1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:46:53
>>1乙
で早速だが…
前スレ>994 縄文人 のアホへ
(まあ以下は前スレ>998で既に指摘された事と被るがwwww)
九州に十万戸、数万戸のクニがゴロゴロ
畿内には万戸未満のクニばかり…
だったら畿内と九州じゃあダブルスコア、トリプルスコアで人口の差がついていなければおかしいんだがwwwww
無論そんなデータ見たことも無い。
脳内ソースの話はやめてくれいい加減うんざりだw
それに仮に人口数をクリアできたとして
そこにそれだけの人口を囲い込むクニがあったかどうかは別の話
だから
>>964で
>そこに大きなクニがあったことを示す考古学資料をもってきて説明してからにしろ
・・・と言ったんだがwwww
少なくとも纏向は従来の 中心集落とその周辺の集落 と言うモデルで成り立つ遺跡ではない。
いやでもかなりの広範囲(舟運のメリットを考えれば河内まで至る大和川水系を想定できるだろうが)
の勢力範囲を考えざるをえない。
九州説のアホが喜んで指摘する農耕に適さない立地
一次産業従事者の居住跡が殆ど見つからない発掘状態etc・・・
逆にそれらはいかに広範な勢力範囲であるかを示す材料になるんだが
この板の九州説の連中はそれすら気付かないアホばかりwwwww
1乙です。
4 :
縦目仮面:2009/07/23(木) 23:04:21
ていうか、この人は自分が聞きかじったことしかレスにならないんだよな。年輪年代批判
はまあまあ妥当としても、どうせ「季刊 邪馬台国」の安本御用学者の批判文だろ。自分で
そういってた。どんな方法論に対しても、それなりの批判はできるものだからな。
ところが、いざ自分の考えをいう段になると無根拠のバカ丸出し。「1月 100km〜150km
行程説」でも「筑後川流域およびその南部一帯は佐賀南部も含めるとゆうに10万戸を養える」
このバカスレでも、どうやって信じろというんだよ。人口をいうなら、せめて俺が最後に貼り付け
た鬼頭宏説ぐらい読んでからにしろよな。wwww
5 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:25:41
6 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:30:38
弥生時代の人口急増は、もちろん卑弥呼共立により各地の環濠が消え、集落が拡散し始
める時期。
高地性集落の変遷は面白い
まず、近畿辺りで起こって消滅するのも近畿が早い
波紋のような変遷なんだ
8 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:03:06
高地性集落は、2世紀頃の九州勢力東遷の影響下に発生したとする説もありますが、調べ
れば調べるほど、そうは見えなくなる。
9 :
ローガン:2009/07/24(金) 00:16:37
縄文氏。まあ、国家形成の黎明期…その画期を古墳の始まりに見ようと言う訳ですから、論点は「実年代が何時か?」って事だけでしょう。
サイキバ君たちよりはまともな議論になるかと…
10 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/24(金) 00:26:59
前スレ
>>962 あのブログは邪馬台国関連のことしか書いていないし、
最後の「まとめ」を読んでもらうだけで説の概要は理解してもらえると思っているのですけどね。
詳細を知りたいと思えば、ブログなのだから逆順(古い順)に読んでもらえれば、
ちゃんと順を追って書いているので分かると思うのだけど。
どうして再構築?などという話になるのか良く分からないのです。
とはいえもう2年も前に書いたものだし、しかも倭人伝かじって3ヶ月程度で、
今は若干変わっているところもあるから、書き直したい気持ちもあるのですけど、面倒・・
>>977 九州王朝大好きさん
観音峠ルートはおそらくそうだったと思っていたのですが、アク禁で確認できなかったので。
ありがたく使わせてもらいました、ありがとうございます。
11 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:28:49
九州は、すでに掘り返してみたものの、何も出て来なかった。
この時点で、すでに九州説の可能性はかなり低くなった。
それに対して、畿内の古墳は天皇陵に比定されたがために、未だ手つかずの状態のまま放置されてる。
どちらが有利な状況にあるかといえばやはり畿内。
>>10 読んで見たけどやはり根本的に
北部九州に邪馬台国や投馬を
比定している時点で無理がある。
人口の問題はどうしょうもないですよ。
当時の出雲や丹波の事も調べてみたら?
13 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:51:51
>>8 日本の船は、かなり古い時代から遠くまで出かけていた。
たとえば、倭奴国の王は後漢にまで出かけて朝貢したし、貝輪等から
沖縄とも交流があったことがわかっている。
三国史記からも、日本の船団が朝鮮半島に出かけていた様子がうかがえる。
それに比べると、瀬戸内海なんて、内海みたいなもので、相当、活発に船が
往来していたに違いない。当然、戦乱、攻防もあっただろう。
高地性集落はその名残ではないかと思う。
高地性集落が防御性の集落であることを考えると、九州に高地性集落が極端に
少ないことは、なにやら示唆的だと思う。
>>13 それはやっぱり海を渡ってきた連中だと思うよ。
日本からも渡れるのなら、当然大陸からも来れるからね。
15 :
前の935:2009/07/24(金) 01:01:57
二 ◆.L.MXSPOgcや九州王朝大好きか。どっちも「トンデモ読み」だな。
日向説に対抗できる話ではない。
16 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:12:46
>>14 残念ながら、海を渡って誰かが日本にやってきたという記録は残っていない。
17 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:13:40
東京大学名誉教授である埴原和郎氏は、縄文末期から弥生時代(さらには奈良時代まで)の
人口増加率があまりにも高いことに着目し、この計算で得た0.427%という増加率は、近代以前
の社会でもあまり例のない高さであり、増加は内在的なものだけではなく、日本列島外からの
移住によっておこったと考えた。そこで弥生時代開始を仮にBC300年とし、それから奈良時代ま
での1000年間についてシミュレーションしたところ、最大で300万人、少なく見積もっても100万人
という大量の人々が大陸からやってきたという結果を出している。
18 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:15:35
記録はなくても、それを推測させる遺物はあるよ。例えば画文だ。
20 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:26:27
倭人伝当時、半島南部にも倭種の人々が住み、九州北部との国境はないも同然だったろう。
国内移住をわざわざ記録に残すまでもない。
21 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:36:05
ところが、晋書によると、倭人は「自謂太伯之後」とある。
太伯というのは、ずっとずっと昔、紀元前11世紀か12世紀に江南にいた人物。
倭人は、自分たちのルーツは江南地方だと思っていたらしい。
面白いことに、南九州には、太伯の伝承が残っている。
22 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:37:17
>>2 そうだよなあ。
無 人 都 市 マ キ ム ク
を無理やり都市に仕立て上げてきた連中は、本当に酷いよなあ。
人間性を疑われても、仕方ないよね。
23 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:40:38
>>17 明治の初め頃から、昭和50年頃までのたった100年で、日本の人口は8000万人も
増えている。このうちどれくらいがよそからやってきた人口なのかな。
NHKで、ETV特集「日本と朝鮮半島2000年(1) 古代人々は海峡を越えた」ってのをやってるね。
25 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:43:42
>>21 南九州に残っている太伯伝承ってどんな伝承?
26 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:44:06
>>17 それでは、九州全域と出雲などの日本海側に高地性集落が出来るはずなんだよ
明らかに畿内を中心とした瀬戸内から始まってる
遺跡出土品も大陸や半島からの影響があるものは、その頃では殆ど出ない
4、5世紀になって変化があるが、そのころは三韓征伐以降だ
27 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:45:53
>>25 宮崎県の諸塚山には、太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという
伝承がある。
また、鹿児島神宮には、全国の神社で唯一、太伯が祀られている。
ということらしい。
28 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:47:03
>>17 考古学的には完全に否定される考えですね。
弥生時代を通して九州の遺跡での外来土器の出土割合からは、
集落の5%以上を渡来人が占めていた時期が存在しません。
むしろ、弥生遺跡の出土が増えたことで、急激な人口増加を想定する
必要がなくなっています。
29 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 01:49:15
>>24 NHKの古代史の放送は最近非常に評判が悪い。
韓国の歴史観そのままの番組を作っている。
2チャンでも非難ごうごうだし、台湾関係者からは抗議も出ている。
30 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 02:17:50
>>28 渡来人が土器を持ってくるか? 渡来人だって在地の土器を使うだろ。
31 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 02:46:58
神武一派のように最初は移住ではなく軍事的侵攻であったから
土器は持ちこまかったとしても変ではない
現に神武の奥さんは日向に残ってる
が
海外から移住してきた連中は村単位で移住してくるのだから
持ち込むし、また現地で彼らの作ってきた土器を作るはず
全く事情が違う
外来土器には渡来人移住後の現地生産品も含まれるって事?
33 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 02:57:43
そういうことだよ
何か問題でもある?
外来土器って聞いて、まず外国で生産されたものを思い浮かべたから
定義を確認しただけ。あと、俺は
>>30ではない。
35 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 07:39:35
>>31 村単位で移住してくるなどというのがかなり無理な想定だな。村人全部で故郷を捨てて
新天地を目指そうなんて話ではないだろう。
戦いに敗れ逃げ場を失い、やむを得ず倭国に渡ってくるといったことも多かったはずだ。
ブラジル移住とか満州移住とかほらそんな感じかもよ
実際に神武東遷があったとは思えないけど。
38 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/24(金) 11:38:55
で、箸墓の西側の地名が「豊田」「豊前」なのについては
皆スルーですか?
箸墓は案外トヨの墓なんじゃないの?
トヨタン・・・・・・・・・・
箸墓所在地は昔は「出雲荘」でもあったのだが
その中に「大西」という地名があって、
小字で「ヲナンジ」というのがある。
これは昔の地図で確認すると「オオナムジ」となってる。
出雲との関係が深いのは確実だしな。
まあ重要な墓である事は確実でしょう。
42 :
縄文人:2009/07/24(金) 12:27:31
俺が留守してる間に勝手なことをほざいてるな。
縦目仮面よ。おまえも少しは勉強していることは認める。だがな 鬼頭宏説を
おまえは全面的に信用していないよな。遺跡数から推定するとはどういうこと
だ。古代の当時存在していた住居の何%が現在発見されているのだ?遺跡から
居住人口を推定する根拠は妥当か?おまえも当然そういう視点をもって鬼頭宏
説を見てるよな。おまえの意見は?あの数字でよいのか?
魏の曹操は百万の大軍を動かした。軍人は住民の全てではないぞ。全住民の10%
にも満たぬだろう。國が攻められて滅亡するかも知れぬ緊急事態なら剣をとれ
る者なら戦に参加しただろうが、征服に行く場合は、若し負けて軍人を全て失
っては再起も適わぬ、当然國に予備軍を残しておく。むしろ予備の方が多い。
そのような大国(曹丕の時代はもっと大きくなっていた)が総人口60〜100万
の倭国を相手にするか?伝統的に半島の支配を目論んでいた中国(魏)が高句
麗や新羅の勢力に手を焼いていて倭に背後からの牽制を期待するなら、それ相
応の軍事力の存在を認識していた筈ではないか。それが総人口(日本列島全体
の)60〜100万では話にならんだろ。
鬼頭宏説を信じている馬鹿な奴らに言ってやれ。何の根拠もないと。大陸北東
部や半島に比べて気候温暖、多雨で稲作に適していた九州の人口は2万戸、5
万戸、7万戸の人口など容易に養える生産力を有していたのだ。畿内説の馬鹿
どもはおまえの引用したグラフに惑わされ、これを論の根拠にできると信じて
いる。愚かなことよ。早く目を覚ませ!!
43 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 12:27:48
>>39 「豊田」は明治19年(1886)に新しく付けられた村名。
また大西という土地には「お綱祭り」なんて行事もあります。
2/10〜11日にかけて行われるのだが、
大和川の上流からスサノオとイナダ媛が流されてきて
この地区で結ばれたという伝承です。
奈良や河内を問わず、大和川流域には何故かこの手の言い伝えや、
川で龍が暴れるといった話が多いのは何故でしょうね。
>>42 横からだけど、まともな見方だと思うよ。
倭人伝が伝える倭国の総戸数は15万戸+α 総戸数20万戸ぐらいだろう。
それが九州の全部。人口にすれば百万から百五十万だな。
何処がまともだよw
47 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 15:50:44
>>42 縄文人
馬鹿丸出しだなw
弥生時代、九州が他の地域を圧倒して人口が多くなかったことを示すデータなんて別に鬼頭だけじゃなし
つうかこの縄文人とか他、この板の九州説の連中の妄想に適合するデータなんて見たことが無いw
ちなみに俺がだいぶ以前に別スレに貼ったもの・・・
>ある資料(泉拓良・西田秦民編 1999)によると弥生時代の地域別人口密度として
>東北 0.50
>関東 3.20
>北陸 0.85
>中部 3.07
>東海 4.50
>近畿 3.33
>中国 1.80
>四国 1.61
>九州 1.56
>全国 2.04
>( 単位:人/ku )
ついでにもう一つ・・・
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04suidenninasakunotourai.html まあ、こんなデータ見ずとも弥生時代の全国の大小の環濠集落の分布を考えれば
特に九州が人口密集地で無いぐらい分かりそうなもんだがwwwwww
この板の九州説論者のウリナラ起源説的メンタリティーはいかんともしがたいwwwwwwwwwwww
48 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 15:57:15
まあ何かの参考までに・・・
以下のサイトで吉野ヶ里と四国松山の文京遺跡とで建物密度比較している・・・
>
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/syuraku/syuraku.html >文京遺跡の最大の特徴は、建物の密集度が非常に高いということです。
>特に12次・14次・16次調査では、わずか0.45haの中に約100軒の竪穴式住居が見つかっています。
>吉野ヶ里の例では、発掘面積30haで300軒です。
>しかも、吉野ヶ里が500年間であるのに対し文京遺跡がわずか150年間であることを考えれば、いかに密集状態にあるかがわかります。
九州の集落が特に人口密度が高いなんてことは無いんじゃないかな?w
49 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 17:56:19
鬼頭宏氏の人口推移グラフの、縄文・弥生時代部分は上リンクの、国立民族学博物館、
小山修三氏の研究をもとにしたものだろう。これは吉野ヶ里発掘以前の研究で、発掘後は
氏の意見も弥生末期で100万人以上と変化してきているようだ。
>弥生時代の人口は遺跡からの計算では約60万となった。ただし、弥生時代の遺跡の重
み付けを関東地方の遺跡からとったため、全体量が低くなりすぎたようである。その後の発
掘によってわかった、吉野ヶ里遺跡をはじめとする西日本における弥生集落の大きさを考え
ると、弥生末期には100万を越えていたのではないかと考えている。
しかし増加率からグラフを統計的にどうひねくっても、弥生終末で150万が上限。
50 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 18:40:49
弥生時代ってのは、少なくとも600年以上続いているんだよ。人口なんてものは数十年で倍増
なんていくらでもある。600年ならば何倍になるか分かったものではない。
それに、九州だけが多かったなんて言ってるんではないよ。列島全体が多かったんだ。遺跡など
を基にした推計が当てにならんということさ。魏志によれば、韓の馬韓は十万余戸、弁辰は四、
五万戸だ。それとの対比で、九州二十万戸は十分に考えられる数字だ。
51 :
縄文人:2009/07/24(金) 18:58:00
>>47 馬鹿丸出しはおまえだ。何だ おまえの示したデータの信憑性を自分で検証してものをいっとるんか?
遺跡というのは全て発見されるものじゃないことぐらいおまえにでも分るだろうが、いったい何%が
発見されていると言うのだ?それに人口密度だけが人口の数を決めるものじゃないことも分っとるだ
ろうな。居住地が広く分布していることも重要だ。そういう条件は食料生産可能地の面積にもあるの
だ。それよりも何よりも、魏がわざわざ使節を送ってくるほどの大きな國(当時の半島や日本列島に
おいての)であることを重視しろ。國の大きさは人口(つまりそれは食料その他の生活物資が十分に
調達できるということに支えられている)だ。九州には100万の人口でも養える耕作適地があったの
だ。畿内にはそのような条件は存在できなかった。おまえらはほんとに馬鹿だな。
52 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 19:18:45
うくく、また出たな縄文爺ww 鬼頭説は内閣府白書の基礎データとしても用いられるものだ。
それを突き崩すなら、ちゃんと根拠を出せよ。お前がいってるのは、「九州には豊かな平野
がある」 ただそれだけ。
何度も同じレスをさせるなよクズ。前スレでこう書いてたな。
>これは地理、地勢、地質学的見地から言えることだが・・・
ほら、ちゃんといってくれ。数式を出せよ。計算式を出せ。論理的根拠を、誰もが納得いく
ように出してくれ。できないんだろう。「豊かな平野がある」くらいしかいえないいんだろう。
鬼頭人口推移グラフは、それぞれの時代ごとにつなぎ合わせたものだが、乳幼児死亡率
の高い時代の人口微増傾向に合致してる。
さ、次レスで独自の人口計算式を出せなければ、「縄文人」はいよいよバカ決定。
九州は大人口を養えて、畿内は養えないと言い張る根拠は?
54 :
縄文人:2009/07/24(金) 19:24:06
>>49 >しかし増加率からグラフを統計的にどうひねくっても、弥生終末で150万が上限。
信用できない(資料価値のない、信憑性のない)データやグラフを使って統計的に考えるとはどういう
ことだ?資料でものを言うのはよいことだが、資料の信憑性を検証せずにものを言ってもだめだろ。
55 :
縄文人:2009/07/24(金) 19:33:37
縦目仮面よ。おまえを買いかぶったのは俺の一生の不覚だ。鬼頭説は内閣府白書の基礎データとして
も用いられるものだ とは呆れてものも言えんな。おまえも権威(見せかけだけどな)に弱い、自分
の頭で考えられないアホだったか。人口計算式など出せる訳がなかろう。遺跡の発見率も分らぬ、出
生率も分らぬ、一戸の平均人数も分らぬ、平均寿命も分らぬ 分らぬことばかりではないか。それに
もかかわらず人口推計を出した奴はどんな頭の構造をしているのだ?アホか。
権威に弱い…魏史倭人伝だって思いっきり権威側の文献なんだよなw
57 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 19:51:15
>>51 縄文人
結局この縄文人と言うカスは出てくるデータに
「そんなもの信用できない」
と言い己の人口論の根拠はてめえの主観だけw
チラシの裏にでも書いておけドアホがwwwww
それに冊封を対等な外交とでも思っているのか?この馬鹿はw
それに魏が相手をできるだけ大国である事を優先したのなら
九州のみの勢力ではなく、より広い地域からなる勢力を選ぶことになるだろうなwww
わざわざ畿内説に有利な条件を提示してくれるんだから
馬鹿は馬鹿なりに使えるのかな?wwwwwwwwwww
58 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 19:51:33
おやおや、お話のすりかえですか。かわいそうな人だ。まず、古代の人口推定はきわめて
難しく、計算でしか出せないものだ。しかも、計算してもお前が前スレで否定した、c14や年
輪年代以上の誤差が出るだろう。だから、俺は鬼頭グラフも全面的に信頼はしていないが、
それでもお前の脳内作文よりは100倍マシ。
俺が批判してるのは、おまえのレスに根拠がないこと。前スレでお前がいった古墳年代や近
畿土器編年が100年新しくなる(同じことなんだろうが)根拠を、「優秀な若い考古学者さんに
期待します。」とか寝ぼけたことをいって結局ははごまかしただろう。
今回も同じかよ。クズ。
59 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 19:57:44
>遺跡の発見率も分らぬ、出生率も分らぬ、一戸の平均人数も分らぬ、平均寿命も分らぬ
分らぬことばかりではないか。それにもかかわらず人口推計を出した奴はどんな頭の構造
をしているのだ?
うくくくく、この二つが同じ人のレス。
>筑後川流域およびその南部一帯は佐賀南部も含めるとゆうに10万戸を養える農業生産
力のある平地があるぞ。熊本平野にしても7万戸どころではないぞ。都城盆地だって2万
戸はゆけるぞ。日向地方だって5万戸は固いぞ。宇佐地方だって万戸は下らないぞ。
特に下の方のようなことは俺には絶対いえない。なぜなら俺にしても根拠の出しようがない
からだ。
60 :
ローガン:2009/07/24(金) 20:04:46
>>55 > 分らぬことばかりではないか。それにもかかわらず人口推計を出した奴はどんな頭の構造をしているのだ?アホか。
ああ可笑しい。面白い人ですね。
61 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 20:09:39
それとも、俺が適当に瀬戸内、四国。近畿の平野部に3万、5万とか当てはめていってもよ
いのかな?・・・大きな連合国だなあwww さぞや魏も外交のしがいがあったろう。
(繰り返すが、俺はこんな不確かなレスはしない)
もうどうでもいいよ。畿内も九州も何もわからない事は同じなんだから。
いくら言い合いしても泥試合。
まあ邪馬台国論争なんて
畿内説で決着した終わった話と言うのが
現実なんだが・・・
64 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 20:27:10
>>55 >それにもかかわらず人口推計を出した奴はどんな頭の構造をしているのだ?アホか。
でお前はどんな人口推計をしたんだ?
積算根拠は?w
65 :
縄文人:2009/07/24(金) 20:31:19
縦目仮面とその同調者。おまえらはほんとに馬鹿だな。人口推計を遺跡の数から出すのと農業生産力
(耕作可能面積)から推定するのとどちらが合理的だと思うか。俺が分らぬことばかりと言ったのは
鬼頭説の根拠について述べたことだ。それを農業適地面積のことにまで拡大解釈しやがって、全く頭
の悪い奴らだ。水田を拓ける平地の面積などお前ら地理、地勢の面から調べたことがあるのか?
屁理屈ばかり言いやがって おまえらはクズだ。
66 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 20:41:56
>>65 なるほど、よ〜〜〜〜くわかりました。平野の面積や気候条件、地質等から食料生産量を
はじき出したんですね。そこに人がいたかどうかは別問題であると。うくくくくくく。
もうよせば、レスすればするほど頭の悪さが剥き出しになるぞ。
>>65 縄文人
九州のどこに邪馬台国があったと思うの?
まずは、それをいわないと議論になりません。
68 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 21:00:38
つうか単純に平野の面積から算出と言うのなら
九州が他地域を圧倒する人口を擁していたと言うのが
ますますもって分からないわけで・・・
この縄文人ってハクチなのか?w
69 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/24(金) 21:03:44
>>65縄文人
正論だな。まともなことも書けるんだ。
関係ないが福岡がえらい事になってるな。
71 :
縄文人:2009/07/24(金) 21:14:45
>>66 おまえも頭の使い方を知らぬやつだな。人は豊かさを求めるものだ。金融や株などの不労所得などなか
った昔、豊かさを求めるには生産をするしかなかったのだ。耕作適地があれば人はそこを拓くだろう。
厳しい冬を乗り切るには穀物の貯蔵が必須だったのだ。古代人の生活を想像すらできぬおまえには分ら
ぬことかも知れぬが、耕作適地の多いところに人は集まるのだ。わざわざ耕地の少ないところに人が
集まるか?ドアホ。おまえらとは話にならぬ。もうおまえらの笑い話は十分に聞いた。これから俺は
友達と一杯やりながら世界情勢など優雅に語りあうのだ。おまえらは子供どうしでヨタ話を続けな。
ほなな ♪♬♪♩♯♪♬♫♪
72 :
縦目仮面:2009/07/24(金) 21:21:53
73 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 21:24:30
まあこの縄文人なんてタイプのアホはこの板じゃあ腐るほど見てきたわけでw
結局のところ
「古代の九州は他を圧倒する先進地域!」
「魏志倭人伝の記述は正しくそれは九州について書いてある!」
・・・と言う 病的な 思い込みの脳内ソースが根拠www
もうホントに「東遷説」とか「九州王朝説」とか
あるいはそれらに準ずるものは消えてくれないかなあ・・・
もう邪馬台国論争とかの枠組みを超えてトンデモまっしぐらだし・・・
しかし、悲しいかな、この板の九州説は実は殆どそれらで占められていると言う現実wwwwwwwwwww
>>73 そんな屁理論しか展開しないから、畿内論は胡散臭いままなんだぜ。
w多用・無意味な改行の時点で十分ダメだがね。
結局両論者も同じ事しか言っていないという不毛のスレだし、逆もまた真なりだ。
「古代の九州は他を圧倒する先進地域」
「古代の畿内は他を圧倒する先進地域」
「魏志倭人伝の記述は正しくそれは九州について書いてある」
「魏志倭人伝の記述はいい加減で実は畿内について書いてある」
75 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 22:11:03
東遷説否定するのなら天皇の出自全てが嘘になってしまう
なぜなら、最初の王だからだ
魏志倭人伝にもちゃんと書いてある
なぜに否定するのか、その根拠を聞いてみたい
76 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 22:15:46
俺が推測するに、朝鮮人達は東遷説を否定するため
そして
九州説が圧倒的に不利になったために
畿内説に寝返ったと見てる
死ね、朝鮮人
しかしアレだな、九州説も畿内説も突っ込まれて困る質問には答えずお互いの粗捜しばかり
これじゃあ幾らスレが進んでもまともな議論にならないよな
九州説は議論にもならないのが現実でしょ。
まず対象をもう少し絞ってからの話。
国歌国旗愛国心だの言ってるくせに、箸墓ひとつマトモに発掘調査しない国ってもう終わってるでしょ
81 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:07:36
>>80 「民をもって寄らしめよ、知らしむなかれ」
…これがこの国の為政者の基本スタンスだよwwwwwwwww
82 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/24(金) 23:09:28
>>77 >しかしアレだな、九州説も畿内説も突っ込まれて困る質問には答えずお互いの粗捜しばかり
>これじゃあ幾らスレが進んでもまともな議論にならないよな
「九州説、畿内説」 なんてどうでも良い。
二つに分けて議論しなくてもいよいのではなかろうか。
83 :
ローガン:2009/07/24(金) 23:29:30
84 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:33:42
一つ一つの論点で最も妥当だと思う答えを出す。
その積み重ねで最後に結論を出す。
これが最も正しい方法。
畿内説は、最初から結論を出している。
その結論に合うものだけが正しくて、合わないものは間違っているとする。
これが日本の古代史をゆがめている。
>>84 畿内説も最初から結論を出している訳ではないよ。
箸墓がそうではないか?とするまでには
当然過去に色んな過程がある事を忘れないでね。
みんなというか、まともな人なら結論が無いことぐらい知ってる
取り合えず、池に小石を投げ込んで見るのさ
ぽちゃっと音がする
それだけなんだよ
87 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:45:01
まあ、ある意味において畿内説なんてのは非常に脆弱な理論だよなw
決定的な物証じゃなく状況証拠の積み上げに頼っているようなもんだからwww
それでも現在
「邪馬台国論争なんて畿内説で終わっている話」
なんて言われるのは
その脆弱な畿内説以上に説得力が無いんだよなw
まあよく言われる
「九州説は候補をもう少し絞ってください」
と言う皮肉にそれが表れているwwwwwwwwwwwwww
88 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:45:18
>>64 魏志によれば、韓の馬韓は十万余戸、弁辰は四、五万戸だ。それとの対比で、
九州二十万戸は十分に考えられる数字だ。
対馬と一支国の戸数は合わせて四千戸。二つの国の面積は合計830平方キロ、
九州島はその44倍の37000平方キロ。四千戸の44倍は17万4000戸。
九州に二十万戸というのは分かるだろ。
90 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:59:06
>>88 はあ?
対馬は「千余戸」で
一支国は「三千許 家 」だろ?
家=戸なのか?
同じ単位とした場合
壱岐は対馬の3倍か?
面積からしておかしくないのか?w
そのくせ九州全体と面積の比率で計算してるしw
もっとも九州全体の面積って九州山地も何も一緒くたにしていると言うのが馬鹿馬鹿しい話でwww
91 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 00:24:28
>>90 あらら、一般に戸=家と解釈されていることを知らんのかね。
それに、対馬と壱岐では今でも壱岐の人口密度の方がかなり高いんだよ。
九州山地を一緒くたにしているというが、対馬や壱岐にも山はあるだろ。
92 :
90:2009/07/25(土) 00:38:38
>>91 まあ単純なお話
正方形を思い浮かべれば簡単だと思うが
中央が山地で平地はその周辺部に広がるとする。
一辺が1mの正方形なら周辺は4m
平地はその長さ(海岸線?)に比例するとする。
□
で面積4倍の一辺2mの正方形の場合
周辺は8m。
□□
□□
面積は4倍になったが
周辺長は8m÷4m=2 2倍にしかならない。
(これが三次元なら同じ形なら表面積の割合が減少するって話)
また小さな島であればそこにできる山も標高もそれなりにしかならないだろう。
単純な面積比は意味が無いぞw
93 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 00:46:54
何が言いたいのかなあ? 小さい島の方が人口密度が高いってのかな?
現在の対馬、壱岐と九州本島の人口密度を比べてみたのかな?
屁理屈こねる前にやるべきことがあるだろ、わかっるかな?
94 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:02:53
流石に現在の人口モデルをあてはめろって言われてもねえ・・・
そんな事を言うのなら畿内・関西はどうなるって話で
元々この話ぶち上げた縄文人が言うような
九州が他地域を圧倒するような人口モデルなんて
描きようが無いなwwww
しかし「九州だけで余裕で100万人説」ってのは相変わらず根強いんだなw
96 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:25:18
>>95 考えてもみろよ。畿内説も北九州説も伊都国や奴国を玄界灘沿岸にはりついて
いた国だと考えているんだろ。それで、奴国2万、伊都国1万戸(魏略の数字)
だ。それでは、筑紫平野に何万戸を想定するんだ? 熊本平野は? 大分は?
川内平野は? 宮崎平野は? ある程度の平野に2、3万ずつ想定してもすぐに
人口百万になるはずなんだよ。
>>96 九州だけで考えようとする時点でどうかと思うけどな。
98 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:40:04
だったら同じように本州、四国についても考えてみればいいじゃないか?
そして、全体の総戸数がどの程度と想定できるかを考えるんだ。
倭人伝が伝える倭国の総戸数は、15万戸+α、だいたい20万戸前後だろ。
本州、四国を入れてそれと合うかな? 合うわけはないだろ。
>>98 あのね、倭で無い国、対抗してる国、
魏と通商してない国もあるんだよ。
まず3世紀末の時点で北部九州とも交流が深かったはずの
本州西部分をスルー時点で論外だと思うけどね。
ヤマト王権(笑)
7人の娘がいただけでもう7万戸なわけだが
102 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 06:52:59
>>98 倭でない国ってどこだ? 対抗している国とは?
倭は魏と通商していたのか? そんな説は、初めて聞いたよ。
本州の西が北部九州と交流が深かったはずなんて単なる思い込みだ。
何の根拠もないじゃないか。仮に交流が深かったとしても、交流があったからと
いって倭国になるわけじゃない。
>>101 このスレに欠けている、何かとても大切なコトを思い出しました
>>102 一々説明しないが、倭人伝の書かれた時点(三世紀後半)で
九州だけで解釈を成立させようとする事は、
現状の各地の遺跡や出土状況からではあり得ないでしょうね。
106 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 10:18:32
>>104 私がこれまで研究してきた遺跡や出土品で、九州説に障害になるようなものは一つ
もありません。かえって、九州説でなければ説明が難しいものが沢山あります。
107 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 10:19:15
>>98 15万戸という数字は陳寿が訪問した国だけを合算した数字。
それらの国が倭国を構成するすべてかどうかは分からず、それ以外にも
陳寿は訪問しなかったが女王国に従属している国が存在していたということも
考えられる。
九州説の人は15万戸ぐらいの人口は九州全土で十分に養えると言ってるが、
女王国以南には、狗奴国のほか、女王国に属さない国がまだまだ多数ある。
ここの九州説の人が主張するように、女王国が有明海にあったとすると、
熊本県以北の九州島だけで15万戸の人口があったということになり、
それはなかなか厳しい数字ではないかと思う。
109 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 11:40:21
私は畿内説派ですけど、誰か賢い人教えて!
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、
あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。
東南のかた奴國に至ること百里。
東行して不彌國に至ること百里。
と書いてるのに『三国志』魏書東夷伝倭人条はなぜ、邪馬台国の時は距離(旅行時間)を区切ってるの?
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
↑
邪馬台国→洛陽or洛陽→邪馬台国までの総距離を最後に書いたとも解釈できないか?
>>109 サイキバ君。
いっぱい文字を書けて良かったね。
111 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 12:01:43
>>108 何もないでしょう。例えば何があります?
112 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 12:08:44
>>109 距離(旅行時間)を区切ってるとはどうゆう意味かな?
あなたが区切って読んでるだけでは? 南、邪馬台国、女王の都する所に至るには、
水行十日、陸行一月。こう読んでいいんだよ。
>>111 倭人伝からは距離、方角から人口、そして伊都の存在。
また候補地の複数存在から地勢、地理的要因、出土品、
九州以外の古墳との関係…まぁほとんどだな。
114 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 13:33:04
まあ、具体的な趣旨が分からなければ返答のしようもありませんな。
115 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 13:53:08
要するに簡単に言えば九州説の連中の言いたいのは
倭国とは九州の事なり
関門海峡から東は倭地
倭国王とは九州の王
畿内に如何なる王権が発生していたとしても
それは倭地での出来事
倭国からの範囲外のお話
・・・って事だろう?w
古代中国人が日本の地理に関してそこまで明確な「線引き」をしてたかどうか・・・
関門海峡に線を引くのはどうか。
下関・宇部付近を奴國〜不彌國〜投馬國と考えた方が自然と思われるが。
邪馬台国は宇佐。
117 :
縄文人:2009/07/25(土) 15:25:53
>>79 , 83
賛成。ただ、当事者の一人として一言 私はこちらから罵詈雑言を浴びせて書き込んだことは一度も
ない。相手に汚い言葉を使われた場合にのみ報復としてアホなどの悪罵を浴びせ返している。土産を
貰ったら必ず相応の返礼をすることがわが一族の古来からの習慣なのである。畿内説派の方でも節度
ある書き込みをされたら私も節度ある返答をしているつもりだ。なお、私は畿内説派でも九州説派で
もない。私はいかなる派閥にも属しない。是は是、非は非とする立場である。これまでは畿内説派の
方々の論があまりに生意気というか、自分達の方が学問をよく知っているみたいな態度で、つまり傲
慢な、人を見下した態度でものを言っているので、その化けの皮を剥がしてやろうと、奈良盆地の地
理地勢関係の書き込みや年代測定法の問題点などをぶつけてみたのである。案の定、満足な返答は得
られなかった。罵詈雑言を書き込むだけの内容のない書き込みだけであった。私が指摘した問題点は
畿内説が成立するためにはクリアーしなければならない極めて重要な案件なのである。しかし、これ
は専門家でなければ答えられぬ問題であろう。
九州については、大陸や半島との交通の便や地理地勢の面(食料生産適地の多さなど)、弥生遺跡か
らの出土品の質の高さ(鏡、銅剣、鉄器など)からこの地が技術的、政治的に先進地域になったと考
えられることから、邪馬台国が存立できる条件は満たし得ると考えるものである。邪馬台国がどこに
あったかということは私にはさほど問題ではない。倭人伝は簡潔な記録文ではあるが、簡潔すぎてあ
いまいな点も多い。方角は東西南北の大雑把な区分、距離、日程も読者によって受けとり方が様々に
ある。1日に何里行くかも書いてない。つまり間違いようのない記述になっていない。もしかしたら
著者の意図どおりに解釈できている人がいるかも知れないが、それを証明することが可能かどうか分
らない。物証は卑弥呼の墓あるいは居城の跡であろうが、それが現在残されているかどうかも分らな
い。邪馬台国の候補地ならばいくらもあるが、どれを指定しても反対の声が満ち満ちるであろう。
118 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 15:48:38
まあ俺は別に芸風変えるつもり無いんでwwwww
この 縄文人 と言う ドアホ が馬鹿なのは畿内説が理化学的年代測定によって立つと思って
それを否定したなら畿内説自体を叩きつぶせると思っちゃったところだろうなww
そのくせ自分のよってたつ年代観には何の根拠も示せない低脳ぶりw
今纏向スレでも進行している内容だが纏向と言うのは
わざわざ勾配がきつい扇状地に造られており
仮に当時、奈良盆地の南部一体が湖沼地帯であったとしてもそこに巨大古墳や大溝といった遺構があり
それらを造る労力を動員できた権力があったのは覆しようが無い。
つまり権力の発生が眼に見える形で存在しているわけで
縄文人 の言っている事は意味をなさないw
結果が出ちゃってる物を、条件が悪いからと言っても、その現実が変わるわけじゃないwwwwwwww
ついでに言うと半島に近く大陸半島の文物に恵まれていると言う地理的アドバンテージも
やがて画文を契機に失っていく・・・これも現実。
まあこれを東遷説で説明しよってんだろうがそんな物を裏付ける考古学的資料は無い
なんてことは今更俺みたいなのが言う必要も無いだろうwwwwwwwwww
119 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 15:58:09
>私はこちらから罵詈雑言を浴びせて書き込んだことは一度もない。
前スレ「縄文人」登場時
588 名前:改め (略) 反畿内派だったのかw おっさんww
591 名前:縄文人(略)ドアホ “反畿内派だったのかw”だと?あたりめ〜だ。 だまれ こんにゃろめ!!
605、606 少なくとも罵倒の言葉はないレス。
608 名前:縄文人 おぬしらアホか。
609 名前:日本@名無史さん 陰謀とか言ってるお前が出直せよwww (略)
610 名前:縄文人(略)箸墓の築造を3世紀半ばに持ってこんがための陰謀としか言えんだろうが。ばかめ!!
俺は2chで「クズ」という言葉を使ったのは初めてだが、「縄文人」は人格の低い人間と判断したので後悔していない。
恣意的に抜き出したと思われても困るんで、過去スレ見られる人は見て判断してくれ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1248356456/
120 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 16:01:27
つうか 縄文人ちゃん そのハンドルで書き込んだのが
この板のデビューじゃないよな?w
なんとなくだが以前似たような奴を見た飢餓駿河、器の精仮名?w
121 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 16:06:51
117>方角は東西南北の大雑把な区分、距離、日程も読者によって受けとり方が様々に
ある。1日に何里行くかも書いてない。つまり間違いようのない記述になっていない。
前スレ
643 名前:縄文人 (略)1月休みなしでも直線距離にして100〜150kmというところだろう。
季節は夏、暑い盛りだ。途中で休養したり、雷雨を避けたりしていたらそんなに遠くへはゆ
けないぞ。九州内でなんら不都合はない。こんなことも分らんとは!!(略)
これが同じ人のレス。書けば書くほどボロが出るなあ。wwww それともこの3日で少しは成
長したか?
122 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 16:08:12
結局この 縄文人 とか言う奴の人口モデルは二つハードルがあって
一つは絶対数の問題で
倭人伝の記述を正しいとしそれを九州内でクリアする為に
九州だけで100万人ほどの人口をみなければならない。
もう一つは地域格差wの問題で
九州が他地域を圧倒して人口を擁していたという主張。
こっちは先のものに比べ更にハードルが高いだろうw
全体の数字は今後じわじわ上がっていく可能性はあっても
九州だけが伸びると言う事は無いだろうしwww
123 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 16:17:47
まあね。こいつのいう「食料生産適地」など全国にある。古代米栽培に対する九州の気候
や土壌の適性・・・こういうレスなら拝聴しようと思うんだが、残念ながらそんな頭はない。
124 :
縄文人:2009/07/25(土) 16:31:52
>>118 この書き込みが質の悪い畿内説派の言い分の典型例である。3世紀には古墳が作られるていたと思い
こんでいる。それを証明するものが無いということが分っていない。年代測定法の問題点も理解でき
ていない。大型古墳は排水工事で出て来る土を利用して作られたとする仮説もあると聞くが、この排
水や灌漑などの大型工事には鍬、つるはしなどの鉄器、運搬用モッコなどの物資と工事のやり方など
の技術が必要であった。これらの物資の作り方や技術は大陸、半島から九州に入ってきたものである。
それは置いといて、
<<仮に当時、奈良盆地の南部一体が湖沼地帯であったとしてもそこに巨大古墳や大溝といった遺構
があり それらを造る労力を動員できた権力があったのは覆しようが無い。>>
こんなことが3世紀に(巻向に)大きな権力があった証明になるか?
<<まあこれを東遷説で説明しよってんだろうがそんな物を裏付ける考古学的資料は無い>>
何かと言えば考古学資料と繰り返すが、遺跡は全て発見済みか?物として残らない技術、知識はどう
評価するつもりだ?物であっても工事用木材や縄で作られたモッコなどは跡形も無くなっているぞ。
こういった遺物としては残らないが、しかし当時の人の生活や政治に関係した知識、技術、物は考慮
してはいけないと言うのか?本来はこういうものの方が重要だろうが。ドアホ、低脳とはおまえのこ
とだ。←これぐらいは認識できるだろう。
大きな権力が無ければ誰が大規模な建造物を造るんだよw
126 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 16:44:39
ところで面白い実験結果があって、静岡大農学部の佐藤洋一郎氏らが登呂遺跡の復元水田で古代
農法による稲栽培実験を行い、一方寺沢薫氏のグループも同様の実験を行なって、双方の数値の平
均から推定 反収が190kgとなった。
佐藤氏によると、1887年(明治20年)の平均米反収は約180kgで、この二千年ほとんど変わってない
ということになる。ただしこれは限定された面積あたりの収穫量なので注意が必要。
専門ではないのでこれから何がいえるかよくわからないが、これが農薬も化学肥料も使わず、環境
にも負荷を与えない米の生産量なのかもしれない。
>>124 >しかし当時の人の生活や政治に関係した知識、技術、物は考慮してはいけないと言うのか?
本来はこういうものの方が重要だろうが。ドアホ、低脳とはおまえのことだ。
考慮するのはいいことだが、お前にはムリ。考慮の根拠となる学問ベースがない。
127 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 16:47:45
>>124 あなたは古墳はいつからと考えているのですか?
