1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 22:23:46.45
三好長慶は晩年はともかく全盛期は天下人と言っていい
3 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 22:09:34.02
天下人長慶
4 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 23:33:00.79
三好は最盛期は10万の兵力があった。
5 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 17:13:21.18
秀吉とか信長じゃなく三好長慶を大河にすれば面白いのに。十河一存はイケメン、小少将美魔女で。
6 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 10:32:30.42
三好家の子孫はどうなった?
7 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 21:47:36.40
細川晴元から徳川家光まで仕えた戦国時代の生き字引、三好政勝が二千石の旗本として存続
8 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 01:35:23.44
>>6 十河城跡の称念寺の北側に現十河家当主が「十河の郷 昭和おもひで館」ってカフェと資料館開いてるよ
現当主さんは存保−存継−重以の流れと聞いたかな
他にも十河氏関係の子孫だろう人らで構成される十河同族会ってのもある
十河、久保(一存と一緒に三好家から十河家に入った十河家家老)、池内(十河家分家)、檀原(十河家の外戚)のうち、三好家の子孫は十河さんだけだろうけど
あと元国鉄総裁の十河信二さんは伊予十河氏(存英の子孫、讃岐氏一族推定系図稿参照)らしい
9 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 19:18:26.95
三好義継は悲惨だな。三人衆の傀儡から抜け出そうとしたのに
今度は松永久秀の傀儡になって挙句信長に逆らって討ち死にとは。
10 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 11:45:50.16
長慶は敵が多すぎ。しかも優しいから敵が減らず、戦いすぎなんだよ。
愛息、兄弟も疲弊して皆早死になんじゃないか。
11 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 14:02:05.54
長慶は戦自体は強いのに最後の詰めが甘い
安見直政とか何度も合戦では負かしてるのに逃げられて
長期間gdgdで畠山・安見と戦い続ける破目になったし。実休死んじゃうし
12 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 10:31:44.72
長慶は細川晴元も足利義輝も最後まで殺さなかったし梟雄ではないな
13 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 13:47:03.84
梟雄になればよかったのにな
まあ三好は小笠原の出って噂もあるからできなかったのかもな
14 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 13:48:43.41
祖先の顔には泥は塗れまい
15 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 10:43:54.27
三好長慶が長生きしていたら、信長ごときに畿内を制圧されなかったのに残念だ。
16 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:05:31.16
三好政権がずっと存続するためには、どうすればよかったんだろう?
17 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:11:13.18
>>13 小笠原氏の傍流で、細川氏の家臣として
阿波に入った一族。
18 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:53:46.39
小笠原の一族なのに細川の家臣になるって、どういう事情があったんだろう?
室町幕府の守護大名や奉公衆に小笠原氏はいたのに。
19 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 19:30:03.15
応仁の乱以降、細川政元のころから室町幕府=細川氏
四国に細川一族は大勢いたけど京の足利氏は将軍だけ
その他の足利一門も氏族として時代を経て独自氏族と
してまとまりがなくなってきたからな
20 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 19:35:00.97
つか足利将軍家とはいえそんなに力は強くなかったからな
同じ一門の斯波氏なんて家格では宗家に劣ってたとは思って
なかったろ
鎌倉時代だって足利氏が三河に勢力伸ばしたのに対し上総に
勢力を伸ばした足利氏が斯波氏だからな
21 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 19:37:10.93
>>16 ・長慶と義興が頑張って寿命を20年くらい延ばす
・実休が弾をよける
23 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 00:57:53.07
・三好氏が(北条氏のような世襲の)「執権」ポストに就任。
将軍の直接の命令は常に三好家に伝えるように制度化。将軍の正室
に自分の娘を差し出し、娘が将軍を細部まで監視できるようにする。
・三好家内部の対立がないように常々言い聞かせ、一門への褒美は
官位や茶器などにして、所領は極力直轄化する。家臣の所領は、
配置替えをたびたび行ない、勢力との悪しき癒着が無いようにする。
・松永久秀にも婿として三好氏を名乗らせ、上記のようにする。
三好兄弟はみんな若死にだよね、一番生きた長慶でも43だし、あとは30代で死んでる
まぁ冬康は若死というか強制終了だけどな
26 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 07:31:22.26
43って、当時としては普通だったんだろうけど、
現代から見れば若死にすぎるな。
家康を見てればわかるが、長生きすることが大事だな。
27 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 15:58:58.79
>>21 そこの説は、なんでもかんでも、無理やり感が強すぎる。
三好氏は、阿波の小笠原氏で間違いない。
28 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 21:52:08.92
三好長慶は一応天下人のまま畳の上で死ぬことができただけ
細川政元や松永久秀よりはマシな死に方だったかもしてない。
29 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 22:48:14.88
今村慶満はもとは細川氏綱の被官だったっけ(うろ覚え)
よく荘園押領してるイメージがある
31 :
日本@名無史さん:2014/04/21(月) 22:06:06.05
>>16 豊臣政権を存続させるより困難そうだな。
三好義継は豊臣秀頼に似てる。
三好政権崩壊は長慶早逝よりも
・三人衆+阿波三好家と畿内の本宗家の義継+松永父子で分裂
延々と内部抗争やって消耗してしまったのと
・幽閉していた義昭に逃げられて大義名分を与えてしまった方が痛かった
長慶が生きていたらまず義輝は殺さなかっただろうけど
将軍殺し自体は三好政権にとってさほどの致命傷でもなかった
だからむしろ義輝のついでに義昭も殺って禍根を絶っておこう(迫真)
んで阿波公方を速攻擁立擁立
>>32 一瞬いい案のように思ったけど義昭も殺してたら後世もっと三好は悪人扱いだから(震え声)
でも確かに足利義栄擁立まで時間かけすぎ
長慶死後の三好の内紛はホントもうちょっと何とかならなかったのだろうか…
34 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 21:55:09.17
足利義栄もよく将軍弑逆をやってのけた連中の傀儡になる気になったな。
いずれ邪魔になれば消されるに決まってるのにそれでも将軍になりたかったか。
35 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 23:13:51.52
>>34 義栄は病気の親父に言われて嫌々だから、主体性を取ろうなんて思ってないし殺されるはずはない。
本人もそんな心配してないだろう
36 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 00:54:51.79
>>33 義昭が将軍にならず、ただの弟だったら「もっと悪人」ともならないんじゃないだろうか。
対立した人物の一族を殺す事例なんて当時はいくらでもあることでしょう。
37 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 01:04:50.46
>>33 当時は悪人どころか、義輝が謀反を起こして誅殺されたことになってたろ
>>37 うーん…確かに「信長公記」では義輝が天下執権の三好に「御謀反」
という記述ではあるけど
じゃあ三好の将軍殺しがありふれたこととして同時代的に容認されたか?
