悪路王

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1子鬼
宮澤賢治の「原体剣舞連」を読んで感動した。
自分のほかに、悪路王に興味ある人いるのかな。


 ■阿弖流為公式サイト
 http://www.aterui.jp

 ■原体剣舞連 (宮澤賢治)
 http://homepage1.nifty.com/ihatov/har_1/035_d.htm

 ■鬼剣舞
 http://www.michinoku-yume.net/myn/db/db06-m002-t009.php3
2天之御名無主:03/07/25 15:57
やっぱり誰もおらん・・ ゚(゚´Д`゚)゚
3天之御名無主:03/07/25 16:08
うっせーな
普段なら1日ぐらい経って
age
っていう書き込みがあって
次に何でも知ってるコテハンが書き込む

これで良スレのほうだ。

夏休みだから1時間経たずにレスがかえって来る
ありがたくおもえ。
4あぼーん:あぼーん
あぼーん
5天之御名無主:03/07/25 16:37
シャクシャイン、アテルイについて
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/min/992965813/l50

蝦夷とはなに?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/min/987989033/l50

日本史におけるアテルイの評価について語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1048866774/l50

東夷の英傑アテルイとモレ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1057574144/l50

坂上田村麻呂
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1058910549/l50
6こおに:03/07/25 17:13
>>3
そんなに書き込み少ない板とは知らず・・
す、すみません∵(´ε(○=(゚д゚ )

>>5
ありがとうございます
いまから熟読させていただきます
7こおに:03/07/25 18:03
紹介されたスレ全部読んだ。
申し訳ないけど、あまりにも(以下自主規制) ヽ(;´∀`)ノ

マイナーな英雄の話なんてしようとして、すみませんでした。
このまま倉庫行きで構いません。


それにしても、日本史スレって東北差別が凄くてびっくり。
はやても出来たし、宮澤賢治が大好きなので一度くらい
是非行ってみたい、なんて思っていた自分は変人なのかな。
8天之御名無主:03/07/25 18:29
日本史板はアホばかりだからな
9天之御名無主:03/07/25 18:40
>>6 :こおに さん

こんな言い方するのも情けないことだけど、「所詮は2ch」ですから・・・
それに「差別」は東北だけにじゃないし、日本史板だけの傾向でもない。
情報を仕入れるにしても、ウソかホントか見分けられなければ、
振り回されるだけだよ。

阿弖流為も最近になってやっと再評価されつつある人物だし、
関連書籍でも漁ったほうがずいぶんマシじゃないかな。

田村麻呂サイドの視点でもよければ、『田村三代記』などは面白いと思うし、
小説や、能、歌舞伎、舞台劇でも取り上げられているから、
その世界観にひたるのもいい。

鬼剣舞ってたしかお盆頃のものじゃなかったかな?
君が学生さんで時間に余裕があるなら、今からバイトでもしてお金を貯めて、
実際に岩手に行ってみて、その土地に触れてみたほうが
はるかに得るものは大きいんじゃないだろうか。

書き逃げ、失礼。
10天之御名無主:03/07/25 19:07
原体剣舞連の絵本というのもありますよん(私はまだ見てませんが…
ttp://www.fuki.sakura.ne.jp/~burabura/
ttp://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_top.cgi/3da08277bc47a01059ed?tpl=dir/01/01010800_0008_0000000002.tpl
11こおに:03/07/25 19:09
>>9
山手線の駅に、最近鬼剣舞のポスターが飾られていて(剣舞だけでなく
東北の大きな夏祭はほとんど)、ネットで調べたところ、8月にお祭りが
あって、どうやらそこで鬼剣舞が舞われるようなので、行ってみようと思っ
ています。動画では見たのですが、やはり生で観てみたい!


東北の蝦夷の末裔さん達(DNAはどうであれ、精神は)の民俗芸能は、
装束なども非常に独特で興味があります。イタコやオシラサマ、
ナニャドヤラ、ネブタ等・・、本当にユニークな文化がたくさんあって、
気にならずにいられません。

また、鬼剣舞が紹介されているサイトで鹿踊も紹介されていました。
「鬼」や「シシ」の格好をして、入墨で肉体を飾った武士が、毒矢と蕨手刀
で中央の大軍隊相手にゲリラ戦を仕掛けていた・・なんて想像(妄想?)
したら、もうカッコよくてカッコよくて!(あまり夢を持ち過ぎると痛いので、
美化しすぎないよう、逆の視点も学ばねば・・)

(↑もちろん、舞の装束が戦闘時の装束ではないと思いますし、おそらく
近年になって固まった衣装だとは思ってます。でもカッコいいから) (;´∀`)
12こおに:03/07/25 19:10
>>10
ありがとうございます。これは知らなかった。
なんか、スゴイかっこいい・・!!

