1 :
日本@名無史さん:
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族のことだろ?
違うの?
海人族?
海の海人ゾネス集団か?
エロい集団だな
古代海洋豪族
大陸系の他にも南方系とかもいたんだろうなあ
阿曇磯良
阿曇浜子
安曇比羅夫
宗像氏
和珥氏
息長氏
高橋氏
阿倍氏
吉備氏
久米氏
尾張氏
海部氏
賀茂氏
佐伯氏
三津氏
物部氏
フェニキア人
足利尊氏
宗像氏、素戔嗚尊の末裔。
宗像氏の配下に入った安倍宗任の末裔とは、姻戚関係持ったの?
26 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 11:14:44.08
27 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:20:18.85
南方系…南方…ミナカタ…ムナカタ?
29 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 08:42:17.60
>>9 阿曇連氏は、大和政権内での高橋氏との勢力争いに敗れて、朝廷では没落
したのでしたっけ?
30 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 22:34:21.58
>>17>>18 海部と言う地名はこの尾張国の他に筑前国宗像郡・伊都郡・那珂郡、阿波国海部郡・
那賀郡、土佐国高岡郡、讃岐国山田郡・三野郡、伊予国伊予郡・宇和郡、安芸国
安芸郡・佐伯郡、紀伊国海部郡・那賀郡、豊後国海部郡、丹後国加佐郡などに
みられますが、天火明を始祖と伝える丹後一宮社家海部氏と尾張氏の系図名が
一致することからみて、丹後を経由して尾張に東遷してきたのでしょうね。
31 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:05:30.29
>>29 神武東遷の水先案内人を務めた椎根津彦を祖とする青海首氏は、阿曇連氏の
庶流だったのかな?
32 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 15:20:54.80
阿雲(アズミ)、綿津見(ワタツミ)、穂高見(ホダカミ)
神武天皇ー彦火火出見、手研耳命、岐須美々命、神八井耳命、
研耳命 、彦八井耳命、綏靖天皇(神渟名川耳)
安曇族は、ミ・ミミ族である。
34 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 11:49:19.00
35 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 11:51:51.65
>>32 景行天皇が九州熊襲征討途中に討伐したとかいう豊地方駅館川・山国川の上流域の
ツチグモと蔑視表現されている縄文系原住民?残賊鼻垂族・耳垂族というのも
紀に記録されておるよ。
『残賊あり。一を鼻垂と曰ふ・・・・菟狭の川上に屯結めり。二を耳垂と曰ふ・・・・是れ、
御木の川上に居る。・・・』(日本書紀、景行天皇紀)
つまり『ミミ』は尊称美称とは限らないよ。
36 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 00:24:55.71
>>32 >神武天皇ー彦火火出見・・・・・・
神武天皇と後世に名づけられた伊波禮毘古は、紀の一書では
『神日本磐余彦火火出見尊』とあり、祖父の山幸彦も彦火火出見。
つまり天孫瓊瓊杵の家系もミ・ミミ族なんだね。
陶津耳もミミなんだが
38 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 05:00:35.45
39 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:37:35.99
40 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 04:48:57.69
41 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:50:15.12
辰韓人と弁辰人
魏志韓伝にみえる、辰韓と弁辰の人種的違いに関して考えてみたい。
現在半島南部の古代人骨に関して、勒島、煙台、礼安里などの資料が知られているが、
いまだに全体像と言えるものはわかっていないように思われる。
調査結果を見ると、日本の古墳並行期の礼安里は日本の渡来系とされる人骨にちかく、
弥生中期並行期の勒島は在来系とされる人骨と渡来系の中間、
縄文並行期の煙台は縄文人を思わせるものがあるという。
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/16570197 半島南部の種族的性格に関して、最も古い東夷の記録である魏志の韓伝はどのように記録しているか見てみよう。
まず前提として、韓伝の辰韓条と弁辰条について、イリヒコ氏の説をとる。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu02.html#tetsu 辰韓弁辰に関する人種的記述を見てみる。
辰韓:男女近倭、亦文身。
弁辰:其人形皆大。(衣服潔清)長髮。
弁辰については
弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、
のように、辰韓との対比によって表現している。
このことからするに、弁辰の人種的記述も辰韓に対する比較で書かれている可能性が高いのではないか。
そう考えると、辰韓人は弁辰人に比較して、長髮とは言えず人形も大きくないと言うことになる。
辰韓人が倭人に近いとすれば、倭人もまた弁辰人に比較して、長髮とは言えず人形も大きくないと言うことになろう。
42 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:50:48.68
長髮とは言えないと言うことはどのように捕らえればよいだろう。
ここで文身に注目する。
倭人もまた中国人にとって文身を特徴とする人々であり、倭人伝において
男子無大小皆黥面文身。(中略)夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
と記述され、倭人の文身は倭水人(海人族)の潜水漁法と関連付けられ、また中国南方の斷髮文身と結び付けられている。
おそらく中国人にとって、文身は斷髮を連想させるものではなかったか。
それゆえに弁辰の長髮という記述が出てくるのでは無いだろうか。
実は韓伝に引かれた魏略に下記のような記述がある。
「我等漢人、名戸來、我等輩千五百人伐材木、爲韓所撃得、皆斷髮爲奴、積三年矣。」
これは辰韓廉斯[金齒]がその邑を出たところで出合った、漢人戸來の言葉とされている。
戸來らは韓に捕まり、斷髮してその奴となったのである。
状況からしてこの韓は辰韓であろう。
この伝説がどの程度信憑性があるかは分からないが、中国人の想念の中で辰韓人と斷髮が結び付けられていたことを物語るものであろう。
43 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:51:13.31
では人形が大きくないとはどのような実態を示すのだろうか。
弥生人の人骨研究から、弥生人には在来系(縄文系)と渡来系の二種類があると言われている。
韓伝で倭と呼ばれている人はどちらに属するのだろうか。
文身に対する倭人伝の記述からするに、ここで倭人を代表しているのは、倭水人と呼ぶべき人々であろう。
日本では北西九州型弥生人が在来系と呼ばれる人々で、壱岐の人骨もこれに属する。
倭水人として倭人の特徴を代表したのは、在来系(縄文系)の人々ではなかったろうか。
これに対して弁辰狗邪国と思われる金海には、礼安里に代表される人々がいて、これは渡来系弥生人に似ているとされる。
これらのことから、三世紀の半島南部には、日本の在来系と渡来系に相当する二種類の人々がいたことが想像される。
縄文期の結合式釣針の分布は、北西九州から半島日本海側に広がっている。
半島日本海側といえば辰韓の中心「斯盧」=「新羅」=「慶州」を思い起こす。
縄文期からこの地域は縄文人と交流があったとすれば、辰韓人が縄文形質に似た人々であっても不思議はないだろう。
またおそらく弁辰人は、それとは見た目の異なる、渡来系弥生人の形質に似た人々であったのかもしれない。
44 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 06:51:21.43
>>32 安曇族は、越後姫川沿いを山越え南下し、安曇野へ到達したらしいね。
その目的は、信濃の黒曜石入手だったと推測されているらしいね。
45 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 18:37:26.31
>>44 能登に志賀町安津見があり、この勢力でしょうね。でも、穂高神社の「祭神」
「御船祭り」から、そんなに古くなないと思います。能登で取れる「えごのり」
が、安曇野の一部「エゴ・イゴ」、博多の「おきゅうと」として食べられているので、
同じ安曇でしょうけどね。
46 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:03:49.90
47 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:22:08.76
>>45 推古天皇三十二年四月
「壬戌以観勒僧為僧正以鞍部徳積為僧都即日以阿曇連闕名為法頭 」
(阿曇連を以って法頭とす。)
孝徳天皇白雉四年
「或本於五年七月云僧旻法師臥病於阿曇寺於是天皇幸而問之仍執其手曰若法師今日亡者朕従明日亡 」
(或る本に、僧旻法師、阿曇寺に臥病す。)
蘇我馬子が、推古天皇に葛城県を賜らんことを願い出た時に、阿曇連が使者となっている。
蘇我氏の仏教が百済であり、阿曇の新羅仏教を吸収して飛鳥仏教が花開いたのだろう。
48 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 23:36:58.00
49 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:30:00.78
50 :
猿又彦:2012/09/03(月) 21:50:41.86
>>49 阿雲は呉音の「アドン」ですから、呉系でしょう。
@ 新羅には、七世紀に「無量寿経」が理解されたようですが、
倭国では、阿曇が法頭となる以前にはなく、法頭以後に使用される様になった。
A 豊前国には「阿曇部」が多くみられること。 また、豊前国は秦氏、辛嶋氏などの
新羅仏教集団であること。
これらから、海上交通を掌握し、新羅仏教に強い絆を持っていた阿曇族に
蘇我馬子が目を付けて、タッグを組んだのではないだろうか?
専門家の間では、海部から集まる諸物資を収納する屯家が安曇江にあり、
「安曇江荘」は、天平勝宝四年に始まる東大寺領の荘園で、倉庫としての機能を
発揮したと考えられています。
51 :
猿又彦:2012/09/03(月) 22:06:11.07
何んで高橋氏に負けたんだろうね?
良くわからん?
52 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:23:12.75
53 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 22:29:44.07
54 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 10:44:36.49
【 第六回 金印シンポジウム 】
http://shikanoshima.blog.fc2.com/ 今回から、志賀島でなく福岡市天神の市役所講堂で開催されました。
都心とあって、沢山の阿曇族ファンの方々が来られてました。
福岡市長も挨拶に来られて、立ち見席がでるほどの大盛況でした。
理事長「坂本氏」の金印発掘場所の新情報が、私的には一番興味が有りました。
伊都国歴史博物館館長の「岡部氏」の発表も、魅力的でした。
穂高神社宮司「小平氏」、米子の古代を考える会「黒田氏」、宗像大社神宝館「松本氏」、
も地元ならではの発表でした。 五島列島資料館「塚原氏」の阿曇荒尾、五島列島経由
対馬行きのコースの発言は、熱がこもって説得力十分でした。
年に一回は少ない事を訴えて帰って来ました。
福岡市早良区「吉武高木遺跡」も築造が始まる様で、古代史に注目する市長の誕生で
歴史ファンは、嬉しい限りです。
地域観光産業として、これからも活発な活動を期待したいです。
55 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:47:28.43
>>54 先月10月20日(土)に催行された(NPO法人)志賀島歴史研究会主催シンポですね。
>穂高神社宮司「小平氏」・・・・・・
長野県安曇野市穂高神社宮司の小平弘起氏のことですね。
本家志賀海神社阿曇磯和宮司と違い、宮司は阿曇氏ではないのですね。
56 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:09:58.85
おっぱい星人こと宗像(胸型)は、おっぱい型の山をこよなく愛し、航海の目印として
朝鮮半島沿岸から日本海沿岸にかけて、海商として勢力を維持していた。
57 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:25:49.50
58 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:34:35.01
海人族と邪馬台国との繋がりは如何に?
59 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 16:28:06.80
>>57 失礼! 7112 → 712年
分かってるだろうけど
>>58 >海人族と邪馬台国との繋がりは如何に?