というとそれはそれで極論かと
そこはやっぱり将軍家は別格で同時代の書状にあるように
「先代未聞之仕合」という受け止め方のほうがふつうだったと思うわ
実際、義輝殺した直後から畿内外で三好打倒の目的で
上洛を目指す/呼びかける動きが急速に高まったわけだし
太田牛一は長慶が死んだことをしらないで書いてるしね
その記述は長慶が義輝殺した前提になってる
まぁ仮に殺したのが長慶であっても結果はあまり史実と大差ない気はするけど
>>16 松永弟が生きてれば20年くらいは続いたんじゃね
41 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 17:26:56.66
三好長慶があと20年か30年生きてれば、信長ごときの出る幕はなかった。
42 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 17:38:06.99
三好長慶があと20年か30年生きてれば、信長ごときの出る幕はなかった(震え声)
43 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 23:11:56.83
松永久秀や三好三人衆が先走って義輝を殺したりしなければ
義昭を擁立しようとする動きもないだろうし
信長が大義名分を得ることもなかったろうに
長頼と義賢が生きてれば三好の畿内支配も安定したままだったろうけど
45 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 16:03:42.54
讃岐の国人の被官化について
46 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 19:29:55.88
信長は義輝に謁見したことがあったが、もし義輝が横死していなかったら、
おそらく尾張の一大名のままだっただろうな。
47 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 20:36:01.99
義輝公が健在であれば、上杉謙信や織田信長は室町幕府の下での一大名にすぎなかった。
二人とも上洛して、生前の義輝公に拝謁している。
>>6 >>8 他にも十河城城代の十河存之の遺児で外祖父秋元家に引き取られた秋元佐兵衛助盛、猪右衛門定盛兄弟の子孫の家系が現代に続いてるらしい
49 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 09:50:15.52
>>47 結局松永久秀が将軍殺しで得たものは悪名だけだったな
将軍殺しの先駆者の赤松満祐も討伐されて終わりだったし
なんでそんな暴挙に出たんだろう
50 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 21:38:35.76
>>49 松永の悪名は将軍殺しよりも大和を支配下に置こうとしたことによる
筒井のような国人や寺社勢力からの恨みをかったことによる
当時の文献で悪口を書かれまくったことだろう。梟雄と呼ばれたが
荒木や光秀のように在地勢力をまとめあげるだけの力量がないのが
松永の限界だろう。
三好サイドからすると、長慶が晩年に義輝と関係が悪化したままお亡くなりに
新当主は15歳の坊ちゃんだし「もうあの悪公方、この際殺っちゃおう!」
という気持ちは結構わかる。結果的には悪手だったけど
細川氏綱のように聞き分けの良い神輿ならよかったのに(震え声)
末期の足利将軍は権威だけは残ってるので
実権握った三好や織田からするとひたすらメンドクサイ
でも殺すともっとメンドクサイので追い出すくらいが現実的な選択肢
それを考えると武家関白という解決策をみつけた秀吉は賢い
53 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 10:53:22.76
三好や織田にとっては義政みたいな将軍が一番都合がいいんだよな
54 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 12:13:24.23
氏綱って跡継ぎはいなかったのかい?
55 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 14:25:49.31
三好の場合も、頑張って朝廷に圧力かければ、内大臣兼左(右)近衛大将とかなれたりしたのかな。
関白までは無理でも、大臣や大将になれば将軍と対等だって主張でき、独自のヒエラルキーを主張できたのでは。
>>54 氏綱は息子がいなかった。弟はいるけど(管領としての)跡は継いでない
57 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 10:38:56.19
細川氏綱は管領のわりに三好から権力を取り戻そうとした形跡が全くないな
後任の管領がいないのもお飾りはもう必要ないってことだろうし
>>55 長慶・義継の時点で、それ以上の官位取得ははまず無理目だと思う
修理大夫(長慶)や左京大夫(義継)は従四位下で
室町時代だとそこそこ有力な守護大名家ならふつうに任官される官位
でももともと家格が守護代の三好にとっては破格の出世で
長慶が任官されたときには、身の程知らずだと他の守護大名から
反発くらってる。三好の家格的にすでに官位は天井に近い状態
朝廷内にも反三好派の公家は多かったし
信長の右近衛大将(従三位)叙任は天正3年で長篠の戦い以降
三好政権時代とは支配領域も勢力も格段に大きくなった時代
秀吉に至っては朝廷の方からどんどん官位上げてきたようなもんだけど
さらに三好時代とは比較にならない支配力をもってるしね
長慶は最後まで晴元にも甘かったし、一番の敵である義輝の代わりに
義稙の息子の義維を立てる選択肢はあったがこの人物は極めて評判が悪く
本人が将軍になる運動をしても阿波守護の細川持隆、本願寺の証如に要請、
援助を求めた際にも「迷惑」と断られているからな。
60 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 12:53:49.94
義維は義稙の実子じゃなくて養子で、義晴の兄だけど庶長子だから弟として扱われた。
尊氏の庶長子で直義の養子になった直冬と似たような扱いだな。
61 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:24:24.59
実休も鬼十河も息子も死ぬの早過ぎ、三好家はどんだけ不幸なんだよ
それまでがうまくいってたからツケが回ってきたのか
>>61 一存は短命で済むが、実休を殺したのは根来衆でこの時は近江の六角
紀伊の畠山に包囲され、実休戦死時は三好の危機的状態で六角義賢
が逡巡していくれなかったらどうなっていたことやら。
>>62 いつも空気読んで三好を(結果的に)助けてくれた六角が
信長上洛のときももっと頑張ってくれたらよかったのに(震え声)
三好は負ける時の負け方が半端ない
実休死んじゃった久米田の戦いも総崩れであばばばばばだったけど
信長上洛の時、9月末に信長入京→10月初旬に畿内の三好側の拠点ほぼ全部開城ェ…
「僕らの三日間戦争」(完)ってどうなってるの?!
本拠の阿波・讃岐があるから、一旦引くのも選択肢だっていうのはわかる
でももうちょっと摂津あたりで何とか粘れなかったのか…
64 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 20:59:26.40
長慶時代の三好家を知らないとただの勢力そこそこのザコ大名だな
65 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:50:55.67
細川晴元に敗れたけど元長の代でも晴元を凌ぎかねない力はあった
66 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 07:54:13.39
家康の生涯を見てて思うことだが、やはり長生きすることが大切だな。
長慶も70代まで生きてれば、尾張の田舎侍どもに畿内を乗っ取られずにすんだのに。
南畿の畠山・安見、遊佐も、大和の筒井もそうだけど
丹波の波多野らの国人にしても、反三好勢力は一時的に衰えても
滅んではいないから潜在的にずっと存在してるんだよな
だから長慶死んで重しがとれたら、一気に畿内の反三好勢力が復活してしまう
長慶が降将にやさしいかったっていうのはあるけど、完全に滅ぼして
一国を支配できるような軍事力は全盛期でもなかったってことだと思う
68 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 23:15:10.63
むやみに頃すのも考えものだけど下手に生かしてると三好家みたいになるからなー
信長と長慶の違いはなんだったのだろうか
ただ単に殺すだけの力がなかった
まぁ敵対勢力を殺しつくす必要はないんだけど
三好は占領して版図に入れても検地も城割も全然してないし
土地政策的にはすごいゆるゆるな支配だったのは確か
経済的には、畿内と東瀬戸内海の商業・流通握れば問題ないんだろうけど
在地の国人領主の支配・家臣団化という点からは明らかに弱い
畿内の支配下の国人領主にせよ確実に三好の家臣団として再編成できたのは
長慶の時代でも摂津下郡くらいじゃないの?
