1 :
日本@名無史さん:
なんか武家官位とか江戸時代の武家官位とか摂関・将軍・太政大臣とか
限定されたのしかないので立てました。
とにかく官職と位階について語りたいんだよー!
蔭位はいつまで機能していたんだろう?
安倍吉平が970年頃に持っていた位階従八位上が蔭位だとすると、
すくなくとも冷泉朝までは機能していたことになるな。
当時父である晴明はまだ六位だった可能性が高く、
蔭位だとすれば祖父の蔭位(正四位の庶孫または従四位の嫡孫)だろう。
官職の下限ってどのあたりだろう?
主典以上と品官はまでは良いとして、史生とか府生あたりは官職だろうか?
舎人や使部は官職とは言えないか?
衛士や仕丁はまあ官職じゃないよな。少なくとも律令制度下では。
江戸時代の衛士は官職かもしれないけど。
4 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 23:40:54
位階 相当官職
従一位 太政大臣
正二位 左大臣
従二位 右大臣、内大臣
正三位 大納言
従三位 中納言、参議
5 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 23:41:28
正一位は贈位としての意味合いが強く、生前に正一位となったのは、
橘諸兄、藤原仲麻呂、藤原永手、三条実美のみ。
藤原道長や豊臣秀吉ですら生前に正一位にはなっていない。
参議には正式な相当位はありません。
有職故実的には正四位下とされていたようです。
現実の下限は従四位下上限は正二位。
7 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:08:46
昇殿を許されるのは従五位下以上の者のみ。
8 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:53:57
軍団の大毅や小毅は官位を持っていたのかな?
また、俘囚の族長が貢納したりして外従五位とかになってるな。
>>7 上級貴族は無位の童昇殿とかありますよ。
あとわすれちゃならない六位蔵人。
大毅・小毅は官位相当はない。
郡司の大領・少領のように初任時に与えられる位階が決まっているわけでもない。
正史に時折顔を出す軍毅は外従五位下の位階を持っていたりもする、
位階が記載されていない場合もある。これは省略なのか無位なのか?
多分通常は任命されて適当な年数が経てば位をもらえるとは思うが。
多分精勤だけでは五位ラインは絶対に無理で。
献金とか特別な功績とかなにかあったんだろう。
11 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:24:11
郡司って
宇治大領とか西成小領
みたく群名+階級なの?
○○郡大領とか○×郡主帳とか言うみたい。
13 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 18:43:40
ありがと
吉野郡大領は志摩守など
より偉そうだな
リクエストもしてみるもんだ。
地元図書館に「地下家伝」が入った。
15 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 19:27:21
謎なのが神祇官。
神祇伯は従四位下なのに太政官よりも上位。
神祇伯白川家は王称を許された。
16 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 04:30:23
正親町公薫
広沢兵助
10世紀後半から11世紀初頭生まれの貴族達。
つまり兼家の子と孫(953生まれの道隆から1005生まれの長家まで)の同世代の人達。
この世代の摂関5名、全員が摂関の子。
摂関以外の大臣5名、2名は摂関の子、2名は摂関の孫(父は大臣と参議)、残り1名は親王の子 。
大納言止まり14名、摂関の子6名、大臣の子3名、大納言の子1名、中納言の子3名、
五位少将の子1名、ただし中納言以下の4名は祖父又は養父が大納言以上。
中納言止まり17名、摂関の子2名、大臣の子4名、大納言の子5名、中納言の子3名、
参議の子(祖父は摂関)1名、四位の子2名(但し1名は大納言の孫)。
参議止まり12名、摂関の子1名、大臣の子3名、大納言の子3名、中納言の子2名、参議の子2名、
親王の子1名。
つまりこの時期の実体して参議以上の上級貴族の場合、父祖の地位を超えることはほぼ不可能だった。
父が早死等で地位が低い場合(行成等)は父の地位を超えることはままあるが、
その場合は祖父の地位を超えることはない。
唯一の例外は高藤流の権中納言泰憲(祖父は五位、父は四位)。
非参議三位の場合は父祖の地位を超えることはよくあった。
18 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 21:37:18
宇喜多秀家は従三位権大納言、嫡男秀高は従四位下侍従の官位がありましたが、流罪になって取り上げられたりしなかったんですか?
19 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 21:48:57
菅原道真の右大臣昇進は無茶すぎるな。
平清盛のように武力があるわけでもなく、祖父も父も参議止まりなのに
右大臣になんかなったら失脚するのは自明の理。
そう正三位中納言くらいが常識的なラインだな。
その程度ならとくに珍しくはない。
つまり九〜十世紀くらいだと中納言は中下級貴族の秀才に手の届く限界、
大納言以上は上級貴族の独占っていう感じ。
まあ例外は有るけどね。
22 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/25(日) 00:54:42
>>19 源実朝の右大臣昇進は無茶すぎるな。
…以下略
上卿やるつもりもないのに大臣になるなよな
言語道断な昇進と言えばやっぱり嵯峨源氏だな。
初叙従三位だの20代で大臣だの滅茶苦茶。
当然その後にもっと酷い例もあるけど、
先例や同時期との比較での突出ぶりは他の追随を許さない。
25 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:40:55
藤原時平も29歳で左大臣で、嵯峨源氏並のスピード昇進。
藤原伊周以前に20代で大臣になれたのは時平と源常のみ。
時平の昇進は基本的に常の先例にならっていると思われる。
違いは臣下の生まれ故にスタートが正五位下だったことくらい。
27 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:06:02
吉備真備の右大臣昇任は無茶すぎるな・・・
藤原鎌足の大臣は無茶すぎる。いくら死の直前とは言え。
頼通の場合は常とか時平とか公季とか伊周とかの先例の良いとこ取り。
従って個々の昇進はさほど無茶ではないが、全体を通すとかなりすごい。
摂政以外は新記録ってほどでもない。
30 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:52:44
参議と中将を兼任みたいなのがあるが兼任の上限みたいなのはあったの
大納言になったら中将は兼任はできないとか
31 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 13:13:37
もちろんそんな規定は存在しない。
しかし実体として大納言兼中将と言うのはなかったはず。
中将の相当位は従四位下であり実際にも四位クラスが任じられることが通常。
従って同様に四位クラスの参議との兼職は本来は特別なことではなかった。
従三位相当の中納言との兼職も、希ではあったが特別視されることではない。
それが貴族化の進行とともに、参議に進むときに中将を兼ねたままの場合と、
そうでない場合の区分が出来、エリート差す宰相中将と言う言葉も生じてくる。
ましてや中納言兼中将とは本当に特例となり、ほぼ摂関家の為の地位となる。
大納言の兼職として民部卿や按察使など、なんだかいつの間にか慣習化。
兼職の習慣は必然と偶然が混ざり合ってるんだろうな。
自分には区分できないけど。
黒坂伸夫氏とか笹山晴生氏とかの本でも読んでみてください。
32 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 11:15:16
>>31 黒坂伸夫 笹山晴生 を検索したけどなにも出てこなかった。
本のタイトルは?
33 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/31(土) 21:58:55
>>31>>32 【誤】黒坂伸夫→【正】黒板伸夫
分かった?
ちなみに黒板氏は、歴史小説の大家永井路子先生の旦那様。
大物日本史学者である故黒板勝美の甥でもある。
日本古代衛府制度の研究 摂関時代史論集 平安王朝の宮廷社会
平安の朝廷 その光と影 年表の下も出たので宜しく
但し、今となっては上記諸書も古い。
今、見るに堪えるのは玉井くらいか。
35 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:55:08
大臣家は近衛大将を兼ねることができないといわれているが
近衛大将だけだとなれっるってこと?
それとも大将は大納言か大臣しかなれないってことなのか?
家格としての大臣家は大将になれない。
大臣も成る資格が有ると言うだけで成れないことが多い。
37 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 18:11:36
大奥奥女中序列
◎御台所=篤姫
◎上葛年寄
◎御年寄
◎中年寄
◎御中葛
◎御小姓
ーーーーーー仕切り線
△麦使
△御右筆
△御次
△呉服之間
△御三之間
△御末間
△御茶之間
×使番
×御端下
松尾美恵子『江戸幕府女中分限帳について』『学習院女子短期大学紀要』第30号、1992より抜枠
38 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:15:59
仕切り線は御目見えの仕切り線か?
御目見得のラインは呉服之間と御三之間の間だったような。
でも御三之間は御目見得以下ではあるが上に行けるから
御末とはほとんど超えがたい壁があるらしい。
だから御三之間は身元のしっかりした旗本クラスの娘だったような。
40 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:09:30
大奥の女性って,御台所,将軍生母以外には官位は与えられなかったの?
御年寄は,表の老中相当だし,公家の娘も大奥にはいたのに。
一九世紀の例だと本家朝廷の女官でも大した位階を持っていないようです。
年齢によっても違いますが、宮廷女官長の大典侍が三位か四位、
事務長格の勾当内侍が正五位以下。
他の典侍・内侍は五位が通常で新任だとまだ無位。
その下の命婦になると筆頭のみ六位か五位、あとは無位のようです。
上皇付きになっても位階を持っている例はありますが無位の場合もあり詳細不明。
あと中宮付・春宮付・准后(文字通りの准皇后格)付女官は無位のようです。
42 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:38:33
>>41 へ〜,大典侍で三位もあるのか。
これ殿上人だよね,地下の三位ではなくて。
公卿級だね。
女官は典侍、内侍、命婦、三仲間(刀自もほぼ同格)の順になっており、
その下に仲居が存在するがこれは女官とは言い難いかも?
典侍は大納言直任の家(維新後の伯爵クラス)の娘。
ただし下級堂上の娘でも上記の猶子となれば典侍になれる。
また大臣家以上の娘はならない。
内侍=掌侍はそれ以下の堂上の娘を採用。
内侍から典侍への昇進はない。
命婦は地下で三位以上に成れる家(準ずる家含む)の娘を採用。
ただし広い意味で命婦に包摂される御差(平たく言えばトイレ係)は
四位の家の娘でもよい。
そう言うわけで御差は一番格下だが職務上天皇と直接話せるので、
命婦の中では一番親しいそうだ。
三仲間中御服所のみは無位の士分でも良いが、他は有位官人の娘。
仲居は士分の娘でも農民・町人の娘でも可。
44 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 08:45:38
参議と卿(式部卿、民部卿等)はどちらが上なんでしょうか?
官位相当はどちらも正四位下みたいだけどどちらが上ってなかった?
時代による変化もあったりして、明確な上下関係はありません。
なお参議の正四位下は正式な官位相当ではありません。
と言うより参議は職であっても正式には官ではないので官位相当など有り得ない。
しかし実質的にはいつの間にかなし崩し的に令外官化したので、
有職故実的な意味で相当位正四位下が意識されたようです。
元々参議は概ね卿クラスの人が任命されたので、発足当初は参議と卿はほぼ同等。
その後参議以上が公卿と言う概念が生じると、
公卿でないいこともある卿は参議より下ということになるかと。
ただし、卿と一口に言っても令制上は中務卿以外は同等ですが、
後には相当差が付いてきます。
式部卿・兵部卿などは親王が任じられることが多く明確な順位付けは無理。
民部卿は後には大納言クラスが兼ねる地位になり参議より上。
刑部卿などは非参議の最上級といった位置づけになり、参議より下。
46 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 12:41:42
非参議とか非蔵人とか単なる呼称のはずが、実質地位を表すのってわかりにくいな
48 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:39:33
国司の官が,受領ではなく称号や名乗りになってしまったのはいつ頃からでしょうか?
鎌倉期における御家人の国司任官は,まだ鎌倉殿の知行国における受領としての収入はあったのでしょうか。
49 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 15:03:53
羽林家は近衛少将中将、名家は弁官を経て納言へ昇進するけど
兵衛、衛門や各省の大輔、小輔を経て納言ってのはなかったのか?
近衛少将中将ってそんなに重要な職だったの?
名家は衛門佐とか省輔等も経験する。
近衛中少将はむしろ要職でないからこそエリートに喜ばれた。
エリートは顕職は好きだけど、要職はそうでもない。特に若い頃は。
責任が重い職は失敗も隣り合わせだから権力と直結しない要職は嫌い。
兵衛、衛門は弁官の兼任する職
52 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 08:06:30
>>51 兵衛佐、衛門佐ってこと?
督は参議、中納言の兼帯が多いと官職要解に書いてありました。
>>50 おどる大捜査線で捜査本部からはずされて喜ぶキャリアみたいなものか
第一級エリートは非参議中将、やや落ちると参議中将、二流は参議兵衛督
第一級は中納言中将、二流は中納言衛門督
長官より次官が好まれる。
55 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 08:14:45
まじ?
摂関全盛期以後だと、まず一流エリートは中将になるが、
一流エリートは参議は飛ばして権中納言に昇進、
少し落ちると参議に昇進しても中将兼任、
もう少し落ちると参議になると中将は解任される。
中将になれずに弁官から参議になるのが二流。
この人達は参議から中納言に進むくらいの間に、
右兵衛督→左兵衛督→右衛門督→左衛門督と順に昇進。
途中のどこかで検非違使別当を経験。
三流は式部大輔とかから三位になりかなり高齢で参議昇進。
但し道長・頼通世代ではまだ完全にはパターン化していない。
例えば道長は中将になっていないし、衛門督を経験している等。
一流エリートが就任する長官職って春宮大夫とか中宮大夫とかくらい。
あれは実利があるので特別のようだ。
57 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 13:00:43
兵衛督、衛門督は参議、中納言で兼帯して二位三位の人がなるから
二流といえないのでは?
58 :
柳也:2008/08/14(木) 13:26:15
正八位下
公卿になれる人は超一流エリート(江戸時代とかはそうでもないが)なのは
当然として、しかしその中でも厳然と階層差があり、四府督になる人は、
最上層でも、それに継ぐ階層でもないから二流ないし一流半だと思う。
キャリアでも次官は高嶺の花としても、みんなが局長になれるわけでもなし、
どこの局でも局長まで行ければとにもかくにも超エリートなんだろうけど、
次官コースの局長ポストとまず先がない局長ポストがあるってことで。
61 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 00:20:05
それじゃ、日本の政治や行政は、千数百年間なんの進歩も進化もないのか・・・。
62 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/18(月) 00:35:48
>>61 キャリア制度はある意味公平だよ。
開かれた試験によるものだし、前近代の官位なんかとは比較すんのは間違いだよ。
全然違う。
63 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 21:44:44
石川権右衛門尉
64 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 18:00:43
少納言は蔵人所の勢力が増してからは職権もなくなり、名ばかりの職となったと
よく本などに書いてあるけど職権なくなってからも少納言になった人いるの?
後、職権がなくなっても侍従を兼帯するのに魅力はなかったの?
少納言になった著名人
藤原道長(極若く一流エリートじゃない頃)
信西(出家するってごねてやっと就任)
66 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 18:46:08
>>64 将来天皇の侍講になる見込みがある学者の、腰掛けポジションかなぁ
67 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 20:23:10
>>65 >>66 サンクス
詳しいですね。
どんな本にそんなの載っているんですか?
道長の世代あたりまでは、少将ポストに空がなくて、
少将の代わり、またはポストが空くまでとりあえず就任、
ってこともあるので、エリート好みではないにしても、
やや傍流エリートなら就任することもあった官職。
道長は例外にしても、他にも少納言経験有りの公卿もいる。
道長はともかく信西の少納言就任エピソードは結構有名では?
各社の一般向け通史にも大概出ていたような。
道長の方は伝記類に出てる。
公卿の経歴はやっぱり公卿補任かな
69 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 22:44:57
公卿補任年表を買ってみたけど太政官の参議以上しか書いてありませんでした。
図書館に行けば国史大系の公卿補任くらいあるんじゃないですか。
道長の経歴くらいはネットでも拾えますしね。
道長の子能信、少納言、五位蔵人、左京大夫
なんか一番父親と経歴が似てるな若い頃は。
違いは少将にならずに代わりに中将と蔵人頭経験有りってところくらい?
従三位参議になりたい。
どうぞよろしく
>>72 じゃあ、とりあえず口宣案出すからとりにおいで。
74 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:35:21
あるサイトにこんなことが書いてありました。
>>摂家ならば少将で在っても大納言以下を家来扱いにしたという。
宮中の席次は官位で決まっていると思いますが普段の上下関係は官位より
家柄(家格)が優先したのでしょうか?
また摂家は大納言以下を家来扱いとは羽林名家のことか清華家も含めて?
75 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 15:49:31
今年の春頃だったか、どっかのスレで江戸時代の公家が斡旋した国掾について触れた書き込みを見たんだが、誰か心当たりないかい?
実際に町方の官位持ちがどのくらいいたのか、武家は斡旋を受けられたのかなどが気になるんだ。
76 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 16:07:43
祗園祭のお稚児さんは正五位の少将で10万石格の大名。
>>74 多分「幕末の宮廷」が元ネタ。
実際に清華含めて摂家の家来同然の場合がある。
門流といって摂家に官位昇進を握られているし、結婚・養子なんかも許可がいる。
例えば二条家の門流の公家も、他の摂家の機嫌を損ねると官位昇進とかで邪魔されるから、
そりゃあ直接関係ない摂家でも頭くらいはいくらでも下げると思う。
ああ言い忘れ
「官位なんて飾りです、今の人にはそれがわからないんですよ」
79 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 10:45:59
清華家と大臣家の間には特に上下関係はなかったのでしょうか?
少なくとも江戸時代に限れば、
摂家>超えられない壁>清華>>その他
って感じみたい。
摂家とそれ以下との関係のように実質的主従関係まではないけど、
清華と大臣家以下とはかなり差が有るようだ。
大臣家は平堂上と概念的には明確に区分されていたようだが、
官位昇進の実体も規定上も平堂上上位と変わらない。
多分歴史的経緯で尊重されていただけだろう。
大臣家って半家以上に中途半端な気がする。
半家って一口にいっても最上層の菅原氏旧家と最下層の丹波氏や大江氏とは、
大臣家(下手をすると清華と)と羽林最下層くらい差がある。
江戸時代も日野家ってなんかおいしい位置にいるね
大納言を極官とする半家の高倉家や菅原氏と非参議どまりの羽林の新家あたりでは実際どっちが格上だったんだろう?
幕末の状況だと名家は昇進が遅い。
五位蔵人を経験しなければならないから順番待ちで四〇過ぎても五位で足踏み。
その為親子の官位が変わらないなんてこともある。
そこからの昇進は早いけど、もっと家格が低くても三〇代で公卿になったりするのに。
羽林家=平均37歳で中納言
名家=平均51歳で中納言
87 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 09:34:20
この平均っていつ頃の平均ですか?それとも超時代的なんですか?
羽林は発祥の時点では素性の良いのと悪いのが混ざっている、
その点名家の方が同質である意味粒がそろってはいる。
半家は羽林にも名家にも入らないのを全部ぶち込んであるからごたまぜだな。
地下に毛の生えた程度の家まで含んでるし。
大江姓2軒なんか、1家は初代のみ三位どまり、
以後歴代比較的早死にとは言え公卿なし。
もう一家に至っては慶応に昇格だから一人も公卿なし。
まあなんにせよ八省卿にも手が届かないのは半家でも最下層。
90 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 09:59:46
江戸時代の摂家は20そこそこで大臣 30歳で摂関 40歳で隠居
清華は40位でやっと大臣、右大臣以上になるのは晩年、大納言で終わった人も多い。
大臣家は羽林家最上位と大して変わらない、内大臣に上がれる可能性があるというだけで実際に上がるのは極僅か、しかも隠居直前の超短期。
91 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:44:53
予想はしていたが、官位位階も過疎化の波には勝てないようだな。
日本官名の由来(その1:太政官編)
『大臣』
古代中国にも朝鮮半島諸国にも官名としての先例はなく日本オリジナルの模様。
むろん重臣とか言う意味では使われているからそれが由来なのは間違いないだろうが。
その後清ななんたら大臣というのが良くあるがこれはこれで清のオリジナルらしい。
ただし清末の各部大臣は近現代日本の大臣同様のもので日本の模倣かも。
『大納言・中納言・少納言』
周礼の納言、北周の納言大夫の流れをくむ隋の納言が直接の由来。
『参議』
官職名そのものとしては古代中国にもないようだが、
職名ないし資格としての参議朝政は唐に有り、これが直接の由来のようだ。
明になると地方官に左右参議がある。これはこれで明オリジナルのようだ。
『弁官』
これも官職名としての先例はなく日本オリジナルらしい。
弁ずるとか言う言葉の意味から取ったんだろう。
『史』
元々は祭祀官らしいが、祭祀の必要上の記録を保持したためか記録官の意味に転じ、
さらに書記一般の意味に転じて史系統の官職名の先例には事欠かない。
日本の場合は書記官の意味で採用したようだ。
『外記』
直接の先例はないようだが、類似のものとして周礼に外史がある。
『史生』
史の方は書記の史として、生の方はなんだろう?
唐で漏刻博士(時刻係)の部下が漏刻生(本来は漏時部門の学生だろうが)だったり
することから、史の下役で史生なのだろうか?
『官掌』
唐で中央官庁の下級職員を内職掌、地方官庁の下級職員を外職掌と称した。
おそらくこれを参考にしたんだろう。
『使部』
多分オリジナル
日本官名の由来を考察(その2:八省)
『卿』
九卿からの伝統有る唐の九寺の長官である卿が直接の由来か?
新羅にも卿の官名は有るが中央大官庁の次官ないし、中規模官庁の長官格なので、
直接の由来ではないと思う。
『大少輔』
助ける(補佐する)と言う一般的な意味から取った模様。
左輔とか言うものが古典などに出てくるようだけど、相方が右弼なので、
この場合の由来とは言い難いか。
高句麗の官名に左右輔とかがあるようだが、正式なものか中国側の翻訳か不明。
正式なものならそっちが由来?
『大少丞』
長官を助ける意味の官名としての丞は秦以来使われている。
当初は次官だったが、後には大官庁では上に次官が出来て判官になっている。
直接の由来は唐の九寺の判官の丞だろう。
『大少録』
直接の先例はないようだが、唐の諸官庁にいた録事あたりが由来か?
『省掌』
官掌に同じ。
『大中少内記』
外記同様周礼に内史がある。隋(唐でも一時)では中書令を内史と呼んだが、
地位が懸絶しすぎで関係ないだろう。
『侍従』
『大少主鈴』
『大中少監物』
『大中少判事』
『大中少解部』
このあたりは職務内容から取ったようで官職名そのものとしてはオリジナルだろう。
もっとも主○などと言う官職名は中国にもままある。
日本官名の由来を考察(その3:職・寮)
『大夫』
秦以後○○大夫の官は多いが、北周の諸官庁の長官が大夫でこれが由来か?
唐も一時的に六部の下の24司の長官の郎中を大夫と改名したり、
省の下にある局の長官を大夫に改名したりしたことがある。
『亮』
官職名としては全く先例はない模様、単に助ける意味の漢字を適当に当てはめたようだ。
『進』
官職名としては全く先例はない模様、由来は全く不明見当も付かない。
『属』
単に属官の意味から取ったのかもしれないが、漢以後(秦も?)○曹属 等の官名は多い。
『職掌』
官掌とかと同じだろうな。
『頭』
朝鮮半島の方の地方官に郡頭とか言うのがあったからそれが由来か?
一般的な長の意味かもしれないが。
『助』
一般的な助ける意味の漢字の当てはめか?なお新羅の地方官に州助と言うのがある。
『允』
中国に中允とか言う官職名があったはず。渤海も允の官職名は使ってるな
日本官名の由来を考察(その4:司・監・署)
『正』
先例としては官庁の長官ではないが、廷尉の属官の廷尉正(漢以後)がある。
『奉膳』
唐の局長名として○○奉御って言うのが有る、これあたりが先例?
『佑』
助ける意味の漢字の当てはめだろうな、官職名としての先例はないようだ。
他官庁の次官と違い判官だけど、司・監には次官がなく判官が次席だからか?
『令史』
秦以後唐まで下級書記官として多用されている。
96 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:52:14
豊臣国松は無位無官?
97 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 01:56:06
権兵衛
98 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 13:49:40
質問なんだけど、戦国期に「大納言」やらを称していた
修験者がいるようですが、こういったものは無論僭称でしょうけど、
これらは周囲は認めたのでしょうか。また、こういった公卿クラスの
官途の自称はどういう意味があったのでしょうか。
富士山系の修験者「大納言殿」あての今川氏書状などがあるそうです
100 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 19:39:17
100あげ
101 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 12:42:02
876 :日本@名無史さん:2008/12/09(火) 19:01:21
公家の官位の昇進のスピードですが、
摂関家と清華家では、昇進のスピードは、
どのくらい変わってくるんだですかね?。
877 :日本@名無史さん:2008/12/09(火) 23:16:33
>>876 何代か前の官位スレで,公家の家格別の昇進ルートや速度を書き込んでくれた人がいたけど。
官位スレか公家系のスレで聞いた方が良いんじゃない。
ここは江戸時代の武家限定スレだから。
878 :日本@名無史さん:2008/12/10(水) 02:00:10
>>876 摂家は10代で大納言、二十歳で内大臣、程なくして摂関。
大臣位は5年おき位に付いてくる。太政大臣になるのは50超え位。
華族は中年まで大納言、40近くで内大臣、晩年に左右大臣になれたらラッキー。
歴代当主でも大臣になれなくて大納言で終わった者が半数近く。
格の低い華族なら内大臣出世率が二割切るよ。
102 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:06:02
二十代で大臣位貰って、部下に四十五十の中年がいるんだろ?
あとは死ぬまで他の公家を、年長者であってもあごで使う人生か・・・
大蔵キャリアが三十前で地方の税務署長やってたみたいな歪みを感じるんだが
こういう環境で育った摂家の連中は性格どうだったんだろ?
国務大臣の単独輔弼制となっていた帝国憲法下ならともかく、
国務大臣が総理大臣に指名されて罷免される可能性がある現憲法下では、
「財務大臣」ではなく「財務卿」となるべきだと思うんだ……
>>103 左大臣右大臣のような律令の感覚からすれば大げさだが、皇帝補佐官というべき職務だった清の軍機大臣の例があるから、国務大臣もそれなりに間違いではない。
内閣と言う語は明の内閣大学士からきているし
105 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:11:46
>>102 現在でも社長の息子は20代でも役付きで40代、50代のおっさんを顎で使えるだろ
それを言い出したら天皇なんかは一桁の年齢で即位しても
他のあらゆる臣下連中を顎で使えたわけだ
血筋というのはそんなんもんだろ
106 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:09:34
>>102 摂関家ではないが、生まれながらの貴人には14代将軍家茂のように、
毒舌家の勝海舟でさえベタボメするくらい性格のよかった人もいるから、
生まれながらの貴人と現代の学校秀才のキャリア官僚は比較できん。
最後の殿様浅野長勲の回想でも、殿様は家臣に相当気を使っていた。
107 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:34:21
蔵人頭は「殿上における席次も、上の位階の殿上人よりも上座」とあるけど
参議や中納言より上座だったの?
