1 :
日本@名無史さん :
2007/01/18(木) 23:08:07 「戦国時代、騎馬隊はなかった」 「天下人とされる人間は運がいいだけ」 「天下人史観に騙されるな」 「歴史の真実を見極めよ」と既存の歴史観にエキセントリックに疑義を投げかける、 紀州雑賀衆の末裔を自称する「日曜歴史家」鈴木眞哉。 ネット上を見ると、彼を評価する人間も少なくないが、 鈴木のいう「歴史の真実を見極める」ためには、 天下人史観を否定するかわりに彼の説を無条件に受け入れるだけでいいのか? 彼の提案する説で疑問に感じるところはないのか? 鈴木史観との向き合い方から鈴木史観の内容についてまで、 それを日本史板なりに専門的に議論するスレ。
藤本正行はどう?
4 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 23:58:16
藤本はここでは置いて、 ひとまず鈴木眞哉に集中する。 以下鈴木の問題点を上げる。
5 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:03:56
1:他人の説に便乗する これは鈴木の評価を高めることとなった「騎馬突撃否定」も含めてそうだが、 あたかも鈴木がはじめて通説を批判をし始めたかのように喧伝しているが、 実際はそれまでに他の研究者が発表した説に便乗し、通説批判を繰り返している傾向がある。 特に鈴木が問題とする「天下人史観」なる「信長・秀吉・家康」を過剰評価する史観を否定する際、 鈴木は他の研究者の発表をそのまま引用して自説として発表するケースが多い。 2:レッテル張りが得意 鈴木の大きな特徴と言っていいが、 自説と異なる説を主張する人間に対し「徳川御用史観信者」といったようにレッテル張りをし、 必要以上に相手を貶めて、異説を否定しようとする。 鈴木への異説をきっちり分析した上での反論ならばまだマシだが、 「異論はこうこうこう考えている」と勝手に決め付けた上で、 「おめでたい愚か者」といった風にレッテル張りをし、 自分の説の優位を主張したがる。
鈴木氏に自説を否定された三流歴史学者の方ですか?www
8 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:17:06
3:史料を本当に分析しているのか? 鈴木はことあるごとに「一次史料をよく分析すべき」というが、 果たして本人がそれを行っているのかどうか。 戦国時代の合戦形態の分析についてはまだマシだが、 「天下人史観」を語る時に史料批判が酷くなる傾向がある。 例えば「徳川家康は豊臣秀吉の朝鮮出兵を煽った」と鈴木は主張するが、 実はこの主張の元となる史料は鈴木が「脚色が多い為信用できない」と散々語っていた、 あの小瀬甫庵が記した「甫庵太閤記」が史料となっている。 他にも「石田三成は加藤清正らに襲撃された際、家康屋敷に救いを求めた」と平然と記すが、 これも近年の研究発表では、徳富蘇峰が史料の誤読をして、自著の中で記しただけで、 他の史料の中では三成は伏見の自分の屋敷逃げた、と記されていた事が判明しているが、 「通説批判」を得意とする鈴木はこの七将襲撃事件についてはろくに調べていなかったこととなる。 4:好悪の感情で判断をする 上記の問題と通じるが、鈴木は自分の好悪の感情を元に研究の傾向を変える癖がある。 例えば鈴木が高評価をする石田三成についてだと、 「石田三成は家康とよく戦った。家康よりも才能ある人間である」と語るのだが、 その際に引用する史料や論文については無批判に採用している傾向がある。 それは先に徳富蘇峰の論文を無批判に採用していた事からもわかる。 一方で自分が嫌う家康については、 「彼は運だけで天下を取った。関ヶ原における策謀などは運だよりで、 あんなに頼りないものはない」 と切り捨て、家康が具体的にどういう行動を行っていたかろくに分析をしようとはしていない。
なんでそんなに必死なの?www
10 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:23:11
5:「運」で全てを結論付けようとする これは家康論の時に特に顕著だが、 「勝負の行方などは最後は運」と切って捨ててしまう乱暴さがある。 この説を一貫して採用するならばまだいいのだが、 自分の気に入らない人間に対しては「運だけ」と酷評し、 そうでない人間については戦術・戦略などを高く評価する傾向がある。 少なくとも「通説を批判した歴史分析」を主張する人間にしては、 あまりに乱暴な考え方である。 6:4の補記 鈴木の好悪の感情による判断についてであるが、 自分が好む人間については高く評価し、決して批判を加えようとはしない。
11 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:27:31
7:鈴木史観に染まる人間の問題 これが最大の問題と思うのだが、 鈴木の著書を読んだ人間が鈴木の説を鵜呑みにして通説批判を激しく行う傾向がある。 鈴木の説を鵜呑みにするだけでは、 鈴木が批判する「通説信者」と変わりはないが、 この危険について鈴木はまるで察知していないようで、 相変わらず自説を強硬に主張するのみである。
12 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:29:29
以上鈴木の問題点をざっと上げてみた。
別に「鈴木」のところを「司馬」「海音寺」「松本」「井沢」「川合」「宇田川」「黒田」等々どれに取り替えても一緒だわな。 先行する既存の説を信奉している人から見れば、どれも許しがたい異端。 神学論争みたいなもんかw
14 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:49:08
槍合わせも無いって書いてたね
15 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:50:33
>>13 それぞれ考え方があるから別にいいんだが、
鈴木の場合、あなたが上げた人に比べると、攻撃的過ぎるのと、
独善的過ぎるのが問題、と思ってね
しかもそれを鵜呑みにする人が少なからずいるし
ちなみに俺は鈴木を全否定せよ、とは思わないよ
合戦形態分析なんかは、
かなり彼も独自に研究して論を発表してるから評価するけど、
それにひきかえ「天下人史観の否定」なるものがいい加減だな、と思ってるだけだから
16 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:52:02
>>14 他にも合戦中の騎馬武者はいない、から、
いつの間にか「追撃とかでの騎馬突撃はあったろう」と微妙にチェンジした
17 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:53:11
刀と首取りから鈴木氏の著作に接したけれども、1を支持する
18 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:55:53
19 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:55:59
確に読んでて不快感を持った 右翼の教科書批判と似た性質を持っていると思う
20 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:01:05
信玄は強い軍団を作り、戦略性があったと評価しながら、 その弟子的存在の家康については「運に恵まれただけ。彼の策謀も所詮は運だより」と酷評 ハア、と 運に恵まれた状況下で家康がどう動いたのか、 また天下取りを目指した際の徳川家中の状況がどういうものであったのか、 徳川の軍制がどういうものであったのか、そういう総合的な評価をぶっ飛ばして、 「運だけ」というからトンデモだな、と感じる その癖信長については「戦略性に富んだ人」と褒めるんだが 鈴木の家康論に従えば、どんなに戦略性に豊かであっても、 運に恵まれなけりゃ終わりだと思うんだが
>>15 でもあれは「天下人史観」を否定していると言うよりは「『天下人史観』信者」を否定しているように思うんだが。
それにわざわざ刺激的なキャッチをつけるのは耳目を引くための枕に過ぎない。
だって未だに「信長公長篠の三千挺三段撃ち」とか「勇猛武田騎馬軍団」とか「日本刀は万邦無比の神器」なんて素朴に
信じてる人もいるし、それに立脚したエンターテイメントが幅を利かせてるんだからそのくらい言っておかないと誰も気にしないよ。
いわゆる天下人史観で言えば、「関ヶ原の家康公は余裕綽々初めから勝つべくして勝った」みたいなのもそうさ。
笠谷氏あたりもそんなもんじゃない、みたいな説を出してきているけどああいうのも否定しちゃうの?
22 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:04:26
>>21 別に関ヶ原に望む家康が余裕だったとは思わないけどね
ただ彼は彼なりに色々と手を打っているのに「それは運だけ」と酷評し、
一方の三成をべた褒めするから滑稽に感じる
というか、鈴木の主張に従えば、
「三成はどんなに頑張っても家康より運がないから勝てねえんだよ」ともいってるわけで、
それってあまりにも三成を侮辱してると思う
双方あらゆる手立てを尽くしてぶつかった、それがあの合戦じゃないのかな?
どっちか一方が馬鹿とかそう言うものじゃないと思う
23 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:07:59
つか鈴木の言いたいことはわかるんだよ 「天下人様は偉大なり。全てお見通しで余裕綽々で行動をなされました」 こんな馬鹿な事あるか、と彼は言いたいんだと思うのな ただそれを否定する際に「全ては運でした」とかいうような、 乱暴で侮蔑的な評価はないでしょ、と 三成の行動を認めるならば、家康がどう動いたのかも見るべきだし、 もっと冷静な分析を見せてもらいたかった 合戦形態分析に比べるとあまりに乱暴に感じた
鈴木氏の人格攻撃をしているだけで 鈴木氏の説には何も反論できない負け犬www
鈴木の本を読んで反発するって心理は理解できるw 漏れもき・ら・い でも素人が気負ってこの手の本を書くときは止むを得ないんじゃねぃの? 古くは松本清張なんかも読んでいて鼻白む書き方をしているしね >1の書いている事は学問板で単独スレを立てる程の内容じゃないと思うよ 個人に対する誹謗中傷レベル もちっとマシな反論なり自説の展開とかできんのかね?
26 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:27:36
今のところ人格攻撃や誹謗中傷になるような発言には思えないが・・。
27 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:32:32
>>25 あなたのような専門家の意見をむしろ聞きたいのよ
例えば小牧長久手の戦いについてだけど、鈴木は、
「戦いでは負けたが、全体としてはこれは秀吉が有利だった。
大体秀吉はいつでも家康を潰せたが、
しかし秀吉は唐入りをしたかったから家康とさっさと講和して、西国攻めにこだわった
秀吉が家康を恐れていたなどということはない」
と主張するのね。
小牧長久手に限れば鈴木の主張は理解できる。
あれは明らかに秀吉の外交の勝利だと思うよ。
しかし、そのあと秀吉が家康に対し朝日姫、
さらには生母大政所まで人質を差し出した事についても、
上の理由で説明されるだけではちょっと納得がいかない。
つか、家康からも秀康という人質を取っている状況下で、
ここまで気を使う理由は何だ、と思う。
それに鈴木の言葉を借りれば家康は、
「奥州の伊達や北条などと手を組んだらチャンスはあった」とも言うわけよ。
そういう状況下でもなお、
秀吉は鈴木の言うように家康のことを「いつでも潰せる」と余裕で見ていたのかね。
ここが引っかかるんですわ。
あなたの考えを教えて。
28 :
25 :2007/01/19(金) 01:42:18
>27は>1? すまんが明日にしてくれ今日はもう寝るから
29 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 01:44:00
>>28 そうだよ
まあ遅いし
またゆっくり教えてくだされ
>>25 >でも素人が気負ってこの手の本を書くときは止むを得ないんじゃねぃの?
そういう部分ってあるだろうなあ。
相手はなんとも思ってないのに一人熱く燃え上がるって感じで
31 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 21:14:55
極論を書きすぎで鈴木の伝えたい真意が伝わらなくなってるな 余計な反感かいすぎ
32 :
25 :2007/01/19(金) 23:00:04
>27 >あなたのような専門家の意見 専門家であれば鈴木のような下品な人間の相手などしないと思うのだが(苦笑 >ここまで気を使う理由は何だ 講和を信じてノコノコ出て行ったらあっさりアボーンなんて例はいくらでもあるが? ようは両者の立ち位置の差。秀吉は早く全国を平定したいから家康など眼中に無い これに対して家康は自家の存亡がかかっている >「奥州の伊達や北条などと手を組んだらチャンスはあった」 チャンスなら常にある。問題は可能性なのか蓋然性なのかだがねw >秀吉は鈴木の言うように家康のことを「いつでも潰せる」と余裕で見ていたのか 何時でも潰せたと思うよ。秀吉には信長をして「大家者」と言わせる程の財力があった 五畿内を支配下に置いた秀吉に経済力で対抗できる大名は存在しない 実際、家康は小牧長久手の時の無理な動員が禍して領内を大凶作に追い込んでいるしね
33 :
25 :2007/01/19(金) 23:03:04
訂正 五畿内→畿内中枢
34 :
日本@名無史さん :2007/01/19(金) 23:49:00
>>32 ご丁寧にありがとうね。本当にレスくれるとは思わんかった。
お互いいけ好かない鈴木の為にわざわざ時間を取らせてしまい申し分けない。
で早速なんだが。
>講和を信じてノコノコ出て行ったらあっさりアボーンなんて例はいくらでもあるが?
>ようは両者の立ち位置の差。秀吉は早く全国を平定したいから家康など眼中に無い
>これに対して家康は自家の存亡がかかっている
ごめん、この部分もう少し詳しく説明してくれるかな。
ちょっとわかりづらい。
これは要するに家康が秀吉のことを信用出来ないだろうから、
秀吉としてはこうした策をとるしかなかった、という事かな?
実際家忠日記か何かでは、
「大政所を人質に差し出してくれたら上洛する」ということで話がついてたみたいね。
35 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:01:09
>何時でも潰せたと思うよ。秀吉には信長をして「大家者」と言わせる程の財力があった >五畿内を支配下に置いた秀吉に経済力で対抗できる大名は存在しない >実際、家康は小牧長久手の時の無理な動員が禍して領内を大凶作に追い込んでいるしね 鈴木に反発しておいて何だが、俺もこの当時の秀吉の優位性を否定するつもりはない。 よく「石高では家康は秀吉を上回っていた」というけど、 経済力ではおっしゃるように諸大名を圧倒してるからね。 ただね、俺が鈴木に噛み付いてる一つの理由はここなんだけど、 「そんなに秀吉は家康のことを軽視していたのか?」と。 鈴木なんかは「秀吉はいつでも家康を潰せた」と言うけども、 現実にはこの小牧長久手の後そういう行動はとっていないよね。 明らかに合戦を避け、外交交渉で臣従させようと躍起になってると思うのよ。 先に書いた身内を人質に差し出す行動もそうだし、 逆に家康が差し出した人質である秀康に1万石を与えて面倒みるとか、 「お前なんかいつでも潰せるんじゃボケ」と余裕風吹かす人間がする行動にしては、 かなり気を使ってる行動に見える。 諸大名を従え関白に任命され、既に圧倒的に優位だったのは秀吉、 ということを否定するつもりはないよ。 実際家康もそのことをわかってたから臣従したんだろうし。 この当時の秀吉が家康に施した外交策を他の家にも取っていた、と言うなら、 「秀吉は家康をいつでも潰せると軽視していた」と言っても文句はない。 けど、実際は家康以外には施していないですよね? そういう背景を鑑みると、 小牧長久手の戦いで家康を恐れたかどうかは知らないけれども、 秀吉が家康という存在を軽く扱っていた、というのは違うと思うんだけどなあ。
36 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:11:18
つかここまで書いてきて思った。 >専門家であれば鈴木のような下品な人間の相手などしないと思うのだが(苦笑 そうなの?w つか歴史学会とかでは鈴木ってどういう風に見られているんだろうか。 軍忠状などを元にした合戦形態の分析はともかく、 個人的にはかなりトンデモに近いと思われる、 「天下人史観の否定」についても評価するやつがいるのかな?
>これは要するに家康が秀吉のことを信用出来ないだろうから、 >秀吉としてはこうした策をとるしかなかった、という事かな? 両者の落とし所だったと思うが何が不満なの?
>35 秀吉にしてみれば寛容な支配者というイメージが重要なんだよ
39 :
:2007/01/20(土) 00:22:14
問題提起としては面白いんだけどねぇ……。
40 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:23:37
>>37 けど妹離縁させて、わざわざ正室として送り込む必要まであるか?
もし鈴木のいうようにそれほどまでに秀吉が有利ならば、
家臣レベルでの外交交渉で決着つければいいもの、と思うんだけど。
つか「大政所出したら上洛してやる」なんて家康の要求自体、
当時既に「天下人」としての地位を固めた秀吉にとっては無礼千万なわけで、
十分戦の口実になった、と思うんだけどなあ。
ぶっ潰せばいいのに、と思う。隣の北条もろとも。
鈴木の言うようにそれほどまで秀吉が有利だったら、の話だけどね。
>>38 ああそれは同意。
「絶対的な独裁者」として秀吉は天下統一に乗り出す事は出来てないよね。
秀吉の支配ってすごく華々しいけど、
現実のところは「従ってくれたらつぶしたりしませんよ」
と、諸大名の既得権益を保証してるんだよね。
もっとも子供がいない、とかの理由で情け容赦なく改易を施したりもしてるけど。
朝鮮出兵とかの独裁傾向が強くなるのは政権末期の事で、
確かに家康が臣従した当時は、そんなに強攻策をとれてはいないよね。
巨大な大名連立政権って感じ。
41 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 00:31:59
>>39 「天下人を過剰評価するな。史実を突き詰めよう」という鈴木の姿勢は正しい。
ただ彼の悪弊である「侮蔑癖」が悪い意味で全開になって、
しかも自分の考えと似通った人間の論文とかを採用して持論を展開するだけだから始末が悪い。
志は立派だけど、その行動がまるっきし逆、というか。
少なくとも鈴木の真意はなかなか理解されないだろうし、
あの研究というか執筆姿勢では「史実」を突き詰められるとは思えない。
つか300ページくらいの本一冊で、
日本史上すべての天下人について今までの通説をふっとばし話を進めよう、
というのが無理があるんだけどな。
ただどうも本人がそのことに全く気づいていないっぽい。
42 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 01:27:05
今さらだが、25よ、わざわざありがとう
43 :
日本@名無史さん :2007/01/20(土) 12:56:26
やっぱり井沢先生以外は糞
44 :
21 :2007/01/20(土) 19:39:29
>>30-31 「信長公長篠の三千挺三段撃ちは革新的戦術で戦国時代における用兵の精華」
「勇猛武田騎馬軍団の機動力・衝撃力は戦国最強」
「日本刀は万邦無比の神器にして古来から武士の魂であった」
「映画や大河ドラマの合戦シーンは正しい」
「関ヶ原の家康公は何でもお見通しで余裕綽々勝つべくして勝った。それに気付かず挙兵した三成はDQN」
と素朴に信じている人たちから過去に大分叩かれた経験でもあって、過敏性気味に反応してるって部分はあると思ってるんだが。
何しろ歴史のプロを以って任じているアカデミズムな人たちや、軍事の専門家たる旧陸軍の戦史研究家でさえチャンバラの大規模
なのが日本の合戦の特色だと信じてたくらいだから。
「自分が生きているうちに、このことは正しておかなければ」という過大な使命感を背負っちゃってるのかもしれん。
比較するのはおこがましいが、天動説時代におけるガリレオみたいなもんかとも思う。
オレは玉木正之が嫌いなので、鈴木を読むたび「玉木ザマアミロ!」と心の中で快哉を叫ぶ。
46 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 00:33:04
>>44 鈴木の考え方の傾向として以下の特徴があるね。
1:今日伝わる歴史の通説は「天下人史観」に毒された嘘偽りのものである。
2:よって今日伝わる通説は信じられない。
これが鈴木の考えの基本線であり、根源だね。
絶対的な先入観と言っていい。
で、この先入観に基づいて、以下のように鈴木は研究を施す傾向がある。
1):通説は否定されなければならないので、
研究対象についての通説否定を唱える自分の考えと一致する他の研究者の論文を探す。
2):その論文を裏付ける史料を探し、自説に肉付けを施す。
3):通説を唱える人間の主張を独自に規定し、これを侮蔑的に否定しながら、
自説の優位性を強硬に主張する。
48 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 00:54:02
>>46 続き
以上の特徴を有する鈴木の研究の何が問題かと言うと、
1:自分の先入観(通説は間違い)を絶対的に考え、これに異を唱える意見を一切否定する。
わかりやすくいえば頑固。
2:自説に都合のいい(納得できる)他の研究発表、史料のみを無批判に採用し、
これだけをもって高圧的に通説否定をしてしまう。以下例文参照。
例):「○○は通説とされるが、××さんの最近の研究では、
実際は△△だったのではないか、という通説とはまるで逆の考え方が示されている。
それを裏付けるように◇◇という史料には●●という記述があって、これを裏付けている。
常識的に考えれば、◇◇という史料とその時の情勢を考えれば、
××さんのように考えるほうが通説よりもはるかに自然のように思われる。
こうしてみると、○○という通説は実は天下人史観に毒された信者が、
バカの一つ覚えのように勝手に信仰しているだけなのである」
このように通説批判を行う他の研究者の論文を紹介しそれを裏付ける史料を紹介し、
自分がそれに納得理由出来る理由を軽く述べたあと、
それをもって「通説は間違い」と一方的に断言してしまう。
中には軍忠状などを元に合戦形態の分析を行ったような好例もあるが、
「天下人批判」などの際はこういう乱暴な分析を行う傾向がある。
実際、「信憑性が低い」と自ら述べていた小瀬甫庵の甫庵太閤記を史料としていたり、
戦国期よりはるか後にまとめられた常山紀談の記述だけを信用して人物批評を行っている。
通説・それに対する反論双方を多角的に分析するという視点が根本的に欠けており、
そのため非常に検証があいまいなまま強引に通説批判を行ってしまうのだ。
49 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 01:26:00
小牧長久手についていろいろかかれてたが、 関ヶ原についての鈴木の分析もぶっ飛んでいる。 なかなか面白いので、鈴木の主張を以下に書く。 ここでは学問板らしく、彼の主張について検討を加えていただきたい。 1:関ヶ原の戦いは家康の意のままに進んだような戦いではない。 2:家康とは大きく地位的に格差のあった三成が家康と互角の戦いを繰り広げた事は、 彼が家康よりもすぐれていることを証明している。 もし家康と三成の立場が逆転していたならば、 家康はひたすら三成に平身低頭していたに違いない。 そのことは家康の信長、秀吉への態度を見ればわかる。 3:上杉討伐の為に、家康が出兵したあと三成が兵を上げたことは、 「家康の策に三成が乗った」とされるが、このとき以外にいつ三成は行動を起こせたというのか。 4:小山評定では家康は理由は分からないが落ち込んでいた。 常識的に見ればこの時点では家康は不利な状況だった。 西軍が秀頼を要している事、東軍諸将の家中では西軍につくべしという声が多かった事や、 毛利家家臣が「西軍勝利」を信じていた事でも東軍の不利がわかる。 5:この窮地を脱する事が出来たのは福島正則らが愚かにも家康に忠節を誓ったからである。 窮地を脱する事が出来たのは家康の機略によるものでも、直臣の働きによるものでもない。 正則達がおろかだった為である。 (つづく)
50 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 01:39:37
(つづき) 6:9月15日の関ヶ原決戦は通説では、 家康の謀略によって西軍が関ヶ原におびき出され惨敗したとされるが、 藤本正行や藤井尚夫の調査によれば、 西軍が関ヶ原に出たことはむしろ予定通りの行動であった事がわかる。 7:西軍は開戦当初は善戦した。 小早川、毛利など傍観する諸将が多い中、西軍が善戦できたのは、 これは関ヶ原の各陣において、西軍方が要塞化して待ち構えていたからである。 藤井尚夫の調査によれば西軍は持久戦の構えだった。 8:なぜこのような状況から東軍が勝利したのかといえば、 小早川秀秋が裏切り、と吉川広家が不戦の構えをとったためである。 NHKの番組や家康信者が主張するような「西洋式の鎧を家康が着用していた為」ではない。 9:小早川も毛利も早くから家康と内応していたから当然といえば当然の結果だが、 しかしこれをもって三成は愚かだったとはいえない。 三成も小早川秀秋の裏切りを予感し、彼を味方に惹き付けようと努力していたためである。 10:小早川・毛利の裏切りを家康の「謀略の成功」とするのは家康信者の過大評価である。 もし毛利が家康との内応を破って東軍に挑みかかったら小早川も裏切る事は出来なかっただろうし、 逆に小早川が西軍に味方したままだったら、 毛利も広家一人では抑えきれず、東軍に攻めざるを得なかったに違いない。 実際家康は小早川がなかなか裏切らず焦って爪を噛んでいた。 吉川もいつまでも毛利を抑えていられる保証はない。 もし家康が小早川・吉川の裏切りを頭から信じて作戦を立てていたとしたらおめでたい限りである。 (つづく)
51 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 01:45:00
(つづき) 11:三成は小物ではない。家康が彼よりすぐれていたのは地位と偽りの声望と、 そして何よりツキである。 検討してみれば三成の行動には戦略的にも戦術的にも決定的な誤りがあるとは思われない。 あえて言えば、島左近の「家康を暗殺すべし」という素晴らしい献策を三成が採用しなかった事だ。 12:三成には他にもミスがあるといえばあるがそれは家康も同じことだ。 家康の最大の誤算は三成を過小評価していたことだ。 しかし三成には家康との格差を埋めるだけの才幹があり、 両者の格差は埋まり、どちらが勝ってもおかしくないところまで進んでしまった。 結局両者の勝敗を分けたのはツキの差である。 以上。
52 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 01:52:50
個人的な見解。 1:同意。 2:三成が優れていた、ということには同意だが、 家康よりも優れていたかどうかは判断のつけようがない。それぞれ優れていたということだろう。 なお、三成と家康の立場が逆転したらとかは関ヶ原の合戦を考える際、まったく無意味である。 3:同意。 4:基本的に同意。 ただ、「家康が落ち込んでいた」というのは家康の侍医の記述であるが、 この侍医の記述を信じるならば、 会津出兵に際し、伏見城で一人不気味に微笑む家康のすがたについても記すべきかもしれない。 家康の焦る部分のみを描くのは公平ではない感が否めない。 5:若干異論あり。 鈴木の記述だと福島正則らが愚かにも家康に忠誠を勝手に誓ったかのようであるが、 「関ヶ原軍記大成」の記述では黒田長政が福島発言を導くべく、暗躍していたことが記されている。 黒田長政と家康が結託をしていると思われる場面は他の史料でもいくつか見ることが出来、 「福島正則らが愚かにも家康に忠誠を誓ったから家康は窮地を脱出できた」というような単純なものではないと考える。 家康側の工作についても記すべきであろう。
53 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 02:11:24
6:藤本・藤井両氏の記述を読んだ事がないので答えようがない。 7:西軍が奮戦したことは同意。藤井の調査については知らないので答えられない。 8:同意。ただし、「家康が西洋鎧を云々」については知らない。 こんな史実を持って家康有利を主張する人間の記述を読んだこともない。 というか関ヶ原の合戦をこんな鎧云々で語る人間をもって「家康信者」などと決め付ける必要はないと考える。 9:同意。しかし三成側の工作は結果失敗に終わっている。 なぜ失敗したのか、その理由を検証すべき。 10:異議あり。結論が乱暴すぎる。 基本的に家康側の工作があって初めて、 この小早川・毛利の裏切りという「僥倖」がまわってきたということを無視している。 毛利・小早川双方の裏切りは鈴木の言うとおり、不安定な要素があるものではあるが、 「失敗するかもしれないから」と何もしなかったら、この僥倖がめぐらなかった事は確かである。 鈴木がここでするべきは、西軍総大将家を分裂させ、 主力軍の内応を取っていた家康側の工作についての詳細の検証であろう。 それはいつごろから行ったものだったのか、 念入りに行ったものだったのか、軽く行っていたものだったのか? そしてその謀略を受けた側はどういう反応を示す可能性があったか、それを家康側はどう読んでいたか。 そういった家康側の外交戦略の詳細を見た上で、 「この裏切りが謀略の成功と見るか僥倖であったか」判断がある程度のつくだろう。 鈴木が唱えているものは、彼がもっとも嫌う典型の結果論である。 また、小早川が裏切らずイラついた家康が小早川に催促を行った事実を無視している。 家康は小早川が裏切るのをじっと待っていたわけではない。 せめて「こんな事実はないだろう」というくらいの否定するか何かの記述はすべき。
54 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 02:32:42
>>51 11:三成が小物ではない、という部分については同意。
しかし、島左近が家康を暗殺すべきと提案したとされるのは、
関ヶ原より100年以上もたったあとに記された「常山紀談」に記されるのみである。
この記述だけで三成が軽率と判断するのはいかがなものか。
当時の史料に当たるべし、という鈴木の哲学に反している事はまちがいない。
また、三成は他には何ら失敗はないというが、
家康よりも地位が離れていて、はじめは前田、その後毛利を旗頭に行動をせざるを得なかった三成が、
総大将毛利家の分裂・裏切りを想定していなかったのは大きな失敗ではないか?
少なくとも総大将毛利勢を完全に味方に引き入ることは、
西軍の士気を高める意味でも、統率を測る意味でも最低条件だったはずである。
また、家康が西上してくることを読んでいなかった点についても無視をするのはいかがなものか。
12:異論あり。
お互いに知恵の限りを尽くして戦い、
時には策が成功し、時に失敗しながら迎えたのがこの戦いであろう。
確かにもし一つ歯車の動きが違えば、流れは大きく逆転する可能性もあっただろう。
これをツキだといえばそれまでだが、
しかし、少なくとも鈴木の自説に都合のいい部分のみを採用した論理の組み立て、
(=天下人家康は運に恵まれていただけ。対する三成は有能だったが不運だっただけ)
では「この戦いは運が全てでした」と結論を出せるようなものではない。
55 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 02:41:13
総論 「関ヶ原は家康の思惑通りに進んだ戦いではない。三成は決して無能ではなかったのだ」 ということを強く主張したかったのが鈴木の本意だろう。 しかし、その本意を主張する為に必要以上に三成を褒め上げ、 逆に家康を貶め、あげく「全ては運でした」という乱暴な結論を持ってくることには、 異論をはさまざるをえない。 鈴木のいうように「本当の歴史」を明かしたいのならば、多角的な視点を持って、 東軍・西軍の双方の詳細を研究するべきだ。その上で持論を発表すればいい。 しかし、残念ながら「史実の発掘」よりも「天下人史観の否定」を優先したためか、 非常に雑で乱暴な研究発表となっている。 実際あとがきでも「従来の俗説は採用せず」と通説否定の姿勢を強く打ち出しているが、 しかし、その「採用せず」の根拠があいまいだ。 通説を採用しない理由よりも、 「通説を採用しないこと」を重視していたのではないか、と違和感を感じてしまう。 「偉大なる神君家康公が勝つべくして勝った戦い」という関ヶ原観を吹き飛ばすにはいい著作であるが、 「これで関ヶ原の真相を知る事ができる」というのは異なると思う。
雑賀を褒める為に、武田を貶める鈴木。
57 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 02:49:01
>>56 ところが武田については絶賛なんだな、これが
上杉と武田は戦国時代の「竜虎のような存在」なんだそうだ
58 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 10:04:30
59 :
日本@名無史さん :2007/01/22(月) 02:22:48
鈴木の研究が雑だと言うのは同意だけども…
けれど鈴木の言うように、
家康が最初から小早川の裏切りや吉川の内応を信じきってたとは思えんな
>>58 のリンク先にあるように、そんな政治工作に頼らずとも、
合戦で勝てる方法を家康は模索していたはず
しかしそれが思うようにいかず、
結局以前から行っていた西軍への政治工作を頼るしかなくなってしまった
特に小早川の裏切りは最重要案件なので、
何とか謀略を成功させようとわざわざ鉄砲で催促までして、強引に裏切らせた
運がよかったというよりも、
正々堂々と戦う(野戦としてそれぞれ戦術を立てて戦う)んじゃ勝てないので、
インチキして勝ちました、そんな感じだね
60 :
日本@名無史さん :2007/01/22(月) 03:41:04
>>59 >もし家康が小早川・吉川の裏切りを頭から信じて作戦を立てていたとしたらおめでたい限りである。
これは鈴木の指摘は間違いとは言い切れない。
むしろ家康像を正確に見てると思う。
実際小山評定の後も、
長く江戸に滞在して「本当に味方なのか?」と東軍諸将の動向を見守ってたような男だけに、
「小早川・吉川は大丈夫だ」と安心しきっていたとは思えん。
家康にしたら、小早川・吉川の動向についてはあくまで保険だったんじゃない?
特に小早川の裏切りなんてのは。
ただ、予想以上に苦戦する事になったので、
小早川の裏切り、という保険に頼らざるをえなくなったんだろうな。
こういう保険を用意したことを家康の「用意周到」と評価するか、
それともその保険が良い様に働いただけで結局運だ、と言うのは、
人それぞれの判断によるだろうけどね。
61 :
日本@名無史さん :2007/01/22(月) 22:45:00
小早川や吉川については目付を付けたり人質誓紙交換をしてるんだが? 鈴木が言うような運頼みの工作じゃなく、念入りなものだよ それで安心してたかどうか知らないが しかしこういった家康の工作が生きて西軍を苦しめ敗北させたのは疑い様がないだろ
62 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 00:41:24
熱くなってるところ申し訳ないが、 こんなの熱く議論するほどのことか? ちょっとでも歴史かじってる人間なら、 鈴木がろくに調べもせず極論を言ってることくらい一目瞭然だろ? 史板で議論するほどのことじゃないと思う 少なくとも関ケ原については
というか大筋はみんな一致してない?
64 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 02:33:48
大筋って?
65 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 04:03:08
自作自演の邪魔はしないでくださいね。
茶々を入れてるのは徳川家の関係者に違いない
68 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 15:04:32
鈴木信者乙
>>60 毛利勢の陣がどこにあったか知ってて言ってるのか?
もし毛利勢が動けば東軍は側背を毛利勢と、その背後に陣取ってしまった長宗我部勢に襲われる訳なんだが。
70 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 19:31:32
だから何? おまえが60のどの部分が気に入らず、再考を促しているのか?
71 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 21:36:39
どうも鈴木の「家康は運がよかっただけ」っていう部分に、 過剰反応してる人がいるようだが… 上のほうでもあるけど、鈴木の本意はそこじゃなく、 「天下人とされる人だって万能じゃないんですよ。 一つ何かが違えば、全く違う歴史が展開していたのかもしれませんよ」 ということをいいたいだけだろう なんか「鈴木は家康の政治工作を無視している」とかあるけど、 そんなのは鈴木はとうに承知の上だと思うんだよ。 今まではそんな家康の政治工作を中心に関ヶ原をみて、 「家康の策にはまった三成は愚かだ」という考え方がはびこってるから、 いや、実際は三成も十分手をつくしていたということを説明したかったんだろう。 そして三成の活躍をより強烈に印象付けたいからこそ、 あえて「家康は運だけ」と強弁してるんじゃないの? 家康好きな人にしたらそんなこと書かれたら気分が悪いだろうけど、 家康を蔑視したいのが鈴木の本意じゃないと思うけどな 「運だけ」という部分だけを取り上げて過剰反応するのは鈴木が少し気の毒な気がする
72 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 21:44:21
鈴木が言う「ぐ、軍師」なんかいなかった、は本当なの?お兄ちゃん?
73 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 21:56:20
軍師なんて江戸時代の軍学者が三国志を読んで妄想を膨らませただけ
74 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 23:30:18
>>69 そんなところに危険なところに家康がわざわざ陣取るということは、
どれだけ家康側の工作が進んでいたか、ってことを言っているのかな?
保険なんかじゃなく、確信犯だと
>>13 すいません、ここにいう「川合」「宇田川」「黒田」とは中世史のあの人達ですか?
流石に「鈴木」「司馬」「海音寺」「井沢」といった方々と同列にするのはどうかと思いますが。
それはそれとして「松本」って誰?
