【負け組】 滝川一益 【関東管領】

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933人間七七四年:2009/11/12(木) 15:46:25 ID:YDdTD4az
一勝から一が通字になったんだ。
934人間七七四年:2009/11/21(土) 15:19:48 ID:t6oZsyvU
短い期間だね
935人間七七四年:2009/11/28(土) 13:10:03 ID:iglMcpJc
中村一氏も通字が一だから同族の場合もっと古いかも。
936人間七七四年:2010/01/02(土) 11:42:14 ID:pyx+zGrj
どうだろうね。
937人間七七四年:2010/02/01(月) 21:40:15 ID:11ZcPF0S
益氏、益重、利益?とかは、一益にあやかっての名だよね。
すると兄弟でなく、甥か養子あたりが妥当かな?
938人間七七四年:2010/03/28(日) 10:44:18 ID:wHN/EDSJ
先祖に益が付く人いないね
939人間七七四年:2010/04/11(日) 00:07:47 ID:kLydQDoX
良スレ
940人間七七四年:2010/04/17(土) 07:53:44 ID:oLBM1M7O
忍者
941人間七七四年:2010/04/19(月) 23:57:45 ID:L2W5AA6E
滝川一益は忍者かどうかだけど、
慶長以前は忍者=ゲリラがほぼ実情に即しているわけで、
甲賀、伊賀、根来に住んでいれば、ゲリラ戦術の理解度は高いはず。
密偵能力なんてのは一般民衆に溶け込めればいいわけで、ゲリラそのもの。
一益は忍者では無いと断言する方が難しいような。
逆に服部半蔵なんかはほとんど武士だけど、伊賀同心の頭だから忍者扱い。
区分けが難しい。
942人間七七四年:2010/04/25(日) 16:18:18 ID:ny1cFs2H
>>886
一益が剃髪した妙心寺は、信長の百箇日法要が行われた寺だったんだね。
ところで妙心寺で剃髪したという話の出所(一次資料)はどれだろう?
丹羽氏の越前大野で蟄居とか、時期的に賤ヶ岳後だと思うんだけど、
武功夜話か武家事紀あたりかなぁ?
943人間七七四年:2010/04/30(金) 04:17:48 ID:seP+ckzW
>>941
そんな事言い出したら、調略に関わったり、奇襲攻撃の事績がある奴は
全部忍者になってしまう。
あくまで「忍者」は物語の中での話だけ。
服部のも言わずもがな。

滝川に至っては、そんな事績もないし
伊賀・甲賀に関係したら全員忍者みたいな認識はおかしい
944人間七七四年:2010/05/06(木) 21:03:47 ID:T+qSXE/a
ということは忍者は現実には江戸時代以降にしか存在しなかったという結論?
945人間七七四年:2010/05/09(日) 18:29:32 ID:8aXO0AfH
俺はこの人の子孫だって言われた
まあ、冗談だと思うけどさ
946人間七七四年:2010/05/26(水) 12:39:36 ID:RfsLSF2W
>>945
誰から聞いたの?
947人間七七四年:2010/08/19(木) 08:15:15 ID:b9NiwO2w
良スレ
948人間七七四年:2010/09/04(土) 09:44:29 ID:HRRRPuTB
保守

この人が大大名になる選択肢あったのかな?
949人間七七四年:2010/09/04(土) 09:54:46 ID:B0/Vxs8I
・本能寺の変が起こらなかった
・本能寺の変後に物凄い勢いで情報を察知して物凄い勢いで関東まで戻って光秀を倒す
・勝家につかず秀吉につく
・秀吉にどうにかして勝つ