帰宅後、じっくり見てみます(今は出先でして)
13天之御名無主:03/07/29 23:31
悪路王 ≠ アテルイ

何故、それがわからんのだ >>1よ!
14天之御名無主:03/07/31 00:00
まぁ確かに「悪路王=アテルイ」では無いわな。
伝説の悪路王の軌跡とアテルイに関連する僅かな記録には異なる点は多いですからね。
ただ、伝説(架空)の悪路王について「実在するアテルイと同一人物では無い」とわざわざ指摘しなくても(−−;
むろん「=」では無いけど、少なくとも悪路王伝説は東北蝦夷たちの乱を反映して生まれた伝承ですのである種の考え方は反映されています。
特に「浄瑠璃」と「奥浄瑠璃」の微妙な違いは朝廷側の思想と東北側の思想のギャップが現れていて興味深いです。
15天之御名無主:03/07/31 12:57
情けない奴ッ
16天之御名無主:03/08/05 14:24
>14
達谷窟に立て札が立ってたけど、悪路王とアテルイをほとんど混同してて
、アテルイ寄りの人に当てて対立宣言(?)してるのが何だかなぁと思った。
17天之御名無主:03/08/06 01:55
たしかにね。
立て札を立てざるを得ないほどの狂信的な
アテルイ信者でも、達谷に行ってるんだろうか。
1816:03/08/06 13:59
うーん、あてるい信者は見たこと無いのてなんとも言えないけど、寺の立て札も
「いつから(悪路王が)英雄になったか知らないが」と挑戦的な感じで、正直
感じ悪かった。
19天之御名無主:03/08/06 15:36
>>17
そうでも思わんと、あまりにも蝦夷の末裔(?)の地に立てる
立て札にしては、失礼な書き方だよね。悪路王=阿弖流為
とは思ってないけど、立て札に書いてあるのは阿弖流為の
ことだろうし、感じ悪い。

思わず「寺の主は関西からきたのか?」と勘ぐってしまった
ほどw (関西の人全てが東北人をバカにするわけじゃない
けど、そういう傾向が高いのは否めない。特に古い世代は。)
20天之御名無主:03/08/06 22:45
達谷窟毘沙門堂縁起

およそ1200年の昔、惡路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を
苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞いが多く、国府もこれを抑える事が出来なく
なった。そこで桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大將軍に命じ、蝦夷征伐の勅
を下された。
対する惡路王等は達谷窟より3000余りの賊徒を率い駿河国清見関まで進んだ
が、大將軍が京を発するの報せを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。
延暦20年(801年)大將軍は窟に篭る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・
高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大將軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と
感じ、その御礼に京の清水の舞台造りを真似て九間四面の精舎を建て、108躰
の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦
21年(802年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として
東西三十余里、南北二重余里の広大な寺領を定めた。
降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為寺領を寄進
し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。
文治5年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その
模様が「吾妻鏡」に記されている。大火・兵火により過去何度か焼失するが、その
度直ちに再建される。その際岩に守られた毘沙門堂は焼失を免れていたが、昭和
21年隣家の出火により毘沙門堂が全焼。ご本尊以下二十数躰のみ救い出す
ことが出来た。昭和36年に再建された現堂は創建以来5代目となる。
21天之御名無主:03/08/06 22:46
征夷大將軍坂上田村麻呂公を顕彰する

この頃達谷窟毘沙門堂の縁起が中央寄りであるとか、甚だしきは書き換えるべき
であると言う人が来る。
彼等は征夷大將軍坂上田村麻呂公は中央からの侵略者、惡路王こそそれに抗した
英雄(何時から英雄になったか知らぬが)と看ておる。そこでは当時のみちのくこそ
がこの世の楽土で蝦夷こそが我祖先との考えがあり、惡路王は奪われる側で善、
大將軍は奪うもので悪という単純な区分がなされているがこれは可笑しい。達谷に
伝わる「籠姫」や「姫待瀧」「髢石」等の伝説では奪うものこそ惡路王であり、奪われ
る側を救う者が大將軍なのである。昔から奪われる側であった民草は救う者に心を
寄せていたのだ。
東北には慈覺大師の伝説が多いが、これは天台の僧によるものだろう。しかし
大將軍の伝説には特定の宗教の気配は薄い。蝦夷を征伐し佛教を拡め、みちのくを
鎮めた恩人に対する思慕が多くの英雄伝説を残し、文学や芸能として花開いたと
考えるべきである。当に大將軍こそが東北古代史の英雄であろう。然もなくば大將軍
創建を伝える社寺(多くは小さな祠)がこれほど多い理由を何と説明するのか。もし
知らぬ間にこれらの社寺で大將軍創建の縁起が書き換えられているとしたならば、
これこそ我々の先祖の信仰を侮辱し、歴史と文化を否定することに他ならないでは
ないか。
達谷窟毘沙門堂は大將軍と惡路王伝説の発祥地であり、大將軍創建の精舎である
ことを何よりの誇りとし、日夜心をこめ「南無田村大將軍」と唱えている。如何なる
非難を受けようとも縁起を書き改めるつもりはない。社寺にとって縁起とは思想では
なく信仰なのである。来たる平成13年こそ征夷1200年。そして創建1200年の記念
すべき年となる。心から蝦夷征伐と毘沙門堂創建を祝い、重ねて大將軍の事跡を
多いに顕彰したいと考える。「南無田村大將軍」
22天之御名無主:03/08/06 22:47
>>21
>(何時から英雄になったか知らぬが)