76 :
日本@名無史さん :2007/01/23(火) 23:39:55
77 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 02:07:44
>>71 俺は家康好きだけど、鈴木のいう「運の人」というのは、
言われてみれば間違いないのかなあって気もするけどね
ただ、無能な人間が幸運に救われただけ、というより、
運がめぐってきた時を抜け目なく見逃さず、
そこでしたたかに動いて己の利益を生み出してるって感じ
三河一向一揆の後の旗本先手役に見られる直轄軍の強化や、
信長死後の旧武田領の簒奪、
小牧長久手講和後の秀吉との2年に及ぶ外交戦によって、
「秀吉を怖れさせた」という宣伝を世間に売ったこと、
豊臣家の分裂に巧みにつけいっていき、関ヶ原を誘発したところなど……
自分に巡ってきた幸運を抜け目なく見逃さず、
したたかに自分のものにしてるところがもしかしたらこの人の才能なのかもね
鈴木は家康を「運の人」とは言っても無能の人とは言ってないしなw
>>77 >無能な人間が幸運に救われただけ、というより、
運がめぐってきた時を抜け目なく見逃さず、
そこでしたたかに動いて己の利益を生み出してるって感じ
同意。家康という人は「老獪な政治家」という評価が一番合うと思う。
79 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 18:54:13
老獪さが出てくるのが秀吉が死んでからだからな。
運の人は秀吉でしょ 鈴木さん。
81 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 19:50:26
運の人と決め付けることで、何が何でも家康を認めたくない鈴木
82 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 22:20:18
>>78 合戦が得意な武将というよりしたたかな政治家って感じだよな
関ヶ原でも戦略を立てて挑んできた三成に政略で勝利した感じ
>>79 秀吉死後は老獪さは露骨だけど、それまでもなかなかしたたかだよ
小牧長久手後も秀吉相手に頭下げずに2年粘ってる姿とか見ると、
したたかな政略を展開する男だなあ、と思う
鈴木の説を借りればさらに秀吉の朝鮮出兵を煽って、
豊臣体制を弱体化させてるわけだし
83 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 22:35:06
なんで戦国時代研究の水準が低いかっていうと、みんな日本史が好きなせいで、 必要以上に「物語・逸話」に毒されちゃってるせいではないか。だから科学として の歴史学的議論が進展しない。 鈴木さんのダメなところは、もちろんいろいろと面白い指摘はあるものの、物語風歴史学を 批判するのに、同じ物語風歴史学を以てしているところ。新しい方法論を提示できなければ、 結局のところ、目くそ、鼻くその類だろう。
84 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 23:26:04
>>83 俺最近知って驚いたんだけど、
戦国時代の大名家の家臣団の組織・機構の研究ってそんなに進んでないらしいね
武田って「武田家臣団」とか言うけど、実態はどうだったかさっぱりわからないとか
そういう「基本的研究」がおっしゃるような「物語逸話」にとらわれすぎて、
ないがしろにされすぎてるのかもね
鈴木の場合の「科学的研究」は軍忠状への注目だったんだろうな
85 :
日本@名無史さん :2007/01/24(水) 23:56:22
>>83 しかもその物語が都合のいい他人の物語をパクリまくったあげく、
「勝者は運がいいだけだった」というトンデモな落ち
>>84 だってあなた、守護家はほとんど滅びちゃったでしょ。畿内近国なんてほぼ全滅ですよ。
戦国時代の大名家の家臣団の組織・機構の研究なんて文書の残っている毛利とかに限られる。
まともな研究者なら「「物語逸話」にとらわれすぎ」な人なんていない・・・と思うけど、
だからといってではどう突破口を開くのかということが物凄い難問なわけです。
そもそも例えば長篠の三千挺三段撃ちという通説を批判されても、へーとは思いはすれど
で、それを明らかにすることがどういう意味を持つの?という疑問がよぎるのです。
まあ、自分の金で好きなこと研究する分には問題ないわけだし、有益なこともあったりはするけどね。
>>82 鈴木風に言えば「War」と「Battle」の違いが分かってるというところかな。
三上章という在野の日本語学者の評伝読み終えたんだが、
在野の研究家は、学会の主流に黙殺されるのがままある
(反駁されるより精神的にキツイ)から、
鈴木氏もあんな調子になっちゃったのかなぁとも思った。
ここがそうみたいに、話の種としては面白い。
NHK教育で日本刀のシリーズでゲストで出られたのはよかったねw
88 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 00:20:11
>>87 鈴木ってテレビ出たの!?
講談社新書のやつでしか顔写真みた事なかったや
狐目の神経質そうな顔したじいさんだよね?
ちなみに「War」と「Battle」って例えは、南條範夫の丸パクリなんだよねw
89 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 02:18:56
>>86 戦国期の三河松平家(徳川)ですら、その実態はよくわからなかったそうだからねえ
新行紀一、煎本増夫あたりの地味な研究でようやく、その実態が見え始めたようだけど
鈴木の功績といえば、
軍忠状から合戦実態の分析を行おうとした、この点じゃないか?
ここで今話題になってる家康らの「天下人史観」については、
それについて記した出版した本はいずれも絶版になってるし、
何より鈴木自身が初めて「天下人史観」について記した「天下人の条件」の中で、
「わからない事はわからないままで終わった。問題提起だけは出来たと思う」
みたいな自信なさげなこと書いてるからねえ。
はっきり言って不発に終わったっぽいね。
90 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 02:20:31
>>87 >在野の研究家は、学会の主流に黙殺されるのがままある
>(反駁されるより精神的にキツイ)から、
>鈴木氏もあんな調子になっちゃったのかなぁとも思った。
かまってちゃんかよw
けど彼の煽り方は下品でみっともないよね。
70の大人のやる事じゃないよ。
そのくせ自分を正当化するのには必死だしw
91 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 08:37:20
>>90 >自分を正当化するのには必死
これは研究者にもしばしば見られる態度だし、まして在野の人で学閥とかの支援が全く
期待できないんだから、ある程度仕方がないんじゃないかと思うよ。
それより問題なのは、鈴木さんとか立花さんとかをきちんと成敗できない研究者の側
ではないかなあ。いや、おれは学術論文しか書かない、っていう反論もありかもしれな
いけれど、誰か一冊、新書なり選書なり書けばすむことじゃん。それができない、とい
うことは、戦国時代の研究者のレベルを疑われてもやむを得ない。
92 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 12:38:42
>>91 > それより問題なのは、鈴木さんとか立花さんとかをきちんと成敗できない研究者の側
> ではないかなあ。
つ[バカにつきあうとバカが伝染る]
94 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 17:42:49
そうはいっても、鈴木さんはまだしも、立花さんはうらやましいくらい売れてるじゃない。 ああ、じぇらしいよー。
95 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 22:17:56
>>91 「煽りはスルー」ということで無視されてるんじゃないの?
実際あんな攻撃的な文章書く人間相手にまともに相手したいとは思わんわな
しかも持論は「運が全て」と研究全てを否定・放棄するようなものだし
96 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 23:44:08
軍忠状の調査も、どうかと思う。 あれは怪我の原因だけが書いてあるもので、そこから刀は首取り用だと断定し、 強いては『遠戦志向』と結論付けるやり方は強引ではないか?
97 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 00:39:00
>>96 都合のいい史料を都合のいいように解釈するのが鈴木流
けど軍忠状はかなり説得力あるけどな
98 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 00:50:08
なんでもいいけど複数の板に同じスレ立てて同じレスしてる奴は頭おかしいのか ネットマナー知らないのかどっちよ 自分のサイトで真っ向から反論すればいいじゃん 男らしくないよ
99 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 00:55:38
そもそも、白兵戦の前に射撃で地ならしをするのは近代に到るまで万国共通。
>>97 > けど軍忠状はかなり説得力あるけどな
皆無。世界に誇れる日本刀による傷があんなに少ないと言うのは捏造としか言いようがない。
鈴木は「あるある」の製作者とレベル一緒。
101 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 01:39:45
>>100 >世界に誇れる日本刀による傷があんなに少ないと言うのは捏造としか言いようがない。
釣りですか?
102 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 07:31:45
103 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 10:17:26
どちらもサヨクだろ。 自作自演
104 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 10:21:51
負傷の理由で「遠戦志向」が決まるなら、ナポレオンも遠戦志向。
105 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 10:29:34
やはり鈴木はトンデモってことか
106 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 15:43:54
安土古城図は本能寺の変の犯人達を教えている 安土廃城約百年後に描かれた物で何の目的で描かれたか判らない。大手道の脇 に羽柴秀吉、家康公、武藤助左衛門、江藤加賀右衛門、武井肥後入道夕庵の屋敷 がある。本丸に堀秀政の名がある。しかし、この大手道は繖山から流れる川の流 域にあり、沼と湿田に阻まれて道として機能していない。普通大手門は玄関であ るから城下町に続く筈だがこの大手道は続いていない。道幅も広く直線的で、防 御面から見ると不可解である。この大手道は偽りの道で本当の大手道は百々橋に 続く道である。すると安土古城図は何を言いたいのか。城攻めは大手門から攻撃 するから、本能寺の変の犯人を教えているのである。 武藤助左衛門、江藤加賀右衛門、武井肥後入道夕庵は信長の家臣名簿にない。 暗号になっていてそれぞれ、武門の誉れ高い五郎左衛門尉である丹羽長秀、加賀 の太守前田利家、信長の死後仏門に入り肥後へ移った細川藤孝と読める。 また、本能寺の変の犯人はその後の出世度でも判る。変の前から変の後にどの 様に変わったか。 光秀 34万石→0 信長の死後、後継者争いの生存競争の為に事前に味方を 作って置かなかったとは考えられない。 秀吉 12万石→200万石 毛利との短期間の和睦、中国大返し、短期間で 武将を味方にする事は無理。 家康 200万石→250万石 変後の混乱中に駿河と甲斐を手に入れた。 丹羽長秀 10万石→123万石 山崎の戦いの戦功だけでは恩賞が多すぎる。 前田利家 12万石→100万石 賤ヶ岳の戦いでの柴田軍離脱だけでは恩賞 が多すぎる。 堀秀政 2万石→29万石 大した戦功もないのに加増されている。 細川藤孝 11万石→39万石 戦功もないのに加増されている。 6月2日は信長の中国出陣の日で、明智軍は早朝2条城の周りで待機していた。 藤孝が書いた信長の偽の朱印状(信長は中国出陣を中止して安土へ帰った)に騙さ れ、事情を聞く為に安土へ向かった。周山城に隠れていた秀吉軍が明智軍にすり替 わった。2条城は堀秀政の裏切りで大手門が開き秀吉軍、丹羽軍に攻撃されて信長 が討たれた。安土城は家康の指揮で利家軍、信雄軍に攻撃されて信忠が討たれた。
107 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 15:47:16
安土古城図は本能寺の変の犯人達を教えている 続編 本能寺の変の犯人はその後の出世度でも判る。 京極高次 0→1万石 浅井氏に滅ぼされてから再興、手柄なしの再興はな い。高次と近江衆が裏切って安土城の大手門を開いたのである。家康は信雄に 信忠を討ったら天下を取らせてやるとそそのかしたのである。 安国寺恵瓊 0→3万石 手柄なしの加増はない。 小早川隆景 6万石→63万石 手柄なしの加増はない。 毛利輝元 160万石→112万石 秀吉との和睦の条件である5ヶ国割譲 は小早川隆景がその代わりの領地を得ているので成り立たない。毛利は秀吉と 同盟を組み八百長の戦争をしていた。高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜多 軍である。 信長の妹・お市の3姉妹の茶々は秀吉の側室、小督は家康の嫡男・秀忠の正 室、お初は京極高次の正室になっている。なぜ、利用価値のない信長の血筋の 娘を嫁にしたのか。それは信長の怨霊封じの為である。怨霊は自分の血筋の者 には祟れない。 信孝らの四国渡海は6月1日の予定であったが、本能寺の変の知らせを待つ かのように延びていた。とても偶然とは思えない。 大化の改新で朝鮮人の蘇我氏(中大兄皇子ら)が聖徳太子を暗殺した。本能 寺の変の首魁は秀吉である。いつまで嘘の歴史を引きずって行くつもりか。日 本の恥である。
何かのミステリー小説?
けっこう面白かったのに、だんだんこのスレ自体が鈴木化している。
110 :
日本@名無史さん :2007/01/26(金) 23:30:34
>>109 どのあたりまで面白く、
どのあたりから鈴木化していると思われるか?
大学・大学院の史学科に籍を置いていたからといって特に方法論的に優位というわけではないのは確か。 在野の人が独学で研究をしたからといって必ずしも不利ではないのが史学。 でも、アカデミックな場にいて何が得られるかというと他者に辛辣に批判されるということなんだよね。 在野の人たちってその機会が無い、或いは少ないから、なかにはあさっての方向に突っ走ってしまう人がいるわけで。 鈴木さんは内容によっては良い研究もあるけど。
112 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 01:37:20
>>111 アマチュアの場合基本的にスルーされるんだよな
鈴木だって歴史関係者に注目されたのって、
一番は「遠戦志向・騎馬隊否定」
他には「武功夜話否定」や「本能寺の変」検証くらいでしょ?
通説を否定する、と彼が息巻く割には相手されてないっぽいよね
歴史界で小林よしのりのゴー宣気取ってすべりまくってる感じ
>>112 > 一番は「遠戦志向・騎馬隊否定」
> 他には「武功夜話否定」や「本能寺の変」検証くらいでしょ?
それも、もう論破されて色褪せちゃってるわけだがな。
114 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 14:54:53
論破って?くわしく
鈴木スレの鈴木化ワロス
「遠戦志向」の根拠は軍忠状だけど、そもそも軍忠状というのは基本的に生還者の負傷の原因は書かれているが、 戦死者の死因が書かれている例は少ない。負け戦で敗走した場合など尚更。 弓鉄砲で敵と距離をとって戦った場合と、槍刀で接近戦を戦った場合の負傷者は、どちらが生還率が高いだろうか? 当然距離をとって戦った方が後退しやすく、生還しやすい=軍忠状によって後世に負傷の原因が伝わりやすい。 よって軍忠状を分析した結果、弓鉄砲による負傷者が多いのは当たり前。 軍忠状の分析から戦国の戦いは遠戦志向だったと結論づけるのはあまりにも早計。 また、軍忠状の発給対象となる戦いは、城攻め、小競り合い、合戦と、多岐に亘る。 このようなものを一纏めにして分析しても意味がない。 はっきり言って鈴木の説は、「遠戦志向」について言えば、 滅茶苦茶な分析法による議論の価値もないレベルの主張。
鈴木のイチャモンは間違ってるという理由で 鈴木が批判した説が正しいことが証明されるわけですね!
118 :
日本@名無史さん :2007/01/28(日) 16:38:08
↑ 鈴木説が間違っていることが証明されるだけ。
>>113 本能寺の本は藤本正行との共著だが
これがいつ誰に論破されたんだ?
刊行から1年も経ってないが。
むしろこの本で藤田達生の「足利義昭黒幕説」が
論破されてるのだと思うが。
121 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 00:55:11
>>116 そういう真っ向な反論を行った著名な研究家とかいるの?
あとこれに対する鈴木の返事は…?
122 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 16:03:19
>>116 一応それに対する鈴木の反論と思しき文章
「戦国15大合戦の真相 第2章つくられた戦国合戦像とその裏側」より
「私は戦国時代の負傷者延べ1578名の統計をとってみたことがある。
その結果わかったのは、弓、鉄砲、石・礫(つぶて)などの遠戦兵器、
つまり広い意味での「飛び道具」によるものが72%強に達するということであった」
(中略)
「刀や槍でやられると致死率が高いから、
負傷者としては出ないのだと負け惜しみをいった人もいるが、
槍はともかく、刀では金属鎧はもちろん革鎧も切れないことは、甲冑の専門家が指摘している。
だいたい負傷者に対する戦死者の比率がはるかに低いのだし、
その戦死者も多くは即死者ではなく、
飛び道具でやられて動けないでいるところを首を取られたような者たちだったのだから、
刀はもちろん、槍の効用も誇大に評価すべきではない」
相変わらず熱い文章でございますなw
123 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 16:11:48
ちなみにこれは「川中島合戦」を分析したものなんだけど、 他にもここで話題の「家康批判」に関連しそうな部分があるから紹介する。 なかなか面白いことをおっしゃる。 「戦国大名たちはできるだけ、戦わずに勝つことを心がけたし、 どうしても戦わねばならない場合でも、なんとか損害の少ない方法を選ぼうと苦心した。 信玄などは、この<戦わずして勝ちたい>派の見本のような男であった。 そんな信玄がやたら損害の出そうな戦闘(引用者注:川中島合戦の事)など企画したはずがない」 家康も秀吉死後は似た考え方の持ち主だったと思うのですが、 これについては「運がよかっただけ」と切捨て、 信玄については「戦わないで勝つことを心がげた=政略を駆使した」 と評価するのはなかなかおもしろいですね。
124 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 16:21:38
あと謙信・信玄の評価についての鈴木の文章 「謙信と信玄は、戦国時代の龍虎とでもいうべき存在だった。 (中略) 頼山陽が「日本外史」で論評したように、 二人の強さは群雄の中でも、とび抜けていたからである」 「同じ強いといっても強いなりがまったく違うし、 人柄や政治、軍事の手法なども正反対といってもよい」 「腹黒く、計算高い謀将信玄に対して、 清廉無私、正義感の強い勇将というイメージでとらえられている謙信」 鈴木さん、どうやら信玄と謙信がお好きなようですね。 ただ相変わらず自分に都合のいい論文等を引用し、 「信玄の強さ」が徳川御用史観=天下人史観によって形作られた可能性があることを無視し、 さらには、「家康を過大評価する御用学者」と切り捨てた頼山陽の日本外史まで引用してみせる、 鮮やかなテクニックには感服仕りました。
なんか史料を読んでわかったつもりになっちゃってる歴史作家の人物評みたいだね。
126 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 16:52:29
>>125 「強い」というのが何を根拠にしてそう言っているのかがわからないよな
あと、
「信玄は自分の軍団を命令に忠実に動かすようにしたかった。
どれほど結果が伴なったかは分からないが、これは偉い」
みたいなこというけど、こんなことで信玄を評価するならば、
三河統一後に「旗本先手備」なる直臣の親衛隊を作って、
領主連合から一歩進んだ軍政を組織した家康のことも評価すべきだろうと思う
「三河軍団」の有名どころはほとんどこの先手備出身なんだから
こういう訳のわからん偏りがこの人の研究の評価を下げてしまってると思う
鈴木スレの鈴木化ワロス
>>6 学者さんは全然必死じゃないと思う。
多分、生暖かく見てるというか。
三段撃ちを否定されたからって、じゃあ反論してやろうとかにはならないだろ。
話が些末すぎるしw
小和田先生辺りはこっそり気にしているに違いないだろうけど。
鈴木さんの著作に実害を受けているのは、仮想戦記物のライターさんとか
信長関連で食い扶持をなんとか得ている雑誌編集者とかである、と言ってみるテスト。
あと駄文を書いてバイト代を稼いでいた院生とかw
一番頭に来ているのはこいつらだろうな。
どの鈴木スレも、最初に理論否定ではなく人格否定から入るあたりが全てを示唆しているかと。
つうか必死なのは鈴木だけの悪寒
130 :
日本@名無史さん :2007/02/01(木) 21:12:42
戦史、軍事史の類が史学界で傍流なのかもね。 信長は3段撃ちをやった、だから偉い、ってのは学術論文じゃまずやらんだろうし。 しかし、鈴木の本にあった「日本海海戦の名前が一度も出てこない日露戦争の論文」 (東郷平八郎だったかも?)というのも、なんだかなぁ。
131 :
日本@名無史さん :2007/02/01(木) 23:27:16
>>128 散々言われてることだが、鈴木の言いたいことはわかるが、
あの攻撃的な文章と自説のみを絶対的に考える頑固さが余計な誤解を招いているのだろう
多分あのままじゃまともに相手をされることはないと思う
132 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 00:27:28
要するに「言い方がむかつく」って事か。 説教されて逆ギレする中学生みたいだなw あと相手にされるもされないもないっしょ。 武田騎馬隊ら三段撃ちやら、本気で研究している学者がどれだけいるのさ。 だいたい鈴木さんが喧嘩を売ってるのって、研究者じゃなくて売文家でしょ? 確かにその人達にしてみれば、相手にされなくなってくれないかなぁ、だわなw
133 :
25 :2007/02/02(金) 01:04:51
>128 >132 >1が知識の全く無い厨房であることはすでに確定しているし 多分6〜7割りの書き込みは>1であろうと推測しているのだが あえて問う 自らの書き込みも>1と大差の無いレベルだということは 認識しているの?
25も大差あるとは思えないが
135 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 01:32:28
>>132 鈴木がケンカ売ってるのは疑いなく信じられている歴史の通説
研究家であれ売文家であれそういう通説を信じてるやつは許せんのだと思うよ
25が書いてるように素人が気負って書いてるだけ
ただ普通に自分の研究を書いてても注目されないから、ああいう書き方するんだろ
136 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 01:36:35
>>133 おそらくは鈴木の本を読んで、
「うわ、この人の書いてることすげー」って感心しちゃって、
鈴木の事慕っている人間だと思うから、無駄な問いかけだと思う
137 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 02:12:15
25はツンデレ
>>132 >要するに「言い方がむかつく」って事か。
>説教されて逆ギレする中学生みたいだなw
ムカツクとかは別にして、
定年を過ぎた老人にしては子供のように煽りまくる文章書く人だなあと思う
そんなのだから反発を買うのは止むを得ないんじゃないの?
逆にそんな彼の姿に痛快さを覚える人もいるんだろうなとも思う
容赦なく切り捨てていく姿を見ているのは読んでて気持ちいいものね
鈴木については彼を好きになるか嫌いになるかはっきりと別れそうだね
>>133 25は鈴木を嫌っている割には同じく鈴木を嫌う1を無知と切り捨て、
そうかと思えば1の疑問に付き合う不思議な人だよねw
そんな25は鈴木への反論とかはあるの?史板らしく知的に披露してみてよ
139 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 03:38:37
>>133 涙目でレッテル貼りか。
おまいはダサすぎw
>>136 鈴木さんのせいでネタをつぶされて困っている人がいるだろうなと、
想像しうる事を書いただけなのに。
信者だなんて失礼なw
色んな意味でニヤニヤして鈴木さんの活躍を見守っているだけですよ。
もちろん鈴木信者も、鈴木さんに煽られてうろたえる連中もねw
140 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 03:42:17
さん付けで鈴木を読んでいる時点で 信者っぽく見えるんだよなw
「鈴木さん」でこのスレ検索してみろ
142 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 04:21:28
>>140 野毛の図書館でよく見かけたから。
単にそれだけなんだけど。
敬称つけたら即信者扱いかよ、馬鹿くさいw
>>132 > 要するに「言い方がむかつく」って事か。
> 説教されて逆ギレする中学生みたいだなw
「知ってるが、お前の言い方が(ry」のAAみたいなもんかw
144 :
○「本能寺の変、425年目の真実」 :2007/02/02(金) 10:20:09
○「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」 鈴木真哉、藤本正行著を読んだが、断じて「朝廷説」の部分は違うと断言する。 是非、「聖戦、マハーカーラの女・本能寺の真因」を読み、 当時の京都の防御機能、盗賊よけの木戸についての意見を聞きたいものだ。 ○さっさと人大杉をなんとかして「大庭博氏が朝廷説について語るスレ」を簡単に見れるようにするべし。 「聖戦」の作者は超大物学者との論戦を待ってるぞ。
食い扶持潰されて涙目になっている格好の例ですなw
>>144
146 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 16:22:13
本能寺の本は好著と思うけどなあ
鈴木>>>>>>大庭
148 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 17:58:21
あらら博ちゃんはこっちに来てたのか。 「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」でまったく 取り上げられていないのに。 >「聖戦」の作者は超大物学者との論戦を待ってるぞ。 って自分が2ちゃんねるに引きこもっているくせに。
騎馬隊はあっただろ
150 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 20:07:47
大庭>>>>>>鈴木
151 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 20:13:48
日本でまともに軍事・戦史を教えるところって防衛大くらいか? その辺の評価はどうなんだろう? 桶狭間を「奇襲」にしたのが日本の悲劇だったわけだし。
152 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:12:39
大庭て、、やっぱ鈴木さんスゲーは。2ちゃんの底が解る。巷での噂道り本当に2ちゃんてそのレベルな。
153 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:35:35
必死だねえ
154 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:37:31
ハクチ
155 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:38:36
してこの博ちゃんとは何者?
うhbkhj「
157 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:50:33
ウィキでは無理かな?とにかく検索!それが限界。
158 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 22:54:22
マイナーな存在なのか?
意味不明な独り言を連投するキチガイは どこの板にもいるのだな
160 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:10:30
史板じゃ有名じゃねえの?<博ちゃん
161 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:11:07
キチガイ× 基地害〇
162 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:35:19
銀山光秋『聖戦マハーカーラの女 本能寺の変の真相』 発行/日本図書刊行会、発売/近代文芸社 1997年2月20日 第一刷 銀山光秋(本名 大庭 博(おおば・ひろし)) 昭和33年6月4日生 歴史研究家、フリーライター 内容はほとんど盗作だがオリジナルを主張し「朝廷黒幕説」を説く精神異常者。 一流研究者は2ちゃんも見ているハズと主張する精神異常者。 職場のPCを使い平日の午前中に書き込む精神異常者。 自費出版で借金塗れの精神異常者。
164 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:46:10
>>162 付け加えるなら、相手にされていないのを反論出来ないからだとのたまう精神異常者。
当然、鈴木眞哉の著書にも取り上げられていない。
165 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:47:06
いくらなんでもこんなのと鈴木を比べるのは鈴木に失礼だろ
166 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:55:30
本人専用のスレがあるんだけど「もうずっと人多すぎ」で書き込めないから 本人がこっちに来たらしい。
167 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:01:17
迷惑な話だな 鈴木の家康評はともかく、本能寺分析はかなり信憑性高いと思うだけに
168 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:05:47
どだい黒幕説なんて妄想だからね。
169 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:10:10
俺も「秀吉が実は黒幕だ」とか言ったのにはうんざりしてたから、 鈴木嫌いとは言え、黒幕説批判はよくやってくれた、と思うな 桐野も昔「真説・本能寺」で黒幕説批判を行っていたが、 鈴木と桐野の二つの本はあわせて読んでおくと良さそう
170 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:16:01
大庭博は妄想しすぎてオカシクなっちゃったんだね。
171 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:40:41
ハイ、もう2ちゃんで真面目は終了ー。
172 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 04:35:54
173 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 12:02:38
メインは藤本氏だけど、「武功夜話」斬りは面白かった。
>>169 桐野氏の本能寺と関ヶ原は両方とも良いよ。
紙質が何か安っぽいけど。
175 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 14:18:32
関ヶ原といえば近衛龍春の本や笠谷の本もいいよね。
176 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 00:41:26
桐野作人も歴史群像か何かで騎馬隊突撃はなかったという鈴木説に反論していたな
177 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 13:03:07
武田騎馬軍団も本当はあったと思う。
>>176 桐野さんは、騎馬隊突撃がないと困る派なんでw
もっとも、他にはもっとややこしい主張の仕方をする人もいるんだけどね。
そもそも騎馬隊突撃があろうが無かろうがどうでもいいのが戦国期の研究者の大半
180 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 19:09:32
鈴木信者は頑張るなあ
信者は存在しなかった
182 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 21:06:35
信者は自分が信者であると認めないからな
突飛なセンセ−ショナリズムで世間の耳目を集め、本を売って儲ける鈴木商法。
ネタがないならおとなしく帰れよ
で、武功夜話って本当はどうなの?
鈴木は嘘つき、武功夜話も偽書ではなく本物。
ここはデスノートではありません 憎い人の名前を連呼しても死にません
ワロス
>>187 だな。今となっては武功夜話抜きに戦国時代を語ることが出来ないくらい重要な資料になっているからな。
未だに武功夜話に対して疑いを抱いているのは鈴木・藤本とその信者だけになってしまった。
ワロス
192 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 12:38:36
鈴木って優秀な人間に対してものすごい嫉妬深いみたいだね。 墨俣城がなかったなんてそんな馬鹿な。 秀吉の才能を妬むにもほどがある。
193 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 13:19:46
鈴木の著作には日本の歴史を貶めようと言うどす黒い自虐歴史観が波打ってる。 鈴木って自虐サヨ?もしかしてマジでチョンじゃないの?
食い扶持を潰された恨みは恐ろしいwwww
195 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 19:29:48
信者がアンチのフリして幼稚なカキコしてるだけだろ
鈴木はどうかと思うが、藤本はしごく真っ当な研究者だと思うぞ。 武功夜話については偽書かどうかはともかく資料価値は極めて低いと見るのが至当。
197 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 22:22:47
>>194 お前相変わらずそういう煽り好きだよなあw
198 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 22:42:00
情けないスレたてんな
199 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 23:03:59
ようこそ鈴木さん
200 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 23:33:12
情けない事いふな。ヤシくん^^
何がスルーできて何がスルーできないかを観察しましょう
202 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 00:12:53
考察と言う言語をもっと考察しましょう
>>197 最初に「食い扶持」と言い出したものだが。
そのレス、俺じゃねえよ。
言葉が勝手に伝播してるみたいw
俺もびっくりした。
>>196 信者乙。
もし藤本が真っ当な研究者ならタッグ組む相手をもう少し考えるはずだろ。
205 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 10:41:24
鈴木が藤本に便乗してるだけだと思うが
206 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 00:55:51
最近の鈴木は「通説批判」から「トンデモ批判」へと移行しているように思う 武功夜話批判とか本能寺陰謀論批判など、 自説の主張が通り易い敵を相手にしているように思う
207 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 00:08:39
鈴木のPHPから2月発売予定の新書ってどうなったんだ? まったく宣伝されてないが じいさん身体ヤバイのか?
突飛なセンセ−ショナリズムで世間の耳目を集め、本を売って儲ける鈴木商法。
鈴木ハウジング
兵糧攻めされたライターが突撃
>>205 もしそうなら、藤本もちゃんと「迷惑だ」ってはっきり言うべきだろう。
言えないのであれば、結局は鈴木と同類だと言う汚名を甘受せざるを得ない。
212 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 19:30:41
>>211 長篠合戦分析や武功夜話批判・本能寺陰謀説批判などでは協力してるし、
「通説批判」という共通目的があるためむやみに対立しないだけだろ
けれど鈴木の著書を見たらわかるが、
彼が通説批判を行う際は大概藤本の論文を引用する傾向があるのははっきりしてる
213 :
日本@名無史さん :2007/02/16(金) 20:23:13
鈴木がPHP新書で新刊出したな ちらっと立ち読みしただけだが これまでの主張を繰り返してるだけで何の新味もなかった
214 :
日本@名無史さん :2007/02/16(金) 22:21:34
戦国の通説はうそばっか 天下人史観に毒されるな いつも通りのこんな感じ?
215 :
日本@名無史さん :2007/02/16(金) 22:28:42
鈴木が便乗する研究者に比べろくに研究してないことがよくわかるな
216 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 00:00:54
でも結局は実証主義の典型だからな。 批判するにも限界ある。 現実ヒド過ぎだしなW
217 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 00:12:06
>>216 実証主義の典型なら他人の研究の引用ばかりせずに、
もっと独自の研究をしていただきたいものですね
218 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 01:03:59
>>142 今さらなレスだが…
どんな人なの、実際の鈴木って?
本の文章どおり、すごくえらそうなじいさん?
219 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 02:07:07
>>217 ポマイは何処に住む歴史学者気取りニート?
220 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 02:14:50
>>219 そういう自分勝手な思い込みでレッテル張りするのが大好きなのは、
鈴木さんとそっくりですね
221 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 10:49:11
>>1 既出かもしれんが、渡部昇一の歴史史観ってのはどうよ?
>>221 1980年代のNHKで放送された、「歴史への招待」では小栗忠順など同時代のイタリアのサルジニア王国の首相カブールと比較して、論評したり、評価していたよ。
慶応2年(1866)、徳川幕府がフランス帝国政府にお願いした陸軍の軍事顧問団を巡る番組『外人部隊戊辰をいく』の中で、徳川の遺産があったからこそ、明治の近代化が速やかに行われたのだと、コメントを残しています。
1990年代、具体的には、バブル崩壊から3〜4年後ぐらいから論評が変わってきたと思うよ。小栗を売国奴扱いしたり、近藤勇の獄門は当然だとか、過去の放送で披露したコメントから180度向きは変わっているね。
今は王政復古、万歳!だけどね。
223 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 11:48:01
224 :
日本@名無史さん :2007/02/17(土) 22:06:31
連スレしたくね〜んだよ?カマンベール
225 :
日本@名無史さん :2007/02/18(日) 21:20:23
鈴木氏の新刊を読んだけど、このスレで議論になった部分は、 (家康は運の人・関ヶ原は西軍が有利だったなどといった鈴木氏の主張) 鈴木氏の主張は若干トーンダウンしてる印象 ・「家康は運の人」という主張 →新刊内、家康の記述ではなし。 かわって家康は今川、豊臣などに対し恩を踏みにじるような悪辣な行動をとった、と主張。 「苦労忍従を重ねた人」というイメージを否定し、 「恩義を踏みにじる悪人」と訴えたいらしい。 ・「関ヶ原は西軍が有利だった」という主張 →山内一豊の項目での記述を見る限り、 「西軍にも勝てる可能性は十分にあった」と若干トーンダウン 「騎馬武者否定」とかは相変わらずだったけど、 「天下人史観」、特に家康についての主張は若干変わったっぽい。 何かあったのだろうか?
226 :
日本@名無史さん :2007/02/19(月) 01:35:39
オイオイ もちとオネガイ
>>225 って言うか、鈴木氏が揶揄してる「家康が勝ったのは西洋式の甲冑を着用してたからだ」なんて寝言言ってる人って誰さ?
本当にそんなこと言ってるとしたら、鈴木氏よりも使えねぇw
もっとも、「日本刀は万邦無比の神器」って言ってる手合いは今でも普通にいるよ。日本刀コレクターとか。
あの連中からしたら日本刀を尊ばない鈴木氏は非国民にしか見えないんじゃないかい?
