邪馬台国畿内説論者同士で議論を深めませんか。どうも、
九州論者が入ってくると話が拡散して、何時まで経っても
同じ処を堂々巡りしてしまうように感じます。
過去スレは
>>2
一応ローカルルール
・PUは来てもスルー
・文献・考古を絡めた話題を作るのが王道。文献の解釈にだけ集中したい人は
「邪馬台国はどこですか」スレへドゾー。
・体系的に自説を書きたい人はHN付けること。
5 :
彼都:2006/08/04(金) 18:34:02
早速ですが質問させていただきます。
倭人伝。倭伝。倭国伝の違いを教えていただけないでしょうか?
よろしくお願い致します。
あぼーん
7 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 19:33:13
★倭姫命は卑弥呼なのか★
倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代日本の人物。
第11代=垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により伊勢神宮などを建立したとされる。
伊勢神宮最初の斎宮(齋宮)である。皇大神宮別宮の倭姫宮に祀られているが、その創立は大正10年1月4日であり、
神宮別宮としては極端に新しい神社である。
伊勢神宮を建立したときの天照大神から倭姫命への神託は、『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では
「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也
傍國可怜國也 欲居是國」であり、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、方国(かたくに)の
すばらしい国なり。この国におらんと欲(おも)ふ と伝えられている。
倭姫命が伊勢神宮を建立するまでに八咫鏡を順次奉納した場所は元伊勢と呼ばれている。
また、日本武尊に天叢雲剣を与えた人物でもある。
倭姫は卑弥呼なのだろうか。卑弥呼が死去したのは247年頃だと言われている。
時代的には、卑弥呼が活躍した時代と倭姫の時代は重なるのだが。
>>5 だめだよこんな時間まで遊んでいたら・・・家の児なら拳骨だよ。
9 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 20:50:04
>>7 あまり声を出さない研究者は、ほとんどそう考えてるけどね。
面白おかしく本を売らんかなの人は、いろんな面白おかしい説を唱えてるけど。
10 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 20:54:15
>>10 そんなこと訊くまでもないだろうw
「丸見え」なんだからさ。
12 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 21:01:20
もっと突込みが利くアホな自作自演してくれ
14 :
彼都:2006/08/04(金) 21:12:48
yahooでこの単語の意味が判らず馬鹿にされたからです。
16 :
彼都:2006/08/04(金) 21:21:49
ハイ!
今もお父さんの携帯でアクセスしてます。
あぼーん
彼都・・・・・本当にチョンコまるだし
19 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/08/04(金) 22:29:27
隋書で言う『彼都』とは
起点を隋とした時の倭国の都の事であり、この場合●編纂者の目線は“隋に留まり→倭都をカキコ”
●裴清は移動のない倭国の都(定点)です。
お前ら
新しいスレ立ててからまともなレス一つも無いよな!
しっかりしろよ。
百済ねぇカキコしてないで……
では!
馬鹿だな・・・PUの百済ねぇレスなんて、信用してる奴いるのか?聞き役に回ったほうが身のためだぜ。
萩原1号墓出土の画文帯神獣鏡
の銘文の復原です。
吾作明竟 天王日月
幽凍三商 統徳序道
配象萬京 天王日月
敬奉賢良 天王日月
曾年益壽 子孫番昌
天王日月 與天無亟
天王日月 見師命長
なぜ銅鐸を埋め、鏡を祀った
のでしょうね。
鏡の銘文はおもしろそう。
馬鹿だな・・・PUの百済ねぇレスなんて、信用してる奴いるのか?聞き役に回ったほうが身のためだぜ。
>>21>>23には
>>19のレスは少し高度だったか?
このスレのLevelも計り知れたし 居る意味無いことも解ったので退散します。
スレ汚し失礼しました。
いつもながらの異説を自慢した、東広島の人
何の事前説明もせずにスレ違いの隋書ネタなんか振って、
どんなデンパ飛ばす気だったんだろな?
ここは質問スレじゃねーってんだよ。
あー言う見境の無いスレアラシが嫌われてる理由だと何でわからないのかな。
ま、厄災は去ったことだし安心して寝るか。
あぼーん
あぼーん
29 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 01:21:40
31 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 11:00:17
>>30 おとーさん!
僕はおとーさんに似たから馬鹿なの?
馬鹿にさせても参加したいよ。
あぼーん
33 :
14:2006/08/05(土) 11:28:48
>>30 俺、
>>14の偽「彼都」君だけど・・・
オマエが「馬鹿だ」って言うのが伏線というか前提なのかw
と、罵倒だけでは哀れなので少々解説。
我らがぷ氏はヤフの邪馬台国トピで隋書の裴世清遣使の件に出てくる「彼都」の意味に拘って
とある親切なユーザに絡んだのだが・・・意思疎通ができず悩んでいるのです。
実は、ぷ氏は「彼」とは此方彼方と言う場合の遠称を示す指示詞だと説明したかったのですが、
適切な表現が思いつかず「筆者の視点がナンたらカンたら」と意味不明のコピーを繰り返すだけで、
すれ違いに終わりました。
相手の方は、漢文のプロではありませんが、平易な言葉を選んで「彼」とは三人称を示す指示詞
だと説明してくれていたんですけどねw
解ったかな >>ぷ
それにしても
よく釣れます。
入れ食い状態とはこの事
いい訳始めたよ・・・暫くすると怒り出すぜ・・・
あぼーん
あぼーん
38 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/08/05(土) 15:46:30
>>33 君は実に素晴らしい!
なんて才能を持った人なんだ 感服したよ
君は実に偉い人だ 博学だ 素晴らしい
実に素晴らしい
今度は
賢い人になることを願っているよ
39 :
彼都:2006/08/05(土) 15:47:38
ぱぱ レスしてもいい?
あぼーん
41 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:30:24
■在日が通名を使い、朝鮮人であることを隠して生きるようになった理由■
<コピペ>
私の子供の(昭和30〜40年)頃は、終戦直後の余韻がまだ残り、『朝鮮人』と言うと、
それは凶悪犯罪者を意味しました。小学生のころ、夜のラジオで聞くニュースは「キン・・」
「ボク・・」などの朝鮮人による事件のニュースのない日はありませんでした。
敗戦と同時に、全国で一斉に始まった朝鮮人による強盗・強姦・恐喝・・など、あらゆる社会的
犯罪のひどさは、いずれ明るみに出されると信じています。
敗戦後、日本は急速に治安を回復すると、朝鮮人達は、誰からも相手にされなくなりました。
すると、このころから、『在日に対する言われなき差別』などと言い始めました。
しかし、当時の日本人は、こんな「身勝手な言い分」を誰も相手にしませんでした。日本人が、
朝鮮人に対して、「軽蔑」と「恨み」を強めていったのは、この、日本が戦争に敗れた時の、朝鮮
人の言動のひどさにあります。
◆ 満州・半島では、女・子供と老人ばかりの避難民を襲っては、女は強姦して殺し、子供は中
国人に売りました。
◆ 何年か前、在日たちは、以下のことを日本人に言いました。
「お前たちは、むかし悪い事をした日本人の子孫だから、お前たち子孫が、責任を取れ・・」
朝鮮人は、自分達の犯罪をごまかす為に、強制連行・従軍慰安婦など、歴史の捏造や歪曲して、
事実を逆さまにして、大声で叫んでいるのが、真実です。
必ず、本当の歴史が明るみに出てきます。出します。私たち日本人は、決して朝鮮人を許しては
ならないのです。朝鮮人のした、日本人に対する残虐な歴史を、決して忘れてはならないのです。
あぼーん
日本@名無史さん どうして緑と青があるんですか?だれか教えて
44 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:20:42
★倭姫命は卑弥呼なのか★
倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代日本の人物。
第11代=垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により伊勢神宮などを建立したとされる。
伊勢神宮最初の斎宮(齋宮)である。皇大神宮別宮の倭姫宮に祀られているが、その創立は大正10年1月4日であり、
神宮別宮としては極端に新しい神社である。
伊勢神宮を建立したときの天照大神から倭姫命への神託は、『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では
「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也
傍國可怜國也 欲居是國」であり、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、方国(かたくに)の
すばらしい国なり。この国におらんと欲(おも)ふ と伝えられている。
倭姫命が伊勢神宮を建立するまでに八咫鏡を順次奉納した場所は元伊勢と呼ばれている。
また、日本武尊に天叢雲剣を与えた人物でもある。
倭姫は卑弥呼なのだろうか。卑弥呼が死去したのは247年頃だと言われている。
時代的には、卑弥呼が活躍した時代と倭姫の時代は重なるのだが。
45 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 19:20:47
卑弥呼=倭姫命ならば、
五百野皇女が卑弥呼の後継者=トヨか・・・。
46 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 20:44:19
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫って説はどうなの?
畿内説も尾張だな、馬鹿が住みついてるけど、
畿内以外より此処が有利だ!って事揚げてくださいよ。
突っ込まれないように身長にお願いしますね。
ずぼずぼ突っ込まれるの無しにすれば、馬鹿みたいだぜ。
初代天皇も九州から大和に東征してきたと日本書紀で明言しているんだから間違いないでしょ。
>>48 間違いないのに、
神武の奈良の神社が無いのはどう説明する?
しかも奈良の大きな神社なんて殆ど移設だぜ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>48-49 神武東征神話をどう考えるか?でしょう。
天孫が筑紫の日向に降臨してしまったから、大規模な東征が必要となった訳です。
では何故、天孫が日向に降臨したのかですが。
あぼーん
何処に集まれって言うの?
あらしはスルーに限るよな
あぼーん
あぼーん
ていうか、何度も論破されてるんですけど。
61 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 22:53:22
これがほんとのロンパールームヽ(`Д´)ノ
邪馬台国 ネタ切れ中???ごめん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
PUの話は置いといて・・・
先週奈良を日帰りでまわった。そこで某研究所の附属博物館に行った。そして
黒塚古墳の図録を購入した。写真の横の銘文を読んでみるとなんら政治的意図が感じられ
なかった。思うに三角縁神獣鏡が魏からの下賜品だというのは極めて可能性の
低い話では無かろうか。優良製品だというのはある程度わかるが、日本で五百面
近く出土しつつも中国で発見されないというのはどう考えてもおかしい。大和朝廷
が中国工人ないしその技術を受け継いだ倭人に作らせたものでは無いのだろうか。
>>67 三角縁全てを舶載、なんて言ってる奴はいないだろ。
>>68 いるぞ。一般人じゃなく三角の研究者の中に。
>>68 舶載三角縁神獣鏡と呼ばれるこの種類の中での優良品の総数は軽く百面を超えてる
はず。福永氏によるとすべて日本(中国)製、四分の三が魏鏡、四分の一が倣製(総数
約五百面のうち)という3つの考えが主流だということ。だから居るんだろうね、
すべて中国製だっていう人が。
ちなみに天理の黒塚古墳の隣にある資料館は完全に舶載鏡説だったし、邪馬台国
大和説だった。郷土愛激しいなと思ったね。
72 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 14:11:50
天理教が畿内説だからな。
74 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 15:16:48
よく解んないだけど、卑弥呼の墓ってどこ?
箸墓だよ。
>>75 言い切るのはいかがなものか?そこまで年代上げて考える人は少ない。
77 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 18:15:59
箸墓?
他にも古墳なんて沢山あるじゃん。
なにか決め手となる特長とかあるの?
78 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 19:07:05
所詮庄内期のマキムクは唐古鍵の延長線上、一地方政権に過ぎない。布留開始期にこそ画期がある。
つまり、大和吉備連合によりもたらされた瀬戸内海経済圏の覇権。その象徴が箸墓。
卑弥呼の墓がもし畿内にあるとすれば、箸墓こそが相応しいだろう。
79 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 20:28:23
>>78 >相応しいだろう
>>意味が解りません。
卑弥呼の墓がそれ相当に相応しいとする理由も無いし、今まで発見すら覚束ないのであれば
案外こじんまりとした墓の可能性もあるし、既に平に整地された可能性も否定出来ない。
倭人伝にも、墓が大きいなどとは書かれていないし、案外、ロマンの蓄積が箸墓ではないかと
径百余歩が案外こんじんまりと言う根拠は?
どちらにしても、箸墓が初期ヤマト政権で特別な陵墓であったことは
間違いない。
被葬者と伝承されるトトヒモモソ媛は、吉備津彦の姉。
箸墓は大和で最初に円筒埴輪を並べた古墳。そのため土師の墓と呼ばれた。
おそらく箸墓は、吉備大和連合誕生のモニュメントとして築造されたか。
もしくはモモソ媛自身が吉備出身であることも考えられる。
浦間茶臼山は箸墓の二分の一で設計されているし、
布留0頃に、大和=吉備の連合が成ったというのは妥当な解釈。
畿内に邪馬台国があったとすれば、対外交易や瀬戸内海交易路掌握に、
吉備の協力は不可欠。
で、大和吉備連合成立のキーマンになったのが、百襲媛。
百襲媛を共立することで、連合が成立したと。
連合成立時期は庄内後期。
倭人伝には卑弥呼と記載された。
83 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 21:33:58
>>80 箸墓を「径〇〇」などと表示される事はないだろうし、一歩はせいぜい50p以下だろうよ
六尺一歩などは大陸の道里を記里鼓車で計る為の便宜上だよ
あぼーん
あぼーん
>>83 短里説か。完全に消滅したと思っていたが。
87 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 22:08:56
>>86 >短里説
>>違う違う
常識説や
一歩=140p はいくら何でもサバ読みすぎ そんな歩幅見たこと無い
>>86は見たことあるか?
歩は二歩分だから
89 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 22:30:32
>>88 >歩は二歩分
>>なんじゃそりゃ?
何でもあり状態か?
何時の世も一歩は一歩だろう
誰だ?一歩は二歩だなんて言出した学者は?
あぼーん
あぼーん
92 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 23:11:32
なんだこりゃ?
へんてこりんなレスがいっぱい。
怒ってんのか?
わりぃ わりぃ
俺 大人の世界には、本音と建前があって、言ってはいけない事が沢山ある事は解っているけど ついつい疑問感じるとストレートに言っちゃうんだよ
かんべんしてくれや きいつけるから
>>そうだ。誰がなんと言っても卑弥呼の墓は箸墓だし、歩=二歩だ
>>89 >何時の世も一歩は一歩だろう
老婆心ながら、もうちょっと勉強してから書き込んだら?
アホがばれるよ。
あぼーん
【歩】左右の足を一度ずつ前に出した長さ。(広辞苑)
96 :
漢和辞典:2006/08/12(土) 07:15:29
「歩」
・かた足の長さ
・かた足を踏み出した幅
・ふたあしの長さ
・六尺四方の土地
・比率
………………………………(ふたあしの長さ)
この意味は、行進などの時に使われる『歩調』の「歩」の字意
………………………………身体を使用し距離を計測する方法の「歩」の場合は『歩数・歩幅』
(かた足を踏み出した幅)
97 :
漢和辞典:2006/08/12(土) 07:40:06
「補足」
径百歩がどのような意味かは知らんが
・長さであるなら
>>89のレスが正解であり
・行進を目的としたのであるなら
>>93や
>>95のレスが正解
と、言うことです。
98 :
漢和辞典:2006/08/12(土) 07:44:27
あぼーん
>>83はスルー汁。書いてる文章でバレバレだから。多分山尾の文章とか知らないんだろうなー。
すごく哀れ。
あぼーん
102 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 23:57:46
弥生中期に完成した唐古鍵の大環濠。
掘削土量は大型古墳の体積に等しい。
唐古鍵を過少評価している奴はどうかしてる。
あぼーん
104 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 00:03:49
纒向石塚古墳の横に方形周溝墓が2基見つかったそう。
やっぱり石塚築造勢力(マキムク)は、畿内勢力後継と考えた方がいいのでは?
あぼーん
あぼーん
方形集公募は一般人の比較的偉い人の墓だよ。人が住んでいたという証拠でしかない。
108 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 12:09:10
畿内が方形周溝墓、北部九州が甕棺墓、日本海沿岸西部が四隅突出墓と、
地域性があるが。
石塚の傍に畿内伝統の方形周溝墓があるというのは、畿内勢力がマキムクの主体勢力だった
という証左ではないだろうか?
畿内伝統というより日本中にあるがな。
>>109 「どこに出現したか」とか「伝播」とか、
まるで分かってないな、君は。
111 :
名無し@日本史:2006/08/13(日) 17:12:26
これで甕棺とか見つかってたら東征説の人が「巻向は九州の邪馬台国が作ったんだ!」
とか言い出してたんだろう。けれども、現実は違った。この事実から石塚を作った勢力
が少なくとも近畿地方の人だということがはっきりしたはず。
話は変わるが先日石塚にも行った。が、発掘してなかった。残念。
>>111 2世紀末の北部九州では成人甕棺葬は下火。
平原みたいな木棺・石棺と方形周溝墓の組み合わせがある。
弥生時代から日本中にあるがな。
あぼーん
あぼーん
116 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 08:01:26
>これで甕棺とか見つかってたら東征説の人が「巻向は九州の邪馬台国が作ったんだ!」
>とか言い出してたんだろう。けれども、現実は違った。この事実から石塚を作った勢力
>が少なくとも近畿地方の人だということがはっきりしたはず。
その議論は寺沢論文に反論がないことで終っているのだが。
京大考古研の連中がまとめた例の本も読むこと。
大体その時期九州はカメ棺じゃないし。勉強しろよ。
117 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 08:31:41
寺沢論文で、どんな議論が終ったと言ってるの?
初期前方後円墳が外来的要素が強いからと言って、必ずしも外部勢力と結びつける必要はない。文化は伝播もすれば変化もする。
例えば、北部九州の甕棺墓が廃れるのは、外部勢力の影響と言うのか?
>>111 >>116 ご教授有り難う。ただ後で図録見たら方形周溝墓の時期が石塚より後だった。
>この事実から石塚を作った勢力
>が少なくとも近畿地方の人だということがはっきりしたはず。
というのは間違いだな。すまん。
119 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 11:13:03
銅剣をもった渡来人が木の棒をもった原住民を制圧してのちに鉄剣をもった外人に制服されたとみた
方がすんなりといく
あぼーん
121 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 18:18:23
>>119 でも実際のところ、大規模な戦乱の跡は見つかってないんだよね。
倭人伝曰く、卑弥呼を共立した倭国大連合で倭国乱が収まった、と。
高地性集落やら防御技術の向上で、軍事的膠着状態に陥った、というのが倭国乱の実態なのだろう。
あと、鉄の武具に対する過剰な信仰から、抜け切れない人が未だに多いのは考えものだな。
あぼーん
123 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 08:38:45
>>102 唐古鍵遺跡はまだ全体の一割程度しか調査してないし、また色々発見があるだろう。
おそらく後期見る銅鐸の生産センターだっただろうし。
唐古の青銅器生産は後期はじめごろまでみたいだぞ。
125 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:49:28
銅鐸が大型化するなかで、鋳型が石→粘土に変わったからでしょう。
痕跡が見つかりにくくなっただけ。
銅鐸だけのはなしじゃなくて、青銅器生産全体みたいよ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
135 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 08:29:55
弥生後期で畿内の石器出土数が落ち込むのは、鉄器の普及が推測される。
マキムク外部入植者説の人は、畿内勢力自体の衰退と考えてるみたいだが。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
巻向大溝の築造には、ある程度の鉄器が必要だったろう。ではその鉄の供給者
はどこの地域だったのか?
140 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:20:55
畿内が最初に注目したのは日本海航路。見る銅鐸をプレゼントするなど、友好関係に努めた。
のちに吉備との同盟による瀬戸内海航路掌握で、日本海航路の重要性は薄れた。
あぼーん
142 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:45:31
>スサノオは、黄泉国に行く前に、姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと天上に昇る。
>スサノオが天に昇るとき、海は轟きわたり、山も鳴りひびいた。このあまりの猛々しい登場ぶりに、
>アマテラスは、スサノオが国を奪いに来たのかと男の姿で武装してのぞむ。
★日本神話におけるアマテラスとスサノオの関係★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1067010993/148-150 古代日本の二大勢力、日向族と出雲族の戦争が、神話に投影されている。
>スサノオの行いがひどかった。
>アマテラスが機殿で神衣を織っているところに、屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ入れるという
>スサノオの暴挙に対し、それまで我慢していたアマテラスもとうとう怒る。
>アマテラスは天の岩屋戸に閉じこもり、世界は暗闇につつまれてしまう。
スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
あぼーん
144 :
22:2006/08/17(木) 22:12:59
考古学と神代の記紀のすりあわせは、
人気がないかと思いつつ。
記紀の記述によれば、天照大神の世代で
既に鏡を祭器に用いているようですし、
鋳造もできていたようです。
九州を除く西日本で考えると、天照大神の世代は
庄内期以降が妥当ではないでしょうか?
もっと時代が上がるべき具体的な記述はあるでしょうか?
145 :
太国:2006/08/17(木) 22:18:35
紀に、天孫降臨以来179万余年とかの数字あるな。
146 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 00:10:22
>寺沢論文で、どんな議論が終ったと言ってるの?
>初期前方後円墳が外来的要素が強いからと言って、必ずしも外部勢力と結びつける必要はない。文化は伝播もすれば変化もする。
>例えば、北部九州の甕棺墓が廃れるのは、外部勢力の影響と言うのか?
アホすぎ。北部九州の政治権力は、中期、後期で文化的、政治的連続性があるのはどんな
考古学者も否定していない。一方、倭王権と畿内(といっても大和盆地の数個単位の小共同体)
にはほとんど連続性がない。そもそも、畿内勢力というものが一度も証明されていないしね。
147 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 00:57:33
>>146 畿内勢力の証明?唐古鍵で十分だろ。
唐古鍵からマキムクに、断絶を求め過ぎる嫌いがあるな。
君が思っているような断絶が、果たしてあったのかは疑問。
戦争の痕跡は無いわけで、少なくとも畿内勢力も
マキムク大王権に参画していたのは間違いない。
君が何と言おうとね。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
157 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 20:07:34
大和=吉備連合の成立はいつのことか?
上の方で布留0という説があったが、妥当性はあるんかいな。
158 :
名無し@日本史:2006/08/19(土) 10:34:46
>>157 一応箸墓より古い中山大塚から特殊器台も出てるし、布留0までには連合は成立
してたと見て間違い無いと思う。ついでだが、西新町遺跡で庄内が大量に出てるって
ことは畿内人の移動があった証拠。そうすると、その航路に位置している勢力とは
同盟している可能性は高いとも思われる。要は、庄内期に大和・吉備連合が成立し
ている可能性もあるってこと。
159 :
がいやまん:2006/08/19(土) 10:55:34
吉備の影響圏を山陽一帯で、これを投馬国とすると、その東端が大和、西端が
筑前となり、山陽シーレーンが確保され、大和から筑前に庄内土器を持つ流動性
のある人々が移動したのか、あるいはUターンしたのだろうか。倭人伝によれば
一大率という総督のようなものが駐屯しており、在来の地方官と共存している。
邪馬台国のイキマという官職とこの一大卒を同等のものと見ると生駒税関長、
伊都税関長のようなもんだったんかなー。相当武力もあっただろうが。
160 :
がいやまん:2006/08/19(土) 11:02:28
桃太郎の話は吉備が玄界灘の壱岐・沖ノ島・志賀島辺りの渡来系勢力を襲い
交易ルートを確保した話とも取れる。金印喪失はこの時かも。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>158 箸墓築造時に、マキムク政権に大きな飛躍があるのは確か。
実際のところ、庄内の頃、大和=吉備の対等関係にあったものが、
布留の時期に逆転した、と。
箸墓の二分の一サイズの古墳を造っている時点で、大和>吉備が確定したのかも
しれない。
>>165 俺はその飛躍を、同盟で成り立っていた倭の政治体制が、大和を中心とする
王権に取って代わられたものと見る。勿論その前代からもその萌芽は見られるとは
思うのだが。
あぼーん
168 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 07:24:23
>畿内勢力の証明?唐古鍵で十分だろ。
唐古鍵が畿内はおろか、大和盆地を掌握していた証明なんて出来ないんだけど。
唐古鍵を過大評価する見解は、「地元の」埋文の寺沢や清水ですら否定してる
古い珍説。
>唐古鍵からマキムクに、断絶を求め過ぎる嫌いがあるな。
>君が思っているような断絶が、果たしてあったのかは疑問。
断絶も何も連続性が何もないのだが。
九州はともなく、中国、山陰ですら出現している特定個人墓すら
ないからね。
>戦争の痕跡は無いわけで、少なくとも畿内勢力も
>マキムク大王権に参画していたのは間違いない。
>君が何と言おうとね。
こ時代の高地性集落の分布は、戦国期の山城に次ぐ(森浩)。
後期の畿内は、石器も鉄器も少ない(寺沢)。
君の言っていることは、考古学的に全く根拠のない珍説。
それなりの地位をもって、参画してたっていうなら、考古学的
物証が必要。
169 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 13:40:40
>>168 いや、君の指摘はまったくその通りなんだが。
個人墓の非存在など。
しかし、どの説にもネックがあって、
君の信じてる説が「伊都国東遷説」か何かは分からないが、
どうせ、100パーセント整合性がある説なんて存在しないだろ。
少なくとも今のところはね(文句があるなら、自説を披露してみて下さい)。
はっきり言っちゃえば、1割しか調査されていない唐古鍵を即断するのは禁物だろ、
ということ。結論を出すのはまだ早い。
上の方でも書いたが、大環濠の存在から考えても、大土木工事を指揮し得た
首長が唐古鍵に存在したと考えるのが、普通だと思うのだが。
「墓だけに着目」とういう狭い視野は、改める必要があるのでは?
