戦国最強の武将は?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
スレタイそのまんま
2日本@名無史さん:05/01/10 22:12:07
秩父困民党
3日本@名無史さん:05/01/10 22:16:01
金日正
4日本@名無史さん:05/01/10 22:17:06
コンデ・コマ
5日本@名無史さん:05/01/10 22:19:29
マスード司令官
6日本@名無史さん:05/01/12 16:58:01
>>3
誰それ?
7日本@名無史さん:05/01/14 00:28:51
8日本@名無史さん:05/01/23 11:59:24
今川義元
9日本@名無史さん:05/01/23 12:16:29
バカボンのパパ
10日本@名無史さん:05/01/23 19:35:32
別に板違いでもないと思うが
11日本@名無史さん:05/01/23 23:57:44
日吉ミミ
12日本@名無史さん:05/01/24 00:08:20
槍師槍師は多けれど、名古屋さんざは一の槍

名 古 屋 山 三 郎
13長尾:05/02/16 23:34:09
長尾景虎
14日本@名無史さん:05/02/16 23:36:56
石倉三郎説浮上
15日本@名無史さん:05/02/16 23:38:09
島津維新
16日本@名無史さん:05/02/17 00:58:49
ふつうに宮本武蔵じゃないのか?
17日本@名無史さん:05/02/17 00:59:56
松永弾正
18日本@名無史さん:05/02/17 02:15:35
松永団長
19日本@名無史さん:05/02/17 05:29:22
荒木村重、これ最強。
20日本@名無史さん:05/02/17 11:19:04
信玄だったら信長を倒せた?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108262931/l50
21日本@名無史さん:05/02/20 01:05:43
>16
武将じゃないじゃん
22日本@名無史さん:05/02/27 01:03:51
軍師としてだが、あの時代最強は…竹中半兵衛じゃないかな?と思うのだが
23日本@名無史さん:05/02/27 01:21:36
負けた事がない武将なら、本多平八郎忠勝


蜻蛉きりの槍をかざして、馬上にいる忠勝は、最強の戦士だよ。
24日本@名無史さん:05/02/28 16:10:29
武田信玄、上杉謙信、黒田義孝
25日本@名無史さん:05/02/28 22:58:19
武田信長
26日本@名無史さん:05/02/28 23:01:03
上杉信玄
27日本@名無史さん:05/02/28 23:11:01
島津家久 
28日本@名無史さん:05/03/01 02:14:50
>>25
みんな知ってると思うがこいつは実在。
しかし完全に名前負け。
29日本@名無史さん:05/03/01 07:58:50
楽毅
30日本@名無史さん:05/03/01 09:41:05
武田勝頼
31日本@名無史さん:05/03/01 11:35:31
毛利秀元
32日本@名無史さん:05/03/01 21:06:38
立花道雪
33日本@名無史さん:05/03/02 02:48:14
韓信
34日本@名無史さん:05/03/02 03:00:12
>>23
家康に過ぎたるものが・・・の忠勝は勇者だし、武将というスレタイからして
大名でなくてもいいのだろうけど、三方が原は、家康の負けと解釈して、含まないってこと?
35日本@名無史さん:05/03/02 05:58:46
利休、千利休
36日本@名無史さん:05/03/02 06:29:46
どう考えても武田信玄
37日本@名無史さん:05/03/02 06:35:46
武田信長
38中国人:05/03/02 06:37:15
信玄なら中国人知ってるアル
39日本@名無史さん:05/03/02 07:50:58
甲斐姫だな
40日本@名無史さん:05/03/02 09:50:59
武田信忠
41日本@名無史さん :05/03/04 04:49:21
第1回私が選ぶ戦国最強武将
優秀賞
織田信長 羽柴秀吉 武田信玄 毛利元就 立花道雪 島津家久

殊勲賞  島津家久
技能賞  羽柴秀吉
敢闘賞  立花道雪

最優秀賞 毛利元就

続きましてメルヘン賞の授賞式
優秀賞
前田慶次 真田幸村と十勇士 上杉謙信 水戸黄門 里見八犬伝

最優秀メルヘン賞 水戸黄門(徳川光圀)
42日本@名無史さん:05/03/07 23:34:58
新納忠元
43神風生き残り:05/03/07 23:59:27
大谷義継
44日本@名無史さん:05/03/08 00:21:13
黒田官兵衛!
45日本@名無史さん:05/03/08 00:30:18
可児・・・
46日本@名無史さん:05/03/08 00:34:51
ホリエモン
47犬山道雪:05/03/08 01:13:04
立花道雪ってキミねえ・・

ゲーム的発想でしょ。(確かに強い)
48日本@名無史さん:05/03/08 11:33:18
どう考えても毛利元就に決まってると思うが・・・
49日本@名無史さん:05/03/08 14:11:51
兵力が全く同じで、
場所は平野、山岳地、攻城戦、海上戦、退却戦の5種をホームアンドアウェイ方式で完全に行ったら?

何故か名前の挙がらない秀吉だな。
50大谷義継:05/03/08 22:51:58
平野戦→武田信玄。山岳戦→織田信長。攻城戦→豊臣秀吉。海上戦→毛利元就。
退却戦→島津義弘
51謎の男:05/03/08 23:12:50
上杉謙信はどうでしょう。
52日本@名無史さん:05/03/08 23:20:50
女だから強いよ
53日本@名無史さん:05/03/08 23:49:11
前田慶次とか書くと、やっぱりバカにされるんでしょうか?
5441:05/03/09 00:17:43
>>47
戸次鑑連って言えばゲーム的じゃ無くなるのだろうか?
しかし、突っ込む処はそこじゃないぞ。
メルヘン賞に入れた上杉謙信を突っ込んでくれないと(藁
虎千代・長尾景虎・長尾政虎・上杉政虎・上杉輝虎・上杉謙信
元服後にこれだけ名を変える有名人も居ないだろう。
しかも死ぬ直前に変えた謙信が通り名として定着してるし。
55日本@名無史さん:05/03/09 00:25:25
ギン千代タソ
56日本@名無史さん:05/03/09 00:27:18
元就が最強と言ってる馬鹿がいるが…釣り野伏ですよね?w
57日本@名無史さん:05/03/09 00:33:59
元就最強だと思ってる一人だが。
貴方は誰が最強だと思ってるのかな?
58日本@名無史さん:05/03/09 00:40:04
>>57

JR最強の埼京線
59日本@名無史さん:05/03/09 00:48:17
山県昌景
60日本@名無史さん:05/03/09 21:59:06
>>49
これを全て経験してる有名所の戦国大名と成ると毛利元就になっちゃうんだよな
しかも劣勢な勢力で全てにおいて優秀な成績を収めてるね。
61日本@名無史さん :05/03/09 22:04:11
道雪の輿を担ぐのが夢だ
62日本@名無史さん:05/03/09 22:05:45
大友にボコられてたけどな
63武田信玄:05/03/09 22:07:08
武田信玄
64日本@名無史さん:05/03/09 23:11:32
ホリエモン
65日本@名無史さん:05/03/09 23:17:13
上杉関東菅領謙信。
66日本@名無史さん:05/03/09 23:17:50
武田信玄晴信
67日本@名無史さん:05/03/09 23:26:38
最上義光
68日本@名無史さん:05/03/10 01:54:17
>>60
忍原崩れを知らんのか?
69日本@名無史さん:05/03/10 02:04:33
毛利元就って相手に勝てないと判ったら
まず相手と和睦し相手方の主要人物を毒をもって殺害
そして再度攻撃が得意パターンじゃないの?
70日本@名無史さん:05/03/10 06:00:21
毒つうたら宇喜多直家だが。
71日本@名無史さん:05/03/10 22:07:07
そうそう元就は暗殺も得意なんだよね。戦国時代と言っても一代で小が大を飲み
込むような事はそう無いね。下克上の代名詞、桶狭間の戦いにしたって当時の今
川と織田は意外と拮抗してる。絶望的な兵力差が在るように伝わってるのは「信
長公記」の影響だが、経済的に考えれば当時の伊勢湾は津島湊や桑名湊を抱え日
本有数の経済地域でしかも米所で石高にして55万石以上の収益が見こめる。対す
る今川も駿河や金山を抱え経済的には豊では在るが石高を考えれば、実質支配地
域は織田より下であった。実際、松平党が抜けた後の今川では到底、織田には太
刀打ちできてない。
72日本@名無史さん:05/03/10 22:32:41
元就は策謀家としてのイメージが強いのは歳を取ってから大名クラスになったた
め元就系の出版物が極端に戦闘シーンが少ないのに機縁してるとも思う。

実際の元就は現場主義で>>62さんの言われるような場面の時も70を越し病状の中
前線に向けて九州入りを果し、息子たちにも武略のみを頼めと言っている。
>>68の忍原崩れが毛利家の最大の敗北として有名だが、当時の毛利家の規模から
考えれば死者4〜500人の犠牲は他の戦国大名の敗北を考えても少ない。

もっとも元就がそれまで経験した事の無い敗北であり、老齢でも在った為可也狼
狽したようだ。敵が去った後にも係らず元春を連れ自ら現地に急行した。
73日本@名無史さん:05/03/10 23:58:24
1位 毛利元就 戦国トップクラスの2大勢力に挟まれながらも中国の覇者になった実力は最強としかいいようがない。
2位 尼子経久 一家臣から中国11カ国の太守まで上り詰めた最強クラスの名将。
3位 織田信長 スタート地点が上の二人より有利なんでこんぐらい。
4位 黒田官兵衛 秀吉の中国地方攻略から北条降伏まで常に活躍。織田勢が来る前に毛利の大軍を破ったり戦術も最強クラス。
5位 島津義弘and家久 野戦は戦国最強だろう。決戦に強いため進軍速度が速い。木崎原の戦いから15年たらずで九州のほとんどを制覇。
74日本@名無史さん:05/03/10 23:59:45
『武将』クラスだから、少なくても良いんだろうけど
一騎打ちの様相がなくなる程度の兵力は欲しいから、
1000〜2000程度の兵力とお考え下さい。

それで>>49の設定で戦えば、大名の名前で上がるのは上杉謙信ぐらいでしょう。
75日本@名無史さん:05/03/11 00:14:15
上杉謙信なんて雑魚にしか勝ってないじゃん。
少数で大軍を破ったとかそういうのないと最強とは言えない。
76日本@名無史さん:05/03/11 00:43:51
まず少数で大勢を破らないといけない状況にはならないようにするのが最善なんだけどね
77日本@名無史さん:05/03/11 00:53:51
最強って、なんなんだろうな・・・・
78日本@名無史さん:05/03/11 00:57:25
少数で大軍破ればそりゃすご〜いって思うかもな
でも戦った当の本人たちは結構ひやひやもんだったと思うがな
実際少数で大軍破った奴らも十分な兵力あるならばちゃんと動員してたと思うが
やむにやまれずだろ
少数で破ったから最強だなどと・・・もろ厨な発想
まぁいまさらだが
79日本@名無史さん:05/03/11 01:18:35
>>49
これを全て満たすなんて拠点の違いもあるし無理。武田などは巨大な水軍力を
得たが使わずに終わってる感が在る。
個々の戦いで私が思う凄い武将は、
平野戦→島津家久、毛利勝永 山岳戦→甲斐宗運 攻城戦→羽柴秀吉、高橋紹運
海上戦→九鬼嘉隆、村上武吉 撤退戦→島津義弘
って感じかな。まあ、高橋、毛利は最強って言うよりその凄さから入れた。
80日本@名無史さん:05/03/11 01:47:53
>>78
元々厨房スレですよ愚痴っちゃダメ、無双厨や肥厨にこそ捧げたいスレなんだよ。
このスレの主要目的は東高西低の現状打破でしょう。ぶっちゃけ謙信、信玄が
ビックネーム過ぎるのが問題。一般人なんてのは九州、中四国の戦国史なんて
興味無いし知らないよ。室町〜戦国時代初期の主役地域なのに知名度低すぎ。
戦国中期〜後期に掛けてだって十分激戦地域ってとこも併せて宣伝しなきゃ。
81名無しさん:05/03/11 01:57:51
ゲーム上で設定されてる武力を見る限り、いつも上杉謙信が最強だぞ。
82日本@名無史さん:05/03/11 02:33:59
ゲームとか小説の話じゃなく現実の話なら、武田信玄が最強だろう。