あと、個人的には「家康は運の人」ってのは一つのたとえ話だと解釈してるよ。
信長・秀吉と違って260年間かけて神格化されちゃって「東照大権現何でもお見通し」みたいに扱われちゃってる部分に疑問
を感じてるってことなんだろう。
「天の時、地の利、人の和」と言う表現があるが、家康には実力だけじゃなくそれらがあったから天下が取れた。
今でも、実力があっても台頭できない人がいる一方で実力があってもなくても何となく台頭する人がいるでしょう。
ただ、実力がない人が台頭しても長くその地位を保つことはできないことが多いから、家康に能力がなかったとは言えない。
260余年持つだけの土台を築けたわけだから、当然並み以上の能力はあったと思うのが普通。
でも、人間なので「何でもお見通し」なわけじゃない。
・・・・・それはともかく、「西軍が勝った場合の山内一豊」と「直江兼続と小判の話はあり得ない」にはワロタ。
228 :
日本@名無史さん :2007/02/19(月) 15:48:50
読んできたけどトーンダウンも何も相変わらず同じ主張繰り返してるだけじゃん
229 :
日本@名無史さん :2007/02/19(月) 22:46:03
>>227 >「家康が勝ったのは西洋式の甲冑を着用してたからだ」
まあこんな説唱えるのが電波丸出しなのは明らかなのだが、
これを批判する鈴木の書き方で問題だな、と思うのは、
「関ヶ原で家康は謀略を駆使し勝利したという通説を否定された人間が、
苦し紛れに何とか家康を持ち上げようとして唱えだした説」
と印象付ける書き方してるんだよな
少なくとも俺は関ヶ原関連の本を読んでいる限り、
家康の謀略を「評価」する人間が、西洋甲冑を勝因にしている文章は見た事がない
鈴木の主張したい事は、227の言うとおりで間違いないと思うが、
(「天下人は実力だけでなく運という要素もあった」)
こういう勝手なレッテル貼りが鈴木の嫌われる一因なんだろうと思う
230 :
日本@名無史さん :2007/02/20(火) 00:41:39
藤本と共著の本能寺の本に比べれば今回のは精彩を欠くなあ 「戦国時代の通説は全て誤りだ。全ての真相を暴く」などと気負わず、 一つ一つの事象を丁寧に研究するほうがいいと思うのだが… 風呂敷広げすぎて収拾がつかない感じ だから他人の研究の引用ばかりになってしまうのだろうし
231 :
日本@名無史さん :2007/02/20(火) 02:35:20
>信長・秀吉と違って260年間かけて神格化されちゃって、 >「東照大権現何でもお見通し」 >みたいに扱われちゃってる部分に疑問 を感じてるってことなんだろう。 同意。鈴木氏が訴えたい事はおそらくはそういう事だと思われ。 「家康に実力があるのは認めるが、 『偉大なる家康公は全てお見通し』というようなそんな完璧なものじゃない」 これを言いたいだけなんだと思う。 上のほうでも取り上げられてた関ヶ原での家康の「ツキの勝利」についても、 「家康が毛利や小早川を内応させるなど、謀略を働いてたことは確かだけども、 その謀略によって完璧に勝利したわけじゃないよ。 関ヶ原の合戦当日、西軍の健闘によってその謀略は崩れる可能性もあったんだよ」 と、要は「勝負は最初から既に決まっていた」 というような通説を否定したいだけだろう。 ただ「ツキ」という言葉を強調するから、 「家康がツキだけで勝ったちゅうんかい」と反発を買うのだろうけどw
「最初から勝負は決まっていた」なんて通説あるか? 今時そんなこと思ってる奴の方が少なかろう
233 :
日本@名無史さん :2007/02/20(火) 19:43:53
今回の鈴木の「敵」は大河ドラマ史観だから
234 :
日本@名無史さん :2007/02/21(水) 01:23:21
関ヶ原の事で「家康を持ち上げるな」といいたいなら、 「秀忠遅参も勢力温存を図った家康の陰謀」 なんて主張こそ木っ端微塵に論破してもらいたいのだがな
>>234 もう、それはとっくに笠谷氏に論破されちゃってるからw
本来の徳川軍団の先手備えはみんな秀忠に付けちゃって、家康の手元には旗本備え主体になってるということころが既に
家康にとっては誤算。
おかげで、外様大名に大盤振る舞いをせねばならなくなった。これだけでも「東照大権現何でもお見通し」「家康公は勝つ
べくしてお勝ちになられた」「秀忠遅参は主力温存策」などとは言えないことがわかる。
勝つには勝ったが、冷や汗物だったんじゃないだろうか。
本来の主力が滞りなく来ていれば、最初から毛利傍観、小早川寝返りなど期待せずに力押しで勝つ自信が皆無とは言え
ないが、史実よりはストレスを感じないで戦えたと思われ。
236 :
日本@名無史さん :2007/02/21(水) 03:05:33
>>235 笠谷鈴木の両氏は関ヶ原について、
「家康が勝つべくして勝ったのではない。
西軍は健闘していたし、関ヶ原当日の決戦の流れ次第では、
東軍の勝利を決定付けた家康の西軍内応策が崩れる可能性もあった」
という評価だよな。
その上で笠谷氏は家康、三成双方の行動を分析した結果、
「三成は家康を関東に釘付けにさせるところまでは彼の想定どおりで成功したが、
その後家康が急に西上してくるのは予想外だった。ここで三成の戦略に大きな破綻が生じた」
という結論を導くのに対し、
鈴木氏は「三成に何ら失敗はない。家康は運だけ」と結論付けると。
でその鈴木説に「なんでやねん」と過剰反応する人も少なからず現れるとw
けど鈴木氏の評価というのは家康好きな人たちにはむかつくかもしれないけれど、
見方を変えればこの人「歴史上の不当な評価を受ける敗者」にすごく愛情持ってて、
不当な評価を吹き飛ばそうと、過剰なほどに好評価してるように思うから、
「敗者にすごく優しい歴史研究家」という見方も出来ると思うんだけどね。
>>236 まさに「戦場は過誤の連続。で、過誤が少なかった方が勝つ」という古言どおりの話しだねぇ。
家康はまず挙兵の規模の予想を誤り、子飼いの兵力集中に失敗し、最後は敵の傍観と寝返りで勝った。
三成は東軍の西上の時期を誤り、借り物の兵力集中に失敗し、秀頼の担ぎ出しに失敗したため求心力を失って最後は
味方の傍観と寝返りで負けた。
ただ、三成は身上が少ないながらこの準備期間で一方の勢力を糾合できたことは大したものだと思う。
そもそも、いわゆる「東照権現史観」でない人たちの意見というのは表現がラジカルな鈴木説と表現がリベラルな笠谷説の間
の数直線上に分布してるんだと思われ。
で、鈴木氏の説を言いすぎだと思う人というのは、そもそも真性の「東照権現史観」信者じゃない人が多いんだと思う。
本当の信者には、あれほどの表現でも刷毛で撫でたような刺激にしかならんのだろうw
「鉄炮と日本人」「刀と首取り」でも、狂信的日本刀信者の信仰にはまったく影響を与えてないからねぇ。
もっとも、笠谷氏の説も以前ここへ投げ込んだら「家康公の旗本が弱いわけないだろヴァカ」ということになったわけだがw
238 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 01:37:43
双方誤算が生じているが、 結果論になるかもしれないけれど三成の誤算はかなり大きな誤算なんだよね。 特に総大将毛利家をはじめとして西軍諸将が打倒徳川で一致団結していないということ。 借り物の軍隊に頼らざるを得なかった三成にとってこれは致命的なミスだったのではないか、と。 何が痛いって西軍が一致団結していないということで、 二大老三奉行結束しての大々的な西軍の挙兵規模に驚かされた家康に、 彼得意の内応の調略が入り込める隙を作ってしまった。 のちの大阪攻めや本願寺への施策を見てもわかるけど、 家康って相手を分裂して弱体化させる、っていうのを得意にしてるからね。 実際この西軍の不安定さとそこに乗じた家康の内応策が関ヶ原の勝敗を決してしまった。 もっとも吉川広家の場合は伏見攻めで手柄を立てるほど活躍するなど、 かなり巧妙な裏切りを見せているから、三成がそれを見極めるのは困難だったかもしれないけれど。
239 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 01:54:07
鈴木氏は、 「家康信者は家康の吉川らへの事前の調略を褒め称えるが、 実際のそれは不安定なもので吉川らが裏切る保証などはない」 というけれど、その不安定さを少しでも少なくする為に、 念入りにも誓紙交換や人質の交換を行っているのね。 だから鈴木氏がいうほど家康の調略と言うのは不安定なものじゃない。 実際家康の関ヶ原での本陣の構え方を見る限り、 吉川の内応についてはほぼ確実な情勢だったんだろうと思うよ。 ただし、そういう内応策があったからと言って、 じゃあそれが関ヶ原における家康の作戦の全てだったのかというと違うと思うな。 おそらくは家康は野戦で西軍に勝利する自信があったんだろうと思う。 吉川が傍観する中一気に西軍を圧倒し、 その東軍の勢いに引きずられるような形で小早川が裏切るというのを想定したのではないか、と。
240 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 01:54:17
ところが西軍の思わぬ健闘で、家康の目論見が崩れ始めた。 西軍に苦戦するし、その影響か小早川も裏切らない。 このままこう着状態が続けば、いつまで吉川も傍観を保っていられるかわからない。 要は野戦で苦戦するだけじゃなく、 念入りに推し進めた家康の内応策の崩壊という危険性まで生じ始めたわけだ。 つまり東軍壊滅の危機だわね。 けれど、結局小早川は最初の約束通り西軍を裏切り、 東軍に勝利をもたらした、と。 これは家康の施していた内応策が東軍の危機を救う形で勝利したわけで、 確かに家康の「政略」が勝利をもたらしたには違いないんだけれど、 ただそれは「すべて家康の目論見どおりの勝利」というようなものではないんだよね。 実際は西軍の健闘によって破綻寸前の危機にあった家康の政略が、 何とか破られる事なく機能して勝利できた、ということなんだよね。
241 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 02:07:16
じゃあなんで家康の政略が敗れなかったのか、 というとこれは鈴木氏のいう「運」という部分ももちろんあるだろうけど、 勝利を決定付けた小早川の裏切りについていえば個人的にはやはり鈴木氏が主張する、 「家康の声望・地位」も大きく影響したのではないか、と。 東西両軍こう着状態に陥った中、どちらにつくのが得か、と判断する時に、 三成・家康双方を両天秤にかけた結果、 「五大老筆頭の実力者で朝鮮の役では自分をかばってくれた事もある家康につくほうがいい」 と考えたんじゃないのかなあ。 言い換えれば、 「三成は関白の地位を与えるというけれど、本当に出来るのか?」 と三成に懐疑的になっていたということだけど。 あと吉川の傍観姿勢についていうと、 吉川広家は毛利家の「大公」的な存在だからね。 実際毛利秀元は関ヶ原では最後まで広家の顔を立てているし、 簡単に「吉川殿を無視して」と勝手に動ける雰囲気は毛利にはなかったと思うよ。 少なくとも軍事作戦面では安国寺よりもはるかに毛利家内部では影響力を持っていたと思う。 ただあのままこう着状態が続いていればどうなったかはわからないけれども。 とにかくそういう要素も絡みあって、家康の「政略」はぎりぎり保たれてたんだろう。
何か物分りの良い人ばかりになっちゃってつまらんなぁw 「東照権現信者」の方、「日本刀最強兵器信者」の方って世間には結構多いみたいなのにこのスレにはいないのかね? 久しぶりに、狂信的な燃料投下を見てみたいものだ。
243 :
日本@名無史さん :2007/02/23(金) 01:52:10
その物分りのいい人にも噛み付きまくってるのが鈴木ではないのか、と
244 :
日本@名無史さん :2007/02/23(金) 01:55:07
つか今時鈴木が噛み付くような「家康公は勝つべくして勝った」なんていうようなのいるのか?
少なくとも関ヶ原を知るような人間は
>>237-241 のような理解をしているのが主流だと思うんだが
245 :
日本@名無史さん :2007/02/24(土) 09:52:38
日本刀最強信者ではないが、鈴木眞哉氏の日本刀の扱いは極端過ぎだな。 首取りのために刀を2本も3本も持ち歩いていたのか? 普通は首を掻き切るのは短刀でやるだろう。 蒙古襲来絵詞でも武士が蒙古兵を組み伏せて短刀で首を切っている。
246 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 17:32:21
>>244 少し昔の本だが、二木謙一氏の「関ヶ原合戦」とかは、
「戦う前に家康の謀略により勝利が決まっていた」的なこと書いてるね。
けど鈴木氏の関ヶ原に関する主張は微妙に変わってきている。
「天下人の条件」とかでは、
「三成に失敗はない。たまたま豊臣諸侯が家康に味方してくれたおかげで勝った」
と本当に、「家康は何もしなかったが運がよかっただけ」と主張してたのに、
今回の「戦国時代の大誤解」では、
「家康が謀略をはたらいたのは確かだが100%成功する保証などなかった。
家康もそのことはわかっていただろう」と、
攻撃的な文章はそのままだけど、笠谷氏あたりと変わらない主張になっている。
もっとも鈴木氏の関ヶ原に関する一連の考察って言うのは、
今回の新書で噛み付いた司馬遼太郎の「関ヶ原」とかなりかぶる部分多いんだけどね。
・三成は才能はあるが高慢で不器用で人望がなかった
・関ヶ原当日家康は自身の謀略が成功するか自信がなかった
・吉川広家は安国寺・三成を憎むあまりに家康に内応した
・家康を暗殺しようという島左近の献策を三成はけった
など鈴木氏の考察のほとんどがフィクションとはいえ司馬遼の関ヶ原とそっくりなんだよ。
247 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 20:18:53
行軍の時鎧を着なかったというのは初めて知った
248 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 20:26:46
鉄砲三千丁は嘘で、実際は一千丁だ、というのも、 新刊では千丁とは言わなくなってるね
>>248 と言うか、最早作家以外に未だに三千挺説を声高に主張している人はおらんだろ。
喧嘩する相手も存在しないのに吼えても仕方あるまいw
250 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 23:17:56
3000丁主張の人は減ったけど、 「鉄砲三段撃ちvs武田騎馬隊」という主張はまだあるかな つっても三河統一時の徳川氏の研究とかいうような、 話のいわば傍論として紹介されるようなケースだが
251 :
日本@名無史さん :2007/02/27(火) 10:36:03
鈴木は日本の歴史を貶める反日自虐主義者
252 :
日本@名無史さん :2007/02/27(火) 11:08:07
いやー、世間ではまだまだ山岡宗八クラスの徳織史観に 染まっている人は多いんだよ… 映画の「天と地と」wが公開された時も、上杉武田が 鉄砲使っているシーンに「日本で最初に鉄砲を使ったのは 織田信長のはずだからこれはおかしいのでは」と堂々と 映画評論誌に記名論文を書いた人がいたし、三方が原を 知らなくて「徳川家康の時代には武田信玄はもう死んで いたんでしょ?」という人も多い。 司馬遼太郎を盲信する世代はさらに多く、家康の完璧な 策略で「豊臣軍」は負けるべくして負けたと思っている層は 歴史マニアが唖然とするほど生息していると思うぞ。 まあ第二次大戦で日本がアメリカの同盟国じゃなかったと聞いて 驚いている十代がいる国だが…
>>245 短刀で首を切るのは頸動脈を斬ってシメる(笑)ためかと。切断するには
首の骨の柔らかいところがどこか把握していないとなかなかうまくいかない。
大刀使って力づくでやっちゃうほうが簡単かもです。
255 :
日本@名無史さん :2007/02/27(火) 23:21:01
>>252 司馬遼の影響は関ヶ原とかより
「超先進的な思考を持った近代主義者信長象」を生み出し、
その信者を大量に生んだことだろう。
関ヶ原について言えば結果だけを見ると、
鈴木も認めるように家康の働かせた謀略が大成功して勝ってるから、
つい「家康は勝つべくして勝った」と見られてしまうんだと思う。
現実は西軍の活躍によって家康の外交策が破られる危険も十分にあったんだけど。
もっとも家康にすればあの一連の謀略外交戦は彼得意の、
「西軍を分裂させて弱体化させて少しでも自分が有利な状況を生み出す」
ためのもので、その謀略がどれだけ功を奏するか常に疑っていたろうし、
しかもそれだけで容易に勝利が得られるとは微塵も思っていなかったろうよ。
「知恵の限りを尽くした。これで勝利間違いなし」
なんて己の知恵に浮かれるようなおめでたい男なら、
三成も誰もあんなに苦労しなかっただろうし、
天皇までも法度で縛って日本中を250年以上支配する江戸幕府の礎を築けんよw
256 :
日本@名無史さん :2007/02/28(水) 01:02:30
信長はすべてが独創的だった・・・by司馬遼(爆)
257 :
日本@名無史さん :2007/02/28(水) 23:26:51
鈴木って何で家康のことになるとこうも筆が荒れるのだろ?
司馬の影響をモロに受けてる人じゃん、鈴木は だからでしょ
259 :
日本@名無史さん :2007/02/28(水) 23:41:19
やっぱりそれなのかな<司馬の影響 信長については「通説で語られるような偉大な戦術家ではない」とこき下ろしながらも、 「戦略家としては才能があった」と持ち上げたり、 信玄や謙信を「戦国最強」と評価するなど、 鈴木ってそれなりに戦国ファンには媚びてるってかファンの動向見てるよな 叩くけどフォローも入れる けど家康についてはノーフォロー 不人気な家康ならいくら叩いても大丈夫とでも思ってるのか?
260 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 00:00:26
外国の日本びいきの研究者からは、江戸時代の評価が高いことは書いていたな。 (天下人史観だったか・・・) 200年以上戦争がなかったというところで、実際、そういう評価はあるらしい。 (買いかぶりに近いところはあるとおもうが)
家康に噛み付きたくなる鈴木の気持ちもわかるけどな 戦国時代積極的な攻勢に打って出た信長や信玄とかと違って家康って基本は守り重視 で、じゃあただの臆病者かと思えば、これは全然違って、 律義者の仮面をかぶりながら、相手が弱いと見れば謀略とか駆使して、 三河統一・領土拡大あげく天下取りを達成するような抜け目のなさと才能を持っている 現実にこの犠牲になったのが三河の一向宗寺院であり今川家であり武田家であり豊臣家 律義者の看板を売って周りを信頼させながら、 誰かが少しでも隙を見せたら何もかも奪い去ってしまうような狡賢さが我慢できんのだろ しかも常にケンカ売る相手は自分より弱そうなやつのみで、 そんな弱いやつ相手に色々と策を練って仕留めてこようとするだけに始末が悪い よく言えば無駄なケンカをしない用心深い堅実主義者なんだろうが、 しかしどちらにしろ魅力的な行動ではない。煮ても焼いても食えない狸だ 鈴木の言うようにもし家康に信玄死亡や信長死亡、太閤逝去のような一連のチャンスが巡らなかったら、 家康の性格を考えると、今川家臣としても十分満足してたろう そんな男だけに鈴木としては感情的に「才能ある立派な大名」として評価したくないのでは?
豊臣は自業自得
>>262 自業自得とは言えあれだけ誓紙を差し出しておきながら、
秀吉死後平然とそれを破って、
豊臣の混乱に付け入りながら天下を奪い取るようなやり方が立派とでも?
264 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 00:14:04
>>260 家康は嫌いだが鈴木の江戸時代に対する評価はすごく高い
しかもそんな時代になったのは家康の影響は無視できないとも書いている
265 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 00:22:15
>>261 とんでもなく才能あるじゃん
恵まれたチャンスを物にしてしまうだけの
魅力的じゃないとかそんな道徳的な観念は関係ないね
それを理由に感情的になっているのか知らないが、
「運だけ」の一言で片付けるのが鈴木のトンデモの所以
かくこうぞうに似てるな
>>265 才能がないなんていつ言った?
ただそのやり方が狡賢すぎると言ってるんだ
信長とか信玄は自分より強大な相手と戦争し知恵を振り絞り勝利する。だからこそ魅力的だが、
家康の場合自分より弱いものを潰すために知恵を使いまくる
絶対強い奴に知恵を振り絞って挑もうとしない。平伏しながら相手が転ぶのをじっと待っている
こんなのどこが「偉大なる英雄」なんだ?
診方が原 小摩木長くて
269 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 00:47:56
>>267 弱いものとしか喧嘩しないから家康が狡賢いと言うなら、
信長や信玄も十分そうだろうが
特に信玄の信濃侵攻は当時の信濃が諸勢力入り混じった混乱地帯で、
それぞれの弱小勢力を信玄が各個撃破する形で領地拡大に成功していってるんだぞ
ところが村上や小笠原を仕留めそこなって越後の大名上杉に助けもとめたことから、
上杉と長い戦争になっただけ。あんな戦争喜んでやるバカどこにいるよ
その証拠に周りのほかの強大な勢力北条・今川あげく織田とも基本は同盟結んで戦争を回避してる
信玄が今川領に侵攻を開始するのは義元死後の混乱状態になってから
このとき同じように攻め立ててたのが家康
別に信玄も家康も根本的な行動に大差はない
織田の伊勢・伊賀いじめ
271 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 00:53:16
>>267 ついでに言えば信玄は鈴木曰く家康と圧倒的な力量差があったにもかかわらず、
本格的に徳川領に侵攻を開始したのはあの西上作戦の時のみ
今川領侵攻の際は同盟を結んだりするなど、
当時弱小の家康相手にすら基本的に大きな戦争になることを避けている
272 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 01:01:58
自分より強いかと同等ほどの強さを持つものには屈服するか 何処かよその強大な力を借りて戦う、 そして弱いものを攻め立てて力をつける これが基本だろ 家康も信玄も信長もみんなそれに忠実 ただ信玄や信長が強大な相手と戦うようになってしまったのは、 望んでそうなったんじゃなく不本意な結果 勇気があってよその大大名にケンカを売っているわけじゃない
273 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 02:31:47
>>258 >>246 あるように関ヶ原の分析じゃかなり顕著だね
上の例のほかにも、
「三成が勝利したら執権政治を展開しただろう」
なんて小説関ヶ原とまったく同じ推測まで描いてる。
ほかにも信長・秀吉・家康の三社を見比べるにあたって、
一向宗への対応を見て考察結果が、
「尻啖え孫市」で描かれてたのと同じように分析してたりね
鈴木自身は絶対に認めないだろうが
けどその鈴木の「通説否定」って結局今のところ、
どれくらいの影響を及ぼしているんだろうか?
274 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 13:35:58
カテナチオのイタリア人は家康びいきが多いという噂。
275 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 15:43:53
>>267 鈴木の「家康は自分より強いものには屈服する」という言説をもろに受けてのレスだと思うが、
自分より強いものに積極果敢に戦いを挑むのはただの馬鹿。国主として失格
戦って勝てそうな相手とのみ渡り合うのが普通
「勇ましい」信長や信玄が置かれた状況はなりたくてそうなったわけじゃない
ただその中でも国を潰されず勝ち抜いたのがすごいわけで、
こういう点で彼らを評価するならば、
織田と同盟を結びながら、大侵攻してきた武田に即時に降伏するわけでなく、戦いを挑み、
これを生き延び国を守った家康についても一定の評価があるべき
鈴木が言うようなただの臆病者なら当時の状況を見たら武田に即時降服してるだろ
同盟国の信長でさえ恐れる相手に国を守るために戦いを挑む事しないよ
あと関ヶ原で三成が力量差のあった家康に挑んだことを鈴木は褒め称えるが、
三成には自分の力のなさを補う豊臣家の政治機構というシステムがあり、
これを活用させて家康と五分に渡り合おうとしただけ
もし三成が地方の何の後ろ盾もない一大名なら関ヶ原はありえないだろう
276 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 20:03:24
家康を運の人とこき下ろすなら、 毛利元就なんかもそうなるんだな、鈴木の考え方で行くと 元就の行動も相手の混乱に乗じて謀略を尽くして勢力を拡大するのに成功したけど、 これもたまたま大内・尼子が弱体化するなどの幸運に恵まれた結果だろ
信長に消されずに済んだ雑賀も運がいいな 鈴木の先祖だったかw
278 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 23:07:51
信長も信玄が死んで武田の脅威がすこし和らいだのも幸運だし、 朝倉義景が信長包囲網の中で十分機能しないような愚将だったのも幸運だし、 信玄が父親の遺産を引き継ぐ形で弱小勢力を相手に勢力拡大できたのも幸運 「ツキ」なんて言葉で説明しだしたらいくらでも上げられる それを家康だけにあてはめて批判するのが変
上まで上れる人に「ツキ」が無い筈が無いしな。
280 :
日本@名無史さん :2007/03/01(木) 23:18:09
ツキに恵まれる中どう行動するかが大事なのであって、 「信玄が死んだから幸運だった」 「たまたま策が当たっただけで幸運」 とかの説明で片付けるのがおかしい
281 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 00:20:03
今度の鈴木の新刊は読んでて何が哀しいって、 大河ドラマの誤った歴史を批判するといいながら、 きっちり大河便乗本となっているところ
282 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 00:45:31
家康のおやじは今川家に屈服をしているが、これは外国に屈服しているわけ ではない。同じ日本人であり、ほぼ人種的にもちかい静岡の人間に屈服して いるにすぎない。 俺たち日本人は、朝鮮人にも中国人にも負けてはいない。 負けたのはアメリカだ。ぼっけもんだと思うよ。 ただあの戦争において、国を売った奴が日本人のなかにいたという事実。 こいつらがゆるせない。
283 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 00:49:14
>>278 信長はツキを物に出来る実力の持ち主
家康はツキだけというのが鈴木史観
284 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 01:01:43
疑うも何も怪文書のたぐいの作家
右傾糞レスは読むだに悲しい。近代史版に伊ってね。
286 :
日本@名無史さん :2007/03/03(土) 00:10:35
「戦国時代の大誤解」も決して悪書ではないんだけどなあ しかし「騎馬武者」や信長秀吉そして特に家康が絡むと、 とたんに感情的に文章が荒れるね この理由がいまいちわからない
287 :
日本@名無史さん :2007/03/03(土) 08:55:35
何でかねえ。 鈴木ももう70の爺様だし、 批判の対象は、俺たちみたいな若い歴史マニアじゃなくて 鈴木と同年輩かそれ以上のジジイたちを意識してるんだろうな。 「その時歴史が動いた」を楽しみにしてるようなジジイを。 あと、鈴木家が和歌山の出(彼は横浜生まれだが)というのも 関係あるんじゃない? 関西系だから家康嫌いで、大阪方に同情的だとか。 まあ憶測にすぎないけどさ。
288 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 23:34:00
天下人に靡かず鉄砲を駆使した独自の生き方をしていた雑賀衆の末裔、 というプライドが彼にはあるんだろうな。 だからこそ「鉄砲を駆使して戦術を変えた信長」という評価に腹が立つし、 かって気ままに生きていた雑賀衆のような存在を許さなかった秀吉、 そして「神」となることで「雑賀衆を無視して“偉大なる英雄の歴史”を捏造した」家康が許せないんだろう。
>>267 > 信長とか信玄は自分より強大な相手と戦争し
尾張平定期以外で信長が明らかに優勢な国力を持つ相手に挑んで勝ったのは桶狭間だけだろ。
あとは、少なくとも自分と相対する地点では局地的優勢を保てる外交を行ってる。
武田と対立し出した時に上杉と結ぶなんていうのはその一例。
また、同格か有利の場合でもほとんどの場合相手よりも多くの兵力を戦場に連れて来ている。
昔から信長を大きく評価していた人は信長の果断さといわゆる桶狭間の戦術的奇襲を代表的ケースとすることが多かった
が、上に書いたように信長の真の強さはむしろ戦略的状況を造る力、またその状況になるまでは「待ち」ができる慎重さの方
にあったと思われる。
故に、これまでは「戦術的に過大評価、戦略的に過小評価」されていたのが信長の人物評であったと思われる。
これは、古くから日本人が戦略と戦術の区別がつかない国民であることが与っているのであろう。
> これは、古くから日本人が戦略と戦術の区別がつかない国民であることが与っているのであろう。 そんな国は無い
291 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 01:30:05
鈴木流の分析の仕方で三方が原の合戦を分析すると…… ・信玄が家康をおびき出す為に色々と策を用いたのは事実だろうが、 それが成功する保証はどこにもない。そのことは信玄が一番わかっていただろう。 徳川方の一部が興味本位で城を抜け出し、 それを引き返させようと家康まで出てきてくれたのは運がよかっただけである。 ・三方が原で信玄が勝利したのは事実だが、これはbattleの話である。 総大将の家康をはじめ徳川方の主だった重臣をうちとることも出来ず、 徳川家に壊滅的なダメージを与えることは出来なかった。 三方が原の戦いで信玄はbattleには勝利したが、warでは勝利したとはいえない。 大体battleにおいても一時は山県隊が押されるなど、決して快勝したとはいい難い。 ・結果だけを見れば、 「勝利を得るために色々と策を用いた信玄は偉大だ。対する家康は愚かな武将に過ぎない」 と<信玄信者>は信玄を褒め称えるが、現実には信玄はツイていただけであった。 しかも何ら大きな戦果を上げていないのだから、信玄信者はおめでたい事この上ない。 とこうなるかと思うのだが、実際の眞哉タソの三方が原の分析については…w
うまいw その調子で他にも頼むわ
293 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 23:16:47
>>291 ワロタw
けど確かに三方ヶ原って武田勢は戦いには勝ったけど何ら戦果はなかったんだよな
結果からいえばこの侵攻作戦のせいで織田・徳川と完全に手切れになって、
武田家の滅亡の引き金のひとつになってしまった
こういう点もぶった切れたら眞哉も本物なんだが、
これが出来ないのが彼の限界なんだろうな
おりんの活躍に狂喜する鈴木真哉 テレビ東京
295 :
日本@名無史さん :2007/03/22(木) 00:06:00
amazonでも酷評あるなあ、今度の新書。 好き嫌いで感情的な分析しなけりゃ、 ここで言われるような悪い研究家じゃないんだが…
296 :
日本@名無史さん :2007/03/22(木) 15:38:03
金子達仁なんかと同じで、好き嫌いで感情的なことかいて 受けちゃって、調子づいて、レベルが下がるってのはあるな。
297 :
日本@名無史さん :2007/03/22(木) 22:51:45
鈴木が鬼の首取ったように批判する通説があまりにも古いというのが痛い
中学生がプロ野球と戦って、運だけで勝つと思うか? それ相応の実力がなければ、勝利が得られないのは「自明」じゃん。 鈴木氏が、家康が「運だけ」で天下を取ったと書いた部分あったっけか? 家康が「運だけの人」って言ってるのはアンチ鈴木の方じゃん。
299 :
日本@名無史さん :2007/03/24(土) 18:09:11
>>298 「天下人の条件」なんかだと、「ツキだけの人」と書いてるよ。
今川義元が死んで武田信玄が死んで織田信長も死んで、
さらには豊臣秀吉は朝鮮出兵なんてムチャをして死んでくれた。僥倖の連続と。
ただ「天下人史観を疑う」とかだと若干トーンが和らぐかな。
もっとも鈴木の言いたいことはそこが本意ではなく、
「秀吉が死んだら家康が天下人になる事は予定通りだった」
って言うような一般的な見方に異議申し立てをしてるようだが。
鈴木の書き方が「家康信者はおめでたい」というように攻撃的なので、
これにもろ釣られちゃってる人がいるようだけど、
例えば関ヶ原についての鈴木の通説批判と言うのは、
「家康は関ヶ原に臨む前にあらゆる手を打った。だから勝利は決定されていた」
というような見方に「それはどうなるかわからないじゃないか」と否定的なのであって、
家康が得意とする戦さ前に慎重に手を打つこと自体を否定しているわけではないと思うけどね。
あと「三成に失敗はなかった」というのは、
三成が合戦に臨むまでに行おうとしたこと自体は間違いはなかった、ということであって、
三成の行動全てが失敗なし、って意味じゃないと思うよ。
ただ書き方がえらく攻撃的なのと、
そのせいでこのスレでの批判のように誤解されやすいのが鈴木の気の毒なところかな。
300 :
日本@名無史さん :2007/03/24(土) 18:16:45
あと鈴木の見方にブレがあるところも弱点かな。 関ヶ原についてだと、 「天下人の条件」なんかだと「家康は幸運に救われただけ」というのが、 「戦国時代の大誤解」になると、 「家康がいろいろ手を打ったのは事実だがどうなるかわからなかった」 とトーンダウンする。 ほかに信長と家康の関係についても、 「天下人の条件」「天下人史観を疑う」では、 「信長がもし本能寺で死ななかったらいずれ信長は家康を殺していたに違いない」 とこの推測を根拠に、「家康は幸運」と論理展開するのに対し、 藤本との共著「信長は謀略で殺されたのか」では、 「信長には家康を打つ理由はなかったし、 そんな行動をとっていたというような形跡も見られない」 と「家康黒幕説」を否定していたりして、 ちょっと考え方に一貫性がないのかな、と思う。
>>299 ああ、自分は「疑う」の方しか読んでないから。
ま、「天下人」は読んでて勇み足だってるなとは感じたし、「観」はそもそも研究者の数だけ(笑)。
でも鈴木氏の真骨頂は、テッポーやカタナの方だろ?
流石にそっちの方はこのスレでも認めてる人多いな(つーか反論出来ない?)。
何だ「鉄砲と日本人」とかはスレタイから外れるのか?
304 :
日本@名無史さん :2007/03/24(土) 22:34:52
>>301 「天下人の条件」じゃ自信がないとあとがきで書いてるしな
しかし鈴木の書き方の結論でいえば、
「天下人は天下人になる運命にあった人」で、
「なるべくしてなった」という結論に至るんだがな
305 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 10:55:20
鈴木氏の軍忠状の統計からの遠戦志向と刀は首取り専門という結論も、改めて見れば極端に過ぎると思うぞ。 白兵戦のまえに飛び道具使うのはナポレオンだって同じだし、首取り専門なら刀よりも短刀を使った方が効率的だし。 あと鈴木氏に限らず、著書の最後に旧日本軍への批判・恨みにつなげるのは何故? ある世代の研究者の一種の型なのか? 別に旧軍を褒めなくてもいいが、わざわざ専門外の話につなげて墓穴を掘らなくてもいいと思うのだが。
遠戦志向 鉄砲 雑賀 自分の先祖 で自慢したいだけだな 鈴木真哉
307 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 22:01:00
軍忠状の統計を取ったところまでは良し。 でもそこから遠戦志向という結論の間の飛躍が大きい。
308 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 00:00:51
>>306 それが全てではないがそういう傾向は絶対にある
「天下人に靡かなかったアウトロー集団雑賀衆」
というのがどうやら彼には誇りのようだ
310 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 06:40:36
氏の理屈によると世界中の戦闘はほぼ遠戦志向になるだろうな。 あれほど白兵戦を重視した旧日本軍でも与えた死傷者数をみれば銃器によるものが多数なわけで。
311 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 07:06:17
日本プロ野球の一流と言われるバッターを調べると、打席の7割は凡退している。 ヒットを打つのは3割のみ。 つまり日本プロ野球のバッターは凡退志向と言える。
312 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 18:03:22
それを言うなら 野球選手のほとんどはホームラン志向ではなく 安打・バント志向である、と書いた方が適している。
313 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 19:24:55
314 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 12:17:39
軍忠状の分析と戦闘の実態に乖離があるとしたら、どういう可能性が考えられるか?
315 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 19:54:14
白兵戦の前に銃器で敵軍に打撃をあたえるのは極めて普通の戦術かと。 で、銃器による敵軍の負傷数はその後の白兵突撃によるそれよりも多いのは当然ではないかと。 世界のどこに、白兵戦での負傷数が銃器のそれを上回る軍があるのかと。 戦史を振り返ればあるかもしれないが、あまり一般的な戦闘とはいえないのではないかと。
銃が無かった そんな時代もありました(追憶
317 :
日本@名無史さん :2007/03/31(土) 16:11:52
銃器が発達する前は、弓矢・投石
318 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 13:14:18
銃がなかった(一般化していなかった)時代の飛び道具と白兵の軍忠状分析と 戦闘の実態について?
鈴木氏が調査した軍忠状は、 1333年(元弘三年)〜1457年(長禄一年)の176点(『刀と首取り』P78)と、1467年(応仁一年)〜1637年(寛永十四年)の 201点(『刀と首取り』P82)。 この間、鉄砲が実用化されていない時代も含んでいることを鈴木氏は同じ著書に記載してある。 その場合は弓矢による疵が多いことが書かれている。 銃器があろうがなかろうが飛び道具の疵が多いのだから、日本人は遠戦志向だ という結論が鈴木氏の結論だ。 だが、どこの世界に白兵での疵数が飛び道具のそれを上回る戦闘があるのかと。 氏の理論によると、世界中の戦が遠戦志向になる。 相手の不意を突く奇襲夜襲でもなら話は別だが、奇襲は正攻法でないからこそ奇襲なのであって 一般論とはいえないだろうし。
別にいいけど おんなじこと繰り返してるよ
言いたいことは分かるが・・・
だって
>>318 で
銃がなかった(一般化していなかった)時代の飛び道具と白兵の軍忠状分析と
戦闘の実態について?
と聞かれたから、答えました。
何か問題でも?
323 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 22:03:04
テレビでは周回遅れで鈴木説が真っ盛りだな
325 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 22:21:11
テレビ業界というのは、歴史番組つくるときに裏を取らないのか? エンターテイメントだから、面白ければそれで良いのか?
326 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 22:49:16
どんなのやってたんだ?
