<私>が、「いま」、存在していることが
全ての前提である。
…でも、かりに<私>の存在があらゆることの前提であって、時間というもの
自体の前提にもなっているとすると、<私>と「今」とを単純に並べて論じる
のはおかしいのかなあ、と素人なりにつぶやいてみる。
たぶん永井は、<私>の存在が時間というもの自体の前提になっているとは
考えていないんだろうけど。
>>506 私はよくわかりませんが大変興味深い問題なので
>『転ブラ』143頁で、Eは「それをどう説明するんだ」と言っている。
このとき彼はどのような「説明」を求めているのか。どのような(種類の)
説ならか彼を満足させることができるか。
説明を求めていないのでは。
生の事実として現在今Eであることを引き受けるしかない。
同じ種類のことは、誰でもいえるが同じことは誰でも言えないという。
そういうことしかありえないのだから、
如何なる説明も同じこれに到達できない。
514 :
考える名無しさん:02/07/02 23:45
>>506の質問に対応するのは難しいので、スレ見てあらためて永井さんの著作読んで今思っている事を
書きますので、感想あれば教えてください。
1.「転校生」P144に記述されている「いまここで生じているような対立がどういう種類の対立である
かが完璧に見極められればそこで哲学は終わる・・・」ということに関連して、私は「<私>の存在の比類な
さ」において、<私>と他者に関する問題は完全に見極められていると思う。つまり同書において展開さ
れている内容に関し、なんら異論がない。
>>421において言及されている統覚原理と独在原理の対立の問題も、基本的に<私>と他者の問題と同じ
と思う。また
>>428に触れられている可能世界論における可能主義と現実主義の問題も、同じと考える。
つまり、形式において一方が他方の存在をを必要としているという捕らえ方である。
別の言葉でいえば、「転校生」は「<私>の存在」に対して、種々の論点を深めてはいるが、「<私>の
存在」に示された基本的な問題に関してあらたに示されたものはないと思う。いかがか。
あらためていえば、「<私>の存在」において提示されている問題については解明されてしまっている
と思う。そこに示された<私>と他者に関する考察に根本的に異論をはさむ余地は見当たらない。
2.従って「<私>の存在」以降の考察の可能性の問題としては、以下のように考えられる。
(1)省察的解明(この言葉は「「魂」に対する態度」での柄谷「探求」の批評で使われた
意味に用いる)(永井の言う哲学)
>>506に示されたような問題を考察する事が考えられる。しかしそれは、性質として
は、ゲーデル以降の数学基礎論と同様のものである。もちろん、だから意味がないわ
けではない。「タイムトラベルの哲学」や「存在論的、郵便的」はその部類に入るだ
ろう。
(2)解釈的解明
柄谷の著作のようなものになる。永井の言う思想になるだろう。また、倫理の問題も
ここに含まれる。
(3)文学、人文科学
(4)社会科学
(5)自然科学
つまり、「<私>の存在」により、確実にあるものが終わったのだと考える。
永井の根本的な問題は、形式論から存在論へ移るところ、つまり「転校生」P85にある「言
葉の使い方に関する事実が隠してしまう、何か極めて特殊な事実がある」という問題なの
だが、それは「<私>の存在」に記された「奇跡性」「偶然性」以上に言いうる事はないと
思う。その意味で問題はなくなっている。<私>を<<私>>から常に引き離す思考の努力がも
とめられているが、それもその限りで異論はないだろう。
515 :
考える名無しさん:02/07/02 23:45
余談
1.柄谷について
>>485で彼は思想家だといっているが、それは全く正しいと思う。しかし、永井と比較に
ならないというのは、永井を緻密に読みうる人にしては偏見をもって柄谷を読んでいると
思う。柄谷の「探求U」の単独性は永井の独在性の議論とある点で同じものを思考してい
ると思うし、デカルトに対する解釈での外部も永井の他者とある点で同じものを思考して
いると思う。その点で刺激的だと感じない人はいないはずである。永井は「「魂」に対す
る」で探求の評論をしているが、あまり誠実に読んだとは思えない。
逆に、探求Uにおいて柄谷が永井と異なっているものは、永井も言っている解釈的解明と
なる部分である。そして、そのことは柄谷は間違いなく自覚している。柄谷は気分で永井
は論理というような捕らえ方は間違っている。
2.永井の興味深い点
永井の著作の興味深い点は、実は<私>に関する論理的考察でない部分にあるともいえる。
例えば、「<私>の存在」P78「単独性を媒介にして独在性を伝達しえたのではあるまいか」
同P109「他者の身体が身体であることにほんの少しの疑いも感じていない」や「転校生」
P50「ボクは自分であろうと他人であろうと一般に人がふつうの意味で痛がったり悲しが
ったりすること自体はまったく自明のことだと思う」といった、論理でない確信性である。
これらは<私>に関する形式論、存在論の本質には関係ないのだが、それをなぜかしるすこ
とが、永井の独在性論を、自閉から最終的に救っているように感じる。
3.印象批評について
印象批評が評判悪いようだが、印象批評がその批評の対象となっているのもの議論を深め
るのになんら役に立たないというのは、実業に携わっている者は学者以上にわかりきって
いると思う。しかしながら印象批評を行うのは、単にアホなのではなく、印象批評以外に
取りうる態度はないじゃないかという姿勢を含んでいると思う。印象批評は役に立たない
が、無意味ではない。そのような立場はありうるのだ。だから、それを踏まえた上で無視
するというのは哲学の取りうる態度だと思うが、無意味として切り捨てるのは、逆に重要
なものを失い、哲学を完全なる自閉に追い込むように思う。
2chは、基本的に情報交換と印象批評の場であると思う(規定ではなく、ながめた感想で
す)。だから、どうしようもないと思うのではなく、嵐ふく中かろうじて論議がなりたつ
ようなのを楽しむというのが良いのではないかとも思う。
516 :
考える名無しさん:02/07/02 23:47
馬鹿ばっか・・・・ばーーーーか
517 :
考える名無しさん:02/07/03 00:15
というより永井の本ちゃんと読んでるやつっているの
518 :
考える名無しさん:02/07/03 00:19
やっぱバカだよなぁ
永井よんでるやつって偏見の固まりだもんなぁ
519 :
考える名無しさん:02/07/03 23:09
514=515ですが、スレつかなかったようなので、一応追加の説明して引っ込みます。
問題にしたかったのは、永井さんの著作をねたにしてなにか議論できるとすれば、まずは
「<私>の存在」あるいは「<子供>のための哲学」の前半にて展開されている<私>に関する
論に異論があるかないかということだと思います。私が「終わっている」と書いたのは、
もちろん永井が「<子供>」の前半にて終わったと書いていることであり、私は論の展開に
異論をはさむ余地がないと思いましたので、やはり終わっていると感じたということを提
示しただけです。従って、この部分に関して哲学するとしたら、異論がある場合、どの論
の展開が間違っているかを指摘することだと思います。
>>506さんの問題提示は、このあ
とにくるものでしょう。そして永井も書いているとおり、そこでの問題に関しては、上記
問題が「終わった」限りにおいて、その問題の質は変わっています。そのことは認識して
おく必要はあるでしょう。
そして終わった後の態度としては、上述したとおりですが、すでに根本の問題はなくなっ
ていると考えますので、私に関しては、永井の意味での哲学すること(を公表すること)
にもうあまり関心はなくなり、上記で言うと(2)以降の部分にいまは関心があります。
上では書かなかったのですが、省察的解明の態度としてもう一つあります。それはその人
にとっての「<子供>のための哲学」を問題提起し展開することです。おそらく、中田さん
は永井と違う問題があるのだとおもいますので、その場合取りうる態度はそれのみでしょう。
「永井の本当にいいたいことは<私>では言えてないのではないか」ということは哲学する問
題ではありえないでしょう。そして中田さんが書く「<子供>のための哲学」は、永井の問題
と全く違っているはずですし、論の展開も全くちがうものとなるのでしょう。それをこの場
で検討するのは可能な事だと思います。残念ながら中田さんの書き込みは永井の著作に引き
ずられて書いてあるので、わたしは明確なかたちでその問題がなんなのか認識する事ができ
ませんでした。
余談の余談ですが、余談の2に書いた事は、おわかりのとおり、「<子供>のための哲学」前
半の終わりあたりに永井が書いている「もう一つの「奇跡」に対する感触」というものに感
じた事と同じことです。
520 :
考える名無しさん:02/07/04 11:06
>>514=515=519
異論をはさむ余地がないほど「終わっている」とは思えません。また『<子ど
も>のための哲学』の議論は現在の永井自身が否定しています。これはある学
会のような場所で彼が配布したハンドアウトに明記されています。むしろ、永
井哲学の哲学としての問題提起ははごく最近、つまり『転校生とブラックジャ
ック』から開始された、と考えるべきでしょう。506さんのような問題提起
は「このあと」どころか、それらの手前に食い込んでしまうのです。この「食
い込んでしまう」ことがらの発見こそが、永井をはじめて哲学者にした、と思
います。終わったどころか、はじまったばかり、です。506さんの問題提起
以外にも、考察さるべき問題が累積していて、どの一つをとっても『<子ども
>のための哲学』の議論では到底決着がつきません。中でも決定的と思われる
論点を一つだけ挙げれば、やはり時間構成ではないでしょうか。よくよく考え
るなら、<私>であることの奇跡とは何なのかが、時間構成との関係抜きに把
握できるはずがありませんから。ここからはじめて、哲学の大海が開けてくる
のではないでしょうか。
521 :
考える名無しさん:02/07/04 14:46
あほらし
522 :
考える名無しさん:02/07/04 23:00
>>520 時間構成との関係抜きに把握できないというのを、もうすこし詳しく教えてほしい。
523 :
考える名無しさん:02/07/04 23:25
>>520 書き込みありがとうございます。永井自身が否定しているというのははじめて知りました。
できればその内容を知りたいです。
それと、反論ではないですが、「終わっている」というのは、「<子ども>のための哲学」での
「<私>の存在の比類なさ」でもいいですが、そこで展開されていない考察さるべき議論が、そ
れらでは「決着できない」から「終わっていない」とは考えていませんでして、何ら「対立す
る論点がない」場合に、「終わっている」のだろうというふうに考えています。
524 :
考える名無しさん:02/07/05 04:06
永井自身が『<子ども>のための哲学』の議論を否定してるとは、私も知りませんでした。
<私>についての議論は『<私>の存在の比類なさ』と『<子ども>のための哲学』で
尽くしたので、その成果の下で『転ブラ』では「現実」や「時間」についての議論が
されてるのかと思ってました。ただ、第8章のG君のレポートでも「時間」ではなく
「擬似記憶」についての議論になっているように、「時間」に関する議論が不十分なのが
気になっていました。
「私」が他人に(過去において)「なった」とか(未来において)「なる」等の思考実験は
<私>についての議論でも本質的な役割をはたしているが、「なった」や「なる」というのが
一体どういうことなのか分からないとなると、これまでの<私>についての議論も
見直さなくてはならなくなるのではないか。
その意味では、『転ブラ』はこれまでの議論を仕切り直して<私>を<現実>や<今>との
関係のなかで捉えていこうという事なのかもしれません。それは哲学的には、より洗練された
議論なのでしょうが、私からみると問題が拡散してしまうという印象も否めません。
私が独在性について考える際に、見ず知らずの他人である永井均の文章で初めて
(漠然と感じていたにせよ、明確に)<私>という問題に気づかされたと云う驚きを
抜きにしては考えられません。これは『転ブラ』P.26にある夢の中の登場人物が夢の主体に
「これはあなたの夢なんだよ」と指摘するという言明不可能な真理に相当するし、
私が気付いた時点で真理になったこの不可能な言明が<私>の世界においてどのような位置を
占めるのかという問題は第5章セミナー3でも議論されています。
このように永井の本を読む体験それ自体が哲学的問題として議論されている点も、永井の本が
私のような哲学専攻ではない読者にも多く読まれている要因だと思いますが、私のような読者が
求めているのはE君やHさんと同じ様に、統覚原理に解消されない独在論の「主張」なのかも
知れません。(これは
>>506の3に関係しますが、どんな懐疑の下でも独在的な<私>の存在は
否定できないと云う「主張」が宗教的なものかどうかは分かりません。)
これまでの議論では独在論が統覚原理を打ち負かす事はできないのだから、独在論の「主張」の
ためにも新しい観点の議論が必要なのは分かります。
それは『転ブラ』から展開されようとしている「現実」や「時間」に関する議論なのか。
それについては分からないとしか言えません。<私>について感じたような問題の感覚を、
<現実>や<時間>について感じきれないせいかも知れません。
525 :
524続き:02/07/05 04:09
『転ブラ』での「現実」に関する議論に、問題を感じきれないと書いた事について付け加えます。
『転ブラ」では、中心化された世界という概念を可能世界モデルに持ち込むと云う議論が
展開されているが、この議論で「現実」を捉えきれるのか。
今までと同様に、可能主義と現実主義の対立と共存が繰り返されるだけではないのか。
Fさんのレポートは「両者の対立と共存の必然性が理解された時この議論は終わる」と
結ばれているが、「必然性が理解される」とはどういう事か。
必然性の理解のために形式化された様相論理とそのモデルである可能世界が考えられたと
いうのに、これでは議論が循環するのではないか。
このような細かい疑問に紛れてしまい、<私>について感じたような確たる問題意識を
持てないのです。
とは言え中心化された可能世界という議論は、単なる哲学ファンからみても
面白いアイディアなのでどんどん押し進めてもらいたい所です。
野矢のが優秀
キモイ
実際、『<子ども>のための哲学』のどのあたりがどう否定されたんでしょうね?
あれがもしも全面的に間違っているんだとしたら、『転校生とブラックジャック』
だって半分ぐらい(適当)は死んでるんじゃないかと思うので。
できれば詳細をきぼん。
528 :
考える名無しさん:02/07/05 20:30
514=515-519=520ですが
いいたかったことがよく伝わらなかったような気もするのでもう少し説明をします。
>>514の2(1)でアナロジーとしてゲーデルの名前を出しましたが、そこでの意味はこうです。ゲーデルによって
数学が終わったわけではもちろん全くありません。一方数学の根本的な問題がゲーデルにより解明されたという
のも明らかですが、今後発展するであろう数学のいかなる結果でも、ゲーデルの示したものと矛盾はしないでし
ょう。
>>523で「対立する論点がない」といったのは、ここでいう「矛盾がない」に類するような意味です。
たとえば三浦俊彦さんの「可能世界の哲学」という本は優れた啓蒙書だと思いますが、そこでの思考が、永井の
<私>の次元に及ぶことができていないのは明らかです。そして、その本に記されたそれゆえに生じていると思わ
れる分析哲学上の重要な問題が、永井の「<私>の存在の比類なさ」の議論によって解明されているものがあると
思います。もちろん<私>の「奇跡性」「偶然性」をいっただけでは解明などではないという意見はあると思いま
すが、それでも私が「終わっている」と思うのは、「奇跡性」「偶然性」を示すとともに、「語りえぬもの」を
めぐる思考によって同時に、「それ以上言えない」事も論理的に示していると思われるからです。
この私の直感が正しい場合、これは極めて重大なことになります。なぜならば、数学においてゲーデルが示した
ことに匹敵することが、分析哲学においてここに達成されている可能性があるからです。ゲーデルの場合、幸い
ノイマンがいたためにその重要さがすぐに理解されるところとなりましたが、永井の議論が十分理解されていな
いのなら、国内外を問わず、多数の分析哲学者により真剣に検討されるべきことと考えます。私は単なる野次馬
であり自分の直感にこれっぽっちも自信はありませんが、「<私>の存在の比類なさ」収録の「他者」および
「独在性と他者」は極めて重要な論文であることは間違いないと思います。
(入不二基義さんにより一部検討されたものがありますが(「相対主義の極北」)、残念ながらわたしはその内
容を完全には理解できていませんが、異論を出しているのではなく、別の角度から広げているという感じのよ
うです)
529 :
考える名無しさん:02/07/05 20:31
まちがい 514=515=519=523です。
三浦の語用論的観測効果の視点から、
永井の独在論が否定される可能性はあるとおもうけどね。
ま、三浦の新刊待ちということでサゲ
531 :
考える名無しさん:02/07/05 23:22
>>528 おっしゃるとおりですが、日本の哲学者はなぜか自国の哲学者の仕事を真剣に
検討しない風習があるようなのです。いったん外国で権威を確立した人を研究
するか、分析哲学者たちは外国で権威を認められた問題だけを後から論じるの
です。
>>530 『論理学入門』の線なら望み薄です。『転ブラ』のHの水準の反論で十分処置
できますから。しかも、だからといってCが間違っているわけではないように、
三浦氏が間違っているわけではない。ここが面白いというか、528さんの言
う通り、きわめて重大であろと考えます。野矢茂樹とか飯田隆とか丹治信治と
かちゃんとした分析哲学者がちゃんと論評すればいいのに。奥雅博の批判など
もあるが、あんな枝葉末節のことばかりではどうしようもない。
532 :
考える名無しさん:02/07/06 00:25
アホバッカ
原書読めよ
>『論理学入門』の線なら望み薄です。『転ブラ』のHの水準の反論で十分処置
>できますから。
Hの水準の反論というのは具体的に言うと?