三位中将など同クラスの官だったら位階は関係なく上座ってだけ?
殿上人は四位、五位の人々の昇殿をゆるされたものの通称である。
ここでいう殿上人は公卿との対比であると考えられ、四位参議は公卿に列するので
殿上人の範囲に含まれない。
109 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/22(木) 23:19:35
>>102 生まれながらに人間は平等じゃない時代と生まれながらに人間は平等である(と思い込んでる)時代を比較する愚。
110 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 12:29:15
111 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 16:48:06
>>108 三位中将だと公卿だから席次は三位中将が上になるってこと?
113 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 07:25:37
わいは大阪の田舎者とちゃうで
銀座の流石で1600円の蕎麦
喰うたこともあるんや
ゴイサギは鳥の鷺だけど、天皇から従五位の位階をいただいた貴族。
紫式部や清少納言でさえ無位無官だから、すごいぞゴイサギ。
霊元院に参代拝謁した象は四品だっけ?
116 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 14:07:41
うちに昔いた
芸者十姉妹は大納言
117 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 14:31:37
活け伊勢海老料理の中納言
118 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:48:58
右大将、左大将では左大将が上と明確な決まりがあるんでしょうか?
その他、兵衛、衛門、弁官なども左が上なんでしょうか?
摂家、清華の二位右大臣と羽林出身の従一位准大臣ではどちらが席次上ですか?
120 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:48:04
122 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 18:05:38
帝のいるのが北なので
東(左)が上位
123 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:58:22
>>118 衛門府の場合
右衛門督、右衛門佐、右衛門尉が
江戸諸侯の忌避官名みないになってしまってるので
優劣以前の問題だな
124 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:00:58
125 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:05:21
松永久通(天下人への反逆)や
増田長盛(東西双方への内通)らの名乗りだから
右兵衛尉も兄を密告し、自身は出世した飯富(山県)三郎兵衛の
官名なので避けられた
尾張守も忌避官名
陶隆房(主家に謀叛)と
松田憲秀(主家を裏切る)
>123
田安家は右衛門督を称しているようですから、督は忌避官名とはちょっと
違うように思います。
(左衛門督は水戸家ですね。)
128 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 07:00:59
常陸介は紀州家に取られよったからな
陪臣では上杉家臣の毛利一族が
尾張守を一時名乗ってた(後に改めたが)
129 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:34:49
>>28 父の中臣御食子は大連までなったと言われるので
子の鎌足が大臣ってこと自体は無茶ではない。
中臣御食子の大連就任は無茶かもしれんが。
130 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 14:05:27
物部守屋の死去後は大連は空席、実質的には廃止になったのでは。
中臣氏より有力だった大伴氏も大連に返り咲いた気配は無い。
後に藤原氏が全盛を極めた以後に「鎌足は大連の子」と子孫が強弁したんではなかろうか。
131 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 15:36:37
age
132 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 15:38:58
尾張守は尾張徳川家に対する遠慮じゃない?
133 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 18:20:05
尾張家がなんぼのもんや
タコスケに遠慮なんか要らんわい
134 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 09:34:55
摂関、清華、羽林家は少将中将になるけどポストは足りたの?
摂関家は元服すると一気に少将中将中納言って昇進してしまうけど
定員関係なく任じられる?
>>134 摂関家の権力があれば、1人無理やり更迭するくらいは朝飯前
>>135 中将辞任したらその後昇任できなくなるわけではないからね
>>136 勿論、明け渡した方にも普通は何らかの見返りがあるだろうし。
138 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 19:42:51
摂関家以外は空きを待つしかなってことですね。
139 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:05:17
官位がほぼ同格の会津松平家と彦根井伊家はどちらが席次は上なんでしょう?
140 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:32:24
井伊が
松平肥後守大儀である
とか言えんやろ
141 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:53:42
徳川の視点からなら、当然家門が上位
142 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:51:46
官位と幕府の役職とはどちらが上位者?
例えば、井伊より官位は上だが、井伊が大老だったらどうよとか
143 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 19:09:52
大老なら前田でも畳に手をついて挨拶するだろう
幕末は諸侯がえばりだし
宇和島伊達レベルでも大老にタメ口
144 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:31:04
征夷大将軍て何位相当?
足利義栄って従五位下でなれたよね?
145 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:35:09
146 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:23:37
参議も正式には相当する位階はない
147 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 12:39:35
>>146 よく官位相当表には参議は正四位下とあるけどあれは違うの?
148 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 19:06:46
参議は正四位下
中将が従四位下
江戸期にはデフレになり
侍従でも従四位下
>>144 ない。
征夷大将軍は朝廷の臨時職で、必要性のある時節にそのつど人選して任命するという建て前。
だから三位以下でもなれるが、慣例的には三位以下の当該職は大将軍とは呼ばれず、単に将軍と呼ばれた。
征夷大将軍の特典は幕府を開けること、とよく言われるが、
むしろその特典は位階によらず政所をおけるところにあると言えるだろう。
政所は貴人の家政機関であり、ひとつに朝廷から授与される幕権の軍政権と、
もうひとつ政所機能における家政の統制権が武家政治の大きな骨格をなす。
全国支配に乗り出すにはもうひとつの鍵が必要で、それが裁量的な地頭の設置に当たる。
つまり、家政機関によって統制しうる人間を各地の地頭におき、
その地頭を家政機関側の論理から統裁することによって全国くまなく統治することが可能になる。
というのがそもそもの仕組みで、だから武家官位の高さと
幕府の職の高低にねじれがある場合はどちらが上か、というのはあまり意味がない設問。
第一、武家官位は全て権官扱いと当の権現様が決めたことだし、
基本的に朝廷と幕府の優先順位を比べざるをえない状況に家臣を置くことは当の幕府が嫌った。
権官扱いが建前だけど実際には意図的に重複を避けてたり避けてなかったり
151 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:54:37
>>147 参議には「行」「守」がつかないので、相当する位階はないのでは
>>151 うん。そのとおり
でも、三位以上と参議を公卿としていたことから八省の卿と同格か格上と扱われていたのも事実
参議になる順番を見れば官位相当は想像が付くから入ってるんだろう。
大体太政官の上位クラスで官位相当が決められてないのが不思議なんだがな。
では何で,同じ令外官の中納言には官位相当があるのだろう?
155 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 01:17:42
>>154 うろ覚えレベルだが、
参議は位階に関係なく、議政官にするということだから、
その意味で、相当する官位はけっていできなかった。
中納言は准大納言ということで、相当する官位は決めやすかったのだろう。
ちなみに、内大臣は本来、大臣就任資格のない人を大臣待遇にするという
「内臣」の性格を引き継いでいるので、その意味では参議と似ているのかもしれない
156 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:00:32
武田勝頼は無位無冠
157 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:16:03
武田信吉も無位無官
158 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:29:19
二条師孝 従二位左近衛大将
この場合は大納言や大臣で兼ねないで左近衛大将になったってこと?
近衛大将は大納言や大臣でもなくてもなれるものなの?
確か前権大納言じゃなかったっけ?
160 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:25:59
官位相当では大納言>近衛大将だけど
実際は近衛大将>大納言ってこと?
官位の上下関係が難しいorz
161 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 00:46:43
>>160 清華家の定義が、大臣兼近衛大将を極官とする家なので
そういうことになると思う
162 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:41:39
攝家官位昇進經路:從五位上or正五位下近衞權少將→近衞權中將→從三位→權中納言→權大納言→兼左近衞大將→内大臣→右大臣→左大臣→攝關→太政大臣
清華家官位昇進經路:侍從從五位下→近衞權少將→近衞權中將→從三位→權中納言→權大納言→兼右近衞大將→内大臣→右大臣→左大臣(→太政大臣)
163 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:52:03
>>162 詳しくありがとう。
左大将は摂家、右大将は清華家って決まっていたんですね。
166 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:50:47
嶋津薩摩守
北條河内守
鍋嶋信濃守
とか書くだろ?
167 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:24:09
>>162 清華家も中将から参議を経ずに中納言になるの?
大臣家以下は参議を経て中納言に昇進?
168 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:39:55
ここの質問内容がWikiに反映されていた。
169 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 12:46:35
俺も○○守に推挙されて「○州殿」とか呼ばれたい
170 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:29:58
アンドロメダ守にしてやる
171 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:31:24
172 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:58:25
質問ですが陸軍で上の階級に行けば、官位はあるのですか? 徴兵された場合は
官位はないのですか?
173 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:03:38
174 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:10:48
ありがとうございます。一つだけうかがいたいのですが、
尉官、佐官、将官が戦地で生きのこった場合のみ、その階級相応の官位が貰えるのですか?
回答よろしくお願いいたします。
175 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:25:56
>>174 今の警官が殉職したら昇級するように軍人の場合も戦死した方が高い官位が貰える
有名な山本五十六の場合
戦死後階級が大将→元帥たる海軍大将
従三位→正三位
226事件で首謀者として死刑になった尉官が8位だか7位、これは死んでも勿論官位は上がらない。
176 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:44:01
徴兵された兵士でも貰えるのという事なのですか?
あくまでも国民が国の指令で徴兵された 場合です。
177 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:34:03
>>176 徴兵された兵士は上等兵止まりだから戦死して昇任するか軍務を延長して伍長以上の下士官にならないと原則として位階は貰えない。
178 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:40:22
私の先祖の墓に陸軍中将と書かれていたのですが、その場合は官位を貰っているのですか?
国家命令で徴兵されたのですが。
179 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:42:16
私の先祖の墓に陸軍中将と書いてあったのですが、その場合は官位を貰っているのですか?
国家命令で徴兵されたのですが。
真面目なレスよろしくお願いします。
180 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:43:57
二階進等級なので最終階級が佐官であった可能性が高いです。
>>180 通常の戦死は一階級進級、必殺の特攻や抜群の戦績で2階級特進が原則。
明治維新のドサクサ時期は別として太平洋戦争で特進中将になるには2階級特進するにも最低大佐である事が必要。
軍医や技術屋以外で大佐まで昇進するには志願でしかも士官学校卒業のエリート職業軍人であった可能性が高いと思う。
少なくても徴兵された一般兵では無いでしょう。
国家命令で取られたというのはもしかして予備役に編入された退役将校だったとか?
一般兵が成績優秀で戦時に昇進しても少佐が限度、死んで2階級特進、大佐。
182 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:34:58
(日本軍で)大東亜戦争で戦死されたのなら大佐で島嶼玉砕戦の指揮官(連隊長クラス)
戦死していない通常進級ならば名前を検索したら必ずヒットするかなりのエリート職業軍人。
徴兵された一般市民という事はあり得ない。
ご先祖様の名前、検索されてみては?
大佐から中将なんて滅多におられないので戦史に残るほどの活躍をしているはずですよ。
近衛中将じゃね?
184 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:21:42
そこまですごかったとは。
戦地へ行ったのがたしか、大正時代から 昭和の始めだと思うので、環境が太平洋戦争の頃と比べて変わっていたかも知れません。
ただ、大佐から中将の方があまりいないというのは驚きです。近衛中将であればよいですが
時代が明治以降ですので、。
ただ、これほどまで すごい人が曾祖父、にいたというのは
私としては名誉な事です。
情報ありがとうございました。
太平洋戦争の頃は未曾有の戦死者が出たので大正末や昭和初めよりも進級が早いよ。
平和なときの軍人の進級はかなり遅いです。
186 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:44:36
なるほど、たしかに大日本帝国陸軍 中将と書かれてあったので、二階進等級など で階級が上がったとすれば陸軍大佐かな と思ったりもしました。
私の祖父は兵卒ですが、その祖父の兄ですので日中戦争の前、つまり満州の戦争 の頃か、その後の時代に戦地に行ったと思います。
187 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:58:38
実際には母親の母親の父親です。
つまり私の父親と母親は、はとこ同士になります。
そこは置いておいて、ただ陸軍の上の階級だったという事は 名誉です。
今でも防衛大学出ても中佐で退職日にお手盛り大佐昇進定年なんかザラにある。
確実に大佐以上に行くのなら指揮幕僚課程(昔の陸軍大学優等)出ないと無理。
大佐から少将に進めるのは一割以下、中将は雲の上。
189 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 03:36:43
私の曾祖父は最終階級が佐官だったという事です。
つまり、士官レベルにはなっていたのではないでしょうか?
少尉以上が士官だから士官以上でしょ?
尉官が初級士官、佐官が中堅士官、将官が高級士官。
191 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 23:25:37
大臣家官位昇進經路:侍從從五位下→近衞權少將→近衞權中將→參議→從三位→權中納言→權大納言→内大臣
羽林家官位昇進經路@:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將(→藏人頭)→參議→從三位→權中納言→權大納言→本座→從一位→准大臣
羽林家官位昇進經路A:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將(→藏人頭)→參議→從三位→權中納言→權大納言→本座→從一位
羽林家官位昇進經路B:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將(→藏人頭)→參議→從三位→權中納言→權大納言
羽林家官位昇進經路C:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將→從三位→參議→權中納言→權大納言
羽林家官位昇進經路D:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將→從三位→參議→權中納言
羽林家官位昇進經路E:從五位下→從五位上侍從→近衞權少將→近衞權中將→從三位→參議
名家官位昇進經路@:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨(→藏人頭)→右大辨→左大辨→參議→從三位→權中納言→權大納言→本座→從一位→准大臣
名家官位昇進經路A:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨(→藏人頭)→右大辨→左大辨→參議→從三位→權中納言→權大納言→本座→從一位
名家官位昇進經路B:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨(→藏人頭)→右大辨→左大辨→參議→從三位→權中納言→權大納言
名家官位昇進經路C:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨→右大辨→左大辨→從三位→參議→權中納言→權大納言
名家官位昇進經路D:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨→右大辨→左大辨→從三位→參議→權中納言
名家官位昇進經路E:從五位下→從五位上八省輔or衞府佐(→檢非違使)→右少辨→左少辨(→五位藏人)→右中辨→權左中辨→左中辨→右大辨→左大辨→從三位→參議
192 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:10:47
命婦・掌侍・内侍・尚侍って在るけど順位的にはどうなの?
193 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 20:52:25
まず「内侍」には二つの意味があります。
@後宮十二司の一つである内侍司(ないしのつかさ)の職員の総称としての意味。
A内侍司の判官(三等官)である掌侍(ないしのぜう)の別名としての意味。
Aに関しては、令制下の他の官司でも判官(三等官)をその官司の総称をもって呼称する例であることによります。
内侍司での被管関係は以下のようになります。
長官:尚侍(=女御・更衣に准ず。但し鎌倉期以降闕官)
次官:典侍(天皇の秘書官長格もしくは側室)
判官:掌侍(天皇の秘書官格・首席者を「勾当内侍(こうとうのないし)」と呼ぶ)
※後宮十二司には主典はいない。
ちなみに尚侍は摂関家の娘、典侍は羽林家・名家の上層(大中納言級)の娘、掌侍はそれ以下の家格の娘が任じられたようです。
命婦はもともと官職ではなく、女王および五位以上の女性(内命婦)、もしくは五位以上の男性の配偶者(外命婦)を指す語です。
但し時代が下るにつれて内侍司に奉仕する女性の呼称となりました。
194 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:47:10
>>191 本座とはどんなものでしょうか?
官職要解、有職故実の本にも書いてなかったのでご教示ください。
195 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 01:04:45
>>194 功労により、権大納言を止めた後も権大納言の座次を許された者のことです。
前権大納言は通常現任権大納言の下座に着きますが、本座宣下を聴されると現任権大納言の上座に着きます。
もともと権中納言や参議にも本座はあったらしいですが、後に権大納言だけに限定されます。
概ね内大臣以上に昇れない羽林家・名家のうちの上層の家格の者が宣下され、本座宣下された者は後に従一位宣下され、さらに一部の家では准大臣宣下されます(下記一覧参照)。
逆に言えば、原則的に、本座宣下されなければ従一位宣下されず、従一位宣下されなければ准大臣宣下されません。
但し、徳川家齊の実父徳川治済(一橋徳川家第二代)は従二位(前)権大納言から従一位に直接昇叙、後に准大臣宣下されており、本座宣下がなされた形跡がありません。
因みに家齊の男子である徳川齊順(紀伊徳川家第十一代)を養子とした徳川治寶(紀伊徳川家第十代)は紀伊家の極位極官である従二位権大納言から正二位に昇叙、後に従一位宣下されています(齊順本人も正二位に昇叙している)。
これらの例外的措置は徳川家齊の権勢によるお手盛りと思われます。
■本座宣下→従一位宣下→准大臣宣下の家(大臣家に次ぐ)
―羽林家:中山、中御門(松木)、園
―名家:廣橋
■本座宣下→従一位宣下の家(上記に次ぐ)
―羽林家:飛鳥井、庭田
―名家:日野、柳原、烏丸、甘露寺、葉室、勧修寺、万里小路、清閑寺、中御門、坊城
知己にTさまというおじいちゃまが バブルの頃いらっしゃいました。 企画院官僚を誇りにされ 何と名刺に 天皇から戴いた 従三位が印刷されていました 普通のおじいちゃまなのに 水戸黄門レベル!
総理大臣や経団連の名刺も見劣りするかも 正三位以上はなかなかたいへんでしょう…戦前の叙位?
197 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 01:58:55
日本では
もう正一位は出ないのかな?
お稲荷さんナムナム 南む稲荷大明神?
>>195 公家ではない武家官位の場合でも、
本座宣下→従一位宣下→准大臣宣下
という順を辿るのが原則なのでしょうか?
江戸時代の武家で、本座宣下された権大納言経験者は
いたのでしょうか?
200 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 12:48:30
武家官位についても書いてあるじゃん
そもそも江戸時代に従一位以上に昇った武家なんて将軍以外には
>>195に書いてある人だけだった気がする
>>200 そうじゃなくて、江戸の武家官位自体が公家諸法度で(公家の)官位の例外だけど、
その例外としての武家官位の枠組みにおいても、本来的には本座宣下や
従一位が准大臣になるための前提用件として必要なのかな?、あるいは
武家官位そのものが既に例外だから特に不要なのかな?と思ったって意味。
徳川治済しか准大臣の例がないから推測になるんだろうけど・・・
202 :
195:2009/07/21(火) 21:30:50
>>199>>201 他の例がないかお手軽にWikipediaで探してみましたところ、やはり家齊の男子である徳川齊荘(田安徳川家第四代)を養子とした徳川齊匡(田安徳川家第三代)が従一位宣下されていました。
江戸期に将軍家以外の武家で従一位以上に昇ったのは徳川治済・徳川治寶・徳川齊荘の3例であることが確認されます。
これを踏まえると、従一位宣下に加えて准大臣宣下もなされた徳川治済が家齊の実父であり、従一位宣下された徳川治寶・徳川齊荘がそろって家齊の男子の養父であることから、
これらが武家史上類例のない昇進を遂げた時の最高権力者家齊のお手盛り昇進であることが推測されます。
事実、家齊の男子を養子に迎えたその他の家も概ね官位昇進・家格上昇などの栄に浴しています。
また、武家官位自体もそれなりに整理された制度であったことを考えれば、わずか3例をもって常例と判断することはできません。
そしてそもそも従一位と言えば将軍世子(従二位権大納言兼右近衛大将)よりも宮中の座次が上になり、まず異例と考えられます。
異例(「当官外」)中の異例であるこのような昇進に、本座宣下を先行させるという常例が踏まえられたかは、記録がないこともあり、推測すらできません。
ところで時代を遡れば足利将軍家には権大納言から本座宣下を経ずに従一位に昇った例が散見されます。
ただこれら足利将軍はそのほとんどがその後に内大臣以上に昇進していること、また足利将軍家の家格が清華家であることから、大臣になれない家格の武家が本座宣下を経ずに従一位昇叙となる例としては適当ではないでしょう
(足利将軍家は大臣に大将を兼ねられる清華家の格式と考えられます。また近世武家官位制下の武家は、その昇進ルートから、みな潜在的に羽林家に准ずると考えられます)。
また室町期に本座→従一位→准大臣というルートが確立されていたかどうかについても、勉強不足のため確言できません。
綱吉生母 桂昌院は
従1位→正1位でつか
>>202 長文の返信ありがとうございます。
とても勉強になりました。
足利将軍と違って徳川将軍は准后宣下なども受けていないようですね。
公家の官位と武家官位を当官外と峻別して定員を考える必要がなくなったことで、
任じられてすぐに辞したり定員数の面からの他の人の任官・昇進への配慮も必要
なくなり、また豊臣時代のように武家が独占するような異常な事態になることもなく、
准后や本座といった朝廷内での席次上の処遇・序列については徳川は必要性の面から
あまり重視しなかったのかな、と何の根拠もないですがちょっと想像してみました。
>>204 家康や秀忠の宮中での格式は,上皇の格式だったと何かで読んだ。
この格式は,足利将軍の清華家の家格はもちろんのこと,摂関家よりも上の格式。
上皇の格式があれば,徳川将軍は,格下の准后や本座は必要としなかったのではないか
206 :
195:2009/07/23(木) 21:43:23
>>204 私もまったく同様に考えております。
また禁中並公家諸法度に規定された宮中座次はもともと公家衆を規制するものなので、武家がそれに拘る必然性がなかったと言えます。
武家の格式はあくまでも武家官位制内だけで考えるべきかも知れません。
その中で先に挙げた三人の例はやはり特別な事由による「一階級特進」のようなものかと思います。
>>205 あ、一応付言しますと、足利将軍は官位昇進の上では清華家ですが、
言わずもがな事実上の日本国王なので(一応国際的にも認められていますが)、
年二回の決まった日(確か年末と年始)に摂家以下公卿・殿上人・官務・外記に至るまでが武家御所に参賀します。
また言わずもがな義満は生前から院の格式で遇されていたので、
家康・秀忠はその例によるのかも知れませんね。
ただ幕末の家茂などは家康らと比べればかなりひどいあしらいを受けたと言いますね。
>>203 桂昌院(お玉→藤原光子)は無位無官から、いきなり武家(町人)女性最高位 従一位どまりです。
宮中座次では内大臣よりも従一位の方、参議よりも正二位の方が格下なんだね
位階が高くても、官職に就いたことがないと散位・非参議では扱いが低くなるのかな
209 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 09:44:42
宮中座次
摂政・関白
准三后(前摂関)
三公(太政大臣>左大臣>右大臣)
准三后(門跡)
親王
前摂関
摂家前三公(太政大臣>左大臣>右大臣)
清華家前大臣(左大臣>右大臣)
内大臣
前内大臣
准大臣
従一位
本座
権大納言
前権大納言
権中納言
前権中納言
参議
前参議
非参議(正二位>従二位>正三位>従三位) ↑公卿
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
蔵人頭 ↓殿上人
四位殿上人
五位殿上人 ↑殿上人
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
地下四位諸大夫 ↓地下諸大夫
地下五位諸大夫
六位蔵人 ↑地下諸大夫
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
六位以下 ↓侍
>>209 まとめ乙!
半家とか正二位の非参議は従四位下の参議より下位ってことになるんだろうけど、
偉いのか偉くないのかよく分からんw位階だけ見ると大臣クラスなのに…
三品二品一品は 座次なし?
212 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:55:26
>親王
ってとこに入るんじゃないの
>>211 >一品親王には 位田 80町・ 品封 800戸(『 拾芥抄 』では600戸)・ 資人 160人が支給された。他に文学(ふみはかせ・親王のみ)・家令(いえのかみ)・扶(すけ)・大従・少従・大書吏・少書吏各1名が 家司 として派遣された。
立場としては 正一位 ・ 従一位 と同様に扱われており、待遇としてはそれを上回った。また、正従一位と同様に 太政大臣 に就任する資格があった。〈ヰキより〉
左大臣と右大臣の差って意外に大きい?
>
左大臣(さだいじん)は、 朝廷 の最高機関、 太政官 の職の一つ。 唐名 は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。 和訓 は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。官位相当は正・従二位。
「 一上 (いちのかみ)」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる 議政官 の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の 太政大臣 は具体的職掌がなく、功労者を待遇する名誉職であり、また「則闕(そっけつ)の官」といって
常置の職ではなかったため、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。…『 日本書紀 』『 続日本紀 』などの記録を見ると、 律令制 の初期には適任者がなく左大臣が不在となっていた時期も少なくない。その場合は 右大臣 が政務を代行した。
10世紀前半の 藤原忠平 から、ほぼ常設となった。〈ヰキより〉
☆皇族しかお成りになれない身分だたのに長屋親王事件以降 徐々に民間ピープルに纂奪されてしまいました 今は当選した小貝議員しか成れません(・_・、)
216 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 20:46:48
>>211 >>212の言うとおり親王の座次に入ります。
ところで宮中座次が固まったのは江戸期であり、令の規定とはほとんど無関係です。
ちなみに官位等に関して令の記述を真に受けて、それが明治維新に至るまで貫徹されたと考えるとまったくの的外れになります。
217 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:33:02
源氏物語を見ていると、
左大臣が臣籍降下すぐの源氏に敬語を使っていたり、
匂宮が兵部卿なのに、薫大納言でも匂宮に敬語を使っているよな。
上下関係が官位では分かりにくい。
218 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 21:41:42
>>209 江戸幕府の将軍は将軍在任時は基本的に正二位で内大臣だったからどうだろうな。
219 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 22:27:00
>>209 前内大臣だと,散位でも席次は高いということですね。
だから,王政復古のとき,慶喜支持派は,慶喜の前官礼遇(前内大臣)を求めたのでしょうね。
辞官しても,ある程度のポジションが残せるから。
得川家齊(吉宗のひ孫)氏の官歴
>天明7年( 1787年 )4月15日、 正二位 内大臣 に昇叙転任し、 右近衛大将 を兼任。併せて 征夷大将軍 ・ 源氏長者 宣下。
文化 13年( 1816年 )4月2日、 右大臣 に転任。右近衛大将の兼任元の如し。
文政 5年( 1822年 )3月5日、 従一位 左大臣 に昇叙転任し、 左近衛大将 を兼任。
文政10年( 1827年 )3月18日、 太政大臣 に転任。
天保 8年( 1837年 )4月2日、 征夷大将軍 辞職〈ヰキより〉
さて席次は …そもそも江戸将軍が関東+静岡以外に外出したのは、 家康秀忠家茂慶喜の4名だけ。他は京都御所は見向きもしない 所伺代に任せきり
222 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 07:03:12
Wikipediaソースの奴って何なの?