これぐらいじゃねーかな……
3番は丹羽と同じ末路を辿りそうだからお勧めはしない
950人間七七四年:2010/09/04(土) 10:22:47 ID:HRRRPuTB
>>949
本能寺の変を選ばない選択肢が一益にあるのですか?
951人間七七四年:2010/09/04(土) 11:16:22 ID:B0/Vxs8I
>>950
謀反が起こりませんようにって、仏に祈る…とか…?
952人間七七四年:2010/09/04(土) 14:20:47 ID:P0Xr1KkS
>>948
つ 神流川の戦いをどうにかして勝ち、関東に地盤を築く
953人間七七四年:2010/09/04(土) 15:16:58 ID:CyMKq1kO
光秀を出し抜いて一益が本能寺の変をおこす
954人間七七四年:2010/09/04(土) 18:30:51 ID:HRRRPuTB
>>952
なにもしないと領国分解だったんだろうか?
955人間七七四年:2010/09/04(土) 20:18:03 ID:9nnIEiCe
領国を北条から守りながら様子を窺う、または徳川と合流するとか
持久戦はやれば出来たかも知れんね 実際徳川に手紙を出してるんだっけ?
ただ「引き返して明智を打つ」をやるためには北条と一戦交えて和睦する必要がでてくる
それをやろうとした所はやっぱり一益も戦国武将だったんだろう
逆に大坂で手をこまねいていた丹羽はかなり軍人になっちゃってるな 信長が安心して近くに置いたのも分かる
956人間七七四年:2010/09/04(土) 21:54:34 ID:HRRRPuTB
>>955
逆に上手くいっていれば秀吉位置に行けたのかな?
957人間七七四年:2010/09/04(土) 23:36:45 ID:9nnIEiCe
神流川の戦いって戦国時代の関東で最大規模の野戦なんだっけ?
資料が少ないから詳しくは語れないけど、にわか仕立ての一益側が勝つのは相当困難だよね
運良く勝つか引き分けても、戦後処理をやってるうちに秀吉に先を越されそうだ
後知恵で見ると関東で領国を守っている間に天王山の戦いを迎えた時の方が一益にチャンスがありそう
958人間七七四年:2010/09/05(日) 00:24:54 ID:IyGi96bA
神流川の戦いはどうすれば勝てたんだろうね?
信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね
その状態で2万近い兵を動員できたんだし、戦力的に勝つのは不可能…じゃないと思う

実際、第一次合戦では勝ってるし、第二次で深追いせずにひたすら粘ってれば案外どうにかなったんじゃないかな
光秀の謀反は三日天下でした。って北条が知れば、北条は速攻で和睦出してくると思うんだよね
織田家に対して勝てないのがわかりきってる分、とにかく下手に出て友好関係を結ぼうとしてた背景もあるし
本能寺の変を知っても信長信忠の死亡が確実になるまでは、一益の上洛の応援までしてるんだぜ、あいつら
後はまぁ、それか圧倒してた第一次合戦で気合で氏直を討ち取るぐらいしかないかw

ただ、これは歴史を知ってる人間が言ってるだけだからな……
光秀が三日天下だったなんて関ヶ原の戦いの早期決着並に予想がつかない
一益が粘ろうとしないで短期決着に走ろうとするのも無理はないっていうか、普通というか……
粘って籠城しても普通は勝ち目ねぇって思うもんなぁ
959人間七七四年:2010/09/05(日) 02:13:45 ID:hCQ55JbB
>>957
滝川家家記の滝川事書や戦後の第三者的な立場の者が書いた書状(北条滝川武田皆に敬称がふされている事から)
上野国衆勢は緒戦で北条先鋒氏邦勢に勝利し300余り討ち取る奮戦を見せている
元々上野の諸将は70年台前半よりずっと北条家に歯向かう者が多くまた滝川が去って後も
厩橋北条、真田、由良長尾と離反が続いてるため神流川での奮戦は至極自然である
本戦で氏直のとったわざとやられたふりをして陣地にひきよせ、これを叩く戦術が素晴らしいだけ。
実戦経験はまだ滝川に比べたら浅いだろうに戦術センスは流石武田の血を引くだけある