128 :
縄文人:2009/07/25(土) 17:06:08
>>122 こんなくだらぬ書き込みは無視してもいいのだが、相手をしてやる。可哀想だからだぞ。有り
難く思え。
人口の伸びが九州だけだと誰が言ったのだ?九州から先進技術と知識が伝わって中国地方、近
畿地方、中部、東海地方の開拓が進んで行くのだ。当然そちらの人口も伸びる背景が出来てゆ
く。ただし、戦闘などで死者が多ければ、あるいは異常気象などで不作などあれば一時的に
人口の伸びはとまる。
九州が技術や知識の先進地域であったという根拠は
1.大陸や半島との交通の便 半島から対馬、壱岐を経由してくるルートの他に、大陸南部か
ら長崎、佐賀、熊本、鹿児島地方へのルートがある。
2.福岡県前原市や春日原市にある遺跡の出土物(2世紀以前のものとされているが)の質。
佐賀県吉野ヶ里や福岡県川添遺跡などの環濠集落の規模、鉄簇など鉄製武器類の出土数の
多さ(私のこれまでの論旨ー遺跡、遺物は発見済みか?に反するが、おぬしらがしつこく
要求するので仕方ない)が、邪馬台国に先立つ時代の政治的軍事的優位性を物語っている。
とりあえず、おぬしの書き込みへの返答だ。
129 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 17:18:35
>>128 ようするに
「九州は半島に近いんだ、鉄も多いんだ、だから人口も多いんだ、軍事的にも強いんだぞ!」
・・・ってお話だなw
「鉄器が多いから収穫量も比例して多く当然人口も他を圧倒して多い」
・・・と言うのと
「結局九州に人口の集中が見られるわけではない
鉄器出土量から収穫量人口を短絡的に計るのはおかしい」
の対立だなw
だったら九州の遺跡一つあたりの人口密度建物密度等が他地域を圧倒して多い。
もしくは、環濠集落等の遺跡自体の数が他地域を圧倒して多い。
・・・と言う事実が出てこなきゃおかしいだろ?w
まかさ九州だけが遺跡の出土率が悪いなんて話は無いよな?wwwwwww
九州が技術や知識の先進地域だった事は
誰も否定してないけどね。
でも九州以外に直接出雲・但馬・丹波からの流れも
無視出来ないのが最近の発掘調査の現実ですよ。
131 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 17:31:38
鉄器ねえ。wwwは知ってるだろうが、
稲作の開始=農耕の開始→生産力の上昇と開墾→鉄器(鉄農具)の普及→余剰生産物
の蓄積→階級分化 というのは「生産様式が社会構造の根底にある」という考え方で、ひら
たくいえばマルクス理論だよな。まあ、この人がその信奉者ではないだろうが。
132 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 17:42:11
>縄文人
ちなみに収穫量・人口を鉄器の出土数に比例するなんて考えるのなら
九州でも少なくとも宮崎鹿児島は過疎地域って事にしておけよwwwwwwwww
無論、半島大陸の文物が真っ先に九州に入ってきたであろう事は当たり前なんだが
そこから本州四国へと技術が伝播するに何の障害があったのか?と言う話で
特に瀬戸内と言う古代の水上ハイウェイもあるw
先に張ったリンク先から参考までに・・・
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/syuraku/syuraku.html >水田跡から出土した杭などには、明らかに鉄器で加工した跡が残されているそうです。
>もちろん、ここで使われたのは武器としての鉄器ではなく、日常使う道具しての鉄器です。
>当時鉄は非常に貴重なものであったことは確かでしょうが、
>それでも、登呂遺跡が営まれていた200年頃にはすでに鉄器はかなり民生用として普及していたと言う事です。
>はっきり言って当時では登呂というのは全くの田舎です。
>稲作の開始も、200年は遅れていると言われています。
>その登呂でさえ鉄器が使用されていたのですから
まあ関門海峡にバリアでもはって鎖国状態にでもしなければそのアドバンテージをキープできるはずも無くwwwwwwwww
133 :
縄文人:2009/07/25(土) 17:58:51
縦目仮面よ。ひとをなめたらあかんぜよ。
反当収量180kgというのは明治時代の東海地方では妥当だろう。九州の筑後川
流域ではも少し多かったらしいがね。これは俺の知人が福岡県久留米市で先祖
代々農業をしていて、その知人から聞いた話だ。俺は弥生時代の収量はもっと
少なかったろうと思っている。それは、水利の問題だ。河川の氾濫を防ぐ堤防
などの工事が明治の頃とは比べようもなく悪かったであろうと推測するからで
ある。米の収量は品種、肥料や農薬の施用の適否、地味、気候などいろいろな
要因に支配される。弥生の当時、農薬は無かった。肥料は家畜や人の糞尿と稲
藁や草から作る堆肥が既に用いられていたであろう。これは栽培技術であるか
ら地方で異なる可能性がある。稲の品種は恐らく単一であったろう。品種とし
ていくつかあったかも知れないが、いいものがあれば皆それを求めて使う。単
一化するのが普通の流れである。今日絶滅を回避するために品種の多様化の重
要性が認識されているが、また中南米でジャガイモやトウモロコシの多品種栽
培が行われていた例もあるが、古代日本でその配慮がなされていたかどうかは
分らない。とにかく、できるだけ多くの穀物生産が望まれたのだ。生きてゆく
ために。さて、残された地味であるが、ここがおぬしの聞きたいところであろ
う。平野にもいろいろある。縄文後期の海退によって干潟となった平野(河内
平野、東京湾沿岸部など)、河川の運ぶ土が堆積して形成された沖積平野(筑紫
筑後平野、熊本平野など)などがある。沖積平野でも火山灰の多い(関東ロー
ムなど)ものもあり、腐植質の多い(黒ボク土は一つの典型)ものもある。
さて、水田を拓くには、水利工事が必要なことは言うまでもないが、土地を平
にする、瓦礫を取り除く(これがなかなか大変な作業である。粘土や微細な砂
や腐植だけから成る土地は耕作適地の最上級のものである)などの作業を行う。
また、水田は低地のみに作られるものではなく、今日でも棚田などが残ってい
るが、これの造成は平地の田んぼに比べると10倍も20倍も大変な作業である。
石垣を築かなければならない。これが大変な労力を必要とする。
このような視点から見て、九州の生産力が高かったと言ってるのだが。まだな
にか文句があるかな?
134 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 18:30:06
>>124縄文人さんへ
あなたは古墳はいつからと考えているのですか?
縄文人、弥生人で明確に分けるのは古い考えらしい
どちらも水稲栽培を行い、狩猟のほかにも
海岸で海草、貝の採集、漁業をおこなっている
木の実の採集や果樹栽培もある
むしろ海岸近辺での漁業がメインだったかもしれない
米の終了だけで食糧自給を論じるのは誤りかもしれない
136 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 18:37:40
?180kgは佐藤氏が調査した日本全体の平均値。当然地域によって多い、少ないはある。
だいたい反あたりの収量というのは計算の単位となるもので、水田総量がわからなければど
うしようもない。お前のレスでは、九州の弥生時代の総収量が多かったということはわからん
ね。あまりに「美しく、豊かな九州」という思い込みが強すぎるだけ。www
鉄に関しては、総量に関するアドバンテージは九州にあっただろうが、もちろん加工木製品
あるところに鉄製工具ありだな。丹後半島の扇谷遺跡などの遺跡群から、大陸への直接ル
ートも含めてヤマトへの鉄の道に注目している人は多い。(お前の口癖を借りれば)勉強す
ることだな。
あと、改行もない長レスは個人の掲示板ではないここでは誰も読まんよ。
縄文人は九州以外の事知らなさ過ぎなんじゃないの?
まあ釣りかも知れないが。
>>133縄文人
>沖積平野でも火山灰の多い(関東ロームなど)ものもあり、
この説明はおかしい。
139 :
縄文人:2009/07/25(土) 19:00:17
>>129 あのな 鉄器は武器として銅や石などより遥かに優れているなんて話をしているんじゃないぞ。民生用
(農作業や開墾などの工事用)に使うには原料と製鉄技術が優れていなければならなかったのだ。俺の
知人に聞いた話では明治の頃でも鉄の鍬や鎌は非常に貴重で、すり減ってしまうまで大事に使ったそう
だ。そしていよいよ使い物にならなくなると鍛冶屋に持って行って鋳直して使ったそうだ。古代でも
おそらく大事に子孫に受け継がれ、再生を繰り返して使われたのだろう。だから農具や工具としての
鉄器は出土しにくいのだろう。鉄鏃は再生利用されたものもあるだろうが、戦闘で地面に遺棄された
ものが出土したのだろう。それが多いということは民生用に使われた鉄器も多かったと考えるのだが、
これはとんでもないことか?
それから、これも俺の知人(筑後市在住)の話だが、彼の父親が近くの山麓の村で家を建て直したと
き、床下を掘ったら焼けた土らしい層が出て来たが、気にせずそのまま砂利を加えて埋め戻し突き固
めたそうだ。戦時中の話だが、こんなことはいくらでもある。現在の大都会で大規模な工事などがさ
れる場合は遺跡の存在が意識されて(条例で義務づけられて)調査もされるが、小さな都市や田舎で
はよほどのことがないとろくに調査もせず、仮に遺跡らしいものが出ても隠して工事を済ませるのが
実態だ。九州だけが遺跡の発見率が低いかどうかは判定のための資料がないから俺は軽率なことは言
わぬが、九州には遺跡が少ないと宣言するのも考えものだぞ。
140 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 19:22:10
さて、これも人口のお話が出てくる度に書いているネタだがw
ボトム・アップつうか下から積み上げていく感じの人口推定で・・・
よく吉野ヶ里の人口が甕棺の数等から1000〜1200人程度
周辺の集落をあわせて5000人程度と言うのは
ネット上でも探してもらえれば直ぐ見つかるような数字だろう。
まあこれを一つの「クニ」のモデルとする。
で、九州にいくらぐらいクニグニがあったのか?
高島忠平センセイが遺跡や漢籍の地理誌を元に九州の北半分で再現したところジャスト30
(別に倭人伝を意識したわけじゃなくたまたまそうなったとの事www)
全てを吉野ヶ里クラスと言う無茶を承知で単純計算すりゃ
5000人×30国=150000 ・・・15万人
無論、まだ発見されて無い遺跡や、小さなムラムラに住んでいた人間も大勢いるだろうが
100万人なんて数字はとてもじゃないが信憑性のある数字だとは思えないwwwwwwwwwwww
141 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 19:43:53
しかし、もしもこの板の九州説の連中が言うように
3世紀の九州で100万人なんて事になったら
地道にコツコツ研究してきた学者先生らの努力は全く無駄。
無駄どころが大きく古代の実像を歪める害悪w
そんな事をしなくても机上で倭人伝だけ読んで計算すりゃ答え一発・・・って話だなwwwwwwwwww
142 :
縄文人:2009/07/25(土) 19:51:16
>>138 多摩川が運んだ土砂は関東ロームだということだ。省略して書いたので分りにくかったね。ごめんね。
143 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 20:00:53
以前単純に面積を計算したところ
筑後川流域で1250平方キロの平野が確認されました。
これには、甘木朝倉、筑後、佐賀、武雄あたりまでが含まれています。
一応緑の山の部分と、川は削除しました。
これで単純計算すると、一反=360坪=一石=1人で
105万人ということになります。
実際に全面積を耕作するのは不可能ですし、未利用地域もあったでしょうから
5分の1くらいで考えると筑紫平野で20万人くらいは生きていけないでしょうか。
それから九州全域を考慮すると100万人位は生活できそうな気がします。
弥生時代の平野の面積あたりの人口の資料があると計算しやすいのですが。
ちょっと待て。100万人という数字はどこから算出されたかだ。
なぜだか1戸=5人家族がまかり通っている。
そういう部分だけ決めつけるのは良くない。
145 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 20:48:29
江戸時代の石高だと筑紫平野関連では
筑後一国(筑後藩)32万5000石
佐賀藩 35万7千石
となっています。計68万2000石ですね。
少なくとも江戸時代にはそのくらいの人口があったことになります。
それほど非常識な数字ではないのではないでしょうか。
146 :
縄文人:2009/07/25(土) 20:55:57
縦目仮面と
>>141を書いたご仁へ
学者にもいろいろあるからね。あるエラい先生が間違った人口推計を発表した。エラい先生の仰ること
だから皆そのまま信じた。という次第なのさ。
俺が想像するに、天武天皇が中央集権体制を整えたころには人口調査も行われたのではないか と件の
先生は思ったろう。これ以降の文献に人口に関する記事があればそれをもとに人口推移のグラフを描く。
実は、土地(物産)や人口の調査は税の徴収のためのものだ。だから、地方のボスは(当然)少なめに
申告する。遠隔地になればなるほど少なく申告する。調査の網にかからぬ者もいる。それを考慮すれば
申告された人数は実際の半分にも満たぬこともあり得るのだ。
さて、文献のない弥生時代をどう推計するか。件の先生は、有史時代より少なかったに違いない、それも
時代を遡るにつれて減少するはずだ、と考える。だが、単にグラフの傾向を以て先に延長したのでは芸が
ない。そこで思いついたのが遺跡の数からの推定である。これが根拠があるようで実は何の役にも立たぬ
代物であることは先に述べたとおりだ。
学者先生は自ら蒔いた種だから自分で収穫するしかない。それを信じた信心深い人達にはお気の毒様だ。
縦目仮面よ。おぬしも学問を志すなら、権威を盲信せず、自分の頭で検証し、実地に出向いてよく観察
することを心がけることだ。
それから、おぬしは専門家だと自惚れて素人を見下しているが、世の中にはおぬしよりはるかに人間を
知っている人間がわんさといることを忘れるなよ。
147 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:11:05
>>146 まあこの縄文人が長々と何か言っているが
要するに「自分には既存のデータなんか信じられません」ってだけだからなあw
別に一つや二つのデータかを妄信しているわけじゃなし
少なくとも 思い込みオンリー の縄文人の なんちゃって人口論 より
先生方の方を選択するのは自分でも正しい選択だと思うな、うんwwwwwwwww
148 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:18:15
>>140 基本的な知識ですが、例えば伊都国の領域には出土して判明しているだけでも、
約20の環濠集落が確認されています。
しかし、国としては伊都国だけしかありません。
吉野ヶ里が伊都国領域内の環濠集落より大きかったとしても、それを国の標準にするのは
論理の飛躍が甚だしいですね。
そのあたりを考慮して、計算式を作るならば、
5000人×10集落×30国=150万人
となり、150万人としても問題ありません。
149 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:22:39
そもそも九州説にしても五万戸だの七万戸だのと言う数字を
真に受けてた奴って少数派なんじゃないのか?www
松本清張なんかは
「5・7と言う陽数(奇数)を好むのが中国人」
・・・みたいな事を言ってバッサリだったと思うがw
まあこの板の九州説の連中の場合、倭人伝の記述は全て正しいとしなければ
暗号解読ゴッコ自体が成り立たないから
それをどうにかして(九州内で)現実の物としようとする
エネルギーが働くのかな?wwwwwwww
150 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:25:30
>>148 まあ大雑把もいいところの計算だがwww
勘違いしているな。
「5000人」と言うのは周辺の集落も入れての数だから
拠点集落一つでその20の集落の人口に匹敵するなんて事を想定していないが?wwww
151 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:27:19
>>140 吉野ヶ里で暮らしていた人がすべて甕棺に入れられたとでも考えているのかな?
甕棺に葬られたのは、身分の高い王族だけだよ。
おいおい、江戸時代の総人口約3000万人、
江戸は100万人以上の人が住む世界有数の都市だったんだぞ。
弥生時代はどの学説でも総人口約60万人だ。
卑弥呼の支配下ではない国もあったのだし、どんなに多めに見積っても30国で50万人居たかどうかだ。
153 :
縄文人:2009/07/25(土) 21:31:28
>>147 俺は自分で検証して納得のゆくデータなら信じるよ。おぬしには自分で検証する能力も意思もない
からこのような負け犬の遠吠えをやらかすのだ。恥ずかしくないか。
>>152 >弥生時代はどの学説でも総人口約60万人だ。
なわけない。
九州、四国と本州の関東あたりまでに限定しても、
弥生後期初頭で400万位だろ。
155 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:35:30
>>149 5万戸を考慮する必要がなければ
人口で九州説を否定することはできなくなりますね。
>>152 そうなると、5万戸=25万人?、がそもそも成立しなくなるような…
下手したら日本全体でも成立しなくなりそうです。
1戸=1人 とでも計算しなおしましょうか。
156 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:38:29
>>153 まあねえ、自分で甕棺墓とか発掘して集計して計算するわけじゃないし・・・
もう邪馬台国論争なんて関係無しに定説となっているような物まで
一々検証できないってのが実のところだなwwww
この板の九州説の大方のパターンで
何処か無理をしなければならないから
リアルで何処かの学者が発表した日にはトンデモといわれるしかない事を
主張しなければならない自縄自縛に陥るとwwwww
157 :
縄文人:2009/07/25(土) 21:40:31
>>149 少数派だとか松本清張だとか何の関係があるのだ?
倭人伝だけを重視するのでなく、現実的に考えるのだ。実際に起こりえる事態とはどういうこと
かとね。それが地理や地勢や地質や気候や文化の流入経路や人間の行動などを勘案するというこ
とだ。人間的に大きくなくては、広い視野でものを考えることができなくてはだめだろ。
158 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:41:02
>>155 >人口で九州説を否定することはできなくなりますね。
そうだな、少なくとも俺は7万戸を真に受けて畿内説や九州説をどうのこうの言った覚えは無いw
まあ、とりあえず倭人伝の人口に関する記述もいい加減だったと言うことでwwwwww
>>154 総人口の記述のある韓伝の数字で一国当たりの人口を試算すると2000戸弱ですね。
半島と倭地では気候風土が違うので、これに頼るのは危険ですが、
三大国(邪馬台・投馬・奴)の記載数を含めた倭人伝30国の総人口は20万戸くらいになります。
一戸5人なら100万人遼東から楽浪、帯方をまとめたくらいの規模、これが中国側の見解なのでしょう。
>>154 それは多すぎると思うがな。4世紀後の奈良時代でも500万人弱だ。
まあ爆発的人口増加が起こったという学説もあるにはあるが、
それを邪馬台国の時代に当てはめるのは、いくら何でもだろ。
俺も昔聞いた覚えがある
300から500万人だと
162 :
縄文人:2009/07/25(土) 22:07:38
>>160 <<4世紀後の奈良時代でも500万人弱だ。>>
そのデータの根拠を述べよ。
>>160 500万人というのは、戸籍に計上されている素性のはっきりした人間のみだ
戸籍のない浮浪人が結構いて、東国では小作として労働力になっていた
農民でない狩などして暮らす者なども民部省の管轄でない
関東から北は本当の意味で内地化されてないからな、豪族が抱える民の数なんてわからんし国府も朝廷も把握してない
>>162 奈良時代から戸籍作るようになったろ。
自分で原本を解読したわけではないし、全人口は把握されてないという学者も居る。
それらをコミコミで400〜700万人まで諸説ある。
>>163 邪馬台国の時代に浮浪人とやらが沢山居たのかね?
それを魏使が一々カウントしたのかね?
166 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 22:31:23
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html 鬼頭グラフをもう一度貼っとこう。このグラフの縄文・弥生部分は、俺が
>>49でレスしたように
国立民族学博物館の小山修三氏の研究で、吉野ヶ里発掘以前。その後小山氏は100万以上
に訂正している。
世界的に、乳幼児死亡率が高い時代は人口は微増傾向であり、明治以降のように衛生概念
や医療技術が発達して、爆発的に増えるものである。奈良時代に関しては、過去に数学者の
沢田吾一氏が奈良朝の戸籍(断片)を用いて、当時の人口を五百六十万人と試算している。
「奈良朝時代民政経済の数的研究」。この推定は現代の歴史人口学の計算とほぼ同じであ
る。速水融氏の著作などを参照してくれ。「歴史人口学で見た日本 」(文春新書)
で、鬼頭グラフを増加率の平均から逆にたどっていけば、弥生終末においてそう大きな数値に
なることはできない。上限150万程度と俺は考えている。
167 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 22:37:26
>>146 >縦目仮面よ。おぬしも学問を志すなら、権威を盲信せず、自分の頭で検証し、実地に出向いてよく観察
することを心がけることだ。
それから、おぬしは専門家だと自惚れて素人を見下しているが、世の中にはおぬしよりはるかに人間を
知っている人間がわんさといることを忘れるなよ。
失礼なやつだな。別に学生の俺が人間を知ってるなどといってるつもりはない。学問でも剣道で
も上にはどこまでも上がいるんだよ。俺はせいぜい2chに書き込みする程度のレベル。www
168 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/25(土) 23:01:58
>>12 読んでいただきありがとうございます。
人口については丁度他の方も議論されていますが、九州内だけで考えて無理なところかどうかが
判断が分かれている(現状では判定できない)と考えています。
よく出される、当時の人口推定はどの程度当てになるのか?という疑問もありますし、
伝にかかれた可5万戸、可7万戸の記述も、1戸何人か? 可という推定はどのようなものだったのか?
というところもあります。(可7万戸が実際3.5万戸だったかもしれません。)
ということで人口だけで論を否定するのは、ちょっと無理があります。
逆にこれで否定できるようなら、九州説を唱える者はもっと少なかったでしょう。
出雲や丹波も興味深いですね。これらは同じ文化圏と考えたほうがよいのでしょうか。
大陸との独自の繋がりがあったようですし、スサノオも山口の須佐の出でしょうから、
山陰は当時は立地に恵まれた土地だったのでしょうね。
ただ出雲は、若干買いかぶられているのではないかと個人的には思っています。
>>165 居ないだろうな、夫浪人というのは戸籍がある時代に、それに載ってない人の事だから
魏使は倭国の国情(人口、産量、兵力など)を調べたいのだから、極力正確な数字を求めたことだろう
だから、屯倉だろうが部民だろう奴婢だろうがが関係なく、総人口なんだと思うよ
奈良時代は田圃100万町分なんだが、平安時代中期になると統計的(公的な記録なんて無いが)には逆に少し減るんだよな
理由は荘園制の時代になったから
荘園の不輸不入の権というのは国司の検断権を拒否できるものだから、奈良期の班田収受時代とちがって政府は田畑の面積を完全に掌握していない
国司は公田(国衙領)と私田(荘園)の境界を確認するのみで、荘園には立ち入る事ができない
荘園における耕地面積や収量や耕作人などは荘園領主の申告による数字でしかないだろう、だから過少申告となる
次の政府による正確な田畑の把握は、ずっと時代が下って太閤検地まで待たなければならない
170 :
縄文人:2009/07/25(土) 23:27:11
縦目仮面よ。
君が人間を知ってるとは言っていないと言ってもだ。昔の人口調査がどんなものだったか知らないと思う
から注意してやってるのだ。検地だとか住民調査とかは税の徴収のために行われたのだ。現代の国勢調査
とは訳が違うぞ。調べられる側はできるだけ少なく申告する。地主は作男や下男下女の数を半数以下に申
告する。地主に所属していない奴らは申告さえしない。それほどずる賢い(いやこれは古代の庶民に対し
て失礼だな。生きるための智慧と言うべきだ)生き方をするのが人間なのだ。秀吉の検地のときでもそう
だったのだぞ。調査官だって人間だ。あまり厳しくしては嫌われる。そこはそれ適当にすませるのだ。
江戸時代の大名の石高にしても実際よりはるかに小さい数字を出すのだ。幕府から課される上納金や使役
の人夫の数など石高にも応じて割り当てられるからな。
<<沢田吾一氏が奈良朝の戸籍(断片)を用いて、当時の人口を五百六十万人と試算している。
「奈良朝時代民政経済の数的研究」。この推定は現代の歴史人口学の計算とほぼ同じであ
る。速水融氏の著作などを参照してくれ。「歴史人口学で見た日本 」(文春新書) >>
と言われても、原資料が上記の理由で割り引かれているのだから話になるまい。
多くの学者さんは純情というか世間知らずというか庶民や被支配者の心理や行動について知らなすぎるのだ。
江戸時代の石高は大名の格、大身少身を表す数字
実高という言葉がある
172 :
縦目仮面:2009/07/25(土) 23:42:41
わけわからんやつだな。俺は日本史が専門家でもないし、人口学の専門家でもないから自
分で計算はできない。ただ現時点で最も確からしいとされる資料を引いているだけだ。
それから、封建時代の例を持ち出すのはお門違いもいいところ。邪馬台国時代に戸籍があ
ったとも、あまねく収税していたとも思ってない。さらにいえば倭人が、王であっても文字のな
い時代に、自分のクニの総人口を把握していたかどうかも疑問。7万戸は、魏使の推定だろう。
それより、何度も言ってるように、通説に反論するなら少なくとも自分の計算式を出すべき。
「九州には豊かな平野が多いですよ、米がたくさんとれますよ。」それしか聞いていないが。
数人が旅の途中で国勢調査できる訳無いだろがw
それでも何故に数字を残せたか?
倭人からの伝聞だからだ
街の大きさを測るのにも大変な作業だ
それにしては、描写が最初のあたりでは詳しいのに、後は殆ど触れられてない
伊都国どまり
175 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 23:50:16
>>171 石高と実高、どっちが大きいのでしょうね。
幕府内序列では石高が大きいほうは有利
実質の収入では実高が大きいほうが有利
幕府から課せられる役目は石高で決められるのでしょうか
そうなると、石高が小さく実高が大きいほうが
負担が少ないということになります。
逆だと苦しいでしょうね。
>>170 そんなに人口に拘らなくていいよ。どんなに多くても畿内 or 九州に100万人も居ないんだから。
まあ九州だけで倭人伝の記述の人口が収まるなら、
本州を含んでも余裕で収まるという事です。
178 :
縦目一派の末席:2009/07/26(日) 00:05:55
>>176 > そんなに人口に拘らなくていいよ。
そうですね。ところがサイキバ王朝説では倭人伝は金科玉条なんでそうもいかないんですよ。
>>172 中世の地方事情は蛇足だったが
言いたいのは奈良時代の数字が、昔の日本で一番正確な田畑の統計だろうと、そういうこと
いちばん中央集権だった時代というか、律令制度の学び親の中国ぽく、均一的な地方行政を行っていた唯一の時代だと
奈良時代の前は、地方には国造がいた、つまり現地を実際に昔から支配している豪族がいて、朝廷も地方政治は彼らに任せていた
というか、朝廷の権力がまだ強くなく、豪族支配の領域に直接立ち入れない、後の荘園の不輸不入の権みたいなものだ
その更に前は、豪族とは言わず、王だったんだろうな、地方それぞれに王がいて、大和の大王がその上にいた
そういうのが、邪馬台国から初期の大和朝廷の時代だと思っている
180 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 00:11:06
>>172 >通説に反論するなら少なくとも自分の計算式を出すべき。
根拠のあやふやな計算よりも、倭人伝の記載の方がまちがいないだろ。
>王であっても文字のない時代に、自分のクニの総人口を把握していたかどうかも疑問。
おいおい、自分の国の戸数が分からないで、どうやって兵を集めるんだい?
何戸で一人は兵をだせ。徴兵ってのはそうやって兵を集めるんだろう。当然、戸数は分
かる理屈だよ。
181 :
縄文人:2009/07/26(日) 00:14:22
縦目仮面よ。おぬしも粘るのお。その敢闘精神は褒めてやる。
封建時代の話は例えだよ。分かり易いようにとの配慮だ。だが、被支配者の心理行動はいつの時代も似た
ようなものだ。現代だって、食品偽装や脱税があとを絶たないぞ。だから昔の人口調査は実数の半分以下、
調査対象に入らない地域を含めれば10〜20%ということもあり得るということだ。
九州には耕作適地が多い。人は耕作適地の多いところで増える。当然だろ。食料が十分になければ子供は
育てられない。昔の死亡の原因は病気や怪我もあろうが食料不足による飢餓、それによる体力の低下も大
きかったと考えられないか?
それから、邪馬台国の時代、一般庶民は文字を知らなかった。だが、支配者層はどうだったと思うか?
彼らも文字が読めなかったか?魏と通交するのに文字も読めないでは話になるまい。渡来人の幕僚も居た
とは考えられないか?國を統括するとは、30國ほどを統合するにはかなり高度な政治力が必要だとは考え
られないか。古代人を甘く見てはいかんな。
182 :
縦目一派の末席:2009/07/26(日) 00:42:25
>>124 > 何かと言えば考古学資料と繰り返すが、遺跡は全て発見済みか?物として残らない技術、知識はどう評価するつもりだ
技術、知識ね… 例えば箸墓、西殿塚にみられるような150mの正円墓を構築出来る土木技術や魯般尺を用いた建築技術、
これらが大陸由来として、貴方の論だといったん九州で咀嚼された後、畿内へ伝授されたなるのでしょうね。
「そうだ」と言える根拠ありますか?
私はそれまでにない技術、知識が遺構として残る地域…つまりヤマトにおける古墳時代幕開けに技術、知識の流入にしたもの
その画期が国交樹立ではないか?と考えますがいかがでしょう。
183 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 00:49:11
>九州には耕作適地が多い。
それは全国に多いだろうが、だから、これからわかる人口を俺が納得できるように出して
くれよ。出せないだろう。お互いムリな話だ。俺は自分が検討できるものしか信用しない。
もちろん文字のわかる人間はいただろう。この時代でも半島からけっこう人は来ている。し
かし、この時代の倭人が書いたとされる文字資料の出土はほぼないといってよい。環濠集
落程度なら人口も把握できたかもしれないうが、俺は、邪馬台国はこの板の九州説には嫌
われる「ゆるやかな連合」説wなんで、その人口がきちんと調査されていたとは思っていない。
7万戸というおおざっぱな数字程度くらいしかわからないということだろう。
すまんが朝練があるんで寝る。ww また今度な。
マキムクの技術や建築センスと言ったらいいかな、洗練されたものとしてあるのは
九州経由ではないと思う
吉野ヶ里とかの環濠集落って、航空写真で見ると潰れた目玉焼きみたいなものだろw
建物配置に機軸線が無いし、シンメトリでもない
マキムクの建物は東西方向の機軸線があるようだ
南北だと中国ぽくなるのだが
北極星に天帝が居て、その申し子である皇帝が、天帝に見守られながら南面して政を見るという、思想からだ
185 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 01:00:44
>>184 「天子南面する」というやつだなw
しかし魯般尺(魏代の吉祥尺=えんぎもん?w)と言う奴はホントなのかな?
偶然の一致の可能性はないもんだろうか?
まあ、むじんくん の手にかかればあの建物も単なる倉庫って事なんだろうがwwwwwww
186 :
縄文人:2009/07/26(日) 01:02:06
縦目一派の末席さんへ
今日は土曜日で(もう日曜日か)、しかも日曜日は雨の予想で予定の行事が中止になったので暇が出来
たので、珍しく夜遅くまで相手ができるのだ。
あのね。魏ではあまり大きな墓は作らなかったのよ。曹操の墓だって質素なものよ。彼は現実的な、リ
アリストだったからね。無駄なことはしなかったのだ。墓の大きさより詩などの文化に重きをおいたのだ。
偉いねえ。そんな魏と国交樹立して前方後円墳の築造技術が入ってくるのかな?
前方後円墳は4世紀以降(3世紀末かも知れんが)に畿内に発生したものだ。大量の水利工事の廃土が利用
されたという説は案外正しいかも知れんぞ。
187 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 01:09:47
>>186 縄文人
>前方後円墳は4世紀以降(3世紀末かも知れんが)に畿内に発生したものだ。
ホイ。
実年代言ったなw
その根拠は?
学者の言う事を妄信せずと語るお前は
「昔の教科書に載っていた」なんてレベルの話を言わないよな?
そもそも魏の薄葬云々言うなら
径百余歩の塚、その上徇葬者奴婢百余人・・・と言う時点でアウトだがwww
188 :
縄文人:2009/07/26(日) 01:32:30
>>187 返事するのに困るから”アホな畿内説論者”とかなんとかネームを付けてくれんかな。縦目仮面はその点
で正々堂々としているあっぱれな奴だ。おぬしはなんでネームが付けられないんだ?後ろめたいことで
もあるのか?
4世紀の根拠か。もう何回も言った筈だがな。3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中だったのだ。そ
れも九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓をしていたのだ。記録は
ないよ。記録があったら誰も苦労して推定する必要はない。
径百余歩の墓は直径40mほどのものだ。倭人伝の里程記事は実際の約3倍で書かれている。そのことを
根拠にすればそんなものだ。これでも魏お人間の目には大きな墓だぞ。徇葬者奴婢百余人はこの墓に埋
めることも可能だが、墓の周囲に埋めることも可能だ。
なにがアウトだ?鬼の首でも取ったつもりか?
189 :
縦目一派の末席:2009/07/26(日) 01:32:54
>>186 >珍しく夜遅くまで相手ができるのだ。
それは恐れ入ります。
>墓の大きさより詩などの文化に重きをおいたのだ。
墓の大きさ云々と建安の風骨を勝手に同じ土俵にあげて切り捨てる…
> そんな魏と国交樹立して前方後円墳の築造技術が入ってくるのかな?
前方後円墳の築造技術?呑んでるのか?
貴方のレスは太国さんとよく似てますね。
190 :
ローガン:2009/07/26(日) 01:36:13
>>188 >
>>187 > 返事するのに困るから”アホな畿内説論者”とかなんとかネームを付けてくれんかな。縦目仮面はその点
> で正々堂々としているあっぱれな奴だ。おぬしはなんでネームが付けられないんだ?後ろめたいことで
> もあるのか?
> 4世紀の根拠か。もう何回も言った筈だがな。3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中だったのだ。そ
> れも九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓をしていたのだ。記録は
> ないよ。記録があったら誰も苦労して推定する必要はない。
> 径百余歩の墓は直径40mほどのものだ。倭人伝の里程記事は実際の約3倍で書かれている。そのことを
> 根拠にすればそんなものだ。これでも魏お人間の目には大きな墓だぞ。徇葬者奴婢百余人はこの墓に埋
> めることも可能だが、墓の周囲に埋めることも可能だ。
> なにがアウトだ?鬼の首でも取ったつもりか?
>
191 :
縄文人:2009/07/26(日) 01:40:13
縦目一派の末席さんよ
おぬし鋭いのお。正直言うとかなり飲んだよ。いい気分だ。
だがな、太國などと一緒にしてくれるな。あいつはオタクだ。球の堆積を10桁くらい出してその数字
で崇神の即位年の根拠にするなどアホな遊びをしておる。倍暦などとぬかしとる。
192 :
縦目一派の末席:2009/07/26(日) 01:44:05
>>188 > 径百余歩の墓は直径40mほどのものだ。倭人伝の里程記事は実際の約3倍で書かれている。
ほう、ではそれを論じてご覧なさい。伊作氏はちょっと突っ込んだだけで罵倒、中傷ばかりでした。 期待してますよ。明日拝見します。
zzz…
193 :
縄文人:2009/07/26(日) 01:45:19
訂正
球の堆積 は書き間違い
半径3mの球の体積だ。
>>188 九州勢力の技術と推定するには、あまりに形跡が少なすぎですよ。
195 :
縦目一派の末席:2009/07/26(日) 01:47:13
九州に、大土木工事の遺構はない
九州のものはみんな小さい、墓も、集落も
畿内の前方後円墳と巻向が時代を突出しているのだ
197 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 04:37:18
>>188 ”アホな縄文人”
はあ?
「湖の排水工事の最中」だったから4世紀以降?
お前気は確かか?
その工事跡からの出土物から計って・・・と言うのならともかく
「九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓をしていた」
と言う痕跡自体認められているのか?クズ野郎がw
まあ今まで畿内説の年代観を批判する奴におのれ自身の年代観を問うて
ろくな答えがかえってきた事はないが・・・
とりあえず現時点馬鹿さ加減一番だなドアホウ!
根拠はてめえの脳内の東遷説ストーリーのみ
実に下らない。
一回、豆腐の角に頭ぶつけて死んどけドカスwwwwwwwwww
198 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 05:29:47
>>188縄文人さんへ
>4世紀の根拠か。もう何回も言った筈だがな。3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中だったのだ。
>それも九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓をしていたのだ。
>記録はないよ。記録があったら誰も苦労して推定する必要はない。
いくつか質問します。
まず
>3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中
これは盆地内のどこかの遺跡に即して言っておられるのですか?
>九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓していた
先端技術とは、どのような技術でしょうか?
>記録はない
文献資料がない、という意味ですか?
考古資料はあるのですか?
>記録があったら誰も苦労して推定する必要はない。
もし文献も考古資料も何もないのなら、手がかりが全く何もないわけですから
上記のようなご発言は歴史学における推定でもなんでもなく、単なる妄想だと思いますが、いかがでしょうか。
199 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 08:23:21
くくく、苦しいなあ。池の排水工事???はい妄想の1つ目。九州の先端技術?これで、妄想
の2つ目。>径百余歩の墓は直径40m・・・はいはい短里説ね。しかし3倍では計算も合わない
なあ。これが3つ目。ほかにも突っ込みどころはたくさんあるが、まあ最初の2つだけで、こ
の板の九州説でさえほとんど引いただろう。これについても、絶対ないものをあるあるといいは
るつもりか??うくくく。
しかし、おっさんは九州が好きだなあ。郷土愛は認めるがほぼ病気だな。ところで、俺の九州
の印象といえば、今まで中高と剣道をやってきて、全国大会にも何度か出たが、剣道自体はと
もかく、関係者に変わった人が多いな。外見もパンチパーマとか、金のブレスレットとか、怒り方と
か。www
200 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 09:04:55
径40はもう少し慎重に考える必要は有ると思うね。しかし、縦目よりは縄文人の方がまともかな。
なかなか、良いことを言っているよ。
縄文人はまともじゃないだろw
根拠の乏しい推測なのに断定調なのはどうかと思うぞ。
202 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 09:38:45
”アホな縄文人”の件について・・・
先ず九州から伝わったと思われる技術が用いられている遺構と言うのなら
現実に纏向の勝山近くの鍛冶遺跡のフイゴ羽口が
九州ツクシからの技術の伝播が想定されるそうだが
無論そんなもので実年代が確定する材料になるわけでもない。
何某かの実年代の数字を得ようとするなら・・・
その工事とやらが九州から東遷してきた邪馬台国の人間によって
なされたと言う事が証明されなければならないだろう。
無論、奠都とかじゃなくて、あくまでも遷都。
元の九州邪馬台国の店をたたんで片道切符で大和にやって来たと言う筋書きw
そうすればAD266の朝貢記事を邪馬台国の壱与の事と考えて
それ以後に大和入りしたという筋書きで実年代(上限)の数字を与える事もできるかもしれない。
が、無論こんなもん、どんな考古学的資料が出てくりゃ成り立つのか見当もつかないお話で
ただ単に 縄文人 のアホの脳内の妄想を垂れ流したお話に過ぎないw
>縄文人
倍暦マイスター犬国の事をどうこう言っている様だが
馬鹿さ加減じゃあお前も良い勝負だぞwwwwwwwwwww
203 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 10:02:21
卑弥呼の墓の径百余歩については、この規模の冢を作るのにどれくらいの日数
がかかるのかが問題。文字通り径百歩としても最低でも2年。箸墓クラスだと
最低でも5年はかかるだろう。
倭人伝の記述からは、それほどの期間がかかっているようには読み取れない。
径百歩が誇張ではないかという理由はそこにもある。
204 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 11:11:22
作り方なんぞはどうとでも考えられるよ。生前から作り始めていたかも知れん。
もともとあった山を利用するなどして、短期間に作ったかも知れん。倭人伝は簡単に
作ったとは書いてないから結構年月をかけたのかも知れん。
それより、問題は一歩の長さを幾らと見るかだな。短里のときの一歩も同じなのか、距
離の単位としての歩ではなく実際に歩いた歩数なのではないかなどという問題がある。
際に
205 :
縄文人:2009/07/26(日) 12:10:48
俺が留守してる間にいっぱい悪口を書いてくれてるな。それだけ畿内説派には手強い相手だという証拠だ。
考古学資料より強力な証拠だ。♪
今日はゆっくりしようと思っていたのに、朝から悪友が買ったばかりのランドクルーザーに乗って来やがっ
た。豪雨被災地を視察に行くから一緒に来いと言う。野郎 復旧事業を狙ってやがるな と思ったけど、何
か手助けできることはないだろうか などと言うから騙されたふりをして出かけた。現場はさほど大きくな
い川が流れる山裾の住宅地であるが、舗装された路面は水浸し、川は溢れて民家の軒下に入り込んでいる。
山の斜面の一部が崩れて水は茶色に変わり倒れた木が根を剥き出しにして道路を塞いでいる。手助けどころ
ではない。地元の消防団の人に邪魔だからと追い返された。悪友は折角来たのにとか言いながら運転してい
る。結局、新車の悪路での乗り心地をテストするのが目的だったと知れた。
こんな騒動で今やっと朝食兼昼食を済ませたばかりだ。しばらくゆっくりしてから相手をしてやる。ちょっ
とばかり待て。
206 :
縄文人:2009/07/26(日) 12:41:35
卑弥呼の墓が畿内説派の言うような直径150mの円墳だったとすると、墳頂の
高さ10mとして、形状によって数値は変わるが、盛られた土の量は10〜20万
立方メートル、重さにして(突き固め具合にもよるが)20〜40万トンとなろう。
労働者は2人がかりで50kgほどの土をモッコで運ぶ。そうすると円墳完成まで
に400〜800万回の土運びが必要になる。1回の土運び、突き固めなど一連の作
業に20分かかるとすると1時間に3回、実働8時間として2000人で作業する
と83〜166日かかる計算になる。休みなしに働いて約3〜5.5月かかる。労働
者は2000人でも作業の指揮監督、食事の手配などで総勢5000人ほどは関係す
る事業と見なければならない。
ところで、倭人伝によれば、卑弥呼没時も狗奴国とは戦闘も含む係争関係にあ
ったと考えられる。そのような状況のとき、上記のような大掛かりな事業を行
う余裕があったであろうか?魏の使節の目には大いに冢をつくると映った墓の
規模は直径40mでも十分だ。状況を考えれば大きすぎるくらいだ。
207 :
縄文人:2009/07/26(日) 12:50:57
>>204 おぬしが箸墓を卑弥呼の墓と考えているかどうか知らぬが、巻向の大型古墳のようなものを候補
としているのなら、それらは概ね平地に土を盛って作られたと考えられるだろ。山の尾根を利用
して作られた円墳が候補なのか?
邪馬台国の所在地は別にして、箸墓はヒミコかトヨの墓なのは間違いないと思う。
209 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 13:07:59
>>207 箸墓は可能性無し。邪馬台国は九州だ。箸墓は大きすぎるし槨なしでもないだろう。
卑弥呼の墓は、時代からすれば、全長百数十メートルの前方後円墳かな。
小山を利用したか、まったくの平地から造ったかはなんともいえんな。
箸墓が卑弥呼の墓じゃないとすると、その時代に邪馬台国以上の
国が存在した事にもなるからな。
そっちの証明の方が
211 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 13:37:02
墓が大きいからって邪馬台国以上の国があったかどうかは分からんよ。
墓が国の力を反映しているとみるのは完全な思い込みだ。
212 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/26(日) 13:41:29
伊作よ
半径3とは言ったが3mなどと言った覚えはない。ジョーカーにいい加減な
ことを吹きこむな。
213 :
縄文人:2009/07/26(日) 13:41:51
奈良盆地の排水工事について考古学資料の提出を求める。まあ資料がある方がいいわな。だがよ、巻向
の古墳群の築造年代についての考古学者さん達の説は本当の意味での考古学資料と言えるのか?年代測
定法の問題が解決されなければ仮説(おぬしらの好きな言葉で言えば妄想)にすぎないではないか。
工事の先端技術とは鉄製の鍬やつるはしなどと土運びのモッコや作業手順や川の急流地帯の掘削技術な
どだ。作業手順や作業のやり方などは物ではないし、鉄器は非常に貴重な物ですり切れるまで使い、使
えなくなれば鋳直して再生利用される。これらは簡単に遺棄されるものではない。出土物として出にく
いものだ。そういう意味で、考古学試料がないのである。無いから、状況から考えるのだ。仮説と言え
ば気が済むか?どちらがあり得ることかが勝負だ。
214 :
縄文人:2009/07/26(日) 13:44:37
太國ちゃん
伊作氏が書いたんじゃないよ。俺だよ。
215 :
縄文人:2009/07/26(日) 14:02:40
>>197 おまえのような下品な奴の相手はしたくないが、おまえの悪罵に対して返礼するのが俺の流儀だ。
何度も説明しただろ。巻向の遺跡が3世紀に築造された証明はないと。お前の頭の程度は中学生な
みだな。おまえらの信じている考古学資料の根底が崩れようとしているんだぞ。俺はおまえのレベ
ル(権威に頼る、自分の頭で資料の検証ができない、視野が狭い、そのくせ偉ぶる)の人間とは格
が違うのだ。おまえの文章は臭くて蠅がたかるぞ。おとなしく外で遊んでろ。劣等生め。
>>211 大きさよりも全国への波及具合から判断出来るでしょ。
権威に頼る、視野が狭い、そのくせ偉ぶる…
文献の解釈はイマイチだが、自己分析は出来るじゃないかw
218 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 14:19:28
>>216 大きな墓を造った奴がいるぞ。それをまねするアホもおれば、馬鹿がとさげすむ
奴もいる。真似するのがある程度いれば、列島のあちこちに大きな墓ができる。
219 :
縄文人:2009/07/26(日) 14:20:14
>>217 おまえのことだ。ネームも付けられない卑怯者め。まともなことが言えないからこんな無意味な書
き込みに終始する。恥を知れ!!