天下をとった家康が信玄の家臣を重用したということからそれはわかる。
家康が自分の地位を安定させるには、他国に睨みを利かせなければならないが、
それができるのは信玄の家臣だったのだろう。
信玄の軍の強さが他国の武将たちに知れわたっていたという証拠だ。
83日本@名無史さん:05/03/11 03:29:56
>>77にバカボンドがいます。
84日本@名無史さん:05/03/11 03:35:56
家康評価低いなぁ
85日本@名無史さん:05/03/11 03:41:03
>>82
武田信玄は超有能な家臣とそれを使いこなした信玄がいてこその『最強』
信玄が『最強の武将』では無い。

それよりも東北、誰一人いないんだけど、
九戸は?夜叉九郎は?小十郎は?
86日本@名無史さん:05/03/11 03:48:48
愛知県民は天下取ったんだから此れ以上の贅沢禁止。
よその県民にも夢想するんだから一人勝ちは無双厨が許しません!
87日本@名無史さん:05/03/11 03:55:19
地味ながら、北条氏康なんか挙がっても良さそうだけどな。
関八州を制覇。信玄・謙信とも交戦経験あり、負けてない。
>>75あたりが喜びそうな「少数で大軍を破ったとかそういうの」も
戦国三大奇襲戦のひとつ・川越夜戦(8千対8万)でクリア。
毛利元就や尼子経久を挙げてる人がいるが、少なくともそのへんには匹敵すると思うよ。
88日本@名無史さん:05/03/11 04:14:29
>武田信玄は超有能な家臣とそれを使いこなした信玄がいてこその『最強』

逆に普通に考えて、超有能な家臣とそれを使いこなしたって時点で
信玄が最強なんじゃ。
89日本@名無史さん:05/03/11 04:15:15
東北といえば秋田実季の湊合戦がすげえよな。
ありえんだろうって言う人数と年齢が凄い。
90 :05/03/11 04:17:53
たしかに少数で大軍を破ったとかというより
有能な家臣を使いこなしたかが最強の武将の評価基準だな。
91日本@名無史さん:05/03/11 04:54:14
>>90
そりゃまあそうだよガッツ石松に素手で勝てる戦国大名なんて居るとも思えん。
だからってガッツが最強じゃあ可笑しいしな。

有名な武将も個人じゃ意外と貧素。政宗、謙信、家康、秀吉の身長は155前後だ
し山県昌景に至っては今で言うとこの小人症であろう。(当時でも小人扱い)
信玄も早い時期に結核に成ってたという説があるくらい病弱だ。
しかし1000人を動かしたなら、ガッツが1000人居ても勝つであろう。
92日本@名無史さん:05/03/11 06:52:22
たった一度ならともかく何度も劣勢をはねかえしたのなら、有能な家臣を使いこなしたといえるのでは?
93日本@名無史さん:05/03/11 10:50:40
最後には何とかまとめたんだから家康だと思うんだけどなぁ
9485:05/03/11 11:23:29
いや、俺が言いたいのは高祖と韓信の故事で、
最強の武将は韓信(項羽除くね)は兵の長で、高祖は武将の長。
信玄もそういう位置だと思うわけさ。
信玄が馬場とか山県と同じ兵力の騎馬隊で戦ったら、
信玄は勝てないと思うのよ。 信玄は武将の上に立つ大名という考えです。

95日本@名無史さん:05/03/11 12:38:10
戦も上手いだろ
主だった戦をほとんど陣頭指揮してる。
96日本@名無史さん:05/03/11 14:40:45
>最後には何とかまとめたんだから家康だと思うんだけどなぁ

家康はこのまま戦い続けたら秀吉に殺されると思い知って臣従した
秀吉>家康は周知のところ
義元>家康、信玄>家康、家康>秀頼、家康>三成、まぁこんな感じ
97日本@名無史さん:05/03/11 15:06:00
家康の場合は、まずは生き残って力を貯えてたら、
他の強豪が消耗しあって死んでいなくなったという感じだからな。
98日本@名無史さん:05/03/11 18:23:48
秀吉>家康だったのは単に国力が違ったからでしょ。兵力の違いが強さの違いだったわけで。
戦の巧さ=強さならば、家康≧秀吉じゃない?
99日本@名無史さん:05/03/11 19:18:53
・・・・あのねぇ
この二人はガチで戦ってんのよ?
武士たちが御家と命をかけるに値すると思える人物かどうかで動員数も変わる
もちろん強いと思うほうに加勢するわな
二人が生きてた当時の評価は圧倒的に、秀吉>家康
江戸時代に家康が神格化され家康>秀吉とされる
秀吉の国力が大きいのはそれだけ多くの敵を家康以上に薙ぎ倒してきたから
本能寺当時の国力差なら秀吉のほうが不利かつ不安定なんじゃないか




100 :05/03/11 19:50:13
よく言われているのが武田信玄は戦略家。上杉謙信は戦術家。
戦の舞台を設定するのは信玄が上手い。
実際に兵を動かして戦う用兵は謙信が上手い。

ここでの最強武将の定義は戦術の最強武将なの?
戦略も含めたもの?
それとも個人の武力?

まずはそこから決めないと。
101日本@名無史さん:05/03/11 20:11:32
まあ多い意見から推察するに多分戦術かと
102日本@名無史さん:05/03/11 20:28:20
戦術のみで語るならやっぱ家康≧秀吉でもいいわけでしょ?小牧の直接対決を見れば。
で、戦略も含めた大名としての総合力なら秀吉>家康ってことで。
103日本@名無史さん :05/03/11 20:39:35
今日も着ました厨房スレ、全国の無双厨に捧げる愛の厨房レス!

>>87
「河越夜戦」遂に出ましたね…これが本当なら氏康最強でも良いよと思えるくら
い凄い。っていうか凄すぎる敵の名だたる武将をばったばったと討ち取り最後に
は大将首まで討ち取ってしまう物語。しかし、此れは飽くまで物語レベルですか
ら残念。まともな歴史家は避けて通る鬼門ですよ。

まあ、それでも氏康は名将で在る事は変わり無い。民政家としては戦国一とも言
え無くも無い。長氏、氏綱、氏康の3代のうちなら氏綱が最も戦闘に主体を置い
ていた様に思える。
104日本@名無史さん:05/03/11 20:42:52
>>102が小牧・長久手においての両軍の戦術上の巧拙について解説してくれるそうです
105100:05/03/11 21:49:07
>>101
なるほど。
つまり戦術とそれを実行する用兵術がNO1の武将を決めるのね。
106日本@名無史さん:05/03/11 21:58:26
自演乙
107日本@名無史さん:05/03/11 22:18:35
>上杉謙信は戦術家
こういう奴ってゲーム厨だよな。
108日本@名無史さん:05/03/11 23:52:11
>>107
謙信について君が調べた資料名を3つ以上あげてみて下さい
109日本@名無史さん :05/03/12 19:22:03
俺の謙信推薦図書。
山田風太郎著『室町お伽草紙』、池波正太郎著『蝶の戦記』、南条範夫著『上杉
謙信』萌え系3部作に加え八切止夫著『上杉謙信は女だった』がお薦め。一般的
には吉川本と海音寺潮五郎著『天と地と』だろうか?
>>108資料レベルと成ると『北越軍記』でも読まないと逝けないのだろうか…
まあ、俺は>>107じゃないから関係無いね!
110109:05/03/12 19:36:40
まあ、おちゃらけて悪かったが>>107の言ってる事も解る。
肥厨に言わせれば謙信は無敗で野戦では無敵。領土的野心が無いから拡張
路線を取らなかった。戦術家としては当代随一の名将!って床ですか…

でも、実際の謙信はどうだろうか?野戦に措いては殆ど実績らしいものを
残せずむしろ苦戦し、他国に攻め入っては失敗を連続。後半でようやく北
陸地方に活路を見出して成功を収めたって感じじゃない?
111日本@名無史さん:05/03/12 20:03:01
ですね〜野戦は少なく攻城戦が多い
あと無敗って言う人たまにみかけるけど
生野山の戦いと臼井城の戦いは負けてますね(まぁかなり戦やってること考えるとすごいけど)
一番の理由は数ある彼の指揮した戦で大敗がないってことと
そして川中島で武田と五分でしかも名のある武将討ってること
引き分けた武田が三方ヶ原で徳川・織田を破ってることや
手取川で柴田勝家率いる織田軍破ってること
などを総合してそういうイメージができちゃってる
まぁ川中島もほんとにあのような大激突あったのかとか
三方ヶ原も徳川・織田はもともと武田の兵站立つのが目的で決戦ではなかったとか
手取川なんかは存在そのものがあやしいのですが
遠征能力は結構すごいものあるとは思うんだけどね・・・
112日本@名無史さん:05/03/12 20:24:36
悪運の強い家康が最強
113日本@名無史さん:05/03/12 20:29:57
109さんへ。
上杉謙信は女だったって言う書物の内容教えていただけますか??読んで見たいと思ったんで。
114109:05/03/12 20:50:37
>>113
薦めといて悪いのだがそんな本は実際に読んでない、ごめんね。

まあ、想像するに長尾俊景との戦いに措いて金玉を討ちぬかれて女の子になっ
ちゃったというストーリーを妄想する(藁
115日本@名無史さん:05/03/13 04:46:47
謙信と鬼小島がぬきさしならぬ関係になる話だよ
116日本@名無史さん:05/03/13 05:09:04
北条の動きを見ると面白い。

信玄が今川を攻めると「娘に恥を掻せやがって許せん」とばかりに美少年の誉れ
高い武田氏秀(氏康の子、後の景虎)を引き戻し武田との同盟破棄。上杉と越相
同盟を結び武田と対立するも連敗街道まっしぐら。遣り合うなら上杉の方が遣り
やすいとこの同盟は2年で解消された。

此れから考えるに、武田・北条>上杉 武田>北条・上杉って感じ。
117日本@名無史さん :05/03/13 05:51:58
戦国最強は。
ずばり!!前田慶次郎利益であろう
118日本@名無史さん:05/03/13 07:19:19
>>109
マラタトウはお勧めか?あれでいいのか?
119日本@名無史さん:05/03/13 07:39:39
立花宗茂
120日本@名無史さん:05/03/14 13:34:55
信長でしょ
でも戦いに強いだけで天下人の器じゃなかった
政治家としての能力は別の問題
121日本@名無史さん:05/03/14 23:51:33
最強、最強…最強、最強・最強、最強?

少し話を戻して源平合戦時代に最強は?平清盛?平重盛?木曾義仲?源義経?
源頼朝?北条政子?まあ、何故に源平合戦かというと戦国時代よりイメージで
選びやすいから。こうなると義仲か義経に票が集まる。

でもこの2人とも戦死してる。ということは頼朝最強?いや権勢の上じゃあ清盛
の方が圧倒してるじゃあ清盛最強?何か変だ…やっぱり義経最強で良いよね?