534 :
考える名無しさん:02/07/06 13:20
それより、『転ブラ』では永井自身がすでに三浦化しているのではないでしょうか。
『<子ども>のための哲学』を否定しているという情報が正しいとすると、
そのことがよく納得できて4しまうのです。
みなさん、『転ブラ』をよく読んでみてください。
少なくとも「先生」は、特に後になるにつれて、
F説以上にC説に近づいていると読めませんか。
「先生」の主張が永井の主張というわけでもないでしょうけど、
少なくとも『<子ども>のための哲学』前半の議論全体が否定されるような
視点を内含していることは確実ではないでしょうか。
「理解される」以前に自分で先に進んでしまったのかもしれませんが。
そうかね?
CとEの対立と共存の必然性ってとこまで行きたいんでしょ?
前の議論を否定ではなく包括しようとしてるんではないのですか。
536 :
考える名無しさん:02/07/06 20:17
でもさ、対立と共存が必然化されてしまったら、やっぱり、高次のCじゃないのかなあ。
どう考えても、やっぱり、大事なのは、偶然(奇跡)ってことじゃないかと思うんだけどなあ。
必然的な奇跡なんて、おかしいしゃん?
537 :
考える名無しさん:02/07/06 20:24
必然=奇跡でもとくにおかしくはないと思います。
なぜおかしいのか逆にちょっと理解に苦しみます。
どこらへんに違和感を感じるのでしょうか?
必然というのは
<私>の存在が必然という意味?
539 :
考える名無しさん:02/07/07 01:19
永井さんの『<私>の存在の比類なさ』の重要性に関して、一つ指摘したい。
分析哲学系の人は敬遠しているかもしれないが、東浩紀さんの『存在論的、郵便的』の第4章の
議論は、その見かけの違いにもかかわらず、永井さんの議論に極めて接近している。しかしな
がら、永井さんの地点に達していないのは、東さんが「<私>の「存在」の問題」に気づいてい
ないところにある。東さんの著作を読んでいる人は多いと思うので、大きく関心を喚起したい。
そして永井さんの議論の重要さを知ってもらいたい。
540 :
考える名無しさん:02/07/07 01:37
539追加
いうまでもないが、永井さんの議論を考える際に『<子ども>のための哲学』にも記さ
れた、竹田氏のような認識の根本的間違いだけは、絶対に避けなければならない。
541 :
考える名無しさん:02/07/07 01:48
永井に引き付けて読む必要ないっしょ
ひどい読解
542 :
考える名無しさん:02/07/07 01:50
>>541 じゃあ古代ギリシア人とかの感覚で読みな木瓜
543 :
考える名無しさん:02/07/07 03:15
544 :
考える名無しさん:02/07/07 03:18
>542
典型的永井ヲタ
恥さらしてるなぁ
545 :
考える名無しさん:02/07/07 03:20
野矢のが優秀だろ
546 :
考える名無しさん:02/07/07 11:26
東氏の『存在論的、郵便的』P313の「デリダとサールとの転移関係」というようなもので言おう
としている事は、私の考えでは、永井氏の「<私>と<<私>>の拮抗関係」と同一のものである。
また、それ以降のフロイトなどに言及した部分は、永井氏の「単独性を媒介にして独在性を伝達
しえたのではあるまいか」という考えと同様のものをめぐっているように思える。
そして東氏も最後に「私」の問題に言及している。永井氏がそこよりさらに思考を深めているの
は、『転校生とブラックジャック』P85にある「言葉の使い方に関する事実が隠してしまう、何
か極めて特殊な事実がある」という問いを考え、「奇跡性」「偶然性」を示したことにあらわれ
ている。そしてそれが限界。
野矢茂樹さんの名前が出ていますが、永井さんの『<私>の存在』
に入っている野矢さんの本の書評の内容を考えてみるとわかるこ
とがあります。
そこで野矢さんの主張が否定されているかのように考えるのは
あまり的をえていないと思います。重要なのは、野矢さんの議論
と永井さんの議論が本質的に対立するものではないということで
す。おそらく、野矢さんは永井さんの考えている事を考えた事が
ないのです。別の言葉でいえば、永井さんが示したより根本的な
次元の異なる問題の存在に気づいていないのです。
548 :
考える名無しさん:02/07/07 16:05
なんでより根本的ってわかるの?
549 :
考える名無しさん:02/07/07 16:07
永井の物差ではかってるだけじゃん
野矢のがましだよ
550 :
考える名無しさん:02/07/07 16:51
547とは別人ですが、より根本的かどうかは別にして、次元の異なる問題
(の存在に気づいていないかどうかも別にして)に関心をもっていないの
は事実だとおもいます。
ところで
>>526,545
野矢の方が「優秀」とありますが、これはある意味で事実ですが、結果的に
哲学者としての野矢氏を貶すことにもなるので、要注意。
野矢氏より「優秀な」哲学者なんて掃いて捨てるほどいます。本当です。
しかし、彼らはみんなつまらない。なぜでしょうか。
野矢氏のいいところは、ある点で並はずれて馬鹿なところがあって、
普通の優秀な人ならなんともなく理解して通り過ぎてしまうところに異常こだわ
ってシツコク論じる力があるところです。
これは例えば飯田隆氏などにまったくない能力です。野矢氏の論理学書なんか、
優秀な論理学者には決して書けない種類の、すばらく素朴で、真に哲学的な本です。
そして哲学的優秀さというのはむしろそういう種類のものではないでしょうか。
はっきり言って、独特に頭が悪いのです。
普通の人、とりわけ優秀なひとならすんなり理解できるところができないという能力。
哲学を読む喜びの大半はそれを読むことにあるような気がします。
永井氏も、こだわっている問題はことなるとはいえ、
もちろん同じ種類の真に「哲学的な」人だと思います。
つまり、ある点で野矢氏の水準を越えて、異様に頭が悪いところがある。
私は疑う余地なく彼らはともに本物だと思います。
現代日本で、彼らのように「哲学ができる」人がほかにいるでしょうか。
どちらが「優秀」なんて話は学校の成績だけにしましょう。
551 :
考える名無しさん:02/07/07 17:16
でも、東は永井をけっこう読んでいるらしいよ。
539や546の言うことが正しいなら、
構造だけうまくパクったということかな。
パクるといえば、
さる漫才師の書いた『哲学』という名著かあるけど、
知ってる?
552 :
考える名無しさん:02/07/08 00:00
>>550 飯田には飯田固有の問題があるのよ。
どっちが優秀って話しはこのスレの人が永井マンセーするために
平気でやってることじゃない。
いまさらなにをいってるの
553 :
考える名無しさん:02/07/08 00:06
あと野矢に独自の頭の悪さはないとわたしは考えています。
普通に優秀。
554 :
552+553:02/07/08 00:12
とりあえず普通に納得できない。
そこに書いてあることは誰にでも当て嵌まる。
539や546はちょっとわざと煽りの冗談ぽいな。永井の評価は別にして。
それと永井の議論は、もちろん低俗な意味での野矢と永井のどっ
ちが優秀とか言う問題では全くないでしょう。永井の議論を理解
する上で重要なのは、まさに、そのようなことではないという点
にこそあるような気がします。
556 :
考える名無しさん:02/07/08 00:17
そんなこと知っとるよ。
557 :
考える名無しさん:02/07/08 00:42
>現代日本で、彼らのように「哲学ができる」人がほかにいるでしょうか。
なんでこんなことを滔々と述べてしまえるのかわからん。
他の分析の人たちがかわいそすぎる。
あまりにも表層的な評価。永井的な書き方をしなきゃ哲学者じゃないなんて!!!
本当に内容で評価してんのかスゴイ疑問。こういう言い方をすると嫌がるかもしれないが
研究者について知らなさすぎる(あたりまえだが)。
558 :
考える名無しさん:02/07/08 00:58
野矢さんの本は、永井さんの議論で言うと、あえて<<私>>の次元での徹底した考察なの
かな。
それは良くわかるような気がする。<私>の次元を問題にしたってしょうがない
と思える部分もあるからなあ。
559 :
考える名無しさん:02/07/08 01:38
だから野矢には野矢の問題があるのよ
あと野矢の本はほとんどバカの振りする秀才の典型だよ。
読めばわかるじゃない。
他の人評価するなら「少し」は彼らが何に惹かれているのかみてやって
560 :
考える名無しさん:02/07/08 13:39
>『転校生とブラックジャック』P85にある「言葉の使い方に関する事実が隠してしまう、何
>か極めて特殊な事実がある」
これって、このスレでも以前に何度か触れられているけど、何の問題だかわかる人
います?<私>の存在の問題そのものではなくて、「世界がそこから開けている
原点が独立に二つ存在しないのは、なぜか」という問題らしいんだけど。
「他人の感覚を感じることはできない」という問題と、どこが違うんでしょうね。
561 :
考える名無しさん:02/07/08 16:31
そこに他者に関する(真の意味での)問題が控えてるのではないかな。
562 :
考える名無しさん:02/07/08 16:39
>>1の元哲学仲間の中村です
哲学厨房の
>>1が、「面白いサイトをおしえてくれ」
としきりに言うので、一年前2chを教えてあげました。
すると、彼は見事に厨房になってしまったのです(36歳ですが)
居酒屋に入り、席につくなり「さあ、マターリしようか!!」
会話中も「その話はサゲで!」「オマエモナー!」「やっぱJAVAは
OFFだよな!(Lhacaの使い方さえ解らないレベルなのに)」
嬉々として覚えたての用語を連発しています。
先日など、河原でバーベキューをした時、あまり面識のない人に
「ドキュソって知ってる?元は目撃ドキュンの・・・」などと話し出し、
しまいには酔っ払って川べりに座り、人差し指を天に向かって上げ、
「イッテヨシ!イッテヨシ!イッテヨシ!!!」と叫んでいるのです。
一緒にいる私は痛さで恥ずかしくてしょうがありません。
現実で2ch用語連発するなよ、と言うと
「うるせえ!お前なんかドキュソだ!あぼーんだ!」
と訳のわからない事を言い、相手にされません。
哲学って人格を崩壊させるんですね。もう私は諦めます、哲学。
どうか皆さん
>>1を見守ってやってください。
可愛いやつじゃないか!
564 :
考える名無しさん:02/07/08 21:46
>>562 >哲学って人格を崩壊させるんですね。もう私は諦めます、哲学。
「2chって」の間違いではないの?
哲学なんかより2chのほうがはるかに人格を崩壊させますよ。
みなさん、分かっているとは思いますが、本当に注意してくださいよ。
そういう当人がなんでこんなふうに書き込んでいるのか?
ああ、2chやめますか、人間やまますか、だよな。
それに比べりゃ哲学のことなんか二の次三の次。
ところで、1の方はまったく崩壊してなかっためずらしい例だったと思いますけど。
懐かしいですね、あの頃。
>>560 言葉でいうの本当に難しいと思うんだけど、問題の意味がわか
らない問題があるというか、考える事を阻む領域があるという
か、561さんの言うとおりだと思います。
>>560 あえていえば、「<私>の存在のあり方の特異さ」というのかな。もう一つあえていえば、
可能世界を考える事が出来ない領域があるというのかな。事実が思考を拒んでいるよう
なんですよね。
567 :
考える名無しさん:02/07/09 00:27
たとえで言うとこんな感じなのではないか。
将来科学技術が進んで、人の脳を手術して世界が2つ開けるように出来るのかもしれない。
しかし、その場合でも<私>は、その場合のその(他者、もう一つの奇跡)でなにが起こ
るのかを想像する事が出来ない。つまり世界が2つに開けているという事が結局想像でき
ていない。あるいは他者の存在を予想できない。
568追加
逆にいえば、現に世界は2つ開けているのかもしれない。しかしその場合も、開けて
いるのかもしれないという意味がわからない。世界が1つに開けているのと2つに開
けているのがどう違うのか思考できない。
そうあらせているのは、「<私>の事実」、である。そしてその事実は言葉に出来ない。
569 :
考える名無しさん:02/07/09 01:17
言葉にしてんじゃん
570 :
考える名無しさん:02/07/09 01:45
>>560 話を思いついた。いわゆる多重人格ね。
時系列での多重人格はわかるけど同時の多重人格はなんなのかわからない。
いや、別の個体に分かれて入ればわかるけどそれは多重人格とはいわない。
いや、もっとわかった。
時間はとめられるけど空間は止められない。
いやいや、さらにわかった。アインシュタインによれば、時間が止まるに対応するのは
空間が歪むだ。世界が複数に開くのは空間が歪む場合だ!!
とすると、理論物理学者は空間が歪むという事がどういうことかわかっているだろうから
聞けばいいんじゃないか!!
でもやっぱり<私>の存在は奇跡だ。
571 :
考える名無しさん:02/07/09 01:48
572 :
考える名無しさん:02/07/09 02:07
>>570 > いや、もっとわかった。
> 時間はとめられるけど空間は止められない。
> いやいや、さらにわかった。アインシュタインによれば、時間が止まるに対応するのは
> 空間が歪むだ。世界が複数に開くのは空間が歪む場合だ!!
> とすると、理論物理学者は空間が歪むという事がどういうことかわかっているだろうから
> 聞けばいいんじゃないか!!
文系はこれだからイヤになるな。哲学の議論もこれぐらいのDQNな内容なのかな。
フリーズワールドはうそだ。時間が止まれば可能世界が爆発するのだ。
時間の起源は可能世界の爆発だ。時間が現実世界を規定している。
574 :
考える名無しさん:02/07/09 02:18
>>572 570は真正DQNです。
哲学とは無縁です
<私>の死により<私>の世界が終わるのではない。<私>の時間が止まり
可能世界が爆発するのだ。<私>の他者とは、可能世界の爆発だ。
575 正確を期す。
<私>の時間が止まり<私>の可能世界が爆発する。
つまり、中心化された可能世界論は正しい。
<私>は宇宙だ。そして無限の他の宇宙が存在する。
>>574 > 570は真正DQNです。
> 哲学とは無縁です
すみません。関心があって読んでいたので、ついキレてしまいました。
「マジレスのみ」となっていましたので。。。
576あたりまではみんな荒らしなんでしょうか。
荒らしです。
573 正確を期す
ホーキングは正しい。
時間の始まりはビッグバンである。その時間の前に可能世界の爆発が実現している。
そして、現実世界は時間とともに終わり、可能世界が再び現れる。時間は空間の
最も歪んだ形である可能世界から生み出される。
ビッグバンの最初は量子力学的世界になる。
そして量子力学の世界は可能世界論とつながる。
(三浦俊彦「可能世界の哲学」)
多次元世界のスーパーストリングスの研究方向とも一致している。
完全なるDQNではない。
581 :
考える名無しさん:02/07/09 03:32
やっぱりDQN
おそらく全ては可能世界でしょう。
ただし、この可能世界が実現されているというのがどういうものかはわかりません。それは永井
さんが示した認識の限界のためです。ただ、物理的には時間が止まり、空間が最高に歪んだ状態
でしょう。
ここからは理由はわかりませんが、以下のもの(全て同じことをさします)が誕生すると思われ
ます。
1つの宇宙の始まり
可能世界の1つの<私>への中心化=<私>の誕生
ビッグバン
時間の始まり
これ以降はたぶん物理学の統一理論の解明するとおりでしょう。
そして最後に以下のことがおこるでしょう(全て同じものをさします)。
1つの宇宙の終わり
可能世界の1つの<私>への中心化の終わり=<私>の死
ブラックホール
時間の終了
可能世界の中でこのような宇宙が複数誕生していると思われますが、どういうかたち
かはよくわかりません。
1つの宇宙の始まりがなぜ起こるのかもわからないでしょう。
たぶん、そこは限界です。
確かに真性DQNに見えてしまうでしょうね。
583 :
考える名無しさん:02/07/09 04:25
>確かに真性DQNに見えてしまうでしょうね。
見える じゃなく ただのDQN
582だ。
なんということだ。
アキレスと亀はパラドックスなどではない。もともとアキレスと亀は
ユークリッド空間などで競争はしていないのだ。<私>のいるリーマン
空間で競争をしているのだ。
時間の矢を決めているのはエントロピーなどではない。<私>の存在だ。
時間を感じるのは<私>だけなのだ。<私>が時間だ。負存在の<私>など
なく、時間は逆戻りしない。時間は、一方にあるか、ないかだけだ。
<私>とともに時間はなくなる。
シュレジンガーの猫を観察しているのもただひとり<私>なのだ。
もともと、ユークリッド空間でおこっていることなどこの世の中に
なかったのだ。すべて<私>の存在するリーマン空間、時空間でだけ
おこっていた事なのだ。真の観測者は<私>のみだ。
アインシュタインがいたのに、永井均がいたのに、なんということだ。
ひょっとして永井って電波なんですか?
