♪邪馬台国 ドンと来い♪ 49

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952日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:26:39
>>948
高地性集落と倭国の乱が直接にはむすびつかないことは常識だろう。
北九州の国々が一大率に厳しく検察されていたってことは明らかだ。それは倭国乱の
結果だよ。となれば、北九州が乱の戦場だったことは見やすい道理だ。
953日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:35:16
>>949
上のは縄文人のおっさんジャマイカ?

>>947はいつもの東遷説のお人だとおもうけど
954日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:35:44
>距離・方角は、そのまま読めば南の海の上だから、短里だとか
>放射説とか考えださなければならない。
そのまま読めばってのは1里=430を前提とすればってことだろ。
そんなのは、単なる思い込み。末盧国までをそれで読めるかな?ちがうことは
明らかなんだよ。倭人伝がどの程度の単位で書いてるのか、それを倭人伝によ
って検討する、それが当然必要なことだ。
放射説ってのは、 倭人伝の文章を検討して出てきた正しい読み方。
だから、畿内説をとる学者の中にも、放射説を支持する者がいる。畿内説の場
合放射説より連続説の方が畿内まで引っ張るのにずっと楽にかかわらず、放射
説の読み方が正しいと思うから採用せざるをえんのだよ。
955日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:39:51
>>652
>高地性集落と倭国の乱が直接にはむすびつかないことは常識だろう。

九州説並みには常識だと思うが。
956日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:43:11
>>947
>最初の30国はもちろん九州だが、
>本州や四国を征服していったから東の毛人55国って言ってるだろうが。

九州が30国で、吉備〜近畿〜東海〜関東が55国って少なすぎるだろ。アホか。
957日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:48:57
しかしここのところニューカマーの縄文人が目立っていたが
こうやって日向厨の御高説を拝聴していると
なかなかどうして、電波度では甲乙つけがたいwwwwwwwww

日向厨は倭人伝でもって2世紀初頭の帥升から
4世紀の日向王朝の東遷によるヤマト王権樹立まで
壮大な脳内ストーリーを紡いでいらっしゃるご様子だが
(夢は何処までもひろがりんぐ〜www)

そもそもその妄想ストーリーの出発点の
帥升の朝貢からしてその朝貢団
(帥升”等”と言う表記や献上の生口の数からして”団”とした方がいいだろう)
に既に九州以東の勢力が参加していなかったと言う保障は無いw

確かに今のところ玄界灘周辺地域の勢力と言うのが定説に近いとは思うが
将来的にはそういった想定も出てくるだろう(てかもう出てる?)

まあそうなったらある意味九州王朝説の復権だがwwwwwwwwww


958日本@名無史さん:2009/08/15(土) 11:49:50
>>956
単純だな。時代により所により国の大きさなんぞ、いろいろあるんだよ。
倭人伝が伝える国々だって、大国といえば、奴国、伊都国、投馬国、邪馬台国
の4か国だけだ。あとは小国だろ。
本州、四国だってある程度の大国にまとまっていたなら、55国で少なすぎる
ことはない。今、県がいくつあるか知ってるか?
959縄文人:2009/08/15(土) 11:57:25
>>950
今日はご先祖をお送りするために故郷に出かけるので、怒らないことにします。縄文人は心優しい常識人でなければ
ならぬ(つらいなあ)。
私は、倭人伝は思い違いやデタラメで成り立ってはいないと思っているから、方角、里程もそのまま素直に読んでみ
ようと言っているだけ。貴方達のように恣意的に解釈するならどのような論も可能だと言ったのです。
960日本@名無史さん:2009/08/15(土) 12:05:35
倭人伝の、「親魏倭王卑弥呼に制詔す〜故に鄭重に汝に好物を賜うなり」の部分は魏帝詔書
の全文掲載だろう。資料は残っていたということだな。しかし、魏答礼使が報告を書いたという
証拠も、陳寿がその報告を見たという証拠もないな。
961日本@名無史さん:2009/08/15(土) 12:19:57
>>960
それはそうだろう。直接に資料を見たのか、資料をみて書かれた魏略等を写したのか、
そこは分からんな。しかし、仮に直接の資料ではなかったとしても、陳寿はそれを信用
できると判断して倭人伝に取り込んだんだろ。その判断を信用するに何も支障はないと
思うよ。
962日本@名無史さん:2009/08/15(土) 12:23:58
都合の良い資料は信用し、
都合の悪い資料は、書き間違いですか。
963日本@名無史さん:2009/08/15(土) 12:48:44
>>961
まあ、何らかの資料があって陳寿が書くに足ると判断したのはそうだろうが、だからといって
内容に誤りがないともいえない。ただ、司馬懿による公孫氏討伐がなければ(そしてタイムリー
な卑弥呼の朝貢がなければ)倭人の条はこれほど詳述はされず、卑弥呼の名が後世に残る
ことはなかったかもしれない。
964日本@名無史さん:2009/08/15(土) 13:51:13
1歩とは3,3uだから、1.8m四方ということになります。
径百余歩といえば、直径200mを超えることは間違えない。
となると、この時代にすでに存在した古墳でそれにふさわ
しい規模のものは限られてきますね。