170 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 13:45:53
★日本神話におけるアマテラスとスサノオの関係★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1067010993/148-150 古代日本の二大勢力、日向族と出雲族の戦争が、神話に投影されている。
>スサノオの行いがひどかった。
>アマテラスが機殿で神衣を織っているところに、屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ入れるという
>スサノオの暴挙に対し、それまで我慢していたアマテラスもとうとう怒る。
>アマテラスは天の岩屋戸に閉じこもり、世界は暗闇につつまれてしまう。
スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
171 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 13:47:06
>スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
>この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
>せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
>神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
>アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
スサノオが高天原で暴れて追放される話と、出雲で八岐大蛇を退治する話は、もともと別個に存在した話だ。
高天原で暴れ回る悪神の話は日向神話であり、出雲でオロチ退治する英雄神スサノオの話は出雲神話である。
そして、オロチ退治する英雄神こそが本来のスサノオの姿であり、この神話は4000年以上前の古代から
出雲に伝承されてきた神話であろう。
一方の、高天原で暴れる悪神スサノオの話は、日向族が創作した神話であり、
日向族がこの神話を作った時代は、日向族が出雲族を征服したBC200年前後であろう。
つまり、オロチを退治する英雄神スサノオの物語のほうが古い神話である。
高天原で暴れて追放された悪神スサノオと、出雲に降りてオロチを退治した英雄神スサノオでは、
とても同じ神とは思えないほど、性格が異なるが、これは別個に存在した出雲神話と日向神話を
強引に一つにしたためである。
八岐大蛇は河の氾濫=洪水を神格化したものだが、この洪水を鎮めるスサノオは「水の神」であり、
水霊(ミヅチ)である。ミヅチは聖なる蛇=龍に通じるから、スサノオという神は、もともと龍神なのだ。
つまり、スサノオの八岐大蛇退治の神話は、龍神がオロチ(愚霊=愚かな悪蛇)を退治する話なのである。
172 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 14:40:50
素人考えだが、吉備のたてつき遺跡で当時最大規模の水銀使用跡が
確認されてるし(卑弥呼の鬼道が道教的なものなら水銀が重要)、新時代の
貸せんも他の国内総量の倍規模が発掘されているから、倭人・華僑コロニーであったかもしれない。
なんといっても北九州でもみつかる祭祀用とみられる分銅仮面、後の埴輪の
原点たる特殊器台は吉備が発祥の地。その独特の弧帯文模様は、蛇信仰を思わせる。
時期的にも当時国内最大の墳墓なのだから、たてつきあるいはその周辺に邪馬台国
首府があったとみるのが、考古学的見地では? その後、マキムク大和に遷都したとしても
邪馬台国吉備説が語られない理由がわからない。
173 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 14:59:32
>>171 どうして出雲風土記には、オロチ退治が出てこないのか説明してみてください。
あぼーん
>>168 今時弥生後期の大和盆地を「権力の空白地帯」みたいに言うのはどうかと。
唐古からそれなりにモノは出てるわけだし。青銅器工房・大規模な環濠なんかは
権力の証明だろ。ただ唐古が大和盆地、または畿内を統括していたというのは
どうかと思うが。だがそれなりの権力が存在したのは事実。そして第五様式と
類似する巻向一式、出土土器の比率から考えると地元民の方が数が多いといった
ことから考えて「巻向」が唐古など大和盆地東南部の勢力・民衆が主体になっていた
可能性が高いと思うのだが。
176 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 08:37:10
大和の環濠集落の環濠が一斉に埋められる時期が、畿内勢力が一本化した時期。
庄内の初め。倭人伝で言うところの、卑弥呼の前の男王の時代。倭国乱の時代でもある。
177 :
がいやまん:2006/08/22(火) 10:17:06
178 :
がいやまん:2006/08/22(火) 10:37:24
朱は、吉野ヶ里では人骨に塗られたと言ったものもあるが、青銅器に塗るもの
のようであり、これを独占するもの、たとえば楯築の大王は筑前、豊前、河内、
近江の青銅器産地に支配権を持つことになるのではなかろうか。ただし、上の
地図をよく見ると肥前(ハヤヒワケ)、丹後(ニギハヤヒ)には主要産地があり、
古代においては肥の国から丹後に権力中心の移動、ニギハヤヒ東遷があった
が、その後天孫主流を標榜するものが吉備経由入ってきたということになろうか。
179 :
がいやまん:2006/08/22(火) 10:43:08
歴史的には中央構造帯が最初で、次に日本海(アズミ)があり、最後に山陽(天孫)
が入ってくる。これは日本海(アズミ)に河内で反撃を受けるも、攻撃を続け中央
構造帯を征したということか。
あぼーん
181 :
がいやまん:2006/08/22(火) 13:17:30
あぼーん
あぼーん
tp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060822-00000306-yom-soci
185 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 18:51:45
名前:ξミヽ( ・∀・)ノξ ウンコー ◆2.0Km1unko [] 投稿日:2006/08/22(火) 16:19:57 ID:7vs67EJG0 ?PLT(12235) ポイント特典
古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。
邪馬台国が存在した時代(3世紀前半〜中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)
を中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。
2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた
二重構造の埋葬施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。
一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、
全長25メートルの前方後円形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは
1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土している。埋葬施設は二重構造とみられている。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060822-00000306-yom-soci
187 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 20:33:04
>>185 上の話おかしいよ魏志倭人伝に邪馬台国の墓は、棺有るも槨なしと
書いてるよ、やっぱり九州なんだよ。
ボンクラ学者何必死コイてんだ?
なんか急ぐ理由でもあるのかw
189 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 21:04:42
190 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 21:38:03
邪馬台国=大和国=畿内説は、
すでに一般人の常識となってるみたいだな。
191 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 22:43:16
最近巻向が九州に有ったとする説が浮上
あぼーん
193 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 08:29:28
実際のところ、北部九州→大和っていう政権の流れには、誰も異議を唱えていない訳で。
要はその時期はいつか?ということ。
C14や年輪で庄内や布留の実年代が測定されつつある今、邪馬台国比定地論争は余り意味がなくなった。
194 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 08:32:09
韓国女の卑弥呼を崇拝する日本人はバカ
195 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 08:54:05
196 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 09:05:29
その当時に”邪馬台国”という言葉が
どういう意味で使われていたのか
ひとつの国を示す固有名詞だったのか
教えてください
197 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 10:05:00
>>194 >>195 だったら、古書にモロ残るし、すでに3Cには須恵器(灰陶)が
伝わってるだろアホ。
あぼーん
199 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 11:19:44
>>197 魏志倭人伝にそう書いているだろが
「名曰卑弥呼宣帝之平公孫氏也」
200 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 12:06:38
名を卑彌呼と曰う。宣帝、公孫氏を平ぐるや、
(其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。)
となw
あぼーん
202 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 12:59:00
偉い人、以下のどれかを選んでくれ
1、北九州を傘下にした吉備瀬戸内政権(邪馬台国)が崇神大和に負け、連合遷都
2、吉備瀬戸内(邪馬台国)を傘下においたマキムク大和吉備連合が北九州を併合
3、日向宇佐勢力(邪馬台国)が吉備と連合、東進して大和連合政権に
203 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 13:57:35
邪馬台国は九州にあったということで
---------------------------終了--------------------------------
204 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 13:59:44
大陸からまず最初にたどり着く土地は、「九州」だ。
いきなり渡来人がわざわざ関西(畿内)まで行くか?ボケ!
205 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 14:13:13
>>202 2が正解。AD240-250年頃には北部九州は庄内土器を使用するようになった。
206 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 14:16:20
九州から先に大陸から文明が伝わった。畿内はその後だ。
つまり九州→関西だ。分かったか?関西人ども。
207 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 14:34:50
畿内邪馬台国は、当然のことだが、九州先進文明に続くもの。
あぼーん
209 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 14:46:37
>>202 2でしょう。
>>206 はいはい、それで先進文明の北九州が、劣った畿内に併合された理由を明快に説明してね。
そもそも「畿内勢力が劣ってる」という前提の間違いに気がつかなきゃ。
あぼーん
211 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:03:11
>>209 大陸からまず最初にたどり着く土地は、「九州」だ。
だから畿内の人間は、九州からの流れ者つまり移民だと考えている訳。
渡来人→九州人→関西人
関西からいきなり文明は、発生することは考えられない。だから邪馬台国は九州で決まり。
212 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:21:00
九州が先進地なのは当然。だが、ヒミコは古墳時代。古墳は近畿に始まる。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
218 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 17:03:43
倭人伝には、不弥國の南に邪馬台国はあると記されている。不弥
國を九州とする説には大和論者も一致しており、それなら邪馬台国は
九州である道理である。又倭人伝には、邪馬台国は気候は温暖で、会
稽・東治(今の中国河南地方、東シナ海に面している)の東にあるとも
記されており、邪馬台国=九州とすれば全てが符号する。
219 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 17:06:05
不弥國から邪馬台国までは1300里であり、不弥國を中心に円を描けば半径1300里の中に畿内はとうてい到達しない。
邪馬台国は狗奴國の北に位置するが、クナ國はクマソの事である。
クマソとは熊蘇國の事で、クナ(球磨)とアソ(阿蘇)が合わさって転訛したものであり、クマは球磨川としてアソは阿蘇郡として現在も残っている。
狗奴国の官の名前、狗古智卑狗は菊池彦であり、今も菊池川・菊池郡として残っているので、その北側に邪馬台国が存在したとすれば、邪馬台国は筑後の山門郡という事になる。
220 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 18:49:24
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
226 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 19:07:08
現在でも文化は地方から発生するのを知らないなんて、倒幕も四国や山口でおこり
あらいぐまも北海道から始まり大阪全域がクマだらけになってて
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
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>>200 也を「や」とは訳しませんが
それに宣帝はBC1世紀の時代だよ
卑弥呼の時代じゃないだろ
宣帝=晋の宣帝=芝居中立つ。
晋書ですから。
あぼーん
あぼーん
266 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 19:55:15
やはり近畿・四国地方あたりの民族的起源は、日本語のアクセントから見て古代朝鮮系だなwww
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
272 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 20:34:10
栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在せず、邪馬台国の名は突如として消え、代わりに大和朝廷が全国統一の勢力
を急に拡大する。ヤマトという名称は九州に起源を持ち、国家を統一した勢力は九州の邪馬台国から来た事を窺わせる。弥生時
代の、近畿圏での祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、大和朝廷成立後我が国の歴史に一切現れず、代わって九州地方の祭器・
神器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場している。剣は、天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が
近畿圏で発生し、邪馬台国から大和朝廷へ発展したのならどうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてしまったのか。
邪馬台国が九州から来て大和朝廷を樹立し日本を統一した、と考えるのが妥当である。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
278 :
がいやまん:2006/08/24(木) 22:01:01
>>272 国際的には黄巾の乱のような宗教、革命的な動きもあり、思想とか、アイディアが
一握りの指導者とか、海人族によって伝達される可能性もあろう。また、九州の
庄内土器も商行為の対価として入ったと言うこともありえる。漏れは、九州人は
金持ちけんかせずで動かなかったと見る。怪しいのはボートピープルのように
やってきて古墳建設の底辺を支えた大陸の食いつめもの達のような気がしない
でもない。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
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299 :
がいやまん:2006/08/25(金) 08:21:09
>>278 豊前では「「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である
北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、
北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。
香春大明神も八幡大神にむかって同じようなことを云った、とある。」
記紀によるオシホミミ降臨の中断とニニギの登場、神武の東遷が言われている
ところから見ると伊都国、奴国からの東遷はなかった。
300 :
がいやまん:2006/08/25(金) 08:34:52
しかし、神武は東遷下にしては影が薄い。実際に動いたのは香春にいた秦系渡来人
アメノヒボコ、鏡作り、鉱山技術者(古墳担当課)で、鏡配布システム作りは伊都国の
近畿総督府のような丹後籠神社系統で、その出身者シイネツヒコ、倭宿禰が主役、
実行者は阿讃播、吉備の豪族、尾張の土器製作者などであろう。つまり、九州は
どちらかと言えば豊前のウェートが大きい。多分石塚山被葬者の先祖が主役だった
のではなかろうか。邪馬台国の中心箸墓は兵主神社を向き三輪山は無視している。
これは秦氏の影響だろう。箸墓を飾るのは吉備の特殊器台だ。
301 :
がいやまん:2006/08/25(金) 08:43:05
従って邪馬台国は豊の秦系統、丹後/尾張、吉備などの合作のようなもの。
これには河内・山城・越方面からの不満が高まり、記紀にあるタギシミミ暗殺、
佐紀盾並方面への移動となるのだろう。
302 :
がいやまん:2006/08/25(金) 08:48:07
託宣集からも八幡神がオシホミミと敵対している様が見て取れる。筑前に
庄内土器が増え、邪馬台国時代に一大率が諸国を畏怖さすのは豊前の
力ではないかと思う。
303 :
がいやまん:2006/08/25(金) 09:36:20
>>300 東遷する神武と言うのは盗まれた神話だろうが、日向でアビラツヒメと暮らしていた
実在の神武はあった可能性が強い。盗まれた神話は景行記で使用されたものの
一部であり↓
http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/s-keikouki.jpg これはニニギこと、倭面土国帥升の版図だと考えられる。帥升と言うのは140人
もの生口を洛陽に連行するほどの大王であり、伊都国、奴国をはるかにしのぐ
存在であったのだろう。邪馬台国を生んだ遠因はここにある。また豊前に弁辰
の工人を連行したのもこの大王であったのかもしれない。
304 :
がいやまん:2006/08/25(金) 10:00:00
ニニギ・帥升を日本の国父とできなかったのは伊都国・丹後を結ぶ海人族とその
鏡宗教に国の根幹を依存したことにあるのであろう。こうしたバックボーンなしには
出雲の築いた銅鐸王国の転覆は不可能であったということか。
あぼーん
306 :
がいやまん:2006/08/25(金) 10:12:33
丹後には阿蘇海、竹野、天の松原のような風景がある。しかし、ニギハヤヒは
伊都国の命に背き出雲と道ならぬ恋をしてしまった負い目があるのではないか
と思う。だから遠回りに神武経由で、神話を盗むなどして、伊都国の権威を
東遷、つまり、アマテラス東遷をしなくてはならない苦境にあったのであろう。
あぼーん
あぼーん
309 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 12:34:22 BE:70675362-BRZ(3002)
http://inoues.net/tizu.gif この地図見れば九州の人間なら
唐津から糸島に行って前原か博多あたりをうろうろして
そこから下に下って佐賀平野あたりの邪馬台国つきました
以外は考えられない、そして下にはクマソがいるって言ってるんだから
これは明らかに熊本のことでその上なら間違いない。
だったら大きくみても佐賀平野か福岡の下か熊本の阿蘇より上の部分
どっちにしても九州最大の平野であり稲作で大人数を養えたであろう
佐賀平野とその周辺しか考えられない
畿内説は無理やり方向を変えて鏡が出たとこに
持っていこうとしてるけど船での航行技術があるので
ちょこっと角度や距離が違うならともかく90度とか180度
方向が違うのはありえない、古代人でも太陽の方向見れば馬鹿でもわかる。
あぼーん
あぼーん
312 :
がいやまん:2006/08/25(金) 13:30:25
>>309 j狗奴国と熊襲がちときつい。この熊というのは熊野なんかと同じではないかと思う。
中国語に直すと匈奴の匈と同じになる。一方、狗奴国の狗は犬であり、犬戎、狛
等と関係がありそう。これは山陰、越、中部、関東に色濃い。これは高句麗関係
ではないか。熊のほうはさほど犬にはこだわらぬ感じで、山奥にこもる傾向が
あるようだ。これは山戎と関係があるのではないかと思う。漏れもこの辺については
目下大陸の情報を分析中で決定的なことはいえない。ただ、倭人伝は人口把握を
やっており、ある程度古墳も見ている。そして鏡、古墳の分布を見てもAD250年頃の
本州の実勢に合っている。
あぼーん
あぼーん
315 :
がいやまん:2006/08/25(金) 13:41:39
熊襲の起源について九州考古学における重要な情報は↓と見ている。
勒島貿易と原の辻貿易
(1) 弥生前期末〜中期初頭
3.粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易
滑石混和土器を出土する沖縄の遺跡では青銅器片などを出土する場合があり,
弥生前期末〜中期初頭の北部九州に朝鮮産青銅器が流入することと一連の物資
の流れが沖縄まで及んだと考えられるが,古朝鮮の人びとが南方に移動するような
情勢がその背景にあったと考えられる。
あぼーん
317 :
がいやまん:2006/08/25(金) 14:13:18
>>315 ついでだが、鹿児島、沖縄には春駒踊りなどといって、馬の首を着物の前につけて
踊るのがある。これは渡来文化がポーランドにタタールが持ち込んだのと同様の
騎馬民族系であったことを物語るようだ。ポーランドの踊りは沖縄と同じである。
つまり、古朝鮮時代に九州西岸を南下し、途中、甑島にトシドン(これはスイスにも
ある)を残したのは後世の匈奴/熊野/熊奴/四国の久万等と同一のものと考えたい。
318 :
がいやまん:2006/08/25(金) 14:16:28
クマン族がキプチャク族としてカザフスタンに残した古墳は楯築の中円双方墳
であり、日月を拝むものだ。先にも言った四国の久万から南に下がった大月には
月弓石がある。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
326 :
がいやまん:2006/08/25(金) 15:43:31
モンゴリア高原東部以東の戎系は方形周溝墓、四隅突出型等大地を敬い、供物を
捧げる祭壇を設ける場合もある、つまり、前方後方墳てきな慣習があるとされている
ことからも、山陰、越、中部、関東には北方から戎系文化を持つものが入り、これは
石棺墓等が主と見られる九州西岸、北岸とは異なるはずで、熊系と、狗奴系の差は
あると思われる。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
巻向の建設はだいたい200年前後。何が巻向建造の発端になったのか?
唐古などの集落解体、そして再編成の時期がちょうど200年頃に起こったのか。
それとも、後漢の衰退の余波で九州勢力が移動してきたのだろうか。(自分は
九州勢力の移動は考えてないが)
あぼーん
あぼーん
あぼーん
342 :
がいやまん:2006/08/26(土) 11:54:07
>>338 土器の編年
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html この中の旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)、纏向新偏年、庄内大和形甕の
登場 石塚 とされている頃、つまり、吉備と河内の接触により庄内河内、庄内大和
の土器様式の開始される頃に纒向建設が始まる。これは古墳、鏡時代の開始であり、
銅鐸の終焉であることから、近畿において唯一伝世の前漢・後漢鏡を備える丹後
籠神社系統の勢力ともう一つ考えられるのは古墳の始まる阿讃播地方の首長が
纒向の後背地である東海地方の首長と共に、本来交易の要所にあった唐古・鍵
周辺に纒向建設を始めたということであろう。
あぼーん
あぼーん
345 :
がいやまん:2006/08/26(土) 11:59:11
建設の開始された頃、唐古・鍵をはじめとする奈良盆地の農家は生業を捨てて
建設現場に集中している。同時に会津辺りから鹿児島に至る土器が持ち込まれる。
ただし、伊都国の土器が入っていないようだ。搬入土器の主体は東海であり、今言う
籠神社、丹後の影響下にあったものと思われる。
あぼーん
347 :
がいやまん:2006/08/26(土) 12:01:37
国籍不明の妨害が入っているのでちょっと休む。
あぼーん
349 :
がいやまん:2006/08/26(土) 12:12:06
刑事コロンボのまねをするが、
三韓土器も入っているのに倭国の首府で伊万里焼(これはまだないか)で名高い
伊都国の土器が入っていないとすれば、革命とか、反乱のような感じがするんだけ
どなー。
あぼーん
あぼーん
あらし君
銭に色付けて動けば裸に成るぞい
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
357 :
がいやまん:2006/08/26(土) 13:34:37
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>361は
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
朝敵チョン州
悔しかったら靴なめろ。
錦旗に向かって唾吐くか?
馬鹿からかうのは楽しいな
あぼーん
畿内説論者の方々は九州説をどうみてるの?
大陸から近いからそれなりに発展していたって程度ですか?
365 :
がいやまん:2006/08/26(土) 15:27:53
>>363 臭せぇよチョン州
あっち行けよチョン州
ほんと 臭せぇぞ
チョン臭
臭うんだよチョン臭
明日も遊んでやるからな
臭せぇぞ チョン臭
あぼーん
367 :
がいやまん:2006/08/26(土) 16:17:00
>>258 神社は位置から言って西部瀬戸内海沿岸諸国が・・・と言うより、例のニニギ、
すなわち、倭面土国王帥升が支配したと思われるとしたほうが、少なくとも
漏れの本心に近い。たたき台、つまり、考え方のフレームワークを作り、今後の
考古学的発展によって修正してゆこうとするのが正しいあり方だと思う。
368 :
がいやまん:2006/08/26(土) 16:17:59
>>366は
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
朝敵チョン州
悔しかったら靴なめろ。
錦旗に向かって唾吐くか?
馬鹿からかうのは楽しいな
あぼーん
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
あぼーん
372 :
がいやまん:2006/08/26(土) 17:21:31
>>371は
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
朝敵チョン州
悔しかったら靴なめろ。
錦旗に向かって唾吐くか?
馬鹿からかうのは楽しいな
あぼーん
あぼーん
375 :
がいやまん:2006/08/26(土) 21:14:06
荒乱大王アリラン大王wwwwww
朝敵チョン
376 :
がいやまん:2006/08/26(土) 21:30:31
馬鹿からかうのは楽しいな
それではどーして記録に『假金印紫綬』が残されなかったのか?
《詰まり》
魏王朝からの『假金印紫綬』は倭側が望み朝見し下賜された 正規な手続き
一方(後漢王朝)の共立は、王朝側の意図する 非公式な掟破り
だから正規な史書には『假金印紫綬』まで書く事はなかった。
スジは通っていると思いますがどうでしょう?
