1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 19:34:23
>>1 _ ―- ‐- 、
(r/ -─二:.:.:ヽ
>>1 ようやく立ったな
7''´ ̄ヽ-─<:.:.', __
. 〈t< く=r‐、\:く _ ...-::‐::¬::::: ̄:::::::::::::::::::::::::::::::
∠j ` / ,j={_/ヽヽr' >:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
. っ Y _/ ヽ了 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
. し イ --─¬ /::::::/:/|:::/::∧:::∧:::::::::::::::::::::::::::::::::::
f: :_: : :_:_:_└ 、 |/f|/|/ .|/ |/ ∨ ヽ|\:::::::::::::::::::::::::
/-ー/: : : : : : :\ { ヘ:::::::::::::::::::::
/7: : : :r: : : : : : : : : } ', .j / } .}:::::::::::::::::::: あぁ
>>1乙だ
/: : : : : :.|: :j: : : :\: : j } /_ ミ ヘ::::::::::::::::::
/: : : : : : : j: ヘ、: : : : \| /く<l´::<ニ二 ̄`> ミ:::::::::/
./: : : : : : : \::::ヘ: : : : : : :ヽ {::ア{:::::::}厂¨,`_______j:::::://
{: : : : : : : : : : ヘ:::ヘ: : : : : : :', V ヘ::::ノ` ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ .{::::|ヽ
',: : : : : : : : : : : :\ヘ: : : : : :ヘ. / ヘ¨ //:}::::|/
',: : : : : : : :::::::::::::::::::〉: :_:_.r--―く >ヽ / _ノ::::{ _/
'; : : : :.::::::::::::::::::::::r</ :.:.. `ー¬\__ /::::/
〈: : : : :ー---‐‐r―'´ :.:.:. ヘ: . ヽ . . }ー、 ./::::<
〈: : : : : : : : : : 〈r-‐、:.:.:.:ヘ.:.:.:.:. ', : : ',: . .|: : 〉 /:::::::/
4 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 19:53:19
論点は出尽くしている
あとは、九州で邪馬台国の遺跡が発掘されるまで、待つだけ
>>1乙:↓〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓y52ydgvBDGHx 6.0
3000壱┓ 奴国へ ┏┛:20000┃
〜〜〜┗岐─→─→┐┃∵∵∵∵┗┓〜〜〜┏━┓∵非親女王
南九州へ│┏┓┏┓└□(再掲)┏[┻┓〜┏┛ ┗┓
〜〜┏┓↓┃┗┫┗金印∵∵奴╂烏┐┗━┛ ┃
┏━┛┗末盧 ┗━━━┓∵∵┃奴└支惟─巴利━┛〜〜東
┗┓∵ 4000 T V1000∵∵┃┌┐ │┗┓〜〜〜渡
〜┃∵∵∵放 \伊→不弥∵\┃鬼└邪馬─躬臣┗━┓〜海
〜┗━━┓射1000都┏★┛∵▼┃奴──────為吾┗┓千
〜〜┏┓┃説∵┏▼\U∵┏▼┻┓鬼──▲───┘ ┃里
〜〜┃┃┃∵┏W▼┃奴┏┛▼阿蘇└┐ ▲ ┃⇒
〜〜┃旁国∵┗┓■┗┳┛∵∵┏┛華奴 ■ ┏┛
〜〜┗┓┏━┓┃■X┗┓狗奴×★蘇奴─■──┐┏┛以北20国:
〜〜〜┃┃┏┛┃■〜〜┃∵┏┛蘇奴──■─呼邑┛(女王傘下故)
┗┛┗━┛■┏━┻━┛対蘇┘ ■ ★┃戸数道里も得ら
T東南:500里┏┓◆Y■■姐奴┘┌───■不呼┃れるが(数が多
U東南:100里┃┃■〜┃■└──┘ ┌■┘┏┛い為)省略し国順
V東行:100里┃┃■┏┛■■弥奴─好古都■┏┛のみを記載。
W水行20日 ┗┛■┃ 人■│ ■┃
X水行10日 ┏━■┛ 吉■└都支─伊邪■┃伊都:南九州が半島
Y陸行:1月 ┃ ▼ ★■■ ★ │★▲┃との往来の際に利用
Z以北20国 ┗┓▼ ■■ 已百支▲┃する小国。一大率が
[女王境界 周┃ ■ ↑ Z┃奴国をけん制。飛地。
\其の南 旋┗┓投馬┏━┓■ 斯馬 ┃
5000┃:50000┏┛▼ :70000┏┛奴(筑紫):斜陽。
伊奴┐ 余里┃ ┃〜┃ ▼ ★ ●┃多勢に無勢。狗奴
│↓北 島内┏━┛ ┃〜┃邪馬台┏穀璧┃と女王の対立には
↓狗↑ 左回┗┓ ┗┓┗┓ ┗┓┗┛表向きには不干渉。
投→邪 順de┗━━┓┃〜┃ ┏┛ 独自航路を持つ。
地理説明┗┛┏┛ ┏┛
★花弁状住居 ┃┏━┛旧奴gr:福岡熊本 馬gr:南九州
〜屋室有父母兄弟寝所異 ┗┛会稽/(建安郡)東冶間の東
>>5 >X水行10日
有明海から人吉まで、絶対に10日もかからない。
ふつうに3日で着く。どんなにゆっくり漕いでも5日。
投馬国への水行20日も同様。
というか、九州島内で水行に20日もかかるなんて
あり得ない。
>>6 確かに10日はかかり過ぎだと思う。
でも、どんな風な旅だったかは正確にはわからない。
南に行くとしたら、そこしか無いんだよね。
8 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 21:24:55
どこのスレだったか、漢籍の記載と地図上の実測を照らし合わせると、
一月=80km、程度で一致してたな。
どこまでゆっくり進んでんだよと思わなくもないが、
実際の滞在日数ではなくて、距離を測る単位として
独立していたのかもしれない。
天文での角度1度=4分、といったような表現みたいに。
9 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 21:40:18
使者の案内はゆっくりしたものだったんだろう。それに有明海は潮の満ち引き
があるから、1日数時間しか進めないということだ。
>>1 乙
しかし
>>5の如きAA貼り付けるのはコテの「九州王朝説大好き」だったと思うが
内容を見ると日向厨っぽいなw
>>4 終止符スレでも聞いたが…
どんなものが出てきたらそれが邪馬台国だと断定できるのかな?
「いずれ出てくる」と言うのは常に聞くが
どのようなものが出ると予測・期待しているのか?
その具体像を聞かせてもらえないだろうか?
11 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 21:55:02
畿内が考古学的に邪馬台国の可能性があるというなら、九州はどこでも邪馬台国
の可能性がある。何が出てきたらではなく、倭人伝の行程どおりで矛盾が無いと
ころが見つかればそこが邪馬台国だろう。
>>11 そんな下らない能書きは要らんw
だったら九州の何処でもいいということになる
遺跡にしても既存のモノを適当にあてがって
どいつの「すなお読み」が一番矛盾がないかと言うお話になる。
結局九州だったら何処でもOKと言うフリーハンドを保持していたいだけ。
…ったく下らない。
こんな質問をした俺の方が馬鹿だったかw
まあこれ以上は聞くまいwww
14 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:59:19
>>12 九州と畿内では遺跡、遺物のレベルがちがうってことだよ。
邪馬台国は倭国の盟主、倭国は漢時代から中国と交流があった。
畿内にはその交流をうかがわせる物がまったくないが、九州は
どこをとっても問題はないってことだね。
脊髄反射で一体話しが何からスタートしたのかも分らなくなっているようだな
一度頭冷やせ。
>>14 >九州はどこをとっても問題はないってことだね。
↓
九州ならどこでもOK
>あとは、九州で邪馬台国の遺跡が発掘されるまで、待つだけ
で、待って待ち続けて今後九州から何か出てきても
それが邪馬台国であると言う確定材料はないと
だったら待つだけ無駄。
なんせ九州ならどこでもOKなのだからw
福岡で何か出てきた、それも邪馬台国
鹿児島で何か出てきた、それも邪馬台国
と言うか実際には具体的なことは考えたこともないんだろうw
いつか白馬に乗った王子様…じゃなくて九州説を救ってくれるものが出てくると漠然と夢見てるだけでw
もしくは具体的に言ってしまうと自由度を狭めてしまうのを嫌がっているかだな(ゲラ
>>13 それを投稿したのは私です。
私は畿内・九州なんてこだわりは持っていません。
>>13 流通経済にゆるやかであろうが、激しかろうが、首長連合なんて言葉はいりません。
物がバイヤーやブローカーから消費者に、たんたんと流れるだけです
18 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 09:15:03
>>で、待って待ち続けて今後九州から何か出てきても
>>それが邪馬台国であると言う確定材料はないと
そんなことは畿内でも一緒
どんだけ遺跡が畿内で発掘されていようと、
それが邪馬台国である証拠はゼロ!!
この事実は、永久に変わらない・・・www
19 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 09:36:49
親魏倭王印の発見、中国で邪馬台国が記載された地図が発見される・・・
邪馬台国の証拠と言えるものはこれぐらいか・・・
20 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 09:57:51
>>17 まあ、あくまで経済・商売のロジックに徹するというのなら
じゃあ前方後円墳などと言う埋葬文化
そこに副葬された神獣鏡などの威信財等々の広がりをどう説明するかだなw
コスト的に無駄やんけ!とお話でwww
まあ需要・消費側のヤマトから一方的な見方と言うのも難があるが
貨幣経済が確立していたわけでもない古代に
そんな厳密な政経分離のモデルをもってくるのも大概無理杉wwww
確かに考え方が現代的過ぎるな。
国家の存続や通商の自由・利益を保証されている現代社会のモデルだ。
22 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 10:04:48
>>19 あと「泥封」とか奴婢百余人の徇葬跡を伴う墳墓の発見とかかな?
まあ吉野ヶ里のような環濠集落が一つ二つ出てきても
どうにもならんだろうなw
(今のご時世なら調査後埋め戻されるのがオチだろうし)
23 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 10:50:08
九州からそれらが出れば、異論はなくなるだろうな。しかし、近畿から
それが出ても、行程が説明できないかぎり異論は絶対になくならない。
24 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 14:10:38
>>20 鏡も同じ。
鏡を必要とするものが、最終消費者だよ。威信財と考えたいのは現代の人だけ
バイヤーが商品の販売促進のために、あのような使用方法のアイデアを生み出し、上流階層に流行を仕掛けたとも考えられる。 それを受けとめたのが畿内の勢力!
やってる事は、今も昔も大差ないと思う。
>>23 つまり20年以上も九州説を強化する発掘がなされないのに
議論が終わらないのは畿内にあったからだとも言えるわけだ。
26 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 14:35:59
>>24 ブローカー君
で、政治的な組織、首長層とは別に
全国レベルで販売促進を企画立案する「ワコクショップ・タカダ」みたいな組織があったと言うお話かな?w
まあ自覚症状はないんだろうが
そんな事を言いだしたら
邪馬台国以前、北部九州における漢鏡の広がりにも政治的要素を一切見出せず
邪馬台国以後、神獣鏡が恐らくは、ン千枚ン万枚とばら撒かれた状況にもヤマト王権の伸長を見出せず
いや話は日本だけに留まらないw
世界中の古代のモノの流れは物流理論だけで説明がつくと言うお話
もはや考古学と言う学問のジャンルそのものを消し去りかねないような
豪快極まりないお話なわけだがwwwww
モノの流れをすぐさま強力な王権構造に結びつけるのと同じくらい下らない。
自分が叩こうとしている相手が実は鏡写しされた自分だと言う事を知った方がいいぞw
どのみち流石にそこまでのお話には付き合えんわwwwwwww
/ ̄ ̄'' -、
( / ) ヽ
i r-,,,, /,,,, )
( >| ● ●// / ̄ ̄ ̄ ̄
`‐| U /ノ < たかた
. \ ━ ,/ \____
(((O⊃>
\ 'oヽ
|,,,,,,∧|
/ ∧ \
/ / ヽ ヽ
ト-< |_/''┐
ヽ='' `=='
28 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 15:40:46
>>25 考古学者が何とか畿内から見つけようと一生懸命になってるから、九州は手つかずなんだ。
九州を掘ればすぐに見つかるものを。
29 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 16:19:54
>>27 そんな大げさなものじゃない。
全国規模に広がったのは鏡という物品で、販売促進はほんの一部で充分なんだよ。巨大な販売ルートさえ確保できれば
後は物としていろいろな使われ方をされる。
中にはアンタのいうように、威信財としての使われ方もしただろうし、またあるものは、円盤投げの器材として使用したものもいるだろう。
販売ルートは、太い一本のパイプさえ確保出来れば、後は巨大な組織が自分達で独自の拡販ルートを開発していく。
最終消費者は、後に自らがバイヤーをすることになる。
物の流通とはそんなもんだよ。
収集マニアがやがて収集の傍らで、ネットでバイヤーまがいの行為を始める。
物の流通は、そこに富が絡むと、単純なシステムでかたれなくなるのも、昔から変わらない。
/ ̄ ̄'' -、
( / ) ヽ
i r-,,,, /,,,, )
( >| ● ●// / ̄ ̄ ̄ ̄
`‐| U /ノ < ぉ おう・・・
. \ ━ ,/ \____
(((O⊃>
\ 'oヽ
|,,,,,,∧|
/ ∧ \
/ / ヽ ヽ
ト-< |_/''┐
ヽ='' `=='
31 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 16:45:07
今まで散々物を取り上げて議論していたようだけど、誰一人として、物としての流れの性質を考えていなかった。 今から300年も前に世界にさきがけて、米の先物取引が堂島で行われていた。
これは、大阪に米が集積するという特徴を商人がうまく利用したものだ
物が集まれば、かならずそこにはそれを利用した新しい発想が生まれるもので
さまざまな珍品の代償として、墳墓デザインの技術が広まったとも考えられる。つまり、畿内は最大の消費者であり、その代償は品物ではなく、知恵や知識といった無形なもの
有形と無形の取引も、充分考えられる。
32 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:56:21
33 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 10:57:40
鏡は役割は統一された使用や価値ではなく、地域によって
異なった価値や使用があったのではないかと思う。
墳墓から出土する枚数も、まちまちであるし。
威信財でならば鏡を多量に埋葬する必要がなく、一枚でその必要性は充分に満たされる。
複数枚出土することは、威信のインフレ状態であり、逆に威厳を弱めてしまう。
△の鏡には、稚拙な中国文で商売品だと書いてある。
35 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:08:21
36 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:04:48
新年早々から「ビチグソ」かよサイキバ君…('A`)
37 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:37:51
>>13 こいつ馬鹿杉WWWWW
いまどき畿内説WWWWW
ゴキブリウジ虫畿内説WWWWW
病気が悪化してる希ガス
でも、今みたいな病状(もともと病気だったが)に追い込んだの俺たちだよな。
彼にも親御さんがいらっしゃると思うが、ホントに申し訳ないことをしてしまった・・・
40 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 00:32:09
そう言えば昨日もタケシが日本史ネタ(空海最澄)で特番やってて
そこで例によって怨霊(崇徳とか)のお話が出ていたが…w
サイキバ君初めゴミクズレベル九州説の連中ってこの板で怨霊化・祟り神化しているよなwww
東遷説やら九州王朝説やらどこかでネタを仕入れてきて
「これでボクにも畿内説をやっつけられる!」と意気軒昂に乗り込んできたは良いが
当然の如く軽く叩き潰されて怨み骨髄に…と言うパターンwwww
くわばらくわばら(ちなみにこの”くわばら”も道真の怨霊に関係したりするw)
41 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 01:56:31
九州説だが、まともな反論を聞いた記憶がない。
畿内に独立した勢力があるのは別に否定しないし。
その勢力が九州を支配していたなんて根拠は
とんと聞いたことがない。
まあ、3世紀の九州内ですら、共立という言葉が示すように
統一された支配がされていた形跡も無いわけだが。
各国マイペースで、宗教的象徴を擁立するのがせいぜいのところ。
各国互いに政治的な支配なんて勘弁というところ。
多分統一支配なんて発想そのものがない。
42 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 09:27:28
邪馬台国畿内説なんて、九州からの東遷説を受け入れない限り、絶対に成立しない!!
なんで、こんな簡単なことが解らん奴がいるんだ??
43 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 10:39:08
いったん妄想にはまると、なかなか抜け出せのが人間の脳内だと観て
いいだろう。だからこうだと思っても、もしや間違いではないかという〜
バックしようとの意思はいつも捨てないで持ってるべき。
44 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 10:46:39
東遷しても東征してもいいけど、
大軍が移動すれば痕跡が残るはず。
大軍だと兵糧が持たない。
長大距離の兵糧収集と輸送の痕跡もない。
たまには、反抗的な村長を殺すことくらいあっただろうが、
ほとんどは融和、あるいは無関心といった程度だろう。
それくらい小さな勢力。
45 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 11:43:39
>大軍が移動すれば痕跡が残るはず。
それが古墳だろ。
>>45 回答が素っ気なさ過ぎ。
古墳のどのような点が、大軍移動の痕跡なの? そこまで書いてよ。
墓制の比較からは、単純に九州からの異動だけでは説明が難しい。
半島から、日本海側を経由した流れのほうが主流なのかも知れない。
文化複合が起こっただろうが、邪馬台国連合の内外で文化圏のベースの違いがあるようだ。
48 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 15:27:33
共立の卑弥呼の後の、倭の五王は王扱いされている。
どれほどの勢力範囲だったのかは知らないが
その頃には、中国から見ても「王」としての形式を持っていたのだろう。
三国時代では、卑弥呼が親魏倭王とされたが、晋の時代になっても破格の待遇を受けたかどうかはわからない。
中国、半島の情勢によって、倭の重要性が認められることもある。
50 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:09:04
■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/上 「石囲い木槨」と判明 /奈良
毎日新聞 2011年1月5日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110105ddlk29070320000c.html 「難しかったですね。それだけに、やりがいがあり、ありがたい調査でした」。
桜井市箸中。卑弥呼の墓説もある箸墓古墳の東約200メートルにあるホケノ山古墳。99年秋から調査を担当した県立橿原考古学研究所付属博物館の岡林孝作・総括学芸員は、こう振り返る。
95年11月〜96年2月に桜井市教委が実施した第1次調査で、箸墓古墳より古い可能性がある全長約80メートルの前方後円墳と分かった。
岡林さんが担当したのは、橿考研を中心にして奈良盆地東南部の探究をテーマに設けられた大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会が実施した調査。目的は埋葬施設の全容解明だった。
(つづく)
51 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:12:16
(毎日新聞 ホケノ山古墳/上 つづき)
後円部の中央で発掘を始めたのは9月14日。3日後の17日には、人のこぶしぐらいの石が出始めた。
「表土をとると、いきなり石が出てきたから、『さて、何やろう』と思った。それで、石を一つ外すごとに、全部、チェックしていくという、とても細かい調査になりました」。
その過程で、その石の中に、木造の構造物があったらしいことが分かってきた。
「だけど、そんなものは類例がない。大きな木造の構造物で思い浮かんだのが木槨(もっかく)で、木槨といえば『楯築(たてつき)』となったのです」
楯築は岡山県倉敷市にある遺跡。76〜86年に岡山大学が調査した、弥生時代後半(2世紀末ごろ)の全長約72メートルの墳丘墓だ。
この墓の埋葬施設が、木の板で壁をつくり、ふたをする木槨だった。調査を指揮したのは、古墳研究で一時代を築き、一昨年、84歳で死去した岡山大名誉教授の近藤義郎さんだった。
「すぐに近藤先生に連絡し、来ていただいた。
先生には特段、何も説明しませんでしたが、僕らが木槨の側板だと思っている断面のところへ行って、側板の下の礎板を探し出した。それで、僕らも、自信を深めました。近藤先生がそう見たのなら、間違いなかろうと」
最終的に、木材で木の部屋をつくり、その周囲に河原石を横み上げて「石囲い」を設ける二重構造をした「石囲い木槨」であることが判明。
「石囲い」は長さ約7メートル、幅約2・7メートル、深さは1・5メートル程度。内部には、長さ約5メートルのコウヤマキ製の長大なくり抜き式木棺を納めていた。
当初は類例がないとみられていたが、調査を進めていくうちに、萩原1号墳(徳島県鳴門市)や黒田古墳(京都府南丹市)も同様の埋葬施設だったことが分かった。
岡林さんは言う。
「最初は類例はないと思っても、さまざまに知恵を絞って、いろいろな人に見てもらい、情報をやり取りすることで、だんだん固まってくるという貴重な経験ができました」
調査を始めたのは99年9月10日。調査区を埋め戻し、すべての機材の撤収を終えたのは、翌00年9月20日になっていた。計377日の充実した調査になった。【山成孝治】
52 :
天之御中主神:2011/01/05(水) 16:32:02
天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化
三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、な
かでも天御中主神は最高位に位置づけられている。
北九州(邪馬台国連合)は、本来、馬韓、弁韓由来の甕棺入り、郭なしの墓制の伝統が根強く。
日本海側と徳島と関西に高句麗由来の墓制が入り込んでいるのはどうしてだろう?
54 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:44:57
>>46 古墳を誰が造ったのかだな。東遷又は東征が行われたとなると、全国的に大変な徴兵
がなされたはずだ。それは倭人伝が兵の武装について記述しているところからもある
程度は推測がつくだろう。
その徴兵のほかに更に古墳造りのために多くの労働者が徴発されたのか?ちょっと考
えがたいな。私は軍が駐留したところでその兵士が古墳造りをさせられたのだと思う。
そうであれば、兵士の訓練、体力増強にもなる。
在地の豪族が自らの領民をつかって古墳造りをしたのであれば、強力な豪族がいたと
ころに大きな古墳が造られるはずだが、古墳の造られかたをみると必ずしもそうでは
ない。軍が駐留したところだとみれば、全てが納得できる。
つまり、古墳はそこに軍隊が駐留していた痕跡というべきだよ。
55 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:47:14
現代風にいうと
日本は北朝鮮と国交ないだろ?
卑弥呼が韓国とすると、満州までは韓国のもんじゃねえ?
ってことは、領土の広さはあんまり当てにならないし、近所の町内会
レベルでも書類さえあればいいんじゃない?
実は邪馬台国は竹島だったりして。
56 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 18:35:16
>>54 >在地の豪族が自らの領民をつかって古墳造りをしたのであれば、強力な豪族がいたと
>ころに大きな古墳が造られるはずだが、古墳の造られかたをみると必ずしもそうでは
>ない。
具体例をどぞ。
>必ずしも
トーンダウンだな。w
57 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:40:46
1700年前のお引越しの痕跡なんぞ、とっくに消えていても何も不自然ではない
58 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:53:25
>>41 しかし
>畿内に独立した勢力があるのは別に否定しないし
この一文があるだけで、まだマシだと思ってしまうのがこの板のお寒い現状って話だなwwww
いい加減学習しろと言うか、まあ、学習する気が無いんだろうがw
そもそも現在の畿内説と言うか考古学・史学でそんないきなり強力な支配体制が九州にまで伸びたなんて事を言っているとも思えないがw
一体何を相手に戦っているんだ?ってお話だなwwwww
緩やかではあっても一応は連合体が九州にまで伸びていたのは
神獣鏡や那珂八幡等の北部九州の古墳の登場に見るというのは
邪馬台国論争なんて関係のないお話で
それを単に文化の伝播を越えて政治的結びつきを見る根拠は今まで散々言ってきたし
それこそ常識レベルの話で今更繰り返すのは止めておく。
自分でお勉強してくれって話だなw
と、なれば今度はその『年代』についてイチャモンをつけるのがゴミクズレベル九州説のパターンだが
これも過去散々繰り返してきたので割愛。
そもそも、じゃあ九州説側に年代を争える材料があるのか?って話で
相手がテーブルの上に出したカードにイチャモンをつけているだけで
自身は場に一枚のカードも出していない。
ゴミクズレベル九州説のどいつもこいつも勘違いしているのは
邪馬台国論争を再スタートしてもらいたかったら、てめえらがネタをもってこいって話で
下駄もボールも自分らにあることを分っていないw
「まともな反論を聞いた記憶がない。」とは畿内説側の台詞だなwwwwww
59 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 21:10:48
>1700年前のお引越しの痕跡
先ず東遷東征をどう考えるかで普通に考えればその版図を東へ東へと拡大し
兵站線も確保した上でやがて畿内にいたったというもの。
この場合結構な時間がかかっていて神武は、その現象を擬人化したキャラと言うことになるだろうがw
そうなるとそれなりの痕跡を求められるのだろうが
それに答えられるものは何一つない
(古墳?なんじゃそりゃ?前方後円墳九州起源説か?wwwww)
もう一つは極めて短期間に版図の拡大とかじゃなくダイレクトにヤマトを目指したと言う話
(まあ各地に数年ぐらい寄るのはアリでw)
これなら痕跡を出せと言う方が無理難題を吹っかけていると言う事になるだろうが
じゃあ、そもそも、なんで、そんなリスキーな旅をしてヤマトを目指さねばならなかったのか?
ってお話で所詮は神話・ファンタジーの域を出るものではないw
60 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 22:28:40
>>56 弥生後期の銅鐸は、近畿でいうならば近江、紀伊など周辺部に多くでており、そこに
豪族がいたことを示すが、大和からはでていない。大和は弥生時代には空白地域とい
うべきところだ。ところが、古墳は大和を中心に造られ、周辺部は比較的少ない。
また、銅鐸は東海西部に多いが、そこの初期古墳は少ない。出雲も強力な豪族がいた
地域だったと思われるが古墳は少ないな。
九州でみれば、弥生後期に見るべきものが少ない大分に大きな古墳が造られている。
61 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/05(水) 23:05:33
>九州でみれば、弥生後期に見るべきものが少ない大分に大きな古墳が造られている。
古墳は景行の足跡で追える。
つまり景行世=卑弥呼 である。
62 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 23:14:14
景行は小林から人吉、芦北に抜けたはずだぞ。そのルートに古墳はないねえ。
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/06(木) 00:25:25
つまり 景行世≠卑弥呼 である。
64 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 09:55:12
wwwwwの奴って、いつも夜一人で下らんバカ長文を書いているんだな
可笑しくて可笑しくて、腹抱えて笑っちゃうwww
65 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:00:56
>緩やかではあっても一応は連合体が九州にまで伸びていたのは
>神獣鏡や那珂八幡等の北部九州の古墳の登場に見るというのは
>邪馬台国論争なんて関係のないお話で
>それを単に文化の伝播を越えて政治的結びつきを見る根拠は今まで散々言ってきたし
「邪馬台国論争なんて関係のないお話で 」
時代が違うからな。「ゆるやかな首長連合」の根拠とされるものは4世紀以降の話だからな。
66 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:12:05
>>64 ん〜、サイキバ君か?それとも最近で言えばメガネ君か?
何れにせよ何処かで踏み潰しちゃった虫ケラ君だろうがw
そんなに面白いか?
馬鹿は語尾の「www」しか目に入っていないだろうが
俺の言っている事なんて落ちもひねりもない。
言っている事の大半は、基本極々当たり前、邪馬台国論争以前のそれこそ中学生の教科書レベルの常識。
まあそれだけゴミクズレベル九州説の言っている事がトンデモなんだがwww
67 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:13:35
>>54 >つまり、古墳はそこに軍隊が駐留していた痕跡というべきだよ。
ちょくちょく書き込まれるこの「古墳=新兵訓練の場」言うなれば
「前方後円墳ブートキャンプ説」 w
一体何を言いたいのか?
要するに畿内に巨大古墳が築かれる段階に至っても
それは外部(東征)の勢力が現地で徴兵のついでにやったことであって
古墳の出現と勢力の台頭とは関係ない…と言いたいのだろうw
九州王朝説で聞いたような与太話だなwwww
(確か5世紀の河内平野にも適用されるロジックw)
3世紀4世紀5世紀とドンドン古墳は巨大化していくが
一体いつ東征は完了したのか?
兵力の現地調達・増強を一体何百年やってんねん…っちゅうお話で
卑弥呼の倭王冊封とともに各地に前方後円墳が散らばることになる。
九州説は現実を見るべきだな。
69 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:41:22
>卑弥呼の倭王冊封とともに各地に前方後円墳が散らばることになる。
こらこら!何の根拠でそんなことが言えるんかい。
>>69 暇つぶしでやってるんだから根拠だなんて野暮なこと言わないで。
71 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:14:50
>>67 >3世紀4世紀5世紀とドンドン古墳は巨大化していくが一体いつ東征は完了したのか?
まったく理解力のない奴だな。東征がすんだら兵は引き上げるとでも思っているのか?
何のために東征するんだ。東征した地域から産物を収奪するためだよ。
中部、関東と征服し、そこからの産物を九州に送らせる、その物流センターを大和に
置いたわけだ。だから何時まででも続くんだ。そんな簡単な理屈がわからんのか。
そういえば、
>>59で「なんで、そんなリスキーな旅をしてヤマトを目指さねばならな
かったのか?」なんて書いていたな。後進地を征服するのが何のためかまったく分か
ってなかったんだな。よかったねー、勉強できて。
72 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/06(木) 23:22:49
景行は魏の”屯倉”手法を取り入れる。
魏の屯倉手法とは、領土の領有を認める代わりに、
租税(食料)の納具と兵役の義務を負う。
景行、成務の屯倉設置は、その地方から兵役に出た証拠として古墳が存在する。
。
73 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/06(木) 23:33:57
訂正
×納具
○納貢
>そこからの産物を九州に送らせる、
とは言え、鉄が大和から分与されたから、遠方の九州は、少ない。
鉄は、任那建国(209年伽耶建国)以後、大和に流入する。
74 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:37:06
>>71 >そこからの産物を九州に送らせる、
で、その『 前方後円墳ブート・キャンプ w 』によって鍛えられた兵によって征服された地から簒奪された
物資・富は九州の何処に集積されたのかな?w
その九州王朝は何処なんだよ?アホwwwwwwwww
つうか、やっぱり九州王朝説の狂信者だったかw
(ひょっとして九州王朝大好きかな?)
まあ過去のパターンからして予想できる与太話として…
「半島での戦いに全て費やしてスッてしまった。
偉大なる九州王朝の都は日帝…じゃなくて大和朝廷に破壊され尽くした!」
とかかな?www
75 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:45:43
76 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:48:11
まあこの『 前方後円墳ブートキャンプ説 』と言うのは
九州王朝説のキチガイどもが
少なくとも4世紀5世紀に畿内に巨大古墳が出現することについては
認めざるをえなくなり、それでも九州王朝が列島の覇を握っていたと言うシナリオを描きたいが為
編み出した与太話なんだよなwww
つうか、そもそも墳墓の造営で新兵を鍛えると言う事自体が良く分らない話だが
そこに突っ込むのは野暮なのか?www
まあエジプトのピラミッドがナイルの氾濫時、農民の失業対策だったと言う話はあるがw
東海・関東、東北・北陸へと兵を進めなければならないのに
その兵で例えば大仙陵のような超巨大古墳を作る。
確かどれだけの労力が投入されたか大林組の試算があったと思うが
もはや本末転倒、お笑い話wwww
77 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:57:07
>>75 中学生でも小学生でも行き着く疑問だなw
畿内の巨大古墳はじめ各地の古墳に見られる流通(と言うか簒奪?w)ルート・システム。
それだけの大掛かりなものがあれば最終的に”あがり”を溜め込む場所(九州王朝)は
さぞ巨大なものだろうと誰もが思うわなw
中学生にさえ突っ込まれる
ゴミクズレベル九州説九州王朝説『 前方後円墳ブートキャンプ説 』www
78 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:17:44
巨大古墳がそれだけの人員を動員できることを示しており、
その動員数は動かせる軍隊の大きさでもある。
また、その人員は畿内周辺で動員されていた。
その程度は言えるが、それ以上のものではあるまい。
よその地方では、同時期に、これほどの密度で構築された例は
ないことからみても、そんな動員はなかっただろう。
5世紀河内の巨大古墳群は単なる出先機関で、本拠地は九州にあった。
・・・こんな主張は未来永劫受け入れられることはないだろうな。
なぜここまで虚構を守ろうとしなくちゃならないんだ?
80 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:23:01
たとえ、本当に畿内が九州の出先機関だとしても、
大量動員ができるほど力を持ち、かなりの遠距離でもあるから、
九州が畿内をコントロールできたかは疑問だな。
…ん?
だから7世紀後半から大和朝廷として独立するのかな?
81 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:27:15
>>79 「ジャパネットたかた」みたいですね。本社は九州でしたね。
82 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 09:42:44
>>77 ほんと、小学生なみだな。”あがり”は溜め込むんじゃないよ。
どんどん消費していくんだ。
83 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 10:05:29
>>80 畿内に行かせてそのままにしておけば、コントロールできなくなるだろう。
そんな馬鹿なことはしないわけで、一定の期間、頑張らせて九州へ戻す。
人をどんどん入れ替えていくんだよ。支店めぐりをさせた上、本店に戻す。
今の会社と同じだ。
84 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 10:16:24
逆の例だが、万葉集なんかでは、奈良から
太宰府に出張して、また戻すようなことをやってるな。
しかし、下級の人間は現地調達。
そして、だんだん上位の人間はお飾りとなり、
最後には名目だけで実際には現地に行かないような状況になる。
そして、現地の勢力はいずれ独立するのではないか。
戦国時代に、ナンバーワンの守は名目上だけのものになり、
ナンバーツーの権が実験を握るように。
85 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 17:37:17
>>82 九州王朝大好き?
小学生中学生の教科書がそんな与太の内容に変わることは未来永劫ないだろうよアホがw
「前方後円墳と言う兵力調達システム・流通ネットワークは残りましたが
それを利用した九州王朝は跡形もなく消え去りました」か?
それで反論したつもりか?
”消費”って言えば良いって紋じゃないぞw一体何に変えたんだ馬鹿者w
全て”サービス”のような形の残らないものにでも注ぎ込んだのか?
一番手っ取り早く富を四散させるならギャンブル・カジノだろうか?w
それでもマカオだのラスベガスだの、そこにはそのサービスを提供する為の人間が集まり都市を形成するわけだがwwww
そもそも食料その他生活に必要な物資の多くを外部に頼る都市自体が消費の痕跡
(その意味では「一次産業の痕跡が殆どない」と言われている纏向は消費の痕跡そのもの)
他にも「じゃあ九州の前方後円墳の意味は?」とかツッコミどころは腐るほどあるが
(と言うか広大無辺の慈悲の心でもってしても拾ってやるところがないwww)
所詮、巨大古墳の出現を、「歴史の謎の黒幕・九州王朝(笑)」の描いた絵図・プランとしたい
九州王朝説基地外電波信者の与太話以外の何物でもない。
まあ、これで他の人間もこの「前方後円墳ブートキャンプ説」がどのような
トチ狂った思考から出てきたものか分っただろうwwwwwwwww
86 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 19:56:59
キチガイの下らん駄文が段々長くなってきたぞwww
誰も読んでいないのに御苦労なこったwww
詐欺のカスの捏造の畿内説wwwwwwwwwww
クソモラシの病気の引きこもりジジイの畿内説wwwwww
詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造
詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造
詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造詐欺捏造
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
88 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:41:00
こ、これは・・・・
人として 壊れきったる 寒夜かな
89 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 08:00:07
>>85 ”消費”って「一体何に変えたんだ」とはあきれた馬鹿者だな。
広大無辺の慈悲の心でもってしても拾ってやるところがない。
国家というものがどうやって動いていくのかを知らんな。国の施設を作るには多くの資材が必要だ。
それに、倭国には大勢の役人、軍人がいる。徴兵で集めた兵士にだって食わせなければいかん。
集めた物資は、そうゆう資材にしたり、役人・軍人の給料として配ったり、ほとんどそれらに消えて
いくんだよ。消えてはいくが、それで国全体が豊かになっていくんだ。
90 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 10:41:49
>>89 九州王朝大好き?
下らない言葉遊びで恥の上塗りをやっている自覚がないのか?
ああ、自覚できないから馬鹿なのかwwwwww
>国の施設を作るには多くの資材が必要だ。
だからその施設の数々は何処にあるんだよw
>それで国全体が豊かになっていくんだ。
国全体と言うのは日本全体か?
首都たる九州王朝は雲散霧消したって話か?w
こんなリアル小中学生にも相手にされないようなお話
いくら匿名の掲示板だからって恥ずかしくないのか?
ああ、恥ずかしくないから九州王朝説なんかやってられるのかな?wwwwww
91 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 10:50:05
まあこの「前方後円墳ブートキャンプ説」なんて
「エジプトのピラミッドは宇宙人が古代エジプト人に建設させた」
なんてお話と本質的には変わらないwww
93 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/01/09(日) 13:04:55
>>90 >
>>89 九州王朝大好き?
勝手に何回もコテハンをだすな。
最近は2chには書き込まない。
>>93 ヨコからですが
>勝手に何回もコテハンをだすな。
コテ出さずにグラマンの話なんかするからでしょ。
>最近は2chには書き込まない。
でもチェックは欠かさないんですね。
あちらでもがんばってください。
>>93 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
ん?違ったのか?そりゃ悪かったな(胸を反らしながら)wwwwwwwwww
じゃあこのブートキャンプ君(仮)は例のあいつか…
比定地としては日向説に近く(
>>5のAAもこいつの作か?)
東遷説といっても厳密に言えば奠都説。
恐らく縄文人や日向厨にも良く間違われている奴w
まあこの ドキチガイ与太「古墳ブートキャンプ説」 がそれなりのリアリティを持つとすれば
先ず前方後円墳が九州で誕生して、それがやがて中国地方西部から畿内へ東進する
…と言う現象が見られれば、古墳を征服者が支配地に打ち込んだ楔としてその造営に
前線の兵士も加わった可能性はある…と言うパターンとかかな?
それが現実に則して言えば
九州から瀬戸内すっ飛ばして、いきなり畿内大和に入って古墳を造り
そこを基点に全国制覇。
九州には逆上陸の形で古墳が築かれる。
(その時点に及んでも流通の終着駅は九州にあったらしいが)
一体ナニヲ言っているのかワケワカランwwwwwww
96 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:22:23
>九州から瀬戸内すっ飛ばして、いきなり畿内大和に入って古墳を造り
>そこを基点に全国制覇。
日向の初期古墳はいつできたんだ?
97 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:50:49
280年代かな。
98 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 03:45:15
てすと
99 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 07:04:26
100 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 10:50:12
前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。
建造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られている。
>九州から瀬戸内すっ飛ばして、いきなり畿内大和に入って古墳を造り
完全に認識が間違っている
101 :
もう本当の事わかってしまったのに:2011/01/10(月) 10:57:53
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
うわ真っ直ぐw
おおきにさんですー
104 :
5:2011/01/10(月) 18:33:35
どういたしまして
九州説の根拠って結局中国に近い、大規模遺跡があるってだけだよな
普通に考えたら九州以外にも大勢力があったんだから、九州である根拠になってないと思うんだが九州説の支持者はどう考えてるんだ?
