1 :
日本@名無史さん:
2 :
2げったー:2007/12/11(火) 22:09:59
2げっと
3 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 01:33:25
age
4 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 03:02:04
で、早雲の伊豆討ち入りは、幕府への謀反? それとも幕府からの指令?
5 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 11:26:10
茶々丸殺し
6 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 17:32:33
当時は幕府も一枚岩ではないので
幕府の誰かからの指令か承諾を受けていたのだろう
7 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 22:52:36
>>4 幕府と今川家の意向を含んでいるかと
特に今川家の家督相続争いに介入してきた関東公方に対して、幕府から今川家に派遣されてきた伊勢宗瑞が動いて要る事から、
どうみても両者の思惑の一致による軍事行動かと思われる
9 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:42:17
>>6 当時は明応の政変の直後なんだから、幕府から指令を受けるとすれば、
それは将軍義澄&細川政元のラインからでしょ?
10 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 12:29:00
まあ結果として誰の利益になったかで考えれば。
11 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:23:35
早雲って将軍の兄殺しなんでしょ?
>>8 1476年くらいだと関東公方じゃなくて関東管領上杉じゃないか?今川へ早雲が派遣された時は
ちょうど上杉VS古河公方の戦いが現状維持で安定化してる時でしょ。
そのときは堀越公方と太田道灌らが今川へ介入しようとしたんだよね。
ただ幕府としては基本的に上杉・堀越を支援して古河公方を叩く基本姿勢のままなんじゃないかな?
だけど道灌不在のその隙をついて長尾景春の乱が勃発し古河公方も参加して関東大乱。
1482年都鄙合体で和解。
1493年に政元のクーデターをうけての伊豆侵攻でしょ。明らかに早雲は幕府から許可は取ってるでしょ。
ただこの時期の関東は山内・扇谷が争ってるんだよね。優勢だった扇谷も古河公方成氏との同盟が破綻し劣勢になってる。
堀越公方の伊豆はもともと山内の領国を譲渡しており、これが扇谷の背後を不安定にしてたから早雲を伊豆に引き入れたのが扇谷とする説もある。
扇谷の動向ってのも怪しいもんで例えば1471年に古河公方軍が長躯遠征し堀越公方を討ちに易々と三島にまで進出できたりする。
扇谷領内を見事に通過してんだよね。この当時から堀越公方に対して扇谷は好感をもっていなかった可能性もある。
もう少し過去に遡ると1462年には兵粮料所の設置を巡る対立から関東執事・渋川義鏡の讒言で扇谷謀反を堀越公方が将軍義政に報告し大森・千葉・三浦が隠居に追い込まれ
扇谷の勢力が衰えてしまい堀越と敵対しようとしてたら当主上杉持朝が死亡しちゃった。
だから扇谷が伊豆へ早雲をひきいれる可能性もある。
政元・扇谷・早雲の利害が一致した共同謀議の可能性もあるが。
13 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 04:13:22
扇谷も鎌倉に堀越公方入れるわけにはいかないだろうしね。
山内みたいに伊豆譲渡とはわけが違う。
関東管領山内は古河公方を撃破したいだろうが扇谷は堀越公方を討つ為なら古河公方とは妥協してもいいんだよな正直。
それが後年に上杉と古河が和解した時に扇谷定正が勝手に和睦をとりまとめんな!って道灌を暗殺しちゃう原因の一つにもなっちゃったんだろう。
とりあえず堀越公方も古河公方も将軍公認になっちゃっての現状維持だもんな。
そんで山内・扇谷の全面戦争になると。
すると扇谷は古河公方や幕府派遣の?早雲ら今川勢力の助けが必要になる。
なんせ山内は代々幕府に忠実で当主も守護代長尾氏が将軍にお伺いを立てたし、当主の父は越後守護で全面バックアップ体制だし、さらに将軍の弟の堀越公方が扇谷背後を牽制してる。
この時の甲斐武田信虎の動きがよくわからんけど、今川と敵対してたんだっけ?山内から姫もらって婚姻関係だったけどすぐ死んじゃったんだっけ?
幕府実力者がどちらに付いたのかまったくわからん。
14 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 13:04:05
ちなみにクーデター前に政元は修験道の修行名目で越後に来ている。
越後守護上杉房定(関東管領上杉顕定の父)に会ってクーデター支援を依頼してる可能性もある。
15 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 00:55:12
幕府はすでに関東どころじゃないじゃないか?
氏直が病死してなければ
鳥取32万石もらえていたわけだし
督姫がらみでもらえていたわけだし
>>16 それ、どこか他のスレでも書き込んでたよな。
20 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:35:22
早雲は日野富子・細川政元が擁立した将軍義澄側にいたが(伊豆守護代くらいにさえ任命されないのが??)
のちに政元は山内上杉と協調するようになり
恐らく先の将軍義材(畠山政長・朝倉貞景・大内義興)側に付いたんじゃないかな?
一方、越後の援軍を得た山内上杉の巻き返しで扇谷上杉を降伏させ従属させた山内上杉は名実ともに関東管領になる。
三浦氏攻略をはかる早雲が苦戦と停滞に陥るようになる。
だが長尾為景が叛逆し越後守護もその兄の関東管領まで敗死させちゃう。
関東管領職後継者を巡り山内の家督相続争いが開始され養子を出していた古河公方親子の争いまで勃発し早雲が有利に展開するようになる。
この間の中央は政元が暗殺され養子三人の争いに乗じて大内氏が九州中国の軍勢をもって上洛に成功し義材の将軍帰り咲きに成功し10年にも及ぶ安定政権を築いている。
この中央の流れが長尾為景や北条早雲にも多大な利益となり
将軍に任命権がある管領職を巡り山内上杉家内部の相続を巡る闘争にも影響を与えたんだろう。
21 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 22:58:37
小田原って地名は早雲ゆかりの京都の田原からとったという説をずっと
信じてて、それは司馬遼太郎の「箱根の坂」に書いてあると思ってたが
10年ぶりに読んだけどそんなことかいてなかった。それに小田原という
地名は早雲以前からあったらしい・・・。
22 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:09:33
>>20 >伊豆守護代くらいにさえ任命されないのが??
守護代っていうのは、守護によって守護の被官の誰かが任命されるものだぞ。
幕府の直臣である伊勢氏が守護代になるわけないだろう。
もし万が一、守護代になれなんて命じられたとしても、それはそれまで幕府の
直臣だった早雲に陪臣になれというようなものであり、早雲にとっては
屈辱以外の何物でもないだろうよ。
あと後北条氏が実際正式に守護に任命されたかどうかは分からないが、戦国期の
後北条氏は実質的に幕府からも伊豆・相模の守護のように遇されているはず。
>恐らく先の将軍義材(畠山政長・朝倉貞景・大内義興)側に付いたんじゃないかな?
義材が返り咲く永正の政変の時点では今川氏親も義材派になっているから、
早雲も恐らく鞍替えしているだろう。
今川氏親は永正の政変への協力の見返りとして、それまで斯波氏が守護だった
遠江の守護に正式に補任されている。
あと畠山政長は明応の政変で死んでいるので、この段階で畠山氏で義材派に
いるのは、政長の子の畠山尚順だな。
23 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 12:26:26
sage
24 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:17:29
あがってるよ
25 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 11:02:59
北条氏の一門衆として北条幻庵のほかに、
「六郷殿、小机殿、伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿、大和兵部大輔殿」とあったのだが、
伊勢氏とか大和氏というのはわざわざ京都から連れてきたのか?
長享の乱勃発後に扇谷上杉当主定正がやっかいなものとして
越後・伊豆軍を挙げてるから普通に対立してたんじゃね?
27 :
26:2007/12/24(月) 11:27:15
ごめん途中までしか読んでなかった…
28 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 19:24:06
>伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿、大和兵部大輔殿
こいつらのどこが北条氏の一門になるのか不思議だ。
>>28 伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿→釣りですか?
大和兵部大輔殿→同意
30 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 20:56:01
北条早雲の前身が伊勢新九郎なのはわかっているが、
普通、北条一門といったら北条早雲自身の子孫ってイメージで、
京都の伊勢一族まで含めるのかな?
わざわざ京都から伊勢氏の人間を呼んできて一門衆にしたのかな?
おいおい
早雲と京の伊勢の関係の深さを考えろよ
徳川における松平みたいなもんだろ、なぜ疑問に思うかが疑問
33 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 01:46:25
伊勢氏とか大和氏とかは、氏康が軍師として京から招いたらしい。
軍師なんて当時にありもしないものを・・・
「京都奉公衆」「京都奉公の方々」(快元僧都記)
「御家門之方」(所領役帳)
講談は「軍師」が大好物だから仕方ないよ。
しかし伊勢・小笠原が評定衆に名を連ねているし、
大和は氏政だか氏直だかの侍大将を務めているので、
中枢で活動していたのは間違いないかと。
36 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 20:22:02
しかし、なんで伊勢とか小笠原とか大和がそこまで優遇されたんだろう。
「御家門方」の伊勢とか大和って、大道寺とか松田とかの家老よりも上席だろ。
37 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 20:44:29
御家門だからだよ
加判の列より家門が格上なのは他家でもそうだろ
>>36 武家社会で家の名や格を尊重して
上位の席にするなんて普通のことだろ。
39 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:17:40
京都政界の政争に敗れた伊勢氏の一族が小田原に下ってくることは、戦国期を通じてあった。
40 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:18:28
41 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 05:12:12
てゆうか一門待遇の家が被官待遇の家より格下だと考える神経のほうがどうかしている。
42 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 08:20:05
なんで京都の幕臣の伊勢、小笠原、大和が一門待遇なの?
43 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 09:58:15
室町幕臣の伊勢さんなんて、後北条氏当主から見たら他人みたいなもんだろ。
それなのに「御家門方」って・・・
44 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:27:18
元々京都にいるときは自分と同格かそれ以上だった人々と、
元々自分の郎党・根本被官扱いだった人々との間に、
差を儲けないほうがおかしい。
宗瑞も若くして幕臣となって
さらに本家と縁戚関係にあったわけはずだが
他の伊勢氏よりもむしろ結びつきは強いほうだろ
46 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:35:38
今どき北条早雲=素浪人説とか正気の沙汰ではないな。
47 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 18:54:41
どこにも素浪人なんて書いてないが。
48 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 20:49:06
左京大夫ですがね
>>42 昔は先祖が同じなら随分遠い血縁でも親類・一門づきあいしてたんだよ。
50 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 15:18:35
京都の幕臣が地方に下って大名家の庇護を受けるのは、
公家や坊さんが地方の大名を頼って都落ちするのと同じような感覚?
51 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 16:49:49
なんで大河でやらないんだろう。
勘助なんて実在したかどうか疑問だし、「武田信玄」とダブる人物やるぐらいなら早雲やってくれ。
52 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 16:59:15
お爺ちゃんが主役で1年間やるのか?>早雲
53 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 19:39:24
54 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:00:11
氏直でいいよ
>>53 森繁はドラマなどからは引退表明していた筈
56 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 15:50:31
じゃ三国だな
57 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:03:50
58 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 19:05:04
長氏っていう名前は、同時代史料的には根拠があるの?
全くの後世の捏造?
それとも最初は盛時だったのが、のちに長氏に改名したとか?
いまさら「箱根の坂」やるわけにもいかんだろ。室町幕府の名門家臣で,
今川の家督争いの介入も,茶々丸討伐も幕臣として幕命に従っただけだろ。
んでやってるうちにどっかで「戦国大名化」したんだろ。
自治省の役人で副知事に出向したやつが役人辞めて知事選に出て知事にな
ったような人生をドラマにしたところであまりおもしろみはない。
しかし、NHKは一応原作つきというのを表示したがるから
(とくに、著名有名作家の作品ならなお更)
今度の大河は司馬原作!って誇大に強調できるしな。
で、最近の大河は著しく原作レイプが激しいので
原作無視の脚色も平気で行う。
タイトルは「箱根の坂」でも中身は別物ってパターンもあるぞ。
>>59 いちいち噛み付くなよ。
>>60 でもまあ、幕府の存在などを視野に入れてもなかなか面白いとは思うが。
如何せん若い頃の事は今イチ情報が少ないわけだし。
>>61 「功名が辻」は酷かったな。竹中半兵衛が千代の事好きでしたとか、
山内一豊の弟が細川ガラシャに懸想してたりとか・・・
63 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 00:43:53
後北条氏は武家としては珍しく同族間の争いはあまりなかったのかな?
64 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 01:15:31
常に外へ向いているからな
65 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 05:31:26
池田先生命だからな。
大河は道灌で
>>51 架空でしかも足を引きずる男が主役の風林火山が好評だったということで、
大河ドラマのドラマとしての幅がぐぐっと広がった。
これを受けて、一年間老人が奸智を尽くして暴れ周る大河ドラマがあってもいいじゃないか、
とNHKが判断しても不思議じゃない。風林火山のおかげでレールは敷かれた。
>>67 > これを受けて、一年間老人が奸智を尽くして暴れ周る大河ドラマがあってもいいじゃないか、
> とNHKが判断しても不思議じゃない。
つ〔ホームドラマじゃない毛利元就〕
>>67 山本勘助はすでに江戸歌舞伎の作品群でも活躍していて
その頃の大衆には知名度があった人物だし、
井上の『風林火山』自体が、すでに3度も民放ドラマ化されて
三船の映画も有名なもんだった。
詳細不明の実体のわからない武田家臣ではあるが、
創作の中のヒーローとしては
江戸時代から様々な物語が創られてきた人物なのだから
去年の風林だけで有名になったわけでもない。
>>69 いや、有名とか有名じゃないとかじゃなくてだな・・・。そんなこと書いてないだろ。まあいいわ。
71 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:21:07
怪しいというかあきらかな間違いだったろう
質問だけど
氏綱の時代でかつて幕府が打倒した北条を名乗るようになったけど
かつて打倒した北条を語るのは幕府にとって背信行為にあたるんだと自分は思うのですがやはり伊勢と幕府の関係は悪くなったのでしょうか?
そしてこれらの行為は幕府の許可は得たのでしょうか?
74 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 17:22:44
>>74 1話延長したのは好評だったからってNHKが。
>>74 義経に関して言えば大作先生とジャニヲタが数字大半だと思うぞ
巧妙は…
79 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 05:11:50
>>74>>76 NHKは大河の好評・不評を視聴率では判断していないはず。
そもそも20時の本放送の前に、BSハイビジョンで先に18時から
放送しているのに、本放送の地上波の視聴率だけを算出して比較することに
あまり意味がない。
18時のBShiや22時のBS2も含めた潜在的視聴率はかなりあると
踏んでいたから、1話延ばしたりしたんじゃないの?
特にBShiなんて、デジタル放送への切り替え云々を騒ぎ出したここ数年で
急激に普及したようなものだから、その普及に比例して地上波の本放送から
BShiにシフトした大河視聴層は結構多いはず。
実際、俺自身も自宅でBShiが見られるようになってからは、18時に
在宅しているときはほぼ間違いなく18時の放送で見るようになったし。
80 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 05:29:34
>>73 簡単にいえば、後北条氏は関東公方(古河公方)と自らの関係を、かつての
鎌倉将軍と鎌倉北条氏の関係になぞらえて、関東における公方を推戴する
執権として自らが関東の覇者になることを意図していた。
ただこれは、それまで関東公方の補佐役として関東管領を世襲してきた
山内上杉氏にとっては、決して容認できないことだった。
また早雲や氏綱は(北条を名乗るためにかどうかは知らないが)わざわざ
鎌倉北条氏発祥の地である伊豆の北条(韮山の近く)に居住したりもしている。
なお伊豆の北条には、早雲が伊豆に入る以前は堀越公方の御所が置かれており、
堀越公方茶々丸の討伐を早雲に指令したのが京都の幕府であることを考えれば、
早雲・氏綱が堀越公方跡地に居住し、さらには氏綱が北条を名乗るようになる
ことについても京都側はおそらく黙認していたのだろう。
京都の幕府は、後北条氏を実質的に伊豆・相模の守護として遇しているし
(正式に補任されたのかどうかは分からないが)、氏綱の左京大夫任官の際に
朝廷との仲介なんかもしていたりするから、少なくとも後北条氏を室町幕府の
体制外の存在とは位置付けていない。
81 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 05:39:58
>>40>>42 この小笠原は早雲正室の実家。京都小笠原氏の分家で奉公衆だったが、
早雲正室の甥が足利義澄没後に関東下向。子が氏康の女婿になってる。
ちなみに江戸時代は旗本になってる。
82 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 15:11:06
>>79 視聴率を除外して「架空でしかも足を引きずる男が主役の風林火山が好評だった」
ということに根拠などあるはずも無いのだが。
ただ単に、お前さん個人の好みだろ。
日本国民全体が大河の山本堪助万歳していたわけじゃないだろ。
84 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 22:31:10
池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の80歳の誕生日を祝賀するコンサート
「サウンズ・オブ・ジョイ(歓喜の調べ)」が昨年12月29日(現地時間)、ニューヨーク市内で盛大に開催された。
これには、ベース奏者のバスター・ウィリアムス氏やトランペット奏者のシュンゾウ・オオノ氏ら、
世界的に活躍するアメリカSGIの芸術部の友や、フロリダをはじめ、
同国内の交響楽団に所属する著名な指揮者、演奏家らが出演。
1500人の聴衆とともにSGI会長の誕生日を“歓喜の音色”で寿いだ。
コンサートは、クラシック、ジャズ、コーラスの3部構成。
日本語で「滝の詩」のコーラスが披露されると、会場からは割れんばかりの拍手が。
また、出演者全員でSGI会長へのバースデーソングを大合唱。情熱と喜びに満ちたステージとなった。
コンサートに家族とともに参加した、チョウドリ前国連事務次長は、コーラス開始前に祝辞を。
“世界が精神的な人物を渇望しているときに、稀有な人物は現れる。
SGI会長は、まさにその稀有な方であり、愛する民衆への会長のご尽力は世界一である”と述べた。
さらにSGI会長が毎年、平和提言を発信していることに言及。
国連と「平和の文化」への貢献を讃えるとともに、「国連で世界に対し、ぜひ講演を!」と念願した。
聖教新聞
http://www.seikyonet.jp/sg/Satellite?c=Page&cid=1161803072646&p=1161803072646&pagename=sp%2FLayout&pid=1199839354716&subparam=0
85 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:07:34
幻庵の実名は「長綱」でいいの?
86 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 11:00:48
age
87 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:17:37
北条長氏
88 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 14:26:27
氏照と氏邦ってガチで戦ったらどっちが強い?
89 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 16:51:43
氏照の圧勝
90 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:41:30
京都の伊勢とか小笠原を呼んできて一門衆にしてるのは、よほど人材難だったのか、
都にコンプレックスがあったのか?
91 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:53:28
>>90 逆だろ。向こうが小田原を頼って下って来たんだろ。
なんでコンプレックスなんて言葉が出てくるんだ?
京の町の3階建ての家や瓦屋根に度肝を抜かした
北条氏規
95 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 17:04:28
>>90 人材難って言うか、京都とのコネを北条としては欲しい&情報が
欲しい、下ってくる側からはおそらく京都では食い詰めてる状態
だったろうし、お互いのニーズが合ったっていう感じじゃね?
ちょうど大企業をリストラされた人間を、その方面への顔利きや情報
目当てで再雇用するようなイメージじゃない?
もっとも、京からそこそこの人物を招いて家臣、もしくは客分に
するのは北条に限らず地方大名家じゃよくあるよな。
もっとも大内義隆などは目的が全然違うだろうけど・・・。
96 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:53:24
____
|←創価| 創価 創価
 ̄ | | ̄ ┗(∵ )┳('A`)┳(∵ )┓三
| | ┏┗ ┗┗ ┏┗ 三
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
創価 創価 創価
三┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛
三 ┛┓ ┛┓ ┛┓
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
____
|←創価| 創価 創価 創価
 ̄ | | ̄ ┗(∵ )┳(^o^)┳(∵ )┓┗(∵ )┓三
| | ┏┗ ┗┗ ┏┗ ┏┗ 三
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
創価 創価 創価 創価
三┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛
三 ┛┓ ┛┓ ┛┓ ┛┓
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
北条は戦国時代
創価は昭和時代
武田に滅ぼされた信濃の小笠原長時は京都奉行衆小笠原氏の同族だよね。
両者に何らかのパイプがあったりはしなかったんだろうか。それとも対立?
99 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:38:40
交流あったでしょ。
100 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:53:05
小笠原長時は武田に殺されてはいないし、子孫はのちに復活してるけどな。
101 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:28:12
早雲が小笠原定基に差し出した手紙も残ってるな。
「依って関右馬允方、我等同族にて候」って一文が
あるやつ。
伊勢出自説の基になった書状。
102 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:30:57
早雲は妻が小笠原氏だからな
103 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:04:45
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
質問なんだけど、北条氏直の子息として氏次なる人物がいて、その子孫が仙台に
仕官したといわれている。で、その人の子孫として、幕末の「桑島孟」なる人物がいると
いう記事をネットでみたんだが、図書館で幕末の人名辞典などを引いても、それに
当たる人物は見当たらなかったけれど、何者かわかる?
そもそも氏直と督姫の子なら、家康あたりに大名として取り立てられてもおかしくないはず
なので、氏次という人自体が疑わしくなるんだが。
(もし本当に北条氏の縁者でも、氏直の子というセンはないと思う。いいとこ傍流の子息か、
あるいは氏政の子息のうち、小田原後の消息の不明なもののいずれかだと思う)
>>104 ごめん、もしかしてなんちゃって本を読んでる?
ちゃんとした研究者の本での氏直の項、読んだことある?
106 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 08:15:05
なんちゃって本ってよりも、wikiにも堂々書いてある。w
>>105 昔読んだ歴史読本の増刊に書いてあったんだが、それ以外の記述を見たことが無く、
当然ちゃんとした研究者の本も読んではみたが一切触れられていなかったので聞いてみただけだ。
そもそも桑島なにがしという人物についても、図書館にあるような幕末の人名を網羅したような辞書
にも記載が無かった。
108 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 03:10:47
>>98>>99 奉行じゃなく奉公ね。
対立はないだろ。特に争う理由がない。京都の小笠原秀清(少斎)から、
上洛前と思われる長時への手紙なら見たことがある。詳しい文面忘れたが、
上洛の折は何なりとお申し付け下さい的な。
あと小田原に下向した京都小笠原分家は、幕府の以降を北条に伝えるパイプ役だった
てのは聞いたことある。
109 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:29:10
北条氏の一門に伊勢備中守とか伊勢兵庫頭がいるのは?