「淀君」とナレーションを入れながら、別の場面では「淀殿」とテロップが出てくるような番組
328 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 23:57:33
途中から見たから断言できないけど、 ・戦での負傷率の70%が矢傷で、残りが槍・飛礫・刀 ・騎乗歩兵が通常(信長などの指揮官クラスまでw) ・信長が義元に勝ったのは運のみ の辺りだと思う まあ、桶狭間は2000vs45000ってのはどこの軍記からの引用だよ、と突っ込みたくなるほど、 都合の良いとこ取りのイメージを優先して製作している事は見て取れた
死者の3割が弓以外だとか言ってたような。 馬の体重を間違ってたような。 25000が北条五代記で、45000は織田方史料の信長公記などだったかな(放送内容とは関係ないが)。
331 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 01:04:08
>>329 まさに鈴木祭って感じだね
最も桶狭間については藤本の受け売りに過ぎないのだが
332 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 01:05:25
>>329 2000vs45000
河越夜戦なんて8000対80000だからな
あの当時の上杉がどうやって8万も動員するのかとw
こんなのこそ鈴木は否定しろよ
334 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 07:31:54
鈴木が?
死ね!鈴木
336 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 09:43:13
鈴木本人に史ねとは言わないが、鈴木説を検証なしで垂れ流す放送や書籍は死ねと言いたい。 マスメディアの連中は自分達が日本国の最大の権力者であることが分かっていないようだ。 影響でかいんだよ
337 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 02:37:24
しかし何回読んでも理解できん 家康を運の人と貶めながらどうして信玄について褒め上げられるんだ? あの論理だと諏訪攻めにしろ戸石城攻めにしろ三方ヶ原にしろ、 信玄は幸運続きになると思うんだがな
家康→天下人、信玄→1地方戦国大名 「成功」のレベルが違う。高いほど運もそれだけ必要なるじゃん。
339 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 12:04:25
運史観
「面白いのですけど、騙されていることを教えてあげると、 教えられた人は、今まで自分をだましていた人ではなく、 だまされていたことに気づかせてくれた人を恨むんですね。 自分がだまされたまま長い時間を過ごしていたことを 知られるのがいやなのでしょうね」(J・テイ「時の娘」)
341 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 16:38:18
鈴木氏は騙されている
342 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 21:57:49
>>338 鈴木の言う「運」
1:好機が到来する
例:武田信玄が死ぬ・豊臣秀吉が死ぬ
信長包囲網が朝倉義景の勝手な離反で崩壊するなど
2:あらかじめ進めていた作戦が成功する
(成功するかどうかわからないため成功したのは運がいいと鈴木は評価する)
例:中国大返しが成功する、
関ヶ原で家康の敷いた内応策が成功するなど
こういう形での運なら信長・秀吉・家康に限らず当てはまる例はいくらでもあるということ
運という要素を無視するのはおかしいが、
逆にそれにだけとらわれて全てを評価しようというのも変という話
343 :
日本@名無史さん :2007/04/10(火) 02:18:59
>>342 多分それはね、鈴木が徳富蘇峰あたりの影響を受けてるんだと思うよ
蘇峰も「家康は運の人」とボロクソ書いてるから
実際鈴木はよく蘇峰の本を引用するでしょ
「蘇峰翁曰く」とか言って
>>343 偉そうに書く割には受け売りばっかだなこのじいさんw
>>301 明の名将・戚繼光(1528〜1588)の著書『練兵實紀』には、「倭刀」及び陰流を元とした「倭夷刀法」を利用した戦術についても記されている。
戦国時代の日本の合戦資料が江戸時代に改竄された可能性は大きいが、こちらは当時のまま残されている。
現在、ネット上でこれを読む事ができるのは有料サイトだけだが、「四庫全書」の子部・兵家類に収録されているので、大学の図書館か大きい図書館に行けば「四庫全書」のCD-ROM版があると思うので読む事ができると思う。
「書虫」なら\40000くらいで原文版のCD-ROM(SK-304に収録)が買えるけど・・・。
カタナの話しも鈴木氏の思い込みですよ。
>>344 今時、受け売りじゃない史学者なんておらんだろ。どの人の著書見ても引用註ばっかりで独創性が全くない。
こんなのは学問でも何でもないから、大学の学部学科からはなくすべきだろうな。
>>346 鈴木の場合は「通説は間違っている」と通説否定の立場をとっているわけだ
それをするに際しては自分独自の研究がなければ、
通説を否定する事などできないはずなのだが、
それをせず他人の研究にばかり頼っているから問題なの
単純な疑問なんだが、負傷して帰ってきた人は鉄砲傷・矢傷の割合が多い。 刀傷は少ない。 ・・・・・・ いや、白兵戦に突入して槍で突かれたり、長刀で薙ぎ払われたり、 金砕棒でぶん殴られたり、刀で斬られたりしたら、 負傷じゃなくて死亡してると思うんだが。
>>348 接近戦になった場合、負傷ではすまない。
そして軍忠状の性質上、死亡理由までは書くことはない。
そういう理由から、あなたと同じように考えて鈴木氏の遠戦志向を批判する人も少なからずいる。
俺も同じ意見かな
日本刀は万邦無比の神器、日本精神の結晶であることに思いを致せない鈴木は非国民なので叩かれて当然。 戦前だったら、間違いなく軍人か右翼のテロで殺されている。
釣りはいいから
>>349 西洋でも大型馬を使ってたのはフランスぐらいなもんだからな。
鈴木氏が馬鹿の一つ覚えで引き合いに出すサラブレッドなんて当時存在しなかった。
サラブレッドが完成したと言われている年代は、18世紀の末だからな。 「産業革命が起きていない」とか「国民国家じゃない」とかで15〜16世紀当時の日本を語るようなもんだなw
「三河のこせがれ」こと松平次郎三郎元信。 今川義元のお陰で広忠率いる松平家は存続できた→今川家を滅ぼす 織田信長のお陰で徳川家は存続できた→織田家嫡流中納言秀信は許さない。 秀吉のお陰で日本は戦乱の世から脱した→豊臣家を二分させてまた戦乱の世に戻す。その上豊臣家を滅ぼす。 天下のために働き、天皇家や公家集を復興させ、位人臣を極めた秀吉はその功労から豊国大明神となった ↓ 家康は豊国大明神の神号を廃止し豊国神社を潰し、阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓所も潰して遺骨を散乱させ、そこらの山中に捨てた。 その上、自らは死後東照大権現となり、神となった。 聞きたい、家康は偉いか?戦乱の世を鎮めたのは功績があるだろうが、それはもともとは秀吉の手柄で鎮められたものである。 天皇家や公家衆の力をあれだけ奪っといて神か。士・農・工・商・○・●なんてガチガチの身分制社会を作って、偉いか?神か? 家康なんかちっとも偉いと思わない。自力で新しい世を作った清盛、頼朝、尊氏、秀吉と比べられるか? 決まっていた体制を武力で奪い取って自分の物としたそのやり方はまさに北条時政である。 だが、北条は将軍をお飾りにしていただけましである。自らも平家の血筋なのに表立っては権力を行使しない。 新田一族の得川の子孫でもなんでもない、単なる坊さん徳阿弥の子孫の癖に。何が東照大権現か。 みんな、日光東照宮なんか拝むな。 徳川が作った○・●とかそもそも考えるな。何が部落だ何が同和だ、徳川にいつまでも操られるな。くだらない。 徳川は明らかに罪のほうが重い。
釣りはいいから
| Hit!!
|
|
ぱくっ|
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽ
>>355 よ、そんなエサで
_ ム::::(,,゚Д゚)::| 俺様が釣られると思ってんのか!!
ヽツ.(ノ:::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
>>355 素晴らしい策士だねえ
鈴木が言うような運だけに救われたような凡人ではなく、
素晴らしい才能持った人間だ
お褒めの言葉をありがとう
鈴木“トンデモ”眞哉
朝鮮の役で、明、朝鮮側の記録に日本軍の強さとして刀の鋭利さと鉄砲をあげている記録がある 当時近接戦闘において刀は使用されていたことがわかる
>>360 機会があれば読んでみたいので、書名教えてください。
>>360 鉄砲なんか、所詮飾りですよ。日本男児なら、やはり最強にして最後の武器は日本刀。
そりゃ刀は使われてたろう。使わんモノわざわざ持ってく必要ない。 しかし、その使われ方がモンダイだ。 刀というのはハッキリ言って「サイド・アーム」。現代ではピストルに当たる武器だ。 ピストルってどんな時に使うか?ライフルが故障・弾切れで使えなくなった時とかだろ? 後、戦場でない所での護身用とか。ホルスターに入れときゃいいから両手がふさがんない。 「ついで」に持ってくには最適だ(ライフル2丁は持てんだろ?)。 で、戦争映画とかで兵隊さんがピストルでパンパン撃ち合ってるシーン見たこと有るか? リアルなヤツほどそんなシーンは少ないはずだ。 >日本軍の強さとして刀の鋭利さと・・・ ワルサーP38はそのダブルアクション・メカニズムと、弾薬(9mmルガー)のバランスの良さから 連合軍兵士からは「灰色の幽霊」と言われ賞賛された。 でもドイツ軍機械化歩兵の強さは別にワルサーP38があったからじゃないだろ? 銃で言えば、MG42多用途機関銃、MP40(俗にシュマイザー)とかだろ。 昔では火縄銃・弓、槍とかに相当するか。
あの意見もその意見も、まあ所詮はド素人の空想の枠から一歩も出られないわけだがな。
戦場での刀の使い方に関するプロの意見てどんなんだ? つーかこの場合何がプロなんだ?
一番素人じゃんww
368 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 23:59:25
けっきょく鈴木さんの問題提起は真面目な話どこまで妥当なんですか?
369 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 00:33:06
長物志向、遠戦志向は妥当。 刀が主力兵器だったら江戸時代に槍鉄砲は全く不要だろ。 結局、江戸時代に一番身近な武器が刀だったから剣術が重視された
鈴木説のどこが妥当なんだか
結論はともかく問題提起は妥当 何にも考えてなかった連中が少なからずいる
結局のところ真哉君は、大げさに書いたから注目されただけじゃないのか
小説家の津本陽が真剣で豚肉を試斬したルポがあるが 大腿骨ごと、何の手ごたえもなく肉塊を両断した。 数回斬ると脂で切れ味が落ちるというのもまったく嘘で、何度でも変わらなく斬ることができたそうだ。 何人も人を斬った津本の師匠によると、筋肉質の人間が一番斬りやすいんだと。 まあ合戦で主要に使われたかは知らんが、切れ味は確かのようだ。
374 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 14:25:06
>>マスメディアの連中は自分達が日本国の最大の権力者であることが 影響力はともかく権力ってことはないでしょう。
野球に例えるなら、草野球すらやった事が無い『自称・野球解説者』>鈴木氏 それでも、名選手とか名監督と呼ばれている人たちと同じ意見、同じ理論なら問題は無いんだけどねぇ。
376 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 19:15:57
>>373 動かない豚肉なら包丁で充分
鎧を着て動き回る人間を簡単に切れるかどうかが問題なんだよ
吊るした豚肉は伸縮しないし、血は抜いてあるし、死後硬直はもうしないだろうからねぇ。 生きてる人間と全く同条件とは言えないんじゃまいか。 つーか、漏れの知ってる小学校長が子どもの頃家にあった日本刀で遊んでて指を少し切って血がついたのをそのままにしてい たらわずかな間に錆錆で抜けなくなったと言ってたぞ。 これでは、戦場で満足に手入れができないような生活が続いてたら、どんな名刀も消耗品扱いだな。
刀は消耗品ですが何か? そもそも刀を最も使ったのは軽快さが武器の足軽雑兵。 そんな奴らが名刀なんぞ持っているはずがない。 錆で抜けなくなるのは実際あったらしいが、別に日本刀に限った話ではないしな。 また、錆びようが錆びまいが、人を叩き割るのにさしたる影響はありません。 出刃包丁はすぐに錆びるが神経質な人でない限りは切れ味への影響なんか ないといって言いレベル。 本職の料理屋でもないかぎり、必ず錆びさせてしまうのが普通。
379 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 19:55:29
>>375 さすが人斬り経験者の言葉は重みが違うな
>>378 > また、錆びようが錆びまいが、人を叩き割るのにさしたる影響はありません。
鞘から抜ければの話だけどな。出刃包丁は別に鞘にしまう必要もないしw
381 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 11:48:46
拭けばいいだけだろ 大騒ぎすることかよ
存分に笑ったから 葡萄板へ帰れ
現代日本人は江戸時代の人間と同じかそれ以上に軍事音痴だよな。
385 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 21:35:25
接近戦はどっちかの軍勢が敗走した時(≒首狩り)に生じるということで井伊のですか?
山林などの複雑な地形が多く、気候が季節や時刻によって複雑に変化する日本じゃ遭遇戦も多かったような気がするが、実際どうなんだろ?
>>385 間違い。日本人の白兵主義は倭寇を見ても伝統的なもの。
相手の飛び道具がわずかだと見れば、進んで接近戦を行ったのが日本精神の精華だと言える。
>進んで接近戦を行ったのが日本精神の精華だと言える。 鈴木が目の敵にしてきたのがこれやろw
雪合戦は飛び道具(=雪玉)が全て。 槍や刀などは使用されなかった。 ・・・だったら、反論する人も殆どいないんだろうねぇ。
長刀解
此自倭犯中國始有之。彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。
倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。
我兵短器難接長器、不捷、遭之者身多兩斷、?器利而雙手使、用力重故也。
今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。
況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。
(戚繼光著「紀效新書」より。)
真倭二三、偽倭七八と言われてはいるが、倭寇の主力の中で日本人が目立っていたのは間違いではない。
陰流の目録も渡ってしまったけどな。
>>387 のワケノワカラン精神論には同意せんけどなw
>>391 >
>>387 のワケノワカラン精神論には同意せんけどなw
等と言ってるのが既に、鈴木に洗脳されつつある証拠だわなw
393 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 16:51:08
少なくとも当時においては白兵戦は精神論でも何でもなく、きわめて有効な戦法。 弓鉄砲の間隙や、伏兵での切り込みは敵軍を敗走せしめ陣地を奪取するには合理的。 当時の銃器は現代の銃器のように連射が利かないし正確性も低いため。 むしろ中間距離で飛び道具を互いに撃ち合い続けるのは消耗戦の様相を呈し、数に劣る軍勢には手が出ない。 結果的に鈴木氏は、白兵戦が精神論でのみ語られる非合理的な戦法だという誤った認識を多数の人間に植え付けてしまった。
394 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 17:03:54
遠戦志向という鈴木氏の言葉は先の大戦での旧日本軍批判をしたうがための道具なんじゃないかと。 そもそも氏が嫌う白兵志向の旧日本軍だって、敵軍に与えた死傷者数をみれば白兵での死傷者数よりも弾を当ててのそれのほうが多い。 鈴木氏の、 日本人は遠戦志向、 という主張は一種の詐欺だよ
と言うか、日本史においては支那事変までずっと白兵戦の方が合理的かつ有効な戦法だった。 例外は張鼓峰・ノモンハンとガダルカナル以降の対米英ソ戦だけで、中国では終戦まで白兵戦の方が有効だった。 鈴木は、日本史におけるたった4年を以ってそれ以前の数百年を判断する誇大妄想狂。 現代においてすら日本刀は万邦無比の神器であることを、日本人は決して忘れてはいけない。 詐欺師の妄説に惑わされて日本人の心を失ってはいけない。
ヲイw
397 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 05:01:21
刀剣ホモの会の残党が暴れてるのかwww
398 :
日本@名無史さん :2007/06/25(月) 02:57:39
dデモ鈴木よりは「雑兵物語」に一票w 合戦順序は 鉄砲放ち→弓(&印字打ち)→侍槍→足軽槍→乱戦(刀・野太刀・長巻)→首狩w 五尺の長巻も刀のうち。それ使って鎧ごとぶっ叩くべいw
>>398 ほぼ万国共通の合戦順序だね。
何故、日本だけ異なると考えるのか、その頭の構造が不思議。
400 :
日本@名無史さん :2007/06/25(月) 15:31:59
鈴木眞哉は世界史の知識が殆どないw
首狩は日本独自といえるかもしれないが、敵の体の一部を提出する≒殺した 証拠を示すことなら隣の国でもあったからね。
403 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 09:47:36
>と言うか、日本史においては支那事変までずっと白兵戦の方が合理的かつ有効な戦法だった。 馬鹿杉
404 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 11:34:19
金砕棒といった、木を鉄板で覆っただけの棒なんかで村同士の喧嘩をしてたわけで。 日本刀よりも、こういう粗雑な長柄武器が主力ではあったんだろうな。
日本刀なんて高い割りに壊れやすいし。
「太刀十腰をもって質とせば、唐人より六七千匹の物を借りることができる」(「宇治拾遺物語」) ホントにたけーなw
>>406 日本刀で切ったことない奴ほど、日本刀を断言する。
日本刀話のマメ知識ね
>>406 チハたんなんて日本刀より高いくせに壊れやすいし。
ハ−45なんて日本刀より高いくせに壊れやすいし。
ハ−140なんて日本刀より高いくせに壊れやすいし。
じゃあ帝国陸海軍の兵器って信頼性が日本刀以下ですね。
これだけでも帝国陸軍が日本刀を主武器にしたことは正しい判断だったと言える。
近代兵器と比べてもこれだけ日本刀が優越しているのだから、戦国時代の幼稚な火縄銃などは比較にならない。
410 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 09:34:02
日本刀について「実戦では使い物にならない」とか「使われなかった」と言っている人は、きちんとした資料に基づいて発言すべき。 思い込みと妄想と火病が大杉。
まったくだ。太平洋戦争で最も戦果を挙げた帝国陸軍の兵器は日本刀と捕獲された後の擲弾筒なのに。
進駐軍が真っ先に尋ねたのは残っている日本刀の数だったらしい。 彼らはそれほど日本刀を恐れていた。
413 :
日本@名無史さん :2007/07/19(木) 00:12:19
414 :
日本@名無史さん :2007/07/19(木) 04:21:02
オイオイ それは日本軍の火器がよっぽど貧弱だったって事かね?
米軍の刀が貧弱だったからでしょ
416 :
日本@名無史さん :2007/07/20(金) 18:31:19
米軍に無いもの、或いは同系統の兵器類の中で日本のものが優れていると思われたものが欲しかったんでしょうかね。 または放置していて危険なもの。 日本刀、擲弾筒、酸素魚雷、自動空戦フラップ、毒ガス、細菌兵器、他には核兵器開発に結びつくもの等々。
417 :
日本@名無史さん :2007/07/20(金) 20:51:28
それは関係無いのでは。 単純にその当時に持っていた武器で、(相対的に)強力なものを危険視しただけでしょう。 で、それに日本刀が該当したと
擲弾筒は、捕獲される前より捕獲された後の方が多くの米兵を傷つけた。
420 :
日本@名無史さん :2007/08/08(水) 19:20:33
考えてみたら刀というのは船の上では結構有効な武器ではなかろうか? 船の上は揺れが大きく、ロープやら船具やらで槍を振えない場所なんだから、片手で持つ刀が一番の武器になりそう。 考えてみたら苗刀がシナに広がったのも、倭寇の振るう刀が原因だったみたいだし。
424 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 14:58:12
確かに倭寇関連だと日本刀の記録はかなり多い。
でも、倭寇って船から陸にってのが多いような感じで、船から船、陸から船はどうだろ? >確かに倭寇関連だと日本刀の記録はかなり多い。 明側の兵士は「日本刀見ただけで逃げ出す」ってやる気無いのも多かったらしいし。 (和冠の盛んなりし頃、明將の記文のうちに曰く、倭奴刀を揮ふこと~の若し、人之を望めば輙ち懼れて走る・・・ いまいちソースがハッキリしない。)
藤本氏の鈴木との絶縁宣言マダー?(AAry
427 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 20:03:12
>>426 何かあったか? kwsk
対立したら修復不可能っぽい二人だがw
>>427 いや、特にない。
ただ、早く絶縁しないと藤本氏の学問的評価がどんどん低下して行っちゃうだろうなと思って。
429 :
日本@名無史さん :2007/08/25(土) 16:48:08
結局、鈴木信者は何ひとつ反論できないまま退散しましたとさ。
もちろんお前らは
>>412 がネタだと分かってて
付き合ってくれたんだよな?
431 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/08/26(日) 17:03:22
432 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/08/26(日) 17:05:57
ゲームを例えに出されても、そのゲームやった事ないしやる予定もないし。
<負け組>の戦国史って… 何で変に今どきの言葉を使いたがるんだろうな、この人 どうせ内容は今までどおりなんだろうけど
>>428 学問的も何も、二人とも在野の史家だから最初から学問的影響力なんてないでしょ
>>434 ちらっと立ち読みしたけど、
薄っぺらい評論みたいな感じだったんで買うのやめた
マニア向けじゃなくビジネスマン向けの駄文
>>435 今回の新刊で一番読み応えがあるのはあとがきだよ。
結構赤裸々に自身の生い立ちを語っていて、興味深い。
あとがきの要点をかいつまんでみると、
1:父親を子供のころに亡くし母子家庭で育った。
2:私立大学を卒業したため学閥の壁が立ちふさがり、
また母子家庭であった影響もあり、
当時の一般企業の社員の採用基準の一つであった「問題のない家柄」に該当しなかったため、
やむなく公務員になる羽目となった。
3:雑賀衆鈴木家は戦国時代からひたすら「負け犬」の道を進んでおり、
ほかの大名家と違い、鈴木家の末裔として得をしたことは何一つない。
4:こういった事情から「勝ち組」に対して「私憤」とでもいうべき感情があることは否めず、
「負け犬の戦国史」を書いたのもそういう私的な感情が発端である。
5:しかし書籍を執筆するに際してはそういう「感情」は排して史実分析を行ったつもりである。
6:自分の考えにいろいろと反感をもたれる人もおられるかもしれないが、
あくまでこれは各資料にあたってみて、自分なりに下した歴史判断である。
ご理解願いたい。
何となくではあるが鈴木が「信長・秀吉・家康」といった、
いわゆる「天下人」に異様にかみつく理由がわかった気がする。
鈴木の感情からすれば、
結果的に戦国大名の中でも最も大成功した家康なんて絶対好きになれないわな。
437 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 00:36:22
今回は、〈負け組〉の戦国史 どの著作だったかは忘れたが、戦国時代の「成果主義」について論じた本もあったな。 もう「成果主義」なんて言葉は流行らないが。 版元の意向なのか、本人が時流の迎合しやすいのか、 スラスラ読めるから、史論家としては起用しやすいのかなとも思う。
>>436 秀吉は「問題のない家柄」に該当しないよね?
家康も父親早死にして、母親は・・・。
変な人だなぁ この人の世代なら母子家庭なんて珍しくないだろうに 第一、戦国時代の先祖のおかげで得する人間なんてそんなにいるか?
読み物として面白く役に立つものであればどうでもいい つうか母子家庭で私大行かせてもらえて公務員になれるなんて、 恵まれてるな。
あとがき読む限りじゃやっぱ強いコンプレックスがあるんじゃないの? 自分は「負け組だ」みたいな 本人は歴史分析とこれは関係ない、と言ってるが、 分析の始まりは「私憤」からのもので、 本人はそれとは切り離してるつもりなんだろうけど、 実際にそれが出来てる、とは言い難いなあ
442 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 15:50:43
実戦で日本刀云々は 「できれば使いたくなかった。」が真相じゃね。 切っ先が欠けたり歯こぼれの程度では修理不能の場合がある。 いくらしたと思ってるんだ? 戦場での使用は仕方なくでしょ。
443 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 16:52:00
未読だが、「母子家庭」うんぬんも取って付けた感じだな。 一番は、雑賀衆の末裔としての矜持ではないかと思っていたのだが…。
>>442 そういう人は、おそらく戦さには行かないだろうね。
445 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 20:12:39
>>442 当時もピンキリだろ。
雑兵が使うようなのは二束三文だろうけど、上の人が使うのは目玉が飛び出すような値段。
>>442 鈴木さん乙。世界最強の兵器である日本刀に限ってそのようなことはない。
日本刀が使用不能な状況ならその他の兵器も使用不能だから殴り合いで決着をつけるしかなくなる。
447 :
日本@名無史さん :2007/09/26(水) 21:04:52
殴り合いって・・・w 首絞め合いならともかく
自分の表現物にルサンチマン(怨恨)をありありと反映させることは、 客観性を放棄するのと一緒だ。 感情的な分野の小説や映画ならそれもありだが、歴史の研究にそういう感情をぶちまけちゃいかん。 鈴木の場合は既存権力=既成価値観への復讐を、著作を通じて半無意識に行なっているのかもな。 著作を通じコンプレックスのうさ晴らしというかカタルシスを得ることが目的になってしまって、 偏ったものしか書けんよ。 この人がどうしていつも強引に結論に誘導する手法なのかっていえば、 歴史を通じて自分の価値観を主張するという意味で政治的だからなんだ。 動機に歴史以外のものが絡んでるんだもの。そりゃおかしくなるはずだよ。
最近、鈴木は論理的に破綻してきたんで、 個人的な身の上の不幸を語って読者の同情を集める策に出たw
>>448 あれほどまでに煽りまくる文章を書く理由がわかった気がするな
自分と対立する異論には、
「おめでたいいい気なもの」と叩きまくり、
自説については
「私的事情があるけど、中立的にやった。理解してほしい」
いい気なものだ
こんなこと書くなら最初から煽りの文章書かなけりゃいい。
日本刀憎しが頭にきて脳炎になってるんじゃないか? あれだけ日本刀に憎悪を燃やすってことは、鈴木は紀州人じゃなくて朝鮮人なんじゃないかと思われ。
当時の朝鮮人は日本刀を評価してたようだが。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/389 389 :人間七七四年 [sage] :2007/09/03(月) 15:31:30 ID:Bf+8Bzk8
文禄・慶長の役では日本刀が脅威だったようだ。
碧蹄館の戦いについての朝鮮側の記録では
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」『宣祖修正実録』
賊(日本軍)のほうはみな歩兵で、かれらの打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭
利無比のものであった。賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別
なく斬り伏せた。全くその勢いには抗すべき道がなかった。『懲録』
>>452 だから、鈴木の先祖が文禄・慶長の役で日本人によって刀で斬られたんだろ。先祖の恨みだよ。
アンチのフリした信者は死ねばいいと思うよ
最初は鈴木氏の、それまでの定説と幻想を打ち砕く、リアルな戦国史観に興奮して
バイブルのように彼の著作をありがたがっていた。
しかし、
ttp://www.sasakijo.com/kiba.htm このサイトを見て、彼の主張を全て鵜呑みにする事は出来ないと痛感した。
勿論、彼の説は固定観念を打ち砕いて視点を転換させるきっかけにはなったし、
正しい指摘も多々あると思う。
ただ、一人の著者の一つの本を全面的に信頼する事の危険性も知った。
もっと色々な本を読んでかきまぜて消化し、自分なりの戦国観を確立したい。
456 :
日本@名無史さん :2007/10/16(火) 01:31:18
>>455 問題提起としての鱸氏は、それなりに認めてもいいんじゃないか?
戦国騎馬隊否定論で言えば、もうひとり藤本セーコー氏は絵画資料でやってくるからな。
457 :
日本@名無史さん :2007/10/16(火) 21:14:46
鈴木史観は一種のカルトだよね
>>122 おかしな話だな。鉄砲はともかく、弓矢程度では鎧は貫けないよ。
刀では鎧を貫けないと言いつつ、弓矢では何も言わない。明らかに二重基準。
刀で戦う時は、装甲の無い関節部分を狙う事は、甲冑武術の基本なのだが、
鈴木とやらはそんな基本的な事も知らないのか?
>>253 >>切断するには
>>首の骨の柔らかいところがどこか把握していないとなかなかうまくいかない。
>>大刀使って力づくでやっちゃうほうが簡単かもです。
イラクの首斬り動画観てると、テロリストがいかにも鈍そうな小刀で
人質の首をサクサク斬ってるけど。
戦国時代の武士ともあろう者が、イラクのテロリストですらできるような芸当が難しくて
わざわざ首切りの為に大刀を持ち歩いた?
全く説得力が無いな。
なんか、チャンバラ映画や漫画ででバンバン首がとぶ荒唐無稽な描写を
否定するあまり、自称リアリストが首斬ったり腕切ったりするのを
必要以上に困難な作業のように喧伝した弊害が出てると思う。
極端なんだよな。言う事が。
460 :
458 :2007/10/17(水) 01:05:34
>>122 >>槍はともかく、刀では金属鎧はもちろん革鎧も切れないことは、甲冑の専門家が指摘している。
それは弓矢も同じだろうがw
大切な事は、弓矢でも刀でも、金属鎧の装甲を貫く事はほぼ不可能だという事。
鎧を貫く事が出来ない事を理由にして、刀が無力だと主張するのならば、
鎧を貫く事ができない弓矢も、刀同様に無力だと定義しなければ片手落ちだ。
実際はそうではなく、弓矢は装甲の薄い部分、むき出しの部分に突き刺さり
敵にダメージを与える。
刀だって同様だ。
装甲の薄い間接部を狙って突き刺し、斬り付ける事は甲冑武術の基本。
装甲部分に直接攻撃を加えて、貫く事ができなければ
武器として使い物にならないなんて言ったら、
真っ先に不合格の烙印が押されるのは、直線的にしか攻撃できない弓矢だよ。
剣のように、装甲の隙間を巧みに突くような攻撃ができないのだから。
鈴木の主張はあまりにも強引で非論理的。
>>460 > 装甲部分に直接攻撃を加えて、貫く事ができなければ
> 武器として使い物にならないなんて言ったら、
> 真っ先に不合格の烙印が押されるのは、直線的にしか攻撃できない弓矢だよ。
違う。弓矢どころか槍でも突けるような近くまで寄らないと使い物にならない火縄銃だろ。
462 :
日本@名無史さん :2007/10/17(水) 18:07:15
>>459 実際に、切った事のある人に聞いたのだが
首は簡単に切れるらしいですよ
ただ、間違って頭蓋骨の下端部に当ててしまうと刃がそれてしまうらしい
その時刀は折れないけど、歪むと言ってた
大東亜戦の時に、敵を3人切ったと言ってた爺さんから聞いた
>>460 鉄製のヘルメットくらいなら、鋼の矢じりが突いた弓矢なら易々と貫通しますよ
>>462 貴方の言う鉄製のヘルメットが何を指すのかわからんが、
当世具足の兜は易々と貫通なんてしないよ。絶対に。
居るんだよな。矢が鎧を平気で貫通するとか思い込んでる連中。 日本刀至上主義者と何が違うのかね。 イギリスのロングボウがフランス騎士を圧倒したと言われている クレーシーの戦いですら、今の研究では定説が否定的に見られてるのに。 ヒストリーチャンネルでも検証してたよ。 フランス騎士の鎧の厚みと同等の鉄板に、ロングボウを放ったが、 矢尻(勿論鋼鉄製)がクニャクニャ曲がってしまって、鉄板は全く傷つかなかった。
まったくだ。火縄銃や矢が鎧を貫通するわけないだろ。 貫通できるのは日本刀だけだ。
アンチのフリした信者は死ねばいいと思うよ
鈴木の問題提言自体はいいと思うよ 通説の再研究を促すという意味では非常に価値があるものだ 問題はその鈴木の再研究が感情的で、 かなりぶっ飛んだものになってしまっている、というところ だから鈴木は問題提言で満足している印象は否めないんだな
>>467 > だから鈴木は問題提言で満足している印象は否めないんだな
「日本歴史界の公開オナニスト」ってことか?
軽犯罪法でしょっぴいたらいいんでないか?w
469 :
日本@名無史さん :2007/10/18(木) 21:33:32
>>467 俺って既存の権威に喧嘩売ってるんだぜ、かっこいいだろ
と言うような厨臭がするので、ちょっと苦手な人ではある
>>467 同意。
いわゆる通説というヤツも相当いい加減に出来てるからな。
そうじゃないかもよ、というヤツがいれば議論は生まれる。
>>464 フランスの鎧を根拠に日本の鎧を語る強引さが
鈴木的なんだがw
全肯定しようとする信者も 全否定しようとするアンチも 同じくらいバカだって事に気づけよな。
敗戦後の日本じゃ軍事史そのものが賎史扱いだからなあ 玉石混合というよりも石ころだらけというか、玉と石ころの区別が出来る人がいないというか
474 :
日本@名無史さん :2007/10/20(土) 11:29:35
所詮トンデモだからなあ
シンパもアンチも みんな何かを信じたい人なんだ。 どっちかしかないのかよ。 と。
>>471 フランスの事例は「矢はそう簡単に鎧を貫通しませんよ」という事実の一例に過ぎない。
これを根拠の全てと勘違いしたのなら、少し思い込みが激しい。
日本の鎧だって、鈴木氏の取材した鎧師のおっさんが「刀は鎧を貫かない」
と言ったように、矢が鎧を貫通するという誤解も否定するだろう。
そもそも鎧というのは矢玉や白兵攻撃を防ぐ為に存在する。
簡単に貫通されたり役に立たないのだったら、誰もあんな重いものをわざわざ着ない。
事実、鉄砲の出現で鎧は駆逐された。
日本でも、家康の天下統一が成らずに戦乱の時代が続き、欧州のように
銃の性能や運用法が進化したら、同じように鎧は廃れただろう。
これは近代戦争の事例が証明してるね。
鎧が弓矢に対してそこまで無力なら、何世紀も前にとっくに鎧の時代は終わってるよ。
銃に駆逐された欧州の鎧のように、弓矢に駆逐されるだろうね。
少し考えれば誰でも分かる事。
逆に、もし1万歩譲って、日本の鎧が弓矢に対して無力だったとするなら、
どうして着るの?
答えてくれ。
単なるファッション?格好付け?それだけのためにみんながあんな重いものを着るの?
それとも、弓矢以外の攻撃を防ぐ為?
弓矢以外の攻撃といったら、白兵戦くらいしかない。
白兵戦の為に、みんながわざわざ弓矢に対して無力な鎧を着るという事は、
日本は遠戦主義ではなく、白兵戦が非常に多い事の証明になりそうなんだが。
477 :
476 :2007/10/22(月) 04:12:47
俺ははっきり言って、日本刀が鎧を貫くよと言ってる人間と、 矢が平気で鎧を貫くと言ってる人間が同じレベルとしか思えないだけ。 「どっちも貫くわけねーだろ」というのが俺の感想。 足軽が着るようなペラペラの鎧でも、まず無理だね。
>>476 鉄板一枚打ち出しの鎧と、小札綴り合わせた鎧じゃ当然強度は違うだろう。
札の部分に当たればはじき返すかもしれないし、
威絲の部分に当たれば貫くかもしれない。
至近距離から放たれた弓矢に無力だったとしても、
遠くからの弓矢に対しては有効かもしれない。
弓の強度や、射手の腕力によっても威力は大きく左右される訳で、
一概に弓矢に対して有効・無効と決めつけるのは無理がある。
鎧を着ていたからといって、必ずしも鎧が弓矢を防いだとは言いきれまい。
それこそ思い込みが激しい。
合戦絵図なんか見ると、鎧に矢が刺さってたりするが、
矢をはじき返すことも貫通することもあったのだろうと想像できる。
鏃によっても貫通力は違ってくるよ。 貫通力が高いのは征矢。 だけど殺傷力は低くなる。
480 :
476 :2007/10/24(水) 06:48:38
>>478 例外があるのは理解できるが、それを言うなら槍や刀だってそうだろ。
膂力のあるものが、刀を鎧の脆弱な部分に思いっきり突き立てれば
貫く事もあるんじゃないの?
矢が貫いて刀が貫かないという理屈が俺には良く分からん。
そこまで矢と刀の貫通力に差があるのかなあ?