ていうか宮中座次って意味わかってんのかな
>>221 >寛永 3年(1626年)7月には 後水尾天皇 の二条行幸のために上洛するが、将軍家光に対して大御所秀忠は 伊達政宗 ・ 佐竹義宣 ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。
家光は 二条城 において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣に昇格した。〈ヰキ〉
二絛城の席次は
修整上洛は4人大坂戦没1人。
>>224 家光官歴
>元和6年( 1620年 )1月5日、正三位に叙す。9月7日、従二位に昇叙し、権大納言に任官。元服し、家光と名乗る。
元和9年( 1623年 )3月5日、右近衛大将・右馬寮御監兼任。7月27日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
寛永3年( 1626年 )8月19日、従一位 に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。
寛永11年( 1634年 )7月11日、太政大臣転任を固辞。〈ヰキ〉
幕府手動の禁中并公家諸法度で宮中席次は決められたの?
早い年齢の《皇族系》摂関家の初見→
神武帝以来第百八代後陽成上皇さまの第四皇子…近衛信尋さま〈御母は、第百九代後水尾上皇と同母、近衛前久公の娘前子=中和門院〉。元和九年閏月葉月関白&従一位左大臣勅任。
寛永六年文月両職辞任(31歳)。正保二年弥生ご出家(法名・応山)。御陵墓は大徳寺(号は本源自性院さま)。
同第百八代後陽成第九皇子…一条昭良さま〈御母は同じく中和門院〉。寛永六年葉月めいの明正女帝(御皇統普第百十代天皇)の関白&右大臣勅任(御年25さい)。翌長月、左大臣御昇任&叙位従一位。
翌々霜月関白御改任&摂政(姪の明正女帝御年09才※21才で上皇さま)叙任。寛永九年師走左大臣辞官(御年28さい)。寛永十一年長月姪の明正天皇の摂政の任、御終了(30才)。
正保四年弥生、甥(明正女帝の弟君)の第百十一代後光明天皇(御歳15)の摂政を還任(43才)。御陵墓は東福寺(号は知徳院さま)。
女系近衛信尋公&女系一絛昭良公お二人の実の(同腹)お兄さまは、第百九皇帝後水尾院さまです。共通のおじいさまは、正親町天皇陛下です。
後陽成上皇の第一皇子は仁和寺一品法親王さま、第二皇子も、仁和寺法親王、第三皇子は後水尾帝、第五皇子は京都東寺長者(叙二品)、第六皇子は京都天台座主(叙二品)、第八皇子は神君家康公の御猶子。第十皇子様は奈良興福寺と京都清水寺の両別当職、大僧正(叙二品)…
227 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 20:01:01
急にスレの流れがわからなくなった。
結局 江戸期(慶長8ねん1603または武家公家諸法度の元和2ねん1615〜摂関と将軍職停止の慶應3年1867)または華族令作製の明治17年1884まで(→近代史板)の席次がメインのスレ?
230 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 08:30:12
下級敬語はマナーとして行われていた(学説) つまり元皇族の光源氏には 格下でも マナーとして敬語を使うトップクラス貴族はたくさんいました。
いまでゆぅなら さーや様かな。
233 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 11:59:59
俺が宮中座次で気になるのは
王や内親王・女王
王は官位によると考えられるにしても
内親王は親王と同格なのか?
公式な場に男と同席することがないから座次が定まってないとも考えられるけど
宮中座次は身分序列の高下を分かつものでもあったはずで
親子内親王と内大臣家茂の婚姻なんかは妻の座次の方が高いのかな
今の宮中なら 陛下の 左側は 皇后さまや 女性皇族(みかどに親等近い順?) 右側は 男性皇族さまがた 手前に臣下の 総理大臣(行政最高官)・最高さいばん官(司法最高官)・国会両ぎ長(国民議会最高職) その他一般ピープルでつか 我々はマズゴミのテレビでご拝謁
「近江大掾」とかの受領名は菓子司等に与えられてたようだけど、
位階は叙されてなかった?
237 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 10:12:19
出入りの商人やらには八位が与えられたとも聞くけど
238 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 14:23:27
各身分ごとの官途のまとめ
親王官途:中務卿、式部卿、兵部卿、彈正尹、大宰帥、上總太守、常陸太守、上野太守、他
(参考)王氏官途:神祇伯、正親正、他
公卿官途(四位→三位→二位→一位):攝關、太政左右内大臣(藏人所別當)、大中納言、參議、省卿、近衞大將、近衞中將・衞府督(檢非違使別當)、大宰權帥・大貳、他
殿上人官途(五位→四位):藏人頭(殿上人首座)、辨官・少納言、省輔(主に大輔)、彈正弼(主に大弼)、近衞中少將、衞府佐(檢非違使)、職大夫、侍從、五位藏人、他
諸大夫官途(六位(侍官途)→五位→四位、稀に三位):外記・史(大外記上首・左大史上首は地下人筆頭)、省輔(主に少輔)・省丞(式部丞は必ず敍爵)、彈正弼(主に少弼)、職權大夫、寮頭、司正、大宰少貳、國守(+上總介・常陸介・上野介)、六位藏人、他
侍官途(六位、稀に五位):省丞(民部丞は必ず敍爵)、彈正忠、近衞將監・衞府尉(檢非違使/敍爵あり)、職亮・進、寮助・允、司佑、大宰監、國介・掾、他
細かいところを挙げるときりがないので、大まかにはこんなところでしょうか?
但し同等の官司であっても差別が生ずることがあります(ex式部>刑部・大藏)。
また武士の地位の上昇に伴って相場に変動を来します。守護クラスの武士は諸大夫であっても職大夫や省輔に任官しています。
記憶を頼りに書いたので後々修正します。
誤り等があれば指摘願います。
地下家の三位は公卿補任には載らない?
堂上家も地下家も、官職・役職に比べて位階がやたら高い印象
240 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:21:33
俺の本家筋は歴代神官の家でひいじいちゃんの奥津城(お墓)には従五位下○○守
って官位が刻まれている。なんかうれしいなー
官位 は‘かんみ’とよむので皆さん知っときましょぅ
242 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:56:17
243 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 22:03:01
245 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 12:30:05
大学の後輩のじいちゃんのじいちゃんが摂政従一位左大臣
て幕末? 今はただの平民庶民?
247 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:17:57
摂政ってパねえじゃんw
248 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:35:46
>>245氏の後輩がおいくつか存じませんが、
その方の高祖父はおそらく最後の人臣攝政として有名な二條齊敬公でしょう。
江戸期は攝政自体少なかったので、齊敬公の前任者は100年近く遡るはずです。
>>248 齊敬という諱は,家齊からの偏諱授与ですか?
冠位…カンイ 官位…カンミ
かつて高位高官→いまは散位 無位無官(無冠)ww
永遠に高位は天皇のみ!!!
残りは血閥を創らなければ 徐々に着実に 零落してゆく(歴史的真実)
252 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:53:52
頭おかしい奴が湧いてるな
暑いからな
253 :
名無し募集中。。。:2009/08/01(土) 15:37:14
二条家は代々将軍家(足利・徳川)から偏諱を賜る例
近衛家は元服時に天皇から名前をつけてもらうらしい
254 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:45:54
255 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 22:19:26
>>248 プライバシーに触れることだからあまり詳しくは言えない
ただその後輩は旧摂家(旧公爵家)の人間ではなく他家の養子に入った血統
それでも試しに実系(父系)だけの系図を作ってみたら先祖の9割以上が大臣でさらにその9割以上が摂関だった
足利時代は殆どの摂関家で貰っていたべ
257 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 18:58:46
官位をカンミと読むってどこのガセ情報を鵜呑みにしちゃったんだろう
「三位をサンミと読む」を勘違いして敷衍しちゃったのかな?
正とか従とか
上とか下とか
シロクロつけすぎ
散位(位の無い人)もサンミと読む
260 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:09:19
散位はサンニだよ
261 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 00:12:56
ていうか散位は位階だけあって官職がない人のことだよ
262 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 23:59:48
地下官人って諸大夫?侍?
>>262 両方いる。
乱暴に言ってしまえば五位の地下が諸大夫で、六位の地下が侍。
264 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 12:40:45
>>263 >>262じゃないけど、地下官人には官務・局務・蔵人所出納の催官人と、六位から昇進する並官人と、七位または史生から昇進する下官人がいるって聞いたことあるけど、催官人・並官人が諸大夫で下官人が侍ってことでいいのかな?
大名の世子(養子)となって叙任したのに,廃嫡や離縁されたら,叙任された官位はどうなるでしょうか?
官位はそのまま?官位剥奪ですか?
266 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 11:46:20
若い年寄りで「若年寄」。
大変な老人で「大老」。
うろ覚えだけど、確か阿波蜂須賀家の一例では、世子でなくなっても官位だか松平姓だかは
そのまま許されていたと前に読んだ「主君押込の構造」に書いてあった気がする。
でもwikiの毛利元重(松平昌方)の項目には、越前家養子の時の官位は従四位下大監物で、
「離縁後は通称を監物とし、」とあるから毛利に復姓した後は官途名を称してないっぽいね。
268 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 18:51:59
>>262-264 発生的には四位五位が諸大夫なんだけど、
そのうちに家柄になるとまだ六位の時でも諸大夫と言われるようになる。
侍は基本六位だけど五位に上がれる場合もある。
江戸時代の家柄としての諸大夫は、三位になっても諸大夫。
催官人のうち局務・官務の両極だけが諸大夫で出納は侍。
他に、摂家宮家清華等の諸大夫は別として、
医師などに家柄としての諸大夫があるようだ。
地下官人には諸大夫・侍・それ以下(士分)がある。
士分にも入らないクラスもいるが、そこまで官人と言いうるかどうか?
久しぶりだからついあげてしまった。
追加、江戸時代だと侍の家でも四位昇進可能。
>>267 レスありがとう
田沼意次の息子など離縁されて実家に戻された元世子とかいますよね,その官位がどうなるのか疑問でした。
それにしても,毛利元重の従四位下なんて官位は国主大名並なのに,厄介・部屋済みですよね。
>>269 >追加、江戸時代だと侍の家でも四位昇進可能。
だから出納は従四位上まで昇進できるのか
>>268見て侍なのになんで四位まで昇進できるのか一瞬?だった
群書類従だったかの伊勢神宮関係の補任表を見てたら、
禰宜が宮司より官位高いのは当たり前、下手すると祭主以上だったりするけど、
でもあくまでも祭主>宮司>禰宜と言う序列は厳然としていて、
社家の官位ってほとんど意味の無いのかな?
地下の非公卿>社家の公卿>社家の非公卿ってことなんだろうか?
どうも堂上の非公卿>地下の公卿でもあるようだし、
官位は身分内部の序列を示すだけで、身分が下だと官位が上でも意味ない?
地下の非公卿>社家の公卿
ここらへんは実際どうだったのか興味あるね。
なにかしらの接触はあっただろうから、
どっちがへりくだったのだろうか。
摂家の五位少将に平堂上の二位大納言がペコペコするのは官位秩序とはまた別で、
未来の社長である課長と、せいぜいが常務止まりの平取みたいなもんかな。
堂上と地下の関係はそれとは次元が異なるように思える。
堂上は地下の官位はまがい物かなにかと思って問題にしてなかったのでは?
財務省の課長と人口千人の村の課長が違うみたいなもんで。
明治になってから華族になれなかった下級公家が作った団体で、
六位蔵人>三位になれる諸大夫って序列なので、
少なくとも幕末頃の当事者間ではそう言う認識と思われる。
出納の名目上の上司である五位・六位蔵人は五位・六位なわけで、
四位出納より位階上は下位になるな。
弁官兼ねた五位蔵人も当然五位なわけだけど、配下の左大史は現役中に四位になれる。
ここにも逆転現象が。
江戸期の公家社会内部における位階は、身分内の序列をつけるだけのものかも?
※8世紀生まれで30歳未満で五位になった官人達(皇族はのぞく)
藤原朝臣豊成(704〜765、62歳)、従五位下(724、21歳)、南家嫡男
贈正一位太政大臣不比等の嫡孫
藤原朝臣仲麻呂(706〜764、59歳)、従五位下(734、29歳)、南家次男
贈正一位太政大臣不比等の庶子
藤原朝臣永手(714〜771、58歳)、従五位下(737、24歳)、北家嫡男?
贈正一位太政大臣不比等の庶子
藤原朝臣真楯(715〜766、52歳)、従五位下(740、26歳)、北家三男
贈正一位太政大臣不比等の庶子
◎大伴宿禰家持(718〜785、68歳)、従五位下(745、28歳)
故従二位大納言旅人嫡子
藤原朝臣魚名(721〜783、63歳)、従五位下(748、28歳)、北家五男
贈正一位太政大臣不比等の庶子
◎橘朝臣奈良麻呂(721〜757?、37歳?)、従五位下(740、20歳:直叙)
正二位右大臣(首班)諸兄嫡子
藤原朝臣浜成(724〜790、67歳)、従五位下(751、28歳)、京家嫡男?
贈正一位太政大臣不比等の庶子
藤原朝臣縄麻呂(729〜779、51歳)、従五位下(749、21歳)
故正一位左大臣武智麻呂の孫(嫡孫?)、従二位右大臣豊成四男(嫡子?)
つまり藤原氏嫡流か?
◎石上朝臣宅嗣(729〜781、53歳)、従五位下(751、23歳)
贈従一位左大臣麻呂の孫(嫡孫?)、故従三位中納言乙麻呂の子(嫡子?)
藤原朝臣百川(732〜779、48歳)、従五位下(759、28歳)、式家八男
贈正一位太政大臣不比等の庶子
藤原朝臣家依(743〜785、43歳)、従五位下(765、23歳)
贈正一位太政大臣房前の孫(嫡孫?)、従二位大納言永手嫡子?
◎吉備朝臣泉(743〜814、72歳)、従五位下(766、24歳)
正三位中納言(年内に従二位右大臣)真備の嫡子?
藤原朝臣内麻呂(756〜812、57歳)、従五位下(781、26歳)
贈正一位太政大臣房前の庶孫、故正三位大納言真楯の子(三男?、嫡子か?)
藤原朝臣園人(756〜818、63歳)、従五位下(779、24歳:直叙)
贈正一位太政大臣房前の庶孫、故従三位参議楓麻呂の子(嫡子?)
◎坂上大宿禰田村麻呂(758〜811、54歳)、従五位下(785、28歳)
従三位苅田麻呂の子(嫡子?)
藤原朝臣縄主(760〜817、58歳)、従五位下(783、24歳)
故正三位参議宇合の孫、従三位参議蔵下麻呂の子
藤原朝臣乙叡(761〜808、48歳)、従五位下(784、24歳)
故従一位右大臣豊成の孫、正三位大納言継縄の次男
藤原朝臣仲成(764〜810、47歳)、従五位下(785、22歳)
故正三位参議宇合の曾孫、浄成(詳細不明)の孫、正三位中納言種継の長男
藤原朝臣慢(糸偏)麻呂(768〜821、54歳)、従五位下(785、18歳)
故正三位参議宇合の曾孫、浄成(詳細不明)の孫、正三位中納言種継の次男
藤原朝臣道雄(771〜823、53歳)、従五位下(796、26歳)
贈従二位大納言小黒麻呂の四男
藤原朝臣藤継(773〜817、45歳)、従五位下(801、29歳)
贈正一位左大臣魚名の孫、従五位上鷲取の子
藤原朝臣緒嗣(775〜843、77歳)、従五位下(791、18歳)
故正三位参議宇合の孫、贈従二位右大臣百川の長男(嫡子)
藤原朝臣継業(778〜842、65歳)、従五位下(796、19歳)
故正三位参議宇合の孫、贈従二位右大臣百川の三男
藤原朝臣世継(779〜831、53歳)、従五位下(800、22歳)
故正三位参議宇合の曾孫、浄成(詳細不明)の孫、贈正一位左大臣種継の四男
◎良峯朝臣安世(785〜830、46歳)、従五位下(809、25歳)
桓武天皇皇子だが六位を経験しており完全に臣下並の待遇
藤原朝臣三守(785〜840、56歳)、従五位下(809、25歳)
故従三位参議巨勢麻呂の孫、従五位上真作(故人?)の子
藤原朝臣浜主(785〜845、61歳)、従五位下(810、26歳)
正三位大納言園人の長男
藤原朝臣愛発(787〜843、57歳)、従五位下(815、29歳)
贈従一位左大臣内麻呂の七男
◎坂上大宿禰広野(787〜828、42歳)、従五位下(810、24歳)
従三位苅田麻呂の孫、正三位大納言田村麻呂の次男
藤原朝臣行道(789〜854、66歳)、従五位下(従五位下817、29歳)
故従三位参議楓麻呂の孫、従五位上城主(故人?)の子:正七位上から五階特進
藤原朝臣常嗣(796〜840、45歳)、従五位下(823、28歳)
贈従二位大納言小黒麻呂の孫、故正三位中納言葛野麻呂の七男
藤原朝臣衛(799〜857、59歳)、従五位下(822、24歳)
贈従一位左大臣内麻呂の十男
藤原朝臣家雄(799〜832、34歳)、従五位下(822、24歳)
贈従二位右大臣百川の孫(嫡孫?)正三位左大臣緒嗣の長男
※8世紀生まれ(推定含む)で、五位昇進が30歳未満と推定される官人(皇族除く)
藤原朝臣広嗣(?〜740)、従五位下(737)、式家嫡男
父宇合(694生)から708以前の生まれとは考えにくく、20代と推定。
藤原朝臣清河(715?〜770、56歳?)、従五位下(740、26歳?)
北家四男?、真楯の異母弟とされており、昇進状況から同年と推定。
藤原朝臣御楯(722頃?〜764、43歳頃?)、従五位下(749、28歳頃?)
北家六男、五男魚名(721生)、七男楓麻呂(723生)共に異母兄弟から推定。
なお藤原朝臣仲麻呂の子息の多くが20代で五位昇進の可能性がある。
◎百済王聡哲(769?〜827?、59歳?:不確実)、従五位下(797、29歳?)
故従四位下俊哲の子:系図に没年と享年があったが信憑性?、一応参考までに。
三十歳未満での五位昇進はほとんど藤原氏だけの特権だった模様。
それも多くは有力家系の主要メンバー、特に前半はその傾向が強い。
その後各種事情でパッとしない者もいるが、五位昇進時は主要メンバーと思われる。
他氏は余程の有力者の子か孫、坂上田村麻呂のみさほど有力者でもない、桓武天皇の贔屓?
古代以来の豪族は大伴家持と石上宅嗣のみで、他は全て新興氏族出身。
姓はほとんどが朝臣。宿禰はいても真人は皆無、昇進時で忌寸以下の卑姓はなし。
二十才未満は百川と種継の子だけの超特例、桓武天皇の贔屓としか。
五位直叙も超特例。橘奈良麻呂はともかく、藤原園人はなぜ?
かなり家柄が低くても三十そこそこでの五位昇進はままあり、一つの壁だったようだ。
※8世紀生まれで、五位昇進が30歳以上だが大臣昇進者(皇族除く)
◎大中臣朝臣清麻呂(702〜788、87歳)
従五位下(743、42歳)、右大臣(771年、70歳)
故正四位上中納言意美麻呂の七男
藤原朝臣良継(716〜777、62歳)
従五位下(746、31歳)、内大臣(777年、62歳)
贈正一位太政大臣不比等の庶孫、故正三位参議宇合の次男(広嗣没後惣領?)
藤原朝臣田麻呂(722〜783、62歳)
従五位下(761、40歳)、右大臣(781年、62歳)
贈正一位太政大臣不比等の庶孫、故正三位参議宇合の五男
藤原朝臣是公(727〜789、63歳)
従五位下(761、35歳)、右大臣(783年、57歳)
故正一位左大臣武智麻呂の庶孫、故従三位参議乙麻呂の長男(嫡子?)
藤原朝臣継縄(727〜796、70歳)
従五位下(763、37歳)→右大臣(790、64歳)
故正一位左大臣武智麻呂の庶孫、正二位前右大臣豊成の次男
藤原朝臣冬嗣(775〜826、52歳)
従五位下(806、32歳)、右大臣(821年、47歳)
正三位右大臣内麻呂の次男
◎清原真人夏野(782〜837、56歳:元王)
従五位下(811、30歳)、右大臣(832年、51歳)
天武系舎人親王曾孫、故正三位御原王の孫、正五位下小倉(元王、故人)の子
◎橘朝臣氏公(783〜847、65歳)
従五位下(815、33歳)、右大臣(844年、62歳)
故正四位下参議(名誉回復済?)奈良麻呂の孫、贈従三位浄友の七男
藤原氏でも様々な事情があるにしても昇進が遅いケースもままある。
若年時の昇進が遅くても、さらに流罪、左遷があっても挽回可能だった模様。
やはり大臣昇進は高めで、長生きの賜物って例も多いようだが。
なお内麻呂の子はまだ芽が出ない時期の真夏、冬嗣は別としても案外昇進が遅い。
まあ没後はあまり遺徳が及ばないのかも知れないけど。
※8世紀生まれで35歳未満で四位になった官人達(皇族はのぞく)
藤原朝臣豊成(704〜765、62歳)、従四位下(737、34歳)、南家嫡男
贈正一位太政大臣不比等の嫡孫、故正一位左大臣武智麻呂の嫡子
藤原朝臣真楯(715〜766、52歳)、従四位下(744、30歳)、北家三男
贈正一位太政大臣不比等の庶子、故正三位参議房前の三男
◎橘朝臣奈良麻呂(721〜757?、37歳?)、従四位下(747、27歳:直叙)
従一位左大臣(首班)諸兄嫡子
藤原朝臣蔵下麻呂(732〜779、48歳)、従三位(764、31歳)、式家九男
贈正一位太政大臣不比等の庶子、故正三位参議宇合の九男
武功により、従五位下から八階特進で、四位を経ていない。
藤原朝臣家依(743〜785、43歳)、従四位下(770、28歳)
贈正一位太政大臣房前の孫(嫡孫?)、正一位左大臣永手長男(嫡子?)
◎吉備朝臣泉(743〜814、72歳)、従四位下(770、28歳)
正二位右大臣真備の子(嫡子?)
藤原朝臣内麻呂(756〜812、57歳)、従四位下(787、32歳)
贈正一位太政大臣房前の庶孫、故正三位大納言真楯の子(三男?、嫡子か?)
藤原朝臣乙叡(761〜808、48歳)、従四位下(791、31歳)
故従一位右大臣豊成の孫、従二位右大臣継縄の次男
藤原朝臣藤継(773〜817、45歳)、従四位下(806、34歳)
贈正一位左大臣魚名の孫、従五位上鷲取(故人?)の子
藤原朝臣真夏(774〜830、57歳)、従四位下(806、33歳)
正三位大納言真楯の孫(嫡孫?)、正三位右大臣内麻呂の長男
藤原朝臣緒嗣(775〜843、77歳)、従四位下(797、24歳)
故正三位参議宇合の孫、贈従二位右大臣百川の長男(嫡子)
藤原朝臣継業(778〜842、65歳)、従四位下(808、31歳)
故正三位参議宇合の孫、贈従二位右大臣百川の三男
◎良峯朝臣安世(785〜830、46歳)、従四位下(814、30歳)
桓武天皇皇子だが六位を経験しており完全に臣下並の待遇
藤原朝臣三守(785〜840、56歳)、従五位下(814、30歳)
故従三位参議巨勢麻呂の孫、従五位上真作(故人?)の子
藤原朝臣家雄(799〜832、34歳)、従五位下(826、28歳)
贈従二位右大臣百川の孫(嫡孫?)正二位左大臣緒嗣の長男
※8世紀生まれ(推定含む)で、四位昇進が35歳未満と推定される官人(皇族除く)
藤原朝臣清河(715?〜770、56歳?)、従五位下(746、32歳?)
北家四男?、真楯の異母弟とされており、昇進状況から同年と推定。
なお藤原朝臣仲麻呂の子息真先等三人は35歳未満で四位昇進の可能性がある。
どうみても超エリート集団だが、なかでも藤原緒嗣のみ突出して若い。
藤原蔵下麻呂は特例として、藤原内麻呂と藤原藤継以外は有力者の子。
※8世紀生まれで40歳未満で公卿になった官人達(皇族はのぞく)
藤原朝臣豊成(704〜765、62歳)、参議(737、34歳)、南家嫡男
贈正一位太政大臣不比等の嫡孫、故正一位左大臣武智麻呂の嫡子
藤原朝臣仲麻呂(706〜764、59歳)、参議(743、38歳)、南家次男
贈正一位太政大臣不比等の庶子 、故正一位左大臣武智麻呂の庶子
藤原朝臣真楯(715〜766、52歳)、参議(748、34歳)、北家三男
贈正一位太政大臣不比等の庶子、 故正三位参議房前の庶子
◎橘朝臣奈良麻呂(721〜757?、37歳?)、参議(749、29歳)
正一位左大臣(首班)諸兄嫡子
藤原朝臣縄麻呂(729〜779、51歳)、参議(764、36歳)
故正一位左大臣武智麻呂の孫(嫡孫?)、従一位右大臣豊成四男(嫡子?)
つまり藤原氏嫡流か?
◎石上朝臣宅嗣(729〜781、53歳)、参議(766、38歳)
贈従一位左大臣麻呂の孫(嫡孫?)、故従三位中納言乙麻呂の子(嫡子?)
藤原朝臣蔵下麻呂(732〜779、48歳)、従三位(764、31歳)、式家九男
贈正一位太政大臣不比等の庶子、故正三位参議宇合の九男
武功により、従五位下から八階特進で、四位を経ていない。
藤原朝臣家依(743〜785、43歳)、従四位下(777、35歳)
贈正一位太政大臣房前の孫(嫡孫?)、故正一位左大臣永手長男(嫡子?)
藤原朝臣雄友(753〜811、59歳)、参議(790、38歳)
故従三位参議乙麻呂の孫、贈従一位右大臣是公の二男?三男?
藤原朝臣内麻呂(756〜812、57歳)、参議(794、39歳)
贈正一位太政大臣房前の庶孫、故正三位大納言真楯の子(三男?、嫡子か?)
藤原朝臣乙叡(761〜808、48歳)、参議(794、39歳)
故従一位右大臣豊成の孫、正二位右大臣継縄の次男
藤原朝臣真夏(774〜830、57歳)、山陰道観察使(809、36歳)、参議(810、37歳)
正三位大納言真楯の孫(嫡孫?)、従二位右大臣内麻呂の長男
藤原朝臣緒嗣(775〜843、77歳)、参議(802、29歳)
故正三位参議宇合の孫、贈従二位右大臣百川の長男(嫡子)
藤原朝臣冬嗣(775〜826、52歳)、参議(811、37歳)
故正三位大納言真楯の庶孫、従二位右大臣内麻呂の二男
◎良峯朝臣安世(785〜830、46歳)、参議(816、32歳)、従三位(821、37歳)
桓武天皇皇子だが六位を経験しており完全に臣下並の待遇
藤原朝臣三守(785〜840、56歳)、参議(816、32歳)、従三位 (821、37歳)
故従三位参議巨勢麻呂の孫、従五位上真作(故人?)の子
橘朝臣常主(787〜826、43歳)、参議(822、36歳)
故奈良麻呂の孫、島田麻呂の子
藤原朝臣常嗣(796〜840、45歳)、参議(831、36歳)
贈従二位大納言小黒麻呂の孫、故正三位中納言葛野麻呂の七男
※8世紀生まれ(推定含む)で、公卿が40歳未満と推定される官人(皇族除く)
藤原朝臣清河(715?〜770、56歳?)、参議(749、35歳?)