ただ水争いの相論を担当した記録があったように三好を
支配権力として認める在地側の意識がないわけではないのだけれどね。
やっぱり、義輝との抗争が長すぎたのが長慶の最大の失敗だろうな。
晴元の対抗馬には氏綱をあてたのだけれど将軍家には信長のように
朝廷を使わなかったのだろうね。
あのさ、理性安眠、じゃない「理世安民」のスローガンを長慶が掲げた
という記述をよく目にするんだけど、これいつ頃どういう形で採用されたのか
誰か知ってるひといます?
信長や後北条氏みたいに印判のデザインに理世安民とでも彫ってたとかなの??
73 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 07:31:02.43
「理世安民」って唐の李世民が見たら激怒しそうな文字面だな
「国家安康」で激怒した家康みたいに
74 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:21:12.89
うんこ漏らしの難癖の付け方は笑ったわ
wikiぐらいしか見てないんだけどさ三好三人衆の長逸、友通、政康の長慶時代の活躍って見ないんだよね
75 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:43:59.63
阿波公方関連の話で信長と争ったって印象しかないわ
義視派と政知派の話になってくんだよな
茶々丸は義稙派として義澄派に討伐されてるし、その区分けはどうかと思う
十河氏の子孫が長宗我部まつりに登場 なお仙石は許されてない模様
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1400326770/ 十河一族恩しゅう越え あす長宗我部まつりに
戦国時代、現在の高松市十川東町にあった十河(そごう)城の城主で、土佐の戦国大名・長宗我部元親(1539〜99年)としのぎを削り、
後には共に九州の島津勢と戦った十河氏の子孫という男性が、18日に高知市で開かれる長宗我部氏の顕彰イベントに初めて参加する。
「恩しゅうを越え、一族の存在や長宗我部氏とのゆかりをアピールしたい」と話す。(萩原大輔)
高松市郷東町の十河延康さん(61)。手作りした甲冑(かっちゅう)と模造刀を携え、「第3回長宗我部まつり」の武者行列に加わる。
高松市によると、最後の城主だった十河存保(まさやす)は1584年、四国の覇権を狙う元親と激戦を繰り広げ、敗れて開城した。
その後、秀吉に降伏した元親らとともに九州征伐に加わったが、島津勢との「戸次(へつぎ)川の戦い」で戦死。息子の千松丸も数年後に没し、直系は滅びた。
城跡には後に一族や家臣を弔う寺が建てられ、現在に至っている。
延康さんは傍系が祖先とみられ、墓所の土地を代々所有。2年前に会社を定年退職後、墓所近くで飲食店を営む傍ら、
十河氏にまつわる絵や文書を集めた私設資料館を運営している。
4年前、「戸次川の戦い」があった大分市での歴史イベントに招かれたことから、先祖の功績や長宗我部氏とのゆかりを高知でもアピールしようと、
長宗我部まつりの主催者に参加を打診、快諾を得た。同まつりは、戦国武将が活躍するゲームで元親が人気を集めたことをきっかけに、2012年に始まった。
元親が初陣で先勝祈願をした高知市の若宮八幡宮で、武者行列や鉄砲隊の演武などが行われる。
実行委は「十河氏は同じ四国の武将であり、最後には『同志』になった間柄。400年の時を超え、ご一緒できるのはありがたい」と歓迎する。
延康さんも「長期間にわたって戦い、互いに認め合う関係だったはず。将来は高松でも先祖や長宗我部氏を顕彰する催しを企画したい」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/news/20140516-OYTNT50099.html http://www.yomiuri.co.jp/photo/20140516/20140516-OYTNI50026-L.jpg
78 :
日本@名無史さん:2014/05/23(金) 17:09:16.82
将軍殺しの松永ほどじゃないけど、足利義維を担いでたのに
義維を裏切って義晴から偏諱貰ってる細川晴元も大概だな
京兆家の家督が取れれば、将軍なんて誰でもいいて事なんだろうな
三好からすると晴元は仇役&恩知らずに見えるけど、当時の状況からすれば
仕方ない面もある
・義維を正統な将軍として認めるのは阿波屋形とそれに味方する畿内の一部のみ
畿内大半と全国的には圧倒的に義晴しか将軍として認知されていない
・京兆家の家督を継ぐ=摂津・丹波が分国=畿内を基盤とした政権
ところが三好元長が肝心の畿内の摂津国人らとの仲が超険悪
・じゃあ畿内国人を捨てて阿波屋形の軍事力だけで畿内保てるか?っていうと無理
・之長に担がれた父ちゃんの澄元がまさにそのパターンで畿内から追い出された
・晴元の言うこと聞かない元長を捨てるしかない
晴元からすれば他に選択肢があったか?っていうと、実はあまりない
長慶だが何となく、平清盛とダブってしまう
既存の体制の大枠を壊さずに下剋上(変革)目指したという意味ではそうかも
清盛の方が政策的にいろんな意味で革新的だったとは思うけどね
83 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 21:28:19.64
三好にあらずんば人にあらず
84 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 01:56:48.40
一族に頼った軍事体制を築いていて、後継者や一族が死んでいってボスの末期の頃から
敵に脅かされていて、ボスが死んだら、どんどん状況が悪化して、一族が壊滅的に死ん
でしまうところとかよく似てる。
大仏を焼いたのは平家と三好だけだから(震え声
に、似てる
畿内近国では地の利で動員が容易だからおれTUEEEEだったのに
東国から本気で殴りにこられたら光の速さで都落ちとか
確かに似てる
そもそも畿内を支配した期間は三好長慶のほうが信長より長いわけで
信長が支配したのは三好みたいに畿内近国だけじゃないじゃん?
逆にずっと短期間で畿内抑えてかつずっとその他の広域を支配したんだから
その方がふつうに凄いと思います(小並感)
いや三好好きだけどさ
三好がある程度、下克上での畿内支配の基礎を築いた後だから
後の強大な軍事的背景があるとはいえ、信長は入り込みやすかった
信長の畿内支配システムって三好丸パクリだしなあ
90 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 19:00:26.66
>>84 晩年の秀吉にも似てるかもな。あっちは後継者を自分で潰したけど。
91 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 19:15:43.20
中途半端に善人というか思い切りが悪いというか。
92 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 20:41:23.44
絶頂から没落まで早過ぎ
>>89 織田は畿内でも城割・検地実施したし
同じ一職支配でも三好時代と支配の内実は全然違う
将軍殺して後続の織田の下剋上のハードル下げたのはそうだけど
>>70 信長も全然検地してないだろ間抜け
分国法も体制立った家臣団も無く一本釣りの積み重ね
平家は最後が美しいんだよね
一門そろって仲良く壇ノ浦で滅亡というのはすごく絵になる
三好は宗家と一門で殴り合って、陪臣とも主筋とも内ゲバでgdgdで
滅んだのがな
三好もみんなでなかよく鳴門の渦に沈めばよかったのに
96 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 02:15:26.64
長州藩士で男爵の三好家は無関係?
97 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 10:40:33.28
>>94 織田は検地自体は早くから実施してる
近江:永禄11年、村井貞勝・丹羽長秀が検地奉行
山城:天正4年実施
伊勢:いわゆる「神戸検地」(神戸信孝家督相続後)
越前:天正5年(柴田勝家)実施
大和:天正8年実施、いわゆる「大和差出」
和泉:天正9年に堀秀政を検地奉行として派遣
他、播磨・丹波でも天正9年に実施
畿内近国は天正8年の石山本願寺退去後、城割とセットで差出検地実施
三好はそもそも検地自体実施していない
99 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 01:44:28.68
平氏で裏切った奴いなかったっけ?