鎧を纏った武者が、体重を乗せて刺突できるぶん、刀のほうが破壊力がありそうだが。
誰か運動力学や機械工学の点から説明してくれるとありがたいw
俺はもともと
刀は鎧を貫かないから武器として無力だと主張する鈴木氏が、
弓矢に対してはなーんにも言及しないダブスタが鼻についただけだからね。
それを指摘するあまり、ちょっと極端な主張になったんでそこは反省する。
だけど、例外はともかく、基本的に鎧は弓矢や刀槍の攻撃を防いだという
自分の考えは曲げられないなあ。考えを改めるだけの根拠が無いし、
日本の歴史で、長い期間鎧が戦いで廃れなかったという大前提があるしね。
対して役に立たないものが、あそこまで普及するわけが無い。
そう思いませんか?
身体のヴァイタルパートを守るには十分だった、ということだろうかね。
貫通させる必要はないんだけどな。 たまに振ったバットのフォロースルーがキャッチャーにあたってキャッチャーが身動きとれなくなってるけど、 別に貫通してないし。 貧乏な物主は足軽に八角棒とかただの固い木を装備させてる。 国人一揆では、鋤や鍬でぶん殴ってぬっころしてる。 いっぺん、鈴木さんはヘルメットかぶった状態で木刀とか金属バットで思いっきり殴ってもらえばいいんじゃないかな。 ヘルメットを貫通しないから木刀や金属バットに殺傷能力はないって鈴木さんなら言ってくれるだろう。
>>482 言い得て妙だな、机上の空論で極論するのが鈴木さんの持ち味だからね
484 :
478 :2007/10/24(水) 20:38:09
>>480 >基本的に鎧は弓矢や刀槍の攻撃を防いだ
当然そうだろうね。基本的には。
刀槍、弓矢にしろ鎧兜にしろ武器・防具として
かなりの有効性があったから使ってたのだろう。
ただ、「日本刀は最強の武器だ」とか「全然役に立たなかった」みたいな
極端な話は到底信じられないが。
485 :
日本@名無史さん :2007/10/24(水) 20:54:30
>>484 当たり前と言えば当たり前ですな、武器をスカスカ通す鎧なら誰も着ないですし
反対に、鎧に全く無効な武器なら誰も使わないです。
韓非子の矛と盾の話と同じですね
矢の貫通力については、昔NHKの番組で実験していたよ。 標準的な矢で、大鎧の鉄板の貫通は出来なかった。 ただ、へこむだけだった。 ただし、強弓の場合は、同じ距離から鉄板を貫通 していたよ。ただ、つき抜けた矢の長さは、せいぜい 5センチ程度だった。 と言うことは、鎧をきちんと着ていたら、刺さっても 致命傷にはならない確率が、高いということになるん だから、十分鎧は役に立ったという結論でいいんじゃ ない。
例えば、砦に篭った少数の軍勢と、対峙する砦外の少数の軍勢というシチュエーションと 予期せず野外でカチ合う足軽軍団同士というシチュエーションでは 当然戦の成り行きだって違うだろう。 刈田狼藉のために強行侵入してきた極少数と、それを駆逐しようと駆けつけた兵隊のケースでは、 下手すると兵隊同士が遭遇しても戦闘にすら至らないかもしれない。 そういうのをぜんぶひっくるめて「遠戦志向」と言い切ってるからおかしいんだよな。 更にサンプルの抽出だってどうかと思う。 本能寺と東大寺と信貴山城をピックアップして、戦国時代の決戦兵器は松明だと言い出すようなもの。 最新刊読んで、だんだんこのおっさん桐生操に似てきたな、と思った。
桐生操は昔よく読んだな〜。 真偽はともかく話としては面白いんだよな。
「負け組」要するにこういうことが言いたい本だと理解 「今川義元は“不運”(ハードラック)と“踊”(ダンス)っちまったんだよ 」
つまり、幼少時から「鈴木佐藤は馬の糞」と言われ続けて来た事が騎馬隊否定の遠因になったと。
491 :
日本@名無史さん :2007/10/27(土) 22:10:06
アンチのフリした信者は死ねばいいと思うよ
矢の貫通力の話だけども。 矢傷のはっきりある胴丸はいくつか残っているけど、どれも裏面にはほとんど到達していない。 とはいえ、ある弓矢の試射実験ではそれなりのフライパンを少しだけだが打ち抜いてたから、戦国時代の安物の桶側胴とかは鏃が確実に貫通すると思うね。 フライパンよりずっと薄いもの。ただし、それでも身体に食い込む深さは随分マシになると思う。 あと、どこかの神社だかの筋兜に矢で射通された形跡がある物があるんだけど、見て無いのでホントかわかんない。 ついてに鉄砲弾で桶側を試射した例では弾が滑るでも防ぐでもなく全弾両面貫通されてたw どちらも距離や作りにもよるだろう。記録を信じるなら真田丸戦では弾をはじき返した例がある。 完全な武器防具はないということで、甲冑はレベルに応じて矢傷による負傷率を下げることが出来る、てとこかね。
>>492 ふ〜ん。
敢えていじわるを言わせて貰うと、貫通したのは伝世しないと思うんだが。
誰が好きこのんで死人からはぎ取った鎧を大事に子孫に伝えるかな?
494 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 00:51:11
有効射程距離で、止まった標的に、理想的な角度で射掛ければ、貫通するだろう。 実際の戦場ではそんなに上手くいかないだろけどね。
みんな戦場に着ていく前に、自分で鎧に試し撃ちして防御力を試したんじゃないかな?かな? 自分の命がかかってるわけだし、俺だったら絶対それくらいするな。 簡単に貫通するようなペラペラの鎧だったら、着用しないんじゃないかな?かな? 買い換える財力が無ければ南無だけど。
496 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 10:52:25
もともと、鈴木説以前から、戦国合戦では、戦死者が少ないってのが常識だったんじゃない?? 矢が槍があっさり鎧を貫通したり、刀があっさり鎧をぶった切ったりしたら、 戦死者が膨大な数になるでしょ。 敵戦闘員を撃滅したら勝ち、じゃなくて、退却させたら勝ち、 なんだから、負傷原因が遠距離兵器によるものメインになるのは、当然のような。 それと、「白兵戦はなかった」「遠戦志向だった」 は、なんか違うような。
497 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 12:05:43
戦死者が少ないというのが嘘 隊長クラスが戦死して名前残すような乱戦になった戦い方で 戦死者が少ないわけが無い それ以上に戦国の歴史じゃ大名の血族が戦で何名も斃れてるだろうが
498 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 12:06:52
×何名も ○数えられぬほどに
499 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 13:14:59
>それ以上に戦国の歴史じゃ大名の血族が戦でも数えられぬほどに斃れてるだろうが 具体例は?
500 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 20:06:22
鈴木眞哉って、素人研究家のトンデモでしょ 日本史って言うカテゴリーにいるだけで やってる事は、五島勉とか飛鳥昭雄と一緒だろ
502 :
日本@名無史さん :2007/10/31(水) 22:29:22
合戦で戦死した武将って意外と少なくよな? 勝敗が決した後に自害したり 捕虜になって処刑されたり切腹させらりしたのが大部分じゃね?
信長の弟も結構戦死している
大坂夏の陣の大坂方武将 長久手の戦いの豊臣方武将 川中島や長篠の武田方 戦死多い
耳川の合戦 大友方 沖田畷の戦い 龍造寺隆信戦死
506 :
日本@名無史さん :2007/11/02(金) 03:40:08
総大将が死んだのは今川義元と龍造寺隆信くらい。 おかげで二人とも最低武将扱いされることに。
507 :
日本@名無史さん :2007/11/02(金) 05:19:29
戦死が多いっていうけど戦国の合戦全体の中での割合を出さなきゃ意味なくね? 武将が戦死するような激戦だからこそ後世に語り伝えられてるわけで… それこそ小競り合い程度の戦いなら文書にも残ってないようなのが沢山あったはずだぞ
自害も含めれば総大将戦死は大漁にある。
509 :
日本@名無史さん :2007/11/03(土) 00:45:36
質問: 何故、田舎の小学生はヘルメットを被っているのですか? 答え: メット業者の既得権益を守るため。
510 :
日本@名無史さん :2007/11/03(土) 01:07:04
>>508 おぃおぃ自害を除いた戦死の話をしてたんじゃねーのかよ?
>>510 まあそーだけど
そのまま戦い続けたら戦死する状況での自害は実質的に戦死ともいえる。
総大将は少ないかもしれんが 部将級はたくさんある 総大将は大抵逃げ切るかその前に自害するから つうか総大将は最前線で戦死の危険を冒してまで戦わない 少ないのは当たり前
>>511 まあそーだけど
そのまま生き続けたら脱童貞する状況での自害は実質的に脱童貞ともいえる。
514 :
日本@名無史さん :2007/11/03(土) 17:31:44
野戦で自害ってあるの?? 追い詰められた武将が、自害っては、多いと思うが。 鈴木氏の功績って、結局、なんだろうね。 「騎兵」に関しては、「武田騎馬軍団」を否定するあまり、勇み足な感じか。 軍忠状を基にした、戦国の負傷原因・遠戦志向については、 とりあえずOKなの??
516 :
日本@名無史さん :2007/11/03(土) 22:29:02
>>514 お前の頭は統一教会の壺ででもできてるのか?
軍忠状を基にしたって1467年の応仁の乱から1637年の島原の乱まで
で1461件しかサンプルしてないんだぞ
ある特定の戦の1461件ならそれなり当時の戦い方の分析に意味があるだろうが
年で割ると9件もない
それもどんな戦のどこに布陣した誰の軍忠状なのかも全部ブラックボックス
で軍忠状を疑うやつはおかしいとか布教してるんだぜ
まともな脳味噌があれば戦国前期は云々だとか後期はなんだかんだとか
論じるベースになりえるもんじゃねぇ
豚の飼料ぐらいにしかならねぇ資料だってのは
政治的な意図でデマ流すのが生き甲斐の気違いか算数のわからない
知恵遅れでなきゃわかるだろ
>>516 > 年で割ると9件もない
とりあえず、これだけは言っておきたい。
戦国時代だからといって、毎日のべつまくなし戦争していたわけじゃない。
そんな戦争ができるのは国民国家が成立してからのことだ。
518 :
日本@名無史さん :2007/11/04(日) 14:26:28
武功夜話をあれだけ目の敵にして ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を引用するのは納得できない。
519 :
日本@名無史さん :2007/11/04(日) 20:54:54
>>517 応仁の乱から秀吉の時代までに日本のどこにおいても領土を巡る紛争の無かった
日なんてどれだけあんのよ
日本全国で和平が成立して戦死者がでなかった年を示せるか?
軍忠状の一年9件ってのは日本全土の戦役の数でなく
日本全土での全負傷者の数だぜw
>>519 和平が成立してなかったら常に戦闘が行われていなければおかしい、というわけではないでしょう。
現に、講和が行われていませんので法的には日本とソ連(とそれを継承したロシア)は戦争状態にあるわけですが、実際には
ソ連・ロシア側が主張する領海に入った日本の漁船が銃撃されたり拿捕されたりするレベルより大規模な交戦があったという
話は寡聞にして存じ上げません。
また、日本と直接関係ない例では、韓国と朝鮮は休戦状態ではありますが和平は成立していません。
522 :
日本@名無史さん :2007/11/08(木) 18:14:53
>>521 一度戦国時代の日本地図を10年ごとに塗り分けてみたらいかがか
523 :
日本@名無史さん :2007/11/09(金) 19:19:43
>>521 一つの戦場での戦傷者のサンプルが九人弱しかいないなら負傷者の
怪我の理由からその戦場の全容見ることはできないし
戦傷者の五百人で三つの戦場を抽出したデータなら
その戦場で起こったことだけはある程度見えるだろうけど
それで条件の違う百年以上にわたる戦国時代の戦全てを語ろうとするのは無理。
ここまでは理解できてるか?
鈴木の軍忠状の統計は統計として役立たないものであるかYES NOで解答を求む
>現に、講和が行われていませんので法的には日本とソ連(とそれを継承したロシア)は戦争状態にあるわけですが
日ソ共同宣言で講和を結んでいるのしってっか。てか、日本は米の傘の下だが
>韓国と朝鮮は休戦状態ではありますが和平は成立していません。
アメと中露のバックアップがなけりゃ戦争続行どころか生きることも不可能だから
従ってるだけだろ
>和平が成立してなかったら常に戦闘が行われていなければおかしい、というわけではないでしょう。
常に戦闘が行われていなければ戦争で無いとしたなら
ポエニ戦争も源平合戦も無かったことにできるなw
サンプルたる軍忠状の数や質も問題だけど、そもそもの問題として 古今東西の合戦で飛び道具での死傷者が白兵での死傷者を下回る戦のほうが例外的。 弓矢、鉄砲、石礫の応酬 ↓ (しばしお楽しみください) ↓ 槍、騎馬の突入、斬り込み
525 :
日本@名無史さん :2007/11/10(土) 12:22:27
矢を何千本も背中にしょって歩いて 強弓の雨を射ることのできる無茶苦茶な筋力を持った兵士が 人間ガトリング砲のごとく戦場で活躍するイメージなんだろうが ローマの歩兵が担ぐ投げ槍は二本だし 騎士の鎧じゃそもそも弓なんて撃てない 命中精度も飛距離も威力も速射力もロングボウのが圧倒的に火縄銃よりすぐれてたが 何が変わったって火縄銃でかさばる矢を持ち歩かなくてよくなったことだろ
>>523 > 鈴木の軍忠状の統計は統計として役立たないものであるかYES NOで解答を求む
答えはNOだ。役立たないのは鈴木の統計ではなく鈴木自身だからだ。
だから軍忠状研究始めたのは鈴木じゃねーって。
528 :
日本@名無史さん :2007/11/10(土) 20:02:45
じゃあ信頼できる軍忠状の資料だせよ
529 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 05:03:30
軍忠状は全部偽者。 戦国での主武器は刀。
530 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 06:52:19
軍忠状の統計がどんな集計なんだよって話なのに 涙目で軍忠状の真贋に話をずらすことしかできないのが軍忠状厨
532 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 13:47:22
>>531 立証責任は異説を出す側にある。
お前が主武器が刀ではなかったと言う証拠を出せよ。
533 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 14:11:54
軍忠状の負傷は、砦や城をめぐる戦いを含めてだから、 遠戦兵器による負傷が多くなるのは、当然でしょ。 しかも、攻城戦とか全部ひっくるめても、戦国期には、白兵戦による 負傷が25%ぐらいってことは、かなり白兵してたってことでは。 なんか、統計の読み方がおかしいと思う。 オープンフィールドで両者が戦列を整えて激突する、 なんて展開がまず、なかったことなんて、以前から周知のことでしょ。
534 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 14:15:44
あと、日露戦争以降を「白兵主義」と称するのもおかしい。 鈴木氏が「白兵主義」とよんでいる歩兵操典にしても、 まず、優勢な火力で攻撃した上で、突撃しろ、といっているわけで、 銃撃砲撃を軽視してるなんてありえない。 日露戦争のときは、当時の火力では、ロシア軍の野戦陣地・構築物を ブチ破れなかった為、白兵突襲を盛んに行うようになったというし。
鈴木氏の『刀と首取り』について、言いたい事は山ほどあるが、 最も言いたいことは『近現代史には口出ししない方がいい』ということです。
>>532 根拠もなく信じるのは信仰。学問ではない。
537 :
日本@名無史さん :2007/11/14(水) 04:50:37
>>536 だから早く証拠を出せって。
軍忠状(プッ!)とかいう無意味なゴミは無しでな。
あのな、客観的に見ると、具体的に根拠を示した鈴木の方が、何も根拠を出さず罵倒するだけの刀真理教よりはるかに学問的に説得力がある。 刀真理教もなにか具体的な史料を示さないと。感情的に罵倒しているだけでは学問ではない。
それから、もっと噛み砕いて言うと、「AじゃないからB」という二元論は科学、特に人文科学ではほとんど通用しないからね。 刀が主力兵器であったと主張するなら、その具体的史料を提示しないとただの信仰なんだよ。
540 :
日本@名無史さん :2007/11/14(水) 08:12:41
史料では戦場の獲物は自由だったってのが通説 鈴木らの中身隠したデータっぽいもの見せられて学問とかいってるのを信じるのは オウム真理教やらカルト信者といっしょなのよ 具体的資料なんていつ7でてきたんだ?w
541 :
日本@名無史さん :2007/11/14(水) 12:35:30
ここは学問板何だから学問的議論をしろよ。
>>534 まあ、ある意味第一次世界大戦世代以降の帝国陸軍の操典類ってのは江戸時代の兵法書みたいなもんだな。
「原則はこうだが、重要な部分は口伝」って感じ。
この読み方を使うと「まず、優勢な火力で攻撃した上で突撃」するのが望ましいのでそのように書いておくが、口伝として「でも
日本の国力では中国軍はまだしも、西洋列強に対して優勢な火力で攻撃するほど弾を作る金も物もないのでその場合は
火力の優劣にかかわらず突撃でけりをつけろ。日本にとっては弾よりも人の方が安上がりだから」という話になっていたんじゃな
いかと思わざるを得ない。
だって、帝国陸軍は対米英戦で実際にそういう戦争をやってるんだもの。
つーか、日本以上に白兵主義だったフランスなんかは第一次世界大戦でその後の出生率に影響するような大損害を出した
のが例のマジノ線築城の動機になってるそうだ。
543 :
日本@名無史さん :2007/11/14(水) 18:40:08
>>523 =526
歴史学の論考として全く意味が無い。
現在残されている史料は非常に数が限られ、同じ事象に500以上も史料が残存するなど近世末以降のみ。
この論法でいくと、戦場で刀が主力であったという論拠も全く無いことになる。それどころか歴史上の出来事すら抹殺されることになる。
なんとなくだが、鈴木さんは浸透戦術を白兵突撃と混同してるような気がするんだよなぁ
太平洋戦争末期の日本が貧しく、火力が不足したために帝国陸軍は白兵による奇襲を多用したというのならば、
同じ理屈は戦国期にも通じるものがある。
豊かな国は鉄砲を買い求め、火力で圧倒。しかし、そうでもない国は斬り込み奇襲で決戦に持ち込むと。
違いは、16世紀の鉄砲は近現代の銃器よりも、格段に速射製や正確性で劣るということだ。
>>543 甲冑具足の時代による変遷、絵画史料の検証作業を行う限り、少なくともほぼ飛び道具だけで戦は決着がつき、
刀は首取り専用である、という結論は出てこないと思うぞ。
>>544 そもそも鈴木氏は近現代史の知識は、氏の穴だらけの中世近世の知識以上に少ないと思う。
鈴木氏がやっている軍忠状からの類推を例えるならば、 年間50本ホームランを打つバッターを評するに、ホームラン数とヒット数を比べてヒットの方が多いから このバッターはホームランバッターではなくて短距離ヒッターである! と結論つけている事と同じ。 どんなホームランバッターだってヒットの数の方が多い野が当たり前。 古今東西どんな戦でも総じて見れば、飛び道具による死傷者数のほうが白兵戦での死傷者数を上回るのが当たり前です。 どうしても『遠戦志向』かどうかを断じたいのならば、Aという国の白兵戦率とBという国の白兵戦率を比べるのが筋。 Aという国の白兵戦率と、Aという国の『遠戦』率を比較してどっちが大かを比べても、『遠戦志向』かどうかは断じられない。 後者が大きいに決まっているから。
547 :
日本@名無史さん :2007/11/15(木) 01:09:14
>>542 事はそこまで単純ではないようだ。
ネタ元が数年前の陸戦研究で今手元にないからうろ覚えだが、日本陸軍が白兵至上主義に陥ったのは
ノモンハン以降らしい。そもそも白兵至上主義は口伝ですらなく、普通に歩兵操典に記された
主たる戦闘手段。ただし、これは昭和に入ってからかなり経った段階での改訂によるもので、それまでは
建軍以来「歩兵銃の一斉射撃」を主たる戦闘手段と明記していた。
詳しい話ができんが、興味あるなら資料引っ張り出して探してみるよ。
来月になるがな。
548 :
日本@名無史さん :2007/11/15(木) 11:30:07
>>547 中国戦線でも、白兵突撃なんてやってたの??
戦争末期は、すべてがメチャクチャだったわけだから、
そこを取り出して陸軍がどうたらとかいうのは偏りがあるのでは。
とりあえず、中国戦線では勝ちに勝っていたわけだし。
もし、陸軍がずっと非合理的精神主義で戦争してたっていうなら、
もっと早く負けてたでしょ。
549 :
日本@名無史さん :2007/11/15(木) 11:51:31
>>548 やってる。連隊以下レベルでの戦闘詳報から、一個人の回顧録まで「こちらが白兵戦に持ち込むと
算を乱して逃げ出す」って記録がかなり残っている。
ただし
・共産党軍は決定的戦闘を避ける持久戦が主体だった。
・国民党か共産党かは不明だが勇敢に戦う(日本陸軍的考えでいえば白兵戦でも逃げ出さない)部隊も
存在して、逆に日本軍が敗走した。
って部分も考えに入れる必要はある。まあとにかく、一般的傾向としては中国軍は白兵戦に弱かった模様。
国民党軍も共産党軍も、軍と呼べる隊はあまりというかほとんどない。 日本軍と比較すること自体がどうかと。 >国民党か共産党かは不明だが勇敢に戦う(日本陸軍的考えでいえば白兵戦でも逃げ出さない)部隊も 存在して、逆に日本軍が敗走した。 1000個の不良品のなかに1個の正常品があったからといって、それは自慢できることなのかどうか・・。 相手に肉薄する白兵突撃は錬度の低い集団では実行できず、また相手から仕掛けられた場合は 集団が恐慌状態に陥り集団としての運動が困難になる。 敵集団に恐怖を抱かせ、敵を壊走せしめれば、これほど金の掛からない戦はない。
>>548 末期でも全てがメチャクチャとううわけでもない。
太平洋戦線では飢餓と米軍の火力でメチャクチャといえるかもしれないが、
中国大陸では戦闘から敗戦時の武器の受け渡しまで徹底して組織的であったようだ。
そもそも大陸の隊のなかには「勝ち続けているのになぜ敗戦なのか」という声もあったとか。
>>551 その時受け渡して国民党軍の管理下になったはずの化学弾が、何故か日本軍が不法投棄したことに
なって処分する金と人が日本からむしり取られる。
廃棄されてた弾は、むしろ日本製の方が少なく、あまつさえ戦後のソ連で開発されたタイプが混じってる
にもかかわらず。ってさすがにスレ違いが過ぎるな。
ここはやはり対日本軍戦の負傷原因の統計を取って 銃剣と軍刀による比率がいくらとか示して欲しいところだ 2割程度なら白兵戦なんて滅多に起きず、銃剣なんて 倒れた敵兵に止めを刺したり、捕虜を殺害するときにしか 使われなかったということになるだろう
554 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 05:25:32
↑
文脈から相手が歩兵の突撃を白兵戦と言ってるのも理解できない阿呆
白兵主義とかわけわからない言葉に惑わされて
トーチカ使って敵陣突破できると信じてる阿呆
↓
>>542
555 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 05:34:19
>>547 つーかさ
歩兵の一斉射撃が第二次世界大戦じゃとっくに終わったっ戦い方ってのは
いくらなんでも誰でも知ってることだとおもってたわ
馬鹿は帰れ
556 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 05:34:58
日本史板には馬鹿しかいなかったから 帰る必要なかった ごまん
>>554 =
>>555 =
>>556 って認識でおkなんだろか?
>トーチカ使って敵陣突破できると信じてる阿呆
まずはこの日本語の意味不明ぶりに脱毛。
>歩兵の一斉射撃
各種の火器が発達したことにより歩兵戦闘はむしろ火力重視に偏ったのがWW1以降の傾向なんだが。
歩兵の一斉射撃はむしろWW2での歩兵戦闘の本流に近いぞ?
558 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 12:35:59
>>557 >>トーチカ使って敵陣突破できると信じてる阿呆
>まずはこの日本語の意味不明ぶりに脱毛。
白兵主義の反省でマジノ線作ったとか頓珍漢なこと
書いてるからだろ
白兵主義自体意味不明だが
フランス人は刀を振りかざす戦闘に長けてたって話なんか?
>各種の火器が発達したことにより歩兵戦闘はむしろ火力重視に偏ったのがWW1以降の傾向なんだが。
グレネードランチャーならともかく歩兵が歩兵銃の一斉射撃でトーチカ破壊できるわけ無いだろ常識的に
隊列組んで一斉に撃ったとこで機関銃の良い標的だ
近づいて飛び込むか手榴弾やら投げ込むしかねーじゃねぇか
あ〜済まない済まない。 君が軍事的素養に欠けており、近接戦闘と火力戦闘に関する知識がないのが良くわかった。 そりゃここまでの説明理解できんわな。さすがにスレどころか板違いになるんで、軍板の初心者スレに 質問しに来てくれ。一から説明するわ。
言いたいことはわかるが、 軍事的素養に欠けていない日本人って、なんか嫌だなw ちなみに[素養] 平素の修練によって身につけられた教養や技能(引用:岩波国語事典)
>>560 まあそれはそうなんだがw素養にも深さがある訳だし。
軍事に関わる話するならそれなりには必要だべ?
以前、元陸自幹部学校教官だった松村氏が著作でモンゴルの軽騎兵を現代兵器では装輪装甲車に相当する
って書いていたんだが、トンデモ学会の本で「弓矢装備してたんだから砲兵だろ」とか的外れなツッコミ
してて目眩したぞwまあトンデモ学会に何を期待してるんだって話になるが。
>>553 負傷原因じゃなくて死因だったら、どちらが1位になるかわからんけど餓死と病死がワンツーフィニッシュだろ。
563 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 17:54:57
↑悲しいけど事実だな
564 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 19:01:56
>>559 >近接戦闘と火力戦闘に関する知識がないのが良くわかった。
sageで逃げんな
さっさと白兵戦主義とマジノ線構築及び
及び
歩兵銃の一斉射撃は火力主義であることについて解説してみろ
お前が自分の中でさえ言葉の定義づけができてないから
焦点定まらないヴォケたレス続けてんのがはっきりするだろうよw
>>564 はいはい、軍板でな。スレ違い板違いに付き合う謂れはないわな。
場所指定してるのに逃げとはこれいかに。ついでにマジノ線の話したのは俺じゃないんだが。
566 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 19:57:57
>>565 そこから鈴木の遠戦指向やら厭戦主義やら馬鹿理論に続けるんだろ
このスレでやっても誰も文句いわねぇよ
567 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 20:24:10
俺は文句あるが。よそでやれや致傷
568 :
日本@名無史さん :2007/11/16(金) 20:34:27
>>534 軍歌にも
一斉射撃の銃先に、敵の気力をひるませて
鉄条網もものかわと 踊り越えたる塁上に
とありますね
569 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 05:28:21
この場合の優秀な火力ってカノン砲やらの破壊力ある砲弾のことで 歩兵の一斉射撃関係ないべ
>569 歩兵も火力うpして、突撃前に射撃で十分制圧してから、ってのがWW1終了後でのトレンド。 代表的なのはアメリカやドイツ。ドイツは歩兵戦闘の基幹を機関銃と位置付け、小銃手に機関銃を 支援させる戦術。アメリカはそこまではいかず相変わらず小銃が歩兵戦闘の基幹だが、自動小銃を 行き渡らせて火力うpとともに、BARなどで支援態勢を確立させた。
571 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 08:15:03
いい加減ウザイから軍板行け。 わざわざ一方が場所指定してんのに移動せず粘着するやつなんなの?
573 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 10:24:45
日本軍の白兵戦主義云々は鈴木の本に書いてあることだろ 遠戦指向が戦場の王道って話の延長じゃん このスレじゃ遠戦指向本気で信じて 弓で戦争が決まったとか言ってる輩がいるから ローマのレギオンの兵装から日本軍まで 一々鈴木信者の妄言潰すことには意味があんだよ
あのなあ、みんなお前の「近接戦闘か火力戦闘か」のデジタル思考に辟易してんの。 火力「だけ」で敵を撃滅すんのは限りなく不可能に近いし、火力による制圧なしで近接戦闘なんて効果が低いことこの上ない。 結局は敵の組織的戦闘を瓦解させるために火力による制圧と近接戦闘による衝撃的効果の案配をどうするかってだけの話だ。 どうせ、近接戦闘部隊を「機動に任ずる部隊」と「射撃に任ずる部隊」に分ける意義もわからんのだろ?そういう知識もなしに語ろうとしてるからウザがられて軍板行けって言われてるんだよ。
575 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 11:58:45
>>574 >みんな
自分の書いてることに自身が無いから
「>>ALL」とか明後日に向けてはじめる可哀想なやつって
絶滅種が生息してたとはw
>あのなあ、みんなお前の「近接戦闘か火力戦闘か」のデジタル思考に辟易してんの。
日本軍は白兵戦主義だった、武士は弓で勝負が終わったとか
ラベリングしてるのはお前
>どうせ、近接戦闘部隊を「機動に任ずる部隊」と「射撃に任ずる部隊」に分ける意
>義もわからんのだろ?
お前さんのがわかってないという点は歩兵操典見返してみれば
わかるだろうに
576 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 12:07:39
>火力「だけ」で敵を撃滅すんのは限りなく不可能に近いし、火力による制圧なしで近接戦闘なんて効果が低いことこの上ない。 >結局は敵の組織的戦闘を瓦解させるために火力による制圧と近接戦闘による衝撃的効果の案配をどうするかってだけの話だ。 だいたいにしてさ 武士は遠戦指向なのに日本軍は戦国の戦い方を軍記物で読んで勘違いしたから 白兵戦主義に陥ったとかいうのが鈴木信者の言い分だろうが なんでどっちも否定している俺が >あのなあ、みんなお前の「近接戦闘か火力戦闘か」のデジタル思考に辟易してんの。 こっちにカテゴライズされるんだw
577 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 12:18:03
鈴木はクソだけど 愛理ちゃんは可愛い
>必死な奴 火力戦闘における「阻止」「拘束」「制圧」「撃破」について説明せよ。 これが分からない奴のご高説なんて何の意味もないから。
579 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 12:36:44
>>578 その言葉を使って日本軍の歩兵銃による一斉射撃、それを記載しなくなった事から
日本軍は白兵戦主義であるという論旨でかいてみ
できるならなw
あ〜あ、上に示した事が「歩兵の一斉射撃とは何か」、もっと言えば「何を目的としてるのか」の 説明の基礎ってわからんのだね。そこが理解出来てないと話にならんから言ってんのに。 ここでわざわざ「近接戦闘と火力戦闘それぞれの地位・役割・特性」「火力戦闘の効果」「衝撃的効果とは何か」 「火力と機動の連携」といった話を延々とさせるつもりか?だから軍板でって言ってんだよ。 その辺を理解しないと「死傷原因から主たる戦闘手段を探る」みたいな的外れな考察から脱却できないんだが。 ↑的外れは言い過ぎか。まあ無関係ではないがメインに据えるネタではない、としとくべきか。
581 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 13:13:55
遠戦論と軍忠状で白旗があがったってことは判った で第三の争点の日本軍の白兵戦主義でも白旗が揚がったのかは さっぱりわからないんだが
582 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 13:30:52
素人にも判るような解説で改訂された歩兵操典は白兵戦主義だって理由が聞きたいけど 近代史板のがいいかも てかどっちも明後日攻撃してるような
鈴木説の否定即火力戦闘重視主義(鈴木言うところの遠戦主義)と短絡できる単細胞ぶりに脱毛だな。 歩兵操典に機関銃による支援が書かれているから白兵主義ではない、って解釈の時点でトホホだが。
てか、上で陸戦研究の名前あがってるの見て、以前軍板で出てたネタを思い出した。 もしかして_が来てるのか?
>>583 訂正
>鈴木説の否定即火力戦闘重視主義(鈴木言うところの遠戦主義)と短絡できる単細胞ぶりに脱毛だな。
を
>鈴木説の否定即火力戦闘重視主義(鈴木言うところの遠戦主義)「の否定」と短絡できる単細胞ぶりに脱毛だな。
と修正
586 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 15:36:38
>>585 上にしろ下にしろ意味が通ってない
2chの煽りでハゲ進行しながらレスするのも大変だろうが
昼間から酒でもくらってんのか?
>歩兵操典に機関銃による支援が書かれているから白兵主義ではない、って解釈の時点でトホホだが。
俺は歩兵操典に歩兵銃の一斉射撃が書いてないから白兵戦主義だってのにトホホだぜw
あ〜めんど。 昭和15年版歩兵操典の第5調べてみろや。まあお前さんにはその意味もわからんだろうが。 まあその他のROMにはわかるだろうから後は放置する。
588 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 15:52:59
>第5 歩兵戦闘は敵に近接するに従い愈々激烈困難となり、 >爾後に於ける戦闘の成否は実に軍の勝敗を左右す。故に近距離に於ける戦闘、就中突撃準備 >突撃、及び陣内の攻撃に関し訓練すること特に緊要なり え?なんかおかしなこと書いてあるか?!
近接戦闘の本質、特に衝撃的効果のなんたるかを理解してれば、これを火力戦闘重視と認識する馬鹿はおらんのだが。
590 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 16:10:29
突撃はどこの軍隊でも訓練してるし
有効な戦術だろ
連合軍だってそうやって歩兵使ってたわ
>>588 のどこがどうおかしいんだよ
591 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 16:30:48
脇だが、俺もぐぐってみた。 前項で重要度に関して語り、ここで突撃が特に重要ってんだから、結論として突撃重視=白兵主義って話ジャマイカ
592 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 17:47:19
593 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 17:49:22
594 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 18:11:24
激烈困難を習熟に時間かかるとか超解釈するほうが電波だろw
595 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 18:26:36
国語から始めるか?
なんでそういう解釈になるかな〜w まず、当該項目では歩兵の持つ機能に関して、習得のし易さの度合いなんて何も書いてないんだが。 ついでに近接するに従い云々は「敵との離隔の度合い」であって、突撃のための近接とは何も書いてないぞ? 敵に近接すればするほど戦闘が激烈になるという、しごく当たり前の話だ。 そこで突撃=近接戦闘するか、射撃支援=火力戦闘するかはその場その場で変わる話で、敵に近接するから 必ず突撃なんて解釈のが電波だわな。 敵に近接すればするほど戦闘は激烈になる。そこでは突撃するかもしれんし射撃支援するかもしれん。 そういう内容で突撃重視の方針出していると言う事は、普通に近接戦闘による衝撃的効果を重視してる って事だろ。まあ本当は偕交社記事とか戦訓報とか示せば話はもっと簡単なんだけどな。 今自宅から離れてるから25日以降資料引っ張り出して書き込んでやるわ。
597 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 18:50:29
>>596 敵に近接するから必ず突撃とか
お前いちいち自分の矛盾を人に押しつけるのなw
俺は第5を白兵戦主義の証左だなんて一言も言ってないんだが
第5があるから白兵戦主義だと言ってるのはお前だ
>>587 >>583 そして第五の「近距離に於ける戦闘、就中突撃準備、突撃、及び陣内の攻撃」にしろ
第六の夜間訓練にしろ反復訓練しなきゃ習熟が難しいから
わざわざ書いてるんだろ
総則全部見てそれがわからないならほんと日本語力の問題だわな
まずは第3項読めや。 「軽重本末」は「戦闘の要求及び訓練の目的」から導き出されるんであって、習熟しやすいかどうかとは 全く無関係なんだが。本来は「訓練の目的」も「戦闘の要求」から来るものだから、結局は「戦闘の要求」 つまり「戦闘で最も重要なもの」が訓練の重視項目な訳だ。 はあ、やっぱり戦訓報やら持ち出すか。まあ8日待てや。
脇から見て一言。 歩兵操典には習熟しやすさは何も書いてないように読めるが。
600 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 21:13:44
>>598 ほんと困ったやつだな
−−−−−−−−−−−
操典の制式及び法則には、戦闘の要求及び訓練の目的に従い、自ずから軽重本
末あり。故に諸隊長は良く之を判別して教練の重点を明らかにし、特に主要事項は
終始演練を反復し、之が徹底を期すべし
制式及び法則に妄りに細密なる規定を設け之が内容を複雑ならしむべからず
−−−−−−−−−
これ読んで習熟しやすいかどうかはカリキュラムとは無関係なんて精神論を
読み取っちゃうとは
で、第4の連携はすっとばして第5があるから白兵戦主義だとやって
でもいつも突撃するわけじゃないと転換
そもそもの発端の歩兵操典から
>建軍以来「歩兵銃の一斉射撃」を主たる戦闘手段と明記していた。
削除されたから日本軍は白兵戦主義であるてのもうやむやなままで
戦訓報に転戦だしあまりに風見鶏すぎてついてけねぇよ
601 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 21:20:11
>>599 よーく普通に読めば
近づくほどに練度を要求するが
訓練すしないと駄目よとある
は!歩兵の一斉射撃が火力戦闘で制圧効果を目指したものであり、突撃中の射撃は衝撃的効果の増大 に寄与するものだって基本的な事項も、偕交社記事になるほど明治期の日本陸軍が白兵戦を苦手と していた事も理解してない奴に、これ以上何を話せと? 大体、こちらが資料引っ張り出すって言ってるのも待てないって2ちゃん脳か?