220 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 14:21:48
吉野ケ里の墳丘墓は紀元前に出来たらしいが、あれなんか古墳の原型と言える
かも。ただ、ああいうものは、案外気づかないことが多い。
中には、平らにされて畑などになったりしたものもある。
古墳の発祥にしても、築造年代を決めるのはなかなか難しいんじゃないかな。
特に、違う地域の古墳の場合は。
>>219 自分の事を棚にあげるな。少なくとも公になってる他人の資料を
匿名でケチをつけてるのはアンタだよ。
2chで批判せず堂々と名前を出してしたら?
222 :
縄文人:2009/07/26(日) 14:32:06
前方後円墳は畿内に発生したが、これは九州勢力と出雲勢力と土着勢力(それにもしかすると
濃尾平野や伊勢あたりの勢力も)が交流して(文化が昇華発展して)創りだされた埋葬、祭祀
形式かも知れない。大型化したのは権力の誇示目的もあるかも知れないが、水利工事に伴う大
量の廃土が利用できたからかも知れない。念のため言っとくが、この事情を記録した文書は残
っていないだろうし、考古学資料も今は見つかっていない。俺の想像力の産物だ。
223 :
縄文人:2009/07/26(日) 14:39:01
>>221 俺は他人の資料にケチをつけているのではない。批判しているのだ。なぜ批判するかの理由も
ちゃんと述べている。おまえの書き込みがケチをつけるもののよい例だ。
俺は学会の人間ではないから発表の機会も与えられない。もっとも俺にその気はないがね。
>>223 オレの見た範囲では単なるイチャモンに過ぎないと思うけどね。
少なくともここで他人を罵倒してる以上、自分でいくら偉そうしても、
何を発言しようが説得力なんてものはありません。
225 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 15:14:52
>>215 ”アホの縄文人へ”
ダメ。
アホの上に馬鹿を乗せて、マヌケを添えて大盛りにしたってとこだなw
いいかな?
現在畿内説に有利、と言うより、特に東遷説に
死刑宣告をしているかのごとき理化学的年代測定を否定できたから
自分の年代観が担保されると言う事はないんだドアホウ!
彼我の二択、AかBどちらか、・・・と言う事が最初から決まってりゃ
相手を否定するだけで良いかもしれんが
残念ながら、この場合相手を否定できたから自己の正しさが担保されると言う話ではありえない。
まあお前のような低脳九州説は最初からその脳内ルールで
意気軒昂でこの板に乗り込んできたんだろうがwww
何故昔の教科書に
「古墳時代は4世紀から」
と書かれていたか?
・・・先ずそこから学習しなおして来い!ドカスwwww
>>213 >奈良盆地の排水工事
>考古学試料がないのである。無いから、状況から考える
工事は何処で? 盆地の東?西?南?北?中央?
状況とは? 考古学試料じゃなかったら具体的に何?
227 :
225:2009/07/26(日) 15:21:55
>>215 ”アホの縄文人へ”
そうそう、言っておくの忘れたが
俺自身は理化学的年代測定を畿内説の根拠とした覚えはない。
俺が見るにこの板の畿内説の大方の連中は、やはり慎重と言うか多少距離を持っている感があるw
残念だったなドカス。
年輪年代だけ振りかざしている畿内説論者しかいないような掲示板でも探して
とっととそこに逝けや糞バカwwwwwwwww
>>188 >3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中
年代を3世紀とする根拠は何?
229 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 15:32:36
この縄文人とか言うアホの言う事を簡単に書けば以下の程度のお話だろう・・・
Q.古墳時代が4世紀からと主張する根拠は何か?
縄文人:3世紀末か4世紀初頭に九州邪馬台国が東遷して奈良盆地を切り開いたから
もちろん、その排水工事やら感慨工事やらの跡なんてのもない。
仮にあっても、尚且つそこに九州系の技術が使われていると認められていても
それだけじゃあ縄文人ほざくような実年代の確定には至らない
そこから九州邪馬台国が店たたんでヤマトにやってきました…と言う事が証明される必要がある。
もはやファンタジーの世界www
この縄文人という馬鹿は自分が何をほざいているのか自覚していないんだろうなwwwwwwww
>>222 畿内説は年代観よりも共立という点に重点を置いているわけだが
縄文人もそれを認めてるみたいだなw
231 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 16:12:38
この縄文人とか言うクソ馬鹿は、物事を総合的に大局的に考えて・・・
かかるトンデモを編み出したと思っているんだろうがw
九州からの東征勢力が奈良盆地をその優れた土木技術で切り開いたと言い。
また一方で九州は肥沃な土地に恵まれていたから収穫量も他地域を圧倒して
当然人口も他地域を圧倒するほどに多かったと言う。
ならば何故そんな肥沃な土地を捨ててわざわざヤマトに来たのか?
…がワケワカラン話しだし
そんな恵まれた環境で開拓開墾の為の土木技術を磨く必要があったのか?っても疑問
例え話で言えば、もしドイツが肥沃な土地に恵まれていたなら
果たして化学肥料の開発に先んじて成功したかどうか・・・っちゅう話w
まあこっちの方が余程、対極的・総合的なお話wwww
そうだよね、九州に稲作に適した土地がたっぷりあったら
わざわざ畿内に東遷する必要は無い。
九州勢力が東へ移動する必要があるとすれば、水銀鉱脈探しでしょ。
それならわざわざ巻向にやってくる理由があるし、
先に入っていた出雲族との覇権争いが倭国大乱だと思うけどね。
233 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/26(日) 17:11:55
>>232 九州の覇権争いに敗れた勢力が東方に難民として集団移住するケースがある。
福岡平野の勢力が筑紫平野の勢力に破れた場合、
敗者の移住方向は山陰方面か瀬戸内方面になる。
それぞれの最終地点は、北陸と畿内。
234 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/26(日) 17:19:11
>>233に相当するのが次のケース。
@神武 河内湾に到着
A応神 大阪湾に到着
B継体の祖 越前に到着
>>233 まず移動の形跡が無いでしょ。それに年代を何時に
想定するのかも難題だな。
大体畿内には出雲や吉備の痕跡は多いが、
九州からのものが少な過ぎ。
236 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 18:16:46
>>232 冷静に考えればそれもあり得ないと言えるぐらいに難しい。
如何に水銀を重用視していたとしても収穫量から来る人口の多寡はそのまま国力・軍事力に繋がり
国家存亡の危機を招きかねないwww
水銀のために、わざわざ肥沃な土地を捨ててヤマトまでクニごとの移動なんてのは非現実的w
現実的に考えれば派兵して鉱床を押さえて本国に輸送する・・・と言う運びになるだろう。
その後ヤマトの開拓等が進んで十分遷都先としての地力をつけてから遷都・・・と言う事で
当然、本国の九州邪馬台国とその属国のヤマトが並立していた期間が無ければおかしい。
無論そうなるとその二地域に交流の跡が残るはず。
九州の邪馬台国は何処か分かりません、それらしい遺跡は見つかってません。
ヤマトには本国=九州邪馬台国との交流の跡は見つかりません。
・・・これじゃあ話にならないと言うのが現状wwwwwwwwww
237 :
縄文人:2009/07/26(日) 18:28:32
倭人伝で用いられた長さの尺度
魏の度量衡の数値によれば1里は360歩で約434mである。1歩は120.5cm
とされる。この数値を用いると径百歩の墓の直径は120m余となる。これが真
実であったかどうかが一つの争点である。
倭人伝の里程記述で魏の公式尺度を用いると実際に合致しない。郡(現韓国仁
川〜北朝鮮開城辺りから出港したとして)狗邪韓国(南行後東行という記述よ
り)韓国晋州〜釜山近辺(の島)まで7千里、対馬―壱岐間が千里とあるのは
実際より約3倍長くなっている。ということは倭人伝では魏の公式尺度でなく
別の尺度が使われているのではないかという考えもあり得る。
あるいは、魏の使節は何らかの理由で里程を3倍ほど誇大に報告した可能性も
ある。
これらのこと(魏の公式尺度とは別の尺度、誇大に報告した理由)を明確に示
す文献史料は見出されていない。
言うなれば決定的な解釈法がまだ見出せないのである。
しかし、邪馬台国の位置を倭人伝から求めようとすれば、なんらかの自然な解
釈法を採らねばならない。
そこで、実際の距離と倭人伝の里数の倍率を以て考えるというのは一つの自然
な方法であろう。つまり全て約3倍ほど誇大に書かれているとするのである。
その場合、全ての里程および墓の直径も同じく約3倍に誇張されていると考え
る。一部だけ魏の公式尺度を用いるのは恣意的すぎる。卑弥呼の墓を魏の使節
が自分の目で見たかどうかもはっきりしない。しかし、約3倍に誇張されてい
るとすれば直径は約40mとなる。これが私の推定である。つづく
238 :
縄文人:2009/07/26(日) 18:30:12
237のつづき
ある部分は実際と違うから誤りだとし、墓については魏の公式尺度を使う人達
と私の態度はどちらが首尾一貫しているか。
私の見解で倭人伝の行程記事を辿れば邪馬台国は九州内に納まる。何の不都合
もない。
ついでに方角であるが、もし畿内に邪馬台国があったのであれば、そこに向か
うのに朝日は目指す方向すなわち東に見える。東を南に誤認するほど魏の使節
は愚かではない筈である。
少しばかり丁寧な書き方をしたが、おぬしら畿内説派は聞き飽きたとでも言う
のであろうな。だが、これを論破すると認められる畿内説はないぞ。おぬしら
が変な地図なんか持ち出して中国人の倭国についての位置認識はこんなものだ
ったと強弁してもそんなものは何の役にも立たんぞ。
>>236 いや、俺も東遷するなら一部の部族が先発隊として
移動する位の意味と思ってるんだけどね。
例えば和歌山の方に伊都郡なんて地名があるのをみると、
それは考えられるかもと。
国全部が移動するとかは、さすがに無いと思う。
>>238 魏の使いは九州からは出てなくて、投馬や邪馬台国へは
伝聞情報だとしたら、方角が正確でない可能性はあるでしょう。
随書倭国伝にも三国魏の時代の事について触れていて、
「東夷の人は里数を知らない、ただ日を以って計っている」
とあるでしょ?
投馬や邪馬台国への行程が急に変わるのは
まさにこの事を指摘しているとしたら、
伝聞情報だという可能性は高いと思うけどね。
241 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:16:53
242 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:20:23
魏の使者はまちがいなく邪馬台国を訪ねている。倭王に拝仮しとあるのは直接に会って
いることを示す文言だ。風俗記事の内容も邪馬台国を訪ねなければ書けないしね。
方角を誤るはずがないということは縄文人が言うとおり。距離について1里が何メートル
かというのは、倭人伝においては一貫している。誇張ならばバレにくいところで誇張する
はずであり、中国人が知識をもっている韓の大きさとか、一見して大きさの検討がつく島
の大きさなどについて誇張するはずはない。我々が知る魏の1里=435bとは別の単位
が存在したと考えるべきだ。だいたい、郡から南万二千里といいながら、会稽の東という
のをみればそのことは明白。万二千里を435で考えるならば赤道辺りへいくはずなんだ。
それを魏略も後漢書もとがめることなく使っている。別の単位があったことを示すという
べきだな。
誤 南万二千里
正 南方二千里
では?
>>241 縄文人のおっさんにも言ってやれw
ガキじゃあるまいしwww
245 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:29:34
>>242 それを2ちゃんで言ったところで、叩かれるのが落ち。2ちゃんとは
以外と閉鎖的なムラ社会の典型だ
246 :
”アホの縄文人へ” :2009/07/26(日) 19:30:44
おい、コラ、ゴミカス
結局、お前の言う
「東征してきた九州勢力によってなされた排水工事」
の跡ってのは具体的に奈良盆地の何処か挙げる事はできないのか?
じゃあ奈良盆地のそれは、いまだ発見されていないとしてだ…
お前の想定しているその先進的土木技術とは一体具体的にどのようなもんだったんだ?
それを九州の何処で確認できるんだ?
まさかそれにも答えられないのか?
一から十まで全て妄想なのか?あん?wwwwwwwwwwwwww
>>237 里の換算はその考えでいいと思うよ。
一大國(壱岐島)の記述が方三百里ばかり、実際が14km×17km、
面倒だから10km=300里とすると1km=30里、33m=1里、となる。
一大國→末盧國(唐津)の記述が海を渡ること千余里、実際が約30km、
1000里海を渡る、に合致する。
>>246 まるで保健所職員に追い詰められた
野良犬みたいな悲壮感が漂っている。
249 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:36:54
>>248 それは東遷説論者の事なのかな?wwwwwwwww
250 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:44:54
>>240-241 ヨコレスだが…
邪馬台国までの行程は伝聞・・・この可能性はあると思います!w
先ず途中から里数から日数へと表記が変わっている事。
五万戸だの七万戸だのおよそリアリティのない数字が
邪馬台国に近づくにつれインフレ起こすように出ている事。
卑弥呼の墓で現在のところ考古学的には一例も認められていない
殉葬が出ている事。
…等々。
正し個人的には魏使が卑弥呼の下にまで行かなかったという立場はとらない。
魏使は邪馬台国の卑弥呼の下にまでは行った。
しかし、邪馬台国までの行程の情報はその魏使からもたらされたものではなく
例えば伊都国に常駐もしくは頻繁に訪れていた郡使によるもの
・・・とすれば色々な矛盾もクリアできるかと思うが?www
251 :
250:2009/07/26(日) 19:51:32
ただ一つ問題なのは>250で挙げた殉葬の件で
もし当時の倭人社会に殉葬の習慣が過去にも無かったとしたら
仮に話しに”尾ひれ”を付けるにしてもそれは倭人の発想ではないと言う事になる。
無論、魏晋の頃は既に薄葬化が進んでいた中国だろうが殉葬の”尾ひれ”を付けたのは中国人だろう。
つまり倭人からの伝聞情報と言っても
倭人自身のの間違いや、その上にをれを聞いた中国人の間違い等もあるとw
そこら辺も情報の制度と言う点で考えておく必要もあるだろうwwwwwwww
252 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:52:09
>>245 叩こうとするのは馬鹿ばかり。私を本島に叩けるだけの頭をもった奴はいないよ。
まともな思考力をもった人は私の意見を読んで納得するだろう。
253 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:55:35
>>252 だから2ちゃんにいるアンタも馬鹿なんだろ?
254 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:59:44
>>250 では、伊都国あたりにいた倭人は、倭の国々がどのあたりにあるか、どのくらいの
戸数か知らなかったとでも? 伝聞で書こうというならば、投馬国、邪馬台国以外
の国々についても、かなり書けたはずでは? 使者は自分が確認したことしか書か
なかった、だから戸数道里は投馬国と邪馬台国なんだよ。
日数に変わっているというのは、ちんたら進んでいて里数がよく分からなかったと
いうことだな。
257 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 20:15:03
うーん、しかしまあ、大和湖(違うのか?)の排水工事とやらは、縄文人本人も本気でいって
るんではないだろ。大和湖自体がいまだ仮説の存在だ。俺もあったとは思っているけどね。
おそらく亀の瀬あたりで断層ができ、湖水は大和川となって徐々に排出されていったのでは
ないかな。前5世紀あたりで水面の標高が50mくらいになったと思う。そして湖岸平野が
形成され稲作が始まった。卑弥呼の頃には湿地帯が少し残っていた程度だろう。むしろ肥沃で
水運に利のある土地ということだな。まあ地理的な面は、俺は奈良の土地勘はないので少し
違うかもしれない。
この「縄文人」は土木関係者のようだから、早期古墳の年代といわれて、自分の仕事関係
から思いついたんだろう。しかし文献記録も考古資料もないことならなんとでもいえる。
例えば、2〜3世紀の九州では河童が支配していたとか。www あとは、理化学年代の否定
か。これはあと十数年かかかるだろうが、時間が解決すると思う。現時点で光谷年輪も歴博
のc14にしても、一方向からの情報であるのが疑問視される原因のひとつであって、多方面
からの測定結果が重なるとまた違ってくるだろう。ま、どういう結果になるにしろ、現時点では
危ういものだとは思っている。
なんで大和盆地を干拓しなきゃならんのだ
当時は他にいくらでも平地はある
>>257 大和湖は存在しますが、弥生時代末には消滅して
広瀬神社辺りに沼が残っていた程度でしょうね。
意外と低地に縄文遺跡が残ったりしてますから。
古代史を語る上で大和湖より重要なのは、実は河内湖。
ここは、 ニギハヤヒ、物部氏の降臨地。
ここを起点に畿内は開けていったのです。
261 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/26(日) 21:49:18
>>250 行ったのに里程を記録しなかった? 記録したけど伝等の記述に採用されなかった?
どちらも考えられない。
こんなので「矛盾もクリアできる」などと言えるのはどうだか。
262 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:03:30
亀レスで、>231-236 に対する感覚だけの妄想で失礼します。
福岡筑後勢力を基にする九州勢力と、畿内大和勢力との間に
文化的な繋がりはあまりないように感じます。
そして、全国の統一を目指すのでない限り(当時はどこまでが全国?)
九州勢力はまず、九州内に征服の手を広げ、次には
朝鮮半島に手を伸ばすほうが、感覚的には近いように思えます。
そして福岡筑後勢力にとって、感覚的に近いと思えないのが、
日向、豊前、豊後の勢力です。
福岡筑後勢力にとって、日向、豊は海路で行くとかなり遠回りになりますし
陸路では険しい山道となるため、攻めにくい場所です。
しかもそれなりに平地もあり、人数もいる。
となると、攻めようとしても、分断されて各個撃破されるのが落ちです。
そのため、福岡筑後勢力にとっては、攻めてこない限り、無視に近い状況
となるでしょう。
もし、神武東征が、下っ端の一部の仕業だったとしても、行われていたとしたら、
それは、瀬戸内海側に進出する日向豊勢力である可能性はないでしょうか。
もし、畿内大和勢力と交流があるとすれば、瀬戸内海文化圏の
端っこに位置していると考えることもできます。
日向のあの古墳の数は、堺あたりの古墳の数と感覚が似ているような気がするのです。
福岡筑後文化圏では、古墳があるにはありますが、それほど執着していないように感じます。
263 :
縄文人:2009/07/26(日) 22:12:14
>>226、246
奈良湖の排水工事について知りたいらしいな。教えてやろう。
JR関西本戦三郷駅付近から亀の瀬、弁天橋の辺りの山崩れで大和川が塞き止められると奈良盆地の大部
分が水没する。奈良盆地の等高線地図を見れば明らかである。縄文時代にそのような崩落による河川閉
塞で奈良盆地の標高50m以下の低地は水没していた。弥生時代に上記大和川流域の掘削工事が始まった
(もちろんその記録はない)。この工事は最初は堆積した岩石土砂の上層部を取り除く作業が岸に近い
場所から始められた。この作業は下流域から徐々に上流域へと進められたと思われるが、作業流域の長
さは1〜2km近くあったろう。取り除いた土砂、岩石の捨て場は国分本町の川沿いの平地であったろう。
この工事は人が手やつるはしを使って岩石を岸近くに運び、さらに別のグループがそれを下流の平地に
運ぶというもので、一応の完成を見るまでに運び出さなければならなかった岩石、土砂の量は数百万ト
ンにものぼったたであろう。1日に10トン運んだとして年間3千トン、100年で30万トン1000年で
300万トンである。その間奈良湖の水位は年間5cmくらい低下したであろうか。100年で5m、1000
年で50mという程度のものであったろう。この作業は初期ほど容易で、掘削が進むにつれて川の中央部
に、水の流れに抵抗して作業をしなければならない。時代とともに掘削技術も向上しただろうし、盆地
に新たに形成された水田で食料の増産も得られて行く。人も増える。とまあ、このような進行であった
ろうと考えるのである。3世紀にはまだまだ巻向辺りの古墳が作れる状況にはなかった。それが出来る
ようになるのは記紀の登場人物崇神が王権を確立した3世紀末〜4世紀初であろう。
264 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:13:57
>>261 二 ◆.L.MXSPOgc
はあ?
邪馬台国の卑弥呼の下にまで赴いた魏使の最大の役目はなんだ?
報告するとしてその一番重要な内容はなんだ?
邪馬台国までの距離・方角を測量して記録して報告する事か?
要は事の首尾がどうなったかの報告だろうが?
違うか?
朝に夕に地平線の太陽を見て
夜に北極星を観測して方角を確かめつつ
邪馬台国に向かうのか?www
里程なんか記録しなくても問題ない。
仮にそれうぃ知っていたとしても報告せずとも何の問題もない。
何か俺がおかしい事を言っているのか?
265 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:18:27
>>238縄文人さんへ
末廬国と伊都国についてですが、あなたは両国をどこに比定しておられますか?
266 :
”アホの縄文人へ”:2009/07/26(日) 22:20:19
>>263 で?
場所がそこだとして、そこで3世紀に東遷してきた九州勢力によって
工事がなされたと言う証拠は何処にあるんだ?w
縦目がお前の事を土木関係者とか言っていたが
グダグダグダと工事の見積もりみたいなのを書き連ねているが
それで内容に信憑性持たせたつもりか?ドアホwwwww
267 :
”アホの縄文人へ”:2009/07/26(日) 22:23:43
>>263 そんな意味のないレスをグダグダ書く暇があったら
>>246の質問に答えてみるつもりはないかな?wwww
随分譲歩してハードル下げてやってんだぞ?wwww
>じゃあ奈良盆地のそれは、いまだ発見されていないとしてだ…
>お前の想定しているその先進的土木技術とは一体具体的にどのようなもんだったんだ?
>それを九州の何処で確認できるんだ?
>まさかそれにも答えられないのか?
>一から十まで全て妄想なのか?あん?wwwwwwwwwwwwww
268 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:25:27
仮に東遷があったとして、どうしてその地が大和なのか。
これは大和の地形が重要なのだろう。
日本書紀の神武天皇も、あるいは熊襲征伐でやってきた景行天皇もやたら
大和が山に囲まれた土地であることを強調している。
神武天皇が日向だとしたら、日向は台風の被害が起きやすい。さらに、
近いうちに起きるだろうとされ、過去定期的に発生してきた南海地震では
津波も起きやすい。
奈良盆地だったら、どちらもかなり安全地帯だろう。
もう一つは、防御の地としても奈良盆地は非常に適していると思われる。
もちろん、仮想敵国としては晋ということになるわけだが、大陸から
攻撃を受けたとしたら奈良盆地はかなりわかりずらいと思うし、守りやすい
と思われる。
呉が滅ぼされたことなどは遷都(あるいは転地)の契機となるかもしれない。
>>265 >あなたは両国をどこに比定しておられますか?
総武線浅草橋と錦糸町の間にある
駅の前には国技館が
堆積物のうち大きめの岩石を下流に運んで、旧大和川(現長瀬川)の流れを整えたらしい
応神天皇陵をふくむ古市古墳群が水害にやられる事がなくなった
今の大和川の流れは近世に付け替えられたものだけどな
そして亀の瀬から出た巨岩を明日香に運んだのが亀石だ
亀石の向きを変えると奈良盆地が水没するという言い伝えがある
明日香の水伏せの石造物となったのだ
271 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:45:42
結局この縄文人と言う馬鹿が
>>263で言っているような大工事なら相当な時間がかかるはず。
単に武力でもって平定したって話じゃなく
盆地湖から完全に水を抜いて・・・ってんだから気の長い話だwww
その間九州の邪馬台国とヤマトの間での人や文物の往来は結構活発なものがあったろう。
畿内説側の
「ヤマトに九州からの東征勢力がやってきたことを示すような遺物遺跡がない」
と言うのがより正当性を持つわけでwww
それが短期間であればあるほど
遷ってきた勢力が小さければ小さいほど
考古学的資料として痕跡を残さないのも無理はないって話しだろうしwwwwwwww
>>261 > 行ったのに里程を記録しなかった? 記録したけど伝等の記述に採用されなかった?
> どちらも考えられない。
「行ったのに記録しなかった」は確かに考え難いですが、正しく記録できたかどうかは別問題です。
いろいろな目的で倭地へ赴いた郡使がいたかと思いますが、その度に記録内容が異なっていてもおかしくはないかと。
詔勅の下命のための遣使であれば、先ずはそれを確実に行うことが第一の使命ですから観察は二の次でしょう。
測量を行いながらなどと言うことは、勅使以外の派遣時に行えばよいことです。
また、倭人伝の風俗記事を「梯儁達の報告に基づくに決まっている」などと言い張る人たちがいますが、
そう言う調査、観察記録なども、もう少し軽い任務の派遣時に行なわれた方が時間を掛けてできることだと思います。
そうやって残された複数の記録の内、どれを選択するかは編者の都合によって決まることで、
他の正史の記述でも、けっこういい加減なものが多いでしょう。
273 :
縄文人:2009/07/26(日) 22:58:22
>>267 おまえ俺に喧嘩売ってるつもりか。このやろう。人をアホだとぬかす貴様の頭の程度は中学生以下だ。
俺の書いたものを読んだのか?先進技術と言ったのは、灌漑利水工事の技術、工事用鉄器とその製造技術、
稲の栽培技術だ。九州には広大な沖積平野があり、稲作の適地が多かったが、例えば筑後川にしても大雨
の季節には氾濫する。それを防止するための堤防工事や、時に雨不足もあるから水源から導水路をひいて
くるなどの工事が必要だった。その工事を行うのに、畿内あたりでは木製の道具が主流であった時期に九
州では鉄製の鍬やつるはしのような工事用、農作業用器具が大量に作られていたのだ。それらは大事にす
り切れるまで使われ、使えなくなったら鋳直して再利用する。簡単には遺棄されないから出土しない。だ
が、出土鉄鏃の量の多さから九州に於ける鉄器文明の優位が分るのだ。長くなるから今はこれまで。
274 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 23:11:28
ヤマトの重要性というのは交通の要所だからだろう。瀬戸内海の突き当たりであるし、東海そ
の他の後背地への中継地点だし。北九州からのルートは解明されてきているが、吉備形甕の
移動が、今治市を経由する四国経由というのは少し意外だった。東海地方へのルートも見えて
きつつある現状。
「縄文人」はやはり統合が失調気味だな。そんな大工事があれば痕跡は必ず残るだろう。
この「排水工事」とやらだけではなく、どの時代でも大和に見る九州地方の影響は他地域と
比べて多くはない。まあ、古代史について掲示板に書き込むのはキャバクラとかに行くより
金もかからず、よい趣味とはいえるだろうがね。工事の受注が増えるといいな。
275 :
縄文人:2009/07/26(日) 23:11:36
>>271 おい いい加減にしろよ。このチンピラ。人の名前に馬鹿をつけりゃ優位に立てるとでも思っとるんか。
ドアホ。いいか、奈良湖の排水工事を最初に始めたのは土地の人間達だ。誰が弥生時代の早期に九州から
やって来て工事を始めたと言ったか。ばかやろう。畿内の遅れた工事技術や道具ではなかなか捗らなかっ
たんだが、3世紀半ばあたりから本格的に入り込んできた九州勢力が土着の連中を支配、指導して工事を
捗らせることが出来たのだ。これが一番あり得そうなシナリオだ。何も知らぬくせに大口叩くな。
276 :
”アホの縄文人へ”:2009/07/26(日) 23:13:23
>>273 >灌漑利水工事の技術
>工事用鉄器とその製造技術、
>稲の栽培技術
で実際にそれらの九州のアドバンテージを確認できる遺跡遺物ってのは何処なんだよ?w
具体的に言えドカスw
例えば纏向の護岸工事で使われているような土木技術。
先にも出たが神殿とも言われている掘立建物に使われていると言う魏代の魯般尺とか・・・
お前の言っているのは結局、鉄器の出土総量の優位性程度だなw
中身が何もない。
呆れるぐらい。
「九州は鉄がたくさんあったから偉いんだ強いんだ」・・・結局これしか言っていないw
ちなみに今日NHKで古代エジプトの特集(ツタンカーメンの嫁の墓)やってたが
鉄の民族とも言える古代ヒッタイトは結局エジプトを滅ぼす事はできず
自身は何処の馬の骨とも知れぬ謎の海洋民族に滅ぼされたって知ってたかな?wwwwwwww
なんで九州説ってこんなお馬鹿なキャラばっかりなんだろうw
>>273 >おまえ俺に喧嘩売ってるつもりか
当然喧嘩を売っているとしか判断できないレスであることは確か。
売られた喧嘩は当然買うよな? ヤレヤレ口喧嘩なんてみっともないことするなよwwww
煽り口調で言うことか?
罵声抜きにして議論できるスレってのは無いもんかね
>>277 >なんで九州説ってこんなお馬鹿なキャラばっかりなんだろうw
「自分はお利口さん」とでも言いたそうだな
身の程知らずもここまでくると、滑稽に見える。
281 :
縄文人:2009/07/26(日) 23:25:05
274
縦目仮面 君の言うように大和の利点は交通の要所と周りを山に囲まれた防衛面での利点だ。3世紀後半に
進出して来た九州勢力も盆地の農業生産力が上がるにつれてこの地の利点の認識を深める。そこで、本拠地
でも狗奴国との抗争に嫌気がさしたか、勢力争いで分派したか、大挙して移住して来た。そして大和王権へ
と発展した。これでめでたしめでたしではないか。倭人伝解釈では邪馬台国が九州にあった。その勢力が奈
良盆地の大開拓に成功して移住してきて大和王権を確立した。これでうまくつながる。
282 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 23:25:36
>>275 >おい いい加減にしろよ。このチンピラ。
>人の名前に馬鹿をつけりゃ優位に立てるとでも思っとるんか。
ん〜と、そこ笑うところなのかい?w
アホだの馬鹿だの頭につけるってのは、キサマのアイデアなんだが?wwwwwwwww
↓↓↓
>188 名前: 縄文人 投稿日: 2009/07/26(日) 01:32:30
>返事するのに困るから”アホな畿内説論者”とかなんとかネームを付けてくれんかな。
>>280 工工工エエエエエエェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェエエエエエエ工工工
縄文人に言ってやれよwwww
>>279 >罵声抜きにして議論できるスレってのは無いもんかね
公開掲示板でそんな贅沢言っても
そもそも公開掲示板なんて、自分の馬鹿さ日本一を決める場所だし
参加するという事は、馬鹿さ日本一決定戦に自ら参加したも同様だから
285 :
縄文人:2009/07/26(日) 23:31:14
>>280 おまえはこんな書き込みしか出来ないんだろうな。中身がないから。
286 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 23:32:22
まあ結局のところ・・・
東遷説論者が東遷の物的証拠として好んであげるのが
「銅鏡」ってのが一番多いパターンだが
この縄文人の場合、銅鏡の変わりに土木開墾技術を持ってきた
・・・と、まあその程度のバリエーションだと考えれば宜しいかとwwwwwwwww
287 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 23:32:43
まあ、「縄文人」は書き込みでストレス発散してるだけで、真面目に古代史考える気はない
んだろ。なんの根拠もなくていいんだったら。九州河童王国説を俺が朝までやってもいいん
だが。例えば、
昔、河童は黄河の上流に棲んでいたが、その中の一族が海を渡って九州の球磨川に棲んだ。
そこで繁殖して九千匹になった。
また中世、河童の総元締は海御前といい、これを祀った福岡県北九州市門司区大積の天疫神
社がある。 海御前は、壇の浦の戦に敗れて入水した能登守教経の奥方が神になったと言い伝え
られている。
また、後代九州の九千坊と称する族長は乱暴者で、加藤清正が九州の猿を集めて攻めたてたと
ころ、河童は降参して肥後を去り、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に棲み、水難除け神の水
天宮の使いになった。(石川純一郎「河童の世界」より)
馬鹿馬鹿しいのでもうやめるが、まだ俺のレスのほうが伝承やら文献の根拠がある。wwww
>>285 釣られた所を見ると、図星だったようだなwwwwwww
>>263 やっぱりあまり奈良について詳しくないね。
奈良盆地で標高50mより下にある縄文〜弥生の遺跡なんて結構あるけど。
それはどう説明するの?長期間水没してた様子は無いのだが。
290 :
縦目仮面:2009/07/26(日) 23:45:34
あと、ヤマトの優位性が、「周りを山地に囲まれた防御面にある。」・・・昔はそう思ってたんだが、
どうやらそうでもないようだ。纏向を開かれた集落(都市)と考えるならば、東海・北陸・丹波等へ
の交通の利便性がなくてはならない。
三世紀後半に西からの勢力が畿内へやってきたとするには、
高地性集落の時期や、垣内遺跡の製鉄跡と時期が合わないな。
この時期に九州勢力の移動があったと考えるのは、ちょっと無理ですね。
292 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 23:58:17
>>287 縦目仮面
>昔、河童は黄河の上流に棲んでいたが
う〜ん、中国をやってる学生さんなら知っているネタだろうが
神話で禹が黄河に注ぐ洛水の治水工事に当たっていた時
水中から神亀が現れた・・・ってのがあったが
このネタを「九州河童王国説」の壮大なお話の中に組み込んで欲しいwwwwwwww
あと河童ネタなら、権現塚古墳や一説には田油津媛の墓とも言われる蜘蛛塚とかがある
福岡県山門郡瀬高町に「こうやの宮」と言われる祠があり、何故かそこに七支刀を持つ男神像があり
そこに、これまた何故か河童像がある・・・なんて話があるとかないとか。。
>>290 纏向の交通の便は、東海〜関東方面にあった気がする
三輪山の裾をまいて、宇陀・名張・津へと東国への玄関口である
伊勢湾から船を使えばもっと早い
纏向の持込み土器は東海が圧倒的に多いのが特長
294 :
縦目仮面:2009/07/27(月) 00:07:01
まあ、中国で治水工事をやるのは有徳の君子だが、「縄文人」もそうなのかね。www
市況板住人なんで正直詳しくない。でも、それなりに一生懸命読んでみた。
色々な意見を読んでみたんだが・・・
if(近畿で出てきたそれっぽいもの > 九州で出てきたそれっぽいもの)
{
OrderSend(”近畿九州”,OP_BUY,Lots,Ask,0,0,0,"",MAGIC,0,Blue);
return(0);
}
俺にはこれだけの事にしか思えない。
九州売りの近畿買いだな。九州説が何故有るのか良く分からんわ。
ごめんよ。馬鹿でごめんよ。
296 :
231:2009/07/27(月) 00:11:41
>>262 うーん俺も感覚的な話しかしないけど・・・wwwww
「福岡筑後勢力を基にする九州勢力」と北部九州と一枚岩の如く括ってしまうのはどうなのかと・・・?
弥生末期、福岡平野と筑紫平野とじゃあ色々政治状況が違うと言うか・・・
元々福岡平野で作られた銅矛なんかは瀬戸内や山陰まで広がっており
福岡平野にすれば衰退しつつあるツクシより商売相手としても
東の首長連合と手を結んだ方がメリットが大きかったんじゃないのかな?
実際畿内の文化をいち早く受け入れているのが福岡平野で
倭人伝で通説なら福岡平野の奴国が二万戸(まあ実数としては議論の余地があるだろうが)と相当な規模であると言うのは
何やら象徴的な気がするw
まあ、はっきり言えば落ち目のツクシ見限って東の首長連合に積極的に参加。
で国力も伸ばしたとwwwwwwww
297 :
縄文人:2009/07/27(月) 00:20:10
ヤマト纏向はワシが造った
____
/__.))ノヽ
.|ミ.l _ ._ i.)
(^'ミ/.´・ .〈・ リ
.しi r、_) |
| `ニニ' /
ノ `ー―i
298 :
縦目仮面:2009/07/27(月) 00:29:25
例えば博多の那珂八幡古墳などはそうだよな。早期前方後円墳であり、御笠川と那珂川に
挟まれる立地から、河口、つまりは福岡平野全域を支配していたと考えてもよさそう。1号墳
は神社の下で未調査だが、2号墳から古い三角縁神獣鏡が出ている。あと興味深いのが、
割竹形木棺直葬であること。「槨なし」。
しかし「終止符」スレでは、もん太 相変わらず凄いな。ww
299 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 00:35:48
>>295 確かに、良くわかっていないな。
邪馬台国論争の王道は、常に九州説。
畿内説はアンチ九州説として成立したに過ぎない。
>>299 物事は時系列で変化し続ける。誕生の動機などどうでもいい。
目の前の条件に対処するのみ。
>>299 ある意味それは正しい面がある。
九州説の衰退とともに邪馬台国論争も終了のお知らせが来ているw
九州説あっての邪馬台国論争wwww
本当の読み方って邪馬台国はヤマト国、
卑弥呼はヒミホじゃないの?
特にヒミコは絶対無いと思うのだが。
303 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 01:20:13
ぶっちゃけ畿内説を本気で信じて主張している畿内説の学者はいないよね。
言論の自由がないのが、畿内説追従の学者の成れの果て。
304 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 05:21:42
>>303 近畿説の文献史学者としては山尾が最後かな。考古学者は、白石を始めけっこういるようだ
けど、近畿の古墳が一番大きいからそこに最大の権力があったのだろうというだけで、倭人
伝が伝える行程や邪馬台国の状況を検討することは一切しない。学問には値しない畿内説信
者ばかりという実態だよ。
305 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 06:15:48
考古学者ってのは、近畿地方の古墳や遺物の勉強から始めるからね。どうしても近畿中心の
考え方になる。九州と言ってみたって、北九州は弥生末までで古墳時代に入ってからは目立
ったものはない。
だが、問題は日向だな。九州最高の古墳密集地だ。ほんの20年前までは、日向の古墳は5
世紀以降ということになっていた。大正時代に高名な学者が比較的新しいものだろうと言っ
たとかで、5世紀以降とみるのが定着していたんだ。これは大和による熊襲征伐が行われ、
その後に日向に古墳が造られるようになったという解釈に基づくものだった。
ところが、最近、それがおかしいということになってきた。日向の古墳に最古型式のものが
多いということが意識されてきたのさ。最近一部が発掘され、それを裏づけている。
そこで、石野などは3世紀後半に日向に九州最大の王が現れたなぞと言い出した。古墳は南
九州が先行していたのではないか? 今はそこまで指摘されている。
そのことを意識してみると、確かに纏向に日向の痕跡が・・・ さあ、どうする?
>>305 >古墳は南九州が先行していたのではないか? 今はそこまで指摘されている。
専門の考古学者でそんな指摘をする人がいましたか?
それは誰ですか?
誰がいつ、何と言う著書、報告書に、或いは学術誌に発表していますか?
307 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 08:13:40
>>273 >九州には広大な沖積平野があり、稲作の適地が多かったが、例えば筑後川にしても
>大雨の季節には氾濫する。それを防止するための堤防工事や、時に雨不足もあるから
>水源から導水路をひいてくるなどの工事が必要だった。
筑後川の堤防工事が3世紀や2世紀以前に行われたような跡は、全く見つかっていないと思います。
また導水路とは、水田面より標高が高い地点に筑後川からの取水口を設け、灌漑用水路を引くことですか?
それこそ同様に、そんな古い時期のものは全然見つかっていない筈です。
見つかっていればビッグニュースで、一般紙でも報じられると思いますが、記憶にありません。
308 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 08:14:39
専門の考古学者? 妙な限定をしてきたものですね。専門の考古学者って、日向の
古墳は5世紀からだ、だから日向の古墳を研究したことはないんです、なんて言っ
てた人たちのことかな? それとも、邪馬台国がどこにあったとか、いいかげんな
ことを言わない人たちのことかな?