織田の支配が三好より深化してるとかいうけど
そのために日本史上類を見ない大虐殺があって
おびただしい血が流されているし
本能寺の時点でも畿内各地で一揆が続いていたわけで。
わずかな元手でスタートして
庶民に及ぶ災禍を最小限に抑えながら
畿内に平和と新秩序を打ち立てた三好一族を
脆弱だとかいうのはかわいそうでないかい?
虐殺しないから脆弱なんだろw
ちょっと待て…検地なんか関東の後北条やらもっとちゃんとやってるだろ
城割や検地で領国支配するのは別に虐殺とセットとかそんなことないから!
後北条も織田も三好もふつうの庶民に及ぶ災厄や平和のことなんか
考えて戦してるわけない
城割に関しては三好が先にやってるんだよね。
検地をしてた後北条氏は豊臣秀吉に
全く歯が立ちませんでしたよね。
結果からみて検地ができる=基盤が万全ではないということです。
急増する人口と次々に発展する新興都市
新旧勢力の権利関係が錯綜する畿内に対応するには
地方とはまた違う統治の方法論が必要だったと思います。
検地ができないから基盤がぜい弱というのは
物事を単純化しすぎと思いませんか?
三好長慶は将軍家や名門武家と対抗するために
新興勢力の盟主となるべく「理世安民」のスローガンを掲げています。
民の暮らしを安んじるために世を平らげるという意思表示です。
そういう一般的なスローガンなら他家「祿壽應穏」「百万一心」とか
いろいろあるけど、それを真に受けていいなら
戦国時代はみんな民の暮らしを守るために戦う大名ばっかりですね
106 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 18:52:12.89
優しい大名ばっかでいいなー(小並感)
107 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 19:29:55.55
鎌倉時代
泣く子と地頭には勝てぬ
まぁ北条は検地ちゃんとやった反面年貢は他家に比べれば相対的に軽かったし
戦国時代標準では民政に関してはまともだったのは事実
「祿壽應穏」の印判も北条家当主のみが、中間の国人をすっとばして
直接惣村や民衆相手の発給文書だけに押すことができたって意味でも
「民の財産と命を守る」を明確なかたちで政策的にアピールしてたわけだし
北条はまとまった民政を意識してたし、内政の実態に関しても
いろいろ文書史料が残ってるからわかりやすい
三好とか他の家はしらん
いいの。三好は文化・教養度では織田にも北条にも楽勝だから(震え声
之長はいうまでもなく、元長の代までは完全にヒャッハー系で
畿内で略奪・乱暴祭で公家の日記でも「三好ェ…」って扱いなのに
政長が突然変異で茶人覚醒、長慶兄弟の代から急に文化人になる落差がすごい
ゲルマン人がローマ化したような感じだ
宗三と実休の名物茶器の収集率が異常に高い
>>109 之長や元長の時代は畿内で戦う時に阿波からの兵站が長期間もたないんだよね
だから現地調達せざるをえないのでどうしてもヒャッハー略奪だー!になってしまう
長慶の時代も放火と略奪は禁制だしたところ以外はふつうにやってる
まぁ当時の軍隊はそういうもんだから仕方ないけどな
112 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 23:35:32.06
>>110 当時の茶器って小城一つ建つぐらい高価なんだってな
そんな物を集めるとかどんなブルジョアジーだよ
113 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 01:44:06.34
羽柴だけじゃないか?自軍を消耗させず戦をしたのは?
114 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 03:21:21.26
>>113 石田三成や小西行長など兵站に長じている配下がいたからな。
115 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 09:28:48.95
豊臣秀長、長束正家、増田長盛、寺沢広高も兵站に長じていた。
116 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 11:53:09.11
大谷吉継も
117 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 10:39:00.68
真田十勇士の三好清海入道とか三好伊佐入道って、実際はどんな人だったの?
118 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:12:33.75
禿頭スーパーマン
>>117 三好三人衆とかいうあまり役に立たない三本の矢のひとりである兄と
長寿以外特に取り柄がないが傍流ながら江戸期に旗本として三好家をつないだ弟
120 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 22:42:58.38
三好義賢、さらには長宗我部に嫁いだ女の人はそんな美人だったのか?
>>104 検地政策とそれにともなう知行制の導入は中世的な土地所有・主従関係から
近世的な封建制への移行に関する非常に重要な指標なので
「検地しても北条は豊臣政権に負けた」とか、「畿内は商工業が発展してたから
三好は土地政策が遅れてても問題ない」とかそういう単純な話ではないです
>>121 あなたの指摘は論点がずれています。
それはともかくとして
徳川幕府のようないわゆる近世的な封建制が歴史の必然で
そこに収れんされるような統治を行った大名家が先進的で
それを行い得なかった大名家が後進的で基盤がぜい弱だという考え方は
硬直的に過ぎると思われませんか?
たとえば現代でも地方の権利が強い国がある一方で
中央集権志向の強い国もあります。
どちらがより優れているとかはその国の実情によって変わりますよね?
三好家は徳川家のように長期政権を築くことはできませんでしたが
過小に評価しても最も成功した戦国大名家の一つでした。
その政策を検地を行い得たかどうかで評価することは
あまりにも物事を単純化した見方ではなかと思います。
123 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 20:49:45.70
豪族連合の盟主から脱却するには時を逸したのである。
124 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 21:28:20.13
歴史の必然の流れか否かはおくとして、検地を実施することにより、域内の収支を把握することは、支配者にとってすぐれて不可欠であるということにほかならない。
換言すれば、検地が実施できないというのは、その土地に対して実効的支配を及ぼせていないというべき契機を秘めていたということ、これである。
おれも身も蓋もなく言えば
>>123の意見に賛成だわ
三好政権って「畿内の実情にあったもうひとつの近世の可能性」
などという夢のあるものではなく、単に畿内が歴史的に権門の強い地域なので
土地関係が非常にメンドクサイので
その時点の三好政権の実力では思い切った政策がとれずに
現実的にハードな政策部分ではいろいろ妥協しましたっていう話なんだと思う
つまり三好だってもし可能だったらふつうに北条や織田と似たような
より「近世的な」政策を実施して、つまり土地関係だって国人の編成にしたって
より直接把握したかった可能性の方が高いんじゃね?ってことだけど
126 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 21:57:46.54
幕末に至ってすら自藩域内の収支すらろくに把握出来ず負債ばかり抱えた徴税能力の低い自治政府ばかり
税が低い事を殊更誇るのが一番デカイ幕府自身という体たらく
>>111 たぶん室町時代に上洛した諸大名のうち、畿内でいちばん紳士的だったのは大内氏
義材を擁して上洛した大内義興は1万3000人規模の自軍を
畿内で荘園の押領や略奪をまったくせず
本国からの輸送と自費によって在京した10年間維持した
ここん家すごい裕福なうえ、なまじ水軍力がやたらあるので
遠く離れた畿内でも兵站を維持できてしまったっていう…
義興は非常に軍規厳正で、畿内で地下人から自軍の略奪や狼藉の訴えがあれば
ただちに処断したっていわれてる。これで合戦も「此度の合戦に大内方の
太刀打ちの有様、ほめぬ人こそなかりかる」だから男前すぎて惚れてしまいそう
もう大内がずっと畿内にいればいいよ!
