・2ちゃん大河板でよくみかける特殊な用語
赤マフラー:大河ドラマ「北条時宗」で、時宗の兄「時輔」が史実で死んだ後も
赤マフラーつけてモンゴル・日本を駆け回って大活躍したことから、
史実で死んだはずの人間をドラマのみの設定で生きのばす行為を「赤マフラー」と呼ぶ。
サニー:板垣信方(千葉真一)のこと。
千葉真一がハリウッド進出時にサニー千葉という芸名を使ったことから。
デスラー(総統):太原崇孚雪斎(伊武雅刀)のこと。
伊武雅刀が宇宙戦艦ヤマトでデスラー総統の声優だったから。
カピバラ、カピ様、カピ信:武田晴信(市川亀治郎)のこと。
アマゾンに生息する世界最大のネズミ、カピバラに亀治郎の顔が似てるから。
両津(姫):由布姫(柴本幸)のこと。眉毛がこち亀の両さんに似てるから。
クマ、クマー:今川義元(谷原章介)のこと。谷原章介がテディベアの収集家であることから。
前回出演の「新選組!」以来そう呼ばれ続けている。
キャンペーン:真田幸隆(佐々木蔵之介)のこと。「キャンペーンなんだよ」のCMに出てたから
日本三大がっかりおっぱい :・星野真理 ・池脇千鶴 ・京野ことみが出演した、
・「ジョゼとなんたら」
・「さよならみどりちゃん」
・「Takeshi's」
を見て下さい。
○オープニングの映像で出てくるムカデにはどんな意味があるのでしょうか?
●簡単に言っちゃうと、この後信玄が戦場で各部隊に連絡を伝えさせる
伝令将校を「ムカデ衆」とネーミングする、そのムカデ衆の指し物
(背中に背負っている旗)のデザインがあのムカデの絵。たくさんの
足でどんな戦場にも素早く指令を運ぶ、という意味合いでしょう。
それまで各部隊各指揮官がめいめい勝手に戦っていたのを、本陣の
指揮系統にのっとって組織的に動かす傾向を強めたのが信玄時代で、
戦場を駆けめぐり御屋形様の下知を触れて回る「百足衆」は繊細で
緻密な戦いをする無敵武田軍のシンボル扱いされました。
決して後退しない・前進あるのみという点から戦国武将に好まれた、
という説もあります。
●仕官って何ですか?間者としてあちこちに遣わされている勘助では、まだ
「就職」したことにならないのでしょうか?
○仕官とは、武士が主家に召抱えられ、給料をもらう立場になることです。
昔は、俸禄(お給料)は米でもらったので、禄を食む(ろくをはむ)とも言いました。
主君が「毎年○○石」を米や金であげたり、確実に○○石の収穫が計算できる
土地を与えたりするのが「仕官」というわけです。今の感覚でいうと、正社員です。
合戦のたびに駆り出される兵は、一時的な雇用関係のアルバイトや契約社員の
ようなもので、正規雇用の関係ではありません。
勘助は、これまで主君をもたず戦のおこぼれをもらって食べていたものの、いつかは
軍師として身を立て、名を上げたい。しかしどの戦国大名も家来の数を増やすことは
難しいし、よほどの武功を立てるまでは浪人として、機会をうかがうしかない。
いっぽう「食客」は、契約とは微妙に異なる立ち位置で、特に定められた仕事を要求
される雇用関係ではなくただの居候として小遣い程度の扶持しかもらえないものも
ありますが、追放された信虎や斉藤竜興など、国を追われた元大名が歓迎されて
置いておかれることをいう場合もあり、必ずしも地位が低い人ばかりではありません。
●コッペパンてなんですか?
○マジレスすると、
本スレで、
「OPを『コッペパ〜ンたららったらら〜ら〜』
と歌ってしまう、なんでコッペパンなんだろw」
等とレスした某氏がいたから、そこからの引用かと。
●上杉Gacktはいつ出ますか?
○公式参照汁
おそらく6月17日。もしかしたら6月10日のラストとかにチラッと出るかも。
06月03日第22回『三国激突』………………………
06月10日第23回『河越夜戦』………………………
06月17日第24回『越後の龍』………………………
●これは誰が考えたの?
┏━━┓
┃掠疾┃
┃如如┃
┃火風┃
┃不徐┃
┃動如┃
┃如林┃
┃山侵┃
┣━━┛
┃
┃
○中国の思想家 孫子
軍隊の進め方について説いている。
移動する時は風のようにすばやく、止まる時は林のように静かに、
攻撃する時は火のように激しく、防御する時は山のように
という意味
花倉の乱(1536年):信虎追放(1541年):第十九回1543年夏
*大河スタートは信虎弟戦死なので1535年
*戦国時の歳の数え方は数え年(0歳がなく、正月で1歳年をとる)なので気になる方は+1歳しましょう。
山本勘助:35歳 :40歳
武田信玄:15歳 :20歳
三条夫人:15歳 :20歳
武田信虎:42歳 :47歳
禰々:9歳:14歳
大井夫人:39歳 :44歳
武田信繁:11歳 :16歳
板垣信方:?? :??
甘利虎泰:38歳 :43歳
飯富虎昌:32歳 :37歳
飯富源四郎(山県昌景) 7歳:12歳
教来石景政(馬場信春)21歳:26歳
小山田信有:17歳 :22歳
原虎胤:39歳 :44歳
諸角虎定:56歳 :61歳
高坂弾正9歳 :14歳
内藤昌豊14歳 :19歳
真田幸隆:23歳 :28歳
上杉謙信:6歳 :11歳
上杉憲政:13歳 :18歳
今川義元:17歳 :22歳
寿桂尼:46歳? :51歳?
太原雪斎:40歳 :45歳
庵原忠胤:??:??(但し、 太原雪斎の兄なので50歳:55歳くらい?)
朝比奈泰能:39歳 :44歳
北条氏康:21歳 :26歳
北条氏綱:49歳 :54歳
諏訪頼重:20歳 :25歳
由布姫:6歳 ?:11歳?
村上義清:35歳 :41歳
織田信長 :2歳 :7歳
簡易年表・・・注:史実とドラマは微妙に違うし、史実も諸説有り
1515■北条氏康誕生(博多人形)
1519■今川義元誕生(石田純一の孫の儀父)
1521■武田信玄誕生(カピバラ)
1530■上杉謙信誕生(ガクト)
1534■織田信長誕生
1535■山中湖の戦い 信虎弟・勝沼信友、北条に攻められて戦死 ←大河スタート
1536■花倉の乱
1537■豊臣秀吉誕生 武田晴信、佐久海ノ口へ初陣
1538■武田義信誕生
1540■諏訪頼重、信虎三女(信玄妹)禰々と婚姻
1541■武田信虎追放 北条氏綱死亡
1542■信玄諏訪攻め 諏訪頼重死亡
1543■由衣姫と晴信の婚姻 高遠家と戦争 徳川家康誕生
1544■真田幸隆 武田に仕える
1545■河越の合戦 今川と北条、武田の斡旋で和睦
1546■武田勝頼誕生
1548■上田原の戦い←板垣信方&甘利虎泰死亡
1552■武田義信結婚(今川義元の娘) 砥石城で武田敗北、小山田信有死亡 大井夫人死亡
1553■村上義清追放 第一次川中島(布施の戦い)
1555■第二次川中島(犀川の戦い) 太原雪斎死亡
1557■第三次川中島(上野原の戦い) 朝比奈泰能死亡
1560■桶狭間の戦い←今川義元死亡
1561■第四次川中島(八幡原の戦い)←山本勘助&武田信繁&諸角虎定死亡
1564■第五次川中島(塩崎の対陣) 原虎胤死亡
1565■飯富虎昌死亡
1567■武田義信幽閉
1568■寿桂尼死亡
1570■三条夫人死亡
1571■北条氏康死亡
1573■武田信玄死亡/三方ヶ原の戦い←家康ウンコ漏らす
1574■武田信虎死亡 真田幸隆死亡
1575■長篠の戦い←馬場信春&山県昌景&内藤昌豊死亡
1578■上杉謙信死亡 高坂弾正死亡
●小山田が郡内領主と言われていましたが、どういうものですか?
板垣など、他の家臣とはどう違うのでしょう。
○小山田氏は桓武平氏の流れを組む名門で、武田が内紛で弱体化していた
戦国初期には、甲斐国東南の「都留郡」「郡内」を収める統領として「郡内守護」を
自称していました。郡内は地形的、政治的に甲斐とは別の国と言っていい状況に
あり、信濃の小笠原、駿河の今川らのような「一国の主」に近い立場だったわけです。
板垣、飯富、甘利らも自分の土地を持ついわば貴族領主ですが、政治的に
武田を自分たちの上にある国主として仰ぎ、税を差し出しています。
しかし信虎が14歳の時に国主の後継争いに勝ってその勢いで小山田領に
攻め込んだ時、小山田は信虎に税を差し出すいわれのない「隣国の国主」と
して国家間戦争を戦ったわけです。そして痛み分けのような形で信虎が
妹を嫁に出す形で甲斐国と都留国の「同盟」が結ばれた形になりました。
この相手が今ドラマに出ている小山田の、父親にあたる越中守信有です。
以後信虎の中央集権化にともない、本人は自国の郡内を離れていわば江戸
時代の参勤交代のように甲府に住まわされ、税も取り立てられる家臣に
近い位置にねじ伏せられますが、信虎も小山田の格式を立てて他の「部下」
とは別格の扱いをしていました。ドラマでの田辺小山田の発言はそういう
状況を付かず離れずうまく泳ぎきっている小山田勢のプライドと屈折の
表れと見てよいでしょう。
ドラマでは板垣や甘利より下座に位置していますが、この時小山田信有は17歳
(1536年当時)。 若輩もいいところなので、下座でもおかしくないと言われています
●武田二十四将とは ?
○武田二十四将は、江戸時代の初期、こうようぐんかんがブームとなって
作られたモノであるらしい。
どうして二十四かというと、中国に、唐太宗二十四将や、光武帝二十八将といわれる
名将たちの伝承があって、そこからパクったモノらしいです。
武田二十四将絵巻は、そもそも軍談から派生したモノで、歴史検証などいい加減で、
だいたいのメンバーは決まっているものの、
こっそり自分の先祖や、先祖が仕えた殿様を入れちゃったりするので、
各将の活躍した時代も、二十四人のメンバーもバラバラ
という事態になっております。
┏━━━━━━━┓ ∧_∧ ∧_∧
┃ 武田二十四将 ┃( ・∀・)ニヤニヤ (・∀・ ) ニャルホド♪
┣━━━━━┯━┻○━○━━━┯∪∪━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━┓
┃甘利虎泰 │あまりとらやす ...│信虎配下の猛将 .│[1548 享?] (敗死)上田原....┃
┃板垣信方 │いたがきのぶかた...│増長した軍略家 .│[1548 享?] (敗死)上田原....┃
┃横田高松 │よこたたかとし ...│沈着冷静な横田備中 ..│[1550 享62] (敗死)砥石城....┃
┃武田信繁 │たけだのぶしげ ....│敵からも死を惜しまれた勇将│[1561 享37] (敗死)川中島 ..┃
┃山本勘助 │やまもとかんすけ....│謎多き異彩の軍師 ....│[1561 享?] (敗死)川中島 ..┃
┃小幡虎盛 │おばたとらもり ..│多数の感状を拝した勇将 │[1561 享71] (病死) ┃
┃多田満頼 │ただみつより ...│夜襲の名手 ....│[1563 享62] (病死) ┃
┃原虎胤 │はらとらたね .│北条から帰参した猛将 .│[1564 享68] (病死) ┃
┃飯富虎昌 │おぶとらまさ .│家中随一の宿老 . │[1565 享62] (自害) ┃
┃真田幸隆 │さなだゆきたか .│智略に長けた攻め弾正 .│[1574 享62] (病死) ┃
┃馬場信春 │ばばのぶはる │不死身の鬼美濃 .....│[1575 享61] (敗死)長篠 ..┃
┃三枝守友 │さえぐさもりとも ..│奥近習から大出世 │[1575 享38] (敗死)長篠 ..┃
┃真田信綱 │さなだのぶつな │先鋒隊として活躍 ......│[1575 享39] (敗死)長篠 ..┃
┃土屋昌次 │つちやまさつぐ .│川中島で信玄を守り抜く .│[1575 享31] (敗死)長篠 ..┃
┃内藤昌豊 │ないとうまさとよ .│前線を支えた内政家 .│[1575 享54] (敗死)長篠 ..┃
┃原昌胤 │はらまさたね ...│信頼厚き陣馬奉行 .......│[1575 享45] (敗死)長篠 ..┃
┃山県昌景 │やまがたまさかげ │諸大名が畏怖した赤備え │[1575 享47] (敗死)長篠 ┃
┃秋山信友 │あきやまのぶとも ...│知勇兼備の猛牛 . │[1575 享49] (処刑)長良川 ┃
┃高坂昌信 │こうさかまさのぶ . ..│戦術に優れた逃げ弾正 │[1578 享52] (病死) ┃
┃一条信龍 │いちじょうのぶたつ.│花麗を好んだ伊達者 ......│[1582 享?] (敗死)上野城....┃
┃小山田信茂│おやまだのぶしげ...│関東平氏を継ぐ名族 .│[1582 享44] (処刑)善光寺....┃
┃武田信廉 │たけだのぶかど │影武者を務めた文化人 ....│[1582 享51] (処刑)古府中....┃
┃穴山信君 │あなやまのぶきみ .│確かな内政手腕の知将 │[1582 享41] (敗死)木津川....┃
┃小幡昌盛 │おばたまさもり . . . .│父と共に合戦を渡り歩く │[1582 享49] (病死) ┃
┗━━━━━┷━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━┛
●平賀の娘婿の大井と、第十九回に出てきた大井は
違う人だけど同じ一族なんですか?
大井夫人は関係あるんでしょうか?
○第十九回に出てきた大井貞隆は、平賀源心の兄。
信濃の大井氏は、鎌倉時代に小笠原氏から分かれた家。
甲斐の大井氏は、南北朝時代に武田氏から分かれた家。
なので関係はない。
●輿入れの際(三条・禰々・由布)が首に下げてた筒って何?
○あれは「懸け守り」といって、文字通りお守りです。
嫁入りだけじゃなく、社寺詣での時にも懸けたりしていました。
テンプレここまで。
加筆修正削除がある場合は、名前欄か文中にテンプレ、
またはテンプレの1語を入れてくれると、次スレ建て人が
助かると思われ
13 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/16(水) 22:41:17.76 ID:jmo4JJr1
スレ立て&テンプレ貼り、ほんと乙です!
山勘の語源が山本勘介ってほんとのことですか?
>>1 スレ立て、ようしたぁ〜
>>14 そういう説もあるが、どちらかというと「山師の勘」の方が有力かもしれない
まずは乙
テンプレについての提案だが、前スレにも書いている人がいるが
年齢は「数え年」で書くべきだと思う 当然作中はそれで統一されてるのだし
あと、そろそろ開始時:信虎追放でなくて、スレを立てた時点の
最新話での年齢に切り替えるべきではないだろうか
それと簡易年表の1543年だが、由衣姫になってるのを訂正すべきなのと
徳川家康誕生はいらない 西暦では現在の話(19話)の年に
生まれたことになるが、和暦では前年の天文11年生まれ
特に必要もなく誤解を招くだけ
まあ数え年のほうがこの時代の年齢表記として好ましい一番の理由は、
具体的な誕生日が不明の人物が多いから、同じ年でも誕生日の前か後かで
年齢が変わる満年齢は使いにくいってことがあるな。
あと小山田の解説についても前スレでもいろいろいわれていたけど、結局
どうなったの?
20 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/17(木) 03:56:51.92 ID:JuJObAGj
信長は自分の誕生日をお祭りの日にしていたが
誕生日が閏月だったらどうするつもりだったのやら
>>19 前スレを小山田で抽出してみたが、
このスレ
>>7の問題点がよくわからん。
具体的にヨロ
part1、2も含めての前スレという表現なら、例の国主の格問題か?
感覚で言うけど穴山・大井辺りとさして違わないんじゃないの?
この話題自体いまさらという気もするけど。
24 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/17(木) 12:40:41.60 ID:PIxEF/K7
>>22 >信濃の小笠原、駿河の今川らのような「一国の主」に近い立場だったわけです。
この一文に異論が入った。
小笠原、今川と同レベルではないと。
けど、「一国の主」には違いないと思うけど。
瑣末な事だが、
1スレ目の終盤で異論が出たのは、
>「一国の主」だったわけです。
の件。で2スレ目はテンプレ見送り。
で、3スレ目で
「一国の主」に「近い立場」だったわけです。
↑を入れるつもりだったと
オモ。
故に今回、
>「一国の主」に近い立場だったわけです。
とした。
守護職に就いている武家を一国の主と呼んでいいものかどうか、
という問題もあるね。
前スレで827が幾つかの修正案をだしたのが
2007/05/11(金) 11:07:10.21
このスレの1が
2007/05/16(水) 21:16:48.87
丸五日以上だな。
>>26 【初心者歓迎】風林火山質問スレ4【途中参戦歓迎】で
そこまで突っ込むなら、
なぜ代案を出さなかったんだ ?
2ちゃんねるのスレッドをここまで熱心に「運営」している廃人も珍しい
どうしても江戸時代以降の大名の感覚で見てしまうから
戦国大名やそれ以前の守護や国人、地侍についてはようわからんのよな
2ちゃんねるなんて、せいぜい一日一回眺めて、
最後のほうの書き込みにチョコチョコ反応するだけでしょう。
ところで、テンプレの8の、二十四将についての書き込みをした者なんだけど、
二十四将は江戸初期までは遡れないのではないかと疑義が呈され、
そうかもなぁと思ったので、次スレにも張るなら直しておいてね。
ふと疑問。
この板、だいたい何日ぐらい書き込み無いと
スレ落っこっちゃうんですかね?
やっぱり同じ封建制度といっても江戸時代とは全然違うね。
ヨーロッパの封建制度に近いのかな。ドイツとかイタリアとか?
兵農分離前だから農民も武器持っていて戦に駆り出されて武士も主君が状況によってころころ
変わるし(真田氏)複数持ってる場合もあるし国人領主の独立性強くて武田信虎も甲斐収めるのに
苦労して最後彼らに追われるし建前は長子相続だけど骨肉の家督争い凄くて家臣が主君殺すのも容赦しない。
非常に個人主義的。
そこが下克上の乱世の面白さでやがて百姓からのし上って天下とる人間も現れる。
今回の大河は農民や村も描いていて土の匂いがして戦国時代を身近に感じさせる大河だと思う。
封建制度のギブ&テイクが法の観念発達させ平和な江戸時代に実力蓄えて近代化に成功したと
聞いた事がある。
そこが専制君主が納める中央集権の儒教国家中国や朝鮮と決定的に違うところだと。
司馬遼太郎氏も御成敗式目を作った鎌倉時代が中国の政治制度からの分かれ道で日本は昔から中国文化圏の
異端児だって言っていた。
長子相続制や家紋あるのヨーロッパと日本だけらしい。
いつも不思議に思う。なんで近代になって大陸と違う道歩むようになったのか?
ここは『文明の生態史観』を読むスレになりました
>>32 なかなか興味深い話だが、ここは君の演説を聞くスレではなく、ドラマの質問を受け付けるスレなんだよ
梅棹忠夫著「文明の生態史観」
梅棹忠夫・林屋辰三郎・山崎正和著「日本史のしくみ」
スレ違いだけどこの大河見ながら思い出したんで。
亀さんも周恩来の事書いた本読んでるって言ってたから指導者とは?とか考えながら
信玄演じてるのかとかいろいろ想像してしまった。
この大河普通に香港とかヨーロッパとかアメリカで放映されてるから日本についてどう思われてるとか?
想像しながら見ると楽しい。
質問に対する回答以外じゃ長文読む気にゃならんなあ。
>>34 余り武田信玄から離れたくないので、甲斐武田を例に取れば
当時の日本という地理的位置と島国という国土、それと人々の地理的感覚
が重要なファクターの1つであるのでは、と思う
甲斐だ諏訪だ佐久だ小県だという地理的感覚は
周りが山に囲まれて局所的、主要道路で結ばれるという特徴が
中世ヨーロッパの都市国家に似ている
四方から攻め込まれる可能性のある広い平原をもつ中国大陸と違う所だ
しかしヨーロッパもローマ帝国から始まる道路網の整備や航海術など交通手段の発展に対し
島国という城壁にとどめ鎖国を行い、それを運良く理解され?侵略されなかったという江戸時代・・・
疑問について、甲斐武田の栄枯盛衰を省みるのにも、地誌学が役立つのでは?
あの、毎回出てくる最後の最後の「終」の
旗の模様が変わってるように思うのですが
あれはどういう意味があるのでしょうか。
重臣連中のじゃなかったっけ ?
多分2ヶ月毎に更新。
三番目の現在は多分小山田
>>39 ありがとうございます。それで「小」だったのか。
41 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/19(土) 19:29:13.17 ID:2fl0jMl4
小山田氏は、武田氏とは主従関係(被官関係)にはないけど、
武田氏が甲斐国守護という立場で接してきた場合には、従わざるを得ないって
ところだろう。
43 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/19(土) 20:32:52.42 ID:F4WsGaCd
三条だけが笛の音の違いに気が付いたのは、やっぱり笛が家業の家の娘だから
自分自身は上手くなくても耳は肥えていたってことかな?
>>43 それもあるかもしれない
ただ、描写の意図は、三条が
「笛の音の違いがわかるほど凄く気にしていた」
「二人の関係が発展したことを知った」
辺りだと思う
あまり耳が肥えてる肥えてないは関係ないかも
>>41 主従関係でなかったら躑躅ヶ館にいつもいないだろ
特別待遇してやるから臣下の礼とれって言われた感じじゃね
秀吉と家康みたいな関係?
・小山田は、田辺の父親が信虎と戦って戦死するほどの敗北を喫して武田の軍門に下った。
・郡内にはたびたび北条軍が侵攻してきて、小山田だけでは対処が難しいのだが、武田家の増援で撃退することができた。
そんなこんなで小山田は武田家にくっついてる。
諏訪を潰した時点で晴信の勢力は周りの村上、今川、北条よりも一歩先を行ったんですか?
戦死したのは父親ではなく祖父・信隆
田辺演じる信有は信隆の子・信有のさらに子
(父と同名を名乗っている)
さらに田辺演じる信有の子もまた信有
だいたいその時期だと、
山内上杉>越えられない壁>今川>北条>越えられない壁>武田
ぐらい
その超えられない二つの壁がぶっ壊れる原因となった、と考えると
河越や桶狭間が日本三大夜戦に数えられるのもわかる気がするな
景虎の姉・仙桃院は、風林火山では桃姫らしいですが、
なぜか綾姫だと記憶していました。
これは湖衣姫と由布姫の関係と同じで、
「天と地と」で創作された名が広まった結果なのでしょうか。
他の多数の女性と同じく、彼女の本名も伝わっていないのでしょうか?
52 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 01:38:49.35 ID:rz1uwJ6S
>>45 てか
>>41は信虎が戦国大名化する以前の状態を書いていると思うのだが。
まあ守護家が戦国大名化する以前には守護の被官ではなかったという点では、
駿河にいる庵原や岡部も似たような立場だが。
53 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 01:42:24.71 ID:rz1uwJ6S
>>51 女性の場合正式な諱(「○子」という形式のもの)は、朝廷から位階でも
貰わない限り名乗らないだろうから、本名(諱)はないというのが実際じゃね?
軍師になったら他の幹部より偉くなるの?
別に偉くはならないでしょ
身分や権限低くても側近が発言力持ったりするのは古今東西よくあることだけど
57 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 19:07:58.24 ID:PlNp4sOG
質問です。
当時の「奔放に情を交わす」っていうと今でいうどのくらいディープなプレイなの?
>>57 >奔放に情を交わす
あくまでも晴信個人の主観なので
小山田が見たらどう思うかはわからない。
59 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 19:57:36.70 ID:aLYM/w5X
>>58 ワロスw
田辺誠一を他のドラマなどで見かけても
どうしても小山田にしか見えない。
60 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 20:19:00.63 ID:axS6fmaw
京都太秦撮影所で撮影されてるんですか?
61 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 20:53:46.70 ID:1Y/PP8Ai
すいませんけど
三条婦人は甘酒で死ぬの?姫はどうなるの?
来週までまてなくて・・・
ネタばれはまずいのであれば歴史上ではどうなると?
三条は勘助より長生きするから心配スンナ
63 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 20:58:37.33 ID:1QBN4crA
>>57 マジレスすると「セクロスは喜んでやらせてくれんだけどその後スゲー冷てんだよな…」
64 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 21:00:00.71 ID:67WNfQb9
「恨みを捨てて大望のために生きる」がこのドラマのテーマ。
勘助・由布姫・真田は「恨みを捨てて大望のために」生きた。
しかし、最後は越後へ落ち延び、
最後まで武田への「恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれる。
(最終回)
65 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 21:13:02.11 ID:aLYM/w5X
合戦の時に身につけるようにと、晴信より贈られたじんべえの
背中にあしらわれたマークは何がモチーフになっていて、
どういった意味があるのですか?
67 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 21:16:29.78 ID:aLYM/w5X
>>66 山ですか、ありがとうございます。
マークの中心部が万年筆のペン先に見みたいにみえましたw
68 :
名無し募集中:2007/05/20(日) 21:38:13.34 ID:apJNTnOP
話は遡るけど・・・
・第2話でナレーションが「勘助の養父母(大林氏)が住んでいる三河牛窪は、
今川氏の領土で、牧野氏が治めていた。」と説明していたけど、この頃の
松平氏(のちの徳川氏)や織田氏は、何をしていたの?このナレーション、
後の話の伏線に思えるのはなぜ?
69 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 22:03:23.63 ID:Wj91jsZL
三河一国は松平清康(徳川家康祖父)が治め、牧野氏(大林氏の主家)も松平に従っていた。しかし、1535年(このドラマが始まった年)、清康は守山崩れで急死、牧野氏はじめ東三河の大半の国人領主は今川に従った。
織田家は信長の父信秀の時代。その頃の織田家は一族が分裂して争っていた。
70 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 22:10:24.66 ID:z9a3IBv3
平蔵はどうして武田を憎んでるの?
先代がミツを殺したから?は勘助か。
それと、由布姫は何歳で側室になったの?
>>68 松平は、家康の祖父清康が大活躍→守山崩れで暗殺→松平氏ひっちゃかめっちゃか、という辺り
織田も信長の祖父信定→父信秀と世代交代する辺りになる
ちなみに信長の家はまだ尾張守護代織田氏の重臣格
72 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 22:20:15.10 ID:XX931mIe
>>70 ミツと幼馴染だったのが平蔵。
だから、勘助と一緒でミツを殺したから恨んでる。
花倉の乱(1536年):信虎追放(1541年):
由布姫:6歳 ?:11歳?:
今週の時点で1543年。
で、半年前に嫁いだそうだから、13歳くらい(数え14歳)。
現在の感覚では若すぎるが、この当時ではそれほど珍しくはない。
諸角が豊後守だったり、板垣が駿河守だったりしますが、
○○守っていう官位?は朝廷からもらえるんですか?
それとも大名が勝手にあげてるの?
もし、大名が勝手にあげてたとしたら、
それって朝廷に怒られたりしないんですか?
どなたか詳しい方、教えて下さい。
初心者の質問で申し訳ないです。
もし、過去に同じ質問あったらゴメンなさい(_ _)
74 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 22:45:58.85 ID:NE2EF8OP
明治時代とか平均身長が150cmぐらいだったと
記憶していますが戦国時代は更に平均身長が低くな
るのでしょうか?
またよく武田の騎馬隊は存在しなかったと言う内容
の書き込みを目にしますが、では武田家の特徴は馬
では無く何だったのでしょうか?信長が恐れた武田
家の特徴って何でしょうか?謀略??
75 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 22:48:56.07 ID:2LYlx1pU
最後のガッカリと鼻姫のやりとりの意味がさっぱりわかりません
あの二人の関係と心の中はいったいどうなってんの?「わからん」
>>73 大名家の場合は代々任官している官位を朝廷に奏上してもらってる。
家臣クラスで官位名のってる奴はほとんど自称。
>>74 骨の研究からだと、日本人の身長は弥生時代の成人男子の平均身長164cmから徐々に低くなっていき、
江戸末期・明治期の154cmが最低とか。
戦国のころは160cm弱くらいが平均らしい。
軍馬に関する説は二転三転してる。
新しい奴だと、むしろ大河ドラマっぽい使い方が正しいんじゃないの?といわれてたりする。
>>73 それ、前々スレにあったな。テンプレないのか
○○守は国主という意味で今で言えば知事。
警察と軍事を統括する武家の役職の、○○守護職とは別物。
○○守は、元々は律令制度での官で、朝廷の貴族や皇族ぐらいしかなれない。
朝廷から任命される。源義経は伊予守に任命された。
そのご、戦国時代ごろになると、朝廷の権威が失墜し、田舎の武士が勝手に名乗るようになった。
僭称といって、板垣なんかはそれ。本当は重罪。
しかし、晴信が大金を贈与して信濃守の官位をもらったりしているので、
戦国の官位でもホンモノもある。
信長や秀吉の時代になると、部下への褒美として正式な官位を朝廷から下してもらうようになる。
かづとよの対馬守なんかはホンモノの官位。
>>68 勘助の仕官を毛嫌いした今川義元は、桶狭間の戦いで首を取られた後、
胴は三河牛窪(豊川市牛久保町)まで運ばれ大聖寺に葬られた。
一方、翌年川中島で討たれた勘助の遺髪と麻利支天像が、養子として
少年期を過ごした牛窪の長谷寺に安置されている。
その距離、1キロと離れていない・・
>>73 官位任官出来るのは朝廷のみ。
源頼朝以来、武士の官位は「幕府を通して」朝廷から貰うことになってます。
(勝手に直接貰っちゃった義経は頼朝を激怒させた)
大名が勝手にあげちゃったりすると自らの存在意義壊しかねないくらい
武家社会システムに深く関わってたりするんで、これはありません。
「官位貰えるように頼んどいたよ〜」というのはあります。
幕府がグダグダに弱くなると金出しゃ買えたりしますが。もちろん幕府を通して。
信玄の信濃守なんかこれ。
戦国期は乱発な上に自称したり世襲官位があったり、山県昌景の三郎兵衛尉みたいな
「それ官位?」なんてのもあってもう無茶苦茶。
>>75 62 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2007/05/20(日) 19:20:56.19 ID:SKjbhXtk
最後の甘酒のシーンだけど、当然酒に毒なんか入っていなくて、
ただ由布姫が「わたくしはそなたを信じておるのじゃ」という三条に対して
痛烈な皮肉をあびせるためにやったことなんだろうね。
「なーんだ、『人は皆善人』だとか『そなたを信じてる』とか言ってたけど、
やっぱりそれはウソで、結局私を疑ってるじゃんw」と。
追加 三条の心内の憶測
無論、嫉妬心はあるだろうが、感情は押し殺して
見目麗しくは無い殿のために、奥方のつまらない諍いで
煩わせぬ様に、必死に眉毛に歩み寄ろうと
し続けているのではないかと。
83 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 23:42:06.84 ID:2LYlx1pU
84 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/20(日) 23:47:02.97 ID:Y7+/FwqH
自己のツンデレ性との葛藤及び、その克服ではなかろうかと、
両津先生は解釈しておられます。
85 :
73です。:2007/05/20(日) 23:48:04.20 ID:+YVFv0LI
>>76・78・80さん。
ありがとうございました。
勉強になりました。
あの時代、武田家の人々は自分らの本拠地のことを
「甲府」」と呼んでいたのでしょうか
>>86 そう。甲斐府中という。
駿府や長府なんかと一緒。
ただし、甲府は律令体制の国府が置かれたからではなく、
甲斐守護武田氏が本拠地を置いたことからの由来。
超初心者ですみません
登場人物みんな総髪ですが
いつ頃までなんでしょう?