チョンwwwwwww
あぼーん
傍目にはプラム一人が発狂したようにしか思えないし、
お前の精神疾患症はネット上で頻繁に見かけるポピュラーなタイプだ。
何時まで経っても長州厨は、朝敵根性が抜けきれないと見た。
380 :
太国:2006/08/26(土) 22:44:08
仁徳天皇は倭王讃です。
にせ王
可哀相な太国
あぼーん
384 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 23:56:46
原口一博は、創価学会の手先。
思い出してください。池田大作も長年にわたって、「悪と戦う。」と言ってい来た事を。
闇の勢力と闘う振りをして、実は[悪の手先]と言うのは、いつものパターンです。
その証拠に、「半島系の人間がいる。」って言うが、この事を知らない人がいるのだろうか。
しかも、在日なんて、どこの団体にでもいるでしょう。
実際の所、原口は、裏の組織の正体を知っていて、何の情報も流さない。
戦う振りをして、闇の勢力との戦いに参加しようとする人を罠にはめている。
実際に、周りの人間は皆不幸になっている。
(議員辞職、党代表辞任、国対委員長辞任、国会議員自殺、松下グループへの嫌がらせ)
しかも、一番闘っているはずの原口だけは無傷で、常に党の代表に擦り寄っている。
あぼーん
邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる
古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。
邪馬台国が存在した時代(3世紀前半〜中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)を
中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。
2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた二重構造の埋葬
施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。
一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、全長25メートルの前方後円
形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土
している。埋葬施設は二重構造とみられている。
(読売新聞) - 8月22日16時59分更新
福岡県八女市の地名はおもしろい地名が多い。
祈祷する場であったはずの祈祷院なんて所もある。
ちなみに筑紫国磐井の勢力は朝鮮文化という事は、乗っ取られたか融和したかだろう。
神武≠崇神 どうします? 本当の歴史を知ってますよ。コイツら
邪馬台国は2個あったので、同一性の理論で大地震がおこるとまた大地震がおこる
飛行機が落ちるとまた落ちる
先住倭種は、大陸から入ってきた渡来民達を“カミ”の下部として崇め始めた。
邪馬台国は福岡〜熊本。
初期大和政権は、福岡から都落ちして、哀れな定着をした神武の
薄汚い伝承を美談に仕立て上げて、正当性を偽装しただけ。
390 :
がいやまん:2006/08/27(日) 00:14:38
おまえチョン州人 だな!
朝敵チョン州
朝敵チョン州
おまえのかーちゃんでべそ
面白いスレだ!
馬鹿からかうのは楽しいな
「九州説」の議論がそれほど深まっておらず、他スレでも十分議論できる話題
しかないと思われる。ぷスレは、dデモ説をカキコする場としての存在価値が
認められるので依頼については保留。
あぼーん
393 :
邪馬台国:2006/08/27(日) 00:33:31
394 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 04:54:58
0点
いまいち
また来週なwww
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
396 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 17:53:35
【日韓】 金容雲漢陽大名誉教授「日本語は全て古代韓国語から始まった」★3[08/25]
「お前がいくら嫌いダケド(싫다케도)、私はお前が好きだ。」
ここで「〜ダケド」は「〜だとしても」を短く発音した慶尚道(キョンサンド)の方言だ。
「ダケド」は日本語でも同じ発音と意味で使われる。
金容雲(キム・ヨンウン)漢陽 (ハニャン)大学名誉教授は、現代日本語が慶尚道全羅道(チョンラド)の方言と
似ており、日本語は韓国語に由来したと主張する。金教授は最近出版した著書『日本語は韓国語だ』
(カナブックス)で、「ダケド」のように現代日本語に残っている慶尚道と全羅道方言を紹介する。
日本語の「〜だっけ」と「申し」は、全羅道方言の「〜당께(ダンケ)」と「마시(マシ、言葉)」に
それぞれ由来したというのだ。
金教授は7世紀以前まで、古代韓国語の発音が日本語のようにパッチム(終声になる子音字)がなくて
母音が単純で形態がそっくりだったと説明する。また嶺南と湖南地域では、日本の東海(日本海のこと)
隣接地域と往き来してお互いに意思疎通をしたはずだという分析だ。
金教授は、「言語は文化」と言い「日本語は韓国文化を収容した歴史と一緒に発展した」と強調した。
慶尚道でよく使う方言である「이바구(イパク、話)」が日本語の「イワク (曰く、おっしゃる)」と
変形された例は、韓国人が書く言葉を高級語として崇めた彼らの歴史が盛られているという説明だ。
【日本語は全て古代韓国語から始まった】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156556821/100-1001 トホホ・・・(苦笑
韓国語の「ダケド」は、20世紀になって、日本統治時代に日本語から韓国語に移植された
言葉でしょう。
日本語古語では、「だけど」は「されど」であり、日本語「だけど」が韓国語からきた言葉
という説は、非科学的だと思ふ。
狛犬がエジプトのスフィンクスと同じ物で日本にくるまでに容貌がすこし変わってしまった
初期大和政権は、福岡から都落ちして、哀れな定着をした神武の
薄汚い伝承を美談に仕立て上げて、正当性を偽装しただけ。
後漢書より魏志倭人伝が重要視されるのはなぜですか?
398 :
がいやまん:2006/08/27(日) 20:44:11
根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!
女王卑弥呼と弟の卑弥弓呼は余り仲が良くなかった(素不和)
実質リーダーである弟は
姉の存在の為、何時もNO 2
世間の常識通説が間違っていることも多いという証左のひとつでしょう。
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
このスレは削除しても良いし、君の自由にね!
がいやまんいつもながら酷いな!
その以前から稲作は日本に伝来していた可能性をも強く思いますが、この符合には
興味を引かれる次第です。
このスレは、従来の邪馬台国スレに欠けていたAD3C以前や、ちょっとマニアックな内容を求め立ててみました。
魏王朝からの『假金印紫綬』は倭側が望み朝見し下賜された
まだこんなことやってたのww
もうマジで頭おかしいんじゃないの。
何年毎日こんなことしてるのやら
400 :
がいやまん:2006/08/27(日) 23:21:19
思うに三角縁神獣鏡が魏からの下賜品だというのは極めて可能性の
低い話では無かろうか。優良製品だというのはある程度わかるが、日本で五百面
近く出土しつつも中国で発見されないというのはどう考えてもおかしい。
面白いスレだ!
アホからかうのは楽しいな
この発想じゃぁプラムの相手にはならない
間違いない。
あぼーん
あぼーん
403 :
がいやまん:2006/08/28(月) 13:07:18
クソスレの管理に必死のようですなア。
あなたが相手をしてあげないから
ぷは他スレで自作自演を繰り返していますよ。
さて卑弥呼はこの時代の人としては長寿だったので、かなりの長期間、女王として君臨してた。
王朝交代後も、卑弥呼の伝説は各地に残ってたはず。
記紀を編纂する際に、天皇系の正当性を高めるために、卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた。
404 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:04:24
女王に『漢委奴國王』の金印を下賜し
女王に絶対的権限を与え安泰工作をはかった。
姉チャンの様に 金印効果が必要だった
あぼーん
406 :
がいやまん:2006/08/28(月) 21:35:14
根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!
「朝鮮」→“独裁主義に反抗する集団”の呼称《夷》・彼等は安住の地を求め
東に移動した、あそこが“朝鮮半島”と呼ばれた所以
おれは論破されれば“2ちゃん”から消える
なんて言って無いぞ!
407 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 21:42:27
卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた、というのは同意。
ただそれはアマテラスではなく、ヤマトトトビモモソ媛なのだろう。
まあ、アマテラスに、トトビモモソ媛のイメージも加わっているのだろうが。
あぼーん
雑談でもしましょう
その頃の新羅語の影響を受けていたら、今頃の日本語はもろに
中国語くさくなっているはずだが?
ウガヤフキアエズの母=トヨタマビメは、スサノオの娘だという。
ということは、出雲人か。
やはり近畿・四国地方あたりの民族的起源は、日本語のアクセントから見て古代朝鮮系だな
あと論破されれば2ちゃんから消える、
って言っただろ!嘘ばっかり言いやがって!
そうだよな、
○さん論破されたら2ちゃんから消えるって約束したのに、
まだのうのうと名無しで、馬鹿レス三昧だよな!
しかも朝から晩まで、アホレスして、
返事がアホっぽいと直ぐわかるよね!
ヤマトという言葉のそもそもの意味は諸説あるが、 「ヤ=日、マト=本」か?可笑しいと思うけど!
411 :
がいやまん:2006/08/29(火) 00:57:04
根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!
中国製の同時代の青銅鏡と比較したといいながら、確実に中国で
出土した鏡を一面も用いていないようだ。
この発想じゃぁプラムの相手にはならない
間違いない。
412 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 01:32:30
卑弥呼がアマテラスとして、卑弥呼の弟がスサノオだったという事はないのかな?
という事は卑弥呼は渡来人?
あぼーん
福岡県八女市の地名はおもしろい地名が多い。
祈祷する場であったはずの祈祷院なんて所もある。
ちなみに筑紫国磐井の勢力は朝鮮文化という事は、乗っ取られたか融和したかだろう。
神武≠崇神 どうします? 本当の歴史を知ってますよ。コイツら
邪馬台国は2個あったので、同一性の理論で大地震がおこるとまた大地震がおこる
飛行機が落ちるとまた落ちる
女王に『漢委奴國王』の金印を下賜し 女王に絶対的権限を与え安泰工作をはかった。
これが後に
二代目卑弥呼が慌てて魏に金印の催促に行った理由に繋がる
しかしやっぱり畿内説が有力ですよね、なんでも無視出来ますから!
親切な新説無視もありますし、何がなんだか解らない、畿内説ですね!
もう少し定義づけた、解りやすい古代論を待望します!
623 :がいやまん :2006/08/26(土) 10:01:08
漏れには歌心もある。
夏過ぎて 秋来にけらし 越の海
舵にまつわる 大くらげかな
いつからか 海にはびこる 大くらげ
やがて消え行く 海のくさぐさ
平成の ネットを あらす大くらげ
今日も朝から 休むことなし
がいやまん
本末転倒!
元々プラム=がいやまん=ヒッキーの野郎が、仕掛けて来た事であり、
奴らよりも荒らしと言われている方を取り締まることは、
順番が違うだよ!
削除の奴も唯の機械的な対応しか出来ない、駄目な奴しか居ないんだな!
邪馬台国畿内スレの削除は、ある意味、本当の荒らしを助長しているだけだよ!がっかりしたね。
さて
書き込んでも書き込んでも、直ぐ書き込まれて直ぐ消える!
同じ思いをしている奴らが、沢山いるんだよ!
一生懸命気合入れて書き込んで欲しいね、
すると直ぐ書き込まれて消える!
沢山の人達と同じ思いを味わえよ!
チョンコ君!
『三国志』にも、日本列島には倭人しかいないと書いてある。別の民族がいれば、
注目してそう書くだろうが。
418 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 08:01:11
このスレひど過ぎw
あぼーん
我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
名前の類似からしてヤマタイコク=ヤマト朝廷は自然だと思う
イトやマツウラなんて地名も今でも残ってるぐらいだから
今も残るヤマのつく地名で最も繁栄した地域がヤマタイコクだろ普通
吉野ヶ里で絹が出土したというから、馬韓月氏・大月氏・ペルシャ・ローマといった
シルクロードのターミナルであったのではといいたいんだ。熊本近辺の女神坐像
は北部インド型だし、ガラスも出土するというしなー。
漏れは、邪馬台国が北九州にあり、近畿にも何らかの勢力があったことはそうだと思うけど、
邪馬台国の分派が畿内勢と合流して、北九州邪馬台国(本家)を潰して、畿内に凱旋したと思う。
呉の年号の入った鏡は山梨県から出土したそうであるが、魏の情報に
よれば狗奴国という大国が呉のすぐ隣の台湾辺りと信じて旅に出た
呉の代表団があったとすれば恐ろしい難儀をしたはずである。
邪馬台国の時代でほぼ確実に言えることは、
@大和>筑紫の力関係がはっきりしてきたこと。
Aマキムクに巨大遺跡が建造され、おそらく後の大和朝廷に繋がる王権
が誕生していたこと。
邪馬台国が仮に九州にあったとしても、上の事実は変わらん。
それらを踏まえた議論が必要。
あと、この時代に倭国を統一するような中央集権国家があったとかは
夢想だから。倭人伝を読む限り、邪馬台国体制は女王を担いだ有力なオウたちの
寄合い所帯というのが実情だろう。
軍事的な華々しい統一劇を語りたがる輩は、光栄ゲーム好きの奴とか
なんだろうな。
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
423 :
がいやまん:2006/08/29(火) 10:26:59
ウガヤフキアエズの母=トヨタマビメは、スサノオの娘だという。
ということは、出雲人か。
ウガヤフキアエズの時代から、古代日本朝廷の内部には、出雲勢力が入り込んでていたようだ。
ということは、神武天皇の東征を支えたグループは日向人ではなく、出雲人なのかもしれない。
>>421 可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
中国の正史を書いた人物において、自分の生きたもしくは生きている時代を現代史
として記した正史が、唯一、陳寿の三国志と私は認識しているからこそ、その記事に
当然の作為や真実や虚偽を想い、第一級の貴重な史料と位置付けている次第なのです。
台与がいつ死んだのか分かりませんが、晋に朝貢したときは既に30歳前後であったと思われるので、270〜300年の間だと思います。
神武=崇神の東征を300年前後と考えると、台与の死後、政治空白が生まれた可能性が考えられます。
これをチャンスと見て神武=崇神が大和へ攻め入ったと考えられないでしょうか。
河童文化が盛んな地域は県南でありまして県北にはほとんど無いという地域差が
あります。球磨川や緑川流域に特に顕著に見られる次第です。文化圏の違いが
昔から存在したのだろうと考えています。
、実在の「淡路島」の方の語源は『阿波』路島説が強いですね。
八世紀以降に「大八島」思想が成立したときに員数合わせで入れられることが多いだけです。
帯方郡から韓国南岸までの距離何千里と書いてあるので、
1里の長さをその尺度から逆算すれば、1里は70m程度で、
北海道に行くことはありえないということくらいですかね。
>>421 激しく同意
もはや古代史論争において邪馬台国はどこにあったか?なんてのは傍流にしか
過ぎない。いくら大和中心史観と言われようとも、土器や祭祀方法が巻向に集まって
きている事実は否めない。一方、九州・四国・吉備などの地方勢力とも交流は活発な
わけだから、庄内期の日本はかなり安全な所だったように思われる。大規模な戦争が
あった証拠はどこにもない。また、弥生全時期における鉄器の出土量を九州と畿内
で比較しようとする論法は詭弁に過ぎない。時期ごとに区別して比較するのが
当たり前である。また、中山大塚などの出土例から見てわかるように、古墳時代前期
には、かなりの量の鉄器が畿内にあったとみるべきだろう。その上で、土器編年と
実年代を比較していけば、文献に依存せずとも、古代史は解けるはずである。
あぼーん
すでに戦前から、考古学を絡めた邪馬台国論争をしようという意識があった
のに、一部のアマチュアが文献だけですべてを解こうとし、それが市民権を
得てしまったのは甚だ残念なことである。考古学が万能なわけではないが、
文献史学が万能なわけでもない。そのことを踏まえた論争がこれからは期待
される。
あぼーん
古代の人はわりと性におおらかでち○ぽまるだしでも恥ずかしいという感覚が
なかった人たちも多くいたのではと思うのだ。
今でも神社によってはポ○チン岩やおマ○コ岩を飾ったりしているところも
あるし、中国でも史記には始皇帝のお袋さんに、お○んちんの大きい人を
愛人としてあてがったという話もある。インドの仏教寺院でも、SEX寺では
ないかと思うくらいの浮き彫りが彫られている例がある。
日本書紀でも天岩戸ではストリップショーをやる話があるではないか。
まあ邪馬台国はおそらくキチンと服を着て、それなりに道徳心が
高かったようだがな。
邪馬台国畿内説論者同士で議論を深めませんか。どうも、
九州論者が入ってくると話が拡散して、何時まで経っても
同じ処を堂々巡りしてしまうように感じます。
430 :
がいやまん:2006/08/29(火) 11:00:08
>>427 他スレを荒らしてる奴は
埋め立てか容量オーバーまで荒らすからな
立派なもんだよ
○はチンケな荒らしだよ
どうせやるなら、埋め立てまでやれ!
おい
それでおしまいか?
半端者のチンカス野郎が。
中途半端なチンカス野郎
意気地無し
だからお前はダメなんだよ!荒すなら徹底的に荒らしてみろ
中途半端で止めるなら最初からやるな……半端者が
あぼーん
この文章が書かれし時代まで列島の民は、陰暦を使用していなかった。
彼等は陰暦を知らないのではなく、一年360日など必要ではなかった!
季節と共に正確に行う「耕作」は、稲作を知らない“先住民倭種社会”に、食の文化大革命をもたらした。
先住倭種は、大陸から入ってきた渡来民達を“カミ”の下部として崇め始めた。
つまり魏志倭人伝は著者がいわば現代史を書いたものですが、その一方、後漢書は
その約二百年近くも後に記されているものだからであります。今現在から二百年昔の
江戸時代末を今現在著した記録と江戸時代末当時に当時のことを記した記録を比較するなら
いずれが後世に重視されるかは言うまでも無いでしょう。
大和の方は男尊女卑の大陸式社会秩序に変化しているように感じられる。しかし
推古天皇のような女帝が出て来るのは、邪馬台国の伝統が残っているせいなの
だろうか?
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
キシコクという呼び方が非公式ながら広まっているようだし、
金印(王族、大臣級)授与という破格の待遇からみても、
中国は一応、泰伯の子孫っていうのは信じたんじゃないかな。
個人的には、エジプトと信仰が似ているような気がする
(太陽信仰、鳥が太陽の運行を司る、蛇が神聖、方形墳)
んだけど、ここまでくるとムーで扱う世界になるかな。
横綱土俵入りの太刀持ちというのはこれからですかね。武芸を奉納するという意味が
あったのか。夕月というのは弓取り式の弓のことか。
アルタイのは馬の背中に杭を打ち込むのであるが、牛の背中を通す風習は
コーカサスのマイコープの彫刻に出ている。
435 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 12:29:43
>>434 >夕月というのは弓取り式のことか
>>いやいや
弓取りに弦が無いのはヘン
後世或事に相撲を縁起付けしただけ
あぼーん
437 :
がいやまん:2006/08/29(火) 12:39:07
狗奴国は大陸から渡ってきた騎馬民族だと思う
邪馬台国を滅ぼした勢いで東征し大和朝廷を作った、という説はダメ?
狗奴国の位置は馬つながりで宮崎県
邪馬台国は北九州
>>435
それでおしまいか?
半端者のチンカス野郎が。
讃が亡くなり弟の珍が帝になり、その珍が亡くなると、妻の“彌”が実権を握り
『卑弥呼や壹輿』と同じ宗教的最高位である“キミ”となり“キミ”(女王)制度の復活
この“珍”の嫁が誰であるかは太国さんなら想像がつくでしょう。
この“キミ”制度は、持統天皇で又復活!
ヤマイ国が後の島津が沖縄経由で中国と外交関係を持ったように、大和朝廷とは
別口で中国と関係を持っていたということは大いにありそうな話だなー。しかし、近畿
の朝廷も途切れてはいないからね。
同様にヤマトという言葉は意味不明だが、
本来の意味はひのもとという意味であり、
日本という文字をあてたりするってこと。
酷いプラムの荒らしが続きますね!
馬鹿な妄想を発したいが為に粘着して、
我々のマジレスをプラムが妨害しています!
みんなで一致協力してプラムをやっつけましょう!
>>439 君は執念深いね。
社会に出て悪い方に結び付かない事を祈る
テレビの画面で両脇を固められ、俯く姿見たくないからナ
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
443 :
がいやまん:2006/08/29(火) 12:56:39
水行10日or陸行1月だと、
北九州-本州瀬戸内沿岸部から
宇野−高松と渡って四国に上陸ではないでしょうか。
しかしチョンはだめだな、一度朝敵となった汚名は永久に消えないんだよ
判ったか『チョン州人』
九州の西岸部は島も多く地形も複雑、直線的な距離計測困難な為、船を利用した。
一日定則とすることにより、より精度も高まる
河童文化が盛んな地域は県南でありまして県北にはほとんど無いという地域差が
あります。球磨川や緑川流域に特に顕著に見られる次第です。文化圏の違いが
昔から存在したのだろうと考えています。
あなたが相手をしてあげないから
ぷは他スレで自作自演を繰り返していますよ。
飼い主ならきちんと管理してくださいな。
鏡の出土は、中国地方より近畿が多いので、
シナ系の人(華夏)が住んでいた秦王國の中心は、
畿内と考えます。
偏屈者におじさん呼ばわりされちゃったよ。
釣りだから絡むのやめとこう。
馬鹿すぎてあいてにならんからな
畿内説は無理やり方向を変えて鏡が出たとこに
持っていこうとしてるけど船での航行技術があるので
ちょこっと角度や距離が違うならともかく90度とか180度
方向が違うのはありえない、古代人でも太陽の方向見れば馬鹿でもわかる。
>>441 まだ荒してくるな、プラム最低!
全く訳が解らないレスばかりだな、
いつものプラム語録だけど・・・
飽き飽きだね!
あぼーん
はい。気分転換で次は外に出てみよう
大きな画用紙に今カキコした内容を力強い文字で二枚カキコし、紐で二枚の画用紙を繋ぎ 首からぶら下げ街の中を行進しよう。
君なら出来る。絶対出来る。出来たら「あんたが大将」
話し変って雑談!
漢字の伝来が4世紀中葉というのは本当でしょうか?
少なくとも、1世紀中ごろには、中国と交流(朝貢)していますし、
卑弥呼の時代は言うに及びませんね。
古代日本語は清音だから「ヤマト」でよかろうと思う。
日本の首都は大阪をはじめにどんけつが東京にあるように
コロコロと変わったので・・・
449 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 15:56:48
吉野ヶ里で絹が出土したというから、馬韓月氏・大月氏・ペルシャ・ローマといった
シルクロードのターミナルであったのではといいたいんだ。熊本近辺の女神坐像
は北部インド型だし、ガラスも出土するというしなー。
漏れは、邪馬台国が北九州にあり、近畿にも何らかの勢力があったことはそうだと思うけど、
邪馬台国の分派が畿内勢と合流して、北九州邪馬台国(本家)を潰して、畿内に凱旋したと思う。
呉の年号の入った鏡は山梨県から出土したそうであるが、魏の情報に
よれば狗奴国という大国が呉のすぐ隣の台湾辺りと信じて旅に出た
呉の代表団があったとすれば恐ろしい難儀をしたはずである。
我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
名前の類似からしてヤマタイコク=ヤマト朝廷は自然だと思う
イトやマツウラなんて地名も今でも残ってるぐらいだから
今も残るヤマのつく地名で最も繁栄した地域がヤマタイコクだろ普通
450 :
がいやまん:2006/08/29(火) 19:07:32
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州人
朝敵チョン州人
悔しかったら靴なめろ。
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか? 馬鹿め!
