【早雲】後北条家総合スレッド 其の二【氏直】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
荒らしはスルーで
どうぞ!


http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152400527/
2人間七七四年:2007/08/21(火) 05:52:15 ID:fSm40jY7
2ゲッツ
3人間七七四年:2007/08/21(火) 08:01:03 ID:6YofpmJl
北条家って下野はどのくらいまで領土に収めてたの?
4人間七七四年:2007/08/21(火) 11:09:26 ID:fSm40jY7
宇都宮氏、小山氏は越相同盟以前までは上杉方に与していたようだが、それ以降も北条方につくのではなく信玄と盟約を進めていったようだ。
結城氏はどうだったかな…
5中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2007/08/21(火) 11:58:12 ID:Z4zPcGFk
関連
【外交】北条氏政を低評価してる奴は無価値【天才】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166552671/l50
北条綱成
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170638092/l50
小田原北条家が存続するには
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166552671/l50

おまけ
【負け組】 滝川一益 【関東管領】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156124147/l50
6仙台藩百姓:2007/08/21(火) 14:44:47 ID:Liqt2pmM
>>3
足利長尾、佐野、小山は取り込んだ形
皆川、壬生などは付いたり離れたりだが最終的には北条側
宇都宮はほぼ敵対
那須はどっちつかず
武茂や茂木など常陸の境目は佐竹側

大体半分ぐらいじゃないかお
7人間七七四年:2007/08/21(火) 20:58:14 ID:U2zMBa75
氏政、氏直親子は武田勝頼、信勝親子や滝川一益にひどいことしたよね…(´・ω・`)
きっと名胡桃事件の結末はその因果応報だったんだよ
天道おそるべし
8人間七七四年:2007/08/22(水) 20:04:04 ID:qPrvDZaR
武田勝頼との不和はそもそもの原因は勝頼だし、
滝川一益はどっちもどっちだと思うがなあ。
9人間七七四年:2007/08/24(金) 16:47:17 ID:gmJfVgrX
勝頼のあほが景勝方についたせい
10人間七七四年:2007/08/28(火) 16:23:31 ID:P/G4WbGt
11人間七七四年:2007/08/28(火) 17:11:11 ID:i7t2H2zt
>>7
氏政、氏直親子も
勝頼も好きな自分だが
7の見解はだいぶオカシイと思う。
12人間七七四年:2007/08/29(水) 23:04:22 ID:rfZlm+Wr
まぁ勝頼との関係は確かに色々あるだけに複雑。どっちもどっちだなぁ。

滝川一益は自分で勝手に攻めてきて負けて逃げたんだから自業自得でしょ。
13人間七七四年:2007/08/30(木) 20:11:32 ID:oOPu2wac
勝頼が景勝についたのは氏政の動きが鈍くて、勝頼一人で春日山城を攻めなくては
ならないような情勢だったから馬鹿馬鹿しくなったってのもあるんじゃないか?

上野の厩橋・沼田などの上杉勢はこぞって景虎についたんだから、北条にとっては
越後に入るのに障害はない。実の弟を助けるためなら氏政本人が素早く大軍を率いて
三国峠を越えるぐらいのことをすべきだったと思うが。
14人間七七四年:2007/08/30(木) 21:58:09 ID:L+GYkc/J
氏政自ら三国越えは無理だろ。
北条の抱える戦線は広大なんだから。

氏政に出来ることは、
せいぜい氏邦に上野勢をつけて三国越えさせて、
武田勝頼や在越親景虎諸将派と共に事に当たらせることくらい。
15人間七七四年:2007/08/31(金) 13:39:51 ID:DHBZwxcR
氏照に二万も持たせてたんだから十分支援してるだろ
むしろ勝頼に無理な領土要求した景虎が悪い
16仙台藩百姓:2007/08/31(金) 14:36:20 ID:NwZ2e+/9
北条が見事なグズっぷり披露した戦いですおね( ^ω^)
17人間七七四年:2007/08/31(金) 17:46:18 ID:zn3tSn7Z
またこいつか
伊達がどの面下げて北条をバカにできるんだ?
佐竹を牽制してくれた主筋なのに
18人間七七四年:2007/08/31(金) 23:17:08 ID:JLbRRkiz
>>13
若い頃から養子に出されて氏康の代から百戦錬磨で鍛えられてる氏照・氏邦の方が
期待できると思う・・・。
19人間七七四年:2007/09/01(土) 09:10:55 ID:jwWhZG5P
でもその北条の援軍が来るのは秋になってからだよ。(はっきりした月日は不明らしい)
越後に入って樺野沢城を奪うが、冬には雪が降ってきて動けなくなる有様。

勝頼は5月末に信越国境に到着している。ここで形勢を見ると春日山城のある頸城平野は
景虎が籠もる御館、鮫ヶ尾城、猿毛城などわずかな城を除いて景勝一色。
長篠後の勝頼は犠牲を払う余裕が少ない。
「氏政は俺と景勝を共倒れにさせたいのか?」とまで考えたかもしれん。
ここで「北条軍二万が進発した」という情報が入れば状況は違ったろうが、その気配なし。
勝頼は景勝からの申し出を受けて六月に講和。
20人間七七四年:2007/09/01(土) 10:21:55 ID:2E/0kdEV
>>19
関東の戦線から部隊を割いて、越後に着くまでの間だけでも
武田勢が睨みをきかせてくれるのを期待してたんだろうけどね。

連絡がうまく取れてなかったのかね。
21人間七七四年:2007/09/02(日) 14:59:00 ID:aWIv7uup
北条については詳しくないんですが、北条家は関八州の制覇が目的だったというのが
常識になってますね。
同時代の史料ではっきり「北条家の望みは関八州制覇だ」というように書いたものは
あるんでしょうか。
それとも北条の行動から後世の人が推測したことなんでしょうか。
22人間七七四年:2007/09/02(日) 15:31:20 ID:u9aUyi/M
北条って関東平定したらどうするつもりだったの?
侵略はやめるの?
23人間七七四年:2007/09/02(日) 15:32:24 ID:lNv8D9tR
>>21
鶴岡八幡宮社僧の手になる「快元僧都記(かいげんそうずき)」は、
「(氏綱こそ関東)八カ国の大将軍になられること間違いなし」と
大絶賛。天文年間初期から、後北条氏が新しい関東の覇者になろう
と志している、と同時代人が見ていた一例。
24人間七七四年:2007/09/02(日) 16:03:52 ID:aWIv7uup
>>23
ありがとうございます。そういう史料があるんですね。
天文初年だと北条はまだ小さいと思いますが、「関東」という枠組みは関東公方の
時代からしっかり人々の頭にあるので、その器を埋める新しい勢力の登場、という
感じで言われたんでしょうか。
また北条自身もそれが可能であり「明白な天命」である、みたいに思うようになったと。
25人間七七四年:2007/09/02(日) 16:12:39 ID:vSlBk+dq
>>23
八幡社を再建して貰って喜んでいるだけにみえるけどなー・・・
26人間七七四年:2007/09/02(日) 16:59:36 ID:lNv8D9tR
>>25
その通りですw

>>24
北条五代記や北条記みたいな一級史料とは言いがたいものを
除くと、実は関東制覇の意志を明確に示したモノは皆無。と、
言って良い気がします。氏綱が「北条」を名乗ったことこそ、
その意思の表れと取るしかないような・・・
27人間七七四年:2007/09/02(日) 18:01:54 ID:aWIv7uup
>>26
ありがとうございます。

>>24を書いてからそういえばと思って齋藤慎一『戦国時代の終焉』を出してみると
10頁に「北条の夢」という項があって、天正10年に氏政が三嶋大社に奉納した
願文にある

「信長公が兼ねての約束のとおり、御輿を北条家に入れられて、両家の入魂が
深くなれば、すなわち関東八州は氏直の本意に属することは歴然である」

という記述から、関東の国主になるのが「北条の夢」だったとありました。

この本はこれによって、「天正十年代、北条家はつねにこの夢を見続け、時代の
変化に対処していったのだった」として北条の行動を説明していますが、こういう
グランドプランで説明していいものか、というのがこの本を読んでちょっと感じた
疑問でした。(「北条の夢」という言葉が何度も出てくる)

ただ天正10年代ならその夢が現実味を帯びていたとも言えるでしょうが、通念では
もっと前からそういうプランがあったように言われています。
武田信玄が若い頃から天下取りを夢みていたという説よりは現実的でしょうが、
氏綱や氏康初期から関東制覇の夢があったというのは首をかしげます。
28人間七七四年:2007/09/02(日) 21:12:35 ID:qA0He/en
>>27
当初から関東を治めたいという目的で動いていたかどうかは疑問なんだけど、
北条の場合、氏綱の代の初期から、関東管領・鎌倉公方を同時に敵に回していたので、
こいつらを打倒すれば事実上関東の支配者になりうるわけで、
そもそも天下とかと違って、最初からそんな途方も無いプランという訳ではないと思うよ。
29人間七七四年:2007/09/02(日) 23:06:49 ID:vSlBk+dq
まあ、古河公方・足利義氏が死ぬと、北条はその権限を吸収してしまっている。
なので事実上関東の太守だったと言えないこともない。

とはいえ、北条改姓も古河公方権力の取り込みにやっきになったのも、
関東に於ける支配の正統性を確保するためだろうけど。
関東諸将からみたら所詮他国の凶徒に過ぎないわけで。
30人間七七四年:2007/09/02(日) 23:42:16 ID:qA0He/en
>>29
そらそうだ、しかも北条家は豪族の権力をガンガン奪っていってるからね、
一般庶民にとっては良いかもしれんけど、豪族らにとっては死に物狂いでも死守したくもなるだろな。
31人間七七四年:2007/09/03(月) 00:07:58 ID://XH7awo
>>27
氏綱は政治力+実力で、すでに関東の第一人者と言っていいと思う。
北条の関東制覇は彼の時点で一旦完成してると思う。
この人はほんとに凄いというか恐いというか。。

氏綱が死んで、その揺れ戻しが来たのが氏康の代。
それを押し返した氏康の偉業の、さらなる揺れ戻しが来るのが氏政の代。
最後の大波に飲まれたのが氏直の代。
32北条幻庵ってどお?:2007/09/04(火) 12:51:09 ID:L45VZzNt
氏政は運が良かった…ただ、それだけのことよ!!
1.運が良かった所
信玄が死んで和睦ができたし…
謙信が死んで上野を収めたし…
信長が死んで上野・下野南部を取り返し…
政宗がいたから、佐竹の南部連合を切り崩し始めたわけだし…

2.だけど実力はさっぱり…
景虎救援に赴くも、
結局は失敗してるしね。
せめて救出ぐらいはしてやれよ!!
(勝頼の撤退がなかったら…大敗!?)

武田旧臣のゲリラに悩まされて、現場にいる氏直の頭ごなしに勝手に徳川と和睦しちゃうしね!!

関東征服するなら、越後・信濃・甲斐・駿河東部に行くのはお門違い!!
そして、上野・下野を放棄して信長にごまするのもね!!
北条の夢は否定しないが…そこのところどう説明するのかな?

「御縁相調え、関東八州御分国に参る」(信長公記 天正八(1580)年3/10付 氏政→信長書状)
(北条と織田との間に婚姻を結び、信長は北条の関東領有を認め、北条が信長の領国に行く(つまり、信長に臣従する))

以上!! 理性的な返答求む!!
33人間七七四年:2007/09/04(火) 12:58:51 ID:iIX26ELq
死ね
34北条幻庵ってどお?:2007/09/04(火) 13:16:09 ID:L45VZzNt
文章読めよ!! 理性的なレスのみ!!
35人間七七四年:2007/09/04(火) 13:23:17 ID:CzQcBLlu
>>32
馬鹿か?もう一回歴史をちゃんと学べカス
信玄期も氏政と武田は同盟してた
対謙信でも野戦では睨み合いに終止、負けたなんて記録は一切ない。
政宗がいたから佐竹を切り崩しできたんじゃなくて北条が牽制してたから
政宗は芦名を滅ぼし奥州で覇を唱えた
景虎の件は勝頼に無理な領土要求した景虎や、北条方に援軍が届かない件を
確かめ、問う使者を送る事もなく景勝に味方した勝頼にも非は大きい
信濃戦の非はそもそも氏政は指揮取ってないしゲリラ戦に持ち込まれれば
いかなる大軍といえど不利になる。家康が北条をおそるるにたらないと思ってるなら
同盟結ぶ意味なんてないし徳川との同盟は関東平定や上杉等との戦闘に万全の体制
を取る意味でもメリットは大きい。信長への臣従は先見性のある証拠
要所ではこけててもじわじわと勢力を伸ばし最大版図を築き上げた氏政の手腕が
理解できないお前はチンカス以下
36人間七七四年:2007/09/04(火) 13:29:10 ID:CzQcBLlu
それにしても32は糞レスだな
北条が敵対関係なら武田は西を攻めるどころじゃない
現に長篠以降も甲相同盟存続中はまだまだ武田は三河遠近江もあまり取り返されず
手ごわい存在、甲相同盟決裂を期に一気に崩壊
氏康から氏政の代がわりで何も痛い痛手がなかったんだが?
お前みたいな低脳はまず客観性を養う事をお勧めする
37北条幻庵ってどお?:2007/09/04(火) 13:58:44 ID:L45VZzNt
ちょっと待った!!
1.ゴメン、訂正 ×信玄が死んで→○氏康が死んで

2.謙信に負けたとは一言も言ってないよ!! 謙信死後の内乱のおかげで簡単に上野が支配下に入ったと言いたかっんだ。
「謙信が補給路にしていた「長尾同盟(越後=白井=総社=足利)」が1566年頃から崩れているからいずれは…とも言えるが

3.信長への臣従は、私から見れば氏政の理想である関東征服との整合性が感じられない。
たしかに現実と理想がかけ離れるのはよくあることだけど…

4.政宗とのこと
1584年に沼尻合戦あたりから、佐竹南部連合が綻び始めたんじゃない?と言いたかっただけ
梶原は北条に内通するし、のちには大掾氏と江戸氏の争いが収めきれず、氏直と松田憲秀の侵攻を招いた。



5.追記
ただ『小田原役帳』と『早雲寺殿廿一箇条』は認めるから…

6.最後に
手ごろに入手できる北条関係の史料ってやはり『神奈川県史』とかですかね?



私はただ疑問を口にしただけであり、別に荒らしのためではない。
それに

38人間七七四年:2007/09/04(火) 18:24:11 ID:iIX26ELq
それに?
39仙台藩百姓:2007/09/04(火) 18:59:55 ID:bXyPbL+7
氏政は武田に攻められる度、信玄時代には謙信に泣きつき勝頼時代には信長に泣きついた
なりふり構わぬ外交術はなかなかのものだお( ^ω^)
その度に同盟相手にコケにされるのはご愛嬌
40人間七七四年:2007/09/04(火) 22:55:52 ID:kOf6Pl6p
言われて見ると政宗とそっくりだな。
41人間七七四年:2007/09/05(水) 00:07:02 ID:ycCl006U
>>32
景虎の件は判断が難しいでしょ。

景虎が能力を発揮して、現地のシンパを纏め上げることが
できれば良かったが、彼の人生経験では荷が重かった。

対して景勝サイドの動きは見事。御館の乱はここが大きい。

一方で、北条宗家の支援は充分常識的で妥当だと思う。
さらに言えば、はるばる越後の内乱に部隊を長征させて、
有利に事を運べたかどうかが微妙。
ずるずると引きずられると、想定外の戦線の拡大だけに
あちこちに破綻をきたすはず。

こういった場合、伸るか反るかの勝負がかけないのが、
この時代の北条家。

信長や秀吉なら見逃さないって気はするんだけど。

42人間七七四年:2007/09/05(水) 00:21:33 ID:E52htpCn
>>32
あと北条家は重臣たちとの合議制でことを進める。
ゆえに徳川との和睦も、氏政の独断かどうかがよく分からない。
北条家の総意ということだろう。

このときは信濃からの兵站が脅かされ、甲斐方面も徳川勢に
がっちり防がれていた。
敵地で孤立しつつある氏直の身に、何かあったらと考えると
和睦のタイミングではあるでしょ。

43人間七七四年:2007/09/05(水) 08:33:10 ID:ugKwzZ8d
御館の乱については、勝頼の動きにも微妙に変な点があるんですね。
史料(『上越市史 別編2』)を見ていると、信越国境の武田軍は5月27日に
まず飯山城を攻めています(上越市史1525号)。

地図を見るとわかるが、もし勝頼が春日山城を攻めたいなら野尻湖方面から
まっすぐ北上するはずで、飯山城攻撃はコースが違います。
飯山城から奥は武田が信濃の中で唯一最後まで取れなかった地域なので、
景虎の救援ではなく火事場泥棒的にここを取りに来たとも解釈できる行動。

実際景勝はそう解釈したと思う。領土割譲を条件に和議を提案し、勝頼もすぐ
受けたから。
ただこれも北条が敏速に自軍を出しておれば勝頼も北条の手前そんなことは
できなかったと思うので、北条側に責任がないとは言えないでしょうが。
44人間七七四年:2007/09/05(水) 19:08:20 ID:FDQuy3AN
>>32
謙信に関しては、むしろじり貧に追い込まれているのは謙信サイドで、
氏政は謙信の介入を排して関東経略を着々と進めている。
その代表例が、関宿奪取と氏照の小山入部で、
謙信を初め関東諸将はこれらに対してなんら効果的な対応はとれていない。

ああ、そうそう、下野南部に進出したのは天正三年末だから、織田は関係ないよ。
45人間七七四年:2007/09/05(水) 21:31:02 ID:e9XX41pb
>>43
なるほど。充分考えられる話ですね。
生き馬の目をぬく戦国時代。お家を保つのは並み大抵ではないですね。
46人間七七四年:2007/09/07(金) 13:31:32 ID:9sq12lw1
>>39
勝頼に攻められた事ていつ?
重須の戦いは氏直から向かったんじゃ?
47北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 14:21:14 ID:MrzzvSkE
>>44
レス丁寧にありがとう。
下野祇園城主の小山孝哲は、1575年2月下旬、氏照によって追放されて義重の所に亡命したのだが…
勝頼滅亡後、信長が氏政に圧力をかけて帰城させたんだよ。
だから下野南部も信長の支配下に入ったと言うわけなんだ。
(天正10(1582)年5/18付、氏政→信長への書状)
(天正10(1582)年5/26付、孝哲→那須資晴への書状)
武田討伐の時、氏政は信長に上州口から攻める事を約束していたんだけど…
1.恐らく、氏政が故意に破ったのか? 
2.はてまた、北条の軍事力が駿河口の出兵だけで精一杯だったか?
3.信長と勝頼が戦っている間に漁夫の利を得ようとしたのか?
結局、上野に出兵しなかったので…上野は一益のものとなった。(これは有名ですね!!)
一益が厩橋に入城すると(この城も元々、あの北条高広の本城であったが、一益に明け渡した)、
武田旧臣 (真田昌幸、小幡信貞など)が一益のもとへ伺候し、由良氏や成田氏は人質を差し出した。
その他、信長に仕えていた天徳寺宝衍(後の佐野房綱)が使者として、宇都宮、小山、佐竹(というか太田・梶原)、上総(誰なのか不明)に赴いているんだ。
これは私見ですが、信長は北条攻めを考えていたのかも!?ね。
48北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 15:29:08 ID:MrzzvSkE
>>41
レス丁寧にありがとう。
私は「北条は遅い」と結論せざるを得ないんだ。
景勝は
1.『上杉軍役帳』によると家中No.2の軍役を割り当てられていた。しかし、景虎はない(つまり独自の軍事力をもたない)。
2.確か従五位下弾正少弼に叙任されていた(つまり正当な世継ぎとして認知されていた)が、景虎はない(確か三郎だったっけ!?)。
3.そして上杉家中の多数が支持している
ということで越後国内では有利に立っていた。

一方、景虎は
1.周辺諸国、特に北条とその同盟国、武田、葦名の軍事力(圧力)。
2.北条に隣接する上野の厩橋城主北条高広、倉内(沼田)城代河田重親。
(ちなみに倉内城は景勝派の上野家成と景虎派の河田重親にそれぞれ分かれていた)
3.上田長尾と対立する栖吉景信など上杉家中では少数
であり越後国内では不利な状況にあった。
ならば、いち早く越後に軍事介入をすべきじゃなかったのか?と率直に思ったわけ。
(でも、3月&突然のことだから難しいかも…もしくは>>42の言うとおり、北条は何事も会議で決めていたのかも)

で、北条がまずやったことは、勝頼に救援を頼む(3月25日?)間、自分は佐竹出兵をしている。
(4月15日付氏照→芦名盛氏書状)&(4月15日付氏照→(田村清顕配下)御代田下野守書状)
(5月19日付氏照→芦名盛隆書状)…内容は「佐竹の背後をついてくれ」という内容。

で、5月上旬〜中旬に氏政、氏照、氏邦は下総結城・山川を攻めた (これって北条の主力級だよね) 。
結局、義重が到着し、1ヶ月間、鬼怒川を挟んで対陣した後、和睦している(6月下旬〜7月上旬)。

そのころ勝頼は…>>43の言うとおり、景勝と和睦してしまっている(6月7日景勝、勝頼に和睦申し込む→8月19 日成立→8月28日勝頼帰国)。
この頃になってやっと他国衆の由良国繁に対して、景虎方の北条高広と合力するよう命じている (氏政→国繁 6月10日付書状)。

7月17日。ようやっと北条高広らが、倉内(沼田)城を攻略し越後に侵入し
8月9日。北条勢の先陣(佐竹出兵に加わっていない北条氏秀(江戸城代・氏繁の弟…兄の氏繁が同年6月20日病没したのでその代理か?))が越後に侵入し、坂戸城(景勝の本拠地)の対の城である樺沢(かばざわ)城を攻略す。

→氏照は恐らくこの後に入ったものと思われる。

結論
どうして、氏照で佐竹を牽制している間に、氏邦が勝頼と共同して景虎を救うことはできなかったのか?
少なくとも佐竹と戦うよりは、越後を得た方がいいんじゃない?上野や下野よりも国力が上だし…ね。
まあ、地政学的には維持するのは難しいかもしれんが…。

49北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 16:31:09 ID:MrzzvSkE
>>43
飯山城攻めの新情報ありがとう。

>>43もしくは戦国に詳しい皆々様へ
あらためて1つ質問があるのですが…答えられたらでいいのですけど…ムリしないでね。
この時、武田の軍勢を率いたのは、私の年表だと…
高坂弾正と信豊なんだけど…弾正はこの年の5月7日に死んでるのでこれはムリですよね?
じゃあ、誰? 息子なのかな? 詳しい人レス頼みます。

他の皆様もレスありがとう。

追記
それに…のあとはど忘れしてしまった!!


50北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 17:20:32 ID:MrzzvSkE
レス多く使ってゴメン!
小山孝哲→小山秀綱
5143:2007/09/13(木) 17:21:34 ID:mutfGE0e
>>49
たまたまこのスレを見たら質問が…。で即答

まず>>43で書いた飯山城攻めについては史料解釈が間違っていたかもしれません。

原文は
「去廿七、向飯山相動近辺無一宇放火、殊敵募候処、押返、数十人討捕之由、心地
好次第候」

とあり、宛名は妻有の小森沢刑部少輔ですが、小森沢が飯山城に向かい、近辺で
放火したり敵を数十人討ち取ったのを賞しています。つまり飯山城が(景勝から見て)
敵になっていて、そこへ小森沢が攻めかかったようです。はじめは飯山城近くまで
勝頼が攻撃をかけたのだろうと思ったのですが、武田軍とは書いてないので、どうも
そうではなく飯山城の守将が景虎方についたと解釈するのがよいか。

これ前に気づいて訂正を書き込もうと思ってそのままになっていたんですが、質問が
あったので逃げるわけにもいかなくなったw


次に高坂弾正ですが、これは景勝の天正六年六月八日の書状(『上越市史 別編2』
1528号)に

「扨亦、甲州之儀、武田典厩并高坂弾正以取成、勝頼此方入魂、何分も当方差図
次第、可及其行之由候条、可心安候」
(北条丹後守・安芸守宛)

とあって明白に典厩信豊と高坂弾正の名が出てきます。
これは自分も不審に思って調べたのですが『武田家過去帳』には六月十四日に死んだと
ある由。
http://f11.aaa.livedoor.jp/~chirori/takeda/ka/kou.php
こっちを生かせばギリギリ間に合うか。最後のご奉公?

ただこの文書は本物だと思いますが、「高坂弾正」という名乗りなのは奇妙です。
甲陽軍鑑がこの文字を使っているわけですが、正しい文書にある姓は「春日」「香坂」だと
柴辻俊六氏の『信玄の戦略』にあります。
最晩年に高坂の文字を使ったのか、上杉方がそう呼び習わしていたのか。……
52北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 17:58:03 ID:MrzzvSkE
>>50
訂正レスありがとう。そういうことだったのですね!!

高坂弾正の名の出典元は…あの景勝→高広・景広父子の6月8日付の書状なんですね。
これは私見ですが…
敵方の急先鋒の高広・景広父子に対し、景勝は…
何か間違った情報を送って懐柔しようとしたのかもしれませんね。
(と言っても御舘の乱が始まったあと5月に高広の父とされる高定が景勝派に暗殺されてしまったから、どうだか…)
53北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 17:58:47 ID:MrzzvSkE
訂正
×>>50 →○>>51
54人間七七四年:2007/09/13(木) 18:50:08 ID:mutfGE0e
>>52
> 何か間違った情報を送って懐柔しようとしたのかもしれませんね。

確かに勝頼が「自分の指図で軍事行動をする」というのはオーバーだと思いますが、
六月十二日には武田信豊が景勝に対して

「蒙仰旨、至于御真実者、御誓詞可給置之由、申届候処、速被相認、欣悦候、
幸勝頼海津着陣候間、右之趣具ニ申聞候」

と言っていて、それ以前に景勝が勝頼に誓詞を出しているようですから、講和交渉は
八日の時点でかなり進んでいたのは事実かと思います。

なお八日の書状は「あの」と言っておられるので内容はご存じかと思いますが、
北条父子が景勝のやった関越往来の「人留」に抗議してきたので、いや景虎が
春日山城を出た翌日から北条の者が近辺に押しかけて証人を取ったりしているから
父子が心変わりしたと思って申しつけた、また老母(高広妻?)を(北条から厩橋に)
呼んだので変心は歴然だと言う者もいると書いています。
勝頼との講和を暴露して揺さぶりをかけているわけでしょう。
55人間七七四年:2007/09/13(木) 23:11:28 ID:MYC8A9NV
>>47
>小山領は小山氏に戻った
小山は確かに信長(というか滝山一益?)のおかげで自城に戻れたが、
近藤綱秀も同城に在城し続けているんだが?

>武田征伐で上野に出兵していなかった
武田征伐の時、織田側からの通達が遅れたために北条の初動は遅れた。
だが氏邦が兵を率いて上野に入り内藤・和田を調略している。
また滝川一益は反北条諸将の面々だけでなく、伊達・葦名などとも交流を始めている。
北条を含む、関東奥羽諸将を統括する立場になった訳だ。

>北条征伐構想
これについてはある程度同意しておく、ただし直ちに武力発動は考えにくい。
イチャモンつけて北条が従順である程度力を削げるならばあえて潰すことはないだろう。
パターンとしては対長宗我部と同じ様な感じではなかろうか。
56人間七七四年:2007/09/15(土) 14:53:47 ID:/ZAG2gLU
>>48
景勝が従五位下弾正少弼に任命されたと言う記録は中央には残っていない。(謙信自信のものはある)
現在残っているのは謙信がそう遺したとされる書状があるのだが、筆跡が景勝のものである事が県史にある。
それ以前に弾正少弼が家督相続に関係すると言う事自体がどこにも論拠が無い。
(長尾家が以前から名乗っていたのは弾正左衛門尉の自称)
かと言って三郎の方にも関東管領を譲ると言う事や軍役を課せられていないこと、
謙信の名を受け継いでいる事から、後継者として目されてはいたんだろうけど、はっきりした動きは少ない。
また上杉憲政らがその後に景虎についている事からも家督相続に関しては
どちらとも言えない状況だったまま謙信が急死したと考えるべき。

それよりも景勝は謙信死後のわずか数日で春日山城を抑えて、
一気に景虎に対して攻勢を強めているので、この過程で多くの家臣を味方につけたと考えられる。
更にはその春日山の金銀を使って素早く外交にも勤めているので、
北条本家としてはこの状況では二の足を踏まざるを得ないのではないか。
57北条幻庵ってどお?:2007/09/19(水) 12:50:55 ID:Z1gKtlWb
>>56 詳細な加筆・訂正レスどうもありがとう。
>景勝が従五位下弾正少弼に任命されたと言う記録は中央には残っていない。(謙信自信のものはある)
…(中略)…(長尾家が以前から名乗っていたのは弾正左衛門尉の自称)

そうだったんですか…。
1575年1月11日に顕景から景勝に改名した時、喜平次から弾正少弼になったことは知っていたんだけど…
>>56の情報から考えると、のちに景勝が偽造したのかもしれませんね。「勝者は歴史を塗り替える」ですから…

お手数かけてすみませんが、裏を取りたいので、できたら出典元を教えてもらいたいのですが…(『新潟県史』なのかな?)、
レス求む。

>(長尾家が以前から名乗っていたのは弾正左衛門尉の自称)
これについて改めて1つ質問があるのですが…
これは三条長尾なのかな、それとも上田長尾なのかな? 
勉強不足ですみませんが、教えて下さい(関係ないけど、ついでに越後長尾家三氏の代々の自称もね!!)、
これもレス求む。

>上家督相続に関してはどちらとも言えない状況だったまま謙信が急死したと考えるべき。

これは同意します。じゃなかったら、御館の乱などはなっから起こるわけがありませんからね。
謙信は後継者を立てておけば良かったのに…ここが私にとって謙信の許せない最大の点なんですよ。
これで天下人を狙える地位から脱落してしまったのだから、謙信にも現代で言う「経営責任」があると思いますが、如何でしょうか?
景勝は外患と戦いながら、内憂を収めるのに約9年半かかってますからね(天正15(1587)年10月25日 景勝、新発田重家の乱を平定)。
これさえなければ、もっと対外出兵が可能だったと思います(関東出兵も…)。
でも、ある程度の試練がなければ、戦国時代に生き残れなかったのだろうと考えると、はたして良かったのだろうか? と悩みます。

>それよりも景勝は謙信死後のわずか数日で春日山城を抑えて、
一気に景虎に対して攻勢を強めているので、この過程で多くの家臣を味方につけたと考えられる。

これは、3月15日の景勝による春日山城の実城(本丸)と御金蔵を占拠して謙信の遺産、金2700枚を確保した事件ですよね?
確かに戦争するにも、外交するにも、懐柔するにも金が必要ですからね…。
失礼ながら加筆させていただくと、前日の14日に(『上杉軍役帳』の軍役No.4で、景虎派の)柿崎晴家が、景勝派に暗殺されている。
これも、敵の軍事力を弱体化する点において、大なり小なり影響を与えたのではないでしょうか? 
以上、何かあれば、遠慮なくレス下さい。
恐々謹言 長月拾六日。
58北条幻庵ってどお?:2007/09/19(水) 13:18:22 ID:Z1gKtlWb
>>55わざわざのレス丁寧にいたみいります。とりあえず、いまわかる範囲で答えます!!

そうです!! 信長ではなく、一益です。なので…
ここで、>>44のレスの一部を加筆・訂正します!! 
誤 信長が氏政に圧力をかけて帰城させたんだよ。だから下野南部も信長の支配下に入ったと言うわけなんだ。⋯(中略)⋯氏政→信長への書状

正 氏政が一益に明け渡し、秀綱は帰国できた。一益は下野南部まで勢力下にしたことが証明される。⋯(中略)⋯氏政→一益への書状


>近藤綱秀も同城に在城し続けているんだが?
結論としては、わかりませんでした!! できる限り調べてみたのですが…これがレスを返すのが遅くなった原因の一つです。

良ければ、知っている限りのデータを教えてくれませんか? わかる範囲で互いの手の内を明かし合いましょう。ということで…、私から…。
まず、私は近藤綱秀はずっと榎本城代だと思っていましたが…
(榎本城は、1577年に佐野氏のものであり、1583年に北条が取り戻して、近藤氏を置いた)
『関東の城 関東編』だと、現在の小山市街には幾つもの城があるらしいです。
余湖君のホームページでも、
(http://www65.tok2.com/home2/yogokun/oohiramati.htm#enomoto→榎本城)
(http://homepage2.nifty.com/yogo1394/totigi/gionoyama.htm→祇園城)
「祗園城の他に、(長福寺城)、鷲城、中久喜城、宿城があり、現在の小山市街がそれらの城に囲まれた城砦都市みたいなもの」と解説しています。
あくまでも推測ですが、氏綱時代の江戸城みたいに、郭(小山城は城)単位で、城代が住み分けていたのかもしれません。
これに関してはもう少し合点がいくまで、互いにできる範囲内で調べた事を見せ合うか? 第三者のレスを待つのも良いと思うのですが、如何でしょうか? (でも、私は勉強不足だから、馬脚を現すかもしれません!!)
ということで、「小山城に近藤綱秀が在城していた」件は>>55も含め、戦国好きの皆さん、レス募集します!! 
知っていることなら何でも構いません!!(関係ある別スレにも似たような質問を書いておきましょう)

>氏邦が兵を率いて上野に入り内藤・和田を調略している。
新情報ありがとう。これで氏邦→昌幸3月12日書状に出てくる「和田先忠…云々」が実証されました。
これも出典元レス求む!!

>滝川一益は反北条諸将の面々だけでなく、伊達・葦名などとも交流を始めている。
北条を含む、関東奥羽諸将を統括する立場になった訳だ

新情報ありがとう。指摘されて調べてみたところ、や『伊達治下記録』では「東国総奉行」となってますね。
文字通り「東国儀御取次」(信長公記)だったんですね。
ひょっとしたら⋯『信長の司令官』(谷口克弘著)が出典元?

>北条征伐構想
これについてはある程度同意しておく、ただし直ちに武力発動は考えにくい。
イチャモンつけて北条が従順である程度力を削げるならばあえて潰すことはないだろう。
パターンとしては対長宗我部と同じ様な感じではなかろうか。

これは、チョット先走り過ぎました。ゴメン。
(天正十年四月八日 信長→太田三楽斎・梶原政景父子あて書状)
(天正十年五月二十四日 一益→梶原政景あて書状)
私はこれらしか見たことはないのだが、恐らく近隣の諸将にも似たような手紙を配っていたんじゃないんだろうか?
あくまでも私見ですが、一益は関東の諸将を掌握しようと懸命だったのではないでしょうか?
以上、何かあれば、遠慮なくレス下さい。
恐々謹言 長月拾九日。
59北条幻庵ってどお?:2007/09/19(水) 14:17:47 ID:Z1gKtlWb
訂正 こっちの方がいいかも…
誤 余湖君のホームページでも、
 (http://www65.tok2.com/home2/yogokun/oohiramati.htm#enomoto→榎本城)
 (http://homepage2.nifty.com/yogo1394/totigi/gionoyama.htm→祇園城)

正 埋もれた古城 関東地方の城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tochigi/Enomoto/index.htm→榎本城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tochigi/Gion/index.htm→祇園城
榎本城
http://marie.saiin.net/~tochigi-castle/enomoto.htm
栃木県歴史研究サイト「戦国下野」合戦 榎本城の戦い
http://www13.ocn.ne.jp/~youkaku/con04/enomoto.html
黒田 基樹著 『戦国期東国の大名と国衆』
評者:荒川 善夫 
掲載紙:日本史研究477(2002.5)
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho178.htm
60人間七七四年:2007/09/20(木) 15:03:02 ID:Zjqmy00g
>>57
景勝の官途の文書は『新潟県史 資料編3』にあり(上杉家文書)、890号が弾正少弼の
官途を与えた謙信書状、891号が景勝の名乗りを与えた謙信書状で、ともに正月十一日付
なので両者は一連とされています。
景勝の名乗りは天正三年二月が初見なので県史はこの2通を天正三年に比定しています。

890号は
「撰吉日良辰、改名字官途、上杉弾正少弼与成之候、彼官途者、先公方様江深忠信之
心馳依有之、被仰立被下候条、不安可被思事、目出度候、恐々謹言、
   正月拾一日       謙信(花押)
    長尾喜平次殿」

891号は
「任今日吉日、改名乗、景勝与可然候、恐々謹言、
   正月拾一日       謙信(花押)
    上杉弾正少弼殿」

筆跡の件ですが、890号(官途の書状)について県史の注は
「本書の筆跡・花押は(元和七年)二月朔日付景勝自筆書状(両掛入古文書、大日本古文書
一〇二五号)に同じ」とし、
891号(名乗りの書状)については
「本書の筆跡は(元和六年)閏十二月朔日付景勝書状(両掛入古文書、大日本古文書
一〇二四号)に同じ」
としています。

つまり890号は景勝の筆跡、891号はそれと別という見立て。
写真は両方とも『上越市史 別編1』の別冊に出ていますが、比較対象となる元和の文書は
写真がないこともあり、自分には判断つきません。
ただ県史が「筆跡・花押は」とするのは不思議で、890号の花押は謙信のです。元和七年の
景勝の書状には景勝の花押があるはずなのでそれとは違うはず。筆跡という意味か。
890号の謙信の花押は、他の文書の写真と比べておかしいところはないように思いました。

県史の筆跡判断が正しいとすると、それと異筆だが同日付の891号との関係も問題に
なります。こちらも元和ごろの文書に同じ筆跡があるというのですから、そのころに作られた
のでしょうか。
しかし官途はともかく名乗りは間違いなく天正三年から「景勝」の名を使っているのだから、
そのとき謙信から許可を受けたのでしょう。その手紙が現在なくて代わりに元和の人の
筆跡のがあるとしても、これを偽造とすべきかどうか。
何かの理由でもとの文書が失われたり傷んだりしたので作り直したのではないかとも思うし、
偽造のような気もするしよくわかりません。
61人間七七四年:2007/09/22(土) 03:28:27 ID:g02fly0x
景勝の名前が具体的に出てくる時期とそれ謙信からのものだとする論拠は何だろう?
6260:2007/09/22(土) 14:32:12 ID:U5dPJNjq
>>61
景勝の名の初出は天正三年二月九日付の軍役指出書(吉江文書、新潟県史3682号・
上越市史別編1の1244号)で、馬上四十騎、手明き四十人などの軍役を書き上げた
ものです。吉江喜四郎宛、署名は「景勝(花押)」。
この直後の二月十六日に謙信が軍役帳を作成しており、景勝の指出はそのためのもの。

このほか謙信が死ぬまでの景勝の発給文書には天正四年四月十日に泉沢又五郎に
知行を与えた判物(歴代古案、上越市史1284号)などがありますがみな「景勝」のみで
官途を書いたものはありません。

しかし上越市史をめくって気がついたんですが、年未詳の上杉謙信書状(上越市史1382号)が

「為上陽之祝詞、太刀一腰并鵝眼百疋到来、快然候、謹言、
     正月六日   御朱印
       上杉弾正少弼殿」
(覚上公御書集巻一所収)

というもので、御朱印は謙信、弾正少弼は景勝とされているので、もしこの通りの原本が
かつて存在したなら確かに謙信が景勝を弾正少弼の官途で呼んだことになり、現存する
書状の筆跡にかかわらず景勝が生前に謙信から官途を与えられた可能性が高い。

景勝の名を謙信が与えたとする根拠は文書としては(元和の筆跡だという)謙信書状しか
ないわけですが、謙信が家臣に一字や仮名、実名を与えた文書はかなり残っています。
これらから考えると景勝が喜平次顕景から改名するなら、景勝の名が誰の発案かは
ともかく謙信に話をしてその許可をもらっただろうと思います。

あと景勝を名乗る以前の永禄九年、臼井城の戦いのさいの家臣への感状を顕景が出して
いるのが2通あります(上越市史509・510号)。
63人間七七四年:2007/09/22(土) 16:32:28 ID:UkxpQ37c
景勝の官途に関しては、蘆名盛氏宛の上杉景虎書状がありますね。(上越市史1523号)

「(略)〜仍先段如申入候、少弼無曲擬故、去十三当館江相移〜(略)
       五月廿九日  景虎
       芦名修理大夫殿」
(歴代古案巻五)

その他、普光寺文書に(普光寺は毘沙門堂別当。謙信の書状や上田長尾家の書状が多数残る縁り深い古刹)
官途を与えられて寺が祝儀したことに対する景勝の礼状が残っているようです。

「御懇札具令披見、随而今度従 上様御幕なと被下、官途させられ候、就之祝儀〜(略)
     少弼 景勝(花押影)
  弐月四日
   普光寺 床下」


景虎が「少弼」としている以上、謙信が何らかの形で、
弾正少弼を譲る意思があることを周囲に示し、景虎もそれを知っていたのかも知れませんね。

ただ、弾正少弼を譲ることがイコール家督相続に結び付くとは思えませんが。
景虎は同盟当時から、山内上杉家の後継者として自他ともに認められていたと思いますし、
同盟破綻後も上杉家に残った以上、その役割を自認していたのではないでしょうか。

あと、前の方のレスに出て来る、景虎が勝頼に対して領土割譲を要求したという話ですが、
書状が残っているのでしょうか?
氏政はそれを知っていたのでしょうか?



64人間七七四年:2007/09/22(土) 18:18:52 ID:g02fly0x
なるほど、官位はどのみち書状だけでどうこうなるもんでもないので自称し始めたもんだろうけど、
景勝の名前を謙信存命時から名乗っていたのは間違い無さそうだな。貴重な意見をありがとう。
6560:2007/09/22(土) 18:22:38 ID:U5dPJNjq
>>63
ありがとうございます。景虎の書状は読んだことはありますが、謙信死後のは頭から抜けて
いました。
景虎の書状はこれと元亀元年のもの(上越市史923号)ぐらいでしょうか。
発給文書が少ないのはともかく、景虎は滅んだため受給文書も残されていないので景勝との
比較に難渋します。
普光寺は浦佐のですね。

景虎が勝頼に領土要求したことは、このスレ以外のどこかでも読んだ気がするのですが
どこで読んだのか思い出せません。
66人間七七四年:2007/09/22(土) 23:05:16 ID:5780G2T6
やっとスレ更新できたみたいだな。プッwでも話題が上杉関連ってww人気薄は辛いねー。所詮武田上杉の引き立て役にもなれん雑魚なんだから他スレで暴言はくのは止めてねーww
67人間七七四年:2007/09/23(日) 07:58:57 ID:K1n5Q4fY
景虎が関東管領のポストを継ぐはずだったというのは可能性が高いと思いますが
そうだとしても謙信は関東を現状よりもっと制圧してから譲ろうと考えていたのでは。

北条氏政は謙信の急死後、景虎が生き残れる現実的な可能性をあまり期待して
なかったんじゃないかとも思います。それが意外に粘っているので欲が出てきて
軍勢を派遣して形勢を覆そうとした。
北条軍の派遣が秋まで遅れたのはそうとでも考えないと説明がつきにくい気も。

また勝頼は景勝とは講和したものの、景虎を攻めることはせず両者を調停しようとし
一時は成功しました。
北条としてもこの段階までの勝頼の動きなら許容範囲だったのではないか。
そういういろんな思わくが錯綜したため御館の乱がわかりにくいものになっている
ように思います。
68人間七七四年:2007/09/23(日) 10:58:50 ID:AUBmXxbv
景虎(氏秀)の人物像が謎なのも問題。

謙信に寵愛されていて、家内で「小田原殿」と呼ばれて激怒するような逸話も残っているので、
思ってるほど北条家とのつながりは深くない可能性も考えられる。

つまり氏政からすれば「関東管領を継いで関東侵略の邪魔をする謙信二世になる可能性」のある人物としても
映っていたかもしれない。御館の乱ではピンチに陥ったから助けを求めてはいるものの、
助けた後に必ず利になるかどうか怪しいのでは、博打を犯す理由も薄くなる。

逆に景勝が謙信の領土は継いでも関東管領に興味がなく、関東の支配に手をださなそうであれば、
ひとまず問題は無いと考えていても矛盾は無いと思う。

あくまで氏政・ひいては北条家の狙いは関東なんだし。
6960:2007/09/23(日) 18:02:21 ID:B5ScSLNd
景勝の名前について『上越市史』924号にもっと前のがあるのに気づきました。
同書が元亀元年に編年する八月十日付の上杉輝虎書状(村上国清宛)に

「景虎・景勝無異儀候条、可御心安候」

とあります。ここで景虎の方が上位にあるのも面白いわけですが、元亀元年から景勝の名が
あったのか?
書状なので年は書いていないものの、署名が「輝虎」なので、謙信と改名する元亀元年十二月
以前のものであるのは確か。また文中に朝倉義景が現存人物として言及されていることからも
天正三年まで下げることはできません。

では天正三年とされている、謙信が弾正少弼の官途と上杉景勝の名前を与えた2通の書状
>>60で書いた新潟県史の890・891号)も元亀元年以前の正月のものかというと、これは
署名が「謙信」だから元亀元年末より前ではありえないわけです。

そうなるとこの2通の筆跡に疑問を呈した県史の判断が正しく、やはり景勝の偽造だったか。
ただこれまでの議論で謙信の生前に景勝の名と弾正少弼の官途があったことはどうやら
事実らしいので、偽造する理由もあまりなさそうに思います。人騒がせというべきかどうか。
70人間七七四年:2007/09/23(日) 18:29:07 ID:M3M/N3ya
>>69
その書状(『上越市史』924号)は写しのため、他の史料との整合性など、
厳密な検討が必要とされていますね(同書元亀元年の解説による)。

実際に同じ書状の中で「〜折々喜平次申付候〜」と出て来ており、
通常、同一人物を2つの名で使い分けることはしませんから、おかしなことになります。


景虎・景勝という順で出て来るのは、越相同盟が結ばれたすぐ後のことであり、
その時点で景勝がいまだ長尾姓であったことを考えると、当然のことのようにも思います。
71人間七七四年:2007/09/23(日) 18:41:19 ID:B5ScSLNd
>>70
ああそうでしたか。実は上越市史を持ってなくて図書館で面白そうな箇所をコピーしているので
ふと見当たったことから書いてしまいました。
そういえば景勝の名の初見について解説でそのようなことが書かれていたのも読んだ記憶が
あります。
ご指摘ありがとうございました。

ただ全体としては偽文書とも思えない長文の書状ですから、最初の「景勝」だけ後筆という
ことでしょうかね。
考えられることは原文書には「景虎」だけがあったのを後の人が「景勝」を書き加えたのかも。
72人間七七四年:2007/09/23(日) 23:29:30 ID:s87rON17
よもや子孫が怪しげな朝鮮宗教の会長におさまるとは思わなかっただろうな・・・・
73人間七七四年:2007/09/24(月) 02:46:43 ID:DJvYz4vF
>>72
誰の子孫?
74人間七七四年:2007/09/24(月) 02:51:23 ID:DJvYz4vF
>>69
景勝の名はともかく弾正少弼の官位の証拠はやっぱりかなり怪しいと言わざるを得ないように思うけど。
朝廷に記録がない以上、自称以外の何物でもないし。
75人間七七四年:2007/09/24(月) 12:09:03 ID:SBqMLcRC
>>73
氏康の4男氏規の子孫、北条浩は層化学会第4代会長
DAISAKUの名誉会長就任と共に会長職に就任
76人間七七四年:2007/09/24(月) 16:27:47 ID:OwC7rjQm
>>75
それ伊達家から来た養子の血筋。
77人間七七四年:2007/09/24(月) 18:46:58 ID:y+Ey/mm8
必死にググって調べたな
男系途絶えて女系になってるだけだよ
78人間七七四年:2007/09/24(月) 19:44:55 ID:9stRR99Y
>>77
北条子爵家のこと?女系もなにも、北条氏の血筋そのものが
幕末に掘田氏(伊達政宗の男系子孫にあたる)に変わっている。
79人間七七四年:2007/09/25(火) 10:05:30 ID:tZXcnHhS
女系は血筋じゃないんですかそうですか
80北条幻庵ってどお?:2007/09/25(火) 15:07:51 ID:1cEevNNF
>>46
仙台藩百姓さんに代わり、卒辞ながら私が答えさせていただきます。
主な武田VS北條1(1578-79年)
出典元は主に手軽に読める
『北条記』『関八州古戦録』など軍記物、
『戦国 北条一族』など研究書、
『日本城郭体系4茨城・栃木・群馬』他『日本城郭体系』シリーズ、
『真説【戦国北条五代】』etc.歴群もの

天正七(1579)年
3月24日 上杉景虎自害し、御館の乱が景勝の勝利に終わり、勝頼と氏政の対立が決定的になる。
勝頼は、上野(沼田・厩橋etc.)と北信濃の旧上杉領を譲られる。
一方、上州沼田にいた北条氏邦は、上野の旧上杉領の実質的占領を目指す。

この頃から勝頼は、旧上杉家臣(景虎派)で後北条に従っていた厩橋城主北条高広・那波城主那波顕宗・八崎城主河田重親・白井長尾憲景らを次々と調略す
(私の疑問1…なぜ、彼らはあっさりと後北条→武田に乗り換えたのか? わからん!! 共に戦った仲だし、景勝の同盟国でしょ? というわけで意見のある人、レス求む)。
これにより、信頼できる上野の北条方は、御館の乱以前から従っていた金山城主由良国繁・その弟の館林城主足利長尾顕長・小泉城主富岡秀朝となる。

春 勝頼、厩橋城に入り、麾下の軍勢をその周辺に出す(沼田や鉢形方面に兵を出したのは確か)。
鉢形に向かっていた武田信豊勢3000は、武蔵に侵入して普請途中の広木城(埼玉県児玉郡美里村…場所未確認)を攻めるも、氏邦勢700〜800に撃退される
これについて詳しい人、レス求む!!