960人間七七四年:2010/09/05(日) 02:48:30 ID:JDRh+tth
織田厨は滝川軍が寄せ厚めだったとか統治期間浅いから仕方ないとか妄想垂れ流して氏直を評価しようとしないから論外
滝川側史料の記録でも敗戦の言い訳的な記述は全くないしむしろ北条側の戦術を詳細にかいてる
ランチェスターの法則から2倍程度の兵力差(滝川事書の記述と若御子対陣の動員兵力などから推測)なら半分くらいの被害があっていいはずだが10分の一の被害で済んだ(史料より)のが氏直の采配
相手が滝川じゃなきゃ竜造寺みたいに戦死してただろーな
961人間七七四年:2010/09/05(日) 02:57:32 ID:DHrlXwG1
氏直 統率83 献策を行った松田知略84 大道寺72  滝川 統率84 知略89 
このくらいが妥当
962人間七七四年:2010/09/05(日) 02:59:39 ID:DHrlXwG1
逆に氏康 綱成は過大
963人間七七四年:2010/09/05(日) 09:58:32 ID:vHyLlK1h
なんでいきなり数字がでてくるのか
964人間七七四年:2010/09/05(日) 10:27:27 ID:Gxi0bKLd
>>958
>信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね

北条ですら京都周辺がどうなってるか確実に掴むのにだいぶ手間取ってるわけで
関東の小豪族が、実際に中央の情勢がどうなってるかを確認するには随分と時間を要した。
関ヶ原の時の東北勢みたいなもんで、よくわかんないまま属した連中がほとんどだろう
だから実際に事実が知れ渡った頃にはみんな北条に寝返ってる。
あと、一益が自ら本能寺の変を諸豪族に知らせて求心力を得たって話もあるけど
実際には「信長は討たれてないよ」って偽情報を国人に出した一益の手紙も残ってて
真相がよくわからんうちに戦がはじまっちゃったんで、
そのまま一益の下にいた連中は北条と一時的に戦ったまでだと思う
965人間七七四年:2010/09/05(日) 11:07:48 ID:WiPEny0M
>>960
混戦での戦いならランチェスターどうりの損害になるだろうが
互いに陣形組んで戦う以上期待どうりの損害率になることはないぞ
966人間七七四年:2010/09/05(日) 12:45:29 ID:pifJhXFn
触れるな危険
967人間七七四年:2010/09/05(日) 13:54:09 ID:BViXLmSb
>>964
倉賀野とかはともかく真田も北条隆弘も由良も長尾も北条を裏切ってる上本能寺前も由良長尾以外敵対
上野はいわば反北条色の掃き溜めだろ
北条の徹底管理型統治嫌がって自治権認めた他勢力頼ってるから神流川でも奮戦して氏邦を倒した
>>965
陣形を崩したり敵を釣り出して包囲したりするのが戦術というもんだろ
普通に戦えば大損害のところを見事な用兵によって最小損害ですんだ
968人間七七四年:2010/09/05(日) 17:12:43 ID:WiPEny0M
>>967
戦術とか用兵とか言い出したらますますランチェスターどうり
の損害率からは外れるぞ
969人間七七四年:2010/09/05(日) 17:32:41 ID:eX2dvst6
資料が少ないのに詳しく語ろうとしなくて良いよ
ここまで誰も「北条は弱い」とか書いてないのに熱くなる事も無い
970人間七七四年:2010/09/05(日) 20:30:12 ID:4QP9ivbW
>>969
史料はちゃんと残ってるしこんな詳細に合戦状況わかる合戦なかなかないだろ
とりあえず>>959>>960くらい読め
軍記ではなく記録として残ってるのに詳しく語らないとか基地外だな
これが評価に値する合戦じゃないなら評価に値する合戦なんて存在しないな
>>968
意味不明
普通に戦ったら大損害受ける⇒偽退却釣り込み戦術で最小被害で済んだ
ちゃんと日本語くらい理解しろ
戦闘を有利に進めるのが戦術なのにランチェスター法則とおりに
被害なくて済んだ事評価しないとか基地外だな

971人間七七四年:2010/09/05(日) 22:21:04 ID:Gxi0bKLd
滝川スレで北条の強さを熱く語り過ぎてる自分も場違いだと気付けよ
972人間七七四年:2010/09/06(月) 11:46:19 ID:HcHzCwiu
>>680
そうだとしたら尚更この時の北条の軍事行動は早すぎないですか?
開戦決定からわずか9日〜12日?で4万を超える兵が実際の戦闘行動開始するってのは当時の常識からしたらどうなんだろう?
973人間七七四年:2010/09/06(月) 11:55:30 ID:U0MnB53P
その手の「数万の軍勢が〜」ってのは大半が誇張込みだから
滝川サイドからしたら、「それだけの軍勢で攻められたので致し方なく撤退した」となるし
北条サイドからしたら、「滝川に臣従していた国人層がめっさいたのに、それだけの兵を急遽集めて打ち勝った」となるわけだし