功名は信長以外みんな月代ツルツルだった気がして。
この後の時期に急激に広まったのでしょうか?
89 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 00:16:45.73 ID:9dts9+nq
官職を勝手に名乗っては場合でも
上野、常陸、上総は守ではなくて介を名乗るな。
このドラマでいえば荻原常陸介とか信長なら上総介とか。
いや、ほかの国の国府を意識することが少ない時代だから
単に「府中」と呼んでたのかなあ、と思って。
しかし国衙のあった場所と別だとは知りませんでした。
ありがとう。
91 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 00:27:06.37 ID:KFMWUJ6i
三条は晴信のこと愛してるみたいだけど、晴信は三条のこと愛してないの?
他の武田信玄ドラマより三条があまりにいい人すぎるので不幸なのは嫌だ。
このドラマ最初の方全然見てなかったので、晴信と三条の心情的なつながりがよくわからない。
92 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 00:30:01.89 ID:9dts9+nq
>>91 晴信は前回由布姫と話したときに
「三条の気遣いをわかってほしい。」という主旨の事を言っていたし
「三条のためにもそなたに討たれてやることはできぬ。」とも言っていた。
奥さんとして信頼しているし、
子供が途切れずに出来ているということは
ちゃんと夜のお相手もしているし、
仲は相変わらず良いんじゃないだろうか
>>88 歴史上ではどういう区分けかはわからんけど、大河じゃ大体いわゆる「戦国時代」では総髪で
織豊期に入る頃からは月代って感じだな
功名が辻でも初回は総髪ばかりだったが美濃攻めが終わったあたりから信長たちは月代になってたと思う
一豊の頭が月代に変わったのは長浜に屋敷もらった頃だったかな
んなわけで、この風林火山じゃみんな最後まで総髪じゃないかな
96 :
88:2007/05/21(月) 00:37:05.79 ID:ErtfXDQ2
>94
早速にありがとうございます!
そうでしたか。確かに織豊期から月代のイメージ強いですね。
功名の最初のほう、記憶があやふやでした。
すっきりしましたっ
>>89 律令時代の親王任国は実質的なトップの介名乗りだな
自称でもその辺はマナーってか
>>93 三条に対する晴信のいたわりの心はそういう台詞でわかったよ。
あの腹の中の子は黄梅院(長女)か見性院(次女)だな。
>>94 結髪については、そのドラマごとの扱いという感じですね。
男性の月代もそうだけど、
女性の垂髪と結髪の過渡期も描き方が異なったりする。
安土桃山〜江戸初期の女性扮装でも、突然みな髷になったりするし。
考証する側も武家女性の結髪について、決定的な確証もなく
江戸時代もだいぶ経ったからそろそろ髷にしましょう?的に
考えているのでは無いかと思うようになった。
だから、あんまり気にもしなくなったよ。
前のスレだったか信繁の奥さんが誰なのか
知りたかった人がいたと記憶しているが、
これは推論だが信繁の息子が望月家の家督を継いでいる。
また、望月御寮人という人が武田家にいたそうな。
で、この御寮人は信繁の妻ではないかという説がある。
というのをハケーンしたよん。
>>89 信長はおもくそ上総守なんて判物使ってるが。
家臣一同「ちょwwwそんな官位ねえよwww」
(正確には親王のみ任官)
と言われてたのか知らんが、すぐ上総介に直してる。
もちろん自称。
>>99 望月殿(?〜1575)
長篠で戦死した信繁の次男だよ。
永禄7年に北信の望月氏を継いでいるが、
その他の事跡は不詳。
武士の××守、××介については
wikipediaの「武家官位」の項が分かりやすい。参照されたい。
103 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 08:03:58.45 ID:7ZSRr2L0
104 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 08:45:33.59 ID:ZZOAcKDr
京都ではありません
105 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 09:08:47.83 ID:zodJFNd8
武田が滅亡した後、誰が甲斐を収めるの?
106 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 09:12:49.07 ID:r+HE+jI+
信長の家臣、河尻秀隆だったと思う。
たしかすぐ一揆が起こってあぼーんするけど。
その後は徳川家が治めるんじゃなかったけな。
勘助はどうして足ひきずってるのですか?
>>106 一益は上野だったはず。長野業正の旧領。
>>108 幼い頃の疱瘡。左目が見えないのも同じ理由。
110 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 09:50:31.30 ID:YAu3mqd5
>>105 wikiより、武田滅亡直後の論功行賞
滝川一益:上野、小県郡・佐久郡
河尻秀隆:甲斐(穴山梅雪本貫地を除く)、諏訪郡
徳川家康:駿河
木曽義昌:木曽谷を安堵、筑摩郡・安曇郡
森長可:高井・水内・更科・埴科四郡
毛利長秀:伊那郡
穴山梅雪:本領安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
森蘭丸:美濃兼山城(長可の旧居城)
団忠正:岩村城(秀隆の旧居城)
「甲斐」に限定すれば、河尻秀隆なんだが、この論功行賞は1582年で同じ年の三ヶ月後に本能寺の変が起きる。
そのときに武田旧臣と国人による一揆で河尻秀隆はすぐ殺されてしまう。
その後、信長死後ということもあり、甲斐の所有権が空白になる、
その空白地帯になった甲斐を徳川・北条・上杉家が同時に攻め取りに来て戦争になる(天正壬午の乱)。
真っ先に甲斐に河尻秀隆支援むかったのは駿河をとった徳川家で新府城を奪取する、
北条家は上野の滝川一益と神流川の合戦を行い、これを打ち破り、滝川一益を関東から追放した。
上杉家は、信長死後逃亡した森長可の領地を奪取。
北条家は滝川一益がいなくなったので、上杉家と和睦し、甲斐・信濃に侵攻。
このとき、徳川軍は新府城をもってよく守り、
「嫡男・氏直に家康の娘督姫をとの婚姻」「甲斐・信濃は徳川に、上野は北条と互いに攻め込まない」
この二つの徳川に有利な条件で和睦し、武田家滅亡後の甲斐・信濃の割り振りが固まる。
ちなみに、「甲斐・信濃は徳川、上野は北条に」という和睦に反対したのが、当時徳川(織田)側にいた真田家で、
理由は信濃と上野に両方の領地があったからで徳川家に反旗を翻し、上田城で徳川軍を撃退し、徳川でも北条でもなく上杉についた。
111 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 10:08:47.79 ID:kf3tSznb
今回攻められて逃げ切れなかった望月本家の姫が生け捕られて、信繁の嫁になって、子供と孫が望月家を継いだってか?
昔の人は元服と同時ぐらいにお嫁さんを貰いますが、
まだ十代初めごろですよね。
下世話な話なのですが、やり方ってわかってたんでしょうか
妻以外で練習して初夜に望んだんでしょうか?
また奥方たちも、10代半ばぐらいで出産していますが、体が上手く出来てない頃の
出産は危険だと聞きます。
そのために寿命が短くなったり病気がちになったりしなかったのでしょうか?
113 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 11:06:16.00 ID:JYTBW1j7
武田家で最後まで残ったのは、若狭の武田本家(甲斐は分家)だったと
思いますが、詳しい方。分家筋だと安芸武田氏の分家、周防武田家や三菱の
岩崎家あたりですかね?
>>112 だいたい乳母が手ほどきしたらしい。
あと、お付の下女とかとやる。
武士で最初に生まれた子どもの母親の身分が低いことが多いのはそんな理由。
115 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 11:14:14.60 ID:JYTBW1j7
ごめんなさい。残ったわけではなく、一番最後に滅んだという意味です。
若狭の本家、安芸武田氏、甲斐武田氏、上総武田氏(国府台合戦のきっかけを
作った真里谷武田氏と庁南武田氏)が四大武田氏だと思います。
116 :
108:2007/05/21(月) 12:19:42.86 ID:YCydhAHU
>>109 そうでしたか。てっきり戦いで負傷したのかと。
ありがとうございます。
今回自害させられた大井貞隆というのは、晴信の母大井夫人の血縁ですか?
118 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 13:02:14.50 ID:YAu3mqd5
>>118 既出でしたか、失礼しました。あの源心の兄だったとは……。
大井貞隆の史実での詳細をおしえてください
>>108 いや、片目は疱瘡で、
その障碍(しょうがい)を乗り越えるべく、父親に無理な武者修行をさせられて
片足にまで障碍が。
と、父親のセリフにあった。
あのー、板垣が全く出てなかったんですが何してるんでしょうか?
以前、晴信に密約?命令?でどっかに飛ばされた記憶はあるんですが・・・
内容全く覚えてないので詳細を。
>>122 たしか、晴信に命じられて占領した諏訪を治めているという話だったかと。
鬼美濃さんはその板垣さんについていったのですかね?
大井貞隆
生没年不詳
信濃国岩村田城主
天文九年(1540)からの甲斐武田氏による信濃侵攻に城を失い、小県郡長窪城に移った
しかし同十二年九月、ここも攻められ武田軍に生け捕りにされたという
戦国人名事典・コンパクト版より
126 :
74:2007/05/21(月) 19:34:14.19 ID:QLYw1fgB
>>77 遅くなりましたがありがとうございました。
武田家の騎馬隊が本当に存在したかもって考えるだけで
楽しい気分になれますねw
127 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 20:17:02.06 ID:8aaI+peA
>>126 武田家の軍馬の装備率自体は平均的だったみたいだけどね
逆に鉄砲に関しては早くから重視していたと言われている
でも、伝承の元となる何かはあったのかもしれないね
騎馬に関して論争を始めると、収拾が付かなくなるので避けるけれど
129 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 21:18:21.94 ID:iupPe0gJ
信虎の時代には、武田・諏訪・村上連合で佐久と小県を攻め取ったと
記憶しているのですが、いつのまに村上は武田の敵になったのですか?
関東管領上杉氏が介入してきた時じゃないっけ
>>129 近攻遠交(きんこうえんこう)と言って、
同じ敵を挟んでいるときは(この場合佐久)仲良くできるんだが、
国境を接すると途端に敵国になっちゃうんだよ。
ナチスドイツや日本を挟み打ちにしていた頃、アメリカとソビエトも同盟国だった。
日本とドイツを滅ぼした途端、敵国になった。
そういうモンみたいです。
132 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 21:32:36.35 ID:iupPe0gJ
>>125 どうなんですかねえ?大井貞隆って捕らえられた後消息不明とあれば、
その後武田に仕えたというサイトもあったもので気になって聞いてみました。
回答ありがとうございます。
ここを知らなかったもので・・以下、うっかり本スレに書いちまった質問です。
ところで信繁の「典厩」、信廉の「逍遙軒」ってのはどんな意味があるんでしょう。
官位? 号?渾名? なんかカッコイイんだけど由来が判らなくて。
典厩は官名(左馬助だっけ?とにかく左右馬寮関係)を
唐風に呼んだもの。中納言を黄門と言うのと同じ。
本スレにも出てるけど、逍遙軒は雅号(がごう)かな
絵描きさんとしてけっこう有名だね
>>136 〜軒は法名・法号じゃないのかな。晴信の影武者だから晴信の出家後、一緒に剃髪したんだろうし。
ちなみに晴信の法名はフルに書くと徳栄軒信玄。
まあ、逍遥なんて名前からすると坊主にもらったのではなく自分で勝手につけたのかもしれんけどw
Goo辞書つかえねーな。
↓広辞苑第四版から抜粋
1)そこここをぶらぶらと歩くこと。散歩。
2)心を俗世間の外に遊ばせること。悠々自適して楽しむこと。
途中から見た者ですが質問します。
福島が謀反を起こして勘介が兄と戦う話は良く意味が分かりませんでした。
後継者争いで福島が信虎に助けを求めて形だけの援軍って事?
平蔵は2回も逃がしたのになぜお兄さんを逃がさなかったんですか?
正直、深夜に再放送してほしいです。
140 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 23:17:24.19 ID:a+gywyQa
>113
武田は甲斐が嫡流(本家)
安芸と上総は庶流(分家)
更に安芸の庶流が若狭
つまり若狭武田家は分家の分家
>>133 何の本に書かれたいたのか思い出せないんだけど、
大井貞隆はあの東光寺に押し込められ後自害、と記憶にある。
>>135 絵描きとして有名・・・というか
信廉の描いた大井夫人の肖像は確か国の重要文化財だよ。
高野山にも信廉筆と伝えられる佛教画が多くあるという。
信玄の弟としては残念な最後を迎えてるけど
乱世でなければ画の大家として更に名をなせる生涯だったのだろうね。
142 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 23:17:44.61 ID:I5kvpKv7
武田家家臣団は非常に優秀であるとよく評されております。
中でも弟信繁は、敵国からも死を惜しまれた人物だとか・・・。
今回の風林火山での信繁の発言は、あまり無いし重要ポジションでは
ないような感じがします。
1:史実では、どの位の地位で何をやっていた人なのでしょうか?。
2:兄弟の仲ってのも気になります・・・。
どうか教えてください
>>139 信虎は最初、前島経由で接近してきた福島につくつもりだったが、
雪斎がもっといい条件だしてきたので、義元側に寝返り、援軍ださなかった。
勘助は兄を逃がそうしたが、兄はもうあきらめ(武田の裏切りは交渉役の自分の失策であると責任感じてたので)
山本家の名跡を立派な武人に成長した勘助に託し、勘助の介錯で切腹して果てた。
144 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/21(月) 23:24:19.61 ID:7ZSRr2L0
>>142 1:信玄の右腕として、名実ともに武田家臣団のナンバー2だった。
2:後世大きく称えられるほど仲が良かった。
豊臣秀長は彼をモデルとし、名補佐役として兄秀吉に仕えた。
確かに、今のところドラマ内では出番が少ないほうだけど……
板垣・甘利らが討ち死にした後で、徐々に頭角を現してくるんじゃないかな。
>>142 信繁は信虎の次男です。
かなりできる人物だったのは確かで、信玄の多くの合戦に参加していて、
いわば武田軍の副将格といったところで、甲陽軍鑑にはこの信繁と
内藤修理亮を「毎事相整う真の副将なり」と山県昌景(飯富源四郎)が
評したと伝わっている。第四次川中島の合戦で戦死しますが、その死は
大変惜しまれ、信玄がその遺体と対面するや号泣したという話がつたわっている。
のちに、真田昌幸(幸隆の子)は自分の次男に「信繁」という名前をつけていること
からも、当時からその声望が高かった事を伺わせる(ちなみのその真田信繁こそが真田幸村)。
また、信繁の残した遺訓は、江戸時代にも広く知られ,読み継がれたとのこと
兄弟仲は非常に良好だったと言われている。現に、信虎が晴信を廃嫡して信繁に後を継がせるような
動きがあって、父を追放した後も信繁は兄に尽力している。
148 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 00:06:02.58 ID:8Q/Y8xQy
146さん
147さん>
反応、ありがとうございました。
信繁好きなので、これからの大河に期待です。
>>148 まだ17,8の若武者で、経験値が無さ過ぎる。
晴信家督相続後は勘助のおかげで、
今のところ、まともな武力衝突、軍評定は無し。
それでも要所要所で晴信に然るべき疑問を
ぶつけていると思う。
150 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 00:15:54.36 ID:8Q/Y8xQy
149さん>
ありがとうございます。
まだ10代ですか、信繁役の人が誰だか存じませんが
若過ぎる顔つきに納得しました。
連投ですいません・・・第4次川中島で討ち死にといいますと、
本隊での待機組だったのでしょうか?。
ホント連投すいません
>>150 本隊8000の鶴翼の陣の中央前備え、いわば本陣のすぐ前の備えを率いておりました。
本陣近くであったせいもあり、信玄本隊と間違われて、上杉軍により集中攻撃を受けた上での戦死だったんでしょうな。
153 :
152:2007/05/22(火) 00:27:18.88 ID:RcV9SFYx
由布姫の髪型が変わっていましたが、なにか意味や決まり事のようなものがあるのでしょうか?
由布姫は女になられたのです
156 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 01:24:12.66 ID:3pjvAfSb
>>89>>97 しかし上総・常陸・上野の3国が親王任国になったあとも、平安期から
このドラマの時期(戦国期)に至るまで、明らかに親王ではない人物に対する
「上総守」「常陸守」「上野守」のような表記は、史料の中には実はいくらでも
あったりする。
>>100が言及している信長の例は有名だが、これは信長に限った話ではなく、
公家クラスの人でも平気で「上総守」とか書いている例がいくらもあるので、
単純に書いた当人の教養水準の問題というわけでもない。
どうも当時は、親王任国の介を「〜守」と書くことは、ある程度許容されていた
模様。
またその背景としては、一説には親王任国の介は、正式な表記上は「〜介」だが
口に出して発音するときは「〜かみ」と読んでいたからともいわれる。
157 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 02:04:50.43 ID:3pjvAfSb
>>113>>115>>127 一般的には甲斐武田が武田一族の宗家と考えてよいと思うが、異論が皆無という
わけではないといったところだろうか。
とりあえず、室町・戦国期の甲斐武田と安芸(若狭)武田の共通の先祖は、
鎌倉末〜南北朝期に活動した武田信武(1292生〜1359没)という人物。
ただこの信武は、実は鎌倉幕府滅亡以前には安芸の守護職しか持っておらず、
甲斐には別系統の一族である武田政義なる人物がいたらしい。
しかし南北朝分裂時に政義が南朝方についたために、足利尊氏は信武に甲斐の
守護職をも与え、信武は甲斐と安芸の2箇国の守護を兼務するに至った。
なおこの信武は、妻だか母だかが足利尊氏の縁者(詳しい系譜関係は失念)で、
そのため初期の室町幕府では重用されていた模様。
その後、信武の長男信成が甲斐、次男氏信が安芸の守護職をそれぞれ継承したと
される(両人との生年未詳のため、長幼の順が逆という説もある)。
ただいずれにしても、その後、氏信のほうは安芸守護職を失う(今川了俊が
九州探題になったときにその兵糧基地として了俊に安芸の守護職が与えられた)
ため、室町中期の段階では、武田一族で唯一守護職を持っている甲斐武田が
武田の嫡流とされていたと考えて差し支えないと思う。
158 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 02:21:12.28 ID:3pjvAfSb
>>140 上総武田が甲斐武田の分家筋なのはその通りだが、安芸武田と若狭武田に
関しては、若狭武田の成立後は、安芸武田のほうが若狭武田の分家筋になる。
武田氏の若狭守護職獲得のきっかけは、1440年に幕府に反抗的だった一色義貫を
将軍義教が粛清した際に、武田信栄(当時の安芸武田の当主信繁の嫡子)が
実際に義教の命を受けて手を下したことに対する恩賞。
但し信栄は若狭の守護職を貰って若狭に入国したが、その直後に病死したため、
まもなく信栄の弟信賢(信繁次男)が若狭守護になる。
その後の信賢は、安芸にいた父信繁が死亡したのちも若狭に留まった。
この段階で安芸武田の直系は若狭に移転したといえる。
また信賢の時代に応仁の乱が起こるが、この際に若狭の回復を狙う一色氏が
西軍についたため、これ対抗して信賢は東軍方につく。
しかし信賢は応仁の乱の最中に病死し、その死の間際に弟国信(信繁三男)に
家督と若狭守護職を譲り、もう一人の弟元綱(信繁四男)を国信の代理としての
安芸代官とした。
この結果これ以後は、国信の子孫が若狭武田、元綱の子孫が安芸武田という
ことになったが、この2家の関係は明らかに若狭武田のほうが本家筋になる。
ただその後、元綱のほうが単なる安芸代官の地位に満足せず、やがて東軍に
属していた国信を裏切って西軍方に寝返ったため、ここに事実上、若狭と安芸の
両武田氏は別々の家となった。
159 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 02:28:47.46 ID:3pjvAfSb
>>158補足
ちなみに室町中期の安芸武田の当主である武田信繁は、
当然ながら晴信の弟である武田信繁とは別人です。
160 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 03:36:46.74 ID:djB5GGMk
ところで上総武田氏から分かれた真里谷氏と庁南氏は、どっちが本家筋でどっちが分家筋なの?
ぐぐってもサイトによっていってることがバラバラで通説かどっちなのかもよく分からない。
あと家が分裂した原因はなんなんでしょう? 関東だから応仁の乱ってこともなさそうだけど。
武家の分家と本家って、実は意外とあいまいで、その時々に優勢な家が宗家を名乗るみたい。
室町時代ごろの武家の相続は、一族の中で有能な者が継ぐ
というルールだったらしく、それが戦国乱世の原因ともなった。
ちなみに鎌倉時代の相続は均等配分。
つまり、
鎌倉時代:子供全員で遺産を均等配分
↓
室町時代:能力がある者が一括相続
↓
江戸時代:能力に係わりなく長男が一括相続
という形で変遷した。故に、江戸時代以前は「本家・分家」という概念自体が希薄だったり、存在していなかったりする。
162 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 06:26:57.29 ID:vB2B+8wU
「恨みを捨て大望のために生きた」勘助・由布姫・真田……。
しかし、「最後まで武田への恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれます。(最終回)
「恨みを捨て大望のために生きた」勘助・由布姫・真田……。
しかし、「最後まで武田への恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれます。(最終回)
「恨みを捨て大望のために生きた」勘助・由布姫・真田……。
しかし、「最後まで武田への恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれます。(最終回)
163 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 10:45:52.06 ID:1+2p04+t
皆さん実にお詳しい。上総武田氏は庁南(長南)が嫡流、真里谷(まりやつ、まりがやつ)が庶流です。
164 :
134:2007/05/22(火) 11:18:03.34 ID:rW+a2TNn
今週勘助が身につけていた素襖について質問です。
素襖の帯は装束と共色でなければならないようなのですが、
勘助の身につけた帯は素襖とは違った色でした
ただ、小袖の色とは同じだったんですが、これも共色ということになる
のでしょうか?
「お館様」といえば信玄のことかと思っていたんだけど
最近、ドラマや漫画で、信長もよくお館様って呼ばれていますよね。
(功名もそうだった昔はそうでもなかったと思う)
信玄がお城ではなく「躑躅ヶ崎館」に住んでたから
お館様っていうんだよ…と聞いた覚えもあるんですが
これは嘘だったんでしょうか?
誰にでも言うものなの?
167 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 13:57:50.68 ID:1+2p04+t
>160さん。上総家の分裂って庁南と真里谷に分かれたことですか?それだったら、始祖信長(甲斐家13代信満の子)に次ぐ2代信高のときに長子道信(庁南)と次子信興(真里谷)に分家させただけのことだと思います。真里谷家の分裂はまたにします。
169 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 14:12:47.65 ID:8zSJpoeL
信玄に男性の愛人もいたって本当ですか?
>>168 ありがとう!
「屋形号」で検索してみて納得した。
信長の「上様」も不思議に思ってたけど、そっちも同時に解決。
>>169 男性の愛人もっていうか男女かまわずだからねぇ
春日源五郎なんて、その筆頭だし
案外ガイシュツ
172 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 16:34:01.94 ID:7C+gTvp1
>>161 鎌倉期の武士は惣領制が根強いから、名義的には遺領を均等配分していても、
実態としては惣領の指導の元に一族の所領を一括管理という傾向が
強かったんじゃない?
そういう意味で鎌倉期には本家と分家の別はかなり明確だった家が多いと思う。
ただ一括管理が難しくなった南北朝以降、遠隔地の所領は特定の分家に
完全委任という傾向が強くなり、さらに室町幕府の有力守護抑制策も影響して
分家のほうが本家より出世してしまったり、また戦国期になると分家が本家を
乗っ取ったりする例が多発して、どれが本家筋でどれが分家筋なのか、万人が
納得できる基準がなくなってしまうようなイメージがある。
173 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 16:38:12.29 ID:7C+gTvp1
>>168 屋形号の使用許可って基本的には守護クラスだよね。
もっとも幕府の奉公衆とかだと、いっかいの国人クラスでも名乗っているけど。
あと守護代クラスでも斯波氏の重臣の甲斐氏なんかは、屋形号使用OKの
家だったよね。
時代が下って江戸時代になると、屋形号を名乗れるのは大名(万石以上)全部に
プラスして交代寄合の山名と最上になるんだっけ?
174 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 17:18:25.92 ID:Mjv15fVV
武家は本家も分家もない。これが常識だったらしい。
新田の零落した分家の得川から田舎豪族の松平に婿入りした血筋でも、
天下取っちゃえば「源氏の氏の長者」
それで納得しているんだから仕方がない。
それが鎌倉幕府以来、武士たちの基本理念だった「道理」や「あるべきよう」なんだろうな。
獄門島って映画で、本鬼頭と分鬼頭という家が出てきて、ワケ鬼頭の奥さんが
ワケ鬼頭はホン鬼頭の親類だが分家ではない、と説明していたんだが、
鎌倉ごろの武家の考え方の知識がない金田一は理解できなかったようだ。
176 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 17:56:37.69 ID:o4qQ1Qvu
>>174 勘違いしないでほしいが、
信玄はラブレターが残ってるから有名なのであって
当時の戦国武将には珍しいことではない
「衆道」でぐぐってくれ
>>174 >男女かまわず
そういうと、すごく乱倫に聞えるがw
武芸や知力に見所のあるモンじゃないと寵童にはしないだろうな。
戦場に伴われていくものだしね。
>>177 その実物は上野国博で実物展示を見たけれど。
あの書状ひとつが一人歩きしている感があるね。
戦国期の小姓は江戸期の美童趣味とはまた違うもんなのに。
近習、側近として主の側近く控え、教育や薫陶もうけ
将来有望な部将候補という意味合いもあるよね。
森乱なんて立派な城持ちであったわけだし。
志賀城の笠原への援軍に管領上杉軍が来たらしいのですが、長野業正も来たの?
>>179 北条と争ってんのにわざわざ敵対関係でもない武田を攻めなくても
良いジャマイカ?と諫言して参加してない。
後に参加しなかった事を晴信が褒めて業正に帰順を勧める書状を出している。
追記
出兵を諌めた背景には河越で北条に負けたばっかってのも含まれてる
182 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/22(火) 23:29:23.48 ID:olVQn1Ar
上野の国立博物館
184 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 00:29:00.02 ID:HBrTZUzX
>>183 東博のことかな?
なんか耳慣れない略語だったんで、上野国(群馬県)の博物館か何かかと思ったよ。
上野国博覧会
上州だるまパビリオン、高崎観音パビリオン、草津温泉パビリオンなど。
186 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 02:55:11.92 ID:gbFGDQX3
東博 の検索結果 約 107,000 件
上野国博 の検索結果 約 39 件
だって。
まあ博物館側が自称している略称は「東博」だね。
正式名称も東京国立博物館だし。
同様に、
京都国立博物館は「京博」、
奈良国立博物館は「奈良博」、
九州国立博物館は「九博」、
国立歴史民族博物館は「歴博」、
国立民族学博物館は「民博」、
だね。
つくば市立博物館は「つくば博」
角川書店博物館は「角川博」
189 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 11:02:32.13 ID:6uyGwJjJ
働いてる人達は東博って言ってるよ
>>180 ありがとう。さすが軍師っぽい長野さんですね。
>>190 「和装・着物板」あるかと思ったがないのな。
前に素襖の背中の I て何 ? の答も出なかった。
懸け守りが出てくる位だから、鬼女板のスレで訊いたほうがいいかも。
つかそこまで知ってて質問ってのが
知らない人間からとってもれば不思議でたまらない
194 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 13:34:42.94 ID:5vYWFJR1
>>189 それは知ってる。
むしろ上野国博なんて誰がいうんだろう?
196 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 15:25:50.10 ID:NwO3tmrh
このドラマ見てると、合戦しても直轄領が増えてないように思えるんだけど
そういうもんなんですか?