たぶん、ここが挑戦的なんだよねw
23天之御名無主:03/08/09 02:56
多分>>5のスレのどっかに昔書き込んだことのある地元民だけど
幼稚園時代原体剣舞もどき踊らされたりしてますた。
あと鹿踊りね、流派は忘れましたが、近隣地区の一つなら直に知ってます。
今も細々と続けられてるみたいで。
輪になりススキを模した背飾り(うろ覚え)を地に打ちつけながら
太鼓を敲き謡い舞う姿は勇壮だったのを今思い出してみて感動が蘇ったり。

鹿踊りは伊達藩繋がりで愛媛の宇和島地方にも伝わってますね。
時代背景や歴史はこのぐらいしか知らないけど。
アテルイ盛り上がってますが悪路王は知らないす。

東北人が陰気なのは否めない気がしますねw関西弁に恐怖心をもってたり。
関西弁で怒鳴り散らすと恐縮されるのに
東北弁でマジ切れしても笑われるだけなのが …゚(゚ノД`゚)゚
24あぼーん:あぼーん
あぼーん
25天之御名無主:03/08/09 12:35
>>20
史実に残るアテルイの戦いとは違うようだけど、年号は
アテルイの時代だよね。「悪路王」って架空の人物?
26天之御名無主:03/08/09 12:38
>>23
仏教系の踊りだとか江刺あたりのHPで読んだのですが、
あの衣装かっこいいね(・∀・)v 鹿踊りも羽みたいなの
さして、カコイイ。
中学だか高校のインターハイか何かで、県南の高校が
鬼剣舞と鹿踊で応援してて、それで好きになったよ〜
27天之御名無主:03/08/09 12:46
書き漏らした・・

宮澤賢治の「原体」に書いてある「片刃(かたは)の太刀」って
どんな刀?
28天之御名無主:03/08/10 17:19
みちのく芸能祭りで原体剣舞見てきた。司会が「この踊りを見た宮沢賢治が
『腹体剣舞連という詩を作り・・・』と説明していた。
踊りは小学生くらいの男女が鳴り物を鳴らしながら踊って、かっこよかった。
29あぼーん:あぼーん
あぼーん
30あぼーん:あぼーん
あぼーん
31天之御名無主:03/08/10 19:00
>>28
子供が舞うことに関していろいろ説があるみたいですね。
こことか、少年が舞う剣舞と悪路王伝説を絡めて面白かったです。
http://www02.so-net.ne.jp/~jamtoast/maturi-odori-mikake26.html

>>27
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/newrelease/08geino/
普通の日本刀ぽいよ。
32天之御名無主:03/08/10 19:06
http://www.dengen.or.jp/html/dvd/contents/no011/

「悪路王=アテルイ=地元の英雄」みたいになってる良い例。
>>20-21の縁起書いた人が見たらブチ切れて卒倒しそうw
33天之御名無主:03/08/10 23:12
23す。

子供が踊るものだったのか…
幼稚園時のはお遊戯だと思い込んでたけどそうでもなかったのかな…
教えてるのがおっちゃんだし大人が伝えてくものだとしか認識無かったです。

刀について。
うちの辺りは鉱山があって、かつては製鉄民でもあったみたいです。
「片刃(かたは)の太刀」は蝦夷起源の刀で、大和朝廷に取り込まれた辺りで
技術が伝わり、日本刀の元祖になったとも聞いたことがあります。

悪路王ではないですが、人首丸(ヒトカベマル)の伝承てのもあるよ。
アテルイ亡き後、最後まで抗った美少年として伝説化してるんだけど
かなりマイナーみたいすね。

ttp://www10.ocn.ne.jp/~ganmen/works/story.htm
34あぼーん:あぼーん
あぼーん
35天之御名無主:03/08/11 10:55
>33 人首丸は伝説の人物では?
アテルイの弟ってフレーズはじめて聞いた。
伝承の登場人物としては「アテルイ」の名前は出てこないのよね。

聞いた話だけど、達谷窟の寺は最近住職が代替わりしてから積極的に活動
してるらしい。寺の名前も「西光寺」だったのを「達谷窟西光寺」
に改名したりとか。(20,21の縁起の立て札作ったのもたぶん今の住職)
 しかしこの立て札の言う所の田村将軍の功績って、日本の朝鮮侵略の理屈
と同じなのね。我々が統合してやったおかげで、未開の地が鉄道やら学校や
らの文明の恩恵に与ることができたんだ、みたいな(その考えの善し悪しは
別問題ですが)。石碑や功績を称える伝説が多いのも、朝廷によるプロ
パガンダが行われた可能性もあるし。
何にせよ、あの立て札はモニター通して見る以上に、現地で読むとかなり
ショッキングですた。住職、必死すぎ。みたいな。
あ、西光寺のおばちゃんは大変丁寧な人でした。
36天之御名無主:03/08/11 12:21
「遙か昔、蝦夷の頭領アテルイの弟である大武丸に、人首丸という
美しい少年がいました。人首丸は朝廷との戦いに敗れ、米里の大森山
にたてこもり討死したと言われています。」


「遙か昔、蝦夷の頭領アテルイの弟である大武丸に、人首丸という
美しい『息子』がいました。(後略)」?

