【比売大神】 宇佐神宮って卑弥呼の墓?【卑弥呼】

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116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc
宇佐神宮って卑弥呼が死んだところ。
すなわち邪馬台国なの?
宇佐神宮に祭られてる比売大神は卑弥呼だという
説もあるくらいだけど・・
だとすると一緒に祭られてる神功皇后・応神天皇も
卑弥呼や邪馬台国となんらかのかかわりがあるの?
皆さん若輩者の僕にご教授してくださいましな。
2日本@名無史さん:2005/08/12(金) 13:15:14
ホシュ
3日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:03:00
高木アキミツさんの本読んだの?

しかし、宇佐だと魏志倭人伝の「陸行○月」のところが問題になるような気が。
魏の使者というVIPを、船で行けるにもかかわらず、陸に上がってもらって輿なんかで
邪馬台国の都までお送りした、なんてことがありうるのか?
4日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:24:13
豊、伊予(台与)か卑弥呼(ヒムカ)いずれかの墓だな
5日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:26:17
>>3
直ぐ誰それの本読んだ?とか思考停止な発言しない
普通に考えて、宇佐は極めて怪しい
616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 10:20:57
宇佐八幡神託事件から察するに
やっぱ大和朝廷の始祖は卑弥呼なの?
じゃなかったら宇佐神宮に神託聞きに来る
理由がわからない
7日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:09:57
宇佐神宮の話は、すでに決着済みの話。
8世紀に建立された宇佐神宮で、3世紀を騙ろうなんて、無理があり過ぎる
んだよ。500年だぜ、500年。現在を、戦国時代に関連付けて騙っている
ようなもの。

大神比義が、倭人伝の卑弥呼、記紀の神功皇后、玄界灘沿岸に伝承される
オオタラシ姫伝承を元ネタに、建立したのが宇佐神宮。
後世の人までコロリと騙されてしまう、大神比義の手並みは大したもんだ。
8日本@名無史さん:2005/08/14(日) 14:54:00
馬鹿いいなさい、神宮建立始まったのが8世紀、
3世紀のことをもとに作られているという事は
否定はできない。
9日本@名無史さん:2005/08/14(日) 15:37:37
>>8
>否定はできない。

ここから考え直す必要があるな。
必要なのは、“ある”ことを証明すること。
10日本@名無史さん:2005/08/14(日) 20:11:48
宇佐に邪馬台国が”ある”ことは幾らでも証拠はある。
しかし”ない”ことは証明できない。
11日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:14:32
>>9-10
つまり、ないことの証明ができない以上、肯定派は宇佐=邪馬台国の証明
を先にする必要がある。

宇佐神宮が証拠とか言うなよ、厨房。
12日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:07:03
>>11
邪馬台国は相対的に推定されるものである
宇佐は相対的に頭一つも二つも出ているので
まず、宇佐=邪馬台国をベースに邪馬台国論争を始めるべきである。
13日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:18:09
 私は宇佐が祖母の田舎なのですが、宇佐神宮はもとは海神信仰だったという伝承もあります。
現在の宇佐駅と宇佐神社の中間あたりに、古代の塚というのがあって、地元の研究者
の話では、隼人族との合戦で死んだ人たち(たぶん敵の隼人)の鎮魂の塚だとされてます。
宇佐神社は「御もと山」(標高500?・ピクニック気分で登ると大変)が奥の宮で、
小涼山(亀山)は人工的な形状(少なくとも人の手が入ってる)。
 宇佐神社が史料的には8世紀の創建とされるのも、最近は考古学的にハッキリしてきて、
私が3年前に久しぶりに行ったとき、弥勒寺の縄張りが発掘されてました。
つまり、8世紀当時の宇佐神宮は仏教の普及によって、3世紀の海神信仰を仏教的に
再構築したのではないかと、そう解釈しています(私が)。高木あき光氏の小説では
昭和の造営のさいに、甕棺が「発見されたがそのまま埋められた」というのも
地元では誰でも知っている(70歳以上・・・笑)話です。地元の研究者の熱意と
神社本庁の裁断があれば、小涼山自体を発掘調査(甕棺と金印)することも可能かと思われます。
権宮司の至津氏や戦前の宮司横山氏との親交もありますので、新しい話が聞けたらアップします。

14日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:41:39
>>12
>宇佐は相対的に頭一つも二つも出ているので

一つも二つも出てるなんて思ってるのはお前だけ
15日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:52:55
>>12>>14

どっちも資料的裏づけはゼロ
どころか、論拠となる二次三次文献もワカラソ罵倒の応酬
>>13みたいな現地証言者が現れたんだから、傾聴するべし
と、スレの品質を気にする俺
16日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:57:39
>>15
お前は>>11を百万回読んでくれ。
17日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:59:17
>>13
ありがとうございます。
ただ、宇佐は邪馬台国の中心地だと考えますが
卑弥呼の墓自体は他の場所に祀られているものと考えております。
仮にあっても台与かそれに近い人物だと考えています。
18日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:08:56
>16

何度も読んでみたが、文章がまったく意味不明だった……。
リンクも読んだが、いったい何が言いたかったのか……。

ちなみに漏れは>15ではないが、>16よりもはるかに頭が悪いらしい……鬱。
スマソ……。
19日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:09:43
宇佐神宮が大和朝廷から伊勢神宮並みの別格扱いを受けており、
なおかつ、応神天皇・神功皇后から格上扱いの祭られ方をしている。
これらの事実は、大和朝廷のルーツがもともと九州にあったことを示唆している。
20日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:20:58
九州は様々な先住系が武力もって果敢に抵抗したので
とても中央政権ができるような状態ではなかかった。
更に、均一性が低く、とても巨大政権が生まれる素養がなかった。
21日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:27:55
>>20

>中央政権ができる
>巨大政権が生まれる

これは邪馬台国の意味なのか? それとも大和朝廷の意味なのか?
邪馬台国は連合国家であって中央巨大政権ではないから、九州に成立可能か?
答えてくれ。
22日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:32:34
>>19
皇室のルーツが九州にあったのは同意。
記紀にも日向のことがはっきり書かれている。
宇佐のことは殆ど無視だが。
23日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:41:21
>22
うひゃ!「記紀」はやめてよ。単なる藤原氏の歴史捏造だよー。
新史料か新しい研究結果を持ってきて!
24日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:43:42
>>21
おれは20じゃないが、九州島限定で、投馬5万戸、邪馬台7万戸の比定地を
探すのは難しいと思う。ていうか、そんな考古学的証拠は見つかっていないし。
やはり邪馬台国連合は、瀬戸内海経済圏を包括する広域的政権だったのだろう。
25日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:46:53
中臣は天皇を九州出身にしたいという願望があったのだろうか
隼人ではないな隼人征服しているから、しかし隼人にしたかったのかな
26日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:47:01
>>19>>22

もはや、古代史の文献史学の限界は明らか。歴史推理とか妄想はやめて、考古学分析に体を動かせるべし。
体を使わないで、新たに何かわかると思ったら間違いだ。ひたいに汗をして、発掘つか聞き取り
フィールドワークをしたほうが歴史学に貢献できる。
27日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:50:04
>>23
戦後の記紀アレルギーの弊害か。そんな低次元で思考が停止するのはどうか
と思うぞ。

少なくとも記紀から編纂時の皇室の考えは読み取れる。
日向は大切にされて宇佐は無視。それが当時の皇室の公式見解だった。
それで充分だろ。
28日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:55:31
>>27

「記紀」を皇室が編纂? え? 明治時代の意味か?
成立年と編纂者、知ってますか??
29日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:57:41

そんなことはない、奴国を博多周辺の小さな都市国家として二万戸ある
わけだから、例えば投馬を薩摩全体、邪馬台国を
豊国、日向一帯を想定すれば決して不可能な数ではない。
彼らは国交のある邪馬台国連合について事細かに語っているが
他の地域の連合国家については大雑把にしか把握できていない
実際にはもっと分けることができるはず。
30日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:59:48
>>25
応神以降、日向は大王家と密接になっている。
その時に、日向三代神話が皇室神話に入り込んだのかもしれない。
日向西都原の古墳は3世紀まで遡るそうで、昔より親ヤマト政権で
あった。また日向は対熊襲の最前線基地でもあり、軍事的にも強国で
あっただろうと推測できる。
31日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:00:52
>>29さんは>>24さんへの反論?ですよね。

錯綜してるけど、なかなかいいスレですね。
32日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:04:10
>30

>日向西都原の古墳は3世紀まで遡るそうで、昔より親ヤマト政権であった。

って、大和朝廷(ヤマト政権)を3世紀以前まで遡る史料的根拠は?
何か、新しい史料があるの?
33日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:07:34
>>28
古事記も日本書紀も天皇の勅だろ。
お前は大坂城は大工さんが作ったと言いたいのか?
34日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:10:20
>>29
>奴国を博多周辺の小さな都市国家として二万戸あるわけだから

九州内で奴国の遺跡を上回る遺跡って、なかなか無いと思うけどな。
まだ見つかってないだけだって? ああそうですか。
35日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:13:56
>>32
3世紀のマキムク政権がプレ・ヤマト政権であることは間違いないと思うがな。
36日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:15:39
>33

形式論議はするなよ。誰が編纂の主体だったかと、そう問うているのだ。

大阪城は秀吉が作ったわけではないぞ、清正をはじめとする建築プロパーの
子飼い武将たちだ。秀吉の築城思想と清正の築城思想とどちらが反映されているのかは
名古屋城や熊本城、江戸城の縄張りと石垣を見れば明白だ!
37日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:20:21
>>34
邪馬台国ってのは卑弥呼の時にできた国家群だというのは知ってるよね?
邪馬台国が元々あってこれに奴国やら松浦国がその連合に加わっていたわけで
この場合、国を二つの意味で使っている事に留意せんといかん、
つまり連邦国家群と国という二つね
38日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:22:56
http://inoues.net/wajindenx.html
魏志倭人伝訳文
39日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:24:00
>35
「マキムク(纏向)政権」って、実証性あるの?
万葉集以外に、具体的な一次史料キボンヌ(願
40日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:25:24
ま、ま、万葉集・・・・・_| ̄|○
41日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:26:08
>>36
記紀は天皇家が自らの王位の正当性を、大坂城は秀吉が自らの権力を誇示する
ために作らせたもの。
行為の主体は天皇家であり、秀吉。
分かったか?
42日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:26:25
話を宇佐神社に戻さないと、別スレと同じだよ
43日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:26:54
>>36
豊臣大坂城の築城された時代って、清正はまだザコじゃねぇ?
熊本城はともかく、名古屋城や江戸城の縄張に清正が関与してたの?

っていうか、秀吉の築城思想と清正の築城思想の違いって?
44日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:28:53
>>41
中身を聞いてるんだよ、形式を言うだけなら何も発見できんぞ
小学生や中学生の定期試験じゃないんだからさ・・・
誰が、何の目的で、どのように作ったのか、詳述せれ!
45日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:31:00
>>18
否定の証明は悪魔の証明といって、できないんだよ。
つまり、宇佐=邪馬台=ヤマト朝廷とか言うならば、まずその肯定側に
証明責任があるっていうこと。
分かりましたか?
46日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:34:05
>43

江戸城の基本的な縄張は室町中期で、徳川氏も与り知らないのでは?
清正が大阪城(本丸の清正石)名古屋築城、江戸城普請に主要な位置を占めたのは
通説の範囲だが、新しい異説でもあるのか??

築城思想の違いは、桃山城や聚楽第と熊本城を比較してみればよいだろう。
それこそ、縄張が明らかに違う。
47日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:36:01
>>45

「悪魔の証明」と解説される今までわからんかった・・・。
なにしろ文章が不明すぎる。わからんかった(感謝
48日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:36:24
>>44
せれ、げな方言つかうな!
49日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:39:10
>>48 些細なことで怒るなよ。

>せれ!

たぶん長崎方面だね、懐かしい。。。
50日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:41:01
>>44
質問の内容も意図も分からない。分かる範囲で一応答えてみるが。

何の目的かは>>41で書いただろ。天皇家が自らの王位の正当性を主張するため。

「どのように作ったのか」だって? 漠然とした質問だなあ。
大体俺はそんなことは問題にしていないんであって。
俺の言いたい事は>>27で書いている。
51日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:50:49
>>46
名古屋城の清正石ならしっとるが、大坂城の清正石は知らん。
肥後石の事か、別にそういうものがあるのか。
どっちにしろ、清正没後の話だが。
っていうか、石積み等土木工事の事じゃなくって縄張の事いっとるんだがな。
聚楽第は居館型だからほかと違うのはわかるが、伏見城と熊本城の違いって?
52日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:53:43
>>50

悪いが、記紀の編纂は藤原氏です。天智―天武・持統帝時代の律令制の確立
とともに、政権の中枢を占めたのが藤原氏だったのは明白な史実。
諸豪族の分立を抑えて、天皇(当時は大王)中心の政治体制確立のための
史書であって、もとは神話に過ぎません。記紀を歴史の傍証とすることは
できても、考古学史料抜きには文献史学は一歩も進まないと思います。
その意味で「天皇家が自らの王位の正当性を主張するため」という
御説は間違っていませんが、しょせんは神話の文章化なのです。
53日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:56:59
>>51
単に郭が四角いか、ごちゃごちゃしているかって事だったってりして。
54日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:58:13
>51

縄張りと石積みで錯綜したか??
そもそも、おまいが言ってるのは徳川の大坂城なのね?
伏見は平城、熊本は平山城なんではないのかい?
55日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:01:14
おまいら、脱線しすぎ
宇佐神社はどうなった
56日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:03:35
>>50
紀編纂の首班だった舎人親王は藤原氏の言いなりだったわけね。
で玄ムや吉備真備排斥を訴えた広嗣の乱も、所詮は藤原氏の内部抗争だった
んだろう。
後世、皇親政治とか言われてるけど、実質は藤原氏に操られていた、と。

何か君、時代を百年程勘違いしてないか?
57日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:08:16
>>54
いや、錯綜してるのはそちらだし。
こちらが言ってるのは豊臣大坂城だし。
なのに徳川大坂城の本丸の石(清正石?)持ち出してきたのはそちらだし。
伏見城は木幡山に築かれた平山城だし。

>>55
ごめん。
58日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:10:41
>>50さん(もとは>>22)の主旨が

>皇室のルーツが九州にあったのは同意。
>記紀にも日向のことがはっきり書かれている。
>宇佐のことは殆ど無視だが。

という以上は、記紀が

>天皇家が自らの王位の正当性を主張するため

なる偽書であることは明らか。にもかかわらず、この偽書をもとに宇佐神社を
無視するのが不可解。なぜなのだろうか?
59日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:12:54
>豊臣大坂城

こんなの現存しません。発掘しないかぎり。
60日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:13:20
単に秀吉の城=平城
清正の城=平山城

という主張だったりして。
61日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:14:10

ごく一部発見された。
本丸の図面も残ってる。
62日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:15:41
>>61

徳川家康が埋めたのか
63日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:17:35
宇佐神社!
宇佐神社!

宇佐神社卑弥呼墓説に関連せんテーマ、無視よろしこ!
64日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:20:50
DVD!
DVD!
65日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:25:25
>>1(16歳中卒ヒッキー)が立てたスレに、これほど歴史プロパー
が参入するとは・・・。大物かも・・。
66日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:27:34
いや、雑魚がちょっと網にかかっただけだよ。
67日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:29:58
邪馬台国は広いのです、豊国、日向一帯でしょう。
他の小国とは異なります。小国は従属国にしました、
あまり上手くいきませんでした。
邪馬台国は畿内王朝とも極めて密接に繋がっております。
すると、卑弥呼の墓が何処かとなると極めて難しい問題ではありますが
少なくも宇佐は邪馬台国の最重要拠点ですから、
ここに大和政権初期の有力者がいることは間違いありません!
宇佐の古墳には豊国文字で書かれた碑文があってもおかしくないですね。
68日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:31:29
>>1

>宇佐神宮に祭られてる比売大神は卑弥呼だという説もあるくらいだけど・・

比売大神は宗像社の三姫神と同じというのが通説なので、玄海灘方面の伝承や史料を
分析したらよいと思われます。当時の海運交通というか、海の道にヒントがあるのでは?
古代(2〜4世紀)の宇佐神社も海神信仰だという伝承があります。
69日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:32:19
>>58
>偽書であることは明らか。にもかかわらず、この偽書をもとに宇佐神社
>を無視するのが不可解。なぜなのだろうか?

>>19みたいな「宇佐が尊崇を集めている→宇佐がヤマト朝廷の発祥の地」
のような妄説を否定しているだけ。

宇佐=邪馬台国は否定せんよ。ただ文献上も考古学上も、甚だ可能性は低い
と思うが。
70日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:33:48
>66
お前みたいな雑魚がか?(w
71日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:36:12
>>69
どういう点で低いと考えますか?
幾つか挙げてください。
72日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:39:37
>68

宗像大社の沖ノ島の調査が必要という意味か?
銅鏡? 無理っぽいが。
73日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:40:37
>>71
まずはそっちから根拠を出せよ。
74日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:46:28
狗奴勢力が奴国一帯に影響力があったか、少なくとも
筑後川一帯には影響力があったとみるべきだ、そこを
邪馬台国が制圧したものだから狗奴国連合に執拗に攻められた。
この奴国一帯に影響を及ぼし、畿内との交易に利のある地域を
拠点にしたと考えても宇佐は丁度いい位置にある。
この後直ぐ畿内大和統一政権が誕生する。
宇佐がヤマト政権発祥地というのは無理がある。
75日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:47:06
>73

そう身構えるな、相手は(16歳中卒ヒッキー)なんだ。年長者として鷹揚なところを見せようぜ。
「文献的には皆無」、「考古学的にも」(高木の小説・上のほうにあった未確認証言以外)は
いまだ確定できない。ということで。>71君も今夜は納得してくれよ。なあッ。
76日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:57:21
現代に残る方言もかなり重要ですね、宇佐を中心とした
豊国一帯は畿内方言と東京イントネーションをミックスした
固有の言葉を構成しております。
77日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:59:28
>>73
結局、宇佐説には「宇佐神宮が後世、皇室より尊崇をうけた」以外に
根拠はないわけだよ。
で、魏志倭人伝を自説に都合のいいように読み換え、宇佐しかありえない、
みたいな事を言う。

記紀に宇佐神宮の記述はない。
記紀編纂当時の天皇家から完全に無視されていた宇佐が、
皇祖の本貫地な訳がないのに。
78日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:01:30
>>76さん

ではまた明日、方言の詳細(イントネーションの特徴)を教えてくださいな。
私も宇佐方面には幼い頃から慣れ親しんでますので、理解できると思いますので。
79日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:02:49
氏姓制度が導入され最初に大量に賜ったのもこの
豊国の人たちです、そのままヤマト朝廷の重職になっている人もいます。
公家の多い地域でもあります。
80日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:04:17
>>77は文献史学の限界。たまにはフィールドワークしろよ
81日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:08:36
>>79
初期前方後円墳の赤塚とかがあるから、古くからヤマト朝廷と交流が
深かったのだろう。
ただそれだけ。
82日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:10:01
>>80
君は具体的にどのようなフィールドワークをしてるのか?
83日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:11:04
>>81
君はどこが邪馬台国だと思う、前後の歴史も添えて
説明してくれない?
84日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:15:30
クレクレ、クレクレ
85日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:15:33
中津国というのも本州の人が九州地域のうち
最初にこの地を認識したという証拠にもなりえそうだな。
86日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:20:55
葦原の中ツ国のことですか?
中国地方のことだと思っていた…(あくまで個人的意見)
87日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:06:24
四墨墓を残したグループ初期北方渡来人
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
天孫族後期北方渡来人・・
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1042041342/
倭(奴国)にこれらの影響が及び始めたのが
丁度魏志倭人伝だと思う。
ト部(ぼくせん)
88日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:36:47
たくさん釣れたなぁ
89日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:38:00
鹿は占いの名残かトーテムとは違うのか
90日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:40:55
鹿の骨占い師の末裔中臣、藤原氏。
91日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:45:08
二世紀頃か加羅から神武降臨、その後何度か天孫の本家
新羅から天下りしたようだけど、巨大古墳は全部渡来系だな
新羅系か加羅系
92日本@名無史さん:2005/08/15(月) 08:07:47
なんで宇佐神宮が第二の祖廟に定められたかの
なんで皇室発祥の地が日向に定められたかの検証は必要だなーーー
9316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/15(月) 08:27:41
スレが伸びててびっくりしましたよ^^
僕が思うに井沢元彦さんじゃないですけど
卑弥呼の怨霊を鎮めるために宇佐神宮があり
応神・神功まで一緒に祭られているのでは?
つまり卑弥呼は殺されたんでしょう。
大国主が殺され、アマテラスの息子が出雲国造として
出雲大社で大国主を祭ってるのと一緒では?
ではなぜ神託を宇佐へ聞きに言ったのか?ときかれれば
よくわかりませんとしか言いようがないですがw
94日本@名無史さん:2005/08/15(月) 12:17:59
ネタ投下
宇佐、阿蘇、浅間、、、u-sa、u-su、a-soはアイヌ語で火山の意味なのは周知だよね。
そこから推測すると宇佐の地を神聖視していた勢力は土着系なのは間違いないかと。
邪馬台国の支配層は渡来系弥生人だと思ってるオイラとしてはちょっと結びつかないんだけど
どうかな。
95日本@名無史さん:2005/08/15(月) 13:56:33
>>92
>宇佐神宮は第二の祖廟
>日向は皇族発祥の地

そんなの嘘っぱち、誰も言ってない
そう言った思い込みが、古代史を歪める原因になっていることは確か
人類が土から湧いて出たのは二千年位の浅い年月ではない
96日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:48:36
>>94
阿蘇はともかく宇佐周辺が渡来ぽいのは地元民には常識
97日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:49:38
オイラなんて言ってるあたり関東の出雲武蔵族だな
98日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:13:42
豊国一帯の豪族に一斉に氏姓が与えられ、同時にヤマトの重鎮に
なっている以上ここが曰く付きの土地であるとみるのが自然
それに東京アクセント(新羅)なんて渡来ぽいじゃないか・・
99日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:27:23

日向に日本土着の藤原(鹿由来)を従え神武が降り立った地がこの日向
これが天孫の始まり、このルーツはどうも加羅国らしい
しかし、この天孫族もシラ国の末裔である。
起源は北方系と馬韓土着系の混血みたいだ

本州にはこれとは別に四隅墓を残した高句麗系の北方勢力があった
彼らは出雲・武蔵族などといい本州一帯で国作りをしていた。
彼らは新羅と通交があった、彼らも起源は北方系である。
この二つの勢力が本州でぶつかり融合したのが初期畿内ヤマト朝廷だろう
この巨大勢力が西北九州で土着とぶつかるのが魏の使節がみた倭国大乱である。
100日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:48:24
神武が天孫として日向に降りたにもかかわらず隼人なんて先住民を
区別しているあたりまだ同化には時間が無かったんだろう、紀元後2世紀頃だから
大分の方の隼人も後の方で成敗されたらしいし、その時に
功績あった一族なんでは宇佐氏 佐伯氏
101日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:02:29
自然に考えて隼人も熊蘇も土着系で尚かつ相当な文明も持っていたと
思われる。遺跡からも明らか。
四隅を残した出雲・武蔵族は宗像地方止まりでそこより殆ど南下していない
九州に降り立った渡来系は2世紀の日向の天孫降臨が最初、まず
日向、大分という形で制圧していった、大分を取ったことで畿内への
足掛かりができた。西九州一帯の熊蘇勢力との対決こそ
倭国大乱とみるべし
102日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:15:58
土蜘蛛ってのはもしかするとヤマトに従わない
北九州の先住勢力だったんじゃない?
考えてみれば、倭国以前からいる山の民なら無害だし抵抗はしないでしょ
抵抗したからこそ叩かれたんでしょ、つまりヤマトに従わない
倭国の残党だよ
103日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:24:00
どうやら九州一帯は朝鮮出雲勢力が入らず、天孫の降臨も2世紀日向と
先住系が相当強かった地域ということですね。
104日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:33:34
大きな流れは二つ
紀元前2、3世紀出雲・武蔵族(本州一帯)
紀元後2世紀日向天孫降臨
105日本@名無史さん:2005/08/15(月) 17:00:11
>>95
文献も記紀もよめない電波
106日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:50:40
日本の古代史ってグチャグチャだよね
初心者にも付け入る隙があるもんだから電波も飛びまくり、飛ばし放題。
でもいい加減、妄想電波に慣れてくると、やっぱり国が宮内庁に
お伺いを出してでも”正史”を発行して欲しいと思うようになるだろう。

隔世紀で100年おきに出していけば、科学の発達や新しい発掘調査
などで刊が進むごとに真実に近づくことが期待できる。
国が無理なら東大と京大がすり合わせて出してくれんかしら。
107日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:05:29
なんで東大と京大だよ、全国の大学共同でだせ
108日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:19:30
>>106
素人の度合いからいえば学者も初心者もかわらんよ。
あいつら初っぱなはら矛盾した論を突きつけてきてるじゃねーか
だからこっちも負けじと意地になる。
109日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:19:31
>>108
同感 異議なし
110日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:17:18
>1
宇佐神宮は、記紀にあるように、ウサツヒコ・ウサツヒメが、
神武天皇をお迎えするために建てた、足一つ騰がりの宮が
濫觴です。卑弥呼とは関係ありません。
111日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:47:37
>110
あなたは何処だと思いますか?
112日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:52:07
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/mojizukan3.htm
この日向のハングルの信憑性はどこまであるのか?
また豊国文字→後のカタカナ
つまり畿内と豊国の親密・緊密な繋がりはどうか
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/sinmoji.htm
113日本@名無史さん:2005/08/16(火) 08:04:47
>>112
自己レスだがこれ自体は江戸時代に
作られた碑である可能性が高い。
ではなぜこのような事をしたか?
ハングルと日向を結びつけたかったのか?
いずれにしても極めて極めて謎に満ちている。。
11416歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 08:14:26
皆さんの意見を拝聴していると
やはり宇佐神宮は卑弥呼とは関係がないっぽいですね。
しかし僕は北九州に邪馬台国があると
思ってるので北九州に卑弥呼の墓や霊廟があるんじゃないでしょうか?

115日本@名無史さん:2005/08/16(火) 08:24:11
何言ってるんだ、宇佐は邪馬台国。
少しは根気強く調べてみてくれ

それか他にあるなら挙げてくれ、
もう其処までみえている、後一歩。
11616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 08:34:02
まだ16歳なので他に吸収すべきことが多く
邪馬台国の研究ばかりやってられないんですよ^^
宇佐が邪馬台国というより豊前一体が邪馬台国だと
考えるべきじゃないでしょうか?じゃなきゃ
7万戸も養えきれないでしょう。
117日本@名無史さん:2005/08/16(火) 08:38:48
http://www.plan.gr.jp/kodai/koshi01.htm
これが真実で、後の記紀が紛い物ならば
神武は正真正銘土着の縄文勢力で73代目の当主だったという
ことになるべな
11816歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 08:58:47
女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。

という倭人伝の記述から察するにやはり宇佐は邪馬台国と
関係があった気がしないでもないですが
119日本@名無史さん:2005/08/16(火) 10:30:57
今さらなんだけどどうしても納得のいかない部分、
水行10日…ってのをどうとらえるかだなー。九州内だとどう考えても無理かなと。
この使者は邪馬台国までは行ってなくて伊都国にいて伝聞で報告したわけだよね。
周囲の倭人から聴いたとして方角を聞き間違えることはあっても「水行10日陸行1月」を
聞き間違えることってあるかな。伊都国から陸行1日程度だよね。九州内の推定地だと。
120日本@名無史さん:2005/08/16(火) 11:01:10
魏の人は会稽の東に倭があるとか思ってたんんだぞ
なんでもある
121日本@名無史さん:2005/08/16(火) 13:04:30
>>106
同感
少なくとも学者は電波は飛ばさない
122プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/16(火) 13:06:31
>>119-120
その話題はスレ違いになるから 関連スレに移動しませんか?
123日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:27:15
http://inoues.net/ruins/usafudoki.html
宇佐は邪馬台国(大和)の一つの起点といえよう。
西都、宇佐の流れは正しい、甘木、小城はその後である。
124日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:31:54
125日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:35:24
地名の一致だけで装飾古墳群の一つのある三輪、甘木を
邪馬台国推定しているチョン学者安の頭かち割りたい
126日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:37:50
豊国文字も吉備、大和と一つの大きな文化を構成していたりする。
こんなに多方面から一致しているのにチョン安の奴は・・
127日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:47:09
正倉院
に残る「大宝戸籍」(大宝2年:702)は、仲津郡丁里など豊前地域の3つの村に住む683人を記載している。このうち秦氏(はた
し)や勝姓(すぐりのかばね)といった、渡来系と思われる人たちの割合は83%と極めて高い。一方「新羅の神」が祀られていた
ことを伝える「豊前の国風土記」逸文の記述は、渡来系の人たちが様々な信仰を持ち込んでいた事を示唆している。田川郡香春郷
(かわらのさと)に、新羅の神が祀られてあったと記述する。「日本書紀」には、天皇の病気を治すために、「豊国奇巫」(とよの
くにのあやしきかんなぎ)や「豊国法師」という人物が招かれたとあるが、これも豊の国の渡来人である可能性が高い。
128日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:49:43
一説によれば、古来より豊前地域は秦氏やその一族である漢氏の居住していた地域とされ、新羅系加羅人と思われる秦氏の故地であ
る「加羅」から、辛島(からしま)という名前も来ているという。辛島氏も秦氏一族なのだ。「八幡」は「はちまん」ではなく「や
はた」が古名で、「八」は多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義だという。「幡」は「秦」とも「旗」とも言われる。八幡とは文
字通り、多数の「秦氏」が住むところ、あるいは多数の「秦=旗」が立つ所なのだ。そして欽明の出自も豊前辺りだという。この説
によれば、八幡神は新羅からの外来神で、宇佐においては新羅系加羅人の氏神だったという事になる。宇佐八幡神は新羅の神だった
のだ。「どんな神だったかについてはわかっていない。」と書くはずである。この説を信じれば、日本中が「新羅の神」を祀ってい
ることになるのだ。

欽明天皇御代の国際的な記事として見逃せないのは「任那日本府」の滅亡である。「任那」という呼び方は日本書紀の中にしか現れ
ず、中国・朝鮮の記録には一切その名前は出現しない。位置的には「書記」では伽耶とか加羅と呼ばれる、朝鮮半島南部中央部分を
指すが、学者によっては「金官伽耶」と呼ばれる伽耶の中のごくごく一部の地域を指しているという意見もある。最近はこの「任那
日本府」の存在そのものを否定する説もあるが、従来からの定説に従って「金官伽耶」の中に「任那日本府」が存在し、これが滅び
たとすれば、その滅亡時に豊前へ逃れてきたという考えも成り立つ。いずれにしても、宇佐八幡神は宇佐地方の一地方神だったので
ある。記紀にも出てこない。
129日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:00:14
倭人の多く住む西九州一帯を避けこの宇佐を中心とした豊前に
新羅系が多く住み着いたのである、これが邪馬台国、吉備、大和の始まりだ
香川には積石塚があるこれは馬韓系だろうから縄文に近い種族か・・
日本海、東日本の出雲・武蔵族、四隅墓(初期高句麗)とこの新羅系が相まって
大和朝をつくり西九州一帯の倭を征服した・・
日向神武一族が何であったかはわからない、もしかすると縄文系の一族(隼人)で
豊国宇佐のこの新羅の連中と合流したのかもしれない。
公家の多い、もっとも氏姓制度が最初に発展したこの宇佐が
邪馬台国であることはもう間違いない。
装飾古墳など土着臭のする熊本、福岡南部は邪馬台国が征服した、
あるいはそれと戦った狗奴国である。
甘木の文化は畿内他の地域への文化的伝播が一切無いではないか・・
130日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:04:58
つまり新羅系が征服し甘木(天来?)という新地名をつけられたということね
畿内の地名もこの新羅豊国勢力の征服地かもしれない。
あるいはもっと古い倭の王朝があった時の名残かもしれないな
131日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:23:48
>>122
どこのスレに行けばいいですかね
132日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:08:22
ウガヤ朝を縄文人の作った王朝かそうではないかで
その後の神武の評価も変わってきそう。
133プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/16(火) 20:13:51
>>131
「魏志倭人伝」スレなんてどうですか
そこならスレ違いになりませんよ
134日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:26:27
まず北に韓神2つも祀る
京都チョンの言い草は色眼鏡でみた方がよい。
135日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:37:35
電波は氏んで下さい
136プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/16(火) 20:49:44
以前私は、金官伽耶の前身=狗邪韓国 任那日本府の前身=一大率と考えてました。
137日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:52:49
金官伽耶は新羅系が征服した土地だと考えている
伽耶自体はもっと以前からある勢力のものだろう・・
これが何かを突き止めれば
138日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:58:19
高句麗族は農耕に適さない場所に住んでいたせいで
略奪を美徳と考えていたという記述があったね
139日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:30:02
http://www3.coara.or.jp/~primrose/kawara4.html
もし、宇佐が邪馬台国なら
辛島は卑弥呼の子孫である可能性があるな・・
140日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:29:26
豊前とかに新羅からの渡来人が多く住んでいたのは、香春の銅採掘に従事して
いたからだろ。
渡来人の居住した地域は一杯ある。その全ての地域は渡来人に征服されたとか
思ってるのか。
あほらしい。
141日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:35:19
>>140
隋書倭国伝の秦王国は豊前の可能性はあると思うが、確かに邪馬台国の時代とは
4百年近く違うわな。
豊前に渡来人が入植して発展したのは、3世紀邪馬台国よりもっと後の時代。
ごっちゃにしている輩の多いこと。
142プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/16(火) 23:42:09
>>139
歴史に[もし〜]が許されるのであれば、全ての出来事に無限大の妄想を描かなければならない。
それに、[もし〜]に対しては否定も肯定も出来ない
143日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:44:35
邪馬台国を宇佐に持って行きたくて、色々証拠集めを必死にしてるみたいだけど、
いまいちなのが多いな。
>>129
>公家の多い、もっとも氏姓制度が最初に発展したこの宇佐が
>邪馬台国であることはもう間違いない。
とか、本当かよ?
144日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:06:08
宇佐神宮が隼人征伐や大仏事業に助力したことで、皇室から尊崇を受ける
ようになったのは事実。それまでは単なる地方社の一つに過ぎない。

大神氏が北部九州に縁のある応神を八幡神との同一化に成功し、皇室の耳目を
集めたのが、宇佐神宮のそもそもの飛躍の画期になったのだろう。
ヤハタという名前も邪馬台の音に近く、応神=八幡神としていく過程で、
倭人伝の卑弥呼や神功皇后伝承を取り込んだ結果。大神比義の手練手管
と言える。
では、何故応神が選ばれたのか?
九州に縁がある天皇は応神以外にも、神武を始め、景行・仲哀と色々いる。
大神比義が何故神武でなく応神を選んだのかはよく分からないが、
恐らくは、応神が継体の直接の祖先であることから、事実上の始祖王
であるという認識が当時の朝廷にあったためではないか。
145日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:20:16
>>27
>少なくとも記紀から編纂時の皇室の考えは読み取れる。
>日向は大切にされて宇佐は無視。それが当時の皇室の公式見解だった。
>それで充分だろ。

記紀の編纂って
宇佐神宮の神託で天皇の後継問題が決まった時代と
そんなに離れてないと思うんだが。
146日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:24:32
隼人の種類

日向隼人・大隅隼人・阿多隼人・甑(こしき)隼人、種(たね)隼人
阿多隼人は後の薩摩隼人。甑隼人は薩摩国甑島郡に住んでいた隼人の一部族。
隼人は海幸彦をその祖とする。熊襲の熊は肥後国球磨地方。襲は大隅国贈於郡。

日向国(宮崎県)高千穂から南下し、日向北部中部を勢力下に治めた
火遠理命(山幸彦)の息子であるウガヤフキアエズは日向南部(現在の日南市)に拠点をおき
薩摩大隅までを勢力内においた。

大隅国狭野に生まれたウガヤフキアエズの息子狭野尊(神武天皇)は
東征し大和朝廷をたて、日向国は天皇の故地として一種特別な待遇を
受けるが、律令体制の整備により日向国から大隅国薩摩国が分離され
国司を派遣され独立的な地位を得られなくなると、隼人族は反乱を繰り返した。

特に養老四年には、大隅隼人と日向隼人が大反乱を起こし朝廷は大伴旅人を
大将軍とする征討軍を派遣した。1年以上の戦いの後、隼人は敗れ、律令
国家に組み込まれた。宇佐神宮には百体神社があり大隅隼人霊、日向隼人靈が祀られて
いる。

隼人は律令時代夷人雑類とされ、山幸の子孫と称す天皇家に“狗人”
として奉仕した。

他方、朝廷は和銅3年(710年)には、日向隼人の曾君細麻呂を外従5位下に
叙するなどの懐柔策もとった。
中央への移住策も取られ現在の京都府京田辺に隼人の移住が行われ
日向隼人は松井村に、大隅隼人の移住先は大住村に、薩摩隼人は薪村に、移住された。
147日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:24:58
>>145
>宇佐神宮が隼人征伐や大仏事業に助力したことで、皇室から尊崇を受ける
>ようになったのは事実。それまでは単なる地方社の一つに過ぎない。

148日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:33:44
免ケ平古墳現在直径25mの円墳。
元来は全長約50m
の前方後円墳4世紀鏡・碧玉・勾玉・鉄刀・鉄剣・農耕具など。約5mの竪穴式石室を持つ。箱式石棺から
若い女性の人骨、中国鏡、石釧が出土した。

若い女性の人骨←台与か???
http://inoues.net/ruins/usafudoki.html
149日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:39:16
ナガスネヒコと新羅の部族が起こした反乱を鎮める為に
神武は東征したという古文書があるな
150日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:47:04
常識的に考えて地元民が
近畿に一番近い言葉喋ってると考えるのは
豊国。
15116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/17(水) 07:38:43
邪馬台国はどこにあったか?ではなく
どこにあるべきかという視点でみたほうが
いい気がします。ようは北九州連合の首都は
どこにおくのが1番かということです。
152日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:44:17
宇佐八幡は三韓征伐の戦利品だろ。
153日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:52:50
宇佐神宮の山が巨大古墳であることは間違いなさそう。
元北九州の王墓が神功伝説等と結びついて皇室の崇拝を受けるようになったものか。
ヒミコの墓ではないでしょうがその時代の部族長の墓でしょう。
154日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:19:36
宇佐の3女神は、卑弥呼と、台与と、文献に残ってない、
シャーマンだったりしても、おかしくはない感じはしますな。
宇佐と太陽がもっと絡んでればねぇ。
155日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:52:17
西九州の豪族の名前が磐井の乱の頃に沢山が、
畿内豪族を思わせる名前が一切ないんだよね。
この乱の後、豊国の豪族は畿内と結びつきを深める。
また、同時に八幡信仰が本州に広がる。
156日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:58:14
>>155
少なくとも、八幡信仰が本州に広がるのはもっと後の時代だよ。
前半2行は意味不明なんで、もう少し説明して下さい。
157日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:44:51
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1033886907/
秦(はた)一族とは?

常世信仰に纏わる地名を多く有する豊国
158日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:20:43
>>156
磐井の乱の頃のこの地域の豪族の名前が朝廷にみられませんね。
>薩野馬と同族の筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君
大和朝廷はこの筑紫の勢力を削ぐ為に白村江の戦いをしたという説があります。
そして豊国の辛島とは韓嶋勝というのが本名らしいですね。
なんか終わってるわ。
159日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:37:49
160日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:44:26
>>159
これも邪馬台国が豊国になってるな・・・
161日本@名無史さん:2005/08/18(木) 08:52:39
武って雄略天皇のことだというのは
学界では定説らしいですが・・
162日本@名無史さん:2005/08/18(木) 09:21:19
>>158
九州王朝説ですか…
163日本@名無史さん:2005/08/18(木) 09:33:32
九州王朝が是かはともかく、近畿と九州は全くの別者だと思いますよ。
豊国を介して唯一共通しているくらいでしょ。
中臣のような対馬のト部出身者以外で畿内朝廷に九州の人居ましたけ?
言葉もまるで共通点はないですよ、本物の九州弁とは…
164日本@名無史さん:2005/08/18(木) 10:33:59
>薩野馬と同族の筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君

狗奴国、薩摩隼人系の名前ですよね?
165日本@名無史さん:2005/08/18(木) 10:42:42
>>163
大和朝廷に九州の人間がいないのは、九州がそういう扱いだったからだろ。
166日本@名無史さん:2005/08/18(木) 21:48:34
宇佐神宮が卑弥呼の墓である証拠、あるいは邪馬台国が宇佐であるっていう証拠って結局何よ?
167日本@名無史さん:2005/08/18(木) 22:53:52
>>166
証拠なんてないよ。
まず、佐=邪馬台国の結論ありき、なんだから。
168167:2005/08/18(木) 23:07:14
宇佐ね。何故宇が消えたんだろう?
169日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:21:26
包茎ボーイだからだろ。
170日本@名無史さん:2005/08/19(金) 17:48:32
天照大神が卑弥呼であり。 比売大神こそが天照大神。

比売大神が天照大神だとすると、おかしいのは神宮に祭られる神の最上位であるはずの天照大神が二の殿に祭られていることですが
これは宇佐神宮の勢力拡大の為に、八幡さまを天照よりも上位に位置づけたことによるもので

これによって神明宮(主祭神:天照大神)よりも多い八幡宮の総本山となり、皇族も信仰するところとなったということです。

豊前一帯が邪馬台国であったかどうかは定かではありませんが、中津市の耶馬渓は耶馬の字が残る唯一の地名だったりしますね。
171日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:16:44
難しい話ですが、緒方は大神の末裔で本来「おおみわ」
と読むそうです、九州地方ではかつて神をクマと呼んだのか
クマという言葉、あるいは生き物を神聖視していたようです。
神代と書き「クマシロ」と読ませる地名が多くあります。
投馬国の「つま」も妻であり宮崎から福岡南部にまで集中してある地名です。
ツマ、ミワ、クマに関しては現代には受け継がれていないので
よくわかりませんが、現在の天皇によって消された神話であることは
間違いないと思います。
八幡信仰自体が新しい信仰のようなのでそこに隠蔽された可能性の
高い古代宗教を紐解いていけばもっと明らかになるかもしれません。
172日本@名無史さん:2005/08/20(土) 01:46:33
>>170さん
御説はごもっともですが、二の殿(比売大神・中央)が一の殿(応神・左)よりも下位にあたる
というのは間違いです。じつは参拝形式も二の殿が上位で、三の殿(右=参道の手近)から順番に拝礼すると
先輩によく叱られたものです(巫女のバイトをしてた頃)。
>>152さんが述べられているとおり、宇佐宮は三韓征伐の土産というのが地元でも
有力な解釈です。八幡信仰そのものが、巴紋にみられるように半島のものだった
のだと思われます。比売大神(三女神)が天照大神というのは、宗像社の例からも
明らかだと思いますが、いずれにしても海神ですね。宇佐の古文書・考古学研究では、
もとは海神信仰(漁民たちの神)だったとされています。宇佐は今でこそ内陸
ですが、漁猟を傍証する貝塚や狩猟具も出土していますし。
173プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/20(土) 22:01:30
と、いうか
神様にも上下関係があるのか?
174日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:23:29
というか三韓征伐は本当にあったのですか?
ちょうど、同じ頃、隈背、隼人、土蜘蛛との戦争があったらしく
北部九州地域ではそれらをともらう塚に関する伝説があります。
地元にある神功(じんぐう)皇后を始め大和軍を讃える逸話ですが。
例の末盧国、松浦の名前の由来についても勝者(現政権)が後で取って付けたような
強引さ、胡散臭さがあり、不可解さを拭えません。
今までこれらについて一切検証されなかったのが不思議でなりません。
また、八幡は熊襲、土蜘蛛、隼人征伐に功績のあった氏族に関係する
ことも史実として明らかのようです。
これらのミッシングリンクを繋げていけば自ずと答えは出そうですが?
175日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:40:43
神功皇后は卑弥呼だと思う。
勝者側からみた倭国大乱に関する伝説ですね。
176日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:49:32
要は、これ作ったのが朝鮮人の八幡族なので
被征服側を朝鮮人に仕立てて適当に牽強付会したんでしょ?
神武とはイワレヒコという名前で天孫とは全く関係の無い名前ですし・・
177日本@名無史さん:2005/08/21(日) 00:10:02
>>176
違う、八幡は朱を尊ぶ中国系。
後に新羅のスサノオと対立する、ヤハタノオロチ
178日本@名無史さん:2005/08/21(日) 07:52:30
宇佐神宮の山が巨大古墳というのは妄説。地形図をみればただの自然丘陵だと分る。
すでに原田大六が『卑弥呼の墓』で指摘、批判している。
石棺が出た云々というのも怪しい伝聞のたぐい。仮に石棺であったとしても卑弥呼の墓と断定する証拠等はない。
宇佐神宮の祭神は宗像三女神。神功、応神の三韓征伐伝承から、航海神が祭られたにすぎない。
宇佐が重用視されたのは隼人征伐などの奈良時代の特殊事情によるもので、それ以外では無い。
軍神の応神を祭ったに過ぎない。

宇佐説は糸冬 了 ということでw
179日本@名無史さん:2005/08/21(日) 08:25:04
>>178

地図を見ながら、じっさいに逝ってごらん。
亀山が周囲の山系から独立した人工的な丘だということがわかる。
菱形池なんかも人工的。奥宮の御許山なんて、完全に別の山系だし。

原田大六『卑弥呼の墓』はフィールドワーク抜きの机上の書
180プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/21(日) 10:21:40
>>179
フィールドワークの結果を聞きたいのだが。

亀山周辺の古墳状況等はどのような様子か
宜しければ教えてもらいたい。
亀山自体の調査は不可能だろけど、周辺古墳の様子から亀山を推測することは可能だろうから
18116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/21(日) 10:55:23
では宇佐神宮は卑弥呼の墓ではないのですか?
182日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:00:30
183日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:39:13
宇佐風土記の丘(古墳群)
http://inoues.net/ruins/usafudoki.html
184日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:39:52
>>179
>>原田大六『卑弥呼の墓』はフィールドワーク抜きの机上の書
嘘付けw大六さんが生きてたら大変な目に合うぞ(ケンカ大六)w 大六は実際行っているが。
だいたい藻前は考古学的な地形の見方できないだろ?
「菱形池」はまさに菱形であって、古墳の周溝(濠)の形ではない。
池としては人工だろうが、そのことと古墳かどうかは別問題。亀山の丘陵も不整形で、前方後円などの墳墓の形状もしていないし、段築なども認められない。
『卑弥呼の墓』(六興出版=つぶれてるので古本屋でみつけてね)の42ページ以降参照。
185日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:42:25
確かに「周囲の山系から独立」してるからというだけで人工の山だということなら、日本中(いや世界中)、人工の山(=古墳?!)だらけになってしまうなw
186日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:47:26
>亀山の丘陵も不整形で、前方後円などの墳墓の形状もしていないし、
>段築なども認められない。

こいつ、亀山を発掘調査をしたらしい
乙!
187日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:54:27
>>186
揚げ足とりだってw
あれだけの規模の丘陵が人工墳墓なら、その特徴が地形図に現れるし、また歩けば分かるが(宇佐神宮周辺の2mコンタ−の地図はある)。それも分らないのかw
今、古墳と分る全ての古墳を発掘調査したわけじゃないのだが。
分 か る ?
188日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:56:15
>>こいつ、亀山を発掘調査をしたらしい
とか言うなら、逆に、発掘調査とかしないのに何故あれが古墳と分かる、と言うことになる。
無意味なツッコミはやめなさい。
189日本@名無史さん:2005/08/21(日) 16:09:51
>>182-183

宇佐って古墳だらけじゃん
190日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:38:07
それぐらいで古墳だらけというなら全国いくらでもある。
191日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:41:41
1キロメートルの範囲に6基の大型古墳、周囲に多数の墳墓。
こんなの全国にいくらでもあるん?
192日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:13:43
>>191
西都原、八女、古市、百舌鳥、備中総社、佐紀、オオヤマト、馬見丘陵、上野太田、埼玉 etc.、、、
193日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:18:55
筑後地方にはない、こっちは古墳後期の八女、筑後市の磐井系を祀る墓、
熊本と同一の甘木、朝倉の装飾古墳、
それとクマソ、土蜘蛛を弔うという山門郡の塚
久留米には古代神籠石、佐賀の基山の朝鮮式山城が
分散してある、集中はしていない。
それより、神功皇后のクマソ、土蜘蛛征伐伝承(征伐された側)
がこの地に多い事に驚いた。
筑前の方は太宰府、大野城以外にあるなにかありましたっけ?
194日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:30:05
単に1?H四方ぐらいに大型古墳が複数あり、さらに中小古墳がある例をあげただけ。時期は問わずに。
八女丘陵も後期だが集中して存在しているが。
宇佐だけが特別ではない。
九州では、宮崎に多いが(祇園原、西都原、持田、生目など)
全国的には似たようなものは結構多いのは事実。
195日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:49:30
江戸時代、筑前から筑後地方に至ルートは三輪の山家
から小郡の松崎、久留米御井の国府に通じていた。
律令制成立の頃迄は太宰府から筑紫野を通り
小郡市乙隈、横隈、力武、大保、小郡官衙遺跡の横にある大板井、小板井
大崎、鰺坂、宮の陣、筑後川の神代橋を超え神代(クマシロ)
御井の高良山(国分)に至ルートだったと思う。
19616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/22(月) 09:30:19
日向にも古墳がたくさんありますね。
天皇陵の発掘が許可されればもっと
いろいろなことがわかるのになあ・・
197日本@名無史さん:2005/08/22(月) 10:59:11
豊前が邪馬台国だったという説が有力ですね。と、いうより畿内説に無理がありすぎる

しかし、面白いことに当の宇佐・中津ではそういう説がまことしやかに語られることはありません

私は宇佐で育ちましたが、そういった話は聞いたこともありませんでした
当然、宇佐神宮を含む史跡・資料館も卑弥呼には一切触れておりません
198日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:39:25
邪馬台国連合を作ったあとは首都を別の場所に移している可能性大
ですけどね。
199日本@名無しさん:2005/08/22(月) 13:07:31
>>197
宇佐説は富来隆『卑弥呼』で提唱されたもの。
畿内・九州説の論争は江戸時代(本居宣長)から始まっているのに対し、
宇佐説は戦後に出た新説なので地元の知名度が低いのでしょう。

松本清張をはじめ小説家にはウケがよいようですが。
200日本@名無史さん:2005/08/22(月) 14:16:40
>>197

>当然、宇佐神宮を含む史跡・資料館も卑弥呼には一切触れておりません

大分県歴博(宇佐)公式HPより↓

赤塚古墳出土三角縁神獣鏡・龍虎鏡(重文)
断面三角形の縁をもつこの種の鏡は、邪馬台国の女王卑弥呼が
中国魏王朝の明帝から贈られたものと考えられています。
201日本@名無史さん:2005/08/22(月) 14:34:04
<夜須町町名の由来>
日本書記によると、神功皇后が甘木朝倉の強力な豪族
(羽白熊鷹:現秋月町野鳥に居住したとされる。)を倒したその
案堵感からこの地で「我が心安し」と言われた「安」に由来する
ものだと話りつがれている。
http://inoues.net/yamahonpen19.html
画像の多い重いHPです。
202日本@名無史さん:2005/08/22(月) 14:44:26
>>200
遠まわしすぎ
203日本@名無史さん:2005/08/22(月) 17:04:15
>>200
三角縁神獣鏡が日本のいたるところで出土しているのは周知の事実で
結局、それが出土したからどうなのかっていうとこには触れてないでしょ?
204日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:00:11
卑弥呼と天照が同一という説は、昔話題になってなかったかな。
確か卑弥呼の時代に、と日食の周期を調べていくと
卑弥呼の時代に日食が起こり、そのことから「天の岩戸」の話が
生まれたとかいう説。ヒミコ=日巫女=天照
205日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:26:02
>>204
で、その皆既日食は北九州で見られたって話だね
206日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:57:35
帝(大王)の平均在位を逆算して、神武でも邪馬台国に届かない
という推論で、神話世界の天照大神が卑弥呼(姫皇女)だと。
九州説では主流ですな。で、>>204-205の岩戸神話(日食)……卑弥呼殺害事件!
20716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 08:04:31
アマテラスは男でしたw
208日本@名無史さん:2005/08/23(火) 09:51:29
色んなことを無視して書くけど


卑弥呼(比売大神・天照大神)→台与(神功皇后)→応神天皇(八幡大神)

っていう王位の継承があって

卑弥呼は天岩戸事件で殺害され、台与が卑弥呼になりかわり女帝として君臨

息子である応神天皇の即位にあたって、それまでの女帝制を覆すことにより

より強大な信仰を得て東遷、大和朝廷となる

で、個人的にしっくりきます
20916歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 10:00:05
>>208
それは16歳の僕からみても
めちゃくちゃな意見ですよw
210日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:19:00
>>209

でも、八幡大神がスサノオだなんていう話もあるくらいなんで
結局、どの説も根本から創作に近いものがあるよw
211日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:22:06
八幡大神を信仰していた人がハタ姓になったのか?
それともハタの子孫そのものなのか?
21216歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 10:25:27
まず息長氏出身で仲哀天皇の妃の神功がなぜ
壱与になるんですか?あと壱与の子供が応神では
時代的につじつまがあわなくなりますよ。
応神は4世紀中盤から後半の人です。
それまでの女帝制もなにも最初から男王制ですよ。
それがうまくいかなかったときに巫女による
臨時の女王制だというだけの話でしょ。
東遷も狗奴国(熊襲)の戦力は4世紀後半でも
十分残ってますし、邪馬台国の兵力を東に
向けるだけの余裕が果たしてあったのでしょうか?
213日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:28:27
八幡大神がスサノオではないと思うよ。
スサノオは関東で那須とかの地名つけた連中。
関東、東北に広がっているのは四隅墓を残したイズモ系。
スサノオはヤハタ(ヤマト)のオロチと畿内で戦ってたとおもう。
常世信仰というのもあるがこれもイズモ系の信仰で関東東北に広がっている。
同時に人も広がっている。
21416歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 10:33:28
そういえばドラクエ3でも
ヤマタノオロチがでてきたなw
215日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:34:41
畿内は銅鐸系でこれも元はイズモ系の信仰だろ?
これって日向の隼人(イワレヒコ)が東征した勢力じゃないか?
この畿内の勢力と豊国のヤハタが
意気投合して邪馬台国同盟みたいなのを作ったのかな?
と妄想してみる。
それに交易ルートでも半島→小倉→畿内で利害関係も一致するだろ
216日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:40:06
豊国のヤハタ勢力は殆ど南下できず、名目上祀られたのも
中世以降。やはりヤハタとヤマトは半島・小倉(八幡)・畿内で
しっくりくる。
イズモ・ムサシグループについては
新羅→出雲→京都→関東みたい。文化(歌舞伎とか)の流れもこのルートで
京都、東京に入る。
217日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:53:45
鞍手の物部が信仰していたのは倭大王魂かもしれないな・・
すると物部って倭の地元の勢力なんかな・・
玉垂命
218日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:54:56
今でいう靖国神社
219日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:57:00
>>212
時代的つじつまって何を基準に決めてるの?

元々、この時代の天皇の年齢と在位期間とかはあやふやな材料しかないし(120年以上生きてたことになってたりね)

今、主流で語られる誰がどこの出身でどこに嫁いだかってのも古人が勝手に推測したものでしかないよ
220日本@名無史さん:2005/08/23(火) 11:07:29
応神と磐井の乱って繋がるのだろうか?
応神の前の天皇が御井の磐井の戦いで死んで
応神自身がそこで天皇になり磐井を討って、
畿内に凱旋帰国したんではなかろうか?
221日本@名無史さん:2005/08/23(火) 11:10:09
>>212
じゃあ神功皇后が卑弥呼な説はどうなんだ
日本書紀にはさもそのように書かれているし
応神が神功皇后の息子なことはまったく疑われてないのに
222日本@名無史さん:2005/08/23(火) 11:21:32
卑弥呼(比売大神・天照大神)→台与(神功皇后)→応神天皇(八幡大神)
これは違うと思う。
神功皇后は英雄だからおそらく卑弥呼を象徴したものだろ、
時代的には台与だが何かの手違いがあったのだろ、
台与はクマソに負け火氏、薩野摩氏に政権を奪われる。
そのまま畿内のヤマト同盟国に亡命
223日本@名無史さん:2005/08/23(火) 11:32:16
倭の五王が畿内九州同盟なのか九州だけなのかわからないが
半島にも相当な倭勢力があったらしいので九州だけでも不可能
ではないのかなと思う。
224日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:01:45
宇佐が邪馬台国というのはオモシロイ説かも。でも物証がないから出てくるのは小説レベルの
話ばかりだな。
私が小説書くならこんな感じ。夜須町周辺に勢力のあった元大和朝廷と宇佐近辺の勢力
(便宜上邪馬台国とする)が戦争して邪馬台国が勝利し、負けたほうは大和に移って
新天地を開拓。その過程で地名も持っていったと。その後大きく成長した大和勢力が
邪馬台国を討ち滅ぼした。2000部


225日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:19:16
夜須という地名は明治にできた地名だもんな。。
魏志倭人伝にもないし
その前は安だからな(神功皇后がクマソの豪族を倒して安堵したのが由来)
安佐久良(朝倉)はその時の駐屯地
久留米は元々神代(クマシロ=熊城?)、久留米は新しい地名。
三輪が難しいが、あの近辺三潴、御井、三井、
三輪、三国、三沢、三根という最初に「み」が付く地名がやたら多い。
「み」を抜くとツマ(投馬)、倭(和)、根、井
226評論:2005/08/23(火) 12:29:29
このスレを一言で説明すると

一人で作文の様に書き連ねている様に思える
誰かさんのブログスレみたい
22716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 14:25:00
神話と現実を混同するのはどうかと思いますけどw
228日本@名無史さん:2005/08/23(火) 14:38:55
>>227
天皇の系譜を語る上で神話は無視できないものがあるけどね
229日本@名無史さん:2005/08/23(火) 15:00:15
卑弥呼の墓と断定するために必要なモノは親魏倭王の金印でしょ。これが出てこないうちは
ここだあそこだ言っても全て仮説なんだよね。妄想と言ってもいい。
23016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/23(火) 15:20:52
いや、壱与が魏に朝貢したときに金印を
使っていると思うので卑弥呼の墓の中に
金印はありませんよ
231日本@名無しさん:2005/08/23(火) 15:43:31
おまいらみんなまとめてこっち逝け

「邪馬台国の会」第197回活動記録
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku197.htm
232日本@名無史さん:2005/08/23(火) 15:48:47
金印は宇佐神宮の菱形池に沈んでいたものを何年か前に見つけた人がいたんですけど
歴史的発見に気付きながらも、史的財産として国に接収されることを恐れて

溶かしてただの金塊にしたらしいです
233日本@名無史さん:2005/08/23(火) 19:06:27
>>232
そんな与太話ダレも信じないよ。
>>230
卑弥呼と一緒に埋めたか、伝世されたかも妄想するしかない。とすると何をもって
(何が確認されたら)宇佐が卑弥呼の墓だと断定できるの?その条件が決まらないと
議論も、妄想すら時間の無駄なんだが。
234日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:33:01
>>233
何が出ても断定するのはかなり難しい
235日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:40:28
卑弥呼の後、大和朝廷から
降臨するのは鞍手の物部らしいので
豊国が邪馬台国本家であることは間違いないのだけれど
仮に、宇佐に政治の要があったとしてそこに墓があるとは
限らないでしょう。
236日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:17:28
宇佐っていうのは土着系縄文人の整地だと思っているので、邪馬台国の支配層の墓という
考え方にはちよっと疑問あるんだよなあ。仮に卑弥呼の墓だとしたら土着系を追い出して
定着したって話を作らないといけない。
それより宇佐の勢力に破れた渡来系邪馬台国支配層が近畿に移動したって説の方が
同じ作り話でもしっくりくる希ガス。
237日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:54:49
>>236
>宇佐っていうのは土着系縄文人の整地だと思っているので

って、しっくりくる理由もこない理由も自分で作ってるじゃん。アホか。
23816歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/26(金) 11:03:34
邪馬台国の東に海があり
1000里渡ると国があると
言ってますし宇佐がうさんくさい。
239日本@名無史さん:2005/08/26(金) 11:32:47
魏志倭人伝の”そこんとこ”読むと宇佐で決まりって思えるね
240日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:23:15
大分は近畿・本州に近いから本州では大分は縄文
という感じで刷り込まれている人も多いよね。
素人は特にそうだそうだろう。
しかし、実際には
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/KyuYamaDen.html
韓の神様を祀り、八幡を祀っている。
本州の秦氏、勝氏始め渡来性はここが発祥。
241日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:25:26
朝鮮の人は自分が朝鮮だとむしろ日本人が朝鮮人にみえる。
そういうものでしょう。
遺跡みれば大方の想像は付くのだが、自分が朝鮮だと、
やはり中々認めがたいんだよね・・
242日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:44:27
学者はみんな知ってるよ、でも福岡を朝鮮に仕立てたいと
いうのは本州人の切なる願い。
記紀、中華正史、神社、地名、苗字歪曲して
福岡・佐賀を差別するのが狙いでしょう。
なぜならここで天皇が何度もコロされているから
しかし、本家倭人はもう殆ど残って居ず
宇都宮、藤原みたいなチョン武士の末裔しかいない
243日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:44:52
普通邪馬台国はどこ?といった場合、都をさしますが、この場合は国全体のという意味になります。
244日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:48:09
邪馬台国は広いのです、筑豊から大分一帯。
245日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:24:46
>>244
関係ないかもしれないけど
北九州・筑豊・大分県県北地域は方言が似てますね

近いから当り前みたいに思うかもしれないが
大分県内でも北と南ではかなり違う
246日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:33:11
倭人は方言がきつかったので本州の渡来人に
田舎者としか見られなかったのかもしれない。
神社もまともな神社は殆どなく、しかも本州の神様を拝む信仰w
相当、当時の人は本州人に虐められていたとと思うな。
根っから本州と九州は異質・異民族同士だったのだと思う。
247日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:36:29
>>246
たしかに近いとはいえお互いが一つの島だから
渡るのも今思うほど簡単じゃなかっただろうね
248日本@名無史さん:2005/08/27(土) 08:57:18
>>237


議論に加わる気のない(加われない?)ヤツに言われてもなw
249ニワカ:2005/08/27(土) 21:40:21
藤原はチョンでも武士でもないと思うのですが・・・・
250日本@名無史さん:2005/08/27(土) 21:53:08
藤原から武士に発展した人は結構いますよ。
チョンかどうかですが、姻族関係結んだ一族に
その系統の人が多ございます。
251日本@名無史さん:2005/08/29(月) 09:23:11
燃料投下>>>
ttp://cgi.din.or.jp/〜washi/cgi-bin/mult/index.cgi

ここと近い説みたいだけどどうかな。比較的よくまとまってるようだけど。
252ニワカ:2005/08/29(月) 18:42:01
・・・・・・・・なるほど、よく分かりました。
253ニワカ:2005/08/29(月) 18:45:00
↑252は250さんへのレス
254日本@名無史さん:2005/08/29(月) 18:45:39
mixiのほうレベル高すぎです。
本出してるほんまものの歴史家や
博物館の研究員や作家とかばかりで
ついていけん。
255日本@名無史さん:2005/08/30(火) 08:40:06
>>254
どんな歴史家も研究者も古代史についての説は半分以上想像の世界だから気にするな
256日本@名無史さん:2005/08/30(火) 10:48:01
邪馬台国とか卑弥呼に関する本出してる人もアマチュア史家上がりの人多いよね。
アマチュアと専門家の敷居が低いから2chも盛り上がるって側面はあると思われる。
25716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 11:31:17
アマチュア史家とかそんなんで生計がたてられるんですか?w
258日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:46:25
かなり名がうれてからでなければ無理です。
というか、生計がたてられるようになったらアマチュア卒業ですけどね。
259日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:48:42
かなり名がうれてからでなければ無理です。
というか、生計がたてられるようになったらアマチュア卒業ですけどね。
26016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 11:52:04
じゃあアマチュア史家の人は
他に仕事やってて副業で歴史の勉強して
本書いてるんですか?
261日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:54:36
いや、無理だろ、安本氏のようにデンパ学者になる
なんてどう考えても不可能。
っていうかスレ違いとまた、五月蠅い人から言われるよ。
262日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:02:48
仕事にもよるでしょう。
後藤幸彦と言う人は、小学校の教員であったが、夏休みを利用して研究をし、
10年かかってようやく本を一冊だした。
退職して毎日が夏休みになってからは、2,3年で出版できるようになった。
263日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:06:44
普通の人が想像する史家は 教授か博物館所司を指している事が多いのですが
 このあたりの時代は非常に曖昧で資料も乏しく(神社やゆわれが中心となる)ので、資料購入費用等や調査許可が比較的おりやすいところが多く アマチュアが参画しやすい土壌があります。
アマチュアと言ってもかなり勉強したうえで解釈や論文を出している人がほとんどで 仕事をしながら研究をおこなっている人が大半です。
その中から 書籍を販売したり、印税や講演会、説明会の謝礼でで生活ができる人がごく少数存在しています。
264日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:26:02
逆に専門家、教授とかになってしまうと自説を容易に
曲げられない、政治的な圧力、周囲の反応など足枷が多いように
思うね。アマチュアの研究成果にもっと目が向けられて
いいと感じる。
265日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:40:01
たとえば宇佐、八幡を中心とした豊国説なんてのは
中国正史、記紀、遺跡、宗教から
本来もっとも有力とされるべきである。勉強熱心な研究者ほど、
邪馬台国=豊国ほぼで固まっているのであるが、商業的には
ぱっとしない。これは東京人の希望にはそぐわず
市場の支持が得られないという事であろうか?
つまり、正論で必ずしも収入が得られるとは限らない世界なのであろう。
266日本@名無史さん:2005/08/31(水) 19:26:17
いえ正論よりも邪推によるオカルト的な説のほうがよくうれますよ。
267日本@名無史さん :2005/09/01(木) 20:38:06
高木彬光さんの宇佐説、なかなか説得力感じました。
これを方法論の観点から否定できる反論ってのはできるもんでしょうか?
たとえば、
・唐津や前原は当時海の中で、通れるはずがない。
・壱岐ー唐津付近は500里しかない。(1000里必要なはず)
・壱岐から1000里で当時の港があるのは神湊。
などなどが要旨だったと思います。

268日本@名無史さん:2005/09/01(木) 20:50:17
テスト
269日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:08:26
今の大阪も古代は海底にあったので、陸地は草ボウボウで1日2キロ進むのがやっとだった
ので、邪馬台国は京都にあったのが常識です
270日本@名無史さん:2005/09/02(金) 11:41:16
もし大阪まで船できたとしたら、そのまま淀川を遡って京都にいけばいいし、陸路をきたなら、
大阪に寄らず、山崎を通って京都にいけばよいです。
271日本@名無史さん:2005/09/03(土) 22:17:21
じつは、わたしの祖父が昭和の御造営のときに卑弥呼の甕棺を確かめました。
いまも、宇佐の亀山に埋まっているそうですけど。
272日本@名無史さん:2005/09/03(土) 22:30:08
何でヒミコの甕棺って分かるんだよ?
ちなみにどういう甕棺だったのかな?
273日本@名無史さん:2005/09/03(土) 23:02:52
>271>272

その甕棺の話なら聞いたことあるよ♪ 皇學館大学と国学院大学の
神道学の御歴々が調べて、本殿(2の宮)の下に埋め戻したんでしょ?
ミイラの骨格標本が皇學館の史料室にあるから問い合わせてみれば。
副葬品(卑弥呼の金印)も神宮皇學館の倉庫にあるよ♪ ただし、宮内庁の管轄だけんどね。
274日本@名無史さん:2005/09/03(土) 23:19:07
>>272
高木の小説くらい嫁よ。じっさいに自分で宇佐に行って、地元の話を聞いたことあるのか??
275日本@名無史さん:2005/09/03(土) 23:28:48
大分県博に卑弥呼の刀剣と勾玉が保存されてるらしい
まだ準備が不十分らしいから、頃合を見計らって発表するんじゃないかなぁ
276日本@名無史さん:2005/09/04(日) 08:28:27
地元の人の話は、すっかり邪馬台国宇佐説に洗脳された話をするでしょう。
277日本@名無史さん:2005/09/04(日) 08:35:42
あ、それから甕棺の墓制は卑弥呼の時代には終わっていることと、甕棺の墓制の
中心は三郡山地の西がわですよ。それ以外は、甕棺中心地からの移転してきた人が使ったといわれています。
つまり、宇佐の甕棺の人は、よそから引越ししてきた人です.
278日本@名無史さん:2005/09/04(日) 08:56:59
>>277
では、その甕棺はどこから来た人?
貴方は邪馬台国は何処だと主張したいのですか?
簡単な理由も添えてお願いします。
27916歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/04(日) 09:03:18
高木氏は松本氏に論戦で負けてるし
そんな人の本を読む価値があるんですかね?
「邪馬台国の秘密」ですか?
280日本@名無史さん:2005/09/04(日) 09:17:57
甕棺の人が卑弥呼の可能性を論じているのであるから、どこからきたは論じる必要はないでしょう。
邪馬台国は佐賀県小城説を支持します。
理由はまず、東南に陸行とかいてあるのだから、素直に東南の多久へ進めば良い。
とかんがえます。
281日本@名無史さん:2005/09/04(日) 09:21:15
>>280
了解しました、サガミさん。。
282日本@名無史さん:2005/09/04(日) 14:42:56
そうですね、宇佐に甕棺は合わない、、逆にだからこそ、
この人が三郡山から西も支配していて、その土地の文化を受け継ぎ
宇佐に葬られた可能性もあるかなと・・?
283日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:06:27
>>279
それは何かの本で読めるんですか?
もし絶版かなんかでしたら、内容の概略でも教えてもらうことできませんか。
歴史にはしろうとです。たまたま高木氏の邪馬台国の秘密を読みました。
あれが完璧だとは思ってませんが、初めて読んだ邪馬台国説なんであれがすり込みみたいになっています。
どんな具合に反論できるのかなと興味はありますがしろうとなんで反論の方法論というのがわかりません。
284プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/06(火) 19:21:37
>>280
サガミさんお久しぶりです。 先日は著書ありがとうございます この場をかりて御礼申し上げます。
285サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/06(火) 19:42:16
どういたしまして。
286日本@名無史さん:2005/09/07(水) 03:00:07
>>279>>283
高木が松本(清張)に論破されたなんて、聞いたことないが??
ゾロアスター教を明日香遺跡に牽強付会して没後に恥さらした清張に
考古学知識は、ゼロの焦点だったはずだが?
287日本@名無史さん:2005/09/10(土) 21:58:05
>>279の反論ないところを見ると>>286が正しいようですね。
288名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:42:18
安本美典(プロ)>>>高木彬光(セミプロ)>>越えられない壁>>>>>松本清張(アマ)
289名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:42:37
>>288
本の売れ具合なら清張(トッププロ)
290日本@名無史さん:2005/09/12(月) 10:50:25
MADE IN USA
291甑島出身の母を持つ娘:2005/09/13(火) 21:50:12
今年の夏甑島に行った時にある本を読みました。 甑島郷土史なるもので最近発売されたものらしいです。私も結構興味がありよみました。
島の中腹の丘に誰も寄り付かない(しかし写真は掲載されていた)古墳があるみたいです。文献には「偉い人か恐ろしく悪いことをした人の墓」
としかのっていませんでした。近づいた人がはやり病にあったり、死んだりするそうです。
 一度よんでみてはいかがですか
292日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:59:27
>>291
で、それと邪馬台国と何の関係が・・・。
29316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/20(火) 13:19:41
宇佐神宮は壱与の墓か
294日本@名無史さん:2005/09/22(木) 11:53:06
>>293
壱与が神功皇后
29516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/22(木) 18:33:38
なぜみなさん海部氏の「勘注系図」の話題を出さないのでしょうか?
始祖、天火明命の系譜上に、
卑弥呼、台与を思わせる「日女命」「小止与」などの名が、
ずばり出てきています。
場所もトヨの国」でもありますし
邪馬台国の匂いがぷんぷんします.
296日本@名無史さん:2005/09/23(金) 10:31:32
age
297日本@名無史さん:2005/09/23(金) 19:51:04
    _  ∩
  ( ゚∀゚)彡 USA!USA!
  (  ⊂彡
   |   | 
   し ⌒J
298がいやまん:2005/09/24(土) 08:18:29
>>291
オーストリア、秋田、甑島では年の暮れに「親の言うことを聞かない子はいないか」
といって鬼の面をつけた人が回ってくる。オーストリアの近所には「クマン」という
トルコ民族が侵入しているが、愛媛県のクマ「久万」に近い高知県には月山神社
があり、月の形の石が祀られている。こうした月の形の石はトルコ人の遺跡として
モンゴリア高原から西方に広く分布しており、月山神社は岩手に多く、月山は
出羽三山である。月読みの尊(トルコ人のシンボルは月と星)は保食神を切り殺し、
アマテラスから顔お合わせないといわれ、夜の世界に輝くことになる。狼、コマイヌ
等と関連が深い。馬韓には月支国があり、出雲に来襲したという記録がある。
壱岐、対馬には月読みの社が多い。結論として日本に流入した遼寧青銅器文化
の中にはアルタイ、オルドスの古い文化を継承する要素があったのではないかと
言うことが考えられる。
299がいやまん:2005/09/24(土) 08:36:15
↑だけど、BC7-6世紀の早期タガール文化↓
http://www.hyperborea.ru/RU/SCI/AN_09_01.GIF
これが触角銅剣となって北九州に入るのではなかろうかと見ている。
http://www2.stcom.jp/~chikuzen/club/kasiwazaki03.jpg
300がいやまん:2005/09/24(土) 09:10:40
301がいやまん:2005/09/24(土) 09:12:07
楯築遺跡にもご立派なのがある。
302がいやまん:2005/09/24(土) 09:25:47
>>295
籠神社としては「勘注系図」もさりながら、2面の伝世後漢鏡も各地の出土と
比較している。すると、目に付くのがセブリ山脈周辺の甕棺文化との一致である。
古代ハヤヒワケといわれたセブリ山脈周辺国の首長はニギハヤヒと呼ぶのが
順当。すると、丹後の竹野、阿蘇海などの地名もヤハヒワケ国と似てくる。これが
河内に入るという伝承も生きてくる。
303がいやまん:2005/09/24(土) 10:18:40
ハヤヒ文明は水資源、木材資源などで甕棺文化を捨て、紀元2世紀頃には豊前、
筑前方面、ここにきて、原三国方面からも資源バランス問題から九州、四国へと
渡来人が来て、共に近畿を目指すが、ハヤヒ文明は千年の弥生の歴史があり、
唐津湾に風景の似通った丹後天橋立近辺を宮津とし、渡来系がその前後に
群がる形で山陰、北陸から取り付きなんかをはじめる。これが庄内、布留の土器の
変化と関係があるのではなかろうか。出雲では抵抗はなかったが、吉備辺りでは
在来と渡来の間で軋轢が生じたのかもしれない。最終的には木材、水などの豊富な
大和地方で落着、ここに古墳文化を起こしたということでは。
304がいやまん:2005/09/24(土) 10:29:37
資源バランス問題と共に物部、百サイなどという農業経済の上部構造、今で言う
公務員の増加の問題もあったことだと思う。ハヤヒ文明としては西郷さん、サムライ
階級、青銅器テクノクラートを養う能力がなくなってきたということもあろう。
305がいやまん:2005/09/24(土) 10:30:39
天孫降臨というのは天下りと同じ意味であったのか。
306がいやまん:2005/09/24(土) 10:35:49
ニギハヤヒとはニゲハヤヒということであろうか。(w
307日本@名無史さん:2005/09/24(土) 10:51:38
ニギハヤヒか
藻れ、ビワハヤヒデなら知ってるけど
308がいやまん:2005/09/24(土) 10:57:37
神楽で語られる神々のイニシャティブ、これは極めて重要である。

「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、
一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に
権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむか
って同じようなことを云った、とある。

[この辺に九州勢による近畿統治のドクトリンが隠されているんじゃなかろうか]


北極星を神格化した北辰神を、妙見菩薩と
いって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、
渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この妙見金鉱山
の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の神であることか
ら、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝えられ、それがその
まま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神との関係に置き換えら
れたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神とを宇佐の小倉山で斎祀
したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏
以外にない。大神氏は大和国中の近傍からの移住者と思われる。また宇佐氏は
土着の氏族であって北極星の信仰を持たない。総じて日本には星に対する信仰は
育たなかった。 」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
30916歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 11:02:31
宇佐が邪馬台国と関わりがあることは事実でしょう。
女王国の東に海を渡ること1000里国有り
と書かれてますし、宇佐も卑弥呼兵力の傘下に
入ってたことは間違いないと思います。
ちなみにビワハヤヒでとはたしかナリタブライアンの
兄で1993年の有馬記念でトウカイテーオーに
惜敗した馬だと記憶しています。競馬好きなので
ビデオ借りてたまにみてましたw
310がいやまん:2005/09/24(土) 11:41:59
邪馬台国は四道将軍、大彦の頃だから北部は会津、南部は鹿児島辺りで、倭人伝は
伊都国から邪馬台国にいたる幹線コース沿いに描かれているのが多いようである。
卑弥呼とはありふれた名前で女王であるという程度のことしか伝わらない。この頃は
積石墳が近畿に向かい、近畿から巨大古墳が始まる頃だから、それらの建設の基礎と
なる経済的基盤、つまり、邪馬台国は灌漑可能な水田の多い地方と見ておけば良いの
ではないか。纒向がその中心で、その祭祀遺跡には吉備の特殊器台、搬入土器には
東海のものがもっとも多いことは、九州方面からのニギハヤヒなどの動きとは別に
吉備から東海にかけての地方が中心となっていたと考えるのが順当だろう。
311がいやまん:2005/09/24(土) 12:31:17
九州には邪馬台国のモデルのような国は無数にあった。吉野ヶ里、小城、甘木朝倉、
三雲、板付、香椎、宗像そして宇佐、西都原。纒向もおそらくこんなお手本があって
できたものだと思う。問題は九州の後漢、前漢などと時代が古いことである。これに
反して倭人伝はAD240-250年の10年間のスナップショットである。しかし、極めて
重要な時期に来てくれたものだ。まぐれとか言いようがない。
312がいやまん:2005/09/24(土) 20:11:48
>>307 >>309
宇佐神宮の御許山は馬城峰で、纒向もマキがつく。ミマキイリヒコのマキというのも
なんか馬城山関連かもね。これが当れば三連単。
313がいやまん:2005/09/25(日) 08:24:15
>>308 「彦山に権現がいて、一切衆生を済渡していると」↓
http://kamnavi.jp/toyo/hikosan.htm
31416歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 08:41:12
北極星など紀元前500年代にすでに
中国では認知されてましたよ。
英彦山の善正は北魏出身らしいですね
315がいやまん:2005/09/25(日) 11:08:33
ビッキーさん、偏差値に毒されえる稲作単純評価の国ではいつの時代でも
正しいことを言う先生はいじめられた。だから中国から怪しげな教えが入ってくる
とそれに飛びついて表現の自由を得ようとしたのだと思うのです。現代でも神の手
とかいって人をだましたりする人が学会の有力者の庇護の下で生き延びたりします。
出版社は権威に盲目的に頼ります。せめて2chでも、言論の自由が保たれたら
大きなことだと思います。誰が言ったかより、何を言ったかに注目する必要がある
と思うのです。
316がいやまん:2005/09/25(日) 11:30:17
ついでですが、中国の新疆ウイグル自治区の辺にいた月支族というのがトルコ
族となってヨーロッパ、タングート族となってチベット、月支族となって日本に流入
してきたが、その際に原始ヒンズー教に似た宗教、巨石文化、ドルメン等を持ち込
んでそれが英彦山の修験道となったということは最近のハプロ研究結果、日本に
おける巨石文化などと非常に一致します。東北では八角のこけしのようなものを
寺で投げるそうですが、これが、八幡とも関連があるんじゃないかと考えています。
これはブリャートモンゴル地方で鹿石と呼ばれるものに似ています。そしてそれは
平原→宇佐へと移動してきたものだと考えています。
317がいやまん:2005/09/25(日) 15:55:42
>>291
どうも甑島に残るのは月読みの尊の神話のようですね。ここに残る「トシドン」は
秋田のナマハゲですが、この島はブリャート系の沖縄進出に関係するのかな。
串木野というのは具志堅と似ていると前から思っていました。球磨、熊襲という地名
等もタタール語に残るクマン=荒地、山地というのと同じです。愛媛の久万、紀伊、
出雲の熊野も同じ意味だと思っているんですが。これがハンガリーではクマン族
となっている。
318がいやまん:2005/09/25(日) 16:11:33
甑島にこういうの↓とか、
日野宮(ひのみや)神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
田和山↓
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
天日宮↓
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
岡山県「熊山」山行報告↓
http://www.irorimura.com/bun1/geki01.htm
こういう月型の石とか、
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/tatetuki.htm
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm
こういうのが発見できたら漏れもちょっとしたシュリーマンになるんですが。
319がいやまん:2005/09/26(月) 09:38:51
宗像系で沖津、中津、辺津、住吉系で上、中、底などの三神の表現があるが
http://www.irorimura.com/bun1/geki-kuma3.jpg
こういった石積遺構を見るに付けそれらが奥、中、外辺すれば、奥津城、中津、
辺津の元の意味が明白になると同時に、この遺構は石積墳時代であることも
わかる。
320がいやまん:2005/09/26(月) 09:53:10
この遺構からすると、オキナガタラシ姫というのは天上、地上を統治する女王という
称号ともとれる。少なくとも前方後円墳以前の考えだろう。したがってあの呼称は
時代的に200年ほど古い感じである。
32116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:05:13
あまり深みにはまらないほうがいいかも。
邪馬台国は九州のどっかにあったくらいに
思っておけばいい。本気で探すとなると
際限なくなる
322がいやまん:2005/09/26(月) 10:26:23
ヒッキーさん、それって深みじゃないの?
32316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:28:10
こんなことしてたら頭が痛くなってきた。
宇佐神宮は宗像3神を祭ったもので
卑弥呼じゃないでしょう。よくわかりません。
16歳の僕には難しすぎます。
324がいやまん:2005/09/26(月) 10:51:53
それって、自分で言ってるように、オートフォーカスやってリャいい問題じゃないの?
32516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:00:57
がいやまんさん詳しいですね。
326日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:16:02
なんで甕棺埋め戻したりしたんだろう
327がいやまん:2005/09/27(火) 08:27:57
>>320
この三重の遺構を天、地/地表、地下/海面下の宇宙像とすると、オキは天、ナカは
地上、その下は大地とくっついた黄泉の世界だろう。オキ・ナカというのはシャーマン
と政治の両面ということでオキナカタラシ姫というのは卑弥呼のような人。ナカツ姫
というのはシャーマンではない女性天皇ということになるが。倭の五王の時代には
そんな女性天皇がいたのなら中国でも女王と書いてもよさそうなもんだ。どうもこれらの
言葉は大和朝廷が九州に勢力を伸ばした際に九州の伝承から拝借したのと違うか。
河内王朝は邪馬台国とは喧嘩別れしたために卑弥呼についての詳細な情報をもってい
なかったのでは。そして九州にあったのは金印時代の倭奴国の後を受けた平原・三雲、
それらが宇佐に移動していたものであったのではなかろうか。
32816歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 09:02:48
邪馬台国の第一候補地として僕はやはり
宇佐をあげたいです。日向も邪馬台国と関わりがあるきがします
けど、やはり宇佐に邪馬台国はあったと確信しております。

・>女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。

倭人伝のこの文章を読むかぎり宇佐から海を渡り山口へ
いったとみるのがもっとも妥当な解釈です。そして南の
四国に侏儒国があったのでしょう。それ以外に解釈の
仕様がないじゃありませんか?w

・当時、宇佐は大和・出雲とならびもっとも開けたとこでした。

・宇佐神宮の比売大神は宗像3女神との公式見解ですが
卑弥呼一族は道教に通じていたらしいですし渡来勢力の
宗像族だと思っております。また卑弥呼・壱与ほどの
倭国30国を代表する王がどこにも祀られてないのはおかしい
ですし、なんらかの伝承も残されてるはずです。考えられるのは
この宇佐神宮の比売大神しかありません。

・宇佐神宮の拝礼方式で2礼4拍手1礼の中に出てくる
4拍手は出雲大社と宇佐神宮だけです。4は死につながり
縁起が悪いのに4拍手ですし、また応神・神功も一緒に
祀られてることから僕は大和朝廷が宇佐にあった邪馬台国を
滅ぼし壱与を殺したのではないかと考えます。
ちょうど大和朝廷が中央集権化を進めるべく全国に兵を
派遣してる時期と重なりますし九州に上陸する際、
地理的に見てまず宇佐が真っ先に狙われます。
ゆえに出雲の大国主同様二度と生き返らないでくれと
いう意味もこめて4拍手なのではないでしょうか?
329がいやまん:2005/09/27(火) 10:02:18
アマテラスが一人では寂しいから豊を呼ぶことにした、なんてのは邪馬台国
の読みすぎでしょうね。初めから豊を入れておけばよかったのにね。侏儒国
というのは秋田音頭などにある蕗の話が大きくなったのと違うかな。馬鹿の
壁で蕗が人間より大きいというのはありえない。つまり、小人の国なんだ。
まー、誰も行ったことがなかったんじゃないかな。宇佐は何と言っても要
の地点ですね。古代この辺は豊の国であった。豊葦原というのは豊と東方
平原広沢の地、つまり、アシというのは東方ということではないかと思うんです。
邪馬台国は陳寿さんの頭の中にあるわけで、彼に聞いても、俺は伝聞だから
解からないよというんじゃないかな。
330がいやまん:2005/09/27(火) 10:10:15
宇佐神宮ではなんだかぽっかり穴が開いているようであり、大和朝廷が宇佐にあった
豊の神を元伊勢の方に移動させたということは考えられますね。
331がいやまん:2005/09/27(火) 10:13:55
河内王朝とは日本最初の邪馬台国九州論者であったのかも。
33216歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 10:45:07
忘れてた
豊の国=トヨの国。ん?台与の国??
そうか、そうだったのかーw
333がいやまん:2005/09/27(火) 10:49:13
宇佐に戻るが、この地で武の神、八幡神が女神の弟のステータスから分離して
誕生したということは、同時に、アマテラスの唯一の太陽神のステータスを得た
ことになる。これに類することはスサノオの神ヤライとして既にあるが、宇佐で生まれた
八幡神は明確な武の神という点が違う。豊というのはアマテラスの前の呼び名だろうか。
334がいやまん:2005/09/27(火) 11:56:22
>>332
崇神が馬城峯、豊=トヨ、てなこともね。ただ、会津から鹿児島にかけての古墳
の分布(民力の分布)の上で倭人伝の世帯数をどう振付けるか。楯築遺跡への
集中の残滓はどう処理するか。
33516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 12:00:35
>>334
すでにその問題も決着してますよ。
世帯数なんてあれは全部誇張。
司馬仲達の功績誇示と呉への牽制のために
誇張して倭人伝では書かれているのです
336日本@名無史さん:2005/09/27(火) 13:35:12
宇佐八幡は外来神
昔は中国を守っていたが、今はこの国を守るといっている

宇佐八幡の巫女の神輿は、天皇と同じ紫色
337がいやまん:2005/09/27(火) 14:29:12
>>335
いいとこどり、悪いとこどり、同じことでないですか。共時に発掘される各地遺跡の
内容を勘案した当時の民度分布、東方に伸びる当時の地勢等から見ると倭人伝は
なかなか見事なもんだと思うんだがなー。
338がいやまん:2005/09/28(水) 08:01:43
>>328
ヒッキーさんの信念には根拠があるのではないかと思うようになりました↓

>宇佐神宮の比売大神は宗像3女神との公式見解ですが
>卑弥呼一族は道教に通じていたらしいですし渡来勢力の
>宗像族だと思っております。また卑弥呼・壱与ほどの
>倭国30国を代表する王がどこにも祀られてないのはおかしい
>ですし、なんらかの伝承も残されてるはずです。考えられるのは
>この宇佐神宮の比売大神しかありません。

(1)残されていたのは辛国息長大姫大目尊の三韓征伐伝承。結果倭奴国に金印が
授与される。これが神功 の三韓征伐の説話となる。
(2)実際、仲哀は伊都国に伝わる八咫鏡を獲得したが、戦死、葛城に近い鳥の山
古墳被葬者の神功が出兵、結果は好太王碑の通り。結果、吉備の邪馬台国勢力
の名誉回復が行われ、吉備に大型前方後円墳が建設される。つまり、吉備は邪馬
台国卑弥呼出身の地であった。
(3)征服地を称号とした宇佐の辛国息長大姫大目尊はその名前が不都合であり、
豊受大神と変えられ、丹後元伊勢方面に移される。

こういうことではなかろうか。どうです。
339がいやまん:2005/09/28(水) 10:16:28
>>327
>この三重の遺構を天、地/地表、地下/海面下の宇宙像とすると、オキは天、ナカは
>地上、その下は大地とくっついた黄泉の世界だろう。オキ・ナカというのはシャーマン
>と政治の両面ということでオキナカタラシ姫というのは卑弥呼のような人。ナカツ姫
>というのはシャーマンではない女性天皇ということになるが。倭の五王の時代には
>そんな女性天皇がいたのなら中国でも女王と書いてもよさそうなもんだ。

ワカタケル等の母とされるオオナカツ姫というのは倭人伝のトヨ/イヨのことではなかろ
うか。このトヨ/イヨは卑弥呼とは違い天日槍(渡来系)の血の入らない純正の初代倭人
女王であったのでは。垂らしというのは巾1m長さ10mもある紫綬のことだろう。後世に
印鑑を守る神社というのが各地にできているがその原型となったのは香椎宮の付近
のものであり、印鑑は神社に祭り、紫綬が王権を表すものとなったのだと思う。トヨ/
イヨをトヨスキイリヒメであるとすれば、最初は斎宮となったものの、崇神が引退した後
摂政となった可能性も残される。つまり、倭姫がその代役となり、垂仁を補佐として
事実上倭国女王、忍坂のオオナカツ姫であったのではないか。
340がいやまん:2005/09/28(水) 10:31:43
漏れの予想では↓
http://www2.odn.ne.jp/kasii-shrine/mainpage.htm
この石段は古代出雲の神殿のような天の浮橋であり、紫綬(垂らし)を巻いた天垂らし
姫が昇殿の儀を行っていたということになる。三韓の首長もその儀式の末席に連なって
いたことであろう。
34116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 10:33:00
卑弥呼がアマテラスとかそういう
神話と現実をごっちゃにしないほうがよいでしょう。
342がいやまん:2005/09/28(水) 10:39:31
↑このご神木は平原遺跡の回向柱同様、ユーラシアの鹿石、オークニェボ文化
の石柱、那智大社のナギ同様、世界樹を表すもので、ケルト・ゲルマン等欧州にも
伝播したものだと思う。またそれはチベット経由インドに入り、ヒンズー教のシバ・リンガ
にもなっているのであろう。これで遺伝子レベルの拡散の説明もつく。
343がいやまん:2005/09/28(水) 10:45:56
ヒッキーさんの甑島の話でブリャートが沖縄に移動するルートがわかりました。
344がいやまん:2005/09/28(水) 10:52:57
Mitochondrial Genome Variation in Eastern Asia
and the Peopling of Japan
上記のHPによると↓
Ryukyuans present the smallest distances to Buryats
from South Siberia, followed in short by southern Chinese.

In turn, the Ainu have their closest affinities with mainland Japanese,
Koreans, and northern Chinese.

As regards sequence matches, mainland Japanese also joins first to
Koreans and second to Buryats.

Aborigine Ryukyuans are closest to Buryats and then to Koreans.
ブリャートは半島経由で沖縄に入ってきたんですね。
345がいやまん:2005/09/28(水) 11:09:06
遺伝学者の英語は舌足らず。要するに、ユーラシア奥地の遺伝子が朝鮮人と
日本人の血に順繰りに入ってきているということであって、何も朝鮮が日本を
征圧したとかいえるわけではない。馬鹿が聞くととんでもない誤解を生む。
346がいやまん:2005/09/28(水) 12:33:15
>>334
イニエとは猪ニエのこと。つまり、崇神一族は忍坂の山奥、吉隠出身・・・

降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに
http://www2.begin.or.jp/sakura/kahi/kah044.htm

ところが豚を食べるのは九州人、つまり、

『猪群山』ストーンサークル  大分県西国東郡真玉町
http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/inomure.htm
豊後高田市 猪群山
http://www.coara.or.jp/~ozeki/yama/inomure1705.html

崇神はこの辺から宇佐に入り、吉隠の 猪養の岡に入ったのでは。
34716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 12:59:22
難しくてなんのこっちゃらわかりませんw
348がいやまん:2005/09/28(水) 13:30:01
日本で最初の天皇達は初瀬川の茶臼山、メスリ山古墳に葬られたということ。
箸墓周辺、その北方の古墳は吉備、山陰系の渡来文化の色濃い欠史8代
の時代ではないかということですね。
349がいやまん:2005/09/28(水) 13:39:09
世界史、遺伝学的に整合性のないのは歴史ではないと思うんですがね。
中国の歴史も世界史から見ればその一部に過ぎません。中国に残っていない
世界史的情報が日本に残っている可能性は大いにあります。今年の初めNHK
で紹介されたシルクロード小河墓遺跡、舟形棺を牛の皮で包んでありました。
牛の皮に乗って天に昇るのは牽牛です。日本ではマダラ神としていまだに牛を
祭ります。ちなみに小河墓遺跡は中国の夏の時代となるようです。
350日本@名無しさん:2005/09/28(水) 13:45:47
>>346
このへんから宇佐神宮(の旧いところ)にいくのかー
けっこう遠いなぁ。歩いて半日もかからないが。

まぁ宇佐から中津にかけての海岸は港がないから
舟で来るならここから上陸が一番だったたろうなぁ。
351がいやまん:2005/09/28(水) 13:56:29
綾幡神社の方とはなおさらに遠かった。まー、あの辺は九州というより本州と共通
した文化であったんじゃないのかな。
352日本@名無しさん:2005/09/28(水) 14:04:01
>>351
国見までいけば、舟で瀬戸内、本州はすぐだしね。
国見といえば6世紀の古墳があったっけ。

舟で上陸して海岸沿いをいけば、猪群山を横目に見れる。
人の行き交いがあれば、あの山で神事をやろうって
気にはなるだろうなー。
353がいやまん:2005/09/28(水) 14:05:26
「猪養野(いかいの)。
仁徳天皇の御代に、日向の肥人(ひむかのくまひと)の朝戸の君(あさべのきみ)
が、天照大神のいらっしゃる船に、猪を持って参上して奉り、猪を飼う場所を賜る
よう願い出た。そこで、この地を賜り、猪を放し飼いにした。それで猪養野という。」

つまり、養豚は天皇の許認可事業であった。すると、もし崇神を猪、つまり、養豚
関連と見ると、神武の故事もあり、九州人かと思うんだが。
354日本@名無史さん:2005/09/28(水) 17:22:02
宇佐八幡神は新羅の神だった
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-51.html

秦氏との関係が詳しく書かれていますが、卑弥呼はそれよりも
かなり前の話ですね。
355がいやまん:2005/09/29(木) 08:30:55
「八」というのは満州八旗が有名ですが、本来中国、満蒙地方にあった概念であり、
他方、新羅というのは、福岡県をシロヒワケというわけですから、福岡県の飛び地
的なものと考えた方が順当かなという気がします。大体、新羅建国にほど近い頃に
倭奴国に金印が授与されるわけで、当然ながらその属国程度のものだろうと思われ
ます。
http://www.e-tamaya.com/hatiman.html
にもあるように倭国は古来大八島と呼ばれたわけで、国東半島辺りから東を眺め
大八島を一望して豊前をその中心と認識していた時代はあったのではないでしょうか。
新羅の神様なんてとんでもないと思うんですけど。
356がいやまん:2005/09/29(木) 08:38:04
八角のルーレット上に、白旗、豊旗、切幡(徳島県にこういった寺があります)・・・などと
国名をちりばめその中心を都としていた。すると京都郡なんていうところがなんだかくさい。
素人の考えで恐縮ですがこんなことが浮かんできます。
357日本@名無史さん:2005/09/29(木) 08:47:03
白木人は男前が多いのでよくもてた

358がいやまん:2005/09/29(木) 08:48:48
もちろん、大陸で起こる水稲、青銅器、仏教などの伝わり方においては三韓の
方が上流に位置しますが、そういったものが成長し、開花するにはある程度
安定した国土が必要なわけで、若干のタイムラグはあるが最終的に収まるのは
倭国であったのではないかと思います。
359がいやまん:2005/09/29(木) 08:53:16
男前なら日本にもおり、例えば漏れとか、要するにそれを消費者として消費、視聴
する財力を誰が生み出しているかということです。わが国の男前はほかにすることが
多くテレビにばかりでておれんのじゃ。
360がいやまん:2005/09/29(木) 09:35:31
しかし、三韓征伐、統治は宇佐ガ中心ではなく、対馬であったのではという感じがあり
ます↓対馬も古代は重要な場所だったようです。↓
http://top-33.hp.infoseek.co.jp/abiru3.html
辛国息長大姫というのは対馬でアマテルとなり、その後、細烏女のように帰国した。
新羅の王が使臣を送ったがお目どおりかなわなかったというのは、大姫の活躍した
頃の戦線は扶与と楽浪の国境の辺、風景的にはペルガマン江の落花岩のような、
息長足媛が外洋から国中まで直航できるようなところかなという気がします。新羅
は寒村で問題にされていなかったのでは。

361日本@名無史さん:2005/09/29(木) 09:53:30
シルクロードのオアシス国家みたく、朝鮮−日本の貿易の
中間地点だったわけだからね
362がいやまん:2005/09/29(木) 10:10:04
名言。月支国とはかっての釜山を発し満州に向った列車のごとく大月氏の国に向う
ターミナル・ポートであったのかも。
36316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 09:59:16
8世紀に隼人の乱の影響で宇佐神宮が
建立されたという問題は、大和朝廷に
滅ぼされ殺された壱与=比売大神の怨念が
残っているから乱が起こるので宇佐に神宮を
建立したのでしょう。
364がいやまん:2005/09/30(金) 10:25:21
豊前・吉備・大和は秦系という線で結ばれており、極めて緊密な関係であったと考える
のが順当じゃないかと思うんですね。宇佐のマキ峯、大和の纒向、ミマキイリヒコにつ
いて考えているうちに、三つ鳥居、三輪、三つ巴、三韓、韓国国旗、日本国旗、シバ神、
オークネボ岩石線画の三つ目神像などに関連があるのではと思うに至りました。
三つ鳥居とは三本の(高野?)槇から成る水取に引っ掛けた構築物でその中において
雨乞い儀式を行ったもの。三輪とは三つ巴であり、オークニェボ、シバ神、スキタイ、三
女神、三貴神などに共通する「三」という聖なる数。三韓は三つ巴の現れであり、韓国
国旗はその一つを現したもの。つまり、宇佐の神紋三つ巴の一つのようなもの。日の丸
とはアマテラスの誕生によって唯一の太陽神を表すものとして生まれたもの。新羅で
太陽が消えて困るといって日本まで使臣を出したというのはこの間の事情をよく説明
している。
365がいやまん:2005/09/30(金) 11:11:02
ついでだが、崇神の御名を任那という国名として下賜したというのは、そんな日本語
をそのまま使えるわけはないので、ミマ=馬、ナ=韓という韓風に翻訳し、馬韓とした、
弁辰は余りにも倭国の名前が浸透しすぎており、特にシロなんてのは福岡県という
意味であるから今更変える必要はなかったと考えてはどうでしょうかね。
36616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 11:52:29
宇佐神宮は神殿が8世紀にできたというだけであって
3世紀〜8世紀まで宇佐に祀られていた壱与の社が
それまでにあったんじゃありませんか?

367がいやまん:2005/09/30(金) 12:09:46
「八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,
南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の
中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生し
たのかもしれない。
http://www.oct-net.ne.jp/~mhrb/kanatomi-shrine.htm
やがてこの信仰は宇佐地方に入り,宇佐の比黄(ひめ)
神をまつる信仰と融合する。この間この祭祀集団の司祭者は雄略朝には
豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇の治病に参内したと伝えられる。」
スポンサーはワカタケルかな。この人が相当いじったのでは。
368日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:52:13
今だ全国八幡宮の総本社であり、秦氏や大陸文明と関係が深く、
応神と神功皇后を両脇に従え、鏡や銅と関係が強く、その聖地は古墳とされ、
奴婢百人を連想させる百体神社を持ち、道鏡事件や奈良の大仏建立で
朝廷に多大な影響を 及ぼした上、神武よりも古くて、天の岩戸と関係があるとなれば、
ただ者でないのは明らか。
369がいやまん:2005/09/30(金) 14:26:55
百体の奴婢については胴体を特殊器台、頭を壷に入れて窯で焼成し箸墓に囲んだと
考えるべきかな。それらしき窯の遺跡でも出てくればこの仮説も生きるんだが。
370がいやまん:2005/09/30(金) 14:36:39
頭を釜で茹でるというのは吉備のウラの場合であり、これは窯で焼成するのなら
古墳の周囲にめぐらして配置することができる。宇佐で頭を落として頭なしの死体は
宇佐神宮で処理し、頭を吉備で壷に加工して大和に献納するということもありえようか。
371がいやまん:2005/09/30(金) 14:49:59
纒向宮殿の官女などには手をつけずに宇佐で殉死を執行をすると言うことは
これらの犠牲者が生口同様は隼人系であったというのなら意味はある。生口は
魏に対し狗奴国との戦闘の実が挙がっていることの証明もあるであろうから南九州
の人間を出す必要があったはずである。
372がいやまん:2005/09/30(金) 15:21:30
苅田の石塚山古墳等のできのはトヨなどの死後であり、この地方にはそれまで
邪馬台国の古墳文化は及んでいないわけであるから、邪馬台国を遠く離れた
この地こそ、殉死のための奴婢の集団殺戮といったテロにはうってつけの舞台
かも知れない。
37316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 08:36:56
3世紀に卑弥呼・壱与を祀っていた
社を8世紀の隼人の乱を期に改めて
宇佐神宮として祀り直したのではないんですか?
374がいやまん:2005/10/02(日) 09:46:54
纒向の古墳文化が苅田に到来、その後、綾幡郷が開け、更にその後、宇佐に移る
といった後のことでしょうが、倭人伝は中国の話ですから、国内では姫神とかいって
祀られていたんじゃないでしょうか。
375がいやまん:2005/10/02(日) 09:50:28
しかし、纒向に古墳文化が到来する前の段階で、北部九州の中心として巨石文化が
開けていたということはあるかも。
376がいやまん:2005/10/02(日) 13:27:07
これは英彦山修験道の開始は非常に古く、現在、チベットのラマ教、インドのタント
リズム(シバ神)などの元となったものが伝えられた可能性があります。それは2世
紀の中頃までさかのぼりうるのではないかと思われるんですが。倭人伝ではフミという
怪しげな国がある。神武も遠賀川下流で消息が不明となっている。どうもこの辺がくさい。
377日本@名無しさん:2005/10/02(日) 15:55:55
>>376
漢王朝時代の宗教文化に圧迫・拡散して渡来したものと考えられなくもなし
378がいやまん:2005/10/02(日) 18:05:14
神武の話も宇佐修験道を熊野に勧進するということであるなら多くの点で
辻褄が合う。
379がいやまん:2005/10/02(日) 19:06:09
英彦山は熊野の他、出羽三山とも関係があるのではなかろうか。
380日本@名無しさん:2005/10/02(日) 19:27:47
修験道の三大拠点だから関連がないといえば嘘になるだろ。
平安時代には既に関連付けられていたわけだし。
381日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:20:28
倭人はすごいチビぞろいで、白木人のスラリとした男前の人には勝てなかったが、
女はいまでも小柄で器量よしがいいと言われてる。大柄の女は大味でたべてもおいしくないのが通説で
38216歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 08:54:25
壱与の子孫が応神・神功か?
38316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 09:10:53
実は神武は邪馬台国の支流の人間だったのでは?
384日本@名無史さん:2005/10/04(火) 09:49:20
その可能性は否定できないけど邪馬台国がどこにあったかすら
解らないから実証ができないね。
天皇陵発掘させてくれれば何かわかるかもしれんけど
385がいやまん:2005/10/04(火) 12:11:34
>>382
河内王朝時代数代事前の記録はなく雄略等が古代史に触れるのは豊前等を
征圧した後のことでしょう。古代において九州の他に大和東南部にも女王があ
ったらしいとかの情報に接し、自分の漠然とした母親をその名前にしてみたり
するんじゃなかろうか。あのころの古墳から出土する刀などを見ても、継体等の
系図をみても、古代に倭人伝のような記録が取られていたということはありえない
のではないかと思う。記事のないのはヤマトタケル、タケシウチ、ソツヒコなどという
職業的宮家、軍人、官僚が何代も続いて徳川幕府みたいなことをやっていたという
ことかもね。
38616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 12:13:57
こちらの新スレもよろしく

もうひとつの邪馬台国、それこそ大和朝廷
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1128392348/l50
387がいやまん:2005/10/04(火) 12:14:41
結婚制度もはっきりしないんだから皇室典範なんてあるはずないよね。おまけに、
母系社会、夜這い制度であるから親の認知などは姫の第六感であったのでしょう。
388日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:11:11
参考文の(秦氏に関する資料はは全国的に偏在しており、
大規模な氏族集団であるが、特に九州北部の宇佐地域(隋書では秦王国、日本では周防国)や、
山城地方に多く、古代史全資料でその全氏族における秦氏の割合は、一番多いのではないか)
にあるように、渡来というより未開地に来た最初の文化人では
389日本@名無史さん:2005/10/07(金) 09:50:13
秦氏がやってきたのは崇神天皇の世、
西暦にすると283年になります。卑弥呼の時代です
390がいやまん:2005/10/07(金) 10:42:17
大分県は教育県、教育投資性向が周囲よりも高いといわれるが、科挙時代と似た
万巻の書を読んで立身出世さそうとする考えがあるんではないかと思う。これは
古代から排他的水稲耕作、絶対土地神話によって立錐の余地もなく占有された
国土である瑞穂の国に乗り込むには次元を違えた発想が必要であり、現代でも
東洋系が不法入国したにせよこの国で立身出世することは自国でよりも何百倍も
困難であるのとよく似た状況にあったのではなかろうか。思うに秦氏とは様々な
東洋の放浪者であり、日本社会において外国文化の紹介による他に身を立てる
道がなかったもので、西欧で言うユダヤ、ジプシーと同じ概念に近いのでは
なかろうか。彼らは漢人と称さざるを得なかったのであろうが、日本よりレベルの
低いような民族では出世の道がなかったからなのであり、彼らの出自は雑多なもので
あったのだろう。神代の昔から日本への浸透は困難が付きまとい、草原の民族
大移動のような短期間の流入は極めて限定されていたものと考えられる。
391がいやまん:2005/10/07(金) 11:02:59
世の中がセレブ以外に生存の道が閉ざされているということが絶対的に明白になると
イデオロギー、宗教による爆発が起こる。秦、漢、新などの時代は革命、暴動に時代で
あった。今の中近東のような騒然とした時代であり、その波が半島、列島に伝わって
恒霊の間の倭国大編成となる。最終的に共立された卑弥呼とは神武が豊前から熊野
に移した山岳宗教と何らかの接点があったのではないかと思う。
392日本@名無史さん:2005/10/07(金) 11:15:33
倭と言う土地は不動だったが、、中身の人は流動化がはげしく、
393がいやまん:2005/10/07(金) 11:20:53
恒霊以前、出雲の四隅突出墳、楯築遺跡などを含む投馬国による和国の統一があ
ったがこれは、多分敦賀の気比津彦の率いる東部連合軍によって撃破され、神武
による反撃があり、卑弥呼共立となるのではないかと思う。
394がいやまん:2005/10/07(金) 11:25:33
百姓は動かないが、地域を統括するシャーマン、海人族、百工の移動はあったんだろう。
これが物部ではないか。
395日本@名無史さん:2005/10/08(土) 06:46:00
ちなみに、卑弥呼は日の巫女じゃないという説が言語学的に打ち出されているぞ。
たとえば以下を参照。
ttp://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/pimiho_2.htm
>「呼」〜「烏」〜WOであって、「卑弥呼」は、弥生時代で「ピミヲ」、現代音に直せば、ヒミオとなるのです。
396日本@名無史さん:2005/10/08(土) 08:51:02
倭王 賛が1文字で、なんで卑弥呼が3文字なのでしょうか
397日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:49:57
AV女優の卑弥呼は、エロかった。
398日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:50:51
右左折最強
399日本@名無史さん:2005/10/19(水) 11:50:54
卑弥呼の女王国=山門郡=邪馬台国

台与の女王国=宇佐=豊国

アマテラス=卑弥呼、比売大神=台与、
神武のモデル=応神天皇=邪馬台国の末裔


おそらくこれが真実。
400日本@名無史さん:2005/10/19(水) 12:55:50
>>399
知ってる名前を全て出しての考えですか

>これが真実

願望ですよ
401日本@名無史さん:2005/10/19(水) 18:00:33
ちがう、ちがう。
卑弥呼=オレ
これ、定説だよ。
402日本@名無史さん:2005/11/18(金) 02:09:56
卑弥呼ってのは今や完全にAV用語になったね
403日本@名無史さん:2005/12/07(水) 01:26:44
404日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:57:48
邪馬台国は宇佐で間違いない
405日本@名無史さん:2005/12/08(木) 15:56:35
邪馬台国の所在地は、出雲か吉備。
つまり、中国地方の可能性が高い。

406日本@名無史さん:2005/12/08(木) 23:25:16
今頃卑弥呼どうしてるんだろね。また復活して欲しいな。
そろそろ熟女のよさが出てきてる頃だと思う。
407日本@名無史さん:2005/12/13(火) 16:13:54
>405 なんでやねん?
408日本@名無史さん:2005/12/13(火) 16:49:20
himiko
409日本@名無史さん:2005/12/26(月) 12:51:06
このスレも、宇佐神宮は卑弥呼の墓ではないとわかって、すっかりすたれてしまいましたね。
410日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:15:54
青木さやかの卑弥呼は、怖かった。
自分を女の代表だと言ってるし。
411日本@名無史さん:2006/01/01(日) 13:01:33
宇佐神宮と卑弥呼とは直接は関係してないとおもう。
ただ、宇佐神宮の建ってる場所がちょっと、前方後円墳のような
形をしてるらしい。
そこの土をこっそり調べたら中津の方の土の成分と同じだったらしく
そんな遠くから土を運んでくるなんてそうとう偉い人がいたんじゃないか。
ってのが邪馬台国 宇佐説。
412日本@名無史さん:2006/01/14(土) 14:01:07
宇宙の「う」の由来は?天皇が大将軍任命に出した書状にも
宇宙の字の下に「国王」に任命みたいな文がありました。
天下泰平の泰とか……
宇宙の、うが宇佐の宇からなら〜……
413がいやまん:2006/01/14(土) 14:56:00
>>411
すると、金官伽耶などで古墳を破壊し、その上に自己民族の古墳を建設する侵略的、
つまり、騎馬民族的メンタリティーということか。これは応神王朝、少なくとも、宇佐
地方で応神系統を名乗った集団のメンタリティーかな。漏れは河内方面ではそんな
破壊的思想は受け入れられなかったと思う。外国から来た連中と違うか。豊前は本来
宇佐ではなく苅田あたりが中心であったはずだが、それより更に以前に宇佐に王国
があったとしてもおかしくはない。謎は深い。
414日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:11:57
奈良の大仏は香春から取れた銅でできてる。
香春神社には辛国(秦国?)の文字が刻まれた神が祀られている。
三郡山地を挟んで甕棺が一切伝わらなかった筑豊地方と豊国石棺暮地域。。
生活保護率日本一(失礼)
21世紀の今でも福岡、佐賀熊本人から陸の孤島とも揶揄される豊
何かある、必ず何かあると思う。
415日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:02:24
船で大陸や半島から招いたんでしょ?
関門海峡抜けて
国東半島が迫り
四国の山々を見せ付ける事により
「あんたらの知ってる日本よりも大きくて奥深いんだぞ」
と思わせる効果もあったかな?
海からの距離も調度良い位置に宇佐神宮があるし
国東も「国のひがし」って意味
416日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:16:47
福岡人が佐賀、熊本にいくと田舎にきた〜という感覚になるが。
一方八木山、冷水超え筑豊に抜けると異国にきたな〜という感覚。
奈良時代は朝廷側からみると官軍側に与する筑豊だけど
福岡人からみると外国だったんじゃないかな〜
漏れは分水嶺三郡山地の東にある八幡にルーツがあるわけだが
弥生時代から線引きがあったということに
改めて驚きを感じる。
417日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:30:21
神武の東征は九州にあった邪馬台国王朝(卑弥呼)
の子孫が近畿に攻めていったんだと思う。
418日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:30:55
応神の親戚は西九州一帯で暴れまくっていたんだと思う。

中哀、神功は応神一族だけど筑紫地域では征服者像しか
浮かんでこない。この人たちがどこからきて八幡に祀られ
そして河内に古墳を建造したかが分かれば
419日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:45:08
漏れは基本的に応神は河内の豪族だったと思ってる。
豊前地域に拠点を置き、三郡山地の分水嶺(大分という地名がある)
を超え後の竹斯(筑紫)に攻め込んだんだと確信してる。
この時の戦いは想像を絶したもので
後に「討ちてし止まむ!」という決まり文句まで生み出した。
(その当時は竹斯という地名は無かったようであるが。)
この時畿内地域にとって応神一族が果たした功績が絶大でそして犠牲も大きかった
だから盛大に祀られたのでしょう。

そう考えると、邪馬台国の全体象とも一致する。
420日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:01:07
河内といえば後の騎馬文化と一致するな。

豊国の地名は出雲、大和、東国系の地名が多い。
杵築、佐伯などなど・・
これはこの地域が狭小な平野しかなく簡単に征服されてしまった
せいだろう。

一方西九州一帯はどうだろ、有明海から熊本に至地域は
縄文時代弥生時代と一貫して人口過密地帯である。
広大な肥沃な平地を抱える。
大陸の文物も容易に入る先進的な地域でもある。
この地域を征服するということは例え近畿豪族といえども容易では
なかったであろう。
結果この地域のみが中央政権と対立することになるのだと思う。
421日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:06:49
「邪馬台国」は宇佐で決着している。
422サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 08:50:26
宇佐だったらなにもマツロに上陸して陸路をとらなくとも、水行して直接到達できますよ。そしてそれが宇佐説の最大の欠点です。
42316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/15(日) 10:29:52
サガミハラさん
高木あき光氏の「邪馬台国の秘密」を読んでくださいよ。
神湊に上陸するんですよ。
424日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:58:13
ヒント:http://www.inoues.net/mystery/kokusikoku.html
ヒント:箸墓古墳は3世紀中頃の築造であると考えられ、
「前方後円墳」と言われる古墳の中では最古式の一つであ
ると考えられています。また、邪馬台国の女王・卑弥呼
(西暦247年頃死去)の墓との説で特に有名です。
後円部径の160mというのは倭人伝に書かれている卑
弥呼の墓の大きさ「径百余歩」と符合しています。
また、箸墓の体積は30万立方メートルで造営には述べ135万人
が動員されたと推計されています。
ヒント:箸墓とほぼ同時期とされる兵庫県の西求女塚(にしもとめづか)
古墳や奈良県の黒塚古墳などから出土した三角縁神獣鏡の新旧関係から
築造は西暦260年頃


425日本@名無史さん:2006/01/15(日) 11:03:40
ヒント:卑弥呼=比売大神??=世紀的に???
    卑弥呼=神功??????=伝承的に???
    
426日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:28:58
卑弥呼と応神の母神功は別の人ですよ。
応神が倭の五王讃なので時代がずれてます。
空白の4世紀の人です。神功、高句麗の倭との戦争を示す卑
427サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 20:44:01
今日、六興出版の「卑弥呼の墓 原田大六著」を入手しました。
宇佐神宮が卑弥呼の墓であると言う人がいますが、それについて原田大六氏はいっています。
見出しをのせます。
七 自然の丘陵であった宇佐神宮の亀山
真実は地形にある。
防空濠に地層をみる
菱形池で亀山は築けない。だれが石棺を見たか
妄想と誤聞の相乗積
昔だったら神罰もの
推測と化学と
というわけで、特に地形図を載せて詳しく否定しております。
428日本@名無史さん:2006/01/15(日) 20:47:39
今頃なんだかなあ
それ(大六の批判)前レスで引用指摘されてるよw
429日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:01:13
八幡の神って天安河原で、天照大神と素戔嗚尊が誓約したときに生まれた、三人の女神と
五人の男神の事だろ。
430サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/15(日) 21:08:28
ヒッキ―さんへ、木氏は小説家です。
本気にしないでください。昔、木氏の説を確かめようとして九州を歩き回ったことがあります。(恥ずかしい)
431日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:10:08
それを言ったら藻前はしろーと
432日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:32:25
>>426
確かに卑弥呼と神功は別人です。しかし、日本書紀の年代では神功
の年代と、また過剰な功績でも、重なると言って良いでしょう。自
分の持ってる本には、後に魏志を読んだ編者が、卑弥呼と繋げるあ
えて創作をしたのではないのではと注約がありました。もちろん本
文にそのように記載してはないと思いますが、しかし、その年代と
石神神社の七支刀と朝鮮の三国史記と日本書紀との年代と重なりま
す。これらから卑弥呼は日本書紀には登場しない人物だと考えます。
もし宇佐が卑弥呼の墓ならばなぜ、天皇家縁のない宇佐を重要視し
たのかが矛盾が生じるのではないでしょうか。
433日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:42:04
漏れはその事については卑弥呼の時代豊国は近畿と緩い同盟程度のもので
支配した奴国、伊都国などの筑紫の国々も緩い支配統治でしかなかった。

しかし、4世紀に入り仲哀神功、応神の時代になると豊・畿内連合は
暴力による恐怖政治で筑紫を支配しようとした応神が胎内にいるとき
三韓征伐をし高句麗に碑文までのこさせた。
そして三韓を征伐した後畿内に戻り周辺の不満分子も服従させて
河内に落ち着いた。この後辛国から騎馬、新渡来人がくる。
後の秦王国か
434日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:56:03
要するに卑弥呼は畿内人にとってはさほど重要なものではなかった
という事だと思う。豊国の一官吏に過ぎない卑弥呼の記憶など消え失せた
のでしょ。
435日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:18:15
豊国が宇佐で畿内が伊勢ってことかな。
さらに豊国に渡来人が入植して秦国になったということかな。
半月城通信での文に似ているので挙げておく。
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.559
でもこれ最終的に応神が東征して畿内王朝を滅ぼしたことになっている。
436イエス・キリスト:2006/01/16(月) 09:41:38
428からみると、邪馬台国右左折はとっくに否定されているようですね。
それにもかかわらず、いまだ宇佐説を主張しているのは極めて問題である。
宇佐説の人は今からでもおそくはない。汝悔い改めよ.
437日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:42:04
>>436
どの説に悔い改めよと?
438がいやまん:2006/01/16(月) 11:12:06
伊勢神宮の豊受大神は流浪の遍歴がありどうもくさい。漏れは、よく考えて、
丹後に入った海部・尾張族の更に彼らの祖先がニギハヤヒ、これがハヤヒワケ
つまり、火の国出身であり、豊前を勢力下ににおいていたのが、丹後に移動させたか、
悪く考えれば、豊前を制圧した河内王朝が御神体を丹後、伊勢と移動させたんじゃ
なかろうか。食物の意味ならオオヘツヒメ、ウガノミタマ等がある。また、ヤクート
にはトヨンという神もある。
439がいやまん:2006/01/16(月) 11:22:12
丹後の海人族が先進地帯の風景、橋立、阿蘇海、竹野等に地名をまねた
のに過ぎないのかもしれない。丹後・籠神社伝世鏡は背振東麓出土品と
同じもの。
44016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 10:42:04
サガミハラさんはいったいどういう人なんですか?
邪馬台国探して九州歩き回ってるなんて聞いたこともないw
基地外だと勘違いされますよ。
44116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 10:46:59
邪馬台国が畿内の出先機関だという可能性は
僕も以前考えましたが、そうなると倭人伝に
もう少し畿内の情報が書かれていてもいいのではと
考えてしまうわけです。
44216歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 10:49:02
その前に卑弥呼は共立王ですし
畿内の派遣した官吏ではないでしょう。
まがいなりにも魏から倭王の金印ももらってますしね。
443がいやまん:2006/01/17(火) 11:15:47
割り込み失礼。倭人伝のおおよその人口把握は奴国、投馬国、邪馬台国2:5:7だが、
当時の倭国は磐越-鹿児島。そうすると投馬国5万は大型古墳の畿内出現期と見れば
大体話が合う。フェーズを100年上げるとこの数値は金属器を表すものとして、逆転する
だろうがね。箸墓着工=布留1式=ヒミコ遣使=240年頃という基準が必要だが。
古墳は簡単に動かせないからね。
444サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 13:10:40
邪馬台国は小城であると相模原で考証し、その後九州にいって現場検証をしました。
九州は一応西は長崎から南は宮崎、東は大分北は対馬まででかけました。韓国はソウルからバスや鉄道を
つかって、韓国内陸行説の行路をとおりました。ついでに、ケイシュウにもいってきました。
九州は十年ぐらい夏休みに毎年のように、主に福岡、佐賀をしらべました。ご存知なかったですか。
私の邪馬台国小城説はこのような実地を踏む事によってもなりたっているのです。
445日本@名無史さん:2006/01/17(火) 13:43:39
投馬国=出雲
でしょ?
446がいやまん:2006/01/17(火) 16:29:54
当時出雲は四隅突出型古墳の中心地でもあり、銅剣、銅鐸を埋納したり活発な
動きをしていたはず。しかしながら奴国、邪馬台国と肩を並べ第三位の世帯数
を持つ国というのは出雲も含めたもっと広域でないだろうか。吉備、播磨、丹後
あたりの山間部とか。
447サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 16:32:00
投馬国は宮崎県と鹿児島県東半です。トノコオリとか都(ト)のつく地名があります。
都については、ツともよむが読み替えとうがあるので、トと発音もできることからはんだんした。
意味は邪馬(屋間)から遠い所の意味であろう。
448がいやまん:2006/01/17(火) 16:33:03
もっと怪しいのは鳥取県である。この辺を中心に孝霊、吉備津彦が遠征を
行っている。
449安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/17(火) 16:34:27
>>445
「日本海航路」を使うのならそれもあり。
450日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:47:59
>>446
世帯数二位は投馬国でしょ?

七万戸 邪馬台国
五万戸 投馬国
二万戸 奴国
451サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 18:54:07
水田稲作だけ考えれば、投馬国の五万は多すぎるかも知れませんが、当時は畑作もそうとう盛んだったとおもいます。
452日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:58:55
狩猟採集や多々良製鉄だってある。
453日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:09:11
サガミさん。
ぜひ、宇佐説をもっと否定することから初めてはどうでしょうか?

宇佐は当時どういう政治的な位置にあったかも
454日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:11:42
サガミさんご存じと思いますが、
ヤマトタケルの熊襲征伐の帰りに泊まった宿は
八幡の香月ですよ。
これをどう考えますか?
455サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:18:45
八幡の香月に宿泊ははじめてききました。地元の伝承でしょうか?
456日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:27:11
>>455
祭神:日本武尊
    神功皇后
    應仁天皇
    仁徳天皇
由緒:日本武尊が熊襲平定の帰路、この地の豪族小狭田彦の家に宿泊し、
平定の賞として小狭田彦に香月君を与えました。その後、日本武尊が
伊勢国で亡くなったとき、香月君の夢に白鳥となってこの地に飛来
されたため、杉守宮を建ててお祀りしました。小狭田彦の曾孫が
二人おり、長男は香月宗家となり、次男は宮司となり千々和姓を
名乗って現在にいたっていると云われています。
http://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/yani-katuki.htm
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_9shu.html
九州の武将
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katuki_k.html
香月氏
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/mate/on-kaiin/frtnws893.htm
香月文書
古代の部分はどうかわかりませんが中世の部分はほぼ史実通りです。
地元人だからよくわかります。
457サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:30:27
ありがとうございました。
458日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:30:35
クマソ征伐、土蜘蛛征伐も史実です。
地名、その末裔がいるからです。
遺跡もあります。
畿内で権力者が書いた記紀では消せなかった事実は確実にあります。
これは史実と捉え傍証していくべきです。
459日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:32:18
この頁どう思いますか?投馬=出雲説
ttp://www.infonet.co.jp/nobk/other/mimi.htm
460日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:44:05
宇佐、行橋、八幡近辺が邪馬台国だと思います。
ここは畿内と同盟関係にありました、その関係は
卑弥呼の金印の謎まで含めると複雑かもしれません
しかし基本的に邪馬台国は八幡宇佐ー畿内連合です。
461日本@名無史さん:2006/01/17(火) 19:58:37
ヤマトタケルは
台与前後に九州にいた畿内人ですよ。
この人は貴重な証拠を残しているはずです。
462日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:05:13
武将の系譜から追っていくのは面白い手法だと考えます。
ただ、ほとんど藤原、源氏の系統ばかりで古代史に
は繋がりません。
しかし時々怪しげな古代人の直系がいたりします。

それに、関西や関東の中央で
有名な武将を研究しても
古代史の謎は解けませんw

歴史家のナンセンスぶりをよく顕していると思うw
463日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:16:34
464日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:16:45
景行天皇、ヤマトタケル(畿内)
卑弥呼、台与(九州)
これらは同時代に別々の場所にいたのです。

そしてヤマトタケルの息子、
仲哀、その妻神功は
九州にいました。

高句麗の碑文、倭の五王安東大将軍讃(神功の息子応神?)このあたりは
かなり真実みのある話ですよ。
465日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:22:40
古代豪族の系譜ならここ結構おもろい
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihumokuji.htm
466日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:32:46
>>463
武内さんの研究は卑弥呼の謎に直結しますが
その石黒さんはどうでしょうか?
武内さんと分けて調査する価値はありますか?
467日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:34:53
九州のクマソ、土蜘蛛側の氏姓はほぼ抹殺されてますよ。
468日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:56:42
江上という馬鹿者が権威振りかざし一人で
妄想有害デンパしたもので相当遠回りしたと思います。
日本の古代史研究
469日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:01:09
★古代カラ半島国家の歴史★

【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官
が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、
志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を
奪われることになった。
奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。
金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に
移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。

コピペ協力よろしく!
バラまいてね!
470日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:25:11
卑弥呼時代(ヤマトタケル時代)
畿内と豊国は濃密な関係にあるのです。
彼らはクマソ、土蜘蛛征伐をしたのです。
わかりましたか。
471日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:28:40
知るかボケ
472日本@名無史さん:2006/01/18(水) 04:44:04
復活!!宇佐説証明するぞ
小狭田命の父大屋田子の土蜘蛛征伐

中里隆の陶房は唐津の町はずれ、見借(みるかし)という珍しい
地名の山懐にある。 その昔、ここには名を海松橿(みるかし)
という土蜘蛛(つちぐも)が棲みついていたのを大屋田子なる者
が天皇の命によって誅滅した......と風土記にある。 
(洋々閣註:肥前風土記 海松橿媛という女性の頭領は、
大和朝廷に滅ぼされました。)見借は実にのどかな山里で、
風もなく四季温暖。 山の斜面は一面のみかん畑と段々田
んぼになってい、清流には川蟹が遊んでいる。洋々閣主人の
話では「隆さんちの蟹めしは唐津一」ということだったが、
その蟹は邸内の小川で獲れるのだろうか。
473日本@名無史さん:2006/01/18(水) 04:45:03
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/abe1g.htm
景行天皇の九州巡狩に随行した大屋田子命(大彦命の孫と称するが、実際には建緒組命の子)
の子の田道命兄弟の流れである。五十猛命は別名の白日別神とともに式内名神大社筑紫神社に祀られる。
  筑紫君(筑紫−筑前人)、筑紫宿祢、筑志朝臣(筑紫−筑前国御笠郡の筑紫神社神主で戦国大名、
藤原姓少弐氏の庶流と称、箱崎宮祠官家にもあり。その一族に島)、日下部君(草部君。草壁、
稲敷、稲員−同州御井郡高良大社祠官家。なお、藤原姓を称する肥前の高木一族、
肥後の菊池一族の実際の出自であろう)

武淳川別命(大屋田子の父)近畿か出雲から東海地方へ
http://a-mist.hp.infoseek.co.jp/other/kings%20of%20east.htm
東国を平定
四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、
丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというものである。
↑九州がない、注目!
474日本@名無史さん:2006/01/18(水) 04:46:43
大彦命(武淳川別命の父)
四道将軍として北陸へ・

建緒組命(大屋田子命の父かも)
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/oho1g.htm
○ 九州・四国地方で多氏族と称する諸氏は、本来、多臣とは別流で、宇佐国造同族の武国凝別命の
族裔ではないかと推されるが、ここに併せて掲げておく。武国凝別命(健磐竜命)の子の
大笠別命が大分国造・日向国造の祖、建緒組命が火国造・筑紫国造・讃岐国造・針間国造・
粟国造・伊予国造等の祖であったとみられる。武国凝別命の兄弟(あるいは同人)
ではないかとみられる健磐竜命の子が速甕玉命で、阿蘇国造の祖となっている。
475日本@名無史さん:2006/01/18(水) 04:47:34
甕棺文化地域は一切、他の地域に影響を及ぼしていないのよ。
476日本@名無史さん:2006/01/18(水) 05:00:22
大屋田子命は卑弥呼共立前の倭国大乱時に
石棺、四隅、銅鐸文化地域から派遣された人ですよ。
見借(甕棺文化の人)という土蜘蛛征伐してるでしょう。
銅鐸文化圏の本州の四道将軍の末裔である大屋田子命の子
小狭田命は、豊国八幡に拠点を置いてるのですよ。

四隅墓の出雲古浦弥生人の末裔物部氏の末裔
が八幡に拠点を置き西九州(甕棺文化人)を成敗したのです。
そして天孫という言葉は扶余金管加羅、畿内、豊国連語当時に
金管から入った文化ですよ。
伊都国(甕棺、入れ墨文化)の倭人は持っていない文化です!!
http://inoues.net/wajindenx.html
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
47716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/18(水) 10:49:45
サガミさんって10年間も夏休みに邪馬台国探して
さまよってたんですか・・・もう頭おかしいじゃないの?w
478サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/18(水) 18:47:08
いいえ、研究に打ちこむとそういう事はごく普通ですよ。
それから、あなたは16歳をなのっているなら、それ相当の礼儀というものを
こころえて欲しいものだ。
479日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:11:43
全くだ
ヒッキー。

480日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:31:02
★古代カラ半島国家の歴史 2★

【任那】
地名の読みは、ミマナである。
日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を
記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。
志良岐の西側にあった日本国領土である。
任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。
神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や
久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。
崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が
置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。
これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など
の武器の製造にも利用された。
そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で
あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る
ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。
また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。
朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい
土地であった。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
481狗奴 ◆5dMQZo6/zY :2006/01/19(木) 00:16:16
>>480
当時の鉄製品で鍋ってあったのか…腐食して残ってないだけ?
482日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:25:22

キは基本的に出雲系の木俣神(五十猛)半島から木の種を持ち帰り
林業の神となったに由来するのではないかと。。
景行天皇が九州の熊襲征伐の後、佐賀の三養基郡の基山を名付けたと
伝わっている。
高良山の御井神もそうでこれは元々は水神なのです。
二世紀の景行、あるいは6世紀の物部の時に
変えられたと思う。
そもそも五十猛、俣などの語感の地名は筑後地方にはないです。
明らかに渡来臭がします。
久留米筑後地方の水信仰は根強いものがあります。
水の祭典などがこの地の最大の祭りだったような
483日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:35:28
地名の変遷は興味深く、筑紫野の
ソソキノは神功期に夜須に変わり
最近、篠隈に変わってるようです。
元々、ソソキノも本来の地名ではないかもしれません。
この地が白日別、筑紫と呼ばれたあとの地名である可能性もあるからです。
邪馬台国風語感でいうとソソとかササが本来の地名のように思う。
そういう意味ではササクマは本来の地名に忠実になったのかもしれない。
484日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:43:06
白日別、筑紫は五十猛が付けたという言い伝えもありますが
実際は、この地に景行が熊襲征伐で入った時に
五十猛にちなんだ地名を付けまくったようです、
景行の辿った足取りに半島風の地名がついてるのが
明らかだからです。
485日本@名無史さん:2006/01/19(木) 04:50:06
魏志の辰韓では
大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。
とある。

ヤマトタケルが戦死し八幡の香月に白鳥になり戻ってきたという
これはまさに辰韓を通じ(あるいは他(大和?)を経由し)この地に
トーテムとして鳥が入ったことを示してる。

伊都国では見られない風習であるという、
しかし弥生の遺跡の一部にはこの鳥の模型のような
ものが出るらしい、死者を送るためのものなのだろう。
秦の位置にあったイ族系の人たちが弥生人であった可能性が大きいと思う。

彼らは満州、半島を通過し列島に入った、しかし時代により、集団により
満州、半島の文化の影響を集団別に受けながら列島各地に渡来したのであろう。
そして列島や百済などの土着文化
赤、熊信仰、入れ墨などの風習が各々
吾人、倭人、イ人、奴人が混じり倭吾イ奴人を形成したのかもしれない。
日本は万の神というけれどアジア各地のいろんな風習が入ってる、
これは渡来人でもたらされたものもあれば単なる文化移入のものも
あったり複雑なのだろう。
ただ、ルーツが権力者によって隠されていて、
>>277のように判りにくいケースが多い。
486日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:16:17
日本での氏姓制度の始まりは
台与の時代でしょう。
間違いなし。
四道将軍に付けられた氏姓が始まりです。
487日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:40:20
高天原はどこか、それは氏姓制度の始まりの少し後だと思う。
畿内から派遣されてた
四道将軍に利用されてるから、神功の頃に確立してるはず。
天、海部、安満、甘はやはり天孫として天下りだった人の末裔だろう
神功は半島から仕入れた天孫制度を取り入れたのである。
(あるいは畿内から派遣されてた制度に名前つけただけ)
最初に天下ったのは九州の倭人でしょう。
アマテラスだけではなく、土着の男の神(高木神)も支持だしているから
しかし、後、応神は東征してるのでこの地が高天原だった期間は
短かったことがわかる。

488日本@名無史さん:2006/01/19(木) 05:52:55
いや違う、高木神は景行の時に近畿から派遣されたか
宇佐・八幡からきた人間なので倭人でも土蜘蛛でも熊襲でもない。

アマテラス、高木神はいずれも近畿出自の出雲人の末裔のようだ。
結局、天孫族も出雲族(五十猛、スサノオ、阿部、物部)
も古浦・土井が浜タイプの弥生人で同族だったてこと。

高木自身は九州の土着文化に融合していっただろうが。
489日本@名無史さん:2006/01/19(木) 06:22:46
奴国は本来奴国とは読まないと思う。
ド国だと思う。
伊都=イド国、山門→ヤマド
土蜘蛛→ド蜘蛛、土民(ドミン)
沢山あった奴国(ド国)の抵抗軍(甕棺地域)
をドと読んだのでは
490日本@名無史さん:2006/01/19(木) 07:30:28
高良山の主神 玉垂命はやはり先住民、倭人みたいです。
http://www.dai3gen.net/mimitari.htm
49116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/19(木) 11:21:21
サガミさんすいませんでした。
祖父と孫ほどの年齢差があるのに失敬なことを言ってしまいました。
しかし10年間さまよった結論が小城ですか・・
ならばなぜわざわざ九州上陸後北上して伊都国までいく必要が
あるのでしょうか?
492日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:03:11
★古代カラ半島国家の歴史 3★

【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
493サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/19(木) 19:07:20
>>491 わかりました。
ところで、私の説は、マツロ国の上陸地は西唐津の八幡町で、伊都国は東南の
多久市庄集落です。そこから東へ進んで小城市小城の甘木に到着します。
494サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/19(木) 19:11:48
確たる証拠はないのであるが、漢委奴国王の金印をもらったのは、高木神であるとみています。
495日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:37:18
葦原中津国に派遣された天穂日命 大背飯三熊之大人は
本州から九州へ送り込まれるが
本州に服従しない
卑弥呼を顕してるように
思う。
496日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:51:20
記紀(注目すべきは高皇産霊尊、景行、ヤマトタケル、スサノオ)
それと魏志倭人伝を何度も読み、そして
地名と神社、遺跡、等照らし合わせてください。
高天原は八幡地方、
高皇産霊尊は高句麗出雲連合、そしてこれと近い畿内地方
そして常に出雲・八幡が平定に難儀して何度も
軍を派遣して帰ってこない
葦原中津国は九州全域特に筑後地方であることは
明らかです。
出雲・八幡・畿内の政権は
九州よりも相当まえい本州全土をほぼ統一していたのです。
そしてまさにこの本州政権が九州平定に難儀していた
時期がまさに卑弥呼の時代なのです。

497日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:39:22
そもそも九州は土蜘蛛、熊襲が沢山いて天孫が
やっと降り立ったのは辺境な地日向宮崎、
その後阿多薩摩に向かってる。
この九州が高天原や出雲高句麗である筈はないのです。
甕棺が見事廃止させられてるでしょう。
498日本@名無史さん:2006/01/20(金) 03:01:54
天神思想がどこから来て何処に入りどこで栄えたか。
魏志東夷伝みれば明らかですが、
高句麗が天神の起源です、高句麗人の末裔出雲か
あるいは八幡に最初に入ったと思う。
倭人伝当時伊都国には天神思想はありません。
なぜならこの地域は海神、土蜘蛛、熊襲の地域だからです。
本州政権の出雲か近江にいた高麗人、高皇産霊尊は
葦原中津国(九州)の平定の為に
日向に子孫のニニギを降臨させる。
圧倒的な軍事力によってこの小国はニニギに降伏する。
勢力は阿多薩摩に及ぶが、圧倒的軍事力の差で殆ど争いはなかった。
その後、彼らは土蜘蛛、隼人、海人を征伐しながら豊国に渡る。
これは紀元前ではないか、邪馬台国の始祖になると思う。
八幡宇佐に拠点を置いた。
紀元後2世紀、
近畿から景行天皇が九州平定にきている。数々の土蜘蛛、熊襲を
征伐してる。まさにこれが魏の使が見た
倭国大乱(甕棺地域の征伐)の始まり
その後、近畿から送り込まれた、
四道将軍の裔、大屋田子が八幡の香月に居を構え
唐津の見借などもを征伐する。
499日本@名無史さん:2006/01/20(金) 03:03:13
しかし甕棺地域を完全に制圧することは出来ず
熊襲、土蜘蛛との和睦を結ぶ。
筑前、豊前、肥前の一部で豊国邪馬台国の卑弥呼を擁立する。
この地域は本州政権と福岡隈地方以南の土蜘蛛、熊襲勢力の
中間的な存在で独立した主権を握るわけです。
近畿により近い仲哀、神功の時代は少し後です。
卑弥呼は本州近畿の裏切りものという扱いでしょう。

仲哀、神功の時代、三韓征伐の功績があり
彼らは本格的に日本列島全土の将軍の地位を与えられる。
仲哀、神功は日向ニニギの末裔であり
近畿人景行の子孫でもあるのです。
ニニギは近畿人の末裔なので結局ルーツは同じなわけですっが
500日本@名無史さん:2006/01/20(金) 03:20:25
紀元前3〜2世紀ころ本州の本格的弥生時代が出雲に始まる。
高句麗の四隅墓がここに始まったのはそのせいです。
高麗人の象徴高皇産霊尊はまず少彦名を出雲に降臨させています。
その後自らも一族数千人をつれ亡命、その後も
次々と出雲に侵入し関東、東北にまで広がります。
501日本@名無史さん:2006/01/20(金) 08:36:16
記紀の
神代(出雲国の葦原中津国平定)、
景行天皇(土蜘蛛、熊襲征伐)
仲哀神功期
終始、出雲・近畿政権が
九州との戦争に明け暮れていることを記述してる。
502日本@名無史さん:2006/01/20(金) 09:38:40
503日本@名無史さん:2006/01/20(金) 09:47:11
504日本@名無史さん:2006/01/20(金) 11:18:50
神功は三韓征伐の時銅剣・銅矛を祭器として
民衆を鼓舞したとされるが、
銅剣・銅矛はそういう意図でつかわれたんだ
その時に筑前三輪も神功が畿内の地名を
ここに付けたと書いてある。
505日本@名無史さん:2006/01/20(金) 11:53:52
山門郡、甘木はありえない。
記紀、肥前風土記、筑後、筑前風土記逸文では
土蜘蛛や熊襲の豪族が周辺にウヨウヨいるのに、
山門郡、甘木のような小さな村がどうやって
巨大な古墳作ってる本州を攻め滅ぼせようか、
山門郡は土蜘蛛がいる、甘木も大豪族、熊鷹がいる。
佐賀大和も肥前風土記では元々は別の地名だったとか
国府が置かれたことで大和になったらしい。

506日本@名無史さん:2006/01/20(金) 12:17:04
元々大王は先住民系だと思います。
渡来系の少ない時代から列島各地を統括していた。
沖縄にまで広がる来目、久米、久留米、比良、平の地名の共通点
は一つの証です。
来目、ヒラは大王直轄地を示すそうです。
日向に天孫が降り阿多で娶った女性は阿平姫だったと思います。
渡来臭のするトーテムが入るのは何代目の大王か判りませんが
出雲の影響が強くなった頃と考えます。
おそらく大王が近畿に東征し何代かした後ではないでしょうか
紀元前後か。
大王が天孫を名乗り始めるのは3世紀前後でしょう。
高皇産霊尊が一族をつれて
半島から出雲に渡来し、彼が自らの子を
天孫と名乗らせ政治力を持ち始めた後だと思います。
紀の記述通りです。
物部氏族が渡来人、高皇産霊尊の末裔だと思います。
507日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:14:16
どんなに頭捻って考えても
あくまで仮説に過ぎず
将来も絶対確定することもない永遠の謎に
そんなに一生懸命になって
空しくないの?
508日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:59:49
>>498
>>507
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
_____________________

/    ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
    |:|: ..   :||    .. |:|  │
    :|: ..   ||    ..|| <   古代のカラ半島南部は
                     日本領だったのだ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
::     |\|_|_|_|_/:::|    \________
   __| |   / / :|___

古代カラ半島の歴史1・2・3をコピーせよ。
近所にバラまきたまえ!
地球を守るために、ウルトラマンに協力せよ!!
509日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:02:16
>>507
情報操作してまで
嘘をつこうとする団体が多いので
頭にくるんだよ!!
510日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:48:46
民族学、考古学、
百済、新羅、高句麗の王の系譜とかも総合してみると
必ず謎は解けそうですけどね。
神武が海神系であるから元々は九州であろうが、東征した後の
后の名が五十猛の子孫であることが五十という名から出雲系である
ことが判る。しかし当時は名前に体の名称を付けているので
まだ先住民色が濃い大王であったことが判る。
土蜘蛛は体の名称を好んで名前につけている。
511日本@名無史さん:2006/01/21(土) 08:39:31
神功紀にあるように倭は一時韓半島南部を制圧したってことでしょう。
馬韓、辰韓を百済、新羅にしたのは倭人だよ。
そしてそれ以前に丹波から新羅に脱解が移住して新良貴氏になってるよね。
神武の末裔みたいだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kin_sei.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm
脱解は近畿の王朝の命により神武の子として
丹波から派遣されたわけ、そして新良貴氏の祖、
新羅の王になる。
そして高天原の位置も判った。
近江八幡の野洲川ここである!
ここから稲飯命の子、脱解(新良貴氏)が新羅に、そして立石氏の祖先が筑紫に
出雲に佐々木氏が天下った。
邪馬台国と高天原の位置を比定したよ!!
完璧だ!
欠史8代と言われてる
大王の子孫の行動を辿れば簡単に解けるW
512:2006/01/21(土) 08:46:18
完璧〜?どうかなぁ?
513日本@名無史さん:2006/01/21(土) 09:09:48
稲飯命→脱解(新良貴氏)
は紀元後57年頃新羅王即位らしい。
タブブラウザにしてググッて調べてくれないかな?
次々謎が解けるんだけど・・
IE使ってると調べるの難しいよ。
大名の系譜、苗字氏姓とか系譜。
タブ使って、ぐぐりまくれば直ぐ答えはでる。
欠8代は存在する。
514日本@名無史さん:2006/01/21(土) 09:12:06
地域の氏姓の偏りとかで直ぐ判るからね。
誰が近江から天下ったか。
515日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:35:37
高句麗と本州国(日本)が常に同盟状態にあり
本州人と高句麗人は一蓮托生の歴史を歩んできた。
特に近畿で顕著。
そして九州(葦原中津国)や半島南部(青海原)の
先住民地域を攻略しようとしたのです。
まず最初に新羅を攻略し天孫を近畿から派遣しました。
新羅王になりました。新羅から高句麗人も近畿に来ました。
そいつの子孫を列島各地に天下りさせました。
みんな朝鮮朝顔になりました。

めでたしめでたし
516御前等:2006/01/21(土) 21:14:29
それより
倭迹迹日百襲姫
の故事についてお前ら的にどう思ってるか教えてくれ。
517日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:14:31
>>516
その人そんなに重要?
518御前等:2006/01/22(日) 00:15:44
>>517
倭迹迹日百襲姫

卑弥呼の墓を探している人なら知っていて当然。
知らない人はモグリって言って良いでしょう。
批判でも良いから見解を知りたいな。
519日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:22:56
>>518
知ってるよ。しかし何故故倭迹迹日百襲姫が
そんなに重要なの?
簡単に説明してくれよ。
記紀と倭人伝の対比して説明してくれ
520日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:29:59
倭迹迹日百襲姫がどう重要なのか説明してくれよ〜
521日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:43:20
卑弥呼候補、三人(倭迹迹日百襲姫、豊鍬入姫、神功皇后)中の最有力候補。
522御前等:2006/01/22(日) 08:24:13
崇神天皇(ハツシラスメスメラミコト)のそばに仕える巫女で
魏志の卑弥呼と似ていること。
523日本@名無史さん:2006/01/22(日) 09:40:53
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1137884195/l50
3 :日本@名無史さん :2006/01/22(日) 09:04:15
この少しあとに苗字制度が始まるのだが当時の人はまだ苗字がない。
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
http://www.dai3gen.net/ems.htm
当時の日本人の名前の変化面白いよ。
名前は身分、生活様式、渡来か否かを顕す
九州の土蜘蛛の方々(足、手、耳垂、鼻垂)等体の名前がついてる。
倭人伝によると投馬国は彌彌那利、彌彌とおそらくミミ=耳で
土蜘蛛系だろう
初期の大王にも足がついてるのでやはり元は九州の土民の血が濃いのかも

筑紫国熊県の方は名前に熊がつく、熊襲国の人は鹿
動物の名前が好きみたいだ、狩猟民族の名残か
当時の大和政権の上層部は
彦(日子)、日、五十、鈴などを名前につけている。
特に出雲系に近い人は鈴、五十を好む。銅鐸、五十猛(スサノオの末裔だから)
ニギハヤヒも日だね。
九州の上層部の人は田という言葉が好きなようである。水田稲作
この少し後に近畿に白というトーテムが入る。

渡来アイテムは五十、鈴、日から白へと変わる。
東北に白という地名が多いのは新しい渡来人が入ったか、
新しい畿内文化が入ったかいずれか。
52416歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/22(日) 12:37:32
しかしサガミさん、小城が邪馬台国では
当時、もっとも多くの人口が
集中していたところが小城ですか?
女王国=邪馬台国だとしてお答えくださいw
女王国が卑弥呼権限の及ぶ範囲というのは
やはり自分の都合のいいように曲解しすぎてると思います。
単純に女王国は邪馬台国のことだとしてください。
525サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/23(月) 08:44:21
奈良時代あたりであったか、一時期小城地方が北部九州でもっとも人口の稠密であった時があります。
もっと後世でも、山車(飾りだったか?)をみるなら博多祇園、人をみるなら小城祇園といわれた時代もありました。
526日本@名無史さん:2006/01/23(月) 09:35:58
サガミさん
実は、真実を知ってわざとしてるんでしょ?w
小城なんて土蜘蛛征伐のあった血ですよ。
どうなんでしょうか?
527日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:35:37
答えて下さいよ。
わざとしてるんでしょ?
528日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:36:35
藤原氏の末裔ですか
529日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:51:40
真実とは「火と日」
530サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/23(月) 11:57:23
土蜘蛛征伐は邪馬台国が滅んでから後のことです。それに、大和側は、敵対する現地人は土蜘蛛
としています。別に野蛮人ではありません。
531日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:59:56
久留米、熊本以南の
玉垂命は
火、水を祀ってるのです。古い縄文時代からの宗教でしょう。
ここが天孫発祥の地ということはあり得ないのです。

天孫系を司令官として
天下りさせるので常に争いが耐えなかったのでしょう。
532日本@名無史さん:2006/01/23(月) 12:13:36
天皇族は常に新しい皇別を司令官として朝廷から送ってるんですよ。
九州や瀬戸内、四国などは早くから開けてて権限もってましたから
東国、近畿の天孫系の血が濃い武士が常に天下りしてました。
だから長期間、本州と対立したのです。
源平、南北朝も原因はこれです
記紀みると、これは日本の掟らしく、
実質的アマテラスである高木神(高麗人)の血の濃い子孫を
日本全国に広める策略みたいです。
533日本@名無史さん:2006/01/23(月) 12:18:34
>>531
天孫 日 族は、限界名田沿岸地域から九州北部に広がり
火 族を追い出した
534日本@名無史さん:2006/01/23(月) 12:41:28
全国に広まる鏡は(天孫日族の象徴)天孫日族の行動範囲を表す。
535日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:33:03
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
_____________________

/    ||    :ヽ
   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
    |:|: ..   :||    .. |:|  │
    :|: ..   ||    ..|| <   古代のカラ半島南部は
                     日本領だったのだ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
::     |\|_|_|_|_/:::|    \________
   __| |   / / :|___

古代カラ半島の歴史1・2・3をコピーせよ。
近所にバラまきたまえ!
地球を守るために、ウルトラマンに協力せよ!!
536サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/23(月) 18:40:37
私も自説を広めるために、随分顰蹙を買うようなことをしましたが、あなたにはまけました。
がんばらなくっちゃ。
537日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:40:49
最初は日族、後に天孫となる。
彼らの拠点は但馬丹波
その前は出雲だ、記紀をよくよめ

朝鮮人金氏 天日鉾は但馬に移住してるんだぞ。
新良貴氏(脱解)を辰韓に天下りさせたのは
野洲川(近江)の高天原の住人だよ。
それに火族は追い出されていない。
九州は南朝の一大勢力圏だったんだぞ。
本州人には全く知られていないことだが
これは本州人と九州人が全く違う異質な民族であったから
情報を隠したのである。
南朝の拠点は九州だよ
538サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/24(火) 10:32:52
女王国と邪馬台国について。女王国といったら、二通りの意味があります。
一つは親魏倭王としての支配する倭国の女王であり、倭の中の一国である邪馬台国の王としての立場があります。
女王国といったら倭国を統括する立場とみています。勿論一国家である邪馬台国を指してつかうこともあります。
539日本@名無史さん:2006/01/24(火) 14:19:16
133 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 13:35:53
新羅は出雲人の国
http://makimo.to/2ch/mentai_whis/980/980828553.html

134 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 14:00:44
新羅人は出雲・丹波・但馬人(銅鐸=鈴、五十猛)かもしれないが。
出雲系が純粋な倭系とは思えない。

彼らは少なからずその前に高句麗の影響を受けている。
だから出雲系(出雲人、初期近畿人、関東東北人)は
当初は高句麗との混血であり、更に新羅からの渡来人と
混血したと考えられる。
だからあそこまで高句麗、新羅文化に拘りがあるのです。
540日本@名無史さん:2006/01/25(水) 03:23:11
邪馬台国は北部九州(宇佐八幡を中心か?)とした本州政権に対する
クーデター政権かもしれない。
元々伊都国、奴国、など筑前、豊前は本州政権の支配下にあったが
その臣民は南の狗奴国的な人達が多く、本州政権に対する
不満が高かった。そんな中、邪馬台国(宇佐?あるいは近畿の一部)
が主導的な立場に立ちこの地域を中心としたクーデター政権を
たてた、それが女王国邪馬台国ではないか?
そうすると、女王連合国家の首都は小城であっても、近畿であっても
小城の土蜘蛛征伐等の関係で否定材料とまでは言えないかもしれない。
(ちょっとわかりにくい文書いてしまった〜)

狗奴国とはその女王国とも本州政権とも連合を組まない
熊襲、熊民、隈民、蘇民、土民だったのである。
狗奴国の人達は頑なに火、水信仰(玉垂命)をもっていた。
541日本@名無史さん:2006/01/25(水) 16:14:33
>>540
おまいコピペし杉
54216歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 12:06:50
宇佐邪馬台国は畿内政権が九州進出したときに
対する税関・防衛の役割を果たしていたのですよ。
なので九州の統治は伊都国に一大卒をおき
任せているのです。のちに狗奴国の圧迫に耐えかねて
畿内に東遷して畿内政権と合体したのでしょう。
そして狗奴国はのちの磐井王国に発展するのでしょう。
543日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:53:32
何となく宇佐八幡宮の奥宮は、インターネットで資料を読んでますと少し匂いますね?
あまり関係ありませんが、僕の地元の「宇治」は少し匂いませんか?
周囲には世界遺産の「宇治上神社」と「平等院」、宇治陵に木幡神社(宇佐・出雲・伊勢・住吉の建築様式を使用)、
源氏物語の最後の舞台であり、応神天皇の子の菟道皇子の墓もある場所です。
宇治茶も美味しいですし、奈良時代の光仁天皇建立の三室戸寺から見た景色は素晴らしいです。
544日本@名無史さん:2006/02/07(火) 05:55:02
>>543
旧都(志賀)と新都(飛鳥)を繋ぐ中継所。
旧都(平城)と新都(平安)を繋ぐ中継所。
545日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:46:00
★ 三国史記に記された百済の建国神話 ★

【百済の建国 (三国史記より)】
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだ。
後継者争いで身の危険を感じた弟の温祚(おんそ)は、高句麗から逃げ出し、自分の国を建てるために
南方へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。10人の臣下にちなんで、当初は国の名を
「十済」とした。しかし、百姓たちが自分にしたがったことを喜び、百姓たちにちなんで国号を「百済」
に改めた。

【呉の建国 (史記より)】
『史記』によると、呉を建国した太伯(たいはく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男であったが、
後継者問題で身の危険を感じ、南方の江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、後継者となる
意志のないことを表明して句呉と称したという。こうした事情を知って、この地の人々、千余家が
彼にしたがった。太伯は彼らを臣民として呉を建国した。

12世紀に成立した三国史記の『百済建国神話』が、史記のパクリであることは
間違いない。
546日本@名無史さん:2006/02/12(日) 00:38:29
もし大分県の宇佐から船で東征した場合、大阪府淀川の流れが急になる京都府宇治市辺りが船の休息地として良い印象を僕自身感じています。
船で宇治からさらに琵琶湖にまで到達する事が出来たのかは疑問ですが、琵琶湖に達するまでの川幅と深さは当時でも充分あったのではないでしょうかと思っています。
応神天皇の子の菟道皇子が京都宇治に居を構えていたと伝えられている面でも少し注目しています。
京都府宇治市は平安時代後期の観光地として盛り上がっていますが、古墳時代の宇治にも脚光が当たってくれると嬉しいです。
547日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:12:40
【『嫌日流』まとめサイト】
http://homepage3.nifty.com/hakch/

マンガで描かれている日本人の顔と朝鮮人の顔がおもしろい(W
目が細く、目尻が吊り上った、一重マブタの、着物を着ている女二人組が
日本人だという。

1)目が細い
2)目尻が吊り上っている
3)一重マブタ

これらの特徴は、朝鮮人の顔に見られるものなんだが(W
逆に、マンガに登場する韓国人の女たちは、二重マブタ(笑)で、
目が大きい日本人顔で描かれているよ。

よく、
「韓国人が、日本人について語っていることは、すべて韓国人自身に
 当てはまることだ」
と、言われるが、ニセ嫌日流は、まさに日本人と韓国人の容姿を逆転させて
描いているんだよな(笑
韓国人は、いつも、事実を真逆に語る(描く)よな。
嫌日流が日本で出版されたら面白くなるね(笑
548日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:09:22
2006/02/16/付 日刊スポーツ・コムからの記事

【父の虐待で1歳長女に重い脳障害】
 
長女(1)と元妻(22)に虐待を繰り返したとして、神奈川県警座間署は16日、傷害容疑で
同県相模原市相武台の板金工=李奎光容疑者(26)を逮捕した。
長女は脳に重い障害が残り寝たきり状態という。

調べでは、李容疑者は、長女が生後1カ月だった04年12月から昨年2月まで、
当時住んでいた同県座間市のアパートで、高く放り投げて回転させるなどし、
くも膜下出血などの傷害を負わせた疑い。
元妻にも昨年4月、殴るけるなどして軽傷を負わせた疑い。容疑を認めているという。
長女は昨年2月から3カ月間入院。今年に入り心身の発育異常などで「被虐待児症候群」と
診断されたという。
元妻の家族が昨年5月、座間署に相談し、同署は虐待と障害との関係を慎重に調べていた。
李容疑者は現在、妻と離婚し別居しているという。

李奎光は韓国籍。
54916歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/22(水) 10:47:02
宇佐を掘れば金印がでてくる
550日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:10:19
でてこないよ!
倭国の金印は一つだよ。魏は邪馬台国に金印はあげられないし、受け取れもしないよ。
魏はまさかただの女シャーマンが王や皇帝以上の治天の君とは思わないからね。

行政代行権の執権職にあたるのが那国なんだよ。

でもそれ以上が出てくる可能性はあるね。魏はなんらかの贈り物はしているはずだからね。
もし蘭麝隊切り取り並みwに発掘許可がでてできたとしても何だコレ?っていうものかもしれんね。
僕の私見では日光を反射する鏡が一番近いとは思うよ…。

水銀の水鏡とかなら、金印より上だと思うね。
でもそんなのあるかな…?
55116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/23(木) 11:08:16
はやく盗掘してきてくださいw
552日本@名無史さん:2006/02/24(金) 04:42:41
卑弥呼も治天の君である女王だし、国が乱れた後も世つぎの娘の壱与を立てて王とした。
魏志倭人伝にそのように女シャーマンを王としたという記述があるのは常識なのだが。
55316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 11:01:52
伊都国の近くに邪馬台国があったら
一大卒を置く意味がわからないので
伊都と逆側の宇佐に邪馬台国があったとみるべき
554がいやまん:2006/02/27(月) 11:57:06
恩後川・香春そして綾幡この辺が強い。倭面土国ではないかな。
「八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,
南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の
中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生
したのかもしれない。」
山都、山門、山田といった地名は地理的特徴を言うのだと思うんだけどね。
555日本@名無史さん:2006/03/07(火) 05:46:35
宇佐の南西隣町に耶馬渓町ってありますが
町名名称命名はいつからでつか?
556日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:45:18
★ 朝鮮民族はワイ族の子孫である ★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の
国である。そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト。古代カラ半島南部に居住していた倭人系民族)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
古代カラ半島北部にあった中国の自治領・帯方郡の東部地方=ワイ郷(現在の韓国の江原道地方)に
住んでいた少数部族であるが、彼らは、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に
難民となって南下し、日本領=志良岐(シラキ)に移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を乗っ取った
金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。もちろん、倭人=日本人でもない。
ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人もみんなワイ族だ!
 日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
55716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/08(水) 11:21:34
比売大神=卑弥呼=神功皇后
558日本@名無史さん:2006/03/08(水) 11:53:56
比売大神は福岡の宗像三女神のこと。
多岐津姫 市岐嶋姫 田霧姫のことで卑弥呼ではない。
厳島神社の神様もおなじ、だから、邪馬台国は宇佐ではない。
邪馬台国は九州北部の唐津から太宰府、甘木あたり一帯だろう。何しろ人口7万戸だから。
559日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:56:33
>555
日本書紀の時代には既に存在した由緒ある名前
560日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:40:01
平成の大合併で、由緒ある地名で消えてしまったところも多いのだろうなぁ。
561日本@名無史さん:2006/03/23(木) 15:01:36
なんで地名を消しちゃうんだろうね。
自治体としての名称は合併して新しいものに変えても
その内部の地域名として残せばいいのに。
残ってるところもあると思うが。

562日本@名無史さん:2006/03/23(木) 21:28:41
563サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/23(木) 21:41:59
耶馬溪とは江戸時代の頼山陽の命名とおもっていましたが、日本書紀の何天皇の時代でしょうか.
564日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:33:10
裏耶馬溪・深耶馬溪・本耶馬溪 って町あるな

あのあたりで台地ってのは塚原高原だな
発掘なんて無縁な農地や放牧地だよ
565日本@名無史さん:2006/03/26(日) 14:58:54
宇佐神宮の二重の本殿の奥には何かを感じますが
基督って文字でChristを指しだしたのは
いつころからですか?教えて下さい。
566日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:31:46
>>1
単に応神天皇を祭ってるから。深い意味はないよ。
567tetujinn:2006/03/32(土) 02:39:46
今日は!卑弥呼を調べていたら、このレスを発見しましたのでご挨拶を”
宇佐神宮はやはり卑弥呼の墓でしょう!
卑弥呼を、ノストラダムスに匹敵する能力の持ち主だと仮定すれば、全てのなぞが解けます。
古事記は卑弥呼の書です。その証拠は予言があるからです。古事記の内容は、縄文時代を開いた天才たちと、この時代,つまり古代国家の興亡が
記されている。この滅んだ理由が現在によみがえって来た危険を告げています。
アマテラスは未来
ツクヨミは過去
スサノウは現在を象徴してます。
現在が暴れだしたら未来は真っ暗になる。
津波で30万人の死者・地震でまた死者、山崩れで死者、洪水で死者・旱魃で死者,火山の噴火で死者、
寒波で死者、熱波で死者、大雪で死者・
現在ではスサノウが暴れだした。
さらに、生き馬の目を抜く競争の社会だ。
古事記の予言の部分は今年の7月までに筑紫の日向に地震が起きます。
この地震の後が関東です。
確立は50%です。九州には近づかないように
ではまた”
568日本@名無史さん:2006/03/32(土) 02:59:16
凄いなぁテレビ出演期待してるぞぃ
569太国:2006/03/32(土) 07:11:50
「古事記は予言書だ。」と言い出したのは、浅野和三郎氏だと思ったなぁ〜。?
570tetujinn:2006/04/02(日) 03:31:31
こんばんは!”
宇佐神宮の祭神はやはり卑弥呼だよ”
大和朝廷が卑弥呼を徳の高い霊能者と認めたから「神宮皇后」の名称を与えた。
だから、卑弥呼の夫にも神の称号を与えた。
その間に娘が卑弥呼が生んだ子だよ。
つまり、夫と娘が先に死んだ、
愛する者を失った代償に霊能者になれた。やがて、卑弥呼の寿命が尽きた。
亡骸は、愛する夫と娘の眠る隣に埋められた。
後に朝廷が社を建てた。
おそらくこれが真相だと思う。”!
571日本@名無史さん:2006/04/02(日) 07:35:47
宇佐神宮は卑弥呼の墓で間違いない!
572日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:11:15
宇佐神宮はトヨの墓だと思うぞ。
573日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:26:02
宇佐八幡で発掘された甕棺墓の中の亡骸は、卑弥呼が16歳の頃の亡骸です
574日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:24:05
宇佐は豊前の国、豊の国にある。「豊の国の巫女:トヨ」こそ姫大神。
ちなみに、肥の国の巫女は肥巫女、卑弥呼。
575日本@名無史さん:2006/04/03(月) 02:25:23
大分市の平面地図上の重心あたり一帯は台地です

現在の平地(低地)部分は海でした

現在の海岸工業地帯の新日鐵から陸を眺めると

お〜台地だぁ〜と印象があります。
二本の一級河川に挟まれたこの台地は

川と海の恵みで 稲作や鉄の技術がなくても
豊かな生活をしていたようです

周防灘と豊後水道の逆流を考えたら。
舟で十日くらいはこのくらいの位置じゃないかな〜

ちなみに高度成長期の集合住宅ラッシュで
発掘らしい発掘はしてないかもしれません

明野地区横尾地区などなど・・
576tetujinn:2006/04/05(水) 01:13:02
こんばんは!哲人です。
心は子孫に,魂は先祖に、我が身は国家に、捧げた者は神社に祭られる。
これが神社の持つ四つの秘密の一つです。
こうして日本の歴史が正しく導かれているのです。
戦争も決して間違いではないと指導されているようです。
なぜなら、縄文時代が滅亡したのは平和だったから。
危機に対し、戦うすべを知らなかったからと言えます。
日本人は、世界を相手に戦った、負けはしたが負けるが価値。
この経験が未来を救う。仕組まれた歴史です。
卑弥呼が歴史を変えたようです。
私にはこのように思えます。
では、さようなら!””

577日本@名無史さん:2006/04/09(日) 04:10:32
スレタイに反して

耶馬台国談議すか〜?
頑張っ!宇佐
578日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:15:36
凶首塚古墳は隼人の首を持ち帰って埋葬したもの
との説が有力だそうですが、考古学的には時代が
合わないのではないか、との意見もあります。
ほかの言い伝えはないのでしょうか?宇佐在住で
ご存知の方、よろしくお願いします。
579日本@名無史さん:2006/04/10(月) 03:35:11
そこまで知ってるなら
炭素測定
しかない
580邪馬台国北九州説肯定:2006/04/20(木) 11:58:53
話は変わりますが、みなさんは邪馬台国は幾内か北九州のどちらにあると思われますか。
581名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/20(木) 12:11:58
YES!!
582名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/20(木) 12:12:44
北九州
583日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:50:32
邪馬台国は、畿内にあったようだね。

倭奴国・・・・・・ワのクニ=大和

狗奴国・・・・・クィのクニ=木国

かもしれないね。
古代日本では、「の」を「ぬ」と発音した可能性がある。
584580 こと邪馬台国北九州説肯定:2006/04/21(金) 10:04:52
宇佐神宮ってどこにあったんですか・・・・・・
585日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:15:18
じつわ壱岐だったりします

と地元宇佐からの発信です

台地 や姫神の由来通りです
586日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:07:04
連休を利用して、卑弥呼の墓を探索中です。九州にて
587日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:21:54
まあ、日本書紀、魏志倭人伝くらいよく読んで
どこが邪馬台国か判断してくれ。
甘木が邪馬台国というのは荒唐無稽の馬鹿としか言いようがない。
588日本@名無史さん:2006/04/30(日) 10:36:46
宇佐神宮は卑弥呼の墓で決着している
589日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:17:23
消去法でいくと甘木は熊鷹のいた場所で神宮に征伐された場所だから
ころっと消えるわけだ、主要人物を祀る神社もない、
そもそも日本書紀の甘木は神宮が熊鷹を征伐して降臨した場所となってる
甘木はまるっきり消えるわけだ、馬鹿もいい加減にしろいいたい
590南京大虐殺の首謀者:2006/04/30(日) 11:29:04

南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。

あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
591がいやまん:2006/05/02(火) 11:21:21
卑弥呼時代の筑豊の中心は宇佐よりもっと北、新空港の辺かなと思う。もちろん、
この時代伊都国、奴国などはいまだに日本の中心であったに違いない。巻向は
西部の開拓地といったところでザワザワしたいたのではないか。ところが仲哀の時代
に神功皇后というとんでもないヒメが出現する。これは宇佐のあたりに大きな勢力が
結集したからだろう。しかし、この時代の中心は河内であった。一方アマテラスが
一人では寂しいとおっしゃるので豊受大神を呼んだという不思議な話がある。豊というと
宇佐を連想するのだが。ヒミコクラスの女王がいたのではと考えたくなる。
592がいやまん:2006/05/02(火) 11:49:27
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1143731063/menu:398
http://www.sakai.zaq.ne.jp/roman/amagi.htm
「この地名の布陣は騎馬民族の陣形を思い出させる。神功が大和を制圧したのか。
仲哀と神功で九州を制圧したのか。どうも、漏れは、大和の陣形を九州に移したの
ではという気がする。皆さんはどう思われますか」
これはトピズレのような感じだった。この町も追われるかもしれないが・・・
漏れはこれを日置部の仕事と見る。そしてそれは古代九州、漢鏡時代の
トヨヒワケ、シロヒワケ、タケヒワケ、ハヤヒワケ等に含まれる「ヒワケ」と同一
と考える。この王号が「ワケ」王朝に使用された。邪馬台国は古墳に埋葬
される格付の王という意味で「キ-イリ」彦、姫ができたのであろう。
ホムダワケというのはホモトワケ<日本ワケではないかというのが漏れの
かんぐりだ。河内王朝が九州において九州の税制を学びそのシステムを
日置部としてコピペしたんじゃなかろうかと思うが。
593がいやまん:2006/05/02(火) 12:13:42
島津というのは東京近郊比企の出身らしい。天皇家で嫁を出すほどの家柄というのは
それ相応の深い関係があるのだろう。昭和天皇の御陵もこの辺にあると聞く。
孝霊天皇は隠岐の島に到来した族を討つために妻木晩田に遠征、地元の姫と
ねんごろになっている。出雲日御碕神社伝承では月支王ヒコハニが来襲したと
騎馬民族襲来を伝えている。ヒコハニ来襲はヒコフトニ(孝霊)時代、よく似た名前
である。孝霊はモモソヒメの父、ヒミコの父である。タケハニヤスと官軍が戦った
川をなぜ倭韓川と呼んだのか。この辺もなぞがある。
594がいやまん:2006/05/02(火) 12:26:53
NHKが九州を制圧、受信料を町会費と一所に強制的に支払わすシステム
を確立、河内に世界最大のアンテナを作ったといったものだろう。しっかりしろ
国税庁。
595がいやまん:2006/05/02(火) 12:33:11
アマタラシは多分マダラ神などをもじった太陽神であったが光るだけであり、
ヤマトタケルが三種の神器の大安売りをしても税収は上がらず、ついには息吹山で
自殺をした。これは収税組織がしっかりできていなかったからであろう。こういうこ
とへの反省が豊受という賽銭箱のようなシステム、宗教がらみの上納システムを
作り上げるのと違うか。
596日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:47:20
で宇佐神宮って卑弥呼の墓なの?急にモモソヒメが出てきたからさ・・・
597がいやまん:2006/05/02(火) 13:06:36
墓の形をした神殿というのはあるが、墓はそもそも不浄のものだから神殿とは別にする。
宇佐神宮自体は墓なんかではなく神殿だろう。伊勢神宮などに似た立地だ。卑弥呼の墓と
考えられるのは後漢書倭伝に出てくるヒミコの墓であり、これは平原古墳で間違いない。
魏志倭人伝の卑弥呼の墓は巻向の箸墓だろう。宇佐神宮は神功皇后時代のものだと
思うが神功皇后は沙紀盾並に古墳がある。宇佐の近くでは空港辺りに大塚山古墳が
あるはずで、これがヒミコ時代の有力な王の墓だと思う。
598がいやまん:2006/05/02(火) 13:31:38
宇佐神宮の姫とは香春の辛国息長大姫大目尊で出なかったのかなと思ってい
るんだがね。
599がいやまん:2006/05/03(水) 10:37:22
香春に伝わる辛国息長大姫大目尊伝承が神功の三韓征伐、御神体は
豊受大神として丹後方面に移された。神功の逆襲は河内・山城方面の
豪族間の天皇後継を巡る内戦だろう。三韓には義勇軍を派遣善戦したために
軍事同盟のようなものができたのかもしれない。
600日本@名無史さん:2006/05/04(木) 04:30:19
米軍演習場に卑弥呼の屋敷跡がある。別府や岩国。

古代の人の「台地」の表現基準の解釈を0にする必要あると思う。

海岸からせりあがった山に続く平らな地が台地だったって思うよ。

歩いて数日登ったら山わ山、高原、山奥、なんじゃあるまかい?

別府だと耶馬渓町の地が宇佐との境なんだよね。大分市も
601がいやまん:2006/05/04(木) 09:45:48
海から近い台地としては、ヒミコと無関係だと思うが、妻木晩田というのが
鳥取県にある。ヒミコの父とされる孝霊が地元の姫とねんごろになったとか
であり、この点で関係するかな。
602日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:19:41
>>308
>渡来氏族で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏・・・・
辛嶋氏の伝承系譜。
素盞嗚尊−五十猛神−豊津彦−都萬津彦−曽於津彦−身於津彦
−照彦−志津喜彦−兒湯彦−諸豆彦−奈豆彦−辛嶋勝乙女
八幡信仰史の研究 中野播能 吉川弘文館
http://www.bk1.co.jp/author.asp?authorid=110000719220000
603がいやまん:2006/05/10(水) 10:22:04
倭面土を大元と呼んで倭面土国が豊葦原瑞穂国かなと思ったんだが、大牟田
って地名もあるなー。倭奴国を倭面土国とは読めないしナー。やはり、オオナ国、
だろうな。オオナムチ、すると出雲に倭国(オオ国)があるということになるが。
オオクニヌシの命ともいうからなー。大国魂は倭国魂、オオヤマトは倭大和てなこと
になる。それにしても原点となる大元神社が遺跡的に貧弱だなー。何とか宇佐を
古代の中心にすえたいのだが。
604日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:44:41
ゴールデンウィークをつかって、長年の夢だった宇佐神宮詣でをしてきました。
柳ケ浦駅で下車。駅館川河口に、壇ノ浦からたどり着いてここで息絶えた平の某の墓がありました。
駅館川西岸の遊歩道を川上に遡っていったのですが、思いのほかの大河で驚きました。
そして、国道10号線と国道23号線に向かう道の間にある細道、「勅使道」!
この道は大元山(御許山)と宇佐神宮本殿を結んだ延長線上にあります。
この道に入るとしばらくして右手に化粧井戸が見えてきます。
この井戸は「勅使一行が宇佐神宮に詣でる前に身だしなみを整えた場所」の様な気がしました。
さらに進むと「凶首塚古墳」ここは、敵隼人の首を埋葬した場所との事ですが、
これは、「塚」ではなくて「古墳」であり、聖なるライン上に存在しており、
古墳としてはいささか小振りな事から、姫大神関係者で幼くして亡くなった方を
埋葬したものではないかという気がしました。
さらに行くと左手に百体社。これも聖なる道にあり、敵隼人を祀るというよりは、
討ち死にした味方を祀っていると考えるほうが自然ではないかとおもいました。
で、いよいよ宇佐神宮上宮。夢にまでみた神殿!
これはどうみても比売大神のお社。失礼ながら、応神天皇、神功皇后は脇役でした。
この歴史上の両巨人を脇に従えて、皇室から勅使が使わされる「比売大神」。
この方が古代史に名を残していないはずは無いなと確信するに至りました。
候補は「卑弥呼」か「トヨ」。豊の国だけに「トヨ」がここに眠っておられるのかなと思いました。
605日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:06:34
牟田は九州に多い地名ですよ。大分では無田という地名になる。
牟礼というのもあるね。

九州は日本書紀にあるように統治者が違っていたので一つは
地名が本州と傾向が違うのかも
606日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:13:31
九州の拠点都市太宰府に祀られているのは道真、
ここより数段古い神が祀られる宇佐、なんかあるよな
607日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:10:45
秦大国=宇佐地方? 隼人(日本原住民)を成敗した宇佐社人兵(渡来人)
朝鮮人族または満州族系がアイヌ人系を成敗したって事じゃん。
宇佐神宮は渡来系の作為的な権威付けがされた歴史を持つ神社ってどこかで読んだけど。
608日本@名無しさん:2006/05/11(木) 00:22:14
>>607
うがった見方だが…ホレ、今でもよくあるだろ?
韓国人が日本にやってきて、これは自分たちが教えたとか理屈つけるのが。
実際、北国東では三韓に纏わる伝説が目立つ。でもあの地域が三韓の
連中に制圧されたという話は聞かないから、その「作為的な権威付け」と
いうのは、連中に対するリップサービスみたいなもんじゃないかと思われ。
609日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:32:27
リップサービスって韓人に?
んなこと何でするの?
610日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:03:34
アイヌとはいわんだろうがアイヌみたいな彫りの深い
九州の先住民が征伐されたというのはあるだろうな。
611日本@名無しさん:2006/05/11(木) 01:11:22
>>610
韓人(渡来系)とは付き合いのある地域だったようだから、
サービスとして権威付けを受容れておけば何かと都合が
いいんじゃないの?日本側、韓人側、いづれにも神威を
示せて結構な事では。

612日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:19:05
隼人征伐といっても朝廷に従わない隼人であって
全ての隼人が征伐されたわけじゃないだろうけどな。

この宇佐は畿内と出雲と朝鮮と親交があっったようで
大和との親交はもちろん出雲系の地名も多い。
なぜこの地域が朝鮮と結びついたかだけれど
二つあるとおもう。一つは九州の東北(鬼門)であり
急所であったことつまり手薄な地域。
もう一つは鉱山があったこと。
613日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:21:34
そもそも太宰府に祀られる菅原氏は九州人の苗字じゃなく
関西とか関東方面に多い苗字だよ。
614日本@名無史さん:2006/05/11(木) 05:25:07
宇佐出身でもない鎌倉源氏の氏神が宇佐八幡というのは変ですね。朝鮮系の渡来人の
神が八幡であったなら源氏は朝鮮系で、つながりの深かった藤原氏も朝鮮系という
ことで理解はできますが。
平安以降の天皇家の2大宗廟が宇佐と伊勢というのは、宇佐八幡推進派の勢力(源氏?)
と伊勢神明推進派の勢力(平家?平家一門の出身は熊野地方のようなので伊勢との
関係は深かったと思われます。)の宗教面(神事を司る役割)での対立構造があった
ことを示すのではないでしょうか。
比売大神とアマテラス、どちらを主神として祭るかで対立、結果先勝
した伊勢派がアマテラスを正式に天皇家の主神として祭り、敗れた宇佐派の比売大神は
その存在をうやむやにされたと考えれば宇佐神宮の現状も理解できます。
アマテラスの記述には女神であるのか疑問である記述もありますし、大和の神であった
アマテラスを女神化することで女神として祭られていた邪馬台国の比売大神と同化させたの
ではないでしょうか。
鎌倉源氏勝利後も比売大神を主神に祭ることができなかったのは、アマテラスと同化済み
であったためかと思われます。天皇家の正当性を示す上でも邪馬台国=大和にもなるため
その方が都合がよかったのでしょう。
615日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:32:26
宇佐神宮の宮司が、国造の2家じゃない家の人になったようですが、これは重大事では?
なぜか神社本庁も承認済みとか。ワケワカラン。
616日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:28:11
宇佐と八幡は熊襲、隼人、土蜘蛛征伐の功績があるからね。
松浦の見借を征伐した大屋田彦は八幡出身だよ。
宇佐八幡が崇拝されるのはその辺から
617日本@名無史さん:2006/05/11(木) 20:57:13
八幡を色々調べていたら、八(多いの・意)の幡(秦ハタ・意)
つまりは多くの秦氏って意味らしいけど、これって本当だろうか?
618日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:39:05
>>616
そうなんですよね。ところで、「四拍」これは出雲大社&宇佐神宮(ほか弥彦神社もかな?)
に見られる参拝方法。 出雲大社は崇神天皇が国内の治安が思わしくない理由を占わせた所、
出雲の祟りと結果を得て,祀られています。
おもうに、九州隼人の乱も、「国内の治安が思わしくない」と解釈されたのではないでしょうか?
そこで、「天皇家のご先祖様をないがしろにしておいたばちがあたったに違いない。」
と考えた当時の人々が宇佐神宮の創設を計画する事になって行ったのではないでしょうか?
「四拍」は「死拍」に繋がるという見解がありますが、それほど「出雲大社」&「宇佐神宮」
は怖い存在だったと言う事でしょう。
怖い理由は出雲大社は大和政権樹立に大いなる功績があったにも関らず、後に政治的に
抹殺されてしまったが故。(この経過に恨みをいだいている。)
宇佐神宮は、皇室の直接の祖先にあたるにも関らず、子孫に当たる皇室がその墳墓を
荒れるがままにしている為。(ご先祖様がお怒りではないかという恐怖。)
ただ、出雲は皇室に使者を派遣している。宇佐は皇室が勅使を派遣している、ここが違うけど。
また宇佐神宮の成立が、権勢を誇る藤原氏に対して、皇統を強く意識した聖武天皇に
よってなされている事も何かを示唆しているような気がします。
619日本@名無史さん:2006/05/11(木) 23:47:41
隼人は神武の母親の出自でもあると日本書紀に書いてあるわけで
その同族の隼人を征伐したということは大和政権にとって
功績ともいえるし、功罪ともいえるかも
そういう意味でも特別な存在だった。
卑弥呼かトヨがいた可能性も極めて高い場所
620日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:02:35
出雲大社は崇神記ということだけれど、出雲系神社があるという
ことは崇神記にそこが大和の勢力圏であったとも考えられる
わけだわな〜崇神記というと四道将軍の時です。
(出雲系神社は関東以北に多く九州には滅多にない。)

そこでちょっと勘ぐってしまうのが小倉や宇佐を中心とした
豊国地域には本来大和とは別の勢力があり、これが大和出雲を中心とした
勢力と合流しそのことで、あるいは隼人征伐の功績やらで
八幡が祀られたんではないかとも思える。
621日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:09:17
西九州にあったであろう畿内大和とは一線を画す政権が
畿内政権に恭順ではなかったということは
文献から読み取れるわけ。それが
魏志倭人伝の倭国大乱の背景にあるであろうと考える。
畿内大和(併呑された出雲も)と宇佐・八幡が
結びついたのはほほ確実なわけで
するとだいたいの筋書きは読めてくる。

622がいやまん:2006/05/12(金) 12:22:03
神武嫡男、つうか、皇太子タギシミミ、タギシはタケシワケつまり、熊襲、隼人のことだろう。
これは、綏靖に殺され、これは多分神武が紀州、熊野、大和で行った女酋退治等への
報復もあったかもしれない。神武の兄の五瀬、これは延岡辺りの人間か、も殺され、
大和から九州色は一掃されていたのであろう。兵力を利用した後で殺す、又は、追放
するというのが大和のやり方だったのだろう。神武勢力というか、南部九州勢力という
ものが不平不満を持ちながら雌伏していてもおかしくはない。
623日本@名無史さん:2006/05/18(木) 17:34:51
伊勢神宮というのは、宇佐神宮のエイリアスみたいなものですね。
624日本@名無史さん:2006/05/18(木) 17:58:38
伊勢神宮は忌部氏と関係あるんじゃねーの?
彼らは千葉の安房と四国の阿波と関係あり、
九州の筑紫神社近くの基山とも関係ある。
紀州、木、イソタケル。

所詮、神社ってのは古墳の後に作られた
新しい宗教施設だよ、こういう豪族が深く関係してるもんさ
625日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:03:19
忌部
(いんべ)
大和{やまと}王権下の部民の一つ。忌部氏の私有民としての
部曲{かきべ}と、その管理下にある祭祀{さいし}関係の
品部{しなべ}の二類型が考えられる。品部としての忌部は、
忌部氏が大嘗{だいじよう}祭、大殿祭{おおとのほがい}、
御門祭{みかどまつり}などの中央祭祀を担当するところから、
中央の求めに応じて、山材貢納、造殿作業、祭具製作などを任務とした。
忌部の分布は、残存史料によって安房{あわ}、紀伊{きい}、讃岐{さぬき}、
阿波{あわ}、出雲{いずも}と広がっていることが確認される。そのうち、
紀伊の忌部は伊勢{いせ}神宮との関連も想定されている。→部


626日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:08:39
忌部神社
(いんべじんじゃ)
徳島市二軒屋町に鎮座。阿波{あわ}(徳島県)の忌部氏の遠祖、
天日鷲命{あめのひわしのみこと}を祀{まつ}る。祭神は、太古、
穀木綿{かじゆう}を植え、製紙、紡績の業を興し、大功を現した神という。
後世、その神徳をたたえて麻植神{おえのかみ}と称し、
子孫は忌(斎)部を名のって国家の祭祀{さいし}に関与した。
延喜{えんぎ}の制で名神{みょうじん}大社に列し、
1871年(明治4)国幣中社となった。その後、遷祀され、
85年に現社地に移った。例祭は10月19日。5月15日には、
わしかえの神事(御遷座記念祭)が行われる。

忌部は天孫信仰に深くかかわるとともに木の紙、五十猛とも
かなり関係が深い。この豪族が出雲、紀伊、阿波、安房、筑紫基山
にその足跡残した可能性は高いよ。

627日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:15:39
天御中主神
あめのみなかぬしのかみ
王権を基礎づける神話として《古事記》神話が編成された時,
その冒頭に置かれて神々の世界を統括した宇宙最高神。
中国では東方世界の主宰神として天皇大帝があった。
この神は天の中心にあって不動の北極星を神格化した神である。
アメノミナカヌシノカミはこの天皇大帝の観念の借用であり翻訳であった。
この神は《古事記》神話のなかで,民間の太陽信仰を統括かつ祖神化した
皇室の天照大神(あまてらすおおかみ)によって,尊厳を具体化され,
神話の根幹は,天御中主神→天照大神→天神御子→初代天皇という
展開をたどって,王権神話を完成する。日本の支配者が,7世紀より
天皇号を使用してその権威を超絶したものとし,ついで,
道教で宇宙最高神の権威の象徴であった,鏡,剣を皇位の璽(しるし)
とし,《日本書紀》にいたって,国号を,道教でいう天上の清明な世界
である〈大和〉と書くにいたる,一連の中国の観念を借りての国家
および王権の尊厳化の試みも,この神の成立と関連する。

で結局、これでハッタリかましたわけさ。
伊勢神宮なんてそんなもん。
628日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:23:52
天とか白とか日とか以外と後つけ的なものだとおもうさ。
それらは、渡来人の移動とは必ずしも一致せず、
朝鮮や中国の思想を取り入れ徐々に神々の中に加えられて
いった。
宇宙最高神的な天御中主神もアマテラスも
比較的新しい創造紙なのでしょう。
629日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:30:45
神社から倭人伝にあるような赤と刺青を加え
白や天という3世紀以降に入ったであろう
大陸的な要素を排除してみよう。

東南アジアの民俗信仰とそっくりである。


そう記紀にある内容は後つけなのだ。
630日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:03:02
631日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:18:15
アマテラス系=紀氏
八幡系=秦氏?
スサノオ、五十猛、五十鈴=出雲系
632 :2006/05/19(金) 19:09:15
とりあえずその疑問には井沢元彦が答えてるから読んどけ
633日本@名無史さん:2006/05/19(金) 19:21:02
>>631
要点を説明してくれ。
634日本@名無史さん:2006/05/19(金) 19:32:54
>>632
受け売りでいいから説明してくれ
635日本@名無史さん:2006/05/21(日) 20:07:22
まあ、真相は本家が東九州にあり
そこに卑弥呼がいたが、神武一派の分家が
畿内で勢力をのばしそれが邪馬台国なのでは?
636日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:40:51
少なくともアマテラスは九州の古代神ではないと思う。

菅原信仰、天満宮は古代信仰ではない。
筑前の宝満信仰から満をとり天を頭につけたというのが真実だろう。
おそらく天皇という称号も対中国の天子外交のため編み出されたのです。
宇宙最高神アメノミナカタヌシと関係してるのではないか?
この神は政治的な意図で後付けされたものであり創造神だとおもう。
倭の政治は常に中国を意識している。
景行天皇の景行は魏志倭人伝、鏡などの
景初3年という文字を見て名付けた
可能性が高い。
三種の神器もおそらく対中国天子への対抗策。

宝満神、玉垂宮が九州のもっとも古いと思われる
古社としての謂われもそうですが、なによりこの
二つの神社は伝承が九州のみ?であり
小さい社まで含めると分布範囲が広く民間宗教的色合いが強いように思う。
政治的な意図を感じない。
九州の古代宗教に深く関係しているようである。

白日別、日下部、筑紫などの豪族ができた頃の
筑紫神社などは比較的新しい神社だと思われる。
出雲・大和の影響が九州に及んだまさにその時の神社ではないか?
チクシ、日下部は八幡宇佐の豪族の末裔という風に
九州ではなっております。
そしてこの筑紫神社のある場所、
忌部、記氏の拠点
基山である。
景行天皇が基山の地を名付けたとなってるがおそらく
紀氏に深く関係しここでイソタケル、シロヒワケ、
チクシの名称が新たにつけられた気がする。
637日本@名無史さん:2006/05/22(月) 02:26:19
>>636

荒らすな!

638日本@名無史さん:2006/05/23(火) 07:02:29
634
説明したいのはやまやまだが井沢はかれこれ本の半分使ってて、簡単に書くのもきついから、逆説の日本史1巻を読んでくれ。
639日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:32:15
過去文献・学者の論文は一切脳から切り離したほうがよさそうだ。
最近 やけに反バチカン風説が多いから
バッチリめくれる日も近いかもしれん。でもそれも陰謀かもしれないから
天皇陵やその他を日々監視しとく必要があるかしれん
640日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:39:24
特に、金田一の電波は極めて強烈である、だが彼の学説は
広く支持されている。恐ろしいことだ。
日本人の古代史観がいかに幼稚かという現れだ。
著名な学者、文筆家は基本的に大衆受けを狙ったものばかりであり
当てにならない。
他、あんぽんたん氏など
641日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:33:49
無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/24(水) 15:13:53 ID:/rer/X/9
脇なんて苗字も南関東に多いらしい。
これは九州に多い苗字、地名である。
甲斐と苗字も九州に極めて多く、
千葉氏が転封されたのも福岡、
千葉真一は福岡出身だがもしかすると千葉から移ってきたのかも

もっとその辺について研究する必要があるだろう。

そもそも中央人が考えるほど北部九州と南部九州に
信仰、苗字、地名の傾向に違いない。
遺伝的にも極めて近いと思われる。

すべては中央人の先入観がもたらした偏見であり、
無知は無神経の始まりである。
北部九州と南部九州は渾然一体であり
一蓮托生の仲である。
全ては中央人(近畿関東人)の偏見と先入観と固定概念が作り上げた
妄想、でっち上げである。

宝満信仰は
筑前宝満山と種子島の宝満池周辺が
一つの信仰の中心地である。

全ての妄想は中央人(近畿関東人)作り上げた
でっち上げである。
642日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:58:20
土蜘蛛、熊襲征伐は文献資料多数、遺跡も多数である。
これは戦前戦後の時期でも有る程度資料はあったはずだ
これのような重大な事実をほぼ無視し論、自説を唱えるなど
歴史に対する、過去の人間に対する冒涜であり
大嘘つき野郎である!

素人ならまだしも、歴史を知り尽くし、大衆世論を
誘導する力のある学者、著名人がするというのは
許し難い罪である!

643日本@名無史さん:2006/05/28(日) 11:27:33
偶然だろうが、太宰府政庁跡から見ると英彦山をかすめて東の果てが
宇佐神宮、北の果てが宗像大社、天満宮の先が宝満山山頂になる
644日本@名無史さん:2006/05/28(日) 11:53:05
学界に学閥、縄張りのようなものがあるのと、逆に意見の交換、交流がないという
表裏一体の悪弊がある。それと優秀な才人が「九州説」、「九州王調説」とかの
局地的な問題にその才能を賭してしまって、冷静な批評家に徹しきれないという
ことも裏を返せばセクショナリズムの一変形ということになる。才能ある人々は
小さな意見にとらわれることなく意見を交流し独自の意見をどしどし発表、するのがいい。
645日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:11:14
>>643
じゃあ西は鎮懐石八幡宮ってことなのね、まあちょっと意味深ではあるね。
だとすると北は香椎宮のが良くないか。南は?
646日本@名無史さん:2006/06/14(水) 02:26:33
    ヾヽ
   _( ・l> ハトポッポ
    ミ_ノ
647日本@名無史さん:2006/06/16(金) 00:47:04
    ヾヽ
   _( ・l> ハトポッポ
    ミ_ノ

648日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:42:18
大国主→武内宿禰→応神 
649日本@名無史さん:2006/06/16(金) 16:05:54
神功、応神などが筑紫及び半島の支持勢力なしに河内王朝を起こしたということは
考えられない。要はその実体がどのようなものであるかということだろう。地理的には
吉備、日向、豊前、百済、そして、渡来人が絡んでいるような感じもするんだが。
650日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:48:19
宇佐の元宮は福岡の大分八幡宮
651日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:25:08
大分八幡は太宰府政庁から宝満山をはさんで反対側
英彦山から志賀島を望んだ方向
652日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:11:45
↑?
653日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:29:36
大分の本来の地名は桂川町付近の筑豊圏をいうのでしょう。
昔はここから東が大分で
神功の勢力圏もここより東にあったと考えられている。
大分八幡もこの近辺にある。

この西に九州最古の霊験 宝満山があり別名御笠山と呼ばれる。

本来は宝満山で神功に征伐されて御笠山とも呼ばれたのでしょう。
この宝満山から南の筑後平野に流れる川を宝満川、
北の福岡平野に流れる川を御笠川という。

実に対照的で面白いではないか
654日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:33:14
佐伯という地名は大分の佐伯から東の広島、大阪に多い。


この辺の基本的事項からして関東チョン共は大勘違いしてる。
655日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:25:36
    ヾヽ
   _( ・l> ハトポッポ
    ミ_ノ
656日本@名無史さん:2006/06/19(月) 12:08:13
    ヾヽ
   _( ・l> ハトポッポ
    ミ_ノ
657日本@名無史さん:2006/06/19(月) 17:18:28
卑弥呼って渡来系の人じゃない?         魏に朝貢してるくらいなので、大陸の政情に詳しいし、かなり活発に大陸と列島を行き来していたのは確か。
658日本@名無史さん:2006/06/19(月) 17:46:42
弥生人(倭人)は縄文人に大陸からの移民が被さってできあがった民族だから、
渡来系であることは間違いない。でもどんな奴が来たかは種々論争がある。
ツングースからの蛮族か?漢族か?江南からの難民か?
渡来開始から1300年も経っているから、
相当複雑な構成になっているだろうな。
それから、朝鮮半島南部は倭の領域であることは三国志や好太王碑文で明示されている。
659日本@名無史さん:2006/06/20(火) 06:37:09
>>649
そんな珍説は朝鮮人にしか通用しない。
660日本@名無史さん:2006/06/20(火) 12:46:57
>>658
>それから、朝鮮半島南部は倭の領域であることは三国志や好太王碑文で明示されている。
朝鮮人と同族?それとも占領?どう考えてる?
661日本@名無史さん:2006/06/21(水) 08:11:27
    ヾヽ
   _( ・l> ハトポッポ
    ミ_ノ
662日本@名無史さん:2006/06/21(水) 10:40:48
>>660
倭人は、半島の原住民とでも言うべき存在であって、その後北方遊牧民族
によってウンコのように押し出され、列島に流れこんだのだろう。

中国大陸は大腸、半島は肛門、列島は東亜の吹き溜まり、即ち便器である。

なんか、嫌過ぎる!
663日本@名無史さん:2006/06/21(水) 21:29:41
>>662 
そんな言葉、君のやさしいママ以外、現実で聞いてくれる人いないでしょ。
664日本@名無史さん:2006/06/21(水) 21:40:14
事実、日本列島は、アジアの吹き溜まり。
665日本@名無史さん:2006/06/21(水) 22:30:02
まま・・・またもらしちゃったの・・・
666日本@名無史さん:2006/06/21(水) 22:39:53
やっぱり邪馬台国九州説のほうが面白いなぁ。ww
おらが町にも邪馬台国を
この言葉を合言葉に九州の北半分の地域の町おこしと絡んでみんなが電波を
飛ばして、これに関東人のアンチ関西意識が加わって、皇国史観も加わり、
盛り上がりを見せるもんなぁ。
これが畿内説だと、槇向で決まり、邪馬台国はそのまま大和朝廷になったで
終わりみたいなとこがあるもんなぁ。ww
ここで私の意見言えば、おそらく今の天皇家は九州から出てきたのだろう。
北九州の3種の神器の風習がそのまま天皇家に受け継がれているからなぁ。
ただ、今の天皇家と邪馬台国の関係は不明。
九州に邪馬台国があったとしたら、邪馬台国がそのまま大きくなって畿内に
攻め上って大和朝廷になったのだろう。
卑弥呼は鏡が大好き人間だったからな。天皇家の三種の神器のなかには鏡が
含まれているし、その後の神社のご神体でも鏡を祭っているところが多いしな。
場所はといえば、やはり宇佐じゃないのかな。誰かがもう書いているが、
後の時代に道教に天皇の位を譲るかといったとき、宇佐神宮にお伺いを立てた
からな。
金印はおそらく宇佐神宮のどこかに埋まっているのではないかと思うのだ。
667日本@名無史さん:2006/06/21(水) 22:43:46
>>666 思う?そうか!
668日本@名無史さん:2006/06/22(木) 07:40:11
>>666
漏れも、そう思う!
畿内説て、畿内人しか支持してない気がする。
669日本@名無史さん:2006/06/22(木) 07:43:18
>>666
漏れは、初期大和朝廷は、九州の邪馬台国から追い出されたか、自分から割って出た
連中(敗残者、もしくは開拓者)が、九州勢力を凌駕して作った政権だと思ってる。
670日本@名無史さん:2006/06/22(木) 11:54:13
>>666
>攻め上って大和朝廷になったのだろう。
いや落ち延びてが正しいね。
奈良の有名神社も寺も殆ど九州からの移設だぜ、
やっと藤原京あたりで、遷都したと思うよ。
だけど宇佐神宮だけ移設できなかった、それが真相さ!
671日本@名無史さん:2006/06/22(木) 12:18:35
宇佐神宮内弥勒寺古図面に、応神と神功の墓所がのってる
http://kyoto.cool.ne.jp/nihonnotoba/2005toba/usa_miroku18.jpg
672日本@名無史さん:2006/06/22(木) 12:51:14
>応神天皇御墓所
>神功皇后御墓所

うほっ♪
673日本@名無史さん:2006/06/22(木) 15:54:26
>>671
墓所が寄藻川添いだ・・・小さいな・・・
674日本@名無史さん:2006/06/22(木) 17:07:57
そもそも、天孫降臨が何故、九州なのかがよく分からない。
畿内説の方々は、卑弥呼も含め、天皇の子孫が畿内から発祥
したと考える人でしょうから、その人たちは、何故、天孫降臨
が、近畿の大台ケ原や高野山など近畿の山々に降臨しなかったのか
疑問には思わなかったのか?
古事記では、筑紫の日向に降臨したと記述があるらしい。
675日本@名無史さん :2006/06/22(木) 17:31:07
宝満伝説は興味あります。
特に、大宰府は位置的に、筑後平野の要所(出口)ですから
あやしいですね。
魏志倭人伝で、奴国から東へ100里で不弥国(ふみ)が現在の
大宰府周辺です。
そこから、記述が一変し、水行、陸行の記述になります。
不弥国(ふみ)が、邪馬台国の要所であることが、当時の
人は常識だった為、あえて邪馬台国についたとは記述せず
当然のこととして、今度は水行、陸行の記述にしたとも
考えれば、夢が膨らみます。
676日本@名無史さん:2006/06/22(木) 17:57:07
「戦前(昭和14年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前には約200
万人となった。増加した100万人のうち70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個
別渡航者と、その間の出生によるものである。
残りの30万人は大部分鉱工業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令に
よるものはごく少数である。(中略)
終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引き上げで合計140万
人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引き上げ計画
で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち75%が帰還している。
(中略)
現在、登録されている在日朝鮮人は総数61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、
戦時中に徴用労働者としてきた者は245人に過ぎず、現在日本に居住している者は、犯罪者
を除き、自由意志によって残留した者である。」
1959年7月13日朝日新聞
http://img2.echoo.jp/photo/blog_b/b32f2c397cc34ee74db55b228aef5be0.jpeg
http://img2.echoo.jp/photo/blog_b/52019453ce69cd3536fa41c3fe15ee29.jpeg
1959年7月13日 朝日新聞
677日本@名無史さん:2006/06/22(木) 20:23:58
>>670 >いや落ち延びてが正しいね。
奈良は人が沢山住めるところじゃないからね、
緊急避難だったのでしょうね。遺跡でもそれははっきりしている。
第一あんな奈良盆地の南の端っこで、軍事的に遷都した以外、
どう考えられるのかね?
678日本@名無史さん:2006/06/22(木) 21:02:09
>>674
畿内説は、方角から風俗まで全て無視して成り立つ強引な説で、しかも
畿内人しか信じてないからねぇ・・・

緊急避難的に遷都して、機を見て九州に襲い掛かったんだろうね。
679日本@名無史さん:2006/06/22(木) 22:40:12
>>671
>宇佐神宮内弥勒寺古図面に、応神と神功の墓所がのってる
なるほどね、いずれにしてもかなりの重要ポイントだわ。
しかしここのスレタイは姫大神=卑弥呼だから、
卑弥呼の墓はあの神宮の何処になるのよ?
卑弥呼の墓はあの境内の?
680日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:35:39
>>679 本殿下か? 山のてっぺんだけど。
681日本@名無史さん:2006/06/23(金) 01:21:04
鏡を飾る習慣は北九州から出たのだろうな。
神社の御神体は結構鏡が多いからな。
銅鐸はどうなったのだろうか?北九州が鏡を飾っていた頃、出雲や畿内では
銅鐸を飾っていたか、叩いて音を聞いていたかとにかく銅鐸をあがめて
いたと思われるが、完全に銅鐸をあがめる習慣は消えてしまったなぁ。
神社の御神体は結構いろいろあって、中にはポ○ち○やま○こをあがめるところ
もあるのに、どこかに鐘を拝む神社くらいあってもいいような気がするのだが
まったくないもんなぁ。まさかお寺さんの鐘は銅鐸起源というわけでも
あるまい。
682日本@名無史さん:2006/06/23(金) 12:25:16
>>681
>どこかに鐘を拝む神社くらいあってもいいような気がするのだが
>まったくないもんなぁ。

いつものアホご登場!
神社に鐘なんか全国何処にでもあるよw
おめしゃべるな!
683日本@名無史さん:2006/06/23(金) 12:31:47
>>681
君は何処にすんでるのかな?
最寄りの神社=鐘スポット知りたくないか?
684日本@名無史さん:2006/06/23(金) 13:16:34
神社に鐘があるに決まってるよ。
だって神仏融合したじゃない、今でも分離しきれていないからね。
しかも今の寺での鐘の使われ方が、当時の銅鐸の使われ方に決まってるよね。
神社の鈴が小さな鐘なんて所多いよ。しかも鳴らして使う物!

ついでに九州から寺や神社が多数移設されたように、
銅鐸も九州から運ばれた可能性があるよね、
だから九州に銅鐸は見当たらないのさ。
それが時代遅れで運ばれたのか?
畿内遷都により運ばれたのか?
理由ははっきりしてないけどね。

まー銅鐸は寺や神社に関わる物だけは確かだよ。
685日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:18:37
>>684
銅鐸がへんてこな所から発見されるは何故?
686日本@名無史さん:2006/06/23(金) 16:44:54
>>679 俺は下宮に一票です。上宮と下宮同じ祭神だけど、性格が違うと由緒にあったよ。
687日本@名無史さん:2006/06/23(金) 17:36:03
福岡県人だけど神棚に鏡飾ってるのみたことない
鏡はおそらく当時の支配階級の
権威の象徴だったのかもしれない
688日本@名無史さん:2006/06/23(金) 17:51:12
>>687
家にも鏡が神棚にあるぞ。俺は天照の日神の模造かと思ってたよ。
権威の象徴って、十字架とか、仏像みたいな、偶像崇拝って事かな?
689日本@名無史さん:2006/06/23(金) 17:53:13
九州の一般の神棚で鏡を飾ってるのは
みたことない。

アフリカの貴族が中国陶器を墓に
埋め込んで権威をアピールしてたけど
それと同じだとおもう
690日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:01:13
>九州の一般の神棚で鏡を飾ってるのは
>みたことない。
じゃ御札だけしかないのか?さみしいな。
家は関東で鏡あるぞ。

そうそう九州じゃ御札複数入れるそうじゃん。天照は絶対で!
だからかな?
691日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:11:57
>九州の一般の神棚で鏡を飾ってるのはみたことない

はいはい嘘つき嘘つき、おめは年層まもない経験薄の房なんだろう?w
見てて恥ずかしいかよ
692日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:14:43
ココって憶測で語るばか者が多いよな!w
693日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:26:09
>>685 >銅鐸がへんてこな所から発見されるは何故?
それが私もはっきりした事は解らない、
だけど賀茂地名と銅鐸出土の関連性が、指摘されているように、
やはり神仏の影響が強いですね。
どなたか解る方いられますか?
694日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:28:35
マジで九州人だが神棚に鏡がある家
みたことねーよ。

695日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:29:43
神棚を複数みたが関東の方で鏡を飾ってるのをみたのみ
九州ではみたことはない。
696日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:37:08
九州では基本的に神棚に鏡を飾らない!! 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50
なんだ?これ
697日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:41:17
九州の下のほうだが、実家の神棚にはちっこい鏡が鎮座しておるよ。
698日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:43:41
>>767
ほんとか?
島津(秦氏)の関係か?
とりあえず福岡中部ではみたことなし!


699日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:46:09
>>690
天照は絶対とは限らない。
中には天テラスが下の方にある神棚もある。
基本的にその土地の有力は神社を祀るだけだとおもう。

700日本@名無史さん:2006/06/23(金) 18:49:43
そういや親戚の葬儀で唐津に行った時に仏壇の中央にデッカイ鏡が鎮座していたなあ。
今思えば神道葬儀だったのかなあ〜
701日本@名無史さん:2006/06/23(金) 19:04:30
小さな神社にはあったよ。鏡!
702日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:05:50
九州では基本的に神棚に鏡を飾らない!! 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50

このスレ作って、どうするのかな?
>>681 がやったんだろ、アホだし!
703日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:25:06
銅鐸は吉野ヶ里が最初、その後出雲、河内、近江へと移る。
704日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:29:55
>>681
>鏡を飾る習慣は北九州から出たのだろうな。
>神社の御神体は結構鏡が多いからな。
>銅鐸はどうなったのだろうか?北九州が鏡を飾っていた頃、出雲や畿内では
>銅鐸を飾っていたか、叩いて音を聞いていたかとにかく銅鐸をあがめて
>いたと思われるが、完全に銅鐸をあがめる習慣は消えてしまったなぁ。
>神社の御神体は結構いろいろあって、中にはポ○ち○やま○こをあがめるところ
>もあるのに、どこかに鐘を拝む神社くらいあってもいいような気がするのだが
>まったくないもんなぁ。まさかお寺さんの鐘は銅鐸起源というわけでも
>あるまい。

>>703 
と同じひとです。
705日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:34:55
神社とはお寺をまねて始まったもの。ところで、鈴のない神社はない。
706日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:40:35
>>705 nanigaiitaino?
707日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:48:56
鈴というのは鳴らすという意味では鳴らす銅鐸と同じもの。銅鐸文化は継承されている。
銅鐸の文様は絵馬に生きている。日本人はなかなかしぶとい。
708日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:56:08
銅鐸=鈴なのは明白なのであって
いかにも銅鐸が消えたみたいに思ってるのは相当な馬鹿。
金令こそ出雲のシンボル

五十金令 
709日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:00:00
>>707-708 必死だね
710日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:12:53
>>666
>>攻め上って大和朝廷になったのだろう。
>いや落ち延びてが正しいね。
>奈良の有名神社も寺も殆ど九州からの移設だぜ、
>やっと藤原京あたりで、遷都したと思うよ。
>だけど宇佐神宮だけ移設できなかった、それが真相さ!
711日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:15:25
奈良の有名神社って何?
九州の古信仰、
宝満神社、玉垂宮が
奈良にあるの????!!
初耳!!!!
712日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:19:58
たしかに奈良という地名は一見九州沖縄的響きあり
平良、多良、高良、早良等々
語尾に羅、良を付けるのは九州沖縄の古い名残
半島南部にもある
713日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:21:29
>>711
>奈良の有名神社って何?
春日 石上 三輪 

放漫神社=蚊喪神社 玉垂宮=八幡宮 

しらべろ!

714日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:22:13
宝満神社、玉垂宮は天皇の正統な系統にないので
あまり崇拝されていない。
地元民土着民に信仰があつかっただけ
筑後風土記逸文みれば
大和との根深い確執から
大和政権と異なる信仰に傾倒したとも考えられる。
715日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:23:46
>>714
馬鹿しゃべるな!
716日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:25:26
賀茂神社とか八幡は新羅系であって
ちょと違うと思うけどな〜
まあ関連性は薄いよ。どうみても
古い信仰に玉依、玉垂女王信仰が
九州沖縄にあってそれに多い被さるように
出雲系の賀茂、八幡信仰があるように思う。

春日は斉明天皇の頃の信仰ですねたしか
717日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:26:50
豊万=神武のおかーさん
魂足れ=神武の謹慎
718日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:28:53
蚊母=神無と謹慎
八慢=人夢と謹慎
719日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:28:53
天皇の系譜みればわかるとおもうけど
神武の前だけ九州系の名前だけど
二代目の后からは
五十鈴、五十猛など
完全に出雲系なんだよ。
720日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:30:10
>>719
全部危機の繰り返しあほか!?
721日本@名無史さん:2006/06/24(土) 00:05:12
>>681 >>687-702

九州では基本的に神棚に鏡を飾らない!! 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50
このスレの話から派生しました。過激な人が作りました。

しかしこのスレ急に過激になったな?みんなもすこし抑えて話しましょ。
722681:2006/06/24(土) 01:39:29
人気者はつらいなぁww
>>702 私はこのスレを作ってはいない。
>>704 >>703とは別人です。
723日本@名無史さん:2006/06/24(土) 12:47:07
>>671
どなたか、宇佐神宮の話もっとしりませんか?
>宇佐神宮内弥勒寺古図面に、応神と神功の墓所がのってる
>http://kyoto.cool.ne.jp/nihonnotoba/2005toba/usa_miroku18.jpg


724日本@名無史さん:2006/06/24(土) 13:25:04
>>716 >>719
〜系とか言う人の気持ち解りません。戦国時代に影響うけてるのかな?

日本中の神社で、彼らが言う別系の神々が、一緒に祀られている。
並び立ってどちらかが吸収されれば、遺恨が残りその形跡が残る筈だよね。
だけど、何系同士の遺恨なんて見当たらないよね。

天武朝以後に、神社の多くは祀られたとも言うけど、
じゃなんでそれ以前の由緒が残ってるのか?説明つかないよね。
天武朝の墓記回収等の改竄で、創建時期もづらされてるからだよね。

大国主の神社なんて、全国何処でもあって、由緒が古い。
これでなんで出雲系になるんだろ?
想像なら勘弁してほしいね。
725がいやまん:2006/06/25(日) 09:03:53
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1133544342/
どうもこの宇佐八幡、百済、任那あたりにあったのを三韓征伐のついでに移動させた
ということもあるんじゃないだろうか。戦乱を避けての疎開とでもいうか。韓国に神社が
あることはおかしいが、何か非常にご利益のあるお堂みたいなものがあったりしたの
かな。
726日本@名無史さん:2006/06/25(日) 11:18:36
>>725
>韓国に神社が あることはおかしいが、
韓国に神社がある?ってことですか?
私も古代に日本と大陸の溝は浅かったとは考えています。
727がいやまん:2006/06/25(日) 11:27:17
初め、韓国にお寺ができた。次に日本にお寺ができた。日本で寺大工が神社を作った。
こうした経緯からすれば韓国に神社ができるのは逆輸入のようなことで非常におかしい。
ただ、お堂のようなものは中国にだってあるんだから韓国にあっておかしくはない。
ということです。
728がいやまん:2006/06/25(日) 11:46:31
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html
宇佐八幡は加羅国・辛島家の神社なんですね。祭神は当然加羅(辛)国おきながたらし
姫、つまり、金首露王の后とされる許黄玉、だから、御許神社なんだ。崇神の御世に
天竺から発せられた5本の剣とはこれまた秋田の唐松神社を初めとする山岳宗教拠点
のことかもしれませんね。修験道は服装がチベットシャーマンに似ているが、月氏の
持っていた宗教かもしれない。ひょっとして月氏にはチベット同様のYAPがあったのかな。
729がいやまん:2006/06/25(日) 12:01:40
トカラ、ヒッタイト、ルビア語は印欧アナトリア方言といってアララト山・バン湖の山岳
湖水、そして箱舟と呼ばれる岩舟信仰を持つ地域です。許黄玉が金首露王に嫁すとき
磐舟にのるが、日本では河内の物部が磐舟思想を持っています。湖水と山を組み合わ
せた宗教地域としては諏訪神社・八ヶ岳、日光・二荒神社・中禅寺湖があります。ところが
これらは鉄鐸を祭る共通点があり、銅鐸文明の継承者のようです。考古学のスレでも
述べましたが、殷に始まった銅鐸文明はオルドス文明に吸収されますが、このとき、
山岳・湖水・磐舟などを含む神話体系が形成されたのかもしれません。後になりましたが、
琵琶湖・三上山は銅鐸の聖地です。
730がいやまん:2006/06/25(日) 12:33:15
大月氏をかますとYAP問題、
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1133544342/menu:266
ヘレニズム、ユダヤ教、キリスト教
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm
についても新しい境地が開ける。
731日本@名無史さん:2006/06/25(日) 13:06:02
726です 非常に高い御高察勉強になります。

>山岳宗教拠点
神社と山岳宗教の繋がりは興味深いですね。

>琵琶湖・三上山は銅鐸の聖地です。
それはどうゆうお考えで? 別と考えます↓。

私は古代文化先進地は九州で、銅鐸も九州発と考えます。
そして銅鐸は現在の寺の鐘のように使われていたと考えます。
その銅鐸は、鉄や仏教の普及、首都移転等の理由で、
神社仏閣とともに畿内方面へ移転させられたと考えます。
それで九州には銅鐸含め、主要構造物が無いと考えています。
其の証拠として以下を上げます。
1 廃寺基礎は移転のかなりの手がかりとなりますし、最古の梵鐘も九州にあります。
2 現在でも全国に神社の鈴が小さな鐘(所謂小さな銅鐸)の所があります。
3 宇佐神宮では古来より、使用期限の過ぎたご神体を、奈多八幡宮から、船で全国分社に送ります。

勝手ながら持論を述べさせて頂きました。
今後とも宜しくお願いします。
732日本@名無史さん:2006/06/25(日) 13:10:11
726です。
証拠3に、現在でも大きな神社は式年還宮後の社殿を、
分社建設材に使用する事も、添えさせてください。
733がいやまん:2006/06/25(日) 13:25:05
>>732 >>733
基本的に銅鐸は吉野ヶ里、九州北部に始まり出雲に移り、河内・近江を経て
終末も出雲荒神谷・賀茂岩倉遺跡で迎えることからわかるように、九州から
出雲に流れたものですが、記紀にはなんら記載なく、ただ、出雲のスサノオの
神やらい、オオクニヌシの国譲りの記載しかありません。このため、銅鐸は
スサノオの神やらいにより九州を追われ、オオクニヌシの国譲りで消滅したと
考えられます。
734がいやまん:2006/06/25(日) 13:31:20
九州で銅鐸が採用されず銅剣・銅矛・銅鏡が盛んになったのは伊都国、奴国を
頂点とする首長国統治システムが成立したことによるもので、銅鏡の分配という
ことが統治手段となり、これが後には大和朝廷に継承されるのだと思います。
735日本@名無史さん:2006/06/25(日) 13:45:16
>>733 >>734
Q1 銅剣・銅矛・銅鏡の時期と伊都国、奴国の時期が重なる理由は何ですか?
Q2 銅鐸が、オオクニヌシの国譲りで消滅した理由は何ですか?
736がいやまん:2006/06/25(日) 13:47:39
九州から渡来した銅鐸は大阪で大きく発展し、その後近江の地で最高度に発展します。
そしてこの地で終焉を迎えます。この地方の三上山は金属の神、天之御影神が山上に
降臨されたものですが、カゲというのは鹿児島県でカゴというのが金を意味すると解読
されている通り、金属、すなわち銅鐸の神であろうと思われます。大和三山にも天の
香具山というのがありますがこれも金属の神でしょう。三山というのは三層からなる
宇宙観、世界山の象徴でしょう。銅鐸文化はそのあと、諏訪・八ヶ岳、日光方面へと
姿を変えて伝わるようです。その頃九州はすでに神社仏閣の時代に突入していたの
だと思います。
737日本@名無史さん:2006/06/25(日) 13:53:38
>>736 がいやまんさん
想像だけでお話されているのでしょうか?
738がいやまん:2006/06/25(日) 13:55:42
>銅剣・銅矛・銅鏡の時期と伊都国、奴国の時期が重なる理由は何ですか?
寺沢薫・王権誕生参照願います。
>銅鐸が、オオクニヌシの国譲りで消滅した理由は何ですか?
あくまでも想像ですが、民の側に銅鐸システムへの負担より、鏡システムへの負担の
方が、自分たち、民にとっては多少楽になるのではないかとの読みが働いたのではな
いかと考えていますが。さもなければ滅私奉公的古墳建設の裏がわかりません。
739がいやまん:2006/06/25(日) 13:58:01
これに治する反論がないかぎり、これは想像ではなく正論でしょう。
740がいやまん:2006/06/25(日) 13:59:20
対すると売ったのに変になってるね。
反論がなければこの辺で失礼します。
741日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:00:57
がいやまんさん
>寺沢薫・王権誕生参照願います。
その本の要約はどのようになってるのでしょう?
742がいやまん:2006/06/25(日) 14:08:01
講談社日本の歴史第2巻王権誕生
今言う九州北部のところが詳しいですよ。それと、埋葬儀式が次第に東に移る
ところをよく説明してあることですね。邪馬台国論争に不毛なものを感じていた
人には有益だと思いますね。ただし、編年には少し注意が必要。やや遅れ気味ですね。
743日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:11:22
あの説明になってませんけど・・・
744日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:13:26
本州+九州+四国=大本州
745日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:14:59
744で、本州+九州+四国+佐渡島+淡路島=大本州
746日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:15:47
地続きになれ
747日本@名無史さん:2006/06/25(日) 15:16:16
がいやまんって馬鹿かもよ
748がいやまん:2006/06/25(日) 16:23:47
ソフリ、背振、ソボル、ソウルなんて首露王だとかいってるけど、徐市を韓国語読みすると
ソボルになるはずなんだ。秦の亡民の中には徐福遠征隊の子孫が入っていたことは
天日槍の子孫、タジマモリの話、かぐや姫の富士山で薬を燃やす話でわかる。これって
逆に徐福の日本直接到来はなかったことを意味していると思うんだがね。
749日本@名無史さん:2006/06/25(日) 16:28:00
PUだろがいやまん!
あぽっぽい自作自演や暴言はみんなPUの仕業!
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
から確認してね
750日本@名無史さん:2006/06/25(日) 18:35:17
>>723 神社仏閣の板があるよ 
751日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:45:47
ニセコアンヌプリ
752日出ずる処の愛国者:2006/06/25(日) 21:50:31

卑弥呼には意外に知られていない事実がある。それは『卑弥呼』という名は
当て字だということだ。そもそも卑弥呼は女王であり『卑しい』などという
名を名乗るはずがない、もともと『卑弥呼』という名は中国の『魏史倭人伝』
に載っていた名だ。そして中国には外国人の名前にはことさら『卑しい』名前
を付ける習慣がある。では、『卑弥呼』いや『ひみこ』とは、どんな意味か
それは『日御子』(ひみこ)ではないだろうか、つまり『日の御子』つまり
『太陽の神の化身』つまり『天照大身神』(あまてらすおおみかみ)だ。
さらに、不思議な符号がある。卑弥呼が死亡した年は日本で皆既日食が起きた
年だ。その後新しい女王『壱与』(いよ)が即位した。まさに日本神話
『アマテラスの天の岩戸隠れ』だ。

参考資料 逆説の日本史(1)古代黎明篇 第三章 卑弥呼篇 
753日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:04:28
荒れた
754日本@名無史さん :2006/06/26(月) 00:15:41
卑弥呼の都は、交通の要衝で、天然の要塞のまちで、
現在も天満宮が祭られているところ。
奴国から東に100里の場所です。
不弥国(ふみ)の長で、不弥姫(フミコ)です。
中国の従者は卑弥呼と記述しました。
筑後平野は30余国にわかれていましたが、卑弥呼を
筑後平野の交通の要衝に都を設け、邪馬台国として
治安を統一しました。
連絡には、のろしを使い、その痕跡がこうごう石として
筑後平野の各国の山の頂にあります。
少なくとも、30箇所はあるはずです。
755日本@名無史さん :2006/06/26(月) 00:17:01
魏志倭人伝には帯方郡から、壱岐、伊都国、奴国、不弥国まで
の距離を、東南500里、東100里と不弥国まできちんと記述しており、
そこからさきは、水行・陸行の記述に変えています。
なぜなら、不弥国が卑弥呼の都で、邪馬台国そのものだから、
そこで、距離の記述は簡潔しているのです。
756日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:21:55
↑PUだ!なにが言いたんだろう?記憶テスト?思い込み自慢?
757日本@名無史さん:2006/06/26(月) 11:13:19
>>748
半島の古文書には、徐福達が秦韓へやって来たという記述はナッシングだよ。
たぶん、秦人たちが日本へやってきた事は確かだが。



あ…ひょっとして、「徐福伝説」は、秦さんたちが日本に伝えたのか?!


あぁ、でも、だったら「徐福の子孫です」と言うわな…
758日本@名無史さん:2006/06/26(月) 11:27:38
>>752
卑弥弓呼から考えて、卑・弥呼と切るべきではなく、卑弥・呼と切るべき。
だから従来の日御子説は成り立たない、とするのが最近の通説。

それにしてもイザワさん
>意外に知られていない事実がある。それは『卑弥呼』という名は当て字だということだ。
>では、『卑弥呼』いや『ひみこ』とは、どんな意味か。それは『日御子』(ひみこ)ではないだろうか。
そんな江戸時代から言われてるようなこと、今さら自分の創見のように言われてもw
759日本@名無史さん:2006/06/26(月) 12:48:17
>>757 こんなに改行して荒らし以外考えられないね。
760がいやまん:2006/06/26(月) 13:52:38
>>757 徐福
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1059892097/
↑このスレでレスする。
761日本@名無史さん:2006/06/26(月) 18:13:59
あぽっぽい自作自演や暴言はみんなPUの仕業!
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
から確認してね
762日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:41:34
がいやまんつまんね。
763日本@名無史さん:2006/06/27(火) 07:08:33
がいやまんとPUは別人じゃねぇの?
PUは、必死になって過剰反応を起こすけど、がいやまんはひたすら自説を
主張するだけで、取り合いもしないよ。
764がいやまん:2006/06/27(火) 13:12:40
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html
上記情報によって考えてみるに、宇佐神宮というものが創立された時代、伽耶地方と
豊前は非常に似通った環境にあった。どちらかといえば場伽耶地方がピッチャー、豊前
がキャッチャーで大陸で台頭しつつあった宗教、思想、文化の日本への窓口を果たし
ていたということでしょうか。それにしても、韓国は観光資源化して遺跡の手入れがしっ
かり、しているようですが、将来は日韓合同で両国の観光資源として発展的に開発、
保護kするように関係当局の今後の努力に期待します。そしてこういう運動がユーラシア
をはるか西の欧州まで続くことを祈ります。日本には別府、湯布院など世界に誇れるリゾートがあるんですからね。
765日本@名無史さん:2006/06/27(火) 14:26:52
>>764 訳わからん! >>761同意します!
766がいやまん:2006/06/27(火) 15:29:40
神功・応神の墓があったほうが、スパイ大作戦で、敵に死んだと見せかけて、その裏を
かくのには有利、なんてこともありえるよなー。たしか、明石海峡ではそんなことをやっ
てる。
767がいやまん:2006/06/27(火) 15:45:41
http://gazone.morrie.biz/geizyutu/bunkazai/isizukayama_kohun.html
ヒミコ時代のこの辺のナンバーワンは空港近所にいた↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.46.52.025&el=130.58.34.165&la=1&fi=1&skey=%b4%a3%c5%c4%c4%ae%c9%d9%b5%d7%c4%ae1%c3%fa%cc%dc&sc=8
関門を制するものは日本を制するだったんだろう。
768日本@名無史さん:2006/06/27(火) 21:32:42
がいやまんにすっかり荒らされたなあ。
769日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:33:01
97 :出土地不明 :2006/06/27(火) 22:06:07 ID:jSfw0L5I
>>96
馬鹿なんじゃね?
おまえそういう風に思ってて九州の本場にくると
朝鮮との違いにびっくりして
一発で九州人ファンになるよw




98 :出土地不明 :2006/06/27(火) 22:28:09 ID:jSfw0L5I
いくことをくるは
九州沖縄と印欧語の共通点
770日本@名無史さん:2006/06/28(水) 02:57:04
がいやまんは実社会でも不適応なんだろうね。空気よめなさそうだし。
771がいやまん:2006/06/28(水) 07:38:06
>>764 豊前の古歴史
この辺は大和以前の日本の中心で、その前が伊都国時代かなー。ヒミコの時代でも
重要だったんだろうね。伊都国に常駐していた一大率というのは九州一円の支配者
のようだからひょっとして石塚山古墳被葬者そのもの、あるいは、その祖先と違うかな。
772日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:23:59
がいやまんって あんすとっぱぶるな爺ーさまかも。
773日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:27:06
がいやまんは以外と若いとおもうな。
漏れより若いかも、二十代後半とみた!
774日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:49:27
こうして他人がどんな人だろうかと想像するのも2ちゃんの楽しみだ。
金印は伊都国においていたのかなぁ。
卑弥呼の墓があったとしても、まず卑弥呼の墓の中には金印を入れて
いないだろう。そのあと30年くらいは使節を送り出しているようだし、
初期の古墳の構造からしても、一度埋めるともうおしまいと言うところがあるから、
すると、玄関口の出入国管理書においていた可能性もあるなぁ。
775日本@名無史さん:2006/06/29(木) 01:11:37
ばればれで名無しレス! してるのは↓

○´∀`○は発狂したようです。ご愁傷様。後おながいじゃなくてお願いだよ(ワラ
かわいい〜〜!!!!
みんな〜プラム君の時間だよ〜!!
天才君集まれ〜!!

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしっすよー
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

ほぼ毎日初心者板やその他多数の板に出現!!
みんな見たらかわいがってあげてね!!                 プラム過去レス 
 
776がいやまん:2006/06/29(木) 05:27:17
>>774
後漢金印 志賀島近辺に印鑑を祭る神社がある。これは後代の律令時代のものかと
思われるが、大宰府もそうだけど、起源が後漢金印時代、倭奴国時代かも。
魏金印 卑弥呼没後時をおかず魏も晋に変わるが、このとき金印の効力は失われる
わけだが、当時の倭国は金に対する十分な価値観を持っていただろうか。いずれにせよ
後漢金印が大王クラスの墓から出土しなかったのと同様、魏金印も神社の境内のような
場所から出土する可能性があるのでは。
777日本@名無史さん:2006/06/29(木) 15:44:13
>>776  ・・・かも・・・だろうか・・・あるのでは  結局何も言わないなら、邪魔だから書くなよな!
778白木人:2006/06/29(木) 16:34:47
同じ事が2度おkるような同一性理論が古代にもあって、2個も邪馬台国がありましたが
途中でどちらが本家かわからなくなりました
779日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:30:13
いや、それないから。
780日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:36:12
>>645
南は女山神籠石があることが知られてる
781日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:40:14
>557 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/08(水) 11:21:34
>比売大神=卑弥呼=神功皇后

あったまくる!PU=スレ主!ここつぶさね!
782日本@名無史さん :2006/07/01(土) 15:26:47
>>777
あんた、すごい邪魔なんだけど
783日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:17:38
>>782 がいやまんさんの別名はなんなのですか?
>・・・かも・・・だろうか・・・あるのでは  
しっかりしてください。これじゃだれも釣れないし、言ってる事に自信がないなら寝ててください。どこもかしこも邪魔です!
784日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:07:27
私の独り事
呉人→オニン→オニ(赤鬼、青鬼)→(呉人は赤鬼、魏人は青鬼)軍旗の色かな?
越人→ヲニン→ワニ(動物のワニ、出雲神話ワニ=サメ、王仁族、和邇氏)越人の軍旗何色かな?
縄文人にとって恐いものオニ、ワニ、サメ、なまはげ
越人→ワニ→王仁族→倭語→オウジン→応神天皇(神武の祖母豊玉姫は竜神、ワニの娘と言う)か?
この豊玉姫は卑弥呼の宗女か!
785日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:16:07
テポドン発射おめでとう!!
テポドン発射おめでとう!!
テポドン発射おめでとう!!
(笑 笑 笑

★韓国人はエベンキ族だという事実が、日本人の間で急速に広まっているようだ(笑)

【韓国人はエベンキ族の一派だ】
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1688309&st=writer_id&sw=jjang

>>784
応神天皇は、物部氏から皇室に迎えられた天皇だろう。
つまり養子。
崇神天皇も物部氏の出身みたいだな。
786日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:17:53
朝鮮系がエベンキ系だと
2chで最初に言ったのは漏れだぞ!!!

ぱくるのは良いが断れ
787日本@名無史さん:2006/07/06(木) 00:35:17
>>785 韓国も経済制裁するのに、書いた奴は、基地外だ 
788日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:15:55
経済制裁すれば、化学兵器使うとか言ってなかったか?
789日本@名無史さん:2006/07/09(日) 03:01:24
えっ!便器だって?
790日本@名無史さん:2006/07/09(日) 05:35:03
>朝鮮系がエベンキ系だと
2chで最初に言ったのは漏れだぞ!!!

ぱくるのは良いが断れ



言ったという証拠は?
791日本@名無史さん:2006/07/14(金) 17:44:46
鬼はたんに漂流してきた野宿黒人だろ
792日本@名無史さん:2006/07/23(日) 02:06:11
英国王室1090頃
FRANCE 890頃


なんでもっと皇室は明確に歴史アピールしないのだろ
日本国民もそこんとこの偉大さを忘れとる
793日本@名無史さん:2006/07/23(日) 02:37:45

皇室を英国や仏国のオペラ俳優みたいな連中と一緒にせんといて。
794日本@名無史さん:2006/07/25(火) 14:13:00
PUしか住んでない
795日本@名無史さん:2006/07/29(土) 08:39:58
宇佐の本殿のしたの亀山自体が古墳の疑いが強いのか
でかすぎないか?
796日本@名無史さん:2006/07/29(土) 10:18:14
>>790
貴様か、電波まきちらすキチガイは
797日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:48:25
宇佐饅頭とか名物がなんか欲しいな
798日本@名無史さん:2006/07/29(土) 14:33:51
>>795
宮路嶽神社の古墳は山の中腹だし、宇佐は本殿の真下に石室があるだろ。
799日本@名無史さん:2006/07/29(土) 18:51:44
PU、やめれー
がいやまん、やめれー
陶器オタク、やめれー 
800日本@名無史さん:2006/07/29(土) 21:33:23
>>799
そんな君にプレゼント つNGワード
801日本@名無史さん:2006/07/29(土) 21:37:47
>>799-800
かなり酔いが回ったとこですね、楽しい話でもどうですか? 
802日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:24:37
宇佐饅頭あるよ
803日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:26:18
>>791 
>鬼はたんに漂流してきた野宿黒人だろ
是非詳しい話教えてください。
804日本@名無史さん:2006/07/30(日) 12:36:47

ひ  ふ  み  よ  い  む  な  や  こ  と

卑不彌      よ  忌むな      世事
805日本@名無史さん:2006/07/30(日) 15:04:00
またPUだよ
806日本@名無史さん:2006/07/30(日) 18:11:44
中国式の廟を意識して作ってあるよね、宇佐神宮って。
807日本@名無史さん:2006/07/30(日) 18:30:14
それ確かにあるな
廟って3つならんだ真ん中が始祖で、
左が確か二代目四代目・・・
右が三代目五代目・・・
ですよね。
でも宇佐は配置がおかしいよ。
808日本@名無史さん:2006/07/30(日) 21:54:02
左が応神で、右が神功、真ん中は姫大神?

裏から見るんじゃね?
809日本@名無史さん:2006/07/30(日) 21:55:47
それとも日本の神道になったように、オリジナルか?
810日本@名無史さん:2006/07/31(月) 10:52:21
日本の神社で廟形式はポツポツあるね
811日本@名無史さん:2006/07/31(月) 15:15:47
櫛田神社に、八幡5社宮等は、3神並列の祭祀だよね。
九州の古社に廟形式が多いのは、何でだろね?
812日本@名無史さん:2006/07/31(月) 18:28:32
真ん中が祖神だとちょっとおかしい神社もちらほらだね。
813日本@名無史さん:2006/08/01(火) 23:43:43
太宰府天満宮って、祭神は菅原道真で、創建も浅いけど、
あの太宰府のあの位置にあれば、太宰府が都の当時から、
別祭神で存在してたよな。
814日本@名無史さん:2006/08/01(火) 23:58:00
竈神社あるじゃろ
815日本@名無史さん:2006/08/02(水) 11:48:11
816日本@名無史さん:2006/08/02(水) 18:07:50

太宰府天満宮は
天孫菅原と
沖縄奄美宝満系との

コラボレーション

817がいやまん:2006/08/02(水) 19:02:48
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、
一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に
権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむかって
同じようなことを云った、とある。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1136970327/menu998
八幡神というか、豊日別というか九州新空港辺りの豪族が日本の天皇の先祖で
はないかという気がするんだが。
818日本@名無史さん:2006/08/02(水) 22:15:25
気がするのか・・・
819がいやまん:2006/08/03(木) 09:48:29
それ以上の断言はちょっとねー。まー、いいたいことは、神武の経路上に英彦山、
葛城、熊野があること、神武が男女シャーマンクラスを誅し、行政当局者とは手を
組んでいること、錬金術、土器など呪術的なことを見せているといった宗教改革者
的なところが、上記の「一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけ」ると
いう発想につながる。もうひとつ、忍骨命というのがどうもオシホミミ、つまり、オオシ+
ホ(火)+ミミ、火の国の大王ではないか、つまり、豊前とは無関係の肥前肥後地方
の支配者を指すのではないか、そして、八幡神とは東九州近畿方面の神ではないか
という感じだする。神武の祖形がこの辺ということもありえるかなーということなんだ。
820がいやまん:2006/08/03(木) 09:58:17
葛城・熊野に入山する天皇が多いというのもこれなら理由がわかる。雄略の
一言主は天皇家以外にも山岳宗教を信奉するものがいたということかもしれ
ないが。ただ問題は天皇家であったも継体天皇とか、その他、尾張、近江など
葛城と関係なさそうなのもいることだ。
821がいやまん:2006/08/03(木) 10:18:01
九州の東西は石器時代から分かれているし、海幸、山幸の話もあるし、この託宣集
はずばり、北部九州と大和朝廷が無関係であることを確認している感がある。
822がいやまん:2006/08/03(木) 11:32:02
北部九州が東遷する計画もあり、ニギハヤヒの出雲経由丹後に入るのもそうした線であったが、
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html#ニニギ
結果的には、ここにいわれるニニギの東遷ということで、東九州ー葛城関係が、鏡、矛関係技術渡来集団
を携え中国地方(投馬国)に東遷、それを橋頭堡として東西を押さえ、巻向に入ることになるのではなかろうか。
そして鏡、庄内、布留式土器などの統一化により、旧銅鐸文明を吸収、残党は狗奴国として東方に駆逐
スルのであろう。
823がいやまん:2006/08/03(木) 11:42:40
宇佐神宮、伊勢神宮に見られる美しい水辺森林風景は縄文の昔からの日本人の
心を再現したもので、日本人の精神文化が審美的になり、その後中世の仏教芸術、
近世の日本美術へと道を開く歴史的遺物であろう。アマテラスがひとりではさびしい
からとしてトヨウケ大神を勧進、女性のガードには月読命、萬思金命が締めに回る
演出は極めて美的な感覚であるが、純粋に美学上のことであろう。
824日本@名無史さん:2006/08/03(木) 13:36:11
>>宇佐八幡神託事件

弓削道鏡事件で称徳天皇が和気清麻呂を宇佐神宮に行かせた真の理由。
清麻呂は、井沢元彦が故意と悪意からその著書で読者を騙したように、伊勢神宮などを無視して宇佐神宮に道鏡に天皇位を譲ることの可否をわざわざ聞きに行ったわけではない
事の発端は「道鏡を天皇にすれば国家安泰」という神託を宇佐神宮が下したと、宇佐神宮〜太宰府〜都と報告してきたことにあるのだよ。
つまり宇佐神宮がすでに出した神託の「道鏡に天皇位を譲るべき」が正しいかどうかの確認に行ったのだ。
宇佐神宮の神託の内容が正しいかどうかを伊勢神宮やその他の神社に確認に行く馬鹿がどこにいる。

では、なんで当時、宇佐神宮の神託が重視されたのか。それは
@宇佐神宮は神託を下す神として有名であった《仲哀天皇と神功皇后、三韓征伐》
A奈良朝では大々的に宇佐のご神託を政治的に利用してきた実績がある《大仏建立黄金神託》

天皇側は何年も前から宇佐神宮に恩恵を与えるなどして、この神託を出させるように仕組んでいた節がある。

そんなことの経緯は続日本紀にちゃんと書いてある。
いまどき電波井沢元彦のトンデモ宇佐説に騙される馬鹿者がいたことに驚きだよ。
825日本@名無史さん:2006/08/03(木) 14:02:20
わからん奴だ
>そんなことの経緯は続日本紀にちゃんと書いてある。
経緯なんて調べて意味あるの?神託が出る理由はどうした?
どうして宇佐から神託が出るんだ?
いつものズッコケだろお前?
826日本@名無史さん:2006/08/03(木) 16:55:45
神託が出る理由?

権力者がそれを望むから出るんだよボーヤ
827がいやまん:2006/08/03(木) 18:54:42
>>822
魏志倭人伝は、中国地方に起こった青銅器祭祀からの離脱を倭国乱、その地域を
投馬国として描いたとすれば、それはなんと優れた歴史書であろうか。日本建国の
証言ともいうべきではないか。
828日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:57:17
崇神天皇65年(実際=33年)=西暦175年、任那の国が朝貢してきた。

任那が日本領になったのは、西暦175年からのようだ。



829日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:08:05
■歴代天皇【日本版ダヴィンチコード】■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/49-54

第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。
やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は
不安定化し、北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
シラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。

どうやら、百済を建国したのは神功皇后のようだ・・・。
百済が最初に建国されたのは西暦314年。
神功皇后の時代と重なる。

 百済国=百姓国(はくせい国)
  百姓=多くの姓=百官(多くの官吏)
830日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:14:24
日本書紀本文中に書名をあげて引用されている百済の文献として、次のようなものがあるが、
いずれも現存していない。

『百済記』
『百済新撰』
『百済本記』

上記の三書は、おそらく百済を統治していた日本民族の官吏によって書かれた物であろう。
大和朝廷は、百済を統治するために多くの役人を日本領=韓(カラ)に派遣していた。
彼らが記録した公文書が、「百済記」「百済新撰」「百済本記」なのだろう。
831日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:57:43
大活躍のお馴染みの人!
832日本@名無史さん:2006/08/03(木) 22:01:55
ダヴィンチ台風か???
833日本@名無史さん:2006/08/03(木) 23:04:20
がいやまん寒い
834日本@名無史さん:2006/08/04(金) 13:18:41
いつのまにか創作劇場になったなこのスレ

創作幾ら続けても何も結論でないよね。

ところで宇佐神宮って卑弥呼の墓なのか?
835日本@名無史さん:2006/08/04(金) 14:46:05
どうも正式にできたのは神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現社地に御殿を造立
ということらしい。
http://www.usajinguu.com/Frame.html
八幡さまは応神天皇の御神霊で、欽明天皇の32年(571)に初めて宇佐の地に
御示顕になったといわれます。
 応神天皇は大陸の文化と産業を輸入、新しい国づくりをされた方で、その神徳は
強く顕現し、神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現社地に御殿を造立、八幡神
を奉祀されました。これが宇佐神宮の創立です。
ヒミコのお墓があるとすれば500年も前だから相当深いところを掘らなくては出てこ
ないだろう。
836日本@名無史さん:2006/08/04(金) 18:34:10
>>835
571年とか、725年とか、そんな新しい訳ないね!
あんた記紀にとらわれ過ぎだよ。
それでどうして道鏡事件が起こるんだよ?
理由考えれば、そんな新しい事言えないだろ!


837日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:24:54
>>835 
応神は主祭じゃないですよ。
時間もかなり矛盾があります。
公表の数字は鵜呑みには出来ません。
838日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:54:42
卑弥呼が宇佐の姫大神じゃないよ。
だって応神と神功とは世代が離れている。
839日本@名無史さん:2006/08/04(金) 23:54:31
夏休みに宇佐行く人いる?
840日本@名無史さん:2006/08/05(土) 00:57:16
>>835 PUが書くと、返事がこね。あとからぷレスが解るなー
841がいやまん:2006/08/05(土) 11:58:59
>>817-823
「伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では
西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)
の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだ」。この霊剣は「フツの御霊」と
され、在韓倭人居留民団団長であり、勅島小伽耶吹合津に駐在した神武の父が
月支国経由天竺大月氏国から受け取り、英彦山を皮切りに日本各地に配布される
予定であった。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html
「「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、
一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に
権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむかって
同じようなことを云った、とある。 」
この八幡大神の願いを熊野、石上神社において実行したのが神武。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149768938/menu977-987
842がいやまん:2006/08/05(土) 12:25:52
箸墓の守護神、兵主神は銅鐸の伏羲、女過的なものと蔵王権現、兜跋毘沙門天、
大黒天などの進化したものの中間的イメージではなかったか。つまり、秦氏天日矛は
施主の神武系統からの要求を自分たちの古い知識の範囲内で処理した。さらには、
石上神社がどうも銅鐸のにおいの強い、百伝ふ石というか、上流には水源神があったり
して風景的に伊勢同様銅鐸的イメージが強い。
843がいやまん:2006/08/05(土) 12:30:15
銅鐸を一掃し中身を軍神、護法神に変えるというのが神武の使命であったのだろう。
卑弥呼の鬼道も道教が仏教などの西域文化の影響を取り入れるのと同様の国際的
動きの中での銅鐸祭祀の変貌を物語るのかもしれない。
844がいやまん:2006/08/05(土) 12:35:12
宇佐神宮というのはこのように日本の根幹にかかわる豊前の古代情報が集積されて
いる、神楽、託宣集その他の形、ものであり、その創設が何時であろうと、豊前の住民が
太古の伝承をきわめて厳格に維持してきた重要な施設であろう。その文化財の一つ一つに
重要性があると思う。
845日本@名無史さん:2006/08/05(土) 12:55:06
がいやまんさみしーの?
846がいやまん:2006/08/05(土) 13:13:42
八幡さんがなぜ、法界衆生利益の願を発そう決心したのか、神武はお釈迦様のように
日向の家庭を捨てなぜ東遷したのか。と考えると、彼らの敵は西にあったのでは
ないかと思いたくなる。結果的に彼らが手にしたのは倭国全土となったが、最初は博多
湾の制圧を考えたのではなかろうか。もうこれ以上はわからない。九州人としてどう思うね。
847日本@名無史さん:2006/08/05(土) 13:32:02
おいおい 
神武東遷して何処行ったんだ?
まさか奈良じゃ無いよな!
奈良には神武を祀る由緒深い神社が無いの知ってるのか?
848がいやまん:2006/08/05(土) 13:39:26
鹿児島県知事級の嫡男タギシミミは富山県知事のようなものに殺され、その後尾張系、
大和系など近畿勢が政権を握る。漏れは旧神武の系統はこの間苅田の近辺にいたの
でないかと思う。そして伊都国に常駐し一大率を勤め、新空港近辺の石塚山古墳などに
葬られたのかなと思うのだが。それとも日向にいたのかなー。いいたい放題でスマソ。
849日本@名無史さん:2006/08/05(土) 13:48:12
がいやまんだなあのコピペ 最低!
850日本@名無史さん:2006/08/05(土) 13:50:52
 
がいやまんは子供は居ないのですか?
851がいやまん:2006/08/05(土) 13:57:29
がたがたいうな。そのために目的を絞って考えて見たら熊野参り、そして、フツの御霊の
奉納となるっていってんだよ。・・・修験道だ。
852日本@名無史さん:2006/08/05(土) 14:00:02
がいやまん何言ってるんだ? 
コイツは書き込み専門で、人の言葉わからないのか。
853がいやまん:2006/08/05(土) 14:38:25
やさしいことばをつかいましょうね。
>>奈良には神武を祀る由緒深い神社が無いの知ってるのか?
そのとおり。が、山口県あたりに多いらしいね。
854日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:02:25
ほんとにコイツ人の言葉わからないのか。

>>奈良には神武を祀る由緒深い神社が無いの知ってるのか?
ならば、神武東遷なんてあったのか?
855日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:08:18
神武は、応神。
856日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:10:26
>>855 はいソースお願いします。がいやまんさん
857がいやまん:2006/08/05(土) 15:13:48
実際には大和に入らず、神武の委託を受けたタギシミミ、久米、大伴などが神武の名
において代行したということはどうかな。半分神様のようなものだったのかもしれない。
858がいやまん:2006/08/05(土) 15:15:39
>>856
アイスクリームはありますが、ソース焼きそばはやってません。
859日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:17:42
想像に、寒い冗談、
似てるし、アホだな
860日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:27:49
 
がいやまんは子供は居ないのですか?
861日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:29:26
応神天皇には、飛鳥を目指す意味があるが、神武天皇には、山陽道の豊かな土地を無視して、
飛鳥を目指す意味は無い。


862がいやまん:2006/08/05(土) 15:30:10
「伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では
西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)
の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだ」。
この霊剣は「フツの御霊」とすると、当時仏教が後漢に入ってきていることを考えると
フツとは仏のことであり、フツの霊剣とは護法神の霊剣と取れる。記紀にはフツ、フト、
ホトという言葉を含む神名、神器名らしきものが極めて多いがそれが軍神、刀剣等に
関係することがわかる。これは単に刀剣ではなく、軍神のような崇拝対象が合ったことを
意味しているのではないかと思う。
863日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:31:51
おいスレタイで考えろよ。山陽道も飛鳥もスレ違いだと思わないか?
864日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:41:44
宇佐は、応神天皇が祭られてるんだろ。
865日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:42:22
>>862 
なんで仏教が伝来してないのに、
権現なんだ?
天竺なんだ?
そこからまず説明してください。
866日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:43:33
>>864 じゃなんで、神武が応神なんだ?
867日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:48:09
神宮皇后が、天照大神。
なんで神武天皇は、大和に粘着したんだ?
868日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:49:09
>なんで神武天皇は、大和に粘着したんだ?
初耳だ!
869日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:53:59
太陽を背にして戦うために、なぜ和歌山まで行かないと駄目なんだ?
870日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:58:15
熊野にも、奈良にも、
神武の由緒のある神社は無いのに、
なんで粘着したんだ?
871日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:01:54
だから神武天皇は、応神天皇。
872日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:03:26
馬〜鹿!
説明何もしてないだろ!
873日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:07:31
神武天皇は、どこまで行ったの?
名古屋? 東京?
なんで、豊かな山陽道に都を置かなかったの?
874日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:10:18
あのさ山陽道の何処が豊かなの?
雨が少なくて、平地が少なくて、
大丈夫か?
875がいやまん:2006/08/05(土) 16:11:52
>>865
>なんで仏教が伝来してないのに、 権現なんだ? 天竺なんだ?

前漢武帝の頃からシルクロードと呼ばれるようになった東西交易路は4000年前
楼蘭に入ってきたトカラ人、つまり、月氏が西域を抑えていたが、匈奴冒頓単于に
よって月氏は東西に分断された。幼児の頭を石で平たくする習慣を大月氏と馬韓
に残す月氏は匈奴の崩壊後昔の交易路を復活させた。このため新羅・倭にはローマン
グラス、角杯などが入り、吉野ヶ里では絹の生産が行われるような国際交易が発展した。
後漢とインドの間で仏教を仲介したのも月氏である。
一方、戦国時代にインドで起こった仏教はチベット経由北方の護法神を仏教に取り込
んだが、たとえば、兜跋毘沙門天のようなものの祖形ははるか北方のアルタイ地方
の仰韶並行期から存在している。
こうした西域の文物・宗教は燕・月氏系統によって九州北部に伝わったのであろう。
876日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:16:39
>「伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では
>西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)
>の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだ」。
貴方の文章読み返してください。 やれやれ

それからそんなに早くに、仏教の影響があったと言いたいなら、
なんで邪馬台国の卑弥呼は古墳に祀られているんだ?
薄葬意識が強まって、早くに古墳はなくなるよ。
877日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:21:09
播磨なんて豊かだよ。古代は、製鉄も行われていた。
878日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:22:24
それじゃ播磨に何か残ってる?
879日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:29:54
針間だったの知ってるか?
字の意味から、此処も平地は期待できないぜ、
しかも雨が少ない。
古代に瀬戸内気候で、都が出来ると思うか?
880日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:32:39
残ってないから、大和に粘着してると言ってるんだけどね?
神武天皇の東征の理由って、何?
応神天皇には、首都に政権を建てるという目的があった。
881がいやまん:2006/08/05(土) 16:36:03
>>876
霊剣を崇拝するだけなら明らかに仏教ではなく、それは密教・道教・シャーマニズム、
山岳宗教のような原始的宗教。そのドグマが古墳建設の際に働くのであろう。それは
薄葬とは逆に大衆のマンパワー動員を誇示するようなものであったのだろう。
西域から伝わったのは仏教のほかにこうした異教もあったものと考えたい。
882日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:38:22
>>880 
さっぱり解らん理論始めたな!だれか納得すると思うか?大丈夫か?」

実はね、神武は別名で、沢山祀られているんだよ。
応神も宇佐神宮に祀られている。
はっきり別人だね。
883日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:39:49
>>881 また想像ですね がいやまん
884日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:40:57
平地が期待出来ないって、すごく広いけど?
大阪は湿地帯だし、河内も播磨と同じようなもんだよ。
885日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:44:05
>>884 
雨は降るのかな?又忘れたのかな?

それに播磨が東遷の地なら、なんか証拠だせよ。
886日本@名無史さん:2006/08/05(土) 16:48:34
がいやまん 疲れたから辞めてやる!又直ぐ来るからな!
887日本@名無史さん:2006/08/05(土) 17:27:09
>>884 東広島ファンタジー邪馬台国の始まりです。
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
是非僕と東広島から旅しましょう。
888日本@名無しさん:2006/08/05(土) 19:03:33
宇佐まで行って、何するの?
何かを調べたいの?
889日本@名無史さん:2006/08/05(土) 20:03:33
播磨と河内は、目と鼻の先だけど。
誰が、播磨が東遷の地だと言った?w
九州から大和に至るまでに、豊かな土地は有るのに、
なぜ神武天皇は、大和に粘着したのかと言ってるんだよ。

思いっ切りスレ違いだけど、応神天皇=神武天皇と同様の例を一つ。
ヤマトタケルの兄殺し=反正天皇の兄殺し
被害者・父の女を盗んだ男=兄の女を盗んだ男
890日本@名無史さん:2006/08/05(土) 22:37:31
>誰が、播磨が東遷の地だと言った?w
>なんで、豊かな山陽道に都を置かなかったの?
>播磨なんて豊かだよ。古代は、製鉄も行われていた。
本当に頭にくるよ、あんたのこのレス並べてどう思う?
責任もって言葉を使って下さい。
この言葉使いで、よくしゃーしゃーと言えるね!
多分貴方は、口頭の議論は避けて生きていないか?

言葉に責任を感じていないだろ。だから責められるんだよ。
891日本@名無史さん:2006/08/05(土) 23:33:58
 糠に釘 馬の耳に念仏    言い換えると
 PUに釘 PUの耳に念仏    PUばっかり頑張って困りますね。
892がいやまん:2006/08/06(日) 06:06:33
>>875
周防灘沿岸は大元(倭面土)国王帥升、国常立命/八幡神、小伽耶吹合津尊の国で
その起源は豊前綾幡、その子が神武と推定。(倭の発音は現代中国語のウォから
みて、古代日本ではオオといったのだろう。オオの国、オオクニヌシ、オオナムチ-
これらは倭国王か)
http://www9.ocn.ne.jp/~usatan/omoto.htm
http://www.hiroshima-cdas.or.jp/home/okazaki/jpn/guide/omoto.html
http://fish.miracle.ne.jp/haruka-s/ohomoto.html
http://www.hiroshima-cdas.or.jp/home/okazaki/jpn/jinja/j_21.html
http://www5.inforyoma.or.jp/~warazi/05akijinsai.htm
http://shrine.s25.xrea.com/aki2.html
http://www2.dokidoki.ne.jp/bigtree/konoki75.htm
http://www.interweb.ne.jp/~usaryouin/hyakkei/usa24.html
http://www.pref.hiroshima.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/102010150.html
神武天皇を祭る神社はランキングからいって熊本、広島、岡山であり、
小伽耶吹合津尊の子としては妥当なところ。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page310.html
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page312.html
http://www.geocities.jp/nrk_kurokawa/kashihara_takada.htm
神武ファミリーは倭国乱の頃、阿讃播の播磨黒田方面でイワ神となり、
その子孫が孝霊ファミリーとして吉備に入る。その血統のトトビモモソヒミコが邪馬台国
女王に共立される。
893がいやまん:2006/08/06(日) 06:14:50
>>862
洛陽に入って来ていた天竺人と接触、各種文物をもちかえり、英彦山に修験道
を導入したのは小伽耶吹合津尊、倭面土国王帥升だったのだろう。
894がいやまん:2006/08/06(日) 06:24:02
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asozinnjya.htm
健磐龍命は祖父神武の属性、それは巨石文化継承者、磐割、イワレ、であり、熊野に
おいても巨石加工の足跡が認められると思う。
895がいやまん:2006/08/06(日) 06:59:05
孝霊が阿蘇に力を入れていること、オオアサヒコが阿波讃岐に入ること、モモソヒメ
も讃岐に入ること、讃岐の綾歌石が阿蘇ピンクの代わりとなること、(播磨にも産地は
あったと思うが)、オオアサヒコが阿波に入った地点の鳴門萩原1号墳がホケノ山、
楽浪郡とドウハンの鏡を持つこと、阿讃播の楽浪方面の積石墳が古墳時代の幕開け
となることを考えると、古墳時代の幕を開いた遠因が倭面土国帥升の洛陽訪問に
あったのではないかという気がする。
896がいやまん:2006/08/06(日) 07:38:20
天孫による投馬・邪馬台国建国の動機は輸入青銅器、国産青銅器市場の創設、
九州のピンク石、鉄を利用した石材加工技術の本州への輸出にあったのであろう。
この点で倭面土国王は東九州出身者であってもその血の中には九州男児の
地域社会九州への利益導入が最終的目的としてあり、それは孝霊グループに
受け継がれて行くが、次第に成長し、目覚めてくる近畿の大王はついにこの九州
の地域エゴとの対立のときを迎える。それが磐井の乱の背景、こうした精神構造が
後の島原、そして、西南の役の深層に流れているのではあるまいか。
897がいやまん:2006/08/06(日) 07:44:17
山陰、山陽に投入される流民は福岡平野の経済バランスで過剰となった第二次、
第三次産業従事者を物部として本州各地に「カミヤライ」したのであろう。もちろん
地域社会発展のためにこれを歓迎する縄文系先住民社会があった場合もあろうが、
ほとんどは招かれざる客ではなかったのではないか。
898がいやまん:2006/08/06(日) 07:51:45
邪馬台国建国の天孫側の動機は見抜かれ、建国後半世紀を経て時点で巻向が放棄
される。その後登場するのは邪馬台国官「生駒」、イクメイリヒコ、管轄の加美・久宝寺
貿易区でこれがその後の葛城・近江提携を経て応神の時代へと移行するのであろうか。
899がいやまん:2006/08/06(日) 09:03:56
>>892
神武を祭る神社が熊本、広島、岡山というのは阿讃播以東に入っていないアリバイ
ではないかとする主張も当然だと思う。ただ、イツセ、タギシミミ、久米といったものが
神武の御霊をフツの御霊と称してこれをもって行軍したということはありえるかもしれ
ない。年齢も非常に大きな数字だから何世代にもわたる話かもしれない。こういう場合
は馬券でいう連勝複式で、多くの可能性を持つフレームワークで考える必要があろう。
900がいやまん:2006/08/06(日) 09:18:15
箸墓築造、ミホツヒメの三輪山への押しかけに女房等が天孫の野望によるものにせよ
縄文以来のサヌカイト産地、二上山からバケツリレー、百伝ふ糸のように人が並び、
昼夜敢行で天津ヒモロギを建てたその精神にはやはり建国と呼びたいものがある。
後世には雄略のように吉備を諸悪の根源と見たふしのある天皇もいるが。
901日本@名無史さん:2006/08/06(日) 10:29:04
自分の勘違いを笑われて、逆切れか?
国の等級で言うと播磨は、河内・大和と同じ、大国。
他の瀬戸内海沿岸の国々は、北九州の国々と同じ、上国。

902日本@名無史さん:2006/08/06(日) 11:36:08
片方は記紀の神武を語り、もう片方は実在の神武を考えてるみたいだね。
903日本@名無史さん:2006/08/06(日) 11:59:00
しかしがいやまん、
こんなに書き込んでも、
想像だけで、
結局なにもいってねーな、
こいつ突っ込んでも
ろくに返事も出来ないし、
よそいってやって欲しいね。
904がいやまん:2006/08/06(日) 13:58:22
豊前についてのスレというのは他にない。ところが古代史において」は筑前の
次に重要なところ。中国地方を論ずるにしても避けて通れない。漏れは倭面土国
が豊前を中心とするのではないかという「想像」だが、この「想像」が誰かによって
立証できれば古代史が一挙に明るくなる。よそでやってくれといわれてもそういうところが
なかったからで、理解してほしい。ついでだが古代中国語の匈奴は熊奴、フンは胡奴
ではなかったかといった仮説を持っている。熊奴は欧州、日本ではクマン、クマノとなり
中国人が例によって、卑弥呼、邪馬台国のように意地悪な当て字をしたんじゃないかと
思う。
905日本@名無史さん:2006/08/06(日) 15:11:21
>>904 
ある程度の証拠だして話せよ、
 思うとか、〜がとか、あろうかとか。
何も無いなら証拠見つけて話せよ

906日本@名無史さん:2006/08/06(日) 15:15:58
>>904
>フンは胡奴ではなかったか

違うよ。「匈奴」の古代読みだと思ったが。
どこまで当てになるかはわからんが、少なくとも日本語のwikiにはそう書いてあった。
907日本@名無史さん:2006/08/06(日) 15:56:07
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】
908日本@名無史さん:2006/08/07(月) 13:06:03
神武が、吉備で蓄えた兵力で播磨に押し出していかず、
播磨・摂津をスルーして、いきなり河内を攻めるのは、
奇妙ではある。
神戸の一の谷は、良い防衛線になると思えるのに。
橿原で即位したのに、神武関連の神社が無いのも奇妙だ。
909がいやまん:2006/08/07(月) 14:21:16
播磨にはイワ大神と言うのがいるが、イワレ彦もこうした属性を持つ本来的には
播磨を基盤にするものだろう。熊野のゴトビキ岩などを見てもその実力がわかる。
神武の即位はカシワラという伝承の地であり、現在のカシ原とは違うのかもしれない。
それは香春とか、いろいろあると思う。
910日本@名無史さん:2006/08/08(火) 01:18:13
がいやまんスレ違いだね
911日本@名無史さん:2006/08/08(火) 03:11:12
宇佐の行幸会って、なんであんなに方々行くのか知ってる?
912日本@名無史さん:2006/08/08(火) 08:57:38
ご神体を新品に交換するって面白いよね。
神様は、ダスキンじゃないぞ!。w
伊勢の様に、神の家を建て替えるというのは理解できるが、
興味深い風習だね。
913日本@名無史さん:2006/08/08(火) 09:08:50
神武東征に出てくるニギハヤヒノミコトは、応神天皇の異母兄だろうな。
914日本@名無史さん:2006/08/08(火) 09:56:45
東広島臭がまだしますね
915日本@名無史さん:2006/08/08(火) 15:01:16
>>911 それだけ神様が居たのかな?
916日本@名無史さん:2006/08/08(火) 18:48:39
>>913 電波全開で、全壊するぞ!
917日本@名無史さん:2006/08/08(火) 18:52:34
本当の神武は、橿原には行ってないだろう。
東征があったとしても、吉備まで。
918日本@名無史さん:2006/08/08(火) 19:52:09
カシワラは朝鮮語で○○の意味らしいよ
919がいやまん:2006/08/08(火) 20:27:26
>>917
古事記にも神武は神の部分があると言っているようだ。多分吉備から先は
御霊と考えた方がすっきりするかも。嫡子タギシミミが行ってるんだから、
全権委任していたと見るべきではなかろうか。
920がいやまん:2006/08/08(火) 20:47:52
神武がやったことは女性シャーマンをばらばらに切り殺したり、男性シャーマンを
殺す、テロ行為が主体。初代の天皇にしては徳とか、寛容部分が全くない。
タギシミミが実権を持っていたとすると話はよく通じる。タギシミミはまもなく殺される。
ではなぜ神武を担ぎ上げる必要があったのかと考えると、やはり九州において
いわゆる神代の時代にすでに天孫の血統が存在していて、それの血を受けて
いないと国中が服しなかったと見るべきだろう。神武の口から天孫にもいくつかの
筋があり、ニギハヤヒの線もあるなどとしゃべらせているのが怪しい。神武以降の
皇統は別の系統ではなかろうか。
921日本@名無史さん:2006/08/08(火) 21:32:10
>>918 なんですか?
922350266000207632:2006/08/08(火) 21:35:34
明日天気になあれ
923日本@名無史さん:2006/08/08(火) 22:01:47
東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 

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924日本@名無史さん:2006/08/09(水) 09:15:48
息子が実行者としても、吉備から船で直接に河内を攻めるのは、距離がありすぎる。
播磨や淡路を中継地にしたと、記述があれば現実味があるが、播磨・淡路に神武関連
の神社や伝承は無い。
大和王権が、九州王権の歴史を継承(略奪)したって事かな?
925ビッグニュースですよ!!:2006/08/09(水) 09:52:08
 邪馬台国は韓王朝? 竹島から金印出土
韓国外務省は29日、竹島(韓国名・独島)で金印の出土を確認したと発表した。
金印には「親魏倭王」の文字が含まれており、竹島が邪馬台国の勢力下に置かれていたことを
説明する重大な証拠であるとして、日本政府は韓国政府に対し今後一層竹島の領有権を強く主張していくとしている。
韓国外務省の発表によると、金印は竹島に建設中だったPC房の地下30センチの地層から
銅鏡数十枚とともに発見された。金印には「親魏倭王」と刻まれており、
魏志倭人伝に記録されている「親魏倭王」の金印と同一のものである可能性が高い。
この発表を受けて、日本政府は「竹島が歴史的に日本固有の領土であることが確認された」と声明を発表。
韓国に対して、竹島の領有権を強く主張するとした。
これに対し、韓国政府は「金印と一緒に発見された銅鏡にはハングル文字が刻まれており、
邪馬台国が辰韓支配下の独島影響下にあったことを示す貴重な資料だ。
邪馬台国の起源はわが国にある。」と、日本政府の見解とは逆に竹島の歴史的領有と、
邪馬台国の韓国起源説を主張した。今回の発見により、邪馬台国の所在をめぐる
歴史論争は国内だけでなく国際的な議論に発展しそうだ。

ソース
http://www.f7.dion.ne.jp/~moorend/news/2006072601.html
926日本@名無史さん:2006/08/09(水) 10:11:12
はい、はい。わかった、わかった。
絵日記は、ちゃんと毎日つけるんだよ。
927日本@名無史さん:2006/08/09(水) 10:55:44
918 都の意味かも ならが国で
928日本@名無史さん:2006/08/09(水) 11:58:22
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929日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:42:43
君は、お偉い先生のありがたいお話を拝聴して、満足していなさい。
930日本@名無史さん:2006/08/11(金) 23:54:50
がいやまんはもう来るな!
931日本@名無史さん:2006/08/12(土) 13:31:55
神代の神々はみんな同じ血族だよ、
結局繋がり調べると、どれも少しずつ繋がる。
932日本@名無史さん:2006/08/12(土) 20:53:06
盆休みに宇佐逝く人いる?
933日本@名無史さん:2006/08/12(土) 22:26:33
>>932 これががいやまん
934日本@名無史さん:2006/08/13(日) 00:48:48
がいやまんって何やってるんですか?
935日本@名無しさん:2006/08/13(日) 13:35:49
>>932
宇佐の隣に住んでいるが何か。
936日本@名無史さん:2006/08/14(月) 17:21:30
>盆休みに宇佐逝く人いる?
此見て返事する人の気持ちがわからね
937日本@名無史さん:2006/08/14(月) 19:11:58
別に変には思わないが?

宇佐は、ホテル・旅館は何軒くらいあるんでしょうか?
宇佐神宮までの交通の便は、良いですか?
938日本@名無しさん:2006/08/14(月) 21:10:22
>>936
確かに「盆休み」に来るっていうのは判らんなw

ともあれ、宇佐神宮は観光地だから交通の便は良い。

普通なら大分空港→宇佐神宮の直通バスか、
小倉駅→日豊本線→宇佐駅→直通バスだろう。
九州以外から車で来るのなら、北九州からバイパスや有料道路や国道を
南下すれば簡単につく。徳山から竹田津のフェリーを使う手もあり。
駐車場は広いので問題ない。
ttp://www.usajinguu.com/

宿泊だが、あの町にホテルはないぞ。少し離れた柳ヶ浦の近くにあるが。
ttp://www.rurubu.com/yado/detail.asp?ID=13398
宇佐神宮前にはここにあるくらいじゃないか。
ttp://www.rurubu.com/yado/detail.asp?ID=9492
まあ宇佐駅に近いここが便利だろう。
ttp://www.rurubu.com/yado/detail.asp?ID=9493
資料館などにアクセスしやすい。

宇佐を調べたいといっても、神道や地域史の基礎知識が無かったら
ただ行くだけになる。図書館いって富来隆らの著作を漁ったり
資料館で遺物をみるなりしてからにしたほうがいい。
939日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:14:37
プラム大活躍だな!
940日本@名無史さん:2006/08/15(火) 20:26:56
宇佐はよさげな飲食店がないのがなあ
いつも探してる間に地元まで帰ってきちゃう
941日本@名無史さん:2006/08/15(火) 21:10:58
>>938
なぜわからないの?
盆休み=夏休み ではどうだ。
942日本@名無史さん:2006/08/15(火) 22:18:25
このスレに書き込んでいる人たちって、年寄りが多いみたいねw
936みたいな人を見てなんとなくわかったよ。
943太国:2006/08/16(水) 00:41:41
余が書き込んでるんだが、文句あるか!
944日本@名無しさん:2006/08/16(水) 03:04:47
>>940
駅館川を越えて法教寺より西へいかないとね。
945日本@名無史さん:2006/08/16(水) 09:37:32
盆は逝った人が、帰って来る時だな。
946日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:19:31
近くの中津も地味だけどおすすめですよ
947日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:32:23
大秦国(ローマ帝国ユダヤ、パレス チナ)=秦国(シナ、チナ中国)
=秦氏(ハタ、倭国)=八幡(やはた)=大秦寺(景教、キリスト教)

秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比
黒山郷を本貫とする秦羸(エイ)姓田主などという人名が見えており、秦羸(エイ)姓は
本来の秦羸(エイ)姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い
意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは
秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、
姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。始皇帝の姓名は(羸政)である。
948日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:33:31
彼らはペルシャ人やヘブライ人をも含んでいた中国西域の多人種混合の遊牧系民、始皇帝
の臣民であった。秦の「はた」は、漢借で「波多」、または「波陀」で、意味として旗のほ
かに着物の生地のことをさしていると言われている。
インド系の語彙で、タミル語の Pat−am(布地、旗、タコ)が「はた」と変化した。
(PがHに変化する)。(小野 晋 日本語とタミル語対応表から)
秦氏らは布地の代名詞として「はた」と呼ばれるようになったのだろう。「秦」が「はた」
と読まれるようになった理由に、「はた」が「はたおり」の「はた」からきているという説
は、やはり本当であった。タミル語の祖語であるシュメール語では「カダ」(綿織物)であ
る。シュメール語→タミル語→日本語に単語が流れこんでいることを感じ取ることができ
る。やはり織物業がすべて元になっている。明快単純にいえば、江南渡海系ハタ族は幡、
西域系ハタ族は秦と区別できる。
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html

949日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:36:01
ヘブル語って不思議です!皆さんはどう思いますか!日本とユダヤの関連について。
※最初の☆マークを日本語とし、後の★をヘブル(ヘブライ)語の日本語発音表記と
して対比します。
◆(名詞)                      ◆(動詞)
☆匂い:★ニホヒ                 ☆歩く:★ハラク
☆糸 :★フト                   ☆滅ぶ:★ホレブ
☆腕 :★ヤド                   ☆照る:★テウラー
☆言葉:★キタバ                 ☆黙る:★ダマム
☆侍 :★シャムライ(守る者の意)       ☆走る:★ハシ(急ぐ)
☆県 :★アグダ(集団の意)          ☆眠る:★ヌム
☆主 :ナシ(長の意)               ☆許す:ユルス(取らせる)
☆子供:★コタン                 ☆憎む:★ニクム(復讐する)
☆草 :クシュ(わら)               ☆商う:★アキナフ(買う)
☆水 :ミツ                    ☆祓う:★ハーラー
950日本@名無史さん:2006/09/03(日) 15:37:19
☆鎖 :ケセリ(つながり)            ☆忌む:イム(ひどい)
☆槍 :ヤリ(射る)                ☆休む:ヤスブ(座る)
☆明日:アティド(未来)              ☆死ぬ:シナー(眠る)
☆帝 :ミガドル(高貴なお方)          ☆泣く:★アナカー(うめく)
☆尊 :★マクト(王)               ☆積る:★ツボル
☆飛鳥:★ハスカ(住居)
☆禊ぎ:ミソグ(聖別)

◆(形容詞・他)
☆辛い:ツァラー(悩み)
☆駄目:★タメ(汚れている)
☆エッサ:★エッサ(持ち上げる)
☆エンエラヤー:★エァニ・アハレ・ヤー(我はヤハウェを賛美する)
☆晴れ:★ハレ(栄光)
☆ありがとう:★アリ・ガド(私は幸せです)
951日本@名無史さん:2006/09/04(月) 13:43:59
こんなサイト見つけた。宇佐説は距離的な証明に自信があるらしい。倭人の短里説とか。
投馬国=山口県防府
邪馬台国=大分県宇佐
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper13.html
952日本@名無史さん:2006/09/11(月) 15:14:47
不毛な論議はやめなさい

正確な日本史を探るには古代天皇の陵墓を調査・研究することが必須でありますが

それを宮内庁が阻んでいるかぎり、正確な歴史はどうやっても正解が出ることはないと思います


まあ、阻んでいる理由については想像の域を出ませんが
万世一系と言われる天皇家の系譜に大きな問題が生じる可能性を否定できないからでしょうね
まあ、26代の継体天皇で一度血筋は途絶えてると言われていますが
それ以上に大きな崩れが出ると色々不都合が起きますからね

邪馬台国の在り処も、謎というより故意に隠されているだけなんじゃないですかね


953日本@名無史さん:2006/09/11(月) 20:23:58
大和に対する伊勢神宮
山門に対する宇佐神宮
宇佐は邪馬台国ではない。
954日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:08:27
  糸冬 了
955日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:16:26
謎だから面白いのですよ
956日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:18:10
宇佐神宮の御祭神は因幡の白ウサギ
957日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:23:14
ウサウサ、ウザいな










単なるウサ晴らし
958日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:37:50
フェラチオのうまい女
959日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:18:10
邪馬台国は宇佐ではないんじゃない。
神武東夷伝での宇佐の記述が薄すぎる。

もし邪馬台国が宇佐ならもっと重要な記述があってもおかしくないと思う。
960日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:39:42
平塚駅近辺にはピンサロがたくさんある。
「痴漢電車でGO!」なんていうのもある。
961日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:44:15
宇佐神宮で憂さ晴らし
962日本@名無史さん:2006/09/14(木) 05:31:56
一時宇佐に遷都とかの可能性はあるな

あるいは邪馬台国時代よりずっと後世とか
963日本@名無史さん:2006/09/19(火) 05:37:49
邪馬は、やっぱ福岡でしょ。でも唐に生け捕られていた時期があるから
真の大和直轄として宇佐を広大した。それで熊ソ達が怒った。
日向にも在ったが応神?神武?天皇が東世してからは畿内と福岡でないか?
964日本@名無史さん:2006/10/04(水) 22:02:57
USA神宮?
965日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:08:53
熊襲は隈背が本当で
隈の地名は
福岡西部、佐賀、熊本、長崎、鹿児島に集中してる。
宮崎にもあるみたいだ。
ところが筑豊より東には無い!
雑餉隈、西隈、月隈、七隈など
西九州一帯の隈の地名は
隈背の名残。
宇佐は隈系の地名はないだろ。
宇佐大分は関西系が強い地域。

966日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:10:36
畿内と福岡ほど遠縁な地域もないだろ。
畿内と福岡が近いと思ってるのは
正直、関東人だけ。
苗字も地名も全然似てない。
967日本@名無史さん:2006/10/05(木) 08:52:39
だから?陸路なんて使いせんよ?ちゅか道無いし
968日本@名無史さん:2006/10/07(土) 15:29:02
空路を使ったんだよ。天の鳥船で。
96910/09:2006/10/07(土) 21:36:44
前原市 12:30開場 13:00-16:30

シンポジウム 「大鏡が映した世界−卑弥呼は大鏡をみたか−」

会場:伊都文化会館
970日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:04:24
道くらいはあったろう
獣でさえ獣道というくらい道つくるくらいだ
それなりの交易路は縄文時代からあるはず
971日本@名無史さん:2006/10/09(月) 17:58:21
陸路なんてねーよ。
前原⇔宇佐や
宇佐⇔日向でも海路なのに。こいつ原生林ってのも知らないな。
ヒッキーだからしかたないか……
972日本@名無史さん
あぁそうそう
宇佐神宮から奈良大仏に銀の提供支援したが。
大分市の丹川って地区から採掘していた模様で
宇佐への出荷も海路だ。