だから阿曇氏と天皇家は密接に婚姻関係を結んでるでしょ。
彦火火出見尊の妻が豊玉媛。子が武鸕鶿草葺不合尊。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の妻が玉依媛で、子が神武天皇。
天火明尊の妻の天道媛(または天造媛)も海神の娘。
61 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 10:42:23.59
>>60 >阿曇氏と天皇家は密接に婚姻関係を結んでる・・・・・・・・
なのに後代の蘇我氏や藤原氏と違って、姻戚外戚として政治的地位が有力化
しなかったのは、何故なの?配膳係というのは、下級部族の仕事だろうに。
和邇氏も婚姻関係を何度も結んでるけど、
パッとしないねえ
63 :
ちはやぶる皇神:2012/11/21(水) 23:46:35.91
阿曇氏の祖名としては、「大栲成吹」(オホタクノナリフキ)が一般的な解釈である。
「新撰姓氏録」の佐伯氏は、「大栲」が人名であって、「成吹」は「吹き成し」と読み、火を吹いて
「御食を炊く」ことを意味し、延喜式「安曇宿禰吹、火」と安曇氏の職掌であると推察されている。
安曇氏は、神今食の祭事にも同様の職務に従事している。
「新撰姓氏録」によれば、安曇宿禰と同祖関係にある「凡海氏」は、「綿積命六世孫小栲梨命之後也」と
あるが、「栲」とは、海人が海に潜る時の命綱を「栲縄」(タクナワ)と言い、これに因む言葉である。
しかし、「本朝月令」によれば、「乙等遠祖大栲成吹始奉、御膳」とあり、安曇氏の祖名は「大栲成」と
思われ「乙等が遠祖大栲成、火を吹き、始めて御膳を奉る」と訳すべきではないだろうか。
万葉集巻十六には、「梨」の訓仮名に「成」の字を当てている。
「大栲成」は、「大栲梨」と同じ意にとることができ、凡海氏の祖名「小栲梨」と完全に対をなすことになる。
応神記に「海人の宰」に任ぜられた「大浜宿禰」に対し、凡海氏の「小浜」も相対していたのかもしれない。
「栲縄」に由来する名が、海人を管掌した安曇氏や凡海部などの祖名に、まことに相応しいと思う。
「大栲成」の話は、持統天皇五年八月の十八氏に「墓記」を上進させた中に記されていた伝承であった
可能性が非常に高いと思われる。
64 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 13:46:52.14
>>29 履中天皇紀の伝える阿雲連浜子が住吉仲皇子に唆され時の太子を拉致しようとし
黥面刑を受けた事件で失脚したのかな?
65 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 23:55:21.58
66 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 11:47:40.12
>>64 紀斉明天皇段の阿曇連頬垂は、韓半島との外交官だったようだね。
67 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 08:32:13.98
宗像とは、遠く地中海からやってきたフェニキア人の一派だろう。
しかし、ユダヤ系の海商である安曇にとって代わられるわけです。
>>67 神武東遷一行の海路を案内したとされる椎根津彦は北部九州在の海人族の
酋長の一人なのだろうが、阿曇氏でも宗像氏でも海部氏でなく倭氏・青梅
首氏の祖とされるのは如何なる事由によるのだろ?
>>56 漁民宗像氏こと胸形氏は、胸に文身を入れておったから胸形氏とも
記されるのか?
72 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 23:53:39.47
家族に乾杯で宗像大社が出てた
駐車場が入口なんだなw
流石に交通安全の神だ
73 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 15:43:03.38
あまり言う人がいないが
そもそもイザナミイザナギが海人の神っぽさ極まりない。
天の沼矛でコ海をかき混ぜ塩が固まって島を作る作業は製塩そのものだし
そもそも名前が「波」と「凪ぎ」だ。
イザナギに縁が深い淡路島は海人の大拠点だし
日本神話のポリネシア創造神話類似からして匂う。
アマテラスになると太陽神でいかにも農耕生活に軸が移ってからの神って感じだが
伊勢神宮すら海部氏勢力圏巡って尾張氏勢力圏に鎮座している。
あれもこれも海人つながりで、権力は大王家。
何をもって海人族はその位置に付く事になるんだろうな。
金印とかも志賀島で出てるし。
縄文の末頃とかは海人族がトップにいそうに思うけど。
>>61 古代においては、神に贄を供する事そのものが神祀り
神祀りそのものにかなり近い地位
後世の政治権力図からそれた配膳係と地位は全く違うと思われる
>>69 >阿曇氏でも宗像氏でも海部氏でなく倭氏・青梅首氏の祖とされるのは如何なる事由によるのだろ?
大和氏の発祥地は明石の可能性が高い。明石国造は大和氏で、旧領に分家が封じられたと思われる。
九州は君姓が多いのに佐賀関の領主は直姓だから、後から九州に来た可能性が高い。
椎根津彦の母親は海神の娘という話があるから、阿曇氏と婚姻関係があって、
その縁で明石から東征軍に参加したと考えられる。
明石出身なら近畿地方沿岸の道案内が出来るが、豊予海峡出身では近畿の地理はわからない。
様々な点から古事記の説の通り明石出身とする方が合理的。
>>64 >履中天皇紀の伝える阿雲連浜子が住吉仲皇子に唆され時の太子を拉致しようとし黥面刑を受けた事件で失脚したのかな?
大鷦鷯天皇(諡仁徳)没後の権力闘争に勝ってたら、阿雲氏が大連だったんだけどねえ。
それともう1つ。神日本磐余彦天皇(諡神武)没後の権力闘争でも負け組だった可能性が高いだろうね。
>>74 >イザナミイザナギが海人の神っぽさ極まりない・・・・・・・・・・・
伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話は、製塩行為との類似を持出すまでもなく
言われるように南方系神話だから、海洋民が故地から携えてきた海洋民の
神話だろうね。
稲作民天皇家と海人族の親密さ
>>73は、これら天皇家の祖先神話に披歴
されているが、この親和さは伽耶地方からの天皇家渡海協力記憶なのか?
イザナギ Isa-ng-laqi
イザナミ Isa-ng-mina
それぞれAN語で一の男、一の女
加羅は、史料がないからこそ妄想のズリネタにちょうどいいな
83 :
日本@名無史さん:2013/04/26(金) 23:59:48.49
84 :
日本@名無史さん:2013/05/25(土) 19:48:26.91
85 :
日本@名無史さん:2013/05/26(日) 13:03:47.44
>>54 敢臣の子孫も参加していいの?敢臣の子孫は安曇族とは何の関係も無いの?
敢臣は大彦命系なのそれとも奥州阿部氏の安日彦云々な安倍貞任系なの?
それとも和邇吉士末裔とかいう難波吉士なの、或いは三宅吉氏なのか、呉の姫氏末裔とかいう紀氏系とか?
敢臣の末裔が集まる会とかないの?美濃の敢臣は神社は何処に行けばいいの?
教えてちゃんでスマソ。
>>60,
>>73,
>>79 「ミ」「ミミ」がつく名前は貝の耳飾りがキーアイテムの海神族だよね
(魏志倭人伝の各国の長官名にもたびたび登場する)。
そこに注目すると、ニニギとサクヤヒメの子がヒコホホデミだし、
その孫はカムヤマトイワレヒコホデミミ(神武)だし、その神武も三島の
ミゾクイミミの孫娘と結婚して生まれた子どもはカムヌナカワミミ(綏靖)だし…
てな具合で、天孫族の男が海神族の娘と結婚するたびに「ミ」のつく
海神族の子が生まれているそうな(谷川健一「青銅の神の足跡」)。
つまり海神族は母系社会で、生まれた子どもは母方の爺ちゃん婆ちゃんの
昔話を聞いて育つ。だから海神族の神話が記紀に色濃く反映されていると。
そんなわけで、天孫族の神話での主宰神であるタカミムスビがあっさり
海神族のアマテラスに交代しちゃったらしい。
>>79 >稲作民天皇家
ちなみに、岡正雄「日本民族文化の形成」によると、稲作&漁労は天孫族と海神族に
共通の文化らしい。ただし海神族はより南方的な習俗(たとえば産屋など)を
持っていて、天孫族はユーラシアステップの騎馬民族の影響を受けていると。
87 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 18:37:14.08
>>85 自分で少し調べられました。
難波吉士←(草香部氏、木羅氏)←倭の五王紀氏←斤資(「こにし」「こにしき」朝鮮王族)or姫氏(呉太伯←イスラエル)。
難波吉士←和邇吉士←漢皇帝劉邦←客家←ルベン族。
吉士←百済王子阿知吉師。
紀氏・・・南朝派、坂本龍馬、西郷隆盛、伊藤博文、秋篠宮。
>>86 >そんなわけで、天孫族の神話での主宰神であるタカミムスビがあっさり
>海神族のアマテラスに交代しちゃったらしい。
天孫族の神統は、元々天照大神が高皇産霊神の御子神だったんだろう。
海人族の神話は、綿津見三神が伊弉諾、伊弉弥の子だったと思われる。
天孫族は海人族の影響で、天照の親神が交替した可能性が高い。
天照大神は実在の人間(卑弥呼)の神格化だから変えるわけにはいかない。
高皇産霊神や伊弉諾、伊弉弥は、人間が神格化されたものではなく抽象的な神だから、
婚姻関係とかで割と気楽に取り替えても構わなかったようだ。
戦国大名が自分の先祖を気楽に源氏や平氏や藤原氏につなげてたのと同じようなものだが、
徳川家だって実在の始祖の松平親氏はそのままで、その先祖を適当に源氏にした。
ただ天孫族の祖先神がいつ交代したのかは何とも言えない。
神日本磐余彦天皇(諡神武)が東征後に天神を祀ったというのは高皇産霊神らしい。
この時点ではまだ父方の信仰に従っていたという事になる。
志賀島に行くと対岸に能古島が見える。
磤馭慮島は能古島だという説がある。
現地に行ってみるとすごくリアリティが感じられるんだな。
日本神話の創世神話というのは、博多あたり(つまり奴国)の海人族の
ローカルな神話が国全体の神話に発展したように思えてならない。
90 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/02(日) 00:15:14.92
>>89 記紀神話はあちこちからやってきた人たちの神話のごった煮だから、
そう単純ではない気がする。実際、河内王朝のあった大阪湾岸からは
淡路島が見えるしね。
ただ、「ローカルな神話が国全体の神話に発展した」というのは全面同意。
たとえば(厳密には神話じゃないけど)ホメロスのオデュッセイアは
10年に渡る壮大な放浪のサーガだけど、その舞台は日本海の1/5程度の
エーゲ海だったわけで。
91 :
〇:2013/06/02(日) 09:33:27.03
>>89 「阿曇磯良」 折口信夫『日本芸能史』
古代の海の精霊とされている。石清水八幡宮の霊験記『八幡愚童訓』
(鎌倉成立)に「安曇磯良と申す志賀島大明神」とある。
「志賀島大明神」とは九州志賀島の志賀海神社の祭神である。
この神社は古代に海人族を率いた豪族安曇氏が祭っていた。
イソラの出現の様は『太平記』巻39に「阿度部の磯良」の名で語られている。
それによれば,神功皇后が新羅を攻めたとき諸神を招いたが,イソラだけは
醜い容貌を恥じて応じなかったため,諸神が歌舞を奏して誘い出した。
やがて海底の竜宮城から潮の干満の霊力を持つ秘宝(干珠,満珠)を借り請けて
献上し,皇后は新羅を討つことに成功したという。
宮廷神楽に「阿知女作法」とあるアチメは「安曇」あるいは「阿度部」を指し
古代芸能の偶像であった。
海人族の本拠は阿波周辺です。志賀島周辺ではないですね。
半島への拠点なんだから重要ではあるが。
うんにゃ。阿波の阿曇氏は博多から来たんだよ。
阿波阿曇氏の拠点は名方郡だが、
名方は那珂県(ナカアガタ)の短縮形という説が有力だ。
奴国の奴の漢代の発音はnakだから、奴国というのは那珂の国という意味だ。
今でも那珂川や博多区那珂という地名は残っている。
奴国の阿曇氏が移って作ったのが阿波の名方郡なのだよ。
神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征の時に、
忌部氏の祖の天富命や伊勢国造の祖の天日別命が活躍しているが、
これらの氏族は阿波発祥らしい。
忌部氏や渡会氏が東征に参加したのは、この地の阿曇氏の手引きだろう。
あと明石の対岸の淡路島の野島のあたりも阿曇氏の拠点。
珍彦が東征に参加したのもやはり阿曇氏の手引きだろう。
大和氏の先祖が婚姻関係を結んでいたのは、
博多ではなく野島の阿曇氏の可能性が高い。
それと淡路島に伊弉諾、伊弉弥の信仰があるのは、阿曇氏が持ち込んだと思うのだけどね。
>>94 淡路島(というかその周辺)のはイザナキのみだよね。
さておき、延喜式によると、イザナキ信仰は淡路島を中心に
阿波・摂津・伊勢、若狭まあたりまで分布しているそうで(1)、
たしかに阿曇氏かも知れん気はする。
だけど、そうだとすれば、瀬戸内西部にも痕跡があるはずだし、
阿曇氏自体の足跡も近畿では薄く、一気に東国に行っちゃってる
気もするんだよな。やっぱりもともと淡路の海人たちの神だという
気がする。
1)中村啓信, 1999: この世のはじまりの男と女−日本神話から−.