自分はゲームのやりすぎですかねw
198 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 15:54:14.70 ID:9/UOaM6Z
>>197 占領した土地には地侍がいるわけ。
そして全員が敵対してるわけじゃなく、味方に付く奴もいる。
相続争いや土地争いで敵対してる場合もある。
合戦で領地が増えてもそれらの連中の本領安堵してやる必要がある。
また戦功があった家臣に恩賞もやらなきゃならない。
今回だと板垣を諏訪郡代に任命してる。
>>197 ゲームでは、征服した土地を簡単に治められるけど、
実際は、大抵旧家臣による反乱や一揆が起きて治めにくい。
だから、「直轄地」なんてのは本当に圧倒的な兵力差がないとできない。
それが起きないようにするには、その土地を治めてる下のほうの家臣を「本領安堵(その土地の支配権を約束する)」を出して寝返らせるのが一番。
その土地の人間だから治め方を知っている。
例えば、諏訪を治めるのに諏訪家の人間を多く使うというような形。
逆をいうと、この「寝返り」を増やすため(自国においては減らすため)のパフォーマンスが「合戦」という側面がある。
相手の「相手の兵や将を殺す」のが第一の目的でなく、
「この主君に従っても無駄だぞ、こっちの陣営こいや」って思わせるためのが目的。
ただし、この「本領安堵」は他にもっと強い軍隊がくればまたその国の「本領安堵」によって簡単に願える諸刃の剣。
ゲームと違うのは家臣は、寝返るか首を切るか逃がすかというはっきりした家臣関係ばかりじゃない。
一番わかりやすいのは小山田家かな。
信長の野望では「ただの家臣」だが、このスレでいわれてるが「同盟者のような家臣」という微妙な関係。
200 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 16:38:42.83 ID:XUz4BDEm
>>198 郡代もその郡全体を知行しているわけではないしね。
実際には、大名の名代として諏訪郡内にいる国人領主や地侍を監督するのが郡代の役目。
自分の遠縁に鎌倉以前からの
うだつのあがらないちゅーと半端な地侍
というか郷士というか名主みたいなの
(今は主たる収入は農業・借地料)がいるけど
領主が結構入れ替わってるのに断絶してない
理由が分かったよ。下っ端は据え置きなんだな。
下っ端までいちいち斬首にしたりしていたら、
占領地を広げても動員力が増えなくなっちゃうからな。
ことごとく統治機構を刷新しようとすれば、下手すると今のイラクみたいなことになる
米国は兵力不十分なのに旧政府の組織を否定して、治安と行政の空白を生んでしまった
一豊の土佐入国時みたいに、十分な家臣団を連れていければ刷新も可能だけど、
それにしたってずいぶんと血を欲したし、後々に禍根を残している
チョウスガメの遺臣は、兵農未分離・農民皆兵どころか「皆士」という
トンデモな問題を抱えていたんだけどね
武田が代表的な兵農未分離じゃなかったか?
信長秀吉が天下取りをできたのは効率的な兵農分離だってきいたけども
>>205 最近じゃ信長たちだけが突出して常備軍的ではなかった説が強いけどね
特に信長はある地域を制圧してそこを軍事的、経済的に麾下に組み込んでも
基本方針は上で言われているような味方になった小領主の当知行を安堵してやる代わりに
軍事奉仕や兵糧提供を求めるというような他の大名がやってる方式と似たようなもんだし
自分の元に諸勢力を統合するのが精一杯で軍事、経済、社会的テコ入れを統一的にやるところまではいかなかったようだ
207 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/23(水) 20:58:06.26 ID:JHN6wC1d
>>150 >>151に付け足し。自分の陣営が後退しようものなら、後ろの本隊が危険。
信繁は命がけで信玄を守った末の討ち死にです。
うちは代々信繁の子孫と言われてきたので、好きと言われると嬉しいです。
以前の大河「武田信玄」は中井貴一が信玄で、信繁はその頃無名の劇団員
でしたが、2人とも役柄にぴったりでした。
信玄は静かで威厳があり、信繁はひたすら誠実堅実で兄に尽くしました。
なので今回の大河はちょっと違和感がありますね。
ドラマの頃はまだ18だろ
違和感も何も、今のところ単なる有力親族衆、舎弟の1人に過ぎない
家臣団の中で特に重みが増すのは、板垣・諸角・甘利なんかの重臣が死んでからっしょ
そのイメージが強すぎて、若松武(史)さんを見掛けるたびに
「あ!典廐殿だ」としか思えない自分。徳川慶喜でも小笠原長行役で出てたね。
210 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 01:33:08.82 ID:J4L5BBBA
>>202 降伏した者に対してあまり厳しいやり方をとりすぎると、
「あいつに降伏しても結局殺される」というような認識を周囲に与えかねず、
そうなると一度敵対した人は、完全に武力で決着がつくまで徹底抗戦を
続けるだろうから、戦略的にもまずいよね。
>>206 信長段階では他の大名と大きく変わるところは何もなかったらしいな。
秀吉段階になって、本格的に全国統一が見えてきて、大規模に検地とか刀狩りとか
やるようになった段階ではじめて差が付いた。
211 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 02:45:45.27 ID:6xQnro/x
>>167 兄の系統が庁南で、弟の系統が真里谷なんですか?
212 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 08:57:04.72 ID:BbZVObBB
↑そのように聞いてます。
213 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 14:47:51.61 ID:GZKQwx4B
真里谷の分裂(というより内紛)については、3代目信保(武田恕鑑)の家督争い(長男で庶子の信隆
と次男で嫡子の信応の対立)が原因。恕鑑の援助を受けていて、後対立した小弓公方足利義明が信応を推した
ことで対立したらしいです。信隆は北条氏綱・氏康、古河公方足利高基につき、後に古河公方(北条方)と
小弓公方(信応と義明を推す里見義堯方)の戦いで有名な第1次国府台合戦に発展していったようです。
214 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 18:22:37.89 ID:ztMc9YUu
59 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/20(日) 19:57:36.70 ID:aLYM/w5X
>>58 ワロスw
田辺誠一を他のドラマなどで見かけても
どうしても小山田にしか見えない。
65 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/20(日) 21:13:02.11 ID:aLYM/w5X
合戦の時に身につけるようにと、晴信より贈られたじんべえの
背中にあしらわれたマークは何がモチーフになっていて、
どういった意味があるのですか?
67 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/20(日) 21:16:29.78 ID:aLYM/w5X
>>66 山ですか、ありがとうございます。
マークの中心部が万年筆のペン先に見みたいにみえましたw
215 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 18:47:03.51 ID:/B7r33Ad
源平や南北朝時代は兵農分離になっていないか?
そうでなければ関東から九州に攻め込んだりできない
216 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 19:14:24.38 ID:ycdTTA3D
>>215 源平や南北朝は農民まで動員するような総力戦ではなかった
農民などの雑兵(俗にいう足軽)が活躍するようになるのは応仁の乱以降
当時の農業生産力で、専業の兵士を養うことができたかどうか。
軍記ものの兵数が当てにならないにしても。
時代がはるかに下がった後北条家は、なんでも書類とはんこで行政を行っていたのだが、
動員令状をみても大半が農民兵だよ。
戦国時代の関東が未分離なのに、鎌倉時代が兵農分離ってのはありえないだろう。
218 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 19:24:58.33 ID:3rRr/Sw9
この前攻めた大井って晴信のかあちゃんのとこ?
>>219 違う、信濃と甲斐の大井氏は違う一族。
大井貞隆は海ノ口城の平賀源心の兄
221 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/24(木) 22:23:36.41 ID:L29UPqWV
葵徳川三代で
「当時の野営はテントも何もなかったから、冬になると兵士が凍え死ぬから戦をしなかった」
とか言ってたんだけど
普通に海ノ口では冬に城攻めしてるじゃん
なんで?
223 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/25(金) 01:10:41.82 ID:6MUWYjKm
信長は1年中戦していたイメージあるな
>>215 農民と兵士がきっちり分けられてるって意味では兵農分離できてるね
そもそも当時は農民を兵力として動員しようなんて考えはなかったんだろうけどさ
織田軍の野営は、プレハブ式の小屋で寝た、とかどこかで読んだが
撤退してたな。場所による気もするな。佐久あたりだと当然
寒いだろうが極寒までは行かなそうだ。雪を見たら帰るくらい
でナンとかなるんじゃない? なんつっても農閑期だから戦
にはいいんだよな。
227 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/25(金) 01:17:42.75 ID:D5/uWr+J
晴信初陣だね。
一旦、兵糧も尽きそうだったので年末に退散したはず。
奇襲したけど。
228 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/25(金) 01:29:17.75 ID:6MUWYjKm
さっきの海ノ口の回を見たが
冒頭で平賀が食べていたおにぎり、真っ白だな。
めざといですなあ
それは、武将達がサラブレッドに乗ってても
わざわざ「サラブレッドに乗ってましたな」
って言わないのと同じ気持ちでよろしく…
滝川一益は真田昌幸が国人衆を説得して領土の安定に努めたらしいのですが、
国人一揆の起きた信濃の森長可とか甲斐の河尻秀隆は
旧武田の家臣は配下に加えなかったのですか?
それと国人一揆の首謀者は徳川家康なんでしょうか?
232 :
名無し募集中:2007/05/25(金) 11:55:19.92 ID:rSj4e6H8
この話は、これからストーリーに関係するかわからないけど…
山梨県に談合坂という場所がある。そこは、「談合」という言葉のエピソードが
生まれた場所である。その頃の武田家は、甲斐国内で今川家と戦をしていた。
しかし、戦いが長引いたので軍師の山本勘助が「ここで談合(話し合い)を
しましょう。」と提案し、和睦を結んだのが談合坂だった。
これは、いつ頃の話なの?
233 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/25(金) 12:16:52.28 ID:ju6yo5vj
勘助が信玄に仕える時位から見てるんだけど
先週あげた、眼帯と羽織って何か特別な物だったの?
「はじめから、そちに渡すつもりじゃった…」って言ってたから
きょうらいし、ってなんでそんな変な名字なんですか?
何か言い伝えがあったら教えて下さい。
最初、京礼に氏をつけたんかと思いました。
237 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 00:08:13.66 ID:maEQtKBf
>>233 教来石の姓は先祖(土岐氏説と武田氏説がある)が「甲斐国巨摩郡教来石村」に封じられたことからきたらしい。
現在でも「山梨県北杜市白州町上教来石」という地名が残っている。
……で其処には“教来石”という巨石がある。
ただ古文書には「教来石」を「慶良吉」とか「毛浦吉」とか記した物もあるので
現在ある“教来石”という巨石が村名の語源なのか?
或いは先に“キョウライイシ”という村名があって「教来石」の字が当てられ、更に“教来石”という巨石の名にコジツケられたのか?
までは分かっていない。
238 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 00:38:20.91 ID:IaDdQE/2
「教来石」って旧仮名的に読むと「けうらいいし」だね。
そう考えると「毛浦吉」の表記は古そうで、逆に「慶良吉」の表記は、
「教(けう)」と「慶(きゃう)」がどちらも「キョー」のような発音になった
後の後世的な表記っぽい気もする。
239 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 01:46:47.54 ID:gVd8XSfg
諏訪が武田を出し抜いて関東管領と和議を結んだ話があるけど
なんで関東管領が信濃に出陣してくるんだろう。
信濃は関東管領にとっては関係ねーじゃん。
晴信が悪逆非道だから、と言ってたじゃない
それに管轄がどうの、って場合でもないと思う。佐久を
破れば山沿いに上州へ入れる。すぐ自分に火の粉が降り
かかってくる。諏訪などとは事情が違う。
>>239 同じ理屈が甲斐守護にも当てはまりますw
・海野棟綱(真田の本家筋)が諏訪・村上・信虎の連合軍に小県を追われて、頼った先が上野を領国とする関東管領上杉氏
・上杉は海野の要請を口実に信濃への勢力拡大を図った
↓国の位置関係はかんな感じ。
信濃
上野
甲斐
まぁ、これだと頼るなら上野の上杉氏しかないかも。
ちなみに、鎌倉公方(役職上では関東管領は鎌倉公方の補佐役)の管理下にある国は関東八カ国と伊豆・甲斐。
のちに陸奥・出羽も加わります。
244 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 02:16:43.51 ID:maEQtKBf
>>239 確かに鎌倉公方・関東管領(室町幕府鎌倉府)の管轄は、武蔵、相模、上総、下総、安房、上野、下野、常陸、伊豆、甲斐(1392年以降は陸奥、出羽も)であり信濃は管轄外なのではあるが……
応仁の乱以前の段階で既に関東では、永享の乱、結城合戦、享徳の乱などの戦乱が相次ぎ、権威だけではなく実力が物を言う“戦国の世”に突入していた。
そんな中で上野を本拠とする山内上杉氏は、単に関東管領だからというだけではなく、その実力から隣国の越後や信濃にも影響を与える存在だった。
245 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 02:36:06.95 ID:gVd8XSfg
>>244 ウ〜ム。でもそれって晴信からすれば
聞いてねーよ!って話なんねーのかな。
それっぽく見えた描写あったし
246 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 04:09:32.46 ID:ZxAX9w2X
関東管領が甲斐も管轄してんなら
部下である甲斐守護の武田晴信が信濃侵略っていう越権行為をしたから
懲らしめるという大義名分も立ってんじゃね?
ところでいま上杉謙信はどこでなにをやってんの?
ドラマ上は天文12年でしたっけ?
なら元服して栃尾城に入った年ですね。
まだ長尾景虎と名乗ってた時代だね
>>234 物自体は大した物じゃないとオモ。
あれは、晴信が勘助を、初めから軍師にすえるつもりで
甲斐に招いていたと言う事のメタファー
>>246 越権して侵略したのは信虎。
その結果元の領主たちが上杉に泣訴してくるのも
信虎の時代からずっと続いている現象で、
晴信はあの時点では特にそれを悪化させていない。
だから、あのタイミングで武田討伐をする主な口実としては
やはり晴信個人が凶悪だから、ということになりそう。
もちろん本当の理由は若年の上にクーデターで立った新守護なんぞ怖くない、
ということだろうが。
>>250 あくまでもドラマ上の話だが
一宿した春日家で晴信から素襖を送られた事を知り
勘助は大変喜びし、晴信が自分を本気で召抱えることを確信する
(何れだまし討ちする物に送るわけもないし
むしろ重臣達の前でお目通りすることも推察される
身なりに無頓着な勘助とっては心つかむアイテムかもね)
ただの弾正紹介のシーンにしてはしっかり作りこんでいたので
もしかしたらこの頃すでに作らせていた、っていうのかもね
晴信の人心掌握術に長けていた事の表現?
あるいはドラマの最後の方で、キーアイテムをすべて集めた時のエピへの伏線?
いずれにせよ、山の立物の兜を手に入れる時もちょっと注目だね
(あっさりスルーだったりしてw)
今回、村上にど突かれてた望月は、信繁の子を養子にもらう人??
254 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 17:28:11.33 ID:NX8h0zJj
>>239 信濃は、室町前期に上杉(犬懸)氏が守護だった時期には、
関東府(鎌倉府)管轄だった。
まあ義満の時代くらいの話ですが。
>>243-246 1449年に持氏の遺児成氏の関東公方就任と鎌倉下向を幕府が許可した段階で、
甲斐は鎌倉府管轄から京都の幕府管轄に変更されたといわれる。
ただそれ以降も京都の幕府が推す武田宗家と、持氏・成氏派が推す庶流の逸見氏が
甲斐守護職を巡って争っている状況は暫く続くが。
なお晴信は、このときに京都の幕府が推していた宗家のほうの子孫。
また関東管領の上杉(山内)氏は、永享の乱のときや成氏が反幕府行動を始めて
享徳の乱が起こったときには、基本的に京都の幕府に与する立場をとっていた。
なんで、市川左団次が出てこないの?
甲斐国風林火山博
だってさ
なんて読むのコレ
もうすぐ出てくる。
というか、今回の大河は
先に名前だけ何度も出てくる
→満を持して本人登場
というパターンが多い。
258 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/26(土) 18:22:31.39 ID:5uFTdCFB
晴信:板垣
信繁:諸角
太郎:飯富
と守役をやっていますが、
家臣の中で板垣の次の位置に座っている甘利には
なぜ守役が回ってこないのでしょう?
信繁の時は、なぜ甘利を飛ばして諸角だったのでしょうか。
260 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 02:56:51.13 ID:/2JcDef2
>>259 嫡男晴信の守役が板垣で
次男信繁の守役が板垣と同格の甘利にしては
人事的にうまくないからじゃね。
よってこの二人からするとやや格の落ちる諸角を信繁の守役にしたと見ているけど。
というかこの二人、晴信の政権奪取当初は確かに
家臣筆頭の座を争うライバルといっても過言じゃないだろうけど、
信虎時代、晴信や信繁の守役を決める時点でそうだったかは怪しいよね。
262 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 04:24:38.87 ID:hncK+TiW
NHK大河ドラマ「武田信玄」の大地真央や
角川映画「天と地と」の財前直美のような信玄の側室にして女武者なキャラは出ますか?
また歴史上では実在の人物なのですか?
263 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 04:27:47.64 ID:Ud5+EhGy
謙信はホモですがガクトもホモですか?
>>262 出てくるかどうかは存じないが…
禰津御寮人は一応実在してる。ただし架空の人物説有り。
実在してても、たぶん女武者じゃない。
>>263 謙信がホモだという史料的な裏づけはない。
265 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 05:59:09.76 ID:80KUpVTu
「盗っ人たけだけしい」と良く言いますが、たけだけしいの語源は武田家ですか?
>>265 変換してみりゃわかるが
たけだけしい=猛々しい
猛し(たけし)を重ねたもの
マジレスカッコイイ!!
傾くが転じて歌舞伎になるように、猛々しいも実は当て字とかの可能性は考えたりせんの?
名詞に「しい」をつけて形容詞にする例があるのか
影武者がいたという武田信玄ですが、影武者使うって事はその場にいないってことですよね?
だったら作戦とかは誰が考えてたんですか?
もしかして普段から信玄は作戦とか考えて無かったとか?飯富あたりが考えてたのかなぁ
271 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 14:00:26.57 ID:ZFWAyDB8
今川義元が大軍を率いて上洛してたら
名が足利義元になって将軍職を強引に継承してたん?
>>270 多分影武者とは別の場所に陣をしくなりしていたのでは?
むしろ、信玄の影武者エピソードで有名なのは、信玄が病没した際に、
容姿が信玄によく似ていた弟の信廉(作中で、大井夫人の部屋で絵を
かいていた男の子)が信玄のなりをしたというものがあります。
信玄の死を察知した北条氏政(氏康の子)は、家臣を武田家に派遣し、
裏取りをしようとしますが、その際に信廉が北条家臣を引見して、
ごまかし通したそうです。
273 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 14:12:58.04 ID:4QugGvl6
>>271 今川義元は喩え上洛しても幕府の菅領ぐらいで満足しただろーな
>>270 影武者はあまり史料に基づけない話なので、想像になるけれど
まず、影武者がいるとしても、同じ戦場に本人がいないとは限らない。
影武者がいればその分、敵を撹乱し、信玄本人の命を守る効果がある。
川中島の一騎討ちも影武者だったという説がある。
影武者を務めたと言われているのは弟の信廉で、
信廉は芸術家としては一流だけれど、武将としてはちょっと頼りない。
もし信廉一人に任せるときがあったなら、事前に作戦を決めるか、信頼出来る部下をつけたかもしれない。
信玄の作戦については、いろんなパターンがあるだろうから一概に言えない。
ただ、陣場奉行の原昌胤が陣形や布陣する場所を決めたと言われているので、
戦場に着いてからは彼の意見が大きかったと思われる。
>>271 本人がその気で、実力があるなら可能かもしれない
ただし、桶狭間に至る一連の戦いは上洛戦ではなく、単なる尾張侵攻戦だったという説が有力
275 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 14:59:00.99 ID:ZFWAyDB8
>>273 そうなん?
>>274 あの時の尾張侵攻説が成功していれば
いよいよもって上洛戦を計画していたと見てよい?
元々今川義元ってなに目指してたんだろ??
信長みたいな感じはしないんだけど
276 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 19:00:49.76 ID:Zi2w3hUv
>>275 今川はあの当時単純に尾張侵攻でしょ。
攻め込む先は尾張しかないし、尾張は守護代織田家の弱体化でゴタゴタしてるし。
今川と北条って同盟してんじゃなかったっけ?
なんか来週から戦みたいなんだけど
278 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 19:29:46.83 ID:b72+7qau
>>269 マジレスするが「猛し」自体も形容詞。
>>277 花倉の乱の後、どうなったのかを思い出してみて下さい。
小説なんかだと信玄と信廉が同じ格好をして
隣り合って陣を張るなんて描写が見られたりするが
甘利の素襖の帯の色がおかしかった
>>277 とりあえず来週見てから質問するというのはどうでしょう
>>278 武田家という名詞から、タケダケしいという形容詞ができたとは考えられないの
という書き込みに対して、
名詞に「しい」をつけて形容詞をつくる例があるのか
といってる。
283 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 21:38:30.04 ID:Q6XbltmQ
単純な疑問ですが、お願いします。
鬼美濃は非常に勇敢で、かつ情深い男で
負傷した敵兵を陣まで送り届けたというエピソードがありますが
このような事をすれば、敵にとっ捕まる(重臣ですし)、
若しくは、その場で討たれてしまうのでは?
と思うのですが、どうなのでしょうか?
由布姫が乗っていた輿に、
大きな丸の周りに小さな丸がいくつもついた
太陽のような印がついていました。
あれは諏訪の紋か何かでしょうか?
うん
286 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 22:03:39.59 ID:uzGKRJJo
>>283 礼儀には礼儀で答える
わざわざ礼を尽くして届けたのを
討ったとなったらお家の恥だし、そもそも大将自ら届けんだろ
>>283 そのエピソードが事実かどうかはともかく
事実として敵地にのこのこ乗り込んで討たれてしまったら
多分、こういう美談としては残らないだろうな
敵地に亡命しようとしたけど相手が受け入れなくて討ち取られたとかそんなエピになるだろう
288 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 22:22:41.05 ID:oTw8DAK6
「みしるし」って何? 子種のこと?
289 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 22:25:00.85 ID:77ZQQcP/
首
>>288 「御首級(みしるし)」…首のこと。
晴信の首を頂戴しに行きたかった(=打ち取る)と由布姫は言っている。
ち○ち○かとオモタ
293 :
288:2007/05/27(日) 22:29:33.18 ID:oTw8DAK6
即答さんくす (恥
>>284 あれは『九曜紋』って言うんだっけ?
でも、諏訪の紋っていうと、以前のシーンでも
旗じるしとして使われてた
木の紋のほうが印象的なんだよな。
ところで、カンスケに姫を諏訪に運ばせてた
晴信が、どうして最後のシーンでは諏訪に来てたの?
一連の騒ぎを聞いて、フォローする為とか?
>>294 姫の脱走事件から随分時間が経ってたんじゃないのかと。
296 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 23:39:52.63 ID:GNNz42Wl
今日の回、勘助が雪の中で「姫様のためにこの命捨てる」ような事を言って、脇差を取り出した時点で
てっきり腹を切るのかと思いきや・・・
あそこの場面はどう解釈すればよろしいのかのう?
298 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/27(日) 23:57:49.11 ID:J74vllIk
>>297 その前に髷を切って、太刀を捨てているから武士を捨てたという意味だべ?
で脇差を取り出したのは「姫が見つからなかったら死ぬしかないなぁ」という覚悟を示したんだべ?
……たぶん
>>297 脇差しで髷を切ったから手に持ってたんでは。
300 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 00:03:19.11 ID:pS2CVeSq
>>282 漢語+「しい」ならありそうだな。
「神々しい」とか「仰々しい」とか。
302 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 00:12:59.15 ID:qgOQl+1W
今日のYou姫が籠に乗って諏訪へ行くシーンを見てふと思ったけど、
籠ってずっとゆらゆらと揺れ続けてて、しかも季節は雪がちらつく冬。
変な話だけどトイレが近い私としては、
あのYou姫はどうしたのだろうと思う。
近所の百姓家を借りたのならいいけど、野でする場合はセキュリティ上、
男の前でしなければいけなかったのかと思うと、少し気の毒に思ってしまった。
×籠
○輿
適当な所で休憩をいれて、
幕布くらい張るだろ、常識的に考えて…
304 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 00:27:25.96 ID:hf6mMDmU
>>302 まず、あれは籠(カゴ)ではなく輿(コシ)、そう御御輿(オミコシ)のコシね。
あと野糞の時は、さすがに護衛の兵士だって少し離れて後ろ向いているんじゃないか?
ヨーロッパの貴婦人は下男の目などないものとして振舞うとはよく言われるが…
306 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 00:36:24.88 ID:dy02E7Of
いやいや、あの輿っていうのがまたちっちゃいんだ。
とても中で用は足せないな。
オムツ着用も無理だし、やはり数時間に一回のトイレ休憩が必要。
ユウ姫を勘助は「姫様」って呼んでますけど、他の武田の重臣組は「諏訪御料人」って呼んでますよね
もう既婚なんだから姫って呼ぶのはおかしくないですか?
>>302 近くの農家だって大した便所は無い
そういう時は「野花を摘みに参りまする」か
輿を止めて樋桶だね
姫の侍女の『まき』はなんで自害したのですか?
んな必要ないと思うのだが…
大森暁美がやってる侍女は知らなかったのですか?
>>308 微妙な所だけど、この頃は広く貴人の息女の意味なので
諏訪氏を意識すれば諏訪の姫様で
晴信の若奥さん(美しい女人と言う意味も)を意識すれば御料人
諏訪御前ともいわれることもある
線引きは難しいが、まだ姫も太郎も生んでないのでまだ姫様は使えるかと
>>310 原作がそうだから
原作では「由布姫、まさか自害か?!」って緊迫するシーンの為に
井上靖が殺しちゃったのかも
>>310 まきは姫にとって身代わりの笛も吹くほど心許せる侍女でしたし
姫の希望とはいえ山の中にひとり置いてきてしまったこと
また「お館様を討つ」と聞かされていたなら、自分が捕えられれば姫の足を引っ張ると考えたのでは
>>308 原作でそう呼んじゃってるから仕方ない。
と言うのではなんですな。
御寮(料)人様というのも既婚未婚問わず高貴な女性に対する敬称で「姫」と同じ。
「Miss」「Mrs」のような差はなくてどっちも「Lady」の意だけど、
家臣団の使う「諏訪御寮人」は「Lady〜ofSUWA」みたいな格式ばった呼称。
「姫様」は「My Lady」の意で敬愛を含んだ呼び方かなと思う。
316 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 02:00:35.29 ID:VXmEFYPG
>>286>>283 なるほど。確かにそうですよね。
鬼美濃にとても魅力を感じているので
エピが本当であればいいなと思ってしまいます。
回答、ありがとうございました。
317 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 04:07:55.10 ID:Y049Ky2U
>>314 実はこの時代の「後料人」の語は、男性に対して使われている用例もある。
その場合は貴人の息子の意。
まあどちらにしても、貴人の配偶者や子女など、貴人の身の回りにいる縁者というのが語義なんでしょう。
なんか勘助が来週、北条の援軍に向かうらしいんだが、
史実では勘助って河越夜戦に無関係ではありませんか?
>>318 そのとおりですが、
足軽大将−足軽衆が切り札的精鋭部隊として
他国への応援に使われることはよくあったので、
(後北条の大藤氏とか)
まんざらドラマオンリーの展開だとも言えないんじゃないかな。
>>318 何度も言われていることだが、史実の勘助というのは
一応武田の連絡将校として実在したかも、程度しかわかっていない
だから原作や展開に破綻を来たさない程度ならわりと何でもオッケー
勘助と由布姫は、やっちゃったのかな?
いつも以上にヨタヨタ歩いてるように見えた。
あの後、勝頼が生まれるなら、晴信の子なのか、それとも勘助の…
勘助は盛大にフラれたのだから、おそらくやってない
>>321 原作にもあるが、あくまで性的関係とかは超越した思いということがテーマだからやってはない。
内野が原作より若いし、実際に親になったばかりだからそんな空気があるのは事実だが。
>>302 じっさいのところ
日常のトイレをどうしていたのかというのは
文献にきちんと残すわけがないから
実は謎なんですよ
>>284 九曜紋については分かりませんが、諏訪程の名家となると家紋を複数持っていても
不思議ではありません。(むしろ一つだけという方が不自然)
また、定(正、表)紋、裏(別、副、控)紋の他に女紋というのもあります。
最近代わったエンドタイトル、「小」の字の旗指物は誰のものでしょう?
ちょっと今、時間が無くて、ザッとしか過去スレ見る余裕がなく、
またあまりに初歩的な質問かも知れないんで、どうかそのあたりご寛容願いたく。
諏訪氏の家紋として、まず一番知られてるのは梶の葉紋だな。
上社と下社では少し形状が異なるけど。
原虎胤は今なにしてるのでしょう。板垣みたいに転勤?
それとも甲府にいるけどザコいから端折られてるの?
332 :
327:2007/05/28(月) 15:00:21.65 ID:v4EWyl3a
333 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 15:47:37.17 ID:mTGz/ZIC
九曜紋で有名なのは、坂東平氏、村上五郎(平良文)の嫡流、千葉氏では?その千葉氏の分家が
原氏、佐竹氏など。鬼美濃の家紋もおそらくこれでは?
現時点の武田の勢力は周辺と比べてどのくらい差が有るんですか?
村上とかよりも大きいの?
護送役が鬼美濃でヌッコロされたのが原家中の女人
盗んだバイクどころの騒ぎじゃない自由になれた気がした15の夜
…説明無しでこういう演出はしてそうだなぁ
336 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 17:14:03.66 ID:Jg0kg/6W
>>334 私感だが、
武田10:小笠原5:村上3:(諏訪3):(真田1)
位の割合かと。
越後長尾家も九曜紋だっけ
>>334 何と比べるかによるな。
農業生産力は当然甲斐は他国に比べて小さい。
しかし、山育ちで常に飢えてる甲州兵の強力・凶暴さは有名だった。
単純に国の広さで比べると
武田:甲斐+信濃一部(諏訪)
今川:駿河(但し、富士川以東は北条に奪われてる)+三河
北条:伊豆+相模+武蔵(河越)と下総(国府台)の一部
村上:北信濃
小笠原:西信濃
山内上杉+古河公方:上野+下野+武蔵の一部+上総+下総(常陸の佐竹、安芸の里見も加わる)
この時点での国力NO1は関東管領上杉と古河公方との連合でしょ。
その次に北条だが、北条はそのNO1の上杉関東連合と争うので結果として力が出せない。
武田は今川に少し劣る程度の国力かな。
今川は実は山ばかりでそれほど富んだ国ではない。
今川義輝の内政能力で国力を蓄えた。
339 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 18:07:46.10 ID:hf6mMDmU
今川義輝って大河のオリキャラ?
なんか何話か前で晴信が偉そうに「晴の字を与えて晴幸といたす」って言ってたのに
いまだに勘助〜って読んでるのは何で?
342 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 20:04:05.42 ID:uRr8wfsV
「武田信玄」なら知ってるのですが、
「武田晴信」って誰ですか?
344 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 20:06:34.95 ID:uRr8wfsV
>>343 ぷぷぷw
見事に釣られてやんの(笑)
知ってるわい、そんなこと、バーカ!
