もし単独性的な特別さと独在性的な特別さとを同じ世界に両立させようとするなら、独在性の「私」の言い表し方を、次のように変えればいいんではないかと思います。
――「私」は特別だ。この特別さは、私の世界に存在する他のものがそれがそれで在るが故の特別さを持とうが持つまいが、同じであろうが違いが有ろうが、そんなこととはお構いなしに、特別だ。
>>141さん
>>136にも書きましたが、「言い得なさ」そのものはどんなものも同じだと思うんですよ(
>>118でもどなたかが対話してますが)。
「私」固有の「言い得なさ」を主題にしない限り、「「私」の言い得なさ」を追いかけて行っても、結局「私」じゃなくて「言い得なさ一般」にしか辿り着かない、と思うんですが、どうでしょうか?
自己レス。
>>136 >永井がやっていることは「私の特別さ」を解くことであり、「私の言い得なさ」を解くことです。それは「わたしとは何か」を解くことそのものではありません(非難しているのではありません。指摘しているだけです)。
>「特別さ」は私に付随する属性ではなく、「言い得なさ」も同様です。「言い得なさ」は「私」にまつわる問題ではなく、言語ゲームの問題です。
これは明らかに間違ってますね。永井の「私」はなによりもまず「私の特別さ」から始まるのだから。私の特別さを追い求めることは永井の「私」を解くこと、そのものといっていい。
従って、次のように訂正します。
>永井がやっていることは「私の特別さ」を解くことであり、「私の言い得なさ」を解くことです。後者は永井の「私」を解くことそのものではありません(非難しているのではありません。指摘しているだけです)。
>「言い得なさ」は「私」にまつわる問題ではなく、言語ゲームの問題です。
更に訂正。スイマセン
>>147 >あるいは、他に対し比較不可能な「私」が前提である世界では、・・・
↓
>あるいは、他に対し決定的に特別な「私」が前提である世界では、・・・
152 :
考える名無しさん:01/09/07 03:09
たしかに永井には鼻につく部分がある。
俺にとってそれは一言でいえば
「女性(少女)に対する過剰な期待」ということだ。
なぜ永井は異常とも思える程に少女にこだわるのだろう?
彼の描く少女は純粋、無垢、神秘の象徴であり
世界の変革者であり時には世界そのものである。
彼の思いの根源には「男は駄目だ」「女は強い」という信念があり
それを臆面もなく表現しているところに少なからずの人が反発を
覚えるのだろう。
まあ、多くの人に指摘されてるように永井はロリコンなのであろう。
自らは少女の幻想に逃げ込んでいるくせにそのような立場から
偉そうな説教なんてされたくはないという人の感情はよく理解できる。
153 :
考える名無しさん:01/09/07 03:11
152はコピペ荒らし。
154 :
考える名無しさん:01/09/07 05:32
しかし、<私>が問題であるときには、問題となる「内側」は必ずこの内側でなけれ
ばならないのであり、その内側やある内側であってはならないのである。<私>が永
井均である必然性はまったくない。しかしまた、「私」でありさえすれば<私>であ
りうるわけでもない。「私」は多数存在し、多くの「内側」はあっても、この内側た
る<私>が存在しないことは、じゅうぶん考えられることである。それでは、永井均
が今と同様に存在していても、そのような可能性が考えられるだろうか。永井均が存
在しない世界で、<私>が他の何もの(たとえば毒虫)でもありうるのは当然である。
しかし永井均が今と同じように存在しているのに、彼はあるひとりの「私」にすぎず、
彼とは別に<私>が存在することは可能だろうか。私は可能であると考えたい。ある
いは、それが可能であるというしかたで<私>を捉えたい。永井均が<私>であるの
は、この世界の根源的な偶然性なのであり、彼に述定されるいかなる性質も変化させ
ることなしに、彼が<私>でなくなることは想定可能なのである。
(『<私>のメタフィジックス』88ページ)
156 :
考える名無しさん:01/09/07 11:34
なんで単独性と独在性がコンフリクトするのかわからない。
全然『別の話』ではないの??ごく単純に。
157 :
考える名無しさん:01/09/07 11:56
その通り!単独性は永井的には「私」と近いかもっていうだけ。
159 :
考える名無しさん:01/09/08 05:23
あなたは私ではない。
160 :
考える名無しさん:01/09/08 06:35
人間の価値、いや動物の価値はうんちで決まります。
うんちこそがあらゆる動物に平等に与えられたものです。
いきものは食べるから、みんながうんちをするのです。
だからうんちは評価対象としてふさわしいのです。
しかし、おおきなうんち、ちいさなうんち、まあるいうんち、
四角いうんちと、その形状は多様で、評価基準は単一ではありません。
161 :
考える名無しさん:01/09/09 01:48
age
162 :
考える名無しさん:01/09/09 01:55
学生だったころ,一時はまりました.