106 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:14:13
考古学的に言えば、九州にも畿内にも、全国どこにも
邪馬台国であることの証拠なんて存在しませんよ
いや九州説唱えてるのがあちこちで騒いでたからさ
108 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:04:21
九州説の根拠は三國志の魏書烏丸鮮卑東夷傳にあるよ。よく読んでみ。
109 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 09:46:54
畿内になかったことだけは確かなのだから、他に有力候補地は九州しかないだろう。
何しろ箸墓は4世紀後半築造は決定的。
ホケノ山だって4世紀半ば。
ホケノ山から出た画文帯神獣鏡は呉の滅亡後、楽浪で作られたものだ。
楽浪が高句麗によって滅ぼされた312年以降に日本に亡命してきた
楽浪人が日本に持ってきて、ホケノ山に副葬したもの。
(中国の学者は呉の滅亡後、呉で神獣鏡の製作をしていた職人が洛陽や楽浪でも
神獣鏡を作るようになったと言う。
同じく中国の学者によれば、漢の末期や三国時代には鏡作りは衰退していて鏡は作られなくなっていた。
国が滅びようとしている混乱のさなかや戦争中に鏡等の必需品でない物が作られなくなるのは当然だな。
そのころ日本(九州)では盛んにホウ製鏡が作られるようになっている。
魏の明帝が卑弥呼に「好い物を遣ろう」といって鏡を百枚くれたのも、中国で鏡が作られなくなったため、
日本では鏡が不足していると言う事情を察しての事だろう。
ところが中国では晋が中国を統一すると鏡が沢山作られるようになっている。
中国の事情を無視した鏡編年でホケノ山の画文帯を環境とした畿内説の年代観は間違っている。)
もって来られてから副葬されるまでの時間経過を考えれば350年くらいになるのは当然。
したがってホケノ山は4世紀半ばであり、箸墓は4世紀後半となる。
そうすれば箸墓からでた鐙との整合も出てくるのだ。
110 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 09:54:32
何よりも倭国の盟主ならば弥生時代のうちから中国との接触があったはずだ。
近畿の遺跡、遺物をみても、その形跡がまったく認められない。
>>110 釣りにしてはレベルが低いな。
それともただのバカ?
112 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 10:23:24
では、何かあったかな? 貨泉なんて情けないこと言わないでくれよ。
113 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 11:11:51
>>112 おれは111ではないけど、たとえば三角縁神獣鏡はどう?
>>109 同意
畿内説は学問じゃなく、宗教だから何を言っても無駄だよ。
115 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:20:47
>>113 だめ。弥生時代と書いただろ。銅鐸勢力が中国と通交していた証拠があるかと
いうことだ。
>釣りにしてはレベルが低いな。
ここと終止符スレどっちがレベル低い?
しいていえば終止符スレのほうがましなんじゃないか。
117 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:27:35
どうせ住人はかぶってるんだから、レベルも目くそ鼻くそ
118 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:55:28
>>115 三角縁神獣鏡には、景初とかの年号が記銘しているものがあるぞ。
それはまさしく249年だろ
119 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:58:04
訂正、239年だ
120 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 14:20:21
中国南北朝時代の北魏では当初道教が盛んだった。
大和ではこの北魏と交流していたのだろう。
北魏は三国の魏の後裔を主張していたから、大和は昔三国の魏と交流した事を偽装するために
魏の年号を使った鏡を作った。
鏡は畿内に沢山ある鏡作神社で作られた。
鏡作神社には社伝として「三角縁神獣鏡を始めて試鋳し、崇神天皇に奉納した。」とある。
また試鋳に使われたと言う神獣鏡の内区が神宝として祀られている。
ところで三角縁仏獣鏡と言うのも出土している事を知っているか?
北魏は後に道教が廃れ、仏教が盛んになる。
北魏で仏教が盛んになった頃と三角縁仏獣鏡が出土する時代は同じか、日本が若干遅いと考えるべきだな。
>>112 加美遺跡なんてどうだ?
弥生時代中期で方形周溝墓に頭部に朱だよ。
貨泉も出てるし、普通に考えれば大陸勢力と関連有るけどな。
122 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 14:53:56
>>120 >北魏は三国の魏の後裔を主張していたから、大和は昔三国の魏と交流した事を偽装するために
魏の年号を使った鏡を作った。
卑弥呼は魏から銅鏡100枚贈られたんだから、そんなもの偽造してまで、
鏡を作る必要はないのと違うか?
123 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 15:04:14
>>121 朱が使われていたとか貨泉がでたとかいうだけでは中国と通交があったなどと
言えるものではない。
朝鮮半島と何らかの関係があったとは言えるだろうが、そんなことは銅鐸の銅を
どこから手に入れていたかを考えれば、一番可能性があるのは朝鮮半島のはずで
いわば当然のことにすぎない。
>>109 >中国の学者は呉の滅亡後、呉で神獣鏡の製作をしていた職人が洛陽や楽浪でも
>神獣鏡を作るようになったと言う。
それは
「呉滅亡以前は魏や半島では神獣鏡が作られた事はなかった」
「魏の領域や半島における神獣鏡の登場は呉の滅亡を待たなければならない」
…と言う意味かな?
もしその意味で言っている中国の学者がいると言うのなら
その学者の名前や著作等について後学の為教えてもらえないだろうか?
ちなみに製作地論争でゴミクズレベル九州説が必ずその名を挙げる王は
中国湖北省(荊州)でも出た「黄初」の年号のある神獣鏡は
呉が魏に臣従していた頃に作られたとしていたはずだが…
(まあ外注と言うかアウトソーシングと言ったところか?)
125 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:09:02
先に出てきたブローカー君(仮)は「完全政経分離」を言っていたわけだが
この>109(怨み節)は真逆で「完全政経一致」と言ったところか?www
三国時代は魏呉蜀の間でまるで「鉄のカーテン」でもひかれたように
人や物の交流が絶えたと言わんばかりだw
(敵対する国で人や物の行き来が絶えたら大陸の春秋戦国時代とかどうなるのか?w)
もうこの時点で馬鹿馬鹿しいお話と分るが
例の『邪馬台■の会』なんかだと呉が魏に臣従していた時期があったなんて事を恐らく意図的に隠しているのではないか?
魏呉の対立と言えば三国志の「赤壁の戦い」とか特に古代史に興味がない人間でも知っていて
” 勘違いさせ易いから ”wwwwwwwww
が現実は「昨日の敵は今日の友」でそんな単純なお話じゃない。
まあ演義ベースのストーリーでいうと…
赤壁後、荊州を守っていた関羽が呉の呂蒙らの計略によって捕らえられ斬首される。
義弟関羽を殺された劉備はブチ切れて周りのとめるのも聞かず呉に軍を向ける。
慌てた呉は魏に臣下の礼をとり後方の憂いをなくす。
(魏も呉も互いの腹の内は知っていたわけで蜜月と言っても仮面夫婦みたいなもんかw)
ここら辺、三国志ヲタに詳しい解説願いたいw
126 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:17:13
まあ兎に角だ、2世紀には登場している神獣鏡が3世紀の”丸々百年!”
(国産説をとるにしても)その意匠すら日本に伝わらず
4世紀になってやっと登場すると言うのは
現在そんな事を唱えているのは邪馬台国東遷の安本やその信者しかいないのではないか?
そう、皮肉な事に「製作地論争」が深化する中で「制作年代」は
3世紀には既に初期ヤマト王権が興り、神獣鏡をばら撒いたと言うシナリオがガチなものになってしまったw
無論、ヤマト王権と九州邪馬台国の並存を認めるなら
理論的に九州説は成り立つ(と言うか現実的にはこの選択肢しかない)が
邪馬台国東遷説で、その東遷してきた勢力がヤマト王権になった
…なんてお話には実に都合が悪い、と言うか即死レベル、商売あがったり!なお話www
以上のような事情がある事を踏まえて
>>109のようなレスを読んであげることをオススメするwwwwwwwwwwwww
(と言うか毎度毎度ほとぼりが冷めたら同じ詐欺の如きネタの繰り返し
…よく飽きないなw)
>>123 中継地点である朝鮮半島と関係があるとは言えて、
どうして中国と国交が無いと言い切れるの?
変な理屈だね。
128 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:55:25
それより九州で明らかに中国と関係のあった形跡ってあるの?
129 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:09:57
>>128 北九州の弥生遺跡から沢山の金製品や漢鏡が出ているさ。
知らないのか?
知らないで議論しているような厨房が畿内説になっている訳だ。
130 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:11:50
>>122 畿内には中国の鏡が無かったから偽装する必要があったのさ。
>>129 で、そこから畿内の土器も吉備の土器も山陰の土器も出てくるわけですね^^
132 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:24:15
>>109 >ところが中国では晋が中国を統一すると鏡が沢山作られるようになっている。
つまり邪馬台国は後漢末〜魏の鏡が激減した時代から
晋に入って劇的なV字回復した時代を経験していると言う話だと思うが
3世紀の九州にそんなものを見ることができる編年モデルってあるのか?
るなら教えて欲しいのだが…
133 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:57:10
伊都の中国鏡は関係のあった形跡にならないのかな?
大型の内行花文鏡など倣製のものもあるけど。
134 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:58:46
そうそう、北部九州の鉄は大陸との関係そのものじゃないかな?
そのころ日本で製鉄ができたんなら、国産だけど
時代的には無理じゃない?
135 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 20:09:40
>>128 そんなに難しく考えずとも、漢の倭の名の国王の金印があるではないか
136 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 20:26:17
>>132 >つまり邪馬台国は後漢末〜魏の鏡が激減した時代から
晋に入って劇的なV字回復した時代を経験していると言う話だと思うが
3世紀の九州にそんなものを見ることができる編年モデルってあるのか?
日本の遺跡の年代ははっきりしないから何とも言えないな。
呉が滅んだのは280年だし、晋は290年には内紛が勃発して衰退に向かう。
内紛のために東夷に対しる関心も無くなって倭国との交流があったのかも判らない。
九州の年代を遺物だけで細かく分類は出来ないから10年程度の事は不明だ。
ただ一時的に中国製「位至三公鏡」が減ってその「ボウ製鏡」が作られた時代こそ
後漢から三国時代であると考えるのが正しい見方だろう。
鏡や金印は出土した状況を加味しないと証拠にはならんよ。
138 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 20:32:03
逆にどういう根拠が出てくれば証拠になるんかね?
139 :
132:2011/01/12(水) 20:45:28
>>136 その”「ボウ製鏡」が作られた時代”で3世紀を全て塗りつぶすかね?
よくゴミクズレベル九州説は卑弥呼の鏡の候補として
「方格規矩四神鏡」や「内行花文鏡」等々後漢時の鏡を並べて
「どれでも好きなものをもっていけ」状態だがwwww
元々九州の考古学漢鏡編年だと
「方格規矩四神鏡」のピークが1世紀
「内行花文鏡」のピークが2世紀
3世紀からはイ方製鏡の時代となる。
(確か岡崎 敬あたりの70年代ごろ発表された年表だったかが元なんで
どこか誤認しているか、今じゃもっと違ったものになっているのなら指摘ヨロ)
普通に考えれば3世紀に入って暫くイ方製鏡の時代があって神獣鏡が登場する。
100年以上に渡って日本に来るのをブロックする
…なんて超絶アクロバット理論wを出さなければ
まあ3世紀の神獣鏡の登場は常識的なお話なんだよなwwwwwwwww
140 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 20:48:24
三角縁神獣鏡は倣製鏡の代表だからねえ。
141 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 21:03:40
どれでも好きなものをもってけー
九州じゃ中国鏡には困らん。
つーか、3世紀にピークがある中国鏡で
日本で出るものには何があるんだろ?
三角縁は中国ではピーク以前に出てこないし。
142 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 21:09:23
>>127 文章は素直に読むことだ。私は「中国と通交があったなどと言えるものではない。」
と書いただけだ。「なかった」と言い切った覚えはない。
朝鮮半島と関係があるからといって中国と通交があったとは言えない。当たり前だろ。
>>142 つまり無いとも言えないだろ。
大体朱を用いたりする事が朝鮮半島起源だと言いたいの?
普通大陸の方からの流れだと思うけどね。
144 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:01:58
145 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:08:41
>>143 通交がなかったとは言えないが、あったとみるべき証拠はないということだね。
朱を用いたりすることは、北九州から伝わっただけかも知れない。
中国に結びつけるなんてことはとても、とても。
146 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:14:04
九州からははっきり漢鏡と認定されている鏡が沢山出ているが、畿内からは殆んど出ていない。
三角縁は畿内製である事が鏡作神社の社伝である事が確定している。
畿内説はなんでいつまでも悪あがきするのかな。
ほら、畿内説〜反論しろよ。
仕方ないな〜おれがするか・・・
舶載にしても、鉄にしても、大陸から海を渡りまずは九州に入る。
畿内へは遠いので、遺物だけをみれば九州のほうが有利なのは当たり前。
まあ、そんなかんじだ。
148 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:01:41
三角縁神獣鏡は日本だけでしか出土しない。
あと10000億枚日本でだけ出土しようが、中国製である。
中国で一括して大量生産して日本に持ち込んだのであ〜る。
by畿内説
149 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:05:43
>>144 鳥取市の青谷上寺地遺跡、日本海側か…
しかし破片の画像、人工的に切られた感じだがどうなんだろう?
>>146 で漢鏡はいいとして魏鏡は一体どれなんだ?w
比定地は九州の何処か?と同じノリで
鏡は出土している漢鏡のどれか?
…と言うお話なのかな?w
150 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:10:28
>>148 まあこの辺がゴミクズ九州説の詐欺・ペテン・インチキの入り口だなwwww
そもそもじゃあ中国の魏代、洛陽周辺での鏡がどんな種類がどれくらい出ているのか?って話で
それが何百枚とあってその中に神獣鏡が一枚も無ければそれなりに説得力もあると言うお話。
分母に日本での出土
分子に中国での出土
をもってくるという馬鹿丸出しのネタだが
これも懲りずに定期的に出してくるゴミネタw
151 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:14:03
で、三角縁神獣鏡は何枚出てるの?
>何よりも倭国の盟主ならば弥生時代のうちから中国との接触があったはずだ。
>近畿の遺跡、遺物をみても、その形跡がまったく認められない。
ほら、ジョーカーくん
畿内説を代表して
>>110氏に答えてやれよww
153 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:18:20
まあゴミクズレベル九州説どもの万年ループゴミネタばかりもアレなんで・・・
誰か簡単にレクチャーでもしていただけるとありがたいんだが
(勿論ゴミクズレベル九州説には期待できないだろうがw)
邪馬台国論争と言えばよく東大と京大が出てくるが
同じく旧帝大の九大っていつ頃邪馬台国論争から手を退いたのか?
まあ邪馬台国ブームの頃には既に東大も(放射説で有名な榎とかは除いて)
九州説から撤退したような印象があるが
九大となると全く印象すらない。
度々言っているように元々九州の考古学だと
邪馬台国は普通に古墳時代と言うことでかなり早々に邪馬台国論争からは距離を置いたんだろうか?
>>145 その論法だと九州から出土する漢鏡の類も
半島を介して伝わっただけ、とも言える訳だよ。
確たる証拠にはならないと。
(私はそうは思わないけどね、念のため)
>三角縁は畿内製である事が鏡作神社の社伝である事が確定している。
全く畿内説の私も全くもって同意ですw
朱も貨泉も当然中国との交流の証拠ですよ。
畿内説側はおれとジョーカのコンビで行く。
九州説は誰が代表するんでしょうね?
もちろんテーマは九州と近畿でどちらが「倭国の盟主」とし
相応しいかについてかな。
156 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:24:29
157 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:27:11
九州の場合は、魏志倭人伝の共立や漢鏡の分布からわかるように
ばらばらで統一なんて、邪馬台国後の話でして。
集権政府なんて、そんなもんあったら教えて欲しいもんだ。
実際、卑弥呼の時の貢物なんてしょぼいだろ。台与になってから
少しマシになるけど。
ハイハイ おれ一人で相手すればいいんだね・・・
まったくしょーだねぇな。
ジョーカー等、他の畿内説が頼りないので困るぅ・・・・ww
まあ、畿内説はおれ一人で十分だし、ジョーカーなんて足手まといになるだけだもんなw
159 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:31:50
そういや、いま九大は伊都キャンパスに移ってんだよな。
その敷地内から、相当数の遺跡が出てるし、5世紀と言われているが
元岡の製鉄遺跡も伊都キャンパス内だ。
ここ掘るだけで、しばらくはネタに困らないような気がする。
160 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:36:26
そういや、伊都や吉野ケ里で使われている朱は中国産じゃないかという説もあったな。
161 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:36:52
>>151 「ゼロ」だな。
ただし先に言ったように湖北省で出た「黄初」の年号のある神獣鏡や
後漢時代のパッと見どう見てもその縁の形状といい三角にしか見えないような神獣画像鏡は出ている。
要するに日本で出たものと 同范同型のものが出ていないというお話で
何処まで似ていても中国で出たものは日本で定義される「三角縁神獣鏡」ではないと言う理屈w
で、魏代の、魏の領域、洛陽周辺で出た鏡は全部でどれくらいあって
その中に九州説が卑弥呼の鏡として推す種類の鏡は何枚ぐらいあるのかな?
「500対0」をアホのように繰り返すのはいくらでもいるが
この質問に答えたゴミクズレベル九州説はいまだにいないんだがwwww
と言うか考えたこともないんだろうな 真正の馬鹿だからwwwwwwwww
>そういや、伊都や吉野ケ里で使われている朱は中国産じゃないかという説もあったな。
九州北部でみつかる"朱"にかぎらず、近畿や山陽でみつかる
ほとんどが"朱"が中国産や国内産とブレンドしたものだよ。
163 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:41:22
九大のほうが早くから庄内と九州土師器との比較などで、畿内説よりもより正確な年代観を
出していただろう。で、邪馬台国はもう古墳時代に入ることも知ってた。それと北部九州の早期
前方後円墳を考え合わせればもう結果は見えてた。それが「九州の考古学者で、だれも邪馬
台国が九州にあったと考える者はいない」発言につながる。
164 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:44:33
>>163 まあ、あれも大概煽り気味だとこの俺ですら思うがw
確かに九州の考古学からすれば至極当たり前の事なんだろうなwww
165 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:44:56
>>161 で、魏代の、魏の領域、洛陽周辺で出た鏡は全部でどれくらいあるの?
>で、魏代の、魏の領域、洛陽周辺で出た鏡は全部でどれくらいあるの?
横だが、ねえよw でも一個ぐらいあったのかな?ていうぐらいw
鏡を墓に副葬するというのは、倭独自のモノらしいぞw
167 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:47:52
>>165 ギブ&テイクだ
質問の一つには答えた。
自分で調べてみろw
庄内式土器というのは、縄文の厚くて逆三角形したような形状とは違い、
当時の最先端技術により、薄くて丸っこい形状を実現したもので、
九州は、この近畿の「庄内式」を真似して造っていたよね。
これは技術の高い近畿のモノを受け入れた格好になるんだが、九州のが高い技術をもっていたのならば、
どうして真似なんてするんだって話になるとは思わないかい?
169 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:56:38
>>154 >その論法だと九州から出土する漢鏡の類も
>半島を介して伝わっただけ、とも言える訳だよ。
当然だよ。卑弥呼がもらった鏡以外は半島を介して入ってきただけだろう。
そうは思わんて? 甘いな。
>朱も貨泉も当然中国との交流の証拠ですよ。
甘い、甘い。何の証拠にもならん。
その程度の認識だから畿内説なんて言ってられるんだろうな。
170 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:59:04
九州の土器製造技術は本当に高かったの?
なんでもかんでも九州のほうが技術が高いとは思えないのだが、
そういう事になってるの?
ただ単に九州のほうが大陸に近くて、関係も深いということは言えるだろうが。
171 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:01:00
>>168 庄内式土器というのは、九州の土器を畿内が真似したんだろ。ちがうの?
ちがうというならば、その証拠は何?
>>169 それじゃ九州の物も半島を介して入ってきてる物ばっかりじゃんwwwww
173 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:05:12
独自の改良工夫だってあるんだから、
九州が畿内土器を真似ることもあると思うよ。
どっちだってありだろ。
鉄や銅鏡はともかく、土器くらい逆伝播してもおかしくない。
>九州の土器製造技術は本当に高かったの?
庄内式土器というのは卑弥呼の活躍した二世紀末〜三世紀の半葉頃に使用されたもので、
庄内式土器の次は、布留式土器といわれてますよね。
この庄内式土器をみつかぎりでは、近畿は九州を圧倒している。
理由としては九州のいたるところの遺跡で、この庄内式をモデルとした類似品が出土してるからだ。
175 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:08:28
>>169 >甘い、甘い。何の証拠にもならん。
言った者がちだなw
まあ確かに出土物は基本あくまでその年代の上限を絞れるだけだが
僅か20〜30年間しか作られなかった貨泉以上に年代を限定しやすい舶載品って何なんだ?
それは九州でどれくらい出ているんだ?
甘くないピリッとした回答待ってるゾwwwwwwwww
176 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:09:23
安本東遷説だと、この九州から出る庄内の存在が苦しくてしかたない。それで、
庄内九州発祥説を出したんだけど、このときにはさすがに九州の考古学者ほと
んどが匙を投げた。もうそれはまともなレベルの話ではないんだ。
177 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:13:13
>>176 つうか九州に「タタキ」とか「ケズリ」の特徴を持った庄内に繋がる
そのルーツの候補になるような土器ってあるんか?w
いやいや土を輸入してまで土器を作るってアホだろwww
179 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:20:16
>>125 演義ベースでつっこむのもなんだが
>>劉備はブチ切れて周りのとめるのも聞かず呉に軍を向ける。
明らかに後の大敗を知っている後世の後知恵、正史の注釈の趙雲別伝にも似た話が出てくるが。
当時の蜀にとって荊州が落ちたのは致命的なダメージ。(何しろ、巴蜀から
北伐するはずだったのに一方が取れたとあったらたまらない。)出兵を止めるなんてありえない。
奪還のための出兵は極めて妥当な判断。(問題だったのは戦いに負けた事)
そもそも、劉備はそれまで何度も関羽を見捨てている上に、
義兄弟の公孫サンを死なせた袁招の下に平気で転がり込んでいる。
関羽が死んだことぐらいで切れるようなタマの男ではない。
180 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:23:10
>>177 >>174が言ってるだろ。「九州のいたるところで、この庄内式に類似した品が出土してる」って。
その中の一つが近畿に入っただけだろ。
181 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:28:10
本家本元の貨泉が極短期間しか作られなかったことは否定しないが、
ググればわかるように、非常にバリエーション豊富で、明らかに
劣化コピーと言いたくなるものもある。
本当に短期間しか流通されなかったのかは疑問だ。
各地で作られているようにしか見えない。
細かいことは忘れたが、ローマ時代の貨幣が18世紀まで流通してたなんて
話もあるし。
本当に2〜30年で流通を止められるのか。時の政府がそういう
政策を行ったのか?
何もしなかったら、結構だらだらと流通するもんだ。
182 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:31:34
ついでに書くなら、結構甕棺から貨泉が出土していたらしい。
吉野ヶ里と板付遺跡からは出ていたはず
183 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:32:22
>>179 おおレスがあったか、サンクスw
まあそこら辺は「義の人・劉備」と言う解釈演出が入っていて
そりゃ軍を動かす以上実利的な理由もあったんだろうとは思うが
何れにせよこの事が一時とは言え呉が魏に臣従する原因になったのは史実で良いんだよな?
184 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:38:11
>>180 いいかな?
俺が聞いているのは庄内の元・ルーツになった土器の事な。
庄内のコピー品の事を聞いているんじゃない。
ニホンゴワカリマスカ?wwwwwww
と言うか庄内が北部九州福岡平野あたりで九州の特色を織り込んで
アレンジされた後九州各地に広がった…なんて事も系統的な研究もされているわけでw
>>181 その貨泉の流通具合よりも、どういった状況で
何処で出土したが重要なんだけど。
畿内や吉備(当然北部九州も)の古墳で出土している物は
弥生中期〜後期のもの、と充分証拠になると状況だぞ。
あと朱では採掘跡な。倭人伝にもはっきり記述があるように、
丹(当然水銀朱だろう)が採れないといけない。
徳島と紀伊半島は確実に水銀抗跡がある。
少なくとも邪馬台国の時代以前に交流があるのは否定できないよ。
186 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:57:43
>>184 おめでたい奴だな。それは、庄内式は畿内が先だということならば、「北部九州福岡平野あた
りで九州の特色を織り込んでアレンジされた後九州各地に広がった」という見方ができるとい
うだけだ。肝心の畿内が先だということは、立証できていない。
>庄内の元・ルーツになった土器
180さん、
庄内式というのは、弥生終末期で古墳時代と間に挟まれてる恰好で、
そのルーツは「弥生式土器」に決まってるだろって答えてやれw
188 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 01:06:06
>>185 自分は貨泉はかなり長い期間流通している可能性があって、
当然かなり長い期間において出土する可能性がある。
という主張だね。だから、あまり年代の根拠にならない。
丹(水銀朱)に関しては九州はちょっと弱い。
佐賀嬉野産の水銀朱は7世紀までは遡れるのだが
それ以前に関しては、いまのところ証拠がない。
ただ、もし魏使が佐賀ルートで渡ってくると、
ちょうどそのルート上に当たる。
庄内式土器の作り方までおりゃ知らんが〜
あの丸っこい形は弥生末の代表的な形状で、
私が上に書いたように縄文式というのは、逆三角形で厚い。
この縄文模様の土器から弥生末の丸っこい形状した土器まで、
だんだんと変化していってる(絶対年代は分からんが「相対年代」がわかる)。
厚さにしても、その草を上にかける焼き方の変化によって高温度により
薄いモノも実現可能になったんですが、あとは誰かさんも言ってたように"土"でしょうね。
さて、おれは寝るので跡は一人で戦ってくれ。
というか土器なんて細かい詳細までは知らんゎw わんわんわん
あばょ 〜逃げ (><*)ノ~~~~~
あらっ 二ルートさん
コテから日本@名無史へ格下げでもしたのかな?w
192 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 08:38:29
何番のスレを指しているのかわからんが
すくなくとも俺は二ルート氏ではない。
時々九州王朝氏と間違われることはあるが
二ルート氏と間違えられたのは初めてだなw
氏の説もかなりの部分で同意するけど。
全部とは言わないが。
本屋さんに、卑弥呼の正体、古代犯罪、とか並んでたけど、これはどういう感じ?
シロートなので生暖かく教えておくれ。
194 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 09:45:47
畿内説同様の妄想、こじつけだろう。
195 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 09:50:31
「ゴミクズ九州説」をひたすら連呼する真性キチガイのおかげで、
すっかり下劣なスレに堕ちてしまった
嘆かわしい・・・
文献記録上からも畿内説有利(というより北部九州以外)
というのはもう確定してるでしょ。
弥生時期の水銀抗はその一つ、採取跡の
ある場所が確認されてるのだからな。
鏡等と違って持ち歩きも出来ないので、
年代特定さえ出来れば十分な証拠だからな。
197 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 13:24:33
九州に水銀鉱がないというならばともかく、九州にも水銀鉱がある以上、畿内説に有利
なんて話にはならんよ。
てか、「倭人伝に言う朱が水銀朱」ということ自体が、都市伝説。
199 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 13:58:57
朱であれば水銀朱でほぼ間違いはなかろうが、
魏志倭人伝に書いてあるのは丹で、
水銀丹もあれば鉄丹もある。
まあ、わざわざ書かれてるわけだから
貴重な水銀丹だろうとはおもうけど。
200 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 16:37:09
九州からは楽浪土器と言う楽浪郡で作られた土器が出ているけど、
畿内からは全く出ていない。
楽浪郡と畿内が交流なかった証拠だ。
楽浪土器はそれ自体に商品価値があって、珍重されていたようだ。
かなり後代になってまで出土例がある。
瀬戸内でこの楽浪土器を模した土器も出土している。
この土器が憧れをもって見られていたのだろう。
その土器が畿内から全く出ない事は畿内に倭国に主体が全く無かった証拠だ。
箸墓は4世紀後半だし、三角縁神獣鏡は国産だし、
畿内説と言うのはまったく無理筋なんだよ。
畿内説の学者が多いのは畿内説を唱えないと予算が貰えないからだ。
九州の遺跡発掘でも畿内説の学者には予算が出るから九州の学者も畿内説にならざるを得ない。
201 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 16:42:18
つか楽浪郡の場所って誰がどうやって決めた?
韓国人?
それ信用できるか考えてみ?
202 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 17:19:04
画文帯神獣鏡が中国で制作され始めたのは
卑弥呼のぎりぎり後らしいので、根拠にならないんだね。
量産して数が出るのは四世紀以降五世紀あたり。
三角縁はそれを参考に作ってあるらしい。
203 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 17:38:24
平壌から楽浪郡と書いた封泥が沢山出ている事が根拠らしい。
紀元前から中国人が多く住み、大きな城跡もあった。
ちなみに発掘したのは日本統治時代だからね。
>>197 しかし肝心の弥生期の採掘跡がないからね。
それが既に確認されている畿内方面が有利なのには
変わりないでしょう。
倭人伝の文献を重視する以上は。
>>198 当時の中国の文献資料ではそうなっているのだから。
まあ、都市伝説にしたい気持ちは判るけどねw
205 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:32:32
>>200 >楽浪土器
全く問題ない。
楽浪土器が集中出土するところは郡使の常駐もあったであろう伊都国に当てている。
まあ九州に楽浪土器を追っていって伊都国より先に余程集中した場所があって
年代もそこそこ合うという言うのなら話は別だが。
この「楽浪土器」ネタで困るとすれば伊都国を怡土糸島ではなく
佐賀大和とか言っているような連中だろうなwww
>>200は伊都国はその楽浪土器が大量に出てくるところでイインダヨな?wwwwwwwww
ゴミクズレベル九州説どもは何か勘違いしているのかもしれないが
今の畿内説(と言うか定説常識)は九州の考古学の成果を織り込んで成り立っている。
何も半島に対する窓口が畿内にできましたとか言う話ではないwww
>畿内説の学者が多いのは畿内説を唱えないと予算が貰えないからだ。
>九州の遺跡発掘でも畿内説の学者には予算が出るから九州の学者も畿内説にならざるを得ない。
ゴミックズの陰謀論乙。
今時邪馬台国云々で予算が出たり出なかったりするというのは素人には驚きだw
予算書なり何なり公的な証拠をつけて証明してくれ。
もうここまで来ると「被害妄想」とか「ひがみ根性」丸出しとしか思えなんわwwwww
206 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:37:05
>>176 まあ庄内式土器と言うか
「九州と畿内の年代のすり合わせ」自体が
安本みたいな東遷説にとっては死活問題なんだろうと思うw
この板で考古学ネタで畿内説にイチャモンつけている ゴミクズレベル九州説 の連中と言うのは
土器編年にしても近畿や九州、関東や東海…と各地域によって様々あるというのは
流石に知っているだろうが(中にはそれすら知らない馬鹿もいそうだがw)
その年代のすり合わせ(特に九州と畿内)が行われたのはわりと最近だと言う事を知らないのではないか?
何処で仕入れるやらゴミクズレベル九州説のアホ連中は
畿内説にイチャモンつけるには必死だが
自分の足元は全くお留守と言う馬鹿丸出しwww
207 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:45:17
考古学を勉強すればするほど、文献が現実と乖離してることがわかってしまうわけだから、
ちょっと囓っただけで投げ出してしまう。それほど苦い薬なんだな。
で、古きよき倭人伝に逃げ込む。胎内回帰願望とでもいうべきか。ww
208 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:52:31
>>205 >>206 をどう読んでも
九州説有利を否定してはいないような気がする。
細かいところをつっついて、何か反論したふりをしているだけで。
ww
210 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:55:57
>「九州と畿内の年代のすり合わせ」自体が安本みたいな東遷説にとっては死活問題なんだろうと思うw
九州を古く、畿内を新しくしたいんだろうが、摺り合わせをすればそうはできない
ことがわかってしまう。そうするためには九州の甕棺による編年自体を動かさな
くてはならない。そのあたりのことは1980年代初頭には九州の考古学者はわ
かってたのではないかと思うんだが、皮肉なことに86年吉野ヶ里が発見される。
211 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:58:38
>>202 その「卑弥呼のぎりぎり後らしい」と言うのは
卑弥呼の没した年なのか生まれた年なのか?
実年代で ADいつの話なんだ??
中国での画文帯神獣鏡の登場といえば永康元年銘(167)とかが知られているが???
…息を吐くが如く平気で嘘をつくゴミクズレベル九州説
212 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:01:27
中国では画文は岡村編年よりやや古く見てるだろ。そのレスはまったく根拠がない。
213 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:02:27
九州説の欠点
卑弥呼の傘下に伊都国が在るだけで、後は何もない。
大和説の欠点
強力な王朝は想定出来るが、大乱も女王もいない。
214 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:03:36
>>210 まあこの板のゴミクズレベル九州説的には
昔の畿内の年代観に九州の考古学も合わせて
その年代を全て下げて問題ないんだろうなwwwwwww
215 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:20:32
で、結局
>>109(いつもの怨み節君?)には
>>124の質問には答えてもらえなかったなw
(またトンズラされたのかな?)
その中国の学者と言うのは >109 の脳内にいる 謎の中国人だろうか?wwwwwwww
神獣鏡は呉が滅ぶまで門外不出ダタアルヨ >(`ハ´ #)
216 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:20:35
小生からも
>>202氏へ、改めて疑問点を質しておく。
>>202 >画文帯神獣鏡が中国で制作され始めたのは
>卑弥呼のぎりぎり後らしいので、(後略)
それは、誰のどの論考に出ていたか? 根拠はどう述べてあったか?
217 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:38:05
218 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:39:01
219 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:47:00
>>218 馬鹿か?
流通・製作年代の下限なんて理論上限界はないぞアホw
じゃあお前はそこから遡ってどれくらいが上限か
きちんと論証できるのか?w
まあこいつが先の貨泉のお話をしていた奴と同じなら目も当てられないがwww
220 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:48:19
>>173 >鉄や銅鏡はともかく、土器くらい逆伝播してもおかしくない。
その数が、半端なく多いんだよね。
九州の土器は庄内s次期もどきばかり。
この庄内式土器と、豊前石塚山古墳、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡の分布をみるかぎりでは
畿内は九州を圧倒してるのが現実だ。
222 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:56:26
>>219 紀年鏡ならば上限はその紀年までだが、下限は現代まで可能性がある。
画文はいつ作られたか分かったもんではないってことだな。
223 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 19:57:10
>>218 出土場所がわからなかったけど、もし日本で出土されてるのなら
これこそ倣製鏡の可能性もあると思う。
ネタは画文帯神獣鏡か?
しかし、おまぃら画文帯や△が好きだね。
>>223 日本にきまってるだろw
>>188 > 貨泉はかなり長い期間流通している可能性があって、
長期間流通したのちに捨てられたのなら、その時期がばらばらになるのが自然です。
貨泉は一般的にAD14〜40年の鋳造とされ、
岡山〜大阪の4遺跡から出土した貨泉はいずれも、ほぼ同時期に遺棄されていますから、
鋳造から短期間の流通のうちに伝来→遺棄されたと想定することができるでしょう。
226 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 20:08:44
どうせ
>>202はピンポンダッシュよろしくトンズラするんだろうなwww
>>225 実際、その4遺跡から出土した貨泉とやらは、池上曽根遺跡の柱跡以外で
どの場所から発見されたんだい?
>森浩一氏
ていうか、ホント考古学好きだよな〜オール
考古学社って佐原、寺沢、金関、高島、春成、とかいっぱいいるけど
おまぃらの人気NO.1は誰なのよ?w
229 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 20:45:32
メ は人カマドウマ
あれ・・・返レス来てないね・・・。
こりゃ本当に嫌われてるのかな(爆)
おれ〜何か悪いことしたかぃ?もぉイジメないで><
>>207 >考古学を勉強すればするほど、文献が現実と乖離してることがわかってしまうわけだから、
>で、古きよき倭人伝に逃げ込む。
たしかに倭人伝の記述が全て正しいとは限らない。
しかし、考古学との一致は多くある。
そこで何故、考古学が現実と乖離してると気づかない。
十年、二十年でひっくりかえる編年に何の意味がある?
弥生時代のはじまりは、現在ではいつになってる?
>>232は私にレスしてるのかな?
土器編年は、「相対年代しか分からない」というのが常識で
みんなも納得して書き込んでるからいいんじゃないのかな。
昔は、紀元前三世紀からだったが、最近では五世紀ぐらいといわれてますよね。
しかも今後の研究次第では、この五世紀から100年か200年ぐらいは遡る可能性があると・・・
たとえば春成氏なんかは紀元前七世紀ぐらいを考えてるんじゃなかったけ。
研究者によって違いがあるようです。
234 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 21:39:47
畿内の弥生遺跡から庄内式土器と古新羅伽耶陶質土器が一緒に出ているんだが。
新羅伽耶と言えば4世紀半ばに成立した国だ。
その国の土器と庄内式土器が共に出たら畿内の庄内式土器の時代は4世紀中ごろと言う事になる。
畿内説の学者は庄内式を3世紀前半としているが、どう考えても100年以上古い年代になっている。
箸墓周濠から鐙が出ているが、鐙は5世紀の物だから、築造後2〜30年後に捨てられたとしても
箸墓築造は4世紀後半と言う事になるし、庄内式土器と古新羅伽耶陶質土器が一緒出ている事と
照らし合わせて考えても庄内式土器の時代は4世紀中葉と言う見方が正しいだろう。
畿内説の学者は三世紀には九州は衰えて畿内に中心が移ってしまったと言っているが真っ赤なウソだ。
三世紀には九州は隆盛を極め、畿内はまだ唐子鍵の時代だったのだ。
纏向など未だ出来ていない。
>>217 一般的に弥生後期〜古墳前期に採掘のピークを迎えるのが
徳島の若杉山遺跡だろう。
ここからは石杵、石臼、辰砂の原石まで大量に確認済み。
精製の形跡なら紀伊半島や徳島周辺では、
縄文時代の物が結構確認されてるよ。
国内最古の物なら縄文中期の水銀朱精製石皿が、吉野宮の平遺跡から
出土してるからな。(しかも場所は丹生川上神社境内から)
>>234 陶質土器にしても鐙にしても溝からでてるべ?
集落・遺跡が百年ぐらい続いたんだろう。
後から落っこちたんだよw
穴掘って埋めたんだろうよ。
古代史ではよくやる手だ。
238 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 23:01:27
縄文か、やはり祭祀というよりは防腐とか
なにか実用的な意味があったのかな。
東遷というか、公孫氏がやられた時点で、シンパは邪馬台国連合から東へ関西方面へ落ち延びた。
半島からも邪馬台国連合を避けて流入しただろう。
>>234 >畿内の弥生遺跡から庄内式土器と古新羅伽耶陶質土器が一緒に出ているんだが
報告書で確認したいので遺跡名をプリーズ
畿内のあの銅鐸文化は華北あたりのものが流入したものでしょうね
九州=倭国の文化は江南のものでしょう
銅鉾などよりもはるかに高いレベルの技術を必要とする畿内の銅鐸文化を誇った連合国家は
邪馬台国ごときよりもはるかに規模の大きなものだったでしょう
邪馬台国など所詮南の狗奴国との戦いに手こずる程度の国であり
その戦争の最中に盟主卑弥呼が死ぬほどの苦戦、もしくは敗戦を喫した国ですよ
>>240 ヨコから
> 報告書で確認したいので遺跡名をプリーズ
“新羅伽耶陶質土器”でググってY掲示板が出たら開いてみ。
243 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 09:54:47
>>235 徳島の若杉山遺跡や吉野宮の平遺跡ね。
魏の使者はそこへ行ったというのかな?
244 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 13:29:16
九州説 畿内説
方角、南へ南へ ◎ ×
水行陸行 △ △
郡より万2千里 ◎ ×
女王国の東海渡 ◎ ×
考古学遺跡 未発見 未発見
高校生なんだけど、こうして表にしてみると、圧倒的に九州説の方が
理に適っているんだね
今までよくわからなかったけど、九州説の方が正しいんだって確信したよ
245 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 17:23:35
九州説 畿内説 近江説
方角、南へ南へ ◎ × ◎
水行陸行 × △ ◎
郡より万2千里 ◎ × ×
女王国の東海渡 ◎ × ◎
考古学遺跡 未発見 未発見 伊勢遺跡
しかし九州説はアホばっかだな。
平日昼間(しかもこの時期)に書き込む位の高校生か‥
さすが九州説には逸材が揃ってるなw
248 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 19:38:45
・・・ドツボに「アホばっかり」って言われるこの板の九州説って…
249 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 19:56:36
>>247 そう言いなさんなwwwww
取っ掛かりとしてはそんなモンじゃないのか?