>将来科学技術が進んで、人の脳を手術して世界が2つ開けるように出来るのかもしれない。
>しかし、その場合でも<私>は、その場合のその(他者、もう一つの奇跡)でなにが起こ
>るのかを想像する事が出来ない。
例えば、私(A)が隣の人(B)と脳や神経を接続して、視界の右側はAの視界、
左側はBの視界、というようなことが起こったとします。
そうであるとしても、その私とは独立の他者のことは、やっぱりわからない。
それはその通りだろうと思うんですが、これは「他人の感覚を感じることはでき
ない。もし、『他人の感覚を感じる』と言ってしまいそうなことが起こったとし
ても、私が感じている以上は、私の感覚だと言わざるを得ない」ということの
延長にすぎないんじゃないでしょうか。「新たにBの視界に映っているものを見る
ことができるようになったとしても、見ているのはやっぱり私だ。」というわけです。
…と書いてみた自分としても、「延長にすぎない」は言いすぎかなあ、という
気がしてはいます。しかし、これが事実の問題であって、たんに言語の問題では
ないというのは…うーん…。
だれか言語とか感覚とかについて詳しい人を連れてきてくだせい(w
587 :
考える名無しさん:02/07/09 11:44
ここの削除人ってこの板の住人の自我を
許さないみたいね、藁
なんが哲学だ、藁
まあいっか
こんな下馬評しかないところ
>>560 『転ブラ』P85で「他人の感覚を感じることはできない」という不可能性は「他人」や
「感じる」などの言葉の意味に基づく不可能性なのかもしれないと述べられています。
おそらく永井は、所謂他我問題は言語ゲームという考え方で解消できると考えているのだと
思います。それに対し、≪私≫が二つあると考える事が出来ないというのは、「私」という
語の意味に基づく不可能性だとは言い切れないと感じているのではないでしょうか。
『転ブラ』ではこの問題は、<私>の存在の奇跡性というこれまでの観点からだけではなく
中心化された可能世界論との関連性において考えられ始めています。
これからはFのレポートP167〜P169の(1)(2)(3)の認識を出発点として<私>と<現実>との
関係性が議論されていくのではないかと思っています。
>>580 「量子力学の世界は可能世界論とつながる」とは、どういう意味ですか?
ルイス流可能主義を量子力学の多世界解釈で物理主義的に裏付けるという事でしょうか?
そのような議論を説得力のある形で展開できるとは思えないのですが。
もしかして『可能世界の哲学』ではそのような議論がされてるのですか?
582だが、挑発的で不正確な物言いが多かったので、もう一度永井さんの議論に触発され、また科学的知見を
とりいれて考えた世界のありようについて別の説明してみたい。
時間が止まり、空間が極度にゆがみ、ついに時空間が消滅したもの、そこに「完全なる可能世界」があらわれ
るいうのが見方だ。これはインフレーション宇宙論の原初状態というのと同一のものをさすだろう。そして決
してみることのできないブラックホールの最果てに、また同じものが出現すると予想している。
完全なる可能世界とは、境界のない無限のようなものかもしれない。そしてそこで生成される1つの有限の時
空間=1つの宇宙=<私>である。この、無限から有限のものが(おそらく確率的に)生成されるしくみ、それ
自体は物理学でやがて解明されるのだろう。しかしなおその場合も、そのうちのひとつの有限時空間=宇宙が、
なぜほかならぬ、この<私>なのであるかは、論理的に理解を超える。これは<私>=時空間の有限性に起因して
いる。その意味で、その完全なる可能世界=境界のない無限を神と示すのはふさわしいことなのかもしれない。
神を完全に知ることは論理的に不可能である。
この見方を最後に支える1点、それは、「この<私>にいつか死がおとづれるだろう」という確信である。言い
方をかえれば、「この<私>は神などではない」ということをわかっているということだ。
>>586 いいたいことはまったく違うのです。事実としてたった一つの世界しか開いていな
い(と感じる)<私>には、二つの世界を開くということの意味がわからないのです。
>>570のいうとおり、おそらく世界が二つに開くのは、時空がゆがんだときだと推測
えはできるのですが、現実の事実として<私>=時空はゆがんでいない(と感じる)か
ぎり、複数の世界が開けている状態を想像することが不可能なのです。いいかえれば
時空が極端にゆがんだとき実際に<私>がどうなるのかよくわからないのです。
なんだか、レス読んでると永井の独我論がいかにあいまいな表現によって
展開されているのかよくわかるよ。
たとえば”世界の開き”といった表現ひとつとっても、それで何をいっているのか
きちんと定義されてないんだろうね。
いずれにせよ、世界(あるいは宇宙)の選択の問題などは、<私>の存在を前提にし
ているわけだから、
(<私>が存在するのならば世界はどのようになっていなければならないのかという
)問題を展開発展させる前に、そもそも<私>の存在という事実があるのか、いなか
を一度きちんと議論するべきだと思うよ。
ということで、
やっぱり<私>の存在を言語の捏造物と考える?三浦の新刊待ちということで
サゲ
590追加
本当に完全なる可能世界=境界のない無限、つまり有限の諸宇宙が1つも発生していない
世界にはもちろんひとつの<私>もいません。時空は存在しません。繰り返しになりますが
宇宙=<私>=時空間です。一つの宇宙の誕生、それはまた完全なる可能世界が<私>に中心
化されることという言い方もできます。そして中心化される=時空の発生により、ゆがみ
のない時空では、可能世界のうちの一つだけが実現されるのです。もっともこの言い方も
正確ではありません。可能世界のうち1つだけが実現されているのが、まさに現在の時空間
なのです。そして時空がゆがめば、可能世界のうち複数の世界が同時に開けることは考え
られます。しかし、それがどういう状態なのかは想像できません。
ネタかと思ってたらマジレスだったのか…?
もしも真面目に書いているのなら、ここは一応永井スレなのだから、永井の
著作以外の知識があまりない人にもわかるように説明してくれませんかね。
今のままでは、ネタとしか思いようがないです。
マジレスだとしたら失礼な言い方で申し訳ないけど。
595 :
考える名無しさん:02/07/09 20:44
デンパだね
>>584で言っているのって、なんか正しいような気がしてきた。おれはアホか?
とくに時間のところ。実際、時間がさかのぼっているなんてかりにあったとして
どうやって知ることが出来るんだろうか。目の前で時間がさかのぼっているなん
て言い方が何を意味しているのか全くわからない。言葉の問題か?
かりに夢から覚めて昨日になっていたとしても、本当に昨日なのかということは
この<私>には知ることができないような気がする。
ひとつづつやっていこう。
まず、『<私>の存在の比類なさ』のP52からP53にある図だ。隣人を持たない<私>は他者を
予想している。しかし、それはあくまで予想しているだけだ。S1、S2とあるが、実際はS1
の世界だけが開けている。
このことから言えるのは、たとえS2(他者)が死んだ(消滅した)としても、それが何を意
味するのかはまったくわからないということです。気をつけなければならないのは、例え
ば実際の友人が死んだとかそういうことではないという点です。それはS1のなかのP1ので
きごとに過ぎない。他者が死んだという場合、全く違う次元の話をしているわけです。
そして、以上からわかるのは、この<私>が死ぬとはどういうことなのか結局この<私>には
わからないということです。
つーか、誰も死を体験したやつはいないんだから、死ぬということが
どういうことなのかわからないのは当然なんじゃねーの?
599 :
考える名無しさん:02/07/10 00:11
ブランショのパクりだな
あいかわらずレベル低い
597 つづきです。
このことから、また他者が生まれる(生成される)ということがどんなことなのかも
わかりません。そしてこの<私>が生まれたというのが本当のところどういうことなの
かもよくわかりません。
さて、ここで最終的な目標について示しておきます。問題意識は、現在の宇宙物理学
の知見と、永井さんの<私>の存在の議論をふまえて、世界のありようを予想してみよ
うということです。基本的認識はこうです。いまだかつて物理学は永井さんの議論で言う
<私>の存在の問題を議論の対象としたことはないように思えます。そして、世界のあ
りようを予想するに当たっては、物理学とともに<私>の存在の問題が決定的に重要で
あるとおもわれるということです。したがって、もしかしたらかつてかんがえられた
ことのないようなものを予想しようとしているのかもしれません。
話題はかわりますが、最初の議論でもわかるように、S1(=この<私>)は、本質的な
意味で認識の外部はもちません。しかしながらなぜかはわかりませんが、外部のこと
を予想(思考)することは出来るようです。
さて話を進めます。S2、S3・・・の存在を予想しているといいましたが、S1、S2,S3・・・を
見渡す視点と言うものを(実際にS1が認識する事はなくても)考える事は出来ます。
それをかりにGとします。永井さんの議論で「この<私>がなくなったとしても永井均は
永井均としてなんら変わりないであろう」というような話がでてきます。ここがまず
誤解をうけやすい第一の点です。この言い方はGの視点に立っています。この私がなく
なる(=死ぬ)というのはどういうことかは、とりあえずいまはGの視界からS1が消え
てなくなることとしておきます。永井さんの話で変わりないだろうといわれている永井
均とは、じつはこの<私>が生きている時にその存在を予想しているS2が開いている世
界の中のP1として永井均がいる事を予想しているものであって、議論されているのは
Gの視点から見てS1が消えたとしてもS2のなかのP1はそのままありつづけているという
ことを言っているわけです。別の観点から言いましょう。S2のなかにP1として永井均が
いることはあくまでS1の予想ですから、実際にはいない可能性もあります。いまS3以
降はないものとしますと、その場合、永井均というのは、S1の世界の中で「この<私>が
なぜか永井均なのである」といった場合の永井均しかいませんので、この<私>がなくな
ると永井均もなくなることになります。
>>600 悪いけどもう勘弁してくれないかな?
どうしてもやりたかったら別スレ立ててやってほしい。
>「この<私>がなくなったとしても永井均は
>永井均としてなんら変わりないであろう」というような話がでてきます。ここがまず
>誤解をうけやすい第一の点です。この言い方はGの視点に立っています。この私がなく
>なる(=死ぬ)というのはどういうことかは、とりあえずいまはGの視界からS1が消え
>てなくなることとしておきます。
この辺の話って、『転校生とブラック・ジャック』の議論を踏まえなくていいのかなあ?
『転校生』では、他に何の変化もなくこの<私>がいなくなる、なんてことが
そもそも本当に言えるのか、ということが問題になっているわけで。
それはいいとしても、<私>がいなくなること=他の視点から見て、その視界
から消えること、というのは、どうも意味が分かりにくいですが。
534−538の議論に共感を感じます。
まず「必然的な奇跡(=偶然)」は「丸い四角」に類する矛盾概念ではないでしょうか。
もう一つ、534さんとはむしろ逆に、三浦って最初から通俗的な意味で永井の軍門に下っているのではないでしょうか。
だって、語用論的観測効果によって説明されるべき事実がある、と思っているんでしょう?
そんなものは実はないのかもしれない、ということのが永井哲学の根本問題で、
そこのところを、みんな、読み取っていないように思われます。
『転ブラ』ではFが主役になりますが、
これからの永井批判はむしろF的な一般的可能世界論からEの直観を守る方向で展開すべきではないでしょうか。
いや、もともとそうだったのではないでしょうか。
永井はもともと言語ゲーム一元論者で、
独我論対言語ゲームの対立の次元を一ランク上げようとしただけでしょうから。
600です。
せっかく602さんが質問を下さっていますが、601さんのご意見もありますので、
602さんには申し訳ありませんがここにて中止することにします。私は、興味深
いながらもたしかに大きなナンセンスにしか見えない話(妄想)をしようとし
ていました。それは理解が極めて難しい話にならざるをえず、興味のない人に
はばかばかしくうっとおしいだけでしょう。601さんの気持ちは当然です。
2Chねるを利用しようと考えたのが間違っていたと思います。
ご迷惑をお掛け致しました。
604
すいません。責任を感じ、とりあえず602さんの根本的誤解だけを説明して
終わりにしておく事にします。「他の視点」ではありません。「Gの視点」
です。図示できないのが残念ですが、GとはS1,S2,S3・・・のいわば外部にあ
るものです。<私>がいなくなるということがそもそもいえるのかという疑
問はある確信をついています。<私>がかりにいなくなったとしても、それを
知りうるのはGの視点にたっているもののみです。ここは極めて重要なとこ
ろです。Gのような存在をSは予想できますが、Gの視点には実際には立てま
せん。
最後なのではしょって重要な事を言ってしまいます。Gとはなんでしょうか。
比喩的に言った方がわかりやすいでしょう。いわば神です。そして永井さん
が示した事は、われわれ(<私>)は神を決して知りえないということなのです。
606 :
考える名無しさん:02/07/11 11:20
600はもういいから、だれか、603の「異見」にコメントしてくださいよ。
こっちのほうが面白そうだだけど、ちょっとわけがわからなくなってきたので。
いや、おれは600にかなり興味を持っている。
もう少し説明して欲しい。
607さん。もう興味を持たないでください。
今後一切この話題をここで展開しないことを約束して、以下を発信します。
私は世界のありようについて妄想に妄想を重ねたギャグストーリーを、エピソードも含めて
すでに完成しています。最終的に得られた見解だけを示しておきます。
G(od) ー S(oul) 構造 = 原初宇宙 ー 島宇宙 構造
( 神 ー <私> 構造 ) (多宇宙)
( 可能世界 ー 中心化 構造 )
この恒等式がもたらす違和感の源泉は予想つきます。<私>という文字がもたらすイメージが
強烈に自由な思考を抑圧していることです。しかし、よくよく考えて見れば、強い支持を得
てきた物理学が示しているのは、まさにすべては物質で出来ているという認識ではなかった
でしょうか。
この見解は、いまだ誰もわかってはいないといわれている量子力学を理解するのに役立つ
とは思いますが、それ以外では、こんな見解を持っていたところで何の役にも立たないで
しょう。完全なギャグです。
しかし、ひょっとするとわれわれに喜びをもたらすことが出来るかもしれない見解が、こ
こから帰結されます。上記等式のとおり、哲学と物理学は繋がっています。一方での表現は
他方での表現に完全に置き換えることが出来ます。その喜びをもたらすかもしれない2つの
見解を、哲学側からの表現にて最後に示します。いや、その前に、礼儀として言っておかな
ければならないことがあります。「神はサイコロ遊びなどしない」そして「有限のほうが
無限よりもいい」(『物理学の果て』デビッド・リンドリーP327参照)と直感により述べた
アインシュタインは、本当に天才だったのです。では述べます。
「 我々は決して神の心を知ることは出来ない。
しかし神はサイコロ遊びなどしていないと強く信じることが出来る。 」
「 神にはひとかけらの自由もない。<私>には自由がある。 」
S.K
この妄想を、永井均さんと川本隆史さんに捧げます。
1回だけ約束を破ります。(イイカゲンな…)
物理学的内容に興味のある方は、物理版の以下のスレをのっとり記述してありますので
どうぞご覧下さい。わかりやすく書いたつもりです。
http://science.2ch.net/test/read.cgi/sci/1015342402/l50 11から14です。
ギャグストーリーのちょっとばかり長いシナリオは手書きにて仕上げてありますが(自由な
思考とワープロは相性悪いようです)、今後いかなる場所においてもそれを映像化しないこ
とに決めました。それを行うと、妄想に「取りつかれる」危険性があるからです。従って
これで終了です。
我々は、本当に大切なのは、仮にこの妄想が真実であったとしても、それをギャグとして笑
い飛ばせる心の余裕、自由であると思っています。
ストーリーのあらすじとしては608と今回のリンク先ということになると思いますが、それ以
前にも、質の高低は激しいですが、いくつかスポット予告編をちりばめてあります。どうぞ
お楽しみください。
我々は他社の存在を確信しています。
また、他者とのコミュニケーションが可能であることも確信しています。
お元気で。
S.K
うっかり前回わすれてしまいました。
この妄想をもう2人、S.W.ホーキングとR.ペンローズにも捧げます。
今日テレビ神奈川でやってた『オープン・ユア・アイズ』って映画見た人いる?