明日も遊んでやるからな
臭せぇぞ チョン臭
馬鹿からかうのは楽しいな
可哀相なチョン州人 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
451 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 19:16:00
唾吐くのはお前に対してだ。クズさっさと死ねよ
ここは歴史板なんだよ
452 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 19:21:36
【日韓】 金容雲漢陽大名誉教授「日本語は全て古代韓国語から始まった」★3[08/25]
「お前がいくら嫌いダケド(싫다케도)、私はお前が好きだ。」
ここで「〜ダケド」は「〜だとしても」を短く発音した慶尚道(キョンサンド)の方言だ。
「ダケド」は日本語でも同じ発音と意味で使われる。
金容雲(キム・ヨンウン)漢陽 (ハニャン)大学名誉教授は、現代日本語が慶尚道全羅道(チョンラド)の方言と
似ており、日本語は韓国語に由来したと主張する。金教授は最近出版した著書『日本語は韓国語だ』
(カナブックス)で、「ダケド」のように現代日本語に残っている慶尚道と全羅道方言を紹介する。
日本語の「〜だっけ」と「申し」は、全羅道方言の「〜당께(ダンケ)」と「마시(マシ、言葉)」に
それぞれ由来したというのだ。
金教授は7世紀以前まで、古代韓国語の発音が日本語のようにパッチム(終声になる子音字)がなくて
母音が単純で形態がそっくりだったと説明する。また嶺南と湖南地域では、日本の東海(日本海のこと)
隣接地域と往き来してお互いに意思疎通をしたはずだという分析だ。
金教授は、「言語は文化」と言い「日本語は韓国文化を収容した歴史と一緒に発展した」と強調した。
慶尚道でよく使う方言である「이바구(イパク、話)」が日本語の「イワク (曰く、おっしゃる)」と
変形された例は、韓国人が書く言葉を高級語として崇めた彼らの歴史が盛られているという説明だ。
【日本語は全て古代韓国語から始まった】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156556821/100-1001 トホホ・・・(苦笑
韓国語の「ダケド」は、20世紀になって、日本統治時代に日本語から韓国語に移植された
言葉でしょう。
日本語古語では、「だけど」は「されど」であり、日本語「だけど」が韓国語からきた言葉
という説は、非科学的だと思ふ。
漏れは、邪馬台国が北九州にあり、近畿にも何らかの勢力があったことはそうだと思うけど、
邪馬台国の分派が畿内勢と合流して、北九州邪馬台国(本家)を潰して、畿内に凱旋したと思う。
呉の年号の入った鏡は山梨県から出土したそうであるが、魏の情報に
よれば狗奴国という大国が呉のすぐ隣の台湾辺りと信じて旅に出た
呉の代表団があったとすれば恐ろしい難儀をしたはずである。
我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
名前の類似からしてヤマタイコク=ヤマト朝廷は自然だと思う
イトやマツウラなんて地名も今でも残ってるぐらいだから
今も残るヤマのつく地名で最も繁栄した地域がヤマタイコクだろ普通
吉野ヶ里で絹が出土したというから、馬韓月氏・大月氏・ペルシャ・ローマといった
シルクロードのターミナルであったのではといいたいんだ。熊本近辺の女神坐像
は北部インド型だし、ガラスも出土するというしなー。
あぼーん
あぼーん
さすれば、その祖地と新たな移住地の間において人々の交流が芽生え発展するは
自然な成り行きとなります。つまり、申し上げたいことは、前漢時代以前から既に
倭人在り分かれて百余国を為す、状況は中国に知られていたということです。
卑弥呼はこの時代の人としては長寿だったので、かなりの長期間、女王として君臨してた。
王朝交代後も、卑弥呼の伝説は各地に残ってたはず。
記紀を編纂する際に、天皇系の正当性を高めるために、卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた。
州説に立てば西は中国江南、畿内説に立てば西は九州。
前者は、卑弥呼が自分たちの先祖は呉の人だと言っていたことと符合するし、
後者は、神武東征伝承と符合する。
457 :
がいやまん:2006/08/29(火) 22:47:27
ハングルでいいかもしれません、無から生まれたのではなくハングルの元が
渡来人が使ってたので、当然朝鮮も使ってて、改造してハングルを完成させたと
予想した法が
チョン州人
お前まだ朝敵根性引きずっているのか? 可哀相に。 お前がどんなに頑張っても、一度朝敵となった汚名は永久に消えないんだよ
判ったか『チョン州人』
458 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 00:14:15
がいやまん=プラム
氏ねよ
あぼーん
飛ぶ鳥のアスカ。
アスカという言葉は意味不明だけど、
その本来の意味は飛ぶ鳥ではなく、
音をあてた。
あと、この時代に倭国を統一するような中央集権国家があったとかは
夢想だから。倭人伝を読む限り、邪馬台国体制は女王を担いだ有力なオウたちの
寄合い所帯というのが実情だろう。
軍事的な華々しい統一劇を語りたがる輩は、光栄ゲーム好きの奴とか
なんだろうな
あぼーん
州説に立てば西は中国江南、畿内説に立てば西は九州。
前者は、卑弥呼が自分たちの先祖は呉の人だと言っていたことと符合するし、
後者は、神武東征伝承と符合する。
近隣の蛮国であっても、皇帝が頂点となって治めるべき天下に、
女性の王が許されるだろうか。
ちなみに姫氏国という表現は太伯が姫氏であることによる。
東治は東冶の誤とする解釈が自然でありましょう。
計其道里、当存会稽東治之東 東冶は県の名であり会稽は郡の名ですから。
漢文なんて文法があるようでないようなものだとしても、
東冶が地名でないとなんか文章として美しさに欠ける気が……
伊勢神宮最初の斎宮(齋宮)である。皇大神宮別宮の倭姫宮に祀られているが、その創立は大正10年1月4日であり、
神宮別宮としては極端に新しい神社である。
先住倭種は、大陸から入ってきた渡来民達を“カミ”の下部として崇め始めた。
暦が普及していないと待ち合わせができない。
例えば、越の人と出雲の人が但馬で行う来年の取引を約束して、
"来年の雪解け月の朔日に、また"といった場合に、月の満ち欠けだけで
日数を数えていては最大1ヶ月(満月〜満月分)、待ちぼうけを食らう恐れがある。
九州邪馬台国は、同族だった畿内の政権と
合併したと。記紀によると4世紀くらいに
畿内から天皇による熊襲征伐の話がありますし
つじつまがあうでしょう
○さん論破されたら2ちゃんから消えるって約束したのに、
まだのうのうと名無しで、馬鹿レス三昧だよな!
しかも朝から晩まで、アホレスして、
返事がアホっぽいと直ぐわかるよね!
女王に『漢委奴國王』の金印を下賜し 女王に絶対的権限を与え安泰工作をはかった。
これが後に
二代目卑弥呼が慌てて魏に金印の催促に行った理由に繋がる
孔子も倭人を知っていた、との解釈も可能となるのですから大変ですよ。
世間の常識通説が間違っていることも多いという証左のひとつでしょう
州説に立てば西は中国江南、畿内説に立てば西は九州。
前者は、卑弥呼が自分たちの先祖は呉の人だと言っていたことと符合するし、
後者は、神武東征伝承と符合する。
近隣の蛮国であっても、皇帝が頂点となって治めるべき天下に、
女性の王が許されるだろうか。
ちなみに姫氏国という表現は太伯が姫氏であることによる。
あぼーん
466 :
がいやまん:2006/08/30(水) 13:07:23
その以前から稲作は日本に伝来していた可能性をも強く思いますが、この符合には
興味を引かれる次第です。
チョン州人
お前まだ朝敵根性引きずっているのか? 可哀相に。 お前がどんなに頑張っても、一度朝敵となった汚名は永久に消えないんだよ
判ったか『チョン州人』
467 :
本田:2006/08/30(水) 19:42:42
>>322 >
>>321 > さんざん否定していた漏れはどうなるんです?
あほの相手なんかするな。
あぼーん
帯方郡から韓国南岸までの距離何千里と書いてあるので、
1里の長さをその尺度から逆算すれば、1里は70m程度で、
北海道に行くことはありえないということくらいですかね。
中国の正史を書いた人物において、自分の生きたもしくは生きている時代を現代史
として記した正史が、唯一、陳寿の三国志と私は認識しているからこそ、その記事に
当然の作為や真実や虚偽を想い、第一級の貴重な史料と位置付けている次第なのです。
邪馬台国畿内説論者同士で議論を深めませんか。どうも、
九州論者が入ってくると話が拡散して、何時まで経っても
同じ処を堂々巡りしてしまうように感じます。
さて九州から、近畿への東征は事実でしょうね。
途中の強大な吉備勢力をどうしたのかで、説が
分岐すると思われます。
アマテラスがスサノオを神やらいした際のスサノオの罪科はいろいろあるが、その中で
アマテラスの縫製工場の屋根にまだら馬の生剥ぎの皮をかけるというのがある。アマテ
ラスがどこの国かはお分かりのはず。韓国ではなかろう。
名前の類似からしてヤマタイコク=ヤマト朝廷は自然だと思う
イトやマツウラなんて地名も今でも残ってるぐらいだから
今も残るヤマのつく地名で最も繁栄した地域がヤマタイコクだろ普通
「誤読だらけの邪馬台国 中国人が読めば」(張明澄 久保書店)と
「邪馬台国 中国人はこう読む」(謝銘仁 徳間文庫)では
2倍歴は完全に否定されていたなぁ。
実在の「淡路島」の方の語源は『阿波』路島説が強いですね。
八世紀以降に「大八島」思想が成立したときに員数合わせで入れられることが多いだけです。
帯方郡から韓国南岸までの距離何千里と書いてあるので、
1里の長さをその尺度から逆算すれば、1里は70m程度で、
北海道に行くことはありえないということくらいですかね。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも
出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の
時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
中国で全くこの形式の鏡が発見されないのは、卑弥呼のために特別に
作ったもの(特注品)だからである。
卑弥呼の女王国は畿内にはなく九州にあったことを裏づけるものなのだ。たかが
鏡ではその裏づけというには数歩及ばない。記紀等に記述がないのは、大和朝廷
と女王国が非常に遠隔の地理にあったから女王国の情報が畿内に殆ど流入されず
記述を遠慮する方向に傾き、0に近いほど記紀に書かれて以内のである。
もし女王国が畿内にあったならば、その多量の記述が記紀にあり、卑弥呼と天皇
との交易、朝貢、女王国の風俗習慣戦争等がう〜んと記紀に記載されているよ。
倭国の大乱は、九州地域内の紛争ではなく、畿内と北部九州の
二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで
広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを
物語っている。
日本に多数の国があったことは明らかで、中国に使者を出したのが必ずしも最も
勢力のあった国とは限らないと思う。少なくとも九州北部を押さえていれば、
魏志倭人伝のルートでの渡海はできるわけだし。
倭王とは玄海灘沿岸を「支配」はしていないが「押えて」いられる権能をもった存在、
男王では機能しなくても13歳の女王なら機能する程度の存在とも言えるでしょう。
「押える」とは、単に友好・協調関係の下で利用できる状態とも言えますが、そこまで「解釈」すると
倭人伝の他の記載内容と矛盾が生じるんですけどねw
しかし歴史オタクは文系が多いのだが、
もしかしてどこにも含まれない人?
いずれにしてもすっかり秋風を感じ、
納涼お化け大会の様相をかもしている。
472 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 08:27:31
三角縁を一緒くたに語るのはどうか。初期形式の三角縁の分布から話をするべきじゃないかね。
473 :
太国:2006/08/31(木) 10:14:57
>>471 なんだ? これは〜余の論述が入りこんでるではないか。
>>472 初期形式というか、
出土のしっかりしたもののなかで、
年輪年代法で年代を特定できる初期の古墳のもの、
という言い方の方がしっくりくる。
森浩一じゃないが、遺物研究の人の分類は根拠が弱いケースがあるので。
そういう推定をするのは構わないが、前提資料に持ってくるのは問題。
475 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:55:06
やっと荒らし君のメドがついたよんw
あぼーん
さすれば、その祖地と新たな移住地の間において人々の交流が芽生え発展するは
自然な成り行きとなります。つまり、申し上げたいことは、前漢時代以前から既に
倭人在り分かれて百余国を為す、状況は中国に知られていたということです。
その以前から稲作は日本に伝来していた可能性をも強く思いますが、この符合には
興味を引かれる次第です。
このスレは、従来の邪馬台国スレに欠けていたAD3C以前や、ちょっとマニアックな内容を求め立ててみました。
魏王朝からの『假金印紫綬』は倭側が望み朝見し下賜された
その頃の新羅語の影響を受けていたら、今頃の日本語はもろに
中国語くさくなっているはずだが?
ウガヤフキアエズの母=トヨタマビメは、スサノオの娘だという。
ということは、出雲人か。
やはり近畿・四国地方あたりの民族的起源は、日本語のアクセントから見て古代朝鮮系だな
しかしやっぱり畿内説が有力ですよね、なんでも無視出来ますから!
親切な新説無視もありますし、何がなんだか解らない、畿内説ですね!
もう少し定義づけた、解りやすい古代論を待望します!
478 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:24:58
479 :
がいやまん:2006/08/31(木) 13:29:29
他スレを荒らしてる奴は
埋め立てか容量オーバーまで荒らすからな
立派なもんだよ
○はチンケな荒らしだよ
どうせやるなら、埋め立てまでやれ!
難民は東広島に逃げて、顔も体もチョンコも黄色くしてたらしいぜ。
おい
それでおしまいか?
半端者のチンカス野郎が。
中途半端なチンカス野郎
意気地無し
だからお前はダメなんだよ!荒すなら徹底的に荒らしてみろ
中途半端で止めるなら最初からやるな……半端者が
>邪馬台国は何処にあるんだ?
※貴方の質問は、関東地方は何処にあるんだ?と、同じ質問です。
邪馬臺(漢語表記)
ヤマタイ (倭語)
対馬・壱岐を含む九州と淡路島を含む四国
これが邪馬臺国三十国体制の範囲です。
質問に答えて下さい。
Q1 それは国の中に国があると言うお考えですね、当時の中国では通用するでしょうか?
Q2 広域名称ならば、魏志倭国伝と呼ぶべきですよね。なぜ倭人伝となるか説明してください。
Q3 それは想像ですか?証拠はありますか?
キチントした質問かんしゃします。
先ずQ1・Q3
国の中に国ではなく
倭人支配層が支配地域を漢人に対し自称した名称が(ヤマタイ)
正式国名は「日/ヒ」
(現在も 肥後・肥前として一部古地名として残ってる)
伊都国や奴国と言う国名は、漢人達が便宜上使用したもの (後世、国としての記載は一切名残を留めていない 儺の縣 怡土郡
当時、伊都は“いと/いとほしま”奴は“な/なか”投馬は“とま/とあまな)
Q2 の質問は後ほどカキコしておきます。
漢文なんて文法があるようでないようなものだとしても、
東冶が地名でないとなんか文章として美しさに欠ける気が……
国内の歴史は国内の史書からです。
『記紀』の検証材料に『倭伝』を使う方法も有ります
私はよく『神代紀』を利用しますよ! 宝石箱です。
日本側でも平安時代とか江戸時代だとかに、
中国に姫氏国と呼ばれているという認識はあるようだけど、
理由は昔、女性または女神が治めていたからと解釈されている模様。
個人的には、エジプトと信仰が似ているような気がする
(太陽信仰、鳥が太陽の運行を司る、蛇が神聖、方形墳)
んだけど、ここまでくるとムーで扱う世界になるかな。
すみません。学のなさを露呈してしまいましたね・・・。
あの金印、偽造って事はないのでしょうか。
ちょっと出土する場所が不自然すぎませんか。
東治は東冶の誤とする解釈が自然でありましょう。
計其道里、当存会稽東治之東 東冶は県の名であり会稽は郡の名ですから。
同様にヤマトという言葉は意味不明だが、
本来の意味はひのもとという意味であり、
日本という文字をあてたりするってこと。
483 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 14:42:31
漢字の伝来が4世紀中葉というのは本当でしょうか?
少なくとも、1世紀中ごろには、中国と交流(朝貢)していますし、
卑弥呼の時代は言うに及びませんね。
古代日本語は清音だから「ヤマト」でよかろうと思う。
日本の首都は大阪をはじめにどんけつが東京にあるように
コロコロと変わったので・・・
飛ぶ鳥のアスカ。
アスカという言葉は意味不明だけど、
その本来の意味は飛ぶ鳥ではなく、
音をあてた。
あと、この時代に倭国を統一するような中央集権国家があったとかは
夢想だから。倭人伝を読む限り、邪馬台国体制は女王を担いだ有力なオウたちの
寄合い所帯というのが実情だろう。
軍事的な華々しい統一劇を語りたがる輩は、光栄ゲーム好きの奴とか
なんだろうな
これこそが、中国側が伊都に与えた待遇(実務執行権者)でしょう。
つまり、中国から観た倭人内での序列は
親魏倭王>伊都国王>一大率>邪馬台国他諸国の官 となります。
名前の類似からしてヤマタイコク=ヤマト朝廷は自然だと思う
イトやマツウラなんて地名も今でも残ってるぐらいだから
今も残るヤマのつく地名で最も繁栄した地域がヤマタイコクだろ普通
484 :
太国:2006/09/01(金) 10:29:27
↑
だとしたら古事記に卑弥呼の事が書かれていないのはおかしいだろ(爆w
それに畿内に阿蘇山は無い(爆w
はっはっはっ(爆w
ニセ王者
ニセ大王
ニセ大王
>阿蘇山
※漢人が漢人の為に書いた書に“阿蘇”と書いてもな?
中国漢籍にも「阿蘇」の文字を発見出来るし「阿蘇羅」と言う呼吸の神様がいたはず
太国さん
その辺どうかな?
自作自演中 いつも1人でよくやるよ
ニセ王者
武光誠の説については、誰も検討していないの?
・纏向は九州に発し吉備を経てきた移住者が三世紀初頭に作った。
・吉野ケ里は弥奴国
・邪馬台国は一世紀中葉頃起こり、二世紀初頭の弥奴国の衰退を
きっかけに強大化して、筑後の盟主になっていった。
色々と議論があってもよさそうに思うけど。
492 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:19:23
畿内マキムク王権は他の地域からやって来た、というより、
各地域の首長が合同して、三輪山麓の聖地に都を築いたと考えられている。最近は。
493 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 15:47:27
>>491 議論するほどの価値無しと判断された。
世論の声
494 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:49:32
いまや畿内説の相手は九州ではなく
東瀬戸内地域だよ。
香芝市二上山博物館
平成18年度 秋季企画展
邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和
2006年9月16日〜11月12日
萩原の優れた画文帯神獣鏡や宮谷の
三角縁などが展示されている。
495 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:16:44
結局のところ、大陸の先進文物の供給が、筑紫勢力の思惑やら政治的混乱などのせいで、
急に停止したり、再開したりすることに、瀬戸内海経済ブロックの首長連が腹を立てたんだろう。
彼らが筑紫王に対して倭国王不信任案を提出。
それが、倭国乱の真相。
ヒラバル王権に対抗するため、当時の宗教的権威であった三輪山の祭祀者
(最初は男)を担ぎ上げ、三輪山麓にマキムクを築いた。
2世紀半ば頃のこと。
>>491 これがホントか嘘かしらんが、
>・纏向は九州に発し吉備を経てきた移住者が三世紀初頭に作った。
すなおに新しい年代を受け入れているところだけは評価できるなwww
497 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:51:01
>>495 妄想のとりこになった哀れな豚発見!!氏ね
498 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:53:32
>>497 まともに反論もできないなら、学問板に来るなよ
499 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 00:12:10
500 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 02:16:31
>>499 世間から疎まれ、アラシでストレス解消する香具師か。
本当に哀れだな。
501 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 02:33:22
>>494 でもってまたぞろ畿内→他地域という捏造のダシにされるんですね
503 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 12:58:23
畿内=狗奴国ですよ
504 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 07:53:48
3世紀前半に
周辺諸国−>畿内
という構図はもはや動かないでしょう。
畿内、吉備、東瀬戸内、東海、北九州、山陰
3世紀前半にどこが主導権をにぎっていたか?
資料に即して遺物の流通を考察すれば、
分かる話です。
香芝市二上山博物館
平成18年度 秋季企画展
邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和
2006年9月16日〜11月12日
今日からです。
>>504 土器編年に基づく流通理論自体試論に過ぎないから
近年は冶金や銅鐸、銅器、鉄器等もいろいろ分かってきてるけど。
どうせ都合悪いデータは隠蔽するんだよクズ畿内派は。
鉄器の分布も無視だし。
506 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 11:51:48
>>505 おまえの言うクズ畿内派って、どういう説を言うんだよ。
昔ながらのガチガチの畿内説なんて、最早いないだろうが。
507 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 11:56:01
現在鉄器を無視しているとは思えない。
年代ごとの分布の変化は興味深いけど、
それは邪馬台国の位置論に直結しない。
編年の絶対年代観に大きなずれがあったとか、
土器の搬出地域を取り違えていたとか、
土器の型式を取り違えていたりとか、
・・・全部仕方がなかったのかな。
でも少しずつ進んでいるように見える。
508 :
プラム ◆DL6xKyOq9k :2006/09/16(土) 18:58:24
>>507 確かに「最近」の畿内説は洗練されていますね。
三世紀の纏向に確固たる王国が存在していて、
そこに魏志で卑弥呼と呼ばれ、倭人を代表していた女性が居たとしても不自然じゃない。
でもね、玄海諸国>纏向畿内連合であるのも、これは動かしようの無い事実。
問題は、何故、魏がその事実を認めなかったのかってことでしょう。
509 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 21:10:09
>玄海諸国>纏向畿内連合であるのも、これは動かしようの無い事実。
何にポイントをおくか?時期はいつか?
で、結論がまったく変わってくるが。
ホケノは鉄器満載だし、布留0の箸墓の巨大さは、同時代の他地域と比較して
隔絶している。
510 :
プラム ◆DL6xKyOq9k :2006/09/16(土) 21:44:14
>>509 「布留0」って言う時点で「倭人伝の時代じゃありません」宣言ですよねw
それに箸墓については、「周濠外堤」の胎土中にも布留0の土器片が確認されている。
つまり、外堤を築いた時点で、その資材土(周濠を掘った残土)中にも布留0片が散布
されているような時代、布留1の時代に引き下げられる可能性もあるんだが・・・
511 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 22:55:31
当方、歴博の庄内開始二世紀半ばを採用してるので。あしからずw
ところであなたは、布留0の実年代をいつ頃と考えているのでしょうか?
512 :
プラム ◆DL6xKyOq9k :2006/09/16(土) 23:11:21
>>511 普通に3c後葉
で、貴方は3c前葉なワケねw
513 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 23:29:12
普通に三世紀後葉の根拠って何?
今までの実年代がいかにいい加減に決められたかが分かると思うのだが。
514 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 07:58:53
箸墓が巨大ってのはもう聞き飽きたよ。
おおきければ統治者かどうかなんてわからない。
今問題になっている彩色壁画は、九州では既に1、2C頃からあったし、キトラなどの
絵も九州の影響が明らかなんだが、そんなのは無視ですか?
515 :
プラム ◆DL6xKyOq9k :2006/09/17(日) 09:25:07
>>513 貴方の「布留1」は何時から何時までよ?
516 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 09:52:53
弥生時代に北九州の影響がないとは誰も言ってないと
思うんだけど。
倭人伝には、3世紀前半に卑弥呼が現れ、
その前に男王がいたということしか書かれて
いないわけで、2世紀終わりから3世紀前半
こそが焦点の時期であるわけです。
最近の実年代観によると、どうもそのあたりで
マキムクという勢力が有力となり、もう少し後
に超大型の古墳も築造される。
だから畿内の可能性が高いという考え。
517 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 09:54:36
でも、他の地域が邪馬台国であったとしても、
その地域は帯方郡に遣使できるくらいだから、
マキムクに新たな勢力を築いたとしても何ら妙ではない。
卑弥呼の前に男王がいて、しかも卑弥呼は舶載鏡を好物と
したのだから、この男王も舶載鏡を持っていた可能性が高い。
憧れとする鏡があったとするほうが自然だから。
3世紀初めに突如優れた舶載鏡を獲得できたところが
答えかもしれません。
>最近の実年代観によると
そう書くと如何にも科学的に聞こえるが、所詮土器いじってこねくり回した
年代観ですからw
519 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 12:28:12
畿内論者は、基本的に文化の伝播が分かっていない奴が多すぎる・・・
520 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 12:43:40
北海道だ。
521 :
プラム ◆DL6xKyOq9k :2006/09/17(日) 13:12:40
>>516 >倭人伝には、3世紀前半に卑弥呼が現れ、
そうは書いてないですね。
景初・正始年間に在位「していたということしか書かれていないわけ」です。
即位年は書かれていないので「三世紀前半」は貴方の推定です。
>>517 >3世紀初めに突如優れた舶載鏡を獲得できたところが
>答えかもしれません。
「舶載鏡」自体は、弥生から近世まで継続的に輸入され
倭国内での流通も然りである。
「突如」なんて条件をつけるのは「邪馬台国新興成金国説」みたいなのが
前提なのでしょうね。
522 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 15:23:20
>>521 最近プラムのコテ使用している様だけど、笑えるぜ。(キャップ違い)
どおせやるなら、キャップまで真似しろよ。
(笑えるぜ)
(全くもって笑えるぜ)
(マヌケヤロー)
(よりによってプラムとは、しかもキャップが違ってる。笑えるぜ、マヌケヤロー)
523 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 19:34:04
>>514 >箸墓が巨大ってのはもう聞き飽きたよ。
>おおきければ統治者かどうかなんてわからない。
勉強不足。
浦間茶臼山とか知りませんか?