110 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 00:06:49
京に居た親類を呼んだんだよ。
111 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:31:47
北條伸作さんは早雲寺に御参りしているか心配だ。
112 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 02:09:51
小田原の家臣では狩野介が一番好きだな
113 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 18:52:16
ミーハーに福島綱成が一番。
114 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 20:38:12
鉢形の荒川衆持田四郎左衛門が好き
115 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 01:11:36
布施三河守康貞が好き。
116 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 04:35:18
岩槻衆の伊達与兵衛房実がすきかな
氏房が好き。
東京在住だが、佐賀県の伝・氏房墓にも行ってきたよ。
まさか九州で死ぬなんて思いもよらなかっただろうな。
118 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 19:23:05
>>117 今の世だって関東⇔九州なんて一苦労だ。
まして、関東引篭り傾向の強い北条家の一員・・・。
遠い異郷で果てる時、氏房は何を思ったんだろうね。
俺も氏房お墓に行く機会があれば、ういろうでも
お供えして来たい。
119 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:29:35
しかし過疎スレだな。もっと北条fanいるだろに・・・・。
ageとく。
120 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:05:09
どうしても層化がからむからなあ・・・
太田十郎氏房はいいよね。
彼の率いる岩槻衆は籠城している中で最も戦闘的だし蒲生勢に度々夜討ちをかけたりカッコイイ
122 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 23:54:40
氏房配下の広沢尾張守、春日左衛門尉、同八郎、河合出羽守、力丸藤左衛門、内田大八郎、安納彦内、田丸中務、玉井数馬、 も小田原で奮戦したし、
岩槻に籠った伊達与兵衛、宮城美作守、妹尾下総守、片岡源太左衛門、山田大学助らもよく戦った
天晴れな関東武士
123 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:14:58
疑問なんだけど岩槻の伊達とか鉢形の用土とかは大途の被官なの?氏房や氏邦の家臣?
124 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 18:27:55
御大途様の被官ではないでしょう。
125 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 22:15:54
乙千代様の発給文書で鉢形衆に属した小前田衆は役を勤める限り諸役免除で「大途のごひかん」だと書いてあったけど
126 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 23:05:13
大途様とか乙千代様ってだれなの?
大途=小田原の惣領家
乙千代=安房守氏邦(新太郎)
128 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 00:18:42
伊達与兵は氏房の附家老みたいな存在らしいよ
129 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 09:55:18
佐野氏忠ってどうよ?
130 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 16:43:30
どうもしない
131 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:36:36
ググッて調べてみたら伊達与兵って駿河伊達氏の分家のようなんだね。
500石ほどの旗本で続いたみたいだけど、岩槻の奮戦が認められて
って事なんだろうね。
同じ北条家子分衆でも、旗本にすらなれなかった千葉氏や上総武田氏などは
名家だけに余計哀れだなあ・・・。
132 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:13:03
駿河伊達氏の子孫で有名な人物っていうと、まず思い浮かぶのは明治期の
陸奥宗光かな。
氏房配下の伊達氏も春日氏も旧領安堵されて旗本だけど領地も隣同士で江戸時代に入ってからも縁組もしてるようだ
134 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 09:38:20
山角という氏照の近習は切腹した氏照の首を奪い返そうとして捕えられたけど500石くらいの旗本に取り立てられてる。
まことに冥利なことである
135 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:14:11
山角と言えば奉行の山角定勝が有名だな。小田原に山角小路の
地名が無かったかな?
136 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:45:42
>>134 それは侍童の山角平太郎だね。
後北条の家臣に山角姓は多いからだれかお偉いさんのご子息だろうね。
137 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 11:55:18
御北条氏の家臣団の所領は各々の活動拠点からけっけう離れた所に点在して与えられてるんだよね。
138 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 12:51:54
そりゃ北条の領地拡大にともなって与えられていったからね
139 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:47:23
相模・伊豆は古参家臣たちの本領が多かったし、
例え重臣の一族だろうと、分家したら上野や武蔵の
遠隔地に知行を与えるしか無かったんだろうな。
140 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:42:08
貫高制に基づく統一的な知行制を布いていたから領地がどこでもいいわけか
141 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 01:27:45
北条の八王子とか松山とかの衆は単に軍団編成でなくその地方を統治してたの?
142 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 07:00:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
143 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:29:17
>>「風林火山」の視聴率は低かった。
>>一昨年の「巧妙が辻」、3年前の「義経」以下の視聴率。
去年の日テレの「55ランキング」見てたか?
いつも「行列のできる法律相談所」抑えて日曜の1位だったろうが?
「功名」や「義経」は近年の大河では例外的に視聴率が高かっただけ。
通常の番組からすれば十分、高い。
↑どうでもいいよ。そんなこと。
145 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:24:18
俺は千葉県市川国府台古戦場近辺の住人なのだが
小田原に本拠を持つ北条氏がここまで来て戦ったのかと思うと、
あらためて北条氏の所領の大きさに驚くぜ。
おまえら、そういう肉体感覚で歴史を計ったことあるのかよ?
笑わせるぜ。
146 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:46:10
じたばたするなよ
ごめ。国府台なんて近いうちだと思うけどw
東京の隣りじゃん。
148 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:01:56
>>146 世紀末が来るぜ
>>147 そうやって人をバカにしてればいいじゃんか。
人の渾身のレスをそうやって笑えよ。
笑ってろよ!
この辺の人間は皆、国府台古戦場を誇りにしてるんだよ…
149 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:07:14
俺は小田原から単身赴任で木更津に住んどる。
百首城や佐貫城址へ行って「こんなとこまで治めたんだー」と驚いて、
三船台古戦場じゃ「こんなとこで武相豆兵が何百と戦死したのか。。」
と感無量・・・。
週末金曜には小田原帰参の気持ちで帰省して、日曜夜には上総攻め気分を
毎週味わってるぜ。
145もたまには小田原へ伺候して、更に肉体的感覚で歴史を計るべし。
150 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:31:44
>>149 ふっ…
所詮、俺は井の中の蛙だったのだな…
自分だけが北条の偉大さを知っていると思い上がり
大声で恥を晒しあげてしまった…
しかもシヴ柿隊の歌詞を理解できる年であるにもかからず、だ…
だが俺は北条氏で最偉大は早雲ではなく、
二代氏綱だと思っている。
コーエーのゲームや司馬遼の価値観はいただけない。
それだけは申し渡しておくよ。
151 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:47:24
シブ楽器隊知ってる?
152 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:52:03
来週の「その時歴史〜」で遂に北条5代くる
154 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:58:40
北条の最大版図くらい把握してろよな
155 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:11:08
>>シブ楽器隊知ってる?
シヴ柿隊のバックコーラスね
俺の年なら知らない奴はいないよ
156 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:15:44
2ちゃんはほんとバカの集まりだよな…
よく国府台辺りでそんな感慨に浸れたよな…
こいつら相手になにかしゃべるの馬鹿々々しいよ…
157 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:28:02
上総下総上野下野甲斐信濃
158 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:31:55
最前線
上野厩橋、下野小山、信濃佐久、
>>149 騎馬、徒歩、水軍船以外の交通手段は禁止で。
同じ関東ならなんとか歩けるだろ
161 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:59:22
信濃佐久って武田領じゃないのか?
信玄が生きてる間は…
それに上杉謙信がいったん、小田原城囲んでるでしょ?
最大版図といっても多分に離合集散の激しい烏合だろう…
日本新党の連立政権みたいなもんだよ…
162 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:07:10
>>161 佐久は天正十年当時は北條領になったよ。真田が裏切って家康に取られたけどね
163 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:19:04
天正10年が北条領が一番拡大してた時期だな。
上州桐生、野州足利、常州土浦や総州久留里の目の前まで手中にして碓氷峠も越えて信濃佐久を切り取り甲斐も攻めた。
164 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:24:08
北条は本能寺の変に乗じた火事場泥棒的な勢いがあったね!
165 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:28:50
来週の「その時」で後北条やるのかよ?
まあ期待しない方がよいかな。
166 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:32:02
>>163 恐ろしく広いな
ほとんど東北を除いた東日本そのものじゃないか
167 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:58:02
東日本はそんなに狭くないけど滝川一益を追い出してから破竹の勢いで領土拡大してるからな。
でも里見も宇都宮も佐竹も那須も真田も健在で徳川が北条の最大のライバルになってから守備にまわって危うくなってきた。
徳川とは同盟するも小牧長久手で御大途様にもかげりが・・・
168 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 04:11:04
小田原北条氏といえば生粋の戦国大名で始祖早雲の小田原城略取から関東に本格的な戦国乱世を告げたのだから自らの滅亡で戦国時代の幕引きを飾れて冥利だな
そして北条の跡を襲った徳川家康が関東衆を率いて天下を取ったってわけかよ
170 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 05:06:57
>>169 そう考えると余計に徳川家康が偉大に見えてくるな。
むしろそれだけの大領土を数世代にわたり維持しながら
天下をとれなかった歴代北条がよほど無能に見えてくる。
まぁ群雄割拠時代だったからね北条は、徳川の関東入りはバックに豊臣付いてたし
武田は無く上杉も無いも同然だったし
172 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 09:54:27
北条の狙いはあくまで関東制覇で天下に覇権を望んではなかっただろうね
民衆の生活と、地方分権を守ることを第一の目的に北条一族は戦ったのです。
と松平アナが寝言言うのが目に浮かぶのですが。
175 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 14:05:06
領民の大途への直訴を認めたとか善政を強調した番組になるんだろうな
小田原の北条祭に甲冑着て参陣したいんだけど埼玉県民でも参加できるかな?
北条一族や有名武将役は公募か著名人かもしれないけど地元埼玉でも無名に等しい岩槻衆山田大学介役として「槍」の一字を大書した旗指物に朱槍を持って参加できますかね?
177 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:08:48
参加できる人はもう決まってるよ
あれは町起こしのイヴェントだから
178 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:19:32
鉢形城でも同じような祭やってるから寄居町に問い合わせてみたら?
179 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:41:49
>>173−175
我等が北条様の宣伝になるし、たまには徹頭徹尾
北条マンセーも良いだろ。まっ。取りあえず楽しみましょうぜ。w
180 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:02:53
関東者としては北条が一番
181 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 23:11:19
早雲寺様万歳!春松院様万歳!大聖院様万歳!
「掛かれ〜!勝った!勝った!勝った!」。。。。ってとこかな?
182 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:00:25
勝った勝った!!!!!!!!!!!
183 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:32:17
地黄八幡の旗を昔、真田資料館で見た。結構保存状態が良くって驚いた。
何でこんなとこに・・って思ったけど、深沢城で武田信玄が入手して、
真田昌輝に下げ渡したものなんだね。
それから何年かして深沢城址に行った時、低くなった土塁や埋もれかけた
堀跡にしか往時を偲べない城址と、城がまだ機能してる時と同じ時期にそこに
存在したにも関わらず、綺麗に保存されてる地黄八幡の旗との対比が、
感慨深かった事を覚えてる。
184 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:42:15
地黄八幡の旗は川越夜戦以来関八州における北条氏覇権の象徴。
それだけ大事にされたんだろうな
185 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:49:22
「その時歴史が動いた」
民を慈しむ事を第一とした北条氏ってそれはないだろ
186 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:58:47
民の動向を神経質に気にしてたのは確かだな
187 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:59:38
守護でも名門でもない北条は領民の意識を神経質に気にしてたのは確かだな
松平アナの趣味番組って、なんやかんやとテーマを標榜したいんだよ。
本気にする内容じゃないだろ、とくに戦国ものは。
189 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:24:01
>>地黄八幡
なんと読むのですか?
190 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:43:18
川越の夜戦で北条の優勢は決まったよな
籠城に耐えた地黄八幡が城門を開きて敵を散々に討ち取ってから北条の武蔵侵攻がはじまったわけだ
鉢形城の北条氏邦祭のHP見た。ちゃんと扮装すれば参加できそうだな。
でも前田勢じゃ嫌だな。
192 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 11:47:10
今からGWまでの間に開催されるおすすめの後北条系の祭りってある?
193 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 18:51:40
194 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:30:59
195 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 05:06:31
行列は一番大きなのを見に行ったほうがいいよ。
悪いこと言わないから。
たまに町内会でやってるようなものもありがっくり。
196 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:23:44
正直、上杉謙信や武田信玄のほうが格好よい。
北条氏は国内のロシアみたいなもん。
図体がデカいだけで能動的でなく、輝き、魅力もない。
197 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:28:59
正直、上杉謙信や武田信玄のほうが格好よい。
北条氏は国内のロシアみたいなもん。
図体がデカいだけで能動的でなく、輝き、魅力もない。
198 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 12:41:43
北条五代まつり
199 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:08:25
「箱根の坂」のイメージが強い。
200 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 23:53:38
作者に問題あり
202 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:17:25
>>180 関東者なので、太田支持します。
伊勢さんは都に帰ってください。
203 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:57:29
太田ももともとは関東じゃないって!
204 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 02:09:20
>>202 関東者なので佐野を支持します。
太田さんは丹波へ帰ってください。
205 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 08:17:55
そんなこと言ったら佐野氏も先祖は京師から出てるし、戦国の関東で活躍した武士のほとんどがそうだろ
206 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:28:54
>>205 >>佐野氏も先祖は京師から出てるし、
>>戦国の関東で活躍した武士のほとんどがそうだろ
それ言ったらおしまいだろ、馬鹿が…。
207 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 10:21:20
北条幻庵がシブイしカッコイイと思う
佐野氏忠は影薄いね
むしろ先祖まで遡っても関東土着の有力氏族って誰がいるだろう?
209 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 19:55:45
那須や宇都宮、それに秀郷流藤原氏も古代国造の子孫が
藤原氏などを仮冒したと言う説もあるでしょ?壬生氏なんか、
なんとなく正真正銘の土着氏族っぽいなあ。
ってか、そんな事言ったら武蔵七党とか絶対土着氏族だろうな。
210 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:03:09
北条氏は戦国大名の領国支配に関する研究の中心的存在なのに今さらNHKが取りあげるとはずいぶんと遅いな
211 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:16:50
>>藤原氏などを仮冒したと言う説もあるでしょ?
最近ではそうでもないんじゃいですか?
京から来て蝦夷の国内移配の受け入れ先の受領が
武士団の祖という見解もあり、そうなると多くの惣領たちが
藤原を名乗っているのは、あながち嘘とは言い切れませんよ。
京から遠いから藤原の性は不自然、というのは
あくまで印象論にとどめるべきですよ。
212 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 12:19:39
>最近ではそうでもないんじゃいですか?
というか、最近特に言われるようになったんじゃ?
213 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 12:45:58
昔からだよ
214 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 18:14:21
北条氏直vs滝川一益の神流川古戦場近くに住む群馬県民だが、最近の在来線は油断できんな。
久しぶりに電車に乗って大宮に行くつもりが爆睡こいて・・・なんと小田原まで持っていかれた。
(本当は新宿を過ぎた辺りで寝過ごしたことに薄々気づいてたんだけど眠くてたまらなかったし海が見たくなって)
216 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:50:45
>>214 湘南新宿ラインかな?
高崎方面も宇都宮方面へも随時に攻め込む事が出来る。
逆方向からなら御大途様へのご機嫌伺いや、小田原への詫言
参上にも自由自在。便利になったもんだ。
217 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:08:32
里見も正木もアクアラインで横浜〜三浦半島と攻め放題!
木更津辺り住みの御田舎様の方が、横浜にも羽田にも
大磯在住の俺よりも、はるかに短時間で出られるって
言うのが微妙に悔し。全然スレに関係ないが。。。。
218 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:45:28
>>215 根府川駅は確かに海はよく見えるのだが、東海道本線全区間で唯一の無人駅だけあって周りは寂しい。
関東大震災のときには根府川駅に停車中の列車が崖崩れで海に転落したって話もあるね。
>>216 一昔前だと在来線での長距離寝過ごしっていうと関西の話が定番だったけど、関東も湘新ラインのおかげでだいぶ似てきたね。
まあ一つの列車が長距離を走るということは、どこかでダイヤが狂ったときにそれが広範囲に影響するっていう負の側面もあるが。
219 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:46:42
まあ今でも、直通運転の長さでは関西のが上だよ。
湘南新宿ラインの最長・・・前橋〜小田原、198.7キロ
新快速の最長・・・敦賀〜播州赤穂、275.5キロ
一昔前だと新快速の運転区間は、長浜〜大阪〜姫路だったんで、
完全に秀吉ラインじゃないかという声もあったが、
今ではさらに運転区間が伸びてしまったので、
秀吉ラインというには難しくなった。
敦賀は金ヶ崎城関連で秀吉にこじつけられなくもないが、
赤穂って特に秀吉との関連は思い浮かばないし。
220 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:10:54
まあどうせ電車で寝過ごすなら、
北条の、小田原の御大途様の関東覇権の“夢”を偲びながら寝過ごしたいね
221 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:46:16
そおなると東武東上線だな
222 :
武陽隠士:2008/03/12(水) 00:12:16
>>214〜220
>>本当は新宿を過ぎた辺りで寝過ごしたことに
>>薄々気づいてたんだけど海が見たくなってな…
ふっ…
やっぱ日本史ファンってロマンティックな奴が多いんだな…
こっちまでなんか、あったかい気持ちになっちまったぜ…
悔しいけど…俺…
このスレに感謝…です…
223 :
武陽隠士:2008/03/12(水) 00:15:31
馬鹿?
224 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:18:48
北条に疎いやつは戦国史に疎い
225 :
武陽隠士 :2008/03/12(水) 00:23:46
北条の好きな奴はゲーマーに多い
226 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:24:37
戦国時代を調べたければ後北条の豊富な古文書は避けて通れないから
227 :
武陽隠士 :2008/03/12(水) 00:31:09
戦国ゲームをやれば後北条氏の豊富な戦力は避けて通れないから
228 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:33:24
>>219 車両のクオリティでは、性能的にもインテリア的にも、新快速の圧勝だな(グリーン車を除く)。
まあ俺は海ではないが、琵琶湖を見たくて18切符で無意味に琵琶湖を一周したことは何度かある。
琵琶湖線(東海道本線)からだとほとんど見えるところはないが、湖西線からだと長時間に渡ってよく見える。
229 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:34:04
231 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:49:31
全部本物。最近は他スレでも狂ったようにバカ発言繰り返してる。
まあ元々基地外だったが
232 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:19:30
233 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:36:31
>>214 滝川一益と合戦したのは氏直ではなく氏邦では?
234 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 02:03:39
大 途
235 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 02:32:31
236 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 12:30:05
ところで「大途」ってどう言う意味?北条氏以外じゃ
聞いたことがない。
237 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 13:32:24
公儀と同意語?
NHK「その時、歴史が動いた」
第318回
戦国北条 百年王国の夢
平成20年3月12日 (水) 22:00〜22:43 総合
239 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 19:02:46
内容はどうであれ楽しみ♪
240 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 19:39:23
目安制の導入とか今に残る多数の印判状などから領国支配の実像に迫るのかな
241 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:10:07
籠城がメインなら道祖土家文書とかの着到状は間違いなく出るな
ガキから老人まで武者めく様にして狩出したやつ
242 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:12:50
北条早雲の不幸は、その子孫がそうかになったことだろ。実に悲しいことだ!
243 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:14:23
氏政氏直時代が絶頂期
244 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:16:42
そうかそうか・・・その通り。
とか言いつつ、今日のNHK総合PM10:00〜を楽しみにする
245 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:20:41
北条の夢か・・・・
246 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:25:43
武田と手切れになった時や秀吉が北条征伐に乗り出した時など危機が迫った
時に度々北条家が領民に対して使う「御国」って言葉も紹介されるかな?
247 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:36:04
『その時歴史が動いた』って浅いよね…。
これほど浅い番組はない。
対象が「はじめて歴史番組見ました」って人向け。
248 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 20:44:43
じゃあ「大途」の解説もないのか・・・
249 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:43:31
危なかった。。。ついコタツでうとうと。
今目が覚めた。危うく『その時』を見逃すところだった。。。
250 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:45:20
あと16分だ!!
北条ファンッ!終結せよッ!
普段「北条氏のファンです」とかいいながら
こういうとき来ない奴って信用できないな
っつーか実況板じゃないだろうな?
こっちでいいんだろうな?
251 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:56:57
>>218 遅レス&スレ違いですまんが、その関東大震災の時の
根府川列車転落に、祖母の妹の養父が乗り合わせて居て亡くなった。
養母は自宅で家の下敷きになり死亡。岩村だってさ。
父母を亡くした祖母妹は実家に出戻ったそうだ。
今でも湯河原駅に事故慰霊碑あるね。
252 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:57:38
後3分!
253 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:59:01
北条ファンです。小田原の一大事と聞き及び着到しました!!!
254 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:59:51
もうはじまるのかよ。太刀は?物具は?
255 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:04:47
氏直公自らの松田尾張守入道の誅殺シーン出るかな??
256 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:08:42
「戦国の御世に理想郷をつくろうとした一族がいた
その名は北条氏」
「早雲は民のために将軍家打倒を決意します」
257 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:13:54
258 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:22:26
259 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:27:04
氏規が老人
260 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:29:08
「民衆の年貢が重くなるから豊臣と戦争した」
こんな教え方していいのか?
261 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:30:05
よろしくないね
呆れた内容…
いい部分しか見せない上に、氏直の判断ミスを
美談に纏めちゃってるw
神奈川の代議士からでも圧力かかったか?
近年稀に見る駄番組。
263 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:44:57
小田原城を明け渡したとき、中にいる若い美女は、やっぱり強姦されたの?
264 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:46:52
再三にわたる上洛要請に従わず無為に関東諸支城にこもる領民に無理を強いたのにな
265 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:48:35
氏政・氏照の切腹しすら省かれてた
266 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:54:20
まあエンターテイメントですから
267 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:57:05
まあ内容はアレだが、北条宣伝効果は有ったものと認む。
神奈川県人の俺としてはマンセーだな。w
これが美濃斎藤氏とか備前宇喜田氏の話で『民を慈しみ愛した云々』
となっていりゃ、NHKに抗議電話するところだが・・・・。
氏直も今回は氏政の干渉を解かれ、あたかも自分の意思のように
上方勢と戦い、そして開城したな。いつも親父の子分扱いだったが今日は
嬉しかっただろうと思う。
268 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:06:05
おれ埼玉だけど御大途があんな扱いされて悔しいな
269 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:18:26
>>263 7月7日から7月11日の間に水が引くように散って行きました
270 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:27:48
ルイス・フロイスの意見はどうだったんだろ?
後一ヶ月も辛抱していたら豊臣勢は四散したのだろうか?
奴ら小田原攻めに当り、沼津に10万石近い米を集積して
いたんだろ。
271 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:35:34
援軍も上方勢に内応者もない状況であと一月も辛抱なんかできんって
272 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:41:56
あの時点で支城もほとんど落ちて、残すは忍と
小田原くらいだったしな。
ほとんど1945年5月のベルリン状態。
273 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:45:39
しかし氏直と氏政親子のそっくりな事!