国学院大学日本文化研究所編「日本文化を知る口座」, 第一集, p240-246.
自己レス
>>95では阿曇氏と淡路の海人とは無関係と書いたけど、そうでもなかった。
書紀の履中記には、阿曇連浜子が淡路の野嶋の海人といっしょに
住吉仲皇子の反乱に加担したという話が出てくる。
問題は、いつ頃に進出したのかって話だよなあ…。
海人族とか天孫族とかいう分類に正当性あるん?
なんか胡散臭い
98 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
>>98 (泉ら,1978)によると、瀬戸内で産小屋があるのは愛媛の高縄半島だけだそうで、
日向のトヨタマビメの子孫たちが四国に行ったことを裏付けてるよね。
一方、同じ文献によると、常設の若者宿の分布は九州北部から山陽-紀伊半島で四国にはない。
こっちは宗像の民の領域なんだなと。
(以上の出典は大林太良「東と西 海と山−日本の文化領域−」)
んでもって、個人的には残る住吉の神を祀る民が興味深いんだよな。
博多には年末に「なまこ餅」を搗く人々がいるんだが、
http://www.asahi.com/national/update/1231/SEB201212310015.html 今に伝わる由来は「餅の代わりにナマコを献上した」ということになってるけど、
神事になっているあたり、実態は逆だと思う。つまり、半農半漁の人々が
軸足を漁から農に移す時点で成立した儀礼じゃないかと。
問題は彼らが住吉神社ではなく、同じ筑前一ノ宮の箱崎宮の氏子だという点だが、
宗像でもなく海神でもない海の民ということで、なんか繋がってそうな気がするの。
山祇族(久米氏)→大三島の大山祇神社
海人族(阿曇氏)→淡路島の伊弉諾神宮
>>97 >>98の分類よりは大雑把だけど、縄文−弥生の頃に列島にやってきた集団は、5つに大別される
という仮説がある。
岡正雄,1958:日本文化の基礎構造. 日本民俗学大系2 日本民俗学の歴史と課題,平凡社.
古い仮説だけど、たぶん今でも有効な反論は出ていないんじゃないかな。
(1)母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
(2)母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
(3)父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
(4)男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労民文化
(5)父権的・「ウジ」氏族的・支配者的文化
(入ってきたのもだいたいこの順番)
これによると、たぶん(4)から海人族、(5)から天孫族が出たことになる。
ちなみにかいつまんで説明すると、(1)の「秘密結社」というのは、ナマハゲ祭祀など、
(2)は焼畑の民、(3)の「ハラ」氏族は、「ヤカラ」「ハラカラ」などの語源となったツングースの
外婚的父系同族集団を持ち込んだ人々、(4)と(5)はもともと長江河口部の同系同族の種族だったが、
日本列島に至る過程で(5)の方は、ユーラシアステップ地域の騎馬遊牧民の文化の影響を受けたもの、
らしい。
久米氏って高御産巣日神の末裔じゃん。
山祇やら木花咲耶姫を信仰するのは隼人系だと思う。
久米氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-41.html 古代豪族の中で、刺青をしていたことが記紀などの記述ではっきりしている氏族は、安曇氏・胸形氏・久米氏の3氏である。
いずれも九州にいた海人族であるとされている。
要するに中国サイドの古文献(魏志倭人伝など)に、倭人の習俗の代表的なものとされているのである。
一方、久米氏は、九州の隼人族(薩摩隼人・球磨隼人など)とも非常に近い豪族だとも云われてきた。
喜田貞吉によればクメはクマの転、久米氏は肥(くま)人族であろうという。
しかし折口信夫はこの説に対し、クメは「くみ竹」のクミ、またはカベ(壁)と関係ある語とし、大伴・久米氏は宮廷の御垣を衛る役割を担ったとする。
また記紀に見える久米歌の狩猟民族的な性格から、久米部を熊襲の山人族だったと見る説もある(上田正昭)。
大山祇って、もとは火山の神なんじゃないだろうか?
ぶすぶすとあがる煙は、海民にとっても航海の目印となり、
なんで海民が山の神を信仰してるかも納得できる。
>>107 読みは違うけど、鳥取の大山も航海の目印として信仰されているよね。
大山祇神の別名が和多志大神(ワタ=海)というのも、そういうことなんだろうな。
初期王朝に関わる史実
天津久米命は天忍日命と共に、ニニギ命の天孫降臨を日向の高千穂の襲より、笠沙へ軍人として先導したと記しています。
その吾田の地(現・加世田市)・上加世田遺跡より、久米を刻んだ土器片がそれを証明しています。
久米氏は「古事記」での表現であるが「日本書紀」では来目と記します。
私は「古事記」の表現は<音>としての立場が強く「日本書紀」の<訓>表示より意味を伝えきってはいないきらいがありますと思っています。
本居宣長は久米氏を、目が大きいとしたのは卓見だと思います。
それは南方系(沖縄、江南、南島系の種族)の風貌を述べており、
神武東征で大久米命を伊須気余理比売(いすけよりひめ)に「さける利目(とめ)」と
言わしめたのは、大久米命が安曇目(あずみめ)で、海人族(あまぞく)の形状を呈していたからである。
これらの事実を総合して判断すると、久米氏は南方系の種類に似て、肥前国風土記にある「海人が隼人に似る」と述べるのは、
渡来の海人族である久米氏も又、隼人に似て、南方系であるか、隼人との混血による種族であったと思われます。
三品彰英は「日本神話論」で<久米氏が栄えたのは4世紀頃で、大伴氏が軍事的伴造として台頭したのは5世紀である。
久米氏はもともと西南地方の隼人系出身と言われている。
「クメ」と言う名は「肥人」「熊襲」の「クマ」と同じであり、隼人系の人々は海人族の民であった>と説いている。
ここで、詳細は省くが、「クメ」「肥人(くまびと)」には異論がある。
隼人系の人々は海人族だという主張も、薩摩隼人、大隈隼人、吾田隼人と多少その性格に差異がある。
敢えて、海人族と言えば、野間半島の吾田隼人であろう。
私の仮説だと、南九州の大隈周辺には上野原遺跡に見られるように、會族が先住しており(大和朝廷をそれを熊襲と呼ぶ)、
それらの種族が薩摩全土に居住していた。
そのうち、黒潮との関係で、後に「海の隼人」とよばれる吾田族が時を重ねて、沖縄、中国江南地方、南方諸島と交流して、
海人族として活躍したと思われる。
一方、大和朝廷より大隈隼人と呼ばれた「山の隼人」・會族は上野原遺跡(BC9000年)に見るように大隈周辺に先住していて、
かなり高度な文化を有していたと言える。
上野原遺跡からは、220基もの炉を備えた竪穴式住居が見つかっており、堅果植物の実の灰汁を抜き、
煮沸して粉にしたと思われる蒸し器や貯蔵のための大壺が出土している。
土偶や耳飾(占い用)の存在は明らかに祭祀が行われていた証左であろう。
また、會には「字通」によれば「甑」に通じ、「蒸し器」「大釜」の意がある。
勿論、8世紀には考古学は存在しないので、上野原遺跡の「蒸し器」や「大壺」は考慮の外であるが、
推測するに地元の伝承ではそれらの言い伝えは聞き及んでいた可能性はあったでろう。
それが「會」の名称になったとは考えられないことではないだろうか。
「甑」は甑隼人とも関わりがありそうで、大隈地方と「甑島」そして大山祇命の関係も大変、興味がある。
神武東征の後の追及になるので、時間が待ってくれるだろうか。
縄文時代は少し下がるが、BC5500年東北の三内丸山遺跡は200人にも及ぶ人たちが共同作業をしたと思われる大集会場や祭祀場、
かなり高層の櫓や分業、栗の栽培、川の合理的な使用法、墓地が整備され、ゴミ捨て場も整然としている
この三内丸山遺跡から類推できるのは、少々、粗雑過ぎるかも知れないが、ただし、縄文文化を考える上では、大いに参考になりはしないだろうか。
翡翠やアスファルト、黒曜石が発見されており、それらは他の文化交流の証でもある。
日本海には、対馬海流や親潮の影響があり、舟による交流も推察できる。
それは、南九州を流れる黒潮の影響と似たとこらがあるように思われる。
いずれにせよ、大隈周辺の縄文時代の優れた文化は間違いないところである。
その先住民族の結束力と勇敢さが、吾田族を介在として、高度な文化や造船技術、軍事力を備えた渡来民族と血縁したとなれば、
そこには優れた種族が誕生するはずだ。それが隼人の実態であろう。
私はニニギ命から神武東征まで、それらの種族の軌跡だと理解している。
ニニギ命の新田神社、彦火火出見命の鹿児島神社、ウガヤフキアエズ命の鵜戸神社、
佐野命・神日本磐余彦命の宮崎神社と南九州をその勢力で制覇した感がある。
私はそれを南九州系王朝と呼ぶが、せれを支える臣下が久米氏と隼人或いは、その混血種族だといえるのではないかと想定しています。
陸海、二つの要素をあわせ持った集団が南九州系王朝だとして、この集団は何を考えたのでしょう。
私はここで、南九州系王朝の先進性を考えたい。
ご存知のように、南九州は火山地帯で、嘗て火山の噴火により、農作物には不向きなシラス台地である。
水を必要とする稲作には適用しない地質なのです。
しかし、高温多湿の気候は再生力に優れ、森林は繁茂し木の実や根菜、小動物の成育には最適である。
他に、彼等はもう一つ最大な武器を持っているのです。
それは海人族だからこその特権、秀でた情報収集があると言うことです。
彼等は船を使用して、各地を巡り交流して、行き着く先との交流、交易だけでなく、文化・地形・国情さえも収集することが出来たのです。
神話では塩土老爺が重要な時に現れ、有効な示唆を与えます。
ニニギ命の笠沙への移住、彦火火出見命を竜宮に導く時、それからもっとも神話の核心である神武天皇の東征の指摘が塩土老爺であった。
塩土老爺こそ、豊富で正確な各地の情報を把握できる海人族の首長であったと思われます。
安曇族を中心として、宗像族をもその手中に握る海人族の機関の頂点だからこそ、塩土老爺は有力な示唆が出来るのです。
私は来目(久米)氏を「海の隼人」との融合と述べましたが、来目(久米)氏が海人族的な性格を持っていて、
時代が下ると彼等が膳手(かしわで)の職掌を担っている伝承に出会う時、それは何かを思い出させるのです。
その何かは「安曇氏」です。来目(久米)氏と安曇氏とは重なり合う要素が多すぎるのです。
南九州へ上陸した海人族・膳手としての職掌、そして各地への氏族に因んだ地名が多いことそして、初期において彼等の勢力が衰退していることです。
同族、いや、同族異姓の感さえあるのです。
滝川政二郎が安曇族を隼人族だとした意味は、隼人族と久米族が同族だと考えれば、
三つの氏族(久米、安曇、隼人)が同じ要素に集約されていたからこその錯誤であったと思われます。
安曇氏と来目(久米)氏は同族で隼人との融合、混血が南九州系王朝を形つくっていて、その主要部分が東征し、
8世紀頃には北九州系王朝に覇権を握られたと言うのが私の仮説です。(大化の改新をそれに比定することは容易なことではないでしょう)
安曇氏も久米氏も、早い時期にその勢力を衰退させたのは、南九州系王朝の衰退と重なるとこがあるには、偶然の一致なのでしょうか。
114 :
日本@名無史さん:2013/06/17(月) 07:58:03.43
高御産巣日神信仰の久米
山祇信仰の隼人
海神信仰の安曇
日向神話的には天皇家も同族か?