学校で出るペーパーテストには必ず解答が存在する。
正解を引き出せない、問題自体が間違っている…なんてことはそうそうないw
あとは現実の九州に自分が想像した邪馬台国を必死に探してもらって
見つからなかったらどうするかだなw
「おいおい、ひょっとしてこの問題自体が間違ってるんじゃないのか?」
と言うところまでいけるかどうか?
多分そこが分かれ道wwwww
それは別に考古学でなくとも文献史学における
(特に単一史料である場合絶対に欠かせない)史料批判をやれば
そこに辿り着くんだろうが…
まあ精々悩め若人!
ソクラテスもプラトンもニーチェもサルトルも
みんな悩んで大きくなったwwwwwwwwwww
250 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 20:02:26
九州説は人材が豊富、しっかりと伝統ある理論的な説明を引き継いでいる
それに対して、畿内説は絶滅危惧種
このスレにもキチガイ信者が約3匹だけ??
もうすぐ死に絶えるのは明らかww
251 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 20:10:49
しか年が変わってもゴミクズレベル九州説から聞えるのは以前に何回も聞いたような万年ループネタ。
多分死ぬまで言い続けるんだろうなw
いくら畿内説と言うか現在の常識にイチャモンをつけても
それで九州説が生き返る事はないのにww
まあ「九州説」と言うより「アンチ畿内説」ならそれで満足なんだろうwwww
「箸墓が4世紀後半」とか言った者勝ちの世界だなゴミクズレベル九州説はw
「後は野となれ山となれ」なんだろうが
それを是としたらその後に西殿塚・茶臼山・メスリ山・行燈山・渋谷向山…etc
盆地北部じゃ佐紀の五社神・宝来山…と巨大古墳が出現し
そうこうしている間に5世紀になると河内でも巨大古墳が現れる…w
現在でも「王権輪番制」なんて事が言われているが
もうそんなものでも到底おっつかないwwww
古代史は邪馬台国だけじゃないんだぞ…とwwwwwww
252 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 20:19:07
そうそう
>>202 は多分トンズラしたんだろうが
恐らく何処かのサイトかで
「神獣鏡が”洛陽や楽浪”で制作され始めたのは3世紀後半」
…みたいなものを見て、その ”洛陽や楽浪”を”中国”に脳内変換したんじゃないだろうか?
サイキバかサイキバレベルの馬鹿(と言っても少なからずいるのが現実だがw)ならやりそうな事だと思うのだがw
シロートで悪いが、畿内説というのはあのC14とかじゃなくて、
その他の根拠から確定、ってこと?
箇条書きでいいから、教えてもらえるとうれしいな。
>しっかりと伝統ある理論的な説明を引き継いでいる
理論的には既に破綻してるものを引き継いでもなw
255 :
中学生:2011/01/14(金) 21:37:54
>>249 おじさんは物知りで偉い人のようですね。僕は歴史が大好きですが、日本の古代のことについて勉強してもいろんな人がいろんな説を
立てていて、全く違う内容の説もあって、どれが本当なのかわかりません。それでお尋ねします。
旧唐書という本に
『倭國 者古倭奴國也』
『日本國者倭國之別種也 以其國在日邊故以日本爲名 或曰倭國自悪其名不雅改爲日本 或云日本舊小國併倭國之地』
と書かれています。
「(唐の時代の)倭国は昔の(漢(後漢)の時代の)倭奴国である」
「(唐の時代の)日本は倭国の別種である。其の國は大陽の出る方に在るので日本という名をつけた。或は倭国という名前が悪くて雅で
ないので改めて日本としたとも云う。或は日本は元は小国であったが倭国の地を併合したとも云う。」
ということでしょう。
これだと唐の時代の認識では日本列島に倭国と日本があったというようにもとれるし、倭国が日本という名前に変わったともとれるし、
(元の)日本が倭国を乗っ取ったともとれます。どれが正しいのでしょうか?教えて下さい。
256 :
249:2011/01/14(金) 22:03:03
>>255 わかりません。
そもそもここはやまたいこくスレなので
きゅしゅうおうちょうせつをやりたかったらよそでやれってことです。
258 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 22:23:08
>>252 >>202が突っ込みやすいのは否定せんけどさ、
ずいぶん引きずるなぁ
そんなあからさまなネタにしか食いつけないんかね。
九州説はあからさまなネタだらけなわけだが…
261 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 22:48:19
群馬や栃木でも4世紀に前方後円墳ができてるのに箸墓が4世紀後半なわけないじゃん
262 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 22:49:58
263 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 22:52:25
264 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 22:57:49
>>258 逆にに引きずってやって
恐らく本人も自分が何処で間違ったか分らなくなっているんだろう事までも
こっちが斟酌してやっているんだから礼の一つでもよこせって話だがwww
この画文帯神獣鏡の登場時期と言うのは当然他の話にもリンクするわけで
例えば鐙一つで箸墓を4世紀後半とか言うお話にもだwww
>>255 >これだと唐の時代の認識では日本列島に倭国と日本があったというようにもとれる
いいえ、日本となる以前に倭国と言われる所と、小国(小さな国が多数)があった
この倭国と小国を併合して倭国とし、後に日本と称した。
266 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:13:03
>>264 そうだねえ、画文帯神獣鏡がなくなれば
鏡についてはすがるものがなくなるから、
畿内説が必死なのも、むべなるかなと。
267 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:14:05
「(唐の時代の)倭国は昔の倭奴国である」
「(唐の時代の)日本国は倭国の別種である。其の國は倭国よりもずっと東の太陽の出る方に在るの
で日本という名をつけた。或は倭国が東に遷って倭国という名前が悪くて雅でないので改めて日本と
したとも云う。或は日本は元は小国であったが、大国であった倭国の地を併合したとも云う。」
268 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:26:21
>>266 鏡にすがる?
何だそりゃ?呪物崇拝か?w
良く分らない表現をするゴミクズレベル九州説だwwwwwwww
とりあえずゴミクズレベル九州説は
「すなお読み」以外に藁でもいいからすがるもの探しとけwwwwwww
269 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:40:16
妄想畿内説は何でもいいからすがるものを探しとけwwwwwww
何にもねえぞ、今んところ。
うーむ、この脊髄反射鸚鵡返しの芸風は(ry
271 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:54:27
大和と邪馬台国。地名に関連性があるね。奴国でも那の津で残ってるしね。
また、年輪年代法で邪馬台国時代の木が出土してるから疑いようがないよね。
272 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 00:52:53
畿内説を「本気で」信じている学者を教えてほしい。
茶番はもう秋田
なんか見てると九州説は中国との交流の多さを根拠にしてる様だけど
邪馬台国が中国と交流が多かった必要があるのか?
貢物のショボさからしても逆に遠隔地から来たほうが説得力あるような・・・
274 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 08:10:27
>>273 後漢書をみると、1世紀から2世紀の初めにかけて倭国が中国に朝貢したことが
書かれている。また、倭人伝にも、中国との往来に際して持衰をおいたとか書か
れている。ある程度の交流はあったわけだから、考古学的にもその形跡が何かあ
るはずだということだ。
275 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 08:30:51
>>272 学者で畿内説をとるものはほとんどいないよ。山尾幸久ぐらいかな。
考古学者は何人か畿内説をいうが、文献史学的にはまったくの素人だからね。
植物学者が「植生を考えれば九州だと思う」等というのと五十歩百歩だ。
276 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 08:31:20
陶質土器が畿内の弥生遺跡から出たのを確認したかね?
畿内では新羅伽耶時代、4世紀中葉は未だ弥生時代だった。
箸墓が卑弥呼の墓はと言う事はあり得ないし、畿内説なんて始めから成り立たない。
旧石器捏造をした連中は文科省に今も巣食っていて捏造を推進している。
考古学への予算は畿内説にのみ多く配分されているから畿内説を唱えないと学者も食って行けない。
畿内説学者が多いのはこのためだ。
その証拠に畿内説の重鎮だった、えーと名前ど忘れした、橿原考古学研究所の所長だった学者が
退任する時になって、「邪馬台国は何処に遭ったか判らない」と言った。
畿内説の学者も本当には畿内説など信じていないんだよ。
277 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 09:23:12
畿内説は、そもそも魏志倭人伝の記載をことごとく否定しないと成立しないんだよ
あれは誤記だ、書き間違いだとか、ね
そんな主張のオンパレード
また朝から寝言を言うなよw
279 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 09:46:03
>>255 その中でマトモな個所は、文章を言い換えると
「其の國は倭国という名前が悪くて雅でないので改めようとした。
そして、その際、大陽の出る方に在るので日本という名をつけた。」
こういうことでしょう
280 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:03:40
>>268 >「すなお読み」以外に藁でもいいからすがるもの探しとけwwwwwww
倭人伝を素直に読めば九州だということを認めたわけですね。
これこそ一番重要なことです。素直に読んで合わない所は話になりません。
281 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:17:11
そ之通り
魏志倭人伝を素直に読めば、九州しか有り得ない
畿内説は、何の証拠にもならない畿内遺跡を邪馬台国だと
バカの一つ覚えみたいにほざいているだけ
282 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:30:01
素直に読んでまず問題になるのは、従来の伊都国の比定です。
@ まず末盧国からの方角と距離。東南五百里ですね。前原では東北、距離も合いません。
A 使者は、末盧国で上陸していまう。これは、船ではいけない所とみるべきです。前原
では理解できません。
B 南に水行とは何のことでしょう。乍東とか乍西を言わず、いきなり南への水行を言う
のは有明海を南下することしか考えられん。白鳥が「有明海航行」と言ったことは間違
いではないということになります。となれば、伊都国はどこに比定するか、細かいこと
はともかく、有明海沿岸であることはまちがいありません。
283 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:37:00
284 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:37:42
魏志倭人伝は、倭国内30国(九州限定)の位置を相対的に記載したものです
使者の行程とは重なる部分もあるでしょうが、必ずしも関係があるわけではないと思いますよ
そう考える根拠ですが、使者は旁国やクナ国には行ってないでしょうし、実際に行く必要もないでしょう
しかし、記載はされていますからね
285 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:40:57
倭奴国とは、和邇氏の国。
第5代孝昭天皇の長男「天足彦国押人命」を祖とする日本最古の豪族の一つ。
奈良盆地の葛城地方だけではなく、琵琶湖周辺や諏訪浅間社とも関係が深い。
邪馬台国とは、富士の裾野の諏訪盆地にあったにあったのだ。
欠史八代は、和邇氏の国である邪馬台国の歴史を封じるために省かれたのだ。
286 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:41:35
素直読みの九州説
ひねくれ読みの畿内説
普通、ひねくれ読みは捏造というのである。
>>286 珍読を「素直読み」と言い張る九州説
倭人伝に頼らない畿内説
288 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 12:15:01
>>287 珍読の九州説と素直な読みの九州説とを混同しないでください。
珍読というのは、半島内陸行とか水行陸行の日数は帯方郡からのものだとかいう
読み方のことでしょうね。確かに箸にも棒にもかからない珍読です。伊都国は前
原だなどというのも珍読ですね。
素直な読み方というのは、学者が漢文の正しい読み方として指摘していところに
従った読み方でしょうね。もちろん学者の間でもどう読むのが正しいのか、意見
が異なることは多々ありますが、正しい読み方は誰かが主張しているものです。
もともと魏志倭人伝の別冊付録の東夷伝の倭人の条なんてものは、
浦島太郎が助けた亀に連れられて竜宮城に行ったくらいの話しなのに、
それをまじめ腐って議論している大人がこんなにいるなんて、笑うに笑えませんね。
日本はいったいどうなってしまうのかと心配になります。
キタ━(゚∀゚)━┥北│北│東│南│西│鳥│Ж│◎│H│一│九│ │発│━┥厨┝キタ━(゚∀゚)━!!!!
291 :
中学生:2011/01/15(土) 13:40:57
>>256 あれ、おじさん意外と冷たいんだね。そんな突き放したような言い方するなんて思いもしなかった。
だけど、旧唐書のあの文は九州王朝の話なのかあ〜?おじさん僕をからかっているんでしょ?
邪馬台国とは関係ないの〜?ほんとかなあ?
『倭國 者古倭奴國也』はどうなんですか?倭奴国とはAD57年に光武帝に朝賀して印綬(漢委奴国王印)を授けられた國でしょ。
倭国はその倭奴国の系統であるという認識でしょ。その認識は先行史書や日本からの遣隋使や遣唐使また裴世清などの見聞記録
などによって形成されたものでしょ。AD107年には倭国王帥升等が献見を願い出たと後漢書に書いてありますから、この時には
倭奴国から倭国へと名前が変わっています。
卑弥呼は2世紀末(AD180年前後)に倭国王に共立されています。その卑弥呼が都を置いた國が邪馬台国であると三国志の東夷伝
に書かれています。おじさん!これでも関係ないと云うんですか?
292 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 14:02:16
どうしたの?
魏志倭人伝から何か都合悪いこと分かっちゃったの?
293 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 14:32:57
>>256 >この時には倭奴国から倭国へと名前が変わっています。
倭奴國は倭國ではありません。倭奴國は倭を代表する国の名前です。
倭奴國王は倭の王の一人にしかすぎません。
これに対して帥升は倭國の王です。
他の文献によると、帥升は倭国王でもあり、倭の倭面土國の王でもあることになります。
帥升はシナ認定の最初の倭國王です。
なお卑彌呼は倭國王ではありません。倭の女王國の王になります。
294 :
人豚:2011/01/15(土) 14:41:04
>>291 >>256おじさんに代わって説明します。
舊唐書
A ・倭國者古倭奴國也。
・貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。
B ・日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
・長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。
Aから、貞觀五年遣使は「倭国」と名乗り、その系譜を漢代jからの朝貢国と同じだと述べた、と考えられる。
Bでは、長安三年遣使は「日本国」と名乗り、説明は国号の由来のみで系譜は不明、矜大な態度の使者でその言質は疑われている。
よって、舊唐書では「倭国」と「日本国」の関係を中国側が推定した@別種、A改号、B簒奪の3説で説明しているところです。
こんなところで満足しておいてください。
295 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 14:49:37
>>255 >『倭國 者古倭奴國也』
>『日本國者倭國之別種也 以其國在日邊故以日本爲名 或曰倭國自悪其名不雅改爲日本 或云日本舊小國併倭國之地』
>これだと唐の時代の認識では日本列島に倭国と日本があったというようにもとれるし、倭国が日本という名前に変わったともとれるし、
>(元の)日本が倭国を乗っ取ったともとれます。どれが正しいのでしょうか?教えて下さい。
唐の認識では3つの内どれが正しいかよくわからないと書いているのです。
7世紀後半の日本では2大勢力を中心とした分裂と合従連衡があり、
唐から見ると列島内で何がおこっているのかよく解らなかったのでしょう。
そもそもどっちの説も魏志倭人伝を誤記だらけにしなきゃ成り立たないだろ
出発地点もわからない、経路があってるかすらわからない道筋なんて当てにならんし
297 :
中学生:2011/01/15(土) 15:06:37
>>293 >倭奴國は倭國ではありません。倭奴國は倭を代表する国の名前です。
>倭奴國王は倭の王の一人にしかすぎません。
中国の史書によれば倭には沢山の国があって(漢の時代には百餘國と認識され)、それぞれ王を自称していたという記述もありますから
倭奴國王は倭の王の一人だったでしょうが、後漢から王と認定され(漢との交易の独占権を与えられ)たのは倭奴国王だけでしょう。
この時点で倭奴国は名実ともに倭を代表する覇権国となったのでしょ。単なる「倭の一国」ではありませんね。
>なお卑彌呼は倭國王ではありません。倭の女王國の王になります。
倭人伝には次のように書かれています。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
其國とは倭国のことでしょうが、もともとは男子が王となって七八十年過ぎたとき乱が起きた。この男王は帥升とその後継者(達)のこと
でしょう。乱の後卑弥呼が共立されて王になっています。この王は倭国王でしょ。上記の文章からはそうとしか考えられませんね。
女王国の王になったという記述はどこにもありませんね。
298 :
ローガン:2011/01/15(土) 15:33:39
>>291 人豚おじさんに追加しときます。
>旧唐書のあの文は九州王朝の話なのかあ〜?
勿論、九州王朝なんてありませんから「九州王朝の話」ではありません。
>『倭國 者古倭奴國也』はどうなんですか?
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。(後漢書)
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。(隋書)
旧唐書の「倭国者古倭奴国也」に続く文は概ね隋書をおそっているから、この「倭奴国」のテキストも隋書だと考えて良い。
その隋書のテキストは当然、後漢書。ところが隋書は、後漢書にある安帝時朝貢者を「倭奴国」と誤引用した。
隋書をテキストとした旧唐書は、隋書が後漢書の「倭国」を「倭奴国」としたため、「倭国とは古くは、倭奴国といった」と云う認識して書いたまで。
奴国が覇権国家だったかなんて誰もわからないだろ
300 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 15:48:00
>そもそもどっちの説も魏志倭人伝を誤記だらけにしなきゃ成り立たないだろ
>出発地点もわからない、経路があってるかすらわからない道筋なんて当てにならんし
畿内説の見苦しい言い訳ww
こんな屁理屈を言って、畿内説のボロを隠蔽工作しようとする
九州説ではちゃんと説明できるのにな
301 :
中学生:2011/01/15(土) 15:55:09
人豚おじさん、ローガンおじさんありがとうございました。お二人の説明は分かりやすくていいですね。249のおじさんを偉い人だと
勘違いして尊敬しそうになった僕を過ちから救ってくれたのですね。それで、ついでに教えて下さい。
倭奴国と帥升の倭国は何処にあったのでしょうか?
>>276 >畿内説の学者も本当には畿内説など信じていないんだよ。
このテイストはいつもの「怨み節東遷厨」だな
こいつがいつも拘るこの台詞w
要するに現実は何処もかしこも畿内説、と言うより邪馬台国論争なんて昔の話。
九州説なんて学術的にはマイナーなテーマの更にごく少数派。
更に言えば「邪馬台国東遷説」なんて珍説奇説のイロモノw
だから本当はどの学者も本音では信じていないけど、世渡りのために嫌々その立場をとっている
「学問として敗北したのではなく政治的に敗北したのだ」
…として自分を慰めたいとwwwwwwwwww
「信じる信じない」って宗教じゃないんだから馬鹿かw
所詮人間の心の内なんて分らない、考古学者に踏み絵でもさせるか?阿呆w
学問なんだから学術的立場の表明が全て。
そりゃ九州の人間なら心情的に九州説とりたい奴なんてゴマンといるだろうw
俺だってこの世知辛い世の中九州説みたいなロマンがあるほうが面白いと思うぞいやマジでwwwwwwwww
一回その邪馬台国論争云々で予算配分で不当な差別があると言う事の具体的証拠を出せよゴミクズ。
マスコミが飛びつきそうなネタだし、内部告発の一つや二つあるだろう?w
303 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 16:14:46
>>297 >女王国の王になったという記述はどこにもありませんね。
>其國とは倭国のことでしょうが、
「其國」とは「倭の国々」のことです。
郡使魏使が訪れたのは、倭國ではありません、倭の国々と倭の女王國なのです。
女王國までが萬弐千餘里です。
倭には魏使が訪問していない狗奴國も含まれています。
魏志倭人伝には倭や倭人のことは書かれてはいますが、倭國のことは何も書かれていません。
304 :
ローガン:2011/01/15(土) 16:23:33
>>301 >249のおじさんを偉い人だと勘違いして尊敬しそうになった僕を過ちから救ってくれたのですね。
249のおじさんは、まともだが
> 倭奴国と帥升の倭国は何処にあったのでしょうか?
帥升の倭国なんてわかりません。漢光武時遣使入朝の主体は、金印の出た所の辺り。
その金印の倭奴国と唐代日本…別種と書かれても当然。旧唐書は東遷を否定。
305 :
中学生:2011/01/15(土) 16:26:27
>>303 >魏志倭人伝には倭や倭人のことは書かれてはいますが、倭國のことは何も書かれていません。
???
其國本亦以男子爲王、住七八十年、『倭國亂』、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼 という文の中に
あるじゃないですか。『倭國亂』の文字が見えませんか?
「九州説は学術的に敗北したんじゃなくて政治的に敗北したんだ!」
…と言う脳内変換はこの板のゴミクズレベル九州説の多くに共通するところだが
(サイキバ・怨み節・九州王朝大好き…と言うかその妄想をしていない方が少ないだろう
無論その証拠が出てきたことはないがw)
そこでいつも思うのは
「じゃあ昔吉野ヶ里ブームの頃までは九州説も勢いがあったわけだがそれは政治的な事とは無関係だったのか?」
「畿内説に一気に変わって言ったのはどのような畿内説側の政治工作があったのか?」
「その一大反転攻勢の切欠は?」
ゴミクズレベル九州説の脳内ではそこら辺同様なシナリオになっているのかな?w
308 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 16:44:55
畿内説を主張している学者って、ホント、バカと言うか勇気あるわ
将来、邪馬台国九州説が確定したとき、一生バカな説を主張していたと
後世の史家に笑われるのにな
>>308 馬鹿と言うのはお前みたいなこの板のゴミクズレベル九州説を言うんだよドアホwwwwww
学問の漸進、時には劇的なパラダイムシフトによってその学説が省みられなくなっても
その時代の学者を馬鹿とは言わない。
現代の学者でもかつての九州説の大家を馬鹿とは言わないし
畿内説でも現在に通用しないものはバッサリ切り捨てられている。
エーテルだって天動説だってある時代には最先端の理論だったんだよw
まあお前のほざく「後世の史家」と言うのは果たしていつ現れるのか知らないがw
要するに
「何れ覚えておけ、今日のところは勘弁してやる(ボロボロになりながら)」
と言う捨て台詞みたいなもんだなwwwwwwwwww
310 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 17:08:05
>>305 >『倭國亂』の文字が見えませんか?
『倭國亂』は倭人の国々が互いに争った乱で、倭國の中の内乱ではありません。
通称「魏志倭人伝」といわれますが、「魏使倭國伝」とはいわれません。
倭人(&倭の国々)について書かれたもので、倭國について書かれたものではありません。
311 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 17:09:28
キチガイに
触らぬ神に
祟りなし
312 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 17:23:07
>>308 同意
畿内説がだめなのは、もはや明白だね。
都合の良い部分だけをつぎはぎして、ごまかし続けることの意味が理解できないね。
自分の考えが正しくないことを前提に、ごまかすことに心血を注ぐなんてのは
学者として恥ずべき行動だろうね。
後世の史家からは唾棄すべき存在となるのは確実なのに。
313 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 17:30:56
>>306 >「じゃあ昔吉野ヶ里ブームの頃までは九州説も勢いがあったわけだがそれは政治的な事とは無関係だったのか?」
「畿内説に一気に変わって言ったのはどのような畿内説側の政治工作があったのか?」
九州説の学者はだれも敗北したなんて思ってないさ。
畿内説の学者が揃って「吉野ヶ里は二世紀中葉だ」と言って意図的に九州の遺跡を古くしてしまって誤魔化しているだけだ。
九州説の学者は吉野ヶ里遺跡は4世紀初めまでは存続して栄えていたと言っている。
箸墓からは【鐙】が出ているから三世紀中葉には遡れない事は明らかだ。
だから橿原考古学研究所では箸墓は卑弥呼の墓ではなく、壹與の次の男王の墓ではないかと言っている。
橿考研でさえ箸墓を卑弥呼の墓にするのは無理だと思っているのだよ。
箸墓が3世紀末築造になればギリギリ中国で3世紀末に発明された鐙が日本に入って来て箸墓周濠に
投棄されたと理解する事も無理ではない。
(実際には中国で発明されてすぐに馬もいない日本まで飛んでくる事は不可能だろう。)
箸墓を卑弥呼の墓に比定している学者は鐙の件を無視してと言うか触れたがらないよね。
鐙を考えたら箸墓が卑弥呼の墓になる事は完全に無理と言う事になるから。
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 17:44:30
とにかく卑弥呼らしき即位の事実は記紀の相当年代あたりに無い。
これは預金通帳に入金とか卸しとか支出、利子等の記事がないと同然で
あり、そうなるとそれ以外にカネの動きがあったと通帳とにらめっこして
も、行員はそういう事実はありませんと否定されるだけなのと似たような
ものだ。つまり重要な女王即位の行動記事がないということは、畿内に
卑弥呼などいなかったことを物語るのだ。このことは、卑弥呼とその
女王国が九州にあったということと考えるのが妥当なのである。
315 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 17:46:44
>>312 ぼくらは近畿説です!つってだましだまし軌道修正するっしょ
>>313 先ず 「畿内説」=「箸墓=卑弥呼の墓説」 じゃない。
卑弥呼の墓が欲しけりゃ別にホケノでも勝山でもあてれば済むw下らない。
例の『鐙』にご執心のようだが
>(実際には中国で発明されてすぐに馬もいない日本まで飛んでくる事は不可能だろう。)
大陸から直輸入ならそれも不可能ではないだろうw
そもそもあの鐙を”馬匹文化が普及した時代”のものとすれば
じゃあ現在4世紀前半とされている古墳群その周辺から
何故、馬自体の骨や馬具や騎乗で使う武器鎧の類がでてこない?
「空白の期間」があると言う事はかなり試験的な形で導入されたか
あるいは贈答品のようなものでw
何れにせよ後には続いていないと言う事だ。
ゴミクズレベル九州説レベル式のイチャモン付けで言えば
アレが本当に鐙かどうかも確証はないわけだが…そこまでは言わんがw
まあ自重による沈み込みがなかったとしても人為的な要因も考えられるだろう
流石にアレ一つに飛びつくと言うのは畿内説だの九州説だの言う前に
そんな事やってたら考古学者なんていくら身があってももたんだろうにwwwwwwwww
>>314 >卑弥呼とその 女王国が九州にあったということと考えるのが妥当なのである。
卑弥呼らしき即位の事実は九州での記録に皆無な訳だがw
あの鐙は張政の乗馬のものだろうな。黄幢は騎馬で掲げるにふさわしいものだ。
とりあえずだ…
>>276 >考古学への予算は畿内説にのみ多く配分されているから畿内説を唱えないと学者も食って行けない。
>畿内説学者が多いのはこのためだ。
毎度毎度、根拠ネタ元も出さずにピンポンダッシュよろしく
ゴミクズレベル九州説どもによって書きなぐられるこのネタ
いい加減、根拠証拠を出せよwwwwwww
具体的な内部告発はないのか?
あからさまにそれと分る予算の記録とか?
そもそも今時、邪馬台国に絡んで予算が出るとか出ないとかあるのか?
内部事情に詳しい ゴミクズレベル九州説 のアホ諸兄に是非元ネタを披露していただきたいのだがwwwwww
邪馬台国絡みの資本投下は九州説の方がずっと多かったのになw
メディアを絡めた宣伝なんて畿内説とは雲泥の差だ。
考古学界なんてむしろ邪馬台国ネタは禁句に近いだろ。
何か出てきて報道が邪馬台国と結ぶ付けて質問する事
皆嫌がってるからな。
毎年予算の獲得に非常に苦労していたのに 邪馬台国を絡めた途端、
あっけなく予算がついて驚いた、と言っていたのは石野さんだったかな。
そもそも邪馬台国をうたって予算を獲得しても
じゃあ発掘成果に邪馬台国に結びつくものがなければ
信用なくして次から予算でなくなるとも思うのだが…?
イッパツ屋の山師ならともかく
何処かの大学や公的な研究機関に属している人間なら
そんなアホな事はしないと思うのだが…
そこら辺どうなんでしょうか?
ゴミクズレベル九州説の方々…
323 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 19:03:16
だから桃の種でさえ、邪馬台国に結び付けなくてはならなくなるんだよ
まあ結局、現在の九州説が絶滅危惧種とまで皮肉られる状態は
「学術的のものは関係なくて全て政治的なものだ!」
と言うようなゴミクズレベル九州説のインボーロンは
このアホどもが客観的に現実を分析できず
「オレサマの完璧な九州説が世に認められないのは陰謀だあああっ」
とファビョるしかないと言うだけのお話。
マスコミの軽佻浮薄な部分を差し引いても
かつての九州説イケイケ状態から今の状態になったのはそれなりの理由があったわけで
それをきちんと認識できれば
畿内説の弱点とか、仮にに九州説が復活するするとしたらどの様なイベントが必要かwとかも予測できようものだがw
というか、こういう九州説はもう2chのような場末感漂うネット掲示板でしか存在できない現状だからね。
ホームページを苦労してこさえても、誰も見ない。世間の関心が失われた中にあって、心寂しい人たち
が世の大勢に逆らっているという構図。
自分がずっと信奉してきたものが、ずぶずぶに壊されていくのがたまらないんだろう。哀れな話だね。
結局できることといえば畿内説への愚にもつかない いちゃもんばかりで、肝心の九州説そのものは
30年前から一歩も進展しない。
327 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 19:28:41
>>317 それは詭弁だね。
古代のブツ、遺跡はかなり消失しているのが常であろう。墓泥棒、台風等
の災害、取り壊しての新築等、遺失はいくらでもあろう。
通帳が遺失したり重ねて銀行側のパソコン記録等書き消えていれば、
預金があったかいくらだったか不明になる。それは現今はそういうことの
ないよう万全の体勢でいようから、万一の時の用意で判明するだろうが、
古代ではそこまで万全ではなかろう。
ところが通帳に相当する記紀があるんだから、出納の状況は確実に確か
だね。オマエの場合は通帳遺失を即出納が無いと言ってるようなもので、
誤魔化すのはやめるんだな。
>>321 疑うわけじゃないができれば出典を…
何れにせよ石野が予算獲得のために畿内説に転向したと言う話じゃないよな?wwww
怨み節の言うように『 本当は畿内説なんか信じちゃあいないんだが 』予算獲得の為
食っていく為仕方なく畿内説に改宗したって事例はないのか?
あるいは自身の良心に従って九州説を捨てなかった為
あからさまに冷遇されたと言う殉教者とか?wwwwwww
そんな事例がもう腐るほど学者の間では公然の秘密ぐらいになっているからこその現状なんだろう?w
>>326 それでも「邪馬台国」が古代史における最大の客寄せパンダであることには変わりがないんだろうなw
去年の「ハヤブサ」は科学技術方面の予算削減の対抗に関し結構な効果があったとも聞くが
やっぱこれと言うスター・アイドルみたいなものも必要なんだろうなあwwww
330 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 19:45:38
>>317 記紀は銀行の通帳の記録内容と考えればよい。女王即位は記録上最重要な
出来事であり、通帳での大金出し入れ記録に相当する。そういう即位記録
が相当年代あたりに記紀に存在しないということは、卑弥呼即位などが
畿内になかったということを意味している。行員だったら彼らに通帳の
その年月日あたりに大金出し入れはありませんと言われるのが当然だ。
これは通帳の記録でハッキリする。
これが通帳がない(九州に記録がない)ということは即行員は大金取引き
がありませんとは
>>317のようには言わないぜ。そんなことで客の申し出を
否定したら、あとで通帳発見、銀行パソコン記録でそういう取引きがあれ
ば、問題となるし、その行員は処分が来るし、客はカンカンに怒って抗議
され、大きな銀行の信用問題に発展する。所詮
>>317の客への扱いなら、
こいつは行内で更迭、身分が危うくなるぞ。
>>328 客寄せといっても、宇宙開発とは違って一自治体レベルの乏しい予算でやってるものが
ほとんどで、考古学者は純粋に国の史跡認定がもらえるようなものを掘り当てたいという
だけだろう。金銭的な利権なんてありえない話。
いくら発掘成果があがったところで軍事や産業に寄与する何物もないし、せいぜ町興しに
つながるかどうかという程度。
纏向の掘立柱建物遺跡でいえば、他県なら史跡公園化などの可能性もあるだろうけれど、
奈良県は各時代にわたっての遺跡が多数あるためかえって難しいんだな。
確かに素人目には
平城京>>>>>纏向 だもんなw
観光資源の有効利用と言う点では纏向は九州で出るべきだった
…とさえ思う事があるw
333 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 20:16:41
本日も「邪馬台国論争」の延命作業おつかれさんだなあ
学問的に見ても、3世紀邪馬台国の時代を優遇すべきなのかどうかは難しい。御所市の秋津遺跡は
4世紀を解明する上で実に貴重なものだと思うし、考古学者は一方では、邪馬台国の神通力に頼らず
考古資料の集積によって時代を解明していきたいという気持ちも強いだろう。
335 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 20:26:33
もし邪馬台国が確定したら、次にその地元が考え付くことは世界遺産申請だろうな
石見銀山とか、はっきり言ってしょーもない世界遺産があるから、
ホントに価値のある世界遺産の価値まで下がるわ゛
336 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 20:49:53
九州説は出雲をどう考えるの?荒神谷遺跡の大量の剣は?
出雲の遺跡は倭国大乱の証拠だよ。武器を葬った跡。
大和がなぜ山の上の盆地にあるのかというと、敵が攻めにくいから。
敵がいなかったら大阪に都が置かれてる。
また、北九州に都があったら、朝鮮半島から簡単に攻められるしね。
>>335 そりゃ「琵琶湖を世界遺産申請」やねw
申請っていうか、暫定リストっていう国内予選リーグがあるんだってさ
ちなみに彦根城が暫定リストで待機中。
もはや、他の城に対する牽制球でしかないね(^^;
>>313 あなたはあの鐙が箸墓古墳築造時に投げ入れられたものとばかり勘違いしてやしませんか?
339 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 20:54:42
畿内説は九州説が考古学や文献学的見地からちゃんと理由を述べて議論しようとしているのに「ゴミ」だとか「クズ」だとかのレスしか返せない。
どっちが屑で芥かは誰にでも判るだろう。
>>339 クズとアクタで乳繰り合ってるだけやん
ちゃうな、クズとアクタのパペットマペットやな
341 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 21:02:40
>>329 あんた、そのチンピラゴタクで「学会」ではスターなの?
>>324 それをしてたのは発掘側じゃないけど。
卑弥呼との関連性なんて口に出してもいない。
年代が3世紀前半とだけだからね。
>>327 お前のは詭弁以前に戯言だけどなw
343 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 21:38:41
>>342 ほう、マスゴミが勝手に言っただけとか?
一番の協力者をトカゲの尻尾切りしちゃう?
344 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 21:54:56
>>337 >ちなみに彦根城が暫定リストで待機中。
まさか ひこにゃん もコミじゃねえだろうな?wwwwwwwww
>>344 国宝の現存天守閣は、姫路城、彦根城、松本城、犬山城の4つ。
松本城は天守閣は立派だが城郭が簡素。犬山城は最古とされるがしょぼい。
ゆえに消去法的にポスト姫路城は彦根城。しかし世界遺産登録される見込みは薄い。
暫定リストに据え置かれているのはおそらく
「彦根城でダメなんだから立候補してくんな」という基準点程度の意味合い。
「古都鎌倉」も似たようなもんでしょ。
346 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 22:43:04
>>342 オマエが行員だったら、通帳を遺失したと来た客に〜カネ数字が無いから
取引はないと突っ返すのかね? 通帳が無いことは出納がなかったと
するには早計だねぇ。通帳に金銭出納の記載のないのと遺失して通帳が
見られないのとは意味が全然違うぞ。遺跡とかは遺失の如く消え失せては
いるが、遺跡ではある時期の古代人が係わっていたんだ。
オマエのさっきの九州に文献が出ないとでの突っぱねは、行員ならば
通帳がなく調べもしないで客を追い返すのと似たような応対であり、オマエ
の行員生命はそこでオシマイ! あとで懲戒処分が来るぞ。><
さっきのオマエの反論は処分もののひどい返答だぞ。詭弁を言って戯言とか
書いて誤魔化すんじゃねぇ〜。
>>308 学説?
あれは宗教なのでしょう?
畿内説に迎合しておかないと先がないわけですから
誰だって逆らいませんよ、畿内説こそが正しいと言っておかないと未来がないわけですから
老人どもが全部いなくなれば別ですがね
かくいう私も畿内説など成り立つわけがないと思いつつ表向きは畿内説を支持して迎合している者です
普通に考えて九州なのは馬鹿でもわかっていることでしょう
宇佐神宮と皇室の関係を抜きにして邪馬台国を論じることのできるお気楽者たちは
あと数年もすれば完全に淘汰されてしまうであろうことは
若い研究者たちのあいだでの共通認識といえます
九州説には基地外しかいないという事までは判った
宇佐とやらも物部氏が居た所なんだよなあ。。
起源主張はDNAレベルの習性なのか
350 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 00:59:36
>>347 やはりそうでしたか。
逆らう者には容赦しない、恐ろしいところですね学会と言うのは。
表向きであっても畿内説に迎合しないと一体どのような仕打ちを受けるのでしょうか?
外部に漏らせるところまでで構いませんから教えてください。
宇佐神宮を軽んじる輩に正義の鉄槌を!
またキチガイが出てきたか。宇佐なんて8世紀以降のもんだろ。
関西に邪馬台国を持ってくるとすれば、
播磨、難波、河内、近江あたりが重要国として示されていなければなあ。
畿内は大規模な国があった
九州は大陸が近かった
結局傍証でしかないんだよな
つまり邪馬台国は埼玉にあったんだよ!
>>276 >陶質土器が畿内の弥生遺跡から出たのを確認したかね?
