1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:18:59
2get
3 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:28:33
ダ3ツマ
4 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:29:45
小弐氏、菊池氏、名和氏、伊東氏、相良氏、大友氏、
小西氏、加藤氏、細川氏、天草諸氏、琉球、明国ら
周辺勢力との歴史的交渉を全て考慮に入れることが必要だと思います。
その作業をしてみて初めて浮かび上がってくるのが
中世から近世にかけての島津家の実像でしょう。
特に室町後期に島津家の当主の座はまったく別系統の分家に移ってしまいます。
この移行期辺りから検証するのはどうでしょうか?
5 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:33:48
4(+д+)マズーって書こうと思ったのにぃ
前スレの終わり頃のネタ
1)鹿児島藩って77万石の割にボンビーな家老が多いのなんでだろ
2)今の本宗家って下克上ですよね?
この辺の結論が出ないまま1001達して終了だったか
>>5 残念だったな
しかし駄洒落が成功した暁には残飯スレに連行される所だったぞ
伊作氏っていつ頃島津宗家から分かれた家なの?
島津忠宗の弟の久長が初代だから鎌倉時代
>>10 トンクス
すると伊作久長に始まって、貴久が島津本宗家を継ぐようになるまで250年(?)くらい経ってるだろうから、これはもう実質下克上とみるのが妥当かも。
12 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 08:06:19
>>9-11 伊作家の第8代当主である島津久逸(貴久の曾祖父)は、実は
島津忠国(島津宗家第9代当主)の実子で、無嗣断絶した伊作家を継いだ人物。
だから、実際の男系血縁ではそれほど宗家と離れてはいない。
また島津忠良(貴久の実父、伊作家第10代、のち相州家第3代)が継承した
相州家も、宗家第9代忠国の子から始まる。
因みに忠良・貴久父子と島津宗家の継承をめぐって争った
実久(薩州家第5代)・義虎(薩州家第6代)父子の薩州家は、
宗家第8代久豊の子から始まる家。
つまり男系での宗家との血縁では、最初から忠良・貴久父子のほうが
実久・義虎父子よりも、近かったといえる。
13 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 11:35:08
戦国期の段階で、実際の男系血縁で伊作家より宗家に近い家系ってあったの?
久逸の人生もなかなか面白いよね、破天荒っつーかw
>>13 相州家の運久かね
運久も男の実子いたんだっけ。野間氏?
15 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 13:13:14
. 、___________
、> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | | ____________
| / ヽ/ ヽ | | /
. | | ・ | ・ | V⌒i | 島津のくせに
_ |.\ 人__ノ 6 | <
\ ̄ ○ / | なまいきだぞ
. \ 厂 \
/ _____/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
肝付兼続(きもつきかねつぐ) 1511-1566
16 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 14:53:02
>>12 伊作家について。
「伊作」というのは「家名」なのか「家号」なのかよく分からない。
つまり島津家の宗家を伊作貴久が養子相続して伊作家は「廃家」扱いに
なったのかそのあたりがあいまい。
ちょうど六角・京極(佐々木)や扇谷・山内(上杉)、三戸・九戸(南部)、山入(佐竹)、
赤橋・金沢(北条)、深志・松尾(小笠原)、田安・一橋・清水(徳川)
のように。
現代でも島津家の宗家とは別に伊作家の当主はいるのか?
以前から疑問に思っていたので。
>>16 いない。
なんか伊作家も相州家もその辺がぐだぐだ曖昧の内にごまかされたような感じだ。
ただ気になるのは、島津義久の外孫に当たる島津久信(島津忠将の孫)が一時「相模守」を自称している。
ちなみに伊作家歴代と相州家歴代のお墓の面倒は現在の宗家が見ているが。
18 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:59:49
>>16 「佐々木」「上杉」「南部」「佐竹」は、いずれも室町段階ではこれらが正式な苗字。
あと「土岐」(世保・池田)なども同様。
ただ佐々木氏の場合、京極系や朽木系は近世には「京極」「朽木」が正式な苗字のようになってしまっている。
しかし京極庶流の尼子の子孫は、近代まで正式な苗字は「佐々木」のまま。
上杉氏の場合、滅亡してしまう犬懸や扇谷は別として、山内の系統(戦国以降は謙信・景勝の系統)は近代まで「上杉」が正式な苗字。
北条氏の赤橋や金沢については、そもそもこれが北条一族のなかでも特定の家系を指す世襲の家号として成立しているのかすら微妙。
19 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:06:26
>>14 相州家初代の友久は、島津宗家9代忠国の庶長子。
一方、忠国の子で伊作家の養子に入った久逸は、宗家10代立久と同母で正室所生。
相州家と久逸以降の伊作家と、どちらが宗家継承順位的に上?
>>19 家の格を重視する立場なら相州家
本人の血統重視なら伊作家(但し久逸以降)
・・・幕末の慶喜(家の格では将軍家に近い御三卿)vs慶福(血統では13代将軍の従兄弟)
と同じような話になってきたなw
忠良の母・常盤が相州家・運久と再婚したのは
公 式 史 料 では「運久がしつこいので渋々」ってしか書いてないからなぁ
本当は相州家が持っていた「何か」を狙ってのことなんだろうけど。
それは本家に近い家格だったのか、単に運久の庇護だけだったのか。
21 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:29:23
てゆうか運久って初婚だったの?
>>18 尼子は毛利に滅ぼされて家臣になったあとに佐々木に戻した
>>20 三家と三卿では、三家の方が格が上では?
格の三家、血統の近い三卿(将軍家族)という「タテマエ」だったはず。
実際には格も高く血統も近い慶福が順当に継いだわけだが。
>>21 2度目らしい
ちなみに薩藩旧記雑録に載っている話によると
常盤に求婚したときに運久には妻がいた。
なので、当然常盤はその求婚を突っぱねたのだが、
「それなら」と運久はその奥方が寺参りに出かけたときにだまして放火して殺したらすぃ
それで身の危険を感じた常盤は運久と再婚したという。
>>23 確かに格では御三家>御三卿ですな、どうも。
>>24 「それなら」と運久はその奥方が寺参りに出かけたときにだまして放火して殺したらすぃ
(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>>25 ・・・とは書いてあるのだが、どこまで本当か疑っているウリがいるw
だって、自分の欲望のために罪も落ち度もない嫁を謀殺する男が
>>14の指摘のように運久には実子がいたのに、連れ子を自分の跡取りにするかなぁ、と。
駄菓子菓子、後の本宗家の養父となった運久をこのようにけなし落とす理由もなく
何がなんだかワケワカメ。
27 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 05:10:12
↑なんか読んでるうちにゾクゾクしてきた。
特に4つめの新納是久女のところとかこぇー!
29 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 16:06:36
>>20 〉本当は相州家が持っていた「何か」を狙ってのことなんだろうけど
ん?ここからは主語が運久から常盤に変わっているの?
だとすれば伊作氏(常盤)側が相州家を乗っ取ったという解釈?
まあ、史料は勝者側である伊作家側の方によって書かれているからそういう推測は成り立つけど。
30 :
20:2008/01/25(金) 20:45:45
後半4行の主語は常盤 スマソ
結果的には伊作家が相州家を乗っ取った形になったが
最初から乗っ取り狙っていたわけでもないんだろう。
やっぱり忠良もまだガキンチョなので大人の男性の庇護を求めたというのが本当のところなのかな。
歴史に「もし」は言ってはいけない約束だが
本当に運久と常盤の間に男子が生まれていたら、忠良の立場がどう変わったのかは気になるところ。
31 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 22:30:27
島津忠良(日新斎)が興した学派、日学をご存知の方いますか?
この学派は全国的に普及したのか、それとも薩摩藩だけで普及したものなのでしょうか?
32 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 23:12:59
島津といえば丸に十字の定紋で数ある家紋の中でも傑作の部類に属すと思いますが、あの十字の由来はなんなんですかね?
>>30 運久と常盤のケコーン話といい、忠良の父・善久が撲殺された話といい、この辺なんかキナ臭いんだよね。
34 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 02:17:34
>>32 十字架だよ。日本には古くからキリスト教伝わってたから、
轡にすら模様が使われてた。
35 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 02:20:51
37 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 03:13:41
島津家伝来の鎌倉期の黒漆太刀の縁金や鐺などの金具に十字の紋章が施されているからかなり古いことはまちがいない。
38 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 05:00:50
朝鮮人らしいですね。
十字の紋は、島津家の古伝によると、源頼朝公と親子対面をしたときに賜った、ということになっている。
源頼朝公との血縁自体眉唾なので、この古伝には疑問があるのだが、
鎌倉時代から使用しているので、島津家の当初から使ってきた家紋ということになる。
後に他の家門と揃えるということで丸で囲むようになり、轡紋と区別がつきにくくなった。
十字の意味は十全というか、修験道や陰陽道や忍法で印を結んで十字を切るのと同じ。
目前の魔を払う、という意味がある。
キリスト教の宣教師がやってきたのは戦国時代なので、キリスト教とは関係ない。
ちなみに、島津家には丸に十ではなく、もう一つ家紋がある。
近衛家縁者であることを示す牡丹の家紋であり、主に朝廷との折衝の時に用いた。
近衛家とは一部図案が違うので区別はつく。
篤姫関連で自称研究者が、
「嫁入り道具に丸に十だけでなく島津でない牡丹の紋が入っているのは政治的陰謀の傍証なのだ」と
馬鹿なことを書いていたが、その程度のことも知らない会津新撰組彰義隊オタクのたわごとだ。
40 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 10:16:45
篤姫は近衛の養女になって将軍に嫁いだから、牡丹の紋が入っていて当たり前
41 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:03:04
近衛忠熙の正室興子って篤姫の実叔母なんだね。今気付いた。
42 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:21:12
>>22 尼子は、戦国期でも史料上では「尼子」単独ではなく「佐々木尼子」と書かれる
ことも多いから、正式な苗字はあくまで「佐々木」と見るべきじゃないの?
43 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:07:51
貞久の長寿は異常。ただどうして息子の宗久・氏久・師久との年齢差が
50以上あるんだろう?
年取ってからもセックスしてたからじゃね?
45 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:52:33
>>41 近衛忠熙の正室島津興子の実父って誰?
興子も島津宗家の養女だよね?
46 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:06:22
47 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:08:45
>>43 スレ違いだが伏見宮邦家も長子と末子の年齢差が50歳以上ある
48 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:20:08
徳川家康だって長子信康と末子市姫の年齢差は
50歳ぐらいあったような
まあ男の場合誰の子だったかわからないけどね
49 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:26:29
信康は1559年生
市姫は1607年生
築山殿と英勝院の年齢差は何歳なの?
51 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:13:40
>>12 確かに宗家からそれ程遠い訳でもないが、4代も離れてると男系継承されているとも言い難いな。
52 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:14:44
築山殿は1542年(?)生(家康と同年生(?))
英勝院は1578年生(家康より36歳年下)
その年齢差36歳
しかし家康の最若年の側室は天勝院ではなく1597年生のお六(養儼院)。
大阪冬の陣の際、家康に同行して可愛がられ、
家康没後は、ほかの側室同様出家したが、家康との年齢差55歳。
のちに若いお六を哀れんだ将軍秀忠の許しにより他家へ嫁いだが、
日光東照宮へ詣でた際、29歳で急死。
他の男のものとなったお六を家康が嫉妬したためといわれた。
島津の話題ではないのでスレチだがw
53 :
52:2008/01/26(土) 21:15:38
(訂正)天勝院→英勝院
54 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:46:32
島津宗家でも近衛家以外の五摂家と結婚することが無かったのに男爵令嬢の島津治子の娘が二条「公爵」と結婚したのはすごい
55 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:14:21
>>44 そういうことじゃなくて長男との年齢差が50以上ってそれまで何してたの?って話だよ。
56 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:15:27
57 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:19:34
>>51 それより宗家に血縁の近い家系があれば別だが、そうではなかったのだから、
貴久の宗家継承は当然だよ。
それを男系継承されていると言い難いというなら、天皇家でも後花園や光格は
男系継承じゃないことになるぞ。
58 :
47:2008/01/27(日) 00:10:06
>>57 > それを男系継承されていると言い難いというなら、天皇家でも後花園や光格は
男系継承じゃないことになるぞ
いや、俺はいっこうにそれで構わんのよw。それに天皇家で言えばずっと前の継体がすでにそうだろ?
それよりもあなたは本当に本宗家から4代も離れてて、「島津家は鎌倉以来一度も絶えたことの無い連綿と続いてる家だ」とする事に問題無いと思うか?
>それより宗家に血縁の近い家系があれば別だが、そうではなかったのだから、
貴久の宗家継承は当然だよ
まさに↑の文が当時の島津家の苦境をあらわしてるんじゃん。
ほかの鎌倉以来とされる武家(佐々木、佐竹、南部等)と変わらないじゃん!という話。
60 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 01:22:45
為子タソにハァハァ
62 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:24:28
63 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:51:49
四代も違えば十分検証の対象になるのがこの世界だろが
よってお前がヴァカww
64 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:45:10
「徳川家は家康以来一度も絶えたことの無い連綿と続いてる家だ」
だったら文句あんの?この世界ってどの世界ww
自分の世界にこもってろよw
65 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:52:03
示現流でごわす。ちぇすとー!
66 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:54:39
↑wwwwwwwww
お前が史板にふさわくない人間であるってのはよ〜く判ったから
67 :
66:2008/01/27(日) 03:56:27
68 :
66・67:2008/01/27(日) 04:06:22
それと「連綿と…」云々の文章は前スレで誰かが書いてたものなんだよ。
それに対する反論があって前スレは終了し、このスレに持ち越してきていることは
>>4、
>>6あたりで示しているところ。
スレの流れよ〜く嫁よ、なww
忠良の最大のライバルだった実久が勝久に成り代わって
専横し始めたのっていつからなの?
実久の生誕年見るとかなり年若い時期(20歳前?)から
中央政治に乗り込んでるみたいだが
70 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 11:50:53
>>64 家継から吉宗とか、家茂から慶喜とかは、もの凄い断絶になるな。
>>59の論理だと。
71 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 11:52:21
>>69 実久って史料によっては「真久」って書かれていることがあるよね。
まあどっちにしても読みは「さねひさ」なんだろうが。
73 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 11:56:25
>>59 久逸の伊作家継承から貴久の本家継承までって、時間的には百年もないのだが。
それに貴久の本家継承の段階では実際には貴久はまだ若年で、
その父親の忠良(日新斎)が生きているから、実質的には3代だし。
74 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:06:48
>>59 >ほかの鎌倉以来とされる武家(佐々木、佐竹、南部等)と変わらないじゃん!という話。
とりあえず系譜がよく分からない南部はおいておくとして、
佐々木や佐竹ってどこかで大きな断絶があったっけ?
佐々木は六角流も京極流もせいぜい3〜4親等(甥や従兄弟)くらいまでの
継承しかないし、佐竹も分裂したとはいっても結局本家側が生き残るし。
75 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:49:07
>>59は父子や孫の直系相続か兄弟相続でないと男系維持とは認めないのか?
日本史に興味あるわりには、えらく狭い考え方だなw
76 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:54:24
江戸時代は松平薩摩守だったはずだが
徳川時代に徳川宗家の娘を嫁にした家には、「松平」を名乗る権利(というかほとんど強制)があったのだよ。
>>74 佐々木は知らんが佐竹は養子入れまくりんぐじゃまいか?
>>77 島津家の場合は徳川宗家の娘を嫁に押しつけられる前に松平押しつけられてたような
・徳川綱吉養女・竹姫降嫁は享保14年
・「松平」名乗りは元和年間の公式文書に早くも登場
81 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 02:04:25
82 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 02:07:20
すまん。細川は断ってるよね。忠利に千代姫(秀忠養女)が嫁いでるけど。
大坂の陣後まで羽柴名乗ってた忠興って強者だ。
83 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 02:20:00
>>79 山内上杉から婿養子が入っている例は確かにあるが、何世代も離れた傍系が本家を継いだ例は室町〜戦国期にはないと思う。
84 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:38:27
島津と伊達は江戸〜幕末までは幕府にとってはどっちが気になる存在だったの?
85 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 10:14:03
江戸初期は伊達
幕末は島津
江戸初期は政宗は脅威だったろうし
いろいろお咎めも受けているしな
幕末は摂家筆頭近衛家と姻戚関係を結び
将軍息女を正室に迎えたり
将軍御台所を大奥へ送り込んだりしていた島津
とはいえ島津が幕府に刃を向くのは
幕府にそむいて西南戦争とかやり始めたかなり最後のほうで
斉彬などは幕府協力派だったからな
86 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 11:49:37
>>85 >幕府にそむいて西南戦争とかやり始めた
架空戦記か。ユニークな筋だね。
どういうストーリーでそういう結果に持っていくのかな?
ははは、単に用語間違ったんだろうなw
でも学術板だからこのまま生暖かく
>>85を見守ることにしようw
篤姫のキャストの名前見てたんだが
島津右近って鬱で自殺した宮之城家の久治?
89 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:50:40
島津豊後は、一応中世の豊州家の末裔のはず。
そういや伊達もずっと男系で繋がってるんだっけか?
>>84 家康にとって本音で言うと伊達など話ならんだろ
どう考えて東側に属子する、子分格ぐらいの扱い
ただ、それだけの存在。
93 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 19:41:11
斉彬は伊達政宗の子孫だってウィキに書いてあった
知らなかったよ
94 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 19:46:10
>>92 上のレスで伊達や他の家々もあがってんだから別にいいだろ
95 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:09:24
>>978:2008/01/17(木)21:36:40[sa]
島津家は日本で唯一、鎌倉時代から連綿と脈打つ由緒ある武家の家柄。
少なくとも伊達と毛利(大江)は鎌倉時代から男系で続いている。
97 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:50:56
98 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:51:50
伊達の方がかっこいいいよ
>>98 幕末時はしょぼかったけどなw。すっかり徳川に飼いならされて会津側に
立つ始末。藩祖政宗の気概などまるでなし。
時流が読めれば薩長仙の三雄藩で維新て展開もあったろうに
そんな人材もまるでなし。
>>99 やはり、英国にやられた清に近くて、列強が来たら真っ先に当たる分だけ、西の方が切迫感があった、という面が強いだろうね。
101 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 02:41:27
どうして幕末の仙台藩はあんなにしょぼかったの?
どうせなら会津藩と一緒に玉砕して欲しかったのに
>>99 〉そんな人材もまるでなし
むしろ、その一時代前にいるんだよな。
林子平や工藤平助、高野長英といったところが。いずれも海防や開国の必要性を説いたり、異国船に対する扱いで幕府を批判したりしてむしろ全国に影響を及ぼしているのに、肝心の仙台自身にその気風を育てる土壌が生まれなかった。
>>101 会津藩と一緒に玉砕してるけど?
悲惨さが足りないってこと?
>>101 〉どうせなら会津藩と一緒に
「それを言うなら薩摩の方こそ最後まで会津と一緒に…」
by 慶の(ry
豊後の隣に居た島津将曹って元の姓は碇山か
>>104 慶の(ry なら公開の場では黙ってても、渋沢栄一辺りにぼろっとこぼしてそうw
事実、晩年には久光の悪口とかよく言ってたようだから。
>>105 yes 総州家の末裔
調所の太鼓持ち的存在だった。政治的にはお由羅騒動で若手藩士をいびったという以外の事績無し。
調所の事績が見直されることはあっても島津豊後とか将曹が見直されることは永久になさそう。
豊後なんて、自分が擁立しようとしていた久光によって失脚させられるし、よほど無能だったんだろう。
107 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 13:28:19
隣の相良家もなが〜く続いた家。
島津家が飲み込まなかったのはなぜ?
108 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 13:38:57
>>95 家柄だけな、家系はメチャクチャの枝葉で僻地故残った感じだな。
>>107 島津家だけでも室町〜戦国時代に内紛で忙しかったwのに
相良家なんて島津家より領土小さいのに内紛のスケールだけは島津家以上だから
余り関わりたくなかったと言うのが実状なんだろう。
戦国時代末期には一時期相良領も併合してますけど、
秀吉がやってきたのであっという間に手放さざるを得ないことになってます。
でも相良氏とは江戸時代の初期に事情不明ながら間接的に親戚関係になってますね
「お下の乱」以後再び疎遠になりますが。
110 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 17:41:44
>>109 耳川の戦い以前百年位は相良氏と島津氏の版図はほぼ拮抗していたんではないかな?
室町時代の日向は伊東氏が勢力を相当伸ばしたので日向が島津発祥の由縁ある地とはいえ
かなり伊東氏に押されていた感は拭えない。
相良氏 球磨+八代+天草+大口菱刈地方
島津氏 大隈ほぼ一国+薩摩中南部
111 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 18:08:34
室町後期の島津って、統治の実態がよく分からなくね?
あっちこっちの有力豪族が、きちんと臣従してるのか、従属してるのか、事実上独立してるのか・・・。
島津家は鎌倉幕府創始以来、源氏系の中でも最っとも高い格式のある守護家の脈絡。
相良家の源流は藤原系脈。鎌倉時代からでも家格が劣る地頭職から始まる。
>>112伊東家も源流は藤原系脈。
同様に地頭職から始まる。時代が下って室町幕府からになってから守護家に任命される。
>>106 なぬ?総州家って実は滅びてなかったのか??