「遙か昔、蝦夷の頭領アテルイ『に』弟である大武丸『と』、人首丸という
美しい少年がいました。(後略)」?

ドッチダー ヽ(`Д´)ノ
37天之御名無主:03/08/11 12:32
自分の親や地元の住民の性格を見るに、従順であまり反抗心のない
人が多く感じられる。もし阿弖流為が本当に、侵略者と戦った英雄だと
しても、とーほぐの人々は「どうせ何をしたって無駄だ」と言っていた
ような気がしてならない。w それとも住人の気質が変わったのかな。

そーいえば、「今のとーほぐ人は蝦夷の子孫ではない」という人がいるけど、
蝦夷を根絶やしに出来たわけないと思うなあ。

だって、山とか森とか深すぎ。根絶やしにしようとしたら何百年かかるよ。
朝廷に従った時点で「蝦夷」ではないんだろうけど、「全く違う人種」とか
まで言われると、「ほんとに〜?」って思ってしまう。
38天之御名無主:03/08/11 12:38
まあ北東北の人間として言わせてもらえば、俺ら混血なのよね。
蝦夷と大和人(帰化人含む)の。

蝦夷が東北人の先祖であるっていうことが東北人自身の意識に
上ってきたのは、そんなに古いことじゃない。一部(安東氏等)を
除くと明治以降?それ以前は、蝦夷というのは怖くて野蛮で、
自分らの先祖を脅かした存在として認識されていた筈。
明治以降だって、一部インテリを除けば、由緒正しい大和人の
子孫と頑なに信じてた。バリ島のほとんどの人が、13世紀に
ジャワ島から侵攻してきた人々の子孫だと頑なに信じてるのと
同じ。

ごく最近、東北大の高橋富雄などの俘囚国家説なんかから、
蝦夷の再評価が高まり、「そうか俺らの先祖には蝦夷もいるん
だな」との認識が一般の人にも浸透しつつある。
一部の人が蝦夷ナショナリズム?まで突っ走ってるが、そこまで
いってる人は少ないし、第一家系伝承で鎌倉御家人を挙げる人が
圧倒的に多い(あまりあてにならないのは間違いないが)東北の
こと、蝦夷一色には染まらんよ。

なので、達谷窟の縁起を見ても、腹を立てる東北人はあまりいない
んじゃないかということをいいたかっただけです。長文失礼。
39天之御名無主:03/08/11 13:32
うちには家系図がありません。苗字を苗字辞典で調べると父方母方共に
「岩手県●●市に多い」としか由来が書いてありません。本家とよばれる
家はとんでもない山奥にあります。・・これでバリバリの西からの移住者
だったら、逆に笑う。w


>>38
同感です。太宰治『津軽』に、橘南谿『東遊記』の引用があったけど、そう
いう考えでしたね。「蝦夷」が何なのかよく分からないけど、西の人よりは
蝦夷の血の割合は強いと思う。

『余思うにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なる
べし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人の
ごとくいいなし居る事とぞ思わる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもっとも
の事なり。』 By 橘南谿
40天之御名無主:03/08/11 17:09
鬼剣舞がお盆によく舞われるのは、死者の供養の意味もあったのね・・。
知らなかった。
41天之御名無主:03/08/11 22:26
さて問題です。「剣舞」の読み方は、以下の3つのうちどれでしょう?
@ 「けんまい」 A 「けんばい」 B 「けんべぇ」

鬼剣舞と念仏剣舞。
鬼剣舞の中の念仏剣舞なのか、剣舞の中の鬼剣舞と念仏剣舞なのか、いまだようわからん。


>>23
>ススキを模した背飾り
ササラのことね。御幣が原型だとか。ススキにも見立てるようです。
42天之御名無主:03/08/11 22:58
>>41
東京的には2!


「鬼剣舞は念仏踊りが元」とよく書いてあるけど、ということは、
誰か仏教に詳しい人が岩手人に教えたんだよね。だったら、
源流を同じとする剣舞に似た舞いが、日本中にあるのかな。

鬼剣舞と似た念仏踊りってなんだろう。京都辺りにあっても
オカシクないはずだよね。京都に残らなくても、周辺の修験者が
修行しに行ったような土地。
43天之御名無主:03/08/12 19:49
>>41
2かな? 3はトーホグなまり?w
44天之御名無主:03/08/13 03:00
>>35
地名として残ってるので、何らかの史実はあったと思われます。
「人首丸」という名前は伝承化してから後付けされたんでしょうが。

