1 :
日本@名無史さん:
. ∧_∧ +
ニワトリカエセヨー ( ´Д`) +
(つ つ Π
. + ( ヽノ ⊂二⊃ これは乙じゃなくて鶏泥棒の軌跡ニダ
(( し(_)  ̄ ̄フ <`∀´ヽ> rァ 勘違いしないようにするスミダ
/, (つ つ' {
(、__, ( ヽノ <彡}
+ (( レ(_フ,i,i,' +
3 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 07:55:18
日本軍が連敗した戦役?
4 :
日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:37:16
5 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:46:53
だいたい、朝鮮国はおろか大明国さえ征服しようとして
いた日本が,明からの講和交渉を受けた時点で、秀吉以下
日本の首脳達も明軍相手に勝利を収め難いと考えたんだろう!
その交渉内容も皇后として明の皇女を要求するのはまだしも、
領土要求については現状占領下にある南朝鮮の領有を認めてもら
うことで満足するがごとき交渉態度からしても日本軍いかに明軍
相手の戦争での勝算に自身がなかったのがわかる!
>>5 相手側に攻め込んだ戦いの休戦交渉で
占領した現状を認めさせるのは普通に成功だと思うが?
休戦交渉が成立した事自体が、お互いに勝てる自信が無かったのだろw
今の韓国と北朝鮮の国境も、休戦ラインだぞw
7 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:42:39
?
8 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 09:53:16
朝鮮征伐
9 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 10:43:11
>>5 いくら強弁しようとも日本の惨敗には変わりないよな
日本が得たものは陶工くらいなもんだろう
10 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 20:46:54
10
11 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 18:39:55
?
12 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 07:53:04
文禄
13 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 19:05:37
age
14 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 20:12:36
15 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 08:05:21
15
16 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 19:21:00
17 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 08:01:08
慶長
18 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 07:55:05
18
19 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 21:29:49
日本軍が連戦連敗w
20 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:53:51
20
21 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 20:40:51
壬辰倭乱
22 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:47:01
朝鮮とは関係ない話なのであるが、秀吉ことなのでちと書き込みたい。
本日山手線の電車の中で、6本指の人を見た。
親指の第二関節のあたりからもう1本の指がでていて、第一関節もあり、きちんと爪もはえていた。
ふつうは子供の頃に切除するものであるのに、とおもった。
ところで問題です。なぜ私のこのことを、このスレにのせたのでしょうか・わかりますか?
周知のことだと思うが・・・。
わざわざこんなことをカキコするとは・・・、何が目的だ?要求を言え。
24 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 08:49:03
結構知らない方もおられるかと思いまして。
で、答えは?
25 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:19:04
だれもこたえないので正解を披露します。
答え、秀吉は6本指であったからです。
このことは外国人宣教師の記録により証されています。
こういうことを避けるのは、現代でも同じですね。
遺伝ですかね。
>>25 ルイスフロイスの記述だな。
秀吉が天下人の証であると自慢げに話していたと記憶。
>>22の豆知識自慢につきあってやってるオマイラ優しいな(・∀・)
秀吉が宣教師に明征服の野望を打ち明けたとき、6本指の話をしたんだっけかな。
余は日輪を掴む稀な手をもって産まれた、みたいなことを言っていた気がする。
ルイスフロイスの記述の正確性にはやや疑問があるが。
>>25 サル(エテ公)と呼ばれた所以も
ココからでつネ?ワカりまつw
30 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 00:37:08
豊臣秀吉の時代だと仮に完全なる侵略だとしても
当事者からしたら悪だけど
時代的には侵略行為は珍しくないわけだし
そこまで批判される筋合いはないのではと思うんだけど
その辺で正当化する人があまりいないのはなぜ?
31 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:45:23
32 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:57:23
事実関係を淡々と公正に述べればいいんだよ。
一々、否定的印象を植え付けることを目的とした情報ばかり流してるから
この分野はゴミ化するんだよ。
研究状況について否定的印象を植え付けることを目的とした情報乙
34 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:21:40
184 :日本@名無史さん :2010/02/09(火) 22:14:28
朝鮮出兵で主要戦闘の殆どは日本軍が勝利しているがNHKは隠す。
逆に数少ない敗北は異常に強調する。
それが、一番隊が明軍に敗れた平壌の戦い。
しかも、一番隊は9番まで編成された内の一つに過ぎないのに
日本軍全体が敗れたかのような印象を与えるやり方で放送した。
この後の展開として、
日本軍は明軍を碧蹄館の戦いで撃破しているが、この事実は放送しない。
他に、蔚山城の戦い。
この戦闘は、日本軍が明・朝鮮軍を大破した戦いにも係わらず、
NHKは、日本軍が敗北したかのような印象を与える内容で放送した。
また、島津軍が明・朝鮮軍を大破した泗川の戦いは全く無視されていた。
そのわりに島津の若殿様が性格悪かったとか、
そんなネガティブキャンペーンは怠らないNHK。
NHKは捏造放送局と言わざるをえない。
35 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:22:26
910 :日本@名無史さん [sage] :2009/12/27(日) 15:34:17
反戦史観、反省史観、ウリナラ民族主義迎合史観の観点から
朝鮮侵略はけしからんことにしなければならない。
けしからん侵略軍は朝鮮の民衆と李舜臣と明によってコテンパンに撃破され敗退したことにしなければならない。
けしからん侵略戦争は日本にも多くの悪影響を与えたことにしなければならない。
こういった具合で恣意的に歴史的事実が捻じ曲げられているこの分野の研究の実態。
36 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:22:48
若い女って言うのは,触ってもいいし,舐めてもいいし,
また,髪の毛の匂いを嗅ぐのもいいよね。
寒い時は,湯たんぽ代わりになるし,暇な時は撫でくってると
甘えてくる。
それこそ,チンポを1時間くらいしゃぶらせるのも良し,
精液を顔に掛けるのも良し,
ただ柔らかい感触を味わうだけでも良い。
ケツの穴のシワを丹念に舐めさせるのもいい。
やっぱり,女は最高だね・・・
37 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:24:04
朝鮮出兵について、
歴史の真実を追究するという観点から研究されていない。
別の観点からの研究が行われ、その目標は始めから設定されている。
設定されている目標とは
1.否定的印象を植え付ける
2.日本軍敗退(=朝鮮勝利)の筋書きをでっち上げる
3.ウリナラ民族主義史観へ迎合する(こうした行為が日韓友好らしい)
1.2.3.達成のため
都合の良い記述は些細なことでも大袈裟に取り扱う
都合の悪い記述は重大なことであっても矮小化する
文献に書かれてなくても、強引な解釈や、根拠の無い妄想で
存在しないことも存在したかのように書く
こうして歪曲された朝鮮出兵像が捏造され流布されているのが現状
NHKのは確かに酷かった。
あれディレクターが向こうの人だよね。
まぁ撤退して朝鮮4道の占領と明国征服はできなかったから負けだろ
40 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:03:34
ニワカの俺に
慶長の役と琉球侵攻との関係を3行で
う
ん
こ
>>40 前田慶次が
小説で大活躍したのが朝鮮征伐
漫画で大活躍したのが琉球征伐
指が一本多いっていうのは、中国の皇帝の竜の指が一本多いというのと関係がありそうだな。
45 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 14:01:34
>>44 あれは本来五本指なのを皇帝を憚って一本減らして四本指にするんだから逆。
NHKの大河ドラマでは加藤清正を主人公では扱わない
日韓国交回復の時から配慮というのか自主規制というのか、これって本当なんだろうか
47 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 18:26:32
それにしては秀吉は主人公だな。清正がダメなら秀吉はなおさらだろう。
朝鮮出兵については秀吉最大の過ちとか侵略行為とか蛮行とか大敗北とか
毎度毎度反省謝罪演出をしっかりしてるからな。(・∀・)
>>45 逆というが、権力者のは指が一本多いという構図はまったく同様なんだが。
>>49 秀吉の指の件はあえて言えば劉邦の竜顔のような異形の話。
竜の指の件は黄色は皇帝しか使えないってのと同じ禁制の話。
でも影響を受けてる感じがするよ。
指が一本多いんだろ。
秀吉が中国の皇帝になりたかったからこういう逸話が広まったんじゃ?
秀吉の多指症はフロイスの記述から分かる事だし、中国うんぬんは
関係ないと思う。
そうか。
そういうことならそうかな。
韓国じゃ対馬島民虐殺は
輝かしい歴史なのにね
戦前の日本のよりも強烈な愛国史観に染め抜かれた韓国や中国の連中との
歴史の共同編集なんて不可能。
55 :
日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:10:09
ロッテの経営者一族は外務大臣「重光葵」などを輩出した
日本の名家「重光」の名を騙り日本人になりすます在日朝鮮人!
ロッテの会長「日本で稼いだ金を韓国に投資しまくったけど、韓国で稼いだ金を日本にやる気はない」★2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1242231975/ 日本人から吸い上げまくった金を祖国韓国に垂れ流して「ロッテ財閥」を作る。
我々日本人が外国相手に苦労して稼いだ金を利用して、祖国韓国では「ロッテホテル」「ロッテ百貨店」「ロッテワールド」等を手広く展開。
本国韓国では、ロッテマートやロッテ百貨店で「独島Tシャツ」を販売し
「愛・独島」キャンペーンを主催。韓国人を煽って反日活動を推進!
本国韓国では「ペペロ」「カンチョ」「ゼック」そのほか「ウコンの力」「ポポロン」など
数え切れないほど日本商品をパクリまくり!
しかもパクリを指摘されると卑怯にも逃げ出して取材拒否!さすが朝鮮企業!
「ロッテがグリコのポッキーパクってる件で取材拒否」で検索してみて下さい!
ロッテの工場がある新大久保は
朝鮮人が多数住み着いてしまいコリアタウンになってしまいました!
更に日本で 「森永エンゼルパイ」「明治メルティキッス」「明治アーモンドチョコ」「明治マカダミアナッツ」
のパクリ商品を堂々と販売し、日本企業にダメージを与える朝鮮企業!
ロッテ関連銘柄・企業
「Dole、HERSHEY'S、レディーボーデン、雪印、カルピス」のアイス類(「ロッテアイス」が製造)
千葉ロッテマリーンズ、ロッテリア、バーガーキング、クリスピー・クリーム・ドーナツ、使い捨てカイロ「ホカロン」
銀座コージーコーナー、メリーチョコレート(Mary’s Chocolate)、ベルギー「ギリアンチョコ」、ドイツ「シュトルベルク」 ←New !!