驚いたね。
>>113 >源氏系
これが眉唾だったりするんだよな・・・
>伊東(ry)室町幕府になってから守護家に任命される
島津と不仲になる最大の原因でしたっけ
それ以前は通婚関係もちらほらあったような
117 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 20:48:00
>>99 伊達については本家がショボかった分、宇和島の分家が藩主自ら頑張ったから許してあげて。
118 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 20:50:14
守護ってしゅごいの?
120 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 21:02:26
>>109 相良氏や伊東氏の勢力圏は、ともに鎌倉以来の強固な地盤を築いていたし、
島津氏に併呑されてからの日も浅かったから、島津氏自体が秀吉に屈服した後の
太閤仕置きでは、島津氏の領域から除外されで当然とは思うよ。
>>110 戦国期の相良氏の安定的な支配領域は、球磨・八代・葦北の3郡だけだと思う。
薩摩方面では、島津薩州家や渋谷氏系の諸家(入来院・菱刈・東郷氏など)と
抗争はしているが、攻略しても一時的な占領程度に留まっている。
天草方面も、一定の影響力はあるものの実質的には天草五人衆などが割拠状態で
相良氏が彼らを完全に服属させていたとは到底言い難い。
>>113 島津も守護職以外に、薩隅両国を中心に地頭職もたくさん持っていましたよ。
>>118 鎮西探題今川了俊が一時的に島津から守護の座を奪った時期があるが、
了俊本人が守護になり、副官の伊東には守護の座は手に入らなかった。
今川了俊はその後足利義満の怒りを買い九州から召喚され、島津は守護に復帰した。
伊東氏の最盛期には、島津の名乗っていた「三州の太守」を伊東も根拠なしに自称し、
さらに、朝廷に献金を行うことで、「島津と渋谷一族の領地以外なら『国主』と名乗ってもいい」という
朝廷の許可を得ている。これを守護と考えてよいのかは分からない。
122 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 21:31:18
例の偽文書か。伊東が守護って
125 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:57:53
>>123 公式系図に基づけば、そうなるのねw
最も鎌倉幕府の当時の有り様から見たらテラアリエナサスな話であることは明白。
更に、そのころの『玉葉』の記述にどう見ても壮年としか思えない島津忠久が登場してると言う・・・
127 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:40:46
>>125 じゃあ源氏だとでもw?
そのうえ惟宗でもないとすると何処の馬の骨なんだよw
128 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:01:27
>>126 へーそうなんですか
出来れば玉葉のどの年月か指摘してくれますか?
興味津々ですね。見てみたいです
129 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:23:43
↑ググッてあとは自分で図書館いって調べろよw
六日、(丁巳)天晴、此日右近府真手結也、未刻許、大将為見物、向馬場、乗藤宰相定能卿車、
依為密々儀、先例召人車也、元永召宮内卿忠長朝臣車(?御同車)公卿車先例雖不詳、案事理、
不可有其難、仍所用也、大将着冠直衣、與侍従良経同車、(侍従着布衣、薄青?合狩襖、白生単衣、濃紫奴袴)
女院女房、及余女房、同以見物(女院御方三両、余方二両、但無各別之儀、混合乗用、依女院仰也)
出車五両(一車左中将泰通、二車左馬権頭宗雅、三車左少将兼宗、四車右兵衛権佐盛定、五車右衛門佐隆雅、
一両別共侍各二人、衛府・内舎人・滝口・上日衆等相交、女院侍中衛府不足、仍余侍両三催加之)…(中略)…、
出車前駆侍、一車、左 兵 衛 尉 忠 久、内舎人定景、二車、右兵衛尉重行、滝口能時、三車、右馬允成行、
武者所重満(分註略)、四車、右馬允保憲、滝口友弘、五車、内舎人親資、女院上日衆信親
(『玉葉』治承4年5月6日条)
改行・一字開けはは島津忠久が出てくる部分を強調するための物で原文とは異なります
治承4年は1180年。
131 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:42:03
>>130 >126の>そのころの『玉葉』の記述にどう見ても壮年としか思えない島津忠久が登場してると言う・・・
意味深げなニュアンスですけど
要は >左兵衛尉忠久 これだけですね。なるほど・・
132 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:51:44
奥歯に物挟んだような物言い乙
133 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 01:10:26
丹後局が住吉大社で忠久を出産したというのは史実なわけ?
134 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 01:28:55
すぐ上のほうで幾度かレスしてる輩にとってはなw
得意の持って回った言い方で何とか頼朝の“御落胤”に持って行こうと必死w
『島津家正統系図』の忠久の官位の所に「左兵衛尉」と書いてあるのも否定しそうな雰囲気だな
最もそれ否定すると、同じ所に記述のある「父は源頼朝」というのも否定しなきゃおかしいのだがw
136 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 08:57:59
正統系図で父が頼朝だと書いてあるんなら、本当に頼朝の子供なんじゃないの?
怒りのあまりに徹夜したのか乙
>>136 『島津忠久とその周辺―中世史科散策』一読するように
本当に頼朝の子なら兼実がなんか書くだろう
玉葉には内親王の密通の話まで出てきて
貴族はそういう話に耳ざとい
まあどのみち島津も大友も任命権者の頼朝っつーか鎌倉の
意向を受けた中央に近しい人間だったてーのには変わりは無い
今さら本当の種が誰だか分かるわけねーだろうが。タイムマシンでも使え。
だから独自の新資料とか発見して提示しない限り進展はしない
どうしても続けたいヤツはそーゆーの持って来いよ。史板だろ?
毎回ループするから初めに誰か止めろよこの話題。
>>139 >毎回ループするから初めに誰か止めろよこの話題。
むしろ独立にスレを立ててそこで思う存分戦ってもらったほうがいいような。
141 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 19:33:48
>>109 16世紀に入って急に慌しくなってきた当時の西国の政情の影響がありますね。
すでに別姓を名乗っていた永留氏が下相良氏の当主の座を次ぎます。
本来の惣領家としての立場をこの機に回復しようとする上相良氏の当主相良頼観が
この下相良氏の当主継承劇に異議を唱え上下両家は武力衝突します。
敗れた上相良氏の遺児は正任と名乗り西国の覇者大内氏の下に逃れそこで祐筆として仕えます。
正任の子武任は卓越した行政手腕を買われ大内家臣筆頭の座まで登りつめます。
軍記物では相良武任は麻生氏の居城花尾城を新たに与えられ
麻生、山鹿、宗像、杉一族と並んで筑前の侍大将の一人に数えられています。
大内義隆の寵臣であった武任は遠江守の官途についていますがこれは相良氏の惣領に与えられるものです。
南北朝期に南朝方についたことで家勢がふるわなくなり惣領の座を下相良氏に奪われた上相良氏としては
これで大いに溜飲を下げたことでしょう。
142 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 16:47:12
>>130-131 「左兵衛尉忠久」っていう表記からすると、忠久はこの段階で治承4年の段階で
既に五位だったってことですか?
143 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:01:11
上で鎌倉時代から連綿と脈打つ由緒ある武家の家柄。ってあるけど、
伊達の藤原氏系図って真っ先に仮冒系図として挙がる偽系図の代表的存在だよねww
144 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:31:45
>>143 >>上で鎌倉時代から連綿と脈打つ由緒ある武家の家柄。ってあるけど、
それ(
>>95)って前スレのコピペ…。
しかもそのあとフルボッコにされてたw
145 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:17:50
146 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:51:33
こういうときに兵衛府補任があれば・・・。
そんなマイナーかつ手間のかかる物、誰が作るんだw
148 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 04:08:03
近衛府補任・衛門府補任・検非違使補任がつくれて兵衛府補任がつくれないわけない。
てかこれらをつくったときに一緒につくってくれれば良かったのに。
149 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 04:20:18
示現流でごわす。ちぇすとぉ!
>>148 利用頻度低いと見られたんだろうか
残り3つと比べてもそうは思えないが
カナシス
151 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:04:43
152 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:49:46
1 ★ディダン
(チェスト チェスト チェスト)
ディダン
(チェスト チェスト チェスト)
たたかえ われらのシマズマン
強いぞ 山もぶっとばす
悪魔の帝国 トクガワシ
ショーグン ケイキを
打ち倒せ オー
チェスト! チェスト!
シマズマン シマズマン
2 ★くりかえし
たたかえ われらのサツマハン
強いぞ 鉄もぶちやぶる
恐怖の帝国 エゲレスジン
トーヨー カンタイ
ぶちのめせ オー
チェスト! チェスト!
サツマハン サツマハン
153 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:20:16
1 渦巻くバクフの 悪の闇
電光放射で きり裂いて
やって来たのは シマズマン シマズマン
強力(ゴーリキ)ショーライ!!
超力(チョーリキ)ショーライ!!
サツマハンから シマズマン
輝くシマズマン 平和の光
★戦え! われらのシマズマン
シマズマン シマズマン
2 とどろくバクフの 悪の声
雷鳴電波で うちくだき
とんできたのは シマズマン シマズマン
強力(ゴーリキ)ショーライ!!
超力(チョーリキ)ショーライ!!
サツマハンから シマズマン
まわる光輪 自由のまもり
★くりかえし
154 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 23:36:51
沖縄を侵略して略奪、殺戮の限りをつくした、インディアンから土地を
奪ったアメ公みたいな屑ども、それが薩摩人、日本人の面汚し
>>154 どこの何のバイトで間の抜けたヘマをやってクビになった?
正直に書いてみなさい。
156 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 12:53:02
>>145 もし忠久が
四位ならば「官途名+忠久朝臣」、
五位ならば「官途名+忠久」、
六位以下ならば「官途名+惟宗忠久」、
という表記になるのが、この手の公家の日記(古記録)のルール。
だから
>>130の『玉葉』の治承4年の記事に出てくる「左兵衛尉忠久」が
島津忠久のことで間違いないのだとすれば、忠久は治承四年段階で既に五位の
位階をもっていることになる。
左兵衛大夫ってあんま聞かんね。
左衛門大夫はたまにいるけど。
左近衛大夫・・・ 激しく違和感
鎌倉時代の話が続いている中話ぶったぎってスマソ
『翔ぶが如く』の再放送を見ているのですが、
その中で島津久光の家老?として
中山 尚之助
なる人物が出てきているのですが、生没年や維新後どうなったかなどの経緯が分かりません。
ご存じの方がいらっしゃったら御教示お願いします。
159 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:32:53
中山中左衛門実善(1833(天保4)〜1878(明治11)。通称尚之助)と思われますね。
160 :
158:2008/02/06(水) 00:09:29
どうもありがとうございます。確かにその人物のようです。
・・・が、「中山中左衛門」「中山実善」でも情報が少ないです。
途中で失脚でもしたのでしょうか?
ともかく維新以後は全く活躍の形跡が見られないようです。
161 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 14:54:18
今の島津家の当主は鹿児島で先祖代々の墓の管理もしている32代の島津修久という人だが埼玉に薩州家の末裔で自分の方が本家だと言ってる人がいる。古い家は大抵誰々の直系とか本家とか言うと2つか3つの家系が直系を主張する。
つづき。独身で死んだ長男がいたり長男が妾腹だったり出家した長男がもどってきたり、その他様々な原因がある。結局代々の墓をお守りしてることが公的に証明できる家系がある歴史上の人物の直系としていいのかな。博物館や歴史系出版社はそうしてるようだが。
>>162=
>>163 ・・・なのかな?
その「埼玉に住んでいる自称薩州家末裔」の話は前スレの最後辺りにも出たのだが
結局ソースが提示されずにガセネタと思っていたのだが。
それとも
>>162がその「薩州家末裔」本人なのか?
あ、age忘れたw
子孫ネタはウザいんだよ
サッシュウ家なんて一分家じゃん。
仮にそいつが本物のサッシュウ家末裔だとしてもそんなのが本家なわけがない。
それより何より
薩州家は文禄の役の際豊臣秀吉の勘気を食らって断絶している件
今の島津家は伊作家の系統で、この分家が本家ぶんどって宗家を継いだ。当時の伊作家と同等か少し本家に近い分家の末裔が自分が嫡流と言ってる場合が他にもある。だから代々の墓をお守りしてる既成事実の積み重ねで今の島津家(磯島津家と称す)が本家と認めざるをえない。
>>169=
>>162=
>>163 か?
本家を決める要素は墓のお世話だけじゃないよ
これ以上は日本史板に書き込みするくらいだから
>>169にも分かるはず。
それと
くれぐれも逆上して鹿児島の島津家の墓を爆破するなよw
あそこは鹿児島県の史跡になってるはずだから、ふつーに逮捕されます。
薩州家も薩州家で出水で墓守してる後裔がいるちゅうねん
新納家や伊集院家も本家・嫡流がどこだかもめてるらしいな。西郷家も昨年の隆盛誕生130年没後180年のお祀りが、西郷隆文氏と吉太郎氏どちらを主とするかもめてたからなぁ。両方直系と紹介されてたけど。
肝心の埼玉の薩州家末裔のソースが出せずに
話を逸らすところを見ると脳内厨か。
おもしろい話が聞けそうかと思ったが残念だ。
近衛家は現当主は母が近衛で父は肥後細川家。先代の弟の系統がいて男系で嫡流という人もいるが代々の遺品や巻物・墓の名義が現当主だから、公的にはこちらが嫡流・直系は否定できない。
ウィキペディア情報ってどんくらい信じられるんかなぁ?
>>176 ここに書き込んでいると言うことは島津氏関連の項目について聞いているのだろうが
今大河をやっている最中なんで、その周辺人物の情報はかなり出所のアヤシイ物が多い
項目の存在価値すらアヤシイものもw
[[島津義弘]]に関してはゲーム厨vs<丶`∀´>でただいま大荒れ中
wiki自体の信憑に関しては日本史板他のwikiスレを一読してみては。
データを改竄している厨の情報もあるみたいだし
有難うございました。一般的な内容はともかく、個人的なことをコトに寄せて書き込んでる人の内容がチェックされてないみたいなんで。
>>176 ヨーロッパのwikiの古代日本史は
ソースが某半島トンデモ本な書き込みがいっぱい
180 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:27:58
気に入らないこと書き込まれるとトンデモ呼ばわりするやつw
丸に十字、特に十字を丸で囲むのはいつからでしょうか?鹿児島の〇〇神宮が島津忠永つまり薩州家の銘入りの丸に十字の旗印だかなんだか持ってます。出水の墓の古い配置図も入った箱ごと持ってます。出どころは埼玉の個人から福岡某収集家、鹿児島の刀剣商です。秘密かも。
182 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 09:10:02
読み方を教えてください
人名:運久、貴儔、忠欽
家名:樵夫、給黎、題橋
題橋でググってみたら豊州家初代当主の季久が引っ掛かったが
中国の前漢の頃の文章家・司馬相如のことを題橋と言うらしいな
ピンインは[ Tiqiao ]
184 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 12:43:58
漏れがぱっと見て読めたのだけ
ゆきひさ たかとも
きいれ
ちなみにtiqiaoは「ティチァオ」
ただかた
しょうふ
給黎はともかく樵夫や題橋ってどの時代で出て来るんだ?
不勉強でスマソ・・・
おう
188 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 09:31:43
別に、たまたま生まれた家柄なんて、個人の努力とは、何の関係も無い、くだらんモンだけど、ウチの実家は堂上9清華のマーキュイス、ツレは
養子の家系だけど大名華族のヴィスカウントだよーん。
明治以前どころか、平安中期と鎌倉初期まで、遡れるよ。
誤爆乙
ついでに日本語でおk
あんたもスルーすればいいじゃん
191 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:42:31
>>188 清華で侯爵・・・清華家のうち三条・西園寺・徳大寺を除く6家が該当
大名で子爵・・・該当する家大杉
192 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:44:07
>>169 とりあえず薩州家は男系血縁で伊作家よりもそれ以前の本家から離れているね。
14代勝久の系統って残ってるのかな?
どうもご健在らしい。
ソースは『蒲生郷土誌』か『姶良町郷土誌』
但し苗字は「島津」ではない(江戸時代初期に改姓)。
貴久が鹿児島から命からがら逃げ帰った後、忠良と伊作で雌伏の時を
過ごしていた間、実久が実権握ってたのは10年以上あるっぽいね
まあ賊扱いの実久が後世の史料から消されるのは当然として、
その間の守護職の譲渡とかどうなってたんだろ。幕命受けたのかな、実久は。
義虎の動向も気になるところだけど。
結局嫡流とか直系の定義は?
>>195 義虎の生年(1536年)から見ると、実久が実質守護として振る舞ってたころはまだ子供で
父の動向に影響与えるほどではなかったと思われる。
ところで、いま気が付いたが、舅の義久とあまり歳かわんないのね、義虎。
「本藩人物志」などによると実久は京都に行ったこともあるようだが、引退してから後の話のようだし。
室町幕府に届けを出して正式に守護の引継は行われていたのかどうか。
199 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:42:25
実久の上洛は相良氏側の史料である「八代日記」なんかにもリアルタイムで出てくるから、上洛したこと自体は史実として堅い。
ただ守護に補任されたかどうかは怪しい。
しかし義虎の「義」は将軍から貰った字かも知れない。
200 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 08:21:27
なんで次男坊の義弘まで「義」の字をもらえたの?
>>199 義虎は足利義輝の通字とか
ソース失念
>>200 そのころは既に足利幕府は実質滅亡状態
それでも、島津氏のような古風な大名では権威だけは存在していたのであやかったものだろう
ちなみに義弘(当時「義珍」)は足利義昭の通字拝領
清和源氏頼信流の通字が義であってそれを言うなら偏諱の授与だろ
使い方間違ってるぞ。諱でググれ
実久は忠良より17歳も若いんだな
勝久も忠良と同い年
いったい実久は何歳から本宗家に介入してたんだ?
勝久が守護を相続したのが1519年
その時、実久9歳・・・・・・・・ヲイ
205 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 17:19:38
初代薩摩藩主・島津家久は徳川家康から可愛がられ
忠恒から家康の家を取って、家久へと偏諱を受けたらしい。
で家康は対明貿易がからんで、琉球の間接的支配もゴーサインをだしたらしいね。
家康あの世で後悔しただろーなぁ。その琉球絡めた密貿易を江戸時代後期に調所広郷が大々的にやって幕府倒す金の元になったんだからなぁ。
>>206 島津藩も最初は弱体化した徳川幕府の力になろうとしてたんだけどな
が時代の流れの中で、幕藩体制を終焉に向かわす方向に行ったと・・
>>205 >初代薩摩藩主・島津家久は徳川家康から可愛がられ
>忠恒から家康の家を取って、家久へと偏諱を受けたらしい。
ここ日本史板だから、ソースプリーズ
「家久」の「家」が家康の偏諱というのはその通りだが、前半はそのような話は初耳。
209 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 23:41:53
>>208 関が原後、重要な判断が迫られる戦後処理の中、
家康は家久が噛んだ諸事情の絡んだ交渉ごとを
大半を認めさせているという諸要素を鑑みてね。
(家康が冷たくあしらった、諸大名の差なんか見てもry)
あと、そう思ったのは年令がふた離れているからかなぁ。
それが日本史板じゃない?
かわいがっていたと言うより
西南の大大名である島津氏をどうにか押さえ込みたいと考えたときに
義久は何考えてるか分からない人物だし
義弘は秀吉に引き立てられた面があって家康には避けたい人物だし
若くて揺さぶりの効き易い家久に恩を売ったというのが実状なのでは
事実、関ヶ原の合戦後に家康が加藤清正をはじめとする西日本の大名に島津攻撃を命令したときに
家久(当時忠恒)一人が
「徳川に攻撃される、島津ももう終わりだどうしよう」
と右往左往している手紙を残している。
関が原後でも徳川体制は盤石じゃないし、九州まで遠征して成敗
するほどの余裕もない。清正や正則は三成が憎いから徳川につい
ただけで、島津成敗に加担するとは限らない。
よってなあなあで済まさざるを得なかっただけ。
212 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 12:23:05
>>204 勝久と実久の姉が結婚したのっていつだっけ
少なくとも実久って12,3歳あたりから本家にチョッカイだしてたのかな
まあ常識的に考えて政略結婚を成功させた実久の父の忠興が
かなり権力持ってたんだろうな。あんまピックアップされんけど。
出水以外にも飛び地とかでかなり領してたみたいだし。
あとは実久の舅の川上忠克やら薩州家の家臣が有能だったのかな
実久が完全降伏したのは天文10年(1541年)で31〜2歳。忠良49歳の頃。
213 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:51:49
>>211 家康はそんな一部のボンクラ作家が描き出す様な甘い人間じゃあないよ。
>>212 忠興(薩州家のほう・生没年未詳)が実際のキーマンだったか
実久の年齢に工作がされているか
どっちかと考えないとつじつまが合わないような。
ただ、実久の没年は余り薩州家と縁がない種子島氏関連の史料にも出てくるから
工作したとは考えづらい面がある・・・
余り実際の生年をさかのぼらせても長男・義虎の生年とも齟齬をきたすし。
216 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 15:28:16
ちょっと関係者の生没年やら整理してみないと分かり辛いな
忠良は1493年生まれ
勝久は1503年生まれ
>>203で勝久と忠良は同い年ってあるけど間違いな。10歳違い
実久は1511年生まれ (義虎は1536年生まれ)
薩州家の拡大は2代国久の功績が大きい。
影響力大だった国久が1499年に没して跡目争いが起き、1500年に4代忠興が薩州家内紛を制する (久逸討死)
島津本家
11代 忠昌(1463〜1508) 自刃
12代 忠治(1489〜1515) 病死
13代 忠隆(1497〜1519) 病死
14代守護職を勝久が継ぐのが1519年。勝久が忠良に援助頼んで貴久が養嗣子・守護になるのが1526年。
217 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:55:56
薩州家2代国久と忠良の祖父久逸が同い年(因みに国久と久逸は従兄弟)。
そう考えれば、国久の曾孫である実久(永正7/1510生)と、
久逸の曾孫である貴久(永正11/1514生)が、同世代であることに
不自然さはない。
また、実久の子である義虎と貴久の子である義久・義弘が同世代であることを
考えても、実久の年齢が操作されているとは考えにくい。
218 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 04:08:29
忠良vs忠興
貴久vs実久
って具合な構図か?