>600 歩兵操典の文章中で「習熟の度合い」に相当するところを示して下さい。 普通に考えたら「戦闘の要求」が重点定める基準であり、要求ってんだから必要度の高い機能って考えるのが極めて妥当だと思いますが。 てか、自分の意見に反対する者=鈴木信者認定って、どこの小学生ですか?
604 :
603 :2007/11/17(土) 22:04:46
てか、明らかにスレ違いな話題だよね。 なんで最初に軍板への移動を呼びかけられた時に応じなかったの?すっげー迷惑なんですが。
605 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 22:53:32
>>602 >は!歩兵の一斉射撃が火力戦闘で制圧効果を目指したもので
>あり、突撃中の射撃は衝撃的効果の増大
>に寄与するものだって基本的な事項
突撃時はとりもなおさず全力でかけて伏せて射撃を交互に繰り返すのは
白兵戦主義で、突撃中の走りながらが歩兵銃構えて撃つのが火力戦闘ってか?
実戦の中で培った戦術を馬鹿にするだけあるんじゃね
>明治期の日本陸軍が白兵戦を苦手と
>していた事も理解してない奴に、これ以上何を話せと?
今度は西南戦争までさかのぼって次は不意にどこ向かうか
こっちも話の飛び具合に困り果てたw
>>603-604 もさ
sageにした書き込みの直後に何度もあらわれて
ほんとわらかせるにもほどがあるぞ
606 :
603 :2007/11/17(土) 23:06:17
単なるsageに何の意味を感じてるやらw 精神疾患に罹患してるのか?
むしろ大山御大曰く、「帝国陸軍が最も歩兵操典に書かれるような内容に忠実に火力戦をやったのは西南戦争」なんだそうな。 そうして見ると、あとはそうしたくとも弾がなくてできなかったか、弾がないのを前提にしてする気がなかったかのどちらかだと思った。 要するに弾がないのをごまかし虚勢を張るため、帝国陸軍の指導者はことさらに白兵主義を標榜したと推測。 プレ世界大戦としての日露戦争を火力で勝ち抜いたのに、一般向けには実際には苦手としていた白兵で勝ったと喧伝。 それを聞いて育った昭和陸軍の指導者は、すっかり信じ込んでしまってあの体たらく。 どれもこれも、「みんな貧乏が悪いんや」ってことだ。
608 :
日本@名無史さん :2007/11/22(木) 20:03:56
あまり関係ないが、 桐野作人氏のブログがいつの間にか閉鎖?されている 「このブログは下記の理由などにより凍結されています。 規約上の違反があった 多数のユーザーに迷惑をかける行為を行った。 」 とのことだが、何があったのんだろう?
610 :
日本@名無史さん :2007/11/24(土) 23:12:20
皇國(みくに)の風(ふう)と武士(もののふ)の 其身(そのみ)を護る靈(たましい)の 維新此の方廢(すた)れたる 日本刀(やまとがたな)の今更に 又(また)世に出づる身の譽(ほまれ) 敵も身方も諸共に 刄(やいば)の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の 死ぬべき時ハ今なるぞ 人に後(おく)れて恥掻(か)くな
611 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/24(土) 23:32:14
鈴木の本は前にまとめて読んだ。 在野の史家ならでは一風変わった鋭い指摘が多々ある。 それなりに読める。 天下人史観を疑うのは堅実な研究者なら当たり前の前提だけどね。 ま、司馬とか通俗読み物を崇拝している君らには縁のない話だw
司馬でレス抽出してみなさい 擁護してる奴誰も居ないから
613 :
日本@名無史さん :2007/11/24(土) 23:45:56
>>612 やめとけ。
架空の敵を作り出してヒーローごっこしたいだけなんだから、話しても無駄。
614 :
日本@名無史さん :2007/11/25(日) 10:27:29
古典的な自演を見た!
615 :
日本@名無史さん :2007/11/25(日) 13:12:56
616 :
日本@名無史さん :2007/11/25(日) 14:47:01
このスレの馬鹿の自演はまるわかり 頭の良い人間は起点とベクトル変えながら自演する
618 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 19:41:17
鈴木氏の書いたもの真に受けている人って、やっぱりゆとりが多いの?
619 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 08:34:47
620 :
日本@名無史さん :2008/02/08(金) 06:38:28
>>611 ま、司馬とか通俗読み物を崇拝している君らには縁のない話だw
↑
あなたに、司馬とか通俗読み物を読むことを進める。鈴木氏が、司馬氏の崇拝者であることがわかるはず。
621 :
武陽隠士 :2008/02/08(金) 23:46:56
>>620 司馬は中学生のとき読んでいたが
鈴木が愛読者なの?
622 :
日本@名無史さん :2008/02/11(月) 19:54:13
モロ影響受けてる
>>622 うげぇ
それが本当なら参るな
ただ鈴木、何冊か読んでるけど、司馬に対する言及はなかったが…
どこに司馬愛読の記述あるのかな
>>623 関ヶ原に関する鈴木の主張を読んでみな
モロ司馬の「関ヶ原」の受け売りになってる
625 :
日本@名無史さん :2008/02/23(土) 19:44:14
626 :
武陽隠士 :2008/02/24(日) 00:56:46
>>624 鈴木のそれはおそらく既読だが、
司馬の『関ヶ原』(どうでもいいけどビデオで加藤剛が石田三成やったやつは観た)
は未読。
チェックしてみますね。
戦国の合戦関連を数冊読んで天下人史観関連は一冊も読んでない俺は勝ち組
むしろ合戦関係のツッコミどころの方が多い
鈴木とか井沢の本読むよりも一次資料を自力で読むべきでは?
一次史料読む程歴史好きな人間なんて極一部
>>629 同意。
でも
なかなか一般人が一次資料を読む機会はない・・・
現代語訳の本がもっとあれば。
633 :
日本@名無史さん :2008/03/07(金) 21:24:01
634 :
武陽隠士 :2008/03/08(土) 00:17:50
>>632 現代語訳じゃ一次史料じゃないな。
訳って訳した奴のくだらない解釈が入っちゃう。
だいたい活字化された史料を読むくらいなら簡単だよ。
高校で古文の偏差値60以上ある奴ならギリギリ訓練次第でなんとかモノになる。
それ以下の人は学問としての日本史やる資格はないよ。
マジでさ。
向いてない。
ぶっちゃけ活字にするだけでも往生させられる史料がウジャウジャなんだしね。
現代語訳なんたら甘い台詞が吐けるのは何も知らない証拠だ。
そして活字化が済んでみれば、誤り発見。
例えば鎌倉遺文にも間違いがあったりする。
まあ読めない史料があるなら短いクダリなら私が訳してやるよ。
635 :
武陽隠士 :2008/03/08(土) 01:17:09
(補説) 活字化された史料を読むのも実はいろいろ気をつけないといけない。 たとえば日本式漢文という奴だ。 研究者によっても読み方解釈が違う状況があったりする。 たとえば腰越状なんか研究者によってはまるで違う解釈したりする(保立氏ね)。
>>635 「玉葉」の平教経の生死に関する記述の部分(「渡さるる首のうち、教経においては一定現存す」)の
解釈も、教経の首がそこにあったというのと、教経が現存(生存)しているという解釈という二つの
解釈を見たことがあります。
資料元、引用元、参考文献もろくすっぽ書かれていない書物はまともな学術書として扱う気にはならない。 そのおかげで、その辺の学生の卒論以下という印象しか持てなかった。
100レスあたりまでしかまともに読んでいないのですが、鈴木オリジナル
とされる軍忠状の解釈も、矢木先生やトーマス先生の方が早くありませんか。
どうもこの先生、自分一人の主張か自分が初めて思いついたかのように書か
れるので、ややこしいのですが。井沢先生と同じ。
>>637 「渡さるる首」の中にあったのですから、教経の首だけは在京していた知人
が本人だと確認できるものだったのだと思います。
腐敗した首が本人のものでなかったとは、源頼親以降何度も出てきた話です
から。珍しく確認できたということでは。
渡すというのは、当局に差し出すというのではなく、大路の首渡しのことで
すよね。
教経については、「醍醐雑事記」では壇ノ浦での死者に含まれているらしいですし、 「現存」が玉葉のほかの箇所では「生存している」という意味で用いられるとのこと なので、当時から情報が錯綜していたんでしょうね。
>当時から情報が錯綜 それはありますね。『玉葉』を読んでいても感じられます。 九条家の辺り(とは曖昧ですが)で製作されたらしい『平家物語』の影響で、 教経といえば壇ノ浦のシーンが有名ですが。 元寇の時といい、いい加減な情報が錯綜するのは世の常のようで。 日本軍に対する高麗や李氏朝鮮の人々の記録を見ても事件当時は諸説紛々。
珍しい人が来ているなw>山野 >いい加減な情報が錯綜するのは世の常のようで。 本能寺の変で謀反したのが光秀じゃなくて細川wと記録されていた資料を読んだ事もあるなw 事件当時は、後世から見れば無茶苦茶な、色んな情報が飛び交っていたって事なんだろう。
結局は全て他人のパクリと妄想全開ってことかw
>>639 矢木先生とトーマス先生の書名を教えて下され。
矢木先生の方は忘れましたが、トーマス・コンラン先生の方は『毛利元就』 に出ていたと思いますよ。 それを更に発展させたものがあったと思うのですが・・・。
自分が考えたわけじゃないのに「俺が考えた」 自分が調べたわけじゃないのに「俺が調べた」 鈴木とか井沢はこういうタイプの人間だって事? (リアルで身近にいるけどさ、こういうの。 で、都合が悪い事は主犯であっても「お前が考えた」「お前がやった」「俺は知らない」言うタイプw)
647 :
日本@名無史さん :2008/03/28(金) 15:38:17
最近は、既存の説を完全否定して名をあげようと言う 気概だけは立派な市井の研究者が、ぽろぽろ本を書くので困る
基本的に「生まれつき軍事的な才能を持った人間」というものは、何十万人に一人とかそんな程度の確率であろう? 歴史をみればわかる。 幼少より軍学や兵書に親しみ武芸を嗜み、実際に戦場に立ち兵として働き、将として兵を指揮して幾多の経験を積んだ人間の大多数が凡将愚将と呼ばれているのが現実だ。 我等一人として過去の歴史の凡将愚将以上の経験を積んだ者がこの場にいるのだろうか? 我等皆、過去の凡将愚将以下の存在であるという自覚を持たねばならんのではないか? 新説奇説というものは魅力的に映る。 凡将愚将の軍略は凡将愚将には魅力的だが、天才には滑稽なものに映る。 天才の軍略は凡将愚将には滑稽なものに映る。 さて、凡将愚将以下の存在に魅力的に映る軍略とは、如何なものであろうか? 軍事に関して一切の経験が無い人間が唱え、同様に軍事に関して一切の経験が無い人間の多くが支持する説とは、一体如何なものであろうか?w これらは歴史の真実を知る為に妥当なものと言えるのだろうか?
>>639 >100レスあたりまでしかまともに読んでいないのですが、鈴木オリジナル
>とされる軍忠状の解釈も、矢木先生やトーマス先生の方が早くありませんか。
>どうもこの先生、自分一人の主張か自分が初めて思いついたかのように書か
>れるので、ややこしいのですが。井沢先生と同じ。
その種の学説のパクリを批判してた藤本正行氏が、鈴木氏と共著出し続けてるのが・・・
イタイ。
藤本先生カワイソッス
>>639 矢木先生って、矢木明夫先生でいいんですか?
図書館に何冊かあるみたいなので読もうと思うのですが、確認しておきたいので。
652 :
日本@名無史さん :2008/05/23(金) 23:09:44
最新刊「戦国の怪しい人たち」平凡社より絶賛(?)発売中 内容は…従来の鈴木史観の集大成というかなんと言うか ほぼエッセイに近いかも 「名場面に一度だけ顔を出す人たち」というコーナーで島左近をこきおろす暴挙
>>652 左近に関してはむしろ褒めてるじゃん。
資料がほとんど無いのは左近の研究者も認めてる。
でも資料は無いけど傍証からそれなりに優秀な人物だったんだろうとしているぞ。
そもそも三成好きの鈴木センセイは左近を貶さないよ。
「戦国の怪しい人たち」は面白かったよ。 余計な評価とかはあまりなく マイナー人物とかマニアックな知識も得られたし ただPHPで出た奴は読んでないけど主観入りまくりな予感
>>654 ネタの鮮度がねえ。というかんじだった。
戦国武将の特旨叙位とか全世界英雄番附とか。
もっと早けりゃよかったんだが。
主観はいりまくりなのは、いつものことジャン。
鈴木説への対抗手段のためにこのスレ保守あげ
657 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/07/12(土) 20:29:07
>>651 すみません。矢田俊文先生の間違いです。
大河が戦国時代だから、また新刊出しそうだけどね。 直江とか慶次をこきおろしたら、どうなるだろ。
>>659 信者がヒステリー起こして刺すんじゃね?w
直江とかは奥さんに頭が上がらない、慶次なんかは、単に変人奇人 ってとこか。 ・・十分言いそうだ、大河を敵視するもんな、いつも。
>>661 慶次だって、政宗よりは随分まともな人間だと思うんだが。
そか? 正宗は気配りで生き残った常識人と思うぞ。
>>663 いや、政宗ってやることなすこと失敗してるじゃん。
親から譲り受けた領地をなんとか存続したのが取り柄と言えるくらい。
>>666 そそ、失敗だらけだったから、気配りで生き残った
という意味よ。
あの時代、長生きしたものの勝ち。
領地を存続させたなんて相手が徳川だったこと考えると
大勝利でものすごく有能だった、ということになる。
>>666 あれだけ失敗してあれだけ領地が残ったということは、いかに幕府から恐れられて「いなかった」かということがよく分かる。
毛利や上杉は領地1/4にしてやっと安心できたし、最上は大名として存在するだけでも恐ろしいと取り潰した上に本国から遥かに遠い近
江に移してしまった。さらに恐ろしいと思っていたのか蒲生なぞ跡形もなくしてしまった。
>>668 蒲生と最上が没落した経緯を知った上で言っているのか君はw
最上なんて散々家臣や一門が内紛やらかして、そのうち松根備前が「山野辺義忠が最上家親を
毒殺したんだ!」とかいいだして、結局は幕府の裁定があったのに当主の補佐を拒否って、その挙句の改易だろ。
蒲生氏だって、あれは家康の孫だし、あれも例によって家臣団の仲がよろしくない。そこへきて蒲生忠郷が
あっけなく死んでしまった。忠知も若死にした挙句だしねえ。蒲生氏の脅威というよりは、蒲生氏の早死にDNAの
なせる業じゃないか
>>668 薩摩なんてゴミは全くのお構いなしどころか琉球まで投げ与えている。
家康は犬喰う朝鮮人を馬鹿にしていた
>>669 伊達だって散々家臣や一門が内紛やらかして、そのうち伊達安芸が「伊達兵部が領地境裁定や人事に偏頗をし、歴々の家臣を
大量に殺したんだ!」とかいいだして、結局は幕府の裁定に不満な原田甲斐が老中宅でダンビラ振り回して人斬りなどという恥ず
かしい行為に及んでいますが?
>>671 伊達騒動については、時代がやや下るからねえ。
初期幕政からのシフトチェンジが図られている。
そもそもここは伊達スレじゃない
鈴木がパクリ屋のトンデモ野郎だって事が証明されて話題が何も無くなったからなあ
676 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 02:01:51
age
655 :人間七七四年:2008/09/25(木) 08:14:54 ID:nak651rE 毎隊有十銃、若分両層、毎層五銃。 若分五層、毎層二銃。若不分層、十銃一列。(戚継光「紀效新書」) ちなみに、下の記述を見る限り、「早合」っぽいものは無い。 銃歌 一洗銃、二下薬、三送薬実、四下鉛子、五送鉛子、六下紙、七送紙、八開火門、九下線薬、十吸仍閉火門、安火縄、十一聴令開火門、照准賊人挙発。(同上)
678 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 00:31:23
>>675 むしろ、最上に甘く伊達に厳しくすべきだったと思うんだが。
>>678 鈴木氏はこれを「演出」と見ているようです。
騎馬スレで鈴木の妄言はことごとく論破されているので、いまさらほじくりかえしても…
>682 「戦国の馬はポニーサイズ」か。 そのスレは全く読んでないが、洋馬ではない在来種として考えてたのが、 道産子とか離島の馬とか小型種ばっかりだったから、って理由もあるのかもな。 中世・近世の絵画資料に残る騎馬武者の絵でも、ポニーサイズにしか見えないしな。 だが。 浮世絵で、顔が心持ち大きく描かれているように。 春画で、性器が異常に大きく描かれているように。 注目すべき部分は大きく各風習があったわけだから、 馬よりも騎乗者、人間を大きめに描いただろうと考えるのが妥当っぽいよな。 とはいえ、サラブレッドみたいな大型馬じゃないのは当然だろうけども。
サラブレッドの足首は、その辺にいる普通の女の子並だぞw (もちろん人間のな。) そんなのが鎧兜付けた人間を乗せて荒地を走ったら一時間足らずで自滅必至だろ。
あ、女の子の手首並みなw
686 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 21:14:15
>>393 当時どころか第一次大戦まで白兵突撃は
ごく普通の戦術だよ。
アメリカ軍も銃剣突撃が得意だった。
大戦の教訓と機械化が進んだことでマイナーになっただけ。
白兵戦に関しては江戸三百年の泰平の世の後の出来事をわざわざ持ち出して、その三百年以上前の戦乱を語るミスリードは「わざと」としか思えん詐欺師っぷりw 馬のサイズにしてもそうなんだが、ホース/ポニーの分類なんぞはかなり後の世の事。 15世紀当時はアラブ馬も現代の分類ならポニーサイズ。 どうせトンデモなら、M1A1と木曽馬の性能比較でもやってくれれば良かったのにね。
ポニーがどうこうってのはNHKの歴史番組の丸パクリだろ
鈴木信者の言い分って 論理的におかしく感じることが多いように思うんだけど 資料とかそういう以前の問題のような
基本的にトンデモ本だからね〜 そういうの鵜呑みにする人って基本的に(以下略
692 :
日本@名無史さん :2008/12/27(土) 07:57:18
藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)
>>692 悪い意味で(と言うかそれ以外の意味は存在しないが)鈴木に感化されつつあるようですね。かわいそうな藤本さん。
「友達は選びましょう」という教訓の生きた見本。
>>693 「桶狭間は奇襲にあらず」というのは、藤本さんが昔から主張してきたことだよ。俺が最初に
読んだのは15年前に出版された「信長の戦国軍事学」だけど、その頃から藤本さんは鈴木と
交流があったのかい?
むしろ同一人物が別のペンネームを使用しているという可能性もw そうでなければ、これだけ悪い評判が立っている鈴木氏と縁切りしないのはおかしい。
>>694 693は藤本さんの筆致の事を指しているのではないかな。
戦国軍事学の時から主張してる内容は進歩してないけど、
感情的というか、独善的な書き方が鈴木さんと似てきたよね(笑)。
>>696 そういうことかね。確かに異論に対して妙に攻撃的な書き方だとは思った。
698 :
日本@名無史さん :2009/01/12(月) 15:07:57
たいして役に立たないものがそこまで普及するわけがない これは鎧もそうだが 武器である刀剣にも当てはまる ちなみに鎧の上から攻撃してもそうそう「裂傷」は与えられない 確かにそうだ。 かと言って鎧の隙間に当たることだけを期待するということでもないらしい たとえ「傷害」という点で無傷でも鎧の上からの攻撃は「効く」というのは確かなようだな たとえば南北朝時代の文献では太刀での戦いにおいてすれ違いざまに「あげまき」を攻撃するのが有効だという描写がある これは鎧の背中〜脇腹のことで要するに「鎧の上から攻撃する」ことの有効性をうたってるわけだ 結局鎧を着けていることによる優位点は 敵の攻撃のうち「中途半端」なものは無効化できることだろう 乾坤一擲的な一撃を凌げるかどうかまでは保証の限りではありませんよということだろう 刀剣にしてもそうでどんな軽い一撃でも鎧を無効化できますというものではないが 鎧を着てたら絶対役に立たないようなものではないわけだ そんなものなら最初から戦場に持っていかないだろう 大して役に立たないものが、あそこまで普及するわけが無い。
検索で来たから気がつかずに
ずいぶん古い記事にレスしちゃってたw
>>699 は
>>480 へのレスでした
701 :
日本@名無史さん :2009/02/23(月) 23:06:56
フロイスの光秀評は本能寺の変の後に執筆されたんだが 信憑性はどうなんだろう? とりあえず異論の一つを紹介しとくよ。 例えば「裏切りや密会を好む」とありますが、 光秀が主君を裏切ったことは二回(足利義昭と織田信長。 朝倉義景を裏切っただろうという人もいるでしょうが、 土岐明智家はもともと室町幕府の家臣であり、 「織田信長に助けを求める」という主君足利義昭に従っただけなので、 義景を裏切ったわけではない)しかないので 「好む」というのは言い過ぎですし(それなら藤堂高虎はどうなるのか?)、 当時の倫理観から言うと主君を裏切ると言う行為は必ずしも悪い事ではありません。 また極めて重要な会議ともなると「それに関わる人物のみを集めた密会」 という形で話し合われるのは当然です。 「刑罰を課するに残酷である」とありますが、 刑罰とは見せしめの意味を含むのだから、ある程度残酷になるのは無理もなく、 また光秀とよく対比される秀吉などはもっと残酷な刑罰を平気で課している (秀吉の人格についての言及はまた別の話)ため、この評価は当てはまらないと考えられます。
>裏切りや密会を好む 今の我々が知らない事件や仕事がたくさんあったんじゃないの? それに裏切りを好むといっても主君への裏切り以外に、 部下や仲間への裏切りや出し抜き、裏切らせ(調略)もあるだろう。 密会は誰でもやってるなら彼にのみ特筆する必要がない。 >刑罰を課するに残酷である あなたも認めている通り「残酷になる」ようなことをしていたんだろう。 「秀吉はもっと残酷」というが比較できるほどの史料証拠をあなたは見出してそれを指摘できるのか。 何が言いたいのかよくわからないけれど、フロイスの批評を否定する材料たりえないね。それでは。
704 :
702 :2009/03/21(土) 07:54:42
>>703 そんな事言うんだったら日本人の光秀評だって完全に否定出来ないのでは無いかと。
それにフロイスは日本史の執筆期間(1583年〜1593年)以前に
光秀に対する評価は残してたんだろうかな。『イエズス会日本通信』や『日欧文化比較論』
にも光秀に対する記述(しかも『日本史』の記述と同じ内容)が
あってそれも一緒に使ってるんだったらまだ良いんだが。ひょっとして俺が知らないだけか?
まあフロイス説引用への疑問については
鈴木センセイが日本における軍馬の使い方についてフロイスの記述を使ってる事について
「フロイスだって戦国時代の全体と日本全土の戦いの状況を全て直に目撃してたわけじゃ無いから
そう断言するのは早急過ぎるのでは?」 という指摘(ソースは忘れたが)が結構頷けるモノだったからさ。
只でさえ鈴木センセイは白兵戦や騎馬戦に対する見解で色々とな。尤も俺もフロイスを全部否定する訳では無いし
光秀だって単純な人物じゃないとは思うんだけど
これまでの鈴木センセイと近年の藤本センセイ(
>>693 ,696)の事があるから何かこう……疑惑がね。
>日本人の光秀評 そんなものあったのか? 当然江戸時代のものは論外だが。
>確かに、こうした抜け目無い戦国武将としての明智光秀像に触れると、 >黒幕に操られる弱々しい光秀像が逆に不自然に思えてきます。 >少数で本能寺に泊まった信長の隙を見逃さなかった単独謀反、というのは、全く不自然ではありませんね。 > >ただし、著者の二人が、「謀略など非現実的」と主張する為、 >資料のほかに様々にレトリックを使う部分には、少しだけ胡散臭さも感じたりします。 >機密管理の難しさから謀略説を批判するとき、そこで想定している機密管理のレベルは >戦国日本というより現代日本のもののような…… > >足利義昭の信長包囲網を考えるまでもなく、あるいは浅井長政の裏切りにせよ、 >謀略や味方の切り崩しなど日常茶飯事だったであろう戦国日本です。 >謀略史観の非現実性を叩くことにあまりに注力すると >逆に、そこに描かれているものは当時の実情からかけ離れた >著者たちの脳内戦国日本なのではないか、という疑いの気持ちが出てきます。 > >疑うならば、どちらも疑いませんとね。
708 :
日本@名無史さん :2009/04/26(日) 12:14:56
>>694 奇襲じゃないのに勝てちゃったって方が難しいと思うが
709 :
中国製?の古銃 :2009/04/27(月) 23:10:03
鈴木さんの歴史観を疑っておられますようですけれども、そもそも、その時・現場で・当事者でなければ判らないことが多いと思います。
以前、私は鈴木さんに教えを受けたことがあり、とても丁寧に、史料を提示して教えていただきました。
そこで、私は問題を一つ提起します。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/ この中国製(国産化?)の古銃の現実の存在を否定することができるでしょうか。
石山合戦は、なぜ10年間も狭い地域で、戦うことができたのだろうか。
この鉄砲は、織田方の反対側の一向宗の鉄砲だと推定されます。
その時の雑賀の鉄砲はどのような鉄砲だったでしょうか。
また、織田方の鉄砲もしかり。
だれも判らず、その時の歴史は、織田方の一方的な歴史観(記述)で成り立っています。
歴史は、仮定・推定・検証・批判・反省の上に成り立っていると、私は思います。
最近じゃ応仁の乱頃に火砲が使われたってのが定説化しているが。 鈴木何とかさんが言うまでもなく。
>そもそも、その時・現場で・当事者でなければ判らないことが多いと思います。 ここは本当に同意。在来馬についてのろくな知識もなく 体高が分類上ポニーというだけでシェトランドポニー等と一緒にして あんな小さな馬では戦えない、日本に騎馬武者がいないとかの説を 撒き散らした人に肝に銘じて欲しい。
>>711 > 体高が分類上ポニーというだけでシェトランドポニー等と一緒にして
> あんな小さな馬では戦えない、日本に騎馬武者がいないとかの説を
> 撒き散らした人に肝に銘じて欲しい。
そういう愚劣な意見の人に対してこそ、鈴木さんがアンチテーゼを提示して見せるべきだろう。
714 :
中国製?の古銃 :2009/04/28(火) 23:07:59
私は鉄砲以外の鈴木さんの本は残念ながら読んではいませんが、
>>455 など、馬についての疑問があります。
判断に迷った場合、「私だったらこうする」しかし、「相手はどうするだろうか」と想像します。
時代は戦国時代。
道は石ころだらけの狭い道。川には橋が架かっていない。当然小川にも。
沼地がある。川原を通らなければならない。右側は崖だ。雨が降ってきた。草丈の高い草むらを通らなければならない。次は山道だ。
こんなシチュエーションは、当時は当然であり、サッカー・野球・芝生グランドの様な平坦な平地は、普通考えられない。
そこで、相手が馬に乗った者であれば、私は次のように戦うであろう。
馬に乗った者よりも、馬を殺傷したほうが合理的だ。
足場が悪ければ馬は走れないし、走ればこけて乗り手は落ちる。
馬に礫を当てても馬は暴れて、乗り手は落ちる。
馬の足を攻撃すれば、乗り手は落ちる。
川原での戦では、馬は走れるわけが無いし、相手の武器は短いので、槍でつつけば落ちてきて絶対に有利だ。
などなど・・・。
要するに、馬の大きさなどは、どうでもよいと思われる。
従って、私は戦う時には馬に乗りたくない。しかし、行軍するときは楽だなあ。
715 :
日本@名無史さん :2009/04/29(水) 00:41:58
記憶が曖昧で申し訳ないが、前に日本の武器や武芸に詳しい近藤好古氏が、鈴木氏の「馬上での槍使い」は非現実的という主張に対して、「鍛錬次第で可能という事が理解してない」という意味の事を書いていたね。
716 :
中国製?の古銃 :2009/04/29(水) 01:10:00
>>715 私も「鍛錬次第で可能」だと思います。
しかし、現実の戦場では足場が悪く、変化に富んでいる場合が多いと思います。
馬が暴れたり、こけたりしたら、片手運転か落車の憂き目。
その意味では、「現実的ではないなあ」と私も思います。
717 :
日本@名無史さん :2009/04/29(水) 01:36:05
716さん しかし、それは鎌倉時代の騎馬弓兵にも同じ事が言えるのでは? 彼らは片手どころが両手で弓を引きます。 戦闘方法として有効か否かの問題では?
718 :
中国製?の古銃 :2009/04/29(水) 07:02:44
717さま すみません。私は鎌倉時代の騎馬弓兵ついては良く知りませんが、戦いの場として「当時の日本の地形では」と思ったからです。 馬についても、子供の頃見た代かき馬くらいで良く知りません。しかし、人間が走りまわれないような地形では、馬も走れないと思います。 戦いの場の前提が草原や平原なら私も理解できますが、沼地・川原・岩石などの足場の悪い、立ち木のある・高低差のある山岳地形が当時の日本の地形ではないでしょうか。 714で述べたことは、私だったら「相手をそんな地形の所に引き寄せて戦うか、できなければ逃げる」と思ったことで、騎馬兵については否定しません。 行軍するとき、馬は非常に役に立ったと思います。
>>708 そんなこと言う前に藤本の著書くらい読めよ。
だいいち太田牛一の「信長公記」には
桶狭間は正面攻撃だったと書かれているんだからな。
>>718 wikipediaの大鎧より
>大鎧を着て立つと肩で重量を支えることになるが、馬上では鎧の重量は鞍にかかって安定する。
>形状も馬上での防御に重点を置いており、乗馬戦闘のための鎧で徒歩戦には向かない構造である
鎌倉期の大鎧は騎乗前提。ちなみにこういうことは鈴木氏と共著を出している藤本氏も自著に書いているよ。
>715-717 横レスで。 まあ、馬上で弓なり槍なりを使うような人間は、 常日頃から馬上戦闘の訓練を繰り返せるような専門職の人間だけだから、 「訓練しだいでは可能」=「可能」と考えていいような気はする。 対するに、戦国期の歩卒は大半が専業ではない動員兵(普段は農業)で、 日常的な戦闘訓練ができないから、刀剣戦闘や集団戦闘も不得手だったんじゃないかなあ。 >718 平安後期や鎌倉期の馬上戦闘は、おもに草原で戦っていたようなので、 さほど足場の問題はなかったのではないかと思いますよ。 逆に、足場の悪い戦場で戦うこともあったから、 軍記物で「片足を地面につけて戦った場面」とか「下馬戦闘の場面」とかが 普段とは違う特殊な場面として描写されたのではないか、と思えなくはないです。
726 :
中国製?の古銃 :2009/04/30(木) 00:08:18
ウィキペディア(Wikipedia)の大鎧(おおよろい)より >大鎧(おおよろい)は、日本の甲冑・鎧の形式の1つ。馬上で弓を射る騎射戦が主流であった平安 - 鎌倉時代、それに対応すべく騎乗の上級武士が着用した。 >平安時代の戦闘は一騎駆けの騎馬戦が主であり、馬上から敵を左に見て矢を射掛けるのが基本であった。 たしかどこかで読んだような気がしますが、「平安 - 鎌倉時代の戦いは武将(大将?)同士の一騎打ちで、どちらかが負けたら戦争(戦闘?)終了」だったような。記憶違いかもしれません。 >南北朝時代頃に集団戦・接近徒歩戦が盛んになると胴丸・腹巻が多く用いられるようになり大鎧は実戦から姿を消す。 戦国期での一騎駆けの騎馬戦は判りません。でも、大鎧は着ていないでしょう。 「>725 戦国期の歩卒は大半が専業ではない動員兵(普段は農業)で、日常的な戦闘訓練ができないから、刀剣戦闘や集団戦闘も不得手だったんじゃないかなあ。」について、これにはちょっと同意できないところがあります。 「動員兵(普段は農業)」の実態が良く判りません。
鎌倉後期や南北朝では 山間部(京都周辺の山谷の中)で平気で馬を乗り回して白兵戦しているので 少なくとも起伏に富んだ上に下草だらけの雑木林で両手放し片手放しでの戦闘を当たり前にこなせる技術は持っていたといえる この時代の白兵戦武器は四尺以上の太刀や薙刀や和弓だから両手ばなしとなる場面もかなり多かったろう もっともこの時代の馬による乗り入れでの白兵戦では先頭の武士が馬で蹴散らしておいて後続の騎馬武士が引っかけていくので 実際武器で攻撃するこの後続武士は自分は攻撃されることのない既に死に体になった敵をポロかモグラたたきの要領でぶっ叩いていくだけなのだが
>>714 の馬に対する戦い方は実は戦国時代
文禄慶長の役にて徒歩中心の日本軍が明の騎兵を敗走させた戦い方でもある
結局騎馬で戦うことの最大のメリットは相手の士気がくじけやすくなることに尽きるので
(鎌倉時代のように両者騎馬騎射が当たり前だと全然違ってくるが)
「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
逆に士気がくじけなかったら騎馬は歩兵の格好のカモともなりえるわけだ
>>727 で述べた山間部のひとつで有名どころでは天王山なんかがあるが
観光地として整地された今ですらかなりの起伏でこんなとこを
(文献通りなら)最低三千騎の騎馬武者が殺到して徒歩武士を蹴散らしたり、
そのすぐ近くの別の場所では後続が勘違いして勝手に帰っちゃったので包囲されて逆転、何とか逃げ延びたみたいな
ダイナミックな戦場になってたかと思うと何とも言えない空恐ろしさを感じるものだった
>>728 海外の戦場では何故か刀が大活躍のようでwww
国内ではどうして首取りの道具なの?