でも義興が周防・長門に帰ってくれないと三好が畿内に返り咲けないから困る
之長が好きなんだ!!!
128 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 23:23:38.06
>>127 なるほど。
しかし、これは大内の領国にとってはかなりの負担だわな。
大内が義隆の代に内側から瓦解した遠因はここにあるわけだな。
なかなか難しいもんだ。
義興自体は優れた武将なのにね。
>>124 いや、検地しなくても代官と目付置いとけば
土地の実効支配はできますから。
130 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 08:19:12.19
検地を経ずに代官なり目付なりを置いてもそれは木偶だ、木偶人形だ。
目付や代官置いただけでちゃんと土地の実効支配が出来るなら
とっくの昔に守護代以下、目付や代官を置いてた
細川政元や高国が領国の国人の掌握や統治になぜあれほど苦労するのかと
管領家も守護代も三好も代官を置いてますから。
三好自身が代官やってたし。
133 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:33:21.15
うむ。三好自身が代官やっていた。細川氏の実効支配が進むどころか、代官の三好が、主家を凌駕する勢力に膨張した、ここだよ。
>>132 そう。だから単に目付や代官を設置しただけでは意味ないんだってば
どの深度・範囲まで領国を把握できた=土地を実効支配できたか?が
守護領国制と大名領国制をめぐる議論の焦点で
その際に検地・軍役の形態がたいへん重要なのでございます
目付・代官は守護領国制時代から置いてるに決まってるし三好だってそら置いてる
その土地制度の実態が問題なんだ
135 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:46:14.93
畿内は歴史が長い分権利関係が複雑に入り組んでいてさらに新興層の力も強いわで、
他に比べて実効支配の確立は難しかったろうよ。
畿内を制覇した勢力が長続きしなかった理由はそこだな。
136 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:47:42.63
徴税調査権を持たない税務職員をいくら置いても意味がないのと一緒だ。
三好はちゃんと優秀な被管を代官に任命して統治実績をあげてたし
だから畿内を制覇できたんでしょ?
検地ってのは強権で重代の既得権を整理することだから
相当な反発を招くし強行すれば支持層の離反の可能性があるでしょ?
畠山の残党など敵対勢力を抱えて
一門の世代交代と幕府の権威の超克など
多くの課題に取りこんでいた三好長が
火中の栗を拾ってまで検地を強行するメリットより
デメリットのほうが多かったんではないですかね?
検地しなくても管領家や幕府の権益を利用すれば
収入を得る手段はいくらでもあったんだし
流通関係の権益収入も莫大だったし
検地で得られる収入増は後回しでよかったと思いますよ。
>>137 横レスだけど
検地は単なる収入源の確保(もちろんそれはある)にとどまらず
それをつうじた貫高制や軍役の負担さらに知行制といった
軍事動員と主従制の再編にからむ、戦国大名の領国支配の論じる際の
ド真ん中ストライクの政策なんですわ
織田だって伊勢湾という流通・商業経済の拠点を早くから擁してるわけで
そのことと検地などの土地政策は性格が別
それに三好時代の商業政策なんて断片的にしかわかってない
実態としてじゃあどのくらい三好が大阪湾一帯の都市から商業的な収入を得ていたか?
なんてほとんど解明されてない。かなりイメージ先行で語られてる部分も多い
個人的には土地制度史と軍役という政権の「権力」の最重要部分の実態分析が
手薄なままorあるいは軽視して論じてるところが
今谷氏や天野氏の三好政権論の一番の弱さだと思ってる
幕府による栄典付与や対朝廷政策といった「権威」に関わる部分より
ずっと政権論としては本質的な領域なのに
140 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 04:45:46.10
関西の研究者はどうしても三好政権は過大評価気味になるよね
自分は近畿の人間だからその気持ちはよくわかるわー
織豊・徳川政権に関して尾張・三河の田舎者が!っていう気分がどこかにあって
それが研究でも畿内を基盤にした三好に対する思い入れになってる部分がある
>>138 いやだからさ時系列やそれぞれの大名家の持つ特質を無視して
三好が検地をしていないから脆弱な政権だったって決め付ける
態度がむちゃくちゃだってんですよ。
ちゃんと
>>137を読んでないでしょ?
三好がどのように収入を得ていたかはある程度分かっているから
ほとんど解明されてないなんて言わないで自分で調べてください。
土地制度についてもさ中世の土地に関する考え方を理解していたら
検地がどれだけリスキィなことがわかるし
足利幕府の持つ権威と権益をを利用することで
畿内の秩序を再構築しようとしていた三好長慶が
軽々に検地なんて行い得ないでしょ?
>>139 三好長慶は織田や細川大内などと比べて
はるかに脆弱な権力基盤をもとに天下人(都の支配者)になってしまいました。
その弱さを埋め合わせるために政所とも同盟していました。
これは三好がのし上がるために行った数多くの合従連衡の一部ですが
幕府の官僚と同盟を結んでいるのに幕府の土地制度を軽々に否定できないでしょ?
それに検地をしていなくても優秀な代官を持っていれば
有効な統治はなし得ます。
権威に関わる部分は少なくとも三好宗家にとっては重要なんです。
畿内というのは細川畠山という守護の影響力が強いだけでなく
新興勢力の下剋上の風潮も強いところです。
旧勢力の権威を否定しつつ下剋上の世に新たな秩序をもたらすために
家格の低い三好家が権威の衣をまとうことは喫緊の課題でした。
じゃ三好の家臣団への軍役は何を準拠点にして負担を決めたのかね?
144 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 02:56:02.12
>>143 三好は畿内だけでなく本貫地の阿波でも検地を実施してないし
後北条みたいな検地をへて貫高制とセットになった標準化された軍役賦課じゃなく
大名と国人領主間の力関係とこれまでの慣習で決定される
旧来型の貫高制の軍役賦課タイプだと思う
145 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 03:15:36.83
検地未実施で差出検地帳が存在しなくても
個別の家臣の詳しい着到状が残ってれば
おおよそ三好がどんな基準で軍役を賦課してたのかわかるけど、誰か知ってる?
差出検地は一部でやっていたみたいですし
家臣の収入ももちろんある程度は把握していたようですが
軍役帳は残っているんでしょうか?
三好宗家単体では石高収入は多くなさそうですから
農民より流通関係の水夫や人夫からの徴集が多かったかも。
147 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 21:16:49.86
年貢米よりも、商工業や港湾からの貢銭を主たる眼中に置いていたというわけですか?
大阪に住んでいると分かりますが
三好家が拠点としたとされる城は淀川神崎川周辺など
水運の要所に集中しています。
京都から大坂・兵庫、四国にまで繋がる水運からの「アガリ」は
莫大なものだったと想像できます。
またそれに携わる人夫からは
農村よりも容易に兵員を得られたのではないかと思います。
149 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 11:00:12.85
大阪湾一帯が畿内でも商工業が発展した地域でそれが三好の勢力圏だった
ってこと自体には多分誰も異論はないと思うんだ
でも堺・尼崎は信長の時に矢銭拒否って尼崎なんか焼討にあってるわけだから
三好がどこまでこれらの商業都市を税収の面で把握してたのかは疑問が残るし
想像じゃなくそこはやっぱり史料的な裏づけが必要だと思うけどな
果たして年貢米を上回るほどの貢銭があったのか?