随分ひどいかかれようですが,科学用語をレトリックとして
使うあたり,けっこう格好良かったけど.正直,読んでて気
持ちよかった.有能なコピーライターの言葉のように,鮮明
なイメージが沸いてくる.それは確かに学術的ではなかった
オナニーをさせられたり、汗臭いオマンコを顔に押し付けられたり、
汗でぬれたタオルや下着を口の中に押し込まれたり、
足をなめさせられ踏まれたりします。当然、騎乗位でセック
スもやらされます。何人の汗臭い女に犯され、
何回も愛液や唾液を吹きかけられます。犯された
けど,僕は好きだった.学術用語をつかった詩的な表現に,
学問の枠にとらわれない自由な知性を感じていました.
163 :
花の色は……:01/09/09 02:41
最初の3冊でやめて、あとはただの人として、草のように、
石のように、生きればカコヨカッタのに。
しかし、その最初の3冊にしても、一貫して水っぽい風情の顔写真
を載せてるのはイタすぎる。
スレまちがえた。スマソ
>>154 >>155 >永井均が<私>であるのは、この世界の根源的な偶然性なのであり、
>彼に述定されるいかなる性質も変化させ
>ることなしに、彼が<私>でなくなることは想定可能なのである。
うーん、てゆーことは、
2A.現に、この世界において「永井が<私>ではなく、エンクミが<私>である」かもしれない
2B.とりあえずこの世界ではあきらかに永井均が<私>なんだけど、
この世界以外にも世界が複数有れば、それに応じて<私>も複数あるかもしれない。
「エンクミのなかにいる<私>」というのもその一例。
2C.<私>はこの<私>ひとつしかないのだから、
やっぱり結局は<私>がいる世界も、「永井均が<私>であるこの世界」の一つしかない
2D.その他
どれなんだろ。やはりさっぱり解らない。ものわかり悪くてごめんね
166 :
考える名無しさん:01/09/10 14:35
age
167 :
考える名無しさん:01/09/11 01:22
age2
168 :
考える名無しさん:01/09/11 15:45
>165
「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)によると、2C.は否定されていると思われる。
また、2Aも、なんとなく、違うんじゃないかと。
169 :
考える名無しさん:01/09/12 07:16
>>165 >2B.とりあえずこの世界ではあきらかに永井均が<私>なんだけど、
このように、 あなた が書くときに、いったいなにが起きているのか、
というようなことを、永井は問題にしているのだと思う。
ちょっと失敗。「<子ども>のための哲学」に従うなら、
>145
>4.仮定をすること自体は不可能ではないにしても、
> <私>が永井でないという仮定することは永井の興味の埒外。
の方がいいですね。
<私>が永井でないという仮定は、<私>と永井均という一人の人間との結びつきが
偶然であると言いたいための思考実験のようですな。
ちなみに168が<私>のイメージをつかみやすかったのは、永井均という一人の人間は
生まれてきたが、それは<私>ではない、という仮定を自分に当てはめた、168は生ま
れてきたが、それは<私>ではないという仮定ですな。
>>114 神経は完全には有線ではありません。ニューロンとの間をシナプスと
いい、ほんのちょっぴり隙間があり、科学伝達物質にて情報を送っています。
電気エネルギーは細胞内で生起します。
>>116 意識の座は、大脳皮質前頭連合野(前頭前野)にあると言われています。
>>135 情報は集束と発散という作業によって連絡されます。これによって様々な
ニューロンに情報が受け渡されます。
>>150 種の保存として他人の赤ん坊でも助けます。死を認識した時からだと思います。
>>159 何が楽しいかは人それぞれでは?