えっ?『二人の義経』??山本義経!?なんですかそれ?悩みは続く…
122日本@名無史さん:05/03/15 01:53:44
マムシだ!
123日本@名無史さん:05/03/15 04:43:31
平景清。
ソース「源平討魔伝」
124日本@名無史さん:05/03/15 06:01:45
>>132
伊藤(藤原)景清
125日本@名無史さん:05/03/16 12:31:28
信長なんて負けまくり。
一揆に明らかに負けた奴なんて、最強の武士ではない。
126日本@名無史さん:05/03/17 00:45:10
>>125
上杉謙信
127日本@名無史さん:05/03/17 03:17:13
>>126
謙信は苦戦。
撤退戦はしていない。
128日本@名無史さん:05/03/17 03:21:30
小大名では

立花宗茂
真田昌幸&幸村親子



129日本@名無史さん:05/03/17 17:37:01
>>111
>まぁ川中島もほんとにあのような大激突あったのかとか

川中島のあのような大激突を再現するには
20kgの鎧を着た兵士が40kmをオリンピック選手並の
速さで走らないといけないらしいね。(地形的に)
でも、昔の人はきっとそれぐらい楽勝だったんだよ。
130日本@名無史さん:05/03/18 00:30:45
>>129
秀吉の一万五千の軍勢は、大垣〜木之本間を五時間で移動したから
別に不可能な話ではないだろう。
131日本@名無史さん:05/03/18 01:54:59
まあ可能か不可能かは別としても被害率が無茶苦茶過ぎる。
野戦で死傷率8割とかでしょ?此れが本当なら信玄、謙信ともに名将の称号剥奪
もんだよ。
132日本@名無史さん:05/03/18 02:54:58
>>131
お互いが退路上に陣を構えたため、逃げるに逃げられなかったという面がある。
一般には5%の人が戦死するようなら撤退、10%が死ねば陣はむちゃくちゃ(三方が原の家康とか)が普通なのに、
40%の人が戦死したのに、陣を崩さず信玄を守りきった甲州軍団はすげーと思う。
133日本@名無史さん:05/03/18 03:11:06
朝倉ソウテキでしょ
確か5000で10万の兵破ったんだっけ
多少誇張があるにせよ
生涯無敗だったことは確か
134日本@名無史さん:05/03/18 03:25:53
>>127

「御陣乗太鼓」ってのも有るんだよな・・・まあ所詮、郷土史レベルだけどね。

ところでねぇもうそろそろ元就最強で手を打とう。ぶっちゃけすげーてば元就。
元就知ったら信玄、謙信なんて候補に出せなくなってくるよ。

135日本@名無史さん:05/03/18 03:29:59
信玄は結構負けているぞ
最初は村上義清にボコボコ
謙信や氏康相手にはそこそこ頑張ったが
長野に勝てなかったし
136名無しの古参 ◆VpKHzOu04Y :05/03/18 03:39:47 ID:??? BE:40338353-
シズガタケで戦ったひとは最強
137日本@名無史さん:05/03/18 04:53:30
真田幸村が最強だよ!!!!
だって大阪夏の陣で幸村が徳川本陣へ突っ込んで大暴れしてたら
家康が幸村のことを「日の本一の兵なり」って言ってたもん!!!!
138日本@名無史さん:05/03/18 08:05:44
>>136
福島正則のことか?

>>137
別人の台詞
139日本@名無史さん:05/03/18 08:54:15
石田三成
140日本@名無史さん:05/03/18 12:14:38
>>137
そりゃ島津家久(義弘の子の家久)が日記に書いてたとか云う奴だろ?
でもさちょい過大評価ってのもあるんだよね。
>>79にでてる毛利勝永でも調べてみるのをお勧めしとく。
141日本@名無史さん:05/03/18 17:33:10
家久ではなくて島津の家臣が書いてただけ
142求道心:05/03/18 22:46:42
個人的には、非常にマイナーだが、秋田角館の戸澤盛安を挙げたい。初陣で敵の大将の首を取ったり、800VS5000(小野寺氏)に勝ったり、また、傷ついた敵兵に対しては、決して手を出さなかったり、厳と優を持ち合わせた名将だと思うが・・・
143求道心:05/03/18 22:47:35
(続き)確か、長男が早世したおかげで、当主となるが、長男の息子が元服するとさっさと隠居。小田原参陣のとき、秀吉に加増してやるといわれたが、断り、反秀吉勢力の掃討に戻るといったエピソードもあり、当時としては非常に稀有の存在。
144グーフィー:05/03/18 23:28:39
最強の定義がよくわからないけど、
戦での内容と結果をみて判断するなら

島津義弘でしょう。

幸村や宗茂は戦術はもちろん戦う姿勢が素晴らしい。
信玄や謙信も強いけど、義弘の方がオールラウンダーだと思う。
145日本@名無史さん:05/03/19 09:17:54
斉藤道三がでてこないのも不満じゃのう〜
146日本@名無史さん:05/03/19 10:09:52
鬼の立花道雪
147日本@名無史さん:05/03/19 19:59:10
>>145
出てるじゃないのw。美濃のマムシがさ!!!
>>122
148名無しの古参 ◆VpKHzOu04Y :05/03/20 00:31:44
斎藤道三と信長って
どんな結末だっけ?
149日本@名無史さん:05/03/20 10:00:12
>>148
どちらも非業の死だ、何故か?
150日本@名無史さん:05/03/20 12:55:04
やっぱり戦国最強といえば南部晴政だろう
151日本@名無史さん:05/03/20 13:09:22
>>150
そんなヤツ知らない。
152日本@名無史さん:05/03/20 15:51:35
>>151
http://www.max.hi-ho.n○.jp/asaka/index.html
153日本@名無史さん:05/03/20 18:44:55
馬場民部信房
154日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:56:21
馬鹿民部信房
155日本@名無史さん:2005/03/21(月) 19:03:30
高野長英
156日本@名無史さん:2005/03/22(火) 05:07:29
山中鹿之介
157日本@名無史さん:2005/03/22(火) 06:18:14
品川狼之介
158日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:36:43
今川義元は最後があれだけど、雪斎生きてる時代は間違いなく最強だっただろ?
信玄や氏康を黙らせ天下を獲る寸前で逝った最高に恰好いい男
159日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:40:29
たんそく野郎だもん
160日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:48:25
短足もまた良し
161日本@名無史さん:2005/03/22(火) 16:21:08
>>158
雪斎が優秀なだけかと、意見を聞く器量はあったにしても。
162日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:23:36
>>158
上洛を考えていたかどうかは疑問では?
163日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:38:07
>>161
はあ?そんな事言い出したら殆どの大名が同じだろ。
いいんだよ意見を聞く器量があれば。
164日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:45:34
その将に意見を聞く器量があって、更にその意見を纏め昇華させるから
戦にも勝てるんだと思うんだよ
義元の元には優秀な意見を言える香具師が雪斎しか居なかったのが悲劇
雪斎級の香具師が、あと一人でも居たらその後の状況もかわってただろうねえ
165義元:2005/03/23(水) 01:00:20
あっん、雪斎!?ぶっちゃけウザかったよ。
早く死んでくれと思ったことも結構あったね。
166日本@名無史さん:2005/03/23(水) 05:03:58
まぁ、そうするとその義元殿に圧倒的少数で勝った、
信長が最強になってしまうわけなんですけれども…
167日本@名無史さん:2005/03/23(水) 07:10:43
>>166
別にそれでも良いんじゃない?ぶっちゃけ信長が最強でも可笑しくは無いよ。
毛利元就が最高なら、最強は上杉でも武田でも島津でも織田でも構わないさ!
168日本@名無史さん:2005/03/23(水) 07:21:31
信長最狂 
元就最教 
信玄最恐 
謙信最驚 
義元最驕 
淀君最凶
169日本@名無史さん:2005/03/23(水) 10:57:42
>>166
雪斎が存命中の話だろ
170日本@名無史さん:2005/03/23(水) 11:37:17
秀吉が最強。
171日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:09:29
秀吉は家康に戦の戦術は敵わない
戦略は上回ったが
172日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:21:18
なら討ち取れ。
173日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:47:54
>>172
小牧長久手の話
174日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:50:28
臣従せず信長や元就みたいに討ち取れ。
175日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:18:35
>>174
秀吉が本気出したら数で負けるから、そりゃ無理だ
駄々をこねて強さを見せ付ける事に意味のあった戦だし
176日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:51:02
家康は勝てると思って仕掛けたんじゃ〜ないんかい。
177日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:58:38
>>176
思ってない
国力兵力が圧倒的に違う事を理解していた
その後の展開の為の戦に過ぎない
秀吉も本気で潰す気は無かった(マジになると自分も疲弊するからね
潰せたらいいな〜ぐらい
あの戦はヤオとまでは言わないが、お互い切り上げ時を見測りながらの戦
178日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:02:30
信雄を担いだんじゃないんかい。
179日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:04:31
>>178
そりゃ戦をする建前、有無も言わず喧嘩を売れば
ただのゴロツキだろう
180日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:09:37
長宗我部や佐々等を誘って反秀吉包囲網を作ろうとしたんじゃ〜ないんかい。
181日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:14:56
>>180
その中で真剣に秀吉を討とうと考えていたのは佐々成政だけだけどな
あとは、その後の秀吉政権で自分達をどれだけ重要なポジションに付かせるかしか
考えてない(要は、俺を怒らせると怖いぞと秀吉に思わせ軽く扱わせない為
182日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:42:53
レスどうも。
183日本@名無史さん:2005/03/23(水) 14:45:59
最初は勝つ気だったんじゃないの?
後ろには北条も控えているし、九州だってあるし、
毛利とは未だ同盟関係。
あの時点では天下はまだ定まっていないでしょ。
寧ろ家康のあの時の動きが天下の趨勢を決定したと思う。
184日本@名無史さん:2005/03/23(水) 15:35:23
>>183
勝つ気で行動したが勝てるとは思っていない、ってとこでしょ
最善を尽くせば負けは無い、あとは流れに任せる
そんな感じじゃないかと。
185日本@名無史さん:2005/03/23(水) 15:59:12
>>183
>あの時点では天下はまだ定まっていないでしょ。

ほとんど定まってる
家康が柴田勝家としっかりと手を結んでいれば分からなかったが
柴田滅亡後で既に天下は秀吉のもの(信長の地盤をそのまま継いだんだぞ
因みに、その時点で毛利は秀吉寄りです
(それに九州勢が当時攻め上がるのは現実的じゃ無い、周りが敵だらけだ
徳川北条の連合軍だけじゃあな・・・
そんな事は分かりきった上での、ただの秀吉と家康の意地の張り合いだよ、あの戦は
186日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:06:31
>>184
1行目は同意?う〜ん、勝てるとも思ってなかったと思うぞ
家康も分かってたよ、間違い無く
2行目は違うな
流れに身を任せるような行動じゃない>>181を読んでくれ
187日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:13:33
>>183
ごめん、最初は勝つ気ってのは秀吉の事をいってるのか?
それなら同意スマン
ん?後に北条?やはり家康の事?
188日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:26:41
秀吉が本気でキレる前に戦争止めた家康はヘタレ。
189日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:38:47
猿に対してプライドの高かった香具師はことごとく駆逐されたな。
プライドを捨てれる香具師だけが生き延びた。
元々猿よりも格下の利家みたいのは関係無いけど。
佐々とか格も武力も下の癖にプライドだけは一丁前の香具師は死んで当然。
190日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:39:38
秀吉が信雄と和睦したから家康は大義名分を失った。
家康がアホにしか見えん。
191日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:39:55
戦国時代の武将でMTGできそう。

赤ー武田
緑ー上杉
黒ー織田・徳川
白ー北条
青ー毛利
192日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:44:52
>>190
それ微妙に違う
戦を終了させる口実
家康も承認済み
193日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:47:53
なんだよ結局は猿と狸のプロレスってことかよw
194日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:49:36
包囲どころか家康孤立。
195日本@名無史さん:2005/03/23(水) 16:53:08
秀吉『なかなかやりますな!家康殿!』

家康『なんの!まだまだいけますぞ!』

秀吉『どうですか?世間に対し意地も見せましたしソロソロ』

家康『そうですな、この戦の負は信雄殿が請けおってくれましたし、わかり申した』

って感じなんだろうな。
196日本@名無史さん:2005/03/23(水) 17:19:50
>>195
違う気がする。
お互い隙あらばの腹づもりだけど手が出せず妥協、そんな感じだと思う。
197日本@名無史さん:2005/03/23(水) 17:35:29
>>196
だな
198 ◆GUNBOYdbqE :2005/03/24(木) 18:11:19 ID:??? BE:61495564-#
赤い鎧の集団はよく考えると最強かも。
信長と同じような考えじゃない?
199日本@名無史さん:2005/03/24(木) 21:29:28
>>198
真田?
200日本@名無史さん:2005/03/25(金) 04:20:42
違うよ、おぶだろ。
201日本@名無史さん:2005/03/25(金) 08:13:07
明神様 一豊公だろ。
たいした武功もなく
家康の前でのええかっこしいのセリフ一つで土佐ゲット。
最強のコストパフォーマンスじゃないか。」
202日本@名無史さん:2005/03/25(金) 10:36:22
井伊の赤備はパクリだしな
203日本@名無史さん:2005/03/25(金) 11:24:32
島津だろ
204日本@名無史さん:2005/03/25(金) 11:37:37
君原右馬允吉方
205日本@名無史さん:2005/03/25(金) 17:29:44
北条早雲
206日本@名無史さん:2005/03/25(金) 17:31:13
斉藤道三とかも、かなり強いと思われ^^
207 ◆GUNBOYdbqE :2005/03/26(土) 00:13:17 ID:??? BE:102492285-#
足利尊氏
208日本@名無史さん:2005/04/06(水) 20:35:19
明国20万の大軍に圧勝した、島津義弘だな。
209日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:43:36
チャンコロに勝っても自慢にはならない
210日本@名無史さん:2005/04/19(火) 20:47:33
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1060085577/

921 :名無し三等兵 :05/03/18 10:47:54 ID:???
327 :名無し三等兵 :04/05/21 15:25 ID:???
>>319
>実際は宇喜多はじめ諸隊が逃げ送れた兵を襲ったり追撃を仕掛けたりしてる。
>にも関わらず敗残兵の掃討すらできなかったわけで、

そのソースは何よ?
根拠は?