実際に誇張抜きで数万規模の兵が戦った合戦なんて関ヶ原とか大阪の陣くらいじゃねーの?
974人間七七四年:2010/09/06(月) 12:05:03 ID:sQMspaYk
滝川側史料の滝川一益事書読め。
滝川は1万8000の兵集めてこのうち10000の上野国衆の活躍が書かれてる
ちなみに北条4万は天正壬午の若御子対陣の兵数が2万だった事からも
小田原合戦時34000だった事から普通にありえない。
975人間七七四年:2010/09/06(月) 12:15:57 ID:HcHzCwiu
じゃあ例えば1万でも1万5000でもいいけど
誇張抜きで当時1万超えたらかなりの大軍だよね?
976人間七七四年:2010/09/06(月) 12:22:29 ID:AyzhmVIm
滝川側の動員は戦後の書状より上野衆(倉賀野や小幡等)が集まって
北条方と戦闘に及んだ旨が書かれまた滝川事書にも具体的兵数が書かれてるので
大軍を動員した戦いだったのは間違いない。
神流川合戦記などだと滝川軍34000という馬鹿でかい数字が使われてるくらいで、
この戦いがいかに大規模な物だったかを物語るものだろう。
977人間七七四年:2010/09/06(月) 17:08:52 ID:IzfR8s27
>>972
北条の軍勢は明らかに過剰。織田方に領土削られまくっていた時期で
北関東はもちろん北武蔵の諸豪族や房相一和があるにも関わらず里見氏
ですら滝川一益と接触をとっていた。そんな時期に4万人もかき集めること
なんて不可能。

>>975
そりゃもちろん大軍。でも、当時の近畿地方では大軍を集められるような
時期になっていたのは確かだし、関東だって天正壬午の乱ではかなりの
大軍を集めていた。山崎の戦いでは秀吉軍4万vs光秀軍1.6万、賤ヶ岳の
戦いでは秀吉軍5万vs勝家軍3万。
978人間七七四年:2010/09/06(月) 18:08:50 ID:U0MnB53P
山崎とか賤ヶ岳の実数もだいぶ誇張入ってると思うけどなあ
徳川とか豊臣とか政権取った側の史書は改竄多いし
敗者の資料は残らないし
979人間七七四年:2010/09/06(月) 18:13:10 ID:MIr0pvBH
んな事言い出したらキリがない
すべての戦で兵数にけちつけなくちゃいけなくなる
980人間七七四年:2010/09/06(月) 18:39:56 ID:KWlpTT00
兵数だけじゃなくまだ取ってないのにこの城攻め取ったとか
まだ出兵してないのに攻め込んで平定は間近であるとかよく書かれてるしな
そっちの方にもいちゃもんつけなくいけなくなる
一応一次資料類や信憑性おける記録類ならそれを反証する材料ない限り
信用すべきだろう
じゃないと歴史考察自体ができなくなり都合いい妄想ばかり通るようになる
981人間七七四年:2010/09/07(火) 12:47:14 ID:gFM4u8dD
この人の子孫て活躍した人いる?
982人間七七四年
>>981
次男で嫡男の滝川一時は1万4000石の大名。長男滝川一忠の息子滝川一積は
一時の息子一乗がまだ幼少だったので、一時的に跡を継いだけど2000石の
旗本。一乗が長ずると家督を返却したけど、2000石から1000石を割って別家を
たてた。

んで、その滝川一積は真田太平記でよく出演シーンがあったように、真田家と
縁が深い。妻は真田昌幸の娘だし、大阪夏の陣のあと真田信繁の娘を養女に
迎えたりした。

なぜか大阪夏の陣から20年近くたってから、真田信繁の娘を養女にしたことを
とがめられて改易を食らったけど、その嫡男の一明は300石の旗本 or 御家人に
なったとのこと。