>>173 電気量の強さで痛みの度合いを伝えます。
>>174 ちなみに遅く痛みを伝える神経系もあります。いわゆる「鈍い痛み」です。
>>169 なぜここで私145に何が起きたかに話がふられるのか解りませんね。
2B.にて「あきらかに永井均が<私>」て書いたのは、
永井均が「永井均が<私>である」ことを確信しているらしいので
それをそのまま書いたのでありまして。
もし私145が「私145が<私>であることがあきらかだ」と思って
それを永井均に投影して「永井均が<私>であることがあきらか」と
書いたのだとすれば、そのフリも意味があるかもしれませんが、
永井均が論じる<私>が果たしてそのように
単純に永井均のかわりに私145を置換えて読み取られるべきものなのかも
私145にはわからないので、今こうして選択肢を挙げて尋ねているわけです。
だから私145に何が起きたかなんていきなり言われてもこまっちゃう。
>>168 =
>>170 「<私>のメタフィジックス」執筆時点では2B.だったが
「<子ども>のための哲学」執筆の段階で4.に変わった、
てことでいいですかね。
そういえば、確かに「<子ども>のための哲学」では
「<私>のメタフィジックス」について批判的だったような気が。
ちなみに私145が読んだことがあるのは「<子ども>のための哲学」だけです。
で、自分で選択肢をあげといてなんですが、4.ってよく解らないですね。
(こんな変な選択肢を作ったことに後悔してます)
4.仮定をすること自体は不可能ではないにしても、
<私>が永井でないという仮定することは永井の興味の埒外。
この仮定が永井の興味の埒外にある事情について。
4A.永井はたまたま今までこの仮定をしたことが無かった
4B.理論的には想定可能かもしれないが、現実問題として
そんなことありっこないから
4C.想定可能かもしれないがなんとなく考えるの面倒臭そうだから
4D.その他
174 :
考える名無しさん:01/09/16 06:42
『<子ども>のための哲学』のような議論を見てると、<ぼく>でありえた範囲は
いったいどこからどこまでなのか、ということがどうしても気になってしまう。
<ぼく>が他の人間でありえたのはいいとしても、生まれて数日で死んでしまう赤
ん坊でもありえたのか? さらに、石ころやロボットではなぜだめなのか?
しかし、これは永井には「あまり重要な問題だとは思えない。よくよく考えてみた
いという気が湧いてこないのだ」そうだ。しかし、永井にとって重要ではなくても、
どのように考えてるかきいてみたい気がする。
こういう事を考えていて、最近は、<ぼく>が(固有名などを使って指示される)
ぼくでない人間である、という想定は実は無意味なのではないか、と思えてきた。
人にできることは「○○が<ぼく>である」と「言う」ことだけなのではないのか。
>こういう事を考えていて、最近は、<ぼく>が(固有名などを使って指示される)
>ぼくでない人間である、という想定は実は無意味なのではないか、と思えてきた。
>人にできることは「○○が<ぼく>である」と「言う」ことだけなのではないのか。
なんか、そんな気がしてきますな。
『<子ども>のための哲学』の中で、脱人格的自己意識の議論にはどういう意味がある
のか、改めて読んでみるといまいちわからん。誰にでも当てはまりうる一般論ではとらえ
られない<私>の特別さは、脱人格的自己意識の議論によっても表現できないのだから、
結局、その議論は何のために必要だったのか。
…うーん、本当に、何のためなんでしょうね?(わら
「私は特別である。なぜなら、かくかくしかじかの特別な性質を持っているから」という
言い方をしてしまうと、同様の特別な性質を持っているものはみな特別なものになってし
まい、私の特別さはどこかに逝ってしまう。私の特別さは、私の持っている性質などによ
らずに表現されなければならない。
しかし、私の持っている性質とは独立の、私の特別さに関する議論は、やはり脱人格的
自己意識という一般論にしかならなかった。
こういう読み替えの構造を示すための議論なんだろうか。
当たり前のことをなぞっただけの気がして、ちとむなしい(わら
176 :
考える名無しさん:01/09/19 11:29
当り前といっても、それはある程度哲学を勉強した人に
とっては、ということでは?
177 :
考える名無しさん:01/09/24 01:27
age
「翔太と猫のインサイトの夏休み」が イイ!