しかし本当に知らない人間も居るかも知れないからな
そこまで考えてのこの書き込み
さすが俺だ
晴幸=諱
勘介=字
武田太郎晴信とか本多平八郎忠勝みたいなもの。
通常は字や官職で呼び、諱は無礼なんで滅多な事では使わない。
wikipedia「諱」で一通りの説明がある。
348 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 20:20:05.81 ID:DYeCZnm8
349 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/28(月) 20:29:29.88 ID:gguSAfXR
昨日、小笠原なんとかっていう武将が出てたんですが
キングコング梶原に似てて凄く印象に残ったので
どなたか正確な武将名と役者名を教えてください。
>>530 【小笠原長時】今井朋彦【カマキリ将軍】
このスレで聞くといいよ。
つまらん
355 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 00:27:59.89 ID:yJehuX0F
>>348 今川義元じゃなくて今川義輝だからいいんだよw
そういえばこの作品は苗字で呼び合うことが多いね
>>356 「駿河守どの」「備前守どの」なんて呼ばれたら、
一般視聴者は混乱するだろ。
虎昌とか虎泰とか虎胤とか似たような名前多いし。
そもそも、現代人は相手を苗字で呼ぶことのほうが多いよね。
時代考証と分かりやすさのバランスは大事。
馴れだと思うがね。何回も呼んでればそうインプットするし。
「守」のほうね。下の名前で呼ぶことはどっちみち有り得んからw
苗字で呼ぶ方針ならそれはそれで別にいいけど。
OPの書き順が気になって仕方が無い
間違ってるでしょ?アレ
空とか土とか・・・
360 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 04:37:39.58 ID:yep4b7aA
この時代の武家なら、苗字で呼び合うのは時代考証的に問題ないはずだと思うけど。
361 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 04:45:23.80 ID:a0Pp7pNY
時代考証云々言いだしたら言葉もちゃんと全員甲州弁使えよ。
足軽とか百姓しか方言使ってないし。
大河で方言使うのは何故か決まって豊臣秀吉と島津くらいだもんな。
何か基準でもあるのか?
362 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 05:05:00.61 ID:ng5dZxRL
甲州弁っていうのはイメージ的にも馴染みがないからじゃね。
そんな考証が出来るくらいならグラスファイバーの弓は出てこない( ´-`)
364 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 06:49:08.67 ID:O3/kIswq
この時代の発音で喋ったら、たぶん現代人には違和感ありすぎな感じになるし、
聞き取れないような箇所も出てくるだろ。
予言しようか。
このスレ、今後は雑談スレになる。
>>365 確かに
「初心者の質問に答える」というスタイルを崩すと雑談スレになるな。
質問の答え以外は自重すべきだな。
>>365 大丈夫、たまに演説スレと不毛な議論スレにもなる
由布姫って諏訪で死ぬそうだけど
前回の時点ですでに諏訪に戻されたよね。
もう甲斐の躑躅ケ崎館には戻らないの?
ずっと「諏訪の現地妻」という感じにるのですか?
三条とも、前回以降は顔合わさないまま死ぬのかな?
>>368 だから、先のネタバレを質問するなと。
ネタバレスレにいけと。
371 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 11:05:31.75 ID:QGYs4TI4
>>334 現時点を1545年として
武田晴信…甲斐5郡(巨摩、山梨、八代、富士川、都留)信濃1郡(諏訪=旧諏訪領)+信濃0.5郡×2(伊那の半分=旧高遠領、佐久の半分=旧大井[平賀源心も大井一族]領)=7郡
村上義清…信濃3郡(埴科、水内、小県=旧滋野[真田幸隆も滋野一族]領)+0.5郡(高井=残り半分は長尾氏の縁戚、高梨政頼領)=3.5郡
なので(乱暴を承知で言えば)武田:村上=2:1
教来石殿と言いながらかんしゅけ〜と呼ばれてるのは愛称ってことかな。
みんなかんしゅけ〜って・・・・今川と北条は山本勘助って呼んでたね。
374 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 19:24:26.94 ID:ic5j5LV5
「上杉謙信」なら知っているのですが、
「長男影虎」「上杉輝虎」「上杉政虎」って誰ですか?
×今川義輝
〇今川氏輝
376 :
sage:2007/05/29(火) 20:02:10.56 ID:Bu8iu1rY
>>374 同一人物。改名したのさ。
長尾景虎
↓
上杉政虎
↓
上杉輝虎
↓
上杉謙信
・上杉景虎
北条氏康の七男で駿越同盟の際に上杉謙信の養子となった
同じく謙信の養子となった一族の長尾政景の次子・景勝よりも年長であるとするなら、長男と呼べなくもない?
・上杉政虎/上杉輝虎
上杉謙信の改名前の名前
長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信
「上杉政虎」は関東管領・上杉憲政(憲正)が越後に亡命した時に景虎を上杉家に養子に入れ、家督を継がせ名乗った名前で「政」は憲政の偏諱か
「上杉輝虎」は↑の後、室町将軍・足利義輝から偏諱を賜って名乗った名前
駿越同盟じゃなく、相越同盟だった(*>ω<)= 3
380 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 21:32:55.07 ID:jBytIzvl
>>376 >上杉輝虎
>↓
>上杉謙信
ここは改名なのか?
>>378 「相越同盟」でもいいが、三国同盟崩壊後の越後と相模の同盟って、
一般的には「越相同盟」という言い方のほうがよく目にするような気がする。
謙信って越後の竜ってよばれたり越後の虎って呼ばれたりするけどどっちが一般的?
ひとりタイガー&ドラゴンだな。
謙信の幼名が虎千代で成人してからも景虎と名乗っていたことから
「虎」はさもありなんな感じがするがね。
これは土地の人が詳しいかな。
383 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 22:39:55.29 ID:yao+crvL
姫は勘介が好きじゃなかったの?
結局、藤井あきら似の人が好きなの?信じられないよ
384 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 22:46:33.75 ID:T0l4PI73
小笠原長時って、馬鹿殿っぽいね。
彼が信濃の守護、すなわち信濃国の王なんでしょ。
村上義清は、小笠原の家臣みたいなもんだけど、
小笠原長時のことを「湿った炭」とかいって馬鹿にしていたね。
385 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 22:49:56.91 ID:azNjZ7Q7
小笠原と村上の間に主従関係はないだろ。
一時期は信濃守護の地位を争った間柄ではあるようだが。
386 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 22:50:10.06 ID:T0l4PI73
>>371 小笠原直轄領も加えれば、小笠原・村上連合で武田と互角では?
387 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 22:51:35.23 ID:T0l4PI73
>>385 しかし、臣下の礼をとって小笠原に伏して提言していたね。
389 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:02:02.52 ID:VVQWnWB2
>>387 湿った炭に火を付けるために、敢えて守護である小笠原を立てたというような演出なんじゃないの?
この時代の守護ってのは、名目上、その国の「国王」だが、
領地を実効的に支配している地域はわずかで、実質的には
群雄割拠している他の豪族と同列という理解でよろしいか。
つまり「名」ばかりの存在。
391 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:16:41.99 ID:ic5j5LV5
「上杉謙信」なら知っているのですが、
「上杉達也」って誰ですか?
ちょっとちょっとの人だYO
393 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:23:25.22 ID:ic5j5LV5
「武田観柳斉」なら知っているのですが、
「武田信玄」って誰ですか?
>>393 武田晴信/武田信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん、
大永元年11月3日〔1521年12月1日〕 - 元亀4年4月12日
〔1573年5月13日〕)は、戦国時代の武将・大名で、甲斐国
の守護。
河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の
当主。「信玄」とは法名で、諱は晴信、通称は太郎(たろう)。
官位は従四位下、大膳大夫。贈従三位。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、
隣国の信濃に侵攻、上杉謙信と川中島の戦いを行ないつつ勢
力を広げて信濃をほぼ平定。
甲斐、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領するが、
上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。
越後の上杉謙信と5度にわたって川中島の戦いで干戈を交えた
ことでも有名。風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率
いた武田軍は戦国最強と評される。
大正期には従三位を贈られ、今もなお広く人気を集めている
戦国武将の一人。
395 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:30:09.26 ID:VVQWnWB2
>>390 >この時代の守護ってのは、名目上、その国の「国王」だが、
ここは違うと思うぞ。
守護は本来的には、その国の軍事・警察権のみを持つ役職。
南北朝以降は、一般に使節遵行権(幕府の行政・司法手続きの現地における
強制執行権)といわれるような権限も手にしているが、その国一国の
支配権や領有権を持っているわけではない。
だから国内に守護と主従関係にない武家領主がいても全く問題はないわけだし、
守護権力に対する不輸・不入権を持っている荘園なども普通に存在する。
397 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:36:46.82 ID:VVQWnWB2
但し戦国期には、武田や今川のように自らが守護であることを最大限利用して
戦国大名化した守護家もある。
守護は、もともと軍事権・警察権を持っているから、守護家にある程度の力が
あって、現地に根ざしていれば、守護という肩書きを利用して国内の武士たちを
配下に組み込んでいくことができる。
尤も、あくまで守護家にある程度の力が元からないとそう上手くはいかないが。
398 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:43:25.32 ID:ic5j5LV5
「板垣退助」なら知っているのですが、
「板垣信方」って誰ですか?
400 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:48:21.28 ID:ic5j5LV5
最後に勘助を討ち取る平蔵は、実在したってホントですか?
平蔵だけじゃなんとも言えんな
苗字が分かれば検索できるんだが
402 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/29(火) 23:54:28.89 ID:ic5j5LV5
「上杉謙信」なら知っているのですが、
「三杉淳」って誰ですか?
403 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:04:49.83 ID:YuhVV3hf
ウケル〜。
自称・歴史ヲタたちのレスが止まった。(笑)
「三杉淳」は、武蔵中の背番号14・フィールドの貴公子だろ。
流石に検索するのも馬鹿らしくてさ
願わくば、もう少し質問のレベルを上げて頂きたい
406 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:07:31.50 ID:tv9Y9M5G
現時点を1545年として
武田晴信…甲斐5郡(巨摩、山梨、八代、富士川、都留)+信濃1郡(諏訪)+信濃0.5郡×2(伊那の半分、佐久の半分)=7郡
村上義清…信濃3郡(埴科、水内、小県)+0.5郡(高井の半分)=3.5郡
小笠原長時…信濃1郡(筑摩)
実は小笠原家には守護の権威はあっても実力はそんなにないのだった…
小笠原 長時(おがさわら ながとき、永正11年10月23日(1514年11月9日)
- 天正11年2月25日(1583年4月17日))は、戦国時代の武将。筑摩郡を領
する信濃守護小笠原氏の当主。林城主。小笠原長棟の嫡男。子には長隆
(長男)・貞慶(三男)らがいる。
武勇に優れていたが、その秀でた武勇をかさにきて威張り散らすことが少な
くなく、家臣からの信望が無かったという。南信濃へ侵攻する甲斐の武田晴信
(信玄)と争い、天文17年(1548年)2月の上田原の戦いで武田方が村上勢に
敗退すると、7月には機に乗じて諏訪郡へ侵攻。
さらに塩尻峠へ進撃するが、家臣の裏切りにあい、迎撃する武田方との塩尻
峠の戦いに大敗。やがて信玄に領国も追われ、大名としての小笠原氏は一時、
滅亡する。
その後、長時は越後の上杉謙信を頼り、そして同族の三好長慶をたよって上
洛して将軍・足利義輝の騎馬指南役を務めた。しかし長慶が病死し義輝が暗
殺されると再び謙信を頼った。
謙信の死後は越後を離れ流浪した末、天正11年(1583年)、会津の蘆名氏の
もとで死去した。この前年に宿敵・武田氏が織田信長に滅ぼされ、息子・小笠
原貞慶が旧領に復帰しており、長時も旧領復帰への準備をしていたが、その
最中に怨恨を抱いていた家臣に殺されたと言われている。
409 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:15:12.99 ID:8cJ7enP3
高遠はどうなったのかな?死んでいないよね。
高遠 頼継(たかとお よりつぐ、? - 天文21年1月27日(1552年2月21日))は、
戦国時代の武将で、信濃の名門・諏訪氏庶流の高遠氏当主。受領名は紀伊守。
1542年(天文11年)、諏訪家当主の諏訪頼重が武田信玄の謀略によって自刃
すると、同年9月10日、諏訪家当主となるべく高遠の地で挙兵。9月25日に安国
寺合戦で敗れると、高遠の地へ逃れた。
1545年(天文13年)に、武田家との講和が成立すると、高遠城を無血開城した。
その後は甲斐国で隠居生活を送る。
1552年、武田氏により自刃させられ、高遠氏は滅亡した。
>>409 ナレーションの人が「死んだ」って言ってた
412 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:19:57.74 ID:tv9Y9M5G
>>409 先週の時点で甲斐で生きてはいるけど……たぶん、もう出ません……たとえ出ても切腹させられて終りです。
413 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:20:57.99 ID:tv9Y9M5G
まだだ
まだ高遠はやる気満々
415 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:28:44.33 ID:YuhVV3hf
>>405 じゃあ、
「竹中半兵衛」なら知っているのですが、
「池中源太80kg」って誰ですか?
解説お願いします。
もういい加減ウゼぇ
>>YuhVV3hf
山 へ か え れ
419 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:53:21.57 ID:nMo8pyBz
ID:ic5j5LV5=ID:YuhVV3hfだな。
実に分かりやすい。
420 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 00:56:54.05 ID:YuhVV3hf
だって、このスレ、
模範解答しか出来ない歴史ヲタばかりでおもしろいんだもん。
超笑える。(笑)
何?自己マン?
武田信玄=法名 って、大爆笑だよ!
どこに知らないヤツがいるんだよ!
(・∀・)っネタスレ
422 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 01:16:03.35 ID:nMo8pyBz
初心者向け質問スレで、教科書的な模範解答以外にどういうレスをしろと?
ネタスレは他にあるだろ・・・
424 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 01:19:45.88 ID:YuhVV3hf
>>422 じゃあこの質問に答えてください。
中山道を進む土佐藩・乾退助率いる官軍は、
甲州での幕府軍との決戦の前に、姓を「板垣」に名乗り変えます。
それは何故ですか?
風林火山質問スレ
426 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 01:41:13.87 ID:8ECYrU/r
無視推奨ってことだな。
そんなもんすぐわかるだろ。甲斐とくれば板垣は馴染みがあるから
支持を取り付ける為に板垣姓にしたんだろ。
大体、信方の孫正信が浜松にいた頃の山内一豊の重臣
乾彦作の養子となり乾姓を名乗ったとされているけど、
自称と違うかね。
ID:YuhVV3hf←こいつwikipediaから拾ってんだろ?ww
>>ID:YuhVV3hf
人格障害は、蔑視や憤りが他人に向いているうちはいいが、
30を過ぎた頃から、自分に向かって襲い掛かってくる。
その時までに自分自身の蔑視を跳ね返すことができるほどに立派な人間(自分自身で満足できる人間)
になっていないと、自傷行為や自殺願望に悩まされることになる。
取り返しがつかなくなるから、いまのうちになんとかしたほうがいいよ。
ちょっと待て
俺は別人だ
テキトーに付き合ってやっただけだ
十分に厨だからおk
失敬失敬
ID見間違えた
>>406 郡分けってむか〜しの貴族がテキトーに決めたのか
かなりいい加減な分け方だから何群治めたかってだけじゃ
あてになんないよ。
例えば小県郡は実質上田市近辺だけど
筑摩郡って松本塩尻とその西側の山間部と
更に木曾も含むから。
434 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:21:05.57 ID:qfatHKv9
>>433 古代の郡は、厳密に人口比によって分けられていたはず。
確か律令時代には、郡内の戸数が1000戸を超えたら、郡を2つに分けるというような規定もあった。
だから畿内周辺とか当時の人口密集地域の郡がやたら細かく分かれている一方、当時は人口密度スカスカだった武蔵国多摩郡のように異様に広い郡もある。
但し中世以降に、地形的な問題や支配する領主側の事情で勝手に郡が分かれたり、境界が変わったりしているケースもある。
あと信濃に関して言えば、中世以前の信濃国筑摩郡には木曽谷は含まれない。
元々は、木曽谷は木曽川の源流域まで全て美濃国恵那郡だった。
しかし室町時代に守護の小笠原氏が、信濃の守護所を古代の国府があった上田近辺から、松本近辺に移した結果、信濃国の重心が南西に移動することになり、いつの間にか木曽は信濃の一部と見なされるようになった。
435 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:23:16.00 ID:qfatHKv9
>>406 この時代だと厳しいけど、元々は伊那郡も小笠原のテリトリーだったよね。
436 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:26:27.70 ID:LHQXZm1h
甲斐駒ヶ岳には摩利支天という場所があって摩利支天が奉られている。
だからオープンにでてくる山が甲斐駒なのですか〜自己解決。
437 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:27:23.94 ID:88AQp62v
私的に小笠原ってえっ?この人守護だったのかwってイメージの大名。ショボくても土岐家はこういうイメージないが。
438 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:32:33.91 ID:qfatHKv9
土岐の場合、伊勢守護だった本家は足利義教に消されているから、美濃にいるのは分家なんだよなぁ。
439 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 03:37:06.47 ID:qfatHKv9
>>406 まあ郡の数でどうこういうのもあれだが、一応今川・後北条についてもやってみよう。
1545年(天文14年)当時
今川義元・・・駿河のうち5郡+遠江全12郡+三河全8郡
北条氏康・・・駿河東2郡+伊豆全4郡+相模全9郡+武蔵数郡(5,6郡程度?)
ってところか。
440 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 10:17:46.27 ID:UseyBtIZ
>>436 自己解決してる処へ余計な御世話なんですが・・・
摩利支天は「場所」というより甲斐駒の支峰だよね。
中央線乗って長坂、小淵沢あたりから見る甲斐駒、
主峰ピラミッドの左に寄り添うように立つ岩峰、これが摩利支天。
このネーミングは結構新しいはずで、もちろん信玄からの由来でしょう。
甲府盆地から見る南アルプスで一番スッキリと見えるのが甲斐駒。
もっと高い北岳や赤石岳は前山に隠れて平野からは見えない。
東側から見ると特に格好いいんだよね、この山。
山っていうと北アルプス、後立山連峰の五竜岳。
武田菱→御菱→五竜 って説が有力で、
融雪期になると頂上直下の南東斜面に見事な「武田菱」が現れる。
ttp://www.azuminot.com/020331hakuba/hakuba4.htm
441 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 11:42:58.13 ID:QhpRL/wj
童貞なんですが、セックスって、侍女を殺してまでやりたいと思うような、いいものなんですか?
442 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 13:21:00.94 ID:YuhVV3hf
「北条高広」なら知っているのですが、
「北条氏康」って誰ですか?
443 :
433:2007/05/30(水) 13:35:48.29 ID:s5vhBUAY
>>434 そうか 郡決めた当時は妥当だったんだな。勉強になった。
昔の貴族の人すまんかった。
まあ小笠原が1郡だけのエライけどちっこい
バチカン市国みたいに思われたらイヤなんで
書いたんだ。
444 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 14:10:34.63 ID:Tg8bJjaM
そういえば三好氏って小笠原氏の同族なんだよな。
鎌倉時代に小笠原氏の一族が阿波の守護をやってて、その子孫が三好氏。
445 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 14:23:38.19 ID:tv9Y9M5G
>>443 よく考えたら安曇郡のこと失念してた…
小笠原家に対する詫びを込めて、この際、明治以降の郡名を使って訂正させてもらう!
1545年の時点で
武田晴信
甲斐5郡+信濃3郡(諏訪、南佐久、上伊那)=8郡
村上義清
信濃5郡(埴科、更科、上水内、下水内、下高井)=5郡
小笠原長時
信濃3郡(東筑摩、北安曇、南安曇)=3郡
これで武田:村上、小笠原連合は、8:8で互角になる。
因みに、その他の信濃は、
上高井郡(高梨氏=実質的に越後長尾氏家臣)、北佐久(笠原氏=実質的に関東管領上杉氏家臣)、木曾郡(木曾氏)、下伊那郡(菅沼氏)
訂正、異論、反論大歓迎……ただし電波は除く
再放送の土曜、本放送の日曜、その翌日の月曜、
このあたりが質問の集中し、このスレが本来の目的に機能する時間で、
ネタが無い火〜金あたりは、何か語りたくてウズウズしてる連中の
歴史薀蓄披露の場となるのは仕方ない。
なので、それがウザイと思う方も、次回の放送まで我慢してあげましょう。
447 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 15:02:47.58 ID:mLrgxBYP
歴史蘊蓄の披露は、電波説でなければそれなりに耳寄りな話も含まれるので、構わない。
むしろID:YuhVV3hfみたいな厨のほうがウザい。
448 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 15:05:03.84 ID:mLrgxBYP
>>445 本題から逸れるが、ノブヤボ等の歴史ゲームも、領地の最小単位を国じゃなくて郡にすれば、もっとリアリティが出ていいのにね。
449 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 15:17:17.02 ID:tv9Y9M5G
>>448 「天下統一」や「天下統一U」なんかは、城単位が実質、郡単位になっていたと思う。
「信長の野望」も新しいヤツはプレイしたことないけど城単位だと聞いているけど?
451 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 19:13:32.38 ID:YuhVV3hf
「武田義信」は最後どうなるのですか?
人間誰しも最後は死が待っている。
4次川中島で信繁と守役だった諸角虎定が同じ本隊にいるのに
武田義信は本隊で守役の飯富虎昌が別働隊に分かれてるのはなんでですか?
このとき義信を補佐してたのは飯富昌景?
22:00 その時歴史が動いた
「アンコール・武田信玄・最強軍団の真実」
▽勘助の献策とは
>>453 一応「軍鑑」に準拠するとして、
平山優「川中島の戦い」によると、
本隊=親族衆&甲斐衆
別働隊=信濃衆
という感じらしい。
つまり別働隊は、信濃の外様衆を、
飯富虎昌(塩田城主)、馬場(牧野島城代)、高坂(海津城代)という
信濃在番の譜代諸将が率いた、という図。
457 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/30(水) 20:56:01.87 ID:YuhVV3hf
わかると思うが、457はグロだから気をつけてな
ID:YuhVV3hfは単なる荒らし
「やり甲斐がない」とか言う時の「甲斐」って、国名としての「甲斐」と関係
あるんですか?
460 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 00:42:39.16 ID:umQBsz6m
風林に勝沼信友が出てきたなんて全く気がつかなかったよ。
461 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 00:56:03.87 ID:VM0mpUPw
>>460 第1話で直ぐ殺されちゃったからね
演じていた辻萬長は「竜馬がゆく」「新・平家物語」「元禄太平記」「峠の群像」「太平記」「八代将軍吉宗」に続いて7本目の大河出演
462 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 01:05:58.57 ID:umQBsz6m
>>461 殺された描写まであったのか!
くそっ、それ全然覚えてないわ。
463 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 01:12:46.68 ID:XNXXJvu0
第一話見直したらええやん。
ネットで見れるよ。初心者スレにリンクあり。
ハングルで字幕はいってたけど。
464 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 01:13:44.50 ID:XNXXJvu0
あ
ここが初心者スレであったか
465 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 01:16:00.01 ID:ff7bKnh8
諏訪四郎神勝頼の「神」って何なの?
467 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 04:11:55.55 ID:Nkw71d/o
まだ登場もしてない人物の質問はネタバレスレでやるずら。
あんたIDが変わっても性格の悪さでばれるでごいす。
469 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 08:20:23.41 ID:g2Mx+D7m
>>466 氏素性の「氏」だな。
源とか平とか藤原とかいったもの。
中国式には、「姓」になるな。
漢文脈の文章では、源姓、平姓、藤姓といった表記になる。
>>455 太郎も塩田城に居たの?飯富は太郎のお守なのになぜ塩田城主・・・・\(^o^)/
471 :
名無し募集中:2007/05/31(木) 12:01:36.95 ID:r89exRst
話は遡るけど・・・
・第11話で大井入道宗芸(大井夫人のお父さん)が出てきたけど彼の息子達
(つまり晴信のおじさんにあたる人達)は、どこで何をしているの?
>>470 太郎は躑躅が崎にいたんじゃね?
飯富は躑躅が崎にも館があったらしいから、
所領と躑躅が崎を往復していたと思われ。
>>471 大井信達入道宗芸の嫡男次郎信為(〜天文18(1549)年)
その弟上野介信常(〜天文20(1551)年)
その嫡男式部大輔信舜(生没年未詳)
普通に晴信に仕えてたみたいですね。
476 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 18:52:32.41 ID:RESijHko
近習の駒井政武と「高白斎日記」で有名な駒井高白斎とは同一人物なのですか?
新田次郎の武田信玄では老臣のような感じでしたが。
高白斎は政武の号だが別人説も有り
478 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 22:32:39.60 ID:hRFvF+jj
神氏の「神」の読みは「みわ」でいいんだっけ?
高白斎に限らず「〜斎」といわれると、なんだか老人ぽいイメージがあるよな。
戦国じゃないが、河上彦斎が六十代くらいのじいさん剣豪だと思ってたのは秘密だ。
480 :
名無し募集中:2007/05/31(木) 22:44:46.24 ID:r89exRst
話は遡るが・・・
・みつや平蔵たちが住んでいた葛笠村は、山梨県のどこにあって誰が
治めているの?
>>480 大森さんが創作した架空の村だったはず。
ドラマの中では、鬼美濃の直轄?
483 :
日曜8時の名無しさん:2007/05/31(木) 23:54:12.67 ID:hRFvF+jj
>>482 それは源氏を「げんじ」、平氏を「へいし」、藤原氏を「とうし」とかいうのと
同じような略称とかではなくて?
>>480>>481 ロケしてたのは、大河ドラマでお馴染みの小淵沢だから
信濃近くのような気がしてしまうが
山中湖にひょいっと出かけてたから、もう少し甲斐の中心の設定かな
「○○斎」って戒名の一種じゃないか。
出家した時につける名前で、「○○院」の代わり。
486 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 00:42:24.80 ID:daAkStJo
今川家って武田家や北条家をなんか1ランク下に見ている感じがあるな。双方で特別差なんてないのによ。
>>480 一話で今川との戦の最中に葛笠村で乱取り騒ぎが起きてたことから
少なくとも甲府から見て駿河方面にあると予想する
伝兵衛や太吉の今の身分は武士なんですか?
489 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 00:53:09.59 ID:n9vGe/sB
北条氏(後北条氏)って元々、浪人、北条早雲(伊勢新九郎)が今川家臣になった後に発展した一族だべ?
代々の守護大名家の今川や武田に比べれば明らかにランク下じゃね?
山本勘助ってそもそも実在した人物なんですか?
491 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 00:57:35.36 ID:gvE7+viv
>>487 喋っている言葉の感じからしても、甲斐南部の富士川流域辺りを想定しているだろう。
>>478 >>482 戦国の歴史書では「じん」と読ませる例が多いでしょう。
宗教学者の著作では「みわ」とも読む説、
かつ美和(みわ)、大神(おおみわ)等が本姓ではないかと
説いたものがあるけどね。
けれど、普通に戦国歴史的な見方だと
諏訪四郎神勝頼(すわしろうじんかつより)と呼んで通じるし
さしつかえないんじゃないかと自分は思う。
493 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 00:58:41.35 ID:gvE7+viv
>>489 何を引き出したいのか知らないが、露骨な釣りはやめれ。
それが質問だとするなら浪人出自というのは間違い
ランクというのが家格という意味なら、室町幕府政所執事・伊勢氏の出というのが劣るのかどうかといえばどうなんだろうね
伊勢新九郎は将軍足利義視に従い伊勢の国に下向、そこから新九郎の妹の嫁ぎ先・今川義忠の元に移ったってのが定説かな
495 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:07:34.03 ID:gvE7+viv
>>492 上のほうに書いてあるけど、「神」を「じん」と読むのは、
「源」を「げん」、「平」を「へい」、「藤」を「とう」などと読むのと同様、
漢風の音読み名称。
本来的な訓読み(「みわ」)は別にあると考えられる。
また日本語の音韻を考えても、古代(特に大化前代)からあるような氏族の姓の
読みが、最初から「じん」のような最後が撥音で終わる読み方だったとは考えにくい。
496 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:09:08.09 ID:daAkStJo
>>489 しかし、今川家はそこまで偉いわけでもないだろ。
お互い守護だし。
大体、今川家なんて将軍でもなければ管領でもないんだから
497 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:17:47.52 ID:gvE7+viv
>>494 K田さんあたりを中心に北川殿は、実際には早雲の姉だという説を主張する研究者も多いみたいだね。
あと室町時代における伊勢氏は、格という点では一般的な守護大名に基本的に劣らない程度の位置付けだろう。
臨時的だが、守護職に任命されることもあり得る家だし。
それに早雲の息子の氏綱が、左京大夫みたいな守護クラスでも比較的高ランクに位置する者がなるような官途を簡単に手に入れていることからしても、家格的に武田や今川に劣るとは認識されてはいない気がするな。
また早雲は今川氏の被官になったわけではなく、あくまで今川氏の内訌の仲裁のために幕府から派遣されたオブザーバーのような立場と見るのが一般的だね。
498 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:28:03.58 ID:gvE7+viv
>>496 今川氏って、室町時代を通じて幕府からは「生かさず殺さず」的な扱いを受けているね。
南北朝の頃に今川了俊があれだけ大活躍したのに、南北朝合一後は、基本駿河だけに勢力削減。
しかし鎌倉府と直接対峙する駿河が本拠地ということもあって、今川氏にお家騒動が起こると、そのたびに今川氏の領国支配が崩壊しない程度に適当にテコ入れして、幕府の意向に添う後継者を選定って感じだな。
少し前までは早雲と齋藤道三はうさんくさい出自から大名にまでなった下克上の象徴、みたいな扱いだったよね
その辺から北条の家格が低いという印象が生まれたんだろうけど・・・
そもそも早雲の間違った認識がなんで広まったんだか
500 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:39:39.10 ID:daAkStJo
>>498 今川家って
将軍職継承権があるとかなんか言われて持ち上げられていたけど
実際問題としては将軍にはなれんよな?
501 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 01:50:17.61 ID:n9vGe/sB
北条早雲が幕府から認められた存在だったとしたら
堀越公方を滅ぼしたことは、どういう扱いなんだろう?
やはり足利茶々丸の兄弟殺しに対する制裁なのか?
そこら辺の、北条早雲に関する新しい研究成果をふまえた書籍、
入手しやすい価格の一般書レベルで、何かお薦めありますか?