>>36
…多分息子。

>>37-39
混血でしょうがやはり蝦夷の気質、精神みたいなものは失われてるでしょうね。
鉱山資源で独自の交易ルートでもあったなら、
搾取されたくなくて必死だったんでは、とも思います。
蝦夷というよりはうちの辺りは伊達藩所縁の因習が多いし。
しかし前九、後三の役はどうも言葉の行き違いから生じた争いだったみたいで、
その当時はまだ共通語でなくて苦労したのかなあ、と思います。

>>41
ササラでしたか。
「剣舞」の読みはけんぶから訛ったものだと思ってるんですが
ネイティブなら2と3の間ぐらいですかねw

念仏踊りについてはサパーリ…
修験者の通い路だった痕跡は土地柄に結構残ってるんですが。
45天之御名無主:03/08/14 13:35
「剣舞」と呼ばれるようなものは各地にあるかもしれない。
だけど、岩手の剣舞は「鬼」が舞うものでしょ?
(刀もって踊る者らが鬼だよね?)
そこが他の地には見られなくて、他所の人間から見たら面白い。
なぜ鬼が主人公なのか、成敗より供養の意識が感じられる。
4641:03/08/14 23:13
@、A、Bとも正解です。(どういう出題なんだと自己批判のふり)
説明を加えますと、
@は知り合いの学芸員が間違いではないと言っていました。(こちらの方が正式のような口ぶりでしたが)
Aは岩手での普通な呼び方です。
Bは>43氏がおっしゃる通り、トーホグなまりです。と言うより、うちの地域の年寄り語です。
47山崎 渉:03/08/15 18:22
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
48天之御名無主:03/08/17 11:52
>>11
>ネットで調べたところ、8月にお祭りがあって、どうやらそこで鬼剣舞が
>舞われるようなので、行ってみようと思っています。

>>1 :こおに さんは現地で鬼剣舞を体験されたのだろうか?

>>7で、「このまま倉庫行きで構いません」とは言われているが、どういう
感想をもたれたのか、聞いてみたいなあ。
49天之御名無主:03/12/28 15:57
道路公団の某前総裁のこと
50天之御名無主:03/12/29 22:57
あてるい公式サイト、去年から更新停止したままだけど、どうなってるんだろう。
1200年記念で燃え尽きたのか?もうイベントとかやらないのかな。
51あぼーん:あぼーん
あぼーん
52天之御名無主:04/01/12 12:15
篠塚健次郎
53天之御名無主:04/02/16 20:59
荒俣ひろしがどっかで「陰陽師の次はアテルイが『来る』」とか言っていたが。
メジャーデビューは遠いのか。
54天之御名無主:04/02/16 22:48
映画化するとしたら誰がやりますの
55天之御名無主:04/02/16 23:35
藤岡弘、
56天之御名無主:04/02/17 22:53
わらび座のアテルイがぶさいくでガッカリ。
57天之御名無主:04/03/05 00:24
>>54
以前、里見浩太郎がやっていたね<アテルイ>
ほんのちょっとだったけど。
58名無将来:04/03/16 16:42
悪路王のことを語るなら、黒石寺蘇民祭をみてからにしてほしい。
59庄内人(北狄):04/10/18 21:48:04
達谷の毘沙門堂に行った時、悪路王を押さえつける神像たちを見て
自分も押さえつけられるような感覚を覚えた。
自分が明らかに、蝦夷側である事を見透かされたか?

毘沙門堂が今まで何度も焼けてるというが
そりゃやはり悪路王の押さえ切れぬお力である(!)
しかしそのたびに「直ちに」再建されているという所が
悪路王復活?を恐れる必死さが感じられてしまう。

それにしても現時点で尚も「蝦夷征伐」を「祝う」という
ところがすごい。
60天之御名無主:04/10/20 05:42:42
【征夷大将軍】坂上田村麻呂【清水寺】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1098215256/
61天之御名無主:04/11/01 14:41:22
アテルイ没後1200年記念のHPあぼーん
62天之御名無主:04/11/01 17:06:16
なんかオフロード仕様みたいでかっきーな
バイクやチャリの名前にすれ
63天之御名無主:04/11/01 21:59:14
空海入唐1200周年記念でもあるんだよね。
64天之御名無主:04/12/01 14:33:57
>63
アテルイ没後1200年は2002年ですが?
65天之御名無主:04/12/08 02:48:34
66天之御名無主:04/12/25 06:30:51
坂上田村麻呂スレより

11 名前:ダンの花[sage] 投稿日:04/12/11 22:02:36
スサノオ→ヤマトタケルっていう文化英雄の系譜をひいているよね。
以下の事は思いつきで書いているんで、眉唾で読んでくださいな。

記紀伝説との相違は、前代が天皇に準じる存在の親征という形をとったのに対して、臣下の一武将の遠征に変わっていることと
ヤマトタケルが常陸風土記では井戸を掘るなどして地名起源説話を残しているのに対し、田村麻呂も井戸に関する地名期限説話を残しているけれど、目立つのは各地で寺社の縁起譚を残しているということ。

これは律令制国家の確立と関係があるんだろう。
官僚制度が整い天皇自らが親征する必要が無くなったことと、朝廷の権威として仏教の勢力が増してきたことが田村麻呂の伝説を作り上げたんだと思う。