7月 勝頼、佐竹・結城と対北条同盟を結ぶ。
7月下旬 佐竹勢、北条方の下野小山・榎本・常陸土浦・守谷・下総古河を攻撃。

8月下旬 勝頼、駿河・浮島ヶ原(沼津市原)に出陣す。

9月4日 氏政、家康と盟約し、
1.共に勝頼を攻める事 2.信長との同盟を仲介する事が取り決められる。『家忠日記』
9月中旬 氏政、六万の兵を率いて伊豆に出陣すると同時に泉頭城(「いずみがしら」と読む(以下略)…静岡県駿東郡清水町玉川…荒川豊前守・大藤長門守・多目周防守・足軽大将の高橋氏・市南氏らが守る)の防備を固めた。
その後、氏政と勝頼は黄瀬川を挟んで対陣す。
11月下旬、駿河出陣中の氏政、帰陣す。勝頼、伊豆に侵入。
12月9日 勝頼、甲斐へ帰国す。続く
81北条幻庵ってどお?:2007/09/25(火) 15:13:38 ID:1cEevNNF
武田VS北條2 天正八(1580)年
2月12日 武田VS北條 駿河深沢で戦う

3月 伊豆重須沖(沼津市重須…「おもす」)で武田水軍と北条水軍が戦う(武田水軍が、重須港にいた北条水軍に攻撃を仕掛けた)。
3月末 勝頼率いる2万5000、駿河に侵入。対する氏政も三島に出陣。6月始めまで、伊豆・駿河国境で勝頼と対峙す。

4月 上州名胡桃城主金子美濃守(北条方)、真田昌幸の調略により、城を昌幸に明け渡す。
5月 上州沼田城主藤田信吉(北条方)、昌幸に内通し、
6月18日(または8月末頃)、昌幸に沼田城を明け渡す。

7月末 勝頼率いる1万6000、伊豆侵入。これを受けて氏直率いる3万5000が家康と連携して、伊豆に出陣(〜9月末まで)
8月19日 氏直(19歳)、氏政(43歳)から軍配団扇(ぐんばいうちわ)を譲渡される(軍勢を指揮するための団扇、軍事指揮権の象徴、つまり家督の委譲)。
この戦役で、武田勢は、北条方の伊豆戸倉城(静岡県清水町徳倉…城代は笠原政晴(あの松田憲秀の嫡男)と
伊豆大平城(同県沼津市大平…「おおひら」…城主は北条氏光か?)を攻撃す。

9月20日 勝頼、上野に出陣し、厩橋に入る。自ら由良領に侵入し、
10月 膳城を攻略す(勝頼、甲冑を着ないで城内に攻め入った事から「膳城素肌攻め」と言われる…勝頼ギザ強し!!)。
これに呼応して、佐竹・宇都宮勢が、小山・足利・館林を攻撃。
勝頼、金山城(由良氏の本城)下、小泉城(富岡氏の本城)下、館林城(足利長尾氏の本城)下を焼き払う。
氏政、武蔵本庄に出陣するも、勝頼が利根川を越えて来たので帰城す。
勝頼、10月12日帰国(勝頼→景勝書状)。

12月 勝頼、伊豆に出陣し、三島を焼き払って帰国(〜12月19日)。
(私の疑問2…たぶん、これで三島大社が焼失す? 知っている人、レス求む!!)
続く
82北条幻庵ってどお?:2007/09/25(火) 15:19:12 ID:1cEevNNF
武田VS北條3 1581-82年
天正九(1581)年
2月 武田勢、伊豆に侵入し、北条勢と戦う。

3月22日 家康、遠州高天神城を攻略。勝頼、遠江を失う。

4月 氏政、相模津久井衆・武蔵滝山衆らを甲斐郡内に侵攻させる。
5月 氏政、武田方の上州玉村城主宇津木下総守・白井長尾氏などを調略す。

8月下旬 「北条の傭兵隊長」(←私が勝手に命名)こと大藤式部少輔政信は
手鹿尾城(天神ヶ城…「てじかお」…沼津市…場所未確認)を攻撃し、同時に戸倉衆は沼津城を攻撃す。

10月27日 武田家臣沼津城将曽根河内守は、戸倉城主笠原政晴(政尭)を寝返らせる。
11月 勝頼、駿河出陣。氏政・氏直も出陣し、国境にて対峙す(〜12月中旬まで)。
佐竹、上野出陣。足利・館林・新田領を焼き払う。

天正十(1582)年
2月26日 韮山城主北条氏規・太田源五郎ら伊豆・駿河に侵入し、手鹿尾城攻略。
2月28日 北条勢、伊豆戸倉城・沼津城を攻略す。
同日 氏邦、上野に侵入し、武田家臣上州箕輪城主内藤昌月(まさあき…昌豊の子)は、城を明け渡す。
この頃、和田城(高崎城)主和田信業(勝頼重臣跡部勝資の子か?)は同じく、北条に臣属し、信濃国境にある松井田城には北条勢が入る。

3月1日 北条、駿河深沢城を攻略す。
3月11日 武田家滅亡。あと宜敷!!
83北条幻庵ってどお?:2007/09/25(火) 15:32:46 ID:1cEevNNF
>>60-65 >>67-71 >>74
景勝・景虎の新情報や貴重な意見ありがとう!!
聞きたい事色々あるが、短く整理してレス送ります
&じっくり読んでからコメントするので…それまで待っててください!!
恐々謹厳 長月廿五日。
84人間七七四年:2007/09/30(日) 04:18:00 ID:sDurDkVq
一方の遠江の徳川はというと

1575年7月以降光明城、犬居城を攻略
1575年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城
1575年12月24日、二俣城開城

1576年徳川に諏訪原城と二俣城を落とされ、甲斐・信濃の領国から遠江に出るためには、
富士川沿いに駿河へ出て小山城を経由するルートしかなくなった武田は
小山城から海岸沿いに高天神城城に至るルートの強化を図るために相良城を築くと共に、
浜岡から塩買坂へ抜ける街道を確保するため朝比奈城や八幡平の城等を浜岡周辺に築いた。

激しくなる徳川軍の攻勢に対し、長篠の敗戦以後軍事行動を控えていた勝頼は
1578年10月に大井川を越えて遠江に入ると、新たに築城された横須賀城を横目に11月3日に高天神城に入城し、
翌月12日には高天神城を出て、19日に田中城に入り諸城の巡検と共に徳川軍に対し軍事行動を示した

1579年9月、駿河に攻め込み持舟城を攻略

1580年9月、勝頼は穴山信君を高天神城の救援に向かわせるも途中徳川軍との戦いに敗れ、高天神城は1581年3月23日ついに落城する。
1582年2月には小山城が自落
3月1日武田氏の親戚衆である江尻城城主・穴山信君が徳川に寝返り、この日に田中城も開城。
3月3日勝頼は築城後1年も経たない新府城に火をかけ、岩殿城の小山田信茂を頼って落ちてゆくが、
笹子峠で行く手を阻まれ、田野で信勝と共に自刃して果て武田氏は滅亡する。
85人間七七四年:2007/09/30(日) 04:18:45 ID:sDurDkVq
↑守護がないのは全部徳川
86人間七七四年:2007/09/30(日) 04:21:47 ID:sDurDkVq
× 守護
○ 主語
87人間七七四年:2007/09/30(日) 15:01:52 ID:sAPgzJNB
勝頼は北条と戦うより遠江攻略を優先するべきだったのでは?
88人間七七四年:2007/09/30(日) 15:54:40 ID:MiTypb7k
上野の連中を従わせちゃったから出兵せざるをえなかった・・とか
89ささ:2007/09/30(日) 17:07:00 ID:VoxT5Dxj
北条氏関連書物をたくさん持つ者ですが…
質問があります。
北条氏の軍師は誰だと思いますか?
1590年小田原合戦直前の上野・下野・常陸・上総・下総の
領地は各何郡まで及んでいたのでしょうか?
書物によってバラバラです。詳しい方教えてください。
90人間七七四年:2007/09/30(日) 20:49:30 ID:gALBxbSq
・・・ぐ、軍師?
講談の読み過ぎと違うか?
91人間七七四年:2007/09/30(日) 21:30:14 ID:z5zQj1DY
北条の家臣は大なり小なり城主であるから軍師っぽい人はいないような
強いて言えば松田憲秀や大道寺政繁かなあ?
秀吉から開戦の責任者と言われるくらいの権力者だし
92人間七七四年:2007/10/01(月) 02:53:54 ID:bgv7/yC7
>>89
専門書・史学系雑誌・論文などの「北条氏関連書物」をたくさん持ってれば
軍師云々はともかく北条領についてはどれかが言及していると思うが……。
ちょっと参考にした書籍・史料・論文類の名前を挙げてみ?
どれを参考にしたのかがわからんと返答もしにくいぞ。
93人間七七四年:2007/10/01(月) 03:24:48 ID:6BT7KnWp
上洛戦成功例

東北 北畠顕家
関東 源頼朝(頼朝は鎌倉にいたが) 足利尊氏
東海 織田信長
北陸 源義仲
中国 赤松円心 大内義興
四国 三好長慶
九州 足利尊氏

こんなところ?
94人間七七四年:2007/10/01(月) 11:24:13 ID:Zkr5rfQX
当時の軍師といえば占い師に毛の生えたようなものだから
95人間七七四年:2007/10/01(月) 16:51:09 ID:xLQPi4RP
松田・大道寺は軍師というよりは普通に家老や部将だからなあ。
ブレーンや参謀と言われれば、松田・大道寺を初めとする評定衆や、
大藤や伊勢・小笠原らの上方下り辺りが該当するだろうけど。
96北条幻庵ってどお?:2007/10/05(金) 14:32:38 ID:t7yZekRj
>>60-64
890号&891号の書状の件、ウラドリしてきました(つまり『新潟県史 資料編3』の2冊を読んだよ!!)。
答えは2通とも「書状写」でした!! だから、誰が書いても構わないわけです。
景虎が「少弼」と、かつ『吉江文書』には景勝と書いてあるので、天正三年一月十一日に官位・改名したのは、ほぼ間違いなさそうです。

書状を写したものだから、890号(の筆跡・謙信の花押…つまり全文)は景勝が自ら写したものでしょう。
だから、『県史』の表現は合っているわけです(景勝、お疲れさん!!)。

これらの書状写は、『県史』の注に「同じ折封に入っている」みたいな表現がなされてますから、同時期に書かれたものだと思います。
つまり、891号は、景勝の自筆と同時期に(景勝の)右筆が写したものではないかと…

これは、あくまでも私見ですが、これらは元和年間(1615〜1624)に書かれたものではないだろうか? 理由は3つ。
1.元和偃武で(暇になったので)、史料の編纂が行われ始めた?
2.元和九年(1623)三月二十日、景勝死す(69歳)。死ぬ前に自ら写しておきたかったのでは…
3.寛永二十年(1643)九月に、幕府により林羅山らが編集した『寛永諸家系図伝』(未刊…あの『寛政重修諸家譜伝』とは別物)が完成しているが、それに必要だったのか?
以上にて、報告終了!!
97北条幻庵ってどお?:2007/10/05(金) 14:53:43 ID:t7yZekRj
>>55
>近藤綱秀も同城に在城し続けているんだが?
答え…してないみたいです。

前置き…小山領を領していた祗園城主小山高朝は、永禄三年(1560)頃、古河公方の料所であった榎本領を横領し、家督と祗園城と小山領を嫡男の秀綱に譲って、榎本城に移り榎本領を支配した。
(つまり、小山領と榎本領は、別々であったと考えて下さい)
これは、小山領内に発した高朝の文書が、永禄三年頃を境として、時がたつに連れて徐々に少なくなる一方で…榎本領内に発した文書が増えた事
かつ秀綱の文書が小山領内に多く、榎本領では極端に少ないことからも証明される。
天正元年(1573)十二月晦日に高朝が亡くなると、秀綱の子供美濃守高綱が跡を継いで榎本領を支配し、
天正四年末に北条氏が祗園城を攻略すると、秀綱は義重のもとに亡命した。
高綱の行方は不明だが、この時(天正三年〜四年)の戦いで戦死したものと思われる(但し史料は見当たらない)。
榎本城が北条に攻略された史料も見当たらず、氏照が榎本領に発給したと推定される掟書のみ確認される(天正九年三月八日 某→中里郷あて書状)。

結論
1.近藤出羽守綱秀は、小山城(祗園・長福寺の両城)に在城しておらず、天正十一年(1583)からずっと榎本城主でした。
綱秀が発給したと確認できる最初の文書は、天正九年なのですが(同年正月十七日付 綱秀→(武蔵八王子の)浄泉寺あて書状)、それは武蔵でのもの。
榎本領で綱秀の活動が見られるのは、天正十一年になってから(同年二月八日付 綱秀→橋本勘解由左衛門あて書状)。
もちろんそれまで小山領内に発行した綱秀の書状は一枚も見当たりません。
氏照は、榎本領を全て綱秀に一任していたらしく、氏照が榎本領内に発給した書状は一枚も見当たりません。

2.ちなみに秀綱亡命後(天正五年(1577)二月中旬)の祗園城代は、大石信濃守照基(天正五年〜天正十六年まで、氏照が小山領内に発給した書状に名前が出てくる)です。
恐らく、この間(天正四年〜天正十年)に小山領内での氏照の支配権が確立されたと思われ(しかし、小山領北部は氏照の支配下になかった)、何通もの書状が発給されている(もちろん信濃守の奏状つき!!)。
小山秀綱が帰城したあとの天正十年五月以降も、それは変わらなかった。
帰還以降の秀綱の書状には、今まで使った事がない「善」という印判を使用している(これは恐らく北条氏の影響)。
照基は秀綱に祗園城を譲って、長福寺城に移ったと思われる(市村高男氏による推測)。そして小山領はこの両者(秀綱・照基)によって支配されていた。
これは北条氏の勢力後退と思われがちだが、今まで氏照の支配下に入ってない小山領北部も秀綱あるいは照基を通して氏照が支配できる事になった。
秀綱は、官途や受領の付与、知行の宛行、野銭の賦課や免除を領内に発給しているが、他の領主とやり取りした書状がない(つまり外交権はない)。
その一方で照基は、氏照の奏者(取り次ぎ役)、氏照朱印状の副状の発給、「鋳物師司」の任命や年貢割付文書の発給(内政)、氏照家臣団の指揮・監視(軍事)etc.重要なものを任されていた。
もう少し述べると、祗園城とその周りには、常に氏照勢(滝山衆、栗橋衆、古河公方家臣etc.)が配備されていたらしいから、秀綱は針のむしろだったんじゃないかな?

簡潔に述べると氏照は、綱秀を榎本領に、照基を小山領の代官にして支配していた。

4.人物
(1)大石照基
氏照の養父大石定久の弟信濃守定基の子であるが、しかし黒田氏は北条氏の宿老松田氏の出身で、康定の子、康郷・康長の弟に当たり、定基の婿養子になったのではないか?としている。
(2)近藤綱秀
別名助実・大隈守助方とも言われるが、書状ではすべて出羽守綱秀。これは氏照の陸奥守にちなんで付けられたものらしい。
出自は不明。下野の出身ではないことは確かで、
1.氏照が由井氏入嗣したときに従った北条氏の譜代家臣、
2.由井・大石氏の旧家臣、
3.三田氏の旧家臣、
4.武蔵の土豪のどれかと思われる。
「天福」という印判を使用しているので、北条一族や重臣のように、独自で公文書を発給できる地位にいたらしい。
加えて、足利長尾顕長や片倉小十郎に書状を遣わしているので、外交も任されていたらしい。
小田原戦役では八王子城に籠城し、天正十八年六月二十三日討ち死。
以上、報告終了!!
98人間七七四年:2007/10/05(金) 22:01:03 ID:hSIRw7rJ
>>93
関東 北条泰時
99人間七七四年:2007/10/05(金) 23:02:06 ID:jQtbmIkx
下山治久氏の「八王子城主・北條氏照」はやはりイイよね。
100人間七七四年:2007/10/08(月) 05:10:59 ID:7XSp203u
北条氏の子孫が創価の4代会長だと最近知って相当ショックなんだが…
何でそうなっちゃうのかねぇ?
101人間七七四年:2007/10/08(月) 07:18:24 ID:meP5YQc5
>>100
小田原北条氏と創価会長北条氏の間に血の繋がりはないだろ?
102人間七七四年:2007/10/08(月) 16:53:50 ID:X1vI7g6e
定期的に現れる層化厨は、よっぽど大作先生が好きなんだなあ。
103人間七七四年:2007/10/08(月) 17:19:02 ID:65FKa/bM
>>101
思いっきり繋がっている
104人間七七四年:2007/10/08(月) 22:39:43 ID:dIk78O8O
>>101
途中養子とか入っているが、河内狭山藩最後の藩主とは明らかにつながっている。
105人間七七四年:2007/10/08(月) 22:52:29 ID:9vok76pk
>>100
早雲寺から位牌の引き上げなんてのも遺族の意向としてできるんだろうか。
106人間七七四年:2007/10/09(火) 02:14:31 ID:f+0pfoBJ
>>103-104
氏久(戸田氏出身)と氏恭(堀田氏出身)に小田原北条氏の血って流れてたっけ?
血縁関係があれば養子相続でも子孫と称して憚りないとは思うが、
血縁関係が皆無だと厳密には子孫とは言えんわな。
107人間七七四年:2007/10/09(火) 15:39:18 ID:mukd/FC6
創価厨はウザイがアンチ創価もウザイ
こんなスレでまで創価を貶めるのはやめろ
108人間七七四年:2007/10/09(火) 18:13:38 ID:wo1csqFk

戦国時代の後北条氏に関係ない話してる奴はみんなリアルに死ねばいい。
109人間七七四年:2007/10/09(火) 22:49:58 ID:4Ek7KYYY
江戸以降の事なんてシラネ
俺の中の北条は、氏直でおわっとる
110人間七七四年:2007/10/10(水) 01:22:28 ID:oNeiKL0h
>>109
せめて氏盛ぐらいまでは入れてやれ……
111人間七七四年:2007/10/10(水) 20:14:20 ID:9V06qHKd
氏盛はないわ
112人間七七四年:2007/10/11(木) 03:41:54 ID:IbrfXsCK
>>84
勝頼は北条に対しては素肌攻めとか善戦しているけど、徳川に対しては弱腰だな
113人間七七四年:2007/10/11(木) 20:14:30 ID:8AnLFv+w
>>112
織田が来たら退くしかないから防戦一方にしたのでは
114人間七七四年:2007/10/12(金) 00:29:45 ID:5QCYMV7K
北条が信長に対して弱腰なのが分かった。
伊豆や上野を荒らしまわっていた武田勝頼を、織田本隊が瞬殺したからかw
115人間七七四年:2007/10/12(金) 04:27:15 ID:dl3xbo6b
その信長よりもはるかに大勢力になった豊臣を突っぱねるのが理解不能だ…
116人間七七四年:2007/10/12(金) 13:09:38 ID:pQQTfICZ
武田瞬殺は信長すら驚いていることだし、
北条に限らず東国の大名達にとっては驚天動地の出来事だろうさ
117人間七七四年:2007/10/12(金) 15:38:02 ID:51NO0y7c
ぶったぎる質問申し訳ない。
北条家スレの住人の方々にお伺いしたいです。

戦国期の大大名って言われてる人達には有名な財源がありますよね。

武田信玄=甲州金山や和紙などの産業、治水もしましたよねこの人。
上杉謙信=佐渡金山(これは本間氏なのかな?)。他に何かあったのかしらないですが・・
毛利元就=石見銀山。他に貿易とかもやっていたんだろうなー。
織田信長=交通の要所に斉藤道三ゆずりの楽市楽座を設けて商工業を発展させた。
     あとには堺とか寺社に戦争の費用を出させたりもしてましたけど・・・

んで、北条家はどんな財源があったのでしょうか?

今川家の富士金山とか、島津家なら貿易とか、そこそこ有名な大名ならひとつや二つ
財源の名前を知っているのに、北条家の財源って聞いたことがありません。
虎の印判とか、税率を下げたとかは聞いたことありますけど・・・


118人間七七四年:2007/10/12(金) 16:30:46 ID:Y4e3J26F
上杉の財源は直江津からの税と家臣に金貸しをしているところからの利益がメインだったような。
この頃の佐渡は金山なんか無いも同然だし。
北条は貿易もしてたし、そもそもそんな散在つーか無理しているのってあまり聞かない。
秀吉の小田原征伐前の小田原城大改修が一番無理したって聞いてる。
119人間七七四年:2007/10/12(金) 16:42:59 ID:5QCYMV7K
120人間七七四年:2007/10/12(金) 17:47:31 ID:pQQTfICZ
謙信の収入に源、直江津の経営が入らないとは・・・・

北条は税制をガラス張りにして中間搾取を無くし、
それが比較的安定した収入になりえたんだとおもう。
後、楽市は氏政がやってる→世田谷のボロ市の起源
121117:2007/10/12(金) 23:16:43 ID:15V/vgBm
なんだかむずかしそうですが・・
北条家の主な収入源は金山とかそういうものではないんですね。

こいつは戦国時代の構造改革ってやつですかね?

北条氏康すごいっすね。


上杉謙信の津(「港」のことですよね?)の経営って有名なんですね。知らなかったです。
122人間七七四年:2007/10/12(金) 23:20:17 ID:ajWNfy9c
草加
123人間七七四年:2007/10/13(土) 00:29:58 ID:r9thNesc
>>117
過去現在問わず、多大な利益を産むのは貿易と海運だよ。
124人間七七四年:2007/10/13(土) 06:34:12 ID:qXtjPws3
川中島の戦いのとき、北條は武田援護のため、関東で何かやったの?
125人間七七四年:2007/10/13(土) 14:37:41 ID:tgCL8q/d
第四次は、北条の後詰めのために武田が出陣したものだからなー。
126人間七七四年:2007/10/13(土) 14:40:30 ID:Ej9M32QG
早雲と行動をともにした御由緒家の
大道寺太郎・荒木兵庫・山中才四郎・荒河又次郎・多目権兵衛・在竹兵衛って実在の人物なの?
127人間七七四年:2007/10/13(土) 17:12:59 ID:DGqxHfzW
>>126
江戸期の創作
128北条幻庵ってどお?:2007/10/13(土) 17:28:09 ID:csO9pD0q
>>89「ささ」さんへ一筆啓上つかまつる
1.支配エリア 大体こんなところだけど…きっちり郡単位で治めていたわけじゃないし…明治以降〜平成の大合併前なので、ウラドリして下さい!!
上野…吾妻郡、利根郡を除く全土(以下略)
下野…日光市、今市市、上都賀郡、鹿沼市、下都賀郡、栃木市、小山市、佐野市、足利市
常陸…竜ケ崎市、稲敷郡
上総…君津市、夷隅郡を除く…
下総…結城市、結城郡を除く…

2.軍師はいません。 いたら「小田原評定」という諺がなかったでしょう。
まあ、小説・空想・仲間内では面白いかもしれないが… どうしても入り用なら自分で作るのもいいんじゃないかな?
『小田原旧記』『北条五代記』『関八州古戦録』『家忠日記』etc.を読むと「家老(奉行人・評定衆etc.)が10または20人」みたいな表現がなされているから…
それに一門衆や『役帳』に出てくる伊・相・武の郡代・(他国衆を除く)各衆トップや側近を足してこんなところでしょうか?
会長…氏政、社長…氏直
一門衆…氏照、氏邦、氏規、氏忠、氏光、直重、直定、氏勝、吉良氏朝
重臣(あいうえお順)…安藤良整、石巻康敬、伊勢貞運、板部岡江雪斎、大藤氏、小笠原康広、笠原氏、狩野氏、清水康英、大道寺政繁、遠山直吉・直景、富永政家、内藤綱秀、垪和康忠、松田憲秀・直秀・康長・康郷、山角定勝・康之、山上久忠、依田康信ぐらいかなぁ…あと宜敷!!
129人間七七四年:2007/10/13(土) 17:28:42 ID:Ej9M32QG
じゃあ大道寺氏、多目氏はどういう経緯で北条家に従属したの?
130北条幻庵ってどお?:2007/10/13(土) 17:43:24 ID:csO9pD0q
<<63 「弾正少弼」=「家督相続」について説明が足りないので…
1.謙信が任官した経緯と意味
天文十七年(1548)12月30日 景虎(19歳…以下、謙信とする)、守護上杉定実の仲介で兄晴景と和睦し、家督(と守護代)を譲られる。
天文十八年12月 政景の乱(〜天文二十年8月1日)。
天文十九年2月26日 定実、嗣なくして没。その2日後、謙信は将軍義輝から「白傘袋」と「毛氈の鞍覆い」の使用が許される。
(これは、(越後)国主として幕府から正式に認知された証…前例として応仁の乱の越前守護代朝倉孝景がいる)
天文二十一年5月26日 謙信「従五位下弾正少弼」任官
天文二十二年8月〜9月 第一次川中島の戦い
同年10月下旬 謙信、任官の御礼のため上洛。後奈良天皇に拝謁。

以上の事実から考えると謙信の任官の意味は、2つ
(1).内乱を平定して事実上の「越後国主」として他の国人よりも上位にいることを示したかったんじゃないかな?
(2)将軍や天皇の力を借りて、領国支配の安定を狙ったんじゃないのかな?

2.景勝が譲られた意味
これはあくまでも私見ですが、その「弾正少弼」と「上杉」の姓を景勝に譲ったことは、「次の越後国主だよ」と認知されたのに等しいんじゃない?
越後は謙信の本国でもあるし…、他の領国に比べ一番安定しているし収入が上でもある。そこから推測するに私は「事実上の家督相続である」との結論を導き出したのです。
131北条幻庵ってどお?:2007/10/13(土) 17:48:31 ID:csO9pD0q
>>67 <景虎が関東管領のポストを継ぐはずだったというのは可能性が高いと思います…に対するレス
3.では三郎の存在意義って何だろうか?
井上鋭夫氏は『上杉謙信』の中で「景勝を越後国主に、景虎を関東管領にしたかった」いますが、あえて私は対論を提示します。

(1)まず、越相同盟の条件を振り返って見ると 永禄十二年(1569)閏五月三日 同盟成立す。条件は主として…
北条は
1.謙信を関東管領として認め
2.東上野・北武蔵などを謙信の勢力圏として認める
3.息子を謙信に差し出して養子縁組を結ぶ
事であった。つまり「謙信の関東管領&東上野の支配権」と「三郎養子」とはワンセットであり、
「三郎」は北条が1.〜2.を承認する証として、謙信の元へ送られた人質だったわけです。
一方の北条方もそれに同意していたと思われます。というのは…景虎滅亡後、氏政は次のような書状をしたためているからです。
「景虎没命の上は、上州の仕置、当方に申し付く可しの条、勿論にて候」『集古文書』。
だから謙信は、<<63の言う通り北条と手切れになっても1.〜2.の「保証」として景虎を手放さなかったのだと思います。

(2)以上から考えると謙信は果たして本気で北条の子を、自身の存在理由である「上杉」もしくは「関東管領」を継がせたかったとは思えないのだが…(二階堂盛隆は例外としてだ)、
それに憲政にとっては、自分の全てを奪った「敵」の子であり…、自分の名跡を継がせようなんて、よほど有徳な人物じゃない限りは到底考えられないし、私から見れば憲政は到底そんな人物じゃなさそうだしね。
もし景虎に関東管領を継がせるならば、景勝同様に憲政から官位を譲られてもおかしくないと思うんだけど…どうなんでしょうか? うろ覚えだが憲政は謙信同様出家していたと思ったんだけど…違ったかな?
それに北条の方も景虎の死後、氏政は直ちに「関東管領である」と宣言するか、それを示す行動してもおかしくないはずですが、その痕跡も見当たりません。
(ここで思いついたのですが…謙信の死後に氏政は佐竹出兵をしたのだが…ひょっとしてそれが「関東管領」を宣言したアクションだったのだろうか?)

(3)三郎跡継説は養子以外には、謙信に可愛がられたこと、「景虎」と名乗らせたことと、姪と結婚させた事、二の郭に住居を与えられた事ですよね? それだけだと根拠が薄すぎるのではないでしょうか?
謙信は越相同盟が切れた時点(元亀二年(1571)12月)でその考えを放棄したんじゃないのでしょうか?
だからこそ、天正元年(1573)頃に景勝を春日山城に迎え、景虎の住居よりも本丸に近い所に住まわせ、同三年の正月に任官させたんじゃないのかな?

4.謙信の養子外交戦略について
謙信は他にも、信長の息子(誰なのかは不明)を迎えようとしたり…(これは未確認だけど…歴群【風雲 信長記】の年表(永禄七年(1564)六月)に出てくる…この事について誰か知っている人教えて下さい!!)
天正年間に上条政繁を迎えたりしているからね。
子供のいない謙信にとって養子縁組とは、人質の存在を最大限に生かす戦略・政略の一環だったんじゃなかろうか? と思えてくる。

5.御館の乱の時の景虎擁立について
はたして憲政は「敵」の子を親身になって支援したのだろうか? 私は復権を狙って景虎を支援したとしか思えないのだが…
132北条幻庵ってどお?:2007/10/13(土) 17:53:02 ID:csO9pD0q
>>67 <また勝頼は景勝とは講和したものの…(中略)…許容範囲だったのではないか。
>>87 <勝頼は北条と戦うより遠江攻略を優先するべきだったのでは?
>>88 上野の連中を従わせちゃったから出兵せざるをえなかった・・とか  に対するレス

6.勝頼の和平工作について 現在、御館の乱の時の書状を解読中なのですが…
確かに、6月の戦況は景勝有利であり、勝頼の和平工作(6月末〜8月末)によって景虎は救われました。
しかし、その間の8月19日に勝頼が景勝に与えた起請文を見てみると…
「景勝の難儀について助勢すること」と言う一方で、景虎に対しては何も言っていないのです。
つまり、この時点で勝頼は景虎よりも景勝をパートナーに選び、景虎の援軍から景勝への好意的中立に転じてしまったのです。
まぁ、でも、これは勝頼が「武田国の国益」になると考えて下した結論だから…私は賛成も反対も致しかねる。
勝頼は長篠の敗戦で多数の寄親・有能な重臣を失い、軍隊が再建できないほどのダメージを受けました。
もはや正面の信長・家康連合と対等に戦うことができないのに、背面全てが北条一色になるのはどうしても避けたかったですし、
戦力回復のためには後方基地となる上野がノドから手が出るほど欲しかったのです。
もう少し続けましょう。8月下旬に和平が破られると、約束通りに武田勢は景勝側に荷担し、坂戸城に援軍を派遣した(9/24日付 景勝→小森沢政秀あて書状ほか一通)。
その結果、後北条方の援軍の主力は坂戸城に釘付けになってしまい、越冬のため退却するに至る(12月)。

>>84 徳川年表、大変参考になりました。できれば、使わせてもらっていいかな?
>>68 その意見、大いに興味あります。もし、良ければもう少し語って下さい。

以上、長くなってスマソ。恐々謹言。神無月拾三日。
133人間七七四年:2007/10/13(土) 18:18:25 ID:rEtBobdE
北武蔵ってどころ辺りまで謙信に返還したの?
松山城返還は実行されたの?
厩橋城北条、深谷上杉、佐野唐沢山城、小山氏、由良金山城&足利長尾館林城兄弟、成田忍城&小田騎西城兄弟、羽生城あたりが返還されたの?
鉢形城は返還してないと思いますが妥協できたのでしょうか?
またいまの久喜市や桶川市あたりは?
古河の足利義氏は謙信も尊重したんですよね。簗田関宿城は現状維持だったけど足利義氏反対の簗田・佐竹は同盟支持してないですよね。
里見も上総下総での地位が尊重されたらしいですが臼井城を始めとした千葉氏・原氏が従うわけないから偽りだとして反対したんですよね。
佐竹・真壁・太田&梶原親子も上杉との確執と背反常ない小田氏の件が不問?だったので反対だったんですかね。
134人間七七四年:2007/10/13(土) 21:09:05 ID:tgCL8q/d
結果だけ言えば、
自ら進んで謙信側についた深谷上杉領と、
もともと持っていた羽生領が謙信側で確定し、
それ以外は北条領とされた。

もう少し言えば、羽生領の説明は上記の通りとして、
それ以外は謙信の努力に委ねられた。
と言っても既に北条領国なので、努力と言っても何を出来るわけでもなく、
ただ深谷上杉氏が長尾上杉に帰属したに過ぎない。
135人間七七四年:2007/10/13(土) 22:41:57 ID:gN8wQWI8
>>130
その前段の謙信の動きを見ても
いかに謙信が朝廷を重要視していて、その直接の任官を重要視していたかがわかる。

実際こういう形で官位を直接本人に授ける形を取り、世襲はさせない事によって朝廷の・・・
というかその元になる律令制度は保たれていく訳で、いわば朝廷権威の基礎ともいえる。
ここで自称や勝手な世襲を認めていってしまえばどんどん朝廷の権威は落ちぶれていく事は言うまでも無い。

そんな謙信が自筆でもない書状一通で大切な朝廷の権威を譲るような真似するだろうか?
とても信じ難いのだが。
136人間七七四年:2007/10/14(日) 00:27:34 ID:MFaqklX3
>>135
少弼の譲り状は偽物だろうけど、

御館の乱当時の景虎書状に、「少弼」と景勝をさして出てくるので
少なくとも謙信が死んだ段階ではすでに弾正少弼=上杉景勝という
認識が周辺にもあったって事じゃないか?

だって、謙信生前の官途をもし景勝が勝手に名乗ったとしたら、
景虎は景勝を「少弼」などとは呼ばないはず。
137人間七七四年:2007/10/14(日) 01:12:53 ID:tOrRzYfM
>>136
別に敵でも自称で名乗ってればこの時代は自称官位で呼ぶ事は珍しくないよ。

そもそも管領などと違って世襲する類のものではない
弾正少弼の官位が上杉の家督にとって重要だと言う事自体根拠が無いんだし。
相手が名乗ってるからそれで呼ぶだけの事。

むしろ弾正少弼が家督相続に本当に重要な意味があって、本当に景勝が譲られていたのであれば
この状勢ならば景虎はあえてその事実を認めない意味で、呼名を避けるように思う。
こう言う事は敵同士の書状で結構ある(氏康と謙信など)

なのにあっさりむこうの自称で呼んでいるあたりが逆にあまり重要な意味を成さないと言う事では無いだろうか。
138人間七七四年:2007/10/14(日) 01:23:45 ID:jmFSO5WM
北条家について卒論を書こうと思ってるんですが…皆さんのオススメの本とかありますか???
139人間七七四年:2007/10/14(日) 02:15:26 ID:wxr+WI3S
つ[役帳]
140人間七七四年:2007/10/14(日) 05:00:27 ID:EA/0/z9z
141北条幻庵ってどお?:2007/10/18(木) 11:55:20 ID:cOd/WDxp
>>138に対するレス
↓ここのHPで紹介されている本をお勧めします
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9078/reki-hojosiryo.html
↓私のお勧めはコレ!!
『戦国大名論集8 後北条氏の研究』
まぁ、面白いネタがあったら紹介してくださいね。

>>99の<下山治久氏の「八王子城主・北條氏照」はやはりイイよね。
に対するレス。
一人占めしないで、是非、ここで思いっきり語ってもらいたいものですね。

142北条幻庵ってどお?:2007/10/18(木) 12:19:28 ID:cOd/WDxp
>133に対するレス。
上野は、もともと憲政の領地ということで謙信に帰属することが決まった。
つまり、由良・足利長尾の兄弟は、(厳密に言うと足利(長尾)は下野にあるが、上州館林城が本拠地なので、上野とみなす)は、謙信に所属。

武蔵に関しては>>134のレスに加筆という形で勘弁してもらいたい。
武蔵は当初は、藤田(鉢形)、秩父、成田、岩附、松山、深谷、羽生が上杉に、それ以外は北条で二分することが決まったのだが、しかし…
藤田・秩父は氏邦の領地なので、現実的にはムリ!!
成田・小田兄弟は謙信に属することを拒否して、北条に…。
岩附は、息子の梶原を小田原へ人質にやる代わりに返還することが決まったが、太田三楽斎は拒否。結果、北条に…
(謙信は、家臣の大石芳綱あての手紙の中で「太田三楽斎は天罰者である」と愚痴っている)
松山は、具体的な史料がないので推測なのだが…、拒否したらしい。
深谷は、深谷上杉のみ謙信に属することが決まる。
羽生は、謙信に属することが決まる。

下野は謙信の勢力下に属することが決まる。
佐野唐沢山城は従わなかったので…、謙信は攻めて降参させた。←手元に史料がないのでうろ覚え
小山氏は、この頃は一貫して反北条だったから、謙信に服属す。
以上、あと宜敷!!
143人間七七四年:2007/10/18(木) 20:44:42 ID:9YqtHkRH
>>138
黒田基樹氏が良さそう。
144人間七七四年:2007/10/18(木) 22:36:16 ID:cvw72GZZ
>>142
関東を救うために何度も越山しているつもりなのに、北条にどうしても味方しようとする豪族達の状況をみれば諦めるよな。
145人間七七四年:2007/10/18(木) 23:08:54 ID:HmdV/ElZ
黒田基樹は確かに活躍する研究者だけど、
後北条の研究家は他にも色々いるじゃん。
もしかして、黒田しか知らんのと違う?
146人間七七四年:2007/10/19(金) 21:59:09 ID:uwSNcMZU
三浦三崎の戦い、三船山の戦い、三増峠の戦い、小田原征伐

氏政って凄い武将ですよね。
147人間七七四年:2007/10/19(金) 22:08:28 ID:ZUsMVMP7
ちょっとまて。
三増峠で氏政は参陣してない。

言いがかりだ。
148人間七七四年:2007/10/19(金) 22:39:17 ID:YimLcgsD
>>147
一門・家来が負けた以上、当主の責任。
伊達政宗の大崎征伐と一緒。
149人間七七四年:2007/10/19(金) 23:16:20 ID:bndAQH7m
>>142
当時の松山城や川越城は誰が支配してたの?
相越同盟では里見が下総での優越的な地位を認められたそうですが千葉氏が従わないから拒否ったそうですがやはり里見の努力次第って話だったのでしょうか?
常陸についての話し合いはなかったのでしょうか。特に小田氏に対する佐竹の優位の保障をするかわりに古河公方を認めろみたいな。
150人間七七四年:2007/10/19(金) 23:21:22 ID:nMW1B5wC
>>149
公方については義氏を関東公方とすると合意したと記憶しています
151人間七七四年:2007/10/20(土) 00:03:38 ID:kT+ViHdQ
>>149
河越城は北条のまま。松山城の割譲は実現しなかった。
里見の件だが、優位を認められたのに同盟に反対したのは里見家のほうだ。里見は越相同盟期間中、上杉と手をきり、武田信玄と同盟を結んで北条と対抗した。
152人間七七四年:2007/10/22(月) 01:36:48 ID:9xQtMY78
千葉氏が里見氏に屈するなんて信じられなかっただろうから、里見氏には全く利益の無い条件だから。
153北条幻庵ってどお?:2007/10/25(木) 16:27:18 ID:fVSf5oBB
>>144
最後(1574年・天正二年)の2度にわたる関東遠征は、関宿を奪われたせいでやけになり、羽生城を破却して北武蔵から撤退している。
以降は、関東に手を出すことはなかったからね。よっぽど嫌気がさしたのか? 対信長戦に集中したのか? それはまたいつか…

>>148
それを言うなら会長であった氏康の責任が大じゃないのかな?

>>149-152
越相同盟についての研究書を2つ発見したから、少し待っててください!! 必ずレス返すゆえ…
154北条幻庵ってどお?:2007/10/25(木) 16:40:17 ID:fVSf5oBB
<<27
1.あの「関東の夢」の原文を発見!! 果たしてその真意は…
まず原文。
「願書 右意趣者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至干深重者、即関八州氏直本意歴然之間、当社建立之事、早速氏直可令助言者也、仍如件。
天正十年三月廿八日 氏政(花押)
三嶋
  神主殿」(三島神社文書)

私の翻訳
「私(氏政)は、「信長公」がかねてから申していたのをそのまま受け(興味深いことに、この行は敬語を使っている)、早く輿入れが行われるように…願っています。
それで双方の絆がより親密かつ深まれば、関八州を支配したいという氏直の本意が達成されるから、(1569年信玄によって焼失していた)三島大社再建のこと、早速氏直に助言します、よってくだんのごとし。
1582年3月28日」
私の疑問1
(1)神頼みするときは、万事を尽くしたときや、自分の力では及ばない事をお願いします。受験とかね。
果たして関東征服を邪魔する人を「信長公…云々」と敬語を使うだろうか?
信玄や謙信の願書を見ると「氏康、氏政滅亡」とか「武田晴信退治」と敵を呼び捨てにしてます。
(2).氏政の書状を幾つか見たことはあるが、「○○公」と相手を持ち上げているのは、これしかない。

さらにこの願書に関する書状があります。
「(この願書の件を信長公に教えたら如何?という康英の)意見はもっともである。さっそく使者をつかわしましょう。
(本来ならば)当主の氏直がやらなければいけないが…(中略)…、輿入れの一条は重要だから…(中略)…、
(この縁談を提案した)私がこのつかいを代行しても同じことです。
(願文の)写しを置物として(床の間に)飾れるよう(信長の)陣中へ早々に届けましょう」
(天正十年三月二十八日(願文と同年同日!!) 氏政→家老清水康英あて書状。『静岡県史料 第一巻』)

私の疑問2
(1).願書は門外不出なのに、なぜ信長にわざわざ見せなければならないのか? 信長へのパフォーマンスではないのか?
(2).「関東の夢」が願書の主文ならば、信長に見せるというのはどう解釈したらいいのか?
以上から推測される事は2つ。
1.信長に敵意はないことを示すため。
2.仮に願書ならば願いはあくまでも「早く婚姻関係を結びましょう」であり、
関八州…云々は「氏直の望みは関東だけであり、武田の旧領は興味ありません」ではないだろうか?