http://ryokosomething.up.seesaa.net/image/eur46_06.JPG
965日本@名無史さん:2009/08/15(土) 14:36:27
>>963
東夷伝全体を見ても、冊封国の人物名についての記載は少ないが、倭人伝は例外的に多い。
これは、やはり中国側にある鴻臚卿の資料に名前が残っていたからだろう。「大夫難升米・次使
都市牛利・使大夫伊声耆・掖邪狗等八人」のように中国あるいは郡に来たものは、任官もされて
おり名前が載る。卑弥呼、卑弥弓呼については当然、詔書、檄文を作る段階で名前を聞いただ
ろう。
しかし、倭にいる卑弥呼の男弟、卑弥呼の次の男王、各官なども氏名の記載がないのは、魏使
の報告がなかったか、あってもそれほど詳しいものではなかったということではないかな?

966日本@名無史さん:2009/08/15(土) 15:24:30
>>957
>4世紀の日向王朝の東遷によるヤマト王権樹立まで
こんな言葉がでてくるようじゃだめだな。ヤマト王権などなかったと言ってるだろ。
纏向の墓なんぞ、王でなくても造れる。王と呼ばれていたかも知れないが、倭国の武将の一人にすぎ
ないとも考えられる。独立の王権だというならば、その証明をしてみな。

>帥升の朝貢からしてその朝貢団 に既に九州以東の勢力が参加していなかったと言う保障は無いw
倭人伝を正しく読んだら、参加していなかったことは明らかだよ。
967日本@名無史さん:2009/08/15(土) 17:27:45
>>966
>ヤマト王権などなかったと言ってるだろ。
こちらの証明をどうぞ 。

>倭人伝を正しく読んだら、参加していなかったことは明らかだよ。
正しく=自分に都合よくでしょ。

968日本@名無史さん:2009/08/15(土) 17:48:25
>>967
その人は釣りだよ。お盆なのにこんな基地外レスをマジでするわけがないよ。もしマジだと
したら首になった派遣社員とかだと思うよ、自暴自棄になってるんだ。うん。
969日本@名無史さん:2009/08/15(土) 18:14:47
大体倭人伝の30国を九州内に比定してる人って
西日本の弥生遺跡から出土してる中国の古代貨幣を
どう説明するのかな?
貨泉なんて九州は勿論だが、吉備や出雲、畿内も出土してるけど。
970日本@名無史さん:2009/08/15(土) 18:48:06
卑弥呼は伊都国に、台与は奈良の邪馬台国に居たんだよ。
971日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:01:00
伊都には国王がいて、女王国に属するとあるけど。
972日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:01:06
>>969

4世紀まで流通してたそうですよ。
973日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:18:26
>>970
>卑弥呼は伊都国に、台与は奈良の邪馬台国に居たんだよ。