夢、記憶、ほんとうの人生・・・。
「これは夢だよ」「目を覚ましたい!」「君など一瞬にして消せるんだぞ」
「脇役は今必要ない」「もう一度夢を見るかね?」「これは現実だ!」
「目が覚めたら君は未来で普通に生きてる」「大丈夫よ、目を覚まして」
永井が見たら喜びそうなおもしろい映画でした。
永井=電波ゆんゆんということで結論がでたようです。
612 :
考える名無しさん:02/07/13 00:42
おいおい。『翔太』なんて最良の入門書じゃないか。
613 :
考える名無しさん:02/07/13 05:48
興味ないかもしんないけど一応。
小説家の保坂和志のHPで野矢茂樹と保坂の対談が読めるよ
リンクの貼り方しらんので興味ある人さがしてちょ
614 :
考える名無しさん:02/07/13 11:43
>>603 基本的には賛成です。
永井の独在論は、ちょうどカントの超越論的観念論が初版発行当時通常の経験
的観念論の一種だと誤解されたように、根本的に誤解されていると思います。
例えば610の映画(見ていません)や、その前に何度も出てきた人が言って
いることもそうですが、そういう種類のことの「不可能性」こそが彼のテーマ
なのに、誰もが彼が苦労してこれこれは「現実」成立のかくかくの条件ゆえに
不可能だという議論を展開すると、あたかもそのこれこれを主張してるかのよう
に取ってしまうのです。永井自身そのことに何度も警告を発しているのにです。
ちょとと前に誰かが「単なる哲学」というようなことを言っていましたが、
まさに単なる哲学として理解する能力が読者に欠けているように思われます。
自分で立てた問いを自分で否定していく「純粋理性批判」がそれ自体どんなに面
白い本か分かる人が少ないように。
615 :
考える名無しさん:02/07/13 12:50
>>600 僕も完全に同じ意見です。(もうすでに読んでいてもらっているとは思いますが、笑)
妄想が意外と真実だったりすることも無いとは言えませんよね。
僕も光子の奇妙な振る舞いについては考えるところがありました。
90年代前後の世界の物理学者がぶっとんだんでしたよね、確か。
平たく極端に言うと
「超ミクロの世界では小さなひかりのつぶは心をもっている」
じゃなかったでしたっけ、どちらの実験結果を知りたいかによってきちんと
結果を振り分けてくれるという。
インフレーション理論にしてもそうです。ビッグバン後一秒の何分の一かの時間でもうかなりの
宇宙が広がっちゃってたのではないでしょうか。
その時広がった宇宙の果てのその時出た光が150億年たってもまだ地球に
届いていない、という。 まさに宇宙は「一瞬にして」広がった。
話は変わりますが、僕の目の前に究極の選択がある。AかBか。僕は結局Aを選んでしまった。
しかし実は宇宙はBを選んだ僕もどこかでか或いは巻き戻してかちゃんと実験
しているんじゃないかと。
不確定性原理ですよね。多重世界は最近の物理学でもよく言われてるというし。
哲学がわかって物理学もわかる人は貴重だと思います。
最後と言わずにどんどん書いて教えて下さい。
>>615 他者とつながったことがわかり、うれしくなってもう一度約束破ってしまいます。
(この辺がいい加減さの真骨頂です)
実は私は、一部の柔軟な考えをもった物理学者(ペンローズのような)が、当然より武装し
た形で、私の妄想と同じようなものに到達しつつある、あるいはすでに到達していることを予感
しています。(彼らは知的探求のためには、どんなアクロバティックな思考も辞さないです
から。それは見事なものです。)
しかしながら、すでに述べたように、それは決して検証(もっと強い言葉で言えば証明)で
きないでしょう。喜ばしい(と思っているのですが)ことに、ゲーデルもどこまでいっても
正しいのです。(もっとも、私は反証主義を非難しているわけではまったくありません。反
証主義は、我々は神ではないという認識において、なお最大限の思考の自由を擁護するため
の方法だと思います。)
しかしながら、物理学者の権力は強大で、油断なりません。もし、そやつが妄想に取り付か
れ、「これこそ真実だ」などと声高に叫び出したら、ぜひこう言ってやりましょう。
「我々は神の心を知ることができないのに、なぜ断言などする必要があるのだ?」
永井と関係ない話はよそでやってくれ。頼むから。
>>615,616
おまえらマジで迷惑なんだよ。いい気になって住み着いてんじゃねーよ。
物理学を持ち出す奴はもれなくスレ違い。そういう「貴重」な議論はよそでやれ。
>>616 >実は私は、一部の柔軟な考えをもった物理学者(ペンローズのような)が、当然より武装し
>た形で、私の妄想と同じようなものに到達しつつある、あるいはすでに到達していることを予感
>しています。(彼らは知的探求のためには、どんなアクロバティックな思考も辞さないです
>から。それは見事なものです。)
ニューサイエンティストのみならず先端物理学者ももうそこまで来てますか。
こういう柔軟な考え方も必要。
常にアンテナ張り巡らせてないと進歩がないですからね。
11次元論や超弦理論は出ては来ない。
「 神にはひとかけらの自由もない。<私>には自由がある。 」
これは本当に名言です。深い。
この意味を理解できた者は断言だってしていいんじゃないですか。
ただ<私>は物理法則の埒外にあるという意味でしょう。
なんかもったいぶって書くことが「考え」の深さを表しているという
傾向は困ったものです。
これも永井の影響なのでしょうか。
三浦
永井均といえば、現代には珍しい「職人哲学者」である。専門的テクニック
を駆使する人という意味ではない。反対に彼の哲学はどちらかというと非分
析的である。知性より感性で掴んだのっぴきならない世界観の肌合いを尊重
する、昔気質の人生職人なのである。
永井のキーワードは「哲学的感度」だ。高感度の哲学アンテナを周囲にめ
ぐらし、微妙な神秘や謎の感触を説得的に提示すること、それが課題である。
これを果たしていない哲学書は、どんな見事な論証を積み重ねていても失格
だ。たとえば永井は、デレク・パーフィット著『理由と人格』(勁草書房)
という七百頁を超える体系的哲学書を書評して「私の年来の問いには答えて
いない。……他の多くの哲学書と同様、問いの存在に対する感度が著しく鈍
い」と一蹴している
三浦
先決めした特定のパースペクティブからの問題意識を持たないからといって
苦情を言うのはむろんフェアでなかろう。しかし、パーフィットのあの名著
にすら断じて満足しない頑固職人が日本の哲学界にいるというのは重要なこ
とだ。そしてさらに重要なことに、そんな頑固職人をも感服させる哲学作品
が、実は現代日本に豊富に存在していたらしいのだ。
それはなんと、藤子・F・不二雄や諸星大二郎のマンガだというのである。
三浦
(中略)
感度は哲学の必要条件ではあっても十分条件ではない。感度という主観的能
力は本来、詩や芸術や骨董の領分であって、哲学の本質は論証であろう。謎
への感性のみを存分敷衍できるマンガ芸術を、永井が哲学として過大評価し
ているように思えてならないのだ。「真の」哲学とは世の哲学者が論文で述
べるようなものではない、マンガや子どもの科白の中に光るものこそ本物な
のだ、といったただでさえ口当たりよいアマチュアリズム礼賛が、哲学初心
の読者の琴線に触れるとすると、由々しきことではなかろうか。
三浦
客観的論証よりも苦吟や詠嘆の断片を然るべき構えで仄めかすことが本当
に深い哲学なのだと思い込むいわば哲学芸道観は、すでにいやというほど
日本に広まっている。「二兎を追う」ことに紛れもなく成功したきわめて
魅力的啓蒙的な本書であるからこそ、哲学という営みへの安易なイメージの
流布に寄与してはいまいかという危惧を、一哲学徒として抱かされた次第で
ある。(了)
625 :
考える名無しさん:02/07/13 19:44
600は自分の議論の批判対象がこのスレでの自分の振るまいに
そのまま当て嵌まる典型だね。言ってもムダだけど。よくあることだ
626 :
考える名無しさん:02/07/13 19:50
基本的に三浦のその文だけにかんしては賛成。
その弊害は、このスレはまあまあましだけど、
鉄版にプチ永井のこどき哲学感で他人の哲学感を
平気で一刀両断する輩は簇生しつづけてるな
627 :
Kurihara:02/07/13 23:45
全くその通りですね。
三浦の一読者として、とりあえず三浦にいいたい。
三浦は優秀なのにどうでもいいことにこだわっている。
永井の「マンガは哲学する」なんてどうでもいいでしょ。あんなのもご愛嬌だ。
永井は漫画が本質的に絵だということに関心がない。そんなの、
言ってみれば、音楽はまず音だということをわからないで
歌詞がどうのこうのだけ言っている音楽評論みたいなものだ。くだらない。
問題はだ。三浦の語用論からの永井批判が永井批判になっていないということだ。
どういうことか。つまり、三浦の言っている事はまったく正しいからだ。
いや、三浦の体系での精緻な議論は永井など寄せ付けないだろう。
しかしだ。それが永井批判になっていないということの致命的な意味を三浦は考えるべきだ。
三浦は本気で、言語哲学が体系内で完結すると思っているのか?もちろん論考でなく
言語ゲーム的なものの体系だぞ。不完全性定理があるのを知りながらだ。
別に体系内を精緻化するのが悪いわけじゃない。立派な業績だ。
永井は感性の哲学だと喝破したのも正しい。永井は語りえぬものを語ろうともしていうからだ。
だから、三浦は永井にちょっかいなど出す事はない。
>三浦は本気で、言語哲学が体系内で完結すると思っているのか?
三浦がいつどこでそんなこといったの?
妄想を根拠に相手を批判するのはやめたほうがいいと思うよ。
だいたい当人からして、
>渡辺‐永井‐ネーゲル‐ロバーツ式に「超難問」を真面目に取る人々がい
>る 限り、私も、それが本物の問いである可能性に対しては敏感でありつづけよう
>とは思 います。しかしいまのところは、ネーゲルが嘆くような、現実にこの問
>いに悩まされ る哲学者がほとんどいないという状態はまったく正当だと私は思う
>のであり、それが なぜ正当かを理路整然と述べる自信も私にはあるのです。
といってるんだから、いちゃもん付けるのは新刊がでてからでもいいじゃないの。
>永井は感性の哲学だと喝破したのも正しい。永井は語りえぬものを語ろうともしていうからだ。
>だから、三浦は永井にちょっかいなど出す事はない。
なんかいかにも永井読者って感じの反応だよね。
永井自身 パーフィットを「私の年来の問いには答えて
いない。……他の多くの哲学書と同様、問いの存在に対する感度が著しく鈍
い」なんて一方的にけちつけながら、他方で(永井の独我論に)「問題を感じない人ははいって
こないでほしい」なんて抜かすんだからたまりませんね。
630 :
考える名無しさん:02/07/14 05:44
>>628 バカ?
自分を棚上げするのは永井ヲタの得意技
631 :
考える名無しさん:02/07/14 06:49
永井か。
そんなやつ、いたな。
7年ほど前、よく読んでいた。
あの頃、かなり多産だったような印象がある。7〜8冊位、読んだ記憶がある。
「自分」が気になっていたのだな、私も。
しかし、「自分系」の哲学書はいろいろあるが、今の私は、それをだいぶ
警戒するようになった。とんでもないものも多いからだ。
永井は「純粋な奴」という印象を持った。それを読んでいた私も、多分、
「純粋な自分」にあこがれていたのだろう。
そういう「純粋な自分への欲望」をもって読むと、たしかに惹きつけられる
文章ではあった。まあ「欲望の鏡としての書物」なのだと考える。
今は、読まない。どっかチガウと思うようになったからだ。
この手の哲学で、今一番私がイケテルと思うのは、『中島義道』だ。
永井は、どうもイケテナイ。
コイツは生きるということをナンダト考えているのだろう。
生きることのコアが「純粋」の相対化にあると思うようになったので、
読まなくなった。
その点、中島は筋金入りだ。今の私はこちらの方を薦める。
もうひとつは、一見、内容は違っても、精紳分析(ラカン、他)や社会学(マートン、他)
を経由して、この手の「哲学」は読んだ方がよい。
深さと懐疑の力が倍増するからだ。
皆様はどうお考えでしょうか。
632 :
考える名無しさん:02/07/14 07:01
>>631 同意
でもこのスレでそれいっても無駄
631は永井の独我論をわかってないっていわれるよ
633 :
考える名無しさん:02/07/14 07:28
>632
631です。ありがとうございます。
たしかに独我論の手前で純粋の相対化へと、私は撤退してしまったのだと思う。
今一度、独我論に向き合ってみることへの誘惑に、チトかられました。
独我論入門の、よい入口をアドバイスいただければ幸いです。
634 :
馬鹿であらん:02/07/14 12:42
>>632
「同意」ということに同意。
しかし、永井の哲学そのものは、独我論とはとくに関係ないと思う。
むしろ、<今>とか、特に<現実>とかいった、いわば実在する指標詞に関する哲学的考察だと思う。
何度か名まえが出たことがあるが、根源的にライプニッツ的な哲学だと思う。
>>631(633)
ゆえに、申し訳ないが、まったく的外れ。中島と永井には哲学的関心において一点の共通性もない。
たぶん、関係ない文脈で勝手によんでいたのだろう。若き日の麗しい読書ですが。
>>621
しかし、永井が「哲学的感度」なんて言葉を『マン哲』以外で使っているの見たことないよ。
>>603(614)
おそらくは、そうだと思いますよ。哲学的に読めば、そうとしか読めない。
だからまあ、言ってみれば、永井ははじめから三浦なんですよね。少なくとも意図において。
『転プラ』では成果におてもそうです。それがなぜか読み取られていないんだよなあ。不思議。
私自身はその意味で彼にもともと批判的でしたし、今はなおさらそうです。
わかってもらえるでしょうか。
ところで、このスレでは非常に高度な指摘が何度かなされているのに、
それらにレスがつくことはほとんどなく、馬鹿が馬鹿なことを言うとレスが続きますね。
キナコとか蝉とかはどうしてるのかなあ。中田さんもね。
願わくは、私が、馬鹿であらんことを!
>>629 すまん。三浦氏については完全に誤解していた。申し訳ないことをした。
だが、ちょっといっておきたいことがある。
永井は否定しているが、竹田氏が言ったことは、指摘そのものとしては正しい。
「語りえぬもの」の存在は、形式的には<私>の語の自己言及性からきている。
それは「証明できぬもの」を自己言及性によりしめした不完全性定理と、論理
構造的にまったく同じだ。
選択公理が真であろうと偽であろうと自然数論が矛盾しないのと同様、<他者>
がいようといまいと言語哲学は矛盾しない。
ヒルベルトは怒りまくったらしいが、ゲーデル自身は自ら示した結果について
どう思っていたか。悲観どころか、数学は人間理性が理解できるほどちゃちな
ものではないことがわかったと喜んだのだ。
誤解をさせないよう、不完全性定理の内容を正確に示そう。それは、自然数論の
無矛盾性を自然数論内部で証明できないということだ。
ゲーデルが神の存在論に行ってしまったのは何故か。
もちろん、そんなものはうそっぱちだ。証明できるはずがない。それはゲーデル
自身が示したことだ。
永井とゲーデルは同じなのだ。「語りえぬもの(証明できぬもの)」を「語る
(証明する)」ことをしようとしたのだ。
もちろん、そんなの大笑いだ。結果はわかりきっている。まったくの無駄骨だ。
しかし無意味ではない。なぜなら、その場所の存在によってわれわれは生かされ
ているからだ。
もっとも、すぐわかるとおり、こういったことはいってみれば宗教的なものだ。
だからほかのひとは賛同する必要はまったくないだろう。
私の身体と他のさまざまな物との関係は、絶対的な<ここ>と<そこ>との関係であり、
距離の原点と距離との関係なのだ。
それは、私の知覚能力がみずからを局在化したその場なのである。
では、この私の知覚能力と私の身体とが客観的な共変関係で結ばれているのではないとしたら、
そこにはいったいどういう関係があるのか。
(略)
そうだとすると、私の身体と私とのあいだには、
機械的因果性のさまざまな規則的対応関係以上の何かがあることになるのだろうか。
そこにあるのは、私の身体の身体自身に対するある関係であって、
これが私の身体を私と物との絆たらしめているのである。
(略)
身体は「感ずる物」、「主体的客体」なのだ、と。
何となくコピペ。
コピペなのでsage。
>>635 >自然数論の無矛盾性を自然数論内部で証明できないということだ。
うーん、半可通な感じが・・・。
このスレかなり盛況のようですね。
スレ立てたかいがありました。
でも、お願いだからスレの主旨とまったく関係ない話だけは他でやってくださいね。
>519
>そして中田さんが書く「<子供>のための哲学」は、永井の問題
>と全く違っているはずですし、論の展開も全くちがうものとなるのでしょう。それをこの場
>で検討するのは可能な事だと思います。残念ながら中田さんの書き込みは永井の著作に引き
>ずられて書いてあるので、わたしは明確なかたちでその問題がなんなのか認識する事ができ
>ませんでした。
たしかに微妙に(もしくは大きく)ずれてはいるだろうね。
僕も自分の問題がなんなのかまだよくわかってないけど。
>215ぐらいまでは自分の問題を永井さんの用語を使って思考してだけかもしれない。
ただ>251ぐらいからは永井さんの問題を永井さんに寄り添って
ちゃんと考えているとは思うよ。
639 :
考える名無しさん:02/07/15 00:05
>中田
このスレに参加するためにはどの本を読んでいるのが最低条件ですか?
『転校生とブラックジャック』とあとは?