524 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 19:39:21
結局のところ、従来の庄内開始を2世紀末〜3世紀初頭に推定する根拠は、
庄内土器の広域拡散を、倭国乱の終結、卑弥呼推戴による邪馬台国体制の成立と
同時期と考えたから。に過ぎない。
525 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:24:06
>>524 そうやって決めていると思い込んでいるとは・・・
一昔前は古墳の推定埋葬者と文献から推定する
という荒業もあったわけだけど、さすがにそれは
考古学者以外も議論に参加している現在では
通用しないでしょう。
土器、年輪、C14、貨銭、鏡などの方面
からのチェックがあり、総合的に判断する。
526 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:45:05
>>511 えっ?庄内式が2世紀半ば?白石説?
年代遡上派でも3世紀初頭がせいぜいだと思っていたんだけど・・・
私は、290年頃から340年頃が庄内式の年代だと考えています。
正直、年代遡上による畿内説の延命は、限界点を超えていると思う。
527 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 21:23:03
>>525-526 具体性に欠ける文章ですが、あなたの信じる実年代観がどのように決められたか、本当に分かって書いてるの?
528 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:25:42
畿内から貨銭が出てること、つまり貨銭が流通していたという意味を考えれば、
もはや畿内説は動かし難いわけだが。
>>528 藤村さんですか?
「ああ!これは、数百万年前の(ry」
531 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 11:09:27
ここは邪馬台国中等科推論部?
532 :
太国:2006/09/18(月) 11:17:24
533 :
太国:2006/09/18(月) 11:25:27
余は九州説2倍年暦並立制を主張している!
記紀の記事の取捨選択を、
定義に縛られずに自由に行う、
今までにない画期的な説である!
是非皆さんもご確認下さい。www
534 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 11:55:29
邪馬台国論に「記紀」を導入すると混乱を招くだけ
だからと言って、無視する訳ではありません。
先ずは基本である倭人伝の考察からでしょう。
535 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:06:30
【存在?】「2倍年暦」の真実【虚妄?】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109975096/l50 989 :太国 :2006/09/17(日) 21:39:21
津田のデカ口の責任は甚大だ。お前のような盲信者をこさえたのも、もとはと
言えばあいつだからな。
いいかい。紀の神武〜開化の数字は
>>482のとおり、日付が1日〜14日まで
しか無いんだよ。紀がデタラメだと言うなら、この数字は月後半までもデタラメ
ランダムに造作追加すればいいことであって、何も14日手前までにスシ詰めに
する必要はない。それが月前半に寄っているのだ。不審に想わんのか?
お前はこれをデタラメ、妄想というなら迷探偵の推理だぞ。ww
記紀の扱いどーするんだ、やっぱりご都合主義か?
太○さん大丈夫破綻寸前だよ・・・
破綻してもゴリ押し続けるのが、
有名人たるゆえんだよ・・・
536 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:55:09
しかし凍りつくね
大○さんは、過去の自分の発言に全くとらわれない、
凄まじい研究態度は評価できるよねwwww
>>526 布留0式が増えているから古墳時代の年代が上がるのは当たり前という
のはおかしいかな?あと旧編年の作成者佐原さんですら、年代が新しすぎたと
後悔していたらしい。俺は庄内一式=三世紀第二四半期だと思うが。
538 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:03:56
>>537 思うのか大○さん 思うだけだろ大○さん 証拠も無しに思うだけだろ大○さん
>>538 話がわからないなら無理してついてこなくてもいいと思うよ、おれは。
君のために参考資料を提示してあげよう
学生社から出ている2005-6-5初刷発行の本(定価1980円+税)p113〜p173だ。
君の一層の努力を期待している。ではまた。
540 :
太国:2006/09/18(月) 14:33:58
余は九州説2倍年暦並立制を主張している!
記紀の記事の取捨選択を、
定義に縛られずに自由に行う、
今までにない画期的な説である!
是非皆さんもご確認下さい。www
541 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:36:20
>>539 あれ?
だれか付いて行くって言ったか? 妄想じゃないか?
542 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:41:56
白昼夢?
幻覚?
妄想?
薬?
脅え?
少し精神状態に、異常が見受けられますよ。
543 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:59:20
結局のところ、庄内開始が遡上したことで、邪馬台国九州説は壊滅。
唯一可能性があるとすれば平原王墓。九州説はその辺りに絞った方が活路が見い出せるのでは。
544 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:02:05
>>539 とか
>>543 なんて
太○さんとしか言えない文章だね。
九州説2倍年暦並立制の矛盾を教えて下さいよ〜
>>541 話する気がないなら俺の書き込みにレス付けなければいいだろうに。結局
何がしたいんだ?ただ人を貶したいのか?
>>542 お生憎様、俺は誤解しただけさ。君の書き込みはただの曲解にしか見えないなあ。
546 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:06:26
>>543 大きなお世話だ。
土器編年がどおしたって?二、三年もしたら新説が出て、あっちコロコロこっちコロコロ
考古出土物なんて検証の二次的要因で十分 ものを語るわけでなし、その場の権威でどおにでもなる
547 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:11:16
>>545-546の太国さん
九州説2倍年暦並立制の矛盾を教えて下さいよ〜
記紀がめちゃくちゃになりますよ〜
>>544 過去ログ嫁。君にかけてあげられる言葉はそれしか見つからないよ。
>>543 ただ畿内説の方は統一的見解が出されていないのが問題。九州説が壊滅
してもこれでは一般の人たち(歴史にあまり興味が無い人たち)には
わかりづらいだろう。俺は平塚川添遺跡が九州内ではいちばん「女王の
都」の可能性が高い遺跡だと思うが、どうだろう。
549 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:24:49
太国さん
>>547に返事するなら、コテ貼ってくださいよ。
それに太国さんは九州説辞めたの?
>結局のところ、庄内開始が遡上したことで、邪馬台国九州説は壊滅。
二言目には他説をキチガイ扱いする畿内説のみなさんは、こういう脳みそ
なんですねwwwww
551 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:49:19
>平塚川添遺跡
>>永遠に不動な考察ならともかく、新にそれらしい遺跡が見つかると変わるんだろう。
552 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 16:01:50
>>550-551 さむいよ太○さん、
面白くないよ、
太○さんがコテ貼って、
責められるのか見たいよ、
ばればれなんだから、
コテ貼ってよ太○さ〜ん
553 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 16:47:59
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/ 446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。
Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。
554 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:30:50
>>546 >土器編年がどおしたって?二、三年もしたら新説が出て、
>あっちコロコロこっちコロコロ
それだけ精度が上がってきてる、ってことだよ。
徐々に古代史が解明されつつある。
お前の言う根拠なんて(どうせ倭人伝の《独自》解釈とかだろ)、
所詮世間からじゃ「根拠無し」「妄想扱い」ってこと。
556 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:36:26
>>525 >そうやって決めていると思い込んでいるとは・・・
はやく、どうやって「決めている」のか答えて下さいよ。
曖昧な根拠じゃなくてね。
あなたの信じる実年代観が、実は、いかにいい加減に決められていたかが、
漸く分かりましたか?
557 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:47:07
1000年経っても結論出そうにないな
559 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:15:51
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/ 446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。
Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。
560 :
大國:2006/09/18(月) 23:22:37
オヤ?
>>559>>553とオンナジカキコが続いてるから例のチョンコ♂君かな?
おれのニセモノオオハヤリ
561 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:28:54
562 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:41:38
邪馬台国はサハリンにあったと思う
563 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:46:43
ジャマイカです
564 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:52:15
邪馬台国は福建省にあったという説が濃厚
565 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:58:12
邪馬台国は畿内にありました。
終了
566 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 00:03:10
↑
ねつぞう
567 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 00:43:22
実年代の根拠が確実にある、なんて答える方が、勉強不足だろ。
せいぜい貨泉の出土で弥生後期開始の実年代が決まった程度。
細かいことだけど、決まったのは、
貨泉の出土した遺跡の実年代の下限(後世)だけでは?
「弥生後期」なんてのはこれまた地域によって様相様変わりするわけで。
あれ? 上限と言うべき?
これ以上早いことはあり得ない限界の事ね。
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/ 446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。
Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。
571 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 04:04:27
>>畿内説
1、北九州の地名が大量に畿内に移動しているのはなぜか。
2、記紀神話が九州、出雲を主な舞台とし、畿内がそうでないのはなぜか。
3、記紀神話において、九州から畿内に入るエピソードが多いのはなぜか。
4、「棺ありて槨なし」の埋葬形式と、発掘結果が矛盾しているのはなぜか。
5、「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」とは何を指すのか。
6、銅鐸は何だったのか、消えたのはなぜか。
572 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 06:33:07
>>571 >1、北九州の地名が大量に畿内に移動しているのはなぜか。
地名の類似は、大和がオリジナル。九州に大和より古い三輪神社は無い。
>2、記紀神話が九州、出雲を主な舞台とし、畿内がそうでないのはなぜか。
国生み神話で、九州が生まれたのは四国よりも後。淡路島が最初。
>3、記紀神話において、九州から畿内に入るエピソードが多いのはなぜか。
畿内説とは無関係。紀元前の神話とも考えられる。
>4、「棺ありて槨なし」の埋葬形式と、発掘結果が矛盾しているのはなぜか。
ここだけ考古学に着目しないように。
それを言うなら卑弥呼の金印を九州から見つけてください。
>5、「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」とは何を指すのか。
女王国の東=「東海道」
みな倭種=「蝦夷」
>6、銅鐸は何だったのか、消えたのはなぜか。
畿内説とは無関係。
前方後円墳や前方後方墳という異なった様式が作られた経緯も、記紀神話には書かれていない。
573 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 08:14:00
>>568 貨泉が新の王莽の貨幣で、鋳造期間が二十年ほど、ってこと分かってて書いてますか?
574 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 10:43:00
貨泉を畿内に持ち込んだのは、交易に携わる渡来系商人だろう。
魏志倭人伝よりも古くから交易相手として畿内が知られていた。
邪馬台国が九州なら、魏志倭人伝に大和の記載が無いのはおかしい。
大和が邪馬台国なら、なんの疑問も残らない。
575 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 14:21:21
576 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:38:29
>>1、北九州の地名が大量に畿内に移動しているのはなぜか。
>地名の類似は、大和がオリジナル。九州に大和より古い三輪神社は無い。
大和がオリジナルとする理由を述べてください。大和がオリジナルと仮定すると、
九州に地名が移動したことになりますが、その理由も述べてください。
>>2、記紀神話が九州、出雲を主な舞台とし、畿内がそうでないのはなぜか。
>国生み神話で、九州が生まれたのは四国よりも後。淡路島が最初。
記紀神話を読んだことがありますか?
例えば古事記に登場する地名数は九州が36、出雲が34。畿内は11です。
九州、出雲が主体であることには変わりがありません。
>>3、記紀神話において、九州から畿内に入るエピソードが多いのはなぜか。
>畿内説とは無関係。紀元前の神話とも考えられる。
これはよしとしましょう。しかし記紀神話において、神武、応神により
2回九州→畿内への東遷が繰り返されていることを強調しておきます。
577 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:39:05
>>4、「棺ありて槨なし」の埋葬形式と、発掘結果が矛盾しているのはなぜか。
>ここだけ考古学に着目しないように。それを言うなら卑弥呼の金印を九州から見つけてください。
質問をしているのにはぐらかさないでください。
例えば魏志倭人伝に「宮室、楼観、城柵」「兵、矛、盾、木弓」「倭錦上献」
などの記述がありますが、これらも北九州の遺跡・遺物と合致します。
畿内説の主張として、発掘結果から大々的に邪馬台国論争に
終止符を打ちたいとする気持ちが先行するあまり、
魏志倭人伝の邪馬台国の記述の範疇を超えている主張をしているのが目立ちます。
邪馬台国とて、当時の日本で最も有力であったということは必ずしもないわけです。
話は飛びますが、記紀神話で言えば、畿内説のイメージする畿内王権は、
出雲を平定した後、アメノヒボコを討ち、播磨を収め、山陰山陽を手にしながら、
最盛期に、遠く越の国を経て、信濃の国まで勢力下に収めていたというオオクニヌシの国を想起させます。
578 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:41:14
>>574 >邪馬台国が九州なら、魏志倭人伝に大和の記載が無いのはおかしい。
「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」という記述がそれに当たります。
あるいは、女王国≒邪馬台国に敵対していたとされる
「男王の狗奴国」こそが南九州の蛮族ではなく、畿内王権と見る考え方もできます。
発掘結果によれば、畿内王権は九州を徐々に間接的に圧迫していたことは明白で、
九州の邪馬台国は畿内王権の心理的圧迫に耐え切れず、中国大陸に救援を求める形で
魏との関係を持ち始めたというのが真相でしょう。
579 :
571 576-578:2006/09/20(水) 16:47:02
今気づきましたが、ここは畿内説のスレのようですね。
スレタイに九州説厳禁とあり、スレを汚して申しわけありませんでした。
すぐに去ります。
>>575 決して自作自演ではありません。
580 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:36:08
考古学を勉強城
581 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:38:42
>>579 最近のこのスレの傾向からして、別にココにいてもいいんじゃね?
582 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:59:17
庄内式土器の起源を畿内とするなら、畿内説は動かない。
584 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:02:54
>>578 そういう説もあるが、邪馬台国時代にそれほどの軍事的圧迫を受けていたと
考えるのも無理がありすぎる。
やはり呉だろう。よく言われる、呉の生口の記録と吉野ヶ里の構造からも確
かだと思うよ。
585 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 22:31:06
>>578 九州説は、豊富な鉄器による北九州の優位性をさんざん主張してるくせに、
畿内王権に圧迫されてたとか、トンチンカンなことを言うんだな。
それはつまり、鉄器量と軍事力は無関係ということだ。
とりあえず、九州説派は、以下の質問に答えを出せよ。
1、軍事力と無関係な鉄器が九州に多いことが、どのように九州説の根拠になるのか?
2、どうして鉄器量で勝っていた北九州から畿内に王権が移ったのか?
3、東遷があったと言うなら、考古学上の証拠を示せ
4、縄文〜弥生時代末期では東日本の方が西日本よりも人口が多かったことについて論評せよ。
586 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 22:43:00
>>583 無知の知、って言葉、知ってますか?
知らなかったことは恥ずかしいことじゃないですよ。
587 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 23:17:36
九州説の人たちは、近年の考古学の成果を殊更貶めようとしますよね。
藤村とか持ち出して、畿内説の捏造と主張。
で、結局、考古学は無視して、倭人伝解釈こそ重要と仰る。
そんなこと、半世紀以上続けてきて無駄だったことが、分かってないんでしょうか?
588 :
571:2006/09/21(木) 00:04:59
>>585 昨今の考古学の成果を十分に踏まえて、魏志倭人伝の記録と記紀神話も考え合わせ、
九州の邪馬台国が畿内王権に押されていたと言っているつもりですが。
私は鉄器の優勢が即、勢力の優勢に繋がるとは思っていません。
九州説にとっては有利な材料になりはしますが、私は関係ないと思います。
東遷と言えば、明らかにそれは記紀神話の記事からの連想ですが、
589 :
571:2006/09/21(木) 00:18:57
神武天皇の東征、応神天皇の東遷、そしてオオクニヌシの国譲り、
この3つの「東遷」から連想される、核となる歴史的事実は、
華々しい東征、勢力の移動などというより、どちらかというと謀略めいた政治的な、
クーデター的な畿内の乗っ取りという側面が非常に強かったのであろうと思います。
私個人としては、東遷・九州説論者が主張する
東遷の考古学的痕跡はほとんど無いと考えています。
また、東日本のほうが人口が多かったのは、当然だと思います。
私としては、東日本がつねに優勢だったと考えます。
どうも魏志倭人伝には、邪馬台国が他国の戦争で疲弊している様子がうかがえる。
590 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 00:53:33
>>589 >オオクニヌシの国譲り
これが東遷を示すという根拠は?
591 :
571:2006/09/21(木) 01:16:12
>>590 オオクニヌシの国の最大勢力範囲が、
畿内説論者が想定する畿内王権の勢力範囲とほぼ同等かそれに近い。
また、記紀神話の地名に九州の地名が多いことや、その他の理由から
高天原=九州と考えてもほとんどさしつかえないと考えます。
そして一連の国譲りのエピソードの流れ、オオクニヌシの最期や、
2人の王子の記述(信濃まで逃げた)などから、これも広義の東遷と見ています。
高天原=九州天皇家が、葦原中つ国=畿内王権に対して優勢だったとは思えません。
592 :
571:2006/09/21(木) 01:27:10
いずれにしても、畿内に邪馬台国があったとすると、
考古学的な成果からは充分すぎるほどの及第点だとは思うが、
魏志倭人伝の記録と合致しなくなる箇所がどうしても残る。
また、考古学的成果が「出されすぎた」せいか、逆に
畿内説論者の想定する邪馬台国のスケールが大きくなりすぎて、
魏志倭人伝において描かれた邪馬台国の記述の範囲を越えてはいまいか。
記紀神話においては言うまでもない。
593 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 04:20:40
布留0あたりまで東瀬戸内が主導権をにぎり、
それ以後は各地域(吉備・東瀬戸内・東海etc)
の勢力の力を結集した畿内が主導権をにぎる。
そういう意味で邪馬台国から拡大邪馬台国に
発展するんじゃないかな。
ただし、倭人伝の記述は初期の勢力で東四国のみ。
そうでないと東に海を渡って千余里にある倭種の国
の説明が不明瞭になる。
594 :
七色仮面:2006/09/21(木) 07:12:54
田舎から攻め上り東遷により滅亡させれた大きな組織があったのが大和です、
595 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 07:15:10
>>589 >オオクニヌシの国譲り
記紀神話で、九州が関係するのは天孫降臨した後だよ。
高天原は概念だけの神々のクニでしかない。
高天原と関係する特定の九州の地名が、どこに、いくつ出てきた?
記紀神話をよく読んで、リストアップしてみ。
596 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 21:16:37
東瀬戸内地域の首長たちが結集して、庄内初めに邪馬台国建国。
これで決まりだろ。
筑紫や吉備勢力の東遷とかの征服説はもう古い。
597 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 21:36:58
弥生後期の地域間抗争激化で、各経済ブロック内の中央集権化が進む。首長霊祭祀、古墳築造を始める。
筑紫、吉備、出雲でパラレルに起き、最後に畿内。
598 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:17:06
>>595 >>571はそこらへんを混同しとるんかな?
まあ、高天原は九州〜朝鮮〜中国大陸あたりだと思う
国譲りは東遷的なものだということは漏れも賛成。
599 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:37:15
記紀におけるとりわけ神代の記述のなかで
いわゆる史実を反映した、ないしは史実に影響をうけた記述が
いったいどれほど残っているものでしょうね?
>>751氏のあげる「オオクニヌシの国ゆずり」にしても、
記紀のなかでは極めて新しいテキスト層に属する、というのが研究者的には
ほぼ主流なのでは? 最近では、記紀における出雲系神話の形成は
杵築大社造営(659?)を遡らないという説もある。
602 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 07:20:46
>>598 >まあ、高天原は九州〜朝鮮〜中国大陸あたりだと思う
トンデモ本を読みすぎて先入観のかたまりになってるな。
朝鮮〜中国大陸に、天の岩戸伝説が残ってるか?無いだろ。
高天原は、弥生後期の日本の王族をモデルにした神話だよ。
ただし、天照大神のモデルが卑弥呼かどうかは、短絡的に考えるべきではない。
記紀神話にも、モモソヒメ等、有力な巫女がいる。
603 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 08:38:58
神話に安易な史実性を求めるのは慎んだ方がいい。
604 :
七色仮面:2006/09/22(金) 09:34:18
記紀に書いてない事が地方の神社に残ってるので、記紀はええかげんなことも書いてた
605 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 09:43:23
風土記もお忘れなく。
魏志倭人伝の倭人のイメージと日本書紀の蝦夷のイメージって似てるような。
608 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 20:46:14
魏志倭人伝の倭人は、イレズミがあるというが、
顔にイレズミのある土偶が出土するのは、瀬戸内海より東の地域だったりする。
609 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:05:58
庄内土器と大田田根子説話は、関係がありそうで興味深い。
610 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:09:21
オオタタネコなる書記上のキャラについては
確かにいろんな妄想をかきたてますがねw
612 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 05:06:50
>>545 「筑紫の日向の高天原」すら無視ですか?
畿内説って記紀も読めない馬鹿ばっかり何ですね
613 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 07:02:00
>>612 [筑紫の日向の高天原]って、どこに出てくるフレーズ?
検索してもヒットしないよ?
614 :
七色仮面:2006/09/23(土) 09:06:31
記紀に乗ってないことが多すぎるので記紀はでたらめを書いたと言うとおこられるので
やめた
615 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 09:51:37
記紀に乗ってなくても、
他の文献に載ってるならその文献を言えばいいだろ?
616 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 10:53:35
九州説の連中は、畿内説に対する嫉妬、恨み節ばかり。考古学を無視して、ろくな論も展開出来ない。呆れた。
617 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 10:57:41
>>616 太国は記紀に相反する九州説だって、
しかも2倍年暦では記紀信者だって、
はっきり九州説宣言しているコテハンは、
めちゃくちゃな太国だけだよな!
618 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 12:02:05
>>616 お前、相当な「いかれぽんち」だな
考古学考古学と二言めには、2ちゃんのヤシだけだぜ(レベルの低さを晒してる)。
他の掲示板の畿内説論者等は、考古学など口にせんでも十分渡り合っている
619 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 12:03:24
太国さんは問題外だな!
620 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 12:06:15
太国が対等に渡り合っているの見たことあるか?
負けているのに気が付かないだけだよな!
621 :
太国:2006/09/23(土) 12:11:15
とにかく女王国は九州にあったのだ。
畿内にはあるわけがない。記紀に書かれてないのがイヤでも確信に至る。
スズメ蜂に刺されるのは近くによればのことだ。
遠く巣から離れれば刺されることの可能性は薄い。同様に記紀に記述
のない女王国は遠い九州にあったわけなのだ。
考古学とかの権威力で騙されるなよ!
622 :
太国:2006/09/23(土) 12:14:37
ここは九州説でない畿内論者のスレだったな。邪魔だろうから他へ行く。
623 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 12:21:42
記紀に書かれていないことを根拠に九州比定するのと、考古学を大上段に構え畿内を比定するのも
大して変わりないレベルだな
624 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 12:22:27
>>621-622 大丈夫だよお前のスレだろ!
そっくりだよね太○さん!
メチャクチャ具合も、文章能力もね。
625 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 13:36:03
考古学無視では、世間からの評価ゼロだよ。
文献を考古学で検証していくのが正しい態度。
626 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 14:06:02
>>612 「筑紫の日向」の場合の筑紫は、=九州の意味だから。記紀もそれを前提に書かれている。
日向神話を北部九州のことと考えたいのは別に構わないが、何の根拠も無いことだという事を理解した上で。無根拠はことを前提に論を展開されても、気持ち悪いだけ。
627 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 14:23:44
記紀は勿論のこと、倭人伝にも明らかな間違いがある。
それをどう取捨選択していくか?って言えば、今のところ考古学しかツールないわけ。
当たり前の話なんだが。
取捨選択の作業の結果、九州説は弱体化。
九州説の人間は、畿内説に転向するか、敢えて考古学を完全無視するかの二者選択を迫られている。
現役九州説の人間が、考古学と聞いてヒスを起こすのも無理はないこと。
628 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 14:38:15
>>627 文献における「明らかな間違い」を確認しておきたい。
共通認識かどうか知りたいので。
倭人伝
距離(地図上の直線距離としてはおかしい)
方向(地図上の方向としてはおかしい)
戸数(多すぎる?)
