『公家・廷臣・門跡について〜5巻目』

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1日本@名無史さん
1、他人の書き込みは批判しない。個人攻撃はスルーで。
2、少しでも公家、華族に関係することがらならスレ違いと見なさない。
3、明治以降の話は控えめに。
4、読んだ本の内容を紹介するのも良い。
5、在命中の人の話は多少ぼかしてください。
2日本@名無史さん:2006/08/02(水) 17:32:49
北白川宮能久親王が独逸留学中にドイツ貴族の息女と結婚した
という話を耳にしたことがあります。
この相手の女性は何という名前の何家出身の人物だったのでしょうか。
また「結婚した」とすれば、宗教上の問題は無かったのでしょうか。
このあたりの経緯に就いて詳しい方々の御教示を願い上げます。
3日本@名無史さん:2006/08/12(土) 23:08:09
4日本@名無史さん:2006/08/20(日) 18:44:49
北白川宮能久親王って奥羽列藩同盟で祭り上げられ
後に台湾で戦死した殿下でしょう?
李朝以外の外国人と本朝の皇族が結婚した例はないはず。
愛人ならともかく、、、
5日本@名無史さん:2006/08/20(日) 20:52:25
あげ
6日本@名無史さん:2006/08/21(月) 04:24:48
二条昭実が信長の娘で、秀吉の側室だった三の丸殿を秀吉没後に妻室にしたのは何故?
それまで二条家の正室は宮家や五摂家など上級公家の家柄がほとんど。
それとも正室じゃなかったのか…
7日本@名無史さん:2006/08/21(月) 22:03:00
西園寺家が好きです
8日本@名無史さん :2006/08/21(月) 23:04:34
近衛公が天皇退位を画策し、宇多院の先例にならい、
仁和寺に入っていただく。って話があったそうだね。
近衛公は時代を超越だ。先例が1100年前の話じゃな。
仁和寺では、ゆうにん法皇とお呼びすることになっていたそうだ。

800年の伝統をもつ伏見宮家に泥ぬった軍令部総長がいましたね。
伏見宮、閑院宮という伝統ある宮家は維持でも存続させてほしかったナ。
9日本@名無史さん:2006/08/23(水) 01:12:27
>>2>>3>>4>>8
ウザい、他スレで書け。
10日本@名無史さん:2006/08/23(水) 16:03:40
北白川宮能久親王が独逸留学中にドイツ貴族の息女と結婚した
という話を耳にしたことがあります。
この相手の女性は何という名前の何家出身の人物だったのでしょうか。
また「結婚した」とすれば、宗教上の問題は無かったのでしょうか。
このあたりの経緯に就いて詳しい方々の御教示を願い上げます。

11日本@名無史さん:2006/08/23(水) 17:39:41
西園寺公経の室・全子が源頼朝の姪だったという話はよく耳にしますが、
この一條全子という女人は、実際に頼朝の同母妹の所生なのでしょうか。
或いは、父親たる一條(藤原)能保の娘を、正室たる全子が嫡母として
養い育てたものなのでしょうか。
精確な血縁関係を教えて下さい。
よろしく。
12日本@名無史さん:2006/08/23(水) 21:31:43
教えてクンは死んでください。
13日本@名無史さん:2006/08/26(土) 17:25:54
まったり行こう
14日本@名無史さん:2006/08/26(土) 19:08:39
age
15日本@名無史さん:2006/08/26(土) 20:40:46
知らぬ者が一人前の口を叩くナッ!!!

無知は黙っておれーイッ!!!!



16日本@名無史さん:2006/08/29(火) 11:31:50
正確な血縁関係は本人に聞いてくれ
17日本@名無史さん:2006/08/29(火) 19:07:49
ほー
18日本@名無史さん:2006/08/29(火) 22:24:43
>>8

>ゆうにん法皇

ゆうこりん法皇かと思った
19日本@名無史さん:2006/08/29(火) 22:27:56
ぷりぷりぷー
ぷりぷりぷー










      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
      |_  _||  | ̄    |  |     |  | ̄   |  |     ̄|
       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
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20日本@名無史さん:2006/09/03(日) 18:08:04
age
21日本@名無史さん:2006/09/10(日) 11:18:26
あげ
22日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:10:01
>>7
私も鎌倉時代の西園寺家に興味があります。
学術書では「鎌倉時代の朝幕関係」(思文閣出版)、
小説では「春秋」(文芸社)
読みました?
23日本@名無史さん:2006/09/12(火) 00:46:11
家格の固定化が始まってなければ
摂関職に就けたかもしれないが
24日本@名無史さん:2006/09/16(土) 15:17:45
摂関家は道長公の子孫だけじゃないの?
25日本@名無史さん:2006/09/16(土) 15:51:23
>>23
外戚の座を永続的に確保できなければ摂関にはなれんだろう。
26日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:34:00
時代がくだれば傍流の公家の息女が何人も入内してます。
27日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:39:55
>>25
鎌倉後期には外戚ってもう関係なく摂関になってるのでは?
28日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:01:52
清華家、大臣家ってどういった課程で生まれたの? 久我、醍醐、廣幡は分かるが。
藤原傍系の他の家がどうして摂家に次ぐ地位を獲得出来たのか分からない。
閑院流なんか摂家のかなり前から別れた傍流じゃん。平公家との絶対的な差が
分からない。大臣家は清華の分家だからまだ分かりやすいが。清家の歴史に
詳しい人いますか?
29日本@名無史さん:2006/09/24(日) 15:21:33
むしろ半家の成立過程が謎
30日本@名無史さん:2006/09/24(日) 15:48:24
今更だけど閑院流が摂家に次ぐ家格を得たのは院政期で
やはり外戚になったからでは?
それに、公卿の大半が藤原北家というなかで、たとえ傍流であれ、
源氏や菅原氏より藤原氏一門が優遇されるのは当然の流れかと。

勧修寺流にしろ四條流にせよ、受領層まで堕ちたあと院政期に
公卿にカムバックして以後その地位を保持してるが、それも
やはり彼らが藤原北家の一門だったことと無関係ではないはず。
他氏ではそのようなケースって無いんでは?

と分かりきった話で失礼でした。
31日本@名無史さん:2006/09/30(土) 13:29:15
age
32日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:05:52
清華の家格成立は院政期。
閑院流は院政期に天皇家の外戚として台頭。
また同じ時期に摂関家の外戚として勢力を拡大したのが村上源氏。
33日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:07:29
>>29
半家の大半は室町期くらいになって始めて堂上待遇になるんだっけ?
34日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:21:49
35日本@名無史さん:2006/10/07(土) 17:14:21
半家って羽林、名家より下位なの?
36日本@名無史さん:2006/10/07(土) 18:55:36
◆本流「伏見宮」の誕生!
 また、その混乱の中から純正な正統性をもった総本家としての伏見宮が、はじめて皇位を要求し皇位を争うための宮家ではなく「皇統の備え(血のスペア)」としての意義をもったことを語りました。

 ◆時代の権力は、経済基盤を持った女性たち!
 中世編ではまた世襲宮家成立の背後に、皇族の資格の男系継承が絶対であった時代にもかかわらず、古代の女系相続財産の名残として莫大な皇室領を支配して絶大な権力をふるった女性たちの存在がありました。

 ◆近世の宮家の特徴など、中世との変貌
  近世編では、いわゆる「定親王家(世襲四宮家)」が、中世のような男系の血の実系(古代のウヂ制の名残)ではなく、養子でつなぎながら「家(家柄・家格)」を継承するものであったことを解説しました。

 ◆皇室の本家「伏見宮」の近世の皇統
 その中で伏見宮のみは万世一系で実系を守り、後花園天皇以来、皇室の本家としての高い格式を保持したこと、伏見宮以外の三宮家は、はじめから「皇統の備え(血のスペア)」という意義があったがこれは先行する伏見宮の意義をコピーしたものであること、等。
また伏見宮の御落胤伝説の背後に江戸前期の覇権抗争があり、この御落胤事件は史上有名な明正女帝の即位・輪王寺宮門跡の発祥・有栖川宮創立などと深く連動した一連のものであったことを示唆しました。
37日本@名無史さん:2006/10/14(土) 10:57:32
age
38日本@名無史さん:2006/10/15(日) 16:50:31
蔵人の極臈から堂上に列した家って何軒くらいあるの?
39日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:32:31
羽林 ------近衛府
中郎将 ------近衛中将

羽林家のぼんくらの中には出世が目的化してたり、長く帝から遠ざけられたりして、
自分達が誇り高き帝の近衛府である認識が薄れているのではなかろうか。

銀英伝に例えると、ルッツとかケスラーとかミュラーみたいな活躍を期待される家格が
羽林家ぞ。

余談だが、信長上洛時に京から逃げ出した近衛前久とか
戦争責任から逃れようとして、自殺した近衛文麿とか
摂家の近衛家は、紛らわしいから近衛を捨てよ。紛らわしいちゅーねん。
40日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:16:16
41日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:50:48
>>36って何のこと?
42日本@名無史さん:2006/10/28(土) 08:29:42
>>39
近衛家は陽明御殿と改名すればいいね。

異国には黄金樹という帝室があるそうな。
43ゆうこりん:2006/10/28(土) 09:28:01
コリン星
44日本@名無史さん:2006/10/28(土) 18:30:32
そうすると、九条は月輪に改称?
45日本@名無史さん:2006/10/28(土) 18:34:16
46日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:18:41
>>45
>しかしその後、平安時代後期ごろから荘園制度の崩壊とともに勝手に武装し始めた地方豪族達が現れ、それまで平安貴族が日本各地に持っていた荘園の支配権を事実上強奪しはじめた。

もの凄い電波だね。w
47日本@名無史さん:2006/10/29(日) 11:32:43
月輪でも陶化御殿でも可
48日本@名無史さん:2006/10/29(日) 16:03:10
じゃ、一条家のおにゃのこはピーチ姫で
49日本@名無史さん:2006/10/29(日) 16:47:52
桃華楽堂のピーチね↑
50日本@名無史さん:2006/10/29(日) 22:01:45
平安後期に荘園制が崩壊なんて言ってるのが何とも香ばしい。
51日本@名無史さん:2006/10/31(火) 05:11:22
は?
実際崩壊してただろ
だから武士が登場したんだ
こんなもん常識
鎌倉時代に急に崩壊したとでも?
平安後期から武士はいるんですよw
52日本@名無史さん:2006/10/31(火) 05:23:42
>>51が何も理解していないことはよくわかった。
53日本@名無史さん:2006/11/01(水) 10:37:27
>>52
じゃ優秀なお前が説明しろよ
しないなら同類。
54日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:43:47
とりあえず史学雑誌の「回顧と展望」と歴研大会の要旨を過去20年分くらい読めば?
55日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:49:05
そういえば去年の歴研大会は室町期の再版荘園制が一つのテーマだったなぁ。
56日本@名無史さん:2006/11/02(木) 00:58:28
>>51
武士は平安時代から戦国時代まで一貫して「荘園の現地管理人」の立場に甘んじていたわけですが、何か?
57日本@名無史さん:2006/11/02(木) 01:33:55
>>56
はぁ?屁理屈捏ねてないか?
そんな形式上の立場なんてどうでもいいんだよ
歴史分かってねーな
58日本@名無史さん:2006/11/02(木) 01:46:39
>>57
君たぶんあちこちでハブられてるでしょ
もう学問系の板には来ない方がいいんじゃない?
59日本@名無史さん:2006/11/02(木) 01:54:58
>>58
ん?なんで?
お前が通ぶって定説以外の意見言ってるだけだろ
なんか資料でもあるわけ?
聖徳太子は怨霊だったとかマジで信じちゃうタイプだ?w
60日本@名無史さん:2006/11/02(木) 02:37:09
中央の上級貴族や寺社が現地における荘園の管理を完全に現地管理人である
武士に委託しているのが、中世荘園の多くのケース。
地頭職は本来的には荘園の現地管理者を指す名称の一つであったが、それを
鎌倉幕府の統制下において幕府の組織の一部に組み込んだのが源頼朝。

だから幕府の御家人としての中世の武士は、原則的に荘園領主である
上級貴族・寺社と幕府とに両属していることになる。
もっとも鎌倉期以降、公家と武家の通婚なども普通に行われるようになるため、
そうした姻戚関係を通じた相続の結果、室町期くらいになると、ある荘園に
対して武家が領家職を持っていたり、公家が地頭職を持っていたりということも
珍しくなくなるが。

なお中央の上級貴族や寺社にとっても、一定額の年貢をきっちり納入してくれる
分には、自ら直務支配のような面倒なことはせずに、現地の武士に委託して
しまうほうが都合が良かった。
しかし応仁・文明の乱による混乱が一つの契機となって中央に年貢がまともに
上がって来なくなる状況が発生した戦国期になると、公家のなかにも自ら現地に
乗り込んで直務支配を始める者が現れるようになる。
61安藤某:2006/11/07(火) 01:10:00
>>60さん
分かり易い説明ですね
スレに絡めてレスするね
お公家さんでも、荘園が一カ所に纏まってる方は戦国期に地方に下った方があります
再び京に上るのは、分家筋が侍として出仕するパターンですかね
公家でも、地方に下った連中は官位が無くなれば庄屋さんです
そう言えば、葵祭のくらべうまは荘園対抗の競馬ですから、ここぞとばかりに名を馳せようと乗り込んだそうです
そんな風にでもしないと、遠くの荘園なんかは連絡さえままならないですから
言わんや、統治なんてね
62:2006/11/12(日) 10:55:18
武士の定義って曖昧なとこあるんじゃない。
秀吉の兵農分離までは武士と豪農の区別が不明瞭だと思うのですが。

下橋敬長は一条家の侍ですけど、公家や寺社の中下級家臣が本来の武士ですね。
東寺公人の蜷川式胤など、この階級から明治時代の文化人、官僚が輩出します。
63日本@名無史さん:2006/11/12(日) 11:15:29
江戸時代に入るまで武士と豪農の区別が不明瞭だし、
北畠家とか土佐一条家とか見ても公家と武家の区別も不明瞭。

江戸時代に公家に分類された広幡家とか武家に分類された吉井鷹司家も
戦国以前ならどちらに分類すべきか不明瞭な存在だったんではないか。
64日本@名無史さん:2006/11/12(日) 12:20:53
土佐一条家は公家出身の戦国大名ですね。
伊予西園寺家も。
これらの家は京にとどまった本家が現在に至るのに比べ
戦国の荒波の中に埋もれてしまったのではないでしょうか。
65日本@名無史さん:2006/11/12(日) 12:25:16
皇親・公家と農民の中間層として平安中期から江戸初期にかけて
徐々に武士階層が形成されたと言えば大雑把過ぎるでしょうか。

ただ戦国までは200石クラスでも領地をもったのに対して
江戸時代には1000石未満は殆どサラリーマン化しますね。
66日本@名無史さん:2006/11/12(日) 14:51:05
>>63
北畠や土佐一条は朝廷の官位の上では明らかに公家扱い。
一条の場合、土佐一条の出身のものが本家である摂家の一条を継いだりしている
例もある。
また北畠は官位の昇進ルートは羽林家と同じ。

>>64
土佐一条は本家との間がかなり緊密。
しかし伊予西園寺は戦国期段階でどれほど本家との間に交渉があったのかは
不明瞭。
南北朝期に本家=北朝方、伊予分家=南朝方に割れていたこともあるし。
67日本@名無史さん:2006/11/15(水) 04:12:42
亀井茲明って養子だったんだな
実家は公卿の堤家

つーことは国民新党の亀井久興は公卿の血筋か
68日本@名無史さん:2006/11/15(水) 11:59:22
近代の亀井家って岩倉家や伏見宮家の血も入ってなかったっけ?
69日本@名無史さん:2006/11/15(水) 12:01:13
亀井久興は、母方の祖父が有馬記念で有名な有馬頼寧伯爵(赤松一族の有馬氏で近世に久留米藩主になった家系)
70日本@名無史さん:2006/11/25(土) 08:38:19
age
71日本@名無史さん:2006/11/25(土) 10:50:17
あの下品さで公卿の血筋とは
72日本@名無史さん:2006/11/25(土) 12:08:31
有馬頼寧伯爵は、第一次近衛内閣の閣僚だったはず。
73日本@名無史さん:2006/11/25(土) 22:38:28
有馬氏
衆議院議員→貴族院議員→農林大臣→大政翼賛会事務総長→公職追放→JRA理事長
74日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:25:12
>>71
亀井静香と間違えてないか?
75日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:36:13
現存している宮門跡の門主は皇族なのですか?
76日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:09:33
青蓮院の東伏見以外はみんな普通の坊主。
77日本@名無史さん:2006/11/26(日) 03:01:11
現在の東寺長者の鷲尾隆輝って、鷲尾家の子孫?
78日本@名無史さん:2006/11/26(日) 13:14:24
たしか分家の男爵家のほうじゃなかったっけ
79日本@名無史さん:2006/12/01(金) 06:38:20
明治以降や現代の皇族・華族・門跡・子孫ネタはつまらん。他スレがあるだろ。
80日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:19:28
鷲尾家と言えば公家味噌だな。
これがそこそこ旨い。
81日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:08:22
人吉藩主相良家も江戸中期に鷲尾氏から養子が行ってるね
82日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:55:16

い よ い よ 明 日 で す !

一人でも多くの憂国の同志の参加を待ってます!


■皇室と日本を考える学習会

「皇統断絶の危機
      〜それはいかに乗り越えられたか〜/佐々木 勝浩」

 これまでの日本史上幾度もあったとされる皇統の危機。
 武烈天皇から継体天皇、称徳天皇から光仁天皇、
 称光天皇から後花園天皇、後桃園天皇から光格天皇。
 万世一系を守るため、これらをいかにして乗り越えてきたのか、
 この主な4大事件の共通点と相違点を比較検討し、
 後世にその歴史を伝承するとともに、今後の危機に備える知恵を涵養したい。

日時:12月2日(土)17:40〜20:30(最大延長30分)
場所:豊島区勤労福祉会館 第三会議室
     豊島区西池袋2-37-4 池袋南口から徒歩3分
    http://nihon.lar.jp/02.html

参加費:無料(テキスト無料貸与、購入希望の方は実費¥200)

   なお事前の参加連絡などは一切不要です。

【皇位継承】万世一系の皇統を守る8【男系維持】
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1147608766/
83日本@名無史さん:2006/12/10(日) 09:12:09
age
84日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:15:35
卜部姓藤井氏は旧家名が猪熊だけど、猪熊から藤井に改めた経緯をご存知の方おられる?
ついでに慶長年間の猪熊事件の教利はこの家の人かな?
85日本@名無史さん:2006/12/23(土) 17:32:29
京都橘大学教授の猪熊兼勝さんて人は
卜部氏の一門で近世には堂上だった藤井家の末裔なのかな?
公家の家系というが、少なくとも維新前の新家を含む堂上にも、
奈良華族にも「猪熊」なんて家はないはずなので、
どの家系なのか気になる。
あるいは四辻家が維新後に家名を室町に戻したのと同様に
藤井家も旧家名に戻したのか?
86日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:01:04
藤井って近衛家の分家にもそういう家号の家があったよね。
中世末に絶家しているようだが。
87日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:03:28
教授の家の猪熊は平野社の社家の家系。戦国時代に吉田家から養子をもらっている。
江戸の初期に讃岐の藩主に請われて白鳥神社の神主になった。
その子孫のひとりが宝永期に京に戻って藤井家という堂上家をつくった。
藤井家のほうはそのまま堂上家。
猪熊家は讃岐の宮司をやっているが、都と完全に縁が切れたわけではなくて、
娘を公家の嫁に出したりはしている。
教授の先祖には明治時代の国学者の猪熊夏樹がいる。
88日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:20:29
>>87
ご教示感謝です。
淡交社の雑誌「なごみ」2007年1月号では
「公家の家・猪熊家」「代々伝わる公家独特の新年の祝い」
「有職故実の家」なんて表現を使っていますが、
これは学問的にはちょっと怪しい記述なわけですね。

もし平野社の社家が「公家」なら、上賀茂社や松尾社の社家だって
「公家」ということになっちゃう筈。地下官人ぐらいにはなれるけど
堂上でないのに「公家」とは……詐称まがいな感じがするなぁ
89日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:50:00
堂上のうちで一番出自が低いのはやっぱり卜部?
90日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:08:53
>>88
「公家の家」はオーバーかもしれないけれど、代々の家には変わりはないので
独特の新年の祝いはあるかもしれないですね。(宮司の家だし)
夏樹の息子の浅麿は有職故実の研究家なので(戦前の人ですが)
「有職故実の家」といわれればそうかもしれない。
兼勝さんのほかにも兼繁氏という歴史学者もいるのでくわしいのかも。

>>89
北小路家の大江氏や錦小路家の丹波氏も低いといえば低いかも
91日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:09:27
まあ太宰府天満宮宮司の西高辻男爵家のように近代に華族身分になっていれば
よかったのにね。
92日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:16:51
堂上のなかでの氏族別の序列は
藤原氏>源氏>菅原氏その他
みたいな感じか?
でも近世あたりだと卜部氏の吉田家から
閑院流の清水谷家に養子が入ったりしてるね。近世の吉田家は
神道関係での収入で裕福だったから、意外に釣合ってたのかも。
93日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:56:28
猪熊兼勝は、江戸時代初期の官女密通一件で
斬罪になった猪熊教利の猪熊家と関係有るの?
94日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:13:02
関係ないらしいよ
むしろ山科家に関係あるとウィキには書いてあったが
95日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:00:52
山科家ってあの丹後局の子孫らしいね。
96日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:09:29
太宰府天満宮文化研究所に行くと古い史料を見せてもらえる
驚くのはそこで働く誰もが禰宜の味酒氏を太宰府の代表と考えていることで
西高辻宮司家は幕末にやってきたよそ者扱い、150年経っててもね
97日本@名無史さん:2006/12/25(月) 02:05:40
西高辻家の御曹子が俺の大学時代の先輩なんだが。
一回普通に大学を卒業したはずなのに、なんか最近某大学の神道学科に
入り直したらしい。
98日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:38:44
>>94
猪熊教利って山科家の流れなのか
でも系図には教利は言経の子の教遠の子とあるから、ウイキの記述と合わない気がするんだけど
99日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:42:26
>>96-97
右が西高辻さんで
左が味酒さん

http://www.dazaifutenmangu.or.jp/shiru/1100cht.htm
100日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:53:06
>>98
誤記・勘違いをウィキの執筆者がしたのでは?
101日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:51:00
結局、猪熊教利は何者なんだ?
山科家の一族というけど、本家とはどういう関係?
で、のち藤井家の猪熊家とは関係ないってことだよな…
102日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:20:15
江戸時代の公家の研究している大学の先生を教えてください。
大学選びの参考にしたいです。
103日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:53:43
ttp://members.ld.infoseek.co.jp/kazuya0807/kenkyu.htm

ここに近世の朝廷の論文一覧がある(2005年の夏分までだけど)
執筆者名を

ttp://www.google.co.jp/
で検索してみてはいかが?
故人もいるし、停年された先生もいるので気をつけて
104日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:31:43
諸大夫とか公家侍って維新後、どうなったの?
105日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:52:17
諸大夫はそのまま家司になったのも多い
坊官も還俗した宮様の家司になっている

だから公家侍もそのまま公家の家につかえたとか、
どこかの役人になったんじゃない?
106日本@名無史さん:2007/01/09(火) 03:28:58
地下官人は?
107日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:44:20
地下官人から華族になったのは、壬生・押小路・玉松の3家だけかな?
108日本@名無史さん:2007/01/12(金) 23:32:29
地下官人のほとんどは士族である。
宮家・門跡・公卿などに仕える公家侍は、三代以上仕えている者のみ士族となった。

これらを総称して官家士族といったが、一般の士族同様、明治の早い時期に窮迫し、
その困窮ぶりが問題になっていた。
109日本@名無史さん:2007/01/13(土) 02:06:07
壬生と押小路はそれぞれ官務と局務のトップであったという家格による叙爵。
玉松は明治維新のときの勲功による叙爵でいいんだよね?
110日本@名無史さん:2007/01/13(土) 02:45:42
玉松は王政復古以後とはいえ華族制度が作られる半年前に
堂上になってるから地下→華族ではない
111日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:16:47
まあ玉松が堂上に列したこと自体が維新の功ではあるんだけど。
112日本@名無史さん:2007/01/16(火) 10:35:50
公家を廃した明治政府を恨んだ公家はいるの?
113日本@名無史さん:2007/01/16(火) 12:28:57
いるよ。人それぞれだけど、例えば華族制度によって従来の家格と異なる
爵位設定になったがゆえに「なんでこの家とうちが同じ爵位なんだよ」みたいな。

ただ全体として容認、もしくは容認せざるを得ない状況であったことには変わりない。
勲功も家業もないような下級公家なんて公家であり続けてもなんのメリットもないからね。
鷲尾家みたいに味噌なんか作ってそれを生業にしたのは賢い方だと思う。
114日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:27:54
>>113
公家であるがゆえに大名華族と縁戚関係を結べた例もあるはずで
経済的な援助を受けることもできたんじゃないかな
鷲尾家なんて血統的には人吉藩相良家の実家なわけだし
115日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:32:24
>>114
維新前であれば、武家から公家への経済的援助というのは形式的にもよくあったことだと
思うけど、維新後にそういった経済的援助があったとしたらどういう形だったのかな?

まあ下級公家を一括りにするのは問題だかもしれないけど、
大名との繋がりも財産もない公家なんかは大変だよね。
116日本@名無史さん:2007/01/16(火) 19:57:30
そりゃ没落していく親戚を無視するのは情に於いても忍びがたいだろうし、
それにそれを放置したとなれば放置した家の体面にも傷が付く。
117日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:00:24
素朴な疑問なんだけど、
味噌の鷲尾家って、堂上の鷲尾家(藤原氏北家・四條流の一門。
と言っても近世には閑院流の血統のようだが)
と同一なの??
118日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:14:12
>>112
愛宕事件があるじゃん。
愛宕通旭(村上源氏の一門の堂上家の出)や
外山光輔(藤原氏北家・日野流の堂上家の出)
が不平士族たちと組み、新政府転覆を図ったというもの(未遂に終わる)。
119日本@名無史さん:2007/01/27(土) 19:44:44
yahooで、江戸(幕末)・明治期の江戸・東京の古地図を公開してるのだが、
http://map.yahoo.co.jp/kochizu/maptop

雑司ヶ谷村(今の目白の辺り)に「白川家神職」というのを見つけた。
これは、白川家の江戸役所でしょうか?
江戸役所にしては、随分外れにあるような気が・・・
どなたかご教示ください。
120日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:24:58
>>107
伊丹重賢:男爵・錦鶏間祗候
松崎万長など
121日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:07:46
公家侍出身の華族なら、三条家家臣の尾崎三良が男爵になってる。
122日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:51:11
>>120
松崎万長は甘露寺家の庶流で、ベルリン工科大学に留学して
建築家になった人だよね。孝明帝の御落胤という噂もあったとか。
留学生活が長かったもんで、日本語のほうが不自由で、
日本で詐欺にあったりし、台湾に渡って建築家として一生を終えたとか。
建築史の本にも出てくる人。

松崎家は奈良華族かと思っていたけど、地下の扱いだったの?
123日本@名無史さん:2007/01/28(日) 22:36:49
>>71
遅レスだが、亀井は亀井でも久興とシズカを間違えてないか?
華族の殿様の子孫が久興、「下品」なドンガメがシズカの方。

まあ、シズカも遠い先祖が武将だったとかいい加減なこと言ってるけど、
田舎のお大尽の与太話みたいなもんだからw
124日本@名無史さん:2007/01/29(月) 06:36:08
公家侍ってどういう経緯でその家に仕えることになるんだい?
3代以上仕えてたら明治政府は士族扱いにしたということだが、
そもそも彼らの出自はどこなんだろう。
125日本@名無史さん:2007/01/29(月) 23:08:00
>>109
「押小路」ってさ
『龍-RON-』っていう漫画の主人公の苗字でさ
京都の貴族の子弟なんだけど
実在のモデルなのかな?
126日本@名無史さん:2007/02/04(日) 22:47:47
鈴木京香が堂上華族(公家華族)を罵倒してます
目の敵にしてます 助けてください
127日本@名無史さん:2007/02/28(水) 03:02:52
そもそも、公家の家格はいつ確定したんだろ?
あと、絶家の場合もいずれかの家格に属してたんだろうけど、どうだったんだろ?
例えば、洞院家なんかは、清華家?
128日本@名無史さん:2007/02/28(水) 04:28:48
大体鎌倉時代の終わりごろでしょ
洞院家は絶家しなければ清華家だったはず
129日本@名無史さん:2007/03/02(金) 01:51:27
>>128
レスd。サーストン。

ということは、五摂家成立で、まず摂家という家格が成立して、
それに伴って、清華等の家格も成立したということ?
この辺りの経緯が詳しく載ってる書籍など、教えて下さい。
130日本@名無史さん:2007/03/05(月) 02:44:14
>>129
原型は院政期からあると思うよ。
清華家・大臣家を構成している家は、近世以降に成立した家を除くと、以下の
3分類のいずれか。
1.院政期〜鎌倉期に皇后や天皇生母を多く輩出した閑院流の諸家
2.院政期に摂関家当主の正室を多く輩出した村上源氏系(久我・中院)
3.院政期に摂関家嫡流から分かれた家(大炊御門・花山院)
要は、院政期に羽振りの良かった家が摂関家に次ぐナンバー2やナンバー3の
位置を占めていることがよくわかる。
もっとも、羽林家や名家なんかの昇進ルートが固定化するのは鎌倉の後半以降の
ようなので、この段階では同じ人物が羽林家的な官職と名家的な官職の両方に
ついているケースも多い。
ただこの時期には、全般的に後の名家に繋がる家よりも後の羽林家に繋がる家の
ほうが上位に捉えられていることが多く、名家が羽林家とほとんど同格のように
なるのは、日野流の諸家の羽振りがよくなる室町期以降だろう。
なお半家は羽林家・名家よりも問題外に家格は低い。
131日本@名無史さん:2007/03/05(月) 02:47:13
>>123
亀井静香は、久興の亀井(伯爵家)と戦国まで遡れば同じ一族と自称してます。
132日本@名無史さん:2007/03/05(月) 03:35:16
だけど久興の祖先は明治初期に公卿の堤家から
養子が入ってるから戦国武将ではない
133日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:35:15
>>131
まあ、あくまで自称だから、「田舎のお大尽の与太話」レベル。
近世に農家だった家が先祖は戦国武将とか言ってるのは、本気にしない方がいい。
134日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:54:47
>>124
戦国期まで畿内の土豪クラスだった者が大名やその家臣になりそこねて、
公家の家臣になった例はある。
だから、公家侍には大名家の家臣と親族関係のある者がいたりする。
大石内蔵助も近衛家と所縁があるし、赤穂藩から近衛家に転職した者もいた。

また、歌道や学問などの特技がある者は、江戸後期の歌人の香川景樹みたいに、
一介の軽輩から堂上家の家臣になり、諸大夫にまで出世する者もいた。
135日本@名無史さん:2007/03/06(火) 03:51:27
>>132
女系を介せばなんとか繋がっているんじゃない?
136日本@名無史さん:2007/03/06(火) 12:25:58
>>134 ちょっとした疑問
確かに景樹は、鳥取藩士の出自で徳大寺家の家臣香川景柄(かげもと)の養子となったけど、離縁したのでは?
また、景柄は陸奥介だから徳大寺家の侍だった可能性はあるが(諸大夫は例外なく守)、
離縁された景樹(そのまま香川を名乗るが)は、本当に諸大夫に進めたのかな?

ちなみに幕末時の徳大寺家の諸大夫・侍
物加波(ものかわ、2家)、堀川(2家)、淡川、滋賀、小川
松本、滋賀
137日本@名無史さん:2007/03/06(火) 13:48:16
>>136
諸大夫にはなって無いようだよ。侍止まり。

天保14年(1843)2月1日地下官人一覧
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/jige18430201_index.html

これによると、徳大寺家の侍の欄に
「従五位下 香川 平 景樹 76 肥後守 歌人」
とある。侍だけど官位だけは大名並。歌人としての功+年の功だろうな。
香川景樹はこの年の3月に死んでるから、これ以上出世したということは無いだろう。
死後追贈でもあったのかね?
138日本@名無史さん:2007/03/06(火) 14:23:17
>>137さん
詳しい解説ありがとうございます。
このHPって凄いですね。
こちらの紹介もありがとうございました。
139日本@名無史さん:2007/03/16(金) 13:41:23
なんか地下官人スレになってない?
140日本@名無史さん:2007/03/18(日) 15:06:35
地下官人も廷臣だから良いでしょう
地下官人って800軒くらいあったらしいから全部に爵位
与えるわけにはいかないでしょうね。

さて本願寺坊官の下間家も地下官人なのでしょうか?
141日本@名無史さん:2007/03/18(日) 16:15:48
六位蔵人とか宮家の殿上人とか摂家等の諸大夫とか、
官務や局務より上のような下のようなよくわからない存在。
出納も官務・局務とともに三催と並び称されながら華族になれず。
家格とは言うのもなかなかむずかしいですねえ。
142日本@名無史さん:2007/03/20(火) 20:43:55
六位蔵人から昇格した家ってやはりその時点での堂上の最下位に格付けされるのかな?
143日本@名無史さん:2007/03/21(水) 02:24:08
>>141
官務の壬生家、極務の押小路家の場合は、それぞれ小槻氏、中原氏という
古代から続く氏族の嫡流であるってことも大きいかも。
また極務の場合は、もともと押小路家とともに極務だった舟橋家(清原氏)が
堂上に昇格した先例もあったし。
144日本@名無史さん:2007/04/01(日) 11:07:12
局務とか摂家の諸大夫なら相当実入りがよかったと思われ、、

極臈を3代若しくは1代で3回務めて堂上になった家としては
慈光寺家などがありますね。
145日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:11:31
>>141
>出納も官務・局務とともに三催と並び称されながら華族になれず。

出納ってのは、官務や局務と同じように中世以前から特定の家が世襲して
続いていたものなの?
146日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:19:32
京都二条城近く 二条屋敷 小川家住宅
147日本@名無史さん:2007/04/07(土) 22:56:50
>>144
1代で3回というのは可能性としてあり得るだけで
実際はなかったんじゃないかな
148日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:10:19
>>140
全部にはあげなくても、代々五位以上になった家には、
男爵くらいあげても良かったのでは?
149日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:20:26
>>147
極臈←差次←氏蔵人←新蔵人

1ランク上がるのに約10年かかったというからな。
初任が新蔵人でも無いだろうし
150日本@名無史さん:2007/04/08(日) 04:29:51
なんで幸徳井家は男爵になれなかったんだろう
151日本@名無史さん:2007/04/08(日) 11:22:27
幸徳井家って陰陽道宗家の座を土御門家と争った家ですね。
やはり地下官人だからでしょう。
152日本@名無史さん:2007/04/09(月) 03:27:34
出納ってなんですか?
153日本@名無史さん:2007/04/10(火) 02:12:41
官務は秘書課長、局務(大外記)は文書課長というところかな。
位は低いがそれぞれ独立した組織のトップ。

蔵人方は殿上一切のことを取り仕切る役目だが長官は別当。
その下に蔵人頭、五位蔵人、六位蔵人、非蔵人で構成される。
出納は経理課長と言ってしまえば官務・局務と同等のようだが
あくまで蔵人方を支える事務局のトップに過ぎない。
154日本@名無史さん:2007/04/10(火) 02:52:53
中世だと、官務・極務はよく聞くが、出納なんて聞かないな。
155日本@名無史さん:2007/04/10(火) 04:30:13
近世の人は、官務や局務を世襲する家系が元々2系統あって、中世だと交互にその座についていたなんて知らないだろうな。
156日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:52:42
局務は2系統のなかでもかなりいろんな家系から出て居るみたいだ。
官務の大宮は戦国時代を乗り切り損なったわけで、堂上にもそう言う家多いよね。
藤原氏の堂上はとうとう北家だけになっちゃったわけだ。
157日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:15:04
いろんな家系って何よ?
基本的には後の押小路家に繋がる中原氏嫡流と、後の舟橋家に繋がる清原氏嫡流だけでは?
158日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:06:03
官務は小槻氏のみ。大宮と壬生はその中の系統。
局務は中原氏と清原氏。
中原には西大路流・六角流・押小路流その他の系統があった。
清原も定滋流と定隆流があり、前者は更に仲隆流と良業流(舟橋)があった。

官務や局務や出納が課長ってことはないだろ。せいぜい係長くらいか。
別当は長官ではない。宣旨職に長官も何もないが、敢えて言えば蔵人頭。
別当は本官のある者が、臨時に「別」の職に「当」る意。
大学寮別当や雅楽寮別当・修理職別当・内蔵寮別当・京職別当が長官でないのは明らか。
159日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:12:37
で、出納は何氏の何流?
160日本@名無史さん:2007/04/12(木) 04:02:02
決まった家はない。
161日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:24:38
>>141は出納は華族になれなかったって書いているけど、これは特定の家が
念頭にあるわけじゃないの?
162日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:39:10
出納の催しは平田家だろ
163日本@名無史さん:2007/04/12(木) 12:17:05
平田家は出納っていうより中務省じゃなかったっけ?
164日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:31:28
平田(氏が違ったかも?)も何軒か有ってその一つが出納だった。
165日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:08:42
平田職忠は正四位上まで進んでいる
166日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:35:16
>>161
つーか地下官人は一律に士族だ
後で特例的に壬生と押小路が華族に昇った
御三家の付家老を華族に上げたのとのバランスだろ
167日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:25:35
出納の平田と中務省の平田(本官は外記)は親類、どっちも系図上は押小路の庶流?って
ことになるけど、共通の初代は清原氏らしい。
168日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:26:12
官家士族の困窮ぶりは相当なものだったらしいね。
169日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:03:33
>官家士族の困窮ぶりは相当なものだったらしいね。
まあ家によるんでしょうね。なまじ貧乏公家になるのが嫌で堂上取り立てを辞退した家も
有ったそうですし、役目によってはいろいろ付け届けもあったんでしょう。
その分維新後に役得がなくなって酷く貧乏した家もあるようですが。
170日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:05:15
地下にも諸大夫・侍・士分の区別があり出納平田は侍。
官務・局務以外にも何軒か諸大夫格の家はあったがどれも華族にはなれなかった。
所詮侍にすぎない平田には見果てぬ夢か?
あと六位蔵人になる家が地下でもあるって言うのは本来の定義からすると変だよな。
171日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:00:22
家格としての堂上・地下と許昇殿かいなかの殿上・地下とが区別されるようになったからね。
「大臣家」といいながらなかなか大臣が出ないのも変といえば変。
172日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:22:11
>>169
明治になって地下官人の多くは京都府庁に採用されたと思うが
173日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:31:01
>>171
清華家から太政大臣が出た例も近世では皆無のはず。
174日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:22:02
近世になってからは昇任がかなり抑制されてたからな。
清華家は太政大臣が皆無、左大臣もまれ、で事実上右大臣が極官
(内大臣が極官の家も)。
大臣家はどうにかこうにか内大臣になれれば万万歳、准大臣になれるかどうか。

一方で中山家など平堂上で大臣に昇任した例もある。
175日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:49:59
伏見宮の殿上人若江も不思議な家だよな。
これこそ本来の意味から言えば完全な堂上なんだけど、
公卿になれなかったせいか華族になっていない。
維新前に家を起こした堂上に該当して子爵になっても良いように思えるな。
ある種付家老みたいなもので天子に直接仕える堂上とは明確な区別が有ったんだろうな。
付家老も割を食ったとは言うけど、それでも男爵(一部は維新の功労を口実に後子爵)に
はなれた。若江は一番割を食った家かもしれない。
176日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:00:15
伏見宮って初期の頃は宇多源氏との繋がりが深いね。
177日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:42:22
庭田とか田向とかだよね
178日本@名無史さん:2007/04/30(月) 04:17:54
age
179日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:53:10
>>156
>官務の大宮は戦国時代を乗り切り損なったわけで

山口の大内の所に集りに行って、
陶の乱に巻き込まれて絶家しちゃったんだよな
180日本@名無史さん:2007/05/01(火) 21:09:18
ほとんどの堂上公家は明治期に東京に引っ越したけど、
その後京都に戻ってきた家もあるそうだね。例えばどこかな。
九条家は今平安神宮の宮司だっけか?
181日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:33:46
山科家は今京都じゃない?
182日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:39:27
>>181
そうだよね。180ですが山科家も書こうと思ってました。

他に出戻り組っているかな?こういう家はいつ頃、どういう経緯で戻ったんだろう。
今は御苑になってる屋敷を放置して東京に行っちゃった以上、京都における
土地屋敷財産はどうなってたんだろう。

183日本@名無史さん:2007/05/14(月) 09:54:22
公家ではないんだけど京都市内某所で「東久邇」の表札を見かけたんだが
これはあの家の本家かな?それともどういう関係だろ。
184日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:25:04
東久邇家は息子が多いし、あの一族以外でそんな姓名乗ってる家はまずないから、
稔彦の係累である可能性はきわめて高い。
185日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:26:21
千家(裏千家・表千家)は、京都の堀川通りを一本東へ入った通りに、
今でも大きな邸を構えているよね。
三笠宮家の王女が嫁入った家だっけ?
公家じゃないけど、もともと千利休が堺の豪商の出だったことを考えると、
すごい出世かも。
186183:2007/05/14(月) 10:49:20
いろいろ調べてみたら盛厚王(稔彦王の長男)の後妻・寺尾桂子さんは
盛厚王が亡くなった後、息子の厚彦氏、盛彦氏とともに京都に戻ったようだね。
厚彦氏は母方の寺尾家に養子に入ったから、当方が見た家は盛彦さんの家かな?
187日本@名無史さん:2007/05/14(月) 11:50:10
裏千家は、江戸後期というか幕末くらいには譜代大名の大給松平のどっかから
養子をもらっていたはず。
188日本@名無史さん:2007/05/19(土) 12:18:37
11代の玄々斎
189日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:50:07
財閥の住友なんて徳大寺家から養子が入っている。
確か徳大寺実則・西園寺公望兄弟の弟だったはず。
190日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:55:03
>>179
大宮伊治の娘が大内義隆の側室になっていて義隆の嫡男を生んでいた縁だね。
実は大内義隆は長い間子供に恵まれなかったので、姉妹の子である
大友晴英(大内義長)を養子にしていたが、嫡子誕生でこの養子関係を
解消した。
その後、義隆と対立した陶隆房(晴賢)は、義隆を殺害して大友晴英を大内氏の
当主に迎えた。
191日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:18:20
冷泉家はずっと京都だす
192日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:45:49
下冷泉は戦国期には播磨にいたようだが。
193日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:53:40
下冷泉は明治になって東京に移ったな
194日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:56:36
下冷泉は分家なんだから、上冷泉との重複をさけて家名を変えればよかったのに。
正親町三条が転法輪三条との重複を避けて嵯峨に改称したように。
195日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:45:59
>>194
>正親町三条が転法輪三条との重複を避けて嵯峨に改称したように。

これには
1、混同を避ける意味
2、「正親町三条」が長すぎる
3、太政大臣三条実美に対する遠慮
の3つの動機がある。

下冷泉には2、3の動機はないし、
上冷泉は京都に残ったから、1の動機も薄弱。
196日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:56:08
下冷泉は家の成立時の経緯から、上冷泉との仲はあまりよくなかった。
197日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:11:51
>>173-174
江戸時代には不文律で太政大臣の就任資格に「摂政・関白・征夷大将軍を務めた者」という不文律が追加されたから。
198日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:42:06
>>174
内大臣が極官なのは、清華家ではなく大臣家。
199日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:25:59
国民新党の亀井久興は堤家の子孫だべ?
200日本@名無史さん:2007/06/09(土) 04:49:11
上冷泉はこれからどうすんだろうね
婿殿にも子種がないようだし
下冷泉から養子を迎えればいいかも
201日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:09:35
>198
広幡家は内大臣までにしかなっていない。
清華家とはいえ広幡家の事実上の極官は内大臣かと。
大臣家との違いは、ほぼ確実に内大臣にはなれること。
ただし、右大臣になれた者は一人もいない。
202日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:40:39
上冷泉家は家付き娘の妹には子供がいるらしいからそこから養子をとればいい
203日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:35:10
>201
五摂家それぞれの家には格差は見られないけど、
九清華は微妙に差があるようですな。
といっても右大臣になれるかどうかというくらいの差ですが。
204日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:34:10
清華家と言っても広幡と醍醐は新家だからな
205日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:15:56
醍醐は右大臣になったものもいるにはいるな。

清華の中で優位を占めるのは閑院流かな。ほぼ確実に右大臣になれるような。
たしかに清華家9家もほぼ確実に右大臣になれる家、右大臣になりにくい家、
右大臣になれない家に分類できそうな気はするな。
206日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:13:19
>>201>>204
広幡家は、新家の上に初代で絶家しかけてるからね。
初代、忠幸が嫡子無くして死んで、死後に久我家から養子を貰って、
何とか繋いだ。
死後の養子と言うことで、千石から五百石に所領が半減しているが。
あと、広幡家は内大臣になると右大将を辞職するのが慣例なんだと。
他家ではこういう慣例はない。
後、今出川は他家に比べて昇進が遅かったそうだ。
晴季が秀吉と仲良くした竹箆返しかな?
そういえば、広幡も秀吉の猶子を先祖に持つな。
そういうのも関係するのだろうか?
207日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:20:54
>>203
え、五摂家にも格はあるんじゃなかったでしたっけ?
筆頭は近衛家ですよね。
208日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:25:54
>>207
筆頭は近衛だね。
>>203は、「官位の昇進において差がない」という意味じゃないのか?
待遇においては、近衛は別格だよ。
209日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:27:01
近世において、
清華家=内大臣にほぼ確実になれて大将を兼ねる
大臣家=内大臣・准大臣になれたのは歴代当主の3割くらい、大将は兼ねられない

ほぼ確実に内大臣にはなれるど大将を兼ねられない広幡家は
清華家と大臣家の間に位置する存在という印象が強いな。
210日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:07:07
官位昇進の実情とは無縁に閑院三家が家格上、久我・広幡の源氏2家は下、外四家が中。
大臣家中では、三条西(清華に比す)>中院>正親町三条、羽林では松木がトップ。
と「女官通解」にあるが根拠は不明。
211日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:16:45
幕末の宮廷によると、中山・中御門(松木)・園・広橋の四家が平堂上中准大臣足りうる。
また1750年の昇進に関する規定だと、正親町・滋野井・中山・中御門(松木)の4家
は大臣家と並んで旧家のうちしかるべき家として従三位までは中置き1年以後は旧例によ
ることとされている。
ちなみに清華は従三位までは毎年昇進、以後は旧例による。
つまりこの両方に名前が挙がる中山・中御門はほとんど大臣家に相当する家格と言え、1
家だけの名家として名が出てくる広橋は名家最高の家格かも知れない。
212日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:25:40
平堂上で最高の家格の家は、中山だろ。
平堂上で唯一諸大夫を使えたんだし。
213日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:28:04
1750年の規定追加
旧家は従三位までは中置き2年以後は旧例による。
新家は従三位までは中置き3年、侍従可。
新家のうち元和以後の取り立て、は従三位までは中置き4年、侍従不可。
極端な新家は中将・少将不可、参議以上は家の前例がないと不可。
大外記・官務は正四位上まで中置き五年。
外記・史は従五位上(60歳以上)まで、正五位下は非常破格。
摂家諸大夫中旧家(鷹司はなし)は従三位は70歳以上で中置き10年(臨時の取り扱い)
摂家・親王家諸大夫新家は80歳以上中置き15年。
214日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:56:46
松木は頼宗流の嫡流格で清華になり損なったって感じだな。
平安終期において後の清華となる閑院流・村上源氏・花山院等にさほど見劣りしない家
格。院政期までに大将にさえ手が届いてればという感じで、清華分流はともかく成り上が
りの四条流や水無瀬とは格が違うって思ってたんだろうな。
ちなみに大臣家は清華分流中上手く立ち回った家が羽林より一段上に格付けされたという
印象。中二階と言うか半端なクラスだとも。
215日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:15:37
諸大夫って言うのは地下に含まれるのか?
それとも堂上・地下とは別次元の分類?
216日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:24:41
>>215
地下に含まれる。
217日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:43:42
大臣家の娘は典侍になれないの?
218日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:48:36
なれないと言うよりならないんでしょうね。
219日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:14:23
>>209-210
中世前期段階だと、のちの清華家に相当する家は、いずれも極官が
太政大臣なのはいいとして、昇進のパターンとして、
1.内大臣から左右大臣を経て太政大臣まで昇進できるパターン
2.内大臣から左右大臣を経ずにいきなり太政大臣になり得るパターン
の2つがあるらしい。
で、2よりも1のほうが格上とされる傾向があり、閑院流は原則として1の
パターン、村上源氏系は原則として2のパターンの昇進ルートをとるという。
なお平清盛は、2のパターンで太政大臣になっている。
また源実朝は、右大臣在任中に暗殺されてしまったが、昇進ルート的には1の
パターンに近いという。

のちの大臣家に繋がる家に関しては、その成立はいずれも清華家クラスの家の
有力な分家という由緒だが、南北朝〜室町の段階では、
陽禄門院秀子(光厳天皇妃、崇光・後光厳両天皇生母)を出した正親町三条家が
圧倒的に羽振りがよくて一人勝ち状態。
ただ戦国期に、三条西家に実隆・公条・実枝と優秀な人物が続いたことから、
次第に三条西家の存在感が大きくなり、さらにその後、江戸初期の三条西実条が
春日局(将軍家光乳母)の義兄として朝幕関係に重きをなしたので、近世には
三条西家が一番羽振りのよい家(家禄も大臣家中トップ)となった。
220日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:38:56
のちに大臣家といわれるような家格を最初に手に入れたのは正親町三条だよね。
で、三条西は正親町三条の分家だし養子のやりとりなんかもしているから
いいとして、中院がこの2家と同ランクの家格なのはどういう理由なのよ?
221日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:45:09
>>219
1のパターンだと大臣在任期間が極端に短くなるな。
無難に2のパターンのほうが、大臣在任期間が長いわけだから、
廟堂に重きを成せそうなものだが。
222日本@名無史さん:2007/06/11(月) 08:40:26
准大臣というのは正式な官職ではないですよね?
そのときオフィシャルな立場としてはどうなるんですか?
公式文書に署名するときなんかは
従二位 准大臣 藤原●●とか書くんですか?
それともそういう場合は前権大納言〜 なんですか?
223日本@名無史さん:2007/06/11(月) 11:11:23
清華以下は、史実上の平均実績という事になれば、
現実に長命者を多く出したかどうかの、運の要素も大きいよね。
江戸時代だけでも、歴代当主の各家ごと平均寿命を計算した物好き、誰かいない?
224日本@名無史さん:2007/06/11(月) 11:38:17
さっきNHKのラジオを聞いていたら、冷泉キミヒロ(うろ覚えだし漢字不明)とかおっ
しゃる俳優さんが朗読されていましたが、この方は冷泉家とご関係のある方でしょうか?
225日本@名無史さん:2007/06/11(月) 11:56:04
>>224
冷泉公裕(れいぜい・きみひろ)。
本名だそうです、と言う事は‥。色々検索してみて。
226日本@名無史さん:2007/06/11(月) 12:10:26
>>225
そうですかご本名ですか。確かに一般人じゃない方ですから名前さえわかれば調べること
は出来ますね。どうもありがとうございました。
227日本@名無史さん:2007/06/11(月) 12:45:48
ただ、公家の冷泉の通字は「為」だから、直接関係はなさそう。
「公」の字も公家に多いから、気になるが。
228日本@名無史さん:2007/06/11(月) 13:33:45
>>222
どう書くかは知らないが、少なくとも近世に於いては、
准大臣は従一位宣下が前提だから、「従二位 准大臣」はあり得ない。
平安期とかは知らないが。
229日本@名無史さん:2007/06/11(月) 13:46:55
平安時代だと藤原伊周は、
正三位→内大臣→罷免→復正三位→従二位→准大臣→正二位→死去。
230日本@名無史さん:2007/06/11(月) 19:41:03
従一位にはなってないから自称の儀同三司はちょっと変。
まあ三司=三公、つまり三公待遇という本来の意味からいうと正しいけど。
まあこのころはまだ従一位は値打ちがあった。すでに二位はかなりお安くなっているけど。
231日本@名無史さん:2007/06/12(火) 01:04:34
儀同三司は准大臣の唐名。
232日本@名無史さん:2007/06/13(水) 11:14:19
儀同三司は、漢文好きな伊周の自称だったはず。
伊周が受けた実際の勅命は「大臣に准じる」というもので、
儀同三司という職名が日本の朝廷にあったわけではない。
准大臣が地位として確立するのは、もっと後。
実際、伊周は京へ帰ってからも、周囲からは終生「帥殿(左遷された際の職名、太宰帥)」
などと呼ばれていたから、不本意だったのかもしれない。
それで、自称したのかも。
233日本@名無史さん:2007/06/14(木) 09:18:21
>>232
>准大臣が地位として確立

いつごろなんですか?
234日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:49:49
235日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:22:25
俺も初耳だ。
勉強不足かのう。
236日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:44:17
>>234
ネタっぽいな
237日本@名無史さん:2007/06/22(金) 09:18:29
>>233
伊周のあと、「大臣に准じる」なる地位は長らく置かれなかった。
が、鎌倉時代中期に復活。
これ以降は「准大臣」に任じられる人の例もそこそこあり、
令外の官のひとつとして認知されたのだと思う。
238日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:14:04
>>237
令外官としては認知されていない。あくまで待遇。
公卿補任を見ると、准大臣は幕末まで散位の欄に記載されている。
239日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:10:05
age
240日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:26:54
史料を見ていると「仁和寺宮院家」「東本願寺院家」と書いてあるものがあります。
院家ってなんですか?その門跡に仕える僧侶の家ということでしょうか?
241日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:55:20
>>240
門跡を補佐する僧侶(の所属する塔頭)
242240:2007/06/24(日) 17:23:11
ありがとうございます。
ということは、坊官とおなじなんですか?
243日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:55:07
似たようなモンですが、坊官は僧侶ではなく俗人ですね。
244日本@名無史さん:2007/06/24(日) 19:09:20
坊官って僧体だけど俗人なの?
俗人だから本人の希望が有れば門跡の諸大夫になれるの?
245日本@名無史さん:2007/06/24(日) 19:30:40
俗人だね。寺の俗事を取り仕切った。

坊官下間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/simotuma.html
 
246日本@名無史さん:2007/06/24(日) 20:39:33
ってことは僧体で僧位を持っていて寺院主に仕えているけど、それでも俗人なのか。
わけのわからんヌエみたいな存在だな。
247日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:55:18
坊官は俗人で院家は法体?
坊官は下間氏のようにどこの門跡の坊官でも世襲なの?
それとも下間氏は浄土真宗の寺の坊官だから世襲?
ほかの門跡の坊官も世襲なの?
院家は一代限りでいいのかな?
仕事の内容はかぶらないのか?

僧侶の世界もいろいろ複雑で謎めいてるね。
248日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:26:28
門跡にとって坊官が摂家の諸大夫に当たるとすれば、院家は門礼みたいな感じがするな。
249日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:29:27
坊官の家に生まれて坊主頭が嫌で諸大夫になるのは任意だが、
反対は無理だそうだ。(少なくとも幕末期はそうらしい)
門跡内の序列では坊官>諸大夫、ってことだから、それでだろうな。
坊官と摂家諸大夫はどっちが上なんだろう?
250日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:28:11
院家は僧だから一代限りだよ
でなければ実家の次男三男の押し込み先にならない
251日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:41:53
まあ、隠し子作ってしまう例もあるけどね。
252日本@名無史さん:2007/07/03(火) 16:14:51
>>247
坊官は僧体の俗人。妻帯OK。地下官人の扱い。
院家は僧侶。主に養子の口の無い平堂上の次男以下の送り先。

岩倉具視も堀川家から岩倉家に養子に行かなければ
院家になるところだったんじゃなかったっけ。
253日本@名無史さん:2007/07/03(火) 22:35:16
たとえば○○寺の院家は公家の△△家、○×院の院家は公家の×▼家と固定されてるんですか?
それとも、適当?
254日本@名無史さん:2007/07/03(火) 22:37:00
本願寺の「准門跡」というのも、分かるようで分からんね。
司馬遼太郎が「戦国時代に経済的に困窮し切った朝廷から金で買った」と言っていたが本当なのかね?
幕府は、親鸞が受戒していない事を理由に大師号の申請却下。
大師号(見真大師)は明治以後だよね。
255日本@名無史さん:2007/07/04(水) 01:47:21
前近代の日本で大師号を送られているのは、
基本的に最澄・空海・円仁・円珍の4人だけじゃないの?
256日本@名無史さん:2007/07/04(水) 17:43:20
>>253
されてなかったと思う。
257日本@名無史さん:2007/07/04(水) 18:50:23
>>255
円光大師(法然)の諡号を賜ったのは17世紀だよ。
浄土宗は幕府の保護があったからね。

>>254
15世紀後半からの後土御門〜後柏原〜後奈良時代はよく知られているように
貧窮の極みで後柏原天皇の即位の礼の資金は本願寺が出して、
准門跡はその見返りと見ていいから、金で買ったと言われればまさにその通り。

ただ、後柏原天皇自身も念仏に大層興味があったのは間違いない。
当時本願寺が一気に巨大化したのは当時の最大勢力の仏光寺派を丸呑みしたからだけど、
仏光寺は代々二条家の猶子になるくらいの権威があった。
また、一方で真宗内で唯一本願寺に対抗し得る存在だった高田派にも
権威のバラ売りをしてたので(当時の綸旨とかが残っている)、結局はどっちもどっちなのよ。
258日本@名無史さん:2007/07/04(水) 21:36:17
>>252
>坊官は僧体の俗人。妻帯OK。地下官人の扱い。

ということは、坊官というのはスキンヘッドで僧服を着てるだけの一般人なの?
僧侶としての修行は全くしていなかったのかな? 
259日本@名無史さん:2007/07/04(水) 21:51:43
坊官や公家侍と聞くと、旗本の用人みたいなものを想像する。
渡り用人とか、貧乏旗本家が複数で共同で雇った用人みたいなのが、坊官や公家侍にもいたの?
260日本@名無史さん:2007/07/04(水) 23:41:09
>>258
坊官は寺の事務方を世襲で行っている感じ
「京都岩倉実相院日記」講談社
を読むと、実相院は天台宗なのに坊官や寺侍は浄土宗や日蓮宗もいる。
なので僧侶として何かをするってことはないとおもわれ
261日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:07:12
それをいったら、京都の上級貴族の子弟がなる門跡・院家クラスだって、
本人の実家の宗派とは必ずしも関係ないし、兄弟等の親族が関係ないバラバラの
宗派の寺院の門跡・院家になっているケースは多々ある。
262日本@名無史さん:2007/07/06(金) 20:19:55
渡り用人てなんだよ・・・
263日本@名無史さん:2007/07/07(土) 12:41:17
渡り用人…数年いては去って行く雇用された武家奉公人。必ずしも武士階級の出身ではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%B0%91%E5%B9%B3%E7%AD%89
264日本@名無史さん:2007/07/11(水) 20:48:27
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┐) ∧,∧  ノ
..|( ( ....:::::::) (
 ̄⊂/ ̄ ̄7 )
 (/ 保守 /ノ
   ̄TT ̄

265日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:48:53
門跡と准門跡は、どう違うの?
266日本@名無史さん:2007/07/12(木) 23:35:55
門跡は天皇家、宮家、摂家の子供がトップをやっている寺。妻帯はしないので後継者は天皇家、宮家、摂家から
寺に入る。天皇家、宮家の親王がトップをする寺を「宮門跡」、摂家の子供がトップになる場合は「摂家門跡」。

准門跡は妻帯OKな浄土真宗の本山である東西本願寺、錦織寺、興正寺、高田専修寺、仏光寺のこと。
妻帯OKなので当然世襲。まあ、嫁に宮家の女王や摂家の姫が入ってるし、養子をもらう際も摂家や宮家から
もらうし、実子の場合も摂家、宮家の猶子になる。門跡に准ずるということでしょう
267日本@名無史さん:2007/07/13(金) 23:37:11
>>266
坊さんが摂家、宮家の猶子になるというのは不思議だな。
268日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:18:09
将軍家出身者が門跡になる場合は「武家門跡」とかいうの?
269日本@名無史さん:2007/07/27(金) 12:46:40
>>267
親鸞は藤原北家の名門である日野家出身という設定になってたから(真偽は不明)、
別に変でも何でもない。嫁も公家や武家の名門どころからとってるし、
血脈に対する信仰も本願寺支配の大きな基礎だよ。

それが最終的に爆発したのが昭和天皇の義弟でもある大谷光暢と大谷派内局との争いだけど。
270日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:59:21
親鸞が日野家出身なのは史実だろ。
もっとも、親鸞時代の日野家が朝廷や藤原氏一族のなかで「名門」と
見なされていたとは思えないが。
271日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:18:56
>>268
公方門跡だったかな?
足利将軍家は、門跡寺院に入寺(院)子弟が多いね。
有名な義教は、青蓮院門跡。義視は浄土寺門跡だったね。
272日本@名無史さん:2007/08/06(月) 08:47:47
>>271
足利義満が、あたかも自ら天皇家の一員であるかのような振る舞いをしていたからね。
この時代、天台宗諸門跡のトップ、天台座主は、天皇家や摂関家の子弟が勤めることが多かったのだが、
義満の息子である義教は、宮門跡の青蓮院から天台座主にまでなっている。
273日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:09:27
香厳院は?
274日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:03:49
女院号は、何故「〜門院」と御所の門にちなむ場合が多いのでしょうか?

女院が女陰=オメコ=陰門を連想させるから?
275日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:37:07
女院スレで聞けよ。
276日本@名無史さん:2007/08/25(土) 16:12:36
>>270
それには異説もあるの。

親鸞の父(ということになっている)日野有範の息子について、
ある史料では(親鸞を指さない)1人しか記されておらず、
他の史料では多数いる(その長男が親鸞)上に、
その周辺情報が不自然なまでに詳細に記されている。

一方、親鸞の娘の覚信尼が日野家一族の日野広綱に嫁いで
その子孫が本願寺の本流になったのは明白な史実。
そこで真宗が朝廷との関係を深める中で、親鸞も日野家出身にしてもらう
サービスを受けたのではないかという推測ができる。
277日本@名無史さん:2007/08/26(日) 11:01:55
親鸞の母が源義親の娘とかいう話は真実?
278日本@名無史さん:2007/08/26(日) 21:37:13
>>277
のちの日野家と足利将軍家との深い関係からつくられた話とか?
279日本@名無史さん:2007/09/02(日) 17:08:29
age
280日本@名無史さん:2007/09/02(日) 17:34:50
>>276
親鸞は、法親王が入室することでも知られる門跡寺院青蓮院において、
摂関家出身の慈円(のち天台座主)を師として出家している。
親鸞は、相応の公家の出身であったと見られる。
親鸞の出身が日野家でないとすれば、どこの公家の出身だと思っているの?
むしろ、親鸞の娘の覚信尼が、父の縁戚であるからこそ日野広綱に嫁いだともとれる。
この時代の公家の結婚は、基本的に縁戚同士の間で行われていた。
281日本@名無史さん:2007/09/02(日) 19:24:58
確かに親鸞が相応の身分(本人も公家出身)でなければ、娘が公家に嫁ぐこともあり得ないだろうな。
282日本@名無史さん:2007/09/02(日) 22:01:22
覚信尼は日野広綱の妻ではなく妾という説もある。
283日本@名無史さん:2007/09/03(月) 12:59:25
親鸞が日野家の出身ではないといえるほどの証拠がない。
284日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:26:22
日本史の教科書・参考書類でも親鸞は日野家出身って普通に書いてあるからな。
285日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:31:47
京都御苑内の公家町について語ろう
のスレが、すごいことになっているよ
286日本@名無史さん:2007/09/15(土) 18:39:46
江戸時代の話で、門跡になった法親王や摂家の子息は将軍へ挨拶をするために江戸城へいくんですよね?
ならば、比丘尼御所の門跡になった女王や摂家の息女も挨拶に江戸へ行くんですか?
287日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:16:35
公家


四辻季遠(中納言)


三条西実澄(大納言)


288日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:38:13
>286
行かないよ。
289日本@名無史さん:2007/09/18(火) 09:42:06
>>286
比丘尼御所はわからなけど
伊勢の慶光院上人は、江戸城に挨拶へ行ったみたいだお。
家光に気に入られ還俗して側室にさせられた話が有名だもの。
290日本@名無史さん:2007/09/18(火) 10:22:15
>>289
門跡や尼門跡が将軍に挨拶に行く風習はないよ。
もっとも、江戸時代に新設された輪王寺門跡については、徳川将軍家の菩提寺上野寛永寺の門主を兼ね、
幕府と関係が深く、徳川家とも親しい付き合いがあった。
徳川将軍家菩提寺に代々法親王を門主として迎えたのは、朝廷が謀反を起こした場合、
皇位継承者を関東に抱えておくためとも言われている。
あとは、これも江戸時代に新設された知恩院門跡。
もともと法然が創建した知恩院を、徳川家康が生母お大の菩提寺を定めて大規模修繕、
法親王を門主として門跡寺院とし、徳川家の菩提寺のひとつとして尊重した。千姫の墓もここにある。
知恩院の歴代門跡には、将軍の養子となった者も少なくなく、養父の将軍に挨拶に行くこともあったようだ。
だけど、幕府縁故以外の門跡は、基本的に将軍に挨拶には行かないよ。
伊勢の慶光院は、豊臣氏や徳川氏のために祈祷をして、幕府から所領を貰ったり、
江戸に殿舎を建ててもらったり、幕府御用達の寺だった。
だから、挨拶に行ったみたいだね。
291日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:57:01
日光東照宮の宮司も皇族?
292日本@名無史さん:2007/09/20(木) 18:59:56
>>291
明治時代は松平容保。今は知らないけど徳川家の関係者では?
293日本@名無史さん:2007/09/20(木) 23:01:17
宮門跡の制度がなくなった以上、輪王寺宮はもういない。
294日本@名無史さん:2007/09/20(木) 23:31:02
江戸時代のことですが、日光東照宮の宮司も皇族だったんですか?
295日本@名無史さん:2007/09/21(金) 04:09:56
宮司じゃないだろ
296日本@名無史さん:2007/09/21(金) 08:52:17
宮司なんていたっけ?
297日本@名無史さん:2007/09/21(金) 10:52:24
東照「大権現」だから仏寺あつかい
298日本@名無史さん:2007/09/22(土) 13:18:27
摂家などには諸大夫や侍がいますが、
侍から諸大夫に出世したりはできたんでしょうか?
299日本@名無史さん:2007/09/23(日) 19:38:47
諸大夫の家と侍の家は一応ははっきり分かれています。
但し、侍から初めて諸大夫に昇進できる家も有ったそうです。
つまり侍の家はそれ以上出世出来ない家と諸大夫になれる家と両方有り。
大名家の家老でも、世襲の家老家と、本人の功績によって家老になりうる上級家臣の家
の出身と両方有ったのと同じではないでしょうか?
また不祥事で諸大夫が蟄居になって、代わりに侍から昇格、
以下順送りで下から昇格等と言うことも有ったみたいです。
300日本@名無史さん:2007/09/24(月) 06:35:12
>>299
どうもありがとうございました。
301日本@名無史さん:2007/09/24(月) 22:24:02
功績ある有栖川宮家の名跡を養子で存続させなかったのはなぜか?
302日本@名無史さん:2007/09/25(火) 03:19:33
>>301
皇室典範で皇族の養子が禁止されたから。
ただ高松宮が有栖川宮の祭祀を継承している。
そもそも高松宮は有栖川宮の別称(旧称)だし。
また高松宮宣仁親王の妃徳川喜久子は、有栖川宮家最後の当主である威仁親王の
外孫に当たる。

威仁親王−美枝子女王(公爵徳川慶久夫人)−喜久子(高松宮宣仁親王妃)
303日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:48:33
親王からも養子はダメ?
304日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:50:46
喜久子(高松宮宣仁親王妃) 逝去で敢然滅亡
305日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:22:46
>>303
皇族(宮家)が養子を取った場合には、その養子が家を相続した段階で
親戚降下じゃなかったか?
てか近代以降の話だから、ここであんまりやると板違いだが。
306日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:24:34
このスレは、下記スレの次スレを兼ねることになりました。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1058634128/l50
307日本@名無史さん:2007/09/25(火) 23:01:51
>>306
最後に武陽陰士が氏んでよかった。
308日本@名無史さん:2007/09/27(木) 00:50:12
>>10

明治3年(1870年)12月ドイツ(プロシア)に留学のため、日本を離れる。明治9年12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約する。そして、明治政府に対し、結婚の許可を申し出る。これに対し、明治政府は難色を示し、帰国を命じる。
帰国の直前、能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したことから、政府高官の間で大きな問題となった。明治10年7月、帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄し、京都で謹慎する。

309日本@名無史さん:2007/09/27(木) 02:36:43

上野の宮様、東武皇帝として一度は即位されたのに、
おそらくその口封じのために台湾に送られて捨て殺しにされた。
子や孫まで事故死しているのも口封じのためかも。
310日本@名無史さん:2007/09/27(木) 08:37:32
勝手に天皇になり(官軍側からの見方だが)
ドイツに留学したときには前レスのように暴走した
宮様に対して、えらく時間がかかっている口封じだなw

>>308
帰国してから一回ケコーンに失敗してられますな
相手は山内豊信の娘だったと思うが
311日本@名無史さん:2007/09/29(土) 15:17:13
公卿=公家?
312日本@名無史さん:2007/09/29(土) 18:55:51
>>311
公卿とは、位階が三位以上、もしくは官職が参議以上の者を指す。
武家でも将軍家クラスは間違いなく公卿身分になるし、逆に公家でも
三位以上or参議以上に昇進する前の若い頃は公卿ではない。
313日本@名無史さん:2007/09/29(土) 19:14:11
源頼朝の孫の「公卿」は?
314日本@名無史さん:2007/09/29(土) 19:50:22
>>313
ちがうよ「苦行」だよ
315日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:19:50
ネタにマジレスだが、鶴岡八幡宮で実朝を暗殺したのは「公暁」だ。
316日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:35:10
>>315
おれも最近まで頼朝の孫が「公卿」になったからだとおもっていたんだよ。
317日本@名無史さん:2007/09/29(土) 22:12:20
>>310
スレチだが山内豊信の娘光子は離婚されたあとどうしたのだろう・・・
そして光子の妹八重子は東伏見宮に嫁いだけどやはり同じ過ちを繰り返した(八重子は40過ぎて秋元子爵の後妻になったが)
318日本@名無史さん:2007/09/29(土) 22:50:20
>>317
こっちの方が詳しい人が多いと思う
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1144486941
319日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:37:43
いったん高貴な家の女になったら、離別しても「2夫にまみえる」ことなど絶対に許されないから、
みな尼になってるぞ。
320日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:38:51
身分がある家に嫁いだら再婚など許されなかった
321日本@名無史さん:2007/09/30(日) 09:57:36
少ないけど離婚して再嫁した例は結構ある。
322日本@名無史さん:2007/09/30(日) 12:06:24
>>321
流動的な戦国時代だけ。
天下泰平になると朱子学原理主義により、
離別しても「2夫にまみえる」ことなど絶対に許されないから、
みな尼になってるぞ。
323日本@名無史さん:2007/09/30(日) 12:17:17
家康の母親「お大の方」は略奪されて「再婚」
324日本@名無史さん:2007/09/30(日) 12:17:49
横山光輝漫画ネタだけど
325日本@名無史さん:2007/09/30(日) 13:44:07
江与の方って何回結婚してたかな。
家光に異父姉がいたよな?
326日本@名無史さん:2007/09/30(日) 13:51:47
離婚ネタだが
江戸時代でも「んなこたーない」と考えるが。
「二夫にまみえず」が大原則なら、竹姫(婚約2回破談)あんな形で島津家とケコーンしてませんって。
大名の娘でも離婚して実家に出戻り再婚した人は結構いるよ。

>>325
微妙にスレちでもないので書いてしまうが
お江与の方は3回結婚したと言われている。
2回目、豊臣(小吉)秀勝と再婚したときに一女を儲けるが、夫が朝鮮半島で病死。
その一女は伯母・淀殿に養育されて九条忠栄室となった。諱「完子」。
327日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:46:23
>>319
それは、儒教が広まった江戸時代の武家貴婦人だけ。
それ以前は離婚も再婚も自由にしていた。
江戸時代でも、公家や庶民には全く儒教は広まらず、
江戸時代の庶民の10人に1人が離婚を経験し、また別の人と再婚していた。
>>325
お江与は2度目の夫との間の豊臣完子のほかにも、
最初の夫との間に2人の男子がいた。
3人の夫との間に父親違いの子を生涯10人産んでいる。
328日本@名無史さん:2007/10/01(月) 05:23:30
ほうほう、家光に異父兄ですか。いずれも夭逝したんだったかな。
家康の異父弟なんかは大した働きが無い割に優遇されたりしてたけど
家光の異父兄が成長してたらどうだったかな。

父母共通の弟と継承争いで痛い目にあったからか、異母弟を優遇したが、
異母弟以上に将軍継承に関係の無い異母兄なら何かもっと重要な役割を
(能力無くても大封を)与えたのだろうか。
329日本@名無史さん:2007/10/01(月) 06:01:47
御三家の初代には異父兄がいなかったか?
330日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:50:56
>>329
御三家の初代?
徳川御三家の尾張、水戸、紀伊家の初代か?
尾張藩の祖徳川義直には竹腰正信という異父兄(母お亀と先夫の子)がいて、
竹腰家が代々尾張藩家老を世襲した。
水戸藩頼宣と紀伊藩頼房の母お万は、家康が初婚だったと思う。

331日本@名無史さん:2007/10/01(月) 14:52:45
「天皇杯」となど銘打った興行は、宮内庁に上納金おさめていますか?
332日本@名無史さん:2007/10/01(月) 15:48:13
>>302
この件に関しては以前から疑問に思っていたので投稿。
中川八洋氏の『皇統断絶』(ビジネス社)によると明治5年(1872)から同18年(1885)にかけての宮家間養子は民法的な養子であって皇室の伝統に反するとしている。
これ以前に皇室の歴史に登場する養子という用語は擬制的な父子関係の儀を意味するのであって民法的な養子ではないとのこと。
中川氏はこの本で民法的な養子を「養子」、擬制的な父子関係の儀を“養子”と記述している。
旧典範42条・現典範9条で禁止するのはこの「養子」であり“養子”は禁止されていないみたい。
畏れながら例えば数十年後に現典範の規定で皇太子徳仁親王殿下から秋篠宮文仁親王殿下へ皇位が継承される際に“養子”
つまり擬制的な父子関係の儀を執り行うことを典範は禁止はしていないようである。
中川氏の論によれば、「養子」は明治時代の13年間に限られたものであり、つまり江戸時代の世襲親王家における直系以外の継承例、
有栖川宮でいうと2代良仁親王(後水尾天皇の皇子、後の後西天皇)、5代職仁親王(霊元天皇の皇子)、10代威仁親王(9代熾仁親王の弟)は「養子」ではないようである。
つまり天皇の皇子が世襲親王家の継嗣になる場合、および同じ世襲親王家内の傍系継承(伏見宮貞教親王→貞愛親王など)の場合は「養子」とはならない。
だから宣仁親王が有栖川宮の11代を名乗ることはできたのではなかろうか。
そうしなかったのは親王宣下および世襲親王家の制度が廃止され永世皇族制とされたからだろう。
宣仁親王が高松宮を創設して有栖川宮の祭祀を継承したのは、旧典範によるところの宣仁親王の皇位継承順位が威仁親王のすぐ上だったからと思われる。
333日本@名無史さん:2007/10/01(月) 15:57:12
>>332をちょっと補足
桂宮(八条宮)の4代長仁親王および5代尚仁親王は後西天皇の皇子だが、長仁親王と尚仁親王が八条宮を継承した時には既に
後西天皇は桃園宮(有栖川宮)を出で天皇となっているので、宮家間養子ではない。
334日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:17:59
>擬制的な父子関係の儀を“養子”


??

藩主が弟を養子という形で後嗣にするのと同じことですか?
335日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:20:31
「世襲親王家」と、戦前の「宮家」はちがうのですか?
336日本@名無史さん:2007/10/02(火) 11:41:01
>>334
詳しくは知らないが、江戸時代に藩主が弟を養子という形で後嗣にするのは「家の継承としての養子」だから「養子」だろう。
少なくとも弟を養子にする場合と、他家から養子を迎える場合とで幕府での手続きが異なるという話は聞かない。

“養子”(あるいは“猶子”・“実子”)は「家の継承としての養子」の機能を一切しない。
後桃園天皇から傍系の光格天皇の継承の際には、先に皇位継承が定められて、後から擬制的な父子関係の儀、つまり“養子”をしたのであって
“養子”になったから皇位を継承したのではない。
すなわち光格天皇が皇位を継承したのは東山天皇の男系の曾孫であったからであって、後桃園天皇の“養子”になったからではない。
もし“養子”・“猶子”をしなくても皇位継承には一切影響しない。
例えば光仁天皇が称徳天皇から皇位を継承した際に白壁王すなわち光仁天皇が称徳天皇の養子になったりした訳ではない。
光仁天皇が皇位を継承したのは天智天皇の男系の孫としての資格によるものである。
この時代はまだ“養子”・“猶子”の慣習がないが。
私が言いたいのは後桃園天皇→光格天皇の継承は、称徳天皇→光仁天皇の継承と本質的には何も違うところはないということ。

擬制的な父子関係で有名な例は、豊臣秀吉と胡佐麿(六宮、後の八条宮智仁親王)の関係だろう。
正親町天皇の皇孫である胡佐麿は豊臣秀吉の猶子となったが、皇室の実系を離れて、つまり臣籍降下して「豊臣胡佐麿」などと
名乗ったりはしていない。

>>335
「世襲親王家」は「宮家」である、とは言うことはできるが、「宮家」が「世襲親王家」であるとは限らない。
例えば朝香宮や東久邇宮、竹田宮の皇族には親王はいないので当然これらの宮家は「世襲親王家」ではない。
伏見宮、有栖川宮、閑院宮の男性皇族で明治維新以降にご誕生された方々は親王宣下を受けていないので王であった。
親王宣下を受ける前に旧典範が施行されて宣下の制度が廃止されたので当然であるが(4家あった世襲親王家の1つである桂宮は断絶)。
旧典範施行後は「世襲親王家」であった伏見宮、有栖川宮、閑院宮も、朝香宮や東久邇宮、竹田宮などの新立宮家と扱いは変わらない
(例えば大正9年施行の「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」は伏見宮にも特別扱いせずに適用された)。
337日本@名無史さん:2007/10/03(水) 00:27:41
明治まで皇位継承の法律が無かった。
338日本@名無史さん:2007/10/12(金) 18:40:02
もう天皇が決めていいことにしようや。
平成天皇自身の遺志なら、誰になっても文句言わない。
339日本@名無史さん:2007/10/12(金) 19:30:55
大日本帝國第六代皇帝オイゲン2世陛下万歳!!”!!!!!!
340日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:21:18
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
341日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:23:18
>>340
チンカス洗って出直せwww
342日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:41:19
>>331
出してません
「○○宮記念杯」で宮家に謝礼金だしてたことあったけど問題になって返金してる
343日本@名無史さん:2007/11/04(日) 18:50:52
>>342
どういう手続きがとられてるんだろうな。
競輪なんかにも宮様杯あるよね。
344日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:36:21
>>336
称光→後花園の皇位継承の際には、後花園天皇は皇位継承の条件として急逝した
称光天皇の父である後小松法皇の養子となることを要求されている。
さらに後花園天皇は即位後は、養父母(後小松法皇とその妃である
光範門院日野西資子)を唯一の父母として遇し、実の父母(伏見宮貞成親王と
その妃である庭田幸子)を父母と称さないこと、系譜的に自らを実際の血縁で
ある崇光流(伏見宮流)ではなく後光厳流として位置付けることまで
強要されている。

もちろん後花園天皇が男系で持明院統の皇統に繋がることが皇位継承の前提で
あることには変わりないが、後小松法皇と養子関係を結ぶことに、かなりの
重きがおかれた皇位継承の事例といえる。

因みにこのときの取り決めは、後小松法皇と光範門院の死後になると、ほぼ全て
反故にされ、後花園天皇は自らの実の父母ということで貞成親王に後崇光院、
庭田幸子に敷政門院の院号をそれぞれ贈っている。
345日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:12:05
>>118
あと、明治初期の播但一揆に乗じて起きた生野銀山襲撃事件で首謀者を匿ったとして三条家の庶流の誰だったかが宗家の三条実美の激怒を買って謹慎したはず。
346日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:01:16
age
347日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:40:34
江戸期の日野家って家格は名家なのに石高が千石を超えていて
清華家よりずっと多いな
348日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:44:26
日野家の場合は足利家との姻戚関係による既得権?
349日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:46:38
日野流の中核諸家は家格の大臣家より実質的には大臣家にふさわしかったりするし。
350日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:34:45
日野流で室町時代に羽振りが良かったのは、日野本家よりも裏松家のほうでは?
351日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:23:36
江戸時代最初の日野家当主の輝資というのが家康の昵懇公家衆の一人だったから、輝資の功績でたんまり知行をもらったんだろ。
息子の資勝も武家伝奏やってるし。
352日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:47:42
昵懇公家衆って制度的なものなの?
353日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:49:25
日野家は清華家であってもおかしくないおうちなのに
名家だなんて・・・
354日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:09:05
清華家・大臣家も、納言になる以前の昇進ルートは基本的に羽林家と似た
感じだから、名家の場合は根本的に異なるという意識なんじゃない?
355日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:13:15
家格と石高って必ずしも比例してないからな
356日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:37:54
てゆうか公家の家格が固定化されるのは、平安末〜鎌倉期。
近世の石高で云々言うこと自体がナンセンスじゃないの?
家格と近世の石高なんて比例しなくて当たり前。
357日本@名無史さん:2007/12/04(火) 00:37:48
>>353
何で日野が清華になれるの?
源氏(王孫の醍醐含む)は、さておき
清華は藤原氏の中でも藤原道長の一族の嫡流か
閑院流の中でも三条家とほぼ同格の家しかなれないよ?
358日本@名無史さん:2007/12/04(火) 00:52:46
>>349>>351
大臣家の正親町三条、三条西は三条家の別流だから当然
中院は久我が清華なら当然大臣家だろう
日野は有力だが藤原氏の嫡流から血筋が遠すぎ
受領層だろ草創期の家柄は

日野輝資は家康のお気に入りで
江戸住まいが長かったらしいね
徳川家から京都でのとは別に知行も貰ってたみたい
輝資は武家(家康の近習)としての面も持っていたから
子孫は、公家(京都)武家(江戸の高家)に分かれたらしいよ
もっとも、高家の日野家は養子を入れたから血は繋がらなかったみたいだけど
359日本@名無史さん:2007/12/05(水) 03:05:50
>>349=>>353かな?
そもそも清華家・大臣家になった家系は、公家の家格固定化の開始時期である
院政期に羽振りのよかった家。
つまり、院政期に院の外戚の地位にあった閑院流の諸家、摂関家の外戚であった
村上源氏、それに当時の摂関家にとって直近の分家に当たる家系。
日野家はこのどれにも当てはまらない。

さらにいえば、清華家・大臣家も大臣に昇進する前に多くの場合は近衛府系の
官職を経るので、昇進スピードの違いを別にすれば羽林家と昇進ルートは
大きく変わらない。
だから清華家・大臣家の分家に当たるような家が羽林家の家格になることや、
逆に元々羽林家だったものが特別優秀で大臣まで昇格した場合に大臣家に家格が
上昇することは、普通にあり得る。

しかし日野流や勧修寺流みたいに弁官系を中心に文筆官僚や学者のような官職を
経て昇進する名家は、昇進ルートが根本的に違う。
だからたまに大臣まで出世するような人物がいたとしても、名家が家格として
大臣家に昇格するようなことはないのだろう。

さらにいえば南北朝〜室町の頃に日野流が大活躍したからこそ、後世になると
羽林家と名家の間には昇進ルート以外にさほど差がないように見えるが、
それ以前の時代だと羽林家と名家の間にはかなりの歴然とした家格差があると
見られていたらしい。
それこそ、名家と地下の差より羽林家と名家の差のほうが大きいくらいの意識は
あったらしいな。
360日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:34:59
羽林家出身で大臣に昇進→実家の家格も大臣家に昇格
名家出身で大臣に昇進→特例扱いで家格はそのまま
ってことね。
361日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:31:25
江戸初期に近衛家・一条家を天皇の皇子が嗣いだのは歴史的にみても
かなり異例な出来事だと思うのですが、これは誰が主導して実現した
のでしょうか?
362日本@名無史さん:2007/12/15(土) 11:29:28
>>361
後陽成天皇の皇子で、近衛家を継いだ信尋の場合、
比較的受け入れやすかったのではないでしょうか?
信尋の母は近衛家出身の女御前子で、
信尋は母方で近衛の血を引いていましたから。
一条昭良のほうは、ほかの五摂家と家格がつりあう家からの
養子ということで、兄信尋に続いて一条家の養子となりました。
二人が摂関家の養子になった時期、
徳川家康が征夷大将軍となり豊臣秀頼が内大臣になるなど
武家社会は激しく対立しあっており、あまり朝廷に口出しはしておらず、
おそらくは後陽成天皇と五摂家との話し合いで決まったのでしょう。
のちに徳川氏によって天皇の皇子が臣下に養子に入ることを禁止しています。
363日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:07:52
基本的には上の皆さんの仰るとおりでしょうが、
日野家よりさらに傍流で、もっと家格が低かった魚名流の四条家も羽林家になってるし、
大臣家はともかく日野流から羽林家が一家くらいでても不思議ではなかったと思う。
道隆流も羽林系と名家流に分れかかっていたこともあるし。
日野家は確かに上級貴族とは明確に区分されていたが、
それでも道長時代から院政期までコンスタントに公卿を出し続けていたわけで、
受領がやっとの魚名流よりはずっと上。
武家という特殊条件はあるにしても伊勢平氏なんか、
さらにその下から一時的とは言え清華・大臣家クラスまで成り上がったし。
結構流動的な面もあったから立ち回り次第だと思うけど。
364日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:09:58
江戸時代には閑院宮から鷹司家にも養子が入っているね。
365361:2007/12/15(土) 21:46:45
>362
後陽成院の意向が有ったにせよ、殆ど前例の無いことですよね?
平安時代には何例か皇族男子が藤原姓を称した事があったと思うのですが、
公的には認知されていない御落胤レベルのお話だったような。
天皇の同母兄弟が公的に臣下の家を先例は寡聞ながら知りません。

>364
鷹司輔平の場合は近年に近衛信尋・一条昭良という先例が有ったので
異例という訳でも無かったのでは無いでしょうか。
366日本@名無史さん:2007/12/16(日) 08:56:15
奈良時代のことですが、長屋王の子(皇曾孫)山背王は橘奈良麻呂の変密告の報償として、
公式に藤原朝臣を賜姓され同時に弟貞の名をも賜っています。
当時の天皇含む首脳部の認識では三世王より藤原朝臣の方が上だったんでしょう。
子孫も藤原朝臣を継いでいます。
その後子ないし孫の代に別姓をもらっていますが、子孫全員が別姓に改姓したかどうかは不明です。
367日本@名無史さん:2007/12/16(日) 09:19:51
皇族から臣下への養子・猶子関係としては、
奈良時代に系譜不明の石津王なる人物が藤原仲麻呂の猶子となっていますがその後は不明で、
藤原仲麻呂の与党の仲真人石伴と同一人物ではとの説が有ります。
ただこの人続日本紀では藤原朝臣を賜姓されてることになってるんですよね。
そのあたりの整合性がどうなのかな?
もしかして仲麻呂与党だったから藤原朝臣を剥奪されて仲真人に改姓された?
368日本@名無史さん:2007/12/16(日) 10:10:19
>>363
四條流=魚名流の一派 が羽林の家格なのは、
中興の祖・顕季が院政期に閑院流の猶子になったのが大きいんじゃない?
まあ魚名流も摂関期の在衡(左大臣)のような例外がいるが。
369日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:15:25
>>365
武家出身の豊臣秀吉が関白となった後陽成天皇の頃、
五摂家の力が低下したと捉えることは出来ないでしょうか?
豊臣秀次死後、摂関は五摂家に返されたわけですが、
秀吉ー秀次の時代、公家の摂家が摂関を干されたことは事実で、
従来、朝政に口出ししてきた摂家の地位の低下は免れようが無かった。
そこへ目をつけたのが後陽成天皇です。
従来、天皇の皇子は、天皇になれなければ幼いうちに出家させられて法親王となり、
皇女もまた幼いうちに出家させられ、尼となるのが通例でした。
ところが、後陽成天皇の皇子女の場合、天皇となった後水尾天皇は勿論、
従来、出家させられるはずの皇子が近衛家、一条家の当主となり、
従来、出家させられるはずの皇女が、鷹司家、二条家当主の正室になりました。
後陽成天皇は勢力を弱体化させた摂関家に次々と皇子女を送り込んで勢力拡大、
摂関家を自由に操れるようにしたと捕らえることができるのではないでしょうか。

これより前の時代、皇族男子が藤原を名乗った例は、
天皇が公にできない侍女などに産ませた子供を
臣下に引き取らせて実子と称させたためで、
(摂関家などではなく、近臣などあまり身分の高くない家に引き取られました)
天皇が認知した皇子では例がありません。
370日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:02:30
>>362
>のちに徳川氏によって天皇の皇子が臣下に養子に入ることを禁止しています。

鷹司輔平はどうなる?
371日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:15:08
>>363
日野流・勧修寺流は昇進ルートが特殊だから、「名家」という特殊な家格に
位置付けられたのでしょう。
元々彼らは代々学者の家という傾向が強く、弁官系の官職を歴任するが、
近衛の中・少将にはならない。
だから彼らのために「名家」という家格が用意されたようなもの。
もっとも学者の家でも、菅家流なんかは半家扱いだから日野流・勧修寺流は
名家扱いなだけ優遇されている。

いずれにしても名家の存在は、基本的に昇進ルートの特殊性による。
だから、元々地下クラスの家や武家なんかが過分の出世をして公卿クラスに
なった場合も、多くのケースでは羽林家に近い昇進パターンをとる。
だから一旦受領階級まで落ちた魚名流が復活したときに羽林家扱いになる
ことには、何ら不思議な点はない。

因みに近世の武家官位も、基本的には羽林家に準じて設定されている。

>>368
四条流は平安末には武家平氏とも婚姻関係があったね。
まあ運のいい家系だな。
372日本@名無史さん:2007/12/16(日) 19:36:15
>>370
鷹司輔平は天皇の皇子じゃなくて
宮家の子息でしょw
373日本@名無史さん:2007/12/16(日) 19:46:00
摂関家よりも格下になる宮家から養子が入るなんてのも変だな。
374日本@名無史さん:2007/12/16(日) 21:46:29
大臣家という家格は幕末まで厳然として存在していて、
由緒有る家としてそれなりに尊重はされていたんだろうけど、
こと官位昇進の面では江戸期にはあまり意味がなかったみたい。
江戸中期に定められた官位昇進基準では、
摂家・清華・その他のうち由緒有る家って言う区分で、
大臣家は、羽林・名家の最上位と共に3番目に包摂されちゃっているし。
爵位決定の時も摂家(原則公爵)・清華(原則侯爵)にように特別待遇は受けていない。まあそれでも有象無象の平堂上とは比較にならないけど。
羽林・名家・半家の区分も官位昇進の上ではあまり意味のある区分ではないようだ。
平堂上中では、参議になれる家となれない家の断層が一番大きかったんじゃないだろうか?
375日本@名無史さん:2007/12/16(日) 21:55:32
六位蔵人から昇格した家とか三位すらほとんど出してない家もあるな。
この辺が堂上の最下層かな。
376日本@名無史さん:2007/12/16(日) 22:49:24
公家の家格や官位の上下判定は、かなり多くの要素がからみあっていると思う。
公家個人が他の公家に対して優越感を覚える場合にしても、現在の官位の上下を問わずに、
大臣家は羽林家に、藤原氏は他氏に、旧家は新家に、嫡流は庶流に、内々は外様に対して。

現在の官位・禄高が上位の者は、その点だけを採り上げて下位の者に対して。
家格や官位が同じ場合には、より若くしてその官位を得た者が、年上の者に対して優越感を覚えるもの。
半家の最底辺あたりの家では、摂家の庇護を受けて現在羽振りの良い地下人を軽蔑して自分を慰める。
377日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:11:08
>平堂上中では、参議になれる家となれない家

いくら平堂上でも家の極官が参議以下つまり非参議で、極位が三位という家
は少ないんでは? 藤原氏の堂上では殆どいなさそう。
清和源氏の竹内とか、清原氏の舟橋とか、その辺しか思い浮かばないよ。
378日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:36:13
>>374
半家で参議になる家ってあるの?
379日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:48:28
>>374
大臣家の家格に属する家自体が全て清華家の分家筋だからな。
清華家の庶流は普通は羽林家になるが、中世の頃(大体南北朝・室町の頃)に
羽振りがよくて何代か続けて大臣に昇進しちゃった家が、清華家とも羽林家とも
区別されて一応大臣家っていう家格になるのでは?
羽林家と名家の差が小さくなるのも、南北朝・室町くらいだし、結局最終的に
この時期が公家の家格固定化の最終段階ってイメージがあるな。

>>376
公家にとっては、禄高というものは経済力を決定する要素にはなり得ても
家格決定の要素にはならないんじゃないかな。
最終的に近代の爵位決定に際しても、明治維新以前の禄高の上下なんてあまり
考慮されてないし。
まあ武家の場合も中世段階だと禄高(というか所領の多寡)と家格が必ずしも
リンクしていないけど、太閤検地以降、武家の家格の上下に関しては
数値化される石高というバロメーターが新たに加わったイメージ。
但し近世の武家でも高家みたいに禄高と関係なく高い官位を得るものもいるし、
あくまで複数ある基準の一つでしかないが。
380日本@名無史さん:2007/12/17(月) 01:35:58
明治の爵位決定の基本は大納言まで昇進の例の多寡だからね
公家の祿高なんて大したことないしやっぱ官位でしょ
名目だけの官位でも少しでも高いものを望むのが公家の欲望かと
381日本@名無史さん:2007/12/17(月) 01:54:08
家格が低くて禄高が高い家は、禄高をプライドの拠り所にせざるを得ない。
上位家格の他家からは蔑まれ、同家格の他家からは妬まれている事を、ひしひしと感じながらも。
382日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:25:05
>>377
清和源氏・安倍・大中臣・丹波・大江とかは参議を出せなかったようだ。
新家は先祖に先例がないと参議以上は駄目だったらしい。
つまり非参議正二位が限界ってことだろうか?
江戸後期の取り立てだと実際には二位すらいない家も有る、多分当主が早死だったんだろうけど。
>>378
菅原諸家は半家扱いらしいが、結構大納言をだしている家もあるし、大概参議はいたはず。
383日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:08:21
源平藤橘姓の家は半家でも参議を出すが、それ以外の卑姓の家は非参議のまま
三位に上がって終了ってのが普通だったってことでは?

あと舟橋家(清原氏)は、本来的には地下筆頭の押小路家(中原氏)や
壬生家(小槻氏)と同格の家だな。
384日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:10:36
東西本願寺はいわずもがなだけど専修寺、錦織寺、仏光寺、興正寺も正室の家柄すごいなw
それ以下の寺だと格下の養女になってまで嫁いでいる
385日本@名無史さん:2007/12/19(水) 09:51:01
近代にも本願寺は日野本家と同じ伯爵だしな。
386日本@名無史さん:2007/12/19(水) 10:15:05
本願寺って正室の家柄だけ見ると摂家や清華家並みなんだよね。摂家や宮家の娘ばかり。
連枝の家にも本願寺の養女になっているとはいえ摂家の娘が入っているし。
正室の家柄だけで見れば将軍家並なのかな?
387日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:09:23
寺(本願寺以外)に嫁ぐ摂家や宮家の娘は登美宮も驚くほど行き遅れが多いな
あと宮妃になる人も行き遅れが多く、だからほとんどの宮家当主は側室腹なんだなと思つた
388日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:22:11
花山院萬子姫は37歳で
肥前鹿島藩主鍋島直朝の後妻になりましたが、
なぜ結婚が遅れたの?
389日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:55:17
明治の東本願寺大谷光瑩伯爵の裏方は
当時の新聞に「お人形のやう」と書かれた
390日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:03:43
>>388
理由はわからないが一つ言えることは萬子の姉妹(母親も同じかはわからない)は全員尼
しかし萬子の母方祖母の清子内親王は12歳で結婚15歳で萬子の母親を産んだらしい

>>389
光瑩正室恒子は木下子爵家出身だね
光瑩は五男だから当初は跡取りでは無かったのか?
恒子は跡取りはもちろん他に大勢の子供がいたから西の正室枝子に比べたら幸せだね(光瑩にも側室がいたが)
それに比べ結婚当初からほぼ形だけの妻だった枝子は・・・
391日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:20:42
大臣家の三条西実教が長年謹慎させられてた理由わかる方
いらっしゃいますか?
それまで三条西家は羽振りが良かったみたいだけど急に活躍しなくなってるみたいなので・・・
392日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:46:00
>>391
こういう論文が出ているようだけど
市野千鶴子 「三条西実教の蟄居をめぐって」 (『書陵部紀要』46号、1995年)
坂内泰子 「三条西実教と後水尾院歌壇−歌の家の終焉−」 (長谷川強編『近世文学俯瞰』汲古書院、1997年)
残念ながら私は未見
393日本@名無史さん:2007/12/20(木) 12:27:17
蟄去ということは本人か身内が天皇の機嫌そこねたのかな?
小倉事件からみかなあ?三条西実教の息子って、小倉家に養子に行ってるから。
冷泉家みたいに和歌の秘伝絡みの謹慎かも。詳しい人教えてあげてくださーい。
394日本@名無史さん:2007/12/22(土) 06:43:45
田舎の寺に嫁いだ都落ちの姫
395日本@名無史さん:2007/12/22(土) 12:22:43
二条斉敬の妹は36歳で結婚している(当然子供は産まず)
396日本@名無史さん:2007/12/22(土) 12:35:43
萬子姫は37歳で結婚
男子2人産んでるね
397日本@名無史さん:2007/12/22(土) 14:16:30
三條西って和歌の家だよな
高崎正風が明治天皇から和歌を添削するよう命じられたとき
従来通り三條西にも同じお役目を申しつけられるならという
条件を付けて引き受けてる
398日本@名無史さん:2007/12/22(土) 14:58:25
三条西信子
399日本@名無史さん:2007/12/23(日) 01:22:08
>>397
お詳しいですね
高崎さんは二条派の流を汲む歌人
二条派の家元の顔をを立てたんですね
三条西季知さんは正統な継承者ですから
400日本@名無史さん:2007/12/26(水) 09:54:00
>>384
やはり顕如時代に門跡になったことが大きいのでは?
401日本@名無史さん:2007/12/28(金) 08:43:54
>>392
第一論文と第二論文は全く内容が異なるもの。
ネットで検索した情報を鼻息荒く自慢げにコピペすればいいってもんじゃないぞ。低脳クンw
402日本@名無史さん:2007/12/28(金) 14:12:33
>>402
内容は知らないと断っているだろうが、空気嫁。
403日本@名無史さん:2007/12/29(土) 12:01:05
>>401
内容をよく知っておられるようですね
>>391の質問に答えてあげたらいかがでしょうか?
わたしは知識を持たないし
調べる術も無いので
この質問は、なかなか面白いと思いますよ。
第一論文と第二論文の概略を、どうか教えてくださいませ。
404日本@名無史さん:2007/12/29(土) 16:56:28
近世は興味なし。
405日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:20:10
朝廷・公家関連の論文って、国文学系の研究者が歴史学の領域に踏み込んでいるようなの多いよね。
あと日本史の他の分野に比べて女性の割合がやたら高い気がする。
406日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:43:29
お雛さまや百人一首から興味持って入るからじゃない?
だいたい女性は皇室好き
女性誌にも皇室ネタは多い
407日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:21:18
408日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:32:10
>>406
そういう方面から興味を持った人は、国文学の中だけに留まって史学の領域に
入ってこないで欲しい。
もっとも俺だって、百人一首くらいは教養として覚えてはいるけどさ。
409日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:47:26
>>408
なぜ?
興味を持ったきっかけなんて人それぞれだと思うが?
漫画やアニメから歴史に興味もって研究者になった奴もいるし。
410日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:32:52
国文学者が出した論文だろうが
女性が出した論文だろうが
それが史料に基づき、理にかなっていればかまわない。
そもそも、論文を誰も読んでいないのに
ケチつけてる人は何?
411日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:36:01
まともな学者で東征説を信じている人など居ないわな
412411:2007/12/31(月) 00:36:39
誤爆
413日本@名無史さん:2007/12/31(月) 01:16:17
で、三条西実教の件は・・・
414日本@名無史さん:2007/12/31(月) 14:24:47
暮れに図書館で借りた
松田敬之『次男坊たちの江戸時代−公家社会の<厄介者>』を読んでみた。
主に幕末期から明治にかけての廃嫡や養子縁組のこと、
子・実子・養子・猶子・密子の違い
廃仏毀釈によって還俗した僧尼など盛りだくさんで一気に読了。

いろいろな資料を駆使して学術的にも労作と言える。
エピソード満載で読み物としても飽きさせない点を評価したい。
改めて系図を鵜呑みにしてはいけないことを学びました。
(名門の出自と偽る偽系図とは違った意図で面白い)

ちょっと気になったんだけど、このセンセここを見ているような気が…
まさかとは思うが…
415日本@名無史さん:2007/12/31(月) 16:18:55
国文が史学に口出すなとかケツの穴の小さいこと言ってる史学科生キモス
416日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:24:47
>>410=>>415だな。バレバレw
417日本@名無史さん:2008/01/01(火) 18:53:55
史学厨乙
418日本@名無史さん:2008/01/01(火) 18:57:29
>>417
鏡を見て独り言いっても面白くないぞ。
419日本@名無史さん:2008/01/02(水) 00:00:39
頼みます三条西の件、お教えくださいませ
420日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:43:37
>>416
別人だが?
お前こそ、408=416だろ。
文献も読めない馬鹿、乙。
421日本@名無史さん:2008/01/03(木) 03:57:49
>>414
スレで自説を押し付けてる?
422日本@名無史さん:2008/01/03(木) 06:50:00
そうじゃなくて、ここで話題になったことであやふやだったことを
著作で答えてくれているような気がする。
423日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:25:29
二条家当主の嫁が冷泉家出身らしいが女系の女系で血がつながっているw
424日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:35:09
>>423
いつの時代?
425日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:37:01
>>424
現代
426日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:54:28
近衛前久の母の久我慶子が細川高基の子という説を見たのですが、本当でしょうか?
ご存知の方はいますか?
慶子が通言の子ではなく養女だというのは知っていたんですが。
427日本@名無史さん:2008/01/14(月) 03:43:03
>>426
なぜか久我慶子という名前に激しくハァハァ
428日本@名無史さん:2008/01/30(水) 15:33:35
∩゚∀゚∩age
429日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:14:02
妙法院日次記の元文二年十一月によると
武家伝奏に妙法院宮と院家二院の由緒書、知行所高村割書を提出しています。
武家伝奏はなぜこの時期に由緒書を出させたのでしょうか?
前後一ヶ月の日次記を読んだのですが理由がわかりませんでした。
どなたかご存知でしょうか
430日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:44:51
禁中並公家諸法度では親王よりも摂関家のほうが上だったようですが、
それ以前には皇族方と摂関家の序列はどのようになっていたのでしょうか。
また、宮家より摂関家のほうが上というのはこの禁中並公家諸法度以外では
どのようにあらわれているものなのでしょうか。
431日本@名無史さん:2008/02/20(水) 17:02:07
「禁中並びに公家諸法度」
「三公之下親王、其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、
 仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被
 贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、
 三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、
 但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事」

禁中並びに公家諸法度では、右大臣藤原不比等が舎人親王の上に置かれた例
などをもって、親王を大臣よりも下と位置付けています。

天皇>摂関>三公(太政大臣・左大臣・右大臣)>宮家親王>清華

となります。
432日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:30:13
宮家って正直いらなかったよな。
なんか惰性で続けてしまった制度という感じしかない。

皇位継承には天皇から血筋が近い順に一定の人数を
皇族として確保しておけばよかったのに。
433日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:36:31
>>432
だから鎌倉時代まではそれをやっていて皇位争いが酷かったから
宮家が出来たんじゃないか
434日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:50:48
はァ?
435日本@名無史さん:2008/02/21(木) 00:52:59
>>431
ありがとうございます。
禁中並公家諸法度自体に先例が書いてあったんですね。
436日本@名無史さん:2008/02/22(金) 10:41:52
>皇位継承には天皇から血筋が近い順に一定の人数を
>皇族として確保しておけばよかったのに。

それが宮家だろうが。
だが、朝廷財政は豊かじゃなかったから朝廷財政が苦しい時代には宮家の創設が出来なかった。
だから、天皇家と次第に血縁が疎遠と遠くなった既存宮家を維持するしかなかった。
それに系図上はともかく、途中で血統が断絶して天皇の子供や兄弟を養子に迎えた宮家もあるから一概に遠くなる一方でもなかった訳だし。
437日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:06:40
公家侍秘録6巻が出たらしい
438日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:57:31
439日本@名無史さん:2008/02/25(月) 05:53:32
>432 >436
一律に1世は親王、2〜5世は王、6世以下は臣籍降下との
律令の規定を徹底できればよかったんだろうけど、
5世孫までを全員養うのは財政的に苦しくなって早い世代に臣籍降下させたり、
僧籍に入れたりしてるうちに、今度は継承者不足になったり。。。
440日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:22:35
>>439
伏見宮なんて、えらい血縁は遠いよな。
6世以下は臣籍降下か僧侶になることと決めて、
皇室と近い血縁者に宮家を継がせればよかった。
441日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:44:45
まったくだ。
442日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:49:42
まあ摂家の養子にしたり坊主にするくらいなら、
万難を排しても宮家を乗っ取るべきだったとは思う。
といっても宮家側の抵抗も大きいよね。
宮家を摂家にして振り替えに新宮家を立てるべきだった?
443日本@名無史さん:2008/02/25(月) 12:49:55
もともと律令の規定では6世以下は皇族扱いせず、
天皇の皇子である親王、皇族である王とも名乗れない規定だった。
ところが、伏見宮家などでは6世以下でも親王宣下を受け、
皇族扱いだったんだよな。
ある程度血縁が離れたら親王宣下を受けられない規定にすると
よかったのだと思う。
あまった予算で宮家を新設したらよいし。
摂関家とは別物なのでそれは難しい。
藤原氏との争いになるだろうし。
444日本@名無史さん:2008/02/25(月) 17:49:30
というか、宮家の当主の子が跡を継ぐさい、時の天皇の猶子となり、跡を継いでいるな。
そういう手口を使ってまで、血の遠い親族を皇族として残す必要があったのかねぇ。
天皇自身の子を出家させているのに。
伏見宮なんて無茶苦茶血縁遠いんだし、また約1000石の領土もあったんだから皇族として
維持するんではなく、摂家並みの家格の公家としたらよかったのに。
445日本@名無史さん:2008/02/25(月) 21:19:07
流れとはまったく関係ない質問ですが、後深草源氏の従一位権大納言源宗明
は久良親王か二条道平どっちの子どもでしょうか。
公卿補任は久良男。
紹運録では道平男。
尊卑分脈は久良男とするも、[猶子]の注付。

もし、道平男とすると臣籍出身にも関わらず親王の子として諸王待遇で賜姓
された事になり、かなり異例な事ですよね。


446日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:49:29
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍 4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203870640
447日本@名無史さん:2008/02/26(火) 03:53:16
伏見宮は大臣には成れないから摂家や清華は無理でしょう。
羽林家か名家に編入すればいいと思う。
448日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:08:05
>447
大臣にならないのは皇籍にいるからだろ。
大臣は臣下の一人者であるわけで。
今だって皇族は大臣になったりしない。

まぁ、初期は高市皇子とかが太政大臣になったり
近年でも稔彦王が総理大臣になったりしてるが。
449日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:43:19
大臣よりさらに下の臣下になってる皇族の例なんて
いくらでもあるよ
450日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:17:14
頭、冷やして下さいまし
南朝・・・に比べたら伏見宮家の天皇家に近いことといったら
論外のことですよ
伏見宮家に対して不敬な輩は
賊です
451日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:38:31
南朝と比べんと正当化できんのかよw
どこまで落ちる気だw
452日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:40:26
江戸時代以前とは違い、
今は天皇は政治を行えないし、皇族も大臣にはなれない。
ならないのではなくなれない。
453日本@名無史さん:2008/02/27(水) 01:02:34
江戸中期に一回だけ天皇の実子を伏見宮の後継者に入れたことがあったよね?
454日本@名無史さん:2008/02/27(水) 05:32:35
>453
桃園天皇の第2皇子貞行親王だな。
1代限りなのはなんだったんでしょうか。
当時の天皇本家が宮家を乗っ取ろうとしたものの
貞行親王は13歳で薨去。後を継がせる適当な天皇本家の皇子が他にいなくて
(伏見宮に皇子を送り込むどころか当時の天皇本家は男子不足で断絶の危機にあった)
もともとの宮家の皇子に継がせた?

ところで貞行親王のあとを継いだもともとの伏見宮家筋の邦頼親王、
後桃園天皇崩御(これで当時の天皇本家断絶)で邦頼親王が暗殺したと
疑われたりしてるけど、これは伏見宮の即位を妨害するため?
当時の情勢なら暗殺なんかしなくても皇統断絶は目に見えてたわけだが。
455日本@名無史さん:2008/02/27(水) 09:55:51
しかし桂宮はあれだけ皇子を送り込んでも後が続かないってのは何なんだろう?
何か呪いでも有るんじゃないかと邪推したくなるくらい。
それと東山天皇以後皇室の人的資源が急激に枯渇するのはなぜ?
456日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:28:11
>>439
桃園天皇は22歳で死去、子は後桃園天皇と貞行親王の二人だけ。
伏見宮邦忠親王が子なく没すると貞行親王が伏見宮家を継いだ。
伏見宮家を乗っ取るつもりだったというより、
長男だった邦忠親王以外は出家させられていたためらしい。
貞行親王は13歳で没したが、生来、病弱で盲目の皇子であったらしい。
貞行親王の没により伏見宮家はまた絶え、
天皇家にも宮家に提供できるほどの数の皇子がいなかったため、
出家して勧修寺に入っていた邦忠親王の弟が還俗して伏見宮家を継いだ。
457日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:41:10
>>445
後深草天皇ー久明親王ー久良親王ー源宗明
458日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:43:55
掟破りの世襲法親王家(むしろ入道親王家?)設立。
459日本@名無史さん:2008/02/27(水) 14:07:55
>>458
宮家を新設する金がないから
出家させて根絶やししてるのに
意味ね〜
460ゑ゛じゃないか解放戦線伊勢派 ◆Q.pECj.Kaw :2008/02/27(水) 22:50:57
>458
世襲が公認されている真宗系の寺の養子に入るルートはあったな。
今でも真宗高田派法主は後陽成天皇の、興正派門主は東山天皇の、仏光寺派門主は伏見宮の
それぞれ男系子孫。

考えてみればこれら門跡クラスの真宗大寺院だけでなく中小の真宗寺院にどしどし
皇子・宮家の子息を送り込むって手もあったんじゃないかと。

実際には中小真宗寺院には羽林家クラスの公家が子息を送り込むルートを確立してて
皇族・摂家・清華の子息を送り込むようなことははばかられたかもしれんが。
461日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:08:10
>460
直接中小寺院に皇族を真宗系寺院に送り込むことは平公家の利権を侵すことになりますが、
@真宗寺院に親王(法親王・入道親王)位を留保したまま
A門跡クラスの真宗大寺院に皇子を送り込む→その皇子が法主・門主位に就任
B法主・門主の次男以下を系列寺院の養子に送り込む(真宗寺院が法主・門主の親族を養子にむかえることはよくある)
C彼ら男系子孫は皇籍を留保する

って手順は踏めませんかねぇ?
462日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:18:19
なるほどなるほど。
本願寺派門主・大谷派門首は親鸞の子孫(男系ではありませんが)にこだわってますが
トップ以外の両派の僧侶、両派以外の真宗諸派のトップ以下は貴種の絶好の送り込み先ということですか。
463日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:37:05
川路聖謨は奈良奉行時代の日記で
若く偉丈夫の門跡や美しい尼門跡がいることに触れて
勿体ないことだと言ってる
464日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:41:57
大名家は病弱な殿様や姫君が多かったもんな。将軍家も例外ではないところがまた。
465日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:48:57
幼子のうちに天皇になれたり宮家を継げたりする子供と
門跡に入れてしまう子供を分けてしまうから、
どのように成長するかは未知数だもんね。
466日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:50:51
>>456
伏見宮なんて断絶させれば良かったのにな。
とっくの昔に臣籍降下するような本来なら皇族の資格もない輩が
ルールを破って何だか分からないけど居座り続けたというのが伏見宮の正体だろ。
467日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:54:38
話は変わるんだけど、
公家の家名って旧家はまあ自然に付いたり自称だろうけど、
分家による新家の場合はどうやって誰が付けたの?
独立の時に自分で選ぶの?親が選ぶの?門流関係の摂家が選ぶの?
468日本@名無史さん:2008/02/29(金) 23:48:56
平安時代初期の天皇・皇族は奈良時代とか近世〜現代の皇族では考えられないほど生殖力に富んでいた。
皇族の生殖力が弱かった奈良時代に律令制を敷いて5世まで皇族とした。
ところが平安時代になって皇族の生殖力が増して、うじゃうじゃ皇子が誕生し、
その皇子達もうじゃうじゃ子供作って・・・とネズミ算式に皇族が増えて
平安京いたるところに「○○王」だらけ。

で、早い世代に臣籍降下させることになったんだが、
時代を経て次第に再び生殖力弱ってきても元の「5世まで皇族」の原則が復活せず、
(形式的には明治維新まで律令の規定は生きていたはずなんだけど)
それどころか臣籍降下できればいいほうで、大半の皇族は坊主にされて(公式には)子孫を残せず、
一方で「宮家」なるものができて、律令の規定を曲解して宮家の子息を
天皇や上皇の「養子」「猶子」にして「1世親王」扱いにして
幾世代も親王位を維持するようになったり。
469日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:30:36
>>465
冷泉家の藤谷のように先祖の住んだ土地(屋敷)から取られることが多いが、
同族で断絶した家の家名を与えられることもある。
実家の当主の考えを聞いたうえで、考証し、下賜される形をとる。
全くゆかりのない称号を与えられることは、まず無いっ。
470日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:27:43
>>447
正親町源氏の広幡家は、近世になってから臣籍降下して清華家待遇になりましたが。
471日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:40:18
>>450-451
まあ室町中期に将軍義教が南朝系の宮家を強制的に断絶させた際に、
伏見宮家だけは北朝系だったので存続を許された経緯があるからな。
もっともそのときの伏見宮の当主は、ときの後花園天皇の実父、時期当主は実弟
って状況だったが。

とりあえず伏見宮を強制的に廃絶させるか、もっと嫡流に近い者に乗っ取らせる
ことを考えるのなら、長命で皇子の数も多い後水尾院や霊元院のいた
江戸初期だっただろう。
それ以前は、皇室の嫡流とさほど離れていないし、それに桂宮・有栖川宮が
できる以前は、皇室のほとんど唯一の血のスペアだったわけだけど、
この辺りで伏見宮は血のスペアとしては用済み。
以降は確かに存続させても血は離れていく一方で、血のスペアと捉えるには
違和感が強くなっていく。
霊元院は、皇女を伏見宮に嫁がせているけど、皇子を送り込んで乗っ取ることは
考えなかったのだろうか?
472日本@名無史さん:2008/03/04(火) 22:18:24
他の宮家と違って、伏見宮家は代々大方複数実男子に恵まれてて、
直宮皇子で乗っ取りの隙が、殆どなかったような感じ。

跡継ぎと御控えを必ず儲けて、実系で宮家を存続してゆく事が第一、
みたいな口伝の秘密家訓でも、あったんじゃないかという気がする。w
473日本@名無史さん:2008/03/05(水) 11:00:34
詳しい方、教えてください。
織田信長の猶子で誠仁親王の皇子の邦慶親王って、
伏見宮家っぽい名前だけど、伏見宮家と関係あるの?。
474日本@名無史さん:2008/03/05(水) 12:23:54
江戸期の朝廷の席次は参議以上は官職優先、それ以外は位階優先だそうだけど、
地下(両局・諸大夫・神職等)で三位になると後任の堂上の非参議三位より上席になるの?
475日本@名無史さん:2008/03/05(水) 12:54:15
>>470
高い家格になったのは、初代広幡忠幸が正親町天皇の曾孫で
父は後陽成天皇の実弟という血筋の近さが原因だろうね。
もし天皇から遠く離れていたら駄目だったろうな。
476日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:17:57
福子内親王が跡取りを産んだから血は近くなったんじゃない?
477日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:44:56
ここで問題とされるのは男系血縁。
女系血縁は男系血縁が遠い場合に、ないよりはマシというレベルのもの。
478日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:55:41
>>女系血縁は男系血縁が遠い場合に、
>>ないよりはマシというレベルのもの。

朝廷ではまさしくその通り。
母系の価値が父系を凌駕して作用することなどありえない。
母系に機能を期待するのは、
妻や母の実家の兵力を当て込む下劣な武家の発想だよ。
479日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:11:29
>>473
関係ない
480日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:30:55
>>476
女系も含めるなら、もっと今の皇室に近い血は入っているから。
伏見系の宮家に嫁いだ明治天皇の内親王の子孫とかね。
481日本@名無史さん:2008/03/05(水) 18:17:00
>>480
女系なんて何の価値もない。
よって竹田、東久邇なんて江戸時代に臣籍降下した皇子の子孫以下の存在価値。

482日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:49:33
>>481
臣籍なんて何の価値もない。
ましてや源氏でもなく、藤原姓なんて、全く皇位継承権関係無し!。
483日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:59:46
そんなこと言ったらユージン以外、適格者はいなくなり、
下手をすれば天皇家は断絶だな。


まあ、共和になればいいから、俺は困らないけど。
484日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:47:42
まあ伏見宮系は、血縁は離れても近代まで皇族身分だったという一点だけは
評価してあげてもいいんじゃないかな。

それにしても、伏見宮ってどうして「貞」と「邦」の一代おき交互の命名に
なったんだろ?
二つの通字を交互に命名っていうだけなら、公家には割とあるパターンだから
不思議ではないけど、伏見宮の場合、最初のほうでは貞成・貞常と「貞」が
二代連続していたりもするのに、その後突然「邦」が登場し、交互になる。
485日本@名無史さん:2008/03/06(木) 05:42:36
>>474
地下や社司の位階は、堂上とは別体系で別物。
正三位の地下や社司が、非参議で従三位未満の堂上と、
たとえ同席する事があったとしても、堂上が上席。
>後任の堂上  の意味が不明だけど。
486日本@名無史さん:2008/03/06(木) 13:51:54
あとから三位になった堂上といいたいのではないかと
487日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:39:10
>>482
全く同感だね。藤原氏を継承した人物が皇位を継承した前例はない。
藤原氏の人間が天皇になったら、それこそ王朝が変わる。
源氏ならともかく、藤原氏を継いだ時点で、自身にも子孫にも皇位継承権はなくなる。
現皇族の繁栄が一番好ましい。
488日本@名無史さん:2008/03/07(金) 17:28:58
日本のめぼしい医学会の名誉総裁とか名誉顧問に必ず皇室がからんでいるのは何故だと思う?
「日本の絶対利権」の頂点には必ず象徴として皇室がいる。
中曽根や安部や山崎や佐々は「簒奪されつづける国民」とは違うステージにいる。
彼らは「究極の利権集団・皇軍」の生き残りという人脈と閨閥で違う階級を形成している。
戦前も現在もその構造は微動だにしていない。

伊藤博文が口止めのために爵位を乱発したのは有名な話ですが、田布施町民の口止めの変わりに
佐藤さんが一流企業の縁故入社や一流大学への裏口入学を斡旋したのは有名な
話。
もっとすごいのは天皇家の親族というだけで自民党の公認にしてもらえる事でしょうか。
一代で総理になった田中角栄がロ事件で捕まって、佐藤が造船疑惑で逮捕、されなかった理由は佐藤が田布施コネクション
(昭和天皇つながり)から検察に圧力をかけた から
で、検察のオえらいさんも人の子、ヒロヒトから文化勲章もらえたらうれしいですよねえ。
それでもみ消したみたい。田布施町では天皇の事をタマと呼ぶのだが、岸が言うには クリーンな政治資金ならつかまらないけど
汚いカネなら捕まるんだって。
田中角栄の5億なら賄賂になるけど、皇室などのエスタブリッシュメント層
から取った5億ならクリーン な政治資金になるそうだよ。
だから天皇=タマとは政治資金と選挙の利権の事でタマを握ったものが総理になれると
いうか情報を握ったものが総理に成れる。
(実績、山口県出身の総理大臣。 伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、佐藤栄作、岸信介)

489日本@名無史さん:2008/03/07(金) 17:49:57
>天皇家の親族というだけで自民党の公認にしてもらえる事

これって誰のことですか?
麻生太郎ならひい爺さんが貴族院議員、父親も国会議員で
妹の信子が宮家へ嫁ぐ前からですしねえ
490日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:20:44
>>488
山口県出身の総理大臣って、安倍晋三は違うのか?
491日本@名無史さん:2008/03/07(金) 22:26:25
藤原氏を継承しても天皇の血を引く皇胤であることに変わりはない
わけだから問題ないだろう。
492日本@名無史さん:2008/03/07(金) 23:02:26
臣籍は駄目とか言い出したら
臣籍から天皇になった宇多天皇を否定することになるぞ。
493日本@名無史さん:2008/03/08(土) 04:00:11
宇多天皇は天皇の子だし臣籍に下ってたのも短期間だからなぁ
494日本@名無史さん:2008/03/08(土) 08:11:31
悠仁親王が早世し、雅子妃と紀子妃が出産完全不能年齢に達した場合、
及び悠仁親王の将来の妃が、男子を儲けられず出産完全不能年齢に達した場合には、
男女同権の現代らしく皇室典範を改正して、時の天皇の最近親で最優先系統の、
臣籍降下していない女性皇族が、立太子するか跡継ぎとなるだろう。

それでも該当者がいない場合には、憲法改正が行われて、
最後の男子天皇崩御と共に、天皇制は消滅すると思う。
495日本@名無史さん:2008/03/08(土) 08:30:29
ハンガリーのホルティみたいに空位のまま民間人摂政でいいよ。
496日本@名無史さん:2008/03/08(土) 10:26:11
>>493
期間の問題ではなく、臣籍から天皇になった事実が重要。
497日本@名無史さん:2008/03/08(土) 10:32:31
歴代の南北朝含んだ天皇(大王)のうち、臣籍降下経験がなく、
天皇(大王)の男系の、皇子・皇女・皇孫・皇孫女・皇曾孫・皇曾孫女の生まれである事に、
全く異論がないのは、宇多天皇を除いた29欽明天皇〜今上天皇の全員、という事でOK?

26継体・安閑・宣化天皇は、継体天皇即位以前は非皇族であったという学説もあり、
25武烈天皇以前は、非実在者や血統作為が相当含まれていて判定不能という事で。
498日本@名無史さん:2008/03/08(土) 22:10:35
うん、第25代とされる武烈天皇が、
(非即位説ではなくて)非実在説のある最後の天皇(大王)。
499日本史@名無史:2008/03/08(土) 22:17:29
南朝の長慶天皇とかも確実に実在したの?
500日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:53:56
後世に長慶天皇と称される人物が実在したこと自体は事実。
子孫としても玉川宮家が室町中期まで確実に存在するし。

ただ即位したのかどうかには異説or議論の余地がある。
壬申の乱のときの弘文天皇なんかと同様。
501日本@名無史さん:2008/03/09(日) 01:20:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。

日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
502日本@名無史さん:2008/03/20(木) 16:30:57
>>496
臣籍降下を是非を定めるのは、日本国憲法以前においては天皇大権だろう
当代の天皇が臣籍降下させても取り消すのは当代の天皇の勝手であってそれを臣下が云々するのが不敬罪。
503日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:45:45
>>335
縺。縺後≧繧医?よ姶蜑阪?螳ョ螳カ縺ッ荳冶・イ隕ェ邇句ョカ縺倥c縺ェ縺???
莉」謨ー縺ァ蛻?i繧後k縺九i荳冶・イ縺ィ縺?▲縺ヲ繧よーク荵?§繧?↑縺?@
縺昴b縺昴b隕ェ邇句ョカ縺倥c縺ェ縺上※邇句ョカ縲?
504日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:59:38
壮絶な文字化けキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
大陸か半島からの書き込みか?
505日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:04:06
現在京都に居住している公家を教えてください。
冷泉、山科、鷲尾、植松、富小路以外で。
平安神宮宮司の九条氏も京都在住かな?どこ住んでんだろ。
506日本@名無史さん:2008/03/30(日) 18:06:02
>>505
嫡流本家の現在当主1人だけを対象にしての話?
苗字が堂上で分家筋の人間なら、現代ではあちこちに散らばってるんじゃないのかな。

大坂市内にある関東風うなぎ屋の「姉小路」で、
屋号は苗字からなのかどうか尋ねたら、苗字からで先祖はお公家さんとの事でした。
507日本@名無史さん:2008/03/30(日) 18:53:30
うそくせー
508日本@名無史さん:2008/03/30(日) 19:40:31
>>507
なんなら電話して尋ねてみたら? 老夫婦二人だけの営業でした。
・大阪市西区「江戸焼き 姉小路」http://r.tabelog.com/osaka/rvwdtl/401824/
509日本@名無史さん:2008/03/31(月) 11:16:50
>>506
確かに分家まで含めたら数は多くなるのかな。
とは言うものの華族制がなくなった時点で爵位のあった家からの分家で
考えるとそうは多くないのかしらん。

姉小路の話は面白いですね。行っていろいろ伺いたいものです。
510日本@名無史さん:2008/03/31(月) 12:06:40
>>509
それでもけっこういるんじゃないの。
家によってさまざまだろうけど、もう終戦から60数年。
終戦時の爵位堂上当主のひ孫が、
結婚してて子供がいるぐらいでもおかしくない。
511日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:39:59
>>505
公家の定義が難しいです。
公家とは、江戸時代以前の堂上の直系子孫のことでしょうか?。
分家も含めたら、数が多すぎて書ききれません。
それを知って、どうしようというのですか?。
あなたの目的によっては、御教え致しますが?。
512日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:44:27
>>511

>>505さんは、あまり深くは考えてなかったんじゃないのかな。
   大政奉還時点の堂上公卿137の家を継承している、現在の当主で、
   その家の本拠地として、現在京都市内に居住している人。
とでもきちんと狭く定義しないと、曖昧に範囲が広がってとりとめがない。
まさか京都府下に単身下宿している大学生まで含むわけじゃなかろうし。
513日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:45:02
吉田家は江戸期に入って二代ほど官位昇進が非常に遅く、最終官位も年齢の割に低いようですが、
何かあったのですか?
あと卜部一門の通字が兼から分流分家も含めて変わってますが何か理由があったのでしょうか?
514日本@名無史さん:2008/04/06(日) 08:04:04
分家の理由は知らないが、兼業が良連と改名したのは光格天皇が即位したからだよ。
天皇の名は兼仁だからそれに触れるからじゃない?
515日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:32:10
その通りだと思うよ
516日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:03:59
age
517日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:03:30
明字の付く人
即時改名しなきゃね
いそげ
518日本@名無史さん:2008/04/15(火) 11:18:56
マジな話、今役所に「天皇陛下の忌諱のため改名したい」って申請したら受け入れられるのかねえ
519日本@名無史さん:2008/04/15(火) 14:26:41
「改名」は個人の意思で自由にできるから
改名の理由なんぞ役所でいちいち聞かれない。
忌諱のためだろうがなんだろうが
ご自由にどうぞ、ってかんじ。
520日本@名無史さん:2008/04/15(火) 18:03:10
http://oshiete.nikkeibp.co.jp/qa3690632.html
一応審査があるみたいよ
521日本@名無史さん:2008/05/01(木) 01:12:47
将軍義教との同音を憚って改名した佐竹義憲が、改名後(義仁、義人)は思いっきり天皇家の通字と被ってる件

中院通為の娘が岡島備中守一吉って武士に嫁いでるようだけど
いつ頃どういった経緯で加賀の国人層(?)なんぞに嫁入りしたのかわかります?
522日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:21:00
>>521
単に通字が重なるだけなら問題はないだろう。
523日本@名無史さん:2008/05/06(火) 01:17:27
>>505
宮内庁ならそういう情報を握ってるだろうな

守秘義務があるので詳しくは書けんが、昔、郵便局でバイトしてたとき、宮内庁から
旧公家宛のパーティの招待状を見たし

パーティというか年始の挨拶会だったかなんか忘れたが
524日本@名無史さん:2008/05/08(木) 19:24:08
仕事で大正時代の新聞読んで瑞龍寺門跡妙浄尼(九条温子姫)の
の写真見つけた。くりくり坊主で可愛い少女って感じ、20歳には
なってないと思う。先代の急死で白羽の矢が立ったんだろうけど
仙石子爵の娘では門跡になれないので、九条公爵の養女になって
出家した。
525日本@名無史さん:2008/05/10(土) 23:56:41
たしか・・・瑞龍寺は関白羽柴家ゆかりの門跡寺院なんだよね?
羽柴秀吉の姉が瑞龍院だったような気がする
五摂家宮家クラスじゃないと門跡は無理なんじゃない?
526日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:38:50
瑞龍寺は秀吉の姉ともが切腹させられたわが子秀次や
斬首された孫たちの菩提を弔うためにたてた寺。
このとき、ときの後陽成天皇が寺地と瑞龍寺の号を与え、
紫衣を許したために、以後この寺は門跡寺院となり、
宮家の息女や公家の息女が門主を勤めた。
527日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:37:20
そもそも創建当時は羽柴家も一応摂家だろうが
528日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:28:02
一応ではなく、その後唯一の摂家になる予定だったはず!
やっぱり豊臣氏の家名は羽柴なの?
聚楽亭に家名を改めたとも何かで見た記憶が・・・
529日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:41:49
>>527
秀吉は関白になるにあたり近衛前久の猶子となり藤原姓を名乗って受けている。
もっとも、摂家の二条家が秀世氏が藤原姓を名乗ることに反対したため、
秀吉は代わって後陽成天皇から豊臣姓を受けた。
秀吉が関白を受けたときの姓は藤原、豊臣姓下賜後の秀吉、秀次の正式な姓は豊臣である。
秀吉は羽柴姓で関白を受けたことは一度もないし、羽柴姓の摂関など存在しない。
「摂関羽柴家」など存在しないのが実態。

関白豊臣秀次死後、豊臣家から摂関が出たことはなく、秀吉も太政大臣にとどまったまま
関白に再任されることもなかった。
しかも、瑞龍寺の創建者は秀吉や秀次の息女ではなく秀次の生母であり、
瑞龍寺がはじめから摂家門跡の格を備えていたとは言い難い。
530日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:11:57
秀次の母親の次に住職に九条忠栄の娘がなって門跡になった
531日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:29:10
聚楽亭って落語家みたいだな。
532日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:36:44
>>529
本姓(ウジ)と称号、名字を混同している。

関白に就任する以前の秀吉は、本姓が平で名字が羽柴だったが、
近衛家の猶子となることで、本姓は藤原、名字が羽柴となった。
そのあと、天皇から豊臣姓を下賜され本姓が豊臣に変わっているが、
この時代、本姓と名字(公家なら称号)は別々なのが普通だから、
普通に考えたら羽柴名字のままだろう。

関白になって以後、秀吉本人も周囲も彼を羽柴で呼ぶ場面がなかっただけで、
秀吉ファミリーの名字は羽柴のままじゃないのか?
533日本@名無史さん:2008/05/14(水) 00:57:32
>>529
532さんの解説にほぼ同意。
>>531
親しい菊亭のパクリだから。
>>532
羽柴は武家の名字だから
京師の邸宅名に因み聚楽亭という公家の称号に変えるのが普通じゃない?
聚楽亭殿とか呼ばれてさ
534日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:05:22
>>530九条忠栄の妻は豊臣秀次の実弟の娘?
535日本@名無史さん:2008/05/14(水) 09:24:10
よくわからんのだが、二条家ごときが反対しても秀吉ほどの実力があれば
跳ね返すだろう なんで二条家ごときの意見が通るの?
536日本@名無史さん:2008/05/14(水) 15:49:08
そのときの氏長者が二条昭実だったからじゃね?
足利義昭だって養子の話断ってるみたいし、
官位はともかく一族に加えるかどうかの話だからなあ
537日本@名無史さん:2008/05/17(土) 17:03:09
>>534
そうそう、お江の娘。
尼になったむすめがお江の娘かどうかはわからないけrどもし実子ならひ孫に跡をつがせたことになる
538日本@名無史さん:2008/05/17(土) 18:32:19
やはり村雲門跡 瑞龍字は関白家(羽柴 九条家)に縁がある。
539日本@名無史さん:2008/05/26(月) 10:30:26
>>528>>533
その意見に賛同する
公家は二条城とか聚楽第とは呼ばず
二条亭とか聚楽亭とかの言い方をしてるから
聚楽亭関白 秀吉で問題なしっ
540日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:58:42
>>529
はじめから摂家門跡の格式の寺のほうが少ないんじゃないの?
541日本@名無史さん:2008/06/01(日) 12:02:40
アポジカ
542どぅーちゃん:2008/06/02(月) 20:56:55
>>540
そのとおりだと思います。
同じ意見です。
543日本@名無史さん:2008/07/13(日) 05:50:39
スレ保守
544日本@名無史さん:2008/07/16(水) 06:44:46
保守
545日本@名無史さん:2008/07/25(金) 21:19:45
保守
546日本@名無史さん:2008/08/06(水) 00:23:18
勧修寺家が室町時代に日野家と権勢を争った事も忘れないであげてください。
547日本@名無史さん:2008/08/06(水) 07:09:02
陸上走高跳びの醍醐直幸って醍醐侯爵家の出なのかな?
548日本@名無史さん:2008/08/06(水) 16:19:25
天皇家で使用している菊花紋章はいつから天皇家の紋章として使われているのでしょうか?
ウィキペディアだけの情報では心もとないので、どなたか教えて頂けないでしょうか??
549日本@名無史さん:2008/08/07(木) 22:16:07
天皇が菊紋を使用したのは鎌倉時代の後鳥羽天皇に始まるといわれるが、
菊は平安時代から貴族たちに大変愛され、貴族や皇族たちが好んで用いた紋であった。
後鳥羽天皇に至っては刀剣や衣装、車にまで菊の紋をつけたというが
この段階ではただの菊好きにすぎない。
その後、鎌倉時代の天皇が好んで持ち物に菊紋をつけたが、
同時にほかの公家や皇族たちも好んで使った紋であった。
菊花紋章が天皇家の紋と定められ、天皇家並びに皇族以外の者が
この紋を使うことを禁じられたのは明治2年。
それまでは菊の紋を天皇、皇族以外が使うことは禁じられていなかった。
550日本@名無史さん:2008/08/24(日) 21:42:05
五摂家のうち一条家ってなんか地味だね。
有名人は一条兼良ぐらい?
551日本@名無史さん:2008/08/24(日) 22:10:28
教房は関白になったのに土佐に下向して土豪化しちゃったからな
異母弟の冬良が一条家を継いだわけだがなんと兼良63歳時の子
兼良元気よすぎ(・∀・)
552日本@名無史さん:2008/08/25(月) 08:16:18
お聞きしたいことがあります。
江戸時代の文化年間まで山城国にて田辺という姓で公家をしていた一族をご存知の方いらっしゃいますか?
あまりに貧乏で公家をやめ姓を変えてある藩に仕えたそうですが、この一族の歴史など知っている方がいらっしゃいましたら教えて頂きたいと思います。
またこういった事を調べるのに適した書籍等がありましたら紹介して頂けたらと思います。
よろしくお願いいたします。
553日本@名無史さん:2008/08/25(月) 09:37:41
蔵米30石3人扶持という最低のレベルの家の平均的な奉公人はどんな状況だったのでしょうか?

下男下女ぐらいはいたんでしょうか? 三石さんなんてのもいたのでしょうか?
554日本@名無史さん:2008/08/25(月) 10:09:37
548です。
>>549 めちゃくちゃ亀ですが、ありがとうございました。
この前12ch(東京)のあやしい歴史番組で安徳天皇が四国に落ちのびていた証として、天皇しか使えない
菊紋付きの手鏡?が今でも残っているからだとナレーションが言っていましたので、ホントか?と思い、
ココでお聞きしました。
これであの番組を眉唾で見られる事ができます。ありがとうございました。
555日本@名無史さん:2008/08/25(月) 21:33:41
>>553 俺もそこらへん、めちゃくちゃ興味あるんだよね。
    『雲上明覧』や『地下家伝』には有位有官の侍しか
    載らないから若党とかがわからん。
    『幕末の宮廷』とかもそういうところを記録して
    おいてほしかったな。
556日本@名無史さん:2008/08/25(月) 22:59:03
>>550
っていうか一条家こそが藤原氏直系。
近衛流よりも九条流が嫡流筋、九条流のうちでも九条家(名前はカッコよいが))より
一条家が嫡流筋。
長男や早や生まれの兄弟が本家筋と主張する香具師もいるが、そんなのでまかせ。
557日本@名無史さん:2008/08/26(火) 19:20:15
>>556
それも出まかせ。
藤原氏は大宝律令以前の家柄だから、律令制に由来する嫡流概念は存在しない。
一門中最高の地位にある者が氏長者。だから、摂関の移動とともに藤氏長者が動く。
558日本@名無史さん:2008/09/07(日) 11:50:24
松崎万長の葬地ってどこなんですか?
559日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:58:06
>>557
九条道家が父親の権限で九条流の嫡流は
(九条・二条・一条のうち)末弟の一条家だと定めたというのはあるがな
もっとも道家も自分の息子ではない近衛や鷹司に関しては何も言ってない
しかし摂家将軍の騒動によりまもなく道家は蟄居を命じられ
氏長者も五摂家の周り当番のようになったが
560日本@名無史さん:2008/09/09(火) 00:46:56
>>559
だからその正文の宛先が九条忠家だったのが問題の始まりだろう
561日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:01:12
何か話がおかしくなる前に釘を刺しておくが、問題なのは九条道家が一条実経に氏長者を譲ったのは実経の子孫に継承させるためなのか、九条忠家が氏長者に相応しい公卿になるまでの中継ぎなのかということだろう。
これと全く同じ様な歴史上の事例が後二条天皇死後の大覚寺統で発生していることも留意する必要がある。
562日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:49:44
そもそも息子の代の後誰が氏長者になるかなんて
道家本人だって知っちゃいなかっただろ
九条家の祖兼実自体摂関になった兄貴が2人もいて
もともと摂関になれる身の上じゃなかったのに
「五代帝王物語」には西園寺公子(のち後深草天皇中宮)は
もともと一条実経に嫁ぐ予定だったとある
西園寺家が目を付けるほどの期待株だったんだろう
それに比べると7歳年下の九条忠家の正室は三条公房女と
西園寺家ほどの勢いがない
三条家は同時代西園寺家の中宮を持つ後嵯峨天皇のもとへ
娘を女官として差し出してたからね
563日本@名無史さん:2008/09/11(木) 16:16:05
江戸時代に六角や有馬の様な公家の庶流出身で江戸に下って高家に加わった
家と云うのは朝廷から見て武家扱いなの?公家扱いになるの?
564日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:01:01
>>563
武家
565日本@名無史さん:2008/09/12(金) 19:03:00
将軍の代理で京都来るんだから武家の代表だろう。
566563:2008/09/12(金) 20:00:59
>564.565さまレス有難う御座います。
そうすると四位とか少将なども員外官としてであり、公家としての官位では
無いと云うことでしょうかね。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D
567日本@名無史さん:2008/09/16(火) 11:13:36
江戸時代に公家にも改易・お家取り潰しがあったの?
568日本@名無史さん:2008/09/16(火) 23:10:04
>>567
左近衛少将猪熊教利

569日本@名無史さん:2008/09/17(水) 13:58:36
公家の古き良き妻問い文化を潰そうとした徳川の蛮行が猪熊事件デッチアゲ?
570日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:51:00
松木宗信卿末裔の俺がきました
571日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:00:19
>>570
甑島出身ですか、あなたの現在の苗字は何?
途中に女系が混じっったり改姓があったら、末裔の意義がないよ。
572日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:41:54
中御門宗信 でないの?
573日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:58:32
>>548
尊成が菊が好きだったからだと思うけど。
574日本@名無史さん:2008/10/18(土) 01:24:16
菊=肛門
575日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:12:31
猪熊さんなんかの例は?
天皇はもっと多数を死罪にするつもりで、武家や廷臣の決めた処罰が生温い
と大変不興だったそうですが。
576日本@名無史さん:2008/10/23(木) 13:24:33
現代の話だけど、未だに公家の子孫は京都だと市長よりも偉くて金持ちってホントなの?
577日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:20:10
貢いでくれる馬鹿な企業がいっぱい居ますから、そのような家も居ます。旧華族でも中小公家の子孫などは断絶、離散、破産が多いです。
578日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:29:15
>>576=>>577
自作自演乙
579日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:30:56
華族は華族制度廃止後能力ないものは没収破産


運がよくて広大な土地を生かし林業するか


か、落ちぶれる。
580日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:25:59
林業など儲からない
581日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:49:43
>>579
広大な山は土地活用だろ。
山縣有友の御子孫のかたなら成功した。
582日本@名無史さん:2008/10/25(土) 04:36:27
583日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:39:32
>>552
堂上ではそんな家はないので事実としたら地下官人じゃない?
ちなみに田中家だと、有位者の地下官人に11家あるね。
584日本@名無史さん:2008/12/04(木) 23:13:26
585日本@名無史さん:2008/12/13(土) 12:11:27
>>466
明治以前→当時の天皇が養子を送り込むための餌場
明治以後→天皇の親戚も神聖
586日本@名無史さん:2009/01/04(日) 02:03:40
>>583
下官人あたりなら、株の売り買いが行われていたみたいだしな。
587日本@名無史さん:2009/01/07(水) 06:21:53
>>586
死ねよキモいから声優板に帰れ
588 ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/01/07(水) 08:43:46
     (´ ⌒`) ムカッ!!
       l   l
     | |ファビョーン!! !         
     _____               
   /賠償;;謝罪::\〜プーン    
  /::::::::: 寄生:::::大嘘\〜プーン     
  |火傷 ;;;|_|_|_|_|〜プーン..
  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ヽ〜カタカタカタ  
  |::( 6∪   (゜\iii'/゜ノ ヽ〜カタカタカタ    
  |ノ/∵∴  ( o o)∴\      
  | \∵∵    3 ∵/  
  \        ⌒ ノ______   
    \_____/ |   | ̄ ̄\ \ 
___/  チョン .\... | 起源主張| ̄ ̄|
|:::::::/  \___   \| 捏造専用 |__| 
|:::::::| \____|⊃⊂|__|__/ /
|:::::/      | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
589日本@名無史さん:2009/01/07(水) 14:49:50
おまえはなにをいってるんだ
590日本@名無史さん:2009/01/08(木) 01:54:25
能登麻美子Part105
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/voiceactor/1229452142/897

897 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/01/06(火) 21:44:10 ID:es/w0QVM0
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1154231784/583-584
日本史板の住人でもある俺がピンときました。勿論、私が誤爆したのではありません(ちなみに586が私のカキコ)。
591日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:47:33
で?
592日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:06:00
過疎スレ














                       終了^^















                              めでたし♪ めでたし♪
593日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:42:42
>>576
本当だよ。今の社長の娘はキチガイらしいけど
594日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:33:36
>>576
正当な公家は明治維新のときに、天皇と一緒に東京に行ったの!

京都には冷泉家のみ残って、後は養子崩れとか、分家筋のみ。
そういうのは、爵位もなく公家ではない。
595日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:37:07
>>594
京都に戻った公家はいないの(戦後でも)?

それに芸事などの免許状を未だに出してるなら,金持ちの元公家もいるんじゃない?

596日本@名無史さん:2009/01/22(木) 06:47:35
公家の家業は明治6年に廃止された
597日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:49:17
>>595 いない
分家、もしくは有栖川のような自称のみ。
598日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:57:50
>>594
下官人は養子崩れの集団だけどね
599日本@名無史さん:2009/02/28(土) 13:05:50
>>594
>>597

ナチュラルに嘘つくなよ。それとも無知か?
冷泉家を除く全公家が東京に行ったわけじゃないよ。

それに本家で京都に戻ってきてる公家もいる。
600日本@名無史さん:2009/02/28(土) 14:19:53
>>599
誰か云おうね。

蜷川虎三?
飛鳥井雅和?
山階宮?
601日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:26:56
>>600

朝彦親王だっけ?京都からなかなか動かずに明治天皇に何度も東京に来るよういわれたのは。
皇族だからだめ?

あと、山科家はいま京都じゃなかったっけ?
602日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:32:43
>>600
公家って何か知ってる?
603日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:42:42
>>601
そう。山科家は京都だね。
南禅寺の近くに住まれてる。漢検の理事長のような大邸宅ではないけど。
家業の衣装を伝えてて、葵祭なんかの監修もされてるね。
今は違うけど蹴鞠保存会の会長かなんかもされてたと思う。

菅原氏の桑原家当主だった某は京都で殺人事件を起こした。
もともと貧乏公家だったので丸太町通のどこかの小さい家に住んでたようだ。
維新後も儒学の勉強はしてたみたいだが、女性絡みでおかしくなってしまったという。
604日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:37:06
冷泉、山科、桑原の3家だけですか?
605日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:47:38
九条家の当主は今平安神宮の宮司だよね?
花山院家当主は奈良の公立高校で日本史の先生してて、
最近春日神社だったかの宮司になったと思う。

飛鳥井も京都じゃなかったっけ?
京大教授は当主にならずに弟がなったんだっけかな。
現当主は畿内神社での神事で勅使としてよく名前を見るが。あれは内典職だっけかな。
606日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:48:21
九条家と鷲尾家も京に戻ってるんじゃないか?
607日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:56:35
>>605
>飛鳥井も京都じゃなかったっけ?

KBS京都(TV)で放送しているあぐり京都というで飛鳥井雅和さんが出てる
この人が公家の飛鳥井家と関係あるかどうかわからないけど・・・
608日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:01:46
>>607
KBSのアナね。
多分、分家筋だと思う
609日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:05:23
>>606
そうだ鷲尾は新間之町仁王門で公家味噌売ってるね。
あと町家をレンタルする商売なさってますな。
日向大神宮の近くに別宅があったと思う。
610日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:08:09
あ、あと村上源氏で華道が家業の植松家も京都だ。
時期当主が残念な事件で逮捕されてしまったが。
611日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:57:22
現在の摂家

近衛家:当主が日本赤十字に勤務。奥様が三笠宮家の元皇族(東京在住)
九条家:平安神宮の宮司(京都在住)
一条家:当主は国際弁護士をしているらしい。(たぶん東京在住?)
二条家: ?
鷹司家:現当主は伊勢神宮の宮司。(三重県在住)
612日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:28:10
平安神宮って、世襲だっけ?
宮司の間だけ、京都にいるんじゃないの?
伊勢神宮宮司のように。
613日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:44:34
鷲尾の公家味噌=新洞食糧。
http://www.shindosyokuryo.com/
こちらが新洞食糧老舗の店舗。江戸時代からの建築物で江戸時代から続く米穀店なんです。

米屋の公家か?
614日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:54:06
飛鳥井雅慶(京大名誉教授の弟)は、今でこそ橿原神宮宮司だけど、
数年前は宮内庁の裳典職だろ。

そもそも宮司職は名誉職で、在住とは限らないのじゃないか。

615日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:57:45
まあね。
616日本@名無史さん:2009/03/01(日) 07:25:17
堂上当主と本邸が京都在住かどうかは、流動の多い戦後現代ではあまり意味がないのじゃ。
明治〜戦前〜現代にもずっとそうだったのは、上冷泉家のほかにはどこがあるのですか?
617日本@名無史さん:2009/03/01(日) 09:22:44
十数年前に下冷泉家が獣医さんになってるのは聞いた。
618日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:15:50
>>616
日本語でおk
619日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:33:41
>>505
水無瀬の分家があるよ
こちらは男子が多いんだ
620日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:55:54
分家ならたくさんあるね
621日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:32:39
この前死んだ葉室さんは世界的に有名な形成外科医だったが
春日神社の宮司にされて1から神道の勉強始めたらしいね
いきなりトップってのはある意味うらやましい境遇だけど
奈良に住んでたのかそれとも行事のたびに通ってたのか・・・
622東男:2009/03/07(土) 23:25:39
烏丸通(からすまどおり)なのに烏丸家(からすまるけ)
冷泉通(れいせんどおり)なのに冷泉家(れいぜいけ)
って、なんでだよ?。
623日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:37:59
アーカンソー州を流れるのはアーカンザス川ですけど
624日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:40:25
>>622
はじめから「からすまどおり」と呼んでたとでも思うの?
625日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:27:22
東園基恒て人は公家の子孫かな。
名前がソレぽい
626日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:18:34
東園家は本姓藤原氏で中御門流の庶流の園家の庶流で
地味だけど堂上の公家だよ。
特に有名な人がいたというわけでもないけど、
幕末〜維新にかけての当主・東園基敬は尊攘派として名前は出てくる。

ちなみにこの流の通字は「基」だから、その人もおそらく公家であった東園家の末裔だろう。
いったい何者かは知らんが。
627日本@名無史さん:2009/03/24(火) 00:52:13
>>610
なんていう流派ですか?
時期当主って、現当主(御家元)のことですか?
628日本@名無史さん:2009/03/24(火) 01:38:32
あなたは何も知らなくていい
629日本@名無史さん:2009/03/28(土) 15:03:09
■誘致企業と警察の黒い癒着■

鳥取市の誘致企業リコーマイクロエレクトロニクスに
対する疑惑を書いたホームページを作った。

リコーマイクロエレクトロニクスはすぐに鳥取警察署に連絡をした。
警察は父親を呼び出し
「強制入院の手続きを取る。息子さんがかわいいでしょう」と言ったそうだ。
強制入院だと問題を表沙汰にせず処理できる。この時はホームページ閉鎖の脅しにすぎなかったようだが・・・
鳥取市で誘致企業の機嫌を損ねると怖い。
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リコーマイクロエレクトロニクスにアルバイトに行っていた。 勤務態度不良でリコーのアルバイトをクビ同然で辞めた。

その後、鳥取市のテスコという工場に勤め真面目に働いていた。
「真面目に働いているのはリコーに対する報復(あてつけ?)」という噂でテスコをクビになった。直後、テスコの社長から雇用保険の書類をとりに来るよう泣きそうな声で電話があった。
噂は嘘だと知ったのだろう。

雇用保険の手続きのため職安に行った。職安の次長と相談すると、口止めをされた。職安と会社は連絡を取り合っていたらしい。

しかし噂は狭い鳥取市である程度広がっているようだ。

リコーマイクロエレクトロニクスに電話を掛けた。
「君はうちのような一流企業が組織ぐるみでやったとでも思っているのかね?」
「そんなことはありませんけど」
「じゃあ会社には関係ないじゃないか」

しかし公的機関(職安)も巻き込んだ組織ぐるみの人権侵害の揉み消しである。
630日本@名無史さん:2009/03/28(土) 16:36:41
過疎スレ保守






























631日本@名無史さん:2009/04/11(土) 00:09:35
632日本@名無史さん:2009/04/19(日) 06:15:33
>>622
冷泉は、もともと後院の「冷然院」からきた名称。
火事で何回か焼けたので、然に火が来ると燃えることから
泉と言う字に置き換えたとか。(有職故実→嘘こじつけ)

公卿町の古い地図には「下れんせんとの」という記述があるから桶でわ。
633日本@名無史さん:2009/04/20(月) 10:33:40
「れいせん家」でもいいわけね。
宮中では濁音は使わないと聞いたことがあるので「れいせん」または「れいせい」が
本当だと思うのですが・・・
634日本@名無史さん:2009/04/20(月) 19:40:29
では九条サンは「くしょう」サンで,醍醐サンは「たいこ」さん?
635日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:03:25
「とくたいし」「さいおんし」
636日本@名無史さん:2009/04/22(水) 07:27:53
>>633
>宮中では濁音は使わないと聞いたことがあるので

詳しくお願いします。そういった場合も一部ある、程度では。
一般用語では濁音の言葉を、有職読みで清音に言い換える事はありますよね。
堂上(どうじょう)を、宮中では(とうしょう)と言うとか。

口頭発音では濁音の言葉でも、昔の文書では平仮名書きの部分で、
濁音を使わず、すべて清音で表記する習慣があったので、
当時の口頭発音の実態が、くらまされているケースが多いと思います。
637日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:41:49
大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だって
誰もあれを「へからす」なんて読まないもんな
638日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:32:33
>>636
いや>>633は正しいよ。
旧華族のジイ様が言ってたしっ。
639日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:24:22
>>638
昔ながらの教育を受けた昭和天皇は「玉音」でも
濁点を使っているよ。
宮中で濁点を使わないのならば当然、
昭和天皇も使わなかったんじゃないのかな?
640日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:52:59
611さん 妾二条慶光院さらにその妾伊勢財閥慶光院と呼ばれるんで 慶光院に聞いたら 「僕の母は二条の娘が嫁ぎました」との事 で今の慶光院はまるまる二条純系 久邇が六番目のたった一人后出す摂家親王家だから 共に同格伊勢大宮司レベルでいいんちがう 伊雑より
641日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:16:47

>>640

朝鮮人の日本語はこの程度か(笑

642日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:04:40
641は在日北の成り済まし標榜右翼のたぐい。 李王朝と親戚の久邇を擁護するお決まり構図。 偽物有栖川総裁右翼も在日暴力団の団体で李王朝関係の旧皇族だいすき在日連中ですわー
643日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:12:38
>>630
昭和と江戸時代以前は違うだろw
644日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:30:26
南朝家臣ゆかり公家が歴代する伊勢慶光院が 伊勢神宮で決まり 後に実家の側室が次期天皇生み即位の構図は昭和天皇まで続き旧姓二条道孝と妾二条慶光院 正田は南臣新田子孫 伊勢神宮は南朝方思想 今大塔宮の久邇は評価するが そのあだ名つけた水戸徳川しか伊勢神宮には入れない
645日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:46:35
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646日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:51:45
伊勢神宮は南朝裏面史維新思想で南朝大塔宮に行くが 当事者は源平親政の後白河天皇にルーツ求めていて 現に山本清順慶光院のルーツは 後白河上皇京都帰還時に 源氏白旗再興の近江源氏山本義経にあり 南北朝の久邇より古いんです 源平の海賊征伐の橘王子の鳥羽派遣の頃ね
647日本@名無史さん:2009/04/25(土) 13:54:05
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648日本@名無史さん:2009/04/25(土) 14:37:32
647さんはいはい あんたの勝ち。 611さん 天皇家と無関係の鷹司で東山天皇子孫本流末で徳川に近く 田安徳川の黒田皇女祭主の露払い人事では 分家末に徳大寺公望いる。 右翼集める神職が任侠頭の司は 吉野破門僧西園寺司と言うのがいる
649日本@名無史さん:2009/04/25(土) 14:49:32
>>639

昔ながらといっても昭和天皇の場合育てたのが軍人(薩摩だっけ)だから、御所言葉公家の習慣というのは
取り入れられていないんじゃない?

公家の習慣をもっていたのは明治天皇あたりまでじゃない?
650日本@名無史さん:2009/04/25(土) 19:35:49
>>649
昭和天皇は薩摩の軍人に育てられたって、大丈夫?
昭和天皇を育てたのは公家の姫から選ばれた女官たちです。
公家の子弟が昭和天皇の遊び相手でした。
昭和天皇は就学年齢になれば学習院に通いましたが、当然、
ここでも公家の子弟たちと机を並べました。
昭和天皇の妃は久邇宮家の姫君。
明治維新と同時に天皇のそばから公家は一人残らず駆逐され、
皇居の中は薩長が占領したなんて馬鹿なこと、ありませんでしたが?
651日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:13:54
611さん 近衛以外の摂家はみな南朝の大塔若宮興良系譜に内通していた二条良基の子孫が継ぎましたよ 今は近衛といえば天皇家ですが〜
652日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:36:01
>>650
「〜です。」「〜ます。」って長州だか薩摩だかの方言からなんでしょ?。
どうりで田舎くさいと思った。
653日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:38:41
長州と薩摩の田舎クズのせいで植民地もなにも全部失いました。
654日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:46:25
ざまああああwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
655日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:55:58
>>652
「です」「ます」は明治時代に東京山の手の奥様方が使っていた言葉。
あえていうなら東京弁。
ちなみに薩摩弁でも宮中の言葉でもない。
656日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:17:38
旧事諮問録を読むと、旧幕府の役人だった方たちも答問で「困るです」とかといった
具合で「〜です。」という言い方をしている。
657日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:08:34
「〜です。」は、江戸時代の下層町民言葉が起源。
「〜です。」は、「〜でげす。」の省略形で、江戸時代には、
「〜でげす。」と「〜です。」は、ほぼ同じ階層言葉のニュアンスで使われていた。

「〜です。」の方だけは、明治になって下層階級色が薄れて行き、
ついには標準語になってゆく。
658日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:58:56
「〜でごわす。」の省略形が
「〜です。」でごわすw。
659日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:19:00
大坂商人の言葉に「ごわります」とか「ごわへん」とかあるのは、
やっぱり薩摩の影響なの?
660日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:41:39
>650はバカ
昭和天皇の教育係は薩摩出身の川村海軍大将
だから649の発言は正しい。
育ったところも皇居ではない。
当時の皇太子教育が宮中から意図的に引き離そうとしたのは明らか
学習院も別に公家専門の学校ではない。武家もいたし、平民も数多くいた。
また当時の学習院の院長は乃木希典
当時でも時代錯誤と言われた武士道の思想を教育理念に入れ込もうとして、白樺派の学生たちから批判されている。

西郷隆盛が山岡鉄舟を明治天皇の教育係にしたように、この当時の帝王教育は出来るだけ公家臭を排して武家及び軍人として教育しようとしたのは明らか
これは当時のヨーロッパの王室にも共通している。
もちろん完全に公家文化を否定したわけではないが、武の方が勝っていたと考えた方が良いだろう。
661日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:31:30
こんにちは。あたしはしまガール。
AAサロンで出会ったしまむらくんと
スレを巡る旅をしています。

      (~)
    γ⌒ヽ   (~)
   {i:i:i:i:i:i:} γ´⌒`ヽ
   ||‘‐‘||レ {i:i:i:i:i:i:i:i:}
   /(Y (ヽ (´・ω・` )
   ∠_ゝ  (:::::::::::::)
    _/ヽ   О─J
662日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:10:23
>660はバカ
昭和天皇の養育係は公家出身の甘露寺受長。
学習院院長は乃木希典だが昭和天皇と一対一でいたわけでもなく
言葉がうつるわけもない。
川村純義の妻川村春子は昭和天皇を生後70日目から3年4か月養育した。
しかし、昭和天皇自身、川村との思い出を聞かれ、
「幼い時のことで、全く覚えていない」と述べている。
663日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:03:19
662は本当にバカ
オレが薩摩弁がうつったなんて書いてないだろう。
オレがお前をバカといったのは649のレスを
「薩摩が公家を排除した」なんて勝手に解釈してるからだ。
649は昭和天皇の教育を行ったのは薩摩の人間と書いている。
それはそれで正しいお前はそれも否定しているんだよ。
甘露寺が昭和天皇の教育を行った事ぐらいは知っている。
だからオレも公家文化を追放したとは書いていない。

自分の知識をひけらかそうとして他人のレスを歪曲するな。
お前の方が明治以降の公家文化も武家文化も西洋文化も全て取り込んだ明治の宮中を公家文化偏重で見ているんだよ。
664日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:16:23
それから、学をひけらかしたいなら、もう少し紳士的にやれ。
「川村が昭和天皇の養育をやったのは四歳ぐらいまでで、後は東宮侍従の甘露寺に委ねられた」と書けば済む事だ。
わざわざ「頭大丈夫か」とか失礼な事を書くな。
読んでいて腹が立つ。
学があっても礼節がないなら意味がない。
665日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:26:33
647のsage おめえ第3文明人の3国系在日が一人前にほざいてんじゃねえよ! 朝鮮帰れ!3ちょん
666日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:39:37
>664
礼節のある人間が「本当にバカ」とか幼稚なことをかくかね?
ここはお前の落書帳じゃないんだよ。屑。
667日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:41:53
ここはひどいインターネットですね
668日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:44:07
>666
お前が屑だからオレも礼節はいらないんだよww
わかったか!ゴミかす
669日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:19:56
667のsageよ 良識ある日本人に成り済まますなよ!3ちょん 朝鮮帰れ!
670日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:29:50
sageよ おめえの仲間の688の工作員にも、日本語書けよて行っとけ!戦前の朝鮮人の日本語言葉書くなよ!朝鮮帰れ!
671日本@名無史さん:2009/04/29(水) 00:34:28
sageおめえの666 668の第3文明人に仲間の工作員にもいっとけ 良識ある日本人に成り済ますな!3ちょんが3人
672日本@名無史さん:2009/04/29(水) 09:39:15
647 667の第3文明人の在チョンsageよ!豚丸焼きテーブル置き周りで嬉しく踊る風習 北の豚将軍讃える基地がい儀式だろ?日本人成り済ましの在日チョンのsageならわかるなあ!朝鮮帰れ!
673日本@名無史さん:2009/04/29(水) 09:44:38
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674日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:04:49
673の在日チョンのsage! 朝鮮落書きしねで おめえお勉強した日本語書けよ!ちょん 北朝鮮帰れ!
     (´ ⌒`) ムカッ!!
       l   l
     | |ファビョーン!! !         
     _____               
   /賠償;;謝罪::\〜プーン    
  /::::::::: 寄生:::::大嘘\〜プーン     
  |火傷 ;;;|_|_|_|_|〜プーン..
  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ヽ〜カタカタカタ  
  |::( 6∪   (゜\iii'/゜ノ ヽ〜カタカタカタ    
  |ノ/∵∴  ( o o)∴\      
  | \∵∵    3 ∵/  
  \        ⌒ ノ______   
    \_____/ |   | ̄ ̄\ \ 
___/  チョン .\... | 起源主張| ̄ ̄|
|:::::::/  \___   \| 捏造専用 |__| 
|:::::::| \____|⊃⊂|__|__/ /
|:::::/      | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
676日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:40:13
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677日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:17:42
675 676の在日チョンのsageだ! 早く豚将軍の丸焼きのバカ踊る教えろよ!基地がい日本人成り済ましチョンのおめえならわかるだろう!朝鮮帰れ!
678日本@名無史さん:2009/04/29(水) 15:25:35
在ちょんsage!おめえなら豚将軍の丸焼きの前でバカ踊り参加しただろうに!在ちょん豚踊り体験記でえいでえー朝鮮帰れ!
679日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:19:03
677 678の在日チョンのsageだ! 早く豚将軍の丸焼きのバカ踊る教えろよ!基地がい日本人成り済ましチョンのおめえならわかるだろう!朝鮮帰れ!
680日本@名無史さん:2009/04/30(木) 18:11:46
宮中は濁点使わないってことはないでしょ。
大和言葉が語頭に濁点がつかないってのと混同?

それとは全く関係ないが冷泉は「れいぜい」ではなく「れえぜえ」だそうだ。
681日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:08:31
>>680
冷泉家について御くわしそうなので教えてください。
次期当主は内定しているのでしょうか?。
その方は女系でも定家の子孫ですか?。
全く定家の血縁でない人が冷泉家を継承するのでしょうか?。
682日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:59:13
冷泉家はああいう活動してるし表に出る機会が圧倒的に多いから絶することはないだろうが、
ここ最近でも地味に途絶えていってた(もしくは途絶えること確実の)堂上公家はちょいちょいあるね。
683日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:36:29
>>682
冷泉家と言えば同族の藤谷家が阪神淡路大震災で全滅したと聞いたが本当?
684日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:14:46
入江侍従長の実家の入江一族は男系で定家の子孫だっていうけど本当?
685日本@名無史さん:2009/05/13(水) 00:10:32
>>684
調べてみたら本当のようですね。

藤原定家−為家−冷泉為相−為秀−(為邦)−為尹−為之−為富−為広−為和−為益−為満−
藤谷為賢−冷泉為清−為綱−為久−為村−為泰−為章−為則−為全−為理−入江為守−相政侍従長
686日本@名無史さん:2009/05/17(日) 09:04:49
じゃあ入江家の方が冷泉家を相続したら一番イイんじゃないの?
ちがうかなあ?
冷泉家って定家の血筋を引くことだけが二条流にたいして優位に主張できる処なんだしいw。
687日本@名無史さん:2009/05/17(日) 10:03:24
いや、御子左の二条家はとっくに断絶しているし
688日本@名無史さん:2009/05/17(日) 12:19:48
御子左流は二条家(摂家の二条家とは無関係)、京極家、冷泉家のうち
二条家と京極家が室町時代の間に断絶、残った冷泉家は上・下冷泉家の2家に分裂
江戸時代には上冷泉家から入江家と藤谷家が創立され藤谷家が平成の時に断絶?
残った上・下冷泉家・入江家が現在に至ると言うことか
689686:2009/05/19(火) 13:42:33
>>687
だからちゃんと二条「流」って書いてんじゃん。
二条家とは書いてないし。
二条流=天皇家・三条西家・烏丸・中院etc
鎌倉以降ずーっと、ずーっと、ずーっと二条流(二条派)が圧倒的に優勢でしょ?。
冷泉家が尊ばれたのは、その血統に対してのみのはず。
冷泉の歌は「がさつで田んぼの泥くさい」歌が多いし。
関東の武士に愛された理由が良く分かるw。
優雅さ幽玄さに欠けてるんだよなあ。
690日本@名無史さん:2009/05/19(火) 13:55:16
>>688
日本語でおk
691日本@名無史さん:2009/05/20(水) 06:30:02
>>689
まぁ、どっちにしても近代和歌によって完全否定されているけどね。
692日本@名無史さん:2009/05/20(水) 12:23:54
それを言っちゃ〜御終えよーw
693日本@名無史さん:2009/05/20(水) 20:50:19
>>691
短歌と和歌は違うよ?。
このスレで、そんなコメントする人がいるとは。
694日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:34:02
>>693
だが、木下長嘯子あたり以後散々だった訳だが。
695日本@名無史さん:2009/05/22(金) 16:20:00
狂歌と和歌は違うよ?。
このスレで、そんなコメントする人がいるとは。
696日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:42:54
そもそも日本史板でまともな文化史を期待する厨房がいることに驚きなのだが……
697日本@名無史さん:2009/05/23(土) 17:52:32
冷泉家って鎌倉将軍家や足利家の家礼だったんだろ?
698日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:50:05
ひやいずみけ
699日本@名無史さん:2009/05/28(木) 15:07:17
ぽぽんーー!!
700日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:34:55
>>689
しかし冷泉家は今でも歌道を継承している処は高く評価しても良いかと思います。
他の公家の末裔に、そんな御宅は無いのではないでしょうか。
三条西、中院、烏丸様らが現在でも歌道を継承していると聞いたことがないですからね。
他の皇族については知りませんが有栖川流書道を継承されている秋篠宮は二条流かもしれませんね。
有栖川宮家は二条流の家元でしたから。
701日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:47:40
三条西は歌道はともかく御家流香道を継承してる罠。
702日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:05:23
三条西の親戚の風早も香道と歌道の家だよ〜っ
703日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:01:15
>>700
山科は衣装をやってるし植松は華道の家元だぜ
704日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:52:33
>>703
ほんとだ。ググッたら植松っていう華道の家元が京都府にあった。
村上源氏なんだね。滋賀とか大阪も含めて関西では有名な家なの?。
705日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:12:09
四条家の式包丁も忘れてはいかん。
山科家と同じく高倉家も衣文道やってるし。
706日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:28:14
>>703>>704旧華族で公家の末裔の華道家元なんて
ほんとうに有るんだね
京都というところなんか
まるで二時間もののサスペンスドラマ
にでてきそうな設定だね。
事件が起こりそうな雰囲気。
707日本@名無史さん:2009/06/19(金) 19:20:25
今週終わった「尼門跡の世界展」の解説では
尼門跡寺院は京都・奈良に13箇寺残ってるとあった
なぜ村雲御所を無視するのか
708日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:07:04
小笠原門跡の後で尼僧さんが入られたと思うのですが、もしかして男僧さんが入られたので尼公上人が空位かも知れません。立派な御弟子さんもいましたのに、尼僧相続が絶えたのなら残念です。あれだけ尼僧さんが在籍する御宗門なのに不可解。
709日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:23:35
>>707
滋賀の田舎に移転して古都の京都・奈良に残ってないからじゃね。
しかも城跡に移築してるし、観光施設化している。
710日本@名無史さん:2009/06/20(土) 16:17:07
今回の展示会の主催だった中世日本研究所に瑞龍寺が入っていないから出なかったんじゃないの?
戦後の門跡がいろいろ使い込んだりしたと聞いているから出展できるほどの寺宝を持っていないんじゃないの?
711日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:49:06
清華家や羽林家は少将中将を経てるけどポスト足りなさそうだが
少将中将以外から出世することはなかったの?
712日本@名無史さん:2009/07/15(水) 13:06:48
なもんで羽林家の場合はそれなりに長生きせんと出世はできんという
713日本@名無史さん:2009/07/15(水) 14:12:08
羽林家・名家から地下人や侍まで、家格上昇の早道は長生き。

3〜4代ほど実系直系で続いて、その間当主が70歳以下で死亡する事がなかったなら、
その家の極位極官とか家格は、まず確実にアップすると思われる。

羽林家や名家の中の旧家なら、娘を典侍に出し国母の女院狙いという手も。
714日本@名無史さん:2009/07/16(木) 12:35:16
摂家や清華家と官位がかぶらない名家のほうが出世できそうだけど
どうなんだろう
715日本@名無史さん:2009/07/17(金) 13:35:52
>>713
江戸時代はすでに身分が固定化していて
一族から典侍出身の国母を出してもその外戚一族が
大出世するなんてことがなかったからな。
それどころか生まれた皇子は取り上げられて
五摂家出身の天皇の嫡妻の子と公称されることも多かった。
典侍も死ぬ間際か出家した際に女院号を受けるのみで
天皇生母として政治権力を手中にするということがなかった。
716日本@名無史さん:2009/07/17(金) 17:23:24
>>713
外戚は系図上、五摂家なんだから
出身家なんて出世に関係ないじゃん
717日本@名無史さん:2009/07/17(金) 18:10:55
>>715>>716
天皇の生母を出した家でも、大出世や政治権力を手中に、とかはもちろん無理だよ。

だけど、中納言・大納言・本座宣下・従一位・准大臣・内大臣など、
家の極位極官になれる年齢が、父祖たちよりも若干早まる程度の影響はあり、
本人たちにとっては、とても大きな事だった。
718日本@名無史さん:2009/07/18(土) 12:50:29
天皇生母の家の極位極官が
1段階進むぐらいまでだったら
大いにありそう
719日本@名無史さん:2009/07/18(土) 12:53:55
>>717
家格が固定化されて、かつ出世にかかわるような政治的な役割も失われた
江戸時代の公家社会にとって、それは大きなことだよね。
720日本@名無史さん:2009/07/18(土) 20:15:29
>>717
具体例を見てもそんな例はないが?
江戸時代に関して言えばね。
どの例のことを言っているの?
721日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:49:45
>>431

> 天皇>摂関>三公(太政大臣・左大臣・右大臣)>宮家親王>清華
摂関の職じゃなく摂関家が三公より上ってことか?
722日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:49:51
>>721
家の問題じゃなくて、個人の官職による序列でしょ。
摂家といえども内大臣だったら、清華の前右大臣より下。御所の席次をもっと正確には、

 摂政関白、准三宮の前摂政関白、太政大臣、左大臣、右大臣、宮家親王、前摂政関白、
 前太政大臣、前左大臣、前右大臣、内大臣、前内大臣、准大臣、従一位、本座宣下の前大納言、
 大納言、前大納言、中納言、前中納言、参議、前参議、正二位、従二位、正三位、従三位。

官職によらずに家柄を問題にするのは五摂家だけで、対大納言以下の場合。
五摂家の当主・嫡子ならば年少で四位少将であっても、大納言以下からは家来としての丁寧な礼を受ける。
723日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:22:12
>>722
(宮家)諸親王は前大臣よりも下じゃないの?
724日本@名無史さん:2009/07/24(金) 08:56:51
>>431 に宮家親王>清華

清華って入っていたから摂関家と清華家は席次は上位かと思った。
725日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:29:36
>>723
前大臣どころか前摂政関白でも、摂政関白退任時に准三宮の宣下がないと、宮家親王の下座に落ちる。
但し摂政関白に任じられるのは、現任大臣からだけでなく前大臣からも任じられる事がある。

参議以上の官職である者・あった者の序列は、位階を問わずに官職による。前官よりも現官が上位。
参議に至らない官職の者の序列は、官職を問わずに位階による。同位者間は叙位の早い者順。
726日本@名無史さん:2009/07/25(土) 02:06:24
>>725
准三宮は貰えずに内覧宣旨を受けた場合は?
727日本@名無史さん:2009/07/25(土) 03:10:39
>>726
さあ知らない。
江戸時代は関白か摂政のどちらかは常置で、摂政と関白には必ず内覧と氏長者は付随する。
准三宮だろうとなかろうと摂政関白の退任があれば、次の摂政関白が決まるわけで、
氏長者はただ1人だけなので次の人に行くので、同じように内覧も去るのじゃないかと思うが。
それとも現任の摂政関白のほかに前摂政関白も内覧を保持したままの場合が、江戸時代にあったんだろうか。
728日本@名無史さん:2009/07/26(日) 01:26:22
>>727
中世以後摂関退任後に内覧の権能のみを引き続き認められた例は多い。
建武政権ですら摂関は廃止したけど、近衛・二条・鷹司の3卿による内覧三人制を導入している。
江戸時代だと、関白退任後も引き続き内覧とされた例として鷹司政通がいる。
729日本@名無史さん:2009/07/26(日) 11:46:56
>>726の「准三宮は貰えずに内覧宣旨を受けた場合」が、
江戸時代にあったかどうか。鷹司政通は准三宮宣下。
ここのところ、江戸時代限定を前提とした話の流れだと思うし。
730日本@名無史さん:2009/08/01(土) 14:37:11
>>718
江戸時代なら権中納言を極官とする園家が天皇の外戚になったことによって
権大納言を極官とする家に昇格した
731日本@名無史さん:2009/08/01(土) 16:54:18
足利将軍家または徳川将軍家の将軍と摂政の席次は
どちらが上ですか?
732日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:28:15
>>730
園家を外戚とする霊元天皇がやりたい放題の帝王だったからね。
自分の外戚を出世させ、側室の松木宗子を溺愛して皇位継承を混乱させ、
宗子とその母が政治を好きに操っていると関白に揶揄された。
霊元天皇の政治が異常。
733日本@名無史さん:2009/08/12(水) 15:05:18
大臣家はどういう経緯でできたの?
ほとんど羽林家とたいして変わらないようだけど
734日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:34:53
>>733
室町期の三条西家は清華と変わらないと思うけど?
たしかに羽林の旧家も大臣を出してはいるけどね
735日本@名無史さん:2009/09/24(木) 21:17:49
736日本@名無史さん:2009/10/02(金) 09:00:23
 
737日本@名無史さん:2009/10/02(金) 11:09:07
極官は各 正三位、従二位? 正二位? 誰が規準決めたの 五摂関家はなし合い?
738日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:01:47
江戸時代の日野家、烏丸家、高倉家、広橋家、萩原家の石高は家格の割には多い
特に萩原家は新家なのに1000石ってすごいな
それに比べて他の新家が30石の所もあっては悲惨すぎる(´;ω;`)
739日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:26:34
神祇堂上だからね。でも宗家の吉田家より多いね。
豊国神社の社務だったときの家禄が多かったのかな。
740日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:46:16
次男坊たちの江戸時代

おすすめ
741日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:47:59
age
742日本@名無史さん:2009/10/23(金) 08:55:33
>>722
>>五摂家の当主・嫡子ならば年少で四位少将であっても、大納言以下からは家来としての丁寧な礼を受ける。
大臣になる摂家の当主・嫡子に対する態度が変わってくるのですか?
743日本@名無史さん:2009/10/23(金) 11:36:18
>>742
>大臣になる摂家の当主・嫡子に対する態度が変わってくるのですか?

文意が汲み取れないけど・・・。
744日本@名無史さん:2009/10/23(金) 12:39:58
清華家以下が大臣になると摂家に対して家来としての丁寧な礼はとらなくなってしまう?
745日本@名無史さん:2009/10/23(金) 13:18:08
>>744
そのようです。内大臣とそれより下とでは相当の懸隔がある。
公卿(従三位以上)と四位以下との間の懸隔以上に。

まあ現実には清華でも、内大臣になれるかどうかの事が多いみたいだけど。
内大臣にさえ一旦なれば、清華以下の人でもやっと、
摂家・親王家クラスの格式の最末席になんとか仲間入りってところかな、自分一代だけは。
746日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:41:08
【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】


植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40

1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」

2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。  陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」

3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
"勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? 
このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」

4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官
をクビにするだけです。それが政治主導です」

5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
747日本@名無史さん:2009/11/05(木) 02:33:07
過疎スレ保守






























748日本@名無史さん:2009/11/19(木) 16:24:41
綾小路家って傍流にしては家業を多くもっていたみたいです。
749日本@名無史さん:2009/11/23(月) 09:55:26
大炊御門は清華家のなかでも格が高いみたいだけど二条天皇の外戚になったからなの?
格が高いと出世が早いとか特典もあったりしたの?
750日本@名無史さん:2009/11/23(月) 14:56:25
大炊御門家は室町時代に断絶して
格下の中山家からの養子が跡を継いだんだな。
751日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:01:17
大炊御門は近世は地味ですね
752日本@名無史さん:2009/12/04(金) 03:16:03
>>705
山科家って京都に住んでるんだね
冷泉家だけじゃないんだ京都在住の堂上の末裔。
753日本@名無史さん:2009/12/09(水) 05:02:31
>>175
江戸時代初期まで堂上家でどういうことか地下に格下げされてそのまま明治をむかえたとか
同じく地下に格下げされた藤波家は後に堂上家に復帰できたのに…
754日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:26:19
>>703>>704>>706
堂上公家で華道家っているの?。
京都、在住?。
755日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:51:11
 
756日本@名無史さん:2010/01/11(月) 09:29:28
摂家の門流にならなかった家は出世で不利とかなかったの?

門流にならない理由って何?
757日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:22:12
>>754
参考までに。
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1148292575/

ちなみに植松家は、村上源氏の流れをくむ岩倉家の分家千種家の
そのまた分家。
江戸時代に華道、松月堂古流を起こした。
758日本@名無史さん:2010/01/22(金) 13:37:04
>>757
まつつきどうこりゅう?って読むの?。
松月堂古流・植松ってググッたら出るのかなあ?。
759日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:01:55
ググってみりゃいいじゃん
760日本@名無史さん:2010/01/28(木) 16:19:37
>>758は明らかな釣り
761日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:19:13
幕末の宮廷、どうやったら手に入る?
762日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:07:26
>>761
アマゾンいきなよ。
763日本@名無史さん:2010/02/07(日) 20:27:31
個人的には『幕末の公家社会』もお薦め
著者が韓国人なのでそこに拒否反応を示す奴はいるかも知れないが、却って難解な専門用語は少ないので読みやすいぞ。
764日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:18:00
ただし値段は高い
765日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:29:41
POD版/TSUTAYA
http://store.tsutaya.co.jp/item/sell_book/9784256803530.html
eBookJapan
http://www.ebookjapan.jp/ebj/book/60002853.html

あと、考証幕末京都四民の生活 (1974年) (風俗文化史選書〈11 日本風俗史学会編集〉)
明田 鉄男 (著) には同じようなことが書いてある。アマゾンの中古なら今出品している。

766日本@名無史さん:2010/02/08(月) 03:41:57
>>765
『幕末の宮廷』と『幕末の公家社会』は持っているけど、
そう言えば『考証幕末京都四民の生活』はまだ読んでいなかったな。

『考証幕末京都四民の生活』って、1974年に新刊発刊時点で何円で出版された本なんですか?
「日本の古本屋」サイトで古書価格が\5000〜\5250で出ているけど、(アマゾンだと\7680)、
高いのか安いのか判断がつかなくって・・・・・・。
767日本@名無史さん:2010/02/08(月) 08:51:20
>>766
僕がコピーしたものは昭和49年発行、金2000円と書いてある。
ハードカバーだが小ぶりな本で2000円は当時でも高い設定じゃないかな。
判断がつかなければ図書館で探してみれば?魚屋が地下になって大喜び
している様子など内容は幕末の宮廷と被る点が多いです。
768日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:17:29
公家の魅力って何?。
公家オタクの皆さん教えて?。
なんですか?。
769日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:46:55
>>767
どうも情報ありがとうございます。
昭和49年ならオイルショック後だし小ぶりな本なら、現在出版するとしても\2000台止まりだろうね。
昭和49年に全集物の1冊で\2000で出版なら、古書価格\3000程度で出ものがあっても良さそうなのに。
近所の県立図書館の蔵書検索したら禁帯出になってる。同じくコピー組かな。
770日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:17:56
>768

古代から続いているって言う事がすべてだろうな。

決して優秀な人材を生むわけでもない家系が、なんとか現代まで続いている所が面白い。
戦前の学習院には、元公家の子弟、元大名の子弟、維新乞食の子弟の3種類の学生がいたそうだが、
公家の子弟の出来がダントツで悪かったらしい。

それでも、没落の度合いは、元大名、維新乞食に比べてマシらしい。
(もともと戦前から貧乏だった家が多かったので、貧乏の耐性が出来ていたと言う面もあったようだが)

771日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:38:31
新家でなく旧家で幕末までに、養子取りなどで男系に、
堂上・皇族以外の血が入り込んでる家は、どこかありましたっけ?
772日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:28:29
>>768
狩衣烏帽子、直衣に衣冠、束帯だな。
多少細部の変遷はあるとしても、通常の服では
なくなったとしても1000年以上も同じ
服装を着ているのは日本の貴族だけ。
773日本@名無史さん:2010/02/19(金) 17:57:58
 
774768:2010/02/21(日) 14:03:09
>>770
そうですか。御解答ありがとうございます。
血筋という意味では公家だけが貴族といえるような気がしてきました。
775日本@名無史さん:2010/03/02(火) 20:47:27
 
776日本@名無史さん:2010/03/02(火) 21:37:00
ヨーロッパだってナポレオン時代の帝政貴族もいれば、
ヴィクトリア時代のブルジョア新興貴族もいるわけで、
日本の勲功華族だけが成り上がりというわけではない。

まして江戸大名の武家華族なら、正真正銘の立派な貴族だろう。
777日本@名無史さん:2010/03/02(火) 22:16:51
忠臣華族と奈良華族はちょっと恥ずかしいかな
778日本@名無史さん:2010/03/03(水) 07:58:07
奈良華族は経済的にビンボーなだけで、家柄・血筋自体はれっきとした公家だが、
摂家の子弟はごく一部で、大部分は下級公家の次三男だったりする。
779日本@名無史さん:2010/03/03(水) 12:46:12
>>344
庭田家は、伏見宮家の雑掌の家柄
武家だと、側用人とか小姓頭
今だと、総務人事部総務Gか秘書Gの職制課長
780日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:49:19
それはちょっと違うんじゃないか?
781日本@名無史さん:2010/03/04(木) 16:24:13
オレも違うと思う。
庭田家・田向家の両宇多源氏は崇光流天皇家の外戚や近習として
室町時代中期には相当羽振りが良かったはず。
武家で言うと徳川将軍の母親の実家が大名や大身旗本として
取立てられたようなものかと・・・。
782日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:50:59
庭田家の話が出たんでついでに聞きたいんだが、
綾小路家って昭和の当主だった綾小路護氏には男子はいなかったの?
長女の章子は殺人事件で有名になったけど・・・
本家は断絶?
783日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:52:17
すまん過疎スレなんであげさせてもらうわ。てかあげんの忘れた。
784日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:37:14
公家の代名詞のような「綾小路」さんが、そんな殺伐とした事件をおこしてたのか。
きみまろもビックリだな。
785日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:26:50
>>779
庭田家を総務課長や秘書課長にあてはめるのにワロタ
>>784
近代の華族の系図が載っている本の平成版(名前忘れた)にはその長女は削除されずに普通に載っているね
あと志賀直哉の奥さん(勘解由小路家出身)なんてなぜか実家の系図に載らず初婚の家の系図には載っている
786日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:02:32
庭田家が総務課長なら、津田家は何になるんだろな
総会屋担当とか、特命担当とかか?
787日本@名無史さん:2010/03/07(日) 03:43:40
庭田は蔵人頭に補され四位より参議に任じ大納言まで直任され従一位宣下される家柄
788日本@名無史さん:2010/03/07(日) 04:24:07
江戸時代に典侍を出せる家と、掌侍にしか出られない家の境界線を知りたいです。

典侍を出せる家の最下位レベルの家と、掌侍にしか出られない家の最上位レベルの家を、
家名の例を幾つかずつ挙げて、教えて下さい。
789日本@名無史さん:2010/03/07(日) 05:33:53
庭田がまさに典侍を出せる家
790日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:58:14
典侍(仙桐・大宮・東宮などの上臈・小上臈含む)になれる家は羽林・名家のうち大納言直任の家あるいは蔵人頭になれる家(明治以後多くは伯爵)らしいので、
・閑院家―◎正親町、◎滋野井、◎姉小路、清水谷、◎四辻、◎橋本
・花山院家―◎中山、◎飛鳥井、◎今城
・中御門家―松木、◎園、東園
・御子左家―◎上冷泉
・日野家―日野、◎広橋、◎柳原、◎烏丸
・勧修寺家―◎甘露寺、◎葉室、◎勧修寺、◎万里小路、清閑寺、◎中御門、坊城
・四条家―四条、◎油小路、鷲尾、◎櫛笥
・宇多源氏―◎庭田
あたりではないかと(◎は光格朝〜孝明朝の女房次第などに典侍・上臈・小上臈として見える家)。
他に女房次第などを見ると、
大臣家の正親町三条の女、
そして難波、六条、高倉、千種、大原、綾小路、持明院、岩倉、勘解由小路、石山、高松、山井の女が
典侍(・上臈・小上臈)になってる例もある
(掌侍の家の女でも典侍の家の猶子になれば典侍にはなれるがその旨注記なし)

掌侍(仙桐・大宮・東宮などの中臈含む)になれる家はそれ以下の堂上。
女房次第から拾うと、
高野、樋口、久世、高松、東坊城、壬生、八条、伏原、藤波、高丘、舟橋、石山、高辻、梅園、倉橋、五辻、岡崎、中園、梅渓、外山、萩原、石井、花園、豊岡、山本、千種、勘解由小路
あと何故か頭中将になれる今城の女や
地下だが三位以上に昇りうる家である下鴨社司鴨脚家、上賀茂社司岡本家の女が
掌侍(・中臈)になってる例もある。
791日本@名無史さん:2010/03/18(木) 19:12:33
公家町再興希望
792日本@名無史さん:2010/03/18(木) 20:22:35

江戸時代でも、多少とも貴族らしい体面が保てた暮らしをしてたのは清華家ぐらいまでだから、明治の
華族制度もそこで押さえるべきだったな。
華族の数が多過ぎると言う声は明治の最初からあったが、貧乏公家まで華族にしてしまったもんだから
歯止めが無くなってしまった。
793日本@名無史さん:2010/03/20(土) 16:29:28
英国の貴族は日本より遥かに多いけどな
しかも準貴族なんてのもいるし
794日本@名無史さん:2010/03/21(日) 12:31:42
まあ華族なんて伊藤や山県など馬の骨みたいな輩が
中心となって作った制度だからね。そんなものに価値はない。
795日本@名無史さん:2010/03/24(水) 09:05:12
良スレ保守
796日本@名無史さん:2010/03/24(水) 18:01:37
>>794
ナポレオンの帝政貴族も似たようなもんだけどな。
イギリスの貴族も中世以来の家柄はほんの一部で、大半は近代に授爵した新興貴族だし。
797日本@名無史さん:2010/03/27(土) 06:49:49
確かに中世以前からの華族の家系(旧家・守護大名の家系)は少ない。
大半は近世大名や新家、明治以降の新華族。伊藤や山県や徳川や前田やらに
価値があるとは思えん。
798日本@名無史さん:2010/03/27(土) 08:47:28
徳川や前田に価値がないなんて、水呑百姓の末裔がよく言えたもんだw
799日本@名無史さん:2010/03/27(土) 08:56:17
>>799
だよなw
800日本@名無史さん:2010/03/27(土) 08:57:00
>>798
だよなw
801日本@名無史さん:2010/03/27(土) 09:24:07
それなら伊藤や山県に価値が無いとも言えない。
802日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:08:14
指導層平民の時代=平安?平成?
803日本@名無史さん:2010/03/28(日) 14:00:05
歴史を今の価値観で批判することに意味がない
その時代時代の価値観を究明すべきだな
804日本@名無史さん:2010/04/09(金) 22:28:58
805日本@名無史さん:2010/04/14(水) 17:08:55
「うた守り」の家・冷泉家展が4月17日から始まるらしいね。
806日本@名無史さん:2010/04/14(水) 23:52:27
大河「草燃える」での定家卿の描かれ方ひどすぎる。
冷泉家は神と等しく祀っているのに。
807日本@名無史さん:2010/04/15(木) 06:42:15
>>806
冷泉氏は、遡ると、那須与一の那須氏で、更に、遡ると、安倍氏と同じ、桃太郎伝説の大彦命だっだね。
808日本@名無史さん:2010/04/20(火) 21:25:19
定家の子孫は二条家だったはずだから
冷泉家は二条家の分家というほうが正確なんじゃないかなあ?
二条家が断絶しても冷泉家が定家嫡流になる理屈はないとおもわれるのだが。
809日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:40:34
じゃあ嫡流はどこよ。
810日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:18:46
公家の家系なんて、どこでも養子が相当交じっているんだから、
実男系をたどる事は、公式には殆ど無意味。

その家が何流であるか、どちらが嫡流庶流であるか、本家分家の関係などは、
その家名が家として成立した「初代」の出身だけによって、公式に定まっているもの。
家系の途中で断絶再興などの理由で、多分勅定によって改定された少数の例外を除いて。
811日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:34:54
>>809
現在では定家の嫡流は絶えて無い
ってこと。
冷泉家って勅定で嫡流になってたの?。
誰の代で?。
もしかして初代冷泉為相からの嫡流論
w
812日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:43:27
新家はともかく旧家で養子とらずに実子継承のみで現在に至る家ってあるのかどうか疑問だ
813日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:56:23
>>808>>809>>811
公家の嫡流庶流本家分家という言葉は、家に対して使われる言葉。
実男系である事を必要条件としない。

定家の実男系子孫を問題にしたい場合なら、嫡流という言葉を使わずに、
はっきりと実男系子孫とでも言わなきゃならないね。
814日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:29:04
>>813
そうじゃなく
そういう血筋(狭い意味の)の話じゃなくて。
冷泉家って、二条家の分家なんでしょ?。
御子左家(御子左流)の嫡流は二条家だったんでしょ?。
二条家が断絶したからって冷泉家が嫡流に繰り上がっちゃうの?。
南朝の外戚だった二条家と・・・その時代の冷泉って明らかに違うよねえ?。
冷泉家が定家の子孫ていうのは違うんじゃないの?。二条家が定家の子孫で、冷泉は二条の分家。
冷泉家も子孫には違いないけど、分家なんだから、まず二条家を立てるべきなんじゃないの?。「二条
家が、定家の子孫で、冷泉は二条の分家です」と謙虚に家柄を説明すべきかと。
815日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:44:57
定家 冷泉は 高明(光君)実子孫→ミチナガの養子孫 の家系
816日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:41:52
>>815
養子で孫だと、高明が光源氏では無いと言ってるようなものだぞW
817日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:45:50
>>815
大体、光源氏と藤壺の方との子が、冷泉氏である必要もない訳で・・頭のおかしい冷泉天皇側の自称な訳だしな。
818日本@名無史さん:2010/05/02(日) 11:13:48
819日本@名無史さん:2010/05/02(日) 13:25:26
俺が嫡流
820日本@名無史さん:2010/05/02(日) 15:45:07
821日本@名無史さん:2010/05/17(月) 22:29:27
822日本@名無史さん:2010/05/17(月) 22:40:00
昭和の時代劇に出てくる公家衆はたいてい悪者だったな。
人殺しの武士の方がヒーローなんだ。
823日本@名無史さん:2010/05/18(火) 20:58:36
成田三樹夫先生の「カラスマル少将」とか

柳生が主役なんだから仕方ない。
824日本@名無史さん:2010/05/18(火) 21:33:17
時代劇は戦国〜江戸時代・幕末・明治維新の武士の話を延々とやってるもんな
公家が主人公の時代劇なんて極稀。
825日本@名無史さん:2010/05/21(金) 22:11:22
水戸黄門は「さきの中納言・・・ははー」となるが、
公家の中納言なんて新家の30石3人扶持でもなれる。
水戸黄門は、さして偉くはない(高い官職ではない)。
826日本@名無史さん:2010/05/22(土) 01:54:40
時代劇というものが出来たのは大正の後半から
西部劇映画を日本に移し替えたもの
827日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:51:54
>>823
それを言うならwwからすま少将じゃねェ?
からすまどおりっていうんだよ京都はw

828日本@名無史さん:2010/06/04(金) 07:30:58
>>827
おい、人んちの名字を勝手に変えんな。
たしかに通り名の烏丸は「からすま」というが
公家の烏丸は「からすまる」と言うんだよ。
ちなみに通り名も元は「からすまる」で
「る」を言わなくなった。
829日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:54:25
>>827
恥ずかしい奴w

828の言うとおり通り名も元は「からすまる」だったんだよ
だから公家の家名は「からすまる」なんだぜ

ひとつ勉強になったか?
あ、2匹釣られたとか言うの見苦しいから無しねw
830日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:17:23































831日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:38:54
>>827そうやんねぇ「からすま」やんねぇ烏丸の事を京都では〜〜
地方(もちっ関東の東京含む)の田舎もんは
「からすまるどおり」って読んじゃうんやんねえw
832日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:06:03































833日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:24:57
834日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:50:32
恥じかいた奴がスレ流そうと必死だなw
835日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:42:33
>>470
広幡家の家格は清華家だけど左右大臣になった当主はいない
836日本@名無史さん:2010/06/13(日) 12:16:04
大臣の需要と供給のバランスは常に需要>>>供給だったから、
清華家といえども左右大臣にまでになるのは・・・いわんや大臣家だな。

そんな中、江戸時代に家格を超えて内大臣になった4名
清閑寺共房、松木宗条、松木宗顕、櫛笥隆賀
松木親子と櫛笥は外戚だけど清閑寺はどうして任官できたのかな?
837日本@名無史さん:2010/06/13(日) 12:28:16
清閑寺と言えば、家名の由来となった東山の清閑寺。
小さいがとても雰囲気のある素敵な寺だ。

がしかし山の下の清水寺と違っていかんせん知名度がない。
当然金もなく保全できるものもできない。
西郷隆盛と月照が会談したという茶室は朽ち果てて崩壊してしまった。
住職によれば修理費もなく、なくなく崩壊させてしまったという。

にもかかわらず拝観料はとらず、心付けという形をとっている。
がしかし1円たりとも払わずに帰っていく人が多い。

昨日も某寺の住職が高級車でコンビニに乗り付けてクルマ雑誌と酒を購入していくのを見たが、
清閑寺の佇まいを思い出すとなんとも言えない気持ちになる。ちんぽ。
838日本@名無史さん:2010/06/13(日) 12:42:28
某寺ってどこ?
839日本@名無史さん:2010/06/13(日) 16:42:51
清閑寺ていう老舗ではない和菓子屋もあるね。
840日本@名無史さん:2010/06/13(日) 23:12:28
>>835
広幡家は何で清華なんだろうね。
大臣家でもおかしくないような感じだが。
841日本@名無史さん:2010/06/14(月) 02:37:29
>>840
正親町源氏としての血筋は1代で終わっていて以後は養子だからじゃない?
842日本@名無史さん:2010/06/14(月) 03:24:42
広幡は代々近衛家猶子になる例じゃなかった?
血統は完全に近衛流だな
近衛の血筋は久我・広幡・白川など源氏系に残っているという不思議
843日本@名無史さん:2010/06/22(火) 22:05:41
>>842
家格に関係なく血統云々を言い出してからオカシクナった日本。
実の娘の婿、よりも同格の家柄からの養子を重んずるべき。
上(宮家および同格摂家含む)からからの養子は良いけれど、
ちなみに、摂家クラスが宮家以下の諸家(地方のコッパ大名含む)から養子をとるのってどうよ?。
844日本@名無史さん:2010/06/23(水) 00:07:49
摂家も格下の宮家から養子が入った例もあるね。

845日本@名無史さん:2010/06/23(水) 00:31:04
現在の広幡家は伊藤男爵家(博文の血統じゃないよ)に乗っ取られた
846日本@名無史さん:2010/06/23(水) 01:01:22
現当主は何してる人?
847日本@名無史さん:2010/06/23(水) 02:18:51
清華家が水呑み百姓の子孫に乗っ取られるとかウソだろ。
848日本@名無史さん:2010/06/23(水) 03:43:40
近代になってからの広幡家は堂上華族との縁組みにはこだわってないようだ。
戦前の当主忠隆が海軍技術少将の伊藤安吉の息子を婿養子を迎えているのは、
忠隆が逓信省の官僚(管船局長、灯台局長)だったのが関係あるかも。
849日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:35:51
というか忠隆自体が平民(結婚後に妻の父が男爵になる)と結婚している
忠隆の弟も勲功華族の娘と結婚して妹も勲功華族や華族の跡取りじゃない息子と結婚している
まあ久我家に比べれば遥かにいいのだが・・・
850日本@名無史さん:2010/06/24(木) 06:52:37
ちなみに忠隆の母昭子は岩倉具視の孫
851日本@名無史さん:2010/06/29(火) 23:01:05
>>848>>849>>850

まず自らの家柄の爵位や血筋を述べてから書けよw
852日本@名無史さん:2010/06/30(水) 10:51:21
>>1
>明治以降の話は控えめに。

明治以降の話が、さも大命題であるかのようには、書き込んだりしない事。
明治以降の話が、何スレも続いたりはしないように、努めて気をつける事。
明治以降の話は、スレの合間にごく遠慮がちに、たまに短文で書き込む程度に抑える事。
853日本@名無史さん:2010/09/06(月) 06:14:11
詳しい方にお願いがあります。
江戸期以前の公卿の屋敷で冷泉家以外の残存状況を教えてください。
よろしくお願いいたします。

ちなみに私の乏しい知識では、
桂宮家 本邸の一部二条城本丸御殿、本邸の門、別荘は桂離宮
有栖川宮家 本邸の一部京都女子大学
閑院宮家 本邸の一部(内部は大改装)、門が現存
九条家 本邸跡に御茶屋、本邸の一部東京国立博物館へ移築
一條家(醍醐家) 別荘のお茶室が鎌倉へ移築、重要文化財


854日本@名無史さん
×有栖川宮家 本邸の一部京都女子大学
○有栖川宮家 本邸の一部平安女学院大学