♪邪馬台国 ドンと来い♪ 79

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1まあ、このAAでも良いかwww
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!

出来るだけソースを出して後はお好きに!


卑弥呼さま〜〜!!
    ___
   / | \
  / / ̄ ̄\ 丶
  / /_  _丶丶
 |イ  ̄丶〃 ̄ | |
ミ||<◎>)(<◎>| |彡
ヾ ヒ(  ̄ ||  ̄ )ノ/
―⌒ヘ ノ丶ノ丶 /⌒ー
__∧ ( ̄ ̄) /ヒ__
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前スレ『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 78』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1278952027/l50
2日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:57:57
>>1
キモいAA貼るなボケ!
3日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:59:53
927 名前:次スレのご案内[] 投稿日:2010/07/25(日) 15:31:04
久々にスレたて成功したwwwwww

本スレ使い切ったら以下のスレへ

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 79
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1280039342/l50
4日本@名無史さん:2010/07/27(火) 09:10:46
このスレは
縦目仮面(名無し、なりすまし常習者)
ジョーカー
による九州説叩き用のスレです。
初心者、通りすがり、九州説論者はその辺よ〜く考えてからレスしてね
5日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:38:55
スレ立て乙であります。

さて世間では夏休みに入ったということで、ここのところ学生さんらしき書き込みも見られ
また常連各氏も、猛暑に拍車をかけるが如くの無限ループに飽き飽きしているでしょうから
過去スレで使われていたテンプレを引っ張り出してきました。

特にご新規さんは、現代の邪馬台国論争がどのようなものなのかを踏まえたうえでの発言を頼みます。
ループの原因となっている煽り&罵倒専門荒らしを寄せ付けないためにも、皆様ご一読よろしく。
6日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:39:36
:日本@名無史さん :04/12/01 12:44:12
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」

これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。

なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
 聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)

このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。
7日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:43:55
個人的には、自分もこのテンプレには少々異論もありますが
具体的にそれがどこか、またその根拠はなにか、自分の意見はどうなのかを明記することで
暑さを凌げるような快適な議論の場としましょう。

「連合などあり得ない、なぜならば邪馬台国は九州だからだ、以上」
こんなのは単なる荒らしですから。
8日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:46:32
一大率に怯える諸国連合はあるでしょ。「ゆるやか連合」なんて妄想するのが間違い。
9日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:58:28
面的な支配の実態がないって言ってるだろ。

10唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 14:42:32
>一大率に怯える諸国連合はあるでしょ。「ゆるやか連合」なんて妄想するのが間違い。

当てとフンドシは向こうから外れる。
「一大率に怯える諸国連合」ねえ、
軍(一大率)を維持する為には、諸国から税の徴収が出来ていなければ維持できない。
税の納入が滞れば、軍を派遣して正す。税を徴集出来なければ軍ひいてはその王は疲弊する。
王は諸国を纏められず、卑弥呼に位を譲る。
卑弥呼は軍を持たない「ゆるフン連合」の大王である。
軍(一大率)は伊都に在し、遠くまで派遣されることは無い(そんな時代になった)。
正始元年以降の「倭王」はこの範疇に入っていない。
つまり魏は倭国を纏め、冊封する意志を持つ。
その為には、乱で疲弊していない勢力を持ち出す。これが大和政権である。
11日本@名無史さん:2010/07/27(火) 15:17:17
木器しかない畿内の野蛮人に、そんなことはできません。
12唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 15:44:19
>>11
その通り、正しい。
崇神世では、鉄器が不足しているから崇神世では無い。
鉄器の充足した、景行世の出来事である。
13日本@名無史さん:2010/07/27(火) 19:25:46
さて、サイキバ君を最底辺に置くここのゴミクズ九州説の与太に付き合ってばかりもなんなんで
前スレで出てきた『北部九州の近畿系土器の受容に』ついて少し話をふっておくwwwww

『邪馬台国時代のツクシトヤマト』より 久住武雄の言

>三世紀の前半のある時期から近畿系の土器がぽつぽつと九州のほうに出てくるようになります。
 …途中略…
>そこで、なぜ近畿系土器を受容したかと言うことも問題になるのですが、事実関係を述べると、
>先ず福岡平野の一部で受容して普及します。
>それが各地の拠点的な遺跡、全ての拠点的な遺跡ではないのですが、
>拠点的な遺跡に更にそれが伝播していくという形になります。
 …途中略…
>ここで重要なのは、どうも近畿の勢力が近畿の土器を各地に直接的に土器の伝播を働きかけたと言うよりは、
>福岡平野あたりでワンクッション置いているという事実であります。

上記の事も合わせて、俺個人としては畿内が北部九州を直接的に統治したと言うよりは
福岡平野=奴国を通して間接的統治のような物をイメージしている。

逆から見れば、福岡平野=奴国にすれば東の首長連合を上手く利用して
北部九州における自身の地位をまんまとせしめた…のかもしれんがwwwww

まあ邪馬台国・卑弥呼の時代、博多湾周辺地域が半島との交易において
何処まで主体性を保持しえたのかはかなり幅を持たせて考えておく必要があると思うが。
(主体性=ゼロなら → ♪北(半島)から来た物を東(本州・四国)に受け流す〜 …的な意味でw)
14日本@名無史さん:2010/07/27(火) 19:52:08
>>13

>ここで重要なのは、どうも近畿の勢力が近畿の土器を各地に直接的に土器の伝播を働きかけたと言うよりは、
>福岡平野あたりでワンクッション置いているという事実であります。

福岡平野=奴国の一部首長集団(○○国というのはそれ自体が決して一枚岩ではない)が
吉備からの受け口になって輸入を開始したとは考えられないだろうか。
これは久住武雄の言うように3世紀前半の傾向で、この時点で例えば吉備や畿内の西征を想定するのでなく
それまで本州はおろか韓式土器すらほとんど輸入しなかった北部九州の各クニのなかで、最初に積極的に事を起こしたyというように。

この実験的な導入がわずか半世紀で北部九州一帯に広まる理由については
また別の要因も考慮せねばならないと思うが、それは今は置いといて。

ここでいう畿内系土器というのは、庄内式を指すはずなのだけど
やはり煮炊きにおいて熱効率がそれまでのどんな土器よりも優秀であったというのが
導入と普及の大きな要因ではないかと考えているのだが。

つまり政治的要素よりも経済的というか消費者目線の話だね。
その福岡平野と瀬戸内の繋がりってのは、まあ政治的な話なのだが。
1513:2010/07/27(火) 19:55:32
ワリィ人名間違っている。
「久住武雄」じゃなくて「猛雄」だ
16日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:03:34
同時期に畿内では保存用と考えられる東海系パレース式土器の出土が急増するのね。
これは土器だけの輸入と考えるより、それに伴うj人的移動も考慮したほうがいいのだけど
福岡平野での初期の動きというのは、まず土器そのものが輸入品であったと見て良いんじゃないかと思う。
それからわずか半世紀であちこちに、畿内系からの移住を示す集落遺跡が定着するのは
要するに経済的要因ではないかと、征服とかそんなのではなく。

北部九州に限らない話だけど、この時期に集落の全国的な再編成が相次ぐのは
要するに経済的な勝ち組と負け組に分かれてしまったということ。
交易連合に参加したところが結果的に勝ち組となったという事だと思う。

これなど北部九州をサンプルにすると、前原周辺や玄界灘東地域それに宇佐東部などが
その初期段階での勝ち組になるのだろうけど。
17日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:14:48
>>15
そのままコピペしちゃったじゃんかw

まあこの畿内系土器の導入という話にしても
福岡平野と吉備を介した大和、河内というミクロの付き合いだけでなく
日向なんかの、太平洋ルートでの畿内との従来からの付き合いとか
半島ルートが大混乱に陥ったことによる北部九州の弥生バブル崩壊とか
東海地方で起こった集落再編によるコングロマリット的クニが、畿内各地に進出してきたとか
瀬戸内商社の吉備と日本海商社の出雲が、商売のチャンスに命運かけて勝負に挑んだとか

もういろんな要因があって、その流れのなかで起こった現象の一つだと思う。
1813:2010/07/27(火) 20:24:45
>>16
>交易連合に参加したところが結果的に勝ち組となったという事だと思う。

九州説も九州邪馬台国を、勝ち組のグループの中に置くか
負け組みのグループの中に置くか…の二択なんだよなwww

まあ交易窓口の北部九州・玄界灘周辺を押さえられているんで
普通ならその「勝ち組」の中に見るのが順当なんだろうなwwww

以下、毎度おなじみいつもの「邪馬台国の会」にある安本と柳田の会話wwwwww

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。
伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。
ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。
大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。
文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。
1913:2010/07/27(火) 20:34:38
>>18を分かりやすく言うとだ…

柳田自身は勿論、邪馬台国が九州にあったなんて考えていない。

しかし、それでもあえて九州に邪馬台国があったとするなら
初期の前方後円墳(=纏向型)が出現し、首長連合に参加していたと思われる地域がその対象になる。

…っちゅう話やねwwwwwww
20日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:35:36
アイヌと交易をはじめて、良質の毛皮が手に入ることを、そのうち畿内説では
「アイヌが江戸幕府を征服した」と言い出しそうで、いま監視中。
21日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:36:09
伊都国の南って、直感的には
三瀬峠通って佐賀大和か
北山ダム通って小城に着いちゃうんだよ。

実家糸島市、佐賀市大和町在住
22日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:41:43
>>18を分かりやすく言うと、
利権を守る柳田は畿内説を守るために、
魏志倭人伝には邪馬台国が多くの前方後円墳を造成し、
三角縁神獣鏡を魏から貰ったと載っているかのように
事実を捏造して語ったので、九州の比定地もおかしくなった、という意味。
2313:2010/07/27(火) 20:44:30
>>22
あ〜あ、柳田センセイもついにサイキバ君により
「悪の巨大組織キナイセツ」のメンバー入りかwwwwww
24日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:45:18
柳田あいかわらず厳しいなw

まあ交易連合とかいうと、なんか「我々はヤマト連合だ!」とか声明出してバッジつけてのりこんできたとか
そんな変なイメージ持つひともいるようだけど
そんなマンガじゃなく、要するに広い交易網と情報網を得たクニグニが持たなかったクニグニに勝ったという当たり前の話なんだよな。

邪馬台国ってのは倭国の盟主や支配国などではなく
その交易網と情報網の中継地が都会化したもので
卑弥呼にしてもそこに置かれた巫女という位置付けに過ぎないのが実情だったのではないかと。

逆に朝貢という対外的折衝のなかで、魏から下手に金印とか貰ってしまったので
ここで初めて倭国の代表国という概念と政治的メリットが生まれてしまい
例えばそれに反発する狗奴国なんかとの内部抗争が顕著化したり(俺は狗奴国=東海説で連合内派閥説)
彼女の死後にまた揉め事も起こり、結果どこかの巫女である台与にすることで一応落ち着いたとか、そんな話だと思う。
25日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:48:24
>>20
アイヌの文化が江戸城改築や江戸期の生活様式を一変させたとかはないからね。
だからそんなことは考えない。
九州がまるで変わっちゃったから、そう考えるわけよ。
ちなみにもし畿内が九州発祥のもので埋め尽くされていたのなら、当然東征や東遷を考えるよ。
ないから考えないだけで。
26日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:51:30
>>22
じゃあ柳田が主導して再評価された平原なんかも、あれ捏造なんだw
今後、陰謀論九州説は柳田の発掘成果を一切用いたらだめだよw
もちろん弥生時代に北九州が栄えていたというのも捏造なのだから、信じちゃダメよw
27日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:32:01
ウソとホントを混ぜてあるから、注意すればよいだけ。
28日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:33:57
>>25
前方後円墳と三角縁神獣鏡で、九州の生活様式が、どう一変したの?
29縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/07/27(火) 21:36:23
邪馬台国についての情報は倭人伝にしか無いのであるが、その倭人伝に記述されていない前方後円墳や三角縁神獣鏡を邪馬台国の比定地の
条件にするとはおかしな人だね〜。

首長連合というのも無理矢理こじつけた論だね〜。倭人伝によれば、倭国王卑弥呼(邪馬台国)は一大率を置いて諸国を検察している。決
して「ゆるやかな首長連合(交易連合)」とか形容されるような体制ではない。軍事力を背景として倭国内を統制している。

九州は大陸や半島の情報が入りやすく、戦乱に明け暮れる彼の地を見ていれば上記のような統制体制をとったであろうことが容易に考えら
れるのである。なかよしユルフン連合など有り得ない。

庄内式土器が近畿地方から九州に入って来たのが3世紀だという確証があるとは思えないが、仮にそうだとすれば(畿内説論者には思い及
ばぬことであろうが)それは近畿地方からの貢納だったかも知れない。弥生期の遺跡、出土物からも九州が文明先進地であり、近畿地方は
その先進地の仲間に入れて貰いたかったにちがいない というような見方もある。


30日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:42:54
>>28
なんでそのふたつなんだよww
それしか知らんのかw
31日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:51:34
>>29

>弥生期の遺跡、出土物からも九州が文明先進地であり、近畿地方は
>その先進地の仲間に入れて貰いたかったにちがいない というような見方もある。

思い及ばぬどころか、とっくの昔に検討されていますw
畿内や瀬戸内が目指したのは北九州ではなく、その先にある半島です。
半島との交易を主眼においていたからこそ、その地理的窓口として進出しただけで
別に九州の文化に興味があったわけではありません^^

ここでもよく例に出される西新町遺跡の地区別土器出土分類からも、3世紀後半には
畿内土器を使う集団、韓式土器を使う集団、九州在地系土器を使う集団とはっきり居住区が分かれており
もう2世紀までの九州ではないんですよ。ほとんどがよそ者。
そして伝統ある九州人は、どんどん隅のほうに追いやられていく。
これも武力侵攻によるものではなく、経済侵食の結果でしょう。
32日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:56:22
4世紀になると明らかに畿内土器と前方後円墳にチェンジする集落や
最初から畿内に影響された土器しか出ない新設集落がほとんどになるんだよな。
そのぶん中部九州が独自性を発揮し始め、南九州がさらに畿内寄りになって前方後円墳を造りまくると。
33唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 21:57:40
九州邪馬台国説は、景行を無視せねば成り立たない。

この事実は縄文時代から変わらない!?
34日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:04:10
うーん畿内説の殆どは、景行を架空の人物だと考えているんだけど
唐松山はやっぱ、古い畿内説なんだなあ
35唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 22:09:58
 沼津市教育委員会が発掘調査を進める前方後方墳「辻畑(つじばたけ)古墳」(同市東熊堂)が日本最古級の古墳となる可能性が浮上した。
出土した高坏(た かつき)の年代から、230年前後の築造で、纒向(まきむく)石塚古墳(奈良県桜井市)などと並ぶ古さとの指摘がある。
今秋に発掘を終える市教委は「副葬 品などの詳細が分かった段階で識者の意見を集約して判断したい」との考えだ。
JR香椎線宇美駅下車・駅前の緑道を北西方向に徒歩20分
西鉄宇美線 深町または下宇美口下車徒歩5分

光正寺古墳の概要

光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あり、県内の前期古墳の中でも最古期の
古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族
(王?)の墓と考えられます。

箸墓時代は、全国に古墳の作られる時代である。
これを景行以外では説明出来ない。
36日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:11:55
>>31
>畿内土器を使う集団、韓式土器を使う集団、九州在地系土器を使う集団とはっきり
>居住区が分かれており
畿内土器を使う集団って奴隷(生口)かもな。
37日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:13:46
>>29 蝿

…もうここのゴミクズ九州説の負け犬の遠吠えにも似たイチャモンは聞き飽きたから

だったら九州30カ国を強力に面的支配した軍事強国の存在を示す資料をもってこい
(無論、ゴミクズ九州説の脳内の「ぼく の かんがえた さいきょう やまたいこく」以外で)

…っちゅう話なんだよなwwwwwww
38日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:17:58
>>35
あれ?あんた>>12でこう書いているじゃん。

>崇神世では、鉄器が不足しているから崇神世では無い。
>鉄器の充足した、景行世の出来事である。

それと>>35の内容を合わせると、景行の実年代は230年前後という主張になるが
その頃に畿内に満足な鉄器はないよ。
それとも考古学者の考えよりさらに古く、鉄器が畿内に浸透していたとするわけ?
あちこちツギハギするだけじゃダメよw
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:19:11
>>33
景行は卑弥呼の女王国とは関係ない。卑弥呼の時代は、日本の
は畿内と九州の2極に分かれていたのが真である。オマエは畿内兼九州説
というジョーカーもせせら笑う鳥とも蝙蝠ともハッキリ出来ないインチキ
であったのが、こっそり畿内説に鞍替えして益々それが露呈している。ww
40日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:19:56
>>36
奴隷のほうがいい暮らししてるとかないだろうな。
それとその後は奴隷に侵食されてご主人様たちが隅に追いやられることもないだろうね。
それとも北九州で人民革命でもあったのかな?
41日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:25:11
>>39
罵倒を書いてもダメ。私はバカですって自ら言っているようなものだから。
もっと具体的に、あなたのここがおかしいからそれは成立しませんよと書けばいい。
唐松山は単にあちこちツギハギで都合のいいところだけ持ってきているだけだし
思考回路そのものは、まず畿内にありきだろ。
まず九州にありきという君と本質的には同類なのだから、彼を見て他山の石とすればいい。
42太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:27:10
同類じゃねぇよ。
43日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:47:37
要するに唐松山も「むてきのきないてっきぐんだん」というだけなんだなwww
44日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:58:39
>>24
>俺は狗奴国=東海説で連合内派閥説

良く東海と畿内の対立を前方後円墳と前方後方分と言う墳墓の形にも見る向きがあるが…

仮に象徴的に「狗奴国=東海説」を「前方後円墳 VS 前方後方墳」とすれば
俺が考えている「狗奴国=中・南部九州説」は「前方後円墳出現地域 VS 前方後円墳未出現地域」だなww

あと「連合内派閥闘争」に対して「連合加盟地域 VS 連合非加盟地域」とwwwwwww

それと
>ここで初めて倭国の代表国という概念と政治的メリットが生まれてしまい

…と言うのはどうだろう?

卑弥呼共立の前にもめていた時点で「対外的な代表者」と言うことは織り込み済みだったのではないかと…

倭国内の内政においては別に協議制でも良いが対外的な代表者となると一人に決めなければならない。
故にもめたとか?
45日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:59:44
畿内と九州勢力しか語れないのは、モノの見方が偏っている。
日本海側を中心に、日本の広い地域を支配していた出雲族の存在を忘れてはならない。
倭の五王、安東将軍は、九州でも畿内勢力でもないのだ。
46日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:03:22
よりにもよって、日本武尊の逸話並みに信憑性が低い景行記を元に考えるなんて、唐松山は終わったな。
47日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:10:20
景行はそれこそ
西都原と完全シンクロだろ
4〜5世紀だよ
48日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:23:07
そもそも「生目」の地名の由来って何?

垂仁の「活目」「伊久米」に関係ある?
49日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:25:24
日本の地名は、由来がわからないのが普通。
50日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:29:48
>>44
狗奴国をどこに比定するかというのは、そのまま当時の倭国の姿に直結するから、本当はその話をやりたいのだけどちょっとスレ違いっぽいので
もう少しあとでやりましょう。
それにしても

>「狗奴国=中・南部九州説」は「前方後円墳出現地域 VS 前方後円墳未出現地域」だな

この発想はなかったから驚いた。詰めて議論したいと思う。

ここではまず先にこっちを

>倭国内の内政においては別に協議制でも良いが対外的な代表者となると一人に決めなければならない。
>故にもめたとか?

まず各クニの首長に『倭国』という概念があったかどうかだと思うんだ。交易連合への参加動機はやはり我がクニの壕駅と発展だと。
だから朝貢するまではどこの首長も、俺のところが一番みたいな感じで、宗教やら墓制などを統一しようとか考えて買ったように思う。
それがどうやら半島経由で大陸(魏)と優先的に商売するには、どうやらクニではなく国じゃないと駄目らしいと判ってきた。
そのあたりがいわゆるオウではなくオオキミが必要となった理由で、当然誰がなるか揉めたとw
このあたりは想像なんだけど、俺には各クニのオウたちが、どこかの巫女を本気で崇めていたとは思えないんだ。
そこまでの宗教観の共有が果たして2世紀末あたりで、有力なクニに浸透していたのかどうか疑問でさ。
51日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:30:00
http://www.jiki.jp/blog/?p=4105
生目神社の由来だって
湧き水にホウ酸(今でも目薬に使われる)が含まれてる
他地区の地名とはまったく関係がなさそう
52日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:31:47
すまん>>50は誤字脱字だらけだ。
いちいち訂正しないが、意味を汲んで下さい。今夜はもう寝る^^;
53日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:37:10
「クニ→国」の概念の発生は邪馬台国時代のずっと前だと思うぞ
縄文の人びとが皆原日本語を使い
そうではない言語圏の人間たちと接して
「倭人」と呼ばれた
そこで「倭語」共通言語圏としての「国」みたいな概念が生まれたんだろ
54日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:46:48
「漢委奴国王印」の金印が1世紀
この頃すでに北九州は朝貢をし
この印を授かった自分らが「倭」という地域の「奴」のクニだとうことを認識していたわけで
「倭」という地域が「倭人の国」だという認識は
すでにこの頃からあっただろう
55日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:47:51
3世紀は、都市国家=首長国と、その上位概念、首長国連邦=倭国があったのだろう。
倭国や各首長国の構成員はもちろん、倭人。
56日本@名無史さん:2010/07/28(水) 00:08:31
>>53
のいう通りなのだけれど、ひとつだけおかしいところがある。

>そこで「倭語」共通言語圏としての「国」みたいな概念が生まれたんだろ

それもクニだよ。地方単位の中小のクニと
それらを民族や言語で大まかに分類したものもやはり大きなクニなんだ。

ヒエラルキーとか体制の有無だとか王制とかがそこにあると、国(国家)になるのだけど
クニの概念はかなり広いというか曖昧で、小集団でもムラではなくクニになり得る場合もあるしそうでない場合もある。
5744:2010/07/28(水) 00:47:06
>>50
狗奴国の比定と言うのはスレ違いじゃない、
と言うより邪馬台国スレ以外でやるのが不味いだろうと思うがwwwww

卑弥呼共立時に果たして対外的な代表者という概念があったか否か?
…と言う問題について言うと

先ず前提となる認識で、卑弥呼共立に至った所謂「倭国大乱」
その地域や時代、規模はイマイチはっきりとしないが
(佐原編年の年代観もこれで結構エライ目にあっているわけやん?www)

後漢の威光をバックにした北部九州がその後漢朝の衰退滅亡と共に
勢力を無くしその事に端を発したのは間違いないだろうと見ている。

その支配体制が崩れ去った後、騒乱に加わった勢力は当然
「次のキング・オブ・キングスは(大陸との)対外的な代表者になる」
と言う認識は持っていただろう。

無論「対外的代表者」と言っても外界と隔離された環境にあるような
ヒキコモリの不思議系ネエちゃんだかオバちゃんが外交をやったって話じゃなく
あくまで名義上の代表者(=傀儡)で実際の実力者はその背後にいたってシナリオなwwww
58日本@名無史さん:2010/07/28(水) 01:20:05
軍事的な覇権意欲満々の国々が「倭国大乱」を起こして、兵士を消耗し尽くしてどの国も疲弊し、
ついには、覇権意欲のまったくない女王国の卑弥呼を指名して、首長国連邦=倭国のトップに据えたというオチ。
59日本@名無史さん:2010/07/28(水) 08:16:44
北九州諸国は、後漢時代、倭国の中枢の国だという自負心をもっていただろう。
だから、中国地方の出雲、安芸などに勢力をのばし、また、中九州、南九州をも
うかがったのではないかな。ところが、中、南から反撃をくって、事実上、敗北
してしまった。それが倭国の乱だよ。
北は負けたから一大率の厳しい検察に服さざるを得なかったんだ。中国地方は本
家が倒れて基盤を失い、ふらついていたってことだろうな。
60日本@名無史さん:2010/07/28(水) 09:59:02
>>31
>半島との交易を主眼においていたからこそ、その地理的窓口として進出しただけで
別に九州の文化に興味があったわけではありません^^

無料で港が使用できるとでも思っているのかね。
また、港界隈の土地が無料で使えると思ってるのか ?
61日本@名無史さん:2010/07/28(水) 11:27:49
軍事面でもう少し考えてみよう
邪馬台国時代の軍事力
・銅剣、銅戈
・盾
・矢(銅)
移動⇒歩行(歩兵)
船 ⇒準構造船?または手こぎ船(丸太船)

大きな河川に橋はあったのか?その場合は軍はどうしたのか?
畿内説廚は、邪馬台国が弥生前期・中期は銅鐸分化であること
を忘れていないか?
準構造船は鉄文化でないと、作れないので、畿内の当時の河川
の移動は丸太船だろ

机上の空論でなく、現実的な議論をしないと何も始まらないよ
62日本@名無史さん:2010/07/28(水) 11:49:04
>>61
お前が現実と向き合えよwwww
>>59はお前の妄想だろ
>>60は文章すら読めないのかw
63日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:39:34
弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で
奈良盆地からは「0」です。

畿内廚は吉野ケ里が発見されるまでは、九州廚がどんなに
頑張っても、九州からは環濠集落跡はでていなので、環濠
集落のある畿内との認識(安心感)があった。

ところが、吉野ケ里が発見され、倭人伝さながらの環濠集落
だから、大慌てで、次の安心できるものを、未だに必死で
探している(なんでもいいからこじつけようとしている)

不比等が作為的につくった記紀を穴があくほど、勝手に解釈し
必死の状態が、現在の状況かな・・・
64日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:46:12
>>63

こういうレスを素人が真に受けて、6年もスレがループするんだな。
65日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:59:36
ていうか>>63が、核心を突いてしまったな。
話はここからだ。
66日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:04:42
サイキバの自作自演か
67日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:10:44
>>63
>弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で

「弥生時代の古墳」って、具体的にどこ?
68日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:25:48
弥生時代だと前方後円墳は少なそうだな
69日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:03:40
突っ込むところが違うだろ。
古墳から出たもの以外でも、九州の鉄器が圧倒してるんじゃないか?
70日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:07:53
少ないも何も、前方後円墳が造られたなら、そりゃ古墳時代だわなwww
71日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:10:50
>>67

鉄斧の破片も含む では以下のところ

福岡県前原市石崎曲り田遺跡    福岡県太宰府市吉ヶ浦遺跡

福岡県北九州市中伏遺跡    福岡県北九州市馬場山遺跡

福岡県行橋市下稗田遺跡    福岡県嘉麻市八王子遺跡

福岡県築上郡新吉富村中桑野遺跡   福岡県小郡市一ノ口遺跡T地点

福岡県小郡市三沢北中尾遺跡1地点  福岡県小郡市北松尾口遺跡

福岡 6 まだあったけどもういいや。
京都 3 大阪 3 山口 3 広島 1 もあったな。
72日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:13:10
やっぱり日本語を理解できないらしい
73日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:21:44
>>71
古墳じゃないぞwww
74日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:22:50
>>70 >>72
なんで前方後円墳にこだわっているのか知らんが
自分の考古学のレベルが低いのを、たかだか前方後円墳
の時代認識なんかで、人を笑うな
75日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:29:11
>>74
>弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で
奈良盆地からは「0」です。

逆ギレかよwww
76日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:45:50
うそだろ
>>75みたいなレベルの低いのが、畿内廚なのか?
77ローガン:2010/07/28(水) 15:49:41
>>74
>たかだか前方後円墳の時代認識なんかで、

でも、その発生の「時代認識」って結構ポイントなんじゃない?
ちなみに原田大六は平原一号を弥生古墳だと言ってましたね。
78日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:54:50
毎度おなじみ九州原理主義者による自爆テロでございます。
79日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:02:03
とりあえず、前方後円墳の出土物は
ほとんど古墳時代以降と判断して良いのかな。

あとは円墳、方墳か。
80日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:07:18
前原の平原遺跡は、方形周溝墓と、円形周溝墓だな。
弥生で問題ないだろう。
81日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:13:09
>>80
九州での方形周溝墓の開始は4世紀頃とみる説もあるけど
82日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:16:31
吉野ヶ里は文句なしに弥生時代で
鉄器も大量に出土している。

木製鍬先に取り付ける鉄刃アタッチメント式は
見てて面白い。
83ローガン:2010/07/28(水) 16:44:13
>>31
>もう2世紀までの九州ではないんですよ。ほとんどがよそ者。 そして伝統ある九州人は、どんどん隅のほうに追いやられていく。

九州没落の原因の一つに海退による港の機能の低下が有るのでは?
原の辻→糸島航路が実質、博多湾に取って変わられたと。
84日本@名無史さん:2010/07/28(水) 17:44:59
伝統ある九州人はとっくに畿内に入り込んで、銅鐸をぶち壊して
移住を完了しています。

尾張にも進出しており、のちの天武の旗揚げに協力しています。
85日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:01:28
まあ「弥生時代の九州の古墳」なんてのはサイキバレベルのご愛嬌だが…wwww

>>61
>準構造船は鉄文化でないと、作れないので、畿内の当時の河川
>の移動は丸太船だろ

河川なら丸太舟でいいとも思うが…
正直に言って畿内に準構造船が無かったと言うのは初めて聞いたw
(「我が国における準構造船も九州起源!」ってお話なのか?)

準構造船なんて基本的に刳船の延長上だと思うが?
…ひょっとして鉄製の釘や鎹(かすがい)の使用をそ考えているとか?

鉄と準構造船の登場の関連をもう少し詳しく説明してもらえないだろうか?

86日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:09:53
>>37
>九州説の負け犬の遠吠えにも似たイチャモンは聞き飽きたから
>だったら九州30カ国を強力に面的支配した軍事強国の存在を示す資料をもってこい

なんだこの下品なおっさんは!ひとをゴミクズ呼ばわりできるタマか?
聞き飽きたとはなんだ!!反論出来ないでタワゴトばかり言っているから何回でも問われるのだ。バカめ!

面的支配だと?面的という言葉もちんけだな。邪馬台国の支配体制とは政治的なものだ。その体制の一端は
「其犯法 輕者沒其妻子 重者滅其門戸 及宗族尊卑各有差序 足相臣服 收租賦 有邸閣 國國有市 交
易有無 使大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」と
いう倭人伝の記述にも見える。この資料で十分だろ。
87日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:28:35
>>86 ゴミ蝿

文献から自身が考えた支配体制を証明するに元の文献によるしかないと言う
アホ丸出しw

所詮ゴミはゴミwwwww

「九州は弥生時代、半島大陸からの文物を逸早く取り入れた先進地域」と考古資料をもって力説しても
肝心のてめえが妄想している混乱後の新体制秩序を構築したような形跡を示す考古資料は出せない。

結局「すなお読み」に逃げ帰るしかないwwww

「すなお読み」に始まり「すなお読み」に終わるのがこの板のゴミクズ九州説wwwwwww
88日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:41:39
畿内説は詐欺をベースにしてるから、話しこむだけ無意味。
89日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:42:32
>>63

吉野ヶ里ブームが巻き起こったのが80年代終わり頃だったか?
そして90年代に入って近畿でも池上曽根とかが出て来て
大型建物(東西両端に棟持柱を持つ高床式建築物)は吉野ヶ里をしのぎ

今、大型環濠集落を畿内や九州だけに求めるアホはいない
…ここのゴミクズ九州説のようにアタマの中が80年代でストップしているような連中は除いてwwwww

吉野ヶ里の所謂3点セット「宮室・楼観・城柵」なんて考古学的に定義された物でもなく
ぶっちゃけマスコミによって喧伝された「キャッチコピー」だw

とは言えやっぱり目に見える形で集落が再現されていると言うのは大きい
(邪馬台国ブーム様様だなw)

今でも多くの日本人にとって環濠集落と言えば吉野ヶ里で
そのイメージの延長上に邪馬台国九州説があるのは間違いと思うwww
90日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:43:52
畿内説詐欺師は、相手をコミクズとしか呼べないのか?
91日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:44:49
我が国から大陸へのルートはおそらく一つ切りしかない。北九州から韓国
を経て帯方郡に到るルートである。
これ以外のルートは、現在の所まだ確認されていない。このルートによる航海でも、
距離は数十キロと短いが、当時にあっては大航海だったのである。

弥生前期は、少なくとも畿内は銅鐸文化で、丸木舟かまたは丸木舟を
つないだ程度のものでしかない。

外洋船用の準構造船は、鉄文化の出現を待たなければならない。
邪馬台国当時、北九州は、既に鉄文化で韓半島との交流はある。
北九州の古墳から出土している(中国製鏡、絹等)。
畿内からの出土はない。
従って、畿内から、韓半島へ行くとはとても考えられない。

畿内廚の頭の中では可能でしょうが。
92日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:48:38
>>90
一応リアルでの九州説と、ここの九州説と言ってもその中身は「邪馬台国東遷説」や「九州王朝説」の類とを
峻別する為の方便だなw

ここのゴミクズとリアルの九州説を一緒にするというのは
いくらなんでも気が引けるww

言わば良心から来たものなんだよwww
93日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:50:31
>>91
机上の空論でなく、現実的な議論をしないと何も始まらないよ
94日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:55:27
宮殿・楼観・城柵、それに鉄と絹は九州だな。

畿内は宮殿だけか。
95日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:56:20
>>91
>丸木舟かまたは丸木舟をつないだ程度のものでしかない。

それが準構造船なわけだが?www
(一本の丸太をくりぬいた物では(横幅が)小さいから何本かの木を合わせる)

準構造船の出現と「鉄文化」とやらの関連については
何の説明も持たないアホレス。

頑張って長文にしているがサイキバ君かな?


96日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:57:42
吉野ヶ里や筑後地方の出土物では
弥生中期には、農具にまで鉄が使われている。

重要なものではあっただろうが、
権力者が独占するほど希少なものではないことが分かる
97日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:07:24
>>95
人間は、自分の理解の限度を超える存在が出てくると、それを
ひとくくりにしたり、変なネームをつけて自分を安心させようと
し、自分の存在や持論を安定させようとする。

あなたはその典型的な畿内廚ですな
98日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:09:47
ちなみに木工技術で言えば例えば木材に「貫穴」を施した例なんかは
纏向より更に昔、既に縄文時代の富山県桜町遺跡に見られると言うw

一体「鉄文化」の下でしか成しえない準構造船を作るための技術とは一体何なのか?

果たして>>91の脳内にはきちんとその答えがあるのだろうか?wwww

99日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:10:02
外洋船用の準構造船は鉄で細かく木材を細工しないと、建造できない。
それくらいは、わかって下さい。
100日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:16:58
>>99
これまた答えにもなっていない漠然とした能書きだなw

「細かい細工」? 

一体船のどの部分でそれがどのように外洋航行に利するのかな?

言っている事に具体性がまるで無い、やり直しなさいw
101日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:19:48
準構造船の話はこれくらいにしますが、とにかく、弥生前期・中期
後期に畿内勢力(銅鐸文化)が、北九州を制覇してT大卒をおいて
韓半島まで進出していた。

という妄想は捨てましょう。
102日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:23:17
ちょい横から

構造船は竜骨などの応力に耐える部材を用いて
それに板や骨を組み合わせて構成する方式。

準構造船は厚板、くりぬき丸太などを応力部材として
それに板を組み合わせていく方式。

準構造船も基本的には構造船と同じ。
様式構造船にほぼ近いという意味で準構造船と呼んでいる。
103日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:24:25
>>101
世界最強、無敵の九州鉄器軍団が東遷して大和朝廷を創という妄想は捨てましょう。
104日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:27:46
まあ分かりやすく映像で見てもらいませうw

久宝寺から出てきた準構造船、庄内土器と出ているらしい。
http://www.occh.or.jp/event_katsudou/dvd/2pure.htm

つまり>>91にとっては
近畿はすでに庄内には『鉄文化』だったと言う事でおk?www

それも九州からの東征勢力が持ち込んだとか言うお話なのかな?wwwwww
105日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:30:29
黒曜石とかの石器でも何とかなりそうな気はするがな
106日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:33:37
>>100
ありがとうございます。
良くわかります。でも畿内廚の方は、竜骨や応力部材と
「木材に「貫穴」を施した例」を同程度の理解ではないかと
思います。

畿内説は、鉄文化、絹、準構造船、その他で説明するのは
いくつものハードルがあるにもかかわらず、その証明に力
をいれず、とにかく九州説を否定するのに全力をかけて、
いるような気がしています。

このスレの人もそうですが、何とか準構造船そのものを否定
するところから始まっております。おかしくはありませんか。
107日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:35:31
>>101
まさか知ったかぶりで「準構造船」なんて話しちゃたのでトンズラと言う事かな?wwww

つうか一体何処の誰が弥生前期から畿内がダイレクトに半島に進出したなんて言っているんだ?

アタマ大丈夫か?wwwwwwww
108日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:17
>>106
>竜骨

それまんま構造船や、準構造船とちゃうぞアホw

109日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:31
すみません、>>100>>102の間違いでした。
110日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:42
111日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:40:43
>>87
このおっさんは頭の構造に問題があるのかな?政治体制がいったいどんな考古学的事象に残ると言うのだ?
我が国の戦国時代でさえ城郭などの遺物はあっても具体的な政治状況はそれらだけからは何も分からんだろが。
文献資料があればこそ分かるのだ。

この石頭のおっさんには遺跡、出土物で分かることと分からぬことの区別もつかぬ。小学生なみの思考力しか
ないと見える。
112日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:47:12
>>108
やっぱしその程度の理解でしかないのか

銅鐸文化と丸木船程度の文化で邪馬台国を主張する畿内廚は
どこかおかしいよ。
113日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:47:13
>>111
使用語彙その他の傾向からして、名無しで書いているが縄文人かな?w

別に「文献一本でやる!」と言うならそれはそれで尊重されるべき姿勢だとは俺は常々言っているw

今後ご都合主義の考古資料のつまみ食いはやめてくれよ?w
114日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:58:40
サイキバっぽいこの馬鹿は、そもそも構造船と準構造船の区別がついていない感じだなw

115日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:21:37
>>95
サイキバ君が消えて、何カ月経つんだよ。いまだにサイキバ君の亡霊に怯えてるのか?
116115:2010/07/28(水) 20:22:54
>>114
お前もだ。
117日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:27:06
>>116
ほう、「何処がどう区別がついていないのか」説明してくれ

悔し紛れのケチレスじゃないんだったらなwww
118日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:30:47
>>117
サイキバ君が消えて、何か月経つんだよ。馬鹿も休み休み言え。
119日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:42:17
>>118
え?俺 ”も” 「構造船と準構造船の区別がついていいない」って話じゃないのか?

会話の成立せんやっちゃなw
ニホンゴワカリマスカ?

ところでお前はサイキバの馬鹿がいつ頃消えたのか分かるのか?w

まあ「畿内説は詐欺」だとかの与太しかいえない基地外は分類上サイキバで上等wwww
120日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:43:20
>>119
サイキバ君は、最近だとどこに現れたんだ?言ってみろ。
121日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:48:23
まあついでになんで>>91のような馬鹿げたお話が出てきたのか…

その(ゴミクズ九州説の心理的)背景を考えてみるとw

先ず「鉄」と言う物に対する漠然とした万能感見たいなものがあり
そこに九州説のアドバンテージを過大に見ているから

「鉄=準構造船」なんて意味の無い短絡を起こしたんだろうw

構造船と準構造船の違い、そこに鉄製の工具等がどう関係したのか
…なんて考察は一切すっ飛ばしたとwwwwwww
122日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:48:46
狗奴=国ですから、狗奴国というのは、国国(くにこく)となってしまって、いささか滑稽ですね。
123日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:52:59
>>119
この馬鹿は「www」しか書けないんだな
124日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:58:01
>>119
どうしてこのおっさんこんなに荒れてるの?
サイキバ君とやらに痛い目にあわされたの?
125日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:00:41
気持ちとしては反論しているようだが
なんについて反論しているのか
ちっとも分からない。
126日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:02:45
畿内説で決着してるからな。
遊んでるだけ。
127日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:44:54
まあ準構造船のネタを振った奴はトンズラしたようだがw

>>106
>「木材に「貫穴」を施した例」を同程度の理解ではないかと

…と「同程度」と切って捨てられちゃったがw
貫(ぬき)の技術って昔は古墳時代より相当後と考えられていなかったか?

以下、適当にググッたモンだが、高島センセイも加わっているw

http://www2.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/002.htm
>ただ貫は東大寺南大門が最も古いとされ、平安末期以降にしか日本には入ってこないといわれていた。
>研究仲間からは非難を受け肩身が狭かったが、その後の発掘などで貫の存在が明らかになり、
>今や貫を使った形跡は縄文時代にもあることが分かった。

恐らく今日我々が同じ事をやろうとしたら鋼の「叩きノミ」と木槌・金槌を使うって事になるか?
(まあ今日日プロならイッパツで穴を穿つ電動工具とかもってそうだけどw)

纏向の大溝に使われていた貫も結構インパクトあったらしいがw

結局、木工技術の水準なんて物は鉄器の普及云々とはあまり関係の無い話だったのではないかとwww
128日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:51:00
古代の歴史は全て妄想の要素を持っている。文字の形で残された史料も主観を免れない。記録者が把握できた事柄
だけの歴史である。そのような記録に現れた人物や事件を基に組み立てられた歴史も編纂者の妄想が入りこんでい
ないという保証はない。

遺跡、出土物から見える歴史となるとこれはもう妄想が主な要素というべきであろう。遺跡や出土物がどのような
物であるかについては多くの研究者に共通の認識は得られるであろうが、それらの物から年代を正確に定めること
は未だ困難であり、まして社会の態様や政治の状況を語るにおいては論者の想像力次第であり、ほとんどが妄想で
あると言っても過言ではあるまい。

このようなことであるから、我々は妄想を戦わせているのである。いずれが魅力的な妄想であるかを競っているの
である。
129日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:55:02
>>119はサイバキ君に痛い目にあわされてトンズラしたウンコマンだろ?www
見苦しかったよな〜www
130日本@名無史さん:2010/07/28(水) 22:58:39
ここ面白いね。
邪馬台国なんてとっくに畿内説が正しい、で決着ついてるのかと思ってたけどそうでもないんだな。
畿内説がここまで必死になるほど不利だとは知らんかった。
しばらく見物させてもらうわ。
131日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:26:28
いや、畿内説でとっくに決定してるよ。
畿内説詐欺コンツェルンは微動だにしない。
132日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:28:07
>>131
「畿内説は詐欺だ」と叫びつつける馬鹿 = サイキバくん

133日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:35:33
もう、日本国民には九州だって分かっちゃってるのに、
「マキムク畿内教」というカルト教団が、学会を占領中。
134日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:45:52
真面目な話、畿内説を信じている学者なんていない。
信じているフリをしているだけ。
こんなのは常識以前の知識だろ。
135日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:49:33
>>120
>サイキバ君は、最近だとどこに現れたんだ?言ってみろ。

・・・>>134-134にいるみたいだぞw
136日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:01:30
てゆうかマキムク信者とか、異常すぎてドン引きだろ。
集落遺跡がひとつたりとも出土していない異常な都市遺跡。

そりゃ、頭がおかしい今にも暴れそうな人が向こうから歩いてきたら、みんなが
道を譲る。それを期待するのが、学者のやることとは思えない。
137日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:30:47
年輪年代にしても、グラフが一度たりとも開示されない状況でほかの学者が
これを引用してきたという異常なことが続いてきた。

学者がプライドをかなぐり捨てて、周りを威圧するようなことは止めて欲しいね。
138日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:39:04
>>135
それは普通に国語のできる人でしょ。
「邪馬台」を「やまと」と振り仮名を振るような、日本語が不自由な人じゃありません。
139日本@名無史さん:2010/07/29(木) 01:09:14
>>137
まあ、おかげで”結果的には”近畿関西の考古学もやっと九州に追いついたのかな?w

と言うか年輪年代の登場を待つまでも無く年代観の変更はされるべきだった。

そこはこの板のゴミクズ九州説とて批判していいぞwwww
140日本@名無史さん:2010/07/29(木) 03:20:05
三角縁神獣鏡舶載畿内説w
箸墓年代繰り上げ畿内説w
年輪年代グラフ隠ぺい畿内説w
141日本@名無史さん:2010/07/29(木) 04:01:01
で、九州のどこに卑弥呼の墓があるのか、だれも答えられない九州説wwww

142日本@名無史さん:2010/07/29(木) 08:18:03
日向にあるよ。どれか、分からんけど。
畿内説のいう箸墓は卑弥呼の墓には合わんぜ。
合わないのを主張したってだめだ。
143日本@名無史さん:2010/07/29(木) 08:56:33
>>143
老い先短い畿内厨の老人どもには
ちょっとくらい夢を見させてあげてもよいのではないですか?
後生大事に箸墓は卑弥呼の墓と思い込みたいのならばそうさせてあげましょう
若いのに畿内説を本気で信じている者など今どきほとんどいませんしね
144日本@名無史さん:2010/07/29(木) 09:14:58
>>142
>畿内説のいう箸墓は卑弥呼の墓には合わんぜ。
>合わないのを主張したってだめだ。

「合わない」・・・その理由は?
 