309 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 08:25:16
>>308 とりあえず、古墳は大和よりも南九州が先行していたと指摘をしている論考を、もしあなたがご存知なら
出典を挙げてみてください。
ご存知でなければ、知らないとお答えください。
>>305 どうするも何も畿内説の基本は「共立」なんだけど。
南九州との関連性があるという事は
別に何も矛盾した事でもない。
2世紀後半に倭国大乱があって、
その結果巻向が存在するという事ですよ。
>>309 論稿は知らんが、南九州に最古の前方後円墳か?という記事があったよ。
「徳島文理大の石野博信教授(考古学)の話」
南九州の古墳がここまで古くなるとすれば予想外なことで、古墳成立問題を考えるうえでも衝撃的
だ。前方後円墳は大和から拡散する考えがある一方、全国で多元的に発生し、その後統合されていく
とする考え方があり、その可能性を示すひとつの鍵となる成果だろう。
312 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 10:33:28
九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原(さいとばる)古墳群」(宮崎県西都市)から、
国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。
出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった
畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。
これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。
確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部
を持つ「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先
立つもので、3世紀中ごろまでに造られたとされる奈良県桜井市の纒向石塚などと同じ形。
後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土した。このため、4世紀
とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼることになる。
纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。南九州は
「地下式横穴」など独自の埋葬文化を持ち、のちに「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が中央
政府に反乱を起こすなど、長く中央とは一線を画してきた土地柄だ。
近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、発掘責任者の柳沢
一男・宮崎大教授(考古学)は「南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画していた可能性を
考えなくてはならなくなったのではないか」と話している。
宮崎大では夏にも発掘を再開する予定。
313 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 10:50:42
やはり神話は真実を伝えていたのか
314 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 10:55:44
真実であったかどうかは分かりませんが
ネタ元はあったと思います。
あと、記紀制作時に日向に降臨したというのが
当時の有識者にとって、ブランドイメージ
であったことが重要だと思います。
道教で宇佐まで神託を受けに行っているのも
宇佐の神託であれば間違いない、という
ブランドイメージがあったのでしょう。
でなければ、なんでそんな辺境の得体のしれない
神を気にするのかということになります。
確かに神話との整合性もあるでしょ。
つまり出雲族が先に畿内の山の辺辺りに入っていて、
そこに九州や瀬戸内の連合隊が葛城山麓に侵入。
この倭国大乱を経て出雲が国譲り、媛は出雲(丹波)から
出してヤマト国を巻向に建設としたら説明の付く話です。
どう考えても北部九州からの遷都は
あり得ないというのはこういう事ですよ。
319 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 11:40:10
わざわざ遷都なんてするかなあ。
北部九州はそれなりに住み心地いいよ。
夏死ぬけど。
せいぜい、どっか追いつめられた集団か、下っ端が
仕方なしに新天地を求めたんじゃないのかな。
向こうは向こうで勝手にやってても、
北部九州の連中ははそんなに興味持たないと思うんだ。
そりゃ、だんだん向こうの連中がだんだん強大になれば
警戒するだろうけど。
北部九州は大陸からの人の侵入で疲労。
国はバラバラになったと思うけどね。
隋書でも「ここは秦王国か?」なんて言われる始末だ。
しかし奈良時代にかけての人口増には渡来人の大挙流入説がある
322 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 12:25:42
北九州勢力に追い詰められた神武が
東に活路を見出したという可能性はあるな
もしくは北九州に本家や主家があったとかね
323 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 12:40:58
可能性で語るな
ガキじゃあるまいし
324 :
縄文人no:2009/07/27(月) 12:55:55
325 :
311:2009/07/27(月) 13:06:35
326 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 13:10:54
327 :
縄文人no:2009/07/27(月) 13:11:42
>>307 兄貴は今忙しいので代わって俺が返答する。
川の様子など次々に変わるのだ。洪水のたびに流路さえ変わることがある。堤防工事の跡など
残る確率は極めて低い。水田の灌漑利水工事の跡、水路の跡など古代と近代(例えば江戸時代、
あるいは明治時代)とどれほど異なると思っているのだ?コンクリートの使用が始まってよう
やく区別がつくようになるのだ。おまえら実際のことを何もしらぬな。
ついでだが、兄は紳士だから罵詈雑言を書き込むチンピラどもにも我慢して応対しているが、こ
の俺は兄より縄文人、山の中で獣を追いかけて暮らしていた縄文人の気質をより濃く受け継いで
いるからな。こんどくだらぬ罵詈雑言を書き込む奴は自分の住所氏名を併記しろ。俺の手下に猪
の頭か猿の脳みそか、狸の・・・まの干物を持って挨拶に出向かせるからな。俺は人間と認める
相手には何も危害は加えない。だが、ウジ虫は踏みつぶすからな。覚悟してものを言え。
萩之本遺跡
数百本のくいで護岸
奈良、弥生のかんがい施設跡
奈良県橿原市の萩之本遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)とみられる約700平方メートルの水田跡とかんがい施設が見つかり、県立橿原考古学研究所が14日、発表した。
かんがい施設は小川がカーブする個所に設置。岸が崩れるのを防ぐため、長さ1メートル以上の木のくい数百本を約10メートルにわたって何重にも打ち込み、すき間に板を挟んでいた。
川底は一段と深く掘り下げ、小さな貯水池のようにしてあった。この先は細い水路になっており、周辺の田に流れる水の量を調節したらしい。
かんがい施設は何度か壊れたようで、補修した形跡があった。同研究所は「水を得るノウハウを持っていたことがうかがえる。当時の水田経営の実態が非常によく分かる資料」としている。
水田は1枚が3−25平方メートルの長方形。幅30センチほどのあぜで区切られ、40枚以上が見つかった。
329 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 13:23:07
>>327縄文人no
縄文人の弟?
こりゃまた香ばしい馬鹿が出てきたなWWW
弥生時代の灌漑施設跡なんて結構残ってるよな。
九州の西都原古墳が古いと判断されると、
巻向の古墳群との関連性も倭国大乱で説明できちゃうからな。
そりゃ考古学上は邪馬台国=畿内が主流になるだろ。
332 :
311:2009/07/27(月) 13:48:50
>>322 そうではない。南九州の古墳が最古級だということは、南九州に邪馬台国があった
徴表だよ。南九州にあったとなれば、倭人伝が伝えるようにその邪馬台国が北九州
まで支配下に納めていたということ、つまり九州全体をほとんど統一していたとい
うことだ。となれば、その九州勢力が近畿に姿をみせるという意味が東遷などとい
うものでないことは明らかだろ。九州から近畿に遷ったのではなく、九州に都をお
いたままで、近畿を征服した、つまり東征したんだよ。
古事記などが三男坊を主役にしたのは、本家が九州に残っていたという意味だ。
333 :
縄文人no:2009/07/27(月) 13:50:05
>>329 馬鹿という言葉はおまえのためにある。ネームも付けられぬ落ちこぼれめ。内容の無い書き込みしか
出来ないから悪罵の言葉を書き込む。弱い犬ほどよく吠えるのだ。チンピラ 引っ込んでろ!!
>>333 >弱い犬ほどよく吠えるのだ。チンピラ 引っ込んでろ!!
お前のこと?
335 :
縄文人no:2009/07/27(月) 14:10:36
>>330 弥生時代の灌漑利水工事と江戸時代のそれは殆ど変わらないだろう。基本的に木の杭を打ち込んで
板で堰をつくるとか、石を積んで壁を作り後ろを土で固めるとか、現代の中学生でも考えられるよ
うなものだ。弥生時代の水路や堰などがあっても補修したり、取り壊されたりして残っていないの
が殆どだよ。江戸時代、ひょっとしたら昭和の時代でも遺跡など気にしないで工事をしてしまうと
いうのが実情だろ。何か遺跡はないかと鵜の目鷹の目で探さなければ見つかりっこない。それにだ、
木材なんてのは腐り易いからたびたび取り替えなければならない代物だ。弥生時代の木材だという
証明は困難だぞ。嘘だと思うなら、スギでもヒノキでも庭先の土に埋めておいて見ろ。20年もした
らボロボロになるぞ。実際を知らない連中が弥生の木製堰などと言っている。アホらしい話だ。
336 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 14:11:55
邪馬台国が南九州だと年代がおかしくなるだろ
337 :
311:2009/07/27(月) 14:20:09
338 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 14:20:46
>>332 古代は末子相続だった可能性があるから三男坊は関係ないかも。
神武一族が北九州連合王国を構成する一豪族だったかもしれない。
ていうか畿内説だとしても成り立たなくはないな。
東征があったとすれば倭国大乱のころだしね。
>>337 倭人伝による倭国大乱や高地性集落のあった時期を考えると、
東征が仮にあったとしたら二世紀中頃でしょ。
そうなると邪馬台国を南九州にあったとするのは無理があると思うけど。
340 :
縄文人no:2009/07/27(月) 14:38:29
畿内説の連中は倭人伝の方角をねじ曲げ、里程について魏の公式尺度を使わなかったり使ったりと恣意的な解釈をしなければ
ならない。九州説は倭人伝の記述どおりに解釈して納得できる説明をすることができる。畿内説は倭人伝では勝負が出来ぬの
で遺跡に頼る。だが、悲しいかな、遺跡の築造年代を自分達の都合のいい年代に持ってくることに狂奔しているが、肝心の年
代測定法の問題が解決されていない。つまり、ヤマトの大型古墳の築造年代は仮説のままである。仮説であることも認識でき
ず(それは偏に思い込みの故であるが)自分達が優位であると信じている。想像でものを言うなとか、偉そうなことも言って
いるが、自分達は妄想でものを言っていることにも気づいていない。現在の考古学で唯一絶対といえることは、地層の下部に
あるものほど古い(地層の乱れが無い場合)という相対年代だけだ。絶対年代の科学的測定法はまだ確立されていないのだ。
このようなことを理解できているのは畿内説派では縦目仮面くらいかな。他にも幾人かいるかも知れんが、ネームがないの
でよく分らん。彼らは俺に悪罵を浴びせる連中を恥ずかしく思っている(筈だ)。
倭人伝で解釈しても九州では説明つかないでしょ。
だから候補地だらけなのにw
342 :
縄文人no:2009/07/27(月) 15:03:07
>>341 九州説のどれかが正しい(かも知れん)だろうよ。ピンポイントでの正解でなくても当たらずとも遠からずの説
は多いんじゃないかな。俺はここかなと思うところは持っているが、タダでは教えられん。
>>341 だからね、倭人伝に邪馬台国が出てくるから問題なの
344 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 15:37:15
>>311 >徳島文理大の石野博信教授(考古学)
>>312 >柳沢一男・宮崎大教授(考古学)
二人とも邪馬台国畿内説だ
端墓古墳築造を3世紀とする点も共通
345 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 15:40:25
訂正
>>344 >端墓古墳築造×
箸墓古墳築造〇
考古学界も大変だね。
347 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 16:39:15
九州説の場合、北部九州でだいたい倭人伝の記述は
ことが足りてしまうわけだが、
畿内説だと、西日本全域など相当広域を考慮しないと成立しない。
348 :
縦目一派の末席:2009/07/27(月) 16:44:33
>>340 > 畿内説の連中は倭人伝の方角をねじ曲げ、里程について魏の公式尺度を使わなかったり使ったりと恣意的な解釈をしなければ
> ならない。九州説は倭人伝の記述どおりに解釈して納得できる説明をすることができる。畿内説は倭人伝では勝負が出来ぬので遺跡に頼る。
何を言ってるんですか? 畿内説は全員「公式尺度」しか認めないのですよ。勝手に尺度を発明したりしません。
机上で組み立てられた所謂「舞文」であると考えている訳です。方角もしかり。
玄海灘に面し楽浪系遺物が多くみられ、古地名がイトと呼ばれ、ほぼ同時期の王墓と目される遺跡のある地を伊都国だと考える訳です。
まともでしょ?
349 :
縄文人:2009/07/27(月) 16:58:12
縦目一派の末席さん
魏の公式尺度しか認めないとなると郡から狗邪韓国までの距離も対馬から壱岐までの距離も実際に合致しないが、
これは実際とは違うからなかったことにしますか。南にヤマトはないからこれもなかったことにしますか。
結局、倭人伝は信用ならぬので勝手に解釈する(都合のよいところだけ抜き出して)という立場なんですね。
伊都国は福岡県糸島郡(旧)付近が通説だ。
縄文人は同意か。
351 :
縦目一派の末席:2009/07/27(月) 17:17:52
>>349 > 魏の公式尺度しか認めないとなると郡から狗邪韓国までの距離も対馬から壱岐までの距離も実際に合致しないが、
> これは実際とは違うからなかったことにしますか。南にヤマトはないからこれもなかったことにしますか。
そら又、極論ですね。こちらが言ってもいない事、否定しても仕方ないでしょう。
352 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 17:22:22
魏使の移動ルートは佐賀に出るルートを示しているようだが
伊都や奴国、宇美国は従来の説を支持したい。
二つルートがあって、ごっちゃになっていると言うことは
なかろうか。
主要道は奴国経由
直行ルートは佐賀への山越え
魏志を編纂した人が、複数の資料を見て混乱したとか。
>>347 三世紀末の記述という点で、九州内で事足りる事が一番疑問なんだけど。
どこかで混乱はあるのかも知れない。
だが少なくとも使者が必ず寄る伊都国までは正確だろう。
>>352 佐賀とは佐賀平野のことか。
その佐賀に何という国があると言うのだ???
まさか邪馬台国とでも?
356 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 17:31:06
魏の公式尺度なんて
曲尺一本しかないんだけどな
>>349 倭人伝は一字一句間違いない。全て信用に足る記述であると信じてるのですか。
358 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 17:38:57
>>352 >魏志を編纂した人が、複数の資料を見て混乱したとか。
十分ありえるんじゃないの。
陳寿は蜀の山の中で生まれ育って、一時蜀漢に仕官してたが、
魏の朝廷には仕官したことがない。
359 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 17:39:35
>>355 佐賀に邪馬台国があるとは思えんが
いろいろ遺跡は出るなあ。
私事で自宅を建設する予定で
土地調査したら、弥生時代の住居跡が出てきてしまった。
佐賀市大和町
360 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 17:40:58
>>327 えっ? アホの弟くん登場?
で、
河川のコース自体が変わっている可能性がある。
工事に使った杭や板も朽ちている。
・・・等々、それが見つかっていない理由を挙げたとしてもだ
結局、九州にもその工事跡が見られないのなら、
そもそも、どうして九州に治水のための先端土木技術があったと分かるんだ?
って話で兄弟揃って全てが妄想の世界と言うだけの話に過ぎないwww
以下はチト、スレ違いだが…
2ちゃんみたいな掲示板はそのメッセージは常に不特定多数に閲覧されているんだから
「やられたらやり返す、先にやったのはあいつだ!」
なんて事をほざいても無駄w
一度煽りあいに乗った時点でてめえも同じ穴の狢だ、甘えるなカスwwwwww
「ようこそ!便所の落書き、2ちゃんねるへ!」
お前の書き込みに気分を害された人間にとってはお前が加害者だボケw
『 縄文人弟はドアホ、大馬鹿、ゴミクズ!いっぺん氏んどけドカス! 』(←棒読み)
ん?住所氏名?誰が書くかアホw
知り合いの すーぱーはっかー にでも頼んだらどうだ?wwwwwwwwwwwwww
まあ、こんな事は今更言うような事でもないんだが
縄文人弟くんはリアル厨房くんなのかな?(まあ兄貴も似たようなもんだがw)
夏やねえ〜wwwwwwwww
361 :
311:2009/07/27(月) 17:42:22
362 :
”アホの縄文人兄弟へ”:2009/07/27(月) 17:42:48
>>342 縄文人no
>俺はここかなと思うところは持っているが、タダでは教えられん。
おいおい。
HNつけない事をどうこうほざいている奴が自説は書けないって…
お前この板に何をしに来てるんだ?アホw
それこそ畿内説にイチャモンつけるだけのクレーマーじゃねえかクズw
363 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 18:05:38
つうか
>>349の縄文人は縄文人no(弟)とは別の兄貴の方なのか?w
しかし弟と名乗っている方は
改行しない読みづらい文章も
煽り文句も
主張内容(畿内説の理化学的年代測定の批判に重きを置く)も
論の組み立て方進め方も
…なんか兄貴と瓜二つって気がするんだが?www
まあ、はっきり言うと同一人物と疑っているわけです、ハイwwwwwwwwwwww
364 :
縄文人:2009/07/27(月) 18:07:15
>>360 おまえのようなアホがいるから畿内説の良識派が迷惑してるんじゃないかな。内容のあることは何も言ってない。
ただ汚い言葉を並べるだけ。小学生でも軽蔑するぞ。おまえら古代の木材工事遺跡のことを偉そうに口走っているが、
木材のことをまるで知っちゃいない。教えておいてやる。木材が腐るのはきのこのような端子菌や目には見えにくいが
軟腐朽菌や細菌によって分解されるからだ。端子菌は水の中では生育できないが、空中に出ている部分の木材の腐朽に
は働く、細菌は土の中にいる。土に埋もれた部分の腐朽の大部分はこれによる。もしも酸素のない環境に木材が置かれ
ていれば腐朽は起らない。運良く発見された古木はそのような稀な環境に置かれたものだ。それから忘れてならないの
はシロアリなどの虫だ。シロアリは原始的な虫で昔から日本に居た。ただし、寒い所にはいない。九州には特に多い。
それもヤマトシロアリより強力なイエシロアリがいる。九州で古代の木材が残存するのは極めて稀だ。第一、木材は取
り替えながら使うものだということを皆知っていたからな。バカなおまえとは違うぞ。
>>358 くだらん想像しないで、まず倭人伝をそのとおり読んでみたらいいだろう。
366 :
”アホの縄文人兄弟へ”:2009/07/27(月) 18:10:26
>>364 で、いつ弟と変わったんだよwwww
しっかし、文体も主張内容もそっくりだなお前らwwwwwwww
ひょっとして兄弟で日頃から邪馬台国論争のお勉強会やって
意見のすり合わせ、コンセンサスの形成とかやってんのか?wwwwwwwwww
367 :
縄文人:2009/07/27(月) 18:13:48
>>362 おまえはほんとに情けない書き込みをするな。おまえみたいのがいるから俺の邪馬台国を教える気がしないんだ。
俺の畿内説批判に対してまともな反論ができないからコドモじみた悪罵を投げつけるだけだ。可哀想に。
>>348 まともなもんか。自説に都合の悪いところは全部嘘、都合のよいところだけとろう
って考え方じゃないか。それをやれば、どこにでも比定できる。たとえ南極にだってな。
369 :
”アホの縄文人兄弟へ”:2009/07/27(月) 18:15:51
>>364 まあついでに言っておくとだ
纏向の大溝はコンクリートで固められているわけじゃないぞ?w
先にも言ったが…
奈良盆地にその九州から東遷してきた勢力が関わった工事跡がない。
で、九州にもその先端技術を駆使したであろう工事跡がない。
これじゃあ、そもそも九州にそんな先進的な土木技術があったのかどうかさえ分からない。
・・・もう小学生でも分かる話wwwwwwww
兄弟でよく話し合ってもっとマシな理屈をこねるように。
まあ顔を突き合わせるまでも無く”脳内兄弟”なら簡単だろうがwwwwwwwww
>>342 >九州説のどれかが正しい(かも知れん)だろうよ。
九州説の主な邪馬台国比定地を大まかだが、下記のように纏めてみる。
@筑後川流域(筑前朝倉郡・筑後・肥前)
A熊本県北部(肥後)
B大分県宇佐(豊前)
C宮崎県(日向)
D鹿児島県(薩摩・大隅)
E福岡市付近(筑前)
@は
・筑後川右岸の筑前地域(朝倉市など)
・筑後川左岸の筑後地域(久留米・八女・筑後・みやま市など)
・筑後川右岸の肥前地域(吉野ヶ里町など)
それぞれ候補地があるが。
371 :
”アホの縄文人兄弟へ”:2009/07/27(月) 18:18:27
>>367 あれ?あれ?あれ?
>>342で「自説をタダで教えられない」とか逃げ口上ほざいているのは
「縄文人no」の弟の方なんじゃねえのか?
今書き込んでいるのはまだ弟くんの方なのかな?w
>>367いい加減に反抗するのはよせ
掲示板で生活している者にとっては、貴殿が何を言おうが
彼らにとっては土足で家中を走り回られたも同様。
少しは彼らに気を使え。
373 :
縄文人:2009/07/27(月) 18:31:46
>>369 おまえのような人間(固定観念に囚われて視野が狭くなっている人間)には分らんだろうな。
何回説明すればいいんだ?工事の形跡は残りにくいんだ。道具(鉄製の鍬やつるはしやモッコなど)も工事のやり方
などノウハウ(一番大事とも考えられる)は殆ど残らない。だから、状況(大陸や半島の技術、その伝搬経路、地理
地勢、古代の気候などなど)を勘案して推定するのだ。その他にやりようがなかろう。記録が残っているでなし、遺物
試料は期待出来ない。想像力(空想じゃないぞ)の勝負だ。最もあり得る姿を考えるのだ。おまえも畿内に九州より進
んだ文明があったという根拠を考えてみろ。出来るかな?
374 :
縄文人:2009/07/27(月) 18:39:03
>>372 掲示板で生活している人がいるとは知らなかった。俺は俺に悪罵を投げつける奴らにキツいことを言ったつもり
だが、関係ない人に迷惑をかけたのならお詫びする。
>>374 貴殿がキツい事を言った相手が正にそれだ。
376 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 18:44:53
>>373 お前の場合、想像力じゃなくて「「「 妄想力 」」」だ、ドアホwwww
全く、何一つまともな根拠がない、一から十まで全て妄想。
先進的技術云々と言うのなら「質」か「量」せめてどちらかでアドバンテージ誇れる物を挙げろカスwww
「質」で言えば何処からか遺構のごく一部が出た
もしくは使われたであろう工具の数点しか出なかったが
他地域の同時代の物より特段に優れていたいたとか・・・
「量」で言えば同時代の他地域のどの土木工事より大掛かりな物があるとか・・・
結局何にもない孟宗竹wwwwwwwwww
2人でどっか行ってくれ…
378 :
縄文人:2009/07/27(月) 19:27:01
>>376 おまえみたいな理解力のない奴には無理な議論だろが。3世紀の畿内に九州以外のどこから先進文明が伝えられたのか
説明してみろ。古墳文化は何もないところから突然に発生したのか?古墳の築造年代はいつだ?
379 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 19:47:33
>>378 ん?
とりあえずよく言われる前方後円墳に見る各地の埋葬文化の諸要素でいえば
周濠墓の形は畿内の方形周濠墓
葺き石は出雲の四隅から
特殊器台は吉備から
突起付の円墳という形状は阿讃から
銅鏡他の豪華な副葬品は九州から
・・・その他etc って所かな?
実際、纏向を興したのはどういった勢力かよく分からないというのが実情
寺澤なんかだと吉備出雲を明治新政府を興した薩長みたいに言ってるしw
が「よく分からないからそれは九州だ」
と言うのは通らない話で
古墳とは大型首長墓による首長霊信仰の場であるなら
大型首長墓へのシフトを見せなかった九州は俺なら真っ先に候補から外すwwww
そもそもお前の理屈は
九州が弥生末期、他域を圧倒する先進文明であった事が証明されて
「じゃあ何処か分からないなら先進地域の九州が妥当でしょう」
と言う話だぞ?ドアホwwwwwwww
結局、先進的技術云々をぶち上げたが孟宗以外何のネタも無く
「ルーツが分からないんなら九州にちがいないやい!」
と訳の分からない事をほざいているだけだなwwwwwwwwwwww
一回氏んどけカス!・・・ん〜とお兄ちゃんの方か弟くんの方かは知らないがw
まあ一つの体をシェアしているのかも試練がwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
380 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:53:03
>>361 実家が福岡県前原町なんだよな。
仕事場が久留米。
どこでも、何かしら遺跡はあるし
九州に邪馬台国に匹敵する大集落は無いと
いわれるとカチンと来るけど、
邪馬台国はどこかと聞かれると
どこでも良いとなってしまう。
381 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 19:59:38
そうそう土木技術と言う事で言えば
九州に大型首長墓へのシフトが見られない事もマイナス材料だろうなw
例えば吉備なら楯築とか「工事実績」あるわけだしwwwwwwwwwwwww
382 :
大室寅之スレ:2009/07/27(月) 20:03:28
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
383 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:05:54
>>312 柳沢一男(宮崎大学教授・考古学)の前方後円墳に関する学説を紹介しておく。
・・・以下引用・・・
南九州で前方後円墳がつくられ始めたのは3世紀中頃〜後半頃と考えています。
邪馬台国(奈良盆地東南部が中心)に都を置いた「倭(わ)」女王の卑弥呼の墓は奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳の可能性が高いと思いますが、その箸墓古墳がつくられる前後に南九州に前方後円墳が登場します。
纒向(まきむく)型と呼ばれる墳形の前方後円墳です。桜井市ホケノ山や石塚古墳などが著名ですが、これらとよく似た墳形の前方後円墳が南九州にもあります。
宮崎県の西都原81号墳や新田原(にゅうたばる)30号墳、檍(おく)1号墳、鹿児島県塚崎10号墳,端陵古墳などです。
これらはまだ未発掘のため正確なことは分かりませんが,西都原や塚崎古墳群などでは、纒向型よりも新しい墳形の時期の前方後円墳(箸墓類型や西殿塚類型)などが継続してつくられていることから、
纒向型が最古の前方後円墳となる可能性が高いと考えています。
このような推測に間違いなければ、古墳時代の幕開けとなる前方後円墳の出現時期に、南九州の諸勢力は卑弥呼を盟主とする緩やかな国家的まとまり=「倭」を構成する一員として参画していたと理解することができます。
卑弥呼を共立し,邪馬台国に都をおいた段階の倭では,広域の首長間のネットワークが整備され始め,南九州の主要勢力もそのなかに含まれていたとみてよいでしょう。
そうでなければ,纒向型類型の前方後円墳が出現する政治過程を理解することができないのです。そのために,これらの古墳の調査の進展と,弥生時代後期から終末期の集落や墓制の解明が求められています。
text: Kazuo Yanagisawa (Miyazaki Univ.)
引用先リンク
http://www.bunka.go.jp/saitobaru/jp/what/what.asp?n=3_1_2 引用先トップページ 「特別史跡 西都原古墳群」 監修:柳沢一男(宮崎大学教授)
http://www.bunka.go.jp/saitobaru/
384 :
河童虫:2009/07/27(月) 20:07:00
>神武建国の伊都
笑わせないでよ
>>383 紹介乙。
なあんだ、柳沢先生も卑弥呼の墓=箸墓古墳説じゃないか。w
386 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 20:13:51
面白いのは同じ九州説とは言え
日向などの南九州説だと年代観は恐らく畿内説寄りwwwwwwwww
九州説の場合その違いは単に比定地の位置論に留まらず
年代観、古代の国家形成のプロセス、半島大陸との関係性・・・etc
と言う根本的な所から違う。
まあぶっちゃけどれもこれも倭人伝を(オレサマ流、砂鬼四荼羅経読みで)読んで
その印象で適当に言っちゃっているから、かかる事になるんだろうとwwwwwwwwwwww
387 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:19:27
畿内はどうでたらめな我流で読んでも
そもそも箸墓くらいしか候補がないんだろ。
倭人伝の「共立」という記述を重視すると、
卑弥呼の所在地は巻向しかあり得ないでしょうね。
日向が関係深いとなると、神話とも一致するし。
>>389 神話というのは
神武東征でしょうか、高天原でしょうか?
卑弥呼時代はまだ日向とも考えられそうですが。
>>387 候補が多けりゃ良いってもんじゃないぞw
392 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:35:46
>>391 候補が多いというのは、それだけ弥生時代に
広範囲に集落が存在していたと言うことだ。
それだけ、その時代は九州が栄えていたと言うことさ。
30カ国を擁立する裾野が成立していたのだ。
候補が少ないと言うことは、支配しきれないくらいの
広範囲を設定しなければつじつまを合わせられないと言うことでもある。
>>390 神武東征というのは、極論すると身内間での王権譲渡の話だと思うけどな。
共立の場所を日向とするのは、少し難しく思うけど。
それに九州に関する神話は、隼人に気を使っている部分は多々あるでしょう。
394 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:37:30
ところ、でみなさん、質問があります。
>>327から縄文人の弟だと名乗る人物による書き込みが始まるわけですが…
今書き込んでいるのはお兄ちゃんの方でしょうか?
弟君の方でしょうか?
文体、使用語彙、あまっさえその主張の内容まで
僕にはこの兄弟の区別がつきません!
どなたか区別がついている人いますか?wwwwwwwwww
同一人物ですよ。
内心みんな分かってる。
見て見ぬふりをしてやれw
>>393 >隼人に気を使っている部分
これは自分も感じます。磐井の平定を見ると
北部九州に対しては、結構容赦がないのに
日向、宇佐に関しては、かなり気を遣っているように見えます。
あと、邪馬台国と神武東征は別の話ではないかという感じもします。
邪馬台国卑弥呼勢力と、神武の母体となった勢力は別じゃないかなと
個人的には考えています
>>392 卑弥呼の時代に大規模な集落なら本州や四国にも沢山ありますよ。
でも畿内だと巻向でほぼ見解が統一されてるのは、
それなりに多くの根拠があると言うことです。
399 :
縦目仮面:2009/07/27(月) 21:51:23
うーん、こういう展開か。しかし「縄文人」は、湖の排水工事はもうやめたほうがいいね。ど
れほどの水位を想定しているのか知らないが、水を全て抜ききって人が住めるようにする
のは大工事だ。纏向大溝では比較にならないし、箸墓などの大規模古墳造営よりおそらく
広範囲に人が散らばって、長期間かかるだろう。とすれば直接の工事跡はどうかしらないが、
多くの人の集落跡と木製工具や土器などの生活痕はどうしても残るのではないかな。
西都原81号が古いのは確かだし、他にも未発掘だが古いのではと考えられている古墳は
いくつかある。ただ南九州土器と畿内土器の年代すりあわせは厳密にはできていない。312
の柳沢氏のコメントは、九州説の嫌いな「ゆるやかな首長連合」を含むもので、南九州説に
とってジレンマだろうな。
>九州説の嫌いな「ゆるやかな首長連合」を含むもの
決めつけはよくない
>>397 磐井が異様に思える
九州にいた渡来人も現地でトラブル起こすから本州に移住させてる
移住政策は開墾にも利用できるから結構頻繁に行われてる
自分は九州説ですが
「ゆるやかな首長連合」でなんら問題はないと考えています。
30国支配ではなくて、30国共立という時点で
少なくとも中央集権国家では無いのではないかと思います。
それが、支配の図式にいずれ変わる可能性は否定しませんが。
昔の王立なんて、世襲と共立しかないから
404 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:34:19
>>339 返事が遅くなったが。東征は2世紀ではない。3世紀後だよ。
東征によって銅鐸→銅鏡への変化があったんだ。2世紀では早すぎるだろう。
405 :
縄文人:2009/07/27(月) 22:43:40
>>379 俺は兄の方だ。俺には8人の弟がいる。縄文人の子沢山と言ってな、稼ぎのいい縄文人は多くの家族を養う
ことができたのだ。俺はおまえらと違って忙しいから仕事の合間にしかここにこれないが、その間おまえら
安心して好き勝手いっとるな。さて、379のチンピラの言い分だ。
なんだそんなことしか言えんのか。肝心の大型前方後円墳の築造年代はいつだ?これに答えろ。
3世紀末の九州の遺跡を問うのと同じ重みがある設問だぞ。
406 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:46:35
>>385 単純だな。柳沢が結論的に畿内説をとるかどうかなんてのは問題じゃないんだよ。
日向の古墳の発生がいつごろなのかという点が問題なんだ。
全国の古墳の中で、大和の古墳のみが年代が遡り、邪馬台国時代に大きな墓が畿内に
しかなかったとなれば、径百余歩の墓は畿内かという話になる。日向の古墳が4世紀
以降とかいうなら、日向に候補になる墓がないという結果になる。それが問題だった
んだ。ところが、日向の古墳が大和の古墳とどちらが先か、分からないぐらいに早く
始まっていた。となれば、日向が邪馬台国だとみて、墓の点で何ら問題がないという
ことさ。倭人伝の行程からすれば、日向は完全に行程どおりで矛盾なく理解できる。
その日向が古墳の点においても、倭人伝と何ら矛盾することなく、3世紀中頃に古墳
が造られていたことが認められる。日向説には何の弱点もないということなんだよ。
407 :
縄文人:2009/07/27(月) 22:54:20
399 :縦目仮面君
排水工事の現地には人は住まなかったと思われるね。生活(昼食)のための土器は持って来たかも知れんが、
それらは川辺で使われたろう。そういう物は大雨のとき流されてしまうよ。労働者は離れた居住地からそこ
に出かけて行ったと思われるね。住むには危険が大きいからね。工事の痕跡が残らないのはそのためだよ。
俺があり得ないことを言ってると思うかね。
408 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:12:20
>>403 西暦107年に後漢に朝貢した帥升は、「倭国王」となっている。
倭が一つの国でなく、日本を総称するような意味で使われているのは明らか。
すでに、このときには「倭国王」がいた。
卑弥呼のときにはじめて「倭王」あるいは「倭国王」が出来たのではない。
これはけっこう重要だと思うが。
409 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 23:16:39
>>405 >肝心の大型前方後円墳の築造年代はいつだ?これに答えろ。
三世紀中頃から三世紀末、四世紀初頭までw
これで何か問題あるか?
まあいわゆる畿内説の学者(と言うより殆どの学者)でまだ確実なところ定まっていないんだから
巾を持たせておくしかないなw
それでも成り立つのが畿内説。
だから殆どの学者がなびいちゃってる
逆に畿内説を完全否定したいのなら古墳時代は4世紀からでないことを証明してみろドカスwwww
何故昔の教科書に
「古墳時代は4世紀から」
なんて書いてあったか?
勉強してきたかな?おにいちゃんwwww
まあ本来、九州説でも実年代に関わり無く成り立たせる事は可能だが
この板の九州説の主流たる「九州王朝説」「東遷説」となると事情が違ってくる。
>>408 「倭国王」ってのがおかしい
中国が朝貢国に与える印には「国」の字が入らないんだよ
普通なら「漢倭奴王」という文字で与えるはず
卑弥呼の印も「親魏倭王」なんだし
志賀島から出たとされる金印には偽物説がある
411 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:31:02
>>405 >肝心の大型前方後円墳の築造年代はいつだ?これに答えろ
>>409の続き
で極大雑把に言ってしまえば
混乱の末クニグニの王が卑弥呼と言う女王を共立
30ヶ国の代表として魏に朝貢、倭王に冊封される・・・
これらの一連の動きに合致する事を考えた場合
ヤマトを中心にして(この中心と言う語は結構語弊があるんだがw)巻き起こった
首長連合、纏向遺跡のあり様・・・等々が一番蓋然性がある。
仮に九州に邪馬台国があったとして何処に30ヶ国の連合体ができた形跡があるか?
魏から冊封を受けた影響・恩恵が九州の何処に見られるのか?
結局は無い無い尽くしの無い尽くしw
ぶっちゃけ、九州に邪馬台国の影も形もござんせんwwww
年代論を棚上げしても、時代を多少ずらしても、九州説の有利になる材料は無い。
ゆえに大方の学者は畿内説になるのは当たり前すぎるほど当たり前。
(まあ積極的に支持と言う事は無いだろうが常識を強弁する奴もあまりいないって話でw)
しかし、お前のところはいくら兄弟でも、そこまで文体・語彙・主張内容etcが似ると言うのは凄いなw
日頃、家族会議で邪馬台国論争やって意見の統一でも計っているのかな?wwww
親兄弟親戚合わせて全部で24人ぐらいいないかな?
んでその中にビリー・ミリガンと言う名の(以下略
412 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/27(月) 23:38:18
>>405 >なんだそんなことしか言えんのか。
これに対しても一言二言言っておこうw
コラ糞馬鹿が
自信満々に先進の土木技術とか大口叩いて
ヤマトにその痕跡を挙げられず
九州にその痕跡も挙げられず
その技術とやらがどんな物かも具体的に言えない。
「三世紀、九州の先進技術○○工法!」とか具体的に挙げて見る事もできない
妄想電波野郎が何イチャモンつけてんだ?あ?wwwwww
413 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:40:36
素朴な疑問
漢倭奴王とか親魏倭王でとりあえず魏から認められたわけだが
後に遣隋使、遣唐使の時代には、なんと言う国として
認められていたのかな?
このあたりなら大和朝廷はほぼ間違いないだろう。
それとも、小野妹子の時にけんか売ったんで
解除されたのか。
それとも大和朝廷は認められたことはなかったのか?
414 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:43:18
>>410 文献によって「倭」と書かれているのもあれば、「倭国」と書かれているのも
あるので同じ意味で使われていると思う。
帥升は、「倭国王」で、卑弥呼は「倭王」だが、倭の五王の場合は、文献に
よって「倭王」と書かれているのもあれば「倭国王」と書かれているのもある。
宋書なんかは、両方使われている。(「倭國王」が6回、「倭王」が3回)
415 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:45:11
これはそのまま畿内にも当てはまると思う。
>仮に九州に邪馬台国があったとして何処に30ヶ国の連合体ができた形跡があるか?
>魏から冊封を受けた影響・恩恵が九州の何処に見られるのか?
仮に畿内に邪馬台国があったとして何処に30ヶ国の連合体ができた形跡があるか?
魏から冊封を受けた影響・恩恵が畿内の何処に見られるのか?
答えられる?
416 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:49:11
九州のすんごい土木技術と言いながら
それがどんなものか具体的な話が一向に出ないアホの縄文人ブラザーズだがwwwww
そういえば纏向で護岸工事に使われた技術で
杭の側面に穴をくりぬきそこに板を通す技術が「ぬき」と言われて
何でも纏向の発見以前はそれは鎌倉時代からと考えられていた
・・・なんて話を何処かで読んだ記憶があるんだが
流石ににわかには信じがたい話なんで
誰か詳細を知っていたら教えて欲しいwwwwwwww
>>410 隋書は倭國、倭王だね
ついでに阿蘇山の事まで書いてある
>>414 金印の文字の話だよ
中国が東夷・北狄・西戎・南蛮の冊封諸国に与えた印には、「○○国王」なんて例が無いんだよ
だからあの金印は偽物ではないかと
419 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:54:45
纏向よりは後世かもしれないが
たしか、水城からぬきの技法を用いた材木が
発見されていたような。
記憶が怪しいので、未確認情報ですが。
420 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:56:10
>>415 >30ヶ国の連合体ができた形跡
各地の埋葬文化のキメラの如き前方後円墳
それが全国規模で広がっている
纏向で他の遺跡よりかなり高い割合で出土するは搬入土器
>魏から冊封を受けた影響・恩恵
威信財の銅鏡が画文を契機に九州以東にその分布の中心を移す。
・・・無論以上のことは九州説の連中に言わせれば4世紀以降と言う事だが
じゃあ九州に該当する事があるのかといえば、まあ無い訳でw
片方は今後実年代の詰めが必要だが該当する変化は見られる。
もう一方は年代をどう設定しても相当する変化が見られない。
…これでどっちを選択するのがまともだと思う?wwwwwwwwwww
421 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 23:57:45
>>419 おお、サンクス。
一応そう言う技術はあったんだなw
いや記憶が相当おぼろげだったんで
それだけでも情報としてありがたいwwwwwwww
>>418 偽物だとすると、江戸時代に純度の高い金を使用してまで捏造する理由がわからない
423 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:03:32
>>418 金印はほとんど発見されていないんだよ。銅印とか銀印が多い。これらは国王
クラスに与えられるものではない。金印では、滇王の印というのがあったな。
424 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:08:43
>>420 連合体と巨大な古墳は結びつきにくいな。
巨大な古墳は、強力な権力の存在をうかがわせる。
また、搬入土器を、どういう風に捉えたらいいのか。
土器が一人で歩いてくるわけではないわけで、人が土器を持ってやって
来たのか、それとも、土器を作る人が移動したのか。
要するに、結局は人の移動のわけだが、だったら、強制的に人を連れて
来たということでも十分にありうる話になる。
また、画文帯神獣鏡は、魏の鏡でなく呉の鏡だと思うが。
425 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:12:24
>>421 >各地の埋葬文化のキメラの如き前方後円墳
>それが全国規模で広がっている
大和から広がったといいたいのだろうが、最近は日向に最古級古墳が多いことが分かり
おかしくなってきたわけだ。ホント、柄鏡式古墳なんて大和より日向がはるかに多いん
だぜ。な〜んでだ?
>>411 >結局は無い無い尽くしの無い尽くしw
見る目がないから、気づかないんだよ。
>>423 「王」と付いた印は例があるんだろ?
鮮卑王とか
427 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:15:23
もう一つ、この縄文人ブラザーズのアホ・ボケ・カスの妄想の矛盾点を書いておくと
東征勢力により盆地湖の水を大規模な工事で抜いて・・・ってんだから相当な時間がかかって
技術の移転に要する時間も十分にあっただろう。
と言うか技術の移転も急ピッチでやる必要があったろう。
が、だ、、、
それにしては、どうも肝心の製鉄鍛冶技術が上手く伝わっていない節がある。
先に挙げた勝山近くの鍛冶遺構でそこの「フイゴ羽口」を再現して実際に作業してみたら
機能的にイマイチだったらしいw(バックブローおこすんだったかな?)
形からツクシからの技術の伝播は考えられるらしいが
工人が直接やってきて・・・と言うほどではないと言う中途半端さwwww
アホの縄文人ブラザーズの説だと製鉄鍛冶技術はそれこそいの一番に伝えなきゃ
効率上がらんだろうにwwwwwwww
巨大古墳はゆるい30国共立連合体ではなく
共立の次の中央集権的国家段階ではないか。
それは弥生時代ではなく、次の古墳時代に対応する。
土器が集まるというのは、経済的にも集中していることを
示している。これも中央集権ではないか。
429 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:25:13
>>428 連合体から集権的な国家への移行というのも良くわからない。
猛烈な権力争いでもあったのかな。記紀にもその痕跡は認められないし。
430 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:29:05
日向の柄鏡式古墳は4世紀だな。
431 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:29:26
中央集権的な国家と言いたいが、その証拠がないから連合体といってごまかしているんだよ。
432 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:29:46
>>424 >また、画文帯神獣鏡は、魏の鏡でなく呉の鏡だと思うが。
神獣鏡は南方系、呉地の意匠の強い鏡だけど
中国から魏の年号の神獣鏡が出ちゃってるwwwwwwww
まあ三国志演義で言えば義弟関羽をぶっ殺された劉備が
プッツン来て呉に侵攻し様として
呉にすれば仮に蜀を退けてもそこを魏に叩かれたら
ひとたまりも無いので、やむ得ず魏に膝を屈した臣下の礼をとった時期もあったしw
(ええと、このストーリーで間違いなかったよな?>三国志ヲタの人w)
433 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:34:57
>>430 古い本に書いてある年代なんぞ今は通用しないんだよ。
434 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:41:38
日向は倭国大乱に巻き込まれていたわけでもないのに、最も早く畿内を中心とする邪馬台国
連合に懐柔された。いわば九州の裏切り者。ユダ日向。ww
435 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:43:21
>>434 いや、それは福岡平野(奴国)かとw
つうか最初から筑紫や他とつるんでいなかったのかもwwwwwwwww
436 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 00:56:32
>>434 おもしろいねえ。最近まで、日向は大和朝廷に遅くまで抵抗していた熊襲がいたところ
ということになっていたんじゃなかったかな?
最も早いうちからつるんでいたとなったら、熊襲の話はなんじゃいな?
437 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:07:23
纏向石塚(古)→西都原81号墳(新)、桜井茶臼山古墳(古)→西都原13号墳等(新) 常に畿内
邪馬台国様に追従する、幇間日向。熊襲は日向の中でも土民。日向国府の位置などから。
>>424 各地の土器があるという事は
充分共立の条件を満たしてると思うけど。
439 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:10:25
共立と集権の区別がつかん。
440 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:18:50
>>437 西都原81号墳(古)→纏向石塚(新)、西都原13号墳等(古)→桜井茶臼山古墳(新)
とも考えられるな。熊襲は日向の中でも土民? 土民の話が記紀の中心的な話になる
かな? 読みが浅いねえ。
441 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:19:11
むしろ蛮族熊襲に困って、日向豪族が邪馬台国連合に助けを求めたんじゃねえの。だから
後々まで服従を誓わされてる。隼人舞、あそれ、ワン ワン ワワン。
442 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:23:19
日向隼人が最終的に服属したのは710年、部族の首長である曾君細麻呂が服属し外従五位下
に叙せられる。それまでは手の付けられない未開地だった。蛮族日向。
443 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:32:25
>>436 ずっと昔は南九州全体を日向と呼んでいたらしいが、8世紀初め頃に薩摩と
大隅が分離した。景行天皇の熊襲征伐のときには、日向に高屋宮を築き、
6年かけて熊襲と戦った。というわけで、熊襲は日向のうちでも別の土地に
あったのだろう。
文化的にも、宮崎平野と鹿児島県の肝属平野は南九州独特のものではなく、
畿内あたりと共通する。
日向全体が同じものというのは、ちょっと違うと思う。
444 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:33:58
日向隼人の本拠地は、霧島市、曽於市近辺。まあ、西都原あたりの豪族も手を焼いていた
ようだな。まあここらの豪族は、大和朝廷と姻戚関係を結んだりして、熊襲対策をやってる。
蛮族とか土民といったが、実は誇り高い人たちだっただろ。
445 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:37:37
>>439 たとえば、戦国時代には共立などありえない。
国と国が争っているときに、話し合いで天下人を決めることなど有り得ない。
しかし、徳川幕府などのような集権的な国家が出来ていれば、将軍を決める
だけだから共立がありえる。徳川吉宗などはある意味共立と言えるかも
知れない。
446 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 01:43:18
>>444 多分、熊襲の本拠地は都城付近だったのではないかと思う。
伝説も残っているらしく、熊襲祭りなんてのもあるらしい。
ここはかなり良い土地で、島津家もここが発祥の地とされる。
447 :
434,437,441,442,444:2009/07/28(火) 02:04:57
隼人は過小評価されてて、実は大和朝廷にとってやっかいの種といえる大きな勢力だった。
「宇佐神宮史」養老三年(719年)の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事がみられ、
「日本国が打ち傾く」 事態とまでいってる。この翌年、「隼人の反乱」とされる さらなる大乱が
起こり(あるいは同一のことか)、征隼人持節大将軍となって制圧したのが、万葉歌人として
有名な大伴旅人。ちなみに、このときの隼人七は(奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽
乃石城、比売之城)。
448 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 02:07:24
449 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 02:17:08
最近スレ速いな。
>>437>と
>>440の比較
古墳出現の前段階から
近江・美濃辺りでは方丘に突部を設けた墓が、
播磨・吉備辺りでは円丘に突部を設けた墓が確認されてる。
前方後方墳や前方後円墳のさきがけとして注目
大和盆地の周辺地域にそうした注目すべき墓が見つかってるんだが
日向やその周辺地域ではどう?そんなのは無いようだね
やはり
>>437が正しそう。前方後円墳は大和盆地が発祥と思われ
熊襲と隼人は別けた方がいいんじゃないか?