ジョージ5世とニコライ2世並に似てる。
274 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:01:50
氏直は歴戦のおじさんたち(氏房たち)に説得されて降伏したのにね
275 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:20:14
今日の「その時歴史が動いた」見て笑った。
伊達政宗が小田原に向けて出陣って、わずかな供をつれて危険な下野武蔵を避けて越後信濃経由でコソコソと馳せ参じたのに何言ってんだって。
276 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:27:33
>>270 仮にフロイスの予想通りに一旦秀吉軍が撤退したとしても、
「後北条氏vs日本全国その他全部」という構図が変わらない限り、
長い目で見て勝ち目はないだろうよ。
277 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:28:50
>>273 ジョージ5世とニコライ2世って親子じゃないぞ。
女系をたどれば従兄弟くらいの位置にはなっていたような記憶はあるが。
278 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:33:06
フロイスとかどうでもいいって。
歴史にもしも・・・とかifは禁物だろ
279 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:42:17
>>277 親子じゃなくって従兄弟なのは知ってるが、本当に
親子より良く似てるぞ。
280 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:43:00
結局局地戦で勝つことはあっても大局的に見て勝ち目がないから降伏したって部分だけが核心。
あとはこじつけ。
しかし二公一民はきついな。と思う北条支配下の農家の末裔。
282 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:04:26
七公三民もキツイよ@武田氏領農民の子孫
283 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:07:40
小代官なんてテレビで初めて見たよ
284 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:15:11
税率なんて問題じゃないだろ。大切なのは武士の振る舞い。
地獄の8公2民を食らってた会津の百姓の末裔は
今頃会津武士道をマンセーしてるんだぞ。
285 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:27:43
マンセーって何?
286 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:28:20
>>284 そうお上が喜ぶような事を言うおまいさんには
明日からガソリンL当り更に25円重加算、医療費5割負担、
所得税基本給の40%徴収の刑に処す。
・・とか言ってみる。w
287 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:31:46
>>286 現代の政治家の徳が会津武士並に高ければ大歓迎だぜ!
288 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:32:56
>>285 ああ、マンセーね。色の基準の事だよ。
マンセー7B5/2とか日本ではJIS規格になってる。
>>284 でも当時はうらまれていたと思うよ。長岡藩の場合だと、今でこそ郷土の英雄たる河合継之介だって
「いまは愛想もつきのすけ」と当時は皮肉られていたわけだし。
290 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:46:59
なんで会津の話してんの?
291 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:50:08
よそ者の北条か
土着の太田か
292 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:58:51
よそ者の徳川か
土着の北条か
293 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 02:00:41
後北条氏の家臣もほとんどそっくり徳川の御旗本
294 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 02:30:54
後北条家の血筋が微妙に復活。
伊勢盛時(早雲)ー北条長綱(幻庵)ー北条氏信ー北条氏隆ー正木頼忠室ーお万の方ー徳川頼宣ー徳川光貞ー徳川吉宗
こういう時にいかにも水を得た魚の如くテレビ番組に文句言ってる奴って何なの?
俺の方が詳しいって知識自慢がしたいの?
296 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 02:52:52
あの番組は知識の無い人向けだから。
297 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:00:01
じゃあ見なければいいんじゃん?
298 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:07:47
299 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:47:00
はげ
300 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 10:35:46
自慢云々よりあまりにも内容がアレだったからな。
301 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 11:55:19
江戸幕府の評定所も伊豆箱根両所権現の誓詞を使ってるし北条時代のままだな
302 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:21:04
303 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:52:53
「民衆が正しい」
「権力はいつでも悪」
「秀吉は侵略者」
これがNHKのスタンス。
>>267 ×北条宣伝効果
○学会大勝利効果
一万石の小大名が江戸期に財政破綻するのは定例コース。
収入が増える見込みもない場合、大リストラか質素倹約しかすることないのも当たり前。
「民の気持ちを」「減税」
つまりこう言いたいだけちゃうんか、と。
犬HKは氏ね。
305 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:17:41
子孫の出演と氏朝の日記は余計だったな。
306 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 17:15:53
>>303 ほんとそうだね。
何かっていうと民衆、民衆。層化マンセーなのかと思ってしまう。
「学会大勝利効果」って、これしか感じられない。
ただ、歴史考証の北条時代小田原城の本丸御殿(遠侍)が、
ほとんど武田館と同じ。CG再現はよかった。
田峯居城っていうのと、瓜二つだが。
307 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 17:34:57
学会色は出てなかったと思うが?
308 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:55:34
歴史オタには困ったものだな
309 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:14:38
氏房の活躍が知りたいです
310 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:07:40
氏房二度目の夜討ち
311 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:32:00
金山の由良や祇園城の小山を攻めた時も氏房活躍してたような
312 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:40:14
昨日の番組のことは忘れよう\(゚@゚)/
313 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:11:23
狭山藩って氏規の子孫じゃなかったっけ?
>>307 「権力に君臨しているように見えて、実はいつでも大衆の味方」
「決して負けてはいない。民のことを考えて行動しただけ」
そんな狭山北条氏の子孫が、学会のry
315 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:32:25
小田原で立ちションベン
316 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:38:54
関東のつれション
317 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:05:54
あれだけひどい番組だと別の意味で余韻が冷めないな...。
>>「秀吉は民のことを思いやった北条氏直に感激し、命を奪わず
>>1万石の大名に取り立てました」
↑どう考えても徳川家康の娘婿だから家康の顔立ててのことだろ?
318 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:13:25
>>「北条氏は民衆の年貢を重くしようとする豊臣を
>>許せず戦争した」
ここまでバカにされて俺たちはこのままでいいのか?
高校生とかならこの話、鵜呑みにして
『信長の野望』で北条氏ばかりを選択するようになるぜ…。
前からちょっとよくわからなかったことなのですが、
早雲寺殿廿一箇条の「寺殿」って、戒名に関係する語ですよね?
家康の「安国院殿」みたいな。こっちは「あんこくいんでん」と読むと思いますけど、
なぜ早雲寺殿の場合は「そううんじどの」と訓読みするのでしょうか?
理由をご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。
320 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:55:40
「〜院殿」も本当に「〜ゐんでん」で良いのかどうかには議論がある。
「〜ゐんどの」だと主張する人もなくはない。
同様に邸宅の名前の「〜殿」も「〜どの」なのか「〜でん」なのか議論がある。
321 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 03:11:10
どのだよ
322 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 10:59:24
スレチガイかもしれないけど
北条早雲の子孫は層化学会の会長やってたぞ。
死んだけど。
北条早雲なんて人は存在しません。
とかはまあいいとして、
俺の中では氏直が死んだ時点で北条は終わってる。
後のことはどうでもいい。
もう少し言えば、家の繋がりはあっても血のつながりはない。
直接的には、政宗の子孫だし。
324 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 18:32:22
どうせなら今に至るまで『氏』の通字を引き継いで
欲しかったな。浩とか尚とか、嵯峨源氏かい。
で、途中で伊達氏にのっとられた血筋だが、傍系などでオリジナルの子孫って
残っているんだろうか?
氏康も氏政もあれだけ子供作ったんだし。。。。
325 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 19:05:33
子孫とかどうでもいい
326 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 19:16:17
そう言えば聞かないな。後北条氏の分家って。
鎌倉北条氏もそうだが。
>>324 千葉直重の子孫が徳島藩で三好郡代とかをつとめており、幕末の当主までの
情報が千葉氏を扱ったサイトに掲載されてた。すくなくとも幕末の当主までは
直重の血をひいているらしい。
ほかは北条直定が紀州藩に仕えたり、氏邦の子孫が加賀藩に仕えたりしているが、前者は
いつのまにか子孫の情報が途絶え、後者は絶家。
あとは仙台藩に仕えたという氏直の子だけど、これは眉唾だと思う。
仮に北条の縁者だとしても、小田原合戦後の動向が不明な氏政の子か一族の子孫だと
思う。勝千代とか源蔵とか、詳細不明の子息が氏政にはいたはず。
328 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:35:48
なんか寂しい子孫状況だな。平島公方だって直系の
子孫が残ってるっていうのに。
家督争いが無かった(支族が少ないって意味で)
と言うのも良し悪しだな。
北条就之(なんちゅう名付けだよ)の子孫は今でも
残っているのかね。しかし女系だからな。
そんなことは初めからわかりきったことだし
>>320 どうもありがとうございます。諸説あるわけですか。
それにしても、基本的には「早雲寺殿」は「どの」、それ以外は「でん」のパターンが多いですよね。
今ではそういうものだと割り切っていますが、どうしてこういった語が訓読みになるんでしょうね。
ただの重箱読みなのかもしれませんけど。
331 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:14:12
332 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:25:58
ドノだよドノ!!!!
333 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:35:51
>>330 むしろ人物への敬称なら訓読みのほうが普通のような感じもするのだが、
院号に付ける場合は「でん」と読むという意見が根強い。
334 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 00:21:27
敬称ではないでしょ、この場合(広義ではそうかもだけど)
335 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 02:49:50
大途ってどういう意味なの?
336 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 02:55:46
等持院殿
鹿苑院殿
慈照院殿
ウジウジしてんじゃねーよ
338 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 03:35:54
339 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 08:22:23
権現様 大聖寺様 春松院様
340 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 09:29:18
下総古河の者だけど今から湘南新宿ライナーに乗って小田原に出仕してくる!
うーん、小田原行くなら桜の時期とか
藤の綺麗な五代祭りの頃よか。
342 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 15:16:38
湘南新宿ライナーって?
344 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 18:38:25
北条ファンってどうして徳川ファンにならないんだ?
どう考えても徳川のほうが偉大だろうに...
345 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:01:26
ファンじゃなくてマニア
346 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:19:05
北条氏って偽善の匂いがするよな。
徳川氏のほうが実直な感じがする。
347 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:56:06
正直、氏政・氏直時代は興味なし。
348 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:50:40
横浜の地に13年暮らし、昨年故郷大阪に戻った俺は、
狭山に血脈を残した北条家が興味深い。
郷土資料館にも行ってみた。
オレずっと狭山藩て埼玉の狭山だと思ってた。
351 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:50:56
旗本の北条氏の方が興味あるな
>>350 大阪の狭山町は前から市制を敷いていた埼玉の狭山市と同じにならないように大阪狭山市になった。
大和郡山とか東松山とかあるから河内狭山市とか西狭山市になるのかと思っていたら意表を突かれた。
まぁ西東京市よりはマシ
355 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 21:13:06
私からすれば北条氏の印象というのは20世紀初頭のロシア。
図体が大きいだけ。
しかもここに集まってるのは奇特なマニアだけ。
小田原でも北条を信奉する人など少数だ。
山梨における武田家や鹿児島の島津家、山口における毛利家ほどの
尊崇はとても受けていない。
情けない一族だよ、北条氏は…。
356 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 21:44:36
お前さんは小田原の人なのかい?
357 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 21:52:49
三浦半島一帯では三浦氏を尊敬しているが?
358 :
ぶ陽いんし:2008/03/17(月) 22:55:01
>>355 そういう史学と関係ないタワゴト書くな
偽物野郎
世事見聞録も読めないクズ
ウザい
359 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 22:56:59
偽者同士で罵り合いかw
358は本物かも
透明してっからなにがなんだかわがんね
362 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:40:44
池田大作氏
363 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 02:43:10
誰も北条を信奉などしていないと思うが。まあいいか。
364 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:45:25
366 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/19(水) 00:33:51
>>365ほかの方々
>>358は私。
>>355はなりすましだ。
だいたい関東に住んでる(私は東京もん)日本史好きなら北条は親しい。
城跡なんか北条のものが殆だしさ。
ていうか改修なんかで武蔵相模の城跡は北条の手に掛かったのが殆どだよね(例外あり)。
それと武田はともかく、なんで辺境の毛利と島津をヨイショしなくちゃいけないんだ。
東京モンの私が田舎もんの豪族をヨイショする縁も義理もないよ。
東京モンという田舎者w
368 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/19(水) 01:10:04
>>367 田舎云々に腹が立ったら謝る。
閉鎖的な村落共同体の住人である君の、ムラを誇る気持ちを傷付けるつもりはなかった。
許してくれ。
東京のことで知りたいことがあったら何でも訊いてくれ。
きっと力になるよ。
369 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 01:39:50
だね
>>368 「閉鎖的な村落共同体」これが今の流行りかねw
371 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 15:19:27
小田原北条氏の研究(領国支配について)をしたいのですが、資料集でなにかよいものないですか?
373 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 17:58:55
勝った!勝った!!
374 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 18:49:04
また毛利厨か
375 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 20:01:27
合言葉
勝った勝った勝った!!
376 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 22:31:51
玉縄北条氏は、氏勝が大名になったけど、氏重に嗣子なくて絶家、
氏長の系統が旗本になってるが子孫は無事続いているのかね・・・?
と、書いたところでWiki見たら、氏重の娘が大岡忠相のお母さんなんだね。
大岡越前には黄八幡の血が流れてたんだな。。。
377 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 23:05:23
で、その越後守忠相が将軍家のおぼえ目出度く晩年大名に列した。
まことに冥利なことである。
378 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 23:08:49
しかもその越後の墓は・・・
でもその家は、正確には北条じゃねーからなぁ。
福島だ福島。
380 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 00:58:34
>>378 相模國茅ヶ崎市にあるな。そういや市内の荻園で中世の館跡
が発掘されて北条家臣新田(しんでん)氏の屋敷跡じゃねーの?
って話が二、三年前あった。
隣の平塚氏には、相模十四家の布施氏の子孫が今でも先祖伝来の屋敷地
に住んでる。
裏山が砦みたくなってたらしく、土塁や曲輪が今でも識別できるよ。
381 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 02:11:28
越後じゃなくて越前だろw
382 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:28:47
小田原を開城し降伏。氏政、氏照は切腹し残った北条家の人々は高野山へ
小田原攻めの一方の当事者であった真田氏も何年か後に九度山へ追放
武家は厳しいのう
383 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 14:11:04
>>380 市内でも萩園含めた円蔵以西及び寒川かけては
鎌倉時代は幕府高級官僚所領地、戦国あたりになると
今川・武田・北条などの旧臣が落ちのびた地域と
言われている。
384 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 19:36:47
>>383 平塚市西部にも石巻氏の所領だった地、北条氏尭の寺領寄進状
などを寺宝にしてる寺がある。それと土屋氏の末裔だが、武田氏に
仕え、武田滅亡後に北条家臣となった家の子孫なんかも存在。
先祖の里に里帰りしたは良いが、あっと言う間に再度主家滅亡だな。
相模、特に西部地域は伊豆以外では、最も早く北条氏の支配地に
なったから何かと北条氏由縁の話はあるよね。
385 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 19:47:52
>>382 しかし、真田は松代10万石の大名で
ちゃっかり残りましたがな・・・。!><!
386 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 01:18:30
氏直が助命された理由って一番大きいのは徳川家康の娘婿だったからってことなんでしょ?
387 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 01:46:51
大阪狭山藩主となる。
388 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 02:34:37
389 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 02:54:46
>>376 氏重は保科正直の倅で、氏勝の実子が早世した後迎えた養子なので北条氏の血縁ではない
390 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 03:00:52
その時歴史が動いたの再放送見てるんだが
「小田原無血開城」って!?
俺のご先祖は伝えによると小田原城で蒲生勢との合戦で討ち死にしてるんだがなぁ
391 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 03:46:15
>>390 太田氏房が夜襲を蒲生勢に仕掛けたらしいけど、もしかしてご先祖は岩槻衆?
伊勢貞運なども小田原合戦で討ち死にしているね
392 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 03:56:44
けっこう討死してるよな
無血開城とは言い過ぎだね
393 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 04:07:00
笹曲輪でも山角上野介らと井伊直政が二度も兵を交えて首級四百取られてるし
394 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 04:17:23
>>386 民を慈しむ心に秀吉が感服して助命されたっていうのは作りすぎだよなw
しかも氏直の父氏政以下切腹した者もいたことには一切触れていないしw
395 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 04:21:04
396 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 04:29:11
しかし前半ではやたらと「足利家の悪政」を連呼していたが、今回の制作者は
足利に何か恨みでもあるのか?
まあ予想はしていたけど、やはり早雲の伊豆侵攻と明応の政変との関係はスルーw
397 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 09:51:56
立て烏帽子に白い直垂着て倒されてた人物は足利茶々丸?
>>396 あの番組は普段から、室町時代はほとんど取り上げないしねえ
理由は知らんが足利嫌いなのかもな
399 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 22:00:46
松平アナが足利嫌いとか?
400 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 22:52:01
北条一門の支城主の任官について
401 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/21(金) 22:54:10
>>398 視聴率が取れないから。
日本史板のみなさんもパンピーだから分かるでしょ?
去年、東博で足利将軍家関連の特別展と徳川将軍家の特別展それぞれ開催したけど、
足利の方の展観が断然空いていた(後半は若干混み出しようだが…)。
パンピーは足利とか室町に興味ない。
それとNHKには大河ドラマ『花の乱』が大コケにコケたというトラウマがある。
だから君たちみたいな人たちが喜ぶ「出し物」なるたけ演ってるわけだ。
2ちゃんは誰が強いとか竜馬がどうとか信長がああだ新撰組が強いとか
くだらない話題ばっかでしょ。
それと同じこと。
402 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:51:14
がっかり橋ってどこにあるの?
しかし北条氏は16世紀の支配層としては
世界的にみてもかなりモラリスティックであることは確かだ。
建前をまともに信じ込むあたりはいかにも関東的で好感がもてる。
関西人は建前を信じないので無限に腐敗してゆく。
まるで朝鮮人みたいにな。
それから俺が後北条氏でもっとも高く評価しているのは
三代氏康なんかじゃない。
こいつを高く評価するのはゲーヲタだけ。
俺が一番高く評価しているのは二代氏綱だよ。
氏綱は領国経営の基礎を築いただけじゃない。
残した文面を見ても
「たとえ天運尽きて家が滅びようと、義を尽くせ」と子に諭している。
家が滅んでも義を通せとは、あの御時勢には珍しい。
武田勝頼とか上杉景勝のような低脳にはこの種の人物はいた。
しかし氏綱のような器量人がこのような美しい概念をもっていたことに唸る。
俺は信長のようなマルチ商法的結果至上主義の人間は評価しない。
最後に、どうして俺が信長を評価しないか、それを教えて講義を終える。
これからの時代、財産にせよ、社会的地位にせよ、
すべてはコミュニケーションの力から生み出される。
これからの時代は個々の信用による世渡り、ルネサンス期のヨーロッパのように
信義がないからこそ、信義を売りにする世渡りが必要とされる。
だから信長のような生き方は、必ず挫折する。
信長がどうして本能寺を起こされたと思う?
「こいつなら殺してもかまわない」と思われたからだよ。
光秀は信長を殺せば自分に賛同者が群がってくると信じていた。
信長を殺すことが皆に歓迎されると思っていたからだ。
信長的生き方とは、そんなもんだ。
一方、家康は、信長・秀吉ほどの器量はなかったが
律儀で裏切りづらい人間だったに違いない。
源頼朝は道理から離れず、頼朝と敵対する者は自然に道理に反する人物に
されてしまったというが、家康も同じで、家康のように真面目に
生きられてしまうと、家康に謀反する人間が悪人に見えて
謀反しずらかったに違いない。
氏綱好きでブヨと意見一致とはw 嬉しくもないが。
407 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 11:17:03
>>406 こいつは多分偽者だな。論調のレベルが低いといわざるを得ない。
「義」がどうこうというけど、実際問題として、景勝の代で集権化に
成功しているし、その過程に御館の乱があり「義」だの何だので
割り切れるような行動は決してとっていないぜ?
408 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 12:30:03
しかし、氏綱が多くの寺社建築を一挙にしたために
結果的に財政はかなり厳しくなったわな。
409 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 20:53:31
相豆・武蔵地域に、神社仏閣の古木以外に大木が少ないのは、
氏綱の一連の普請で切りつくしたから、、、と何かの本で読んだ。
410 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:09:20
411 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/25(火) 22:13:48
>>410聞け!
>>403はなりすましだ!(朝五時は寝てる。こいつはどこかのニート野郎だろう)
朝鮮人に敵意はない(だけじゃなくレイシズムは好きじゃない)。
トリップつける前ウジャウジャ出てきた偽武陽隠士だ!
いちいちくだらないレスするなクズ野郎!
すっごーいwww
ブヨって成りすましや偽まで出てきてるんだ。
413 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 22:49:39
>>409 それはかなりこじつけだと思われ。
あのあたりの場合、台風や地震といった天災も
関係しているとオモ。あと廃仏毀釈とかもね。
415 :
武陽隠士 :2008/03/27(木) 07:07:35
北条氏というのは、戦国という無慈悲な時代に咲いた一輪の蓮だね…。
北条一門の掲げた一種の人文主義は、いまのような
汚らしい時代だからこそ、光芒を放つんだよね…。
今日も朝の日差しがまぶしいが、同じような朝日を
北条氏の人々も見ていたんだよな…。
私も北条家訓を肝銘して生きていくよ…。
416 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 12:35:15
甲斐や上野下野の民たちからしたら迷惑だったんだろ
417 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:26:46
んなこたーない。
北条様の傘に入るなんざー、戦国の世に生まれた民に
幸せこの上ない事よ。
後北条好きだけど、あまり綺麗ご立派と言うのも
何だか違うような気がして違和感が。
慈善事業で大名してたわけじゃないんだし。
419 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/27(木) 22:35:17
>>415 ことわっておくが私ではない。なりすましだ。
レス違いだが、所信を述べさせて頂く。
私はクリスチャンなので、本当はアンチクリスト的なレス(日常世界でもね)には不快感がある。
しかし歴史学は科学(を志向してる。科学して成立しうるか否かはここでは問わない)なので、価値相対主義を貫き通さなくてはいけない。
だから日曜日の聖日礼拝以外の時間は私はキリスト教を一切エコ贔屓しない。
キリスト教のみならずあらゆる事柄を相対的に見る眼差しを私は持つように心がけているわけだ。
だからジョークとしてはあり得ても、
>>415のように後北条氏を崇めるような真似はしない。
日曜日の礼拝以外は完璧な科学の使徒だ。
特定のイデオロギー等に荷担はしない。
420 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/27(木) 22:47:40
連投だが…
「科学」すらどこかで疑ってるね私は。
科学もイデオロギーの一変種になって世の中に作用を及ぼすことはよくあるからね。
421 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 22:58:07
自分に酔いすぎ。
422 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/27(木) 23:19:01
>>421 だって自分が一番好きだもーん(*^_^*)
423 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:37:07
キモ
424 :
武陽隠士:2008/03/27(木) 23:46:03
アッラーアクバル
425 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 07:57:07
>>特定のイデオロギー等に荷担はしない。
自分でクリスチャンだといっていなかったか?
また仏教を宗教だといって攻撃したこともあったな
ブヨよ。
貴様はいい加減なチンピラだよ。
日本史板最悪のゴロツキだ。
426 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 08:02:02
武田氏と北条氏ってどっちが上?
427 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 10:48:27
武田氏と北条氏ってどっちが下?
428 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 13:08:50
後北条氏分国を中心に関東によくある地名なんですが「立野」「舘野」などについていろいろ調べています。
詳しい方いませんか?
429 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 08:46:23
その地名が北条氏と関連付けされてるのかい?