145日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:13:40
魏志倭人伝の情報量では、近いところまでは行けても
特定は出来ないんだから、分からないのが正しい。

というより、いったいどんな情報があって
箸墓とかマキムクになるのか教えて欲しいもんだ。
146日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:49:34
流石●の聖地だけあって関西人の妄想と粘着は凄いな()笑
この粘着は、サイキバ、サイキバって、何年吠えれば気が済むのだろうか?
147日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:53:25
>>144
>「合わない」・・・その理由は?
@ 卑弥呼の墓は、径百余歩、せいぜい150メートルまで。箸墓は倍はあるよ。 
A 倭人伝は「槨なし」と伝える。箸墓は槨があるだろう。
B 副葬品に銅鏡があったら書かないはずはないが、倭人伝は副葬品に触れていない。
 箸墓には銅鏡の副葬がありそうだ。
148日本@名無史さん:2010/07/29(木) 11:21:33
>>146
畿内説を支持する関西人は意外に少ない。
大きな古墳を小さい頃から見慣れている目には、
狗奴国にやられそうで魏に救援を求めるような邪馬台国などという弱小国が畿内にあったなどどいうのは
承服しがたいことなのだとか。
149唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 11:39:49
 從帶方(郡)至倭、 循海岸水行、歴韓國、從乍南乍東、 到其北岸拘(狗)邪韓國、
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

狗邪韓國は倭地である。
ここに出てくる「大倭」とは
倭国(日本)を統一した畿内ヤマト=大和=大倭以外に無い。
倭国統一は景行時代である、それは壹與の時代でもある。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ
よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし
つかえしむ
景行20年庚寅 如月4日に 五百野姫 皇子内親王 伊勢の神 祀る祝いは 筑紫向け
姫今年14才 やまと媛 今年108歳 …
我が八十武者 12指揮官 五百野に移し 仕えしむ。
この武者は大彦の末裔、磐鹿六雁以下の面々、後の風早国に住す。
壹與が筑紫に下向するとき、軍隊も同行し、伊都に駐留する。
もちろん日本武尊の熊襲征伐の主力である。
魏志の壹與13歳とは、九州平定の終了した年の年齢である。
そして九州諸国が一大率を畏憚するのは、日本武尊以降になる。
魏使は伊都に滞在している。でなければこれだけの情報を集められない。
150日本@名無史さん:2010/07/29(木) 14:38:00

イヨタン・・・・・・・・・・
 
151ローガン:2010/07/29(木) 14:59:32
>>147横失礼。
>@ 卑弥呼の墓は、径百余歩、せいぜい150メートルまで。箸墓は倍はあるよ。 

「前方後円墳」とするのは現代の認識。
釈紀引用筑後國風土記、「有筑紫君磐井之墓墳高七丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各四十丈」
磐井の墓は岩戸山古墳で確定。「高七丈周六十丈」は岩戸山古墳の後円部の大きさ。つまり「磐井之墓墳」とは前方部を含まない。これが古代の認識。
同様に考えれば良い。箸墓の後円部でピタリ。

>A 倭人伝は「槨なし」と伝える。

「有棺無槨」は徑百餘歩と特筆された王墓に関する記述部分ではない。

>箸墓は槨があるだろう。

開けてないので解らないが、おそらく「竪穴式石室」だろう。これを古代中国人が「有槨」と判断するとでも言うのか?
魏志董卓伝に「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」とある。竪穴式石室が槨なら、プカプカと水に浮くのか?

>B 副葬品に銅鏡があったら書かないはずはないが、倭人伝は副葬品に触れていない。

何故「はずがない」のか?意味がわからない。
 
152日本@名無史さん:2010/07/29(木) 15:17:06

■弥生時代の石棺に人物画、呪術師か 北九州・城野遺跡

朝日新聞 2010年7月22日
http://www.asahi.com/culture/update/0722/SEB201007210082.html

 北九州市小倉南区の城野(じょうの)遺跡で、弥生時代終末期(3世紀前半ごろ)の墓の石棺に、武器らしいものを持つ人物像が描かれていることがわかった。
弥生の石棺に描かれた人物画は極めて珍しく、弥生人の葬送儀礼を知る貴重な手がかりになりそうだ。

 城野遺跡は同市芸術文化振興財団の埋蔵文化財調査室が発掘してきた。
昨年、周りに溝を巡らせた方形周溝墓が発見され、子供用の石棺が見つかった。石棺の内側には赤い顔料が塗られ、頭側の板に、大きさ約20センチの人物の上半身が薄く彫り込まれていた。
右手に武器、左手に盾のようなものを持っている。武器とすれば、弥生遺跡で出土する戈(か)とみられる。胴体には格子模様、顔には複数の目のような表現があるという。

 弥生時代の土器などには、武器を持つ人物が描かれたものが見つかっているが、それらは、農耕儀礼を表しているとみられている。
だが、今回の人物像について、設楽博己・東京大教授(考古学)は「石棺にあったということは、墓の中で邪霊をはらうものと考える方が理解しやすい」とみる。

 さらに、古代中国の文献「周礼」に登場する呪術師「方相氏(ほうそうし)」ではないかとの指摘も出ている。
方相氏は四つ目の面をかぶって戈と盾を持ち、律令時代の日本では宮中の、鬼を払う追儺(ついな)の儀式にも採り入れられた。
ただ、石棺の絵は線が細く、細部もはっきりしないため、研究者のなかには慎重な見方もある。
同市教委は「これからさらに詳しく検討したい」としており、近く石棺の一部を現場から屋内に移し、調査を続ける予定だ。

城野遺跡の石棺の壁に描かれた人物
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210084.jpg
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210089.jpg

方形周溝墓から出土した石棺。朱色に塗られていた=2009年11月、北九州市の城野遺跡
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210088.jpg

古代中国の方相氏
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210083.jpg
153日本@名無史さん:2010/07/29(木) 15:35:15
>>147さんに付け加えると・・・

邪馬台=大和音読説だの
三角縁神獣鏡舶載説だのは
畿内説の幼稚さゆえに破綻した。

そこで畿内説は、箸墓年代を無理やり繰り上げて
箸墓卑弥呼墓説を強硬に主張。

論理が幼稚で非科学的であるだけでなく、
魏志倭人伝を自由自在に無視・改変するのも問題で、
足利事件DNA鑑定並みのねつ造を、あれこれ出してくるような
畿内説の謀略的展開が鼻を突く。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 16:01:38
>>149
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜

他人に偽書といわれる書物を持ち出したとか言い、威張りやがってテメエが持ち
出すんじゃぁ、2ちゃんの住民にソッポを向かれるで。信用ドカ落ちだぞ。><
155日本@名無史さん:2010/07/29(木) 16:24:30
九州には、卑弥呼の墓も、卑弥呼の都も存在しないしなあ。
156日本@名無史さん:2010/07/29(木) 17:48:25
偽書はいけませんね。まあそこまで追い詰められているということの証明でもありますが。
157日本@名無史さん:2010/07/29(木) 17:54:05
世にいう三種の神器というものがある。
・剣
・鏡
・玉(勾玉、壁)

弥生遺跡からの剣の出土状況
 銅剣、銅矛は北九州が圧倒的に多数
 鉄剣についても同様で畿内はほとんどない。奈良は「0」
弥生遺跡からの漢式鏡の出土状況
 北九州から多数出土している 畿内はほとんどない
弥生遺跡からの玉の出土状況
 これも北九州からの出土が圧倒的に多い
弥生遺跡からの絹の出土状況
 北九州が圧倒的に多い。漢製絹は福岡のみ

弥生遺跡からの三種の神器の出土は福岡県の3例のみ
あの吉野ケ里でさえも、剣のみの出土でしかない。
弥生末期に銅鐸が壊されて、捨てられた畿内の部族が
韓半島に出陣したという妄想は(日本書紀も捻じ曲げて)
辞めて、銅鐸の研究をされた方が良いのではないか?
158日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:23:53
さて昨日の
「準構造船は鉄文化の賜物」…なんていうゴミクズ九州説の戯言を総括しておくと

結局、その豊富な鉄器の量は造船技術を含む木工技術全般を大きく進展させた
…なんて事実は今のところ確認できないって話になるかな?

(尚、念の為断っておくが、当方あくまでゴミクズ九州説の与太を叩いているだけで
別に鉄器の量の豊富さに関して殊更過小評価しようとかそんな了見は持っていないのでw)

しかし豊富な鉄器量が九州にもたらした物はなんだったのか?
(一度できればその評価に対して実のある話を聞いてみたい、もっともここの九州説には微塵も期待できないがw)

そもそも人口が他地域より多いなんてことも無い以上
農耕収穫量を鉄器が引き上げた…なんてこともなさそうだし

無論、軍事面において「むてきのてっきぐんだん」なんてのはここのゴミクズ九州説の与太以外の何物でもないw

そこら辺の正しい評価と言うのは今後の学者らの課題なんだろうな。
今でも畿内説というより考古学者にも連合体の形成の主要因に「鉄資源の確保」を考えている人は多そうだ。

…でもどちらかと言うとそう言った「鉄重視」の立場をとるのは旧い人の方が多いんだろうか?
ぶっちゃけ、シナリオとしては分かりやすそうだしw


159日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:25:33
>152

しかし「四つの目を持つ方相氏」か…
中国ってこう言う一種の「奇形信仰」っポイのがあるよな?
(まあ意外に洋の東西を問わずあるのかもしれんが)

「特別な人間には特別な”相”が顕れている」みたいな?wwwwwww

確か漢楚の戦いの項羽も一つの目に二つの瞳で計四つの目を持っていた…なんて伝説がなかったっけ?ウロオボエだがw


160日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:41:31
>>158
ヒッタイト人でも研究するか、出雲たたら文化でもひも解いて
から、偉そうにほえなよ。
鉄の文化が人類にどんな影響を及ぼしたかわかるんでないか

それにしても、本当に知識が浅い割に偉そうですね。
161日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:47:56
>>160
>知識が浅い割に偉そう

畿内説患者特有の症状です
162日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:05:56
>>160
ヒッタイトねえ…

幾度と無く繰り返したエジプトとの抗争で
勿論エジプトを征服したなんて事は無く

それどころか何処の馬の骨とも分からない謎の民族に滅ばされたと言うアレか?w

こんな脊髄反射しか無いからゴミクズ九州説には期待できないと言っているわけだがwww
163日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:13:05
>>157
>世にいう三種の神器というものがある。

たしかにあるなw
だがそれがどうした?って話でコイツが何が言いたいのかサッパリ分からないwww

九州の事例を挙げ畿内にその例が無いというのなら
少なくともその両地域に「三種の神器」なる物の習慣が継続されたと言う痕跡は無いという話だよな?wwww

そもそも「三種の神器」は皇位継承の証であって
墓の中に入れちゃったらそれはもう意味をなさないw

精々「三種の神器と同じ組み合わせの副葬品」ってだけのお話w

もっとも記紀を読んだだけでも「三種の神器」が出てこなければならない場面で「二種の神器」だったりするわけでw

これももう万年ループネタ。

もっともサイキバレベルのアホは学習しないがwww
164日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:21:53
卑弥呼の墓が、箸墓の特徴と、どこも一致しない件について
165日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:27:44
纏向の建築が、邪馬台国の建築の特徴と、まったく一致しない件について
166日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:28:46
畿内の風土が、魏志倭人伝の記述と、まったく一致しない件について
167日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:30:45
まあ、たしかに三種の神器は
卑弥呼の補強材料にはならないな。
倭人伝他にそんな記述は全く無いから。

せいぜい大和朝廷のルーツ特定の材料になるだけだ。
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 20:44:41
>>151
>徑百餘歩と特筆された王墓

箸墓の周りは濠であり、歩測出来ない。
濠の外から”円”の部分だけ測ることも出来ない、墳墓に登ることは御法度でしょう。
169唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 21:14:43
>@ 卑弥呼の墓が、箸墓の特徴と、どこも一致しない件について
>A 纏向の建築が、邪馬台国の建築の特徴と、まったく一致しない件について
>B 畿内の風土が、魏志倭人伝の記述と、まったく一致しない件について

@ について
畿内に長い乱が確認出来ない以上、卑弥呼は大和に居ない。
A について
景行51年正月に「時皇子稚足彦尊。武内宿禰不參赴于宴庭。」時を忘れて不参加であった、
そのみそぎ?として「故侍門下備非常」門番をした。
この守衛の部分は記述と合う、纒向遺跡は発掘途中である、よって楼閣の出土も期待できる。
B について
魏志倭人伝の記述風土は、松浦周辺までと思われる。松浦に卑弥呼が居ない限り、記述に
違いがあっても問題では無い。

しかも不知正歳と書かれているが、女王への文書伝送に誤りが無いとも書かれている。
文書は読めるが暦は無い。と云うことはあり得ない。
これは書かれた風土と女王の間が離れている証拠である。
170日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:37:38
纒向遺跡には周囲に巡らせた柵、堀が確認されており
明らかに戦に備えた軍事施設に護られた集落。
邪馬台国の首都と考えても問題はなさそう。

邪馬台国が大和政権になったとは考えない。
その証拠に、日本書紀は生涯未婚の卑弥呼を
夫子供のいる神功皇后に当てるという相当な間違いをしている。
よって、日本書紀に大乱の記述がないから
畿内に大乱がなかったとは取れない。
171唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 22:00:48
畿内が大きく乱れたのは、忍熊王等が殺された 神功紀から。
その証拠として、諱が伝わっていない。

>畿内に大乱がなかったとは取れない。
とはいえ、大倭(大和)が伊都国に一大率を置く。これが魏志の記事である。
乱は九州、よって卑弥呼も九州。しかし卑弥呼に位を譲った九州王家にこの乱を平定する力は残っていない。
代わって乱を収めたのが大倭であり、その九州に一大率を置く。
172日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:13:49
>>157
>世にいう三種の神器というものがある。

でも、九州の古墳から。三つセットで出てきたことは無いわな。

あったら教えてくれ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 22:23:32
発掘調査現場から(241回)
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html
 調査区は南北に傾斜する微高地上に位置しており、その地形に合わせて整地土が厚く盛られ、
平坦な土地をつくっています。整地土内からは庄内式期古相(3 世紀前半)の土器が出土して
おり、下層遺構は主にこの時期に構築されます。また、これらは庄内3式期(3世紀中頃)の溝
によって壊されていることから、こ の時期に廃絶するものと考えられます。

3世紀前半から同一地点で宮を作り替える。
「整地土が厚く盛られ」ていたら日代かもしれない。
ヒ=干からびる、の干
代=田代、の代 平らにならした土地

3世紀中葉が景行の時代である。
伊都の庄内式は、軍隊の駐留を意味する。

古墳時代に九州王朝は無い、よって三セットが副葬されることもない。
174日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:36:56
>>151
>「磐井之墓墳」とは前方部を含まない。これが古代の認識。
筑後國風土記を書いたのは、8世紀の日本人だろう。3世紀の中国人ではない。
それに、風土記には、「墓田南北各六十丈東西各四十丈」とあり、墓全体の広さ
を示している。径百余歩を後円墳のみの大きさとしたら、墓の一部の長さを示し
たにすぎないこととなる。そんな表示の仕方はあるまい。

>「有棺無槨」は徑百餘歩と特筆された王墓に関する記述部分ではない。
王墓は例外だとはどこにもないぜ。

>槨なら、プカプカと水に浮くのか
君は槨とは水に浮くものだと思っているのかね?
石棺は棺ではないとか?
175ローガン:2010/07/30(金) 00:02:58
>>174
>筑後國風土記を書いたのは、8世紀の日本人だろう。3世紀の中国人ではない。

そう。現代日本の「前方後円墳」と云う括りが、されていない時代の認識だ。

>それに、風土記には、「墓田南北各六十丈東西各四十丈」とあり、墓全体の広さを示している。径百余歩を後円墳のみの大きさとしたら、墓の一部の長さを示したにすぎないこととなる。そんな表示の仕方はあるまい。

墓墳と墓田にちゃんと分けて書いてある。冢とはまさか墓域を指すとでも言うの?
冢の記述の必須事項は「高さ」。高七丈と記された磐井之墓墳が、冢。

>君は槨とは水に浮くものだと思っているのかね?

君はつまらないね。
176日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:18:56
メソポタミア平原のティグリス川の下流にラガシュという都市があって
その都市を支配していたウルナンシュ王ニンギリスの最高行政官はサンガと呼ばれていました。
更に、アッカド王朝4代目の王は、ナラム・シンは、そう奈良(=国)の王なのです。
しかも、下記の粘土板を見てください。牛の角を生やした兜をかぶった姿は、まさにツヌガアラシトそのものです。
シュメール語のルガルは「王」の意ですし、メソポタミアの古代文明と日本の古代文明に共通点があまりのも多いのです。
アレキサンダー大王の東方遠征によって滅ぼされたシュメールやアッカドの王の末裔が日本に渡来したことは間違いありません。

まだまだ勉強不足で、まとまりのある説明ができませんが、少しずつ整理して書きこんでいきます。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/Stele_Naram_Sim_Louvre_Sb4.jpg/300px-Stele_Naram_Sim_Louvre_Sb4.jpg
177ローガン:2010/07/30(金) 00:47:31
>>175の続き。
卑弥呼の冢には高さの記述が無い。倭人伝には「大作冢」とあり、大いに冢を作る…つまり工事の活況を述べたもの。
始まって間もない作冢の規模、わかる範囲で記述したものが「徑百餘歩」。
その段階では前方部の土盛りなど、無いと考えるのが穏当だろう。前方部の土盛りが後工程であるのは河内大塚山を見ればわかる。

又、槨についてであるが…槨とは外箱、言い換えれば、地山と棺を隔てるもの。
粘土床の上に棺を据え、その後から周囲の石を積む手順の竪穴式石室、これを指して「有槨」とする人の槨の定義を伺いたい。
又、明日。
178日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:51:01
>>170
その手のお話は珍しいなw意味新鮮だw

過去には邪馬台国は結局狗奴国に滅ぼされ
その狗奴国の後裔こそが今の大和朝廷に繋がる…と言う説もあったと思うがw

まあ滅ぼされた畿内邪馬台国が葛城王朝で
滅ぼした狗奴国が三輪朝という話もあったけ?wwww

しかしそのお話だと
「じゃあ、大和王朝は畿内邪馬台国と別にいつ何処に発生したのか?」と言うツッコミは当然出てくるだろうがwwwww
179日本@名無史さん:2010/07/30(金) 01:02:08
>冢の記述の必須事項は「高さ」。高七丈と記された磐井之墓墳が、冢。
前方部は冢に入らないとでも? まあ、岩戸山の前方部は山を利用したもの
かも知らんが。

>わかる範囲で記述したものが「徑百餘歩」。
ご都合主義解釈の典型だな。完成時の大きさが分からないまま書いたというなら
敷地の広さと解すべきだろうに。
180日本@名無史さん:2010/07/30(金) 01:22:04
>粘土床の上に棺を据え、その後から周囲の石を積む手順の竪穴式石室、
倭人伝には、「封土作冢」とあるな。石で封じてはいない。
181日本@名無史さん:2010/07/30(金) 09:10:50
>>159
>しかし「四つの目を持つ方相氏」か…
中国ってこう言う一種の「奇形信仰」っポイのがあるよな?

四つ目の仮面だよ。良く読もうね。
182日本@名無史さん:2010/07/30(金) 09:34:01
>>179
>その段階では前方部の土盛りなど、無いと考えるのが穏当だろう。前方部の土盛りが後工程であるのは河内大塚山を見ればわかる。

前方部と後円部は同時に作られた ことがわかったらしいので土盛り前の外形はあったんじゃないかな。
183ローガン:2010/07/30(金) 15:36:09
>>182
>土盛り前の外形はあったんじゃないかな。

土盛り以前の低い「前方部」は墳丘構築資材の仮置き場。
石や土を担いで、ここと円墳を大勢の作業員が忙しく往復する活況を使者が目の当たりにしたら、
「作ろうとしている冢とは、資材置き場の先にある丸い丘である」と認識して当然。
184日本@名無史さん:2010/07/30(金) 15:37:43
資材置き場なら、造成後に撤去するのが当たり前。
185日本@名無史さん:2010/07/30(金) 17:34:56
景行天皇(ウィキペディア)
(日本書記では71年8月24日〜130年在位)

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、
時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)
の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものである
として、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には
疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占め
られ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定
すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている

景行天皇を邪馬台国時代に想定はやはり無理があるかな?
186日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:12:13
景行天皇が2〜3世紀ころの人物と想定すると、当時の畿内の生活様式
からして、遠征するには無理があると思われます。
(記紀の年代は信ぴょう性にかけるので無視するのですが)

3世紀(100-299)弥生後期の畿内
 ・鉄製農具はないので、木製の鍬・鋤、包丁は石包丁
 ・食料は熱帯性陸稲があったと仮定して、米・粟、干し肉だろうが十分ではない。
 ・銅剣、銅矛はないので武装は、木刀、木製やり、竹製弓(先端は黒曜石?)
 ・移動手段は、歩行、丸木船(大きな河川には橋がないので移動手段は船?)
 ・装備は革製の短甲、毛皮
 ・銅鐸文化(銅鐸は4世紀初頭に突然、破壊され、破棄されている)、海外交流痕跡
  ほとんどなし

 以上の点から、畿内の部族は外からの侵略者により征服されるのを
 待って、4世紀以降からその部族が台頭するのを期待しましょう。
187日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:29:47
>>186

景行が2〜3世紀どころか架空の人物だというのには同意だが
その前提というか根拠はかなり無茶だね。

・鉄製農具はあったと見られている。鉄板装着型(これは九州も同形式)の木製具が出土している。
 この状況は畿内だけでなく、東海、北陸、関東でも同様。
・まあ299年までつまり3世紀末まで弥生時代とするのはかなり昔の年代観だが
 その時代ともなれば、これも関東でも水田耕作は行われている。
 但し九州も含めて、米作の収穫量は十分ではない。当時の倭国全般の植物性の主食は、アワ、ヒエ、ドングリなど。
・悪いが九州でも橋があったとは考えられていない。丸木を倒した程度のものはどこでもあったろうが
 これまた九州でも準構造船が主流で、やはりこれも全国的なもの。
・装備(笑)についても、どこでも似たようなもの。鉄剣は当たり前の話だが当時の鉄の強度では武器になりえない。
・このスレでも繰り返し書かれているが、銅鐸の一斉廃棄というのは幻想。というか4世紀って何?
 ちなみに海外交流痕跡だが、これは北九州より少ないのは当たり前で、無関係。
 そのかわり本州各地の土器が終結している。纏向遺跡を参照の事。
 実情は地区ごとに少なくとも100年以上かけて徐々に消える。古墳時代に入ってから消えるものすらある。

東征とかもうホントに今の時代そんなこと考えている人は、アマでもあまりいないんだってことを知っておいてね^^
188唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 19:37:14
>景行天皇の実在性には疑問が出されている。

書紀は太陰暦で書かれている、そして正朔の文字がある。
但し、暦は伸長されている。正しい暦にするためには、この伸長された空白年を
取り除けば良い。方法として、太陰暦と正朔をたがえてはならない。
太陰暦は19年7閏6940日の積み重ねである。各天皇紀から19年×n回の空白を差し引いても
太陰暦と正朔に変化は無い。

これが成務までの暦である。
景行を抜くと、正朔が得られなくなる。正朔の得られない太陰暦は存在出来ない。
思考に間違いがある。

189唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 19:51:53
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲りは 近江伊勢遺跡の衰退。古墳、庄内式の始まり。
209年 新羅本紀に伽耶の登場=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場。
323年 癸未年 四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
326年 五二年七支刀  百済本紀の数字には狂いがあるとし、百済王家はこれに合わせる。
  応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

新羅本紀に合わせた編年です。百済本紀に合わせると5、60年遅くなり、太陰暦もえられない。この事実は
韓国考古学の云う土器編年で5,60年狂うのと同一である。
190日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:55:07
>>187

>>61とほぼ同じような事を言っているな、特に「河川に橋」とかw

…トンズラこいた準構造船君だなw

まあ大遠征が不可能だったろうと言う見立てに関して文句は無いし
他の連中も大概そうだと思うが…

それは西から東に関しても同じ。
東征劇なんて現時点、空想・妄想としか言いようが無いwwww

じゃあ逆に言えば
3世紀までは不可能で4世紀以降にヤマト王権が勢力を伸ばしたのは
如何なる切欠があったのか?と言うお話で

東征勢力が製鉄技術を持ち込んで鉄器ザクザクの国になって準構造船を作って(w)
富国強兵に勤めそこから快進撃の征服劇が始まった
・・・なんて話は現実にはありえない与太だからなw

まあ長文だが中身はサイキバレベルだな  ウンザリ('A`)
191日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:08:13
しかし「箸墓=卑弥呼の墓」説の論争でいつも思うのだが…

墳墓の大きさや形、埋葬主体部の構造…そんな物曖昧模糊とした物より
「奴婢百余人の徇葬」を持ち出すのが一番手っ取り早いと思うのだが?w

無論箸墓は考古学者らが中に入っての調査がされたわけでも無いが
あの段築を見ても特別にそれが形に出ているとも思えないし

潰されたり削られたりした古墳から徇葬の跡が見つかった…なんて話も聞いたことは無い。
無論「卑弥呼の時だけの特異例」と言う可能性はあるだろうが

実際「箸墓=卑弥呼の墓 説」を言っているような学者でも
箸墓にそれがあると思っている人間ていないのでは?w

「すなお読み」を掲げるここのゴミクズ九州説なら
そここそがツッコミドコと思うのだが…

実際、九州説の連中もそんな物は無いとか思っているのかな?www
192日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:16:06
>>191
みんなそう思ってるだろ?
193日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:28:23
>>192
しかしその部分が「信をおけないもの」と言う事になったら

「径百余歩」だの、「棺アリ槨ナシ」(もっとも、そもそもこれは倭人一般の習俗として書かれているものだが)
…なんてお話も怪しくなるんじゃね?

九州説的にいいのかな?w
194唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 21:18:18
箸墓には、初期埴輪がある。
当然垂仁以降でなければならない。
195日本@名無史さん:2010/07/30(金) 21:39:35
>「奴婢百余人の徇葬」
これはどこに埋葬されるのか、後世まで痕跡が残るような埋葬方法か、などといった
問題があるからね。それこそ、曖昧模糊とした部分が多いと思うよ。
形は客観的な問題だ。畿内説論者にとっては苦しいところだよ。

>「前方部」は墳丘構築資材の仮置き場。石や土を担いで、ここと円墳を大勢の作業
>員が忙しく往復する活況を使者が目の当たりにしたら、「作ろうとしている冢とは、
>資材置き場の先にある丸い丘である」と認識して当然。
ローガンは、箸墓が畿内で最初の前方後円墳だと思っているのかな? 使者は先に造
られた前方後円墳も目にしているはず。誤解などするはずないね。
こうゆう馬鹿な場当たり的説明しかできないところが畿内説論者の泣き所さ。
196日本@名無史さん:2010/07/30(金) 21:57:02
王の娘を宗女にするのは、メソポタミアのシュメール王朝、アッシリア王朝からの伝統です。
卑弥呼はメソポタミアから来たことは間違いないのです。
どうしてそれを認めようとしないのか?不思議でなりません。
197日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:01:42
>>195
>ローガンは、箸墓が畿内で最初の前方後円墳だと思っているのかな? 使者は先に造
>られた前方後円墳も目にしているはず。誤解などするはずないね。

俺、ローガンじゃないんだが、畿内の大型前方後円墳で最初のものは、恐らく箸墓古墳だと思っているよ。
そう考えている考古学者も、結構多いと思うよ。
198日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:19:44
>>190
都合が悪くなるといつもトンズラしているジョーカーさんが何か言っているぞww
199日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:31:55
>>197
>そう考えている考古学者も、結構多いと思うよ。

と言うか箸墓が定型化された最初の巨大古墳だと言うのは定説と言って良いと思うがw
段築(の数)とか埴輪の配置とかetc…

ただ個人的には果たして「纏向型」から一気にあんな巨大な物にジャンプしたのかどうか
疑問を持つ部分もあるwwww

まあ>>195が言っているのは恐らく「纏向型」の事で
当然、箸墓築造中なら既に出現している「纏向型」を見てるだろう…って指摘なんだろうがw
200199:2010/07/30(金) 22:37:58
ただ逆に言えば「(より円形に近い)纏向型」を見て築造中の箸墓の完成を推測したなら
円墳に近い物を想像したと言うのも成り立つ推論wwwwww

そもそも今日の考古学者とて「纏向型前方後円墳」じゃなくて「突起付円墳」みたいに呼ぶ人間もいたっけ?wwww

201日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:32:01
「方」と「円」が対等に存在している、なんて思うのは、前方後円墳という名称があるからだね。

そもそも「前方後円墳」と命名したのは、江戸の儒学者、蒲生君平だ。
古代中国の馬車の車両部分に見立てた命名らしい。

思い込みが無ければ、円墳にステージを付けただけ、というように見えるはず。
202日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:09:55
203日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:26:28
>>201

すまんミスったwww

>思い込みが無ければ、円墳にステージを付けただけ、というように見えるはず。

だから長突円墳と呼ぶ流れがあるのだが。
君平ちゃんの見立ては、一般用語として使っているわけですよ、じゃないとほとんどの人が用語で戸惑うでしょw
ただそのステージの変遷はある程度研究が進んでいる。
問題は主部である円(方)部の構造にあるのだわ。
前方部の変遷も重要だが、主体の工法が円と方ではまるで違うわけで
これはローガン老がいみじくも指摘したように
主体部をいかに造成したか、もしくは俯瞰図のみでは判別できない段階層の造りなどが
如実に違う文化に基づいた相似系であることを示している。

そういえばローガン老の一連のレスは、大林組の試算を基にしたもので近藤氏が提唱した工法によるものだと思うが
あれは五色塚の復元の際の試算的工法によるものだから、そのまま長突部が主体部造成のためのものとは言い難いのではと思う・。

最初の話に戻ると、なぜそのステージが必要となったかだろうね。
儀式用?はたまた追葬用?
これは宮内庁と合同での箸墓半解体を軸とする今後の調査で、ある程度判明すると思う。
204日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:47:41
>>203
>長突円墳

酷いネーミングだな。前方後円墳より1億倍以上酷い。
その酷いネーミングをなぜ広めようとするのか?
前方部と後円部の比率とか、そういう研究の妨げになるネーミングをしたいだけとしか思えないね。



205日本@名無史さん:2010/07/31(土) 02:06:16
石野は「突部」とか「円部」とか呼んでいるのかな?
206日本@名無史さん:2010/07/31(土) 08:56:20
前方後円墳は、だれが作ったかというのも謎ですね。
やはり、大林組や竹中工務店のようなネコンが古代にも存在し、
設計から施工管理まで請負って、地元の下請け業者に造らせたのでしょう。
では、そのようなゼネコンはどこからやってきたかといえば、
万里の長城を作っていた集団が、秦から渡ってきたと見るのだ妥当でしょう。
そしてその前はメソポタミアでバベルの塔を建て、エジプトでピラミッドを作ったのかもしれません。

現在、ドバイタワーや東京スカイツリーを建てているのも彼らの子孫かも知れません。
207唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 09:32:23
前方後円墳を作ったのは、景行以後 各地の屯倉に派遣された人等である。
この人等はその地方を治める権利がある、その代わり兵役を負う。
つまりその地方の軍の隊長である。
まず宛がわれた土地に従わぬ者が居たら、その者等を武力で従わせる。そしてその地に農業を根付かせる。
それから要請による軍の出動、半島への進出はその証である。
古墳への副葬が軍人の様相を帯びるのは当然の帰結である。
208日本@名無史さん:2010/07/31(土) 09:36:59
>>206同意
四天王寺を建てるために渡来した技術者集団「金剛組」は1200年もの間、その組織が受け継がれているけれど、多くの組織は常に興亡を繰り返している。
前方後円墳を作ったのも、大陸から渡来した技術者集団だということは間違いなく、日本全国いたるところに大小さまざまな前方後円墳を作りまくって栄華を極めたけれど、そのブームが去ると組織は解体し消えていった。
しかし、その技術者の子孫は別な仕事で別な組織を作って生きながらえたはず。
白鳳時代や奈良時代の巨大建築物を作ることができたのも、結局は前方後円墳を作るために渡来し帰化した多くの技術者がいたからこそできたのであって、
その後の日本の土木・建築技術を継承してきたのも彼らだったと見るのことができます。
209唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 14:51:26
>日本全国いたるところに大小さまざまな前方後円墳を作りまくって栄華を極めたけれど、

これを渡海集団とすると、その集団に仕事を頼んだ人間は誰だ?
しかも古墳時代という特定期間に無数の古墳を作る。
今ある寺院の数程度は数年で作らねば追いつかないぞ。
210ローガン:2010/07/31(土) 16:27:39
>>203
>長突部が主体部造成のためのものとは言い難いのではと思う・。

勿論、そもそもの突出部とは、西条52号等にみられる「主埋葬箇所に達するための『整えられた道』」(近藤義郎)でしょう。
それが「前方部に転じたとする考えに立つならば、前方部も又、『道』であります。『大仰に整えられた道』であります。」(同)
つまり、大型古墳の突出部も墓へ向かう為の道。本設である。が、その前方部の整地→土盛りの工程は一気に行われず、中断期間を設け、その間 円墳構築の資材置き場並びに、仮設通路として使用したものと考えます。
件の倭人伝の記述は、その際の一場面を表したものであろうと云うのが私の考えです。
211日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:32:54
>>209

>>208に釣られるなんて恥ずかしすぎる。
212日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:38:34
必死にコテハンで書き込んでいる、唐松山とローガンの
存在自体が恥ずかしすぎる。
213日本@名無史さん:2010/07/31(土) 17:24:31
もう邪馬台国は大和で決着したもんな。
214日本@名無史さん:2010/07/31(土) 17:43:22
>>210
>その間 円墳構築の資材置き場並びに、仮設通路として使用したものと考えます。

正直これには疑問を持つ。

…と言うのは「土橋(後円部に繋がる渡り場)」の存在。
もし「資材置き場」があったとしても、それはやはり墓の外なのではなかったのか?と

そこら辺の事は箸墓の調査が実際に進めば明らかになるんだろうが…
被葬者が卑弥呼の可能性に繋がるような副葬品の出土なんて物よりはよほど現実的に期待できると思うwwwwwwww
215唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 17:43:45
恥は生きている内にかけ。
216日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:13:36
>>210
箸墓の頃には、前方後円墳は様式化されてたんじゃないの?

前方後円墳の初期では、円墳+道だったかもしれないが。
217日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:28:02
南は東だとか、陸行一月は1日だとか、前方後円墳は単なる円墳だとか、
いやぁ、涙ぐましい努力だね(笑)。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:44:15
「主埋葬箇所に達するための『整えられた道』」
仮設のもので有れば、工事終了と共に撤去される。
整えられた道を円墳より高く積み上げる事は無い。

例えば3段築成の古墳であれば、下部2段までは早くに築造し
2段目の大きな平面で葬儀が行われ、最上段の3段目が円墳として築成される。
最上段の円墳こそ本当の墳墓である。これを百余歩とは出来ない。
兆域なら周濠の外側の帯域まで含まれる。
この兆域が百余歩でも充分大きい。
219唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:46:58
この兆域に殉葬が行われるのであるから、ここを掘らずには
殉葬を語れない。
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:48:35
訂正
この外周兆域に殉葬は行われる。
221日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:00:38
前方後円墳は、その被葬者が在命中に作られたのか?
それとも、死んだあと王の後継者が造ったのか?それが問題です。
222日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:29:06
大きいのは、死んでから作ったのでは、間に合わないと思う。
(費用が無かったためか)天皇でも1年以上放置したケース(もがりともいうが)があるけどね。
223日本@名無史さん:2010/07/31(土) 23:22:35
いまNHKで明清の皇帝陵墓をやってたけど、
上空からの眺めは、まんま前方後円墳だったなあ。
224日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:17:01
>明清の皇帝陵墓

それ写真アップしてほしいわ
225日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:18:47
信じるなよ。
226ローガン:2010/08/01(日) 00:29:06
>>214
>正直これには疑問を持つ。 …と言うのは「土橋(後円部に繋がる渡り場)」の存在。

土橋の存在が、反論の根拠と。 論証してみて。『まいった!』ら 稚説を撤回するから。(笑)
酔っ払ったので、又 来ます。ホゥ〜
227日本@名無史さん:2010/08/01(日) 01:19:59
>>224
明の十三陵でググったけど、上空から全景を撮った写真って、なかなか無いね。
前の方に建物が三つ前後に並んでいて、その奥に円墳があって、
その敷地全体に木が生えているので、上空から見ると、
前方後円墳の前方部分に建物が三つ並んでいるように見えた。
多分、永楽帝の長陵だと思うけど、よく覚えてない。
228日本@名無史さん:2010/08/01(日) 02:37:16
>>223
>上空からの眺めは、まんま前方後円墳だったなあ。

Google Earth で見ました。「前方後円」形ですね。ただし前方部は土盛りしてないですね。

>>227
>建物が三つ前後に並んでいて

いちばん大きい陵墓ですね。ほかのものでは(たぶん壊れて)一つだけのものもありますね。
日本の前方後円墳にはあのような墓前建物(?)はあっただろうか?
229214:2010/08/01(日) 03:03:17
>>226 老眼翁
まあ槨を構成する部材の搬入とかはわざわざ勾配がきつい後円部の土橋側からじゃなくて
前方部分からゆるやかなスロープを利用して搬入したとも思うが

先に円墳部分を作って最後に前方部を”切り離す”と言う手順なら
そもそもあんな土橋は何の為にあるのか?って話で

前方部の端が切り離された後も後円部の築造は続けられていて
資材搬入の為の通路があの土橋ではなかったか?と言う推測ね。
230日本@名無史さん:2010/08/01(日) 05:40:56
>>223
「天円地方」という考え方は伝統的に中国にあるよな。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/rontetu1945/27974160.html

>沖縄の風水書「象吉大通書」中に登場する「中国福建省汀州府永定県太平里黄龍寨」
という墓の図面が紹介されている。
それによればこの墳墓は前方を方形・後方を円形とすることで中国の天円地方説を
表象しており、それが沖縄では天円に納骨し、地方で定期的祭祀を行える亀甲墓に
なったとされ、この源流は風水思想と共に、17Cの福建省に求められるということ
が小川徹『近世沖縄の民俗史』で明らかにされている。
231唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/01(日) 11:21:45
>>221
>前方後円墳は、その被葬者が在命中に作られたのか?
それとも、死んだあと王の後継者が造ったのか?

景行は関東視察後、纒向に帰らずに近江で崩御する。(261年崩御)
この時、箸陵は作られる。
232日本@名無史さん:2010/08/02(月) 00:57:56
屋切り万歳
233日本@名無史さん:2010/08/02(月) 09:01:51
>>231
すごいね
脳内妄想癖
234唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 10:36:57
255年 景行天皇四〇年◆是歳。日本武尊初至駿河。
257年 景行天皇五一年◆五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而。
257年 景行天皇五一年◆秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊爲皇太子。
258年 景行天皇五二年◆五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎姫薨。
258年 景行天皇五二年◆秋七月癸卯朔己酉。立八坂入媛命爲皇后。
258年 景行天皇五三年◆五十三年秋八月 丁卯朔。天皇詔群曰。冀欲巡狩小碓王所平之國。
258年 景行天皇五三年◆是月。乘輿幸伊勢。轉入東海。
258年 景行天皇五三年◆冬十月。至上總國。
258年 景行天皇五三年◆十二月。從東國還之居伊勢也。是謂綺宮。
259年 景行天皇五四年◆五十四年秋九月辛卯朔己酉。自伊勢還於倭居纒向宮。
260年 景行天皇五五年◆五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。
260年 景行天皇五六年◆五十六年秋八月。詔御諸別王曰。
260年 景行天皇五七年◆五十七年秋九月。造坂手池。即竹蒔其堤上。
260年 景行天皇五七年◆冬十月。令諸國興田部屯倉。
261年 景行天皇五八年◆五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江國。居志賀三歳。是謂高穴穗宮。
261年 景行天皇六十年◆六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。

書紀の紀年は、空白日の差し込みにより紀年が長くなる。
御陵建設は258年冬より始まる?