物部達が日向を離れた以降に勢力を拡大した一派と後に加羅諸国崩壊に伴って日本に移住した一派とで分かれると思うな
453 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 03:35:41
前方後円墳は誰が作ったのだろう。
畿内説によると首長連合らしいが、そのうちの誰だろう。
みんなが「賛成」それ作ろうよ、と言ったのかな。
俺はそんなの嫌だ、という人はいなかったのかな。
454 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 05:19:41
やっぱり神武じゃね?
455 :
縄文人:2009/07/28(火) 11:45:34
>>409,
>>427 俺は忙しい身であるから夜遅くまでおまえらに付合ってやる訳にはゆかんが、俺が居ないときに安心して勝手な
ことをほざいとる、しかもアホという言葉を使えば優位に立てるとでも思ってるところを見ると、俺の書き込み
がよほどこたえているらしいな。おまえら工事(排水、灌漑利水、木工など)の実際など何も知らず、もちろん
稲作技術なども知らず、ただたまたま発見された遺跡の断片知識でものを言ってるだけ、それもほとんどが借り
物、他人の受け売りだ。
俺は独自の推理力を用いて、科学的に考察している。年輪年代法の問題点など俺自身で考察したものだ。おまえ
には真似できぬことだ。真似できぬどころか、理解もできとらんだろうな。
前方後円墳の原型は九州(日向の話もでてるな)にもあった。その発生時期はまだ確定されていないが、巻向よ
り古いこともあり得るのだぞ。俺は記紀の神話をそのまま信じる立場じゃないが、神武東征服の話は日向地方の
勢力(アマテラスを卑弥呼の反映像と考えれば、邪馬台国勢力の一部)が九州から畿内へ向けて侵攻して行って
そこで勢力を張ったのち、崇神の時代に奈良盆地の整備を完成させて王権を確立した際に、これまでの功労者や
戦闘で死亡した豪族の首長などを弔うために、前方後円墳を作ったのだ。巻向にある前方後円墳のかなりのもの
がほぼ同じ時期に作られたように見える(発掘調査してみないと詳しい事は言えないが)のは、王権確立後の記
念事業的趣きも感じられる。もちろん、前方後円墳の原型の知識は九州から持ち込んだものに畿内近辺の墓制を
融合させて生まれたと考えて矛盾はない。畿内土着の勢力を制圧したとはいえ、懐柔などの融和策を採らねば王
権は安定しないからな。
おまえは利口にも大型前方後円墳の築造時期について3世紀中頃から4世紀初のいつか分らぬと口を濁して追求
されるのを避けたが、箸墓などの築造は4世紀初頭が最も考えやすい。崇神の治世だ。
456 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 11:53:30
>>455縄文人
>箸墓などの築造は4世紀初頭が最も考えやすい。
理由は?
最も考えやすい=自説に都合がいいだけだろ。
東征を主張するなら、その痕跡を探さないとな。
今の所高地性集落しかないし、それは二世紀までの話だ。
458 :
縄文人:2009/07/28(火) 13:15:33
俺は昼休みなど仕事の合間にしか書き込めないので舌足らずのところもある。
455の続きだ。
倭国大乱は指導部の権力闘争が武力闘争に発展したものだろうが、その背景には深刻な経済危機、この場合は食料不足
が考えやすい。2世紀頃日本列島は異常気象に見舞われ、食料が欠乏したらしい。半島の史書にも倭国の飢饉の記事が
あるそうだ。ここで各地に略奪行為が発生した。瀬戸内などの高地性集落はこれと関係があるとみてもよかろう。
神武とされる勢力の東征は3世紀前半から中頃のことだろう。奈良湖の排水工事は現地人によって進められていたが、
神武が入って来ると工事の進捗度があがり、その後3世紀後半に移って来た崇神勢力によって奈良盆地の標高約40m
以上の場所が陸地となった。これにより、この地に王の本拠をおくに十分な食料生産力が整ったのである。こうして
崇神が畿内とその周辺諸国を統括して大和王権が確立されたのである。書記の天皇の年代は、継体以前の部分が崇神
まで120年引き伸されている。そのようなことであるから、大型前方後円墳の築造は4世紀初頭ころに考えるのが自
然なのだ。なお、これらの古墳の築造には水田造成時に大量に出た廃土が利用されたと思われる。
>最も考えやすい=自説に都合がいいだけだろ
お互いさまだろw
>東征を主張するなら
決めつけるなってw
>>459 お互い様じゃないだろw
縄文人の個人的意見と、一応公式に
アナウンスされた発表を一緒にするな。
古い前方後円墳は徳島にもあるけどな。
いずれにせよ3世紀末に共立した国を求めるなら、畿内の方が自然だろう。
463 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 13:41:48
>>458縄文人
>神武とされる勢力の東征は3世紀前半から中頃のことだろう。
同時期、邪馬台国はちょうど卑弥呼の治世。
卑弥呼と神武の関係は?
>その後3世紀後半に移って来た崇神勢力
神武〜崇神は直系男子で10代。
464 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 14:54:52
>>460 >一応、公式にアナウンスされた
それが曲者でねえ。
最初にアナウンスがあると、金科玉条のように信じてしまう。
ところが、気がつくと違う内容のものが公開される。
あれっと思っていると、また違うものが公表される。
そのうち、お前の言うことなんか誰が信じるか、となってしまう。
考古学で卑弥呼の墓なんてわかるわけないんだから、箸墓を卑弥呼の墓
なんて言わなきゃいいんだよなあ。
言ってしまったら、年代を合わせなきゃならなくなる。
465 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 15:08:14
ええと、この縄文人とかゆうやつの理屈だと
唐古鍵遺跡も布留遺跡も(他にもいっぱいあるけど)
ぜんぶ水の中か古墳時代以後の遺跡ってこと??
466 :
縦目一派の末席:2009/07/28(火) 15:21:07
>>465 > ぜんぶ水の中か古墳時代以後の遺跡ってこと??
ええ、そのようですね。奈良に弥生はないと考えているようです。
467 :
縄文入:2009/07/28(火) 16:10:46
水中都市でおk!
468 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 16:19:49
469 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 17:03:58
>>455 >ただたまたま発見された遺跡の断片知識でものを言ってるだけ
>それもほとんどが借り物、他人の受け売りだ。
まあねえ、、、、
そりゃ、実際に発掘している学者でもなんでもないからなw
「受け売り」と言うのなら全て受け売りw
しかもできるだけガチの定説と言われているもの、言っても良いようなものを選んで
仕入れて売っているつもりなんで商売としては手堅いのかな?www
しかし、お前のようにい一から十まで妄想を書きなぐって
「これは僕のオリジナルだあ!」なんてほざいても誰も相手しないぞ?(同じような病気の人間は除いてw)
アホが科学的とかほざくなw
それは想像力でもなければ推理力でもない
世間一般では 「単なる妄想」 というwwwwwwww
470 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 17:05:00
しかしこの縄文兄弟のアホの言う「九州邪馬台国の先進的土木技術」では無いが
技術体系から纏向勃興の立役者を探ると言うのは誰しも考えた事はあるんじゃないだろうか?
ここまで出てきた「ぬき」とか言う技術や、魏代の吉祥尺である「魯般尺」であるとか…
同時代の他では見られないものが実際に九州のみに見られるとなれば
東遷説も、もうチョッと世間に相手にされるんだろうがwwwwwwwwww
あと土木技術じゃなくてその前提と言うか
巨大古墳や大溝を造る人員を確保・使役しうる政治システムとか…
471 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 17:13:06
>>468 乙!
なんだよ、盆地ど真ん中の田原本町なんて、遺跡だらけじゃないか。
縄文時代も結構あるぞ。
なにが盆地湖≠セよ。www
472 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 17:15:56
473 :
縄文人:2009/07/28(火) 17:19:41
>>463 神武とされる人物は卑弥呼の兄(多分早くに死亡)か姉の孫くらいにあたるだろう。卑弥呼より年下(20〜30歳)
だったろうがね。俺には8人の弟がいると言ったけど、神武にも8人の実弟や従弟がいたのだろう。これが欠史八
代の天皇とされたんじゃないかな。どうだこの想像力は。記紀なんか想像力で読むものだ。神武と崇神は同じ人物
かも知れないという説もある。和風諡号のハツクニシラスからそう言う人もいる。神武ー崇神の間は特に引き伸さ
れているが、それは記紀編纂当局の意図による。
474 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 17:26:18
>>473 >どうだこの想像力は。
>記紀なんか想像力で読むものだ。
………いや、その、自信満々に「どうだ」と言われましても。。
>>473 記紀の記述と相反するね。
きみのように得手勝手な想像で記紀の記述を否定し、どうだ、などと言うのは学問の名に値しない。
記紀の内容に信がおけない、だから否定するとの立場は無論あるだろうけど
その場合は、きちんと理由を述べなくてはならない。それが学問というもの。
476 :
縄文人:2009/07/28(火) 17:41:38
奈良湖の件は相当ショックを与えたようだな。奈良盆地に縄文時代や弥生時代の遺跡があるのは俺も承知
している。弥生時代の唐古.鍵遺跡は有名だが、これは湖面より高い位置にあった。その他の遺跡も小高
くなったところ、丘陵や沖積台地でも小高い場所だ。現在ではそれらの凹凸の具合がかなり変わっている
かも知れないが(飛鳥時代まで残っていたことが推定される湖がなくなると工事などにより地形がかなり
変わる可能性がある)、水の下に縄文時代の遺跡があったとしたら奈良湖形成以前のものだろう。
俺の言う事を疑う奴らは奈良の地質に詳しい専門家に聞いてみろ。
なお、纏向は墓域であって國の都ではないのだ。472の書き込みをした奴は國がどんなものだったか分って
いないようだ。
477 :
縄文人:2009/07/28(火) 17:43:06
奈良湖の件は相当ショックを与えたようだな。奈良盆地に縄文時代や弥生時代の遺跡があるのは俺も承知
している。弥生時代の唐古.鍵遺跡は有名だが、これは湖面より高い位置にあった。その他の遺跡も小高
くなったところ、丘陵や沖積台地でも小高い場所だ。現在ではそれらの凹凸の具合がかなり変わっている
かも知れないが(飛鳥時代まで残っていたことが推定される湖がなくなると工事などにより地形がかなり
変わる可能性がある)、水の下に縄文時代の遺跡があったとしたら奈良湖形成以前のものだろう。
俺の言う事を疑う奴らは奈良の地質に詳しい専門家に聞いてみろ。
なお、纏向は墓域であって國の都ではないのだ。472の書き込みをした奴は國がどんなものだったか分って
いないようだ。
478 :
縄文人:2009/07/28(火) 17:46:47
>>475 おぬしは学問をやっているのか。それは知らなかった。俺にはお笑いにしかみえんがね。
連投うざい
480 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 18:09:32
>奈良湖の件は相当ショックを与えたようだな。
と言うかこれも毎度おなじみのネタだが・・・
481 :
縄文人:2009/07/28(火) 18:11:11
477はシステムの変調で重なって書き込まれたようだ。俺の意図ではない。
単投もうざく感じるヤシ
483 :
縄文人:2009/07/28(火) 18:13:47
484 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 18:19:59
まあ仮に標高50mまで水面下だったと言う縄文人の言い分を是としても
それでも大和青垣地帯の西の纏向は沈まないwwww
先ずその時点で4世紀まで湖底だった所に古墳なんか造れるわけが無いという
この馬鹿の主張に根拠が無くなる。
無論それを巨大工事によって人の居住可能な場所に作り変えたなんて痕跡も無い。
ところでこの馬鹿、8人いると言う弟にこの電波吹き込んでいるんだろうか?
この間出てきた弟はもはや手遅れな感じだが…w
485 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 18:21:51
>>483 >>472見てみろ。
お前の他にもウジャウジャいる東遷説論者がこのネタ出さないと思うか?
後は過去ログあさってこい。
地元民として言わせてもらえば、箸尾遺跡なんて
盆地でも相当低地にあるぞ。巻向の土地なんて相当上。
縄文人の言うことは全て妄想ネタだから。
大和湖なんて縄文期には消滅。
後は河が増水したというだけの話だね。
>>473 きちんと正しい内容に訂正しておきますね
×
>どうだこの想像力は。
>記紀なんか想像力で読むものだ。
↓
○
>どうだこの妄想力は。
>記紀なんか妄想力で読むものだ。
488 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 18:47:44
99 名前:日本@名無史さん :2008/11/01(土) 04:57:11 【ドン来い34からコピペ】
>>91へ
>あの安本さんが引用しているくらいですから。
引用だと? 馬鹿なことを言うな!
安本美典がやっているのは引用じゃない。あからさまな改竄じゃないか!ケッ。
その改竄された地図をリンクに張っておきながら、君は知ってか知らずか、
臆面もなく伊達宗泰氏の名前出している。恥ずかしいと思わないのか。
他の方々にも事情が解るように説明をしておく。
『古代「おおやまと」を探る』13ページの地図は、伊達論文「倭六県と「おおやまと」」の中で、
「六御県・遺跡相関概念図」
として示されているものである。
ところが、これが邪馬台国の会サイトでは
「奈良盆地の盆地湖」
と安本によって改竄されてしまった。
アミ掛けの部分は、伊達氏による図説明では
「標高50m線(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、厳密に
水支配の境界が策定できないという判断で示していない」
なのであり、要するに現在の地形図で標高50m以下を機械的にアミ掛けしたわけである。
決して遺跡の有無で分けたものではない。
それどころか、島ノ山などの古墳は13基ばかり、きちんとアミの中に描かれている。
伊達論文は、延喜式記載の祝詞や神名帳に出る倭六県、および数座の山口神の分析と
弥生〜古墳期の遺跡分布から、大和政権の中核地域「おおやまと」の、該期における具体相を
割り出そうとしたものである。地図はその意図の下に作成されている。
論文中、盆地湖には一切言及しておらず、「盆地湖」なる言葉も一切見当たらないことを付け加えておく。
安本センセも勉強不足?
知っててやってるなら悪質だね。
490 :
縄文人:2009/07/28(火) 19:03:04
>>484 またこの理解力のない親爺がとんちんかんなことを言う。<<大和青垣地帯の西の纏向は沈まない>>とは
俺も言っただろ。沈まないからここに古墳が築造されたと言いたいのだろうが、古墳の築造には膨大な労力
と時間がかかるから(特にほぼ同じ時期に作られたと見られる大型古墳がいくつもある)、これの築造には
強大な権力(それは人の動員力だが)が成立していなければならない。その権力の基盤は軍事力と経済力だ。
そして何よりも食料がなければならない。それには、奈良盆地、京都盆地および河内平野の水田が整備され
る必要があったのだ。それは3世紀では無理だと俺は言っている。地理、地形、地質、技術など勘案して言
っているのだ。(記紀の崇神を一寸借りたけど)。俺が学者で、学会誌に論文として投稿したのであれば信
用したかも知れんな。学会誌の論文はおぬしらには金科玉条のようなものだからな。
491 :
縄文人:2009/07/28(火) 19:14:09
俺の奈良湖は伊達論文だとか安本美典氏とは全く関係ない。誤解している人もいるだろうから断っておく。
俺は純粋に地形から判断して大和川の盆地出口の辺りで地震などによる地滑りなどで土石が川を塞げば奈良
盆地は標高50m以下くらいは容易に水没すると判断したのだ。
492 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 19:42:44
このあたりで、【邪馬台国は、淡路島にあった説】を投下してみる
493 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 19:50:39
盆地湖か湿地帯かの争いは、意味ないだろ。
「昔は、奈良盆地の農業生産力を背景に初期ヤマト王権が畿内を徐々に統合して行った。」という
ような理屈がもてはやされていた。
これは、@畿内の自生的発展(九州勢力の東遷の否定)と、A初期はヤマト近辺だけにしか王権は
及ばなかった、という2点から好まれた。
それゆえ、奈良盆地の中央にある奈良時代以前の遺跡が出土しない空白地帯は、農地であるなどと
されてきた。湿地帯や湖では前提が成り立たない。
しかし、盆地湖または湿地帯で、農地ではないとするとBヤマト王権はヤマト以外に農業生産地を持つ
広域政権として始まり、C支配者がヤマトの外からヤマトに集団移住して来たことになる。
これは@畿内自生説とA広域権力の否定という、戦後に流行った記紀否定史観に反することになる。
だから、盆地湖または湿地帯の存在に正面から触れる著書がほとんどない。
>>493 奈良盆地の低地が湿地帯だなんて昔から普通に知られてたと思うが。
495 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 20:02:33
>>488 >アミ掛けの部分は、伊達氏による図説明では
>「標高50m線(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、厳密に
> 水支配の境界が策定できないという判断で示していない」
まあ真っ当な話だよなw
大和青垣地帯からは岩井川、高瀬川、布留川、纏向川、等々が盆地に注ぎ込み
盆地の中を葛城川、飛鳥川、寺川
盆地の北側なら富雄川、佐保川
等々のいくつもの川が支流を網の目のように張り巡らせて流れているんだから…
逆にこのアホの縄文人兄弟の言うように遺跡のあったところは標高が高いところとするなら
(唐古鍵もWikiだと標高48mとあるからギリの境界か?wwww)
陸の孤島と言うか湖上都市って感じだなw
集落だけかろうじて水上に出てても仕方ないだろうにwwwww
まあ普通に考えて湖沼地帯河川流域地帯がモザイク上にあった奈良盆地で
遺跡のあった付近は比較的、居住可能、耕作可能な土地が広がっていたんだろうな。
496 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:15:10
>>491縄文人
まさか3世紀当時、大和川の盆地出口が塞がっていたと?
そうすると天然ダム湖の概念に近くなるが・・・。で、標高50mまでは完全に水没???
あのな、JR三郷駅から大和川対岸の国道25号線の脇に水準点がある。ここが標高36.3mだぞ。
すると、今この地点の大和川川床はせいぜい標高30mだな。
標高50mと、標高30m・・・・・・・・、その差20m・・・・だ。
高さ20mの天然ダム堰堤で大和川の盆地出口が塞がっていたと?
それを排水できるように工事したと?
>>188縄文人
>3世紀の奈良盆地は湖の排水工事の最中だったのだ。
>それも九州からの先端技術によって現地の知識のない人間を使って苦労して開拓をしていたのだ。
>記録はないよ。記録があったら誰も苦労して推定する必要はない。
まるで妄想としか言いようがないが、おまえ自身、
「恥ずかしいこと書いたなあ」という気にならないか?
497 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:17:47
>>493に対しては、あそこが農地だったと言いたげな
>>495のような考えもある。
しかし、事実だけを言えば、湿地帯ないし盆地湖とされる区域の大部分において、
農地は出土していない。例えば、マキムク遺跡では1面の田も出なかった。
>>488が引用する伊達氏は、「水支配」というゴマカシ語を作り出したが、ようするに
「農地」とは書けないが、農地があるかのように表現したい需要があったということ。
あの地域に「農地がない」ことが明白となった現在においても、そのことを明言するのが
憚られるのは、畿内自生説の亡霊が権力を有しているからだろうね。
>>497 巻向より低地の鍵・唐古遺跡で農耕具なんて沢山出土してるけど。
499 :
縄文人:2009/07/28(火) 20:55:27
>>495 俺も忙しいから書き忘れたことがある。
唐古・鍵遺跡のあたりの地層を調べて見てくれんかな。湖水があった頃には標高50m以上あったところが、湖水が無くなって
地下水位が下がると地盤沈下するのだ。下に数kmの厚さの岩盤があれば、そして土層の厚さが数mしかなければ沈下は僅か
(数十cm)だが沖積砂土層だと数mから数十m沈下することもある。そんなようなこともあり、近世以降の工事などにもより
弥生時代の低地の地形はかなり変動している筈だ。現在の遺跡は弥生時代あるいは古墳時代の標高より下がっていると見るべ
きだろう。
俺は最近参加したので、過去の書き込みを見てない。俺のこれまでの書き込みは他人の書き込みとは無関係で、かなり趣きを
異にしている筈だ。
なお、誤解している人がいるかも知れないので書くが、
約6千年前、地球は温暖期の最盛期(平均気温で約2℃現在より高かったらしい)で海進により海水面は現在より4m前後高
かった。だが、これが奈良湖の生成原因ではない。大和川の盆地出口との標高差は20mほどあるから、川の流れが幾分緩やか
にはなるだろうが、湖を形成するには至らない。やはり縄文期か弥生期かはっきりしないが、大和川の盆地出口あたりでの土
石による閉塞(現在の川床より20m以上の高さに堆積)と思われる。海進の影響は河内平野に出た。海水に長期間さらされて
土壌は塩分を大量に含んだ。干潟になっても雨による塩分の溶脱には極めて長時間を要する。稲作が可能になるには灌漑洗浄
の工事も必要であったろう。
>>499 縄文か弥生期に奈良盆地でそんな大きな地盤の変動があれば、
もう少し痕跡なり、高地にある都祁村辺りで伝承の形で残る。
それに君の視点は奈良盆地における、出雲や丹波からの影響が抜けている。
九州勢力なんかよりずっと濃厚なんだけどな。
501 :
縄文人:2009/07/28(火) 21:17:33
>>495 この男(?)は理解力がないからとんちんかんな書き込みしかしない。巻向地方に大型前方後円墳があんなに
沢山しかもほぼ同時期に築造されたとすればどれだけの労働力(作業関係者の人数)を必要としたか、またそ
の人数を賄うのに要する食料の量はどれだけだったか、さらにそれを供給する食料生産地はどこにあったかな
ど計算せずに(計算能力がないのだろう)ものを言っている。俺の説を否定せんがためだけに。なんの説得力
もない馬鹿げた言い掛かりばかりだ。上記の事業を遂行できた王権が3世紀の畿内に存立できた証拠なり理由
を見出せないからであることは分るがね。
502 :
縄文人:2009/07/28(火) 21:24:34
>>500 縄文期か弥生期に地盤の変化があったとは言うとらんだろが。湖が無くなって地下水位が下がるのは
ずっと後のことだ。少しづつ長い年月の間に下がるのだ。
古墳時代に出雲や丹波の文化が入ってくることは俺は否定しないがね。なにか言ったかな?
>>502 弥生期以降に地盤の変化があったら
尚更記録に残ると思うがw
それにゆっくり水位が下がる?
正直話にならないですよ。
九州の痕跡が無いのに出雲や丹波残るのか?
つまり九州は先進技術じゃ無かったとという事ですな。
土砂が堆積するのに標高が下がる?
バカじゃないのw
505 :
縄文人:2009/07/28(火) 22:06:15
>>503 おぬしは自然科学を学んだことはないのか?湖があった頃にはその水が土層にしみ込んで(土層は膨らんだ
状態になっている)いたが、湖が無くなった(随分後の時代だ)ら、土の層から水分が抜け出して収縮して
行くのだ。今でも丘の雜木林を削って造成された分譲住宅で、家が立ち並んで井戸水の使用量が増えて、井
戸を深く掘り直さないと出なくなることがあるが、これは土層の水分量が減って地下水の水位が下がったか
らだ。そういうところでは家が少し傾いたりなど、地盤沈下がみられている。住宅団地など急激な地下水く
み上げがあるところでは目に見える形での地盤沈下が起るが、奈良盆地の湖が無くなるのは近世のことだろ
うが、その後の地盤沈下も少しづつ(年に数ミリ以下か)だと思われるのだ。
506 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 22:07:43
この縄文人とか言う馬鹿は
「古墳の造営には多くの労力がかかったはずだ」
と言うが(無論その通りだが)
じゃあ川を堰き止め水位を 『 数十メートル 』 も引き上げ
盆地を湖底に沈めるに必要な土砂を撤去するのに
要する労力はどれぐらいだったか?って話でw
俺には想像もできないが・・・
それは古墳数十基よりはるかに簡単な話なのか?
(まあ中には少なからず自然丘陵を”削って”造った古墳もあるから
必要な労力は見かけの大きさには比例しないが・・・)
少なくとも工事の効果が出て水位が下がり
耕地を耕し収穫量のアップと言う結果が出るまで
どうやって食いつなぐんだ?
自己矛盾に気付けドアホwwwww
しかもこの馬鹿の言い分だと労力の主体は大和の地元の人間らしい
(と言うか工事の着工自体は大和の人間で始められた?)
おいおい、奈良盆地は湖の底で、人もまばらなんじゃなかったかよ?カスwwwwww
507 :
縄文人:2009/07/28(火) 22:19:15
>>504 馬鹿はおまえだ。土砂の堆積と地下水位の低下による地盤沈下の大きさは地形、地層の条件による。
土砂の堆積とおまえが言っているのは遺跡の上に堆積していたものを指しているのだろうが、その堆積
土層の厚さはどの位だ?十数mもあるのか?
508 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 22:22:51
>>507 >土砂の堆積とおまえが言っているのは遺跡の上に堆積していたものを指しているのだろうが
あん?
何の話だ?
堆積物と言うのは水を堰き止めた言わば”天然のダム”の事だが?
509 :
508:2009/07/28(火) 22:24:19
悪りぃw
>>508はリンク先を間違えて読んだwww
510 :
縄文人:2009/07/28(火) 22:40:45
>>506 カスはおまえだろ。排水工事は大変な工事だったと思われるよ。そのことは前に書いておる。畿内の弥生人もおまえほど
馬鹿ではなかったろうから排水をすれば水田を増やすことが出来ると考えたろうよ。盆地出口を塞いでいる岩石を取り除
く作業を付近の(徒歩だと現地から10km以内だろうが、舟で来る連中はもっと遠い所から)集落住民が協同して行ったの
だろう。1年に5cmでも水位を下げることができれば稲作は大きく増える。その程度で始まったのだろうよ。集落の全員が
休み無く作業に参加する必要はない。長い年月がかかった筈だ。別におまえが食って掛からねばならぬほどのことを俺が書
いているか。おまえは3世紀の畿内に大型前方後円墳を何基も作るような条件が整ったという論拠を探すのに専心すること
だ。見苦しい書き込みをやめろ。
511 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 22:45:33
神武が東征し苦心惨憺、南紀回りで大和入りする。
縄文人氏の言によれば大和盆地は広大な盆地湖だったそうな。
だがそのような記載を記紀はしていない。
「おお、盆地にはかような広大な湖があったのか!」と神武が驚く場面もない。
多分九州にもあった沼や池程度のものを見ただけだろう。
神武が盆地湖をなくすべく現地人を指導して排水工事を施したなど記紀にには何も記載がない。
考古の資料もない、文献にも記されない。
ないないづくしの縄文人妄想はいつまで続くのか。
512 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 22:48:43
>>510 それもまた自己矛盾だなw
仮に百億歩譲って古代にそんな工事があったとしても
そこに必ずしも外来の勢力が必要が無くなる。
なのにお前みたいな東遷説論者はまことしやかに、何の根拠も無くそれが九州からとぬかす。
脳内に最初に東遷説ありきでできたストーリーってだけ。
どの道、九州にも大和にもその大工事に繋がるような遺跡遺構が無い以上
単なる脳内ストーリー妄想の範疇を出ないがwwwwwwww
513 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:00:16
そもそもこの縄文人のお話に実年代を与える根拠がよくわからないと言う話で
別にその工事の着手は2世紀でも言い訳で
最初チマチマやって効果が出てきてようやく実を結び
纏向に結実したのが3世紀だとして何か不都合があるだろうか?
もし、そこに実年代を与えるとしたら
それは九州の邪馬台国から東征してきた勢力でないと成しえないと言う
妄想を持ち込むしか無いんじゃないのか?wwwwww
514 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:05:12
>>511 日本書紀によると、神武天皇の軍は、孔舎衛坂で長髄彦の軍と全面衝突した。
激戦で、それから先に進めなかったとある。
だから、このとき、奈良盆地には入らなかったのだろう。
515 :
縄文人:2009/07/28(火) 23:08:35
>>511 灌漑利水工事など日常茶飯事のことだったのだ。排水工事も神武にとっては別に珍しいことでもない。
筑後川、球磨川、大淀川などの氾濫を防ぐ堤防造成工事や水路掘削工事などの方が大きい工事だからな。
記紀には遠征の戦闘などドラマチックなことばかり書いてあるのだ。そんなことも分らんか。
512にはまた相変わらずバカな書き込みをしている。川の工事の遺跡遺構がどうして残るんだ?洪水の
度に流されるだろうが。おまえは何でも遺跡として残ると思っている。始末に負えんのお。文化、例え
ば歌舞音曲は当時でも生活の重要な一部を占めていたと思われるが、その曲や踊りが残るか?工事のや
り方のノウハウが残るか?物として残らぬものが多いのだ。だから、技術などはアジアの状況、文化伝
播の経路などいろいろな面から考察する他はないだろ。
516 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:09:27
関係ないかもしれないが、奈良盆地と阿蘇は良く似ているかもね。
古代の阿蘇も湿地帯だったとか、湖があったとかされるが、古墳はちゃんと
残っている。
517 :
縄文人:2009/07/28(火) 23:14:39
>>513 だから、おまえが3世紀の畿内に何基もの大型前方後円墳の築造を可能とした条件が整ったことを証明すれば
よいのだ。畿内説に自信があるのだろ。証明しろよ。俺の説に難癖をつけるしかできんのだろ?
518 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/28(火) 23:18:39
>>515 川のコース自体変わった。
護岸に使った木材も朽ちた
・・・として、別に残っていないと言うのならそれでもいい。
じゃあそれならそれで何を根拠にそんなお話を言うんだって話で
2ちゃんのここですら電波妄想と叩かれているのが分からないのかアホwwww
学会誌に論文として発表したらここの連中にも崇められた?
じゃあ是非やってくれwwww
それにだ直接の河川工事の跡だけじゃないぞ?
工事に必要な鉄器製造の為の鍛冶遺構。
そこで造られた工具。
九州からやって来た人間が九州の文物を何も持ち込まなかったのか?
519 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/28(火) 23:19:33
縄文人VSジョーカー の死闘ww
弥生人もバットマンもさぞかし驚いているだろう?www
>>511 そういうことだよね。
そんな長い時間かけた大規模工事なら必ず記紀に残る。
現に箸墓なんて残ってるし。しかもこれは大和川横の芝山の石を「陸で」運んでいるw
縄文人の話だと年代順がもう滅茶苦茶になるな。
521 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/28(火) 23:24:11
知りゃぁ、八幡氏もなおさら驚くか?ww
何を言っても畿内に卑弥呼の国はないよ。畿内にあったなら金印は
天皇のほうがもらう。自明だな。つまり九州だということだ。www
zzzzzzzzzzz・・・・・・・・・
>>517 君自身が
「資料は残らない。想像力だ、どうだ」
などと、史料・資料による証明を忌避してるじゃないか。
そういう態度を取る人間が、一方で他人に証明を強要するのは
おこがまし過ぎると思う。
>>521 太国、寝るな! 死ぬぞ!
縄文人は神武を「3世紀前半から中頃」、
崇神を「3世紀後半」としているが、(
>>458)
太国、それでいいのか!
524 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:50:40
つうかこの話元々は縄文人が
「古墳時代は4世紀から、それ以前はありえない」
と自信満々に言ってきた事からスタートしてんだけどな。
俺は再三再四「実年代棚上げ上等!」と言ってるのにwww
525 :
縄文人:2009/07/29(水) 00:18:33
>>522 古代人の生活は遺跡遺構として全て残るものではない。たまたま運良く発見された物がある。これには文句無いだろ。
これが歴史を見る場合の考古学の限界だ。考古学資料だけで見える歴史は非常に狭い。これにも文句があるか?
一方、文献資料も限られている。これにも文句ないだろ。揃っていたら邪馬台国の所在地などとっくに判明している。
だから、いろんな方面から推理することになる。推理には想像力が必要だ。想像力は極めて大事だ。自然科学でも新
しい原理の発見や理論の構築を成し遂げた優れた科学者は皆優れた想像力の持ち主だ。アインシュタインにしろ現代の
理論物理学者にしろアイデアが勝負だ。豊かな想像力のない者にはインスピレーションは浮かばぬ。
その上で論理的な思考が出来なければ理論は組み立てられぬ。
おまえも3世紀の畿内に大型前方後円墳を築造できる条件が整ったことを豊かな想像力で描いてみな。
どうせみんな想像でものを言ってるんだからな。どれが現実的であるかが勝負だろ。
526 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 00:27:42
科学は推理を実験などによって検証していく
歴史は想像は想像でしかない
全然違う
527 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 00:33:44
広開土王碑文改ざん説
ありゃ、支那人が墨本発見してくれなければ、日本軍が改ざんしたという汚名を着せられてた
ほとんどミラクルな出来事だった
想像は想像でも悪意を持った連中が歴史に墨を塗ってしまうことだって出来る良い例
出雲には昔湖だった亀岡盆地を、保津川の
改良で田畑に変えたという伝承あるんだろ。
おまけに「亀」繋がりと御穂津媛の存在、
九州勢力が大規模土木工事をしたというより
よっぽど説得力あるな。
529 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 03:00:21
>>383 記紀に書かれてある高天原→日向への天孫降臨神話は、
奈良県高天彦→宮崎を表したものなのか。
530 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 03:14:15
>>493 >盆地湖または湿地帯で、農地ではないとすると
古代の稲作は湿地帯で始まったと思うのだが。
531 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/29(水) 09:04:46
>>264 自分がおかしいことを言っていることに気が付かないようですね。
少しは自分の考えを自己批判したほうが良いのではないでしょうか。
>里程なんか記録しなくても問題ない。
>仮にそれうぃ知っていたとしても報告せずとも何の問題もない。
あなたの矛盾のない考えとは、そのように考えなくては成り立たないものなのですよね。
ところが邪馬台国まで万二千里とちゃんと里程が書かれている。
こういうのを矛盾というのではないでしょうか。
>>272 2回の魏使があったことは三国志に書かれているわけですが、それ以上の使節団・調査団があったというのは、
邪馬台国までの行程上の国々(放射説の人には違うことになりますが)しか書かれていない伝の記述内容を考えると、
少し考えにくいのではないでしょうか。
例えば末盧国の西にはなんという国があったのか、邪馬台国の周りにはなんという国々があったのか。
そのような記述がないのは、あなたの考える「勅使以外の派遣」の記録の存在に疑問符を投げかけませんか。
ちなみに、狗邪韓国から末盧国までは、南北に市糴している者からの情報も入っていると私は考えていますが。
少し話がそれましたが、272の内容が里程を記述していない理由になっていないと今気が付きましたが、どうでしょうか。
532 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/29(水) 09:11:21
>>352 始めまして。
>二つルートがあって、ごっちゃになっていると言うことはなかろうか。
それは私が約2年前から言っている説です。そしておそらくこれが正解なのでしょう。
ブログで読みづらいでしょうが、私説に興味がございましたら以下をご覧ください。
http://yamat-2007.blogspot.com/ 最後の「まとめ」だけでも読まれれば概略は分かるかと思います。
なお他の方のレスが付かないのは、私の説とダブっているため、
私の自演ではないかなどと勘繰られたからかも知れません。
>>531 万二千という距離は実数ではないと思いますよ。
遠くの国を表す表現として、使われてるだけです。
後漢書地理誌でもペルシャやアレキサンドリア、大月氏国までの
距離が、全て12000里前後と書かれてますから。
>>529 そういう事でしょうね。だから神武東征というのは
身内での権力争いの話ですよ。普通に読めばそう解釈出来ます。
海部氏の系図でもそうなってますから。
>>533 合計一万六百里の奴国、不彌国まで書いているのに急に実数ではない数字を
書くはずはないよ。
>>535 しかし現に12000里を大きく越える表現が無いですから。
その点へ疑問には思いませんか?
当然地球が丸いとも思われていない時代の話ですよ。
史書ってのは、正確性を重視するから、断りもなしに国名を言い換えたりはしない。
女王国と邪馬台国は別なんだ。そこのところを理解できず、女王国と邪馬台国を同視
してしまう連中が多いね。
>>535 一万六百里なんて何処に書いてあるの?
足して計算した数字なだけでしょ。
国から国への距離にしても、何処を起点にするかによって全然異なります。
現代の感覚で物事を捉えては駄目ですよ。
ほう、ではあなたは奴国まで何里と読んでいるのかな?
540 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:12:56
>>533 12000里前後ってなんだよ? 全て12000里で統一されなければ
あんたの言い分は矛盾するだろ?
541 :
247:2009/07/29(水) 11:18:16
横レスだが、1里=約30m。
万二千里が実数ではないとする、清張ばりの講釈は
地の果てまで五億歩と書かれたいわれを片付けてからにしなさい。
実数でないなら、地の果てこそ万二千里だろ?
543 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:26:13
544 :
247:2009/07/29(水) 11:33:22
545 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:45:36
>>544 では魏志倭人伝にはない、一里=30mも語れませんね
546 :
247:2009/07/29(水) 11:48:55
>>545 へえ。1里=30mでは何か不都合があるんだね。
>>540 距離が別々の諸国が、皆万二千里前後で
表現されてる方がよっぽど矛盾だけど。
この事を説明できるのかい?
邪馬台国だけがきっちり実数だとする
確証を説明してくれ。
548 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:53:30
>>546 不都合があります。
一里=30mではクフ王のピラミッドの北緯45゚には 入らず、ロンドンに居るエリザベス女王が
悲しみます。
>>542 だから地の果てのように遠いと書きたかったんじゃないの?
記述にもとても遠いと書かれてるけど。
550 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 11:59:42
>>547 それは無理というもの
万二千里が実数ではないとする人に、実数であるとする証明をしたところで
まるで馬の耳に念仏の如くで
意味ない行為。
第一理解できないだろう?小学生に三角関数説明しているみたいで
551 :
247:2009/07/29(水) 12:00:52
>>548 魏志倭人伝内に、ピラミッドの話が記述されてるならその論もあるが、
別の章に記述された例を持って来られても困る。
552 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:13:00
>>551 では魏志倭人伝内に、一里=30mは書いてあるの?
>>550 他人に簡単に説明出来ないという事は、自分も
理解出来ないという事だな。
万二千というのは何かの境目というのは間違いないと思うけどね。
この当時にまとめられたとされる華厳経で、萬二千は意味ある数字だ。
でも魏にまで伝わっていたかどうかは疑問だが、
一部の博識者には知識として入っていたのかもしれない。
その影響をうけてた半島の金剛山は萬二千峰と表現されてるよ。
554 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:17:23
555 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:21:33
万二千里が、意味ある言葉なら
万里の長城の万里は実数ですか?
556 :
247:2009/07/29(水) 12:35:37
仏教自体は当然陣寿は知ってるはずだが、
華厳経までは流石に無理かなとは思うが。
でもインドに知識のルートがあるとか、
そこまでは判断出来ないな。
558 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:43:30
>>556 説明しているとかいないとかではなく
書いてあるのかないのかの話し
貴方が最初、書いてないものとこだわったんですよ
559 :
247:2009/07/29(水) 12:50:31
>>558 書いてないという表現が気に入らんのかい。
里数が書いてある、それを現代の地図で確認できる。
尺は侏儒國の人の長として書いてある。しかし侏儒國は比定できてない上、大きいのか小さいのかもわからない。
560 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 12:57:49
>>559 ちょっとマジに話しますか。
里数が書いてあっても、それは当時使用されていた里数であって
現在の数値と整合させるには どうしても換算が必要になってくるが
それと現在の地図は関係ないだろう。
当時の表現からは、現在の地図では表すことの出来ない起点と着点なんだから
561 :
247:2009/07/29(水) 13:02:35
>>560 俺は最初からマジレスしてんだけど。
換算するのに現代の地図が関係ないわけないだろう。
562 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:09:01
>>561 現代の地図を使っても、そこに当て嵌める起点着点は、結局恣意的に刻まれた
思惑絡みの点にすぎない。
そんな身勝手な値なんて使えるわけがない
563 :
247:2009/07/29(水) 13:12:35
>>562 恣意的と断ずるとはね。
では君の考えを聞きたい。一大國と末盧國はどこ?
564 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:15:21
>>563 一大國は一大國だし
末廬國は末廬國だよ
他に何か表現があるのかね?
じゃ倭人伝が正しいか正しくないかなんて話には加わらんことだ。
566 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:20:19
ただし面は点とは違い、記録などから
そのおおよその位置は特定出来るが
数値に裏付けされた点を割り出すには、地図から導く事は困難
567 :
247:2009/07/29(水) 13:22:36
568 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 13:24:30
>>565 だったら自分のHPにでもパスワード掛けて
閉じこもっていることをすすめる。
ここは参加自由の公開掲示板だ
閉鎖的ではない
569 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/29(水) 14:09:05
>>523 神武の在位は1世紀前半だよ。崇神のそれは3世紀だ。これは倍暦計算による。
結局のところ、畿内連中は倭人伝なんか信用してないんだよね。
それなのに、倭人伝にのみ記載される邪馬台国は箸墓だ、と言い張る。
おかしな理論だぜ全く。
571 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 14:18:30
はやと
やまと
【は】 【や】
古代語 かや語によるとry
>>570 畿内説は距離とか方角とかでは埒が明かないから、卑弥呼共立とか国の
大きさに求めてるんでしょ。
>>570 倭人伝を信用していないわけじゃないんだよ。ほんとは信用しているが、畿内説と合わない
から都合の悪いところを「まちがっている」と言ってがんばるのさ。
それが考古学的思考って奴なのか。無駄な分野に思えるよ。
575 :
縦目一派の末席:2009/07/29(水) 15:00:04
一里が30m…
五尺刀は8cm (笑)
>>572 九州説も距離と方角でも埒があかないけど。
それしか無いので強引に合ってると主張してるだけです。
577 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 15:32:18
>>575 それもまたトンチンカンな話しだな
例え一里を30mと認識しても
五尺刀はだれでも約120pだろう
578 :
縦目一派の末席:2009/07/29(水) 15:53:15
>>577 > それもまたトンチンカンな話しだな
ははは、あり得ないですよね。
> 例え一里を30mと認識しても 五尺刀はだれでも約120pだろう
一尺が約23cmですからね。「一里が30mと認識」される訳がないですね。
579 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 16:17:19
>>578 尺=約24pと言う値は、何人たりとも動かす事の出来ない値。
魏晋朝に使用していたと考えられる曲尺を
現代の物差しにて測定した値ですから
しかし、歩や里は
正当な理由さえあれば、換算値をかえる事が出来るので、理由なくして
30mを否定出来るものではありません。
否定できますか?