>しかし、人間が走りまわれないような地形では、馬も走れないと思います。戦いの場の前提が草原や平原なら私も理解できますが、
>沼地・川原・岩石などの足場の悪い、立ち木のある・高低差のある山岳地形が当時の日本の地形ではないでしょうか。
そういうところを小型の在来種は走れるんだよ。あと、大鎧の解説は日本に重騎兵がいたことさえ信じていないようなので、そのことの
答えとして出しただけ。
「そもそも、その時・現場で・当事者でなければ判らないことが多いと思います」の言葉に従うのならば、実際に戦った鎌倉武士が
書かせたこれらの絵に書かれた重弓騎兵の集団戦は、なによりの証拠として扱わなければならないよ(実際に世界的に評価される資料だがね)。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html
734 :
中国製?の古銃 :2009/04/30(木) 18:44:25
>>731 すみません。私が間違っておりました。
鎌倉時代は、現在よりも石ころ一つ無く、道(広場)がきれいに整備され、騎馬武者が戦っておりました。世界的に評価される図を見ましたので訂正いたします。
ところで、平安時代は、猿が鹿にのり、蛙が弓を射り、動物が人間の真似をすることが判りました。
「そもそも、その時・現場で・当事者でなければ判らないことが多いと思います」の言葉に従って、
実際に動物を見た人が書いた絵だから、これらの絵に書かれた蛙が弓を射れることは、なによりの証拠として扱わなければなりません。(日本の国宝だから、実際に世界的に評価される資料よりも少し評価が落ちるけど)
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/041120.htm 「古文書・絵などは、何時・どこで・誰が・何のために記録した・他の人はどのように解釈しているかなどを考慮の上、判断すること」が必要だと思います。
家来が書いた物・偉人伝類は、特に注意が必要です。嘘(捏造)・拡大(ゴマすり)・どうでもよいこと(文章を伸ばす)などが混じっています。「信長公記」に注意。
私のスタンスは、重騎兵や騎馬戦を否定しておらず、ただ、「日本の地形に合った戦いになったであろう」と推定しております。
>>727 の方。なぜこのような推論になるのか、教えてください。
>>729 の方。天王山には行った事は在りませんが、ネットである程度地形は見られます。
そこで、一本道だとしたら、三千騎の騎馬武者×2メートル(仮に1頭分の長さ)=6キロメートル。4メートルだとしたら12キロメートルの長さになります。
だれか、天王山にハイキングに行かれた方、騎馬戦が可能かどうか、徒歩武士を蹴散らすことが可能かどうか教えてください。
合戦絵画を見れば 馬上で弓も使ってる 馬上で槍も使ってる 馬上で刀も使ってる と言うと 鈴木はまた色々と言い掛りをつけて絵師が捏造したことにするのかな
>>734 実際の動物の生態を模写したものであり、これは事実であるという但し書きがあるのならね。
中国人や朝鮮人も日本刀が本当は戦場では使われていないのに使われたという資料を捏造したのだろうか?
738 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 19:08:54
少し話が変だね。 鈴木は鎌倉時代以前の騎馬弓兵は認めているんだよ。 鎌倉時代の大鎧は重量があり過ぎて徒歩戦闘に向いていないのは確かなんだよ。 それが中世後半にかけて軽量な銅丸鎧が発達して、更に地方の大名も農村の人口をフル稼働するようになって戦争の規模が拡大されて徒歩戦が主流になったのは確か ただ問題なのは騎上する将校クラスまで馬から降りて戦っていたかという事だ。 オレは近世初頭の資料を見ても騎馬の戦闘はあったと思う。
>>738 スレに重弓騎兵いたのかさえも疑ってる人がいるからね。自分の常識の範囲でしか物を想像できないらしくて
こんな山の多い地形で鎧武者が疾駆できるのか疑問で、自分だったら落馬する危険があるから乗りたくないんだって。
740 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 19:38:58
携帯からのレスなので、アンカーが出来なくて申し訳ない。 >739 それは確かにおかしな理屈だね。 ならば現代のレンジャー部隊は落下などの危険性があるので非現実的な存在になる。 前にあげた近藤好古氏は著者の「源義経」の中で今まで創作に近いと思われていた義経の坂落としを現実的に可能としている。 その根拠は20世紀初頭のハンガリー騎兵が断崖絶壁を下る訓練をしていたからだ。 写真も見たが、確かに騎兵が山岳の急斜面を下っていた。 近藤氏は本来は山岳地帯に生息する馬は訓練次第でかなりの荒技が出来る生き物と書いている。 これに対して鈴木の槍騎兵の否定の根拠の1つは武術史家の名和弓雄の証言があるのだが、名和は一回、馬に乗って槍を扱ってみて危なく感じたらしい。 これが武術史家が考証に望む態度として望ましいとは甚だ言えないであろう。
確か鈴木氏はランスレストのような装備がないから日本の騎兵は云々言ってたと思うけど むしろランスってごく一部の地域で使われた特殊な装備だよね。
742 :
中国製?の古銃 :2009/04/30(木) 20:25:01
>735 の方。「鈴木はまた・・・」とありますが、どのレスに答えているのか教えて下さい。鈴木眞哉さんがレスに出ておられるのでしょうか? >736 の方。残念ながら「これは事実であるという但し書き」は、ありません。また、書く必要性もないでしょう。 >737 の方。「中国人や朝鮮人も日本刀が本当は戦場では使われていないのに使われた」の出典を教えて下さい。 >738 の方。「オレは近世初頭の資料を見ても騎馬の戦闘はあったと思う」は、同感です。ただし、「条件によっては」ですけれども。 >739 の方。私だったら、場所によって、「落馬させられるから乗りたくない」こともあると思う。
>>727 理由?
鎌倉後期や南北朝では山間部(京都周辺の山谷の中)で平気で馬を乗り回して白兵戦しているから
>>734 この例では山の頂上付近に陣をはる足利方
に南北東の三方から攻めてるんだよね
>>739 オートの拳銃はジャムが怖いから使いたくない
車はエンストするかもしれないから乗りたくない
突撃銃は暴発するかもしれないから撃ちたくない
馬は落馬するかもしれないから乗りたくない
飛行機は墜落するから乗りたくない
船は沈没するから乗りたくない
モトクロスは危険だからやりたくない
トリプルアクセルは失敗するのが怖いから飛びたくない
パルクールとかやってるDQNは脳が腐ってる
ボルダリングは落下するかもしれないからやりたくない
etc...
不整地での乗馬は練習と馬の健康管理で克服できるだけましだとおもうがなぁ
まして「難しいからきっと敵も練習してないに決まってる」なんて甘えは
通用しない(正確にいえば通用するかどうかは運まかせ)だろうなぁ
自分は怖いから練習してない
敵は練習きっちりやってて山の中で自由に乗りこなし襲いかかってくる
こんな状況に陥りたくないやつは…この三択だろうな
必死に自分も練習する
潔く死ぬ
何かほかの手を考える(概算その半数は的外れな手で死ぬ)
ただしこれはある程度うまが豊富な応仁の乱以前までのことだが…
実際馬が欠乏してくる戦国時代では山の中で乗り回して戦ったりしてないし
もちろん故・名和氏は馬術の素人ではないだろうけど、馬術の腕前が嗜みレベルで必要とされる時代の人とは 比べ物にはならんわな。
747 :
日本@名無史さん :2009/05/01(金) 10:38:01
おそらく馬上槍術が現在に伝わってないのは、流鏑馬のような行事が残らず、武士の技芸が剣術にとって変わられたからであろう。 前に読んだ記録に江戸初期に水野家の故老の侍が若者たちから、馬上の槍使いを見たいと所望されて、甲冑を着て馬を乗り回し槍を使ったら、若者たちは絶賛したらしい。これに対して老人は若い頃は馬の足が「かくかく」する事はなかったと恥じている。 これを信じれば、馬上槍術はかなりの高い技量を必要だったのであろう。 それゆえ未熟な者は馬から降りて戦った事は理解出来る。 しかし戦国時代に「槍の○○」などと呼ばれた剛の者が、そんな未熟者であろうか? やはり馬上槍兵は戦国時代の花形的な存在であったと思う。
「前に読んだ記録」の話は、戦前に中里介山が紹介していますが、よろし
ければ出典をご教示願いたいのですが。
『甲陽軍鑑』に、正木大膳が乗馬の修練の際、下馬する暇もなく戦う用意
のために、最初から片手綱で及んだという逸話がありますね。
馬上での鎗といい、刀といい、必要に応じてやらなければならないことで
あり、修練は必要とされたが、下りる暇があれば下りて戦った方が良かっ
たであろうと考えています。
馬上でも戦える訓練をすることと、馬上で積極的に戦おうとしたことは別
であり、どちらかといえば非常時の備えであったのではないかと。
正木の場合、馬術の師から片手綱はもっと上達してから挑戦すべきもので
あり、最初からやるべきでないと言われたのに対し、上手くなるまで戦場
は待ってくれないと反論したそうで。
後日、馬に乗って戦場から引き上げる際、馬に乗ったまま、馬に乗って追
撃してきた相手を待ち受けて、馬上でそのまま倒したということです。
『三河物語』にも、最初から崩れた敵と戦う時ならまだしも、「常に馬に
乗りてあらん」とするのは止めておけという教訓がある。
以上は、近世の話。以下は鎌倉。
>>731 の絵は、三井三郎とその下の集団を指して持ち出されたものと思いま
すが、撤退中の蒙古兵を追物射にしたものであって、乗り入れで蹴散らした
というのとは、また違うと思います。
立ち向かっている蒙古兵三人は、そちらにもある通り後世の補筆ではないか
と考えられているもので、残りは軒並み陣中に逃げ込んでいるところ。
戦場で馬を乗り回したこと、馬上で両手を手綱から放して行動するだけの
錬度が存在したことは、言えるでしょうが。
レベルの低い疑問ですまないけど、馬上の片手槍は日本だけの話ではないのになぜ日本人だけ無理なの? 鐙のない時代から行われているのに。
751 :
日本@名無史さん :2009/05/01(金) 15:53:45
極論 鎌倉時代の主要な武器が弓なだけ 矢がなくなったり、弓が折れたりしたなら太刀を抜く このあたりの物言いの強引さが鈴木の特徴
というか鎌倉時代から見切られていたものがどうしてそれ以降も存在し続けたのか 疑問に思わないのかねえ?
753 :
日本@名無史さん :2009/05/01(金) 17:13:50
かつて足利尊氏を描いた騎馬武者像は刀を肩にかけている。 同様な騎馬武者像は他にもある。 騎馬による斬撃戦が全くなかったら、このような肖像画は書かれなかったと思う。 戦闘機に例えれば、弓がミサイルで刀が機銃だろう。 接近戦では刀も有効な武器なのは当たり前だ。
鎌倉時代から使い物にならないされていたなら、なぜ南北朝期に長大なものが現れたり、戦国時代には抜き打ちができる 装備方法が流行ったりしたのだろう?
755 :
中国製?の古銃 :2009/05/02(土) 01:09:01
素朴な疑問だけれども、 @ 以前、借金の形に日本刀を預かっていたが、その刀は変に曲がっていて鞘に入りにくかった。 借金を返してもらう際に「人を切った刀だ」とそいつは言っていた。 刃こぼれした刀は研ぎなおせばよいと思うが(薄く、細くなるが)、曲がった刀の修繕はどのようにしたのだろうか。 下手な修繕だったので、また曲がったのであろうか?。 また、折れた刀は、繋ぎ直したものか、廃棄したものか?。 A 屠場での話だが、職人さんはククリの形をした小さいナイフで解体していた。 そのナイフは恐ろしいほど切れ味がよく、棒やすりで血糊を落としながら使っていた。 血糊の着いた刀は本当に切れるのだろうか。血餅(フィブリン塊)は脂分も含み、落ちにくい粘着物質だ。 B某お寺で、戦国期の薙刀の柄を見た。(192センチメートル)。刃が付けば、3メートルになるかも知れない。 こんな薙刀ならば、馬の足など簡単にちょん切れるし、馬上の敵にも刃が届く。 薙刀は僧兵のものとして知られているが、なぜ、一般に使われていなかったのであろうか。 一説には、「取り扱いが難しい(熟練を要する)」と書いた物を見たことがあるが。
>>775 B
技を突き詰めるという意味では古流薙刀はすごく奥が深い
もうとにかく難しいっていうレベルじゃない。
だが単に武器として使うならさほど難しいもんじゃない。
ただし、「さほど難しいもんじゃない」というためには剣術をすでに練習済み
っていう条件がいる。
つまり剣術の使い方プラス、長柄ならではの応用で使えばかなり簡単な武器
ただし、馬上で稽古したことなど俺はないのであくまで徒歩での話。
もっとも薙刀全盛期でも薙刀は徒歩主体の武器だし、馬上の白兵戦は太刀だったが。
>>775 @戦場で曲がった刀はこう直していた様子
又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、
西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、
敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、
猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。
>>755 >薙刀は僧兵のものとして知られているが、なぜ、一般に使われていなかったのであろうか。
1武士ならば弓と一緒には携帯できない。(まあそれを言ったら南北朝の大太刀も普段は従者が運んでいたが...)
2徒歩(かち)はむしろ薙刀を一般的に使っている
3権力動員数どの面からみても僧兵はマイノリティとはいえない。僧兵の武器として一般的なら十分使われていたといっていい。
折れたら溶かせばいい 血のりは鹿革で拭けばいい 切れなくても斬れればいい、鉢を割るには充分
760 :
中国製?の古銃 :2009/05/02(土) 08:49:35
>>757 「@戦場で曲がった刀はこう直していた様子」
「太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し」、このときは戻ったようだけれども、折れる場合もありますね。
私が知りたいのは、「曲がった刀を物理的に直すと、強度とか特性が変化しないだろうか」です。
>>759 A
血のり(血餅・フィブリン塊)は1〜2時間後に形成されます。鹿革で拭いても取れるような代物ではありません。肉屋さんでは、棒やすりでこすり落としています。
私が知りたいのは、日本刀の切れ味とは、plain・clear いわゆる汚れの無い状態での話で、実際に血のりが付いた状態ではどうであったかです。このことを考えないと、戦場での日本刀の話は虚構になってしまいます。
>>756 Bお返事、ありがとうございました。
いわゆる戦国期の、「切った張った」の「殺し合いの際の薙刀」についてもっと知りたいものです。
>薙刀は僧兵のものとして知られているが、なぜ、一般に使われていなかったのであろうか。 資料は否定するけど自分の勝手なイメージは事実として語るんだね。
「薙刀は僧兵のものとして知られているが、なぜ、一般に使われていなかったのであろうか」を裏付ける 信頼できる史料はあるのか?
なんか痛い子が来てるようだねw
つーか、みんな痛い子だ? 自分も含めて。
765 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 12:40:57
常識的に考えて武士の武器は弓か槍で、刀は単に首切り道具などと言った断言の方がよっぽど非常識 鎌倉以前の弓騎兵が必ず弓だけで決着がつく保証があったであろうか? お互いに弓を射かけあって、勝負がつかない場合は接近戦に持ち込んで刀を抜く事は極めて少数の事例なのだろうか? 槍歩兵が混戦状態になった時に槍ではなく刀を利用する事も不自然な事だろうか? 弓や槍があるのに、最初に刀を抜くのは不自然なのは認めるが、刀を首切り道具に過ぎないと考えるのも不自然だと思う。
そういう人たちって肉薄された状態でも槍が使えると思っているのかねえ? 5メートルオーバーの長槍が1メートルに満たない剣に滅ぼされた時代もあるのに。
767 :
中国製?の古銃 :2009/05/02(土) 13:43:06
>>762 信頼できる史料が殆どないので、一応、一般的に知られている「ウィキペディア」によりました。
ただし、これも、たまに間違っていることもあるので、全面的には信頼していない。
そもそも、このスレッドに入ったきっかけ、
>>709 を見てください。
石山合戦において、なぜ10年間戦いがあったのか。あるのは織田方の史料で、一向衆(僧兵?)については殆ど判りません。
このように史料の無い状態で、合戦を論じても限界があります。
そのため、私は一向衆(僧兵?)の史料を求めています。
いい加減消えること
これが電波か
770 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 16:15:31
中国製の古銃さん あなたのおっしゃる事がよくわからない。 何を論じたいのかね? この銃が何だと言いたいのかね? いきなり銃について考えてくれ…とか意味がわからんよ。
771 :
中国製?の古銃 :2009/05/02(土) 19:06:14
>>770 説明不足ですみませんでした。何か誤解を与えたようなので、説明させていただきます。
このYahoo!フォトアルバムは、他のスレッド▼火縄銃について語ろう▲の場をおかりして、「S字型金具」の名前で投稿に使っております。
情報を求めてネット検索をしていたところ、以前お世話になった鈴木眞哉さんに対するこのスレッドを見つけましたが、歴史観については個人の自由だが、鈴木さん個人の人格批判について書かれている箇所を見るとなさけなくなりました。
また、他人の論や、古文書・絵などを無批判に受け入れ、逆に批判をしている書き込みを見ると、「あなたの考えは無いのか」と思うレスがあったので、ついつい、書き込みを始めた次第です。
そもそも、このスレッドは、馬・刀・槍などを扱い、鎌倉〜戦国時代の戦い(殺人)の検証が主目的だと思いますが、名前を名乗らない「日本@名無史さん」で無責任なレス、どれに反論しているレスか判らないものがほとんどです。
名乗をあげて戦う武士や徒歩・動員兵、いわゆる、名前のある人の行動を論じるスレッドなのに、死傷者から武器・防具を剥ぎ取り盗む、名前の使えない・言えない「名無し」が横行しています。
ほとんど残存していない当時の武器戦を絵で論じ、山紫水明な中世当時の日本の風土・地形・習慣が想定できない戦、血糊(血餅・フィブリン塊)が着いて切れなくなった刀で刀戦を論じても、どれほど意味のある検証ができるのか。
名前を名乗るスレッドになったら、また戻ってきます。
「日本@名無史さん」で逆襲もあるかな?
772 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 19:43:14
もう戻って来ないで下さい(^-^)/ お疲れ様でした
すげえな、ここがどういうところかわからないで書き込みしてんのか。 ジャズ喫茶に入って「なんで演歌を流さないんだ」とクレームつけるレベルだぜwwww
鎌倉武士の一騎打ちだの薙刀は僧兵のものだのは無批判に受け入れて どんだけダブスタだよwww 鈴木の人格はどうか知らんが、あんたは批判されてもしょうがない人間だね。
まあまあ。2chには二度と立ち寄らず、あな た様は今後yahoo掲示板に書き込みして くださいね^^ ルールのない掲示板でルールを押し付けるこ とがどれだけ無意味か理解できたでしょうから。 予めこれぐらいのこと人に言われる前にちゃんと 想定してから発言して欲しかったです。
>>771 ??何が言いたいのかよくわかりませんな。
>>760 折れる刀は曲がらない、曲がる刀は折れない
何度も曲げ伸ばしを繰り返した結果折れる金属疲労の話なんか持ち出しても意味がない。
そりゃ日本刀に限らない話だ。
>>760 逆にいえば二時間は血のりは固まらないのねw
二時間も刀を拭く暇もないほど戦い続けるなんてその間何人殺すんだ
そもそも一、二時間も血のりを放っておくバカはいない
血が禁忌とされているのは錆びが怖いから。
切ってすぐ切れ味が落ちるもんではない。
二時間も己の武器にぬぐいをかけることも忘れるほど前後不覚の人間は
そもそも二時間戦場を生きのびていられるとは思えないが、
仮に二時間後、血のりが固まったとして別に刀で紙細工でもするわけではない。
切れなくても「斬れれば」いい、鉢を割るには充分
734はひどいなw 鳥獣「戯画」もってくる時点でネタにしても安すぎるw 裁判の傍聴の様子を絵にしてあるものの信ぴょう性を無理やり否定したい時に ドラゴンボールを根拠に「じゃあ人間は訓練によって星を破壊するほどのエネルギー弾を発射できるんですね、絵で描いてあれば信じるんでしょ?」 というようなものじゃん 真面目に議論する気があるのか疑うな
慇懃無礼というもんだよな 一人よがりで諧謔も何もない 匿名であることが礼儀である場所で 匿名を批判するような空気の読めなさが こいつの視野の狭さを物語っている
士農工商コテ携帯
刀と槍ってどっちが作るのに手間かかるの?
さほどかわらん 武士用のものなら間違いなく槍の方がコストがかかる 茎と合わせると使う鉄の量は同じぐらい 日本刀と同じ用に制作し、その上でまっすぐな形状に仕上げる ぶったたいてもいいような頑丈かつ柔構造の柄の工法はわりと複雑 足軽のもけっこう手間はかかってる 人件費の概念が希薄な時代のことだからコスト高とは一概にはいえんが 手間はかかってる ただ、刀工を採用するときは(たとえ槍ばっか作らせる予定でも)刀の出来で試すから 作り手がよりマジになって作るのは刀だろう
海外に向けて問題提起すればいいのにな。スウェーデンの馬はポニーサイズ。そんな小さな馬にまたがって 剣を持った突撃なんてできない、とか。
やめてくれそんな恥ずかしいねつ造は まともな日本人には出来ない
モンゴルに行ってお前らのポニーでは騎兵突撃はできない、モンゴルの騎兵は軽装の弓騎兵のみ と主張すべき。
最近の研究ではグスタヴ・アドルフの騎兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。 あのような小さな馬でトコトコ突撃する姿を想像できるだろうか? ポニーサイズの馬は乗り物に過ぎないのだ。
鈴木先生こんなとこまで出張ですか
小さな馬が重たい北欧男を乗せて、三々五々トコトコと攻めかかっていった ところで、いったいどういう効果が期待できたのだろう
少なくとも馬に関しては言っていることがめちゃくちゃということは確実で、 なのに全くまともは釈明をしていないというのは問題。結果、鈴木眞哉の論全体が アレなものとみなされても当然という状態になってしまっている。 その上、他人の意見を盗用しているふしもかなり見受けられるし。
789 :
日本@名無史さん :2009/05/09(土) 10:14:34
1622年と1623年の装備品目録によるとスウェーデンの騎兵用の馬の平均身長は 1メートル12センチから1メートル33センチしかない。 こんな馬でピストルは極力使わず抜刀突撃メインで戦わせようというのだから グスタフ・アドルフなる人物の軍事センスがいかにお粗末なものであることか。 『北方の獅子』などと異名だけは勇ましいが、『ミスター遠戦志向』鈴木眞哉率いる 雑賀鉄砲隊と戦ったら瞬殺されるレベルであるといえよう。
歴史研究の最先端を行く鈴木眞哉氏の主張を否定する守旧派は思考停止の馬鹿。
最近の研究ではモンゴルの騎兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。 あのような小さな馬でトコトコ突撃する姿を想像できるだろうか? ポニーサイズの馬は乗り物に過ぎないのだ。 モンゴル行ってこう主張するべき。世界の歴史認識が変わるかも。
鈴木眞哉がトコトコ突撃するAAキボン
鈴木眞哉は「ポニーでは戦えない説」を背負って世界に向かって突撃せよ。
鈴木眞哉先生は鉄木眞(テムジン)の生まれ変わりですからモンゴルはすでに 先生の説を受け入れたも同然といえるでしょう。 先生は一度目はチンギスハーン、二度目は鈴木孫市として世界を救っていますが 三度目は世界の歴史を歪めようとする勢力を打倒すべくここに降り立ちました。
799 :
日本@名無史さん :2009/05/18(月) 01:57:52
蒙古襲来絵詞:改竄?3人の蒙古兵は「江戸時代の加筆」―歴史学者が集大成出版
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050819-3.html 蒙古軍に単騎で立ち向かう御家人、竹崎季長(すえなが)。「てつはう」(鉄
砲)が炸裂し、投げ槍が宙を飛ぶ中、馬を射られ―。「蒙古襲来絵詞(えこと
ば)」の有名な場面が、実は後世の改竄だったとの見方が主流になりつつある。
恐ろし気な顔で季長の前に立ちふさがり、弓や槍で攻撃する3人の蒙古兵は、後
に描き加えられたものだというのだ。教科書にも載り、元寇といえば誰もが思い
浮かべるこの絵が「改竄の結果」という根拠は…。
この場面は、文永の役(文永11年=1274)の際、季長が福岡の鳥飼潟で
蒙古軍を追って先駆けし、傷を負いながらも奮戦している姿を描いたとされる。
鉄砲や3人の蒙古兵のリアルな描写などで、絵詞の中でも最も有名なシーンだ。
ところが絵をよく見ると、問題の蒙古兵3人は、それ以外の蒙古兵と明らかに
描かれ方が違う。まずその顔つき。他は単純な描き方なのに、3人は恐ろしさが
誇張されている。服の輪郭線は3人だけ太く、腰紐も3人だけ赤い。靴も他は細
かい線描なのに3人は黒一色で塗りつぶされ、兜も他は単純な頭巾型なのに、ふ
さふさの吹き返しがついている。大きさも他の蒙古兵より一回り大きい。
さらに決定的な“証拠”は描かれた紙にある。
絵詞は、作られて長い年月が経過して傷みが激しくなったため、後世に台紙に
張り直す形で巻が整えられている。3人はその張り直された紙の継ぎ目をまたい
で描かれているが、継ぎ目の右側の紙が台紙の天地に合わせて正しく張られてい
るのに対し、左側の紙の下辺は台紙の下辺より4p近く上にきている。左側の紙
は元の位置からずれて張られているのだ。なのに、継ぎ目に描かれた3人の絵
は、ずれずにちゃんとつながっている。つまり3人の蒙古兵は、左右の紙が継が
れた後に描きこまれたことになる。その正確な時期は不明だが、江戸時代ではな
いかと見られている。
800 :
日本@名無史さん :2009/05/18(月) 02:00:23
蒙古襲来絵詞:改竄?3人の蒙古兵は「江戸時代の加筆」―歴史学者が集大成出版 気付いたのは、中村学園大(福岡市)の佐藤鉄太郎教授。平成6年 (1994)の日本古文書学会で初めて指摘した。村井章介・東京大大学院教授 は「蒙古軍の軍装などはそれまで3人の絵をもとに議論されていた。その前提を 崩す衝撃的な発表だった。継ぎ目の問題など説得力があり、目からうろこという 感じで聞いた」と打ち明ける。 佐藤さんは、鎌倉時代と明らかに違う装束の人物がいるなど、加筆や修正され た個所が他にも多数あると指摘。今春、研究の集大成として『蒙古襲来絵詞と竹 崎季長の研究』(錦正社)を出版した。 その中で佐藤さんは、炸裂している鉄砲の絵も、3人の蒙古兵と同時に書き加 えられたのではないかと問題提起している。3人の靴や剣、槍の柄の黒と鉄砲が 全く同色で、しかも蒙古軍のいる左側ではなく、右側から飛来しているように描 かれているのは不自然というのが理由だ。 村井教授は「長崎県鷹島沖の海底から実物が出てきた鉄砲まで追筆とはにわか に思えないが、その他の部分も含めて再検討は必要かもしれない」と言う。 佐藤さんは「古い資料は後世の修正や加筆を念頭に入れて見る必要がある。今 でも3人の蒙古兵の絵を載せた教科書があるが、後世の絵師が想像で誇張して描 いたものであることを正しく教えてほしい」と話している。(毎日新聞 2005-08-19)
>>799 竹崎季長のこといままで「りちょう」って読んでたぜw
>>797 横っ腹ガツガツ突かれてるのに全く動揺しない馬がスゴ過ぎる
どんな調教してるんだ
李と季の違いがわからないのはアフリカではよくあることなのか。ジャングルの常識かな?
ん、もしかしてアンカー違いで
>>802 へのレスなのか?正直誤爆か何かだと思ってたw
ルイス・フロイス 「武士階級の食生活は、どの階級よりも質素である。 多くは菜食主義で、下は雑兵といわれる足軽から大名に至る迄、少食・粗食であった。 また着ている物も、普段は木綿の粗衣であったがヨーロッパ人に比べ暑さや寒さに強かった。 武士は戦いにおいて強靱振りを示した。 徒歩の下級武士は、全身に重い甲冑を着け、恐るべき早さで野山を駆け走りあるいは駆け登った。 騎馬侍という一ランク上の階級も馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、我々ヨーロッパ人とは違い落馬してもそれで滅多に死ぬことはなかった。 また、敵に、一旦は馬から引き摺り落されても、掠り傷もせず再び騎乗し直すことができた。 刀で斬られても、あるいは槍で突かれても、傷が致命的な深手でない場合、その傷は直ぐに治り、それは不思議なくらいであった」 鈴木先生が信頼する宣教師さまが、「騎馬侍」がいてトコトコポニーを巧みに乗りこなしている様や 刀に斬られることが槍で突かれることと同じくらい当たり前のように証言してくれていますね。
鈴木は騎馬侍で一転突破され、その他の主張もパクリ元が割れてもう どうにもならない状態だな。
鈴木が史料を選んでいることがよくわかる。
>一旦は馬から引き摺り落されても、掠り傷もせず再び騎乗し直すことができた。 馬は戦場までの移動手段で、戦うときは降りるんじゃないのかよw
811 :
日本@名無史さん :2009/05/20(水) 21:00:45
ルイス・フロイス
http://www.geocities.jp/nanapiko9/ido/uma3.html さらにTVドラマでは鎧に身を包んだ武将が馬上で太刀を振り回すシーンが少なからず映し出されるが、
実際には敵に遭遇して合戦を行う際は、馬から下りて戦うことが多かったようだ。
これについては平家物語でも語られており、戦国時代に日本を訪れた宣教師ルイス=フロイスも記録している
(ちなみに武士が馬に乗るときは馬の右側面から騎乗するのが原則だった)。
日本馬の特長については戦国時代の永禄六年(1563)に来日した宣教師・ルイスフロイスが要点を的確に記録している。
以下、羅列。
「欧州の馬は美しいが、日本の馬は劣っている」
「蹄鉄をうたず草鞋を履かせる」
「厩舎には人間のそれと同じように板張りである。廊下がありそこはサロンとして使われている」
「馬は立って寝ている」
「馬の尿を人は檜杓でくみとる」。
>これについては平家物語でも語られており 平家物語のどの箇所?
そりゃ土地が豊かで 骨格の頑丈な在来馬なら蹄鉄はいらないわなw
>>805 アフリカではよくあることってゾマホンネタだろ
ケアレスミスからあり得ない間違いまでなんでも慰める魔法の言葉
江戸時代の軍学者が馬上の槍を犬槍と言ったなんてことを馬上で槍が使われなかったことの 根拠の一つとしているけど、軍記物や絵巻を完全否定しているのに江戸時代の軍学者の言葉は 採用する意味がわからん。
>>816 完全否定してるのか?
俺が読んだ本(題名忘れた)では太平記について述べてたが、
自説に都合がいい部分は「物語の中にも事実を反映した部分がある」と言い
都合が悪い部分は「これは物語だから虚構である」と言ってたw
ごめん、完全否定は言いすぎだ。うろ覚えだが信長関係ではボロクソの小瀬甫庵も どこかで参照していた気もするw
ということは鈴木氏の軍記物や絵巻に対するスタンスは 基本的には否定だが自説に都合のいい箇所は肯定し参照するというものか…
821 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 01:55:07
ルイス・フロイス 1.武士階級の食生活は、当時のどの階級よりも質素で、多くは玄米穀物菜食主義で、下は雑兵(ぞうひょう)といわれる足軽から大名に至る迄、少食・粗食であった。 また着ている物も、普段は木綿の粗衣であった。それなのに暑さや寒さに強かった。 2.「戦い」となると、強靱振りを示した。 徒侍(かちざむらい)といわれる下級武士は、約40キロの防具・甲冑を着け、それを装着して、恐るべき早さで野山を駆け走り、あるいは駆け登った。 3.騎馬侍(きばざむらい)という一ランク上の階級も、馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、落馬してもそれで滅多に死ぬことはなかった。 また、敵の徒侍に、一旦は馬から引き摺り落されても、再び立て直し、掠り傷もせず、丈夫な体躯をしていた。 4.刀で斬られても、あるいは槍で突かれても、傷が致命的な深手でない場合、その傷は直ぐに治り、それは不思議なくらいであった。 おそらくその秘密は、彼等が普段口にしている食べ物にあると思われ、その食べ物の多くは、玄米菜食を中心とした食物に併せて、海で採れる魚貝類や、川で採れる小魚等で、こうしたものが強靱な体躯に貢献していたのであろう。 そして彼等は、総じて少食・粗食であり、こうした事が胃腸を損なう原因から守っていたのであろう。
822 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 02:53:15
823 :
日本@名無史さん :2009/05/22(金) 04:07:44
騎馬武者 前九年の役から平家物語の時代まで、武士の戦闘は騎馬武者の弓射が中心である。もちろん、『今昔物語集』巻第25第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」に、「騎馬の兵70人、徒歩の兵30人」とあるように、歩兵もいるが、歩兵の戦闘描写は見られない。 基本的には弓射戦であり、騎馬での組み討ち、落馬後に刀を使う(落馬打物:太刀などによる戦いを打物という)。尚、騎馬武者は常に馬上で弓射を行っているのではなく、楯突戦では馬を下りて、楯に隠れて箭を射る。 また、騎馬武者の弓射は、馳組戦、つまり馬を馳せながらの弓射戦と、馬静止射がある。後者は平家物語での那須の与一そシーンがそれである。
・ヨーロッパにおいてすら、騎馬兵がまとまって、隊伍を組んで行動するようになったのは 一五五七年以降のことである。これ以来、近代的な騎兵隊がつくられてゆくが、主武器は 火器であった場合が多く 先生!近代騎兵の確立者として名高いグスタフアドルフを扱った、オスプレイの『グスタヴ・アドルフの騎兵』という本によれば ・グスタヴは、部隊後列は敵と接触するまではピストルを使わないよう指示し、かわりに 抜刀突撃を行うよう命令。ピストルはあくまで混戦の際の武器であることを強調した となっているんですが、先生とグスタフアドルフのどっちを信じればいいですか?
・軍学というのは、概して守旧的な色彩が強く、軍談に毛の生えたような戦例を掲げて能書きをいったり オマジナイのようなことを並べ立てていたりするものも多い。 ちなみに先生の軍学評です。オマジナイのようなことを並べ立てている連中の意見も 先生は自説の根拠にされているようですね。
・首を取られる者の大半は、戦闘意欲を失って逃げ出した者や負傷して戦闘能力を失ったものであった。 あのー、そうだとすると素人の私には、刀って崩れ始めた敵に追い討ちを掛けるには有効な武器だと思えてしまうんですが…。 先生の著書を読むと、首取りが非常に多かったことがわかります。そして刀は首取りの道具なんですよね? ですが、軍忠状を調べると刀傷は非常に少ない。…これってもしかして数え方の問題だったりしないですか? 首を取られた人たちには刀傷が認められないんでしょうか?うーん、よくわからないなあー。 ああ、長々と荒らしみたいにすみませんね。あの、本当に荒らしじゃなくて、純粋に鈴木史観を究めたいだけなんですよ。
騎馬隊って有用だよなぁ。鈴木軍団も騎馬隊に突破されてボロボロだ。
大丈夫です。鈴木軍団には自慢の鉄砲隊がいるんですよ。 でも、もし敵軍に陣形を乱されて鉄砲が間に合わない距離まで迫られたら鉄砲隊はどうするんでしょうか? 腰に差している首取りの道具は槍にはかなわないから使うことはないので、やはり戦闘意欲を失って逃げ出すのでしょうか?
鈴木説完全破綻
>先生の著書を読むと、首取りが非常に多かったことがわかります。そして刀は首取りの道具なんですよね? >ですが、軍忠状を調べると刀傷は非常に少ない。…これってもしかして数え方の問題だったりしないですか? >首を取られた人たちには刀傷が認められないんでしょうか?うーん、よくわからないなあー。 実際ここ重要だよ。矢とか鉄砲、あるいは槍で完全に無力化してから刀は首取りだけに使ったなんて 無茶すぎ。
833 :
日本@名無史さん :2009/05/23(土) 07:14:27
刀傷は非常に少ない=刀は首取りだけに使った うーん、よくわからないなあー 日本語が解らない人かなあー
>>833 日本語むずかしいです。そのあたりをわかりやすく解説してもらいたいです。
お前らあんまり素人学者いじめんなよ可哀想だろ( ´,_ゝ`)
836 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 09:30:56
素人学者 素人の学者 素人である学者 素人=学者 うーん、よくわからないなあー 日本語むずかしいです。 わかった!。専門違いの学者だ。 で、専門は何かな?