北家四男?、真楯の異母弟とされており、昇進状況から同年と推定。
藤原朝臣御楯(722頃?〜764、43歳頃?)、参議(759、38歳頃?)
北家六男、五男魚名(721生)、七男楓麻呂(723生)共に異母兄弟から推定。
なお藤原朝臣仲麻呂(当時57歳)の子息真先等三人の参議昇進(762)は、30代の可能性が高い。
藤原朝臣乙麻呂(?〜760)、従三位(750)、南家四男
仲麻呂(706生)の異母弟、年子しても45歳以下あるいは30代か?
参議はそれなりにあるが三位は特例のようだ。
この時期政治的には目立たなかった割に、なにげに北家が昇進が早い。
特に真楯・内麻呂親子。
武家の官位は公家と同等っぽいけどね。
>>282の訂正
×藤原朝臣家依(743〜785、43歳)、従四位下(777、35歳)
○藤原朝臣家依(743〜785、43歳)、参議(777、35歳)、従三位(781、39歳)
三つとも顔を出している人達は、少なくとも前半生は極めて順調に昇進した、一流貴族。
その後人生順風満帆とは必ずしも行かなかったようだが。
藤原朝臣豊成、藤原氏嫡流にして藤原氏再興の大エースなので当然。
極位極官従一位右大臣、一時左遷
藤原朝臣真楯、理由不明、よほどに有能、あるいは一時期北家総領か?
極位極官正三位大納言
◎橘朝臣奈良麻呂、父諸兄の恩恵、叔母光明子の援助もあるか?
極位極官正四位下参議、獄死か?
藤原朝臣家依、北家次期総領ゆえ?:従三位(781、39歳)
極位極官従三位中納言、43歳で死亡。
藤原朝臣内麻呂、理由不明、よほどに有能?
極位極官従二位右大臣、
藤原朝臣緒嗣、桓武天皇の超強力な庇護。自身有能ではあったようだが。
極位極官正二位左大臣、桓武天皇死後はやや不遇な時期あり。
◎良峯朝臣安世、桓武天皇皇子ゆえか?
極位極官正三位大納言、46歳で死亡
藤原朝臣三守、義兄冬嗣のひきがある参議昇進はともかく、初期は理由不明
極位極官従二位右大臣
藤原朝臣清河、理由不明、直後に遣唐使になったほどであり有能のゆえか。
極位極官従三位あるいは正三位参議、遣唐使として帰国できず。
藤原朝臣仲麻呂の子息真先等三人、仲麻呂の強力な庇護。
極位極官正四位上又は従四位下参議、せいぜい40歳前後で刑死又敗死。
288 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 21:12:31
初期藤原氏の氏長者、南・北・式・京各家の惣領や主流・傍流関係ってのは気になるな
スレ違いだけど
8世紀生の皇族・藤原氏以外で五位昇進が早い者(30〜39歳)
高倉朝臣福信(709〜789、81歳)、外従五位下(738、30歳)
従五位下(739、31歳)、九世紀あたりまででの外従五位下の最年少記録か?
大伴宿禰伯麻呂(718〜782、65歳)、従五位下(750、33歳)
贈大紫(正三位相当?)馬来田の孫、正四位下参議道足(故人か)の子
佐伯宿禰今毛人(719〜790、72歳)、従五位下(749、31歳)
従五位下右衛士督人足(故人か)の子
石川朝臣名足(728〜788、61歳)、従五位下(761、34歳)
故従三位権参議左大弁石足の孫、正三位御史大夫年足の子
坂上大宿禰苅田麻呂(728〜786、59歳)、従四位下(764、37歳)
武功による正六位上からの五階特進で五位を経ず。
故外従五位下大国の孫、正四位上犬養の子
石川朝臣真守(729〜798、70歳)、従五位下(766、38歳)
上記名足の子とされるが年齢が近すぎる。あるいは弟か?
紀朝臣船守(731〜792、62歳)、従五位下(764、34歳)
武功による従七位下からの八階特進。従五位上諸人の孫か?、従七位下猿取の子
和気朝臣清麻呂(733〜799、67歳)、従五位下(766、34歳)
父は国造(追贈?)、郡司?
紀朝臣古佐美(733〜797、65歳)、従五位下(764、32歳)
正三位(従三位で正三位は贈位か?)大納言麻呂の孫、正六位上宿奈麻呂の子
大中臣朝臣諸魚(743〜797、55歳)、従五位下(776、34歳)
故正四位下中納言意美麻呂の孫、正二位右大臣清麻呂の四男
紀朝臣直人(747〜805、59歳)、従五位下(780、34歳)
故従三位中納言麻路の孫、正五位下(極位?当時従五位下?)広名(故人?)の子
三島真人名継(748〜810、63歳)、従五位下(783、36歳)
舒明天皇の末裔?
秋篠朝臣安人(752〜821、70歳)、外従五位下(789、38歳)
従五位下は(791、40歳):元大内記・大外記
大学頭千村の子?、従四位下宇庭の子?、菅原氏の同族だが詳しい系譜は不明。
紀朝臣勝長(754〜806、53歳)、従五位下(785、32歳)
従三位中納言船守の長男
石川朝臣道益(763〜805、35歳)、従五位下(797、35歳)
従三位中納言石足の孫、従五位上人成(故人?)の子
大野朝臣真雄(764〜811、55歳)、系譜不明
806以前(43歳以前)に正五位上で、従五位下は三〇代か?
文屋朝臣綿麻呂(765〜823、59歳)、従五位下(795、31歳)
従二位御史大夫浄三の孫、大原(当時従五位下以上従四位下以下)の子
紀朝臣田上(770〜825、56歳)、従五位下(803、34歳)
贈正二位右大臣船守の三男
菅原朝臣清公(770〜842、73歳)従五位下(805、36歳)
従五位下古人(故人?)の四男:元遣唐使判官
文屋真人乙直(770〜830、61歳)、従五位下(801、32歳)
従二位御史大夫浄三の孫、従四位下与伎(故人?)の子
朝野宿禰鹿取(774〜843、70歳)、従五位下(811、38歳)
正六位上鷹取の子、叔父従六位上道長の子として出身:元蔵人
大中臣朝臣渕魚(774〜850、77歳)、従五位下(809、36歳)
故正二位右大臣清麻呂の孫、正五位下継麻呂(故人?)の五男
南淵朝臣永河(777〜857、81歳)、従五位下(813、37歳)
外従五位下老(故人?)の孫、従四位下奈良麻呂(故人?)の子(二男?)
:元侍読・少外記・民部少丞
伴宿禰友足(778〜843、66歳)、従五位下(814、37歳)
笠朝臣梁麻呂(778〜842、65歳)、従五位下(811、34歳:4階昇進)
左勇士翼真足の孫?、民部大輔江人の子?
小野朝臣岑守(778〜830、53歳)、従五位下(809、32歳:7階昇進)
左京大夫竹良の孫?、従五位下永見(故人?)の子:元春宮少進・少外記
橘朝臣長谷麻呂(779〜824、46歳)、従五位下(814、36歳)
奈良麻呂の孫、正五位下島田麻呂(故人?)の二男:元春宮大進
百済王勝義(780〜855、76歳)、従五位下(816、37歳:8階昇進)
故従四位下元忠の孫、従五位上玄風(故人)の子:元蔵人
紀朝臣末成(781〜825、45歳)、従五位下(810、30歳)
故正三位大納言古佐美の九男
清原真人夏野(782〜837、56歳)、従五位下(811、30歳):元蔵人
舎人親王曾孫、故正三位中務卿御原王の孫、正五位下小倉王(故人?)の五男
和気朝臣真綱(783〜846、64歳)、従五位下(815、33歳)
贈正三位清麻呂の五男:元蔵人、元蔵人・春宮少進
橘朝臣氏公(783〜847、65歳)、従五位下(815、33歳)
奈良麻呂の孫、贈従三位清友の七男、皇后嘉智子の兄:元蔵人
和気朝臣仲世(784〜852、69歳)、従五位下(819、36歳)
贈正三位清麻呂の六男:元式部大丞
石川朝臣長津(785〜854、70歳)、従五位下(823、39歳)
故正三位中納言豊成の孫、正四位上河主の子:元民部大丞・皇太后大進
滋野朝臣貞主(785〜852、68歳)、外従五位下(820、36歳:2階昇進)
従五位下(821、37歳)、 従五位上家訳の子:元大内記
橘朝臣常主(787〜826、40歳)、従五位下(817、31歳)
奈良麻呂の孫、正五位下島田麻呂(故人?)の六男:元式部大丞・蔵人
文室朝臣秋津(787〜843、57歳)、従五位下(816、30歳)
故従二位御史大夫浄三の孫、故従四位下大原の四男
坂上大宿禰清野(789〜850、62歳)、従五位下(819、31歳)
故従三位苅田麻呂の孫、故正三位大納言田村麻呂の四男:元春宮少進
都宿禰腹赤(789〜825、37歳)、外従五位下(820、32歳:2階昇進)
従五位下(821以前、33歳?)、外従五位下秋成(故人?)の子
紀朝臣深江(790〜840、51歳)、従五位下(822、33歳)
贈従二位右大臣船守の孫、従四位下田上の子:元蔵人・式部少丞
登美真人直名(792〜853、62歳)、従五位下(827、36歳)
用明王子久米王末裔、従五位下正月王(故人?)の孫、従五位上藤津(故人?)の子
安部朝臣安仁(793〜859、67歳)、従五位下(828、36歳)
故従四位上東人の孫、故従四位下参議寛麻呂の二男
滋野朝臣貞雄(795〜859、65歳)、従五位下(827、33歳)
従五位上家訳(故人?)の子
山田宿禰古嗣(798〜853、56歳)、外従五位下(836、39歳)
故外従五位下益人の子:元大外記
清原真人岑成(799〜861、63歳)、従五位下(829、31歳:当時王)
舎人親王玄孫、従五位下猪名王(故人?)の孫、無位弟村王(故人?)の子
前半では名門か武功か権力者の恩寵がないと40歳未満は難しい。
後半になると普通の能吏でもありうるようだ。
ただし大外記・蔵人等を経験することが一つの関門のであるような。
五位は割と若年でも得やすいようだ、ただし低家格だとその後は遅い。
8世紀生の皇族・藤原氏以外で四位昇進が早い者(35〜45歳)
高倉朝臣福信(709〜789、81歳)、従四位下(749、41歳)
佐伯宿禰今毛人(719〜790、72歳)、従四位下(757、39歳)
従五位下右衛士督人足(故人か)の子
坂上大宿禰苅田麻呂(728〜786、59歳)、従四位下(764、37歳)
武功による正六位上からの五階特進で五位を経ず。
故外従五位下大国の孫、正四位上犬養の子
石上朝臣宅嗣(729〜781、53歳)、従四位下(765、37歳)
贈従一位左大臣麻呂の孫、故従三位中納言乙麻呂の子
紀朝臣勝長(754〜806、53歳)、従四位下(794、41歳)
正三位大納言船守の長男
坂上大宿禰田村麻呂(758〜811、54歳)、従四位下(795、38歳)
故正四位上犬養の孫、故従三位苅田麻呂の子
文屋朝臣綿麻呂(765〜823、59歳)、従四位下(806、42歳)
従二位御史大夫浄三の孫、従四位下大原(同年没)の子
紀朝臣田上(770〜825、56歳)、従四位下(810、41歳)
贈正二位右大臣船守の三男
小野朝臣岑守(778〜830、53歳)、従四位下(821、44歳)
左京大夫竹良の孫?、従五位下永見(故人?)の子
紀朝臣末成(781〜825、45歳)、従四位下(821以後824以前、41歳以前44歳以後)
故正三位大納言古佐美の九男
清原真人夏野(782〜837、56歳)、従四位下(823、42歳)
舎人親王曾孫、故正三位中務卿御原王の孫、正五位下小倉王(故人?)の五男
橘朝臣氏公(783〜847、65歳)、従四位下(820、37歳)
奈良麻呂の孫、贈従三位清友の七男、皇后嘉智子の兄
橘朝臣常主(787〜826、40歳)、従四位下(821、35歳)
奈良麻呂の孫、正五位下島田麻呂(故人?)の六男
文室朝臣秋津(787〜843、57歳)、従四位下(826、40歳)
故従二位御史大夫浄三の孫、故従四位下大原の四男
坂上大宿禰広野(787〜828、42歳)、従四位下(823、37歳)
故従三位苅田麻呂の孫、故正三位大納言田村麻呂の二男
安部朝臣安仁(793〜859、67歳)、従四位下(836、44歳)
故従四位上東人の孫、故従四位下参議寛麻呂の二男
清原真人岑成(799〜861、63歳)、従四位下(834、36歳)
舎人親王玄孫、従五位下猪名王(故人?)の孫、無位弟村王(故人?)の子
五位よりかなり条件が厳しいが、それでもいくらかは武功・恩寵による昇進あり。
8世紀生の皇族・藤原氏以外で公卿昇進が早い者(40〜49歳)
紀朝臣勝長(754〜806、53歳)、参議(796、43歳)
従三位(802、49歳:803、50歳とも)、贈正二位右大臣船守の長男
坂上大宿禰田村麻呂(758〜811、54歳)、従三位(801、44歳:三階特進)
参議(805、48歳)、故正四位上犬養の孫、故従三位苅田麻呂の子
文屋朝臣綿麻呂(765〜823、59歳)、参議(810、46歳)、従三位(811、47歳)
従二位御史大夫浄三の孫、故従四位下大原の子
小野朝臣岑守(778〜830、53歳)、従四位下(822、45歳)
左京大夫竹良の孫?、従五位下永見(故人?)の子
清原真人夏野(782〜837、56歳)、参議(823、42歳)、従三位(824、43歳)
舎人親王曾孫、故正三位中務卿御原王の孫、正五位下小倉王(故人?)の五男
文室朝臣秋津(787〜843、57歳)、参議(830、44歳)
故従二位御史大夫浄三の孫、故従四位下大原の四男
安部朝臣安仁(793〜859、67歳)、参議(838、46歳)
故従四位上東人の孫、故従四位下参議寛麻呂の二男
案外家柄が良いわけでもないような?いくらかは個人的才覚による場合もあるのか?
江戸時代でも、省の大輔・少輔や京職の亮とかには堂上が実務に就いていたのかな
大名は全て名ばかりの員外官だけど、公家の官職はこの時代でも実務を伴っていた?
江戸時代の朝廷に実務があったのかな?
征夷大将軍って、戒厳司令官みたいなもんで太政官の政務も含めて軍事内政一切を代行している?
戦時中の臨時職と戒厳政府が永続してる感じ? それが幕府政治かも
除目、征夷大将軍の宣下を含めて、官職の任命権だけ残ったのが朝廷かも
関白や武家伝奏、蔵人頭あたりは朝廷内での実務も伴ってたんだろうけど、
修理大夫や左京亮、近衛少将・衛門佐とかは既にまったくの名ばかり?
地下以下の役人も結構な数いたと思うけど、江戸時代には機能していた部署と
そうでない部署があったってことかな?
連投する意味あるのか
レスはまとめろよ
>>301 俺が書いたのは297と300だけだぞ?連投じゃないし298や299とは別人だよ。
303 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:50:28
この前病院で会計を待ってたら苗字と名前の間に官位がある人がいました。
官位が「主税ちから」で、苗字と名前は忘れたが"山田主税太郎さーん"っって
な感じで呼ばれてた。
自称してるのか親が付けたのかどっちなんだろ?
もちろん戸籍にもその名前で登録されてるんだと思うのですが、それだと官位は
無理やり名前にくっつける事になるわけで、ややこしいですね。
律令制がなくなった現代で歴史好きの人が官位をなのるのなら、どうせならもっと
位の高い官位を選べばいいのではと思いますよね。
304 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:02:57
先輩に○○蔵人○○という人がいたな
蔵人○○が名前
掃部(かもん)さんて人が上司にいる。
大名スレにあったが,蜂須賀斉裕の官位が参議になったらしいが,外様大名の公卿成りは前田以外初ですか(幕初,幕末以外で)。
島津斉興の方が先かな。
大名でも公卿以上と以下では格式とかに差があったんだろうか?
武鑑とかは参議以上だと「殿」付け(阿波宰相殿とか)で表記されてたりするよね
>>309 家臣を諸大夫に任官させられる
当主が公卿の官位に昇ったから,加賀前田は家臣の一部を従5位下に叙任させた
でも,島津や蜂須賀の家臣て叙任されたのかな?
311 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 20:52:11
幕臣
五大老
家老
島津や蜂須賀は一代限りだから家老の五位叙任はなかったんじゃない?
越前系の福井・高田の家老はどうだったんだろう(附家老の本多は別として)
光長は公卿クラスといっても三位中将だし微妙?
>>312 参議なら公卿だけど,三位だと地下もあるし・・・
>>313 武家官位の序列はは羽林家の昇進に準じてるらしいし中将は侍従より格上だから地下はないと思うよ。
光長や御三家の官位が地下というのは考えにくいし、たぶん非参議の公卿に相当って感じなんじゃない?
315 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:28:52
316 :
315:2009/08/21(金) 00:29:38
おわ かぶったw
大名・旗本の従五位下も諸大夫っていうけど、これは地下って意味?
侍従未満の無官の従四位下、従五位下でも大名・旗本の官位は地下ではない?
武家官位を公家の家格の概念に当てはめるのが適当かどうか?
武家の官位は基本的には羽林系の昇進コースに乗ってはいるんだけど、
スタートを重視すれば堂上並みあるいはそれ以上だけど、
到達点でいうとほとんどの大名は地下程度だし。
比較しにくいんじゃないかな。
>>318 そうなんだけど、従五位下の大名・旗本のことも諸大夫と称するし、侍従以上になってない
無官の四位・五位の大名は昇殿できない地下扱いだったのか気になってる。
>>319 昇殿・拝謁する必要のある奥高家は,従5位下でも侍従に任官ですよね。
だから,昇殿する資格として侍従以上の官が必要だったのでは。
禁裏付や仙洞付って,叙任されてても従5位下ですよな。
昇殿してなかったのかな?
321 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:45:50
五位が地下?
>>321 昇殿を許されてないと四位や五位でも地下だよね?
本来は堂上地下って言うのは官職位階とは別の概念だから、
地下の公卿なんてことばもあるし。
公達・諸大夫・侍っていうのが家格の萌芽みたいなもので、
この時点で本来は個人の地位を示していた諸大夫・侍が家格になるらしい。
院政期だったかの公達は比較的新しい源氏と忠平の子孫が該当したらしい。
もちろんその全員ではないんだろうけど。
324 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:48:20
武家官位制は秀吉時代の官位制を踏襲してるから侍従以上任官者が殿上人と見做していいはず
公家成→羽柴苗字+初叙任従五位下侍従
諸大夫成→初叙従五位下→極位従四位下(侍従任官せず)
>>324 諸大夫成は公家に対応させると地下に相当ってことなのかな?
大名の清華成は公家の清華家に相当する家格とするって意味だろうし、同じように考えれば
四位・五位諸大夫の大名は地下の諸大夫に相当ってことなんだろうか・・・
次男爵とかって次男に限らないけど庶子が五位に叙されることはあったそうだ。
公卿側としては諸大夫の平大名はその程度だと思っていたかも。
そうだとしても、あくまで公卿側の認識として武家側は認知してないんだろうけど。
秀吉時代の毛利一門って、輝元・隆景の両中納言を筆頭にとか侍従成してる武将が多いね
三成など三中老・五奉行クラスや武断派の有力大名でも公家成してない無官が多いのに優遇されすぎ?
毛利家は家臣が山ほど諸大夫成してるよな
それに対して関ヶ原の時点で前田家は6人、上杉家は4人くらいしか諸大夫成してなかった気がする
武家に官位濫発されすぎて、秀吉時代の公家は昇進ルート塞がれて涙目だったろうなw
秀吉没後に家康の内大臣が公家も含めての最高位とかどう考えても異常
徳川が大名を員外官にしたことで安心した公家は多かっただろうなー
>>329 家康が「公家多すぎ、リストラしろ」と 考えたら、秀吉時代同様に武家が官職独占もあり得たのよね
>>329 左右大臣が空席だったのは、秀次粛清がらみだから仕方ないと思うけどね。
> 徳川が大名を員外官にしたことで安心した公家は多かっただろうなー
でしょうね。
公卿補任って徳川将軍家も記載されてないんだっけ
秀忠は途中までは載ってたような。
それとも歴名土代の方だったかな。
内府・大納言は家康・利家一人ずつだから良いけど、中納言は五大老や豊臣連枝が
占拠して公家は難渋しただろうな
関白職と将軍職で政権の在り方の違いとはいえ、田舎大名が清華家と同格とか・・・
蔭位が1階違うし、扱いが有利な位子になれるかどうかと、
古代の官位獲得上重要な要素だった嫡子。
あれはどうやって決まったんだろう?
単純に兄弟順?家長の一存?
同母兄弟の場合は廃人でもないかぎり兄弟順だろうけど、
異母兄弟の場合は?
年齢差が大きい場合、一度嫡子を決めてしまった場合、
のちにもらった正妻格に子供ができても嫡子変更はできない?
336 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:43:27
蔭位はイエ制度を前提とした規定ではないから
嫡子1人で後はみんな庶子というわけではない
嫡子=嫡妻の所生
庶子=庶妻の所生
後妻でも嫡妻扱いならその所生は嫡子
8世紀に○×宿禰Xっていう貴族がいたとし、妻等としてABCDEの5人がいたとする。
AはXより格上の貴族△×朝臣で本来の正夫人格。
BはXの家の傍流にあたる○×忌寸でAと前後して関係をもった第二夫人格。
Cはその少し前に手を付けた使用人の娘。
DはABCが年をとったころに手を付けた使用人の娘。
EはAとの死別後再婚した後妻で、Xの地位向上に伴い縁が出来た藤原朝臣の娘。
Aに男子があればその長子が嫡子で問題ない。
Aには男子がなかった場合が面倒だな。
長男はCの子C1、二男三男がBの子B2B3、四男はD4の子、末子がEの子E5。
子たちの間に年齢差がさほどなければすんなりE5が嫡子だろうが、
B2とE5の間に親子以上の大きな年齢差があり、
B2を後継者に定め嫡子として蔭位をもらってからE5が生まれたりした場合、
どういう処理をしたんだろうね?
法律上の嫡子は変更できないんだろうな。
C1はほかに子がないかよほどB2以下と年齢差がない限りは論外だろうけど。
B3とD4は上が子供のうちに死んだりしない限りは嫡子争いには縁がない。
もっと複雑な例などいくらでも考えられるし、律令制下の嫡子は面倒くさいな。
おまえのレスの方が面倒くさいよ
そこまでいくと法制史的な話になるな
公家・大名の官位って、隠居して家督を譲った後もそのまま保持できたのかな?
341 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:38:02
隠居の意味を良く考えろハゲ
>>341 毛利敬親は隠居の2日前に従二位権大納言に、島津斉興は隠居後に従三位に昇叙してるな
徳川光圀の中納言も隠居後だったか
大名は隠居しても官名は名乗っているみたいですね
ただ,伊達の陸奥守等のような当主の官は譲っているみたいですが
正三位 →じゃうざんみ(源氏物語のよみかた)
>>343 受領名・官途名は半ば通称的に使われてるから隠居してもあった方が好都合だったんだろうね
問題は位階と官職・・・
たとえば国持大名は隠居しても従四位下侍従のままだったんだろうか?
Wikipediaで若くして隠居した上杉鷹山をみると、隠居で越前守に遷任・「侍従如元」となってるけど・・・
公家は官職は当然退くとして、位階も隠居時に喪失?それとも終身的なものなのかな?
>>344 従三位 JUU SANN I → JU SAMMI
官位 KANN I → KAMMI
連濁ならぬ ム音便
中古音だと、「三」は“sam”で、「官」は“kuan”だから、
「三」+「位」 “sam”+“i” → “sammi”
「官」+「位」 “kuan”+“i” → “kuan-i” → “kan-i”。
官の方はともかく位は元来が終身的なものだから、
何か罪を犯して取り上げられるか、昇格しない限りは、
一度もらったら死ぬまでそのまま。
って言うのが少なくとも朝廷側の考え方。
江戸時代の武家の官はただの名乗りで、位に方についてくる、
というような面もある。
位が生きてればなにか官名を名乗ってもいいんじゃないの。
確か官名の方は朝廷側は関知しないとかどこかで読んだような気が?
349 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 15:10:22
>>348 自分から返納はできるんだっけ
誰かしてたよね?前田だったか
>>348 大名の官位は@位階(従四位下)、A官職(左近衛権少将・侍従)、B受領名・官途名(安芸守・右京亮)
の3要素からなってるけど、A官職が家格・序列を示す一番重要なもので、@位階がその次に重要、Bは
ただの通称的・名前的なものにすぎないよね。
Bは隠居後も適当なものに変えて名乗ってる(上杉なら代々の弾正大弼から越前守に遷任)ようだけど、
もし@位階が終身的なもので併せてA官職も隠居後もそのまま(侍従如元)だとしたら、鷹山みたいに30代で
隠居して70代まで生きたら、1つの大名家に官位(@A)を持つ者が同時に3人も4人もいたってことなのかな。
351 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 17:38:42
じごいのげ
>>349 確か,官を辞して散位になってても,出家で官位も無くなるのかな。
353 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 19:48:43
江戸時代の大名って隠居しても、出家する人はあんまりいないよね。
剃髪するのも、仏門とか関係なしに、単に年食ったからチョンマゲ落とすみたいな感じで。
本来は出家は既存の身分体系からの離脱を意味するので、
位階は死亡と同様に消滅する。
ただし何事にも例外はある。
道鏡に取り入って出世した詐欺師的僧侶基真は出家の身でありながら、
766年正五位上に叙され、その年のうちに正四位上に昇位。
しかもその時法参議という前例のない地位に就いている。
あまつさえ物部浄朝臣という姓まで賜われ、僧侶としては異例づくめ。
なにせ横紙破りな孝謙天皇の時だから。
同時に法臣(大納言待遇)とされた円興の方はなぜかあくまでも通常の僧侶の待遇で、
この点はわけがわからない。
武家時代には関係ない話だけど。
まあ一般的には出家も正規のものなら当然位階も官職も消滅だろうな。
ただ私的に頭を丸めただけの場合はどうなんだろう?