こうなると薩州家4代・忠興に関する史料が少ないことが痛いな
久逸を討ち取った以外で何かないのかしら
219 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 05:14:43
実は貴久以降の伊作系の島津宗家にとって一番目障りな存在だったのは
忠興なので忠興に関する記録を抹殺したって可能性はあるかな?
220 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 12:36:42
島津久友氏は、島津久厚氏の長男ですか?
次男ですが跡継ぎです。長男も存命ですが各家の事情には触れないように。以前島津本家主宰の曲水の宴で主賓三人がゆかりの家の次期当主ということで毛利元英氏、調所一郎氏と一緒に出てました。
223 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:00:00
為子タソ写真ドアップ
224 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:43:59
調所広郷の禄高を教えて下さい。
225 :
みかど:2008/02/18(月) 23:52:33
島津vs秀吉 1勝1敗
西郷隆盛vs徳川家康 .西郷隆盛の勝利.
226 :
みかど:2008/02/18(月) 23:53:28
ほとんど完勝に近いな。
>>214 >ただ、実久の没年は余り薩州家と縁がない種子島氏関連の史料にも出てくるから
実久と種子島氏は関係大ありだ。種子島家譜みてみろ。
調所広郷は天保九年家老就任時で千五百石、その後加増され、嘉永元年死亡時で約四千石。
229 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 06:37:31
最強は為子タソ
>>227 実久と言うより
実久と対立した忠良に恵時がわざわざ海を越えて遠征して加勢してるね
正直スマンかった
231 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:32:28
北海道新聞に島津忠裕氏が出ている!!!
どっちの島津忠裕さんかな(・∀・)
それはさておき、web道新で見られないようなんだが
233 :
232:2008/02/19(火) 19:38:55
自己解決 スマソ
234 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:41:08
薩摩の若殿、帰郷 島津忠裕さん 「北海道との懸け橋に」
「フィールド調査などを通じ、書物を読むよりも大きな収穫があった」
と北海道での生活を振り返る忠裕さん
NHK大河ドラマ「篤姫」の放映で、脚光を浴びる薩摩(鹿児島県)の
島津家。その第三十二代当主、修久(のぶひさ)さん(70)の長男で、
小樽商大大学院ビジネススクールで経営学を学んでいた忠裕さん(35)
=札幌市東区=が三月上旬、帰郷することとなった。島津家ゆかりの品
々を展示する尚古集成館(鹿児島市)の新事業に携わるためだ。札幌で
の四年間の生活に別れを告げる忠裕さんは「鹿児島と北海道のつながり
は予想以上。今後は両者の懸け橋になれれば」と話す。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/76857.html?_nva=6
かなりのブサメンだね。西郷の血かな?
っていうか、謀反を起こした足軽の家から正室を迎えるなんて島津も落ちたものだね。
そんなこといったら
近衛文麿の妹とか(ry
次の徳川宗家なんて(ry
237 :
227:2008/02/19(火) 23:59:07
>>230 >実久と対立した忠良に恵時がわざわざ海を越えて遠征して加勢してるね
それ以前の関係がより重要。
種子島恵時の正室は薩州家忠興の娘=実久の姉。そしてその正室が嫡男時堯を産んでいる。
実は種子島氏はもともと相州家ではなく、薩州家との関係が深い。江戸時代になって編纂された『種子島家譜』では、こうした都合の悪い事実は伏せてあるが・・・。
238 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:38:33
島津の釣り野伏せりは、九州・四国勢力には通用しましたが、本州勢力の秀吉軍には...
島津の釣り野伏せりは、九州・四国勢力には通用しましたが、本州勢力の秀吉軍には、まったく通用しませんでした。
なぜですか?
>>237 忠良の妻も薩州家出身だね
但し一世代前の薩州家島津重久の娘=実久の叔母だけど。
『種子島家譜』って系図(今の学会では系図は余り重視されない史料のようだけど)
なかなか興味深くて
『旧記雑録』「諸氏系譜」の薩州家系図にすら記載されていない実久の没年月日と没年が記載されていたり
島津光久の「消したい過去」が載っていたりする この記載は一歩間違えば鹿児島藩の命取りだと思うのだが・・・
242 :
みかど:2008/02/20(水) 05:23:18
秀吉の末路.。
243 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 10:10:01
>>239の言うとおり忠良の妻は薩州家の3代重久の娘だけど
重久っていつごろ亡くなったんだろね。国久の存命中かな?
重久・忠興ともに生没年不詳だけど忠興の事績が実久と
ごっちゃにされてるってことはないんだろうか
あんま関係ないけど大野忠宗って薩州家分家の末なんだな
>>235 足軽って・・お前はアホ?
今の徳川宗家(将軍家)十八代目の当主の正室なんかベトナム人なんだぞ。
本物の歴史ある名家達はお前みたいな、
所詮、低俗の血脈を持つ輩にはわからない世界なんだよ。
246 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:20:29
島津一族で病院を経営している人はいるのかな。
昭和天皇のご息女の嫁ぎ先に近い一族で。
248 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 19:04:17
徳川19代目の女房がベトナム人だったらなんだというのか?
ベトナム人は足軽以下だと主張したいのだろうか・・・??
ベトナム人じゃなくてアメリカ人だったらどうなんだろう??
う〜ん、わけわからん。
249 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 20:07:50
そもそも家広なんて実在しない、2ch発生のキャラだろが。
250 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:42:34
大谷家の当主の嫁も、半島人。
家広氏いるよ。俺大学で留年して同期だったからな。賢いけど変り者でいい感じ。
朝鮮人の子孫を天皇としてあがめ奉ってるニッポンw
子孫ネタウゼえ。
スレタイ読めないバカは散れ
255 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 18:25:54
為子タソは超絶美女
257 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:44:38
大野氏は勝目を本拠に2200石以上の大身だったつーから
何かしら裏があるんじゃねーかと勘繰ってしまうよな。頴娃氏やらの例もあるし。
宝福寺ってどこのことよ
258 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:49:58
常子タソハァハァ
259 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 22:04:07
江戸幕府旗本の島津家も、
その後絶えてないよね・・?
「さつまの姓氏」改訂版出ないのかな。いくつか間違いあるし。
262 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 13:21:57
島津久豊も結構えげつねー人物だなw
>>261 というか
著者の川崎大十氏、まだ生きてるんだろうか・・・
桐野先生のblogはいいのぅ。
戦国島津カテゴリももっと更新してくりゃれ。
今年は大河関連でお忙氏だから無理だろうな
さすがの桐野さんもあの内容にだんだん切れつつあるようだけどw
266 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 00:55:20
桐野さんって?
267 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 01:42:42
桐野利秋?
桐野作人でググれよ。歴史作家だよ。
ハイビジョンで視ました!
なかなか良かった!
後は 松坂さんのキャラが
生きるかどうかが 長期的なポイントね。
ハイハイ板違い
271 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:52:01
272 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 05:43:41
雑魚薩摩wwwww
ちぇすと!キモいんだよwwww!
関ヶ原で敵前逃亡すんなよwwww
273 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:16:38
斉彬と久光はどっちが人気あるの?
274 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 09:05:27
映画「チェスト」 主演松下奈緒
>>272 寒いのに早朝からお疲れさまです_
>>273 圧倒的に斉彬だろう
地元では特に「島津の殿様」=斉彬。義弘でも義久でもなくて斉彬。ゲームで使えなくても斉彬。
久光は西郷丼ほか維新の志士をいびった、その他etcで人気はない。
>>274 宣伝お疲れさまです
>>275 それどころか久光は斉彬公を毒殺させた
悪者ということに地元ではなってるという話を
聞いたんですが本当?
久光が斉彬を毒殺したというのは周辺の史料から見てあり得ないが
斉興とかお由羅とかなら動機も十分、可能性はある。
斉彬毒殺説の提唱者としては史伝小説の大家である海音寺長五郎がいる。
この人は鹿児島県大口市出身。
278 :
277:2008/02/25(月) 12:56:52
海音寺潮五郎だったスマソ
前も出てた話だよなぁ。確かに変だが、今となっては墓掘り起こして遺髪や遺骨を科学的に調査するしかないなぁ。
加治木高卒なんだよな確か
島津に暗君なし・・・だね
以前九州大学の安藤教授、ま、鹿児島大学名誉教授でもあるんだけど、斉彬はイメージ先行で名君と言えるか疑問だとおっしゃってた。つまり調所や斉興を追い落とした後、金使いすぎて領民に対する締め付けが厳しくなったと。船や大砲は作るより買った方が安かったと。
銭金のそろばん勘定だけで見たらそういう結論しかでないだろう。
財政再建専用家老・調所はともかくとして、斉興はもうちょっと早く生まれてたら
上杉鷹山には遙かに及ばないだろうがw「藩建て直しの名君」といわれていた鴨ね。
残念なことに斉興は関心が銭金にしか向かなくて、当時の日本を取り巻く緊迫した事情にとんと疎かった。
重豪爺が盛大に無茶苦茶した後始末をしなければいけなかったから仕方ないんだけど。
松平春嶽の回想録など見ると、同時代人の斉彬の評判が伺える。
鍋島閑叟にも同じこと言いそうだなその教授
尚古集成館元館長の芳先生は斉彬を名君と認めた上で、その解明的な思想の実現は調所の財政改革・農政改革・軍制改革がなければゴマメの歯ぎしりで終わっていただろうと論文や講演でかつて言ってた。
芳先生は今もお元気です。よね?
たぶん篤ちゃん関連でうはうは・・・のはず
・・・あの内容に切れてうんうんうなされている可能性もあるがw
篤ちゃん関係でうはうは天文館でよっぱらってんのは原口先生!
原口さんは仕事選んだ方がいいと思うw
正月番組で火坂のdqn説の補強に使われていた尚古集成館の松○さんも自重した方がいいと思われw
・・・びみょーに島津と離れてきたかな・・・
290 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:17:56
291 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:32:04
やっぱ常子タソ
292 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:28:20
サツマイモ栽培しか仕事がないとは ・・・・
| ^ ^ ) ////゙l゙l; なんという哀れな薩摩土人じゃ
雪で閉じこめられて暇なんですか会津の方
幕末明治維新に於ける薩摩の活躍は調所が奄美に強いた犠牲のおかげだ。島津家も調所家も、その金を湯水のごとく使った西郷・大久保家の四家は奄美に謝罪と感謝の儀式をキチンとやれ!
295 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 16:02:08
でもそれだけの借金を負わせたのは徳川による参勤交代と関東東海地方の治水工事負担と徳川関係の城の工事費だからね。
西国はどの藩も徳川嫌い。良いよな会津はど貧乏の流刑地であっても江戸に近かったのだからw
大阪の淀屋に金かりまくって返せないからと言って取り潰し財産没収もしたよね徳川家
商人からも嫌われまくり
謝罪とか言い出すところ見るとアイヅマソじゃなくて半島人かヤレヤレ
あばれるならN極東板辺りの方がいいかと思うがの。
297 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 17:31:40
卑怯者だから関ヶ原時の逃げ足だけは速いwww
まるでスリッパで叩き潰そうとしたら
慌てて物陰に隠れるゴキブリそのものwwwww
298 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:49:23
くやしいのぉ〜くやしいのぉ〜
薩摩に英雄李舜臣殺されてくやしいのぉ〜
>>295 文句があったなら1700年代に言うべきだったんだよ。
いまさらガタガタ言うだけみっともない。
300 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 21:14:01
>>299 文句言ったらお取り潰しされるから言えないよな。
半島出身でも奄美出身でもない私だが少なくとも島津家・調所家は何らかのけじめ的儀式はするべきかなと。特に最近の島津家は先祖の顕彰ばかりしてるようだが昔は犠牲になった敵方の供養もしていたはず。
補足すると当時の薩摩は上杉膺山や村田清風の場合に比べてケタ違いの負債(500万両の借金に対して年収は13万両前後、利子が約50万両)を抱えていたので無理したのも仕方ないが。
>>301 だったらこんなトコでガタガタ言ってないでお前が直接そう言いに行けよ。
何かアクション起こすかもしれないだろw
何もせずにただ吠えたり妄想してるだけじゃ史板の出入りにも相応しくないしな
ほら、フィールドワークだフィールドワーク。自分の足を使え
んで報告しに来い。分かったか?
改行しない奴はいつもの奴だろ
どうせ向こうは一方的にこのスレに書き散らすだけなんだから
全力でスルーせよw
308 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 15:42:25
鹿児島へ飛行機以外で入った人ならわかるだろうが 鹿児島から他県へ行くには険しい
山があり脱出は困難 だから島津の悪政でも農民は隷従するより他なかった
(他藩であれだけの悪政あれば逃散続出だっただろう いくらご法度でも)
琉球や奄美も同じようなもの
309 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 16:01:54
今の宮崎市から西都市にかけて、
旧島津領と旧秋月領と旧伊東領と旧天領が広い範囲で混在していますが、何か?
310 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 16:07:39
さつまいもとか食い物の面では、危機的でなく最悪でも餓死せずにすんだのもあるのかもな。
砂糖地獄とか凄いけど、東北のあぼん振りを見ると、やっぱ食い物はそれなりにあったんだろう。
それと、武士の比率が全人口の四分の一だし、交通の要所に彼らが散らばってたから。
あとは、郷中教育のお陰だろう。
308の言うとおり地理条件が一番の理由だろうけどね。
逃散については飫肥藩への組織的逃散がある
312 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 17:07:40
宮崎県知事が都城市こそ島津家発祥の地だと観光アピールしているが
実際に西南戦争で最期まで薩摩士族と行動を共にしたのは人吉士族。
日向士族が西郷の蜂起を冷たく見棄てたのを見ても解るように
むしろ日向と歴史的に関係が強かったのは豊後や伊予のほう。
人吉は西郷隆盛本陣が置かれ政府軍の侵攻が激しさを増すと
戦火で市内のほぼ全域を焼かれた。歴史的にも肥薩は関係が深い。
薩摩藩は戦国時代の因縁から伊東氏をずっと敵視していた。
313 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 17:08:12
>>310 監視体制や国境警備が厳重という北朝鮮状態だったわけ?
314 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:27:13
>>313 国内に向かって鎖国を地でいく藩だったし、餓死の危険は少ない。
下級武士と農民が近い関係でもあった。
幕府的には、平安時代の奥州の藤原王国みたいなもんだったんだろう。
それに、江戸期にはよほどの事(飢饉)がないと脱藩はしないし、したらしたで大抵漂泊の民になってしまう。
管理社会の厳しさだよ。古代においてすら逃散した連中は漂泊するか、開墾奴隷になるしかなかった。
現代の中国でも戸籍のない人々は一億人近く漂泊している。
>>312 とりあえず『宮崎県の歴史』山川出版社 読んでくるように
316 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 20:41:20
>>312 バゲ恥痔はみやこんじょうの面汚しです・・・
>316 なんじゃと?!
____
/# 、, ヽ
| ^ ^ |
,-、,-(:|lこHこl|;)ー--、
/|,゙,l| ,,┴ー.vー┴、 ヽ
/ __|、|/'v'T'~^~Tヽl\ \
| {_Ξ} ヽ,,,,,,/ \| |
\___/T'|' | ''' | | /
| l゚| |┿| |/
318 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 17:45:25
凶作はほとんどが冷害によるものだったから
南国なら冷害は少ない 万一水害等で凶作でも裏作
やサツマイモで餓死はでにくかったということ?
北国なら裏作の余地が少ないので八公ニ民なら死ぬが
南国だから裏作などで生きれたわけ?
319 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 18:29:07
そんな感じ。全国的な飢饉の時もサツマイモがかなり役に立ったらしい。
終戦から半年間の食料難も芋のお陰で腹だけは膨れたそうだ。
耕しさえすれば、それなりに奴らはなるって昔、歴史の先生が言ってた。
ちなみにサツマイモは琉球から17世紀の初めに伝来した。
コメんメシゃなかなか食えんでな
ムギとカライモ混ぜて食っちょったち
321 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:58:09
>>312 日向の佐土原藩島津氏の者が西南戦争で戦死していなかったっけ?
西郷は、島津姓を名乗る島津一族の者が自軍に加わるのに難色を示したけど、
本人がどうしてもというので連れていったとかいう話なかった?
てゆうか肥後にしても日向にしても、北部と南部で様相はかなり違う。
戦国期とかの史料を見てても、両国とも北部は豊後の大友氏の影響力が
絶大だけど、南部(相良氏や伊東氏)のほうは、島津氏やその一族をはじめ
渋谷氏・肝付氏などの薩隅方面の勢力との抗争に明け暮れている感じ。
ただ豊後の大友氏自身は日向より肥後の攻略のほうに執心していたと思う。
何故なら大友氏は肥後に守護職は獲得しているが、日向の守護職は
手に入れようとしなかったし。
というか、日向南部って島津一族の領地じゃん。
伊藤の勢力圏は日向中部で、南部の島津系やキモツキ系にちょっかい出してただけ。
日向=伊東という奴はゲームのやり過ぎ。
323 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:19:15
まあ伊東が一時的ではあるものの日向を統一しかけたのは事実だからな。
戦国の中期くらいまでだと、島津氏は日向の守護とはいえ日向国内にある程度の
勢力を持つ一族は、飫肥の豊州家と都城の北郷氏くらい。
あとは南部の内陸部(真幸院)に肝付庶流の北原氏がいる感じか。
で、伊東の勢力拡大の過程で、豊州家と北原氏は日向から完全に追い出されて
いるから、島津宗家が三州統一を本気で指向し始めるまでは、伊東氏が日向で
最大の勢力だったのは事実。
324 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:19:27
このごろ私が、興味を持っているのは、
義久、義弘と、その取り巻きの人間模様。
もひとつは、日新公の母親の事。
調べれば、面白いね。
325 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:32:09
新納さんも志布志にいます。肝付さんに負けたけど
肝付VS新納 v肝付(志布志城攻防戦
島津vs伊東 v島津(木崎原合戦)
島津vs肝付 v島津(高山城攻防戦) あまりにも簡略とは思うけどw
326 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 01:40:31
327 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 07:56:12
薩賊vs官軍
328 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:15:26
鹿児島では大久保と小松はどっちが人気ありますか?
小松など知ってる奴はいない。
330 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:45:29
それは こまつた
ふだんからもっときもつけなさい!
おまいらまとめて飯研送り
・・・ノムタソ引退したんだったorz
そもそも根っこは昭和三十年代に奥田先生達が康夫氏を宗家と担ぎ、で、島津本家やゆかりの神社が演武依頼し、それなら正当だろうと教科書や広辞苑に載ってる人達の子孫が顧問におさまり・・・、というわけだから。最初の動きをした人達の責任じゃないのか。
334 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 16:48:25
鹿児島では篤姫の人気は凄いの?
西郷、斉彬の次ぐらいに人気あるのかな?
335 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 16:51:46
>>329 駅で「小松帯刀」なる焼酎を大々的に売ってたけど
336 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 16:54:05
篤姫?西郷さんと桐野利秋、篠原国幹の人気には到底及ばない
今回の大河までは、県内でもドマイナーだったと思うよ>篤姫
知っていたとしても斉彬の手駒の一人レベル。
大河ドラマ「篤姫」2
http://human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1201606334/983 983 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2008/03/07(金) 21:55:49 ID:c6+5Fd+O0
>>979 何度も既出だし、釣りかも知れないけど、戦国期の貴久の伊作家は、
鎌倉時代に始まる伊作家(宗家3代久経の子で宗家4代忠宗の弟の久長が祖)
とは男系では繋がらないよ。
この伊作家は室町中期の当主島津犬安丸が早世して断絶し、その後に
島津宗家9代忠国の子である久逸が犬安丸の妹婿として伊作家を相続している。
そして久逸の曾孫に当たるのが貴久になる(久逸−善久−忠良−貴久)。
因みに貴久の養父となる宗家14代勝久は、久逸の兄の宗家10代立久の孫に
あたる(立久−忠昌−勝久=貴久)。
要は戦国期に宗家の勝久の後継が問題となったときに宗家に男系血縁が
最も近い分家は伊作家だったわけであり、伊作家出身の貴久の宗家継承には
それなりの正統性がある。
遥か昔に分かれた一族が下克上同然に乗っ取ったわけではないよ。
なんなんですかその鬼女は
掃き溜めに○ 鬼女板に×× って香具師ですかいな
鬼女がまともに歴史語れるわけがない
341 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 04:58:16
で、
>>338をここにコピペすることにどういう意味があるんだ?