235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 11:01:11
御陵建設は258年冬か259年冬より始まる? 箸陵築造。
ホ40297  ヰソミホホヅミ ミコトのり かえりをもえば やむヒなし コウスがむけし
クニめぐり
「帰り思えば止む日なし」 これは景行自身が、自身の死を遠くないと感じている。
そしてこの義務(コウスがむけしクニめぐり)は魏の意思である。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

壹與の時代、大倭(大和)は伊都に一大率(軍)を置き、九州諸国ににらみをきかす。
この時代に入ったことをあらわす。
236日本@名無史さん:2010/08/02(月) 12:06:22

イヨタン・・・・・・・・・・
 
237日本@名無史さん:2010/08/02(月) 15:13:01
日本書記編年

110年 景行天皇四〇年◆是歳。日本武尊初至駿河。
121年 景行天皇五一年◆五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而。
121年 景行天皇五一年◆秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊爲皇太子。
122年 景行天皇五二年◆五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎姫薨。
122年 景行天皇五二年◆秋七月癸卯朔己酉。立八坂入媛命爲皇后。
123年 景行天皇五三年◆五十三年秋八月 丁卯朔。天皇詔群曰。冀欲巡狩小碓王所平之國。
123年 景行天皇五三年◆是月。乘輿幸伊勢。轉入東海。
123年 景行天皇五三年◆冬十月。至上總國。
123年 景行天皇五三年◆十二月。從東國還之居伊勢也。是謂綺宮。
124年 景行天皇五四年◆五十四年秋九月辛卯朔己酉。自伊勢還於倭居纒向宮。
125年 景行天皇五五年◆五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。
126年 景行天皇五六年◆五十六年秋八月。詔御諸別王曰。
127年 景行天皇五七年◆五十七年秋九月。造坂手池。即竹蒔其堤上。
127年 景行天皇五七年◆冬十月。令諸國興田部屯倉。
128年 景行天皇五八年◆五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江國。居志賀三歳。是謂高穴穗宮。
130年 景行天皇六十年◆六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。

>書紀の紀年は、空白日の差し込みにより紀年が長くなる。

勝手に日本書記を改ざんするなよせっかく不比等が苦労してごまかしたのに
空白の差し込みに・・は勝手な妄想に過ぎない。
238唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 15:38:09
書紀には「正朔」の文字がある。
太陰暦で読めなければならない。

>不比等が苦労してごまかしたのに
暦を後付けとすると、「朔」が時々狂う出来事を説明せねばならない。
これを説明すると、正しい太陰暦に空白の太陰暦を差し込んだ、となる。
景行元年(240年)生まれの日本武尊は、28年(255年)時点で16才である。
景行28年は同40年でもある。
九州から帰った日本武尊は時を置かずに関東遠征。と云うこと。
239日本@名無史さん:2010/08/02(月) 23:21:47

■あの卑弥呼の大刀から半世紀…幻の報告書刊行 東大寺山古墳

産経新聞 2010.8.2
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100802/acd1008021208004-n1.htm

 邪馬台国の女王、卑弥呼が中国皇帝から授かったともいわれる大刀(たち)などが出土した東大寺山古墳(奈良県天理市)について、未完のままだった学術報告書が、発掘から半世紀を経てようやく刊行された。
当初計画された作成作業が止まったままになり、一時は“お蔵入り”も危ぶまれたが、関係者が古い発掘資料を丹念に探し出すなどして思いを結実。「やっと肩の荷が下りた」と喜んでいる。(小畑三秋)

 ◆関係者の情熱結実「肩の荷下りた」

 発掘調査は、天理大学付属天理参考館が昭和36年11月から実施。20本以上の大刀や剣などの副葬品が出土し、一級の成果を挙げた。

 調査を担当した金関恕(ひろし)・現天理大名誉教授(82)らは、翌37年に調査概要を古代史の専門誌に掲載したが、詳細な報告書は改めて出す予定だったため、25ページの“ダイジェスト版”にとどめた。

 ところが、その後出土品が重要文化財に指定され、文化庁に移管されたことなどから、報告書の作成作業はストップ。手つかずになったまま長い時が流れた。

 平成17年11月、金関さんの誕生会で久々に教え子らが顔をそろえ、未完の報告書が話題に上った。「このまま放ってはおけない」と意見が一致し、刊行に向けて約20人が研究会を立ち上げることになった。
小田木治太郎・天理大准教授(44)は「あれだけ重要な古墳なので、報告書が出ていないことはみんな気にしていた」と語る。

 資料の在りかすら分からない状態から始まった作業。1年がかりで探し出していったが、副葬品の出土状況を記した実測図はどうしても見つからなかった。
21年夏、小田木さんらが改めて研究室の書棚などをくまなく探し、ようやく紺色の布張りの箱に入った実測図を見つけ出した。
(つづく)


昭和36年に行われた東大寺山古墳の発掘調査現場(天理大学付属天理参考館提供)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100802/acd1008021208004-n1.jpg
240日本@名無史さん:2010/08/02(月) 23:25:56
(東大寺山古墳報告書刊行 つづき)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100802/acd1008021208004-n2.htm

 金関さんがノートに記した当時の調査日誌も見つかった。
調査終盤の昭和36年12月21日、宮殿風の建物が浮き彫りされた豪華な大刀が出土した。国内初の発見。「一同驚喜」と書かれた文字は、現場の興奮を示すようにひときわ大きかった。

 保管先の東京国立博物館の協力を得て、同館で出土品の調査も実施。今年3月、「東大寺山古墳の研究」と題した分厚い報告書がようやく完成した。

 「(報告書の未完成を)自責して心の休まることがなかった。刊行遅延が研究に少なからぬ障害となったであろうことを思うと慙愧(ざんき)の念に堪えない」。
序言の中で金関さんは、学術報告書としては異例ともいえる文章を記している。

 遺跡の報告書は、多くの研究機関で調査から5〜10年かかり、刊行されないままとなるケースもある。
関係者の情熱を結集して報告書が完成したことに、金関さんは「私だけではとてもできなかった。若い研究者が労苦をいとわず頑張ってくれた」と喜んでいる。

 A4判、578ページで税込み9450円。問い合わせは真陽社((電)075・351・6034)へ。

      ◇

 【用語解説】東大寺山古墳

 全長140メートルの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀中ごろ)の築造。出土品のうち、大刀の1本には「中平□年五月…」(□は文字が欠損)など計24文字が、細い金線を刀身に埋め込む「金象眼(きんぞうがん)」という技法で記されていた。
中平は2世紀後半の中国の年号で、日本では邪馬台国の女王・卑弥呼の時代と一致することから、卑弥呼が中国皇帝から授けられた大刀との説もある。


発掘から半世紀ぶりに刊行された東大寺山古墳の報告書「東大寺山古墳の研究」
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100802/acd1008021208004-p2.jpg
241日本@名無史さん:2010/08/02(月) 23:54:12
>>239 なかなか興味をそそられる。

中平刀に対しては、学者たちは日本製と思いながらも口に出せない状況が続いてきた。
まず、中平刀の環頭の飾りが日本製であるのは定説。

この時点で、刀は国産と考えるのが普通だが、そうすると年号は日本での偽作となる。
年号の偽称を認めると、三角縁舶載説はいよいよ崩壊するので、影響が大きい。
それゆえ国産説を言い出すのは勇気がいる。

そこで、刀身だけが舶載とするのが、この半世紀の表面的な多数説。
しかしその刀身は、逆そりであり、舶載とは言いがたい。明らかに国産である。

同時出土した刀も同じなので全部の刀身が舶載で日本で環頭を付けたという暴論でも
出さないと舶載は成り立たない。この問題があり、全体の報告書は半世紀以上も出なかった。

しかし、中平刀だけの報告書が2008年に出た。刀身だけが舶載というのが白石の結論。
だが中国の学者が中平刀の銘文は日本製という有力な論文を出している。

今回全体の報告書が、この極めて学界政治的な難問にどのような立場を示すのだろうか。
学者としての良心、プライド、保身など様々な問題にどのように向き合うのか。
242日本@名無史さん:2010/08/03(火) 01:39:41
>>241
そういう誘導は良くないな。

>中平刀に対しては、学者たちは日本製と思いながらも口に出せない状況が続いてきた。
>まず、中平刀の環頭の飾りが日本製であるのは定説。

一行目は大嘘。二行目は正しい。
口に出せないのに定説になるはずがないだろう。
君の書いているように、国産を強く主張するのは白石太一郎。
しかし彼の見解が『定説』になったことは一度もない。むしろ異端の見解であり
彼の持論の『鉄ルートの奪取による畿内の西征』という、今では顧みられることのない主張。
ちなみに京都大学の重鎮と言われる白石だが、同じく京大出身で三角縁舶載説を強く主張する樋口康隆と同じく
寺澤や石野といった、その京都大学出身の若い世代にすべて主張を否定されている。
もちろん現在の主流は、寺澤や石野、北條、柳田などが形作っている。

なぜだか君は学閥やら派閥に繋げて、印象を誘導しようという思惑があるのだろうが
そういうのはもっと情報弱者が集う場所でやるべきで、ここでは徒労でしかない。

中平刀についての説明は概ね正しいのに、こういった印象操作を行君のう志の低さが嘆かわしい。
243 [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/08/03(火) 01:42:31
突然失礼します
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244日本@名無史さん:2010/08/03(火) 02:48:52
>>242
志が低いのはどっちかな?
245日本@名無史さん:2010/08/03(火) 07:44:19
つーか舶載説にしても、きょうび魏が直接製造して配布したという説は下火だよな
どちらかっつーと、重要な鍵を握る帯方郡が北朝鮮領域なので調査不可能であるため、これ以上どうしょうもない
第3類までは帯方郡制作説(魏からの委託)も主要説だし、全てが国産だという説も今ではほぼ消えた

銘鏡が舶載か国産かという話は、いまやこと邪馬台国については関係ないんじゃね?
むしろ邪馬台国より後の時代の、4c初期ヤマト政権のほうが密接に関係する話だわな
246日本@名無史さん:2010/08/03(火) 08:06:48
邪馬台国?
真相は邪馬壱国だろう。
247日本@名無史さん:2010/08/03(火) 18:15:31
倭人伝原理主義者か?
史書や経書の文字が全て一字も違わないのなら校讐学なぞいらんことになる。
248日本@名無史さん:2010/08/04(水) 10:53:03
結局、箸墓は卑弥呼の墓には一致しない、だめってことでいいね?
249日本@名無史さん:2010/08/04(水) 17:47:44
倭人伝そのものが当時の倭国の状況に、必ずしも一致しないからね
250日本@名無史さん:2010/08/04(水) 22:37:23
一致しないなんてところはないよ。
251日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:10:40
そうだな。
一致してないな。
252日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:12:31
>>250
そりゃ脳内で「完全に一致」した物を想像して
それと照合すれば問題ないわなw

じゃあ、その人口七万戸の中心集落で卑弥呼に仕えた奴婢だけで千人を擁し
吉野ヶ里のような「宮室・楼観・城柵」の3点セット(笑)のある環濠集落で
百人もの徇葬跡のある墓のある遺跡は何処にある?

…って話で九州だろうと本州だろうと北海道だろうとそんな物
出てくるなんて想像している学者はいないだろうにwww


253日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:14:33
まあ畿内は一致しないわな
九州はかなり一致するが

だからどうした?って話だけど
254日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:27:03
つまりは邪馬台国論争に倭人伝から入って倭人伝を捨てた人と、いまだに捨てきれない人の違いってことだろ。ww
255日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:49:52

■杉谷古墳群6号墳の発掘開始

読売新聞 2010年8月3日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/news/20100802-OYT8T01372.htm

  王墓の可能性も

 呉羽丘陵に位置する富山大学杉谷キャンパス(富山市)で、弥生末期から古墳時代初期にあたる3〜4世紀頃の「杉谷古墳群」のうち6号墳の発掘調査が2日始まった。
規模の大きさなどから、富山平野を治めた王の墓である可能性があり、3年間かけて調べる。弥生時代と特定された場合、北陸最大級の墓となる。

 杉谷古墳群は同キャンパス内にある11基で構成され、調査にあたる同大考古学研究室の高橋浩二准教授(40)によると、6号墳は縦45メートル、横30メートルの長方形で、方墳としては11基のなかで最も大きい。

 6号墳については、1974年に富山市教委が深さ3メートルほどの細長い溝を数か所掘る試掘調査をしたが、出土品はなかった。
しかし、古墳群に隣接する杉谷A遺跡の弥生時代の墓からは鉄剣やガラス玉、土器などの副葬品が出土している。
高橋准教授は
 「A遺跡は小規模で6号墳よりも格下。王や王族の墓と考えられる6号墳からは、もっとすごいものが出てくる可能性がある」
と今回の調査を決めた。
(つづく)
256日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:52:08
(つづき)

 2日には学生ら約20人が、古墳周辺に生い茂った竹を伐採して地表をきれいにした。3日から実際に地面を掘る作業に入るほか、測量で正確な大きさを確かめる。
市教委調査で見つからなかった、ひつぎが埋葬された場所を特定するため、理学部の協力でレーダー探査にも取り組む。作業は9月10日でいったん終了し、出土品などを分析して来年度以降の発掘計画を検討する。

 現在、北陸では福井県永平寺町の乃木山墳丘墓(縦34メートル、横24メートル)が弥生時代最大とされる。高橋准教授は
 「土器など副葬品が出てくれば時代が分かる。6号墳はこれだけ大きな古墳なので、王だけでなく王族の埋葬施設も出てくる可能性がある」
と期待を膨らませている。


・6号墳の発掘予定地を指し示す高橋准教授(右)(2日、富山市の富山大杉谷キャンパスで)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100802-782914-1-N.jpg

・富山大学杉谷キャンパスと杉谷古墳群
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100802-782921-1-N.jpg


※参考: 富山大学サイト
 プレスリリース 7月22日
  ◆富山大学人文学部考古学研究室が杉谷キャンパス内にある古墳を調査 [PDF, 1.1MB]
http://www.u-toyama.ac.jp/jp/publicity/pr2010/pdf/25.pdf
257日本@名無史さん:2010/08/05(木) 00:40:26
藤原不比等が歴史を改ざんしたことは事実なんだから真実は永遠にわからんよw
258日本@名無史さん:2010/08/05(木) 11:35:39
弥生の足跡くっきり、木の周り歩いた森林跡出土
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100804-OYT1T00979.htm?from=navlp

奈良県御所市の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の森林跡が出土したと、
同県立橿原考古学研究所が4日、発表した。

森の広さは約3000平方メートルで、ヤマグワ、ツバキ、オニグルミ、栗など22種類の
樹木約200本(直径2センチ〜1メートル)が立ち並ぶ。大洪水の際、一気に土砂で
埋もれたとみられ、弥生人が木の周囲を歩いた足跡が、くっきり残っている場所もあった。
1〜1・5メートルの土砂に埋まり、真空パックのように残ったらしい。

北側に隣接して水田跡約1700平方メートルも見つかった。これまでの調査と合わせると
水田跡は合計1万7000平方メートル以上で、全国最大規模。現代の里山に似た風景が
復元でき、同研究所は「森と共生し、農作業にいそしんだ弥生時代の人々の暮らしがわかる」
としている。

(2010年8月4日21時03分 読売新聞)
259日本@名無史さん :2010/08/05(木) 13:28:12
弥生時代の畿内は本当に、のんびりとした農作業の似合う田舎で、
銅鐸を作り、どこか牧歌的な風景ですね。
他の部族が畿内に侵入し、征服されるまで、のんびりしていいですな。

当時の北九州はすでに鉄器が半島から流入して、互いに血で血を
争う部族対立の時代ですからね。⇒そう倭人伝の記録の通りです。
260日本@名無史さん:2010/08/05(木) 15:33:37
他の部族が畿内に侵入し、征服された証拠は全く出てこないけどな。
261日本@名無史さん:2010/08/05(木) 21:12:07
「2400年前の水田見つかる〜奈良・御所市」

http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100805002400375163.shtml (映像あり)

秋津遺跡に続いて中西遺跡でも大発見か
初期ヤマト政権の成立に、地元大和がどう関わったのかが大きな謎ではあったが
桜井市や天理市周辺だけでなく、御所市や大和郡山市あたりのほうに重要な鍵があるのかも
262日本@名無史さん:2010/08/05(木) 21:18:35
>>261

まあ畿内説においてマイナーと言うかほぼ大和説の中に埋没しているんだろうがw
「大和郡山説」と言うのはあるにはあるwww

そう言えば以前本屋で「富雄川流域説」なるものを見たがw
263日本@名無史さん:2010/08/05(木) 21:25:44
>>259
>当時の北九州は・・・互いに血で血を争う部族対立の時代

戦争の痕跡はだんだんと減っていくんですけどね・・・。
264日本@名無史さん:2010/08/05(木) 21:42:36
>>262
>富雄川流域説

なんというご当地感覚www
そんな狭い地域に押し込めんでもええやんかw
265日本@名無史さん:2010/08/06(金) 00:00:08
北東北辺りの前方後円墳ではアイヌ文化も見えているみたい。
266日本@名無史さん:2010/08/06(金) 03:28:49
>>265
アイヌ文化の成立は13世紀なのだが
それ以前のどれを指してアイヌ文化の影響とかいうわけ?
267日本@名無史さん:2010/08/07(土) 00:46:33
>>208
土木系の技術者と木造建築系の技術者は系統が違うものと思われ
前方後円墳を作った土木系の人達は、その後東国に向かい水利に技術をふるって稲作の発展に寄与した
飛鳥〜奈良に東国の水田が飛躍的に拡大するのはその結果
268日本@名無史さん:2010/08/07(土) 07:23:33
>アイヌ文化の成立は13世紀なのだが
そんなこと、誰が決めたんだ?
269唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/07(土) 09:41:36
前方後円墳を作った土木系の人達の直後に積み石塚を作る連中が東国に入る。
この連中が日本の農業に牛馬を導入する。

牛馬の導入なくして農業の発展はない。
270日本@名無史さん:2010/08/07(土) 10:44:52
>じゃあ、その人口七万戸の中心集落で卑弥呼に仕えた奴婢だけで千人を擁し
>吉野ヶ里のような「宮室・楼観・城柵」の3点セット(笑)のある環濠集落で
>百人もの徇葬跡のある墓のある遺跡は何処にある?
人が住んでいたら、その痕跡が必ず残っているものと思い込んでいるようだな。
遺跡なんてものは、しょせん九牛の一毛しかみつからんのよ。
それが分からん奴が歴史を語るから妙な話になる。
271日本@名無史さん:2010/08/07(土) 17:11:30
ていうか
戸は人口じゃないし。

たとえれば、人口20万坪とか言っている愚かしさ。
272日本@名無史さん:2010/08/07(土) 17:44:04
21世紀になってもいまだに九州説になんてしがみついている人っているんだね(笑)

過去の栄光が忘れられないお年寄りなの?
273日本@名無史さん:2010/08/07(土) 19:52:42
>>270
弥生時代に七万戸もの大集落が実際にあったのなら
その痕跡は確実に残るよ。
古代核戦争で跡形もなく消滅しない限りはね。
実際に洪水で完膚なきまでに破壊され放棄された水田跡まで残っているんだ。
狭い見識で歴史を語ろうとすると、君のようなお門違いの物言いになる。
274日本@名無史さん:2010/08/07(土) 19:58:09
>>268
定説。ひっくり返したかったらそれなりの証拠を持ってくること。
275日本@名無史さん:2010/08/07(土) 20:26:35
>>273
君の見識が狭すぎるんだよ。どこに7万戸の大集落があったと書いてあるのかね?
邪馬台国の戸数7万戸といったら、それだけ広い国家だったと考えるべきなんだよ。
一つの国家の中に、集落がいくつも存在した、大きな集落もあるだろうが、小さな
集落も多数含まれるだろう。それだけのことだ。
276日本@名無史さん:2010/08/07(土) 20:37:28
>>275
その通りなのだが、そういう大小の複合集落と見られるようなものは九州には存在しないな。
この事実をどうする?無理矢理ひとつにまとめて強弁するか?
それともお得意の、まだ見つかっていないか?
277日本@名無史さん:2010/08/07(土) 20:54:37
また同じ事を…
無限ループネタだな…

まあここのゴミクズ九州説の連中は同じ事をいつまでも繰り返すのが趣味なんだろうがw

今後は3世紀の日本を考えるに老いても>>255-256のような北陸や東海・関東と言った東日本のウェイトが上がってくるんだろうな。

もはや幼稚な反発心だかで「畿内vs九州」の枠組みに囚われて
そこから抜け出せないアホはもう過去の遺物でしかない。

アホを置き去りにして時代はどんどん進んでいくwww
278日本@名無史さん:2010/08/07(土) 20:59:55
もはや2chくらいなんだよ。お話を聞いてくれて、議論してくれるのは。
279日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:02:59
ところで先に東北の古墳にアイヌの影響云々のお話が出ていたが…

会津の坂下町宮東遺跡出見つかった古墳はその形から所謂「纏向型」と見る向きがあったと思うが
一応これが纏向型の北限と言う認識でいいのかな?

まあ「纏向型」と言っても年代は今のところ4世紀初頭だったと思うが
今後この年代も修正されるんだろうか?

280日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:24:26
>>279
会津宮東遺跡の臼ヶ森纏向型はちょっと伝播ルートが謎なんだよね。
同じ会津盆地にある中西遺跡や男壇遺跡とともに、北陸系土器や北陸系竪穴式住居・貯蔵穴がけっこう出ていて
これが弥生前期あたりから綿々と続いている。
しかし纏向型以降はその流れが途切れちゃう。(ここで征服とかは当然論外ということで)

千葉の神門4号墳や小田部周辺には、そういう断絶は見られないのに会津盆地だけが特殊なのだろうか。
281日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:29:43
>>276
>そういう大小の複合集落と見られるようなものは九州には存在しないな。
あちこちにある集落がまとまって一つの国をつくっていたのか、それとも
別の国をつくっていたのか、どうやって見分けるつもりだい?
今の日本を考えてみな。東京と大阪、名古屋、福岡。それぞれ、核になるに
十分な大きさをもった都市だ。遺跡だけみて国が幾つなんて分かりっこない
んだよ。
282日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:30:15
あと歴年代としては、4c初頭で順当だと思う。
先に書いた千葉の神門4号墳・小田部もそのあたりだと見られているから。

まあ俺は布留0式の普及や箸中山建造は、3c第4四半期だとの説をとるからなんだけど
仮にこれらが第2四半期まで遡ったにせよ、関東以東の文化伝播も早まるとはまだ言い難い。
なんにせよ東海・中部・北陸への伝播がもっと解明されてからでないと、そこまで話が繋がらないのではと思うんだ。
283日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:35:49
>>281
どこまでボケてるの?
東京や大阪は「日本」の中の大都市で、当然文化的繋がりがある。
まさか豹柄の服が多いからって、別国家だというわけでもなかろう。
しかもそれは、現代の話。いや江戸時代にしてもそんな混同はしない。

しかし弥生時代ともなれば話は違う。
違う埋葬形態や祭祀器を使う集落を、君はいっしょくたにひとつのクニにまとめるのかい?

考古学云々の問題以前の話で、君にその基本知識が全くないだけ。
謙虚に基礎から学びたまえ。素人レベルにも程がある。
284日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:39:34
素人レベルというか、わかっててやってるんだよ。もはや九州東征であとに引けなくなってるという
病的症状。自説に不利なものは、見えない、聞こえない。ww こんな人は他の板にも多いよ。
285日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:43:27
>>280 >>282

サンクス。

まあ年代については布留0の時期や箸墓の築造時期が早まり
それで全体をスライドさせて…と言うより西へ東への伝播速度が
今考えられているより更に速く…という方向になるのではないかとw

そもそも「伝播ルート」と言っても纏向型って間をすっ飛ばして”ポン”といきなり飛び地に現れる感じやん?www
286日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:46:58
地元に敵対勢力があるところほど、纏向ムーブメントに乗りやすいんじゃないかな。
287日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:53:17
>>283
理解しやすいように書いてやったつもりだが、それでも理解できないのかね。
「日本」なんてのは、考古学的に分かることではないんだよ。数千年、数万年
たって、文献がない状態を考えてみろ。今の日本列島にいくつの国があったか、
なんてことは到底分からん。
288日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:58:22
>>283
>違う埋葬形態や祭祀器を使う集落を、君はいっしょくたにひとつのクニにまとめるのかい?
まとめちゃいかんかな? それでは、君の考え方で九州にはいくつの国があった
ということになるのかね。
289日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:00:19
【民主党】朝鮮学校も無償化決定

金正日を礼賛する教育に税金を投入すべきではない。税金は日本人の未来のために使うべきです。
メール、電話、嘆願書を送ってください!

文部科学省〜御意見・お問い合わせ http://www.mext.go.jp/mail/index.html
※「高等学校の実質無償化及び高校奨学金に関すること」

首相官邸〜ご意見募集 http://www.kantei.go.jp/jp/iken.html

民主党HP〜ご意見はこちらへ https://form.dpj.or.jp/contact/

-------------------------------------------------------

朝鮮学校を無償化とする方針について、下記の理由により反対します。

1.朝鮮学校の民族教育が日本の高校に類する教育課程にあたらない

日本国憲法で規定された基本的人権の尊重、平和主義は、わが国の教育の根幹であり、また高等学校教育において
最も尊重されなければならない。しかし、朝鮮学校では金正日を絶対化した主体思想及び他国との共存を否定する
先軍主義を基本とした民族教育がなされている。この両者は決して相容れないものである。

2.検討手段の適切さを欠く

教育への助成は国費を投じての、次世代人材への投資であり、国民的合意が必要。
非公開の外部有識者のみの決定では不十分。
290日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:04:31
>>285

>そもそも「伝播ルート」と言っても纏向型って間をすっ飛ばして”ポン”といきなり飛び地に現れる感じやん?www

そうなんだよねえ。このミッシングリンクが存在するのか
それとも>>286のいうように、受け入れた地域ごとに特徴があるのかが今後の課題だね。

ところで>>287のようにズレまくっている人が多いのか、ここは?

>数千年、数万年たって、文献がない状態を考えてみろ。

世界は核の炎に包まれたwwwwってことか?マンが読みすぎ
291日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:07:28
>>288

>まとめちゃいかんかな?

居直り強盗みたいな奴だな、お話にならない。
どうやらここはまともに議論できる人とそうでない屑に二分化されているようですね。
292日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:17:05
筑紫平野から佐賀平野にかけては
旧市町村の中央集落からは、まず確実に
住居跡出るんだよね。

久留米から吉野ヶ里、神崎、佐賀のラインにある集落は
ひょっとしたら弥生時代から集落が変わってないんじゃないかと
思うことさえある。

ド田舎では地形に沿って集落ができる事情は当時も今も余り変わらない。

さすがに福岡平野では、開発されすぎて
痕跡が見えないが。
293日本@名無史さん:2010/08/07(土) 22:36:21
>>276
邪馬壹國は北部九州の国邑の連合体。
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、
斯馬國,已百支國,伊邪國,都支國,彌奴國,好古都國,
不呼國,姐奴國,對蘇國,蘇奴國,呼邑國,華奴蘇奴國,
鬼國,為吾國,鬼奴國,邪馬國,躬臣國,巴利國,支惟國,烏奴國
が邪馬壹國の構成国邑。
「世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
「代々王がいる。(倭の国々は)皆、女王國に皆統する。」
と記された伊都國が女王國の都。
294日本@名無史さん:2010/08/07(土) 23:04:11
>>291
君には理解できないようだが、一つの国の中にも出身地のちがう人々が住むと
いうことはいくらでもあるんだよ。例えば、朝鮮半島から渡ってきた人々が邪
馬台国の中に住む場所を与えられたとする。そうなれば、その人々は元々の人
々と違う祭祀器を使うだろうし、違う埋葬形態をとるだろう。
あるいは、邪馬台国が他の国を征服して邪馬台国に加えたとする。被征服者だ
からといって旧来の習慣を全て捨てるわけではない。違った習慣を持つ人々が
一つの国をつくるということはいくらでもある。
295日本@名無史さん:2010/08/07(土) 23:20:29
>>290
>このミッシングリンクが存在するのか

無論、今後新たな「纏向型」の発見はあるだろうが
それでも基本的には点と点を結んだ(面的ではなく)多分に線的な広がりなんじゃないかと思う。

>>280の内容を、中国と日本の関係をスケールダウンして
「 国内版プチ冊封体制 」と考えるのも面白いと思うw

(以下ヒントとなるキーワードは「ホロニック」とか「フラクタル」とかw
 …まあ分かる奴にだけ分かってくれれば良いwww)

つまりは中国に冊封されたヤマトがその勢力を著しく伸長させたように
国内においてはその新しい前方後円墳と言う埋葬文化を取り入れた勢力が
その地域のトップに立ったみたいな?wwww
296日本@名無史さん:2010/08/08(日) 09:41:09
>>その地域のトップに立ったみたいな?wwww 
この発言の裏に、負け組コンプレックスみたいなものを垣間見るw
297唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/08(日) 11:41:51
日本武尊の関東遠征は、筑波辺りまでだ、
この時、この辺までは、日本武尊の提案を聞き受け入れた。
だから民も連続する。
298唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/08(日) 12:47:14
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
大和は伊都国に軍を置き各国ににらみをきかす。
この状態は女王国のみでなく、全国でほぼ同じ事が行われる。
たとえば上総に軍を置き、そこから関東北部、東北方面ににらみをきかす、など。
この状態が考えられるのは、景行による屯倉の設置である。
屯倉とは各地方の領有を認める代わりに兵役の義務を負う。
屯倉を与えられた当初、指導者等は協力して拠点を築き、其所に軍を編成し、各地を検察する。
これにより全国を支配できる。
274年神功の渡海とは、冊封国の軍隊派遣。
323年 千熊彦 北方の民の大量移住。牛馬が農業に取り入れられる。
この富が河内の大古墳となる。
400年前後の高句麗の南下で大古墳は作られなくなる。

299日本@名無史さん:2010/08/08(日) 13:32:04
小学生の世界征服の妄想みたいなもんだな。
300日本@名無史さん:2010/08/08(日) 14:07:41
若い女って言うのは,触ってもいいし,舐めてもいいし,
また,髪の毛の匂いを嗅ぐのもいいよね。
寒い時は,湯たんぽ代わりになるし,暇な時は撫でくってると
甘えてくる。
それこそ,チンポを1時間くらいしゃぶらせるのも良し,
精液を顔に掛けるのも良し,
ただ柔らかい感触を味わうだけでも良い。
ケツの穴のシワを丹念に舐めさせるのもいい。

やっぱり,女は最高だね・・・
301日本@名無史さん:2010/08/08(日) 14:19:24
ひえもんとり
302日本@名無史さん:2010/08/09(月) 09:46:19
>>295

>無論、今後新たな「纏向型」の発見はあるだろうが
>それでも基本的には点と点を結んだ(面的ではなく)多分に線的な広がりなんじゃないかと思う。

これは同意というより、もはや前提だよね。
前のスレに出てきた吉備型甕にしても、出土地域を列挙すれば全体的に流布したように勘違いするが
実際は細い糸のように決まった地域を縫うように拡散している。
庄内式も本州中国地方においては、やはり細いルートしか確認されていない。
これが今後の調査によって瀬戸内に広く分布していたとなれば話は別だが
現段階では吉備などを仲介として、北部九州を目指したものとしか考えられない。

面で考えることなどもはや無理だろう。
むしろ新旧の勢力が拮抗していたなかで、結果的に広域交易ルート網に属した各地域のクニが台頭したと見るべきだと思う。
そういう意味では、3世紀の時点ではジョーカー氏が言うキング・オブ・キングス説には若干違和感があるのだが
ある程度の地域掌握(これは商圏という意味合いに近く、武力支配ではない)が進んだ4世紀末から5世紀あたりに
そのキング・オブ・キングス的概念がむくむくと湧き上がって来たのが、大和地方ではないかと思う。

昔は『空白の4世紀』とか言われていたが、実態は日本各地が均衡していた時代で
列島流通の中心地となっていた大和を押さえることが、その必須条件だったのではと。
そういう意味では真の王権は、纏向放棄後に始まるように思える。
303日本@名無史さん:2010/08/09(月) 10:05:31
>そのキング・オブ・キングス的概念がむくむくと湧き上がって来たのが、大和地方ではないかと思う。

これは言葉足らずなので補足。
別に大和の在地首長が台頭したという意味ではなく
情報と物流の集積地に、各地の首長が有力幹部を派遣していたと見ているので
畿内を押さえることが、各地の首長にとってはそのまま倭国を押さえることと、経済的に同義だったのではということ。
で5世紀ともなると、鉄器軍団大好きな九州説ほどではないが、ある程度の集団的軍事行動も可能になってくるので
記紀で言うなら、応神記にあるような状況に近くなるのではないかと。

まあ3世紀の邪馬台国がそれほど広域に渡った支配体系を有していたとは、今では考えにくいし
無論、九州掌握なぞも有り得ないとなれば、細い糸で繋がった緩やかな交易連合から
専制王を目論む織田信長的キチガイが、5世紀初頭に各地に現れて畿内を舞台に勢力を示したとするほうが
巨大古墳乱立の理由としては妥当ではないかと思うんだよね。
304日本@名無史さん:2010/08/09(月) 10:50:09
>日本各地が均衡していた時代で列島流通の中心地となっていた大和を押さえることが、
>その必須条件だったのではと。
西から東まで、各国国力が均衡していたから戦いをしないで、ヤマト市場を共同運営し
ていたってことかな? 今や畿内説ってのは、そんな馬鹿馬鹿しい話にしないとつじつま
が合わないってことね。
305日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:21:01
>>304

鉄器軍団を信じてる人か。
そんなのマンガの中にしか無いって。
306日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:59:52
良くこの板じゃあ
「ゆるやかな連合」を邪馬台国畿内説として脊髄反射で噛み付いてくる>>304の如き馬鹿ばかりだが
いい加減なんとかならんものかな?w

まあ「連合体」と言えば「仲良しこよしの共同体」「近現代的な民主主義・人道主義」
と言う短絡思考なんだろうがw

実際、古代ローマだって共和制から帝政にシフトしている。

中国だって始皇帝が登場するまで春秋戦国時代が何百年も続いている。

…と言えば
「その前に周王朝があったじゃないか」と言う奴が出てくるだろうが
周は相当に”ゆるゆる”だったぽいw
そもそも今日使われている「共和」という語源が周代の政治体制に由来するとか言う話しがwikiにも出ているw

参考)『周』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

むしろずば抜けた勢力なんて物が存在しない状態が長らく続くのが普通であって
いきなりスーパーパワーが出現するなんてのが幼稚な妄想。

「九州の邪馬台国は、そんなゆるゆるじゃなくてガッチガッチやで!」
と威勢良くほざくのは勝手だが九州の大方を強力な面的支配したクニが出現したなんて
当の九州の考古学者が考えてもいない御伽噺だろうにwwwwwww

ハードルを上げてそれで自分の首を絞めるブーメラン自爆芸は
ここのゴミクズ九州説の得意技wwwwwww
307日本@名無史さん:2010/08/09(月) 12:00:44
九州説なんて辻褄が合う部分は既に皆無だけどな。
308日本@名無史さん:2010/08/09(月) 12:51:57
河童は今何処にいる?
私がここに来た一昔前はアイドルだったが……。
309日本@名無史さん:2010/08/09(月) 13:11:12
小金で株取引とかやってるんじゃねの。彼も大人になったんだよ。
310日本@名無史さん:2010/08/09(月) 13:26:37
3世紀末頃の九州は北部でも後漢の冊封のしばりが解けて、バラバラの小勢力乱立状態じゃないか。ww 
畿内から三角をもらって他に示して喜んでいるという感じ。
311日本@名無史さん:2010/08/09(月) 15:58:47
なーんだ、河童はもういないのか。
寂しいのう。
312日本@名無史さん:2010/08/09(月) 20:39:58
このスレも役割を終えたのかな。だとしたらサイキバの功績は大だな。
313日本@名無史さん:2010/08/09(月) 21:43:38
古墳が各地に広まったのは
景行の子供77王が各地に赴任したから
って説はないの
314313:2010/08/09(月) 21:46:43
>景行の子供77王が各地に赴任したから
記紀そのまま
315河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/08/09(月) 22:15:18
>>311

そんな事言ってもらえるとは  ありがたいね〜

数字との睨めっこの日々で、たまに覗くぐらいしか暇が無く
なかなか参加できなくて


ごめんなさいねぇ      では、何時かまたお会いできる日まで
316日本@名無史さん:2010/08/09(月) 22:29:08
プラムの自演癖は一生直らんようだなw
317河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/08/09(月) 23:31:28
>>316

私がとやかく言われるのはかまいませんが、>>311さんには失礼でしょう。

もしかして
>>311の書き込みは>>316の書き込みの為の、あなたの釣り?

とは思いたくありません。

とにかく
私に対しては構いませんから、>>311
さんにはお詫びしてください。
318日本@名無史さん:2010/08/10(火) 00:21:22
>>317 河童虫 ◆EY2wfgakAQ

…紳士全とした物言いして自己陶酔に浸っているかもしれんがw
2ちゃんでそんな事を言うだけ無駄、キリが無い。

「自作自演」と言われる事を読めずに>>315でうれしそうにノコノコ出てきた奴が馬鹿だってお話w

「もう来ねえよ」宣言しても暫くしたらひょっこり戻ってくる。
名無しになったと思っても一寸誘い水があれば嬉々として出てくる。
まあ分かりやすいキャラだが(苦笑

まあ河童君には「暗号解読ゴッコ」の行き着くところ・成れの果てが
どのような物であるのかを見させてもらったと言う点では感謝したりしなかったりwwww

虎は死して皮を残す
人は死して名を残す
河童は死して果たして2ちゃん日本史板に「言意学」を遺せるか?w
319日本@名無史さん:2010/08/10(火) 02:21:47
>>318
>河童は死して果たして2ちゃん日本史板に「言意学」を遺せるか?w

それ、著作権は2ちゃんに帰属するんだよね。ごくろうさん。
320日本@名無史さん:2010/08/10(火) 07:46:24
311だ。
俺は河童じゃねーよ。316でもない。
321日本@名無史さん:2010/08/10(火) 15:10:02
ま、文学やって金稼げるのは、
このスレでは河童ぐらいだわなwww
三島賞でも目指せばいいのにな。
322唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/10(火) 15:15:54
>>314

それを主張しているのが私です。
この場合、百済本紀は誤りであり、新羅本紀が正当な歴史書となる。
まあ皆さん百済から全てを頂いた方々ですから、百済本紀を否定出来ないんですよ。
323日本@名無史さん:2010/08/10(火) 22:44:47
>>321
中味はどーでも、いいキャラしてた。
324日本@名無史さん:2010/08/10(火) 23:35:19
>>306
>むしろずば抜けた勢力なんて物が存在しない状態が長らく続くのが普通であって
>いきなりスーパーパワーが出現するなんてのが幼稚な妄想。
はっはっは。畿内説論者も、ようやく畿内がずば抜けた勢力にはなりえないってこと
を認めたわけだ。そう、そう。鉄もない銅鐸祭祀の畿内は、スーパーパワーを持つこ
とは到底無理。邪馬台国がスーパーパワーを持った国だとすれば、九州しかないって
ことよ。
325日本@名無史さん:2010/08/11(水) 01:03:33
畿内がずば抜けた勢力だって、誰か言ってたかぁ?
326日本@名無史さん:2010/08/11(水) 01:13:09
畿内説としては、伊都国に一大率を置くにあたって、半島の倭が果した役割というのが気になるね。
327日本@名無史さん:2010/08/11(水) 07:21:27
>むしろずば抜けた勢力なんて物が存在しない状態が長らく続くのが普通であって

勝手に決め付けないでくれ。

>いきなりスーパーパワーが出現するなんてのが幼稚な妄想。

どうしていきなりNO1が出現して駄目なんだ?
328日本@名無史さん:2010/08/11(水) 07:31:50
五〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
千〜↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜
餘┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛〜〜
里↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃〜〜〜
│↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜
│↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛〜〜〜
│↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜
↓↓┃∵┏━━━┛┌┤〜┏┓〜〜〜〜〜
─↓┗━┛┌→→→┘↓〜┃┃〜〜〜〜〜
〜└→→→┘〜〜〜〜↓┏┛┃〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國├@┏┛〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜一大國├A┛壱岐〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜┏━┓〜┏━━
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓↓┏┛∵┗━┛E∵
〜〜〜〜┏━━━┛∵↓∵∵∵∵∵/不∵
〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵B→→C→D∵彌∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊∵奴∵國∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都∵國∵∵∵
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵↓∵∵∵
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南∵∵∵
∵┏┛〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵至∵∵∵
┏┛〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵∵┌←←投馬國F∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜有明〜〜┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃〜〜〜〜〜┃▲∵└→→→→→G∵∵∵
┃〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國
┃〜〜〜〜〜┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵
329日本@名無史さん:2010/08/11(水) 08:12:41
投馬国まで水行二十日、邪馬台国まで水行十日陸行一月。
いくら何でもかかりすぎだな。
330日本@名無史さん:2010/08/11(水) 08:36:49
>>724
畿内周辺は丹の産地だからね、

対中国として考えると丹>鉄なのは当然です。
331日本@名無史さん:2010/08/11(水) 08:39:27
330訂正

>>724‥×
>>324‥○
332日本@名無史さん:2010/08/11(水) 08:56:17
邪馬台国から約1000年後の平安時代に於いても
たとえば土佐〜京都が海行水行あわせて一月
333日本@名無史さん:2010/08/11(水) 09:23:24
>>327
スーパーパワー、圧倒的なNo1が存在しないから大乱が起こって、
結果共立という策が採られたんじゃないの。
スーパーパワーが存在すれば、共立なんて現象は起こり得ない。
334日本@名無史さん:2010/08/11(水) 09:55:14
だいたいスーパーパワーが出現する条件は平野。
山や谷で区切られれば、それぞれ別の勢力。

戦国大名なんてそんなもん。
鎌倉幕府程度なら、共立と言えるかもしれない。
335日本@名無史さん:2010/08/11(水) 13:43:03
>>328
見やすいw
336日本@名無史さん:2010/08/12(木) 02:59:00
水行と違って陸には道など存在しない時代
337日本@名無史さん:2010/08/12(木) 06:46:23
>>336
一万年ぐらい前の話だな。
338日本@名無史さん:2010/08/12(木) 13:34:14
a
339日本@名無史さん:2010/08/12(木) 14:20:49
紀記を読んでも、古代は水行が多かったみたいだな
神武の東征も船、ヤマトタケルの東国行きも半分は船
340日本@名無史さん:2010/08/12(木) 14:35:34
陸行は大河を渡るのに迂回の連続だろ。
341日本@名無史さん:2010/08/12(木) 14:43:06
南海道、西海道、東海道
それ全部海の道として開けたからだろ
342日本@名無史さん:2010/08/12(木) 14:43:48
西海道は無いな 済まん
343日本@名無史さん:2010/08/12(木) 18:22:35
昔は陸路なんて獣道しかなかったんですね
344日本@名無史さん:2010/08/12(木) 19:07:03
藪を切り開いていく感じ
今の北海道の湿原みたいだな
345日本@名無史さん:2010/08/12(木) 20:42:14
>草木茂盛行不見前人・・・東南陸行五百里到伊都国

名護屋、呼子あたりから糸島にかけての海域は
潮の流れも激しく思い通りに航行するのが難しいため敢えて陸行したのでしょうね
名護屋付近から糸島に向かう古道は、まさに東南にむかっています
346何を難しくしなくとも:2010/08/12(木) 21:04:25
>名護屋、呼子あたりから糸島にかけての海域は
>潮の流れも激しく思い通りに航行するのが難しいため敢えて陸行したのでしょうね

壱岐から糸島に行くのであれば別に難しいこともないでしょう。呼子辺りから海岸に沿って航行する必要は
ありません。
347日本@名無史さん:2010/08/12(木) 21:09:21
伊都国が糸島だったのなら
又東南渡一海千餘里 到伊都国
となっただろうな。
348日本@名無史さん:2010/08/12(木) 22:09:46
方角をまちがえるはずはない。
怡土ならば、船をおりるはずはない。
怡土では、南水行はできない。

これだけそろえば、伊都国=怡土はないね。
349日本@名無史さん:2010/08/12(木) 22:52:36
記紀を見てたら火之迦具土が気になってきた。
あれって東国系の神だっけ?