>439
>ぼくは中田さんとも他の多くの人とも違って、『転ブラ』を、そして
>『転ブラ』だけを(!)、きわめて高く評価しています。
いや僕は「転ブラ」を低く評価するなんて言ってないよ。
「転ブラ」よりは「なぜ悪いことはしてはいけないのか」の議論のほう
が僕的にはおもしろい、とは言った記憶はあるけど。
確かに「転ブラ」にはすごいところがあると思うよ。
(やっと最近それを感じることができるようになってきた。)
あんなふうに議論を展開されると普通の哲学書じゃ物足りなくなる感じてしまう。
もしかしたら「転ブラ」は歴史に残る哲学書の名著かも。
この本の精神を真に受け継いだ思考の伝統が制度的に築かれるのであれば。
>日本の哲学者は、日本で独自に始まる哲学を、自分の目で評価し内在的
>に批評する能力と気概が、誰ひとりないみたい。
>外国の後追いばかりで、嘆かわしいことです。
確かに嘆かわしいことです。ただ嘆いてばかりではしょうがないので、
蝉風呂さんみたいな若い人ががんばってくださいよ。(笑)
つーか日本の外国崇拝どうにかなりませんか(笑)
>639
基本的に<私>だけを論じるのであれば「転ブラ」と
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」ぐらいで十分じゃないのかな。
永井さんも今のところこれらの本で展開した議論が思考の頂点だと
考えていると思うし。しかし「転ブラ」はかなり高度だよ。マジで。
がんばって読んでみてください。
ただ永井さんの思考の遍歴を知っておくことも有益だとは思う。
直接議論とは関係ないかもしれないけど。>404で永井哲学を
前期、中期、後期と区切ってみたので参考にしてください。
(まだ「マン哲」は読んでないよ、ごめん(笑)。いつも図書館から
貸し出されていて読めない)
>634
>しかし、永井の哲学そのものは、独我論とはとくに関係ないと思う。
>むしろ、<今>とか、特に<現実>とかいった、いわば実在する指標詞に関する哲学的考察だと思う。
>何度か名まえが出たことがあるが、根源的にライプニッツ的な哲学だと思う。
こうゆう整理の仕方っていいのかな。こんな整理の仕方されると
「なぜ悪いことはしてはいけないのか」の議論も考慮に入れてよ、と言いたくなる。
基本的にこのような整理の仕方は「転ブラ」だけを念頭に入れている。
そうそう、前から思っていたんだけど、どうもみんなの関心が「転ブラ」か
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」のどちらか一方に片寄っている気がしてならないだよね。
テクニカルで高度な議論が好きな玄人っぽい人は「転ブラ」を好み、素人っぽい人は
「なぜ悪いことをしてはいけないのか」を好み、という構図だと思う。
僕は両方の著作を考慮に入れないと永井哲学が味わえない、という立場です。
>キナコとか蝉とかはどうしてるのかなあ。中田さんもね。
暑さにバテてます。夏は哲学する気になれない(笑)
僕の問題関心として一言。
大庭さんが専修大学紀要の「生田哲学」とかで、永井さんを
「独在真理教」と言ってなじっているのがどうも気になる。
ここに重要な哲学的問題が隠されているのではないか。
大庭さんがいつまでも永井さんを理解しない(というよりそもそも理解したく
ないのかもしれない)のは、ある意味でまっとうで全然おかしいことではない。
このへんはたぶん永井さん本人では解きほぐしえない問題かもしれない。
どうして大庭さんは独在論を理解できないのだろう?
もしかしたら大庭さんこそが永井さんの哲学の本質を
よく理解しているのかもしれない。
戯れに書いてみました。不明瞭な文章ですけど、なにかこのことについて
思う人がいましたらレスください。(何も思うところがなかったら、どうぞ
無視してください)
644 :
考える名無しさん:02/07/15 01:08
>>637 おっしゃるとおり見事に半可通です。まったくもって面目ない。
間違っている可能性おおいにありです。
ひとつ誤解されるかなとも思ったので、書いて終わりにします。
ゲーデルが取り付かれてしまったのは、大切な友人を失ったショックも大きく
影響していると言われています。私は、そういうときはできればどうにかした
いと思っています。
宗教的といったのは次のような意味です。
静かでささやかな祈りであるのなら
賛同するのではなく
尊重したいと思う
わざわざ邪魔することもなかろう
言葉は尽きました。
ところで、三浦という人はどんなことを述べていて、永井の議論とどういう
関係があるんですか?暇な人がいたら書いてくだせい。
>621−624の文章は、指摘自体は正当だと思うけど、永井の(態度とかではなく)
議論そのものに対する批判ではないことも確かだと思うので。
>指摘自体は正当だと思う
「正当だと思う」は撤回。「わからなくもない」にしときます。
>>614 >>534 ありがとうございます。603です。
少しは話が通じそうな人もいるので、続けてみます。
できたら、603を読んでから読んでください。
前提:<>という記号はハイデガーやデリダ抹消記号(×)の代わりであった
という事実からも分かるように、「現実世界に存在しないもの」を表す記号でした。
永井氏は処女作以来、一貫して<私>が理解可能に見えて実は存在(実在)しえない
という方向の議論の可能性を探求した。この線で、ヴィトゲンシュタインの水準を
越える独我論論駁をするのが彼の目標だろう。『なぜ悪いこと』では、自分の目
標は独在論批判であるとはっきり書いるではないか。僕はずとそう思って読んできた。
ところが、(大庭氏にせよ、三浦氏にせよ、その他の有象無象にせいよ)みな、イデ
オロギー的に逆方向の解釈をしてる。いわば問題提起のほう主張と取ってしまっ
ているのです。
という理解を前提にして僕の永井批判を述べます。まったく素朴な議論(ゲーデルが
どうしたとかそんな難しい話はまったくない)、読んでかんがえてださい。
1、Fの可能世界論に基づく「どこまでも概念化されてしまう」論は間違っている。
現実が概念化されないのと同様、<私>にもけっして概念化されない直観的内容の核
がある。現にある。これに固執できる。それが<私>ということの意味であるはずだ。
2、DやGの統覚理論も間違っている。<私>はまったくぼんやりしていても<私>
である。物理的連続性はもちろん、心理的連続性などもいらない。そもそも統覚によ
って超越論的に構成された客観世界に位置を持つ必要がない。<私>は存在するかし
ないかで、だれであるかは、全くの偶然でよい。それでも同じ<私>であることがで
きる。それゆえ、私の死後に私の記憶を全くもたない<私>が生じることは考えられる。
もちろん生じないことも。
以上の二点を、僕は永井批判として、強く主張したい。
そして、これが永井批判であるという点も、強く主張したい。
173というのは単なる打ち間違いでせす。
(中田さん、ごめんなさい。)
でも、打ち間違いのついでに、中田さんの意見も聞きたいな。
もうひとつ、関連することを思い出した。
629あたりで引用されていた「問題を感じない人ははいってこないでほしい」
という発言も、少なくとも『転ブラ』ではE君に向かって言われていることですよね?
つまり、E君のように、<私>は存在するに決まっている(哲学的議論は不要?)
と感じる人が「問題を感じない人」なんですよね?
そうとれば、そこで引用されていることなど完全に一貫しているように思えますが?
>>648 でも永井はまさに、そんなことが言えているのかどうか、ということを問題にしてるんでしょ?
「<私>にもけっして概念化されない直観的内容の核がある」という言葉は
どんな「私」にも当てはまる一般論としてしか理解されないのではないか。
それ以上のことは言えないのではないか。
よってそれは存在しないと言わざるをえないのではないか?
逆に、なぜ永井は「どんな「私」にも当てはまる一般論としてしか理解されない
のではないか」なんてことを言い出すのか、というのが疑問かもしれませんな。
他人が理解したとか何とか言い出しても、「理解されるはずはない。理解したと
思っている人は、誤解しているにすぎない」と言い続けて、かまわないんじゃ
ないか。そうすれば、概念化だの何だのというややこしい話にならないんじゃないか。
(同時に、話がそれ以上進まなくなっちゃうけど)
つまり、『転校生』で言えばC君みたいな奴は、「問題を理解していない奴」
として無視・追放すればいいんじゃないかと(w
そうできない理由が、なにかあるんだろうか。
うーん、なんか651に書いたことは 648さんの問題提起を矮小化してるような気もしてきた。
良かったら無視してください。もうわけわからん。
少なくとも永井解釈という転で648(603)氏と同意見です。
そして私も、できれば、614を読んでから読んでください。
思うに、問題提起の方を中心にした『<子ども>のための』がベストセラーに
なってしまったので、哲学的議論の方向が誤解されたのではないでしょうか。
彼は初めから哲学的にパラロギスムスかあるいはアンチノミーの提示がしたかったのでしょうから、
大庭や三浦のような議論が「足手まとい」に感じられるのは当然だと思いますね。
ただし、651における批判には態度保留。
もちろん分かっていると思いますが、「それもまた・・・」というのが彼の常に言いたいことで、
言語を用いる限り、ある意味ではやはり・・・
いかん、術中にはまってしまったか?
うーん、ポイントはやはり「言語」の位置づけかもね。
655 :
コギャル&中高生:02/07/18 11:25
訂正:上で「651における批判」というのは「648における批判」の間違いです。
>>609 物理版追加(15,16) オソマツカンベン。
658 :
考える名無しさん:02/07/18 19:55
>>648 批判の1は特に永井批判にになっていないと思いますがどうでしょうか。
それは永井が言おうとしていることそのままのように思います。
2についてはよく意味がわかりません。「私の死後に私の記憶を全くもたない<私>が生じる」
というのはどういう意味でしょうか。
>>658 断じて否。
永井がどこでそのようなことを「言おうとして」いますか。
彼は、初期以来あ「どこまでも概念化されてしまう」ということを、
手をかえ品をかえ、あれほどしつこく言い続けているではありませんか。
彼が一度だって、決して概念化されない直観内容の核がある、
なんて言ったことがありますか。
それは常に否定されているではないですか。
654さんの言うような事情もあるとは思いますが、
それにしても、なぜ658さんのような誤解がこれほど蔓延してしまったのか、
とても不思議です。
2についてはまったく文字通りです。
>>654 たしかに問題は言語の位置づけかもしれません。
言語で語る限りどこまでも概念化される、
という話は、
言語哲学(至上主義)的偏見にすぎないのではないでしょうか。
その点で、永井も大庭も三浦も、実は同じ穴のムジナなのですよ。
661 :
考える名無しさん:02/07/18 21:42
>>660 じゃあ あなたは違うのですか
オルタナティブを示さず
「永井も大庭も三浦も、実は同じ穴のムジナなのですよ。」
の表現は納得できません。
>大庭や三浦のような議論が「足手まとい」に感じられるのは当然
>だと思いますね。
へえ、大庭の的外れな批判に対しては「足手まとい」という表現を
していたけど、永井が三浦の批判に対しても「足手まとい」に感じているとい
うのは初耳だな。
614さんの妄想じゃなきゃいいけどね。
>もちろん分かっていると思いますが、「それもまた・・・」というのが彼の常に言いたいことで、
>言語を用いる限り、ある意味ではやはり・・・
>いかん、術中にはまってしまったか?
>うーん、ポイントはやはり「言語」の位置づけかもね。
ほのめかしはもうこりごり。
言いたいことがあるならはっきりと書いてほしいよ。
>>659 >654さんの言うような事情もあるとは思いますが、
??654が614さんなんでしょう?
664 :
考える名無しさん:02/07/18 22:42
このスレは『ほのめかし』でもってるようなもんでしょ
665 :
考える名無しさん:02/07/20 17:45
614ですが、654と656は書きましたが、659,660は書いていません。
>>662
言いたいことははっきりと、というのは、おっしゃる通りでだと思います。
「ほのめかし」たつもりはなく、単に途中でよくわからなくなって、
いい加減に打ち切ってしまっただけです。申し訳ありませんでした。
よく考えて、機会があればまた書きます。
しかし「足手まとい」はむしろ三浦の方にこそあてはまるのではないでしょうか。
大庭は、多くの点で単に間違ったことを言っていると思いますが、
三浦は、べつに間違っているわけではいので、
単にアンチノミーの一方を語るだけの人のようなもので、
なおさら余計でしょから。
>>659、660
内容からみて、悪意ではなく、単なる間違いだと思われますが、迷惑ですよ。
>>609 物理版おまけ(17) よかったらどうぞ。ほんとにさらば。
668 :
603=648=649=650:02/07/21 17:30
659と660は僕です。ミスばかりして混乱させて、スマリ。
>>661 もちろん、僕は違いますよ。
プラトンもデカルトもカントもハイデガーも、
中島義道も池田晶子も、道元も親鸞も、加護も辻も、
みんな違うと思いますけど。
オルタナティヴは、「その点で」と極めて明確に示されているじゃありませんか。
ところで皆さん、2000年5月に出た『世界』の別冊
「この本を読もう」というのを読んでますか。
永井が「哲学への懐疑」という文章を書いていますけど、
これ、必読。これを読まずして永井を論ずることなかれ。
永井がムジナであることがはっきりわかります。
669 :
考える名無しさん:02/07/21 18:27
アップお願い
>>609 スマン。間違い発見につきアワテテ修正。コレニテ。
>>642やその他の皆様
むしろ『これがニーチェだ』の議論も考慮に入れてよ、と言いたくなるんだけど。
もしこの「第三空間」の意義を考慮に入れなければ、独我論でじゅうぶんでしょうから。
だから『転ブラ』派と『なぜ悪』派という分類は、どう考えても不適切。
『翔太』の最終章と『これがニーチェだ』がなければ、永井哲学なんて無価値だと思うから。
『転ブラ』は、確かにテクニカルに高度な議論でもありますが、確実にこれらと繋がる手応えがあるんだ。
そういう観点から読まないでも、永井に興味が持てるということ自体が、理解しがたいよ。
>671
>むしろ『これがニーチェだ』の議論も考慮に入れてよ、と言いたくなるんだけど。
>もしこの「第三空間」の意義を考慮に入れなければ、独我論でじゅうぶんでしょうから。
>だから『転ブラ』派と『なぜ悪』派という分類は、どう考えても不適切。
>『翔太』の最終章と『これがニーチェだ』がなければ、永井哲学なんて無価値だと思うから。
>『転ブラ』は、確かにテクニカルに高度な議論でもありますが、確実にこれらと繋がる手応えがあるんだ。
確実につながる手ごたえは具体的にはどのようなものでしょうか?
それなら僕は「子供のための哲学対話」の「不運」の問題とかも考慮に入れたいな。
「転ブラ」を僕なりに整理してみたいと思います。
間違いがあったり、修正が必要だと感じる人はぜひ指摘してください。
F哲学 様相の問題
D哲学 規則の問題
G哲学 時間の問題
C哲学とE哲学 生の問題
最後の生の問題だけ解説してみたいと思います。
どうもC君とE君の対立は、そもそも自分や他人の人生に
対する根本的な態度の食い違いだと思うのだけどどうだろう。
E君がレポートで、C君とは友達関係が疎遠になってしまった、というのは
事実を的確に言い表していると思う。
E君的な人同士、C君的な人同士は友達になれるけど、E君とC君が真に友達となるのは
難しいのではないか。
(というのが僕のわずかな人生経験から引き出される帰結だけどどうでしょう)
どうゆう人生行路を経てE君的な人間かC君的な人間になるかはわからないけど。
もしかしたらそもそも生まれの問題なのかな。
今のところ僕の生は<私>が存在するのか、<<私>>しか存在しないのか
決着がつけられないけど、そもそもこの二種類の生に対する態度が
存在することだけは確かではないか。
(「態度」って言葉しか今のところは思いつかないな)
独在論の議論は、理論と実践が不可分に結びついた議論ではないだろうか。
>648
僕の拙い感想を述べてみることにします。
>。『なぜ悪いこと』では、自分の目
>標は独在論批判であるとはっきり書いるではないか。
たぶん永井さんが考える独在論批判って、603さんが考える
独在論批判と違うんじゃないかな。
1の批判はやっぱり、E君的観点からF君やC君を批判して
いるようにしか見えない(僕には)。で、永井さんはE君的観点を保持したまま
(転ブラで)議論を進めているじゃないの?
永井さんが考える独在論批判は、僕の妄想によると(笑)
「転ブラ」で議論しているような問題そのものが問題でならなくなる地点を
見つけ出すことじゃないのかな。
そのためには、まず問題内部の構造自体を緻密に見極めよう
としているところじゃないのかな、と僕は考える。
>>672 手応えだから、あまり「具体的」には言えませんが、強いて言えば、
中心化された現実世界の<現実>性は概念化もされなければ確率的考慮の対象にもならない、
といったことかな。
これがすなわち第三空間や存在者の存在の問題に繋がっていると思う。
いくつかの宗教を経由しましたが、結局、宗教というものを捨てて、
自分の人生について、この方向で考えていくほかはない、と考えるにいたった。
たしかに、『哲学対話』の、特に真ん中あたりの考察も、いろいろと参考になる。
哲学は、『転ブラ』の議論でさえも、やはり人生の問題につきると思う。
少なくとも素人にとっては、それ以外にはありえないよ。
自分の人生をどう受けとめたらよいのか、結局、それだけではないでしょうか。
>>660 ムジナは三浦だけだと思うよ。
一般に大庭さんの評価が低いようですが、彼の全体を考慮に入れれば、彼は彼で、ちゃんとしたことを言っていると思う。
それにひきかえ三浦は「問題を感じていない」。独在論とか<私>の問題ではなく、そもそもの、人生の問題を。
やむにやまれず考え出された、どんな哲学的議論についても、ただその議論の論理についてだけ議論する奴が、必ず出てくる。
そうして、哲学は死んでいくのではないでしょうか。いつの時代にも。
言い足りない感じがするので、もう一言だけ。これが最後です。
ぼくはあるとき自分の悪を(罪をと言ってよい)自覚することで、
自分がまったく無価値であることにき気づき、自分というものを初めて透明に捉え、
世界や他者をあるがままに受け入れられる、と感じた時があった。
人生の本当の意味がやっとわかった、と思った。
それが自分をもう一段深いところで美化するための嘘かもしれないと気づかされたのは、
永井さんの『これがニーチェだ』を読んだ時だった。
ショックだった。
そのときから、以前から気にはなっていた『<子ども>のための哲学』などの独在をめぐる
議論の本当の意味が初めて理解できるようになった。
「信者」という言葉を悪い意味で使う人が多いが、
少なくとも自己に関する真実は、何かを信じる(信じざるを得ない体験をする)
ことによってしか絶対に見えてこない。
そういう体験を求めようとしない人にとって、哲学とはいったい何なのですか?