342 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 08:32:15
>>341 日本史板に男のような口調で書き込んでる
主婦は多いよ
343 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 13:00:21
川路大警視でごわす。
344 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:20:55
島津義弘は300人で5000人と戦って勝ったことがある。
まるでティルモピュライの戦いと同じだ。
345 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:51:50
人殺しを誇る野蛮人・薩摩
危険だ・・・。
346 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:54:59
一般論として、戦争に負けて良いわけがない。
この場合は薩摩の発想で正しい。
347 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:57:41
348 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 15:53:15
349 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 17:34:10
鬼女板の篤姫スレがなくなっちゃったんですが?
誰も次スレ立てないの?
しらんがな(´・ω・`)
つか、大河ドラマ板に逝ったら如何
351 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 20:43:01
斜め上のつっこみに、荒らしが自己アピールとは
何か大変ですね_
353 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 22:43:00
鬼女ってなんですか?
354 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 23:47:25
薩摩土人氏ね
355 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 23:59:10
糞薩摩土人はきもい
356 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:58:03
無礼者!!
358 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 11:28:20
359 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 18:27:34
島津って中国人の子孫なんだね。中国人が皇室に繋がる久邇宮家と縁組して問題なかったの?。
皇室も漢民族と朝鮮民族でその座を取り合ってる血だろ。
>>360 どれもこれもアフリカからの流れ者だから大差ない。
>>359 中国は島津をそんな扱いしないだろw
半島からの渡来にされるのが落ちだな
363 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:12:50
映画「チェスト!」見にいけよ!
364 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:29:53
出水と都城が島津氏発祥地を巡って争っているらしいが、だったら
島津忠久生誕の地である住吉大社は黙っていていいの?
争ってない、争ってないw
出水も突然言われて困惑しとる。NHKに誤誘導されるなw
あ、それが狙いなのか?
366 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 15:56:10
梅原猛は宮崎県南部が神武天皇生誕の地としている。
神武天皇の血についてはその8分の7が隼人だと論じている。
梅原によると神武生誕地は隼人の本拠地から
距離にして30キロしか離れていなかった。
つまり天皇家の系図上の開祖のひいおじいさんか
ひいおばあさんの誰か一人だけが唯一
まつろわぬ民の出生では無かったということになる。
記紀神話もこういう事実関係を粉飾するにしても
余りにも否定しがたい事実であったために
苦し紛れに日向に天孫が降臨したと書き換えた。
何でそんな島津と関係ないデムパレスをここに投下したのか
梅原ネタは他に専用スレがあるだろ
ハヤト血統と島津は無縁なんだが、アフォが多いw
薩摩、大隈、日向は、元々一つの日向国。
令制(702年)で日向国は、3つに分割された歴史がある。。。
×大隈
○大隅
何度訂正すればいいのやら・・・。
372 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 04:39:33
初代日銀総裁は薩摩藩士の吉原重俊だったな。
373 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 22:33:34
島津の「しまつ」はまだか
374 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 23:14:38
島津プラス調所=しまづしょ・始末書 やっぱこの二家は奄美にアヤマレ。
375 :
↑:2008/03/19(水) 00:29:48
2ちゃんの日本史板みたいな過疎板で棄て書きしている時点で無理
376 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 13:02:51
徳川家の末裔とか皇族の容姿がぱっとしないのは、
幕末期に島津の血が集中的に入ったせいだったのね、なっとく。
>徳川家の末裔とか皇族
>幕末期に島津の血が集中的に入った
ダウト。
顔のエラの張りだしは優性遺伝だと思います。
皇族方にも、あの顎の特徴を備えた人を見かけます。
国賊にされてた薩州島津家の話を、もっとしておくれよ。
382 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 03:40:40
ネタって…
島津義虎に討たれた島津但馬のことを知りたいんやが…
383 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 09:15:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
出水の初代地頭は本田正親
二代 樺山久高、三代 山田昌巖
薩州島津家7代の墓が並ぶ高座には見下ろすように山田昌巖の立派な墓がある。
由緒記によると2代以下の墓碑は全国各地にあったものを宝永五年(1708)に移葬したとのこと。
>>382 島津但馬といえば久風(違
>>384 要衝だけあってそうそうたるメンバーですな
駄菓子菓子
その後子孫がぱっとしなかったことも共通してるw
島津久風というのですか?但馬さん(どっかの教授みたいですが)と言い伝えられているだけで、但馬さんが島津但馬とは知りませんでした。
387 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:05:24
島津但馬は知ってるけど、島津但馬が島津久風なんですか?
388 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:49:42
島津但馬のことを詳しく知りたいのですが…
389 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:23:07
どなたか但馬さんのことを!
390 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:35:47
島津但馬が島津義虎に討たれた、桑原城と島津但馬が関係あるしいこと。
言い伝えでは、桑原城と言えば但馬さん。これだけしかわからんのです。
392 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 23:54:55
おお、我が故郷よ!ありがとう!かからんじょの但馬さんじゃ!ありがとう!
393 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 01:08:32
>>391 >「島津」が苗字、「但馬」はおそらく本当の名前ではなくて「但馬守」という官名の略語と思われる。
さすがに日本史板でそのレベルのことが分からない人がいるとは思えないが。。。
394 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 01:19:13
阿久根市史には、島津義虎が島津但馬を討ったことが載ってる。これ以上詳しいことがわからない。
395 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 01:39:04
いや、落ち武者の子孫ではない。
396 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 03:12:37
>>393 龍馬という名前の人がいるくらいだから、但馬という名前の人がいても不思議はないよ。
どひゃっ!
島津久風は城代家老で篤姫にも初回放送で出てたよ。山川港で異国船に大砲ぶっぱなしてた。
>>396 世の中に但馬と言う名が居てもおかしくは無いかもしれんが
それが龍馬という名に通ずる意味が解らんw
馬か?馬繋がりなのか?
坂本金八やんけ。桑原城跡には中学校と神社があるんやなかったかな。
401 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 15:12:48
島津と徳川は婚姻しても後継ぎは産んでないんでないの?
402 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 15:15:15
島津歳久が自害した場所は、竜ヶ水だよね?
竜ヶ水だったかどうか忘れたが、首は千本通りにあったらしいの、昔オウムの店も千本通りにあったな。
>>396 いや、「但馬」は国名だから不自然だという話なので。
というか、一般論として、地名は姓ではない名前には使わないよね。
ほなら、島津たじま
黒猫丹後
407 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 20:26:52
島津但馬守
408 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 20:48:56
阿久根市史じゃなかったわ、すまんすまん、鹿児島県の地名か何かを解説したぶあつ本じゃ。そこに島津但馬と出ている。
白猫慢暮
妙な流れ
411 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 23:24:55
誠、お主等薩摩藩士か?
但馬さんの近くの百姓の子孫です、私は。桑原文書に門名としてご先祖の名前が載っておりました。
爺様の母上と婆様の母上が、姉妹で、その姉妹は山下郷の……。って、ここまで書いたら、わかっちまうがな。
415 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 07:51:31
>>1 島津氏は鎌倉時代より前からあるぞ。
惟宗広言が島津荘下司になって、島津氏を名乗ったのが最初。
……などと言って、過去スレ読めよとかいわれると。
どうも百官名と自官の慣習についていまいち理解してないのがいるな。
人名の基本的知識だから史板じゃ常識かと思ってたがそうでもないのか。
↑
ゆとり教育以前でも学校日本史レベルではこのテのことは習いませんが・・・。
そんなことも知らなかったとは、ひょっとしてゆとり・・・w
419 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:52:09
薩州島津家の話、誰かしてよ、またまたお前がネタふれと……。島津義虎の兵道家雪渓の話とか……松岡神社に墓があるらしいんだが、俺は見たことがない。
>>419 >おまえがネタふれ
よく分かっているじゃないかw
>雪渓
マイナーすぎて分かりませんので
>>419の知っている範囲内で語れ↓
421 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 02:37:50
マイナーか?薩州島津家を調べたらすぐ出てくる名前やが…
古文書調べたわけでもないんやが…
まあ、ちょっと、あれですが、私が薩州島津家情報に飢えてるのですが…
>>421 このスレの中ではお前が一番詳しい。
ということで、このスレで聞いてもお前の望むような情報が出てくる可能性は皆無。
あきらめろ。
最初のほうには知らんことがいっぱい書いてあったから、期待してたんやけどな。
424 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 12:57:19
島津一族、伊集院氏は紀姓なのか?
425 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:39:28
なぜに?
えーと、秦→惟宗→島津です。
源頼朝のご落胤、という主張もあります。
というか唐突に紀姓説が出てきた方にビックリした
紀姓起源を唱えている大名も非常に少ないと思うが
島津氏配下の武将で紀姓起源を称しているのはいたかな?
428 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 15:03:21
伊集院氏です。
伊集院の島津さんは、島津さんですが、何か?
島津宗家の分家・新納氏も戦国以前から名家の一つです。
431 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 17:37:07
サッシュウケとかホウシュウケとかのしまず氏のほうが、
新納とか川上とかの改姓したしまず一族よりも格上なの?
っていうか、両者の違いは何?
川上家は、伊作家(後の宗家)と薩州家との抗争の時、当初薩州家を支持していた。
降伏して存続を許された(が軍務を果たさねば領地は危うかったので猛将と化した)、というわけで
血縁とは別に、宗家より一段格下扱い。
新納家は、日向の国に持っていた領地を伊東氏に取られて逃げ込んで宗家の家老となったので、
これも一段格下。
薩州家は、伊作家と宗家の座を争って、出水に逼塞したものの頭を下げてはいない。
(そのため、豊臣時代に領地を没収されて消えた。)
豊州家は、宗家の弟。
血縁は、宗家当代当主の従兄弟程度までは優先順位に数えられるが、
それより外側は力関係の問題。
>>423 2代国久の事績とか
国久が死んだ後の1500年、薩州島津家の内乱を調べるとよろし
なぜ久逸が島津忠福に加勢したのかとか
434 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 20:16:33
将軍家は分家である御三家や御三卿は他の大名のような家臣扱いではなかった
(上使でなく御使とか 拝謁でなく対面とか島津家と4分家の間にはそういうような
関係はなかったのですか?
435 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 16:26:23
436 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 16:46:56
広末に続き宮崎あおいも離婚かもね
子供がいる以上一生岡沢から離れられない広末と違い
あおいは今のところ身軽だからいいじゃん
身軽
尻軽
足軽
よがる。が抜けてるよ。
439 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 17:33:59
>>436 あおいは十代の頃から高岡に洗脳されきっているから離婚はないんじゃね?
440 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 17:51:19
>>439 16で初めて付き合った相手が大沢樹生、23歳で結婚→喜多嶋舞、10年後離婚
何があるかわからんがね。
ましてや、あおいは旦那より有名で収入も多いし。
441 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 19:35:12
ν速、アウトロー板や格闘技板、芸スポ板混戦して完全祭り状態だなw
天璋院の写真まじまじと見ると
口角は下がってるけど
目が大きく鼻がこじんまりとして
なかなかの美人じゃない
天璋院の若いイキイキしてた時の写真を一度、見たかったな
40過ぎての写真を見ると、色々苦労したのが偲ばれる・・・
写真さえなければ、まれに見る美人で通せたものを…
445 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:45:25
1 ★ディダン
(チェスト チェスト チェスト)
ディダン
(チェスト チェスト チェスト)
たたかえ われらのシマズマン
強いぞ 山もぶっとばす
悪魔の帝国 トクガワ家
将軍 ケイキを
打ち倒せ オー
チェスト! チェスト!
シマズマン シマズマン
2 ★くりかえし
たたかえ われらのサツママン
強いぞ 鉄もぶちやぶる
恐怖の帝国 エゲレスジン
グレート ブリテン
ぶちのめせ オー
チェスト! チェスト!
サツママン サツママン
446 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:51:18
1 渦巻くバクフの 悪の闇
電光放射で きり裂いて
やって来たのは シマズマン シマズマン
強力(ゴーリキ)ショーライ!!
超力(チョーリキ)ショーライ!!
サツママンから シマズマン
輝くシマズマン 平和の光
★戦え! われらのシマズマン
シマズマン シマズマン
2 とどろくバクフの 悪の声
雷鳴電波で うちくだき
とんできたのは シマズマン シマズマン
強力(ゴーリキ)ショーライ!!
超力(チョーリキ)ショーライ!!
サツママンから シマズマン
まわる光輪 自由のまもり
★くりかえし
447 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:57:44
>445-446
∧ ∧ ┏┯┯┯┯┯┓
(,, ). || | || | | | | | | |┃
| つ━●| | | | | | | |┃チーン…
〜 |彡|| | || | | | | | | |┃
U~U . ━━━━━━┻
残念でした、またどうぞ。
448 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 11:27:06
懐かしいでごわす。イナズマンの替え歌でごわすか?
>>448 BS11の石ノ森章太郎特集で言っていたが、サナギマソは子供に人気無かったらしいねぇ
見た目もアレなら、イナズマソになるまでフルボッコにどつかれつづけるしw
島津氏もサナギマソの期間が長いよね
・・・戦国時代後期より前(島津貴久が出てくるまで)とと江戸時代のほとんど。
サナギマソが単体で人気出るようなら企画考えた人間は終hるww
>>449 島津氏は南北朝時代の活躍も面白い。
にわか大名じゃ無いところに、歴史の重みを感じるYO。
452 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 18:06:21
関係ないが、つのだじろうの「空手バカ一代」の主人公「飛鳥 拳」の掛け声はチェスト!言ってるが、薩摩出身なのか?
453 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 22:28:41
大山倍達は明らかに朝鮮人。
つのだ姓も渡来人くさいし、
空手=韓手・・テッコンドウと同根です。
454 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:55:46
原作、梶原一騎は確か熊本出身だったかな?その当時のスポ根アニメで一世を風靡したな。
極真で鹿児島と言えば世界チャンプになった木山!
また懐かしい名前をw
緑健児も忘れるな。
458 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 23:59:04
示現流は最強でごわす。肉を切り裂き、骨を砕く一撃必殺の剣でごわす。二太刀目は死を意味するでごわす。チェストー!
何やかんや言って凄いよ。
何百年も支配し続けたんだもん。
鎌倉〜室町〜江戸
>>460 確か宝暦治水時の将軍は、九代将軍徳川家重の時だけど
この人は脳性麻痺と推測されるほどの、知恵遅れ気味で
事実上、幕政の政務を執行するのは不可能だったらしい。
そんな家重の幼少からの側近で、
家重をいいように私服を肥やすために利用した
悪名高い岩槻藩主、大岡忠光が宝暦治水を命じたんだろうね。
↑
大岡越前がそんなこと命じるわけないだろ
463 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 07:33:38
↑
バカ発見!
同じ大岡でも別人だろ
464 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 09:27:47
立て シマズマン 地を蹴って
地獄のトクガワ ぶっとばせ
見よ 日本の大空を おおう黒雲 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 自由を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
行け シマズマン 波蹴って
将軍ケイキ うちたおせ
見よ 日本の海原を そめる毒潮 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 平和を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
飛べ シマズマン 雲蹴って
トクガワ怪人 ぶちのめせ
見よ 日本の山々を おかす毒風 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 正義を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
466 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 11:40:54
島津斉興って、よく悪のイメージがあるけど、戦国期より累積しまくった借金
を一気に清算させ、幕末の薩摩藩を築いたんだよね。
その手法に問題はあるものの、祖父重豪時代からの調所による再建政策を一貫
して支持した人物。江戸中期に生まれていれば間違いなく名君扱いだろう。
島津に暗君なし・・・か。
467 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 12:55:46
誰かも言ってたけどさ、大河ドラマ篤姫で篤姫の嫁入り先が徳川宗家で
幾島がおどろいてたけど、家系で見れば島津のほうがよっぽど格上に感じるな。
徳川なんて戦国からの成り上がりだろ。将軍も池沼ばっかりだし、
島津幕府ができて(戦国期に)島津家が将軍になってたほうがよっぽど日本が
発展した感じがする。
今はそれが分かるけど当時の人間にはそんな歴史の知識ないから
幾島の驚きもおかしくはない
てか、その前に篤姫には突っ込みどころ満載なんだがw
大河とか別枠でやってもらいたいレベルだな
それはどうかと思うがなw
わざわざ関東まで出て行くの面倒くさいし
まずは九州統一だろ。そして九州だけ鎖国すればおk
470 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 13:48:44
>>469 別に関東に行く必要はないだろ。京都に幕府を開くか、鹿児島だろ。
鹿児島幕府が出来てたら、台湾、呂宋、その延長で南洋あたりを併合
していたのではないだろうか。
471 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 14:40:56
風土病とマライポリネシア土人だらけの土地になんか興味ないお( ^ω^)
472 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 14:56:12
宮崎あおい、の顔面は痛いたしい。
整形美形ヤクザな夫
象皮症って南方から持ち込まれたんだろ
西郷やら桐野のキンタマ肥大化したやつ
474 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 21:58:26
>>471 薩摩はマレー=ポリネシア系生息地の北限だからな。
南方に対する思慕の念が濃いんだよ。
“故郷”に帰りたがる
>>470の気持ちを汲み取ってやれよw
>>474 だからよ、そこはDNAレベルで島津系や大隅系に置き換わってるだろがよw
土人は絶滅しとる。
サツマはなんで野蛮なの?
477 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 07:13:14
泰平寺
478 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:14:24
島津家は頼朝の落胤って聞いたが本当なのか??
479 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:34:32
定かではない。
伝説上はそういうことになっている。
しかし実際は、秦→惟宗→島津、と考えたほうが正解だろう。
宗家が残ってんだから電話して聞いて来い
482 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:30:01
803 日本@名無史さん 2008/03/01(土) 08:24:44
>>島津は頼朝公の御落胤
こういうこと真剣にいう奴は日本史板に来るなよ。
島津の祖先は京侍の惟宗氏と決まっている。
ただし、東国原知事によれば、その発祥地は
鹿児島ではなく宮崎の都城市なのだという(笑)
宗家に聞けば落胤と言うだろ
藩の公式の系図がそうなっちゃってんだし
484 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:39:39
徳川家は新田氏の末裔って聞いたが本当なのか??
485 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:42:58
宗家に聞けば末裔と言うだろ
幕府の公式の系図がそうなっちゃってんだし
486 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:46:05
秦→惟宗→島津ってのは、可能性が高いのであって、確証ではない。
大友や島津は平氏勢力圏だった九州の守護に任じられたのだから、
頼朝からは絶大な信頼はあったと思われる。
頼朝の落胤の可能性は低いがゼロではない。
真実はタイムマシンが完成するまでは闇の中だ。
487 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 17:26:42
出自不詳or茶筅賎民orどこぞの乞じき坊主ってのは、可能性が高いのであって、確証ではない。
豊臣や徳川は乱世の時代に終止符を打つべく関白や征夷大将軍に任じられたのだから、
朝廷や諸侯等からは絶大な信頼はあったと思われる。
新田の末裔の可能性は低いがゼロではない。
真実はタイムマシンが完成するまでは闇の中だ。
488 :
☆130万人以上のチベット人を虐殺拷問した中国の正体っ!!!☆:2008/03/30(日) 17:34:50
頼朝引っ張り出さなくても近衛家との縁で説明できるじゃん。
少しは空気と過去ログ嫁よ
いつから2chは横着者に優しくなったんだ
ホントに誰か独立スレ建てて誘導しろ
139 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/01/30(水) 11:28:20
まあどのみち島津も大友も任命権者の頼朝っつーか鎌倉の
意向を受けた中央に近しい人間だったてーのには変わりは無い
今さら本当の種が誰だか分かるわけねーだろうが。タイムマシンでも使え。
だから独自の新資料とか発見して提示しない限り進展はしない
どうしても続けたいヤツはそーゆーの持って来いよ。史板だろ?
毎回ループするから初めに誰か止めろよこの話題。
140 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/01/30(水) 11:45:55
>>139 >毎回ループするから初めに誰か止めろよこの話題。
むしろ独立にスレを立ててそこで思う存分戦ってもらったほうがいいような。
491 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:55:52
島津の男系遺伝子と源氏の男系遺伝子調べたら分かるんじゃねーの?
492 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:00:07
山門院の話でもしませんか?
493 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:58:00
かけないよな?
494 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:32:50
上村氏
頼朝の13歳の頃の頭蓋骨が残ってるって聞いたけど、
それと今のしまず家の遺伝子を調べてみれば事実が分かるんじゃね?
>>495 >頼朝の13歳の頃の頭蓋骨が残ってるって聞いたけど
笑うに笑えんぞ
バカすぎて笑えた。
ゴッド・ハンド
「頼朝公の・・・」ってけっこう有名な
小噺のネタだと思ったが
頼朝公13歳のみぎりのしゃれこうべだっけ?