天照以前の神話に東国の神が出てくるのかどうか。
まあ淡路島とか出てくるんだけど。
350日本@名無史さん:2010/08/12(木) 23:10:30
>>348氏へ

あなたの論理では、

>方角をまちがえるはずはない。

それが前提になってるのが論理上の難点と思われ。

前提となる考え方を改めて、
 「方角をまちがえる場合もあったかも」
との前提に立ってみるなら、

>怡土では、南水行はできない。
>伊都国=怡土はないね。

も、ともに確たる結論とは言い難いのでは?
351縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/12(木) 23:44:47
>>350氏へ

「方角をまちがえるはずはない。」が348氏の主張の全ての前提になっているとの理解のようであるが、
「方角をまちがえるはずはない。」
「怡土ならば、船をおりるはずはない。」
「怡土では、南水行はできない。」
の3項目はそれぞれ独立の事柄として述べられているのではないか。その3項目の事柄からして
「伊都国=怡土はないね。」という結論が出されていると受けとれるのだが。
352日本@名無史さん:2010/08/12(木) 23:51:03
>>351
>「怡土ならば、船をおりるはずはない。」

なぜ?
理由は?
353日本@名無史さん:2010/08/12(木) 23:52:23
きゃー縄文人よー逃げてー
354縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/13(金) 00:09:08
>>352

>>348は私の書き込みではないが、>>351に対するレスであるから一言。
>>「怡土ならば、船をおりるはずはない。」は「伊都国が糸島ならばわざわざ末盧国に上陸して困難な陸路を
とる必要はなく、壱岐から直接船で行けばよい。その方が理に適っている。」という意味だろう。
355日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:14:13
>>354
なるほど
いちおう了解
356日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:14:59
馬鹿くさい。魏使が通った道順だとどうしてわかるんだよ。伊都国駐在の郡使が脳内の地図を単に説明
してるだけかもしれん。
357日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:21:39
>>356
魏使とは別に伊都国駐在の郡使がいたと思ってるのかな?
私は伊都国駐在の郡使なんてものはまったく考えないよ。倭人伝の行程記事は
使者一行が実際に通った行程を伝えたものという解釈だ。

>>351 >>354
ご苦労さん。そのとおり。
358日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:28:41
>>357
それはただの仮定だろ。こんなの魏代より後に中国に来た倭人に問いただして書いたのかもしれん。
半島の倭人に聞いたのかもしれん。お前らロマンチストなんだなあ。
359日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:45:13
>>358
いやいや、仮定ではないよ。いろいろな状況を考えて、信用できるかどうかを判断する。
そして、不自然でなければ、素直に読んでいく。それだけのことだ。
360日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:51:58
>>359
>素直に読んでいく。

ハイ、決め台詞出ましたwww

361日本@名無史さん:2010/08/13(金) 00:52:23
>>359
魏使が書いたものを下敷きにしてるという確証はないだろ。三国志が書かれたのは280年代で
魏略でも260頃だから、倭についての新しい情報を基にしてると考えたほうが自然だな。
362日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:03:53
まあ行程記事が「郡使ではなく魏使の報告による物だ」とするなら
少なくとも放射説は『 素直 』じゃないなw
(行く道に沿って書かれた物じゃないちゅう話だから)

そもそもなんで魏使が途中のクニの戸数やら風俗やらを報告しなければならないのか?

特に張政の場合、他はおいといても真っ先に報告すべきは
狗奴國とのすったもんだの顛末がどうなったかであって
それがあやふやなのは報告書なる物があったのかを疑うに十分な動機だろうwww

自称「すなお読み」は九州説のレゾンデートルそのものだろうが
とりあえず「すなお読みチャンピオン」決定してくれっちゅう話だなwww
363日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:07:48
>>362
ここにははじめて来たがこんなのばっかなのか?文献なんかボコボコに間違ってるだろうに。
ましてや3世紀の東夷伝だぞ。こいつら文献研究なんかしたことないだろ。
364日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:08:41
>>360
素直に読まない人にとっては悔しい言葉だろうな。

>>361
新しい情報? 誰が書いたもの?
365日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:13:53
>>364
張政以来倭の情報がぜんぜん入ってこないことはないだろうし、中国人と倭人が接触してない
こともないだろ。266年の朝貢でも聞き取りがあったかもしれん。
366日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:22:14
>>363
>こんなのばっかなのか?

はい、ここの九州説の連中はこんなんばっかりですwww

複数史料による情報確度の検証…なんて当たり前の事が最初から眼中に無い。
それどころか邪馬台国論争でほぼ単一史料と言っていい魏志倭人伝の史料批判も許さない原理主義的な馬鹿ばかりwww

と言うか、史料批判なんて事をやった日には「暗号解読ゴッコ」の前提が飛んじゃうからなw

まあ、もし、もう少しこのスレをオチしてりゃ
ここの九州説の中の人が実際には
「邪馬台国東遷説」や「九州王朝説」及びそれらの亜流である事に気づくだろうwwwwwwww
367日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:35:51
・・・物にもよるが、戦国時代の国内の同時代資料だってボコボコに間違ってる例はいくらもある。
「暗号解読」「東遷」・・・。
368日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:53:09
>>365
その程度の推測で「後の情報」を言ってみたところで意味なさそうだな。
後の情報でも「梯儁の報告は完璧だ」という結論だった可能性も十分にある。
369日本@名無史さん:2010/08/13(金) 01:57:16
>>366
悔しがってないで、倭人伝のここが問題だって具体的に指摘してみたら?
370日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:28:01
ユニークなスレだ。察するに、魏使が書いた報告というのが全ての前提になってるんだろうな。
そしてそれへの批判に対する防御反応か。しかしそんなものがあった確証などないんだよ。確証の
なものを基盤として積み上げていったものは脆い。砂上の幻の国だな。
371日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:35:09
で、「素直に読むと」どこに邪馬台国があるの?
卑弥呼の墓はどれ?
卑弥呼のもらった鏡は何?

結局、何一つ答えられないのでした〜ちゃんちゃん。
372日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:40:46
近所のコンビニについて、大雑把に「歩いて何分ぐらいのところにコンビニがある」
というのは情報として間違えないけど、
「大体南東の方学へ約何キロのところにコンビニがある」って
伝えられる人間は地図好きはともかくとして、案外少ない。

伝達する内容では方角が一番いい加減。
373日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:46:38
>>369
そうやって馬鹿丸出しで脊髄反射で返す前にだ…
>>362で指摘している「狗奴國とのすったもんだの顛末が記されていない」点について
先ずおまえ自身の考察を述べてみろって話だなwwww
374日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:58:27
>狗奴國とのすったもんだ
この部分の倭人伝の書きっぷりを見るに、台与の即位で、狗奴国との抗争が調停された
ことがわかるので筆を略したというより、陳寿自身が情報を持ってないという感じだな。
375日本@名無史さん:2010/08/13(金) 02:59:48
>>370
>そしてそれへの批判に対する防御反応か。

倭人伝に見える邪馬台国との完全合致を条件にしておけば
少なくとも畿内説は否定できる。

無論、同時に
「じゃあ九州にそんな(完全合致した)物があるのか?」とてめえにブーメランで帰ってくるが
とりあえず畿内説を否定できればよしとする一種「自爆テロ」だなw

しかしこの「すなお読み」と言う芸風は本来学術的な論争の中での九州説の芸風じゃなくてw
邪馬台国ブームの中で畑違いの門外漢・素人が自説を強弁するときの
一種「免罪符」としての役割を果たす文句だったんだろうwww

まあ「邪馬台国ブーム以来」と言ってもブームの立役者の一人松本清張なんかは
例えば「五万戸」「七万戸」とか言う数字は「陽数(奇数)を好む中国人の修辞」として
そりゃもうバッサリ切り捨てている印象があるがwww

そもそも「元祖すなお読み」と言えば誰になるんだろう?w
376日本@名無史さん:2010/08/13(金) 09:34:55
不彌國って現在の宗像に相当するのかな?

この時代は不彌國以東の情報が存在しないから、
不彌國以東の倭種は、朝貢に訪れるだけの文化が存在しなかったでおk?
377日本@名無史さん:2010/08/13(金) 09:52:07
>>362 >>373
檄をつくって告諭したとあるな。それ以上、たいして進展がなかったんだろ。
魏使の一声で積年の紛争が一挙に解決、なんて言ったらそれこそ眉唾だ。

>報告書なる物があったのかを疑うに十分な動機
そんなことをいうのは君だけだろ。檄をつくって告諭なんて、報告書がなかった
ら書けることではない。
張政の報告書に行程まで書いてあったかどうかは問題だがな。
378日本@名無史さん:2010/08/13(金) 10:05:31
邪馬台国って複数の一次資料が無いよな・・・。
379日本@名無史さん:2010/08/13(金) 10:15:57
こんなところかな。
@ 魏略〜魏志〜後漢書〜梁書
A 宋書
B 隋書
C 旧唐書
380日本@名無史さん:2010/08/13(金) 10:28:47
なるほど。
魏略とかもあるんだ。
381日本@名無史さん:2010/08/13(金) 10:51:53
>>377
>檄をつくって告諭なんて、報告書がなかったら書けることではない。

それこそ『そんなことをいうのは君だけだろ。』だなw

冊封国に対する外交施策を一役人が独断でやって
その報告書に頼らない限り魏が冊封国に対しどのような外交を進めたのかが分からないとでも?

結局、魏使による報告書がありそれを元にあの行程記事が書かれていて
それを読み解けば位置が確定できる・・・と言う前提が無ければ
九州説と言う名の『暗号解読ゴッコ』が成り立たないだけの話。

全くもって馬鹿馬鹿しい。

張政の報告書に行程まで書く必要は無いだろうが
(ついでに言えば梯儁の報告書にも必要は無いだろうがw)
事の首尾を書いていないのはもはや報告書として成り立たない。
何のための報告書だ?
とりあえず「行って来ました」と報告して出張費でも請求するのか?w

ゲームのために前提を勝手に設定するなと言う話だなw
382日本@名無史さん:2010/08/13(金) 11:25:28
遣唐使船を再現したものだけど
魏からの下賜品や魏への貢物を考えれば
長距離航海用の船はこれくらいのサイズはあったと考えても良いんだよな?

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h17a/0129-60.jpg
383日本@名無史さん:2010/08/13(金) 11:40:35
>>382
別に一隻に詰め込まんでも・・
384日本@名無史さん:2010/08/13(金) 11:54:14
>>383
これを二隻くらいかと。
385日本@名無史さん:2010/08/13(金) 12:02:32
当時の中国の行動パターンだと、2回の使いはどちらも200人〜400人規模だと思うね。
これは郡から出せる船の数にもよるだろうが。むろん軍事行動に準じて、できうる限り素早く
動いただろう。
386日本@名無史さん:2010/08/13(金) 13:44:18
「檄」は、励ます意味で使う檄文とはちがう。
ふれぶみ。 めしぶみ。まわしぶみ。
昔、役所から人民を呼び集めるために出した木札の文書。
皆に知らせるために出す回状や通信。
敵の悪い点を書き、味方の正しい点を人に知らせる文書。
告諭は狗奴国に対して「戦争をやめるよう」書かれた文書。
この種の下し文は貰って利する方に渡される、つまり卑弥呼が受取った。
このお墨付きを示して、卑弥呼は30余国に出兵を促したことだろう。
つまり、この「檄」により実戦が始まったと見て取れる。
紛争解決どころか、戦争が本格化したんだよ。
387日本@名無史さん:2010/08/13(金) 14:16:01
魏が戦いに割り込むつもりだったら、張政のような文官ではなく将軍(あるいは尉官)をよこしただろ。
388日本@名無史さん:2010/08/13(金) 14:20:54
帯方郡の安全すら満足に保てないのに、海を渡って倭に派兵する訳ないだろ
むしろ、倭に半島有事の際の援軍を期待したから、倭国王に叙したり黄幡を送ったりして友軍にしようとした訳で
389日本@名無史さん:2010/08/13(金) 14:54:48
>>386
果たして倭人伝の文章からそこまでの内容を読み取れるのか否か
その妥当性については置いといてw

個人的には「腑に落ちる」部分がかなりある。

邪馬台国卑弥呼が狗奴国との抗争に手を焼き窮して
魏に対し暗に助力を求めたと言うより

もっと積極的に能動的に魏の威光を利用して
狗奴国を一気に潰しにかかったと…

卑弥呼
「狗奴国の卑弥弓呼UZEEEEEEEEE!
 チマチマやってらんねえっ!
 魏の威光を利用して一気に潰しちゃる!!」

…みたいな感じでw

ただ結局のところ狗奴国がどうなったのかは分からずじまい。
本当に「張政レポート」みたいなもんがあったのか?w

「すなお読み」の連中は自分の脳内ストーリーに合わせて
さも自明の如くその結末を語るが…

そう言えば「邪馬台国東遷説」や「伊都国東遷説」の他に
「狗奴国東遷説」なんてのもあったなwww
390日本@名無史さん:2010/08/13(金) 15:03:49
>>381
張政の報告書に書いてあったこと全部が引用されてるとでも思っているのか?
391日本@名無史さん:2010/08/13(金) 15:09:40
好戦的な連中が多いなあ。檄に書いてあったのは、「争ってはならぬ」ということ
だろう。
392日本@名無史さん:2010/08/13(金) 15:33:08
>>386

よしんば、九州の邪馬台国が九州のクナ国を武力で制圧したとして、
その後、畿内のヤマト王権に併合されたわけですからね。
393日本@名無史さん:2010/08/13(金) 15:35:47
半島の倭というのは金官伽耶あたりだろう。半島全体の平定に寄与するというのは
規模からいっても、ちょっと難しいんじゃないか。
394日本@名無史さん:2010/08/13(金) 15:50:37
>>393
戸数7万、5万という数字を挙げているし、倭国の兵力は大きいと見ていたと思うがな
>>391
なぜ「争ってはならぬ」なの?
>>389
源平の戦でも、「平家追討の院宣」を貰えたからこそ
頼朝は兵を集めることが出来た
「檄」や黄幡は、魏のお墨付きとして機能したんだと思うよ
395日本@名無史さん:2010/08/13(金) 16:00:14
>>394
>「檄」は、敵の悪い点を書き、味方の正しい点を人に知らせる文書。
>告諭は狗奴国に対して「戦争をやめるよう」書かれた文書。
あなたは檄と告諭は別のものと思っているようだが、檄をつくりて告諭す、
つまり同じことなんだよ。使者は直接狗奴国の者に対してあれこれ言うこ
とはできないから、邪馬台国の者に檄を示したんだ。邪馬台国の者がそれ
を狗奴国に示して「魏からの指示だ」と伝えるわけさ。だから、当然内容
は「争ってはならぬ」なんだよ。
396日本@名無史さん:2010/08/13(金) 16:36:31
>>395
「檄をつくりて告諭す」の意味は解ってるよ
その「争ってはならぬ」を狗奴国が受け入れなかったら、狗奴国は魏に対しても敵対した事になるよ
日本で言えば「朝敵」だ
だから、卑弥呼は包囲網を引きやすくなる
黄幡を貰っている邪馬台国は魏の官軍、狗奴国は賊軍
檄は決して和平の文ではない事がわかるだろ?
397日本@名無史さん:2010/08/13(金) 16:40:21
>>392

× 畿内のヤマト王権に併合された
○ 畿内に移転した九州王権に併合された
398日本@名無史さん:2010/08/13(金) 17:58:13
>>397

それは1世紀頃の話ですね。
399唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/13(金) 19:11:38
卑弥呼は共立される。
狗奴国は元々卑弥呼を相手にしない。

魏にとって好ましいのは、倭国を一つにまとめる事だ。
30国、100国を冊封するより一国として冊封するのが、魏の目的である。
この下地作りに6,7年を費やし、247年頃から実行に移す。

まず卑弥呼を共立した国々を一つにするための戦い、この最中に卑弥呼、男王が相次いで死亡する。
そしてその後、狗奴国との戦い。最後の仕上げが、渡海の為の熊襲攻略。

これにより大和で巨大墳墓箸墓を築く事が出来た。
>姓は阿毎、字は多利思北孤、とは

景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ である。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

この文章をどう訳すか?だな。
(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州)の北部に(自ら)一大率を置き、監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

大倭を名乗れるのは、全国を統一したからである。
壹與の時代、大倭(大和)のスメラギは、全国を統一した景行である。

400日本@名無史さん:2010/08/13(金) 19:55:07
大倭の頭には使がついているぜ。それを無視してはいけない。国々市有り、〜
大倭をして之を監す。つまり、市を監督するのが大倭ということだ。となれば、
大倭というのは警察又は軍のような実力部隊だな。
女王国以北においては、その大倭に特に一大率を置いて諸国を検察したという
ことだ。
401唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/13(金) 22:59:47
>市を監督するのが大倭ということだ。

この時代に市を監督して何を得る?
物々交換の時代だぞ。ここに税は発生しない。
日本に於いて、町民に税は発生しない。江戸町民が税を払ったか?
402日本@名無史さん:2010/08/14(土) 00:05:51
「ショバ代」
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/14(土) 00:15:59
そのショバ代を何で払うか?土器か?ドングリか?
国々に市はある、伊都から国々の市を規制できるか?

大倭(大和)が使わした一大率に怯えるのは、乱に参加した国々だ。
乱が平定されて大倭(大和)が成立する。その証拠が古墳となる。
404日本@名無史さん:2010/08/14(土) 00:24:13
生口・鉄・産物など、なんでもあるだろう。
405日本@名無史さん:2010/08/14(土) 01:10:19
14世紀の著作である「東方見聞録」でさえあの程度の記述なのだから。
406日本@名無史さん:2010/08/14(土) 03:06:42
ふつうの考えて
一大率の検察対象はスパイだろう。
だから、呉と狗奴國の関連も暗喩した文章なワケで。
407日本@名無史さん:2010/08/14(土) 06:24:31
乱が再燃しないように見張ってるんだよ。
408日本@名無史さん:2010/08/14(土) 11:06:56
そして通信手段を断つため、大和語以外の使用を一切禁じた。
その上、文字の書かれた紙、木簡、粘土板、石碑、発見するとすべて破壊させた。
古代文字がほとんど残っていないのはそのためだったのだ。
409月孔雀:2010/08/14(土) 11:13:08
卑弥呼って、卑しいって字が付いている。
魏の使者から見て、どういう風に卑しく見えたのか?

想像 卑弥呼は子供を生んでいない。
   で、いつも、いっぱい男をはべらせていた。

   ↑卑しく見えた。
410日本@名無史さん:2010/08/14(土) 11:22:25
卑弥弓呼は?
411日本@名無史さん:2010/08/14(土) 11:35:12
いやしい、と、いやらしいは違うだろ
412日本@名無史さん:2010/08/14(土) 11:38:12
卑字を使うってのは、意味があることなんだよ。
良い意味をもつ字を使ったら、それが現地で使用されている文字と誤解される。
卑字を使えば、現地でそんな字を使うはずはないから、音を借りただけの当て字
だってことがすぐに分かる。そのための卑字だ。
413日本@名無史さん:2010/08/14(土) 14:05:31
華奴蘇奴国ってのがあったろ。
「華」は中華の華だからとても良い字だな。
414日本@名無史さん:2010/08/14(土) 14:16:19
0年〜250年の1年単位で降水量の変化
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20100813-OYT9I01297.htm

気候変動・社会不安・そして卑弥呼台頭?

 2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど降水量が大きく変動していたことが明らかになった。
 名古屋大学の中塚武教授(地球化学)らが木の年輪を分析して突き止めたもので、列島はかつてない豪雨にも襲われていた。
邪馬台国の卑弥呼は、その直後に台頭しており、中塚教授は、降水量の変動による社会の不安定化が背景にあったと指摘している。
 中塚教授らは、長野県で発掘され、紀元前1世紀から紀元3世紀のものと判明している木曽ヒノキについて、
年輪一つ一つに含まれる酸素を詳しく調べた。
 酸素には、軽い酸素と少し重い酸素があり、軽い酸素を含む水の方が葉から蒸散しやすい。
重い酸素が年輪に含まれる割合は、降水量が少なく、乾燥していた年ほど多くなる。
これを利用し、1年単位で降水量の変化を再現した。観測記録のない時代の細かい降水量変化がわかったのは初めて。
 その結果、日本の降水量は、1世紀半ばから短い周期で変動を繰り返すようになり、2世紀になると40〜50年周期で大きく変動。
これまでにない大雨が発生したこともわかった。
 中塚教授は「降水量が長い周期で変化すると、小雨期に開発した水田が多雨期の洪水で壊されるなど、
社会に大きな被害を与える危険性がある」と強調する。
 卑弥呼の登場前、国内で大きな争いが続いたことは、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている。
内乱の背景として鉄製武器の普及や天変地異が指摘されているが、詳細は不明だった。
 ◆魏志倭人伝=日本の古代史に関する最古級の史料で、中国で3世紀にまとめられた魏の史書「魏志」に収められている。
卑弥呼が女王になった経緯が「倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に、一女子を立てて王となす」と記述されている。
(2010年8月14日03時03分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100813-OYT1T01311.htm
415日本@名無史さん:2010/08/14(土) 14:45:37
>>413
「華の蘇の国」だから、中国系移民が作った国かな
416日本@名無史さん:2010/08/14(土) 15:30:45
華奴蘇奴国   =   若狭の国
huag-nag-sag-nag

417日本@名無史さん:2010/08/14(土) 17:18:22
委奴国と魏とでは、どっちが卑しいんだ?
418ひよこどこのこ:2010/08/14(土) 18:52:06
初心者です。質問@ 魏志倭人伝の記述は正しいものですか?
              記述どおりに読めば邪馬台国にたどり着けますか?

九州説、畿内説、その他の立場でおしえてください。お願いします。
419ひよこどこのこあひるのこ:2010/08/14(土) 18:55:39
質問A 邪馬台国の所在地を明らかにするには、文献と考古学のどちらを
      重視すればよいのでしょうか?

もちろん、併用していけば一番よいのでしょうがあえてお尋ねします。
420きつね:2010/08/14(土) 19:01:00
>>419

あひるさん、おうちへお帰り。ここは静かな水辺じゃなくジャングルなんだよ。まごまごしてると
捕って喰われてしまうよ。こんこん。
421ふくろう:2010/08/14(土) 20:07:36
ふむ、きつねの言うとおりだろう。倭人伝は危険な書物で焚書にしてもよいくらいのものだ。
これに心を囚われて間違った道に進むと、2chの化石のような人物になってしまうぞ。
心することだ。
422日本@名無史さん:2010/08/14(土) 21:56:51
>>418
狼です。

まず
戦前までの研究については、
・出雲神社、伊勢神社を名指しできなかった(天皇起源との年代的差異がでてしまう。また世俗的タブーによる)
という問題があり、一大を壱岐との誤記としたり、方角や単位が間違っているとか、さまざまな説が
時々の政府や時世において創られているので、それをふまえた研究が必要です。

ちなみに
末盧國を出雲(松江)とすれば、伊勢(三重)までは記述どおりにたどれます。
423日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:10:16
>>422
やめろ。初心者を惑わせるんじゃない、この基地外。
424日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:23:09
>>418
みんなそれぞれ「邪馬台国はここだ」と思ってます。
あなたも、「邪馬台国はここだ」と思うところがあれば思えばいいのでは?

>>419
文献か考古学か、というわけ方は本質的ではありません。
「自分の思った邪馬台国の場所」を他人に説明するとき、どちらを利用したほうが説明しやすいか、ということです。
もしも、あなたが考古学に興味がなければ、文献だけ重視すればいいのでは?
興味が無いのに考古学を学んでも、考古学を根拠に邪馬台国の場所を想定することはできないはずです。

なお、「邪馬台国の場所はここだと思う」とあなたが思っても、
あなたの人生にはなんの利益にもなりません。

425日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:40:36
予定調和的に畿内説で手を打つはずだった、考古学業界は、
いまさら畿内じゃありませんなどと言えないところまで来てしまった。

そういう因習・利権から自由であることだけは死守せよ>>418-419
426日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:53:44
邪馬台国が畿内じゃない証拠は何もないけどな。
427日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:55:45
しかし、このレス群を見ろや。このスレにまともなやつはいない。もっともヤフーにもいないが。
428日本@名無史さん:2010/08/14(土) 23:03:15
当時はあの文面で読み手が理解できたという事かな?
地図かなんか添付資料があったのだろう
429日本@名無史さん:2010/08/15(日) 00:19:58
>>418
まず「邪馬台国の所在地」というのは文献史学の論題であって、考古学の研究テーマではない。
考古学者は、新書など一般向けの本には邪馬台国の字句を用いて論じたりするが、公式の論文や
調査報告書にそれが出てくることはほとんどない。ただしマスコミ向けのリップ・サービスはあるが、
これは世間の興味を引くことで、遺跡の保存や調査費用の捻出を図ったりするためもある。

考古学は新たな遺跡の発掘による資料の積み重ねによって、日々進展している。3世紀の地政、
衣食住などの生活面、祭祀などいろいろなことが明らかになりつつある。一方、この板の九州説は
否定するだろうが、文献史学による邪馬台国の所在地の研究は行き詰まって久しい。というより、
倭人伝解読からは邪馬台国の所在地はわからない、という結論が出ていると言ってもよいと思う。
いずれ新たな資料の発見でもない限り、文献からのアプローチは苦しいだろう。

だから、一介の素人として邪馬台国を楽しみたいというなら、倭人伝をあれこれいじくりまわして
自分なりの方法論で、いわゆる「暗号解読」をしていくのもよいのだが、3世紀の列島の実相を
知りたいというのなら、考古学を重視すべきだと思う。


430日本@名無史さん:2010/08/15(日) 00:52:08
行き詰ったという人間に限って、三国志に出てくる邪馬「台」国などとうそを言う。
431日本@名無史さん:2010/08/15(日) 00:56:48
>>429

邪馬台国に興味を持つ過程で、
考古学的に3世紀の列島の実相が勉強になるなら、意味のある行為だな。

ただ文献をいじまわして、ここだここだと言ってるだけでは、何の意義も無い。
432日本@名無史さん:2010/08/15(日) 10:08:00
>>425 >>430

九州王朝説のサイキバ君、相変わらずの陰謀論の布教ごくろうさんです。

 ♪俺の名は 俺の名は サイキバダー
 ♪俺の使命 俺の生きがい
 ♪キナイセツを破壊せよ 破壊せよ〜

433ひよこどこのこ:2010/08/15(日) 10:29:24
>>429
レスありがとうございます。倭人伝の解読では、邪馬台国の所在地はわからないという
ことですね。確かにわかるように書かれているなら、これほど論争が続くのは不自然かもしれ
ません。。
また考古学の研究テーマではないというのは、魏帝からの木簡でも出土しない限り論文など
で触れられることはないということでしょうか。

質問B 邪馬台国の所在地が明らかになることで、歴史学上どのような意義があるのですか?


434日本@名無史さん:2010/08/15(日) 11:50:03
>>433
これはかつては、邪馬台国が九州なら倭国の範囲は限定的なものであり、畿内なら倭国はすでに西日本全体への
広がりを見せていた、という古代日本の国家形成にかかわる問題としてとらえられていた。しかし、これもこの板の
九州説には受け入れがたいところだろうが、考古学的には3世紀列島においての広範囲な地域の交流が窺えるよう
になった。つまり、倭国の範囲を九州島内とすると大きな矛盾が出てくることになる。

そこで「ゆるやかな連合」という概念が設定されることになる。これは邪馬台国の所在地いかんにかかわらず、列島内
における活発な交流を意味するものであり、また中央集権的、強権的な支配関係を否定するところから「ゆるやかな」の
文言が用いられている。つまりは交易を介在した拠点集落の首長間の連合ということだ。3世紀後半からの前方後円墳
の急速な伝播などは、それ以前からの関係を抜きにしては考えにくいことである。

また、必ずしもヤマトが連合の中心と考えられるわけではなく、吉備や四国、山陰、さらには東海や関東などの勢力も、
無視することができない規模で存在したと考えられている。大陸からの文物はあくまでも威信財であり、人口を維持する
ためにはまず食料が必要であって、沃地の広がる東国に大きな勢力を見るのは当然の話であろう。この板の九州説は
「九州中心主義的史観」というものを捨てる必要がある。これは辛いことだろうが。
435日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:07:17
3世紀に広範囲にわたって交流があったとしても、
九州である事はありえるよ。
個人的には九州とも畿内とも言えるような状況では無いと思うけど、
最近の考古学の発見も畿内説を裏付けるものでは無いよ。
邪馬台国とは別に畿内に大きな国があった可能性もある。
結局、魏への、あるいは魏からの文書でも発掘されないと、
邪馬台国が何処かは分からないだろうな。
436日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:18:19
>>435
現在のアカデミックな九州説(少数だが)はそうだろう。九州に邪馬台国があったとすれば、それは小国で後のヤマト
王権の伸張とはほとんど関わりがないとする説だ。
437日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:21:47
九州に邪馬台国があった可能性はあるが、
その場合、4世紀に畿内のヤマト王権に九州は併合されたことになる。

まず、ここを認めなければ、3〜4世紀にまたがる歴史の話は何もできない。
438日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:42:54
邪馬台国は九州(肥前肥後筑紫)→狗奴国(薩摩大隅日向)との戦闘に破れ滅亡、あるいは豊前へ移動
→朝鮮半島南部から侵入してきた倭人(景行天皇、神功皇后)が九州を足がかりに「東進」しヤマト王権樹立
→白村江の戦いを機に倭(九州、任那)は百済とともに滅亡、日本(ヤマト王権)が併合
439日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:05:56
>>418-419ひよこ の質問に対しては>>429をベストアンサーに推すw

しかし、良く思うのはこの手の質問をする人間もその回答がどのような物であれ
その後どっちに進むかは既に決まっているんじゃないかと…

仮に倭人伝の”印象”で九州説からスタートしても
きちんと歴史を見る目があれば畿内説、仮に九州説であっても
少なくともここのゴミクズ・ゲテモノレベルの九州説にはならないだろうと…

リアルでもカルト教団に騙され洗脳された人間は確かに被害者ではあるが
カルトに惹かれるのは本人の中にそう言ったものを求めるものがあるからだと…www
440日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:09:19
>>433
>質問B 邪馬台国の所在地が明らかになることで、歴史学上どのような意義があるのですか?

先ず考古学的には実年代を決定する指標ができるってのが大きいんじゃないのかな?
舶載の遺物の豊富な九州に比べて近畿関西じゃあ、どうしてもその基準が見つかりにくい。

(…と言うか昔の「古墳時代は4世紀から」と言う年代観にしても
 三角は 魏からの下賜品=卑弥呼の鏡 で伝来して直ぐに副葬されたんじゃなくて一世代ぐらいは伝世した後副葬された…とか
 第W様式の頃に高地性集落が発達していると見て、それを倭人伝中の「和国大乱」に当てた…とか
 何れにせよかなりの部分、邪馬台国がらみで年代観は成り立っていたわけでwwww)

以下はほぼ>>434の蛇足になるが…

それにヤマト王権の発生発展のプロセスにも関わってくる話で
もし当時九州に邪馬台国をトップに頂く(九州内でクローズドしている)連合体があって魏と冊封関係を結んでいたなら
ヤマト王権の影響力はまだ九州に及んでいなかったと言う話になる…

(まあ実際には既に北部九州もこの畿内を中心にした連合体に加わっていたと言うのが
 一般的な見方になっていると思うが…)

しかし >>433ひよこ の質問はこの板では珍しく”筋”がいいように思うが…
まさか最近停滞気味のスレを活性化ねらって常連が「なりすまし」でやってねえだろうな?wwwwwwwww
441日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:14:43
それはそうと
>>382で魏使の乗った船を後世の遣唐使が乗ったような構造船としているが問題ないのか?

当事の中国では既に構造船は使われていたのだろうか?
(まあ映画やコミックの「三国志」の世界での赤壁じゃあ普通に後世のジャンク船みたいなのが出てくるがw)

航海の安全性は船の構造よりは航路が致命的な要因だったろうが…
(半島沿いルートが使えなくなり東シナ海ルートを使うようになって遭難が頻発しているのは歴史に見える通り)

『原の辻』で発見された船着場を再現したジオラマじゃあ準構造船が用いられていたと思うが…

中国から構造船を持ってきても日本側に停泊しておける施設があったか?

それに構造船を操船できるクルーを連れてきても日本の海の潮の流れを知っていないと役に立たず
結局は日本の船(準構造船)とそのクルーによって航行したと言う事になったんじゃないのか?
442日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:45:02
・・・魏は公孫氏討伐の前に大型楼船を建造してるが、それで来たわけではないだろう。郡にあった公孫氏所有の船を使った
のかもしれないがよくわからない。ただし魏使はかなりの多人数と思う。
443日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:53:03
444日本@名無史さん:2010/08/15(日) 14:11:54
公孫氏の討伐に数万といわれる大軍を用いており、蛮地への使いであっても数百程度の人数はあったのではないか。皇帝の威儀を
示すため、証書・金印を守護するため。校尉ならそれくらいの人数は率いることができる。おそらく倭人に案内は頼んでも、すべて自分
らのペースで行動したと思う。縄文人のいうようなあちこちに泊まりながらゆっくり進んだということはないと思うが、こんなのすべて推測
でしかない。
445日本@名無史さん:2010/08/15(日) 20:25:38
魏が公孫氏を攻めるとき、帯方郡あたりを、黄海をこえて直接せめています。
倭への使節はその時の船がまだ帯方郡にのこされており、それを使って倭国へときたのではと思います。
十数人ぐらいしか乗れない倭船できたというのは、ちと考えられません。
446日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:54:55
呉も朝鮮半島に出没していたので、魏が貧弱な使節を派遣したとは考えにくい。
むしろ、海上戦が可能な使節だったろう。
447日本@名無史さん:2010/08/15(日) 22:36:59
呉は魏に従ったと見せかけて、倭と交易権を手にし、大きな利益を上げていた。
長崎や堺の商人と同様、金さえ儲かれば政治になど一切興味がない民族。
つまり、ユダヤの商人ということになります。
448日本@名無史さん:2010/08/15(日) 22:38:19
いずれ当時の情勢と中国の行動パターンを考えれば、大型船で多人数が来て、食料はなるたけ持参し、できるかぎりは船内で宿泊して、
陸行の場合は準軍事行動としてハイペースで進んでいったというイメージがあるんだけどね。単なる推測ではあるけど。

九州説が、倭人伝の記述が魏使の報告書が元になっているというのなら、このあたりは本来中国文献をあたって研究すべきところなんだ
けど、この人たちは「常識で考えてこうに違いない」とか言うだけだからなあ。
449日本@名無史さん:2010/08/15(日) 22:46:12
ここに屯している奴らの半数は、実は倭人伝すら読んだことが無いと言うことは公然の秘密w
450日本@名無史さん:2010/08/15(日) 23:02:05
倭人伝の記述によればその所在地が関西である必要も九州である必要もないわけだからね。
日本が和と名乗っていない時代の文責に倭とあったから、これは和国に違いないという前提からの論だから。
451ローガン:2010/08/16(月) 00:33:38
>>440
> >質問B 邪馬台国の所在地が明らかになることで、歴史学上どのような意義があるのですか?

> 先ず考古学的には実年代を決定する指標ができるってのが大きいんじゃないのかな?

循環論法ぽくない?考古資料から 邪馬台国〇〇説を論じた上で、
その所在地論に基づいて考古資料の「実年代を決定する」って。
452ひよこどこのこあひるのこ :2010/08/16(月) 01:05:29
みなさん御回答ありがとうございます。今回は畿内説の方が多く答えてくださった
ようですが、九州説の方のお話もぜひ聞きたいですね。わたしは「なりすまし」など
ではありませんので、警戒しないでください。

またまた質問させてください。

質問C アマチュアが邪馬台国問題を考えることで、人生にどのようなプラスが
      ありますか。


453じゃこうねずみ:2010/08/16(月) 01:10:25
>>452
変人になるだけだと思いま。
454日本@名無史さん:2010/08/16(月) 01:13:40
元の漢文でさえ原本からのコピーでしょ。
455日本@名無史さん:2010/08/16(月) 01:16:45
なんか「注文の多い料理店」みたいなやつだ。
456日本@名無史さん:2010/08/16(月) 01:21:35
>>443
縦帆があるなら東シナ海は渡れるよ
倭にもあった様だがな
457日本@名無史さん:2010/08/16(月) 02:22:56
天気のいい日には朝鮮半島南端から対馬が見えるし、対馬からは北九州が見えるのだから。
458日本@名無史さん:2010/08/16(月) 04:18:38
>>451 老眼翁
>循環論法ぽくない?

もって行き方によって、そうなる可能性はあると思うが…

簡単な話、親魏倭王の金印の出土とか、三角が卑弥呼の貰った銅鏡である事が証明されたりとか
誰が見てもスッキリした形で位置論が決すれば問題ないわけでw

 考古資料から → 位置の決定 → 決着した位置論を前提として各考古資料の年代の推定

…と言うのが必ずしも循環論法になるわけじゃないと思うが

ここで循環論法に陥ると言うのは本来、位置の決定に直結しない考古資料を無理やりにそれに用いるから起こるのであって
(仮定に過ぎない位置論を証明済みの前提に摩り替える)

現在の畿内説で言えば用いている考古資料は直接的に邪馬台国の位置を畿内と証明する物では無く

「3世紀には既に初期のヤマト王権が立ち上がっていて、ヤマトを中心にしたその連合体が国内最大勢力でした」

…と言う範囲にとどまり、故に循環論法にはなりえないが
(その代わりと言えばなんだがwww)九州説の理論的可能性は残す羽目になるとwww

459日本@名無史さん:2010/08/16(月) 08:22:21
畿内における銅鐸廃棄という国家激震があったのに、畿内説では右肩上がりの国家伸長を前提にしているのが笑える。
志賀島の金印も、盗まれて九州に運ばれたんだろうでおしまいだし、魏志倭人伝中の邪馬台国の景色は、
畿内にはなく、吉野ヶ里と同一文化圏としかいいようがない。

さらに、ありもしない「ゆるやかな連合」を前提にしないと成り立たない畿内説というもの自体が、オカルトに近いといえよう。
460日本@名無史さん:2010/08/16(月) 10:14:40
>「ゆるやかな連合」を前提にしないと成り立たない畿内説
「ゆるやかな連合」を前提にしても、成り立たないんだよ。
言葉は正確に使おう、なんちゃって。
461日本@名無史さん:2010/08/16(月) 10:28:49
>>459
> 畿内における銅鐸廃棄という国家激震があったのに、

「破棄」
どこの遺跡の状況を指して、言ってますか?
検証できるように具体例を挙げてみてださい。

>畿内説では右肩上がりの国家伸長を前提にしているのが笑える。

「右肩上がり」
どの時期のをことを「前提」にして笑っていますか?
検証できるように具体例を挙げてみてださい。

> 志賀島の金印も、盗まれて九州に運ばれたんだろうでおしまいだし

そんなことを言っている人は誰ですか?
具体名を晒してください。
皆で笑ってあげましょうよ。

>魏志倭人伝中の邪馬台国の景色は、畿内にはなく、吉野ヶ里と同一文化圏としかいいようがない。

唐古と吉野ヶ里ってどちらも似たような環濠集落ですが・・・
御存じ無かった・・・ようですね。

> さらに、ありもしない「ゆるやかな連合」を前提にしないと成り立たない畿内説というもの自体が、オカルトに近いといえよう。

3Cの九州には、15万戸の人民を支配する強大な専制君主様が居られたと思われているのですね。
462日本@名無史さん:2010/08/16(月) 11:01:55
平壌に大規模高句麗古墳 日朝が初の本格合同調査

http://kumanichi.com/news/kyodo/culture/201008/20100814003.sht

北朝鮮の金正日体制が崩壊して、楽浪郡や帯方郡の発掘が進めば、
邪馬台国に繋がる資料が発見される可能性が高い。
まあ、時間の問題でしょう。

ずばり、邪馬台国とは阿蘇。
463日本@名無史さん:2010/08/16(月) 11:30:56
卑弥呼の墓も
卑弥呼の鏡も
卑弥呼の宮殿も、

まあ、九州のどこにも無いんだけどね。
464日本@名無史さん:2010/08/16(月) 13:00:49
>>461
サイキバにマジレスすんなよ。そいつは何の知識もないし、ここまで勉強もしてない。w
465日本@名無史さん:2010/08/16(月) 14:09:09
>>464
そういわずに、サイキバ君にもう一度だけチャンスをあげようではないか。
彼だってそれほど悪いやつではないし、心底反省しているようだ。
ここは大人の包容力というか、卑弥呼生誕1900年の恩赦というか、
まあ、そんなお題目はどうでもいい。
知識がないのは恥ではない。学ぼうとしないことが恥なのだ。
466日本@名無史さん:2010/08/16(月) 14:14:47
サイキバ君の知能発達を生暖かく見守るスレはここですか?
467日本@名無史さん:2010/08/16(月) 14:33:42
だいたい銅矛の文化圏を考えたって倭国は九州だけでないし、銅鐸とほぼ同様に銅矛祭祀も廃れて
いる。九州説の畿内説批判はダブル・スタンダードもいいとこ。
468日本@名無史さん:2010/08/16(月) 15:24:57
邪馬台国論争遂に決着!
森浩一「倭人伝を読みなおす(ちくま新書)」が決定版だな。
469日本@名無史さん:2010/08/16(月) 15:31:09
森のことほんとにわかるのか?三角縁国産まではよかったが、反体制ぶって九州説に肩入れし、
引っ込みがつかなくなった憐れな老人のことを。最晩年は井沢ごときにまで利用されて・・・。
470日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:29:43
>>468のマルチレスは関係者の宣伝と見てよいでしょう。
471日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:33:07
ということで>>465が、サイキバ君にもう一度チャンスが与えられました。

さあ、サイキバ君、もう一度おじさん達を呻らせる名コピーをどうぞw
472日本@名無史さん:2010/08/16(月) 18:47:38
サイキバ君など、もう一年も出てこないわけだが。
畿内説論者には、サイキバ君が怖くてしょうがないらしい。
473:2010/08/16(月) 19:18:50
サイキバ君が必死です
474日本@名無史さん:2010/08/16(月) 19:23:27
>>459
>畿内における銅鐸廃棄という国家激震があったのに

…確かにサイキバっぽいなw

すると銅鐸の出土分布域は一つの統一国家のようなものであったと?
中々豪快な話だw
もはや邪馬台国がどうのこうの言うはるか以前のお話wwww

和辻ですらそこまで言ってなかったんじゃなかったか?
(「基本論文集」には誰かに当てた書簡を載せていたと思うが…)

最近、戸籍上にしか存在しない百歳以上の老人の話がニュースになったが
この板じゃあリアルに百歳以上のご老人が書き込んでいるんだろうか?wwwww

まあ「ゆるやかな連合体なんかありえない」と馬鹿が威勢良くほざくのは良いから
じゃあ銅矛国wと同じぐらいの領土を有した強力な中央集権的国家が何処に存在したのか
きちんと考古資料を添えて論証してみろって話だなw

自らハードルを上げて自分の首を絞めるブーメラン自爆芸は
ここのゴミクズ九州説の基本芸風wwww

もっとも最初からハードルを乗り越える気なんかさらさら無い。
故にその高さを10mでも20mでもおよそ現実と乖離した物でも平気で言えるw

無論それも匿名の掲示板ならではのお話だがwwwwwww
475日本@名無史さん:2010/08/16(月) 19:36:22
>森浩一

ここだけの話だが…
正直学者としての”旬”は過ぎたって気はするwww

大体、欣喜雀躍して森の最近の著作を宣伝するのはいいが
九州説といっても、ここの大方のゴミクズ九州説とかなり内容が異なる。

なんせ井沢との対談で箸墓が九州から運ばれた卑弥呼の遺骸を収めたか
もしくは壱与の墓の可能性があるなんて言っていて

「3世紀邪馬台国の時代には既にヤマトは国造りの基本的なところは終えている」
としている。年代観が先ず違う。

小林・佐原の年代観に先祖がえりするなんて真似はできないと言うか
そこは考古学者としての矜持なんだろうがwwww

しかし森と言えば黄金塚だろうが現在あのセンセイは
例の景初の紀年鏡をいつ頃作られたとしているんだろうか?