2.願書が書かれた経緯
天正十年3月11日 武田家滅亡。
この時点で甲斐・信濃には織田軍が…駿河には、徳川・穴山・北条軍が…上野には北条軍がいた。
3月19日 信長、上諏訪の法花寺に帳陣。武田旧臣続々と信長の下に出仕す。
同日、滝川一益率いる1万余、上州箕輪城に入る。北条軍は退却し、上野の支配権を放棄す。

3月21日・26日・4月2日・3日 氏政、信長へ馬・米・鷹・雉etc.を贈呈す。
信長はそれらの進物に対し、「何れも御気色二相不申候て、帰し被遣候」(『信長記』)。
いずれも機嫌直らず、贈り物を返してしまった…恐らく、氏政か氏直が自ら出て来い!!という事。

3月28日 あの願書を書く。
3月29日 信長、武田旧領を仕置す。主として…
駿河、徳川と穴山が折半。
甲斐、河尻秀隆。
信濃、木曾義昌、毛利長秀、森長可で分割。
上野、一益(関東管領兼任)
北条は、領土を与えられないばかりか、駿河・上野の占領地を没収される。

4月中旬、一益、厩橋城に入城。
北条に従っていた北条高広・真田昌幸など上野全ての領主の他に…
成田氏長・上田朝直・深谷氏など北武蔵の領主たちや下野の足利長尾顕長が人質を連れ、一益の下に出仕す。
これで北条は北武蔵までも失う。

さらに五月には小山秀綱、翌月の神流川の戦いでは佐野宗綱が一益側に加わっている。続く
155北条幻庵ってどお?:2007/10/25(木) 16:41:45 ID:fVSf5oBB
3.結論
氏政は敵意がないことを示したが、自ら信長の下へ出頭しなかったために「関東の夢」どころか北武蔵・下野までも失いました。
次は下総か相模かと、びくびくしていたに違いありません。
幸い信長はが上杉討伐に切り換えたから助かったのですが…
そんな状況下であの願書は書かれた。ゆえにメインは「婚姻関係」を早く結び、現状の維持を信長に認めてもらう事ではないでしょうか?
だが、信長はそんなことは頭になく「早くオレの下へ出て来いよ!!」と思っていたのではないでしょうか?
ここで、思い出して下さい。『信長公記』天正八年三月十日の記事を…。
「御縁相調え、関東八州御分国に参る」
(北条と織田との間に婚姻を結び、信長は北条の関東領有を認め、北条が信長の領国に行く(つまり、信長に臣従する))
氏政は、前者を…、信長は後者を…重んじたのではないでしょうか? 
156人間七七四年:2007/10/25(木) 23:56:51 ID:CzbVXis1
北条も武田上杉今川みたいに奴隷売買してたの?
157人間七七四年:2007/10/26(金) 00:56:05 ID:bCaE9k3k
まずおまえさんが武田上杉今川が奴隷売買をしていたと考える根拠を述べて貰おうか
158人間七七四年:2007/10/26(金) 06:59:18 ID:SajdL11c
>>156
してたよ。上杉と同じく20銭程度の激安バーゲンだったようだけど。

つーか、してない大名はいない。
159人間七七四年:2007/10/26(金) 08:51:55 ID:5A7RAqaz
藤木みたいな北条信者がいるから>>156みたいな奴が出てくる
160人間七七四年:2007/10/26(金) 23:00:49 ID:y0FUxgbv
>>159
藤木は北条の乱取については言及してるぞ。
161人間七七四年:2007/10/27(土) 07:34:13 ID:FW36U321
捕虜にした場合、毎日飯を食わせて生かしておくわけだから、
20銭程度なら拘留費用として身元引き受け人に請求するのは
妥当なとこだろう。
162人間七七四年:2007/10/27(土) 11:08:53 ID:xca5uvXK
北条ってなんで250万石もあって、その半分にも満たない
武田や上杉と互角だったの?
163人間七七四年:2007/10/27(土) 11:12:39 ID:hYhDTAP4
>>162
それはね、250万石も領有していなかったからだよ?
164人間七七四年:2007/10/27(土) 11:18:45 ID:xca5uvXK
少なくとも1582年は250万石だったよ。
謙信や信玄のいたころだって大幅に版図は上回っていただろーが!
165人間七七四年:2007/10/27(土) 11:26:39 ID:hYhDTAP4
だいたい北条が関東の覇権を手に入れたのは、それこそ信玄謙信がいなくなってから、
秀吉の関東成敗の直前位の話だし。
166人間七七四年:2007/10/27(土) 14:47:49 ID:ukTgEuIX
主導権自体はずっと北条が握り続けていたけどな。

>>162
反北条諸将がおり、常に彼らに備え続ければならなかった。
167人間七七四年:2007/10/28(日) 00:23:13 ID:wC2cI6Td
とりあえず200万石を超えたのは神流川合戦で上野を手中にした辺りだろうな。
168人間七七四年:2007/10/29(月) 17:39:29 ID:y6XF2v2p
ようは北条がものすごーく弱かったって事。
169人間七七四年:2007/10/29(月) 22:45:12 ID:MV31YMKx
強いとか弱いとかガキの理屈は最強スレでも謙信スレでも好きなとこでやってくれ。
戦争なんぞ政治の延長に過ぎない。
170人間七七四年:2007/10/30(火) 00:45:50 ID:Jb/Ol0tx
家康が北条家滅亡の原因を語ってたらしいが。。

一つは官僚化した家臣団とか、ほかにもなんかあったが忘れた。
171人間七七四年:2007/10/30(火) 11:40:35 ID:jzxwLwXi
一度も信玄に勝てなくて秀吉くるまで滅亡を免れてたのだけは奇跡。昨日学校で勉強したよ、すっごく弱かったって!
172巨人ラブ ◆WBRXcNtpf. :2007/10/30(火) 13:03:23 ID:PBgvUIHg
信長ファンの俺からみたら、信玄はクソ弱いがw
くだらねえよ!いきがるなw
北条は、結果的には関東最強だが秀吉を甘くみたのが命取りだなw
173人間七七四年:2007/10/30(火) 17:37:58 ID:QvQJWjIs
そうですな
174人間七七四年:2007/10/30(火) 19:16:03 ID:bEnnSK4+
そうですね。
おめでとうございます。
175人間七七四年:2007/11/03(土) 17:42:24 ID:Xr9F/6VD
アンチがわかないと北条スレは進行しないな。うぜえな信長厨、眼中ないから。
176人間七七四年:2007/11/03(土) 19:07:38 ID:lU0ediGM
じゃ、ミーハー系なネタ。

http://www.nhk-sc.or.jp/stera/yokoku.html
>●次号予告
>ステラ11/23号は11/14水発売。
>表紙/<風林火山>松井誠

>・大河ドラマ<風林火山>
> 景虎を迎撃せよ!
> 北条氏康役・松井誠インタビュー
 
177人間七七四年:2007/11/04(日) 07:02:35 ID:X8i9HfFW
上杉憲政公を馬鹿にするな!
178人間七七四年:2007/11/04(日) 08:03:39 ID:Y/Vkizl9
どうすれば天下を、取れたのだろ〜?
179北条幻庵ってどお?:2007/11/04(日) 11:01:12 ID:C1Quhhcp
>135-137に対するレス。
なぜ景勝の任官を謙信は朝廷に奏請しなかったのか?理由は2つ。
1.信長側の事情
室町幕府滅亡(天正元年(1573)7月18日)ののち信長は、官位の任官権を独占した。
ここで、天正二年〜同四年(1574-76)まで任官した人をチェック!!
      年月 名前 官位 奏請者(わかる人のみ掲載) 出典
天正二年3月18日 織田信長 従三位参議 『公卿補任』
天正三年3月28日 織田信忠 出羽介 『公卿補任』
同11月4日 信長 権大納言 『公卿補任』
(同じく権大納言だった義昭に対抗するため!!)
(義昭よりも正式な手続き・段取りをしているのが、特徴!!)
同月7日 信長 右大将 『公卿補任』『兼見卿記』
(権大納言・右大将は源頼朝にちなむ)

天正四年8月4日 信忠 従四位上 『歴名土代』
同6月10日 佐竹義重 従五位下常陸介 奏請者は信長 『言継卿記』『お湯殿の上の日記』
同8月4日 江戸重通 従五位下但馬守 『歴名土代』
同11月13日 信長 正三位 『公卿補任』
同月21日 信長 内大臣 『公卿補任』『言継卿記』
以上、永原慶二編『大名領国を歩く』所収「武家官位制の創出」池亨著より抜粋。

これでわかることは…
(1).佐竹家中を除くとほとんど自分や信忠のみ!!
(2).それは、義昭や他の大名よりもまず織田家の家格の上昇&織田政権の安泰を優先していたからじゃないのかな?
結論1 例え謙信が景勝の任官を奏請しても無理だったのではないでしょうか?

2.謙信、任官時期を逃す
同じく天正二年〜同四年(1574-76)の謙信の主な動きについて見てみましょう。
天正二年 2月5日〜4月13日 第11次関東遠征。
同年 10月19日〜11月19日 第12次関東遠征(最後の関東遠征)。
(関東遠征については14〜15回という説もあるが、取りあえずこれでお願いします)
同年12月19日 法印大和尚となる(つまり仏門界!?のトップ入りを果たし、正式に「謙信」と認められる)。

天正三年 正月18日 「上杉弾正少弼」を景勝に譲る
同年 2月16日 『上杉家軍役帳』を作成する
同年 6月 信長に包囲されている石山本願寺の顕如から…
同年 7月 には越前の一向宗徒が信長に攻められ、謙信に援助を乞う。
天正四年 2月 畠山家中、織田派と上杉派に分かれて内紛発生。謙信、信長と断交。
結論2 信長と断交した&多忙ゆえに景勝の任官手続きどころではないのでしょうか?
180北条幻庵ってどお?:2007/11/04(日) 11:03:44 ID:C1Quhhcp
>>136に対するレス
3.「書状写」と「偽物」について…
多分知ってて言っていると思うのですが…他の人が誤解しないように一応書いておきます。
「書状写」は現在でいうコピーみたいなものであって「偽物」とは違います。
必要に応じて模写し、必要とする人・組織に渡すものです。
仏教の経典だって…日本の古典だって大体「写し本」です…例『太平記』(特に有名なのは吉川元春が書写した『吉川本太平記』)。
だから「書状写」を認めず「偽物」にしたなら、歴史上のほとんどの出来事が偽になってしまいますが、どうなんでしょうか?
郷土史では「書状」「書状写」どちらも残っている時には、両方掲載しています(若干文章が違うが…)。
ちなみに
書状(直筆)は…1級史料
書状写は…1.5級史料〜価値なし(ピンきり)
偽物は…価値なし といったところではないでしょうか?
この場合は、確実とまでは言えないが、景虎が「少弼」と『吉江文書』には「景勝」と書いてあるからほぼ間違えないのではないでしょうか?
181北条幻庵ってどお?:2007/11/04(日) 11:07:18 ID:C1Quhhcp
>>137に対するレス。
4.とても大きな指摘を受け、調べてみたのですが…
(1).山内家の当主は憲方〜憲実まで「安房守」に…
房顕・憲政は「兵部大輔」に…
顕定・憲房が「民部大輔」になっている。
>>137の御指摘通り山内家と「弾正少弼」は関係がありません。
ただし扇谷家の氏定と持朝は「弾正少弼」を名乗っていますし、一説に関東長尾氏は扇谷家の分かれとも言われています。
これはあくまでも私見ですが…新生「越後長尾=(関東を支配する)山内上杉家」の初代当主謙信は、以降は代々「弾正少弼」を名乗らせようと決めたのかもしれません。
北条の当主は代々「左京大夫」を自任していますし…管領細川、伊達、大崎、佐竹・大内etc.もそれぞれあります。
ただこの説は「関東管領職」を除外して、他の守護・戦国大名と同等に考えたから、その点あしからず…(関東管領職の存在が、この問題を難しくしている)

(2).<こう言う事は敵同士の書状で結構ある(氏康と謙信など)
確かに氏康は越相同盟以前には「上杉弾正少弼」と書いています。
ただ、これは謙信を格下に見ている事を意味しています。
(同盟後は「山内殿」と謙信を同等もしくは一段上にしている) だから、景虎が景勝を「少弼」と書いてもおかしくはないと思いますが、いかがでしょうか?
諱(本名)は確か本人や親、主君や敵以外は武士の作法として使用してはいけないのですよね?
うーん、書札札(手紙のエチケット)って難しいですな。
182人間七七四年:2007/11/04(日) 15:36:27 ID:xHNk7fYp
>>181
顕定・憲房・憲政は書状でも見れば分かるが四郎・五郎という仮名を使っていて
一次史料で官途を名乗っていた形跡は無い。
民部大輔は越後上杉と混同したものと考えられる。
183北条幻庵ってどお?:2007/11/04(日) 16:13:28 ID:C1Quhhcp
>182さんへ
わざわざレス痛み入ります。
それで従○位とか正○位とかが家系図に載ってないんですね!!
顕定は「可醇」とも署名してますよね?

>181に訂正レス
×書札札(手紙のエチケット)→○書札礼(手紙の書き方のエチケット)

>177さんに対するレス
もう一度>131のレスをじっくり読んでくださいね。
私は馬鹿にしてません。
「有徳者ではない」つまり、「徳の少ない人物だ」と言ったまでです。
もし、憲政が北条五代より優れているならば、明白な証拠をご提示していただきたいものです。
私も有徳者ではない証拠を次々回に提示しますゆえ…

>>149-152
越相同盟についてのレス編集中です。待っててください!! 次回レス返すゆえ…

以上、返信してくれた人どうもお疲れ様でした。恐々謹言 霜月四日。




184人間七七四年:2007/11/04(日) 17:14:37 ID:ZF7RwSvI
>>180
相変わらず素晴らしい資料検索能力、そこまで調べられるのは凄いと素直に思える。

ただ、意見としては
多忙で手続きが出来ないなら、あの中途半端な時期に官途委譲自体しないのでは・・・、
むしろ謙信改名の時期に無理矢理合わせているようで違和感を感じる。
大体書状書いて使者を出せば済む程度の事なので、多忙というのはちょっと理由にならない。
同時期にわざわざ高野山から法印大和尚として認めてもらい、謙信になってるので、
やはりこの人物はこう言う事の労苦を厭う人物では無いと思う。

もう一つの信長が独占していて官位奏請が難しいというのがあるが、
景勝が改名した天正3年正月の直前の出来事を見るに、謙信はレスにあるとおり
関東に目が向いていた時であって、この時期は北陸との争いは無い。

信長はというとこれは言うまでも無く長篠合戦直前で武田家と全面衝突してる真っ最中で、
さらに長島一向一揆と衝突していた時期でもあり、
この段階でその両者と同じく対立している上杉家とまで事を構える余裕は無く、
織田家としてはとりあえず上杉家には黙っててもらえる事が望ましい時期で、決して敵対していた時期じゃない。
無論、足利義昭とは決裂しているので、友好とも言い難い訳だけど、
だからこそ信長は「洛中洛外図屏風」を送ったりなどをしていて、上杉の動向に気を使っている時期といえる。

天正3年、1575年正月の景勝が官位を譲渡されたらしい時期の織田と上杉の関係はこんな感じ。
ここまで言えばもうわかるかもしれないが、何も言わなくても国宝級の美術品を送ってくるほど
気を使われてる時期に、改めて官位の叙任が必要なら言えば済む事ではないだろうか?
しかも誰かの官位を無理矢理禅譲させるとでも言うならともかく、自分の官位を委譲させるだけなわけだし
誰も損をしない。
織田に頼んでも、将軍に頼んでも、朝廷に直接頼んでも誰も文句は言わない時期であると思う。
なのにどれにも無いというのはいくらなんでも不自然では無いだろうか?
185人間七七四年:2007/11/05(月) 12:59:55 ID:KsJjO1VQ
金山って、あった?貿易って、あった?
186人間七七四年:2007/11/05(月) 17:43:35 ID:JDHDPfjo
伊豆の金山は江戸からじゃなかったっけ?

貿易はあった。
187人間七七四年:2007/11/05(月) 18:07:00 ID:KsJjO1VQ
関東から天下って、やっぱり難しい?
188人間七七四年:2007/11/05(月) 18:13:32 ID:853vZm/W
>>187
源頼朝
189人間七七四年:2007/11/05(月) 18:56:29 ID:fuLvEYxK
>>187 徳川家康
190人間七七四年:2007/11/05(月) 19:17:42 ID:853vZm/W
足利尊氏はどっちがいいんだろうね
後の九州?
191人間七七四年:2007/11/05(月) 20:53:06 ID:s4/nyUCP
北条の織田政策ってどういう感じだったの?
長篠では援軍おくって織田の武田攻めでは武田攻めてるが・・・
長篠以前・・・織田なんてちょろい
武田攻め・・・織田こええ武田せめて恩でも売っておこう
本能寺・・・信長しんだ これで怖いものない関東制覇だぜ!

こんな感じ?
192人間七七四年:2007/11/05(月) 21:31:54 ID:JDHDPfjo
>>191
甲相不和:徳川の親分か、一応挨拶くらいはしとくかな
甲相同盟:まあ上方は武田に任せておくか
甲越同盟:氏直の婚約者は信長の娘。関東は織田と縁戚の俺らに任せて下さい
武田攻め後:滝川一益うざい。はやく輿入れしてもらわないと、マズイ
本能寺後:これからずっと俺らのターン

こんな感じじゃね?
193人間七七四年:2007/11/05(月) 22:57:56 ID:/qFcytLX
【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/

蛆政のせいで北条家全体が低く評価されてんだよなー
194人間七七四年:2007/11/05(月) 23:21:12 ID:INkmmAI+
>>187
古来、兵(つわもの)は関東ですよ
195人間七七四年:2007/11/06(火) 14:47:42 ID:Mf+wvmbj
天下を取ってもらいたかった…
196人間七七四年:2007/11/06(火) 14:53:00 ID:uHlJBHO8
毛利と一緒で地域の覇権以上の野望を持たなかった。
197人間七七四年:2007/11/06(火) 15:54:54 ID:BdscE70Q
>>195
今川と組む以外ないんじゃない?
どうして氏綱時代独立できたんだっけ?
198人間七七四年:2007/11/09(金) 22:41:34 ID:69IQrDwL
会社などを創業すると三代目でつぶしてしまうことが
あるらしい。
だけど北条家は三代目も傑出した人物を輩出したね。
199人間七七四年:2007/11/09(金) 23:37:54 ID:ku4GleVR
しかし、早雲がズバ抜けているな。
200人間七七四年:2007/11/10(土) 00:51:08 ID:x5lCmCv0
>>199
早雲は創業とは言いがたい。駿河に下ったのも幕命によるものだし、今川家に置いて幕府からの
出向者の資格で守護代として、今川家そのものを自由に動かせた。堀越公方を滅ぼしたのも幕府の政局の
延長線でのこと。独立した「戦国大名北条家」の創業者は間違い無く氏綱だよ。
201バロン曽志崎:2007/11/10(土) 21:40:38 ID:0AbbDEVM
>>131
今更ですが、永禄七年比定直江景綱宛織田信長書状(「上杉家文書」)に
殊為御養子愚息可被召置旨、寔面目之至候。
(とりわけ(謙信の)御養子として(私の)愚息を召し置いて頂けるとの事は、
まことに面目の至りです。)
の一文があります。
202人間七七四年:2007/11/11(日) 00:32:38 ID:q3I0+RwN
>>200
幕命の下でやったから、戦果は評価対象外なのか?
トンデモな論理だな
203人間七七四年:2007/11/11(日) 13:34:35 ID:YSJEH2MD
>>198
結局潰れたけどな
204人間七七四年:2007/11/12(月) 12:14:03 ID:B5qHELNh
>>202
政府に派遣された司令官としての戦果と、独立の戦国大名としての戦果って、評価のやり方も違うし
別物じゃ無いか?
205人間七七四年:2007/11/12(月) 19:13:34 ID:J03f2MiP
どちらにしても雑魚。毛利元就には遥かに及ばない
206198:2007/11/12(月) 21:04:38 ID:ZuVQovXH
俺も自分なりの評価は早雲へのものが一番高い。
>>203 確かにそうだな。

たらればを言っても仕方ないけど、秀吉に臣従していたらどの領地を
安堵されていただろう。相模、伊豆、武蔵ぐらいかな。(上野は召し上げ
だと思うんだよ。根拠はないけど。)
そうすると(少なくとも1590年時点での)家康の国替えはなくなるな。
207人間七七四年:2007/11/13(火) 00:01:19 ID:ZVBPjnMb
>>206
個人的には上野も半分くらいは平気だと思う、まぁもちろん真田との問題の土地は取られたろうけど。
また上総や下総は佐竹との関連で取られただろうな。
ただしっかり従ってたら秀吉は結構残してくれてたと思うよ、正直、あまり関東に興味なさそうだし。

東北や上杉・佐竹とのパワーバランス取るのにも丁度良いし、
北条が従えば伊達も従ってくることは明白なので、その利も考えるだろうし。

ただ領土的な部分はともかく徳川と縁組結んでる部分を秀吉がどう取るかは謎。
208人間七七四年:2007/11/13(火) 00:24:49 ID:1UqCtLai
どの時点で臣従したかによるとは思うけど、
氏規上洛後すぐに臣従していれば、ほぼ安泰だったと思う。
惣無事令に違反したのは名胡桃だけで、あとは調整済だった訳だしね。

207の言うように、秀吉個人は関東及び関東の大名には特に思い入れも因縁もないみたいだしな。
一応、三成-上杉のラインで反北条諸将が繋がって、ネガキャンしていた事は念頭に置くにしても、
氏規上洛前後では家康の影響力もあって北条の主張はほぼ受け入れられている。

あとは派閥政治の中で生き残れたか否かだろうけど、そこら辺は未知数。
209人間七七四年:2007/11/13(火) 05:39:38 ID:7MXF0oM9
詳しい人に教えて欲しいんだけど、下総や上総の実効支配って
どこまで進んでたんだろう
千葉氏なんかは完全な従属ってわけでもなくて独立性が強かったって聞いた
事があるけど…
210人間七七四年:2007/11/13(火) 09:14:07 ID:E+THT9JH
>>206
徳川-北条ラインは強力だから秀吉なら自分の死後の事を考え崩しにかかると思うよ。
小田原は間違いなく取り上げられると思う。両者への睨みになるしさ。
問題は秀吉死後にどっちに付くかだと思う。北条なら・・・・・分からん。篭る?w
211人間七七四年:2007/11/13(火) 10:08:33 ID:XS58//zl
信雄→徳川→北条→伊達ライン
最強すぎ
212北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:10:04 ID:LxIdph34
>133>149-152さんへ、越相同盟の解説がまとまったよ!!
1.古河公方
>150に加筆レスという形で…
上杉氏は足利藤氏を推したが死んでいるので→詳しくは5で説明。
北条氏が推す足利義氏に自動的に決定し、北条領を転々としていた義氏は古河に帰還する。

2.関東管領
上杉は謙信を…
北条は、氏綱が第一次国府台合戦(1538年)で足利義明親子を討った功績により、
晴氏から代官に任命されたと主張。だが北条は譲歩した。理由は2つ。
(1).早く武田の背後を突いて欲しい。
(2).氏康の養子戦略.…氏康の子を受け入れた家は必ず乗っ取られている。
というわけで氏政の次男、国増丸(後の太田源五郎)を謙信の養子にし、上杉の名跡と関東管領を継がせようという深謀があったんじゃないか(by市村高男氏)。
しかし、氏政はまだ幼い(5〜6歳)からという理由で、三郎(16歳)に変更してしまった。これは私見ですが…理由は2つ。
一、国増丸の母は信玄の娘なので、例え跡を継いでも上杉の家中が当主として認めないだろう。
二、氏康に比べて氏政は武田寄りだった(→7で説明)から、この同盟に消極的であったらしい(国増丸だったら御館の乱で見捨てなかったかも?)。

結論1
(1).北条は公方を…謙信は管領職を山分けしたことになる。
(つまり、公方−管領(−守護)体制、つまり室町の支配体制の完全崩壊。by佐藤博信氏)
謙信はなぜ北条と同盟を結んだのか?というと、
信玄と戦うためには、北条と同盟して(北条を含む)関東諸将の軍事指揮権を改めてみなが再認識してくれたら、それだけで良かったのである。
それが関東の土地を奪わなかった理由の一つでもあり、
関東管領に固執したのもそこ
(戦って土地を得るよりもコストも時間もかからない!!)。
(2).上杉家に「三郎」という時限爆弾を送りつけ、
やがて分裂・縮小させたことは、北条の政治的勝利(後継者争いは山内家の「宿命」かも!?)。
213北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:13:54 ID:LxIdph34
3.領国分割…「国分」くにわけ
基本条件は、謙信が上野、北条が豆・相・武を互いに領国として認め合う。
その証拠に双方の人質交換が行われた。
(1).謙信側は永禄三年(1560)冬〜永禄四年の3月に作成された「関東幕注文」によるラインで国分を主張。
北条側はその条件をのみ、上野と武蔵の藤田、秩父、成田、岩付、松山、深谷、羽生の7ヶ所を譲渡するが、
あくまでも謙信の実力次第であるとした。
>149&>151さんへ、原文を見る限りでは河越は最初から入っていないようだよ。

一応原文、書き下し&( )内の解説は私の意訳。
「御父子判形御所望の十箇条」
(氏康・氏政父子が謙信に譲った十カ条)
   覚写
一、利根川内は申すに及ばず、西上州同前の事
(利根川東岸…つまり、東上野の厩橋・金山・館林・那波・小泉など&武田領の西上野)
一、藤田の事
一、秩父の事
一、成田の事
一、岩付の事
一、松山の事
一、深谷の事
一、羽生の事
(以上、武蔵の7カ所)
一、簗田方の事(→4で説明)
一、房州(里見氏)の事(→5で説明)
右条々、申定上者、一点違変有間敷候、於其者、向後可御心安候、
以上、
(以上の条項は間違いないので、今後も御安心下さい)
 氏政
 氏康
永禄十二年四月か? 氏康・氏政連署条書写「上杉家文書」より

付け加え
謙信側の史料だと…武蔵は6ケ所となっている。詳しくは(2).で説明するが、それは岩付と松山を一つにしたためである。
松山以外の説明は>134、>142のレスで前述しているのでカットね!!

(2).松山城の帰属
結論としては、北条の外交的勝利。
謙信側は、松山は永禄四年の時点では太田三楽斎が領していた(あの軍用犬のエピソード)ので…岩付領の一部と主張し、
北条側は上田氏のものだから、松山と岩付は別々であると頑強に主張したため…仲々まとまらなかった。

主な経緯
永禄十三年(1570)1月11日〜2月28日
謙信は北条を脅して岩付を獲得するため、唐沢山城を攻めて佐野昌綱を降伏させた。

そのさなかの2月18日
北条は、謙信に誓詞を送り、三楽斎に岩付を返還することを約束。
だけど>142の通り三楽斎はそれを拒否。

3月26日
北条は「このままだと成田氏・上田氏は孤立し、信玄に内応するぞ!!」と謙信を急かして譲歩させた。

(3).桶川市のこと
当時の桶川市は岩付領(武蔵国埼玉郡)の一部と推定されています。
(といっても資料がないけど…)
治めていたのは、太田氏の重臣、春日摂津守景元らしい。彼は桶皮郷菅谷村(現、白岡町菅谷)に所領があった。ちなみに彼は氏資と共に三楽斎追放を画策し、氏資戦死後は北条に仕える。
以上『桶川市史』
214北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:17:08 ID:LxIdph34
4.簗田氏…古河公方の領地分割
(1).簗田氏のこと
まず、交戦中の第二次関宿合戦(簗田晴助・持助父子vs氏照、永禄十一年10月〜)の講和が不可分(永禄十二年閏5月7日)であり、しかも簗田氏が古河公方の重臣であるという事で、1.の公方問題とワンセットであった。
謙信が義氏を公方と認めたことは、つまり義氏の領地である下総古河・栗橋・幸手・関宿・水海(みずみ)・森屋(現守谷市)、武蔵騎西・菖蒲・鷲宮の所有も認めたという事だが、しかし…
永禄十一年(1567)九月頃に氏照衆が栗橋に入城したことで…古河・栗橋・幸手は氏照の統制下に入り、武蔵騎西・菖蒲・鷲宮も成田領・岩付領の一部をなすので、現実的には北条の影響下にあった。
そこで、残りの関宿・水海・森屋が簗田父子に与えられ、ここが謙信の支配下と認められた。
結論2
北条は上野などを放棄してまで古河にこだわったのです。

(2).久喜市のこと
当時の久喜市は古河公方の領地(厳密に言うと甘棠院(かんとういん)領)と岩付領の一部。
甘棠院とは古河公方二代の政氏が創建した寺院で、政氏と晴氏が葬られており、歴代住職は古河公方ゆかりの者がなる。
215北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:20:49 ID:LxIdph34
5.里見氏
房越同盟は天文二十二年(1554)の甲相駿三国同盟に対抗するために結ばれた。
時期はおよそ、謙信の小田原攻め(これに正木時茂が加わっている)の帰り、
鎌倉鶴岡八幡宮で行った関東管領就任式(永禄四年(1561)閏3月16日)あたりに、
謙信と義尭・義弘父子が会談して結んだのでは?としている。
この時の交渉ルートは、里見−時茂−三楽斎−直江景綱−謙信。

この同盟の内容は主に3つ。
(1).攻守同盟
→永禄九年(1566)三月、謙信の下総臼井城攻めの失敗で頓挫す。
(2).里見の所領の拡大を認める。→両総の支配権は里見にある。
(3).上杉は関東管領職を、里見は「副帥」「副将軍」の地位を互いに認める。
(里見から見れば「つまり両者は対等である」と。実は謙信はそうは思わなかったけどね)→

それは謙信が推していた公方藤氏を始め、藤政・家国・輝氏の兄弟を里見が(安房の那古寺に?)庇護していたためである。
しかし、藤氏が北条に捕らわれ、幽閉されたまま永禄九年(1566)に死去した(氏政切腹説あり)。

この時点で両者の関係は(2)のみ、つまり領土問題だけになっていた。

謙信は関東管領、つまり関東諸将に号令する者として、
里見には事後承諾という形で勝手に和睦を進め、相房一和を図っていた。

その条件として…
(上総の大半は永禄十年9月10日の三船山の戦勝で里見のものと確定していたので、はなっから話題にせず)
下総などの領有のみに話しが絞られた。
>152さんのレスに加筆という形で…。
つまり北条に従属していた下総佐倉城主千葉氏、同臼井城主原氏、
上総土気&東金城主の両酒井氏、下総小金城主の高城氏らの所領を安堵する代わりに、
謙信は彼らから人質を取り、里見氏に譲ろうとした。

これは一見すると里見に有利だが、北条・里見双方から不満が出た。
それは約40年間、戦ってきた恨みが消えないのは当たり前として、
北条は千葉領などを放棄するのは堪え難いことであり、
一方、里見は里見で「謙信を介してこれらを領有する事は承認しがたい」事に加えて、
書札礼の問題があった。
それは今まで対等であった上杉と里見が、この和睦で上杉より一段低くなるからである。
やがて里見は、藤政を公方に擁して、信玄と組み、この和平を拒否した。
以上、1〜5の大本は『戦国期東国社会論』所収、「越相同盟の成立とその歴史的意義」市村高男著より編集。
216人間七七四年:2007/11/13(火) 10:27:28 ID:XS58//zl
>>214
>上杉家に「三郎」という時限爆弾を送りつけ、
やがて分裂・縮小させたことは、北条の政治的勝利

政治的勝利か?
上杉家が持っていた東上野は、那波以外武田領になったぞ

217北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:47:16 ID:LxIdph34
>>216さんへ
レス読みずらいのにわざわざのレスありがとう!!
<上杉家が持っていた東上野は、那波以外武田領になったぞ
へのレス
>80にも書いてあるのだが…氏邦が一時的に沼田・八崎を占領し…
外交では由良氏を服属させている。

結局は、勝頼にしてやられたけどね。
あと2つレスが残っているので楽しみに…
218北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:51:10 ID:LxIdph34
6.佐竹衆
(原文では「東方の衆」…佐竹・宇都宮・太田(&梶原父子)・真壁・茂木・多賀谷)の動き
反北条同盟成立
佐竹・三楽斎や簗田氏・白井長尾ら関東諸将の大半は越相同盟に反対であった。
(特に三楽斎は「信玄に攻められている今こそ、北条を倒す機会」と息巻いていた)
しかし謙信は彼らの意向を無視して同盟を締結したため、両者の間に亀裂が生じていた。
これは反北条諸侯に謙信不信を植え付けて分裂させた北条の政治的勝利。
この延長線上に天正二年(1574)の謙信vs義重の関宿後詰め論争につながる。

閑話休題。
すると逆に信玄が三楽斎、佐竹、宇都宮(以上、永禄十三年(1569)1月23日)、
佐野、簗田、里見(あの里見−三楽斎ルートで)、小山と結び、
里見が公方に雍する足利藤政を「鎌倉に帰還させる」名目で信玄を頂点にした反北条同盟が成立した(元亀年間)のである。

ちなみに『新編埼玉県史』通史編では、
佐竹・里見を動かしたのは「三楽斎の旧領復帰への執念」としている。
それはオーバーだが…
三楽斎が上杉、佐竹、里見、武田、のちに織田、秀吉と独自の外交ルートを持っていたことが証明され、
だからこそ重宝されたと思われる。
219北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 10:55:04 ID:LxIdph34
7.北条の交渉ルート
『郷土神奈川』14号所収「越相一和について」岩澤愿彦著いわく
北条は2ルートでこの交渉に臨んだ。
1.由良ルート(従来のルート。上杉信じる派。守りの外交派)
氏康(氏政)−氏邦−遠山康光・康英・由良成繁−沼田城将たち−山吉豊守−謙信
(遠山康光は武蔵の7ケ所を譲ったのに謙信の援軍を呼べなかった責任をとり、交渉の途中で山角康定と交代した。のちに三郎の後見役となる)
2.北条ルート(新ルート。上杉疑心派。攻めの外交派)
氏康・氏政−氏照−北条高広−直江景綱−謙信
『群馬県史』通史編 中世では…
前者の代表を氏康に、後者の代表を氏政にしており、前者の外交を推進する氏康が死んだから、消去法で甲相同盟が結ばれたのだとしている。
面白い説なので一応書いておきます。

いつも長くてスミマセン!! ご意見・感想・加筆・訂正・質問・疑問レスetc.些細なことでもいいのでレス宜敷!!
以上、恐々謹言。長月拾三日。
220人間七七四年:2007/11/13(火) 11:19:13 ID:S+IrBYpb
北条よりの解釈だけだからいまひとつ全体像が見えてこない。
上杉の立場からも解説し中立性ある文章にしてくれたら素晴らしいのだが。まっスレが北条厨だから仕方ないか。
221北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 15:13:13 ID:LxIdph34
184さんへ
貴重なご意見、毎度!?痛み入ります。
じっくり考えてからレスしますので少々お待ちを…

>>210ムッシュー・バロン・曽根崎さんへ
情報提供感謝致します。これで簡単に裏づけができます。感謝!!

>>220さんへ
レス大変どうもありがとうございます。
いちおう、いますぐできる返事として…
謙信を含む反北条側から見たものを箇条書きにします。

>>32-37のレスをみればわかりますが…
私は「北条愛好家」ではなく、ただの戦史好きなのであしからず!!

永禄九年(1566) 三月、謙信が臼井城攻撃に失敗して帰国すると同時に…
宇都宮・皆川・由良・成田が北条に味方し…

永禄十年には、佐竹が北条・武田と和睦したため謙信は佐竹と断交す。(2月or4月)
同年5月には簗田氏・相馬氏が北条氏に従属し、9月5日由良氏が北条に寝返る。同時期に厩橋城主で謙信の関東代官でもある北条高広も寝返る。
同年9月26日信玄、利根川以西の上野を征服する。

沼田以外、ほぼ全てを失った謙信は…ここで逆転ホームラン級の打開策に迫られた。

永禄十一年12月、信玄が駿河に侵入し「甲相駿三国同盟」が崩壊。
独力で信玄と戦わざるを得なくなった北条は、同じく信玄の敵「謙信」に助けを求める。

永禄十二年閏五月三日、越相同盟が結ばれて…(興味深いことに「北条系」の史料はこの日にしている)
交渉が始まった
内容は>>212-215を見てから>>142を見てくださいね。

しかし、謙信は「松山・岩付」の条項と、氏政が謙信と同陣しないことに不信を感じ…
北条はなぜ信玄を攻めないで、佐野を攻めるのか?ことに不信を感じ…
なかなかまとまらなかった。

永禄十三年3月5日、輝虎と北条氏康が和睦する。
輝虎、北条氏康の七男で十七歳の氏秀を養子をし、代わりに重臣柿崎景家の子晴家を人質をして小田原城に送る(越相同盟)。
(つまり「上杉系」の史料は、「人質交換をもって正式に同盟が結ばれた」と見る)
4月12日、輝虎、沼田城にて氏秀と対面、父子の義を結び、
12日、春日山城に帰還する。
25日、 自らの幼名「景虎」を名乗らせ、故長尾政景の娘を景虎の室とし、春日山城二の廓に置く。

とりあえず、これでどうでしょうか?
222北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 15:18:22 ID:LxIdph34
スミマセン!?訂正2つ
(1).×184さんへ→○>>184さんへ

(2).
×>>210ムッシュー・バロン・曽根崎さんへ

>>201ムッシュー・バロン・曽根崎さんへ


223北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 16:01:59 ID:LxIdph34
訂正
×曽根崎さんへ→○曾志崎さんへ
恩人の名前間違えてゴメンね。
鼻水が止まらなくて正常な判断ができなかった。

>>185-186
独自の貨幣はなく、当時流通していた永楽銭を使っていた。
(書状では「黄金」(独自通貨か?)も見えるけど、上杉・武田よりは採掘量・流通量が少なかったらしい。私は現物を見たことない)
金山は、武蔵と伊豆にあった。
武蔵⋯秩父市黒谷銅山(あの和同開珎の原料として使われた)の近くにある金山。
(信玄の小田原攻めの折り占領されたが、甲相同盟復活後に返されたらしい)
伊豆の土肥(1577年頃から採掘)、瓜生野(大仁)、湯ヶ島etc.
224人間七七四年:2007/11/13(火) 16:53:18 ID:Fi+B4oeC
亀レスでスマソ
>>115
>その信長よりもはるかに大勢力になった豊臣を突っぱねるのが理解不能だ…

北条側から考えると・・・
武田勝頼を滅ぼした織田信長には弱腰になったけど、徳川家康に勝てない豊臣秀吉には強気になったのかも?
長曾我部家や島津家などの西国の戦国大名を降伏させた実力は評価されてないかも?
上杉景勝や佐竹義重、真田昌幸とつながる豊臣秀吉を警戒したかも?

かもかも出申し訳ないです・・・。


豊臣側から考えると・・・
天正十六年
四月、後陽成天皇が聚楽第に行幸。
八月、北条氏規が上洛し豊臣秀吉に接見。
天正十七年
春頃、沼田裁定。
・・・ここまでは北条家にとっても悪い話ではなかったんですが、
五月、豊臣家に『棄』が誕生。
十月、名胡桃城事件。
豊臣家の御世継誕生が微妙に影響したかも?
(小田原征伐、山上宗二処刑、前田利家謹慎、徳川家康関東転封、織田信雄所領没収にも影響アリかな?)



関東の覇者を自負する北条家の人間にとって北条氏政一人を悪者にするのは酷かな?


225北条幻庵ってどお?:2007/11/13(火) 17:11:22 ID:LxIdph34
>>115>>224さんへ
これは私見ですが…北条側から考えると「京」からの補給線が長いから…
大軍で来ても…
すぐに撤退すると思ったのかもね

最後に
「経営」で会社を倒産させたからには…
会長である氏政が全ての責任をとらなければならないと思います。

豊臣側から考えると…
名胡桃城事件の後、冬に氏政が上洛するはずだったのだが…
相変わらずぐすぐすしていたから疑われたのでしょう

ついでに真田側から見ると…
名胡桃城は「父祖代々の墳墓の土地である」と嘘をついている。
実際は信州、もし上野にあったとしても岩櫃城のあたり


226人間七七四年:2007/11/13(火) 17:13:24 ID:YgbqWhsc
大改修した小田原城に籠もればそのうち…
と考えたのでしょうか
227人間七七四年:2007/11/13(火) 17:19:21 ID:E+THT9JH
関東武士は自分勝手だから秀吉に屈する態度を見せたら反旗を翻すんじゃないかと
思い、交戦態度を見えているだけにしようとしたら・・・・・本当に滅ぼされた。こんな感じはどう?
228人間七七四年:2007/11/13(火) 18:17:34 ID:cNsJiFWa
いや、本能寺前後とは関東情勢はわけが違うでしょ。すでに北条の支配はかなり強固だった。
ただ、その自覚があったかどうかはよくわからないけど。
229人間七七四年:2007/11/13(火) 20:02:43 ID:Fi+B4oeC
>>225
>豊臣側から考えると…
>名胡桃城事件の後、冬に氏政が上洛するはずだったのだが…
>相変わらずぐすぐすしていたから疑われたのでしょう

名胡桃城事件が発生してしまった以上、北条氏政の上洛は厳しいかな。
十一月に豊臣秀吉は早急に小田原征伐を決定していたようですし。
十二月に北条氏直は弁明書を送っていますが完全に出遅れています。


>ついでに真田側から見ると…
>名胡桃城は「父祖代々の墳墓の土地である」と嘘をついている。

同感。
北条家も納得していなかったでしょうね。



>>226
>大改修した小田原城に籠もればそのうち…
>と考えたのでしょうか

@難攻不落の小田原城で籠城。(後詰に伊達・・・本当かな?)
A豊臣遠征軍の長陣による兵糧欠乏と士気低下。
B徳川家康や織田信雄の離反行動。

北条家は他力本願な戦略で戦に望んだのかな?