「13歳」とまでは詳細でなく
「ご幼少」くらいだったと思う
502 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:45:11
Y染色体というのは継承されていくんだろ?惟宗氏は源氏ではないだろ。
だから島津のY染色体とはっきりした源氏(細川あたりか)のY染色体を
調べればわかるはずだ。タイムマシンなど必要ない。真実は闇の中でもない。
調べればわかるはずなのだ。調べてほしいなあ。別に頼朝の子孫じゃなくても
恥ずかしいようなことでもないし。
天皇陵墓は宝の山、宝塚。
504 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:25:08
てか、頼朝の子孫を標榜しちゃった事の方が恥ずかしいよ。
島津ぐらいの家になれば、別に源平藤橘でなくとも800年も続いた事自体、武家としてはすごい事なのに。
標榜したからだよ。
だれが秦姓になんか従うもんか。
戦国時代ならまだしも。
>>500 「くろうほうがんよしつねこう ほうきじゅうさんさいのみぎりのしゃりこうべ」じゃない。
石膏か何かで作ったいい加減なの。
>>504 だって、源氏なら天皇家の血を引いているというのが売りで、それだけで恐れ入っちゃって、敵対するどころか手下になったのも無数にいるわけでしょ。
508 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 12:06:03
江戸時代の薩摩藩の参勤交代ルートはどのようだったんでしょうか?
篤姫では九州の東側から瀬戸内海を海路で大坂まで行ってあとは京から東海道のようでしたが
「飛ぶが如く」では西郷隆盛らが随行した斉彬の参勤は九州の西側陸路を通っていたように
思いますが
509 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 13:27:25
>>505 >だれが秦姓になんか従うもんか
そこは九州の弾左衛門家として西日本のエ○・ヒ○ンを一同に率い(ry
511 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 15:34:17
>>502 鑑定なんかやったら、天皇家が万世一系でなかったりとか、
将軍は途中から別の男の遺伝子になってたりとか、
いろいろあるんだろうねえ
ちなみにY染色体は遺伝子の密度が低く
性別を決める以外の働きはほとんどしないらしい
遺伝を決めているのは]染色体らしい
512 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:30:55
>>465 その治水の時期は宝暦初年、つまり家重の初期。
この時期だと田沼の発言力はまだ大したことないはず。
>>508-510 確かに九州の東側の日向灘の辺りはそのまま外洋だし、船での長距離移動って
一般的にあり得たのかな?
関門海峡の辺りまで陸路で行って、そこで船に乗り換えて瀬戸内海を東へ行く
というのならわかるが。
513 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:33:03
>>500 頼朝が13歳の頃の、頼朝の父義朝の頭蓋骨なら、文覚だかが持っていたんだっけ?
514 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 23:56:39
山門院の話でもしませんか?
>>512 > 確かに九州の東側の日向灘の辺りはそのまま外洋だし、船での長距離移動って
> 一般的にあり得たのかな?
日向灘は難破が多いので、基本的には参勤交代では使用されない。
東側ルートをとる場合、船の利用は細島港から。
飫肥藩だって、江戸時代初めに藩主が乗った御座船が座礁した事故以来基本は陸路。
516 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:27:09
>>505 たしかに秦氏なら伊東や相良の方がよほど名門だもんな。
517 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:33:30
出水兵児の話でもしませんか?(爆)
518 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:47:59
>>515 篤姫が日向灘コース使ったのは訳があった?
なるべく他国(肥後や福岡)を通りたくないというような
大河『篤姫』の「船で江戸行き」はドラマのネタ
実際は陸路
520 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 16:32:05
なんで島津と伊東は仇同士なんですか?
篤姫の輿入れは肥後からの陸路
史料も残ってるよ
522 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:37:59
523 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 23:36:22
江戸期出水郡であった阿久根市内で、大名行列が通った道はオカンノハタと言われているらしい。国道3号から外れて野田郷に抜けるルート。
524 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 00:58:23
山門院の話でもしませんか?
知覧武家屋敷より出水武家屋敷のほうが規模が大きいの?
出水は肥後との国境だしね。
知覧は山ん中の盆地だし平時はさして重要拠点でもないから
適度に田舎で保存状態がいいってことなんじゃないの
出水は市でそれなりに人口もあるから戦後住宅地の発展に
従って麓も結構様変わりしたんでしょ
他の麓地区でもそういう感じなんじゃない?
527 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 20:30:14
>>521 肥後からの陸路?
九州から本州まで、船を使わずに行ったのか?
篤姫の逆で
薩英戦争の直前に島津茂久と結婚して江戸から鹿児島に移ったてる姫(斉彬娘)も陸路コース。
京から大阪に行くときと下関から小倉に渡るときだけ船。
京では知恩院と清水寺参り、大阪では島津家縁の住吉神社参りとかしている
が、それ以外はひたすら移動移動で物見遊山の余裕もなく約2ヶ月で鹿児島到着という強行軍。
昼飯抜きの日で走破した日も多数。
↑
『国分郷土誌』資料編に同行した家来の日記が所収されているので詳細な日程が分かる。
529 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 18:33:14
秦氏が祖と云う事は大蔵氏と同じように帰化人なの?
530 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 19:51:36
加治木氏も?
>>530 そんなものは存在しません。加治木の島津家なら存在します。
おまえ加治木常樹の薩南血涙史知らんのか?加治木氏は藤原経平なる人物が寛弘三年加治木に配流されて加治木氏を称したのが最初。確か藤原北家かな。そのころ同じ北家の藤原恒親なる人物が調所職(ちょうそしき)に京都から任命されて国分に来てる。これが調所氏初代。
533 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:54:49
平安時代、大隅国の加治木は大蔵氏が郡司職にあった。そこへ政変により関白藤原頼忠の三男経平が養子となり加治木氏を名乗る。一族には郡山氏、木田氏、吉原氏など。
そもそも加治木は薩南じゃないじゃないか、偽書を信じてるのか。
535 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 01:30:41
加治木氏の衰退は島津忠昌に加治木久平が敗れ加治木から阿多に移封されて没落していったとされる。
536 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 03:36:02
秦氏って朝鮮人だろ?あ、中国人だっけ?
まーどっちにしろ野蛮人だろ(笑)
537 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 04:10:24
島津忠辰の話でもしませんか?
古代韓国に辰韓ってあったよね。
忠辰って、辰韓に忠義をつくす、って意味かな?
539 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 08:54:34
辰を何と読んだ?(笑)
540 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 09:17:21
平安から幕末まで、いろんな、いきさつがおじゃたもんせ。
541 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 09:32:36
意味不明やな。
542 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 10:35:43
おじゃったもんせはわかるが、おじゃまるかなんかを引っ掛けとるのか?
忠辰って実久の弟だろ
市来で敗れて斬首されたんだよな
とか言ってみる
544 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 15:00:00
鎮海湾加徳島小西行長本陣で病没。終戦時鎮海警備府司令は、高松宮お付武官を勤めたこともある山口儀三郎。
とか言ってみる。
545 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:44:52
今泉の分家ってどんな筋なの?
546 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:16:02
徳大寺伊楚子
戸田愛子
岩倉季子
島津隋子
島津秀子
高倉久子
島津粛子
近衛昭子
松平英子
柳原行子
柳沢佐久子
547 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:59:32
>>545 篤姫と島津斉彬は従兄弟
父どうしが実の兄弟
島津家は中国人の子孫で、日本での姓を秦、または惟宗といいます。
中国では王族でしたが日本に渡来し、日本の皇室に下級貴族として仕えました。
548 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:26:27
俺は島津斉宣に凄く興味があります。影の薄い人が好きです。
549 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:43:20
島津家が秦姓なんて聞いたことないな。
551 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 00:35:11
NHK鹿児島放送局藤井アナかわいい!!
553 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 00:47:07
>552>547
おまえらバカだろ
何時から渡来人になったんだ!
>>553 人類皆アフリカからの渡来人。
地面から生えた奴がいるなら別だが、そういうのは人間ではない。
まあ、民族血統のルーツルートはあるからよw
近代は飛行機で混じりこむDNAもあるがな。
>>555 > 民族血統のルーツルートはあるからよw
当たり前だろ、君は馬鹿かね?
557 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 01:53:29
イヤダイヤダ
⊂⌒( `Д´) 中国人なんてイヤダ `ヽ_つ ⊂ノ …
ジタバタ
_, ,_
〃〃(`Д´ < <丶`∀´>だってイヤダ
⊂ (
ヽ つ ジタバタ
韓国人だろ
559 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 03:28:36
弥生人が縄文人を支配したのだ。
560 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 07:39:48
残留日本人孤児偽装して入国するなんて、中国人らしい。
561 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 10:22:18
島津忠重の母(忠義の妻)って、斉彬の娘なんですね。
という事は、現当主には斉彬の血も混じってるんですね。
何だか嬉しかったです。
交じってません。子供は後妻の子供。
563 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 13:15:21
>>551 ケータイ大喜利で、今田耕司から「アホ顔」っていわれてたよ。
564 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:13:04
チェスト!
565 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:16:09
その映画は島津関係ないだろ
567 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 18:38:36
松下奈緒kawaii!!
568 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 20:48:27
>>562 いや、忠重の母は側室。
というか成人した忠義の子供は全員側室の子供
いとこ同士で結婚だから、当時珍しくないとはいえ、
子孫は残らない方が良かったんじゃないかな。
570 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 21:26:47
聞き捨てならん。
>>569 でもさ、俺従兄弟とセックスしたことあるけどさ、普通に気持ちよかったぞ?
島津斉宣は家老樺山主税に改革を任せたが父重豪の政策否定につながり父により失脚させられた。斉宣の長男斉興が当主になり家老調所広郷に改革を続行させ、斉興の弟で今和泉島津家当主になっていた忠剛、つまり篤姫の父も調所に財政再建を頼み込んでる。
追記。ちなみに樺山主税(久美)も調所広郷(笑左衛門)も最後は自害しており、先日鹿児島の鶴嶺神社(つるがねじんしゃ)という島津家の神社のお祀りで両者の末裔が並んで座っていたのは偶然か、そうなっておるのか、興味深いことであった。 By地元民
575 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 03:46:53
>>571 定番とはいえ言わせていただく
アッー!
576 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 04:00:49
チェストって英単語?
577 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 05:41:22
>>569 忠義の弟と斉彬の四女も従兄妹同士で結婚しているがちゃんと健康な子供が生まれているよ
さらにその中の一人の島津治子は忠義の別の弟の息子と結婚していて6人子供が生まれている
ほう
579 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 09:46:19
>>576薩摩の方言です。主に示現流での掛け声、気合いを入れる時に発した。
>>579 田岡一雄・山口組三代目の自伝にも多感な青年時代、
自分自身に深い影響を与えた人物の一人として(もちろん良い面で)
チェーストのトヨって、薩摩の裂帛気合言葉の渾名の人が出てくる・・
581 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 10:58:51
何故か つのだじろうの大山倍達をモデルにした漫画「空手バカ一代」の主人公「飛鳥 拳」も頻繁に発してる。
582 :
松坂〜ハンカチ世代:2008/04/07(月) 11:10:25
1980.4.2〜81.4.1生まれ
松坂大輔、キングコング、小島よしお、藤川球児、森本稀哲、朝青龍
広末涼子、優香、眞鍋かをり、田中麗奈、小池栄子、夏川純、鳥居みゆき
1981.4.2〜82.4.1生まれ
荒川静香、滝沢秀明、柴咲コウ、安倍なつみ、佐藤江梨子、MEGUMI
ブリトニー・スピアーズ、鈴木あみ、内山理名、安達祐実
1982.4.2〜83.4.1生まれ
宇多田ヒカル、倖田來未、倉木麻衣、加藤あい、深田恭子、上原多香子
オリエンタルラジオ、近藤春菜、矢口真里、中島美嘉、北島康介、イアン・ソープ
酒鬼薔薇聖斗(少年A)
1984.4.2〜85.4.1生まれ
えなりかずき、赤西仁、速水もこみち、石川梨華、藤本美貴、hiro
若槻千夏、綾瀬はるか、木村カエラ、アヴリル・ラヴィーン、白鵬
1985.4.2〜86.4.1生まれ
上戸彩、後藤真希、亀梨和也、山下智久、ウエンツ瑛士、小池徹平
中川翔子、宮崎あおい、相武紗季、まなかな、大沢あかね、ギャル曽根、宮里藍
1986.4.2〜87.4.1生まれ
亀田興毅、ダルビッシュ、松浦亜弥、井上真央、石原さとみ、上野樹里
沢尻エリカ、リア・ディゾン、上田桃子、BoA、スザンヌ、あびる優、YUI
1987.4.2〜88.4.1生まれ
長澤まさみ、安藤美姫、辻希美、加護亜衣、木下優樹菜
1988.4.2〜89.4.1生まれ
斎藤佑樹、田中将大、亀田大毅、坂本勇人、福原愛
堀北真希、新垣結衣、戸田恵梨香
583 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 11:26:52
なんだそれ?カゴンマ出身のタレントにして下され。
584 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 13:11:48
重豪生き杉
高輪下馬将軍w
西郷と桐野もそうだったように重豪と笑左衛門も男色関係あったのたろうか。
>重豪と笑左衛門も
重豪は根っからの女好き 分かっているだけでも20人近い側室がいた
しかも70歳になっても子供を作っている
>>586の予想のような事態はなかったと思われ 残念でした
>西郷と桐野もそうだったように
をいw 見たのかよw
島津家の家紋は有名な丸に十の字ですが
原始キリスト教と島津家は何か関連性があるの?
んー、ただ笑悦とか笑左衛門と名付けたのも重豪だし若い頃から重豪が江戸に行く時も同行させられてるし男色が一般化していた当時の薩摩ではあり得るかなと。
590 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:37:09
江戸歌舞伎の見すぎや。
591 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:41:14
男色が一般化ってどこも同じだし
592 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:44:32
どうあり得るんや?
593 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:02:54
稚児のお祭とか美少年取り合いで決闘とか、何か実例挙げろよ。
594 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:13:45
祇園祭も、あれは男色になるのか?だから江戸歌舞伎の見すぎだって。
595 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:35:22
江戸初期までは祇園祭には女も参加していた
しかし江戸幕府の統制により町人にも男尊女卑が浸透し
神聖な神輿に上るのは男子に限られることになった
別に祇園祭で男同士で稚児の取り合いとかないし
596 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:50:14
>>588 キリスト教伝来より以前から島津家は使ってたので、それは間違いです。呪符をきる意味からきてるのが定説なようです。初期には丸が無くただの十字だったそうです。
>>596 秦氏=古代キリスト教ネストリウス派
秦氏の末裔⇒薩摩島津家
島津家の家紋が十字紋なのは偶然にしては出来杉…
598 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 18:56:20
肝付(肝属)氏についても語ってくだされ。
最近テレビに出ている尚五郎っていう香具師は主筋の娘に横恋慕して最低だね。
島流しにして欲しい。琉球あたりで風土病にかかって氏んでしまえ
きっと笑左衛門にカマ掘られて狂っちまったんだよ。
大河の尚五郎はともさかりえと夫婦になる。
この嫁の実家の姓が「小松」。
尚五郎は小松家の婿養子に入って
この姓を継ぐ。
602 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:32:49
603 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:42:39
ヤバッ(笑)
604 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:01:04
南朝薩摩官軍を指揮した懐良親王、「懐良」の読みはカネナガでおおとる?
実はその読みが正しい、とも聞くが
普通に「護良(もりよし)親王」・「懐良(かねよし)親王」と呼んでいる。
そうしないとワープロで変換しにくいのだよ。
あと、薩摩島津氏は、今川了俊と敵対したため一時的に南朝に属した時期を除いては、
大抵足利尊氏側であった、ということは押さえておこう。
606 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:45:43
肝付兼太(本名は兼正)とオナ五郎の親父の肝付兼善には、なんか関係あるの?
607 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 03:32:21
確かに島津氏は薩摩の在来勢力との争いに勝ち進んできて地位を築きました。加治木氏、肝付氏などとの争いなども大いに語りましょう。
608 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:56:41
ああ、わかった、大蔵氏か。
大蔵氏?
北海道から選挙に出るとかいう、小泉チルドレンか?
春休みが終わるまでの辛抱
肝付兼太さんが通字を守ってるってことは主筋に連なる家柄だとは思うが
引っ越して帝京高校卒なんだな。出生地は鹿児島のどこなんだろう。
そろそろ寿命的にヤバイと聞いたが大丈夫かね
たてかべさんは今もアニメに出てるが
612 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 15:10:39
斉宣は36で隠居してから69で亡くなるまで1回も鹿児島に帰れなかったなんてカワイソ過ぎ(´Д⊂グスン
江戸の暮らしのほうが楽しいんじゃない?
もともと江戸生まれでしょ
>>612-613 本人は帰りたがってたようね。
異母姉の広大院に妨害されて無理だったが。
帰りたかった理由は財政的な事情が大きかったようだが
犬猿の仲の広大院や父・重豪と同じ土地の空気吸いたくなかったというのもあったかも。
なるほど。肩身の狭い思いしてるより国もとでのんびり過ごした方がいいわな
久光公もそうだったが、島津の殿様は鹿児島に住みたがりますね。
今の当主もそうだし、その一人息子で次期33代当主も鹿児島生まれで鶴丸高校から東大落ちて慶応経済行ったとか。毛利や前田なんか今や東京だから島津は特殊。
今日当代さんが書いたミラクルを立ち読みした。
日本語おかしいな。
当代さんが西南の役百三十年に書いて出版した薩摩の奇跡を、今日立ち読みした。
山内も高知にいるんじゃなかったか。
井伊や佐竹も一族が市長やったりしてたが、本家はどうなってるのかね?
毛利は隠居すると山口に帰るんじゃないの?
毛利の当主は山口県(何市までは不肖にして存ぜず)在住
佐竹の分家(北家か?)は現秋田市長 佐竹の本家がどうなったかが分からない・・・
4大前?の彦根市長は井伊本家当主の故・直愛氏
現井伊本家当主はその直愛氏の孫娘の婿で彦根市教育委員会勤務、当然彦根在住
>>617 そうかぁ、東大滑ったのね、忠裕さん・・・
徳川将軍家の次期当主家広さんも東大落ちて慶応経済。
いずれにしろ鹿児島は旧藩主一族や西郷家や旧家老家の末裔が県内の経済・文化活動に関わっているのが不思議と言うか独特と言うか。
前鹿児島県医師会長は鮫島耕一郎氏。
現在の鮫島宗家当主の正宗氏は金峰町の教育委員会理事やってるとか。
地元の古い家柄の名士とか挙げたらキリないんでないかい。
>>625 ひとつの名誉職だろうよ。
徳川氏ほか大きな藩の全国の殿様達の子孫達なんかも
何らかの名誉職(名目上?)なんかに付いてたはずだよ。
チェスト!ってもう映画上映されてんの?
>>625-827 鹿児島県の場合は県外からの流入者が少ないので、よりその傾向が際だって見えるのかも。
苗字を見れば先祖が何していた人かまで推測できる県は鹿児島県以外ではそう多くはないはず。
630 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:47:43
日新公が亡くなったのは永禄十一年戌辰二月十三日らしい…
631 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:49:50
間違えた、十二月十三日だ。
632 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:53:02
633 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:54:44
高取町長は、高取藩主植村家の子孫が今やっている
634 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:59:23
んでや、その前の戌辰はな、永正五年戌辰日新公十七歳、太守島津忠昌憤死、弟忠治継ぐ、とあるぞ。
>>633 サルサダンスの武永実花タンも高取植村家の子孫なのだお。
小柄だけどお尻がプリッと後ろに突き出ていて可愛いんだ、これが!(;´Д`)ハァハァ
二階堂氏の子孫とか今なにやってんの
尚古集成館行ってみたいですぅ
>>636 進の子供は政治家の跡継がなかったよね確か
進の師匠の角栄の娘のあの惨状見ると正しい選択だったと思われ
ハ,,ハ
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聖教新聞・ザビー・ゼクター・ブロント・コスモクリーナー・フラゲしたファミ通・単一宇宙全能能力・ヨミ
ショルダー式携帯電話・焼きそばパン・ 触手・テレビ石・ユグドラユニオン・ヾ(゚゚ω゚゚ω゚゚)ノ゙ ・一浩二・ 暴走庵
スプー・ふしぎ星の☆ふたご姫・バカ・こいつの持ち物7+8並に少なくね?・スマブラX・例のアレ・シレン・ゴリラ
ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話エダのガム・ダッチのグラサン・外付けSCSI340MHDD
ネットランナー4月号TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・張さんの22LRバーボン・セガサターン
ベニーの秘蔵ファイル・バイブ・■e・リサ ステッグマイヤー・姉御の化粧10kg・ 桜蘭高校ホスト部・鳥肌実・末期少女手鏡
毬藻・死兆星・ソードカトラス・ジャギ様の仮面 南海8200系・ロベルタの若様・クリムゾン・苺柄のコップ・801穴
米製12.7cm38口径両用砲・ハルヒ・トーラスPT92・空鍋・月厨・カンフーファイタードラゴン藤浪(ツンデレver)
イーゼルボンバー・山田オルタ・麻枝・DDO・C鯖・ナカノ5+ニゼルsh→シャワフリ・胸パッド・日本酒・眉毛・包皮
オーストリー・北村ひとみ・辻野・幹事・デイジーコラージュ・草なぎ剛・バリカン・YAMAHAシネマステーション
GEOBIT・孫策・NIKON羊羹・風子・あっぴ・絆創膏・Exmor・ActiveSync・DCIM・怒留湯融泉軍団
640 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 03:33:30
東郷重位大先達。チェスト!