855 :名無し三等兵 :05/01/13 17:02:12 ID:???
>碧蹄館の戦いの際にも先陣の予定だった
>立花勢をさし置いて、毛利と宇喜多が先陣争いをしたらしいし。

これが本当なら、2万の明軍を1万8千(小早川・立花)で破ったどころではない。
日本軍は総出動で迎え撃ったということではないか。
211日本@名無史さん:2005/04/20(水) 18:59:28
>>210
日本軍は五万
212日本@名無史さん:2005/04/25(月) 23:25:22
なんで伊達政宗がいないの?窪田の戦いで伊達600VS芦名佐竹4000で
勝利した上に領地までぶんどってるよ。その後も東北最大を誇っていた芦名
を潰しているし、小田原征伐が5年遅ければ、佐竹・北条への侵攻計画も
具体的にできていて実行しようとしていたわけだし。
213日本@名無史さん:2005/04/25(月) 23:26:34
>>212
スレタイ読め
214日本@名無史さん:2005/04/28(木) 00:40:51
>>212に禿堂
215日本@名無史さん:2005/04/28(木) 01:41:00 BE:182423579-#
李瞬臣
216日本@名無史さん:2005/04/28(木) 08:47:03
>>215
スレタイ読め
217日本@名無史さん:2005/04/28(木) 11:48:36
ジャイアント馬場
218日本@名無史さん:2005/05/09(月) 18:00:29
伊達はそんなつよくないなぁ
やつの本領はハッタリ(悪い意味でなく)
219日本@名無史さん:2005/05/11(水) 19:36:48
伊達という言葉は見かけ倒しという意味だろ。
220日本@名無史さん:2005/05/22(日) 04:39:24
長野業正たんに萌える日々。嗚呼、業正たん…。
221日本@名無史さん:2005/05/31(火) 10:16:34
「日本の副王」と呼ばれた「三好長慶」

信長の野望ではなぜか最初から版図が広い。

ま実際はそんなに強い武将ではないだろう。
222日本@名無史さん:2005/05/31(火) 11:00:33
上泉伊勢守
223日本@名無史さん:2005/05/31(火) 11:06:23
佐竹氏強いよ
何倍も勢力のある北条相手に負けてない
224日本@名無史さん:2005/06/11(土) 12:25:48
>222
そらそうだ
225日本@名無史さん:2005/06/13(月) 07:36:40
豊臣秀長。
226日本@名無史さん:2005/06/13(月) 11:42:58
検診は氏康よりはよわいのははっきりしてるけど
信長もしょっちゅうまけてるからそうとう弱い
227日本@名無史さん:2005/06/17(金) 07:13:51
信玄は弱いから確実に勝てる戦いしかしないので、結果的に勝率が高く
強いように誤解される。
228日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:28:30
義弘か宗茂以外考えられん。
229日本@名無史さん:2005/06/21(火) 21:42:41
>>228
地方予選敗退組
230日本@名無史さん:2005/06/25(土) 16:57:37

 つ 秀吉
231日本@名無史さん:2005/06/28(火) 11:23:01
陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。(死傷者2,00以上)
また、これより十数年前の、十五里原合戦(対最上)でもわずか3,000の兵で
1万を超える最上軍(当事は庄内地方も支配)を撃破、なんと死傷者は3,000以上という大勝であった。
これ以降、最上氏は庄内の支配を失った。
福島城の前の城代は水原親憲で、水原では心もとないというので本庄に城代を交代させたわけだが、
その水原親憲でも、大阪冬の陣では2万の大阪方に5000の上杉軍で迎撃し(鴫野の戦い)完全に撃破
しているので並みの武将ではない。
伊達は、景勝が後詰めにいくまでもなく、しっぽを巻いて逃げ出すくらいだから
全然強くないでしょう。
232日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:22:13
1よ、何を持って最強と言うのか?
233日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:15:20
確かに最強は秀吉だね。
光秀は信長を滅ぼし、一時的とはいえ、京童に天下さまと言われたくらいだから、
光秀>信長だし(下克上は当たり前)。それを倒した秀吉は秀吉>光秀。
家康は長久手などの一部戦線では勝利したものの全体的には押し込まれて
最終的には秀吉の家臣になったので秀吉>家康だ。島津は九州征伐で簡単に
降伏したので問題外。
234日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:32:50
実在するなら小島弥太郎貞興。じゃなかったらひょっとこさい。?
前田慶次のこと。真田幸村が武術において強かったかはかなり疑問dtおmwれ・・・
235日本@名無史さん:2005/07/02(土) 01:23:40
伊達って強いのか?奥羽を平定してないからさ・・
236小島弥太郎:2005/07/02(土) 23:11:42
morega
itibann
237日本@名無史さん:2005/07/03(日) 02:48:09
>>235
231のスレにあるように、伊達は弱い。というか、上杉が強すぎなのか?
最上や、伊達は上杉の一武将(本庄繁長)に、子供のようにあしらわれるレベル。
実際に、上杉家では、もしまた戦国の世が到来したら、弱い伊達を真っ先に
攻めろ、と言い伝えられていたほど。
まあ、関が原後に家臣のクビを殆ど切ることなく、100万石程度の戦力は維持
していたので、それは可能ではあった。
238日本@名無史さん:2005/07/06(水) 02:45:31
>234
武術だったら剣聖上泉とか疋田のほうが強いんじゃね?
一応武将として戦ったし。
239日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:15:02
戦国一強い武将とか議論してたら終わるわけないだろ
戦ってない武将同士を比べることができないのだから

たとえばだ、大阪冬・夏の陣に上杉謙信がいたとしても豊臣が勝つわけないだろ?
だから武将の戦闘力を支えてるのは、国力だってことを知れよ

あの武田軍だって馬の産地ということと、金塊を資金源にして精強な軍をつくったんだ

金塊や馬がなかったら武田は評価されてないよ
240日本@名無史さん:2005/07/12(火) 02:00:51
>>239
大体はそうだが、厳島合戦、桶狭間のように国力が違っても、戦に勝利し、
最終的には相手方を滅ぼすこともある。(河越夜戦もあった)
上の例で言えば、謙信が復活し、大阪夏の陣で謙信が野戦で家康を討ち取ってしまえば、
西国は豊臣恩顧の大名がほとんどでもあり、また豊臣政権が復活する可能性もある。
(秀忠はあまり戦上手とは言えない)
241日本@名無史さん:2005/07/12(火) 02:38:16
240に一本
242日本@名無史さん:2005/07/12(火) 04:26:12
幸村と謙信のダブル突撃メチャクチャ強そう。

でも、そしたら景勝はどうするんだろ?
へたれ景勝はまあわからんとしても直江は間違いなく謙信に続くだろうな。
かっこいーーー。

ついでに又兵衛と重成と全登にも突撃させたらいえやし死亡確実だな。
243日本@名無史さん:2005/07/12(火) 05:21:48
まぁ合戦つっても、政略、調略、人事力もあっての合戦だからな。
その点も含めたトータル的な強さで言えば断トツで秀吉だと俺は思うけど。
単純に戦術、指揮能力だけで言えば家康の方が上かな。
さらに言えば武田信玄がそのまた上を行く。
これに戦略、技術、先見性もトータルされると信長がさらに上を行くか。
政宗は政略、調略、戦術、指揮能力トータル的に優れていたと思うが、いかんせん中央の覇権争いで秀吉や家康クラスと直接戦った戦歴がないから評価のしようがない。
ただ、既に秀吉に天下統一された世の中だと戦術だの指揮能力だのという軍事力よりは政略がモノを言う。
そういう時代に台頭してしまった政宗は、まさにその政略力でかなり評価されてる。
20代の若造が、秀吉や家康みたいなどこまで腹黒いかわからないオッサンたちと、堂々と腹芸のだまし合いして、一歩も引いてない。
実際20年早く中央に生まれてれば、軍事的にも天才と言われただろうな。
244日本@名無史さん:2005/07/12(火) 05:50:50
信長がその才能をおそれたといわれる徳川信康
どんなもんでしょう?
245日本@名無史さん:2005/07/12(火) 06:29:27
謙信が強いという理由が解らない。真田信繁は鉄砲を駆使した戦法で
活躍している。信玄、謙信の時代と戦い方が全く変わっている。
大砲や抱え大筒なども大量に使用される大坂の陣ころには、信玄や謙信
の時代の戦法は通用するとは思えない。
246日本@名無史さん:2005/07/12(火) 09:56:03
>>244
んなこたぁ徳川の妄言だし
247日本@名無史さん:2005/07/12(火) 11:07:59
>>243
妙だな、政宗は関が原後に火事場泥棒とばかりに、
2万の兵で本繁長が城代を務める福島城を攻撃した、松川の戦いで
わずか3,500の兵に撃破され2,000の死傷者を残して身一つで逃げ帰ったのだが。
若松から景勝が後詰に出る必要もなかった。

信長は地理的条件と、たまたま運がよかっただけで戦略、技術、先見性は
そこらへんの普通の武将と変わらない。
しかし、運の良さは大したもので、織田家継承戦争では動員力は圧倒的に
不利なのに、最終的には謀略での弟殺しに成功するし、豪雨でみとうしがつかないなか
たまたま敵の主力を攻撃したら敵が油断していたので桶狭間で勝ってしまう、
斉藤義竜は若くして病死してしまうし、信玄、謙信も病死。

戦術、指揮能力では信玄のほうが家康や秀吉より上というのは同意。
謙信はその上を行くだろう。

>>245
上杉は謙信時代から、柴田、佐々、佐久間らの鉄砲を大量に駆使する
織田の精鋭と戦っているが?
また信繁は景勝に六年間家臣としてつかえ、戦で戦功を挙げての感状
なども貰っており、実戦経験では上杉時代が一番長い。
248日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:06:41
>>247
桶狭間は運が良かっただけかもしれんが
信長の政治手腕や、その時代を変えてしまうような商業改革
そしてそれを背景とした、富と軍
信長のような人物はあの時代において破格の武将だったと思う


ざっと信長の変革を記述・・

楽市楽座の奨励によって、貴族や寺社の勢力がおとろえさせた

関所の廃止によって、すばやく軍隊の移動ができるように。また道路の整備 商業が発展。


信長は、市場税をやめ、座のもっていた通行税や市銭の免除という特権も廃止した。
これを楽市。また座、そのものを廃止した。これを楽座。
この二つをまとめて楽市楽座と呼ぶ。
これにより、だれも自由に商工業を行えるようになり、商業が発達した。
また座からの税が入らなくなった貴族や寺社はその勢力がおとろえることになった