580 :
ローガン:2009/07/29(水) 16:25:07
>>579 > しかし、歩や里は正当な理由さえあれば、換算値をかえる事が出来るので、
その正当な理由をどうぞ。まず伺ってからにしましょう。
581 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 16:32:19
>>579 一里=1800尺=360歩 一尺=24cm
一里=1800尺=300歩 一尺=30cm
360歩は円が基本で300歩は正方形が基本
歩はあかんやろ
583 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 16:40:11
>>580 簡単なところでは
歩の換算値を六尺に留めず、五尺と臨機応変に動かしています。
584 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:02:08
>>581 一里=1800尺の理由を説明して下さい。
585 :
ローガン:2009/07/29(水) 17:04:03
>>583 「今尺長於古尺幾於半寸」なんてのもありますね。
時代によっての多少の異同は否定しませんよ。しかし一里が30mなんて…
三國志の一里が30mで書かれてますか?
586 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:17:16
1800尺の起源はシュメールの数字文字にある。
紀元前3000年頃のシュメール文字の○は3600と言う数字であった。
紀元前2500年頃に○は◇へと変化した。
あとは、粘着しないで自分で考えてください。
3600の半分、つまり2辺が1800尺となった。
587 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:19:30
>>585 一里=30mとするのは
ただの換算違いでしょ
換算に関する認識不足をどうこう言っても始まりません。
当人がそれに気付き、改めれば済む話しですから
しかし、
一里=30mから五尺刀を持ち出して、8pは
完全に根底から間違っています。
588 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:23:10
ただ、地図に任意の点を設け、デバイダーで長さをはかり
なんて行為は
箸にも棒にもかからないお粗末な笑い話でして
589 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:29:25
>>586 粘着しようにも
口がアングリでして……
「やっちゃったな」って言うのが精一杯の抵抗です。
590 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:52:56
591 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 17:57:23
>>590 そこで個人の吊しあげをしなくても ねえ
反論あれば反論すれば良いのであって
592 :
247:2009/07/29(水) 18:07:20
笑いたければどうぞ。
俺は魏志倭人伝をいい加減な書だとは思っていない。だから1里=約30mと解釈した。
末廬國までしか書かなかったのは、そこから畿内に至る道程もありかという思いやりだったのだが、
散々な否定っぷりは、辿り着けないという事だな。
593 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 18:45:20
>>592 倭人伝を信じるとか信じないとか、いい加減と思っているとかいないとか
そういう話しじゃないだろう。
目の前に置かれた書物に対しての姿勢じゃなくて、扱い方を言ってるの。
個人的な思惑など一切必要としないもの
尺の曲尺を約24pとすることに、個人的な思惑なんて入ってないだろ
そういう事を言ってるの
594 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 19:07:49
一里が30mであろうと、420mであろうと、70mであろうと
それらの数値の根本には、曲尺(約24p)があるという、どうする事も出来ないものに対して
目を背けないという態度。
それが欠けていては話しにもならないという事。
595 :
247:2009/07/29(水) 19:26:40
>>593、
>>594 何を言いたいのかわからない。
俺は俺の考え方を書いたまでだし、さっきレスしたように、一笑に付したって構わない。
なぜ魏志倭人伝だけ単位が違うのか、これについては想像の域を出ないので書かない。
君の解釈も聞いてみたいし、他の人もどんどん披露してくれたら楽しいんだがな。
596 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:10:57
>>595 気持ちはとってもよくわかるんだけど
皆が皆、「思います」の感想文や可能性を言いだしたら 話しがあっちゃこっちゃ飛び回って
誰も何も言えなくて
学問ではなくなっちゃうよ
一応建前、学問板だから
どこを読んでもとても学問板とは思えない応酬ばかりだがw
そもそも学問板とはどこそこの教授の論に基づいて語る場所なのか?
畑違いの意見には一切耳を貸さず、自説の検証のみに時間を費やせばよいのか?
>>597 でしたら名無しではなく
わかりやすいコテ付けて常駐したらどうですか?
コテなら目立つから
色んな意見もらえるよ
ただし、風邪当たりも強いけど
599 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 22:47:45
>>594 そうだね。360尺=一里という特別な里を考えた直木孝次郎説あたりが正解
に近いかもな。
600 :
ローガン:2009/07/29(水) 23:32:18
>>592 > 笑いたければどうぞ。
いえ、そういうつもりでは…失礼があったのなら謝ります。
> 俺は魏志倭人伝をいい加減な書だとは思っていない。だから1里=約30mと解釈した。
つまり「俺」説以外、特に我々のような畿内説は「魏志倭人伝がいいかげんな書であると考えている」と考えておられるようですね。
違いますよ。畿内説の皆は、というか普通はどんな史料でも頭から信用しないんですよ。二次史料等を参考に裏を取ってみるんです。
そこから記載事項の確度を考えようというスタイルです。史料批判ってそういうものでしょう。
だから、「記述に誤りはない」を前提とする考え方とは相容れないのです。
魏の国土は他面戦争を強いられる位置にある
南は蜀と呉に対峙し、北は匈奴に備えなくてはならない
だから、西に大月氏を冊封し、東は半島から公孫氏を排除した
そして楽浪・帯方の2郡を設け呉を牽制する体制だ
ここで、半島のさらに先にあるという倭国を冊封すれば、環東シナ海包囲網が作り出せる
だから、倭国が南へ南へと伸びる国土を持つように描いたのだ
魏志倭人伝は、その戦略的欺瞞で描かれた倭国の姿を、魏時代の断片資料から引用した文書に過ぎない
>>600 >二次史料等を参考に裏を取ってみるんです。
二次資料を参考に裏を取るという事は、一次史料と二次史料の両方の内容を把握できるということでしょうか?
それとも文字の違いという外見を?
それでどちらの史料を重視するのでしょうか?
出来ましたらその検証とやらの事例を一つだけでもいいからあげてみてくれませんでしょうか?
603 :
247:2009/07/30(木) 00:30:23
>>596,
>>600 「思います」だけで書いたわけじゃないんだが、
そんなレスをしてる人も居ないし、結論だけ書いたんだけど。
尺が19cmの時代もあるし、里より引が使われてた時代もある。
更に妄想すれば、西域ではフィートが使われていた。
魏志倭人伝は数々の資料を元に書かれたのだろうが、その証拠があるわけじゃない。
俺は一般人だし、日本史専攻でもなかったんで、
この板の人が気に入るレスはできなかったが、気を悪くせんでくれ。お邪魔した。
604 :
ローガン:2009/07/30(木) 00:51:21
>>602 > 二次資料を参考に裏を取るという事は、一次史料と二次史料の両方の内容を把握できるということでしょうか?
> それとも文字の違いという外見を?
?何を答えれば良いのでしょう?
> それでどちらの史料を重視するのでしょうか?
当然、批判の対象となっている史料です。
> 出来ましたらその検証とやらの事例を一つだけでもいいからあげてみてくれませんでしょうか?
例えば、稲荷山鉄剣銘文の辛亥年が何時かを考える際の、獲の草冠の有無とか…
秀真伝が何時のものかを考える際の「ん」の成立、七五調に関する史料とか…
いくらでもありますよ。面倒なのでこれくらいにしますが、「史料批判」とはどんなものか?
考えてみる事をオススメします。
605 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 00:59:36
しかし先に出てきた奈良湖のネタ…
>『※ 九州王朝はなかったのか? ※ 15』
>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231383842/l50 でも進行しているみたいだが…
このネタを好んで挙げるのはやはり東遷説論者なんだろうなw
連中にとっては3世紀に九州に邪馬台国があって
尚且つヤマトに王権らしきものがあるのはあまりよろしくないわけでw
で、ほぼ物理的に不可能とできる「奈良湖が3世紀まであった」と言う説は色々と都合が良いとwwwww
が、地質学云々を除いても冷静に考えれば
それまで湖底にあった土地を僅か100年かそこらで
既に数百年稲作を行っていた他地域に比肩しうる程の土地にしたというのは
まあ現実味が無い話だと思うのだが?w
(相手(畿内説)を否定するに使えそうな物を持ち出して後は野となれ山となれ…酷い話ですハイw)
そういえば
太古琵琶湖の底であった忍者でおなじみ伊賀甲賀はそのとき堆積した泥のおかげで稲作が大変らしい
(なので傭兵として他国に出稼ぎに行ったのが忍者とかNHKでやってたなw)
参考)
古びわ湖層
http://www.geocities.jp/kafukabj/kobiwako.htm
606 :
縦目仮面:2009/07/30(木) 01:00:56
いやあ、他スレで九州さんとサガミさんには悪いことをした。
607 :
ローガン:2009/07/30(木) 01:03:30
>>603 > 魏志倭人伝は数々の資料を元に書かれたのだろうが、その証拠があるわけじゃない。
証拠はなくとも、記事が複数の資料を元にしたのは、書き方から十分推測出来ますね。
ではお休みなさい。
608 :
縦目仮面:2009/07/30(木) 01:14:33
地質学はともかく、スイーツは反省してます。ごめんなさい。
609 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 01:20:58
610 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 01:25:52
コテは馬鹿と相場が決まってる
612 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 11:23:11
やたらと「信用しない」と言うのが史料批判だと思い込んでいる連中が多いけど、
疑問をもつべき合理的理由があるかどうかを慎重に考えるべきだね。
倭人伝の場合、その信用性を疑うべき理由はまず見あたらない。
>>612 それには賛同だね
疑う以前に、倭人伝すら中身を理解されていない段階から疑われちゃたまんないわな
614 :
縄文人:2009/07/30(木) 11:33:25
>>605 <それまで湖底にあった土地を僅か100年かそこらで
既に数百年稲作を行っていた他地域に比肩しうる程の土地にしたというのは
まあ現実味が無い話だと思うのだが?w >
奈良盆地が2〜3百万年前に海底であったとしても弥生時代の頃には塩分は抜けきっていただろうから、奈良湖は
淡水湖で、水位が下がってできた陸地は稲作に適していたと思われる。現在でも水田の土は粒子の細かい(ヘドロ
のような)ものである。砂地は適していない。水が引けばすぐに水田が拓けたと思われる。
標高50mであった湖水面が標高40mに下がれば、従前の水田面積の数十倍に相当する水田が拓けただろう。
なお、このように開拓された奈良盆地だけで大和王権を支える人口(大型前方後円墳をほぼ同じ時期に数基も築造
するほどの人口)を養えるとは思われず、近傍の河内や京都の開拓もある程度進んだと推定される。
現実味のない荒唐無稽な話とは思われぬがね。俺は崇神の時代(3世紀末〜4世紀初)にそのような状況ができた
と見ているわけだ。
巻向地方にある箸墓などの大型前方後円墳の築造時期が確定すれば決着がつく論争点なんだがね。証拠を示せと言
われても遺跡、遺構として残らない事物を探すのは大変なんでね。おぬしの方で何か証拠、3世紀半ばに畿内に7
万戸の人口を擁し、近傍に2万戸、5万戸の人口の國を持つ邪馬台国があった根拠を示してくれんかな。
ついでに、前から気になっている事だが、・・・w w w のwは唸り声か?
>>612 その人壽を考えるに或いは百年、或いは八九十年、とか書かれていても
それに疑うべき合理的理由は見いだせないというわけですか?
それとも、疑うべき理由の無いところは、距離とか方位だけの話でしょうか?
要は自説に都合のよいところは疑わないでね、と言ってるように思えますが。
616 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 12:37:20
>>625 読み方をまちがってますよ。寿考は熟語で、長生きという意味です。
それに、平均寿命の話だと勘違いしていませんか? 当時は年齢統計なんぞとることは
ありません。したがって、平均寿命なんぞ分かるはずはありません。
長寿者の中には百歳、八九十歳などという人もいるというだけですよ。
どこも不自然ではありません。
617 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 12:40:57
618 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/30(木) 12:52:57
「参考までに」
「壽」と言う文字には「ことぶき」と言う訓があてられています。
因みにこの「ことぶき」と言う言葉
「ことほぐ(よろこぶ)」と言う言葉を名詞化した言葉です。
>>614 20000が福岡、50000が丹波、70000が畿内でいいんじゃないの?
丹波(但馬と出雲)は太古に湖(沼地)だった豊岡と亀岡盆地を
田畑に変えたという伝承まであるしな。
高い土木工事技術をもっていた事は十分想像できる。
620 :
縄文人:2009/07/30(木) 14:13:46
>>619 今日は在宅で仕事してるから比較的はやく応答できる。
福岡や丹波は奈良から北の方角にあるかな?倭人伝によると東の方海を渡るとすぐまた倭人の國があるんだけど
奈良はそんな地理になってるか?
それより3世紀半ばの件が知りたいんだがね。
>>620 >今日は在宅で仕事してるから比較的はやく応答できる
無理しなくても、また弟ってことにしたら?(笑)
倭人伝の方角なら最初から60度ずれてるしな。
623 :
縄文人:2009/07/30(木) 15:10:26
>>621 弟は俺より気が短いし乱暴だから俺の許し無しには書くなと申し付けておる。
それより俺の問いに答えたらどうだ。
福岡を奴國、出雲から丹波までの広大な地域を投馬國、畿内に邪馬台国とすると倭人伝の記述に合わないし、
倭国30國の東方は海でその先にある倭人の國とは陸続きではないのだが、畿内に邪馬台国を持って来ると説明
できんな。
622 は変なこと言ってるな。どうして最初から60度ずれてるんだ?
>>620 三世紀なら畿内河内湖周辺や泉南を含めりゃ七万なんて余裕です。
北部九州に詰め込む事考えると尚更ですな。
625 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 15:18:45
>>622 最初って乍南かな? それとも東南陸行五百里のこと? ずれてないだろ。
626 :
縄文人:2009/07/30(木) 16:03:55
>>624 俺の書き込みを理解できてなかったんだな。畿内河内湖周辺や泉南を含めた生産力なんて九州にはいくらでも
あるぞ。現前原市から春日市あたりまでの平野で十分だ。筑後川流域や熊本平野なんか畿内の数倍もあるぞ。
地理、地勢、地質、農業、灌漑、利水、治水技術の話などおぬしには無理な議論だ。
それより、倭人伝記載の方角、里程でものを言ったほうが無難だ。だが、その話題で俺の問いに答えるのも無
理だな。
縄文人のレスはスルー
628 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 17:11:12
>>626 > 倭人伝記載の方角、里程でものを言ったほうが無難だ。
邪馬台国の所在地についての史料は、倭人伝しかないと言うべき状況なのだから、
当然のことだろうな。末盧国まではまず異論はあるまい。末盧国から東南陸行五
百里の伊都国はどこか? 前原付近というのが通説だが、それでは東南にはなら
ない。玄界灘沿岸ならば末盧国から陸行する理由もない。倭人伝の記載通り、東
南に陸行し佐賀市付近に至ったとみるべきだ。
伊都国=佐賀市ならば、すでに目の前は有明海だ。そこからさらに奴国、不彌国
と歩を進める必要はない。南水行は伊都国から始まるに決まっている。
つまり放射説が正しいということだな。以下はまたそのうち。
629 :
605 ”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ” :2009/07/30(木) 17:25:39
>>614 >巻向地方にある箸墓などの大型前方後円墳の築造時期が確定すれば決着がつく論争点なんだがね。
ん?
そんな実年代が確定するような材料持ち合わせてないが?
(つうか俺なんかにできないし、最初からやる気も無い…これは何度も言ったぞ?w
もっとも2ちゃんのこの板でそんな事に成功したなら多分奇跡だなw)
で、それでどうなるんだ?
まさか自らは年代の根拠を示さず
畿内説の学者の言っている年代観(まあかなりの巾はあるんだが)を否定できるって
どんだけ便利な超理論なんだよカスw
そもそもこの話、どこぞの馬鹿が
「古墳の造営は4世紀から、3世紀にはありえない!」
と意気軒昂にわめきだしたところから始まっているんだが…
その時点で自ら実年代の根拠を示さなければならないのに
いつの間にか「 二択 」に化けちまってるw
図々しいやつだwwwwwwwww
630 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 17:35:32
畿内説派は縄文人の問いに答えられないからスルーするのだろう。
若しかしたら、伊都国を現前原市のあたりに比定しているのだろうか。唐津辺りから前原市の方角は東北になる
から60度ずれてるというのかな。末廬国には官もいないが、伊都国には代々王が居て官も正副二人、一大率まで
いて、使節の常に駐まるところである。伊都国が海辺にあるのなら、何故壱岐から直接伊都国に行かないのだろう。
その方が陸路を(草木繁茂して行くに前人を見ぬほどの道を)とるよりはるかに楽なのに。しかし、畿内説派の人は
唐津辺りから前原市の伊都国へ陸路を行かせる。伊都国は前原市にあったということを前提にして言っていますね。
東南陸行五百里を東北陸行五百里とずらしたのは627を書いた人ですか?
631 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 17:37:45
そもそも、この
「奈良湖は3世紀まであった!」
なんてネタを持ち出すのは邪馬台国論争の九州説論者ぐらいなんだろう?
邪馬台国論争に関係も無いところで地質学者とかが
そう言う説を述べているなんてソースの引用も見たことが無いし…
有名どころの遺跡は標高が高いところにある場合が多いのかもしれんが唐古鍵とか(それでもギリ?)
まあできれば立地の良いところに住みたいというのは当たり前で
逆に立地が良いところだから大型の集落ができたと…
>>468に挙げてくれている遺跡を全て水面上に上げる気か?w
>>631 いや、元はと言えば、畿内論者が倭国100万人説を唱えだし、
九州内で100万人は無理などと言い出したのが発端。
633 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 17:51:52
>630
伊都国前原市説はべつに畿内説派の専売特許じゃなく
九州説派も大半がそうだとしている
634 :
縄文人:2009/07/30(木) 17:52:49
>>629 出て来たなチンピラ。巻向地方にある箸墓などの大型前方後円墳の築造時期が確定すれば決着がつくのは
当然だろ。俺やおまえに決着をつけることが出来るとは言っとらんよ。そこは専門家にまかせなきゃしょ
うがない。
おまえはカスだとかアホだとかの悪罵しか書けない能無しだから話が進展しないが、
3世紀半ばに7万戸の人口を養える条件が大和に整っていたという論拠をおまえが示せば俺をやっつけら
れるだろ?
俺は今倭人伝の記述の方に興味が移っているのだ。おまえも参加するか?入れてやってもいいぞ。
635 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/30(木) 17:53:53
>>628 説明文をお借りします。
>>626 > 倭人伝記載の方角、里程でものを言ったほうが無難だ。
邪馬台国の所在地についての史料は、倭人伝しかないと言うべき状況なのだから、
当然のことだろうな。末盧国まではまず異論はあるまい。末盧国から東南陸行五
百里の伊都国はどこか? 前原付近というのが通説だが、それでは東南にはなら
ない。玄界灘沿岸ならば末盧国から陸行する理由もない。倭人伝の記載通り、東
南に陸行し佐賀市大和町惣座遺跡に至ったとみるべきだ。
伊都国=佐賀市大和町惣座遺跡ならば、南東100里に奴國=佐賀城がある。
又伊都國の東100里に不彌國=吉野ヶ里遺跡がある。
これ以上歩を進める必要はない。
帯方郡より奴國と不彌國までは、それぞれ12000餘里だからだ。
即ち、帯方郡より女王國までの12000餘里なのだ。
女王國に到着したので、行程説明は不彌國で終わったのだ。
女王國内に入ってからの投馬國と邪馬壹國については女王国内についての説明に変わっているのだ。
以下はまたそのうち。
636 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:01:00
悩める陳寿
報告書1
狗邪韓国、対馬国、一大国,省略
末廬国から北東に500里行くと伊都国だよ。長官や副官や王様がいるよ。
ここは女王国に所属しているんだって。ここは使者が滞在するところだね。
東に100里進むとすぐ奴国だ。なかなかでかい平野で20000戸あるぞ。長官も副官もいる。
奴国は結構でかいんだが、東側が不弥国だ。ここも長官も副官もいる。ここは1000戸位だ。
南にいくと投馬国、ここは奴国より大きくて50000戸はある。長官、副官ありだ。
さらに南に行くと目的地の邪馬台国、推定すると7万戸くらいはいそうだ。
報告書2
狗邪韓国、対馬国、一大国,省略
わしは末廬国から南東に移動した。ものすごい山道で前を行く人が見えない。
なんとか500里行くとクニに出た。伊都国だったかな。1000戸位の小さなクニだ。
それから東南にわずか100里ばかり行くと奴国がある。ここはもう平野だ。20000戸の
大国だ。
東の方に少し行くと不弥国だそうだ。我々はここから船に乗り換えることにする。
そのまま東に行くと、大国がある。地元の人間に聞くと5万戸はあるらしい。
ここから歩きでも行けるそうだが、さらに、そのまま船で行くと邪馬台国だ。
ここが一番大きいクニだ。70000戸はあるだろう。
陳寿
どうみても、同じクニに行ったものとは思えん。
この馬鹿どもめ。
637 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:01:23
距離か方角がデタラメな魏志倭人伝に書いてある
戸数なんてあてになるのかね?
638 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 18:02:49
>>634 ふむふむ。
要するに
「3世紀に奈良湖があって盆地は標高50mまで水ン中
よって古墳を築く様な力はありません」
…と言う自説に何ら根拠を提示できない事を認めるんだな?wwwwwwwww
ちなみに俺は5万戸だの7万戸だのを実数として捕らえていないんだが?
これもリアリティの無い数字で魏志倭人伝の情報の正確さを疑う材料の一つw
無論自分の想像だけじゃなく実際に出されている弥生時代の推定人口のデータを見れば
あまりにも桁が違うと言う事に由来するwwwwwwww
639 :
縄文人:2009/07/30(木) 18:27:48
>>638 ネームを変更して「縄文人様へ」とか「石器時代人」にしないか。そのほうがおまえにはお似合いだ。
俺の説はそのうち認められるさ。巻向の遺跡の発掘調査が行われて、正しい鑑定が行われればね。
弥生時代の人口推定データの話は既に済んだろ。あんな当てにならぬものをまだ信じているのか?
640 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:47:20
陳寿の言葉を伝えよう。
>>635 わしは伊都国まで1万と五百里になるようにしか書いていないのに、足し算も
できんとは困ったもんだ。
>>636 わしは伊都国まで東南陸行五百里としか書いてないのに、北東に五百里などとどこから
もってきたんじゃろ。それにわしが投馬国や邪馬台国までの距離を書かんとでも思って
るのかな? あきれた奴だ。
だいたい、どうみても同じ国への行程に見えない行程を合わせるもんかね。
わしはそんな馬鹿ではないぞ。
641 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 18:54:18
>>639 ハンドルの前に”アホ”を付けるのはお前のアイデアだぞ?w
まあ俺はサービス良いから気が向いたら
前後にバカ・ボケ・カスetcつけてやるから感謝しろよクズwwwwwwww
年代論について言っておけば、そもそも実年代の話棚上げでも畿内説は有利。
大乱の末の女王の共立、30ヵ国の代表として魏に「親魏倭王」として冊封された
…これらの出来事に対応する変化を見出す事ができる。
理化学的年代測定による新しい年代観が出てきたより
旧い「古墳時代は4世紀から」と言う年代観に根拠が無いという事が認識された事の方が大きいだろう。
今日の畿内説の優勢はそこに起因すると思うw
でなければ理化学的年代測定に距離をおく学者も畿内説であるのは何故だ?ッて話で
(ただし、この板の九州説連中のお得意の陰謀論は勘弁なw)
まあ実年代の数字与えるにかなり有力だったのが
三角舶載を前提とした小林の理論だったと言うのがそもそものお笑いなんだがwwwwwwwwwww
「俺の説はそのうち認められるさ」
2ch内ですらぼこぼこなのに…今年一番笑わしてもらいましたw
643 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 19:03:34
つうかね、「学会に発表したら・・・」とか言ってたが
お前の説何らかの形で世に問うてみたらどうだ?
いやマジでw
一々「忙しい合間を縫って」と前置きしながら豆に書き込んで
時には弟くんにまで手伝ってもらってw
(いやあ、使用語彙、文体、内容…どれもそっくりだw余程兄貴の薫陶を受けてんだなwwwwwww)
実際、先にも出てた
「纏向の掘っ立て建物に魯般尺が使用されている」
なんて話も確か古代建築を研究してた宮大工の提唱じゃなかったかな?
他にも他のジャンルからの提言って結構あるぞ?
「食」の研究家とか「暦」の研究家とか?
644 :
縄文人:2009/07/30(木) 19:42:22
>>641,642
おまえらの悲痛な叫びとして受けとってやる。内容のないことしか書き込めないおまえらが可哀想だ。
おまえらと違って俺は天衣無縫、自由闊達、独立独歩、自分の頭で考える人間だからおまえらが哀れに
見えて仕方ない。権威に頼り、固定観念に囚われ、自分に都合の悪い説は理解しようともせず拒否する。
相応の反論を用意せずにだ。
おまえらだろ。倭人伝の戸数は信じられん、方角は間違いだ、里程は間違いだなどなど自分に都合の悪い
ことは全て間違いにしてしまうのは。おまえら10日間ほど華厳の滝に打たれて来い。少しは頭がよくなる
かも知れんぞ。
おまえらと違って俺は権威に頼り、固定観念に囚われ、自分に都合の悪い説は理解しようともせず拒否する。
相応の反論を用意せずにだ。
ということは理解したよ。
縄文人の新説
「 弥生時代の大和に水中都市が存在した!?」
ムーにでも投稿してこい。
647 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 20:17:56
>おまえらと違って俺は天衣無縫、自由闊達、独立独歩、自分の頭で考える人間だから・・・
ネットの中だけでな。現実世界では土木関係者のようだから、あちこちでモミ手して頭下げ
まくって、資金繰りも苦しいんじゃねえの。ま、今年度の自殺者は史上最高に迫る勢いだと
いうし、九州の経済情勢は最悪だろ。しかし、ネットで鬱憤晴らしというのも哀れな話。
邪馬台国を掘り当てて一儲けしたいよね。
がんばれよ
>>649 >邪馬台国を掘り当てて一儲けしたいよね。
無理
関東地方や近畿地方を探すようなものです。
652 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/30(木) 21:46:07
>>646 >縄文人の新説
>「 弥生時代の大和に水中都市が存在した!?」
箸尾遺跡では弥生時代の大和湖の水深7〜10mの湖底で縄文人が住んでいたそうな。
“九州王朝はなかったのか?15”スレより。
653 :
サガミハラハラ:2009/07/30(木) 21:50:36
わたくし邪馬台国をとっくの昔に掘り当てたのですが、全然儲けていません。
654 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:58:33
>>653 正しい邪馬台国を掘り当てたら儲かる。
貴殿が儲からなかったのは、誤っていたからであろう。
655 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 22:20:56
うーん、とりあえず以下のサイトで標高は確認できるが
(目的地で拡大すれば標高表示が出てくる)
http://net.jmc.or.jp/250m.html ちなみに、これで唐古鍵は47.9m
近鉄田原本線、箸尾駅付近で言うと
駅北東の第二浄化センターで42m
駅南の教行寺で45m
この辺りまで陸地とするとかなりの土地が水面より上に出てこないのか?w
656 :
縄文人:2009/07/30(木) 22:58:35
>>655 おまえら俺の書き込みをよく理解できとらんな。奈良湖が干上がってから、盆地の地下水位が徐々に低下し、それにより
地盤が沈下したと書いとっただろが。おまえらには理解出来ないかも知れないが、湖からの水の供給がなくなると地層の
水分含量が低下して行くのだ。そうすると膨らんでいた地層が収縮する。これによって地盤が低下する。地下水を汲み上
げすて土地が陥没したということを聞いたことないか?長い期間をかけて奈良盆地の地下水位は低下したのだ。ひどいと
ころは10m近く低下したかも知れんぞ。
なお、俺は土木関係者ではない。知識は持っているが、俺の知識は化学、物理、生物、農業、林業、工業、文学、宗教学、
心理学、病理学その他と極めて広いのだ。また人に頭を下げて商売する必要はないのだ。人に頭を下げられることはしょっ
ちゅうあるがね。俺の生活の心配などしないでおまえら勉強に励め。
657 :
サガミハラハラ:2009/07/30(木) 23:10:40
>>654あなたのそれは、信仰というものです。
現実はそうはならないのです。
658 :
〜大和の弥生遺跡標高確認まとめ〜:2009/07/30(木) 23:15:12
659 :
縄文人:2009/07/30(木) 23:21:12
>>655 つづき
弥生時代に排水工事が行われ始めて奈良湖の水位は標高50mから40mくらいまで下がった。これにより水田開拓可能
な土地は従前の数十倍に増えた筈だ。従前の水田は湖水の縁、川の近傍などに拓かれていたと推定されるが、湖水が引
いて出来た陸地は殆ど全て稲作適地と思われるからだ。水田の拡大とともに増えた人口の居住地域は従前の陸地に設け
られたろう。排水川口の閉塞などの事態(地震などによる地崩れなど)で大雨のときは水没の危険があるからだ。
660 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 23:26:17
>>656 遺跡があるところだけ都合よく地盤沈下したのか?w
…ったく下らない。
何処まで行っても「たら・れば」の繰り返し妄想の書きなぐりでしかない。
そもそもそれだけの知識誇るなら
「3世紀に奈良湖があたこと」
「それを巨大干拓工事した」
をもっと科学的に証明して見せろドカス。
殆ど魏志倭人伝の内容からのアプローチってどう言う事なんだよボケwwww
>>656 あのさぁ、水が引いて地盤沈下があったとか言ってもね、
現在の標高42〜45mの位置に縄文末期からの遺跡が
ある事には代わり無いんだけど。
まあデンパな九州説論者の末期症状なんだから、
皆さん優しくしてあげなきゃね。
663 :
縄文人:2009/07/30(木) 23:39:04
俺の奈良湖の話はもうおしまいにする。
それより、倭人伝の方角、里程の話だ。
伊都国を前原市とすると方角を60度ずらさなければならないし、海岸沿いなら陸路より海を舟で行くほうが楽で時間も
短くてすむ。それに、壱岐から舟で直行する方が合理的だ。官もいない末廬国などを経由する必要はない。距離も殆ど
変わらないのだから。末廬国を経由するには理由があった筈だ。それは、そこから伊都国へ陸路でしか行けなかったか
らだろう。伊都国を前原市に比定する人達の意見を聞かせて頂きたい。
664 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/30(木) 23:48:20
>>656 >俺の知識は化学、物理、生物、農業、林業、工業、文学、宗教学、
>心理学、病理学その他と極めて広いのだ。
…もうここまで来るとマジモンのビョーキの人か
ネタでやってる釣り師科のどっちかとしか思えないなwww
こいつがほざいていた「九州の先端技術」はいまだ謎だが
その説明に何らかの工科系の知識出てきたか?
土木にしても「謎の工事で湖の水位下げました」って話だけ。
どのような工事なのかも、さっぱり出てこなかった・・・
まあ文章そっくりの弟が出てきた時点で大概アヤシイと思ったんだが・・・
やっぱりマジモンで頭おかしい人としか思えないんだが・・・
665 :
縄文人:2009/07/30(木) 23:48:50
660〜662
おまえらには理解できない話だ。俺がこれまでに書き込んだものを見直してみろ。これ以上理解する能力のない
人間と議論しても無駄だ。だからおしまいにする。
それより、倭人伝ならおまえらにも読めるだろうから、議論になるだろう。663の問いに答えられるか?
666 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/30(木) 23:49:33
>>533 そのような指摘は時々見かけますが、では本当に万二千里がそのように遠くを表す常套句として
使われていたのか?というと疑問符が付いてしまいます。
倭人伝にもどると、不彌国までの里程の合計は約10700里で、残り2国が1300里の合計12000里は
決して突飛な数字とは言えないことも分かります。
東夷伝の里は朝鮮半島の大きさや3回の渡海の距離から魏の里とは異なる尺度で書かれていることが
今では分かっていますが、陳寿をはじめ当時の中華人にはそのような事を知るすべは無く、1300里を
魏の里とみればその距離を水行20日+水行10日+陸行1月が実際に掛かったと思っても不思議では
ない数字になります。
また倭人伝の里をすべて魏の里で読めば「計其道里當在會稽東冶之東」となるのではないでしょうか。
667 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 23:51:11
>>661 縄文遺跡といえば、橿原遺跡からは漁労具なんかが出ているらしい。
水辺に建てられたと見られる建物の跡もあるし、周辺では葦やヨシなんかの
痕跡もある。
橿原遺跡というのは、どうも湖か湿地帯に面していたらしい。
668 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 23:55:24
>俺の知識は化学、物理、生物、農業、林業、工業、文学、宗教学、心理学、病理学その他と極めて広いのだ。
なんか、学歴というか学問コンプレックスがあるとしか思えないな。結局レスはこいつの仕
事の工事関連の発想しかないようだし。倭人伝?また何の根拠もないことを延々書き連ねる
だけなんだろ。
669 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 23:56:54
■奈良盆地の最上部更新―完新統 松岡数充・西田史朗
長崎大学教養部紀要(自然科学篇) 21巻1号 (1980)
◆山の辺期の環境
山の辺層は,すでに述べたように砂層・シルト層・泥層を主とし,しばしば泥炭層をはさむ。そして層相の側方および垂直方向の変化が激しいことから判断して河川成堆積物である。
粗粒砂層中に含まれる特徴的な礫種は,佐保川流域ではチャート,また布留川流域では石英である。これらの事実は,当時すでに佐保川・布留川・初瀬川等の河川の基本的流路が決定されていた事を示す。
.
奈良盆地には,かって上治(1947)によって奈良化石湖と呼ばれた比較的広い面積を有する滞水域の存在が考えられたことがある。粉川(1975)は泥炭層の形成とこの湖とを関連づけている
.
しかし泥炭層の水平方向の拡がりはあまり大規模でなく,またその形成年代もそれぞれの地点で異なり, 34,000Y.B.P.から21,000Y.B.P.にわたる。
このことは当時の奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかったと推察される。
◆斑鳩期の環境
山の辺層と斑鳩層との間には, 21,000Y.B.P.から6,000Y.B.P.にわたるおよそ15,000年の時間々隙が考えられる。この間隙の前半,とくに20,000Y.B.P.から15,000Y.B.P.はウルム氷期最盛期に相当する。
当時の海水面低下は80から100m と推定されている。
したがって奈良盆地内の河川勾配は現在より,また山の辺期よりもさらに大きくなって,侵食作用が著しくなり,堆積物が形成されない状況にあったと推察される。稗田遺跡で発掘された旧河床でみつかった泥炭礫の存在はこの推察も裏づけている。
その後の15,000Y.B.P.から10,000Y.B.P.の間はやはり氷期の名ごりをとどめ,海水準がゆるやかに上昇してゆく時代で,奈良盆地の状況はその以前とあまり変化がなかったであろう。
7,000Y.B.P.ごろから気候の温暖化に伴う急速な海水面上昇があり,これは一般的に縄文海進と呼ばれている。当時の海水面は,大阪湾では現在よりも4m以上高くなり,大阪盆地や河内盆地には海水が侵入した。
この影響はやはり奈良盆地にもあらわれ,その時代以降の堆積物が盆地内の低地に広く発達しているようである。前述の三河川の合流地域には細粒堆積物が他地域にくらべて比較的厚いのがそれを物語る。
あるいは小規模な滞水域が存在したことも推定される。
670 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 23:57:03
唐古・鍵遺跡からも魚の骨が出てくるし、魚を描いた土器も見つかっている。
魚とは縁が深かったのかもしれない。
671 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/30(木) 23:57:58
>>576 >>637 私の説なら距離も方角も、ついでに考古学的(?)な比定地も、すべて問題ないですよ♪
って書くの何度目だろw
>>598 私には風が吹かぬ、当ててくりゃれ♪
>>653 サガミさん、それは掘ってもいないし当ててもいないからでは?w
>>665 >それより、倭人伝ならおまえらにも読めるだろうから、議論になるだろう。663の問いに答えられるか?
お相手いたしますか?(笑)
>>665 もうご講話は終了ですか?
でも自信満々の話なんだからちゃんと公表しろよ。
世間に認められて支持される説なんだよな?
675 :
縄文人:2009/07/31(金) 00:13:47
>>668 多方面の知識を持った人間は多いぞ。
おまえが知らないだけだ。世の中には多方面の勉強をしている人間がいっぱいいるのだ。俺の友達なんか医者だが、医学博士
のほかに工学博士の学位を持ってるぞ。そのうえバイオリンはプロ級、囲碁は6段、合気道もやるぞ。なお、繰り返すがおれ
は土木事業者ではない。あまりひがむな。
676 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:15:45
677 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:18:03
そうだね。根拠のない説をただ書くだけのやつは嫌われるし、存在価値もない。
678 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:20:59
>>674 怡土=伊都国は広範囲に認められた定説というよりも、暗黙の了解という
ところだろう。
お互いあまり触れないでおきましょう、というところだろうな。
これを否定したら、畿内説も北部九州説も成り立たなくなるわけだから。
679 :
縄文人:2009/07/31(金) 00:21:54
>>676 俺はおまえらに嫌われても困らないね。好いてくれている人間は山ほどいるからね。おまえらが俺を嫌う理由は
分ってる。おまえらに都合の悪いことを言うからだ。663に答えられんのだろ?
医学博士で工学博士ね、それにバイオリンに合気道…
本当だったらそんなプロフィールだと特定されちゃうよw
681 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:27:48
>>663 地盤沈下の話は、ありえないとは思わないけど、根拠が弱いと思う。
それとは別に、盆地湖または湿地帯の話は重要だよ。
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm この図の網掛けの部分は、縄文〜弥生の遺跡が一部地域を除いてほとんど出ない。
ほぼ全域で田の跡もなく、農業の痕跡もない。
それゆえ、この区域に盆地湖または湿地帯が存在していたというのは地質学では定説レベル。
しかし、歴史学では、この地域を農地としてヤマト自生説を述べようとする者もいる。
ということを
>>493と
>>497で書いた。
この網掛けの部分は、少なくとも雨季には稲が水没するレベルの水深になり、農業には
適さなかったようで、その事実を認めるだけでも、自生説や初期王権は大和だけ説が
崩壊するので、議論する意味はあると思いますよ。
682 :
縄文人:2009/07/31(金) 00:28:58
>>678 そういうことでしょうね。しかし重大な問題の筈ですがね。入り口でこんないい加減な検討では話になりませんね。
>>669乙です。
>当時の奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかったと推察される。
得体の知れぬ人物の妄言よりも、こちらの専門家の方を信じましょう。
>>681 農耕具が多く出土してるのに、農業の痕跡が無いというのは矛盾してますよ。
685 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:34:56
だが、真実を知ろうと望むならば、避けては通れないな。
前原では方角、距離とも合わない。何のために末盧国で上陸したのかも理解できない。
そこで、倭人伝どおりに東南陸行五百里(約40キロ)の佐賀市付近という考え方が
でてくる。
前原説に固執する者は、その付近ならば王墓があるなどというが王墓はどれも古い。
しかも、僅か三つぐらいの墓ではその付近に伊都国の首都があったなどと言えるもの
ではない。伊都国が数百年の歴史を有するとすれば、その王は数十人はいただろう。
それに、弥生時代は稲作の時代。前原みたいに田のあまり作れない狭いところが主た
る地域になるはずはない。やはり筑紫平野の方だろう。前原では海賊の襲撃だって考
えられる。弥生後期ともなれば、海賊が集団で豪族を襲い、財宝を奪い、女を拉致し
ていくといったことが少なくなかった。玄界灘沿岸に豪族が館を構えるはずはない。
どうみても、伊都国は佐賀市付近なんだよ。
畿内説も北部九州説も成り立たなくなるが、それは当然の結末だ。
なぜか季刊邪馬台国の夏号が出ませんね。
もう廃刊?
687 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:43:41
>>683 ちゃんと読めよww(というかいつもの自作自演だろうけど)
紀元前1万年以上前に
>当時の奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかったと推察される。
というのをあえて誤読するなよww
>7,000Y.B.P.ごろから
の話として、
>その時代以降の堆積物が盆地内の低地に広く発達しているようである。
>前述の三河川の合流地域には細粒堆積物が他地域にくらべて比較的厚いのがそれを物語る。
>あるいは小規模な滞水域が存在したことも推定される。
とあるから、盆地湖を小規模ながら認めている。
雨季や豪雨で稲が水没するような深度になる状況くらいは読み込めよ。
これじゃあ水田は不可能。
>>684 香工具が出土したという場所を言えよww
水田跡は出ているのか?
688 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:43:50
>>683 しかし、専門家の意見にも疑問な点はある。
たとえば、佐賀平野は吉野ケ里の近くまで有明海が入り込んでいたというのは
定説のようになっているが、海だったはずのところで弥生遺跡が見つかっている。
鍵・唐古遺跡では大量の農耕具が出土してますよ。
というより田畑がなけりゃどうやって弥生時代に何百年も集落を維持するんだよw
低湿地は初期稲作には最適だと思うけどな。
690 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:52:04
>>686 安本のせいで九州説べったりの雑誌になってしまったからきっと売れないんだよww
692 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:53:37
>>689 出ると思ったけど・・・鍵・唐古遺跡は
>>681の引用する網掛け部分の端に
引っかかる程度だよね。
それでもって、網掛け部分全体が農地とかいう話は無理だよ。
>>692 証明するには全エリアを掘り返せとでも?
大体網掛け部分が全部農地な訳ないですし、そんな事誰も言ってないはずだが。
標高40m以下の低地部分は普通に沼地だし、
沼河の船運を手掛ける広瀬衆なんてのも存在します。
何にせよあの図は捏造と言われても仕方ないシロモノですよ。
694 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 01:15:44
>>681 >その事実を認めるだけでも、自生説や初期王権は大和だけ説が
>崩壊するので、議論する意味はあると思いますよ。
うーん、どうも話が見えてこないし繋がらない…
いくら東遷厨でも4世紀半ばには王権ができる事は認めるんだろ?
逆に言えば外来の勢力がなければそれが無理だったと言う事だろうが
どういうシナリオなのかな?
縄文人のように巨大工事をやったとか?
それとも耕地面積はさほどに拡大しなかったがクニごとの人口移動、入植があったとかかな?wwwwwwwwww
>>681 マキムクの初期王権が大和だけで自生したのではない、ってのは
多くの人が認めてますよ。
コメが不足なら河内からでも濃尾や伊勢からでも運べばいい。
現に各地からの外来土器のパーセンテージは、マキムクは図抜けて多いでしょう。
696 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 01:25:02
環濠のない纏向は、「ゆるやかな首長連合」諸国が共同で築いたものであっても不思議は
ない。
697 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 01:26:48
レンゴウ君は相変わらずだねえzzzzzZZZZZ
698 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 01:29:22
>>697 おや、もうおねむなのかな?