503 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 02:04:46.85 ID:gvE7+viv
>>501 早雲の伊豆侵攻は、明応の政変に連動。
幕府が茶々丸討伐を命じた理由は、明応の政変で将軍になった義澄の母と同母弟(潤童子)を殺害したためとされるね。
まあそれよりかなり前の義政や義尚が存命している頃から、細川政元あたりは、
堀越公方政知の子の清晃(後の義澄)・潤童子兄弟をそれぞれ将軍と関東公方にしようと企んでいたようだし、
義政に清晃を猶子にするように勧めたのもそのためらしい。
もっとも茶々丸からすれば、異母弟の清晃や潤童子ばかりが持ち上げられるのは面白くなかったってところだろう。
504 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 02:06:01.99 ID:gvE7+viv
>>502 『静岡県史』や『神奈川県史』の通史編じゃダメ?
あの・・・
県史の類はみな高価で分厚く
そのうえ入門編として向かないと思うけど?
506 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 02:29:14.51 ID:n9vGe/sB
>>503 最近では足利義澄が将軍になった後に足利茶々丸が殺されたことになっているのか……昔は順番が逆じゃなかった?
司馬遼太郎の小説なんかでも早雲の伊豆攻めで義澄が保護されて京に送られる展開だったような記憶があるんだけど…
507 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/01(金) 02:44:07.30 ID:Wpl1woPh
>>506 昔は早雲の伊豆進出を1491年(延徳3年)とする俗説が主流だったけど、
近年の研究では1491年は政知の死んだ年ではあっても、堀越公方府滅亡の
年ではないとされるようになった。
そして早雲が茶々丸を伊豆から追放したのは明応の政変と同じ
1493年(明応2年)ということでほぼ確定しているような感じだね。
なお茶々丸は堀越公方府滅亡と同時に死亡したわけではなく、その後も
伊豆大島や三浦半島などを転々としたのち、1498年(明応7年)に甲斐に
潜伏しているところを発見され討たれたらしい。
義澄に関しては、確かに司馬遼の小説ではそうなっているが、実際には
足利義政の存命中に京都に呼び出されて義政の猶子になっているのが
確実なので(『花の乱』でもそう描いていた)、遅くとも1480年代後半には
京都に移っていたとするのが妥当。
司馬氏がどういう根拠を持って、義澄が早雲に保護されるという筋書きを
描いたのかは不明だが、明応の政変の数年後に、駿河の今川氏の元で
保護されていた政知の娘(将軍義澄の同母姉妹)が上京したという記録が
あるので、あるいはこの人物と混同したのかも?
508 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/02(土) 16:53:53.92 ID:p96ERYFF
「武田信玄」なら知っているのですが、
「武田晴信」って誰ですか?
同じ質問を出してくる辺りもうネタぎれか
>>508 信じられないだろうが、そういう質問するやつ、実在するんだよwww
512 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/02(土) 18:51:37.28 ID:dQgIwSUz
勘助が由布姫の足を擦ったのは、
由布姫はお化けじゃない。人間だ。ちゃんと足があるというのを見せるためだったんですか?
すみません。最近2ちゃんねるの多くのスレが「人大杉」で見れないのですが、
いつになっても回復しない。
これは自分のipアドレスがアクセス制限とかされてるの?
誰か教えて。
515 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/02(土) 19:15:54.39 ID:NYNpUxkS
>>513 鯖の不具合じゃないの?少し前、ここも書き込みができなかった。
>514,515
ありがとう。自分だけではなかったのか。
初心者なのでよくわからなかった。
いつも見てるスレが見れなくていらいら・・・自分が中毒になってるのがよくわ
かった。
ヲチスレが落ちてる
なんで今回の大河って下ネタばっかりなんすか?ゆう姫とかどうでもいいんですけど。
由布姫だけは、下ネタにはならんだろうw 怪談。
521 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/03(日) 20:53:36.92 ID:jJxm3DZr
なんかここって
初心者には難しいスレのような気がしてならない
今まで書かれていることに興味はすごくあるのだけれど…
分かり易く教えてください
ただ僕がアホなのはわかっているのですが…
>>521 このスレみても理解できてないなら相当なアホだから
ちょっと難しい。
かなりかみ砕いて教えてるスレだろ
>>521 抽象過ぎて分からんから何を知りたいかをkwsk
>>521 「本当の」初心者なら、質問したいことをするだけでOKですよ。
今までも見逃したので人間関係がわからないとかでもちゃんと答えてるし。
まあまあ
質問ですが… 小山田が軍議で脇差を外して晴信のまえに出たのは、殺意はありませんっていう表明でいいですか?
526 :
あらかじめ書いておくか:2007/06/03(日) 20:58:55.23 ID:KeIj6vOl
Q:来週、いよいよガクト出ますか?
A:次回本編登場の上杉は> 関東管領 上杉憲政/市川左團次
次週の予告に登場と思われます> 長尾景虎/Gackt
長尾景虎は、数年後に上杉に名前を変更します。
>>525 殺意がないという意味も含めた、「作法」だと思います。
前の大河の「武田信玄」では、
晴信、義元、氏康の3者が会談した
記憶があるのですが、
今週はそういう場面が無かったですね。
これって何故なんでしょうか。
史実でないから? 出演者の都合がつかなかったから?
原作になかったから?
530 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/03(日) 21:09:48.44 ID:KeIj6vOl
>>528 > 晴信、義元、氏康の3者が会談した
>記憶があるのですが、
>今週はそういう場面が無かったですね。
三国同盟の締結シーンは、また改めて後の話しで登場の予定。
今回は三国の間で婚姻関係を結ぶ「三国同盟」ではなく、
武田を仲介に和睦が成立したお話。
>>527ありがとうございます。
>>528疎い自分が答えるのもなんですが… 脚本的に河越城?を包囲した上杉氏の対応に忙しいと予測される流れですよね 晴信義元会談のナレーションで、「その数日後…」とあった気がしました。
>>528 そのシーンは「善徳寺の会盟」と呼ばれる有名な話ですが、
(史実かどうかは意見がわかれる)。
一般的に1554年に行われたということで、1545年が今回なので9年後の話です。
「和睦」と「同盟」は別モノですから。
今週からの最後の陣羽織シリーズは誰ですか
「武田信玄」では、義元が「甲斐からみる裏富士もよい」という発言に信玄が「甲斐には裏富士などと呼ぶものはいない」「むしろ尻丸出し」と発言して義元を笑わすシーンがあった記憶がある。
今回は、雪斎が義元の承諾なしで三国和睦の構想を進めてたように
見えたんですが、軍師にはそんな権限があったんでしょうか?
538 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 00:09:22.97 ID:kKjoXDsG
>>537 役職の権限よりも、あまりひけらかさない実力が圧倒的に上だったので
事後承諾で各国のTOPもみな納得、というお話です。
河越=川越市?
川越にお城なんてあったのか
>>539 東武東上線川越市駅下車、徒歩10分
日本の名城・古城事典(TBSブリタニカ)より
大抵の町には城跡ってあるよね、まあ興味の無い人が見ても
どこがそうなのか、さっぱり分からないぐらい荒れ果ててるのが
普通だけど。
542 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 01:55:38.29 ID:kKjoXDsG
543 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 01:59:54.45 ID:kKjoXDsG
> 河越=川越市?
現代では川越だけど、昔は河越と書いていた。
544 :
535:2007/06/04(月) 02:03:19.86 ID:9wlWVFOb
番組の終わりに出てくる旗指物・陣羽織はそれぞれどういう意味で誰に対応してるのですか
なんか思いっきりスルーされまくってるのか過疎なのか知らんけど
誰も答える人がいないので自分で調べて見た。
今日出てきた紋は月星だと思うのでおそらくはそれを使っていた千葉氏の支族
原虎胤だという所か。
最初が朝日?だっけ?それが武田晴信。
次の三日月が板垣?だったっけ?
その次が小で小山田だったか。
548 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 10:27:17.45 ID:6nfO/EYc
原氏の家紋は、坂東平氏の平良文(村上五郎)流千葉氏の家紋、九曜紋ではないかと
思われ。原氏自体は、居城である小弓城(現千葉市)を上総武田氏の真里谷(まりやつ、まりがやつ)
家の武田信保(恕鑑)に落とされたと聞きます。小弓城には、古河公方足利高基の弟足利義明を入れて
小弓公方を名乗らせたと思います。武田恕鑑自身は自らを「房総管領」と名乗り、小弓公方のパトロン
として、下総・上総の支配を行っていたらしいです。千葉県の人はもっと詳しいのでは?
>>539 築城当時は戦術思想の最先端行ってた巨城だよ。
今のは転封が激しく、2〜10万石程度の小藩だった江戸期のものだから
城というより陣屋だけど。
通商要所だったため有能な者に封ぜられる事が多く、行政拠点に特化したような
造りなんで、それはそれで味わい深いマニア好みのお城。
551 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 14:30:31.42 ID:3sDKRmFa
552 :
名無し募集中:2007/06/04(月) 15:12:40.54 ID:9e5nfqvq
話は遡るけど・・・
・以前、勘助と庵原忠胤が対面したシーンでも、由布姫と諏訪満隣が対面し
たシーンでも「勘助の大叔父」・「由布姫の大叔父」とテロップで表記され
ていたけど勘助や由布姫のおじやいとこにあたる人たちは誰で、このドラマ
には登場しないの?
・第2話で登場した大林氏の養父母の子供、大林勘兵衛はこれから登場して
こないの?
>>552 由布姫の叔父頼高は頼重と一緒に切腹してる。
伝わる限り叔父は頼高だけで16才で死んでて子供もいないからいとこはいない。
>>552 武者震い侍が出てるだけでいいジャマイカ 勘助の母親の従弟(あくまでも
ドラマ内設定だが) この後、武者震いの子供が出るような事があれば、
それが勘助のはとこ
雪斎と勘助二人の対面シーンで
雪斎「で、○○○○○○、その知恵を授けたは小山田か」
板垣と勘助のシーンで
orzになった勘助「某は○○を追われ、諸国を流浪し」
○の部分の台詞は何と言っていたのでしょうか。
>555
下の方は「某は”生国"を追われ、諸国を流浪し」
に聞こえました。
村上さんが食っていた魚は何ですか?
>>535 色パターンが違うのが気になるけど多分飯富。
>>555 1.「駿甲相(すんこうそう)三方(さんぽう)の和(わ)」
駿甲相とは、駿河・甲斐・相模のこと。
2.「生国(しょうごく)」
生まれた国、生まれた土地のこと。
>>556、560
ありがとう。
すんこうそうさんぽうのわ、は、それなんてお経?と思ってしまいました。
なるほどねぇ。
562 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 21:24:00.19 ID:dUNTe7NM
多少なりとも日本史に興味があれば、国名の略称を並べていることくらいは
文脈から分かりそうな気もするが・・・。
それは質問ですか?
「初心者歓迎」これが読めない562は幼稚園児以下
甲相駿三国同盟なんてことも言われてたりしたね
566 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 23:35:05.61 ID:LEl36eHa
信濃ってどこまで信濃なの?村上は信濃の人じゃないの?
それに佐久って前村上が武田と組んで分捕った領地なのに、いつの間にか武田のものに
なってるのはなんで?
567 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/04(月) 23:55:51.94 ID:AUZtHK4c
>>566 この時代の信濃は、現在の長野県と同じ範囲
村上義清は信濃の人でOK
あと武田信虎と村上義清、諏訪頼重が共同出兵した時に
佐久(の南側)を分捕ったのは武田だが、村上が分捕ったのは隣の小県
568 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 00:25:26.93 ID:vpjvm6CK
まあもう少し詳しく言うと、北信濃(北信)の人
本領地は今で言うと戸倉の近くにある葛尾城
地図を見ればわかると思うけど埴科郡が領地、その隣が小県
そしてそこよりも下(現在の上田市寄り)が佐久だね
今でも郡名は変わらないから、地図でも確認できるよ
569 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 10:10:27.83 ID:uUioBbW1
>>567 >この時代の信濃は、現在の長野県と同じ範囲
木曽の帰属が最終的に信濃に確定するのは近世になってからじゃなかったか?
570 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 10:14:25.41 ID:S4ortRSs
あのー。上杉謙信はもう登場したんでしょうか?
別に中性的な顔立ちのガクトが演じるからって訳じゃないんですが、
上杉謙信ってのはホモ(オカマ?)だったんでしょうか?
あの時代の習わしからするとかなり外れた殿様だったようなんですが。好んだ服とかも。
まだです。もうちょっとお待ちください。
>>571 むしろこの時代に武将が小姓などを抱くことはごく普通の行為です
晴信さんと源五郎さんの話、信長と森蘭丸の話などなど
なお、謙信=女説というのもありますがこれはよくわかりません
>>570 登場は、再来週の24話「越後の龍」から。来週の予告にも出るかもしれない。
プレマップ(5分の宣伝番組)では台詞や殺陣が少し見れる。詳細は本スレを。
575 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 10:23:58.94 ID:MKP2Dyk2
>>569 木曽が美濃国恵那群から信濃国筑摩群に編入されたのは鎌倉時代
>>571 すでに
>>573でも書かれているが、
むしろ男色を嗜まない武将の方が少数派だったと言われている
ただし、謙信も男色家だったかは不明
577 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 11:35:56.04 ID:ZmojtmNA
謙信は願をかけるため禁欲主義で一生童貞(女にも男にも)だった。
578 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 12:01:49.41 ID:d30e2AFr
上杉謙信には子孫が居ない。
トリビアなどに出てきた上杉謙信の子孫っていうのは、米沢上杉家。
しかも赤穂浪士で有名な吉良上野介の子孫。
だからあれを謙信の子孫だとは思ってはいけない。全く無関係に近い。
>>578 まったく無関係、血がつながってないとはいえないよ。
謙臣の姉の子、つまり謙臣の甥が景勝。
その子が定勝で、定勝の娘と吉良上野介が結婚した子が綱景。
直系ではないが、女系も含めれば繋がってはいる。
580 :
名無し募集中:2007/06/05(火) 12:47:44.41 ID:ABk9IxyK
>552関連の質問
・いったいどういう思惑があって庵原家は、自分の姪を山本家に嫁がせたの?
・今川家における庵原家の立場はどうなっているの?
・大林家は、勘助の事をどうやって知ったの?
>>577 でも、結婚寸前まで行った京都の貴族の娘がいるぞ。
手紙も残ってる。泣く泣く謙信が諦めてる手紙。
ちょっと上杉家系譜つくった。ズレたらごめん。
┬上杉謙信
│
....└─仙桃院(謙臣姉)
‖
‖───上杉景勝(初代米沢藩主)
長尾政景 ‖───定勝(二代米沢藩主)
四辻公遠の娘 ‖──┬綱勝(三代藩主)
.. 鍋島家娘 │
.. ├次女
.. ├三女
.. └梅嶺院(参姫)
‖──上杉綱憲(四代藩主)
.. 吉良上野介
583 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 13:09:15.44 ID:HmbuMSBg
>>580 ・山本家も大林家も駿河の国人領主、家格が合うというのがまず第一。
・今川家評定の場面を見ても判るとおりそれなりに重用されてる、家老格で武田家でいう板垣や甘利の立場。
・今回のドラマだと、元々知合いで勘助を寺に紹介して欲しいという依頼を受け、勘助を知った設定。
584 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 13:28:18.01 ID:5iYhCU0R
勘助は義元に嫌われて、評定で一番若輩?の駒井を次の使者にしたのは晴信のいやがらせ?
譜代の家臣とか言ったって、ポジションは近従あがり、源五郎たちのちょい先輩くらいだよね?
585 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 13:55:11.14 ID:6qSPd4ng
>>575 違う。
鎌倉時代には、まだ木曽を美濃国恵那郡としている史料が存在する。
室町・戦国期でもどちらなのかは微妙で、完全に確定はしていない。
586 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 14:04:23.52 ID:6qSPd4ng
>>583 ドラマの中では大林氏は、牛久保の牧野氏に仕えており、どう考えても駿河ではなく三河の住人に見えるが。
また庵原氏は今川一族ではないから、元が武田一族である板垣氏や甘利氏とは根本的に立場が違う。
駿河における庵原氏の立場は、本来的には甲斐における小山田氏の立場に近いような有力な国人領主クラス。
今川義元との結びつきに関しては、雪斎が庵原氏の出身であることが大きい。
587 :
名無し募集中:2007/06/05(火) 14:04:32.54 ID:ABk9IxyK
>>580関連の質問
・勘助の兄、山本貞久はなぜ義元側(雪斎・庵原忠胤)ではなく玄広恵探側
(福島)についたの?
・このドラマでは勘助の母親は庵原忠胤の姪という設定になっていて、第2話
で庵原忠胤が「わが弟(雪斎)も出家している」と説明してたけど彼女の父
親(つまり勘助の祖父)はどういう立場だったの?
・なぜ庵原忠胤は、今川家の評定に出られるの?
・武人肌の福島と性格が合ったから
・庵原の(他家に嫁いだ)姉の娘の息子が勘助兄弟だからそれほどの縁ではない
・城主クラスだから
589 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 14:25:53.67 ID:3GR8aYJ+
とりあえずさ、武家に関しては最低限のルールとして、
○○家ではなく○○氏と言おうよ。
590 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 15:26:34.53 ID:4UIL5okX
素朴な疑問
武田騎馬軍団って、そんなに強かったの?
というか、信濃って騎馬隊が活躍できるような地形なんでしょうか?なんか山って感じがするんですけど
>>590 信濃には大昔から官営の牧場があったので馬はたくさんいたようだ
武田軍の主力が騎馬隊というのは作り話じゃないかという説はある
>>584 駒井政武(高白斎)は信虎の代から武田家に仕えていて、すでに外交官として活躍している。
家格は武田一門で、重臣の家柄。そこらの譜代と比べてはいけない。
そして、今回の駿相和議のために奔走したのは史実。ドラマの見た目に騙されてはいけない。
>>590 武田家の騎馬装備率は他家と比べても平均的。下手すると北条家より下。
いわゆる騎馬軍団の実在は怪しまれている。
最近はまた、強力な騎馬部隊はどうやら存在していたって説も有力になって来たとか来てないとか
つうか、庵原忠胤って由比氏から庵原氏に養子入りしたんじゃなかったっけ?
596 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 19:53:25.50 ID:azO1Cyzj
597 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/05(火) 22:35:34.65 ID:kv/etp2Y
板垣とか甘利も槍持って戦ったの?なんか刀振り回してそうなイメージなんですけど。
槍が標準装備の武器。
刀は予備装備。
600 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/06(水) 03:57:53.91 ID:u+6nFxx6
>>595 そうすると庵原忠胤と雪斎は兄弟じゃない?
雪斎のほうは「静岡県史」でも庵原氏の一族出身と記されていたが。
>>600 だからドラマでは、「腹は違うが(我が弟)」とか何とか言ってたじゃん
実際には兄弟じゃなくて叔父甥(雪斎の方が{義理}の叔父)みたい
だけど
緒方券演じる宇佐美って人は大活躍しますか?
謙信ものなら大活躍
ドラマ風林火山では不明
甲斐守護:武田氏
信濃守護小笠原氏
越後守護:上杉氏
越後守護代:長尾氏
が登場していますが、甲斐や信濃には守護代はいないんですか?
守護が現地にいれば守護代は必要ないんです
>>605 尾張には、守護代いたじゃん。しかも二人も(w
守護代ってのは、守護が在京している間
守護の代わりを務める人。
半国守護代とか、○郡守護代などという人もいる。
守護が在地に戻っても、戦国大名化した守護代が
守護代の地位に座り続けて、権力を守護に返還しない
などという事態も戦国期に入ると発生した。
608 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/06(水) 21:44:14.69 ID:yu+7vbnv
そりゃそうだ…
一応大井氏ということになるのか?>守護代
610 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/06(水) 21:57:00.12 ID:V2KqVnEW
村上氏は守護代でもなんでもないの?
甲斐で守護代を務めたことがあるのは、混乱期に実権を握った跡部氏
信濃だと、先日風林火山にも出てきた大井氏(信玄の母大井夫人と関係なし)が務めたことがある
あとは斯波家臣二宮氏(当時の信濃守護は斯波氏)も
越後守護の上杉氏は、越後にいなかったんですか?
関東管領の上杉氏と別なのはわかるんですが。
613 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/06(水) 23:26:41.54 ID:l2jwAHNv
>>612 あまり実権はなかったが、上杉定実という人が越後守護としている。
長尾景虎(上杉謙信)にも絡むので、これからドラマに登場するかもしれない……あっさり無視されるかもしれないがw
この人には跡継ぎがいなかったので1550年に病没した後は、長尾景虎が正式に幕府から越後守護に任命される。
614 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 01:09:52.23 ID:QpR5Tc8R
>>611 甲斐では跡部氏の滅亡以後は守護代の存在は確認できないらしいね。
因みに駿河の今川氏も特定の者を守護代として任用していた形跡はないらしい。
あと斯波氏が信濃守護だったのって足利義満くらいの時期だよな。
まあ二宮氏は、その後は越前の大野郡守護代になるが。
615 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 01:16:56.58 ID:QpR5Tc8R
>>610 守護代は守護と主従関係にあるものでなければなりません。
村上氏は守護小笠原氏からは独立した国人領主なので守護代にはなり得ません。
逆にいえば、村上氏のような守護と主従関係にない国人領主から見れば、
守護の下にいる守護代などは、当然格下です。
>>613 伊達一族の伊達実元を上杉定実の養子にして越後守護職を継がせようっていう
話もあったけど、上杉氏と伊達氏の家格の問題とかがあって対立が起こった
ために結局実現しなかったんだね。
でも一応、伊達実元の「実」の字は上杉定実から貰ったということになっている
模様だが。
>>612 元々居た。
管領上杉家と別と言ってもかなり濃い血筋で、場合によっては管領の兄弟すら
守護に送り込んでおり、越後守護は実質管領代とも言える存在で現地掌握の要。
謙信パパの長尾為景が守護殺して(管領弟の房能)、飾り雛(守護家養子の定実)に
すげ替えてこの強力な軛を外した。
617 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 16:15:47.29 ID:S3hhb84i
歴史とまったく関係ない質問なんですが
風林火山の放送前の評判てどんなモンだったの?
天地人のスレの絶望っぷりを見ると悲しくなってくる
>>617 全体的に地味とか「ガクト…_| ̄|○」とかそんなかんじ
自分は地味大いに結構派だった。
内野は「十時半睡事件帖」の頃の脇役から好きな役者だし
原作は(戦国ロマンとして)好きな作品だったし、
脚本家としての大森に期待もしていた。
ただ何度かの映像化と違い大長編作になる大河で
あの原作内容をどう引き伸ばすのか、
創作部分はどう構想していくのか、少々危惧していたけどね。
>>617 また戦国かよ…
また信玄かよ…
清水、大森コンビはクライマーズ・ハイで高評価を確立していたので
発表時点で硬派大河の期待は持てた。
内野、亀コンビの主演が知名度無いのとGacktでキャスト方面を不安がるレスが多かった。
絶望気分もあったが、女子供置いてけぼりで数字取れねんじゃね?
と天地人とは真逆方向。
本スレも最初のほうは「キャストが地味」というバッシングが吹き荒れてました
一部のコアな人はあのメンツと予告で「これは見てみよう」という気になっていましたが
>>619 そうだった。「あの短い原作で1年持つのか!?」って言われてたね。
謙信が信玄に撃ちかかったのって刀じゃないの?槍が主流なんでしょ?矛?
624 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 20:23:51.85 ID:6UwdI+o8
>>623 馬上で振り回す刀に太刀というものがございます
太刀を振り回して襲いかかってきてもなんの不思議もありません
626 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 23:34:46.56 ID:mpjQTDaI
>>623 そもそも謙信が信玄に打ち掛かったという事実は確認できません・・・
小説・ドラマ上のことですから何とでもできます。
あと川中島当時はまだ輝虎と晴信だったか?
627 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/07(木) 23:54:02.86 ID:nGqHctr0
628 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 00:13:32.14 ID:fkFxuTok
質問としてはなんですが、この時代の武将は室町幕府を潰さないと自分が
日本国の主権者になれないという認識は誰でも持っていたんでしょうね?
幕府があるのに京に上って天下を取るとかそういう台詞があったので。
昨日番宣見てたら甲冑姿のガクトが、鎧の上に袈裟みたいなのを着ていたんですがあれは何?
なんか川中島の時上杉勢が善光寺に陣を置いてから妻女山に向かったって聞いたんですが、
地元の人が善光寺が戦に巻き込まれるのは迷惑だからどっかいけって言って
上杉の荷駄隊を追い出したってほんと?
善光寺ってかなり力があったみたいなんですが。
631 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 00:42:24.83 ID:JehU93c2
>>628 「甜歌を撮る」なんて考えたのは「天下布武」のキャッチコピーを
よくよく考えてみたら解ると思うが、織田信長ただひとり。
戦国大名はみな自分自身を守るために、戦を繰り返していただけなのよ。
戦をして領地をぶんどらないと、家来をひきつけておけないし、隣国を
叩いておかないとこっちが攻められる。
みんな甜歌をねらう余裕なんてない。
632 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 00:48:21.54 ID:vo7JtGUv
>>628 この時代には、まだ幕府を潰す発想まではなかったのでは?
このドラマの時代と同時期に阿波の三好長慶が上洛して足利将軍を傀儡として幕府を掌握したようなレベルが限界だったのでは?
ただ、それが後の織田信長のように幕府を潰す方向に発展していったかもしれないことまでは否定はしないが…
633 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 00:52:52.85 ID:E559htDm
>>607 応仁の乱以前は、守護代が在京しているケースも多い。
一般的に守護代は、守護家の家宰的な立場であることも多いので、守護が
在京している場合には、守護代も在京していることは普通にあり得る。
例えば尾張守護代の織田氏なんかは、応仁以前には明らかに平時は在京が
基本だったと見られる。
もちろんその場合には、在京の守護代の下にさらに在国している「小守護代」を
おいていることが普通。
そしてさらに守護代や小守護代の下にさらに郡ごとの担当者として
「郡守護代」のようなものをおくケースも多い。
ただこれはそれぞれの守護大名家によってもかなり異なるし、郡守護代に
ついては、国によっては「郡代」とか「郡奉行」とかというふうに呼ばれている
ことも多い。
また場合によっては、守護代や小守護代が不在で、守護の下にいきなり
郡守護代というケースもあり、跡部氏没落以後の甲斐なんかもおそらくそんな
状況だと思われる。
ドラマ中でも出てきた板垣の「諏訪郡代」は、おそらく甲斐守護家としての
武田氏の内部組織である郡代(郡守護代)を新規征服地である信濃の諏訪郡にも
適用したものといえると思う。
>629
袈裟だろう。謙信は仏教、毘沙門天に帰依していたから。
635 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 00:54:36.65 ID:E559htDm
>>612 越後上杉氏(山内上杉氏の分家)は応仁の乱以前には在京していることが
多いですが、この時期だと基本は在国でしょう。
>>628 細川、三好みたいに幕府を傀儡化して天下の実権を握る大名もいた
というか、織田信長でさえ将軍を追い出すつもりはなかったという説もある
また、過去には鎌倉幕府の実権を握った執権の北条氏、その北条氏から実権を奪った北条家臣の長崎氏などがいて、
必ずしもトップに立つことが天下を盗るということではない
637 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 01:06:23.21 ID:E559htDm
>>636 得宗被官の長崎氏は得宗家から実権を奪ったとまではいえないと思うぞ。
北条高時が政権運営にあまり興味を示さない人物だったから、必然的に
しゃしゃり出てきたという感じがある。
また細川氏や三好氏が末期の足利将軍を傀儡化して幕政を牛耳っていたという
説に関しては反証も多く提示されている。
特に足利義晴期においても、将軍の御前沙汰がまともに機能していて、そこに
細川高国・晴元の関与が全く見られない点なんかは、そうした反証の一つとして
よく挙げられる。
>>632 信長も幕府制度そのものをつぶしたのは義昭とのいさかいの結果だしな
最後の段階まで幕府を消滅させようなんて考えはあんまなかったように見えるな
義昭を追放した後に新将軍擁立などをしなかっただけで
639 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 01:47:07.34 ID:iYK2f6k6
>>638 確かに義昭が自分の思うようにならなくてどうしようもなくなった結果が義昭追放だからな。
まあ室町幕府って元々将軍独裁指向の強い政権だから、足利将軍は義昭に至っても「腐っても独裁者」みたいな感じで、自分が全ての権限を握っていないと気が済まない雰囲気がある。
だから、お飾り的存在には収まっていられなかったというのが、江戸幕府の後半期の将軍なんかと比べると対照的。
ただ信長は義昭追放を決意した段階では、室町幕府体制を存続させる意思はなくなっていたのだろう。
もし存続させる気があるなら、義輝・義昭系統と対立関係にあった阿波公方系から義栄の弟辺りを新将軍に迎えてもよかったはずだが、それをしなかったからね。
あの段階では、最早足利将軍家を追放してしまっても、朝廷の支持があって、朝廷の権威を全面に出せば、やっていけるという判断だったのだろう。
信長は、義昭から「副将軍か管領に」と、要請されたのを断った時点で、
将来足利幕府を倒すことは腹案として持っていた、と思う。
正親町天皇との不仲もあるからね。
皇室とか、将軍家に対して、利用するものとしてしか考えてなかっただろう。
尾張守護職斯波家の場合も、自業自得の面はあるが、追放された。
お前らさ、現実社会で話し相手になってくれる人がいないんだろwwww
質問者もいないのに長文投下してみたり、
初心者向けに簡潔に答えた回答に詳しい解説を付け加えてみたり・・・
643 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 09:13:07.70 ID:9hwEO+CJ
>>642 いるわけねーだろ。
歴ヲタなんて珍しいんだから。
>>630 何回目の川中島かわからんが俺はありえないと思う。すくなくとも俺は知らん。
そもそも、第二次川中島まで善光寺は宗教的だけでなく経済的にも寺社街に商人があつまり北信濃の中心で、
基本的に謙信の越後商人が中心とした場所だった。
武田は、経済的、宗教的の両面から善光寺を上杉(長尾)の重要拠点と考え、善光寺奪取を考え始まったのが
「第二次川中島の戦い(犀川の戦い)」
善光寺周辺の国人衆を寝返らせた武田だが、それを奪還するときに長尾軍が駆けつけて戦いが始まり、
この戦いはまさに善光寺を真ん中にすえての戦いで善光寺は多いに荒れた。
その後、長尾と武田は和睦したが、善光寺は両方から本尊があったと主張され移転された。
武田には「甲斐善光寺」が出来、今も存続し残り、
上杉の善光寺は直江から信長(岐阜)・秀吉(京)・家康(尾張)と三者から移転され1598年にやっと信濃にもどったといわれる。
上杉と武田で意見が違うが、基本的に善光寺という宗教的・経済的拠点を手元におきたかったという点は同じ。
で、第二次川中島以降の善光寺はそれほど力をもってない、いわば抜け殻のような存在といえる。
だから、第四次川中島で上杉軍が善光寺に着陣したときに荷駄隊をおくが、
それほどの抵抗があったとは思えないと思うし、すでに荒れていたはず。
第二次川中島最中ならありえるかもしれないが、逆に荷駄隊を置いたという話はきかないし。
645 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 10:46:02.90 ID:Osl6sw5h
昔、山梨の観光グッズショップで
「武田晴信入道信玄」なる旗を見たんですけど
武田信玄の名前は晴信で、一度も信玄と改名したことはないってことですか?