230人間七七四年:2007/11/13(火) 21:18:12 ID:E+THT9JH
>>228
強固って割りにすぐ崩れたのは何故?
231人間七七四年:2007/11/13(火) 21:47:30 ID:Yn+rzcie
>>228
兵力違いすぎ。
なのに裏切りで崩れた戦線はほとんどないのが不思議。
232人間七七四年:2007/11/13(火) 21:57:28 ID:cNsJiFWa
>>230
たとえば武田討伐のように裏切りが続出したか? 全然そんなことないだろ。
支配が強固だったことを示す一番いい例。
233人間七七四年:2007/11/13(火) 22:15:52 ID:TDRyz0UT
>>220
越相同盟について残っている文書はほとんど上杉家文書のもの、
つまり北条が上杉に送ったものなので、上杉側の考えがわからないのは仕方ないのでは。
推測するしかないんじゃないでしょうか。
>>219
>1.由良ルート
氏政は由良ルートにも介入していて、由良が(仮に上杉と北条が割れても)北条側につくという
誓詞を出したことを喜び、烏川以南の藤田に先判した領土を除き上野一国を進呈するという書状も出しています。
由良がしっかりしている限り、東上野が丸々上杉に割譲されるということもなかったわけで、
由良にしてもあまり謙信を信用しては居なかったでしょう。
ただ、由良は甲相同盟の時に面目をつぶされたと激怒して北条が釈明の使者を送っている点からしても
その大体の分類は正しいんでしょうけどね。
>>221
1566年以降、簗田も佐竹も一度は謙信から離反し、北条と和睦したが、結局決裂している。
これは北条が再度の関宿の接収を目指したためではないでしょうか。
北条が古河より関宿を重要視していたことは謙信越山以前に簗田に関宿と古河を交換させていることからもわかります。
またこの時点で既に北条は古河公方領を好きなように扱えもしたようです。
永禄11年に北条が関宿の包囲をすると佐竹、簗田は再び謙信を頼るようになったらしく、
同年12月の佐竹北家が「関宿凶事」を伝え、同月には義重から越山の要請をしています。
しかし謙信は越山に使う根利道が由良によって封鎖されていることをはじめとした諸々の理由で関宿救援にいけなかった。
上記の十か条を4月のものとする説に従えば、それ以前の北条側の文書から考えて『簗田方の事』というのは
謙信の要請によって追加され確認されたものと言えると思います。
謙信は再び関東諸侯が復帰するきっかけとなった関宿救援を果たせばそれで反北条側勢力への義理は果たせると思ったのではないでしょうか。
結局、うまくはいきませんでしたが…。
234人間七七四年:2007/11/13(火) 22:23:30 ID:TDRyz0UT
小田原攻めでは多くの他国衆が小田原籠城を余儀なくされている。
半ば監禁されて籠城させられた国衆といえば由良、足利長尾らが有名だが、
皆川、安中、富岡、和田、三浦、小幡氏ら小田原城外に逃亡した諸氏についても
無理やり籠城させられる羽目になったのではないかと考えられる。
主君を小田原に監禁してそれぞれの国人衆の領地でその家臣たちを戦わせていたのではないか。
そういうシステムはしっかりしていたんだろうね。
235人間七七四年:2007/11/13(火) 22:58:49 ID:E+THT9JH
>>232
武田は希代の悪政ぶりを発揮していたしなー。
毛利や島津は裏切りが続出したか?
236人間七七四年:2007/11/13(火) 23:02:25 ID:RLC6BBam
>>235
島津は北九州ではいくらでも。
毛利は宇喜田のような大勢力が早々に離反している罠。
237人間七七四年:2007/11/14(水) 00:46:45 ID:dF0Iojxm
まっ現実には信玄は北進が不可能を悟り、嫡男を殺してまで謙信との衝突を避けて南進に方針変更、
せめて南進の邪魔をされないように越後で謀反を起こさせるのが精一杯だったけどな。

事実だけを語れば北条は上杉と戦うことの恐ろしさを嫌と言うほど感じていて謙信と戦うよりも信玄と戦う方がまだマシだと
百戦錬磨の氏康は悟って駿河侵攻を機に戦う敵の変更をして大幅譲歩してまで謙信との和議を成立させてるんだけどな。

越相同盟で謙信は救われたとか事実誤認なのか歪曲してるのか知らんが残念だがこれが現実www
本当に謙信を追い詰めていたのなら信玄は越後を奪った後に今川領を制圧に乗り出しても遅くはないし
本当に謙信が困ってるなら関宿なんて奪い取って信玄の今川侵攻を一時的に放置して越後を奪ってから信玄の背後を襲う方がよいに決まってるwww


238人間七七四年:2007/11/14(水) 09:10:13 ID:jfq1hIvC
実際さ、鎌倉公方の管轄エリアって駿河は入ってないから関八州制覇目標の北条にとってはさして重要じゃないのに武田に介入してまで方針変更したのに明らかに対上杉戦に疲弊と限界を感じてたね〜。
じゃなきゃ大幅譲歩してまで武断派の顔を潰してまでの北条からの和睦要請なんてありえない。また謙信が越山したらオセロみたいにひっくり返されるだけでキリないし。
妻が武田だから親武田の嫡男氏政がいくら反対しようが無視し、敵を変え対武田戦に切り替えた方が(何だかんだ言っても時間ばかり浪費し北信濃で村上に西上野で長野にボロ負けの歴史をしても完全安定経営制圧できてない)有利に感じてたんでしょ。
厭戦気分モロ出し北関東諸将にしたって二股外交をして嫡流と非主流派で独自外交チャンネルを作って生き延びてるし、北条が決戦をしようにも兵を出してくれない。
何とか有利な体制の挟撃戦だからこそ珍しく協力してくれた三増峠の戦いで追撃に出てくれた関東諸将は手伝い戦ゆえ士気が低く、
合戦が始まると本隊到着を待たずに撤退を開始しまくり信玄に無残にも大敗する始末でとても北条に協力的でなく恩恵を貪るだけの存在。
越山した上杉軍に参加して軍事行動を取る北関東諸将はちゃんと動いてくれてるからその差は大きい。
長きに渡り北条と武田が全力をあげて北上したのに
239人間七七四年:2007/11/14(水) 09:59:46 ID:tvfP0dJN
北条が決戦できないのは甲斐信濃で家康と敵対した時に一方的譲歩したことでも証明できる。
また秀吉との戦いでも決戦できず篭城してる。
240人間七七四年:2007/11/14(水) 10:23:29 ID:uf+H01Gg
>>239
つ 神流川の戦い
241人間七七四年:2007/11/14(水) 10:38:17 ID:yLRH7TBD
>>239
川越夜戦
242人間七七四年:2007/11/14(水) 11:33:36 ID:WrXDlMbY
ちなみに甲斐は鎌倉公方管轄権であるし北条よりかなり兵力が少なかった家康の威嚇に譲歩って…弱っwww
川越夜戦は講談で史実ではないから捏造ですwww
神流川って本能寺で信長死んで甲斐では川尻が虐殺され北信濃では鬼武蔵たる森が美濃への必死の退却行って時に一番織田本領から離れて孤立した滝川相手じゃねーかwww
243人間七七四年:2007/11/14(水) 12:12:40 ID:G9DTHC8h
しったか->一撃論破->発狂まできたんで、この後は粘着かな。
ただでさえ単発IDだし。
244人間七七四年:2007/11/14(水) 18:54:43 ID:jfq1hIvC
>>243
単発ID?意味わからんヤツだが必死なのはわかったw
245人間七七四年:2007/11/14(水) 19:42:20 ID:tvfP0dJN
北条厨涙目www
246人間七七四年:2007/11/14(水) 21:08:22 ID:WrXDlMbY
北条厨は不利になると亀のように籠城しまつね。
所詮この程度が北条クオリティの限界。秀吉来たら裏切り確定な関東諸将の当主をムリヤリ小田原城で人質にして籠城し全員いっぺんに改易させ道づれ自爆。
ヘタレ北条と違い成田の忍城は当主の心配をしながら小田原城が降伏しても佐竹義宣や石田三成の水攻めを退け必死に籠城してますた…でも改易。
関東の疫病神凶徒伊勢氏www
247人間七七四年:2007/11/14(水) 21:25:52 ID:jlftGV3N
見事な基地外粘着。まさにパターンどおりだ。
248人間七七四年:2007/11/14(水) 21:43:21 ID:jfq1hIvC
反論できずに負け惜しみとは…
249人間七七四年:2007/11/14(水) 23:48:05 ID:dF0Iojxm
まぁ北条は滅亡したが義を重んじた上杉は幕末まで
命脈を保ったんだから勝敗はおのずから明らか。
250人間七七四年:2007/11/14(水) 23:52:49 ID:XZY88GsN
北条の話とはそれてたがせっかく興味深い話がされてたのに・・・。
251人間七七四年:2007/11/15(木) 00:37:48 ID:lj5G8O6k
後北条は僭称。上杉は禅譲。
252人間七七四年:2007/11/15(木) 00:46:25 ID:UiJScxQL
>>251
後北条の伊勢氏→足利幕府政所や奉行衆(将軍親衛隊)において代々一族が要職を勤める超名門

上杉こと長尾→足利将軍の家来である関東公方の家来である上杉氏のその又家来。
253人間七七四年:2007/11/15(木) 01:26:07 ID:tdQ9zftJ
上杉は幕府から足利一門並の扱いを受けていた名族です
254人間七七四年:2007/11/15(木) 02:22:33 ID:kNb59DXf
何言ってんだ!早雲は京で仕えた嫡流とはかけ離れた僻地備中国は荏原荘だかの伊勢氏の次男か何かだろw
255人間七七四年:2007/11/15(木) 02:29:44 ID:tK+YhYmf
でも、その京都伊勢氏と備中伊勢氏は他の庶流に比べて繋がりが深いですよ。
幕府で動いていたのも、「伊勢氏」の一員として動いて居るんだから。

出自で言えば、伊勢氏の方が間違いなく名門。
北条姓と上杉姓の正統性で言えば、正式な手続きを経て改姓した上杉の方が正統だろうけどな。
256人間七七四年:2007/11/15(木) 02:37:39 ID:Opor61TT
京で仕えた伊勢家とかけ離れてたら伊豆公方を幕府の指示で打倒したという説もおかしくなるな。
257人間七七四年:2007/11/15(木) 03:49:03 ID:UiJScxQL
>>254
アホか、早雲こと伊勢新九郎は文明13年(1481年)には幕府の要職である申次衆に、
長享元年(1487年)には将軍直属組織である奉行衆に任命されたと言う記録がちゃんと残っている。
押しも押されもせぬ室町幕府の若手超エリート官僚だ。
258人間七七四年:2007/11/15(木) 04:19:24 ID:V3yHCog1
何いってんだ?早雲は伊勢出身の素浪人だバーーーカwww
上杉どころかそこらの豪族よりも酷い家系ですよwwwww
それがあまりに恥ずかしいから北条を名乗ったと言うのが定説ですwwww
259人間七七四年:2007/11/15(木) 06:00:38 ID:ZcwifgzY
いつの間にやら荒れている・・・?
まるで小田原評定。
260人間七七四年:2007/11/15(木) 06:32:41 ID:5KtakeGp
>>258
同意。
幕府に仕えていたって言う文献は、江戸時代の北条研究者の捏造の疑いもある代物だからな。
室町時代には使われてなかった言い回しが含まれているそうな。
261人間七七四年:2007/11/15(木) 10:12:58 ID:psSJ8o6R
上杉家は足利家の外戚で、長尾家は上杉家の外戚。
そして上杉輝虎の家督継承は正式なもの。
一方、北条は出自も改姓の正当性もわからない。
262人間七七四年:2007/11/15(木) 10:16:09 ID:26uvdPGd
>>257
伊勢出身の素浪人の妹が今川家の正室になれるんですね。
びっくりですよ。

>>259
上杉最強スレからの流れ者共だろ。
あいつらは方々で哀れなくらいネガキャンしてる。
263人間七七四年:2007/11/15(木) 11:15:45 ID:1IUcyvuc
今川に嫁いだ女って言ったって早雲の姉か妹かもハッキリしてないくらいよくわからん。側室だったけど嫡男が生まれたとかそういうもんだったんでは?
ちなみに長尾家は坂東八平氏の一つで鎌倉氏の一族という名門中の名門。
しかも鎌倉市に隣接する大船駅近くに今も長尾台(玉縄城近く)って地名まであり疑いようがない(鎌倉公方成氏が長尾郷を横領した為に上杉と公方側の対立が頂点に達し全面戦争になり古河へ移る事になってるくらい)
鎌倉時代に三浦氏とともに衰退したが守護上杉氏から長尾氏に養子が入ったことで守護代職を拝領してる。
264人間七七四年:2007/11/15(木) 12:10:20 ID:xs9F4+Cc
武田が悪政引いてたなんてことはない
民が逃げただなんてのは胡散臭い妙法寺記にしか載ってない
265人間七七四年:2007/11/15(木) 21:47:53 ID:rmjaJFhf
>>264
武田マンセーの甲陽軍艦でさえ三河の乱捕りがしっかりと書かれているのに?
266人間七七四年:2007/11/15(木) 21:50:21 ID:bPm/NZu4
>>263
当時の女兄弟(変な言い方だなw)なんて将軍家でもはっきりしてないと思うんだが。
「お市」だって信長の実妹、信長の養妹(信秀養女)、信長の従姉妹、信長の従兄弟の娘など諸説ある。
一般的には北川殿は早雲の妹、お市は信長の妹とされるが。

早雲が幕府に仕えていたのかどうかについてはさて置き、
さすがに駿河の名門今川氏の正妻に素浪人の姉妹を迎えることはないだろう。
小鹿範頼派(千代秋丸)の家臣連中が黙ってるわけがないしな。

長尾氏が関東の名門であるのは確かだが、嫡流じゃない。
早雲も中央の名門伊勢氏の出身であるのは確かだが、庶流に過ぎない。
血筋的にはどっちが上も下も無いんじゃね?w
越後も備中も中央から見ればどっちも僻地だしなw
267人間七七四年:2007/11/15(木) 23:33:17 ID:kNb59DXf
まてまて、早雲は実際には謎の人物だし、細川政元との関係もそうではないか?って言う想像の域を出てない。
だが長尾家は由緒正しく上杉の名跡を継ぐ事もおかしな事でもない名家。
268人間七七四年:2007/11/15(木) 23:35:49 ID:UiJScxQL
>>267
つーかなんでお前はここで一生懸命上杉のことを語っているんだ?
269人間七七四年:2007/11/16(金) 00:05:53 ID:DCg5oaf1
確か伊勢本家と宗瑞は、従兄弟同士だったような。
宗瑞の代は備中と本家は極めて近い間柄なんだぜ。
270人間七七四年:2007/11/16(金) 00:12:47 ID:lGJhFuwp
従兄弟の関係なぞ戦国では何の意味も持たないなw
271人間七七四年:2007/11/16(金) 00:39:10 ID:Hlp6X6hj
長尾さんの所って非御家人の家柄だからって越後国人に馬鹿にされてたじゃねーかw
名家も糞もねえよw
272人間七七四年:2007/11/16(金) 01:02:01 ID:OHhl7fLv
そんなのあたぼうよ!かりにも坂東平氏たるもの裏切り者の北条とは違い!我が長尾家は頼朝の武威を恐れず
平家の為に戦ったまでよ!だが関が原のあとの西軍しかり・・・大勢が決したからには三浦氏をとうして服属するのは武門の習い。

273人間七七四年:2007/11/16(金) 11:14:00 ID:r8AbMcfm
伊勢の素浪人だと初期の北条家自身の文献にあるからな。
名門か?という観点でのみ考えれば、北条は論外の家柄だろう。
それが100万石超えたサクセスストーリーと考えればいいのでは?
逆に言えば、関東の名門連中ぷぎゃー。
274人間七七四年:2007/11/16(金) 12:22:09 ID:lGJhFuwp
>>273
名門と言えども治乱興亡盛者必衰の理からは逃れられる一族などいないのをわからんのか?
275人間七七四年:2007/11/16(金) 14:24:02 ID:DCg5oaf1
>伊勢の素浪人だと初期の北条家自身の文献にあるからな。
ないよ。
その説は明治期に突如主流になった物。
宗瑞八十八歳説なみに、眉唾。

初期だと執事政所・伊勢貞親の近親者、京都伊勢氏(宗家と傍流それぞれある)説と備中伊勢氏がほとんど。
276人間七七四年:2007/11/16(金) 14:39:42 ID:/0i7pF6m
>>271
捏造乙、御家人とイミフな事情で馬鹿にされんだよ?頭おかしい?
坂東平氏の名家の家名に家柄不詳な国人が羨んだに決まっとる
277人間七七四年:2007/11/16(金) 14:41:27 ID:lLESMuuU
決まっとる(笑)
278人間七七四年:2007/11/16(金) 14:43:17 ID:DpfoThnF
江戸期には戦国時代を何でもかんでも下克上で説明する「下克上史観」が流行し、
特に戦国に入ってからの新興勢力である後北条氏はその史観の格好のターゲットとされた。
279人間七七四年:2007/11/17(土) 00:41:33 ID:TTazeYcy
280人間七七四年:2007/11/17(土) 10:48:42 ID:LRhFWQ/A
今川家の家臣筋の分際で背後の駿東郡を奪ったりと大逆無道の基地害めが。
相模が裏切りをしなければ武田も織田も確実に滅亡させて我が今川家が天下人となっていたわ!
281人間七七四年:2007/11/17(土) 15:32:32 ID:YZ7SZKq8
どちらかと言えば、今川が北条を裏切った。
もう少し言えば裏切りとかそういうんじゃなく、利害が一致しなくなっただけ。
そしてその利害が一致しなくなった原因は、今川にある。
282人間七七四年:2007/11/17(土) 15:33:30 ID:YZ7SZKq8
ああ、ついでにいうと、
その利害が一致しなくなった今川の行動とは、武田との単独和睦だから、
二行目はおかしいですよ。
今川厨を名乗るならば、もう少し今川のことに詳しくなってからにして下さい。
283人間七七四年:2007/11/17(土) 18:53:12 ID:LRhFWQ/A
足利の名流の主家に対してエラそうな事を言うな。
北条は服従してればいいのだ無礼者め。
284人間七七四年:2007/11/17(土) 20:24:38 ID:oE+WT0AR
氏康、信玄、謙信、それぞれ敵にしたら難敵だろうに、
氏康は関東方面、信玄は東海方面(一部関東)、謙信は
北陸方面に領土を拡大しているんだよね。大したもんだ。
285人間七七四年:2007/11/19(月) 21:28:54 ID:IGoRsXKH
別に主家じゃないだろう
助っ人外人がFA行使して離れただけ
286人間七七四年:2007/11/20(火) 02:53:07 ID:pSxBGg9B
流れぶった切りですまんが、質問させてくれ
神若子の戦で北条と徳川が争った時に、北条は徳川の篭る新府城を攻めあぐねたとあるんだが
新府城は武田滅亡の際に勝頼が焼いてなかったっけ?
287人間七七四年:2007/11/20(火) 06:35:45 ID:kBO/2JXX
韮崎の辺りに長城を築いて対抗したらしい。
新府城には本陣があったらしいけど。
288北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 15:23:02 ID:njHasSBN
>>209さんへ
<詳しい人に教えて欲しいんだけど、下総や上総の実効支配って
どこまで進んでたんだろう
千葉氏なんかは完全な従属ってわけでもなくて独立性が強かったって聞いた
事があるけど…
への答え…中身は確認せず、タイトルのみで検索してみたよ!!

1.『千葉県史』などの郷土史

2.千野原靖方著『千葉氏 室町・戦国編』たけしま出版、一九九七年。

3.平野明夫著
「高城氏と後北条氏との関係について」(『中世房総の権力と社会』所収)
「高城氏と千葉氏・原氏・古河公方」(『中世房総の権力と社会』所収)

ぐらいかなぁ。まず、自分の力でやってみてくれ!!
だめだったら、ヘルプして下さい!!
頑張ってください!!
289人間七七四年:2007/11/20(火) 15:36:04 ID:4NVMz//v
>>288
胤富は後北条方の一翼を担い、永禄七年、上杉方の太田資正と里見義弘の連合軍と北条氏康が戦った
第二次国府台合戦にも出陣して氏康の勝利に貢献した。
 その後、里見氏の臣正木大膳の策謀により、千葉氏譜代の重臣であった土気の酒井伯耆や東金の酒井備中らが寝返り、
その案内によって里見勢が下総に攻め入ってくるということもあった。
そのときは冨胤が家臣の原氏や円城寺氏を先手として撃退させることができた。
しかし、冨胤の奮闘も空しく千葉氏は小田原北条氏と結ぶことによって、なんとか命脈を保てるという状態に陥っていた。
さらに重臣である原氏や高城氏などが次々に後北条氏直属の大名になるなどして、千葉宗家の勢力は衰亡の一途をたどっていった。

●千葉氏の終焉

 胤富の跡は嫡子邦胤が継いだが、家臣鍬田某によって殺害され、二十九歳の生涯を終えた。
千葉介邦胤が亡くなると、北条氏政は千葉氏に七男・北条直重を送り込むことに成功。
直重は千葉介重胤を名乗ったが、実質上の大名領主権は後北条氏に握られ、重胤は人質として小田原住まいを強いられた。
 そして、天正十八年(1590)の小田原の役で、重胤をはじめとした千葉一族は後北条氏に加担して小田原し城に籠城、
後北条氏の没落とともに、平安期以来の名族千葉氏は没落した。その後、高城氏らが徳川旗本に召し抱えられたが、
千葉氏には徳川氏から誘いもなく武家の名門としての千葉氏は終焉を迎えたのである。
290北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 16:01:45 ID:njHasSBN
>>289さんへ
1.千葉氏一族
高城氏って、元々は原氏の重臣だったんですよね?
その原氏は、元は千葉氏の重臣だったんですよね?
下克上の下克上って…下総はすごいですな!!

2.酒井氏って何者なの?
常陸国信太郡の江戸崎城主にもいたよね?
うろ覚えでは…確か美濃の土岐氏の分れらしいのだけど…

3.邦胤の死
あの信憑性のない『関八州古戦録』では…
家臣のオナラにぶち切れていびった挙句に…
その家臣に逆切れされて殺害されたんですよね?

その後、作倉城(本佐倉城)に氏政自ら入城し、縄張りを「北条流」に変更したんですよね?
運のない一族ですな!!




291北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 17:09:00 ID:njHasSBN
>>209さんへ
↓稲生書房のHPをチェックしてみてください!!
http://www16.ocn.ne.jp/~bookinou/mokuroku.html

292人間七七四年:2007/11/21(水) 00:15:15 ID:jhjWdj41
>>290

いわゆる「千葉に原、原に高城」ってやつだっけ。
下克上っていうより、誰かの政策でこうなったって聞いたな。
293人間七七四年:2007/11/21(水) 08:51:20 ID:njp0hT9D
>>290
高城みたいな存在って当時じゃそこまで珍しくなかったような。
有名どころだと松永久秀や宇喜多直家なんかもそうだし。
294人間七七四年:2007/11/21(水) 11:47:01 ID:7uVgXJNv
>>209本人なんすけど、レス直後の流れでものの見事に自分だけスルーされてて
本音を言えば憤りと虚しさを覚えてたんだけど、調べたり答えてくれた方々に
感謝しますわ
2ちゃんもまだ捨てたもんじゃなかったってことですかね
295206:2007/11/21(水) 23:44:49 ID:m2l90Jrp
294氏に便乗で。俺はレスのお礼をしていなかった。
>>207
>>208
>>210
レスありがとう。あっさり臣従で大半が安堵か。
俺は迂闊にも伊達家への影響を考慮していなかった
ので、参考になったよ。
296人間七七四年:2007/11/24(土) 14:02:05 ID:Mphq1Joj
>>284
上杉の関東侵攻の際、氏康が小田原に篭らずに
決戦を挑んでいたらどうなったんだろうとよく思う

決戦を避けた判断が氏康が名将たる所以ではあるだろうけど
297人間七七四年:2007/11/24(土) 14:12:16 ID:6UsL2hw2
>>296
フルボッコにされて逃げたんでないの。圧倒的に数が違うし烏合の衆とは言え河越の時のような無能大将と違うし。
河越夜戦だって一夜で勝ったのは創作だったしね。
決戦を避けたからこその名将だと思う。
298人間七七四年:2007/11/24(土) 16:28:22 ID:eeQ1bmna
河越あんまり関係なくね?

一夜戦だったかどうかは怪しいけど河越が包囲されたまでは記録にあるし、
にもかかわらずその後どんどん関東が削られて行ってるのも史実だし。
いくらなんでもそのたった4〜5年で何百年も根付いていた管領上杉家が関東から追い出されてるとか
余程の大敗がなければありえない。

桶狭間が信長の後密な奇襲だったと言うのは創作にしてもその後の流れが変わらんのと同じ。
299人間七七四年:2007/11/24(土) 18:04:10 ID:dXC2HzmT
誰も川越が創作とは言ってないだろ。
ただ謙信軍数万相手に川越みたいには勝てないんじゃね?って話だろ。
300人間七七四年:2007/11/24(土) 21:27:34 ID:EMDX1DQ4
北条厨のお前らならわかるよな


戦国間違え探し:北条氏康「おのれ上杉政虎」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195881105/
301人間七七四年:2007/11/24(土) 21:57:43 ID:njF0v24D
>290
原氏は千葉一族。千葉氏は分家の勢力強い。
302人間七七四年:2007/11/24(土) 22:35:47 ID:6UsL2hw2
>>298
300さんが言ってる事を言ってるだけ。
『河越夜戦のように奇跡の逆転劇がある!!』とか言い出さないように釘刺しておいただけ。
一夜で大勝とか、んなもん暇な江戸の人が作った創作でそうに。
303人間七七四年:2007/11/25(日) 00:05:22 ID:V+utla5h
戦力を温存していたからこそ、反撃がスムーズに行えた一面もあるからなあ。
例え勝ったとしても、被害は目を覆うものになるだろうし。
304人間七七四年:2007/11/26(月) 00:51:30 ID:ard2Icqw
凡将なら目の前の勝利にだけ固執しただろうね。時勢から見ても敗れただろう。
あの状況下でふんばり、反撃した事が一番凄い事だろうね。
305人間七七四年:2007/11/26(月) 08:21:26 ID:wo4rE71A
ま、だから地味とか華がないとか言われるんだけどなw

それがいいのにww
306人間七七四年:2007/11/27(火) 18:34:23 ID:XWYGY11j
そういう糞戦略だから関東制覇にすらもたもたして秀吉軍によるタイムアップを迎えて終了したんだろ。
実際には関東諸将は日和見・面従腹背で戦場で集合して一緒に戦える程に士気が高くなかったんだろ。
だから謙信の小田原攻撃でも三増峠でも北条軍は決戦したくても毎回瓦解してるのは明白。
秀吉の小田原包囲では切羽詰って関東諸将を小田原に拉致ってたしな。
それで諸将からの北条への非難を重く見た氏直が徳川陣に出向いたんだよ。
謙信の場合は領土への干渉はないけど従軍し場合によっては先陣を受け持ったり犠牲が出る城攻めを
しなくちゃいけない。北条は篭城してればいいよってことで北条側に付いてるヘタレ諸将ばかりで
北条は大動員能力皆無で武田・上杉はおろか甲斐・信濃を巡っての徳川とも豊臣ともまったく決戦なんてできない。
307人間七七四年:2007/11/27(火) 19:19:08 ID:AlOT3Pee
こいつ、また湧いて出てきたか
308人間七七四年:2007/11/27(火) 20:08:30 ID:MpNXOKZF
>>307
事実は事実として認めるしかない。
その上で、そのへたれ北条にすら勝てなかったもっとへたれな関東諸将を語れば良い。
309人間七七四年:2007/11/27(火) 21:01:30 ID:iZYk9mhA
まあそれは一面の事実。
武田も島津も毛利も中小大名が離反し瓦解して織田や豊臣に負けた。
子飼いが大量離反した豊臣や、譜代から寝返りを出した幕末の徳川だってそう。

封建制の限界。
310人間七七四年:2007/11/27(火) 21:44:39 ID:21nfb9gI
神流川の戦いすら知らない無知が何をほざいても…
311人間七七四年:2007/11/27(火) 22:52:39 ID:MpNXOKZF
>>310
それ、江戸時代の創作だろうが。
312人間七七四年:2007/11/27(火) 23:42:01 ID:21nfb9gI
>>311
はぁ?
313人間七七四年:2007/11/27(火) 23:54:08 ID:jbMtnYHG
>>309
その分を読んで思ったのは、離反し瓦解してるハズが持ちこたえてさらに繁栄した謙信は・・・・異常だな。
ゴリラ集団の越後では景勝のようなまとめるので精一杯なのが普通なんだろな。っと、スレ違いか
314人間七七四年:2007/11/27(火) 23:59:53 ID:zK383UzJ
封建制だろうが官僚制だろうが
実権を持てば一緒だと思うんだが

三国志なんか、役人が地方の私服を肥やして…事実上の地方領主に
ってケースが多くない?
315人間七七四年:2007/11/28(水) 00:34:35 ID:4KjIE5fi
>>314
あの当時の中国とは社会の仕組みから情勢から全く違う。三国志オタは何でも三国志を例に出したがるが
それは事象の認識を間違えるだけだ。
316人間七七四年:2007/11/28(水) 00:35:31 ID:Lz7BaV66
>>314
そういう程度の低い話じゃないよ。
国民軍とそれ以前の軍隊の差。
317人間七七四年:2007/11/28(水) 01:00:53 ID:/eyDZvbV
>>313
ゴリラ軍団って、関東・甲斐に個人戦で劣る歩槍中心越後兵の事か。
318人間七七四年:2007/11/28(水) 08:34:32 ID:G04xVx3A
>>316
国民軍の時代こそ三国時代そのものだよ。
319人間七七四年:2007/11/28(水) 09:34:33 ID:joKdaQHG
>>313
それは上杉家自体が上り調子だったからだろ。
信長や秀吉、信玄や氏康も同様。

上杉は上杉攻めが行われる前に本能寺で助かってるから試金石がないだけ。
320人間七七四年:2007/11/28(水) 10:52:24 ID:mdcdqHwL
三国志みたいな社会制度も民情もほとんどわかってない講談丸出しの時代と比較すんなよ・・・
321人間七七四年:2007/11/28(水) 13:37:34 ID:tSuOYUhq
小田原城も観音寺城も堅牢な城だったんだけど、
長尾景虎が行った小田原城包囲は失敗で、
織田信長が行った観音寺城入城は成功しました。

同じような遠征だったんだけど結果が違います。
戦略・戦術の違いはあったんでしょうが戦って面白いですね。


322人間七七四年:2007/11/28(水) 13:58:14 ID:mdcdqHwL
準管領と呼ばれた名君の六角定頼が愚者の浅井久政を従属させ城下町を築き家臣を
観音寺城下に住まわせ権力を集中し楽市令で近江商人達を育成し足利義輝を助け三好長慶に対抗し六角氏全盛期を作り出す。
しかし子の六角義賢は暗愚で三好との抗争に負け後ろ盾になって支えていた将軍義輝は暗殺され世間の人望は六角氏から離れた。
さらに浅井長政に野良田の戦いに敗退し、その侵略に防戦するのがやっとなくらい衰退し、
ついには人望のあった重臣の後藤賢豊を惨殺し怒った家臣団に観音寺城から追放され六角氏は地に堕ちた。
いよいよ浅井氏の攻勢は強くなりついには六角定頼の業績を岐阜城でパクりまくった信長の侵攻に家臣団はロクに戦わず敗退滅亡となったのであり
わざわざ謙信を貶めようとくだらないカラクリをやるなよ織田厨www


323人間七七四年:2007/11/28(水) 15:26:10 ID:tSuOYUhq
>>322
全くそんな気は無いのですが・・・。
気に障ったらごめんなさい。
324人間七七四年:2007/11/28(水) 18:28:52 ID:G04xVx3A
>>321
越後さえ支配しきれていない状況下で三国峠を越えて遠征しただけでも凄い事であって、
小田原落とせと言うほうが無茶だよ。三国峠ってかなりやっかいな存在だよ。
2mとか3m雪とか降るし、山だと春でもまだ全然残ってるしね。

だから兵站とか連携とか情報の共有とか無理で越後と関東両方を維持しようとして
上杉は長尾に管領、守護を殺され潰されて、北条には関東でフルボッコにされて潰されたわけだしね。
325人間七七四年:2007/11/28(水) 21:54:40 ID:mdcdqHwL
>>324
知らない人の為に最後の文を解説
越後守護の上杉房能を殺し(1507)弟を殺された関東管領上杉顕定が越後に攻め入り
一度は長尾為景(謙信の父ね)を佐渡に追放したが(1509)捲土重来した為景はついに関東管領まで殺してしまう(1510)

ちなみにこれより前の1504年9月末には扇谷の河越城を巡り関東管領顕定(本拠地鉢形城)は立河原の戦い(立川市)で
扇谷上杉朝良と北条早雲と今川氏親(遠江の軍まで連れてきた)と決戦して敗退。
管領は甲斐守護武田信虎と弟の越後守護上杉房能に援軍要請していたが間に合わず。しかし敗退の報を聞いた房能は兄の危急に
急ぎ長尾能景(謙信の祖父ね)を急行させ一気に南下し11月に河越城総攻撃し弱体化させておいて
12月に八王子→平塚の諸城を落城させ相模守護代上田正忠を捕まえて小田原以西との連絡線を遮断し援軍派遣を難しくしておいて
翌年に河越城総攻撃し3月には扇谷上杉を降服に追い込む事に成功し越後へ帰る。
この扇谷の衰退が北条のさらなる相模侵略につながる。
ついには
326人間七七四年:2007/11/29(木) 00:04:26 ID:wMiaSGAG
ついには、何なんだよ?w
327人間七七四年:2007/12/09(日) 16:48:14 ID:7zg/2nnY
毛呂氏について聞きたいんだけど。
毛呂氏は、八王子城救援に行って玉砕したってのは、本当か?
328人間七七四年:2007/12/10(月) 15:59:25 ID:KOMhqDk0
北条スレって雑魚臭すげえ
329人間七七四年:2007/12/11(火) 17:59:05 ID:inmXsOMy
史実でも、上杉や武田に圧迫され、関東諸大名に裏切られ続けた雑魚大名だからな。
330人間七七四年:2007/12/11(火) 18:06:11 ID:L6ZXqILP
関東大名に裏切られ続けたのは上杉も一緒ですけどねぇ
最終的には北条に追い出されてしまいましたし
331人間七七四年:2007/12/11(火) 18:52:00 ID:y1kuE5LK
いえ謙信の死の瞬間まで越山の要望がたくさん来てましたが何か?
332人間七七四年:2007/12/11(火) 22:07:06 ID:gt8BQUWJ
最終的には秀吉に壮絶レイプされましたが何か?
333人間七七四年:2007/12/11(火) 23:15:03 ID:DMF9BnS+
その秀吉の豊臣家も最後には北条家臣団を大量に抱えた徳川に木っ端微塵にされたけどな。
334人間七七四年:2007/12/12(水) 07:48:15 ID:yG9JW09Z
その旧北条家臣は恩義を忘れ江戸で大盗賊団を作り全員打ち首にされたけどな
335人間七七四年:2007/12/12(水) 16:46:17 ID:MGAg20Zz
>>333
実際、北条の遺臣ってどれくらい登用されたの?
鉢形辺りには藤田氏邦の家臣たちは武器やら何やらを全部埋めて
ひたすら北条に仕えたことを隠さねばならなかったなんて話が残っているそうだけど。
336人間七七四年:2007/12/13(木) 08:22:34 ID:h53nMja7
>>335
謙信撤退後に北条に降った遺臣はそれなりに登用された模様。
もしくは、名目上独立を保っていた吉良とかな。

武将クラスはともかく、足軽レベルではだいぶ登用されたんでないかな。
小牧・長久手の時代より、関が原の時のほうが、明らかに徳川自体の動員兵力多いから。
337人間七七四年:2007/12/13(木) 09:14:30 ID:kkou7M3u
ソースなしの推測話しかよ
338人間七七四年:2007/12/13(木) 10:12:59 ID:mHrRydej
水戸藩付家老の中山備前は北条家の旧臣だったな
339人間七七四年:2007/12/13(木) 10:39:14 ID:sybQk0gP
ソース無しも何も、家康が関東移封に伴って元々北条配下だった連中を大量に召抱えたなんて、ほとんど常識的な
逸話だと思っていたが、そう言う知識の無い人間もいるのが驚きだ。
在地の国人連中の召抱えがなければ大混乱が起こるって事くらいわかるだろ?
佐々の肥後、山内の土佐の事を考えてみろよ?
340人間七七四年:2007/12/13(木) 11:44:01 ID:ky+bcoX1
むかし住んでたトコの近くには旧北条方の武士で北条滅亡後に逃げてきて帰農した人の碑があったそうです。
だいたい相模国と武蔵国の国境近くの相模側ですね…う〜ん玉縄城と笹下城の連絡線になる支城の関城の近くですね。
その人はその後は誰にも仕えずに毎日毎日、朝になると丘を登って小田原の方を眺めては合図があるか確認したそうです。
手を合わせて毎日、北条再興を願ってたんだけど夢は儚くついにその地で没したのを住民が憐れみ石碑をいつも小田原が見えるその丘に立てたそうです。
開発の波がきて今ある場所はまったく小田原が見えないトコに移動させられたそうで可哀相ですが。
341人間七七四年:2007/12/13(木) 20:05:40 ID:mPc+jZpu
八王子の千人同心は北条の遺臣じゃなかったのか
342人間七七四年:2007/12/13(木) 21:22:33 ID:LWylaDbM
>>339
別に召抱えたかどうかなんて問題にしてないよ。
召抱えたということは一例として関東入り後に井伊が小田原衆というのを召抱えているので俺も知ってる。
詳しい話がききたいというわけ。
それから鉢形辺りで北条旧臣が弾圧されたという伝承を同地の郷土史家が書いているが
弾圧があったとすればどういうものを対象にしたのか、或いはこの伝承自体根も葉もないことなのか、
>>341
中核は元武田の国境警備隊で後に北条の旧臣500人を加えたそうな。
343人間七七四年:2007/12/14(金) 01:38:30 ID:M0TCv5ZG
北条家って外様だったのか
せめて譜代にしてやってもよかったのでは・・・
344人間七七四年:2007/12/14(金) 18:23:37 ID:5XL8Jm0P
雑魚はそれで十分
345人間七七四年:2007/12/14(金) 19:05:25 ID:NrnEgUAm
時期的に見ても外様なのは仕方ないと思う
346人間七七四年:2007/12/14(金) 23:58:12 ID:27yNJDxq
武田はもっと雑魚。
347人間七七四年:2007/12/15(土) 00:57:58 ID:5LnaczPv
離縁したとはいえ氏直室は家康の娘・督姫だったわけだが、
ああまで抗戦しちゃったからね・・・
外様でも1万石でも存続できてありがたいというべきかも。
348人間七七四年:2007/12/15(土) 01:07:42 ID:fEdYO8xX
349人間七七四年:2007/12/15(土) 03:14:18 ID:os9gm7m2
>>347
離縁してないし

氏直が生存していれば伯耆をもらえる予定だったし
関ヶ原以降も因幡を加増してもらえただろうな

北条氏が鳥取32万石で存続していたらもう少し歴史は変わった
だろうな
350人間七七四年:2007/12/15(土) 03:30:21 ID:1b4tbSBK
>>349
その話に根拠ないだろ。江戸期のネタだろ。
351人間七七四年:2007/12/15(土) 04:35:01 ID:os9gm7m2
>>350
氏直が早死にしてなければ因幡池田家は存在してないわけだが
352人間七七四年:2007/12/15(土) 04:56:13 ID:CaHSc42d
氏直が関ヶ原まで生存していれば毛利への備えとして因幡伯耆の大名として所領はあっただろう
現にその役割を担ったのは鳥取池田家なんだが
353人間七七四年:2007/12/15(土) 13:46:19 ID:TWpXfGpX
北条のような野心の塊のような家を存続させるわけもなく。
血縁だからと言えば豊(ry
354人間七七四年:2007/12/15(土) 15:13:14 ID:JJOKtPi1
氏直が野心家かどうか判別するにはちょっと死ぬのが早すぎたなぁ・・・。

ただもしも氏直の子の氏次が実在したとすると、
曽祖父に武田信玄と今川義元と北条氏康をもった徳川家康の孫という
超良血サラブレッドになるので、ちょっと軽視は出来ない気はするな・・・。

確かに逆に危険かも。
355人間七七四年:2007/12/15(土) 15:27:58 ID:F1pMK7yx
関ヶ原後に家康は佐竹義久相手に常陸所領安堵するとか約束しておいて義久死亡で約束反故。
家康は相手の体調とかけっこうよく見てるよ。
氏直も虚弱だしどうせ死ぬだろーとか思ってリップサービスじゃないの?
けっこうこいつ死んだら事を起こすかとか先読みしてるっぽいよ。
356人間七七四年:2007/12/15(土) 16:22:31 ID:os9gm7m2
家康の督姫を特にかわいがっていたから
氏直と督姫の子なら自分の孫ならそれなりの優遇処置はあっただろう

現に氏直死去後に督姫が再婚した池田家に因幡伯耆の2国を与えているし
同じ池田家でも岡山池田家より家格は上だったからね
外様でも親藩扱いだったから

357北条:幻庵ってどお?:2007/12/15(土) 17:14:51 ID:WId43QpK
>>233さんへ
挨拶
加筆・訂正・意見レス丁寧に書いて戴き、誠に有難うございます。
遅くなってスミマセン!!
まず、1つ訂正させて下さい!!
(1).<<219
×上杉信じる派→○越相同盟積極派。根利道ルート。
×上杉疑心派→○越相同盟消極派。利根川ルート。
ちなみに…北条ルートとは「北条高広ルート」という意味です。

こうすれば、誤解を生まなかったのだが…、未熟でスミマセン!!

>>233さんへ
いよいよ本題!!
由良ルートについて2つ。
(1).<氏政は由良ルートにも介入していて…(中略)…
謙信をあまり信用していなかったのでしょう
へのレス
それは、永禄十二年(1569)8月26日付、氏政→由良成繁・国繁父子あて書状写「集古文書」ですよね?
氏政は何故こんな書状を書いたのか? 2つ考えられますよね?
・氏政の越相同盟ぶち壊し
・もしくは同盟不成立ならば、由良を味方に止めておこうとする策

その後に続けて氏政は…
「謙信に管領職と上州一国ならびに武州所々岩付まで譲ったのに、
勝手し放題しやがって、一体どこまで私を追いつめれば気が済むのか?…云々」
とグチってますよね?
358北条:幻庵ってどお?:2007/12/15(土) 17:18:45 ID:WId43QpK
(2).<ただ、由良は甲相同盟の時に面目をつぶされたと激怒し…云々
へのレス。
これは、元亀三年(1572)正月十五日付、氏政→由良成繁・国繁父子あて五ケ条の書状写「由良文書」ですよね?
この書状は、越相→甲相に大転回した時期の中で私は、
大変興味深いものと見ています。
一条目の「風邪で寝ていたから返事が遅れた」には、
思わず「ほんまかいな!!」とツッコミを…

閑話休題。まじめに…
特に2条目の「北条一門衆や家老に知らせたのも、
(甲相同盟が成立した)12月27日である」と解釈するならば、
氏政は合議にかけずに秘密裏で甲相同盟を自ら推し進めていたこととなります。

これは私見ですが…
氏政は、北条の伝統である合議制を無視したとも言えますし、
へたをすると家中の信頼低下を招きかねないのでは?

由良ルートが甲相同盟から外れていた理由は…
北条ルートの北条高広が甲相同盟を推し進めていたからだと思われます。
(私は、より広げて甲相越三国同盟を意図していたと見ています。
それを実証する高広の資料はないのですが…)

その理由2つ。
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。
今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。
(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」と書いていますし…

・同年同月17日付、跡部勝資→高広・景広父子あて書状の中では
「…(略)…後北条からの密使と内藤昌豊がこれから話し合う予定です。
まだ信玄や勝頼に知らせる状況ではないが、甲相同盟の話を着々と進めています。
だけどこれは甲相越の三国が認めない(これは甲相越三国同盟という意味なのか?)と成就しがたい…以下略」
と言っていますから…

昌豊の箕輪城と高広の厩橋城は目と鼻の先だし、
ちょうど信玄が織田・徳川と本格的に戦おうとしていた時期に当たりますから、あながち私一人の暴走ではないと存じます。
以上『群馬県史』通史編より編集。

三増峠の戦いの資料集めで忙しいので…
簗田のことは、しばらくお待ち下さい。

>>184さんへ
景勝のことも…くだんのごとし。

以上、些細なことでもいいからレスお願いします!!
恐々謹言。師走拾五日。
359人間七七四年:2007/12/15(土) 18:06:23 ID:k/MyaJT1
>>358
1571年12月といえば、北条高広は上杉に帰参した時だ。
謙信自身が関東にいる時でもある(翌年正月には武田方の上野石倉城制圧)
そんな時に武田から昵懇の書状をもらうとは・・・
360人間七七四年:2007/12/16(日) 22:35:45 ID:jhvA1YJ5
>>357
レスありがとうございます。
沼田市史では北条形式、由良実務で分けていますね。
あれから調べましたが、氏政→由良父子の時期はちょうど越相同盟に応じて
謙信が沼田に入るも何もしなかったという時期と同じです。
北条が色々譲歩したのも謙信の出兵を求めてのことですが、
結局謙信は動こうとしなかったので、由良、氏政は不信感を抱いたんでしょう。
市村氏論文は問題有りと思われて色々調べてみたんですが、北条やこのスレの質問からも離れる部分が多いので
越相同盟について
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50
に書きます。

三国同盟はわかりませんが第二次甲越和与については信長の仲介により交渉進んでいました。
自分もあんまり詰めていないのですが、元亀年間の信長と信玄、謙信間の書状を調べれば
もっと詳しいところがわかるのではないかと思います。
361人間七七四年:2007/12/21(金) 12:06:22 ID:paajVjlh
雑魚大名スレ
362人間七七四年:2007/12/21(金) 18:15:57 ID:31T+xqVb
まあまあ、誰もが分かっている事なんだからあえて言う必要はないよ
363人間七七四年:2007/12/22(土) 12:56:22 ID:86s6B/mm
こいつら馬鹿?それとも創価?
恨みでもあるのか、
わざと四代会長の実家をを馬鹿にして池田先生を持ち上げてるのか?
364人間七七四年:2007/12/22(土) 18:09:59 ID:yE3kepvu
後北条家は1591年に最後の当主が亡くなっています。
それ以降のことは一切このスレの管轄外ですので、どうぞご遠慮下さい。
365人間七七四年:2007/12/23(日) 15:20:04 ID:XqXjdXJz
御祈念

1 打倒仏敵4人組
  (日顕、山友、竹入、新潮社)
2 先生、奥様の
  御健康、ご長寿
3 無冠の友の無事故
4 広布拡大1000万大勝利!
http://shinano-machi.tripod.com/shouri.jpg
366人間七七四年:2007/12/23(日) 15:58:40 ID:RHgPIWw+
定期的に気持ち悪いのが来るな。こんな所でそうかそうか騒いでも「こんなキチガイに粘着されてるそうかも可哀想に」って
逆効果になるだけだと思うが。
367-:2007/12/23(日) 17:21:27 ID:AH19I6Ld
小田原城に北条家関連の遺品って多いのかな?
368人間七七四年:2007/12/24(月) 09:43:03 ID:/Km1srL9
中公文庫「日本の歴史」の戦国時代の巻に、北条氏の一門衆として北条幻庵のほかに、
「六郷殿、小机殿、伊勢備中守殿、伊勢兵庫頭殿、大和兵部大輔殿」とあったのだが、
伊勢氏とか大和氏というのはわざわざ京都から連れてきたのか?
369人間七七四年:2007/12/25(火) 01:08:39 ID:GqWXB6RK
中公文庫「日本の歴史」の戦国時代の巻(笑)
370北条幻庵ってどお?:2007/12/25(火) 10:50:58 ID:aIJ+GotR BE:712621038-2BP(0)
>>359さんへ
北条高広は…
上杉家臣というよりも…
「厩橋領の領主を優先させた」とみなした方が良いのかも…
371人間七七四年:2007/12/26(水) 22:11:08 ID:JJ8U8v/h
アフリカ9ヶ国大使が池田SGI会長に感謝状
池田博士と創価学会は文化と教育で民衆を結んだ
「私どもは皆、感謝の気持ちでいっぱいです。
駐日アフリカ大使団一同、会長の今までのご功績を賞賛しております」 サー大使
372人間七七四年:2007/12/27(木) 04:45:27 ID:PUZCRqr8
>>348
葬列の少なさが狭山北条っぽいなw

ttp://elib.doshisha.ac.jp/japanese/digital/yosyo.html
Drawings for "sketches of Japanese manners and customs" / J.M.W. Silver
"Sketches of Japanese manners and customs" published: London : Day and Son, 1867 [vol. 1]
373人間七七四年:2007/12/27(木) 10:57:21 ID:PWmYqUGz
精神の師匠・池田氏による最高水準の「対話の結晶」
英語版「池田大作対談選集」
第一回配本「トインビー対談とユイグ対談」発刊開始
374人間七七四年:2007/12/27(木) 18:29:12 ID:PWmYqUGz
ノーベル平和賞受賞者から祝電
池田博士は言行一致で人類のための偉業を推進
「全人類の希望である、より公正で友愛に満ちた世界を構築するための闘争に捧げられた
80年の人生に最大の敬意を表します」 エスキベル博士   
375人間七七四年:2007/12/27(木) 18:34:10 ID:gSNpiqwm
定期的に頭のおかしいのがやってくるなあこのスレ。
376人間七七四年:2007/12/27(木) 18:40:37 ID:PqRGi8Ww
氏規が家なんて残さなければ良かったのに・・・
377人間七七四年:2007/12/27(木) 20:54:24 ID:PUZCRqr8
氏次に家督奉還すべきだったよね
378人間七七四年:2007/12/28(金) 01:49:28 ID:i6dtZqq+
氏規がというより幕末で掘田の倅に血筋は移ったからな。
氏燕がよりにもよって全く縁のない(しかも婿養子ににも
していないっぽい)氏恭を養子にしたからなあ・・・。
しかもその氏恭は男系では伊達政宗の子孫だしね。

>>377
氏次は実在すら怪しいしなあ・・・。
彼の子孫という幕末の「桑島孟」なる人物も全く分からん人だし。
幕末の人物辞典にも出てこないし
379人間七七四年:2007/12/28(金) 02:16:00 ID:uMp/EYxe
>>377
だから「家」を残さなきゃ良かったと言ってるんだよ。
380人間七七四年:2007/12/28(金) 17:15:09 ID:5+DJGwAP
アメリカ・カルフォルニア州サンディエゴ市から池田SGI夫妻に特別顕彰
世界の指導者との対話を通して平和的な交流を絶え間なく推進
「世界の指導者との対話を通して、平和的な交流を、絶え間なく推進してこられた
博士の尽力に対して、最大に感謝申し上げたい」 ジェリー・サンダース市長
381人間七七四年:2007/12/28(金) 17:19:40 ID:5+DJGwAP
池田名誉会長の随想・箴言を収録
新婦人抄「こころに響く言葉」明年一月、主婦の友社から発刊
「女性の希望の声が響けば平和の太陽は消えない(序文から)」
耳を傾けたい珠玉の言葉がここに―。
382人間七七四年:2007/12/28(金) 17:22:31 ID:uQzEldxs
379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/12/28(金) 02:16:00 ID:uMp/EYxe
>>377
だから「家」を残さなきゃ良かったと言ってるんだよ。

380 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん


381 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん


NG機能って便利だな。
383人間七七四年:2007/12/28(金) 23:40:17 ID:itHm1mt6
>>378
まぁ氏次は怪しいな・・・。氏次がもしも本当にいたのなら、
曽祖父に武田信玄と北条氏康を持った神君家康公の孫であり、
関東の元盟主北条家の直系と言う事になるので、
堂々と名乗ったならば誰も無碍に扱えない。

丁度甲陽軍艦と北条五代記が作成された時期だし、
世間的にも英雄扱いされるだろう、
もしも実在したならはっきり言って東北でコソコソ生きてる理由無い。
384人間七七四年:2007/12/29(土) 01:45:16 ID:WGk67soy
>>383
だよね。たしか北条氏直と督姫の娘は早死にしたとはいえ、
池田利隆と婚約した(嫁いだ?)からね。
もし仮に本当に北条の縁者だとしても、一族の誰かの倅か、
側室の子じゃないか?