56 :
日本@名無史さん:2010/03/01(月) 11:34:38
韓国ドラマで必ず出るのが日本軍の旗竿には脇坂の輪違い紋だな
脇坂安治って韓国でそんなに人気があるのか
>>56 坂の上の雲でさえ原作に無い朝鮮史観を紛れ込ませているくらいの状況で、ドラマ化してもねえ。
てか、そのドラマって、あの国で史書並みの扱いになっていたドラマだよね。
「ソースは不滅の李舜臣」って某翻訳掲示板で腐るほど出てきたし、
新聞でも史実のような取り上げ方をしていたような記憶が・・・。
>>57 脅威の知名度だわな(理由は言わずもがなだけど)。
それ以上に脇坂さん、率いている兵が水増しされすぎちゃって、
彼の国では大大名にまで出世しているんではあるまいか。
脇坂安治も、まさか自分が
数百年後の朝鮮で有名になるとは思わなかっただろうな
60 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 19:59:06
だいたい猿風情が信長様の草鞋を温めたりするから子孫の信(ry
実は信長じゃなくて秀吉の子孫だったりしてな
62 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:46:26
朝鮮征伐
63 :
日本@名無史さん:2010/03/19(金) 20:44:04
対馬は三国時代から壬辰倭乱(文禄・慶長の役)前まで慶尚道桂林の領地だった。
辺境地域の駐在官である敬差官や体察使が派遣され、韓国領土という歴史的根拠も十分にある。
当時韓国とか無いから。
というか、日本側が認めてないならそれは無効だ。
そんなものに比べたら韓国併合条約のほうがよほど「歴史的根拠が十分にある」
摩滅の李舜臣に変えた方がいいよな・・。
日本兵に撃たれて、投獄されて、ママが死んだり、下男も撃たれて死んで、
酒飲んで愚痴って、同僚に出し抜かれて、挙句の果てに200km逃亡
最後は艦隊を座礁させたり、功をあせって討ち死にしたとか・・・。
1419応永の外寇
11月2日はこの基地外将軍が朝鮮から出撃した日だ。
李氏朝鮮が対馬の宗氏に家来になれと迫ったが、
拒否されたので武力に訴えたのが真相だ。
対馬の宗氏とはその後安土桃山時代から江戸時代まで続いた「対馬藩」の宗氏だ。
この事件は宗氏側が大反撃し、朝鮮軍に大被害を与えてついに撃退した。
「対馬の日」はこの基地外将軍が朝鮮から出撃した日だ。
撃退されて帰った日ではカッコ悪いもんね(´ω`)
67 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 01:56:00
たしかにNHKの番組作りはひどいね。
今に始まったことじゃないが。
20年近く前から、今のパターンが続いている。
左巻きと周辺にチョン社員がいるからだろう。
あの岩波の広辞苑。
昭和48年の版で文禄慶長の役で引いても出て来ない。
「朝鮮征伐」参照と出てくる。そこでは、
文禄・慶長の二度にわたって豊臣秀吉が挙行した朝鮮出兵。
イ)文禄の役。秀吉は明国来貢のキョウ導(今のIMEでは出ない語)を朝鮮王に命じたが、
従わなかったので1592年自ら肥前名護屋に陣し、宇喜田秀家を総帥、加藤清正、
小西行長を先鋒とし兵18万を以って朝鮮を討ち、明の援軍李如松の軍を破り翌年和を講じた。
ロ)慶長の役。1596年、明の秀吉の持ち来たった書に「爾を封じて日本国王となす」の語あるをみて大いに怒り、
翌年、小早川秀秋を総大将として朝鮮を討ったが、98年秀吉が没したので中止。
=============
まあ、文禄慶長の役、所謂朝鮮征伐というのは、
つい先ごろまで、こういう認識だった。それで充分だったのだ。
こういう認識に我慢ならねえ、
と在日朝鮮人が一生懸命働いてNHKなどマスメディアに影響を及ぼし、
今日に至っているわけで、
今日の状況がいわば、作られた幻想に過ぎない、と言わばいえる。
ちなみに、
同広辞苑に「李舜臣」(今のIMEでは即変換w)なる語はない。
あの岩波がwwwwww
>>67 現在じゃ
文禄の役最大規模の激戦であり、
日明双方が講和へと傾く決定打となった
「碧蹄館の戦い」については言及すらされず、
戦局にほとんど影響を与えなかった
しょーもない海戦ばかりが取り上げられる。
昔の方がよっぽど客観的と言えるな。
本当
朝鮮半島は糞貧乏だからな。
72 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 18:35:08
倭賊は貧乏だったから海賊になったw
>>67-68 岩波的には昭和48年だと親北反南で、
南の民族主義高揚の為の李舜臣や朝鮮の役と無縁だったってのもあるかも。
ま、当時や今現在の北が李舜臣や朝鮮の役をどうとらえているかもしらないけど。
てか、日本の左も矜持があるのなら、朝鮮民族主義によるトンデモ史くらいでは反南を貫いてほしいもんなんだけどね。
日本だけでなしにアメリカ(他国)のナショナリズムに文句付けているんだから、外国の事だからと言い訳も出来ないし。
>>72 貧乏だった対馬一島に戦国時代を通じて経済的にも振り回される朝鮮って・・・。
倭寇って内陸部まで進攻してたよな。
貧乏ということは装備だってたいしたこと無いだろうに、そんな軍勢に内陸部まで占拠される朝鮮て何?
>74
半島を荒らした方の倭寇は構成員の7割が半島の住人だったからだろ。
現地の人間が手引きしたから侵入しやすかった
中国を荒らした方の倭寇については、同様に、7割ぐらいが中国人だったんだよ。
76 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 12:07:28
藤木久志氏の著書によると、
日本軍は朝鮮住民を数万単位で拉致して日本に連行し、奴隷として使役した
長崎の商人は日本各地を廻って朝鮮人奴隷を買い集め、長崎でポルトガル人に転売して巨利を得た
商人の中には自ら朝鮮現地に出かけ住民を拉致した者もいた
日本軍は朝鮮の職人や美術品・文物を根こそぎ略奪し、そのために朝鮮文化史には断層ができた
日本の武将の中には、奴隷にした朝鮮人に創氏改名や日本習俗の強要を強いた者もあった
JAP脳、救い難し!
ほー
78 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 15:34:47
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、
朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。
千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、
属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに変化していったかというと、
それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。
韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。
だから三百年もへても立ち直れなかった。
いやがうえにも倭乱のひどさを強調したいという気持ちはわからないでもない。
しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。
もしあるとすれば、もっと恥を知るべきであろう。
戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。
千回も侵略され、すべての侵略者を撃退したという自慢話と、
三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。
韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
>>76 400年前にそんなひどいことをされた汚濁の歴史は、
被害者も加害者も、なるべく触れない方がお互いに良いのじゃないかな。
お互い自尊心が傷つくだけ。
歴史事実は事実として見るべきだが。
その割には徳川の世になって
朝鮮に帰っていいよとなっても
ほとんど志願者はなかったという
なにせ日本にいれば
実力次第で苗字ももらえ帯刀も許されと優遇され放題
わざわざ朝鮮に帰って奴隷同然の暮らしに戻りたがるやつは誰もいないわな
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
日本人はよく刀槍を用いる。
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。
そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。
取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
>>79 バカネトウヨのダブスタって本当に醜悪で見苦しい
バカならバカらしく黙ってりゃいいのに。
つうか79の発言って、このスレの存在意義全否定w
>>80 戦争から半世紀たった時代でも連行された挑戦人やその子供は疎外されて、
保証人と誓約書を出さなきゃ町組にも入れてもらえなかったんだよ
「天下統一と朝鮮侵略」藤木久志
拉致されてから五十年もたってりゃ大人は老人になるし、子供は母国の言葉を忘れるしで、
今さら帰れといわれても家族は殺され生活の基盤は破壊された本国になんてかえれるはずないよね。
無知でバカならそれにふさわしく黙ってたら?
要するに文禄慶長の役は朝鮮の大敗北ってことが言いたいの?
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、
朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。
千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、
属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに変化していったかというと、
それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。
韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。
だから三百年もへても立ち直れなかった。
いやがうえにも倭乱のひどさを強調したいという気持ちはわからないでもない。
しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。
もしあるとすれば、もっと恥を知るべきであろう。
戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。
千回も侵略され、すべての侵略者を撃退したという自慢話と、
三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。
韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
86 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 09:30:16
87 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 02:27:18
88 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 09:12:29
朝鮮征伐
89 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 22:50:11
日本が戦ったのはあくまでも明であって朝鮮ではない
朝鮮はただ半島という戦場を提供しただけ
■■■日本軍と明軍の主要な戦闘■■■
1.文禄1(1592年)7月16日
祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲
→小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利
※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定、平壌にて正式な講和使を待つ
2.文禄2(1593年)1月6日
李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃
→正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。
明軍は平壌城を奪還
3.文禄2(1593年)1月26日
碧蹄館の戦い
李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。
体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突
→日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している)
※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される
4.文禄2(1593年)6月21日〜29日
第二次晋州城攻防戦
明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が普州城の救援に向かったとの報を受け、
立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃
→日本軍が撃退に成功
※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。秀吉、部隊を段階的に帰還させる。
が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。
講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり(事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
91 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 20:55:25
?
92 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:40:31
朝鮮征伐
93 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:27:18
この前本読んでいたら
朝鮮出兵はどちらかというと小西行長のほうが活躍していたが
なぜか目立つのは加藤清正なんだよね
なんでなの?
向こうでも耳裂きなどで加藤清正のほうが憎まれているのはわかるが、
小西は意外とそうでもないみたいだし
平壌で明軍に負けて逃げて帰ってきた小西
蔚山で明の大軍何度も撃退した加藤
どっちのほうが華々しいかか分かるよね
漢城平壌を攻略し、明の主力と戦った小西
ど田舎でボコボコにされて血尿を垂れ流した加藤
どっちのほうが華々しいかか分かるよね
96 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 18:41:05
朝鮮の三大悪人は
秀吉、伊藤、加藤清正らしいが
小西を含めて4大悪人にしないところが
>>93 行長が明と朝鮮に、最強最悪は清正だとチクっていたから。
>>93 前スレにもあったけど耳削ぎ(鼻削ぎ)がなんで加藤清正だけの話になっているんだろう?
半島や在日の間ではそうなっているのか?