大山倍達
東郷先達
642 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 11:17:49
グレーシー柔術の祖、前田光世に柔術を伝授したのは東郷玄舟。貴様は士族の子であろう!が口癖だった。
643 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 21:21:03
| |∧∧
| | \
|_|丶`∀´>
|鮮|⊂ ノ
| ̄|(_)
""""""""""
644 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:14:48
>>636 島津忠久公が薩摩に居を定めた鎌倉時代に
大勢の鎌倉家臣団と一緒に来鹿した時の一人。二階堂氏は・・
で時代が下って義久公の時に、大隅・高山の領地を与えられ
高山に移り住んで、約350年後に二階堂進が政界に躍り出ると・・
二階堂の名字は九州でも、中々珍しいから
大分麦焼酎の二階堂も、大友繋がりで何か関係あるかも知れないね。
調所広郷の子分の二階堂志津摩の子孫が進すか?
647 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 01:22:44
二階堂進は昭和56年に幹事長就任してるね。
648 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 03:28:36
藤原南家工藤氏族、那賀川、二階堂氏と島津氏との関係がもう一つ分からないなぁ。
649 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 05:20:30
香淳皇太后が不細工だったせいで天皇家が不細工になった。どうしてくれる!!
昔は氷高皇女とか元正たんとか美少女だらけだったんだぞ!
そもそも始祖の天照たんやサクヤたんは美女だった
それなのに島津のせいであのような醜い顔が国の象徴に・・・('A`)
>>649 つ 香淳皇后の父方・久邇宮家はブスの家系
って、皇后と皇太后と区別つかん香具師に言っても無駄かw
もしかして半島民?
651 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 13:39:32
薩人、寺田屋二階に集合。
>>651 何を企んでるんだ?テロルか?
サツマは野蛮だな。
長野聖火リレー反対テロだな。薩人は殺人に通じる。
応援テロのまちがいだろ。
おまえら、早とちりしすぎw
655 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 15:12:43
じゃあ、こう言おう、薩人二階に集合。
二階堂か。
まぁオマエ達じゃあ、足元にも及ばない訳だが(笑)
悪事では薩摩に負けるな。
659 :
↑:2008/04/14(月) 21:51:27
善事で勝って見れば?無理だろうけど
660 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 21:55:54
>>653 いっそのことオリンピック開催期の北京に行ってもらって破壊工作を(ry
「鬼石漫子」の名を聞けばきゃつらは震え上がって何もできまいw
>>660 ぶっちゃけ「鬼石漫子」なんてものを知ってる中国人はいない。
そんなもんでホルホルしてる日本鬼子は滑稽。
662 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 22:08:13
ちゃんころは無学だからな
663 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 22:35:27
暗号「西蔵」を解読できない中国か?
664 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 22:57:10
鬼石 まん子 と申します(´・ω・`)
665 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:52:22
薩摩の西は…
666 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:16:44
奈良原繁や西郷従道が、加世田日新寺から祭火を鹿児島南林寺まで持ち帰った話に感動したんだが。
西郷吉之助と大久保も日新寺詣でしたらしいね
以前に竹田神社にある島津尚久の墓参りもしたことある。
官位追贈された忠良と比べると随分と小ぢんまりとしてた。隣に殉死者の墓もあったよ。
貴久もちょっと早く亡くなり過ぎのような気もするけど
忠良より先に亡くなった忠将と尚久にはもっと長生きして活躍してもらいたかったね。
尚久の死は忠将がらみという話があるんだ罠
但しソースは『加世田市史』
どういうこと?
尚久の死は忠正の祟りってこと?
>>669 『加世田市史』によると
忠将が戦死した廻山の戦いで
あまりに急激な総崩れになったために尚久は這々の体で脱出した
しかし、日新公は生きて帰ってきた尚久に対して
「そこで兄を助けようと命を省みず突撃してこそ武将ではないか!」
と禿敷く立腹し、並み居る家臣の前で尚久を責め立てた。
尚久はこれにショックを受け、重病となり回復せず死去。
但し『加世田市史』はこの話をどこから採取したのか出典をあげていない。
乙。民間伝承なのかな。
>>670 なるほど。
尚久という男は臆病で小心者だったということか。
>>672 ちとググってみたら面白そうなのが引っ掛かったんで読んでみたが
下記の尚久のエピソードからすると印象としては豪胆な武将だと思うよ
じゃないと鹿籠の領主は任せられんだろうしな
ttp://tabetabe.hp.infoseek.co.jp/kasasakikou2-4.htm 刃渡り五尺の太刀って柄含めたら2m近いモン振り回したってことだよね
どんだけ図体でかかったんだか
加世田市史のは出典が不明で文体が物語調と聞く。
日新菩薩記もそう。どちらも日新公を褒め称えるもので脚色が過ぎるそうだ。
尚久は何にしろ若死にしたせいで記録が少ないのが寂しいのう
674 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 12:43:18
テレビドラマで島津斉彬は、篤姫を幕府に嫁がせ、日本を変えてやると言っていた。
史実でも斉彬がそんな考えだったのかどうかはわからないが、一応この考えに従ってみる。
そして、日本史上における篤姫の功績はなんだったろうか?と、考えてみた。
思いつく点はひとつだけある。
最後の将軍、徳川慶喜の助命嘆願書を、国元に書き送ったこと。
もしかしたらこれで国内戦争が避けられたかもしれない。
他に篤姫の功績は、何かあるだろうか?
知っている人がいたら教えてほしい。
675 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 13:54:15
篤姫の功績…島津家を将軍家の岳父にしたこと。
>>675 篤姫の前に茂姫、のちの広大院が居るね。
島津重豪の三女で徳川家斉将軍家に嫁いだ。
島津家の人が書かせた本に、修正液塗りやがった奴、誰だよー(笑)、許せん、俺が書いといてやる。
>>677 ふつーに器物損壊罪だな
どこの図書館のどの本?
追記
それと、
>>677が修正書き込みするとあなたも同罪になる
図書館に逝って「こういう風になってて読めませんでしたよ」とクレームつけとくのが吉
・・・既に手遅れだったりしてw
やってもうた……。
やってもうた……。
ぷるぷるぷる。
ぷるぷるぷる。
(ノ∀`)アチャー
682 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 22:28:24
683 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 00:04:44
♪雨雨降れ降れ〜もっと降れ〜
684 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 05:48:40
斉彬の子供は何でみんな早死にしたの?
おゆらのクソアマに毒殺されたんじゃ
686 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 07:43:09
島津雨
島津氏の始祖・島津忠久誕生から少なからず逸話があったような・・
>>686 あれか?農民の妻が雨にあたって腹こわして住吉神社の境内でウンコしようとしたら
バチが当たってウンコの代わりに野蛮な赤ん坊が出てきてしまったという・・・。
>>687 朝早くにこのスレを見て一生懸命ネタを考えたんだね
・・・
会 津 か ら 乙
朝早くというか、むしろ平日10時前に乙というか
690 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 06:36:57
(´-`).。oO(ネタ元になってる逸話も十分「一生懸命考えた」ものだと思うんだがなぁ)
691 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:36:25
映画、チェスト!は面白いのか?
>>688 なんでもかんでも会津にするのは早計ですよ。
此処は、2ちゃんねるでつから。
色んな人が湧きますからね
ノスタルジーおやじには良い映画。
島津家は現在、当主を囲んでの旧家臣の末裔達の集まりとか行事とかあるんですか?
島津家別邸の名勝仙巌園で、毎年開かれる曲水の宴には
島津家と関わりのある徳川家はじめ松平家、各藩の大名家、高位の公家の
現当主たちが曲水の宴に招かれて、厳かに執り行われていますよ。
,..-―- 、
/ ヽ
{ } おいらをどこかのスレに送って!
ヽ ● ● /
'、_ ▲ ,ノ__ お別れの時にはお土産を持たせてね!
/|i '=' i/\
/| ̄ ̄ ̄|.\/
| |/
 ̄ ̄ ̄
現在の所持品:藤原北家・蝦夷共和国
島津家中心でなくとも旧士族の連中とか東京やらで会合やったりしてるしな
そこらへん縁のある人のホムペとかで割りと簡単に画像とか見れる
春夏秋と尚古集成館横の鶴嶺神社(つるがねじんしゃ)で島津本家中心になんかやってます。
699 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:43:51
冬もやってる。1月31日。あとは3月1日、7月18日、11月1日。出席は具体的にはどの家か誰かは知らん。
700 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 14:41:57
どなたか方限(郷中)の境界が書かれた地図を御存じないでしょうか?
下加治屋町郷中の地図はよく見るんですが、
その他の郷中は見たことが有りません。
宜しく御願い申し上げますm(__)m
島津は東北あたりとなんか関係あったっけ?
上杉氏家臣の島津なら信州から流れ流れて上杉氏に付き米沢まで流れたの
島津家初代忠久の次男だかの流れだっけ?
704 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 08:44:57
NHKの島津有理子アナはどこの島津なん?
705 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 12:51:59
鶴嶺神社のお祀りは観光客も参加できるのですか?
706 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 20:57:47
江戸期に薩摩藩家老職の家について教えていただけませんか。御一門と平田家辺りしか知らないもので
707 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:00:25
709 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 22:00:17
家老は島津の一族のみが基本。苗字が島津でなくても新納(にいろ)、川上、樺山、山田、伊勢など全て島津分家。種子島や秩父や肝属や菱刈も島津の血が入ってから家老になってる。例外は調所広郷だが嫡子・嫡孫は室が島津分家女子であり、島津は血の支配が常道。
>>710 >種子島
>島津の血が入ってから家老
種子島氏出身の初めての家老は種子島忠時だと思うが
この人の母親は非島津氏だよ 正室は藩主島津家久の娘だけど。
>伊勢
は島津氏分家ではないよ。
但し江戸初期の名家老として実質的に薩摩藩の支配者だった伊勢貞昌の嫡子が夭折し
他には女子しかいなかったため、藩主島津家久の庶子が養子に入って血統は乗っ取られている。
>秩父
島津氏の血が入ったことありましたっけ
ここは旧姓「伊地知」ですな
712 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 02:55:29
秩父くずれの家老秩父季保は実父伊地知作四郎が島津分家の川上家からの養子だから島津の血入ってるかな。伊勢家は島津分家扱いになって家紋も丸十を変形させたやつにしたのは家久の子供が養子に入ってからですね。
713 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 19:53:24
秩父くずれでは家老の樺山主税・秩父季保が自害したが高崎くずれ(お由良騒動)では家老・調所広郷が自害。近思録的倹約路線が島津重豪の逆鱗に触れて自害に追い込まれるのを見た調所は別路線で行ったが結局自害。島津家の家老は詰め腹要因ということか。
いや、しまった。調所はお由良騒動の起こる一年前に自害だった。しかし騒動の環境作りには関係してるからまぁいいか。
716 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:43:13
幕末時点で島津一門とされ家紋も変形十字紋なのは、三崎、町田、桂、花岡、北郷、佐多、山岡、新納、亀山、永吉、山田、鎌田、入来院、伊集院、平田、川上、佐司、村橋、伊勢、樺山、喜入、義岡、郷原、あたりです。多いねぇ。のち北郷と佐多嫡流は島津になったけど。
まあ島津はずっと支配してたからね。
関東も中世以前は国人領主層はみんな守護の分家だらけだ。
取り合えず改行なんとかならんのか
携帯から書き込みしてんの?
719 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 10:42:45
>>718 お前も携帯から読めばいいだろうが。そんなことも分からないのか?
ひょっとしてそれはギャグで言ってるのか(AA略
721 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 16:23:38
>>710 島津分家の娘が家老になるような家へ嫁いでいるのか?
それなら肝属尚五郎も今泉島津家の娘を嫁にできる可能性もあったということ?
722 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 17:00:40
薩陽武鑑見ると家老の息子の嫁に島津分家から嫁来てるな。ただ尚五郎はあの時点じゃ家老になれるコースにいなかったから無理だろ。小松家に養子に行って幕末という特殊事情もあって家老になれたのでは?
島津氏以外の他大名家でもそうだと思うが
分家の中にも松竹梅のランク分けがあるからね
今和泉島津家は「御一門」(藩主に跡継ぎがいないときには後継者をここから出す)分家だから「松」ランク
家老家に嫁げるといっても家格や領地高などそれなりに制限はかかってくると言うことで
>佐多、山岡、新納、亀山、永吉
∩___∩ /)
| ノ ヽ ( i )))
/ ● ● | / /
| ( _●_) |ノ / 実はこれが本当の本家
彡、 |∪| ,/
/__ ヽノ /´
(___) /
726 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 17:25:28
>>722 斉彬公は「小松家は恒武天皇の流れで島津家において家老にもなりうる
家柄」といわれてませんでしたか?
,-ー─‐‐-、
,! || |
!‐-------‐
.|:::i ./ ̄ ̄ヽi
,|:::i | (,,゚д゚)||
|::::(ノ 中濃 ||)
|::::i |..ソ ー ス||
\i `-----'/
 ̄U"U ̄
>>726 それドラマん中の話じゃね?
つーか小松レベルの「桓武天皇の子孫」がそんなたいしたもんだとは思えんね。
まあ一所持クラスならば島津分家でなくても家老にはなれたと思うが。
729 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 19:56:53
菱刈家は?
730 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 20:03:15
肝付家は喜入領主で御一門四家に次ぐ一所持の家格だぞ。
小松家も吉利領主だ。
菱刈家も一所持で家老になった隆徴の室は山岡家から。上級武士はみんな親戚だよ。明治大正になっても公家や他大名家と姻戚結んだ島津本家以外はたいてい薩摩士族同士の結婚ばかりだし。
・・・つか、明治維新以後は流れにのれんかった藩士は没落したんじゃないかな
特に
>>716が挙げたほとんどが没落士族入り。
代々家老職に就いていたような上級藩士ほど意識の切り替えが難しかったようだ。
留学組で流れに乗ったと思われた村橋久成も
突如失踪し最後は神戸市でホームレスとなったところを発見されその3日後に没
ホームレスてもうすこし言い方は・・・
乞食とか物乞いよりはマシだろ
>>732 村橋久成は言わば、日本におけるビール産業の生みの親なのにね。
736 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 11:11:27
留学組はたいがい高級官僚になっているのに、多分五稜郭での出来事がトラウマになってるのかも…
グモか
738 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 11:47:18
そもそも肝属って外様じゃねーの?
戦国期まではもろに対立関係じゃん
そんなでも家中筆頭クラスになれるんですか?
あれか、大企業に持参金感覚で自分の会社吸収合併させて
自分は社長から合併先に企業の重役の籍を得る中小企業の社長みたいな感覚か
篠原重工に身売りした井垣みたいなものか
肝五郎の実家は肝付の分家
早くから島津忠良・貴久親子に味方し、忠良の娘を正室に迎えた(後に事情不明ながら離婚したが)
この分家は以後も血縁・職縁wともに島津本家との結束を深めて喜入一所持となり
没落した肝付本家より上位になった。
肝属本家は大隅国で反島津の立場だったけど庶流が島津家中となってて藩政期にはこちらがあくまでも薩摩藩士としての本家でして元々の嫡流と藩士としての本家が違うのはザラにあります。明治維新後爵位をもらった家もたいてい庶流で華族としての本家はまた別です。
俳優・榎本孝明は菱刈士族の出?
小松のおちかさんって、見た感じ40過ぎの逝かず後家って感じだけど、
直五郎はそんなのと結婚させられて嫌じゃなかったんだろうか?
原口先生も忙し過ぎて、どこかで見たんだがソース忘れた。というとこだろ。
>>716 新城島津家の末川家は?
ちなみに桂家の当主は関が原の戦いで、義弘公の殿を務めたはず。
法学者の末川博は末裔かな?終戦時の内閣書記官長迫水久常も島津分家だった。
末川博博士は出身地が全く非島津氏関連地なので違うと思われ
迫水久常は確かに島津分家出身だが、迫水氏は藩政時代はふるわなかったね
意外に分からんぞ。末川博氏は山口出身だが薩摩から切子職人で山口行ってる家系あったり、富山に調所が構築した薬問屋薩摩組関係の薩摩藩士の末裔いたりするから。
749 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:50:06
国生さゆりも薩摩なんですね。
>>749さん
秘密の県民ショーを見てましたね
でも国生さゆりが鹿児島出身というのは結構有名な話だと思ったんだがなぁ
かつて長渕剛とよからぬ噂が出たのも鹿児島つながりで縁があったから。
地元枠と言うことで『翔ぶが如く』にも出演。
それにしても家老を出せる家というのは限りがある(調所とか秩父は超例外中の例外だったらしい)のは分かったが
石高にばらつきが多いな。
wikiでみたところによると数百石程度と言うところから、上は○千石一所持とか。
751 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 23:37:05
>>750 噂とういか、国生さゆりが長渕剛と一時、付き合ってたってTVで言ってた。
国生家は元々神職の家。調所家も元々は藤原氏北家の藤原恒親なる人物が初代で、神職として大隅に赴任。調所職(ちょうそしき)という徴税職を兼ねたので調所を姓とした。以上は原口先生のお父様・原口虎雄氏や芳先生も書いてる。
753 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 04:21:55
チェスト!でごわす。
754 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 04:28:24
>>746 迫水氏って島津分家ですか、ちょっと驚きました。
薩摩嶋津藩こそ誉れ高き九州王朝の子孫。
いずれ九州王朝復活のために立ち上がると思う。
ニニギの尊の墓までありますものね(笑)。これもちょっと驚きましたが。
757 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 04:53:40
>>746 いやまじで知らんかった。岡田啓介や鈴木貫太郎を調べると必ず登場してくる人物だから、迫水久常氏は。びっくりじゃ。薩摩は人材の宝庫じゃのう。
758 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 05:03:25
759 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 16:49:32
迫水氏は島津忠国の息子・忠経が初代です。
746ですが迫水氏はどこかで祖父母だかに島津の血が入ってる誇りを持って生きるべし、と言われたと書いてましたね。あと別件で疑問がありまして、御小姓組出身で家老になったのは調所だけなのですが、まぁ有能だったのは確かでしょうが、他に理由は無かったのかなと。
また家老・調所広郷の前例があったからこそ、同じ御小姓組の西郷や大久保も斉彬が抵抗無く側近として使える。といった時代的雰囲気を作り出す追い風になったような気もするんです。
なんであんたいっつも携帯からなの
連休中パソコン無しで移動してまして。
樺山主税の子孫はどうなったのですか?
>>764 明治維新で領地も失い没落したけど、ご子孫は同所にて健在・・・のはず(『祁答院町史』)
主税は樺山家21代だが直系子孫27代までは町役場にお勤めで同地にお住まいであった。28代久孝氏は鹿児島市内で不動産業を営まれている。
樺山家は女系だけど島津中務大輔家久の直系子孫でもある
永吉島津家は家久の末裔とされているが血縁関係全くなし
女系でも直系って言えるんか?
少なくとも苗字と血がそろってないと直系とは言えんだろ。家久の血が入ってても苗字が樺山だから、あくまでも島津分家の樺山家の直系ってことじゃね。
どーゆー基準で分家でも苗字が島津のままだったり変わったりするのですかね?
携帯厨が居座ってから鬱陶しいスレ
うむ。豊州家とか薩州家のような島津のままの家と、
新納や樺山のような苗字を変えた家の違いがよー分からん。
苗字を別に定めない場合
1.自らが実は本家、という主張がある場合・・・薩州家・都城島津家
2.宗家から与えられた領地に行かず、鹿児島市在住を選んだ場合
といっても、鹿児島市在住でも花岡家とか、別に苗字を定めた近親の方はいらっしゃいます。
>>772 古い分家は苗字を変える
新しい分家は島津のまま
だいたい納得致しもした。ありがとうございます。
家格を高めるたり維持したりするために一部の家では、本家の当主とその家族以外は
別の家名を名乗らせるという習慣・制度があったという話を聞いたことがある。
例としては、足利・今川・大内・大友など。
家康が松平から徳川に改名したのも同じ発想から出ているものと思うわれる。
こういう観点から考えれば、島津と名乗り続ける分家>改名した分家という序列に従ったもの
だと考えていいんじゃないだろうか。
島津姓じゃない分家
伊集院、樺山、新納 etc
最初から島津姓の分家
御一門(加治木、垂水、重富、今和泉)、薩州家、豊州家、日置家、宮之城家、新城家、花岡家 etc
非島津姓→島津姓に戻る
北郷本家(都城島津家)、佐多(知覧島津家)
鎌倉〜室町前半:改姓
室町後半〜江戸:島津姓のまま/島津姓に改姓
佐多って姓の知り合いは高校のときに何人かいたなー
知覧と坊津の子だった
知覧島津家(元佐多本家)の分家の皆様かしらね
知覧の武家屋敷は結構な観光名所だが、「佐多」さんの持ち物になっている屋敷が多いみたい。
ちゅか地方の武家屋敷跡って皆の地元にも結構残ってるやろ
まあ家構えとか今は現代風で何てことはないが区画で判り易いよな
782 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 06:08:44
歩兵第45連隊は薩摩藩のように強かったのでしょうか?