天孫降臨と久米氏
古事記に天孫降臨の軍事先導者として、天忍日命と天津大久米命を伴ってあまくだります。
北九州から神武天皇より先にニギハヤヒ命は物部氏や海人族、その他の伴部を率いて、大和のイカルガの峰に降り立ちます。
ここで問題なのは、ニギハヤヒ命が多くの臣下を率いていることです。
一つの集団の首長が移動する時には海人族、軍人、職能集団を伴います。
例えば、徐福が神国へ不老長寿の薬を求めに行く時も、多くの集団を率いて行きます。
「史記・淮南衡列伝」には<男女三千人を遣わし、之に五穀種、百工を行かしむ>と述べています。
また、「櫨山記」に<一千人の童男童女と五穀の種子のほか、七族といわれた航海、
天文、呪術、造船、記録、薬師官、農耕人を五百艘の船に分乗させたとあります。
一説には、<大鮫魚のために神山に上陸できず、始皇帝に援軍を求め徐福の二番隊に総勢554人、
医師、農業人、鋳物氏、酒造職人、大工、石工、金工、紙工、製塩製油人などの専門家を85艘の舟に乗せたとあります。
ここで天津大久米命について考えてみようと思います。
ニニギ命の一行は、天忍日命(大伴連らの祖)と天津大久米命(久米直らの祖)と伴に「襲」の峰に降臨し、笠沙への移動を先導します。
日本書紀では、天忍日命が久米部を率いていると記述していますが、古事記では二命は同格であると書きます。
私は同じ部隊に指揮官が二人存在することはありえないと考えます。
日本書紀の言うように、天忍日命が上司で、久米氏は副官だとしたら、それは軍隊の体をなしているでしょう。
しかし、私は少し見解を異にします。
大和朝廷の正史(続日本記)に、702年、南九州にばん居する「熊襲」を征伐するために、
肥後国より、肥君、五木部氏、大伴氏を出水郡と高城郡に派遣します。
その結果、その地は「薩摩隼人の国」と「吾田隼人の国」へ分割されるのです。
また、大嘗祭の久米舞の披露に大伴氏が琴を奏で、佐伯氏が太刀で蜘蛛を斬る舞を演ずるのです。
この久米舞に久米氏の名前がありません。不自然ではありませんか。大伴氏主導なら大伴舞でもいいではないですか。
それがそう改まらないのは、久米氏が舞の発祥でそれに意味があるからです。
しかし、何らかの理由があって久米氏が衰退して、大伴氏がそ肩代わりをしたと考えた方が合理的でしょう。
そもそも、久米舞は久米歌から発祥したとされ、それは、神武東征の際の戦況を「舞」にしたものと思われます。
ここでの主役は明らかに久米氏で、その後に続く神武天皇の皇后選びにも、
久米氏が重要な役割を占めていることからしても久米氏は神武天皇の重要な側近であることが顕現されるのです。
当時の久米氏は神武天皇の重臣であったのです。それらが日本書紀が記すように、大伴氏を久米氏の上位に置くのは、
八世紀に於ける大和朝廷が北九州系王朝(これは私の仮説で朝鮮渡来人と先住大和人の混血)が政権を握ったからに外なりません。
神武天皇が南九州系王朝(これも仮説で江南人と熊襲との混血)であるのに対し、天智、天武、持統天皇と続く王朝は明らかに朝鮮系王朝なのです。
大伴氏は、正史の隼人征伐に見られるように、大和朝廷側の豪族であるのは明らかです。
藤原不比等を中心とする天智系の識者が編んだ「記・紀」に、特に日本書紀には、
北九州系王朝に組した豪族が優位に取り上げられるのは正史の宿命といえます。
では何故、久米氏が歴史の中から衰退したのかは、不明な点が多く、私は久米氏が南九州系王朝側であったため、
頭角を現すことが出来なかったのではないかと推察していますが、そのことはこれからの追及にまつ外に方法がありませんが、
今、言えることは、上加世田遺跡に「久米」を刻んだ土器片が出土している事実をさらに考察するしか方法がないと思われます。
>>110 >本居宣長は久米氏を、目が大きいとしたのは卓見だと思います。
ここは通説どおり、「目元に刺青をしていた」ととるべきじゃないかなと。
あめ鶺鴒 千鳥真鵐 など黥ける利目
セキレイもチドリも(真鵐は不明だがアオジ?)、目は小さいぞ。
そのかわり、目元に水平な模様が入っている。
安曇目も同様に目元の刺青だよね。
『古事記』では、最初に生まれた子どもは、隼人阿多君の祖の「火照命」、次に生まれた子は、「火須勢理命」、第三番目の子が「火遠理命」となっている。
火照命は「海幸彦」である。火遠理命は「山幸彦」であった。
阿多の海岸を舞台に展開された「山幸海幸の神話」は山猟と漁撈→隼人の海部と山部の「二面性」をうかがわせるのである。
久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。
鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、
それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた『加世田市史』。
南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多=吾田は、阿多隼人の本拠である。
こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。
つまり「久米族」はそもそも「肥人」や「隼人」に近い関係をもつ南九州の異族であった。
熊襲(くまそ)の「そ」は、村という意味なのか?阿蘇の「そ」なのか?肥人とか隼人と「記紀」には登場します。
播磨国を管理していた「伊予来目部小楯」は、伊予出身の「久米部」であり、山部連の先祖ということになっている。
来目部(くめべ)=久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。
そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。
クミ、クマ、クメはたがいに通音であり、薩摩半島の阿多隼人と関係がある。
今日の松山市北久米町及び南久米町は『日本地理志料』によると古代には久米郡久米郷に属し、この付近に久米郡を総括する郡家があったとされている。
くめ、くま、くみ
同じ読みなら こま とかもそうっすかね?
たとえば いくめ → いこま とか
121 :
日本@名無史さん:2013/06/24(月) 17:58:29.10
>>101 沖縄のアヂ(按司)と日本のウヂ(氏)って関係あるんかな?
久米氏の祖紳は神産巣日神ですよ。
クメのメは乙類のメだから元々の発音はkumaiだったと思われる。
米の呉音はマイだしね。
kumaiのiは格助詞のイだから、最初の発音はクマだった。
かの太田亮博士は肥後国球磨郡久米郷こそ久米氏の発祥地と見ていた。
だが球磨郡というのは熊襲の本境地だ。熊襲は多分狗奴国の後身だろう。
とすると神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征に参加した大久米は、
狗奴国が一時邪馬台国に協力していたという事かも知れない。
あるいは邪馬台国と対立していても保険をかけたとも考えられる。
それと忌部氏の祖紳は高皇産霊神でしたね。
だから阿波に来る前は北九州発祥の可能性が高い。
阿曇氏と一緒に阿波に植民したのかもしれない。
123 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 01:51:51.09
ニギハヤヒ命、天磐船に乗り、太虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷をおせりて天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」という。
ヤマトの名付け親は皇祖神ではなく、神日本磐余彦天皇(ワカミケヌ)はヤマトを征した王。
そもそもヤマトと戦った話なので、大来目命が東征に参加したという話も、協力とか保険とか変な想像を入れなくてもいい。
後、久米氏は『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏がある。
奈良県のヤマトは当然邪馬台の名前を移したものでしょ。
トは両方とも乙類のトだしね。
東征の後で名付けたに決まってる。
物部氏の自慢話は信用するに足りぬ。
決まっているw
久米氏の発祥地が肥後国球磨郡とすると、
内陸だから海人族とは直接関係はないだろう。
>>126 だけど、神武記の久米歌には、「カモとろうと罠かけたらクジラが獲れちゃった。てへぺろ」
みたいな歌もあるからなあ。
関係ないが、同じ久米歌に出てくる作物は、粟と韮と山椒。
九州から本州まで分布してるが、稲作適地よりも水の便が悪い土地の
ラインナップだよね。
神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征に参加してるから日向灘や熊野灘で鯨は見てるでしょ。
久米歌で興味深いのは、伊勢を舞台にした歌がある事。
大東亜戦争後の古代史版反日自虐史観では東征がインチキな証拠とか言われたりするんだが、
これは話が逆で、東征の経路が伊勢経由だったと見るべき。
伊勢国風土記逸文によれば伊勢討伐の将軍は天日別命。
熊野を越えて宇陀で軍を分け、
日臣命には「逆ふる賊(ともがら)胆駒(生駒)の長髄を罰(うちきため)よ」、
天日別命に「天つ方に国あり、その国を平(ことむ)けよ」と命令し剣を与えた。
そして天日別命は土豪伊勢津彦を追放して伊勢を平定した。
しかし末尾に風土記と別の資料らしき記述で、熊野から直接伊勢に侵攻したともある。
確かに伊勢を征服して東から大和に侵攻したとすると東征の過程が合理的になる。
単に通過困難な山岳地帯を通らないというだけでなく、
熊野の西端の丹敷(二色)まで侵攻したのに、
伊勢を無視してわざわざ山を通る不自然さがなくなる。
久米歌に伊勢の歌があるのも当然だし、
生駒越えで敗れた時に日を背にして戦うべきだと言った事とも整合する。
また後に伊勢の地に天照大御神を祀る伊勢神宮が置かれた事の伏線にもなる。
伊勢を先に征服したというのは東征の重要ポイントだね。
なお東征が伊勢経由な事を最初に言ったのは鈴木真年だそうです。
私は自分で気がついたのだけれど、戦前もこの説が省みられなかったのは少し不思議。
渡会氏が阿波発祥だろうと唱えたのも鈴木真年です。
訂正。丹敷は熊野の東端。
130 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:32:38.68
そして、木幡村(こはたのむら)(現在の京都府宇治群)に至った時、道の分かれたところで、うるわしい嬢子(おとめ)と出会いました。
天皇がその嬢子(おとめ)に、「あなたは誰の子供ですか?」とお尋ねになると、
その嬢子(おとめ)は「丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおほみ)の娘で、名は宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえひめ)です」と答えました。
天皇はその嬢子(おとめ)に「私が明日帰る時に、あなたの家に寄ろう」とおっしゃいました。
早速、矢河枝比売(やかわはえひめ)は、男の人と道端で出会ったことなどをつぶさにその父に語りました。
すると父は「それは天皇(すめらみこと)に違いない。畏れ多いことだが、我が子よ、お仕えしなさい」と言って、その家をきれいに掃除して待っていると、翌日、約束通り天皇がいらっしゃいました。
そして、大御酒盞(おおみさかずき)を献上すると、天皇は、その大御酒盞をお持ちになりながら、歌をお詠(よ)みになりました。
この蟹や いづくの蟹 百伝(モモヅタ)ふ 角鹿の蟹 横去らふ いづくに到る
伊知遅島(イチジシマ) み島に着き 鳰鳥(ミホドリ)の
潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道(サザナミヂ)を すくすくと
我がいませばや 木幡(コハタ)の道に 逢はしし嬢子(ヲトメ)
後方(ウシロデ)は 小楯(ヲダテ)ろかも 歯並は 椎菱(シヒナシ)なす
櫟井(イチヒヰ)の 和邇坂(ワニサ)の土を
初土(ハツニ)は 膚(ハダ)赤らけみ 底土(シハニ)は 丹黒(ニグロ)きゆゑ
三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火(マヒ)には当てず 眉画き こに画き垂れ
逢うはしし美女(ヲミナ) かもがと 我が見し子ら
かくもがと 我が見し子に うたたけだに 向ひ居(ヲ)るかも い添ひ居(ヲ)るかも
131 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:38:52.04
↑の古事記の話ってどことなく山幸彦と豊玉姫の結婚話に似てない?