北条氏の創始でパッと思い付くのは神奈川県の『中郡』
くらいだなあ。
相模を『西郡・中郡・東郡』と分け代官を置いた。明治に
なって再度、中郡だけが復活。
中郡は今じゃ大磯・二宮町だけとなってしまったが。
mapionで検索(関東周辺のみピックアップ)
茨城県つくば市館野
埼玉県川口市大字安行西立野
埼玉県川口市大字西立野
埼玉県春日部市立野
千葉県市原市立野
千葉県香取郡神崎町立野
東京都練馬区立野町
神奈川県横浜市中区立野
神奈川県平塚市立野町
神奈川県秦野市立野台
神奈川県座間市立野台
山梨県大月市梁川町立野
静岡県下田市立野
静岡県伊豆市小立野
静岡県伊豆市本立野
あやしいのは平塚と伊豆あたりか。もっとも現在の住所から消えてしまった
古い地名は引っかからないけど。
431 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 17:05:37
立野って伐採を禁じられた城普請用の木材を切り出す林だろ?
後北条は何代もかけてまともに領地を切り取れなかった駄馬の集まり
433 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 21:04:21
>>430 平塚の立野町は、海軍火薬廠の社宅建設絡みで
名付けられたと聞いてる。
そんなに古くからの地名では無と思う。
434 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/30(日) 21:20:58
>>425 日本語能力がない御仁だね。
クリスチャンは礼拝祈祷会の時だけと留保してあるんだけどさ。
価値相対主義で諸イデオロギーを論じてる私には取り立てて間違いはない。
しかし2ちゃんだなやっぱり。
反論批判にもなってない。
まあいいや。君みたいなクズ叩けば私の恐れと不安も晴れるかも知れないし…。
435 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:09:21
歴史群像4月号買ってきた。
関東『北条帝国』への道・・これから読むわ。
436 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:33:52
武陽出て来るとスレが荒れて&止まるな。
まさに無用なお方。
437 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 15:56:23
立野・立山は後北条氏の直轄領で農民や在地土豪の入会を禁止または制限された山林
438 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 16:10:38
直轄領云々は関係ないよ
結城氏も立野に関する禁令出してるはず
439 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 17:11:41
足立郡佐々目郷の立野銭
440 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:18:05
>>403 いろいろご高説を垂れているが、結局は関西≒朝鮮という単純な発想かw
>>404 「氏綱公御書置」って偽文書の可能性は大丈夫なの?
TVKの小田原の歌ってw
442 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 16:57:18
age
443 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 18:41:33
君達は分かってない
北条は謙信様のお情けで存続した家
謙信様がひとたび本気モードになれば、たった1人で小田原城を落とせるんだよ
刀も槍も矢も鉄砲玉も、謙信様の身体には触れられない
という事は武田家自慢の透析部隊の出番ですね
445 :
大膳:2008/04/15(火) 19:02:51
>>101に付け足し
島津家も伊達家の様に、居城としての鹿児島城の他に
領内に百二十にも及ぶ支城を持っていた。(幕府黙認)
446 :
大膳:2008/04/15(火) 19:04:13
447 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 04:40:20
早雲は今川の客分だよね
448 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 07:15:57
当初、客分でも最後は事実上守護代に。
質問
評定衆はいつぐらいからできたん?
450 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 12:25:45
氏綱の代に
武田勝頼は滅亡直前に織田信長との和睦を模索していたといわれていますが、
北条氏政や徳川家康との和睦という発想は無かったんジャロか?
長篠合戦以降、武田と織田はを小康状態を保っていたわけですが、
織田だけと講和するって一体…。
>>452 それは、直接攻め込んでたのが織田軍だったからじゃないんか?
あと、北条氏政との和睦は無理。
御舘の乱で、勝頼は氏政の弟見殺しにしてるしな。
それで、今度自分がヤバくなったら和睦しましょうとかみっともないだろ。
454 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 15:36:27
でも最後の最後は相模にも逃げることも考えていたんじゃないか?
奥方はご大途の妹だし。
もし相模に逃げていたとしたら、ご大途は織田に身柄を引き渡したかな?
それとも自害させたかな?恐らくいずれにしても命長らえる事は難しかった
だろうな。
思い切って昌幸の申し出に従ったらよかったのに・・・。
455 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 16:10:07
>>454 松姫と仁科盛信の子女が八王子に逃れているけどなあ。
どうだろうね
>>454 勝頼は奥方に、相模に落ち延びろみたいな事を言ったみたいだが、奥方は拒否したらしいな。
あと、勝頼の性格考えると今更北条頼るのは潔くないと考えただろう。
仮に勝頼が北条へ落ち延びたとしても・・・
おそらく北条方は織田との友好関係を優先させただろうし。
氏政は、秀吉の事は結構軽く見ていたフシもあるが、信長に対してはかなり高評価だったわけだしさ。
452です。
みなさん、ありがdd。
ふむふむ、ここの住人は金曜日に動き出すのか。
上杉政虎は永禄四年に松山城を救援するため関東遠征を始めますが、
武蔵の生野山合戦で北条氏康に敗北したため、
それ以上南下することができず唐沢山城へ侵攻方向を変えたとのこと。
上杉軍は侵攻方向を変えなければいけないほどの打撃を受けたのでしょうか?
史料が少なくよく分からないので詳細を知る方お手数ですが教えて頂けないでしょうか?
上杉側の史料が皆無でまるで北条版手取川って感じですよ。
気長〜にお待ちしております。
459 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 22:23:34
無血開城だからされてないんじゃないの?
こういう場合どうなんだろ??
>>453 見殺しというなら氏政も同罪に近いと思われ。
大事な弟なら佐竹と喧嘩しになんて行くなよw
461 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 23:28:24
>>236 >>335 京の将軍家と関東公方を指す『都鄙の大途』という表現を見たような覚えがある。
>>452 武田と織田の和睦交渉は佐竹が発案し仲介しようとしたものだから、
当然反北条という前提を伴うものになる。
勝頼は佐竹との同盟で関東での戦いは有利に進めていたから和睦も考えなかったのかもね。
>>458 埼玉県史資料編6に北条側の氏政からの感状が五通ある。何れも永禄四年十一月二十八日で
生山での昨日の戦いについて『越国衆追崩』とか『利根川端迄追詰』とある。
上杉側の史料としては十二月九日の上杉政虎→長尾満景宛書状に
晴信と氏康が敗北するだろうから佐野へ向かうとある。
十月辺りから信玄は西上野を攻めており、この生山での戦いもそれに呼応したものかな。
方向転換にしても信玄の西上野攻めのほうが大きいだろう。
また後でレスするかも。
462 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 12:28:29
age
463 :
461:2008/05/10(土) 23:48:17
やはり続きを書くつもりですが、基礎の部分で見落としがあるのに
長文書いたら恥さらしなのでいくつか伺いたい。(これを知っている人のほうが書くのに私よりふさわしいんだけどね)
埼玉県史資料編6に漏れている生山での戦いに関する書状はあるか。
たぶん生野山合戦の出所は黒田基樹氏の(私の記憶が確かならば)定本上杉謙信と黒田氏の論文集にある
謙信の関東経略に関する論文とそれをもとにした歴史群像、新人物往来社系の一般向けのものだと思うんですが
他にこの戦いにふれている研究者、論文はあるか。
ウィキペディアの北条氏康の生野山合戦のところに「謙信公御年譜」とあるが、
私の知るかぎり謙信公御年譜にこの戦いのことはなく、少なくとも永禄四年や松山城攻めのところにはない。
ひょっとしたらこの謙信公御年譜というのは
通称上杉年譜の元禄のころ米沢藩の正史としてまとめられた謙信公御年譜ではなく
ttp://kenshin.web.infoseek.co.jp/kensinnenpu.htm のことか。それとも上杉年譜のほかのところにあるのか。
464 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:45:13
著名武将に関するウィキ記事には怪しいトンデモ知識を史実と信じている戦国マニア(歴史マニアではない)が編集するからな。
465 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:13:56
永禄四年十月五日に氏康が松山口へ陣をはったことに対して近衛前久が越山要請
同年十一月二日に願文を掲げ信玄西上野へ出陣、十七日高田氏降伏、二十四日国峯城攻略、
十一月二十七日、生山で北条側と「越国衆」が交戦。双方の大将は不詳。
次の倉賀野攻めの話を考えると、氏康は信玄の要請を受けて松山の陣を引き払い
倉賀野に援軍として赴いていて、これはその途中の戦闘だろう。
十二月三日、七日、十五日の政虎→橋爪若狭守宛感状によると、
氏康・晴信が倉賀野を攻めたが、橋爪若狭守は倉賀野尚行に意見し、
若狭守たちが堅固にして守りぬいたようだ。
従来、この書状は永禄四年のものと六年のものに分かれるとされた。
しかしそれは不自然なのでこれはすべて六年もので四年の倉賀野攻めは無かったという説もあった。
だが近年の原本調査によって謙信の橋爪宛書状は上杉年譜のとおりみな永禄四年のものであることが確認された。
十二月九日に古河城にいた政虎→長尾満景宛書状に
晴信氏康が手をあわせ攻めてきたが政虎は堅固にしているので敗北は眼前、
敵が負けるだろうから翌日佐野へ向かうとある。
政虎は十一月に厩橋に入り越年したとある本があるが何に基づくか確認できなかった。
翌年二月二十七日須田栄定→長尾政景宛書状に二月九日に輝虎館林を攻め、
十七日に攻略し、佐野へ向かったとある。
三月十四日の北条氏照→天徳寺宛書状によればこの佐野攻めは失敗したようだ。
原本調査によって上杉年譜(謙信公御年譜)の記述が確かめられたこともあって参考までに上杉年譜の内容にふれておく。
信玄が十一月に西上野へ向かうと上野の味方は謙信へ使者を送り、謙信は越山の用意を行った。
これを聞いた信玄は氏康に援軍を求め、両軍で倉賀野城を攻めた。
城主倉賀野尚行は幼かったが橋爪若狭守や上州野州の軍勢が防戦した。(橋爪宛書状に触れる)
政虎の出馬が近いときいて信玄氏康は強いて戦おうとせず退散した。
政虎は両軍との一戦が無いようなら佐野に出馬しようときめて長尾満景へ書状を送った。
466 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:15:26
生山近辺の状況。
永禄七年信玄本庄へ放火しているのでまだ本庄はまだ上杉方。
平沢政実は三国同盟破綻に伴い下克上したとされるが、それ以前から多く書状を出しており、
上野武蔵にあった足利長尾氏の飛び地の代官で安保氏らの上位の権力だったと考えられる。
(また、安保氏へ上州足利氏領を充行したとされる資料は後世の地名があり偽文書)
平沢政実は信玄が平沢氏領から充行をするようになる永禄七年ごろに信玄に従ったと考えられる。
(川鍋巌「北武蔵・西上州の秘史」
ちなみに同書でも生山での感状を氏康が倉賀野へいった証拠として扱っている。)
ゆえに他の充行の書状も考慮すると
生山南西の金屋が北条と上杉方の平沢氏の境で、生山の近辺はこの戦い以降もまだ上杉方だったと考えられる。
謙信の進行方向について。
永禄五年十二月頃までに和田氏が信玄に寝返っており、
以降謙信の利根川以西での軍事行動は和田城攻めに集中するが何れも失敗している。
謙信が利根川以西で南下することができなくなったのはこの和田城のせいだろう。
まとめ
・生山の戦いは氏康が倉賀野へ援軍に行く途中での戦闘。
・謙信が参加したかは無論、『越国衆』の中身も不明。また、『利根川端迄追詰』は虚構。(神流川なら有り得る)
・信玄が西上野を切り取った以外、特に勢力圏は変わらず。
467 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/13(火) 23:33:12
ウィキには単なる間違いとかのレベルを越えた、
虚構妄想レベルのホラ話が学問的な色彩をまとって記載されてる。
書く奴も書く奴だが、あんなもんを馬鹿みたいに参照してる奴らもクズだろう。
ちなみに半信半疑で引用してるという奴も馬鹿クズだ。
>>467 それをここに書きにくるのはどういう意図があってのことでしょうか?
>>466から上の自分で研究してる人なら、相手にしないほうがいいぞ、このクソコテ
中身のある議論なんかするつもりもない、出来ない、ただひとを煽って、小ばかにして悦に入ってる精神年齢の幼い小人だから
>>428 今月でた『軍需物資から見た戦国合戦』という新書で触れていますね。
ちゃんと読んでいないので、どうなのか知りませんが。
>>469 どうも。
>>469 まぁ、自分でちゃんと典拠出されなら出典付きでウィキに書き込んで痛い連中を黙らせて欲しいのだが。
472 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:12:03
『生野山合戦』の出所は黒田氏の年表よりも花ヶ前盛明氏のもののようだ。
最近出た新人物往来社の『上杉謙信のすべて』にあった。
前から花ヶ前氏はこの本に書いてあるようなことを書いていただろうから、
そこから広まったんだろう。
立ち読みだからあんまり細かくは見ていないが、
>>458さんが書いているのと同じように
謙信が松山城救援に向かう途中の戦いのように書いている。
それから、他の研究者では、久保田順一氏も生山での戦いは
倉賀野攻めの途中のこととしている。
>>471 黙るといいんだけどね。
473 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:08:01
新人物往来社www
474 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 00:22:46
>>471 ウィキは見ないし参考にもしない
参考にしたり真に受けるバカのために
労力使う義理はないぜ
要するにウィキを話題にすること人間は問題外ってことね。
ちゃんとした研究者の前で
ウィキのこと話題にしてみろよバカ
無視されるか失笑されるかのどちらかだぜ
ま、ウィキがどうこういう奴に日本史やる資格はねえよ
ヒマジンのタワゴトだなw
元々北条氏はは岡山の井原出身ですから、大都会岡山名誉県人認定して良いですね。
476 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:29:58
ウワゴトだよw
477 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:42:23
>>474 ウィキに投稿編集してみなw
世界中からクロスファイャーを浴びるぜw
478 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:48:22
研究者ってギャラいいの?
北条オタなんか日本のごく一部の戦国マニアだけだろw
世界中とはふきすぎw
480 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:13:43
戦国時代の研究をするには後北条氏関係の文書は避けて通れないというか研究せざるを得ないはずだが
481 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:24:28
たしかに現存する文書の量は最多だろうからな
482 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:10:31
要するに生野山合戦はなかったと。
483 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:38:51
氏房の焼けた素肌に
なぞるイニシャル
真夏の渚…
484 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:42:00
Tシャツの氏規
485 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 14:25:51
対佐竹や対越後の戦で小田原勢で一番よく戦ったのは誰?
458です。
>>461さん、ありがdd。
質問ばかりでは申し訳ありませんので、
私からも生野山合戦の情報(北条側)をかきかき・・・〆(・・
既に知っていたらスマソ。
永禄四年
九月
南図書助、日尾城を占拠し北条家に帰属。
逸見蔵人佐、北条家に降伏し高松城が北条家に帰属。
(九月以降は北条軍の進軍が著しい様子。)
十一月
生野山合戦。
小野籐八郎、上杉側武将の本江某を討ち取る。
大田豊後守、上杉軍を利根川へ追い討つ。
小野籐八郎、大田豊後守、桜井左近、小畑泰清、良知弥三郎らに感状有り。
487 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 12:45:16
488 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 17:51:35
>>486 今手元に資料が無いんですが、私の記憶が確かならば、
生山での感状は埼玉県史ほかにあるものですね。
『本江』というのは、例えば『本庄近江守』とかかも知れませんね。
同時期の秩父攻めについては、先述の川鍋巌「北武蔵・西上州の秘史」 に詳しいです。
これまた同書が手元にないのですが、九月に氏政が太田某に河越に移るよう命じていたはずで、
秩父攻めに一応をけりがついていたのでしょう。主力は河越へ移り松山城攻めに合流したのかもしれません。
以降、藤田乙千代(氏邦)を中心として秩父攻めは続いたようですが、
十二月の段階で秩父の城に投降を呼びかけているところからしても(これが高松城ではなかったかな)
この頃までは秩父に留まっていて生山とは関係が無いと思います。
翌年正月に秩父のほとんどが北条に帰属したという史料があって、
川鍋氏は秩父を統括していた黒沢上野守が帰属したのだと解釈しています。
黒沢氏は上野山中(上武国境の山奥)出身で秩父の伝承かなにかによれば
上野守は武田信玄に仕えたあと北条に帰属したということで、川鍋氏もそれを踏襲していますが、
今ひとつ史料がありませんね。
上野側の黒沢氏は信玄に仕えているので、永禄四年の信玄の西上野で黒沢一族は信玄に下ったが
秩父の黒沢氏は武田北条の盟約により北条に味方したのでしょうか。
後年、勝頼が甲相同盟破綻後秩父を狙ったときに氏邦は秩父に黒沢上野守の指示を仰ぐよう命じていますから
藤田の秩父支配で重要人物だったのは確かなんでしょうが。
本能寺後に信濃に出陣した黒沢繁信と同一人物かな。
北条早雲は小者だろ。
今川氏の家臣だったという説もあるくらい。
490 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 19:25:29
家臣だとなぜ小者なのか?
証左したまえ。
491 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 20:09:03
家臣じゃないし
492 :
489:2008/06/07(土) 00:22:26
493 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 18:43:54
敢えて言うなら『客将』だろうな。
なるほど伊豆を押さえてからも、今川軍として三河などにも
転戦してるが、明らかに家臣格でも小物扱いでも無いわな。
494 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:55:38
ていうか御大途様は関東の覇者で足利一門の守護大名とは対等だから
495 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 17:42:56
関東の覇者w
496 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 21:51:55
497 :
日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:15:52
関東の覇者は言いすぎだろう。秀吉いなかったら
そうなれた可能性もあるが、結局佐竹も宇都宮も里見も
制圧出来なかったし。真田さえも。
信長が天下様とか言われたのと似たようなもん。
別にいいんじゃない?
景虎か秀吉がなければ、なりえたわけだし。
499 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 01:00:42
氏政氏直のころの後北条氏はまちがいなく関東の覇者だよ
「確かに」?
>>497 里見は城下の盟を強いたから実質屈服させているだろ。
13年もの間、佐竹陣営が追い詰められていっているときに、里見は何かしたというのか?
小田原の役だってギリギリまで動かないで、それを咎められて上総領取り上げられてるんだし。
502 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 17:13:00
>北条早雲は小者だろ。
>今川氏の家臣だったという説もあるくらい。
プッ
503 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 18:07:20
『狭山と北条氏』を注文したぞ〜
氏規の書状や家康や秀家ら大老の連署などなかなか興味深いし
狭山藩の歴代が北条五代の画像や墓を整えていたんだよな
北条尚氏所蔵の史料もかなりあり、やはり子孫ともなると
いろいろ残ってるな
504 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 14:21:07
当時の今川に客将なんて地位があったのか?どう考えても臣下だろ…
505 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 18:37:36
客分と考えるのが自然
臣下の礼を取っていた形跡もないし其をうかがわせるような行動もない
御館の乱で景虎が勝っていたら
面白かったのに
家康が領国替えにもかかわらず、すんなりと天下獲りへ進めたのは
北条氏が領国を整えていたからだよ
いわば星野監督が阪神を優勝へもっていけたのは
野村が阪神を整備しておいたからだよ
そのことを忘れんなよ
>>507 北条家の多くの家臣を再雇用したことも大きいかな。
即戦力の人材を労せず手中に収めることができたのは幸運。
509 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 00:04:13
>>508 分家が再雇用されて、本家の俺んちは再雇用されそこね帰農したよ。w
いまじゃ住んでる場所も職業も全然違うが、年賀状と葬祭の付き合いは
まだしてる。
510 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 02:01:48
北条なんて敵じゃないですね。基本的に撃退して危機的な状況なんて三船山前夜の時くらい。
里見義堯
義堯は北条氏綱の支援を受けて重臣正木時茂とともに
上総金谷城において挙兵して里見義豊を殺害し家督を奪った
義堯が家督を奪うやすぐさま北条氏を裏切った。
里見義弘
三船山合戦で北条を大破。失地の回復を成し遂げた。
義弘は生前、自身の死後は安房を義頼に与え上総を嫡男・梅王丸に与えることを約していた。
里見義頼
分割相続を義頼は不満に思い、義弘死後に北条氏政の妹・菊姫を妻にした義頼が氏政の支援を受けて
1580年までに安房より上総を制圧し、梅王丸を出家させ、里見氏の領国全てを継承することに成功した。
義頼夫人が死ぬと北条氏政との争いが再燃するが義頼はこれを撃退。このことで北条と敵対したのが
他の房総諸将と違い、小田原籠城側に回らず豊臣方に組する複線になり里見氏は存続することになる。
これは義堯が里見家督を奪う際に北条を悪用して用済みになったら北条を棄てる故事にならったものである。
里見義康
秀吉は里見領と北条領の境界裁定を実施、里見分国は
上総北東部は東金・土気酒井領
中央部は庁南武田領・中南部は万喜土岐領
を除いた地域。そして安房一国と確定されたのである。
秀吉は安房国・上総国および下総国の一部を安堵されたのである。
1587年(天正15年)8/9書状・氏照→葦名
「あなたの国とは三代に渡り仲良くしてきました。その縁で我々は佐竹とは敵対したくないのでなんとか佐竹との和睦を執りなしてくださいお願いします」
と再三に渡り佐竹の武威を恐れ和睦斡旋を必死に哀願する弱北条ごときw
つまり房州源氏里見家は家中の統制がまったく効いてなかったということ?
512 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:46:11
一応釣られてやろう。w
佐竹の武威云々より戦略的な理由だろうに。。。
いくら北条でも二正面三正面作戦はきつい。
逆に佐竹が北条・里見・結城・宇都宮が全て敵側だったらどうなったか?
おそらく早々に敗北していたと思われ。
秀吉の来攻がもう3年も遅かったら里見ともども完全に北条の軍門に下って
いたんじゃないか?
513 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:53:33
宇都宮も食われてたかもな
宇都宮は一度食われてるよ
日光の社僧神人に倉ヶ崎城囲まれたり小田原に人質出したり
515 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 11:42:57
北条氏が戦国関東にひとつの秩序をもたらしたことは認めろよ。
当時の関東において北条氏は
いまの世界におけるアメリカみたいな存在だったんだよ。
それがわらないのならこのスレから出ていけばいい。
不愉快だ。
小田原へ人質を差し出せ!
517 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:57:35
人質取っても裏切るやつは裏切る
日光坊主どもは佐竹に蹴散らされて逃走したけどなw
519 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:10:33
宇都宮は城下まで攻められて大神宮他の社寺を焼かれてるな。
結局、多気山城を作って宇都宮ほぼ放棄。
この時も佐竹は結城他の反北条勢力共々、なんら有効な援助を
与える事も出来なかった。
佐竹は北条が上野方面に主力集中してる時期に火事場泥棒的に
ちょっかい出す程度。
521 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 21:32:29
佐竹衆が懇願するから赦免して陣を引き払った
桶狭間後に武田が駿河にちょっかい出し始めたあたりで
氏康が今川の保護後見とか適当な言い分で武田に先んじて
東海に進出してたらどうなってたかねえ
523 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 23:01:06
まずは関東制覇
524 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 01:46:21
徳川は北条の遺制をそっくり受け継いだ
525 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 04:49:04
小田原が落ちた時北条家が秘伝していた吾妻鏡が家康の手に渡ったというのは本当の話?