ときに、氏政の子って結構人数いたけど、そいつらはどうなった?
385人間七七四年:2007/12/29(土) 03:01:08 ID:R79SgDNl
長男: 某:夭折(通常数えられず、氏政の子は七男とされる)
次男:氏直:1591年に病死
三男:源五郎:太田氏資の女婿で太田氏を継ぐ。1582年に死去
四男:氏房:兄の死後、兄の嫁を娶り太田氏を継ぐ。兄の没後、寺沢広高預かりとなり1592年に肥後で死去
五男:直重:氏照養子だが、千葉子の遺児を娶り千葉氏を継承。蜂須賀氏の家臣になり、1627年死去
六男:直定:氏邦養子。紀伊徳川家家臣。没年不明
七男:釆女:氏照養子。没年不明
八男:勝千代:1590年生まれ。没年不明

長女:芳桂院:千葉邦胤室、1580年死去
次女:鶴姫・龍寿院殿:里見義頼室、1579年死去
三女:? :庭田茂定室

養女:皆川広照室、実父中御門宣綱
養女:小山綱秀室
386人間七七四年:2007/12/29(土) 05:20:00 ID:4oqncvSg
やっぱり仙台藩によって創られた不発弾なのかねえ氏次は
387人間七七四年:2007/12/29(土) 08:22:40 ID:5SAw6/7b
四賢侯を輩出した伊達の血、名宰相を輩出した堀田の血をもっても北条のカス遺伝子を修正できなかった
388人間七七四年:2007/12/29(土) 13:27:33 ID:4oqncvSg
遺伝子を修正も何も氏恭は北条家の血は一滴も入ってないぞ
財政破綻寸前だったので幕府に泣きついて幕閣末流を送り込んでもらっただけ
幕府や仙台藩が倒れたところで早々に知藩事の職を返上しちゃったし
300諸侯1番乗りの栄誉ですよコレ
389人間七七四年:2007/12/29(土) 16:49:47 ID:thx93Icf
「池田SGI会長は正義の王者」
米国ダラスの郡地方裁判所から顕彰状
11月2日、米テキサス州ダラス郡の地方裁判所とテキサス少年保護観察委員会から
池田SGI会長に「神聖な正義のチャンピョン賞」が贈られた
顕彰状には「池田氏は、社会は構造の変革ではなく、
一個の人間生命の変革こそが、恒久平和と幸福の鍵を握るとの確信で、
世界の1500人以上のリーダーと対話してこられました」と記されている
正義の王者−SGI会長への賛嘆の声は全米に広がっている
390人間七七四年:2007/12/29(土) 16:57:22 ID:thx93Icf
香港中文大学饒宗頤終身主任教授・池田会長の誕生日を祝い「書」とメッセージ
池田SGI会長の80歳の誕生日(明年1月2日)を寿ぐ、海外識者からの祝電が相次ぎ寄せられている
「池田先生は、黄金の如き光明をもって、世界に平和を、万人に幸せをもらたしてきたがゆえに、
まさに、仏の如き無量寿を得られた方です」 饒宗頤
391人間七七四年:2007/12/29(土) 18:48:23 ID:SUVeQ9Sn
ゆきおちゃ〜〜ん、聖教新聞が来たわよ〜〜
(元ネタ分かるよな>>390
392人間七七四年:2007/12/29(土) 22:13:43 ID:cC/91KXr
北條どうすんだよ。兄弟弟子池田先生、80歳の人生大勝利へ!
1 :大家:2007/12/29(土) 20:33:48 ID:u8OS/rnz0
偉大なる世界最高指導者たる池田日本国主陛下は、来月2日に80歳の御生誕をお迎えになられる。

反人間革命勢力の期待に反し、池田日本国主陛下は人生の大勝利を突き進んでいる。

日本と世界をこれからも動かし、百歳の御生誕をお迎えになられるように、世界の人々は心から願い、御生誕を祝う準備をしている。
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1198928028/
393人間七七四年:2007/12/30(日) 20:36:30 ID:E5YbbqSg
後北条氏の現当主は、やはり今でも草加の関係者なのか?
394人間七七四年:2007/12/30(日) 23:44:11 ID:rvfFouPR
>>389-393
草加板いけカス
395人間七七四年:2007/12/30(日) 23:50:44 ID:g66U4Tzk
396人間七七四年:2007/12/31(月) 20:28:31 ID:iNoEd2Do
相模の獅子
397人間七七四年:2008/01/04(金) 17:21:00 ID:MVN8uRRh
創価学会創立78周年
師弟の栄光は燦たり!
池田SGI会長の誕生日を世界が慶祝
ブッシュ米大統領から祝電
「親愛なるミスター池田!
80歳の御誕生日、おめでとうございます!
妻ローラと私は、この貴殿にとっての特別の日が、御一家と御友人の友愛、
そして喜びにあふれた日でありますことを願っております。
私たちは、貴殿の末永きご健康と御多幸をお祈り申し上げております。」
398人間七七四年:2008/01/04(金) 17:27:23 ID:MVN8uRRh
中国の唐家璇国務委員からの祝電
「先生の80歳の御誕生日を迎えるにあたり、謹んで心から祝福を申し上げます。
先生は長期にわたって、中日友好のために尽力され、中日関係の回復と発展のために
重要な貢献をなしてこられました。
今後とも、引き続き中日友好について、御関心と御支持を賜りますことを期待するとともに、
この偉大の事業の持続的な発展のために、新たな貴重な貢献をされんことを願っております。」
399人間七七四年:2008/01/04(金) 17:33:24 ID:MVN8uRRh
ブラジルアメリカ・盛大に祝賀顕彰
池田SGI会長の80歳の誕生日を祝賀し、世界各国の都市や団体から顕彰が寄せられている
南米ブラジルでは1月2日、池田SGI会長にパラナ州議会から顕彰状
同州のロンドリーナ市議会から顕彰プレートが贈られた。
米カルフォルニア州のオークランド市から、本年1月2日を
「平和の大使 池田大作博士の日」
とする顕彰状が贈られた。
「教育・文化交流を通し、平和建設と人権擁護のために障害を賭して献身してこられました」
と、SGI会長を賛嘆している。
400人間七七四年:2008/01/04(金) 17:39:33 ID:MVN8uRRh
名誉会長
全同志に和歌と句贈る

誕生日 功徳に囲まれ 創価城 栄え光らむ 広布の陣列

あな楽し 生死不二なる 創価かな

元朝に 共に祈らむ 世界一

勝ち戦 栄光燦たり 師弟かな
   
401たられば君:2008/01/04(金) 20:01:30 ID:rl29DK21
創価の北条なんて早雲や氏直・氏勝の子孫じゃないし。
後北条氏は法華宗ですらないよね。

なんとかのひとつ覚えみたいで見ているこっちが恥ずかしいしつまんないから
創価ネタは他板でやったら?
402人間七七四年:2008/01/04(金) 20:39:43 ID:0h11HUrg
北条の なれの果てたる 創価かな
403人間七七四年:2008/01/04(金) 21:05:18 ID:jt2xnrBD
【創価】池田犬作の誕生日にブッシュが祝電
404人間七七四年:2008/01/04(金) 21:55:20 ID:0h11HUrg
北条の いしんが賑わす そうかかな 伊勢のくろうも この比に非ず
405人間七七四年:2008/01/05(土) 15:44:55 ID:LuRH2tGg
世界の英知が賛嘆
モスクワ大学サドーヴニチィ総長、池田SGI会長に「1・2」の祝辞
「会長の人生は勝利の金字塔」
SGI会長の誕生日を記念し、ロシアの名門モスクワ大学のサドーヴニチィ総長から
祝福のメッセージと、同大学創立250周年を記念したレリーフが寄せられた。
また、ロシア全土にネットワークを広げる「ロシア女性連盟」から、
香峯子夫人に、外国人初の顕彰メダルが贈られた。
406人間七七四年:2008/01/05(土) 15:48:07 ID:LuRH2tGg
中日友好会・宋健会長からメッセージ
「貴殿を中国各界の人民が敬服」
407人間七七四年:2008/01/06(日) 18:12:13 ID:RCOzORHd
創立470周年を誇る中米・ドミニカ共和国の名門
国立サントドミンゴ自治大学・池田SGI会長を名誉博士に
大学教授会が満場一致で決議
平和・向上・社会正義を体現した最良の模範
ロベルト・レイナ総長からの決定通知書には、
「教育・文化における世界的な偉業を通して、
社会の繁栄と世界平和に貢献される池田博士を賞賛したい」と記されている
名誉教授称号とともに名誉博士号を授与されるのは、SGI会長が東洋人で初めて。
レイナ総長は語る
「わが大学の使命は、『平和』『向上』『社会正義』の理念を、世界に広めることにあります。
池田博士は、その最良の模範です。なぜなら、博士は、わが大学の創立者が呼びかけた
『生命の尊厳』『民衆の権利』、そして『さまざまな文化との平和的共存』等の建学の精神を
自らの行動で体現されているからです!」
408人間七七四年:2008/01/06(日) 18:14:55 ID:RCOzORHd
キッシンジャー博士が1・2を祝福
アメリカ元国務長官でノーベル平和賞受賞者のヘンリー・A・キッシンジャー博士から。
池田SGI会長の傘寿の誕生日である「1月2日」を慶祝するメッセージが寄せられた。
409人間七七四年:2008/01/06(日) 18:20:15 ID:RCOzORHd
音楽家・王明君氏から名誉会長の献呈曲「ああ!路」
中国・上海出身の著名な音楽家の王明君氏から、池田名誉会長の80歳の誕生日を祝し、
献呈曲「路啊!路(ああ!路)」が届けられた
「池田先生は、80年にわたり正義のために戦ってこられました。この人生の『路』を讃えさせていただくとともに、暗闇に輝く星のように、
これからも末永く、大勢の人を正しい『路』へ導いていただきたいと願い、作曲しました」
410人間七七四年:2008/01/06(日) 19:58:31 ID:YEN5jhyO
何だ(笑)…ここは何時から創価スレになったんだ!?
411人間七七四年:2008/01/06(日) 20:43:17 ID:jLzLJQV5
北条信者=創価信者

似てるから問題ないだろ
412奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2008/01/06(日) 21:34:33 ID:bnEUtUvT
ぶっちゃけ何とかのひとつ覚えそのものだな。
413人間七七四年:2008/01/06(日) 22:04:55 ID:M8NYfVjZ
つーか既に4代北条浩5代秋谷栄之助体制は学会内部で糾弾対象になってる

7月31日付『聖教新聞』青年部座談会「後半戦も異体同心の大前進を」より
谷川 厳しいことを言うようだけれども、学会にあっても、4代、5代は悪口罵詈されていない。難も受けていない。全部、ただ池田先生お一人に受け切っていただいてきた。
佐藤 その通りだ! 誰もがそう思っている。
原田 4代も、5代も、6代も、全く難がない。何一つ批判されたこともない。もう一歩深く、師匠をお守りする責務を果たす戦いをすべきだった! 本当に申し訳ない。
谷川 4代は、あの極悪のペテン師・山崎正友に騙されてしまった。お金を騙し取られたり……とんでもなかった。これは当時の執行部も同罪です。後輩として、将来のために明快に言っておきたい。
原田 全く、その通りだ。5代も本来、池田先生をお守りすべき立場であるにもかかわらず、すべて池田先生に護っていただいた26年間であった。先生お一人で矢面に立ってくださった。
谷川 本当に、そうですね。池田先生の計り知れない大恩を思えば、皆、これから一生涯、命を賭して師匠に御恩返しをしていくべきだ。そうでなければ、畜生と同じだ。卑怯者だ。
竹内 そうしなければ、後輩から笑われ、後世に厳しい非難を受けていくだけだ。
原田 そうだ。私自身、心して池田先生への報恩の道を貫き通していく決心である。これが全会員に対する感謝であり、これが、広宣流布の原動力であるからだ〉
414人間七七四年:2008/01/06(日) 22:09:31 ID:LmC8ZDRR
ここから流れをぶった斬りますが、
北条家に魅力や興味を持ったところは何ですか〜?
別にひとつだけではなくてもいいですよ。


415奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2008/01/06(日) 22:11:04 ID:bnEUtUvT
伊勢氏との繋がりの虚実。
416人間七七四年:2008/01/06(日) 22:18:03 ID:M8NYfVjZ
小田原北条氏が大河にならないのはこのせいかもしんないw
ちなみに4代会長在任中に「若き日の北條早雲」というTVドラマがあった
417人間七七四年:2008/01/06(日) 22:35:42 ID:+b1IcKtZ
>>414
埼玉の土着民だが、戦国時代に近隣を支配した戦国大名だから興味を持った、氏綱の代には北条領内。
そういう意味では、扇谷上杉も好きだけどな。
418人間七七四年:2008/01/07(月) 02:15:35 ID:EbAJMWN0
>>414
滝山城の対岸の市で生まれ育ったから。

厨房の頃、新田次郎「武田信玄」の滝山城攻めの章で
自分が幼い頃から遊んでいた寺社の境内に
信玄が本陣をしいたことを知り、
「信玄がわざわざ攻めに来たんだー」と厨房的に感心し
ますます氏照に興味をもった。
419人間七七四年:2008/01/07(月) 02:38:16 ID:F09in8C+
>>414
自分も地元が元北条領だったので、まず興味を持った。
で、ちょっとネット検索で調べたら、地元の村の百姓宛に
北条の者がもしも不正を行って怖くて捕まえられないようなら
目安箱へ訴え出よという氏康の印判状が出ていて
ますます興味をひかれた。
420人間七七四年:2008/01/07(月) 08:25:45 ID:xJxJ0U0i
層化の話はやめてくれ。気持ち悪いから。
層化じゃなくても北条好きな人間はたくさんいるんだよ(多分w)
421人間七七四年:2008/01/07(月) 12:01:19 ID:QVDg+O4W
>>327
毛呂氏は鎌倉時代信頼しあった頼朝の死後の重臣の内紛(比企の事件?)が嫌で
自ら田舎に手を引いた先祖の一族なものだから
山内×扇ガ谷上杉の内戦ですり減らしたのが性格的にたまらんかったのだろう。
そんな時代に北条が頭角だしてくれたからいち早く離れちゃったし
(というか好戦的でないので北条の引きに大人しく従ったのかもしれない)
しかも離反に怒った両上杉総出でに城囲われもう戦だって時に「和議」に
収めてくれたから北条氏綱には頭があがらなかった。
永享の乱オタなので以降はよく分からんが上レス読んでみると
氏綱のはじめに戦を避ける所とか曾孫の憲政より管領山内らしい賢さに感じなくもなし
憲実の時代の因縁を自分に映せばこういう形で上杉を出た手前裏切れないと思ったかもなし
実際八王子に出陣したのは若いの残して高齢の古い家臣のじいさんとかだったようで、
八王子はみんな決死の玉砕だっただったみたいです 町資料にはたしか
篭城勢の戦いっぷりに豊臣勢が感心し助けるべく交渉しにいったら自害してたとか

街道上道領地の、日和見的な七党等とはまた色の違う毛呂氏は
北条と形勢を確信的に変える上杉にとって手放しては痛い重臣と思うのだが
マイナーで誰も語らない

>>414 うちの菩提寺が縁の城址の寺でよく法事の度に和尚さんに聞いてたので
422人間七七四年:2008/01/07(月) 17:28:15 ID:mlb0PSJl
池田博士に世界が感謝
ブラジル・パラナ州とロンドリーナ市から顕彰
南米ブラジルのパラナ州議会と同州ロンドリーナ市議会の顕彰授与は2日(現地時間)、
北パラナ文化会館で盛大に。
「ブラジル全国都市連合協会」のガルシア会長が、来賓を代表して祝辞を。
「地球上に、これほどまでに友情の連帯を広げてこられた池田博士に感謝を申し上げたい!
世界平和のために生まれてこられた平和の使者である博士のお誕生日を、心よりお祝いします」
カトウ州議は、
「世界市民である池田博士の誕生日を祝賀できることは最高の栄誉です」とし
「博士は、私たちに真の生命の道、究極の幸福の大道を示される師匠です」
と讃えた
ロンドリーナ市長代理のジアス副市長は語った。
「池田博士は、人間主義の文化と教育を推進し、平和の価値にねざした新社会の建設を目指しています。
1月2日は、世界をより良くしようとする全ての市民の決意を刻む日なのです。」
423人間七七四年:2008/01/07(月) 17:34:19 ID:mlb0PSJl
アメリカ・カルフォルニア州オークランド市「平和の大使・池田博士の日」を宣言
宣言書は
「池田博士は平和建設と人権擁護のために生涯を賭して献身してこられた」と賞讃。
また、25年にわたって重ねる平和提言や情熱的な国連支援など、地球的問題群に取り組む
SGI会長の人道主義の行動を深く賛嘆
424たられば君:2008/01/07(月) 20:29:11 ID:gQrX0gHt
>>414
統治体制が特徴的だから
425人間七七四年:2008/01/07(月) 22:32:05 ID:aZ6ss8J0
関東人だから。
426人間七七四年:2008/01/08(火) 16:43:53 ID:osWCUdni
インドで池田大作讃歌
ラダクリシュナン博士の作詞
「私たちは偉大な師に出会えた」
池田SIG会長の傘寿の「1月2日」を寿ぐ催しが2日、インドで相次ぎ開催された。
南部ケララ州の州都ティルバナンタプラムでは、インド国立ガンジー記念会館前会長の
ラダクリシュナン博士が作詞した慶祝曲の発表会をはじめ
「ガンジー・キング・イケダ 平和建設の遺産」展が開幕
427人間七七四年:2008/01/08(火) 16:46:34 ID:osWCUdni
インド創価池田女子大学が宣言
「1・2」世界調和の日
チェンナイの創価池田女子大学では、「1・2」を「イケディアン・世界調和の日」
とする式典が開催された
428人間七七四年:2008/01/08(火) 20:48:20 ID:QtXlUpG0
>>414 初めに戦国系にはまったのは某恋愛小説でした。その後田舎に行ったら
本箱に後北条家の本があり(資料集みたいなものだったかな?)それ以来なぜか
好きで(一番は家族仲がよかったっていうところ)最近小説や風林火山などを
みてますます好きになった。家紋も大好き。つい小田原城にいったとき年を考えずに
記念メダルを買ってきちゃった。
429人間七七四年:2008/01/08(火) 21:06:47 ID:tp+s8EKr
炎の蜃気楼
430人間七七四年:2008/01/08(火) 21:17:51 ID:Xh4PFU5G
北条スキー&創価な俺には辛いスレだな
431人間七七四年:2008/01/08(火) 21:25:51 ID:G4JMI7Od
倉本由布かもよ
北条関係無いけど
432人間七七四年:2008/01/09(水) 03:27:14 ID:tDTSTGMo
つうか戦国時代に創価は無いから創価板に帰れ
433人間七七四年:2008/01/09(水) 03:54:14 ID:WM9sOzHs
草加信者は来ないでください。
スレが荒れる原因になります。
434人間七七四年:2008/01/09(水) 17:18:03 ID:w/hX6fl6
ニューヨークで1・2祝賀演奏会
一流の音楽家が共演・東部方面の代表1500人が参加
「SGI会長の民衆へのご尽力は世界一!!」
池田SGI会長の80歳の誕生日を祝賀するコンサート「サウンズ・オブ・ジョイ(歓喜の調べ)」が
昨年12月29日(現地時間)、ニューヨーク市内で盛大の開催された。
コンサートに家族とともに参加したチョウドリ前国連事務次官は、コーラス開始前に祝辞を。
「世界が精神的な人物を渇望しているときに、稀有な人物は現れる。
SGI会長は、まさにその稀有な方であり、愛する民衆への会長のご尽力は世界一である」と述べた。
435人間七七四年:2008/01/09(水) 22:31:26 ID:13Xp1qWE
池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の80歳の誕生日を祝賀するコンサート
「サウンズ・オブ・ジョイ(歓喜の調べ)」が昨年12月29日(現地時間)、ニューヨーク市内で盛大に開催された。

これには、ベース奏者のバスター・ウィリアムス氏やトランペット奏者のシュンゾウ・オオノ氏ら、
世界的に活躍するアメリカSGIの芸術部の友や、フロリダをはじめ、
同国内の交響楽団に所属する著名な指揮者、演奏家らが出演。
1500人の聴衆とともにSGI会長の誕生日を“歓喜の音色”で寿いだ。
コンサートは、クラシック、ジャズ、コーラスの3部構成。

日本語で「滝の詩」のコーラスが披露されると、会場からは割れんばかりの拍手が。
また、出演者全員でSGI会長へのバースデーソングを大合唱。情熱と喜びに満ちたステージとなった。

コンサートに家族とともに参加した、チョウドリ前国連事務次長は、コーラス開始前に祝辞を。
“世界が精神的な人物を渇望しているときに、稀有な人物は現れる。
SGI会長は、まさにその稀有な方であり、愛する民衆への会長のご尽力は世界一である”と述べた。

さらにSGI会長が毎年、平和提言を発信していることに言及。
国連と「平和の文化」への貢献を讃えるとともに、「国連で世界に対し、ぜひ講演を!」と念願した。

聖教新聞
http://www.seikyonet.jp/sg/Satellite?c=Page&cid=1161803072646&p=1161803072646&pagename=sp%2FLayout&pid=1199839354716&subparam=0


436人間七七四年:2008/01/10(木) 01:34:00 ID:mI+vMXm6
そうか
437人間七七四年:2008/01/15(火) 19:01:26 ID:p/NJxXRO
スレが荒れる原因は創価信者じゃなくてアンチ創価だろ
438人間七七四年:2008/01/15(火) 19:07:26 ID:LQ8CQ3t/
ガチ信者が宗門二股掛けだった伊達末裔一族の謗法を口撃してるんだよきっと
439人間七七四年:2008/01/15(火) 21:36:14 ID:eg0JpCMs
ここまでNGワードの恩恵に預かることになろうとは思ってなかったぜ
440人間七七四年:2008/01/19(土) 18:20:36 ID:uiUA7D+y
24にはまだ早いのが惜しいところだ。
441人間七七四年:2008/01/19(土) 21:36:56 ID:bAi28Qes
442人間七七四年:2008/01/31(木) 01:35:03 ID:YncIluSN
>>414
遅レスだが、自分の家系が相模衆十四家中の某家の
家来筋だったもんで。。
物心付いた頃からの後北條フリークです。
443人間七七四年:2008/01/31(木) 09:27:28 ID:Z9s4Z+Om
414です。
みなさん、ご意見ありがdd!

言いだしっぺの私が北条家に興味を持ったのは、
小学校の社会の資料集の中にある戦国時代の勢力範囲図を見てからかな?

氏康、氏政、氏直と氏ばかり書いてあって不思議だったから。
今川氏真も含めてね(笑



ところで織田信長や徳川家康は一向一揆に苦しんでいましたが、
北条家はどんな塩梅だったんでしょうか?
関東地方や甲信地方にも浄土真宗は信仰されていたよね。


444人間七七四年:2008/01/31(木) 09:40:20 ID:Z9s4Z+Om
443に追加
北条家だけではなく今川家や武田家、斎藤家も何かあったら知りたいです。


445人間七七四年:2008/01/31(木) 10:43:06 ID:Urr1Zl+C
港があり移民を受け入れていた国は一向一揆が多かった。それだけの事。
446人間七七四年:2008/01/31(木) 14:32:18 ID:H0XacUdd
弾圧とまではいかない物の、
宗教が政治に口出すのは嫌がっていた模様

だのに…、いやこれ以上は口にすまい
447人間七七四年:2008/02/01(金) 08:40:10 ID:NaOENupu
>>443
創価相手に一向一揆は起きません
448大河ドラマ 武田信玄より1:2008/02/01(金) 08:42:20 ID:vKMTclWf
氏康「篭城するには何日分のモノを用意させたか?」
氏政「仰せの通り。およそ3月分用意させてござりまする。」
氏康「それでよし。」
氏政「されど大御所。氏政少々心配にござりまする。」
氏康「戦に心配は付き物じゃ。」
氏政「そうではござりませぬ。果たして3月分で足りましょうや?
   長尾景虎は越後勢だけではなく、安房、常陸をはじめ関東の武将多く従えておりまする。
   城囲みて半年に及ぶようなことあれば一大事にござりまする。」
氏康「半年分集めれば、一年分欲しくなるモノじゃ。」
氏政「念には念を入れよと、常々仰せではござりませぬか!」
氏康「此度の戦では、念には念を入れねばならんのはこの城の工事じゃ。それさえ
    終われば備え万全じゃ。」
氏政「守るは攻めずに勝てずと申しまする。」
氏康「攻めるは守るに勝てずとも言う。守り万全なら攻められぬ。」
氏政「………。」
氏康「戦の極意とは……何もせずに勝つことじゃ。(ニヤリ)」
449大河ドラマ 武田信玄より2:2008/02/01(金) 08:47:51 ID:vKMTclWf
氏政「父上!」
氏康「おぅ氏政。どうじゃ。敵に攻めかけてくる気配あるか?」
氏政「既に攻めかけておりまする。」
氏康「ほぅ……どこか破られたか?」
氏政「そのような暢気なこと仰せにならず、城を囲みし敵の数をご覧下さいませ。
   一万二万ではききませぬ。」
氏康「ようわかっておる。そういきり立つでない…」
氏政「いきりたたずにいられましょうや!」
氏康「そのような大きな声だすな……。」
氏政「まずはお指し図願いまする。」
氏康「……んんっ。…………放っておけ。」
松田憲秀「大御所様。」
氏康「んんっ?」
松田憲秀「それがしのばんでござりまするが……。」
氏康「んんっ?んっそうか……そうであったか……。」
松田憲秀「はい……。」
氏政「このようなときに鎧も召されず、碁など打つとは不謹慎にござリまする。
   松田!」
松田憲秀「はっ。」
氏政「そちが相手をするから、いかんのじゃ!控えよ!」
松田憲秀「申し訳ござりませぬ。」
氏康「氏政。」
450大河ドラマ 武田信玄より3:2008/02/01(金) 08:48:47 ID:vKMTclWf
氏政「はよう、おげちを!」
氏康「少し落ち着け……。敵など放っておけばよいのじゃ……この小田原城……もはや
    工事終わり万全じゃ……敵がどのようなことしてもあの空堀、水堀は越えられぬ。」
氏政「されど!」
氏康「よいか……中に入れぬ敵と戦うは愚かじゃ。中から油断なく見ておればよいのじゃ。
   さすれば……攻める手だてないのに気づき、やがて去るであろう……。」
氏政「それでは北条の面目立ちませぬ!城に籠もりて怯えておったと物笑いの種になりまする!」
氏康「氏政。」
氏政「はっ。」
氏康「長尾景虎は七千の兵を従え北の海から出てきておるのじゃ。しかも国を出たのは去年の秋ぞ。
   いかに越後勢粘り強いとはもうせ、奪うモノなく、この地に止まれるのは至難の業じゃ。
   兵は食らうモノにも困り、国へも帰りたがる。この地に止まれるのはせいぜ1月じゃ。
   よいか…。いきりたつモノに仕掛けるは火に油じゃ……知らぬ顔こそ一番の闘いじゃ……。
   そう言って兵達を見回るのじゃ。決して城を出てはならぬ。」
氏政「はっ……では。」
氏康「……んんっ…………………………………わしが死んだら……思いやられる…………。」
451人間七七四年:2008/02/01(金) 09:27:04 ID:WyGdoGMl
宿敵房總里見氏のスレ

うぬぬ…里見家は戦国最強!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156739699/
452人間七七四年:2008/02/01(金) 18:35:20 ID:KfpT/8TX
>>443
北条家は禅宗じゃなかったか?
で一向宗は禁止の通達は残っていないけど、
現存する武田信玄の氏康宛(?家臣だったかな?)の
手紙の中で『謙信を牽制するのなら、まず領内での
一向宗停止を解くべき』、、、そんなアドバイスが
書いて有って実際、禁止を解除したような形跡が見られる
そうだ。何かで読んだ。うろ覚えすまん。
良く内容が判明しない氏綱が発布した分国法で
禁じていたのではないかとの事だった。
453人間七七四年:2008/02/02(土) 00:20:32 ID:FzIapa9R
>>443
北条家は創価学会じゃなかったか?
454人間七七四年:2008/02/02(土) 17:12:36 ID:Kbl/Wmki
YES!!!!!!
455人間七七四年:2008/02/02(土) 18:53:01 ID:oYJSN+mK
>>453
そうか・・。
456人間七七四年:2008/02/02(土) 22:18:59 ID:17yI+OvN
創価は伊達だろ
457人間七七四年:2008/02/02(土) 22:51:47 ID:FzIapa9R
 ____
 |←創価|      創価      創価
  ̄ | | ̄     ┗(∵ )┳('A`)┳(∵ )┓三
    | |        ┏┗  ┗┗  ┏┗  三
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


      創価   創価   創価
   三┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛
   三  ┛┓   ┛┓   ┛┓ 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 ____
 |←創価|       創価      創価   創価 
  ̄ | | ̄     ┗(∵ )┳(^o^)┳(∵ )┓┗(∵ )┓三
    | |        ┏┗  ┗┗  ┏┗   ┏┗  三
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


      創価   創価   創価   創価
   三┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛┏( ∵)┛
   三  ┛┓   ┛┓   ┛┓   ┛┓
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
458人間七七四年:2008/02/07(木) 02:45:30 ID:xqBZQ4uw
「その時歴史が動いた」
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
     第318回
  北条氏 百年王国の夢
〜民衆を慈しんだ戦国大名〜(仮)
放送予定:3月12日 (水) 22:00〜 NHK総合
459人間七七四年:2008/02/07(木) 21:48:14 ID:kD8DSJuy
民衆を慈しんだ戦国大名w
460人間七七四年:2008/02/07(木) 23:24:22 ID:3emb5cci
確かに民政に尽くしたのは事実だけど、
民衆を慈しんだとはちと違う気もする。
461人間七七四年:2008/02/08(金) 00:58:05 ID:+0C09urU
しょせん松平アナの私的番組のタイトル。
突っ込むのも阿呆らしい。
462人間七七四年:2008/02/08(金) 20:49:53 ID:AmuvoQ3t
民衆を慈しんだ割りに奴隷貿易をしていた事実
463人間七七四年:2008/02/08(金) 20:51:08 ID:D81hmF96
?奴隷貿易
464人間七七四年:2008/02/09(土) 01:01:19 ID:1Hm72SM1
氏康の代も後半になってくると、結構あちこちで
欠落してる百姓が問題になってるしな。
465人間七七四年:2008/02/09(土) 01:06:54 ID:MtVdyjly
それは悪政ではなく、悪天候の所為なんだがな。
氏康からして、飢饉の為に家督を譲らざるを得なかった訳だし。
466人間七七四年:2008/02/09(土) 07:06:56 ID:uDT5iRa7
>>462
銭40で売買してた奴だな。
467人間七七四年:2008/02/09(土) 14:49:27 ID:1Hm72SM1
戦国の世真っ最中で、家督争いが一度も無かったって事自体、
俺にとっては北条家はネ申に感じられる。
468人間七七四年:2008/02/09(土) 14:52:47 ID:Yr5oS6NL
>>466
その話は上杉謙信だろ、銭20〜30だけど。

北条が乱暴狼藉をやっていたのは事実だが、やってない奴なんて居ない。
469人間七七四年:2008/02/09(土) 16:53:59 ID:LKxE3S1p
企画展「後北条氏の城―合戦と支配―」
  埼玉県立嵐山史跡の博物館
http://www.ksky.ne.jp/~ranzansi/kikakuten2007.html
会期:平成19年12月1日(土)〜平成20年2月24日(日)

展示風景
http://www.ksky.ne.jp/~ranzansi/kikakutenH19huukei.html
470人間七七四年:2008/02/09(土) 21:28:03 ID:imlWDf5F
>>468
まぁ当時の雑兵なんてどこも末端はそんなもんだわな

だから信長は一銭斬りみたいな極端な事をしたんだろうし。
471人間七七四年:2008/02/09(土) 22:40:37 ID:lGoZtsvn
味方の陣中でも盗みが横行したそうだしな。
本当、戦争は地獄だぜ!!
472人間七七四年:2008/02/09(土) 22:45:23 ID:uDT5iRa7
>>468
そうだね!聖者の北条様がそんな事するわけないよね!

プ
473人間七七四年:2008/02/10(日) 01:24:06 ID:OJpJ5QuK
>>472
大丈夫か、文盲?
>北条が乱暴狼藉をやっていたのは事実
読めてるか?
474人間七七四年:2008/02/10(日) 01:46:53 ID:hq5R5giz
というか、そういう略奪こそ、末端が戦に出るメリットだし(負けたら敵方の領民は落ち武者狩りしたし)
やっていない大名は皆無といっていいと思う。
475人間七七四年:2008/02/10(日) 12:07:24 ID:yFloSJRR
大名の誰それから、有力家臣の誰それから発行された、、、と云う
兵の乱妨狼藉を禁じた制札や禁札があっちこっちに残っているのも証拠だわな。

476人間七七四年:2008/02/10(日) 13:32:03 ID:diDL4Ron
武蔵の関戸の村で、松田氏配下の豪族がなにか不正をやらかして
村人がストライキ。で、結局百姓側の訴えが通って問題の人物は
追放となり、その後の村の管理は訴え出た人々にまかされたようだけど。
地元ではどう伝わってる?。
といっても、聖蹟桜ヶ丘あたりの今の住人は、地方から
引っ越して来た人ばかりかな。
477人間七七四年:2008/02/11(月) 19:46:33 ID:nmkZ8/BE
>>476
その可能性が高いだろうなあ。
478人間七七四年:2008/02/11(月) 20:32:51 ID:OBb1gdj8
>>474
聖将氏康公はやっていない。
479人間七七四年:2008/02/12(火) 01:53:11 ID:JfrItcIE
>>478
はいはいワロスワロス。
480人間七七四年:2008/02/12(火) 07:02:07 ID:qXWydCE9
>>479
アンチキモス
481人間七七四年:2008/02/12(火) 07:12:36 ID:zBq2+Okv
「聖将」と書く方がキモス
482人間七七四年:2008/02/12(火) 16:14:53 ID:5DrtrFtH
というかどう見ても478が信者を装ったアンチだろ。
483人間七七四年:2008/02/13(水) 23:47:45 ID:NQxxQOA5
まあ、北条は略奪なんて悪逆非道な事なんてした事ないからな
484人間七七四年:2008/02/14(木) 00:17:38 ID:qkrHDVGP
臨戦態勢とか避難とか称して領民の物を根こそぎ城に集めたりしたけどね北条さん
485人間七七四年:2008/02/14(木) 00:34:19 ID:8eHJuonm
それは毛利だってやってるだろ、普通。

>>483
だからやってるって。
486人間七七四年:2008/02/14(木) 07:15:45 ID:6f8mOFZJ
毛利なんて稚拙な政治を行ってるところと一緒でいいのか?
487人間七七四年:2008/02/14(木) 09:31:33 ID:XEgHFNEk
>>486
この流れは政治ではないような気がする。


488人間七七四年:2008/02/14(木) 14:43:34 ID:I0mfAfJG
封建領主として、領民を城へ非難させるのは普通なんだが、なあ。
489人間七七四年:2008/02/14(木) 21:35:10 ID:qkrHDVGP
城に集めたのは領民じゃなく領民の財産と食糧だけどな
490人間七七四年:2008/02/14(木) 21:41:37 ID:mpUCpauG
>>484
それはどこの大名でもやっている。しかし北条は奴隷売買はしていない
491人間七七四年:2008/02/14(木) 23:12:54 ID:EnvdoEqQ
証拠がないだけでやってなかったとは言えないな。
まあやってなかった事を明らかにしろなんて悪魔の証明なので、証明不可だけど。

>>489
領民の財産と食料も集めたけど、
城を維持する負担を領民に課すためでもあるぜ。
「城を修復するのはおまいらの為なんだから、ちゃっちゃと直せ」ってな。
492人間七七四年:2008/02/14(木) 23:30:18 ID:5Hg27uCM
最終的には領民に返したんだから何も問題ないだろ
てか民だけ城に避難させたら残った財産奪われるし。
493人間七七四年:2008/02/14(木) 23:49:23 ID:5udbEpmf
>>484の元はこれではないかな。

http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151510417/l50

325 :人間七七四年:2007/12/12(水) 21:14:05 ID:MGAg20Zz
上田朝直(案独斎宗調)の知行に対して北条氏は
『人馬取』ったり、屋敷に侵入して略奪をしたりしてはいけない、
ただし、陣具、芋、大豆等は何方の地であっても取ってよいという制札を出している(浄蓮寺朱印制札)。
1561〜1569年間のものと考えられ、当然、その間上田朝直は北条方である。
わざわざ制札を出さねばいけないのだから、北条氏の軍は味方の領土を通過する際であっても
人や馬を取ったり、屋敷に押し入っての略奪をすることがあったのだろう。
しかも陣具、芋、大豆等は取って良いと兵糧の略奪については公認している。

秀吉によって小田原攻めが行われる準備として、北条氏は上野の西南の旧真下氏領土に対して
村に食料を全く残さないように城に運ぶよう命じている。
戦国の村では敵に進軍に際して村人は城に逃げ込むとともに奪われぬように食料も持ち込んだと考えられる。
しかしこの場合は村人の処遇についてはまったく触れずに、食料を徴発せよというだけだ。
しかも旧真下氏領は北・西を山、東を崖、南を川に囲まれた地で秀吉軍がわざわざ侵攻するはずはない。

里見の旧臣山田遠江介の残した複数の軍記では北条の水軍が来ると妻子を隠さねばならなかったという。
もちろん、海賊行為による女・子供の乱取はどっちもどっち。
494人間七七四年:2008/02/15(金) 00:01:21 ID:nVkWLQyT
たしかここの大名って
関ヶ原だったっけ?
上杉にビビって手紙書きまくった腰ぬけ大名でしょ
495人間七七四年:2008/02/15(金) 02:28:44 ID:UbXZjowg
もう滅んでるわ
496人間七七四年:2008/02/15(金) 03:02:08 ID:DCMICGwL
>>493
本当は引用者に対して言いたいんだけど、スレが過疎っているようなので。

>「芋、大豆」等は取って良いと「兵糧」の略奪
これらは兵糧ではなく馬の飼料だけどな。

>村人の処遇についてはまったく触れずに
また城に逃げ込むのは当然だから改めて明言する必要はなかったと思われる。
同じ小田原征伐の八王子城は非戦闘民も含めて虐殺されている訳だし。

とはいえ氏綱の代だったかの戦の時、味方の鶴ヶ岡八幡宮に安全保障ひだせっていってブチ切れられていたり、
北条って結構がめついんだぜw
497人間七七四年:2008/02/15(金) 03:37:46 ID:q89sU59a
北条家は民衆からの税が低く、関東の整備に力を入れていたのはそうだが、
その代り特権階級や中堅層にはもともと容赦ないよね。

もともと下克上から始まってる家なんだし、
考え方が現実的なだけで無欲な訳でもなんでもない。
498人間七七四年:2008/02/15(金) 10:12:54 ID:wUwaQZpQ
税は低いけど賦役なんかは軽くなかったって聞いた様な…
499人間七七四年:2008/02/15(金) 15:03:16 ID:XiUVJUGp
賦役分は税から控除、あるいは日当がでますよ。
500人間七七四年:2008/02/15(金) 18:07:43 ID:cT1lZ6lt
そうかそうか。さすが神!
501人間七七四年:2008/02/15(金) 21:21:56 ID:MJhjM6pe
>>493
>村に食料を全く残さないように城に運ぶよう
命じたのは八王子だ。
北谷に対して命じたのは「この秋収穫した穀類を一俵も残さず箕輪城に運べ」。

真下氏領と書いているがこれはおそらく飯塚氏領土の北谷のことだろう。
もともと真下氏領が三波川(南川)、飯塚氏領が北谷だったのを検地の時のミスにより
三波川が譲原に、北谷が三波川に変わってしまったので、それで勘違いしたのではないか。
これは天正十五或いは十六年のことで確かに北条側では臨戦態勢に移行しつつあったが、
まだ避難をさせるような段階ではなくただの徴発だろう。
北条は惣無事令に反発し、各地で働けるものはみな借り出して領内の普請を行っていたからね。
多くの論者はこの徴発を籠城のための兵糧の確保と言っているが、それとともに普請の費用を捻出するためでもあっただろう。
北谷にも徴発令の数日後に箕輪城で働けと命令が来ている。
避難ではないことの別の理由としては運び場所が遠く離れた、しかも攻められやすい箕輪城であるのと
>>493で上げている通り北谷の地形の問題で、避難させるならむしろ北谷においておいたほうよっぽど安全だ。
ttp://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=52353
>三波川と県庁間は交通の便も悪かった
>「鬼石から新町までの街道は今では想像もつかないような狭い道」
しかも鬼石に行くのも尾根伝いの道一本しかなく、馬などを運ぶには武蔵側から川を渡らねばならないような土地だった。
そんな場所からわざわざ徴発しようっていうんだからすごいよ。
黒田基樹氏のいうように、他の場所にも同様の徴発が行われただろうな。
502人間七七四年:2008/02/15(金) 21:26:16 ID:R93aVqOS
腹減った(´ω`)
503人間七七四年:2008/02/15(金) 21:38:16 ID:Xdc6FSjR
つまり北条の略奪は綺麗な略奪であり、なかったのだな。
安心した
504人間七七四年:2008/02/15(金) 21:43:11 ID:cT1lZ6lt
草加草加さすが神聖!1000年前から愛してる♪…合体したい。
505人間七七四年:2008/02/15(金) 21:55:09 ID:QD5NV1Qe
>黒田基樹氏のいうように

何を今さらなことをwww
ここって黒田信者がいるのな。

多摩歴史叢書3
「八王子城主・北条氏照 氏照文書から見た関東の戦国」
これくらい読んどけよ。
506人間七七四年:2008/02/16(土) 01:21:20 ID:KlwAy1HA
北条を調べていれば黒田の著作に一回は触れるから、仕方ないかと。
507人間七七四年:2008/02/16(土) 06:27:36 ID:0S6OZCVN
>>491
流石創価の源流だな。略奪も奴隷売買も一切しなかったとは。
508人間七七四年:2008/02/16(土) 09:07:00 ID:nMSfKWaZ
>>506
ごめん。まだ触れてないです。
北条好き歴18年の駆け出しです。


509人間七七四年:2008/02/16(土) 14:37:53 ID:O7aMTu2K
草加大名を悪く言うとお前をしらべるぞ!
510人間七七四年:2008/02/16(土) 14:40:22 ID:mqFKdxoB
>>506
後北条に関しては、「昔杉山、今黒田」だな。
511人間七七四年:2008/02/17(日) 00:53:29 ID:IiKUODXy
黒田の古文書教室に通ったことがあるけれど
単にちまらなかった。指導が単調で下手糞。

では、来月の江戸東京博物館でのシンポジウムで逢いましょう。
峰岸純夫先生の講演も、斎藤愼一氏の発表も楽しみさ。
512人間七七四年:2008/02/19(火) 11:35:27 ID:pzkK7Vnh
>>511
その「太田道灌と城館の戦国時代」、応募してたのですが、
抽選漏れしました・・・。 すっごい残念。
513人間七七四年:2008/02/19(火) 12:53:04 ID:+SkFxOsH
北条って創価なの?
514人間七七四年:2008/02/19(火) 20:33:16 ID:rxkunz3M
YES
515人間七七四年:2008/02/19(火) 21:00:03 ID:Wh8LHV/J
>>523
創価は伊達
516人間七七四年:2008/02/22(金) 00:00:15 ID:ClshzZXx
現在の事なんざどうでもいいけどな
517人間七七四年:2008/02/22(金) 13:50:48 ID:zHUBpI0c
先祖が蹂躙でもされたんだろ
518人間七七四年:2008/02/22(金) 19:01:20 ID:ZoD7AOU+
1591年、氏直が死んだことで後北条は終了。
後は知らんし、知る気もない。
519人間七七四年:2008/02/22(金) 19:14:09 ID:XuaeWHvB
文久元年、氏燕が隠居したことで後北条は終了。
後は伊達だし、血縁もない。
520人間七七四年:2008/02/22(金) 20:30:10 ID:IiglsoGR
つまり伊達に乗っ取られた?
521人間七七四年:2008/02/22(金) 21:18:27 ID:XuaeWHvB
ぶっちゃけ藩財政逝き詰まって
ニッチもサッチも行かなくなって
投げ出したんだけどな
522人間七七四年:2008/02/22(金) 21:42:24 ID:9bVZxUnr
氏恭の妻って誰(謙吉・釐三郎・雋八の実母)?婿養子とかではないんだろうか?氏燕も維新後も
結構長く生きてるし・・・・
後妻には松木宗隆(公家華族)の妹を迎えていることが分かるんだが。
明治時代の名士録を見ると、雋八の実母は既に亡く、氏恭は後妻を迎えているのが分かっている。
523人間七七四年:2008/02/22(金) 22:02:35 ID:IiglsoGR
武田は滅亡、上杉は島津に乗っ取られてるし、関東雑魚大名惨めwwwwwwwwwwwwwwwwww
524人間七七四年:2008/02/23(土) 00:05:27 ID:CREMD9OD
伸作君
525人間七七四年:2008/02/24(日) 14:02:04 ID:tZhz/bPr
>>523
世田谷吉良氏だけは続いたぞ
526人間七七四年:2008/02/24(日) 14:27:32 ID:sfj5fhVR
氏恭を養子にしたのは氏燕30の時だから婿養子は無いんじゃね
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/gohoujou.htm
527人間七七四年:2008/02/24(日) 14:56:49 ID:TX6rsVGL
氏恭の妻は池田大作の伯母さん
528人間七七四年:2008/02/24(日) 14:58:56 ID:2IWcygSY
>>526
15歳しか違わないしね。ただ、氏恭は最初の妻を迎えた記録が無いんだが。
で、子息は全て維新後に生まれているけど、母親の情報が無い。婿養子では
ないっぽいね
529人間七七四年:2008/03/01(土) 19:53:48 ID:MO2GrXiA
昔どこかのスレで、北条綱成が武藤という姓を一時期名乗っていたというレスを見たんだけど
誰か詳しい話知ってる?
530人間七七四年:2008/03/02(日) 05:59:55 ID:F9TfNaCs
初耳だな
531人間七七四年:2008/03/02(日) 07:58:46 ID:LZ9YON7E
ああこのスレだ。
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166552671/56-59
俺も初耳だったから記憶に残ったんだけど、調べてもそんな話は見つからなかったんだよね。
532人間七七四年:2008/03/04(火) 21:49:13 ID:5xr8qNoa
この人、真田昌幸と取り違えてるんじゃない?
533人間七七四年:2008/03/06(木) 20:35:46 ID:+SCXQS9P
北条一門じゃないとか言ってるし。。。。
しかしなぜ『氏』の名乗りを与えられなかったのかな?
垪和氏続、大田氏資とか一門じゃ無くても貰ってるのに。
534人間七七四年:2008/03/06(木) 21:06:39 ID:6kZ5bjpo
大田氏資よりも垪和氏続の氏の字が本当に不思議
535人間七七四年:2008/03/06(木) 22:13:45 ID:oyoPZx/Q
「氏」を乱発するようになったのは氏政からじゃないの

まあ氏時は見なかったことにしといてくれ
536人間七七四年:2008/03/06(木) 23:17:19 ID:+SCXQS9P
>>535
氏時いっぱい居るからな。見ちゃいけないのは後の方の氏時か?
537人間七七四年:2008/03/06(木) 23:20:28 ID:E15YVEmY
同じ氏綱の弟でも葛山氏広は今川から貰ったと推測できるんだが
538人間七七四年:2008/03/06(木) 23:28:44 ID:+SCXQS9P
氏綱も今川からじゃないのかい?
539人間七七四年:2008/03/06(木) 23:34:20 ID:E15YVEmY
氏綱もそうだけど
嫡流以外にまで一族格が与えられたとは考えにくいので
よほど個人的に可愛がられてたのならわからんけど
540人間七七四年:2008/03/06(木) 23:53:49 ID:+SCXQS9P
氏親と早雲の関係は親子同然だしね。
氏輝も死の直前にも、それ以前も小田原に何度か遊び来てるし、
河東一乱までは今川家と一心同体、、状態だよな。

ていうか、そんな関係の中で「氏」を家格的に上の
今川から貰っていたのは不思議じゃないが、その後微妙な
関係になってから元服した氏政・氏直は、「氏」をどんな
気持ちで承け継いでいたんだろうね?
もはや今川の「氏」ではなく北条の通字「氏」として意識
していたんだろうか・・・?
541人間七七四年:2008/03/07(金) 02:09:19 ID:BBRdsBCF
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/topmov.html
(予告)その時歴史が動いた「戦国北条 百年王国の夢」3/12(水)
542人間七七四年:2008/03/08(土) 00:24:44 ID:WVYYSFQk
それはきっと足利尊氏の「氏」
543人間七七四年:2008/03/08(土) 00:47:11 ID:p851xM76
今日本屋言ったら、
歴史街道と歴史群像がそろって北条特集で吹いた。
544人間七七四年:2008/03/08(土) 09:25:53 ID:3pHRgOtG
北条氏康くらいの名将ならば
彼を主人公にした小説やドラマがどんどんできるはずなのに
そうではないのは、やはり氏康が地味なキャラクターだからだろうか。
545人間七七四年:2008/03/08(土) 11:42:43 ID:vqU6KWT7
ロマンスねたが無いからな。
546人間七七四年:2008/03/08(土) 12:23:55 ID:JG2VOSBE
なるほど。商業的な理由か。

野戦よりも篭城戦を好む点も地味なので
ドラマ化しにくいんだろうな。
547人間七七四年:2008/03/08(土) 13:34:25 ID:DAG8+fJ5
北条の通字の「氏」はどう考えても関東公方の「氏」だろうが。
548人間七七四年:2008/03/08(土) 16:07:24 ID:ufLDy0Rx
>>544
同時代に武田信玄と上杉謙信がいるなら、どうしたって脇役になる罠。
549人間七七四年:2008/03/08(土) 17:08:03 ID:9Wpzg1dT
徳川をフルボッコにしていれば、また違っていただろうな。
550人間七七四年:2008/03/08(土) 17:18:09 ID:aRHiLEYw
滝川ならフルボッコなんだがこれまた影が薄い
まあ滝川は北条にフルボッコにされたからこそ影が薄いんだが
551人間七七四年:2008/03/09(日) 01:59:41 ID:6ww03dXj
>>547
どう考えても間違ってんだろう
幕臣だった北条と関東公方とのつながりは氏綱の代になってからだから、
どう考えても時系列的に合わないからありえん。
552人間七七四年:2008/03/09(日) 13:14:53 ID:EHEPweiZ
まあ普通に考えれば今川からだろうね、氏は。
553人間七七四年:2008/03/10(月) 23:29:34 ID:vZvjuqP/
関東の蛆虫野郎にはお似合いだなw
554人間七七四年:2008/03/12(水) 13:08:49 ID:QcmmFjVY
ま、ただの奴隷商人だしな
555人間七七四年:2008/03/12(水) 16:14:48 ID:vDbCtJNk
NHK「その時、歴史が動いた」

第318回
戦国北条 百年王国の夢
平成20年3月12日 (水) 22:00〜22:43 総合
556人間七七四年:2008/03/12(水) 22:01:31 ID:qoXK+peW
今からやるぞ
557人間七七四年:2008/03/12(水) 22:05:26 ID:5xRW5YCe
オープニング、かっこいい!