記紀
地名(弥生以前としてはあまりに広域)
年数(人間が生存できる期間とは思えない)
その他、現実の出来事とは思えない誇張や変形と
思われる記述がある。
629 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 14:40:09
>>627 >倭人伝にも間違いがある
>>何処が間違っているか提示願います。
ありきたりな文で、お茶を濁してもダメ
630 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:02:56
>>626 偉そうですね。さぞや立派な学者さんなんでしょう。
で、浅学な私に、「筑紫=九州」である用例をお示し願えませんか?
私はそのような例を知りませんし。古代から現代までそのような助詞の使用法も
知りませんが。
ついでに、日向地名が多数存在する北九州と、字に至るまで数例しかない宮崎と
比べて、北九州が「何の根拠もない」とか「気持ち悪い」とかはなはだ遺憾では
あります。
631 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:03:44
★ 百済は日本人が建国した ★
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
文献=記紀と倭人伝という態度はいかがなものか。
太国が常駐するのも如何なものか?
634 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:23:52
>>630 >で、浅学な私に、「筑紫=九州」である用例をお示し願えませんか?
日本書記の国生み神話で、
「淡路洲」「大日本豊秋津洲」「伊予之二名洲」の次に、
「筑紫洲」が九州として登場しますが?
635 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:57:48
国生み神話が淡路島周辺の海人集団の創世神話であり、
その神話が、古代から日本人全体の神話として認知され文献に残ったという事実は重いよ。
これにより、東遷は民俗学的にもありえない。
神武東征神話など、九州から畿内へ人の移動はあったにしろ、
畿内の創世神話と同化して、祖先霊の起源を淡路島周辺に求めなければならないほど、
畿内には強力なコミュニティが存在していた。
結果的にコミュニティと同化しなければならなかったわけであり、
大人数が移動する大規模な東遷は無かったということになる。
北九州と畿内の地名の類似も、北九州から畿内に持ち込まれたなら、
神話も上書きされるはずである。
しかしそうではなく、むしろ南九州の「隼人」が、
王家に近い一族として記録されるに留まるのみ。
神武東征が日向から始まっていることからも、
「北九州勢力が畿内を征服した」などということはありえないのである。
では、邪馬台国は日向にあったのか?というと、
考古学的には完全に否定される。
本来の日本の範囲は、
北は青森まで、南は種子島、屋久島まで、西は男女群島まで、伊豆諸島では
八丈島までで、(佐渡島、隠岐、壱岐、対馬も含む)それら以外の土地は
元々は我が日本民族にとって化外の土地だったんですか?
本来の日本の範囲がすごく気になるので。
>>636 そう、メリケンの血管が切れるから南は注意しろw
638 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:20:33
太国さん自作頑張ってるな 文章下手だから直ぐ解るぞ!
>神武東征が日向から始まっていることからも、
>「北九州勢力が畿内を征服した」などということはありえないのである。
なんで?
>>635 > 神武東征神話など、九州から畿内へ人の移動はあったにしろ、
> 畿内の創世神話と同化して、祖先霊の起源を淡路島周辺に求めなければならないほど、
> 畿内には強力なコミュニティが存在していた。
> 結果的にコミュニティと同化しなければならなかったわけであり、
> 大人数が移動する大規模な東遷は無かったということになる。
その強力なコミュニティはどうして被征服神話というマゾ神話をでっち上げたのですか?
朝鮮神話では王とその従者ぐらいしか流れてこないですね。大規模な軍事作戦に
より大和に入るという物語を大和の「強力な」コミュニティが受け入れる理由を教えて下さい。
> 神武東征が日向から始まっていることからも、
> 「北九州勢力が畿内を征服した」などということはありえないのである。
> では、邪馬台国は日向にあったのか?というと、
> 考古学的には完全に否定される。
一度南下して、それから東遷した可能性だってあります。
考古学では鎌倉に幕府があったことを証明できませんからね。
あてになりません。
640 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:47:16
ムーニー太国のパーソナルデータ!
成人男性 無職ニート
中学にて不登校を始め、
毎日朝から2チャン三昧
文章能力小学レベル
繋がりに気を付けて文章が作れない
説得力、解読力、認知力等総てに劣る
ママパパには強いが、世間は怖い!
現代の座敷ワラシ=笑虫=○○○=太国=ムーニー
641 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 19:49:09
>>639 >より大和に入るという物語を大和の「強力な」コミュニティが受け入れる理由を教えて下さい。
南九州出身の少数の部族によって、奈良盆地の狭い範囲(イワレ)を征服できたというだけで、
淡路島周辺の創世神話を持つ海人のコミュニティに対して、
「九州が最初に生まれた」という神話の書き換えまでは出来なかった。
よって、「奈良盆地の王のニギハヤヒの弟が、九州に天孫降臨した」という神話を創作した。
イワレヒコが、ニギハヤヒに代る畿内の正統な王位継承者であると、
(ウソをついてまで)宣伝しないと、奈良盆地を統率できなかった。
ということを、記紀神話は言い表している。
淡路島周辺の海人コミュニティからみれば、
奈良盆地は地方政権にすぎなく、重要な存在では無い。
淡路島周辺の海人と、奈良盆地のイワレヒコの新興勢力が、
徐々に同盟を結ぶうちに神武東征神話が出来上がっていったと考えられる。
考古学的には、高地性集落が発展していた2世紀頃が、
神武東征の時代であろう。
その後、庄内土器が、北九州〜畿内を移動するので、
3世紀には、九州〜瀬戸内海〜畿内は、連合していたはずである。
その連合が、邪馬台国の勢力範囲ということ。
642 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:07:13
643 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:07:24
南九州ではなくて、筑紫
644 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:14:53
神武東征をそのまま史実と考えるような馬鹿は流石にいないだろう。
で、神武伝承が成立したのがいつ頃なのか?という話になる。
俺は、四世紀末。応神が神武のモデルになったんじゃないかと思う。
この場合、神功=天照大神、応神=神功皇后、武内宿禰=高木神になる。
>>635 淡路島と日向の違いについてですが、伊勢、宇佐なども含めて、
記紀や大和政権の東海岸を持つ地域への執着ぶりは異常とも思えるほどなので、
> 畿内の創世神話と同化して、祖先霊の起源を淡路島周辺に求めなければならないほど、
だからといって、
> 畿内には強力なコミュニティが存在していた。
と結論づけるのはおかしいと思います。
考古学的なつながりからの類推なのに、
民族学的な根拠から結論づけているような言い方は間違ってます。
646 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:50:22
少し前、
>>571氏が言っていた
>発掘結果によれば、畿内王権は九州を徐々に間接的に圧迫していたことは明白で、
>九州の邪馬台国は畿内王権の心理的圧迫に耐え切れず、中国大陸に救援を求める形で
>魏との関係を持ち始めたというのが真相でしょう。
この説は九州説の中ではわりと信憑性があると思う。
畿内説の人はこれに対してはどうなの?
647 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:52:07
>>641と似ているけど、その淡路島周辺の海人コミュニティ
こそがニギハヤヒの降臨、神武の東征神話の主体じゃないの?
古墳前期あたりでは、南九州の勢力の畿内への影響の
考古学的な証拠がないのでは?
記紀の神話はもともとその淡路島周辺の海人コミュニティ
の部族の小さな範囲の神話だった。
しかし、そのコミュニティが畿内を中心とする広域政権
になるに従い、各地の有力部族の地名に、政権の意図
によって語呂合わせのようにして置き換えられた。
記紀の神代を出鱈目とするには、あまりに具体的な記述が多い。
しかし、地名と年代はそのままには受け取れない。
648 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:06:25
ムーニー太国頑張ってるな!
649 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:08:08
神武東征神話の成立は、古墳時代よりずっと前のことだろう。
650 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:11:14
>>649 ムーニー太国がこれから、
1人突っ込み
1人ボケを始めます!
ソースはぜったいありません。
651 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:16:51
>>649 一応聞いとくけど、何かそれなりに根拠があって言ってるの?
652 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:18:55
>>646 唯一、九州説に残された可能性だと思うが。
653 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:25:53
>>651 神武天皇=イワレヒコの「磐余」は、
古墳時代には、特別な豪族が支配した地ではなくなってる。
654 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:37:17
655 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:44:49
磐余地方は初期古墳では、桜井茶臼山とメスリ山くらいしかない。柳本の王墓と離れており、おそらく別系統かと。
>>635 その論調のままで、大和政権は、
神話成立時代にようやく畿内周辺を掌握しただけ、
と結論できるのでは?
前提部分からの論理展開がちょっと強引だと思う。
657 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:46:12
○国氏妄想中
658 :
656:2006/09/23(土) 21:46:23
>>656 > と結論できるのでは?
< とも結論できるのでは?
659 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 22:12:43
国生みだけど、さすがに人間が島を生むというのは
無理なので、それらの地域を航海後、人々に地図で
示した順番ではないだろうか?
四国の形や九州の形を具体的に述べられているのは、
そのためだろう。
古事記の順番では
水蛭子−淡島−淡道之穂之狭別島−伊予之二名島
−隠伎之三子島−筑紫島−伊伎島−津島−佐度島
−大倭豊秋津島
ただし、水蛭子と淡島は淡路島より先に生まれたものの、
イザナキ・イザナミの子供の内には入れない。
水蛭子は島とはいえない中州のようなもの、
淡島は大八島に比べればずいぶん小さな島だったのかも。
そうすると、「水蛭子−淡島」は淡路島や四国の各地域に近く、
中州ができるような大河の吉野川下流域の可能性が考えられる。
660 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 22:14:52
>>659 くだらねぇ妄想は聞き飽きたぜ、低能め!
661 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 23:27:57
邪馬台国は南極にあったという驚愕の事実
被葬者は狗奴国の大王? 犬山の東之宮古墳で18日に説明会
【愛知県】犬山市教育委員会は18日午前11時と午後2時からの2回、同
市犬山北白山平の山頂にある国史跡東之宮古墳の現地説明会を開く。同古墳は
昨年に続く今夏の調査で、規模を推定する手掛かりが得られ、特異な築造法も
立証され、被葬者がこの地方で勢力を誇った権力者であるという説がますます
有力になっている。
東之宮古墳は、長さ70メートル、幅40メートル、高さ9メートルと推定
される前方後方墳で、3世紀後半に築かれたとみられる。被葬者は邪馬台国(
やまたいこく)と対立した狗奴国(くなこく)の大王か王族クラスではないか
という説も出ている。
今回の発掘調査で、盛り土を覆う石の土台となる「基底石列」の一部が古墳
の辺縁部で見つかり、古墳の範囲が明らかになりつつある。盛り土を分析した
ところ、ふもとから運んだ土であると分かった。山を削る一般的な工法を採ら
ず、2トントラックに換算して約1000台分の土石を山頂まで運び上げたと
考えられ、被葬者の力を物語っている。
説明員は県埋蔵文化財センター調査課主任主査の赤塚次郎さんと市教委文化
財課学芸員の渡辺樹さん。当日は、名鉄犬山遊園駅と名鉄モノレール成田山駅
下の駐車場に関係者を配置し、現地へ誘導する。 (早川昌幸)
(中日新聞) - 9月16日12時31分更新
3世紀後半で、
前方後方墳で、
邪馬台国と対立した、
狗奴国
対立しているけど、前方後方墳ってのは畿内説的にどうよ。
664 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 05:26:11
畿内説の最大のアキレス腱が「狗奴国」の存在だと思う。
665 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 08:18:10
>>663 >対立しているけど、前方後方墳ってのは畿内説的にどうよ。
どういう意味で?
前方後円墳勢力=大和国連合
前方後方墳勢力=狗奴国連合
というところまでは、無理の無い仮定だろ。
関ヶ原をはさむ東西対立は歴史的にも恒常的に起きてたことだよ。
666 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 08:52:21
倭人伝無視する癖に都合いいところだけ剽窃する畿内説
どう読めば愛知にあるってなるんだか。
667 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 09:09:38
でかい前方後方墳は大和にあるんだけどね。
668 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 09:23:47
魏志倭人伝を読み解いて、狗奴国を前方後方墳勢力と考えたのではない。
前方後円墳勢力=大和国連合に匹敵する、前方後方墳勢力が存在したことがわかってきた。
邪馬台国=九州のクニという小さなスケールで、3世紀の日本全体の古代を語れなくなってきた。
という、最新の考古学の成果から、導かれた結論だよ。
前方後円墳勢力も、前方後方墳勢力も、古墳時代に突然登場したわけでなく、
少なくとも、その50年前(3世紀)からそれぞれの地域に有力豪族が闊歩していたと考えるべき。
少し昔は九州が倭国を統治していたかのようなイメージしかなかったが、
もはや畿内は、九州と同程度まで文化が高かったことが知れており、
さらに東の地域にも畿内と同程度の勢力があったことがわかってきている。
邪馬台国を九州の一地方政権と捉えることすら、現実的では無くなってきているのだよ。
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、
>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって
>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。
このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?
本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w
奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
670 :
七色仮面:2006/09/24(日) 09:53:24
台風の去ったあとに大阪平野をみてもわかるようにハシからハシまでは非常に近くて
古代は神戸のやまから生駒の山の人の動きが見えていたと言ってもかごんではなく
それほど世間は小さかったので、大和も関東も同じくらいに文化が進歩していた
ので九州はべつにどうでもよかった
>>665 古墳時代初期にも、東海地方には前方後円墳が多い。
吉野ヶ里でも弥生末期(今だと古墳時代最初期になるのかな)、
古墳時代初期に前方後方墳があるよな。
「前方後方墳勢力=狗奴国連合」って人はああいうのどう解釈してんだろ?
渡来勢力には二系統あって、
前方後方墳勢力も全国に分布していて、
徐々に東海地方に片寄っていったと考えているのだろうか。
いずれにせよ、二大勢力となる時期は、
古墳時代の開始より時代が下ると、古墳分布からは伺えるのだが、
これはちょっと畿内説とは合わないのではないか?
畿内説の人は卑弥呼の墓を古墳時代の開始に結び付ける人が多いから。
俺は九州説でも畿内説でもないんだけど、(正直良くわからねえ)
古墳の系統ってのは(崩れちゃってるのが結構あるから)難しいねえ。
出土品の方が確実かなあ。しかしそうなると共通点も多い。(方と円には)
673 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 12:31:40
>>672 >いずれにせよ、二大勢力となる時期は、
>古墳時代の開始より時代が下ると、古墳分布からは伺えるのだが、
二大勢力は、古墳時代開始から見られるよ。
時代が下がると、同じ土地(出雲や会津)に前方後方墳、前方後円墳が同居するようになる。
当初、対立してた二大勢力が融合していったということだろう。
674 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 13:48:56
>>673 大和と東海はそもそも対立していないですから。
墓制だけに注目して二大勢力に仕立て上げないで下さい。
677 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 16:18:39
東海に結構な勢力がいたのは確かだから、狗奴国=東海と考える研究者は多い。
ただ、畿内と対立してたかどうかは簡単に言えない。
恐らくは、対立友好を繰り返して、最終的には融和したのだろう。
東海へ通じる磐余に桜井茶臼山やメスリ山が造られた頃は、畿内東海が緊張関係にあったことが推測される。
678 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 16:19:17
>>676 >「天皇」ってどこからきたのですか? 出自というか、どうやって天皇に決まったのか教えてください。
>5世紀 金官加羅から来た傭兵隊長が簒奪した。 応神大王
>6世紀 北陸の在日オヤジが乗っ取った。 継体大王
>7世紀 百済の王族が義慈王の名代として派遣されてきた。
> その後、新羅人の忍者が簒奪した。
> 舒明天皇→天智天皇(百済系)
> 天武天皇(新羅人の忍者) 04/11/11 19:03:25
これが本当なら、宮中では朝鮮人がどんどん召抱えられ、朝鮮語が標準だったはずだな。
実際は、そんなことはなくて、5母音50音の言語が記紀以降に成立している。
8母音だったとも言われるが、中国・朝鮮語の母音はもっと多い。
日本に住んだだけで、母国語から母音の数が急激に減ることは考えられない。
完全なネタサイトか
初め見たときは軍事板常見問題みたいなサイトだとおもったのに
狗奴国の位置に関しては「其南」の「其」がどの国を指すのかが問題だろう。
文章のつながりから考えれば、「此女王境界所尽」の「南」だと思うが。狗奴国
が東海に在ったという人は後漢書を元に主張してるみたいだがどうなんだろう。
681 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 18:14:09
「此女王境界所尽」=鈴鹿山脈
「境界」=関ヶ原
「其南」=不破の南側
>>681は「奴国」が不破あたりにあった国と考えているととってよろしいか?
683 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 18:56:21
>>682は、国名が立地順に並んでると考えてるわけだな?
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、
>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって
>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。
このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?
本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w
奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
685 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 19:57:02
686 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 20:01:16
東海地方がいつ頃から広域国家の体裁を取れるようになってきたのかが
よく分からない以上、まだ試論に過ぎないですよ。
私の立場では、土器編年にまだ十全の新信頼を持ちきれないし、墓制に
ついては前方後円墳が何なのかという本質論もまだ分かっていませんし。
宮内庁管理陵墓を全部ほらない限り日本は近代国家の仲間入りは永遠に
出来ませんね。
狗奴国については、やはり九州と考えるのが合理的でしょう。
仮に東海の広域国家群が存在したとしても、それを無理に狗奴国と呼び
たがる所に非学問的飛躍がある。邪馬台国が九州にあるとどうして我慢
できないんでしょうか。畿内にも大きな勢力があったということは確実
なんですから。或いは、邪馬台国国家群を凌駕する規模だったかもしれ
ませんし。
・・・まあ、研究費や、科学と関係のないイデオロギーや、その他諸々
のしがらみのせいで素直に物が見えなくなってる人が畿内説には多いと
聞きますが、私の周囲では無縁です。近畿地方でなくて良かったw
687 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 20:57:48
おい馬鹿ちん!
自分の書いた文章と、
人の書いた文章を、
見比べたことあるのか?
解らなければそれを言葉にして読んでみろ!
それでも解らないから馬鹿ちんなんだけどねwwwwwww
688 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:01:14
もちろん、考古学的には、
九州と、畿内に、別個の大きな勢力の並存を考えて構わない。
しかし、魏志倭人伝を持ち出したとき、九州勢力だけが記述され、
畿内勢力について言及されていないのは、不自然である。
唐子・鍵遺跡で、すでに渡来人の技術を借りたとみられる高度な建築跡も見られる。
そうした畿内の情勢についても魏は詳細な情報を知りえたはずであり、
邪馬台国と同盟するにあたり、周辺国情勢の情報収集が必要だったはずである。
689 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:03:05
畿内と東海はそれほど激しく対立していたとは思えないな。
「大和と東海は対立してなければならない」という至上命題が
畿内説には付きまとってくるわけで、畿内説のアキレス腱だと思う。
邪馬台国を九州と考えると、「畿内連合 対 九州邪馬台国連合」
という案外明確な見通しが立ってくる。邪馬台国は鉄器を擁していたとはいえ
旗色が悪い。すなわち、邪馬台国の魏に対する交渉とは、救援を求める策であったと。
これが文献などとも整合する、いちばん合理的な説ではないかと思う。
この畿内連合こそ、邪馬台国と敵対していた狗奴国(拘奴国)であり、
日本神話の『オホクニヌシ』の葦原の中つ国のモデルであったと思う。
さらにトンデモを許していただくなら、クナは転じてクニであり、
すなわち今日の「国」の語源になったと思う。
九州邪馬台国からみた畏怖、畏敬を伴っている、大いなる存在(畿内)を、
「クニ」と呼んだのではないか。そしてその王とは大国の王、大国主命に他ならない。
690 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:04:50
おい馬鹿ちん!
まだ解らないのか?
691 :
689:2006/09/24(日) 21:17:44
>>688 >しかし、魏志倭人伝を持ち出したとき、九州勢力だけが記述され、
>畿内勢力について言及されていないのは、不自然である。
>唐子・鍵遺跡で、すでに渡来人の技術を借りたとみられる高度な建築跡も見られる。
>そうした畿内の情勢についても魏は詳細な情報を知りえたはずであり、
>邪馬台国と同盟するにあたり、周辺国情勢の情報収集が必要だったはずである。
中国には中華思想というものがあるとはご存知ないですか?
当時の魏と同盟を結ぶことができる存在は同じ中華民族の呉、蜀しかありません。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
あとは朝貢国として傘下に入るものを例外的に国と認め、
他には国と呼ぶに値しない蛮族の寄り合い所帯としかあつかわないのです。
中国の世界観とはそういうものなので、新たに傘下に入った九州邪馬台国を
目新しい有力な朝貢国として大々的にとりあげ、畿内勢力のことは特筆しない。
ただ、女王国の東に、人間らしき者は一応住んでいる、という書き方に抑えられます。
すなわち、「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」。
692 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:22:21
>>691 >あとは朝貢国として傘下に入るものを例外的に国と認め、
>他には国と呼ぶに値しない蛮族の寄り合い所帯としかあつかわないのです。
邪馬台国と不仲だった狗奴國を、クニ扱いしてるのはどうして?
693 :
689:2006/09/24(日) 21:39:49
>>692 狗奴国は「中国に朝貢していない」から、国の扱いは受けない。
一応記録として「国」とはつけるが、それは国ならぬ国(「人非人」みたいなもん)。
中国から見れば、狗奴国は邪馬台国以下の蛮族。投馬国も畿内王権も蛮族。
(ただこの考え方だと「狗奴国=畿内王権」は撤回する必要があるかもしれないが・・・
694 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:40:42
臭い低緯度の自作自演だな!
695 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:56:31
名無しで隠れているけど、太国さんは天才だ!
696 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 22:36:28
>>693 >(ただこの考え方だと「狗奴国=畿内王権」は撤回する必要があるかもしれないが・・・
撤回するか、素直に畿内説に転向するか、だな。
意固地になってるのは、どっちだ?
697 :
689:2006/09/24(日) 23:21:07
>>696 そこまでニ者択一でもあるまい。
邪馬台国が畿内にあれば、それに比肩する勢力を東海に求めなければならない。
畿内説論者がこれでもかこれでもかと畿内王権の有力性を主張すればするほど、
皮肉にもそれに対立していた「狗奴国」がネックになる。
邪馬台国と狗奴国とは連合国家内の政治的な対立であったのでないかと
苦しい解釈に逃げることもできるが、やはり整合性を考えればそれも附会に過ぎる。
698 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 23:25:47
>>686 >狗奴国については、やはり九州と考えるのが合理的でしょう。
>仮に東海の広域国家群が存在したとしても、それを無理に狗奴国と呼び
>たがる所に非学問的飛躍がある。
そもそも狗奴国を熊襲と考える根拠ってあるの? 名前の類似以外に。
自身の「非学問的飛躍」にはなかなか気づけないもんだね、人間は。
699 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 23:39:17
狗奴国は内藤虎次郎博士が言う毛野国でいいんじゃねの
700 :
689:2006/09/24(日) 23:40:33
>>698 熊襲って言うのは「つねに楯突く」イメージがどうしてもあるけどなぁ。
邪馬台国が天皇家の源流だとすると、ますますそういう連想になる・・・気がする。
俺は
>>686じゃないのでやめる。
701 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 01:02:30
地名については、九州説にしたって畿内説にしたって、
語呂合わせに近いものがあるんだから、痛み分けだろう。
>>689 後漢書倭伝のこの記述は知らない?