律令的秩序に基づく得度制度崩壊後はよくわからない。
355 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 20:27:53
足利義満が出家したのは、公家や武家を超越した立場になるためと言われるが、
准三宮の称号はもらってるよね。
准三宮(准后)というのは、位階とか官職にはならないの?
あくまでも待遇。
皇后等と同等の待遇ってことだから、官職位階とは別の概念。
だから対象は僧侶でもいいはず。
確か室町幕府の黒衣の宰相って言われた満済ももらってなかったけ?
足利義昭も,将軍辞職で出家,そして准三宮宣下
義昭が将軍職を辞官したのは,秀吉が関白や太政大臣になった後なんですよね。
准三宮宣下は,天台座主等の宮門跡も与えられている
皇后と同等の待遇ということは、
准三宮本人が望めば、帝の臥所に入ることもできるのか・・・
>>357 すでに権力を喪失した義昭にすら宣下されてるんだよな
秀吉の口添えでもあったんだろうか・・・
>>360 それは,足利将軍に対する先例に基づいた待遇ではないですか?
それとも,子孫に将軍職を継承させなかったことに対する秀吉からの褒美だったのですかね?
>>346 この人こないだも間違った知識さらしてたよね
豊臣時代、清華成に伴い小早川隆景や宇喜多秀家の重臣も
上杉や毛利の例のように諸大夫成したのかな?
>>363 この時代は,まだ官途書出などの官位の僭称・私称があったんじゃないの?
だから,諸大夫成なんて言わなくても,家臣に○○守がいたでしょう
>…大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。…
たいら清盛の 異例の出世ウィキより
出世公務員のかがみ・平清盛公の加階栄達
西暦1129年従五位下左兵衛佐 →1131年従五位上→1135年正五位下、従四位下→1136年中務大輔→1137年肥後守兼任→1140年従四位上→1146年正四位下安芸守兼任、肥後守任替→1156年播磨守→1158年大宰大弐
→1160年正三位、参議、大宰大弐如元、、右衛門督兼任、大宰大弐辞任→1161年検非違使別当兼職、近江権守兼任、権中納言、検非違使別当・右衛門督如元→
1162年検非違使別当・右衛門督辞任、検非違使別当・右衛門督兼職、皇太后宮権大夫兼任、従二位、検非違使別当・右衛門督両官職辞任→1165年兵部卿兼任、権大納言、兵部卿・皇太后権大夫如元
→1166年正二位、春宮大夫兼任、兵部卿・皇太后宮・権大夫両官辞官、内大臣→1167年従一位太政大臣、太政大臣辞任→1168年出家
ウィキ参照
上級公務員の野心家は見習いましゃう
>>364 官位・由緒の僭称・仮冒が多かったのはその通りだけど、陪臣の諸大夫成は重臣当人が
従五位下○○守に叙されるというだけでなく、むしろ大名の清華成に伴い諸大夫を置けた
というその大名家自体の家格としての側面の方が大きいんじゃないかな。
とすれば徳川・毛利・前田・上杉など他の武家清華との家格均衡上、小早川や宇喜多の
重臣も普通に考えれば諸大夫成したのかなと思った。でも毛利と小早川の関係性を考えると・・・
368 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:17:33
史上初?空前絶後!?
正確な時代は忘れたけど、権がつかない大中納言は、道長の時代からほどなくほとんど任命されなくなる。
権中納言→権大納言→内大臣は清盛の時代なら当たり前です。
平清盛や源頼朝 の 時代 は 御堂道長 より ずっと!あと
372 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 00:31:53
それに、内大臣なら、それなりの抜擢も可能だし
いまなら当選1回で 無役から いきなり 総務大臣?!? スゴー
ちょっと戻るけど、
秀吉が死んだ直後は公家を含めても最高位は内大臣の源家康?
>>374 そやね。菊亭晴季が右大臣に還任するのが
秀吉没日から4ヶ月後やし。
菊亭は清華家だよね
その時期の五摂家の当主はそれぞれどんな官に就いていたのかな?
鷹司は断絶していた
近衛は島流し
近衛大将に権官がなかったのは何故なのでしょうか?
近衛大将は令下の官でも,職でもないし
それに大納言でも権官が存在するのに・・・
秀次事件の影響だっけ
九条・一条・二条は大納言以下だったのかな?
近衛家康? 近衛秀吉
?
右大将の前身である中衛大将には権大将がいたことがある。
式家の藤原田麻呂、時に従三位参議とそれなりの地位。
なぜ大将でなく権大将だったのだろうか?
これ以外には左右近衛、近衛、中衛、外衛を通じて権大将はいないようだ。
そういえば八省卿も権卿ってのは見たことがない。
弾正尹も神祇伯も権官はいないようだ。
大宰帥を例外として高位の長官は基本的に権官を置かない習慣だった?
>>379 九条・一条・二条の当主は秀吉が出てくる前に関白になっていて
秀吉政権下では前関白・前左大臣待遇。嗣子はいまだ幼少。
秀吉没後に九条は関白左大臣に還任補。二条昭実にいたっては
30年ぶりに関白還補だっけ。
これまた的外れなアレが来たな
文官・武官は個人の資格・地位ではなくて就いている官職に付随する性質
左兵衛佐 武官
中務大輔 文官
肥後守・安芸守・播磨守・大宰大弐 地方官
参議 宣旨職
右衛門督 武官
検非違使別当 宣旨職
近江権守兼 地方官
権中納言 文官
皇太后宮権大夫 文官
兵部卿 文官
権大納言 文官
春宮大夫 文官
内大臣 文官
太政大臣 文官
実体として下級官人は文官系統と武官系統に分かれていることが多いけど、
中級以上は時に応じてどちらでもというのが律令以来の伝統。
名家なんかかなり純粋な文官系統だけど、あれでも衛府督とか佐とかになるし。
この時期だと義弟の平時忠が、検非違使で尉・佐・別当を歴任してるな。
検非違使補任を見たけど、こういう例はこの人だけのようだ。
388 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 10:16:25
大納言と大将を兼任することもあるからな
征夷大將軍職は 武官? 文武に係わらず官位体系いっしょ
いまの防衛省大臣副大臣次官 や 警察庁長官次長など トプは文官官位 以下は武官官位? それとも いまの日本は武官なし
391 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 16:38:43
自衛隊制服組は武官だろう
392 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 16:57:56
>>391 今の平和主義国家日本に武官など存在するはずはありません!
自衛官は武官であるはずありませんとも!
ぐんくつの音が聞こえる!ニヤニヤ
…と冗談はさておき話は変わるけど
准大臣宣下された人の敬称がわからない
○○公なのか○○卿なのか…
誰か知らないですかね?
国内法上は武官じゃないだろう、外国からは武官として扱われているみたいだけど。
法の建前と現実のどちらを重視するかで変わってくる。
まあここは官職スレだから建前つうか名目重視でいいんじゃないの。
「幕末の宮廷」では准大臣以上が公、一位以下が卿って言ってる。
少なくとも幕末時の認識はそうなんだろうな。
話は劇的に変わるけど、藤原氏のうちどうも京家は誰も式部卿になってないようだ。
このあたりにも京家の弱体ぶりが反映されているような。
弱体だからなれなかったのか、なれないから弱体だったのか?
たぶん前者だろうな。
奈良時代のころの式部卿は実力者ぞろいだし。
嵯峨源氏の言語道断な昇進に比べて醍醐あたりまでの源氏は全然ぱっとしないけどなぜだろう?
嵯峨源治で反省した?
江戸大名で右近衛権少将は毛利秀就とか初期の大名だけ?
中期以降でも左少将じゃなくて右少将に任ぜられた大名っていたのかな
>>390 とりあえずそこに出ているのは全部文官/文民。防衛次官は微妙だけど、
警察官は全部文官だし。(警察庁長官は「警察官」と規定されている。)
>>396 頼房は幕初としても、光國や吉宗も右少将じゃなかったかな?
武官の検非偉使庁て いつ消滅したの かな
いずれにせよ 第32代崇俊天皇を しい逆した朝敵蘇我本家を 討ち取った 摂関家の祖・武官藤原鎌足の 大錦冠・大紫冠・大織冠が 最高官位。
>>400 おまえの書き込みイラつく
毎日のように的外れなレス連投してんじゃねえよ
日本語おかしいのは池沼だからか?チョンだからか?
出世できない鬱憤ばらしの場にしないように
404 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 09:02:06
どなたか頼光四天王の官位ってわかりませんか?
できれば就任してた時期も。
同じ摂家でも、近衛や一条と二条、鷹司では家礼・門流の数が段違いだけど、
門流が多い方が公家社会での立場(摂家・門流の官位昇進も含めて)が強かったりしたんだろうか?
そういうのはあまり関係なかったのかな・・・
貴族政治…同族や門閥が交互に高位高官を占める政治 (有能さなどで特別採用された人以外)
民主政治…だれもが 能力 才能に応じて 出世可能な 家柄の身分差のない政治(今の国会議員など)
どっちが好き それとも北ちょせん流 独裁政治
すさのお・あまてらす姉弟神と 後継の天子さま(超位超官)に感謝して 30代以下の公務員さん(教育職含む)
409 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:15:55
なるほどキモいというのは共感できた
それ官位ほとんど関係ないしw
正一位て今まで何人叙位されはった?
>>411 ウィキに記載の順(追増含む)
生前叙位は、巨勢徳陀さま、橘諸兄さま、藤原仲麻呂(賜姓恵美)さま、藤原永手さま、藤原宮子(聖武天皇御生母)さま、三条実美さま
以上の6名の方々
それ以外に追増により83名の方々(計89名の正一位の日本人)
県犬養三千代、岩倉具視、織田信長、北畠親房、紀諸人、楠木正成、近衛(藤原)忠熙、近衛(藤原)基実、早良親王、三条実万、島津斉彬、菅原道真、平時信、高野乙継、橘清友、
徳川家定、徳川家重、徳川家継、徳川家綱、徳川家斉、徳川家宣、徳川家治、徳川家光、徳川家茂、徳川家基、徳川家康、徳川家慶、徳川綱吉、徳川綱重、徳川斉昭、徳川秀忠、徳川光圀、徳川吉宗、
豊臣秀吉、新田義貞、
藤原乙春、藤原兼通、藤原公季、藤原伊尹、藤原定国、藤原実季、藤原実頼、藤原盛子、藤原園人、藤原高藤、藤原忠平、藤原為光、藤原時姫、藤原時平、藤原永手、藤原長良、藤原教通、藤原房前、藤原総継、
藤原不比等、藤原冬嗣、藤原真楯、藤原道兼、藤原美都子、藤原武智麻呂、藤原基経、藤原師輔、藤原師尹、藤原淑子、藤原良房、藤原良相、藤原能長、藤原能信、藤原頼忠、藤原頼長、
源顕房、源昭子、源潔姫、源重信、源融、源常、源光、源信、源信、源雅信、源満仲、
毛利(藤原)敬親、毛利元就、
和気清麻呂
毛利敬親の本姓は大江なのでは?
「さま」付けはすごく違和感が・・・
414 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 10:41:23
足利義満は正一位になっていないの?大権力者なのに
正一位の上にも一品、二品、三品とかあるけど、皇族(親王、内親王)限定ですか
>>414 源義満いれて90?名でした 写しミス 詳しくは公卿ぶにんなどに聞いて
弓削道鏡は
とにかく官位について真面目に話してください
今も官位はあるの?勲位と違うの?一代限りなの?
うわぁ凄い正一位 殆ど沒後 ナムー
421 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 13:30:54
道鏡は坊さんなので一応は俗界の位階勲等とは無縁のところにいる建前。
だから大臣も太政大臣も、一応後ろに禅師がついて別物だということになっている。
大臣禅師・太政大臣禅師。
もっとも同じころに正式に位階をもらっている僧侶もいるけど。
位階も勲位も個人に与えられるものであり、一代限りで世襲はできない。
ただし律令制下では高い位階を持っていると子や孫(外孫はだめ)は、
ある程度の高さの位階をもらえた。これは蔭位という。
勲位も上位のものは、子孫の位階に有利に働いた。
維新後も位階はあるが、それ以前のものは全部ご破算になっている。
たいか蔭位制度も廃止になってると思う。
たしか公爵の嫡子が従五位に叙される制度はあって、これが名残りかな?
戦前の爵位は家に与えられるものだから世襲。
戦後も位階制度は残っているが、生きている人はもらえないそうだ。
品階は一品から四品まであって、親王・内親王限定。
皇族でも皇孫である王・女王は対象外で、彼らは臣下と同じ位階をもらう。
と言うのが律令の建前。
ただ律令制度が崩れて相当たってから誕生した世襲宮家。
あれはどうなんでしょうね?
恩位の武田宮さんている?
旧竹田宮さん?
正一位ってナデン紫宸殿で加階されたのかな
正一位の方々は 神君家康のように神社の神々になった方々も多い(藤原氏以外)
九月九日 奇数(陽+陽=陰)並びの 菊花の重陽的な太陽暦ですが ご名福を祈ります
>>422 大宝律令が日本国憲法の上に 今も形の上は存在しているの?
>>427 現在の位階は、政令扱いの位階令に基づいて授与されているので、
日本国憲法の枠内。
位階冷て総務庁の省令? 戦前は文部省?
いずれにせよ 空文化してるのかな 勲位が上みたい?大政治家やお役人にとって。
430 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 15:18:35
>>417 義満は正一位を贈られていない
贈太上天皇
半角スペース氏ね
身分不相応の公務員にあるまじき不謹慎な言動は 天照らす大神の照射光と やたの鏡の照らす探る力の前に 謹みましやう
>>429 位階令は大正15年の勅令
所管は宮内省
現在の所管は内閣府人事課
昨日から変な流れになってるな
>>419 死後贈位。公立学校の校長クラスなら従五位。
芸能人クラスや公設議員秘書クラスは無し?
437 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:05:06
なしだょ 公務員(官吏→公僕public servant)限定だからぁ
歴史は公務員によって造られる?→そうだってば。
ぷぷ 真面目な話題に戻してね
>>436 紫綬褒章以上の栄典を貰った芸能人なら,死後の叙勲や贈位はあるんでないかい?
一般人でも死後贈位は普通はないから,並の芸能人なら死後贈位はないでしょう。
ありがと
変な奴がいるな
民間人w
444 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:55:30
国民栄誉賞があるな
近現代の勲章・褒章は官職・位階ではないし、ましてや国民栄誉賞の類は首相が
与えるものだからこのスレの趣旨にはそぐわないのでは?
空気読めない奴がいるんだろ
kyききき
せんぞが従1位の人てこの仲に要る?
なら正従2位は?
京都の大工頭・中井正清って千石を与えられ従四位下に叙されてるんだね
関西一円の大工の長とはいえ、大工が並みの大名より上の四品とは驚いた
>>451 上役にあたる旗本の作事奉行は無位無官なのにねw
>>412 つづいて 従一位(ヰキの順)
石上麻呂さん、橘諸兄さん、藤原仲麻呂さん、藤原豊成さん、藤原永手さん、藤原是公さん、藤原良継さん、藤原継縄さん、藤原内麻呂さん、藤原三守さん、藤原緒嗣さん、橘氏公さん、藤原良房さん、藤原基経様、源融、藤原淑子さん、
源多、藤原良世さん、藤原忠平様、藤原定方さん、藤原実頼さん、藤原在衡さん、藤原兼通、藤原頼忠、藤原兼家様、源雅信、藤原為光、源倫子、藤原道長様、藤原頼通さん、藤原公季、藤原実資、藤原教通さん、
藤原頼宗、藤原師実、源師房、藤原信長、源顕房、源俊房、藤原師通、源師子、藤原忠実、源雅実、藤原忠通、藤原家忠、源有仁、藤原宗忠、藤原頼長さん、三条実行、徳大寺実能、藤原宗輔、平清盛さま、松殿基房様、藤原忠雅、
九条兼実、藤原経宗、藤原師長、近衛基通、平宗盛、藤原兼房、藤原兼雅、九条良経、藤原頼実、藤原範季様、近衛家実、藤原隆忠、八条良輔、三条公房、西園寺公経、徳大寺公継、九条道家、九条教実、近衛兼経、西園寺実氏、
二条良実、九条良平、三条実親、一条実経、久我通光、鷹司兼平、徳大寺実基、二条道良、西園寺公相、山階実雄、近衛基平、鷹司基忠、一条家経、九条忠家、花山院通雅、二条師忠、九条忠教、近衛家基、堀川基具、鷹司兼忠、西園寺実兼、
大炊御門信嗣、土御門定賢、二条兼基、洞院公守、久我通基、中院通頼、堀川具守、徳大寺公孝、九条師教、三条実重、二条教良、西園寺公衡、鷹司冬平、一条実永、近衛家平、近衛兼教、久我通雄、二条道平、近衛経平、中院通重、
花山院師信、洞院実泰、六条有房、一条内経、三条公茂、花山院家定、大炊御門冬氏、今出川兼季、鷹司冬教、吉田定房、久我長通、大宮季衡、近衛経忠、万里小路宣房、洞院公賢、近衛基嗣、一条経通、九条道教、鷹司師平、
>>453 三条実忠、二条良基、大炊御門冬信、近衛道嗣、九条経教、徳大寺公清、足利尊氏、勧修寺経顕、源宗明、三条公忠、中院通冬、鷹司冬通、久我通相、洞院実夏、足利義詮、二条良冬、二条師良、三条実継、西園寺実俊、九条忠基、
近衛兼嗣、二条師嗣、柳原忠光、勘解由小路兼綱、足利義満、今出川公直、三条実音、四辻善成、二条基冬、徳大寺実時、一条経嗣、久我具通、四条隆郷、土御門保光、今出川実直、万里小路嗣房、洞院公定、広橋仲光、三条実冬、
足利義持、近衛良嗣、今出川師冬、大炊御門冬宗、日野資教、坊城俊任、裏松重光、今出川公行、二条満基、鷹司冬家、足利満詮、九条満教、徳大寺公俊、西園寺実永、三条公光、甘露寺兼長、広橋兼宣、一条兼良さん、
日野(藤原)有光、洞院満季、大炊御門信経、裏辻実秀、足利義教、近衛房嗣、久我清通、大炊御門信宗、鷹司房平、足利義勝、二条持通、万里小路時房、洞院実熙、西園寺公名、中院通淳、三条西公保、三条実量、
足利義政、町資広、足利義量、烏丸資任、近衛教基、一条教房、正親町三条実雅、中御門明豊、四条隆盛、正親町時季、日野勝光、久我通博、徳大寺公有、西園寺実遠、今出川教季、万里小路冬房、二条政嗣、九条政基、広橋綱光、三条公敦、近衛政家、
鷹司政平、大炊御門信量、中院通秀、柳原資綱、足利義尚、徳大寺実淳、武者小路資世、花山院政長、葉室教忠、足利義視、一条冬良、今出川公興、近衛尚通、庭田雅行、勧修寺教秀、四条隆量、久我豊通、正親町公兼、中御門宣胤、九条尚経、
武者小路縁光、鷹司兼輔、三条実香、足利義澄、二条尹房、大炊御門経名、広橋守光、徳大寺公胤、甘露寺元長、近衛稙家、中御門宣秀、足利義稙、久我通言、四条隆永、西園寺実宣、鷹司忠冬、一条房通、九条稙通、正親町実胤、三条公頼、
甘露寺伊長、二条晴良、今出川公彦、足利義晴、一条兼冬、広橋兼秀、勧修寺尹豊、柳原資定、近衛(藤原)前久さん、西園寺公朝、飛鳥井雅綱、足利義輝、烏丸光康、
以上281従1位日本人(近世より前)
うち大宝律令創始者藤原不比等さまの御子孫240名あまり 9割近くW
独り言の連投やWikiからの転載しかできないなら消えろよ低能キチガイ
おまえ一人だけスレ違いなんだよ
この人たち、方々って 平成の今からして 歴史上の人物たちですよね
歴史上の人物たちって 知ってること 知らないこと まだまだ発掘途中ですか 知り尽くされてますか 科学的実証主義的歴史観の国ですか それとも空想的歴史観に今も支配され続けていますか
>江戸幕府の朝廷統制政策により清華家以下の諸家は政治の最高意思決定の場から実質排除されていたため、兼香と嫡男・道香が左右大臣として政務を取り仕切らなければ、政務が進まないという事態に陥った
ウィキ 一条兼香より
>宝暦事件では関白一条道香、近衛内前、鷹司輔平ら摂関家公卿と協力し、桃園天皇側近の尊皇論者である清華家以下の公家を失脚させ、摂関家の優位性を保つことに成功した。
ウィキ 九条尚実より
近世近代から…新版・従一位?になりますた?(藤原氏&源子以外平民可!!)
一条内基、九条兼孝、二条昭実、近衛信尹、豊臣(木下)秀吉、今出川兼季、高台院(木下ねね)、鷹司信房、柳原淳光、勧修寺晴豊さん、徳川(得川)家康、烏丸光宣、正親町季秀、鷹司信尚、九条幸家、徳川(得川)秀忠、西園寺実益、
阿茶局(飯田須和)、近衛信尋さま<非藤原鎌足男系・後陽成天皇血統>、広橋(日野)兼勝、花山院定熙(藤原師実子孫)、徳川家光、一条昭良さま<非藤原鎌足男系・後陽成天皇血統>、三条西実条、西園寺公益、二条康道、
近衛尚嗣<非藤原鎌足男系藤原家・後陽成天皇御孫公>、中院通村<村上天皇系>、清閑寺共房<藤原高藤卿子孫>、鷹司教平、三条実秀、二条光平、広橋兼賢、花山院定好、西園寺実晴、徳大寺公信、大炊御門経孝、鷹司房輔、三条公富、清閑寺共綱、
飛鳥井雅章(藤原師実子孫)、柳原資行(藤原冬継の兄藤原真夏の子孫、日野家傍流)、一条兼輝、園基福(道長流藤原頼宗子孫)、近衛基熙、清閑寺熙房、坊城俊広(家柄は吉田家、血筋は藤原高藤子孫)、一条兼輝、
今出川公規(家柄は九条殿藤原師輔の12男公季流、創始者公成出自不詳?)、大炊御門経光(道長の孫、藤原師実子孫)、桂昌院(不詳氏族北小路玉)、中院通茂(村上天皇流、源氏)、鷹司兼熙、三条実治、葉室頼孝(藤原高藤子孫)、
近衛家熙(後陽成天皇流)、勧修寺経敬、柳原資廉、鷹司信子…贈従一位、万里小路淳房(藤原高藤さま子孫)、久我通誠(村上天皇子孫、源氏)、九条輔実、正親町公通(藤原師輔さま12男公季の家柄、血筋は別)、二条綱平、
松木宗顕(藤原道長と源高明の娘明子の男子、藤原頼宗の子孫)、中山篤親(家柄は道長孫師実流、血筋は藤原公成流)、庭田重條(宇多天皇の孫、源雅信の子孫、宇多源子)、近衛家久、
櫛笥隆賀(藤原房前3男、魚名さま御子孫)、広幡豊忠(正親町天皇の曾孫の広幡源氏の家柄、血筋は村上天皇系)、中院通躬(村上天皇子孫、源氏)、二条吉忠、醍醐冬熙(血筋は後陽成天皇子孫、家柄は一条家分家)、西園寺致孝、
一条兼香さま(+准三宮)、中山兼親、坊城俊清、武者小路実陰(血筋は藤原公成子孫、藤原忠平の孫、藤原公季の家柄の三条西家分家)、日野資時、久我惟通、一条道香、櫛笥隆成、花山院常雅、近衛内前、二条宗基、三条実顕、久我通兄、
九条尚実さま、葉室頼胤、醍醐兼潔、西園寺公晃、柳原光綱、鷹司孝子…贈従一位、万里小路稙房、鷹司輔平、飛鳥井雅香、九条道前、三条季晴、広橋兼胤、一条輝良、甘露寺規長(藤原高藤子孫)、
姉小路公文(家柄は藤原公季流)、葉室頼要、松木宗長、飛鳥井雅重、正親町実連、庭田重熙、近衛経熙、広橋前豊、大炊御門家孝、西園寺賞季、日野資枝、清閑寺益房、鷹司政熙、二条治孝、
四条隆叙(藤原真盾の弟、藤原魚名嫡流)、万里小路政房、一条忠良
1799年の叙位分まで
なんだこの流れ…
佐藤元首相(ノーベル平和賞)以来、 天皇さまから、従一位を宮殿にて、叙位された国会議員さん、とか無しですか?!…つまり平成0(ゼロ)名!!!
462 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:17:47
右以件人宜令補任
の読み方をどなたかお教えください。
463 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:24:30
宮家・華族写真館
464 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:43:59
皇族・宮家・華族だろ
叙勲 なんかより (大勲位より)
叙階より(大臣ぽすと)ょり
叙位は 次元ちがう みたぃ
>>462 みぎくだんのひとをもってよろしくぶにんせしむるべし
柳生一族の陰謀で、家光が将軍宣下を受ける際、
右以件人宣令補任
征夷大将軍
と書いてあったな。
宜と宣
どうせなら1位より、初位や八位、外位とかのリストの方が面白そう。
471 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 02:22:51
日本の伝統やさかぃ
>>471 同じウィキなら「摂関家」の方に書いてあった筈
摂関家は藤原 他家は無理
豊臣(木下)秀吉 例外(破格)
ちょっと気になるんだけど、遷都した時地元の郡司ってどうなるの?
郡自体は消滅しないだろうから首にはならないだろうけど、
実質権限骨抜き?
なんか見返りあるのかな?
スレ違いかもしれないけど。
? 意味不明 徐目ジモク知らず?
>>477 > 勲章を与えることは、昔の徐目(じもく)と同じで、官僚が間で口をきいてやるのである。付け届けが良いともらえる。うまい人心操作と言える。
かっては判任官(小学校の校長クラス)、奏任官(中学校の校長クラス)、勅任官(高校校長、大学教授クラス)といった身分(位)を授ける権利を天皇が持っていた。
戦後は階層、身分を決める権利は政府が持つことになった。身分は公務員法によって決めるのである。
それら階層・身分がなくなっただけに勲章がありがたがられることになったのである。
勲一等あたりになると、単なる大企業の会社だけではダメであって、業界に貢献していなければならない。だから業界団体が増えるのだ。これら団体は勲章をもらうための足掛かりなのである。
(Works
http://homepage2.nifty.com/jomako/industrialism/works/20seiki/19971121.htmlより)
>>461 昭和だけど ノーベル物理学の湯川秀樹はかせは従二位勲一等ですね 学者先生でこの上は なかなか無理ぃ
意味不明な自己レスばかりのキチガイは消えろっつってんだろ
大宝令以前の段階で、舎人や史生クラスでも位階(冠位)を得られたのかな?