>178
最近読んだんだけど、面白いですな。
みなさん、『ソフィーの世界』なんか読んでる暇があったら、こっちを読みなされ(わら
ちなみに、
>>173の議論とはややずれるけど、<私>は現在168という人間であるが、
ある日突然エンクミになってしまう、ということがあり得るのか、という議論が、
『転校生とブラック・ジャック』で論じられてる(と思う)。
興味のある方はどうぞ。
180 :
考える名無しさん:01/10/07 00:00
ソフィーの世界は、思想史入門と捉えればいいと思う。
中学生高校生向け。
ただ著者の意図はミステリーを書くことにあったのではないかと思うけど。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書としてはレベルが高すぎ。
永井は子供向けと言ってるが、ここでの子供とは<子供>の事を指しているのであって、
たとえば中学生のことを指しているわけではない。
もちろんこれを理解する中学生もいるだろうけど。
だから哲学板にいる人で、哲学の雰囲気だけでも味わってみたいという人がいるなら
そうした人にとって格好の良書だと言える。
181 :
考える名無しさん:01/10/07 00:01
ソフィーの世界は、思想史入門と捉えればいいと思う。
中学生高校生向け。
ただ著者の意図はミステリーを書くことにあったのではないかと思うけど。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書としてはレベルが高すぎ。
永井は子供向けと言ってるが、ここでの子供とは<子供>の事を指しているのであって、
たとえば中学生のことを指しているわけではない。
もちろんこれを理解する中学生もいるだろうけど。
だから哲学板にいる人で、哲学の雰囲気だけでも味わってみたいという人がいるなら
そうした人にとって格好の良書だと言える。
何度も薦めるべき良書だと述べたいわけではない。
ただの書き込みミスだ。
>>181 >『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書
としてはレベルが高すぎ。
いや、でも本質的な部分を平易に語ってくれてるし、まさしく
入門書に適してると思うな。
184 :
考える名無しさん:01/10/08 01:25
彼の授業はどんな感じなの?
面白いのかな?
あの本を読んでいるときのスリリングさを感じさせてくれる?
あと、学会ではどんな感じなのだろう?
>>184 あー、それ俺っちも興味あるな。
誰か知らない?
本を読んでると、雑談の入れ方がうまいので、
こういう人は授業がうまいんじゃないかと思う。
どうなの?
ところで、永井がロリコンってホントかな?
そうだといいなあ。
共感できるよ。
188 :
考える名無しさん:01/10/09 16:59
age
189 :
考える名無しさん:01/10/22 17:46
あげとく
191 :
考える名無しさん:01/10/23 11:59
永井さんの授業は正直つまらないってのが僕の回りでの印象かな。
うちの大学が馬鹿だったてのもあるけど(前にいた大学ね)。
特に教養過程@大講義室のときなんかはぼそぼそと訳わかんない事
話して帰ってく変な人ってイメージが強かった。
そして帰った後の黒板には培養漕の中の脳から吹き出しが無限ループで
続く???な絵が・・・。
インサイトの夏休みが教科書だったけど、それでも理解している学生は
一握りって感じ。まあ、教養の授業なんてそんなものかもしれんが・・・
僕自身は、授業中暇つぶしに読んだ「インサイト」と
「子供のための〜」が面白くて真面目に授業を聞くようになった。
そして気が付けば一語一句聞き逃さないように集中している自分が。
専門の授業は興味がある人間だけが来ているだけあって雰囲気も良く、
授業のレベルもそれなりな感じ。
総括すると、授業自体は上手いとか面白いという類ではない。
その代わり、少しでも興味を持って理解できる人にとっては授業の
技術なんて気にならないほどのめり込める話をしてくれる。
あと、成績評価に関しては出席してくれれば単位はくれる。
学生に自分の話を理解してもらうことは期待していない。
192 :
考える名無しさん:01/10/24 11:43
>特に教養過程@大講義室のときなんかはぼそぼそと訳わかんない事
>話して帰ってく変な人ってイメージが強かった。
>そして帰った後の黒板には培養漕の中の脳から吹き出しが無限ループで
>続く???な絵が・・・。
それ、なんか、いいなあ(笑)。
>学生に自分の話を理解してもらうことは期待していない。
そりゃそうだろ(w
194 :
考える名無しさん:01/10/29 19:18
うちの子供が小学校5年くらいのとき,『翔太と猫のインサイトの夏休み』とか『子どものための哲学対話』を与えたら,けっこう面白そうに読んでた。
問題設定は子供でも分かるってところが,たぶんいいのだろう。
でも,本当の面白さは彼が高校くらいにならないとわからないだろうね。
196 :
考える名無しさん:01/10/30 03:03
「マンガは哲学する」読みました。
めっちゃおもしろいです、彼は天才です。
日本人の哲学者の中ではダントツ一番の哲学センスです。
197 :
考える名無しさん:
>>196 >「マンガは哲学する」=永井が書いた中で一番つまらん本