558人間七七四年:2008/03/12(水) 22:06:43 ID:5xRW5YCe
氏綱と氏政はスルーかよ!


559人間七七四年:2008/03/12(水) 22:43:06 ID:qR8+UVUt
まとめ。

・再現ドラマに鉄塔
・小和田がいつになく饒舌
・小田原城CGはGJ
・氏綱・氏政は無かったことに
・家康はやっぱり津川
560人間七七四年:2008/03/12(水) 22:52:11 ID:zGRT21aL
・・・・・・とりあえず早雲は捏造が多かったな・・・流石に引いた

対して小田原城総構えはGJだった。氏直の再評価につながって欲しい。
それと氏康の日本初の水道建造はやってほしかったなぁ。
561人間七七四年:2008/03/12(水) 23:04:02 ID:9458/TZe
捏造つーか二昔前の学説だよな
それも偽善に満ち満ちた解釈による

「幕臣・伊勢盛時」の姿がかけらも見えなかったのはさすがに笑った
562人間七七四年:2008/03/12(水) 23:59:57 ID:9PP+cAam
いまとなっては何が真実かなんて確認のしようがないわけで
最新の学説が正しいという証明もできないわけで
いま最新の学説も10年経ったら馬鹿にされてるかもしれないわけで
そんなのに文句言ってどうなるわけもなく、ただただ歴史の薫りを楽しめばいい
そんな事を思ううちに今日も終わる
563人間七七四年:2008/03/13(木) 00:31:47 ID:Zj/vSbJd
こと、北条早雲浪人説に限って言えば、明治史観の罪悪。
もともと備中伊勢氏説、次いで京都伊勢氏説が主流だったが、
立身出世のステレオタイプとして江戸後期にポッと出てきた珍説が通説として祭り上げられた。

それを歴史の香りとか言っちゃうのは、思考停止しすぎ。
564人間七七四年:2008/03/13(木) 01:08:28 ID:l4AAqlZ9
違うね
真贋様々な説を知った上で、さらにそれ以外の可能性をも
受け入れる余裕を持って「ああだったのかな、こうだったのかな」
と歴史を楽しめるのが粹って事
あれこれケチ付けたところで本当の事なんて誰もわかりゃしないんだよ
色んな視点を楽しめずにケチを付けて通ぶるのは野暮
565人間七七四年:2008/03/13(木) 01:19:16 ID:Zuu7gs3n
多方面の視点をもつのが悪いとは言わないけど
新たな史料が発見されて
真実そのものではなくても「より真実に近い」歴史が研究されている
その史料を否定して 発見される前の学説に立ち戻るのはナンセンスだよ
566人間七七四年:2008/03/13(木) 01:33:00 ID:l4AAqlZ9
待った
俺は早雲浪人説を支持しているわけではないし、
そのために新史料に目を背けているわけではないです
新しい説も古い説も珍説も、それぞれの匂いを嗅いで楽しみましょうよ
って主義
一つの史実に対して二重三重四重の見方ができてもいいじゃんって
あれこれ否定し合うのはつまらんよ、それより可能性を夢想して楽しもうという

俺は学者じゃないから正しいか正しくないかは正直、どっちでもいい
ただ歴史のロマンに酔い痴れたいだけなのさ
567人間七七四年:2008/03/13(木) 02:44:59 ID:2TVhHihL
>>566
それは歴史ではないわな
歴史風味の物語だわ
568人間七七四年:2008/03/13(木) 10:22:32 ID:2dTnrW71
>>566
都合の良い物語に浸ってたいだけなら、そういえ。
それは歴史、つーか学問じゃない。
569人間七七四年:2008/03/13(木) 10:23:23 ID:jRLkTG1o
深夜に盛り上がる北条スレ
570人間七七四年:2008/03/14(金) 22:25:39 ID:AvMMO16A
妹が今川の正室になるにはそれなりの身分で無いと
571人間七七四年:2008/03/14(金) 23:43:06 ID:togWhDE0
>>566
それもひとつの楽しみ方だよね、賛成
572人間七七四年:2008/03/14(金) 23:46:35 ID:GK0vz7Qa
意外と100年後には、今の俺達には信じられないような新説が定着してたりするかもな。
573人間七七四年:2008/03/15(土) 00:33:15 ID:SEhquC3N
>>570
やっぱり政所執事の伊勢氏一族と見るのが順当だろ。日野富子の側近だし
574人間七七四年:2008/03/15(土) 01:43:49 ID:XXnjCmjJ
つーかそもそも早雲って史実云々以前に小説でも立場の違いは色々あれど、
ただの素浪人から・・っていう話をあまり読んだ事無いんだよなぁ。
まぁ3〜4種類ぐらいしか早雲の話を読んで無いからかもしれんけど。

司馬とかもそうだけど大体伊勢家や幕府の話は絡んでくる。
それが応仁の乱などが絡んで駿河に流れて・・・って言う話が多いように思う。
単なる浪人からとかだと斉藤道三とかと話がかぶるし、その方が物語的にも面白い。

浪人説の信憑性はこの際おいとくとして、浪人説ってそもそもどういう物語になるんだろ?
それがそもそも曖昧なんでロマンも余り沸かない印象。
575人間七七四年:2008/03/15(土) 12:21:34 ID:ZZ8E2T3J
そういや道三二代説の小説ってのはあるんかいな?
576人間七七四年:2008/03/16(日) 02:00:14 ID:QbMCTf3d
>>567-568
ここは学問じゃなくて趣味の板なわけで・・・
577人間七七四年:2008/03/16(日) 10:41:53 ID:BVSoCmFt
だからって妄想を垂れ流す板でもないけどな
578人間七七四年:2008/04/01(火) 15:33:31 ID:rG/w5Xtl
氏綱が傑物
579北条幻庵ってどお?:2008/04/03(木) 16:18:21 ID:1eFs5Gk5 BE:2405093099-2BP(1)
その時歴史が動いた。
ほぼ『北条五代記』の流用だよ
それでいいのか? 松平&小和田よ!!
580人間七七四年:2008/04/15(火) 16:00:47 ID:UsxABxeb
幻庵って実際はどういう人なの?
581人間七七四年:2008/04/15(火) 20:48:21 ID:oYSCUiC4
文武に優れた教養人
582人間七七四年:2008/04/16(水) 20:48:29 ID:BnSJOIQi
幻庵さん屋敷跡
583人間七七四年:2008/04/16(水) 20:49:52 ID:5SKULMdJ
蕎麦屋にありそうだよな
幻庵
584人間七七四年:2008/04/20(日) 17:55:45 ID:pZojzrVd
風魔集団の元締め説もある
585北条幻庵ってどお?:2008/04/21(月) 17:22:02 ID:Hxzvjp03 BE:534466229-2BP(1)
1つ質問があるのですが…
元亀〜天正期の北条家の兵力動員について知っている人、何のデータでもいいのでレス宜敷お願いします。


ちなみに私が知る限りの浅はかな情報↓3つ。
(1).謙信の第二次関東遠征直前(永禄三年、1560年)の北条家の動員可能兵力数は2万人?
.誰が書いたか?どの本だか忘れてしまったのだが…
永禄二年2月に完成した『小田原所領役帳』の伊豆・相模・南武蔵(以下、武相伊と略す)の検地箇所全貫高を試しに計算した所、
合わせて、約1万の兵が動員可能で、未検地分の武蔵・下総を合わせて2万人動員可能だったそうだ。
(未検地をどうやって調べたかは不明だが)

(2).小田原戦役時(天正十八年)の兵力動員可能数は10万人?
河合秀郎説。「秀吉襲来」『歴史群像』44号所収
天正十五年(1587)7月31日 北条家、諸郷村に対して人改令を発す。
武相伊の15歳〜70歳までの全男子を調査したところ合計10万。(農業などの生産ラインが止まってしまうので)全て動員するのは不可能だが、半数の5万人は動員可能か?
これに未検地分の上野の大半・下野の一部・下総の大半・常陸南部などを足すと、10万人は動員可能か?
(これも未検地をどうやって調べたかは不明だが)
→よって、8万が水増しとは言い切れないんだよ。これは秀吉の次に多い兵力動員数。

(3).これは「禁じ手」なんだけど、ないよりはましでしょうから。
慶長三年(1598)に行われた豊臣期の全国検地高から割りだした数。
旧北条領だった伊豆・相模・武蔵・上野大半・下総大半・上総半国・常陸の一部・下野の一部をたすと約206万石。
これを当時の動員可能基準である1万石=250人で算出すると、51500人となる。

これ以外に何かある人宜敷ね。
586人間七七四年:2008/04/22(火) 00:31:01 ID:68bBypET
小田原合戦
小田原に55000。山中に4000。館林に5000。松井田に3000。鉢形に3000。
その他の支城に計約10000だっだといわれているとか・・・・
587人間七七四年:2008/04/22(火) 16:21:10 ID:5oP1uNMo
通常動員で5万、根こそぎ動員して8万ってところなのかなぁ。
588(´ω`):2008/04/23(水) 01:42:46 ID:Dljw7pk7
なに!?北条厨には北条氏の内情がわからないとな!?
じゃあ麻呂が答えて進ぜよう。
資料はなんと情けないことに学研の歴史群像であるぞよ。
本当は戦国遺文とか見たいのであるが、高価だし、
図書館は遠いので北条厨なら誰でも持っていると思われる
『真説戦国北条五代』だ。
この115ページに小和田と下山のおっさんコンビが書いた文が
載っていて、着到状に見える軍役の内訳も載っている。
それに載っているのは「宮城四郎兵衛尉」「池田孫左衛門」
「吉田新左衛門」「植松右京亮」「大曽根飛騨守」「市野善次郎」
「比木藤五郎」の七人。親切なことに貫高を軍役人数で割った
知行高も載せていて、大体5〜10貫でひとりくらいになる。
平均すると、約7.3貫につきひとりの軍役となる。
ちなみに佐竹は大体45石あたりでひとりを動員していた
(これは以前麻呂が計算した数字で、豊臣期の
石高から逆算して1584年頃のものを割りだした)。
すると北条と佐竹の軍役が同じくらいだと仮定すると7.3貫=45石?
一貫=6.2石くらいで、北条氏の「貫」は、豊臣の「石」の
約6.2倍という数字となる。

そして北条氏は流石なことに『北条氏所領役張』というリストを
永禄二年に書き上げていて、これには家臣どもの貫高が
記載されているのだ。と、思ったら、
これは「てどお?」氏が先に書いていた。
このページhttp://www2.harimaya.com/hozyo/hz_kasin.html
によると、『役帳』上の貫高を集計すると72168貫。
これを6.2倍すると、豊臣期の石高っぽい数値が得られると予想し、
その数値は447441で約45万石。『役帳』上の侍全部で45万石だ。
ちなみに72168貫を最初に調べた北条の軍役ひとりあたりの
貫高の7.3で割ると9886人。また重複するが447441石を
佐竹の軍役ひとりあたりの石高45で割ると、9943人。
『役帳』には源三や安房守の「衆」は含まれていないので、
これらや他の細々したものを足すともうちょっと多いとはいえるだろう。
589(´ω`):2008/04/23(水) 01:45:17 ID:Dljw7pk7
更なる飛躍。豊臣期の太閤検地で打ち出された伊豆相模武蔵の
石高は全部で93万石(伊豆7万、坂見19万、胸刺67万。
吉川弘文館の『日本史年表・地図』に因る)。

さてこれもまた北関東衆に頼るが、佐竹は差出検地で25万石を
認められ、その後太閤検地で増えも減りもしない全く同じ土地に
54万石を朱印された。宇都宮は差出18万石に太閤39万石が
打ち出されたという。54÷25と39÷18をそれぞれ計算してみると、
なんと双方ほぼ2.16という値が検出される。

つまり差出検地から太閤検地に移ると2.16倍の石高が算出されるのだ。
厳しい検地をしないとみんな半分以上の畑を隠すという涙ぐましい話
であるが、ではこれを伊豆相模武蔵に適用してみてはどうだろうか。
同じ関東だし、大体同じ数値が適用されると考えていいんじゃないか。
そして2.16倍すると93万になる数字、930000÷2.16は、即ち430555。
おっと、これは上のほうで『役帳』総貫高を石高に直した数字と
ほぼ同じじゃないか。てことは『役帳』はかなり正確なリストアップが
施されているのかもしれない。では北条氏最盛期の支配地の
豊臣期から見た総石高(てどお?氏の206万)を2.16で割って、
北条最盛期幻の差出石高を割り出してみよう。

それは約953703石。北条の貫高に直すと約153823貫。
総石高を佐竹の軍役ひとりあたりの石高45で割ると21193人。
総貫高を北条の軍役ひとりあたりの貫高7.3で割ると21071人。
やっと出た。これが最盛期北条氏の通常動員される範囲での兵数だ。
極めてモデレート(一部の人にとってはモデストだが)な人数である。
この計算を信用するかしないかはあなたがた次第ではある。
ただ北条最期の小田原陣での人数は全く意味がない。これは百姓まで
「武者めくように」動員したものだから、それで8万とか10万とかいうのは
全くナンセンスだ。5万でも「際限無き軍役」に近いと思うのだ。
仍如件。
590人間七七四年:2008/04/23(水) 11:56:42 ID:gwbIUt7I
>>589
佐竹の差し出し検地と太閤検地の時期が何時かわからないから何とも言えないけれど、
秀吉の威光の元。常陸を平定したのが1591年。
54万石はその常陸全土の話であってそれ以前に持っていた領土、
20万石くらいと聞いているがそれとは全く違う話。
差し出し検地が元々持っていた石高、太閤検地が常陸一国の石高とも見れる。
また宇都宮はその誤差から転封されるわけだけど、
佐竹は無いというのはやはり不自然。
それを一緒に纏めて適用しようと言うのはいささか乱暴に過ぎる。

あと役帳は図らずもあなたが述べてくれたが、家臣団への軍役であって
北条宗家がどれだけ兵を出したかが全くわからない。
あなたはこれを少々上乗せ位に言っていたが、1000人も出されてしまうと、
その後の計算が尽く狂ってしまう、誤差とは言い切れない数字になってしまう。

最後に良く言われる動員兵力の中には、非戦闘員が往々にして含まれる。
対して役帳や江戸時代の○人役などの軍役にはこれらは含まれない。
だいたい、戦闘員と非戦闘員の割合は1:2ほどなので、
戦闘員を20000とすると、総兵力は六万ほど。
過程はどうあれ、あなたの結論は案外的を射ているのかも知れない。
591(´ω`):2008/04/23(水) 13:46:43 ID:w/VxoamA
>>590
そういえば北条宗家の兵力は忘れていた。
最大所領の幻庵が5457貫なのでそれ以上あることは間違いないな。
幻庵の所領を7.3で割ると747人動員できることになる。
宗家はそのどれくらいかは判らないが、幻庵の二倍から三倍くらいが
適当な範囲かな?四倍だと747x4=3000人、この辺が限界かもな。

あと佐竹の件。それを麻呂にレクチャーするのはお門違いでおじゃる。
これは佐竹スレでも言ったことだが、佐竹は1590に秀吉の朱印城を貰った時に
差出検地で約22万貫(約25万石)と言われたのだ。
そしてこれは文禄の太閤検地による約54万石と全く同じ土地に科されたものだ。
つまり秀吉から、以前の25万石じゃなくて、54万石の年貢は取りなさいと
命令されたということ。百姓から見ればより重い税を課されたということになる。
何で秀吉はそんなことをさせたのかというと、主に朝鮮出兵のために
少しでも多くの労働力と産出を確保したかったため。

佐竹洞中は沼尻の対戦で最低でも5500の兵は動員していたらしく、
25万を5500で割ると約45となる。つまり45石につきひとりの動員ということになる。
佐竹洞中は佐竹義昭の時代から豊臣期までほぼ同じ支配地域を維持していたので、
素直にそういう計算をしているわけだ。宇都宮も差出18万太閤39万は佐竹と同じ経過だぬ。
ちなみに宇都宮の改易の理由は石高を偽ったからではないよ。
差出から縄入れの太閤検地で2.16倍しか増えていないしな。
差出から縄入れ検地を経て20倍近くの所得隠しをしていた高野山に比べれば
可愛いものだし、当然秀吉は縄入れすればより多くの石高が算出されることを
経験として知っていたのだ。だから宇都宮の改易の理由は他にあり、
石高の件は枝葉ではあっても少なくともプライマリーな理由ではない。

あと若干徴発気味の非戦闘員のことは考えていない。
つーかそれを「兵」の数に含めてしまうと話がややこしくなるからで、
純粋な戦闘員だけに限るべきだな。
北条の着到状の人衆はすべて戦闘員で(当り前)、
佐竹の5500も当然戦闘員でおじゃりはべりぬ。
592人間七七四年:2008/04/25(金) 22:58:21 ID:kxSzXhPt
「北条幻庵ってどお?氏」は純粋な戦闘員とかじゃなく、総計の兵を聞いてるんじゃ?
というか、普通はそういう数を想像すると思うのだが、どうかな。
無理やりの根こそぎ動員で10万弱。通常の動員では5万強。
ただし、まともに役に立つ兵は3万弱といった感じか?
593人間七七四年:2008/04/26(土) 06:34:26 ID:emvJrMs6
>>591
佐竹スレ見てきた。
七月末の段階で、常陸は俺(佐竹)の領土と主張して認められているのはわかった。

ただ差し出し検地もまだな状況下ででしょ、この後実力で奪うのだから。
だからこそその後に検地して表高を出す訳で、
七月末の段階では常陸一国がどれだけの石高があるのか佐竹にも未知数だよ。
22万石→45万石に増えたのは征服及び検地によってこの不明分が判明したのが大きいと思うぜ。

あと単位面積あたりの石高が増えているというのは、
あなたの言うほど極端ではないにしても実際その通り。
秀吉が一反を360坪→300坪に改訂しているからな。
つまり旧一反:新一反=1:1.2なので同じ面積でも20%ほど石高が増えるのは必然。
594(´ω`):2008/04/26(土) 12:34:51 ID:j/fdxYqY
>>593
このスレッドでは話題がずれてしまうのでレスを佐竹スレに書いた。
595(´ω`):2008/04/26(土) 12:36:20 ID:j/fdxYqY
北条スレ>>593
いまいち何を疑問に思っているのかよくわからないが、一応きちんと説明しよう。

>22万石→45万石に増えたのは征服及び検地によって〜
22万貫→54万石ね。
この約22万貫は天正十八年(1590)八月朔日付けで佐竹義宣に
朱印されたものだが(義重家譜)、
のちの太閤検地で25万石に相当することが判明する(義宣家譜)。

1590七月、秀吉は北条を降伏させたあと関東奥州の仕置きを開始するが、
その際に佐竹に対して「洞中のさしいたし帳」を提出させた(佐竹文書)。
「洞中」というのは、北条で言う「国衆」とほぼ同じニュアンスだと理解していい。
つまりこの佐竹「洞中」は佐竹の直接的支配を排除し得たが
佐竹の軍役には従っていた連中の所領も含まれており、
それらを包含して、秀吉は佐竹の所領であると認めたのだ。

それには佐竹の「洞中」の最も外側に位置する江戸や大掾、
南郡三十三館さえも含まれている。
これは伊達政宗が江戸と大掾の争乱に佐竹が介入したことをを指して、
「佐竹洞中悉取乱候」と言っているのと符合する(遠藤広家文書)。

佐竹義宣は家臣の佐竹義久に対して天正十八年七月二十九日に、
「鹿嶋一郡進之候、併其方本知行檜澤・武部不可有相違候、
南郷・保内儀者返進」という判物を与えている(奈良文書)。
日付に注目して欲しい。これは秀吉が佐竹の所領を「さしいたし」によって
朱印する以前のものであり、このことから、この時点で佐竹の所領は以前から
内定されており、しかも実際には佐竹の「所領」ではない三十三館領が
数多く存在する鹿嶋郡さえもその知行として認められていたのだとわかる。
つまりこの後佐竹義重によって行われる水戸城攻略、常陸府中城攻略等々は
秀吉の内示を受けた形で行われており、前述の22万貫のなかには
鹿嶋郡が含まれているということを意味する。

596(´ω`):2008/04/26(土) 12:38:28 ID:j/fdxYqY
素で間違えた(´ω`;)

続きは佐竹氏を語るスレで。
597人間七七四年:2008/05/02(金) 12:23:20 ID:urGCFTGX
「3次元コンピュータグラフィクスによる江戸時代の小田原」を作成しました
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/culture/3dcg_odawara.html

598地元民:2008/05/02(金) 21:18:07 ID:361G3Xal
明日は北条五代祭りだよ。恒例の武者行列に火繩銃の射撃実演だお。地元出身の阿藤海も多分来るよ(´・ω・`)。

漏れも雑兵Aで行列に初参加するお。
是非見に来てね(´・ω・`)ノ
599人間七七四年:2008/05/02(金) 22:21:57 ID:qA4QEEqR
漏れもいくよ
600全板トナメ戦国板の投票日は5/3!:2008/05/02(金) 22:33:08 ID:NFfon+AX
【第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント】
明日5/3日は戦国板の投票日だよー

選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
601奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/03(土) 00:07:53 ID:d1Ss9VtT
[[コード]] <<戦国時代板>>
                 '、    '、-‐‐‐‐7‐---,,,             ./  |
                  `、_-'´     /     ゙''-、          /  /
                 /       /       / \       /   /
                 /       /       /   \____,,,,-''´    /
                人       /       /    |        /
              / /\---、,,__/       /     |      /
            / /    `、_   `ヽ、_    /      |_,,,,,,-'''´
          ///     _,,,,,`ヽ、   `ヽ-、         |
        /  /      \●\  `''‐-、_   `ヽ、      |
       /   |    ̄      ̄ l    _,,,;;;'''‐‐-\___,,,/
       |_______.|  ─      /    \●\    |  | 投票
           ヽ      /(O n l     ̄ ̄    .|  |   頼むよ・・・
          /\    、―‐、//~ ' ヽ         |-┤
         /   |\_   \ ヽ-`^ヽ、     ヽ   |ヽ.|
         /   /  .、\__  `ー―― `    ヽ   / | |
       /   /    ヽ>  ̄ヽ、           ノ  |.|
___________ /    /   ・  |    o `l`'>-------‐‐''´ヽ   |   
      __  _   ___  _  __       _
    ノィ l l rゝ 'ー――' | | 'ー―' __n_n   //
     //  l l  ,、       | |  、    ー ruう) //ハ
     ヽ二'ノ  ヽニニ⊃ ヽ7ヽニ⊃  U   /_/ヽニ7
602人間七七四年:2008/05/03(土) 00:24:15 ID:NzvusZPT
北条綱成
603人間七七四年:2008/05/13(火) 14:41:05 ID:GJVUuoHt
>>601 何とカワイくないひこにゃん。
さて後北条に話を戻すか。
604人間七七四年:2008/05/17(土) 21:59:10 ID:AYz0lN1X
ageついでに

北条氏忠の娘が、毛利輝元の家臣の出羽元盛の子・就之を婿に迎えて萩藩士の北条氏を興しているんだが
両者の年齢が違いすぎる。婿の就之は1620年の生まれなので、氏忠(1593年没)とは30歳くらい年齢が離れてしまう
んだけど、30歳近く年下の婿を夫として迎えるなんてことがありえたのか?
就之の父出羽元盛が丁度氏忠娘と同年代になってしまうんだが
605奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/05/17(土) 22:49:49 ID:ueEGxtEm
出羽元倶の後継なら一門やんね。
606人間七七四年:2008/05/19(月) 02:31:44 ID:tAZ6heZO
実際には出羽元盛に嫁いだか、就之を氏忠娘の養子にしたかじゃないのか?

出羽元盛は出羽元祐(元倶養父)の孫らしいので、直接の毛利一門ではないっぽい
607北条幻庵ってどお?:2008/05/28(水) 14:24:16 ID:qa61uOe7
>>586-595。意見ありがとう。
特に「顔文字」さん。数学的で具体的な分析、
大変、大変参考になりました。
608人間七七四年:2008/05/28(水) 20:58:31 ID:9KvYx4pU
北条の本ができたそうです。

http://www.koshi-s.jp/shinkan/09-shinkan.htm
609人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 20:53:57 ID:vPJF1mmI
この本って評判はどうなのかね?
結構よさげな感じだが…
近場の大きめの本屋をいくつかまわってみたが置いてないので
下見ができず困っておる。
610人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 05:13:16 ID:AUu2m2Ry
貫高制と石高制の違いはあるけれど
だいたい一貫文の知行地が四石に相当するとして

たとえば相模の総石高(太閤検地で19万石)と比べて
後北条の相模を役帳の貫高から計算して総石高は16万程度。
後北条の場合、一貫文は四石より下回るとされるから更に余剰がある。
これらは北条氏の直轄地と考えていいのかな。
まあ所領役帳は家臣の所領と役高を記したものだから
直轄地は別扱いなのかな。

北条本家単体(一門衆を除いた氏康氏政父子のみ)の所領役高は
どの程度だったんだろう。
611人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 07:25:12 ID:u7W9Ilxh
鉢形城良かったよ
612人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 12:25:12 ID:cSXfbkZr
>>610
役帳見たことあるならわかるだろうけど、
斑目模様の知行地を一つずつ精査していくのは専門家じゃないと無理です。
613人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 15:42:04 ID:AUu2m2Ry
>>612
あれは専門家じゃなきゃすべては分からないのは承知しております。

家臣の知行地以外はどうなっていたのかなあ、と思って。
すべてが知行地なら北条家の収入である段銭段米棟別銭は
どうやって調達してきたのかなあ、と。
614人間七七四年:2008/06/10(火) 23:22:12 ID:ctwj5Evc
今度鉢形城跡に行くことになった
最近歴史館ができたみたいで、そこはもちろん行くとして、
他にどこを見るべき所とかあるのかな?
ただ公園になってるだけ?
615人間七七四年:2008/06/13(金) 12:00:30 ID:CIcNXsm2
落ち武者の霊を期待して撮影
616人間七七四年:2008/06/14(土) 16:11:45 ID:IfPEZdes
氏直の評価はどう?
617人間七七四年:2008/06/14(土) 16:18:26 ID:Sk7lfZn8
>>614
馬出し
背後の荒川の断崖絶壁
空堀・土塀など
歴史博物館では北条ものばかりの展示なので
長尾景春や道灌などの時代は一切スルーなので
そっちを期待して行くとスーパーガッカリする。
(販売してる書物も北条時代のモノだけ)
ただ北条関係の展示は金をかけてるので見て回るのに
けっこう時間がかかる。
そこに行くまでの電車がやたら不便&最寄駅から歩ける範囲だが
それでもちょっと疲れる。
618人間七七四年:2008/06/14(土) 16:21:34 ID:xYR/8ti/
伊勢盛時の根拠地だった韮山城って、遺構とか何か残っているのかな?
619人間七七四年:2008/06/14(土) 20:41:10 ID:r9Dq9bFK
小田原合戦の後もしばらく使われてたみたいだから、何かしら遺構は残ってると思うよ
620人間七七四年:2008/06/14(土) 20:46:00 ID:xYR/8ti/
>>619
サンクス。夏休みあたりに見に行ってみようかなと。
621人間七七四年:2008/06/14(土) 21:21:31 ID:r9Dq9bFK
>>620
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E

気になってググってみたけど、曲輪・土塁跡などが残ってるって書いてあるね
ただ、韮山城の敷地の大半が現在は江川家の持ち物になってるらしいから許可取らないと入れなかったりするかも知れない
行くつもりならちゃんと調べてみた方がいいかも
622人間七七四年:2008/06/14(土) 21:33:43 ID:xYR/8ti/
>>621
なるほど、参考になったよ。重ね重ねありがとう。
623人間七七四年:2008/06/15(日) 14:40:30 ID:NjULIHAW
ここで『狭山と北条氏』を注文した俺様が通りますよ。

624人間七七四年:2008/06/16(月) 18:16:41 ID:/U1IaWU+
早雲の下克上と秀吉の天下統一を戦国時代と定義するなら
戦国は北条に始まり北条に終わるのね
625人間七七四年:2008/06/16(月) 19:20:29 ID:6egX5DNI
>>624
早雲は下克上をやっていない。
626人間七七四年:2008/06/16(月) 19:21:18 ID:ihBaz+KW
>>624
そうなるように定義したらそりゃそうなるだろう
627人間七七四年:2008/06/16(月) 21:56:26 ID:G4DWKSBT
>>624
それはとてもロマンティックだけど、
所詮、宗瑞の伊豆討入は幕府の意向だからな。
戦国の始まりというにはちょっと・・・。
628人間七七四年:2008/06/16(月) 22:01:14 ID:6egX5DNI
つーか関東に関しては、享徳の乱からすでに戦国時代に突入しているってのが今の一般的な見方だし。
629人間七七四年:2008/06/17(火) 01:00:25 ID:WJx76FWx
戦国時代の定義を単純に戦乱の時代と括るか、
下剋上による戦乱の時代と括るかですね。

ここまで行きますと想いは人それぞれ、十人十色になりますか。


630人間七七四年:2008/06/17(火) 20:23:59 ID:Tat442EA
下克上だと朝倉氏の方が早くなかったけ?
早雲を下克上と見るかどうかはともかく。

戦国の終わりも奥州仕置と見てもいい。
まあ戦国時代と北条五代がほぼ被るのは同意。
631人間七七四年:2008/06/17(火) 23:12:21 ID:htQFnRGs
最近研究が進んだおかげで、後北条氏が行政的にも最も先進的な大名だった、ってのがだいぶ広まってきたね。
逆に「革新的」「革命的」の定冠詞をよく付けられる信長は、行政や民生の分野では旧態依然とした室町期の
守護大名そのものだった、って事も。
632人間七七四年:2008/06/18(水) 00:30:27 ID:o7a//ssA
「最も」というのはちょっと抵抗あるね。
北条の研究が進んでいるのは史料が豊富だからで他の大名の研究が待たれるから。

まあでも、統治機構では先進的な戦国大名だというのには異論が無い。
633人間七七四年:2008/06/18(水) 02:01:40 ID:WHj9IHp0
別に北条家を悪く言うつもりはありませんが、
伊勢新九郎、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と進むにつれて、
過激さが無くなり丸くなっていくような気がします。

行政機構が進むにつれて汚職や談合による妥協がその当時にもあったのかな?

ちなみに現在よく使われる言葉の「談合」の発祥の地は静岡なんですが。


634人間七七四年:2008/06/18(水) 02:16:27 ID:vPBNNe9/
>>633
上手く行っているところに過激さは必要ない。
上手く行かないところは無理に無理を重ねるから過激になる。

過激を良いものと考えているようだが、実際は支配者にとっても、勿論被支配者にとっても
それは酷いものでしかないぞ。
635人間七七四年:2008/06/18(水) 02:17:28 ID:o7a//ssA
そら、伊勢宗瑞の時には政権としての体なんてほとんど無い。
氏綱のあたりから徐々に整えだして、氏康・氏政あたりでほぼ完成を見た。

裏を返せば行政機構が整ってない方が他に政権基盤が無いため武断に傾き易い。
また組織力を当てに出来ないので個人プレーが目立つ。
それだけ。
636人間七七四年:2008/06/18(水) 09:11:01 ID:kYVSipFu
でも北条の善政って実際効果があったのかね。
税は低くなかったのは周知の通りだし、小田原城城下町もぼろぼろ。
農村も逃散ばかり。
637人間七七四年:2008/06/18(水) 15:08:11 ID:IQy2odCs
>>636
他の戦国大名の資料と比べないとなんとも。

まあ税を単純にして臨時のそれを設けないといっても
家臣の所領の軍役は定期的なものじゃないから
住民の負担が軽いとは言えないだろうね。
きちんと小田原が所領と貫高とその諸役、軍役を把握していただけに
税を逃れられない立場にあったとも言えるわな。
公平性は高いけど。

小田原は何だかんだ、鎌倉がああなったあとは相模第一の都市でしょう。
関東の東海道からの入り口だったわけで。
638人間七七四年:2008/06/18(水) 17:15:16 ID:o7a//ssA
>>636
農村の欠落は、北条の施政のためというよりは天災のためなんだし、
その後に小田原は関東一と謳われるくらい繁栄するんだが。

あと北条の善政は、所詮他国の凶徒なので支持基盤を民衆に求めざるを得なかったからかと。
なので人災・天災が起きれば即座に対応して民衆を繋ぎ止める必要があったために、
結果として政権としての完成度も高くなっていったと見る。
639人間七七四年:2008/06/18(水) 19:06:26 ID:WHj9IHp0
>>634
>上手く行っているところに過激さは必要ない。
>上手く行かないところは無理に無理を重ねるから過激になる。
過激という言葉には語弊がありましたね。
柔軟な行動力と書けばよかったかな?
上手くいっているとのことですが滅亡してしまっては元も子もないような気がします。

政治機構が整うことはいいことですが柔軟な行動力を削いでいったように見えますね。


640人間七七四年:2008/06/18(水) 19:32:49 ID:vPBNNe9/
>>639
それは政治機構とは関係ないぞ?
641人間七七四年:2008/06/18(水) 22:06:31 ID:IQy2odCs
>>639
北条の西に対する武蔵・相模・伊豆の支城網と家臣団の掌握、中央の統制、
東に対する攻勢なんかはそれなりに攻守に備えた柔軟な組織だと思うがなあ。
中央の小田原宗家と支城の一門、重臣のラインはかなりのもの。
それこそ秀吉クラスが西と北の両面から攻めなければ切れなかっただろう。
西上野、甲斐からの信玄の小田原攻勢でも鉢形、滝山は撤退時に即座に
対応しているし(大敗したけど)。

まあ東に大勢力がなかった(つくらせなかった)のが大きいのだろうな。
安房の里見は何度か上総・下総に出たところを直接叩いているし
常陸の佐竹に対しては中央の情勢から外交戦の側面が大きかったし。
642人間七七四年:2008/06/18(水) 22:27:25 ID:o7a//ssA
639の言い分も分からないでもないが、その理由はぱっと二つ思いつく。
一つは、氏政・氏直期の北条には物語になるような華がないこと。
二つは、氏政・氏直が北条を滅ぼしてしまったので亡国の主というバイアスかかってしまってること。

もう少し柔軟に見てみたらどうだい?
643人間七七四年:2008/06/19(木) 07:50:17 ID:K+lRvyJs
返レスありりん。
一応答えておいた方がいいですよね?

>>640
無視していいよね?

>>641
>北条の西に対する武蔵・相模・伊豆の支城網と家臣団の掌握、中央の統制、
>東に対する攻勢なんかはそれなりに攻守に備えた柔軟な組織だと思うがなあ。
>中央の小田原宗家と支城の一門、重臣のラインはかなりのもの。
その話しがいつのことを想定しているのかわかりませんので何とも。
氏康、氏政、氏直のどの辺りかな?

>それこそ秀吉クラスが西と北の両面から攻めなければ切れなかっただろう。
それって北条家が無能ということを言いたいのでしょうか?

>西上野、甲斐からの信玄の小田原攻勢でも鉢形、滝山は撤退時に即座に
>対応しているし(大敗したけど)。
氏康の話ですね。
仰る通りです。

>>642
>一つは、氏政・氏直期の北条には物語になるような華がないこと。
>二つは、氏政・氏直が北条を滅ぼしてしまったので亡国の主というバイアスかかってしまってること。
私的には氏政・氏直が好きですからかなり贔屓目で解釈していますよ。

>もう少し柔軟に見てみたらどうだい?
柔軟に見過ぎていると反省していたんですけどね。
氏政・氏直を有能とか書いた方がよかったかな?


なんか論点がずれているかな?
「行政機構が進むにつれて汚職や談合による妥協がその当時にもあったのかな?」
これが聞きたいことだったんだけど。
レス>>634の内容の影響をみんな受けているのかな?


644人間七七四年:2008/06/19(木) 08:50:37 ID:gC6FDnxw
レスありがとうございますんすんすーん。

>>637
相模一の都市というのに異論はないのですが、
甲府や西国の都市と比べて優れていたとは思えない。
もちろんこれは地理的な条件のせいなので北条に責任があるわけではありません。
でも北条を名君としたいがために他の都市より優れていたかのような論調があるのは頂けないですね。

>>683
関東一と謳っている文献は見たことがないですね。
その善政と繁栄をもっともよく伝えているのは徳川時代に書かれた「北条記」でしょう?
北条は戦国大名として一流の部類に入るのでしょうが、それを称えるあまり他の都市を見下していませんか。

民衆の支持基盤を固めたのは天災の激しくなった永禄期ですが、
越後長尾の関東出兵が現実的なものとして迫っていたからで、
災害と侵略の脅威がなければ善政もなかったでしょう。
武田なら善政を敷くよりも領民に餌をぶらさげて他国へ侵略する「食うための戦争」をやったのでしょうが、
北条はそうしなかったのは素晴らしいと思います。
645人間七七四年:2008/06/19(木) 19:16:31 ID:vJstR+Uc
>>643
行政機構の整備は小田原と支城衆との関係上、
腐敗する段階まではいかないだろう。
統治機構として小田原の評定衆が支城衆の格上でも
実際支城には親族たちがいたわけで日々の公事に関することはともかく
戦に関することについては一族や譜代の重臣たちの意向は無視できまい。
そこまで文官武官の別がついていたわけじゃないし。

まあ氏政、氏直は氏康と比べても無能ではなかったと思うよ。
ただ個人の能力よりも組織の能力が目立つのが北条なわけで。

>>644
西の山口、東の小田原というのはどこか文献になかったっけ?
646人間七七四年:2008/06/19(木) 20:15:06 ID:gC6FDnxw
>>645
>>西の山口、東の小田原
繁栄時期が同じはずはないから、後世の研究家か作家が言ったんじゃない?
647人間七七四年:2008/06/20(金) 00:29:04 ID:gO9NLcEP
>>646
天文年間の記録なら考えられなくもない。
まだ山口は灰燼に帰していないし関東は鎌倉再建の力が小田原にあった。
北条記からだが氏綱の施政でかなり町家も増えているし文化人の来訪もある。
小田原の街は永禄年間に謙信、信玄に焼かれているからそれ以前の考えなら
まあ賑わってはいたんじゃないかな。

都市、小田原の全盛期そのものは滅亡前だろうけど。
総構えの城中に戦中に市を立てられるくらいだからねえ。

もっとも当時の都市というと博多、堺が第一。
東国ではやはり小田原が第一かなあ。越後も豊かだが港町が沿岸に分散しているし。
648人間七七四年:2008/06/20(金) 00:37:19 ID:cA0x6aWy
>>647
まあ、それらをふくめて、それでも京が圧倒的大都市であったことは間違いないだろうけどね。
649人間七七四年:2008/06/20(金) 00:55:47 ID:CDQLi0F0
どっかでみた戦国期における人口(推定)のうろ覚え。
京(100000)>>>>>堺(35000)>博多(30000)>>>小田原(8000)

中世で数千あれば都市としては立派だと思う。
もっとも上には上が居るのもまた事実。
650人間七七四年:2008/06/20(金) 02:48:51 ID:FiCa0HvN
>>649
>京(100000)
少なすぎのような気がします。
推定200000人位(元亀〜天正期)じゃないかな?


651人間七七四年:2008/06/20(金) 02:56:19 ID:cA0x6aWy
朝倉の一乗谷が最盛期で人口1万くらいか(あの狭い面積にそんなに押し込めたのか?とも思うが)
652人間七七四年:2008/06/23(月) 14:37:02 ID:fKpf20xB
http://library.main.jp/index/jst01590.htm

『秀吉の戦線布告状』これ読んだ人いる?
653人間七七四年:2008/07/05(土) 15:56:39 ID:KZqnvjoK
>>651
行ったことあるけど確かに広くないな 一乗谷。
654人間七七四年:2008/07/15(火) 06:52:21 ID:X5UypARc
>>647
○春日山城跡
謙信全盛の頃、その城下町は府中と合わせて108町人口6万余で
全国屈指の大都会であったといわれている。

新潟県公式観光情報サイト
655人間七七四年:2008/07/15(火) 08:23:24 ID:4ViiiMCm
小田原の城下町は村に毛の生えたようなものじゃないかな。
春日山や博多とは比べ物にならないと思うが。
656人間七七四年:2008/07/15(火) 15:45:23 ID:/nkFpg+5
博多と比べちゃそりゃあダメでしょう。
越後は府中など港湾都市が上越に分散しているイメージがあるなあ。

小田原城下はもとが要害にあった土地だから近世都市というよりは
中世都市なんだろうね。関東では、まあ陸運関係考えると第一かなあ。
平井もそこそこだったらしいけど天文年間に廃城になっているしね。
657人間七七四年:2008/07/16(水) 00:21:29 ID:BjUDZpS2
博多で二、三万、堺で六万くらいなのに、
六万は俄かには信じがたいな。

ざっとネットで調べてみた限り訂、正越後頚城郡誌稿の下巻の
「春日山古城近方圓富城昌盛ノ時ハ町家数 壹万余 軒数 百八町 此他士屋敷」が元ネタらしいが、
これは鵜呑みにしていい数字なのか?
百八っていかにも適当につけたっぽいんだが。
まあ多かったのは事実らしいけど。
658人間七七四年:2008/07/16(水) 00:26:09 ID:ZqbkIlnb
春日山は一乗谷が没落してからは日本海貿易の要として人口密度は高まったんじゃないか。
北陸一帯の勢力図も目まぐるしく動いていて流れてくる人の数も多かったでしょうし。
景勝の時代が日本史上最盛期だったのでしょう。
659人間七七四年:2008/07/16(水) 20:00:57 ID:2d0DNJ0G
春日山城下(直江津)については他の日本海に面した港湾都市となんら変わりはない。

>>658
>景勝の時代が日本史上最盛期だったのでしょう。
それほどでもない。
北陸道では前田の金沢の方が栄えている。


これ以上はスレ違いだな。


天文十八年四月十四日の地震について情報を持っている人いるかな?