>>94 小西行長
・首都漢城攻略
・平壌攻略
・平壌で祖承訓配下の明軍5000騎を撃退
・平壌で李如松配下の明軍53000に惨敗、漢城まで逃げ帰る
・幸州山城攻略に失敗
・秀吉を騙して明から冊封を受けようとするなど、こせこせと屈辱的な和平交渉を行う
・順天で明軍55000を撃退
・朝鮮からの撤退時、明の水軍大将・陳璘に賄賂を渡して見逃してもらおうとする
加藤清正
・慶州を攻略し焼き払う
・朝鮮最強の北関騎兵軍団を撃滅
・朝鮮の王子二人を捕虜にする
・進撃の手を緩めず国境を越えて満州にまで侵攻。女真族の砦13箇所を陥落させる
・堅城と名高い晋州城に一番乗りを果たし、陥落させる
・明使節から「退かねば四十万の大軍を差し向けるぞ」と恫喝されるが、
「皆殺しにしてそのまま大明に攻め入り、北京を焼き払って皇帝を捕虜にしてやる」
と逆に恫喝。和平交渉でも頑なに秀吉の意思を尊重し続ける
・蔚山で60000近い大軍から未完成の蔚山城を死守し、救援軍到来まで持ちこたえて撃破する
・蔚山で30000の明軍を撃退
加藤と比べると小西なんてどうしても小物に見えちゃうよね
あと、加藤は朝鮮で負けてないはずだが。
「鬼上官」(お化け将軍)と恐れられ侵略軍の象徴的存在となっていたのが加藤清正
>>99 小西スゲー
・順天で明軍55000を撃退
幸州山城の戦いは宇喜多の失敗で行長の失敗ではないと思うんだが
>>99見る限り、
小西=大物
加藤=小物
って感じだね。
>>102 小西は幸州山城攻めで先鋒を命じられてたが攻略ならず
加藤は晋州城に一番乗り
という対比
>>78 世界標準からみれば朝鮮の未開性も大したことは無い。
世界中の国はついこの間まで少数の支配階級と、
大多数の被支配階級の独裁国家だったからね。
被支配階級が奴隷同然の生活をしているのも、
世界的にはごく普通の感覚。
日本の発展の仕方の方が世界標準からみて異常なこと。
106 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 09:34:08
>>19 馬鹿だねww
日本軍は負けたわけじゃないし
塚、陸戦で連戦連敗したのは、明・朝鮮連合軍のほうだろ
勉強しろよ
107 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 15:28:34
日本ヲタ乙
108 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 12:10:06
ウィキペディア- 李成桂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82 女真人説 [編集]
池内宏[8]や山内弘一[4]らは李成桂が女真人或いは女真人の血を引いている可能性を指摘している。
状況証拠としては次のことが挙げられる。
李一族の出身地の咸鏡道は15世紀までは女真人の地だったこと。
李一族は女真人の配下を多数抱え李一族が頭角を現したのはかれらの助けが大きかったこと。
のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『龍飛御天歌』によると、李一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。
モンゴル語で書かれた李家の家系図から、李一族の女直名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれいないこと。
ダルガチは原則としてモンゴル人であり、稀に女真人や色目人が任命される事があるが、被支配民族の漢人、ましてや漢人の子分の高麗人が任命されることは非常に不自然であること。
千戸として女真人の統治を行っていたこと。
姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元朝の家来で、元の開元路出身であることは明らかであり、モンゴル名を持っていること。(ただし、当時は高麗人貴族もモンゴル名を持っているから、これだけでは女真人とはいえない)
109 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 12:13:18
岡田英弘と宮脇淳子は13世紀モンゴル時代の朝鮮半島と大陸の関係と李氏朝鮮勃興を概説し、
朝鮮の太祖李成桂女真人説について次のように論証している[9]。
その上で史料証拠として『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容[10]を用いて次のことを挙げている[9]。
『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、
第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、
前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、
そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造で、その証拠に、李氏朝鮮王室で、全州李氏の誰一人として祖先として祀られた人はいない[9]。
『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次のような記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」
これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟(姓が違う兄弟)である。
彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。
これによると、太祖も女真族としか考えられない。なぜなら、遊牧民や狩猟民は族外婚制をとり、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とする。
女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。
『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である[9]。
110 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 14:16:43
>>105 西欧(+その亜流米国)と日本だけが異常な歴史展開をして世界の覇者になったのは歴史的必然だな。
盛者必衰。
かつてイスラム世界こそ、技術や文明で隆盛を極めていた時期があったんだ。
一時期の発展を万歳するのはウヨ嗜好の持ち主なら楽しいんだろうが、日本も没落タイムに入らないという保証なんてどこにもないし。
西欧の亜流であるアメリカの食い物にされる日本。
日本人はいまだに鮮人以下の家畜小屋に住み、サービス残業も過労死も放置されている。
ニヤニヤ
|∀・).。oO( ウリナラはOECD加盟国中トップの長労働時間低生産性で、住居面積も日本より遙かに狭いんだがw
114 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 11:08:29
小西はキリスト教徒、娘が朝鮮で慈善事業した聖人
キリスト教徒が多い韓国では小西を悪者にできない
それに秀吉・清正という悪役がそろっている
1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、
スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。
さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。
人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。
こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。
実はこれは日本人にとっても他人事ではない。
戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、
日本が信長や秀吉や家康のようなすぐれた人物に恵まれず、
また民族的なエネルギーも不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。
現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。
イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、
武士の戦闘能力とその動員数、そして鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、
本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。
そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、
九州の神社仏閣を破壊し、日本の中にキリスト教区を作ろうとした。
さらに明の侵略にも使おうとしたのである。
豊臣秀吉は、明がスペイン人に征服されては、いずれは日本にも魔手が伸びると考え、
バテレン追放令を出し、さらにスペインの明への侵攻を牽制すべく先手を取って明に向かったのである。
それは文禄の役のときフィリピン総督府あてに脅迫的な手紙を出していることでも明らかだ。
歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せている。
これではキリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としてしか描けない。
>>115はどうかと思うけど、イエズス会ってかなりアレな組織だろ
118 :
pi:2010/05/15(土) 10:10:37
>>106 日本の連戦連勝(笑)なのに、なんで平壌から釜山まで撤退したのよ?
目的は唐入りなんだろ?
なんで戦闘に勝ってるのに北京を目指さずに南下してるの?
秀吉が補給に失敗でもしたのかな?w
平壌から釜山まで撤退した事実はないんだが。
事実を確認しろよ。
同意。そのような事実は全くない。
壊走した事実はあるw
明年,如松師大捷於平壤,朝鮮所失四道並複。
如松乘勝趨碧蹄館,敗而退
於是封貢之議起,中朝彌縫惟敬以成款局,事詳《朝鮮傳》。
久之,秀吉死,諸倭揚帆盡歸,朝鮮患亦平。
然自關白侵東國,前後七載,喪師數十萬糜餉數百萬,
中朝與朝鮮迄無勝算。
至關白死,兵禍始休,諸倭亦皆退守島
東南稍有安枕之日矣。
秀吉凡再傳而亡。
要約しますとこうですね
平壤は日本軍が放棄して奪還できたけど追いかけたら碧蹄館で日本にぼこぼこににされて明朝鮮の現場の将兵には嫌戦気分が蔓延。
日本を軍事的に追い払うのは困難となり、(再三日本が要求してきた)交渉の席につき金銭による解決を探ることにした。
ところが秀吉がラッキーなことに死んでくれたおかげで日本はひきあげてくれた。
いやーこの七年間はやばかった。
ただただ多くの犠牲が出るばかりで我が国と朝鮮には勝算が無かった。
戦争終結は秀吉の死によるものだ。
119は確かにちょっと間違ってる
支那朝鮮は「ほぼ」連戦連敗が正しい表現だね
>>118 理由は既出
1.文禄1(1592年)7月16日
祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲
→小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利
※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定、平壌にて正式な講和使を待つ
2.文禄2(1593年)1月6日
李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃
→正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。
明軍は平壌城を奪還
3.文禄2(1593年)1月26日
碧蹄館の戦い
李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。
体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突
→日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している)
※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される
4.文禄2(1593年)6月21日〜29日
第二次晋州城攻防戦
明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が普州城の救援に向かったとの報を受け、
立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃
→日本軍が撃退に成功
※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。秀吉、部隊を段階的に帰還させる。
が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。
講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり(事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
4.は無いとほぼ結論付けられていたと思う
だれか4の話してたか?
倭人全滅(プ
資料で勝てないとこれだw
戦いでも壊滅
史料でも全滅の倭人(プ
129 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 19:44:17
島津にボコボコにされた。明朝鮮連合軍
陸戦はほぼ全敗全滅(藁wwwwwwwww
海戦では李舜臣討ち取られる(笑wwwww
明・朝鮮全滅(ワロスwwwwwwww
明に頼る朝鮮(ワロタwwwwww)
資料によると
、「(朝鮮の将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らないらしい{まじかよ(藁)}
「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
何この日本無双状態
支那朝鮮がかわいそうすぎるw
133 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 16:42:26
そもそも戦国側の鎧は丈夫で、軽く俊敏な動きが可能
それに対し、明・朝鮮側は戦国の鎧よりはるかに丈夫だが、重く機動力に欠ける。
弓も戦国側のほうが明朝鮮の弓より100m射程距離が高い
また明・朝鮮の鉄砲は火縄銃とは違い、10秒くらいで打つ事ができ(連射も可能だったような)るが、
威力がなさ過ぎる。それに対し、日本の鉄砲は威力も抜群で30秒程度時間がかかるが、3段撃ちを使えばその問題がなくなる。
{しかし、その3段撃ちが可能かの話だが(長篠の戦いでは3段撃ちで武田を破ったと書いてあるが後世の創作説ならしい)}
また、朝鮮などは200年平和なのにたいし、戦国は100年程度戦っている。
戦術や戦略も日本のほうが遥かに上。(いや、そもそも朝鮮側は戦いが無かったため、戦術自体立てたことが無い(藁
しかし、水軍が朝鮮よりも戦国のほうが劣れているため、苦戦してしまった。
しかし、南原城の戦いでは明・朝鮮連合軍全滅
蔚山の戦いでは日本の毛利秀元が加藤の援軍に向かってきたが、やはり、明・朝鮮が有利のはずだが、見事加藤が朝鮮側を打ち破った
泗川では島津義弘7000が明・朝鮮連合軍(指揮者董一元)200000万を撃破。
明・朝鮮連合軍の死者80000
134 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 16:43:30
朝鮮の防衛政策の問題点
朝鮮の軍事状況について、朝鮮の学者官僚であった柳成龍は、太平の世が長く続いたせいで武備がおろそかにされている事を嘆き、「(朝鮮の将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らない」と述べている。
将軍は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進出来るかどうかが決まっていた。朝鮮の軍隊は組織が緩んでおり、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、そのほとんどは城壁などの建設工事に従事していた。
朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が急拵えの部隊を引き連れて来るのを待たねばならなかった。
更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
朝鮮王朝はいくつかの改革を行ったが、その改革も問題が多かった。
例えば、1589年に設置された軍事訓練所は非常に若すぎるか、非常に老いた兵ばかりを採用し(壮年男子は農耕やその他の経済活動に従事していたため)、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層が多少加わっているのみであった。
一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。
城壁は貧弱なものであり、(日本や西洋の城塞に見られるような)塔や十字砲火の配置はあまり用いられておらず、城壁の高さも通常は低いものであった。
戦時の政策としては、住民全員が近隣の城へ避難する事とし、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなされた。
しかしながら、多くの住民にとって城は遠すぎる場所にあったため、この政策は大きな影響を持たなかった。
135 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 16:45:10
訂正
そもそも戦国側の鎧は丈夫で、軽く俊敏な動きが可能
それに対し、明・朝鮮側は戦国の鎧よりはるかに丈夫だが、重く機動力に欠ける。
弓も戦国側のほうが明朝鮮の弓より100m射程距離が高い
また明・朝鮮の鉄砲は火縄銃とは違い、10秒くらいで打つ事ができ(連射も可能だったような)るが、
威力がなさ過ぎる。それに対し、日本の鉄砲は威力も抜群で30秒程度時間がかかるが、3段撃ちを使えばその問題がなくなる。
{しかし、その3段撃ちが可能かの話だが(長篠の戦いでは3段撃ちで武田を破ったと書いてあるが後世の創作説ならしい)}
また、朝鮮などは200年平和なのにたいし、戦国は100年程度戦っている。
戦術や戦略も日本のほうが遥かに上。(いや、そもそも朝鮮側は戦いが無かったため、戦術自体立てたことが無い(藁
しかし、水軍が朝鮮よりも戦国のほうが劣れているため、苦戦してしまった。
しかし、南原城の戦いでは明・朝鮮連合軍全滅
蔚山の戦いでは日本の毛利秀元が加藤の援軍に向かってきたが、やはり、明・朝鮮が有利のはずだが、見事加藤が朝鮮側を打ち破った
泗川では島津義弘7000が明・朝鮮連合軍(指揮者董一元)20万を撃破。
明・朝鮮連合軍の死者80000
>>125 以前のスレで日本側の史料にしか見られず、しかもあるのは後の軍記物(立斎旧聞記)なので
怪しさ100%となったはず
懲録には明軍は来なかったと書いてあるらしい
>>135 ・弓も戦国側のほうが明朝鮮の弓より100m射程距離が高い
こんな資料あったっけ?カリフォルニア大学のサクストン・ホープ教授の比較実験では、
中国(清朝)の弓と日本の弓の飛距離はほぼ同じで、170メートルちょっとだったそうだ。
・泗川では島津義弘7000が明・朝鮮連合軍(指揮者董一元)20万を撃破。
明・朝鮮連合軍の死者80000
泗川の明朝軍は多く見積もっても4万人くらいだったはず。
死者の「80000」という数字は、戦後に明兵の捕虜から聞き出した
「8万人分の兵糧があった」という証言がもとらしい
>>133 明軍と朝鮮軍を同列に語っている時点で話にならん
>>138 wikipediaなんかでは、カリフォルニア大学のサクストン・ホープ教授の比較実験の結果が
中国弓(清朝)が91.4m、和弓は142.6mってなってるんだが、どっちが正しいんだろうか?