526 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 06:13:26
>>524 具体的にどのように?
もしくはそれを論証したものがあれば、
教えて下さいます?
527 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 11:34:22
そっくり受け継いだは言い過ぎだよ
528 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 13:20:50
>>522 確かに後手に回ったな。結果的には越相同盟になったが、
武田が駿河にちょっかいを出す前に越相同盟を結んで駿河侵攻もありだろう。
んで小田原が火の海になると
530 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 01:29:15
信濃は謙信、甲斐は氏康で分け取りでは?
531 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 08:57:28
ウジムシは妄想しかできんようだな
532 :
つまんねー言い争いよりコレ見ろ!:2008/07/02(水) 09:13:17
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まだ北条氏の偉大さが理解できないようだね
かわいそうな連中だな
534 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:53:31
頭が悪いのは確かだろう。天正14年5月には景勝、10月には家康が上洛して秀吉に臣従を誓っているのに、
あまりに動きがニブイ。天正16年には輝元も上洛しているが、臣従するがぎりは3者とも潰されることはなかった。
氏政、氏直は山猿というか井の中の蛙だったわけだね。
535 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 18:12:57
一戦あるのみ
536 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:16:17
>>535 そういう台詞は家中の意思統一が見込めた時に
はじめて使うものだw
織田信長の最盛期というか最後のころにはかなりビビッてるのに
その倍の勢力を糾合した秀吉とは喧嘩したのは何でなんだろう
小田原の中の人が世代交代してるからね
仙台藩百姓が紛れ込んだか
540 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 02:04:32
氏政自身が主戦派だからどうしようもない。相当なアホだ。
たとえ臣従したとしても余りに図体でかすぎる。
難癖つけられていつかは潰されたか東北の僻地に百万石ぐらいで転封されたんじゃないか
542 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 03:51:11
そんなにもらえないだろ。
相模伊豆程度許してもらえりゃ充分だった。
島津長曽我部の例を見て判断出来なかったのかね。
まあ氏政・氏直のどちらかが大人しく上洛しても伊豆相模と武蔵半国くらいの安堵だろ
関東で五代に栄え甲・越を退かせた過去の成功体験が判断を狂わせたのかもしれない
古に小松三位中将維盛を大将とする千万余騎が関東武士に恐れる余り水鳥の羽音に驚いて逃げ帰った故事もあるし畏れるに足りずといったところだったんだろう
544 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 01:25:45
>>541 それはないだろう。
景勝、家康、輝元の三人はそれぞれ上洛して臣従したわけだが、
減封どころかやがては加増されている。
家康などは北条の領国を貰ったのに転減、減封されてないので、
「図体でかすぎる」ので転減、減封ということは秀吉に関しては言えない。
秀吉は気前がいいので上洛して臣従すれば、伊豆・相模・武蔵・下総はくれたんじゃないか?
島津も九州征伐で敗れながらも、当主が頭をまるめて出頭し謝罪したら2カ国残してくれたので、
北条征伐が始まってしまったとしても、山中城の落城あたりで出頭すれば伊豆・相模くらいはくれただろう。
545 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 01:36:31
氏直が生きていればすぐに2カ国ぐらいはくれただろう。
家康の婿でもあるし。
546 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 08:50:10
そんで朝鮮で失態して領地召し上げ&切腹で滅亡
547 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 09:55:29
歴史は変えられないのだから、
天下の大軍を引き受けて合戦に及んだ大途は立派じゃないか
548 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 13:48:28
北条関係は為政者賛美が過剰。なんか胡散臭い。
小田原に籠城した士卒のうち何人くらい討死したのだろうか?
550 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 18:12:30
城から出てきて戦闘、ってあったっけ?
>>548 信長の天才
信玄の将才
謙信の軍才
元就の謀才
これらと同等かそれ以上に誇張があるからね。
四公六民とか、小田原の繁栄など。
島津も長曽我部も最大領土の4分の1か、5分の1くらいの領地を安堵されてるな
まあこの両家は北条と違って、急速な領土拡大した直後ではあるけど
小田原討伐は、秀吉にすれば、
徳川を支援した過去への怒りと、伊達など奥州への牽制、見せしめ、直轄領の拡大など、
様々な原因があるだろうから、どうあがいても難癖つけて滅ぼされただろう。
関東の北条を島津とか長曽我部とか西国の大名と一緒にしないで!
篭城ばっかしてるようなヘタレは生かしておいてもなんの役にも立たないしな
名門でもないし
556 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:44:21
>>553 それはないだろう。
輝元や家康は、かつては秀吉に敵対していたが、上洛して臣従し、かつ大領を保った。
かつて敵対し、怒りの対象であったから潰すということはない。
島津や長曽我部も戦にるほどであったが、途中で素直に謝れば許して領土まで与えている。
そういえば、長曽我部も徳川を支援していたね。
それに、伊達なんて秀吉の眼中にはないし、伊達を潰そうが生かそうが秀吉の気分次第。
徳川時代は家康自身が豊臣を乗っ取った経験から、外様にきびしかったけど、豊臣ではそんなことはない。
実際に失態しないかぎりは大丈夫で、台風被害の城をちょっと補修(福島正則)しただけで改易なんてことはない。
557 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:51:47
>>555 確かにそうで、後詰めの見込みがないのに籠城では馬鹿としか言えない。
謙信の包囲の時には同盟していた信玄が軍勢を率いて碓氷峠から関東を窺がっていたし、
信玄の包囲の際には越相同盟があった。
558 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:55:39
たぶん支城ことごとく籠城するしかなかったんだろう
箱根を越えて黄瀬川まで氏直自ら陣頭に立って上方勢を迎撃しても結果は同じだったろうしな
まあ小田原北条氏が上洛しなくて良かったよ
560 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 10:53:14
>>550 氏規、氏邦などちょこちょこ夜襲掛けたりしてる。
561 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 11:01:14
実際のとこ、この時の北条は全軍でどのくらいの兵力持っていたのかね?
通説通り5万ってとこか?
上方20万・味方5万でも、もし精強な兵力で上方勢は日和見の烏合の衆だったら
勝機も有ったろうな。
徳川勢3万が沼津で謀反、伊達が2万の兵力で越後に侵入、、そんな夢のお話が
出現してたらなあ。
新興勢力秀吉の参謀のほうが、
システムに縛られた北条より柔軟だったわけか。
563 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 11:46:34
秀吉の天下統一の総仕上げだから北条を根狩りするつもりで来たんだろ
あんな状況で上方勢と籠城とはいえ兵を交えた小田原の武者魂に乾杯
とくに氏房に乾杯(^^)/▽☆▽\(^^)
564 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 12:03:27
氏房はいいよね
565 :
sage:2008/07/06(日) 13:15:38
>>561 北条軍の兵力について昔からずっと疑問に思ってたけど・・・
本によっては小田原の役での北条全軍を「3万4千」「5万6千」等の数字で断定してて、
「この人数で刃向っても負けて当然」とか書かれたんだけどねえ。
これって「小田原城に篭った」とされている人数じゃなかったか?
石高(240万石前後?)から計算したら10万人ほどは動員できるはずなんですよ。
そのあたり、皆さんはどう思いますか??
>>565 支城に篭っていた兵力は、各個撃破や封鎖で実質遊兵と化したまま潰れたから無視されているのが悲しいな。
下田の水軍衆なんか劣勢の中相当粘ったのに。
567 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 14:13:38
北条氏が天下の御弓箭に備えて限界を越えるくらいの兵力を躍起になって動員したことは間違いないだろうな
北条なんて圧政しかしないから、民衆も国人も負け戦にゃついてこない。
だから小城攻めと追撃しか経験がないんだよ。
決戦回避は意見がまとまらなかったせいじゃなくて、動員する能力がなかっただけさ。
支配体制が近代的と言われながらも事実としては形骸してて、
小田原城下は壁に囲まれた村に過ぎなかった。
度重なる民衆の逃亡と彼らの支持する国人の離反がいい例。
569 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 15:06:57
支城では忍と岩附が一番戦ったのかな
570 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:55:59
>>565 あの5万数千って数字、毛利家の纏めた北条方の支城要覧みたいな
ものに基づいた数字ですよね。
>>569 八王子をお忘れなく。城兵の亡霊が枕元に立ちますぞ。w
>>568 ???釣りですか?
571 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 18:46:04
ぶっちゃけ正木左近大夫正康が関東で一番強えーよ!
北条の善政は文献による裏付けがないね。
573 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 19:02:21
どんな意味がありますかね?
575 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 20:42:45
善政云々は言うつもりは無いが、大田領、佐野領での4公6民が布告されて
いた事を裏付ける文書の存在(国法云々の内容有り)、また5代の治世を通して
国人の蜂起や謀反も起きていない事実(農民の逃散は一時期頻発してるようだが)
からも、少なくともお隣の武田領などよりも住み易かった事は事実じゃねーの?
武田より住みやすいなんて嘘でしょ。
民政してるのに武田や長尾、豊臣が来たら国人は尻尾振り振り。彼らの領内でも一揆が発生してない。。。
佐竹や里見などの民も「北条様に見習え」と一揆した形跡がない。
四公六民も、国法は昔どうりにしただけで、ないないですよね。
治水や農政より搾取の体制を優先してて。。。。
自分の領民からも軍に必要なら略取してるでしょ。
小田原城下が武田長尾に全部焼かれても篭城。
577 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 21:06:05
たしかにそれが善政かどうかはわからないが賦役や貢額の減免を示す古文書は多数ある
由井領の当年年貢・諸公事一廻り御赦免の例など
減税や免税なら誰でもやってるっしょ
戦国時代に民衆を基本に置いた政治をしていたのは武田と毛利ぐらい
北条の民政は中共レベルだよ
579 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 21:33:30
現存する史料数では北条が随一かと
数だけで有能視されてもね。
実態がないなら軍神(笑)と同じだよ。
581 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 22:04:01
有能視…?
582 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 02:59:03
>>563 「天下統一の総仕上げ」でも「北条を根狩りするつもり」でもないだろう。
上洛して臣従していれば戦自体が起らなかった。、
名胡桃事件が起こったあとの昌幸宛の書状でさえも、「氏政が上洛して謝罪すれば赦免する」と言っている。
ところが、結局は使者を派遣して謝罪するだけで、氏政の上洛がなかったので「殿下御逆鱗」となった。
>>561 天正14年に、結局は家康の和議の申し入れ、臣従という流れになるので実行されなかったが、
秀吉は東国出馬の動員令を発していて、上杉にも信濃へ出陣するようにという書状が残っている。
秀吉は硬軟両用の作戦をとるので、妹を嫁にやったりする一方では軍事圧力をかけていたが、
家康は徳川・北条同盟をもってしても、豊臣の物量の前には滅亡するしかないので臣従を選択したわけだ。
臣従後、家康は北条に上洛を勧めていたが、あまりに動きがニブイので「上洛しないなら娘を返せ」と起請文を送っているし、
北条征伐と決定したからには、先鋒をつとめて秀吉に疑われないようにするだけで、精一杯だ。
583 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:55:42
>>565 240万石なんてないよ。せいぜい170万石程度では?
後に北条領に入った徳川は大雑把に240〜250万石と言われているが慶長3年(1598)の
検地でみると実際には200万石程度で、里見氏の上総領は里見氏の不手際で取り上げられ、
後に徳川領に加わっているので、その分を差し引く必要がある。
584 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 14:08:50
>民政してるのに武田や長尾、豊臣が来たら国人は尻尾振り振り。
>彼らの領内でも一揆が発生してない。。。
国人が尻尾ふりふりはどこでも当時はデフォだったでしょ?
天文年間でも越後・甲斐・安房・上総じゃ国人、重臣の反逆や内通が頻発していたよ。
少なくとも北条じゃ直属重臣の謀反など最末期の松田くらいしか例がない。
郡内の小山田などは氏綱と組んで信虎を攻めてるじゃん。
もっと後でも、景虎は余りに従わない国人衆に嫌気さして出奔してるくらいの状況
だったし。
征服地の国人尻尾フリフリでも確実に勢力拡大させていたし、かと言って無茶な
収奪をして国力を疲弊させた訳でも無いし、搾取とは言えないんじゃないか?
某お城HPで有名な井田氏など支配下に入れた小領主への過重軍役とかは別な。w
>>582 確かにそうなんだがな。禁句のifで徳川・北条・伊達(他奥州弱小大名連合)
vs豊臣だったらどうなったかなって思ってさ。
この組み合わせなら親徳川、親北条の勢力が必ず出て来て、西国・九州方面
でも一悶着起きてそうな気もするし、少なくとも豊臣はほぼ全軍を小田原に集中
する訳には行かなくなっただろうなと。
ちょうど信玄上洛戦の織田方みたいな状況(多正面作戦)になったかもな。
いずれにしてもどうせ滅ぶなら、試しに大途様上洛して欲しかったわ・・・・。
>>565 それは「騎」、つまり武士階級の人数についての数字。
彼らの従者や雇われた農民兵足軽を入れると数倍になる。
586 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:04:36
伊豆箱根両権現
587 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:34:49
>>585 総兵力5万として、その内の純戦闘員数はどのくらいだったんだろうか?
小荷駄などの構成員も兵力に入れていいのだろうか?金創医や陣僧は
もちろん入れられないんだろうけど・・・。
ちょっと前の「歴史群像」では『ひらひら武者めくやうに』の面々を
国民兵と表現していたな。
さすがに北条家でも、拠点防御と警備要員としか期待していなかったよう
だが。
588 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:46:32
ひらひら武者めく〜は道祖土家文書だね
民兵を徴発するのは常ではない
>>576の言うとおりかも知らん。
北条が搾取以外に何かしたとは思えない。
590 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:20:41
直訴を認め比較的公平な公事を制度化しました
591 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:23:33
>>584 徳川・北条・伊達(ありえないが)でも、全然無理でしょう。
秀吉の身代(石高)がまだ巨大でなく、家臣の統制もあまりとれていない状態で、
信雄(120万石)と連合し、佐々、長宗我部、雑賀衆などと連携しても歯がたたないしね。
長久手での勝利は日本軍が緒戦で勝っていたようなもの(マレー電撃戦など)で、
尾張の竹ヶ鼻城が秀吉の水攻めで落城するなど、三城を落とされたのに家康は手も足も出ず、
伊勢ではやられ放題で、秀吉の物量作戦の前に滅亡は目前で、家康は和議になって安堵しただろう。
結局、信雄は伊賀と伊勢半国を秀吉に割譲し、家康は秀康を人質として差し出した。
592 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:30:03
とりあえず上方の石高VS関東の貫高
比較が日本軍ってw
594 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 01:50:52
頭が悪い人むけの解説?
たぶん、
長久手の勝利は日本軍が緒戦で勝利した真珠湾や、マレー、シンガポール
みたようなもので、結局は秀吉(米国)の物量の前には敗れたってことね。
595 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 01:55:18
石高の差がそれほど無かった、小牧・長久手でも敗退してるわけだから、
はるかに差がついている北条征伐時点では徳川・北条・伊達でも勝てるわけがないってことだね。
596 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:15:59
小牧長久手にご大途様も参戦したらな。
関東情勢的に無理か。
597 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:42:59
名胡桃事件の時、責任者処罰程度しか秀吉が条件を引き上げなかったうちに降伏しておけばよかったのにな。
秀吉は北条が臣従する代わりに名胡桃問題で譲歩したのに、北条側はさらに欲張ったのが運のつき。
義に殉じて滅亡するのと、義を破って滅亡するのは天地格別って二代目様にいわれているのに……。
598 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 09:09:26
北条記では氏政は従四位下左京大夫、氏照が従五位下陸奥守という事になってるが、
本当に四位と五位に叙されたのかね?
>>596 佐竹衆と退陣中だった
でも小牧長久手への派遣の準備はしてたらしい
601 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 14:05:01
>>600 北条は渡瀬繁詮(由良氏)の策謀に引っかかったとか
この繁詮が曲者で、秀吉や上杉、真田、佐竹などと相謀って
北条を釘付けにしてしまった
小牧長久手で存在感を示せなかった北条家
その転落の大きな要因に繋がった
なんて話を聞いた事があるけど
>>601 内政能力
今川>>>>武田>>北条
文書の発給が多いのはそれだけ訴訟が多く内面に問題を抱えていた証拠だよ。
まずはじめに今川の先進的があって、武田と北条はそれを見習っただけでね。
武田は内紛が生じるだけの余力を領民や国人に与えるほど緩やかな統治をしていた。
北条は搾取以外に民政の証拠となるものはなにもないよ。
604 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 15:42:05
北条の人質だったゆえに北条の内情を知っており
秀吉は関東情勢で渡瀬の意見をよく聞いたらしいね。
天才的だったので秀次に連座して殺され、家督すら一族が継げず家臣が引き継いだとか。
605 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 15:55:23
607 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 16:42:10
小田原北条の現在に至る知名度を見てみ。
おれは生まれも育ちも横浜で高校は藤沢方面だったけど
ぜんぜん知名度ないし、慕う気持ちもない。北条と言ったら鎌倉北条。
小田原市くらいじゃねーの?支持や慕う気持ちがあるの。
武田や上杉は地元の支持があるくらい慕われてたから大河ドラマ運動もあり、実現してる作品も多い。
無駄のない民衆の搾取と支配の体制は、
しっかり徳川に受け継がれてきた。
609 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 19:15:18
もう夏休みか?
変な厨が常駐し出したぞ。
これを見事撃退してこそ北条の株が上がると言うもの。
誰か北条が民政に優れていたとする根拠を示すのです。
611 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 22:43:56
くだらね
北条をくだらないと申すか
613 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:34:06
歴史的に認定されている基本事項を知らないやつがいる
614 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 23:41:45
本能寺の変の時は滝川左近が攻めあぐねてたからそこそこ強かったとは思う
歴史的に認定されている?
北条記みたいな軍記をまともに受け取る学者はいませんよ。
北条を善政家にしているのはゲームと作家だけですから。残念!
616 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 00:28:10
>>615 私はゲームもやったこともないし小説も読んだことないですね
善政とかいうつもりもないし
617 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 08:15:23
>>612 文書が残ってるのが訴訟の多さとか、内紛が多いのが緩やかな統治とか
書き込んでる奴らがだよ。
歴史的認定も軍記物に基づいてるだけとか抜かすアホもいるし。
どうせ吊りなんだろうけどな。
件の荒らしは口調が悪いし、言いがかりも多いので相手にしたくないが、
でも北条が徴税(搾取というと反感を食うので)に優れていたのは事実で、
善政や民政の評価が適切かというと疑問がある。
実際にイメージだけで北条を称える人も多いんじゃなかろうか。
ではこの一族の何を評価するべきかというと、版図拡大の能力だけ
……でもない気がする。
みんなは北条のどこをいいと思う?
619 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 09:44:00
北条が謙信や信玄を撃退できたのは、小田原城のお陰というより、支城ネットワークのお陰。
謙信は10万とも言われる大軍を率いながら後方を撹乱され、信玄も早期退却を余儀なくされた。
いずれも主要支城群を落とせなかった結果。
が、秀吉軍は相手の支城兵力を圧倒する支隊を複数投入する事でこれを正面から破砕。
敵を誘引し、また退却する相手を撃つ決戦兵力でもある小田原に篭った兵はただの遊兵に。
なるほど。
小田原城単体が堅牢というのでなく、支城との連携がその防衛の要だったと。
でもこれは撃退ではないよね。両方とも敵が自ら去ったわけだから。
621 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 11:28:34
>>618 四公六民を基本的には守りながら、棟別銭や懸銭や賦役で実質増税みたいなもんか。w
検地増分も原則半分は直轄領に組み入れてるしな。
民政じゃ『誰でも小田原に注進せよ』で、実際に注進された小代官や領主が解任されたり
罰せられた文書もいくつか残っているし、逃散とかは氏康時代に頻発してるけど、
まあ年貢免除などで丸く収めてるようなんで「搾取」とまでは言えないんじゃないか?
逃散は領民の確信犯的手段って事もあるしね。
良くある伝説で「年貢が収められず釜茹で・牛裂きで云々」とか悲惨な話も北条領じゃ
一切無いし、戦国時代の大名の中じゃまあまあの民政だったんじゃないのかね?
>みんなは北条のどこをいいと思う?
家臣統制の巧みさと、五代を通じて一度も家督争いが無かった事かな?
弟も叔父も家督を継いだ当主を盛り立ててるし。wikiにもあるが、
あの時代じゃ稀有な事だと思う。
>>620 いや撃退でしょ。
戦略目的を達するために戦っているわけで、殺す事自体が目的ではない。
無論、できれば敵戦力自体を破壊して無力化したいだろうが、能力以上の博打を打ったらまず失敗する。
>>619 謙信の後方を撹乱したのは信玄でしょ
北信濃荒砥城を攻めてくれた
あと兵を退いた最大の理由は旱魃などで越後〜関東の事情が厳しかったからでしょ
越後本国は水争い・兵糧輸送でゴタゴタが起こり、関東に居る謙信が諫めたり、徳政を下してるし
北条の支城が何かやったなんて、信頼出来る史料に載ってたっけ
624 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 14:56:38
撃退ではないだろ
相手が撤収してるだけ
あくまで北条は受身。相手は能動的。
上杉の場合は目的である鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領就任されてるのを指を加えて眺めているしかできなかったわけだし。
信玄にもやりたい放題されて各地の城下を荒らされ放火されまくってるし。
一方的に被害被り過ぎ。経済損失で換算したらとんでもない被害額。それでもキッチリ税金徴収するんだから悪魔だよ。
>>621 四公六民の根拠は江戸時代の本にしか出てこないから
声高に言うべきではないんじゃないかしら。
小田原密告制度はうまく機能していたと思う。
これは他の大名にはないことだから誇れますね。
民を釜湯でなどの話がある大名なんていましたか?
もともとどこにもない例でしょ。
一族の結束は固いね。
ゲームやってると北条姓しか家臣がいないけど。
626 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 17:46:57
また荒らし登場か・・・ツラれてやるか。w
>四公六民の根拠は江戸時代の本にしか出てこないから
これは分国内で4公6民の施策が行われていた事を示す文書が残ってる。
どこかは自分で調べろ。
>民を釜湯でなどの話がある大名なんていましたか?
>もともとどこにもない例でしょ。
お前の至近に公立図書館とか大きな本屋あるか?
歴史コーナーを当ってみろ。。
ヒントは東海地方か四国辺りだ。
>ゲームやってると北条姓しか家臣がいないけど。
・・・・・・言う事はない。
てか、ここは日本史板だ。お前が逝くのは三戦板か
戦国板だと思う。
一反あたり一石できるとして、
それが銭にしたときどれだけの価値があるかがわからないとどれだけの割合とっていたか分からないよな。
中世通して一石あたりの米価は500〜1500文で、西国より東国の方が米価が高い傾向にあるらしい。
仮に平均の1000文かつ、西国より若干高めとして一石1200文として計算してみる。
一反で一石取れるとして一反で1200文の収入で、一反あたり税は500文。
500/1200=約42%。
懸銭は田ではなく畠にかかる税なので別枠、労役は控除対象されるので考慮に入れない。
これに棟別銭(+正木棟別銭)がかかるだけ。
あとは一軒あたりどれだけ田を持っているか。
仮に一反の田しか持っていないとすれば、反銭500文+棟別銭35文+正木棟別銭20文=555文。
収入は先に述べたように1200文なのでそれでも五公五民。
まあ一軒につき一反しか農地を持っていないというのはありえないけどな。
628 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:47:50
>626
>4公6民
北条の専売特許みたいに有名な施策理念なのに
調べないとその根拠が出ないのも不思議な話では???