660人間七七四年:2008/07/16(水) 22:31:57 ID:t1+vvF4s
北陸道の旅をして越後国(新潟県)を廻(まわ)った記録
『永禄六年(1563年)北国(ほっこく)下リノ遣足(つかいあし)』によって、
当時の状況を見てみましょう。
この記録は、京都醍醐寺(だいごじ)の僧侶と推定される一行の旅費支出を記したもので、
現在は国立歴史民俗博物館に保存されています。
それによれば、福井から金沢付近にかけての旅は旧暦9月28日朝福井を出発、
途中足羽川や大聖寺川では橋賃を支払い、九頭竜川(くずりゅうがわ)と手取川では橋は無く船賃を支出し、
途中2泊(各宿料48文)し、10月3日に金沢付近に着いています。

また、越後府中(上越市直江津)には10月11日着、11月4日まで滞在し、
冬の三国峠に向かって11月4日(今の暦では11月29日)出発する。
府中を出るとすぐ関川に架かる府内大橋を渡ることになるが、ここでは橋賃を払っていません。
三国峠を越えるまでには途中信濃川をはじめ幾つかの川を渡るが、いずれにも支出が記録されていません。
この記録から、当時は福井県・石川県では、川を渡るごとに橋賃か船賃が徴収されていたのに、
上杉謙信の領国に入ると、先の交通政策が守られていたことを示しています。

また、今までは近世的な宿駅制度は慶長六(1601)年、
天下を統一した徳川家康によって東海道につくられたのが最初と伝えられていましたが、
この記録によれば、京都を出てから越後府中まで、全(すべ)て1泊48文(一行4人)で宿泊しています。
このことは、当時から北陸道には近世的な宿駅制度が整っていたことが判ります。
(詳しくは『中世越後の旅』(野島出版)を参照)          大家健「北陸の道今昔」より

越前〜加賀では橋賃、船賃など各所で銭を払わされているが
謙信が治めていた越後に入国すると、これらが免除されていた
当時整備されていた北陸道の中でも、とりわけ越後〜つまり春日山は相当発展してたみたいだね
661人間七七四年:2008/07/16(水) 23:49:58 ID:BjUDZpS2
為にはなるんだが、
いい加減上杉スレでやってくれないか?
662人間七七四年:2008/07/17(木) 08:59:55 ID:4Gte/+WX
小田原が東国一なんて書くからだよw
663人間七七四年:2008/07/17(木) 11:52:27 ID:q86cL6uf
>>662
そう言う問題じゃないだろ
664人間七七四年:2008/07/17(木) 18:47:05 ID:tLFt8IMZ
どちらも陸運、海運で西国と東国を結ぶ位置にあって
有力大名が支配しているんだから東国では栄えていて
当然っちゃあ当然だわな。

堺や博多と比べてはいかん。
東国は城下町の域をでないだろ。
665659:2008/07/17(木) 21:28:25 ID:eUjHJDaE
地震情報は無しか。
北条家に打撃を与えた地震と言われているようなんですが。

660のスレ違いな話が今の流れなら消えるよ。


666人間七七四年:2008/07/17(木) 22:40:17 ID:q86cL6uf
北条と今川は、義元の代までは相当良好な関係だよね。
それまでに北条には、西に領土を広げる方針はなかったのだろうか?
667人間七七四年:2008/07/17(木) 23:28:54 ID:RApQ/wgL
甲駿同盟〜三国同盟までの期間はバリバリ敵対してますぜ。
668人間七七四年:2008/07/18(金) 02:07:20 ID:A3iNn5yi
今川を守護大名から戦国大名にさせた氏親時代は後北条は家人のようなもの。
嫡子氏輝時代は北条氏綱が独立大名の気配を見せるが対武田で一致している。
1536年の花倉の乱でも後北条は義元を支援。
しかし翌年武田と婚姻して駿相同盟は決裂、氏綱に河東を奪われる。
1550年代に三国同盟になるまで小競り合いは続く。
両上杉と今川で北条挟撃(その結果の河越夜戦)も義元の策略とされる。

つまり15年くらいは河東をめぐって争っている。
信玄の駿河侵攻でも河東で合戦がされているから
後北条としては伊豆・箱根の後背地として河東郡は関東で攻勢をする以上
必要な土地だったんだろうな。

西への野心というと氏真の養子に氏直を迎えて駿河の継承権を得ているけど
これは武田への牽制かな。
669人間七七四年:2008/07/18(金) 03:32:30 ID:YeAczZbl
三国同盟前でも武田は信濃を、北条は相模・武蔵を制圧していっているのに、
今川はどうにも領土伸張が鈍いんだよなぁ。

松平を取り込んで三河のほぼ制圧してはいるんだけど
670人間七七四年:2008/07/18(金) 10:33:55 ID:zdWOGiYv
遠江の領有も伊勢宗瑞のおかげなんだよねえ。>今川
671人間七七四年:2008/07/19(土) 15:49:39 ID:Pp7jsRYd
あれだけ家中の内紛があったからなあ。
いちおう三河全域を義元時代には支配化に置いているから
そこまで遅いわけでもないような。
武田や北条と争っていたのも大きいのだろうな。
北条や武田は小豪族の各個撃破だからある程度までは拡大ペースは早いでしょ。
その後伸び悩んでいるし(上杉が暴れに来たからなあ)。
672人間七七四年:2008/07/27(日) 16:03:34 ID:ZMgv9j+A
673人間七七四年:2008/07/29(火) 03:13:49 ID:eLRn8z0B
age
674人間七七四年:2008/07/29(火) 10:19:53 ID:HhVhqll5
戦国時代のゴレンジャーこと、北条の五色備えは、案外世間に知られてないな。
675人間七七四年:2008/07/29(火) 12:29:43 ID:l11P27pu
だって江戸期の創作でしょう。
実際にあったとしてもセンスがいいものとは・・・。
676人間七七四年:2008/07/29(火) 13:55:58 ID:NNawzKeI
おまえ、寺社には出向かないのか?
五色は見栄えだけではなくて、
縁起を担いでいる意味合いもある。
677人間七七四年:2008/07/29(火) 16:17:13 ID:l11P27pu
いや、見栄えがいいなんて言っていないよ。
縁起を担ぐにしてもセンスある人ならデザインとの整合性を考えると思うよ。
678人間七七四年:2008/07/29(火) 18:27:46 ID:ZvyuizNQ
ハデハデ好きなかぶき者もおり、
センスがセンスとしてなってない時代に整合性も糞もない。

とはいえ、甲冑に緑ペタペタするのもかっこ悪いそうだが。
679人間七七四年:2008/07/29(火) 20:13:42 ID:HhVhqll5
単純にそれぞれの色で統一した5つの部隊ということなら、特にセンスは悪くないし、むしろ壮観だと思うが。
680人間七七四年:2008/07/30(水) 04:06:44 ID:CWENGR56
センスの問題かぁ
681人間七七四年:2008/08/02(土) 00:36:56 ID:5s6gAY64
age
682人間七七四年:2008/08/02(土) 16:23:43 ID:jIMBM+PJ
5色に分けた部隊、ピカピカの金箔塗装の馬鎧でそろえて並ぶ北条軍は
見栄えしそうだ。
683人間七七四年:2008/08/02(土) 16:36:48 ID:c+/SNQAq
禿鼠に成敗されたのにwwwwwwwww
684人間七七四年:2008/08/02(土) 17:36:48 ID:7tFXr9+x
信長、秀吉と戦っていない地方の覇者は伊達だけ。
685人間七七四年:2008/08/02(土) 18:50:18 ID:8pYxIbDr
まあ、伊達が、覇者かといわれると、それも甚だ疑問だが。
686人間七七四年:2008/08/03(日) 10:30:22 ID:UJbtYdob
伊達の本領奪われて奥地へ押し込まれた
687奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/03(日) 11:04:54 ID:NLVUwL30
宮城の覇者は東北の覇者ではないと思う。
688人間七七四年:2008/08/03(日) 16:57:03 ID:SHgvavRI
>>687
せめて会津も入れてやってくれw
689人間七七四年:2008/08/03(日) 18:11:29 ID:ONB8cNi/
>>687
東北の覇者は津軽なので。
690人間七七四年:2008/08/03(日) 20:00:06 ID:1oQRupIf
本能寺の変後、北条は6万の大軍がありながら甲斐信濃は、上杉、徳川に取られ
上野すら完全に自分の領土に出来なかった?情けなくないか?
691人間七七四年:2008/08/03(日) 22:19:10 ID:ONB8cNi/
>>690
伊達厨は黙ってて。
692人間七七四年:2008/08/03(日) 23:03:25 ID:SHgvavRI
>>690
徳川に関してはとやかく言わないが、
上杉が軍事力にもの言わせてとったみたいな言い方は笑わせる。
693人間七七四年:2008/08/03(日) 23:13:16 ID:1oQRupIf
軍事力にもの言わせてとったみたいに言ってない。
取られたのは事実。
滝川との対戦で上杉に先を越されたのかな?
694人間七七四年:2008/08/03(日) 23:39:09 ID:SHgvavRI
それは対徳川を優先させたからだろ。
二正面作戦を避けた事自体は、非難されることではない。

もちろん戦力を集中させた上で若神子を死守し、黒駒で北条分隊をフルボッコにした徳川に関しては家康を賞賛するしかない。
695人間七七四年:2008/08/04(月) 17:41:14 ID:SvUg2ZGu
北条が欲張りすぎただけだな。
上野・信濃・甲斐の三国を切り取ること自体に無理がある。

徳川とは同盟関係にあったんだから、
上野・北信濃・・・北条領
甲斐・南信濃・・・徳川領
分割しておけばよかったな。
徳川にとっても悪い話ではあるまい。


696人間七七四年:2008/08/04(月) 17:57:03 ID:Pa9vHsxk
>>695
そうそう、徳川は同盟関係で勢いがある。
上杉は滅亡一歩手前 これでいいだろ。

上野・北信濃・・・北条領
甲斐・南信濃・・・徳川領


697人間七七四年:2008/08/04(月) 17:58:29 ID:hXZuCpFx
でもまあ北条にとっても、最終的に外交で手打ちが出来て御の字だったんじゃないかね?
事実あの後、関東平定の方は順調に進んでいくわけで。
698人間七七四年:2008/08/04(月) 18:44:38 ID:1OTVaC9k
いやいや、あの段階でまだ関東にしか目が向いてないなんて、
順調どころか物凄い阿保だろ。
699人間七七四年:2008/08/04(月) 18:56:30 ID:FcB/3xsN
>>698
関東以外に目を向けようがなかった、とも言えるのではないでしょうか?
昔から今川、武田と大勢力に西への道を塞がれているし…
そのまま大勢力になった徳川と手を組んで東に行くのがまともな道かと
700人間七七四年:2008/08/04(月) 21:54:07 ID:BqIWWS51
ただ、滅亡寸前だった上杉に狙いを絞るという手もあったんだよなぁ。
701人間七七四年:2008/08/04(月) 22:04:37 ID:SvUg2ZGu
佐竹・宇都宮・結城・真田・里見が生き残っている以上、関東平定が順調とは言えまい。
こういう言い方をするのは酷かもしれないが滅ぼす気が無かったんじゃないのか?


702奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/04(月) 22:09:15 ID:jObjw+d2
>>701
ヤケに格が落ちる家が混ざってるな。
703人間七七四年:2008/08/04(月) 22:24:08 ID:Pa9vHsxk
本能寺の変の時、毛利は6国くらいあったけど、上杉は越後だけ。
雑魚のくせにプライドだけは高い。
704人間七七四年:2008/08/04(月) 23:02:40 ID:BqIWWS51
上杉は新発田重家の乱という爆弾を抱えていたし、芦名はいくら佐竹の
属国化していたとはいえ上杉を積極的に支援するわけが無いんで、
北条単独でも十分滅ぼせたはずなのになぁ。

御館の乱での消極的な態度といい、氏政は>>701のいうように上杉と
ガチで戦うつもりがなかったのかな。
705人間七七四年:2008/08/05(火) 00:14:24 ID:/WEVf8U/
>>703
ゲームみたいに領土や国力しかみないとそうなる。
室町幕府から三管領待遇・裏書御免を許されており、
高家として申し分ない。
706人間七七四年:2008/08/05(火) 01:45:45 ID:I+YU9VAc
てか中国地方なんて越後・佐渡に比べたらカスみたいなもんだ。
707人間七七四年:2008/08/05(火) 12:27:05 ID:W0Wba6nu
>>705
何がゲームじゃボケェが。物知り顔の奴が相手を見下す時に「ゲームでは」とか言う。
室町幕府なんて実態がないまま簡単に滅びた。
上杉も謙信時代にいい加減な経営してたから柴田、前田に一方的に攻められる。


三管領待遇・裏書御免 ハァ?w
708人間七七四年:2008/08/05(火) 12:37:41 ID:ABtOf6Ki
>>707
そう言う書き込みするから見下されるんだよ。
709人間七七四年:2008/08/05(火) 13:58:39 ID:CxDr5dN7
>>707
上杉が織田に押されたように、
北条も豊臣を前に何も出来ず滅ぼされたでしょ。
氏康がいい加減な外交してたから哀れな末路となってしまっている。
710人間七七四年:2008/08/05(火) 15:25:13 ID:W0Wba6nu
>>709
外交に問題があるのは、氏康ではなく氏政では?
秀吉の実力を甘くみて、小田原城の防備を過信した結果。
711人間七七四年:2008/08/05(火) 15:35:40 ID:dtJ3uOO5
>>710
伊達と同盟したから朝鮮同様例の法則が発動しちゃったんだな。仲間は選べということだ。
712人間七七四年:2008/08/05(火) 15:38:07 ID:ABtOf6Ki
>>711
君は学問板は似合わないよ。三戦板にでも引っ込んでいたほうがいい。
きっとお仲間がいっぱいいるよ?
713人間七七四年:2008/08/05(火) 15:43:38 ID:k3eRndrS
ここは趣味板ですよ
714人間七七四年:2008/08/05(火) 18:08:15 ID:TOtk97RR
>>712
どうぞ学問板の日本史板へ移動してください。
715人間七七四年:2008/08/05(火) 19:45:17 ID:bB2P/M8b
>>704
当時は交通機関が限られているから地形が重大な役割を果たしていると思います
関東平野内でなら大軍で戦えても越後にまで山を越えて兵を送るとなると
手間も予算も大変なことになるのではないでしょうか?

…なんで謙信は関東に拠点を置かなかったのでしょうね
716人間七七四年:2008/08/05(火) 21:06:22 ID:DQU1629e
越後侵攻は大変だろうが上野・信濃・甲斐侵攻はやってのけている。
北条家にとって越後は関心が無かっただけかもね。

こういう言い方をするのは酷かもしれないが関東平定以降の戦略は無かったんじゃないかえ?


717人間七七四年:2008/08/05(火) 22:50:12 ID:bB2P/M8b
>>716
越後どころか弟(上杉景虎)にすら関心がないようですね…
遠すぎるから奪っても治めるのが大変だと思います
甲斐なら本拠地である相模の隣だから何かと気になるのでしょう

関東以外にはあまり興味はなかったらしい、とは聞いています
早雲の頃なら関東平定などと言えば壮大な目標だったのですが
718人間七七四年:2008/08/05(火) 23:20:55 ID:DQU1629e
氏政の場合さ、御館の乱は勿論だがその後の勝頼との甲相合戦もやる気無かったよな。
それなのに本能寺の変の後の上野・信濃・甲斐侵攻には今までに見せたことも無い実行力。
まあその頃は氏直に家督を譲っていたというかもしれんがやっぱり一貫性が無いんだよな。

関東に専念しろっつうの!


719人間七七四年:2008/08/05(火) 23:22:29 ID:alwKeCgW
>>715
その逆は上杉が定例的にやっていたわけだし、武田は碓井峠を超えて
上野に進出したわけだし、北条も信濃で徳川とやりあったわけで、
三国峠があるからというのはちと説得力に欠けるかと。

>>716
越後のみならず、氏綱時代は河東の乱で駿河にも色気を出していたというのに、
天正壬午の乱では駿河に出兵していないんだよなぁ。小田原から目と鼻の先
だというのに。
720人間七七四年:2008/08/05(火) 23:28:49 ID:alwKeCgW
>>718
氏政って大量動員を嫌ってたとしか思えないのに、滝川一益を
神流川で敗北させてから一気に信濃に侵攻したのだけは氏綱、氏康時代よりも
さらに大規模かつ早い動きだよなぁ。
721人間七七四年:2008/08/06(水) 00:04:40 ID:2b8UrrYc
御館はちょうど主力が佐竹一党と対陣していたから。
それでも上野の上杉方を味方にして氏邦勢と共に越後へ攻め入ってる。
せめて雪解けまで粘っていれば本格的な援軍を見込めたかと。
ま、氏政の腰が重いのは否定しようの無い事実だけどな。

甲相合戦に付いては、
北条の東側は慢性的に敵国なので、西側も敵方になると周囲を敵に囲まれてしまう。
こうなると戦線を維持するのが精一杯だと思うが。
ま武田も同様の状況なわけで、
その戦線の維持に前進防御をとるか内線防御をとるかが、
氏政と勝頼の個性が露骨に表れていて面白いと思う。
722人間七七四年:2008/08/06(水) 14:09:02 ID:FUt5M7NV
織田が最大の敵なのに、うまくまとめることは出来なかったのかね。
上杉、武田、北条が同盟して織田、徳川に当たるのがベストなのに。
723人間七七四年:2008/08/06(水) 14:11:30 ID:XTXmoqyi
氏政にそんな大局的な戦略眼などないよ
家康と同盟しててもなにもしなかったヘタレだし まあなんつーかさすが汁大名だよ
724人間七七四年:2008/08/06(水) 14:22:36 ID:XmHGQ/L8
上杉武田と同盟するよりも織田徳川と同盟した方が賢いだろ
725人間七七四年:2008/08/06(水) 14:29:26 ID:XTXmoqyi
信長相手じゃセコセコ獲得してきた関東なんて一発でボッシュートなのになw
結局小田原で切腹だよ
726人間七七四年:2008/08/06(水) 14:46:24 ID:FUt5M7NV
>>724
上杉の場合、内乱当時に能登、越中、加賀を取られてもう少しで滅亡まで追い詰められた。
織田と同盟なんか出来るわけない。

武田も長篠の戦や三方が原で因縁がある。
北条も同盟結んでも、260万石が安泰かどうか分からない。
727北条幻庵ってどお?:2008/08/06(水) 15:03:29 ID:Nn+0VcVx
>>725さんへ。否、氏直が信長の婿となって、豆相武のだいたい三国安堵ってところじゃないのかな?
>>726さんへ。260万石←これは多すぎ、低く見積もって200未満〜高く見積もって210万石が言い所。
728人間七七四年:2008/08/06(水) 15:16:26 ID:qvqpOVFF
>>727
家康が関東に入った時調べたら、140万石くらいだったとか>北条旧領
729人間七七四年:2008/08/06(水) 15:16:51 ID:FUt5M7NV
>>727
滝川を関東に派遣して、北条領を切り取るつもりじゃないのかな?
信長は甘くないよ
730人間七七四年:2008/08/06(水) 15:17:35 ID:qvqpOVFF
>>729
逆だよ信長は甘いよ。
731人間七七四年:2008/08/06(水) 15:21:26 ID:7uvutoS3
そんでなめられてあぼーんだもんな
732人間七七四年:2008/08/06(水) 15:52:19 ID:7x/jdQM7
>>727
北武蔵までぶんどられることはほぼ確定していたし、上総・下総も危ない状況。
伊豆、相模、南武蔵だけになるんじゃないかなぁ。
733北条幻庵ってどお?:2008/08/06(水) 16:07:13 ID:Nn+0VcVx
>>728さんへ。返札感謝。
>140万石くらいだったとか>北条旧領
初耳です。できたらウラドリしたいので、良ければお手数ですが参考資料をお願いします。

私が提示した数字の根拠は>>585の(3).に書いたのですが…
>慶長三年(1598)に行われた豊臣期の全国検地高から割りだした数。
>旧北条領だった伊豆・相模・武蔵・上野大半・下総大半・上総半国・常陸の一部・下野の一部をたすと約206万石。
の数値ですよぉ。

>>729さんへ。返札感謝。確かにそれもありうることだと思います。暇ならシミュレーション宜敷ね。
>>727の理由は…
北条をそのままにして、
景勝討伐や毛利攻め、長宗我部(これ一発変換できない!!)に向かっている信長は、
北条と何らかの協定(婚姻もしくは下位の同盟)があったと考えたのですよ。

>>722-731さんへ。いい暇つぶしができました。改めて感謝します。
734北条幻庵ってどお?:2008/08/06(水) 16:22:51 ID:Nn+0VcVx
>>732さんへ。返札感謝。確かにその通りです。私のレスより具体的に踏み込みました。お見事です。
成田氏長。松山上田氏が自ら厩橋城を訪れて証人を差し出したとか書いてありますね。
ただ、千葉氏は信長の使者を断って切ってしまった事が『関八州古戦録?』にありますから、
一波乱ありそうです。

私の根拠は…>>213の(1).の越相同盟の条項です。
>(1).謙信側は永禄三年(1560)冬〜永禄四年の3月に作成された「関東幕注文」によるラインで国分を主張。
>北条側はその条件をのみ、上野と武蔵の藤田、秩父、成田、岩付、松山、深谷、羽生の7ヶ所を譲渡するが、
>あくまでも謙信の実力次第であるとした。
信長ともこのラインで妥協したと思います。


735人間七七四年:2008/08/06(水) 17:10:43 ID:7x/jdQM7
wikipediaの北条氏政の項では
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E6%94%BF
--begin--
北条は将来には織田家から後継者を迎えることを条件にして、織田の分国として
関東一括統治を願い出ていた。これを一蹴にされたことによって両家の利害は
対立するかに見えたが、氏政はこの時点での信長の勢威を恐れて友好関係は保たれた。
--end--
なんていう記述があるけど、ソースはなんなのだろう?
736人間七七四年:2008/08/06(水) 17:15:44 ID:qvqpOVFF
>>735
信長公記だろ
737人間七七四年:2008/08/06(水) 17:30:03 ID:7x/jdQM7
>>736
Thanks。となると信憑性ものすごく高いですね。

織田家から後継者なんて北畠と同じ運命たどりかねないぐらいに譲歩しても
ダメだったのは関東一括統治を望んだからで、伊豆・相模・南武蔵だけなら
>>727のいう氏直が信長の婿という比較的ゆるい条件でもなんとかなる可能性
あるのかなぁ?

信長は自分に臣従する勢力は、せいぜい徳川程度の大きさに抑える戦略だったのかな?
738人間七七四年:2008/08/06(水) 17:47:17 ID:FUt5M7NV
長曾我部は、早くから信長に接近して四国切り取り自由の許可貰っているけど
土佐、阿波南部以外は認めないと急に約束変えた。
北条の100万石以上の領土は無理だろ。
逆らえば、柴田、滝川、徳川、森が同時になだれ込んでくる。
739人間七七四年:2008/08/06(水) 19:02:37 ID:FUt5M7NV
信長は譜代家臣に恩賞与えないといけないから、島津、長曾我部、毛利、武田、上杉、北条全部潰す予定だっただろ。
740人間七七四年:2008/08/06(水) 19:12:42 ID:te7lmUr1
>>737
いや、信長公記も信憑性は「ものすごく」は高くないと思います
741人間七七四年:2008/08/06(水) 19:28:17 ID:hU7v+Ci4
しっかし、信長にはここまで平身低頭していたのに、なんで信長よりも
さらに大勢力になっていた秀吉相手に突っぱねちゃったんだ…
742人間七七四年:2008/08/06(水) 19:32:50 ID:qvqpOVFF
>>741
秀吉は信長と比べ、上杉や佐竹、真田といった、反北条勢力に近すぎたからでしょ。
743人間七七四年:2008/08/06(水) 19:43:00 ID:FUt5M7NV
>>741
信長の実力は認めても、今まで馴染みがない急に成り上がった秀吉には恐怖を感じなかったのかな。
氏政は頭の回転が鈍いし。
744人間七七四年:2008/08/06(水) 21:15:08 ID:uBMlpWLf
>>721
>氏政と勝頼の個性が露骨に表れていて面白いと思う。
長篠合戦以降の勝頼の戦略は迷走状態だよな。
そして御館の乱以降の氏政も迷走状態だよな。

勝頼は織田信長と合戦をしたかったのか和睦したかったのか?
氏政は関東を統一したかったのか西に進みたかったのか?


745人間七七四年:2008/08/06(水) 22:07:46 ID:te7lmUr1
>>744
勝頼は手取川で敗れた直後、信長に和睦を申し込まれて蹴った。
謙信が死ぬと今度は勝頼から信長に和睦を願うが蹴られているそうな。


ソースは忘れてた。
746人間七七四年:2008/08/06(水) 22:22:42 ID:uBMlpWLf
前者・・・軍鑑
後者・・・佐竹古文書


747人間七七四年:2008/08/06(水) 22:59:04 ID:te7lmUr1
そうだったのか。サンキュ。
でもこれが真実だとすると、勝頼は本当に運がないね。
「謙信が信長を圧してるんだから、謙信を怒らせまい。
信長に報復を」とか考えていたらアル中謙信あぼん。
そんだけ謙信の威望が一気に高まったんだろうけどね。
748人間七七四年:2008/08/07(木) 11:15:52 ID:MuMOa7Uw
信玄、謙信は遠征する経済基盤がないし、早死にしてる。駄目だろ。
謙信は酒と塩分取りすぎだったかな。
749人間七七四年:2008/08/07(木) 12:15:46 ID:BjJFhmaI
謙信は経済基盤ありまくり。しかも手取川の後となると、
越中、能登、加賀を勢力圏に入れている状態。
750人間七七四年:2008/08/07(木) 14:04:55 ID:MuMOa7Uw
↑こいつアホだから無視ね

信長みたいに5つの軍団を全国に派遣できるのかいな
751人間七七四年:2008/08/07(木) 14:21:08 ID:o/xcNT/U
↑その軍団が蹴散らされることによって
勢力図が書き換えられることが
解らないようだね。
752人間七七四年:2008/08/07(木) 15:40:24 ID:MuMOa7Uw
謙信を擁護する奴の気が知れない。
関東管領なのに東上野だけ、村上などに旧領回復を頼まれても信濃をまったく取り戻せない。
死ぬ前に、織田軍に奇襲で1回勝っただけ。
領土が増えないから家臣はただ働きで愛想尽かされることが多い。
753人間七七四年:2008/08/07(木) 15:54:38 ID:hWZmnnHa
>>752
よそでやれ
754人間七七四年:2008/08/07(木) 17:49:59 ID:J8/ifUwm
関東三国志で謙信の存在感というか圧力は凄いわ。
ただ小田原北条と違って領域支配の概念が乏しかったのが幸いした。
純粋に関東に張り付いてばかりいられない事情があったのだろうけど。

後世から見ると北条にとっての謙信は関東を定期的に荒らす天災みたいな
ものだったな、どのみち北条の拡大は続いていたしね。
755人間七七四年:2008/08/07(木) 18:12:45 ID:mRjbLk7h
なにこのageキチガイ? と、それはともかく

>>747
能登、加賀合わせて50万石程度を一挙に勢力圏に入れたからねぇ。
越前でも上杉方についた一向一揆がいたようだし。
756人間七七四年:2008/08/07(木) 21:35:13 ID:a20afACg
また北条スレじゃなくなっている。


757人間七七四年:2008/08/07(木) 21:43:33 ID:hWZmnnHa
氏綱の時代に、姓を北条に変えた後も、北条家の家臣団の中に伊勢氏は残っているよね。
アレは例えば、徳川における松平氏のような関係なのかな?
758人間七七四年:2008/08/07(木) 21:51:29 ID:LKQ9T4yW
謙信の関東進出が久留里城包囲のときではなく、せめて上総の確保のあと、
できれば里見が滅亡してからだったらなぁ。
759人間七七四年:2008/08/08(金) 21:03:48 ID:CVE2KzmR
他人のせいにしてはいけない。
北条氏康が善徳寺会盟後に行動を起こせばよかっただけだな。


760人間七七四年:2008/08/09(土) 22:15:40 ID:KnCWYit2
てか里見が不死鳥過ぎる。
安房一国に封じ込めてもいつの間にか上総に進出しているし。
こう考えると両上杉は脆かったなあ。
761人間七七四年:2008/08/11(月) 16:08:19 ID:gWDsQ4Pa
あれ? 最終的には北条に頭下げてなかったっけ?
762人間七七四年:2008/08/11(月) 20:40:22 ID:Y7J1aQwN
1577年に和睦したけど、1567年の三船山合戦以降は上総を完全に確保し、
下総南部まで勢力を伸ばしている状態で、里見氏は最大版図を達成している。

1578年に義弘が死んで義頼と梅王丸との間でお家騒動が発生したけど、
義頼は氏政の妹を嫁にして北条氏の支援を受けて勝利した。

にしても、うまくやれば里見自体をつぶせたというのに…
どうも氏政ってお家騒動につけこむのが下手という印象が。
763人間七七四年:2008/08/11(月) 21:05:58 ID:zMsOZCzW
相模、武蔵の豪族に一族の者を養子に出して乗っ取りに成功してるけど、
上野、下野あたりは北条に付いたり上杉に付いたりで曖昧な状態が続いたような。

筑前の豪族も大友に付いてもすぐ離反したりしてる。
764人間七七四年:2008/08/11(月) 22:48:26 ID:Y7J1aQwN
>>763
氏康が滝山城の大石氏に氏照を養子に出して乗っ取ったりしたのは
上手くやったよなぁ。

この辺が一番上手いのはやっぱり毛利元就かな。
765人間七七四年:2008/08/12(火) 02:24:41 ID:Ekqd8OM/
>>763
上野・下野が安定して北条勢力圏に組み込まれるのは沼尻以降だからな。
それだけ現利根川(古利根川〜関宿〜霞ヶ浦)のラインを超えるのは大変だったんだろうな。

>>762
水軍破って陸上でも後退させての講和で、しかもお家騒動でさらに力を消費しているからな。
里見に既に北条と戦えるだけの余力は残ってないように思える。
同様に御館の乱で武田と交戦状態に陥った北条にどの方面にも攻勢に出る余力は無くなってる。
実に良いタイミングで里見を降したな、と。
766人間七七四年:2008/08/12(火) 03:45:22 ID:IlubVznw
里見のお家芸だよ。北条を悪用して相続争いに勝つ戦略はw
北条出の妻が死んだら待ってましたとばかりに反北条になっちゃうしw
妻を殺したんでないか?ってくらい絶妙のタイミングw
そのおかげで秀吉の小田原攻めでは、他の関東諸将が北条と一蓮托生で滅亡しまくった中で里見は生き残り、ザマァ北条wwwな勝利宣言してるがな。
767人間七七四年:2008/08/12(火) 03:58:26 ID:YipDnXGZ
氏政としては妹を送り込んだ時点で乗っ取り完了とでも思っていたんだろうか
768人間七七四年:2008/08/13(水) 02:12:01 ID:qDeSDBdk
>>741-743
天下の軍ともいえる信長配下の滝川軍を破ったこと。小牧で格下の家康が秀吉を破っていることなどが北条に変な自信をつけさせたんじゃまいか
769人間七七四年:2008/08/13(水) 23:59:07 ID:1Z6cXloT
秀吉が実行した小田原合戦の時、小西行長と加藤清正は参陣していないでいいよね?
宇喜多・毛利・長曾我部・福島は参陣しているけど。


770人間七七四年:2008/08/18(月) 13:10:21 ID:ZD+5vhsl
秀吉に攻められて、残りは小田原城と忍城だけになったんだろ?
島津や長曾我部みたいに、領土がある内に降参しないと全部取られても仕方ない。
771人間七七四年:2008/08/19(火) 11:55:26 ID:S31BwJCO
事大主義ですね。わかります。
772人間七七四年:2008/08/22(金) 13:01:43 ID:ajkiXkxY
司馬遼太郎の小説で氏政がオレンジを橙と間違える話があったけど、これ実話?
なんか汁かけ飯とか麦とか食い物に関する逸話が多いな。
773人間七七四年:2008/08/22(金) 21:07:41 ID:L9NWDJP1
汁かけも麦も橙とオレンジも、どれも創作の域を出ない。
774人間七七四年:2008/08/25(月) 18:31:13 ID:/10uITaV
豊臣秀吉が行った小田原合戦で、
 中山城合戦やその後の関東諸城を平定した徳川家康
 韮山城合戦の総大将の織田信雄
 松井田城合戦など北国勢をまとめた前田利家
この三人が要職に任じられたことは分かります。

疑問なのは館林城・忍城の合戦を指揮した石田三成の抜擢。
何で彼がかなり重要な役職に登用されたんでしょう?


775人間七七四年:2008/08/26(火) 15:56:07 ID:sl7TL7qg
>>774
豊臣政権の幹部としての経験を積ませたかったんじゃないの
776人間七七四年:2008/08/26(火) 18:39:26 ID:mMgeV1Ph
三成自身は忍城の水攻めには反対だったが
秀吉が水攻めに固執しただけで
三成の戦下手と言うのは可哀相。
ただ秀吉の強要による水攻めの失敗批判を
三成は秀吉の身代わりになってるから
秀吉は三成を重宝したんじゃないかな。
777人間七七四年:2008/08/27(水) 02:51:05 ID:rtUaJAEC
774がへうげ読者だということはよく分かったw
778人間七七四年:2008/08/27(水) 04:55:38 ID:eRqFpnmt
>>775
経験とか戦功とかなら秀次でもいいような気がしますがどうなんでしょうね。

>>777
スマソ。
へうげって読んだこと無い。
小説は読まないから・・・知らないけど石田三成の本か何か?


779高野聖 ◆UnCmUnUn.U :2008/08/29(金) 11:16:45 ID:J+oaHQ0d
>>778
漫画雑誌の週刊モーニングに連載されている「へうげもの」って漫画の事です。

主人公は古田織部。
ちょうど今、秀吉が北条攻めを終えて関東平定した辺りを進行中。
780高野聖 ◆UnCmUnUn.U :2008/08/29(金) 11:22:54 ID:J+oaHQ0d
そうそう、マンガといえば忍城攻防戦を描いた
「のぼうの城」がスピリッツで漫画化されるンですよね。
それも美味しンぼ!の花咲アキラ。


なンかものすごい作品になりそうだ。。。
781人間七七四年:2008/08/30(土) 23:47:40 ID:gjfkXOJN
>>779
ありがdd。

漫画好きだけど読むことはなさそう〜。


782人間七七四年:2008/08/31(日) 01:35:32 ID:WlUs08tB
へうげものは今、戦国もんで一番面白い漫画なので、
それはちょっと惜しいね。
783人間七七四年:2008/09/01(月) 00:09:12 ID:ni3lgLFk
へうげものって豊臣方の漫画では一番北条の扱いがいいんじゃないか?
784人間七七四年:2008/09/02(火) 11:28:04 ID:3Nd+Yy+5
785人間七七四年:2008/09/03(水) 20:56:23 ID:KjHAEe/3
一通り暴れ終わった後、最終的に関八州の長になったのは家康でした
786人間七七四年:2008/09/03(水) 20:57:56 ID:ih8VIv8T
家康は何気に、三国同盟の領地を全部支配している件。
787人間七七四年:2008/09/03(水) 21:18:01 ID:mFgJxjFS
今川・武田・北条の遺臣ももれなく吸収しまくってるしね。
魏呉蜀を平らげた晋を髣髴とさせる。
788人間七七四年:2008/09/03(水) 23:05:15 ID:EfckauSc
>>787
関東系では、中山氏、秋元氏などが有名かな?
あと、狭山藩主家からも寺社奉行が出ている。
789人間七七四年:2008/09/04(木) 07:55:10 ID:6PKkhzKZ
遠山氏や間宮氏なんかも有名かと。
遠山氏の場合は遠山の金さんのおかげだけどなw
790人間七七四年:2008/09/04(木) 11:23:36 ID:l+91cJEI
金さんは美濃遠山氏じゃないの?
791人間七七四年:2008/09/04(木) 14:19:49 ID:6PKkhzKZ
おお、勘違いしてた、スマン。
792人間七七四年:2008/09/04(木) 14:28:27 ID:0uavHQTo
伊勢氏から分かれた北条氏は、なんのかんので大名家として存続したが、本家の伊勢氏のほうは
いつの間にやら没落して町人になったらしい。
793人間七七四年:2008/09/04(木) 17:54:31 ID:Ph1NaK3K
>>792
wikipedia情報でアレだけど、交代寄合になっていたようだぞ。
794人間七七四年:2008/09/04(木) 18:06:36 ID:0uavHQTo
>>793
へええ。それは知らなかった。ありがと。
795人間七七四年:2008/09/05(金) 00:06:24 ID:dv2ttSKE
>>792
江戸中期の有職家の伊勢貞丈は伊勢氏の子孫だったはず
796人間七七四年:2008/09/05(金) 00:22:04 ID:pkMeJIpz
伊勢氏って室町時代は、政所執事の家柄で、今で言えば、財務大臣をずーーっと世襲してきたような家なんだよな。
室町幕府の政治中枢そのもの。
797人間七七四年:2008/09/05(金) 02:10:01 ID:ocArTWNf
今度小田原に行くことになったのだが、
天守閣と歴史見聞館には行くとして、他にも行っておいたほうがいい所ってある?
鉢形が地元なので、氏邦ゆかりの所とかは小田原にはないかな?
798人間七七四年:2008/09/05(金) 02:54:27 ID:pkMeJIpz
>>797
玉宝寺とか一夜城跡とか。あと少し足を伸ばして早雲寺とか。
799人間七七四年:2008/09/05(金) 03:25:55 ID:ocArTWNf
>>798
電車なので時間的に無理かもしれないけど、情報ありがとう。
800人間七七四年:2008/09/09(火) 17:30:57 ID:Fm5c9pQx
小田原城なんて近代建築物見るの止めて

できれば三島まで行ってバスで30分の山中城へ行くべきだ。
北条築城術最終進化は鉢形城跡を遥かに上回るぜ。
ついでに三島大社の宝物館に三島暦ってのが紹介されてるんだが
後北条統治領域はこの暦を使ってたらしく京とは日月のズレがあったそうだ。
甲斐なんかもそうだったとか!?
ちなみに信長も京とはズレがあるがどちらが本当なのか調べろ!と命じたが本能寺で死んでうやむやになったとか。
駿府の家康も三島暦を使ってたから京へ行く秀忠が京との日程決めた時、実際に京へ行く時に三島暦を参考にしたとか結構面白い。
801797:2008/09/11(木) 02:24:23 ID:KhTnqyc6
>>800
結局天守閣と見聞館しかいけなかった。
正直微妙だったので、その山中城や三島大社にも行ってみたくなった。
三島暦とか興味深いし、宝物館とか入れるのかな
802人間七七四年:2008/09/11(木) 12:36:35 ID:MSJQhZ4k
宝物館はなかなかいよ。
803人間七七四年:2008/09/15(月) 15:55:57 ID:GmkGyDLI
のぼうの城 で北条メジャー化
804人間七七四年:2008/09/15(月) 16:28:44 ID:M1nJot/K
アレでメジャーになるとはとてもとてもw
805うじまさ:2008/09/20(土) 11:44:50 ID:zEycD72h
メジャー化など必要悪だ
806人間七七四年:2008/09/20(土) 12:22:38 ID:t+Kl0zUQ
大河化したら山中城や八王子城も登場するかな。
807人間七七四年:2008/09/20(土) 13:23:20 ID:hT+yjiuH
>>797
城内の象は見たのか?w
808人間七七四年:2008/09/20(土) 18:23:25 ID:iEOL0A3x
>>797
氏政・氏照の墓は?
809人間七七四年:2008/09/20(土) 20:07:04 ID:En9z+EMY
小田原の北条5代祭り行ったぜ
地元民には結構人気あるんだな
810人間七七四年:2008/09/27(土) 21:16:39 ID:q2E7kNJ6
北条氏って関八州ゲットしたらどうするつもりだったの?
811人間七七四年:2008/09/27(土) 21:30:49 ID:aNoXgbsO
ヒッキー
812人間七七四年:2008/09/27(土) 21:34:29 ID:uFjkpPlS
>>810
中央政権からある程度独立した東国政権、室町期の鎌倉府みたいな感じをイメージしてたと思うぞ。
813人間七七四年:2008/09/28(日) 16:23:28 ID:h+KTAndT
奥州藤原・会津上杉みたいな感じか
でも保守だといずれは中央制圧したとこにやられるって認識なかったのかなぁ
814人間七七四年:2008/09/28(日) 16:31:43 ID:2PCb0JDX
つーかまあ、現実的目標としての関東制覇で、
関東制覇が成し遂げられればそれはそれで次の目標が出来るものさ。
815人間七七四年:2008/10/06(月) 15:21:02 ID:luehQA5t
当面は周辺を徐々に従えたりかな。
816人間七七四年:2008/10/06(月) 21:14:03 ID:kuMTSxez
ガキの頃、地元が北条ゆかりの地ってのが恥ずかしくて小田原城で連れと立ちションしたな。
武田や上杉だったらよかったのに。
817人間七七四年:2008/10/08(水) 21:48:12 ID:XQ3UKTGB
>>813
>でも保守だといずれは中央制圧したとこにやられるって認識なかったのかなぁ
北条氏政の視点では豊臣政権下で北条派の徳川家康が存在していたわけですから、
やられるどころかうまくやっているという認識じゃないのかな?

氏直や氏規は焦っていたと思いますが。


818人間七七四年:2008/10/14(火) 22:33:27 ID:kpDZom8H
>>809小田原で一番大規模な祭りだからね。交流都市の八王子市や旧韮山町からも行列に参加する。

大将クラスの立派な甲冑着た武者が隊列組んで鉄砲射撃したりするけど、それはイベントという事で御愛嬌。
819人間七七四年:2008/10/20(月) 15:18:39 ID:JXsw+hj+
面白そうな祭りだね。
820人間七七四年:2008/10/20(月) 17:35:37 ID:AFFHtHB1
火縄銃の射撃を見たこと無いのなら、一度みてみるといいよ。
あれを連射したら視界が一挙に悪くなるというのがよくわかる。
821人間七七四年:2008/10/21(火) 14:17:32 ID:R2Morkl/
ニダ
822人間七七四年:2008/10/21(火) 20:55:26 ID:nijyMgw7
歴史ロマンもジャンボ級/小田原城、最大規模の堀見つかる
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiioct0810308/


小田原城跡八幡山遺構群 遺跡見学会(かながわ考古学財団)
http://www.kaf.or.jp/gyouji/gensetu/genchisetumeiaodakou2.html
>平成20年10月23日(木) 午後2:30(少雨決行)
>平成20年10月26日(日) 午後2:30(少雨決行)
823人間七七四年:2008/10/21(火) 23:30:43 ID:VRa4pw0W
伊勢宗瑞の、昔言われてた「長氏」って名前はやっぱり、「後の四代が氏を通字にしてるから
初代も付いてただろ」くらいの感覚で勝手につけられた名前なのかね?
824人間七七四年:2008/10/22(水) 09:24:45 ID:uv51fFlY
先代は北条行長だしな。
825人間七七四年:2008/10/22(水) 09:33:17 ID:2+5A9/D8
>>824
つまり「行長」+「氏綱」=長氏、ってわけか。
826人間七七四年:2008/10/22(水) 17:30:59 ID:y2bESjDC
北条幻庵は長綱ともいうんだぜ。

参考までに、宗瑞の子供。
氏綱、氏時、(葛山)氏広、長松院殿、長綱(幻庵宗哲)、青松院殿。
長幼の順は不明な点がある。
確実なのは氏綱が長男で、
幻庵が四男で幻庵からみて姉が長松院殿で妹が青松院殿でこの三人は同母姉兄。
827人間七七四年:2008/10/23(木) 00:15:56 ID:Wgy5fY8s
>>825
ちょwおまw
行「長氏」綱かww凄い発見ww
案外それが真相っぽいな。>>824を書き込んでよかったよww


ところで当時伊豆の地侍に執権北条後裔の北条さんはいたのかな?