>694はマジで分からない。
明日でも良いんで素敵なシナリオヨロwwwwwwwwwww
699 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 01:58:24
縄文・弥生遺跡が全く見つからない地域が安堵町の一部にあることは
安堵町教育委員会も認めています。
lこの本です。
『安堵風土記−安堵町の歴史と伝承−』
http://www.town.ando.nara.jp/subpage/subpage.php?p=1515&t=1248972302 こういう所なら湿地帯、或いは「小規模な滞水域」と言ってもいいでしょう。
しかし此処以外は安堵町でも土器が出ますから、
面積からしてとても「盆地湖」などと呼べるものではありませんね。
***
川合町の河合大塚山古墳の東に宮堂遺跡があります。縄文晩期から続く複合遺跡です。
微高地ですがそれでも標高は50メートルに全然足りません。42〜44メートルぐらいかな。
河川の合流点で、最も標高が低いとされる広瀬神社参道入口のすぐ南西です。
700 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/31(金) 02:01:33
>>663 はじめまして、でしょうか。せっかくだからw 私の説を披露しておきます。
私の説は2度の魏使が別のルートを通ったというもので、私の考えでは1度目の梯儁は
伊都国=前原市から奴国=福岡平野を通り南下して筑後川下流域の邪馬台国に至ります。
ちなみに梯儁は末盧国には上陸せずに伊都国まで行ったのではないかと私は考えています。
里程は2度目の張政のルートが記されていると考えます。張政のルートは末盧国から南東に
陸行して佐賀平野へ抜けるルートです。観音峠から佐賀大和に抜けますが、その手前、古湯温泉
のあるあたりが南東500里の国だと考えています。
その後南東100里、東100里で筑後川下流域の邪馬台国に至ります。
詳しくは下記をご覧ください♪
http://yamat-2007.blogspot.com/
701 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 03:21:30
まあ湖面を標高50mに設定したら唐古鍵も危ないが
40mチョイの宮堂遺跡や箸尾遺跡は稲が水に浸かって全滅どころか
集落自体が水の中だなw
>>497で東遷厨が
>伊達氏は、「水支配」というゴマカシ語を作り出したが、ようするに
>「農地」とは書けないが、農地があるかのように表現したい需要があったということ。
と言っているが(まあいつものお得意の陰謀論w)
「水支配」とは現在で言う「水郷地帯」ぐらいの意味かな?とも思うのだが…
702 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 08:43:04
奈良盆地、湖説って眉唾っぽいよね
湖時代は縄文紀以前に消滅してます。
それを弥生時代にまで引っ張りたいのが一部の人たち。
遺跡の存在すら無視するのは無茶にもほどがあるな。
私は九州説ですが、ほんの2〜3000年前までそこに湖が存在していたなら
必ずそこには
湖の痕跡とする、小さな湖痕跡湖が存在するはずですし、
霞ヶ浦見たいに
海と切り離された湖でない限り、現在の奈良盆地は
もっと起伏の激しい盆地になるはず。
そして最深部には、現在も満々と水を張った湖が存在する。
それが 自然界の2〜3000年の時間感覚です。
705 :
縄文人:2009/07/31(金) 12:49:59
>>704 一般に水の激しい流れが決まった方向にある場合に土地の起伏が大きくなる。湖のように水が淀んでいる場合は河川から流入した
土砂のうち微粒子のものは浮遊しつつ水流(緩やかな動き)に乗って拡散する。奈良盆地の低地部が比較的平であることが湖の存
在を否定する根拠にはならない。むしろ逆である。669に紹介されている論文でも盆地底部に広く堆積物が存在する形跡を認めて
いる。土砂は低い所へ移動する。地震などがあるとその揺れが土砂の移動をもたらす。ボウルに水をはり、土を放り込んで、揺ら
してみるとよく分る。
706 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 12:58:36
>>705 それでしたら
湖の規模も半端ではなく、勿論水深も相当な深さが無いと、あれだけ広範囲の平地はできません。
水深の浅い湖だと、土砂も一方向に集まりやすくなり決して満遍なく広範囲にわたり、平にすることはできません。
707 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 13:00:30
>>663縄文人
>俺の奈良湖の話はもうおしまいにする。
>それより、倭人伝の方角、里程の話だ。(略)伊都国を前原市に比定する人達の意見を聞かせて頂きたい。
???(
>>705)
708 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 13:01:41
>>663 縄文人
>俺の奈良湖の話はもうおしまいにする。
未練たらたらなわけですね。
709 :
縄文人:2009/07/31(金) 13:09:27
奈良湖の話は水掛け論になってしまうので俺はもう議論したくない。
それより倭人伝の方角、里程の問題で議論しようではないか。
畿内説派の諸君は、
郡から末盧国までの距離は魏の公式尺度を用いると実際に合致しないが、これは海上を舟で移動したため
陸上と異なって距離の測定が間違ったんだろうとでも考えるのかな。
もしそうであれば、陸上を行く場合は魏の公式尺度を用いるのかな。しかし、末盧国から前原市の伊都国
だと東南500里に合わない。方角が60度違う。距離も実際に合致しない。唐津辺りから前原市まで200km
もない。しからば、方角も距離も間違いということにするわけか。倭国上陸の入り口で方角も距離も間違い
だとしたら、えらいことになるぞ。何でもありだ。好き勝手にものが言える。話にならんではないか。
710 :
縄文人:2009/07/31(金) 13:30:18
>>707,
>>708 俺を揶揄して勝った気分でいるのだろうな。俺がもまえらの痛いところを突くもんだから悲鳴をあげるしかない。
可哀想に。おまえらの頭は小学生なみか?口惜しかったら709に反論してみろ。できんだろ。倭人伝を恣意的に解釈
して無理矢理畿内に邪馬台国を持ってきたい、その一心だろ。学問的だとかなんとか言いながら、論理学のいろはも
分っちゃいない。おまえらはほんとにどうしようもない奴らだ。嘆かわしい。
ww! nyan!
──v───
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
712 :
縄文人:2009/07/31(金) 13:36:34
畿内説派の連中は寝てるのかな。随分待たせるな。返事がないところをみると降参したな。
俺はこれから仕事で出かける。時間をくれてやるから、せいぜい対策を考えろ。
713 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 14:47:15
縄文人ってキチ○イが釣り師だよね
>>709 水掛け論じゃないだろ。
水中遺跡(w)を説明出来ない以上論にすらならない。
715 :
港川人:2009/07/31(金) 14:51:17
>>712 名前:縄文人
九州説かよ。
鳴きたいか?
716 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 14:54:34
意宇国主の卑弥呼
717 :
港川人:2009/07/31(金) 14:57:22
卑弥呼は投馬國A板。
意宇国主の卑弥呼
は
馬ちがい。
大体対馬から壱岐へゆく時点で方角は微妙に違うでしょ、あれは南じゃない。
つまり方角についてはその程度の認識でOKじゃないの?
伊都国は前原市(プラス福岡市西区)でガチ。
720 :
港川人:2009/07/31(金) 15:12:10
721 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 15:20:26
伊都国を前原付近に比定すると疑問点が次から次に沸いてくるのは事実。
どうして壱岐から直接、伊都国に行かなかったのか。
なぜ、末盧国から伊都国に陸行しなくてはならなかったのか。
道は険しいのに、わざわざ船を下りて陸路を取る必要があったのか。
なぜ、方向が違うのか。などなど。
伊都国を佐賀平野に比定すると、これらの疑問点は全て解消される。
さらに、その後も「南水行」が無理のないものとなる。
有明海があり、これを南下すれば良い。
このように考えると、水行十日、二十日、陸行一月の解釈にはいろいろある
だろうが、どうみても邪馬台国は、筑後川より北は考えられないと思うな。
722 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 15:23:53
>>721 短里・短里・短里の発明!
皆で渡れば怖くない。\\\\\\
723 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 15:51:59
うん、短里を最初に書いたのは魏略だな。そして、魏志東夷伝はもちろん、後漢書も短里を書いている。
724 :
港川人:2009/07/31(金) 16:10:13
>>魏志東夷伝はもちろん、後漢書も短里を書いている。
一尺=24cm 1800尺=一里の長里で
魏志東夷伝はもちろん、後漢書も書かれている。
Yes or No ? m(__)m
725 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 16:56:23
>>724 短里で書かれてます。一尺=24cm 1800尺=一里の長里ではありません。
会稽の東にある国から万二千里で楽浪郡だというのですから、長里でなく短里で
あることは明白でしょう?
「夷人不知里數,但計以日。」と隋書にこうあって
魏志倭人伝なら自分で計測した限りのものでアバウトなんだろ
長里・短里以前に相当いい加減だろ
727 :
doontakuka:2009/07/31(金) 17:11:35
>>会稽の東にある国から万二千里で楽浪郡だというのですから、長里でなく短里で
あることは明白でしょう?
会稽の東は種子島で女王国の南の境界で
自郡至女王國萬二千里は北の境界なの。
北の境界は会稽の東つまり種子島から水行10日陸行1ヶ月の地点なの。
種子島から水行10日で名古屋までは楽勝だよ。
そこから陸行1ヶ月なら岩手県までは行き着くのだ。
君たちは、誤読をして
皆で渡れば怖くないグループなのだ。
隋書を編纂した人間が魏史の投馬や邪馬台国への日数での行程記述を見て、
伝聞情報だと判断した何よりの証拠だよな。
729 :
doontakuka:2009/07/31(金) 17:21:44
古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里
の
起点は何処だ?
起点は2箇所あるな。
730 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 17:22:24
>>727 会稽の東にある国から楽浪郡まで万二千里ということは、会稽から楽浪郡の
西にある山東半島まで万二千里ということですよ。
彼らは、中国人ですから会稽から山東半島までどのくらいの里数かよく分か
っています。それが万二千里といっている意味を考えるべきです。
日数など何も関係ありません。
731 :
doontakuka:2009/07/31(金) 17:24:27
732 :
doontakuka:2009/07/31(金) 17:27:39
会稽の東
と
東治の東
を
理解できない人に何を言っても無駄だろうけど。
733 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/31(金) 18:01:43
>>718 南ですよ。三国志は基本四方位。
南東など明らかに八方位で書かれている部分以外は四方位と思ったほうが良いでしょう。
734 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/31(金) 19:08:01
>>733 東南も八方位ではなく四方位です。
地理志の場合は、方角ではなく、方位(四方位)を
用いて表します。
東南と書かれれば
目的は基点から緯度的に南であり、経度的に東に相当する面の範囲内。
735 :
縄文人:2009/07/31(金) 21:07:09
>>718 方角について”おおざっぱなもの”という判断は、南南東を南と書いているという程度の精度の低さという判断であればそのとおりであろう。
だが東北東を南東と書くことがあり得るだろうか。夏、朝日の昇る方角を東として東北東は向かって左寄り、南東はかなり大きく右寄りの
方角である。間違える筈がないだろう。
里程について短里だ長里(または魏の公式尺度)だと論争になっているが、郡から末盧国までの記載が長里では説明不可能ということは
明白である。すなわち、長里は使われていない。こんな単純なことが争点になるか?畿内説派はいったい何を考えてるんだ?
彼らにとっては無かった事にしたいのが倭人伝だから
737 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 21:43:20
>>731 当然、女王国だ。万二千里のね。そんなことも分からないの?
738 :
縄文人:2009/07/31(金) 21:45:08
>>736 そうでしょうなあ。畿内説派にとっては倭人伝は鬼門ですな。だから箸墓築造3世紀半ば確定などという発表に大喜び
する。倭人伝など中国の史書にしか邪馬台国は登場しないというのに。何を根拠にすべきかの判断力もない。
739 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 21:51:27
740 :
694:2009/07/31(金) 22:12:02
>>681 >>694の質問はまだ答え頂けないかな?
まあ、答えてもらえるなら明日以後でも良いんでヨロw
>>712のアホの縄文人の様に掲示板をチャットか何かと勘違いしているような事は言わないからさw
3世紀の奈良湖の存在が自生説の崩壊につながり
恐らくは東遷説に繋がると言うのがよく分からない。
あと標高40mチョイにある遺跡の謎も解説してもらえるとありがたいなwwwwwwwwww
で、
>>681の東遷厨も縄文人も言わんとしている骨子は同じ
3世紀には標高50mまでは水中でその領域には人も住んでいなかったし
田畑も無かった。
が、何故か4世紀になるとその領域が一気に拡大したと…
まあ縄文人のバカは東征してきた九州勢力による謎の土木テクで
それをなしたと言うのだが>681はどう考えているんだろう?
741 :
694:2009/07/31(金) 22:19:08
でもう一つ言っておくと…
>>681 >ほぼ全域で田の跡もなく、農業の痕跡もない。
ならば4世紀以降の田畑の跡がいくつも見つかっているのか?…って話で
見つかっているのなら4世紀に入って耕地面積が急激に拡大した事も証明されるだろうが
そうでないなら少なくとも現時点
「3世紀から4世紀に入って耕地面積の急激な拡大は認められない」
と言うしかないのではないか?
それでも4世紀半ばには王権と言える物が誕生しているとwwwwwwwwww
742 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 22:40:36
>>740 ちょっとずれるが、日本書紀によると、神武天皇は「草香邑青雲白肩之津」で
船を下りている。草香邑というのは、現在の東大阪市日下町付近とされる。
当時、ここまでは船で来ることができたらしい。
現在の地形とはだいぶ違うな。
ところで、日本書紀が編纂された当時は、日下町付近はすでに内陸部に
なっていたらしい。このことは、神武東征が史実であることを示して
いるとも言える。
神武東征が記紀編纂時の物語だとしたら、内陸部に船を付けるような物語は
作れないわけだから。
743 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 22:50:24
>>742 日下か…『 日本 』発祥の地とも言われているところだなww
まあ浪速国の地形描写はそれっぽい話だが
地名の由来譚として取り込まれたとすれば別に
普通にある話しだし
その部分をもって東征神話全部を史実となすのは
あまりにも強引だと思うがwwwwwwwwwww
744 :
縄文人:2009/07/31(金) 22:52:58
>>740,
>>741 もうその話題は終ったのだ。いまさら蒸し返してどうする。地形条件から大和川が土石で塞がればいつでも奈良盆地の低地部は水没する。
大和川は断層帯に沿って流れている部分があるから、地震で崩落事故が起きたであろうことは十分考えられることだ。
崇神がハツクニシラスと諡号される大王として畿内に王権を確立できるとしたら排水工事がほぼ完了した後であろうから、その崇神の時代
に合わせて3世紀末〜4世紀初としたのだ。
俺の考えを否定したければ否定してもよいよ。これだけが俺の畿内説否定の論拠じゃない。おまえらが倭人伝で議論しようとしないから持
ち出してみたまでだ。
それより倭人伝の方角、里程の話をしたらどうだ。怖いか?
745 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:00:16
>>744 終わった?
はて?
お前何し切ってんだアホ。
お前はドツボか?wwwww
「終わった」のではなくて「終わってくださいお願いします」だろうがクズwwwwwwwwww
自分から撒いたネタで突っ込みかけられてトンズラ
餓鬼が泣きながら
「今度はこっちのネタだぞ!みんなぼっくんの指に止れ〜」
とほざかれてもなあ…
このネタは無限ループの最たるもんだし・・・w
はっきり言って個人的に興味殆どなし。
「方角は間違いようがない!」
この九州説のドグマは突き詰めれば
遣使の訪れた地も九州の何処かと言う
『九州王朝説』にならざるを得ない。
まあ元々東遷説論者のアホの縄文人にとっては無問題なんだろうがwwwwwwwwwwwww
746 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:02:12
>>745 訂正
(誤)遣使の訪れた地も九州の何処かと言う
↓
(正)隋使の訪れた地も九州の何処かと言う
747 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:08:37
>>743 別に強引じゃないな。記紀がそれなりの伝承に基づいていることを示している。
神武東征も伝承ということになり、史実の反映とも言える。
少なくとも、記紀は意図的でないことになる。
748 :
縄文人:2009/07/31(金) 23:14:26
>>745 <はっきり言って個人的に興味殆どなし。>ではないだろう。「答えることができないので勘弁して下さい」だろ。
おまえ、よっぽど俺の奈良湖論が気に入ったらしいな。ショックも大きかったんだな。こんなに粘着しているところ
をみると、この話題しか攻撃の方向が見えんのだな。おまえこそ クズ と呼ばれるに相応しいんじゃないか?
749 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:19:18
>>747 少なくともこの程度のネタで全体を史実とするのはどう考えても強引。
白肩津以後のお話でも空から舞い降りた「金鵄」と言う霊鳥の助けを得たりとか
神話的構造に満ちている。
ちなみに霊鳥の助け・・・という筋書きは中央アジアの神話に多く見られるモチーフだそうな。
(そう言えばモンゴル相撲も競技の前後に両手を広げて鳥の舞をしてた記憶があるが関係あるのかな?w)
それにわざわざ紀伊半島沿いに南下し熊野の山中を行軍と言うのも
現実的軍事行動として理解しかねるところwwwwwwwwwwww
750 :
縄文人:2009/07/31(金) 23:19:47
>>746 隋使の訪れた地も九州の何処かと言う
誰かそんなこと言ってるのか?誰だ?
>>742 「白肩之州」では? 場所も東大阪とはちがって現在の枚方市です。
淀川べりの砂州のような土地だったのでしょう、そこから内陸に入ったところが交野(かたの)、固い土地という意味でしょうか。
交野から山手に入ると、饒速日が天の磐船に乗って天下った場所だという磐船神社を経て、奈良盆地の平群から斑鳩に達します。
神武天皇は、その古代からあった街道を突破する事を企んで、ここでも失敗したという事でしょう。
次に生駒山を正面から踏破する手段を選んで、草香の地に上陸を試みます。
752 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:21:56
>>750 理詰めで言えば負う言う事にならざるを得ない。
「俺は違う」と言うのなら合理的な説明をしてみろ。
753 :
縄文人:2009/07/31(金) 23:26:24
>>752 時代が違うだろ。とんちんかんなこと言っても話にならぬ。
754 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 23:28:27
今でも金色のカエルが発見されたとか、突然変異で色が変わった動物
が発見されて報道に載る。
今日だったか、カルガモの黄色い子供が2匹と真っ黒な子供が一匹
が生まれて通常の色模様の子供が4匹位だったか、親鳥と一緒に
水面を泳いでいる姿が新聞に載っていて珍しいとかの論評だったから
当時そういう金鵄とか足の多いカラスとかが見つかって珍重されたり
でもしたんだろう。だからこれは単なる伝説で片付けるのは早計の
頭脳の持ち主だと言える。
当時はそういう毛並みの変わって滅多にいない金ぴかの動物とかを
吉兆として話題に上ったんだと観てよい。だいたい神武紀で月日まで
書かれているのは日時がハッキリした記述なんだから、紀のそこん
ところは伝説とは言い難い。
755 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:30:31
もう少し頭使えカス。
中国史書における日本の地理に関する信用性の問題だ。
あとは豆腐の角に頭ぶつけながらでも考えろクズwwwwwwww
756 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:34:04
>>754 ああ、もうそのお話は嫌になるほど何度も聞いた。
じゃあその突然変異が気候を操れるのか?ボケ
北米大陸でサンダーバードでも探して来いカスwwwwwwwww
757 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 23:35:38
縄文人VSジョーカー の死闘は相変わらずだな。w
758 :
縄文人:2009/07/31(金) 23:36:23
>>755 中国史書における日本の地理に関する信用性の問題だ。
おまえの流儀を借りると、
文献なり考古学資料で示せ!ドカス ということになるが
何か三国志の倭人伝の日本地理の評価について書かれた史書があるのか?
畿内説にとって倭人伝の方角の解釈なら簡単な事だ。
投馬(丹波)や邪馬台国(畿内)への南への行程、
これは帯方郡からの視点だよ。
だから単純に方角は南、倭人からの情報だから距離は日数表示だよ。
伝聞情報なのは、途中の描写が一切無いことからも解る事だ。
760 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 23:38:36
ジョーカーは縄文人に負け運んで八つ当たりにご執心だな。ww
縄下ーかぁ〜〜?ww カッカッしてるようだな。bbb
zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
縄文人は奈良湖の話題がもうよっぽど嫌いなようだねw
>>756 スレ違いだがサンダーバーズは今年日本に来る
763 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:46:31
>>759 >投馬(丹波)や邪馬台国(畿内)への南への行程、これは帯方郡からの視点だよ。
そんな読み方、成立するわけがなかろ。そんなことも分からんのか。
世も末だな。
764 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:49:40
>>759 帯方郡から見たら、九州でも南東方向。
丹波だったら東南東で、四方位なら東。
>>763 伝聞情報としてなら充分成立しますよ。
伊都や北部九州までは確実に行ってるが、日で行程を
表している二国は伝聞だな。隋書の記述でも解る事だ。
766 :
縦目仮面:2009/07/31(金) 23:50:42
767 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/07/31(金) 23:51:10
>>756 全てが史実か、全てが嘘か、2択しかないとでも思ってるのかな。
>>764 対馬から壱岐へも南ではない、方角に関してはその程度の精度ですよ。
769 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/07/31(金) 23:57:06
>>767 ん?
何を勘違いしている?
”全てが嘘”なんて言って無いぞ?
地名の由来譚のような一つのネタで全部を史実とするかのような考え方はナンセンスと言っている。
大体東遷説を好んで語る連中はどの部分が史実でどの部分が神話か・・・その峻別の作業すら仕様とせず
”おいしい所”だけ摘み食いするのが傾向だからなwwwwwwwww
770 :
縄文人:2009/08/01(土) 00:03:40
>>769 ”おいしい所”だけ摘み食いするのが傾向だからな 畿内説は の書き間違いだろ。
「南渡一海」
「南」・・・何が? 舟の向きが
舟を南に向けながら一海を渡る
772 :
縄文人:2009/08/01(土) 00:06:33
>>768 南南東を南とするくらいのずれでしかないのですよ。
773 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:10:48
>>768 東や西ではおかしいが、南だったら許容範囲かな。
775 :
doontakuka:2009/08/01(土) 00:17:52
776 :
縄文人:2009/08/01(土) 00:18:18
>>774 松浦川河口辺りから前原市三雲なりの近辺までの距離は対馬から壱岐までの距離に比べるとはるかに小さいですよね。
777 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:20:37
だいたい、何のために行程を書くのかを考えんとな。
次に来る使者のためだ。対馬から南を向いて千里の距離の島っていうのは
一支(壱岐)しかないんだよ。ほかの島と間違える可能性があれば、正確
に書く必要があるが、その可能性がない以上、南東を南だって何ら問題は
ないんだ。陸上の場合とはちがうってことだな。
778 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:21:25
>>759 >伝聞情報なのは、途中の描写が一切無いことからも解る事だ。
だろうなw
「水行二十日」とか「陸行一月」何処にも立ち寄らず強行軍なんてないわなwwwwwwww
779 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:22:36
ははあ、倭人園の方角は正確ではないと。なるほど。
780 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:25:33
>>777 >次に来る使者のためだ。
それすら必要が無い。
そもそも文字でどれだけ詳細に書いてもそれだけで邪馬台国まで辿り付ける訳じゃ無し
後々も国交があれば案内人を来させれば良いだけの話だろう?wwwwwww
781 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:27:53
>>775 当然、女王国の最南端だな。
女王国は全部海かなんて馬鹿なことを言うなよ。会稽、東冶の東って書いたのは
女王国を実際よりも南にあると誤解したんだ。それは、朝鮮半島南側の乍東が実
際は北東だったこと、渡海の千、千、千が実際は真南ではなく距離もそれぞれ千
よりは少し短かったことなどによる。
伝聞情報としてなら、まず倭の使いから当時の地図を渡されだろう。
当然今のような精度ではない、多分だんごのような日本地図だ。
方角なんて勿論正確なはずがない、
だから帯方郡からみて南、船を南にむけるのだよ。
あくまで視点は帯方郡だ。実際行ってる国は里で表してある。
でも投馬と邪馬台国はちがう。
魏からみれば国の位置を表すのに、対馬や伊都の経過は関係ない。
降伏の証に自国の地図を奉呈するという儀礼は中国にあったような
784 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:34:07
>>778 常識のない奴は困ったもんだ。使者を案内する以上、豪族の館など泊まれる所を探して
少しずつ進むんだ。行程記事にいちいち書いてなくてもそんなことは当然だ。
786 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 00:44:16
>>785 それは国がちがうからだろ。投馬国や邪馬台国へは、女王国へ入ったらあとは
女王国の中だけなんだよ。投馬国の都に立ち寄っただけで、旁国の都なんぞに
は立ち寄ってないんだ。
787 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 01:02:31
>>777 其習俗前事撰漢記者已録而載之矣。
故但擧漢末魏初以來、【以備四夷之變云。】
「以て四夷の變に備えると云う」と書いてある。
次に来る使者のために史書を編纂するわけがない。
夷の国で何か事が起こった時のために、
おおよその情報をまとめておいたもの。
788 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 01:17:01
>>782 >実際行ってる国は里で表してある。
単なる思い込みだな。使者は投馬国や邪馬台国へも行っている。里数がよく分からなかった
から日数で示しただけだ。 倭王に拝仮しなどと書いてあるのを無視するのかな?
789 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 01:34:23
>>787 原資料は史書を書くために書いたわけではないんだよ。
魏が健在だった時は、東夷との外交記録としての公文書があったろうな
その時点ですでに里程や方位が不正確だったのか、西晋によって魏志倭人伝が書かれた時に誤りが入ったものか
今となっては解らない
>>788 倭王と伊都で会ったと解釈。伊都国の王の事じゃないの?
俺は邪馬台国畿内説だが伊都はやはり重視してるよ。
792 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 02:21:32
僕はね、張政が来たときは諸国の王も魏の使者に会いに伊都国に集まったんだと思ってる
この人は郡使じゃないからね
で、魏志倭人伝で邪馬台国ばかり注目されてるけど
僕が一番驚くのは、倭人伝冒頭にある30カ国が使者を通わせているっていう部分だろ
これは何気に凄い
イメージ的にはギリシャのポリスに近いと思う
30国といっても国の大小があるだろうから小国は大国に
委任したりして、最終的に伊都国王がまとめていたと予想。
で、卑弥呼は女王とはっきり表記されてるから倭王とは別でしょう。
「30カ国が使者を通わせている」とは、邪馬台国に対して30カ国がって意味だろ
つまり魏に使者を送っている朝貢国があるように、倭国内にも朝貢関係が存在すると
そういう優位性を邪馬台国に認めたからこそ、倭王に任じたんですね
796 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 07:53:29
>>791 >>792 伊都国から先が伝聞による記載だというなら、投馬国、邪馬台国のほかにも、戸数・道里
が記載できる国があったはずじゃないか? 伊都国にいた倭人が各旁国への道里や戸数を
説明できないはずはない。使者は自分が訪問した国についてのみ戸数・道里を書いている
んだよ。それに、風俗記事にある木の種類とか武器の種類、生活状況など伝聞で書くのは
極めてむずかしい。北九州ならば鏃に銅鏃が当然はいるはずだろ。
>>796 隋書倭国伝によれば、当時の倭人は距離を里ではなく日数で表すとあるからな。
それを根拠とすれば、投馬と邪馬台国は倭人の情報と判断できるでのでは?
大体倭人伝に書かれた戸数自体も大雑把な印象だしな、
戸数を全部足せばピッタリ150000戸なんて、やっぱり作為的な気がする。
798 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:20:43
>>796 倭人伝に書かれている風俗などの記録は、伊都国周辺のものじゃないかな。
葬儀の様子なども詳しく書かれているが、意外にも卑弥呼の葬儀については
まったく書かれていない。墓の大きさと殉葬者くらいで、これは伝聞でも
書けるもの。
また、卑弥呼に会ったとしたら印象なども書かれていそうなものだが、
これも書かれていない。
やはり、郡使は卑弥呼に会っていない。すなわち邪馬台国には行っていない
に一票かな。
まあ断定は出来ないが、邪馬台国に行ってないと
思える判断材料は多いからな。
800 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:39:28
>>798 倭王に拝仮しとあるから倭王すなわち卑弥呼には会っているんだよ。791や792は
それを卑弥呼が伊都国まででてきてあったというわけだ。私はそれをおかしい、会
ったのは使者が邪馬台国を訪ねて会ったと解すべきだと言っているんだよ。
801 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:42:59
>>799 そりゃ近畿には行ってないよ。確かに近畿の様子とはまったくちがう話が
ぞろぞろ出てくる。
>>800 俺は畿内説だが伊都は重視してるからね。
女王と倭王は別だと考えてるから。
当時はまだ伊都国王がいたという説だ。
803 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:52:39
ほう、親魏倭王というのは卑弥呼が授かったはずだが。
804 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:57:54
>>800 「拜假倭王」というのは、詔書と印を授けたくらいの意味で、直接手渡した
とまでは言えないと思う。
それよりも、「皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王」皆、港に臨んで
調べを尽くし、文書や賜り物を女王の元に送り伝えるとあり、これらを
郡使が直接持って行ったのではないことが伺える。
倭国大乱とは九州勢力が半島や瀬戸内勢力を巻き込んで東進。
出雲族が支配していた畿内勢力と長年対峙していたが、
最終的に出雲が畿内を国譲りという形で和睦したんだろう。
条件として姫(卑弥呼)を出雲族から出せば、国譲りの神話ともピッタリ一致。
伊都王は当分地位安泰、ヤマトには女王が存在しているのが
倭人伝が書かれた時点での状態だろう。
807 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 16:57:04
>>800 >倭王に拝仮しとあるから倭王すなわち卑弥呼には会っているんだよ。
この思考は、おかしい。
貴方を叙勲するために当方から出向きます。になる。
貴方を叙勲しますから、当方に来て下さい。が本当だろう。
もちろん 代理で結構です。当方も皇帝の代わりに大臣を主席させます。 こうなるのだ。
>>807 唐松山さん
そりゃ〜唐松山さんがおかしいのでは?
魏志倭人伝を読んだ事があるのなら、そんな発言はしませんよ。
別にあっているかないかは問題じゃないだろ
あっていてもいいしなくてもいい
問題は報告記事を書いた者が実際に邪馬台国にまで
行っているかだ
そうでなければ伝聞となる
>>726に
> 「夷人不知里數,但計以日。」と隋書にこうあって
として伊都国の先まで里数があるんだからそこまでは行ったとみても
差し支えなかろう
おっと、「東行至不彌國百里」で不彌國までな
それから上で魏志倭人伝の「今使譯(訳)所通三十國」を後漢書の誤記「使驛(駅)通於漢者三十許國」と
間違えているだろ。
中国語が通じるところが30国なんであってそれぞれが中国と独自に通じていたわけではないだろ
隋書でも「魏時,譯通中國、三十餘國」となっている。
中国語が通じるのなら中国人が入ったりもしているんだろ
>>810 北部九州を視察して回ったんだろう。そこで倭人の風俗等を観察。
植生が北九州のものだからとして九州説の根拠だったり
したんだが実際に報告記事を書いた使節が畿内にいかず
伝聞で書いたとしたら畿内説であっても矛盾しないな
815 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 18:03:16
女王が別に邪馬台国で会ったとは何処にも書かれてないよな
伊都国もしくは不彌国で会った可能性もあるよな
>815
女王になってから姿を見た者はいないのに、どうやって出先機関まで来たというのだ
817 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 18:35:16
諸国の王達は伊都国
女王は不彌国
そういうことじゃないのかな?
819 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/01(土) 21:32:17
邪馬台国まで道程が書かれているのは、そこが女王の所都でそこまで女王に会いに行ったから。
伊都国で卑弥呼に会ったならそのように書かれていたでしょう。
伊都国で荷を渡し邪馬台国に居る卑弥呼に会っていないのなら、そのように書かれていたでしょう。
本当に倭人伝を読んだのでしょうか?理解できているのでしょうか?
>>819 倭人伝だけ読んでもダメですよ。
もっと他の文献も読まないとね。
>>821 スルー出来ないお前もいい加減ウザい
死ね
823 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:05:18
「詔書を携えた魏使は卑弥呼のいる邪馬台国まで行った
が、倭人伝の行程記事はその魏使からの報告に基づいた物ではない。
原資料は九州北部に常駐していた郡使の手によるもの。
実際に中国人が見聞したもの、倭人からの伝聞…複数のソースからなる」
…これが一番可能性が高いように思う。
これなら勅使が邪馬台国の卑弥呼に会っていないという異常な話を想定しなくて良いし
また、どう考えても邪馬台国に近づくにつれ情報の確度が落ちているとしか思えない記事も説明できると思うが・・・
もっとも魏・晋の時代に冊封された国に詔書を携えて向かった勅使が
王のいる都に行かず途中で用件を済ましてしまった…なんて事例があれば
話は全然違ってくるだろうがwwwwwwwww
>>823 複数のソースを基に作られたものなら、なして不正確で曖昧なものになる?
原資料の悪いところを採って史書を書くバカがどこにいる
825 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:17:57
>>819 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、
傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯
この文章をどう思う?
826 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:24:03
>>824 複数のソースで情報の確度が上がるというのは
それを相互に比較して検証すると言う作業を経た場合。
九州北部近辺の地理しか知らない郡使にとって
それ以遠の土地なんか分からないのだから比較検証しようが無い。
また大陸の人間にとっては更輪をかけて訳が分からないwwwwwwww
827 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:28:26
828 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:41:17
>>826 様子が分からない状態で、幾つかの資料をつなぎ合わせるなんて馬鹿なことを
するはずはない。行程に関する原資料は基本的には一つだろう。
>>824氏の意見に基本的に賛成だな。
829 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:52:54
>>828 「〜するはずがない」と言ったところで現実行程記事が邪馬台国に近づくほどに情報の密度・確度が落ちているのはどうしようもない。
距離が里数から日数に変わっている事は真っ先に挙げられ
これが放射説の一大眼目となっているのは誰もが知るところ。
挙げていけばキリが無いだろうが
末盧國なら先を行く人間が草木で見えず
鰒漁についての記述まであるとなれば
「それは夏頃の話だったのか?」と言う想像すらできる。
それが投馬国や邪馬台国周辺じゃどうだ?
「水行二十日」だの「陸行一月」だのの間に幾つかの国に立ち寄らなかったのか?
記するべき風俗風習は皆無だったのか?
・・・等々、少なくとも魏使による資料に基づく物とするにはあまりに不自然なところが多い。
もっとも行程記事の信用性を低下させるような話には乗れないのかもしれんがwwwwwwwwwwww
>>828 それでは、伊都国より先が急に不明瞭になるという説明が出来ない
伊都国駐留の役人のもたらす報告が伊都国周辺までの情報しかないのなら、
そこから先は実際に邪馬台国の都まで行った魏使の報告を繋ぎ合わせるはずだろ?
どちらが正しいかの検証ではないのだ、情報がある方を使うしかない、という事だ
831 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:05:32
>>829 情報の密度・確度が落ちているとは思わないな。水行二十日とか水行十日陸行一月
というような長い日数の旅路になったら、正確な里数が分からないというのは十分
に理解できるところだ。それでも、倭地の大きさは周旋五千余里と明記されている。
水行二十日も水行十日陸行一月もその範囲内の話だ。
幾つかの国に立ち寄ったはずだと考えているようだが、立ち寄ったのならば其の国
までの道里が書かれているはずだ。しかし、投馬国、邪馬台国以外は書かれてない。
つまり、使者はこの二つの国の都しか立ち寄っていないんだよ。
二つの国で見聞したことは、いわゆる風俗記事で詳しく書いている。北九州諸国に
ついて書くべきことは個別に書いたわけで、風俗記事はまさに女王国の話なんだよ。
832 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:20:18
行程での密度角度ですか?
落ちてるというか完全におかしくなってます
水行ならば、出発地と到着地は必要
現に狗邪韓國から末盧國まではちゃんと書かれてる
しかし、その後の水行になる投馬國と邪馬台国では抜け落ちてる
これは行程としては不十分どころか意味をあまり成さない
ピンと来なければ、現代での飛行機とか列車による旅の説明と同じと思えばいい
つまり、立ち寄るべき空港や駅が途中で書かれてない
問題は、それが最初から不十分な情報だったのではなく、急に投馬國から変質があるということ
833 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:26:13
個別の項目について一々書くのも面倒なんでw
根本的な疑問としてはだ…
魏使の報告によって倭人伝が書かれたとするなら
その報告には卑弥呼とあった時の様子
相手がどのような礼を述べたのか?等々
何故に描写が無い?
それに比べれば邪馬台国に至る道程なんぞ枝葉末節だろうにwwwww
急に行程中の描写が無くなるのは変、というよりあり得ないでしょ。
20日や1月も旅行してるのに。
やっぱり伝聞情報ですよ。
835 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:33:56
>>832 投馬国から? 出発地も到着地も書かれているだろ。奴国からあとは同じ書き方だよ。
>>833 伊都国では一大率に会ってるはずだろ。しかし、一大率とあった時の様子
相手がどのような礼を述べたのかなどは記載がないね。同じだろ。
836 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:36:38
>>835 魏使の目的は一大卒に会うことじゃないぞ?w
女王と一大卒を並べると言うのはいくらなんでも強引だなw
837 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:36:52
この行程が誰のために書かれたかってこともある
普通の郡使は伊都国辺りまでなんだから、本当に知りたいのはその先の行程な筈
一番重要な部分が抜け落ちてる
変な所に上陸してしまえば、当時だから路頭に迷って飢え死にか
邪馬台国に属さない国の住民に身ぐるみはがされ殺されてしまう
838 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:44:18
>>836 >魏使の目的は一大卒に会うことじゃないぞ?w
そうさ。魏使の目的は女王に会うことだ。だから会ったんだよ。
839 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:47:52
>>837 普通の郡使? だれのことだ? 郡から倭国への使者は、梯儁と張政しかいないぜ。
昔から漢人の商人なんかは倭国と行き来していたと思う
だから郡が設置されてからは郡使が領事みたいに駐留してたんだろ
だがこの度は、倭国のたっての望みで朝貢国になりたいと、そう言う運びになったという段階だ
卑弥呼の使いがそう述べに行ったのも帯方郡の役所だし、洛陽まで案内したのも郡の手配だ
そして倭国王に任ずる旨の詔が発せられ勅使が来たと
だから今度の使いは邪馬台国の都まで行き、卑弥呼に会ってるはずだ
里数の有り無しはやっぱり違うでしょ。
倭人の視点で考えてはダメだな。
>>840 だとしたら邪馬台国への行程や、卑弥呼本人に会った時の描写が無さすぎ。
草が背丈程あるとかの情報は無駄に多いのに。
>>842 卑弥呼に関する所見は、魏使の報告だろ
それを伝聞とする理由があるか?
>>840 を補足すると
普通の郡使=北九州に出入りする漢人商人の為の領事みたいなもの、倭国側の一大卒と対等くらいか
勅使=詔を伝えに卑弥呼に会いに行く外交官、当然 勅使>卑弥呼 の高等官
全然役人の目的も階級も違うんだよ、出先の伊都国で済ませられる任務ではない
>>842 会ったのなら会話の一つでも記録されるでしょ。
それが一切無いのは変だな。
846 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:37:36
まあ状況を把握できていない奴もいるかもしれんから
チョッと整理しておくwwwwww
魏使が卑弥呼に会ったか会わなかったか?
行程記事が魏使による報告によるものかどうか?
について考えると以下の3パターンかな?
(1)魏使は邪馬台国の卑弥呼のもとにまで行った
その報告により行程記事は書かれている
(2魏使は邪馬台国の卑弥呼のもとにまで行った
ただし行程記事はその報告によりかかれていない
郡使等からの情報による
(3)魏使は邪馬台国の卑弥呼のもとにまで行っていない
当然行程記事は倭人からの伝聞その他
…勿論行程記事の読み解きにより位置を確定しようとする向きには
(1)が一番都合が良い、と言うか、でなきゃ駄目?w
まーた決めつけてるよ
>>845 卑弥呼は女王になってから人に会ってないと書いてある
つまり魏使は直接会ってないのでは、弟の記述があるから弟と会見したのかも
とにかく、卑弥呼の都での記述が少ないという事はない、楼閣、衛士、婢が千人とか
ただ伊都国付近の記述(一大率の事など)が多いのは、それだけ中国との接点が伊都国に集中しているからだろ
つまり倭国との関係は交易くらいな訳だから、内陸深くについては魏使も関心が薄い
そういう事が逆に読み取れると言うもんだよ
849 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 02:09:50
>>848 だからさ、情報が薄いのなら余計に行程について詳しく書かれる筈なんだよ
投馬国以降というか以南というかさw
記録物としての捉え方がまるっきり逆
>>記録物としての捉え方
魏志倭人伝って、魏の役人が書いたもんじゃないよな、西晋の時代に歴史家の陳寿が書いたものだ
魏の外交記録文書そのものではないんだし、視点が違っても変じゃないよ
陳寿が邪馬台国までの行程や地理に執着しなかっただけでは
851 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 06:42:16
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメ
男王=キビツヒコ
で、FA
852 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 07:33:30
>>846 別に(1)でなければなどということはないよ。
倭人伝の行程が伝聞であっても、そのこと自体は何ら問題のないことだ。
書かれている行程によって、邪馬台国の位置は確定できるのだから。
853 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 07:58:46
>>849 原資料、すなわち魏使の報告書には倭人伝に引用されているよりももっと具体的にいろいろ
書いてあったんだろう。それを推測させるのが広志だね。屋久島のことが書いてある。
854 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 08:13:30
稲荷信仰と邪馬台国の関係が知りたい。
ほかの部分は読むに堪えないと思うけれど・・・
856 :
サガミハラハラ:2009/08/02(日) 10:11:13
>>854さん、当方にはまだ届いていないのでお聞きいたします。
「私の邪馬台国論」のコーナーはまだあるでしょうか。
857 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 21:21:26
>>854 安本は学者バカだから、正論ばかり言う。
学内政治で動く畿内説の方が人間味があって良いかも。
正論??
今や九州説の担当は貧乏クジ扱いだよ(マジ)
861 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/02(日) 22:20:27
暇だな・・誰か私の説に反論してくれないかな・・
862 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 23:08:22
畿内説を主張している学者で本気で畿内説を信じている人なんていないだろ。
学界では九州説なんて既に死語です。
864 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 01:57:05
学界が死んでいるってことね。
865 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 02:03:51
アマチュアは死滅してますが。
866 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 02:29:25
九州説は今後ネットが主流になる予感w
更に電波に磨きがかかる訳ですねw
2chでも九州説はリアル電波ばっかりだし。
868 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 13:01:32
>>862つい最近の箸墓の年代が卑弥呼の年代と同じとして、箸墓は卑弥呼の墓で決定と春O氏が
発表したが、その場で他の学者から学会の見解ではないと封じこめられたそうだ。
869 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 13:37:16
最近の真の考古学者は邪馬台国はどこ、などといわなくなったそうだ。
言う人と言わない人がいる。
>>868 断定しちゃうと色々関係無い事で業務にも支障が出るんだよ。
だから考古学の人には、邪馬台国に関する発言はタブー。
872 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 18:32:48
それでも邪馬台国について語る考古の人はマスコミにもてたいだけ。
873 :
サガミハラハラ:2009/08/03(月) 20:14:35
こちらにも季刊邪馬台国が届いた。「私の邪馬台国論」のコーナーはなかった。
もうこのコーナーは終わりにしますってどこかにのっていましったけ。
このコーナーにはだいぶ投稿しほとんどが載ったのでずいぶんとありがたかったので
なくなって残念です。今度どこに投稿しようか?