同列かどうかは知らんが
朝鮮軍は支那軍の劣化版みたいなもんじゃないのか
>>133 >>明・朝鮮側は戦国の鎧よりはるかに丈夫だが、重く機動力に欠ける。
確かに明軍に関しては、日本側にもその重装な鎧に関しての驚きを記した資料
は存在するが、朝鮮軍は基本的にたいした装備はなかった。一般兵卒に関しては
甲冑無しあるいは、綿甲の鎧が朝鮮のスタンダード。下の写真を見てもわかるが、
武将クラスでも重厚さでは日本の鎧には適わなかった。
朝鮮将校の鎧
http://www.jyofukuji.com/11-tyosen/2002/img/08-1.jpg さらに朝鮮側の記録「懲録」には鎧についてこう書かれている
「我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。 そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着 た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。 取り敢えず、
全身鎧の見本を製造して、 これを試用したが、とてもその重さに堪えられる
兵士がおらず、これを廃した。 」
和弓は「引きやすさの割には恐ろしく飛ぶ」と読んでいいの?
その分弓が長大だけどね。射法も独特で熟練を要するし。
でも難はあっても、和弓は鏃の重量もあるし、さらにこれが三人張りとかの強弓になると
実戦用の弓としてはとんでもなく強力だったろうな、と思う。
複合弓としては極北に達しているかと
147 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 17:24:27
ちなみに泗川の戦いでの明軍の兵力ははっきりしていないが、敗戦側の明の記録では「戦死者約8万人」とある。
1つの会戦における戦死者が8万人というのは世界史における比較でもかなり多い数字であり、当時敗軍の将は責任をとって処刑される場合もあるため、戦果は過大に損害は過少に申告するのが普通であった。
これでも戦死者を過少報告している可能性もあるが、日本側の死者3万余との記録とも大きく食い違うため実体は今なお不明である。
ということなので
>>315 勝手に死者80000とか決め付けてように書かないでください(決め付けてないかも知れぬが)
まあ、いくら明の弓の射程距離が170mでも日本の火縄銃よりかは、射程距離が短いから、どっちにしろ日本のほうが強い
明軍と朝鮮軍を同列に語っている時点で話にならん> でも、明も朝鮮も使用武器とか鎧の性能とかあんまり変わらないでしょ
148 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 17:34:22
今調べたところ
明軍の兵力は4万余り、つまり明・朝鮮連合軍=20万だとしたら
朝鮮軍は16万!
16万いて明軍4万だったら、いちいち、明軍なんて呼ばないだろ。
16万いてたった4万しかこないんだったら、4万の軍勢はいるだけ無駄。
俺の予想では朝鮮は3万〜6万はいるんではないかな?
だとしたら明・朝鮮連合軍は最大で10万か・・・
島津軍の兵力は、義弘の5千余、忠常の1千余、伊勢兵部少輔定正(貞昌)の3百余、併せて、6千3百余である。
まあ、かりに明・朝鮮連合軍が4万しかいなくても島津が6300の軍であの大軍を破ったんだがらそれは、それで凄いでしょ
>>147 > でも、明も朝鮮も使用武器とか鎧の性能とかあんまり変わらないでしょ
当時の明って世界有数の超大国・軍事大国だよ?
明軍には北方騎馬民族や東南アジア諸国などとの豊富な戦闘経験があったし、
まともな正規軍すらなかった朝鮮なんぞと同列に扱うのはちょっと・・・
日本軍との戦いには寧夏の乱を平定した精鋭部隊が投入されてる。
明軍は大口径野砲や散弾砲など日本側にはない強力な火器を多数保有。
柳成竜の「懲ヒ録」には、明軍の砲撃によって「数十里にわたる山岳がみな、揺れ動いた」とある。
重装歩兵や騎兵は鉄製の鎧で全身を覆っており、
日本軍の刀や槍が通用しなかったとある(フロイスの「日本史」より)。
また、日本軍は明軍が当初の予想よりもはるかに強大であることを知り、
彼らを恐れるようになったとある(これも「日本史」より)。
>>148 「宣祖実録」によれば、三路の戦いで明・朝鮮軍が動員した兵力は以下の通り。
東路明軍24000人, 朝鮮軍5514人 (東路軍計29514人)→蔚山へ
中路明軍26800人, 朝鮮軍2215人 (中路軍計29015人)→泗川へ
西路明軍21900人, 朝鮮軍5928人 (西路軍計27828人)→順天へ
水路明軍19400人, 朝鮮軍7328人 (水路軍計26728人)→順天へ
明軍計92100人 朝鮮軍計20985人 共計113085人
中路軍は蔚山城の攻略に失敗した東路軍の一部を吸収して
三万七千くらいの兵力で泗川城を攻めたと言われてる。
朝鮮軍が3万〜6万もいたというのはないと思う。
この三路の戦いに投入した兵力が連合軍が動員できる限界だったようだから。
でも、三万七千人というのは当時の価値観では相当の大軍だよ。
島津軍が凄くないなんて言うつもりは微塵もない。
>>149 大きい砲であればあるほど、その重量のため、運用面に問題があるよね。動きの少ない要塞戦に限られる。
また、重装甲も同じことだよね。山がちな朝鮮半島の戦闘でどれほどの役にたったか。
日本軍の緒戦の快進撃、終盤の驚異的な粘りをみればわかるけど、重装甲でも重火器でもなく、小火器が戦場の主役になっていたことがわかる。
これは洋の東西を問わず、同じこと。ヨーロッパでもスペイン式のテルシオが猛威をふるってた。
胸甲騎兵や野戦砲が本格的に登場するのは30年戦争以降。
>>149 冒頭ではだまし討ちにあった小西が「明兵強かったねー」っていうのをそのまま書いてるけど
同じ章で「日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもない」とも書いてるよね
>>143 韃靼人を支那にまとめていいものなのかな
>>152 「日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもない」
これって、明軍の遊撃将軍・沈惟敬が講和交渉の時に言った言葉だよね。
多少のリップサービスも含まれてるのではないかと思う。
まあ、後の戦闘の数々を見れば日本軍の優勢は明らかだけど。
そういえばこんな記述もあったな。
「ところでシナ人たちは、日本人らが用いる武具は、
自分達の武具ほど役に立たないと思い込んでいたので、
日本の武具の優秀さを知る者がどんなに説明しても、
人々は信じることができなかった。
したがって真実を知る一部の者が、例えシナ軍は数の上で勝っていても、
日本軍と戦うことは不可能であると言っても、
これを聞こうとする者はいなかった。」
>>152 「日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもない」
これって、明軍の遊撃将軍・沈惟敬が講和交渉の時に言った言葉だよね。
多少のリップサービスも含まれてるのではないかと思う。
まあ、後の戦闘の数々を見れば日本軍の優勢は明らかだけど。
そういえばこんな記述もあったな。
「ところでシナ人たちは、日本人らが用いる武具は、
自分達の武具ほど役に立たないと思い込んでいたので、
日本の武具の優秀さを知る者がどんなに説明しても、
人々は信じることができなかった。
したがって真実を知る一部の者が、例えシナ軍は数の上で勝っていても、
日本軍と戦うことは不可能であると言っても、
これを聞こうとする者はいなかった。」
>>152 「日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもない」
これって、明軍の遊撃将軍・沈惟敬が講和交渉の時に言った言葉だよね。
多少のリップサービスも含まれてるのではないかと思う。
まあ、後の戦闘の数々を見れば日本軍の優勢は明らかだけど。
そういえばこんな記述もあったな。
「ところでシナ人たちは、日本人らが用いる武具は、
自分達の武具ほど役に立たないと思い込んでいたので、
日本の武具の優秀さを知る者がどんなに説明しても、
人々は信じることができなかった。
したがって真実を知る一部の者が、例えシナ軍は数の上で勝っていても、
日本軍と戦うことは不可能であると言っても、
これを聞こうとする者はいなかった。」
大事なことなので3度言いました・・・?(・∀・)
158 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 09:42:06
朝鮮派遣軍には小西・加藤より領地・官位・実績が上の武将が何人もいる
指揮系統はどうなっていたのだろう、秀吉の縁者と薬売りの子せがれだろ?
小西は堺の後ろ盾がある
後ろ盾というかハトヤマとオザワに近いから
堺の傀儡といったほうがいいけど
160 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 14:16:37
朝鮮なんか弱すぎwww
当時の明って世界有数の超大国・軍事大国だよ?
明軍には北方騎馬民族や東南アジア諸国などとの豊富な戦闘経験があったし、
日本も世界有数の軍事大国だよ^^
しかし、明も大した国だが
当時の朝鮮と明に対する主な軍事的脅威は、女真や北方騎馬民族、倭寇であった。女真は北の国境地帯で襲撃を繰り返し、倭寇は海岸近くの村や貿易船を襲撃して掠奪していた。
倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、対馬を攻撃した(応永の外寇)。また、女真に対しては、図們江に沿って防衛線を構築した。この間、朝鮮では比較的平和が保たれていたため、朝鮮軍は要塞と軍船に偏重した編成となっていた。
高麗王朝の間に火薬が導入され、朝鮮では火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮した。
一方、日本は長い内戦状態(戦国時代)にあったため、軍隊はポルトガルから持ち込まれたマスケット銃(火縄銃)で武装するようになっていた。このような兵器戦略の違いが、陸戦における日本優位、海戦における朝鮮優位につながった。
15世紀中頃から日本は内戦状態にあったので、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の職業軍人が居た。これは当時のアジアで最大の軍隊であった。
161 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 14:21:23
明軍は大口径野砲や散弾砲など日本側にはない強力な火器を多数保有。>
明にも独自の火器が発達していましたが、西洋のものに比べれば明らかに時代遅れでしたし、その発達は主に大砲が主体でした。
小銃も存在していましたが、西洋式の火縄銃とは雲泥の差がありました。もちろん明にも日本より早く火縄銃は伝わっていましたが、ほとんど装備はされていません。
そして当時の大砲は攻城戦には有益でしたが、野戦にはあまり役に立つ物ではありませんでした。
日本側が勝利を収めた戦いは、ほとんど鉄砲が威力を発揮した戦いです。日本側の主武器であった槍は、この戦いではあまり役に立ちませんでした。
明や朝鮮の兵は白兵戦より弓での戦いが主武器だったからです。弓が相手では日本側の刀槍が役に立たないばかりでなく、射程や威力で劣る日本の弓も勝てないため、
鉄砲が最も頼りになる武器と言う事になります。
日本側にとって鉄砲で制圧できるかが、勝敗の最大の要素になります。文禄の役での戦訓から、日本側は慶長の役の際には大幅に鉄砲を増強しており、
この時期が日本で鉄砲の装備比率が飛躍的に増大した時期です。
もっとも明、朝鮮軍は近接した白兵戦に持ち込まれた場合は、それはそれで苦手としたので日本側有利でしたが、降倭に関して銃を扱える者を絶対的に優遇した事から見ても、彼らが脅威としてみていたのは何と言っても鉄砲であったと思われます。
明軍に関して、日本側が弱いと思っていた形跡はありません彼らは十分に精兵と呼ばれてもいいレベルであったと思います。明軍は大雑把に言って、倭寇との戦いから生まれた火器重視の南兵と満州民族と戦う騎射を得意とする騎兵主体の北兵からなっていました。
南兵は調練が行き届いていて、どしゃぶりの雨の降る中を命令があるまで直立不動で整列していて北兵を驚かせたといいますし、北兵にしても日本側の「朝鮮軍陣図屏風」の蔚山の戦闘の絵で見ると騎兵が綺麗な密集方陣や横列で布陣していて、
これも調練の行き届いた軍隊でなければできない事です。
ただ戦意自体は高かったとは思えませんけれども。
結論として、鉄砲の存在と戦意の低さ、この二つが要因ではないかと思います。
162 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 14:29:46
数十里にわたる山岳がみな、揺れ動いた」とある。>
あり得ないね。
1里は何メートルあると思ってんの?