「女王国より東に海を渡ること千余里、拘奴国に至る。これみな倭種なり」
ちなみに魏志倭人伝には
「女王国よりの東に海を渡ること千余里、また国あり、みな倭種」
702 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 01:16:10
狗奴国は紀伊だよ。
703 :
689:2006/09/25(月) 01:35:22
【女王国の東に拘奴国がある、邪馬台国の南に狗奴国がある】
この時点で、拘奴国≠狗奴国だったか、あるいは、
中国の文献にとって倭における東や南の感覚などほとんど無い、
このどちらかが考えられますが、現在の私は後者だと思います。
倭人伝における「東」「南」というのは単に「邪馬台国のさらにその先」という
意味合い程度でしかないと思っていますが(深く考えれば必ず袋小路になります)
狗奴国が邪馬台国から海を渡って千余里、としますと・・・
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
704 :
七色仮面:2006/09/25(月) 07:27:02
2朝並立してたので、付け届けをしてたとこが記録に残ってるがしてないとこは
記録に残ってないが文化程度はおくれてないで、邪馬台国が機内でもいい
705 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 07:27:23
邪馬台国=女王国=大和であり、
拘奴国=狗奴国=東海地方なら、問題なし。
陸を行けば、関が原を抜けて「南」であり、
海を行けば、紀伊半島を海で「東」である。
狗奴国と仲が悪いといっても、敵対関係ではなく、連合内での不和程度だろう。
706 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 08:46:43
「狗奴国は女王に属していない」とあるから、
畿内邪馬台国連合内の不和などというレベルではない。
邪馬台国連合などには属していない、全く別個の勢力。
707 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 09:58:35
>「狗奴国は女王に属してないとあるから」
>>そんなこと書いてないぞ 倭人伝を読み直し。
それに「不屬女王」とは、→女王との調和がとれないと、言う事であり
男王達とは旨くやっていると、言うことだ。
女王とうまくいってないのは、「官:狗古智卑狗」
708 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 10:46:57
>邪馬台国=女王国=大和であり
>拘奴国=狗奴国=東海地方なら 問題なし
>>って
どお、問題ないんだ?
問題があるのか?
710 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 12:08:38
なんか議論が強引だな
畿内説に不利な議論だからって焦ってるな。
「不属女王」って素直に読めばいいのに
狗奴国が邪馬台国連合に
属していない
別の勢力って考えたら何かまずいことあるの??
一つの仮説としてだ、
邪馬台国 北九州から吉備、畿内にまで広がる広域国家
狗奴国 南九州から土佐、紀伊まで広がる広域国家
と考えてみてはどう?
712 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 13:23:00
まずない
南北朝?
714 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 16:01:36
大和と東海が、不仲で無かったにしろ、
墓制は、前方後円墳、前方後方墳と、別なんだから、
完全に親密だったというわけではないだろう。
魏志倭人伝の記述とよく一致するよ。
715 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 16:18:48
はいはい
716 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 16:35:18
大和にも前方後方墳はある訳で
717 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 17:13:30
銅鐸文化圏を見ても、弥生時代から、近畿と東海は対立していた。
不和というわけでもなく、同化というわけでもない関係が続いていた。
互いに文化を発展させていった。
初期の前方後円墳、前方後方墳の分布は、
近畿式銅鐸、三遠式銅鐸の分布とも重なる。
近畿、東海ともに自ら銅鐸を捨てて古墳を作りはじめている。
少なくとも、神武東遷で銅鐸文化が滅んだという観点は成り立たない。
718 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 17:19:20
妄想乙彼酸
719 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:07:02
>>718 すると君は、神武が東遷してから一気に数十年の間で、
近畿〜東海すべての地域を制圧し、銅鐸を捨てさせて古墳を作るよう、
強力な政治改革をしたというのだな?
>>717 墓制や意匠の差異は、エスニックグループの「遠さ」を示しても、
対立を証明するものではありません。
そもそも、近畿と東海という近場で激しい軍事的対立があったなら、
農閑期にのんびり巨大墳墓なんか作っていられません。北九州で
男王たちがどろどろの政治紛争を繰り広げていた3世紀、
近畿では大和の初期国家が最初の安定期を迎えていたのです。
721 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:24:13
男王?
女王だろ!
722 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:25:54
723 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:43:38
「のんびり古墳造り」って言い方もどうか?なんか、よく分からん思い込みがあるようで。
四世紀末から五世紀初頭、河内、葛城、吉備などで古墳が突如巨大化する。ちょうど半島で高句麗と激突してた頃なんだが。
>>723 巨大建造物が比較的平和な時期に造られるのは世界共通の現象。
思いこみではありません。遠い海の向こうで軍事作戦を展開できるということは、
国内の政治は非常に安定していたと言えます。ちなみに、神功皇后は
新羅に兵を出したあと内政で少々苦労したようです。
725 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:24:05
東海が狗奴国かどうかは議論が分かれるところだが(私は紀伊だと思っている)、別に畿内説のネックじゃないよな。
東海勢力が、従来考えられていたより力があった(畿内と拮抗していた)ていうのが最近の説。朝日遺跡など。
それまでは、前方後円>前方後方と考えられていた。いわゆる畿内中心史観ってやつ。
今は、ヤマト政権の起源についても、多元的に語られるようになってきている。
マキムクの搬入土器の多くを占める東海は、かなり早い段階でヤマト政権中枢に近しい存在であったと俺は思っているがね。
726 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:39:34
庄内開始期に畿内地方で環濠の埋め立てが一斉に起きてるので、ある程度の軍事的緊張が解けたことは確か。
それまで割拠していた拠点集落の首長たちが連合、ひとつのクニになった結果だろう。
727 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:44:34
>>725 >マキムクの搬入土器の多くを占める東海は、かなり早い段階でヤマト政権中枢に近しい存在であったと俺は思っているがね。
やっと、話がしやすい雰囲気になって嬉しいよ。
九州説派が割り込むと、東海勢力についての話が全然出来ないからな。
で、大和に搬入される東海土器だが、
これが、奈良盆地の東側でよく出土する。
(当たり前といえば、当たり前だが)
この奈良盆地の東側というのは、初期大和政権の中枢だったんだよね。
大神神社あり、桧原神社あり、石上神宮あり、大国魂神社あり、箸墓古墳あり、
日本最古の古道、「山辺の道」が整備された場所でもある。
日本最古の市場、「海石榴市」も、磐余の道や伊勢街道の傍にある。
まさに、政治経済の中心地が、奈良盆地の東側より(東海地方側)にあったことになる。
西側(河内、九州方面)では無くて、ね。
728 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:46:13
ただ首長連合が成立した背景には、他地域・経済ブロックとの熾烈な過当競争があるわけ。
平和になったのは、あくまで国内の話。
他国との競争の中で、王権の強化がもたらされ、その流れで古墳=首長霊祭祀が創始された。
平和だから古墳を造ったという主張は、そもそもの古墳の本質を見誤った妄説に過ぎない。
729 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:01:54
大和に搬入される東海土器は、生活に使う日用品がおおい。
東海から労働者を招いたというのが通説だが、
労働者というのは、傭兵にもなる。
戦争が無い時期に傭兵を招くというのもおかしな話だが、
もし、「占領軍」という見方が許されるなら、
奈良盆地は東海勢力によって占領されたということになる。
唐子・鍵遺跡は、在地勢力で、東海と戦うために堀が必要だった。
堀の無い巻向は占領軍の東海勢力によって作られた都ということになる。
畿内の搬入土器の半数は東海地方のものであり、九州の土器はほとんど出ない。
九州勢力に比重を置いた歴史観は、そろそろ改めたほうが良い時期に来てると思う。
730 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:04:45
更に言えば、古墳造り自体、支配領域の首長たちから労働力を徴発して行っただろう。
墓造り人夫とは言え、石上神宮の武器を与えれば、そのまま一個師団の出来上がりだ。他国にとっては脅威だろう。
ヤマトの大王は、ミササギ造りという名目で、軍事動員の正当化を行っていたのかも。
731 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:09:33
東海勢力の一派が、奈良盆地に乗り込み、そこで「大和」を建国したのではないか?
その時点で、独立を果たした大和は、東海と一定の距離を置いた。
前方後円墳、前方後方墳などの様式の差はその一つだろう。
では、神武東征神話とは何だったのか?
これはもう、なんらかの政治的理由による創作としか考えられない。
歴代天皇が、故郷の日向に参拝したという話は聞いたことがないからね。
732 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:18:27
昔、宮崎市定が東海地方の侵攻→ヤマト政権成立を書いていた。当時はありえねーと思っていたが。時代も変わったもんだ。
733 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:25:34
このスレもお決まり
『思います』『考える』『考えられねぇ』『〜だと推測する』『だと思う』……妄想乱発だな
734 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:26:17
735 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:55:53
>>733 どういうふうに議論したらいいか提案すべし
>>734 なんかの文庫本でした。
宮崎自身、中国史専門なんで、エッセイみたいな文章でさらりと
触れていただけです。期待させたみたいですいません。
>>731 >では、神武東征神話とは何だったのか?
>これはもう、なんらかの政治的理由による創作としか考えられない。
直木孝次郎は、磐余地方に一世紀間、都があった時代、5世紀末以降に
神武伝承が成立したと主張している。
特に、継体がイワレに宮を置いたのが大きそうだ。
継続以降、直接の先祖である応神の神格化が始まり、神武東征伝承が生まれた
と考えられる。
有名人の自作自演スレ
739 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:02:30
畿内説論者は、畿内王権(ヤマト政権)を無理にイコール邪馬台国としているからダメなんであって、
「ただ単に畿内にあった王権」+「東海勢力」についていろいろ論じるなら問題は無い。
東海=狗奴国とこれまた無理につなげようとするから、やはり議論がおかしくなる。
実際、中国の文献の解釈をかなり強引に歪めてる意見もあるし。
740 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:10:49
神武東征伝承を頭から否定するのではなくて、
創作と思うならどうして創作する必要があったのか
その理由ぐらいは述べればいいのにな。
単に自分の主張する東海勢力西遷説に反するものだから、
東遷など創作、と片付ける、では学問的態度ではあるまい。
741 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:14:10
>>739 その意見には賛成だが、結果的に九州に邪馬台国があったとしても、
3世紀に貿易国として北九州に台頭するも、
4世紀には畿内大和連合に討伐された弱小国家という事実を受け入れられるかね?
742 :
最後の邪馬台国九州説:2006/09/25(月) 23:18:25
>>741 それで充分だと思います。
最後の残された九州邪馬台国説の可能性を、
そんな変なプライドで汚したくはないですから。
九州邪馬台国は日本で最も有力などというつもりはありません。
畿内王権の軍に滅ぼされたか、あるいは滅ぼされかけた、というのが私の主張です。
>>742 いや、畿内<九州が畿内>九州に変わる転換点は、邪馬台国の時代以前なんだよ。
今の考古学では。
ちなみに、君は具体的に邪馬台国を九州のどの辺りと考えているのかな?
君の畿内説アレルギーを解決する意味でも教えて欲しい。
邪馬台国九州説に固執してるのは君の方じゃないでしょうか?
>>740 >神武東征伝承を頭から否定するのではなくて、
>創作と思うならどうして創作する必要があったのか
>その理由ぐらいは述べればいいのにな。
君さ、神武東征を素直に信じてるなら、欠史八代とかも信じてるの?
745 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:33:06
太国さん自作自演ご苦労様。突っ込み放題ですが、ほっときます
神武即位の地も、蘇我氏の手によってイワレからアスカに持っていかれたからな。
「当時の権力者によって歴史が作られる」という厳然たる事実を、
740はもっと勉強した方がいい。
面映い理想主義者というか。若いね。
747 :
最後の邪馬台国九州説:2006/09/25(月) 23:40:11
>>743 邪馬台国の時代はすでに九州など畿内に凌駕されまくって圧力がジワリと来、
また落ち目だったからこそ魏の後ろ盾を得るべく交渉したのではないですか?
救援を求める形で、あるいは畿内と決戦を挑むためにもそれが必要だった。
情けないことに、九州邪馬台国の具体的な場所は特に想定していません(北九州だと思います)。
邪馬台国九州説にあくまでも固執します。自分はそれに賭けてますので。
しかし、昨今の考古学の成果もいろいろ知り、考慮することは忘れていません。
>東海=狗奴国とこれまた無理につなげようとするから、やはり議論がおかしくなる。
>実際、中国の文献の解釈をかなり強引に歪めてる意見もあるし。
殆ど印象論だな。
お前、古代史、詳しくないだろw
749 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:51:49
>>747 北部九州の伝統的な弥生拠点集落の多くは庄内併行期あたりを境に
急激に衰退。
比恵・那珂遺跡群は大和の土器を導入。初期前方後円墳も築造していて、
積極的に大和と連携。
悪いけど、君が考えるような北部九州一帯を支配するような「九州邪馬台国」は
邪馬台国の時代に存在する余地がない。
考古学を完全無視するなら別なんだけど。
750 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:55:06
○○さん・・・自作自演ご苦労様。突っ込み放題ですが、ほっときます
751 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:58:44
>>749 それはどうかな。少なくとも「積極的に大和と連携」は言い過ぎ。
752 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:58:47
このスレには証拠は落ちてませんね どうしてですか?
ヒントもありませんね どうしてですか?
まるでどっかの本を読んでいるようですが どうしてですか?
753 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:00:48
>>752 ソースが欲しいのか?
自分で博物館いって資料を閲覧してくるんだな。
754 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:02:03
>>725 前方後方墳を狗奴国に結び付けるなら、
弥生晩期から古墳最初期までは伊勢なんかに多くて、
東海地方全般だと前方後円墳と半々くらいだから、
紀伊に絞って考えるってのは、よく合うと思う。
756 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:03:26
>悪いけど、君が考えるような北部九州一帯を支配するような「九州邪馬台国」は
>邪馬台国の時代に存在する余地がない。考古学を完全無視するなら別なんだけど。
こういう奴は畿内説の中でも迷惑な奴なんだよな。変に挑発的な奴。
757 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:04:40
758 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:05:37
じゃなんで スレ立てしているの?
759 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:06:10
さみしいから
>>727 東海地方側と言っても、関ヶ原方面は薄いよね。
土器は伊勢湾南側(渥美半島なども含めて)との関係が濃い。
761 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:07:33
762 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:08:35
このスレ・・・終わったな。
763 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:08:38
>>755 >紀伊に絞って考えるってのは、よく合うと思う。
紀伊=木の国=クナ国かもしれんな。
764 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:09:20
証拠なんて必要ないんだ
僕さえ満足すれば
765 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:12:12
だって僕は偉いから何してもいいんだ ママがいったよ
766 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:14:45
証拠がいったいなんなの?
偉い先生も誰も証拠なんて使わないよ
要らないんだよ証拠なんて
妄想だけでいいんだよ
767 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:16:16
奈良と伊勢の繋がりにも、ちょっと気になるところがあるんだよね。
昔は伊勢街道で通じてたし、今は近鉄電車が走ってる。
人の往来、物流の需要が、奈良〜伊勢間にあったからだと思う。
奈良の県民性も、大阪よりは、三重の方に近いんじゃないかな?
証拠は無いけどな(笑)
768 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:17:18
・・・・・かもしれんな 僕が要ったら総てこれで確定で証拠だよ
769 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:18:30
近いんじゃないかな ・・・・・また確定だよ!
僕が言うと総て確定するんだ 証拠なんて要らないよ
770 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:19:51
議論?必要あるのか?
俺が要ったら決まりなんだから要らないよそんなの
771 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:28:55
マキムクの立地から考えても、初期ヤマト政権の東海重視が分かると思うのだが。
772 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:34:49
>奈良の県民性も、大阪よりは、三重の方に近いんじゃないかな?
>証拠は無いけどな(笑)
奈良県を一緒くたに考えると見誤りますよ。
古くは葛城国造が置かれていたように、奈良県西部と東部では
印象がかなり違います。
つまり、葛城王朝vs三輪王朝ですね。
私は葛城地方出身ですが、方言とかは堺方面と非常に近しいです。
773 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:50:14
>>756 実際問題、現在の考古学の成果を無視することでしか、九州説延命の策は無いと思うのだが。
庄内開始の実年代を三世紀末にもってくるとか。
試しにあなたが九州説の弁明やってみたらどうですか?
774 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:43:41
畿内説の間だって統一的見解は出てないんだし、
北九州が畿内とともに有力な候補地であることには変わりない。
775 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:49:07
死ぬまで言ってろ
776 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:51:41
777 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:58:50
畿内説と言ってもいろいろいるからね。
「畿内に押されつつあるので中国大陸に救援を求めた」という説だって、
畿内説論者の中にも充分認めている人もあるし、
考古学上、九州に邪馬台国が存在するような余地はもう残されていない、
とつっぱねる人もいる。
778 :
777:2006/09/26(火) 02:03:47
>739 :日本@名無史さん :2006/09/25(月) 23:02:30
>畿内説論者は、畿内王権(ヤマト政権)を無理にイコール邪馬台国としているからダメなんであって、
>「ただ単に畿内にあった王権」+「東海勢力」についていろいろ論じるなら問題は無い。
>東海=狗奴国とこれまた無理につなげようとするから、やはり議論がおかしくなる。
>実際、中国の文献の解釈をかなり強引に歪めてる意見もあるし。
これが一番当を得ている。邪馬台国論争はどうでもいいような気がする。
畿内は畿内、九州は九州、東海は東海。それでいいような気がするけどな。
779 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:13:33
>>773 考古学からみて苦しいのは畿内説の方では?
1、邪馬台国と同時代に中国で流通していた鏡の出土分布は北部九州中心。
この時点で、畿内説はアウトだと思う。
2、鉄器の北部九州優位が古墳時代の直前まで一貫して継続している。
昔の畿内説は、鉄器の出土分布を無視し続けた。
3、その後、以前は4Cからであった古墳時代の始まりを遡上する学派が畿内説
に生じて、古墳時代の始まりを大幅に遡上させた。
4、その根拠のC14や年輪年代の信用性は乏しい。
5、畿内説側ではスプリング8での捏造とか、見苦しい事件も起きている。
780 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:16:26
おろかだなぁ〜
781 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:19:46
782 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:22:32
庄内を、対九州説の伝家の宝刀みたいに扱う人がいるけど、
どうなのかね。墓穴を掘らなきゃいいが。
783 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:30:37
プッ
785 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:32:39
786 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:34:00
787 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:37:41
788 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:38:00
>>786 しないね。馬鹿らしすぎる。そして二言目には藤村、捏造だろ?
だから九州説はダメなんだよな〜
邪馬台国論争よりさきに
畿内王権の始まりの時期の議論のほうが有意義だと思うなあ
790 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 07:18:59
吉野ヶ里遺跡が出たときは、邪馬台国発見か?と、
騒がれたものだけど、その後は九州で邪馬台国を示唆する遺跡の発見は無いね。
全国で発掘調査が行なわれて、遺跡の発見は多いけど、
九州説に繋がる発見があったという話は、近年は聞かなくなった。
九州説の考古学者も懸命に掘ってると思うけど、掘れば掘るほど、証拠は無いということか。
791 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 12:05:29
>>790 >九州説の考古学者も懸命に掘ってると思うけど、掘れば掘るほど、証拠は無いということか。
お前知らないなら書くなよ!
792 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 12:19:15
九州は掘ればまだ出ます。
793 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 12:45:40
ろくに掘りもせず、九州は掘り尽くしたとか言ってるアホ畿内厨。
794 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 13:59:46
九州に、邪馬台国を匂わせる遺跡があるなら、反証として挙げればいいだろ?
795 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 14:45:29
掘らなきゃ遺跡は見つからない。
掘れば吉野ヶ里みたいな遺跡もまだ沢山出てくるだろう。
796 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 15:27:15
畿内に邪馬台国は無い!
>以前は4Cからであった古墳時代の始まり
貨泉が弥生後期始まりの土器と一緒に出て以来、こんなこと言う人はいなく
なったけどね。
798 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 16:01:13
掘れば九州はまだまだ出るぞ。
そりゃあ色々出るだろうが、出ている中で推論すれば九州説はない。
九州説厳禁スレのはずが、畿内説が一方的に押されていますね。
残念です。
801 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 16:48:03
畿内説が一方的に押されてる?
九州説はアンチ畿内説なだけで、まともな仮説すら提示出来ていないじゃないか。
802 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 17:04:15
既に出てる平原とか三雲とかだって邪馬台国かもしれないんだよ。
平原1号の女王様なんて、股の延長に柱があって、その先に
日向峠がある。
鏡の出土も墓一つからは日本一。そのほとんどが中国鏡で、内行花紋鏡や素環頭太刀まであった。
どこぞの古墳から安物の神獣鏡が出たからといって大騒ぎするなんて馬鹿らしいほどの数と量。
上町向原では五尺二口の刀と同じ長さの刀が出ており、その他吉武高木でも他でも三種の神器は
出ている。
とにかく掘れば出てくる状態の北九州なんで、既に掘られている大王級のものの再検証も含めて、
無視するのは非常に無理がある。
803 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 17:32:24
北部九州を無視っていうか、時代が違うでしょ、と。
あなたの実年代観はどんなものですか?
804 :
光秀:2006/09/26(火) 17:36:43
逆に聞くけど、九州の「実年代」と言われているその根拠は、誰がどのような
方法で決めてるか知ってますか?
805 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 17:41:00
質問の答えになっていないのだが。
だから、おまえの前提が間違ってるってことだよ
807 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 18:13:27
>>806 そうムキにならず、どう間違っていると思うのかを言って下さい。
808 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 18:41:07
今までの実年代が、殆どいい加減に決められていて、
昨今、考古学の進歩でそのいい加減さが訂正されているだけ。
都合の悪い九州説が、「畿内説の捏造」とか「遡上派」とか、
苦し紛れに吠えている。
反論があるなら、君の言う実年代(庄内開始を4世紀とかいう)
の根拠を述べてみな。
809 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 18:59:11
>>806 >都合の悪い九州説が、「畿内説の捏造」とか「遡上派」とか、
苦し紛れに吠えている。
こんな何言ってるか自分でわかってない馬鹿に何言っても無駄だよ。
>>809 まともに反論もできないなら、出てくるなよw
>今までの実年代が、殆どいい加減に決められていて、
>昨今、考古学の進歩でそのいい加減さが訂正されているだけ。
真逆だおw
それは畿内説の方だんだ
面白すぎるお
812 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 19:10:26
>>811 いやだからさ。お前の信じてる実年代の根拠は皆無だろ。
813 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 20:47:08
根拠まだ? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
邪馬台=ヤマトだもんなあ。
これで終わってる議論をいつまで粘着して蒸し返す九州クマソ厨。
脳みそ涌いてんじゃね?
815 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 22:32:51
ほんの一部の遺跡からだけで畿内だと結論するのはまだ早いと思う。
全ての遺跡が出てからじゃないと結論は出せない。
>>815は1億人から回答が得られてないから世論調査なんか信じられないという人だな。
817 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 22:47:29
>>814 知れば知るほど九州なんだよ
俺も小学生の頃は君と同じく邪馬台=ヤマトと単純に考えてた
818 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 22:52:59
定説・通説なんてもんは、新たな遺跡が出れば一発で覆ります。
九州はまだ掘れば出る可能性が大である訳ですから、
一発逆転の可能性は十二分にあります。
>>817 知れば知るほど、って、一体何を知ったって言うんでしょうw
>>818 比恵・那珂遺跡群が発掘されて以来、一発逆転は無いと思うが。
821 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:15:30
上の方で、九州説が畿内説に押されているというカキコがあったが、
実際はその通りだろう。畿内説の論拠なんて案外弱いもんだよ。
>>779みたいな具体的な反論を加えられればノックダウン。
>1、邪馬台国と同時代に中国で流通していた鏡の出土分布は北部九州中心。
>この時点で、畿内説はアウトだと思う。
>2、鉄器の北部九州優位が古墳時代の直前まで一貫して継続している。
>昔の畿内説は、鉄器の出土分布を無視し続けた。
>3、その後、以前は4Cからであった古墳時代の始まりを遡上する学派が畿内説
>に生じて、古墳時代の始まりを大幅に遡上させた。
>4、その根拠のC14や年輪年代の信用性は乏しい。
>5、畿内説側ではスプリング8での捏造とか、見苦しい事件も起きている。
邪馬台国についての関連サイトで最も有名なのは誰のサイトか知ってる?