久宝寺のやつだったら確認できたよ
まず,久宝寺遺跡は縄文から中世までの複合遺跡なんで
「弥生遺跡」という表現に問題ありだね
正確に「庄内式期相当」と書かなくちゃ
庄内式期は研究者によって弥生終末とされたり古墳早期とされたりするしね
で,その出土したのが「陶質土器」であるとか
その年代観が4世紀だってのは
Y掲示板の書き込みを読む限り
白井克也氏の「日本出土の朝鮮産土器・陶器」(2000年)
ttp://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html の記述によってるみたいだけど
白井氏自身が翌年の「勒島貿易と原の辻貿易」で
日韓の土器の並行関係を整理し直していて
くだんの土器は「陶質土器」ではなく「瓦質土器」の模倣品としているし
年代を3世紀の前半にあてているんだよね
つまり,研究者自身が撤回した旧説に依拠してるということ
ttp://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html ということで
>畿内では新羅伽耶時代、4世紀中葉は未だ弥生時代だった。
>箸墓が卑弥呼の墓はと言う事はあり得ないし、畿内説なんて始めから成り立たない。
なんて主張は成り立たないってのが結論
それから,発掘の予算は
自治体が行うものは自治体で,
大学などが行う場合は大学で決めることができるものなので
「畿内説でなければ予算がつかない」なんてことはない
要は,ある自治体が「邪馬台国はおらが町だ!」と主張するために発掘するのは
その自治体が予算を組めばいいだけってこと
現に纒向遺跡のある桜井市は市長がやる気があるので予算も付きやすいらしい
実際には福岡県は全国でも上位にランクされるほど発掘件数が多いという事実を認識して欲しい
九州説を主張するのはかまわないけど
事実とは異なる思いこみによる主張は控えるべきですよ
356 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 09:18:59
歴博が炭素年代で畿内説を証明するから予算をくれと言ったらすぐに予算が出たらしい。
357 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 09:45:17
自治体だけでは予算が出来ん。文部行政に関わる事は文科省の補助金が必要。
358 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 09:59:51
邪馬台国が九州でしか有り得ないのはわかりきったこと
ただ、畿内説論者の存在価値がまったくなかったわけではない
邪馬台国論争が盛んになり、古代史にさほど関心がない層の人たちにも、興味を抱かせることが
出来たことだ
しかし、そろそろ畿内説の役割も終焉に来た
これまで、バカバカしいと思いつつ畿内説を主張していた輩も、
安心して九州説を表明すればいいんだよ
>>352 示されてるでしょ。
>>358 邪馬台国論争を今まで盛り上げたのは、他でもない九州説だよ。
(映画や小説、JR九州の社歌までw)
でももう無理だから、最近の映画もコケたしな。
畿内ではもう邪馬台国なんていわなくなりましたね。
巻向の建物跡も、無理に卑弥呼と結び付ける人は少ないし、
奈良盆地に数多くある遺跡のひとつといった捉え方ですね。
他に取り立てて観光資源のない九州とは大違いというか、大人の余裕すら感じられます。
>>354 その話は前にはっきり否定しておいたんだが、しばらくたってほとぼりがさめるとまたぞろ
持ち出して来るんだ。自説にとって都合の悪いことは見えません、聞こえませんなんだな。
しかも、自説に都合のよい部分だけをネットで拾い読みしてるだけだから、レス自体が極めて
不正確。これがこの板の九州説の実態。あと、最近は陶質土器自体の年代観もかなり遡上
している。
363 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 15:05:55
子供達にランドセルを背負わせたいのが伊達直人■■子供達に借金を背負わせたいのが菅直人
必殺技を決めるのが伊達直人■■「俺に決めさせるな」が菅直人
虎のマスクで顔を隠すのが伊達直人■■虎の威を借るのが菅直人
庶民を勇気づけるのが伊達直人■■庶民を落胆させるのが菅直人
フェアープレーで闘うのが伊達直人■■スタンドプレーで目立とうとするのが菅直人
施設にランドセル贈るのが伊達直人■■中国にランド・セールするのが菅直人
贈与するのが伊達直人■■増税するのが菅直人
子供たちに夢を与えるのが伊達直人■■子供たちに弓を引くのが菅直人
リングで虎をかぶるのが伊達直人■■選挙で猫をかぶるのが菅直人
仮面を被って戦うのが伊達直人■■仮免で国を動かすのが菅直人
庶民の味方が伊達直人■■庶民を偽装が菅直人
ヒーローなのが伊達直人■■非道なのが菅直人
マスクを外すと一般の人が伊達直人■■マスクを外すと欲望の人が菅直人
希望を与えるのが伊達直人■■希望を奪うのが管直人
タイガーマスクなのが伊達直人■■総理大臣なのが駄目直人
今後もゴミクズレベル九州説どもによって
「年代遡上ケシカラン!これを見ろどう見ても古墳時代は4世紀からだ!」
みたいなネタがあっちこっちから拾われてくるんだろうが…
なんつうかもうウンザリと言うか
そもそも考古学の発掘なんて何処まで年代の上限を引き上げられるか?
そのチャレンジって意味はあるだろうに
(その上限一杯からどれだけ下らせるかに編年作業も意味があるんだろう)
逆に言えば例の「神の手」だってそれに功績があったとして賞賛されたわけでw
こいつらの場合、新しい方にあわせて引き下げると言うのが毎度のパターン。
もしくは(理論的には限界のない)下限ぎりぎりのものを見つけてきて
そこから「流通期間はこれぐらいだろうから」と逆算するか。
無論それは「九州王朝」だか「邪馬台国東遷」といった特殊な思想故と言うのがみえみえなわけだがw
「年代遡上ケシカラン!」と言うのは
「自分たちの説が成立しえた過去の環境を変えてくれるな」
と言う事に他ならないw
もうコイツラは60〜70年代にタイムスリップするしかないんじゃないのか?www
>>363 「そこまで言って委員会」見てたな?w
本州説も日本海側なら可能性があるかも知れない。
年輪も同位元素も関西人脈の中だけでなく、
鏡も中国、半島とのグローバルな共同研究を進めれば、
内輪以外でも認められるような考古学が始まる。
>>360 >大人の余裕すら感じられます。
余裕がないからこんな邪馬台国関連スレに投稿してるんだろ。
余裕があるならこんなスレから消えろよ。
368 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 09:51:12
根拠もなく年代を遡上させたって仕方ないだろ。そんなものは、しょせん、妄想だ。
369 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 11:50:36
畿内に邪馬台国があったのなら、どうして九州でうろうろしてから船で邪馬台国に行ったんだろ?
九州を経由するにしても、マツロ国でもイト国でもわざわざ歩かないで船で立ち寄るだけで十分だったろう。
朝鮮通信使だって九州はちょっと立ち寄っただけだ。
魏使は九州の風物は詳しく記述しているが、(畿内説では)途中にあったと思われるトウマ国の記述もそれ以外の沢山の国の事について全く書き遺していない。
水行10日と陸行一月は問題だが、文献的には畿内説は苦しいのだろう。
そこで考古学だけで畿内説を成り立たせようとして、沢山の金を投じて発掘しているが、結局ろくな物が見つからない。
桃の種なんて笑っちゃうよね。
中国と交流があった証拠などまったく見つからない。
半島との交流も九州に比べれば圧倒的に少ない。
古墳時代に入ってからでさえ鉄器も九州の5分の一。
古墳時代の年代を捏造しないで卑弥呼の時代が弥生時代だとすれば、鉄器はほぼゼロ。
考古学的にも畿内説は成り立たない。
恥ずかしいね。畿内説。
370 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 12:15:31
畿内説の学者も年輪年代や炭素年代には疑問を持っている人が多い。
けれど、なんとなく箸墓が卑弥呼の墓だと思っていると言うんだ。
畿内に邪馬台国があったと主張する根拠は殆んどないけれど、畿内に邪馬台国があったと思う、みたいな話なんだ。
畿内説をとっているのがマスゴミ。
ろくでもない発掘品を何でも邪馬台国に結び付ける。
そうすると新聞が売れるのだろうか?
みんなの嫌いな朝日は畿内説の中心だ。サヨは好きらしいが。
371 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 12:20:14
>>369 >畿内に邪馬台国があったのなら、どうして九州でうろうろしてから船で邪馬台国に行ったんだろ?
>九州を経由するにしても、マツロ国でもイト国でもわざわざ歩かないで船で立ち寄るだけで十分だったろう。
郡使が九州でうろうろしたとかわざわざ歩いたとか倭人伝のどこにも書いてないんだけどなあ。w
ただ郡使は伊都国で逗留した・・・・このことだけは間違いないよね、倭人伝から確実に判るのはそんな程度だよ。
372 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 13:06:04
>畿内に邪馬台国があったのなら、どうして九州でうろうろしてから船で邪馬台国に行ったんだろ?
倭人伝の記事を、魏の使者が邪馬台国へ行く道程と考えること自体が、そもそもの間違いだと思うよ
邪馬台国がどこにあろうが、使者は対馬や壱岐、マツロ国に立ち寄る必要はないんだからね
しかし、対馬や壱岐のことも内容(住民の生活の様子や戸数)は記載されている
まぁ、あれは言ってみれば、中国側に書かれた「九州風土記」みたいなもんだ
373 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 13:15:10
>>369氏の言うとおりだろう。うろうろという表現がどうかはあるが、使者が九州で
上陸し五百里を陸行したことはまちがいない。畿内ならばそんな必要はないね。
ただ、水行10日と陸行一月は問題だがというのはどうかな?何も問題はないよ。
有明海は潮の満ち引きが激しくて、水行できる時間は日に数時間だけだそうだ。
それに、陸行して行く道は山道、直線では百キロほどでも実際には二百キロ近い道だ。
一月かかるというのは何も不自然ではないさ。
374 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 13:34:37
>>373 >うろうろという表現がどうかはあるが、使者が九州で上陸し五百里を陸行したことはまちがいない。
だから、「使者が」は、書いてないってば、分からず屋だなw
ちょっと君に聞くけど、奴国・不弥国・投馬国は、「使者が」通った国・・・・と思っているの?
375 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 13:46:31
邪馬台国に行くことだけを考えるなら、それがどこにあろうが、
邪馬台国に最も近い陸地まで船で行き、そこから道を歩いて行けばいいに決まっている
あれは、軍事報告書、ってのは古田だったっけ。
最近も、古代史犯罪、とかいうので、「倭人伝」自体の意味を考えろ、みたいに
なってたな。あ、古田じゃないが。
377 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 14:04:13
>>374 当然でしょう。使者が通った国だから、戸数道里や官名が書いてあるんですよ。
378 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:06:16
>>373 >うろうろという表現がどうかはあるが、使者が九州で上陸し五百里を陸行したことはまちがいない。
>>374 >ちょっと君に聞くけど、奴国・不弥国・投馬国は、「使者が」通った国・・・・と思っているの?
>>377 当然でしょう。使者が通った国だから、戸数道里や官名が書いてあるんですよ。
すると377氏は、
魏使は伊都国を出たあと
伊都国 → 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国
の順で諸国を通り、邪馬台国へ至ったと?
そうした連続読み説は九州の中だけでは収まりきれないのではなかろうか。
投馬国は水行二十日、邪馬台国は水行十日陸行一月なのだから。
379 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:21:59
>>378 実際に訪問した順序は、伊都国 → 奴国 → 伊都国 → 不弥国 → 伊都国 →投馬国
→ 邪馬台国かも知れないな。
それを放射式に書いた、それだけのことだろう。
380 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:22:16
年輪年代法は最も科学的で疑問の余地はないよ。
疑問を持っているのは自分に不都合な大和説で年輪年代方が合致しているから
であって、こういう人は自分に都合のいい九州説で年輪年代方が合致したら
大々的に押してくるよ。
381 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:24:29
大事なことは、個人的な推測に歴史を合わせるのではなく、過去にあった
真実の歴史を個人的な思惑を捨てて理論的に解明することなんだよね。
382 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:49:01
>>379 >実際に訪問した順序は、伊都国 → 奴国 → 伊都国 → 不弥国 → 伊都国 →投馬国
>→ 邪馬台国かも知れないな。
初めて聞く説で珍奇としか言いようがない。
いや放射式読み説は十分承知しているのだが
まさか魏使が放射式に行きつ戻りつする理由は何もあるまい。
それと投馬国→ 邪馬台国だけは連続にするのも一貫性がない。
>>377 当然でしょう。使者が通った国だから、戸数道里や官名が書いてあるんですよ。
末廬国には官名がない。
すると魏使は末廬国を通らなかったという御意見か?
いやこれは決して挙げ足取りではない。
重要な問題を提起すると考える。
383 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 16:14:27
>>382 >初めて聞く説で珍奇としか言いようがない。
これまでは、行程記事を連続説で読むべきか、放射式に読むべきかだけを論じてきて、
実際に訪問した順序をあまり考えていなかったんじゃないかな。だから聞いたころが
ないということになるんだろう。
しかし、実際にどう訪問したのかとなれば、伊都国は一大率のいる所、ゆっくりと休
んだことは十分に考えられる。そのときに、邪馬台国への道筋にはない奴国、不弥国
の様子をみに行くということは十分に考えられるだろ。片道8キロぐらいならば行っ
て一晩接待を受けてまた伊都国に戻るということはあり得る。そうゆうことを想定し
て言ったまでのことだよ。
>末廬国には官名がない。すると魏使は末廬国を通らなかったという御意見か?
いや、末盧国を通過したことはまちがいない。ただ、聞き落としたか、それほど重要
でないと思って書かなかったか、いずれかだろう。
訪問しない国についてあやふやな記載はしなかっただろうというだけで、訪問した国
については必ず書いているだろうということではない。
384 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 16:41:55
投馬国かどうか判らないが吉備には纏向に先行する巨大古墳や不思議な遺跡が沢山存在する。
吉備について官名と人口以外に何も書かないのは不思議だ。
386 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 17:50:51
>>380 >年輪年代法は最も科学的で疑問の余地はないよ。
学問としてならばね。
だが、法隆寺の五重塔の芯柱では百年古い値が出ているんだろ。
やっこさん、データの一部しか開示しないで、何処どこからでた木材は○○年だと御宣託しているに過ぎない。
だから、畿内説の学者でも白石くらいしか評価していない。
まあ年輪年代はあくまでその樹木の「伐採された年」を測るものだからな。
纏向スレにも出ていたが弥生時代の数百本の貯木場とかあり
古木のストックも十分ありえただろう。
逆に史学の通説に合わせて数字を出すのならもはや科学でもなんでもない。
それこそゴミクズレベル九州説のアホが言う「御宣託」だw
ゴミクズレベル九州説どもは勘違いしているんだろうが
仮のお話として、年輪年代が何処かで(例えばデータの”つなぎ”部分で)重大な過ちがあって
それが白紙に戻されたとしてもそれで九州説が復活する事はないw
庄内の始まりを4世紀にもっていくなんて年代観に戻る事はありえないwww
年輪年代法が登場するしないに関わらず今の年代観になるのは必然だったわけで
ぶっちゃけ「邪馬台国論争」なるものがなければ
とっくの大昔に今の年代観に辿り着いていただろうwwww
388 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 18:32:17
数年寝かせる事はあっても100年寝かせたなんて事はあり円。
389 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 18:58:12
>>354 >
ttp://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html の中の
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a_t1.gif では楽浪土器が三世紀中葉で終わっている。
本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。
その後に古式新羅伽耶土器が始まる。
韓国側の通説では古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされているんだが、
日本の学者は半島の事情を全く無視して古式新羅伽耶土器の始まりを3世紀中葉にしている。
それにしても、白井氏の土器編年でも箸墓が卑弥呼の墓と言う説は成り立たないだろ。
庄内式土器の終わり、古墳時代の開始は3世紀後半をやや廻って260年くらいになっているが、
箸墓は既に布留一式の時代に入っている。
箸墓より早く作られたと思われるホケノ山からも布留一式土器が出ているぞ。
そこで橿原考古学研究所では箸墓を卑弥呼の墓でなく、壹與の次の男王としている訳だ。
箸墓が卑弥呼の墓でないとしても畿内説を唱えないと予算が貰えんからな。
390 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 19:31:05
>>370 >畿内説をとっているのがマスゴミ。
その手前が噛み付いているマスゴミがこぞって取り上げていたのがかつての九州説だったわけだがw
右左のお話が大好きそうだが、かつての九州説なんて大概ヒダリ御用達だったわけだがwww
それまでの定説の年代観が覆るに十分な考古学上の進展があった事など書かず
(まあ紙面も限られているし入り組んだお話は書けないんだろうが)
まるで年輪年代法の登場が年代観を全て書き換えたが如き(そう言う印象を持たれやすい)記事を
真に受けて年輪年代や理化学的年代測定法を批判すれば畿内説を何とかできると思っている馬鹿は
結局、自分がヒッシに噛み付いているマスコミに踊らされているアホだと言うオチwwwwwwwww
391 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 19:35:47
>九州説が復活する事はない
畿内説は最初から脳死状態なのに、よく言うよwww
392 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 19:46:49
393 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 19:51:32
畿内説なんて、どうやったら成立するのか、さっぱりわからん
方角距離が滅茶苦茶でいいのなら、それこそ、関東でも東北でも
それらしき遺跡さえあれば、何でもかんでも邪馬台国にされてしまう
あくまでも文献に基づき、そこから合理的に比定される場所、すなわち九州から、
遺跡が発掘された場合のみ、邪馬台国だと確定することが出来よう
それ以外の場所から遺跡が出てきたところで、それは邪馬台国とは全然関係のないクニが
あったというだけである
394 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 19:52:51
ちなみに年輪年代で史学で言われる年代にピタリと合ったものもあれば
当時にはどうしても会わないとされたものがあったなんてのは昔からで
前者の例なら紫香楽宮の場所の特定で
信楽町ではなくて宮町遺跡がそれなのでは?と言われた事が実証されたり
後者なら滋賀県守山市二の畦・横枕遺跡
井戸跡で見つかった板材がBC97、BC60。
共伴土器が近畿第W様式で当時は百年以上は古いとされ見送られた。
まあ何れにせよ
「史学分野の年代に合わない」からと言ってイチャモンをつけるのは本末転倒
邪馬台国論争しかアタマにないゴミクズレベル九州説のキチガイならではwww
395 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:00:15
>>393 >すなわち九州から、遺跡が発掘された場合のみ、邪馬台国だと確定することが出来よう
じゃあそれはどんな遺跡なんだ?
どんなものが出てくれば邪馬台国と分るのだ?
「邪馬台国」と書かれた看板か?w
吉野ヶ里じゃあダメなのか?ww
何れにせよ九州説なんて、その イッパツ逆転ネタの遺跡 とやらが出てきてから考えればよろしいw
確かに初期ヤマト王権が邪馬台国だという確証はないが
(ここのゴミクズレベル九州説はそもそも3世紀にそれがあったこと自体認めないがw)
じゃあ九州にその対抗馬があるかと言うと
ないからこそ比定地もバラバラで周りからも皮肉られるのが現状なんだなw
396 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:12:39
畿内説はせいぜい、「邪馬台国」と書かれた看板が発見されるのを待つことだなwww
おっと、捏造するんなら、ちゃんと3世紀に製作されたものと判断されるように
作らんとダメだよwww
なんか今夜は殺伐としてるね
あす来ようw
398 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:26:44
>>396 残念だが待たない。
そんなものを待つことなくドンドン先に進んでいる。
それは近畿関西のみならず東日本も日本海側も、そして当の九州の考古学も含めて
要するにお前らみたいなアホの脳内以外の現実はドンドン先に進んでいるw
ちなみにもし九州で 3点差ビハインド九回裏二死満塁ホームラン
・・・級の遺跡が出てきて、九州説で決着しても
畿内説と言うか現在の史学からすれば
「あ、そうなんだ、じゃあ3世紀に魏から冊封されたクニは初期ヤマト王権以外にあったんだね、ふ〜ん」
で済む話wwww
が、ここのゴミクズレベル九州説の中身「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」にとっては
九州邪馬台国がなければ話が始まらないwwwwww
まさに教団の根本教義に関わるお話wwwwww
399 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:28:01
郡の役人は伊都国に常駐
キチガイがこのスレに常駐
このキチガイが改心(有り得ない)しない限り、殺伐としている状況は続く
もっとも、オレは気にならないがね
400 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:29:59
そういえば、纒向の外来土器に九州産は全くと言っていいほど無いんだな。
九州と畿内との交流は無いと思って良い。
仮に東征があったとしても、痕跡も残らないような少人数しか有り得ない。
もちろん、中国との交易が九州経由で行われるはずもない。
直接出雲あたりから出航するのまでは否定しないが。
401 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:34:12
>あ、そうなんだ、じゃあ3世紀に魏から冊封されたクニは初期ヤマト王権以外にあったんだね、ふ〜ん
ゴミクズレベル九州説と喚く癖に、
その九州説と、同じ理屈を振りかざすとは・・・
魏志倭人伝では、邪馬台国は絶対九州であり、畿内は絶対にない!!
さて、そろそろ今日は終わりにしよう
感謝しろよ!お前なんかの相手をしてやったんだからな!
402 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:41:34
>>392 そこの紹介先 鷲崎 弘朋 の「 図3 近畿地方 土器年代比較表 」だと
柳田が年輪年代法登場以降の2004年に一気に年代を遡上させたものを出しているかのような表し方だがwwww
じゃあ70年以前にそこの佐原の年代観を支持するような物が
九大あたりの考古学者によって出されていたのか?って話で
(あるのなら教えて欲しい、今後認識を改める)
知っていてやっていたら詐欺ペテンとすら言われかねないシロモノだと心配するがwwww
403 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:47:41
畿内は倭種の国ですらない。
倭人伝では有棺無槨。
畿内の古墳、皆「槨」あるよね。
九州の初期古墳には槨なんかないぞ。
404 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:47:43
鷲崎さんのサイトぐらい知ってるだろ。
心配なら教えてあげたらどうかな?
405 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:50:13
大型古墳は槨とか石室とか作るもんね。
それから見ても、卑弥呼の墓はそれほど大きいものではないと言えるだろう。
406 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:54:37
正直この板でよく名が出てくるこの「鷲ア弘朋」なる人物に関して
そのプロフィールが良く分からない。
サイト見ても「元会社員」だし…
要するに邪馬台国ブーム時には雨後の筍の如く出てきたような
(そのブームからは遅れてやってきた)市井の邪馬台国マニアの一人なのか?
自分的にはサガミセンセイと同じカテゴリーなんだがwwwww
407 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:58:04
人格攻撃はちょっといただけないねえ
408 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:59:42
ジョーカー君は、もともとそういう人間だからな。
半島の政変以前は、列島も公孫氏の傘下にあったわけだし、それまでの有力者は慌てて関西方面へ落ち延びたことだろう。
邪馬台国の利用価値も三国時代までで、親晋倭王に封じて貰った記録も無し。
ほとぼりを済まして、関西方面に居た奴のほうが得をする。
410 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:03:23
>>407 ん?
>>402については
「元々九州の考古学も古墳時代の始まりを4世紀初頭に置くようなものだった」
と言う事を示してくれれば心配もなくなるし以後の認識も改めると言っているが
”俺の人格”じゃなくて具体的に反論できないのかな?w
411 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:13:57
九州って言うけどもともと、九州は一くくりではくくれないよ。宮崎、大分
あたりは環瀬戸内文化圏で関西との文化的繋がりが深いし、鹿児島なんかは
別種の地域だったし。
鷲ア弘朋氏は宇佐の地域興し請負人というか、それで食ってる人だな。
413 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:20:30
九州には女は首長になる風土があった。
吉野ヶ里の北墳墓には女王に、それに傅く女占い師らしい遺体が埋められていた。
古墳時代のずうっと下がった時代でも女王の前方後円墳がある。
それから、記紀にも女酋征伐譚が沢山出てくる。
九州には男王が即位すると乱が起きて女王が即位すると治まる。そう言う風土があった。
こう言う風土の九州が卑弥呼や壹與の国であったと考えるのに何の不都合もあるまい。
邪馬台国に関しては、民高学低が現状だかんな。
昔の榎氏のような、注目される学者はおらんしな。
宇佐は邪馬台国連合には入らないだろう。山国川流域までだ。
関西が狗奴国に思えた時もあったが、熊本北部の遺跡を見ると倭人伝の話は九州の中に収まる。
416 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:53:56
大和でも飛鳥時代から奈良時代にかけて女帝はいっぱいいた。
平城京を遷都したのも女帝だし。
平安京になってからぱったりなくなった。これは女帝による弊害が目立ったから
だと思う。
417 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 22:45:15
6世紀になるまで女王はいなかったんだろ。w
>鷲ア弘朋
あらため、風来坊とはやりあってたけど
ローガンはあまり相手されてなかったよねww
ローガンよ おぬしはまだまだて思われてるんじゃない?www
419 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 00:22:54
>>418 ローガンとじゃなくてドツボと波長が合ったのなら
普通に考えてヤバイんじゃないのか?w
420 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 01:49:25
最近の畿内説はもう学問の体裁を取り繕うことさえしなくなったな。
>>389 >本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。
白井氏が参照してるのは高久健二氏の研究
高久氏の研究は楽浪と弁韓・辰韓の関係を主眼にしたものだったので
3世紀後半以降が対象外となっているに過ぎない
表の「+」の記号は「適当な名称が確定していない土器型式(様式)」の意味
>韓国側の通説では古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされているんだが、
>日本の学者は半島の事情を全く無視して古式新羅伽耶土器の始まりを3世紀中葉にしている。
瓦質土器と陶質土器がごちゃまぜになっている
久宝寺遺跡出土のは瓦質土器
陶質土器である古式新羅伽耶土器ではない
その瓦質土器の起源に関する白井氏の記述は以下のとおり
>北方に楽浪郡が建てられると、
>南朝鮮でも楽浪瓦質土器の影響を受けた
>還元焔焼成の土器が作られるようになる。
>箸墓は既に布留一式の時代に入っている
箸墓の築造時期は布留0式期で確定している
電波を飛ばさないように
>箸墓より早く作られたと思われるホケノ山からも布留一式土器が出ているぞ。
ホケノが古いとされていた根拠のひとつは埋葬施設の構造
時期の分かる土器が出ているのなら年代観は土器の方が優先されるだけですが,なにか?
>そこで橿原考古学研究所では箸墓を卑弥呼の墓でなく、壹與の次の男王としている訳だ
それ,橿考研の見解でなく,所員の一人の個人的な見解ですから
あなたが考古学の事情にうといということがよくわかりました
イヨタン・・・・・・・・・・
423 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:29:59
>>421 >白井氏が参照してるのは高久健二氏の研究
高久氏の研究は楽浪と弁韓・辰韓の関係を主眼にしたものだったので
3世紀後半以降が対象外となっているに過ぎない
表の「+」の記号は「適当な名称が確定していない土器型式(様式)」の意味
勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。
韓国では「古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされている」だ。
日本は韓国の学者より韓国の考古に詳しいのか?それを無視して出鱈目な土器編年を作っているのが日本と言う事。
>箸墓の築造時期は布留0式期で確定している
主体部の発掘をしなければ解らないだろう。
築造の際、周囲から集められた古い時代の土砂が使われた事は容易に推測できる。
>それ,橿考研の見解でなく,所員の一人の個人的な見解ですから
橿原考古学研究所付属博物館の売店でホケノ山出土画文帯神獣鏡のレプリカを卑弥呼の鏡として売っていてもかね?
卑弥呼の墓より古いホケノ山に卑弥呼の鏡が埋葬されていたらおかしいだろう。
所員一人の見解でお土産まで変えられる事はない。橿考研の統一された見解と見るべきだろう。
歴博捏造年代発表の際にこんな事を述べている。
「古墳時代は箸墓古墳の登場が始まりとされてきた。築造時期をめぐり研究と論争が続いてきた。
手がかりは築造期に現れる布留0式土器だった。考古学者によってその年代は様々で、近年は
「3世紀半ば以降〜後半」との年代観が力を増していた。」
つまり、箸墓築造は橿考研の寺澤編年が有力となっていた事を示している。
そこで箸墓をどうしても卑弥呼の墓にしたい畿内説の歴博が年代捏造に取り掛かったのだ。
424 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:33:02
その上でこうも述べている。
「 放射性炭素の濃度は世界で一定とされてきたので、日本の研究者は頭を悩ませてきたが、日本と似た緯度のトルコ
でも同じ現象が確認され、南半球でも合致しないことが明らかになってきた。
国際較正曲線は高緯度にある欧米の木材の年輪をもとに組み立てられているためと見て、
歴博や名古屋大の研究者たちが日本独自の較正曲線作りに取り組み、めどがたってきた。」
・・・・おいおい、弥生時代を国際較正曲線で測定して紀元前10世紀と発表しておいて
今度は国際較正曲線は日本に適用できないなんて言い出すとは・・・とんでもない捏造学者たちよのう。
それにめどが立ってきたとはいえ、まだ出来てもいない独自校正曲線を使えば箸墓は3世紀中葉だと言いだした。
これを見ても明らかなように歴博はインチキの総本山なんだ。
425 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:42:17
箸墓は卑弥呼とは全然関係ないよ
何の証拠もないのに、勝手に卑弥呼の墓だと騒ぎたてている
この一件をみても、畿内説を主張する考古学者のデタラメぶりが明らかである
捏造歪曲を屁とも思わぬ畿内説には、うんざりする
426 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:43:13
橿原考古学研究所は奈良県立で奈良が我が国の中心であったことを前提とした
研究を進めようという機関。そこで給料をもらっている連中が畿内説を主張す
るのは必然なんだよ。中立的な立場ではないんだ。
>>413 女酋長の類の話なら紀伊半島各地にあるけど。
いかに九州説の連中が文章を読まないか良くわかる流れですねw
そりゃ、ゴミクズ呼ばわりされるわw
>>420 崩壊寸前の状態でそんな余裕はありません。
○奈良県立橿原考古学研究所条例
昭和五十五年三月三十一日
奈良県条例第二十三号
奈良県立橿原考古学研究所条例をここに公布する。
奈良県立橿原考古学研究所条例
奈良県立橿原考古学研究所条例(昭和四十九年三月奈良県条例第三十六号)の全部を改正する。
(設置)
第一条 遺跡及び埋蔵文化財の保存及び活用に関する事項を調査研究し、教育、学術及び文化の発展に資するため、奈良県立橿原考古学研究所(以下「考古学研究所」という。)を橿原市に設置する。
(事業)
第二条 考古学研究所は、次に掲げる事業を行う。
一 遺跡及び埋蔵文化財(以下「遺跡等」という。)に関する学術的、専門的研究を行うこと。
二 遺跡等の発掘調査及びその指導を行うこと。
三 考古学的遺物及び遺跡等に関する資料(以下「考古資料」という。)を収集し、保管し、及び展示すること。
四 考古学的遺物及び遺跡等に関する講習会、研究会等を開催すること。
五 その他考古学研究所の設置目的を達成するために必要な事業
(附属施設)
第三条 前条第三号及び第四号の事業を行うため、考古学研究所の附属施設として、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(以下「博物館」という。)を橿原市に置く。
(以下略)
ttp://www.pref.nara.jp/somu-so/jourei/reiki_honbun/k4010862001.html
橿原考古学研究所所長トーク
『菅谷所長と語る! 邪馬台国』
「菅谷所長と語る!平城京とその時代」の所長トークが好評のうちに終了しました。
今回は、皆様のアンコールにお答えし、邪馬台国の核心に迫ります。所員が自説を展
開したあと、所長と激論を交わします。
日時:
2010年12月25日(土)13:30〜15:30
入倉徳裕「邪馬台国九州説の立場から」
2011年1月29日(土)13:30〜15:30
藤田三郎(田原本町教育委員会)「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」
2011年2月19日(土)13:30〜15:30
関川尚功「纒向遺跡の年代観と邪馬台国問題」
2011年3月19日(土)13:30〜15:30
寺澤 薫「纒向遺跡と邪馬台国」
場所:奈良県立橿原考古学研究所 講堂 (近鉄畝傍御陵前駅下車 徒歩5分)
※入場無料、資料無料配布。定員300名
※博物館の関連展示はありません。
※4回連続出席者には修了書を授与します。
奈良県立橿原考古学研究所
所在地 〒634-0065 奈良県橿原市畝傍町1番地
TEL 0744−24−1101 FAX 0744−24−6747
ttp://www.kashikoken.jp/event/other/2010/sugaya-talk_yamataikoku.pdf
433 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 19:15:24
>所員一人の見解でお土産まで変えられる事はない。橿考研の統一された見解と見るべきだろう。
しかしスゲエなみやげ物にまで文句言うのは
卑弥呼饅頭とか出していたら
3世紀に饅頭があったはずがない捏造だって文句言うのかなW
434 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 19:58:08
>>426 ようするに奈良が憎い、畿内が憎い、関西が憎い、ということですね、わかります。
そう、恨みなんだな。人生を賭けて信じてきたものが、今まさに覆されんとすること
に対する怨念だ。ここの九州説は亡者の群れなんだよ。
436 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 20:16:41
うわあ、キモッ!!!
437 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 20:33:17
まあ2ちゃんねると言う場所柄
ウヨサヨのイデオロギー的なものと
地域差別・嫌悪的なものが多分に本来学術的なネタである邪馬台国論争にも
多く入り込んでいるって話なんだなw
438 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:46:15
歴史を検証するのに、願望や好き嫌いの感情を入れたらだめなんだよね。
九州説はそれが苦手みたい。どうしても感情的になる。
日本のマスコミも九州説擁護ばかりだったしね。
>>423 >勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。
>日本は韓国の学者より韓国の考古に詳しいのか?それを無視して出鱈目な土器編年を作っているのが日本と言う事。
高久氏は件の研究成果を韓国の研究者との合同学会で発表しているのだがね
しかし,「捏造」とは穏やかでない
名誉毀損ものだな
>「古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされている」
これのソースよろしく
>主体部の発掘をしなければ解らないだろう。
>築造の際、周囲から集められた古い時代の土砂が使われた事は容易に推測できる。
周濠底からまとまった量の土器が出土してるし,墳丘上で拾われてる埴輪の年代とも一致
報告書くらい読んでから書き込まないと恥をさらすだけですよ
>所員一人の見解でお土産まで変えられる事はない。橿考研の統一された見解と見るべきだろう。
>>432の書き込みによって病的な妄想であることが露呈しましたね
440 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:32:21
特別陳列 開催要項
■埴輪のはじまり ‐大和の特殊器台とその背景‐
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(PDFファイル)
http://www.kashikoken.jp/museum/top-koushin/tenrankai/pdf/haniwa.pdf 「埴輪」は古墳時代を象徴する考古資料で、各地の古墳にはさまざまな形の「埴輪」が立て並べられ、墳丘を飾っていました。
その「埴輪」の起源として考えられているものが「特殊器台」と呼ばれる、弥生時代後期の吉備で祭祀に用いられていた、特殊な文様や赤彩が施された大型の器台です。
これが初期ヤマト王権の墓制の中に取り入れられ、「埴輪」へと変化をとげます。
本展覧会では、近畿で出土した埴輪の成立に関する資料を一堂に集めて展示します。また、吉備の特殊器台の代表的な資料もあわせて展示します。
そして、大和で特殊器台が登場するようになった背景や、特殊器台から埴輪への移り変わりの過程を考えていきます。
会 期 : 2011年2月5日(土)〜3月21日(月・祝)
開館時間 : 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休 館 日 : 毎週月曜日 *3月21日(月・祝)は開館。
主 催 : 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
後 援 : 毎日新聞社大阪本社 / (財)由良大和古代文化研究協会
会 場 : 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 特別展示室
入 館 料 : 大人400円(350円)、高校・大学生300円(250円)、小・中学生200円(150円)
※( )は20名以上の団体
*65歳以上の方、外国人観光客および付き添いのボランティアガイドの方、身体障害者およびその介護者の方は無料。(それぞれ証明するものをご提示ください。)
*期間中の土曜日は県内小・中・高・特別支援学校生は無料。
(関連行事・展示品へつづく)
441 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:39:43
(つづき)
関連行事 :
◆プレイベント展示 2011年1月27日(木)〜2月4日(金) 奈良まほろば館2階
◆名古屋講演会
2月6日(日)愛知大学車道キャンパス
徳田 誠志氏 (宮内庁書陵部)「箸墓古墳と東海の前期古墳」
岡林 孝作 (当博物館)「埴輪配列についての一試考」 (発表順)
◆講演会
2月27日(日)
安原貴之 (当博物館) 「埴輪の起源(仮)」
青木勘時氏 (天理市教育委員会)「西殿塚・東殿塚古墳について(仮)」 (発表順)
3月13日(日)
関川尚功 (当研究所) 「纒向遺跡の特殊器台形埴輪(仮)」
坂 靖 (当研究所) 「埴輪の誕生」 (発表順)
◆遺跡見学会
3月12日(土) 午前10時 JR万葉まほろば線 長柄駅 集合 ※少雨決行、昼食持参
西殿塚古墳塚、中山大塚古墳、箸墓古墳などを巡ります。
(展示品へつづく)
442 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 01:05:32
(つづき)
・主な展示品(*はレプリカ)
◆器台・壺/上東遺跡・甫崎天神山遺跡、◆特殊器台・特殊壺/西江遺跡、◆特殊器台形埴輪/矢部B42号墳【以上、岡山県教育委員会所蔵】、
◆特殊器台片/楯築弥生墳丘墓・立坂弥生墳丘墓、◆特殊器台形埴輪片・特殊壺形埴輪/権現山51号墳【以上、岡山大学考古学研究室蔵】、
◆特殊器台*・副葬品類/宮山墳墓群、◆大型・小型弧帯文石*/楯築弥生墳丘墓【以上、岡山県立博物館蔵】、
◆特殊壺片・特殊器台形埴輪片/箸墓古墳、◆特殊壺片・特殊器台片・特殊器台形埴輪片/西殿塚古墳、◆楕円筒埴輪片/行燈山古墳、◆円筒埴輪片など/渋谷向山古墳、◆楕円筒埴輪/佐紀石塚山古墳【以上、宮内庁蔵】、
◆特殊器台形埴輪・鰭付円筒埴輪など/東殿塚古墳、◆特殊器台形埴輪片・円筒埴輪/波多子塚古墳、◆円筒埴輪/西殿塚古墳【以上、天理市教育委員会蔵】、
◆特殊器台片/東郷遺跡【大阪府教育委員会蔵】、
◆特殊器台形埴輪片/萱振遺跡【(財)八尾市文化財調査研究会蔵】、
◆特殊器台形埴輪片/西川遺跡【尼崎市教育委員会蔵】、
◆特殊器台形埴輪片・特殊壺形埴輪片/壺笠山古墳【滋賀県立安土城考古博物館蔵】、
◆円筒埴輪・朝顔形埴輪/布留遺跡【天理大学附属天理参考館蔵】、
◆特殊器台片・特殊器台形埴輪片・円筒埴輪片/中山大塚古墳、◆特殊壺・特殊器台・特殊器台形埴輪片・二重口縁壺/葛本弁天塚古墳、◆円筒埴輪片/メスリ山古墳【以上、当館・当研究所蔵】
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
http://www.kashikoken.jp/museum/top.html
443 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 08:44:24
>>439 http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html 三国時代は支配者の巨大な墳墓、金工品の発展、陶質土器によって特徴づけられる。陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったものである。
陶質土器のうち日本列島に主に流入するのは慶尚南北道、新羅・加耶地域のものである。
しかし、三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころのこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
地域性発現以前の慶尚南北道の土器は「古式陶質土器」と呼ばれるが、この時点で、慶尚南北道の土器と馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するため,慶尚南北道のものについては武末純一の提唱する古式新羅加耶土器の用語を用いることとする〔武末1985:138〕。
つまりだな、「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物なんだよ。
ところが
(4) 古式新羅加耶土器―古式陶質土器
まず、生活遺構での出土例は福岡県糸島郡志摩町・御床松原遺跡35号・37号・59号住居跡〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕など、北部九州に集中している。
北部九州の生活遺構での畿内布留式系土器の登場と陶質土器の登場が同時期であることは、柳田康雄がすでに指摘している〔柳田1991:43〕。
少なくとも九州に布留式土器が登場した頃、と陶質土器が九州に現れた時と同時な訳だ。
九州は畿内より遅れていたと言う話になるのか?
この頃まだ九州の方が鉄器の量で畿内を圧倒しているぞ。
畿内は九州から鉄の供給を受けていたから、布留式土器は鉄を手に入れる為に畿内の産物を九州に持ってきて鉄と交換したのだろう。
九州が畿内より遅れている事はあり得ない。
即ち、布留式土器の時代は土器編年から言っても韓国の土器編年と比較すれば4世紀になる。
古式新羅加耶土器は定義からして4世紀の物で、この始まりを3世紀中葉にもって行った
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a_t1.gif ような編年は有り得ないと言う事なのだよ。
いい加減にあきらめたらどうだ?
444 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:14:13
畿内説は、内心ではとっくに無理だと思っているのよ
でも、今さら引き返せないわけなんだな
ある意味、可哀想だよ
東アジア全体を俯瞰した、遺物の編年が必要になって来るだろうね。
446 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:36:06
それでゴミ、クズと言ったレスしかできないわけだ。
>>446 実際ゴミクズだから自分の勘違いに気づいてないじゃないかwww
>>443 もう一度上のレスから読み直してこいよw
448 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 10:57:16
>>447 またゴミクズと言ったね。
どうして理論的なレス出来ないの?
449 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 11:31:14
ところで文化や文明に明らかな画期があればその時に古代史に残る画期があった筈だ。
日本で土器が新しい形式が生まれたのも、古墳文化が発生したのも東洋史に何らかの痕跡があっただろう。
布留式土器が生まれ、古墳が築造されるようになったのも半島か中国で何かがあったからと考えられる。
古墳時代の到来は何時なのか、中国や半島の歴史から探った方が良いのではないか。
450 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 13:45:44
>>449 そうだろうね。公孫氏の滅亡が大きな画期になっている可能性があるな。
その勢力が大挙して我が国に入ってきた。九州勢力はその公氏の残党を利用して
東征を行った。公氏の残党は大きな墓を造って自らが生きた証とした。
そんなところかな。
邪馬台国連合は魏の忠実なしもべとして、半島戦略にも狩り出されるだろうから、
公孫氏の残党は、むしろ関西へ落ち延びて行ったんじゃないか?