昨夜の篤姫と以前、原口先生が話されていたことで質問。小松帯刀がハゼの実からハゼ蝋作らせたのは少年時代に調所広郷に会った時、調所に殖産興業の話を聞いたのがきっかけだと。家老が肝付家とはいえ、少年に会うといったことはあるのだろうか?
784 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:16:10
誤解しないでよ。対立煽ろうとしてる某氏の自作自演なんだから。
786 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:26:27
二十年位昔に沈寿官と司馬遼太郎が地元で小さな対談をした時の話。少年時代の小松に調所がハゼ蝋を含め殖産興業の話をした。後に指宿の地頭になった小松がハゼ蝋を作るためにハゼの木をたくさん植えさせハゼ奉行と呼ばれる程だったと。
ハゼ男はスレ違い
よそでやれ
小松の生母は島津だったはずだが、どこのだったかな。
790 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 16:51:02
有り難うございました。以前黎明館に小松帯刀所用の刀箱が出てて、小松家の家紋と丸十が付いてましたのも納得です。
じゃあ直五郎が部屋済じゃなければ今泉の娘を嫁にもらってもおかしくなかったわけね。
自作自演乙
IDの出ない板で自作自演認定ですかw
確かに。小松帯刀にからんで自演の必要あるとは思えん。
しかも小松帯刀直系の子孫はしっかり尚五郎の形質を受け継いで病弱で早々に断絶
今の小松家は西郷丼の弟の子孫 恐ろしいことに通字も西郷弟家の通字「従」になってしまっている
尚五郎の血縁を探すと娘の婚家である脇坂子爵家(元竜野藩主)になるな
よく新聞に出てくる「小松帯刀の子孫で酒造メーカー大関重役」というのはこの系統
そんなに新聞に出てくるのか…
まあ今年だけの一時的ブームだと思いますが
798 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 22:18:44
西郷家の他家乗っとり率は異常
乗っ取りブーム
血統と名字そろってないと子孫ていう感じしないなぁ。
女系は別でやれ
>>795 >西郷丼
鹿児島に行ったら食堂のメニューにありそうだな(w
写真で見る限り、洒落た雰囲気だな店内
805 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:18:46
近衛忠房夫人も、島津家の娘だっけ?
九州で一番、全国に遺伝子撒き散らしてる一族なのは間違いない。
807 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:42:44
実は斉彬は重豪の子なんじゃないか?
だから斉興は「叔父子」の斉彬を嫌って、我が子の久光に継がせたいと考えていたとか。
重豪には斉彬より年下の黒田長溥という実子がいるからありえない話ではない。
>>807 あなた
平安貴族スレからの流れ者ですな
島津家の主たる家老家で男系で残ってるのは樺山家と調所家だけというのが奇遇だ。平田靫負も小松帯刀も女系しか残ってない。
主たるというのは家格じゃなく広辞苑とか鹿児島県史に出てるという意味でだけど。
鹿児島藩 主たる家老家
・宮之城島津家
初代は島津貴久の異母弟・尚久、息子の忠長が家老となり、以後歴代家老に任じられる
但し5代目以降は本家から婿養子はいること多し 幕末の悲劇の当主・島津久治は久光の息子でここの婿養子
・日置島津家
初代は島津義久・義弘の同母弟の歳久。曾孫の久慶が家久(忠恒)の婿となり家老となる。しかし次の光久の代に
謎の失脚。その後は本家からの押しつけ養子で血統は断絶。でも家老に任じられた人物多数。
・伊勢家
島津久保→忠恒の小姓上がりから抜擢された伊勢貞昌が家老に取り立てられる。知恵伊豆や堀田正盛ら
家光の老中とも直に連絡を取り合い、孫娘を2代藩主・光久の正室にする(この当時では家格からみて不釣り合いで
異常だと、あの細川忠興も手紙で指摘している)。実質的な鹿児島藩初期の支配者。
但し貞昌の息子が夭折したため家久(忠恒)の庶子が養子に入っており血統は断絶。
また、不思議なことにその後はほとんど家老を輩出していない。
・山田家
島津義久の元で家老と務めた山田有信と出水兵児の生みの親・山田昌厳と2代に渡って家老を務めるもその後
子孫は家老になれず。何故?
・三原家
歴代当主が家老を務めた物の、三原重庸が先述・日置島津久慶と大喧嘩して失脚。以後零落。
・平田家
歴代家老を務めた物の、本家は島津忠恒(家久)の罠にはまって射殺され断絶。宝暦治水で有名な方は分家。
非島津氏系の家老は悲惨な目にあって断絶したところが多いような気が・・・日置島津家の例もあるから気のせいかな。
頴娃とか新納とか、功臣の子孫でも数百石程度の家禄しかないのが結構いるね。
頴娃は文禄検地の時に大きな落ち度が見あたらないにも関わらず一気に領地を減らされ
改易同然とも言われているね。
嘘か真かはともかく、先代・久虎の時にはその領地は3万石相当とも5万石ともいわれていた
ところから数百石に落とされたんだから、確かに改易されたも同然、内情は苦しかったろう。
新納は謎だ。あの新納忠元の子孫ですら数百石取り…。
814 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:29:01
新納と北郷どうして差がついたのか
慢心・環境の違い
何そのどこかで見たコピペw
北郷は本家が残った上、庄内の乱で伊集院忠棟一家を排斥するのに尽力した功績が大きいと思われ。
ただ、あまりにも大きな私領地を持ったために、以後は本宗家から嫌がらせの連続だったのは
垂水島津家+新城島津家に通じる物がある。最後は本宗家から養子を押しつけられ初代からの血統断絶
一方、新納の本家は島津本宗家の内紛の時に忠良・貴久親子に味方したのがかえって徒となり
周囲の薩州家側についた他の島津分家からフルボッコにあい事実上の滅亡。
本宗家家督争いは忠良・貴久側が勝利したにも関わらず、何故かまともに再興してもらえず。
江戸時代に家老になった忠元の子孫たちは、新納家の家格による物と言うよりは
忠良の母親の縁による引き立てだからなぁ・・・
島津ってケチだよな。功績があっても家来に領地を与えない。
が、奪うときは容赦なく奪う。
だから大身の家来はもともと持ってた人で領地を没収されなかった人。
肝付分家とか種子島とか北郷とか・・・。
功績があっても持ってなかった新納とか川上とかはびっくりするほど少なかったりする。
77万石つっても元々の実質石高が半分以下だからじゃね
石高高いやつは3万石とかあるんだけど
というか支藩もたてさせないし
石高高い家にはガンガン養子送り込んで乗っ取るし
>>711 種子島家は元々は平清盛からの家系で、壇之浦の戦い以後、
平信基が薩摩に逃れ、後年になり鎌倉幕府の北条時政の養子に入り
大隅諸島12島を統治する、領主の座を与えられたらしい。
新納忠元の家系はもともと新納氏の傍流だったはず。
豊後攻めの頃には、かなりの軍勢を率いていたようだが、それも
自分の家来ではなく与子だったはず。
821 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 22:50:22
傍流でも寄子入れて数千の兵を率いていたわけだから、それなりの身代だったんじゃないかな?
当時は。
822 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:39:08
本流が二百年以上続く家系はない。必ず途中で傍流が本家乗っ取って本家になったり、本家が断絶して傍流が栄えて、本家扱いになったり。
>>822の理論に乗っ取ると
徳川将軍家は本家は7代で断絶、吉宗が紀州徳川家からはいって将軍になったから
紀州徳川家が今の徳川本宗家ということになるのだろうか
将軍家と僻地の土人の親玉の家を一緒にすんなっての
新納本家 350石
新納伊佐家 150石
新納川辺家 240石
伊佐が忠元の家、川辺が旅庵の家
>>824 土人を支配したから、大和民族は発展したんだろが、ボンクラ。
827 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:19:11
>>826 倭人=大和民族=土人
倭土人は文化を知らず、天皇を頂点とする韓人によって啓蒙・発展したわけだが。
倭土人は(韓人に)支配されたから、大和民族は発展したんだろが、ボンクラ。
>>823 まぁ紀州家は血縁薄くなったの心配して御三卿創設したわけだしな
>>809 樺山家も私が知っている限りでは2回女系でつないでます。
調所家も本来の本家の男系は断絶、明治になってから調所広郷の息子が養子になって再興だっけ?
(調所家は詳しくないので記憶が曖昧)
ちなみにこの広郷息子の功績で調所本家は男爵を授与されてます。
樺山家は主税以降現在の久孝氏までは男系。調所家は広郷自身が分家だからややこしいが大隅の神職である本家は女系。島津家中の武家としての本家は広郷の庶子が養子に入り現在まで男系。広郷の嫡流は島津分家が室として入り、ここも現在まで男系。桐野作人氏が詳しい。
>>830 樺山家は江戸時代初頭に一度男系がたえ、島津中務大輔家久の孫(樺山善久の曾孫)をいれてます。
『鹿児島県史料 諸家系譜3』に明記されていますのでご参照下さい。
また島津重豪のころ、男子がいなかったため今度は新納家(どの系統かが判明しないが)から婿養子を入れています。
但し、この婿養子は事情不明ながら離縁され、婿養子と娘の間に生まれた男子が跡を嗣いでいます。
これが秩父崩れで自害させられた樺山主税。
>桐野作人氏
どちらの本をご参照されましたか。
調所家はご友人がいらっしゃるとブログで書いてられましたので間違いはないでしょうが
樺山家に関してそう書いてられるなら、おそらく勘違いされてられます。
832 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 17:44:06
おっと情報を広く求めるためageとこう
↑説明不足ですいません。樺山主税以降、主税のY染色体という意味で男系という言葉を使いました。調所家は本家が「ちょうしょ」、広郷家と神職家が「ずしょ」と読むそうです。
それにしても島津家の二大騒動である秩父くずれと高崎くずれに絡む二人の家老が男系・直系で残っているのは興味深い。
835 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 22:48:27
他家や分家から一切養子を取らずに存続できた大名家も珍しい。
島津以外では浅野や鍋島ぐらいか?
日置部の子孫、吉村氏も気になるところ。
エジプト考古学者吉村作治氏。
日置部にあまりにもふさわしいので驚いた。
837 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 23:03:38
斉彬は異母弟久光の長男忠義を養子・後継ぎとした。ちなみに調所も広郷の長男笑太郎が四十歳だかで亡くなり、笑太郎の弟・安之進(数馬)が笑太郎の長男・左平太(広智)を後継ぎとし男系を現在まで続けている。以上、芳先生の論文から。
鹿児島市の仙巌園で18日夜、「薪能」があった。
同園の築庭350年記念事業で、満席の約1000人が鑑賞。古典芸能の幽玄な世界を堪能した。
旧薩摩藩主島津家とかかわりの深い金春(こんぱる)流の能楽師らが出演。
御殿前に設けられた檜(ひのき)舞台で、同流80世宗家の金春安明さんが
天下泰平や国土安穏を祈願する曲「翁(おきな)」を披露。
伊勢物語を題材に得た「杜若(かきつばた)」、大蔵流山本東次郎家の狂言「末広(すえひろがり)」仕舞も上演された。
薪の炎が揺れる幻想的な舞台に観衆は魅せられ、太鼓や笛の音色が響き渡る中、優雅な舞に見とれる姿が目立った。
http://captain.jikkyo.org/cat/s/cat1211292993551.jpg 闇の広がる庭園の舞台で、優雅な舞が披露される薪能=鹿児島市吉野町の仙巌園
ソース 南日本新聞
>>805 加治木島津家の娘から斉彬の養女になった貞姫ね
(篤姫と義姉妹)
徳川泰子は庶子ではなくこの人が産んだらすい
840 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:01:37
841 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:11:16
しかし常子妃はなぜ晩婚になったのだろう・・・
他の姉妹も晩婚気味ならともかく妹の貞子は常子妃結婚の時点でもう5人ぐらい産んでいる
>>841 それは以前婚約者に次々と先立たれた為ではないかと語られていた
もしくは病気を患っていて遅れたのかも?とも思う
山階宮家にはすでに先妻の子供3人いたので
健康に不安があって子が望めないとしても大丈夫な嫁ぎ先だったわけで
>>842 結局常子の晩婚については、当人が語った話しも公開の形では伝えられておらず周囲の人の話も見あたらないので、
推測に頼るしかないんだな。あの時代にはかなり異常事態なので事の真相は気にはなるが。
>>843 そーなんだよ〜
ところで俔子さんが書いた和歌懐紙がヤフオクに出てるよ
昔の人は字が綺麗だ
845 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 22:15:58
結局常子はあんなに短い結婚生活で3人の子供(それも全員男子)を産んでいる
ところで常子の息子の葛城伯夫人は常子の姉充子と先夫との間の孫の細川敏子だが
充子と敏子の母博子(充子が前婚で産んだ娘)は交流があったのだろうか・・・
しかも博子夫細川侯の姉は充子夫松平伯の先妻(死別)
846 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 03:35:55
アクマキ食べたい。
ちまきに砂糖と黄な粉まぶしてウマー
848 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 12:01:38
旨いよな。
初めて食べる人は臭いが気になるけど。 薩摩潘士の兵糧食でもあったって本当?
通販してるとこもあるんじゃない?
子供の頃は親戚が送ってくれる度に砂糖醤油or黄な粉につけて食ってた
最近も、近くのデパートで鹿児島物産展とかがあると必ず買うのが灰汁巻きとかるかんとさつま揚げ
初めて聞いた
851 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:05:55
鹿児島、宮崎の特産で端午の節句にチマキとして食べるみたいです。親が宮崎出身なんで親戚から送って貰ってました。 樹木の種類は忘れましたが燃やした灰汁で、もち米を炊いてチマキを作るらしいです。
852 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:20:03
そいや子どもの頃はチマキ作る手伝って
竈に薪くべてたな俺。今思い出した。
実家離れて久しいが今でも作ってるんだろか。
正月の餅つきもチマキ作りも親戚集まってやってたもんだが。
854 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:24:44
作る家庭も少なくなってるみたいですよ。
855 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:38:42
明治維新と西郷隆盛と敬天愛人と宝暦治水工事
千辛万苦に耐え、堅忍不抜の精神を以って
極めた宝暦治水工事と薩摩義士
宝暦治水と薩摩義士 伊藤光好(前海津町長)
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/gisi/ito.htm 後世の人の心構え
私たちはこの崇高な精神を尊び、治水に対する関心を強め、
治水を考えるとき薩摩義士の映像が浮き彫りに成るほど
人の心の中に薩摩義士を生き返らせるべきである。
そしてこの精神を鑑とし感謝の真心を捧げながら、絶えず心の洗濯を行ない、
たゆまず心の成長を願って行くべきであると、強く願うものである。
856 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:48:35
立て シマズマン 地を蹴って
地獄のトクガワ ぶっとばせ
見よ 日本の大空を おおう黒雲 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 自由を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
行け シマズマン 波蹴って
将軍ケイキ うちたおせ
見よ 日本の海原を そめる毒潮 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 平和を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
飛べ シマズマン 雲蹴って
トクガワ怪人 ぶちのめせ
見よ 日本の山々を おかす毒風 悪の影
ゴーリキショーライ チョーリキショーライ
揮え示現流 正義を守れ
輝く力だ シマズマン・フラッシュ!
858 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:39:51
五年程前、「アズマ」と名乗る東日本至上主義者がこの板を占領し、
関東以西の人間を全員殺傷するだの虐殺するだの暴言を数年間に渡って重ねていた。
その時に彼らの作った馬鹿な歌が、「アズママン」というものだ。
それと同じ人間が中傷目的で張っているのだろう。無視することだ。
んー、そんなすごい物とも違うような
イナズマンの替え歌でしょ
・・・にしても板違いであることは確かw
861 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 11:14:08
関が原の戦 慶長5年9月15日
西軍の諸隊が敗走する中、
石田、島津隊は頑強に東軍と抗戦。
圧倒的な東軍に、遂に石田隊が敗走する。
最後に残った島津隊は、家康の本陣前を突破し、
牧田を経て伊勢街道方面に脱出した。
昔の自慢話ばっかする暇あったら島津家と調所家は奄美にアヤマレ!
294 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/02/27(水) 15:55:21
幕末明治維新に於ける薩摩の活躍は調所が奄美に強いた犠牲のおかげだ。島津家も調所家も、その金を湯水のごとく使った西郷・大久保家の四家は奄美に謝罪と感謝の儀式をキチンとやれ!
301 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/02/28(木) 10:22:39
半島出身でも奄美出身でもない私だが少なくとも島津家・調所家は何らかのけじめ的儀式はするべきかなと。特に最近の島津家は先祖の顕彰ばかりしてるようだが昔は犠牲になった敵方の供養もしていたはず。
374 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/03/18(火) 23:14:38
島津プラス調所=しまづしょ・始末書 やっぱこの二家は奄美にアヤマレ。
定期的にこのスレにやってくるあなたも島津ファソw
865 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 17:26:32
しまずは切腹すべき
867 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 09:36:22
拙者も切腹いたす!
うっ(痛)
869 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 11:41:59
うるさい、うるさい、うるさーい!土人とはなんじゃ〜!余は将軍家定じゃー!我が徳川を倒しおった島津の32代・修久と調所の7代・一郎は先祖が余計なことしてすいませんとあやまれ〜い!
なんだ、本当に奄美人だったのか
黒砂糖でも舐めて糖分取っとけ
うん、昔むりやりサトウキビ畑たくさん開墾させられたおかげで今、黒糖焼酎とか売りにして、うるおってますから、むしろ今の人は感謝してますです、はい。
昼休み終了
874 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 15:56:49
つうかよ、島津人は陛下ともお血のつながる大和民族のコアだ
貴賓よくしてくれよw
島津とテンコロはコアな朝鮮系
ダ薩摩土人の酋長はサツマイモでも食ってろw
学校休みじゃないのに変なのがわいてきたなぁ・・・
878 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 19:08:44
しつこいんだよ、お前。俺も薩摩人だが恥ずかしいからやめろよ。
880 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 21:14:17
【尚古集成館蔵】
◎島津斉彬(銀板写真)
◎天境院(篤姫の写真)
【福井市立郷土歴史博物館蔵】
◎徳川家達(6歳の時の写真)
◎島津久光(写真)
【港区立郷土資料館蔵】
◎島津忠義(写真)
◎小松帯刀(三人の内真ん中が帯刀写真)
◎三条実美(公卿の写真)
【横浜開港資料館蔵】
◎生麦村の古写真(事件三日後の写真)
馬鹿に責任取らせて切腹させて、
うまいこと出世した奴が多いんじゃないのか?
安定した世が続くと、要領の良い奴が出世する
いつの世も同じだな。
もう一度、戦国時代になって、実力のある奴が
下剋上でのし上がるようにならないと、日本の
発展はないのでは?
882 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:35:17
島津有理子に握ってもらいたい。おにぎりを!
883 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 21:57:24
島津って地元で全く人気ない。そもそも誰も興味ない。
884 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:34:31
関東地区と関西地区で視聴率を稼げればいいんだよ。
地元なんかもともと相手にしていません。NHKはいつも。
え、篤姫の話すか。なら地元の視聴率は30パーセント以上ですよ。島津関係や小松帯刀とかの講演も超満員。
あんな糞ドラマが30%以上キープとは
そんなに娯楽がないのか
887 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 03:31:16
示現流でごわす。
チェスト!
琉球人にとっては仇でしょうか?
私が接した沖縄出身の方だと、
歴史に興味がない人は当然何も気にしてないようですが、
支配下に置かれていた事を十分知っていても
現代に生きる沖縄県民と鹿児島県民が起こした問題ではないということで
気にしない人も多いようです。
歴史意識が旺盛で、琉球の歴史が自身のアイデンティティと過度になってる人は
福島県の一部の方のように過剰な反応を示すようです。
890 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 23:29:28
あと、シナと南北チョンもな
肝心な奴、メリケン忘れてるw
地元と言っても東京が地元のドラマは、NHKは気にするけどね。
今の朝の連続テレビ小説とか。
894 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 01:05:58
島津って、歴史上、明治維新の前までの
家臣の名前とか武勇伝て
ほっとんど...しらん
他の大名って家臣の名も売れてるよな。
殿様しか知られてない気がする。。。
家臣に支えられてんじゃないのか?