702年の戸籍で壬申の乱従軍兵士らしい農民が従七位・正八位クラスの位階を持ってるから、
そういう人は冠位を与えられたんだろうけど。
特に功績のない下級職員が冠位をもらえたのかがよくわからない。
評司クラスは冠位を持っている例があるけど、これも通例かどうかはよくわからない。
もしかしてのちの四等官に相当するクラスだけが冠位授与対象なのかな?
明治以後の位階ネタは近代史板でやれよ
「とにかく」と言っても基本ここは律令〜江戸の公家・武家の官位スレだろ、空気嫁
意味不明なレスの連発は荒らしと一緒
権官を嫌い、正規の職に就きたがった人はいなかったのか?
そういえば権守とか権介は、平安中期になると正官より、位階や本官が高かったりするな。
上流貴族の子弟とか、参議とかで。
486 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 12:32:57
本官って何を指して本官って言うの?
太政官のこと?
487 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 23:38:44
>>486 〇〇兼××権守
の「〇〇」の部分のことではないか
488 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 23:49:40
大納言と聞くたびに、また権大納言かと思う…。
489 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 07:36:44
本官ってのは権がついてない大納言や中納言や大将中将少将のことだろが
泉岳寺に行って浅野内匠頭の墓に参って来た。
前少府と刻んであった。前少府監では無いのかと思ったけど、普通略すんでしょうか。
左府とか内府とかも本源的には略称だろうな。
典厩とかも本来は典厩令が正しいんだろうな。
兵衛佐頼朝の武衛も、本来的には武衛将軍なりなんなりが、本来だろうし。
黄門だって略だし、大陸の官職は単なる通称なんで問題ない。
494 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 10:36:50
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く`i ン 、 ヽ i ヽ <_
Ly´/ i ハ !∠ ', ヽ 〉 ノー'´
,-、 イ i ハ、_レ' レ!,ィ'´`ハ、_.! i ! / /
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_> ,.---'ヽ. / ハ'ハ_リ " / ハ / ,'.|
`ー-, `ー- ´\ !. / !" r'"⌒ヽ / ,./ / | 弾幕をはれ〜
'ー-^'ー' 、 `r'´レへ、 ヽ __,ノ レ/、ゝ--"ハノ
\ !、. ヽ>r‐r=ニン/  ̄ !
!ン 、 ,.イ /}><{ ハ /
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当時は、尾張亜相、水戸黄門とも呼んでたんだろうか?
参議は加賀参議より加賀宰相の方がしっくりくるけど・・・
他にも、小早川秀秋も金吾黄門ではなく金吾中納言となるのも不思議な感じがする
左衛門督を唐風に金吾としておいて、なんで中納言は黄門じゃないんだろ・・・
武鑑では「水戸中納言」「尾張大納言」「加賀宰相」だね。
そもそも参議はなんで宰相なんだろう。大臣ならわかるんだけど。
499 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 19:58:01
大臣のようなモノだから宰相
大納言が亜相と呼ばれるのと同じ
500 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 19:58:39
大相国、左府、儀同を独占する徳川一族
>>498 宰相が国政の最高責任者だとしたら参議には似つかわしくないが、中国の宰相は同時に複数存在し、しかも皇帝権力がつよいから、皇帝の諮問に対して協議のうえ回答する「軽い」官になっていたので、日本の参議も「最高政策決定会議参加資格者=宰相」と考えられたのかもね
当時は浅野小府(監)とか呼んでたってこと?
宰相・金吾・朝散大夫とか唐風の呼び方と、正式名称での呼び方の区別はなんなんだろう
参議は宰相と称することの方が多いと思うけど、それぞれどっちで呼ぶかは慣習的なものなのかな
右丞相と右僕射の違いは?
>>495 呼んでいたんでしょう。吉宗が将軍になった時の落首の類にも、
「紀伊黄門」「尾張黄門」と言った表現があるそうだし。
義直の場合、亡くなった後は「二品前亜相尾陽侯源敬公」と
なっていますね。
慶喜も一橋黄門と呼ばれてたような
戒名には唐名が入ることが多いね。
509 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 00:12:35
東百官で高い役名、低いものとかどんなんでしょ。
左門が左衛門督相当とか。
510 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 00:39:32
左門は豊作
左膳は丹下
512 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 23:09:17
主計は勝田
主計は東百官じゃないし
514 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 01:26:04
浪江
515 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 01:49:19
>>479 戦前の歴史学者は皇室と関わりが深かったりして
大学教授の中でも特に位階勲等が高いよう。
三上参次は生前に勲一等旭日大授賞を受けているし、
黒板勝美も東大教授現職時の50歳くらいで正三位になっている(戦後に亡くなった時も昇叙はなかった)。
>>479 公立学校の校長って死亡叙位叙勲ばかりだね。
何でだろ。
叙勲とかどうでもいい
ハトの父、祖父の位階は?本人はその上をねらう?
771年に三島部を賜姓された、薬師寺の奴百足って、
なんで勲六等(従五位下に比す)なんて言う高い勲等をもっていたんだろう?
ちなみに当時は無位の近衛。
奴なのに近衛だった経緯も謎だけど。
百足てムカデ一族? でも日本国の役に立てば位階貰える)^o^(
正倉院の開封の儀の勅使の官位って 決められてるの?
またキチガイが来た
消えろ
>>519 恵美押勝追討の勲功でしょう。
たしかに奴にして近衛というのは異例ですが。
やはりそれしかないかな。
しかし、称徳朝ならともかく、なんで光仁朝で賜姓されたたんだろう?
任用の経緯は経緯として、近衛としてまじめに精勤してたから、
いつまでも奴のままじゃ変だし。ってことなのかな?
>>520 薬師寺では、毘沙門天の鬼祓い祭が四月五日にあるらしい。 ムカデ百足は毘沙門天の化身。
皇族の位階
天武朝から大宝令で改訂されるまでの皇族の位階、明冠・浄冠についての勝手な考察。
明冠叙位の実例はないらしい。浄冠最上位の浄大壱も同様。
第2位の浄広壱は皇太子草壁皇子と、高市皇子(当初は第4位の浄広弐)のみ。
磯城皇子がそうだったと「新撰姓氏録」にあるが、これは不審。
第3位の浄大弐は大津皇子だけのようだ。
第4位の浄広弐は、他の天武皇子のほとんどで、天武皇子以外にはないようだ。
第5位の浄大参は、天武皇子中母の出自が低く序列も下の忍壁皇子と、天智皇子の川島
皇子の二人。
第5位の浄広参は、日向王(699の没時)
第5位の浄大四は、葛野王(696時点:後正四位?:没時(705)正四位上)
伊勢王(685?:683時点諸王五位)、川内王(贈位(694):686時点浄広四)
泊瀬王(695時点:685時点浄広四か?)、春日王(699時点=没時)
第8位の浄広四は、美努王(694時点:701時点正五位下)、川内王(686時点:贈浄大四)
竹田王(689時点:708時点従四位上)、
広瀬王(683時点(当時この位階は未制定で追記か?):718従四位上→正四位下)
大石王(699時点:703時点従五位上:708時点正五位下、713正五位下→従四位下)、
衣縫王(699時点:707時点従四位下)
浄大弐以上は特別待遇の天武皇子、浄広弐は天武皇子のみの特権的地位、浄大参は皇子の
みで逆に言うと皇子の下限のようだ。つまり浄大参以上が後の四品以上に相当か?
浄広参以下は一般の諸王が与えられていたようだが、多くは浄大四以下か?
どうも浄大参以上は皇子としての序列を反映するもので、年功等による昇進は通常はなか
ったようだ。高市皇子の場合は序列自体が上がったのだろう?
浄広参以下は功労(年功を含む?)により昇進があるようだ。
葛野王が文武天皇が皇太子に定められた時の功績で特に叙されたという正四位(上下不明)
とは、当時この位階がまだ存在していないことから考えて、浄大参のことだったのかもし
れない?本来皇子のものである位階を特に与えられたところに、特にの意味があるのでは
ないだろうか?あくまでも勝手な推定だが。
それと、浄大四の内、葛野王は大友皇子(弘文天皇)の子で間違いなく、天智系二世王。
この時28歳(または32歳?)らしく、初叙の冠位と思われる。
春日王は川島皇子の子らしく、やはり天智系二世王のようだ。
川島皇子の生年657年から考えて春日王の没時は20代と思われ、初叙の冠位だろう。
以上2例しかないし、推定も入るので不確実だが、2世王、少なくとも天智系2世王は、
初叙浄大四と言う基準が存在したのではないだろうか?
また三世王以下は浄広四が初叙で、ともに功労により浄広参までは昇進できたのではない
だろうか?浄大参は特例。
あくまでも勝手な推定だが、大宝以後の位階との比定
続紀によると、親王に与える明冠は、一品から四品までの、四階、諸王に与える浄冠は、
正一位から従五位下までの一四階併せて一八階。諸臣に与える正冠は正一位から従三位ま
での六階、直冠は正四位上から従五位下までの八階、勤冠は正六位上から従六位下までの
四階、務冠は正七位上から従七位下までの四階、追冠は正八位上から従八位下までの四階、
進冠は大初位上から少初位下までの四階、合計三〇階である。とある。
大宝以前の浄冠八階をそのまま直冠八階に対応させて、正四位上から従五位下に比定させ
る説もある(講談社学習文庫版続紀等)ようだが、それでは685年当時の草壁皇子が正四位
下相当、大津皇子が従四位上相当、高市皇子が従四位下相当、川島皇子・忍壁皇子が正五
位上相当に過ぎないことになり、低すぎないだろうか?
この時点では、臣下もほとんどが直大参(正五位上相当)以下に押さえられていたようなの
で(多治比真人嶋のみ直広弐か)、それもあり得なくはないが。
しかし、その後高市皇子が浄広壱に昇進する693年から死没の696頃までには、下記のよ
うに臣下の位階もあがってきている。これはおそらく持統朝での変化だろう。
多治比真人嶋:直広弐(689時点:従四位下相当)→正広参(690時点:正三位相当か?)
大伴宿禰御行:直大壱(691:正四位上相当)→正広四(694:従三位相当)
阿倍朝臣御主人:正広四(696時点:従三位相当)
石上朝臣麻呂:直大壱(696時点:正四位上相当)
大神朝臣高市麻呂:直大弐(692:従四位上相当)
藤原朝臣不比等:直大弐(696時点:従四位下相当)
浄広壱が正四位下相当だとすると、少なくとも石上朝臣麻呂までの4人が、太政大臣(690
年就任)だった高市皇子より、696年時点で見かけ上の位階が上位になってしまう。
多治比真人嶋は右大臣(690年就任)、他の3人はこの頃納言と思われ、高市皇子の下僚で
あり、やや不自然ではなかろうか?
また高市皇子以下の存命の天武皇子はまだ若年で叙位を受けていない新田部皇子以外は、
浄広弐ないし浄大参(忍壁皇子のみ、あるいはこの頃には浄広弐に昇進していたか?)の冠
位に有ったと思われる。浄広弐が従四位下相当、浄大参が従四位下相当というのは、問題
があるのではないだろうか?
×浄大参が従四位下相当
○浄大参が正五位上相当
更に大宝令施行直前の701年までには、下記のようになっている。
多治比真人嶋:正広弐(701時点:従二位相当か?)
阿倍朝臣御主人:正広参(700:正三位相当か?)
大伴宿禰御行:正広参(700:正三位相当か?:没時(701)同)→贈正広弐(正三位相当か?)
石上朝臣麻呂:直大壱(696時点から701まで変わらず:正四位上相当)
大伴宿禰安麻呂:直大壱(701時点:正四位上相当)
当麻真人国見:直広壱(697時点:正四位下相当)→直大壱(699時点:正四位上相当)
藤原朝臣不比等:直広壱(700時点:正四位下相当)
大神朝臣高市麻呂:直大弐のままか?(692:従四位上相当:702時点従四位上)
粟田朝臣真人:直大弐(699時点、701同:従四位上相当)
紀朝臣麻呂:直大弐(701時点:従四位上相当)
他に702年時点で従四位上であった高向朝臣麻呂などが、直広弐(従四位下相当)だった可
能性はある。
これに対しこの時期確認できる皇子の冠位は、忍壁皇子が700年時点で浄大参のまま、弓
削皇子が699年の没時で浄化広弐のまま、新田部皇子が700年浄広弐叙位の3例のみだが、
おそらく穂積皇子らも浄広弐のままだったのではないだろうか?
もちろん皇子であるという身分自体の高さがあるから問題ないという考えもあるだろう
が、少なくとも冠位制度の構造上は皇子より高い冠位をもった臣下が最低でもこれだけい
るわけで、皇子の尊貴さとのかねあいがどうなんだろう?
そこで私案として、浄冠八階を、正冠八階と直冠八階の合計一六階に対応していると考え
てみてはどうだろうかと思う。この場合は、やはり正冠と直冠の各二階に浄冠一階が対応
すると考えるのが自然だろう。下記にそれを表にしてみる。
浄冠 正冠・直冠 大宝令の位階
浄大壱 正大壱・正広壱 正一位・従一位
浄広壱 正大弐・正広弐 正二位・従二位
浄大弐 正大参・正広参 正三位
浄広弐 正大四・正広四 従三位
浄大参 直大壱・直広壱 正四位上下
浄広参 直大弐・直広弐 従四位上下
浄大四 直大参・直広参 正五位上下
浄広四 直大四・直広四 従五位上下
つまり高市皇子は、従三位相当(三品格)から太政大臣になり、その後従二位相当(二品格)
に昇進。草壁皇子は従二位相当(二品格)、大津皇子は正三位相当(三品格)、穂積皇子らは
従三位相当(三品格)、忍壁皇子らは正四位相当(四品格)だったと言うことになる。
これでも690年頃から693年までは、正広参(正三位相当?)の多治比真人嶋の方が、形式
上は高市皇子よりもやや高位になるが、さほどの差はなく、この程度は皇子の尊貴性で補
いがつくのでは?
なお同じ八階の直冠と四・五位は一階ずつが対応するのだろうが、八階の正冠と六階の一
〜三位はどう対応するのか疑問である。
直冠から四・五位への以降は、平行移動の実例もかなり拾えるので間違いないだろう。
その点正冠からの以降は、実例が少なく判断しがたい。一応実例を挙げてみよう。
多治比真人嶋:正広弐(701時点:従二位相当か?)→正二位(701)
阿倍朝臣御主人:正広参(700:正三位相当か?)→従二位(701)
この二人に次ぐ石川朝臣麻呂等の最上級官人の多くは、下記の通り平行移動でなく昇格し
た形になっているので、彼らも昇格したものと考えると、正冠の上位4階が一・二位に相
当し、下位4階が三位に相当すると考えても良いのではないだろうか?
石上朝臣麻呂:直大壱(701時点:正四位上相当)→正三位(701)
大伴宿禰安麻呂:直大壱(701時点:正四位上相当)→従三位(701)
当麻真人国見:直大壱(699時点:正四位上相当):以後不明(701時点既に死亡か?)
藤原朝臣不比等:直広壱(700時点:正四位下相当)→正三位(701)
大神朝臣高市麻呂:直大弐(692:従四位上相当:以後不明)→従四位上(702時点)
粟田朝臣真人:直大弐(701時点:従四位上相当)→正四位下(702時点)
紀朝臣麻呂:直大弐(701時点:従四位上相当)→従三位(701)
下毛野朝臣古麻呂:直広参(700時点:正五位下相当)→従四位下(701時点)
小野朝臣毛野:直広参(700時点:正五位下相当)→従四位下(702時点)
533 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:39:13
ではこの比定を皇子・諸王に当てはめてみよう。
親王(皇子)・諸王で大宝令施行前後の冠位と位階がわかる例
穂積親王:浄広弐(691時点:従三位相当?)→二品(702時点)
長親王:浄広弐(693:従三位相当?)→二品(704時点、701か?:714同)
舎人親王:浄広弐(695:従三位相当?)→二品(704時点)
新田部親王:浄広二(700:従三位相当?)→三品(704時点)
忍壁親王:浄大参(685:700同:正四位相当?)→三品(702時点)
葛野王:浄大四(696時点:正五位相当?)→正四位上(没時:705)
広瀬王:浄広四(683時点(当時この位階は未制定で追記か?:従五位相当?)
→従四位上(718時点)→正四位下(718)
大石王:浄広四(699時点:従五位相当?)→従五位上(703時点)→正五位下(708時点)
→従四位下(713:二階昇進)→従四位上(723)
衣縫王:浄広四(699時点:従五位相当?):従四位下(707時点)
参考
志貴親王:不明(浄大参か?)→四品(703時点)
この推定で格下げになった親王・諸王はおらず、平行移動ないし、昇格と考えられる。
あくまでも推定だが、浄広弐からは三品への移行が原則(平行移動)で、有る程度年数が経
過するか、功労を認められた皇子は、昇進時期と考え二品へ移行したのではないだろうか?
また浄大参(皇子)からは四品への移行が原則(平行移動)で、同様に年功か功労がある皇子
は、三品へ移行したのではないか?
なお、志貴親王も大宝令施行前になんらかの冠位を有していたとは思われ、おそらくそれ
は川島皇子同様の浄大参と考えられるので、そこから四品へ平行移動したのだろう。
諸王についてはよくわからないが、二世王は従四位下以上に、三世王以下は年功と功労に
より従五位下から従四位下程度に適度に割り振られたのではないだろうか?
葛野王は懐風藻によると草壁皇子太子選定の功績による特例らしい。
衣縫王は、当初は正五位上下あたりに移行したのではないだろうか?
広瀬王は、大宝令施行以前に既に浄大四または、浄化広参(従四位相当?)に達していたか
もしれない?718年に従四位上であったことを考えると、701年時点で正五位上下または従
四位下程度に叙され、その後710年代前半頃に従四位上に昇進した可能性はあるのでは?
なお日向王(三世王以下か?)は699年に浄広参で没しており、一般の諸王でもここまでは
昇進できたようだ。
結局のところ、材料が少なすぎて推定の部分が大きすぎるので全く確実性はないが、個人
的は上記の表のように考えると言うのが結論だ。
なお浄冠8階を令制の正一位から正四位下までの8階に相当するという説もあるようだ
が、その場合、この8階が正冠8階と直冠の最上位2階の10階に相当することになり、
同じ冠位制度の中での対応が難しく、不自然ではないだろうか?
それならまだしも、正冠8階と直接対応し、正一位から従三位までの6階に相当するとみ
た方がまだしもありそうだ。
どちらにしても最低線が低すぎるのでないかと思う。
またこの場合、葛野王は正四位上同士の平行移動かもしれないが、広瀬王・大石王・衣縫
王は切り替え時に正四位下から従四位上以下に格下げになったことになる。
実質的ないし相対的な切り下げはあっても、形式上格下げになるような切り替えは実施し
ないのではないだろうか?
と言うことで、個人的にはこの説には賛同しかねる。
あれっ?なぜか上がってるなあ?
536 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:12:11
神出現かな。
古代文化か日本歴史あたりに論文にして出した方がいい内容
現代のムカデ が出現か
だれか退治か診格化してあげて
江戸大名で従五位上に叙された事例はあった?
>>538 江戸初期に上野小幡藩の初代藩主・織田信良が従五位上侍従になってる。
>>539 ありがとう
初期にはいたんだね
織田は小藩ながら優遇されてるね
国主格だから半分高家みたいなもんだよね。
>>538 幕末に朝廷が勝手に大名に官位をあげ始めたときに
何人かの無城大名を従五位上に叙した例がある
ちょっと調べたらこれだけあった
いずれも元治元年昇叙
もっといるかも
河内狭山 北条相模守氏恭
備中新見 関伊勢守長克
丹波柏原 織田山城守信民
讃岐丸亀 京極佐渡守朗徹
近江大溝 分部若狭守光貞
肥前平戸新田 松浦左近将監脩
越前大野 土井能登守利恒
固辞した者
因幡鹿奴 池田伊勢守仲建
なんか由緒ありげな家もちらほら。
没落名家の末裔&中規模大名の分家あたり?
上杉景勝の従三位昇叙の時期はいつなのかな?
史料によって天正16年だったり文禄3年だったりするみたいだけど・・・
北条かげかつ→桓武平氏長尾家(上杉)の養子 謙信子なし 後北条氏てそんなに名門?
547 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 04:27:59
家柄身分不相応なのぞみwだからぁ
549 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:23:40
妄想民主主義官位主義者さんも がんばて
551 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:53:15
律令政治官位権威制度復活!!!
>>553 このスレ違い意味不明の馬鹿ってここの奴か
はぁ?
556 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 09:43:33
変な奴いるけどスルーしようよ
誰かお題出して
557 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:19:48
じいちゃんとこの家系図みたいなの見たら、中務大輔って字が沢山書いてた。なかむだいすけさんじゃないですよね? 位の名前?
558 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:35:49
羽柴出羽侍従→最上義光
羽柴安房侍従→里見義康
羽柴江戸内大臣→徳川家康
羽柴江戸中納言→徳川秀忠
羽柴加賀宰相→前田利家
>>557 読み方は「なかつかさだいふ」だったかな。
本来は中務省って官庁の上席次官のことです。次席次官が少輔。
系図の場合は私称って言うか単なる名乗りの場合が多いと思う。
大名の家系なら本物かもしれないけど。
勝手名乗りにしても中務大輔を私称するぐらいなら
領地と家臣をもつ武士だね。
561 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:21:41
「なかつかさのたいふ」ね
もしや岡崎の本多さん?
562 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:52:16
>>559 >>560 >>561 ありがとうございます。 じいちゃんは岐阜で、名字は本多でなく本田です! 家系図見た時に、本家は姫路城の殿様だったが、うちは分家の分家だから関係ないけど、血はつながってると言われたことがあります。全然信用してませんが〜。
中務省の大輔は非常に格が高いからかっこいいなw
中務卿は親王だから実質的に大輔が人臣の筆頭になるし。
564 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 23:05:54
>>562 その姫路城の殿様を幕末の城地によって岡崎本多家って言うんだよ
分家の分家だから苗字を変えたのかな
ご先祖さんの誰かが無理やり岡崎本多につなげただけかも知れんがw
565 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:12:40
>>564 562ですが、ありがとう。 今日電話で、じいちゃんに本田と本多の事を聞いたら、元々本田姓から本多になって、うちは明治ごろに本田姓に戻したとか言ってました。 なんか、うさんくさくて、564さんの言う通り無理矢理つなげたんでしょうw
566 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:31:32
そういや本多氏はもともと本田って表記だったって聞いたことあるな
間違いじゃないかもよ
ていうか本多平八郎忠勝って聞いたことないんかいな
567 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 09:33:28
ここまで本田くん(17)の自演
!おじょうずミニ大河作品w
569 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 21:00:56
とにかく 今もつづく官位
若者達が小供以下の頃の総理さんいらっしゃいましたね
宇野第75代日本国内閣総理大臣さま 在任は1989年6月3日から8月10日まで(たた3ヶ月と1週間)
すごいのは 『従二位!!!!!!!!勲一等旭日桐花大綬章。』
みんなこのあとの総理はこの方にかないませ〜ん=コンプレックス?(…今上天皇によって任命された最初の内閣総理大臣となった。しかし、内閣総理大臣就任直後に女性スキャンダルが発覚して世間の指弾を受け、第15回参議院議員通常選挙で惨敗した後に退陣した。)
ウィキ参照
>>570 スレ違いの上wikiソースでしかも認識のレベルが低い
まず現在生前の叙位が停止されていることを勘案していないという致命的な間抜けぶりを指摘した上で
さらに指摘しなければならないのは以下の諸点
戦後の首相は死後ほぼデフォルトで正二位大勲位
実績がなければ従二位勲一等
功績があれば従一位大勲位
例外は刑事公判中に死亡して叙位叙勲に与らなかった田中角栄と
死後の栄典を一切拒否した宮沢喜一のみ
宇野は実績がなかったからワンランク降格されたわけで
現在生きている首相たちも死ねば余裕で正二位大勲位なのだから宇野と比べるべくもない
しかも中曽根康弘は現時点で既に大勲位に叙されているから故人である宇野よりも席次は上
加えてレスが独り善がりで何を言いたいのかわからないし
文体がキチガイじみていて気持ち悪い
おまえはもう書き込むな
ハトは? あそたんやアベたんは?
誰か手を、間違えた、レスつないであげて
官位と豊富な税金欲しさに 政治は動いた
また来た
正3位て従2位の次 現職大臣はムリ
さんざんスレ違いとか叩かれてるのになんで書き込み続けるんだろう
しかも独り言のような内容スカスカのレスを
euみたいな東亞共同体なたら官位は消える 天皇政多国籍じゃないし?
582 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:59:10
律令制では
正三位内大臣
ならいたのでは
583 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 23:18:06
相手にしない方がいい
もりあがて
585 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 09:36:23
豊臣政権の公卿
關白太政大臣秀吉、關白左大臣秀次、右大臣秀頼、羽柴丹波中納言秀勝(實贈太政大臣信長公四男)、羽柴岐阜中納言秀勝(三好武藏守吉房三男)
織田内大臣信雄、羽柴岐阜中納言秀信、羽柴大野宰相秀雄
羽柴武藏(江戸)家―内大臣家康、中納言秀忠
羽柴大和家―大納言秀長、中納言秀保
羽柴加賀家―大納言利家、中納言利長
羽柴備前家―中納言秀家
羽柴越後(會津)家―中納言景勝
羽柴安藝家―中納言輝元、宰相秀元
羽柴筑前家―中納言隆景、中納言秀秋
羽柴小松宰相長重
羽柴會津宰相氏郷
羽柴大津宰相高次
羽柴薩摩宰相義弘
長岡忠興は?
587 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 00:11:22
まるで平家やわな
588 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 00:50:07
この場合の「羽柴」は一種の称号
羽柴って朝臣?
590 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 13:45:58
>>586 長岡忠興は豊臣政権下では公卿になってない
>>588 羽柴苗字をもらえる者ともらえない者には明らかに格差がある
羽柴苗字は一門・旧族大身大名・織田家での元同僚に許されているが
子飼の家臣にはほとんど許されていない(福島正則は一門として羽柴苗字を許されたか)
・羽柴苗字→公家成(初官侍従以上=公卿・殿上人)
例)羽柴清洲侍従正則・羽柴吉田侍従輝政・羽柴丹後侍従忠興
・それ以外→諸大夫成(諸大夫・昇殿不可)
例)石田治部少輔三成・黒田甲斐守長政・加藤主計頭清正・加藤左馬助嘉明・蜂須賀阿波守家政
>>590 >長岡忠興は豊臣政権下では公卿になってない
ネットで見る限り、慶長元年(1596)に参議に補されているとしているサイトも結構多いけど
史料によってたぶん年が違ったりするんじゃない?