452 :
ローガン:2011/01/19(水) 16:01:58
>>389 >本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。その後に古式新羅伽耶土器が始まる。
??3世紀末頃と考えられている九政洞で共伴してるけど。
453 :
ローガン:2011/01/19(水) 16:06:45
あ〜遡って読んだら、
>>354氏が結論を書いてた。
454 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:07:58
倭国は公孫氏が力を持っていた当時は公孫氏に属していたので、公孫氏の残党を
受け入れたというのは自然の成り行きだろう。しかし、公孫氏の滅亡後、倭国は
魏に接近することとなった。その状態で、九州内に公孫氏の残党の多くを置いて
おくことは魏との関係で具合が悪い。その残党を使って東征というのはありそう
なことなんだよ。
455 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:21:43
魏のシモベだったのは九州だけやん
456 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:37:42
>>434 その嫌いな関西に、東征していったことにしたい東遷説ってのは、
愛憎入り乱れた朝鮮人気質にそっくりだな。
457 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:40:18
朝鮮人気質が嫌いなら、日本からナラを除外すべきだし、日本史には関われないなあ。
459 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:53:16
そーそー。
だからナラは、関西広域連合にはじめからは参加せず、
旨みが出てきたらもぐりこもうとか考えるのよ。
そういう人達。
460 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:16:34
奈良が朝鮮人ってことは、
奈良に東征していった邪馬台国は朝鮮人の国ってことだよな。
461 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:26:55
>>460 と、シナ人が申しております。
邪馬台国に東征していったのは公孫氏=漢氏。
朝鮮人というよりも満洲人だね、北朝鮮にもその血は濃く残っているだろうけど。
ナラ人は伽耶国あたりからの渡来人。
たぶん済州島とかの人と近いんじゃない?
462 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:31:53
463 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:37:08
>>461 で?
九州の邪馬台国も、朝鮮人が作った国なんだろ?
464 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:38:52
465 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:21:23
は?
九州に邪馬台国が「なかった」証拠を示せ?
邪馬台国を作ったのが朝鮮人では「なかった」証拠を示せ?
さすがですね。
でも、筑紫国を作ったのは朝鮮人なんじゃなあい?
467 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:33:11
>>452 >??3世紀末頃と考えられている九政洞で共伴してるけど。
それもトンデモの一種だ
http://avantdoublier.blogspot.com/2009/06/blog-post_26.html 「慶州九政洞にある【新羅初期の古墳】で、円形の自然丘陵の頂上部に埋葬遺構を設けて、丘陵自体を墳丘化した特異な構造のものである。
埋葬遺構は、地面に長方形の土壙を掘り石槨を設けたのち、その内部に木棺と副葬品を設置した形式である。
この古墳は、2基の埋葬遺構が約1mの間隔をおき南北に合葬する夫婦怩ニ推定されている。
北側の遺構は、長さが8m、幅1.3mで、ここからは鉄槍や環頭大刀・鉄斧などとともに短甲が出土し、夫の墳墓と推定された。
なお、ここでは幾つもの瓦質土器と粗質な硬質土器がいっしょに出土して、この墳墓が、瓦質土器が
本格的に硬質土器へと移行する時期である3世紀末に営造されたものであることが証明された。」
新羅が三世紀末にできた事になっているぞ。
新羅が出来たのは楽浪が滅んだ後だ。楽浪に支配されたまま国が出来る事はない。
まあ、これは韓国の捏造癖としても、この年代観で言っても、畿内では庄内式土器と共伴し、九州では布留式土器と共伴する。
これを合理的に考えれば、布留式土器は九州で発祥し、4世紀はじめ、その頃、畿内はまだ庄内式の時代だったという事だ。
九州と畿内に年代差が無かったとしても、布留式土器の時代は三世紀末以前に遡る事は出来ないということだ。
つまり、箸墓はどう頑張っても寺澤の言うように卑弥呼の墓ではなく、壹與の墓でもなく、次の男王にしかなりえないのだ。
判ったかね?
「新羅初期の古墳」が「3世紀末」っていってるのは
韓国の国立中央博物館の図録じゃん
邪馬台国畿内説による年代遡上の陰謀って
日韓双方の研究者が協力した国際的プロジェクトなんだね
469 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 19:30:33
バカな言い争いをしているやつがいるな
確かなことは、今の韓国は、明治以降の日本が近代化を援助して出来た国だ
感謝しろよ朝鮮人め!
470 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 19:45:36
471 :
ローガン:2011/01/19(水) 20:58:21
>>467 >判ったかね?
わかった。君が、布留0が布留式だと思っている事が。
472 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 21:07:46
だから布留0は三世紀末だ。
そしてホケノ山からは布留1が出ている。
473 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 21:18:57
>>468 日本側がとんでもない年代を振りかざすから韓国側も折れたんじゃないかな
。
申敬Kは古式陶質土器の現れた年代を三世紀末から四世紀中葉と幅を持たせている。
ところが日本で学位取る時には三世紀末としている。
日本の学位審査したやつがガリガリの畿内論者白石だったから、学位審査を通る為には4世紀中葉と言う所は棚上げにした。
三世紀末から四世紀中葉の間をとれば楽浪が滅んだころと一致する。
韓国側の年代観はこっちが本当だろう。
>>473 韓国国立中央博物館の図録の発行年は1988年だよ
年代を考えてみてね
>>472 畿内説は布留1や布留2はいつにするんだろう?
布留2までいくと確実に400年をまたぐよね。
馬具の副葬は400年頃からという定説を否定しない限り。
この前提に立つと、布留1は400年頃に近くなる。
それを認めると布留0は300年以前にするのが難しくなる。
そこで布留の各型式を長期間にするという手もあるけど、3なぜ布留だけ
長くできるのか、という問題がある。
ということで、大多数の学者は布留2の年代は口ごもって言わない。
白石は馬具を350年頃まで遡上させようと観測気球を上げるが誰も追随しない。
もう布留0が300年以降というのは、共通認識に近いけど、それを言い出すと
畿内説が成り立たないので、誰も口に出せない。
476 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:41:20
■好評受け販売実現 - 纒向遺跡“名物”木製仮面クッキー
奈良新聞 2011年1月19日
http://www.nara-np.co.jp/20110119181039.html 桜井市の纒向遺跡で出土した木製仮面をかたどったクッキーが、JR三輪駅前の「軽茶テラス三輪座」で今月から販売されている。逆おむすび形の輪郭や切れ長の目は出土品にそっくり。考古学ファンはもちろん、三輪山登拝の女性にも人気という。
同クッキーの誕生は2年前。当初はコーヒーに付けるサービス品だったが、同店を運営するNPO法人「三輪座」(川端規央理事長)が客の要望に応えて販売を始めた。
地元物産品を販売していた三輪座が喫茶コーナーをオープンした際、川端理事長の妻、稔子さん(49)が記念品として考案。来店者から好評を集め、自家製クッキーを販売している市内の福祉施設に製造委託することで販売が実現した。
纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地で、木製仮面は祭りに使ったと考えられており、稔子さんは「纒向遺跡を知らない人もおり、クッキーを通じて桜井をPRできたら」と話している。
木製仮面クッキーは大3枚入り280円、小5枚入り300円。三輪座は午前10時から午後5時まで営業。水曜定休。問い合わせは、電話0744(43)5621。
記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】
・販売が始まった木製仮面クッキー。中央は仮面の模造品=桜井市三輪の三輪座
http://www.nara-np.co.jp/photo/ac5175b0804ca7bc24ec90fc45636092.jpg
■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/中 地味な資料「鉄鏃」に注目 /奈良
毎日新聞 2011年1月19日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110119ddlk29070584000c.html 県立橿原考古学研究所総括研究員の水野敏典さんは、研究所などが99年9月から1年以上にわたり実施したホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査に加わった。「すごく地味な資料なのですが、私たちは鉄鏃(ぞく)に注目しました」
長さ4〜5センチの鉄の矢じり。「分厚くてお尻が丸く、見たことがない変な形をしていました。類例を探すと、いくつもあったんです」。
弥生時代と古墳時代をつなぐ時期の墳墓群として著名な宮山遺跡(岡山県総社市)。京都府南丹市の園部黒田古墳や千葉県市原市の神門5号墳などでも見つかっていた。
さらに注目したのは「『へ』の字形鉄製品」の大量出土だ。これも、最も古い段階の前方後円墳である浦間茶臼山古墳(岡山市)や、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡を大量に出土した椿井大塚山古墳(京都府木津川市)などに類例があった。
「鉄鏃は消耗品だし、『へ』の字形鉄器は用途も分からない地味な資料。しかし、各地の墳墓で副葬品として納められているのだから、偶然の一致ではありません」。
水野さんは、弥生から古墳時代への過渡期に築かれた墳墓が、墳墓祭祀(さいし)を共有するネットワークを広範囲に築いていた事実を重視した。大事なのは珍重さではなく、共通性だというのだ。
最後に、水野さんが取り上げたのは、やはり鉄鏃。それも中央を走る稜線「鎬(しのぎ)」だった。
「刀のような鎬がある鏃は見たことがありませんでした。『新型』の生産に取り組んでも、1回きりで終わったり、途中で『廃盤』になるものもある。鎬のあるこの鉄鏃はおそらくテスト品で、これっきり製造されなかったのでしょう」。
そう考える水野さんは、こう締めくくった。
「人々が作り、使っていたものである遺物は、各地域や人々がどんな関係を結んでいたかを知る貴重な材料になります。だから、遺物は、目立つものより、ささいなもののほうが確実な証拠になるのです」【山成孝治】
478 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:54:35
>>475 につづけて
庄内を3つも4つも分けたように布留も細分化するんかな。
庄内は土器の形じゃなくて、共伴する土器の種類で細分化するから、土器の
変化はわずかなんだよね。かなり無理をして細分化している。
しかも、この細分化が成り立つ地域は、ヤマトくらいだろうに。
細分化が成り立たないほかの地域や、庄内を出土しない大多数の地域では
庄内の型式変化の期間は、時間が止まったことにでもなるのかね。
あの茶番に突っ込みを入れる勇気のある学者はいないのか?
479 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 23:47:51
現役の考古学者のいうことは信じられないんでしょ?
だったら自分自身でやるべきじゃないの?
九州説と違って畿内説は大人でなければつとまりません。
なにせ自分でも正しくないとわかりきっている「学説」を支持するのですからね。
そうしなければ自分の未来が拓けないというのならば、迷うことなくそうしますよ。
それが大人のやりかたというものです。青臭い九州説の人たちにはわからないでしょうが。
ええ、普通に考えれば九州だというのは誰にでもわかりきっていることです。
しかし世の中というものは不条理に満ちたものであるということですよ。
481 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 05:21:37
マキムクが4世紀なら、
唐古・鍵が邪馬台国の都ってことで、そっちのほうが人もいっぱい住んでるし歓迎するけどな。
482 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 08:20:23
どっちかと言われれば時代的にも
唐子鍵のほうが妥当だろ。
483 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:16:52
唐古・鍵の時代なら吉野ヶ里も候補として浮上する。
伊都の南にあるし。
484 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:40:06
>伊都の南にあるし。
距離を考えれば南九州だろ。それに、人口も多いし、三世紀半ばから大発展してるし。
>>461 楽浪系の奇妙な鏡を大量に作っているし、
墓制も邪馬台国連合とは異なり、北方系だからなあ。
487 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:10:17
吉野ヶ里は朝鮮人が開拓したわけだが。
あのへんは朝鮮系の遺物がとにかく多い。
488 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:54:29
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;( ( \;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
(;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;( ( \;;;;;;;;;;;;;;;;;;|\;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
|;;;;;;;;;;;;;;;;;; ;(( ( \;;;;;;;;;;;( ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
(;;;;;;;;;;;;;;;;;;;( ( ( \;;;;;;;( \;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
(;;;;;;;;;;;;;;;( ≠■■■┃ ┃■■■==l ヾヽ |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
|;;;;;;;;;;;( ヾ____ | |'''____〆 |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
(;;;;;;;;;| """∪"""| | ""u""""" |;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
(;;;;;;;;;| u u | ( u |;;;;;;;;;;;;/)
(;;;;;;;| ノ ヽ( |;;;;;;// /
\;;| /( c,, ,,.っ )ヾ |;;//| /
| / ''  ̄ '' .\ |/ ノ
( / ,.. '''''' -- '''''' .. .) ノ"''"
( | (ヽ;━;┬┬┬;==ア.) | ノ
( | ヽヽ ,..  ̄ ̄ ,..,( / | /|
丶 ヽヽ6;┬;-;┬∩// ノ ./ |
| .ヽヽ ヽ "''''''''''''" ノ / / |
| ヽヽ "''''''''''''" ノ |
| ヽ / |
丶 __
織田信成が織田信長の子孫って本当?【4代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1281832265
>>484 西都原は関西同様、公孫氏の落ち武者っぽい。
>>443 >三国時代は支配者の巨大な墳墓、金工品の発展、陶質土器によって特徴づけられる。陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったものである。
>陶質土器のうち日本列島に主に流入するのは慶尚南北道、新羅・加耶地域のものである。
>しかし、三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころのこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
>地域性発現以前の慶尚南北道の土器は「古式陶質土器」と呼ばれるが、この時点で、慶尚南北道の土器と馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
>馬韓・百済の土器と区別するため,慶尚南北道のものについては武末純一の提唱する古式新羅加耶土器の用語を用いることとする〔武末1985:138〕。
>つまりだな、「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物なんだよ。
>ところが(4) 古式新羅加耶土器―古式陶質土器
>まず、生活遺構での出土例は福岡県糸島郡志摩町・御床松原遺跡35号・37号・59号住居跡〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕など、北部九州に集中している。
>北部九州の生活遺構での畿内布留式系土器の登場と陶質土器の登場が同時期であることは、柳田康雄がすでに指摘している〔柳田1991:43〕。
>少なくとも九州に布留式土器が登場した頃、と陶質土器が九州に現れた時と同時な訳だ。
>九州は畿内より遅れていたと言う話になるのか?
>この頃まだ九州の方が鉄器の量で畿内を圧倒しているぞ。
>畿内は九州から鉄の供給を受けていたから、布留式土器は鉄を手に入れる為に畿内の産物を九州に持ってきて鉄と交換したのだろう。
>九州が畿内より遅れている事はあり得ない。
>即ち、布留式土器の時代は土器編年から言っても韓国の土器編年と比較すれば4世紀になる。
>古式新羅加耶土器は定義からして4世紀の物で、この始まりを3世紀中葉にもって行った
>いい加減にあきらめたらどうだ?
スレ違い
http://kamome.2ch.net/archeology/[考古学板] ごちゃごちゃいうやつは、こうするにかぎるwwww
491 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:07:44
>>490 ドツボ
ローカルルールで「邪馬台国」は日本史板になっている。
(しかし今IEで考古学板覗いてきたが以前あったローカルルールの表示なくなってたな)
まあ邪馬台国と言うのが分類的に中途半端なんだろう。
元々は文献史学から提示された問題ではあっても
現実問題、考古学を用いなければ前進しない。
で、文献とかに比重を置くと記紀を持ち込んだり
中には九州王朝なんて与太を持ち込むおかしな奴が湧いたり、考古学を志向する人間が眉をひそめるのも判る気がするw
492 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/20(木) 20:10:19
年号があるから、九州王朝が無いと言う奴が与太脳だ!!
九州王朝というネーミングにこだわるから、拒否反応が出る。
要は「倭国は、はじめ九州にあった」ということ。
そういう説なんだよ。
494 :
メ:2011/01/20(木) 22:57:23
こっちもあげてやろう
(邪馬台国スレはおれが仕切ってるわけではないが・・・w)
>>491 490は洒落だよw
443の内容は面白そうな記事だったんだが結構難しく・・・
うーん、何て答えようか迷い、レスとしてそうなったて事だw
メ は人クラゲ
496 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:39:56
邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の
纒向(まきむく)遺跡で、昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))
の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋められていたことが分かり、桜井市教委が21日、
発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた祭祀(さいし)の状況も浮かび、
市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。
土坑(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ80センチ)は大型建物跡(3世紀前半)の
約5メートル南で、3世紀中ごろの穴と推定される。
市教委が土坑内の土嚢(どのう)400個分の土をふるいにかけ、動物の骨や歯と9760点
の植物の種を採取。骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・
奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。
結果、動物は魚類のマダイ、ヘダイ、アジ、サバ、コイ科、ほ乳類のニホンジカ、イノシシ、
ネズミ、鳥類のカモ科、両生類のカエルの10種で、植物は73種類を判別した。植物の
約半分は食用で、2765点のモモを筆頭にイネ、アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタンが多く、
果実酒原料のニワトコやサルナシもあった。
また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できる
という。
分析で使われた種や骨は桜井市立埋蔵文化財センターで22日〜2月27日に展示される。
■和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)の話 「すべてが神饌(しんせん)
として供えられたのかは検討が必要だが、各地から色々な食材が集まっているのは
面白い。纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことを改めて明らかに
したことが重要だ」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/art11012117300064-n1.htm
>>493 >要は「倭国は、はじめ九州にあった」ということ。
そういう説なんだよ。
九州にあったんじゃなくて、現在の九州を倭国と認識されていたのではありませんか。
倭国というのは、外国から見たものだし
外交関係国家に対しての呼称だとおもいます。
499 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:28:32
今日のニュースで言ってたが、邪馬台国とは全然関係がない巻向遺跡で、魚の骨が
出土したそうだな
邪馬台国と耳にしたので、一瞬興味を持ったが、邪馬台国とは関係ないニュースだったので
がっかりした。
500 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 21:21:13
荒神谷遺跡っていつの時代なんだろうね?
倭国大乱の時代だったら邪馬台国はマキムクでいいんだろうね。
>>496 > 分かりやすい。
そうか? 俺はわかりにくいけどな。
「古式新羅加耶土器の始まりを3世紀中葉にもって行ったような編年は有り得ない」
という理由が
「古式新羅加耶土器は定義からして4世紀の物」
ということなんだけど、白井氏は
古式新羅加耶土器とは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」で
その地域性が発現される以前というのが「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」
と書いているだけ。
で、その白井氏自身が古式新羅加耶土器の始まりを3世紀中葉にもっていってるじゃん。
結局、
「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物
なんて定義はどこにもないんじゃねーの?
>>443が都合良く曲解してるだけってことだ。
502 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:05:52
503 :
502:2011/01/21(金) 23:09:21
まあ「陶質土器の登場」が年代の指標になるのは間違いないんだろうが
それが楽浪滅亡(315)だと言うのは諸説あるうちの一つなんじゃないのか?
しかしこの話って、何処かで聞いたような話だと思ったが
「神獣鏡は呉が滅亡した後に魏に流出してその後日本にやってきた」
…ってお話と似ていると思ったのは俺だけ?wwwwwwww
というか加耶の陶質土器は焼成温度の違いはあるにしても製法上色濃く瓦質土器の影響を
受けているのは間違いない。狗邪韓国が加耶に移行したのは近年の発掘成果で3世紀
後半となり、ここが一つの画期となって登場したと考えるのがもっとも整合性があるだろう。
280年頃というのは妥当な見解。
>>496 根本的にズレてるよ、大体倭人伝の記述では
鉄自体が重視されてる訳じゃない。
邪馬台国が進んだ地域と書かれている訳でもないしな。
水銀朱、丹についての記述の方がよっぽど多いから。
ローガン かかってこいww
メ は人クソムシ
508 :
ローガン:2011/01/22(土) 02:41:24
>>506 > ローガン かかってこいww
面倒くさいなあ。
>>439氏がちゃんと、指摘してるやん。
まあ、敢えて云うと…
>>389 >本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。
>その後に古式新羅伽耶土器が始まる。 韓国側の通説では古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされているんだが、
>日本の学者は半島の事情を全く無視して古式新羅伽耶土器の始まりを3世紀中葉にしている。
「朝陽洞遺跡は紀元前1世紀から約3世紀の初頭」。
九政洞古墳出土の土器は「いわゆる朝陽洞の瓦質土器と、陶質土器が一緒に出ています」
「表面に気泡がいっぱい出ている非常につくりの悪い土器です。慶州地域では古い段階の陶質土器ではないかと思っています」
この389の人は上で、異なった地域においても同じ土器なら、同時であると主張していた。これにしたがうと朝陽洞遺跡と九政洞古墳は同じ時期と判断される。
「」内はシンポジウム日韓古代史の謎、にある韓国国立中央博物館館長の言。
>韓国側の通説
私の引用したのは、1992年の本。韓国側の新しい年代観が、下がっていると云うのなら指摘してね。
>>423 勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。
誰も捏造してないと思うけどね。3世紀中葉なら穏当。
509 :
ローガン:2011/01/22(土) 03:13:01
510 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 16:29:19
テスト
511 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:36:00
>>509「日本側が韓国土器編年を捏造」と言ったかと思ったら、今度は韓国側が捏造だと…。
韓国は50年くらい古い方に狂っている。
日本の学者がとんでもない年代を主張するものだから、韓国側も少し日本側にすり寄ったのだろう。
これを捏造と言っているんだが。
そして邪馬台国畿内説の中でも箸墓=卑弥呼の墓論者はさらに50年狂っている。
箸墓=卑弥呼の墓論者は確信的に嘘を言っている。これは捏造以外のなにものでもない。
畿内説だからといって、卑弥呼の墓=箸墓にこだわらなくてもいいと思う。
513 :
502:2011/01/22(土) 18:44:24
加耶土器の祖型が西晋代に求められると言う点やその他
そして先に出たように九州において陶質土器と布留の出現がほぼ同時とするなら
やはり 布留0=280頃 と言うのは妥当な線なのか?
…にしても箸墓が卑弥呼の墓か否かと言うには微妙と言うかw
まあ特定の人物の没年に合わせて…とまでなると
土器編年からその絶対年代を計ること自体が精度的に無理なんだろうがwww
しかし陶質土器の出現の年代は後の須恵器の登場時期の年代にも関わってくるのかな?
今後半島で
>>502のような研究が進めば日本の須恵器の登場年代をもっと早期に見ようとする動きに追い風になる?
まあそうなったら今度は
「韓国の捏造だ!」とゴミクズレベル九州説はわめき散らすんだろうがwww
514 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:49:46
>>512 同意。
畿内説と言うか現在九州説が絶滅危惧種にまでなっている
根本はそこにはないwww
まあゴミクズレベル九州説としては噛み付きやすいところではあるんだろうがw
そもそも徇葬百人なんて出ている時点で話に尾鰭が付きまとった伝聞の伝聞
・・・ぐらいの事は想像できるだろうにw
個人的には「卑弥呼の墓」なんて一種ファンタジーの類だと思っているwwwwww
515 :
ローガン:2011/01/22(土) 21:25:44
>>511 >これを捏造と言っているんだが。
うふふ。ごまかしても駄目。君は423で、
>勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。韓国では「古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされている」だ。
>日本は韓国の学者より韓国の考古に詳しいのか?それを無視して出鱈目な土器編年を作っているのが日本と言う事。
と言っている。韓国の考古学者が正しいにもかかわらず、日本の考古学者がそれを無視して編年を捏造しているという意味だ。
しかし、君は九政洞など知らなかった。慌てて検索したら、そこで見た韓国側の年代観は君の説とは合わないものだった。
仕方ないので、今度は韓国側も捏造だと言い出した。 どうしようもない人だね。
516 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 22:23:08
>>515 韓国の方が日本よりは少しだけまともだろう。
日本の方が、いや畿内説の方が悪質だと言っている。
韓国は日本があまりに飛んでも無い年代を振り回すので少し日本にすり寄って来たというのが実情だ。
新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。
箸墓から出土した鐙を考えても箸墓は4世紀後半より早くは出来ない。
半島で鐙が普及するのは5世紀に入ってからだからな。
高句麗壁画を見ても4世紀の壁画には鐙が無く、五世紀になってようやく一部の壁画に鐙が描かれるようになっている。
高句麗より150年も早く日本に鐙が来たらおかしかろう。
>>516 ヨコから
> 新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。
「古式新羅伽耶土器」ってのは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」を「馬韓・百済の土器と区別するため」に
便宜的につけたネーミングだろが。
新羅伽耶が生まれる生まれないとはなんの関係もないってことが読んでて解らないんだな?
曲解かと思ったが読解力がないだけだったか、無頭派クン。
518 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:06:33
>>517 更にヨコからwwwww
>新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。
例えで言うと「安土桃山時代」と言う時代区分があるからと言って
「伏見桃山城ができる前に安土城ができてるはずがない!」
とか言っているようなもんだろうか?wwwwwwww
それは言ってて苦しいというか、おかしいことがさすがに自分でもわかるんだろうな。www
なぜか鐙の話になった。ww
ただ、伽耶の建国とヤマト王権への鉄の供給を考えたとき、どうしても半島の影響というものを
考えざるを得ない。かの亀旨峯とかね。
520 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:37:49
鉄っていうのは山を丸焼きにしないと作れなかった。そして、朝鮮半島は土地
的に一回丸焼きにすると木が育つまで回復しにくいので全土がハゲ山みたいな状態で
もう焼く山がなかったのでたたら衆が日本に渡ってきて出雲に拠点を置いたわけ。
日本は山を丸焼きにしても30年ほどで木々が生い茂り回復するので。
521 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:45:32
まあ現在の北朝鮮の洪水被害なんかは
燃料不足になって農民が山で木を伐採しまくった事も原因とも言うしなあ・・・
522 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 07:24:40
>「古式新羅伽耶土器」ってのは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」を「馬韓・百済の土器と区別するため」に
便宜的につけたネーミングだろが。
辰韓土器や弁韓土器はちゃんとあるだろうが。なぜ弁辰韓土器でいかんのだ?
君は「古式新羅伽耶土器」と名前を付けた経緯を知らないらしいな。
4世紀の新羅・伽耶地域に発生した土器で区別がはっきりしないから、古式新羅伽耶土器と付けられたのだ。
五世紀になるとこの地域差がはっきりしてきて分けられるようになる。
523 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 09:22:08
古新羅伽耶土器と新羅土器、伽耶土器が分かれたきっかけは広開土王の南下で、高句麗が新羅を臣下にした後の事。
それ以前の土器が古新羅伽耶土器なのだ。
だから、古新羅伽耶土器は4世紀なのだ。
そして百済・新羅・伽耶が発祥したのも4世紀。
当たり前の話だな。
524 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 09:33:34
単にその名称・ネーミングで遊んでいるだけ、実に下らない。
結局は「4世紀から」と言うのは
「古式新羅伽耶土器は4世紀からのものと言うのが定義だからだ」
…と繰り返しているに過ぎない馬鹿か?
縄文土器でも弥生土器でも、あるいは布留でも庄内でも
当初想定されていた年代やその出土範囲なんて後の進展でいくらでも変わってくる。
それを根拠にするのなら、じゃあ消滅寸前の楽浪に、その加耶に繋がる土器があり
系統的にそれが証明されているのか?
そのような研究成果が韓国の学者によってなされていて
「これこれこう言う資料があるので4世紀からと言うのは動かせない」
…と言うのなら兎も角
自分達に都合の良い定義の一つにしがみ付いているだけ。
この手のゴミクズレベル九州説のアホ丸出しの展開はもう秋田。
525 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 10:32:56
526 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 10:45:36
陶質土器のうち日本列島に主に流入するのは慶尚南北道、新羅・加耶地域のものである。
しかし、【三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ】のこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
地域性発現以前の慶尚南北道の土器は「古式陶質土器」と呼ばれるが、この時点で、慶尚南北道の土器と馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、馬韓・百済の土器と区別するため,
【慶尚南北道のものについては武末純一の提唱する『古式新羅加耶土器』の用語を用いることとする】〔武末1985:138〕。
『古式新羅加耶土器』の定義は『ほぼ4世紀にあたるころ』の『地域性が明確でない』時代の土器の事だ。
解ったかね?
新羅土器と伽耶土器がはっきり分かれるのは高句麗が南下して新羅を支配下に置いてからだ。
つまり五世紀初めになって地域性が出てくる。
>>524 ほら 2chのジョーカーは
>>526氏に負けてるじゃないか(レスを比べると)
観戦者(ロムラー)が楽しめるように反論してくれw
528 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:17:13
>>527 ドツボ
「観戦者(ロムラー)が楽しめるように」じゃなくて、お前が分る様にだろう?
下らない茶々入れる前に少しはてめえの脳味噌で考えろ阿呆。
529 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:18:28
>>527 いやね、陶質土器とか、そういう問題じゃないの。
あきらかに1世紀頃から、いわゆる九州主体の青銅器文化は、九州のみならず、
四国や出雲まで広がってるし、同時期に、近畿のいわゆる銅鐸文化もまた出雲〜東海まで広がってる。
邪馬台国が九州の一地域の連合国だという考えをする時代はとっくに終わったの。
九州が、出雲や四国と交易していたのなら、
卑弥呼を共立したクニも出雲や四国を含めて考えるしかない。
すると、出雲や四国と交易していた吉備や近畿のクニも卑弥呼共立に無関係とはいえなくなる。
結果、九州〜東海の広範囲のクニから卑弥呼は共立されたと考えるしかない。
その前提で、卑弥呼の都はどこにあったかを考えるならば、
マキムクしか考えようが無いということ。
530 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:24:29
今晩、NHK9:00から邪馬台国論争だね。
531 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:34:46
■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着
毎日新聞 2011年1月20日
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110120dde012200019000c.html ◇古代史最大の謎に迫る
歴史学者、白鳥庫吉と内藤湖南による邪馬台国論争から100年の昨年、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で発掘が行われた。
NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」では、3カ月間の発掘調査に密着。出土物の分析と取材をもとに、古代史最大の謎に迫った。【岩崎信道】
纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロの巨大遺構。09年の調査では、卑弥呼が生きていた時代にあたる3世紀前半の地層から、東西に軸をそろえる王宮跡が見つかった。
弥生時代末期の3世紀に、突如建設された日本列島の中心都市だったことが明らかになり、謎に包まれた幻の国・邪馬台国の最有力候補地とされている。
邪馬台国論争に決着をつけるべく、昨年7〜10月、建物群の周辺で桜井市教育委員会による発掘が行われた。注目は3世紀半ばに掘られた土坑の調査。王の実像を知ることができる出土物が期待された。
その結果、纒向が連合国家であったことを示す土器や人為的に破壊された銅鐸(どうたく)などが多数出土。特徴的なのは、2000個以上のモモの種だ。
モモは古代祭祀(さいし)で供物に使われたとされ、1カ所からこれほど多数出土したのは国内初という。
これらは何を意味するのか−−。
番組スタッフは発掘調査に密着するとともに、中国取材や気象考古学の研究を交えて謎に迫った。その結果、魏志倭人伝に記述された、卑弥呼が用いたとされる呪術「鬼道」の姿が、浮かび上がってきたという。
ミステリアスな展開。番組は、邪馬台国=纒向遺跡を証明し、論争を決着させる内容まで踏み込めるのか。
増田秀樹プロデューサーは「九州説、近畿説の争いは、まだ続くでしょう」と意味深に笑う。
「一つの穴から何千点という出土物が出てくる様子をカメラにとらえたので、発掘ドキュメントとして楽しんでいただきたい。さらに、モモの種という想像もつかなかった物が意味することを解明していくプロセスが見どころです」
放送は23日午後9時から。
>>528 はジョーカーか?
きっとジョーカーはYAHOO掲示板の来襲に精神的に相当ぉ追い込まれてるなw
おれに助けを求めてないでw YAHOO掲示板の奴らなんて大したことないんだしw
>>529 多くの畿内説論者は貴方と同じような考えでいると思う。
私も畿内説でマキムクに同意なんだが・・・
なぜ機内でもマキムクになるかというと〜何といっても箸墓に代表されるような
150メートルを超す超巨大な古墳群が突如として現れる。
この巨大古墳群はその後の長きにわたる、古墳時代として全国各地に広がるんだが、
これはどうしようもない事実であり、おおくの日本国民が納得せざるを得ない。
>>530 情報ありがとさん みなさんみましょうね。
533 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:59:06
考古学上の成果から、九州〜東海まで交易が行われていたことがわかってる。
このうえで、なおも九州説を唱えるならば、
九州の独自に卑弥呼を共立していたこと、近畿と政治的な断絶があったことを証明する必要がある。
それができないなら、九州説なんてとっとと捨てるべき。
今夜からしばらく邪馬台国関連スレは大荒れになるなw
九州説のファビョン祭りでw
535 :
ローガン:2011/01/23(日) 12:53:40
>>526 念仏のように同じレスを繰り返す割には、自身が引用した文すら読めていないようだね。 君が引いたサイトに書かれているのは、
>しかし、三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころのこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
つまり、三国時代の土器の地域性の発現は「巨大な墳墓、金工品の発展」との関連が考えられると云う事。
しかし「ほぼ4世紀に当たるころ」はまだ、その土器の地域性が発現していない。これは、私が先日引用した書でも、韓ビョンサム氏が触れている。
「新羅地域も加耶地域も同じ様相を見せている。同じ系統の土器の発展段階がみられる。洛東江を中心にした両側が全部同じ文化を持ったのは、原三国時代だという事ができます。」とね。
つまりね、繰り返すけど、君が引用したサイトには、4世紀ではまだ土器の地域性が発現していないと書いてあるだけ。
そして、三国時代の陶質土器を「巨大な墳墓、金工品の発展」と同期とみるならば、巨大な墳墓以前の陶質土器は、区別するために「古式陶質土器」と呼び、
さらに馬韓、百済の土器と区別するために「古式新羅加耶土器」という用語を用いますよ。と書いている訳。君が引用したサイトにはね。
だから、楽浪以後にはじめて「古式新羅加耶土器」が作られるようになったなんて書いてないんだよ。
しっかりしてね。
536 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:56:20
>>532 ドツボ
お前に助けを求めるようになったら終わりだな。
そこまで堕ちるならここへの書き込み止めるわw
さっさと震度計アホ。
まあ正直一度九州説に追い込まれてみたいものだww
要するにだ、問題になっている土器と言うのは
加耶土器から新羅式土器が分化した5世紀前葉よりは前で
尚且つ陶質土器が加耶に出現したよりは以降の時代と言うことだ。
以下
>>502のリンク先より適当に該当箇所をコピペ
(コピペで行を埋めればドツボは喜ぶらしいがw)
(2) 陶質土器―加耶、新羅土器―の三段階
加耶、新羅土器は前期、中期、後期の三段階に分けられます。
すなわち、前期は加耶式土器の中心段階、中期は加耶式土器から新羅式土器が分化し,加耶式土器と新羅式土器との二大樣式土器が存在する段階、
後期は加耶の新羅への併合―滅亡―で新羅式土器だけが存在する時期に分けられます。
各々の段階における具体的な内容は次のようです。
2) 陶質土器の中期
五世紀前葉より加耶が新羅に完全に吸收?併合される六世紀中葉までの時期です。
五世紀前葉にはじめて上下に行き交った透窓を持つ二段臺脚の高杯、圓筒形の頸を持つ長頸壺で代表される典型的な新羅式土器が、
共通樣式土器から分化しながら成立し、加耶式土器と新羅式土器の二大樣式が並存することが、この時期のもっとも大きい特徴です。
…楽浪の消滅なんていうのは、その 陶質土器の出現に近い年代で半島で起こったイベントを当てただけに過ぎない。
(まあ最初の目安としては妥当だと思うが)
【情報提供】
邪馬台国シンポジウム<狗奴国から邪馬台国を考える>開催
日時: 2011年2月13日(日) 10:00〜16:30 (開場09:15)
会場: 九段会館大ホール(東京都千代田区九段南1-6-5)
定員: 1100名
があるらしいよ。
東京近郊に住む人はいってくればいいのに・・・
538 :
人豚:2011/01/23(日) 12:59:11
>>526 貴方が定義する「
古式新羅加耶土器」の出現年代は、研究成果の蓄積で多少変化していますけど、
中国南方系の影響の強い?耳附壺が含まれることから、魏代以前には(3世紀後葉)遡らないでしょうね。
539 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 13:03:42
>>538 >中国南方系の影響の強い?耳附壺が含まれることから
その事について述べたサイトやら図書やら心当たりがあったら参考までに教えて欲しい。
「南方」と言えば神獣鏡だからなwwwwww
>>533 さて、高句麗、馬韓、弁韓の間でも「交易」はある。
当然のことながら、縄文時代以来、列島内でも広範囲な「交易」はあるが。
>>536 ジョーカー
そうだ、その調子。
お前さんがYAHOO掲示板の来襲にビビりまくりw
精神的に追い込まれて、部屋の隅で泣いてるんじゃないかと思ってたw
>>443 日本@名無史さん、
>>535-536でローガン&ジョーカーが反論してるんですが、
これについて、貴方の見解を述べて貰おう。 宜しく〜☆
私はちとスポーツしに行くのでここまで。 See You Again〜
さて、本州説の内、関西に所在を求める場合は、東海を狗奴国に想定しているのではないだろうか?
543 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 13:28:30
(>_<)さんは改め氏なのかな??
533 :日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:59:06
考古学上の成果から、九州〜東海まで交易が行われていたことがわかってる。
このうえで、なおも九州説を唱えるならば、
九州の独自に卑弥呼を共立していたこと、近畿と政治的な断絶があったことを証明する必要がある。
それができないなら、九州説なんてとっとと捨てるべき。
政治と交易を結び付ける根拠とはなんですか?
政治と交易は必ずしもイコールでないことは、現在の日本と北朝鮮との関係を見ても分かる
>>522 > 辰韓土器や弁韓土器はちゃんとあるだろうが。
そんなものはないぞ。半島南部の土器編年をまったく知らないことがばれてしまったな。無頭派クン。
> なぜ弁辰韓土器でいかんのだ?
「還元焔高火度焼成」だからだろうが。無知で能無し無能派クン。
> 君は「古式新羅伽耶土器」と名前を付けた経緯を知らないらしいな。
白井氏の論文におもいっきり書いてあるだろうが。それを読んでも理解できない無脳派クン。
> 4世紀の新羅・伽耶地域に発生した土器で区別がはっきりしないから、古式新羅伽耶土器と付けられたのだ。
キミのカン違いでした。
>>535でローガンさんが解りやすく説明しているから百回くらい音読してね。
(それでも理解できないだろうが、文盲のム盲派クン)
>>523 > 当たり前の話だな。
まったくのまとはずれでしたね、無当派クン。
じゅうぶん恥をさらしたようだから、心置きなくヤフーの(邪馬台国からみて)辺境トピに逃げ帰っていいぞ。
それではさいごに、「無頭派クン、全滅〜(by 三輪山)」
>>545 >半島南部の土器編年をまったく知らないことがばれてしまったな。無頭派クン。
土器編年を知っていることが何か大事な事かな。
他人の業績をさも自分の業績であるかのように振る舞うのは、みっともないからよしたまえ
他人が一般に公開している情報ならば
それを知っているか知らなかったかなんて、所詮情報収集能力を自慢しているようで
学問とはかけ離れたところの競走だ。 俺はババを持っているんだぞと自慢するような
アマチュアが2chで物知り自慢をするのは仕方がない。
情報の孕む問題を考究するのがプロ。
>>546 > 土器編年を知っていることが何か大事な事かな。
この場合とても重要なポイントじゃないかな?
549 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:43:27
今日NHK9:00からの邪馬台国討論の番組が終わったら、ここで再討論ですね。
今晩は、ほんとにワクワクです。
550 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 17:54:57
>■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着
正直「邪馬台国」の文字をタイトルに頂いている時点でなんつうかね…
まあこの板のゴミクズレベル九州説がファビョるのはどうでも良いが
Nスペの古代史と言えば以前「大化の改新」で甘樫丘の発掘を取り上げていたのが面白かったが
あれぐらいの内容を期待する。
ところで「“邪馬台国”を掘る」と言うのは柳田の著書を意識してんのかな?