んで本当にそんな軍制だってたのか?はちょっと飛躍が大きい議論だと思いました(小並感)
当たり前だけど都市や流通拠点を勢力圏として押さえたとして
そこに実際にどのくらい税を賦課できる支配力があるのかはまた別もので
逆に堺の立場からすると織田より三好の方が介入度が低くずっと与しやすい相手だったのは確か
毛利・武田の銀山・金山収入にしても実態としてどこまで収入あったのかなんて
全然わかってないし、一般に戦国期の商業的税収を史料的に把握するのはすごく難しいよ
150 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 12:34:45.04
戦国期のちゃんとした史料って北条くらいしか残ってないんだよな。
滅亡した北条家の史料が残ってるってことは、他家の場合史料そのものが存在してない可能性が高い。
流動的な時代だったから書類化をきちんとしてる余裕がなかったんじゃないかな。
それは織田家のようなシステマチックに見える家でも例外じゃない。
むしろ織田家みたいに急激に膨張している家では制度化がおっつくのは難しいと思う。
北条の場合戦国大名としては最古参だからある程度制度化が可能だったんじゃなかろうか。
北条は勢力圏が首都圏と被ってるから研究に資金注ぎ易くてその分史料の読み込みが深化してるって感じでしょ
地方大名の研究なんて殆ど進んでない
152 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 19:10:40.97
史料もなく実態がよくわからないのに
三好の畿内支配は「優れた代官による効率的な統治」とか
いきなり無茶を言うから話がおかしくなるんだよ
153 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 21:29:39.02
>地方大名の研究なんて殆ど進んでない
武田なんか、戦国史の中でもかなり進んでる印象だけどな。
北条一族の筆まめの良さは
研究する側としては凄く遣り甲斐あるらしい
>>149 天野氏の論文に三好家が京都から阿波に至る水運に
強い影響力(≒支配力)を有したことが資料を基に丁寧に検証されています。
当時の流通から得られる収入が土地からの収入に比べて莫大であったことは
私が説明するまでもなく調べればすぐにわかることです。
三好の畿内統治の手段やその財力の源泉についても
天野氏がとても誠実な態度で資料にあたって論じられています。
分からないなんて言わないでちょっとは自分で調べてみられてはいかがですか?
家柄も悪く権勢も伯父宗三に奪われた長慶が巧みに新興層の支持を取り付け
並み入る強敵をなぎ倒し遂には畿内の覇者にのし上がるさまは
まさに戦国時代の申し子とよぶにふさわしいカッコ良さです。
むちゃくちゃ面白いですよ。
>>152 釣られてみます
資料もあるし実態もある程度は想像できる程度に
三好家の研究は進展してきています。
あなたが調べるつもりがないから分からないだけです。
三好家が畿内5カ国を含む広大な領国を
「優秀な代官による有効な統治」抜きで
どうやって維持できたのでしょうか?
教えていただけますか?
>地方大名の研究なんて殆ど進んでない
中国地方は毛利が史料的に恵まれてる。毛利が大名家として明治まで続いたおかげで
またこまめに史料を保存・編纂しつづけたおかげで周辺の滅亡した大名・国人に
関する史料もかなり毛利側に残った。隣の岡山の宇喜多とか史料全然ないし。
これからもまとまった史料がでてくる可能性もほぼない。
>>147、148、149、155
具体的にどの程度三好政権が都市から税収があったのか?について
都市史研究の仁木宏氏が長慶時代の堺をはじめとする大阪湾一帯の港町や寺内町について
書かれたものを以前読んだことがあるので紹介しとく。
「商業税や軍事税(矢銭・兵糧米)を徴収することもなく…
たださまざまな機会に礼銭を出させることがあったのではないかと推測され
また軍勢の移動などにあたっては、船や人足を提供させたと思われる」
「長慶は堺などの都市に初めて代官などをおいたようであるが、
代官が何をしていたのかはっきりとしない。私たちの一般的なイメージから
すれば「ゆるい支配」であったといわざるをえない」
つまり全体として三好政権は大阪一帯の流通を重視したが
じゃあそれが直接税収源に結びついたかというと「16世紀後半、都市が
急速に発展してゆく様子をすぐ傍で見つめながら、
長慶は直接その利益に触手をのばさなかった」と否定的
要するに三好政権は全体としてこの地域の商業・流通を活性化させる政策をとったが
税収源としては握って=支配していなかったってことみたい。
天野氏の著書でも具体的な税収にふれる直接的な史料に言及する部分は
なかったと記憶している。
摂津下郡での段銭徴収や兵庫津の御用商人の保護、法華ネットワークの保護など
には触れられているが、それが実際の税収にどこまで結びついたかについては
扱われていない。
ただ付言すると、全体的には仁木氏の論調自体は
信長の政策的な革新性や新たな展開を認めつつ、三好と織田政権の大阪支配に関して
基本的な政策の方向性(流通重視・村落支配の活用)は同じで連続性を認めるものだと
言っておく。
159 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 15:14:02.62
>>155 >当時の流通から得られる収入が土地からの収入に比べて莫大であったことは
>私が説明するまでもなく調べればすぐにわかることです。
>>もし158の説明どおり大阪湾沿岸の諸都市・港湾からコンスタントに徴税していないなら
三好家のその年貢米をはるかに上回る流通による厖大な収入源はなんなのでしょうか?
山城(要するに大都市京都を中心としたこれまでの市場・諸都市)への段銭・関銭などの
徴税が収入の主体だった…ということなんでしょうか?
160 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 19:14:50.34
いくら銭を納めさせたかがポイントなんだが、不定期に金銭を献上させ、役務の供給をさせていたと言われるだけでは論証にならない
所詮、大した量じゃないんじゃないのかね?