九州邪馬台国の卑弥呼の死後、その遺体を大和まで運んで葬ったのが箸墓…
と言うのは森浩一センセイだったっけ?wwwwwwwww

まあ一つの説としてだ…

「女王」と言う文字は最初の方の伊都国で
「皆女王国に統属す」で出てきてその後も頻繁に出てくるのに対し

「卑弥呼」と言う人名はかなり後半
「その国本また男子を以て王となし住まること七八十年…」
で始めて出てくる。

で、全体の構成として、その卑弥呼の名前が出てくる部分からは言わば”回想シーン”に入るとして
そこまで出てきた「女王」 とは畿内ヤマトにいた壱与の事だとする。

当然例の行程記事は畿内ヤマトに至るものとなるw
まあ、この板の九州説にはとてもじゃないが受け入れられないだろうが

反面、過去の卑弥呼は肯定記事に縛られる事無く
伊都国にいようが奴国にいようが構わないと言う自由度を得られるwww

ただし過去の卑弥呼も畿内ヤマトにいました…なんて事も可能なので
九州説にとっては踏んだり蹴ったりでとてもじゃないが受けは最悪だと思うがwwwwwwwwwwwww


974日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:30:47
>九州邪馬台国の卑弥呼の死後、その遺体を大和まで運んで葬ったのが箸墓…

そんないいとこ取りのご都合主義を真面目に考えてるような人だったのか。
975日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:32:56
>>974
とあるムック本で井沢との対談でw
976日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:36:22
>>972
1世紀前半のごく短期間にしか存在しない貨泉が?
しかも弥生時代の遺跡から出土してるのに??
977日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:36:44
16才中卒ヒッキー
978日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:49:46
>>975
あれは企画を盛り上げるためのまあ、リップサービスだろう。彼も三角国産説以来反体制を
気取りすぎたきらいがあるんじゃないかな。もちろん、基本スタンスが邪馬台国には正式には
言及しないようにするだったから、それなりに処遇されてきてはいるが。しかし、やはりこの年
代は、自分が生きてる間には結論は出ないだろうという達観が強くあるんじゃないかな。
979日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:03:26
>>954
>倭人伝がどの程度の単位で書いてるのか、それを倭人伝によ
>って検討する、それが当然必要なことだ。

古事記では神武天皇は137歳で崩御した。
だから一年を今の半分にしたらちょうど合理的な年齢になる。だから倍暦だ。
短里っていうのは、これと同じ理屈だよね。

>放射説ってのは、 倭人伝の文章を検討して出てきた正しい読み方。

倭人伝を検討しなきゃ出てこないんだから、間違った読み方。
日本人は、儒仏道の哲学的な思索や国家の運営を漢文でやってた。
読解力にかけては中国人に劣らない。
そういう人たちが、最初に放射説で読まなかった。
それで邪馬台国に辿り着けないから、結果として放射説を考えだした。
だとすれば、日本の地理を知らない中国人は、
放射説でなければ邪馬台国に辿り着けないことを知らないのだから、
延々と誤読し続けることになる。
陳寿は、同国人がまともに読めない文章を書いたことになる。
980日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:10:09
>>979
しかしそれは、陳寿が邪馬台国の位置を理解していたってのを前提にしてだろ。本当に理解
してたのか?会稽・東治の東にあると思ってたんじゃねの?
981日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:21:42
>>979
まあ「放射説」なんてのは、それこそ”素直に読んで”壁にぶち当たって始めて出てくる工夫だろうなw

放射説がトンデモなのは、それが最初から放射状コース前提で書かれているとした場合で

そうなると放射説を検討しなかった日本の過去の学者(勿論九州説の名だたる大家も含まれる)や
明確に連続式で読んだ梁代の中国人らは漢文も読めない馬鹿揃いと言う話になって

それこそ寝言は寝て言え!・・・になってしまうんだろうがwwwwwwwwww

ただ行程記事をものもしたのが実際に卑弥呼のもとに赴いた魏使ではなく
伊都国あたりに常駐していた郡使で
その文章が放射式で書かれていたとしたら?

で、その一次資料を陳壽かもしくはその前の記録者が(漢文の常道に基づいて)連続式で解釈して書いていたとしたら?