679 :
考える名無しさん:02/07/27 15:35
>>621-624 永井の印象が全く違って驚いた。
どちらかというと、「尋常ならざる論理癖」という池田晶子の悪口の方が
当たってんじゃないか。
三浦という人はどういう人か知らないが、その意味で、せっかくの「同じ
穴のむじな」を、何かの先入観が働いて、わざわざ変な違う穴に置き入れ
てるように見えて、可笑しかった。
それに、そんなことより『マン哲』は駄本だよ.
なんであんなものを評価して本気で受け取ってるんだ?
>>679 それ当たってる。間違いなく永井は論理を突き詰めている。
(哲学のジャーゴンを使わないと論理じゃないなどと言うやつは、文章が
よめないやつだと思う。)
でも、本人も言ってるけど、論理の後に個人的なものも入っている。
そこが好き嫌いかな。
681 :
考える名無しさん:02/07/28 18:54
個人的なものが入っているのは当然で、そうであるべきだと思う。
いろいろ考えてみたが、その意味でやっぱり、
「問題を感じない人は入ってこないでほしい」というのは正当な要求なのではないだろうか?
どんな問題であれ、それが世間や学界で話題になっているという理由だけで、
自分自身で直接に感じた(持った)こともないのに、
なされている議論を後から読んだだけで、
その言葉についてだけ、何か「論証」したくなってしまう人は、
結局、哲学を腐敗させ、瓦解させてていくのではなくいだろうか。
放下さんほど「人生」に引きつけるつもりはないが、
その問題が自分にとって本当に本質的な意味を持つかどうかは、
哲学にとってはやはり決定的なことではないだろうか?
たとえ玄人であっても(いや玄人であればなおさら)だ。
少なくとも個人的には、そうでない「哲学」など存在してほしくないと思う。
682 :
考える名無しさん:02/07/28 22:38
>>671 >>677 私が重要だと思うのは『これがニーチェだ』の第三空間の議論で
でてくる「肯定」の一語ですよね。
「肯定」を自分も持っているのだけれども、でも本当のところは、
これがどこから発せられているのか良くわからないものでもあり
ます。
永井の議論を、人生とか生き方に引き付けて理解する人が、多いんですかね。
私なんかは、「自分に赤く見えるものが他人に青く見える、ということはないのか」
とか、「規則に従うとはどういうことなのか」という方面の議論がわりと好き
なんですが。
普通の意味での(?)人生の問題(それももちろん重大ですが)より、そもそも
他人の言葉を理解するとはどういうことなのか、自分の言語活動が成り立って
いるといえる根拠が本当にあるのか、という問題のほうが先にある、という気が
する。
まあ、これは趣味の問題なんでしょうが。
>>683 内容はなんであれ「こういう問題の議論をしたい」「こういう事を考
えている」というのを「人生の問題」と表現する人がいるだけで、たぶん同
じなんだと思います。つまるところ存在の問題ですよね。それを言葉で語る
事をとくにせずに日々暮らしているひとも同じなんだと思います。
685 :
603=648=649=650:02/07/31 13:49
>>675 それは文字通り「妄想」です。
もっと単純に考えましょう。
648における批判1がE君的観点からなされているのはもちろんのことです。
僕の独自の論点は、概念化されない直観内容という点にあります。
例えば、空間という概念は、空間直観を離れては無意味です。
空間概念についてのいかなる議論も現実の空間直観を前提にしていて、
それは決して概念化されません。
<私>は言語としては必然的に《私》へと概念化されても、
事実としては概念化されません。
まったく自明なことです(ムジナでさえなければ)。
686 :
603=648=649=650:02/07/31 14:14
もう一言。
「E君」というは、おそらく過去の(子どもの)永井の象徴なんですよ。
「先生」がなぜE君にあれほど冷たいのか考えてみてださい。
あと、当然の事ながら、
同じムジナにも慌てたムジナと用心深いムジナがいます。
687 :
考える名無しさん:02/07/31 14:41
君が現実と思っているものは実は虚構だよ。
培養液につけられた脳に「世界」という情報を入力して、君の行動は虚構の
世界に出力されている。君は実験台に過ぎないんだよ。
両親も親友も全て送り込まれた情報なんだよ。虚構なんだよ。
今の自分はこう反論します。
「屁理屈じゃん。」
みなさんはどう考えます?
「屁理屈じゃん。」で済ませられるような人は、そういう問題とは関係ない
(なくなった)人だ、ということでしょう。現にそういう問題に頭を悩ませ
ている人にとっては、屁理屈では済まないと思う。
そういう問題に頭を悩ませるということは、偉いことでも得になることでも
なんでもないので、関係なくなったのならそれはそれでいい、とは思いますが。
>685
><私>は言語としては必然的に《私》へと概念化されても、
>事実としては概念化されません。
>まったく自明なことです(ムジナでさえなければ)。
永井は、<私>についての議論が「他人に伝わったときには」概念化される、という
旨のことを書いているとは思いますが、<私>が事実として概念化される、などと
いうことを、本当に言っていますかね?
C君は、<私>と思ったときにはすでに≪私≫になっている、と言っているので、
あるいはC君はそういう主張をしてるのかもしれません。しかし、永井の主張全体が、
他人に伝わる場面のみでなく、事実としても<私>が概念化されてしまう、という
ものであるというのは、無理があると思いますが。
お久しぶりです。
>>685 いい論点だとは思う。
しかし、問題は、<私>は概念でもないが、また単なる直観でもないところにある。
われわれは「空間」という概念を使ってコミュニケートする以前に、すでに空間を生きている。
<私>は、もし直観だとしても、必然的に概念化される、という本質を初めから持っているような直観だろう。
<今>も同じだと思う。
だから、問題は、逆に、それらが初めから単なる概念にすぎないのだとしても、
必然的に直観化される、という特質を持つのではないか、という点にあるわけだ。
そうでなければ、その概念は完結しない、というように。
ここが永井哲学の苦境でありかつエレメントですね。
蝉さんの言うことは相変わらず難しくて分かりませんが、
直接知っている人に聞いた話では、
永井さんって、実は、酒好きでカラオケ好きの、ひどく気楽なオジサンで、
千葉大学の教官紹介か何かのパンフレットに、
趣味はカラオケで、カラオケの「狂気度」ではソニーの茂木健一郎にしか負けたことがない、
とか自慢げに書いているそうです。
茂木さんとカラオケに行ったりしているのかなあ。
中島義道さんとのカラオケの話は、中島さんの『偏食人間』に出てたけど、
あまり狂気という感じじゃなかったけど。
それと、サプリメントにも凝っていて、薬物に非常にに詳しく、
なんと三浦俊彦の『サプリメント戦争』が愛読書だそうですよ。
もし知りたければ、もっと続きもありますけど...
>薬物に非常にに詳しく
もう少し表現の仕方とかさ…(笑
>691
>われわれは「空間」という概念を使ってコミュニケートする以前に、すでに空間を生きている。
もしも、「空間」という概念を全く知らない人がいたとしたら、その人は空間を
生きているといえるんでしょうか。「空間」という概念を全く知らない人にとっても、
空間の直観というものがあるんでしょうか。
自分でも質問の内容がよくわかってない質問で、申し訳ないですが。
695 :
考える名無しさん:02/08/02 21:47
>>691 「エレメント」ってどういう意味? 要素?
>>691 わりこみ
必然的に概念化される直観とおっしゃっていますが、わたしの考えですと
概念化されないなら直観はないんですよ。つまり直観といっても、それは
感じていることがすでに言葉なわけです。表現しなかったとしても。
>>696
これは685さんが答えるべき問いだと思いますが、685さんに賛成。
例えば、空間直観は概念化されきることができないという点で。
これはカントのきわめてすぐれた洞察だったと思う。
ただし、ぼくの独自の問題提起は、むしろその逆で、
必然的に直観化される概念、というものがあるのではないか、というほうです。
こちらのほうが、永井さんが神の存在証明の問題と結びつけて論じている、
きわめてユニークな論点だと思う。
もちろん、<私>の奇跡的存在を、根底から脅かします。
>>695
苦境の逆。最も真価を発揮できる場所、境遇のこと。
>>697
これも685さんが答えるべき問いですが、
空間を生きているといえるというのが685さんの答えでしょう。
ただし、以前に紹介されていた永井さんの『世界』の論文などは、
それを真っ向から否定している。
しかし、『転ブラ』の議論はもっともっと遥かに精妙です。
>>685
>>689
永井さん自身がすべの登場人物の主張が自分の主張だといっているのだから、
文字通りそう取るべきだと思う。永井解釈としては、です。
E君もC君も彼の一部なのでしょうから。
欠席していたM君(=三浦君)が入っても同じことだなあ。
>>697 685さんと697さんがいっていることがなんとなくわかった。でもそれは言葉は違え
ども永井さんがすでにいっていることじゃないかと思います。そしてなお「事実」
が「<私>の奇跡的存在」を脅かすことはないと考えます。
>>598 念のために注意しておきますが、ぼくと685さんの考えはまるで違いますよ。
そして、ぼくのほうは、もちろん永井さんがすでに言っていることで、すでに
そう言っているんだというのがぼくの主張です。だから、奇跡的存在を脅かす
可能性があるというのも、永井さん自身がそう考えている、ということです。
685さんとは、永井解釈も違えば、主張もまるで違いますので、念のため。
700 :
考える名無しさん:02/08/03 23:20
>>699 698ですが、ちょっと書き方がよくなかったですね。反省します。念を押していた
だいた事は理解しているつもりです。わたしが言いたかったのは、現実世界の
奇跡性(なぜこうあるのかがわからないこと)ということです(奇跡性という言
葉が適当であるかどうかはわかりませんが)。もちろん現実世界は<私>と切り離せ
ないと思います。必然的に直観化される概念の「必然」が問題だとおっしゃって
いると思いますが(まちがっていたら指摘してください)、それは必ずしも奇跡
性とはつながっておらず、むしろ「他の直観(他者)」の存在を予感させるもの
であるということではないでしょうか。(というふうに永井さんを読んだのですが
いかがでしょうか)。
>>700 なるほど、と思いました。
しかし、問題は、他者もまた《私》であって、その世界の<私>であり、
逆に、<私>もまた《私》であることによって、すでに他者である、というこ
とですね。
問題はこの運動の始点がどこにあるのか、ということだと思う。
「私」という概念そのもののうちにあるという可能性を『転ブラ』は考察して
いますね(685さんは専らこの方向で永井さんを理解して、かつそれに批判
的なようですが)。これは、いわば概念が奇跡を包み込んでしまうという方向
ですね(神の存在の存在論的証明のように)。もちろん、逆の可能性もある。
ともあれ、こういうところで、ついゲーデル的とか何とか言いたくなってしま
うことだけは用心しないと。
>>701 698=700=実はS.K(興味深かったのですいません)
私は蝉風呂さんと違って、問題の鍵は、そこに(アナロジーではない)ゲーデル問題
が現れていることを認めるかどうかにあると考えています。認めない立場にも正当な
理由があるということも理解しているつもりです。さまざまな問題において議論が分
かれるのは、本質的にはそのことに関わっているものが多いと考えます。私がゲーデ
ル問題だと考える理由は、すでに記した事の含意に過ぎず、改めてのべることは粘着
質になってしまうので避けたいと思います。たぶんわかる人にはわかり、わからない
人にはわからないという結果にならざるを得ないでしょう。数学であるという偏見を
抱かない事は大切だとは思いますが。
ただ、蝉風呂さんにではなく、その他知らざる人に対してですが、注意を喚起したい
事があります。私の考えでは、かつての柄谷さんや一部のディコンストラクションの
人たちは、確かに完全に間違いとはいえないものの、やはり間違いを犯したと思いま
す。ちゃちなディコンストラクションが最終的にむなしさしかもたらさなかったのも
そのためと思われます。かれらは、ゲーデルを読み、形式化(論理化)の果てに決定
不能に陥り、体系が崩壊するという筋書きを立てた様子があります(この解釈には私
の偏見も入っています)。それはやはり間違っています。ゲーデルもそんな事を言い
たかったのではないでしょう。むしろ、論理の果てにおいて、我々は(個人的に)直
観を働かせている事を見出したというべきだと考えます。その意味で、分析哲学が可
能世界意味論に踏み込んだのは賞賛できることと思います。もちろんそれ(直観)は
論理的に無根拠だということは可能でしょう。しかし、私に言わせればそれも間違っ
ています。直観(感性)には(個人的には)「論理的でない根拠」があるのです。そ
の「論理的でない根拠」の存在を否定する事ことこそ論理的でないといえると思って
います。もちろんこれは論理の果てでの話です。
703 :
考える名無しさん:02/08/05 13:54
このスレって、むずかしい哲学的議論をちゃんとやってるんだね。
珍しいね。感心感心。
>>702 <私>の問題に関して、ゲーデル問題云々というのは結局アナロジーにすぎないのでは
ないでしょうか。ゲーデル問題というのは不完全性定理で示された、自然数論を含む
形式的体系における決定不能命題の存在の事を指しているのだと思いますが、この証明の
議論を抜きにしては定理を眺めるだけではアナロジー(それもごく表面的な)としてし
か語れないと思います。ゲーデル自身の証明では、命題の証明過程を算術化することにより
自分自身の証明不可能性を表す命題を体系内に構成してみせたのですが、このような議論は
<私>に関する議論とは全く性格を異にすると思います。
仮に、自然言語の形式的意味論をどのように構築してもその中で<私>が持つ性格は
決定不能命題と同様のものであることを示すという事ならアナロジーでない
ゲーデル問題が現れてると言えるかもしれませんが、例えそのような議論がなされても
それは《私》についての話になってしまうのではないでしょうか。
それから
>>700で指摘されてる「現実世界の奇跡性」については、私も同感です。
中心化された可能世界論なら<私>と《私》の拮抗関係について充分な説明がなされるかも
しれませんが、それは問題が現実主義と可能主義の拮抗関係に移るだけであり、
<私>の奇跡性が<現実>の奇跡性に言い換えられるだけなのではないかと疑っています。
>>704 質問がありましたので答えてみたいと思います。
ゲーデルの問題は自然数論にだけ限定されるものではありません。たとえばスマリヤンの『ゲーデル
の不完全性定理』などに示されています。わたしのゲーデル問題の理解は、スマリヤンに負っている
ところが多いと思います。
<私>の問題に関して言えば、実際は「<私>の存在」を記述できない(伝達できない)という事実が
逆に独在性を示しているという構造があります。つまり独在性がある限り、それは伝え得ない(記
述できない)と考えられます。それをゲーデル問題といっているわけです。つまり「この<私>の存
在」は証明する事も反証することもできません。しかし、疑いえない直観によりその存在は真であ
ると確信します。別にゲーデルの名前を出さなくてもすむところをあえて出したのは、直観が働い
ている事を強調したかったがためです。そして直観が働いているという事実は、言語ゲームのあり
ようの分析、事実からもわかるということをいいたかったがためです。
もちろんこの直観が働いているのは、他者も同じと思われます。言語を情報処理と直観とをあわせ
て理解(誤解?)しているのだと思います。これは、理解には「気づき」が絶対必要だというペン
ローズの主張ともつながっています。
この意味で、704さんのおっしゃっている事には、わたしは特段の対立点なく同意できます。
もちろん、これが永井さんの言いたい事だといっているわけでは全くありません。この問題だけです
と、このスレにも出ていますが、それは言葉の問題(記述の問題)ではないかということにもなって
きます。そうとらえることが必ずしも間違っているとは言いません。しかしそうしてしまうと、直観
のみにより<私>はとらえることが出来るという事実を遠くざけるような気がします。そして永井さん
の議論で重要なのは、その<私>のありようについて考察を突き詰めた事だと考えます。
ここからは必ずしも永井さんの考えている事とはちがうかも知れませんが、私の考えでは、上記の言
語ゲームの事実は、物理的事実でもあるということです。永井さんの議論が他のものと違って見えた
のはその点です。独在性の物理的事実です。これが恐らく、言語分析を重んじる哲学、そして客観性
を重んじる物理学が、それゆえに気づきにくくしているものだと思います。そして私の関心にとって
は、直観の由来というのを考えるに当たって、ゲーデルの議論(それはまたペンローズの議論でもあ
るのですが)が重要だったのです。
>しかし、疑いえない直観によりその存在は真であ
>ると確信します。
なんで疑いえないわけ?