編集後記に先日、「あるテレビ番組を観ていたら、次回、邪馬台国論争を取り上げるとの予告がありました。」とありました。この番組もうおわってしまったのでしょうか?それともこれから?
しってるかた日とテレビ局をおしえてください。
ハラハラの影が、日増しに気配が薄くなっていく。今年の夏は著しくそう感じる。
875 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 20:48:40
ハラハラはもう過去の人です。
876 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 20:51:26
座して死を待つ・・・か。
>>873 たかじんの番組ならとっくに放送終わったよ。
もし仮に東大生と九大生が、事実の裏付けのない問題でディベートをしたとすると、
偏差値の高い東大生が勝ってしまう。
ましてや、学閥や有力な学説の提唱者とその支持者が加わると、事実とは関係なく、
ディベート力、証拠収集能力、マスコミの扇動力によって事実が捻じ曲げられて認定
されてしまうこともあります。
その結果、失われてしまう時間は甚大なものがあります。
879 :
サガミハラハラ:2009/08/03(月) 22:16:02
マスコミの煽動力…吉野が里騒動の事ですね。
881 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 23:18:24
882 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 23:22:35
学者の間で畿内説が強くなってきたのは
纏向遺跡の発掘調査によるところも多いがそれだけではなく
弥生後期の発掘が本州の各地で行われて
ここ20年ほどの間にいろいろな弥生後期の重要遺跡がわかってきたから
出雲、吉備、丹後、越前などには王墓と思える規模の大きい墳丘墓が確認され
淡路には最大規模の鉄器製作工房も見つかった
四国や東海、北陸、関東にも重要発見が相次いでいる
邪馬台国問題はこうした列島全体の考古状況を視野に入れると
どうしても畿内説が有利となる
それにくらべ九州説だが、吉野ヶ里遺跡以後はこれは!というような
クニや権力の存在を示す遺跡がなかなか出こないようだ
883 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 23:31:40
邪馬台国の問題は、場所にだけ拘ればけっこう浅いものになるが、邪馬台国の
時代の時代も含めて考えれば、深いものになるような気がする。
卑弥呼の生きた3世紀前半という時代はどんな時代だったのか。
鬼道を事とする女王の存在は、祖霊信仰の表れなのだろう。
武力優先の社会の中で、ちょっと異質な感じがしないでもない。
所在地の問題で考えると、九州説の場合は、大和朝廷は芽生えていない。
九州の王が大陸への経路を抑え、しかもある程度の連合体制を築き、
王の中の王も存在する。当然、後の大和朝廷との関係も重要になる。
一方で、畿内説を取ると、卑弥呼の時代には、九州北部はおろか朝鮮半島まで
その勢力は及んでいる。これは後の大和朝廷に匹敵する勢力を持っていると
言える。
どちらが妥当かということだろうな。
政権の大きさは、必ずしも領域の広さではない、支配の濃さだ
薄く広くって言うのが、弥生的な王権なんだと思うよ
中国も、卑弥呼は共立の王と言い抜いている
885 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 00:06:16
>>882 淡路の垣内遺跡は大々的に報道されたが、よく実態がわからない。
国内最大規模の鉄器工房跡とか報道されているが、出土した鉄器は破片も
含めて40点あまり。
阿蘇は、鍛冶集落が数多く発見されており、その一つ小野原遺跡だけでも
1,200点以上の鉄器が出ている。阿蘇ではないが、西弥護免遺跡の鉄器の
出土も膨大。発見された当時、日本の鉄器の出土量を倍化させたと言われる。
垣内遺跡の何が最大規模の鉄器工房跡なのだろうか。
886 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/04(火) 00:49:44
>>873 サガミハラさん
そんなコーナーがあったのですか、私も投稿すればよかったw
たかじんの番組でしたら、後半分くらいかな見ましたけれどあまり面白くなかったです。
887 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 01:17:45
>>882 まったくだ。
弥生時代の遺跡が全国から発掘されてるのに、
九州説は九州しか見て無いから、
淡路から最大規模の鉄器製作工房も見つかったりしても整合性がとれないから無視するしかない。
結局、弥生時代の列島全体の様子が俯瞰ができなくなり、
やってることと言えば、えんえんと年代遡上批判ばかり。
そりゃ、古代史ファンの読者も辟易するよ。
888 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 01:27:19
>九州説は九州しか見て無いから
だからアレだよアレ。
ミステリー小説で言う「クローズド・サークル」だっけ?
嵐で外界と連絡とれなくなった山荘とか孤島とか言うのww
(いやミステリー読まないんだけど)
この前提条件があってこそ「暗号解読ゴッコ」が成り立つわけでwwwwwwww
889 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 01:50:01
>>882 纒向の期待はずれは有名だろ。
アレだけ掘ってろくなものが出なかった失敗例はめずらしい。
嘘で塗り固めた「マキムク王権」はもういい加減にして欲しいね。
890 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 01:55:54
>>885 畿内100倍の法則だな。
畿内で出たものは九州の100倍の価値がある。
弥生後期半ばまでの鏡の出土状況は九州と本州で1000対1くらいの大差だが、
畿内100倍の法則のおかげでなんとか畿内説が持ちこたえている。
891 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 01:56:03
>>889 唐古・鍵遺跡も同じ。期待をこめて一生懸命掘ったが、期待はずれ。
ついにあきらめて、自生説も消えてしまった。
各地の土器が出ていたはずなんだが。
>>890 九州は栄えたのが早すぎた訳だ。倭人伝の邪馬台国に関する記述が
1世紀頃だったら九州説しかなかったんだけどね。
過去の栄光を叫べば叫ぶほど弥生末期の衰退振りが
より強調されるブーメラン現象www
銅鏡一つにしてもせっかく魏に冊封されたんなら
ちっとは根性見せて、せめて微増ぐらいしろよとwwwwwwww
894 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:10:53
>>892 同じだろう。畿内説はまた年代をいじくる。
895 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:16:01
まあ年代を如何にいじっても
衰退” 傾向 ”自体は変えようが無いわけでw
>>890 >畿内100倍の法則だな。
>畿内で出たものは九州の100倍の価値がある。
「畿内」とは奈良、大阪、京都府南部のこと。
出雲、吉備、丹後、越前、淡路、四国、東海、北陸、関東は何れも畿内でない。
885氏の言い分は、そんな畿内以外の地の最近の調査結果に、畿内説を有力たらしめる大きな価値があるという点。
人の論旨を捻じ曲げるのはよくない。
897 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:30:47
>>895 しかし、考古学としては、吉野ケ里を見て、その様子から倭人伝の国を想定し、
年代も倭人伝に書かれた時代と考えるのが普通だろう。
なのに、吉野ケ里を年代がずれているとし、倭人伝の国とは全く似ていない
纏向を倭人伝の書かれた時代の集落とするのは、考古学的ではないだろう。
898 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:34:08
>>896 そうじゃなくて、九州説に有利なことは無視しがちで、不利なことは大きく
取り上げがちであるということ。
899 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 02:49:25
>>897 吉野ヶ里には環濠があるが、倭人伝には濠を描写した記載がない。
径百歩余りある筈の卑弥呼の墓らしきものも、近くに見当たらない。
吉野ヶ里のような弥生の環濠集落はこれまで全国にたくさん見つかってきている。
確かに吉野ヶ里の面積は大きいが、全国的に飛びぬけているわけでもない。
「考古学としては、吉野ケ里を見て、その様子から倭人伝の国を想定し」とあるが、
これは当初のマスコミ報道に煩わされた先入観に過ぎないのでは?
900 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 07:10:45
>>899 倭人伝の伝えるところから、北九州に伊都国、奴国、不弥国などが存在したことは疑いようが
ないところだ。吉野ヶ里がそれらの一つではないかと想定されるのは当然だ。
邪馬台国だとかいうのは先走りだが、大和で何かでたらすぐ邪馬台国と結びつける報道とは根
本的に次元がちがう話だ。
901 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 07:32:34
魏志倭人伝にはカメ棺なんて記載は無いのに、
カメ棺ばかり出てくる吉野ヶ里が邪馬台国なわけないじゃん。
902 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 07:41:41
安本美典氏によると、カメ棺による葬送は180年を境にして終了しているそうです。
つまり、卑弥呼の時代にはカメ棺はつかわれていなかったので倭人伝にでてこないのです。
903 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 07:46:15
すると、吉野ヶ里は邪馬台国ではないわけですね。
904 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 08:07:08
カメ棺は地下に埋設されているので、魏使の目にはふれなかったのです。
葬儀は見たかもも知れないが、その当時はカメ棺ではなかったのです。
905 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 08:19:02
甕棺は庶民用で、墳墓が支配者用でいいのだろうか
ちょっと熟慮しなければならないかもしれない
906 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 09:30:37
吉野ヶ里では墳墓にカメ棺で埋葬されています。
支配階級がカメ棺で庶民は土葬です。
907 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 09:55:13
邪馬台国は北九州から水行10日陸行1月のところにあるんだよ。しかも、鏃は銅または骨といわれる
ように銅の文化を経ていないところだ。吉野ヶ里が邪馬台国でないことは明らかだ。
908 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 10:36:18
問題はその水行10日陸行1月の解釈の仕方である。
郡より邪馬台国までは万2千余里と明記されている。となると残りは1500里(1400里)である。
これだけ進むのに、10日+30日の計40日ではかかりすぎである。
となると、この水10日陸行1月は郡よりの総日数とみるべきであろう。
となると、邪馬台国は不弥国にきわめて近いか、1500里(100km)南とみられる。しかしこれでは海中となってしまう。
しかし、行路を詳細にみて計測していくと、数か所省略されたところがみられる。
クヤ韓国から対馬の小茂田浜までは2000里はある。これはコソンから鴻島までの1000里がはぶかれている。
ついで小茂田浜から豆酸崎までの260余里、勝本から赤瀬鼻までの130余里、不彌国から邪馬台国の都までの15里などである。
これらの省略された距離をあわせると、ソウルから小城甘木までは万2000余里となる。よって邪馬台国は小城市甘木であるということであり、水10日陸行1月は総日数であるということになる。
909 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 10:41:08
「吉野ヶ里考古学講座(8月)」を開催します
(財)佐賀県芸術文化育成基金では、吉野ヶ里遺跡の発掘調査の成果、弥生時代の生活・技術・交流、『魏志』倭人伝の国々など様々なテーマで、毎月、原則第2土曜日に吉野ヶ里考古学講座を開催していますが、8月は下記の内容で開催します。
記
1 開催日時 平成21年8月8日(土曜日)
(受付)13時00分〜 (講演)13時30分〜15時00分
2 開催場所 吉野ヶ里歴史公園内 弥生くらし館
3 講演テーマ 邪馬台国―「イト国」から「ヤマト国」
4 主な内容
邪馬台国九州説・近畿説を問わず重要視されるのが、現在の福岡県前原市あた
りにあったイト(伊都)国の存在です。
今回の講座は、「イト(伊都)国中心の倭国が北部九州で形成され、その勢力が2
世紀末に奈良盆地へ移動して邪馬台国が生まれた」とする邪馬台国東遷説につい
て、その提唱者である柳田康雄先生に語ってもらいます。
5 講師 國學院大學文学部 教授 柳田康雄さん
6 定員 50名程度(事前申込みは不要です)
7 聴講料 無料
(ただし、別途、吉野ヶ里歴史公園の入園料・駐車料が必要です)
入園料 一般大人400円 一般小人80円
駐車料 普通車300円 二輪車100円
8 お問い合せ 佐賀県教育庁社会教育・文化財課
吉野ヶ里遺跡担当 TEL 0952-25-7233
※当日のお問い合せ 吉野ヶ里遺跡展示室 TEL 0952-52-4130
9 主催 (財)佐賀県芸術文化育成基金
(吉野ヶ里遺跡保存整備特別会計)
910 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 10:50:38
>>908 >郡より邪馬台国までは万2千余里と明記されている。
女王国までと記載されているんだよ。邪馬台国とは書かれていない。
まったく別の概念を混同した考え方だな。
911 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 10:55:41
横から。
成人用甕棺の問題は北部九州弥生社会の転換を考える上で重要である。
無論小生も3世紀の北部九州社会では
かつてあれほど隆盛を見た成人用甕棺はすっかり廃れていた点には同意する。
したがって成人用甕棺のみが埋葬の主体である遺跡地は邪馬台国候補地から外すべきであろう。
ただ甕棺王国とまで言われた北部九州弥生社会で
なぜ成人用甕棺が2世紀に廃れるのかは重要ポイントである。
この点はいくら考察しても考察し足らぬということはない。
北部九州では弥生時代の甕棺葬から古墳の時代へすんなり推移するのではなく
未だ古墳というものをを見ぬ弥生後期後半〜末において、成人葬が甕棺から
木棺・箱式石棺に取って代わる。
大型2甕の合せ口の場合はしばらく置くが、成人用甕棺で単棺ならば
そのほとんどが屈葬である。
大小2甕の合せ口の場合も屈葬の傾向が強い。
すると甕棺→木棺・箱式石棺の推移に伴って、屈葬→伸展葬という大きな変化があったことになる。
これは北部九州弥生住民にとって思想上のまた宗教上の大変化であった。
一般に屈葬は死者の魂を封じ込める姿勢であり
故人の魂はその肉体とともに永遠に地下に封じられるものと言われる。
だが伸展葬では死者の魂はその肉体を離れ、空間を自由に浮遊したり
天上界へ駆け上ったり、また再び宿る肉体を得て再生したりなどと
現世と来世の対比的な思想や宗教観が強く出てくるときの葬法だとも言われる。
するとそうした思想や宗教観の変化が
成人用甕棺の衰退する北部九州の弥生後期社会で、実際に起こったのであろう。
問題は、そうした思想や宗教観の変化が自生的に行われ得るのかであり、
それとも外的な影響力を考慮した方がいいのか、ということである。
またこの変化の時点か倭国大乱の時期に重なってくるのも興味深い点である。
912 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 11:02:52
>>890 ちょっと違う。
たしかに弥生時代後期半ばまでの鏡の出土は九州内がほぼ100%で本州では
数枚が出土しているだけである。
しかし、古墳時代に出土した漢鏡を漢の時代に日本に来たものが伝世されたとして、
古墳時代の鏡を弥生中期にまで繰り上げて数を対比してきた歴史がある。
>>911 なるほど。
当時の東アジア諸地域の埋葬を概観するのに手頃な本を教えて欲しい。
914 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 13:39:26
私はこの変化が卑弥呼の力によるものであるとみています。
卑弥呼は呪術者つまり宗教家であるからして、葬送のような宗教上の行事にかんして、変更を強いることもできたとかんがえます。
つまり、神?のおつげによりカメ棺による葬儀は以後とりやめる、と宣言すれば、混乱もなく
移行できるのである。
私は卑弥呼の即位は183年(中平年の前年)とみています。倭国大乱が卑弥呼の即位により終息すると同時に宣言されたのではないかと思います。
↑本が売れなく注目度も低い理由がここに有る。
916 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 13:48:38
>>899 環濠が書かれていないからなかったということにはならない。
むしろ、城柵のような防御の体制があれば、環濠もあったと考えるのが普通
だろう。環濠よりも城柵の方が目立ったというべきか。
中世の城でも、堀よりも石垣の方が目立つように。
それに、吉野ヶ里遺跡からは城柵の跡も見つかっている。
宮室、樓觀をうかがわせるようなものも出ている。
倭人伝の三点セットが出ているところが重要。
一方で、纏向からはなにも出ていない。この差は歴然としている。
917 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 13:54:24
>>911 甕棺の場合、発展衰退の度合いは一様ではない。
発生期では、だいたい均等に出現しているが、佐賀県や福岡市付近で最盛期を
迎え、すごい数の甕棺が作られる頃、熊本県ではすでに衰退している。
918 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 13:56:03
>>915理由くわしく教えてください。
何故注目度が低いのか是非知りたいとおもっています。
>>918 まるで物語、物語なら他に沢山いい本がある。
いっそ完全SFならば、少しは注目度も。
920 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 14:20:55
>>918 そんなことを素人に聞いてる時点でもうダメですよ。
921 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 14:22:23
やっぱ中身よりキャッチーなタイトルだよねw
サガミ先生は著者よりもプロデュースされたらどうだろう?
2chのコテを出演させての邪馬台国本なんて、注目度高いキガスw
太国氏や河童虫氏なんてキャラが相当濃そうだし、かなり突っ込んだ内容も期待可能。かwww
923 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 14:26:39
>>917 そうすると佐賀や福岡の方がむしろ古い甕棺の葬制にしがみついていた?
つまり熊本の方が時代を先取りしてて、佐賀や福岡の方は時代に取り残されてしまったと?
925 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 14:39:44
>>924 売れるかなんてプロデューサーの腕一つ
結構話題性あると思います。
ボケ役に改め氏やサガミ先生起用して
927 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 15:13:48
>>917熊本県北部は狗奴国です。邪馬台国とは敵対関係にあります。(卑弥呼以前から)
カメ棺がすたれたのはそれと関係があるのではとも考えます。
物語風に仕立てた方が一般受けし、売れるのではと考えたのですが。
928 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:14:09
熊本から八女辺りの石人とか石馬
新しいのか古いのか。
位置づけがどうにもわからん。
秦の始皇帝のまねとは、方向性が違いそうなんだが。
929 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:20:43
>>928 確かに、石人といえば八女の岩戸山とかが有名だけど熊本も多い。
菊池・山鹿周辺だけでなく、八代海沿岸の古墳からも出ている。
八女の方が熊本の影響を受けているとも言える。
930 :
ローガン:2009/08/04(火) 15:22:59
>>911 > 未だ古墳というものをを見ぬ弥生後期後半〜末において、成人葬が甕棺から
> 木棺・箱式石棺に取って代わる。
ん〜甕棺より箱式石棺の方が発生は早かったように記憶していますが…違ったかな?
931 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:23:07
>>927 熊本県北部が狗奴国とすれば、熊本県南部は何なのだろう。
また、球磨地方はどうなるのだろう。
932 :
縄文人:2009/08/04(火) 15:23:42
俺が出張で留守してる間に論争は変な具合になっていな。倭人伝の方角里程では畿内は絶対にあり得ないというのが衆目の一致する
ところの筈であるが、畿内説派は未練たっぷり、なりふり構わず詭弁を紡いでおるな。
「魏の使節は邪馬台国まで行っていない」、「卑弥呼に会っていない」、「記事は伝聞(魏の人間から、倭人から)である」、「投
馬國および邪馬壹國への行程が里数でなく日数で記されている」、「両国の事物の記述が少ない」、および「魏使と卑弥呼の会見の
様子が記述されていない」などと言ってあたかも倭人伝の記述が信用できないかの如き印象を広めようとしている。そのくせ自説に
都合のよい記述だけは採用する。良識ある人間のすることではない。
倭人伝では勝負できないと思っている連中は遺跡、遺物を持ち出す。だが、畿内に卑弥呼の宮殿跡を見つけ出すことは出来ない。巻
向地域の遺跡に望みを託したが、箸墓古墳などの築造年代も未だ確定していない。それよりなにより、巻向地域には弥生の住居跡は
おろか古墳時代の住居跡も認められない。それもそのはず、ここは古墳時代の墓域なのである。大和王権が確立した後の功労者や戦
死した豪族の慰霊のために造営されたと見るのが自然だ。そのうち優秀な考古学者が箸墓の築造は4世紀であることを証明してくれ
るだろう。
畿内の遺跡に邪馬台国の跡を見出せないことが分ると、今度は周辺や全国の遺跡を見るべきだと言う。弥生後期の遺跡が九州に少な
い?だと。
淡路島の垣内遺跡の鉄器製造跡の例など挙げて畿内とのつながりをほのめかしたりするが、その遺跡自身は九州の幾つもある鉄器製
造所跡に比べれば貧弱なものである。邪馬台国が畿内に存在したことを示す証拠になるものは何も無いではないか。
もういい加減に諦めて宗旨替えをした方がよかろう。畿内説派の諸君 口惜しいだろうが 過ちは誰にでもあることだ。過ちて改む
るに憚るなかれだ よ。
933 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:26:25
そういえば、宇土の馬門石で出来た棺は、近畿地方などに運ばれて後の大王など
の古墳でも使われている。
934 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:41:18
熊本側と筑後側で喧嘩すれば、南関で膠着状態になる。
岩戸山、石人山古墳群は磐井一族の墓だとすると
熊本側の一族だったのだろうか。
>>932 それは絶対に有り得ない。
ここでやっぱり九州でしたなんて言ったら、今までの九州に対する罵倒や、紛い本の乱発をいかに処理するかだ
>>932 >そのうち優秀な考古学者が箸墓の築造は4世紀であることを証明してくれ
>るだろう。
願望になったか・・・・・・・ww
937 :
縄文人:2009/08/04(火) 16:14:57
>>936 願望なんかであるわけがなかろう。自信満々での予言だ。
自分では証明できないわけだwww
939 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 16:33:31
他人が証明したことは無視しようってのが学者だからな。
>>937 権威には頼らないんじゃないのか。
自分で証明しろやw
941 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 16:57:01
>>935 >紛い本の乱発
安×先生や古○先生のことですか?w
942 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 18:03:05
安い、古い は九州説の特徴。
943 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 18:04:37
まあ畿内が倭人伝の行程記事に合致しないと言うのはその通りw
が、元々あの行程記事の読み解きで位置を確定できるわけが無いなんてもう常識の話でw
ただしそこから先その他の資料
特に考古学的資料の取り扱いについては人により意見は大きく分かれるだろうが…
そもそも、それが可能なら、少なくとも読み方は一つに定まってなきゃならないんだが
色んな人間が色んな読み方をして、挙句畿内説から
「九州説は候補地を絞るように(笑)」
とおちょくられる始末wwwwwwwwwwwwwwww
結局、砂鬼四荼羅、九州を通り越して太平洋に沈むしかなく
それじゃあ話にならないってんで色々な工夫、辻褄合わせをしなきゃならない
…もう小学生でも分かるような現実w
944 :
縄文人:2009/08/04(火) 18:13:22
>>938 >>940 おまえらの言う事はこんなレベルだ。内容のある反論を考える能力を持たぬことが如実に顕れておるわ。
年代測定法を理解している者なら容易に予言できることだ。おまえらは理解する知力を持たぬから俺の予言に
泣きわめいているわけだ。ごめんねいじめて。
945 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 18:17:44
結局、『 吉野ヶ里 』も畿内説を否定するときだけに使われる便利アイテムって感じだなw
弥生時代の典型的な環濠集落・大型拠点集落を持ち出す事で
邪馬台国の時代、3世紀をそのような環濠集落全盛の時代だと
恣意的にミスリードするとwwwwwwww
吉野ヶ里に邪馬台国を重ねるのは自由だが
じゃあ
>>899の言うように径百歩・殉葬百人の墓も無い
それに卑弥呼が婢千人をはべらせたとあるが
じゃあ吉野ヶ里の環濠内の人間のほぼ全てをそれに当てるのか?…って話で
吉野ヶ里の場合、環濠内に畑もあったようだが
一般の一次産業の従事者もそのカウントに入れるのかと?w
結局、倭人伝のその部分も読む人間の主観一つで
環濠集落のイメージで見れば城柵だの樓觀だのの文字が目に留まり
纏向をイメージしたなら卑弥呼がはべらせた婢千人とは祭祀の専従者と見て
そんな宗教祭祀に特化した場所は纏向以外にない・・・となるだろうwwwwwwwwww
946 :
縄文人:2009/08/04(火) 18:29:14
>>943 郡から一大國までの里程と実際の距離から倭人伝で使われている里の長さを推定するのは小学生にでも分る
合理的なやり方である。
その里を用いて、記述のとおり進んで、九州内の邪馬台国に辿り着ける。別に特別な工夫も辻褄あわせも必要ない。
必要なのは素直な心と眼力、判断力のみだ。
まだ抵抗するか?
947 :
禿げしくなってきた雨音を聞きながら…:2009/08/04(火) 18:31:55
しかし、まあ、なんだな…
確かに奈良盆地が水害に弱そうな土地であろうとは俺みたいな素人でも直ぐに思う事だが
(特に金魚の養殖池と田んぼが折り重なっている郡山あたり
大雨で池や沼と田んぼが繋がっちゃわないのかな?wwww)
でも現実には奈良の水害被害は殆ど聞いた事がなく
逆に九州は毎年何処かで河川氾濫や土砂により被害のニュースを聞いたいるような気がするwwwwwwwwwwwww
948 :
もういい加減うんざりです、ハイ:2009/08/04(火) 18:34:11
>>946 >必要なのは素直な心と眼力、判断力のみだ。
砂鬼四荼羅教の御講和の始まりだなwwwwww
949 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 18:40:54
>>947 唐古・鍵の環濠は、洪水で埋まってしまったんだが。
しかし、今の時間、雨の激しい地域というのは限られている。
岡山、奈良、徳島、岐阜。
950 :
縄文人:2009/08/04(火) 18:52:48
>>947 奈良盆地の古代人は水害に怯えながら暮らしていたのではないかな。大きな地震でもあれば大和川が塞がれて水没する。
だから長い年月をかけて対策を講じてきた筈だ。「奈良の水害被害を殆ど聞いた事がなく」てよかったね。奈良盆地に住んでいる人達は
祖先の努力に感謝することだ。九州の水害被害はこの夏目立ったが、近代的開発や人工林山地の荒廃が原因と考えられるケースも多く、
このような現代の水害状況を古代に重ねて何か言おうったって、それは甘い判断だぜ。
環濠集落について愚考を少し書き連ねておくと…
まあ年代論は別にしても倭人伝の記述から
当時の倭国が混乱から大きく統合への動きを見せていた時期と言うのは
それこそ砂鬼四荼羅読み取れる事だろうが
環濠集落ってのは早い話
首長が集落の中にあって「お山の大将」やってた時代のもので
(やがて豪族居館を構えその集落から出て行くわけだが)
邪馬台国に環濠集落のモデルを当てるのは時代背景からすると
ややズレがあるというか…
無論、当時既にやや時代遅れとなった環濠集落の『老舗のクニ』に卑弥呼がいても
理屈に合わないって話ではないが…wwwwwwwwww
952 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/08/04(火) 19:00:35
>>950 そう言う現代における環境は九州もならも同じ事だなw
山林の伐採が水害をもたらしたなら
元々九州も保水能力ギリギリのところでバランスを保っていた地域が多々あった事の証左。
東遷説を成り立たせたいが為
奈良盆地のみを水害の頻繁な土地で
人の住めなかった土地にしたいんだろうが
まあ、あまりにも幼稚な立論と言うか妄想だなwwwwwwwwww
>>946 倭人伝を読んでも投馬と邪馬台国は九州内にはありません。
ないと思って読めばない、あると思って読めばある
議論しても無駄
955 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 20:13:42
観測者の主観で粒子であったり波であったりみたいな?wwwwwwww
956 :
縦目仮面:2009/08/04(火) 20:16:48
それはわれわれから見える事象であり、実際はひもの振動です。
色即是空 空即是色
弱肉強食 焼肉定食
959 :
縦目仮面:2009/08/04(火) 20:25:10
超ひも理論(superstring theory)は、邪馬台国問題に似ているかもしれません。研究者に
とっては間違ったことに一生を捧げる可能性があります。しかも早々に結論は出ない。
相対性理論のいうところの時空の歪みの影響も無視できない。
未来が一つ出ないように過去も一つではない。
邪馬台国は九州にもあったし同時に畿内のもあったのです。
961 :
縦目仮面:2009/08/04(火) 20:43:30
エヴェレットの多世界解釈は尊重しています。スレ違いスマソ。
962 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 20:45:09
>>960 >邪馬台国は九州にもあったし同時に畿内のもあったのです。
まあ似たような説は実際に出てるしwwwwwwwwww
(『邪馬台国は二ヵ所あった』by 大和岩雄 …だったかな?)
963 :
縄文人:2009/08/04(火) 21:02:23
>>952 出て来たな チンピラ君。
俺は祖末な反論に相応の挨拶をしたまでだ。べつに水害を論点にする書き込みでないことぐらい 分るよね。
相変わらず頓珍漢だね。君は進歩という言葉を知っとるかね。
964 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/08/04(火) 21:14:07
まあ奈良盆地の人間が水害に苦しんだとしても
じゃあ、そのリスクは他地域の人間は関係なく
奈良盆地の人間のみが背負っていたのかって?話でw
東遷厨にかかれば纏向は無人都市
それ以前の集落は水中集落になってしまうw
酷い話です、ハイwwwwwwwwwwwwwwww
965 :
縄文人:2009/08/04(火) 21:19:01
吉野ヶ里を邪馬台国などと言う人がおるんか?
環濠集落は集落(村邑あるいは都邑)に過ぎん。國とは集落の集合体で、領域内の集落を統合支配する組織機構を持つものだ。
吉野ヶ里に卑弥呼の宮殿を思わせる施設跡や戦死者と思われる人骨が出土して倭国大乱の名残と見られないこともないが、水行
陸行には条件が整わないではないか。
966 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/08/04(火) 21:21:17
ついでに言うと・・・
>>932の縄文人のレスはこいつのアホさ加減をよく表しているw
(まあそれでもこの板の九州説の平均レベルぐらいなのかな?)
そもそも仮に纏向が巨大霊園の如き遺跡であっても
それはそもそも年代論に関係がない話で
とりあえず畿内説の言ってる事に反対したら
それで自分の言っていることが全て証明できたかのように勘違いする
厨房の発想wwwwwwww
纏向が巨大霊園なら同時代にそれを造り得る勢力が
畿内にはいたと言う話で、益々その畿内の王権が巨大だったと言うだけの話w
967 :
縄文人:2009/08/04(火) 21:28:56
>>964 俺に相手をして貰いたいみたいだな。よっぽど寂しいんだな。
あのな、奈良盆地の古代人は水害の恐ろしさを代々身にしみて感じていたから、大和川の浚渫や河岸の整備に努力した
だろうと まあ、褒めてやったんだ。最初はな。
それに食いついてきて、頓珍漢ぶりを発揮しているのがおまえだ。鏡を見てみろ。間抜け面が映っている筈だぞ。
968 :
サガミハラハラ:2009/08/04(火) 22:06:12
969 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:23:20
>>968 そんな読み方をするから、畿内説論者に馬鹿にされるんだよ。
970 :
縄文人:2009/08/04(火) 22:24:11
>>968 水行10日陸行1月を郡から邪馬台国までの総所要日数とすれば可能である。
だが、
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
の記述から、投馬國は郡から舟で直行できる(海岸の)國で、邪馬台国とは相当離れた場所にあることになる。ある地点から
同じ南の方角にありながらである。これを説明できるのかな?
971 :
縄文人:2009/08/04(火) 22:40:30
>>966 おまえのアホさが如実にでているのがこの書き込みだ。
<そもそも仮に纏向が巨大霊園の如き遺跡であっても それはそもそも年代論に関係がない話で>
巨大前方後円墳をほぼ同じ時期に何基も築造できる巨大権力が確立する時期が問題なのだ。
おまえらがさんざん主張してきた7万戸誇大表現説によれば邪馬台国にそのような労働力動員能力
はない筈だな。そのおまえらの気まぐれな説が邪馬台国畿内説を否定しているんだぞ。アホか。
巻向地域の巨大古墳群を築造できるのは4世紀の大和王権でなければ説明がつかぬのだ。アホか。
972 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:47:52
>>971 >巻向地域の巨大古墳群
石塚、矢塚、勝山、ホケノなんかも「巨大古墳」に含めるつもりなのか。
973 :
縄文人:2009/08/04(火) 23:07:41
>>972 あまりも馬鹿馬鹿しい書き込みについ口が滑ったというか舌足らずであった。石塚、矢塚、勝山、ホケノなんかは
箸墓古墳に比べれば巨大とは言えんかも知らんが、それでもそれらの築造には巨大な労力を要した筈だ。
箸墓も含めて、短期間内にこれだけの労働力を動かした権力は邪馬台国(狗奴国と抗争中という状況もある)には
なかったろうという話だ。特に、畿内説派がしつこく戸数誇大論や弥生時代人口100万人論を主張していたから、そ
れらの論は自縄自縛に陥るものだと言ったのだ。要旨を汲み取れよ。
974 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/08/04(火) 23:10:34
>>971 >おまえらがさんざん主張してきた7万戸誇大表現説によれば
>邪馬台国にそのような労働力動員能力はない筈だな。
はて?
どうしてそう言う理屈になるのかな?
馬鹿の理屈にはついていけんわwww
まあ視野狭窄で九州しか見ていない縄文人のような
九州説のアホには関係のない話だろうが・・・
岡山の楯築、島根なら西谷3号とかホケノと比肩しうるような大型首長墓というのはヤマト以外にもある。
(この時期の大型首長墓による首長霊信仰に乗り遅れた(orあえて乗らなかった)のが九州wwww)
七万戸の人口がなければそのような大型首長墓を築けないなんて何処の馬鹿が言ってるんだ?
七万戸の誇張の話と大型首長墓が造営できたか否かは
全然別のお話、アタマ冷やせカスwwwwwww
975 :
縄文人:2009/08/04(火) 23:43:56
>>974 おまえは何時まで経っても成長せぬ奴だな。
岡山の楯築、島根の西谷3号などが巻向地域と同じに扱えるか?馬鹿を言うのもほどほどにしろ。
いいか、おまえら 箸墓の築造が3世紀半ばで確定というアホな考古学者の発表に狂喜しただろ。古墳時代を遡らせよう
という意図から出た勇み足の発表であったが、巻向地区の古墳群は3世紀末から4世紀にかけて築造されたと俺は見てい
るが、ほぼ半世紀の短期間に幾つもの古墳を築造するのは容易なことではないぞ。箸墓などは5千人がかりで月に20日働
いても2年はかかるぞ。これだけの労働力を養うのに要する食料や用品の手当、駆り出された人夫は自分の家族のための
生産活動を休まなければならないのだからその手当も莫大なものになるぞ。強制労働で働かせたのであれば、不満を押さ
え込む手段、方策もなければならぬ。
ただ1基の古墳の造営とは訳が違うのだ。
<七万戸の人口がなければそのような大型首長墓を築けないなんて何処の馬鹿が言ってるんだ?>
馬鹿でなくてもそのように考えるだろ?おまえはカスだから頭が働かないのだ。ドアホ
976 :
”アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)へ”:2009/08/05(水) 00:03:15
>>975 ひょっとして…
山陰の四隅は西谷3号だけ
吉備の大型首長墓は楯築だけとか思ってるのか?アホw
じゃあ工事跡じゃなくても
ヤマトの人口が4世紀に入って急激に伸びたって根拠を出せクズw
ここで
「巨大古墳が続けて造営されたのがその証拠」
なんて馬鹿を言うなよ?w
人口の急激な伸びを証明できなければ
元々その地力がヤマトにあったとみなしても良い
(無論、盆地の外から労力を集められる権力も既にあったことの可能性も含めて)
「謎の巨大工事の痕跡もありません」
「4世紀に人口が急増した証拠もありません」
「でも、九州からの東征勢力が工事やったおかげで
人口が急増して巨大古墳を築けるようになったんです!」
一体何をもってこのお話を信じろと?wwwwwwwwww
977 :
”アホの縄文人兄弟(一人二役?w)へ”:2009/08/05(水) 00:14:05
>>975 >おまえら 箸墓の築造が3世紀半ばで確定というアホな考古学者の発表に狂喜しただろ。
あ、これについて言っておいてやるが・・・
この板の畿内説の連中、意外と冷静だぞ?
まあ、ある程度は予想の範疇の出来事だったと言う事もあろうがw
別にその年代測定に頼らなければ畿内説が成り立たない。
現在の優勢がひっくり返る…ようなものでもないしなw
逆に言えば特に「邪馬台国東遷説」にとっては死刑宣告に等しいからな
お前みたいな火病を起こす馬鹿をヲチできるって点では
面白がっているのかもしれんがwwwwwwwwwwwwwwwwwww
978 :
ローガン:2009/08/05(水) 00:14:33
>>975 >おまえはカスだから頭が働かないのだ。ドアホ
いいかげんにしなさい。情けない。声高に罵倒しても、マイナー説が浮かび上がる訳ではないでしょう。
「四世紀お引っ越し」と言うなら、ピンポイントにその根拠を明示すれば済む話でしょう。
979 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:18:32
大きな古墳がなぜ作られるようになったか。
これは余剰人員の存在があるかもしれないなあ。つまりは奴隷ということ。
奴隷は戦乱で生まれるものだから、大きな古墳が作られる時代というのは
それほど安定していなかったと言えるかも。
これが安定してくると力のある天皇の古墳でも小さくなる。
たとえば、天武天皇陵なんてかなり小さい。
980 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:27:04
大きな古墳は、威厳を保つためのもの、さらに民に服従を強いるためのものと
考えるとうまく説明が出来るような気がする。
よそから征服者がやってきた場合などがそれに該当する。
981 :
縄文人:2009/08/05(水) 00:30:59
ローガン殿
声だかに罵倒してきたのはどちらか?ネームからしてふざけているではないか。
おぬしも畿内説派であるから俺の言い分が気に食わない、つまり、俺の主張をマイナーと切って落とすしか
ないのだろ?
<「四世紀お引っ越し」と言うなら、ピンポイントにその根拠を明示すれば済む話でしょう。>
俺は4世紀お引っ越しなんて言っとらんぞ。4世紀に大和王権が(崇神によって)確立したとは考えているけどね。
古墳公共事業説
巻向や古墳の建設に当たって、東海方面から労力が多く寄せられている点をどう思う?
984 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:34:47
>>980 それより地域連合体のシンボルって意味も強い。
つまり墓上で首長らが一同に会し祭祀を行い
また同じ埋葬文化を共有する事で連帯感を高めると・・・
とかく「墓」と言う事で中の埋葬主体部ばかり注視しがちだが
古墳の機能はむしろ”墓の上”にあるかもしれないwwwwwwwww
985 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:39:55
結局
「3世紀までヤマトは人影もまばらな過疎地域
4世紀になって人が急増し王権らしきものが生まれる」
・・・って話だと、何故に4世紀に入って人口が急増したか?と考えた場合
(1)縄文人の言うように巨大干拓工事等で盆地の開発がなされたから
(2)クニレベルでの人口移動、入植があった
と言う話だろうか?wwwww
まあ何れにせ裏づけの考古学的資料はないよなあ…
>>981 >ネームからしてふざけているではないか。
そもそもアタマに”アホの”と付けるのは、てめえの発案だろうがwwwwww
987 :
縄文人:2009/08/05(水) 00:56:42
>>976 あのな、墓の形式が全く違うだろ。しかも楯築や西谷3号は自然の地形を利用して作った比較的小さな労力で
造営できるものだ。おまけに何人も合葬されていて、弥生時代の首長の代々の墓場だ。巻向地域の古墳は大量
の土を盛って作られたもので、比較にならぬ労力と費用を要したのだ。
>>984 >>墓上で首長らが一同に会し祭祀を行い
その原理が解らんのよ
大王を神格化して祭るのかい?
弔問外交?
989 :
ローガン:2009/08/05(水) 01:06:27
>>981 > 俺は4世紀お引っ越しなんて言っとらんぞ。
てっきりそうかと。それは失礼しました。
990 :
縦目仮面:2009/08/05(水) 01:06:34
991 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:08:03
>>985 神武東征のような出来事を想定すると説明できる。
大きな権力集団が入ってくる。途中滞在した吉備から人を連れてくる。
東海地域まで足を伸ばし、やはり人を連れてくる。
これで、畿内説お得意の搬入土器も説明できる。
大きな古墳の築造も説明できる。
墓制の急変も説明できる。
銅鐸の消滅も説明できる。
992 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:15:48
993 :
ローガン:2009/08/05(水) 01:19:26
>>984 > 古墳の機能はむしろ”墓の上”にあるかもしれないwwwwwwwww
玉手山祭祀のような所謂「壇」ですかな?
994 :
縄文人:2009/08/05(水) 01:23:33
>>985 俺は明日(もう今日か)休みだから今まで付合ってきたが、もういい加減飽きてきた。だから手短に済ます。
奈良湖の排水事業は水田の開発につながり人々の生活向上に寄与するものだから住民は進んで協力する筈だ。九州方面から
進出してきた勢力は当初抵抗を受けたであろうが武力で押さえつけるとともにこの排水事業に力を入れ、次第に土着住民の
支持を得るようになった。水田が広がり生産力が高まるにつれて九州方面はもとより他地域からも人が入り込んだ。こうし
て4世紀に崇神が大和王権を確立できるほどに成長した。大和王権が確立したのを機に巻向地域に大型古墳が築造されるよ
うになった。あらすじだけを言えばこのようになる。考古学的資料は箸墓等の築造年代だが、これはまだ確定していないか
ら証拠として出せない。箸墓の築造年代の解明待ち と言えば気が済むか?
古代の國の跡が全て発見されてはいない。古代人の生活の跡も発見されたものは極めて稀である。考古学資料で全てを語れ
ないのは自明の理である。だから推理するのだ。推理が勝負なのだ。
995 :
縦目仮面:2009/08/05(水) 01:24:33
まあ、異論はあるだろうが大ざっぱにいえば、縄文時代の精霊信仰(万物に霊が宿ると考
えるアニミズム)から、弥生時代には、穀霊信仰(稲作の開始により、穀物の精霊を特別視
する)→祖霊信仰(祖先の霊が自然物の精霊に働きかけ、天候支配や豊穣をもたらす)→
首長霊信仰(大王が神が同一化し、人々を支配する)といったところかな。実際は、これほど
単純ではないが。
「祖霊」に対する信仰が人々の階層分化に伴って首長制と結びつき、新たな支配原理として
発展していった。「首長霊」を祖霊として祀り、特別な聖性を付加することでその霊力を背景とし
た支配者の支配の正統化や力の保持が図られたのだろう。天皇の即位式である大嘗祭なども
形は変化したがこの一例。共食儀礼は、死した大王の霊から霊性を分かち合い、次代に受け
継がれていくといったものかな。
996 :
縦目仮面:2009/08/05(水) 01:27:16
大王が神が同一化し→大王と神が同一化し
しかし、縄文人は一つも根拠のないことをいつまで続ける気だ?空しくはないか?
997 :
縦目仮面:2009/08/05(水) 01:33:15
この首長霊による支配原理がなければ、サル山のサルと同じで力によってボスが次々と替
わっていくことになるのではないかな。
998 :
縦目仮面:2009/08/05(水) 01:40:12
「ゆるやかな首長連合」が卑弥呼を共立した背景には、このような支配原理の確立があった
と考えるのは、うがちすぎだろうか?
999 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:41:30
>>991 で、結局そのような大規模な人口移動だと
「じゃあなんでその足跡を残さなかったのか?」
と言うツッコミが来るとw
現在東遷説がはっきり言って ト 扱いなのは
ヤマトにその痕跡を残していないと言うのが第一の理由だろうが
これを回避するためにはヤマト入りした神武御一行は
極々少数で奈良盆地の隅っこで、祟神の代まで啼かず飛ばず
・・・でしたと言う筋書きにするしかないと思うが?wwwww
1000 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:52:33
1000の風になって九州説撲滅
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。