822 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:16:07
↑ノックダウンじゃねーな、ノックアウトだなw
九州説は、騎馬民族征服王朝説と同じ運命をたどるんだな・・・
頑迷なジジイが死んだ時点で終わり。
824 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:21:25
>>823 なんでそんな見苦しいレスしかできないんだろうね。
感情剥き出しでは、議論ができないだろうに。
825 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:22:47
>>821 >邪馬台国についての関連サイトで最も有名なのは誰のサイトか知ってる?
いくつかあるだろうが、論考してるのは九州と畿内の地域だけで、
東海、越、関東まで含めた、土器の拡散、影響などを踏まえた広域の物的人的交流の様子等、
3世紀の日本全体の姿について何も考察してないようなサイトは、
似非考古学・擬似科学・デンパサイトなので、無視するのが吉。
826 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:25:04
>>825 要は、お前のサイトが一番だと言いたいわけだな
827 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:25:48
828 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:26:58
829 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:30:11
>>828 いいから、おまえがすすめる邪馬台国関連サイトを晒せよ。
830 :
828:2006/09/26(火) 23:38:42
831 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:41:18
近畿の歴史と繁栄に嫉妬する熊襲うざい
833 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:52:24
畿内説と九州説は思想の代理戦争だからな。
その意味でも決着などつくはずがない。
九州の発掘が進まないのは開発が遅れてるから。
悔しかったら経済発展してみろってw
話は飛ぶが、
最近の九州説の人=古田説(もしくは九州王朝)支持者
のような気がしるのだがどうよ。
ここに張りついてる九州説で九州王朝反対ってのはどのくらいいる?
まあ、少なくとも8世紀には畿内>>>筑紫(北部九州)。
(古田派の一部は8世紀になってもまだどうのこうの言うがこれは電波だ)
だが弥生文化畿内起源説というのはあり得ないことで
弥生文化は北部九州スタートが考古学上の通説ということになるから
弥生前期には筑紫>>>>畿内だったことになる。
となると「どこで符号が反転したか?」ということになる。
そうなんだが、考古学で分かる経済・社会的な力関係の差と
現実の政治支配者の問題にはタイムラグが前後どちらにも出来る。
仮に日本史の資料が全部失われてしまった40世紀に考古学が発掘調査を行えば
「畿内から江戸・東京へのヘゲモニーシフトは18世紀後半」と出るだろう。
だが、現実の歴史のターニングポイントは1603年と1868年。
つまり例の庄内開始年代は邪馬台国論争に対しては
どちらに対しても中立の論拠にしかならない微妙な年代なんだよ。
837 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 00:22:46
というか
捏造が多いほうはどっち?
838 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 00:52:16
畿内に決まっとろうが
839 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 01:00:46
畿内は狗奴国である。
840 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 01:37:18
畿内説は捏造の塊。ウソ八百万。
本州ですらない辺境の九州の政権が日本を統治する政権となることは
非現実的なので、もしも邪馬台国が九州にあったとするなら、卑弥呼は
単に倭国王を僭称した電波女王ってことになる。残念ながら。
僭称は大げさでセンセーショナルで馬鹿げた話だと思うけど、
(証拠があるわけでもないんだから)
畿内に当時日本列島最大の連合国家があっても、
邪馬台国は他にあるって可能性はあるわね。
別に邪馬台国が当時日本列島最大の連合国家である必要はないんだから。
狗奴国ってライバルがあると書いてあるくらいだからさ。
まあ僭称というか、自分が日本の代表みたいな顔するのは、
時代が下っても実際あったようだから、
全く無視するわけにいかん話でもある。
843 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 02:53:27
古田系の九州説はさすがに希少価値なような気がするぞ。
九州説は、何となく安本系か。最近井沢元彦の本も売れてるからな。
>>841 >邪馬台国が九州にあったとするなら、卑弥呼は単に倭国王を僭称した電波女王
ソレ、九州説を卑下して言ってるつもりかもしれないけど、案外それが正しいと思う。
あの時代、すでに畿内に比べてどうしても落ち目だった九州が、
魏の後ろ盾を得るためには、大胆なことやってくしかないから。
卑弥呼が倭国王を僭称したと同時に、
魏志倭人伝も邪馬台国を有力な朝貢国として高く評価し、
朝貢しない狗奴国やその他の倭人を蛮族扱いしたのだろう。
>>843 確かにな。後の大友宗麟のようなものだ罠
だが、僭称しているつもりさえ無かったのかもしれない。
明治維新まで、畿内人は日本の中央は畿内だと固く信じていたが、
地理的には北海道以北まで手を伸ばしつつあった日本国の地理的中央は
すでに畿内よりかなり北東にずれていた。
(千島を失い沖縄が返還されたので実は今では地理的中央は近畿付近にある)
どんな地域のヤシも、自分の領域を先ずは中央においてものを見る。
筑紫人にとって、倭国とは掛け値なく「九州島およびその周辺」であって
強大な大和勢力が東からひたひた迫っていても、
「あれはデカイだけで辺境」と本当に思っていたのかもしれない。
845 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 03:42:16
神話の記述から邪馬台国論争に入った俺とすれば、どうしても九州以外ありえないんだがな。
記紀に繰り返し語られている東征とは本当は何だったのか。
被制服側である葦原の中つ国、ニギハヤヒやナガスネヒコは何だったのか。
・崇神天皇は、崇峻や崇徳など、本来良くない意味である「崇」という文字を持ち、
同時に「始祖」を意味する「神」という文字も持つ稀有な事例である。これは何を意味するのか。
・崇神天皇が各地に派遣したとされる四道将軍の事績や平定ルートは、
前方後円墳の伝播地域に重なり、またすなわち畿内説のイメージする王権像に近しい。
・代を経て、景行天皇が熊襲討伐のために九州に上陸したとき、九州の地が、神武天皇の
東征発祥の地であるにも関わらず、九州に何の感慨も持っていなかったのはなぜか。
九州の女酋長の記事もあり、これは零落した邪馬台国の象徴ではないのか。
・そして崇神の直系である仲哀天皇が、応神天皇と血のつながりがないことが暗示され、
応神が東征を果たして畿内入りをしているというのであれば、
・「崇神〜景行〜仲哀」王朝は、畿内説がイメージする畿内の王権そのものであり、
応神天皇のモデルとなった新リーダーの新勢力によって駆逐されたのではないか。
・さらに時代を遡る形で、東征という事績に絞って崇神より前に神武神話を配置したのではないか。
なんとなくだけど「邪馬台国泉北ニュータウン説」を提唱しておく。
なんとなくだが日本国の地図をじーって見てたら泉北ニュータウンの辺りにあった気がする。
おまいら振り回されすぎ
畿内説の幼稚な厨が一人で自演繰り返してるだけだよ。
>>846 大仙古墳がでかすぎることから、その下に敵の拠点が埋まっているという説
はあるよ。狭山丘陵に生産拠点もあるし、大きなクニはあっただろうね。
848 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 06:50:55
>847
ですなw
放射年代無視しといて「根拠は?」とか、もうアホか馬鹿かと
九州の測定値と土器編年との矛盾なんてずっと以前から言われてることなのに。
849 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 07:15:34
「邪馬台国時代に、畿内に王権が出来つつあったが、邪馬台国はあくまでも九州です。」
というだけなら、言わせておいて構わないけどね。
明確に否定するのは難しいし。
しかし、「邪馬台国が東遷して大和朝廷になった。」とかと言われると、
「ねえ、証拠は?証拠は?」
と、つっこみたくなるが。
九州説って、
>>843に収束されると思うんだよな。
根拠薄弱であり、後は諸説を否定して、
相対的に地位を高めるしかないという。
851 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 07:49:53
自作自演も大変だ 程度低い
852 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 08:33:07
九州説でいくと、台与が三十年後に晋に遣使してるから、
その頃まで「九州邪馬台国」が存在したことになる。
伊都とか奴など玄海灘を押さえた「邪馬台国」が三世紀後半まで存続した、
って仮定は無理がないか?
ていうか、大陸航路を押さえたことが畿内王権発展の契機になった、
という、そもそもの前提も崩れてしまうのだが。
854 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 10:53:10
>>852 九州の邪馬台国が、三世紀後半まで独立を保ってたという考古学上の裏づけはないな。
北九州の衰退は三世紀前半から始まってるし。
>大陸航路を押さえたことが畿内王権発展の契機になった、
その説は古くないか?
「青玉」を取れるところか勢力範囲だった場所?
856 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 12:54:43
>>854 古いもなにも、大陸との通商ルートの確保こそが、ヤマト政権の至上命題なことに変わりは無いだろ。
マキムクの誕生自体が、大陸の文物(主に鉄)の安定供給を企図したものだろうし。
857 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 13:42:58
>>856 その説は古いよ。
マキムクが誕生した頃は、鉄が流通してたのは吉備までで、
マキムクには鉄がないことが発掘調査で明らかになってる。
鉄を入手するために玄界灘を押さえたという考えは、古い畿内説。
858 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 13:53:07
>>857 実際のところ、古墳やら運河とか大土木工事やってるし、ホケノから大量に鉄器出てるし、
そんな杓子定規に考えなくてもいいのでは?
859 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:07:24
そりゃあ、畿内に鉄がまったくないわけではない。
が、生活必需品としての鉄が多く見られるのは播磨くらいまで。
大和は、鉄を九州〜播磨を通じて入手し、手元に置いたというより、
さらに東国に分配するという流通の通過点、つまり「市場」として発展した。
東国からは、鉱物やら食料やらがマキムクに集まってきてただろう。
鉄が豊富になくとも、王権が築かれる素地は十分にあったということ。
860 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:07:51
それと、畿内が北部九州から鉄ルートを奪ったというより、
北部九州勢力を介さないルートを開拓した、の方が実情に近いだろう。
実際、大規模な戦争の跡は見つかってないし、
北部九州の国々も徐々に下降線を辿るとはいえ、まだまだ健在な訳だし。
中世の堺vs博多、細川vs大内みたいなものか。
大陸との交易利潤を巡って、二つの勢力は必然的に対立する。
磐井の乱も同じ理屈で考えることが出来るかもしれない。
861 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:16:45
北九州は、鉄が豊富にあったが、鉄を持っていたというだけで、
3世紀以降、首都機能が発展することがなかった。
畿内で発生した王権による祭祀を主体としたイデオロギーが、
4世紀初頭に一斉に西日本に広がった。
民に歓迎されたのは、畿内王権によるヒコ・ヒメとも呼ばれる政事的宗教的体制で、
北九州が鉄の豊富さを誇っても、民の求心力を持ち得なかったということだね。
人が多く出入りする大和の「市場」という性格が、
一斉に日本に画一的イデオロギー(前方後円墳など)を広めたということ。
862 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:20:24
畿内が鉄を入手するルートは、瀬戸内海だけでなく、若狭湾にも開いている。
越にも、鉄が豊富にあったことが、近年の調査でわかってる。
863 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:33:22
マキムクの性質を完全に見誤ってるな。
周辺の環濠集落の堀の一斉埋め立てやら、突然の古墳築造など。
マキムクは非常に政治的意図をもって突然に造営された。
それまでの唐古鍵なんかとは隔絶している。
864 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:40:53
>>863 神武が東遷してきたとでも言いたいのか?
865 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 14:43:26
866 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 16:59:47
>>864 あくまで事実を述べているまで。
ただ東遷とか外部勢力の侵攻とかは考えていない。
筑紫や吉備、出雲などとの競争の中、畿内経済ブロックにも強大な王権が要請された。
三輪山の巫女を推戴することで、畿内勢力が一体化したのだろうと。
867 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 17:38:32
>筑紫や吉備、出雲などとの競争の中、
>畿内経済ブロックにも強大な王権が要請された。
競争があることと、王権が要請される因果関係がわかんね。
武力で九州経済ブロックを剥奪したってならともかく、戦乱の痕跡は無いわけだし。
868 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 17:45:16
>三輪山の巫女を推戴することで、畿内勢力が一体化したのだろうと。
畿内説の苦しいところは、結局こういった事の具体的な記載が記紀にないって
事なんだよね。なんで出雲、筑紫と来てその後に畿内の古地名や「三輪の巫女」
などの記述が乏しすぎるのか。また、さかのぼるほど曖昧模糊としてしまうから、
果たして「政治的意図の元建設された大計画都市」だの「鉄器もなく平和裏に
できあがった大王国」だのについての合理的理解も困難になってしまうんだよ。
869 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:02:14
>>868 >果たして「政治的意図の元建設された大計画都市」だの「鉄器もなく平和裏に
>できあがった大王国」だのについての合理的理解も困難になってしまうんだよ。
↑解釈じゃあなくて、事実だし?
>>867 対外的緊張が、王権の強化、中央集権化をもたらすのは歴史の必然だが。
871 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:49:11
>>870 軍事的緊張はあったろうが、経済的緊張は無いだろ。
近畿経済は、九州に脅かされたわけではない。
九州が勝手に繁栄して、相対的に近畿が遅れたように見えるだけであり、
東海の人口密度が多いことからも、近畿・東海経済は順調に成長してきている。
経済で緊張関係があったとは思えない以上、
軍事的緊張を想定するわけだが、たいした戦乱もなく、環濠は埋め立てられている。
人々のゆとりから現れた祭祀王が、平和的に民衆を束ねて、マキムクが作られたと考えるのが自然。
872 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 18:59:52
>>871 まったく分かってないな。
今までの経済圏内で自給自足出来ていた時代が終わって、
遠隔地交易の必要性が生まれる。いわゆる鉄資源。
君の語る時代認識は、あくまで自給自足の頃の話だ。
そして遠隔地交易の活発化により、より広域に権力を行使し得る権威が
必要とされたんだよ。
弥生後期に各地でパラレルに起きている首長霊祭祀の始まりは、
その文脈の中で語られるべきもの。
>↑解釈じゃあなくて、事実だし?
脳内の事実でつかw
>人々のゆとりから現れた祭祀王が、平和的に民衆を束ねて
お花畑乙
874 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:14:54
>>868 >畿内説の苦しいところは、結局こういった事の具体的な記載が記紀にないって
>事なんだよね。
記紀の成立年代から考えても、正しい歴史が伝わっていないことも
無理はないだろ。記紀編纂から五百年前の話なんだから。
現在で考えたら、戦国初期の頃か。
文献も殆ど無く、言い伝えが殆どだから、事実が錯綜、前後関係が
逆になったりするのも仕方がないよ。
875 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:17:29
>>872 >遠隔地交易の必要性が生まれる。いわゆる鉄資源。
遠隔地交易なら、縄文時代から途絶えたことは無いよ?
銅鐸だって、九州から入手しないと作れない。
鉄資源も、当然、九州から入手可能。
さて、九州が、鉄資源を畿内に出し渋って緊張が生まれたような様子が見られるだろうか?
鉄器の出土量の傾斜は、九州から畿内に向かってなだらかに低くなってるが、
ぶっつり途絶えてるわけではない。
少なくとも播磨までは潤沢に鉄器が流れてきている。
播磨は畿内と貿易摩擦でもしていたか?そんな様子はないよね。
畿内に鉄器が少ないといっても、畿内にとっては、それで足りていたんだよ。
昔から鉄はなかったんだから。
876 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:20:30
しかし、ハツクニシラスである崇神から数代が、三輪山山麓に宮を置いたこと。
箸墓が霊能力に優れた巫女を埋葬した特別な墓であることなど、
よく伝わっている部分も多いとは思うよ。
ただ記紀の中でどの部分を取捨選択するかは、どうしても恣意的になるから、
考古学的裏付けが必要になってくるけどね。
877 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:29:11
鉄が欲しくて王権が生まれたという解釈が、ずっと考古学を支配してきたが、
九州が衰退したことから、その仮説は成り立たないということを認めなくてはいけない。
古墳時代以降、畿内も鉄が増えてくるが、
それは結果論で語るべきであり、王権誕生の要請ではない。
マキムクが作られた頃は、まだ鉄器は少なくても、それで過不足は無かった。
むしろ、畿内に鉄が必要とされたのは、古墳を大規模に作るようになってから。
王権誕生のプロセスに、鉄を絡めて考えるべきでない。
878 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:37:40
>>875 弥生時代を通じて、大陸の文物の畿内への流入は、盛んになったり衰えたり
がある。畿内・九州の関係が悪化したりとか、瀬戸内海沿岸諸国の政治的混乱などが
原因だと思うが。
君の言う時代認識は、ある一時点ではそうかもしれないが、全体で見ると
やっぱり誤謬があると言うしかない。
ホケノからの鉄器の出土量から考えても、それまでの畿内に比べて爆発的に多量であり、
マキムク王権が鉄資源を希求した政権であることは明白だと思うが。
879 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:44:32
さらに言っちゃえば、マキムク王権誕生があまりにも突然に起こっており、
それを説明するロジックとして、「鉄資源の渇望」という動機が有効だということ。
唐古鍵からのなだらかな経済成長だけでは説明出来ない。
巨大な王権が突如誕生する以上、時代の要請があったと考えて然るべきじゃないか。
880 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:47:31
>>879 >それを説明するロジックとして、「鉄資源の渇望」という動機が有効だということ。
それは、十分理解できるよ。
さて、そこで疑問だが、鉄を有り難いものとして欲した畿内に、
鉄を祀る神社があるだろうか?
マキムク周辺で、鉄器の神を大々的に祀る神社があってよさそうだが、
奈良周辺を探しても無いんだよね。
881 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 19:59:06
>遠隔地交易なら、縄文時代から途絶えたことは無いよ?
>銅鐸だって、九州から入手しないと作れない。
相変わらず極論だな。
誰も、昔は遠隔地交易が全く無く、弥生後期に突然発生したなんて言ってない。
遠隔地交易の重要性が急速に高まったと言ってるんだ。
そもそも希少価値勝負の青銅祭器と、日常生活品を比べるのはどうか?
銅鐸で飯は食えない。数もそんなには要らないし。
見る銅鐸として巨大化するのは、弥生後期。遠隔地交易の必要性が高まってくる時代だな。
縄文時代は、基本的に各経済圏内で自給自足出来ただろうしな。
俺の言う経済圏ってのが、そもそも、縄文時代以来の、自給自足が可能な
範囲を指している訳で。
882 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:07:35
倭人伝に倭国乱の記述がある以上、軍事的衝突は無かったにしろ、
何らかの政治的混乱があったことは間違いないだろう。
で、巫女を共立するという大同団結(政治的決着)が成された、と記されている。
マキムク誕生が、唐古鍵からのなだらかな成長がもたらしたとかは
夢想だと思う。
>>880 穴師坐兵主神社とか、そうじゃないかと思うのだが。
884 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:21:59
石上神社が、「鉄器」の武器を祀る神社なら、
畿内が鉄器を欲した理由は、「戦いのため」ということになる。
どうよ?
885 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:25:30
唐古・鍵遺跡が、倭国大乱の頃で、
畿内は、武器として鉄器を欲していた。
女王共立でマキムク誕生。
鉄器の武器は石上神社に奉納した。
魏志倭人伝の記述そのままじゃないか。
畿内唐古鍵から鉄器が出土しないのは、環濠を埋め立てたのと同じ理由で、
庄内開始期に「マキムク連合」が生まれ、武装解除、鉄の一元的支配が
行なわれたためではないか、と夢想。
石上神宮に集められたと。刀狩みたいなものか。
まあ現実的に考えれば、鉄が希少だから、何度も再利用したからだろうけどね。
888 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:31:19
畿内から鉄器が出てこないのは、
武器として兵士に渡されていたからだろう。
兵士にとって鉄剣は家宝に近い。
代々大事に扱われてたろうから、土に埋もれる可能性は低い。
古墳時代に入って平和になれば、つぶして農具に転用可能だしな。
889 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:35:28
倭国大乱で、畿内が鉄を欲していた頃、
鉄の武器が畿内に豊富にあったのであれば、
「鉄資源ルートの確保による王権の要請」という仮説は意味を無くすわけだ。
ふりだしに戻ったな。
890 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 22:14:23
夜の8時30分に一斉に終了ですか。
がんばれ畿内説。
891 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 22:17:22
俺は夕飯だった
九州説あたりが1つ進む間に畿内説は10進んでるし
がんばってると思うよ
893 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 23:24:34
>>892 そういう意味ではないと思うのだが。
鉄の議論1つ取ってみても、妙に自作自演っぽいところが
気になるんだよなぁ、このスレ。
畿内説の人が、これは、と思うサイトとかない?
894 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 23:33:40
石上神宮の考察については、いい線いってると思うがなあ。
895 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 00:15:54
>>888 >畿内から鉄器が出てこないのは、
>武器として兵士に渡されていたからだろう。
畿内の兵士が武器として鉄器を持たされるほど鉄があったとは思えないが・・・
896 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 00:31:30
魏志倭人伝の記述から、鉄に関しては九州説にどうしても軍配が上がる。
鉄についての話題は、堂々巡りにしかならないと思う。
>>896 ここは畿内説のスレだろ。畿内における鉄器の話題をして何が悪いんだ?
898 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 00:40:09
>>871 「九州が勝手に繁栄」というのはおかしいだろう。
畿内は縄文時代には全国でも最も遅れたに等しいひどい後進地帯で、
九州から弥生文化一式が伝播して来て初めて
まともにリーダーシップを取れるだけの生産力を得ることができた。
だが、弥生文化のプロトタイプ一式が確立したのは北部九州なので、
どうしても九州のほうが先達になり、畿内はそれを追いかけることになる。
いつ「追いついたか」という話で、どうやら3世紀には追いついていたのでは
というのが畿内派の骨子だろ。
九州考古学は、自らの弥生文化成立発展期をどんどん遡らせているが、
逆に後世における筑紫の優位性が怪しいことを
証明しているような状況になっている。
紀元前10世紀に弥生時代開始となると、
邪馬台国の3世紀はとてつもなく「後世」の話になっていく。
これは間違いじゃないと思うけどね。
900 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 00:47:26
>>899 筑紫の優位性なんか、怪しくたってかまわないんじゃないの?
901 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 00:53:28
>>898 剣1,000口奉納って、剣を持ってた歩兵が1000人兵役を終えたってことだな。
現役兵が10倍くらいいるだろうし、弓隊、槍隊もいるだろうから、
2万人くらいの兵隊がいてもおかしくないな。
902 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 01:48:04
903 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 01:54:42
粘着が張り付いてから議論が歪んできてるな
同じ畿内派だが、稚拙な論理展開は見苦しいぞ
だってスレ違いのクマソ説の連中が粘チャックしてるんだもーん
>>905 それが見苦しいんだよ。自分でわからないのか。
だからあくまで見苦しいのはスレ違いなのに粘着し続ける九州説のバカどもだろ
マキムク発展の時代は、
大陸との関係が無視できないくらい大きくなっていると思う。
貿易、鉄、中央集権化のどれをとっても。
909 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 13:07:07
マキムクの開始が、大土木工事、運河の掘削から始まっている以上、まず鉄有りきの政権であることは明らか。
鉄を過大視するのは問題だが、まったく切り離すのもやり過ぎ。
>>908 >>733 > このスレもお決まり
> 『思います』『考える』『考えられねぇ』『〜だと推測する』『だと思う』……妄想乱発だな
912 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 16:07:58
どうせ太国だろ
913 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 16:54:21
マキムクが土木工事してたなら、鉄があったことの証明だろ。
鉄は、溶けてなくなったなどというと、九州説からバカにされるが、
実際に石器が使われなくなってるんだから、鉄器が普及していたと考えるべき。
907 :日本@名無史さん :2006/09/28(木) 10:14:20
だからあくまで見苦しいのはスレ違いなのに粘着し続ける九州説のバカどもだろ