数十里
この数は数日とか数人とかに使いますよね
この数=2、3を表すことが多いようです。
だとすると、
20里、30里ということですね?
30里=120キロですよ?
時速60キロの車に乗って2時間かかるところまで、離れた山まで揺れ動くってあり得ない。
120km=甲府IC〜国立府中ICくらいまででしょ。
うわ〜想像するだけでもあり得ない
|∀・).。oO( 里は国や時代によって示す距離が全然違うから〜
>>161 その文章、
>射程や威力で劣る日本の弓も勝てないため
の部分が根拠不明。
日本の弓が明・朝鮮の弓に劣るなんて資料あったっけ?
関係ないけど、「朝鮮軍陣図屏風」って有名な清正の軍が蔚山で囲まれている屏風のほかに、
明軍と日本軍の激突場面の屏風、明軍の壊走とそれを追う日本軍の屏風があるんだね。
なぜか、日本軍の苦戦が良く伝わる明軍包囲蔚山城の屏風ばかり好まれて本とかで使われているがw
>>166 蒙古襲来絵詞もそうだよな
元軍が逃げてる場面もあるのに、教科書で見るのは竹崎季長と戦ってる所だけ
要するに日本軍の強さを示すものは気に入らない勢力が牛耳ってるんだよ。
日本軍は弱くて、汚い手段で勝つこともあるということにしたいのさ。
「朝鮮軍陣図屏風」と言えば、鍋島報效会所蔵のは河川が白く凍結して描かれてるんだよね。
よほどショックだったんだろうというか、こんな土地イラネ感がひしひしと伝わってくる。(・∀・)
170 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 15:45:42
秀吉の目的は朝鮮征伐でなく明征伐なんだろ
それなのに朝鮮を支配しただけで明に攻め入ってないのはどういうわけだ
せいぜい加藤清正が満州南部まで出向いたくらいだろ
秀吉の朝鮮遠征を迎え撃ったのは実質的に明の軍隊。
その結果、明の国力は急速に衰え、ツングース系の女真族の支配する清が起こったのです。
秀吉があと10年長く生きていれば東アジアの歴史は変わっていただろうといわれています。
清の代わりの、秀吉の親国が成立していた可能性もあったのです。
172 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 16:50:19
>>170 そのとおり
征伐であって征服目的じゃない
文禄の役は恫喝による交易交渉とスペインへの示威行為だし
慶長の役は完全に朝鮮征伐、というか約束を反故にされた秀吉の腹いせ
だから文禄なんて開戦早々から和平交渉の席へ着くよう明へ再三要求してる
快進撃中の日本がだぜ
要するに力を背景に有利な条件で商売したかったが、
小西がもっとアホだったのでおじゃんになった。
>>171 清の代わりの秀吉の国ができたとは思えない。
既に何百年という中国との闘争の歴史をもつ女真やモンゴルの代わりをするのはそんなに容易いことではないよ。
175 :
pi:2010/05/23(日) 21:33:08
>>171 お前の主張は時系列的におかしいぞ!
日本軍が陸続と朝鮮半島に攻め込んだのは4月中旬だ。
人数は水陸合わせて16万以上
明軍が朝鮮半島に救援に来たのは7月に5千人
本格的に来たのは翌文禄2年1月に4万3千人だ。
日本に攻め込まれてから明軍の援軍が来るまで
9ヶ月間その間日本はどこと戦っていたんだ?
朝鮮と戦ってたというのも違和感があるな。正規軍は全滅して民兵が日本軍
を悩ましてだけだし。
>>175 20日で首都が陥落し、驚異的な速さで朝鮮全域を掌握。
補給が追いつかなくなり進撃停止。
秀吉の「征明」の支持を愚直なまでに守ろうとした加藤清正は単独で満州へ攻め込み、
「征明」などはなから不可能だと考えていた小西行長は早期講和を模索するなど、
日本軍は一枚岩ではなかったってこと
>>176 民兵が悩ましていた相手は
日本ではなく朝鮮の宮廷や支配階級
李恒福 白沙集
「秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。
民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。
ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、
奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。」
>>172 征服した後、秀次か秀家あたりに中国治めさせるとか言ってなかったけ?
明との講和条件七ケ条
一、明帝の女を日本の皇妃に迎える。
二、勘合貿易の復活
三、日明両国大臣の誓紙交換
四、朝鮮の京畿、忠清、全羅、慶尚、四道の割譲
五、朝鮮の王子、大臣を質とする
六、捕虜の朝鮮両王子を送還する
七、朝鮮の大臣が永久に日本にそむかぬよう誓約する
そんな項目は無いようだな
それ見ると古代のと被るね
183 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 22:30:26
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。
・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
(金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。
・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。
・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
>水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。
やはり数名の小隊にわかれて戦ってたんだな
騎馬5徒歩15ぐらいのだと思ったのに、もっと少ないんだな
つうか大太刀振り回すには一小隊の構成人数は少ない方が有利なのかな
つうか刀使いまくりだな。
どうみても刀が主力兵器です。
186 :
日本@名無史さん:2010/05/27(木) 11:39:28
つか、朝鮮軍よわwwww
宰相自らこう書き記すくらいだから余程弱兵だったんだな。
>>185 槍は基本的に防御の要だからな
相手が強いとき(白兵戦が得意な敵が自軍に突撃してきたとき)じゃないと活躍できない
逃げるときなんか槍は捨てて走るくらいだからね。
攻め込むときだって槍に拘っているとどうしても機動力が落ちて
好機を逃してしまうだろう。
随分と臆病だな
国内においても
・其中に心ある者どもはだかになり、抜刀ばかりにて七・八百ばかり切て懸り、伐り崩し、
(織田家の)御一門を初め奉り歴々数多討死。小口へ相働留守のこやこやへ乱れ入り、思程支度仕候て、
それより川を越し多芸山・北伊勢口へちりちりに罷退き、大坂へ迯入るなり。
(『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
抜刀した一揆勢に織田家の人間はじめ、家臣多数討ち死になんて記録がある。
・(豊後勢が)渡(河)し終えると、それまで巧みに隠れていた(薩摩の)兵士たちは一挙に躍り出で、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられて
いながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし
弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。こうして味方の軍勢は
いとも容易に撃退され敗走させられて、携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと
逃走していった。
フロイス『日本史』
薩摩の伏兵が抜刀して襲ってきたので、長曾我部の鉄砲隊が武器を捨てて潰走という報告も。
当時の鉄砲って精度が今のほどよくないし、すばやく接近すれば刀で勝つこともあったのだろうね。
しかも銃剣もなかったようだし。
スペック厨は「鉄砲>槍>刀」とか言いたがるけど実際はそう単純じゃないことが
わかるな。
「揮刀如~」
「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。
我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。
刀術に優れた武士だが刀術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。
本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、
子供の頃から剣術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。
それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。
日本人を有効的に殺せるのは火器のみである。
であるにも拘らず、多くの鳥銃を擁している場合でも勝てないのは外でもない。
日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、我が明兵は戦いに臨んで恐れて逃げるため、
その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」
NHKだけじゃないな。
へうげものって漫画でも唐入りやってるけど、
日本に否定的なシーンばかり入れてる。
勝ち戦はまったく描かずいつのまにか和城ができてるし、総意の戦争にもかかわらず、
勇んでたほとんどの武士の描写はなく、一部の武士のいやそうな表情ばかり。
195 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 15:05:29
>>194 くわしく聞きたい。
にしても、なんでこの国の男は、自分の国より朝鮮を持ち上げるのかね。
やはり大東亜戦争あたりで入れ替わったか。
同級生に大勢居たんだよな。
魂が日本に無いの。
あいつら何なんだ、と思ってたが・・・。
196 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 15:24:14
朝鮮出兵は対徳川対策。だから徳川は渡海していない。
国内で外様大名に大判振る舞いした領土を相対的に小さくするため、豊臣系の領土拡大を海外に求めたわけだ。
聞いた噂だけど
どこの放送局も出版社もチョンに考慮して
唐入り肯定するようなのは内容は駄目らしい
>>194 戦国小説なんかでもそう
その話題になると、ほとんど秀吉に否定的に書かれてるだろ?
(小説の主人公や周りの人物が朝鮮への出兵は無益な戦いだとか言い出したり)
198 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 15:41:21
とんでもない僻地〜松山
とんでもない田舎〜松山
何にもないから高松までお買い物
http://www.yajyu.com/kankou/seikatu21.htm 続いてショッピング! 松山にもいろいろショップはあるけれど、やっぱり高松の充実度にはかなわない。 毎シーズン、松山から買い物に来る女の子達も多く、バーゲンシーズンとかになるとフェリー通りは大きな紙袋を抱えたnice girl & nice boyで溢れかえる。
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199 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 16:30:44
>>197 そりゃそうだろ。誰が見ても実現不可能な誇大妄想を元に、現地の事情にまるで無知で戦始めちまったら、失敗するのは自然の摂理。
秀吉は明を中核とする東アジアの中華秩序さえ知らんかったんだから、お笑いだ。
大明征服を掲げながら、戦略的に何の意味もない朝鮮の土地で右往左往するマヌケぶりは、
北信濃の猫額の土地にこだわって謙信と不毛な戦した信玄と同類の守旧人物だと断罪できる。
所詮秀吉はC00には向いているがCE0には不向きな軍人。
天才の最高戦略の路線に沿って初めて能力が発揮できる武将。
念密な計画やリサーチなくして目暗滅法で出店攻勢をかけても、閉店に追い込まれるのと同じだ。
つまり、戦争自体は悪くないと。同意。
そのあたりの、必要に迫られた必然としての戦争という観点が抜けてるんだよな。
WWUも一緒の、自虐史観。
そして皆で賛成してやっておいて、後から「俺はダメだと思ってたんだよね」と言い出すのも一緒。
負け戦なら作戦の杜撰さをを反省するのが普通。一部の狂信者にかかると、
何が何でも「日本の外征は道義的に悪」でないとならない。戦国時代に突然降って沸く後付の価値観w
他国じゃ外征した奴は英雄扱いが普通。カエサルやハーンやナポレオンや乾隆帝と同様、山下泰文も英雄でOK。
秀吉も若い頃の頭脳があれば大陸から富を収奪してさらなる英雄なれたのに、勿体無い。・・・と悔やむのが正しい。
たとえば、鳩山首相が普天間基地問題で、本当に反省しているかといえば、そんなことはない。
そんな些細なことを気にしているようでは首相になる資格はない。
大物というのは、神経が足りないくらいでないとなれないということは、
本当は、みなさんもわかっているんじゃないですか?