>戦国板
日本史板は専門板より高度なところなんですね。わかります。
629 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 23:22:08
これ、荒らしのうちに入るの?
北条マンセースレだからファン以外お断り。
学術議論は他で。
632 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:42:38
自作自演乙
633 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 11:36:38
>>627 四公六民とか五公五民とかの割合は、反銭懸銭以外の分は入れないんじゃ
なかったっけ?
氏綱の鶴岡八幡宮再建の時は、北条一門は言うに及ばず、家臣〜領民に
至るまでかなり寄進(反強制的)をさせられたようだな。
銭、薪炭から金物、大木等々・・・。
ただし、当時の人々の信仰心から、かなり自発的な寄進だったらしいが。
代わりにこの時に貢献した家臣や郷村に、軍役免除や夫役免除などの特典も
氏綱は与えてる。
氏康の代なってから、これらの特典も打ち切りになった例多いらしいが。
634 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 13:16:30
昭和60年頃に発掘された、浜の大鳥居の基部部分は
氏綱建立のものだったらしいね。
当初は鎌倉時代の遺物か、とか騒がれたらしいけど。
635 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 14:41:09
>>623 北条方も自力で大槻合戦とかで上杉方を撃破している。
>>635 6人の上杉側を倒した書状があるだけで・・
637 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 16:37:44
>>636 大藤式部少輔宛の文書がたまたま遺っていただけで
別に6人だけ倒したって訳じゃないんだけど・・・。
638 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 17:49:38
数人倒しただけで勝利宣言する例は北条厨にはよくあること。
639 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 17:58:16
>数人倒しただけで勝利宣言する例
その例って他に何がある?言ってみ。
640 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:38:21
>>635 鉢形とか松山城方面でも上杉方の荷駄とか
襲ってるよ。
まるでパルチザン戦法だね。
生野山合戦も大合戦が行われた形跡はなく
合戦の推移&参加武将も不明で、せいぜい小競り合い程度でしかない
戦国板でも、出来るだけ詳細に分析してる人が居たけど
北条の出した感状には地理的な矛盾が見られたり
戦後も勢力図が殆ど変わっていないなど
つまらない戦を北条厨が誇大に吹聴してるだけ
>>640 それも軍記物じゃなかったっけ
松山城は謙信に落とされてるし
北条厨的には、戦がどうとかはどーでもいいんだ。
統治システムを語れるのが面白いんじゃないか。
戦自慢は武田や上杉におまかせしますよ。
>>633 >割合は、反銭懸銭以外の分は入れない
それは知らなかったよ、thx
644 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:42:18
小田原市史や千野原靖方氏の関東戦国史など比較的近年のものは
謙信は相模中郡から小田原を目指しその途中で大藤氏と戦ったとしている。
大藤氏宛感状は生山でのものと違って敵を追い崩したなんて書いていない。
勝っても負けても感状は出る。
氏康は三月十六日に城下の寺に制札を出しているが、これは軍勢を集めていたと言うことで
北条も大藤氏以外も迎撃を試みていたわけ。
そもそも関越軍が軍記に伝わるような大軍だったとは考えられず、(常野の勢力は軍を出し渋っていたくらいだし)
北条が迎撃を試みなかったというほうが不自然。
しかし謙信は三月三日に当麻から進軍し、十四日大槻合戦、二十二日曽我山合戦と、
ほぼ一直線上に進軍しているので、迎撃は失敗。
謙信は三月二十四日辺りから小田原攻めにとりかかり閏三月四日に撤退したが
三月中はほぼ鎌倉に滞在しており、越後へ引き上げるのは六月末。
極めてゆっくりと撤退しており、撤退の原因は小田原へ武田、今川の援軍がついたためと推測できる。
645 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 00:46:36
大藤氏は中郡郡代だったから、まさに管轄地を横切られた
って事か。
後に三方が原で討死した大藤某と同一人物なのかな?
646 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 02:28:56
では謙信の祖父が相模へ侵攻した時とほぼ同ルートを使用してるわけか?
謙信幕営で「懐かしいのう!輝虎さまの祖父に仕えてた時を思い出すのぅ。老骨なれど経験豊かな拙者におまかせを」なんて爺がいたんかな?
647 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 07:48:27
能景は平塚の真田城を攻めてるんだね。
でも、その頃の長尾氏の勢力は越後国内限定と思われ。
能景の越山も上杉顕定が弟の越後守護房能に援軍を依頼して
その命で純然たる援軍として来た訳だし。
でも顕定も房能も、後で謙信の親父に殺されちゃうんだけどな。
扇谷と山内上杉の争乱は、どうも時系列的にも
双方の陣営の人物構成的にも分かりにくい。
立川原の戦いで大負けしたと思ったら、まもなく
勝った筈の朝良があっけなく降伏しちゃたり・・・。
648 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 08:02:02
>>644 千野原の関東戦国史の後ろの方の家系図って間違い多くないか?
649 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 08:20:34
>>647 越後の領主の平子氏は今の横浜市にあった武蔵本目に以前は本領があったらしいと矢田俊文の本に書いてある。
あるいは能景時代の越後上杉氏家臣団に相模や武蔵に本領がある者達も出仕してたかも知れんね。
長尾家にとっても相模国の長尾郷(大船駅近く)にはお参りしたいんじゃないかな?
能景らが平塚や川越を攻め立てた時には今川や早雲らは伊豆に引き上げた後で早雲は湯治で温泉入ってたらしいしなw
扇谷上杉単体では山内上杉の先鋒となった越後勢には、かなわないのだろう。
山内も扇谷も共倒れ寸前で疲弊しまくってたからねぇ。
棟別銭は、時期によるがだいたい武田領の6分の1かそこらの低率。
家康も「北条の遺風が残っているのでやりにくい」と嘆いた。
>>644 だいたい同意。
でも武田や今川が援軍を出すのが遅れた理由が何なのかが気になる。
>>650 北条の善政がとかく持ち上げられるのは
すぐ隣に武田の悪例があったせいかもねw
653 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 09:39:24
>>649 そうだったな。長尾は戸塚の長尾が苗字の地だったんだな。
で思ったが、往時の真田城主だった真田与一は石橋山で討ち取られたが、
その時組討してたのが長尾新六定景、討ち取ったのがその弟の俣野五郎景久。
既にこの時に真田と縁があったわけだね。後日捕らえられて与一の父の
岡崎義実に預けられたが義実に助命され、所領も復活して三浦の被官となって
勢力を蓄え戦国に至ったんだね。
ちなみに岡崎氏は上杉禅秀の乱で禅秀に加担して消えた。
平子は本牧時代の平子牛法師丸に宛てた早雲の書状が残ってる。
結局、相模の所領を離れ越後に移住してしまったんだな。
>扇谷上杉単体では山内上杉の先鋒となった越後勢には、かなわないのだろう。
実際、不意を突かれて単体みたいになって降伏したんだね。今川氏親や早雲も
大森氏もこん時は扇谷の援軍となって戦った訳だが、この後ほどなく扇谷・山内・
大森vs早雲となって行くわけだ。この目まぐるしさがたまらん。
654 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 11:17:20
>>650 武田は勝頼の時七公三民を実施した。
逃走中に石を投げられたって話も、あながち嘘じゃないかもな。
>>648 その本って川越夜戦を平気で書いてるんだよな・・・
656 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 22:37:14
川越夜討ちは本当は昼戦だったんだろ。
本当に戦があったのかどうかもわからない。
河越で北条方と両上杉方との間で戦いがあったらしい、というのがせいぜい。
658 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 02:05:04
>>651 今川はすでに武蔵に援軍を出していた。
といってもたいした軍勢ではなかったから改めて小田原に行くことになったんだろうけど。
謙信は二月下旬に先遣隊が攻略した松山城に入るまで上野に留まっていたので
いきなり小田原に飛び込むとは予想できなかったのではないかな。
>>655 基本的に軍記物を多く引用しているからね。
この本、一応はたとえば謙信の小田原の所は近世軍記の東海道侵攻ではなく中郡侵攻を採るなど
研究者としてちゃんと軍記に対する批判的な観点はあるわけだけど
関東全体の通史を書くとなるとさすがに一々洗いなおすということはできないんだろうね。
他に俺にでもわかる難点といえば制札が出た即その地に侵攻というのも気になる。
箕輪長純寺のように信玄がまだはるか国峯城を攻めている時に
制札を貰いにいくという例があるわけだから。
とはいえ、俺は凄い良い本だと思ったよ。
659 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:06:10
中郡侵攻というのは、大槻合戦とかあるところ見ると、
現在の国道246、または秦野県道のルートを通って秦野松田方面から
小田原へって感じですか?
660 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:15:01
小田原北条氏の一門衆に京都の伊勢なんちゃらや大和某というのがいて、
家老の大道寺や松田より上席なのが納得いかん。
661 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:16:34
伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿、大和兵部大輔殿・・・
こいつらのどこが北条氏の一門になるのか?
やれやれ、川越の夜討ちって言ってるのは氏康アンチだろ。
本当は昼間に行われたのだが
663 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:31:53
いや、そもそも大規模決戦はなく
数十回に渡る領土紛争をごちゃ混ぜにしたあげく、
総称して川越野戦としていると言われてるだろう。
664 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:25:20
>>660&661
つ伊勢盛時 幕府申次衆 奉公衆
665 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:52:20
伊勢氏って室町時代になってからパッと現れた感じ。
鎌倉時代はなにやってたんだ
666 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:00:11
義経朗党に伊勢三郎義盛っていうのがいたよね
667 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 01:46:28
変な新説が出てきた
668 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 12:54:47
>>665 桓武平氏、維衝の後裔といわれる。室町幕府に仕えて一族繁栄したが、
鎌倉時代以前の事歴は詳らかではない。元徳二年(1330)の文書に、
足利氏が守護であった上総国の守護代として伊勢九郎の名が見える。
一方家伝では、貞継は足利尊氏の父貞氏の烏帽子子であったため、
尊氏の養育にあたったとされていることから、足利氏の近臣で
あったものと推定される。
(武家家伝より)
新興勢力が、領民を旧支配者から引き離すため善政に気を使うのはむしろ常套手段だけどな。度合いは当然各家によって違うだろうが。
信長なんか、新しく取った地からは本年貢以外とっちゃだめとかやっている。
常套手段なら「善政」じゃないだろ。
税金安くしないとならない理由ってのがあったんだろうね 北条は
毎年領内をあらされまくってるから税金安くしないと領民が弔さんして
無人になるからとか
税を安くする代わりに、安定した徴収を狙ったんじゃないの?
重税で離散とかされたらゼロじゃん。
まああれだ福祉国家で重税がいいのか
福祉医療が自己負担で軽税がいいのか
そんな感じ(笑)
>>674 その時代は大名による福祉なんて元々ないが。
>>671 669は「新興勢力が、領民を旧支配者から引き離すため
善政に気を使うのはむしろ常套手段」と書いているので、
それだと他国を占領した大名は常套手段を駆使しているんだから、
全員善政家でしょ。
そしたらそれは善政じゃなくて日本の戦争文化になってしまう。
>>672-673 当時は災害と飢饉が蔓延していたからね。
震災後の領地に税をかけられないのと似たような事情だったかと。
上杉の小田原侵攻を前に改革をやったのは寝返り防止もあると思うぞ。
677 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:40:14
北条領じゃ実際に、逃散は頻発してたね。特に氏康の代に。
たまたまその頃の文書が残ってるだけなのかも知れないけど・・・。
武蔵鳩ヶ谷の百姓が相模用田に徘徊してるのを召し返せだの、武蔵笹目郷
の百姓が平塚辺で見つかっただの・・・・。
本当に苦しくて逃散したのか、それともヤラセで年貢減額を狙っての事か
は知らないけどね。
武田領でもどこでも逃散はポピュラーだったようだが、あながち当時の古文書の
残存率で北条が抜きん出てるから、割を食った部分もあるだろうけどな。
>上杉の小田原侵攻を前に改革をやったのは寝返り防止もあると思うぞ
北条だけじゃないだろうけど、下総方面・武蔵方面で服属させた
国人領主への軍役はエライ重かったようだな。
特に高城、原、井田、酒井などの下総・上総の旧千葉家臣系の国人達。
八王子だ小田原だ、それ常陸の城番だと大変だったと思ふ。。。。。
678 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 20:26:01
まあとりあえず南方に属しているだけでいつ裏切るかわからない外様だからね
679 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 02:40:51
自分とこに服従しているうちに、
なるべく疲弊させておかないとね。
680 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:25:13
高城氏や原氏は北条家に最後まで忠実な領主だったな。
千葉氏もそうだったとも言えるが、一番割りを食った大名って
気がする。
681 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:07:23
割りを食ったのは北武蔵や西上野の領主たちだろ
由良国繁とか長尾顕景とかめっちゃ哀れだよな
683 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 04:09:20
ちばは、歴史が長い上に、
一時はあれほど、、、なだけに哀れで。
684 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 07:19:48
由良は母ちゃんのお陰で牛久に2万石与えられて、まあ存続
出来たって事でよかったが、弟の長尾は悲惨な一生だったな。
深谷上杉氏も信濃に移り、子孫は帰農したんだよな。
千葉は既に15世紀から本家が滅ぼされたり、内紛繰り返して弱体化して
いたし、元々家臣の独立性が強すぎて強固な支配を敷く事が出来なかった
からなあ・・・・。
北条に滅ぼされず、存続出来ただけでもラッキーだったのでは。
代わりに分家が各地で繁栄したし。
685 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 12:04:10
成田も
686 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 13:51:42
成田は娘が秀吉の側室になり、烏山3万石で江戸期まで存続しなかった?
嗣子無くて断絶って事になったが。
687 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:22:41
由良は高家1000石、1500俵
横瀬1000石
689 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:44:19
>>684 深谷上杉には帰農した者と幕臣になった者と
池田輝興に使えた者が居る
690 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:51:20
由良家の支配を離れ北条に出仕した上野国神梅郷の郷士、阿久沢能登守は旗本や水戸家に、松島入道は蒲生家などに仕えた
691 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 23:01:39
小山や成田も蒲生だった
由良=横瀬じゃないの?別家???
693 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:39:00
横瀬は秀吉政権で、一瞬、輝いたよ。
身一つで関東から中央に出て、よく頑張ったよ。
秀次連座したけれど、、、
694 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:20:11
由良、横瀬みたいな「なんちゃって新田」でも高家になれるんだな。
695 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 15:16:52
由良・横瀬の高家はすごい!
上野の新田氏を仮冒、、、これ辺りがキーワードか?
上野の世良田氏を仮冒した某家の配慮とか。w
しかし阿久沢能登守は、小土豪中の小土豪から大した立身だな。
氏直に感状と具足をもらったのが効いたか。
696 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 16:34:26
上野国勢多郡神梅郷の松島・阿久沢の一党(松島式部入道古伯と阿久沢(愛久澤)能登入道道伴)は
桐生大炊助に属していたが桐生家滅亡後には北条家に属し、年に一、二度の小田原への参勤も果たしが
金山の由良信濃守から攻められ多くの討死を出し、氏政公に事の次第を上申したが小田原の差汰で以後は金山の旗下に属すことになった。
697 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 17:18:25
徳川の旗本になった北条氏の遺臣は半端な数じゃないと思われ
698 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 17:38:47
井伊を筆頭に松平、榊原、本多、大久保、などに仕官してるのも多いぞ
鉢形衆→旗本
秩父(500→200石、大番。帰農:彦久保氏)
逸見(530石他。帰農:甲源一刀流)
諏訪部(630石他、馬別当)
水野(尾張水野氏族)
700 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:40:03
徳川も急増する領地に家臣の人数が追いつかなかったのか。
武田氏旧臣も大いに召抱えてるな。
旧北条家臣で御船手奉行や鷹匠頭になったのもいなかったっけ?
向井氏だっけ?教えてエロイ人。
701 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:47:59
向井将監
鉢形衆は浅見や花岡が前田家にも仕官してる
間宮1200石他、船手頭、両番
703 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:04:51
山角 南多摩関戸他600石
704 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:14:42
有名なところだと
中山勘解由
中山備前守
705 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:18:41
中山勘解由といえば火付盗賊改出役時代に三角木馬などの責め具の考案者として名高い
706 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:29:23
江戸氏→旗本喜多見氏→加増で大名→改易
708 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:17:52
武田系は曲渕や初鹿野や小田切や横田や土屋や跡部など大身や要職歴任した旗本が多いが北条系はあまりぱっとしない印象
中山勘解由とか江川しか知らない
709 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:36:45
韮山の江川酒
710 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:02:36
711 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:19:30
>>708 大目付北条安房守もいるし、狭山藩からも氏朝が寺社奉行になってる
北条安房守 旗本、大目付。北条流軍学
中山勘解由 旗本、3000石。高麗八条流馬術
中山備前守 水戸藩付家老、15000石→25000石
宇津木 井伊家臣。鉄砲砲術家
岡本半介 井伊家江戸家老、3000石。軍学師範、兵法家
713 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:34:16
徳川の家臣団には後北条、武田、今川の旧臣が多いな。
714 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:39:45
井伊家の宇津木って長野主膳とともに斬首されたあの彦根藩の宇津木六之乃丞?
715 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:07:48
町奉行の矢部駿河守定謙も北条系
あとは
笠原とか神尾
岩本式部
春日左衛門尉
秩父孫四郎
仁杉五郎三郎
伊達与兵衛
716 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 12:57:10
やっぱ江戸衆の太田新六郎資康の子孫が徳川時代の一番出世かな?
717 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 12:57:55
>>715 矢部定謙って名前からして、
「善七釘」の矢部家定の末だと思ってたんだが、違うのか?
718 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:14:17
出世頭
秋元
番外編
田沼
720 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:51:32
田沼家は武田→北条→紀州家→直参旗本→大名→相良城主?
721 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 14:08:12
>>714 そう。ただし宇津木六乃丞は分家だと思った。
水戸藩付家老中山信徴が明治に石岡藩立藩してるな。
武田の場合は生え抜きの武田の臣といえるようなのが登用されてるが
北条の場合はほとんど北条にとって外様みたいなのばっかじゃん。
まあ北条自体新興の家だったから仕方ないかもしれないが。
723 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:41:05
武田と北条では拡大した分国の範囲がちがうもの
724 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:44:57
幕府の地方役人などは北条旧臣が極めて多いぞ
725 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:53:20
北条も生え抜きの家臣はほとんど登用されてないかい?
ただ北条支配下になった小大名級各家は結局ほとんど没落してる
のが哀れ。
千葉・佐野・長尾・成田・深谷上杉・壬生・小山・真里谷武田etc・・・・。
726 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 18:18:18
北条旧臣は勇名を馳た者から無名の葉武者までほとんど徳川やその譜代諸家に関ヶ原直前までに拾われてる感じだな
727 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:01:18
千葉氏・宇都宮氏などが没落したままに置かれたのは
家康の政治的措置だろうな。
千葉や宇都宮、小山は家格的に高家当確だろうし。
地理的にそうなるだけだが、再就職先があってよかったな
729 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:53:18
宇都宮や小山は豊臣の大名だろう
730 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:56:16
宇都宮は岩槻攻めに参陣してるし豊臣から本領安堵されてるけど小山は没収されて蒲生家の家来だよ
731 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 20:01:37
千葉介の家臣では海上三吉、押田庄吉、原式部少輔胤成の子主水佑、酒井左右衛門佐重光の子金三郎が旗本になってる。
千葉介邦胤は行方不明
732 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 20:21:09
小田は越前で死んだみたい
北条旧臣
六所宮猿渡家 社領500石
鷲宮社大内家 社領400石
734 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:37:16
社領は家の所領じゃないからな…
735 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:00:29
板部岡江雪斎融成も結局、旗本として
家をつなげたな。
板岡に改姓したんだっけ?細川幽斎と親交あったり
かなりの文化人だったんだろうな。
736 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:16:53
細川家は落ちぶれた名族を拾うの好きだよね
大内家は正月に紋付時服で江戸登城。独礼席で将軍に御目見え。
婚姻関係は旗本、触頭クラスの有力社家など。
738 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:32:11
岩槻籠城戦を降伏開城した伊達与兵衛房実が御旗本ってのも凄いよな
739 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:35:50
740 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:45:17
鷲宮大宮司の大内?
秀郷流田原上野介頼定のが初代だっけ?
社人七人巫女二人の神主でしょ
741 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:25:26
つかさは俺の嫁
742 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:26:23
>>737 その伊達は駿河伊達氏の一族だっけ?
北条に仕えていた伊勢氏はどうなったんだろうね?
伊勢貞運が戦死して終了?
743 :
742:2008/07/20(日) 00:38:18
744 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:56:00
伊勢氏
狭山藩に仕えてたりして
745 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:28:58
地元民として、鉢形衆のその後を詳しく知りたい。
前田にもいるみたいだし、旗本とかもいるのかな?
746 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:42:42
鉢形衆
秩父孫四郎や諏訪部遠江守、安藤兵庫助、浅見伊賀守、井上三河守、黒沢上野介、島村近江、久永但馬は直参に
首取り源五こと渥美源五郎と死闘を繰り広げて生け捕りにされた岸主税助は榊原康政に仕えた
747 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 04:46:05
>>745 前田んちには氏規が預けられたから、
その絡みかもね。
748 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:29:47
>>735 板部岡江雪斎(なんともスゴイ名前だw)の子孫の旗本岡野家は、
勝海舟のオヤジの小吉の自伝にも出てくるな。
放漫財政で破産寸前で、大坂近郊の領地の農民連中から借りた金を返せず、
小吉を臨時の用人に仕立てて、大坂に送り込んで踏み倒させたんだよな。
749 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 13:03:35
前田は鉢形攻めの大将だからじゃね?
750 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 13:27:19
>>745 鉢形城の北条氏邦に仕えた辻加賀守という人は小田原降伏後は直江兼続に仕えて最終的には秋田の佐竹家に仕官したらしいよ
751 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 15:00:52
北条旗本中の旗本、相模衆十四家や御由緒家はどうなったんだろうな。
多目や間宮、布施や松田(康郷系)は幕臣になったのは知ってるが。
運良く皆、士分で江戸期を過ごせたのかしら・・・・。
752 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 16:23:39
井伊家に仕官したのが多いいっていうけど…
赤い鎧を着させられた北条旧臣の気持って…
753 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 17:59:22
武田氏滅亡後に北条に仕官した武士もいたみたい。
うちの近所の旧家はそんな家柄。
先祖はその地の御家人だったけど、上杉禅秀の乱で本領を失い
武田氏に仕え、武田滅亡で先祖の地に戻ったって家柄。
わずか8年足らずで主家が再び滅亡とは思わなかったろうなあ・・。
ちなみにその後は帰農して、江戸期を通じて名主(苗字帯刀許可)。
755 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:18:35
間宮林蔵ってどうなの?