仏門に入ったってことですか?
646 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 11:01:27.67 ID:9hwEO+CJ
長慶も久秀も信長も
将軍をぬっ倒して自らその地位に座るなんて気はなかったってことか。ま、そんな面倒なことをするぐらいなら
将軍を会来にした方が早しな。
氏康もそうだろ。
647 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 11:04:52.37 ID:/pF1KPg8
諏訪、高遠、小笠原、大井って今の長野県のどのあたりを支配してたの?
>>645 よく質問の意味がわからんが、
仏門に入ったんで徳栄軒信玄と名乗った(変名した)は正しいよ。
ちなみに、武田晴信入道信玄という書き方は江戸時代によく言われた後世の書き方。
浮世絵とかに使われた書き方。
諏訪→諏訪→諏訪市
高遠→高遠→高遠市
小笠原→府中→松本市
大井→中巨摩郡→今の南アルプス市あたり甲斐の西側
ちなみに甲斐の東側が郡代で小山田氏
650 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 11:45:50.16 ID:ek/sF6Cl
>>649 大井は、甲斐源氏の大井じゃなくて、信濃の方じゃないかな?
>>649 何故郡内を「ぐんない」ではなく「ぐんだい」と読む?
「ぐんない」だ、ぐ・ん・な・い。
スレ違い覚悟で、ちょっと質問させてもらいます
真田幸村の幼名「弁丸」と長宗我部元親の幼名「弥三郎」
は何て読むんでしょうか?読み方が分からないので教えてください
>>652 「べんまる」と「やさぶろう」じゃね?「べんまる」の方はwikiに載ってた
656 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/08(金) 16:33:28.27 ID:vo7JtGUv
>>647 諏訪頼重:信濃国諏訪郡上原城=長野県茅野市
高遠頼継:信濃国伊那郡高遠城=長野県伊那市
小笠原長時:信濃国筑摩郡林城=長野県松本市
大井貞隆:信濃国小県郡長窪城=長野県長和町
>>651 グンナイ グンナイ Baby
涙 こらえて〜 ♪
信虎は出家したんですか?それとも今川の一家臣になったんですか?
>>658 晴信の仕送りでリタイア生活。
出家もしてないし家臣でも無い。
出家はしたんじゃなかった?
ナレーションに「駿河に到着後、すぐに出家した」と説明あったよ。
出家した後も、子供作ったり軍師になって大暴れと
やりたい放題の人生だったみたいだけど。
>>660 確かにナレで出てきたな作中では出家してる。
でも、実際出家したら法名名乗るけど信虎様法名でてこないよな?w
学研の歴史群像っていう雑誌の、今売ってるやつには
京に上って室町幕府に出仕していたと書いてあった。
「在京守護」扱いだったそうだが、原典は書いてない。
武田24将に武田信廉 穴山信君 小山田信茂が入ってるのはなんで?一族で裏切ったくせに。
>>663 ってか、二十四将は江戸時代の絵師や依頼主の好みや
武田贔屓の江戸人に選ばれて流布したもんで、
24人きっちり確定メンバーが居るわけでもなく
武田十四将とか武田二十三将・・・なんて画もあるんだよ。
なので、中には穴山や小山田の居ない画もあり、
また描かれていても正面でなく後ろ向き・・・って画もある。
武田二十四将については、色んな板でさんざん概出だけど
あれは甲陽軍艦や追随の軍記物語などでの記述された
武田三代に渡っての将から選んで書かれたもので、
あくまでも江戸時代の流行、同時代人の選択ではない。
>裏切ったくせに
自分は勝頼好き派だけど、小山田や穴山の見限り行為は
武田と一緒に滅びる筋合いもない家筋・・・だったから、
という考えをしている。私感だけどね。
家の名を存続しようと行動するのは武家の当主の務めだから。
「でも、結果的にはダメだったじゃん」でもね。
665 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 02:11:00.09 ID:GeLaZwCU
>>662 信虎が将軍義輝の相伴衆になったことを言ってるんじゃない?
これは本来的には将軍の話し相手をする役職だから、在京している奴じゃないと意味がない。
ただ戦国期には明らかに在京していない地方の戦国大名とかが相伴衆になることがあり得るから、原則は崩れて単なる肩書きになっている側面もあるが。
666 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 02:16:35.29 ID:GeLaZwCU
>>660 当時の出家には、本当に俗世間との関係を絶ってしまう文字通りの出家と、
外見上は法体になるけど実際にはそのまま俗人と同じ生活を送っている出家の
2つのパターンがある得るからね。
鎌倉幕府や室町幕府では明らかに入道している奴が普通に幕府の役職とか
守護とかになっていたりするけど、こういう人達の出家は基本的に後者。
ただそれでも法体になるからには、法名はあると思う。
出家と入道、帰依は違うんではあるまいか
良く知らんし、坊主自体が思いっ切り生臭な時代だからどうせ厳密じゃないだろうけど
武田家は浄土真宗じゃなかったっけ。
だから晴信の三男も出家しているのに妻子がいる。
戒名じゃなくて法名と言ってるのもそうだし。
>>663 武田二十四将と言っても、フィクションが入っている上に、
信玄最強時が基準だから、信玄死後の行動は無問題。
本願寺顕如と武田信玄は相婿ってことになるのかな
明智光秀を嫌われキャラとして書いても、判官贔屓で人気出ちゃったり
日本史の場合特別嫌われキャラとかいなそうな気がする。
勝頼が真田のとこに逃げたら小山田と同じように差し出してた気がするし。
村上が食っている魚はなんですか?
675 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 13:57:05.29 ID:bqueIXa8
松永久秀も悪逆非道な人物だったというが
そんな武将を信長はよく使ったな。
ちなみに村上が読んでるのは棒書き
678 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 18:09:26.05 ID:r3LWEkKM
法華宗の原虎胤が、晴信に浄土宗への改宗を強要され断った為、
追放となった ってWikipediaにあるけどガセなの?
>>679 軍鑑が典拠だから、
「・・・と言われているが確証はない」の世界じゃないの?
>>679 検索してざっと見た限り、そんなこと書いてるのはWikipediaだけだな
ほかは浄土宗と法華宗の争論に関わったため、
特定の宗派への肩入れを禁じた甲州法度に反するとして追放された、とある
で、どっちに与したかはこれまた記述が分かれてる…
682 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 21:44:15.76 ID:r3LWEkKM
>>679 「信玄」の法名を授けたのは、臨済宗妙心寺派長禅寺の和尚である岐秀元伯
信玄の菩提寺は、臨済宗妙心寺派恵林寺
武田信玄個人の宗派が臨済宗だったのは間違いない。
ただ家臣の間では浄土宗が盛んだった可能性はある。
そして法華宗(日蓮宗)は、その性格から他宗派とトラブることが多かったから
原虎胤が「調和を乱す」との理由で追放された可能性はある。
683 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 22:04:44.86 ID:pzzzAgQL
>>679 ただ、甲斐には日蓮宗(法華経)の総本山、身延山久遠寺がある。
だから、甲斐は元々法華経信者が多い土地と言われる。
が、法華経は「不受不施」など不受とは法華経の信者以外からは施しを受けず、不施とは法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないという、権力者に対抗的であった。
で、信玄とすれば一向宗(浄土宗)の一向一揆の力のほうが利用しやすかったと思われる。
事実、謙信に対抗するのに、しばしば一向宗の力を使った。
また、次男竜芳は御聖道様と呼ばれ一向宗を率いて闘った。
だから、甲斐の地で多い日蓮宗(法華経)VS新興勢力の一向宗(浄土宗)
となったのはありえない話ではない。
あと、原は追放は事実で、北条に行くんだがこれは、
原が元々は当時北条に使えた千葉氏の家臣だったからといわれてる。
原は甲斐ではなく、今の千葉出身の外様である。
684 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 22:21:34.31 ID:r3LWEkKM
>>683 一向一揆を起こした一向宗とは「浄土真宗」の本願寺派であって「浄土宗」ではない。
同じ親鸞開祖の宗派とはいえ浄土真宗本願寺派と他の浄土宗、浄土真宗は対立していたので一枚岩とするのは乱暴な話だ。
>>683 竜宝は半俗の出家聖道のために「お聖道様」とも呼ばれたが、
>一向宗を率いて戦った
・・・率いて「戦った」などの逸話は聞いたことが無い。
竜宝と浄土真宗の長延寺は深い繋がりがあるのは事実だが、
門徒を指揮して戦闘に参加した記録など無いのでは?
お聖道様衆という集団はあったが、
それは御料人様衆と同様に留守固めのものの呼称になる。
また、浄土宗と浄土真宗との違いがわかっていない・・のか?
686 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/09(土) 23:38:20.29 ID:p47Bbk3X
武田氏というか甲斐源氏は鎌倉武士の系譜を引く氏族だから、代々臨済宗だった可能性は高い。
室町初期くらいに武田氏が将軍義満の命令で作った寺(名前失念)も臨済宗だったはず。
晴信が一向宗と良好な関係を保っていたのは、三条夫人を介した姻戚関係も影響しているだろう。
>>686 そんな昔にまで辿らなくても、
恵林寺も円光院(三条夫人菩提寺)も臨済宗だよ。
信玄は善光寺も大切にし、不動明王信仰も熱心であって
大僧正の位も比叡山から貰ってはいるが
(当時のほとんどの大名は宗旨に固くこだわらず信仰、保護した。
勿論日本の総菩提所である高野山には武田家の位牌や過去帳もある)
宗旨としては臨済の禅だったのだろう。
晒し首になった勝頼の首級を貰い受けたのも京都・妙心寺。
また本願寺とは政治的にも手を組む必要があったのだろう。
概出の長延寺の住職が関西方面への使者に登用されている。
また菊姫の最初の婚約者も伊勢長島の一向宗の家だった。
基本的な質問で大変恐縮なんだが
「武者震い」ってなんでネタになってるの?
あと、ネタが多いって言われてるが不評なのか?
689 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 11:53:08.96 ID:iCbzjJEb
ネタが多い=話題が多い
武者震い侍は強烈な個性の登場人物ばかりの風林火山の中でも
屈指の人気キャラですよ
692 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 14:16:40.11 ID:oGGXFW4q
河越の戦い時点では上杉憲正と北条氏康の地位権威はどの程度なの
室町幕府の秩序では北条氏康は相模守護あつかい?
それとも非合法な勢力
>>2 今更だが、何故三条夫人は有難くもがっかりおっぱい襲名してんの?
『ジョゼ』ん時のおっぱいは一般的にがっかりさせないものと思うのだが(ちょいと下向いてて確かに「がっかり」感無きにしも非ずも)由来は別?
個人の主観が一般論とされるのは、
2chではよくあること
695 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 17:32:34.34 ID:EC9khhSZ
お呼び出しいたしまーーーす
ねえ、骨髄たったはいらっしゃいますかああ?
>>293 『ジョゼ』だよ。
2chの童貞くんたちは、詰め物いぱーいのぱんぱんおっぱいしか知らないから、あれ見て「がっかり」したらしい。
700 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 18:46:38.48 ID:ahbSj5PP
>>692 少なくとも非合法な勢力ではない。
北条氏綱は正式に左京大夫に任官しているし、京都にいる伊勢本家とも親戚付き合いを続けている。
また「大館日記」や「蜷川日記」などの幕府側の人間が書いた記録にも登場しており、室町幕府ともある程度の交渉があるのは事実。
少し時代が下るが、「永禄六年諸役人付」にも後北条氏の記載がある。
701 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 19:01:03.13 ID:ahbSj5PP
>>700補足
但し事実がどうであれ、関東管領である上杉氏側から見れば、後北条氏の存在は容認できないものであるのも事実。
氏綱の伊勢から北条への改姓自体が鎌倉期に公方(鎌倉将軍)を推戴しつつ実質的な関東の支配者となった鎌倉北条氏を念頭においていることは明らか。
後北条氏がこれと同様に公方(ここでは古河公方)を推戴する執権のような立場で関東に覇権を唱えようとすれば、それは即ちそれまで関東公方(古河公方)の執事(管領)として関東管領の地位を世襲してきた上杉氏の存在意義を否定することになる。
だからドラマ中にも描かれていたように、上杉・長尾氏側(含、越後)が後北条氏を決して「北条」と呼ばずに常に「伊勢」と呼び続けたのは事実。
逆に後北条氏側も、山内上杉氏継承後の上杉謙信を決して「上杉」とか「山内」とは呼ばずに「長尾」と呼び続けた。
この状況は氏康の晩年に、甲相駿三国同盟破綻→越相同盟締結という情勢に大きな変化が生じるまで基本的に変わらない。
702 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 19:53:42.94 ID:7QD47F8b
「武田信玄」なら知っているのですが、
「武田晴信」って誰ですか?
そういうのは釣りとは言わないと思うんだ。
北条綱成=福島彦十郎じゃなかった?彦十郎は別に存在していたが…
北条綱成と福島彦十郎は別人らしい。
でも、福島綱成ではあるというややこしさ。
福島正成の子?
正成の子が綱成。越前守(名前不称)の子が彦十郎
河越夜戦とか中心部はだらけてても周りを固めてる部隊はしっかり守ってるんじゃないの?
大河ドラマ的には
福島越前守(テリー伊藤)の子→彦十郎
福島正成(ドラマ出ない)の子→北条綱成
越前守と正成は別人説が今は強い。
ただ福島と名前が一緒だっただけとか。
花倉の後に、彦十郎が出て来た時のテロップで。のちの北条綱成と出てなかった?
712 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 21:33:44.95 ID:iR6WV6Om
本間江州が味方に切られなければならなかった理由を教えてください
>>712 自分自身は氏康に仕えたい。
父母は息子のゴーシュを上杉の武将であると信じている。
どうしようもなくなって自殺的に打って出て、無抵抗気味に殺された。
>>713 親孝行なんだか親不孝なんだか分らない男ですね。
>>714 架空の設定ということですか。
彦十郎と北条綱成が並んで立ってなかった?別人な感じ。
>>716 なんでよw
両親は未だ上州にいる
小田原追放された時も何も疑わず迎えてくれた
そんな上州人の両親に関東管領負けさせた二重スパイの親という
汚名着せたくなかったんでしょう
「上州武士として管領様をお守りし討ち死にした立派な息子」と
真田に見つかった時の矢文もそれが書いてあったからこそ、ああもアッサリと斬ってくれた
真田に間者として討たれる訳にいかなかったから、土下座した
・・・って釣り?
719 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 21:58:41.20 ID:7QD47F8b
「福島正則」と「福島正成」は関係ありますか?
そういうのは釣りとは言わないと思うんだ。
721 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 22:06:09.56 ID:nDrtAxyx
>>714 ぷぷぷ、骨の髄まで腐ってまつね(@u@ .:;)
>>719 別族といわれているが同族と言う説もある。
即ち良く分かってない。
723 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 22:07:01.90 ID:nDrtAxyx
>>712 間違えたじょ、こっちだった
骨の髄まで腐ってるのはw
724 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 22:10:58.40 ID:7QD47F8b
>>724 きみさぁ、現実社会に友達ひとりもいないでしょ?
726 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 22:21:00.79 ID:RDoRboMH
>>724 それがしがお供つかまつる。
晴信さまにお会いください。
>>725 現実社会どころか、ネット社会にも友達いないんじゃない?
義元は晴信に対してなんであんな上目線なの?
>>728 今川の方が由緒正しい名門で、国力もある。
なおかつ、晴信の姉を妻に迎えているから義理の兄でもあり、
晴信の父・信虎の現在の庇護者でもある。
鎌倉時代くらいまでは、武士(封建領主群)の総大将として認められるには
源氏か平氏、どちらかの最もすぐれた血統を引いていないと無理だったりしたのが、
いわゆる戦国時代に入って、いきなり
実力があれば誰でも天下の主(あるじ)となれる、みたいな風潮になって行ったのは何故なんでしょうか?
もし信長が暗殺されず、いわゆる天下を取っていたら
今ごろ(ていうか江戸時代に)安土城城下が首都となって、織田幕府が成立していたかも知れないわけでしょう?
とか万が一武田家が勝っていたら武田幕府、首都山梨になっていたかもという。
そういう圧倒的な実力・結果至上主義になったのは何故なんですか?
732 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 22:48:45.64 ID:7QD47F8b
ちょっと思ったんですけど、
風魔が遊女として上杉の陣にもぐりこんでるなら、
直接、管領を暗殺したほうが早かったのでは?
今日ちょこっと出てきた黄色地に「八幡」って
書いてあった旗、あれ、何か特別な意味があるんですか?
一部の歴史に詳しそうな人たちが盛り上がってたように見受けたのですが。
>>730 出発点
>>源氏か平氏、どちらかの最もすぐれた血統を引いていないと無理
からして違ってると思う
>>730 信長は天皇さえ自分の下に置こう(あるいはあぼーんしよう)としたから、
明智に打たれたという説もある。
>>733 北条家の名将、北条綱成が黄色の布地に『八幡』と書いた旗を用いて
地黄八幡と呼ばれたから。
ドラマで上杉憲政が河越城を攻めた時に力攻めじゃなく兵糧攻めにしたのも
地黄八幡の武名を恐れたから
>>729 730
ありがと!今川の方が名門なんだ。
信虎押し付けられて義元もかなりストレスたまってるのかも。
738 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/10(日) 23:47:50.27 ID:xJfLrtp1
関東管領って、ちゃんと公方から頂いた役職なのに、どうしてみんな上杉
を敵視するの?
739 :
包囲解除攻撃といえば:2007/06/10(日) 23:48:47.97 ID:9sXSSxXk
風魔や軒猿、透波?という忍が北条や武田、上杉にいたそうですが、
家臣の中ではどういう位置にいて、実際にはどんな活動をしてたんですか?
まさか忍者物の漫画みたいなことはないだろうけど、伊賀の忍者村のHPとか
見てるとなんかすごそうな…。
司馬遼太郎の「最後の伊賀者」に出てくるような話は史実なんでしょうか。
>>738 皆と言うけど河越夜戦の段階で上杉に敵対した関東の武将は北条氏と千葉氏だけだぞ?
他の大名武将だって適当にくっついていってるだけで戦意マルでなし。
勝って何かもらえるわけも無しに。まさに烏合の衆
勘助って一応爺さんなんだよね?
今はいくつくらいの設定?
>>743 1493年説だと53才で1501年説だと45才
745 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 00:25:01.56 ID:KdM+cGx1
関東管領を敵に廻すって、公務員と戦ってるってことでしょ?
>>745 北条が台頭してきたから両上杉と古河公方が一致団結してるけど。
元々北条はこの人達がお互いに争ってる所に付け込んで勢力広げてるから
北条さんからすればそんなお題目は糞くらえですよ。
>>733 普通に八幡神。
総本社は宇佐神宮(日本史ちんぽ王、道鏡で有名)
八幡神社は一番、悪くても二番目に多いから近くにないか?
源頼朝が鎌倉幕府を開くと同時に鶴岡八幡宮を宗社としたことから武家、特に
関東武士の守護神とされた。
謙信が毘沙門旗掲げるようなもんだ。
ああ、盛り上がりの理由を聞いたのか…
>>745 関東管領とゆう役職は、天皇(国家)から室町足利将軍を通して賜ってるようなものだから
役割でいえば公務員とゆうか、現在の都知事・県知事みたいなものだね。
750 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 00:59:35.37 ID:iBMp1ZkE
彦十郎が勘助に銃をぶっ放したけど、武田と北条の同盟関係にヒビ入らないんですか?
751 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 01:22:57.44 ID:+QGgk0ss
ガクトもうでた?
>>750 篭城してたから武田の援軍である事は知らないので
753 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 01:27:43.09 ID:PcupJScx
「恨みを捨てて大望のために生きる」が、このドラマのテーマ。
勘助・由布姫・真田は、
「恨みを捨てて大望のために生きる」ことを選んだ。
しかし、越後へ落ち延び、最後まで、
「武田への恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれる、というオチですw
というか敵将の真田と一緒にウロウロしてんだから
北条方としては撃つ理由はいくらもあるよな
>>750 この時期はまだ武田と北条は同盟してないよ。和睦しただけ
銃撃の時点で勘助は上杉方の武将である真田と一緒にいたわけで
客観的には勘助は裏切り者扱いされてもしょうがない状況
仮にコトが露見したとしても、武田は北条に文句を言えるかは微妙なところ
あと知ってるかもしれないけど出来事自体は架空だよ
そもそも史実では勘助が河越夜戦に参加したなんて史料はないし
晴信の正室の最初の人が扇谷上杉朝定の娘ってのはほんとうなの?
死去したあと来た2番目が三条?
757 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 01:55:05.18 ID:yGSmphfr
>>755 ついでに原作にもござらん。
しかしこの大河、原作にないエピソードがほんとにすばらしい。
逆に姫パートなどは原作に忠実にやってもらった方が
それがしなどはすっきり観れた。
なにしろ姫パート終わったら面白さが一気に復活した。
最初の妻は朝定の父・朝興の娘じゃね?
冨士浅間神社に伝わる『勝山記』に河越殿(朝興)息女が
輿入れして翌年に懐妊したが死亡したと記録にある
美瑠姫は大人になってすでに再登場を果たしていますか?
あと、ラストで銃を放った彦十郎と勘助の関係を教えて下さい
朝興さんの娘さんでしたか。ありがとうです。
>>760 成長した美瑠姫は今週まではまだ出てませんが、来週あたりでてるくのかな?
彦十郎は、テリー伊藤演じた福島越前守の倅にあたります。
今川義元が家督争いをした際に、今川義元の庶兄(玄広恵探)を擁立して敗北したのが福島越前です。で、落ち延びる際に、福島越前、彦十郎、恵探は勘助に見つかり、そのときに彦十郎は父を逃がすために勘助と刃を交えています。
その後、父は甲斐へ逃れたものの、信虎に殺され、自身は小田原へ逃れていきました。さらに母は、合戦時に死んでるので、いわば勘助を父の敵に近い感覚でとらえている物と思われます。
763 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 02:40:34.32 ID:5d5vJId1
すみません、風林火山のポスターはどこかで購入できますか?話し遮ってすみません
>>740 基本的に忍者=スパイと思えばよいです。
誇張すぎれば007になりますが、
実際のスパイのように敵国に入って情報を集めたり、
今回のように敵国に潜む間者から情報をもらったらあたえたりする仕事です。
また、現在の中国のハニートラップのように女を抱かせて情報を引き出したりもします。
戦国時代に男色が流行ったのは、くのいちを恐れたためという説もある。
また、これも一説ですが、風魔残党が、その女性のテクニックを元に商売を始めたのがあの吉原遊郭とも言われてます。
ちなみに、このような間者働きは一段低くみられ、評定などに参加できない非合法の存在でしたが、
風魔小太郎、服部半蔵などは珍しく評定などに参加してる国公認の忍者です。
767 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 09:23:51.14 ID:SVv4FGME
『種子島は1543年に中国人が仲介して種子島時堯に2丁売った』
↓
いわゆる鉄砲伝来
って覚えていたんですが、国産の鉄砲って1545年当時に関東まで卸されてたんですか?
伝来してわずか2年で国産の鉄砲が関東まで流れてるってスゴいんですけど…
鉄砲が量産体制になったのって、いつぐらいからなんでしょうか?
どなたか詳しい方教えて下さい。宜しく御願い致します(_ _)
768 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 09:48:30.25 ID:St2UduNN
>>767 根来寺の坊さん、津田算長が種子島時堯が鉄砲を一丁持ち帰って、根来寺で国産した。
それを根来寺が北条に売ったとドラマ内ではなってる。
訂正
津田算長が種子島時堯が鉄砲を一丁持ち帰って×
津田算長が種子島時堯に鉄砲を一丁もらって
>>767 まず、「火薬を使った兵器=鉄砲(大砲に近い)」はすでに存在しており、
「引き金式の弾を打ち出す兵器=種子島」という意味だった。
(氏康はこの大砲に近い鉄砲の音で子供ころ腰を抜かしたという記録がある。)
だから、種子島=鉄砲を作る土台はすでに各地であった。
また、種子島以前にもすでに別ルートから鉄砲は伝来していて、同じように複製が始まっていたという説もあります。
しかし、「引き金式鉄砲=種子島」と呼ばれていたことから、
「全国で同時進行的に作られていた引き金式鉄砲が、種子島によって完成された」
種子島の国産鉄砲が一番優れていたので通称が種子島になったという話もあります。
で、関東に国産の鉄砲が降ろされたという話ですが、
北条氏と種子島から鉄砲を持ち帰り、鉄砲の量産にいち早く成功したという根来寺は友好関係にあり、
大藤氏など根来衆由来と言われる家臣も多く、特に北条氏がいち早く鉄砲を持っていたのはおかしくはないです。
実際に根来衆の話はドラマでも触れられています。
駿河のほうはよくわかりませんが、京都とのつながり強かったから手に入れやすかったのかもしれません。
調べたら北条氏が1543年以前の1541年に根来衆から鉄砲を手に入れたという話もあるらしい。
少なくとも根来衆との関係は深いのは史実だな。
>北条家旧家臣の三浦浄心が著した『北条五代記』には、鉄砲に関して次のような記述がある。
>十四 関八州に鉄炮はじまる事見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。
>愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。
>享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年(一五一〇年)に初て渡りたると云て、目当てと うつ。
>我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺 買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。
>……、氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。
>扨又根来 法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし
http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/ke-tepoudenrai.htm
772 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 11:10:49.03 ID:pKzCrlZA
上杉憲政セリフの中で
伊勢氏のことや鎌倉幕府執権前北条の話が出てきたが
わからん人はチンプンカンプンだっただろうな。
地図上で見る陸路主体だと駿河・相模は紀伊からかなり遠く見えるけど、どっちも水軍が発達してたから交流は盛んだったんじゃないかな
774 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 11:19:04.58 ID:pKzCrlZA
上杉憲政セリフの中で
伊勢氏のことや鎌倉幕府執権前北条の話が出てきたが
わからん人はチンプンカンプンだっただろうな。
ミスった、スマヌ。
分からん奴は何見ても分からんよ
いちいち説明してたらキリが無い
777 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 11:20:49.60 ID:nC6kgKIZ
「恨みを捨てて大望のために生きる」が、このドラマのテーマ。
勘助・由布姫・真田は、
「恨みを捨てて大望のために生きる」ことを選んだ。
しかし、越後へ落ち延び、最後まで、
「武田への恨みを捨て切れなかった」平蔵に、勘助は討たれる、というオチw(最終回)
たぶんチンプンカンプンでも構わなかったんじゃないか?
何となく貴族風の偉そうな殿様がこの期に及んで家格にこだわってる
という部分が伝われば。
そんな事より、勘助には例の角兜を被って欲しい
あれ滅茶苦茶格好いいだろ
今の兜はショボ過ぎる
>>778 戦国の世で衰退していく旧体制の象徴だったワケですな・・・
昨日のラストで「あの隻眼は・・・」とか言って勘助をズドンと撃っちゃったおバカは
いったいどこの誰ですか?
信玄父の追放あたりから見たので、最初のオリジナル部分をまったく
見てないのだけど、種子島の出来た寺のあたりを束ねるケンモツ(チ)様に、
カンスケが、諸国放浪の折に会ったみたいなセリフがあったけど、
その具体的なエピソードは、オリジナル部分で放送したんですか?
それともあのセリフで昨日説明されただけ?
784 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 12:14:16.98 ID:yGSmphfr
>>783 後者にござる
けんもつも一物も出てはおらぬ
>>779 あんな兜は三船敏郎に似合うのであって、
山本勘助のキャラに似合わんと思うが。
だから三船の勘助も、策士とは程遠い武闘派猛将のルックスにしか見えなかった。
勘助の甲冑は大河ぐらい落ち着いたデザインで然るべきだろうよ。
>>779 アレは勘介の時代の物じゃあないって。
1580年前後あたりからの物だろ。
>>767 もう少し付け加えると、黒潮交易というのがかなり活発で今の想像以上に
沿岸の情報伝達は早かった。
この中心にいたのが根来衆。
この頃造られた根来寺多宝塔なんか日本とは思えんセンスをしてる。
788 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 15:18:57.21 ID:1kLr9Omi
上杉は同属同士で争い
鎌倉公方も二つに割れて争い
それを伊勢新九朗が今川から兵を借りて漁夫の利で相模を奪取
って感じだとおもってたんですけど、あってますか?
789 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 15:26:25.61 ID:0qT+rO8k
なんで?
撃たれた勘助はドリフのコントみたいなリアクションなの??
勘助はもともとギャグキャラです
791 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 15:35:08.24 ID:fqRLO/aN
「間者の末路はあんなもんだ」ってパパが言ってたんですけどホントですか?