476日本@名無史さん:2010/08/16(月) 20:01:11
>畿内説

ここだけの話ですが…
正直学説としての”旬”は過ぎたって気はしますね

477日本@名無史さん:2010/08/16(月) 20:20:26
》》》今でこそ邪馬台国九州説を救え
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1281697816/l50

…しかし、また邪馬台国スレが立ってたんだなw
(ローガンが以前「九州説をやってみる」と予告していたが
 実際に行動に及んだみたいだw果たして老眼翁は九州説を救えるか?w)

実際のところ「救え」と言われても、もはや救いようが無いというかw

ぶっちゃけ邪馬台国ブーム以後の九州説と言うのは
学問・学説と言うよりは一種の『社会現象』の範疇で捉えたほうが良いんじゃないかと思っているwww

まあブームはブームであって所詮、一過性のものでしかないわけでwwwwwww
478ローガン:2010/08/16(月) 20:25:32
>>477
いやまあ、あくまでスレタイに沿ってと云う事で…。
479ローガン:2010/08/16(月) 20:48:56
>>475
>しかし森と言えば黄金塚だろうが現在あのセンセイは 例の景初の紀年鏡をいつ頃作られたとしているんだろうか?

著作を読んでないので、想像ですが、いくらなんでも金石文の年号は、動かんでしょう。
和泉黄金塚はたしか西晋代の銅銭共伴。あの画文帯は短くみても30年は伝世。
480日本@名無史さん:2010/08/16(月) 21:27:48
>>479
いやあ、森は何処かの自著の中で黄金塚出土鏡に関し
「仁徳朝の頃に日本にとって由緒のある年号を採用して河内で作られた」って説を紹介してたし

またその平縁画文帯神獣鏡の主要部分が三角の中に全く同様の物があるとも指摘していて

全体として相当に遅い時期の製作としているような印象を持ったんでw

481日本@名無史さん:2010/08/16(月) 21:32:09
森先生の発表は何回か聞いたことがあるけど、あの人は反骨というよりアマノジャクという印象だった。
強弁し始めれば止まらないといった感じ。
482日本@名無史さん:2010/08/16(月) 21:44:50
確か森の倭人伝の読み方って
倭人伝中の女王国の女王とは壱与の事であって
卑弥呼の記事は言わば回想シーンのように挿入されている…って話じゃなかったっけ?

卑弥呼の死後、大和に東遷してきたと…

相当にアクロバチックな物だったと思うがwwww
483日本@名無史さん:2010/08/16(月) 22:01:11
「日本は天皇を中心とした神の国」と発言し、大きな波紋を呼んだ元首相がいたけれど、大言壮語は森氏の血統なのかもしれません。
対抗勢力のいない間は、そのやり方で強大な力を発揮したけれど、在野の素人歴史家もインターネットを通じて十分な情報が得られる現在では、
検証不十分な論証は、大御所といえども叩かれる。
現代は、情報を囲えない文系の学者にとっては、受難の時代ともいえます。
484日本@名無史さん:2010/08/16(月) 22:32:50
考古学の分野では頑張ったのかもしれんが、

森の思考レベルは、素人と変わらんな
485日本@名無史さん:2010/08/17(火) 01:34:43
要するに21世紀の現在において
出雲、伊勢などの神社について、はっきりと意見を明言しない
学者など信頼するに値しないと言うことでしょう。
それは文献学であれ、考古学であれ同じ。
タブーを内包してる研究など、それ自体が民俗学の対象だよ。
486日本@名無史さん:2010/08/17(火) 07:56:52
邪馬台→大和
卑弥呼→姫 だろ
いきなり大王名義で使いを出すのもあれだから
とりあえず皇族名義で出したんだろう
ネット通販を最初は過剰に警戒してステアドや偽名でやるようなもんだな
487日本@名無史さん:2010/08/17(火) 11:03:56
卑弥呼=ピ・ミコ=雨・巫女 だろ
488日本@名無史さん:2010/08/17(火) 17:03:03
>>485
あと日本の山中に存在する神明神社も意味不明なんだが、誰も指摘する奴がいないしね
山岳信仰と看板に謳ってあるのになぜか神明神社、明神大神になってちゃってるしwww
489日本@名無史さん:2010/08/17(火) 17:04:05
出雲も伊勢も海人族が祀った神のはずなんだがな
490日本@名無史さん:2010/08/17(火) 20:56:26
氏神というのは、シュメールの個人神の影響を受けていることは間違いないと思われます。
エジプトのピラミッドの原型も前方後円墳の原型も出雲大社の原型も、このシュメールのジグラトに見ることができます。

http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/sekai/sr02_mesopotamia/syu04.gif
491日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:01:55
いや、普通に大きい建物を造るとこうなるだろJK
492日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:14:12
>>490
人工物すべてにいえるが同じ生物である人間がつくったものである以上類似するのは当然
簡単にむすびつけんな
493日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:32:48
>>492
そうなんですよ。
オリエント文明は、ナイル文明や黄河文明より古い人類最古の文明ですから、
オリエント文明はすべての古代文明のルーツともいえます。
しかし、シュメール文明を最も多く受け継いだのは日本なのです。
494日本@名無史さん:2010/08/18(水) 02:31:38
日本の首都一覧

飛鳥宮(奈良県明日香村) 592年 - 645年、655年 - 667年、672年 - 694年
難波宮(大阪府大阪市) 4世紀、645年 - 655年
大津京(滋賀県大津市) 667年 - 672年
藤原京(奈良県橿原市) 694年 - 710年
平城京(奈良県奈良市) 710年 - 740年、745年 - 784年
恭仁京(京都府木津川市加茂町) 740年 - 744年
紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町) 744年 - 744年
難波京(大阪府大阪市) 744年 - 745年
長岡京(京都府長岡京市) 784年 - 794年
平安京(京都府京都市) 794年 - 1180年、1180年 - 1869年
福原京(兵庫県神戸市) 1180年 - 1180年
東京(東京都)  1869年 -
495日本@名無史さん:2010/08/18(水) 13:18:27
筑紫都督府が抜けている。
496日本@名無史さん:2010/08/18(水) 21:01:30
福原京(兵庫県神戸市) 1180年 - 1180年
福原京(兵庫県神戸市) 1180年 - 1180年

年0811 - 年0811 (市戸神県庫兵)京原福
年0811 - 年0811 (市戸神県庫兵)京原福

福原京(兵庫県神戸市) 1180年 - 1180年
福原京(兵庫県神戸市) 1180年 - 1180年

年0811 - 年0811 (市戸神県庫兵)京原福
年0811 - 年0811 (市戸神県庫兵)京原福


何とかならんのかぁ
497日本@名無史さん:2010/08/19(木) 05:00:58
日本語はシュメール語
498日本@名無史さん:2010/08/19(木) 05:53:40
君のレスは迷惑メール語
499日本@名無史さん:2010/08/19(木) 06:11:35
まあサイキバ君本人じゃないのかもしれないし、サイキバ化した東遷厨が自爆テロを敢行しているようにも思うのだが
彼も最初期の頃から見れば、何だかんだいって進歩しているようなんだよ。
悔し紛れに『陰謀』だとか『詐欺』だとか口走るのもご愛嬌だろう。

俺には

『こ、これは違うのよ!畿内説なんて信じないんだからね!
 あんたなんか間違っているんだからねっ!ふんっ勘違いしないでね!』

こうとしか取れないんだわw
縄文人なんかも、まあ典型的なツンデレだw

『このわたくしに恥をかかせるなんて何様のつもりですの!覚えてらっしゃい!
 きっと復讐して差し上げますわっ!おっほっほっほっ!・・・・・・でも気になりますの、あの方が』

だから近江説とかの他のライバルwwwが現れると

『あ、貴女は黙ってらっしゃい!畿内説を倒すのはこのわたくしなのですからっ!(もうっ!わたくし以外の女(説)に構うなんてくやしいぃぃぃぃ!』

なんか可愛いじゃんwww
これを広い心で受け止めてこそ漢だぜw
500日本@名無史さん:2010/08/19(木) 07:19:21
>>漢だぜ

中国人ですか?
501日本@名無史さん:2010/08/19(木) 12:44:21
ピラミッド、ジグラッド、前方後円墳、作り手が求めたものは須弥山
日本では、前方後円墳→仏塔 へと変わった
仏教は、修行により己が魂を須弥山へと登らしめた釈迦を先達として、凡俗の死者の霊を頂まで誘導してもらう宗教
だから、須弥山に見立てた仏塔に釈迦の骨を祭る
502日本@名無史さん:2010/08/19(木) 16:31:57
ちょっと聞くけれど、奈良が「ナラ」(古代の朝鮮語)から来ているというのは、
既に定説?
個人的には多分違うと思うんだが、史実化しそうな勢いを感じるんだが。
503日本@名無史さん:2010/08/19(木) 19:31:08
「古代の朝鮮語」なんて誰にもわからない。おそらく「ウリナラ」などとは全然違ってただろう。
定説なんてありえんよ。www
504日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:05:16
>>503
でも、韓国人は本気だぜ。

wikiの「奈良時代」
  ↓
According to the ancient Japanese book Nihon Shoki[2]the name "Nara" derived from
the Japanese verb narasu "to flatten". Modern hypothesis suggest that it is cognate with
the modern Korean word nara "country, kingdom". [3][4][5][6][7][8][9].

More specifically, Modern Korean nara derives from Middle Korean narah, which in turn is
from reconstructed Old Korean *narak[6]. The initial na may be related to Old Goguryeo
na "earth"[6]. The final -ra < -rah < -rak may be identified as meaning "land, territory"
and is also seen in other geographical places such as Nara, Gara, and Silla, the last two of
which where spelled with a final k- in Old Japanese (cf, Shiraki). Also, Nara was variously
written as 寧楽 and 乃楽, suggesting a reading of *naraku, also with a final k- ending.[10][11]

505日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:13:16
韓国起源説などというのは、必ず将来恥をさらすね。また、征韓論が出てくるかもしれんよ。
506日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:47:19
「ウリナラ」の「ナラ」とは国のこと。奈良の都も国の都という意味であり、百済語が起源です。
「ウリ」は英語の「We」と同じ「我々」という意味。
アイヌの語源も英語の自称「I am」であり、古モンゴロイドが持ち込んだ言葉が起源ではないかと考えられます。

そしてそれを東アジアまで持ち込んだのは、人類最古文明を起こしたシュメール人ではないでしょうか?
507日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:47:33
>>499
何逝ってるんだこいつ?w
508日本@名無史さん:2010/08/19(木) 22:52:23
>>506
「ラ」が国の意味、「ナ」はそちら側のって意味
「オレ」=自分、「ナレ」=貴方
509日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:05:42
古代朝鮮語は原型が残っていない。漢語に影響を受けて以降しかわからない。
510日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:34:57
>>506
アイヌ語起源の水や海を表す「ワタ」は、海神(ワタツミ)、渡辺という姓などに今も残っています。
英語の「Water」と同じであり、古モンゴロイドの言葉だったという説に賛成です。
ナイル川と「ナイ」と、アイヌ語地名の「稚内」、「幌内」などの川を現す「ナイ」も共通します。

旧約聖書に書いてあるように、昔言語はひとつだったのではないでしょうか?
511日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:45:04
実にアホだな。膨大な語彙量の各言語には共通した音韻が数多くあるのは当然で、そんなの研究したところで
なにも出てこない。ケルト語と英語などなら意味はあるだろうが、日本語とシュメール語がどうとかいうのは基地外
と言われてもしかたない。
512日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:07:49
シュリーマンもアインシュタインも、基地外だといわれたこともあります。
先駆者とは常に困難を伴うことは百も承知です。
花を咲かすことなく死んでいった先進的な思想も持ち主は数知れません。
513日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:08:17
スメラミコトはシュメールの尊だろ
514日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:19:50
>>512
花を咲かすことなく死んでいったひとたちってのは、基本的にその殆どが間違いだったからだよ。
ごく稀なケースとして、アインシュタインやガリレオなどがいるだけでね。
ちなみにシュリーマンはキチガイじゃなく山師だよ。
彼はいわゆるトレジャーハンターであって、考古学者でもなんでもない。
トロイの遺跡にしても今では間違いだったことが判明している。
つーかあれは、シュリーマン只一人がトロイだと死ぬまで言い張っていただけで
発見当初から別の時代のものだと言うのが定説だったんだけどね。
でもトレジャーハンターのシュリーマンは、スポンサーたちから訴えられるのを恐れていたというのがもっぱらの見方だね。
ナントカの会の数理文献学者もいまやそれに近いのかもね。
515日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:24:11
つーか古モンゴロイドとかいいながら
現代の英語を持ち出してきてる時点で
時間軸を無視したトンデモ決定なわけだが
516日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:36:51
シュリーマンはトロイの層に掘り進むまでに何層もの遺跡を破壊してるよな
気になったのは、トロイの下から漢字の陶器が出てきたとか言う話
なぜ地中海に漢字?
そこが最大の疑問なはず、でも彼は興味を示さなかった
彼はトロイを掘り出したかっただけなのだ、過去が知りたかったのではない
517日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:47:38
サイキック馬鹿の自演会場

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1281697816/
518日本@名無史さん:2010/08/20(金) 00:51:43
>>516
しかもダイナマイトで吹っ飛ばしやがったので、上層に何があったのかも今では永遠の謎にしてくれた。
またその漢字の陶器にしても、どうやら唐代のものらしいのだが
果たして『トロイ』の下の地層にあったのか、『落ち込み』で潜ったのかすら調べて居やがらない。
自称トロイすら全く地質調査も遺構調査もせずに、ただひたすら『お宝』だけを掘り続けて
それらは全部スポンサーの大富豪のコレクションとなってしまった。
また碌な調査報告書も残さなかったので、彼の生前には再検討すら困難だった。
それでも周辺の遺構から、とてもトロイの時代に遡ることは不可能だとは見られていたのだが
彼と彼のスポンサーたちが頑として認めなかったんだよね。
519日本@名無史さん:2010/08/20(金) 01:01:09
しかしシュリーマンだとか、よくそんな低レベルの話を出せるもんだな>>512

戦国時代のスレで、毛利の三本の矢や長篠鉄砲三段撃ちを史実だと主張するくらい恥ずかしい話だぞ

もしかして、吉宗のあだ名を暴れん坊将軍だと信じているクチかw
520日本@名無史さん:2010/08/20(金) 02:51:10
>>510-511

英語の「SO」と日本語の「そう」この二つの言語が元々同じ物なのか?

まあ学生時代、国語の先生が良く引き合いに出していた話だがw

そう言えばあの先生「神代文字」なるものについてはボロクソ言ってたなwwwww


521日本@名無史さん:2010/08/20(金) 02:57:55
ちなみにアインシュタインは晩年もしくは死後その理論が正しかった事が認められた人

…と言うよりは量子力学との対峙で晩節を汚してしまった人ってイメージなんだがw
(アインシュタイン曰く「神さんはサイコロふらへんで」とかw)
522日本@名無史さん:2010/08/20(金) 11:22:51
シュリーマンなあ
あれは俗にシュリ−マン・ショックといわれていて、考古学の道に進む学生が最初の講義で聞かされる話なんだよな
シュリ−マンは偉大どころか考古学者でもなんでもないただの山師だって

そういえばツタンカーメンの呪いってのもあったなあ
あれもどのようにして嘘が形作られていくのか、また大衆がいかに面白くない真実よりも面白い嘘が好きなのかを如実に物語っている

まあ面白くない真実の畿内説(連合説)より
面白い嘘である九州説、さらに大袈裟にした東遷説がウケるってのはそういうことなんだよね
523日本@名無史さん:2010/08/20(金) 12:51:14
× 面白くない真実の畿内説
○ 梅原末治狂団の詐欺説=畿内説
524日本@名無史さん:2010/08/20(金) 13:06:22
× 面白くない真実の畿内説
○ 面白くもない嘘八百の畿内説
525日本@名無史さん:2010/08/20(金) 13:25:33
梅原末治に恨みを持っている九州説ってのが、わけわからんで面白い
数ある九州の出土品を分類して、弥生時代における九州の優位性を先導した功労者なのにな
もう誰が敵で誰が味方なのかすら分からなくなっているのかねえ
526日本@名無史さん:2010/08/20(金) 16:27:58
九州説も畿内説も、もはや信仰の域だからな
「現状では断定不可能」という大前提に立たないやつは、全員ただの電波
527日本@名無史さん:2010/08/20(金) 16:33:19
>>526
偉そうに馬鹿が、ここは2chだ。遊んでるんだよ。
528日本@名無史さん:2010/08/20(金) 16:46:00
もともと間違っていた畿内説を、狂信者集団に仕上げたのが梅原末治狂祖だ。
畿内説を純粋な詐欺集団にした犯人。畿内説にとっては不幸だったな。
529日本@名無史さん:2010/08/20(金) 17:07:15
藤原鎌足に歴史を削除された以上はどうすることもできないんだよ
530日本@名無史さん:2010/08/20(金) 17:59:42
>>525
結局物事には両面あってここの九州説の連中が過去の学者を槍玉に挙げても
自分達がしがみついている説の前提がその学者のよって支えられていたりするとw

まあ世の中自分の都合の良いようには進まないと言うお話だなwww
531日本@名無史さん :2010/08/20(金) 19:05:53
本居宣長も新井白石も共に邪馬台国は北九州であるとの結論
ただ、白石さんは当時の天皇万世一系の配慮から、畿内も記述したにすぎない。
532日本@名無史さん:2010/08/20(金) 19:33:24
天皇万世一系自体がありえない説なんだけど、今でもそれを建て前にしてるから
日本だけがほんとうの歴史をひた隠しに学校教育してるんですよね
ただ点を取るためだけのド暗記科目になり下がってる日本史の真実を追究しても
いい時代になることを祈るばかりです
533日本@名無史さん:2010/08/20(金) 19:36:17
いくらいい点をとろうが、ひきこもりになったんじゃしょうがね。
534日本@名無史さん:2010/08/20(金) 19:51:43
きょうは引きこもりの人が多いですね
535日本@名無史さん:2010/08/20(金) 19:55:56
>>528
> もともと間違っていた畿内説を、狂信者集団に仕上げたのが梅原末治狂祖だ。
> 畿内説を純粋な詐欺集団にした犯人。畿内説にとっては不幸だったな。

昨日辺りから出現した、このトンチンカンなコピペ。
サイキバ君の新作なんだろうなwww
536日本@名無史さん:2010/08/20(金) 20:45:57
>>535
多分何処かのサイトで梅原批判を仕入れたんじゃね?

まあサイキバ君のマイブームってところかな?ww
537日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:26:00
>>520
そうなんですよ。
原始的な基礎語ほど共通点が多いのは、人類はかつてひとつの言葉を話していたからなのです。
西アフリカを旅立って1万2千年の間に言葉は分かれていったけれど、
アフリカ人もアジア人も見た目ほど遺伝的な隔たりはないのです。
538日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:26:27
梅原ってタタキ上げの発掘職人ってタイプだよね。
高卒の分際で京大名誉教授まで登るつめたのには、
何かバックがついてはいたのだろうが、京大閥の中では、所詮、異端だからな。
WIKIには京大を去るにあたり「誰も退官記念論文集の発行を提案しなかった」とか書かれてるね。
539日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:31:10
小学校しか出ていない田中角栄も総理大臣になったし、
建築家の安藤さんも高卒で東大教授になった。
バックについているというのなら、シュメールの個人神かもしれませんね。
540日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:40:06
サイキバの毎度毎度の外しっぷりには「天性」の何かを感じるね(微笑
541日本@名無史さん:2010/08/20(金) 21:55:57
>>527
全員がそう思ってると安心して見ていられるようなら
そんなこというわけないだろ馬鹿w
542日本@名無史さん:2010/08/20(金) 22:45:01
>>541
歴史研究とは同意を得ることではなく、真実を追究することなんですよ。
わかりますか?
543日本@名無史さん:2010/08/21(土) 00:06:18
邪馬台国は岩手県の八幡平であると云う小説もあったりするからね。
544日本@名無史さん:2010/08/21(土) 01:01:11
サイキバは、どうせ畿内説のヤラセだろうな。
545日本@名無史さん:2010/08/21(土) 01:05:39
異端と言いながら、梅原に支えられていた畿内説って、やっぱり詐欺だな。
546日本@名無史さん:2010/08/21(土) 04:48:01
邪馬台国はなかった説はないのか?
547日本@名無史さん:2010/08/21(土) 06:19:50
古田
548日本@名無史さん:2010/08/21(土) 06:23:41
>>546
>邪馬台国はなかった説はないのか?

つ『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦(1971)
549日本@名無史さん:2010/08/21(土) 09:28:44
古田の「関東に大王あり!」を読むと、邪馬台国は関東にあった!と、もうちょっとで言い出しそうな気配だったのだけれど、
寸止めでやめてしまった。やはり、それではあまりにも主張がぶれすぎて信者を失うと思ったんだろうな。

しかし、邪馬台国は関東で、稲荷山古墳のある「さきたま古墳群」の丸山古墳こそ卑弥呼の墓なのです。
550日本@名無史さん:2010/08/21(土) 09:49:07
賛成>>549
若狭湾に上陸して、琵琶湖畔の近江から東山道を抜けて関東に出れば、日数的にも方角的にも魏志倭人伝の記述と合致する。
九州説は根本的に間違っているのでっす。
551日本@名無史さん:2010/08/21(土) 11:15:29
関東なんて風土的にはさっぱり一致しないけどなw
552日本@名無史さん:2010/08/21(土) 12:08:06
・男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
・(たかつき)を用い、手で食べる。(箸を使用していない)

とあるように、邪馬台国は弥生系の国ではなく縄文系の国だったことは明白。
ところが、邪馬台国の時代は弥生時代の末期だから、博多湾沿岸から九州南部にかけては、
吉野ヶ里などの弥生系の住民に支配されつくしており、縄文形の文化は残されていない。

従って、邪馬台国は、九州であるということ自体、弥生文化を否定しているとしか思えません。
553日本@名無史さん:2010/08/21(土) 12:22:34
あふぉだろw

「倭」「倭人」とはなんだよ?北方新モンゴロイド人種か?wツングースか
何時までもセンズリこいてんじゃない。
554日本@名無史さん:2010/08/21(土) 12:39:46
縄文的土着の風習に、渡来系弥生人が馴染んでいただけだろう。
騎馬民族が南下するたび、漢民族の風習に染まっていったのも同じこと。
555日本@名無史さん:2010/08/21(土) 13:25:15
古田は文章は上手くないが、奇妙な迫力はある。ただし漢文の読みはぜんぜんだめ。素人もいいとこ。
556日本@名無史さん:2010/08/21(土) 13:44:12
弥生系の合理的な生活に染まった人が、縄文文化を受け入れられるとは思わないな
>>554 そりゃ中原の文化の方が優れていたからだろ
557日本@名無史さん:2010/08/21(土) 13:57:49
なかばるらしき場所に居た徳のある文明人何処に消えたんだよ?
今は基地外しかいないが、たまらん。
558日本@名無史さん:2010/08/21(土) 14:11:36
東遷して畿内に移りました。
その後、中原に入り込んだのはツングース系の野人。
559日本@名無史さん:2010/08/21(土) 15:17:30
>>556
海洋民族の文化レベルは、縄文系が圧勝している。
560日本@名無史さん:2010/08/21(土) 16:07:03
世界の冒険者、古モンゴロイド。
西アフリカを出発し、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、アメリカ大陸を渡り、アメリカ大陸最南端ホーン岬にたどり着いたのも
北極点、南極点、エベレストを制したのも古モンゴロイドの子孫。
コロンブスの航海のナビゲーターと務めたのも古モンゴロイドで、彼らの協力なしにはコロンブスはアメリカ大陸に到達することは不可能だったのです。
コロンブスは、アメリカ大陸を始めて見つけた西洋人ということです。
古モンゴロイドの血を引く日本人は多く、中でも野口氏は古モンゴロイドの血を最も色濃く受け継ぐ氏族のひとつです。
黄熱病を探してアフリカ大陸に渡った野口英世、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録を更新した野口健、
実は彼の父も野口英世と同じ会津若松出身の外交官だったのです。そのほかにも女子マラソンで世界を制した野口みずき、
宇宙飛行士野口総一、彼らの恐れを知らないチャレンジャー精神が世界を切り開いていったことは間違いありません。
その縄文人が先鞭をつけた土地に移住して畑を耕し、水田を作ったのが弥生人。
弥生人が押し寄せてきて、住みみにくなった土地を捨て、縄文人は新天地を求めて移動していったのだと思います。
しかし、もう、この地球上に、未開の新天地はなくなってしまって、古モンゴロイドは、宇宙へ、海底へ、地底へと移住してゆくのかもしれません。

何をいいたいかといえば、卑弥呼の国の住人が九州に住んでいたのはごく短い時間だけで、その多くは、とっくの昔に移住してしまっているということです。
561日本@名無史さん:2010/08/21(土) 16:21:26
あのな、寒冷地適応の新モンゴロイド形質は強烈なのよw
白人の脱色よりも人類が獲得した形質で一番かも。
562日本@名無史さん:2010/08/21(土) 16:49:43
蒙古襞(蒙古襞=上瞼の皮が垂れ下がっている)に特長のある寒地適応したモンゴロイド。
たとえば、みんなの党の松田議員。中村雅俊バリのなかなかのイケ面でもあります。
http://icon.nimg.jp/channel/ch9323.jpg?1275287519

しかし、寒地適応して伸びたのは瞼だけではないのです。
氷点下の土地で立小便をすると小便も凍ってちんぽまで凍傷になると、子孫を残すことができません。
そのため、ちんぽの皮も伸びたと考えられます。
まあ、それは蒙古襞のように容易に調べることができないのではっきりしたことはいえませんが、
私が観察した限りでは、ほぼ間違いないと思われます。
あなたも、蒙古襞を持った男性と連れしょんする時によく確認してください。
563日本@名無史さん:2010/08/21(土) 17:02:59
形質厨キモいなあ。
564日本@名無史さん:2010/08/21(土) 17:37:31
寒冷地適応を言うなら、蒙古襞だけじゃなくて、ドラえもん体型も特徴。
565日本@名無史さん:2010/08/21(土) 21:25:22
ま○この襞が長いのも、寒地適応した新モンゴロイドの子孫。
女と寝るときはその辺の特徴も観察したほうがいいですよ。
566日本@名無史さん:2010/08/21(土) 21:35:20
>>565

ソコんとこの形状は、人種によって余り違わないよ。
経験的には、個体差の方が断然大きい。
567日本@名無史さん:2010/08/21(土) 21:43:08
ピアシングしたり玉埋めたりすればいいよ。
568日本@名無史さん:2010/08/21(土) 22:21:58
玉はともかく、ヨーロッパ系にピアスは多いね。
若い子はヘアーを処理をしていることがフツーなので、ピアスでも付けないと「殺風景」になるからなw
女の子が素っぱでサウナや海辺を闊歩するのは、裸体を隠すことを厭う、ナチュラリズムと言う思想の成果らしいが、
わざわざ剃ったり、穴開けたりすんのは、とても「ナチュラル」じゃないと思う。
ここの文献「素直」読み派の「素直」に通ずるものがあるよw
569日本@名無史さん:2010/08/21(土) 22:55:41
へそのピアスとか多いね。これはタトゥーと違っていつでも取れるから。
570日本@名無史さん:2010/08/21(土) 23:07:33
割礼してる奴もいるし
571日本@名無史さん:2010/08/21(土) 23:30:45
カラカラのフリードリッヒスパとか行くと唖然とするよね。
572日本@名無史さん:2010/08/22(日) 15:56:01
ねえちょっと。
河童さんが立ち寄ったらさ、「邪馬台国九州説を救え」スレに来るように
言ってくれない。

お願いだから頼んだよ
573日本@名無史さん:2010/08/22(日) 17:25:52
河童虫が救わなくても、九州説は安泰だから要らないよ。
574日本@名無史さん:2010/08/22(日) 20:25:07
皆さんはすでに、森浩一先生「倭人伝を読みなおす」はお読みでしょうね。

森先生の、邪馬台国東遷説はどうでしょうね。
つまり、九州北部にあった邪馬台国が近畿に移動してヤマト政権となった、
という説。
なんとなく、両説のいいとこどりのような気もしますが・・。

一読したところ、やはり森先生も今となっては苦しい印象は否めない。
しかし、九州説陣営としては一歩も引くつもりもなさそうですが。
575日本@名無史さん:2010/08/22(日) 20:34:17
>>574
>森浩一先生「倭人伝を読みなおす」

そう言えば以前この板の何処かのスレにも
うpされていましたね。

誰かもう一度PDFでうpしてくれませんかね?
576日本@名無史さん:2010/08/22(日) 21:27:55
違法行為
577日本@名無史さん:2010/08/22(日) 21:40:53
斎藤忠の『倭国と日本古代史の謎』のほうが正解だと思うけどなあ。
578日本@名無史さん:2010/08/22(日) 22:43:56
おまい気は確かか?それは九州王朝のトンデモ本だぞ!
579日本@名無史さん:2010/08/22(日) 23:31:46
どこがトンデモ?
580日本@名無史さん:2010/08/23(月) 02:38:58
八幡平でいいじゃん。
581日本@名無史さん:2010/08/23(月) 05:24:17
海人族の立てた地域国家群は八幡国と言って全国に点在しています
582日本@名無史さん:2010/08/23(月) 14:53:48
邪馬台国八幡平説ってなんかの小説で呼んでなるほどなーと思って興味をもったクチけど、
これを否定出来る根拠をだれか教えてくれまいか
583日本@名無史さん:2010/08/23(月) 15:25:45
つーか鯨統一郎がシャレで考えたネタなんだから、真面目に論じると作者に馬鹿にされる
584日本@名無史さん:2010/08/23(月) 20:06:27
日本の銅鐸の埋設と似てると思う


石仏発見 仏教弾圧期に破壊か

カンボジアのアンコール遺跡で、13世紀、仏教が弾圧されていた時代に破壊されたとみられる、複数の石の仏像
が見つかり、手厚く葬られるように埋められていたことから、当時の人々が弾圧の中でも深く仏教を信仰していた
ことを裏付ける資料として、注目されています。
(略
ttp://www.nhk.or.jp/news/html/20100822/t10013491821000.html

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1205680954/377-378
585日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:01:15
日本の古代史で邪馬台国を中心に考えすぎてるのは、あまり良い事では無いと思う。
586日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:10:55
卑弥呼の時代、日本列島には、数百の国(=邑)と複数の国家連合が存在した。
邪馬台国もそういった国家連合のメトロポリスのひとつだと思われます。

共和制ローマから帝政ローマに移行したのと同じように大和朝廷ができたと考えます。
587日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:38:56
>>586
邑が国家の時代だからね
588日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:47:15
複数の国家連合があったと考えられる訳だから、
その説でも邪馬台国が大和王権になったとは限らないんだよな。

あとは国家連合じゃ無くて、新興勢力の可能性もある。
589日本@名無史さん:2010/08/23(月) 21:57:06
そうやって、さりげなく騎馬民族征服説を唱えちゃったりして・・・w
590日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:04:25
騎馬民族は、来たか来ないかでいえば、馬匹文化とともに入ってきたのは間違いないだろう。しかし、それが
そのまま国の支配層になったなどというのはトンデモだな。
591日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:07:31
米国のネイティブも白人に支配される前、馬と銃を交易で手に入れて盛んに使っていた。
592日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:09:48
>>共和制ローマから帝政ローマに移行
帝政はローマ市民が望んだものだ
卑弥呼も共立である
弥生的な散居村の時代から、さらに大きくて強い広域国家への発展を望んだからだ
593日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:12:33
畿内と九州の発掘濃度が同じだとは、常識ある人間の誰も納得しないぞ。
畿内説論者だけだな(詐欺)
594日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:16:06
>>589
別にそういう事じゃ無いが、
世界の歴史を考えれば、新興勢力による統一なんて珍しい事じゃ無いよ。
595日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:30:26
>>593 アホの九州王朝説信者 サイキバ
>発掘濃度 

中々ユニークなセンスだなw
596日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:31:03
騎馬民族自体が部族連合だぞ
普段はばらばらだ、遊牧民だから当たり前だな
モンゴルとか女真族の中原支配は、部族が終結しての狩りの延長なんだよ
そんなヤツらが、日本に来て何を狩るんだ?
その頃は黄金の国ジパングじゃないぞ
畿内は粘度と木製品しかない土地だったというんだろ?
597日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:35:54
>>546
>邪馬台国はなかった説はないのか?

現在の畿内説と言うか史学全体の理解がそれに近いんじゃないかな?w

この問題は「聖徳太子はいなかった」と言う話に似ていると思う。

その元ネタモデルになった厩戸皇子は確かに実在したが
あの数々の超人伝説に彩られた聖徳太子その人はいなかった

…と言うのが現在の定説だと思うが。

九州説の場合、その超人聖徳太子を九州の地に捜し求めていると言うかwww
598日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:43:44
不思議なことに世界の文明は同時多発的に起こるものなのです。
もちろん時間差はあるけれど、シルクロードを通ってローマの都市国家を生んだ文明が、日本で邪馬台国を作ったといえます。
ミロのビーナスが、シルクロードを旅して弥勒菩薩となったのも同じでしょう。
599日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:00:24
>>589
九州(あるいは他の地域でも)の小さな国とか、
新しく出来た国とかが大和王権を作ったとかもあり得る。
騎馬民族で無くても。
600日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:03:05
世界の宗教の流れには4つある
須弥山、太陽、海洋、星座
エジプトは、ピラミッド時代は須弥山信仰、ラムセス以降は太陽信仰
仏教は須弥山信仰に釈迦の修法が加わったもの
日本の古代信仰は、前方後円墳が須弥山信仰、それ以降は仏教
日本神話は太陽信仰と海洋信仰
キリスト教の元になったユダヤ教は、シナイ山が登場するから須弥山信仰
601日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:04:17
基地外だな。
602日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:08:39
釈迦もキリストもモハメッドも日本で修行して世界に信仰を広めたのだから当然でしょう。
やはり、邪馬台国は十和田八万対にあったとするのが妥当です。

ということでいい?
603日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:12:11
青森の何だっけ・・・なんとか村にあるキリストの墓?十和利山ピラミッド説?ナニャドヤラ?・・・やはり基地外だな。
604日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:13:31
みなで、ぱらいそさいくだwwwwwww
605日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:14:12
畿内説はなんでも「卑弥呼ゆかり」に持っていくから、妄想考古学だな。
606日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:19:37
セントくんは卑弥呼の生まれ変わり。
607日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:37:02
>>606
これなら全国のオタも文句無いと思われw
http://dustbox.ddo.jp/handbill/img/img42_file.jpg
608日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:41:52
かわいいけど、仏教を鬼道にするのは、奈良の仏教界は支持しないと思われ。
609日本@名無史さん:2010/08/24(火) 00:22:30
>>608
と言うか、そもそもあの角からして日本鹿の角じゃなくて
トナカイの角だというのがもっぱらのうわさw

武将の兜や刀の掛け台を思い起こしてもらえば分かると思うが
鹿の角って先端が尖ってるし…

610ローガン:2010/08/24(火) 01:02:47
>>604

あ〜。それ面白かった。映画になっても結構良かった。
611日本@名無史さん:2010/08/24(火) 01:30:20
おらもつれていってくだせ おらもつれていってくだせ
612日本@名無史さん:2010/08/24(火) 02:06:56
ローガンの加齢臭が好きなのか?
613日本@名無史さん:2010/08/24(火) 02:17:20
↑ けるびむ・・・
614日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:13:20
モロ☆だと、一つ目小僧の話が凄みがあっていいな
神と交信できる人間はカタワでなければいけない、だから人造的にカタワを造るというのが
☆野の宗像教授にもあった中部九州の、人工的に頭蓋骨を歪ませた異形の巫女の骨の出土とかぶさって
卑弥呼=美人という先入観を根底から覆してくれた

あと古代史とは関係ないが、失楽園での大蜘蛛に食われる少女の諦めの表情が、異様にエロティックだった
615日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:29:13
鬼のいぬ間に洗濯しましょ ジャブジャブジャブ ズンッ!

これで座り小便漏らしかけた
616日本@名無史さん:2010/08/24(火) 14:32:45
おれ、あんとくさまでちびった
つーかいつからここは諸星スレになったんだろ
617日本@名無史さん:2010/08/24(火) 20:55:18
諸星と言えば「暗黒神話」も普通に九州説だったよなw
(確か現代において主人公のタケルが菊池彦の子孫を殺すんだっけ?)