近代資本主義の形式に近くないですか?
これは先見の明があるといわざるえない

信長は資本主義こそ最も生産的であると考えていたのかもしれない

 なかでも、安土城を建設するときに、織田信長が出した13カ条の法律は有名である。以下は、その一部である。
 1 この町を楽市(らくいち)とするから、商売についてあらゆる課税(かぜい)
  を行わない。 
 1 戦争などの特別なときのほか、住民には普請(ふしん)や伝馬役(でんま
  やく)などの課役(かえき)を免除(めんじょ)する。
 1 他国からの移住者は、どんな者でも、まえまえからの者と差別しない。
249日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:27:30
やっぱし、島津義弘じゃないの
戦歴、戦闘回数も半端じゃないぞ
突っ込んで強いし、引いても強い
この両方の戦法が縦横に指揮できるのは義弘ぐらいだろう
250日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:50:18
明智光秀
251日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:56:04
>>248
あれ、楽市楽座は斉藤道三が始めたものだったハズ。
252日本@名無史さん:2005/07/12(火) 18:10:59
>>248は信長が楽市楽座をはじめたとは言ってないのでは?
信長が楽市楽座を奨励したと言いたいようだ
253日本@名無史さん:2005/07/12(火) 19:22:48
“使えるもの”を見抜く力が尋常じゃないからな、信長
254日本@名無史さん:2005/07/12(火) 21:14:52
朝倉宗滴
255日本@名無史さん:2005/07/12(火) 21:45:02
>>249同意。
謙信や信玄よりも長生きで実戦経験豊富だし、決戦にめちゃくちゃ強い。
木崎原、耳川、泗川、露梁の海戦と勝ち抜いた歴戦の猛者。
大将首を戦場で討ち取ることが多いから侵攻速度がめちゃくちゃ早い。
よく島津は捏造だからなぁとか、いちゃもんつけられるが、捏造で人が死ぬわけがない。
256日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:10:13
島津の武勇伝には捏造ぽいものも多いから、疑われちゃうんだろうね
それに島津は誇張して語られることも多い

秀吉の朝鮮出兵の際の話とか・・・
257日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:11:15
ふーん
258日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:36:31
武将として戦術戦略に長けている武将を意味するのか、一騎打ちで
最も強い武将を意味するのかによって違う。
後者であれば、前田慶次や福島正則、本多忠勝、立花宗茂辺りだろう。
259日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:32:46
一対一なら笹の才蔵じゃね
260日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:34:51
一対一なら、佐々木小次郎でしょ
宮本武蔵は実力では小次郎に負けてた
小次郎が一番です
261日本@名無史さん:2005/07/13(水) 06:35:29
徳川が唯一手を出せなかった島津が不気味といえば不気味だな。

個人的には毛利勝永か後藤基次を推しとく。
262日本@名無史さん:2005/07/13(水) 07:08:37
>>251
六角定頼
263日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:50:22
>>261
関が原に勝利したとはいえ、その勝利も豊臣恩顧の大名のおかげで、
家康は、いまだ秀頼の代理として行動している状態なので、あまり思い切ったことはできない。
島津は遠隔地だから助かった。
上杉も、関が原後の1年間は、武装をとかず、徳川と対峙していたが、
「上杉が無二の一戦を仕掛けてきたら負ける恐れがある」として
本多正信にいさめられて思い留まったものの、
そのまま本領と安堵しようとしたほど。
264日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:24:43
>>263
家康は福島正則という爆弾を内部に抱えていたから、
迂闊な行動は出来ないな。
265日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:44:07
>>256
つーか朝鮮や中国の軍に勝手も自慢にはならんよ。
266日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:55:11
日本の武将>島津>朝鮮の武将
267日本@名無史さん:2005/07/13(水) 15:56:07
九州男児をなめるなだっちゃ
268日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:14:38
島津なら、義弘より家久の方が上じゃない?
269日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:07:15
ここはあえて島左近
270日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:29:48
そしてあえると、島津豊久
271日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:31:20
ここはあえて竹半
272日本@名無史さん:2005/07/13(水) 18:57:56
>>268
義弘が外回り専門
もっぱら戦闘モード
273日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:09:37
う〜ん、あえて”戦国最弱”と思われる武将から絞ってみるのはどう?
274日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:10:39
>>273 今川義元
275日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:50:29
滝川儀太夫父子
276日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:31:12
じゃあ、三好(豊臣)秀次
277日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:33:45
>>268
女々しさと法螺のでかさだけは日本一だよな。
278日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:36:07
最弱となるとどっから「武将」とするか問題だな
兵は持ってたけど逃げてばっかりの奴とか多分いるべ


でも上杉憲政って言ってみようかな


279日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:46:15
では足利茶々丸
280日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:48:59
充分じゃない?
281日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:10:42
渡辺了
282日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:24:12
エピソ−ドなんかも添えて頂きたいっす!
283日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:42:54
284日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:52:00
引っかからないって!
285日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:34:53
細川晴元
286日本@名無史さん:2005/07/14(木) 08:40:19
24 :日本@名無史さん :05/02/28 16:10:29
武田信玄、上杉謙信、黒田義孝

         「黒田官兵衛孝高」のこと?それとも別人?
もし、如水の事言っているならなかなか通ですね。
287日本@名無史さん:2005/07/16(土) 02:40:07
今川氏真
288日本@名無史さん:2005/07/16(土) 03:27:04
戦国蹴鞠最強武将
289日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:15:10
山路弾正よいしょのしょ。









よろしくお願いしまつ。
290日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:23:07
上泉信綱
これ最強・・・柳生宗厳も宝僧院胤栄も勝てなかった・・・ってかこいつ武将なのか?
もしかして既出?
291日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:23:08
鹿賀丈史
292日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:45:10
島津家久
野戦で竜造寺隆信・十河存保・長宗我部信親を屠るという実績。生前での功績は兄義弘を凌いでいた。
293日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:15:59
>>290
>>238

一対一なら最強だろうな。
294日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:20:00
真田昌幸は?
295豪革蔵:2005/07/17(日) 00:36:04
>>294 表裏比興の者は評価は高い!!信繁(幸村)も凌ぐやも

個人的には高橋紹雲を挙げたい。岩屋城での奮戦と玉砕は痛烈。
296日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:03:32
>>295
関ヶ原は負けてしまったわけだが、秀忠軍を足止めしたのは西軍の中では
最大の功績だと思い推しました。
297日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:49:40
>290
長野十六槍の筆頭と称えられたぐらいだから武将としてもそこそこ活躍してる
298日本@名無史さん:2005/07/17(日) 03:53:09
個人的のは「我に七難八苦をあたえたまえ!」で有名な山中鹿ノ助を一押しだが・・・・
やっぱり真田幸村かな・・前田慶次なんかはどう?
299日本@名無史さん:2005/07/17(日) 04:16:43
総合力で上杉謙信
300日本@名無史さん:2005/07/17(日) 04:19:06
>>298
前田慶次は好きだが漫画のイメージが強過ぎ!あれじゃ化け物だよ・・・・
そこそこ強いあんちゃんが漏れには丁度いい。
301日本@名無史さん:2005/07/17(日) 04:20:22
戦術指揮能力
行政力
個人武勇
宣伝力
政略
人材運用
人材発掘
謀略
農土木
経済発展

わけて考えないとおかしい
302日本@名無史さん :2005/07/17(日) 05:59:31
なんといっても上杉謙信、真田幸村でしょwまあ鬼小島弥太郎もわるくはないけどw
安国寺恵慶(字あってるかな?)ちなみによみかたはあんこくじえけいです
303日本@名無史さん:2005/07/17(日) 07:44:32
304日本@名無史さん:2005/07/17(日) 08:17:57
最強は秀吉だろ
毛利、徳川、上杉、北条
滅亡した武田は除いて有名どころは全部支配下においてる
家康なんて秀吉が死んでからじゃん
305日本@名無史さん:2005/07/17(日) 11:06:16
          ∧_∧
         ( ´∀`)
         .(つ  つ
         o(    l
.     ピョン ⊂ノ⊂ノ
     ( ノノ        
     (    ヽ(`Д´)ノ 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  >>302  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
306日本@名無史さん:2005/07/17(日) 18:25:14
総合的な能力で言ったらやっぱ秀吉かな。
身一つから天下人だからな。
307日本@名無史さん:2005/07/17(日) 23:39:45
秀吉に関しては、信長がいたからとか言ってみるテスト
308日本@名無史さん:2005/07/18(月) 02:20:28
>>307
そりゃそうだ罠
309日本@名無史さん:2005/07/18(月) 22:13:24
能力があればこそ信長の目に留まったんだろうし。
それじゃあ斉藤道三も土岐頼芸に気に入られなきゃただの油売りってことになっちまう。
310日本@名無史さん:2005/07/18(月) 22:41:58
信長だけならあれほどの出世はできなかった気ガス。正確には織田家だったからかも。
丹波は言わずもがな、柴田勝家なんて嫌ってたと言われいるけど、秀吉の実力を一番買っていたらしく
墨俣砦を築いた時に信長が城主にするのを迷っていたのを後押し、その礼も兼ねてなにかの本で羽柴にしたと読んだ事がある
311日本@名無史さん:2005/07/19(火) 17:05:54
戦術指揮能力 ?
行政力 信長
個人武勇 上泉
宣伝力  秀吉
政略 秀吉
人材運用 信長
人材発掘 信長
謀略 義昭
農土木 秀吉
財テク 上杉謙信

わけて考えないとおかしい
312日本@名無史さん:2005/07/19(火) 17:33:42
>>311
財テクワロス

でも?のところにも謙信入れてやろうぜ、かわいそうだろ
313日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:44:22
>>311
個人武勇だと福島正則ではないか?
剣術が得意でも、戦場での槍働きは期待できないから。
314日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:58:00
>>312
無知過ぎてワロス

でも知障のところにも312入れてやろうぜ、かわいそうだろ
315日本@名無史さん:2005/07/19(火) 20:12:19
>313
上泉伊勢守は小さいながらも城主の跡取り。
戦場でも上野一本槍と呼ばれるほどの槍の名手でもあり、武田信玄に仕官を誘われてる。
316日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:00:46
>>290に対抗して、小野忠明
伊藤一刀斎は武将だったのか微妙だから
317日本@名無史さん:2005/07/20(水) 00:11:12
↑は個人戦力として。槍働きから剣術指南にまでなった。
一軍の将としては黒田如水を押す。九州制覇や豊臣を導いた手腕はすごい!
318日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:50:41
賎ヶ岳の七本槍である片桐且元はスルーでいいですよね?
319日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:53:17
最強といえば、ちょうさんこと、長曽我部だろうな。
彼は、相当な剣豪でもあったし、統治力もぴか一ですよ。
彼も、体が強ければ、天下を取れた一人です!!
320日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:56:01
加藤 清正
321日本@名無史さん:2005/07/20(水) 02:06:36
超ローカルネタで八升栗毛に跨った大井五郎最強
322日本@名無史さん:2005/07/20(水) 02:18:46
あずみ・・・・・ スマソ
323西郷どん:2005/07/20(水) 02:23:14
清正公だね
324日本@名無史さん:2005/07/20(水) 02:31:23
いや、最強は、毛利元就だろうな。
あの鉄砲隊は恐ろしいよ。
打たれたら最後と思ったほうがいい。
強烈に連射してくるし。
しかも、容赦してくれない。
325日本@名無史さん:2005/07/20(水) 03:36:50
上杉、武田をも震えさせた、飛び加藤。
326日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:00:59
毛利だと思う。
毛利の鉄砲隊と言えば泣く子もだまる。
毛利の鉄砲隊は、戦国唯一のマシンガン隊と言われる。
327日本@名無史さん:2005/07/20(水) 16:29:17
個人の武勇で行くとここで名の挙がった大抵の武将は消えるな
指揮能力と個人の強さは全く別物だからな
可児才蔵とか知ってるかおまえらー
328日本@名無史さん:2005/07/20(水) 19:31:00
知ってるわい! 笹の人だろ!
329日本@名無史さん:2005/07/20(水) 19:40:09
>>324