>>550 本州説にも九州説にも迷惑をかけないように、本来の住み処のゴミ箱に戻るべきだ。
552 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:37:44
>>545 >「還元焔高火度焼成」だからだろうが。
還元焔高火度焼成した土器が新羅・伽耶の建国前にあったのなら、弁辰韓土器と名を付けたであろう。
ろくでもない屁理屈を言い続けるでない。
放送開始まであと2時間!!!
■日本古代史最大の謎に迫る 23日・NHK「“邪馬台国”を掘る」
日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国に迫るドキュメンタリー「“邪馬台国”を掘る」が23日午後9時から、NHKで放送される。
2009年、奈良・纒向(まきむく)遺跡で巨大な建物群が発掘された。
この遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及び、弥生時代末期の3世紀、突如建設された都市だったことがわかり、邪馬台国の最有力候補地と目されるようになった。
さらに昨年夏、建物群周辺の発掘が行われ、人為的に壊された銅たくや2000個を超える桃の種などが出土した。
果たして、邪馬台国所在地を巡る長年の論争に決着をつけるような証拠は発見されたのか。
番組では発掘現場=写真=に密着し、その成果を検証しつつ、纒向の実像を描き出す。
(2011年1月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20110120-OYT8T00621.htm
>>552 >
>>545 > 弁辰韓土器と名を付けたであろう。
じゃあ三韓土器ってなんだと思っているの?
>>552 > 弁辰韓土器と名を付けたであろう。
つけるわけないでしょ。
三韓土器ってなんだと思っているの?
それと、
> 辰韓土器や弁韓土器はちゃんとある
んじゃなかったっけ?
NHKスペシャル再放送は1ヶ月後かよ・・
レッドクリフも見たい・・
557 :
人豚:2011/01/23(日) 21:56:43
>>539 > 「南方」と言えば神獣鏡だからなwwwwww
「南方」と言うキーワードに喰いつきましたか。
ソースを、ということですが、
>>502で照会されたリンク先に出てますよ。
『加耶地域で発見された両耳附壺の祖型になるべきものは、西晋ごろに中國南方の越州窯磁器の影響をうけて
中國北方で生成された両耳附壺に求められます。(by申敬K)』
晋による南北統一により北方系土器に南方系の要素が取り込まれ、さらに伽耶の土器に伝播した。
つまり、伽耶における両耳附壺の出現は、魏代には遡らない、と言う理屈のようです。
両耳附壺の登場と前期陶質土器(
>>526氏の言う狭義の「伽耶新羅土器」)は同時だそうですので、
?日本で前期陶質土器が出土したとしても、それはどんなに早くても3世紀後葉、普通に出てくるのは4世紀だということです。
神獣鏡の場合のように楽浪経由説と言うものがあるのかどうかは存じません。
558 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:09:15
559 :
550:2011/01/23(日) 22:12:15
>■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着
さてさて見終わったが…
全体的にはNスペの”厚み”みたいなのは感じなかったw
以前、松平アナがやった「畿内説vs九州説」と変わらないと言うか…w
鉄器により強大な武力を保持していた九州邪馬台国
VS
宗教の力で各地のオウから共立されたヤマト卑弥呼
…基本構図はこんなところだろうか?
しかし 桃→道教 ∴卑弥呼の鬼道=道教 というのはなあ…
中国(道教)的要素を持つこととそれが道教であることは慎重に峻別したいところ
現在の日本の神道だって陰陽五行説がなければ成り立たないほどなんだから・・・
でも道教神仙思想をアピールしたいならどうして画文帯神獣鏡出さなかったのかな?
ま、とりあえず、高島センセイ、御自身の役どころをきっちりお勤めになられ乙ッスwwwwwwwwwww
NHKの番組では 卑弥呼の鬼道=道教説 を推したいようだけど、もし道教だとすれば
倭人が取り入れたのではなく、渡来人により持ち込まれたとなるだろう。
561 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:21:39
>>553>>558 Nスペ見た。なかなか面白かった。
発掘現場は想像以上に大変だなと思った。
纏向遺跡が女王卑弥呼の居た邪馬台国で間違いなかろう、という感じの放送だった。
吉野ヶ里遺跡が最初と最後の方で少し扱われ、九州の考古学者が出ていたが、
ほんの付け足し程度の軽い扱いだった。w
562 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:35:44
563 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:38:02
>>561 同じくらいの放送時間にすると、畿内説からわんさかと抗議が来るんだろう。
2000個を超える桃の種かあ…。倭人伝に桃が出て来ることは出てくるな。
焼いた骨なんかが出てくると良かったんだろうが。
銅鐸の割り方も面白かったな。
564 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:39:46
>544に同意します。
565 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:45:45
>>564 各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない。
石野さんの銅鐸割りは、もはやショーになってるな
567 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:52:29
>565
>544だが。その意見に同意します。ちなみに出土している土器は東日本のものが多く九州のものは少ない。
568 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:54:53
>565
>564だが。その意見に同意します。ちなみに出土している土器は東日本のものが多く九州のものは少ない。
569 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:56:46
>567です。「>544」は間違いで、「<564」が正しいです。間違えてすいません。
邪馬台国のライバルだった狗奴国
北九州の邪馬台国と頻繁にトラブルを起こし
卑弥呼が死んでチャンスと思ったら魏から来た張政の策略で撃退
さらに追い詰められてしまい一族郎党を引き連れて蒙塵
日向の港から船に乗って東への大脱出劇を展開して奈良へ
571 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:25:49
NHK によると纏向と中国との繋がりはモモの種だけだそうです。
後はいくら掘っても何も出てこない。
572 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:39:42
ベニバナ花粉は?
573 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:04:31
でも崇神天皇も魏志によるとヤマトトトヒモモソヒメに従ってるような感じだよな
574 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:11:28
思うに、当時は取るに足らないであろう一離島の国になんで金印を授けたんだろう?
近隣の属国には銀印だったんだろう?
揚子江下流域勢力への抑止力を、委奴国に期待したんじゃないか?
576 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 04:54:59
>>568 当時は、歩くことだけが移動手段だったわけで、重たい土器を持って移動すると
いうのがどうにも理解できない。空の土器を持って移動するなどありえないと
思う。また、どうしても何かを入れて持っていかなくてはならないなら、
皮の袋のようなものに入れてかついだ方がはるかに楽。
まして、大量の土器が移動するというのはありえないと考える。
土器が移動したのではなく、土器を作る人が移動したのだと思う。
577 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 05:21:06
道教って黄色信仰があるんだよね。黄巾の乱も道教による乱だし。
四神にしても東西南北で青龍、朱雀、玄武、白虎とあるけれど、神道では
真ん中に黄色を置くらしい。道教に影響されてるんだよ。
>>577 特に黄色信仰というわけでもないと思うよ。
木=春=青=東 火=夏=赤=南 土=土用=黄=中央 金=秋=白=西 水=冬=黒=北
五行思想は、こんなふうに配当していて、火徳の漢の次は土徳の王朝だから黄色と言われてる。
ただし、五行相生と五行相克があるし、蒼天已に死すとの整合性が難しいので、異論もある。
あと天は玄(くろ)で地は黄色という考えもある。
学会では畿内で決まったからあきらめろw
9割は畿内支持の学者残りが九州説で頑張ってるだけ
580 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:56:43
畿内説を採らないと予算が貰えないから畿内説が増殖するんだろww
581 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:57:52
>>565 >各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない。
そうはいっても、マキムクには、吉備〜関東の土器(土器を作った人)が集まってるからな。
九州には、そんなふうに各地方から物資が集まってきたような場所は無い。
吉野ヶ里は、だから朝鮮半島とのつながりを主張するしかないんだよ。
交易圏の広さは圧倒的に近畿が優勢。
なおかつ、九州説を唱えるならば「各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない」などと
人的交流の広さを持つことと、王権は関係ない、と虚しい主張をするしかない。
582 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:28:05
九州の東までが女王国の領域だから巻向から土器が出てきたんでしょ。
そう考えればすべてつじつまが合う。女王国まで一万二千里余もその通りだし。
583 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:30:37
>学会では畿内で決まったからあきらめろw
考古学者なんてしょせん素人だよ。
584 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:39:28
>>574 >当時は取るに足らないであろう一離島の国になんで金印を授けたんだろう?
女王国はそれまで呉と通交していた。それが魏に通交を求めたので、喜んだと
いうことだろう。
>>580 そりゃ今は九州説のような大穴狙い、博打は誰もしないよw
有り得ないからね。
>>568 ちゃんとレスリンク付けてよ。
半角の「>>」な。
587 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:54:42
九州説なら倭国大乱が九州限定になるがさすがにそれは無理があるしな。
588 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:06:58
>>587 九州限定だから無理がないんだよ。寺沢だったかな、畿内と九州の戦いがあった
とみるのは無理だってことを言ってただろ。
589 :
ローガン:2011/01/24(月) 11:08:27
無頭派君とやらは どうしたのかな?
>>506 ローガン かかってこいww
っていうからレス付けたのに…
>>535への返信は無いのかなあ?
590 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:08:37
マキムクの場合、本丸の箸墓古墳が宮内庁管轄で調査できないからね。
>>589 > どうしたのかな?
「ローガン かかってこいww」
はドツボのカキコじゃないのかなあ?
592 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:22:51
NHK、モモの話題がでたから、ヤマトトトヒモモソヒメの話が出るかと思ったら出ないね。
ヤマトトトヒモモソヒメとか、箸墓、大物主、三輪山なんて神話の話は、
道教よりもマイナーすぎるってことか。
>>529 青銅器が本州にまで及んでいたことはそのとおりだけど、鏡は違うよ。
鏡は弥生末期までは99%以上が九州にある。
本州では鏡は出ない。
本州と同じ文化圏にありながら、レガリアは九州が独占していた。
594 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:25:28
>>593 しかし、古い漢鏡ばかりで、魏以降の鏡は九州から出ないよねってこと。
魏以降の画文帯は近畿から出てるわけで。
そういえば、きのうのNHKについて二点。
ひとつは、2世紀の年輪資料を観たこと。
いや、当ったり前だろ、と思うかもしれないが、
これまでさんざん誰かさんの放言にイラつかされた身にとっては
有難い映像だったと思う。
もうひとつは、北部九州説の論拠が鉄製武器の出土量だと言ってたこと。
それ、ホンマでっか? ってなかんじだが、
この板ではこれまで鉄については
「古墳時代初頭においても畿内の鉄器出土量は北部九州におよばない」
から
「鉄と王権誕生には関連性が認められないのでは」
という議論になっていたのでね。
高島センセイ、大丈夫でっか?
597 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:52:35
>>589 >楽浪以後にはじめて「古式新羅加耶土器」が作られるようになったなんて書いてないんだよ。
いつから造られるようになったと書いてあるの?
598 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:55:30
>>596 鉄器の話は、あまりにも古臭いよね。
古い九州説にしがみついてる視聴者用にNHKが編集したんじゃないかな?
599 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:17:26
やはり、弥生末期に鉄が多く出たところが
邪馬台国の可能性が高いと見てよかろう。
600 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:23:58
伊都国に一大卒を置いたのは卑弥呼だし、女王国の九州の軍事拠点とみるべきで、
鉄がでたから卑弥呼がそこにいたと考えるのは早計。
>>599 しょうもない意見をカキコして、どうすんの?
602 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:32:48
そうすると当時は
・本州勢なら列島全体を広く目配りできた
・しかし九州勢は本州よりも朝鮮半島にばかり目を向けてる
てことか?
603 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:36:16
>>587 戦国時代あるいは明治維新でも戦いは限定的なもの。
古代に日本の広い地域が戦乱状態と考える方が無理がある。
>>581 畿内説が唐古・鍵遺跡に夢中になっているときも、唐古・鍵には各地の
土器が集まっていると盛んに言っていた。
ちなみに、吉野ケ里でも方保田東原遺跡でも各地の土器は出ている。
604 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:38:25
>ちなみに、吉野ケ里でも方保田東原遺跡でも各地の土器は出ている。
何が出てるって?
605 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:42:28
606 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:52:58
方保田東原遺跡については、ちゃんと発掘すれば、吉野ヶ里遺跡をはるかに
しのぐと大遺跡いう声もある。
石包丁型の鉄器については、稲の刈り取りのときなどに使うもので、大量に
作られたと考えるのが普通。
このようなものに鉄器が使用されるということはいかに大量の鉄があったかを示している。
でも倭人伝には鉄の記述なんて、特に強調もされてないんだけどね。
608 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:17:45
九州説なら邪馬台国はその後どこに消えたんだよ?
609 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:19:30
>>589 数日前、掲示板: 邪馬台国の〜で勝ち誇っていたけれど、その後あらわれない。
611 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:54:07
>>608 消えてないよ。九州にあって東の本州、四国を征服していったんだ。
612 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:56:21
>>589 以前、畿内説の考古学者は、鉄がないと困るというわけで血眼になって
畿内の鉄器を探していた。かけらが見つかると大騒ぎをした。
なかなか見つからず、いろんな奇説を立てた。畿内は廃品回収が進んでいた、
畿内の鉄は土壌の関係で溶けてしまった、など。
どうしても見つからないと諦めたとたんに、鉄は重要ではないと言い始めたの
かな?
倭人条に鉄のことが書いてあったらあったで
あんなのは資料価値はない文献だ!とわめくだけでしょう
温暖で冬でも野菜が食べられる、という記述も無視しているわけですからね
>>613 倭地温暖の条を読んでたら、どう見たって、あれは沖縄あたりじゃないと無理だろ。
九州がそんなに温暖なわけない。
会稽東冶の東って、案外本気で沖縄辺りのことを指して言ったのかもしれんな。
畿内説に合わせて、なんでも辻褄を合わせる伝統は、変わっていないようだな。
たとえば
1:これを畿内説の証拠にしたい
2:そのためにはこれが王権の証拠だということにしたい
3:王権の証拠だから圧倒的に畿内から出るものを威信財と呼ぼう
4:この威信財が出るのは畿内だから邪馬台国は畿内である
617 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:20:30
南九州ならば温暖だよ。
南九州に素潜り漁の伝統ってあるの?
619 :
水銀厨:2011/01/24(月) 14:34:50
>>612 畿内説の考古学者が皆同じ事を主張していた訳では無いですよ。
ここ20年位で新たな発見が続き、色々解釈が変わって行った事もあります。
>>615 私は奈良在住で嫁の実家が佐賀ですが、少なくとも
北部九州は畿内辺りと同じ、積雪はむしろ九州の方が多い位ですね。
>>617 四国の南部も結構温暖です。
620 :
ローガン:2011/01/24(月) 14:40:03
>>591 >「ローガン かかってこいww」
はドツボのカキコじゃないのかなあ?
そうなん?けど彼となんの議論してたかなあ?
>>610 > 数日前、掲示板: 邪馬台国の〜で勝ち誇っていたけれど、その後あらわれない。
ありがとう。しかし勝ち誇ってとは…痛いなあ。
621 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:44:36
>>616 昨日のテレビを見ていて、畿内説の考古学者たちは、いろんな資料を積み重ねて
その結果、邪馬台国を決めようなんて意識が全くないことがわかった。
スタートが纏向=邪馬台国なのであり、纏向から出たものはすべて卑弥呼に
関連があり、纏向に合わないものは、たとえ倭人伝でさえ間違っていると
考える人たちだなと思った。
622 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:56:14
>>621 それは邪馬台国がマキムクであるとの確証があるからで、後は遺物が出るのを待つ
だけだからでは?
623 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:56:31
>>616 九州説の人は九州から各地の物産品の出土がないのを
どう思っているの?
九州が当時の日本の盟主国ならば各地から献上される物産、
食糧があってしかるべき。
だけど、畿内には大和で入手できない海の魚や各地の物産品が集められて
九州には集められない理由はなんだったの?
九州説の人って、「倭人伝にある三十国はすべて北九州の国だ。
卑弥呼は北九州のみをまとめた小規模な地方王」という説だったっけ?
624 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:59:16
>>622 その確証が何かというのが問題なのであってね。
625 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:59:57
>>606 鉄を大量に持っている北九州は戦争に強いはず、という固定観念もなあ。
弓矢や石投げで戦争していた時に、鉄の刀など威力は大したことなどないよ。
安土桃山時代の鉄砲のような革新的武器ではなかった
そんな北九州も実際に5世紀には完全に畿内の征服下にはいっていたわけで。
626 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:07:08
九州からは各地、もちろん畿内からと思われる土器が出るが、
畿内からは九州からの土器は殆ど出ない。
627 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:11:16
弥生後期、鉄器の殆どは福岡佐賀熊本から出土する。
いわゆる北部九州。
また、鍬や鋤などの農具鉄器は山口広島からも多少出る。
しかし、鉄器の武器は北部九州以外では非常に珍しい。
山陰で製鉄が始まるようになると、他の地方からの
鉄器の出土が増え始める。
628 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:22:25
>>626 土器とは何かというのを考える必要があるな。
土器を作るのは女だったとされるが、使うのも女だろう。
>>625 鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
いるのは後進地という構図はやはり正しい。
629 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:27:18
九州からは銅鐸が出ない。
銅鐸は畿内〜山陰で大量出土、弥生時代の祭祀に重きを置いた祭祀具。
九州が畿内・山陰を手中においた盟主国ならば
むしろ九州が銅鐸の中心地であってしかるべきであるのに、
九州の酋長は畿内や山陰の祭りを全く把握していなかった。
このことからも、九州の酋長が他の地域を従えていたとは言い難い。
630 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:34:23
纒向からは東海、北陸からの土器が出土する。
東海、北陸からの物資が纒向に運ばれていたことが伺える。
もちろん九州からの土器は殆ど無い。
631 :
ローガン:2011/01/24(月) 15:41:56
>>628 >鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
> いるのは後進地という構図はやはり正しい。
なるほど、弥生X期に石器が減るというのは、畿内での鉄器の普及を表すという事ね。
632 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:42:48
一応吉野ケ里からわずかに小型の銅鐸と鋳型が出ているから、
まったく関係がないわけではなかろうが、
銅鐸を祭祀の中心にした形跡はないから、
九州は銅鐸文化圏ではないと思われる。
ごくわずかの自然発生的交流でたまたま流れてきただけであろう。
ただ、同様に大和朝廷も銅鐸を知らず、また
白村江以降の大和朝廷は水城や神籠石の城を知らない。
633 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:45:54
>>632 邪馬台国は畿内にあったが、大和王権とは別物。
だから銅鐸のことも女王のことも伝わらなかった。
どうしても九州説の人は
「大和王権と邪馬台国は違うから、
大和王権と邪馬台国は違う場所にあった」
という考えになるみたいだね。
政治の中心になる場所はだいたい古代から
いつも似通っているんだよ。
邪馬台国が畿内にあったからって
それがそのまま大和王権と同一王権でなくともよい。
634 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:48:01
>>631 世界的には、石器 → 青銅器 → 鉄器。
畿内X様式に石器が減るかどうかは知らないが、九州と違って間に
青銅器が入っているのかも。
635 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:48:49
北九州でも奈良よりはあったかいけどね。
奈良の寒さは半端じゃない。
潜って魚介を採る風習は松浦半島の風習だ。
しかも松浦半島では男が海士と呼ばれて魚介を採っている。
倭人伝にも男が潜って採ると書いてあるね。
倭人伝には畿内の事は何にも書いてない。
636 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:51:02
そういえば、聖徳太子の非実在説は根強く語られ続けられており、
遣隋使の記録と記紀の記録には大きい齟齬がある。
おそらくは記録がほとんど残っていなかったのだろう。
ひょっとしたら、飛鳥朝とその後の王権は、別の王権かもしれない。
637 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:52:29
>>635 それは邪馬台国の風習じゃなくて「倭人」の風習でしょう?
五島列島かどっかのことかもしれないよ。
魏の使者は一度しか邪馬台国に来ていないのだから、
魏の人が邪馬台国の春夏秋冬を知らないのは当たり前。
熱い時期にくれば畿内も相当熱い。
638 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:53:07
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王の金印について、畿内説のみなさんそれぞれ説明をどうぞ。
639 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:59:19
聖徳太子は、実在しないと、すでに学会で決着してますが、
情報が遅れすぎ。
そんなふうだから、いまだに邪馬台国は九州なんて100年前の珍説をいまだに信じてるんだろ。
640 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:01:34
>>638 九州のどこに卑弥呼の都があったのか、
まず特定してごらんなさい。
NHKは、吉野ヶ里以外は完全スルーだったが。
その吉野ヶ里は、邪馬台国の時代にはすっかり衰退してただろ。
641 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:08:16
>>640 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、どこから出土したのか?畿内説はこれを超える何か(出土等)があるのか?
漢倭奴国王の金印は、どこから出土したのか?畿内説はこれを超える何か(出土等)があるのか?
642 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:16:57
>>640 倭国動乱の痕跡は、畿内にあるか?
倭国動乱の痕跡は、神籠石、吉野ヶ里遺跡(亡骸に戦いの跡)など九州にはある。
>>639 私は畿内説だけど、聖徳太子が実在しないと決着したとは、
寡聞にして知りませんね。
聖徳太子は実在しないと論証した論文はどれですか?
著者はどなたですか?
>九州が畿内・山陰を手中においた盟主国ならば
九州説はそんなことを主張したことないだろ
645 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:29:54
>>641 邪馬台国の卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」の印
一方、那国王がもらったのは「漢倭奴国王」の印
びっくりした。
九州説の人ってこの違いも分からないの?
つまり、卑弥呼は三十国の盟主として魏から「倭国王」として
認められていた、しかし、那国については
「倭」の一部である「那国」の王としか認められなかったんだよ。
那国は西暦57年頃北九州の那国を統一した地方王にすぎなかったが、
卑弥呼は倭国三十国の中央政権的王だった。
地方酋長と卑弥呼を一緒にするっていったい・・・
646 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:33:47
>>628 >鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
>いるのは後進地という構図はやはり正しい。
考古学はズブの素人なんだけど、出土した鉄器って武器が多いの?
武器であるなら、最前線に多く存在して不思議はないと思うんだけど。
例えば、邪馬台国が畿内にあったとして、
半島勢力や狗奴国との最前線である九州北部のほうが、
畿内より武器を大量に備えておくべきだと思うがどうだろう。
動乱期には有力なクニの長老が名目上の首長大王で
長老な大王が死ぬ度に邪馬台国の中枢がコロコロ変わるから争いが耐えなかった
妥協として神事を取り仕切る若いヒミコのいる場所を邪馬台国の都とした
そして、いつしか畿内部族によって大王職が世襲されるようになり、それがヤマト王権になった
学会でほぼ統一された意見
邪馬台国は纒向にあった
聖徳太子はいなかった
649 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:46:38
「倭奴国」=「倭国」という説あり。
「倭の奴という地方王」という読み方もたしかにありますが、
当時のシナの皇帝は、直下の王に金印を授けたのであれば、「倭奴国王」=「倭国王」
「卑弥呼」→「親魏倭王」つまり倭国王で同一地域(九州)で倭国を治めていた可能性が高い。畿内説よりも信憑性が高い
650 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:51:52
>>643 あれ?
聖徳太子が実在したとでも思ってるの?
いったい、この数年、何を勉強してきたんだね?
新しい知識を得ようとしないから、100年前の珍説にしがみついてるんだよ。
自分の不勉強を自覚したら?
651 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:00:20
>>649 「倭奴国」=「倭国」という説は一般的ではない。
中国では北海道と沖縄を除く日本列島全体を指してその後長らく「倭国」
と呼んでおり、「倭奴国」と呼んだことは一度もないからね。
そして、卑弥呼は「倭国」の王だった。
その説をとるのならば、日本列島全体を指して、「倭那国」と読んだ事例を
あちこちから引用してくる必要がある。
君にできるかな?
652 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:07:54
推古朝の遣隋使でも中国は「倭国」と呼んでいるもんね。
このときの日本の中心はいうまでもなく畿内。
倭国が九州なら、遣隋使も九州王になってしまう。
653 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:08:42
「中国では北海道と沖縄を除く日本列島全体を指してその後長らく「倭国」
と呼んでおり」→日本列島全体を指して「倭国」と呼んだ根拠はない。「倭国」の北端・南端の説明はない。もしかしたら「九州及びその周辺」だけだったかもしれない。
「倭奴国王」を「倭の奴の国王」と呼んだのは近頃の日本人でシナの皇帝や倭国人ではない。
この程度のものだけど、畿内説より信憑性あるでしょ?
>>650 聖徳太子が実在するのは当たり前
そして邪馬台国が関西にあったのは最近の調査で判明した
655 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:39:40
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王金印について畿内説の人々何か語ってほしい。
656 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:48:42
>>620 > なんの議論してたかなあ?
うしろからアオってたんでないかなあ。
658 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:04:24
聖徳太子は確実に存在したでしょう。6世紀ともなると漢字で文字を残せた
ので史料として8世紀には残っている。6世紀くらいからの年代とか天皇の
実在性は正しいと思う。記紀には実話を元にしてファンタジーに仕立てた話が
多いと思う。
650がんばれ。
聖徳太子いない説、ということは10代の坊だろう。
新しい知識、披露してくれ〜。
660 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:17:04
>聖徳太子はいなかた
これも微妙な話で確かに数々の超人伝説を遺した
聖徳太子と言う人物はいなかったと言うのはいえるが
その「中の人」とも言える「厩戸の皇子」は実在したわけでw
これは邪馬台国の問題に似ているところがある。
倭人伝に書かれたとおりの邪馬台国と
邪馬台国の元ネタの畿内ヤマト。
まあ九州説と言うのは超人聖徳太子を探し続けるロマンだなwwwwwwwww
661 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:28:37
>>596 >高島センセイ、大丈夫でっか?
中華屋ねキミ〜、高島センセイかてそんな事は百も承知やと思うでw
やっぱ番組のシナリオに乗っかったんやと思う。
そこらへんメディアへの露出に慣れてていて
以心伝心で空気読んでくれる学者センセイとして重宝される部分と言うのはあるんとちゃう?w
石野センセイの銅鐸叩き割りパフォーマンスもそれっぽいけどwwwww
662 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:52:48
お前らも頭の固い連中ばかりだな
元々は卑弥呼の時代に、邪馬台国九州本店があり、3世紀末頃に奈良支店が出来た
そして、やがて奈良支店が本店となり、九州本店がその役割を終えた
このように考えれば、すべての考古学、文献で辻褄が合うんだよ
2者択一は、もういい加減にやめたらどうだ??
663 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:54:36
聖徳太子非実在論は、学界で何の注目もされない奴が、
ただ目立ちたがりたかっただけ
あんなアホな説は、学説とは言わん
>>661 > 中華屋ねキミ〜、高島センセイかてそんな事は百も承知やと思うでw
> 石野センセイの銅鐸叩き割りパフォーマンスもそれっぽいけどwwwww
ほんまでっか〜。ほなら
> 鉄器により強大な武力を保持していた九州邪馬台国
> VS
> 宗教の力で各地のオウから共立されたヤマト卑弥呼
ちゅうのは、チュウヘイ&ヒロノブの49分ネタやったちゅうんかいな。ひえェー
もお、両センセTV出杉ちゃいまっか〜。
665 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:10:35
女王国=卑弥呼の支配力が及ぶ領域 と解釈すればすべて解決
666 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:21:00
唐子・鍵遺跡がナガスネヒコの国なのか卑弥呼の邪馬台国がナガスネヒコの
国なのかというところ。
667 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:32:03
伊都国は女王国に統属すると書いてあるだろ。
つまり今でいえば、福岡県は日本に属してるってことだ。
帯方郡から日本までが万二千余里。卑弥呼は巻向にいた。
668 :
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡:2011/01/24(月) 20:32:11
畿内説は、桃の種と板ぎれで終わりか……
>>668 つまりそれで決着付く訳だよ。
所詮九州説はその程度という事。
670 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:45:15
>>669 畿内説の限界か?と言っているのですわよ。
671 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:54:20
>>670 九州説を粉砕するのに、木片で十分ってことだろ。
>>650 誰がどの論文で論証したか言えないということは、何となくの印象で言ってるんでしょうね。
○○は無かった式の主張ですね。
ドラマの遠山の金さんが嘘だから、遠山景元は実在しないと主張するのと同レベルだと思うよ。
673 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:58:34
古代の戦は、王様も将軍も第一線の兵隊と一緒に戦っていた。
理由は長距離連絡手段(無線・信号)が無かったから。
当然大本営もその直後に存在しないと戦いを有利に支配できない。
その時、第一線である九州から畿内では、遠すぎて戦いを支配できない。
当時は、夜間の組織的な戦いは考えられない(暗視装置が無いから)。
よって昼間戦ってその戦況について連絡を受けて翌日の戦い方を指示できる距離
が第一線と大本営(首都機能)と考えるのが妥当であり、その距離は30〜40km
(1日の徒歩による移動距離)と仮定できる。
そうはれば、倭国騒乱を支配できる距離は……畿内説は終了
674 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:59:08
結論でないとわかってるもんに時間費やす時点でアホや。
675 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:03:17
>>637 伊都国には常駐していたし、壹與の時にも来ている。
それ以外にも幾度か来ただろう。
晋が建国した次の年にも壹與が遣使しているが、中国で代が変わって新しい王朝が出来た。
挨拶に来いと言う通達を持った使者が来ているだろう。
一度しか来ていないなんてアホな事を言うとはさすが畿内説だな。
676 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:07:39
>>669 >>671 は稚拙だ。議論にならない。
>>674 ここでは、邪馬台国について色々な議論で楽しむ人々が集うところだ、出ていけ。
677 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:10:34
>>673 日本武尊は、天皇の詔を受けて遠くまで遠征してるじゃない。
678 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:14:19
>>677 そうですね、日本武尊は神話上勇ましいですね。
でもね、本当に戦に勝つためには、戦略・戦術で勝てる戦をしないと
国が滅ぶわけでして現実的ではないですね。
679 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:40:06
日本武尊は親父が征服した九州をまた征服している。
一度は従ったのにまた反乱を起こしたとか言う説明も無く。
出鱈目だろう。
681 :
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡:2011/01/24(月) 21:56:12
畿内説の人々頑張れ。君たちの説得力ある説で邪馬台国九州説を撃破されたい。
683 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:01:24
>>679 熊襲と九州を一緒にしては駄目だと思うが。
684 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:09:27
>>682 桃の種と板ぎれ以外の説得力ある説明がほしいと言っているのです。
古文書、出土品、現実的な(実行可能な)仮説、……
畿内説は、はっきり言って面白味がない。しょうもない出土品でお祭り騒ぎしたり、
九州説を馬鹿にしてみたり……
九州説には夢がある。出土物があり、古代史にない遺跡があったりして未知数の可能性がある。
多くの人が、九州説に魅せられる気持がわかる。
なぜだか知らんがここ数年で
考古学に依拠した畿内説 VS ファンタジーの九州説
という構図が固定化した気がする。
>多くの人が、九州説に魅せられる気持がわかる。
知能指数が一定より低い人は九州説だろう。
687 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:24:08
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王金印を超える考古学をわしは知らん。
畿内説は、考古学上もファンタジー上も、九州説を論破できない。
688 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:24:46
例えば、日本の政党でも数ヶ月でころっと変わるように、地方だと不満分子が
反乱をおこしたり色々あるんだよね。
朝廷が地方から富を搾取するわけだから。
689 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:28:20
690 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:34:59
>>687 「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」にしろ「漢倭奴国王金印」にしろ漢代のお話
邪馬台国魏代には関係はない。
考古学だのなんだの言う以前の問題だな。
もう少しものの考え方を学んできて出なおして来い。
>>675 >晋が建国した次の年にも壹與が遣使しているが
想像で語ってはいけない。
壹與が遣使したなんてどこにも書かれていない。
692 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:44:44
日田の鉄鏡は、間違いなく中国の皇帝が与えたものだと思う。
皇帝が与えたのなら、中国の歴史書に書かれていてもいいと思う。
また、与えられた者もそれなりの人物だったことは間違いない。
では、卑弥呼か、となると倭人伝の目録にない。正始四年の朝貢のときに
貰った可能性も否定出来ないが…。
それに鉄鏡や金錯鉄帯鉤が漢の時代のものの可能性が高いことを考えると、
貰ったのは倭国王・帥升ではないかと思う。帥升の後継者(数代後)が
卑弥呼だと考えるので、つながりがあることになるが。
ただ、どうして日田かということになると、ちょっと頭が痛い。
693 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:46:31
>>690 関係ないことないでしょ。畿内でこれらを超える出土品があって、シナとの深い関係が
立証できないままでは、九州邪馬壱国説を論破できないと言っているのです。
奈良時代から現代を史実で説明できるように、古代から邪馬壱国を説明するには
九州から出土した宝物をもって説明したほうが説得力があるというものです・
日田の鉄鏡は、ほぼ間違いなく太平洋戦争中に中国から持ち去られたものか、好事家が中国から
買い求めたのだと思う。不幸なことに伝出土品で身元が不確かだから重要文化財であっても国宝には
ならない。
>>618 熊本、長崎、有明海沿岸は温暖ですね
天草、松浦あたりでは戦前までは素潜り漁は結構やっていましたしね
入れ墨の習慣もありましたよ
>>623 >「倭人伝にある三十国はすべて北九州の国だ。卑弥呼は北九州のみをまとめた小規模な地方王」
肥の国、筑紫国あたりにひろがっていた小国家連合ではないですか
南方の狗奴国との戦いにさえ手こずるレベルの国ですよ
同時代に私の住む河内や大和、近江あたりに林立していたであろう小国家連合のほうが
規模的にも文化レベル的にも九州の邪馬台国よりも高度なものを持っていたのだと考えています
邪馬台国はいきなり勃興して北部九州を制圧したかと思うと、あっけなく滅びていった国ではなかったでしょうか
あたかも平家一門のように
696 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:52:35
九州から出ている興味深いものは鉄鏡だけではない。
串間の穀璧もあるし、球磨地方・免田の鍍金鏡もある。
>>694 それはいくらなんでも違うだろう。第二次世界大戦中から終戦後にかけて
展示していた三芳小学校から盗まれたという話だ。
再び世に出たのは梅原末治が、奈良の古美術商から購入したのがきっかけ。
しかし畿内説の大御所が再発見したというのも皮肉だな。
698 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:00:45
>>693 しつこい、関係ない。
邪馬台国の冊封は後漢の時代じゃないから。
そんなものに立脚した九州説(説なんてもんじゃんくて与太話だがw)なんか論破だのの対象外。
あまりにもレベルが低すぎる。
頼むから考古学とか言わないでくれ、こっちが恥ずかしくなる。
>>629 九州から銅鐸が出ない?
冗談ついでに銅鐸文化の中心地とはどこだ?加茂岩倉あたりか?
その時代の「畿内」とはどういう意味のグループなのか?
銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ、受容すると極端に巨大化される傾向がある。
それは現地民の未開性と、外来の支配者の果てしない権力欲を意味するのだろう。
700 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:06:57
しかし昨日のNHKの番組、九州説にえらく気を使っていたような気がするのは俺だけか?w
(以前、松平アナの司会してた番組でも偉く気を使っていた印象があるがw)
2ちゃんで畿内説に下らないイチャモンをつけている連中と違って
かつてのブームの中でそれこそリアルに九州説に人生かけちゃた人が少なからずいるからなんだろうなwww
まあ、畿内説で収束の結果になっても別に悪い人生じゃなかったとは思うがw
>>700 無数に存在するファンタジー系九州説論者達は一切触れなかったけどな。
あの程度でもNHKに九州説の人や九州候補地の住人から電話がかかってくるんだよ。www
もはや少数だがたちの悪い圧力団体だな。
703 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:14:33
>>701 先ず、九州説が三度の飯より好きな行程記事の解釈に全くのノータッチw
今後TVで邪馬台国を取り上げることがあっても
やはり考古学的なものが取り上げられるんだろうか?
まあ反動としては(番組として盛り上げる為に)その考古資料に過大な意味づけがなされたりする
…ってところかな?
704 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:15:11
邪馬台国を議論する場で、
>>701や
>>702のような悪意ある発言があっては、
畿内説がまともとは考えられない。悪意か、あるいは他に目的があるのか……
705 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:23:41
>>700 その時歴史は動いた「邪馬台国はどこか」の視聴者調査では、
九州説支持 35087票 (62.4%)
近畿説支持 21102票 (37.5%)
だったな。
706 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:34:31
>>705 あの番組見ると九州にありそうって素人を思わせるような内容だったし。
報道ステーションでやたら古館が民主党の悪口ばかり言って視聴者を反民主党
へ駆り立てようとしているのと似たような構図だった。
707 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:43:05
あの時以来、畿内説は宣伝に力を入れ始めた。
纏向から何か出るたびに新聞発表し、最初の文字は「邪馬台国の最有力候補地
である纏向遺跡」「卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳」になった。
>>703 もう行程解き推理ゲームは卒業しなきゃな。
当時の位置関係が証明されるような地図でも
発見されない限りは進展は無い話だ。
今や倭人伝の記述との一致点なら、畿内説の方が矛盾は少ないだろ。
大量の桃の種だって、卑弥呼は鬼道を用いると書かれている以上は
それだって充分な証拠材料にはなる。
少なくとも鉄器が出るよりもはるかに重要だろう。
709 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:41:06
>>707 で?
その「ある時」と言うのはいつなんだ?
その契機となった出来事は?
それを首謀したのは何処の誰?組織?
いくらネット弁慶やっても、現実を見れば
下らない陰謀論に逃げるしかないゴミクズレベル九州説wwwwwwwwww
誰も相手にしないが、利権だけのために存在している、チャウシェスク畿内説・・・
712 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 04:46:39
>>711 陰謀論やる時はもっとしっかり話作っとかなきゃ…
713 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 05:29:17
>>709 新聞の記事がそうなっているのは事実だろう?
714 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 06:24:23
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡+漢倭奴国王金印
=1世紀ころの倭王または倭を代表する王は九州在住
卑弥呼=親魏倭王→倭王として政務をとった場所は?
○1世紀からの流れや魏志倭人伝では、九州説のほうが有力
○九州に多数存在する神籠石は、倭国騒乱あるいは大陸・半島
勢力の進行阻止のためか?いずれにしても高い土木技術だ。
九州に古墳が少ないのは戦いに必要な建築土木を優先したからでは?
●桃の種、木端程度では畿内説は不十分
何時代をグチャグチャにしてんだよ。神籠石はほとんどが7世紀後半の朝鮮式山城だろ。
白村江以降のものだ。
716 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:30:05
>>691壹與が遣使したなんてどこにも書かれていない。
畿内説者はほんとに無知でこまる。
晋書の帝紀「二年 十一月已卯、倭人來獻方物」だから、晋の建国の翌年だ。
日本書紀の起居注には泰始二年に倭の女王が遣使したとの記載がある。
266年だから250年辺りに就任した壹與が16,7年で死んでいると言うのも考えにくい。
そこで壹與が晋の建国の翌年に遣使したと言う解釈になるのだよ。
717 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:32:48
な、なんだってー!!
8世紀以前の謎が大幅に解ける日が来るのかー?
718 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:42:59
>>699 畿内説の連中は九州に銅鐸がないと言っているのか?
畿内説の連中はそろいもそろって無知。
吉野ヶ里から銅鐸の鋳型が出ているし、その鋳型で作られた銅鐸が出雲から出土した。
つまり、銅鐸は九州が発祥であり、それが出雲に伝わり、出雲から四国や近畿、東海に順次伝わって行った事を示している。
伝わったスピードは解釈だが、近畿には100年位遅れて伝わったと解釈される。
近畿の弥生時代は九州より100年は遅れているのだ。
719 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:47:54
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡って興味あるなあ。
これこそ卑弥呼の鏡じゃなかろうか?