古きよき時代と言うかw
漫画・フィクションと九州説の相性が良いのかwww

618日本@名無史さん:2010/08/24(火) 21:04:56
畿内説は詐欺としか親和性がないからね〜
619日本@名無史さん:2010/08/24(火) 21:08:32
>>618
仮に九州の”何処かに”邪馬台国があっても

数ある比定地のうちその一つを除いて「あとは全部詐欺でした」って話になるのかな?
サイキバ君www
620日本@名無史さん:2010/08/24(火) 21:11:46
>>614卑弥呼は奇形児だった!というのは凄い説だけれど、興味があります。
一つ目だとか、首が2つあるシャム双生児だったとか・・・
秦・漢の時代の中国の地理書「山海契」には、古今東西の化け物のことが記載されている。
孫悟空で有名な「西遊記」もその類の書で、この時代、異形の化け物が神として崇められていたのです。
621日本@名無史さん:2010/08/24(火) 21:26:40
と言うか
「神と交信できるような特殊な人間は特殊な姿である」と言うような
一種「奇形信仰」みたいなものは洋の東西を問わずわりと見られると思う。

赤ん坊のうちに頭を板で挟んで変形させたエジプトとか
前髪に何かの塊をくっつけぶら下げてわざと「藪睨み」を作ったマヤ(だったかな?)とか…

そう言えば以前スマップの稲垣がナビゲータをつとめていた
「ナスカ文明」を取り上げていたTV番組じゃあ
巫女とおぼしき少女の骨が極端に発育が悪くて自分では歩けないほどだったと推測される
…なんてのもやってたなw

622日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:43:49
さあ、みんな、最強九州説を構築しようぜ!
「北部九州先導説」

お隣の九州説を救えスレでは、
もう一息だ。
623日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:46:20
結局>>113に纏められた3案のいずれかで行くしかないだろうな

ローガン案はいわばスキマを突いたようなもので、これを強化する出土が多数九州から出ればいいのだけど
これは吉備や出雲でも同じ考え方が成り立つので、今後の発掘待ちになる

偽僭説は一番無難だが、物証が全くないので説得力に欠ける
思考実験のひとつと捉えられかねない

北部九州先導説は、いわば柳田康雄説だからその論拠となる出土物や遺跡に関しては、柳田の論文がそのまま流用できる
だけどこれは纏向を中心とする邪馬台国連合を主導したのが北部九州(伊都国)だという説だから
邪馬台国そのものを九州に持ってくるのはしんどい

これらの欠点はあるが、実際世間で考えられている九州説というのは
妄想を除くとこの3つしかないというのが現状だし、むしろ精査された結果この3つのみが残ったといったほうがいいので
いわゆる まともな九州説 を構築するのならこのいずれかを強化するというのが現実的だね


624日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:46:49
九州でもいいけどさ、ならば何故九州から機内へ政権が移動したのかがね。
625日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:48:22
>>617
あれは吉野ヶ里や山門じゃなく、宇佐を持ってきたところが凄いんだよな
もちろんオリオン座の星の位置とかもあるのだろうが
古代史にもSFにも造詣が深く、無理なく融合させた稀有な傑作だと思う

その後の「孔子暗黒伝」もまた凄くて、こんなのを少年ジャンプで連載していたとはね
(孔子は確か月刊のほうだったとおもうけど)
626日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:49:40
白村江敗戦以降、唐が九州に傀儡国家を樹立しようとして、
一部の九州土着勢力が唐の傀儡政権樹立に加担したからさ。
627日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:54:03
政権を持って搭乗したからだよ。
628日本@名無史さん:2010/08/24(火) 22:55:46
>>624
そのあたりは物証はないというか、あくまでも想像になるけど
北部九州の有力なクニの王子を、畿内の有力なクニが入り婿に迎えて
そいつが親子2代か3代かけてクニを国家に育て上げたとかもあり

記紀妄想を加えるならば、それがイリ王朝のことであると付け足してもいい
629日本@名無史さん:2010/08/24(火) 23:10:24
奈良の政権が大和とか自称しだしたのはいつごろから?
630日本@名無史さん:2010/08/25(水) 03:55:17
>>629
そこら辺の地域呼称がヤマトだろ。それと対になるのがいろんな意味で
ハヤトのような気もセンでも無い。
631日本@名無史さん:2010/08/25(水) 06:02:33
邪馬台国が沖縄だとする説もあるようですね
632日本@名無史さん:2010/08/25(水) 08:27:33
そりゃぁ無い。
宗教的な威信財の供給地ではあったが無縁だ。九州以北でやってくれ。
633日本@名無史さん:2010/08/25(水) 08:36:21
>>623
新しい説で有力な説があったり、これから出てくるかもしれないよ。
634日本@名無史さん:2010/08/25(水) 08:47:23
いや、この3点に絞られるのが現状だ。

そして、今更、安本のような東遷説はアホー扱いだ。
635日本@名無史さん :2010/08/25(水) 13:01:13
畿内の銅鐸が3世紀末以降に、ほとんどゴミ扱いで、破壊され捨てられている
ことからして、その頃大きな変化があったことは考古学が証明している。
しかも、記紀ではこのことを黙殺していることからたちが悪い。

畿内詐欺説信者は、サイキバと連呼する前に、このことを真剣に研究したらどうか
636日本@名無史さん:2010/08/25(水) 13:17:33
神武東征によって、ヤマト王権が誕生したのではない。
出雲国譲りによって、ヤマト王権が誕生したんだよ、
出雲国譲りは、神武天皇の曾祖父のニニギの時代に起こった話。
出雲国譲りは、どうみても、近畿VS出雲の戦いで、近畿が出雲を降伏させた話。
つまり、ヤマト王権は、やはり近畿出身なんだわな。
ワカミヌケ(神武天皇)は、九州南部の出身かもしれないが、
彼の先祖は、やはり、近畿南部の高天の原(葛城地方周辺)の出身。
637636:2010/08/25(水) 13:19:10
ちなみに、卑弥呼とは、もっと後の時代の人物で
ワカミヌケ(神武天皇)よりも7代後の子孫で
ヤマトトトヒモモソ媛命といわれていた人物。
そう、箸墓古墳に葬られている人物だ。
638ローガン:2010/08/25(水) 14:05:14
>>635
>畿内の銅鐸が3世紀末以降に、ほとんどゴミ扱いで、破壊され捨てられている

「3世紀末以降」の根拠をどうぞ。
639日本@名無史さん:2010/08/25(水) 14:31:03
神武天皇とか、崇神天皇とかいう名称は
日本書紀や古事記が書かれた
西暦710年代の時点では、まだ存在していない。
それよりも、数十年後に、あとから中国の皇帝のような
漢字の名称が送られただけ。

つまり、神武天皇は、ワカミヌケ
崇神天皇は、イニエ
という本名で考えないといけない。

これによって、当時、彼らが、倭国の真の王だったかどうかは
断定できなくなる。
彼らは、当時の倭国の最高権力者だったかもしれないが、
建前上の倭王は、別にいた可能性大。
640日本@名無史さん:2010/08/25(水) 14:44:00
>>635
>畿内の銅鐸が3世紀末以降に、ほとんどゴミ扱いで、破壊され捨てられている

ローガン氏と同じく俺も「3世紀末以降」の根拠を聞きたい。

それと「ほとんどゴミ扱いで、破壊され」にも、事実認識のうえで疑問がある。
破片で出土した銅鐸より、破壊されず完形で出土した銅鐸の方が多いはずだが、違うか。
641日本@名無史さん:2010/08/25(水) 15:03:59
そもそも破砕された銅鐸ってどれくらい確認されてるの?
642日本@名無史さん :2010/08/25(水) 15:37:56
銅鐸の出土状況の特徴

・畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大
 となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。

・銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とく
 べつな施設もなく埋められた状態で、発見される。

・銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。

・古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに
 埋められたようにみえる。

・新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。

・新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。

・銅鐸は、祭器であったといわれている。しかし、他の祭器といっしょに
 みいだされることはほとんどない。

・徳島県麻植郡牛島村出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわされた
 とみられるものもある。

・銅鐸の発見は、予測は困難である。これまで出土した銅鐸のほとんどは、
 農耕などのさいに、偶然みいだされている。

つまり、弥生後期から、畿内で古墳時代が始まるまで3世紀後半から
4世紀初頭が妥当。
643日本@名無史さん:2010/08/25(水) 15:47:44
>>642
怨み節東遷厨か?
そのネタはいつもの「邪馬台国の会」からだなw

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm

3世紀後半から4世紀初頭の年代には何の根拠も無いな
644日本@名無史さん :2010/08/25(水) 15:50:21
銅鐸の年代を300年前後とすると皇国史観の関係上都合がわるい?
ので、畿内説信者は必死に否定するね
645日本@名無史さん :2010/08/25(水) 15:57:16
>>643
で?
あなたの考えはどうなの
批判のための批判ですか
646日本@名無史さん :2010/08/25(水) 16:02:05
確かに、今までは皇国史観に影響を受け、銅鐸が破棄された状態で
発見されても、文書になると「埋納」されていたとかの表現になって
いるね。

この際だから、畿内説の人にとことん反論してもらうか。
647日本@名無史さん :2010/08/25(水) 16:23:28
考古学の銅鐸スレにも似た内容が・・・

名前:16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc [] 投稿日:2005/10/09(日) 22:15:34 ID:GTeCwLps [3/3]
こう考えれば銅鐸文化が消滅した3世紀終盤に
邪馬台国が滅ぼされたことがわかります。
648日本@名無史さん:2010/08/25(水) 16:23:58
畿内と北陸の一部は騎馬民族、出雲と北陸の海沿いは海人族
九州北部は朝鮮半島南部の百済ん奴らと同一民族
649ローガン:2010/08/25(水) 16:29:12
>>646
>文書になると「埋納」されていたとかの表現になって
いるね。

要らなくなった金属器なんだから、鋳潰せばいいのに、真っ直ぐ鰭立てたりして埋めてるんだから「埋納」と表現してもおかしくないんじゃない?

>この際だから、畿内説の人にとことん反論してもらうか。

何を?
650日本@名無史さん:2010/08/25(水) 16:53:23
>>642
反論も何も・・・

・畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大
 となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。

のっけから間違っているんだから、どこを突っ込んで欲しいの?
651>>638 >>640他と被るが…:2010/08/25(水) 17:29:26
>>635 
>畿内の銅鐸が3世紀末以降に、ほとんどゴミ扱いで、破壊され捨てられている

根拠は?
 (1)年代が3世紀末以降であると言う事と
 (2)銅鐸の「ほとんど」が破壊されて捨てられている…と言う事の
先ず廃棄・破砕されて事例は殆どが突線丑式の比較的新しい段階の物
第一次埋納ピークの中には殆ど無い。

で、”肝心の”ヤマトの銅鐸はその第一次でピークを終えている。
…簡単に言えば、神武君がヤマトにやって来て銅鐸を叩き割りに回ろうとしてもヤマトじゃあ既に銅鐸は廃れていたというお話w

そもそも「3世紀末以降」と言う実年代の前に「全ての形式の銅鐸の一斉埋納」なんて与太を飛ばさなければならない。

次に、破砕例の見られる第二次のものにしても全体からしたらどれぐらいの割合なんだって話で

ググって適当に拾ったブログに…
>銅鐸通信 アマチュア考古学徒の銅鐸観察日記
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/cat15615184/index.html
>破砕銅鐸の事例は現在30例ほどが知られているが、

…とあり『邪馬台国時代のツクシとヤマト』に寺沢が「破砕銅鐸一覧表」として載せている事例でも40弱

全体としてはその程度なんだろう。
(それでも一次に事例が殆ど無いからこそ急増したとも見えるわけだ)
多くの物は鰭を上下にして丁寧に埋納されて二度と掘り出されないままに終わった。
(中には地表に簡単な屋根のような物を建てた形跡のある物まであるw)

「大きな変化」があったことは間違いないのだろうが
そこに何処からか東遷してきたような勢力の存在を証明されるに至ってないのが現実w

まあ、お前の”脳内事実”を「真剣に研究しろ」と言われても土台無理な話wwwwwwwwwwww
652日本@名無史さん:2010/08/25(水) 17:31:52
>>643
じゃあ自分の年代観の根拠を書いてみな。

この質問をされるとジョーカーはいつも逃げ回るよね。
653でわ不肖このオレサマが突っ込んでやろうw:2010/08/25(水) 17:33:21
>>646
>この際だから、畿内説の人にとことん反論してもらうか。

いつもの「怨み節かな」?w

で、「埋納」と言う表現がおかしいと言うのはその殆どが「破砕」されたと言う話だよな?

じゃあ破砕された事例がどれだけなのか?
全体のどれだけを占めるのか?
…をきちんと根拠を明確にして述べろ。

一応こっちは先の>>651でその件数については言及している。
が、当然そんな数じゃ間に合わないんわなw
銅鐸の出土の殆ど、軽く「百単位」で事例があるんだよな?www

無論その全てを列挙しろなんて言わないwきちんとソース出してくれればよいから。
654日本@名無史さん:2010/08/25(水) 17:35:51
>>648
近畿は騎馬民族じゃないよ。
モンゴル人などの騎馬民族は酒が強いから。

“酒豪”どこに多い? 「全国酒豪マップ」の謎 編集委員 小林明
http://www.nikkei.com/life/living/article/g=96958A90889DE3E2E3EAE5E7E1E2E2E3E2E5E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E2
655日本@名無史さん:2010/08/25(水) 17:40:01
九州北部〜関西は実際、言葉や遺伝子の上でかなり近いだろう。>>654を見ても解るよ。
656日本@名無史さん:2010/08/25(水) 17:42:12
>>643
怨み節はいつもの「邪馬台国の会」からひいてきたのか・・・

しかし酷いなw

>新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。

…としながらその埋納のピークが2回見られることには言及しない。

まさかそんな事も分かりません、知りません、と言うほど安本センセイも馬鹿じゃあるまいし…

「畿内説は詐欺だあ」と狂人の如く(てか狂人なんですがw)叫ぶのはサイキバの芸風だがw

ここまでくると邪馬台国東遷説のこのセンセイも詐欺としか思えないなw
657日本@名無史さん:2010/08/25(水) 18:13:19
安本の邪馬台国の会って
記紀伝承を重要視する割には
記紀伝承の解釈の仕方が間違っているだろう?
まあ、これはヤマト朝廷が後に
ワカミヌケという貴族に「神武天皇」という名称を付けたから
後世の人間が大きく誤解する原因になったのだが。
658日本@名無史さん:2010/08/25(水) 18:28:32
しかしながら、ここの九州説にはいつもながら脱力させられる。

君らが情けないから、こっちはわざわざ世間に通用する九州説を考えてあげたりしているのに
未だに銅鐸の一斉埋納かよ。

いしいひさいちの4コママンガを思い出したわ。
泣きながらレポートの代筆を頼んでくるから仕方なく手伝ってやってるのに
足の爪の垢を爪楊枝でほじって、匂いかいで「くっせー」とかやってて蹴り飛ばされてたやつ。
659日本@名無史さん :2010/08/25(水) 19:00:02
邪馬台国
660日本@名無史さん :2010/08/25(水) 19:02:07
>>658
得意に成る程の論理があるとは思えないけど・・
単なる畿内廚のバカ1人という域を出ていない。
661日本@名無史さん:2010/08/25(水) 19:09:56
九州が邪馬台国、当時の畿内は騎馬民族、中部は海人族、日本海側の海沿いは海人族
662日本@名無史さん:2010/08/25(水) 19:17:26
怨み節東遷厨その他該当のゴミクズ九州説のアホどもへ

とりあえず「銅鐸の”殆ど”が破壊されてうち捨てられた」と言う事に関し
きちんと根拠を明確にして論証してくれ。

特に>>646
>この際だから、畿内説の人にとことん反論してもらうか。

と威勢の良いことをほざいているんだからまさか自分からトンズラは無いと思うがw

まあきちんとしたソースを元に説明されれば、こっちは以後認識を改めるからw




663日本@名無史さん :2010/08/25(水) 19:24:55
ネットに張り付いて、人の上げ足とってネット検索で得意げに
人の情報を貼り付けて遊んでいる畿内廚のおっさん。

きちんとしたソースを期待するより少しは自分で本を読んで勉強
した方がいいよ。
もうあんたのネットでのお遊びはいいよ。
知識が浅く、唯一ネット検索が得意の畿内廚バカ(頭はからっぽか?)

どうせ、ほら逃げたというでしょうがね。
664日本@名無史さん:2010/08/25(水) 19:31:39
>>663
おい、そこの何故かメル欄を大きく空けているゴミクズw

そのけなしている俺みたいなのに簡単に揚げ足取られるほうが馬鹿ってだけの話だ。

悔しかったら揚げ足を取り返せアホ、情け無い奴だな。

まあ自分がケチレスつけて逃げるしか能の無いクズと言うのは自覚しているようだがwww

665日本@名無史さん:2010/08/25(水) 19:35:44
畿内説に対する議論は完全に無くなっちゃったねえ。
リップサービスくらいしかネタがないから仕方がないか。
666日本@名無史さん:2010/08/25(水) 19:51:54
山門(やまと)とは山に囲まれた土地、つまり盆地のことだから、山門(やまと)は日本中いたるところにありました。
現在でも「やまと」と呼ばれる地名はたくさんありますが、多くは山に囲まれた盆地です。
そう考えると琵琶湖盆地こそ日本最大の山門(やまと)だったことが容易に推測できます。
つまり、山門と呼ばれていた土地のひとつ奈良盆地に、
おそらく防衛上の必要性から国の中心である大倭を移し、後に大和という文字を当てるようになったのだと考えます。

やまとは国のまほろば・・なのです。
667日本@名無史さん:2010/08/25(水) 20:28:58
加茂族の「かも」も、谷(やつ)というか、山に挟まれて奥に行くほど狭まっている様な土地を指すらしいですね
東国は韓半島からの移民が入植した土地だが、彼らの開墾地は谷(やつ)が多い
西国は吉野ヶ里のような平坦地が多く、東国は谷(やつ)が多い
移民の末裔である東国武士団も谷(やつ)に館を構えた
扇ケ谷、渋谷など
668日本@名無史さん:2010/08/25(水) 20:44:46
>>664
それ指摘するなよwww
本人は気付いてないようなんだから、自演で自爆するのを待ってたのにw
669日本@名無史さん:2010/08/25(水) 21:59:20
銅鐸を割って埋めた時代を、畿内説が説明できないのには笑った。
それから、出雲を滅ぼしたのは対馬国であって、断じて畿内国ではない。
670日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:01:04
>>667
江戸時代の国学者に賀茂真淵という人物がいますが、
正に加茂氏の本流を名乗ったということでしょうね。
671日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:16:10
ったくここのゴミクズ九州説は大風呂敷広げといて都合が悪くなったらトンズラ
ほとぼりが冷めたら同じネタを繰り返す

…てのがもう骨の髄まで染み込んだ習性になってるのかな?

再度聞いておく


>怨み節東遷厨その他該当のゴミクズ九州説のアホどもへ

>とりあえず「銅鐸の”殆ど”が破壊されてうち捨てられた」と言う事に関し
>きちんと根拠を明確にして論証してくれ。

>特に>>646
>>この際だから、畿内説の人にとことん反論してもらうか。

>と威勢の良いことをほざいているんだからまさか自分からトンズラは無いと思うがw

>まあきちんとしたソースを元に説明されれば、こっちは以後認識を改めるからw
672日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:21:38
銅鐸が割られて埋められた事実を突き付けると、畿内説が過剰反応するのはなぜだろう?
673日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:30:14
>>672
>>646で「とことん反論してもらう」と言ったり
都合が悪くなるとお前みたいに幕ひきにかかったり…

ゴミクズ九州説の連中は能天気で良いなwww



674日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:34:56
まあついでに畿内説の人間にも尋ねておこう…

>>651に書いたように俺は精々破砕銅鐸の事例は30〜40程度しか分からなかったんだが…

もっと事例を知っている人
それこそ「殆どの銅鐸は叩き割られた!」なんて事を説明できる人がいたら
ご教示ください、おながいしますwww
675日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:41:22
「威信財」とか「ゆるやかな連合」なんて、得意満面に講釈を垂れる畿内説は、
銅鐸が割られて埋められた事実に対しては、黙殺するか、過剰反応するばかりで、
「威信財」とか「ゆるやかな連合」が揺らぐ事実は説明できないんだな。
676日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:46:55
>>675
あのね「銅鐸」と「威信財」と「ゆるやかな連合」って、全然関係ないの
君が何故関係あると考えているのかを説明せよといわれているようなものだから
そんなのキチガイの頭の中なんてわかんねーよ、としか言いようがない
677日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:55:43
銅鐸が「威信財」ではない証明をしてください。
678日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:56:59
ゆるやかな畿内連合の中心で、銅鐸がわざわざ割られて埋められているって、どうなのさ?
679日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:59:28
>>677
アホか?それは常識だろう。銅鐸はムラ共同体の祭祀に用いられるもので、副葬の対象に
なるようなものではない。個人の所有物であった形跡はほとんどないものだ。それは銅矛
祭祀でも似たようなものだろう。
680日本@名無史さん:2010/08/25(水) 22:59:49
しかし、緩やかな連合っていったい何なのでしょう?
縄文系の民族はもともと土着ではないし、領地という観念はないから、冊封してもらっても意味がないし、
時々貢物をもって都に上れば、飲めや歌えやの歓迎を受けてお土産までもらえる。
逆に都からの使者が着たらもてなす。忠誠の証として前方後円墳を作ってみせる。

こういう関係だったからこそ、律令制で租庸調をとるようになって、あちこちで謀反が起きたということでしょう。
681日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:01:20
>>677
テレビが冷蔵庫でない証明みたいなもんだぞw
まずなぜ銅鐸を威信財だと思うのかを書いてくれないと、キチガイの頭の中が判らない

つーか威信財の意味判ってる?

>>678
中心って大和のこと?ああそこから勘違いしてるのかよwwww
682日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:01:58
まあ有態にいえば甕棺葬の終焉と銅矛の廃棄こそ、九州の末路を表してるんだがな。
683日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:03:00
>>675
どうでも良いが先ず自分達が広げた風呂敷畳んでから先に進めやクズwwww


それで何かしら突っ込んだつもりだろうが
そもそも「銅鐸」は「威信財」の鏡のように個人の墓から出てきたことは殆ど無い。

銅鐸の分布をもって権力機構と言うか
全然ゆるやかじゃない強力な中央集権国家なんて妄想している人間も
いない事は無いだろうが、まあ、あまり聞かないwww

銅鐸祭祀の終焉がどうして「ゆるやかな連合」抗争が揺らぐ事に繋がるのか意味不明。

>>676 の
>そんなのキチガイの頭の中なんてわかんねーよ
には同意せざるを得ないwwwwwww
684日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:03:20
>>680
きみ、弥生終末期から律令まで何百年あるか知ってる?
685683:2010/08/25(水) 23:05:19
全く真逆の意味になりそうなので訂正www

誤)「ゆるやかな連合」抗争
正)「ゆるやかな連合」構想
686日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:09:02
>>681
うちのアパートは超狭いので、小型冷蔵庫の上にテレビを置いてますが何か問題でも??
687日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:11:04
>>686
貧乏は大きな問題だろ。お前個人には。
688日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:11:26
>>686
それ耐熱板をかまさんと、冷蔵庫が故障するぞw
スレ違いだけど
689日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:16:23
すぐさま連発でツッコミが入る>>686の貧乏ぶりに全米が泣いた
690日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:30:56
>>686さん、お見事な推理ですね。
古墳時代の初期には、前方後円墳、改め、司祭場付円墳の上で、
銅鐸を使って儀式を行っていたという説に賛成です。
合理的ですね。
691日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:33:02
今夜の洛陽ニュースです。
倭国から消えた高齢者の事件です。

かねてより倭国最高齢の女王と言われていた卑弥呼さんが、実はすでに死亡していたことが当局の立ち入り検査で判明しました。
卑弥呼さんは邪馬台国の女王で、親魏倭王の金印を与えられていましたが
収受の際も姿をみせず、弟と名乗る男性が
「おばあちゃんは誰とも会いたくないといって寝ている」
といって魏使の面会を拒んでいました。
不審に思った魏使が、再度軍人と共に訪問し、直接黄巾を手渡そうとしましたが
再度面会を断られたので、軍の立会いのもと神殿内に入ったところ
奥の部屋から藁布団にくるまったままで、白骨化した卑弥呼さんの遺体を発見しました。

軍の事情聴取に弟と名乗る男性は
「20年前ほどからお告げが聞こえなくなっていたので、死んでいるかもしれないとは思っていた」
と答えており
軍では金印目当ての詐欺罪も視野に入れて、慎重に捜査する方針です。
また魏政府は金印や銅鏡を返却させることも検討中ですが
曖昧な確認のまま安易に金印を与えた責任を問われる声も上がっています。
692日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:36:29
>>691
ホツマツタエさんの方が長生き。

しかし、いつからネタスレになったんだよ?w
693日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:38:44
九州説の人間としては
銅鐸の話は、実はどうでもいい話だったりするのだな。

よそで別の文化圏が発展しているのを
否定しているわけではないので、
まあ、よそではそんなこともあるだろう、と
694日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:47:15
問題は、勾玉だと思うんですよ。
糸魚川さんの勾玉の分布を調べれば、大和朝廷の生い立ちがわかる。
695日本@名無史さん:2010/08/25(水) 23:57:59
>>693
だな。
696日本@名無史さん:2010/08/26(木) 00:03:33
これこそ安本一派の断末魔だろう。それに理解不十分なままサイキバがのっかてるだけ。
697日本@名無史さん:2010/08/26(木) 00:06:54
ゆるやかな連合でないと成り立たない畿内説って、お笑い学説ですか?
698うましか:2010/08/26(木) 00:49:32
>>679

> 銅鐸はムラ共同体の祭祀に用いられるもので、副葬の対象になるようなものではない。
> 個人の所有物であった形跡はほとんどないものだ。
> それは銅矛祭祀でも似たようなものだろう。

九州での銅矛の場合、中期くらいまでは「威信財」として扱われてますからね。
後期になると「祭器」化して、銅鐸と同じく村はずれに「埋納」されたりもするが、
件の方は銅器は全て「威信財」としての機能を有するとお考えなのでしょうね。
699日本@名無史さん:2010/08/26(木) 01:30:30
邪馬壹の漢語発音は「ヤマト」なの?
700日本@名無史さん:2010/08/26(木) 02:10:25
「威信財」と「祭器」は別だと思っているのかな?
701日本@名無史さん:2010/08/26(木) 06:50:27
九州じゃないと辻褄あわねぇって
702唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/26(木) 12:38:37
>ゆるやかな連合でないと成り立たない畿内説
崇神、垂仁までだな。
景行は、屯倉導入で大王となる。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
703日本@名無史さん:2010/08/26(木) 14:59:58
根拠のない「ゆるやかな畿内中心連合」を持ち出さないと畿内説が成り立たないので、
「ゆるやかな連合」をあたかも事実であったかのように、みんなで大合唱する必要があります。
704日本@名無史さん:2010/08/26(木) 15:03:03
>>703
???? なんで「ゆるやかな連合」を出さないと畿内説って成り立たないの?

705日本@名無史さん:2010/08/26(木) 15:24:28
魏志倭人伝の倭人に関する記述のすべてを当てはめるには、
邪馬台国が九州地方のほとんどを配下に置いていることが前提となるからね。
706日本@名無史さん :2010/08/26(木) 15:57:39
>>704
鉄器の質量とも西日本最低で、サヌカイトで闘ったら負けるだけなので鉄器ルート
 の奪取はありえない(川越哲志、村上恭通)
 人類の歴史は新型武器の開発抜きには説明できない。そして常に新型武器開発者が優位
 にたち、征服者となっている。(弓矢、鉄器、鋼剣、馬具、鉄砲、戦車、飛行機等)
 その逆は敗戦直前の日本軍が妄想したB29に竹やりという無謀な精神論でしかない。
 これは、畿内説の人が妄想する北九州を含めた「ゆるやかな連合」を否定するもので、
 受け入れがたいだろう。
 実際にサヌカイトで作った丸木舟で北九州を征服できると主張する(妄想する)非常識
 人(畿内廚)がいることが不思議でならない。
707日本@名無史さん :2010/08/26(木) 16:01:31
>>704
大集落以上の統一的な権力や流通の存在が畿内では考古学的に証明できない。
 銅鐸祭祀の中心は近江。
 畿内、中国は1級河川で分断されており、当時の造船技術や金属(鉄)の無い状態での
 橋梁建設技術では統一国家形成や大規模流通は無理
708日本@名無史さん:2010/08/26(木) 16:11:47
俺は>>706-707のような、すぐに嘘だとばれるレスをする非常識人のほうが理解できないけどね
ここの住人が川越や村上を読んでないとでも思ってるのか?
そんなのは情報弱者が集う九州説同士でやってくれ。
709日本@名無史さん :2010/08/26(木) 16:18:00
>>708
で?
あんたの意見は
710日本@名無史さん:2010/08/26(木) 16:49:40
>>709
鉄器は『新型兵器』ではない、以上。
信じられないのならお前は当時の鉄剣で俺に切りかかって来い。
俺は木刀どころかそのへんの棒きれで、へし折ってやるから。
711日本@名無史さん:2010/08/26(木) 16:50:32
九州なら、弥生中期でさえ武器に加えて
農具にまで鉄が行き渡っていたようだからねえ。

製鉄は古墳時代まで無理だとすれば
頻繁な大陸への航路が確立されていると思って良い。

国内製鉄がないという前提であれば、鉄そのものが交易品となるので
鉄の出土範囲が共立国家の領域とみて良いかも知れぬ。
712日本@名無史さん :2010/08/26(木) 16:56:22
やれやれ・・
戦争は集団でやるもので、同一であれば、いくらサヌカイト付きの
木刀でも無理。
それにまず、鉄矢じりの矢を避けてね。
こんなのが、畿内廚に多いんだろうな
713日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:00:10
ちなみに今後の反論予想w

1、鉄剣だけが武器だと思ってるのか?鉄鏃で貫通してやるわ
 
Ans.じゃあ俺は銅鏃と骨鏃という、より廉価で殺傷力の高い武器を使わせてもらおう。
   だいたい盾とか鎧とかを想定している時点で、素人まるだし。

2、お前はサヌカイトで戦えよ

Ans.弥生時代をホントにしらないんだな。

3、九州を征服できないだろ

Ans.いやそんなことお前の脳内畿内説しか言ってないのだが、誰が九州を征服したとか言ってるの?

4、九州には高い造船技術があった

Ans.そんな嘘ついて、自分が嫌にならないの?それともバカなの?

5、畿内説は詐欺だ!

Ans.サイキバ乙
714日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:01:07
>>712
予想通りでクソワロタwww
715日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:03:26
>>712
おまえ村上読んだってのも嘘だろ
どうやって当時の鉄剣で戦うんだよw
716日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:13:09
鉄器の出土状況を見ると、福岡佐賀熊本の有明海玄界灘文化圏が多くて、
宮崎、大分は少ないね。

これからも、豊後水道瀬戸内海文化圏とは、あまり
繋がりがないことが分かる。
717日本@名無史さん :2010/08/26(木) 17:16:23
九州の伊万里に腰岳という山がある。
ここは古代から黒曜石の産地で、いまでもあちこちに散逸している。
この黒曜石は古代の青銅器が出現するまでは、武器には欠かせないもので、日本はもちろん、韓半島からも出土している。狩猟の際、矢じりに使用した形跡もあるが、戦闘用にも使われている。
しかし、革製の防具に対しては殺傷能力は低い。しかし鉄製矢じりであればかなり高い。
冷静に当時の戦(いくさ)の分析をすると・・・
鉄器の普及はすぐに、鉄剣とか連想するが、実際には矢じりや鉄戈(槍)で使用すること
で戦力的に優位にたつ。サヌカイトや木刀、竹やりで優位であった筈はない。
718日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:27:58
>>717
こいつ本当のバカ?それとも素人?

革製の防具?それどこで出土したの?どの文献にあるの?
で無敵鉄器軍団は畿内を攻めたのに征服できずに、逆に敗退したわけ?

まじで鉄器軍団の東征とか、繰り返すがまじでいってるの?
なにその中学生の描いた没マンガwww
719日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:28:38
鉄器の出土状況見て面白いなと思うのが
福岡佐賀熊本は、武器としての鉄器が多く出土しているが
それ以外では、農具道具はわずかながら出土しても、武器はほとんどないこと。

農具鉄器を鋳直して加工して、武器にすることはあったかも知れないが、
一時製品としての武器は、多分九州北部から外には、殆ど流れていない。
鉄器の交易コントロールがされているように見える。

農具道具は庶民の交易で流通することもあったかも知れないが
武器の流通は規制されていたように見える。
720日本@名無史さん :2010/08/26(木) 17:33:44
>>718
>鉄器軍団の東征??
なにそれ
過剰反応もいい加減にしろよ
畿内廚の妄想を否定しただけなのに
721日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:36:05
>>719
これは正確に把握していない人が多いからこそ
無敵の鉄器軍団とかのおバカな勘違いをするのかなあ
それとも元々そういう人なんだろうか?

>武器としての鉄器

正確には『武器としての形状は有するが、実用には耐えられない装飾具もしくは威信具としての鉄器』だね
鉄鏃にしても返し部分にも先端にも研磨跡がないわけだから、これも実用武器だとは言い難いわな
722日本@名無史さん :2010/08/26(木) 17:50:13
>>721
なんか読んでて見苦しい気がするのは俺だけ・・・

3世紀頃は、鉄器の普及はどう考えても北九州が圧倒しているのは
間違いではなさそう。
723日本@名無史さん:2010/08/26(木) 17:53:07
邪馬台国は九州、畿内は騎馬民族が牛耳ってました
724日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:05:55
>>722
あのね、3世紀どころか4世紀に入っても、北部九州の鉄器保有量は圧倒的なの。
しかし彼らはどこも征服できなかったし、おそらくそんな気もなかったのだろう。

この鉄器保有量の優位性が、軍事力に直結しないということまでは理解できただろうか?

しかし国力が段違いじゃないかという反論は当然出るよね。
それにしても実際問題として、北部九州は徐々に畿内の文化に飲み込まれ
隣接する中部九州にすら侵食されるんだよ。

もうこれは動かしようのない事実なんだ。
この事実を意地でも認めないというのが東遷説や九州王朝説などのカルト。
君がそのどちらかだというのなら、まずそれをカミングアウトしてくれないか。
725日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:15:49
九州北部だと、多分福岡平野、筑紫平野、
そしてちょっと離れて熊本平野あたりまでが

北部九州の人間達にとっての、弥生時代の
「天下」だったんだろうね。

そして、それは畿内でも同じで
兵庫、大阪、京都、近江が「天下」で
やがて東海が絡んでくると。

記紀の記述通りに、やがて出雲、吉備を版図に納めるとなると
そのあとに九州との大決戦が来なきゃならないはずだけど
その記述がないのが不思議だ。

たとえ鉄で九州優位だったとしても、どっちが勝っても負けても
まともにぶつかって、大戦争になれば記録に残らないはずはない。
で、それがない。

そこに興味があるんだよね。
726日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:21:34
>>しかし彼らはどこも征服できなかったし、おそらくそんな気もなかったのだろう。

あまり余所を征服する気はなかったような気はするね。

かなり後だけど、白村江があるように、むしろ朝鮮半島に目がいっていたんじゃないかな。
任那日本府説を信じれば、対馬海峡文化圏だったのかも知れない。


727日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:44:03
>>707
>畿内、中国は1級河川で分断されており、

なんだ「メル欄空白君(仮)」はいつぞやの「準構造船君」だったのかw
何か俺に絡んでくるなと思ったがそう言うことだったのか、なるほどなwwwwwwww
728日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:48:01
そもそも「鉄器vsサヌカイト」なんてお話が幼稚。
(いつの時代、何処の場所でならそう言う戦いが起こると想定できるのかは知らないがw)

兵数の多寡や兵站線・補給線の維持等…それらを支える国力(=古代においては人口に直結したろう)
が決定的で鉄製武器の優位性をどれほど過大評価してもそれらの不利を覆すほどの物ではない。

「メル欄空白君(仮)」の馬鹿がB29vs竹やりのお話をしていたが
シビアな話をすれば一度爆撃して、燃料や爆弾を使い果たし整備補給もなければ、それはただの鉄の塊w

「九州の鉄は切れ味抜群!最新兵器!」と補給は何でもかんでも現地調達を当て込んで
関門海峡越えて一路東に片道切符の東征をやらかすのならそれこそ「無謀な精神論」と言うか馬鹿丸出しw

そもそも鉄器がそんな万能な「さいきょう あいてむ」(←ゲーム終盤でゲット可能w)なら
九州から見れば鉄不足ヤマトに何故王権が発生しやがて大和王朝になっていったのか?

…と言う根本的ジレンマの前にはゴミクズ九州説の「無敵の鉄器軍団」なんて与太は消し飛ぶって話だなw
729日本@名無史さん :2010/08/26(木) 18:53:20
>>728
あんたのスレが一番幼稚なのに気付かないのか?
北九州の鉄優位はもう決まったことだからもういいのではないか。
話をループさせるなよ。

「無敵の鉄器軍団」なんて与太⇒歴史を少しかじれば誰でも鉄優位
は分かる。
もう諦めておとなしくしていろ
730日本@名無史さん:2010/08/26(木) 18:59:31
>>729
その優位性が何の役にも立ってなかったというのを説明したのだが、まだ理解できないのかい?
というか鉄の話題そのものが、もううんざりするほどのループなんだわ。
村上を読んだんだろ?それとも安本のサイトからの単なる孫引きか?
731日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:00:54
そもそも「ゆるやかな首長連合」なんて物は

強大な勢力が誕生して統一国家を作る前には
大小多数のクニグニが離合集散・合従連衡を繰り返す時期が長く続く
…と言う洋の東西を問わないごく当たり前の事を言っているに過ぎない。

それに、ここのゴミクズ九州説がヒッシに噛み付いてくるのは何故かと言うと…

「ゆるやかな連合」と言う選択肢を消せれば
あとは武力征服の領土拡大劇しかないわけで

そうなると3世紀の畿内が北部九州を押さえるのは無理…と言う結論に持ち込めるからだwwwwww

まあゴミクズ九州説にとって「ゆるやかな首長連合」と言うのは非常に都合が悪いw

それと馬鹿どもは自覚していないが「ゆるやかな首長連合」を必死に否定するのは良いが
それはてめえにブーメランのように返ってくるって話で

じゃあ3世紀、半島大陸と交易を行っていたであろう玄界灘周辺地域を強力な武力で支配していた
「九州邪馬台国」は何処だと言う話になる。

とりあえず福岡平野なら比恵・那珂なんかは軽く凌駕する遺跡を見つけて来いと.

732日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:01:54
後に統一されており、その本拠が畿内にあると言うことから
畿内勢力がある時期に九州を取り込んだのは間違いない。

それなりに繁栄していれば、本拠地を動かすなんて、そうはしないもの。
もし九州勢力が畿内を捕ったとしたら、首都は九州になるだろう。
畿内には代官を置くだけのこと。

そして、その併合過程が戦だったとすれば記録に残らないはずはないし
明らかに畿内勢力にとっては誇らしい事跡なので、記紀に書かないはずもない。
また、豊富な鉄器を持つ九州相手なので、そう簡単には戦で勝てない。

そう考えると戦ではない経緯で併合されたことになる。
733日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:06:42
もうはっきり言ってやったら?

東遷や東征は有り得ないと

この鉄器クンだか巡航造船クンだかは、邪馬台国の会の内容そのまんまなんだから
当然結論はそこなんだろう
734日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:09:58
日本と半島は、かなりの相互交流があった事は間違いが無い。(というかもはや常識)

↓しかし、正直、この発想は無かったわ。目から鱗ですな。
 九州北部と関西はともに倭人の地であるものの、互いに、積極的に独自
 行動を取っていたという事だ。
 
(3)エキサイティングな『三国史記』倭関連記事。
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/11-3sanngokusiki.htm

>北部九州に覇権を確立した倭の奴国が、57年に後漢王朝に朝貢し、その二年後新羅とも、
国交を樹立したという可能性はありえると考えている。もし59年の国交を結んだ倭国が、
「倭の奴国」のことであれば、その東北一千里のところにある、多婆那国は現在丹波とよばれる、
京都府北部であってもおかしくないと考えている。
735日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:12:53
九州が畿内に併合されたと書いたが、庶民はともかく、
支配者階級は死にものぐるいで抵抗するのが普通。

となると、支配者とその軍隊が急速に力を失う状況が発生しなければならない。
抵抗できないほどの何かが起こったんだろう。
736日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:13:38
>>734
ごめん、そのサイトも邪馬台国の会と並んでここではよく引き合いに出されるところなんだが、もうカルトはお腹いっぱいです。
737日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:16:46
>>735
まず併合という国家と国家の対立を軸にした状況が有り得ない。
続いて死に物狂いで抵抗する軍隊というのも有り得ない。

貴方が想像する三国志演義的な国家間戦争や軍事行動という先入観を取り払ってみて。
738日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:17:00
九州北部と畿内並立説ですね。
自分もかなり後世まで並立していたのではないかと見ています。
739日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:26:29
白村江の大敗北で倭国が力を失い、
畿内に征服されたという説の可能性が出てくるな。
740日本@名無史さん:2010/08/26(木) 19:34:56
初期の大和朝廷が、長岡京やら藤原京、近江京などに頻繁に遷都する。
これは都市の耐用年数が過ぎたとか、死穢を避けるため、といった説があるが
まだ権力基盤の安定していない大和朝廷は、擁立した氏族の本拠地に
都市を移しただけではないかと考える。

本当に天皇が万世一系なのかは分からないが、それぞれの天皇を擁立した勢力があり
その勢力の本拠地に朝廷を移したのだろう。

平城京平安京でほぼ擁立最大勢力は藤原氏となる。
741日本@名無史さん:2010/08/26(木) 20:03:19
武力東遷などと言ってるのはもうここくらいのものだろう。恥ずかしいことだ。
742日本@名無史さん:2010/08/26(木) 20:58:07
九州倭政権の副都が畿内にあり、後に副都を首都にしたというだけのこと。
畿内邪馬台国が徐々に西日本全土を支配していったという「ゆるやか連合論」は、
荒唐無稽だと思う。
743日本@名無史さん:2010/08/26(木) 21:21:36
実は、邪馬台国の歴史を綴った石碑か粘土板がすでに発見されていて、
それを誰かが隠匿しているんじゃないでしょうか?
744日本@名無史さん:2010/08/26(木) 21:54:09
>>739
中国史書に一言も出てこない「畿内」が倭国を征服するなんて
ことは夢物語だろうな。
745日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:07:38
>九州勢力が畿内を捕ったとしたら、首都は九州になるだろう
首都移転が行われている可能性は十分にある。
746日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:14:54
先に出てきたゴミクズ九州説による
「銅鐸は威信財」「銅鐸分布域は銅鐸帝国」…なんてお話があったが
以下、実はコレ、微妙にゴミクズ九州説のいつものブーメラン自爆劇を地味にやっちゃっていると言うお話www

そもそも東遷厨のロジックとして特定個人(首長)墓も持たないヤマトは
東遷勢力が入ってきた事により社会構造ががらりと変わり「威信財」が必要とされ
古墳と言う大型首長墓が出現した…と言うのがあったはず。

それが既に威信財を持ち
その分布域を版図とする”ゆるやかじゃない”銅鐸帝国とでも言うような物を形成していたら
話は全く違ってくるw

社会構造の変化なんてものじゃなくて
その帝国を支配した王がハードを乗り換えるか新しく導入するだけで済むw

銅鐸帝国皇帝陛下
 「威信財としたら銅鏡の方がカッケー!これからは銅鐸でGo!」
 「俺みたいなハイソの墓として今までは方形周溝墓しかなかったけどこれからは前方後円墳だよなw」


まあ出たトコ勝負・場当たり主義のゴミクズ九州説に突っ込んでも意味が無いのだろうがwwww

747日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:20:38
>銅鏡の方がカッケー!これからは銅鐸でGo!」
何を言ってるのか、意味不明だな。
748日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:20:49
まあ畿内説は、志賀島の金印や旧唐書の阿蘇山について、下手な言い訳をし続けるしかないな。
749日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:24:36
>>748
「金印」「阿蘇」と言えばサイキバ君だが
「装飾古墳」は長らく見ていない気がするが持ちネタから外したのか?w

750日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:27:19
さきたま古墳群の被葬者は、九州から渡来したのではないでしょうか?
751日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:35:37
全ての古墳の被葬者は、九州から渡来したんだろう。
752日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:39:58
そこまで言うなら、なぜ半島からと言わない?ppp
753日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:44:44
えれえ神武様は、半島から纏向に馬っこ連れで来たんでよお。クシフル岳からよお。ppp
んで、そこをウリナラって名付けただ。ppppp
754日本@名無史さん:2010/08/26(木) 22:59:54
>>753
半島の神話には、クシフル岳なんか無いってさ。
クチとかクジならあるけど、ろくでもない貧乏臭い神話だよ。
755日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:27:18
大化の改新前後に書かれた中国の文献では
倭国と日本国併記されていたらしい。
756日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:38:07
>>755
>大化の改新前後に書かれた中国の文献

違うから。
757日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:43:41
ごめん、ひとつ前の隋書倭国伝と間違えた。
書かれていたのは旧唐書で10世紀だな。
758日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:49:25
徐福の不死不老伝説を日本は語り続けている。
759日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:49:56
ちなみに旧唐書は618年から907年までの記録ね。
その間に倭国と日本国が併合したらしい。
760日本@名無史さん:2010/08/26(木) 23:57:26
逆に言えば、それまでは二つが並立していたってことか。
761日本@名無史さん:2010/08/27(金) 00:01:14
なんだか、九州年号の終了と大和朝廷の年号開始が
西暦700年前後だから、ちょうど入ってくるな。

白村江や大化の改新と、倭国日本国併合には
関係があるのだろうか。
762日本@名無史さん:2010/08/27(金) 00:19:52

■『邪馬台国は沖縄だった!』 海洋地質学者の目で解読

琉球新報 2010年8月22日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-166665-storytopic-6.html

『邪馬台国は沖縄だった!』木村政昭著 第三文明社1575円

 邪馬台国の所在地については、今に至るまで、九州説、畿内説など、諸説間の論争が続いている。
根拠となる史料は魏志倭人伝であるが、その中の記述のうち、「投馬国」(薩摩、但馬など、いくつかの解釈がある)を起点とした
「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。」
の部分について、行程や地名の記載をどのように解釈するかが論争のもとである。

 この記述は邪馬台国研究のための「データ」に当たる。
データに誤差はつきものであるが、データ自体を、例えば「南というのは東の誤記だ」などと、自説に都合よく読みかえては意味がない。
不都合なデータが思わぬ新発見につながることもある。旧水沢緯度観測所の木村栄博士による「Z項」の発見が良い例である。
著者は、長年沖縄近海の調査研究を行ってきた海洋地質学者である。海洋地質学は、観測データや採取試料に忠実に、海底やそれをとりまく島嶼の成り立ちをひもとく学問である。

 著者は、魏志倭人伝の中の距離・方位に関する記述がデータとして正しいことを前提に推論を進めている。まさに、海洋地質学の方法で魏志倭人伝を解読した結果たどりついた結論を、本書に著したと言える。
 しかし、これまでに、沖縄(あるいはその一地域)を卑弥呼が統治していたという証拠は出ていない。従って、本書に示された結論は、現在では「仮説」の段階である。
既存のデータをもとに推論した作業仮説を提示し、それを検証するためにさらなる調査研究を行い、その結果、最終的にその仮説の正否を結論付ける。これが科学の方法である。
著者は海洋地質学の研究のかたわら、これまでに与那国島をはじめとする海底遺跡を精力的に調査している。

 本書の仮説の検証として、答えを海底遺跡に求めるべく、沖縄島周辺の海底遺跡の精査を行っており、現在のところ、この海底遺跡が邪馬台国と同年代のものであることをつきとめている。
今後のさらなる調査の結果、決定的な証拠が発見され、邪馬台国研究がさらに一歩前進することを期待したい。(松本剛・琉球大学教授)
763日本@名無史さん:2010/08/27(金) 00:21:00

九州王朝説は該当スレでやれ

ゴミはゴミ箱に
764日本@名無史さん:2010/08/27(金) 00:56:15
>>762
沖縄に上陸してから一月も歩く場所ってあるか? 沖縄に都があったら
船でそばまで行けるだろう。
765日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:04:55
日本史に「邪馬壱国」以前無し。
日本史に「邪馬壱国」以降無し。
766日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:48:14
九州王朝説も古田説だけじゃないぞ。
いまやトンデモと言っている畿内説のほうがトンデモだ。
畿内説は、梅原系詐欺一家で一致団結してるけどな。
767日本@名無史さん:2010/08/27(金) 03:08:31
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_16.htmlによると
倭国と日本国は全く別物だということがわかる
768日本@名無史さん:2010/08/27(金) 03:57:32
>>762
地盤の多少の沈み込みはあるにしても急速で大規模なら今でも痕跡ぐらいすぐ解るだろ。
どの島の間にも無いそんなもんは。
769日本@名無史さん :2010/08/27(金) 10:18:49
弥生時代の日本列島はは不均衡な発展段階である
(北九州>・・越えられない壁・・>西日本日本海側>
            東瀬戸>畿内(ドンヅマリ))
でOK?
 