まるで戦った事があるような口ぶり。
330日本@名無史さん:2005/07/20(水) 20:16:07
というかさあ何を基準で最強って言ってるの?w財力とか政治力とか
・・・だんだん君たちが言う強さって言うのから離れてるような気がするんだけど
どれを基準に最強って言ってるのか教えてくれない?ちなみに戦術家などからすると
信長、謙信、元就、信玄をあげる。武勇からすれば安立六衛
331日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:30:21
個人兵力なら、小野忠明
戦闘戦術なら向こう傷の北条氏康
武将ならば島津義弘
大局戦術なら徳川家康
局所戦略なら毛利元就
332日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:51:27
最強の武将は、
島津義弘だと言いたい所だが、
ここはあえて薩摩も恐れた武将、立花早雪だ
333日本@名無史さん:2005/07/20(水) 23:12:11
山路弾正よいしょのしょ。










よろしくお願いしまつ。
334マコーレーカル禁:2005/07/20(水) 23:49:24
あと、付加えると、大友宗麟が強い!!
335日本@名無史さん:2005/07/21(木) 07:37:50
立花道雪に俺も1票!
あと本多忠勝!
336332:2005/07/21(木) 08:44:48
立花道雪のことです。早雪って・・恥ずかしい・・
337日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:07:01
徳川なんて特に戦術に優れているとは思わん。
対武田戦でも破れたのは三方が原だけではないし、大阪夏の陣でも
本陣が逃げ出すほどで、危うく討ち取られるところだった。
関が原でも、当時の関が原の陣城の遺構から、西軍は誘い出されたわけではなく、
当初から、関が原で家康を「長篠の勝頼」にする計画だったことが分かっている。
小早川の裏切りが無ければ、勝負は西軍が勝っていた可能性が高く、
実際に小早川が裏切るかどうかは下駄を履くまでわからないので
全く運任せの戦いだったといえる。
(石田の「秀頼さまが元服するまでは関白に」との言葉にグラグラしていたし)
338日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:26:00
結果がすべて

最強は『徳川家康』
339日本@名無史さん:2005/07/21(木) 16:06:49
また西軍厨か…
340日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:52:32
>>337
力のバランス感覚と思い切りの良さ
場面によっては無茶をするが、用意周到に万全を目指して、忍耐強く待つことができる。
その意味で、大局的には優れていると思う。
短期戦略的には、そんなにすごくないと私も思う。
ちなみに、小早川が裏切る確証はなくとも、敵対しない確証はあったと思うよ。毛利の吉川が居るわけだし、位置的にも出遅れるわけだし。
それに、秀忠勢の徳川本体がいれば、関東に引っ込んで独立国作れるし、朝廷関係もその時は徳川が良かったし長期的には切り崩せて滅びることはなかったと思うよ。
さまざまな作家さんがそれを言ってるし、あの司馬遼太郎ですら最終的には褒めざる得なかったしね、家康のこと
341日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:58:51
>>340
>あの司馬遼太郎ですら最終的には褒めざる得なかったしね、家康のこと

 司馬さんは感情的に家康が好きでなかっただけで
 別に否定はしてないでしょ、最初から。
342日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:05:27
また家康厨か…
343日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:15:22
342は夏厨
344:2005/07/22(金) 00:26:55
豊臣秀長

生涯、自身の戦では負けた事は無い。
勝率は100%です。
345日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:42:01
>>337
>実際に小早川が裏切るかどうかは下駄を履くまでわからない

こんな当たり前の見解ばかりだと日本史板の価値が無い。
昨今の史料から考えれば、小早川が松尾山に着陣した時点で寝返りと東西両陣営
の首脳部が判断したと見る方が妥当だと思うのだが。
346日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:53:07
>>337
家康の凄いところは正妻と嫡男を自家保存のために殺せるところ
347日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:52:06
勢力
戦国初期 尼子経久 浪人まで落ちぶれた状態から80万石の太守。大内がいながら凄い。
戦国中期 毛利元就 隣が当時、日本最大クラスの2大勢力にも関わらず、3千貫から100万石の太守は凄すぎ。
戦国後期 織田信長 最大勢力なんで。

能力
政治 加藤清正 治水、貿易、築城といずれも後世に残る実績を持つ。猛将のイメージが強いが実は政治も凄い。
戦術 島津家久 大軍を何度も破ってるのに評価が低いのが不思議でならない。
智謀 黒田官兵衛 秀吉の中国攻略から天下とるまで常に活躍。おそらく最強の参謀だろう。
348日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:23:48
斉藤道三じゃね
349日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:23:20
立花宗茂ってどうなんだ?
普通に強い関ヶ原前後ではかなり上位にはいるほどの戦上手じゃないかと思うんだが
350日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:31:00
最強は、津軽為信だろうな。

東北の雄をなめちゃいかんてば
351日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:06:11
佐竹義重でしょ♪
佐竹ん中では一番の英雄だと思うな〜佐竹氏の栄華を誇れる武将ってカンジ=3
352日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:40:27
上杉謙信は合戦の際に部隊を適当に分けてた(主従関係なく)らしいけど、それで数々の合戦を勝ち抜いたって凄いですね
353日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:42:44
百鬼丸
354日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:01:52
中国人にもバカな奴がいて関羽は劉備の子分だから劉備の方が上だと思ってるのがいるんよ
主従関係と個人の能力は別物だってのに
355日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:04:20
>>352補足
「戦場でとっさに軍勢を分けなければならなくなった時、謙信は馬を部隊の中に乗り入れて左右に分割し、自在に部署したという話が伝わっている。その際、主人と槍持ちが離れてしまっても互いの元に行くことを許さず、別々に戦わせたという。」-疾風 上杉謙信(学研)-
356日本@名無史さん:2005/07/23(土) 11:09:01
本多平八
357日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:44:16
>>347 家久公って評価低いんですか!?
あんなにすごいかたなのに・・・・・前の義久公・義弘公が偉大すぎたんでしょうか・・・
私も戦術では最強だと思います!

>>356 二代目 本多忠勝のことですか?
358日本@名無史さん:2005/07/23(土) 14:54:36
一般的に評価が上がるには出版物やメディアの取上が無いとなかなか上がらない
と思う。ゲームのない時代では歴史好きでも島津家久と言えば薩摩初代藩主の方
を指してたと思う。
特にNHKの大河ドラマの影響力は強いが、戦後の情勢下では薩摩賛歌は敬遠され
ていた。近年はゲームの影響で戦国時代が見直され、島津家久の評価も上がって
いくのではないだろうか。
359日本@名無史さん:2005/07/23(土) 15:54:47
弓の名手な立花宗茂
朝鮮で、鉄砲が得意な黒田長政にお互いの得物で勝負挑まれて
あっさり勝って長政くん自慢の見事な鉄砲をまきあげたりしてる
あと、丸目長恵に免許もらったりしてるよ
武将としての活躍はご存じの通り

個人的には、大将自ら朝鮮人と取っ組み合いして川に落ちておぼれかけたり
福島正則とケンカして、後で仲直りのしるしに兜交換したり
関ヶ原で石田三成狙撃隊作って殺る気満々だったり
筑前入り後、豊前の細川忠興と仲悪くなったら、豊前との国境線に
ずらっと築城して、万石級の家臣を常駐させたり
後藤又兵衛とケンカして致仕されるや、又兵衛を仕官させようとした大名に
『奴を雇ったら一戦辞すまじ!』な勢いで噛みついていったり
そんな大人げない長政くんが大好きですが、スレ違い。
360日本@名無史さん:2005/07/23(土) 20:38:45
>>359
そんな魅力的な武将だったのかw
部下はきっといつもハラハラしてたんだろうなw
361日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:31:41
>>349
立花宗茂は俺も好きだな。
朝鮮戦が全然取り上げられないのがかわいそう。
関が原の時なら間違いなく最強クラスの武将だと思うよ。
関が原にいなかったのが残念でならない。

>>357
ゲームの家久ただの猪武者だね。
戦術に優れてる人物の智謀が低いのは納得いかない俺ガイル。
362日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:33:05
2代目本多忠勝って誰よ?

本多忠勝って蜻蛉切の本多忠勝しかシラネ
家康に過ぎたるもの
363日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:36:24
やっぱ明智左馬介でしょう!
364日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:50:00
>>362
その人が二代目忠勝。
その父親も松平党では無二の猛将。ただ、家康が小さいころには戦死してしまう
二代目忠勝の名は、家康が父に習えと言うことで名づけたという逸話がある。
一時だけ背負って面倒を見たという話もあるが、ここまではわからない。
365日本@名無史さん:2005/07/24(日) 05:52:14
>>360
部下をハラハラさせるのは福島正則が一番だろう。
後藤又兵衛などの、問題ある人物を迎えて、しょっちゅう他の大名と
諍い起こすし、日本号飲まれるし、城の酒を盗みのみして奥方に叱られ
盾突いて斬り殺されそうになって逃げ回るし。
366日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:02:09
>>364
ご回答いただきましてありがとうございました!!
367日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:32:00
やっぱ武蔵でしょう!
368日本@名無史さん:2005/07/24(日) 15:46:09
謙信 信玄 秀吉等 全ての武将に同じ兵力(5000ぐらい)野心・情報力を持たせ、イコールコンディションで戦ったらどうなるんだ? 
369日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:23:13
>>368
戦いは戦いまでの勝てる状況の下準備こそが一番重要なので意味がないかと。
謙信や信玄が今川氏真にコロっと負ける可能性もあり。
370豊臣秀吉:2005/07/24(日) 17:46:28
わしだ。
371日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:33:53
>>364
祖父の本多平八郎忠豊を忘れてる。故に>>362は三代目。

下からの這い上がり方で考えれば毛利元就をやっぱり押すな。よく元就を3千貫
からのスタートと言うが実際は多治比3百貫からと考えるべきでは?
372371:2005/07/24(日) 22:47:51
良く読めば、二代目『忠勝』って有るな…。『平八郎』の間違いだと思うが。
373日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:52:33
毛利以外考えられない。
大友を雑魚扱いだし、大内尼子なんて巨大勢力まで倒してしまうんだから最強だろ。
天下取る気あれば簡単に取れたよ。
374日本@名無史さん :2005/07/24(日) 23:32:21
>>373
元就だけを考えれば天下は取れない。やはり天下取りは確固たる意志が無い限り
手が届かないと思う。ただ、元就の凄いところはただ生き残ろうと足掻き捲くり
そうなったとこが凄い。大内尼子とでかい敵は目立つが、実際のところ元就の半
生は井上一族とその背後にあった高橋氏との抗争に有ると思う。元就は知略ばか
り目立つが、元就ほど実戦を経験した群雄は居ないだろう。

天下と云う事を考えれば、大友を制し北九州の商業圏を手に入れてれば或いは近
畿を制した織田家と互角に渡り合えたかも知れないが、当時の大友家は全盛期で
大砲を所持し鉄砲の保有数も抜きん出て海外から軍艦まで呼ぶなど戦国最強クラ
スの軍事国家を形成していた。到底雑魚扱いで勝てるような相手ではなかった。
375357:2005/07/24(日) 23:37:43
>>371さん
祖父の忠豊を忘れてました。なので、三代目の忠勝ですね。すいません