水に潜って、道が進み、井戸のある、木の傍(ハタ)、で美しい乙女と出会う、ってところがさ
関係ないと思う。
そもそも和邇氏は海人族的な色彩はない。
氏の名が和邇(鮫)だからそういう話が出て来るんだが、
神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征の時に既に和珥という地名が出てくる。
周知の通り(か不明だが)臣姓氏族は発祥地の地名を氏名にする事が多い。
和邇氏の始祖は観松彦香殖稲天皇(諡孝昭)皇子の天足彦国押人命だが、
単にこの人の本拠地が和邇という村だったから和邇氏になっただけだろう。
和邇氏は内陸の発祥だし直接には海人族的な活動は見えてない。
小野妹子が遣隋使になったのを海人の活動とは言わないだろう。
まあ最初の和珥という地名自体は、宗像系(つまり出雲系)海人族あたりが
開いた場所だったとかいった可能性はある。
しかしそこから和邇氏が海人族の影響を受けたかといえば、
特に影響はなかったと見るべきだろう。
因みに遣隋使で日本の国王の名前が阿毎多利思比孤とか言っちゃてるけど、
これは小野妹子の先祖の名前なんだよね。
意図的な誤りではないだろうけど、
現代になっても簡単な誤りが全然気付かれないのはどうしてだろうね。
133 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:59:11.66
応神天皇を北九州出身としたら、北九州は海神や豊玉姫、玉依姫の信仰があついから関係あるんじゃないかと思ったんだけどね
神話をベースにこの歌を詠んだんじゃないかと
誉田別天皇(諡応神)は海人族の影響はあるかもですね。
前代の気長足姫皇后(諡神功)の三韓征伐では、阿曇氏や津守氏などの海人族が活躍した訳だし、
凱旋後の皇位継承争いでも海人族の役割は重要だっただろう。
そのせいか阿曇氏の当主の大浜宿禰が海人の宰(みこともち)となっている。
久々に支那へ朝貢を再開した(倭王讃)のも、海外への関心が強かったからだろうしね。
室町時代の説話だが誉田別天皇には(魚の)尻尾があったという話もあったどうだ。
>>132 阿毎多利思比孤の号「阿輩雞彌(あはきみ)」は「おおきみ」という解釈でいいのか?
>>95 一書(あるふみ)には次のように伝えている。
國常立尊が天鏡尊(あまのかがみのみこと)を生み、天鏡尊が天萬尊(あまのよろづのみこと)を生み、天萬尊が沫蕩尊(あわなぎのみこと)を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ。
沫蕩は阿和那伎(あわなぎ)と云う。
日本書紀のこの部分が淡路あたりの人たちの伝承かな?
九海士の名は、神功皇后が三韓征伐の帰途、この地に九人の家来を残していった。
家来達は海士(あま)を生業とするようになったので、この地は「九海士の浦」と呼ばれるようになったと言う。
>沖ノ島古墳群は海の彼方にある黄泉の国、または、沖縄などに伝わる、ニライカナイを思わせるという。
>イビという字名も沖縄のイビ説が有力であるらしい。
>黒潮に乗って、沖縄から来たのか。あるい御原の海人が沖縄まで行き、思想を持ち帰ってきたのか?
島根県雲南市飯石神社の伊毘志都幣命との関連性は?
140 :
日本@名無史さん:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
常世の国って考え方は沖縄でなくてもあるじゃん
倭寇の根拠地である五島がある西九州の海人って話題にならんね
144 :
日本@名無史さん:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
石棺の法量は、神ノ崎(かみのさき)遺跡二十号石棺、浜郷(はまごう)遺跡二次一号石棺、宮の本(みやのもと)遺跡(佐世保市)三・五号石棺が長さ一五〇センチ前後、
栢ノ木(かやのき)遺跡(松浦市)二号石棺が長さ一八〇センチと追葬や伸展葬を目的とした長めの石棺もみられるが、
それ以外については成人を対象としたものでも、長さ約八〇から一二〇センチ程度におさまる比較的短い幅広の形態のものが中心をなしている。
箱式石棺の法量については、西北九州地域の石棺墓は支石墓系統の方形石棺から、後期終わり頃になって長大化が実現されたとする井上和夫氏の見解があり、
屈葬から伸展葬への葬法の変化をとらえている。屈葬が主体の宮の本遺跡のなかで三・五号は、伸展葬の成人骨が検出されており、
三号では南海産のイモガイ製貝輪II類が出土し、石棺のつくりや抜歯の有無、埋葬法の違いから、木下尚子氏は屈葬系の集団とは埋葬習俗を異にする別の集団の墓と想定されている。
栢ノ木(かやのき)遺跡二号石棺は、内行花文系の後漢鏡や管玉やガラス小玉が副葬され、弥生後期後半から古墳時代初頭期に位置付けられ、後期後半期になって北部九州地域に一般化する伸展葬系の箱式石棺の影響を浮けた可能性をもっている。
したがって、西北九州西岸地域と大村湾沿岸地域に主体的に分布する石棺墓は、井上氏がいうように、支石墓系統の屈葬系の寸づまりの石棺が基本で、
弥生終末から古墳時代初期になって長大化したことが考えられるが、宇久松原(うくまつばら)遺跡や浜郷遺跡、宮の本遺跡でみられた「板石積石棺墓」は別系統の形態として古墳時代の「地下式板石積石室墓」へ引き継がれていったことが推測される。
『風土記の考古学』〜肥前国風土記の巻〜
「五島列島の弥生・古墳時代の墓制と文化」
>>139 谷川健一先生によると、沖縄の「青の一族」(青≡おう=大生氏、多氏、意富氏、etc.)が
日本海沿いを北上して東北まで至った形跡があるらしい。たとえば糸魚川の青海神社とか。
で、その経路にはナマハゲに代表される来訪神の祭り(年に一度、海の彼方の常世の国
(ニライカナイ)から祖先神がやってくる)が分布しているんだよね。もちろんこっちは
近世の北前船の影響もあるから、軽々に結びつけるのは危険だろうけど。
伊毘志都幣命の由来は知らんけど、飯石神社のような古い形式は、沖縄の御嶽、済州島の堂、
朝鮮半島南部のモイドン、そして日本の三輪山のように、環東シナ海文化圏に共通の
神社の原型だよね。
環日本海諸語
>>145 海流の激しい鳴門海峡を古代の舟で渡るのは命懸けだろうから
黄泉の国でも強ち間違ってはいない。
鳴門の渦潮が黄泉の国への入り口
150 :
日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
ウズヒコ
151 :
日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
『津島紀事』(文化六年撰)は、三根郷木坂村の頃に、当邑、産婦有れば、俄に産舎を郊に造り、其の成らざるうちに分娩すという。是れすなはち上風なり。相伝へて豊玉姫の安産に倣ふ遺風なり。 と記している。
対馬の支配者は弥生時代は阿曇氏だったからね。
仁位にある和多都美神社の神主家の長岡氏は阿曇氏裔だそうだ。
木坂には海神神社があるね。伝承が残ってるのも当然か。
153 :
日本@名無史さん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN
志賀島と血鹿嶋(五島)の関係は?
多少発音が似ているだけで、直接の関係はないでしょう。
五島列島は、阿曇氏とはまた別の海人でしょう。
五島列島の支配者は中央貴族にはなってないようです。
肥前国風土記に記事がありますね。
大足彦忍代別天皇(諡景行)の時に、
阿曇連百足に命じて、小近、大近の土蜘蛛を捕らえさせた。
阿曇氏が征服した訳ですが領主になったかは不明です。
なお大足彦忍代別天皇(諡景行)の時代は氏姓制度はまだありません。
阿曇氏の系図では百足宿禰となってます。
156 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN
儋耳・朱崖と同じ
158 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN
出身を和歌山とする根拠を書いてないのがアカン
他の部分も雑だしね。
160 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
久米氏は隼人と関係する氏族だとは思うが、
「記紀」では大伴氏の下についている。
隼人の分家だったのが、有力軍事氏族の大伴氏の配下に入ったのか。
だから、もしも和歌山と関連があるとしても、
大分後になってからだろう。
隼人東征
162 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
この前、オルドス式銅剣の鋳型が見つかったのって、高島市安曇川町だから、
やっぱ安曇氏の活躍があったんかね?
現物を交易で手に入れたか、技術者を半島とかで狩ってきたか
163 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
164 :
日本@名無史さん:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN
>>160 >「記紀」では大伴氏の下について・・・・・・・・・・・
「記紀」の成立時期の大和政権における大伴氏の地位上昇の反映だろう。
「記紀」の神武東遷戦闘記事で見るかぎり、久米族を指揮しているのは、
軍最高指揮者の神武だ。久米族は、東遷軍の神武親衛隊だった。
大伴氏は壬申の乱で活躍したんだっけか
>>165 壬申乱では、咋子の子の馬来田・男吹負が大海人皇子側に加担して
乃楽方面戦線で活躍したらしいが、大伴氏の地位上昇
>>164というのは、
「記紀」の原典だったろう帝記が編まれた6世紀前後の室屋・金村が
後代の大連に相当する重職まで登ったことを指すのだろう。
167 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 07:04:31.02
久米族とか隼人とかは勇猛果敢だったのだろうが、
政治力がなく、いわば軍事オタだったのだろう。
だから久米族は、
政治力があり、大きな勢力を持っていた軍事氏族の大伴氏の下に
配属させられたのだろう。
血縁関係がどうかが問題だが、
それはあまりなかったのではないか。(若干の婚姻関係はあっても)
軍閥みたいな感じか?