上杉景勝が従三位になった年も史料によって違うみたいだから。
豊臣恩顧の奉行が連名で署名している文書で、忠興が筆頭に名を連ねていたのがあったような・・・
ミスった
>豊臣恩顧の奉行が
豊臣恩顧の大名が
関ヶ原以前に、家康から忠興宛の書状で「丹後宰相殿」としているのが現存している
みたいだから、豊臣時代に既に参議だったのは間違いないっぽいな。
594 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 18:29:59
忠興は公卿補任では慶長9(1604)年に参議従四位下で初出
京極高次も同年同官位で初出
だからむしろリストから高次を削除すべきかな
この時期、忠興に対する書状で確かなものといえば、三成を討とうと
した七将宛の家康のものがあって、たしかにそれではこうなっている。
(慶長四年)閏三月五日 家康御判
丹後少将殿//蜂須賀阿波守殿//清州侍従殿//藤堂佐渡守殿
//加藤主計頭殿//浅野左京大夫殿//黒田甲斐守
ところが、関ヶ原直前の家康書状では忠興を「丹後宰相」として
いるのだな(慶長五年八月 永青文庫所蔵)。さて??
京極高次の「大津宰相」は、慶長二年十月の「鹿苑日録」にも、
関ヶ原直前の家康書状にも三成書状にも出てくるので削除保留。
少なくとも秀吉生前には公卿に列してないわけか
少なくとも関ヶ原の前には参議になっていたということなんだろうな。
598 :
595:2009/11/02(月) 21:44:20
ただ、慶長四年閏三月〜慶長五年八月に忠興の公卿成を
家康は奏請できるかどうか? 正直疑問ではある。
慶長元年だと一番納得できるんだけど、だとしたら慶長4年に丹後少将とはされないよなー
島津義弘の参議補任は何年?
山科言経が家康の執奏で勅勘をとかれたのが慶長三年の十一月で、十二月に
参内ということだから、家康は秀吉が死んだ直後からいろいろと動いていたので
はないですかね。
菊亭晴季の還補も十二月ということだし。
Wikipediaソースやらググっただけで恐縮だが(主な通称やちょっとした考察を加えてみた)
蒲生氏郷
1583従五位下飛騨守
??琉球守?
1586従四位下侍従
1587羽柴苗字(九州征伐の功、羽柴松ヶ島侍従)
1588正四位下左近衛少将(正親町院聚楽第行幸時、羽柴松坂少将)
1591参議従三位(秀次関白宣下時、羽柴会津宰相)
長岡(細川)忠興
1578?1596?越中守(1578年だとするとただの受領書出か?)
1583?1584?従五位下(正式にはこのとき越中守任官か?)
1585従四位下侍従羽柴苗字(秀吉関白宣下時、公家成同時に羽柴苗字?)
1588左近衛権少将(正親町院聚楽第行幸時?、羽柴丹後少将)
1596?参議従三位(細川家記、羽柴丹後宰相、豊前中津移封が1600年関ヶ原後なので「丹後宰相」の称からしてこの年に補参議か)
1604?参議(公卿補任)
1603以降?従三位(細川家記)
1924贈正三位
京極高次
??若狭守・近江守
1585従五位上侍従(京極家譜)侍従従五位下? 羽柴京極侍従と称したのはいつだ?
1588従四位下(聚楽亭御成記、歴名土代) ※1590年近江八幡山移封に伴い京極八幡侍従
1591侍従従五位下?(秀次関白宣下時?) ※1593年弟高知が羽柴苗字拝領か?
1595?1596?左近衛少将
1596?1604?参議従三位(公卿補任によると1604年、若狭小浜移封が1600年関ヶ原後なので「大津宰相」の称からして1596年に補参議か)
義弘
1588侍従兵庫頭従五位下羽柴苗字(羽柴兵庫頭)
1599参議従四位下左近衛権少将
1918贈正三位
602 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 22:03:02
官位のことって、よく解らないんだけど、守と頭ってどっちが偉いの? 例えば、摂津守と内匠頭ではどっち?
603 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:15:26
質問が初心者すぎて逆に答えにくいが
官位相当では
大寮頭=大國守(攝津守等)>小寮頭(内匠頭等)=上國守>中國守>小國守
だが
そのうち官位相当はあまり関係なくなり
その官職にどれだけ権力や権益があるか、または先例による
江戸期の大名の官職としては上下はまったくないと言っていい
太郎と次郎のどっちが偉いかと言ってるようなものだ
604 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:27:08
あれもしかして
>>601を読んだ上での質問かな?
だったら江戸期と同じ
忠三郎と與一郎と小兵衛と又四郎のどれが偉いだろうというのと一緒
605 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 00:13:11
>>603 >>604 ありがとう なんとなく解りました。 なんとか大輔とかも同じと考えて良いんですか? どうせもらえるなら、カッコイイ名前の方が良いですよねw
606 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:08:12
少なくとも江戸期には何とか大輔やら何とか大夫は位階四位以上がほぼ原則
(戦国時代には価値が下落したことがある)
並の大名じゃもらえない
たまに由緒があったりで五位でも何とか大輔を貰える家がある
本多中務大輔や榊原式部大輔や南部大膳大夫など
南部は江戸後期になると初叙が四位になるので関係なくなるけど
607 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 03:05:16
摂津は大国じゃないし
609 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 08:59:18
摂津や河内は職だったことがあるな。
京職とほぼ同格。
江戸時代には関係ないけど。
>>582 正三位内大臣は珍しくない。
正三位右大臣もわりとよくある。
正三位左大臣は珍しいけど、藤原朝臣時平とか、たまにはあったはず。
倉本一宏氏によると、奈良時代は左大臣は正二位、右大臣は従二位という通念があったらしい。
正三位で右大臣になると、さほどたたないうちに従二位に昇進。
正二位になるとまもなく左大臣昇格、ないしは正二位と同時に左大臣と言う例が多いそうだ。
遠山景元の大隅守から左衛門少尉は、江戸時代じゃなければ明らかな格下げだな。
父景晋は左衛門少尉任官は1807年らしいけど、1802年は通称を金四郎から左衛門
に改めたとか、そう言うのはあり?
幕臣の官職ぽい名乗りはかなり規制が厳しかったように聞いてるけど。
大夫といえば田村右京大夫
榊原・南部は極官が従四位下以上の家だから特例というほどでもあるまい。
614 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 15:20:35
>>613 初叙云々と書いてあるのが読めないのか?
四品昇叙以前の五位諸大夫のままでも名乗れるって意味なんだが
>特例というほどでもあるまい。
この措置の意味もわからないでこのスレでこのコメント?
>>614 まあそう熱くならずに。
>四品昇叙以前の五位諸大夫のままでも名乗れるって意味なんだが
田村右京大夫のように四位以上がないのに大輔・大夫を名乗れる家は特例だが、
南部は家督30年で四品、榊原も侍従成する家だから特例「というほど」でもないだろう。
むきになるなよ。
一関田村家(左京・右京大夫)、亀田岩城家(修理大夫)、岡崎本多家(中務大輔)、
岡中川家(修理大夫)、飫肥伊藤家(修理大夫)
盛岡南部家(大膳大夫)、二本松丹羽家(左京大夫)、高田榊原家(式部大輔)、
小浜酒井家(修理大夫)、中津奥平家(大膳大夫)
訂正
>飫肥伊藤家
伊東
618 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 17:36:22
>>615 やれやれ
その30年が「特例」だって言ってるのに
30年後四品は10万石級の官位昇進としては基本ラインだから言うまでもないことかと。
富山前田や準国持の丹羽・立花はそれこそ特例だが。
まあ議論するつもりはないからこの辺でな。
621 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 18:35:13
流れとは関係なく思い出すままに「氏族」「特有の」官職を並べてみる。
「氏族」というのは曖昧な定義で使ってます。
「特有の」というのはその氏族の人がよく補任される、または名乗ってるよね、という程度の意味です。
佐々木氏族―左衛門尉、検非違使(左衛門尉に任ぜられたあと検非違使に補され、従五位下、従五位上まで叙留、のち受領。ただし従五位上叙留は佐々木惣領(六角)家と佐々木京極家のみ)
武田・小笠原氏族―大膳大夫(甲斐・若狭の武田氏、小笠原氏、南部氏など)
清和源氏義光流―刑部輔(佐竹、山入、武田など、刑部少輔義光の由緒によるか)
新田氏族―大炊助(大炊助義重の由緒によるか)
足利将軍一門―左馬頭(言わずもがな)
足利・斯波・吉良―兵衛督、兵衛佐(石橋や渋川も)
斯波・吉良氏族―治部大輔(石橋・今川なども)
吉良・今川氏族―上総介(三河吉良、奥州吉良、駿河今川など)
畠山氏―修理大夫(畠山匠作家・二本松畠山など)
足利一門―宮内輔(畠山氏・一色氏など、宮内少輔泰氏の由緒によるか)
秩父氏族―出羽守(河越、小山田他、先祖が出羽権守だったんだっけか)
小山氏族―左衛門尉、検非違使
土岐氏族―左衛門尉、検非違使
上杉氏族―弾正少弼、民部大輔など
山名氏族―弾正少弼(ちなみに上杉一門と山名一門の官途はよく似てる、室町初期の姻戚関係によるか)
山名惣領家・畠山金吾家―衛門督・衛門佐
大友氏族―左近衛将監(立花氏なども)、式部丞
上記には氏族・家系に特有というより、身分に特有の官途が含まれているかも知れない(諸大夫に特有とか殿上人に準ずるとか)。
氏族横断的に見ると、室町幕府重臣の任官にはある傾向がある。
八省大輔・四府佐・四府督に任ぜられるグループ(斯波武衛家、吉良、畠山金吾家、山名惣領家など)
八省少輔・職大夫に任ぜられるグループ(赤松、一色、京極、大野斯波家、若狭武田、六角など)
以上記憶を頼りに書いたので裏はとってません。
何か気づいたら教えてください。
622 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 19:02:39
>>619-620 あのさ、俺は
>>618で家督30年後四品を「特例」と言っているわけではないんだよ
それこそ当然の前提、言うまでもないこと
文脈を読んでくれ
俺は家督からの30年間四品でもないのに大膳大夫を称することができることを「特例」と言っている
というか当時の大名の一生のうちの30年間は相当長い期間だと思うが
田村右京大夫だろうが相馬大膳大夫だろうがそれなりの由緒・先例があるから特に五位諸大夫ながら四位称を許されている
織豊期にポッと出の小大名が中務大輔やらを名乗ろうとしても名乗れない
これを「特例」と呼ばない意味がわからない
殿中の格式はこういう微妙な差異の重層化によって構成されている
官位スレなんて所詮虚栄的な制度について話し合うものなのだから
南部氏が大膳亮ではなく大膳大夫と名乗ることによって得られる虚栄的な効用は無視できない
武家は「名こそ惜しけれ」だしね
>>622 その点については言われるまでもなく最初から承知してるんだが。
南部や榊原は大輔・大夫の官位相当の四品以上に昇進するわけで、それが早まったからといって、
田村のような四位になれないのに四位相当の官途を名乗れる家のような特例「というほど」ではない
だろう、と申し上げてるわけだからね最初から。
たいして実のある話じゃないし、この辺にしておこうや。
盛り上がってて大変よろしい
南部は30年と長いが、榊原・丹羽なら数年以内に四品になるからな
隼人佑ではなくて、隼人佐(はやとのすけ)というのは正式な官位?
627 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:24:07
もともとは、大膳=天皇のご飯の世話をする係、采女=天皇に女を世話する係、みたいな感じでいいんですか?
628 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:38:24
>>626 そういう官職はない。
ただ江戸時代に勘違いして隼人佐と名乗った大名や旗本はいかにもいそう。
ちなみに隼人佑をはやとのすけと読んでる人いるけどはやとのじょうが正しい。
>>627 大膳職は天皇というより朝廷の儀式なんかでごはんを用意する役所。
天皇にごはんを用意するのは内膳司。
采女司はセックスの相手じゃなくてお手伝いさんを用意する役所。
629 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 23:06:31
>>628 ありがとう。 なんか、面白いっていうか、可愛い感じがするなぁ。小学校でいえば、給食係、整理整頓係、黒板消し係等が名前にくっついてくるんだもんなw
630 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 23:18:44
成瀬隼人正
南部家は江戸後期には初叙が従四位下になってる
>>628 ありがとう。
「秀吉の接待」という新書で、豊臣時代に毛利輝元の家臣の国司助兵衛が従五位下行に叙され
布衣(ほうい)任官に伴い助兵衛改め隼人佐を名乗った、とあったから気になってた。
同役の粟屋与一郎は右近大夫を名乗ったとあるけど、これは五位の右近将監のことだと思うけど、
口宣では隼人佑となってたのを国司が読み間違えたのかな・・・
著者(国学院名誉教授)が隼人佐に「はやとのすけ」とわざわざ仮名を振ってるから
国司の読み間違いではなくて隼人佐と承知の上で名乗っていたのかもしれないけど、正式な官職
ではないとなると、隼人佐での口宣案はあり得ないんだろうね・・・難しい。
官ではないから布衣任官という表現はおかしいかな。布衣に任じられた際に、って意味です。
634 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 00:32:36
調べたら国司助兵衛は1588年毛利輝元参議補任と同時に
豊臣元蔵(もとまさって読むのかな?)として従五位下隼人佑に叙任している
ちなみに幕末に蛤御門の変(禁門の変)で活躍した国司信濃のご先祖さんだね
考えてみれば佐と佑って似てるな
左と右だしw
ところで布衣と叙五位って関係あるのかな?
布衣=六位相当と定められたのは1615年だから別におかしくないのかも知れないが
>>634 調べてくれてありがとう。正式に従五位下隼人佑になってるんだね。
よく考えてみれば、国司じゃなくてこの新書の元となった「毛利輝元上洛日記」の
著者・平佐就言(輝元の近臣)が書き間違えたというのが真相なのかなと思った。
身近に小早川隆景が左衛門佐を名乗ってるから、それで佑と佐を混同したのかも。
>ところで布衣と叙五位って関係あるのかな?
布衣について同書(が引用している矢部健太郎氏の見解。138頁)では、
『豊臣期の布衣は、従五位下に叙任されて狩衣を着し、御剣役をつとめる者で、
身分序列としては諸大夫成の一形態であった』とあって、鎌倉・室町期の布衣侍や
江戸期の六位相当の布衣旗本とも異なる性格のものだったらしいね。
輝元が参議に任じられた際に、小早川・吉川広家が従四位下侍従になった以外に、
穂井田元清以下6人が諸大夫に、国司・粟屋両名が布衣に任じられていて、
輝元が束帯姿で臨むような公の場には布衣の国司・粟屋が御剣役として従った
みたい。
鎌倉時代の○×右衛門尉△□とか、あれは正式な官名?
北条氏とか有力御家人。有力御内人なんかは正式なんだろうけど、
北条一門の執事クラスの被官とかは本物?単なる名乗り?
って言うか単なる名乗りはいつ頃から出てくるんだろう?
詐称は初期からあるんだろうけど。
続日本紀にも偽兵衛逮捕の話があるくらいだから。
637 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 23:57:22
例えば壱岐次郎左衛門尉って人がいたら
壱岐守の次男で左衛門尉になった人って意味だが
守護クラスの武士が国人クラスの武士に官途名・受領名を授ける官途書出し室町時代からは確実にあった
鎌倉時代は知らん
細川幽斎や木下家定などが叙されている二位法印の『二位』は堂上の位階と同じ位階
(=公卿)なんでしょうか?出家後の位階は公家とは別物でしょうか。
木下家定はその前から公卿(従三位中納言)だったみたいですが、関ヶ原直前、
豊臣政権内での家定の序列は何番目ぐらいだったんでしょうか?
639 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 09:00:58
始めまして、門外漢です。最近ちょっとしたきっかけで叙目に興味をもちました。
読んでいて分からない部分が出てきました、史学を専攻した皆様には常識のこととは思いますが。
どうにも理解できません。
從五位下行内膳正清原眞人眞貞爲上総介。從五位下守雅樂頭橘朝臣春成爲下総介。の様に
位階と旧官職らしきものの間にある「行」「守」とあるのはどういった意味なのでしょう。
よろしくご教授お願いいたします。
ヒント、「官位相当」って言葉。
官職と位階は一応別の体系なので、釣り合いと言うものがあって。
あとはご自分で調べてみてはいかがでしょう?
641 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:37:19
ご教示だろ
642 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:10:53
639です、おかげさまで探す方向が分かりました
素人の質問に対応、ありがとうございました。
643 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:27:47
位階>官職→行
位階<官職→守
644 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 00:39:08
ただし、参議には実際上はともかく、
正式には相当する位階がないので
どの位階で参議になっても「行」も「守」もつかない
あと詔書の決まりごとで令外官(関白・内大臣・参議)は位階の上に
官名を記すとかね。
646 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 07:59:02
内大臣は官位相当があるから普通の官職と同じ
その場合重要なのは令制官と令外官の区別ではなく
むしろ職事官と宣旨職の区別
647 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:46:14
中世以降は位階>>>官職はたくさんあるけどその逆は稀だよね
従一位で大納言とかも結構いたし三位相当の大納言がほぼ全て二位でしょ
648 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 22:11:13
位階→定員なし
官職→定員あり
つまり時代が下るにつれて官職の相対的価値が上がった
649 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 23:58:16
足利家の将軍は従四位下参議、従三位大納言のが通例。
これはそれぞれの職につける位階の下限に相当し特徴的。
官位の価値が落ちても、それでも一応は上限があるようだ。
中納言・参議・中将・八省卿あたりは二位、少将は三位。
650 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 00:42:36
時には
従一位准大臣対正二位内大臣と
位階と官職で「ねじれ」がおきたこともある
(准大臣が官職か否かという問題はさておき)
651 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 15:36:13
准大臣って大納言を長くやっても家格の上から内大臣になれない人に従一位をやって慰めるとかいった性質の物
よって二位内大臣>>>>准大臣
652 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:27:34
>足利家の将軍は従四位下参議、従三位大納言のが通例。
これはそれぞれの職につける位階の下限に相当し特徴的。
これって最期の義昭だけじゃない?
昌山も准后宣下を受けてるんだよな
そういう例もあったけど通例とまではいかないよな>足利
大人になってからいきなり将軍継嗣になって無理矢理官位を与えたら下限になってしまったという感が強い
例は違うが織田信長の3位内大臣もその類だと思う
655 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:27:05
>>652 義輝は死ぬまで従四位下参議じゃなかったっけ?
三好長慶父子や松永弾正、三好長逸も義輝生前に従四位下になっている。
656 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:44:24
>>654 少しは調べてから書き込めばいいのに
若年での参議従四位下や従三位権大納言の例はいくつもある
>>655 義輝は参議従三位左近衛中将まで進んでいる
仮に参議従四位下であったとしても
地下四位諸大夫とは天地の違い
奈良時代じゃないんだから
位階の高低だけではなく
公卿>殿上人>地下諸大夫>侍などといった身分差にも着目しないと
当時の社会関係を見誤るだけだよ
657 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 22:19:09
足利将軍家は後期になると、従五位下左馬頭・従四位下参議・従三位権大納言が、
必須通過点って感じになって、中間はすっ飛ばす傾向があるな。
従五位上・正五位下・従四位上・正四位下・権中納言あたり。
まあ必ず飛ばすってわけでもないけどね。
平朝臣清宗って、正三位まで昇進しても侍従のままで少将にもなってないみたいだけど、
こう言うのって珍しいような?
本官が高くて侍従は兼官の場合はかなり位階が高い場合もあるけどね。
それでそのまま、少将も中将も経ずに右衛門督、これも珍しい?
藤原朝臣道長と頼道親子はは少将から中将を経ずに衛門督だったけ?
それとスレの趣旨から外れるけど、清盛の嫡孫って、維盛?資盛?清経?清宗?
>>656 うろ覚えだが、公卿補任によると確か永禄8年に死ぬまで従四位下参議だったはず。
もちろん、三好氏や松永氏も同じく従四位下だったからといって、それをもって
どうこうという気はないよ。
江戸期とか官職が有名無実化してる時代に、参議以上の公卿と位階だけの非参議の
公卿の差は席次順などを除けばあまりなかったんでしょうか?
地下や社家でも非参議公卿にはなれるので、かなり差は大きいと思う。
まあ堂上でも参議になれない家筋は結構あるけど、半家とかは。
実利はないとおもうけど、有名無実だからこそ、差が大きいんじゃないかな?
なるほど、そういうものかもしれませんね。
有名無実だからこそ、逆に差が大きいというのは分かる気がします。
ありがとうございました。
参議と二位三位の非参議とは書札礼では同格だよ
ありがとうございます。書札礼では参議と非参議公卿は同格なんですか
参議になれない半家でも、位階が三位だと参議と同格の礼を受けたんですね
666 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:56:22
戦国、江戸時代に、御所に官職の数だけの公家がいたのでしょうか? また、ある程度、官職通りに機能してたのでしょうか? レベルの低い質問ですみません。
戦国時代は御所にはそんなに居なかったみたいですよ。
田舎に引っ込んでた人が多いらしいです。
江戸時代はポストの方が不足気味じゃないかな。
官職は一部を除きほとんどがお飾りというか、単なる肩書きです。
ここを追い出されたキチガイが武家官位スレでむなしい独り言を書き込んでる
669 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:59:18
>>667 ありがとうございます。よく考えたら、そんな財力もなかったんですよね。
670 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 12:01:20
森繁久弥に従三位が追贈されたらしいけど、なんで中納言にはしてあげないの?(´・ω・`)
位階制度は相当改変されてはいるけどまだ一応生きてるけど、
中納言と言う官職は明治維新で廃止になったから。
なんか、役者とか科学者がその功績で高位を貰うのって違和感があるな。
もっと家柄とかで決めろよ。
いや位階って本来の成り立ちはそう言うものでしょう。
役者なんかはともかく、学者とか技術者とかの家柄のない人も、
建前上は貴族と対等に扱うための制度。
すぐに建前は崩れちゃったけどね。
位階といっても今は存命中に叙位されないから江戸期以前とは性質を異にするだろうな
役者や学者ならまだいいが、公務員が高位だからなー
本場中国の公務員も位階って貰うの?
公務員こそ官位制度の直系だろw
当主以外は千葉太郎左衛門尉みたく名乗るらしいんですが
千葉(介)氏・(常陸)大掾氏・(大宰)少弐氏が家名以外の官職に任官したらどう名乗るんですか
受領だと家名の受領と重複しちゃいませんかね
というか、千葉や大掾は庶子家の(私称)官職に余裕で負けると思うんだけど
どう折り合いつけてたんでしょ
戦前までは確かにそうだよね
私称っていうか受領名や官途名はそもそも守護クラスの武士が与えるもの
千葉介が与える(例えば)備前守が千葉介より権威あるわけがない
それと千葉介の一門の相馬下総守とか東下総守とかは私称じゃない正式の官職だが
「千葉介」の由緒はそれほどのものということ
千葉の惣領が他の官職に任ぜられたら千葉修理大夫とか名乗る
大宰少弐なんてほとんど日本に一人みたいなものだし
江戸大名の武家官位で、従三位参議と従三位左近衛権中将兼参議とでは、
格としてはどちらが上だったのでしょうか?
細かいですけど、中国のは従九位じゃなくて従九品です。
高麗と李氏朝鮮もまねしたから同じ。
ベトナムはどうなんだろうな?知りたい。
あとは唐は未入流が九品に分かれてました。
日本の初位は未入流に相当するって説もあるようですね。真偽不明だけど。
>>681 多分その間の区別はない
区別するとしたら先任順
初位が九品で
史生とかが未入流じゃないのかな
685 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 03:51:45
今後正一位を受ける者は現れるだろうか。
三條さん以降だいぶ年月が過ぎたが・・・
維新政府の首班クラスの功績を上げれば
小沢さんが憲法改正してなるんじゃないの。
あと征夷大将軍あたり。
>>685 吉田茂を超えなければならないから、壁は高いぞ
近現代(特に戦後)の位階追贈は勲章・褒章の類とそう大差ないだろ
近世以前の公家・武家官位とは性質を異にするものだし
そういう換骨奪胎って制度史ではよくあるよね。
中世以後の位階自体、古代の位階とは別物っぽいし。
ところで、親王の品位っていつなくなったのでしょうか?
慶応の3年か4年くらいに旧来の位階官職全廃になった時じゃないかな?
>687
大東亜戦争の雪辱成し遂げる位の功績がいる罠。
>大東亜戦争の雪辱
なんか鳩ぽっぽさんの方はそう言う誇大妄想があるみたいに見えて怖い。
695 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 22:45:13
江戸時代の官職は、武家と公家に分けていたそうだけど
将軍と大御所だけは公家官職だったのだろうか。
たとえば将軍が右大臣、大御所が太政大臣に就任時は
朝廷の右大臣、太政大臣もこの2人ってこと?
>>691 旧皇室典範制定時=明治22年じゃね?
明治19年の小松宮依仁親王の三品叙位がたぶん最後の例。
>>679 イメージ的にはこうですか
元服・千葉太郎 ⇒ 家督・千葉介 ⇒ 任官・千葉修理大夫
千葉氏の場合は家名が地名(千葉)+官職(下総介)だから素直に官職(介)を取っちゃうんですね
となると、家名はあくまで地名なので受領も問題なしか
家名が官職そのものの大掾や少弐が気になるけど、細かい事は氏族スレ・地域スレで聞いた方がいいかな
話変わって、『鎌倉大草紙』の兼胤だと思うけど1430年代に修理大夫は凄いよね
持氏に味方した永享の乱以後は名乗れなくなっちゃったみたいだけど
三管領には負けても四職・山名・大内レベルじゃないのこれ
大内も大内介→大内左京大夫って変わるからそうだと思う
似た話だと蘆名が信長に三浦介をもらって喜んでたな
そういえば秋田城介が苗字になった家は
安達(城)氏と安東(秋田)氏と二つあるな
参考:八介
井伊介 狩野介 三浦介 上総介 千葉介 秋田城介 富樫介 大内介
>>692,
>>696 レスさんくすです。
旧皇室典範制定時ということは、世襲親王家が廃止されたからですか。
しかし、品位がないと親王には位階はないのですね。
>>695 秀忠、家光の頃でも、将軍家の大臣と京都の大臣は別だろう。
702 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:32:54
>>700 >>701 そうだったのか。てっきり公家の方と思ってた。
じゃあ、幕末とかで慶喜内大臣と堂上公家の内大臣
が対面したりする事もあったのかも。
703 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:11:00
戦前の天皇は大将ですよね?
また頚飾を着けているから大勲位?