この後、仏教の権威は朝廷から離れ、弘法大師をはじめとする名僧の放浪譚が生まれてくる。
田村麻呂の亡くなった弘仁2年(811)から5年後の弘仁7年(816)に弘法大師空海は高野山を下賜されている。
武力、信仰、権力、といったものが未だ未分化だった上代から、それぞれ立場を明らかにしだす古代へと時代は移りだしている。
古い秩序に変わる新しい秩序が見え始めている。
私は上代から古代へと移る過渡期に生まれた英雄として田村麻呂を評価できると考えている。

中央と周辺、権力なんて視線を交えながら文章にしたら面白いものが出来そうな気がするけど、どうなんだろなー
67天之御名無主:04/12/25 06:58:29
なんだかサヨっぽくなるだけだな。
68天之御名無主:05/01/26 14:57:25
そういえば清水寺に阿弖流為の碑がありましたね。すでに出ていた
話しでしたでしょうか。
京都のタクシーの運ちゃんが、わたしが一発で読めたので驚いてま
した。
なんでやねん(怒)
スレ違いかもしれないけど、富雄ちゃんってまだご存命なのでしょう
か。大学の頃、講義を受けたことがあったんです……。
69天之御名無主:2005/11/25(金) 16:03:08
>>50
次回は1300年かなw
70天之御名無主:2005/11/25(金) 16:03:54
>>59
蝦夷側の血もあるだろうけど確実に植民者も入ってると思う。
71天之御名無主:2006/04/07(金) 05:13:00
みこうち
72天之御名無主:2006/05/10(水) 01:38:02
 ひな雲伯の語部は何かものをおもわざる
73天之御名無主:2006/12/23(土) 15:19:54
幸平よ!
この俺をお茶でごまかそうと思ってもそうはいかないど!
なんかタクラミでもあんだろ!
日頃から口数の少ないお前が何を考えてんだ
ど〜なんだ!
 なんかあんなら黙ってないで何とか言ってみろ!!
74天之御名無主:2007/01/08(月) 19:47:16
>68
約一年前の書き込みにレスw
清水寺の碑、偶然見つけて(寡聞にして知らなかったので)
大興奮しながら写真とってたら通りかかった修学旅行生グループが
誰だこれ、有名な人?写真とっとく?なノリで集合写真取り始めて
微笑ましかったです。あの子らに詳しく説明したかったよ・・・不審人物になるのでしませんが
75天之御名無主:2007/01/10(水) 20:12:02
火怨 読め
76天之御名無主:2007/01/10(水) 20:19:13
>>68

多田先生…
ちなみに後任の谷口維紹先生は多田先生と全く同じアドレスを使ってます…名前が「ただつぐ」だし。
77天之御名無主:2007/01/10(水) 21:15:36
平泉はいいよね
78天之御名無主:2007/07/23(月) 04:11:37
アクロ王とは”羽黒王”だと思う。(羽黒→hakuro→Hが無音化→アクロ)

羽黒山、湯出山、月山の出羽三山を開山したのは蜂子皇子。
______________________________________
蜂子皇子(562〜641)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蜂子皇子(はちこのおうじ、波知乃子王、欽明天皇23年?(562年?) - 舒明天皇13年10月20日?(641年11月28日?))は、
崇峻天皇の第一皇子、聖徳太子の従兄弟。出羽三山を開いたと言われている。
能除大師や弘海などの異名をもつ。地元(羽黒)の人たちの面倒をよく見ていたと伝えられている。残されている肖像画は、
気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。
出羽三山神社にある皇子の墓は、粗末なものであるが、現在も宮内庁が墓を管理している。享年は91であったと言う説もある。
______________________________________

811年、弘仁2年12月の文室綿麻呂の38年戦争終結宣言

↑773年に38年戦争が始まった。蜂子皇子が亡くなってから132年後。

ttp://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/yds/yamagatas.htm)左記URLの庄内地方に羽黒山はある。
そして、最上地方に悪路王伝説がある。

羽黒山「アテルイ」の本陣跡?(9月25日)−岩手県− 
水沢市にある羽黒山(同市羽田町)で市民参加の発掘調査を実施している「アテルイを顕彰する会」は、
平安時代に作られた可能性の高い柱穴10数ヶ所と、奈良時代の土師器片1点が発見されたことを明らかにした。
同山は蝦夷軍と朝廷軍が戦った「巣伏の戦い」で、蝦夷の領袖アテルイが本陣を設置した場所とされている。
↑岩手の水沢にも羽黒山はある。水沢は後藤新平、斎藤実、大槻玄沢、山崎為時などを輩出した土地である。
79天之御名無主:2007/07/23(月) 04:11:50
○ 大伴小手子   (コテコ)   (母)
父は、大伴糠手連(オオトモノ アラテノ ムラジ)崇峻天皇の妃(ミメ)。
蜂子皇子と錦代(ニシキテ)皇女の母。
蜂子皇子を追って都を出、福島県川俣町や月館町にたどり着いた。養蚕と機織を伝えた伝説が残る。