169 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 16:19:14.58
170 :
○:2013/11/15(金) 18:12:14.28
「山誉漁猟祭」 志賀海神社に行って来た。
「山ほめ祭」は古く「かりすなどりの御祭」と称され、旧暦の2月15日と11月15日に執り
行われており、現在は春の4月15日にその年の五穀豊穣・大漁・事業繁栄・商売繁盛を
願う「山誉種蒔漁猟祭」と11月15日には一年のご加護と収穫に感謝する「山誉漁猟祭」
が行われている。
別当二氏が櫓を漕ぎながら
「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌と成りて 苔の産霊(むす)まで」と語る。
この「君が代」は志賀海神社に古くから伝わる神楽歌であった。
歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず)
とされるが、古今集においては初句を「わが君は」としている。
「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
君が代はの型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる。
1869年(明治2年)にイギリス公使館軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは
儀礼音楽を設けるべきと進言し、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助が受け大山の愛唱歌
である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用されたとされている。
「君が代」ゆかりの三社参り「志賀海神社・名島神社・香椎宮」
http://lunabura.exblog.jp/15699544
171 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 10:20:09.43
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「およそ23世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
君が代や熊野権現須玖岡本に在り、穂波大分宮、神武原等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
172 :
○:2013/11/16(土) 11:18:58.68
日本書紀巻第二 ~代下
「故大己貴~、則以其子之辭、白於二~曰、我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、
國内諸~、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。乃以平國時所杖之廣矛、授二~曰、
吾以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者、必當平安。今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。」
(そこで大己貴~は、その御子の言葉を二神に告げられて「我が頼みとした子は、もういない。
だから私も身を引きましょう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと戦うでしょう。
今私が身を引けば、誰も戦わないでしょう。」と言われた。そこで国を平らげた時に用いた
【広矛】を二神に奉じて言うに、「私は、この矛を用いてことを成し遂げました。天孫が
この矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界に参りましょう。」
と、言い終わると隠れてしまわれた。
大己貴~とは、漢委奴国王統である。倭乱の結末が記されている。
幽界とは、銅矛が大量に出土している出雲国であろう。
阿曇族は王統ではない。安曇野、琵琶湖西岸、名古屋からは広形銅矛の鋳型は出ていない。
173 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:57:49.93
出雲の本殿は西・筑紫を向いている。
単に筑紫の支配下にあったことを意味する。
>>167 >政治力がなく、いわば軍事オタだったのだろう・・・・・・・・・・・・
隼人・久米族にかかわらず、現代と違い個人が個人の意志で選択行動
なぞできず所属集団の意志即ち族長の指揮に従属していたろう。
天皇家親衛隊久米族の族長は、大伴氏なり天皇家の族長指示に従って
いたわけだが、自分の「軍事オタ」戦闘好きからでなくおのが
部族集団の利益が行動基準だったろう。
個人の意志より集団の利益つまり繁栄が行動の選択基準だったろう。
>>169 >日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社・・・・・・・・・・・・・
えっ福岡県何町の住吉神社のこと?日本最古は、長崎県対馬鶏知或いは
対馬鴨居瀬の住吉神社だろ?
久米と大伴は同族でしょう。
何らかの事情があって紀記ではそれぞれ別族として記したのだと思います。
「大伴の 遠つ神祖の その名をば
大久米主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて
仕へし官 海行かば
水漬く屍 山行かば
草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ
かへり見はせじ と言立て
丈夫(ますらを)の
清きその名を
古よ 今の現に 流さへる」
意訳
======
「我ら大伴氏は、
遠い先祖の大久米主(おおくめぬし)という
神から続く誉れの家柄で、
何代にもわたって大君に仕えてきた。
だから私も、
海を行けば、水に漬かった屍となり
山を行けば、草の生す屍となって
大君のお足元に死のう。
後ろを振り返ることはするまい。
ますらおの汚れない名を守り抜くのだ」
これは、大伴家持の歌で、万葉集巻十八に収録されている長歌です。
原題は「賀陸奥国出金詔書歌(みちのくのくにに金 〈くがね〉をいだすしょうしょを賀〈ほ〉ぐうた)」で、東北地方で金の鉱脈が発見され、そのことを祝った歌として書かれました。
この中で、大伴家持ほどの白眉が自らの先祖を大久米主命と表明しているのです。
紀記の系譜とは別に、大伴氏の内部では連綿と自分たちの出自をこのように伝えてきたということなのでしょう。
180 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 02:07:12.90
シオツチノオジって気になるんだよな
181 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 17:11:32.87
>>132 関係あると思うけどなあ。だいたい和迩氏の祖は天多利思比孤だが、
彼の母は尾張の祖となってる。尾張の祖って海部・尾張その他の祖で海人だ。
天皇家と渡来系以外はほとんどのように海人系でホアカリ系だという伝承だ。
天皇家も海神が先祖だけどね。
関東の縄文人は海の近くに多かった。中部地方は山の民かもしれん。
西日本は鳥浜のように、やっぱり海人が多い。
山の幸と海の幸を両方利用しながら生きてきた先祖が多かったんだろ。
182 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 18:17:11.66
海人族(モーケン族)と山祇族(セノイ族)が共存してたんだろうな。
うん、和邇は海人族だろうね。
また、当時の氏族は中世以降に成立した父系的「家族」ではなく、母系的な「部族」と捉えた方が正しいと思う。
和邇氏と尾張氏の婚姻関係は、単に居住地が近かったためだろう。
和邇氏の始祖の天足彦国押人命は、観松彦香殖稲天皇(諡孝昭)の子で、
日本足彦国押人天皇(諡孝安)の兄。いかにも双子か、ことによると
同一人物かもと思わせる名前だけどな。観松彦香殖稲天皇(諡孝昭)と
日本足彦国押人天皇(諡孝安)の宮はどちらも葛城にある。
尾張氏の発祥地は高尾張だが、これは神武紀に葛城の高尾張邑とある。
居住地は近接している。天足彦国押人命と日本足彦国押人天皇(諡孝安)の
母は世襲足媛で、これは津守氏の出身。本来は津守氏の方が尾張氏の本家筋だ。
尾張氏の影響があるとしても天皇家の本家と同程度という事になる。
但し大日本根子彦太瓊天皇(諡孝霊)や大日本根子彦国牽天皇(諡孝元)が
日本足彦国押人天皇(諡孝安)の子孫かはまた別問題だけどな。
和邇氏は、名前から想像されるのと違って海人族的な活動の記録がない。
彦国葺命が武埴安彦を討ったとか、難波根子建振熊命が忍熊王を討ったとか、
いずれも陸戦だ。これは重要だよ。これが阿曇氏だと、
豊玉彦が海宮で火遠理命を迎えたとか、百足宿禰が値嘉島の土蜘蛛を討伐したとか、
磯良が三韓征伐で活躍したとか、大浜宿禰が海人の宰になったとか、
白村江の戦で安曇比羅夫が指揮官だとか、確かに海に関係する伝承が多い。
それから弥生後期には氏族は成立していたと見るべき。
大和時代のように貴族制度として整備されてはいないが。
古代氏族の系図を見る限りは、弥生後期には父系リネージは成立している。
リネージの訳語は本来は「氏」そのものなんだけどね。
リネージと氏族の違いは、同族の出自の観念はあるが、系譜の個人名の記憶が
残ってないのが氏族、個人名の家族関係で系図がたどれるのがリネージだ。
日本の場合、系図によらない抽象的な神の子孫とかいった社会集団は存在せず、
天照大神などという特定の人格神から、個人名が特定出来る系図でつながっている。
(系図が正しいかはまた別問題。)つまり氏族ではなくリネージが存在していた。
氏族はリネージの上位概念なので、古代日本に氏族があったと言っても間違いではない。
支那にもリネージがあるが、周知の通り日本と違って外婚制(同族結婚の禁止)がある。
外婚制が氏族の必要条件とされていたのは、実はマルクス主義のドグマで、
実際は未開民族でも外婚制があるのは意外と少数なのだ。右寄りな人でも、
妙な所でマルクス主義のドグマに染まってたりするから始末が悪い。
マルクス主義が歴史学に流した害毒は非常に大きい。
外婚制にならない条件が何かは重要なので書いておく。
「(古代に)シャーマニズムが盛んな民族は外婚制が発生しにくい。」
確かに日本、ヨーロッパ、アラブとか軒並みそうだ。
逆に支那とかアイヌとか外婚制がある民族は確かにシャーマニズムは弱い。
なお古代の弔賎はシャーマニズムが盛んで外婚制はなかった。
その後支那の制度を取り入れて外婚制が定着した。愚劣な事大主義の典型だ。
また氏がなくなって家制度に代わったのは平安中期頃とすべき。
養子を取る時に、平安前期までは同族内から迎えるのが一般的だった。
その頃までは父系同族という観念は残ってた。
>>184 おいおいW
安雲って・・安倍は海部・安雲と母系で同族だが
安倍比羅夫は、安倍比羅夫と記載しましょう。
>>186 おいおい阿曇比羅夫は、安倍比羅夫とは別人で実在した天智朝廷の
高官だぞ。
白村江の戦で安曇比羅夫が指揮官だとか
>>184紀に記事があったはず。
188 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 20:05:35.40
189 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 21:36:31.25
海人族という現代人のはったラベルにとらわれ過ぎるとアカン
西日本の弥生人は、縄文時代からの漁労を引き継ぐという意味で、みんな基本
海人だったと思うな。
191 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 00:37:55.42
古事記が書かれるより遥か昔から志賀島にいたのかな?
それとも倭の衰退や滅亡の頃に、倭の敵として志賀島を抑えたのかな?
ムナカタに関しても。天武という人物が何物だったかによるね。天智との兄弟関係や息子との親子関係、あやしい。どうも天武は倭人系とは思えない。でも天武が倭人系で天智が違うって考える人もいる。
神道臭さを感じさせる者は狛人に思えて仕方ない。注連縄とか建物の感じは倭の感じだったとしても。まつり方は倭より狛人(ワイ、高句麗)なんじゃないの?
もしアズミやムナカタが倭の豪族なら、倭の正しき歴史が伝承されてていい。
万葉集の中には、倭の正しき歴史のヒントを後世に残そうと苦心した人たちもいた。
アズミやムナカタなどはそういう努力を何かやったかな?
ろくにやってなければ倭が消えたほうが好都合の側だろうか。
志賀島は鹿に関係が深い。志賀島や能古島には鹿がたくさんいたんだよね。鹿が海を泳いで移動するのは昭和時代まで見られた。
でも鹿がいたから鹿島ってなったかどうかはわからない。近い島(近島)が志賀島になったと言う人もいる。
192 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 01:28:03.57
三韓征伐。広開土王碑文や倭王武など。
倭の豪族は三韓を見下し、三韓側は倭に屈辱を味わった。特に新羅は。
白村江の戦後は逆に、倭人は新羅に屈辱を味わう。
とにかく新羅を憎い。勝利した新羅側は倭を侮辱。新羅はその後ずーっと北部九州へ執拗な嫌がらせ。だからますます北部九州は三韓征伐伝説を崇めた。いわば嫌韓が筑前国の国教になった。特に嫌新羅。
本州は狛人や蝦夷だけでなく、新羅人も多く生息していた。たとえば敦賀には新羅神社など新羅由来が多い。
宿敵新羅人が住み着ける地域は、相対的に倭人は考えられない。いたとしても少数・劣勢。本州は源新羅三郎とかって新羅を誇りにする風潮。近代になるまで確かにあった。倭人系の感覚では考えられない。
で、アズミは能登などにもいた。志賀島と同族間で交流。敦賀を経由しただろう。もちろん出雲も通る。能登からの日本海側の集落と友好的だったから可能。
出雲といえば神在月。旧暦10月を盛大に祝う。狛人(ワイ人、高句麗人)の特徴。三国志の時代にも狛人はそう。倭人がそうだったとは記されてない。
アズミが狛人か新羅なら日本海側を航海しやすい。
193 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 01:28:44.80
古事記が書かれるより遥か昔から志賀島にいたのかな?