三角縁神獣鏡のような贋作、コピーがいくらでもできる安っぽい鏡を魏の皇帝がくれる訳がない。
銅鏡て書いてあるけど鉄鏡の間違いだった可能性もあるだろ。
720 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:53:00
どうなんだろうね、銅鐸の出土量は出雲畿内が圧倒的に多いけど、
九州の銅鐸は小型。
中国大陸から九州を通って出雲、畿内に伝わってきている、
と仮定してみると
九州はそれほど銅鐸に祭祀的な必要性を感じておらず
スタンダードなまま伝わり、出雲、畿内で
重要な祭祀具となって、だんだん魔改造化が始まり
大型化して行ったと考えることができる。
鏡も中国では手で持つことができる、いわゆる
スタンダードサイズが基本だが、平原のように
日本に来ると倣製鏡で大型化したものが作られる。
これも鏡を重要視しているがゆえの魔改造だろう。
721 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:54:35
>>708 漢末、つまり188年頃に発生した中国の道教に桃が使われていたからって、
同じ頃邪馬台国の女王になった卑弥呼がその桃を祭祀に使ったと言うのは
いかにも早すぎはしないか?
>銅鏡て書いてあるけど鉄鏡の間違いだった可能性もあるだろ。
これはない。倭人伝のこの部分は魏帝詔書の引用であり、最も間違いの可能性の少ない部分。
教団道教は2世紀頃かもしれないが、神仙思想は紀元前からあり桃が神聖視された
起源も古い。
724 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:30:42
>>684 夢があるなし、ってのは、所詮、科学よりオカルトのほうが夢があるというレベル。
夢と現実を混同しちゃいかんな。
「夢がある」で済んでいればいいけどねえ。九州王朝なんかも遊びとわかって
やってるんならいいけど、本気で信じてる人は気の毒。
726 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:52:27
九州王朝説は畿内説よりはましだと思う。
九州王朝説には、時々、なるほどと思うことがあるが、畿内説にはそれが
全くない。
727 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:11:35
>これはない。倭人伝のこの部分は魏帝詔書の引用であり、最も間違いの可能性の少ない部分。
そうかなあ。
じゃあ、たしか金メッキした鏡もあったと思うが。これも九州。
日本で真似できない鏡じゃないと魏の皇帝がわざわざ好い物と言ってくれるはずがないと思う。
728 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:19:36
>>720 九州は畿内よりずーっと文化文明が先行し続けていたのよ。
突然逆転した理由を畿内説は何と考えるのかねえ。
729 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:22:33
>>726 >九州王朝説は畿内説よりはましだと思う。
畿内説には捏造を疑われている奈良文研とか歴博とか、胡散臭い連中が沢山いるからね。
730 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:01:31
出雲畿内が銅鐸の魔改造頑張ってたときに
九州は銅鏡導入合戦と魔改造やってたんだな。
畿内から鏡が出始めるときは、画文帯と三角縁の大量生産で、
文化的には枯れてるような気がするね。
魔改造や種類より数を競っているような感じ。
九州でひと通り鏡開発競争が終わって枯れた後に、
量産鏡文化が、銅鐸文化圏にかぶさったように見える。
なんかTVの後だけにニワカが多いな
732 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:22:29
膠を糊として使用することで機密性の高い木棺が作れるようになり、石棺は廃れていったのです。
エジプトのツタンカーメン王の木官や宝石箱にも膠が使用されています。
733 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:17:34
うっぷんがたまった九州説信者が沸いてるのか?
邪馬台国の会にでも入ってお布施してればいいんだよ。
>>728 後進のぶんだけ、タガが外れたときの植民地支配は酷い。
アフリカや南米に渡った白人帝国のようなものだ。
九州説論者の断末魔が酷いな。
いい加減現実世界に戻った方がいい。
2世紀後半〜3世紀に北部九州が衰退する(人口は増加している)のは、これは倭国内部の
動きというよりも半島からの影響が大きい。おそらく半島で倭に文物を移出していた勢力が
畿内を中心とする連合体の渡来人層と手を結んだからだろう。
737 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:36:52
歴博みたいなのが出てきて
炭素年代なんて振り回し始めた事が畿内説の断末魔だろ。
畿内説の学者からさえ非難されている。
歴博と打とうとしてhが打ちそこなったら歴悪とでた。
738 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:48:03
739 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:48:07
吉野ヶ里は4世紀の遺跡だよね?
九州論者はこれが邪馬台国だって言ってるの?
卑弥呼が生きた3世紀の遺構は九州で見つかってないんだよ?
畿内からは卑弥呼が生きた3世紀の遺構が見つかっている。
だからって邪馬台国じゃないだろうと決めつけすぎる
立派な根拠を誰も出してきていない。
九州論者はまず、九州内で3世紀の遺構を探し出してきてから
書き込んだら?
>吉野ヶ里は4世紀の遺跡だよね?
違います。4世紀にはほぼ途絶えてしまいますね。最盛期は卑弥呼の少し前あたりでしょうか。
741 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:14:02
>>739 倭人伝に登場する国に比定される遺跡で、一つだけ間違いないとされる遺跡が
ある。それは壱岐の原の辻遺跡。これは一支国に当たる。
原の辻遺跡は環濠集落になっている。
つまり、卑弥呼時代の遺跡は環濠集落だったと思われる。
倭人伝の「城柵を厳かに設け、常に人がいて守衛す」からもそれが窺える。
九州の主だった遺跡も吉野ケ里、平塚川添などは皆、環濠集落。
しかも、吉野ヶ里遺跡からは、「宮室、樓觀、城柵」といった倭人伝の
記述に当てはまる遺構が出ている。
吉野ケ里を卑弥呼時代とすることで、整合性が見られる。
一方で、纏向は環濠集落ではない。「宮室、樓觀、城柵」といったものの
痕跡も見えない。卑弥呼時代と考える根拠がない。
これは時代が違うと考えるのが普通。少なくとも考古学的にはそう考える
のが妥当ではないかと思われる。
742 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:17:39
吉野ヶ里の環濠が埋められてその上に前方後方墳が作られている。
古墳時代が始まった頃に吉野ヶ里が滅んだのではないかな。
だから九州説の立場では吉野ヶ里が滅んだのは4世紀中葉でなければならない。
畿内説が古墳時代の開始を繰り上げるのは許せない訳だ。
吉野ヶ里が4世紀の遺跡とすると、纏向は何世紀?
5世紀くらい?
本州説も場所によっては、まだ十分魅力的だが、特定の地域の観光案内はいただけない。
>>741 >原の辻遺跡は環濠集落になっている。
>つまり、卑弥呼時代の遺跡は環濠集落だったと思われる。
この部分は説得力がないな。畿内説からすれば壱岐から遠く離れた畿内が同じ環濠
という集落形態をとっている必然性は何もない。
>>742 >だから九州説の立場では吉野ヶ里が滅んだのは4世紀中葉でなければならない。
北部九州にある3世紀代とされる初期前方後円墳も年代ミスになるのかな。
>>743 纏向が5世紀とすれば、河内の巨大古墳群は7世紀か?
746 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:33:06
>>739 吉野ヶ里は弥生中期から後期。
むしろ吉野ヶ里は卑弥呼の時代よりも古いから、
時代に合わないと畿内説論者が批判してきた経緯がある。
747 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:42:23
>>746 それは違う。吉野ヶ里遺跡が話題になった頃、畿内説の石野博信氏は森浩一氏
との対談で「吉野ケ里は、少なくとも卑弥呼が死んだ西暦250年頃は間違い
なく含む」と言っている。
纏向の時代が遡ったのは1995年頃で年輪年代法が根拠になった。
年輪年代法がいろいろ疑問をもたれても、纏向の時代が遡ったことだけは
生き残っているという経緯がある。
748 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:09:01
>>743 >吉野ヶ里が4世紀の遺跡とすると、纏向は何世紀?
5世紀くらい?
その通り。箸墓から鐙が出ている。
大陸で鐙が普及するのが5世紀だ。
大陸で鐙が普及する前に日本に鐙が来たらおかしい。
749 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:36:37
>>741 纏向の発掘はまだ3%しか進んでないんだよ。
>纏向には「宮室、樓觀、城柵」といったものの痕跡が見えない
というのは、いつ、誰が発表した正式見解なの???
纏向は今年の春からも隣の部分が掘られるし、
吉野ヶ里を超える国内最大級の建物(王宮跡)が発掘されただけで
まだ全容が分かってないんだが。
纏向が5世紀で吉野ヶ里が4世紀‥
本当に大丈夫か、このスレの連中w
ひとり安本一派のおかしい人がいるのは確かなんだが・・・
752 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:09:07
安本系の信者は、たいてい一人や二人常駐してる。
一匹ずつ潰していくのが俺の楽しみ。
安本の主張なんか、今では矛盾だらけでさっぱり
辻褄合わなくなるのにな。
754 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:59:37
単純に女王国=邪馬台国と勘違いしたのが誤りの元でしょ。
日本=東京と思ってるようなもんで。
というか安本本人は、金儲けの手段としてあの世界を構築していった確信犯。
自分が生きてる間は邪馬台国が発見されることはないという展望があったんだろう。
頭のいい人だから、倭人伝では答えが出ないこともわかっていた。
のせられた人は哀れだが、自己責任というしかないな。
756 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:26:17
>纏向が5世紀で吉野ヶ里が4世紀‥
>本当に大丈夫か、このスレの連中w
まあ オレサマ邪馬台国九州説 が成り立てば後は野となれ山となれ…なんだろうなwwwwww
あるいは「知らない」って強いと言うかw
お笑いネタに付き合えば
そうすると5世紀に、盆地の南部=三輪朝、盆地北部=佐紀朝(仮)、河内朝 で一斉のドンで巨大古墳の造営が始まる。
もはや「王権輪番制」すら間に合わない
先に挙げた3つの 「三朝並立説」 ぐらいもってこないと間に合わないwwwwwwww
もう「サヨク憎し」の怨み節なんか発狂しそうなネタだがw
『鐙』の件でも本来なら「布留1=5世紀」と言えばいいものを何故そう言わないか?
恐らく一つには5世紀までの古墳その他、編年されるものを詰め込むスペースがいるからなんだろうが
アホのゴミクズレベル九州説はそれすら気づかないw
>>615 倭地温暖の条を読んでたら、どう見たって、あれは沖縄あたりじゃないと無理だろ。
九州がそんなに温暖なわけない。
現在の感覚で当時を語るのは危険でっせ。当時の九州北部は海岸線がもっと内陸部まで
侵食していて有明海の干満も大きかった模様。気候も現在とは違うと思われ。
又刺青に関しても、最近(明治頃)まで風習としていた地方あったとの事ですよ。
話は違うが沖縄、特に離島に行くと邪馬台国の匂いがする。
758 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:35:35
しかしもう九州説は吉野ヶ里説で統一してくれよ…って話だなw
九州説の大衆人気と言うかそのイメージの源泉は吉野ヶ里なんだろうからww
で、ミスター吉野ヶ里こと高島センセイは確かに(タイトルに邪馬台国の文字を冠するような)市販一般向け図書の中では
倭人伝の「宮室・楼観・城柵」は吉野ヶ里のような環濠集落のそれとして
邪馬台国の時代はまだ吉野ヶ里全盛イケイケ時代だった・・・みたいなことは言っているがw
じゃあ、弥生の前期・中期・後期(終末期)を実年代のいつ頃に当てはめるのか?
編年モデルって何処かで出しているのか?
まさか70年代佐原のものに丸投げってワケにもいかんだろうしwwww
知っている人がいたら是非教えて欲しいw
759 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:38:30
みんな金儲けのために邪馬台国を利用してるだけでしょ。
真実などわからないほうがいいのさ
>>699 >銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ、受容すると極端に巨大化される傾向がある。
それらが巨大化したのはいずれも後期後半ですね。
>その時代の「畿内」とはどういう意味のグループなのか?
「畿内」は後世つけられた地域区分でしょう。
その時代ならば、近畿式銅鐸を使用したグループとしてまとめられるでしょう。
>銅鐸文化の中心地とはどこだ?
それが実はわからないんです。加茂岩倉でないことは確かです。
761 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:49:02
当時の倭国なんて、卑弥呼共立でかろうじてまとめ、
卑弥呼が死去すると、男王がいても戦乱に戻ってしまうくらいだから、
軍事的に他国を圧倒するほどの動員能力は持っていない。
持っていれば、男王でも国家をまとめて統一できる。
つまり、巨大な墳墓を多数の動員で造築できるような国家ならば、
それは邪馬台国ではない根拠になる。
762 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:57:19
>>760 あなたなりの考えを確認しました。
銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ後期後半(弥生?)の同時期に巨大化した。
近畿式銅鐸の分布域は畿内と新たに定義された。
文化の中心地がわからないが、近畿式としておくことは仕方がないことでしょう。
763 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 20:23:26
>>747 >纏向の時代が遡ったのは1995年頃で年輪年代法が根拠になった。
息を吐くように嘘を吐く ゴミクズレベル九州説
都出が82年に佐原編年を100年遡上させる編年表を発表。
83年の橿原考古学研究所でのシンポジウム『三世紀の九州と近畿』で
近畿の都出・寺澤と九州の柳田の編年表が並べられる。
…と言う風に年輪年代法の登場に関係なく年代の見直しは進んでいたのが現実。
じゃあその95年以前で九大あたりから
古墳時代の始まり、庄内併行期を4世紀に置くような年代観が発表されているのか?
あるなら是非出してくれ。
畿内説に噛み付くのにその年代観を畿内説の総本山京大のラスボスクラスの佐原のそれに寄っていたんじゃ笑い話にしかならない。
まあ馬鹿は自分が自爆芸をやっているのすら気がつかないから馬鹿なんだろうがwwwwwwwww
765 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:48:24
>>763 編年の歴史についてあまり知らないらしいな。
自分でもう少し調べてみたらいい。
庄内期を遡らせようとする人は30年以上前からいた。
当時は異端児と呼ばれたが。
766 :
758:2011/01/25(火) 21:54:41
>>758の続き、あるいは自己レス
一応今手元にある本で高島の年代観に関する部分を引用しておく
引用元:「古代を考える 邪馬台国」 平野邦雄編 吉川弘文社
環濠集落 吉野ヶ里遺跡とクニの成立 高島忠平
>4 環濠集落の展開ト解体 ー弥生時代後期(一〜三世紀)
>吉野ヶ里環濠集落機能の充実
>吉野ヶ里遺跡の環濠集落は弥生後期に最盛期を迎えるが、
>同時にそれは環濠集落の解体の過程でもあり、
>三世紀末には突如として姿を消してしまう。
まあ最盛期と衰退期を無理矢理詰め込んで無理をしたような印象を受けるがw
>>758で求めた高島センセイによる編年モデルと言うか年代観を示した年表と言うのは
もう少し突っ込んで庄内に併行する西新式や土師器が一体いつの時代なのかをきちんと示して
ゴマカシがきかないレベルのものって意味でwwww
767 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:54:50
>>763 「ゴミクズレベル九州説」とは、人間の議論の段階ではない。
同じ日本人として淋しい。
768 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:07:00
>>765 小林佐原の年代観が全盛期にあっても
それにに異を唱える人間もそりゃいただろうさw
それがどうかしたか?下らない。
悔し紛れのケチレスは良いから
その年輪年代法で一気に年代遡上が目論まれるまえの
古墳時代の始まりを4世紀に置く”正しい”編年とやらを
畿内説の総本山に頼らずに立証したものを出せって話だよw
それが九州の考古学において常識的に知られていたものなら
そんなものすら知らなかった俺は
「編年の歴史についてあまり知らないらしいな」
と言われても仕方がないだろうなw
さあグダグダ言わずに出せよw
小林行雄が60年前に出した「日本考古学概説」では、古墳時代の始まりが3世紀半ばすぎ
とされていて、これは崇神天皇没年258を採用したから。しかしその後、35年前に出版された
「古墳時代論考」では、開始の時期が4世紀からと変わっている。これは崇神没年を干支一巡り
60年遅らせた318年を採用したためで、文献史学の研究に引きずられた結果と考えられる。
このために有名な伝世理論も生まれた。
しかし当時でも、それこそ纏向を含むヤマトの早期古墳の数などから、もっと古墳時代開始の
年代を古くに考えていた人もいて、現在の年代観は小林の初期の論考に戻ってきているといえる。
ただしこれは土器形式の変化に基づいた編年ではないが。
770 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:18:57
>>768 よくわかりません。ちゃんと日本語でわかりやすく説明してください。
771 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:23:02
>>768 こちらが説明してもケチをつけるだけだろう。自分で調べた方がいい。
ここにこんなことが書かれている。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が
過ぎた1995年の秋です。
滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから
弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。
結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が
考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。
紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の
前半と出ました。
当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
(中略)
考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。
じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた
年代観にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という
主張です。権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、
彼らの主張を無視することも、年輪年代法の結果を無視することも
できませんでした。定説を根本から再検討する必要があったのです。
そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。
これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、
同じ年表に並んだ瞬間でした。
772 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:25:18
何のために古墳を作ったの?
古墳はだれの指揮で誰に作らせたの?
古墳の規模・数がなぜ国力に比例するの?
古墳を作らなかった地方で何かあったの?
だいたい、大山古墳で3周り目のほりを作ったのはいつの時代の何人?
773 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:26:37
>>769 その文献史学に引っ張られた話は都出によると
例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が先に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは
文献史学の上田正昭の記紀に於ける県主の研究に配慮した結果…なんて話も聞くがw
どうも文献史学の方に色気を出しすぎた結果なんだろうか?www
要は畿内説に噛み付いているこの板のゴミクズレベル九州説どもから
小林だの佐原だの畿内説の宗家みたいな人間のものじゃなくて
年輪年代法が登場する前に既にあったはずの
自分達の年代観を示す根拠が一向に出てこない。
結論から言えば近畿関西の考古学が九州の考古学にやっと追いついた形になっているだけw
この基本の基本を分っていない馬鹿どもに
「編年の歴史についてあまり知らないらしいな」
…とか言われてもな(まあ実際詳しくは知らないんだが)wwwwwww
774 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:30:34
古墳なんて証拠にならない。日本の存亡をかけて
シナや半島勢力と死闘をかけていた時、丘作って濠作って
石並べて埴輪並べて……
775 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:32:32
>>771 何が言いたいんだ?意味が分らないがw
要は
>これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
って部分で年輪年代によって100年遡上されたって言いたいのか?w
それは理化学的年代測定法”でも”確認されたって話で
俺がこれまで散々言ってきた動きはそれとは別にあるんだよ阿呆w
…ったく古代史云々言う前に文章や話の流れを理解する基本的な能力が欠如しているなw
776 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:33:47
畿内説…古墳・記紀
九州説…出土類・海外史
そうね・・・実は記紀の生没年干支などは定点たり得ないと考えるむきは強くあったし、
定点となる大陸系遺物の多く出土する九州編年のほうが正しいだろうという予測も
胸の中にはあったんだよ。
778 :
775:2011/01/25(火) 22:38:17
>>771 もう一つ
要するにそれまでの(お前らに都合の良い)年代観に異を唱えた
当時の” 異分子 ”どもはケシカランと言うお話なのか?
だがそのかつての定説を造っていた権威と言うのはバリバリの畿内説だったと言うオチにまだ気づかないのかな?w
「考えオチ」と言うほど難しい話でもないはずなんだがwww
779 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:40:01
発言者を罵倒してはいけません。議論になりませんから……
特に畿内説に無用で乱暴な言葉が数多く見られます。
冷静に、根拠に基づいて、皆にわかるように発言しないと、
これを見ている皆さんに予期せぬ審判をもらいますよ。
780 :
773 訂正:2011/01/25(火) 22:41:01
誤)例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が先に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは
正) 例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が後に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは
781 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:41:31
>>775 もうちょっとちゃんと読めよ。
C14による年代測定法にも問題は多々ある。C14では弥生時代の開始時期が
紀元前10世紀と出た。弥生時代がこんなに早く始まっては、困ることが出て
くる。鉄器の普及が中国より早くなってしまうわけだ。
歴博の説明では、鉄器が古い地層に紛れ込んだということらしいが、それに
しても、定説より古すぎる。C14は年代が古くなる傾向にあると考えられる。
782 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:45:30
なぜ、古代史にこだわるのか→自分(日本人)の根拠が知りたい。
古事記・日本書紀は→信用できるところと信用できないところがある。
783 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:46:50
>>776 それは間違っている。畿内説は記紀の全面否定のようなところがある。
特に、最近のヤマト政権に関するものは、豪族の連合などというものが
登場し、いったい記紀の記述をどう考えているのかと思う。
784 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:48:09
>>781 話 を 逸 ら す な 。
俺が要求しているのは一点。
その90年代の年輪年代法登場以前の年代観で畿内説じゃなく
九州で地道に発掘調査していた考古学者らによって
編み出された年表で
「古墳時代の始まりは4世紀からだ」
とするものだ。
何故出せない?
それが考古学者らの間で普通に認識されているようなものがあれば
俺が無知だったで終わる話だぞ?wwwwwww
歴博の弥生年代観も箸墓についてのも、これは邪馬台国問題に関係なく総スカン
だろう。このスレでもそれを根拠に畿内説を説いているものはいないんじゃないか。
786 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:49:54
>>785 ぶっちゃけ俺個人はそもそも「卑弥呼の墓」というネタ自体に興味がないwwwwwwwww
787 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:55:13
>>783 とは、冷静で楽しい畿内・九州論争ができそうです。
日本人の精神のよりどころを論争するのは刺激があてよい。
いずれ年代観については、高島氏以外地元九州の考古学者で九州説の味方に
ついてくれる人が少ないのは何故かを考えてみるべきだろうね。
789 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:00:33
九州説では困る理由→今の歴史教育と政治ををひっくり返すな。
畿内説では困る理由→特に困る人はいない。九州説の人々は歯がゆい気分
いや、畿内説を証明せんがための「三角縁神獣鏡無理矢理舶載説」やら
畿内説を証明せんがための「箸墓無理矢理卑弥呼墓同定説」やら、
大阪の漫才並みに可笑しくて可笑しくて、これはオカルトだと思って聞いていました。
791 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:03:57
邪馬台国の卑弥呼→親魏倭王→日本の王→日本をまとめていた王→どこで政務をとっていたのか?→九州説=九州王朝
792 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:06:21
>>788 と言うか連中の言う「畿内説」は九州の考古学者も含むんだろうw
京大に並んで九大も悪の総本山とか?wwwww
あと記紀でいえば、纏向日代宮、室秋津島宮、・・・珠城宮もそれらしいものがあって、考古学者の
多くは舌を巻いてるんだけどね。
794 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:13:45
「九州王朝」… 名前はよくない。今の政治に反目するような態度は一考を要します。
「古代、九州を中心として外国と対峙した時代がありました。
その頃は九州人は勇敢に戦っていました。」この精神をそっくりそのまま
大和に引き継ぎました。その時期は不明なので皆で一緒に探しましょう。
これこそが「和」ですよ。
795 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:14:21
>>788 何かあるんだろうな。
三角縁神獣鏡魏鏡説を否定しておきながら、なぜか畿内説の擁護をする王氏。
鉄について九州の圧倒的優位を認めながら、なぜか鉄器の重要性を否定し、
畿内説寄りの意見を出す村上教授。
表立って反対するのはまずいという雰囲気があるのかも。
門脇禎二氏も九州説を唱えるのはかなりの勇気と覚悟が必要みたいなことを
言っていたな。
796 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:20:11
現代の国境と、古代の国境は違う。むしろ、古代は国境の概念が無いから……
797 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:21:21
倭国とは、何処から何処まで?特に西はどこまでだったの?
798 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:27:07
日本の古代史(外国との交流)が始まったのは紛れもなく九州。しかし、歴史な流れ
バトンタッチして行き、ある時期大和がバトンをキャッチして現代に至る。
このバトンタッチの瞬間を議論しませんか?彼我の中傷をせずに
799 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:31:46
>>798 記紀でそれは明確に示されている。つまり神武東征。
800 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:38:08
バトンタッチを外から記録したのが旧唐書
801 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:38:44
>>799 神話としては知っている。それで、外国の史料と出土物で考察すると
…… 高千穂これ以前(地理的・文化的)の繋がりが無い。神武天皇が何故
東征したのか目的がわからない。
>古代、九州を中心として外国と対峙した時代がありました。
この認識は間違いではないが、半島内にある倭勢力のことを考慮すべきだろうね。いわゆる
任那の地。ここは単に守られるだけの存在ではないよ。
>ある時期大和がバトンをキャッチして現代に至る。
これは、北部九州を経由して画文鏡が畿内に流れ、逆に庄内が九州に流れ込む時期だろう。
そして早期前方後円墳が「広範囲に展開する。・・・しかし九州王朝説ならこの答えには絶対
満足できないだろう。
803 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:46:58
まあこの
「90年代に登場した年輪年代法によって一気に100年の年代遡上が企てられた!」
と言うゴミクズレベル九州説の陰謀論も
暫くしたらローテーションで出てくるんだろうなw
804 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:47:20
そういや、畿内説なら、画文帯が卑弥呼の鏡じゃないの?
>>803 実際ここの九州説というのは、スレを活気づかせるためのプロ固定(コテハンではないが)
ではないかと思うときがある。銅鐸廃棄、三種の神器・・・繰り返しのローテーションもいいとこ
なんだが、このあいだのNHKのような番組があれば新規参入の人も来るようだし。
806 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:52:45
年代遡上といえば、C14のintcal04で比定すると
九州では100年どころか200年以上遡上する例があるが、
C14絶対主義で編年してみると、
どんな年表になるか見てみたいものだ。
編年された年代じゃなくて、
純粋なC14同位体比そのもののデータがほしい。
いくつかは手元の資料にあるが、
網羅した表みたいなのがあるといいなあ。
807 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:52:58
>>任那(加羅)は、倭が攻めてとったのではなく、元から倭の土地であって大和の土地ではない。
先
>>796で述べたとおり現代の国境は古代に通用しない。だから倭(九州含む。)は半島に戦力を
送り続け、任那(「加羅」で、倭の一部。)を300年も守り続けた。
808 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:57:27
>>803 「ごみくずレベル九州説」の表現、いい加減にやめろ。
畿内説のレベルを低下させている。日本人の発言とは考え難し
809 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:00:06
>>803 コチコチの畿内説信者が何を言っても認めないのはわかっている。
ロムっている冷静な人に分かってもらえればそれで良いというわけだ。
810 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:00:35
おやすみ。明日0600以降開店
>>807 そう。半島の倭だね。そして加耶なくしては半島勢力、あるいは中国王朝とも関係をつける
のが難しい一時期があったと考えている。半島の倭勢力と渡来人系の倭人のネットワークが、
北部九州から初期ヤマト王権へと倭国の中心をシフトさせた。もちろん現段階では仮説でしか
ないが、武力による交易ルート奪取よりは現実味があると思ってる。
812 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:21:32
>>808 うん?やめないぞぉ〜wwww
言っておくが当然
九州説がゴミクズじゃないんだ
理論的に九州説はおそらく何処まで行っても成り立つ。
畿内説には当然限界がある。
そう言った理論的なものならまだ議論ゴッコもできるw
が、「90年代に登場した年輪年代法によって一気に100年の年代遡上が企てられた!」等々
陰謀論に逃げ込むようなクズ連中はそもそも九州説を名乗る事自体おこがましい。
まあまともな九州説と峻別する為の良心の表れだなwwwwwwww
813 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:32:33
814 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:30:33
>>813 あん?何が言いたいんだ?
きちんと自分の主張を言葉にしてみようねボクwww
ちなみに
>かねて少数の若手研究者が主張していた年代観にかなり近いものでした。
…で年輪年代法が登場する以前にその動きがあったことが分り、そもそも
>権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが
…で
権威ある「定説」 と言うのは昔の畿内説で
「異分子」 と言うのが今の畿内説(と言うか常識)
なわけだがwwwwwwww
815 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:47:58
>>813、
>>771 おせっかいですが、横からです。
倉橋日出夫が書いたものを信用して、後生大事に有難がるようでは、ちっとも学問的議論になりませんよ。
彼がどんな媒体に書いてきたライターか、分かっているのですか?
816 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:48:29
817 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:54:56
>>815 倉橋日出夫のバックグラウンドは兎も角
リンク先の引用している内容で何かあからさまな間違いがあるのかい?
818 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:05:07
>>815 いや、特に間違ったことは書いてない。吉野ヶ里遺跡が発表された頃、畿内説
の考古学者も含め、纏向は4世紀ころからというのが定説だった。
例えば、石野博信氏も吉野ヶ里遺跡の時代を卑弥呼時代と重ねていたし、
金関恕氏、もちろん佐原真氏もそうだった。
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国時代と重なるからこそ邪馬台国だといわれた。
それを当たり前のように思っていたのに、ある日突然のように吉野ケ里が
卑弥呼時代の前ということになり、纏向が卑弥呼時代になった。
けっこう混乱したのを覚えている。
あの頃は、年輪年代がかなりもてはやされていた。
ジョーカーはその経緯を知らないからゴネているだけ。
・・・このサイトは光谷氏の業績を持ち上げる意図もあって大業に書いてる面もあるんだ
けど、実際はこの池上曽根の年輪年代以前から若手の間で年代遡上の気運が高まって
いたのも確かで、・・・1989年の小林行雄氏の逝去もそのきっかけの一つ。
やはり考古学界は学閥もあるし、徒弟制度のような面もなくはなくて、先人の説に反を翻す
のは難しい面もあるんだ。一方で九州の考古学界は早くから正確な年代観を出していた。
歯切れの悪いレスになったが、年輪年代が一つのきっかけであるのも事実だし、まあそんな
こともあって・・・。
820 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:25:10
>>818 >吉野ヶ里遺跡は邪馬台国時代と重なるからこそ邪馬台国だといわれた。
そりゃそれこそ大衆レベルだろうってお話だよ爺さん。
マスコミの仕掛けに振り回されたてめえ自身の自己責任だな。
当時の情報弱者だった自分を呪えばよろしいw
吉野ヶ里ブームの頃には吉野ヶ里こそが邪馬台国のように巷間では言われていた
…と言う話ならまあ分るが、じゃあ学術レベルでどうだったんだ?って話で
その年代観を保証するような学説が当時あったのか?って事を聞いている。
それに合致するようなものはかつての畿内説の小林や佐原説に基づくものしか知らんのだが
他にあったのか?
結局、過去自分の味わった「時代の雰囲気」程度がその根拠w
個人の思い出は大切にして頂いて結構だが
それを基準に学説史まで歪めるのはいい加減にしろ
単なる老害以外の何物でもないwww
821 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:35:32
古墳を造ってきたのは土師部(はじべ)という人々。彼らは古墳を作らなくなって舞人
になった。
822 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:47:18
しかし
>>818 のようなレスを見ると如何に人間が簡単に刷り込みをなされるかが良く分かるなw
まあ「時代の雰囲気」と言ったようなあやふやな物じゃなくて
昔の教科書に載っていたような列島の東西に二つの円を描いて
「銅矛文化圏」「銅鐸文化圏」と書いていたようなものも今じゃ通用しないだろうし
(まあ圏と言う概念はOKなんだろうが東西に二大中心地があったような構図は現実に即さないと…)
現実には教科書で習ったものすらリセットしていかなければならないw
そこら辺の書換えできない奴は論者としての資格はない。
他人のふり見て我がふり直せ、気をつけたいものですハイwwwww
823 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:10:36
年代遡上については、畿内説はマスコミや出版社を総動員して大キャンペーン
を張ったといわれる。
>>822 あの時代がどういう時代だったか分かるかな。考古学的には畿内説の看板を
背負ってきた三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻。一方で、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国と
持ち上げられる。畿内説にとっては冬の時代だな。
都合のいい本ばかり読むんじゃないぞ。
824 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:25:29
>>823 >年代遡上については、畿内説はマスコミや出版社を総動員して大キャンペーン
>を張ったといわれる。
ソースは?
一体何処から仕入れたネタかな?
まあ吉野ヶ里は一過性のブームだったがw
それまで無条件に舶載とされてきた三角縁神獣鏡に国産説がかなり有力な形で出てきた
…そもそもこれが無ければ今の畿内説への進展は無かっただろうw
冬の時代?何を言っているのかな?ノスタルジーに浸っている年寄りはw
学問が漸進して旧説が切り捨てられていくのが「冬」なのか? ド阿呆wwww
むしろ昔の年代観を支えていた小林説の説得力が無くなった事は
実は九州説にとって大ダメージだったわけでw
825 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:27:10
ジョーカーは厨房か…。
しかし変な話だよなwwwww
その昔教科書にも採用されたような京大の偉いセンセイのロジックを使えば
確かに吉野ヶ里はなんとか邪馬台国の時代に合わせることができるかもしれないが
そもそも畿内説前提の理論なんだから同時代の遺跡ではあっても
邪馬台国ではありえないはずでw
なんと言うか邪馬台国ブームは色々カオスだよなwww
827 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 06:23:44
おはよう。
ジョーカーはゴミクズ発言止めちゃったのか?
つまんね。根性ないな
829 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 10:37:34
九州王朝説を取る人でも3世紀に畿内で
山陰〜関東までを配下に納める大規模王朝があったことは認めるんだよな?
その上でなぜ卑弥呼が九州の地方王でなければ困るのか。
畿内の王が朝貢したでは困るのか?
日本書記や古事記には畿内の王が初期の段階から
朝鮮や中国とかかわりを持つ記述がある。
しかし、九州に畿内に屈服しない三十国連合国家があった
という形跡が全くない。
強大な勢力が九州にあり、中国との同盟関係を結び、
日本を統一しようと常に畿内を脅かしていたのならば、
何らかの痕跡が残るはずだ。
830 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 10:50:35
マスコミ、出版媒体でのキャンペーンなら
九州説の方がはるかに強烈だっただろw
831 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:02:42
どちらが、メインをはっていたとしても、
3世紀くらいでは、完全に支配するという関係ではないでしょう。
魏志にも共立と書かれているし。
832 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:04:57
>>829 そもそも、日本を統一しようとしてないんじゃないかね?
畿内は兵庫、大阪、奈良、京都、すこし遅れて東海地方でひとかたまり
九州は福岡佐賀、少し遅れて熊本でひとかたまりだが、どうも3世紀には固まってなさそう。
そして、山陰出雲が発展していたが後に畿内に征服されると。
あとは遠すぎて、兵が送れるわけでもなく、
無理に送っても長距離遠征は消耗が激しく、下手したら返り討ち。
やるとしたら、ゆっくり、支配領域を広げていくしか無い。
833 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:14:28
大体、土地と気候がよければ、あまり外には出て行かないもんだ。
特にその地域での有力者は、その一番良いところを占領して落ち着く。
地勢的に山や川などの壁があれば、攻めにくく守りやすい。
だから、よそを攻めるためには余程の理由が必要だ。
それで自然に氏族が別れて占拠することになる。
出ていくのは、そこに納まれない弱小氏族だろ。
834 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:17:02
畿内の勢力が出雲を落とすには、正直言って遠すぎる。
この動機付けとしては、スサノオの草薙の剣にあるように
鉄の入手を理由としたい。
それがなければ、わざわざ出雲を取りに行かなかったかもしれない。
835 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 12:43:18
>>829 別に困るわけではない。
記紀は畿内(仮称)という国の文だというわけだ。それで九州は畿内から
は遠方のが外国であったわけで、特別の事情がない限り九州という外国の
ことを書く必要などない。特別とは戦争とか遣使の関係とかのそういう
場合だ。あとはとりわけ畿内あたりのことを書けばいいだけだ。それは
屯倉とかは遠方に作っているわけで、ここらへんはちょっと関係があるの
で書くだろう。四道将軍関係でもちょっとはあるようだな。
九州王朝は記紀成立の直前滅亡してるわけで、考古のブツも王朝関係の文
は壊滅し、少々年号とかが残ったまでだ。危うく九州王朝の証拠品が全部
無に帰すところ、免れたということだ。倭の五王も九州の王だな。
836 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 12:44:13
須佐は韓国語で「鉄」を意味するそうだ。
出雲は日本で一番早く製鉄が行われるようになった。
タタラ製鉄といって砂鉄を使った製鉄だ。それは5世紀の事だ。
畿内王権は出雲の鉄を手に入れる為に出雲を攻略したのではないか?
5世紀に入ってからだ。鉄をスサと言う所から、その話がスサノオ伝承になるのだろう。
古墳時代初期にはお粗末だった鉄器が中期に入ると畿内の鉄も豊富になってくる。
837 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 12:47:36
>>829 言いい忘れたが、天皇の外国視察は重要なので景行行幸は書かれているな。
おそらく開化も外国行幸はしてたようだ? 神皇紀に開化行幸の記述が
ある。
838 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 12:58:14
>>829 >日本書記や古事記には畿内の王が初期の段階から
朝鮮や中国とかかわりを持つ記述がある。
だけど畿内王朝が中国に遣使をしたと言う記録も無い。
倭の五王の記述がないのだよ。
>しかし、九州に畿内に屈服しない三十国連合国家があった
という形跡が全くない。
畿内に九州が服属していたと言う証拠も無い。
九州には豊富に中国や韓国と交流していた様子の判る遺物が出土しているが、畿内からは出ない。
>強大な勢力が九州にあり、中国との同盟関係を結び、
日本を統一しようと常に畿内を脅かしていたのならば、
何らかの痕跡が残るはずだ。 <
畿内を脅かす必要もないだろう。畿内は九州に服属していたのだから。
鉄でも銅でも九州を経由しなければ手に入らない。
九州にお願いして恵んで貰っていたのだろうから。
自前で鉄が入手可能にならなければ自立なんて有り得ない。
バカでかい墓作って鬱憤を晴らしていたんではないかな。
839 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 14:24:25
>>829 九州では古くから大陸との交流がうかがえる。
漢鏡もたくさん出ているし、西暦57年に奴国の王が貰ったと思われる金印も出ている。
西暦107年に後漢に朝貢した倭国王・帥升も九州の王と考えるのが普通。
こういう伝統の上に、西暦239年の卑弥呼の使者派遣がある。
それまで大陸との交流のない近畿地方ではあまりに唐突な印象があるということ。
840 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:11:37
>>838 記紀を読んだことがない人?
記紀に倭の五王の記述(応神〜雄略が中国に使者を送る記述)
ははっきり書いてあるじゃん。
嘘かいちゃだめだよ。
3世紀に畿内が九州に服属していた可能性はないし。
(九州から畿内産の土器は出ない)
中国や朝鮮の遺物ならば九州に限らず、
山陰や北陸など日本海側では大量に出る。
しかしこれらは山陰や北陸、九州の巨大王権が
中国や朝鮮と正式に国交を開き手に入れたというよりも
これらは民間レベルでの物々交換によるところが大きい。
魏志倭人伝には国家戦略として魏が邪馬台国に
鉄を与えたという記述はなく、与えたのは金印と旗だけ。
邪馬台国が畿内にあってもおかしくないということだ。
841 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:14:43
>>839 日本の先端(朝鮮寄り)にある奴国の王と
三十国連合国家の邪馬台国を一緒にしちゃダメだよ。
事実、5世紀には畿内に国内最大の王権があったのは間違いないのだし、
1世紀の日本には朝鮮よりの北九州の地方王しか
中国に使者を送る技術がなかったからって
3世紀になっても九州の王しかその技術を持たなかったと見るのは早計。
3世紀→5世紀に巨大九州王が畿内王に降伏した経緯が何かに見てとれるの?
842 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:35:01
>>841 >3世紀→5世紀に巨大九州王が畿内王に降伏した経緯が何かに見てとれるの?