この場合、放射説の目は出てこないものかな?
982日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:25:12
理解もなにも陳寿は倭人伝だけ纏めたんじゃないぞ
魏史を書く上で、正確な倭国の位置など取るに足らない
983縄文人:2009/08/15(土) 22:01:29
魏の使節一行には半島の人間(半島の地理や末盧国までの渡海に関する知識を
有する人物や倭や倭人の言葉に通じた人物)が含まれていた筈である。魏の曹
操は人種や出身を問わず有能な人物を登用したことでも知られている。この人
材登用のあり方は曹丕にも引き継がれ、魏が呉、蜀を圧倒できたのもこの人材
登用のやり方に負う所も大きかったとされる。司馬懿が公孫氏を滅ぼしたのも
単なる武力によるものではなく、公孫氏陣営の有力者の懐柔など政略的な動き
によるところが大きい。こうして魏の帯方郡が確立されたのち、郡の官吏に多
くの半島人が登用されたであろうことは想像に難くない。もちろん半島の支配
のためである。魏が使節を送ったのは、卑弥呼の朝貢や要請に答えたものでも
あるが、呉と結ばれるのを防ぐことおよび半島支配の役に立たせようとの意図
もあったと思われる。ただし、倭国がとるに足らぬ弱小国であればわざわざ魏
帝の使節を送らず、郡からの使者で済ませたであろう。魏は倭国が半島に軍隊
を派遣しうる軍事力、経済力を持っていると認識していたのであろう。(続く)

984縄文人:2009/08/15(土) 22:03:03
983の続き
さて、倭人伝には郡から狗邪韓国までの距離を7千餘里と記述されている。こ
れがいわゆる魏の公式里(1里約430m)で表されているとすると3千km余と
なる。当然、実際の距離に合わない。魏の使節が半島の地理を知らなかったと
すれば思い違いで済むが、魏の使節団に半島の地理に通じた半島人が居たとす
れば思い違いでは済まされない。魏の使節団に半島の地理に通じた半島人が「居
た」、「居なかった」、を問うとすれば何れが道理に適っているか。もちろん、「居
た」であろう。魏帝の使節であるから、「目的地に到達できて使命を果たす」こ
とができないでは厳罰ものである。当然、必要な準備をして行く。

このような状況を考えれば、7千里餘は半島人の用いていた里で記述されてい
る可能性が出て来る。半島人が用いていた里がどのようなものであったかとい
う文献を私は知らないが、倭人伝にある数値と実際の距離から1里は50〜120m
程度ではないかと考えることが出来るのではないか。

とすれば、方角をねじ曲げなくてもよいし、九州内に邪馬台国を求めることが
出来るのである。倭人伝を素直に、そして当時の状況、情勢を考察しながら読
めばよいのである。
985日本@名無史さん:2009/08/15(土) 22:09:55
>>983 アホ縄
>倭国がとるに足らぬ弱小国であればわざわざ魏帝の使節を送らず、郡からの使者で済ませたであろう。
>魏は倭国が半島に軍隊を派遣しうる軍事力、経済力を持っていると認識していたのであろう。

まあ、そうなるともし九州の邪馬台国と纏向遺跡が時代的に並存していて
九州以東にヤマトを中心にした首長連合があったなら

当然、魏は倭における最大勢力のヤマト首長連合を選ぶ道理だなw

確実な実年代の確定材料がないかぎり完全否定はされないだろうが
それでもタイムスケジュール的にかなりタイトwwwwwww




986縄文人:2009/08/15(土) 22:22:23
>>985
あなたのような思慮不足の方とは議論になりません。
987縄文人:2009/08/15(土) 23:06:15
私は3世紀半ばの倭国は邪馬台国を盟主とする30国の連合国だと考えています。すなわち、對海国から始まって奴国で終る国々です。
女王国は邪馬台国です。行程記事の伊都国のところ*有王皆統属女王国と書いてあります。倭国=女王国とすれば矛盾します。