それとも倭の衰退や滅亡の頃に、倭の敵として志賀島を抑えたのかな?
ムナカタに関しても。天武という人物が何物だったかによるね。天智との兄弟関係や息子との親子関係、あやしい。どうも天武は倭人系とは思えない。でも天武が倭人系で天智が違うって考える人もいる。
神道臭さを感じさせる者は狛人に思えて仕方ない。注連縄とか建物の感じは倭の感じだったとしても。まつり方は倭より狛人(ワイ、高句麗)なんじゃないの?
もしアズミやムナカタが倭の豪族なら、倭の正しき歴史が伝承されてていい。
万葉集の中には、倭の正しき歴史のヒントを後世に残そうと苦心した人たちもいた。
アズミやムナカタなどはそういう努力を何かやったかな?
ろくにやってなければ倭が消えたほうが好都合の側だろうか。
志賀島は鹿に関係が深い。志賀島や能古島には鹿がたくさんいたんだよね。鹿が海を泳いで移動するのは昭和時代まで見られた。
でも鹿がいたから鹿島ってなったかどうかはわからない。近い島(近島)が志賀島になったと言う人もいる。
194 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 04:32:17.78
>>190 >縄文時代からの漁労を引き継ぐ・・・・・・・・・
何のため必要だったというの?特に、海沿い・川沿いではない地域居住
民にとって。
西日本の弥生人
>>190とは、稲作舶来渡来人子孫、稲作舶来渡来人子孫と
先住縄文人子孫との混血人、先住縄文人子孫のどれを指しているの?
195 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 10:41:22.17
単なる農耕民は対馬海峡を渡る技術を持っていなかっただろう。
縄文時代からあの海域を渡れる民族は変わらず、それがいわゆる倭人なのだろう。
>>193 >鹿がいたから鹿島って・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代からの地名・神社名を用字から由来を考えるのは、避けるべき
では?「対馬」のように漢字の表意に関係なく音韻文字として当てられて
おるから。「鹿島」にも下記例のように「香嶋」「加島」表記がある。
全国「鹿島」地名一覧
◆太平洋側
佐賀県鹿島市古枝乙1855 祐徳稲荷神社
愛媛県松山市北条辻鹿島 鹿島神社
愛媛県南宇和郡愛南町鹿島
広島県呉市倉橋町鹿島
兵庫県姫路市家島町男鹿島 家島神社
兵庫県姫路市家島町加島
兵庫県高砂市鹿島川 鹿島神社
大阪市淀川区加島
京都府京田辺市香嶋里
三重県亀山市北鹿島町/南鹿島町
岐阜県岐阜市上西郷鹿島西 鹿島神社
愛知県海部郡蟹江町蟹江新田鹿島 鹿島神社
愛知県蒲郡市鹿島町鹿島 鹿島神社
愛知県北設楽郡設楽町田口鹿島川
静岡県浜松市西区呉松鹿島原 鹿島神社
静岡県浜松市天竜区二俣町南鹿島
静岡県牧之原市勝俣鹿嶋 鹿嶋神社
静岡県静岡市清水区西久保鹿島前 鹿島神社
静岡県富士市依田原鹿島道西
山梨県南巨摩郡富士川町鹿島羽鹿島
神奈川県相模原市南区上鶴間日影山鹿島下 鹿島神社
神奈川県川崎市幸区鹿島田 鹿島神社
東京都品川区大井6丁目鹿島谷 鹿島神社
埼玉県川口市安行領根岸鹿島
埼玉県さいたま市浦和区高砂鹿島後
埼玉県坂戸市石井鹿島
埼玉県熊谷市板井後鹿島 出雲乃伊波比神社
埼玉県入間郡越生町古池鹿島 鹿島神社
千葉県鴨川市東江見鹿嶋
千葉県千葉市緑区小金沢町鹿島田
千葉県市原市玉前上鹿島崎
千葉県君津市常代鹿島前
千葉県富津市上飯野上鹿島
千葉県木更津市請西鹿島塚
千葉県匝瑳市金原鹿嶋後
千葉県野田市野田鹿島下 鹿島神社
千葉県我孫子市中峠鹿島前 鹿島神社
千葉県佐倉市将門町鹿島台
千葉県山武市松尾町武野里鹿島沼
千葉県香取郡神崎町古原甲鹿島前
茨城県牛久市久野町鹿島山 鹿島神社
茨城県取手市椚木鹿島前
茨城県かすみがうら市下土田鹿島明神 鹿島神社
茨城県下妻市見田鹿島 鹿島神社
茨城県鹿嶋市宮中鹿島山 鹿島神宮
茨城県稲敷市須賀津鹿島 鹿島神社
茨城県土浦市飯田鹿島
茨城県つくばみらい市福岡鹿島東 鹿島神社
茨城県つくば市君島鹿島 鹿島神社
茨城県常総市鴻野山鹿島窪
茨城県北茨城市磯原町豊田 鹿島 鹿島神社
◆日本海側
島根県浜田市三隅町湊浦鹿島
島根県出雲市大社町日御碕かじま
島根県松江市嫁島町嫁ヶ島
兵庫県豊岡市竹野町竹野賀島山
京都府京丹後市大宮町周枳鹿島田
石川県加賀市塩屋町鹿島の森
石川県白山市鹿島町 鹿島神社
石川県羽咋市鹿島路町鹿島路
石川県鹿島郡中能登町鹿島
石川県七尾市香嶋津
石川県鳳珠郡穴水町鹿島
富山県富山市鹿島町 鹿島神社
富山県下新川郡朝日町宮崎鹿島樹叢 鹿島神社
長野県大町市鹿島槍ヶ岳
長野県大町市平鹿島
新潟県柏崎市北条鹿島
福島県会津若松市大戸町小谷鹿島前
http://bunkasi.com/?page_id=65
>>195 スレタイ海人族
>>1の意味を、誤認しておられるのでは?彼らは、
漁民であるだけでなく海上交通・交易、更には水軍活動も担っていた。
海洋民
>>79>>70と表記するのが適切な存在。
だから陸の民の対馬海峡
>>195縦断輸送はむろん、政権と半島・大陸諸国との
交易・外交にも従事。この分野に従事していたから、記紀に登場しておるわけだ。
200 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 11:00:30.66
日本の支配者階級の文化といえばお歯黒
海人もお歯黒はしていたんだろうか?
201 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 12:15:34.06
お歯黒は朝鮮伝来だが
いつの時代の朝鮮のどこから伝わったの?
キチガイと白痴も朝鮮伝来だな
>>201 お歯黒も海外から伝来したものには違いないが南方系の習俗だぞ。
百済に黒歯氏ってのがあるからウリナラ起源ニダ、かw
>>196 茨城の鹿島は当て字だけど、志賀島の語源が鹿島ってのはありうるんじゃないか?
魏志倭人伝には黒歯国が東南の海中に有りと書いてある
黒歯氏も日本経由で半島に渡ったんでね?
卑弥呼も神武も安曇族とした場合、さらに徐福も日本に来たとした場合
時系列からするに先に徐福は静岡、愛知の辺りを統治していて
ならば、九州勢の邪馬台国は徐福の後継?
207 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:15:13.82
なぜ大伴氏の話題が・・・
軍事貴族で朝廷から軍を編成するのが任務の一族だろうが
>卑弥呼も神武も安曇族とした場合、さらに徐福も日本に来たとした場合
なんの論証もなくそんな突拍子もない前提ダブルで話すすめて
しかも結論も自前で用意w そんな独り言されてもなw
>>194 え?何のためのって、初期の弥生遺跡って海とか川とか湖の近くばかりじゃん。
今の地図では内陸になってるけど、当時なら。
稲作もしてるけど、漁労もし、もちろん狩猟もどんぐりも。
そんで交易もしてる海人。
>>209 >弥生遺跡って海とか川とか湖の近くばかり・・・・・・・・・・・・・・・・
例えば島根県荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、福岡県板付遺跡、岡本遺跡
これらのどれが、海べり・川べり、湖べり立地だというのかね?
これらのどれから漁撈用具が出土したというのかね?
コナラの実の通称どんぐりは落葉樹だが、弥生先進地の北部九州に
落葉樹林帯が当時あったというのかね?
>>210 「初期の」を意図的に無視してバカみたい
>>211 例示した遺跡は、弥生時代でも初期の遺跡なんだがねえ。
>>212 へえ弥生前期に青銅器が全盛だったのかw
>>204 鹿島「カ・シマ」の「シマ」はヤクザのシマと同義なのだろうが、
「カ」ってどういう語義なのだろう?志賀の「カ」と類縁なのか?
>>212 すまんが、弥生初期って加茂岩倉が入るのか?
オレは突帯文土器様式〜遠賀川式土器の時代だと思ってたよ。
妻木晩田遺跡も素晴らしいが、初期なんていう専門家がいたかなあ。
>>210 どんぐりは落葉樹ばかりではない。
西日本の神社近辺の照葉樹のどんぐりはここ数年大豊作だ。
>>179 >久米と大伴は同族でしょ・・・・・・・・・・・・・・・・・
同族もなにもサヌ(後の神武)一行の親衛隊久米族の族長大久米命こと
天櫛津が、大伴氏の始祖だろう。
天皇家の近臣(伴)中の最有力者だから、「大伴」。だからこそ家持が、
> 「大伴の 遠つ神祖の その名をば
> 大久米主(おおくめぬし)と・・・・・・・・・・・・・・・
と、一族に向けて言上げした。
記では、大久米命と大伴氏の始祖天忍日と両人が登場するが、
これは記編纂時の大伴氏の地位の反映だろう。野卑な久米唄を
持つ久米氏とは別系統にさせたのだろう。
神武東征
http://ku1924.obunko.com/souran-0010.htm
219 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 06:01:53.05
五島について肥前国風土記曰く、
「値嘉島の白水郎は馬・牛に富めり。此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
三国志中の州胡は、済州島のこととされるけど、
五島列島のことを指している可能性はあるのかな?