204 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 01:38:59
たとえば、鳩山首相が日帝の韓国侵略問題で、本当に反省しているかといえば、もちろん深く反省している。
こんな重大ななことを気にしていないようでは首相になる資格はない。
大物というのは、繊細な神経をしていないとなれないということは、
もちろん、みなさんもわかっているんですよね?
>>196 根本的に間違い
徳川も渡航予定だった
文禄の役の段階で徳川の渡航は予定に組まれていた
単に渡航前に講和がなったので延期になってただけ
明年,如松師大捷於平壤,朝鮮所失四道並複。
如松乘勝趨碧蹄館,敗而退
於是封貢之議起,中朝彌縫惟敬以成款局,事詳《朝鮮傳》。
久之,秀吉死,諸倭揚帆盡歸,朝鮮患亦平。
然自關白侵東國,前後七載,喪師數十萬糜餉數百萬,
中朝與朝鮮迄無勝算。
至關白死,兵禍始休,諸倭亦皆退守島
東南稍有安枕之日矣。
秀吉凡再傳而亡。
要約しますとこうですね
平壤は日本軍が放棄して奪還できたけど追いかけたら碧蹄館で日本にぼこぼこににされて明朝鮮の現場の将兵には嫌戦気分が蔓延。
日本を軍事的に追い払うのは困難となり、(再三日本が要求してきた)交渉の席につき金銭による解決を探ることにした。
ところが秀吉がラッキーなことに死んでくれたおかげで日本はひきあげてくれた。
いやーこの七年間はやばかった。
ただただ多くの犠牲が出るばかりで我が国と朝鮮には勝算が無かった。
戦争終結は秀吉の死によるものだ。
>>202そりゃ弱い国の性質。フランスとか・・・日本は基本的に強いから負け戦を次の経験にしたい
>>203逆。大物は異常に気弱。信長だって信玄生きているころには媚を売りまくり
■■■日本軍と明軍の主要な戦闘■■■
1.文禄1(1592年)7月16日
祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲
→小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利
※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定、平壌にて正式な講和使を待つ
2.文禄2(1593年)1月6日
李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃
→正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。
明軍は平壌城を奪還
3.文禄2(1593年)1月26日
碧蹄館の戦い
李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。
体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突
→日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している)
※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される
4.文禄2(1593年)6月21日〜29日
第二次晋州城攻防戦
明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が普州城の救援に向かったとの報を受け、
立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃
→日本軍が撃退に成功
※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。秀吉、部隊を段階的に帰還させる。
が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。
講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり(事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
0.慶長3(1598年)9月〜10月
第二次蔚山城の戦い
麻貴率いる明軍二万四千、 金応瑞率いる朝鮮軍五千五百の連合軍が
再び蔚山城を襲撃
→日本軍は巧みに防戦、明・朝鮮軍は攻略の目途が立てられず撤退 日本軍勝利
11.慶長3(1598年)10月1日
泗川の戦い
董一元率いる明・朝鮮連合軍およそ三万七千(諸説あり)が泗川城を襲撃
→島津義弘配下七千が城外へ打って出て明・朝鮮連合軍壊滅 日本軍勝利
12.慶長3(1598年)10月2日〜7日
順天城の戦い
劉テイ率いる明軍二万二千、権慄率いる朝鮮軍六千、
陳リン率いる明水軍二万、李舜臣率いる朝鮮水軍七千の連合軍が順天城を襲撃
→小西行長配下一万三千が防戦し、明・朝鮮軍を撃退 日本軍勝利
※八月から伏せられていた秀吉の死去が公表され、10月、撤退命令。
13.慶長3(1598年)11月18日
露梁海戦
明・朝鮮連合水軍五百隻が島津水軍五百隻と激突
→双方に甚大な被害。
しかし島津水軍は小西行長らを撤退させるという作戦目標を達成し、
連合軍は明水軍副将のケ子龍、朝鮮水軍大将の李舜臣が戦死
資料不正確にて議論保留って書いてあるじゃん
うろ覚えだけど
明軍が星州に軍集めてきたんで
牽制のために出動したんだろ
明や朝鮮の方にそういった話は全く無い
片方のみに伝わる話で一次史料はなく、話が残る側が大勝利という逸話は
大抵は後に造られた話
われわれ倭人は昔っから歴史を捏造してばかりだな
本当に恥ずかしいよ・・・orz
朝鮮人は正直だもんな。
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。
・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
(金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。
・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
その懲録には明軍は動かなかったと
柳成竜『懲録』
「晋州が陥る」
・明国の総兵劉テイは、晋州が陥落したと聞いて八?から陜川に馳せて行き、呉惟忠は、
鳳渓から草渓谷に至って(慶尚)右道を守った。
賊も、晋州をすでに破っておいて釜山に還り、明国が講和を許すのを待ってから海を渡って
撤兵するのだ、と言いふらした。
219 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 04:32:33
>>205 なら第二弾の慶長の役に徳川は朝鮮に渡ってるはずだが、事実行ってないよな
あっさり論破される低能君(笑)
>>219 あーあホントに何も知らないんだなw
徳川軍が第何軍かも、
朝鮮に渡航した軍が第何軍までなのかも御存じないらしいw
ヒントは秀勝は第何軍でしょう?
で徳川は秀勝軍より後ですか前ですか?
元々、大義も無いもあったもんじゃない暴走だからな。
主観的にせよ民族的あるいは国家規模の大義があったら、たとえばハーンが死んだ後も継続されたモンゴルの南宋攻略みたいに継続される。
でも秀吉が死んだらみんな一致して中止と後始末に走った。
秀吉の稀有な権力を現す反面、しょーもない無駄な戦いだった証明でもある。
何しろ実際に行ってみたら朝鮮が貧しくて欲しいと思わなくなったんだろ。
>>222 いやそんな記録は無いが。
当時の大名の軍費は自弁だから、出兵すればするほど費用が嵩む。
農民も戦争に取られて農村荒廃し、国許が貧しくなる一方。
普通に外征できるシステムじゃなかったんだよ。
秀吉宛の報告だと、実際に渡った連中は朝鮮の石高を1200万石ほどと見積もっている。
太閤検地で出された日本の石高が1800万石だから、少なくとも米換算でみれば貧しいとは見てないな。
支配を確保できなかったから収入も何もないわけだが。
最初から支配は主目的じゃない
できたらいいなぐらい
軍事的拠点の確保として朝鮮に関することは書いてあるが
明への領土要求は無いな
秀吉が腹の中でどう考えていたかは別として
この時点で明を滅ぼそうとか、そういう行動はない。
明との講和条件七ケ条
一、明帝の女を日本の皇妃に迎える。
二、勘合貿易の復活
三、日明両国大臣の誓紙交換
四、朝鮮の京畿、忠清、全羅、慶尚、四道の割譲
五、朝鮮の王子、大臣を質とする
六、捕虜の朝鮮両王子を送還する
七、朝鮮の大臣が永久に日本にそむかぬよう誓約する
>>225 いや、秀吉は思いっきり明征服後の国割構想まで発表してたぞ。
それは勝てなくて、しかも部下にだまくらかされた中でこれまた妄想で突きつけた要求じゃん。
敗北した侵略者の壮図ほど笑えるものはないなw
天皇は北京へ移すよ、とか妄想している本人は楽しかったんだろうが。
日露戦争、朝鮮戦争、みな根っこは同じ。
地政学的に日本は定期的に朝鮮半島を攻撃せずにはいられない位置にある。
これは逆に支那から見ても同じ。
どっちかが先に手を出して叩き、それによってしばらくの間互いに平和が訪れる。
国内を平定した秀吉にとっちゃ
やっとかなきゃならん罰ゲームみたいなもん。
秀吉がやってくれたおかげで徳川はやらずにすんだ。
以後、しばらくの間(文禄慶長での恐怖を半島と支那が覚えている間は)は支那からの侵略の心配をせずに済む。
朝鮮にいたっては将軍の代がわりごとご機嫌伺いにくる体たらく。
200年間にわたり大陸への抑止力となったわけだから安いもんだ。
恐い所は別に政治的経済的必然性がないのに、一人の権力者の妄想で一国が動くことが歴史上ままあることだよな。
当時の日本には別段海外領土なんて必要なかったことは、秀吉が死んだら全く見向きもしなくなったことでも明白だし。
それこそ海賊働きするような連中を除いては大陸と日本は戦闘交える必要性が薄かったのは戦例の少なさからも証明できるし。
近代で調子に乗って朝鮮や中国を支配して、身内の軍人の暴走まで引き起こした挙句無条件降伏する醜態晒すまでは大戦なんてなかったし。
「相手が攻めてくるかもしれないから、先に攻めるよ」なんて当時の秀吉やその太鼓持ちさえ言わなかった妄想だけどな。先制攻撃をそういう「本人さえ口にもしなかった妄想」で容認できるのなら、元寇とかも正当だな。
というか、世界史を見ても国内を統一した君主が外征を行うのは
ごく自然な流れだろ。別段不思議でもなんでもない
まぁ無益有害な侵略であっても、妙な意地から認めたくない現象は日本及び中世についてだけじゃないからな。
ウヨ板いけばそいいう手合いはもっといるぜw
234 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 22:41:22
>>226 そのコピペは糞
南原城・稷山・梁山で日本が勝った戦いが抜けてる。
なかったと言うなら証拠を挙げろ
>>236 日本側の後世の軍記物のみに伝わる話で一次史料はなく、
相手側にその様な話は残っていないから
>>231 元寇?そりゃ蒙古からしたら正当に決まってるじゃんw
そもそもが中世の戦争で正当不当もねえだろw
スレ違いな話持ち出すなよ
問題は元寇では元高麗軍は橋頭保も築くこともできず本土上陸後わずか一日で潰走w
第二次侵攻では上陸することすらできず潰走という事実
つまり「局地戦」レベルで元高麗は大敗北している。
局地戦の大半で日本が勝ってる文禄慶長とはそこが違う。
元軍は日本から撤退する際志賀島に座礁した兵士220人を見捨てて逃げ去ってる
同じ撤退でも例えば慶長の役の日本軍は露梁海戦の後
南海島に取り残された横山久高率いる兵士500余人の救出作戦を行なった上で撤退してる
その辺がボロ負けした軍とそうでない軍との差だな
うん、そうやって同じ失敗した侵略でも「俺の国のだけはマシだ」となんとかゴネたい根性を揶揄されてるんだろうねw
先に日露戦争、とか言い出した側は……だし。
作る会あたりが近代史捏造に破れて以来、またウヨ流入が激しくなったな。
大義も相無き軍事、と当時の大名(細川幽斎)もいってるぐらいだからな。
結果的にも倭寇の拡大版みたいな略奪虐殺かましただけで、結局逃げ帰るハメになってるし。
講和がなってから引き揚げた
1588年にキリシタン禁止令を発布した豊臣秀吉が、
フィリピン総督フランシスコ・テーリョに送った書状。
往年、バテレンが日本国に来て、異国の宗教を説き、
我が国の下賤男女をひきつけ、国風を乱し、
国政を害したので、予は堅くそれを禁じた。
しかるに貴国より来た僧侶たちは帰国せず、
各地に赴き、賤しい人々に異国の法を説いてやまぬので、
予はそれを聞いて忍ぶことができず、
誅戮せしめたのである。
聞くところによれば貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているということだが、
もし我が国から教師や俗人が貴国に入り、神道を説いて人民を惑乱することがあれば、
国主たる卿は歓びはしまい。
これを思え。
けだし卿らは、そのような手段をもってその地の旧主を退けて新たな君主となったように、
予に背き、我が国を支配せんと企てたのであろう。
245 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:30:19
>>240 は?日露戦争の話なんてあった?