それと伊勢氏説が事実と仮定して、大族伊勢の末がわざわざ先祖を伝えなかったのにはそれなりに理由があるはずだよな。
828人間七七四年:2008/10/23(木) 00:42:33 ID:/LpgPX/C
>>827
> それと伊勢氏説が事実と仮定して、大族伊勢の末がわざわざ先祖を伝えなかったのにはそれなりに理由があるはずだよな。

やっぱり京からの侵略者って見られがちだったのと、伊勢氏の時代は今川の家臣だった、ってことが
あるせいじゃ無いかね?
829人間七七四年:2008/10/23(木) 10:02:35 ID:Wgy5fY8s
>>828
うーん、、、
でも家臣の下剋上はごまんとあるし、イメージ戦略でも既に伊勢盛時の代で戦国大名化しちゃってるしなぁ。
積極的に変える理由が思い当たらない。

そうすると氏綱が伊豆の北条さんちを継いだのは意外と事実なんじゃないかとも思えるんだ。
830人間七七四年:2008/10/23(木) 10:38:03 ID:9p1LnrHV
伊勢氏の係累じゃないかって、寛政譜でも言ってることだしね。
831人間七七四年:2008/10/23(木) 10:45:54 ID:/LpgPX/C
素浪人説は江戸後期から講談などで広まったようで>新九郎
江戸期特有の「下克上史観」ってのがベースにあったようね。
832人間七七四年:2008/10/25(土) 13:13:57 ID:o358G3Sk
しかし北条系のサイトでも未だに、伊勢盛時を「長氏」って書いているところ多いな。
刷り込みと言うのは恐ろしい。
833人間七七四年:2008/10/25(土) 19:21:58 ID:haZb3X9S
>>822それ明日行こうと思う。
834人間七七四年:2008/10/25(土) 20:32:04 ID:I+nZjYO7
他国の凶徒
と上杉側から呼ばれてたから
執権北条の名前で名分を得て関東支配の正当化をしたんだろ
835人間七七四年:2008/10/25(土) 20:53:17 ID:roty003s
北条姓を称したのは、関東侵略に有効だったほか、
幕府に派遣された立場からの訣別なんだろうな。

結果、幕府の後ろ盾で上杉になった越後軍によって、関東制覇は停滞。

やっぱり幕府を舐めちゃいけないな。
836人間七七四年:2008/10/25(土) 22:40:16 ID:fWV+qKu6
とはいえ北条を称してるのに仮冒の仕方が不自然なんだぜ。
血筋を北条だとせずに養子になったとするなら養子前の出自を残すのが普通だと思うんだぜ。
だって隠すような卑しい出自じゃないんだぜ。
侵略者のイメージを払拭したいなら血筋を繋げるぜ。

あぁでも家臣に伊勢氏を迎えてるしな。
早雲の出自に関してのちゃんとした文書が残ってないのはヤパーリ戦国の最後に脱落したせいか。
意図して残さなかったわけじゃないだろうな。
837人間七七四年:2008/10/25(土) 22:40:58 ID:o358G3Sk
相模守への叙任もかかわっているのかもね。
838人間七七四年:2008/10/27(月) 17:21:34 ID:gyHyyAK5
現代に北条って名字の人いるの?
839人間七七四年:2008/10/27(月) 17:24:35 ID:cvKcfSlh
>>838
いくらでもいるぞ
840人間七七四年:2008/10/27(月) 18:40:38 ID:1DMv3eC+
>>835
むしろ、伊勢姓=幕府の狗というイメージによるのでは?
841人間七七四年:2008/10/27(月) 21:08:22 ID:gyHyyAK5
>>839
本当に?
自分の周りで北条なんて名字聞いた事無いしネットで探しても芸名かペンネームしか出てこないんだが…
一番最近で創価の人(故人)しか出てこないし…。
842人間七七四年:2008/10/27(月) 21:38:51 ID:RDSkzedt
非坂東人>841
843人間七七四年:2008/10/27(月) 22:46:58 ID:WZKArY+l
>>841
それ本気で言ってるの!?
俺は静岡県民だが、そこらじゅうにいるよ。
明らかに多い部類の名字だよん。
844人間七七四年:2008/10/27(月) 23:33:10 ID:gyHyyAK5
>>843
マジで!?
ちなみに小田原在住なんだが本当に生きてる間に一度も北条さんに出会った事が無い…
現代では漫画やアニメの中だけにしか存在しない名字なのかと思ってた…
北条家がもう使ってないとか。
845人間七七四年:2008/10/27(月) 23:41:34 ID:cvKcfSlh
山ほどいるな

911  北条  約20,500  伊豆国田方郡北条庄発祥の桓武平氏維将流が有名。ほか各地北条地名より発祥。
http://www.myj7000.jp-biz.net/1000/0100f.htm
846人間七七四年:2008/10/28(火) 00:13:10 ID:8++vQDg/
おぉ〜大分いるんだな、
なんか心のモヤモヤが取れた気がするよ、d。

で調べてたら
http://saki.2ch.net/qa/kako/962/962112897.html
俺と同じ事聞いててワラタ
847人間七七四年:2008/10/28(火) 04:16:58 ID:ZzI+QPJg
>>844
それは意外だね。
俺自身が北條だけど、親戚抜きで今までに五軒くらいの北條と知り合ってるよ。
848人間七七四年:2008/10/28(火) 15:09:56 ID:8++vQDg/
へぇ北条じゃなくて北條?
この2つの違いに意味はあるの?
849人間七七四年:2008/10/28(火) 20:23:19 ID:ZzI+QPJg
>>848
旧字と新字だよ。
戦後はマスコミ、出版物等々で新字を使ってるから教科書でも東条英機、乃木希典、北条政子等と表記されるけど、
東條、稀典、北條が正しい書き方。
創価の人も北條だよ。
850人間七七四年:2008/10/28(火) 20:36:39 ID:j+Fdfr9L
宝田さんと、寶田さん
薬師寺さんと藥師寺さん
檜山さんと桧山さん、みたいなものか。
851人間七七四年:2008/10/28(火) 22:06:36 ID:iJ3f5D0T
字は同じでも「きたじょう」と読む人もいたりする。
852高広:2008/10/28(火) 23:04:22 ID:jd5ygOWK
ワシのことか!
853人間七七四年:2008/10/29(水) 02:22:42 ID:7yZS81Hl
>>852
あんた、小田原北条に「字面を変えろ」と難癖付けられてなかった?w
854人間七七四年:2008/10/29(水) 19:02:43 ID:hH8I+4Ut
強引に喜多条さんに改姓させられそうになったな。
北条兄弟曰く、紛らわしいから、だそうだ。
855人間七七四年:2008/10/29(水) 19:18:40 ID:XHWZzSs4
高広は「きたじょう」って呼び方に拘らず毛利を名乗れば良かったのに
それか大江
大江広元の子孫を誇りたかったら大江
北条毛利と呼ばれていたのなら毛利
どっちでも良かった筈なのに
なぜわざわざ「きたじょう」に拘泥したのか
856人間七七四年:2008/10/30(木) 02:52:18 ID:wT6xNEID
「毛利」名義の書状なかったっけ
857人間七七四年:2008/10/30(木) 15:52:15 ID:7AXUKSFE
人気武将投票スレで人気の蔭山氏広について詳しい人はいないかい?
858人間七七四年:2008/10/31(金) 00:58:05 ID:7Zii7hWE
>>857
お万の方の(養)父の?
最近は実父とみる見解もあるそうだが
859人間七七四年:2008/10/31(金) 13:47:06 ID:PayfnYFJ
古代、中世の貴族、大名の子孫って現代でもどうして代を重ねるに連れすごくなっていくのでしょうか?関白というおじゃる丸や管領というぜんまいざむらいの子孫は現代では近衛総理大臣や細川総理大臣といった化け物。
860人間七七四年:2008/11/10(月) 15:33:20 ID:oL1UrIrA
大江ならわかるが毛利と名乗らなくても良いんじゃ。
861人間七七四年:2008/11/10(月) 16:14:42 ID:Mr/UK3Pz
毛利の庄の家だもの
862人間七七四年:2008/11/14(金) 18:39:31 ID:ncE0zEcB
863人間七七四年:2008/11/16(日) 11:50:33 ID:O52qHiz3
親戚縁者がみんな大江だと
どこそこに住む大江のおじさんとか呼び分けるの面倒だから地名で呼ぶようになるんだよ。
毛利庄の大江おじさん北条庄の大江おじさん→親戚みんな大江だし短縮。
864人間七七四年:2008/11/16(日) 12:27:41 ID:yMuYI+Vu
>>860
そりゃ毛利も北条も大江って名乗ってたよ。それよりも名字の話でそ?
865人間七七四年:2008/11/16(日) 18:41:20 ID:wgu4oANJ
天下を取って欲しかった‥
866人間七七四年:2008/11/16(日) 18:43:49 ID:O52qHiz3
絶対無理
867人間七七四年:2008/11/16(日) 20:01:09 ID:PlHqi+GU
そもそも取る気ねーだろ
868人間七七四年:2008/11/16(日) 21:14:41 ID:wgu4oANJ
もし‥北条氏が天下を納めたら‥
どんな時代になっていただろうか‥
869人間七七四年:2008/11/16(日) 21:17:33 ID:eVbAQ5Jg
>>868
江戸期と大差ない社会になったと思うぞ。後北条氏の統治こそプレ近世社会。
織田、豊臣、ってのは、哺乳類型爬虫類と哺乳類の間に、狂い咲きした恐竜みたいなもの。
870人間七七四年:2008/11/16(日) 21:18:10 ID:O52qHiz3
>>868
小田原に呼びつけて拉致しまくり脅迫されるリアル北斗の拳時代。
871人間七七四年:2008/11/16(日) 21:41:01 ID:HOyf189v
由良長尾兄弟ですね、わかります。
872人間七七四年:2008/11/16(日) 22:25:17 ID:+M1p5ZAG
江戸時代よりもずっと時代から取り残された政権になるだろうな。
特に朝廷との距離の置き方を間違えて、
明治維新より前に諸藩から滅ぼされそう。

逆に言えば徳川政権も北条の失敗を目の当たりにしてきたからこそ、
あの形で生きながらえることが出来たわけで。
873人間七七四年:2008/11/16(日) 23:35:14 ID:EBF6ba93
>>872
>江戸時代よりもずっと時代から取り残された政権になるだろうな。
相当頭悪いな お前これ正気で書いてるなら入院しろ
中央集権に逆らったのは他のほとんどの有力大名とて同じ事
北条はたまたまなりゆき上立場悪くなって滅んだだけです
基地外論理で無理矢理北条貶めてるのがミエミエで痛すぎる

>逆に言えば徳川政権も北条の失敗を目の当たりにしてきたからこそ、
>あの形で生きながらえることが出来たわけで。

いつからそんな設定でてきたこの基地外ゴミカス野朗
その時歴史が動いたに出てた北条専門の歴史研究者が 徳川政権は北条の優れた領国経営システム
を受け継いだと言っている
僕の大好きな毛利はでかい癖に何もできないでやられまくっただけだけどえらいんだもんw

戦国版なのに幕末活躍した事考慮するべきなんだもんw

ってか?   この基地外童貞包茎キモヲタチンカス野朗

頼むから幼稚園児にも負けそうな知能障害は無駄な書き込みをしないでくれ
874人間七七四年:2008/11/16(日) 23:42:33 ID:EBF6ba93
ID:+M1p5ZAGは相当な低脳だな
戦国うんうん以前に学校の勉強、それも小学レベルからやり直したほうがいい
目障りだから二度と北条スレに来ないでくれ
お前みたいなスレ汚しは社会の役にも立たなさそうだから自殺するか脳内整形でもしろ
875人間七七四年:2008/11/16(日) 23:47:47 ID:eVbAQ5Jg
なんかID:EBF6ba93このキチガイ、いろんなところで暴れてるな。
876人間七七四年:2008/11/16(日) 23:47:48 ID:O52qHiz3
ソースは「その時歴史が動いた」だ!
ここ笑うところwww

まー北条は治水すらやってない税金泥棒政権なんだよな。
877人間七七四年:2008/11/16(日) 23:53:04 ID:EBF6ba93
は?何でNHKが嘘を述べる歴史研究者をよぶんだ?w

んな事いったら全ての資料も何もかも根拠にならんな。馬鹿か?

治水やってないとか無知丸出しだな。頼むから書き込み控えてくれ目障りだ
878人間七七四年:2008/11/16(日) 23:57:35 ID:O52qHiz3
>>877
おまえホントに無知丸出しだなw
かなり恥ずかしいぞ。
879人間七七四年:2008/11/16(日) 23:58:14 ID:eVbAQ5Jg
キチガイ二人が罵り合っている地獄
880人間七七四年:2008/11/17(月) 00:01:01 ID:Jr0O97kv
>>878
自分の無知さ馬鹿さ低脳さも理解できねぇ包茎ウンコゴミカス野朗は一生ROMってろ

どっちが基地外かも思慮分別つかん馬鹿しんどけこのボケw
881人間七七四年:2008/11/17(月) 00:07:24 ID:VFK9Gjlq
北条は領地に善政もしていなければ統制も出来ていない。
882人間七七四年:2008/11/17(月) 00:08:27 ID:Jr0O97kv
>>881
妄想乙
883人間七七四年:2008/11/17(月) 00:11:31 ID:Jr0O97kv
ID:VFK9Gjlq
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房
884人間七七四年:2008/11/17(月) 00:16:14 ID:Jr0O97kv
ID:VFK9Gjlq
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ





885人間七七四年:2008/11/17(月) 00:16:57 ID:Jr0O97kv
ID:VFK9Gjlq
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
死ねボケクズカスゴミ基地外低脳厨房精神障害ゲームヲタ包茎童貞キモヲタ
886人間七七四年:2008/11/17(月) 02:48:59 ID:LhTddjBF
>>881
善政に付いてはともかく、
北条が領地の統制できていないとなると、ほぼ全ての大名が領地の統制ができてないことになりますよ。
887人間七七四年:2008/11/17(月) 05:03:33 ID:5HBhxRGn
>は?何でNHKが嘘を述べる歴史研究者をよぶんだ?w

これはwwwwwww
釣り針大き過ぎだろwwwwwwwwwww
888人間七七四年:2008/11/17(月) 09:28:03 ID:/k02Y7TN
荒れすぎだろw
北条氏の御威光も、このスレまでは及ばぬのか…!
889人間七七四年:2008/11/17(月) 13:39:06 ID:izfgHHtx
惣村の逃散が多い
890人間七七四年:2008/11/17(月) 15:30:57 ID:6l1dAHHw
武田や上杉や里見に国土蹂躙され放火されまくりなのに
重税かけた挙句に、その金で引き篭もり防衛意識なしのダメ大名。
891人間七七四年:2008/11/17(月) 15:37:22 ID:yuKNLeMn
>>887
北条を長年専門中専門として研究してきた、全国ネットで流れる(しかもNHK)に招かれる程偉大な
静岡県立大学教授大和田教授の意見、発言よりも

ただ北条弱くしたいだけの自分の脳内妄想設定の方が正しいんだもんw

学界なんてでたらめなんだもんw

全部うそで塗り固められてるだけなんだもんw

ってか?

馬鹿がwwwwwwwwwwww

自分の基地外妄想語って喜んでんじゃねぇよwボケがwwwww
892人間七七四年:2008/11/17(月) 15:45:50 ID:yuKNLeMn
>>890
お前の脳ミソの方が百倍ダメだわこの低脳真性ゴミヲタ自己中論理基地外野朗

北条>>>>>>>>>>>>>>>>毛利



ついでにいうと


一条兼定>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>お前

これはガチ
893人間七七四年:2008/11/17(月) 15:50:29 ID:yuKNLeMn
脳ミソレベル

アメーバ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>(原爆級の壁)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>890

894人間七七四年:2008/11/17(月) 16:02:45 ID:yuKNLeMn
北条専門中専門の歴史研究家よりも何も知らないで北条を弱くしたい自分の脳内妄想のが正しいって



どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
895人間七七四年:2008/11/17(月) 16:05:10 ID:yuKNLeMn
総構えという常識を覆す手段での防衛を講じる北条が防衛意識なしって


どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
896人間七七四年:2008/11/17(月) 16:07:08 ID:yuKNLeMn

馬鹿は発言を控える事をお勧めします
897人間七七四年:2008/11/17(月) 16:48:36 ID:TMq/FeRY
総構えは信玄が攻めて来た頃はまだなかったんだよな。
898人間七七四年:2008/11/17(月) 16:54:47 ID:6l1dAHHw
>>891
>>大和田教授
小和田哲男じゃねーの?頭大丈夫???


ヒント
武功夜話
899人間七七四年:2008/11/17(月) 18:39:15 ID:RHaP851y
wが多いほど必死に見えるから困る
自分が必死なときほどwの数には気をつけろってご先祖様が言ってた


大和田教授wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
900人間七七四年:2008/11/17(月) 19:06:17 ID:TMq/FeRY
北条の愚政で民百姓はどれだけ苦しんだのだろう?
上杉や武田が来たら迎撃に出ろや。
領民の生活が脅かされているんだぞ。
901人間七七四年:2008/11/17(月) 19:19:46 ID:ZDlEkbdP
何で急に荒らされてるんだこのスレ?
上げてる馬鹿とかいるし。
902人間七七四年:2008/11/17(月) 19:35:05 ID:TMq/FeRY
さあ?
北条様に懐疑的な目を向けると荒れるんだよね。
批判は許されないと全員が理解するまで荒れるのか、ここは。
903人間七七四年:2008/11/17(月) 22:00:29 ID:LhTddjBF
疑うことは良いことだが、
貶めるほうも擁護するほうも感情に走りすぎてて話にならない。

>>900
第一回目の越山は上野戦線が崩壊した上、関東諸将が上杉の下に参集したため、
野戦で対抗できない戦力になったので籠城策を取らざるを得なかった。
一応、松山あたりまで軍は進めているけど、上記の理由で決戦を回避した。

三増峠までの一連の信玄の関東行は、北条の戦力が駿河に集中していたために、
迎撃に出れるまとまった戦力が氏康・氏政の手元に無かった。
なお、これに先立つ信玄の第二回駿河攻めは北条方がほぼ完璧に凌ぎきっている。
904人間七七四年:2008/11/17(月) 22:20:37 ID:qBQKBpGm
普通、自論に自信や根拠があるなら議論の名を借りた煽り合いなんてせんわな

尤も歴史に限らん事だが、知識はあっても性根の腐った輩や人間性の歪んだ
手合いもいるから始末に終えんのも事実なんだろうが
905人間七七四年:2008/11/18(火) 19:13:38 ID:Bpk7jfhi
>>903
はっきり言うとそれは根本的な政策や外交の敗北では?
関東に敵を作るばかりで徳も何もないから、追い詰められ、
学習能力がないからそれを繰り返して、最終的には自滅した。
武田の滅亡や上杉の内乱よりも哀れで愚かしい。
906人間七七四年:2008/11/18(火) 20:35:59 ID:1d89F2/T
>>905
北条は他国の凶徒だから、関東諸将の支持は無いからね。
関東内の外交で勝てる訳が無い。

そもそも関東体制内の存在で、しかも山内上杉の名跡を継いだ謙信に外交戦で負けて当然。
しかし最終的にほぼ駆逐してるんだから対上杉では負けてないだろ。

同様に信玄の時も、反北条の関東諸将を抱きこまれている。
それでも二度まで駿河侵攻をはじき返した戦略手腕は十分及第点だろう。
信玄の関東乱入は、信玄の戦略眼こそ褒めるべきだし。

あと論点がずれ始めてる。
903は900の「迎撃していない」に対しての答えだから。
907人間七七四年:2008/11/18(火) 21:50:38 ID:Bpk7jfhi
上杉には勝ってるけど、長尾と武田には完敗でしょ。
謙信存命中は上野から長尾の勢力を駆逐出来ていない。
今川も救えずに駿河を奪われて泣き寝入り。

他国の凶徒になったのは自業自得で、
毛利が中国を制覇したように支配できないなら、
拡大路線をとるべきではなかった。
自ら敵を増やしてコツコツと滅亡フラグを育てたのは褒められた行為じゃない。
滅亡を天から突如受けた災害みたいに思ってるみたいだけど、
すべては内外からの反発を集めた結果なんだよね。
二度も小田原が焼かれたのは明らかに北条の不徳と失策。
迎撃できない状況を作り上げたのは長尾や武田のせいじゃなくて、
自らの責任でしょ??

毛利と比較してどちらが優れているかは明白。
908人間七七四年:2008/11/19(水) 17:30:27 ID:o3aaMt4C
なんか隔離病棟みたいなスレだな

武田好きの俺だが同盟者北条を擁護させてもらうと拡大路線とれないなら取るべきでないという論理は
滅亡という結果から無理やり後付けでものを見てダメと決め付けてない?
どこの大名であれ地域を制覇できないなら拡大路線とるなというなら
かなり多くの大名に当てはまるしプロセス自体なんでダメと決め付けられるのか理解に苦しむ
拡張しようと頑張って周辺の状況がどうなるかなんて予測できるわけないんだし
拡張政策とって結果がダメだから悪いなんていう論理は下克上戦国大名そのものの否定としか思えない。
こうこうこういう政策とり拡張というメリット、同時に敵多く作るというリスク
武田上杉という敵の襲来という周辺状況があった事、それらはなりゆき上なった事だと思うんだが
なぜ自分が悪い、みたいな解釈ができるの?
しかもなぜか関係ない毛利が比較対照で『どちらが優れているか明白』
論理が意味不明なんですが‥
君『武田滅亡の理由は全て信玄のせい』とかいって信玄の拡張プロセスを最初から否定してた人でしょ?
909人間七七四年:2008/11/19(水) 18:29:40 ID:5D9sXkSx
あれ?
毛利って一時でも中国全土を支配下に置いたことがありましたっけ?

まあ、他国の凶徒と「なる」って時点で他国の凶徒という意味を理解していない訳だが。
結論ありきのやからに何を言っても、まあ無駄だな。
910人間七七四年:2008/11/19(水) 18:36:07 ID:g3zPLqZi
【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/303
303 名前:人間七七四年 投稿日:2008/11/19(水) 18:27:04 ID:zatcpUmR
北条にしてみれば謙信に続いて信玄も小田原攻め失敗で堅城ぶりをアピール♪
結局悔し紛れに放火しただけw
被害にしては最小限の上々の篭城戦だったぞ。
それとも放火って2万人も動員しないと出来ない凄いことなの?
911人間七七四年:2008/11/19(水) 22:22:36 ID:hvrOe51W
積極的攻勢で常勝政宗>>>>>敗北を恐れてすぐ逃げ込む籠城癖のヘタレ蛆安
912人間七七四年:2008/11/20(木) 03:08:20 ID:+LpyIZCH
>>891
静岡県民だがこれはひくわ…
913人間七七四年:2008/11/20(木) 03:18:48 ID:ErBmhyjN
敵に膝元に来られて町に火までつけられていながら城にこもって出られない甲斐性の無さを自慢話にするとは
さすが知能の低さで知られる北条厨だけの事はある。恐るべし。
914人間七七四年:2008/11/20(木) 08:21:58 ID:MhXnRllT
クンクタトールが何か?
915人間七七四年:2008/11/20(木) 10:47:13 ID:kPpdfTGB
なんでいきなり政宗が出てくるの?
916人間七七四年:2008/11/20(木) 10:48:36 ID:uUJ+sXDV
伊達から入った養子の件でなんか言いたいんだろ。
917人間七七四年:2008/11/20(木) 13:31:54 ID:95NvGOjd
ここで暴れてる北条アンチのキチガイって、先祖が北条軍に蹂躙でも
されたのかね

常に幼稚な煽り一辺倒で、レス内容の是非以前におつむが弱そうにしか見えない
918人間七七四年:2008/11/20(木) 16:01:02 ID:SOFL9+KB
馬鹿丸出しの北条厨が必死に自己紹介してるな
憐れな知恵遅れぶり晒すより少しは知恵つける努力すりゃいいのに不思議な事だ
まあそんな知能も無いからこのザマなんだろうが
919人間七七四年:2008/11/20(木) 16:24:46 ID:9d2ggkJO
ドンゴリが憂さ晴らしをしているのかな?
920人間七七四年:2008/11/20(木) 19:49:20 ID:TX1Fitpq
北条の本スレまで来て暴れてるアンチ北条厨は異常。
まあ、アンチが多いってことは北条がそれだけ人気のある大名ってことで天晴れだが。
921人間七七四年:2008/11/22(土) 00:31:09 ID:gLDRGNu4
不当に持ち上げられているものには風当たりが強いのは当然でしょう。
スイーツなケータイ小説みたいに。
922人間七七四年:2008/11/22(土) 00:33:23 ID:WkcwqPKN
解ってると思うけど、レス返してエサを与えないようにな。
923大和中納言秀保:2008/11/22(土) 02:07:33 ID:2zy4FmeQ
もし北條氏政の兄、北條新九郎が早世しなければ、
豊臣政権に臣従し生き延びれたんでしょうかね?
もし生き延びれた場合、北條領内に蔵入地は設定されたんですかね?
924人間七七四年:2008/11/22(土) 11:39:51 ID:ynnMq+7R
秀吉の趣味(着眼点)から考えると、江戸当りの港湾を直轄地にしてたんじゃないかな?
まあ家康に「江戸を本拠にしろ」と命令したことからの類推だが。
925人間七七四年:2008/11/22(土) 16:58:45 ID:hQuXQp2X
江戸への転居命令は嫌がらせだと思うけどな。
江戸は確かに重要拠点だし、浅草寺や品川があったから寒村って事は無いけど、
それでも当時の小田原とは比べられないくらい田舎だしね。
家康が川の流れを変えて干拓してと徹底的に改良しなければ、
港湾としての機能もそこまで高いとは思えん。

>>923
新九郎が未知数すぎて判断ができないよw
926人間七七四年:2008/11/22(土) 18:50:12 ID:u4eRt8O0
そうやって家康が貯め込んだ金を関東開拓に使わせることで
財政的に苦しくさせようとしたんじゃないかな
家康にも旨味があれば、秀吉の命令だから断りにくいしね
後年、家康が豊臣家にやらせた寺社建設や
幕府が諸大名に課した土木事業と同じような意味合いだろうね
927人間七七四年:2008/11/22(土) 19:58:56 ID:XflF/2k5
北条的には駿河進出を諦めたのが、後々痛かったのかな?
かつて「小牧長久手でも存在感を発揮できなかったのが、北条の痛手」とか
「上杉、徳川、佐竹らが中央との関係を色々立ち回ってるのに、北条は関東ばかり」
みたいな書き込みを読んだ事がある

沼尻の対陣なんて地方戦をやってる暇が有ったら
小牧長久手に参戦した方が生き残れたのでは・・・
上野の小城が北条滅亡の切っ掛けとは、悲しい
928人間七七四年:2008/11/22(土) 22:57:18 ID:ynnMq+7R
秀吉が登場してももう少し乱世は続くと思ってたからだろ。
長曽我部も島津も伊達も同じような見通しでブロック統一に邁進してたら潰されたってわけで。
929人間七七四年:2008/11/22(土) 22:57:55 ID:Hf1cxiNv
地方戦と言うけどあの戦いは重要なもの
秀吉と結びついた佐竹方が結集して北条に対抗  
さらに終盤には上杉も秀吉の要請を受けて上越国境に出陣
東国のバランスを大きく動かしている 
930人間七七四年:2008/11/22(土) 23:31:55 ID:hQuXQp2X
あれがあって、北関東での優位が確定したといっても過言じゃないからな >沼尻
931人間七七四年:2008/11/22(土) 23:44:26 ID:WkcwqPKN
沼尻合戦は、一般には知られてないけど関東の戦国史研究では、重大なポイントだよね。
932人間七七四年:2008/11/23(日) 06:45:16 ID:tzUrZcVV
沼尻も氏康時代に行われていたら評価出来るけど・・・
賤ヶ岳終了後、天下を牛耳りつつある秀吉を本来相手せにゃならん時に
謙信を相手ニしてる頃と殆ど変わらない北関東計略ではね
佐竹、由良、佐野らが秀吉と結んでるのに、小牧・長久手スルーで地方戦では
あまりにも規模が小さい
秀吉×家康が解決して、両者が結んだら当然矛先が向いてくるだろうに
その現実を見ず、目先の版図拡大に固執する戦略は即ち、
「まな板の鯉にして下さい」と言ってるようなもの
悪い話スレでも挙げられてるけど
どうも氏政は武田滅亡の時といい、天下の情勢に疎い
やはり氏康の方針通り、泥沼関東は割り切って、東海道へ進出した方が政治的にも大きかった
933人間七七四年:2008/11/23(日) 07:57:14 ID:xyvDeahL
何のかんので足利幕府が滅んで、京都の伊勢氏人脈が消滅したのが痛かった。
934人間七七四年:2008/11/23(日) 13:27:42 ID:PlOi59Wv
伊勢氏人脈って…そんなの氏政の時代になんか役にたってたのかよ?
なんか具体的に痛かった理由書けよ。
935人間七七四年:2008/11/23(日) 13:46:14 ID:s4JJ6Fbt
> 佐竹、由良、佐野らが秀吉と結んでるのに、小牧・長久手スルーで地方戦では
家康と同盟組んでるじゃないか。裏切られたけど。
936人間七七四年:2008/11/23(日) 14:00:46 ID:zjheNarf
>>935
家康も由良国繁の舅皆川広照(皆川の子が結城晴朝の養女として嫁いだ)に
家康の威光で由良国繁を解放させて欲しいと頼まれて使者を送っている。
937人間七七四年:2008/11/23(日) 14:31:35 ID:s4JJ6Fbt
へ?それが何?
938人間七七四年:2008/11/23(日) 21:00:34 ID:ZGOAyTL3
『関東戦国史』って本読んだが、謙信が死ぬと急につまらなくなった。
佐竹義重は名将だと思うが、他がこれといったやつがいないと言うか・・。何となく武将が小粒な連中ばっかになった感じ。
煽りと思われるかも知れんが、氏康が信玄・謙信と争ってた全盛期からすると、見劣りするのは否めない。

そうこうしてるうちに秀吉が攻めてきたが、圧倒的に格差があるって感じで呆然としたよ。
939人間七七四年:2008/11/23(日) 21:55:11 ID:HoE/w/9P
>>932
でも小牧長久手の時点で、中央での家康秀吉の戦いがどれだけ長引くかなんて予想できるもんなの?
家康と婚姻政策までして本格的に同盟してるからには簡単に裏切らないと考えるのが普通じゃない?
そりゃ中央集権の圧倒的力を見くびってたというのは合ってるかもしれないけど
それいうなら島津やら長そかべだって同じじゃない?
有力大名はみんなだいたい中央集権に刃向かった時期があるんだけど?
伊達、徳川、北条で対抗しようとしたけど駄目だったってだけで。
940人間七七四年:2008/11/23(日) 22:04:02 ID:xyvDeahL
時代を先取りし続けた男、伊勢新九郎、そう、あの北条早雲。ここ興国寺城はその早雲の
戦国大名としての「原点」とも言える場所です。いや、感動しました。城跡に立って膝が震えたのは、
近江の小谷城以来のことですね。

中略

この興国寺城にもその先進性は顕われています。背後には愛鷹山系の高峰が控え、
山城を築城するのであればいくらでも適地はあるにもかかわらず、支配地により近い
丘陵上の一端を選択しているのは象徴的です。背後の巨大な堀切などがどの時代の
ものかは分かりませんが、舌状台地先端を堀切で分断して城郭として取り立てる手法は
北条系城郭の基本のひとつでもあり、それは早雲の時代にすでに見られることなのです。
そこには、要害性よりも領国支配を第一に考える、近世城郭の先駆けとも言える思想が見えてきます。

ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Shizuoka/Koukokuji/index.htm


こう言うの見ると、行ってみたくなるなあw
941人間七七四年:2008/11/23(日) 23:16:00 ID:i7/pYlCs
吉原から先は岳南鉄道かな
最寄り駅はどこだろ?
明日の昼過ぎに行ってみよかな
942人間七七四年:2008/11/24(月) 02:27:07 ID:0Gtbp41I
昔は北条なんて地味で誰も気にしてくれさえしなかったのにアンチさえふえたったのは喜ばしい。
ほら、アンチ巨人ファンも巨人ファンのうちっていうじゃん。
アンチだって増えればそれが北条が外野にも注目されていくことにつながり、ひいては更なる研究と再評価につながるさ。
943人間七七四年:2008/11/24(月) 08:36:29 ID:/cIcA2v+
北条は行政の体制は素晴らしいけれど、
それが果たして民衆の生活によかったものかどうかは強く疑問に感じる。
なんかさ、北条=民想いの善政って公式が出来てるけれど、
北条の魅力はそうじゃなくてシステムの構築にあるわけなんだよね。
領民の幸せを第一に置いたわけじゃないけれど、
そこを誤解した一部のにわかファンが北条は税が安くて暮らしやすかったとか言うから、
「おいおい違うだろ」と本来アンチになるべきじゃない人までアンチになってる気がする。

例えて言うなら、信長はすごいけれど、講談や小説に描かれるような天才じゃないのに、
信長=天才のイメージで語る馬鹿に対してアンチが生じるようなものだな。
944人間七七四年:2008/11/24(月) 09:22:39 ID:EE0EAyal
>>943
だよな。
税率に関してはお隣の今川さんちより高いのもあれば低いのもあるし、
他国では戦時しか課さない賦役が北条においては平時も金納で課されたり、
一方、伊達の約半分の税率なんてのもあるしね。

当時の税制なんて全国規模で正確に解明されてないんだから、
伊達の約半分のやつなんか課税の単位が違う可能性もあるし、
一部をもって高い安い言うのはどうかと思うよね。
北条の税が他国に比べて安いと証明出来たら戦国史研究の有名人になれるよ。

そんなことよりも一門を増やして戦力にしている方が凄いと思うけどなぁ。
足利一門の宗家や今川家が出家させて一門を減らしてるのとは対称的だね。
945人間七七四年:2008/11/24(月) 22:37:24 ID:t8C0RdUD
民思いというよりは、関東諸将から目の敵にされていたために
政権基盤を民衆に求めざるを得なかったためで領民の幸せとはまた別次元だろう。
またその民衆の支持も、
マキャベリによれば古くから続く君主ならば生活を悪化させなければ支持されるが、
新興の君主の場合はそれでは不十分だそうな。
その不十分を補うために、北条はあの手この手で、
当時としては整った行政機構を創出したことのほうが特筆されるべき。

税が安い?だからなに?
946人間七七四年:2008/11/24(月) 22:43:52 ID:R0uaJTJy
北条は税体系とか行政システムの全貌が分かってる唯一の大名だって黒田氏が言ってたけど、滅んだ家なのにそんだけ史料が残ってるのは何でだ?
素人なんで、誰か教えとくれ
947人間七七四年:2008/11/24(月) 22:55:32 ID:kk5WKUU7
>>946
北条は戦国時代の文章行政の、最も早い実行者でありチャンピオンだったので、その
発行書類が大量に残った事。

また北条が滅んだ後徳川家がその行政機構を基本的に引き継ぎ、さらにこれが天下を取り
安定政権となったため、旧北条領はその統治下で戦乱に巻き込まれる事もなく、文書が散逸
することもほとんど無かった。

旧武田領も基本的に徳川の直接支配地域に組み込まれたんだけど、ここは北条ほどは
文章行政が進んでいなかったようで発行量が少ない(勝頼の時代になると増えるが)、
そこに違いが出る。
948人間七七四年:2008/11/25(火) 20:43:51 ID:LGYzyN/j
なんなのチャンピオンて(笑)
北条厨・・・(笑)
949大和中納言秀保 ◆MtKiRaGd8. :2008/11/25(火) 22:21:12 ID:yf0QTcLS
武田征伐の時に
もっと、本腰を入れていれば甲斐(穴山分除く)ぐらいは
貰えたんでしょうかね?
950人間七七四年:2008/11/25(火) 22:21:59 ID:G3t23vu7
せいぜい上州どまりかと
951大和中納言秀保 ◆MtKiRaGd8. :2008/11/25(火) 22:38:00 ID:yf0QTcLS
>>950
織田信長は瀧川一益を東国の取次にしたいので、
上野は譲れないのでやはり甲斐しかないのではないでしょうかね。
952946:2008/11/25(火) 23:41:02 ID:zuJABZPn
>>947
サンクス☆
漏の友人で法制史研究やってるヤツに同じこと聞いたら、「ただの偶然」なんて見も蓋もない答えだったが、これですっきりした(笑)。

北条がそれだけ文書行政に力を入れたのはやっぱ余所者だったことが関係してるのかな? 武田の方は先祖累代の土地だから、旧来の慣習の延長線で統治したってことかな?
あと始祖・早雲が、近畿では必要性が言われながら抵抗勢力のせいで実現できなかった最新の行政技術を関東で実験しようとしたってことが理由だろうか?

長文スマソ
953人間七七四年:2008/11/25(火) 23:49:30 ID:G3t23vu7
>>952
まあ、早雲の伊勢家が幕府直轄領になった山城で、この新方式の統治システムを
実験、実行していた、ってのが大きいね。おそらくそれにもかかわっていた盛時は、
その成果をそのまま関東に持ってきた。
954人間七七四年:2008/11/25(火) 23:52:05 ID:G3t23vu7
>>951
上州は、結果織田領国の最東方になったため、東方担当官の滝川に宛がわれただけで、
先に北条が上州を確保してしまえば、滝川は甲斐におかれたと思う。
955人間七七四年:2008/11/26(水) 01:28:51 ID:TlwAUz55
>>954
北条が持っていた上野領も取り上げられているんですが。
956人間七七四年:2008/11/26(水) 04:30:08 ID:ZDdfPXxC
それどころか北武蔵すら取り上げられていて、下総もヤバい状況。
957人間七七四年:2008/11/26(水) 07:15:17 ID:yCoJnxw7
当時の紙は高級品だから民衆に圧制を強いていたな
958仙台藩百姓:2008/11/26(水) 08:19:46 ID:Wak6m3vq
駿河の領地も取り上げられてるおね( ^ω^)
信長は初めから北条なんか相手にする気なかったお┐ (´ω`) ┌
武田討伐でも、なに勝手に取ってんだカス。と言う状況だったのでしょう( ^ω^)
959人間七七四年:2008/11/26(水) 13:50:47 ID:30PgMIAw
>>958
信長に最初から相手にする気がなかったというのが、最初から同盟者とは見ていなかった
いなかったというのならたぶんそうだろうね。>>738にあるように、四国切り取り自由と
いっていた長宗我部に対してやっぱやめたと言い出したように、北条に対しても
最初から領土削りまくるつもりだったんだろうから。
960人間七七四年:2008/11/27(木) 10:40:12 ID:eLFkkvqR
        ____
        /     \
     /  \ /  \  うんこうまいお
   /   ⌒   ⌒   \
    |  、" ゙)(__人__)" .)  | クッチャクッチャ
   \    。` ⌒゚:j´   ,/
961仙台藩百姓:2008/11/27(木) 12:29:51 ID:c+0EIWYh
>>959
まあ、周辺があらかた片付くまで現状維持という態度が見え見えだったおね
氏政の要望は一切受け付けなかった点、北条に対しては長宗我部以上に露骨だったけど( ^ω^)
962人間七七四年:2008/11/27(木) 12:45:00 ID:YpcGD58p
結果論になっていまうのかもしれないけど、その信長には我慢していたのに、秀吉の時は
何であんな態度だったんだろう。
963人間七七四年:2008/11/27(木) 13:26:32 ID:2msytMe2
関東制覇が見えたのと、
家康、信雄、政宗あたりをあてにしていたとしか。
964人間七七四年:2008/11/27(木) 15:36:35 ID:ZclJA5rO
いいれす
965大和中納言秀保 ◆MtKiRaGd8. :2008/11/28(金) 01:26:46 ID:9BEuP6ts
>>954
北條は武田征伐の時に、
駿河・上野・甲斐の三国に出兵していたような気がします。
これを上野一本だけにすれば、
戦後上野と信濃二郡は瀧川一益ではなく北條に与えられていたかもしれませんね。
966人間七七四年:2008/11/28(金) 01:40:25 ID:pBU/5Cyx
甲斐出兵はよくしらんから言及は避けるが、
駿河出兵に付いては信長から褒められてる。
しかし上野出兵&調略については徹底的に無視されている上、
戦前よりの北条領を切り取って滝川に与えている。

どんなに活躍しても、上野に関しては取り上げられたと見る。
967大和中納言秀保 ◆MtKiRaGd8. :2008/11/28(金) 02:08:37 ID:9BEuP6ts
>>966
そうですか。
最初から織田信長は瀧川一益を
東国の取次として上野に置いときたかったんでしょうね。

私個人としては
北條が何処か一本に絞っていれば、
徳川に駿河一国貰えたように
北條に甲斐一国貰えたような気がするんですよね。(氏直は武田晴信の孫ですし)
968仙台藩百姓:2008/11/28(金) 10:38:17 ID:J7oiJbFW
どこをどう見たらそう思えるのだか┐ (´ω`) ┌
徳川と織田の関係からしたら北条など天地ほどの差があるお
20年の同盟関係と10年以上の対武田戦を共にしてきた徳川が駿河一国なのに
織田の伸長を見て慌てて擦り寄って来た北条ごときに徳川と同じ待遇を与えると本気で思うのかお┐ (´ω`) ┌
実際、信長の応対を見れば分かるはずだお
関東は滝川を奏者とし、入り次第仕置きを始めている
織田一門入りや分国支配どころか滝川の下に位置付けられた訳だお
自立すらも許さぬ強硬な態度で、もはや分け前の領地云々どころではあるまいお┐ (´ω`) ┌
969人間七七四年:2008/11/28(金) 10:52:45 ID:ZhcjLYxy
どっちにしても北条に従ってた者たちが滝川へ次々と出仕してるのを北条は止められないから
上杉滅亡後に織田の本格的侵攻を北条は受けて、武田よりもろく内応だらけで即死だろうな。
なんせ滝川・川尻・徳川・佐竹・里見・蘆名が怒涛の勢いでフルボッコされ小田原城籠城策www
籠城してたら信忠・柴田・前田・佐々・森まで次々と合流してくるし。
毛利・長宗我部には信長・秀吉・光秀・丹羽らで充分だしな。
970人間七七四年:2008/11/28(金) 11:31:01 ID:RIysMa+a
織田の同盟者への思考は上杉に対する態度でもよくわかる。
信玄が死ぬまでは非常に丁寧な低姿勢な書状(「恐々謹言」などで通し、必ず花押付)だったのに、
その後は次第に適当な態度(「以上」で通して花押を省いて朱印だけとか)になり、
軍事要請を行うときはまた低姿勢になっている。
しかも長篠の合戦で大勝利するまでは東国大名への連絡は基本的に関東管領たる謙信を仲介していたが、
この頃からそんなもの知りませんと言わんばかりに独自に東国外交を展開。
また、謙信の家臣にも内部分裂をはかるかのような書状を送ったりと、実に油断が置けない。
その癖、自分が今攻められるとまずいと思うと、機嫌取りに国宝級の屏風を送りつけたりする。
こういう信長を同盟者だからと信用していたら、絶対に痛い目にあう。
971大和中納言秀保 ◆MtKiRaGd8. :2008/11/28(金) 12:27:35 ID:9BEuP6ts
>>968
仙台藩百姓さん
私の「もしも」はかなり希望的観測ですね。
すみませんでした。
そういえば、
仙台藩百姓さんが言っていた
取り上げられた駿河の領土とは
具体的に何処でしょうか?

話は変わるんですが、
北條家の本能寺の変後の一連の行動には大義名分がないですよね。
確か柴田勝家に
織田家が一致団結して北條を征伐しよう
と書状で書かれていたような?

仮に変後、瀧川一益を攻めずに協力していたら
その後どうなっていたんでしょうね?
972人間七七四年:2008/11/28(金) 17:35:54 ID:pBU/5Cyx
>>969
お前の希望なら、チラシの裏へ書いて置け、な。
973人間七七四年:2008/11/28(金) 18:15:14 ID:oYtRlJPq
>>971
北条の支援で甲斐の国一揆がうまいことおさまったかもしれない。
徳川が信濃・甲斐に出兵する大義名分が失われたかもしれない。

ただ、北条は北武蔵まで滝川に分捕られていたのは変わらないので、
うまく立ち回って甲斐を手に入れ、北関東の諸大名とも関係を
保ち続けない限り、かなり辛い状況じゃないか?

まあ、不確定要素が多すぎて、想像すらつかないや。
974人間七七四年:2008/11/29(土) 10:54:54 ID:AsKxLDS0
あいつは煽りたいだけのカスだから相手すんな
975仙台藩百姓:2008/11/30(日) 13:07:44 ID:PWR4HyU1
>>971
武田征伐の折りに奪取した徳倉、沼津、三枚橋、深沢などだお( ^ω^)
普通なら領有問題が起きるところだけど、北条は二週間に4回も貢ぎ物をしてご機嫌取りをした揚げ句
上野や駿河からの退去を命じられるという屈辱的な扱いをされたお┐ (´ω`) ┌
しかし氏政は大人しく引き下がったばかりか
信長公と仲良くなれますように、と神頼みをする有様
日本政府も顔負けの土下座外交だお(;^ω^)
976人間七七四年:2008/11/30(日) 14:40:16 ID:bx0Jnz/T
しかも信長との謁見も拒否られてたような。
977人間七七四年:2008/11/30(日) 14:40:58 ID:TGQ9wVVe
氏直と信長の姫との婚姻(婚約自体は済んでる)がとっとと滞りなく終って、
北条にとって良い日が来ますように

っていう願掛け文が残ってるんだっけかw


しかし秀吉に対して意地を通せば時代が見えないと罵られ、
信長に対して意地をまげてみれば土下座外交と罵られ、
氏政が可愛そうですw
978人間七七四年:2008/11/30(日) 18:16:05 ID:OWL4iGQm
小田原攻めのとき、意見をまとめて箱根から打って出て三島合戦を巻き起こして華々しく散ればここまでたかれなかったのにな。
結局は組織作りを間違えたんじゃないかね。
979人間七七四年:2008/11/30(日) 18:25:12 ID:xK97llqq
小田原の役が始まった後
北条家が秀吉に降伏出来たタイミング、というか猶予は有ったんですか?
島津、長宗我部も征伐を受けましたが降伏した事で生き残れましたが
北条は本拠小田原が囲まれるまで降伏しなかったので滅亡まで追い込まれたのでしょうか
小田原評定などと揶揄されてますが
氏政がもっと早く決断していたら、結果も変わっていた?
980人間七七四年:2008/11/30(日) 18:55:47 ID:TGQ9wVVe
名胡桃の前なら可能だったけど、その後は無理。
弁解の使者が弁解させてもらえずに幽閉されてるくらいだし。
981人間七七四年:2008/11/30(日) 19:00:32 ID:d3u5k4Yy
だから迎撃に出ればいいのに、伊達や徳川を信じきって、
籠城するから痛い目にあっている。
島津や長宗我部と同じように済むと思ったんだろうけれど、
少なくとも彼らは外に出て潔く戦っているよね。
982人間七七四年:2008/11/30(日) 19:03:01 ID:xK97llqq
>>980
そうなんですか
家康もとりなしてくれなかったんですかねぇ・・・
983人間七七四年:2008/11/30(日) 22:28:53 ID:frUDkWmv
迎撃でるといっても兵力差ありすぎだし篭城の方が戦い方としてまだマシな気がするがね
伊達徳川の動向がまだ不明ならなおさら。

勝率低いと思われるような戦い方選択するなら最初から戦わない方がよい
氏邦は決戦派だったけど他のメンツで抗戦派は篭城主張してなかったっけ?
984人間七七四年:2008/11/30(日) 22:36:24 ID:LlV9WEIp
横浜歴史博物館へ「戦国大名・北条氏と書物」を見に行きました。
小田原城の方が展示品も多く、楽しかった。
985人間七七四年:2008/12/01(月) 00:33:20 ID:1r8o/6x3
迎撃に出たところで、小牧長久手や沼尻みたいな陣地戦になってしまいそうだがな。
敵本体は北条本体で抑えるとしても、
北陸勢や関東諸将、或いは東北の諸大名はどうするよって話。

各拠点で支えつつ、本軍を適時投入して各個撃破というのが内線防御の基本。
北条はその基本にのとって、本軍を確保して防衛ラインでの疲弊を待ったわけだ。
問題は、その防衛ラインの兵力が少なすぎたことかと。
986人間七七四年:2008/12/01(月) 11:40:47 ID:TY8Kp5/B
小牧・長久手の頃もっと頑張れば良かったんじゃないのか
987人間七七四年:2008/12/01(月) 13:00:54 ID:4id9s1Aw
沼尻で対陣ではなく、家康を積極支援?
988人間七七四年:2008/12/01(月) 14:04:49 ID:LO/M5hi1
佐竹にカウンター食らわされそうな気がするんだが。
989人間七七四年:2008/12/01(月) 14:47:19 ID:bBuKpcGF
長丁場になると遠距離だけに疲労といい戦費兵糧などの賄い等大変そうだわな
おまけに得る物がないしな 秀吉徳川の戦いがいつまで続くかなんてそうそう予想できないし。
おまけに佐竹方は一統して結束力増してるからな 
沼尻の時は関東のみならず奥州からも援軍来てたし。
まあ北関東の支配権固めるという方針が、特に北条の性格上も自然だろうな
結果論では悪かっただの良かっただのどうとでも言えるけど
990人間七七四年
>>984 あまりよくなかったんですか?