161 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 13:38:59.23
史料を踏まえたものでなければ仁木の著もたんなる憶測じゃんかよ。
推測という名の妄想はいいから歴史らしく史料で語ってくれや
162 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:00:53.83
>>161 三好がこの地域に関銭(商業税)・軍事税を徴収したという史料がないんでしょ
ない以上は莫大な関銭そのたのあがりがあったと推測するより
課税していなかったと考えるほうがふつう合理的だと思うわwww
163 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:39:24.97
>>158 149だけど教えてくれてありがとう
その点が個人的に前から気になってたのでうれしいです
>>155 都市や商業圏を影響圏に組み入れて、そこの商人と一定の関係を築き
さまさまな活動に協力させる(御用商人ですね)それは誰でもやる
でも当然都市の商人は自律的な経営活動をしてるんだから
大名のもうけ=税収には直結しない
関銭の徴収にしたって以前からの徴収者がいるんだし
三好がやってきてもそう簡単に手放すわけがない
史料的にわからない、難しいと言ってるのはそういうことで
都市や流通を「掌握」の実態をつかむのは結構たいへんだよ
自分も三好長慶大好きですよ?阿波じゃないど摂津下郡なので
ひそかに地元の殿様だと思ってるくらいだし
三好関係の研究書は天野氏も含めて書籍化された分は
たぶん全部読んでると思う
でも代官おいたら土地も都市も即実効支配できるなんて全然思わないです
>>160 自分もそう思う
ちなみに史料的に裏付けがある分で毛利が港湾都市から徴収できた税収を
参考までにあげておくと
赤間関で500貫、美保関でも500貫程度
2つとも西国屈指の港湾都市だけど、税収的には全然大きなものではない
三好の税制や都市政策は詳しくないが
織田政権でも摂津富田、河内の久宝寺・富田林、大和今井、和泉貝塚あたりの
畿内の寺内町に対して諸公事免除や徳政除外の寺内町特権を否定してゆくのは
天正6年以降、すなわちかなり畿内支配が強まった時期以降はじめて可能だった
それ以前にしかも本願寺と融和的だった三好がこれらの寺内町に課税できたとは思えん
永禄11年の信長上洛後〜天正元年の義昭=織田政権の時代の税収に関しては
幕府御料所の税、京中地子銭・座役の徴収、畿内の関銭徴収権、臨時の税賦課権
寺社領没収の権限
これらは幕府の財源であって織田の懐には入っていない
弘治年間に義輝・晴元ともに京から追放していた5年間はともかくとして
三好時代にはこれらの課税権を幕府じゃなく長慶が握っていたのか?
三好家の収入が莫大であったと想像できる材料はいくつか挙げられます。
まず商業税や軍事税に関しては当然徴集しています。
資料だって天野氏などの著書をあたればでてきます。
三保関からの関銭?が500貫で多くないと言いますが
1貫は個人の年収レベルの金額に当たり決して小さい額ではなく
美保関に関しては最盛期には関銭だけで5000貫を超えたといいます。
さらに商人からの運上もあったでしょうから
そのアガリは土地収入と比べてやはり莫大なものだったといえます。
当時繁栄を極めた堺と強固に結託した三好家の得る収入も推し量れませんか?
礼銭という言葉から過小にとられがちですが
畿内および大阪湾の流通を掌握した三好家が
座特権や都市特権を保証する見返りとして受け取る礼銭や
領海の通商を保証する見返りとしての礼銭は多額だったでしょうし
幕府への礼銭は実務を司る三好方に多くが横領されたでしょうし
訴訟を裁許することの礼銭もバカにならない額だったでしょうから
これらを合わせるとやはり莫大な額になったでしょう。
三好家が支配地域で寺内町や惣村の一部を特権化し自治を任せることもありました。
これは産業振興による領地の富国強兵に有効であったし
行政を相応分担させることでコストを削減しつつ徐々に政権へ取り込むなどの意味もあって
信長を含め他の大名でも普通にやっています。
都市に自治を認めたからとその都市が独立国になるということではなく
領主の保護を受けるために相応の課役に応じるのが普通です。
領内の都市に特権を認めることが権力基盤の弱さの根拠とみなすことは完全に否定はしませんが
それは一面的な見方であってより俯瞰的な視点で時代的背景と畿内の社会的状況と
その中での三好家と個々の都市との関係性から時系列を追って考えられるべきです。
畿内の都市を統治するにあたっては後の信長のように畿内に地縁のない
強大な軍事基盤があれば強権で支配介入することもできたでしょう。
しかし信長は堺では成功しましたが尼崎や大坂・貝塚などでは失敗して大戦になりましたよね?
戦になればその出費は莫大、都市を焼き討ちをすれば悪名を被り統治は難しくなります。
三好家は軍事力一辺倒ではなく堺や尼崎の商人との経済的紐帯や教団コネを活用して
同盟関係を深化させつつ徐々に畿内と東四国沿岸の流通全体に強い影響力を浸透させる方法をとっていました。
ウィンウィンの関係で互いの信頼を高めつつ
権力闘争の勝利から得られる三好家への求心力の増大を活用して
信長政権と比べてはるかに小さい力で短期間で畿内をまとめ上げた実績は
現実的で優れたものと評価できると思います。
167 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 19:49:01.09
すぐれてダルい
168 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 12:09:19.54
換言すればすべて想像上の理屈の産物にほかならない。
169 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 10:54:38.84
>>169 肖像画に基本的に似てる…なのに微妙に何かが足りないような?
なんだろうな、この長慶眠たそうな感じがする
微妙にそのへんの大阪のおっちゃんっぽい残念長慶っていうか
>>98 それは只の差出検地で何処の大名も例外無くやってる
三好も当然やってる
ならいつどの分国で三好がどの規模で差出検地やったのかソースどうぞ
どんな大名でも例外なく差出検地ならできるとかそんなことあるわけない
毛利は検地したくても本貫の安芸では国人領主の権限が強すぎてずっと
できなかった。周防・長門は征服地だからかえって検地できたくらい
>>173 横からだけど1550年に摂津渡辺庄(大阪市)百姓に
差出を命じている文書などいくつかあるようです。
検地の前から為政者は古くは検田、下って検注と
荘園(領地)の土地把握に努めているわけで
その帳簿を提出させる差出自体はその延長で珍しくないです。
毛利家で安芸の国人領主が差出に抵抗するのは
帳簿を差し出すということはつまり
もともと同格であった国人が毛利に従属臣従することになるんですから
毛利の台頭以前から領地をもつ国人が抵抗するのは当たり前のことです。
これは領主権力の弱さがどうという問題ではなく「道理」の問題です。
175 :
日本@名無史さん:2014/08/10(日) 09:38:11.74
三好か3代にわたる堺との関係は重要だし資金源でもある。
だが統治は室町幕府を踏襲だろうな。一つ戦国大名として大きく違うのは
反旗を翻した領主に寛大であったと言うことだろうね。ほとんど落城させた
領主を殺してない。あだ討ち以外はね。信長とは反対の性格と容易に類推できる。
ところで三好宗家が滅亡で全員死亡だが子孫がいるという疑問で、佐久間信盛の信長
の追放が関係してると見ていいだろう。
三好義継は切腹だが妻子は将軍の妹で逃がした。だがこれが明智光秀の甘言で信長の命令
違反が露呈したが織田家最大の功労者の佐久間を処罰できずに追放と見る。
三好宗家の恩人は佐久間信盛の可能性が高い。