↑蜂子皇子の母親。大伴氏。大友克洋は宮城県北部岩手との県境の登米市である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E7%B1%B3%E5%B8%82
80天之御名無主:2007/07/23(月) 04:12:14
方言なんてどうです?日本じゅうにひとつの言葉の言い方で少しづつ変わっています。

1.アグドという方言の意味について
東北の各地にアグド(あるいはアクト、アクド、アグド、)という不思議な方言がある。地名研究で聞き覚えのある所謂アクツ、
アクタ、またアクト等のアク系の言葉に思われるが、この方言の意味が足の裏の端にあたる「かかと」を指すというから面白い。
○青森県南 →アグト
○秋田県 雄勝郡、平鹿郡、仙北郡、湯沢市→アクド、  同   由利郡→アグト  同   南秋田郡、河辺郡、秋田市、
鹿角郡、山本郡、北秋田郡→アグド
○岩手  南部、伊達 →アクト、アグト、アグト、アグド、アゴド、カガド、
○宮城仙台→アクイ、アクイト、アクツ、アクト、アコツ、アジャラ
○同 県北→アクド、アグド、カガト
○山形全般→アグド
○福島会津→アクト
○同その他→アグト、アクド
○新潟県西蒲原郡→アクト 同  長岡市 →アクト
○長野県下水内郡豊田村→アクト
○富山県→アクトウラ(方言俗語語源辞典:校倉書房)
○愛知県尾張地方→アクト
○東北六県→アクト
○越後(新潟)、信州(長野)→アクト
○東京とその4周(関東?)→カカト
○甲州(山梨)→アコイ
○伊豆(静岡)→アックイ
○駿河(静岡)、遠州(静岡)、三河(愛知)→アクツ、アゴト
○美濃(岐阜)、尾張(愛知)→アクト、アクイト
○近江(滋賀)→オゴシ
○西京(関西?)→キビス
○九州肥後阿蘇小国(熊本)、筑後久留米(福岡)→アド
○南島→アド、アドウ その両端にアクトを使う地域あり
上記を見ればわかるように、「かかと」という言葉が地方により少しづつ違うのです。しかし、それが意味するところは
全て同じです。
81天之御名無主:2007/07/23(月) 04:12:26
藤原千方と四性鬼
 謡曲「現在千方」によると天智天皇の御代高位を望んだ藤原千方はそれを果たせず、伊賀に火鬼・風鬼・水鬼・
隠形鬼を率い立てこもり朝廷に反旗を翻したという。
 実在の千方は「太平記」などの史書によると平将門征伐で有名な藤原秀郷の孫にあたる人物であり、
平安時代に伝説同様謀反を企てたとされている。
 なぜ天智天皇の時代に置き換えられたのか?この時代で有名な謀反は天智天皇の死後起きた「壬申の乱」である。
伊賀は大海人皇子が相対する朝廷側の大友皇子の母の出身地で、当然大海人皇子と戦うこととなり、見事に敗北し軍門に下った。
 この辺の歴史で語られない部分が作り話に反映しているのかもしれない。ちなみに四匹の鬼を忍者だったのではとの説もある。
 面白い話だが奥浄瑠璃「田村」にもこの四性鬼は登場し、朝廷と戦う悪路王に協力を申し出る件がある。
 鬼の名前も文献によって異なり上記意外には金鬼・土鬼などもいる。隠形鬼を怨京鬼と書く本もあるのが面白い。
ちゃんとした史書では山注記・三河坊・兵庫の堅者・筑紫坊という四人の山伏だったという。山の民と朝廷との確執も見え隠れしている物語だ。

ttp://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/other/e/chikata.htm

↑このように、物部氏との共闘の他にも、悪路王と共闘をしようとしていた人々はいます。
立烏帽子もそうです。私が、悪路王とは旧王朝の人間だ、と言う仮説を立てる理由はここにあります。
82天之御名無主:2007/07/23(月) 04:12:41
立烏帽子

 悪路王の女房とされる鈴鹿山の鬼女。天竺第四天魔王の娘で別名「鈴鹿御前」。その姿は「田村三代記」によると
「年の頃は十六・七。天女のごとき美しさ。揚柳の細身に十二単、濃い紅の袴姿。左手には琴を携え、腰には黄金で
飾られた長剣『妖剣大通連』が下げられている」とある。なんだか白拍子の格好だ。白拍子とは祭事に舞を奉納する
踊り子のこと。かなり美人が多かったといい、ちっと歪んだトコでは売春もOKだったそうだが、情報収集能力はピカイチであろう。
してみれば、山に住む彼女ももしかして忍者?
 彼女は奥州達谷窟に棲む悪路王と組み、日本転覆を企てていたが、悪路王からの便りの無さに、
淋しさが憎しみに変わり征討者である坂上田村麻呂と逆に恋仲になってしまうあたりなんか現代の
長距離恋愛の悲劇と重なってしまふ・・・
 結局、立烏帽子の協力で悪路王は滅ぼされるのだが、奥浄瑠璃(東北の伝説)では鈴鹿御前が
東北の悪路王に恋をしているのだが、京で書かれた物語では悪路王が鈴鹿御前に恋をしている。
やっぱ自分の土地を優先するんですねー。

http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/other/e/tatiebosi.gif

ttp://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/other/e/tatiebosi.htm