>705
あんたもしつこいね。新スレ立ててやってよ。そのほうがお互いにとって良いと思うよ。
708 :
考える名無しさん:02/08/06 17:53
<私>は世界を始めて開く視点そのものなのですから、
直観とか概念とか、そういった種類のものとは、根本的に違うものだと思います。
だから、この問題は、残念ながら、特殊です。
まったく特殊です。
それゆえ、たぶん、解決不可能でしょう。
だから、存在もしないと「言いたくなる」人が多いと思いますよ。
悲しいことですが。
>>708 直観という言葉の使い方がわるいのかもしれません。「そうある」ということです。
たぶん、とらえているものは同じだと思います。ただ、なぜそうあるのかはまったく
わからないのですが、どうあるのかはいくらかは考える事が可能だと思っています。
だから、特殊という形で言いたくないところがあります。何を解決というかにもより
ますが、解決不可能とも思いません。不可能であっても悲しくなる理由もわたしには
ありません。そこが違いかもしれません。
>>706 「個人的」ということを重ねて申しておきます。ご指摘どおりもうやめます。
>>709 理解しました。「そうある」ということですね。
ところで、誰か、「直観」という語の意味を教えてくれませんか。
哲学で使う「直観」って「直感」とは違うんですよね?
空間が直観の形式だ、とかいわれてもピンとこないのですが。
711 :
考える名無しさん:02/08/08 17:15
>>710 岩波の「哲学思想事典」に渡辺二郎の解説があるよ。
要するに、論証を通してではなく、じかに分かるということではないかな。
すべてが論証ということはありえないから、じかにわかるということは確かにあるでしょうね。
空間について言えば、時間もだけど、それを直接知っている人にしか、説明しようがない、
ということではないのかな。
しかし、時空の直観には普遍性がある。
で、話はちょっと逸れる(というか本筋に戻る)けど、
永井という人は、そういう意味では直観主義的な哲学者(例えばベルクソンのような)ではなく、
どちらかといえば、はっきりロゴス派だと思うけど、
哲学というものの普遍性をかなり自覚的に否定している、という点で、
多くの(殆どすべての?)他の哲学者と対立する見地に立っているように思う。
ある特定の哲学はある特定の種類の人にしか意味を持たない、とはっきり言っているから。
そういう哲学観は、あまり例がないように思うけど、どうかな?
712 :
考える名無しさん:02/08/09 11:02
《哲学の気》の「哲学」の項目は、まえに中田さんが感動してたけど、
よく考えると、あまりにも異様な哲学観だと思うね。
あれだと、自分で子どものころからその問題が気になって考えていたら、
問題の中身が何でれ哲学ということになるし、
着に、哲学的問題とされているものににつて、大人になってからま
訂正:『哲学の木』です。
続き:大人(大学生ぐらい?)になってから、哲学を知って興味を持ち、
それを勉強することによって哲学をするようになるということはできないことになる。
そうすると、多くの「哲学者」は哲学をしていないことになるだろうし、
そして今でも意外に多くの科学者哲学をやっていることになるんじゃないだろうか。
この帰結を永井は喜んで受け入れるのかもしれないけど、
『哲学の木』の序文の言い方で言えば、あまりにもプラトン的で、
アリストテレス的要素を無視しすぎているようの思えます。
714 :
考える名無しさん:02/08/09 22:52
ウィトゲンシュタインもかなり異様だ 特に論考以降 好きだけど。
715 :
考える名無しさん:02/08/10 12:03
凡庸であるよりは異様であるほうがいいよ。
哲学の世界に、もっともっとはるかに異様な人が、もっともといろんの方向で、たくさん出てくればいいのに。
このごろ、こじんまりした優等生のなれのはてみたいなやつばかりだからな。
ほんとにつまんないねえ。
このままじゃ哲学なんて、近い将来、消滅すると思うよ。
>よく考えると、あまりにも異様な哲学観だと思うね。
>あれだと、自分で子どものころからその問題が気になって考えていたら、
>問題の中身が何でれ哲学ということになるし
異様じゃなくてたんに幼稚なだけだって。(笑)
大半が軽薄なジョークであればあるほど、ジョークと哲学問題の連続性が
実感される。
「だれでも……「いかに生きるべきか」とか「自分とは何か」と
いった疑問を抱く(と思う)が、一度このような疑問を抱いたら、それを解
決しないまま一生を終えるのは不幸だと感じるのではなかろうか。ナンセン
スのもっている深刻な見せかけと闘い、できればそれを笑えるような形にし
てみせること、これが哲学の役割ではないかとわたしは思う」。
なるほど、この一節はジョークではなかろう。
ナンセンスをシリアスな本当の問題として奉り直す反動的揺り戻しが、
今日の日本の哲学界に起こりつつある。右の著者の言葉を私は勝手に、
永井均の<私>論への批判として受け取ったのだが、さてしかし……、
やはり本書は、ただのユーモアエッセイ集ではなく、哲学批判の書として
読むべきなのだろうか?
三浦::土屋賢二『人間は笑う葦である』書評
718 :
考える名無しさん:02/08/10 14:02
意味不明
>>716 幼稚でも何でもいいから、みんながもっと異様なことをどんどんやればいいと思うね。
(笑)ってるだけよりは、幼稚なら幼稚を徹底的に突き進むほうが遥かに面白いから。
ほかにもっともっと、別方向に徹底的に幼稚な哲学者がどんどん出てくればいいのに。
>>717 ナンセンスだろうと、シリアスだろうと、そんなことはそれぞれ好きなようにやればいいじゃん。
「反動的揺り戻し」なんて、ポストモダンの時代のレトリックじゃるまいし。
反動なら反動で、そんなこと全然かまわないじゃん。反動の何が悪いんじゃい?
もっともっと反動的な哲学者がどんどん出てくればいいじゃん!
720 :
考える名無しさん:02/08/10 21:43
幼稚かどうかはかんけいないぞ。
哲学はもともとある人間の能力を細かく分類しているだけだ。
しかし最後に至った地点では、その能力「そのもの」の破壊力は研ぎ澄まされ
ているのではないか、、、、、と私は思う。根拠は無いが。
721 :
考える名無しさん:02/08/10 21:58
っていうか、まえから思ってるんだけど、
三浦さんって、永井って奴のことをちっとも分かってないんじゃないかなあ。
なんか、大まじめで非論理的な、むかしの実存主義者みたいなもんだと勝手に決め込んでる。
はっきり言って、永井のレトリックに騙されまくりって感じがする。
三浦さんの方こそ、意外に幼稚なんじゃないだろうか?
騙されてない者の目から見れば、永井という人は、幼稚でもシリアスでもなくて、どう見たって相当に老獪な奴だよ。
(馬鹿な人のために注意:もちろんこれはぜんぜん批判ではなく擁護論ですよ)。
私は三浦も長居もしらん
723 :
考える名無しさん:02/08/11 09:09
っていうか、まえから思ってるんだけど、
三浦さんって、永井って奴のことをちっとも分かってないんじゃないかなあ。
なんか、大まじめで非論理的な、むかしの実存主義者みたいなもんだと勝手に決め込んでる。
はっきり言って、永井のレトリックに騙されまくりって感じがする。
三浦さんの方こそ、意外に幼稚なんじゃないだろうか?
騙されてない者の目から見れば、永井という人は、幼稚でもシリアスでもなくて、どう見たって相当に老獪な奴だよ。
(馬鹿な人のために注意:もちろんこれはぜんぜん批判ではなく擁護論ですよ)。
プッ
724 :
考える名無しさん:02/08/11 11:12
>>721(723)
老獪ってずる賢いという意味ですか?
あんまりそんな感じもしないけど。
そんなことより、せっかく「むすかしい哲学的議論を」ちゃんとやっていたのに、
また馬鹿が馬鹿なことを言い始めて(?)馬鹿馬鹿しい話になってしまいましたね。
やっぱり、哲学的議論そのものが読みたいです。
例えば、今まで出されてない問題としては、
《私》という概念(<私>ではなく)はどういう地位を占めるのか、とかです。
多世界における複数の<私>のことなのか、それとも統覚原理によって持続するときの<私>のことなのか、とか、
そういう問題です。
もしかして、両方なんでしょうか。でも、両方っておかしくないでしょうか。
そのどちらにしても、その場合の《私》と《今》の関係とか、そういった問題も、すごく興味があります。
永井という人ががどういう人かなんてどうでもいいし、そもそも自分に関係ないじゃないですか。
>統覚原理によって持続するときの<私>のことなのか
頭角原理によって持続するときの<私>というのはなんですか?
>>725 あまりよくわかってないので間違っているかもしれませんが、
独在性原理では<私>の時間的持続が説明できないので、
統覚の統一の可能性の条件というのを考慮に入れて、
そこで<私>が持続するといえるようになる。
と、いうように考えられたときの<私>が《私》であるということになります。
で、このとき、人格同一性原理と統覚原理との対立という新たな問題も生じるのではないかと思うのですが、
(統覚のはたらきは世界そのものの時間的持続の構成と一体化しているはずですから)
考えていると、ゴチャゴチャになって分からなくなってしまいます。
なんか難しい言葉がいっぱいでてきて頭悪いからよくわかんないんだけどさ、
>独在性原理では<私>の時間的持続が説明できないので
時間的持続というのは、例えば、昨日の<私>と今日の<私>が
同じ<私>かどうかってこと?
<私>というのは、定義上唯一なもの、並び立つものがいない存在として
規定されてるんじゃないの?
<私>が並び立つものがない唯一の存在であるなら、
<私>の同一性は問題にならないんじゃないの?
>>727 ぼくも頭も悪いし、よく理解もしてないので、ちゃんとした説明はとても無理なのですが、
同一性というよりはごく短い持続の条件のようなものを考えたほうがいいように思います。
<私>が唯一者であっても、やはり意識する主体ではある限り持続すると考えざるをえないですよね?
それとも、<私>は時間的にも並び立つものがないのでしょうか?
実を言うと、個人的なそんな感じもしているし、永井さんもはそう言っているようにも読めるのです。
もしそうなら、そうでればこそ、持続を「構成する」条件が独在者の側になくてはならないことになるでしょう。
独在者とそれの持つ統覚原理だけから、そのつど世界そのものを構成する!ということになりますよね?
すごい世界観ですけど、それが《私》であるとも読めるような気がするのです。
だんだん怪しくなってきたのでこれでやめますが、
ぼくはそのことを考えていると、世界のあり方がこれまでと全く変わって感じられてきて、
頭がおかしくなりそうです。もちろん、とても楽しいけどね。
>>728 時間的に離れた二つの〈私〉の同一性は統覚原理が与え、それは人物の同一性
ではなくむしろ世界そのものの同一性の構成(同じ一つの世界が持続している)
によってなされる、ということだろうか? そうだとすると、7行目の「その
つど」はまずくないかな? それが「そのつど」であるといえるような時間は
どこにもないはずだから。それとも、まさにそのことが〈私〉と《私》の違い
だということなのかな?
730 :
考える名無しさん:02/08/12 15:54
バカの集まり
731 :
考える名無しさん:02/08/13 00:09
今なされているような議論ももちろん重要だと思うが、724の意見に反して、716,717より前はさほど馬韓馬鹿しい話でもなかったと思う。
問題は哲学の本質にかかわっていて、途中の煽りを無視さえしていれば、まじめに論じるに値する話題だったと思う。
永井の主張は、直観とか感度とかを重視するといったことではなく、哲学を学習する以前に、<子ども>の頃から、感じていた「素朴な疑問」を哲学の中に持ち込んでよく、出来る限り持ち込むべきだという主張だったと思われる。
これは尊重すべき意見ではあると思う。自分自身の素朴な疑問を哲学の中で生かせる人はそうすべきだし、そういう人も仕事も尊重されるべきではあるから。
そのことが哲学の世界に外部から息吹を吹き込んで活性化させる可能性もあるだろう。実際、哲学史上にもそのような哲学者も多いと思われる。
しかし、だからといってそういう哲学以外は哲学でないというのは誇張にすぎない。誇張は最初の提唱者の宿命としてやむをえないとしてもだ。
哲学を学習し、その内部にすでに存在していた問題に対して論証による解決をはかるのも、立派な哲学であることは疑いない。
現在の哲学に最も影響を与えている哲学者であるクワインが、<子ども>の頃から彼の全体論に結実するような素朴な疑問を抱いていたとは思えない。
だからといって、クワインは哲学者でないなどと言うのは無意味だろう。
(ただしクワインは決して論証的な哲学者ではなく、むしろ直観的な哲学者で、そのことが彼の哲学の大きな影響力の原因となっていると思うが、それはまた別の問題だ)。
728,729のような議論も需要で興味深いとは思うが、こういう問題も少しも馬鹿馬鹿しくはない。
732 :
考える名無しさん:02/08/13 11:22
馬鹿バッカ
733 :
考える名無しさん:02/08/13 11:26
そうだね。
734 :
考える名無しさん:02/08/13 11:53
確かに永井はたいしたことないのにね
735 :
考える名無しさん:02/08/13 12:07
やかましい
736 :
考える名無しさん:02/08/13 12:07
732と733の時間間隔が近すぎますよ。
まず、労を惜しまず、もう少し時間を開けるようにしてみましょう。
そして、単に子供の落書きのように「馬鹿」と書くだけでなく、
今度は、どういう点で「馬鹿」なのかもしっかり書いてみましょうね。
哲学板らしく、それそれの論点に即してね。
ガンバッテね!
737 :
考える名無しさん:02/08/13 12:12
うん、こ
738 :
考える名無しさん:02/08/13 12:13
永井は馬鹿
739 :
考える名無しさん:02/08/13 12:14
確かに オタはさらにバカ
740 :
考える名無しさん:02/08/13 12:17
733と732違う
732と734は同じ
やっぱり永井は馬鹿
741 :
考える名無しさん:02/08/13 12:19
バカの掃溜めスレ
742 :
考える名無しさん:02/08/13 12:22
736は恥じさらしの大馬鹿なり
743 :
考える名無しさん:02/08/13 12:22
馬鹿!馬鹿とか言う奴が馬鹿てことに気付け。馬鹿!
744 :
考える名無しさん:02/08/13 12:23
永井オタはやっぱり馬鹿
745 :
考える名無しさん:02/08/13 12:26
743
オマエモナー
746 :
永井など知らぬ:02/08/13 12:28
馬鹿がんばる
無視すればいいといっても、やはり目障りなので、
マジレス以外はやめてほしいと思います。
別に永井さんが偉いと思っているわけでもなく、賛否はそれそれあるけど、
ともあれ、彼の言っていることそヒントにして考えたい問題がある連中が集まっているだけのことですから。
「馬鹿」でぜんぜんかまわないから、いちいち指摘しないで結構。
>>731
基本的に賛成です。(クワインのことはよく知らないのでわかりませんが)
>>728
>まさにそのことが〈私〉と《私》の違い
の「そのこと」って精確にどのことですか?
うまく読み取れないので。
748 :
考える名無しさん:02/08/13 12:30
永井は馬鹿かつアフォ
749 :
考える名無しさん:02/08/13 12:35
永井信者キモイ
750 :
考える名無しさん:02/08/13 12:38
永井も、永井じゃなくても、とにかく馬鹿。
751 :
考える名無しさん:02/08/13 12:43
馬と鹿
752 :
考える名無しさん:02/08/13 12:54
おれと同じ学部のやつで永井信者がいるんだけど
なんかしらなえけど特権意識がすごくてキモイ
被害に遭ってるヤツ多いと思うね おまえだよ
753 :
考える名無しさん:02/08/13 13:10
ヲタバカ
754 :
考える名無しさん:02/08/13 13:19
永井=バカ
755 :
考える名無しさん:02/08/13 13:21
752に同意
それと同じやつ一人知ってる
もしかしたら752と同一人物かもしれない(w
756 :
考える名無しさん:02/08/13 13:59
747は馬鹿
757 :
考える名無しさん:02/08/13 15:12
永井をタきもい
758 :
考える名無しさん:02/08/13 15:38
見てて思ったけど永井読みは信者化し易いのは確かだと思う
759 :
考える名無しさん:02/08/13 15:39
悲しい世界
760 :
考える名無しさん:02/08/13 15:42
otakimoi
761 :
考える名無しさん:02/08/13 15:52
永井ヲタ氏ね バーカ
>>747 あっという間に蛆がわいて、落ち着いてお答えできる環境ではなくなってしまいました。
これが2chなるものの宿命なのでしょうか。
ぼくは、永井についてではなく『転ブラ』について、論じるべき問題はまだまだあると思いましたが、
この環境ではもうとても無理でしょう。
馬鹿とかキモいとかいった単純な価値評価ではなく、議論の内容に即してきちんと把握して論評する、
という当然のことができない人が、一応哲学に興味を持っているはずの人の中にこれほどいるとは驚きです。
とても残念なことです。
論じられていた問題は、決して永井という一人の哲学者に固有の問題ではなく、
古典的にはライプニッツやカントに即しても論じることができる、
そして永井の「信者」などでは決して対象化して論じることができない、
ちゃんとした哲学的問題です。
そのことさえも分からない人たちが多いのであれば、
やはりもうここに来るのは無意味でしょう。
せっかく「むすかしい哲学的議論」がちゃんとできる珍しいスレだったのに残念ですけど。
もう蛆虫どもに明け渡してもいいかもしれません。
763 :
考える名無しさん:02/08/13 16:32
762ガ蛆
バカですな こやつハ
764 :
考える名無しさん:02/08/13 16:34
762は相当勘違いしてるアフォ
やだやだ こんな馬鹿かんちがいばっかで
765 :
考える名無しさん:02/08/13 16:36
762はもうくんな
議論のレベルが下がる下がる
766 :
考える名無しさん:02/08/13 16:37
やっぱり永井ヲタはキモイし選民意識があるウザイやつら
実生活上迷惑なのでちかよってこないでちょ おまえだよ おまえ
767 :
考える名無しさん:02/08/13 16:39
762はフェアのようで選民意識にミチミチた駄文
氏ね
768 :
考える名無しさん:02/08/13 16:42
普通の意味での選民意識はないだろ、奇跡性への共感はあっても。
永井も人間としては立派じゃないといってるし。
769 :
考える名無しさん:02/08/13 16:44
「立派じゃない」という逆説において選民意識全開だろ
やっぱりヲタはウザイし実際 害があるし
770 :
考える名無しさん:02/08/13 16:45
ヲタバカ
771 :
考える名無しさん:02/08/13 16:45
そうかなあw?