『一五五七年十月二十八日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸より インドおよびヨーロッパの耶蘇会のパードレおよびイルマン等に贈りし書翰』 「市民は叛逆者が自邸或は田野において攻撃を受くるを見物す。双方まづ矢を放ち、更に近づきて 槍を用ひ、最後に剣を交ふ」 この外人の目も節穴のようで、一方的に首取りをしているだけなのに剣を交えているとか勘違いしているようですね。 あるいは、外人が見物しているということでちょっと受けを狙って双方チャンバラ風味を入れてみたんでしょうか? 鈴木先生はこうした宣教師の報告が信頼できるとしていますが、なんか裏切られた気分ですね。
『一五五九年十月五日(永禄二年九月五日)付、イルマン・ジョアン・フェルナンデスが府内より コチンの耶蘇会のコレジョの院長パードレ・メストレ・ベルショール・ヌネスに贈りし書翰』 「徳高きアンドレー(武士の洗礼名です)は己を殺さんとして来れるを見て、その剣をも抜かず(甚だ勇猛にして剣術に 達したる人なりしが)斬らるる時跪きて祈り、息絶ゆるにいたれり。彼は、サント・エステバンを 模範としたれば、彼を殺す者のため祈りしこと疑なし」 手元の首取りの道具では勝ち目がないから跪いて謝っただけなのかもしれませんね。 いくら剣術に達したといっても戦いの役には立たないということですし。
『一五五九年十月五日(永禄二年九月五日)付、イルマン・ジョアン・フェルナンデスが府内より コチンの耶蘇会のコレジョの院長パードレ・メストレ・ベルショール・ヌネスに贈りし書翰』 「徳高きアンドレー(武士の洗礼名です)は己を殺さんとして来れるを見て、その剣をも抜かず(甚だ勇猛にして剣術に 達したる人なりしが)斬らるる時跪きて祈り、息絶ゆるにいたれり。彼は、サント・エステバンを 模範としたれば、彼を殺す者のため祈りしこと疑なし」 手元の首取りの道具では勝ち目がないから跪いて謝っただけなのかもしれませんね。 いくら剣術に達したといっても戦いの役には立たないということですし。
『一五七九年十二月十日(天正七年十一月二十二日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤンが 口ノ津より耶蘇会の総会長に贈りし書翰』 「日本人は刀に手を掛くれば必ず傷を附け、刀は甚だ重く、剃刀のごとく鋭く、両手をもってこれを扱ふゆえに、一撃を もって人を殺しまたは腕を断つを常とせり」 実際には首取りの道具なのに腕を断つとかおかしいですね。
あちゃー、なんで時間をおいて二重投稿してるんだろ。鈴木史観の徒として恥ずかしい姿を見せてしまいましたね。 鈴木先生、すみませんでした。
ここにせよ戦国板のポニースレにせよ、議論できる場でまともに鈴木系の 主張する人、完全に消えうせたよなぁ。まあ、webやらblogやらで一人で 叫んでいるのはかなり見かけるけど。
結局、知識不足なのに大口叩いてただけの人? 遠戦がどうこう言ってた最初の頃は結構面白いなと思ってたのに残念だな。
知識不足を妄想レベルの思い込みや早合点で埋めようとするのが痛いな。 史料の恣意的な取捨選択も目に余る。 もう十分に金を稼いだだろうけどなw
>>842 あとはQ&AサイトのOKwaveなんかではまだまだ半可通が鈴木史観で答えてくれるよ。
846 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 17:38:00
>>841 >鈴木史観の徒として恥ずかしい姿を見せてしまいましたね。
あだ【▽徒】[形動][文][ナリ] 実を結ばずむなしいさま。無益なさま。むだ。
何を言っているのか、ようわかりまへん!
848 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 18:00:54
>>847 >5 門下の弟子。「徒弟/生徒」
失礼しました。
>鈴木史観の徒弟として恥ずかしい姿を見せてしまいましたね。
と‐てい【徒弟】 1 親方の家に住みこんで商工業の技術を見習う少年。丁稚(でっち)。小僧。
2 門人・弟子。
>鈴木史観の生徒として恥ずかしい姿を見せてしまいましたね。
せい‐と【生徒】 1 学校などで教えを受ける者。
2 特に、中学校・高等学校で教育を受ける者。
小学校の「児童」、大学の「学生」に対していう。
849 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 20:03:15
>「5 門下の弟子」は文脈に合っていない。 門下の弟子とは「ヒト」に対する「者」で、「考え方」に対する弟子は有り得ない。 鈴木門下の弟子ならば、直接鈴木に聞けば良いことで、「史観」が抜けてしまう。 「独善的に鈴木門下の弟子だと思い込んでいる者」と理解すれば良いのか。
ええ、私は鈴木先生の志願でっちです。 私にとってはまだまだ難しい言葉ですが、例えば「鈴木眞哉は曲学の徒」という言い方で使うみたいです。 でも、曲学ってどういう意味だろう?きっと褒め言葉だと思うけど、日本語はやっぱり難しいな。
と【徒】
その仲間。その同類の人。「学問の―」「無頼(ぶらい)の―」
[類語]仲間
>>836 といい、こんな本題と関係ない話がいつまで続くのやら。鈴木史観(失笑)に関する議論をしようぜ。
852 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 20:28:51
>>850 残念ながらあなたは「少年」ではないので、「志願でっち」にはなれません。
でっ‐ち【▽丁稚】 職人・商家などに年季奉公をする少年。雑用や使い走りをした。
853 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 21:02:29
>>851 「仲間」ではこのスレ「鈴木眞哉史観を疑う」と合わないだろう。
>鈴木史観の「仲間」として恥ずかしい姿を見せてしまいましたね。
何時からオレを含めて「仲間」呼ばわりされるのか。皆、汚染されたのか。
「851」は仲間か?
854 :
日本@名無史さん :2009/05/24(日) 22:13:20
まさに
>>842 の言う通りというか、鈴木寄りの人間でまともに議論する人間はいなくなったか。
悔し紛れに揚げ足取りにすらならない行為に夢中かよ。
855 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 01:39:02
鈴木眞哉史観とは面妖な事じゃ
天下人史観がいつのまにか鈴木眞哉史観に変わっちょる
鈴木も偉い者よのう
統一的な観念が認められ、鈴木史観と言われて世間をさわがせちょる
じゃが、天下人史観を論ずる場が耶蘇教の綴りまで持ち出し尻馬合戦、はたまた重箱合戦へと退転か
>>1 歴史観(れきしかん)
歴史の見方を決めるもの。歴史家がある観点から事実を解釈するときの前提になる統一的な観念。
歴史家はそれぞれ固有の歴史観をもっている。多くの事実のなかからあるものを選び出す選択基準、事実を意味づける価値観は歴史家によって異なる。
それによって記述は個性的になるが、同時に偏りもおこる。
いかなる歴史家も自分の先入観(これも歴史観)によって偏った見方をするが、その偏りやゆがみは、対象の事物についての定義や法則の知識(これも歴史観)に照らして修正できる。
歴史家に主観的な見方をさせるのも歴史観だが、それを客観的にするのも歴史観である。
しかしそれぞれの歴史家がもっている人間観、社会観、国家観、道徳観、宗教観、文化観、世界観などの違いからくる史実の解釈の相違は、容易に一致させることができない。
歴史家が自己の立場から事実をどう解釈するかは自由であって、その解釈が史料によって実証され、論理的に整合する限り真である。
歴史の真実はただ一つではない。しかしある時代に多くの人がほぼ共通にもっていた歴史観はある。
古代ギリシアの循環史観、中世キリスト教の救済史観、近代啓蒙(けいもう)期の進歩史観、19世紀のナショナリズム史観などである。
これによって史学史が形成される。
また歴史観には、歴史の全体の叙述を組み立てる構想力や、歴史の大きな流れをつかむ直観力のようなものもある。
歴史観の根底にはしばしば歴史哲学がある。
[日本大百科全書(小学館)][執筆者:神山四郎]
857 :
日本@名無史さん :2009/05/26(火) 23:02:38
http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide01.htm 信長や秀吉に関する国内資料は、『信長公記』、『信長記』、『天正記』、『太閤記』、『当代記』等がある。
国外資料としてはフロイスの『日本史』、ヒロンの『日本王国記』等がある。
特に、信長が自刃した本能寺の記述は、どれも筆をそろえたように同様の記述がされている。
ここで気をつけなければならないことは、同様の記述がされているからと言って、これが事実であるとは限らないことだ。
これらの資料を書いた作者は、本能寺にいたわけではないのだから、それぞれの作者が同一の資料
あるいは当事者または第三者の口述を参考として、これらを書いたとするならば、結果は、ほぼ同一の記述となってしまう。
『信長公記』は、初め信長に弓衆として仕え、のち秀吉、秀頼の豊臣家に仕えた太田牛一(1527年〜1610年)によって書かれた信長の生誕から本能寺で自刃するまでの生涯の記録である。
牛一は、この他『大かうさまくんきのうち』、『豊国大明神御祭礼記』などの著作を残している。
牛一は『信長公記』の執筆には精魂を傾けていたようで、その奥書に、「日毎、日記のついでに書き残したもので
私作・私語にあらず」と記述、抱負と自信に満ちた言葉を記しているが、私作・私語ではないにせよ、事実であるとも限らない。
(略)
ところで『信長記』について「誤りが多い」と筆誅を加えた者がいる。
江戸初期の旗本 大久保彦左衛門忠教である。信長とほぼ同時代を生きた彼は、その著『三河物語』の中で
「『信長記』を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。
三分の一は全くなかったことだ。(中略)いろいろこう書くのは、考えてみれば自分が目をかけた人びとのことを
形もないことを書くと見える。それなら書く者は知恵があってないようなものだ。それで『信長記』にはうそが多いと評判になった。」
と、論破している。
このことから見て、江戸初期においては『信長記』は内容についてあまり信用されていなかったようだ。
これは裏を返せば、原本となった牛一の『信長公記』についてもそのまま信じては駄目だと言うことにもつながる。
鈴木さん以外は正しいと思っている人、妄想の世界を楽しんでください。
鈴木先生を疑うことは許されない 鈴木先生以外を正しいと思うことは妄想である てこと?
日本は鈴木先生を中心とする神の国
>このことから見て、江戸初期においては『信長記』は内容についてあまり信用されていなかったようだ。 >これは裏を返せば、原本となった牛一の『信長公記』についてもそのまま信じては駄目だと言うことにもつながる。 これって『三国志演義』は信用できないから 元ネタの『三国志』も信用できないって言うのと同じくらい強引じゃね?
>>857 そこのページ開いたら、いきなり「天国への階段」が鳴り始めてなぜか笑ってしまった。
862 :
日本@名無史さん :2009/05/29(金) 23:31:46
それにしても、鈴木眞哉を擁護する 「中国製?の古銃」というコテの人は 変な人だったなあ レスの内容からしてもうリタイアする年齢 (ひょっとすると鈴木眞哉と同年代?) なのに、本当に「慇懃無礼」という感じで 本気で人格を疑いたくなるような感じだった
世界史板にも湧いているパオさんも鈴木史観っぽいんだよなぁ。
>75 :パオさん ◆mEq.Fp/iL. :2009/02/07(土) 00:29:24 0
>
>>11 >>まだ三段撃ちを信じてる奴がいたよ
>
>亀レスだが、三段撃ちは合理的な戦法であり、小火器黎明期の西欧などでも盛んに用いられた戦法。
>だがそもそも、無謀にも信長の陣へ突進していった武田騎馬隊は火縄銃という物に無知だったので仕方ない。
>そういう意味で長篠の合戦は見たことも聞いたこともない武器を大量に使った信長の心理戦でもある。
いや、これはさすがに鈴木信者ではないだろう。
「武田騎馬隊は火縄銃という物に無知だった」といか言っている時点でただのモノ知らずか。 鈴木史観云々以前に、ただのバカなんだな、パオさんは。
>>865 でもそういう人ほど素人相手に語りたがるから性質が悪いよね。
おかしな説が出回っちゃったりするから。
武田騎馬隊が銃持ってたら最強!と きっと武田信玄も思ってただろう 住んでた場所が悪かったよね
いや鈴木先生のご威光がなかったのが災いしたのだ
鈴木先生のご先祖であらせられる鈴木孫市様が武田方にいれば 歴史は変わっただろう。
徳川家光品川御殿に遊行し、近侍の者等が剣術の仕合を為すを見て興がり、 御馬方諏訪部文九郎を召し、仕合を命ぜられた、 時に文九郎、 「馬上にての仕合ならば負けまじきを」 と云った。 家光がこれを聞き、馬上の仕合をとなり、近侍の面々馬を乗り出し、 文九郎と仕合をしたが、悉く打たれたので、家光大いに感じ、 「文九郎は馬上達者なる故、近侍中一人も勝つ者なし、この上は柳生但馬出て仕合うべし」 とのことである、但馬守、 「畏り候」 とて馬上にて立合い、南方より乗り出しその間合い三間程になった時、 馬を駐めて文九郎が乗り来る馬の面を一打ち打ち 馬の驚いて起った所を乗寄せて文九郎をはたと打った。 家光、これを見て、 「真に名人の所作、時に臨んでの働き尤も妙」 と感心したとの事である。 「常山紀談」
徳川光圀も幼少時、兄貴との馬上竹刀稽古でヤンチャぶりを発揮してるよ。
872 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 23:47:07
根本的な誤解なんだが、当時のやり方では、戦場で太刀や打刀で首はとらないよ。 短い脇差か鎧通でするものだ。 だから太刀・打刀が首取り道具というのはありえない。
掃討戦などでとどめを刺すのに使われた場合も、鈴木氏に言わせるとそれは首取りのためで その目的で使われる刀は、直接首を取るのに使われなくとも首取りの道具。そうした首取りをめぐる攻防で 刀を振り回しているのを人が見ると、たまたま白兵戦らしくも見えるだろうとのことw まあ、一世を風靡した説も実際に原著を読んでみると突っ込みどころだらけでしたわw
すごい屁理屈のオンパレードだなそれは
『信長公記』にも出てくる長島一向一揆で追い詰められて抜刀してきた連中が信長の弟はじめ 多数を切り殺した例も、それは織田勢がだらしがない、の一言で終わらせてるからねw
>>876 状況によって言ってること目茶苦茶だなそりゃ
織田軍は鉄砲持ってて無敵、日本古来のスタイルげき弱ざまあw
って鈴木先生最初言ってましたやんとつっこみたいね
やはり、自分自身で一次資料を調べたわけじゃないんだろうねw 結局、他人が抜粋したものや要約したものだけ見れば偏ったものになりかねないから。
いやいや、彼は知ってて取捨選択するのよ。あるときは軍学者や絵画史料を信用ならないといいながら 長篠に関しては他では重宝がって使っている『信長公記』を無視して、『甲陽軍鑑』や合戦屏風を参照している。
882 :
日本@名無史さん :2009/07/07(火) 20:16:37
馬上で戦ってる。 ↓ 西は賀鳥口、佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊予守、同右京助、蜂屋兵庫頭。松の木の渡り、一揆相支へ候を、どつと川を乗り渡し、馬上より数多切り捨て候なり。 (『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述) 刀で戦ってる。 ↓ 其中に心ある者どもはだかになり、抜刀ばかりにて七・八百ばかり切て懸り、伐り崩し、御一門を初め奉り歴々数多討死。小口へ相働留守のこやこやへ乱れ入り、思程支度仕候て、それより川を越し多芸山・北伊勢口へちりちりに罷退き、大坂へ迯入るなり。 (『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
信長公は通常三日の行路を二日で踏破し、馬上十数騎余りで京都六条へ駆け入った。 (信長公記巻二 御後巻信長御入洛の事)
この人って参考文献の引用の仕方が恣意的というか問題あるんだよ。 鈴木・著『謎とき日本合戦史』P134 ・金子有鄰氏は、槍や薙刀のような長物は両手で扱わなければならないので、よほど馬術に達者でなければ使えないし、 馬上では重心を失いやすいので、必ずしも有利ではないと説明されている。 ↑の鈴木フィルターを取ってみると 金子有鄰・著『日本の伝統馬術 馬上武芸篇』 ・特に馬上で大槍や大薙刀を揮うに至ってはなかなか誰れにでもできることではない。本多忠勝は蜻蛉切りの大槍を 馬上で使いこなしたといわれるが、彼は絶倫の馬術を習得したものに相違ない。 元の文章では穂先が大きく重い大槍・大薙刀が問題とされていることがわかると思う。 重心云々はP104の「徒武者との戦い」からあちこちつまんできたのかな? 通常のサイズの長柄武器については技術篇に「槍・薙刀が第一武器」という項目を設けているし 「家来が従っていない騎士(西洋のではなく騎乗の武士)は必ず手に合う長物を持たねばならぬ」 とあるとおり。 おなじく『謎とき日本合戦史』P134 ・名和弓雄氏からも、馬上の槍使いは大変むずかしくて、下手をすると落馬して騎乗者の命取りにも なりかねないということを、ご自身の実験談としてうかがったことがある。 名和氏は『絵でみる時代考証百科 槍 鎧 具足編』鍵槍では馬の目を傷つける恐れがあるので、 馬上での槍については直槍でなくてはならないとしているとおり、馬上の槍について何ら否定していない。 語った体験談がこんなところで鈴木の都合のいいように使われるとは考えてもいなかっただろう。
お得意の軍忠状分析についてもいい加減疑問が投げかけられているね。 渡辺誠・著『刀と真剣勝負』P177 ・軍忠状とは、自らの軍功を主将に上申し、その承認を得て、後日の論功行賞の証拠や家門の名誉に 供する文書、と辞書にあります。このとおりであるとすれば、できることなら不名誉となるような ことを自己申告したくないのは人の情でしょう。疵を負っても、それが飛び道具の弓矢による 疵ならば名誉を汚すものではないが、打物による疵はそうではありません。 (中略:卜伝百首奥書の塚原卜伝の戦歴に触れ、矢疵は恥ではないが打物疵は恥とされていたと説明) 軍忠状に示されている自己申告の内容が、これを受けた主将によってどこまで厳密に検証されたか、 という考究もなされねばならないし、そもそも軍忠状からは戦死者の死因を読み取ることができない のですから、この史料の統計と分析によって、当時の戦争の様相の特質を断ずるのは、 すこしく大鉈の振るいすぎだと思うのですが、如何でしょう。
そういう引用って今時大学のレポートでだって通用しないんじゃないのw
「金吾利口書」(朝倉宗滴話記)にも馬上で長刀を云々とあるね。 騎乗戦闘で刀を使ってるw
日本人は刀に手を掛くれば必ず傷を附け、 刀は甚だ重く、剃刀のごとく鋭く、 両手をもってこれを扱ふゆえに、 一撃をもって人を殺しまたは腕を断つを常とせり パードレ・フランシスコ・カリヤン
鈴木さん今頃どうしてるんだろう
殆どの合戦絵画には、馬上で戦う様子や、刀で戦う様子が描かれているけど このことについて鈴木眞哉はどう思ってんの? 全部絵師の捏造?
合戦絵画を手放しで信用するのもどうかと思うぞ。
殆どの合戦絵画は、たとえ主用している当世具足が伝来している武将であっても皆大鎧を着用しているように描かれているけど
このことについて
>>891 はどう思ってんの?
全部武将の子孫の捏造?
などと書いてみる。
どうのと言っても 合戦において騎乗や太刀の使用を否定できるもんでもないわけだが
戦国時代に馬上で戦っていたことは文献に多く書かれており、 絵師が馬上で戦う騎馬武者を描いたのは当然といえる。 一方、鎧については、江戸時代に大鎧風の鎧が復古してる事情がある。 それが今日の五月人形の原型でもある。 江戸時代の絵師はこの復古調大鎧を見る機会は多かったはずで、 絵師の頭の中に武将が着用する鎧のイメージとして刻まれたのだろう。 同様に合戦絵中の城郭も近世風城郭に描かれることが多い。 絵師が普段目にするのは近世城郭だからだ。
>>734 →
>>777 の流れを思い出したわ
同じ合戦絵図でも
当時の様子をまじめにかいたもの&記録としてリアルタイムに描かれたものと
エンターテイメントとして後世の人間が描いたものとあるのは当たり前の話だな
スポンサーの意向によって変わる話だわな
戦国無双の鎧みて「戦国時代はあんな鎧を着てたのかー」と思う馬鹿はいない
甲冑なんてそう簡単に廃棄するものじゃないし 補修しながら使い倒すものでしょ? 実際は大鎧もかなり後の時代まで使われていたんじゃないかな ハイソでセレブな大鎧を着てる俺カッコいいみたいな感じで。 まあ妄想だけど
鈴木は長篠とか自説に都合のいいところは絵画史料も参考にするからねえw 甲陽軍鑑も。まあ、その甲陽軍鑑に刀の使用や騎馬突撃が書かれている点はどうするんだろw
>>896 大鎧に関しちゃ南北朝でほぼ淘汰されてるっぽい
ただ胴丸にでかい大袖つけたタイプは言われる通り結構後まで使われてる
合戦屏風じゃ全体の人数に対する鉄砲足軽の比率が著しく低い。 関ヶ原だの大坂だのの屏風絵でも、川中島の頃の甲越両軍の軍役よりもまだ少ない。 これが正しいとすれば、戦国時代は鉄砲の時代ではなく、やはり刀と槍の時代であったと断言してよいだろう。 この場合、いわゆる軍役関連文書の記載はあくまで理想であって鉄砲や鉄砲足軽は理想どおりの数を集められなかったと考えることができる。
いや「大坂冬の陣図屏風」は足軽鉄砲の比率がかなり高い。
鈴木や鈴木信者は自説に都合の悪い史料があると 「あーだ、こーだ」と色々言い掛りをつけて その史料価値を貶めるのが得意だけど いくら絵の不正確な部分をあげつらったところで 騎馬戦闘や刀戦闘を否定する根拠にはならんよ。
「中国製?の古銃」がまた湧いて出てきたのか。
「大坂冬の陣図屏風」は合戦後すぐに描かれたもの言われ 各種文献とも一致する極めて史料価値の高いものと評価されている。 そしてこの「大坂冬の陣図屏風」には、突進する騎馬武者の姿や 刀で戦う武士の姿も描かれているのである。
>>901 信長の家臣の太田牛一が書いた『信長公記』でさえ
都合のいいところだけ拾って、自説に反する刀剣使用を意味する
「鍔を割り」式の記述はステロタイプな表現だから信用ならない
とか言ってるからね。
鈴木センセは「○○は無かった」説しか唱えないの?
「通説」を否定する事に無上の喜びを感じるタイプ
無かった事を証明するのは、悪魔の証明とも申しまして…。 そりゃあ、ドツボにハマるだろう。
908 :
日本@名無史さん :2009/09/06(日) 19:55:05
いまだに日本の軍馬はポニー云々っていうの見かけるな
実際ポニーだし。何しろ世界を制したモンゴルポニーの系統ですからw
わざとミニチュアポニーであるかのように誘導するやつって意味なら しぶとく生き残ってるな
http://kotobank.jp/word/軍忠状 >ぐんちゅう‐じょう〔‐ジヤウ〕【軍忠状】
>中世、自分の軍功を大将や軍(いくさ)奉行に提出して、後日の論功行賞の証拠や家門の名誉とした文書。
>奥や袖(そで)に「一見了」「承了」などの証判を受けたので一見状ともいう。証判状。
だそうだけど、自分の軍功ということは提出者は基本的に生きているんだよね(もちろん名誉の戦死を遂げた者の身内が
提出したり、その後死んだ人間もいただろうけど)。
これからわかることは、生き残った人間の疵には矢疵が一番多かったということなの?
1.敵との距離が数十〜十数メートルで負傷した場合 2.敵との距離が数メートル〜数十センチで負傷した場合 生存率が高いのは恐らく1でしょうから 矢疵が一番多いというのも不思議なことではないと思います
負傷者数増加は、そのまま戦力低下を意味するだろ。
少しくらいの矢疵では戦線離脱せず軍忠状に書くほどの 手柄を立てることができたとも言えるな。
>>913 2の場合は程度によっちゃ即座に首と胴を切り離されちゃうからな。
>>915 軍忠状に記載されていた矢疵が軽傷だったという何の根拠にもなってないぞ。
兵法新論に戦死傷者の報償や手当について記載されているし、
三刀屋文書にはそういうのに対する賞与の感状が記載されている。
そもそも、薄手程度が賞与の対象になるのか?
後、当時の医療技術だと破傷風になる可能性が高い。
下手をすると傷口に人糞や女の陰毛の粉末を塗るくらいだからな。
矢疵に関しては鏃が肉に食い込むから更にたちが悪い。
抜くためにはヤットコを使わないといけないし、すぐに抜かないと肉が締まって抜けなくなる。
軍忠状を統計に使うことに関する問題点は、賞与の対象になるような士分以上の武士に限られる事と、
基本的に戦勝側に限られる事だろ。
批判する論点がズレてやがる。
どこのスレだったかで
刀槍による負傷は恥だけど
飛び道具による負傷は恥ではなかった
みたいなことが書いてあったな。
ということは
上に報告する場合、刀槍による負傷は消極的になって
飛び道具による負傷は積極的に報告する傾向になってくるんじゃないかな。
それが軍忠状の統計として反映される面があると思う。
>>912-913 のような理由と合わせて留意したほうがよさそう。
矢傷が軽傷かどうかは知らんが 刀で切られるよりは生存率は高かろう 山名師氏みたく左目から耳の後ろまで矢が貫通しても普通に生きてるぐらいだし(普通は目に中ったら死ぬらしい。騎射のときは相手の右目か左脇下狙うらしいし) 別に目に限らず 同じ刺し傷でも矢傷の場合は少しでも急所が外れれば見た目重症でも意外と助かる望みはあるが 多分これが刀でやられたら助からない 刺さっていくうちに反りの分だけどんどん傷口が切り開かれていくし その過程で重要器官を傷つける可能性は段違いだし、そうなったらまず助からない(数日生き延びることはよくあるらしいが) ただまあ急所に当たっちまえばどっちも致命傷だけど
当たらなければどうということはない
矢と違って刀の場合一の太刀を受けて動けなくなると さらに二の太刀、三の太刀を受けたり 小刀で止めを刺されたりして 死に至る確立が高くなる。
刀の一撃で鎧武者を動けないようにするのは ほぼ不可能
介者剣術ってものを調べてみろよ
>>922 刀ばかりの相手に多数の戦死者を出したようですが、戦場にも関わらず織田家御一門や御家来衆は鎧を
着ていなかったのでしょうか?
其中に心ある者どもはだかになり、抜刀ばかりにて七・八百ばかり切て懸り、伐り崩し、御一門を初め奉り歴々数多討死。
小口へ相働留守のこやこやへ乱れ入り、思程支度仕候て、それより川を越し多芸山・北伊勢口へちりちりに罷退き、大坂へ迯入るなり。
(『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
少し(?)前に出た「戦争の日本史」シリーズ、南北朝の内乱(南北朝時代の専門家である森センセが担当)を読んでたが、 軍忠状などを用いて内乱期そのものを研究する手法そのものには言及されていたな。 だが、紹介されていた研究はどれも、鈴木氏のものではなかった。 つか、鈴木氏の初期の著作より古い90年代後半ごろの本・論文だな。 それと、その研究の内容も違ってるようだ。 南北朝内乱の前半期(主に建武年間)は、後半期(観応期、特に観応擾乱のころ)と違って、遠戦指向とは認められていないようだ。
基本的に勝った側の記録である上、士分に限られ自己申告のもの。 そしてあくまで疵の記録であり、死因ではない。 日本は遠戦志向であることが明らかになるどころか、とても合戦の全貌を明らかに しているとは言えないわけですね。
>>925 『戦争の日本史8』か。今度図書館行ったときに見てくるわ。
>>922 鎧の隙間を狙う以外にも
鎧の上から斬られた場合、「切れ」なくても「打ち倒される」ことも多い
斬り伏せる動きって単純な振り子運動とは違うのでまともに食らうと衝撃以前に体のバランスが崩れるんだよね
剣術の稽古で掲げた木刀越しに木刀で打ちかかって相手のバランスを崩す腕試しやるよ
失敗するとガーンと止められてしまうが成功すると木刀が打ち合ったときがくんと落とせる
仮に倒れるとこまで行かなくても一瞬崩せればそれだけで大きな隙ができるしね
倒れたらあとは組み打ちから小刀の出番だろうね
>>926 だからといって、このデータに意味はないとバッサリ切り捨てるのもどうかと思うぞ。
とりあえずこのデータから勝ち戦の士分は直接刀で斬り合うことは少なく、
流れ矢や流れ弾で怪我をするか、または直接戦闘するにしても槍で突き合う事が多かったと仮定して、
それが武功夜話や雑兵物語なんかの他の資料と矛盾するか否か、
または雑兵や負け戦の士分の動きと当てはまるかどうかを精査する方が建設的だと思うな。
戦争全体での負傷者で見て刀で切り合うことが少ないといっても 刀による白兵戦は重要ではなかったとはいえないんだけどね 飛び道具や整然とした陣形時に効果的な槍での白兵だけで決戦にはならんわけで、、、 >邸館または田野において戦があると市民はそれを見物している。 >戦争では双方まず矢を放ち、更に近づいて槍を用い、最後に刀剣を交えて戦う。 >パードレ・ガスパル・ビレラ なんつー1557年の資料もある 要するに飛び道具や槍を主に使っている時間やその死傷者が多かろうが 結局最後に刀剣による乱戦にもつれ込む可能性は常に残るわけで。 そしてこの刀剣による乱戦の段階では往々にしてもう戦局はほとんど決まっている=敗北者側の一部が頑固に抵抗しているのを掃討する段階 したがって「きちんと勝ちきるためには」重要な局面ではあるが死傷者数は少ないわけだ。 あまりうまい例えになってないが ゴルフで大半の時間がフェアウェーで行われるといってパットが重要ではないとは言えないわけで
>929 >それが武功夜話や〜他の資料と矛盾するか否か 武功夜話は史料ではありませんが...
野戦といっても、結局は城攻めと同じで敵の陣取る場所を占領するのが目的。 矢玉による遠戦だけで敵地占領はできない。 当然近接戦闘により制圧が必要となる。
スポチャンなんかを例に出すのもなんだが イベントなんかの締めで15対15みたいな集団試合やると意外と槍は簡単にやられることが多い 一対一だと槍はかなり強くて二刀ぐらいしか互角に戦えないんだが集団だと小太刀で倒せることも珍しくない 前に気を取られている間に横や後ろに回られると槍はかなり鈍重 回り込まれたことに気がつくまではどの武器でも条件は同じはずなんだが そっちに向き直る前にやられることが多いね 意識を向けなきゃいけない方向が2方向以上になると槍は攻撃も防御も逃げるにも全部がガタガタになる人が多い 長剣や二刀だと少なくとも囲まれないようにこまめに位置を変えることは出来る スポチャンの集団戦は基本単なる乱戦で最後の一人になるまでやる生き残り戦なんだが 槍が残ることはめずらしい
>932 戦国時代の合戦でも、実際に城や陣地の中まで攻め込んで 占領戦まで行うことは稀。 たいていは開城交渉して退去させてた。 多くの戦いで占領まで戦いきるようになったのは戦国時代末期からじゃ? 戦国中期には、そういう殲滅戦みたいなのは少なかったはず。 勝利が確定してるのに、それ以上の消耗を続けるのは愚策。という考え方が強かったんだろうと思う。 たしかに交渉で退去させたら敵兵力が丸ごと残るわけだが、 敵の大多数が農兵みたいなものだし、殲滅する意味が薄いだろう。 >933 横から回り込まれるのは、その部隊に遠くから命令を出す上位の指揮官が失敗したからなわけで...
>横から回り込まれるのは、その部隊に遠くから命令を出す上位の指揮官が失敗したからなわけで... 乱戦ってのはそういうもの。そうなったら槍は苦手ってことだろう。
>多くの戦いで占領まで戦いきるようになったのは戦国時代末期からじゃ? 逆に言うと南北朝時代は太刀の白兵戦が頻発していて 戦国時代末期も刀の白兵戦が増加したというなら 刀による乱戦が少なかったのは戦国時代の前半ぐらいのものだったということになる そうなると長い歴史の中で刀が重要だった時代のほうが長いな というか敵陣の制圧と敵のせん滅はイコールではないけどね せん滅しなくても刀引っさげて敵陣に切り込む可能性はいつの時代もあるわけで 多い少ないで軽視するわけにはいかないところだよね
日本ちゃんのお家には金庫がたくさんあります 一番頻繁に開け閉めする手前の金庫は「鉄砲」という名前をつけました 弐番目に開け閉めする金庫は「槍」 そしてあまり頻繁に開けないけど重要な機密などをしまう奥の金庫には「刀」と名付けました 「鉄砲」金庫はよく開け閉めするので暗証番号はしっかり覚えましょう 「刀」金庫は頻繁に開けないので暗証番号は忘れてしまってもかまいません …ってなるわけねーよw
939 :
www :2009/10/22(木) 01:53:42
倭寇にスポットが当るのは面白そうだが、この間の元寇の番組みたいに 朝鮮史観の押し付けは勘弁だ
絶対そうなるw チョンが番組作ってんだから
このシリーズ全部朝鮮史観の押し売りだけど
勇敢な倭寇のほとんどは朝鮮人です、とかさかんにアピールするのかなwww それとも日本刀の起源は朝鮮半島ですかねwwww
ボクシングでヒットするパンチはジャブが最も多いけど やはりKOパンチのほとんどもジャブなんですか?
ボクシングのスレで聞いてください
>倭寇は単なる海賊ではなく、重武装した騎馬軍団として朝鮮半島の内陸深 >くまで侵入していたことがわかってきた 女直よりも倭寇を討った方が評価が高いから、長白山(白頭山)の向こうから来た女直も倭寇って事にしてたんじゃなかったっけ?
>>946 何が倭寇かなんて襲撃側も討伐側も「とりあえず倭寇にしとけばおk」な状態で当時すら定義があやふやだったものを
現代半島が日本バッシングの材料にしようと弄ったんで最早gdgd。
中期の支那系現地民系倭寇を語ろうとすると感情的横槍が来るから国際的な研究が絶望的だとぼやいてる史家もいたよ。
本当の事言うと本気で怒るからなw
950
951
952
955
うめ
たて
うめ
梅
961 :
日本@名無史さん :2009/11/13(金) 11:09:41
埋めるなバカ
るせーよバカ
バカバカ
ばかーん
965
この国では戦争が絶えることがない。 戦争が多いため耕地はまだ少ないが、 土地は非常に豊沃なのでわずかな耕作で多量のコメを得ることができる。 このコメがすなわちこの国の主要な食料になっている。 また麦、粟、大麦、ソラマメ、そのほか豆類、野菜は大根やカブラ、ナスが豊富である。 果物はナシ、ザクロ、クリなどがあるが非常に少ない。 肉は少なく、国民は肉より魚を好む。 魚はその量多く、はなはだ美味である。 邸館または田野において戦があると市民はそれを見物している。 戦争では双方まず矢を放ち、更に近づいて槍を用い、最後に刀剣を交えて戦う。 パードレ・ガスパル・ビレラ 1557年
970
971 :
日本@名無史さん :2009/11/15(日) 22:28:08
埋めてるのは鈴木信者なの?(´・ω・`)
新スレは?
規制で立てられないので新スレお願いします。
975
明らかに早すぎるな
埋め
梅
ume
うめ
う
うむ
984 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 04:58:32
うね
とりあえず、白兵戦になれば刀も十分使われていたといってよさそうね
うむ
む
信長公記・長篠の合戦記述 家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、 (中略) 三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。 関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
それ新スレに貼ったほうがいいよ。
むしろ何のためにもうすぐ落ちるスレに貼っているんだ?
うめ
>>988 せっかくなので原文を新スレに貼っておきますね。
うむ
うむ!
戦国
1001 :
1001 :
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