なぜなら、畿内に戦士層の存在が証明できない。
畿内の高地性集落は、防御的なものであり、攻撃的な性格を持たない。
攻め込まれて、銅鐸を捨て高地に逃げたと思われる。

畿内の勢力が発展して九州勢力を併合なんて妄想はやめようね
畿内に攻め込んだ勢力(出雲、丹波、越、九州、韓半島?)が勢力
を拡大したことは十分考えられる。
770日本@名無史さん:2010/08/27(金) 10:26:07
出雲>瀬戸内(吉備・阿讃)>超えられない壁>北九州>畿内
実際はこうだろうな
771日本@名無史さん :2010/08/27(金) 10:37:00
北九州>出雲>瀬戸内(吉備・阿讃)>超えられない壁>畿内(ドンヅマリ)
これでどう?
772日本@名無史さん:2010/08/27(金) 10:38:39
畿内説完全終了
773日本@名無史さん:2010/08/27(金) 11:02:24
>>771
北九州は纏まってれば最強クラスの力はあるだろうけど、今のところ小国乱立、バラバラ感が
強いので無理かな。
774日本@名無史さん:2010/08/27(金) 13:30:35
旧唐書によると、倭国と日本国は独自の外交を行なっているようなので
事実上、互いに独立していると言って良い。
遠隔地でもあり、間に出雲などの国があるので、ほとんど利益衝突が起きない。

三国志によく出てくる遠交近攻策とかで、協定を結び
間の国を押さえていた可能性もある。

そして、婚姻政策も結んでいたのではないだろうか。
神功皇后などは博多、伊都、宇美に多くの伝承を持つ。

神功皇后は北部九州の人間で、仲哀天皇は伝承を持つ下関から、
またあるいは畿内から婿入りしてきたのではないかと考えている。
もっとも、神功皇后が卑弥呼と考えているわけではない。

もちろん、北部九州から畿内に嫁入り婿入りしたものもいるだろう。
そうやって、融合していったのではないか。

白村江で壊滅的な敗北を受け、筑紫王サツヤマが捕らえられる。
サツヤマが北部九州の支配者だとすれば、軍も王も壊滅することになり、
国家崩壊の危機である。

水城を建造したように、大陸からの軍に派遣に怯えた九州王朝の残党のなかには、
親戚の縁を頼って、本州に移動した氏族もいるだろう。

そうして、九州北部の支配者は零落し、政府機能は畿内へと引き継がれている。


互いに独立国の様相を呈し、文化の違いも目立つ畿内と九州。
それでも余り争った痕跡がないのはどういう理由なのだろうか。

775日本@名無史さん:2010/08/27(金) 13:43:51
九州を都とした国家が畿内に副都を置き、経済的に発展してきた畿内から
人材が多く排出されるようになり、戦乱で荒廃した九州から、首都機能を
畿内に移転することになった。

だから、露骨な畿内・九州戦争などはないが、敢えていえば派閥争いとしての
壬申の乱がそれに相当する。
776日本@名無史さん :2010/08/27(金) 13:44:48
>>774
時代考証がでたらめ
7世紀の話と3世紀の邪馬台国の時代がごっちゃまぜ
それに偽書まがいの記紀の人物を適当にまぜている。

畿内説を維持するための苦肉の策?
777日本@名無史さん:2010/08/27(金) 13:48:36
一応、互いに唐との外交を行なうことから
別の独立国としてみた。

独立国でなければ、外交は首都が独占するのではないかと考えるが
副都の関係のまま、独自外交を行なうならば、
限りなく独立国に近い状態ではないかと思う。
778日本@名無史さん:2010/08/27(金) 13:50:18
>777は >775 に向けて。

>>776
神功皇后のくだりは一例としてあげたので
年代のズレは勘弁していただきたい。
779日本@名無史さん :2010/08/27(金) 13:51:37
>>775もそうだね
7世紀の話は別スレでね

ここは邪馬台国時代で2〜3世紀のスレ
畿内廚は苦しくなると、すぐに時代を超えて議論する。

邪馬台国当時の畿内では、北九州に対抗できないから
すぐに時代をいじくる癖がある。
780775:2010/08/27(金) 13:58:43
いや、俺は九州説だ。
畿内説が、古来から畿内を中心として大和朝廷へと直線的に発展したと思い込んでいるので、
その6・7・8世紀の大前提を突き崩したうえで、3世紀を語らないとダメだと思ってるわけ。
781日本@名無史さん:2010/08/27(金) 14:04:13
自分は7世紀まで九州王朝
8世紀から大和朝廷が政権を握っていると考えている。

大化の改新、途切れ途切れの大和朝廷の初期の年号
これらは九州王朝が力を失ってきてからの
政権成立の助走過程だろう。

そして、壬申の乱で政権が安定していく。
782日本@名無史さん:2010/08/27(金) 14:06:53
政権が変わったとき、新政権は中国に倣って
史書である古事記日本書紀を編纂するのである。
783日本@名無史さん:2010/08/27(金) 14:08:54

九州王朝説は該当スレでやれ


ゴミはゴミ箱に

784日本@名無史さん:2010/08/27(金) 16:59:36
倭国と日本国は別物、したがって邪馬台国は九州
785日本@名無史さん:2010/08/27(金) 17:27:31
>>783
ゴミ箱の中は畿内説の群れで、もうこれ以上入りきらない。
786日本@名無史さん:2010/08/27(金) 19:57:04
老衰で死んだはずの「九州王朝大好き」の亡霊が・・・。
787日本@名無史さん:2010/08/27(金) 20:10:23
まあ、畿内説が毛嫌いする、「素直に文献を読む」で、
ここまで来ちゃったわけだな。

今度は「旧唐書も信頼できない」とするに違いない。

それにしても、漢籍が詳しいと自称している方々が
畿内説には居たはずだが、分かってあえて言わなかったのか
それとも漢籍など詳しくなかったのか。

わかっていて、あえて言わなかったとすれば、学問の徒じゃないね。
ただのアジテーターだ。
788日本@名無史さん:2010/08/27(金) 20:11:04
九州以外に考えられない
789日本@名無史さん:2010/08/27(金) 20:12:47
畿内説は詐欺師しかいません。
790日本@名無史さん:2010/08/27(金) 20:16:34
791日本@名無史さん:2010/08/27(金) 20:56:59
畿内説は「ばあちゃん、俺だよ、俺!」の、

詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺
詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺
詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺
詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺
詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺詐欺

文献は「素直」が一番。おあとがよろしいようで。
792日本@名無史さん:2010/08/27(金) 21:25:31
騎馬民族征服説を唱える人は、その馬がどこから来たか知っているのでしょうか?
朝鮮馬、日本馬はポニー程度で、とても鎧をまとった兵士が乗れるものではなかった。
そうです、その馬は韃靼馬、天皇は韃靼人だったのです。

これですべての謎が解けた!
793日本@名無史さん:2010/08/27(金) 21:29:11
>>792
馬鹿かお前は? 騎馬民族というのは鎧をまとった武人が馬を背負って走るものだ。
何のためにそんなことをするかって? もちろん投げつけたり振り回して敵を倒すために
きまってるだろう。
794日本@名無史さん:2010/08/27(金) 21:36:20
文献を素直読みする九州派を、未だに見た事がない。
皆、無理のある強引な解釈をしている。
795九州説(日向):2010/08/27(金) 21:50:56
♪ ワタシは〜ワタシのォォォ、強引グ、マ〜イ ウエイ〜。
796日本@名無史さん:2010/08/27(金) 22:30:11
>>794
南九州説を知らんみたいだな。気の毒に・・・
797九州説(日向):2010/08/27(金) 22:40:30
あら、本物が出たか。ww
798日本@名無史さん:2010/08/27(金) 22:56:39
九州王朝は、多分、大陸から持ち込まれた天然痘などの伝染病によって滅亡したのではないかと思うのです。
女王がこの病気で死ぬと、親族や従者を含めて埋葬され、土饅頭が作られたのです。
殉葬とは、伝染病を食い止めるために、親族・従者を丸ごと埋葬したということです。

そして、伝染病にかからない免疫のある部族だけがその作業を行うことができました。
伝染病で弱った村々を次々と抹殺して土饅頭と司祭場である前庭のある前方後円墳を作り、支配していった。

それが神武の正体であり、伝染病を運んで日本を支配したのだと思うのです。
799日本@名無史さん:2010/08/27(金) 23:57:17
畿内説には、結論先にありきの考古学者ばかりだ。
この手の奴らは、△鏡は卑弥呼の魏鏡、箸墓は卑弥呼の墓だと、
断定から入って、魏志倭人伝の勝手読みしかしない。
800<>:2010/08/28(土) 00:22:27
と言うかね「九州説」と言うか「邪馬台国論争自体」が
20世紀の遺物なんだろうなwww

TVのゴールデンタイムにナンチャラスペシャルと題してUFO・ネッシー・雪男etc…が特集されて
子供もあるいは大の大人も結構マジに見入ってた。

今から見ればもうそんなノリwww

801日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:23:50
2年ぶりに来た記念カキコ
802日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:29:07
詐欺がバレて、畿内説は泥船のように崩壊しつつある。
お楽しみはこれからだ。
803日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:31:36
そもそも九州王朝などというものはお国自慢の産物じゃないかな。
魏志倭人伝における九州は一大国、これだけだよ。
一大国は現在の糸島、そこに軍人が三千家程度いて臨検していた。
丹波(伊都)が司令部だった。
臨検は糸島と、津(三重)で行われていた。
魏志倭人伝では一代と不彌で「家」の記述があることから明らかでしょう。
太平洋側と日本海側で臨検してたんだよ。

九州でその後何が起きたか?
それは九州の司令官が反逆したのかもしれないね。
簒奪の歴史だと考えたほうが面白い。
804日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:33:47
九州王朝説を唱えた古田が東北の福島県生まれだって知らないだろ?
805日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:35:55
ああ、それで東日流や東北王朝が。www
806日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:36:51
古田の本籍が、高知県だって知らないだろ?
807日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:39:08
東日流は触れてはいけない話題だろ。ww まさにブーメランを投げて自分の頭にぶつけるほどの馬鹿。
808日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:44:46
畿内説はまず公定里で日本の何処かに上陸するところからはじめないとねえ。
いきなり日本なんて通り過ぎちゃうから。

距離と方向の記述が間違っているなら間違ってるでいいよ。
それなら日本に来る根拠もなくなっちゃうけど。

だから、日本に来る何か別の根拠がないとね。
809日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:49:27
www 短里なるものがあると思うなら、中国語論文を書いて中国史学界に認めてもらうことだな。
日本の片隅でいくら力説したところで何もかわらないよ。
810日本@名無史さん:2010/08/28(土) 00:51:15
>>766
ゴミクズ九州説の更に底辺、九州王朝説のサイキバ君かな?
それとも九州王朝説のバリエーションを強調するあたり「九州王朝大好き」かな?

まあどっちでも似たようなもんだがwww

学問と言うのは常に漸進する。

いくら過去のビッグネームであろうが現時点で通用しない理論はうち捨てられる。

「梅原」が最近お気に入りみたいだがw
その学者のどう言う理論が現在の畿内説に必要不可欠であるかと言う事を
論証した上で非難しないと意味が無いぞゴミクズwwww

ってまあ馬鹿に言っても無駄なんだろうがwwwww
811日本@名無史さん:2010/08/28(土) 02:22:06

■弥生時代技法 鉄器できた/淡路

朝日新聞 2010年08月27日
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001008270001

 弥生時代の鍛冶工房跡が見つかった淡路市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡で26日、同市教委が遺跡から見つかった炉の跡などをもとに古代の鍛冶作業を再現する実験をした。
「ふいご」でおこした炭火で鉄を加工できることや、炭で焼けた地表が遺跡の炉の跡と同様に赤く変色することが分かった。市教委は「実験結果から、ここで鍛冶作業が行われていたことはほぼ間違いない」としている。(藤本久格)

 同遺跡からは、矢じりや鉄片など加工された鉄器や鉄をたたく石製の工具、高い熱を加えたことでできる赤茶けた炉の跡が出土している。しかし、見つかっている遺構は本格的な炉とは言えないため、実際に鉄の加工が可能かどうかを実証することにした。

 この日は遺跡の一角に、市教委の職員らがつくった炭を置いて火をおこした。牛の革袋の先端にハスの茎を取り付けた「ふいご」で空気を送り続けること約1時間。炭火の温度は測定器で883度まで達した。
市教委の職員が炭火に五寸クギを入れ、赤くなると石のハンマーでたたく。この作業を数回繰り返すと先端がとがったペーパーナイフのような加工品が出来た。2回目の実験では20分間で炭火が1100度まで上がった。

 鍛冶作業の後、炭を燃やした直径約30センチの地表は赤茶色になっていた。特に空気を集中的に送り込み、温度が高くなっていた部分は白っぽく変色し、土も硬くなっていた。
発掘調査にかかわった市教委社会教育課の伊藤宏幸主幹(50)は「この遺跡から見つかった建物跡の床面の状況と極めて似ている」と話す。
(つづく)
812日本@名無史さん:2010/08/28(土) 02:24:13
(つづき)

 実験を見学した石野博信・県立考古博物館長(76)は
 「最初はこの程度の炉で鉄を加工できるか半信半疑だったが、今回の実験で実証された。五斗長垣内遺跡はおそらく、東瀬戸内の各地域に鉄器を供給する生産センターだったのだろう」
と述べた。

・革袋でつくった「ふいご」で炭火(手前)に空気を送り込む。金具で持ち上げているのは、焼けて赤くなったクギ
http://mytown.asahi.com/hyogo/k_img_render.php?k_id=29000001008270001&o_id=10413&type=kiji

・炭火で焼いてペーパーナイフのように加工されたクギ(上)。下は加熱前のクギ=いずれも淡路市黒谷
http://mytown.asahi.com/hyogo/k_img_render.php?k_id=29000001008270001&o_id=10414&type=kiji


関連記事

■鍛冶実験:淡路市教委が鉄器作り検証 五斗長垣内遺跡、炉跡や出土遺物を基に /兵庫
毎日新聞
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100827ddlk28040456000c.html

■弥生時代の鉄器づくり実証 淡路・五斗長垣内遺跡
神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/0003363946.shtml
813日本@名無史さん:2010/08/28(土) 12:10:55
>>812それで、五寸クギはどこから調達したのですか?
弥生時代にも淡路にコーナンがあったんでしょうか?
814日本@名無史さん:2010/08/28(土) 12:15:02
>>813
日本語わかりますか?
815日本@名無史さん:2010/08/28(土) 14:01:24
確かに、突然精錬された鉄材が出てきて、矢じりができましたと言われても納得できませんよね。
鉄の調達先、鉄鉱石なり砂鉄からどうやって鉄が精錬できたのか、どこからそれを調達して代金の支払い方法は?
流通過程を明らかにしないまま、淡路が鉄器の生産センターだったといわれてもなー。
816日本@名無史さん:2010/08/28(土) 14:13:47
>>815
意味を考えろ。鍛冶工房跡らしきものは、ここ一箇所しかみつからないってことだよ。
817日本@名無史さん:2010/08/28(土) 15:00:09
>>811
それは小鍛治といって
輸入した鉄てい(主に軟鉄)を二次加工する程度の事はやってたさ
青銅の時代から1200度を出せる炉はあったわけだから、大した技術ではない
大事なのは、酸化鉄から還元して鉄を作る大鍛治の技術があったかどうかという話
818日本@名無史さん:2010/08/28(土) 17:17:57
頭の中で考えているだけではだめだよ
819日本@名無史さん:2010/08/28(土) 17:19:52
>大鍛治の技術

上は大火事、下は大水、なーんだ?
820日本@名無史さん:2010/08/28(土) 17:57:11
弥生時代に製鉄が行われたと言う確実な情報は
北部九州でも無い。

可能性のありそうなものならいくらか散見されるが。

製鉄遺跡ではなくて鉄器加工の遺跡なら
九州北部なら各地方にある。

今宿、春日、吉野ヶ里、筑後など。
821唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 18:48:30
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年  ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国
216年 崇神崩御 任那の朝貢
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守(都市牛利 タシウリ)の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。
822日本@名無史さん:2010/08/28(土) 19:30:46
>>811
日に日に、邪馬台→大和という当たり前の事実が再確認されてきつつあるな
どうしても日本の歴史を2〜300年遅らしたい在日が
必死に九州説とかいう妄想を垂れ流してるみたいだけどw
823唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 19:52:43
韓国人は百済本紀を正しいと認識するが

新羅本紀とは、50年ほど齟齬を生じている。
日本史を百済本紀に合わせられない。だから書紀はねつ造と云われる、しかし
新羅本紀になら、太陰暦の状態で整合性を得る事が出来る。

この場合百済建国も倭国が関与となる。
323年神功49年、倭国は百済を味方に付け、半島を占拠する。
この時倭国は、帯方方面の治世を百済に譲る。百済は渡りの屯倉と認識される。

韓国人はこの事実を認めたく無いから、考古学と整合性の得られない百済本紀を正とする。
百済本紀に日本の歴史は被せられない。しかし韓国の正史である新羅本紀になら被せられる。
824日本@名無史さん:2010/08/28(土) 20:51:56
>>822
在日は、鶴橋を中心とした勢力であり、畿内説。
825日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:30:59
まあ、朝鮮に限らず中国も古代から大和民族までの連続性を畿内域中心の方が
料理しやすいと思ってんだろなw
826日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:38:11
中国にも大和朝廷の前身が朝貢していたと考えたい人はいるだろうね。中国共産党でそんな話が出ているとは思わないけど。
827日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:40:03
この手の話ていつも思うのだが、
あまりにも<神話>を軽視しすぎている嫌いを受ける
まるで毛嫌いしてるような
828日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:43:58
神話を毛嫌いしてるんではないけどね。あえて言えば、神話学の勉強もせず「反映」などという便利な言葉を用いて、
「天岩戸」などと邪馬台国問題を安易に結びつける輩を毛嫌いしてる。
829日本@名無史さん:2010/08/28(土) 22:55:19
例えば、「天岩戸神話は卑弥呼の死と台与の擁立を象徴的に反映したものだ。」とか言い出すやつだな。こんなの仮定の上に
仮定を積み重ねたもので証明は不可能だろう。「似ている部分がある。」とか言うのなら聞いてやらないこともないが。
830日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:21:22
倭国と日本はもともと別物
831日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:27:49
>>829
かといって、あまり頭ごなしに全否定してしまうのも問題ありかとw

ただ日本神話に関してはやはり肝となるのは神武東遷の記述でしょうね
というか九州説はそもそも東遷説を元にしたものだと思います
わざわざ、
そんなこと記述する必要なんかないのにって言われると確かにそんな気もしますし
832日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:42:46
>>827-829
神話を「軽視」するのは別にいいんだよ。現役の宗教経典でもある日本神話を、
歴史学の観点からは、「常に気をつけて批判的に解釈する、不用意な類推をしない」
ということは、非常に重要なこと。
一歩間違えると、ノアの箱舟の破片をトルコの奥地で必死で探している宣教師の一派のようになってしまう。
神学として行うのは信教の自由で保障されるが、これは明らかに考古学では無い。

だが、俺に言わせれば、最も滑稽なことは、
日本神話については「毛嫌い」を当然の態度とする連中が、
魏志倭人伝となると、突然文言丸ごと真実であると信じ込んでしまうこと。
曰く、「魏志は神話では無く、3世紀の日本列島についての事実を正確に記した地理書である。
しかも中華帝国の公式文書である。極めて信ぴょう性が高い。
日本書紀のような大和朝廷のプロパガンダ宗教書ではない。
魏志の全ての文言は真実の描写であり、正確に読解すれば真実に到達する」

と固く信じている。「邪馬台国って、本当にあったの?卑弥呼って本当にいたの?」という、
ごく初歩的な批判的議論をする者さえ全くいない。
俺に言わせれば、「卑弥呼真理教」が開かれている。明らかに宗教経典扱いしているんだよ。

俺に言わせれば、魏志を記紀と同様に突き放した批判的解釈をしない「邪馬台国絶対実在論者」は、
もはや、記紀を排斥し、倭人伝を「唯一絶対の真実の書」として絶対崇拝しているだけだ。
「どの福音書が、世界の真実を語る正統な経典かどうか」
つまり、邪馬台国論争なるものは、「神学上の教義を決める(キリスト教でいう)公会議」をやっているようにしかみえない。
833日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:50:15
>>832
然り
834日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:53:18
まあねえ、普通に文献やってれば近代のものでもボコボコに間違いがあるものもある。まして3世紀中国の東夷伝では、
というのが基本的な態度なんだけど、このスレの九州説は違う。
835日本@名無史さん:2010/08/28(土) 23:54:34
日本書紀は百済本紀のマネ
にもかかわらず、百済より古い歴史のある国だとしたために、祟神以前の年代がむちゃくちゃになってしまった。
公共放送でやっている竜馬伝ですら、せいぜい100年少し前の話なのに脚色だらけだし、
そんなもの真に受けるほうがバカなんじゃないのか?
836日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:01:02
>>832
好きに議論して経典を選べるなんて、いい時代だと思わないかな
歴史上の人物は怒ってこないし、なにを正としても咎められないし
837日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:06:01
ただねえ、アマチュアが楽しみにやる分には何らかまわないとも思う。「倭人伝はすべて真なり」「正しく読めば邪馬台国にたどり着く」
とその人が考えるのは自由だし、キャバクラなどに行くよりは金もかからず、傍目にはよい趣味に見える。実際は「便所の落書き」とも
言われる2chで、頑迷に自分の意見を書き散らすのはよい趣味でもないだろうけどね。w

その人たちはロマンチストで、その人たちにとって「倭人伝」は「宝島の地図」みたいなもんなんだろうと思ってる。
838日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:11:13
そう、倭人伝は宝島の地図なんだ
不老不死を求めた皇帝が遥か渤海のかなたに夢見た国ジパング
倭人伝をどう読んでも辿り着くことが出来ない
それは聖杯を探す旅と同じで永遠に終わらないのだ
839日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:13:59
>>838
スレチですけど「聖杯」ってあれ本当にあるの?
どう考えても眉唾に思えるんですが
840日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:20:36
横からだけど、聖遺物というのはあちこちにあって、イエスの磔になった十字架の木材というのを全部足せば大変な量になる、
などとも言われる。さまざまな時代に協会の宣伝として作り出されたものが多いのだと思う。聖杯に関しては、そもそも最後の
晩餐が歴史的事実かどうかもわからない。w
841日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:26:52
>>839
聖杯が無ければ、ミサそのものが成り立ちません
キリストが流した血を受けた器が最初から無ければ、カトリック教会はミサを行えない
スケープゴートとして磔になったキリストの血と肉を、ワインとパンで追体験するのが聖体拝領
842日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:27:05
>>840
やっぱりどう考えても眉唾ですよね、あれw
とくにカトリック関係は未だに<奇跡>認定みたいなことやってるしそういうの多そう
魏志倭人伝の方が遥かに現実的な夢を見れるw
843日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:39:17
>>841
いや、そうではなく、
この場合の聖杯というのは「アーサー王の聖杯」のことなんじゃ?
844日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:51:02
聖杯というのは、色んな権力者が宝石を散りばめたりして自分で作ってたんじゃないかな
聖君の証みたいなもんだから
845日本@名無史さん:2010/08/29(日) 00:58:48
>>838-843その聖杯のことなのだけれど、
その使用目的、形状とも吉備の特殊器台と関係がありそうなのですね。
そしてその起源は、メソポタミア文明を起こしたシュメールにあると思うのです。
旧約聖書に見るキリスト教も古墳文化もシュメールが起源ではないでしょうか?
846日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:02:15
アーサー王ねえ。5世紀頃の人物なのかな。確実な資料がほとんどない、という点では卑弥呼と似ているかもしれないな。
いずれブリテンでのキリスト教の受容という視点から見れば興味深い話で、アーサー王伝説には魔術師も出てくるし、聖杯
そのものがキリスト教以前のケルト神話の魔法の器からきている、という説もある。
847日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:13:08
しかしこのシュメール厨は何処まで本気なん?w
848日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:15:58
>>845
>旧約聖書に見るキリスト教も古墳文化もシュメールが起源

まぁキリスト教に関してはそうなんでしょうけどね発祥がユダヤだし
古墳文化についてはどうなんでしょ?
某エジプト大学教授Yによると
神社の狛犬の起源はスフィンクスとか言ってましたしねぇw
849日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:21:21
特殊器台は、甘露を受ける器じゃないかな
中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。
後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた。
古代に、不老不死になるとされた神の飲食物。
『老子』によると、中国では天下太平のときに天より降るという。
サンスクリット語アムリタamta(不死の意)の漢訳で、インドでは飢渇をいやし不死を得る天人の食物をいう。
仏教では、須弥山(しゅみせん)頂上にある三十三天の不死の霊液をいう。
850日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:24:16
ソーマとかネクタルとか…

話しがどんどんムー的な何かになりつつなるなwwwwwww
851日本@名無史さん:2010/08/29(日) 01:29:23
www シュメール厨は何でも伝播として考えてるようだけど、ユングに集合的無意識説というのがあって、これは人類に普遍的に
存在する先天的な無意識といったようなもの。個人の夢や空想に現れるある種のイメージが、様々な時代や民族の神話に共通
して反映されている・・・つまり、伝播によらずとも各地に似たような神話や伝承が現れてくることの一つの説明だな。専門外なんで、
説の当否は知らないけど。
852A.A:2010/08/29(日) 02:34:18
>>849
>甘露を受ける器

うわ! してやられた!……と思いました。

私もそのように、十数年来、考えておりましたのです。(特殊器台ではなく、特殊壺のほうが、ですが)
自分のオリジナル説だ、将来よく吟味して論文発表しよう、と。

この問題、邪馬台国スレを離れて、どこかで一緒にやりませんか?
2ちゃんなら考古学板に特殊器台スレがあります。あそこら辺りで……。

これからA.Aと名乗ります。
853日本@名無史さん:2010/08/29(日) 02:39:09
だいたい甘露ってなんだよ。あって当然という前提で話をするんじゃない、この基地外の自演厨。考古板は迷惑だからオカルト
でやれ。
854ローガン:2010/08/29(日) 08:33:12
>>852
特殊壺、全てが焼成前穿穴なら そういう精神性を考えてもいいかなあと。
しかし楯築とかは、共飲でしょ?実際に、壺に酒などを入れて供えたんでしょう。
855日本@名無史さん:2010/08/29(日) 12:51:41
邪馬台国とは関係のない話ばかりでんな。
856日本@名無史さん:2010/08/29(日) 13:40:02
邪馬台国は九州、当時の日本は畿内で白山信仰の民が天下の時代
857日本@名無史さん:2010/08/29(日) 13:55:29
日本ってw
もろ漢字名じゃん
大体、倭は国名じゃなく葦原の中つ国に相当する地域名だろ
858日本@名無史さん:2010/08/29(日) 13:57:30
電波が多いな。
859日本@名無史さん:2010/08/29(日) 15:23:15
日向、日本
日向以前に宮崎はなんという地名、国名で
呼ばれていたのだろう。

命名規則似てない?
860日本@名無史さん:2010/08/29(日) 15:39:52
861日本@名無史さん:2010/08/29(日) 17:23:49
日本と朝鮮って同じ意味なんだよな。
「本」は「木」に斧が入ったものを示し、切り株に供え物をならべた祭壇を意味する。
だから、「日本」で太陽を祭る祭壇。
「鮮」は文字どおり魚と羊で、やはり供え物を示す。
だから、「朝鮮」でやはり太陽を祭る祭壇の意味となる。
半島の南部も列島も、太陽信仰系の民族がいたようだな。
862日本@名無史さん:2010/08/29(日) 17:39:34
>>861
海人族は太陽信仰のようですし、天照も太陽
863日本@名無史さん:2010/08/29(日) 17:41:10
戦前は朝鮮半島、満州国、日本国は一体だったことを考えれば簡単にわかる話
864日本@名無史さん:2010/08/29(日) 18:07:30
>>859
古くは九州南辺ぜんぶが日向、8世紀初頭に日向・大隈・薩摩に分割されたらしい
飛鳥時代の九州は、筑紫・豊・肥・日向の4地域である
たぶん、飛鳥時代ごろは外国
865日本@名無史さん:2010/08/29(日) 21:13:31
薩摩が江戸時代まで自主財源を持ち、独立国のような振る舞いができたのも
つまり、古代からの伝統というか、朝廷や幕府といえども手出しのできない何かを持っていたからではないだろうか?
それが、天孫族より先に高天原に降り立って、日本列島を支配していた邪馬台国の子孫ということではないだろうか?
国を譲った変わりに、独立国としての地位を最大限保証されていたのだ。

866日本@名無史さん:2010/08/29(日) 21:15:44
>>865
薩摩は長良川の改修工事で莫大な借金を背負わされたよなw
867日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:21:01
>>861
本は木の下側を指す言葉だろ、だから根、ルーツと同じ意味をもつ。
物事の大本、根本、根源。
日本とは日の本、太陽のあるところ、太陽が出るところにある国という意味

そもそも、捧げものをおく祭壇というのはしめす編が神祇を示すとおり、示という漢字がそれ。
神という漢字は、人間からの捧げものを”示”形の器にのせた様子と
申、これは天からの返事であり、啓示を意味する漢字で、捧げものに対して示されるものという意味。
雷や電も同じく、雨のとき天から示されるものということ。
868日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:21:10
●縄文人の本音

・人間は誰しも心の闇を抱えているものです。鬱屈の多い実社会の息抜きの場として、虚実を楽しむのが2chという場でしょう。
例えばこの板の九州説には、っ九州邪馬台国が武力をもって東遷し、畿内邪馬台国を力で支配したという説をとる御仁がいます。
その説の当否はどうであれその御仁にとってはその説以外では自身の心の闇は晴れない。カタルシスが訪れることはないのです。

・うまくは言えませんが、2chとはそうした役割を担うものでしょう。このスレごときで議論したところで、歴史の真実の何が掴めるで
しょうか。ここは便所の落書き場です。言いたい事を言い、説きたい事を説くことが重要です。邪馬台国は九州にあった。大和は
盆地湖の奥底にあったものを神武が大陸由来の土木技術で人が住めるようにした。これがわたしにとっての3世紀像であり、また
真実なのです。
869日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:26:58
天神地祇という言い方をするが神は天のかみ、祇は地のかみを表す

祇は氏という言葉が示すとおり、祖霊神を表すものだろう

神は天津神であり、祇は国津神とも言える
870日本@名無史さん:2010/08/29(日) 22:41:38
>>868
それはちがうだろう
中には組織活動で書いてるやつもいるだろうが
多くの書いてるやつは自分は間違っていると思うが、聞いてほしいから書いてると思ってないだろう
世の中で話しても会話の流れから切り出しにくい話題について2chを活用しているだけだ。

確かに、言論の統制がされているテレビ局の存在や洗練されたコミュニケーションを求める現代において
言論の自由が束縛されがちだから、自由な言論が可能な2chのような場所は
都合の悪い人間は多くいるし、自由の意味をはき違えたバカもたくさんいる。
だが、ここで、みながストレス解消している、オナニーしていると思うのは間違いだぞ
それは、自分のオナニーに他人を巻き込もうとしているのと同じだ。

2ch中には世の通説に疑問を抱いて矛盾点の提示をこころみているものが、逆にあっさり論破され
やはりと、通説の権威に乗っかっているだけの者からあざけり笑われ、引っ込みがつかなくなって
往生際わるく破たんした論理を繰り返すものもいるが、多くは間違いがわかると納得して受け入れる。
それでこそ、建設的な議論というものだ
871縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/29(日) 22:58:10
>>868
笑って見ていたが、偽者の書き込みが話題になるといい気分ではない。私はこのような内容のことは決して書き込まない。
872日本@名無史さん:2010/08/29(日) 23:00:30
まあ縄文人さんたら、自分でレスしておいて、都合が悪くなると偽者のせいにするなんて
お茶目だわ〜。wwww
873日本@名無史さん:2010/08/29(日) 23:04:40
僕は昭和の金太郎、強く育って幸せに。縄文人さんは黄金太郎鯉のような人だな。
874日本@名無史さん:2010/08/30(月) 01:36:55
>>835
あほかよ。百済本紀を引用したのは
西暦8世紀の段階で、実年代が分らなかったから
諸外国の外交関係の上から、実年代を割り出すしかなかったんだろう?
歴史としては、ヤマト王権のほうが、百済よりも古いよ。
875日本@名無史さん:2010/08/30(月) 01:39:54
>>831
記紀をよく読めばわかるが
ヤマト王権の誕生は、出雲国譲りから。
神武東征は、それよりも後の話。
出雲国譲りとは、近畿王権が出雲王権を併合した話。
876日本@名無史さん:2010/08/30(月) 06:54:16
では、近畿王権と北九州の問題、近畿王権と南九州の問題、近畿王権と東海王権の
問題は記紀にどのように描かれているというのでしょうか?
877日本@名無史さん:2010/08/30(月) 08:27:09
北部九州、出雲、畿内
畿内と北部九州の戦争の記述はないが

北部九州 VS 出雲畿内、とか
北部九州出雲 VS 畿内、とか
北部九州畿内 VS 出雲、で片側が連合組んでたら、

大国主の国譲りで、北部九州VS畿内、
の戦争が記述されていることになる。

記紀の神武東征から考えれば

北部九州 VS 出雲畿内連合か?

出雲の息子たちは西日本ではなくて北陸の方に逃げているから
そっちが領域なのだろうか。
878日本@名無史さん:2010/08/30(月) 10:39:16
九州説とかGHQの日本弱体化工作の一環だろw
879日本@名無史さん:2010/08/30(月) 11:53:17
結局、記紀をちゃんと読んでない奴が多いのよ。
記紀を読んだら分るが
古代の倭国の北九州の位置づけというのは、
あくまでも、国際貿易港のはいいでしかない。
倭国の統一のおいては、近畿と出雲の最終決戦できまった。

神武東征を過大評価している奴は
「私は記紀をちゃんと重視しているからだ」というが、

記紀をちゃんと読むと
ヤマト王権の始まりは、出雲国譲りからだと分る。
これは、神武天皇の曾祖父のニニギの時代に起こった話。
880日本@名無史さん:2010/08/30(月) 11:54:27
ヤマト王権は出雲国譲りで始まった。
それから数十年たってから、神武東征が起こった。
そういうことだと思う。

881日本@名無史さん:2010/08/30(月) 12:35:52
>>877
神武は日向(南九州)の出身だ。
ただし、彼らの本籍は、ずっと近畿地方南部にあったらしい。
つまり、神武さんは、現住所・日向、本籍・高尾張(葛城)の出身で
近畿本国で戦乱があったから、援軍として駆けつけた
ということを、記紀では書かれている。
882日本@名無史さん :2010/08/30(月) 12:39:33
>>881
ここまで妄想が膨らむと、変人だね。
畿内詐欺説に毒されている。
883日本@名無史さん:2010/08/30(月) 13:01:09
九州説に妄想以外の要素なんてあるの?w
884日本@名無史さん:2010/08/30(月) 13:29:12
近畿王権の初代倭王は
ホアカリ。
通称を、天照国照彦。天津と国津の支配者という意味。
出雲国譲りで、天津と国津の両方を支配した最初の人物が、火明命。

古事記によると、このホアカリには、ニニギという弟がいた。
彼は、出雲国譲りの後、九州高千穂に派遣された。
このニニギの曾孫が、ワカミケヌ(神武天皇)
885日本@名無史さん:2010/08/30(月) 20:03:58
九州説は反日プロパガンダ
しかし天照が卑弥呼などという妄想がこれほど広がってる所を見ると
在日の嘘も100回言えば真実になる恐るべし
886日本@名無史さん:2010/08/30(月) 20:09:32
天とか日とかに固執しているのは日向勢力なんだよね。
北部九州はあんまり気にしていなさそう。

卑弥呼が日巫女なら、日向勢力かもね。
ついでに日本という言葉も日向勢力かも。
887日本@名無史さん:2010/08/30(月) 21:52:45
アマテラスもホアカリも漢字があて字だもんな
当時の日本語ってどういう言葉だったんだろうな
万葉集も漢字がただの当て字でシュメール語だという説もあるから
888日本@名無史さん:2010/08/30(月) 23:32:47
卑弥呼は姫皇女か姫巫女です
おかしな宗教を作るのはやめて下さい
889日本@名無史さん:2010/08/31(火) 01:16:14
神武は、壱岐か糸島郡出身だと思う。
宮崎県出身ということはあり得ない。
890日本@名無史さん:2010/08/31(火) 01:25:46
だからってなんで壱岐か糸島郡出身になるの
891日本@名無史さん:2010/08/31(火) 01:55:59
神武らは、その行動から考えて同族の軍隊組織と考えられる。
壱岐には軍隊組織一大率があったので、そこ出身とも思えるし、
神武が歌った歌は、潮が静かで舟をたくさん係留できる、
糸島郡の磯がふさわしいようにも思える。
しかしそれは、あくまで筑紫であって、日向の国ではない。
892日本@名無史さん:2010/08/31(火) 04:08:10
893日本@名無史さん:2010/08/31(火) 09:23:28
一応記紀には、神武は日向から東征したとあるから
前提は日向。

もちろん信憑性のあるものとは思っていないが
他の所に比定するときには、何かネタが必要。

ごく少数の集団であれば、日向、宇佐でも大丈夫
大軍になると、北部九州じゃなければ移動ルートがない。

いまでも日向宇佐は陸の孤島。


船が沢山係留する、とか書かれると伊都の「周船寺」を思い出した。
今は海も遠く、船がイメージできるところではない。

旧国道202号線沿い(現502号?))は、今は結構人も多く
人家も多いけど、少し前まではあのあたりは海。
土砂が堆積して、平地になったので人口密集地として
都合が良くなった。
894日本@名無史さん:2010/08/31(火) 09:44:14
伊都国はわずかに千戸
平地も少なく作物も今ひとつとれぬものの
重要な軍事拠点であったということでしょうね
895唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 10:30:46
>>874
百済本紀は、日本書紀を参考に編纂された。
その根拠は日々の干支が同じである。
だから百済本紀と新羅本紀の間には、50年ほどの開きがある。
400年頃の高句麗の南下による大敗が抜けている。
夢村土城の積石塚の時代を欠く。
896唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 10:34:22
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年を神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差(閏1ヶ月)で癸未朔が成立

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。
897日本@名無史さん:2010/08/31(火) 10:34:41
伊都国は伊東市のある伊豆半島。
石廊崎こそ関東防衛の最重要拠点ですね。
邪馬台国は関東にあった富士王朝。
高天原は富士山麓以外にありえません。
898日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:09:25
・・・あっそ
899日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:19:14
スレをざっと読んだうえでの素朴な疑問

1、魏志倭人伝の解釈については、どれが正しいとかの問題ではなくて
 根本的に倭人伝の情報だけでは、邪馬台国は特定できないとの認識でいいのですか?
 「私の素直読みなら到達できる」と豪語する人は、すべて電波だと認識していますが、それでいいですか?

2、さらに日本書紀や古事記、また他の中国史書などを併用したにせよ
 やはり特定できないとの認識でいいですか?
 つまり文献史料の研究は過去に極められていて、新史料も期待できない今、文献から探る方法はやりつくされたと。

3、ゆるやかな連合ですが、これは軍事や政治でのつながりでなく、主に交易主体での中小国の集団と考えていいですか?
 またこの説が、現在考古学者の間では主流であるというのは本当でしょうか? 

4、つまり九州や近畿だけでなく、ほぼ日本各地に大小の首長国がひしめき合っていて
 そのなかで邪馬台国の卑弥呼が、その首長国たちの代表として魏から金印を貰った
 しかし邪馬台国や卑弥呼が専制していたわけではない。倭人伝にある倭国乱や狗奴国との不和のような単純なストーリーではなく
 もっと混沌としており、ゆるやかな連合に参加していない国も多数あったと考えられると見たほうがいいでしょうか? 