まさか
>>229のこと?
むしろ定期的にスレが過疎ったところを見計らって
お前みたいなのが湧くってパターンが目立つんだが。
実際唐入り関連のスレも少し前までは過疎ってたのに
ここ数日になって急に勢いが速くなった。
246 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 21:01:00
まあ、秀吉も「勘合貿易(明に対する朝貢貿易)の復活」やら、
「明の皇女の日本天皇への降嫁」を求めたりしている時点で、
明の皇帝の臣下だという自覚はしっかり持ってたけどね。
臣下とか、そういった発想は上下関係の厳しい武家社会に生まれてこそ持ちうるもの。
貧しい百姓の家に生まれた秀吉にとって、偉い人というのは、超える目標でしかなかった。
尊敬の対象でなかったことは間違いない。
248 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 00:56:29
>>220 徳川は朝鮮に渡ってないのに、秀勝軍より早いか遅いかも糞もない。
何の関係もない話題を提起して、論点(徳川渡海せず)のすり替えを謀る姑息。
>>247 生まれが武家でなくても、武家社会に入れば武家の発想になるだろうに。
トドメは他人には意味不明の駄文を書き込んで自己満足かよ。
とことんダメな奴。
朝鮮の役について、割と客観的に書かれた本としては旧参謀本部が明治20年代に編纂した
「日本の戦史・朝鮮の役」ではないかと思います。
本来が軍人の教育用に純粋な軍事研究本ですので、詳しくかつ客観的です。(戦後何回か復刊されている)
さて「文禄の役」ですが、
戦闘上最大の差は日本軍は大量の鉄砲を有していたのに対して、
朝鮮軍は王城の武器庫に少量あっただけで実戦配備されていませんでした。
というより鉄砲戦の経験のある軍隊が存在していなかったので、これだけでも
初期の戦闘においては日本側の圧勝状態であったわけです。
日本軍が撤退を始めたは、小西が既に和平工作に大傾斜していたこともあり、休戦状態にあったからとされています。
日本軍の構想としては、渡海輸送能力から一軍を一万二千から一万五千人とし、
第十六軍に徳川家康軍を予定していました。
第十七から二十軍が秀吉の旗本と本隊の予定です。
実際に渡海したのは第九軍(大将は羽柴秀勝)までです。
ただ、第十六軍の家康軍の人数は約五千です。
当時の徳川家はその所領から換算した動員可能兵力は約七万五千人ですから、
七万の兵力を国内に残し、かつ秀吉も六万の旗本を手元に残していたわけです。
実際これらの兵が渡海すると、第十六軍の段階で二十五万人の兵力が渡海している計算になります。
当時の日本の動員可能数はこの倍の五十万人と計算できます。
それ故、十万量兵で防衛準備していても、明から十万の援軍が来ても、兵力数は日本軍優位の情勢。
加えて前述した通りの鉄砲の数量が違いますから、一大会戦のようなことになったら完全に日本軍優位です。
加えて当時の日本軍は長い戦国時代を経て、戦術的にもまた個々の戦闘能力もずば抜けているので
平時の朝鮮・明連合軍との戦いは日本軍優位といわざるを得ません。
当時の朝鮮王朝は両班階級の独占政治であり、書物より重い物を持たない両班に対して、
中民、下民、奴婢、白丁といった厳しい階級制度の下で下層身分の者が朝鮮王朝に従ったかどうか?
義勇軍の結成の一原因としては両班政治への反感から蜂起した説もあるわけで、
義勇軍も軍閥化したり王朝に対しての反乱軍になって行く可能性もあり、日本軍に対抗できる勢力となれないという見方も大きいようです。
250 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 05:27:51
↑面白い童話だな
252 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 18:57:58
秀吉は宣教師や倭寇から明兵は弱卒って話を散々聞いてて
「明兵など処女の如く」と侮ってた。
実際に宣教師や倭寇が知ってる明兵ばかりなら、それもあながち間違っていなかったんだろうけど
朝鮮に救援に来た明兵は、遼陽で女真族を抑えてた猛将の祖承訓
次いで反乱を起こした蒙古の将軍のボバイを鎮圧した李如松
何だかんだで当時世界最強の騎馬民族を抑え込んでた連中と初めてガチでやりあって
ビックリしたんじゃないの「こんなの聞いてねーよ」って
元々やる気のない戦、勝てるけど以外に強い北辺守備の明兵、
痩せ地の朝鮮半島、不参加の家康、不穏な大阪の情勢
帰りたくて仕方なかっただろうな
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
>>254 李如松の率いる軍隊が明沿岸や朝鮮の弱卒並みなら戦線は膠着しない
加藤や小西みたいにやる気のある一部を除いて
やる気のない連合の動きを止めるぐらいの実力は有った
当時はまがりなりにもまだ、騎馬民族全盛の時代
後年明は滅び中国を騎馬民族が支配し清を興し
史上初めてインド全域を征服したのも騎馬民族のムガール帝国
同じころ欧州のウィーンじゃ騎馬民族のオスマントルコが包囲戦をやってたわけで
農耕民族出でありながら、そんな騎馬民族を彼等のテリトリーまで侵入し
統治してた当時の明。その精鋭が朝鮮半島に出張った中華の援軍、そんな弱くは無いよ
257 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 01:56:11
というか素人の考えだけど
朝鮮攻められる
→すぐ援軍出さなきゃ
→一番近い東北から出そう
で普通は東北部の奴らが出てくるわけで
そいつらって長年、国境付近で満州族やモンゴルと
やり合ってた奴らだよな?普通に精鋭じゃね?
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
まぁ朝鮮の何がスゴイって、この秀吉の朝鮮征伐で国のグダグダっぷりをいかんなく発揮しまくった
のに、そのグダグダな国家体制が20世紀の併合まで持続し続けた事だわな。
260 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:03:49
261 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 13:52:56
ソウルを落とした後各軍はバラバラに北進し、明の救援軍が鴨緑江を渡った時には相互に連携が取れない程部隊間隔が空いていた。
朝鮮戦争の仁川作戦の後も同じで、ソウル奪還後は各師団がバラバラに追撃戦に入り、北朝鮮軍を追いかけたらやって来た中国軍に各個撃破された。
262 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 19:32:16
>>251 何が?
そう思った理由を聞きたいものだな
まさか、脳死でそんな感想出てきたわけじゃないだろうな
碧蹄館は結局日本の勝ち戦で明の提督は碧蹄館で戦意を失った
柳成龍は明軍が日本刀にやられたと書いている。
フロイスも朝鮮は日本刀に対抗出来ず征服された(日本史第三十七章)と書いている
三十八章でも鉄砲に加え太刀の威力で散々襲撃したので朝鮮軍が遁走
鉄砲では朝鮮軍は後退するも完全に崩れておらず、太刀の突撃で戦場を放棄したとしている。
その後、明が日本の武具を入手して対抗策を講じた事が書かれている (第四十一章)
フロイスは四十三章冒頭に祖承訓との合戦で小西行長は明兵に対する認識を改めたと書いている。
朝鮮よりは手強い明兵を小西は評価したようだ。
が、碧蹄館後の記事でフロイスは日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもないと分析した(第四十三章)
結局の所、明軍も弱くはないが日本軍の方が戦上手で強いという評価に落ち着く。
>>263 その認識で間違いないと思われ。
しかし、戦争の勝敗は別。
明年,如松師大捷於平壤,朝鮮所失四道並複。
如松乘勝趨碧蹄館,敗而退
於是封貢之議起,中朝彌縫惟敬以成款局,事詳《朝鮮傳》。
久之,秀吉死,諸倭揚帆盡歸,朝鮮患亦平。
然自關白侵東國,前後七載,喪師數十萬糜餉數百萬,
中朝與朝鮮迄無勝算。
至關白死,兵禍始休,諸倭亦皆退守島
東南稍有安枕之日矣。
秀吉凡再傳而亡。
要約しますとこうですね
平壤は日本軍が放棄して奪還できたけど追いかけたら碧蹄館で日本にぼこぼこににされて明朝鮮の現場の将兵には嫌戦気分が蔓延。
日本を軍事的に追い払うのは困難となり、(再三日本が要求してきた)交渉の席につき金銭による解決を探ることにした。
ところが秀吉がラッキーなことに死んでくれたおかげで日本はひきあげてくれた。
いやーこの七年間はやばかった。
ただただ多くの犠牲が出るばかりで我が国と朝鮮には勝算が無かった。
戦争終結は秀吉の死によるものだ。
まあ当の支那のほうは敗北感丸だしみたいだったようだな
266 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 15:53:31
朝鮮征伐をあつかった小説ってある?
あんまり見かけないんで教えて
>>266 朝鮮征伐 ×
朝鮮侵略 ○
壬申倭乱 ○
丁酉倭乱 ○
学問板なんだから正しい用語を使え。
>>267 朝鮮征伐がダメなら壬申倭乱と丁酉倭乱もダメだろ
外国からの侵略を内乱として扱ってる学問的にダメダメな表現なんだから
>>268 半島は日本の領土だから問題無いらしい。
まぁ当時は四国攻めに行くのと気分的に大して変わらなかったんだろうけどね
唐入り朝鮮陣でいいんじゃね
272 :
因果応報:2010/07/03(土) 06:27:55
戦前の一時期大阪城城主に朝鮮人がなり、復興天守の上から号令を発した。この朝鮮人は豊臣秀吉への怨恨を三百数十年ぶりに晴らしたのだ。彼の名は李王垠。大阪城に司令部を置く第四師団の師団長に就任したのであった。
韓国に日本武将の子孫が住む集落
豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した際、当時の朝鮮に降伏し、住み着いた日本の武将の子孫が住む集落が韓国にあります。
保守政権誕生後、好転する日韓関係を反映して、最近、観光開発しようという動きが出ています。
この山間の村が400年前、日本人が住み着いた場所です。韓国南部の都市・テグから車でおよそ1時間。
まるで日本の田舎に来たような空間が広がるウロンリ地区。
16世紀、豊臣秀吉が当時の朝鮮に侵攻した際、敵方に3000人の兵と共に投降、そのまま帰化した武将の子孫が住んでいます。
武将らは投降後、秀吉軍と戦い、当時の王にキム・チュンソンと言う名前を与えられ優遇されたということです。
彼らは朝鮮半島に初めて鉄砲を伝え、“さやか”と名乗っていたことから紀州、現在の和歌山県の“雑賀衆”ではないかとも言われています。
いたるところで日本と同じ田園風景が見られます。あそこの田んぼは棚田になっています。
150人の子孫は主に農業に従事しており、今でも“子孫会”を組織し“結束”しています。
「(自分の先祖は)日本人で“帰化人”だと自ら言ってきたので、子供のころたくさんけんかをしました。しかし私は堂々と“自分には日本人の血が流れている”と言い続けました」(子孫会 キム・サンポ副会長)
「(私は)14代目の子孫ですよ」(子孫)「日本では逆賊になっても韓国では忠臣でした。だから(自分たちの先祖を)尊敬できますし誇りに思います」(子孫)
様々な局面で反日感情が高まっても、ここの住民が日本人の子孫との理由で差別されたことは少なかったということです。秀吉軍に対して朝鮮のために戦ったと評価されているのが、その理由です。
「(日本人は)10年前20年前は、少し良くないイメージだったけど、でも韓国人がここに来て、こんな人(日本人)もいるんだなと・・・」(文化観光担当者 イ・ウォンソプさん)
274 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 10:25:38
朝鮮征伐でいいよ
275 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 10:29:11
>>272 軍部のプロパガンダに利用されたんだろうな
276 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 12:56:51
朝鮮討伐でもいいのでわ
277 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 18:09:30
大阪では李王さんと親しまれていた。
278 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 18:12:17
広島で原爆にあって名誉の戦死を遂げられた方ですね。
殺されたの?