また、私は伊都国を糸島郡との語呂合わせから前原市辺りに比定する説には根拠がないと思っています。弥生時代の王墓級遺跡はありますが、
それが伊都国を証明するものとは言えません。そのような遺跡を残す國があったというだけです。伊都国は末盧国から東南の、陸路でしか行け
ぬところにあったのです。
988日本@名無史さん:2009/08/15(土) 23:10:03
かえすがえすも公孫淵がお馬鹿な事したのが悔やまれる
あの反乱が無ければ半島から日本列島にかけての情報がもっと多く残ってたろうに
989日本@名無史さん:2009/08/15(土) 23:25:00
魏に朝貢したから大国の歴史書に残ったと考えるべき
990日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:08:28
まあ九州説、畿内説を問わず、
30国が九州で収まらないのはガチだと思うぞ。
991二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 00:25:24
「目糞、鼻糞を笑う」とはよく言ったものですね。

笑えないなら私説を否定してみなさいwwwwwwwwwwwwwwwwww
(某氏のまね)
992日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:33:06
>>981
まあ、君らの読解力では放射式で読むってことに気づかないかも知れないが、
漢文に慣れた人ならば、十分に読めるんだよ。
昔から史書は連続式ばかりではなく、放射式も使用されていた。それほど難しい
読み方ではないってことだな。
993日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:49:14
>>991
皆に否定されてると思うけど。
994縄文人:2009/08/16(日) 00:50:59
>>990
なにを根拠に<30国が九州で収まらないのはガチだと思うぞ。>と言えますか?

倭人伝の記事では、倭国の中で大国と思われる國は2万戸の奴国、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国の3国です。
これに女王に属しない狗奴国の記載があります。狗奴国は滂(さんずいなし)国の記述の終わり 此女王境界所儘(にんべんなし)
の後に其南有狗奴国とありますから、邪馬台国の南にあったことになります。邪馬台国は倭国の中でも最大の人口を擁していますか
ら、九州のおよそ1/3の広さの版図を有していたと見ることが出来ます。私の推定では熊本県から宮崎県北部に跨がる國ではなかった
かと思われます。奴国は吉野ヶ里がある佐賀県南東部から福岡県の筑後川流域の一部を含む地域、投馬国は福岡県久留米市市から八女、
筑後、大牟田、熊本県荒尾あたりまでの地域であったろうと思います。その他の國は長崎県、佐賀県北西部、福岡県北東部、筑後川上
流域、福岡県中部,北東部、大分県で十分でしょう。狗奴国は大国邪馬台国と争うことの出来る國ですからこれも大国だったでしょう。
熊本県南部、宮崎県南部と鹿児島県にあったとすれば説明可能です。畿内説の皆様 すみませんね。まともな話で。
995日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:56:24
>>994
上にもあったが貸泉の出土分布図をみても、
1〜2世紀に西日本各地が中国と交流があったのは確実です。
996日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:57:53
同時代の雲南や華南などへの記述はどうなってたんだろうねえ。
997日本@名無史さん:2009/08/16(日) 01:00:34
>>995
倭人伝に書いてあるよ
漢の時代100国くらい使者が来たって
998日本@名無史さん:2009/08/16(日) 01:04:56
使者が来たとはかかれてないぞw
999日本@名無史さん:2009/08/16(日) 01:06:39
>>990 >>994
倭人伝が伝える国は対馬や壱岐がそれぞれ一つの国なんだ。九州島は壱岐の300倍、
壱岐(一支国)程度ならば300国も入る大きさなのだよ。
縄文人氏の言うとおり、大国は奴国、伊都国、投馬国、邪馬台国だけだ。それを含めて
30国ぐらい何と言うことはないさ。なお、縄文人氏は狗奴国をある程度の大国と考え
ているようだが、旁国という言葉は狗奴国にもかかっている。旁国は大国の傍らにある
小国、狗奴国もたいしたことはないとみるべきだと思うよ。
朝貢国同士で争うことは御法度だからね、狗奴国討伐の可能性も考え、根回しをしていた
だけかと思うがね。狗奴国が大国ならば、倭人伝以外の中国史書に出てこないことが不自
然だろ。
1000日本@名無史さん:2009/08/16(日) 01:11:10
30国入るという、国の大きさの事じゃないだろう。

とりあえず1000。
10011001
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