792 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 15:43:45.45 ID:MehcNyae
あんなもんでしょう
裏切り者の末路はあんなもんだよ
>>791 その通りではあるが、パパさんの中では山本勘助は死んだことになってるのかw
来週からはサイボーグ化して復活する事になるんだなwww
796 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 16:12:59.90 ID:vyzGwzwm
伝兵衛、()よすぎ
797 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 16:32:20.25 ID:3M1enSR9
>>794 791じゃないけど、家の親父も
「勘助、ここで死んだのか…」と随分感慨深げだった。
どう説明してよいものか困った。
撃たれた時スローモーションの勘助の顔に噴いた
>>788 まあそれでいいかと
奪ったのは伊豆、掌握後相模半国。
奪取と言っても自らの野心ではなく、明応の政変の対立構図によって
中央(足利義澄、伊豆堀越公方の出身)→今川の意を受けて、というのが近年の説。
これだと借りたと言うより与えられてって事になる。
以後は両上杉を敵に回しちゃったんで、対立が使えたのはここまで。
800 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 16:51:18.68 ID:p0SXeeEH
>>738>>749 まず関東管領は、朝廷の官職ではなく室町幕府の役職なので、これを任命する
主体は室町幕府の将軍であり、天皇は関係ない。
京都の幕府将軍の補佐役を「管領」というのに対し、幕府から関東の統治を
委託された関東公方(鎌倉公方、のち古河公方)の補佐役が「関東管領」。
但し15世紀半ば以降、鎌倉公方・古河公方と京都の幕府との間に対立関係が
生じるようになると、関東管領としての山内上杉氏は、基本的に幕府側の立場に
立つため、関東では公方と関東管領が対立状態になることがしばしばあった。
801 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 16:58:10.10 ID:p0SXeeEH
>>778>>780 まあそのうち前代の秩序に拘る旧体制の象徴は、ガクトにバトンタッチされるけどね。
上杉憲政は越後で悠々自適の隠居生活。
802 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 17:01:14.51 ID:p0SXeeEH
>>788 伊勢盛時の伊豆・相模侵攻については、当時の中央政界(管領細川政元周辺)の
指示・黙認の上で行われていたという側面もあるみたいだけどね。
803 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 17:10:21.35 ID:p0SXeeEH
>>799 伊豆&西相模の奪取までは、明応の政変の対立構図だよな。
京都の将軍義澄・・・自分の母親と同母弟を殺した茶々丸を討ちたい。
駿河守護今川氏親・・・駿河の東側から不安要因を除去したい。
古河公方成氏・・・堀越公方が消滅するに越したことはない。
扇谷上杉定正・・・対立関係にある山内上杉氏(伊豆守護でもある)の勢力を削減したい。自分を裏切った小田原城主大森氏を始末したい。
で、結局損をするのは、明応の政変で消された管領畠山政長および政長と仲が良かった関東管領山内上杉顕定だけ。
だけど、盛時(早雲)が三浦氏を滅ぼしにかかった段階になると、三浦氏と親戚関係にある扇谷上杉氏とも敵対関係になる。
伊勢氏→北条氏ってのは調べててわかったんだけど
結局、北条政子の北条氏と、
北条早雲の北条氏って末裔でも何でもなく、全く関係無いのに
神奈川一帯だから、勝手に北条氏を名乗ったって事で良いのかな?
806 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 17:43:27.50 ID:0/8hwl/U
>>804 北条改姓は氏綱の時代だけど、これは明応の政変の構図が崩れたあとの新たな関東制覇の大義名分として「北条」を名乗ることを考えたってところだろう。
鎌倉時代に公方(ここでは鎌倉将軍)を擁して実質的な関東の支配者であった鎌倉北条氏を念頭に、
後北条氏も公方(ここでは古河公方)を擁して関東に覇権をうち立てようとしたってこと。
但し、これはそれまで関東で公方の補佐役たる関東管領の職を世襲してきた山内上杉氏側にとっては絶対に容認できないことなので、
北条vs上杉というのが戦国期関東の基本構図になる。
807 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 17:43:59.03 ID:0/8hwl/U
>>806 あと氏綱は、北条改姓のためにわざわざ数年間、伊豆の北条に居をおいたりもしている。
また北条氏と伊勢氏がともに桓武平氏であるため、苗字を変えたところで本姓は変わらないというのも、北条を名乗りやすくした背景の一つにあるかも。
ただ鎌倉北条氏が時政以前の系図に不審な点が多いのと比べると、伊勢氏出身の後北条氏のほうが明らかに正真正銘の桓武平氏という側面もあるw
学研の赤本の「真説「戦国北条五代」を読まされてる雰囲気
本スレよりためになって面白いな
>>766 ありがとう!忍の実態がもっと分かったらなあ。裏仕事だからかあまり
文献とかないのだろうか。
戦国時代は「なんちゃって出家」や生臭坊主が多かったようだけど、そういう
ことに宗教界から批判は起こらなかったんですか?
あと、雪斎のように坊主でありながら軍師とかしてよいのでしょうか。
当時は人の救済をする坊主というより、実学も知っている知識人としてという存在だったんですか?
高野山は他の所と違って俗世のことに関わってこないイメージがありますけど
>>806 ありがとう!
難しい背景が有るんだな〜
>>766 服部半蔵は忍者じゃない。
れっきとした槍働きの武将。
僧侶、特に禅宗の僧侶っていえば、当時としては
最高ランクのインテリといっても過言ではないと思う。
814 :
733:2007/06/11(月) 20:24:14.14 ID:bgK3zFsY
>>736 >>747 お礼遅くなりました。ありがとうございます。
「八幡」って「八幡様」、北条家の守護神のことだったんですね。
それを旗に掲げたのが、後々、それが敵方から見た時に
北条家の強さの象徴?みたいな位置づけになっていったってことでしょうか。
それで、このような史実をご存知の方々にとっては、
NHKのスタッフのそういう手抜かりのない仕事振り
(北条家を象徴するような小道具を忠実に出してきたこと)が
うれしかったのかな?
黄八幡は北条ではなく福島の旗印。
福島がのちに北条家の一員になる。
八幡大菩薩は基本的に源氏の守り神で、
北条は平氏
816 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 21:16:42.97 ID:qspsF9RV
>>791 パパとしては、「お前も裏切ると勘助のようになるから気をつけろよ!!」とのあてこすりじゃないか?
>>812 初代は忍者だったの?
戦国って裏社会が面白そう
818 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 21:23:39.32 ID:70UhS9ox
>>817 忍者というより、
忍者集団を管轄していた役人といった感じじゃないかな。
二代目半蔵は、忍者を家来扱いしてボイコットされたりしている。
>>810 そもそも当時は寺院自体が武力を持っていたりもする。
比叡山辺りは武力と権威を背景に政治に介入することもあった。
また、遊女を指す「蓮の葉」なんて隠語があるように、
当時の寺院は生臭い面も持っていた。
とはいえ、この辺は寺院によってもイロイロなんで一口に言えない。
軍師については、僧は漢籍に通じており、易学(占い)も学んでいたため、
軍配者(戦に関する諸事を占う者。俗に言う軍師)を勤める者も多かった。
僧侶の学校である足利学校などは、実質、軍師養成所だったとも言われている。
一般にイメージする僧侶像に限らず、当時は様々な僧侶がありえた、ということ。
>>812 そもそも忍者というカテゴリー分け自体が不適切な気もするが、
服部半蔵正成は伊賀組同心の統率者ではあった。
>>814 北条は白・黒・赤・黄・緑の五行思想における五色を旗印して、
特に黄は中央を示す、もっとも格の高い色とされてます。
一瞬ですが、五色の旗が今週の北条の陣にちゃん写ってます。
821 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 21:33:08.39 ID:LOZcvIvX
古河公方とかって何よ?鎌倉幕府は潰れたし、古河公方は足利幕府の部下
じゃないの?
822 :
733:2007/06/11(月) 21:37:46.93 ID:bgK3zFsY
>>815 >>820 733です。フォローありがとうございます。
ドラマの中でも氏綱が、福島一族の子を養子に迎えて
北条姓を名乗らせている(北条綱成)って言ってましたね。
五行思想・・・。またまた聴きなれない言葉がw
五色の旗が出てたんですね。録画したものを見直してみます!
はぁ〜。勉強になるスレだ。
>>821 その潰れた鎌倉幕府後の鎌倉&関東を監視&統治するために送られた、
足利将軍家の足利尊氏の息子の血筋を「鎌倉公方」と呼ばれた。
(ちなみに、それを補佐するのが関東管領)
けど、足利将軍家の鎌倉公方が室町幕府に対して反抗したんで戦争がおきて、
幕府軍(今川・上杉軍)によって鎌倉から追放されて古河に逃げる。
だから、鎌倉に住んでないなら、古河公方じゃね?ってことで古河公方になった。
実際は、「公方様」と上に何もつけないのが普通だから俗称ね。
>>821 もともと室町幕府の中の一役職として、関東を統治する鎌倉公方というものがあった
なんだけどいろいろあって、室町幕府と鎌倉公方は対立するようになった
で、鎌倉公方が幕府との対抗上で古河に移って古河公方と呼ばれるようになった
一方、幕府は改めて関東を統治する鎌倉公方を任命しようとしたんだけど、鎌倉は古河公方の勢力圏内
新任の鎌倉公方は鎌倉に入れず、伊豆の国堀越に拠点を置いた。これが堀越公方と呼ばれるようになった
間違えた。 ×氏綱 ○氏康
>818
配下に反発されたのは3代の半蔵正就じゃない?
初代は半蔵保長で2代目は槍の名手の半蔵正成。
>>814 名将・北条綱成=地黄八幡は戦国好きの間では有名なので、盛り上がったんだと思う。
極端なたとえだと、水戸黄門で印籠が出てきたような感じ。
>>815 北条氏綱が鶴岡八幡宮を造営しているから、北条的にも関わりはあるけどね。
>>817 初代が服部半蔵保長を指すのなら、彼自身は伊賀の名家の出身。
ただ、伊賀衆というのはゲリラ戦に長けた地侍というのが実相。
それを忍者と指すのであれば、彼自身も忍者だったと言えるかもしれない。
保長の子正成には伊賀衆を率いて城を落とした逸話もあるが、信憑性は低い。
>>821 関東を治めるため、将軍の代理人「鎌倉公方」として足利一族が派遣されていた。
上杉憲政の「関東管領」は、本来、この鎌倉公方の補佐役。
ところが鎌倉公方は将軍と対立して滅ぼされ、その後に復興する。これが古河公方。
関東は独立の気風が強く、中央の権威が届きにくかったが、
鎌倉公方の血筋は関東諸侯に対し、影響力を誇った。
>>822 北条家には五色備と呼ばれるものもあって、そのうちの黄が今回の北条綱成。
>>819 戦国当時は合戦の日取りや出陣の日取りの吉凶を
易や占星術で決め、祈祷も行う呪術的軍配者が側近としていた。
足利学校は、その第一世が易学の権威だったんだ。
小早川隆景や九州の戦国大名家までもが
足利学校の出身者であったり、
再来年大河の直江も同校出身の涸轍租博をブレーンとしている。
また、戦場に伴われて戦没者の遺体の回向供養を行ったり
首実験の儀式を執り行う僧侶がいて、
陣僧という存在があった。
>>814 >>815 後北条氏は箱根権現や三島大社のへの信仰も目立つけど
氏綱の時代に鶴岡八幡宮の社殿再建を推進したのは有名な話。
関東の覇者たらんとの意思を誇示する、
政治的意図が大きかったとはいえ、崇敬はしているな。
>>820 北条の旗、下の三色が写ったときは
紺・白・赤 の、まるでフランス国旗のようだった
実況でも
今フランス国旗写った!
って書いてるやつがいた。
当時、フランスの国旗は星がたくさんのやつだ
>>810 >戦国時代は「なんちゃって出家」や生臭坊主が多かったようだけど、そういう
>ことに宗教界から批判は起こらなかったんですか?
信長は撫で斬りにしたけどね。
そういう旧来宗教への不満は、ある意味伝来したキリスト教が引き受けた。
伝えたのが「信仰以外は何もいらない」と言わんばかりのカトリック精鋭部隊、
清貧を旨とするイエズス会だったのは、双方共に幸福な事だったんだろう。
ちなみに汚職、堕落のカトリックのカウンターとしてプロテスタントが生まれ
その自省カウンターとして重用されたのがイエズス会。
雪斎は住侍だしなあ
禅宗と密教系はまた違うだろうし。
出家した人は俗世に関わっちゃ駄目だから、どうしてもという時は
わざわざ「還俗」ということをする。
花倉の乱の義元がこれ。
833 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/11(月) 23:52:15.17 ID:LOZcvIvX
で、今は憲正は室町と古河、どっちの公方に仕えてるの?
>>833 古河公方はいわば室町幕府の関東支店長のようなもん(あくまでも
室町幕府内での役職で、征夷大将軍とはちがって朝廷の官位ではない)。
本来は鎌倉公方といったんだけど、いろいろな経緯があって古河に遷っている。
これは話すとメチャクチャ長くなるしややこしいので省く。
そして、関東管領はその鎌倉公方の補佐役。直属の上司は鎌倉公方(古河公方)だけど、
大枠で考えると両者とも京都の将軍の家臣。
現に、後に京都の将軍足利義輝は長尾景虎に「上杉五郎(憲政)の進退はお前に任せたよ」という
旨の書状を送っている。
835 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 00:01:55.82 ID:o1Uh5Dm4
鎌倉公方の下部組織が関東管領なのに
任命権は将軍にあるという不思議な役職。
836 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 00:08:57.98 ID:Bm0sQ/W6
>>835 江戸幕府で言う御三家付家老みたいなものだから。
それはね、鎌倉公方の方が将軍代行という後付けポストだからだよ。
「あんた管領だから将軍(代行)を補佐しなさいよ」
「でも任命は征夷大将軍だから、そこんとこわきまえるように」
任命権渡さなきゃコントロール出来るとでも思ったんだろう。
>>833 「仕えてる」という表現なら、鎌倉公方のころから「室町幕府」である。
室町将軍┬―鎌倉(古河)公方
│
... .└─関東管領
となっており、関東管領の任命権は鎌倉公方になく室町将軍にある。
その上で、「鎌倉公方を補佐する役目=関東武士をまとめる役目」を担ってる。
よって、関東管領は、本社の人間が支社の副社長に出向してるような状態。
839 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 00:26:34.18 ID:GapPx7dV
公方様はセリフのみの登場で終わるのか
>>835 官僚的になるばなるほどそういうシステムを目指すもんだからね
部下=直属上司の家来、にならないようしないとトップの権力が脅かされるから
逆に戦国大名などは本来独立した家来と領地をもつ有力家臣に介入してその独立性を奪って
自分の所へ権力を集中しようとする
841 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 00:37:17.83 ID:Y2r4XAuk
>>840 鎌倉公方としてはそのシステムは気に入らなかっただろうな。
842 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 00:45:19.80 ID:xydvGhNc
イチ家臣のなのに、鎌倉公方はなんでそんなに忠誠心が無いの?
家柄はわからんが、鎌倉幕府復活みたいなこと考えて室町幕府に戦争し掛けたの?
>>842 一家臣じゃなくて、将軍の一族だから。
隙あらば俺のが将軍だ!って思いがあるから。
徳川家も尾張徳川家は家光に対してかなり反抗的だった。
>>842 将軍の一族(足利尊氏の4男の子孫)で、この一族は強烈な矜持があったらしく、
「将軍何するものぞ」という意識もあり、それこそ隙あらば次期将軍という気持ちがあった。
室町幕府に忠誠心がないんじゃなくて、将軍個人が気に入らないんじゃないか。
「なんであんなヘタレの命令聞かんといかんのか」みたいな。
将軍の弟とかがなってたみたいだし。
846 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 01:00:55.57 ID:Y2r4XAuk
風林火山時の将軍様は足利義晴/義輝だけど
確かこの二人は堀越公方系だったよな。
>>845 足利持氏などは、くじ引きの結果次期将軍に選出された足利義教を
かなり嫌っていたみたいだしな
>>846 そう。堀越公方足利政知の息子が11代将軍足利義澄で、その子と孫が
義晴と義輝
848 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 01:57:24.14 ID:F5Bz/PXs
>>824 古河公方の成立は、足利成氏が1455年(康正元年)に鎌倉から古河へ移ったことにその起源があるが、古河へ移った(移らざるを得なかった)理由は、
室町幕府が派遣した成氏討伐軍(総大将:駿河守護今川範忠)によって鎌倉が占領されてしまったから。
それ以後の関東は、基本的に利根川(下流部はほぼ現在の江戸川)を境にして東関東が古河公方の勢力範囲、西関東が関東管領の勢力範囲になっている。
そしてこの状況は、最終的に幕府と古河公方との和議が成立する1482年(文明14年)の都鄙合体まで基本的に変わらない。
つまり鎌倉は当然関東管領の勢力圏内なわけだから、京都幕府方の関東管領に保護されている堀越公方政知は、鎌倉に入ろうと思えば入れた可能性もあった。
しかし政知が鎌倉に入らなかったのは、むしろ京都の幕府の側が鎌倉よりも目の行き届きやすい伊豆に据え置いたから、という説もある。
つまり幕府側は、成氏への対抗上、政知を覇権したものの、政知が公方としての権限を行使して関東に支配権を確立することなどは最初から望んでおらず、
関東管領を介して幕府が直接関東をコントロールするつもりだったと。
849 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 02:07:10.25 ID:F5Bz/PXs
>>835 関東管領だけじゃなくて、関東諸国の守護も同じ。
元々室町幕府の制度上、関東8ヶ国と甲斐・伊豆の守護(のち甲斐は除外)は、
普段は鎌倉府に伺候して鎌倉公方に対して奉仕することになっていたが、
守護職の任命権は日本全国全ての地域において京都の将軍にあった。
>>838 上杉の場合、特に関東管領の山内上杉の分家である越後上杉なんかは、
応仁の乱以前は原則在京だったみたいだから、京都とのコネは強そうだよね。
850 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 09:13:49.79 ID:khHbRp6A
小弓御所とかいうのもあったな、古河公方の弟
>>850 古河公方の内紛から国府台合戦なんかの話は
今回の大河ドラマには関係ないのでよしましょうよ ややこしすぎます
852 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 09:43:28.46 ID:5w6RlX8x
結城合戦まで俺に語らせるつもりか
>>852 結城合戦語るなら、赤松満祐とか、永享の乱語ってもいい?
ついでに里見八犬伝も・・。
>赤松満祐
そこまで来ると・・・・
>>852-853 >>1を嫁。初心者さんの質問に答えるスレだ。
質問されてないことに答える、雑談、ドラマ逸脱の質問に答える、は自重。
856 :
853:2007/06/12(火) 10:02:19.82 ID:So5DInQS
>>855 済まなんだ、、、。
自重、謹慎、謹んでお受けいたしまする。
857 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 10:05:39.15 ID:5w6RlX8x
ごめん、もう北条の古い話はみんなやめようなw
知りたければwiki見てくれ。
信玄って遺言によって諏訪湖に沈められたって本当ですか?今あるお墓は遺骨なし?
有名人のお墓って遺骨無くても勝手に作ってもいいの?
>>858 甲陽軍鑑に「自分の死を三年間秘密にせよ。遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」という記述がある。
が、あくまで遺言であって、本当に家臣や遺族が実行したのは謎だし、甲陽軍鑑の真偽は微妙だし、
何より、諏訪湖から証拠が出てこないので、今は基本的に伝説にすぎない。
けど、まったくのデマでもないし、諏訪湖の底にもしかしたら信玄の遺骸が見つからずに今もあるのかも知れない。
あと、信玄の墓はwikiに乗ってるだけでも信玄の墓所は
信玄墓、大泉寺、恵林寺、諏訪湖、長岳寺、竜雲寺、高野山、福田寺、妙心寺
とこんだけある。
遺骨がない墓など珍しくない。現在でも行方不明者の墓は遺骨は当然ない。
あくまで、供養したかどうかの話。
860 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 12:20:23.48 ID:N7nAf6+w
八万で攻めて八千にやられた
関東管領様、扇谷上杉氏様、足利公方様の権威は開戦前からすると相当のガタ落ちだっただろう。
関東の偉いさん三人が手を組んだのにねぇ
福島彦十郎は元服して無いんですか?二十歳は越えていると思うんですが。
863 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 14:14:34.59 ID:dJQpFr8M
864 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 14:27:41.13 ID:dJQpFr8M
865 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 14:57:53.13 ID:dJQpFr8M
>>820 黄=黄帝
緑=青龍
赤=朱雀
白=白虎
黒=玄武
だね。
で、「黄」は皇帝の「皇」と音が通じるので、中華思想的には中央にある
一番格の高い色とされる。
866 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 14:58:50.61 ID:dJQpFr8M
黄=黄帝=中央
緑=青龍=東
赤=朱雀=南
白=白虎=西
黒=玄武=北
随分前の話で申し訳ないんですけど、第四回で勘助と晴信が
初めて対面した時の問答の一部が良くわからなかったので、わかる方教えていただけませんか?
晴信 「そなたの恨みが深ければ深いほど、その心は美しきことの証となる。そう思わぬか?」
この、「その心」とは、ミツを殺された勘助の恨みに対しての心の事なのでしょうか?
それとも晴信自身が勘助と比べ、自分は美しい心を持っているという事なのでしょうか?
わかる方いらっしゃいましたら、是非教えて下さい。
>>867 もちろん前者
>この、「その心」とは、ミツを殺された勘助の恨みに対しての心の事なのでしょうか?
ミツを思う気持ちが純粋で一途だったからこそ、恨みも深くなるという意味
869 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 16:16:27.39 ID:EzeOLe1T
>>858 >>859 ごめん、補足というかお直しというか・・・
(wikiには何とかいてあるのか知らないけどね)
信玄の死の有様というのが明確では無いから、
後世に作られた、史的に裏づけのとれないような墓石なら
他にも数箇所あるよ。伝説は人の創意によって作られるからね。
・ただ、葬儀が行われ正しい菩提寺は恵林寺。
・大泉寺(甲府市)は武田三代の墓とか言われてたけど信虎の墓所。
・諏訪湖は、何か謎の石の造形が湖底にあるらしく、
信州大学が調査したこともあるのだが、解明されていない。
でも、それが墓だという信憑性は少ない・・・が通説。
・京都花園の妙心寺は、信玄、勝頼が旦那として寄進をしてた寺。
晒し首になった勝頼の首を妙心寺の住持が供養埋葬したという。
そういうことで、寺の庇護者であった信玄の供養墓もある。
自分は今年それらを拝観したけど、現在は織田信長、信忠の
墓石と武田親子の墓石が隣り合って位置している。
(勝頼の歯髪はその後、甲府の法泉寺(甲府五山の一)にも埋葬され
甲府での菩提寺はここになる)
・高野山の墓は、これも供養墓。成慶院には武田家の過去帳が。
持明院には有名な勝頼妻子画が伝えられた。
高野山は宗旨関係なしの「天下の総菩提所」だから、
ありとあらゆる戦国人物の供養墓が林立する特殊な聖域。
遺骨がない場合の墓でも、建立者や来歴が明確な寺院のものと、
ただの伝説や、ひどい場合は小説ネタで出来た墓もあるので
そこのところは注意して見ないと。
とにかくありとあらゆる機会を捉えて供養する
872 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 17:41:41.73 ID:Ho5rywbx
風魔って北条が小田原に攻め入る以前には既に相模に居たんですか?
そうでなかったら早雲が密かに組織(または忍者の集落)を作ったのかな?
873 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 18:04:05.80 ID:F4bwA2cv
>>868 どうもありがとうございました。
納得できました!
>>872 早雲以前から相模に住んでいたようですね
それを早雲が配下にしたのでしょね
風魔は騎馬の機動力を生かしたかく乱作戦が得意だったので
騎馬民族の末裔だという説があるそうです。
876 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 18:21:55.94 ID:v1mBUXAm
「北条氏康」は、「北条政子」と関係あるのですか?
子孫ですか?
>>869 おいおい、五行思想じゃないよ。風や地があるし、そりゃ、どっかのRPGじゃないか?
五行といったら木・火・土・金・水の五大元素だろ。
黒=水
白=金
赤=火
青=木
黄=土
>>876 >>806-807 子孫ではない。もともとは早雲の時まで「伊勢氏」。
それを氏綱が関東支配のために北条となのった。
だからこそ、上杉憲正は北条と呼ばずに伊勢と呼んだ。
879 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 19:59:41.65 ID:v1mBUXAm
>>877 「地水火風空」は仏教思想で「五大」と呼ばれる世界の構成要素。
今週の戦争があった段階の謙信の勢力は武田家より上ですか?
882 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 20:29:37.02 ID:kL12Szf6
>>881 おそらく下。
越後一国すら安定しない状態だから。
ただ、最近の研究では海上貿易からの越後商人の経済力は一国以上あったといわれるし、
謙信はあくまで武田や北条に敗れた武将の領地回復のために戦うので、
結局反武田・北条連合軍総大将みたいになるから結果として勢力は大きくなる。
883 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 20:35:31.59 ID:DJ3QTbyr
>>878 北条の姓は関東(内だけだが)源氏に値するくらいの名声だからな。
ちなみに上杉憲正が北条の呼び方にドラマでキレたのもうなずける。
何故なら上杉家は元は北条執権家の側近だから。
ありがとうございます。
つまり今川=北条>>武田>>謙信
ということですね。
勘助が身に付けているマリシテンのペンダントはどこかで売ってますか?
>>885 長野市立博物館にあるかも。
ドラマで使われているマリシテンのレプリカを、お土産として売っている〜
と何かで聞いたような気がするんだけど。
889 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 22:20:41.03 ID:DCT41PoN
関東管領って関東の治安を守るのが仕事だから、必然的に全戦否定で
武田とか今川とかは犯罪者にならないと中央政府からすればおかしいですよね。
高野山って女人禁制らしいのですが、女性は祭られてないってことですか?
高野山行きたいな〜。女性は入れないらしいしorz
>>890 あのー、高野山の女人禁制は明治5年までで
それ以来女性の入山もoKなんですけどw
892 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 22:48:29.07 ID:s5Y8WrxB
>>883 >何故なら上杉家は元は北条執権家の側近だから。
嘘吐き発見。
鎌倉段階での上杉氏が独立御家人だったのか、
それとも高師直・師泰のように足利氏の被官的な立場だったのかは、
議論があるが、
得宗被官になっていたとは聞いたことがないぞ。
>888
おお!長野市立博物館は地元でございます!
早速行ってみます。
894 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 23:11:27.64 ID:1WACFMy5
教来石はいつごろ馬場信春に変身するのですか?
896 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 23:35:36.60 ID:Ho5rywbx
>>875 ありがとうございました。
いや、伊賀や甲賀はともかく風魔の戦国以前の記録って見た事がなかったので。
集落が小田原の近くにあるのも出来すぎてるなぁとか思ってました。
風魔が資料に出てくるのは大体いつ頃の事だったのでしょうか?
897 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/12(火) 23:49:26.00 ID:1WACFMy5
>>895 ガクト出陣といっしょですかっ?!
運悪〜・・・。
>>ちなみに上杉憲正が北条の呼び方にドラマでキレたのもうなずける。
>>何故なら上杉家は元は北条執権家の側近だから。
なんじゃらほい
>>897 皆が皆、ガクト目当てでもないだろう。
俺は教来石襲名イベントと晴信暗黒化で来週は手一杯だ。
900 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 00:18:39.64 ID:UHj9Lub9
ネタバレ御免
来週Gacktはちょろっとでるだけ
むしろメインは志賀城攻めと真田六連銭初登場
901 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 00:35:50.86 ID:CBC4WU2f
>>883 >何故なら上杉家は元は北条執権家の側近だから。
これは間違いです、
上杉氏の祖、上杉重房は、京都の公家の出身。
1252年に宗尊が鎌倉幕府6代将軍として迎えられた時に、新将軍の側近として下向。
1266年に親王は謀反の疑いで帰京させられますが、重房は武士として鎌倉に留まり足利泰氏に仕えます。
この重房の孫こそ足利尊氏の母、上杉清子なのです。
>>896 “風魔小太郎”に関する確かな記録は「1603年に江戸を荒した盗賊として徳川家によって処刑された」以前のモノはない。
北条家の忍者であったとか、巨漢であったとか、1580年に黄瀬川の戦い(後北条vs武田)に活躍した……等の話は江戸時代の軍記物『北条五代記』にある話で余り信憑性が高いとはいえない。
ただ長らく架空の存在といわれた山本勘助(菅助)の実在が証明されように 風魔小太郎に関する確かな記録が発見されないとはいえない。
902 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 01:42:24.78 ID:f5h9BncY
風悪小太郎は2m近くある大男で口は耳まで裂けていた云うが
こういう人って多くは小男の優男。
つまりhydeさんがお似合いってことですか
904 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 02:27:33.85 ID:I5QuxLRa
906 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 02:32:20.32 ID:oyhyLLeM
907 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 02:41:57.53 ID:dLp2SHDF
908 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 03:09:30.86 ID:dLp2SHDF
でもこのドラマ、扇谷上杉を山内上杉と対等な関東管領みたいには
描いていないあたり、時代考証はしっかりしている気がしたね。
>>905 一瞬、峰隆(やはり故人の峰隆一郎)と読んでしまった。
未だに錯覚読みするのだなー
911 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 06:23:13.48 ID:E3pPYT32
>>907 どちらも存在するという点で間違ってないが、
一般的に「五色」を当てはめる五行思想といえば
黒=水 白=金 赤=火 青=木 黄=土
のほうが普通。
地水火風空はインド哲学・古代仏教からくる「五大」は、
密教などに採用されてるけど、正直五行思想に比べるとマイナーで色に当てはめるケースは少ないし、
普通は色に当てはめない。
ただ、混同されてるケースもゼロではないと思う。
ちなみに、「五大」は「五輪」ともいわれ、宮本武蔵の五輪の書はこの「地水火風空」に由来する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7
五行思想の方がずっとメジャーと考えるのは、
最近陰陽道ブームを経験してる、いかにも現代人的な発想じゃないかな?
中世では五大、五輪はそんなマイナーじゃないよ。
五輪塔なんてよく見る遺物だしね。
江戸時代には天海の五色不動の伝説もあるし(眉唾ぽいが)
仏教系の五色もそう特殊なものではない。
仏教系の五色の方が、当時の雰囲気的により自然な気がするが、どうなんだろうね。
913 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 07:32:09.26 ID:BDsaXb1L
>>912 マイナーは言い過ぎたかな?
でも、色や方角を当てはめるケースで五大・五輪は少ないと思うよ。
それと、日本の仏教は中国経由だから五行思想も当然入ってる。
上げてる天海の五色不動なんかも大和風水がベースだから、
五大・五輪ではなく五行思想の五色だからね。
五輪・五大ならば、方角・色に当てはめたりしない。
とりあえず発端の黄八幡の黄は
土か地で似たようなもんだし
あんま気にせんでもいんでない?
ただ北条が特に「黄」を重要視してるんなら
五行の土(中央)の方だろうね。
915 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 08:18:58.15 ID:dfq/SCAu
空気読めてない質問で恐縮ですが、青木大膳はどのくらい空気が読めてなかったのでしょうか?