当邑(木坂村) 産に臨んで 俄に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上りと曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也
『対馬紀事』(1809)
江戸時代にも、神話みたいな風習が残っていたんだな。
〔だだが鼻〕
男が訪れてきた見知らぬ女を妻にむかえた。女は、出産のとき決して産屋をのぞかぬようにと男に頼んだ。
だが約束を破って産屋をのぞいたところ、大蛇が子を産んでいた。
女は、見られてしまってはもう一緒には暮らせないと去っていったが「もし子供が泣いたら岬へ出てわたしを呼んでください。」と言った。
男が、子供をだいてだだを踏むと、女は男木島から帰ってきて乳を飲ませたという。
大蛇は男木島の玉姫神社におまつりされ、安産の神様になっている。
『新編 香川叢書 民俗篇』
これも日向神話が民間で蛇女房の話に変わった例として面白い。
『ムラユ王統記』@
マケドニアのアレクサンダー大王は、東方に遠征し、インドの王ラジャ・キダ・ヒンディと戦い、これを制した。
大王はラジャ・キダ・ヒンディの娘と結婚し、息子をもうけた。
大王はその後、マケドニアに帰還したが、その子孫は、インドに残った。
その子孫の一人、ラジャ・チュランは全インドを支配下におさめ、中国を征服するために遠征に出かけた。
シンガポールまで進軍したラジャ・チュランは、遠征を阻止しようとした中国の船乗りに、中国はまだ遠いことを聞かされた。
王は中国遠征を止め、その代わりにガラス箱に入って、海に潜った。
海の底には海中の王国があり、王は海の王と出会った。
ラジャ・チュランは、自分が地上の王であることを告げると、海の王に迎え入れられその娘と結婚することとなった。
それにより、三人の息子をもうけた。
ラジャ・チュランは、息子たちが成人したら地上へ送ることを頼み、インドに帰って行った。
『ムラユ王統記』A
成人したラジャ・チュランの息子たちはパレンバンのブキット・シグンタンに降臨した。
三人が降臨したとき、その丘の頂上は黄金となり、稲穂は金粒となり、稲の葉は銀、茎は金銅となった。
パレンバンの首長ドゥマン・レバル・ダウンはアレクサンダー大王の子孫と称する三人を迎えいれた、
やがて、うわさを聞き付けた周辺各地から、人々が三人に表敬訪問に訪れた。
これにこたえて、長男はミナンカバウの王に、次男はタンジュプラの王に、三男はパレンバンの王となった。
三男はスリ・トリ・ブアナ(三界(水界・地上界・天界)の王)と名乗り始めた。
スリ・トリ・ブアナは海辺に町を作りたいと考え、レバル・ダウンと一緒にビンタン島に赴いた。
ビンタン島の女王は、ブギット・シグンタンに降臨したスリ・トリ・ブアナを遇し、彼を養子として迎えいれた。
スリ・トリ・ブアナはビンタン島の女王の支援を得て、シンガポールへ至ろうとした。
海は嵐が起きて荒れていたが、海の王の子孫であるスリ・トリブアナは荒ぶる海を静め、シンガポールに上陸した後、町をつくった。
このスリ・トリ・ブアナのひ孫がマラッカに移り、建国したのがマラッカ王国である。
マラッカ王国の神話って、日向神話と構造が似てる気がしたので、書き起こした。
・絶対的な王者 アレキサンダーの子孫-天孫
・海底の海の王の娘と結婚
・三界の王
・降臨地と建国地は異なる
・ひ孫が建国
>>32 信濃國更級郡の論社氷金+色斗賣神社の主祭神「宇都志日金拆命」(うつし
ヒガナサクのみこと)は穂高見命の別名、社名「氷銫斗賣」(ヒガノトメ)は
穂高見命の妃か妹説があるから、安曇族は中信の安曇郡だけでなく北信の
更級郡にも植民したということか?
>>30 「和名抄」には、以下の沿海諸国の「アマ」地名が、
収載されております。
豊後國海部郡
安芸國佐伯郡海郷、安芸郡安満郷
土佐國高岡郡海部郷
阿波國那珂郡海部郷
淡路國三原郡阿萬郷
紀伊國海部郡
伊賀國河曲郡海部郷
尾張國海部郡
武蔵國多摩郡海田郷
上総國市原郡海部郷
肥後國天草郡天草郷
筑前國 土郡海部郷、那珂郡海部郷、宗像郡海部郷
隠岐國海部郷
伯耆國合見郡天萬郷
丹後國熊野郡海部郷、加佐郡凡海郷
越前國坂井郡海部郷
信濃國小県郡海部郷
>>98 >「瀬戸内海文化の系譜」・・・・・・・・・・
宮本常一の1977.5愛媛大での民族学会講演だね。
第1系統は、長く定住せず「波市性移動」していた北部九州から来た
宗像・宗方・宗形神社を祀る人々。
第2系統は、南方から北上してきた大山祇を祀る人々。瀬戸内海から
さらに東進し、伊豆三宅島、伊豆三島にも足跡を残し、三島大社、
浅間神社を遺した。
第3系統は、古くからの半農半漁定住民で遠浅磯での貝漁が得意で
住吉神を祀る人々。
という分類を氏はされたが、第3系統も大昔に当地に移住してきたはずで、
住吉神を祀るということは、やはり北部九州出身になるのか?
有名な因島の家船居住民は、第1・第2どちらの系統なのか?
>>222 >海部氏・尾張氏同様に天火明命を祖とする伊勢神官家度会氏も、海人族と
いうことか。
おいおい宝賀寿男の妄想を垂れ流さないでくれ。
度会氏の先祖は、太田亮説の通り伊勢国造としていい。尾張氏とは全然別系統。
伊勢国風土記逸文にある通り、神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征で、
天日別命は天皇の命令で伊勢を平定して国造になった。
ここから鈴木真年は、東征の経路を、伊勢から大和に侵攻したと考えた。これは卓見だ。
皇軍が生駒山で負けた時、天皇が日を背にして戦おうと言った事と附合するし、
久米歌に、神風の伊勢の海の… と歌われた事が説明出来る。
また度会氏系図で祖神の中に天曾己多智命がいるが、
これを天底立命と見て、度会氏の発祥地は阿波と考えた。これも鋭い。
勝浦などの地名は、阿波から熊野、そして安房へと移っていったのではないだろうか。
渡会氏自体は海人族的な色彩は強い。
太田亮博士によれば、海人を支配する部は、西日本は海部が多く、
東日本は磯部が多い。磯部は伊勢氏の部民だという。
伊勢氏の主張によれば、天日別命は日臣命に並ぶ将軍だったとあるが、
実際は阿曇氏に対抗する有力な海人族だったと見ていい。
宝賀寿男は鈴木真年を尊敬するとか言ってるが、
鈴木真年説の最良の部分は全く継承してない。
なお東征軍の有力者に日が付く人名が多い。
上の2人の他にも、建日別、天日鷲翔矢、天日方奇日方がいる。
最後の最後に皇軍に寝返った饒速日もいる。
阿曇氏も宇都志日金析だ。これは偶然ではなかろう。
全部ではないだろうが、神日本磐余彦天皇(諡神武)が与えた名ではないだろうか。
天皇は日に対して思い入れの強い人だったようだ。
ただ宇都志日金析や饒速日は天皇より1世代上の人だから、
これらは元々の名前かもしれない。
おっと、宇都志日金拆が正しい表記だった。
>>230 「神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺の・・・・・・」と歌い細螺に
親近し、「鴫は障らず いすくはし鯨障る・・・・・」とも歌う久米族も、
九州のどこかの漁撈民でよいのかな?
>>231 穂高見命こと宇都志日金拆(うつしひかなさく)命の「ひかなさく」とは、
いかなる意味なのか?
信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ)神社と何か因縁があるのか?
「うつし」は形容詞で、「正気だ」「意識が確かだ」という意味。
現代語だと「うつつ」などと同じ語幹。
たけし、いきし、にぎし、など人名に形容詞が付くものの1つ。
日金は金属の一種(青銅とか)かもしれないが何とも言えない。
銅矛と関係があるかもしれない。
「さく」は「咲く」か。万葉集で波頭が砕ける光景を咲くと表現した例あり。
氷銫斗賣神社は日金拆の名からだろうが、
戦後史学では氷銫斗賣や佐久郡の地名から日金拆という神名を作ったなどと言われたりする。
久米歌は、熊襲や球磨川と関係があるとすると、元々は山岳民ですね。
東征の途中で作った歌というのが本当だったら、内容はおかしくないけれど。
>>234 >東征の途中で作った歌・・・・・・・・・・・・
山岳民なら岩を這い回る巻貝を見ても、浅海に棲息する「細螺」と特定せず、
単に「貝」と呼ぶのでは?
後日、神武が大和で迎えた正妻が族長大久米命の刺青入り眼を見て
異風と驚いたという記事からしても、久米族は倭人伝の記す魔除け
刺青風習のある海人族では?
球磨川の下流域まで支配してたら海人族も含んでいたかもしれませんね。
>>232 九州で「久米」地名があるのは以下だが、鯨が障るような沿海地は
糸島郡志摩町と沖縄県の2か所。神武東上に参加した久米族の在所は、
志摩町久米だったのか?
福岡県糸島郡志摩町久米
佐賀県小城郡三日月町久米
熊本県菊池市泗水町豊水久米
熊本県球磨郡多良木町久米
宮崎県西都市藤田久米田
沖縄県島尻郡久米島町
238 :
日本@名無史さん:2014/12/13(土) 09:31:31.90
大久米命が刺青をしていたことが古事記に載ってるけど、
魏志倭人伝の倭人の特徴は、久米氏をみて書いたのかもね
ハヤトだろ大和朝廷も遅い時代迄野放しで異民族土人を畿内呼ぶ事もないだろ
魏志倭人伝の時代にハヤトとかw
前方後円墳だろう。那珂八幡古墳を見ろ。
>>243 日本海側に連綿と所在する下示「青」地名は、海人族が対馬海流に
乗って移動した居留・居住地らしい。
長崎県対馬市青海
長崎県壱岐市の青島
長崎県松浦市の青島
山口県下関市粟野
山口県長門市青海島の青海
山口県萩市青長谷、萩市青海
島根県隠岐の島町の青島崎、海士町青谷
島根県浜田市青浦
島根県浜田市の青川
島根県江津市青山、江津市青波
島根県出雲市青野
島根県松江市の青島と青木島
鳥取県米子市粟島と粟島神社
鳥取県琴浦町粟子
鳥取県鳥取市青谷、鳥取市の青島
京都府伊根町の青島
京都府舞鶴市青井
福井県高浜町の青葉山、青戸入り江、青郷
>>244 同じく日本海側に連綿と所在する下示「海部」地名との違いは、何か?
海人族の部族が違うのか?
福岡県糸島郡 元 筑前国伊都郡海部郷
福岡県福岡市博多区 元 筑前国那珂郡海部郷
福岡県宗像市 元 筑前国宗像郡海部郷
島根県隠岐郡海士町(あまちょう)元 隠岐国海部郡海部郷
兵庫県美方郡香美町香住区余部 元 但馬国城崎郡餘部郷
京都府京丹後市久美浜町海士 元 丹後国熊野郡海部郷
京都府舞鶴市 元 丹後国加佐郡凡海(おおしあま)郷
福井県三方上中郡若狭町海士坂(あまさか)
福井県福井市尼ケ谷町 元 越前国丹生郡尼ヶ谷村
福井県福井市白方町 元 越前国坂井郡海部郷
石川県加賀市美岬町尼ゴジ
石川県羽咋郡志賀町海士岬(あまさき)
石川県輪島市海士町(あままち)
富山県高岡市太田雨晴(あまはらし)
>>244 日本海沿海には、おう・おお・あお・あわ地名が、以下例にみられる。
福井県大飯郡阿遠郷 青海(おうみ)神社
福井県旧敦賀郡粟野(あわの)村
福井県福井市大味浦
福井県あわら市 芦原(あわら)温泉
石川県小松市粟津(あわづ)町
石川県能美市粟生 (あお)町
石川県河北郡内灘町向粟ヶ崎(あわがさき)
石川県羽咋郡大海(おうみ)郷
石川県羽咋市粟生 (あお)町 羽咋郡粟ノ保(あわのほ)村 羽咋市粟原(あわら)町
石川県輪島市町野町粟蔵(あわぐら)
富山県旧氷見郡阿尾 (あお)村
新潟県旧西頸城郡青海(おうみ)町大字青海
新潟県旧西頸城郡青海(おうみ)町大沢(おおさわ) 青澤(おおさわ)神社