756 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:29:51
某HPより
安永9年(1780年)に常陸国筑波郡上平柳村(現:伊奈町上平柳)の農家に生れました。
林蔵の祖先は、戦国時代、小田原の北条氏の家来である間宮豊前守康俊が、秀吉の小田原攻めの際に
敗れ、その末子である隼人がこの地に落ちのびたと伝えられています。
757 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:38:16
それにしても随分と遠くまで逃げたね
758 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:42:48
二宮尊徳もそれっぽい
759 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:29:31
小机衆に二宮播磨がいるけど
760 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:37:04
浩の某学会での係わりは北条家痛恨の汚点だな。
ドンゴリの血筋に変わってしまってる事を慰めにするしかない。
遠祖早雲寺殿は、禅で一角の道を極めた人なのにこの子損てば。w
761 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:23:12
確かに。
762 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:10:08
中山勘解由って本当に三角木馬の考案者なの?
763 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:10:38
旗本春日家も北条旧臣なんだな
764 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:26:40
北條は池田氏に唐辛子うどん食べさせられた話を聞いて幻滅した。
今早雲寺のお墓(禅宗)は誰が守っているのだろう?
765 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 01:49:04
寺だろ
766 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 03:09:35
767 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 03:21:58
小田原に籠城した春日摂津や岩附に籠城した伊達与兵衛も本領安堵で旗本にってるのに間宮が常陸まで逃げる意味がわからん
768 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 03:35:58
流浪の果てに常陸に落ち着いたんじゃね?
769 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 04:05:57
新井白石の家系も土屋家の前は北条ではないか?
770 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:37:39
間宮康俊は山中城で奮戦して、秀吉オキニの一柳直末戦死させてるし、
報復を恐れて落ちたんじゃないか?
771 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:55:49
長岡幽斉の
「糸毛なる 具足をかけて 鉄砲の 玉にも抜ける 一つ柳か」
ってやつだね
772 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 09:22:59
ここんとこスレがエラク伸びてるな。
ちょっと前は2,3日は停滞とかしょっちゅうだったのにな。
773 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 09:31:52
連休中の予定がない(T_T)
774 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:35:00
俺もだ。w
天山で一風呂浴びて小田原へ伺候してくるかな。
775 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:20:08
16歳以上60歳以下の今暇してるヤシは小田原に参集せよ
物頭以上は兜に前立てを必ず付けること
侍・凡下を問わず旗指し物はひらひら武者めくようにすること
弓・槍・鉄砲のいずれかを持参すること
山中城出丸にて敵将一柳伊豆守を見事に撃ち殺した間宮豊前守、間宮式部少輔は落城に際して自害したが式部少輔の15歳の子に氏直様の運命を見届け家運あれば盛立てよと小田原に送ったらしいから林蔵はその末裔か
777 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 17:45:33
一騎駆け(アドレス125G)にて小田原に参集したが、
腐女子は沢山いたものの、物の役に立つように見える男子は
見受けられず。
天竺伝来の献上象、パオ〜ンとなかなか奇特にて候(はぁーと候。
宇野藤右衛門尉方へ寄り、ういらうを購入し帰り申し候。
ウマー^^
ただいま田村安柄屋敷にて待機!
779 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:27:07
>>778 田村安栖だろー?裏飯や〜@氏政。
鈴付けてご供養頼む。
780 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:25:33
>>760 まあ、そうはいっても、寛政譜を造る際に狭山北條氏が提出した系図や
寺社奉行に登用された氏朝が残した日記などの史料が残ったのは北条家で
保管してたからなんだよな。
うちの近所は武田旧臣や北条旧臣上がりの旗本領ばかりなんだが
後北条氏の感状を伝えてる旧家や岩附の出城もあれば武田の初鹿野伝右衛門や馬場美濃守の娘の墓とかもあるし戦国ロマン感じまくりです!
782 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 22:02:01
埼玉県さいたま市だろう
784 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 04:05:24
\::::::::::::ヽ /::::::::::::::::::::/
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\\、 ヽ::::::::ヽ /::::::::::::/ ,...ィイ´ll、_::::<´
\::`lへ,,‐-,、_ ヾ::::::::l ,、 /::::::::::/ , -‐´´ ll | /l `>'
/ノll ll ll ``‐-、 ヾ::::::l ,、 ,へ ll\ /::::::::/, -´ , -┴ ┴'
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``‐、 ヾ::::::、:ヾ⊂ノノ:/:::/´‐´
`` \::\::........:::::::イ ´
l``┐ィ ´´ /
l lll / 合衆国 さいたま!
| lll l
l lll l
/ lll /
/ 川 /
/ ノヘヽ へ
/ // ヽヽ | \
_ -┤// ヽl l \
, -‐ ´ |l l ∩ ll | ヽ、
, - ´ l ll l.| ll | ヽ、
_ -‐ ´ l ll l| ll | ヽ、
, -‐ ´
伊達与兵衛の館址や陣屋址もさいたま市
鴻巣七騎もかっこいい
786 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 23:49:35
>>785 何か遺構とか残ってる?
華屋与兵衛を見ると、いつも伊達与兵衛を思い出す。
氏政子孫についてお訊きしたいのですが。
伊勢氏系図の系図の中で氏貞という人物に北条氏政之曾孫と記載が有ります。
伊勢貞孝─保壽庵祐怡─保壽庵祐仙─氏貞
祐怡の母が太田織部正女となっており、この女性が氏政孫と考えられるのですが
太田織部正について何方か御存知ではないでしょうか?
788 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 22:51:36
今、鴻巣七騎をググって見た。
ウィキで見たがモックンも子孫の一人なんだな。
詳しいHPじゃ深井一族のが充実してた。
長尾氏一族なんだね。
帰農した子孫、藤堂家へ仕官して一族扱いになった子孫、
知恵伊豆の家臣になり家老なった子孫・・・・。
江戸時代にはそれぞれ付き合いあったのかな?とか、各々の
現在を当時のそれぞれの当主はどう思っていたのかな?とか
ちょっと考えてしまった。
帰農した一族は大百姓でも明治には平民、それ以外は同じ先祖でも
士族って事になったろうし・・・・。
桶川の本木氏は新編武蔵風土記稿に載ってたかもしれん
790 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 15:19:05
>>785 華屋与兵衛を見ると私も伊達を連想するw
伊達城(大宮商業付近)や陣屋趾にも遺構は何も残ってないようだよ。
旗本伊達庄左衛門の陣屋趾といわれていた土塁で囲われた農家(細沼家)も大和田村絵図では場所が違うので陣屋趾ではないらしい。
隣の春日氏館趾や土呂にある初鹿野伝右衛門尉陣屋趾は堀とか土塁が残ってるけど。
春日も伊達も岩附衆のツートップ
春日は小田原で氏房の侍大将として夜討ちで力戦、伊達は岩附城で城代として奮戦の末降伏
旗本に列して当然の武士
792 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 17:32:43
>>790 レスサンクス。
遺構は特に無いのですな。場所的に市街地だろうし
確かに残存は無理だったのでしょうね。
初鹿野伝右衛門陣屋跡と言うのは江戸期に旗本になって
からの陣屋ですよね。
一瞬、なぜ武田家臣で川中島で有名な初鹿野氏陣屋
が武蔵にあるの?って思った。
伊達与兵衛、地味にカッコいいねー。
P.S
これから華屋与兵衛で食事してくる。w
793 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:36:27
伊達与兵衛房実は強弓の精兵だったらしいな!
総州のどこかの合戦で誰かと敵将を射殺した手柄を争った時に氏康公に直に評定してもらって伊達が着用していた黒威の鎧や鏑矢の特徴が決め手になって一番手柄を認められたんだよな
二番目の手柄は言い争った相手で三番目の手柄は首を取った者とされてそれぞれ感状を与えたとか
794 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:49:25
初鹿野が陣屋を構えたのは家康の関東御討入直後に甲斐国内の三百七十貫の采地を武蔵の700石に直された直後だろうな
795 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:29:45
「漂泊の武将〜二人の伊達与兵衛〜」読んだやついる?
796 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 01:49:14
天正十年に初鹿野伝右衛門昌吉が家康から安堵され甲斐の本領は三百二十四貫文だよ
初鹿野と我が北条とのからみは武蔵国児玉郡広木・大仏付近で武田勝頼と北条勢が戦った時に小山田八左衛門とともに武田方の目付を勤めてたのと小田原攻めの時に徳川勢の御使番として活躍しているくらいだな
797 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 02:36:14
北武蔵は北条や武田、上杉が入り乱れて混沌としてる
798 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 13:50:15
小田原合戦では徳川勢の使番だったのか…さすが元ムカデ衆
799 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:07:23
北条家は五色揃が有ったと言うが、これは五代記の
脚色か・・・?
とりあえず地黄八幡萌え!
800 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:30:38
北条家は軍装にはうるさかったらしいから
801 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 16:48:27
802 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:11:11
金箔馬鎧は真実なのかね。
803 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:56:24
馬に乗るほどの者は兜の前立を付けなければ斬るってやつか?
とんでもねえな、ほうじょうは
805 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 04:43:41
>>802 確か、書簡が残っていなかったっけ?
馬は馬甲装備ね。もしいい加減な馬甲だったらお仕置しちゃうから
みたいな内容だったと思う。
806 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 13:09:53
807 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:46:19
昔の学研の『北条五代』に軍役の例で出てる、相模吉岡郷の領主で
小田原衆、岡本七郎左衛門が井伊家に仕えた岡本氏の先祖なのかな?
詳しい方いらっしゃいます?
808 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 01:11:12
岡本半介宣就は上野小幡氏の旧臣。父は岡本(熊井戸)実業。
長野業正のひ孫にあたる可能性がある。
上野長野氏と同族で在原業平の後裔石上業遠にはじまるとされる。
在庁官人出身で平安、鎌倉時代には『岡本介』を名乗っていた。
岡本氏は小幡氏の臣下に入っている間は熊井戸と名乗ったが、
小幡氏が滅びると岡本に復した。
宣就は箕輪に入った井伊に百石で仕官。
関が原で鉄砲に撃たれた直政を救い
大坂の陣では母衣に三十六発の弾丸を受けながら奮戦し千五百石。
彦根藩の二条城、江戸城修築奉行をつとめ家老、軍学師範として三千石。
上泉信綱の軍学を学び、門下に小幡景憲がいる。書画をよくした。
809 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 04:10:07
>>806 一回使うごとに、
ものすごく金箔剥がれる気がする、、、
北条のとこに金箔職人がいたのも意外だけど、
なんか小田原一味って、
そんな無駄なことにリソース使うイメージがない。
金箔馬鎧の武者って実戦に投入されたとは思えないなあ。
絶対真っ先に狙われて略奪されるぜ。
811 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 12:35:22
>>308 レスさんくす。
系統が違うんだね。。。。直弼の時の家老、黄石も
半介だったけど代々襲名してるんですね。
馬は光り物に敏感
北條早雲は実際には伊勢宗瑞だったわけで、生きてる時は「北條」と名を改めなく「伊勢」だったわけで、法名で呼ばれるんだったら「早雲」ではなく「宗瑞」だろう?
何故、北條早雲という名が捏造されたんだろうか。
実際は北條氏初代は氏綱じゃないのか?
めんどくさい
厩戸皇子を聖徳太子と呼ぶようなもの。
知ってる人も多いと思うがレーニンや上総介広常っていう名前も実は本当の名前じゃないんだよね。
いわゆる通称とかいう奴だが、宗瑞の場合は死後に何故か知らないが北條早雲という名前を付けられている。
信長が死後、総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀の戒名を得ている。
伊勢宗瑞は戒名を早雲寺殿天岳宗瑞という。
ここに早雲殿と呼ばれる素地がある。
そして北条氏綱は北条に縁のある老女に取り入って伊勢の苗字を捨てた。
(グロテスクな話だぜ)
それから後、氏綱は伊勢氏と呼ばれることを嫌い、早雲を北条の苗字で呼ばせた。
そゆこと。
>>817 一行目いらんかったな。
二行目に「信長は身内・遺臣には総見院殿と呼ばれた」と入れるのを忘れた。
同様に早雲も戒名だったということを言いたかった。
819 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 08:53:20
信長は「第六天魔王」なので、魔王様と呼ぶべし。
早雲がそう呼ばれるのは、「早雲寺」の存在が大きいんじゃない?
>>819 魔王なんて信玄しか見ない書状で戯れに書いただけだろ。
家臣も信長がそう署名していたなんて知るはずもない。
821 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 11:03:55
>>817 女云々は江戸期から始まった通説だろ。
上杉はでワザと「伊勢」呼ばわりしてた。
もっとも北条側でも「長尾」と報復呼びしてたが。
伊勢如きが鎌倉執権北條氏を名乗るのはおごがましいとか言ってたね。
823 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 13:21:52
長尾如きにそう言われる筋合いも無い、と思っていたろうな。
まあどっちもどっちだ
しかしそうなると越相同盟は上杉・北條間がよくもまあ上手くいったもんだと思うけどな。
まさか北條氏秀(上杉景虎)を養子に迎えることになるとは、1524年の段階では全然思いもしなかったろうに。
いまだに三郎を氏秀だと思ってる人がいるのに驚いた
そりゃ1524年の段階じゃ三郎は生まれてないからな
828 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:28:55
相越同盟はほとんど機能しなかったろ。
頼まれたらイヤとは言わぬで有名な謙信が、北条の依頼は
無視しっぱなし。
>>828 それだったら同盟の意味が無いじゃんw
一体何の為の同盟なんだよって思う。
北條から来た景虎が御館の乱で殺されて、謙信の甥の景勝が上杉家の当主になるのは血の繋がりからして当然。
しかしよく考えたら、北條は謙信の死と、その直後のこの乱に乗じて景虎を支援するために越後を攻め取ることが出来たんじゃないか?
>>828 北条が同盟締結の条件を数項無視していたからね。
謙信もご立腹w
831 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 06:45:03
>>829 ループするが、その時の関東情勢やら何やらで、
大軍を越後に発向させる余裕が無かった。
北條氏政は武田勝頼を見限り信長に臣従を申し出たことにより甲相同盟は自然消滅。
武田にしてみれば、南は徳川、東に北條、西に織田と周りは敵だらけ。
だから勝頼は織田を共通の敵とする上杉と同盟するのは必然だった。
朝倉同様、名家である事を鼻にかけ信長に臣従することをよしとせず、結局滅ぼされたから愚の骨頂といえる。
に比べて氏政は織田に臣従を申し出るなど時勢を見る目に長けてるから、暗愚だったとはいえまだ勝頼に比べて幾分マシな人間だと思える。
しかしそれなら信長の死後に秀吉にどうして臣従しなかったのかが疑問に残るところだが。
> 朝倉同様、名家である事を鼻にかけ信長に臣従することをよしとせず、結局滅ぼされたから愚の骨頂といえる。
んなもんやってるけれど断られてるんだよ、勝頼は。
834 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 12:47:37
>>832 事情が少し違わなくねーか?
(氏政)弟援軍きぼん⇒(勝頼)やってられるかよ!⇒(氏政)おのれ!武田め!
同盟破棄だぜ。信長さん家来にして⇒あわわわっ(勝頼)・・アボン。
ウィキの氏政見てたら 主君の欄に信長って書いてあって
目が点になったよw いつからこいつ信長の家来になったんだ雑魚が
>>835 甲州征伐の仕置き後、白糸の滝を見物する信長にキジ500匹を献上するために興国寺城に招いて接待してた。
贈り物したら家来ってんなら信長は信玄の家来だなw
まあ氏政も信玄の家来同然だったからさもありなんだ
織田に臣従の予定をしていたのであって、まだ臣従していないよな。
信長がまともに任官すれば一応は降伏しただろう。
相模と伊豆だけ認めると言われれば運のいいほう。
いや、実際に臣従を申し出て実際に会って臣下の礼を取れば家臣なんだろう
>>837 北条は一時的にしろ今川家臣だったから、氏綱が北条と改めた頃は微妙な関係だったんじゃないのかな
キジ500匹って 一体なにがしたかったんだろう? そっちのほうがきになるw
841 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 14:29:48
河東一乱後に北条と初めて名乗ったんだっけ?
ボケモンマスター氏政
キジ500匹
vs
信長
ファイ!
843 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:36:37
>>840 食用じゃね?鷹なら鷹狩用だろうけど。
この時代の贈り物って、今から見ると奇妙なもん多くね?
漆5桶とか文字擦り3反、ろうそく100丁、扇5本、鶴2羽等々・・・。w
今もらったら困ってしまうようなもの多いよね。
844 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 00:26:40
でも結局、氏政は信長に会えなかったンだよね。
信長は臣従したと看做したのか、それともある程度様子見なのか微妙なことしてる。
でもこれは比較的簡単に信長の考えがわかる。北條取次ぎである瀧川左近が上野に出向いているため
隠居してる信長としてはそっちに先に挨拶するのが筋ってことだろう。氏政は会わないとヤバイから
家康に取り入るけど信長は会ってくれんかった。
氏政としては必死に取り入ったり会おうとしたんだが、情勢がわからんってことで嘆いているしね。
また、瀧川左近の厩橋に氏直と氏邦に挨拶と出仕させてから、安土で会おうとしたのではないかな。
845 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 00:34:00
あと、信長の考えとしては駿東は北條勢が攻略寸前まで言ってたのを
家康に与え知行したので、北条家には、相模、伊豆、下総、上総の
全本知行を安堵したはずだ。
確実な史料からわかるが、信長の戦術から北条家の減知や召し上げを
おそらく考えてはいない。
>>844 その部分、前から気になっていたんだが・・・。
正直白糸見物で興国寺城という発想が少々無理がある。
富士宮の上の方にある白糸の滝から沼津の愛鷹山南麓興国寺城まで
現代ですら車で東名使っても30分はかかる距離だし
原は湿地帯だから足場も悪かったろうから(だから今でも
あのあたりは住居用建築物が建てられない)信長の鷹狩りは
もう少し西の富士市東部あたりだったと自分は推測している。
そうなると、ますます興国寺は遠い訳で愛鷹山の麓沿いを行ったり
大きい川を超えなくては行けないから信長にしてみれば滝川どうのと
いうより、ただ単におっくうなだけだったんじゃないのかな。
もしくは大宮城まで来いだったのか。
それにしても氏政、富士宮が絡むなら旧知の富士氏に頼めば
また違ったんじゃないかな。家康に取り入ったとはいえ
どこまで信長に進言したものやら。
847 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 12:05:21
それが氏政の天然ぶりからくる限界なんだよ。
興國寺城になったのは北条領だったからと思われるけど
本気で信長に会いたいなら浅間大社詣のふりをして
押しかけるぐらいのパフォーマンスが必要だったんじゃなかろうか。
848 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 15:44:44
それで門前払いされたらどうすんのさ
小山田みたいに首はねられるのがオチだな
850 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 17:12:02
家康は初期から譜代の家臣並に忠誠を示しているけど、
何の義理もない北条に200万石を認めるわけはない。
必ず潰しにかかっていたはず。
851 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 18:33:07
氏政に由良兄弟が軟禁されて金山城をよこせって言われたように
信長に軟禁されて小田原城をよこせって言われたりしてw
852 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:15:12
なんだ?この夏だな展開はw
熱くていいじゃない。
信長存命なら北条は滅ぼされないにしても二国まででしょう。
よくて南武蔵まで。伊豆を並の一国とするには小さいし。
これだけ保てれば充分優遇。
>>839 家康が今川から独立したみたいな感じだな
855 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 22:21:12
豆相武蔵半分と下総の千葉氏領&上総くらいは
貰えたんじゃないか?
856 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 22:32:31
千葉氏は北条を軽視して滝川直参に組み込まれるだろう
857 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 23:37:10
>>847 実際、そのパフォを行ったとして富士氏がどう動いたかだな。
信忠は熱血忠義の人みたいだからかつての恩返しとして
取り持ってくれたであろうと思いたいが・・・。
858 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 00:01:44
859 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 01:52:43
そちの息子に、長直と名乗ることを許そう。
また伊豆一国を安堵してつかわそう。
なお、鎌倉には信忠が、小田原には滝川が入ることになろう。
そちは隠居の上、息子には鎌倉出仕を命じる。
860 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 16:11:03
伊豆一国安堵って。w
不服なのか?おい!
ワシはこれより近江へ帰るゆえ、
氏政にはこのまま安土城へ案内いたそう。
接待役は日向守に任せよう。
ありえないことばかりする奴だから全くないとは言えないなw
でも北条が信長にたてついたことはないから、
もうちょっと寛大にするんじゃないか。
小田原城は接収しそうだが。
むしろ北条を挙兵に追い込みそう。
すでに武蔵北部の国人達は滝川へ出仕して
北条の横暴を訴えまくってるっぽいし。
わざわざ氏政がノコノコやってきた日には
「なぜ今まで上洛せんかったのだ!」とか怒りだして
捕縛して人質にしそうなんだがw
信忠軍も信長本軍もほとんど疲れてないしw
上杉も圧迫してるし、この機会に東国平定だな。
毛利や長宗我部攻略は後回しだな♪みたいな。
864 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 19:43:15
上洛って…
夏だね〜┐('〜`;)┌
865 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 19:52:28
上洛の夏、北条の夏、、ドドォーン
信長ならどんな難癖つけてもおかしくないな。
あんなに一生懸命尽くした家康にさえ、
信康まで殺させちゃうくらいだし。
867 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 01:20:51
>>866 信康事件については、実際は武田家における義信事件に近いようなものなのではと
最近は言われることが多い
実際、誰にも真実はわからん。
でも家康と信康が対立してたって文書はないんじゃなかった?