西郷どんや大久保さぁの名前も知らないのか・・・
教科書には載っているはずなのに・・・
>>895 >>894で、明治維新の前までの〜〜とあるから、
西郷、大久保(幕末)以前のことを指しているのだと思う。
基本的に講談や歌舞伎のネタになってないことが家臣の名前が知られてない理由ではないかと
赤穂潘浅野家なんて弱小藩もいいとこなのに、家臣の名前知っている人多いし
898 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 17:50:51
>>896フォローどもです。
>>895 肝付、小松、篠原、桐野、佐土原、別府、有馬、奈良原。。。etc
よっぽどおバカじゃない限り幕末は知ってるでしょ
スレ違いなので、中世〜戦国辺りの話でも
薩摩に武勇伝はないのかな、誰か教えて
>>898 >肝付、小松、篠原、桐野、佐土原、別府、有馬、奈良原。。。etc
>よっぽどおバカじゃない限り幕末は知ってるでしょ
マジレスすると、こん中に一般的に有名なのは多田野一人も居ない。
みんなドマイナー。
お前さんの常識は世間の非常識。
いくら無知でも平田靭負ぐらいは知ってるだろ
そんなやつ知ってるのはごく一部の岐阜犬人くらい。
薩摩人ですら知らんのだからな。全国的な知名度は0に等しい。
902 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:06:12
鹿児島市平野町にある平田公園、
そこの銅像を知っていますか?徳川幕府が、
薩摩の力を弱めようと木曽・長良・揖斐の
三河川の改修工事を命じ、1000名の薩摩武士
を引き連れて、任地に赴き、改修を成し遂げた
「平田ゆきえ」の銅像です。今の岐阜県
海津町・安八町を流れる3河川、これは
最新工法で築いた堤防が伊勢湾台風で
壊れたのに、我が薩摩藩が作った堤防は
びくともしなかったそうです。
この下には、人柱として、薩摩の方々が
眠っています。
その関係で、岐阜県海津町・安八町に
行きますと鹿児島と言うだけで、大変な
歓待を受けるそうです。
先輩方の偉業があってこそ、わたしたちも
自信に満ちて鹿児島を誇らしく思います。
http://www.e-asu.com/satsuma/satumagishiuta.htm
日本史といえば山川の教科書に平田靫負なんか出てねえっつの!
新納忠元、示現流の東郷重位。
中馬大蔵 島津豊久、阿多長寿院盛淳などは、
「島津奔る」に出てくるが、歴史好きでないと知らないかな。
小松帯刀も教科書に出てないぞ。
>>905 豊久はいちおう大名だし有力一門だから戦国好きならば知ってておかしくないが、
長寿院や中馬なんかはほとんど島津の退き口くらいにしか出てこんからなあ。
とくに中馬なんかは身分も大したことないし。
かなりマニアックだろ。
>>901>>904 900書いたの俺だが冗談だw
マジに受け取ってもらっちゃ困る
宝暦治水は日本史ヲタだったら知ってて常識ってレベルぐらいだろう
残念ながら歴史に興味が無い一般人が知るわけない
鬼武蔵・新納忠元も戦国ヲタぐらいしか知らん
あとはこの時代付近でいえば鉄砲伝来で種子島時尭ぐらいかな
909 :
日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:04:53
俺の記憶にある限り受験時に熟読した山川の日本史教科書に出てた薩摩関係者は島津斉彬、島津久光、桂庵玄樹、調所広郷と、確か地図上に島津光久とかくらいかな。
910 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:02:02
重位は示現流で有名で知っている
あと家久や義久や義光もけっこう有名だよね
義光なんていねーよ、ばか。
なんか最上氏から一人出張中
教科書に載ってないが島津義弘も有名だね。
最近では島津忠剛も有名らしいよ。
915 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 08:46:54
あぁ、あのへたれか。史実はドラマと違って「笑左衛門様(広郷)に何とか当家の財政再建を」と調所に頼み込んでる手紙が寺尾氏や徳永氏の著書で暴露されたやつね。
917 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 19:43:42
俺の名字が「しまず」の方の島津なんだけど、
「しまづ」と「しまず」ってなんか関係あんの?
918 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 22:13:18
今から特定作業に入る
919 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 22:16:57
>>917 (しま[ず]) ←英語では複数系だろう。
920 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 11:40:25
>>917 は、自分か親または祖父辺りが
鹿児島出身かい?
ふりがななんて適当だろ。昭和四十年代までは鹿児島県史料や尚古集成館の冊子等に調所も「ヅショ」とか「づしょ」と書いてあって今みたいに「ずしょ」じゃないし。伊地知も、いぢち、とか、いじち、とかだし。
923 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:31:21
四国の出で、薩摩の島津家と一切関係の
無い島津さんも居てるよ
924 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:56:32
島津製作所についても聞きたいでごわす。
うぃきぺでぃあ(笑)でも見て来い
>>925 島津忠久がいつの間にか、よく居る渡来人工作人に
曖昧すぎる推論で、中国人(秦氏)に書き換えられてるし
うぃきぺでぃあ は100%じゃぁないよ(笑)
928 :
927 :2008/06/22(日) 06:58:15
訂正
○島津忠行
× 忠綱
信濃にも島津って居たよね?あれは?
島津家初代忠久の次男の系統が信州や米沢に赴任してる。
執印氏のwikipedia項目を編集してるのは誰よw
うぃきぺ薩摩藩の関連項目に会津大虐殺ってのが入ってんなww
これだから会津厨は姑息でキモいんだよww
IP追って調べたら鹿児島市?と鹿児島県の関連項目にも挿入してやがるな
差分の大部分に追加してるし<219.212.60.34
しかも反捕鯨派でガチのキチガイだわ。通報モンだな
936 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 09:37:10
最近のうぃきの編集では、IPソースが辿り着けないように
ネット・カフェから邪念を持って、うぃきに書き込みする卑凶な者もいるね。
どうしようもないな・・
wikiは調べるきっかけでしか無いから
単語さえでてこれば俺としてはそれほど困らんけどな。
938 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:16:50
島津氏は中国人の子孫。漢王室の血を引く日本の朝廷に服属した下級貴族。
939 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:34:49
【鎌倉幕府の制度】
豪族と守護
【(佐渡・能登・越中・加賀・越前)=比企朝宗】
【信濃・上野=比企能員越後=佐々木盛綱】【下野=小山朝政】
【常陸=八田知家】
【下総=千葉常胤】
【武蔵=平賀義信】
【相模=三浦義澄】
【伊豆・駿河=北条時】【政遠江=安田義定】【三河=安達盛長】【尾張=小野成綱】
【美濃=大内惟義】
【伊勢=山内首藤経俊】【近江=佐々木定綱】【若狭=津々見忠季(島津)】←これ
【和泉=佐原義連】
【播磨=梶原景時】
大河板の篤姫スレと同じ流れきめぇ
朝廷に仕えた帰化人なんて飛鳥・奈良時代が多かったんだっけ?
すれ違い、よそに逝け
・・・と思ってざっとスレ一覧を検索したのだが適当なのがないんだな
平安時代の初期までは明らかに渡来・帰化人という名前の官僚の記述も見られるが
奈良時代頃から日本風の名前に改名する人が増えて(奈良の大仏の設計指導者の国中公麻呂なんかはよい例)
平安時代も中期になるともう分からなくなってしまう、
というか藤原氏が主なポストを独占したので他氏族の名前を見つけることすら大変
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart22【歓迎】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1205005575/l50 この辺で質問したら詳しい人がいるかも
まあ遣隋使・遣唐使が盛んだった頃までの話だな
944 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 23:26:53
島津氏は中国人の子孫だそう
秦の始皇帝の子孫というのはウソにしても
中国にあった秦の民の出身に間違いはないだろう
近衛家は間違いなく日本の名門中の名門なのに何で中国人を家来にしたんだろうか
中国に近い辺鄙な薩摩は中国人に任せた方が治め易いと思ったのだろうか・・・
>944
これこれ、確かに島津氏は惟宗氏(秦氏)末裔だが、勝手に発想を膨らませて暴走するんじゃないw
946 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 00:04:53
>>945 平安時代〜鎌倉時代
【惟宗氏(秦氏)】⇒(薩摩・日向・大隅) 土着し 【島津氏】と名乗り初代【島津忠久】となる。
人類の祖先は猿だよ
だいたい奈良平安までさかのぼれば支配階級はみんな大陸渡来人だろ。東大の先生だかが遺伝子調べたら、どこの地域の日本人にも大陸系統の血が入ってると言ってたよ。源日本人ってアイヌとかだろ。島津もだが天皇も藤原氏も渡来人だし。
まあタイムマシンでも開発するしかないな
951 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 12:50:27
>>949 >島津もだが天皇も藤原氏も渡来人だし
島津(惟宗)はともかく、天皇家と藤原氏が「渡来人」とは初耳!
学問板なんだからソース示してくれよな。
そもそも渡来人の定義から勉強して来いって話だ罠
953 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:36:07
No.1【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(佐渡・能登・越中・加賀・越前)=比企朝宗
(信濃・上野)=比企能員
(越後)=佐々木盛綱
(下野)=小山朝政
(常陸)=八田知家
(下総)=千葉常胤
(武蔵)=平賀義信
(相模)=三浦義澄
(伊豆・駿河)=北条時政
(遠江)=安田義定
954 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:38:53
No.2【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(三河)=安達盛長
(尾張)=小野成綱
(美濃)=大内惟義
(伊勢)=山内首藤経俊
(近江)=佐々木定綱
(若狭)=津々見忠季(島津)
(和泉)=佐原義連
(播磨)=梶原景時
(淡路)=横山時広?
955 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:40:05
No.3【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(但馬)=小野時広
(讃岐)=後藤基清
(土佐)=佐々木経高
(出雲)=安達親長
(安芸)=宗考親
(石見・長門・隠岐)=佐々木定綱
(対馬)=河内義長
(筑前・肥前)=武藤資頼
(日向・大隅・薩摩)=島津忠久
余計な改行減らしたら1レスに納まったかと思われ
957 :
光源氏:2008/07/07(月) 21:53:00
島津氏は鎌倉幕府以来の、数少ない由緒ある家系ですね。
島津の過去を遡れば、大和朝廷に仕えた秦氏の裔の惟宗氏。
仕えていた近衛家が平安時代に島津荘を寄進され、平安後期には宇佐神宮領もこれに併合された。
平安末期に惟宗忠久はこれらの荘園の管理者となり、島津と名を改めた。
鎌倉初期に薩摩・大隅・日向の守護に任じられたが、源頼朝の死後、
比企氏の乱で北条氏の罠に嵌りこれらの職を奪われた。
元の宇佐神宮領は伊東氏のものとなり、彼らの分家の田島氏が領することとなった。
(後に南北朝期に伊東本家が下向し、分家の田島氏を滅ぼし日向を実力で支配下に置くこととなる)
薩摩の島津荘内の入来院は澁谷氏のものとなり、元寇以降は澁谷本家が下向した。
その後、承久の乱で近衛家と共に北条政子を支持し、薩摩と越前の守護を入手した。
元寇期に本家が薩摩国出水に下向し、以後土着化。
南北朝期に足利尊氏を支持し薩摩・大隅・日向の守護職を回復。
鎮西探題今川了俊と対立するも、足利義満と了俊との対立によって了俊は今日へ召還。
公家・寺社ならこの程度の歴史なら言うに及ばず
武家で言っても佐竹も宗も相良もありますが?
959 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:54:42
>>958 >島津の過去を遡れば、大和朝廷に仕えた秦氏の裔の惟宗氏。
曖昧な根拠だけだと野次馬学者レベル。明解な証拠が欲しいな
960 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:30:29
>>958 鎌倉いらい江戸期迄、家として続いてる(養子相続等も可)って事で見れば
島津、伊東、相良、秋月、松浦、宗、小笠原、毛利、佐々木(京極)、諏訪、伊達、相馬、田村、佐竹、南部、安藤(安東・秋田)
とパッと思い付くだけでも結構あるな。
俗に「江戸三百諸藩」というから、その5%強位か?
>>960 それ、鎌倉時代には守護職でない家ばかりじゃない?
そこんとこがちょっと違うような希ガス
佐竹やら相良って爵位なんだったっけ?
>>962 秋田藩佐竹氏は侯爵 東北にありながら奥羽越同盟に参加しなかった数少ない藩だったから
相良は子爵 石高から見て妥当なところ
>>960 守護歴があるのは島津、小笠原、京極、佐竹かな?
島津以外父祖伝来の地から飛ばされているのが残念
>>950 この手の話題になって島津の出自が突き詰められてくると、必ず最後は「タイムマシーンが発明されるまではどうのこうの」って話にするんだなw
このスレでもすでに3箇所ぐらいあるぞw
皆同一人物か?
大体、「タイムマシーン」なんてこれが史板でする発言かw?
タイムマシーンなんてこと言ったら何だって(織田や徳川やその他多くの戦国大名の他、出自を仮冒していると一般に言われている家々)皆そう言えてしまうじゃねえかw!
965 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 13:37:00
>>959 ≫曖昧な根拠だけだと野次馬学者レベル。明解な証拠が欲しいな
それでも『頼朝の御落胤』なんて言うよりはよほど「根拠」のある事だから心配しないでいいよw
966 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:06:29
>>958 結局、動乱期にだれを支持したか。
時代を見る目とそして何よりも運がなければ古墳時代から延々と続く
秦氏の血脈は守れなかったことが分かります。
その意味では、秦氏の末裔はすぐれた才能を持っていました。たとえ
ば、首相の器としてはどうか?と疑問を持つ羽田孜氏が首相になるな
ど政治力学を巧みに読んで利用する秦氏の血統が伺えます。
省エネルックは、クールビズとして定着した感があります。
>>960 島津氏の血統を受け継ぐには、純血をどれだけ守れるかにかかってい
ます。一族以外の地を入れない。これは現在では難しくなっているの
で、血統を保つのは、もう無理なような気がします。
斉藤>CCO真実
古墳時代から大和朝廷の成立から語らにゃならんのか
難儀なこったな
970 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:15:49
山崎寿満子の女系子孫はすごい子孫繁栄だね
>>969秦氏は、秦の始皇帝の末裔とも言われているし、
漢の国に追われた呉や越の工人を引き連れて渡来している。
その過程で、揚子江沿岸の海族や朝鮮半島付近の騎馬民族の
影響もうけている。
それ以前は、古代イスラエルとの関係も匂わされるし、シルクロード
を通じてオリエント文明の影響を受けていることは、まず間違いない。
その民族的文化的な歴史を考えてた上で、秦氏>島津氏の繋がりを
見ないと、誤った判断をすることになると思う。
鎌倉以前から薩摩は秦氏がおさめていた(宇佐だか辛島だか)?
だとしたら頼朝以降、惟宗氏を薩摩に封じたのも、それなりの因縁があったのか?
973 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 23:04:18
秦氏⇒惟宗氏⇒島津氏
戦闘力は高い!
えーと・・・どこからどうすればいいのか それともおさわりしないほうがいいのか えんがちょ
>>970 でもその山崎寿満子の出身は未だによく分からなかったりする 父:山崎拾って誰
>>972 薩摩平氏という物の存在もお忘れなく
島津量子さん(元久邇侯爵夫人)の離婚後の消息が気になる。
あれから再婚したんだろうか?
1908年生まれだし、今じゃさすがに亡くなってるかな。
薩摩国司にゃ大伴家持とかもいるんだったよな確か
幕末の話になるが
斉彬の過大評価、久光の過小評価は酷いな
>>975 ご健在なら本年でジャスト100歳
・・・佐土原島津家の故・久子夫人の例もあるけど100オーバーはやはり難しそう
>>976 藤原良継や佐伯今毛人とかと共謀して謀反を企んだとか言われて左遷された
実際に陰謀に加担したのかどうかは不明
>>977 明治維新後の言動があまりにもアレでしたからなw >久光
とは言ってもああいう環境でお育ちになった方に近代社会を理解しろと言う方が無理かも。
979 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:16:07
>>978 それより量子が父親52歳、母親37歳(いずれも満年齢)の時に生まれたのが凄杉
しかも再婚じゃくて共に初婚
しかし近親婚なのに離婚するなんて普通の時より難しいのによほどの事情があったのか?
量子の兄姉には邦久の叔父や従妹と結婚している人もいるのに
980 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:34:14
>>974 惟宗氏(島津氏)の入植と先遣薩摩平氏
の政権争いや、降伏後の薩摩平氏の処遇
成れの果てなどについても、もう少し詳しく
聴かせて。
981 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:36:46
>>977 そおかぁ?
妥当だろw
薩摩人が言うんだから、間違いない!
>>979 公式発表によれば、夫妻双方の病気が原因。
元々侯爵の健康が優れない上、結婚後1年ほどして夫人も神経衰弱気味になり、
別居して実家などで療養したものの良くならないため結局離縁。
侯爵はその後健康を取り戻して再婚できたけど、夫人はいったい?
侯爵の姪・朝子女王は島津斉視氏と結婚したが、子供がないまま死別してるね。
斉視氏と後妻の間にはいるわけだし、やっぱり遺伝的なことでできなかったのか?
島津氏自体の実際の下向は元寇以後というのが有力な学説のようだ。
それまでは鎌倉にいたようなんだが・・・鎌倉で何していたんだろう?
比企氏が滅亡した後は有力御家人でもなかったろうし。
そういえば鎌倉時代、同じ惟宗氏末裔同士で土地争いで裁判してたような。
相手は何レスか前で話題になった執印氏だっけ。
薩摩平氏は早くから地元に土着して開発に携わってきた人たちですから、当然後から来た島津氏とは仲が悪く、
土地争いをはじめとして裁判でいざこざが多かったことが残った史料から伺えます。
薩摩平氏の系統を継ぐ人は南北朝時代には北朝に付いた島津氏に対抗するため南朝に味方しました。
結果、南朝の没落と共に後ろ盾を失い没落、国人として細々と生き残ったのはいい方で滅亡した氏族も多いです
(例えば「頴娃氏」は当初は薩摩平氏系だったが滅亡して、後に頴娃領主となった肝付氏が名乗るようになった)。
985 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 05:43:10
その佐土原の久子夫人、三十代になってから家付き娘と二度も結婚した養子の後妻(しかも四人の子供と家付き娘の母親がついている)になるのはどうなんだろう・・・
しかも久子は先妻の娘という立場を経験している
そして久子の父親の高倉永則(1864-1947)は明治維新と終戦を経験している
最近の惟宗氏→島津氏って流れはそこらへん論文で主張してる
鹿児島大の研究者やらが居るんだろ。誰だか知らんけど。
薩摩一之宮争いで新田神社が後から割って入って来たこと考えれば
正直どーかと思うけどね。ハナから丸々信用する気にはならんな。
987 :
↑:2008/07/11(金) 12:59:46
日本語でおk
989 :
988:2008/07/11(金) 14:00:04
と思ったら、
>>984で薩摩平氏の成れの果てについては書いててくれてるねw
スマヌスマヌ。
ただ今度は古代‐中世の薩摩に秦氏が及ぼした影響についても誰かお願い。
古代の薩摩って誰が何をしたかほとんど分かってない状態なのでわ
古墳時代 日向南部から大隅半島にかけて大古墳が築かれる この頃は大隅半島>薩摩半島 大隅の方が都会
飛鳥時代〜奈良時代 隼人が大和朝廷に対して大反抗を行い大伴旅人率いる中央軍を派遣して制圧
以後、一部の隼人を畿内に移住させて朝廷の祭儀や雑用をさせるようになる
平安時代 初期のころはよくわかんない
中期頃から荘園の開発が始まり、
後期には土着豪族の薩摩平氏が開発した日本最大の荘園「島津荘」が誕生
薩摩平氏は島津荘を摂関家に献上し、自らはその代官に納まってうはうは
摂関家側から派遣される代官の中には、摂関家家人の惟宗氏がいた・・・らしい。
鎌倉時代 ここでようやく島津氏登場
秦氏の影響は他国と比べて薩摩では顕著とは言えないのではないかな
そういえば一度鹿児島の神社を調べたことがあるが、鹿児島県では稲荷神社系の神社が少ないし
しかも島津氏の尊崇もそんなに厚くないような。
日向に関しては、京都の岩清水八幡(正八幡)宮の分社と、大分の宇佐八幡宮の分社の分布を調べたら、
島津荘と宇佐八幡領の領域とほぼ重なった、という研究がありますよ。
秦氏の稲荷信仰を追うよりは、京都の藤原氏=近衛家の領地と見たほうが良いのではないでしょうか。
当時の惟宗氏は近衛家の家来だったわけですし。
992 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 19:41:45
そうですねぇ
薩摩は諏訪神社系が多いですねぇ、
惟宗氏(島津氏)の直属が諏訪氏(上井氏)
だからでしょうかねぇ。
島津は鎌倉時代は頼朝直属の重臣では?
頼朝の信頼が絶大だったので、最果ての鎮西を
任せたと聞きますが。
>>984 なるほどね
だから、明治維新の原動力となった
下級武士は薩摩平氏の裔が多いわけですね。
極貧の極みですよ。。。薩摩の下級武士は
南朝一揆への恨みですかwww
993 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 20:50:36
>>991 惟宗氏(秦氏)⇒島津ほぼ同族や義兄弟になる。
994 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:24:17
旧諸県郡の北斗七星、秦氏や道教との関係が伺えます。
明日香村キトラ古墳の埋葬者も島津藩の天井にも北斗七星が描かれて
いるというし、明日香村を支配していたのは、島津氏の祖先だということです。
島津藩は、幕末になって急に出てきた外様大名かと思っていたのですが、
古代史を知れば知るほど認識が変わります。
大政奉還は、ワケ王朝島津氏への政権返還だったのです。
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日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:10:17
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このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。