11 天之御名無主 2007/07/22(日) 20:01:10
仏教世界の第四天はトソツ天(例の弥勒の所
83天之御名無主:2008/07/01(火) 18:36:45
子鬼さーんどうされてますかー?お元気ですかー?
今日はじめてこのスレを見つけました
もう1年も書き込みがないんですね
水沢も平泉も好きで何回も行きましたよ
ageれば誰かの目にとまるかな
また来ますね ノシ
84天之御名無主:2009/02/25(水) 18:20:29
達谷の毘沙門堂にいったけど、由来を読む限り悪路王の扱いは強盗の親玉って感じがした。
85天之御名無主:2010/01/28(木) 00:54:32
長野における八面大王みたいに、悪路王も地元で英雄扱いされることもあるの?
八面大王は魏石鬼窟にたてこもる原因が悪行の結果説と田村麻呂の徴発への反抗の二つの伝承があるらしいけど。
86天之御名無主:2010/04/13(火) 13:37:26
光源氏の曾孫の源綱らが退治した土蜘蛛族とは、
藤原純友の時代は、光源氏の時代の少し後の時代で、平将門の時代。
藤原純友に支えた、傀儡師がルーツ。

傀儡師→土蜘蛛→草→忍者

忍術のルーツは、大陸の密教武術から発したもの。
日本へは、信州の高句麗渡来人や北陸の新羅渡来人が連れてきた高麗忍軍がもたらしたもの。
加茂氏祖、葛城山の役行者(役小角)が開祖で、この時代には、まだ、密教は断片的で、仏法と仙人道を合わせたものと成っている。
密教自体は、その百数十年後の空海により、伝来する。
賀茂忠行の弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家

仙道、修験道に通じたのが、羽黒山などの天狗であり、天狗を祖としたのが、僧侶修験者の山伏集団。

大天狗=後白河法皇、天若日小命=七夕の天稚彦(松浦佐用姫伝説)=天邪鬼(瓜子姫伝説)=天狗神=呼子氏祖(坂之上の呼子)
烏天狗や鞍馬天狗は、僧侶山伏や傀儡師。
源義経の幼少期に大天狗の指示で、剣術指南をしたのが、この、烏天狗なのだろう。

呼子氏の先祖は、光源氏の源融で、その曾孫が、源綱で、その曾孫が、呼子氏祖の波多氏宗家、波多持(源久の三男)
お伽草子には、七夕の天稚彦や浦島太郎伝説と源頼光の四天王、源綱、源貞光、卜部、金太郎らの土蜘蛛の勾玉奪還、酒天童子退治がある。
藤原純友の蒲池氏と松浦党の呼子氏が水軍で繋がり、波多宗家呼子氏で、安倍武士宗家の三男筋の子、松浦(安倍)高俊とは、壇ノ浦の合戦の義経伝説で繋がる。
後の、足利尊氏将軍が、新田氏に追われ、頼った伊予の少弐に、波多氏呼子氏がいる。

大陸から連れて来られた忍軍の末裔も、又、傀儡師として活躍に至る修験者修行者であり。
後の伊賀、甲賀忍となる。

伊賀、風間、甲賀など・・
87天之御名無主:2010/04/13(火) 15:11:49
映画「風と雲と虹と」と「太平記」から見えてきた
足利時代を不動のものにした、少弐水軍家内訳

平将門に追随し、瀬戸内海賊を纏めたのが、始り。
(瀬戸内民人猟師浮れ人と藤原配流武士と廻船問屋の烏合衆)
創始者:海賊討伐左衛門尉官で在りながら、傀儡師を使い海賊を束ねた、藤原(高橋)純友海賊王

阿波海賊
河野海賊

7世代を経て加わった、平家水軍、後の源氏水軍

源氏松浦水軍
源氏村上水軍

薩摩からの依頼で、松浦党の松浦直筋の平戸氏が佐世保港を使わせた、後期倭寇の中国水軍

王水軍
陳水軍

藤原純友から縁で繋いで来たのが、蒲池氏。
88天之御名無主:2010/04/14(水) 21:37:30
>>87の訂正。

王水軍
陳水軍は・・

王水軍VS陳水軍で・・

王水軍
毛水軍
徐水軍
葉水軍の中国=清国水軍連合

少弐一族が、足利時代から、国内にも出兵し勢力も時とともに衰退しつつあり
王率いる中国水軍との同盟が不可欠だったのだろう。

89天之御名無主:2010/04/15(木) 20:51:47
ヤサ軍団に帰依せ
な、そうせ
90天之御名無主
>>80
松浦波多氏の末裔だが、俺の出身の兵庫県下では、謂れは知らんなかったが・・家の方ではで、関西では、カカトで通じてるぞ。