>>364さん、それはおそらく幼名を父{祖父も}にあやかり、平八郎にしろというのではないでしょうか?
他の話で、元服する時に「ただ勝つだけ」、常勝の意味で家康が、忠勝と名づけたと読んだことがあります。
376日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:39:20
戦略的劣勢を戦術でカバーできた武将は賞賛出きると思うけどね。
要するに、変人・・・・ 信長と謙信かな。
377日本@名無史さん:2005/07/25(月) 00:16:16
>>376さんにあやかると島津貴久も入りそうですね。
個人的には城を守っては無敵の長野業正を押します
378日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:56:24
戦国最強のテクニシャンで言えば信玄だと思う。
・・・・スマン。逝ってくる
379日本@名無史さん:2005/07/26(火) 03:54:27
>>378
心おきなく逝って来い
380日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:42:26
元就は天下に興味が無いのはあきらかだよな。
次にできるであろう政権において独立を維持しキャスティングボードを握れる存在、室町幕府における大内家のような存在を目指してたのはあきらか。
瀬戸内の利権と大陸交易の独占、そのための北部九州への拘り。天下取る気なら、ハナから大友とは争わず、畿内を目指してる。
381日本@名無史さん:2005/07/28(木) 05:43:11
検診、震源、シー万図じゃね
382日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:10:07
新納味之元
383日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:44:50
>>345
遅レスだが。
じゃ、どうして家康は桃配山で、つめを噛んでイライラしたり、果ては秀秋の陣
に対して銃撃を命じたりしたんでしょうね。
裏切るという確証がなかったからでしょ。
384日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:52:09
>>383さんが言うように裏切りの確証は無かったと思います。
だからこそ、せっついて銃撃したわけですし。
でも、不戦や大した攻撃をしないという所までなら確証はあったと思いますよ。
なぜなら、>>345さんが言うように遥か遠くに陣を張ったからです。
近いほうの西軍にですら、動き出してから相当遅く駆けつけました。正念場にぎりぎり間に合った程度に
なので、もし西軍が勝っていたとしても、追い詰められた東軍に攻撃する前に東軍は逃げてしまうことでしょう。
だから、不戦等までなら確証があったと思いますよ。{爪を噛むのは勝ち戦でも行う癖だそうです}
385日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:19:42
西軍が勝つような事態で背後に布陣した吉川(毛利)が動かないという確証は無いと思うけど、つまり逃げられない可能性が高いかと。
386日本@名無史さん:2005/07/29(金) 06:13:14
>>285
しかしそちらには中村、堀尾、池田、浅野達が押さえとして存在して
いるので、そう簡単に毛利勢が退路を断つことは不可能かと。
また長曾我部の背後に市橋などの数名の大名も進出しているので、下
手に南宮山から前に出ると、背後から襲われる。
387日本@名無史さん:2005/07/29(金) 06:57:05
>>386
敗走中の話だよね?
退路を完全に絶てなくても時間が稼げれば東軍を追ってきた連中と挟み撃ちに。
そのうえ敗走となれば徳川の家臣ではない連中から寝返りが多数出るのは必定。
背後が気になるとすれば、毛利の兵力なら南宮山に兵を残すことも可能だし。
388日本@名無史さん:2005/07/29(金) 08:47:27
敗走といっても総崩れという形ではなく、秩序だった後退ということに
なると思う。
389日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:04:33
松尾山に鉄砲を撃ち込んだという話は当時の史料で見られないから創作では?と聞いたことがあるが…
いくらなんでも戦場での雑音の中、山に陣取る秀秋のところまで銃声が聞こえないだろうとも。
390日本@名無史さん:2005/07/30(土) 06:22:01
>>231
>陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。

その記述は「軍記物語」のものであり、勝敗の経緯は全部「ガセネタ」だな。
10/7、伊達勢が相当な人数で来襲してきたのは事実だが、この戦闘で上杉・
伊達は、鉄砲の猛烈な撃ち合いだけで終了。伊達勢はたった1日で北の目城へ引
き上げている。9月末日に家康から「徳川軍大勝」の書状が届いており、以降の
長期対陣での攻撃は軍律違反(いうまでもなく伊達と上杉の私戦ではない)とな
る恐れがあると判断した形跡がある。10月8日、伊達政宗は家康に福島城攻撃の
報告を直接注進している。同日部下には総力戦をしたいが、大御所の手前できない
のでとりあえず鉾を収めておくという意味の文書を残して兵を退いている。

   「今少残多キ様に候得共、時節柄之事ニ候條、…」
               (十月八日 桑折宗長宛伊達政宗書状)

>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
 (死傷者2,000以上)

 よって、その死傷者数もでたら目であり、政宗本人が「落命の危機」は妄想の類。
 また、上杉が拾ったとされるされるものは、「伊達政宗本陣の陣幕」ではなく、
 車丹波という豪傑侍が、伊達の小荷駄隊のものを拾ったのか捕獲したものだ。
 もし「本陣の陣幕」が残ってるとすれば、見せ物小屋で展示されてる「河童の木乃伊」
 のようなものでしかない。

と、以上>>231の軍記物語の記述を「添削」しておくw
391日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:17:50
>>390
名誉回復乙カレ
しかしガチンコバトルしてたら、どうなってたんだろうな?



392日本@名無史さん:2005/07/31(日) 02:34:45
日根野弘就(?―1602)
徳太郎、雄就、五郎左衛門、従三位備中守。治部卿法印あるいは空石と号す。美濃国石津郡五町村の出身。一説に和泉国日根野の出であるという。斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕える。
天文十一年(一五四一)、土岐頼芸を攻めて国外へ逐う。斎藤家滅亡後は浅井氏に仕えたが、刃傷事件をおこし出奔。以後、織田、豊臣と歴仕。天正十二年(一五八四)、
弟重之とともに小牧・長久手の合戦に従軍。のち秀吉の忌避に触れて浪人し、天正十八年頃、再出仕。尾張・三河で一万六千石を給された。晩年、高野山で出家した。
◆日根野形(ひねのなり)の冑、というのを耳にされたことがあると思う。冑の鉢を中央と左右打ち延べ、矧合せとした三枚張。高眉庇に真向(鋲で打った冑の全面の部分)
を打ち止めにして腰巻の板をめぐらせた実戦向きの頭形(ずなり)の冑である。厳密には、日根野鉢と日根野シコロ(札を半輪状に連ねて鉢の後に垂らしたもの)を指す。
つまりこのパーツが用いてあれば、日根野形の冑ということになるのだ。
◆日根野備中守弘就が愛好した冑の形状を、とくに日根野形と称したといわれるが、実際のところ確証はないらしい。意匠に秀でた細川三斎(忠興)
がこれを模倣して独自に考案したものを三斎頭形の冑といったが、あるいは、三斎頭形以外の頭形の冑を区別するために名づけられたものとも考えられる。雑賀鉢とも混同されるらしい。
ともあれ、日根野弘就の名を史上にとどめているのは、この当世冑の呼称に拠るところが大きい。
393日本@名無史さん:2005/07/31(日) 02:35:40
◆日根野弘就は弟常陸介重之とともに美濃斎藤家を代表する豪の者だった。戦場働きだけではない、斎藤義龍は敵対する父道三の子どもたち、つまり義龍にとっては弟たちを殺害している。
その討手が弘就だった。その描写は『信長公記』に記されている。
長井隼人正巧みを廻し、異見申す処に、同心にて、則二人の弟共新九郎所へ罷来るなり。長井隼人正次の間に刀を置く。是を見て兄弟の者も同じごとく次の間に刀をおく。奥の間へ入れ、
態と盃をと候て振舞を出し、日根野備中、名誉の物切れのふど刀、作手棒兼常抜き持ち、上座に候つる孫四郎を切臥せ、又、右兵衛太輔を切殺し、
年来の愁眉を開き、則、山下にこれある山城道三かたへ右趣申遣す処、仰天を致し、肝を消すこと限りなし。
まあ、騙し討ち同然だったわけだが、前国主の子がいっぺんに始末されてしまったわけで、さすがの蝮の道三が魂消たほどショッキングな事件だった。


394日本@名無史さん:2005/07/31(日) 02:36:18
◆のちに浅井家で刃傷事件をおこし、豊臣秀吉の怒りにも触れて、いずれも出奔することになる弘就だが、
何となく血生臭さを身にまとったような人物だったのではないか。
巷説では、武者修業に出たような記述が散見されるが、
もし本当にそうであるならば、鍔や鐙などを製作した宮本武蔵のような兵法者の先輩と言えるのだろうか。
◆その弘就の最期は、実は自殺であったという。世間の噂では、関ヶ原の合戦の折、石田三成に通じていたためで、
それが露見することを畏れて自裁したのだという。その死に様が凄まじい。腹を切って、腸をつかみ出し、エイヤッと庭の木にひっかけた。
おそらく、庭に面した部屋か縁側で切腹したのだろう。
◆これで最期と思いきや、弘就の心気はいまだ乱れず。そのまま二階へ上がって、書状などを調べて不要なものを破って、
さらに念入りに縄で縛った後、火中に投じた。普通、身辺整理をしてから切腹するのが順序かと思うが、弘就の場合は逆だった。
あるいは腹を切ったあとで「あ。あの文書を始末しておくのを忘れた」と思い至ったのか。
◆整理をすると誰でも経験はあると思うが、時間がたつのが実に早い。そうこうしているうちに、明日になってしまった。
けれども弘就の心気は昨日と変わらず(繰りかえすが、彼の腸は庭の木にひっかかったまま)。あまつさえ、
近侍の者に「まだ死にそうにない」とぼやく始末。晩になってようやく苦しみが生じ出した。
「いよいよだ。わしが死ぬのも近い」と弘就はついに自らの首を刎ねて息絶えた。
http://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/taiandir/x141.html
395日本@名無史さん:2005/07/31(日) 02:38:38
この人が最強では?
396日本@名無史さん:2005/07/31(日) 03:38:25
こわい
397日本@名無史さん:2005/07/31(日) 05:11:38
切腹について詳しく調べると腹を切ったぐらいでは、激痛が走るらしいが
すぐに死ねないらしい。案外人間って丈夫なんだな。
しかし、この話しは怖い・・・・
398日本@名無史さん:2005/07/31(日) 05:17:02
この人麻酔を使わずに、自分自身で盲腸手術をできるんじゃないか
399日本@名無史さん:2005/07/31(日) 14:06:50
麻酔なしで開腹手術した丹羽って椰子がいたな〜
400日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:47:32

401日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:37:19
>>359
長政が取られたのは墨縄という名銃で大工道具の墨縄のように真っ直ぐに弾が飛ぶって
やつだね。勝った宗茂は自分が使ってた弓を長政に渡して面目を保たせたらしい

墨縄は今も御花に保管されてるって聞いたけど、閲覧できるのかな?

402日本@名無史さん:2005/08/05(金) 08:27:36
>>263
>上杉も、関が原後の1年間は、武装をとかず、徳川と対峙していたが、
 「上杉が無二の一戦を仕掛けてきたら負ける恐れがある」として
 本多正信にいさめられて思い留まったものの、
 そのまま本領と安堵しようとしたほど。