772 :
考える名無しさん:02/08/13 16:46
ナガイヲタシネ
773 :
考える名無しさん:02/08/13 16:49
奇跡性への共感は宗教の原点だよ
バカバッカ
774 :
考える名無しさん:02/08/13 16:50
762は とにかく馬鹿
775 :
考える名無しさん:02/08/13 16:50
ゃっぱり永井ヲタはバカで気もイつらの掃溜めですな
776 :
考える名無しさん:02/08/13 16:50
池田と同じで選民と取られがちだけど
心底ではその手の特別さはくだらない
とおもってるような。
777 :
考える名無しさん:02/08/13 16:53
ナニガ「ような」ダ
バーカ
778 :
考える名無しさん:02/08/13 16:54
推測だからな。誠実なのさw
779 :
考える名無しさん:02/08/13 16:54
「心底では」とか「ような」とかがあやしいな
780 :
考える名無しさん:02/08/13 16:55
やっぱヲタはバカ
781 :
考える名無しさん:02/08/13 16:57
だから誠実さの現れだw
それに私は永井や池田は人間としては
苦手な部類だぞ。
782 :
考える名無しさん:02/08/13 17:02
しかし、まあ、そうは言っても、
人のことを「バカ」とかばかり言っていても仕方がないのも事実ですな。
>>762 ぱっと見蛆が沢山湧いたように見えるかもしれないけど
良く見てみればスレを汚してる蛆虫はこの一日では
一人かせいぜい二人くらいだよ。
ま、いずれにせよここは多数決が成り立つ場所なわけでもないのだし。
問題を理解していないような書き込みが幾ら多くても、
それで理解されるべき書き込みがかき消されることはないし、
消されない限りは問題を理解する人にはきちんと届くのだから、
この環境を気にして去る必要はないんじゃないのかな。
784 :
考える名無しさん:02/08/14 08:46
また蛆がでてきたな
785 :
考える名無しさん:02/08/14 08:58
さらにバカの信者化が加速してるな
害虫の集まり
786 :
考える名無しさん:02/08/14 09:56
783は永井ヲタのグロテスクかつバカな選民意識がよくみえて興味深いですな
結局ヲタはこの程度 バーカ
787 :
考える名無しさん:02/08/14 09:59
762はカントもライプニッツも読んでないくせに 無理するな ぷっぷっ
788 :
考える名無しさん:02/08/14 10:01
バカな永井教信者がミサに集まるスレはここでせうか
789 :
考える名無しさん:02/08/14 10:07
永井ヲタはキモイにぁ
ご都合主義者だし
痛いとこ突かれるとすぐ蛆よばわりだからなぁ
頭悪いのに バカは無理するな
790 :
考える名無しさん:02/08/14 10:08
おたきものはきだめ
791 :
コギャルとHな出会い:02/08/14 10:21
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792 :
考える名無しさん:02/08/14 10:25
ご都合主義者ですぐ逃げるバカでキモイヲタの集まり
やだやだ
793 :
考える名無しさん:02/08/14 12:45
永井ヲタはバカ
>>783 よけいなことを言わずに、
すっきり明け渡してしまえばいいのに。
もう、そうしましょうよ。
蛆虫たち(一人?)だけの天国にしてやりましょうよ。
よけいなお節介はやかずに。
そのほうが面白いじゃないですか。
永井均って西川きよしの弟子だよねぇ?
796 :
考える名無しさん:02/08/15 08:57
永井ヲタキモイ
>783
ほっときゃいいんだよ。こんな夏厨。
あいてにするだけ無駄。
>>783 9/1になれば、また落ち着いてくるでしょう。
ちょっと、永井スレでは評判のあまりよくない、「マンガは哲学する」の中から、
ひとつだけですが、私の関心を書いてみたいと思います。
(本当は、吉田戦車の作品に基づく言語ゲームの問題が、私的にはおもしろいのですが、
ここは、<私>についてのスレなので、下記にしました。)
第2章 私とは誰か 1.死んだのは誰か−萩尾望都「半神」
シャムの双生児として産まれた、頭が弱くわがままな妹のユーシーと
醜いが頭の良い姉のユージー。姉は妹を、嫌悪している。で、13歳のときに、
これ以上同体で生きるのは栄養供給が難しいので切り離すことになります。
手術後、自分で栄養分を補給できない妹のユーシーは、ひからびて姉のユージーのような
外見になります。そして死ぬ。姉のユージーは健康を回復し、かつての妹ユーシーのような美貌になる。
いったい私は誰なのか?鏡の中の「ユーシー」に向って、
「愛よりももっと深く愛していたよおまえを。
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよお前を。」
と語りかける。
というようなストーリーなのですが、その、
※語りは、ユージーの視点から語られ、絵は、神(読者)の視点から描かれる
(続き)
この語りと絵の視点の乖離は、映画やマンガでは通常の手法として用いられる訳ですが、
私の関心は、
※このような、語りと絵の乖離は、(例えば、遠近法の発明のように)いつ発明されたのか?
※このような話を読むとき、読んでいる私は、ストーリーの中の「私」に対してどうのような立場にたっており、(感情移入など)
そして、何を理解したと考えているのか?
といったことを、言語ゲームの拡張として考えることはできないのか? といったことです。
もしかすると、映画やマンガでストーリーを語ることが確立し、話者と映像の視点が分離することに違和感がなくなったとき
このことが知らず識らずのうちに思考実験の役割を果たし、<<私>>を媒介に<私>を理解してしまわせてしまう?
あるいは、<<私>>を媒介に<私>を理解することができる背景があって、視点の分離を受け入れられる?
というようなことを、ときどきツラツラ考えています。
なお、第1章でとりあげられている、吉田戦車を始め、ここで取り上げられていることをもとに
いろいろな思考が可能になるという意味では、「子供のための哲学」で述べている、哲学を始めるための本
としては、むしろ、この「マンガは哲学する」は格好の材料になる気がしています。
800 :
考える名無しさん:02/08/16 11:04
最近知ったんだけど、永井氏は社会学の大澤真幸のことべたぼめしてるんだよね。
大澤に較べれば他の論者はちまちましているとかいってるし。
誰も大澤の異様さに驚いていないのは不思議だとかもいってるし。
801 :
考える名無しさん:02/08/16 12:08
たぶん、『〈子ども〉のための哲学』のような本で哲学を知っていたら、
哲学なんかに興味をもたなかっただろうな。
しょうがないか、教科書に『はじめての構造主義』が採用されるくらいだから。
こまったもんだよ、最近の日本の哲学・思想界は。
802 :
考える名無しさん:02/08/16 12:09
まったくもって、ひでえ世界だ。
803 :
考える名無しさん:02/08/16 12:11
?801は何を言いたいの?
804 :
考える名無しさん:02/08/16 12:18
805 :
考える名無しさん:02/08/16 12:19
永井均なんか読みたくないといいたのさ。
806 :
考える名無しさん:02/08/16 12:21
>>800 大澤とは誰ですか
くわしく教えてください。
知ってる人ならだれでもいいけど
807 :
考える名無しさん:02/08/16 12:24
やっぱり永井は駄目ですか?
808 :
考える名無しさん:02/08/16 12:37
永井が嫌われるのはしかたないんでしょうか?
809 :
考える名無しさん:02/08/16 12:42
顕教と密教に分かれているからだと思う
だけど、このスレの住人はみんな明晰であろうとしていると思うし、
永井の片言節句を盲信している人はいないと思うし
ちゃんと、距離を取っているんじゃないかな
810 :
考える名無しさん:02/08/16 21:08
>>808 顕教と密教ですか、なかなかうまい比喩ですね。良い感じです。
顕教と密教という比喩は全く的外れだと思います。
明晰であろうとすること と 盲信すること というのはまあ、わかります。
でも自分が今考えているのか、それとも信じているだけなのか、というのは
なかなか難しい問題ですね。
>>798 798さんの関心をもたれていることと一致するかどうかわかりませんが、話を受けて
ちょっと思ったところを書かせていただきます。
そのまんがの実際の展開は知りませんが、ストーリーの続きとして次のようなこと
を考えました。
1.次のページで私はユージーであることに突然気づく(絵が書かれている)。
2.その次のページで私はユーシーであることに突然気づく(絵が書かれている)。
3.そのまた次のページに絵ではなく文字で「なんちゃって」と書かれている。
3に至って読者は混乱する(なんちゃってってどういうことだよ!)。
意図的に説明抜きで考えている項目をいくつか列挙。
(たぶん、おなじようなことを考えた人は過去にもたくさんいるでしょう)
@見ていることに強く影響はされるが、根本的には見ていることと独立にものごと
を考える事が出来る。
(歴史的なことはわかりませんが突然気づいたのかな)
A理解には「受身」の要素が常に色濃く漂っている。受身は絶えず起こっているが、
受けたとたんに経験になり解釈を可能にする。理解と解釈の違い。
(受身といっても共同体うんぬんとはちょい違うことを言いたいのですが・・・)
B「受身」は日常的には(悪い意味ではないが)隠蔽されがちだが、いくつかのこ
とが存在を感じさせる(ことに突然気づいた)。
1つは言語ゲームで、わたし(あるいは他者)にかんすることがらによく現れる。
もっとはっきりわかりやすいのは時間で、時間はただ流れるだけで、完全に受身。
(このふたつをならべることは、こじつけ以外には見えないが、はたして・・・)
すでにツッコミを入れたくなっていると思いますが、お察しのとおり、このような
問題は、早急に考えてしまわないほうがいいと思わせるところがありますので(変
な方向にフォークがすっぽ抜けるかも)、この辺でとりあえずおしまいです。
>>811 自分が今考えてるのか、ただ信じているだけなのか
という意味もこめて顕教と密教という言葉を使ったんですが。
全く同じじゃないにしても、少しはかぶるとおもうのですが。
顕教密教の比喩を全否定されたのに
自分が今考えてるのか、ただ信じているだけなのか
ということを811氏がいうのは少し納得できなねます。
別にたいした問題じゃないのでこだわりませんが、
>>813 密教とは一般に仏教の中で特に祈祷や呪文などを重視する宗派のこと。
それに対しての顕教とははっきりしたテクストによる教えを意味する。
永井が著作の他に儀式的な催しを行っているのならけっこうですが
そうでないなら単にテクストの読み方のレベルでの問題なわけですから
密教という比喩はずれていると思います。
816 :
考える名無しさん:02/09/03 18:27
正直、永井信者があまりうまくイメージできない俺。
要するに自分探し系の人なのか?または転ブラのE君の低レベル版?
分かるようで分からん。
今時・・・って思ったけど、ユニクロ買ったと思ってやったらマジすごかった。
これは騙しでも違法でもないよ。
■参加方法■(このゲームの仕組み・紹介含む)
@まず、下記4人の口座に¥1000ずつお金を振り込んでください。
(銀行の自動振込機で振り込みます。4人の口座部分を印刷して行くと楽です)
A次に、このメールをそのまま使って、リストにある4つの口座の一番上を削除します。
そして一番下にあなたの口座番号を書きます。
後は、番号を上から順に振りなおします。(こうして順番に上の人が抜けて
いくので違法性はないと弁護士の方の説明がありました)
Bそれをできるだけたくさんインターネットの掲示板に書き込みして下さい。
掲示板を見た人がどんどん同じように振り込んでくれます。
最初の1週間で10件以上振り込みがない場合はもうヒトフンバリします。
C後は、現金¥1000が振り込まれるのを待つだけです。
--- --- --- --- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
※一番上の口座を削除するので【法律】を犯さなくて済むのです。
それだけは絶対に守ってください。
※お金を降り込まないでリストに自分の名前を載せると、上位の人の振り込み確認で
訴えられたり、いろいろな攻撃を受けてしまいます。
良心を持って参加することで、みなさんが同条件で収益を期待できるのです。
※参加して2週間を過ぎた頃から降り込み額が平均して増加してきます。
毎日がとても楽しくなる4千円のゲームに騙されたと思って今すぐ参加してみてください。
すごい額になって返ってきます。お金が途切れてきたら上記の行動を繰り返せばいいのです。
-------------------------------------------------------------
■リスト■
(1)群馬銀行 高崎支店 普通 1018272
(2)三井住友銀行 天満橋支店 普通 488044
(3)UFJ銀行 浦安パークシティ出張所 普通 5381782
(4)大和銀行 千里中央支店 普通 7376575
818 :
考える名無しさん:02/09/04 19:54
顕教密教はけっこうあってるとおれは思うけどね
819 :
考える名無しさん:02/09/04 19:57
mlk
もうすぐ落ちますね
「これがニーチェだ」は最高ですね
僕は最初にウィトゲンシュタイン入門を読んだのです。
もちろんウィトゲンシュタインに入門するために。
その時はそこで語られている独我論を理解できませんでした。
その後しばらくしてこのスレを読んだのですよ。
<私><私><私>・・・最初は軽い嫌悪感を覚えました。
しかしその議論のまじめさに次第に引き込まれ、「子供のための哲学」を購入しました。
そして現在に至る。おわり。
つまり永井さんの著作を読むきっかけになったこのスレが落ちていくのを見て
なにか書き込んでおきたいと僕は思ったのです。ゴホゴホ。
もちろんsageですので御安心ください。さようならみなさん。電パンチ!
試しにageてみます
826 :
考える名無しさん:02/09/22 14:12
思ったのだが、このスレの中田さんは
実は時間論者の青山君だったら、どうしよう。
ほら、青山君ってサッカー選手の中田に似てるでしょ。
しっかし、「マンガを哲学する」はつまんねえなあ。
>>826 あなたにとってはおもしろくないかもしれないが、
私にとっては、おもしろい。
>827
すまん、正直>826に同意。
マンガ読みとしての感想も含むが、あの本はツマランと思う。
>>827 は、ある書籍のある一文のパロディでした。スマソ。
830 :
考える名無しさん:02/09/23 11:38
マンガのことなんか忘れて、純粋に哲学書として読めば、あれはすごく面白い。
まだ展開されていない論点が満載されてるし。
青山の時間論といちばんリンクしてるのもあれでしょ?
831 :
考える名無しさん:02/09/23 11:39
そうかなぁ
832 :
考える名無しさん:02/09/23 11:51
哲学書かよ あれが
まぁまぁおもろいとは思うけど
あれは、漫画の評論としても粗雑に過ぎるし
哲学書としても水準は低いんじゃないか?
ところで、永井の問題が持っている構造は、独在性以外の
領域ともリンクしていると思われるんだが、その辺、どう思う?
例えば、上にあったゲーデル問題や、他にも固有名や
主客の相克など、実質こそ違えど、その
構造を共有してる問題群があると思う。
834 :
考える名無しさん:02/09/24 08:23
そんなこといったらみんなそう。
どくザイ論とニヒリズム論でいいけどね
この二つが卓越してるけど、他はべつにとくに永井を持ち出す必要あんのかなぁ
>>826 独在論以外の論点は、全然おもしろくない。
あと、「つまならい」って連呼する「だけ」なのは、鬱陶しい。
836 :
考える名無しさん:02/09/26 15:16
>>833 だからそのことが『マンガは哲学する』に書いてあるじゃないですか。
独在論と時間論のつながりがはじめて書かれたのはあれでしょ?
これまで誰も言ったことがないことで、まだだれも論評さえしていない(と思う)。
本質は、世界の連続性を何が成り立たせているか、という問題だと思う。
あの本で独在論は一例にすぎないということがはわかる。
> これまで誰も言ったことがないことで、
自分の勉強不足をかえりみずこういうこと言うのだけは感心せんなあ
838 :
考える名無しさん:02/09/26 15:40
それは永井オタの得意技
839 :
考える名無しさん:02/09/26 16:13
>>837 それを言うなら、だれがどこで言ったのかをちゃんと言わなくては。
それが言えないなら、感心せんのはきみだぞ。
なにか勘違いした教えて君が痛い
841 :
考える名無しさん:02/10/01 14:55
また、オマエか!!
842 :
考える名無しさん:02/10/02 06:27
マジレス
人気なくなったね
一周年か。さげ
845 :
考える名無しさん:02/10/24 09:43
>独在論と時間論のつながり
これは昔からあるんでないかな?インド哲学とか。
量子力学の多世界論とかも深く関わっている問題では?
考えている問題自体をけなすつもりは全然ないけどさ。
はじめて俺が考えたみたいなのはちょっとな。
永井も信者も謙虚さが・・・以下略。