869 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 01:50:43
確かにない。そして信長が信康を始末しろと命令したという
確かな確証もない。
信長が言ったのは、あっそ、好きにしろのみ。
信長からそー言われたら選択の余地などないがなw
信長の命云々というより家康独自の判断の可能性も充分考えられる。
肉親でも斬るのが戦国の世。
秀吉だって実の甥を殺してるし、信長だって同腹の弟を謀反の疑いで泣く泣く殺している。
家に不穏な動きがあるのなら、それを察知して感情を圧し殺して事前に防ぐのが君主の務め。
それが出来ないのなら天下人になれないだろうし。
晴信の場合、息子の義信には切腹を命じていないと言われてる。
ましてや子バカの氏康なんかはそんな事を考えもしないだろう。
872 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 16:40:42
そんな内輪もめや陰惨な事件に
無縁なのが北条クォリティー。
その割に氏康が氏政を馬鹿扱いした逸話があるよな
>>873 馬鹿扱いというか、行く末を案じただけだろw
875 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 22:43:32
氏政も勝頼も、親父の偉大さに、かなり割りを食ってる気がするな。
家を保てなかったから、余計に後世酷評されるのは仕方が無いが。
逆に景勝は過大評価されてるな
早雲独自の判断
景勝は壮絶な家督争いに勝利したからね。
身内、織田、徳川相手に修羅場をくぐり抜けたのは運かも知れないが、
そこに貫禄を感じるのは間違いなく実力もあるわけで。
したたかさでは謙信より上かも知れない。
実際、滅亡寸前から始まり、越後・川中島地方・佐渡・庄内を領国化して
さらに真田を隷属化して上野国の沼田地域まで勢力圏化して
三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃の徳川と対立するまでに成長してるからねぇ。
新発田の乱を通じて、揚北衆を完全に支配化に組みこんでるし。
謙信の時のような国人連合ではなくなってる。
さらに会津120万石&五大老になってる。
かなり優秀でしょ景勝&直江は。
関が原で三成が1日で敗北しなければ評価だってスゴイことになってるかもよ。
氏政の場合は信玄が麦の話で氏政を世間知らずのバカだと笑ったエピソードがな・・・
昨日箱根に行ったので早雲寺に寄った。小さめの山一つ越えて行ったので
結構疲れた。最近運動不足だorz
北条五代の墓所にお参りしてきたが去年のものであろう落ち葉が
まだそのままだった。供えられていた水も汚く濁っていたし。
寺の関係者が掃除を怠っているようだ。
寺の聖域と言える場所なんだから改善を望みたい。
氏康は信玄みたいに負の遺産を息子に残さなかったのに、
氏政ときたら・・・・・・。
氏康も十分に負の遺産残してる
今川などに肩入れして武田と敵対 各方面で攻撃され
その死後になってやっと氏政が方針転換できた
死後数ヶ月で再同盟組めたわけだから負じゃないじゃん。
越相同盟を発展させる手もあったわけだし。
越相同盟(笑)
明らかに氏康の愚作だよな。長尾に乗せられてる。
名将氏政が跡継ぎだったから破棄できたが。
887 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:37:45
最大の失敗は謙信死後の後継争いから来る武田との敵対だな。
あれをうまくやってれば、越後を北条化して武田は姻戚関係だし織田相手にも互角に戦う事も不可能じゃないね。
越中や遠江で北条&武田&一向衆連合軍が織田軍と戦う姿も見れたかも。
越後の景虎派は簡単に北条になびかない顔ぶれ
889 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 09:09:14
景勝派は壊滅させるか、完全屈服させた事前提で・・・。
そういう前提が可能ならなんでもアリになるぞw
小田原から越後衆をまとめるのは無理があるだろ。
上野の管領上杉ですら難しかったのに。
892 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 21:50:40
その辺りは景虎の手腕に掛かってくるわけだ。
若年で死んでしまったから、景虎の統率力や政治能力は
未知数な訳だが。。。。
しかし、謙信が見込んでいたと言うから、そこそこの人物だったかもな。
893 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 23:02:01
上杉の跡目争いで、景勝は武田に領土と金を与えて同盟結んだけど
影虎は武田に信濃の領土を分けてくれとウィキに書いてた。
結果は当然かな。
景虎にそういう拙い戦略を取らせた連中の考えはこうだろう。
「信濃? 当然上杉のものさ。北条? 利用するだけさ」
傲慢窮まっている。
しかしこれは彼らが相当なナショナリズムを備えている証で、
もし奴らが勝っても北条は越後を手中に納めることは出来なかっただろう。
北条が越後から手を引いたのは正解だったわけだ。
春日山から半日で川中島なんだぜ。
そこを武田が取ってたら、いつでも本城落城一歩手前じゃん。
あそこを武田が手に入れているうちは、同盟なんて絶対に不可能さ。
上杉景虎の提案は、安定した同盟をするための前提条件としか思えない。
不可能と言われても同盟しているし。
謙信と信玄も同盟を画策したことが数回あるよ。
滝川一益が上野に入った時、武蔵で北条傘下の豪族たちが一斉に忠誠を誓う証文を一益に提出してる
信長が甲斐で実行した粛清が効いたのかな……城主豪族の顔ぶれ見ると、豊臣軍が来た時は抵抗した面子が多い
898 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 02:03:27
水攻め
899 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 02:25:40
>>897 むしろ滝川のせいで、
「中央から来た権威的大勢力に対する不信感」
「ま、最終的には近所の親分だな」
が広まった、とも。
900 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 03:28:52
滝川が来た頃は、武田北条、関東上杉、越後上杉、と
戦乱の余波がいまだ混沌としていたけど、
秀吉が来た頃は北条オンリーだしね。
901 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:46:02
オンリーではなかった
902 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:49:45
欝宮も狭竹も里見も倒産寸前状態だったろ。
903 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:00:31
景虎か…読み誤ったな。
>>902 > 欝宮も狭竹も
わざとか? 単なる誤字か? 里見だけ正しいのはなぜだw
get wild and tough
906 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 09:19:45
>>904 雅代もバーブも黄門も滅亡寸前だった。
。。でも意味通じるか?w
907 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 10:51:24
変なやつw
909 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 02:57:08
一族に反乱分子が一度も出ないのが不思議
幻庵みたいな古株の有力者が睨みを利かせていれば、
そうそう家中で反乱などない。
しかも後北条は古くからの分家を多数抱える甲斐や越後と違い、
条件が恵まれている。
自分は小田原とは無縁な人間なのですが
去年、武士道に関する本を図書館で借り、
そのなかで氏綱の武勇と、彼の義に対する家訓を読み、
氏綱のファンになりました。
どなたか、氏綱について語っていただけませんか?
彼のエピソードとか、人柄について知りたいですm(_ _)m
ただ、彼が早雲56歳のときの子ではなく、
32歳のときの子、という説、これは残念です。
自分も年寄りっ子だったので、氏綱に感情移入しやすかったのに。。。
wikipediaでも見ればいい
913 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:55:47
もっと氏綱について語りませんか?
地元の人はなにをしているのでしょう?
さあ?
915 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 04:20:47
>>910 いやそれにしても凄くね?
五代も続いているのに。
徳川が北条氏の体制を真似たのもわかる気がする。
誰だったか、小田原北条氏が成功した理由は一族の内紛がなく
一家が一致団結していたことにあると言っていた。
918 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:08:07
一人くらいいるんじゃねーの?
919 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:17:05
やっぱり強いだけじゃなくて
最後はその家の家風、カルチャーなんだよな
早雲の時代から大義だとか名分だとか
観念的なものにこだわる傾向があった
これが効くんだよ
家康だってそうだろ?
強さと道義が一体となったとき、真の威儀が生まれる
家康に道義があるのかw
大義は確かに強いけれど、同時に限界もあるね。
921 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 01:13:27
北条の場合、「反乱しにくい家中システム」だったことのほうが大きいんじゃね?
922 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 01:26:08
拡大し続けたからだよ
923 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 04:32:22
大阪に残った子孫はどうしているの?今。
926 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 01:34:29
拡大し続けているうちは、みんなが外を向いて内部抗争の暇がない上に、
そもそも不満も出にくいもの。
最大の拡大主義者のぶながは?
信長は従属した奴でも後から難癖つけて潰してるからな。
929 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:05:00
信長んちは急速拡大し過ぎ。
秀吉も然り。
930 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:44:58
>>915 家臣でも御由緒家の荒木氏が、氏康に謀反の咎で
成敗された事はあるみたいだが、無理くり服従の他国衆以外の
例じゃ、最末期の松田憲秀、笠原新六郎以外聞かないしな。
931 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:17:00
しかし最後のほうは、明らかに分裂の兆しがあったような。
北条家と会見後の家康が、氏政がバックにいないと、
氏照が氏直をないがしろにし、家政を欲しいままにするだろう
ってな事をいったらしいね。
実際彼は当主に匹敵する程の実力者だし、氏直・氏規らの
秀吉和平派とは明らかにベクトルが違う。
氏邦も非常に我が強い人っぽいし、扱いにくそう。
そして松田憲秀といえば、氏康が何事も彼に相談したって
いう位の北条家の重鎮かつ忠臣。それが早々に裏切っている。
氏直軍団のエースは北条氏勝や太田氏房なんかの新世代
だし、大きくなった北条家の中で、新世代と実力派の旧世代
との間の歩調が揃ってないというか、明らかに悪い意味での
小田原評定的な歪みが見え隠れするような。。
この辺はもっと注目してもいいんじゃないかと思う。
>>931 興味深い話ですね。
北条というと、家中の団結が強く、略奪も暴政もせずと、
まるで理想郷のように語る人が多いのですが、
実態は怪しいもので。
933 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 08:14:47
保守
北条家には明らかに魅力的なのに、イメージが湧かない
人が多いんだよね。
氏照なんて最たるもので、先にもあるように当主氏政に
匹敵する程の実力者、さらには器量者で、氏照が当主なら
北条が滅びる事もなかったのでは、なんて言われる人の割には
人となりを偲ばせるエピソードが少ない。
935 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:42:57
五代記とかにも、氏照の人となり偲ぶエピソードなどは余りなく、
かと言って無能な武将じゃなかったし・・・・・。
性格的に余程地味だったか、もしくは今でも会社に時々生息してる
趣味もなく仕事をするしか能が無いような人間だったのかもな。
東京都でも西多摩地区の出身なんで、
地域伝承ほどだけど、氏照の逸話はいくつか知っている。
氏照が攻めた青梅・三田氏の姫との悲恋伝説なんてのも伝わってるよ。
そして、一番多いのは笛の名手という逸話。
また、伝承レベルではなく、
東大の史料編纂所には氏照作の和歌の短冊が残っているけど
(内容は今は失念)、贔屓目ではなくなかなか良い作風だったと記憶している。
しかし、好きだからと言って美化する気もないのでw
小田原篭城時には扱いの難しい武将だったのだと思うよ。
937 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:49:54
家康は秀吉と一戦して有利な状況で和議を結んでうまく乗り切った。
始から和戦両方を意識してる。
氏政は、だらだらと篭城して負けてすべて失った。
篭城で兵糧切れまで待てば勝てると思っていた。アフォだ。
せめて野戦で戦って、早めに降参すれば印象がよかったのにね。
938 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:44:24
徳川と伊達を当てにし過ぎたな。
徳川が秀吉側にたった時点で滅亡が決まったようなもん。
とっとと上洛すればよかったんだよ
氏照あたりがそれをさせなかったのかな
氏直か氏政の上洛で歴史は大きく変わったかもしれない
僕の名前は松田憲文です。そんだけです。
941 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 17:05:45
942 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:02:12
北条氏の一門衆として北条幻庵のほかに、
「六郷殿、小机殿、伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿、大和兵部大輔殿」とあったのだが、
伊勢氏とか大和氏というのはわざわざ京都から連れてきたのか?
943 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:38:12
>>939 先例から何も学んでないね。上杉、徳川とも上洛して臣従、領土はそのまま。毛利も同じ。
長宗我部、島津は戦ったものの、戦に利あらずと悟るや、ある程度戦力がある内に降伏、謝罪、
それでも何割かは領土を残してもらえている。
944 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:58:06
上洛の準備もしてたのにな・・・
どうして方針転換したんだろ
松田尾張守憲秀
「これまでの武田殿の戦さを拝見しますと、石橋を叩いて渡るような、まことに手堅い戦さぶりでございました。まず属城の一つ一つを丁寧に落としてから主城を攻めるというやり方でした。
その手口から見ますと、小田原城を攻める前に、まず関東の諸城を攻めることは必定、小田原城を守るためには、武蔵鉢形城、武蔵滝山城の二城の固めを厳重にすることが肝要と存じます」
「本当に偉くなる人のは知恵が違うよ。俺は講釈が好きでよく聞きに行く、
真田三代記と言う話だ。信州上田の真田阿波守昌幸が、敵方の軍勢に取り
巻かれた。城を枕に討ち死にと、覚悟を決めた時、倅の与三郎、十四だ、
この子が利口で、我に永楽通宝の旗印を六流れ許したまえ、永楽通宝ってぇ
のは、敵の松田尾張守の定紋だ、この旗印を持って、敵の大道寺駿河守
へ夜討ちをかけた、松田尾張守と大道寺駿河守、同じ敵の陣営だが、仲が
良くない、すぐに同士討ちが始まって、そのすきに落ちのびた。永楽通宝
の旗が六流れで命が助かったから、六連銭ってぇのが真田の定紋になった。
元服をして、真田左衛門将幸村、大阪方の軍師だ。だけど、これだけの知者
でも、大阪落城の際には、薩摩へ落ちたってぇがな」
じっさいのとこ、松田尾張守と大道寺駿河守は仲悪かったの?
947 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:45:04
阿波守じゃなくて安房守昌幸だろ?
948 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:47:40
左衞門将ではなく左衞門佐だよね
949 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 09:50:11
北条は信長にも秀吉にも初めからコケにされてたからな
両政権共に北条を生かしとくつもりなんてさらさら無かっただろ
蛆政親子の上洛なんてどうでもよかったんだよ
秀吉はめっちゃ上洛にこだわっとるで。
>>946 面白い話だな。
松田と大道寺の仲が悪いというのは初耳だが
あってもおかしくない気がする。
しかし幸村がその事実を知ってるとも思えないし、
本当の松田勢は攻め込んでないんだから、大道寺勢と
同士討ちしようにも無理だな。
その出典は何?
講釈話に出典を求めても・・・
いや、なんて講釈話なのかを知りたいんだけど。。
954 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:57:39
氏政と淀君はアフォ
955 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 11:06:37
松田憲文がバイト前に保守
>>950 その割には上洛させようと言う意思が行動に出てない
家康を上洛させる為には妹を無理矢理離縁させて家康と婚姻関係を作り
更には母親まで人質に出して上洛の為の準備を整えたが
徳川以上の大国であるはずの北条に対してはただ上洛しろとの一点張り
これでは上洛したが最後、どんな目に遭うか分かったものではない
氏政もこの待遇の違いに不満を感じ上洛できない理由の一つに挙げている
信長は北条を軽蔑していた感が極めて強いが
秀吉もそれを受け継いだのか、北条を軽く見ていたのは間違いない
958 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 10:57:35
親しさの違いだろ
家康と秀吉は何だかんだで織田家臣時代からの付き合いがあるからな
肉親を北条に与えるには親密さが足らん
959 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 11:30:08
関白は何度も小田原に上洛要請してるし小田原も上洛すると返事している
960 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 12:56:32
>>958 親しさだけではない。
vs家康は、実際戦って勝てないし、島津戦急いでいるので妥協した。
vs北条は、天下の8割以上支配して最終段階なのに空気読めない北条にいらつく。
家康は人質まで出してるのに、北条は氏規を上洛させただけで進展がない。
領土問題は解決した後に、真田領に攻め込んでる。アフォだろ。
>>958 当時、豊臣と徳川は戦火を交えたばかりで親密どころか険悪極まりない
一方、北条も豊臣と交流を持ち、惣無事令も守って「いい子」にしていたにも関わらず
家康の時のように全く尊重する様子もなく、上野の領有問題では中途半端に真田領が残され
「話しが違う、何で差別するんだよヽ(#`Д´)ノムキー」
と氏政は当然の不満を訴えたが秀吉は
「うるせー、さっさと大坂こいカス」
の態度を崩さなかった
結局家康には礼を尽くして和解し、長宗我部・島津・伊達らは赦され本領安堵となったが
北条は領地を取り上げられて氏政らは首を斬られ京で晒された
明らかに北条に対しては特別強硬な態度を取っている
>>957 貴方がどう思おうが、秀吉が北条家の上洛に拘っていたことに
かわりはないよ。彼の北条家への要求はまず上洛せよの一点につきる。
家康は武力で屈服させる事に失敗したから、政治で逆転
するために最後の手段を用いた。この基本的な点を見落として、
北条と比較する事自体ナンセンス。
家康を臣従させた秀吉に怖いものなんてないんだから、北条を軽く
見てるのも当たり前。
>>961 北条家は沼田問題の処分に対し、
「話しが違う、何で差別するんだよヽ(#`Д´)ノムキー」
なんてことは言ってない。
しぶしぶながらも納得し、上洛の準備を整えているところで
名胡桃城を奪取する事件が起こったのだ。
これが誰かの指示か、偶発か、挑発にひっかかったのかは
はっきりしない。
963 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 08:04:47
沼田問題はむしろ北条側にかなり有利な裁定だった
あれで北条が秀吉を舐めるきっかけになったかもしれないな
964 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 10:54:52
小田原も上洛する準備はしていたが土壇場でなにかが起きて上洛せずに決したのだろう
965 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 15:23:46
>>961 回りに、まだ自分以外の対抗勢力があるうちは粗略には扱われないよ。
小牧・長久手時には長宗我部、島津、雑賀、根来、佐々など反秀吉勢力がいたので、対徳川では妥協した。
(但し、秀吉の主目的である対信雄戦では、連戦戦勝して信雄領を蹂躙し伊賀と伊勢半国を割譲させた、
結局、家康は助っ人としては役に立たなかった)
それでも、家康は秀吉の軍事力に圧倒され、和議のしるしとして秀康を人質に出している。
その後、家康が上洛して臣従した一年前には四国征伐で長宗我部は臣下になり、佐々も臣従、
上杉景勝も家康が臣従した同じ年の5月には上洛し、臣従している。
浅井のように秀吉の妹を貰い、上洛中の生命保証として一時的に大政所を人質として貰ったのだから、
上洛要求に応えるのは当然(上洛しなければ征伐するという脅しも裏にあった)。
これだけ気を使ったのは、まだ北条、島津などが残っていたからだけどね。
対北条の上洛要求時点とは、彼我の立場が違いすぎる。
名胡桃も完全に秀吉の罠だな
そもそも徳川・北条の国分協定を秀吉は認めたに関わらず徳川領はそのままに
北条領は「先祖墳墓の地」などど胡散臭い理由で沼田領の三分の一を
宿敵上杉に属する真田に留め置くのは嫌がらせ以外の何ものでもない
しかも真田は「沼田の地」だけを引き渡し領民を一人残さず連れて出ていくと言う嫌がらせを公然とやっている
更に沼田裁定の祝儀の為に派遣されていた石巻康敬を領内にすら入れず駿河で捕えて幽閉している
到底、秀吉が北条を尊重し話しを纏めようとしているとは思えない
まあ、本来北条などは討伐するつもりであったが家康の顔を立てて処分を留め置いていたと
秀吉自信がはっきり言ってるもんな
要するに家康の娘婿である氏直をいきなり攻め滅ぼしてしまっては
家康が見殺しにしたようで面目を失ってしまうから
一応は家康の仲介でもって赦免しようとしたという形だけ作っておいて
しかるのちに討伐と言う方向で進めたわけだ
968 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:59:52
後北条氏も鎌倉北条氏もその最期の有様はなんとなく似ている。
徒手空拳とまでは行かないが、
目の前にめぐってきたチャンスを最大限に活かし切り、
外戚や後見役的立身から武家の棟梁として
関東に覇権を打ち立てるところまではもはや圧巻としかいいようがない。
ところが、西国関係でつまづき、その政治的亀裂が次第に広がっていっても、
一向に気が付かず、終いには西国の騒乱どこらか、
足元の関東に火が付いて、あっというまに
予想だにしていなかった最悪の結末を迎えて族滅する。
その最期は見事といえば見事なのだが、はっきり言って
空気をまったく読めていない政治的センスの鈍化を感じざるを得ない。
外戚の諏訪家にも徳川家にも
天照院篤姫のようなどっしりとした仲介役はいなかったのか?
言っては悪いが、族滅と言えば潔く聞こえるが、
悪く言えば凄まじい集団リンチ状態。
あそこまで周囲勢力に怨みを買う前に事態をなんとか切り開けなかったのか?
969 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 00:49:48
秀吉に敵対する勢力が無くなり、見方が誰もいないのに、グダグダ言うのはアホ。
秀吉は家康に、北条を上洛させるよう命じて、家康も上洛しないなら娘を返せと北条に書いてるのにね...。
タイミングよく上洛して家康ばりのパフォーマンスをすれば、
上洛して臣従し領土を削られた例は一つもないし、秀吉も家康の顔を立てて安泰であったろう。
秀吉には家康が嘘つきだと散々罵っていながら
家康には秀吉に執り成してくれと必死に懇願してみたり
こういう軽薄なところが秀吉もカンに障ったんだろうね
信長にもやたらと媚び売って逆に軽蔑されて信用されなかったけど
実際信長が死んだら手の平反して襲って来たし
こういう点でも秀吉は北条に好感持てなかったんだろうね
>>969-970 そのあたりの取りまとめの無さは、結局「小田原評定」の一語に
辿り着くと思う。
当主と前当主の2頭政治+氏照・氏邦、譜代の実力者等
船頭が多すぎたんだろう。よくある話ではある。
関東経略には相互に補完しあって上手く機能したのが
上方外交では逆に機能した。
城を取り囲まれてからも、降伏か徹底抗戦かが纏まることは
なく、結局は氏直と氏房がこっそりと城を出て降伏の意思を
伝えたというのは、よく考えると驚きではないか?
972 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 12:02:29
神奈川県立歴史博物館の「戦国大名北条氏とその文書」展、24日までだよ。
973 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 17:05:50
なんべんゆうたらわかるのじゃ
北条ではない
伊勢じゃ
もとは伊勢の流れものが伊豆 相模をかすめとった。
いわば盗人じゃ
それをあつかましくも
かつての執権北条の名をかたるとは厚かましい
by 上杉憲政
まあその通りなんだけれどねw
負け犬のオーボエ
976 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 07:34:40
上杉憲政治も御館の乱では道満丸共々可哀想な事になってしまったな・・・。
散々な評判の人だけど、最後まで憎めない人だ。
逆に景勝は大河の主役になろうがなにが、どうしても好きになれない武将だ。
景勝もなかなか哀しみの多い人生ですよ
彼の勝利はつねに苦い
978 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 13:25:29
謙信にそんな暗いイメージはないが、景勝は地味で陰湿なイメージか?
直江いなかったら知名度的にもキツイわな
979 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 15:00:08
風鈴の憲政セリフだったんだが
くらがの
北条の忍 風魔がしのびこんでるやも
憲政
北条ではない。小田原じゃ
準主役級だったよ
たつわかまるー
準主役級とはまた大袈裟な。
981 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:24:35
982 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:59:09
いやいや
相木殿クラスだったよ。
憲政先生は
氏康のセリフまわしが
巻き舌ぎみ
新九郎 みておくのじゃ
義を守りての滅亡とは
かの者のような者をいうのじゃあ
野望して思うけど
氏政の能力値って高めだよね。
983 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 15:34:36
北条為昌
笠原信為の為? 大道寺盛昌の昌?
突然変異の名前
984 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 00:24:56
>>976 景勝は嫌いではない。御館の乱では武田、北条が景虎方という絶対的に不利な状況で生き残り、
また、時代が徳川へとなびき、前田なども膝を屈するなかで一人反旗を翻す。なかなかではないか。
(もし、三成との密約があった?としても、三成が輝元の説得に応じるとはかぎらず、その場合は上杉だけで天下の兵を引き受けることになる)
985 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 01:50:56
986 :
日本@名無史さん: