もう1つの邪馬台国、それこそ大和朝廷

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11316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:45:26
当時は妻問婚で、子供は母親の里で養育されたようですので、継体王朝による征服があっても母系の神話・事跡が伝承された可能性が高いのでは? 実際に伝承などが混淆しつつも残るのは、男系の征服があっても女系による伝承が残るからですし、
今日的な意味(もしくは中国的な意味での)
男性王による王朝交替とは、意味が違うのではないかと。
大海人皇子という呼び名も大友皇子という呼び名も 、
母親の集団を投影した名前だそうですから。

日本では巫女によるシャーマン的な政治参与はかなり遅くまで確実にあったわけで、男性王による征服というのが必ずしも王朝の滅亡や血脈の途絶えとはならないと、自分は考えます。それは中国では基本的にない女帝が立てられたり、天智と天武と持統の関係
(ついでに額田王の争奪・吉野裕子先生の考察)を見ても、
類推できると思うのですが。

なので河内王朝は王朝を作ったというより、融合によって強大な王権(河内王朝)が生まれたという感じですね。シンボルとしての王は九州を戴いて実権は河内土着の勢力が握っていたのか、名実ともに邪馬台国後継勢力による河内取り込みなのか。
現時点では河内による九州征服や吸収はなかったと考えています。

ただ上で書いたように、事実上は河内に征服されたのに女系養育の結果としてそちらの神話・伝承の方が主流になってしまった可能性もありますけどね。これは継体王朝の征服でも起きた可能性がありますが……。

確実に言えるのは、「北九州の勢力をベースにした神話・伝承・地名(安本説)が日本書記には色濃く残っているので、邪馬台国に連なる勢力は政治的に消滅したかどうかは置くとしても、7〜8世紀までその文化的な命脈は存在した」ぐらいですけどね。
11416歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:46:39
韓半島は歴史的には春秋時代の戦国七雄の燕が紀元前334年に支配していたと言うのが、文献的な初出です(史記・蘇秦列伝「燕は東に朝鮮・遼東あり」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/燕_%28春秋%29

漢の高祖・劉邦が立った後、遼東は漢の直轄地になり、これから逃れた燕人の衛満が平城を都に衛氏朝鮮を建国しました(紀元前200年頃)。

漢の揚雄が紀元前後に著した『方言』という書物には、「燕の外鄙、朝鮮冽水の間」とあり、楽浪郡の言葉が遼東の方言と同じだったと記されています。

漢の武帝が立つと、衛氏朝鮮は滅ぼされれて、楽浪・臨屯・玄菟・真番が置かれます(紀元前108年)。しかし紀元前87年に漢の武帝が死ぬと、臨屯郡と真番郡は廃止され楽浪郡に編入され、中国本土から燕人以外に山東半島から斉人や越人
(現在の浙江省のあたり)が流入しています。

11516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:48:02
このように、北方系の要素と南方系の要素が(ついでに遊牧騎馬民族の文化的要素も)流入した歴史的な背景があり、北方蛇神・雷雨信仰と南方鳥神・太陽信仰が2ルートできた可能性があります。で、これは稲作の伝播と密接に関わっているようです。

自分は、鳥神太陽神信仰は、赤米といっしょに南方の島づたいに黒潮ルートで伝播したと考えます。奄美以南のゴボウラ貝が山陰で見つかるのは、セグロウミヘビの回遊ルートとも一致しています。島根県出雲大社の神在祭でこのセグロウミヘビを龍神として祀るのも、
関連があるのではないかと考えています。海洋交易にあって、
このセグロウミヘビの回遊を目印に、南洋諸島と北九州・山陰との交易の船を出していたのではないかと(これは自分の仮説です)。

黒潮は鹿児島で二つに分かれて熊本・佐賀・長崎・福岡・大分・山口・島根に向かうルートと、
宮崎・四国を経て・和歌山に流れるルートがありますので、東征神話のもっとも古い記憶は、ごくごく初期の米の伝播のルートの記憶との関連(または交易)も、関係あるのかもしれないと考えています。

畿内は、三和山の信仰からもわかるように、蛇神系統ですね。ひとつの可能性としては、邪馬台国・越・畿内は蛇神信仰の共通性があり、出雲・伊勢には鳥神信仰があり、壬申の乱で勝利した天武が
本来の蛇神信仰から鳥神信仰に信仰を塗り替えた可能性を、感じています。
エジプトのアメン信仰とアテン信仰の対立と交替みたいな感じで。
11616歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:49:43
長くなるのでこのへんで。
このように僕の説など詳しい人からみれば
吹けば飛ぶような浅はかなレベルのものだったようです。
まさに井の中の蛙とはボクノコトですねw
117プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 22:17:18
ヒッキー君
長文ご苦労さん。

でも、これって勉強すれば解る事だろう。
私の感想として
最後のヒッキー君の自説の方が興味持てたね
118プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 22:45:55
>>111
ヒッキー君
>中国の歴史書から日本の記事が消える

確かに「後漢書東夷倭」に桓霊間倭国大乱
と言う記事が見られるが
しかし、記録が消えたのは安帝永初元年(107)以降だよ、決して黄巾の乱で不安定になった為では無い。帝紀では
安帝永初元年(107)〜景初三年(239)の、実に約120年間記録がないんだ
119日本@名無史さん:2005/10/09(日) 00:34:16
>>115 安田喜憲氏の『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に
近いことが書いてあったけど、なかなか面白い本だったよ
実際、呉人や越人の習俗と魏志にある倭人の習俗がそっくりだったりする。
(入れ墨とかね)
ひょっとしたらヒッキー君はもう既に読んでるかもしれないけど。
12016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:23:41
>プラムさん
>>7に対するご質問は一応書いておいたはずですが、
まあかなり適当に書きましたけどw
12116歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:25:37
>>119
読んでないですよ。
とりあえず僕の知識量が不足しすぎてて
内容が浅いものになりすぎてました。
お恥ずかしいかぎりです。
122プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 08:38:24
ヒッキー君おはよう

そうですか!
それはありがとう。
もう一度レス読み返します。
12316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:49:52
格の違いを思い知らされました。
僕の言ってることなんてマジで
ガキのままごとレベルでした。
124日本@名無史さん:2005/10/09(日) 09:36:16
そう思っているならもう来るなよ。何時までもウジウジと
秋の長雨か
12516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 09:39:38
わかりました。もう来ません。
もっと本をよく読み大人になってからまたきます。
ではまた10年後にお会いしましょう。
126妄想中:2005/10/09(日) 10:37:24
ゆっくりやればいいのに、
127プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 12:11:51
確かにね!
ヒッキー君。
参加するもしないも、君の判断だから何も構わないけど
君の立てた数々のスレはどうするんだい。
君が居なくなったら、全てスレ主逃亡になっちゃうよ、どうせ退陣するなら
スレが終了してからでも遅くないだろ
それとも彼女でも出来たかな!
128安曇連浜子:2005/10/09(日) 12:19:03
>>127に禿胴。ここで逃げたらヒッキーさんのそこいらの本より
ずっと参考になる説が聞けなくなる!漏れはそうなって欲しくない!
129日本@名無しさん:2005/10/09(日) 12:23:29
まぁもう少し話(とスレ)を整理統合するべきかなと思う。
邪馬台国と宇佐(神宮)と神武と応神…話が広がりすぎだ。
130日本@名無しさん:2005/10/09(日) 12:29:42
あと、この時代は文献がないから考古学的立証が重要になる。
日本史中もっとも謎が多い時代だから、このへんの研究は
非常に熱心に行われ、近年では素晴らしい成果を上げている。
私は考古学を殆ど知らないので、お助けする事はできそうに
ないが、そこに立脚して論を再構築するべきではないかと思う。
13178:2005/10/09(日) 14:46:58
ひっきー くん 君がスレ主だと無用に荒れないのでいいね。
後半非常にいいよ。
天武朝の思想と、中国政権図を見ると、見えてくるんだよ。

天武朝の思想
1・ 永遠の漢民族が、万里の長城以北の漢化もできてない蛮族の鮮卑
   にとうとう滅ぼされてしまった。隋・唐 (後の世に漢化が進む)
   漢化が先進んだ漢帝系国家は百済亡き後、日本だけである。

2・ 大陸の漢帝亡き後、天武の祖先の栄光に曇りがあってはならない。
   唐が天皇なら日本も天皇である。
   天皇号に相応しい、曇りのない祖先である必要がある。

倭の五王(臣)として、漢帝に臣となった五王は、天武の直系にはいらない。
(だから、記紀では五王の記事は完全に無視なのだ)
応神からの直系孫、継体帝を祖先とするものこそが、天武 
真人(七色のかばね)である。 
(これこそが、記紀・宇佐の思想である)
したがって、記紀の継体帝以前の天皇は???が多いのだ。
継体帝が5代孫で何故皇位についたと記載されているのか。
それが事実云々はどうでもよく、
天武にとって重要なのは、応神なのである。 道教の真人、天皇号をつぐ格なのである





132日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:55:18
後半はコピペでしょ。
133日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:54:20
>>105-116

16歳中卒ヒッキー よ、ついに狂ったか?
なんだその意味不明の連投カキコは?
論点が見えてないぞ。


13426歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:12:39
おそらくコピペでしょう
135日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:18:58
コピペにしてもデンパ満開で読むのに疲れたぞ。
136日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:06:56
あげ
137日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:29:15
邪馬台国・・やまた・・宇治山田
  
文字類とみられる主な遺物
2世紀中期 大城遺跡(三重県安濃町) 「奉」の刻書土器
2世紀後半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器
3世紀前半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 人面墨書土器
3世紀後半 三雲遺跡(福岡県前原市) 「竟(鏡)」の刻書土器
3世紀後半 根塚遺跡(長野県木島平村) 「大」の刻書土器
4世紀初頭 柳町遺跡(熊本県玉名市) 「田」のよろいの留め具
4世紀前半 片部遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器
5世紀中期 稲荷台1号墳(千葉県市原市) 「王賜」などの鉄剣
5世紀後半 稲荷山古墳(埼玉県行田市) 「辛亥年」などの鉄剣
138プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 21:35:19
ヒッキー君のスレが淋しそうだから カキコ
「播磨国風土記賀古郡」
昔、大帯日子命、印南のわきいらつめをつまどひたまひし時、みはかしの八咫の剣の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡を繋けて、賀毛の郡の山直等が始祖息長命一の名は伊志治をなかだちとしてつまどひ
下り行でましし時、摂津の国高瀬の済に到りまして
この河を渡らむと請欲はしたまいき… (疲れた)

これは、鏡・剣・玉を使用した《妻訪》ですね
139プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:02:50
この風土記には、元ネタが有りまして、
日本書紀景行十二年九月条に

ここに女人有り
神夏磯媛と日ふ。其の徒衆にへきなり。一国の魁帥なり。天皇の使者の至ることをききて、則ち磯津山の賢木を抜りて、上枝には八握劍をかけ、中枝には八咫鏡をかけ、下枝には八咫には八尺瓊をかけ、亦た素幡を船のへに樹てて参向て啓して日さく…

この文と、先ほどの風土記はほぼ引用ととれるが
主体が異なっている所が、興味深い。
風土記は、《天皇の妻訪い》
日本書紀は、《神夏磯媛の服属儀礼》になっている
140プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:24:59
三種宝物を服属儀礼に使用している文が
「筑紫国風土記 逸文 怡土郡条」にみえる

昔者、穴門の豊浦の宮………(めんどくさいので中略)……て、穴門の引嶋に参迎へて獻りき…
この文は、足仲彦の熊襲遠征の一文で
五十跡手の服属儀礼であるここでの 剣・鏡・玉は、天皇に献上という形をとっている
141プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:32:00
これら、場所の違った(三種宝物)を使った服属儀礼の意味するところは
服属儀礼が出雲等の特殊地域に限らず、一般的な形態として行われていたことを示す
文としてとらえてもよいのではないか!
142安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/13(日) 16:18:17
足仲彦の実在性についての議論はなっしんぐですか?
143日本@名無史さん:2005/11/13(日) 21:19:31
>>142安曇さん
>「足仲彦」の実在性云々の証明

勿論なっしんぐです。
144安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/23(水) 09:29:56
>>143
なぜ?自分は足仲彦はいなかったと思っています。

そもそも彼は「新羅征討」の前に、「神のお告げを信じなかった」という理由
で死んでいますよね?これはあきらかに、神功皇后を目立たせる演出じゃない
でしょうか?
145プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/24(木) 18:31:11
安曇さん
あそこで、足仲彦の実在性云々を議論した所で意味をなさないからです。
『三種の宝物』の使われ方をあげているから
足仲彦であろうが小泉純一郎であろうとかまわないのです。

有名な『ボロロ〜ン殺人事件』ですね
いろいろな推理が考えられますが 真相は?
146日本@名無史さん:2005/12/02(金) 15:51:35
147日本@名無史さん:2005/12/02(金) 20:16:20
む?
148日本@名無史さん:2005/12/04(日) 17:57:39
あげ
149日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:54:28
age
150ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :2005/12/14(水) 20:57:19 BE:281652487-##
     //
   _//
/ ||_ノ          __________________
\/// ̄\      /
 |> <_> \     | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。
 く\___|    <
 |∇     \   | 明日宮内庁を爆破する。
  \__/       \
    |≧||≦ ̄|       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜
天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので
あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景
には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差
が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、
天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。
さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう
ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民
はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消
し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。
世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的
意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー
そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。
151日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:24:13
確かに、沖縄が戦争で大きな被害を受け、現代でも巨大な基地があることには同情はするが、既に戦後60年、いつまで沖縄に
優遇的措置をとらなければならないのか。
いつまでも、かような要求を出しつづけるのは、戦争を利用したタカリとしかみることができない。
最大規模の図書館建設反対。
152日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:53:08
>>150書いた人、>>151を見たかな?
153日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:59:41
>>152
>>150はマルチポストの犯人だから、見るはずが無い。
154世界@名無史さん:2006/01/10(火) 13:46:49
邪馬台国の支配領域が知りたい!
155日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:55:04
重複に付き、移動願います。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1120663124/l50
156日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:16:18
おいら、大和朝廷って習ったが、
一時、大和政権などという言い方があったそうな。
いつごろの話だ。
157日本@名無史さん:2006/01/27(金) 18:06:44
重複に付き、移動願います。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1120663124/l50
158日本@名無史さん:2006/02/18(土) 12:18:57
age
159日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:45:32

★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
16016歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 11:07:34
昔の自分は若かったな。
161日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:03:13
横から失礼します。ビッグニュースです。
倭国の都の宮殿跡?が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が発見されました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが推定されます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣の3種の神器、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。

参考HP 中段お知らせのトップ

http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html


162日本@名無史さん
なんだよ「もう一つの」って。邪馬台国が二つも三つもあるかっつのw