青木大膳は勘助に斬られたとこしか観てないのでわかりません。
>>915 二人で「どっか旅行でもいこうかー」とか相談してると、
突然戸が開いて「俺も行かせろ!」っていったり、
二人で最後のお菓子をとりあっていたら、横から出てきて勝手にそのお菓子を食べるくらい、
空気が読めない。
917 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 09:23:28.50 ID:KUeU+Kxp
>>915 勘助に騙されて庵原家の侍と真剣で斬り合いしたのに、その後庵原家の食客になるくらい。
>>915 勘助が信虎を駿府に送り返す際、
二人の一騎打ちに途中で割り込み、信虎に斬りかかる。
結果、勘助の宿願だったミツの敵討ちに水を差す。
あとは、花倉の乱で福島彦十郎が味方を必死に鼓舞している時に、
福島越前の奥方(彦十郎の母)を槍で突き殺したり。
とにかく、空気が読めない。
919 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 10:28:59.23 ID:UPDnMSQs
突然、勘助の暮らしてった荒れ寺の戸を開けて上がりこんできたり、
とにかく、スゴかったな
でも青木がいなけりゃ勘助が北条氏康や本間と会うこともなかったわけだし。
あと眼帯の鮑も青木と雑談しているときに拾ったものだったな。
かんすけは何がしたいの?
922 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 10:44:40.22 ID:dfq/SCAu
なるほど、つまりは恐ろしいほどの図々しさと奇跡的な間の悪さで結果として空気読めてない、と。
勘助は天下人の軍師になりたかったのだと思います。
だから恨みを捨てて、奥さんの敵の息子に仕えてるのでは。
923 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 10:54:35.03 ID:FMj2HD7L
色んな意味で、来週は楽しみだのぉ
>>917 え!?青木って庵原家の食客だったのか??
925 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 14:20:12.29 ID:qgwQASu+
926 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 14:24:03.24 ID:CWEtjD0K
4歳の息子が「ふりんかーちゃん、ふりんかーちゃん」と言って困ります。
どうすればよいでしょうか。
こないだの冒頭で、義元が鉄砲で凧を撃つシーンがあったけど、二つあった凧の日の丸みたいな
方を撃ったのは何でですか?やっぱりNHKだから?
928 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 14:34:04.87 ID:KV7kRmYX
上杉憲政が北条氏康の書状を手にとっていたとき、最後の署名に「平氏康」って書いてあった。
桓武平氏の流れだから、やっぱそうなんだね。武田晴信は「源晴信」、鬼美濃の原虎胤は坂東平氏
千葉氏の氏族だから、「平虎胤」って書くんだよね。姓と苗字が区別されてるから、現代の人間から
見るとややこしいね。
929 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 14:37:41.38 ID:Lh/ilQjZ
930 :
テンプレ修正案:2007/06/13(水) 14:59:17.86 ID:Mqf/V3mw
花倉の乱(1536年):信虎追放(1541年):河越夜戦・勝頼誕生(1546年)
*大河スタートは信虎弟戦死なので1535年
*戦国時の歳の数え方は数え年(0歳がなく、正月で1歳年をとる)なので気になる方は+1歳しましょう。
山本勘助:35歳 :40歳 :45歳
武田信玄:15歳 :20歳 :25歳
三条夫人:15歳 :20歳 :25歳
武田信虎:42歳 :47歳 :52歳
禰々:9歳:14歳 :亡
大井夫人:39歳 :44歳:49歳
武田信繁:11歳 :16歳 :21歳
板垣信方:?? :?? :??
甘利虎泰:38歳 :43歳 :48歳
飯富虎昌:32歳 :37歳 :42歳
飯富源四郎(山県昌景) 7歳:12歳:17歳
教来石景政(馬場信春)21歳:26歳 :31歳
小山田信有:17歳 :22歳 :27歳
原虎胤:39歳 :44歳 :49歳
諸角虎定:56歳 :61歳 :66歳
高坂弾正9歳 :14歳 :19歳
内藤昌豊14歳 :19歳 :24歳
真田幸隆:23歳 :28歳 :33歳
上杉謙信:6歳 :11歳:16歳
上杉憲政:13歳 :18歳 :23歳
今川義元:17歳 :22歳 :27歳
寿桂尼:46歳? :51歳? :56歳?
太原雪斎:40歳 :45歳 :49歳
庵原忠胤:??(但し、 太原雪斎の兄なので50歳:55歳:60歳くらい?)
朝比奈泰能:39歳 :44歳 :49歳
北条氏康:21歳 :26歳 :31歳
北条氏綱:49歳 :54歳 :亡
諏訪頼重:20歳 :25歳 :亡
由布姫:6歳 ?:11歳? :16歳?
村上義清:35歳 :41歳 :46歳
織田信長 :2歳 :7歳 :12歳
931 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 15:03:02.61 ID:vzVdMrQU
>>928 後北条氏の出自である伊勢氏の本姓も桓武平氏だし、名跡を継いだことに
なっている鎌倉北条氏の本姓も桓武平氏だから、「平氏康」という署名は、
後北条氏が「北条」を名乗ることを認める側、認めない側の双方にとって
全く不都合な点がない。
なまじ「北条左京大夫」みたいな署名をするよりは、上杉方が受け入れやすいと
いう側面もあろう。
もっとも、改まった場面では本姓+イミナでの署名のほうが、より望ましいと
いうのもあるかも知れないが。
932 :
テンプレ修正案:2007/06/13(水) 15:04:14.23 ID:Mqf/V3mw
1515■北条氏康誕生(博多人形)
1519■今川義元誕生(石田純一の孫の儀父)
1521■武田信玄誕生(カピバラ)
1530■上杉謙信誕生(ガクト)
1534■織田信長誕生
1535■山中湖の戦い 信虎弟・勝沼信友、北条に攻められて戦死 ←大河スタート
1536■花倉の乱
1537■豊臣秀吉誕生 武田晴信、佐久海ノ口へ初陣
1538■武田義信誕生
1540■諏訪頼重、信虎三女(信玄妹)禰々と婚姻
1541■武田信虎追放 北条氏綱死亡
1542■信玄諏訪攻め 諏訪頼重死亡
1543■由衣姫と晴信の婚姻 高遠家と戦争 徳川家康誕生
1545■今川と北条、武田の斡旋で和睦
1546■河越夜戦 武田勝頼誕生
1548■上田原の戦い←板垣信方&甘利虎泰死亡
1552■武田義信結婚(今川義元の娘) 砥石城で武田敗北、小山田信有重傷 大井夫人死亡
1553■村上義清追放 第一次川中島(布施の戦い)
1554■三国同盟(善徳寺の会盟)
1555■第二次川中島(犀川の戦い) 太原雪斎死亡
1557■第三次川中島(上野原の戦い) 朝比奈泰能死亡
1560■桶狭間の戦い←今川義元死亡
1561■第四次川中島(八幡原の戦い)←山本勘助&武田信繁&諸角虎定死亡
1564■第五次川中島(塩崎の対陣) 原虎胤死亡
1565■飯富虎昌死亡
1567■武田義信幽閉
1568■寿桂尼死亡
1570■三条夫人死亡
1571■北条氏康死亡
1573■武田信玄死亡/三方ヶ原の戦い←家康ウンコ漏らす
1574■武田信虎死亡 真田幸隆死亡
1575■長篠の戦い←馬場信春&山県昌景&内藤昌豊死亡
1578■上杉謙信死亡 高坂弾正死亡
933 :
テンプレ修正案:2007/06/13(水) 15:06:42.19 ID:Mqf/V3mw
●コッペパンてなんですか?
○マジレスすると、
本スレで、
「OPを『コッペパ〜ンたららったらら〜ら〜』
と歌ってしまう、なんでコッペパンなんだろw」
等とレスした某氏がいたから、そこからの引用かと。
●これは誰が考えたの?
┏━━┓
┃掠疾┃
┃如如┃
┃火風┃
┃不徐┃
┃動如┃
┃如林┃
┃山侵┃
┣━━┛
┃
┃
○中国の思想家 孫子
軍隊の進め方について説いている。
移動する時は風のようにすばやく、止まる時は林のように静かに、
攻撃する時は火のように激しく、防御する時は山のように
という意味
●平賀の娘婿の大井と、第十九回に出てきた大井は
違う人だけど同じ一族なんですか?
大井夫人は関係あるんでしょうか?
○第十九回に出てきた大井貞隆は、平賀源心の兄。
信濃の大井氏は、鎌倉時代に小笠原氏から分かれた家。
甲斐の大井氏は、南北朝時代に武田氏から分かれた家。
なので関係はない。
●輿入れの際(三条・禰々・由布)が首に下げてた筒って何?
○あれは「懸け守り」といって、文字通りお守りです。
嫁入りだけじゃなく、社寺詣での時にも懸けたりしていました。
934 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 15:09:52.50 ID:vzVdMrQU
>>930 このドラマは年齢を数え年で統一している。
それに当時の時代背景的にも年齢は数え年が当たり前なのだから、その表の
年齢は数え年で示したほうがよいと思う。
その上で満年齢への換算の仕方(その年の誕生日前は−2、誕生日後は−1)を
示すほうが利にかなっている。
あと数え年は毎年1月1日に年を取る決まりだから、具体的な誕生月日の
分からない人物の年齢も誤魔化すことなく表せる。
その他テンプレはそのままでいいと思います。
>>2>>3>>7−9
年齢表で、もう消したい人や増やしたい人がいればわかる限り調べます。
年表は真田仕官と河越夜戦あたりを変え、三国同盟(善徳寺の会盟)を追加しました。
後、関東管領と古河公方あたりと三国同盟はまだ先だということをテンプレにすべきか?
>>950の方スレ立てお願いします。
936 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 15:28:19.42 ID:O0Gp3VHE
上杉氏が関東で地位を築けたのも、鎌倉時代に北条でなく足利と姻戚関係を結んできたことが大きいな。
937 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 15:36:28.06 ID:KV7kRmYX
首相を務めた西園寺公望もたしか署名の際は「藤原公望」って書いてたね。摂関家は藤原姓だから当たり前か。
近衛文麿も「藤原文麿」だもんな。おっと、これはスレ違い。失敬!
関東管領テンプレ案
●関東管領と古河公方ってなによ?
公方=足利将軍家の人 管領=足利将軍家を補佐する役職。
京都にも当然公方と管領がいますが、潰れた鎌倉幕府後の関東を治めるため、将軍の代理人「鎌倉公方」として足利一族が派遣され、 上杉家は「関東の管領」として、本来、この鎌倉公方の補佐役だった。
しかし、関東管領は鎌倉公方でなく室町幕府(室町将軍)に任命権があり、鎌倉公方より幕府のために働くことが多かった。
で、鎌倉公方は将軍と対立して関東管領など幕府軍に滅ぼされ、その後に復興する。これが古河公方。
関東は独立の気風が強く、中央の権威が届きにくかったが、 鎌倉公方の血筋は関東諸侯に対し、影響力を誇った。
一方、関東管領は足利家以外では関東における足利幕府最高の役職として権威を誇ったが、
室町幕府自体の衰退、度重なる上杉家内部の内紛、北条(伊勢)家の進出によって力を失っていき、
関東管領上杉憲正は河越夜戦に負けることでよってさらに権力を失って、最終的に長尾景虎(上杉謙信)に上杉家と関東管領を譲る。
>>934 悪いけど、全体の構成なら自分でテンプレ作ってー。結構一個ずつ年齢変えるのメンドクサイんですよ。
数え年には反対しませんから。
>>927 あれは「的」でしょ。最初から火縄銃で撃ち抜くつもりであのデザインの凧を
揚げたものかと。
940 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 16:24:00.57 ID:dfq/SCAu
ふと思ったのですが、内野さんは長期間、脚を引きずる演技をしてて、身体がおかしくならないのでしょう?
>>940 大人だから撮影後に体操でもすれば大丈夫だろう。
しかし、育ち盛りの十代の人間が
一年ビッコ引いていたら、間違いなく骨格が歪む。
と、軍医をしていたジッチャが言ってた。
花倉の乱(天文5年/1536年):信虎追放(天文10年/1541年):河越夜戦&勝頼誕生(天文15年/1546年)
*大河スタートは信虎弟戦死なので天文4年(1535年) 。
*表中の年齢はドラマでの扱いに従って数え年(生まれたときが1歳で以後正月が来るごとに1歳ずつ年齢が上がる)。
*現代的な満年齢に直したい場合は、その年の誕生日前ならば-2、誕生日の後ならば-1をすればよい。
山本勘助:36歳:41歳:46歳
武田晴信(信玄):16歳:21歳:26歳
三条夫人:16歳:21歳:26歳
武田信虎:43歳:48歳:53歳
禰々:10歳:15歳:亡
大井夫人:40歳:45歳:50歳
武田信繁:12歳:17歳:22歳
板垣信方:??:??:??
甘利虎泰:39歳:44歳:49歳
飯富虎昌:33歳:38歳:43歳
飯富源四郎(山県昌景):8歳:13歳:18歳
教来石景政(馬場信春):22歳:27歳:32歳
小山田信有:18歳:23歳:28歳
原虎胤:40歳:45歳:50歳
諸角虎定:57歳:62歳:67歳
香坂昌信(弾正):10歳:15歳:20歳
内藤昌豊:15歳:20歳:25歳
真田幸隆:24歳:29歳:34歳
長尾景虎(上杉謙信):7歳:12歳:17歳
上杉(山内)憲政:14歳:19歳:24歳
上杉(扇谷)朝定:12歳:17歳:22歳
今川義元:18歳:23歳:28歳
今川氏輝:24歳:亡:亡
寿桂尼:47歳?:52歳?:57歳?
太原崇孚雪斎:41歳:46歳:51歳
庵原忠胤:??:??:??(但し、 太原雪斎の兄なので50歳:55歳:60歳くらい?)
朝比奈泰能:40歳:45歳:50歳
北条氏康:22歳:27歳:32歳
北条氏綱:50歳:55歳:亡
諏訪頼重:21歳:26歳:亡
諏訪御寮人(由布姫):7歳?:12歳?:17歳?
村上義清:36歳 :42歳 :47歳
小笠原長時:23歳:28歳:33歳
織田信長:3歳 :8歳 :13歳
羽柴秀吉:−:5歳:10歳
徳川家康:−:−:5歳
尼子経久:79歳:84歳:亡
毛利元就:40歳:45歳:50歳
>>938 ご期待に応えて数え年に直したものが
>>942です。
なお最近ドラマ中に出てきた人物や、当時の時代背景を押さえる上で念頭においたほうがよい人物を若干加えました。
944 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 16:55:51.79 ID:Lh/ilQjZ
関東管領ってワカゾーだったんだな
長野業正からみると子供ぐらいの歳?
>>943 ごくろうさま。
でも、流石に尼子や毛利はいらないでしょ。
家康は出るかも知れないからわかるけど。
ついでに、(扇谷)上杉友定も一瞬の出場だし、
何より唯でさえややこしい上杉家なんだから、わざわざ入れる必要性を感じない。
小笠原長時は入れたいと思っていたのでありがたい。
946 :
テンプレ修正案:2007/06/13(水) 17:11:16.19 ID:Mqf/V3mw
花倉の乱(天文5年/1536年):信虎追放(天文10年/1541年):河越夜戦&勝頼誕生(天文15年/1546年)
*大河スタートは信虎弟戦死なので天文4年(1535年) 。
*表中の年齢はドラマでの扱いに従って数え年(生まれたときが1歳で以後正月が来るごとに1歳ずつ年齢が上がる)。
*現代的な満年齢に直したい場合は、その年の誕生日前ならば-2、誕生日の後ならば-1をすればよい。
山本勘助:36歳:41歳:46歳
武田晴信(信玄):16歳:21歳:26歳
三条夫人:16歳:21歳:26歳
武田信虎:43歳:48歳:53歳
禰々:10歳:15歳:亡
大井夫人:40歳:45歳:50歳
武田信繁:12歳:17歳:22歳
板垣信方:??:??:??
甘利虎泰:39歳:44歳:49歳
飯富虎昌:33歳:38歳:43歳
飯富源四郎(山県昌景):8歳:13歳:18歳
教来石景政(馬場信春):22歳:27歳:32歳
小山田信有:18歳:23歳:28歳
原虎胤:40歳:45歳:50歳
諸角虎定:57歳:62歳:67歳
香坂昌信(弾正):10歳:15歳:20歳
内藤昌豊:15歳:20歳:25歳
真田幸隆:24歳:29歳:34歳
長尾景虎(上杉謙信):7歳:12歳:17歳
上杉憲政:14歳:19歳:24歳
長野業正:46歳:51歳:56歳
今川義元:18歳:23歳:28歳
今川氏輝:24歳:亡:亡
寿桂尼:47歳?:52歳?:57歳?
太原崇孚雪斎:41歳:46歳:51歳
庵原忠胤:??:??:??(但し、 太原雪斎の兄なので50歳:55歳:60歳くらい?)
朝比奈泰能:40歳:45歳:50歳
北条氏康:22歳:27歳:32歳
北条氏綱:50歳:55歳:亡
諏訪頼重:21歳:26歳:亡
由布姫(諏訪御寮人):7歳?:12歳?:17歳?
村上義清:36歳 :42歳 :47歳
小笠原長時:23歳:28歳:33歳
織田信長:3歳 :8歳 :13歳
羽柴秀吉:−:5歳:10歳
徳川家康:−:−:5歳
>>938 テンプレ案はそれでいいかと
謙信が関東管領継いでからは要らなくなるかもしれないが、そのときはそのときで
ただし、「上杉憲正」は「上杉憲政」に訂正
>>944 そうなるね
948 :
テンプレ修正案:2007/06/13(水) 17:19:44.84 ID:Mqf/V3mw
●関東管領と古河公方ってなによ?
公方=足利将軍家の人 管領=足利将軍家を補佐する役職。
京都にも当然公方と管領がいますが、潰れた鎌倉幕府後の関東を治めるため、将軍の代理人「鎌倉公方」として足利一族が派遣され、 上杉家は「関東の管領」として、本来、この鎌倉公方の補佐役だった。
しかし、関東管領は鎌倉公方でなく室町幕府(室町将軍)に任命権があり、鎌倉公方より幕府のために働くことが多かった。
で、鎌倉公方は将軍と対立して関東管領など幕府軍に滅ぼされ、その後に復興する。これが古河公方。
関東は独立の気風が強く、中央の権威が届きにくかったが、 鎌倉公方の血筋は関東諸侯に対し、影響力を誇った。
一方、関東管領は足利家以外では関東における足利幕府最高の役職として権威を誇ったが、
室町幕府自体の衰退、度重なる上杉家内部の内紛、北条(伊勢)家の進出によって力を失っていき、
関東管領上杉憲政は河越夜戦に負けることでよってさらに権力を失って、最終的に長尾景虎(上杉謙信)に上杉家と関東管領を譲る。
本間江州 ってどんな人? ググッテも出てこないので
原作で必要になった架空の人物じゃないすよね
本間氏には安房・里見家臣、遠江出自で、今川または後北条家臣の系列があるみたいだけどよくわからない
951 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 19:21:40.67 ID:b/MBGfbG
>>949 長江英和のブログに架空の人物との記述があったよ
いや、《北条氏康》という本にも上杉の間者として北条に潜り込んだ本間江州という人物がいた。
全くの他作品で同じ名前で同じ人物を使うのは無理でしょ。問題になるし。
なにかの史料に名前がでていると考えるべきかと。
954 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 20:13:07.24 ID:neQ9+VWq
>901
>この重房の孫こそ足利尊氏の母、上杉清子なのです。
そして「太平記」でその上杉清子を演じたのが、寿桂尼様=藤村志保タソです。
さらに、その夫足利貞氏を演じたのが宇佐美定満=緒形拳なのです。
955 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 20:22:12.17 ID:neQ9+VWq
>>949 軍鑑の品第十三に本間江州出てくるよ。
上杉家老の長尾伊玄入道に命じられて北条に潜入、
うまいこと情報収集して戻ってきて褒められたって話。
これがいろんな小説なんかの典拠やろうね。
ただこれがどの程度史実を繁栄してるかどうかはわからんけど、
「戦国人名事典」吉川弘文館、2006 によると、
本間氏は鎌倉期の相模国御家人で、鎌倉府の御所奉行を世襲した家柄、
近江守を名乗る家系はその嫡流で、代々古河公方の家臣だった、
ということらしいな。参考までに。
だから河越夜戦当時に本間江州なる人物が反北条陣営にいた可能性はあるが、
スパイ云々は全くわからん話やな。
957 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 21:21:24.39 ID:uIAjGBDA
>>950 新スレ頼むな。
駄目だったら速やかに報告。
958 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 22:16:56.21 ID:O0Gp3VHE
本間江州=本間近江でググったら?
●関東管領と古河公方ってなによ?
公方=足利将軍家の人 管領=公方を補佐して政務全般を取り仕切る役職
京都にも当然公方(将軍)と管領がいますが、かつて鎌倉幕府の本拠地があった関東を治めるため、京都の室町幕府から将軍の代理人である「関東の公方」(鎌倉公方)として足利将軍家の親族(初代は尊氏の子である基氏)が派遣されました。
また上杉氏は「関東の管領」(関東管領)として、この鎌倉公方の補佐役の地位を世襲しました。
しかし、関東管領の任命権は鎌倉公方でなく室町幕府(足利将軍)側にあり、鎌倉公方が幕府と対立したりした場合には、関東管領は幕府側に立って働くことが多い存在でした。
で、のちに鎌倉公方は幕府と対立して関東管領を含む幕府軍に滅ぼされ、その後一時的に復興するも、再び幕府と対立して鎌倉を追い出されます。
そして鎌倉を追われた鎌倉公方の子孫が下総国古河(現茨城県古河市))へと移ったものが、古河公方です。
関東は独立の気風が強く、中央の権威が届きにくかったのですが、 鎌倉公方の血筋は関東の武士たちに対し、大きな影響力を誇りました。
一方、関東管領も公方以外では関東における最高の役職として権威を誇りましたが、 上杉氏内部での山内上杉氏(嫡流)と扇谷上杉氏(庶流)の度重なる内紛や、後北条氏の関東への進出によって勢力を衰退させていきます。
関東管領上杉憲政は河越夜戦に負けることによってさらに権力を失い、最終的に越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って山内上杉氏の家督と関東管領職を譲ります。
●北条と上杉は何で対立しているの?
後北条氏(小田原北条氏)は関東での覇権確立を目標として、苗字を元の「伊勢」から「北条」に変えましたが、この「北条」という苗字は、鎌倉時代に公方(鎌倉幕府将軍)の補佐役(執権)として実権を握った鎌倉北条氏を明らかに意識したものでした。
つまり後北条氏にとって「北条」を名乗ることは、自らが公方(古河公方)の補佐役として関東を支配する正統性を主張するに等しかったのです。
後北条氏のこの姿勢は、古河公方の存在自体を直接的に否定するものではありませんでしたが、それまで関東管領を代々世襲して関東における公方の補佐役を自任してきた上杉氏側にとっては、絶対に容認できないものだったのです。
こうした理由から、この時期の関東においては、北条vs上杉というのが基本的な対立の構図となるのです。
960 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 23:49:14.21 ID:kfW4aIFz
>>956 >>958 「小田原北条記 巻4」にも本間江州の名は出てくるけどね。
あと他に北条ものの資料本で、
川越合戦の解説をしたものでも読んだことあるよ。
>>951 確かにそうだ。すまぬ。
あと緒方拳が好演する予定の宇佐美定満も入れよう。
村上義清:36歳:41歳:46歳
宇佐美定満:48歳:53歳:58歳
962 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/13(水) 23:59:56.97 ID:SF6IYgzh
大河もこのスレも楽しく拝見させていただいてます
早々に質問で恐縮です・・・
1:教来石(馬場)はたまに出てきますが後の山県昌影は、いつ頃が活躍の
ピークなのでしょうか・・・是非勘助の知略と山県の武勇の競演を見たい
と願ってます。
2:今のところ若かりし馬場・山県と出ていますが、内藤・秋山が出る予定は
あるのでしょうか?。
3:最後に、ミキプルーン晴信と唾飛ばし晴信、皆さんのイメージではどちらが
晴信っぽいですか、あくまでイメージで^^;。
>>962 1、山県などは信州平定の時期に初陣だったはず。
メインで活躍するのは第4次川中島〜三方原、長篠まで。
いまメインで出てる甘利や板垣の後くらいかな
2、さあ、どうでしょうか?こういうのはネタバレスレへどうぞ
3、どっちも嫌いじゃないが、髭を生やした姿は今年かな?
>>961 それなら北条綱成も入れよう。
福島の絡みもあるし、今回1回限りの登場ということはないはず。
北条綱成:22歳:27歳:32歳
>>963 いや前のやつは、最初「です・ます」調だったのに途中から「だ・である」調に
変わったりして、文体不統一(日本語として変)な感があった。
それに
>>961は、前のやつの表現的に微妙で文意の取りにくい箇所も
改善されているので、これでよいと思う。
968 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 09:47:41.89 ID:yAzobO1O
>>967 江戸時代に書かれた軍記物。
史書ではないよ。
969 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 14:09:20.09 ID:KUU4a52S
>>958 でもいくら自称とはいえ、間者風情が受領の官名を名乗るってすごいね。
>>966 激しく乙華麗
青木大膳だって、信玄と同じ大膳を名乗ってるぞ。
当時の武士の名乗りなんて、みんなそんなもんだ。
971 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 19:08:42.81 ID:WRb1/XOO
青木大膳はフィクションであり実在の人物ではありません
なんで関東管領は長野業正の箕輪城に行かずに、長尾の庇護を受けたんですか?
箕輪で立て直せなかったの?
973 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 19:23:22.29 ID:/d5CQC7/
974 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 19:25:14.62 ID:WRb1/XOO
>>972 嫡男まで置いて逃げ出したヘタレ関東管領には、そもそも“立て直す”なんて発想がなかったのです。
975 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 22:00:18.20 ID:RuHE6zn9
信濃だって、領土の取り合いとかしてるのに、どうして村上義清は
武田に取られた領地を信濃民に取り返してやろうと思ったの?
言うだけはタダですから。
んなことする気があるなら幸隆に真田庄を返しとけと。
977 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 22:25:13.47 ID:9rxgalNV
>>975 「望月くん武田から領土を取り返してあげたら君は村上家臣だからね」ってことです。
>>975 元の領地を丸々返してあげるわけじゃないでしょ
一部は元の領主に、残りは村上が自分で支配するって形にするつもりでしょう
979 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/14(木) 23:00:55.17 ID:05JkvFuz
>>970 まあ青木も本間も架空の人物だし。
当時の武家社会の一般的な慣習では、あまり身分が高くないor若年の場合は、
春日源五郎や飯富源四郎のような官途名ではない通称しか名乗らず、
ある程度の社会的地位を得るようになると、
官途名を含む通称を名乗る傾向はあるな。
大名側が官途名の通称を一定ランク以上の上級家臣のみに限ることも多いし。
とりあえず青木の「大膳」は、少なくとも「大膳大夫」ではなく、
「大膳亮」か「大膳進」あたりであると信じたい。
百官名ってのもあるし
981 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 00:27:31.18 ID:/hhmAe9I
風林火山質問スレというよりは
ほとんど日本史のお勉強スレになってるなw
982 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 00:36:50.51 ID:Mbl/SYQn
>>979 井上靖が創作した青木大膳と
江戸時代の書物を典拠とする本間江州を
「共に架空の人物」と同一視するのは如何なものか
983 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 00:50:23.18 ID:Vnua9dGr
>>980 百官名は朝廷の制度上は存在しない官名だけどね。
984 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 00:51:44.30 ID:Vnua9dGr
>>982 しかしこのドラマでの本間江州の設定は限りなく架空に近いな。
そんなことは織り込み済みだろ
ドラマなんて、
史実を元ネタにした創造物にすぎない
ただ、説得力あればなおいいが
今現在をどう理解するかも分かれるのに
過去が一致なんて絶対無理
987 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 01:29:54.05 ID:/hhmAe9I
そりゃそうだ。
桶狭間も上洛説の方がドラマとしては面白いしな。
河原村伝兵衛も実在の人物だが、設定はどう考えてもオリジナル。
989 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 01:58:10.27 ID:m0BhVi+M
問題は「本間江州の設定」じゃなくて本間江州の「江州」だったと思うんだが…
そんな百姓がいきなり間者なんてできるのかねえ。
先祖に近江守を貰った人物がいたという言い伝えでもあったんでしょう
>>990 作品ちゃんと見てれば、最初は農民上がりの頼りないパシリだったのが、
だんだん仕事に慣れてきて、間者としても一人前に成長し、貫禄もついてきたのがわかるぞ。
決して「いきなり」なんかではなかった。
それに、成長したといっても、
前回は捕まったりと、その道のプロにはまだ及ばないようだし。
根が農民というのが、警戒を解かせる効果もあるだろうしね。
伝兵衛も板垣様に使えるようになって何年も立ちますからのう
>>990 刀狩以前の当時の百姓は武装してる。
毎日の労働で体も鍛えられてる。
警察や軍隊が守ってくれるわけではないし
領主づらして居座る浪人胎児や
治水利水もできてない中で隣村とは水争い
逆に間者の特殊技能っつっても、一子送電とか
家中の秘伝とかやってたら、スパイ技術も
きちんと伝承されていかないしな。
>>994 同意だが、
>>990の疑問にも一理あると思う。
というのも、第一回にこそ武装する農民・村の兵力の描写がちょこっとあったが、
このドラマではそういう強い村落・自治する村落の姿がほとんど描かれていないから。
基本的に「お代官様〜」な昔ながらの百姓のイメージ。
996 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 13:23:52.72 ID:oS6g88Mk
>>979 浪人だから、勝手に官途名を名乗れたのかもしれない。
大名に官途名の名乗りを許す権限なんぞないはずだが、実際には行われていた。
そうすると家中内では、勝手に名乗れないし、官途名にランクがあるんだろうな。
駿河守とか越前守といった受領号の方が、民部とか式部とかよりも人気があったようである。
997 :
日曜8時の名無しさん:2007/06/15(金) 13:34:37.53 ID:6EvKnd5d
上杉憲政からしたら
足利義輝がかなり優秀に見える。
ちと逸れてスマン
長曽我部元親の宮内少輔というのがなんとも中途半端なのが・・・
999 :
上杉憲政:2007/06/15(金) 14:42:49.92 ID:/v+7Ycug
忍びとは木に登ったりするものではないのか?
1000 でおk?
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