日本は謝罪と賠償はちゃんとしたの?
朝鮮侵略、ないし出兵だろ。
日本が朝鮮を討伐する大義は無い。
他国侵略するから道を貸せ、なんて立場が逆なら日本だってうなずかんわ。
281 :
pi:2010/07/06(火) 00:57:11
>>202 海外の英雄の場合征服戦争には大儀がある。
アレキサンドロスのペルシャ遠征にしても
チンギスハーンの金遠征やホラズム遠征も
ナポレオンによる近隣諸国への遠征も
>>281 ばーか、んなもんあるわけねぇだろ。
やられる身になってみろ。
283 :
pi:2010/07/06(火) 23:21:45
>>282 馬鹿はお前だ。
ペルシャ帝国がギリシャを征服しようとして
再三侵攻してきたのは有名だろ(ペルシャ戦争)
チンギスハーンの先祖のアンバガイ・ハーンは
金国で凄惨な処刑にあい以後モンゴル王家
ボルジギン氏は金国と再三戦争している。
ナポレオンについてはいうまでもない。
皆彼ら以前からの抗争に決着をつけるための遠征だ。
でも秀吉の場合は違う。己の誇大妄想に基づき東アジア
の秩序を破壊する不義の戦をおこしたのだ。
一回目、唐入り
2回目、朝鮮征伐or侵略
朝鮮に兵を出したんだから朝鮮出兵でいいよ
>>283 不義の戦争wwお前テロリストの才能あるわw
286 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 23:33:26
まさしくポカーンだなw
どうでもいいけど当時から、李氏朝鮮でも
倭寇や秀吉の侵略は蒙古出兵の復讐だろうって議論があった
だって蒙古や朝鮮人によって当時の対馬島民や壱岐の住民って
殆どが消滅しちゃったしさ、そりゃ恨みも深いだろうな
朝鮮からしたら「ウリ達が沈み易い船を造ったからイルボンは助かったニダ」
って美談になってるけど。
お前ら自分の親兄弟の乗る船に穴開けて造ったのかよ?wって問いたい
>お前ら自分の親兄弟の乗る船に穴開けて造ったのかよ?wって問いたい
<丶`∀´> 食い扶持が減るニダ 後の田畑財産は全部ウリのものニダ
>朝鮮からしたら「ウリ達が沈み易い船を造ったからイルボンは助かったニダ」
彼らの性質が良く解る
・蒙古と一緒に日本人を虐殺しまくったのに蒙古が負ければ、
何故か朝鮮は日本と共に蒙古と戦ってたかのような口ぶり
・拙い技術しか無かったのに(てか当時の造船技術じゃ台風来たらひとたまりもない)
俺達が意図的に手抜きしたからお前らは勝てたんだぞって恩を売る浅ましさ
こういう醜い所はプライドが邪魔して日本人には真似できない。
>>288 いや、朝鮮には朝鮮なりのプライドがあるから、そういう斜め上の言動が飛び出すんですよ。
日本人のほうが素朴で素直な国民だったというか。
>>288 >拙い技術しか無かったのに(てか当時の造船技術じゃ台風来たらひとたまりもない)
>俺達が意図的に手抜きしたからお前らは勝てたんだぞって恩を売る浅ましさ
でも沈んだのは、かなりの部分高麗兵なんだよな
どっちらけなオチが付くのも、かの民族ならでは
>俺達が意図的に手抜きしたからお前らは勝てたんだぞって恩を売る浅ましさ
この説を採用してしまったら、高麗軍兵士達は自殺願望者軍団だったことになるんだが…
スレちになるけど
うろ覚えで悪いんだが7,8年ほど前だったか
この朝鮮のお陰で鎌倉幕府は勝てました論って
TBSの世界不思議発見でやってたなw
当時の鎌倉幕府が蒙古人、華北人、高麗人は皆殺し
宋人は奴隷だけど殺さないでおいたって事実が全てだと思うんだが
うちが昔読んだ本でも
高麗の手抜き造船にこそ感謝すべしと書いてあったよ。
小学生ながら?だと思った。
台風の次は威力偵察、それでもダメなら高麗様の手抜き工事のおかげ
ってところか
ところでwikiの李如松のページがちょっとだけ詳しくなったな
本当にちょっとだけだけど
昔、新書で蒙古襲来の本読んだんだが、
高麗人自身、自分たちの造船技術のつたなさを嘆いてる史料が引用されてたぞ。
生木を乾かさずに利用するから、完成後にひずみが出て浸水するとか。
>>292 てか、高麗の将軍、金方慶の対馬他での非戦闘員相手の「活躍」や、
そもそも戦争の原因となる元の皇帝を煽った、忠烈王(王子時代)の存在を無視して、
よくそんな事が言えるもんだと感心するよね。
297 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 20:38:46
朝鮮征伐
298 :
月孔雀:2010/08/14(土) 09:09:24
結果論だが、秀吉の朝鮮出兵が起こって、その影響から、
日本と中国の政権が倒れてしまった。
結局、存続した朝鮮が、勝者ということになるのかな・・・
299 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 15:58:43
>>298 あぁいう停滞どころか退行したような社会を是とするのなら
そう言う見方もできるかも知らんね。
>>298 長期安定政権と言っても
北朝鮮で過ごしたくない
>>298 韓国はWW2の戦勝国である、我々は復光したのだ、という言説と同じだな。
復光というけど、国土を東西に分断され、政治を軍部に壟断され朝鮮半島はより深い闇に落ちていっただけ。
李氏朝鮮は長期の政体だけど
平凡に暮らすだけの民衆には最悪の体制。
303 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 21:54:39
秀吉が明に勝てなくてよかったと思う。
仮に明制圧→大陸秀吉王朝誕生
とかになっていたら天皇は国王くらいのレベルになったと思うし、
秀吉政権の次の中華王朝が誕生するとき、
日本までオマケで獲られてしまいかねなかった。
>天皇は国王くらいのレベルになったと思うし
秀吉は、後陽成天皇を北京に移そうと考えていたから「国王」ではなく
「皇帝」になっていただろうね。
>秀吉政権の次の中華王朝が誕生するとき、
日本までオマケで獲られてしまいかねなかった。
元が滅亡しても、モンゴルは明に征服されなかった。それどころか
北虜南倭と言われる様に、たびたびモンゴルは侵略を行っていた。
さらに日本の場合「元寇」という前例がある上、モンゴル以上に
征服しがたい地理上の問題がある。日本が奪われる可能性は限りなく
低いんじゃないかな。
305 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 08:30:29
>>304 いや、実際仮に中華を占領する力なんてあったら
秀吉のことだ、王朝を建てるに決まっている。
特に秀吉の生まれた室町期は天皇は権威を利用する存在として価値があったが、
実際、色々祭祀などもできなくなった上、金が無い存在。
そんな天皇に御丁寧に唐土を譲らないだろう。
あと日本には清朝のときもそうだけど海産物や金山、兵隊、行き渡った田園など
利用価値は十分にあった上、すでに日本人が開拓した地だから手に入れるとウマーだったはず。
何言ってるのかよく分からんけど、天皇はとっくの昔に皇帝になってるし、
天皇を北京に移すことと中国を天皇に献上することとは全然同じではない。
307 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 09:45:18
献上とは言ってないんだが
308 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 10:03:40
■韓国併合と創氏改名の真実
創氏改名は昭和15(1940)年から施行された制度だ。「内鮮一体」のスローガンの下、朝鮮人を日本人と対等にするため、
従来あった朝鮮式の姓を残しながら、日本式の氏をつくってもよいという届け出制だった。
朝鮮総督府の南次郎総督も「強制してはならない」と再三、訓令を出している。結果的に80%が創氏し、これに合わせて
名前も日本式に変えたのが「改名」だ。
創氏改名した人とそうしなかった人の差別はなかった。マニラのBC級戦犯裁判で処刑された「洪思翊」という朝鮮の
軍人は朝鮮式の姓名を通したが、陸軍中将にまで上りつめている。
言葉についても、学校では日本語を使うよう指導されたが、家庭や市場、鉄道などでは、朝鮮語が一般的に使われていた。
「言葉を奪い」は不正確な表現だ。
また韓国紙は依然、日韓併合条約が当初から無効だったとする主張を繰り返している。
2001年に米国で開かれた国際学術会議で、欧米の国際法学者らは次のように指摘し、韓国の学者の見解を批判した。
「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことだ。
日韓併合条約は国際法上は不法ではなかった」「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914〜18年)以降のもので、当時は問題にならない」
米国の女性歴史家、ヘレン・ミアーズ氏も著書「アメリカの鏡・日本」で、「日本が韓国を併合したのは、新皇帝(純宗)が請願したからだった。
…列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法的手続きを踏んでいなかった」と書いている。
韓国紙の主張は韓国で通用しても、世界では通用しない。
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100904/kor1009040315001-n1.htm
309 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 17:34:51
当時の女真と日本を比較して、
李如梅 「倭兵30人で女真1人に敵すべからず」
ということらしい。
実際、日本にコテンパンにやられたんで、負け惜しみだったんだろう。
倭兵と満兵が個人戦やった記録ってあるのかな?
清って女真の子孫だろw
>>306 中国大陸では皇帝はこの世に二人もいないんだよ。
皇帝は中華帝国を支配してる者だけ。
連れてこられた陶工は実は喜んだ。半島では賎民扱いだったが、日本に
来ればいっぱしの職人だ。朝鮮征伐、もっと肯定的に語りましょう。
朝鮮半島を思いのまま蹂躙して、連戦連勝、奴婢の解放とか、当初は朝鮮土人
にとっていいこともあった、明国征服は失敗したけど、大した被害もなく帰還
結果として朝鮮は荒廃しちゃったけど、それは自業自得の面もあるし、まあ
おあいこだろう、日本は江戸の平和を謳歌することができました、よかった
と明るく語りたいものだ。
>>314 無知乙
中国で皇帝が複数乱立したケースなどいくらでもあるわ。
さらに言えば、中国人の勝手な考えなど他国民は知ったことではないw
>>317 それって中華帝国の支配を巡って群雄が皇帝を名乗ってただけ。
中華帝国内で自分を権威付けるために群雄が「皇帝」を名乗るのと
日本の天皇が中華帝国内の皇帝と同等とみなされるのはわけが違う。
だからこそ、異民族の中華支配者たちは、漢化し中華帝国内で中国的
な「皇帝」として権威を保とうとした。
319 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 13:33:53
320 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 22:03:37
こりゃまた痛いのがわいてきたな。
シナ人が認めようが認めまいが、ツアーリもカイザーも天皇も皇帝。
シナ化しようがしまいが、シナの地に帝権を打ち立てていればそれは皇帝。
島津が僅か二人の損害で十万人以上(明側の報告書で八万人)を討ち取ったシ四川の戦いは、世界的にもっと評価されて良い
侵略戦争だっただけに決して誉められる事は無いが
>>320 何を言ってんだか。仮に明を征服したらというお題に対して漢人の視点を
省いてどうするんだ?
ん?
住民の視点がどうしたって?
当時の中国は民主主義国家だったのか?
これは斬新な視点だね。