704 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:19:20
階級は大元帥たる陸海軍大将らすいよって
親王でさえ大勲位なのに天皇が大勲位より下位なわけないだろ
勲章を与える立場の者が他と同格とは奇っ怪な感じがする。
超然としていないというか。
外国の君主にも授与するよね
ガーター勲章を模して作った制度だからじゃないのかな。
あれは騎士団→勲章って言う流れだから、
形式上の平等性って言うか仲間意識が根底にあるからじゃないの。
日本の場合は単純にまねただけで、そこまで考えてないのかもしれないが。
天皇自身が得る唯一の栄典だろうな
>>706 陛下が授与されている日本の勲章は、即位前に授与されたものではないのですか?
親王や皇太子時代なら先帝が授与しますけど、即位したら誰が陛下に日本の勲章を授与するのでしょうか?
大正・昭和の両天皇は皇太子時代に授与されているようだけど、
明治・今上の両天皇は即位後のようだ。
明治天皇の場合は即位後に制度が出来たんだからしょうがないんだけど。
戦後は皇族の勲章授与の規定はなくなったらしいけど、
親王が成人すると大勲位菊花大綬章というのが慣行のようだ。
その上の大勲位菊花章頸飾を皇族に授与することが無くなってしまったので、
今上天皇は即位時に自らに授与ってことになったらしい。
授与する人が授与される人より低い勲章ってわけにはいかないしね。
>>711 では、今上は御自身宛の勲記を親署なされたのですね。
権大納言と大納言はどちらが上なんですか?
権と言うのは語義的には仮の意味なので、一応は権がつかない方が上のようです。
当初は定員外大納言っていう感じだったし。
正式の言い方ではないけど、区別する意味で正大納言と言うこともあるようです。
しかしなぜかある時期以降は権大納言だけになってしまうようです。
幕末頃には、権(権力)を取るから権大納言だなんて俗説まであったようです。
715 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 23:48:27
公家の大納言と、武家の大納言は同格なのですか? 将軍が大納言であった場合、公家の大納言はタメ口で話出来るのですか?
官位としては同格のはずだけど、タメ口は無理だと思う。
官位より家格の方が重要だし。
幕末だと摂家の少将に、平堂上の大納言が礼をしたりとからしいし。
室町期の将軍は参議でも、大納言あたりも家臣扱いじゃないかな?
717 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 00:19:17
>>713 正大関(大納言)と張出大関(権大納言)の違い
>>715-716 ていうか普通は主従でもない限り上の立場の人も下の立場の人に対して敬語使う
タメ口なんて使ったら偉いとか偉くないとか関係なくただの失礼な人
摂家・清華を除く公家大納言と武家大納言(尾張紀伊の両徳川家)で比べると
もちろん位階や先任順で席次は変わるがおそらく同格だろう
御三家も潜在的には羽林家だろうし
豊臣期の武家公卿は清華家の扱い?
>>716 大納言どころか、関白でも「将軍の命に背いた」で追放だからね。
721 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 01:09:03
>>716 >>718 ありがとうございました。 考えてみたら、将軍、公家が顔を合わせるいうことは、お互いの代表ですから、変な事は言えませんよね…
>>716 摂家の当主が室町将軍から偏諱を受けている状態だしね。
日野氏とかだと、後継者候補それぞれに将軍と三好氏のバックアップが
ついているケースもある。
(結局将軍と三好氏が和睦したので、将軍の推した輝資が日野家を継いでるけど)
足利将軍家は五位からスタートして、若年で死亡とかだと五位のままの場合もある。
つまり家臣より官位では下だったり同格だったりすることもある。
徳川将軍家は3代以後で経歴の初期から世子だったひとは三位以上、権大納言からスタート。
幼少でも変わらない。
足利家は官位軽視、徳川家は官位重視と、形の上ではいえなくもない。
まあ逆の見方も出来るが。
足利家は官位を重視していたからこそ、段階を踏んで昇進、軽々しく昇進しなかった。
徳川家はアクセサリー程度の気持ちで軽んじていたと。
秀吉が武家の官位上げすぎたんだよ
徳川はむしろ抑制してる
725 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 22:32:09
戦国以降、左馬頭の価値が下がったのかな?
義朝以降、源氏棟梁の代名詞ともいえように。
726 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 22:58:23
そう言う個々の官職に付随する履歴、重み、付加価値みたいなものは、
織豊時代から江戸幕府までの間に一切消滅したんだと思う。
少なくとも武家官位としては。
馬頭は江戸期では御両典ぐらいしか用いていないはずだから一応まだ希少価値は
あったのかもね
でも京職の大夫あたりはひどいことになってるし・・・
喜連川左馬頭
喜連川は別格扱いだろうね。自称官途なのかな?
それでも御両典と同時期には馬頭じゃなくて兵衛督を称してるみたいね。
>>730 他の大名の場合、一応朝廷の正式官位だから位階及び官名(、官職)に関して口宣案・位記・
宣旨を受けてるはずだけど、喜連川の場合は無位だから自称官位(もちろん幕府公認だろうけど)
なのかなと思ったんだけどどうだったんだろう・・・
>>731 喜連川は高家と同じで見ていたが、違っていたらこっちの勘違いかもしれない。
喜連川は無位で名乗りが左馬頭やら左兵衛督やらなだけだよ
殿中での席次は中将格だったらしいが
>>733 他の大名は位階・官職だけじゃなくて名乗りの官名(安芸守)に関しても
上卿○○大納言
○○何年何月何日 宣旨
従五位下 源何某
宜任安芸守
蔵人右中弁藤原○○奉
みたいな感じで口宣案を受けてると思うけど、
喜連川は無位だから官名についても朝廷からは正式には任じられてないのかなと・・・
しかし中将格というのはすごいね
正式任官ではなくて名乗りで督や頭を称するというのは
それはそれでかっこいいな。御所や公方と呼ばれる
のとほぼ同義で格式として認められるのだから。
そもそも、正式に任官していなくて私称できるというのが何とも……
何で幕府は禁止しなかったんだろう。
そもそも幕府が特例にしてるのになんで幕府が禁止しなきゃならないんだよw
喜連川の御所様は松平陸奥守様のストーカーだったらしいね
>>738 その逸話有名だけど、その時の陸奥守の反応が気になるw
少なくとも御所様は満面の笑みだったんだろうな
741 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 13:58:26
三成は、従四位下だったと思うんですが(違いましたかね)治部少輔では官位相当の官職ではないのですか? また、官位と全然釣り合わない官職の人っていたのですか?
742 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 20:52:56
話がずれるけど例えば戦時中に華族(家格の高い摂家や清華家)で陸軍少尉とかいう人は軍隊内で平民出身の上官とかに呼び捨てにされるのかな
もちろん。そもそも旧軍は華族嫌いですから。
>>741 織豊や江戸期だと、治部少輔といってももう既に実際に治部省の実務を
やってたわけじゃないからね、武家も公家も。
公卿でも半家(下級公家)の非参議とかだと正二位左衛門佐とかね。
五位で四位相当の官につけば従五位下「守」修理大夫、
四位で五位相当の官につけば従四位下「行」治部少輔。
>>742 処遇は華族も平民も変わらない。
まあ華族の人脈による優位は色々なところであったけど、公式には格差はないことになってた。
だから表立っては上官が呼び捨て。
基本的に華族は軍隊に限らずあんまり尊重されてないよ。
746 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:50:19
>>741 従一位権大納言ならそこそこ入るし、
官位がインフレ化しているから
官位相当どおりだったのは
太政大臣くらいでは
昔、日経新聞に連載されていた後藤田正治の伝記みたいな記事に、軍隊時代に厚遇された話があった。
召集前は特高警察の課長で勅任官だったので、二等兵でも士官学校出の将校よりも序列が上の扱いをされたとか。
748 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:24:43
>織豊や江戸期だと、治部少輔といってももう既に実際に治部省の実務を
>やってたわけじゃないからね、武家も公家も。
ていうかこの言い方も多少的外れだと思う
というのも官職の形骸化は平安時代から始まってる(官位不相当などは常態)だし
官司請負制の発達をもって中世の端緒と捉える学者もいる
織豊期以降の官職についてその実務が伴っていないことをわざわざ強調する意味合いは乏しい
ただ応仁の乱頃までは官位にも相場があって(「相当」ではない)
職源抄などの有職書にその様子が伺われる
近世の官位について言うならこういう相場が失われたことを
あるいはまた武家について言えば官称が「名乗り」化したことを指摘すべきだと思う
>>745 作家の有馬頼義が二等兵として応召されてこき使われてたはず
その当時戸主で伯爵位を持っていたかは知らないが
>>748 官位=官職+位階ですね。
三成など豊臣期の大名であれば、秀吉が関白を頂点として政権運営・大名統制に
官位を大いに利用しましたから、従五位下(諸大夫成)、侍従任官(公家成)、
参議補任(公卿成・清華成)といった官職が優劣がとても重要な意味を持ちます。
甲斐守や右兵衛佐といった受領名・官途名は正式な官位とはいえ通称的なものに過ぎず、
名乗りなので同じ位階なら左衛門佐の方が左衛門尉より格上といったこともありませんでした。
ですから自身の位階と官名の官位相当の釣り合いは基本的には気にしてなかったと思います。
751 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 20:06:21
民間企業勤務の華族も、平民の上司から呼び捨てはあったと思われ。
宮様も二等兵で招集?
宮様は華族と違って軍人になることが義務づけられていたから、
全員が陸軍か海軍の士官。
二等兵で招集されることはあり得ないはず。
体の弱い人とかは大変だったらしいけど。
>>753のとおりだけど補足すると、皇族は士官としても特別扱い。
一応は軍内部の上下関係は存在するけど、特別宿舎があったり上官も部下扱いなんてできない。
皇族は華族と違って尊重されてた。
ていうか宮様が士官なのは基本的に陸軍士官学校か海軍兵学校に行くから
>>751 徳川宗家現当主と前田家現当主が同じ会社同じ部署の同僚で
二人の上司が「徳川家と前田家の当主を一緒に使うのは豊臣秀吉以来俺が初めてだ」
と言ってご満悦だったという逸話を思い出した
>>755 正確には秀頼以来か。
と言ってしらけさせる。
公爵なのに二等兵召集で上官からいじめ。
欧州貴族なら考えられん。
いいじゃん民主的でw
>>757 勲功さんもえらい人数がいるし(荒木貞夫などの軍人も爵位貰ってる)、生活レベルが格式についてきてないのも多い。
正直「華族」がそんなにありがたみのある存在じゃない(だけどパンピーとは違う「貴族」なのでだからいじめやしごきの的になる)
欧州貴族なら、召集される前に志願してるだろう。
志願なら学歴、経歴考慮で将校任官。
日本でも、華族子弟なら大学並の高等教育は受けてるから、志願すれば幹部候補生になれただろ。
戦時中、貴族なのに兵役に志願しないから二等兵で召集されたのだから、欧州貴族と比べるのは欧州貴族に失礼。
なるほど、慧眼ですね!
ちゃんと改行してくれ。読みにくい。
戦争みたいな汚れ仕事、高貴な人はしないのが日本の伝統。
公家は言うに及ばず、武家も太平の中ですっかり骨を抜かれた。
それどころか、維新の元勲の子孫も大抵は軍嫌い。
侯爵 醍醐中将
公爵嫡男 近衛召集中尉
766 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 16:19:52
どうでもいいけど
おまいらに官位を与えてやるスレって
あんなにデタラメばかりで何がおもしろいんだ?
768 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:28:18
伯爵元帥大将 寺内寿一
官位関係ないしw
一応署名等のときは
職・階級・位階・勲等・功級・爵位・学位・氏名の順で書くって決まってるんだよね
内閣総理大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵法学博士○田×太郎
學位無いひとは?無学い?
またキチガイっぽいのが来た
773 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 20:28:42
冠位がなくなったのは、いつ頃なんですか? 冠位と官位は全く違うものなんですか?
冠位は官位の前身って言うか発展的に解消したって言うか。
大宝令で切り替わり。
7世紀以前は冠位、8世紀以後は官位でおおむね問題なし。
702年頃の戸籍にはわかりやすくするためか、
進大初位下とか、務従七位上なんて折衷的な書き方がある。
聖徳大使の冠位は?
聖徳太子は授与する側だから冠位はない。
冠位を超越した存在。
って言うか一般諸王もまだ冠位もらってない。
ちなみにこの頃は蘇我氏本宗家も冠位を超越してる。
本宗家滅亡後は冠位制度に取り込まれていくようだけど。
一般王族は天武朝くらいで臣下とは別立てだが冠位を貰うようになる。
ただし当初は皇子は対象外。
その後皇子も冠位を叙位されるようになる。
この時は皇子と王は同じ体系の冠位で、与えられるれ冠位に高下があるだけ。
ある意味では、皇子=親王は品位という別立てになり、
諸王は臣下と同じ体系の位階と言う大宝令より、
皇子と王の差が少ないと言えなくもない。
777 :
儀同三司:2009/12/26(土) 03:15:17
藤原伊周 堀川基具 徳川治済以外で准大臣になった人はいますか?
単に功労のある大納言の特別待遇としてもらった人はいくらでもいるみたいですよ。
江戸後期あたりだとなれる家が事実上固まってるみたいですけど。
将軍のzipですら准大臣。
将軍以外は大臣になれないのは確定事項か
大臣になれなかったというよりは、幕府が望まなかったってことだろうな
下げ
位階下げ
783 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 08:51:24
宮中歌会始に参内出来たのは、何位以上だったの、江戸の京都御所で。
鳩山って無位無官で参内してるのか。
従二位じゃないの?亀さんや水ぽさんは?まさか地げ
今は生きてる人は位階はもらえないよ。
それと地下って疑念は位階とは一応別次元だから、三位以上でも地下はいる。
たぶん一位で地下って言う実例はないと思うが、理論上はあり得なくもない?
>>785 仮にも総理大臣だから無官ではなかろう。
789 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:59:22
内閣総理大臣は「職」であって「官」ではないらしい
明治天皇以後は大勲位、それ以前は勲章制度なし。
ただし換骨奪胎の元になった勲位制度がある。
勲一等から勲十二等までの十二段階。
ただし勲一等は神様専用で生きている人間はもらえない。
事実上の最高位の勲二等は、坂上大宿禰田村麻呂など十人位しか貰ってないんじゃないんだろうか?
即位前だけど、その勲二等を貰ったたぶん唯一の天皇が光仁天皇。
特別に武功をあげたわけじゃないけど、藤原仲麻呂の乱で女帝側に付き、
新政府の最高首脳の一人と成ったかららしい。
吉備朝臣真備とか、藤原朝臣永手やその弟真楯(道長の直系先祖)あたりが、
同時に勲二等。
誰だったか忘れたけど史学者の人が、文部省教官だったかが官で、
○○大学教授が職だとか、なんかそんなことを書いていた。
>>790 >文部省教官だったかが官で、
○○大学教授が職だとか
俺もそれ、どっかで聞いたか見たかの記憶が
あるんだけどな。何だっけ?
防衛省教官は官で。防衛大学教授は職w
教師の場合は○○県教職員(教員)が官で、××高校教諭が職?
これはちょっと違う?
確か文部省教官(の官)に任じ、○○大学○学部教授(の職)に補す。
とかそんな表現だったと思う。
なんかそれだと官には等級って言うか上下がなくて、
職には上下があるみたいで違和感があるなって思った記憶がある。
認証官はまさにそうか・・・
それを言うなら文部省教官でなく文部(科学)教官ね
文部科学教官に任じ東京大学教授に補す
という具合(現在文部科学教官はいないけど)
○○事務官・××技官・△△教官が官(○○・××・△△には省庁名が入る)
●●課長・□□局長などが職
ただ戦前はちょっと違うはず
次官・局長・書記官・秘書官などが官名だったかな?
検事総長・次長検事・検事長は官と職が同一?
人事院総裁は人事官が官で人事院総裁が職?
798 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 02:03:01
戦前では、官名は、「親任官」、「勅任官」という類のものでは。
で、各省次官、局長等が職名か
検事長は各高等検察庁にいるので、同一にはならないと思うが。
(官名=検事長、職名=大阪高等検察庁検事長など)
「親任官」「勅任官」は官吏の区分の称であって官名ではないよ
それと戦前と戦後は違うので注意が必要
戦前であれば「検事」が官、「検事総長」が職など
戦前については官制などを調べればわかるだろうし
戦後についてもさすがにWikipediaとかに記述があるんじゃないの
>>798 まあそれを言えば、検事総長も次長も最高検所属なわけだが。
>>799 確かに戦前と戦後ではまったく別物だよね。
昔、大蔵財務官ってのが会社に来るって聞いて緊張したもんだが
実物見たら20歳くらいの平職員だったでござる・・・
今財務官って言ったら事務次官級
江戸以前だと大蔵権少輔って感じか・・・
主計官 主税官は
805 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:52:31
現在の主計官は課長級だが、主税官ってあったか?
添田壽一(そえだ じゅいち)さん経歴の中にありました
1884年:東京大学政治学理財学科卒業。大蔵省に入省し、主税局御用掛。
1884年:非職。英ケンブリッジ大学などに留学。
1887年:留学から帰国。主税官となり主税局調査課。
1890年:同局監査課。ついで大蔵省参事官。
1891年:大蔵大臣秘書官。(ウィキペディアより抄出)
主税寮[知加良乃豆加佐]位階 主税頭従五位上、主税助正六位下、主税大允正七位下、主税少允従七位上、主税大属従八位上、主税少属従八位下
なんか明治時代あたりで司税官とかって見たけど、
どんな官職?
主税官とどっちがえらいの?
809 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:58:56
>>806 よく見たら明治時代の話だった。
文官にも現役非職という扱いがあったとは。
(武官にあったのは知っていたが)
>>809 非職って言うのは帝国憲法時代の休職のこと。
ただし、文官分限令11条には官庁の事務の妨げになると判断された職員は上司が休職に出来る規定があったから、
上司が気に食わない部下を実質自由に休職にできた。
降嫁内親王や夫君に 将来官位は就きますか(江戸時代とか)
812 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 22:36:09
>>811 そもそも、無位無官の人に内親王が降嫁するとも思えないが。
内親王の降嫁って原則、摂家か世襲親王家か将軍家じゃん。
戦前は皇族女子の配偶者は皇族華族に限ると明記され、実際には華族の中でも厳選された家のみに降嫁。
今は平成の平民たちが跋扈ばっこ
金持ってる奴が偉い世の中だからなw
まぁ、現在に華族制度があったら黒田家は陛下の特別な思し召しで華族に列せられるだけだろう。
平民が跋扈・・・基本とても良いことだよ
橘朝臣奈良麻呂とか藤原朝臣綱手(兄広嗣に連座)みたいな謀反人で、
本人が復権してないけど、子供が出仕を認められてる場合、
子は父の蔭位の恩恵がないのは当然として、
祖父の蔭位の恩恵はあったんだろうか?
たとえ没後でも本人が復権してからの子の出仕なら、
父・祖父ともに当然蔭位の恩恵があるんだろうけどね。
御蔭位て何代目までつづいたの? 鎌倉・南北朝、室町と 廃れていったのかな 江戸期はすでに公家だけ?
821 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 21:07:24
日本後紀に借外従五位下とか、借外従六位上とかって位階が出てくるけど、
これはどういうものですか?
仮の位階だってことはまあわかりますが、全くの名目的なものなのか、
それとも何か実利があったのでしょうか?
それと国司あたりが授与するってことで良いのですか?
元寇の時こそ勲位をやるべきだったんだよな。
北条時宗が勲一等、安達泰盛ら幕府首脳陣は勲二等から勲四等くらい。
安達盛宗・少弐景資あたりの現地指揮官クラスは勲三等から勲六等くらい。
竹崎季長みたいな一般御家人クラスで勲六等から勲八等くらい。
勲九等以下は大して与える意味ないかもしれないが、
奮戦した郎党あたりに叙勲するとか。
それで勲位によって幕府内等の席次を決める。
名誉があれば、恩賞が少なくても少しは不満が減ったのでは?
勲位授与が廃絶して久しかったけど、別に廃止されたわけじゃなし、
だれか古い法律を引っ張り出してくるやつはいなかったのかねえ?
ずっと後に、新井白石が位階の代わりに使おうかって提案してるらしいけどね。
>>823 勲位や名誉では喰えないし、かかった経費もペイできないだろ。
それに安達や少弐だって、恩賞を配下の家人共に与えなければならないし・・・
いくつかの例外の前例化により多少変質しつつも律令の建前の位階制度が、
まだ基本的には機能していた9世紀前半まで限定。
最初から四位以上と何でもありの嵯峨一世源氏は除く五位昇進の階層。
@別勅によりいきなり五位直叙、本当に例外。
特に原則はないようで、政府首班の子もいれば、ただの参議の子もあり。
A正六位上(たまにそれ以下)からストレートに従五位下(希にそれ以上)
藤原氏など一部有力氏族、後には中央の中流貴族まで。
B正六位上→外従五位下→従五位下
最初は中流貴族以下、後には中流貴族層は外れる。
C正六位上または外正六位上→外従五位下→→外従五位上……→従五位下
地方豪族とかその辺。
D外正六位上(またはそれ以下)→借外従五位下→外従五位下(ないしそれ以上)
828年から、地方豪族とか。借位の位禄が定められていたようで、五位心得?
E正六位上(外正六位上)→上正六位上
あくまでも正六位上の中の最上位というか特別待遇。8世紀中頃のみか?
などと回り道がたくさんできて、五位の壁は凄く厚かった。
826 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:44:02
またまた失礼します。先回、行守でお世話になったド素人です。
皆様方、大勢から教えていただき良く解りました。
また、今回も何を調べたらよいか解りません。
素人には本当に困った世界です。
新訂増補 国史大系 25 類聚三代格 372ページ
太政官符の題に「鮮官」と言う言葉が使われていますが、
これはどんな意味があるのでしょう、辞書を引いても全く見当がつきません。
言葉の意味から推測も出来ませんし、webを見ても出ていません。
よろしくお願いいたします。
せめて全部うpしてくれないと推測すらできないよ
828 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:48:30
他の多くの格にも見受けられるのですが
新訂増補 国史大系 25 類聚三代格 372ページ の太政官府
太政官符
応大帳税帳使無故不上奪公廨兼鮮官(古又)
右得民部省鮮称。案去大同五年三月廿八日格云。省鮮称。検案内。延暦九年十二
月十日左大弁紀朝臣古佐美宣。
こんなものですが辞典を引いても形容詞しか出てこなくて
意味が全く通じません。
よろしくお願いいたします。
後醍醐天皇さま(正帝)とご子孫が授けられた南朝の数多くの官位について書いたご本はありますか
830 :
日本@名無史さん:2010/05/23(日) 10:00:16
過疎ったなあ。
831 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:10:48
ストレートに並べると、従五位下と正六位上の間に、
外正五位上・外正五位下・外従五位上・外従五位下・
借外従五位下・上正六位上等が存在。
これをすべてバイパスするエリートと各駅停車の差は……
外正五位上から外従五位上までは、正五位上から従五位上と並列のような、
そうじゃないような。
ある時期以降は確実に従五位下の下になるけど。設立当初の考えはどうだろう?
外六位・外七位は六位・七位と並列のようだけど、
外八位は奏任ではないので、外正八位上でも従八位下の下のような気もする。
理念上は並列かもしれないけど実体は?
平安後期だと
実体は外位なんて田舎の小役人の名誉官位じゃない?
内位は国司か京官じゃなきゃもらえないから、内位を持ってるのは地方では軍事貴族。
その中でも従五位下から上を持ってるのがいわゆる棟梁クラス。
由緒正しい神社だと位階のある場合があるけど、
意味あるんですか?
834 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 16:57:01
>>833 神社では無く、当該神社に祀る御祭神に対して
神階が授与される。
当該御祭神に対して畏敬の念を込めて神階授与というのが本来の見方。
835 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 17:18:14
イギリス王家が活躍した庶民にナイトの称号与えるように
日本も何か官位授けるべき
一応、勲章・褒章・位階がそれに相当するんじゃない?
>>834 全国に散らばる八幡宮の祭神は応神天皇だけど、
もれなくそれなりの位階なのですか?
>>834 逆だ逆
神階は神にではなく神社に対して与えられるもの
したがって分祀されても摂社などには神階は引き継がれない
本来は
>>838の言うとおりなんだけど、
実際には神に与えられているように誤解されて運用されている場合もある。
例えば、稲荷大明神をまつる伏見稲荷大社は、神社として正一位。
本来は、伏見稲荷大社の位階は他の稲荷神社に影響を及ぼさないのだけれども、
実際には、他の稲荷神社も正一位稲荷大明神を名乗っている。
社家で従三位以上っていいな。
社家従二位
群書類従だったか続群書類従だったかにでていた、中世の伊勢神宮の補任物、
一応建前上の職階では、宮司>禰宜なんだろうけど、
位階は逆転してることが多いな。
宮司は従五位程度、少宮司は六位の時もあるし、
一方禰宜はのきなみ正四位上だったりする。
ちなみに祭主が従四位の時もあるし、
実態としては宮司の指揮を受けないんだろうけど、
それにしても形式上は変な感じ。
下位クラスの位階はあまり意味がなくなってきている?
あるいは位階は階層内部での序列を示す物であり、
他の階層と同次元で考えるのがおかしいってことか。
位階の本来のあり方から言えば、おかしな話のような気も。
本来は比較しにくいのものの統一基準として生まれたものだろうから。
江戸期の感覚だと
堂上>伏見宮殿上人・六位蔵人・両局>社家・地下諸大夫>侍>士分>それ以下って感じだから
堂上五位の方が社家二位より偉いし
社家は社家で宮司>禰宜という内部での序列優先
位階は偶々禰宜の方が早く生まれてきただけ…という感覚なのかな
京都じゃ菓子屋だって立派な官名持ち
立派ではないだろ
もらわない方がマシというレベルの位階もあったようだし
847 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 08:21:48
職人階級で受領もらえるのって刀匠の他なにがあったけ?
京都町人の史生買官は除いて、国守クラスで。
仏師は僧階だったね。
大掾クラスなら禁裏御用の有職菓子・有職料理人・御装束司
禁裏大工とか。
れっきとした戦国大名の大掾氏がおる一方で、菓子屋鍛冶屋大工も大掾ッスよ
源方子ってなんで生前に正一位?
れっきとした戦国大名という概念がよくわからん
しかも大掾って戦国大名になれたか?
常陸大掾氏、戦国時代も一応は領主だから大名と言えなくもないか?
常陸大掾を世襲なんて書いてあるが、これってある時期以降は私称?
少なくとも戦国時代、特に北条氏に頼る(実質的臣従?)ようになって以後には、
まったく意味がなさそうだけど。
豪族、国人レベルで大名じゃないな
854 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 10:01:31
かなり後世まで存在していた六位の国守、
あれは中性だと、侍が任官する国守?
それとも諸大夫が六位(若年時)に任官するもの?
あるいはどっちもあり?