織田家筆頭で最大勢力だったが明智の陰謀で排除され変わりに近畿最大勢力となっ
た明知が本能寺をやらかすんだな。信長の急成長で中央集権制を高めた時に
命令違反は重罰だが新興家臣の手前仕方ない処置。織田家は信盛死後直ぐに息子を
召抱える。
177 :
日本@名無史さん:2014/08/28(木) 23:11:01.13
>>178 阿波の地域的な郷土意識を投影するにはあまりにも畿内志向すぎ
畿内の人間にとっては三好は外からきて比較的短期間に去っていった
数多くい勢力のひとつ。なのでこれまた地元の殿様感はない
というか三好時代はほとんど忘却の彼方
このあたりの半端さが知名度・人気的に三好の難しさだと思う
毛利元就とかお隣の長宗我部元親みたいに国人→地方統一ストーリーの方が
わかりやすいし、地域的な英雄として後世でも人気があるのはよくわかる
畿内地元民だけど三好長慶に関しては
長く治世の名君として語り伝えられて遺徳を偲ぶ事績は
北摂周辺には結構残ってる(た)んだよ。
ただ大坂にはその後太閤秀吉という超弩級の怪物が君臨したので
どうしても目立たなくなってしまうんだわ。
治世の名君っていっても長慶が裁定した水争いで
勝った村が三好に感謝して祀ってた事例くらいだろ
あれ負けた方の村はその後ひどい水不足で苦しむ羽目になったので
勝った村の住民と昭和になっても口聞かないくらい険悪だったんだぞ
勝った村はいいけどさ。別に名裁きじゃないだろ
このスレは経済政策・内政から内在的に三好政権の成立を考察する人が多くて
勉強になるんだけど、そういう中長期的な内政の実効性は別にして
三好が畿内を制覇できた最大の理由は当時の畿内近国の軍事的なバランスから
わりと簡単に説明できるんじゃないかと思ってる
要するに長慶の時代は畿内とその近国に三好同族連合(阿讃淡+摂津)以上に
動員力ある大名家が存在しなかったってことだけど
・北畿の細川京兆家、南畿の畠山家がともに分裂・衰退して中小国人が割拠
畿内に一国単位でまとまった勢力がそもそも存在しない
・周囲も西国に一時上洛志向を強めた尼子がいたくらいで
伝統的に畿内情勢に影響力をもっていた播備作の赤松(浦上)が分裂・内乱
・畿内情勢に関与する力と意思があるのは南近江の六角くらい
と天文〜弘治年間の状況は三好の台頭にとってすごく恵まれた状況だった
それが永禄年間もおわりに近づいて全国各地で地域的な戦国大名の統合が進み
2・3カ国以上の所領をもつ大名が畿内近国でも現われるようになると
だんだん三好のもってたアドバンテージが相対的に失われてしまい
最終的に織田に負けちゃうって流れだと思う
>>179、180
越水城は城址としてもほとんど遺構が残っていないし
いまは完全に住宅街になっているので
小学校に「城があった」という石碑ひとつあるだけで
三好の事跡は時の流れのなかで完全に風化してしまったかんじ
むかし三好長慶がいたことを90%くらいの西宮市民はおそらく知らないと思う
畿内にやってきて以来長慶が一番長い時間を過ごしたのは
芥川でも飯盛でもなく越水だったのに
三好以前のもともとの越水城城主だった国人の瓦林(河原林)さんの方が
まだ地名で残ってるだけ街の記憶にとどまってる
今なら荒木村重の方が大河ドラマ効果で長慶より知名度あるかも
三好好きとしてはかなしい
>>180 でも秀吉が地元の殿様ってかんじもあまりしないかも??
豊臣家の直轄領だから秀吉=殿様であってるし不思議な気もするけど
もしかしたら三好家や豊臣家より、門前町として
西宮戎神社の方が街の発展にずっと影響大&馴染みがあるからかもしれない
>>181 そのことではなくて大阪市には何カ所も長慶の遺徳を偲んで建てられた祠や神社
長慶からの免税特権に感謝して始められたお祭りなんてのも残ってたの。
バブルと関西大震災後の再開発で多くが失われてしまったけれど。
三好長慶はて山城や摂津では為政者とし評判がよかったようです。
根拠の一つとしては三好が都を支配していた間は
それ以前は連年猛威をふるっていた土一揆が起こっていません。
一度だけ土一揆が起こっているのですがこれは久米田の敗戦後に
一時的に都から撤退した三好方の呼び掛けに応じて
三好と入れ替わりに上洛した六角方に襲いかかっています。
そのため六角は摂津へ兵を進めることができずに教興寺の戦いでの逆転を許してしまいました。
三好に代わって畿内の覇者となった信長も摂津の一揆との闘争に10年以上を費やしています。
権威や軍事力にも容易に屈しない摂津・山城の領民が三好には服したという事実から
三好長慶を治世の名君と呼んでも過大評価とはならないかと思います。
いい意味でも悪い意味でも三好は宥和的・漸進的で
いい意味でも悪い意味でも織田の畿内支配はラディカル
長期的には信長は畿内の流通・経済の拡大に大貢献したのは事実
短期的には在地社会の反発は大きいし流血も多かったわけだけど
織田の畿内支配がラディカルって・・・どちらかというと復古主義的だと思うけど。
虐殺=急進派ってイメージなのかな?
三好長慶は大虐殺こそしないけど下剋上の申し子、乱世の梟雄だよ。
逸話ベースで教養人だとか保守的・穏健というイメージがついちゃったみたいだけど。
自勢力よりはるかに強大でヤバい勢力を相手にして20余年で畿内を平らげたんだから
尋常じゃない怪物なのに、ザコを相手にしただけって思ってる人が多いもんなあ。
>>186 「復古主義」「乱世の梟雄」「ヤバい勢力」「ザコ」「尋常じゃない怪物」
とかそれこそまさにイメージとレッテルだけで語ってるじゃん?
意味ないじゃん?
>>187 だからなに?
どのように書くべきか見本を示してくれる?
>>188 上にいっぱいあるじゃないの?
具体的な数字や制度なりをあげつつ論じてるレスなんて
>だからなに?→馬鹿なの?
>>189 それを読んだ上での感想も込みで書き込んでます。
何かおかしいこと書いてる?
反論があるなら具体的にあげてくれない?
「復古主義」的
将軍を擁して上洛してるし幕府との関係がこじれるまでは現状追認主義だったこと。
「乱世の梟雄」
裏切りや謀反を繰り返し将軍や晴元を実力で追放しその領地や権力を奪い取ったことから。
「ヤバい勢力」
将軍家や両管領家や六角・一向宗に国人一揆って十分やばい勢力だと思うんですけど。
長慶自体何度も窮地に立たされてるし。
「ザコ」
ではないって言ってます。
「尋常じゃない怪物」
管領家の一被管から畿内を治めたんだから怪物っていってもいいんじゃない?
江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。
徳川幕府による統治がが安定して将軍家を頂点とする縦の身分秩序が規定概念化してくると
三好家のように水平的な身分秩序を限定的とはいえ容認していた政権の記憶は
公には忘れられていく運命にあったんでしょう。
194 :
日本@名無史さん:2014/09/23(火) 08:42:52.84
長慶が認められると相対的に信長の評価が落ちそう
長慶が久秀、信長が光秀
似てる部分もあるね
>>194 どういうこと?
久秀は最後まで忠実な部下だったじゃん
197 :
日本@名無史さん:2014/09/25(木) 19:56:01.80
三好孫七郎はどう?のちの関白、豊臣秀次だよ
真田十勇士にも三好兄弟がいるし
もっともっと評価されるべし三好氏
199 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 20:21:53.98
>>198青海入道の事か入道は入道でも三好笑岩入道と被るな
200 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 19:18:24.67
三好政権崩壊で土佐の長宗我部が台頭か
>>198 秀次政権が盤石だった場合、三好一門も大名復帰出来たのだろうか
というか江戸時代には、秀次の娘と真田幸村の末裔は、
秀次を偲んで三好氏を名乗ったらしい。
家紋は真田六文銭の半分で三文銭を使ったらしい。
203 :
日本@名無史さん: