なんで公家は公家のままだったのか

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952日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:00:13
>>950
確かにすごい大雑把だけどw、でも大きな観点で良いかも知れない。
というのも世辞ではなく、西欧でも似たような事情を感じるからね。

ローマ教皇は、やはり日本の天皇のような立場だと思う。
そして、ヨーロッパは、キリスト教徒から成り立っていた。
ヨーロッパの各王国が成立して、国王たちが力を持った際も、決して
ローマ教皇を打倒の上で、ローマ帝国のようなものを目指したものはいなかった。
(まあ、旧東ローマ帝国は、ちょっと違う展開になったが)
キリスト教徒がローマ教皇を倒すことは、自己否定に繋がる。
そして権威と権力は分かれていった。
この場合の国王たちも、軍事貴族の延長線上にある。違うのは教皇とは
血統ではなく、信仰による連なり。ただ、もっと言えば日本の場合も
単に血統ではなく、信仰も絡んでいる。

日本の場合は、最終的に源平合戦と奥州藤原氏の滅亡があったから頼朝の
政権に一本化されたが、源平藤原の「天下三分並立」もあり得たと思う。
953日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:06:36
カノッサの屈辱
954日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:10:51
>>951
おおっと、ほぼ被ってしまったが、西洋の話題も図らずも一致しちゃったね。
それを読まずに>>952を書いたんだが、>>945を書いたものとして言うならば、
西洋の王朝内での戦いは、非常に近接した間柄の戦いで、権威の差が殆ど
ないことが大きい。というより、権威の源は教皇にあり、国王と血縁者は
実力の違いでしかないに近い状態であること。言ってみれば、頼朝と義経、
足利と新田とか、そんな争いなんだ。
軍事的な力を共に持っていて、かつ権威的な要素はほぼ同等。少なくとも
天皇との対比で言えば彼等同士の違いは「誤差の範囲」でしかない。
まあ、世界史は日本史ほど詳しくはないが、流れ的には西洋のwar lordと
共通する「軍事貴族」であると考えればよい。
その証拠に、軍事貴族とはもう言えないレベルの伊豆の北条氏は、どんな
に実力があっても、征夷大将軍には絶対になれない。
955日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:11:06
軍事貴族というか、
藤原氏んときから天皇を立てて脇で実権を取るってのが確立してるからなあ
もっとさかのぼれば蘇我氏もか。
例外的にときどき親政のやる気ある天皇もいるけど。

そういう権威と権力の分割というベースと
平安時代の兵事やケガレへの徹底的な忌避で
軍事要素を抜かれた存在(公家というか貴族)が生まれたというのがベースで

そういう特殊な構造で権力の移動を迎えたときに
軍事力=権力持った武士層(軍事貴族でもいいや)が台頭したって話だろう。
権力とは別に権威が存在して、そっちをものにするために貴族化という手段をとるから
軍事貴族なんてものになってしまったってだけで。
956日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:14:30
>952
並立したら誰が権威を持つ?

>>954
>かつ権威的な要素はほぼ同等。
>天皇との対比で言えば彼等同士の違いは「誤差の範囲」
それじゃ権威じゃないだろう。
だから日本では錦の御旗を味方につけることが重要なわけだ
957日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:16:44
何か深夜に白熱してしまったw
>>955
あの、ひとつ誤解して欲しくないのは、「ケガレ」という発想に基づく
公家の軍事への忌避感、という流れが、それとは別に厳然としてあった、
というのは否定しない、というよりそれも積極的に支持したい。

だから>>1の前提が、ちょっと大雑把過ぎていると思えるね。
本当は、流れが二つあるんだ。ケガレ忌避の都の貴族と、地方進出の
軍事貴族と。
958日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:19:29
>>956
だから権威ではなく、敢えて「権威的な要素」と言ったんだ^^。
959日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:29:38
チト逃げにも取れるから^^ちゃんと説明しておくね。
「権威的な要素」とは、権威のコピーだと考えればよい。
例えば、水戸黄門(徳川光圀)の漫遊記は完全な創作だが、あの印籠に
ひれ伏すのは、絶対的な権威ではない。徳川将軍の権威のコピーだ。
権威は本来一元化されていくものだが、そういったものをコピーする
事は可能だ。何故なら、黄門様は「権力」を持っている訳ではないから。
何かチャットみたいなペースで応酬したから、話が性急になったが、
「権威的な要素」とはそういう意味ね。
960日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:36:15
天皇…血統原理の権威の頂点

一応血統的に名門な源平…権威を戴き、権力のトップに立つ「資格」あり

そのへんの庶民…実力は合っても「資格」なし

この「資格」が「権威的な要素」ってことか?
961日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:43:54
>>960
うーん、そんなところかな・・・

実は咄嗟の考えだから^^、決して概念として確立した考え方ではないが、
そういうものかも知れない。スマソ

で、最後の課題は、「流れが二つあるんだ」と俺は言った。実はこれが
このスレの最大のテーマだったはずだが、では何故、そのように流れが
分かれたのか、だね。

実はあっけない結論で恐縮なんだが、それは、軍事貴族が生まれる前段
階で、中央での勢力争いの勝敗結果、ということでしかないのでは。

すなわち、勝ち組がケガレ忌避貴族、負け組みが地方進出の軍事貴族。
そして、では軍事貴族は何故、ケガレを忌避しなかったのかだが、そ
れは、負けたものだから、そんな余裕はなかった、ということかな。
これ、結論じゃ、ダメ?^^
962日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:57:05
>そんな余裕はなかった
それでいいんじゃない?

権威はそれが機能する世界の真っ只中でないと飯がくえんが
権力なら飯がくえるしね
権威の中心から階層的にも地理的にも遠ければ
軍事力の権力性を重く見ることになるんだろう

軍事貴族とは少し違うかもしれんが
受領階級なんて上位貴族になれないから
都離れるデメリットがあっても財を取ろうって感じだろうし

>中央での勢力争いの勝敗結果
一概にそれだけでもないだろうけど、皇族の臣籍降下やら
一族中での本流支流もまあ勢力争いっちゃ勢力争いに含まれるだろうから
まあ合ってる気がする
963日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:02:33
うみゅ、・・・もう眠い

深夜の論議、なかなか興味深かったです。スレも終わり近くまで食ってしまいましたね。
武陽陰士さんは何というでしょうか?^^

そして、武士が政権を取るに及んで、勝ち組と負け組は逆転した、という感じでしょうか。
お付き合い頂いて有難うございます。寝ます。
964日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:05:51
もうごじか…
965日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:27:13
>>955
公家に関しては、彼らが天皇に近侍する階層だからこそ、単なる武家同士の
争いには巻き込まれにくい側面もあるが、彼らが完全に軍事から無縁の存在に
なっているかといえば、そうでもない。
中世の後半期に至っても、なお公家が軍事領域に介入することは十分に
あり得る(特に南北朝期や戦国期には公家が合戦に参加して討ち死にしたような
例も探せばいくらも出てくる)。
また近世においても、公家の家には当主用の武具一式がちゃんと揃えてあるのが
普通。
966日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:38:54
>>965
>公家が軍事領域に介入することは十分にあり得る
そりゃ平安後半とか南北朝ってのは京の天皇上皇やら貴族も争いの真っ只中だから
当然といえば当然だわな
967日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:40:48
>>961
>実はあっけない結論で恐縮なんだが、それは、軍事貴族が生まれる前段
>階で、中央での勢力争いの勝敗結果、ということでしかないのでは。

そりゃ確かに保元・平治以前の段階での清和源氏や桓武平氏の官位を見れば、
公卿なんかには遥か及ばず、五位程度にも何とか引っ掛かるようなレベル。
そういう意味では、賜姓皇族の中でも武家(軍事貴族?)化した者のランクは
公家(宮廷貴族?)として残った者よりも明らかに低い。

ただ中には、いったん受領階級まで落ちながら、院政期以降に堂上として
復活してくるような家もあるわけだが、彼らと武家化した連中の違いは
何だろう?
活動拠点を地方に移して在地武士の組織化を図ったか、それともあくまで
中央に残って下級官人から再浮上する機会を狙ったかの違いかな?
968日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:56:09
寝ようとしましたが、>>945の問い合わせが残ってました^^
一旦結論みたいなのを出してからで、何か補遺みたいで恐縮ですが。
>>949
>では貴方は平将門の乱をどう評価しますか?

これね、武士が「鎌倉幕府」というシステムを構築するまでの長い試行錯誤の最初
の試練だったと評価してます。
軍事貴族と在地系武士が、地方で結びつきます。それは、共に都やら律令制度の理
不尽な点での不満があることで、利害が一致したのでしょう。そして、それを何と
かしたいと考えた。

平将門の手法は関東独立。実は「独立」とは、意味的には、こうです。
「選択肢」としては、一番安易。だが、継続および「達成」は最も困難。
選択肢として考えられるのは、王朝打倒か、独立。「幕府(朝廷を滅ぼさないで政権
樹立)」という発想は当時ありません。
相手を滅ぼさなくても良い独立は、滅ぼすより安易でしょう。だから選択した。
しかし、こんな大変なものはないです。相手が常にいるのですから、次々に新手を
送り込んで阻止しようとします。独立が達成されるのは、相手(朝廷)が諦めて認
めるか、自滅するかしかありません。そして、結果はそうはなりませんでした。

安易なだけで選択した訳ではないでしょう。これこそ、平将門が持っていた「軍事
貴族」としてのディレンマだと思います。
将門が、昔世話になった都の小一条太政大臣藤原忠平に宛てた書状の中で、
「將門柏原帝(桓武天皇)五世孫」と書いて、独立(新皇宣言)の正当性を主張しています。
すなわち、自分の正当性に天皇の末裔であることを挙げているのです。これでは、
王朝打倒の大義たり得ません。王朝の不当性を主張出来ないからです。啓蒙思想の
ような理論が別途あれば、理論で正当性を主張できますが、それもなかった。
結局、王朝打倒をしないでも良い道、すなわち関東独立だったと思います。
969日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:59:30
将門って、自らの行動の正統性の一根拠として、渤海が契丹(遼王朝)に滅ぼされた例を持ち出してなかったっけ?
970日本@名無史さん:2007/09/24(月) 06:02:03
清盛あたりのことを見れば事足りるんじゃないか?
もっと極端に言えば秀吉とか

これらの人はせいぜい自分の代どまりで長期的に続かなかったが
権威に歩み寄ったことになるんだろうな
藤原氏とかだともっとうまくやれたんだろう
971日本@名無史さん:2007/09/24(月) 12:02:28
>>970
そうですね。武士が「鎌倉幕府」というシステムを構築するまでの試行錯誤
第二弾が「既存の朝廷の中で武士が政権を取る」だったと思います。
それで、清盛・秀吉が永続しなかったのは「既存のシステム」を利用する
特色でもあります。
何故なら、もともとある仕組なので、平氏や豊臣氏がいようがいまいが存
立するからです。ですから余程頑張らないとお呼びでない、ということで
しょうね。それを永続するには、藤原氏方式(天皇との外戚関係の維持)し
かなかったようですね。これは、鎌倉幕府すら、後に源氏が不要になった
ように、「その一族が支配していないと、困る事になるよ」という形にする
のは難しいです。
972日本@名無史さん:2007/09/24(月) 12:14:59
>>969
同じく小一条太政大臣藤原忠平に宛てた書状では、「自昔振兵威取天下者,史書所見」
とも書いていますね。
この史書の例として、渤海のこともあったようです。要は軍事力で天下を取っている
ものなど、過去の歴史をみればいくらでもいるではないか? ということでしょうが、
同じ書状で「將門柏原帝五世孫」と書いている辺り、将門としても自分が決起した動
機とか時代の中での位置づけをを自分の中で完全に総括出来ていなかったのではと思
います。
973日本@名無史さん:2007/09/24(月) 12:35:27
>>967
院政期以降は、結果としてあなたのいう立場の「双方」とも、官位は上げた
と思われます。それは、中央に新たな「需要」が生まれたからです。

ひとつは政治を行う人材の需要。院という形で別のシステムが出来ましたか
ら朝廷とは別に人材が必要となります。院は、大江氏とか村上源氏とか
今まで朝廷内ではうだつが上がらなかったが、実務に長けた人材を積極的に
登用しました。それにより、朝廷側からすれば、有能な人材が抜けたポスト
が空いたりする訳です。リストラされた人にも再度チャンスが巡って来ます。

あと、「武士の需要」も出て来ました。それは院政が始まったことで結果的
に従来の中央政界の勢力分布が錯綜し、対立が起きたからです。
崇徳上皇と後白河天皇、藤原頼長と忠通。それぞれの対立が一方ずつ合従連衡
するような形で、対立はより大規模に根深くなって行きます。そして、武力を
必要とするまでになります。それが、武士を必要とするようになったのです。
保元の乱の起きる背景ですね。これにより、地方で勢力を張っていたが、中央
では「さぶらう」に過ぎなかった武士たちが脚光を浴びる契機となったようで
す。
974武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/24(月) 14:20:48
>>955他の方々
軍事貴族というのは貴族化した武士のことじゃなくて、軍事・武芸を家職とする貴族のことだよ。
それから軍事貴族というタームを敢えて使わないという奴も、変わり者あるいは老人の研究者なんかにはいるかもね。
大昔、日本に中世はないとかいう持論を展開する学者がいて、それを真に受けていた外人とかいたし。
ただ軍事貴族のような存在をどういうタームで説明すんだろうね。こっちが訊きたいよ(笑)
975武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/24(月) 14:49:07
軍事貴族は朝廷直属だよ。
摂関家とか院の犬になって人殺しとかする。
四位とか五位とかあるからまあ貴族だ。
院政期ころの荘園制の展開で各地で暴力で解決する事案が増えるんだけど、こういうトラブルも軍事貴族の出番だな。
976武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/24(月) 14:56:25
軍事貴族は朝廷直属だよ。
摂関家とか院なんかの犬になって人殺しとかする。
四位とか五位とかあるからまあ貴族だ。
院政期ころなんかは荘園制の展開で各地で紛争が頻発するんだけど、そういうのを暴力で解決したりするのも、軍事貴族の役目だな。

977日本@名無史さん:2007/09/24(月) 18:21:31
>>971
>それで、清盛・秀吉が永続しなかったのは「既存のシステム」を利用する
>特色でもあります。
>何故なら、もともとある仕組なので、平氏や豊臣氏がいようがいまいが存
>立するからです。ですから余程頑張らないとお呼びでない、ということで

あともう一つ既存システムを利用してその中に入り込んで政権樹立という
やり方を取る場合、元々そのシステムの中で暮らしていた階層(公家)との間に
軋轢が生じる。
平氏政権も豊臣政権もそれまでの朝廷の官位体系や家格意識・序列を大きく
引っかき回したという側面がある。
また後醍醐天皇の建武政権に関しても既存システムを利用しつつ、それを
滅茶苦茶にしたという側面は否定し得ない。

結果、平氏政権から鎌倉幕府、建武政権から室町幕府、豊臣政権から江戸幕府と
いう流れを朝廷内部の公家勢力がある程度積極的に支持するような結末を迎える。
978日本@名無史さん:2007/09/24(月) 18:24:53
>>973
院政期の村上源氏は、院よりもむしろ摂関家との姻戚関係によって勢力を
伸ばしたような気がするな。
一方、院(皇室)との姻戚関係で勢力を伸ばしたのは、閑院流。
そしてこの2つの流れの家が、後世に摂関家に次ぐナンバー2である清華家の
家格として固定する。
979日本@名無史さん:2007/09/25(火) 00:05:58
軍事貴族ってなんかにへんいいかただよな…

「軍事『公家』」ってことだよな…
兵法を家芸にした公家ってこってしょ。
980日本@名無史さん:2007/09/25(火) 00:55:26
>>930
良い国作ろう鎌倉幕府(1192年)と習ったけど、今は1190年を幕府成立と教えてるんだな。
頼朝が上洛して左近衛大将を受任した年で、
昔、近衛の詰め所を幕府と称したから左大将任官をもって開幕とするらしい。
実際、すぐ返上して先ノ左代将家政所として安堵状を乱発しだした年だから、
幕府行政の開始と一致してるとも言える。
つまり鎌倉幕府ってのは所領関係の調整機関でもあって、院政期の記録所券契所とちがうのは、
武力制裁力を有していて強制執行能力を伴っているところ。
これが武家政権初期というか当時の幕府の実態であったといえる。
権門体制と武家政治の違いってそんなところ?


981日本@名無史さん:2007/09/25(火) 03:24:10
建久元年(1190)を鎌倉幕府の開始点とする見方がないとはいわないが、
それが最有力では決してないだろ。
あと頼朝は右近衛大将になった事実はあるが、左近衛大将になった事実はない。
とゆうか鎌倉幕府の将軍で左近衛大将に任官したことがあるのは実朝だけと
記憶する。
982日本@名無史さん:2007/09/25(火) 04:47:40
>>974
六衛府とか地方とかの武官系の職員のことを言ってるの?
そん中でも上位貴族の名誉職っぽい長官とかじゃなくて
実際に武装して動くようなスタッフ?

あまり実効的な意味はなさそうだが…
983日本@名無史さん:2007/09/25(火) 04:49:08
>>981さんに禿同ですね。
>>980さんが仄聞した学校の先生は、お調子者ではないでしょうか?

それと、院政期の記録所券契所と決定的に違うのは、鎌倉幕府は収奪はやらないということ。
より公正な司法機関でしょ。土地問題については。
それは、後の江戸幕府のような場合でしょうね。
984日本@名無史さん:2007/09/25(火) 06:59:49
ただ司法機関は、判決の強制執行力を有していないと信頼されない。
判決に強制力がないところに、訴訟を持ち込もうとする人は普通いない。
鎌倉幕府の場合、使節遵行という形で判決の強制執行が行われたが、時代が
下って室町幕府段階になると、別段問題がない限り幕府からの使節派遣は
行われなくなり、守護に遵行が委託されるケースが多くなる。
985日本@名無史さん:2007/09/25(火) 07:03:57
ところで次スレどうする?
漏れ的には、特に異論がなければ話題的にほとんど変わらない下記スレに
統合でもいいんじゃないかと思う
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1154231784/l50
986日本@名無史さん:2007/09/25(火) 07:08:26
むこうは家系とかのルーツにウェイトを置いてる感じで
ここみたいな内容は初心者の質問が時々混じってる程度な気もするが
スレを無闇に立てるのは好きじゃないので
合流しても問題なければ合流でいいんじゃない
987日本@名無史さん:2007/09/25(火) 09:00:24
統合でいいっしょ
わざわざ分けるほど違わないし
988日本@名無史さん:2007/09/25(火) 09:05:46
では梅
989日本@名無史さん:2007/09/25(火) 09:38:23
>>982
あえて「軍事貴族」といっているのだから、たまたま武系の職員に就いているだけという意味ではないと思う。

例えば、960年に平将門の息子が京に入ったという情報が流れると
検非違使の動員とは別に、村上天皇の蔵人を通じて源満仲が朝廷の命令で動いたり(扶桑略記)
平維時・源頼親・源頼信が「武勇の人」として盗賊討伐を命じられたり(日本紀略)
長徳の政変で不測の事態に備えて源頼光や平維時・源頼親・平維叙らが内裏の警護に動員されている(栄華物語)
けれど、
これらの人々は警察や軍事の職に就いていないのも関わらず軍事・警察力として動員されている。

彼らが徴用された理由が「皆これ満仲・貞盛子孫也」とあり、
平将門・藤原純友の大反乱を戦って鎮圧した平貞盛や源満仲の子孫達である事が挙げられている。

「世に優れたる四人の武士」(十訓抄)と評された平維衡・平致頼・源頼信・藤原保昌(将門を討ち取った藤原秀郷の子孫)
続本朝往生伝で「武士」として源満仲・満正・満政、源頼光、平維衡・平致頼などが挙げられるように
彼らや彼らの子孫や氏族は官職抜きに、すでに「武士」という軍事に特化した人間という評価が与えられている。
990日本@名無史さん:2007/09/25(火) 10:00:51
過渡期の武士つーか
それなりの血統を持ち
武士団の棟梁になりうる人々のことか。

軍事貴族なんて呼び方することもないと思うがなあ

>軍事・武芸を家職とする貴族
もっと後世の羽林家みたいな家格ならともかく
摂津源氏とか関東の平氏とかは
「貴族」の範疇からはもうはずれかけてる気がするな
991日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:10:32
移行統合先

『公家・廷臣・門跡について〜5巻目』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1154231784/
992日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:13:56
うめ
993日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:15:52
 
994日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:16:59
 
995日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:27:08
>>986
でもここも武陽陰士とかいう基地外が乱入してくる前は、初心者質問中心の
マターリしたスレだった。
統合には異存ナシ。
996日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:28:20
>>990
受領階級まで貴族の範疇に含めるかどうかだな。
997日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:31:29
地下官人は貴族か?
998日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:32:04
998
999日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:33:10
999
1000日本@名無史さん:2007/09/25(火) 13:34:22
1000なら武陽陰士死亡
10011001
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