屈服も何もしてないから、経緯も痕跡もない。
だいたい全時代において、九州畿内大戦争の痕跡がない。
文化的物流的交流はあったかもしれないが、支配、被支配の関係ではない。
遠距離で互いに利益の衝突がなければ、特に何かする必要もない。
843 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:44:07
>事実、5世紀には畿内に国内最大の王権があったのは間違いないのだし、
その思い込みがまちがいのもと。
巨大九州王wwwwww
845 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 16:01:11
九州王朝は危機成立の直前に滅亡している、というよりは、
九州王朝が滅亡したから、
やっと、畿内オリジナル正史が書けるようになったといったところかな。
>>829 >3世紀に畿内で山陰〜関東までを配下に納める大規模王朝があったことは認めるんだよな?
誰も認めないだろ。そんな事実は一切ない。
>>795 > 三角縁神獣鏡魏鏡説を否定しておきながら、なぜか畿内説の擁護をする王氏。
王氏の見解は、呉から渡来した鏡工人が畿内で三角縁神獣鏡をつくった、ですね。
> 鉄について九州の圧倒的優位を認めながら、なぜか鉄器の重要性を否定(する)村上教授。
鉄が少ないにも関わらず、畿内で王権が誕生したからですね。
>>818 > それを当たり前のように思っていたのに、ある日突然のように吉野ケ里が・・・
生々しい証言ですね。
> 纏向は4世紀ころからというのが定説だった
のに、それを論拠にしていた人々がいきなり梯子をはずされたわけですか。
で、なぜだかわからず
> けっこう混乱した
のだが、
> 年輪年代がかなりもてはやされていた
ので、これは年輪年代法のせいだ、と思い込んでしまった。
だけどその後、どうも年輪年代法は怪しい、という話が出てきたので
やっぱり以前の定説が正しかったんだ、と思い直した。
ということでいいでしょうか?
ところで当時、「纏向は4世紀ころから」の根拠はなんだったのですか?
849 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:05:43
関東を東海と勝手に読み替えてしまってた。
大規模王朝があったとしても、さすがに当時関東まで、は無いな。
現実を見てくれ。
巻向や唐子鍵遺跡付近も畑の中だし、斑鳩も奈良市内も寂れている。
都市が栄える条件は時代とともに変わってゆくものです。
851 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:34:15
年輪年代?桃の種?板ぎれ、全国のどうでもよい土器大集合、
そして肝心要のお宝物・鉄製品の無さ……
そこまでして畿内説に立つ理由はなんなのだろう?
852 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:34:59
九州には邪馬台国はないから。
853 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:47:12
畿内説の連中は、本当に日本人なのか?
無理なこだわり方が異邦人を感じさせる。
854 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:10:37
古代、倭国人は朝鮮半島の南端を含み九州地方を中心として生活していた。
だから、朝鮮半島に有事が起こるたびに九州の倭人達は朝鮮半島に出征しました。
九州地方にも乱はありました。熊襲と倭の戦いです。6世紀近くまで約300年間
ひたすら戦い続けました。
古代の人(九州人:倭国人)が何を思って戦っていたのかは、現代ではもうわかりません。
ただ、現在の九州人(近傍含む。)にその時のDNAは残っていそうです。大東亜戦争時の
菊兵団・龍兵団は北部九州人を主力として編成した兵団です。
古代のご先祖様の意志は受け継がれていると思います。
855 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:21:49
貴国(かしこき国)の民は誇り高く立ち向かっていけ
856 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:33:53
858 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:41:27
>>857 纏向の年代が100年ほど遡ったのは1995年頃というのはわかった?
859 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:51:17
吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の時代と重なり、纏向はその後というのが定説で、
みんなそういう年代観でこの問題を考えていた。
だから、畿内説の邪馬台国候補地は唐古・鍵遺跡だった。
それなのに、いきなり年代が100年遡り、纏向が卑弥呼の時代と重なり、
吉野ケ里が卑弥呼時代の前と言われれば戸惑うのが当たり前だと思うが。
いつも一点突破で詐欺を働く、畿内説
861 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:02:21
いきなり遡ったわけではなく、科学的に検証した結果。
人の思惑や願望が一切排除された科学分析の結果100年遡った。
それに人の感情が追いついていないだけ。特に九州説の人が。
862 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:02:39
「100年ほど遡った」というのは、弥生時代中期のある時点が、
従来の説よりも100年古く考えられるようになった、ということですよ
古代が何でもかんでも、どの時点でも、100年遡るわけではないですよ
そんなことしたら奈良時代はは610年開始?、平安時代は694年開始?
おかしいでしょw
>>858 > 纏向の年代が100年ほど遡ったのは1995年頃というのはわかった?
わかりました。
二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡の井戸材の年代が年輪年代法で得られた年ですね。
また、池上曽根遺跡の柱材の年代が年輪年代法で得られ、報道されたのは1996年4月だったということですよね。
864 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:21:39
下らない、要するに学問の漸進についていけない情弱老人=ゴミクズレベル九州説どもの恨み節かwwww
あの頃九州説は輝いていた。
吉野ヶ里は邪馬台国だと言われていた。
でも、ある日突然、空気が変わった。
そうだ、あいつ、あいつが出てきてからだ。
年輪年代法!
年代遡上を目論む連中の陰謀だ。
九州説は負けないぞ。
絶対吉野ヶ里は邪馬台国!!
まあその旧説を支えていたのが他ならぬバリバリの畿内説だったというオチwwwwwww
865 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:23:21
>>863 年輪年代が重要な要素になっているのがわかるでしょう。
866 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:41:12
最近、ヤマト政権という言葉をよく耳にする。要するに、豪族の連合政権と
いうことらしい。これは明らかに、最近の邪馬台国畿内説に基づいている。
以前の大和朝廷とは異なる概念で、皇室の誕生にも影響してくることになる。
一部、教科書にも載っているらしい。
まだ邪馬台国論争に決着が付いていない段階で、早計と思えてしょうがない。
>>865 > 年輪年代が重要な要素になっているのがわかるでしょう。
それはわかります。
私的には95・96年のことはリアルタイムで知りませんが、
いろいろ調べた結果、遡上の理由は年輪年代法だけではないということです。
ほかにも当時の定説がおかしいという理由はあり、
(例えば、田辺・佐原編年の撤回、貨泉と第X様式の共伴、
弥生後期の土器の発掘の進展により、絶対量の多さ・変化の過程ともに
3世紀の中に押し込めるには無理があると思われるようになったこと、
高三潴式(原の辻上層式)と第四様式の併行関係の再検討とW様式の大部分は須玖U式に併行するとの修正)
総合的に判断されて現在の年代観に修正されたのだということですよ。
それでは休みます。おつきあいいただいてありがとうございました。
868 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:48:30
年輪年代法?「遺跡から出た木片の年輪数と幅で○○年ころと思われる。」程度の
掻き乱し戦法ですか。所詮木片ですよ。そんなものに頼らずにお宝見せてくださいよ。
「ほら、親魏倭王金印出てきたよ。」とか、「卑弥呼と魏が連絡しあった木簡みっけ。」
とか。倭国動乱の痕跡でもいいですよ。
869 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:53:33
九州説ってインテリジェントデザインとかそのレベルだな
870 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:54:16
神籠石はなぜ九州にいっぱいあるの?
歴史書にない神籠石、何の証拠になるのか?
串間出土の玉壁とは?
要するに年輪年代法の登場なんていうのは単なる切欠。
膨らみに膨らんだ風船に最後破裂させる為刺した言うか…
その登場がタイムリーであり分りやすいから
(旧説の根拠、それがいかに見直されてきたか…なんて新聞程度の限られた紙面では説明できないだろう)
マスコミがこぞって報道したと言う感じだなw
つまり吉野ヶ里ブームにのかって梯子を外されて
今度は年輪年代法についてもマスコミの喧伝センセーショナルな報道に振り回されていると言う
何処まで逝っても救われない情弱ぶりwwww
872 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:58:16
おやすみ。またあした。
873 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:09:57
九州ファビョリすぎwwwww
874 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 06:19:40
おはようございます。
875 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 06:32:35
1980年頃に畿内説の学者が会合を持った。
そこで「箸墓を卑弥呼の墓に比定出来ないものだろうか?」と言う提案がなされた。
「それがいい。」と学者たちは一斉に箸墓を卑弥呼の墓にする為の年代変更に取りかかった。
それまで畿内は九州より50〜100年ほど年代が遅れていると言うのが通説だった弥生時代を
九州と同じで良いではないかと言いだした。
これは解釈の問題だから捏造には当たらないが、畿内説の中の一部はこれだけでは不十分として
年輪年代法で何とか100年ほど年代を繰り上げようと動いた。
年輪年代法と言うが、過去に数多の学者が取り組んでは日本の木材の複雑な様相に困難を極めて、
ついには挫折し、標準年代グラフの作成をあきらめていたものであった。
同じ木でも
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Tree.ring.arp.jpg/800px-Tree.ring.arp.jpg のように年輪は複雑な様相をしている。とても板切れ程度では年代を測定出来ない事は間違いないだろう。
同じ年でも、ある部分では幅がせまくなったり、広くなったりする。
丸太一本全てを測って平均を出すならともかく、勝山古墳出土の板材でその板材が切られた年は何年なんて
決して決める事は出来ない。
であるから年輪年代法は限りなくインチキなのである。
876 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 07:32:53
>>388 転用ならいくらでもあるよ。信長や秀吉の時代でもよくあった。
877 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 10:04:54
NHKの「邪馬台国を掘る」では畿内説の学者さえ信用していない
年輪年代法や炭素年代法を取り上げて、畿内説が信憑性がありそうな
解説をするのはどう言う訳だろう。
878 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 10:16:20
>>877 九州説の高島は九州説を信じてると思ってるの?
879 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:29:09
>>878 信じているから孤軍奮闘しているんだろ。
880 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:56:50
>>771 おたくの示したHPに変な図が載っているね。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/nennrinn04.jpg 弥生時代後期初めを紀元前後にしているが、弥生時代後期初めは貨泉で特定される筈だ。
貨泉が作られたのはAD14年からAD40年の間。
これ以上にはどんなにあがいても繰り上げようがない。
なお、日本にこの新の時代に作られた貨幣以外には漢の貨幣など出てこない。
貨幣経済が出来ていなかったからだ。
すると貨幣が日本に来たのは、光武帝がこの貨幣の流通を禁止して新しい貨幣を作って以降の事と解釈されるべきだ。
つまり、AD40年以降になる。
日本に渡って来て、廃棄されるまでの時間差を考えれば弥生時代後期は旧来のAD100年頃と考えなければならない。
ここでも弥生時代繰り上げの矛盾が現れてしまったね。
881 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:03:17
882 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:36:47
>>880 >日本に渡って来て、廃棄されるまでの時間差を考えれば弥生時代後期は旧来のAD100年頃と考えなければならない。
おまえの主観などどうでもいい。
883 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:45:36
>>882 だから貨泉の出土した弥生時代後期遺跡はどうするのよ。
弥生時代後期はAD40年以前には遡れないと言う意味だろ。
解らん奴が畿内説には多いな。
884 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:14:40
>>875 へえ、そんな会合があったんだ。
それは何処で誰が参加していたの?
まさかそれは分らないけど会議があったことだけは分っているなんて言わないよね?
一体何処から漏れ伝わった話なのかな?
きちんとソースを出してもらえるかな?
>>836 >須佐は韓国語で「鉄」を意味するそうだ。
またまたトンデモで人を笑わそうと思って。
朝鮮語は15世紀までしかさかのぼれなく
古朝鮮語はほんの断片しか資料がない。
現代韓国語だと鉄はチェオルかなんかだったと思うけど
須佐ってどっから出てきたの?
886 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:45:26
纏向から何か出てくるたびに新聞報道がされ、「邪馬台国の最有力候補地」と
宣伝が繰り返されているが、その根拠は非常に乏しい。
桃の種が出たとか、魚の骨が出たとか、大きな建物の跡が出たとか、各地の
土器が出たとか大騒ぎしているが、何一つ邪馬台国の根拠にはならない。
そのような纏向を邪馬台国の候補地にしなくてはならないところに畿内説の
弱さがある。しかも、年代が繰り上がったことでかろうじて候補地に
入っているというような状況にある。
もし、纏向の年代が繰り上がらなかったら、畿内説はどうなっていたか。
このように考えれば、纏向の年代繰り上げは畿内説にとって絶体絶命の
ピンチを免れる最後の手段だったといえる。
九州説の高島氏や奥野氏あるいは橿原考古学研究所の関川氏などは年代
繰上げに反対の立場だし、布留期の年代の持論から斉藤氏、田辺氏など
かなり多くの学者が異論を持っていると思われるが、議論をすることもなく
半ば強引に年代繰り上げに走ったのはそういう事情があるからだと思う。
887 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:52:14
いくら年代を繰り上げてみても、実質が伴わない。
それに南が東に変わることもない。
掘れば掘るだけ恥を重ねる。
888 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:02:51
>>885 韓国語で鉄は「すえ」だね。
日本の古代陶器を「須恵器」と言うのは韓国語の「すえ」から鉄のように硬いと言う意味だろう。
「須佐」がこれから来たかどうかは解らない。「す」しかあっているところがない。
韓国ではスサノオは韓国出身だから須佐も韓国語だと言う意見があるようだ。
蛇韓鋤之劒を持って日本に来た訳だから。
スサノヲ=帥升王
890 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 17:40:04
>>884 『空白の4世紀とヤマト王権』参照のこと
891 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:24:31
>>886 九州だって説が割れていて吉野ヶ里は有力候補地ではない。
じゃあ、邪馬台国はどこか?と言われれば
九州説の連中はそのうちどっかから出てくるとしかいわない。
畿内以上に可能性は低いじゃないか。
纏向以上に邪馬台国にふさわしい遺構が
九州から何か出ているの?
892 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:35:44
>>890 >『空白の4世紀とヤマト王権』
…で、その ゴミクズレベル九州説 どもによる同人誌はいつ出るんだ?w
893 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:46:55
>>891 倭人伝の記述通りに、30ヶ国に分かれていて、
統一政権でなく各国共立と書かれるくらいに、国力の差がなければ、
国の痕跡は複数出てくるのは当然のことだろ。
そして、卑弥呼が住んでいたのは、その30ヶ国のどれかの首都の一角か、
あるいは別に卑弥呼専用の住居があったんだろうが、
現実問題として区別つくのかね?
何が出てくれば区別がつくのかね?
桃の種や魚の骨が出てくればいいのかね?
894 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:03:31
>>893 へえ〜
九州説の人って邪馬台国がどこかわからないんだ。
三十国が日本のどっかにあって、
どのうちのどれかが邪馬台国なんだって、その程度。
つまり、九州にあるって根拠は一つも持ってないわけだ。
邪馬台国が畿内でも全く問題ないわけなんだね。
>>883 > だから貨泉の出土した弥生時代後期遺跡はどうするのよ。
X様式のはじまりが西暦前後になると、
例えば、岡山市の高塚遺跡や東大阪市巨摩廃寺遺跡の、
「X様式-0」期の遺構や面から見つかっている後漢代初期(西暦25年〜)に鋳造された貨泉が
鋳造されてすぐ持ち込まれたと考えても、時代が合わない。
と寺沢薫さんが言っておられます。
1996年の10月頃の話かな、これは。
897 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:47:04
>>891 >九州だって説が割れていて吉野ヶ里は有力候補地ではない。
とは言っても先のNHKでも九州説といえばやはり吉野ヶ里だったわけでw
吉野ヶ里から見えるはずの邪馬台国が待てど暮らせど現れず
こうやって畿内説にイチャモンをつけることでしか自説を主張できないのが九州説www
898 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:54:00
纒向は大型前方後円墳が出てくる時点で、可能性なしだろ。
大国すぎる。
「今一つの議論は、第W様式がさかのぼるなら、古墳時代もさかのぼるのではないか、といったトコロテン方式だ。
邪馬台国畿内論者は「予想通り」と、箸墓古墳の年代を3世紀前半から中ごろに繰り上げ、「卑弥呼の墓」説の補強を図った。
しかし、古墳時代の始まりは第W様式の年代からひいてきたわけではないことは、考古学では常識ではないか。
それは、後漢末の鏡の流入や須恵器の生産開始の年代観などから割り出したものなのだ。」
と、これも寺沢薫さんが言っておられます。1996年に。
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)
良い勝負してますねw
901 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:22:46
…と寺澤の言を引っ張ってきたとて
寺澤自身が庄内の始まりを4世紀に置くなんて年代観じゃないからなw
どの道、(畿内説のw)旧説になんとかして引き戻したいゴミクズレベル九州説は
蚊帳の外である事は間違いないわけでwwwwww
【次回予告】
この寺澤薫の語った
“「卑弥呼の墓」説の補強を図った邪馬台国畿内論者”こそが
我らが恨み節@東遷廚が復讐を誓った
悪の秘密結社「キナイセツ」なのだろうか?
来週もみんなで観よう。
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)
2chの『二大』邪馬台国スレ
好きな方に書き込んで下さい ロムするのも書き込むのも、各自自由なので。
>>901 > 寺澤自身が庄内の始まりを4世紀に置くなんて年代観じゃないからなw
中華屋ね〜、注目すべきなのは
「古墳時代の始まりは第W様式の年代からひいてきたわけではない」
だからね。
ここの前ページにある寺澤自身の「編年と実年代案」表では
後期の開始は1世紀の前半、庄内式の開始は3世紀初頭。
905 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:39:22
ただいま
906 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:56:41
畿内説の中でも寺澤は若干まともと言う事だが、
間違っている事には違いない。
907 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:00:08
>>906 一部で自分たちの溜飲を下げる言動をしてくれても
根本的に自分達の説を支持してくれるような学者はいないって話だなw
畿内説ってのは▲舶載説と同じレベルのトンデモにしか見えない。
これが普通の感覚では?
九州説なら九州のことを書けよ
911 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:42:42
しかし
>>818 は例の「怨み節@東遷厨」だろうか?
だとしたらコイツの怨みつらみの原点は吉野ヶ里だったんだなw
912 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:06:26
たしかに、吉野ヶ里が発掘されたころは、九州説全盛だったかな。
でも、持続しなかったのは、それなりの理由があるわけで。
別に年輪だけが原因じゃないし。
それより前に出雲から出た銅剣もかなり九州説には痛かったな。
>>904 後期(「弥生後期」と漠然と表現しても人によって定義が違うと思いますが)開始の実年代について言えば、
炭素年代での「遡り」なんか生じていない(逆に旧説より遅くなったくらい)ですよね。
また「終期」が早くなったのは「弥生終末期/古墳草創期」の時代区分の問題なので炭素は無関係。
炭素で遡ってしまったのは、前期、中期の開始年代。
さらに昭和の時代に義務教育を受けたような世代の方だと「弥生早期(旧説の縄文晩期後半)」なんて概念にも馴染んでいないので、
今の「弥生時代」が異常に引き延ばされているように感じるんでしょう。
ついでに言うと、光谷年輪の方は、貸泉マーカーとの矛盾が顕著に見られます。
914 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:32:53
>>892 >…で、その ゴミクズレベル九州説 どもによる同人誌はいつ出るんだ?w
アホだね。1986年に発行された畿内説のシンポの資料だよ。
>>913 > 炭素年代での「遡り」なんか生じていない(逆に旧説より遅くなったくらい)ですよね。
炭素って詳しくないのでそれは知らないです。後期開始についても発表があったんですか?
> また「終期」が早くなったのは「弥生終末期/古墳草創期」の時代区分の問題なので
私的には布留式期からが古墳時代ですね。
> ついでに言うと、光谷年輪の方は、貸泉マーカーとの矛盾が顕著に見られます。
ついでじゃなくて具体的に言うとどんなことですか?
916 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:05:35
>>914 で、その資料の何処にそんな陰謀の為の密会が開かれたなんて書いてるんだ?
そもそも
「丸太でないと板切れじゃ測定は無理」
なんてお話で否定できるんなら
とっくの大昔に専門家からツッコミ入ってるわwww
917 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:07:18
年輪年代は飛鳥時代を境に百年狂っているが、炭素年代は全体的に20%狂っている。
だから、ある所で交差一致する年代がある。
それが240年くらいの所になると言う事だ。
炭素年代は時代が遡れば登るほど狂いが大きくなる。
年輪年代はずーっと百年狂ったままだ。
918 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:14:25
>>916 密会なんて書いてないだろ。会合だ。
畿内説者しか集まっていないシンポジュームだ。
>「丸太でないと板切れじゃ測定は無理」
なんてお話で否定できるんなら
とっくの大昔に専門家からツッコミ入ってるわwww
年輪年代の専門家なんているのかよ。
919 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:14:41
>>912 >それより前に出雲から出た銅剣もかなり九州説には痛かったな。
それは具体的に言うと?
大昔の「銅矛文化圏vs銅鐸文化圏」が東西にあった…なんて構図が崩れ去ったと言うのは分るが…
やっぱり倭国の範囲と言うか3世紀頃の日本を実情を考えるにも
日本全体で考えなければならないと言う気運みたいなものが出てきたことが大きいのかな?
920 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:26:57
>>918 恨み節東遷厨
>>875を読む限り年輪年代法が「箸墓=卑弥呼の墓」を追認する為に
予定調和的に作り出されたとしか読めないからなw
実名挙がって無くても年輪年代の研究者と言えば光谷だろうに
一体考古学者から光谷にどんな働きかけがあったんだ?w
>年輪年代の専門家なんているのかよ。
いや、だからだな。
ごく近年のものならその樹木の年輪から伐採の年代を割り出す事は
ある種の知識を持つ人間なら可能なんだろうって話だがw
そんなサンプルの選定の時点で間違っているのならツッコミがあるだろうって話だがw
それとも年輪年代法と言うのは光谷が発明した完全ブラックボックスと言うのか?w
>>875 酷い話だよなあ。
年輪のグラフが公式に公開されていない状態で、結論を宣告するだけ。
寺沢は、これを批判して、石野も一切年輪年代には言及しなくなった。
良心的な学者はこれを無視し続けているという面があるね。
C14にあれほど批判的な安本があれを無視しないのは不思議だ。
922 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:35:37
>>895 庄内期はもともと弥生時代に含められていたんだろう。
その後、卑弥呼の墓と箸墓との関係上、庄内期を古墳時代にする必要が出て
来て、庄内期を古墳時代のように見るようになったとか。
923 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:36:14
C14でも海外のサンプルで、樹木の年輪からサンプルとって
補正曲線出したりしてるのに、なんで日本だけ
こんなにずれるの?
C14国際校正曲線intcal04をそのまま使っちゃいけないの?
都合が悪い値が出るのは分かるけど。
924 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:37:21
要するにゴミクズレベル九州説どもとしては…
年代観が変更されたのは、ひとえに 年輪年代法 のせいで
年輪年代法がコケたら皆コケる…と言う構図にしたいわけだなwww
仮にそうなっても、もはや70年代佐原のモデルの時代には戻らないだろうにw
925 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:39:39
>>924 年輪年代で年代を遡らせて、年輪年代がこけても年代はそのままというのが
おかしいんじゃないか。
926 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:43:53
>>925 だから、ここまで散々理化学的年代測定以外にも
もはや年代の見直しが必然だったって出てるわけだが
都合の悪いものは目にしても脳が拒絶反応でも起こすのか?
927 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:50:00
むしろ、独自の補正や見直しをまったく行わず、
完全に国際較正曲線で照合した結果を見てみたい。
紀元前なんて結果がゴロゴロ出てくるらしいが、
奈良時代以降の物や記録が残っているものでは
ぴったりの結果が出るらしい。
だから、それはそれで今までとはぜんぜん違う
年代観が得られるかもしれない。
928 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:03:45
>>922 >その後、卑弥呼の墓と箸墓との関係上、庄内期を古墳時代にする必要が出て
>来て、庄内期を古墳時代のように見るようになったとか。
陰謀論と言うか本末転倒だろうにw
考古学者が土器の研究をしていて古墳時代の初め頃に
底の丸い小型の土器が現れるようになったことに気づく。
それまであった地域ごとの特色を塗りつぶすように
似たようなものが広範囲に出てくるようになる。
これが「土師器」と言われるものだったわけだが
この動きは古墳が全国に出現する一種「前触れ」みたいなもので
これを古墳時代から切り離すのは
ある曲のイントロ部分を切り離して前に演奏されていた曲の後にくっつける様なもんだwwww
929 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:12:36
>>926 その年代の見直しというのが、何を根拠にどこから出てきたのかが問題。
そして、その年代の見直しの結果どういうことになるのかが重要。
テラサワですか?
あの人、本気で畿内説を信じているわけではないでしょう?
というより老人は別として今どきゴミクズ畿内説を本気で信じている「考古学者」など誰もいませんよ
931 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:19:33
>>929 少なくとも昔の年代観を支えていたのは
紛れも無く 邪馬台国畿内説 だったわけだがwwwww
>>930 >畿内説を本気で信じている
ゴミクズレベル九州説ってこの「信じている/いない」ってフレーズ好きだよなw
つまり
「口ではああ言っているけど内心は…」
と自分を慰めるしかないわけだw
「あの人も本当は私のことが好きなのよ」
とか言っている未練タラタラの女を連想してしまうのは俺だけかな?w
それかもしくは本当に人のココロが読める
えすぱー さんか れーのーりょくしゃ さんとか?w
932 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:24:48
>>930 昔の雑誌を見ていたら、森浩一氏と石野博信氏の対談があって、その中に
面白いことが書かれていた。
森…やはり、九州の大勢力が、ある段階で大和を中心とした地域に大きな
影響を与えたのはまず動かないと思います。
石野…研究所の寺澤薫君は盛んにそう言いますね。
寺澤薫は、ひょっとして東遷説(だったの)かな?
近畿地方は、ある時期、過酷な運命を辿ったと言っていたのを聞いたことが
あるし。
933 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:31:32
>>931 例えば、箸墓の年代がどんどんさかのぼっていった時期があった。
なにを根拠にしていたのかは良くわからないが、卑弥呼時代を古墳時代に
することによって、東遷説を阻止できることは確か。
なんとなく、結論の方が先にあり、理由を後付しているようにも見える。
934 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:43:10
>>933 恨み節東遷厨
>東遷説を阻止できることは確か。
ビョーキだなwwww
935 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:06:27
神武天皇の東征って、卑弥呼時代よりずっと前でしょ。
よって、東征話は九州説にはあってはならないことになると思う。
936 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:22:24
神武の東征はないと思うよ。応神の東征をモチーフにしたのだと思う。
ナガスネヒコの国が邪馬台国。応神が邪馬台国を制定して大和王権を作った。
937 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:23:00
938 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:27:04
だが、記紀には神武が日向から東征するとそれなりに
つじつまが合うようには書かれてるんだな。
筆者がうまいだけかもしないが。
939 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:27:36
>>937 日向の前方後円墳はマキムクよりも遅く始まるし、神武を祀っている神社も
あまりないでしょ。なぜ、アマテラスやらトヨやら祀られてるのに神武が
盛大に祀られないのか不思議。
これは昔の人も実在したとは思ってないからでは?
940 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:36:10
神武東征は紀元前にあったわけであって、それ自体はなかったとはいえないと思う。
ただこの問題と、卑弥呼の問題を変に絡めるから話がややこしくなる。
卑弥呼が神武の子孫なら、邪馬台国は畿内。そうでない別の王権なら九州にいたが正しいのでは。
941 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:37:29
逆に言うと、応神が日向の人で神武のコースで邪馬台国を乗っ取ったのかも
しれない。
また、日向は元は邪馬台国の属国だったのだと思う。
だから、卑弥呼は大和から離れた伊勢に祀られた。
942 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:56:34
943 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 02:00:06
>>940 神武東征が紀元前にあったらその証拠がない。
やはり、古墳文化、鏡文化の誕生や銅鐸の消滅といったものがその証拠になるわけで。
944 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 02:35:51
>>933 1.古墳時代の開始時期が遡上したこと
と
2.箸墓古墳自身の相対年代が古くなったこと
とは、とりあえず分けて考えた方がよいと思います。
945 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:34:04
>>943 >古墳文化、鏡文化の誕生や銅鐸の消滅
これは東征の証拠ではないでしょ。
都合良く年代を変える日本書紀のつまみ食いはよくない。
946 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:37:03
神武東征の原因は、霧島の噴火。
都城こそ神武の旧都とだったことがはっきりした。
今日のニュースでもう一つ、神武東征のなぞを解くヒントを得た。
それはJAXAの打ち上げた国際宇宙ステーションに結合機こうのとり2号だ。
神武の時代、多くの人民を宮崎から畿内に移住させるのは、宇宙ステーションに荷物を運ぶよりはるかに困難な巨大プロジェクトだったはず。
それを指揮していた一人が今もJAXAの三輪田さんの祖先だったのではないだろうか?
948 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:03:40
>>946 お〜、俺と同じ考えだ
あと考えられるのは、環境汚染だな
一か所に長いこといると、ウンコの処理が出来なくなり、臭くなる
そして、新天地を求めて、東征したのだろう
949 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:31:24
神武は、卑弥呼一族の子孫だよ
書紀に東征したって書いてるんだから、それを素直に読めばいいんだよ
ただ、年代については、3世紀末以降だろうけどね
950 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:08:49
神武と応神は同一人物だ。5世紀前後じゃないか?
951 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:09:58
ふたりともハツクニシラススメラミコトだな。
神武のいた場所は、壱岐→筑紫の糸島がもともとだろう。
宮崎県ではない。
953 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:14:05
伊都の日向峠説か。
954 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:19:16
伊都国の中心だと、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のさざれ石神社と
高礒比売神(たかすひめのかみ)の高祖神社だが、
神武をどういう位置づけにするか考えないといけないかもな。
955 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:25:48
伊都の日向峠説なんぞ、しょせんトンデモたよ。
956 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:37:45
全面的に肯定する気は毛頭ないが、
さざれ石神社には、美女の木花咲耶姫と、醜女の磐長姫がふたりとも祀られている。
これは結構珍しい。
日向峠から東に降りると、飯盛神社がある。
ここはイザナミ、そして隣の山にはイザナギが祭ってある。
神武より前の神話の時代を祭っている感じだね。
>>949 逆だろ逆。神武は卑弥呼一族の祖先。
神武以前に出雲神話が出てきたり、神武が吉備から大和入りしたり、
その大和入りが武力を伴ったものであったり、出雲や吉備が元気だったのが2世紀だったりを考えれば、
神武(に仮託された天皇家の祖)は2世紀倭国大乱の頃の人物なんだよ。
欠史八代は伝わっていた祖先をタテに繋いだだけ。
卑弥呼は神武から3世代目くらいの人。記紀のいうモモソ姫。
その甥の子が箸墓築造を契機に古墳時代を開いた崇神。崇神の娘がトヨ(豊鍬入姫)。
最近、弥生〜古墳の端境期に吉備の人口が減少してるって話が出たね。
私は神武がその「出吉備」のリーダーだったとは思わないが、
一員だったのではないかと考えている。それを後世記紀の編纂時に建国の英雄として脚色した。
しかし実際に天皇家の祖が「大王」になるのは、一族からヒミコ・トヨが出たことによって
ヤマト内での影響力が強くなった崇神の代から。これが真のハツクニシラス。
いわば、崇神が徳川家康だとすると、神武は松平親氏といったところ。
958 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:05:33
飯盛神社には子供の時から行ったことがあるが、
イザナギの太祖神社には行ったことがなかったので
機会があったら行ってみようと思い、ググッてみたら……隣の山じゃねえ。
篠栗の方だった。
由緒書きで隣の山のように書いてんじゃねえよ、飯盛神社……と神社のせいにしてみる。
30年近く隣の山だとばかり思ってたぜ。
で、西の糸島側が高祖山のイザナミ、
東の篠栗側が太祖山のイザナギ、
これは福岡平野を国生みしたと解釈せよということだろうか。
合体したのはどのあたりだろう(笑)
高祖太祖もそのままの意味なんだろうかね。
959 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:25:26
ほんとおまえらも毎日妄想してばかりだな(笑)
邪馬台国はヲタの恰好のネタだな。
答なんか出ないんだしいい加減不毛だとわからんか?神武が卑弥呼の末裔とかもうオカルトじゃん(笑)
単純に邪馬台=大和で近畿で正解なんだよ。女王国ってのは卑弥呼の勢力圏のこと。
これだけのことなのに延々毎日妄想ぶつけ合う馬鹿さ加減に呆れ返るわ
960 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:31:10
邪馬台=大和で決まりなんだが、
それじゃあ、夢やロマンが無いとか思ってるんだろ。
しかし、どうして邪馬台(ヤマト)国が2世紀から存在し、女王が統治してたことに、
ロマンを感じにくいのかが不明だな。
4世紀になるまで九州〜近畿を束ねた王権なんか存在しなかった!と、
どうして思いたがるのだろう?
2世紀から九州〜近畿を束ねた女王がいたという歴史観をどうして嫌がるんだろう?
きっとそいつらは日本の歴史文化に誇りを持てない在日朝鮮人なんじゃないのかな?
961 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:44:05
まあ、妄想ついでに、
イザナミが高祖山の東側の飯盛神社だとすると
高祖山の西側の高祖神社は黄泉の国かな。
伊都国が黄泉の国として、イザナギが日向峠を通ってイザナミに会いに行く。
そして、まあ神話のようなことになって、また日向峠を逃げ帰る。
ここで祓詞の例のやつの一部
つくしのひむかのたちばなのをとのあわぎはらに
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
日向峠を降りて、立花山から姪浜の小戸港に出る。
阿波岐原はわからんが、姪浜から今宿にかけての海岸という説もある。
いろいろとつながってて、妄想するには面白い。
962 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:30:25
>>959 答え出てるんよ
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対海国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽ,ヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
963 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 15:19:28
卑弥呼を共立した国は東九州〜近畿までの国だろうよ。
伊都国とかは別で、女王国に服従した国。
964 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:31:32
畿内説は何の証拠も無く畿内に有ったと信じているらしいな。
それは信仰の類に過ぎない。
965 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:33:08
そう。
信仰には議論なんか無用。
畿内に有った。それで決まり。
そう連呼するのが畿内説だ。
966 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:36:40
>>964 九州説のほうが根拠はないよ。
邪馬台国の遺構はどこ?
と聞いても九州説の人は妄想を述べるだけで
何一つ考古学的成果に結びついていない。
967 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:38:27
特に根拠もなく
纒向箸墓と連呼しているよりはましだ
968 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:41:11
じゃあ根拠のある近江説で決まりじゃないですか
>>962
969 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:48:13
>>967 纒向で3世紀と見られる大規模な王宮跡が発掘されたのは事実だけど?
もし九州でこの規模の3世紀の遺跡が見つかったらすぐ飛びつくくせに。
九州には考古学的成果がないのでひがんでるの?
970 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:57:21
なんか、マキムクって半年前くらいには
3世紀後半って言われてた気がするんだけど
971 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:12:17
>>969 >大規模な王宮跡
へ?、掘っ立て柱の穴とゴミ捨て場があったのは聞いてるが?
それがなにか?
それともどっか別のとこ?
972 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:20:07
973 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:31:52
>>971 吉野ヶ里も掘立柱とゴミ捨て場だけだろ。
出てきたのって。
974 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:33:43
>>971 3世紀の王宮がそのままの形で出てくるわけないだろう。
どこの遺跡だって柱跡しか出てこないよ。
木は腐るからね。
真面目に考古学を語る気がないみたいだな。
というか、九州説は不利なのでわざと目をつぶってるんだろう。
975 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:36:35
まあ九州にあったなら古事記に記述もなく、突然消えて卑弥呼の伝説も残ってないってことだし、
違和感ありまくりだわな
976 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:37:24
出雲から銅剣が300本以上でてるのに、
吉野ヶ里とかしょぼすぎる。
977 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:37:59
>>974 その掘っ立て柱とゴミ捨て場の
何を根拠にして王宮と認定されたのかな?
978 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:38:21
マキムクの掘立柱の建物の規模、そんなに大きいですか?
隣の民家と同じくらいじゃないですか?
ところで、環濠見つかったのですか?
武器類は?装飾品は?
979 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:40:48
玉壁
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
漢倭奴国王金印
980 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:41:37
伊勢遺跡カッコイイ!
〜遺跡の東半部では、弥生時代後期の大型掘立柱建物が合計12棟も発見されています。
現伊勢町集落のすぐ東側は、方形の柵で囲まれた中に大型建物3棟と小型の倉庫が
L字状に配置された特殊な区画が存在することがわかりました。
SB−1(平成4年発見)、SB−2、SB−3、小型の倉庫(平成7年発見)から成る
政治の場であったと推定されています。
また、その東側30mの地点には3間×3間の楼観、
そしてこの楼観を中心にして半径110mの円周状に配置された6棟の独立棟持柱付建物と
屋内に棟持柱を持つ大型建物が発見されています。
さらに平成13年には、円周状の建物群の外側で床面積が185uを測る大型竪穴建物が発見されました。
この建物の壁にはレンガ状の焼物が置かれ、床が赤く焼かれており、特殊な建築技術がみられました。
佐賀県吉野ヶ里遺跡、栗東市下鈎遺跡で数棟ずつの発見例はありますが、
伊勢遺跡では多種多様な大型建物が12棟も集中しており、国内に類例を見ません。
981 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:41:46
出雲大社の敷地から出てきた、大型掘立柱跡はすごかったな。
982 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:42:37
>>978 発掘されたのはまだ3%ぐらいだろ。
今後も発掘が続けられる。
983 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:43:28
984 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:43:58
>>977 規模だろ。
国内最大級の建物跡であることから。
これまでの遺跡でも王宮跡とされている建物と
全く遜色ない規模であることから。
まあ、周囲も掘ればもっと大きな建物跡があるかもしれないじゃん!
と言いたいのかな?
985 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:44:32
>>982 今までに168回発掘して3%か。
400年くらいかかりそうだな。
986 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:46:47
上に出てきた伊勢遺跡と纒向はどっちが大きいのかな?
吉野ヶ里はだいたい全貌がわかってるしな。
出雲にも吉野ヶ里以上の遺跡があったようだが。
987 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
989 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:04:16
記紀に記述がないから畿内ではないな。
女性天皇に無理にこじつけようという空気もあるようだが。
990 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)
じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)
ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
991 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:09:16
992 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:10:51
>>989 文字の形跡のない九州であるほうがおかしいが。
7世紀まで九州が日本一の文明国家であったならば
当然日本書記に代わる歴史書が編纂されていたであろう。
しかし、九州はかなり文化が遅れていたらしい。
993 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:11:40
遺跡全体の数%って、分母はどうやって決めてるんやろ(´・ω・`)
えっ、ただの関係者の期待値!?( ̄△ ̄;)
994 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:18:38
3世紀の遺跡がない九州の連中って辛いよな・・・
遺跡の豊富な畿内を羨望して煽ることしか知らない。
奈良は九州と違って民家が多いんだよ。
田畑もある。
自由に掘れるわけないだろうがw
まあ、数パーセントというのは公式発表だからね。
遺構貧乏の九州説にはつらい現実だ。
995 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:23:32
996 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:16:08
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′ <ソースを出しなさい!
ノr┴-<」: :j|
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) ))
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/ シュッ
/ r'‐-| ├-┴〆シュッ ハ,,ハ シュッ
仁二ニ_‐-イ | | ハ彡( ゚ω゚ ),ハ
| l i 厂  ̄ニニ¬ ( ゚ω゚ )ミ( ゚ω゚ ) お断りします
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ.. と ミ つ
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } ⊂ 、 /
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ ..し'
これで次スレ立てようとしたら、規制でダメだった・・・
ちゃれんじするよ
998 :
997:2011/01/28(金) 20:23:32
ダメだったすまん
>>995 九州には三世紀の遺跡がないような年代設定を、
畿内説で飯食っている連中がねつ造したんだから、
あるわけないだろ。
1000なら畿内説は詐欺
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。