5、結論としては、もう邪馬台国論争そのものが、あまり意味をなさない段階にあると認識していていいでしょうか?
900日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:54:14
>>889
私がお答えしよう。
自分でいろいろ調べた結果、意味がないと判断するのならそれでいい。
しかし、このスレをちょこっと読んだだけで、そう結論付けるなら、軽すぎはしないか?
あんた、何をやってもその調子なんじゃないかと思ってしまう。
もう来る必要がなさそうですね。
901後藤幸彦:2010/08/31(火) 12:52:24
>>899 つまり、このスレで議論している人たちは全て小城甘木説についてかかれている本を読んでいないということです。
わたしの著作「神功皇后は実在した、の付録メジャーで辿る邪馬台国 後藤幸彦 明窓出版刊」をおよみください。
さすれば、電波なのか、特定できるのか、がよくわかるはずです。
902唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:07:48
景初3年の「邪馬台国」は、壹與の時代の「大倭」で決定なのですが、
それに合わせる時代を崇神としたいが為、合わせられずに議論は続く。
903日本@名無史さん:2010/08/31(火) 13:48:36
>>899
概ね正しい。
自分で考えるうんたらとほざいている連中は、自分で考えて間違った結論を出した者たちなので気にする必要はない。
特に5、の認識は重要で、邪馬台国の位置論争が重要課題だった理由は
倭国の範囲が九州とその周辺なのか、畿内を含む西日本まで拡がるのかという、3世紀当時の日本の姿を探るための手がかりであったということで
今ではその日本の姿が、畿内どころか関東や北陸、また南四国をも含むものであり
その実態が倭人伝にあるような、卑弥呼を頂点とした専制国家とは言い難いということのほうが先に判ってしまったので
位置論争などは重要性のプライオリティが大きく後退した。

あとはスレだけでなく何冊かの本を読んで、確認すればいい。
「三国志がみた倭人たち」「邪馬台国時代のツクシとヤマト」などが入手しやすく、値段も手ごろで多数の見方を参考にすることが出来る。
904唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 14:04:10
>>899
いま特定しなければならないのは、誰の時代か?である。
書紀によれば、九州迄をも席巻したのは、景行である。

大倭が一大率を伊都に配置できるのは景行しかいない。
そして背けば日本武尊の登場で討たれる、これ以降目立った離反は無い。
畏怖する状況である。
905日本@名無史さん:2010/08/31(火) 16:09:55
899ですがご回答ありがとうございました。
特に>>903さん、詳細とその意義と参考本まで教えていただきありがとうございます。
思っていたよりずっと3世紀の日本の姿は判明しているんですね。
考古学のこれからの発表が楽しみです。
906日本@名無史さん:2010/08/31(火) 16:43:45
純情な青少年をだましちゃいけない。
907日本@名無史さん:2010/08/31(火) 16:43:57
7世紀後半まで、倭国、日本国が並立していて、
8世紀に日本国が倭国を併合したとしても

3世紀にも、同じような体制だったかどうかは疑問である。
908日本@名無史さん:2010/08/31(火) 16:55:45
国(邑)の起こり。
共和制日本。
帝政日本。
909縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/31(火) 17:47:54
>>905
純情青年を装った胡散臭い書き込みだね。こんなのは止めた方がいいよ。
経済や歴史に関して断定的なことを言う人間は信用しない方がいい。一人の人間の頭脳は万能ではない。推定
の要素が多く含まれる古代のことを「もう分かった」などと言うのは軽卒極まりない。

>>903
考古学的資料のみから当時の政治的状況を語ることができないということは常識である。政治的状況を示す遺
物が発見されていないからである。或る大王が各地の首長達に下した指令が金石文などとして残っていれば政
治状況を考察するための有力な資料となるが、そのような物は未だ発見されていない。

3世紀の日本列島において、どのような地方でどのような人々の生活が行われていたか(集落の規模、食糧生
産、葬祭、道具など)のおおよそのことは分かって来た。水田耕作が行われ、ある程度の規模の集団社会を纏
める首長が存在し、そのような社会は九州から関東まで及ぶ広い地域に存在した。そしてそれらの地域間に物
資や人の行き来があった。だが、この考古学的資料は倭人伝に記述されている邪馬台国の卑弥呼を王とする倭
国の領域を示すものではない。

歴史の認識というものは変化して行くものだ。古代に関する歴史は現在の時点で得られる文献や遺跡遺物など
から推定して語られるものにすぎない。新しく発見される資料の出現や過去の知見の評価の変化があれば書き
改められる。そのようなものであるから、現時点で断定的に結論を出すのは軽卒である。

>>904
倭人伝の文章を読めていないようだ。
「國國有市 交易有無 使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之」にでている大倭はヤマトでは
ない。市の監督官の名称であろう。一大率とは関係ない。
910日本@名無史さん:2010/08/31(火) 18:22:45
倭国は九州で百済人と同族、畿内はシベリア系統の遊牧民族が支配
911日本@名無史さん:2010/08/31(火) 18:35:36
根拠は妄想w
912日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:01:24
>>909

>3世紀の日本列島において、どのような地方でどのような人々の生活が行われていたか(集落の規模、食糧生
>産、葬祭、道具など)のおおよそのことは分かって来た。水田耕作が行われ、ある程度の規模の集団社会を纏
>める首長が存在し、そのような社会は九州から関東まで及ぶ広い地域に存在した。そしてそれらの地域間に物
>資や人の行き来があった。

へーっ、さしもの縄文人ももうこの部分は認めざるを得なくなったわけだ
昔は多方面に存在する交易網すら否定していたんだけど、牛の歩みながらも進歩してるんだな
913日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:18:21
縄文と弥生の時代区分もだんだん怪しくなってきてるし
地域によって差があるんじゃないのかね
914日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:45:11
邪馬台国の風俗は、どう見ても縄文系の風俗なのに、弥生系の地域にその所在を求めること自体間違いです。
邪馬台国は、弥生系の住民のいない地域でしょう。
つまり、関東地区が有力。
915日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:46:54
それはそう。教科書の縦線の縄文ー弥生の時代区分は便宜的なものであって、斜め線にしてもよいくらいだ。
916日本@名無史さん:2010/08/31(火) 19:47:12
まあ確かに>>899はここの常連がネタを提供するために
一見さんに成りすましているような気がしないでもないwww

ここまで考えが整理できていたなら基本的に付け足す事は無いし
本人も既にここで他者に意見を求めるまでもなく
確信する段階に至っているだろうwww
917日本@名無史さん:2010/08/31(火) 20:13:02
>>916
かもね、ただこういう考え方に至るのは、歴史好きで古代史にも興味があるいわゆる歴史ヲタであるならば必然ともいえるわけだ。
自分も含めて歴史ヲタってのは、あちこちから情報を入手して最新の学説を収集する癖があるからね。
918日本@名無史さん:2010/08/31(火) 20:17:09
戦国から始皇帝による統一をはるか以前に経てきた中国知識人には理解しにくいほど未分化なのが
当時の倭国の状況。それをもったいつけて大仰に書くと倭人伝の記述になる。倭国乱は天下分け目の
争いではないし、対狗奴国戦争も小競り合い程度のものだったろう。w
919日本@名無史さん:2010/08/31(火) 20:52:12
>>915
> それはそう。教科書の縦線の縄文ー弥生の時代区分は便宜的なものであって、斜め線にしてもよいくらいだ。

何十年も前から縄文/弥生は、斜め線で表現されていると思うが?
↓教科書ではこんなふうになってたはず。
http://i.yimg.jp/images/kids/category_new/chronotable.jpg
920縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/31(火) 21:49:22
>へーっ、さしもの縄文人ももうこの部分は認めざるを得なくなったわけだ
>昔は多方面に存在する交易網すら否定していたんだけど、牛の歩みながらも進歩してるんだな

いい加減なことを言ってはいけない。私はかって縄文時代から交易は行われていたと述べたこともある。さらに、
弥生時代には交易を行う商人(商団)の存在も可能性があると述べたこともある。そういう商行為はしかし畿内説
派の言うような連合や交易網というような概念で考える必要はさらさらない。交易連合だとかゆるやかな首長連合
などという古びた考え方は捨てたほうがよい。
921日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:01:17
>>920

「な、なによっ!畿内説なんか認めないんだからね!か、勘違いしないでよっ!」

ってとこかな。ツンデレやねぇwww
922縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:10:15
縄文晩期から弥生にかけての古代商人というのは奴隷売買が専門だったのだよ。古代には通貨の代わりに倭人伝にある
生口が用いられていた。何しろ自分で歩くのだから移動も簡単だ。もしかしたら商人頭の乗る輿を担がせていたという可能
性もあるだろう。

生口は人口爆発集落の下層民や戦闘に勝利した国から食料や鉄と交換で手に入れ、また他の国に持ち込んで利ざやを
得る。実にうまみのある商売のやり方だ。そうして一大勢力を築いていったのが、後に水軍と呼ばれるようになった人々の
ことだ。
923縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:16:17
時には、後代のバッカニアのように船から下りて集落に攻め込んで奴隷狩りを行うというようなことがあったかもしれない。九州に
持ち込まれた庄内土器というのは、そのような、時には商人、時には海賊となる集団が畿内の土着民を九州に売ったときに海を
渡ったのかもしれない。おそらくそのような海賊奴隷商人は魏や晋からの私掠自由の許可証のようなものを得ていたのかもしれ
ない。
924日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:20:37
さすがは縄文人さん、凄いレスだ。九州説の星だね。
925日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:30:43
例のマキムク遺跡でたくさん出てる外来土器はどう解釈するの?
926縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:33:03
神武天皇もまた、このような時には海賊行為を行う水軍集団の頭の一人だった。各地にある高地性集落の分布が、記紀にある
神武天皇のご足跡と一致しているのは単なる偶然ではない。例えば、神武天皇の仮の宮である「安芸の埃の宮」「吉備の高島の
宮」、これらは神武水軍の拠点地であり、神武天皇は私掠行為と交易を繰り返しながら、畿内の地に迫っていったのだ。このこと
が伝承化したものが、神武東征伝説である。この説には十分な根拠がある。記紀の東征経路と、高地性集落の分布図を見比べて
みるがよい。
927縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:36:56
>>925
初心者のようだな。何も纏向の繁栄と同時期とはいっていない。わたしが想定している神武の東征時期は高地性集落の第V期と
重なるのだ。神武天皇が畿内入りしたのは、まだ大和古代盆地湖が残存している時期であり、これを大陸由来の土木技術で干
拓し、一大交易の拠点としたというのがわたしのかねてからの説だ。
928日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:38:06
>>925
あちこちから物資が集まってきたということだろう。
929縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/31(火) 22:44:38
920の補足

920では物資や人の行き来(交易、商行為)について少しばかり述べたが、各地の遺跡から推定される国やクニなど
の存在について述べなかったのでここに少しばかり。

瀬戸内の中国地方や四国地方、日本海側の山陰や北陸、東海地方などにも3世紀にかなりの規模の国やクニがあった
であろうことは遺跡から分かる。縄文時代から人が住んでいたのであるから当然と言えば当然のことである。
倭人伝にもこれら東の方の国の存在が記述されている。ただし、皆倭種と述べるだけで重要視していない。
930縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:45:09
纏向に東海土器の出土が多いこと、また古墳時代には東国由来の前方後方墳が築かれているのは周知の事実だ。これは推測に
なるが、東国には神武天皇の盟友となる、陸を支配するもう一人の商人頭がおったとも想像できよう。そして二大勢力で新都市を
築き上げたのだ。まるで承平・天慶の乱のようではないか。藤原純友らは結局は討ち果たされたが、神武天皇らは成功を勝ち得た
のだろう。
931日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:45:52
もういいわこの縄文人とか言う知ったかぶりのおっさんの与太は。

考古資料で政治体制が語れないとしながら
てめえは倭人伝と記紀からの妄想で神武軍団の東征とか奈良湖の大干拓事業とか
妄想吹きまくっている…ったくどうしようもないゴミクズ。

そもそもこの馬鹿が言う巨大湖の存在の存在なんて
盆地のあっちこっちで地層のサンプル取れば長らく湖底にあったことぐらい直ぐ分かるだろうに
しかもそんな昔の地層じゃない。
たかが壱千数百年前地質学的な時間感覚ならついこの間の事だろうにw

本職の学者も言ってないような巨大湖の存在でも
「オレサマストーリー」で作ってしまう…

ここのゴミクズ九州説はそのうち物理法則すら捻じ曲げそうだwwww)







932日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:52:04
>>919
まあ当たり前だが「弥生時代」と「古墳時代」の境界も大概あいまいになってるなw

で、ここのゴミクズ九州説がしがみついている
列島の東西に銅鐸と銅矛の二大勢力の円が描かれた図も教科書から消えて久しいんだろ?wwwwww

ちなみに教科書って図書館に置いてない物なのかな?
現在の物がどう言う内容なのか?と思って近所の図書館探したけどなかった。
933縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 22:52:05
>>931
キャプテンの名で知られるウィリアム・キッドのように、神武天皇は私掠行為で得た財宝をある場所に秘匿した。わたしはその場所を
知っている。
934日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:53:10
基地外だな。
935日本@名無史さん:2010/08/31(火) 22:55:46
まあ◆DxHYAOQXM6の方は縦目が例によって成りすまして遊んでいる可能性があるが
その内容が如何にも本人が言いそうな物と区別が付きにくいからたちが悪いwww





936縄文人 ◆DxHYAOQXM6 :2010/08/31(火) 23:08:16
ここからは秘中の秘であるが、どうやら本人であることが疑われているようだからこのスレの住人諸氏には少しだけ教えて進ぜよう。
倭人伝の原資料は、ほとんどが建中校尉梯儁による倭国探訪の報告書である。そしてこれを案内したのが邪馬台国の卑弥呼の陰に
隠れた実力者となっていた神武直径子孫の配下だ。そして、神武天皇が私掠行為で得た宝の隠し場所がわかるように、巧妙にその
報告書の中に宝のありかを忍ばせたのだ。だから、倭人伝を解読することは、そのまま宝のありかを見つけることでもあるのだよ。そ
してわたしは、それを発見したと思っている。
937日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:11:20
本物の基地外だ。
938日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:13:54
>>936
いや、これはきっとわれわれにつかの間の<癒し>を与えてくれているんでしょう
疲れた脳にはおバカな話題での休息も必要
意外と面白いから、もっと、どんどん妄想してくださいよw
939縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/08/31(火) 23:19:19
>>931
縄文時代の奈良湖の存在は大方に認められている。これが弥生時代にどうなっていたかが問題であるが、これに
ついて専門家は意見を述べていないようだ。

奈良盆地に入った雨水のはけ口は大和川であるが、この川は現大和川にほぼ沿って存在する断層帯の窪みが水流
で削られて形成されたものと考えられている。

931の論者は地質地層を問題にしているが、盆地や平野は殆どが沖積層である。奈良盆地も削られていないとこ
ろは沖積層である。湖の跡は沖積層であると言うことはできるが、沖積層は必ずしも湖の跡とは限らない。だから、
地質地層を論じても解決にはならない。

弥生期に湖が存在したか否かは奈良盆地の水の排出口である大和川が(亀の瀬辺りで)閉塞していたかどうかが分
かればはっきりするが、直接的な証拠がない。亀の瀬辺りが現在でも地滑りが起きやすいということで知られてい
るから、地滑り落石による閉塞の可能性は高いが、それをもって証拠とはできない。

状況証拠はある。それは唐古・鍵遺跡の水没跡の存在である。この遺跡は盆地平野部の標高45〜48mの微高地に存
在するが、これが水没するには湖の増水しか考えられないのである。
940日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:30:58
まだこんな与太を吹いてる。つまらんやっちゃな。
941日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:32:43
そうだね。偽者のほうが言ってることが面白い。
942日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:36:38
>>939
>縄文時代の奈良湖の存在は大方に認められている。

それは一体何万年前の話なのかな?
きちんと年代と、れを論じている「大方」とやらのソースを出してくれ。

ん百万年前の話を弥生時代につなげられても困る。


>沖積層は必ずしも湖の跡とは限らない。だから、地質地層を論じても解決にはならない。

どの道、湖底であった時代の地層は消えてなくなったりしない。

単なる「逃げ」に過ぎない。

>状況証拠はある。それは唐古・鍵遺跡の水没跡の存在である。

証拠にもならない。
それが豪雨によってなされてモノではないとどうして言える?

と言うか現代の奈良でも普通に豪雨による浸水被害なんてあるわけだが?

http://www.pref.nara.jp/secure/43808/genzai4-1.pdf


943日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:37:51
>>939
>唐古・鍵遺跡の水没

あのな、あんた用語がおかしいぜ。

唐古・鍵遺跡について書いた本に載ってるのは
「環濠の埋没」
だぞ。
944日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:43:36
www よく電波なブログに出てくるのがこの話で、縄文人のオリジナルではない。まあ霊障よけに壷を買ってしまうタイプなのだろう。

>大和地域の50m線、60m線の周縁部には多くの遺跡が散在するが、中央の平野部には縄文・弥生等の遺跡はない。
  それらの時代には、そこは、広く湖底であり、人が住めなかったのだ。記紀にある神武天皇の諸々の伝承地もまた、
  縄文遺跡の限界、標高60m線に、ぴたりと沿って存在する。

945日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:50:16
記紀において無視できないのが

国生み  日本海周辺の島から生まれること
素戔嗚と大国主の事績 出雲方面
国譲り   天津神、国津神の比定(九州、出雲か)
天孫降臨 九州
神武東征 近畿
946日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:06:47
>>945
国生み 淡路島周辺&北部九州周辺
おそらくこの2つの地方の神話の合体版で、これで必要十分に説明できる。
本州日本海岸への比定は不要。

スサノオと大国主
全部島根県で話が完結しなければならないはずが、
なぜか、島根県と無関係に説明できる話が大量に混じっている。
日向=宮崎県以上に、出雲=島根県は疑わしい。

国譲り 天津神、国津神
天津神は血統的、しかし国津神は明らかに混成部隊。
またもや、島根県と無関係の神々が大量に入ってくる。

天孫降臨 九州
宮崎かどうかは怪しい。奈良中南部の山中に比定する説もある。
生駒への降臨を持つ物部氏の伝承も気になる。

神武東征 近畿
終点が近畿であることは明らか。問題は、始点および経過点。
いくつかの無関係の伝承の集合体である可能性が高い。
山賊が山を降りた話&海賊が大阪湾から攻めた話&瀬戸内を東へ進んだ部族の話…

実は、まともに1か所の1つの話だと確信できる話はほとんどない。
俺は、特に「出雲」が疑わしいとにらんでいる。実は出雲ネタの過半は、島根県とは無関係ではないだろうか。
947日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:12:23
他スレでまともな九州説を構築する試みで「北部九州主導説」なる物が出て
そこで「壱与の代に九州から大和に東遷」なんてお話が出ているが…

「邪馬台国は二ヵ所あった」とする大和岩雄もそれは「ゆるやかな連合体」の中での移動としている。

以下「なぜ、女王は遷都したか」と言う問題について述べた部分

>倭国連合は主に、北部九州、吉備とその周辺、大和とその周辺の勢力が、
>ゆるやかな連合体を作っていたのだろうが、最初の頃は北部九州と吉備の力が強かったこと。


およそ学者センセイでこの「ゆるやかな連合体」を否定している奴がいるのか?

まあ匿名の掲示板なら良いだろうが、じゃあその「ゆるやかな連合体」と言うステップをすっ飛ばして
ヤマト王権の勢力伸長のモデルを出す事ができるのか?って話なんだよなwwww

無論ここのゴミクズ九州説は「 無敵鉄器軍団 神武組 」の後裔なら
それも問題ないという立場なんだがwww
948縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/09/01(水) 00:13:14
>>942
>証拠にもならない。
>それが豪雨によってなされてモノではないとどうして言える?
>と言うか現代の奈良でも普通に豪雨による浸水被害なんてあるわけだが?

豪雨が原因でないとは言っていないがね。湖の増水の原因として豪雨も考えられる。
現代では河川の整備がなされているからその程度の浸水被害で済んでいる。

>>943

別におかしくないだろ。環濠の埋没は洪水(集落の水没と言った方がよい)によって起ったと考えられているんだろ。
その意味で適切な表現だろ。

それにしても、畿内説派には奈良湖の話は痛いようだな。
949日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:24:58
>>948 蝿

斧正しておいてやろうwww

誤)それにしても、畿内説派には奈良湖の話は痛いようだな。
  ↓
正)それにしても、畿内説派には奈良湖の話をする俺は痛い奴のようだな。

950日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:33:38
畿内説が「ゆるやかな連合」論を振りかざすのは、
弥生時代から奈良時代にいたるまで、畿内が連綿と西日本の中心であり、
東北にまで広がっている熊本中心の装飾古墳の存在も、
旧唐書に阿蘇山がでてくる事実も、、
畿内が西日本全体を「ゆるやか連合」で支配していたから当然という、
むちゃくちゃ理論で解決したいからに他ならない。
951日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:35:40
>>946
国生みがどこの神話の組み合わせかは問題ないですよ
なぜ、国史としてとりあげられたかが重要です

7世紀以降の行政区域としての出雲、日向は問題にしてません。
領域国家の概念でもくくっていませんので、そういった前提は排除してください。

天津神側の視点で歴史が語られていることが重要だと思います。

九州であることは明らかでしょう。文脈の中で隼人の話もでてきます。
北九州と南九州で帰属意識が異なっていたことが天津神が
南九州に下ったことを降臨と表現した原因と考えます。

952日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:46:41
>>946
国生みは、島根半島でしょ。
スサノオは須佐の人、大国主は大国の人。
国譲りは、対馬の天照の指揮で、西日本の宗主権を出雲国から剥奪させた事件。
天孫降臨は、天照の孫(天孫)=ニニギが福岡県に上陸し、高祖山連峰に君臨した事件。
神武東遷は、落ちぶれた神武ら(久米軍)が雇用主を探して彷徨い、被雇用を諦めて近畿に乱入した話。
953日本@名無史さん:2010/09/01(水) 02:27:31
邪馬台が天皇に続く史実もなし。
954日本@名無史さん:2010/09/01(水) 02:32:40
証拠がないから史実じゃないなんて言ってると、いつまで経っても史実にはなりません
邪馬台はヤマトと呼ばないの?
ヤマトは天皇と関係ないの? なにこの人
955日本@名無史さん:2010/09/01(水) 02:58:35
>>951>>952
出雲神なるものの主力は、東国(東日本の太平洋側)に居る(祀られている)んだよ。
これをどう説明するのか?本当に古代の島根県民がドカドカと関東平野を占領したのか?まさか。

九州王朝説スタイルの、センセーショナルな表現を流用させてもらえば、
このことは、

「島根県の出雲大社 『 が 』 、東国在地の神々の系譜の始原を、遥か彼方の山陰に簒奪した!」

ということを示す。
ここに、出雲なるものの、決定的な胡散臭さがある。
スサノオや大国主は、本当に東国のいたるところに祀られている。
「氷川」なんて山陰の川と同様の呼称まで名づけられている。
だが、地理的に考えて、出雲人が、日本海側ならともかく、
究極の太平洋側である関東地方を征服したはずがない。
(実は、山陰が西南日本を支配していたというのもおかしい。山陰の勢力は、中国山地すら越えられない。
考古学的証拠としては、神戸にぽつんと極めて特殊な古墳が1つあるだけだ)

もう少し穏やかに書くと、
おそらく、記紀神話において、「出雲」というのは「非天孫系氏族とその神」の一般名詞だろう。
だから中身に統一性が無いのは当然。
そして、それらの全てが、山陰のローカル神社に「合祀」された。それが出雲大社。
これにより、(後の)千家氏・北島氏は、一躍、地方のローカル神官から大出世を遂げることになる。
956日本@名無史さん:2010/09/01(水) 02:59:57
>>954
>>邪馬台はヤマトと呼ばないの?

邪馬台は中国語で、ヤマトではないですよね。
957日本@名無史さん:2010/09/01(水) 03:03:36
>>954
史実の史は歴史の史で、史実の実は事実の実ですから。
958日本@名無史さん:2010/09/01(水) 03:25:38
>>955
出雲が関東を支配したのではなく、有史時代以降に山陰から人が流入してきただけ。
大宮の氷川神社がたまたま関東で信仰を集めるのに成功して分社が増えた。
白山神社などは非差別部落で信仰が推奨されて多く作られた。
山陰に関係ない諏訪神社、神明神社日枝神社のほうが関東に多いけどね。
959日本@名無史さん:2010/09/01(水) 03:26:13
>>955
時系列をまず整理しましょう

天津神、国津神の国譲りには九州と出雲という構図しかでてきません。
結果として、九州側が出雲に勝利し中つ国の平定が終わったという話です。
神武東征後の大和王権が成長する全然前の話ですよ
つまり古墳時代ではありません。

武南方神は信濃へ移りますし、その他の神も移動があったかもしれません。
当時、東日本が未開発であったとすれば出雲側の諸部族が東に逃れて再起を図ったと考えても
不思議ではないですから。
また、出雲とはもともと中つ国にあった九州を無視した販路に基づいたネットワークを意味したかもしれません。
同じ歴史を共有する部族の意識がある中での非支配関係のゆるやかな関係ということです。
その場合、販路を牛耳る商業集団をたたくことが即ち日別の名を冠する九州島の人たちにとっての
国譲りということだったでしょう。
960日本@名無史さん:2010/09/01(水) 03:31:01
国譲りは、西日本全体の宗主権を出雲から剥奪する行為です。
宗主権を剥奪するのとほぼ同時に、九州を侵略し支配しました。
それをやったのは、対馬の天照大神とその一族です。
紀元前100年ぐらいの出来事だったかもしれません。
961日本@名無史さん:2010/09/01(水) 03:34:12
日本記紀を編纂した人達が時系列を意識していたか疑問
962日本@名無史さん:2010/09/01(水) 05:03:08
>>956
>邪馬台は中国語で、ヤマトではないですよね。

邪馬台が中国語・・・・自分にはどう考えても<当て字>にしか思えないんですが
じゃ卑弥呼も中国語なんですか、台与も?
卑奴母離(ヒナモリ)も卑狗(ヒコ)もぜんぶ中国語で中国語の意味をもった語句だと?
はあそうですか、よかったですね(汗)
963日本@名無史さん:2010/09/01(水) 05:15:46
邪馬台をヤマタイとよんだのは本居宣長です。国学の大家でいらっしゃいます。
魏志にでてくる邪馬台国の人間の形容が野蛮でとてもヤマトであったとは思えないとのことで
ヤマタイというヤマトとは別の似て非なるものを仮定しました。
それまでの日本人はヤマトと読んでました。
私も素直にヤマトであると思います。邪馬台国の人の表現は魏人の蔑視観が反映されているのだろうと思っています
964日本@名無史さん:2010/09/01(水) 05:21:59
蒙古もモンゴと発音され、モンゴル人は中途な表記で侮蔑的な意味の漢字が使われていると抗議していますね。
ハンの称号も、シナ人にかかれば汗ですから。中華思想とは名前とはうらはらに卑しい思想ですよ
965日本@名無史さん:2010/09/01(水) 05:26:39
太古の呼び名は全部漢字は当て字です
古い地名なんてほとんど当て字で漢字に意味ない
966日本@名無史さん:2010/09/01(水) 05:34:54
もし邪馬台を「ヤマタイ」と読むのなら
台与も「タイヨ」と読まなくてはなりませんよね
でも「タイヨ」なんてどう考えても日本的な読み方じゃないw
「ヤマイ」とも読めるそうですけど、
その場合は「イヨ」になるので、これだったら確実に日本的な読み方です

で邪馬台を「ヤマト」と読んだ場合、台与は「トヨ」と読むべきでこれまた日本的な読み方です
それにトヨだと伊勢神宮の外宮に祭られている「トヨスキノイリヒメノミコト」にも繋がる感じなので
やはり邪馬台は素直に「ヤマト」と読むべきではないかと
967日本@名無史さん:2010/09/01(水) 06:55:51
邪馬台の読みなんて、実にどうでもいい話だな
ヤマトと読むから奈良でもないだろうし、万一サバイと読んでも福井でもない
>>966に至っては紹コウ本と紹キ本をごっちゃにしているし、しょせんそんな程度の理解での暗号解読ごっこにしか過ぎない
語呂合わせで遊んでいるだけだよ
968日本@名無史さん:2010/09/01(水) 07:37:55
>>967
じゃ、あなたのご立派な説とやらを聞かせてくださいよ?
969日本@名無史さん:2010/09/01(水) 07:53:43
>>968
好きに読め。ただし「アンジャバカンジャバ」とか「ヘゲモモクデリ」とか、他人に通じないマイ言葉では読むな
というか邪馬台というのは単なる記号にしか過ぎない
ここが2ちゃんねるという名前だというのと同じく、ただの記号
意味論やってんじゃねぇんだから、それ以上でも以下でもない。読みからは何一つ得るものはない。

つまりな、伊都だから糸島半島だとか、邪馬台だから大和だとかなんて話じゃないんだよ。
これらは考古資料に裏打ちされているから通説化したわけで、語呂合わせだけで決めたわけじゃないんだから。
970日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:08:33
>>969
地名を無視しろってんですか?
それに考古資料に裏打ちされているから通説化したって言いますけど
地名というさらなる裏付けがあったからこそ通説化出来たんじゃないんですか?
第一倭人伝を読むときに、
地名を無視してどうやって進路を辿れって言うんです?
971日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:13:29
>>970
あのね、倭人伝には不弥国ってのがあるよね
これ昔は「ウミ」って読んで、宇美を当てるのが文献重視時代の通説だったのよ
ところが宇美には碌な遺跡がないことが判明した
まわりにウミだのフミだのウヤだのと読む地名もない

だから単なる語呂合わせじゃだめだって、倭人伝の中でも証明されているんだよ
というか、君自身の邪馬台国探しの手法は古い
いまさら倭人伝を読んで探すなんてバカは普通居ない
もうそんな時代は4半世紀前に終わったんだよ
972日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:22:09
>>971
なにも私は文献だけに頼ってなんて一言も言ってません
私は考古学の発掘成果と文献という補完資料の両方とも欠かせないと思ってます。
じゃ本当に文献の助けなしに
考古発掘成果だけですべて事足りると?
973日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:31:26
>>972
極論が好きだな、君はw
しかし弥生時代に文献なんてほとんど役に立たないんだよ、なにせ比較史料がない
だから別に邪馬台国なんて名称は必要ない。実際考古学ではヤマト政権と仮称し、邪馬台国とは一切呼ばない。
このヤマト政権が文献に言う邪馬台国か否かなんて、今の段階でする話ではない。
ましてやヤマト政権に女王がいたかどうかなど、どうでもいいことなんだ。

万一魏志倭人伝という文献が存在しなかったとしても、さして問題はないんだよ。
困るのは暗号解読ごっこを楽しんでる連中くらいなもんさ。

マジな話、倭人伝をいくら精読しても邪馬台国の位置は判らないというのが文献学の出した結論であって
エラい学者様が見つけられなかった邪馬台国を、ボクが素直読みして見つけました!と言いたいだけの
歪んだコンプレックスを持つ連中が未だに暗号解読ごっこをやっているわけだが、君もそのひとりなのか?
974日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:39:49
>>973
>実際考古学ではヤマト政権と仮称し、邪馬台国とは一切呼ばない。

あぁなんだ、そういうことですか、イジワルだなぁw
最初からそう言ってくれれば私だってもっと素直に聞けたのに

>このヤマト政権が文献に言う邪馬台国か否かなんて今の段階でする話ではない。

なるほど納得です
ただ女王卑弥呼ってのはアマテラスの原形かもしれないし、これは引き続き研究は必要かと
975日本@名無史さん:2010/09/01(水) 08:46:37
>>974
納得してくれたとは驚き。
ここの板に常駐する文献至上主義者のひとりかと思ってしまったので
また馬鹿なことを延々ループしていやがるのかと勘違いした。
これはこちらも申し訳なかった。

>ただ女王卑弥呼ってのはアマテラスの原形かもしれないし、これは引き続き研究は必要かと

これは民俗学や宗教学の範疇かもしれないね。
アマテラスとイコールだとは流石に考えにくいけど
倭人伝を呼んだ後世の連中がアマテラスの骨格作り(つまり記紀神話の統合)の際に引用した可能性はあるが、ここから先はやはり根拠となる文献が存在しないので単なる想像の域を出ない。
976日本@名無史さん:2010/09/01(水) 09:09:17
>>975
すいません、じつは連続投稿規制に引っ掛かってしまいました

>ここの板に常駐する文献至上主義者のひとりかと思ってしまったので

違いますよ〜w
私はただヤマト朝廷の正しい成立過程が興味があるだけの素人です
だから、それ(真相に迫ること)がまず第一であって
自分が正しいと納得できる意見なら素直に耳を傾ける姿勢が大事だと思ってるんです
またそうしないといつまで経ってもコトの真相に至らない気がして

さっきは失礼しました。
てっきり在日かなんかが頭ごなしに邪馬台国 = ヤマト朝廷だということを
否定しに掛かってきたのかと思ってしまったもので(汗)

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1269689002/580

実際、今朝方こういう書き込みがあったんで、つい
977日本@名無史さん:2010/09/01(水) 12:23:08
>>976
でも在日でもサヨでもないけど、邪馬台国 = ヤマト朝廷には少々疑問あり。
ヤマト政権=邪馬台国だったにしても、このプレヤマトがそのまま大和朝廷に直結するかどうかは
いわゆる畿内説論者や学者の間からも異論が多い。
これは異民族の征服などを想定しているのではなく、権力主体が何度も変遷した結果として最終的に
あるオオキミ一族が政治的な勝者となり、その中でまた内紛を繰り返してやっと一応の形をとったのが天武朝以降だとする見方も多い。

ある意味邪馬台国などより、よほど重要な謎だろう。
978日本@名無史さん:2010/09/01(水) 12:33:56
>>955
いやいや島根から東国へ移住じゃなくて
事始まりの以前は出雲神を祭る人が日本列島に広く居住していたと
その後、中原では大和族が出雲を席巻し、国譲りの神話ができ、東国にだけ出雲神が残ったと
979日本@名無史さん:2010/09/01(水) 13:38:22
九州邪馬台国は、3世紀の首長国連邦=倭国の宗主国です。
この首長国連邦は大きくなって、のちに畿内も加盟するようになっていました。
宗主権の争奪戦が時々起きて、畿内からしばしば宗主国が出るようになりました。
白村江敗戦後8年目に、唐軍が倭国にやってきて、九州は内乱の地となり見捨てられ、
「西日本首長国連邦=倭国」は都を畿内に置いて、壬申の乱という革命を起こして、
「日本国」と改称し、畿内の「中央集権国家」となりました。
この国は、徐々に九州勢力を排除していき、畿内土着勢力が政権を牛耳るようになりました。
古事記・日本書紀はこの状態で編纂されました。
この政権が大和朝廷になっていきました。
980日本@名無史さん:2010/09/01(水) 13:56:17
>>973
>極論が好きだな、君はw
>しかし弥生時代に文献なんてほとんど役に立たないんだよ、なにせ比較史料がない
>だから別に邪馬台国なんて名称は必要ない。

君も極論が好きだな。
比較史料のない文献には顧慮する価値がないと言っているようなものだが、そのような態度は正しいか?
世の中には同じ時代には一つしかないという文献はいくらでもあるだろう。それらは意味を持たないのか?

ここは「邪馬台国 どんと来い」スレだ。邪馬台国なんてどうでもいいのなら来るな!!目障りだ!!!
981日本@名無史さん:2010/09/01(水) 14:25:57
↑ かなり痛いところを突かれたらしいwww
982日本@名無史さん:2010/09/01(水) 16:13:58
>>978
おもしろいです。根拠としてはどのようなものがあるのですか?
983日本@名無史さん:2010/09/01(水) 16:45:57
>>980
たしかに967氏?が言っていることは極論というよりは根拠があやふやであるようには思いますね。
もう少し説得力のある論理立てをしたほうがよいと思います。

魏志の記述が実地に即した文献と言えるかというとかなりあやしいという点がまずあって
さらに漢籍資料の特徴として、多義的な解釈を許すところも資料の信用性を著しく下げている理由の
一つだと思います。
邪馬台国の比定がどう文献解読を試みても不可能と判断されまして、色んな理由が考えられ
誤謬の修正という段階になっていますが、しかしもはやこうなると新たに提示される資料の信用性は
地に落ちていると言っても過言ではありません。

しかし、魏の存在した3世紀前半に倭国の邪馬台国の女王が倭国を治めていたという事実は
記紀のないようや遺跡の発掘によりある程度の蓋然性があるように思えます。
少なくとも、自分の中の常識によって判断された”合理的”な史実より信頼性が高いと言わねばならないでしょう。
ここの連中、もとい皆様は、魏志の記述によってすべてを判断しているわけではないと思っております。
新たな発掘資料が出れば、それを参考としてまた新たな仮説を提示するという形で先史の方向付けを
試みているのだと考えています。科学的な真実というのは常に反証可能性を有していう必要があるというのは
ご承知のことだと思いますが、つまりは、どのような学説も暫定的な真実である、(つまりは真実とは呼べない)
ということを示しているのです。絶え間ない仮説の提示こそ考古学発展に寄与できるのではないですか?
984唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/01(水) 19:08:10
ヤマト政権 巻向遺跡
二世紀末に開発が始まり。
3世紀中葉の箸墓築造を頂点とし、三世紀末には衰退する。
箸墓築造の頃には、大溝も土砂で埋まり、ほとんど使用に耐えないものとなる。

箸墓をモモソ姫とするなら、モモソ姫は天皇以上の権力を持つ。
しかし古墳が各地で造られることの説明が出来ない。

また、神功は磐余に宮を構える。三世紀末に大和東南部が衰退するかぎり、この宮を4世紀には設定できない。
つまり、書紀の神功は、三世紀末に磐余に宮を経営し、70年後の佐紀に祀られ、
応神はその40年後、河内に葬られる。

実在の人物とすると長すぎるが、年代的には110年の年月が必要である。
985日本@名無史さん:2010/09/01(水) 19:41:14
よくわからないのですが
自分のイメージでは墳墓築造というのは生前に事業がはじまり、
生口たちが少ない食事で鞭打たれながら目いっぱい働かされている
姿を思い浮かべるのですが、築造には何年くらいかかるものなんですか?
986日本@名無史さん:2010/09/01(水) 19:52:21
大林組の試算によると、箸墓の造営には延べ170万人の人夫(一日千人で6年間)が従事したとされる。
987日本@名無史さん:2010/09/01(水) 19:57:52
面白いよなあ。九州王朝説論者というのは、
本当に「反畿内王主義者」に過ぎないと言うことが良く分かる。
多元的を標榜し、畿内勢力の限界を散々叫んでおきながら、

>>960みたいに、
「西日本全体の宗主権」が、なんとあの山間僻地「出雲(山陰地方島根県)」にあったなどと言ってのける。
畿内を拠点に九州を支配するより、島根県を拠点に西日本全域に君臨するなんて、
どれほど難しいことか、思いもしない。
山陰というのは、日本海航路以外、完全な陸の孤島なのに。
だから、筑紫と出雲が争うというモチーフが、
国譲り神話の原型にあるとしたら、争奪戦になったのは明らかに山口県(長州一国)だけだ。
この程度のつまらんローカルネタが、脚色されて、巨大な話になることはよくある。

国譲りというのは、皇室が全国支配権を確立する歴史的過程の集大成であって、
「屈した他部族の神々」が合祀されたのが(おそらくその最初が)三輪山であり、
最終的には、島根県のローカル神社が目を付けられ、ここに合祀された。
出雲国造氏の、強烈なロビー活動があったことは、この氏族の扱いからも明確に分かる。

ただ、この「創作物語」によって被った氏族と神々の系譜と地理の混乱は、天孫マンセーの比では無い。
その典型が諏訪大社の縁起だ。
タケナカミカタは、明らかに太平洋側(現在の愛知県豊橋市あたり)から侵入している。
考古学的裏付けも明確で、諏訪下社は「越」の文化とはほとんど関係ない。
(このことは、今に至る長野県の地域対立(北信と南信)にまでつながる根深いものだ)
だが、出雲大社を島根県にしてしまったものだから、日本海側から侵入しないと話が繋がらないことになった。
それで、糸魚川あたりに、糊塗する縁起を創作する必要が出てきてしまった。
988日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:10:02
信濃南西部が東海、北部が北陸地方からの影響、これは時間差がある。中野市の柳沢遺跡では銅鐸・銅戈、鹿の絵画土器。
989日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:17:15
>>985

>生口たちが少ない食事で鞭打たれながら目いっぱい働かされている姿

まだこのイメージがあるのかねえ
そんなこと言い出したら、古墳時代なんかだと生口だけでも大変な人口になるし
奴隷収容所と考えられる施設すら全く出土しないわけなんだが
990日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:20:47
そうね。多数の奴隷は相当な規模のシステムがないと維持できない。
991日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:25:25
>>987
何かフィールドワークを根拠とする古刹縁起周りの考古学者っぽい思考ですね
しかし、伝聞というのはいろんな不純物がまじっているものだと私は思います。
そして、時系列が乱れてきて今も昔も識別不可能なほど平面的な議論に
なりやすいのではないかと危惧します。

私が注目するのは口承神話です。
古事記が稗田阿礼の暗記していた伝承の筆記による、というところがとてもユニークだと思うのです。

古来、世界的に見るとき、口承形態をとる伝承というのは
インドやヨーロッパの経典の伝承の初期に見られるのですが
のちの図書館における記録形態とくらべて、人間の思想的といいましょうか、
意識的なちがいが確認できるそうですね。

6、7世紀の文献記録がはじまるまでの時代と、それ以降の伝承は明らかに質的な違いがあると
私は思っています。
992日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:28:20
>>926
>神武天皇もまた、このような時には海賊行為を行う水軍集団の頭の一人だった。
なにを言ってるんだよ。
神武はシュメールの王族。
海賊などというあさましい行為とは一切無縁な高貴な出ですよ。
まさか、日本が海賊出身の王の国だとでも言いたいのでしょうか?
あんた、日本人じゃないだろう?
縄文人=原住民で神武の血は引かないと思っているからそういうことを言うんだろうな。
しかし、それは間違い。
アイヌを含めて、天孫族の子孫と混血していない日本人はほとんどいない。
せいぜい、明治以降帰化した韓国人くらいだ。
993日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:30:04
口承伝承だろうが文字記録だろうが、不都合なものは操作できる時代に記紀は書かれている。
994日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:34:54
くっ、もう残りが少ない

>>993
記紀の不都合に思える記録が多々ある中でここだけが不都合というのは恣意的ですよ
反論になってません
995日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:38:27
>>994
別に反論はしていない。記紀全体が不確かな伝承や恣意的な操作の塊。そう認識して読まないとトンデモに陥る。これは一般論。
996日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:42:32
口承のすべてが正確とは言いませんよ
今の時代の人さえその時代を正確に把握できているかというとかなり
あやしいですからね。どうしても主観とならざるを得ません。それは否定しませんね。
記紀とて、時代の人の時代観が反映されているとは思いますが
それは忠実に伝承されていると思いますね。
997日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:49:49
記紀編纂の大きな目的は持統朝あたりまでの正統性の保障と中国に正史として見せるため。
そのために不都合な伝承は選択されなかったり改変されたりしている。
998日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:52:11
>>997
あなたの意見はうけとめておきましょう
999日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:54:59
縄文人は、朝鮮出身という意見に賛成です。
1000日本@名無史さん:2010/09/01(水) 20:55:46
ビバ 邪馬台国
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