嘘だろうな。謙信あればこその上杉家。最上には、上山で大敗喫している弱小軍。
家康に直接かけあうのが怖くて、秀康を通して話をしていることからも、家康の
沙汰に戦々恐々として、心休まる日はなかっただろう。
403日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:45:02
補足すると「覚上公御書集」という史料によると家康は当初上杉家を改易して景勝を島流しにするつもりだったらしい
それが減封に留まったのは家康との交渉が上手くいったのだろう
404日本@名無史さん:2005/08/05(金) 10:06:58
確か、秀康は上杉謙信を崇拝しており、上杉家には好意的だった。
そこに目をつけた直江兼続が、家康への斡旋を依頼した。
上手い方策だったといえるな。
405日本@名無史さん:2005/08/05(金) 14:15:54
話の焦点が人間単体としての強さか、その人間が率いる組織の強さかで定義が変わってくるよね
406日本@名無史さん:2005/08/05(金) 15:43:05
本田忠勝と中国の項羽はどっちが強い?項羽は身長180センチ台って
事は確か
407日本@名無史さん:2005/08/05(金) 17:35:25
>>406
武器次第だと思う。
項羽の使っていたような青銅製武器を両方が持っているなら、項羽の勝ち{よっぽどでないと瞬殺できないのと、力が要なため}
忠勝のように鋼の槍で両者が戦うなら、技量が上の忠勝が勝ち。
いろいろな条件があるだろうけど、忠勝が勝つ方が大きいと思う。
中国、特に古代は力重視で、それ以外はあまり、技術が確立してないから
408日本@名無史さん:2005/08/05(金) 17:56:46
>>407
おれの中だと本田忠勝って腕力が凄いってイメージなんだけど
違うんですか?あと騎馬戦だと技術はあまり必要はなくて腕力
があれば良い、と思っていたのはオレの勉強不足ですか?
409日本@名無史さん:2005/08/05(金) 18:11:12
>>408
勉強不足というより、知識の分野が違うだけだと思います。
私は、武術経験があるので、戦闘技術を重視して見てしまうから>>407と書き方になりました。
そこからの視点なので、私の忠勝のイメージは、戦いの呼吸と槍捌きが卓越してるというものです。
力だけだと、あの戦績や戦法での戦いは無理だと思うので。特にあれだけの戦って無傷なんて・・・・
だから、それなりの技術もあったと思うし、>>408さんのイメージのように腕力もすごい武将だったんだと思います。
・・・・・・・・なんか無敵なイメージに・・・・・{^^}
410日本@名無史さん:2005/08/05(金) 18:26:35
>>226
上野の一部をとられてる時点で宇治安の負けだろ。
411日本@名無史さん:2005/08/05(金) 18:39:43
>>409
なるほど本田忠勝って誰かに槍術は習ったんでしょうかね?
可児才蔵って人は宝蔵院流槍術を習ってから強くなってますよね
412日本@名無史さん:2005/08/05(金) 18:59:55
>>411
武将は武器の使い方は戦場で覚えろ
という言葉があったそうですが、あの技術好きの家康の側近ですしね。完全に無いとも言えないでしょうね。
まあ、あれだけ戦に出てるわけですから、斬り覚えで身に付けたのが有力だと、個人的に思います。
また、ちょっとずれた知識ですが、小野忠明という後の将軍ご指南役の剣豪の言葉に、
「剣術は斬り覚えろ」というのがありますから、重装備の武将との斬り合いで自然と高レベルになったのかもしれませんね。
413日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:18:58
実際戦場の経験から強くなった事は確かでしょうね。柳生石舟斎と本田
忠勝って接点あるんですかね?二人とも全く違う立場の人ですし面白い
ですね。
414日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:25:35
>>413
柳生石舟斎とは面識はほとんどないと思います。
関ヶ原の戦いの段階で、息子の宗矩に譲られて{正確には違いますが}いますから、家康側近として接点を持つのは難しいと思います。
しかし、宗矩ならば、千姫騒動はじめ、諸所の問題に関わっているので、接点があってもおかしくありませんね。
宝蔵院の槍には柳生石舟斎が絡んでいるから、あながち、槍についても宗矩が知っているかもしれませんね。
本当にそう考えて行くといろいろ繋がってそうで面白そうですね{^^}
415日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:34:33
テコンドーのサイトが、姫路城の写真を使ってる!!
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/budou/1123224583/l50

3 :名無しさん@一本勝ち :2005/08/05(金) 16:09:54 ID:/CHwZ+Sh0
姫路城って世界遺産だよ。
そして姫路城を作ったのは韓国人の技術者。
姫路城は典型的な朝鮮式山城の構造を持っていることは
世界的に有名です。日本人には造れない構造。
姫路城の解体修理の際に、柱にハングル文字が書かれていたのは
有名な話ですね。姫路城は別名白鷺城と言いますが
白=シロ=シラ=新羅を意味します。わかりましたか?

16 :名無しさん@一本勝ち :2005/08/05(金) 19:48:59 ID:rnP3r1xf0
荒又宏が著書「陰陽師ロード」で
「かさねていえば、白が新羅(シラ)を意味し、朝鮮半島からの由来物につけた
名だという事実も、覚えておいたほうがよいだろう」と述べており
日本の白=新羅からの由来物と断定しておる。やはり、3の意見は正しい。
姫路城=白鷺城=シラサギ城=シラ(サ)ギ城=シラギ之城=新羅城
サは古朝鮮語で「の」という意味。新羅人の城という意味になる。
播州に移住した新羅人達は、白鷺城という呼び名の裏に出自を隠していたのだ。
城=シロ=白で、城の造営は新羅由来の技術。日本文化=新羅文化の一部分ということが
ここからもわかる。
416日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:49:01
>>414
剣豪でも戦場でも強かったって言うと上泉信綱とかも強かったらしい
ですね。身長も182センチもあって腕力もあったんでしょうね。
騎馬戦と1対1の戦いはだいぶ違いますが
417日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:59:38
>>416
柳生新陰流ってあれ俗称でただの新陰流が流派の名前
ちなみに創始者は上泉信綱
418日本@名無史さん:2005/08/05(金) 22:01:08
元就最強説があるが、シングルではなく最強タッグということで、あえて、

毛利両川

を押したい。
419日本@名無史さん:2005/08/05(金) 22:54:36
>>418
兄弟喧嘩で自滅しているが
420日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:23:45
>>417
私も武道経験者ですし、そこらへんは私もわかっているんで
大丈夫ですよw
421日本@名無史さん:2005/08/06(土) 02:13:24
最強の武将という縛りなのに君主出すなよ
三国志で呂布じゃなくて曹操の名前挙げるようなもの
422日本@名無史さん:2005/08/06(土) 07:09:44
>>421
曹操は元々、漢王朝の一武将なんだから問題ないのでは?
423日本@名無史さん :2005/08/06(土) 19:11:21
>>421
お前アホだな・・・
「最強の武将」って意味を格闘のみに矮小するから、そんな発想に成るんだよ。
もっと言えばゲームのやり過ぎで、発想がゲーム観に成ってないか?
ここは日本史板だ、三戦板に帰れよ夏厨。
424日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:55:01
>>423
ホンモノの厨だw
本ぐらい読めよ。まあ、日本語分からない輩に言うだけ無駄か
425日本@名無史さん:2005/08/07(日) 00:34:04
最強を拡大解釈すると軍師だのなんだの入れたり、しまいには不戦まで入るからな
426日本@名無史さん:2005/08/07(日) 01:02:37
このスレの流れからするとむしろ上泉だのより元就とかだったんだが・・・
427423:2005/08/07(日) 01:21:00
>>424
ゲーム観だから日本の群雄に向って「君主」を使ってるんだろ?

後な、群雄同士の曹操と呂布を挙げて、呂布とか言うのはゲーム観の「武力」
の概念が強すぎるからだよ。 因に言えば、曹操は君主じゃないからな、曹丕
とは立場が違うぞ。

歴史を知らずに考えるから、そんな発想になる。解ったかな?
428日本@名無史さん:2005/08/07(日) 06:37:42
はいはいわろすわろす
429日本@名無史さん :2005/08/07(日) 09:44:22
武将と部将を勘違いして、主君と部将を分けろって言いたかったんだよね
武将とは武士(もののふ)の将だから、将軍様でも武将ってことだよ

ゲーム観と批判もでてるけどコーエー系のゲームではそのはきっちりしてるから
アニメや漫画の影響だと思うな、ああいう物は言葉の使い方がいい加減だからね
430日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:25:19
まだやってんのか厨房
431日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:21:55
この殺伐としてきたスレを救えるのは、仏の茂助さんしかいない!
432日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:42:55
アレクサンダー大王が最強では?
433日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:50:04
最強線と陸の王者京王とはどちらが強いのでしょうか?
434日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:54:48
チョロQ
435日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:56:52
>>433
京阪神急行
436日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:09:03
やっぱりダレイオス3世もがんばったよ^^
437日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:22:22
はいはいわろすわろす
438日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:40:45
前田又左衛門利家ってやっぱりマイナーでつか?
信長の親衛隊長で、徳川家で言えば本多忠勝や井伊直政
的なポジションでガチンコの武闘派の一人だった様な...
439日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:01:22
全然マイナーではないと思うけど
なぜか雑魚臭が漂う

いや、最終的にはすごいんだけど なんでかなあ
440日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:06:34
槍の又左か
慶次が傾きすぎてちょっと印象薄い
441日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:07:59
柴田勝家の下に配属されていたからでは?
勝家も相当な武将だけど、秀吉に反乱起こしたってことでなんか後ろ暗く扱われてる。
個人的には結構好きなんだけどね。
そういえば、秀吉が棒術の名手と言う伝説があるよ。秀吉発祥の武術が現在も流派で残ってるし
442日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:58:12
秀吉は殿務めてたりするしな
443日本@名無史さん:2005/08/08(月) 02:48:12
>>439
徳川の子孫が書いてるよ
前田利家が病気で家康より早く亡くならなければ、当時の大名の人望から
前田が天下統一してたみたい
444日本@名無史さん:2005/08/08(月) 04:59:19
前田利家かぁ...
確かに若い頃は前田慶次に勝るとも劣らない傾き者で、主君の信長に制止されたにも関わらず信長の茶坊主を些細な喧嘩で斬り殺したり、赤ほろ衆として数々の武功を挙げたらしいね。
でもなかなかそういう部分がクローズアップされない。やはり秀吉のNo.2てイメージだね。
その秀吉も、太閤という身分になっても利家にだけは頭が上がらなかったという。それでいておごることもなかったらしい。だから凄く人望もあったと。
戦国最強か?となったら疑問だけど俺もこんな人、生き方は好きだね。
445日本@名無史さん:2005/08/08(月) 11:25:35
前田利家の生き方や人物像は、私もあこがれるなぁ。
義理を大切にしつつ、如何に多くの者を守れるか。
そのためになら、ある程度の苦渋は耐えしのぶ・・・・
妻の助けがあってこそと言われるが、なかなかできることじゃない。
石田三成も頭が上がらないし、家康も心底心を砕くほど、人格的に慕われていたみたいだよね。
まあ、伝えられる性格では、自分が上に立つというより、あくまで補佐として真っ当しそうな気がする。
446日本@名無史さん:2005/08/08(月) 18:27:34
戦国最高の武将のうち1人は、秀吉と思う。
武将の能力って「作戦・戦闘指揮能力」であって、
必ずしも個人的な槍働きがよかったわけじゃないらしい。
豊臣秀吉は農民上がりで武士の基礎訓練もなくとりたてられ、
天才的な独創の作戦で天下をとる。
無駄な血を流さない為に兵糧攻めにしたり、外交調略で次々と
城を落としていき戦国時代第一の城攻めの名手となる。
447日本@名無史さん:2005/08/08(月) 18:41:27
>>439
司馬遼太郎の「太閤記」によれば、前田利家は勇敢・実直だったらしいが、秀吉からすれば天下をねらう器ではないらしい。
しかし、本能寺の変の後に柴田勝家と対決する時に前田利家は勝家を裏切り、
秀吉がほぼ天下統一を仕掛けたときは、250万石の徳川家に対抗する為に、
80万石の前田家を対抗勢力として全面に出すしかなかった。前田家は、秀吉の政治の
勢力として大事にされた。実直なところが、人から愛されたらしいが殿様としては天下を狙った武田信玄、
毛利元就などとは全く違ったタイプらしい。
448日本@名無史さん:2005/08/08(月) 20:27:39
完全にNo.2タイプだよね。俺もそんな人間になろっと
449日本@名無史さん:2005/08/08(月) 20:30:46
>>448
女房の尻に敷かれ、家庭内No.2
450日本@名無史さん:2005/08/10(水) 02:06:48
でも奥さんに関する文献って皆無に等しいんじゃなかったっけ?
451日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:50:41
>>450
そういえばあまりないね。
自ら人質として家康の元に赴き、利家亡き後の前田家を救ったことしか知らないや。
大河ドラマ「利家とまつ」ではまつの素敵な内助の功っぷりが描かれていたが、その点も山内一豊室の方が有名だしね。
452日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:54:21
>>451
佐々成政との戦いのこと
453日本@名無史さん:2005/08/10(水) 14:22:37
秀吉の長槍戦法{相手を上から叩き防御に回ったら胴を突け}とか戦闘法の開発とか影薄いよね。
何気に、武功とかすごかったりする。
454日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:52:51
>>452
佐々成政との戦い?そのときまつ何かしたっけ?
455日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:03:17
名演説をぶった。
456日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:47:24
今川は桶狭間を覗けばかなりつおいんジャマイカ
457日本@名無史さん:2005/08/11(木) 04:08:28
戦国最強といったら織田信長しかありえん
秀吉も農民から上がったのは凄いが、信長がいてこその秀吉
朝鮮出兵の時の作戦なんかお粗末なものだ
運もありなら信長、運無しなら武田信玄か上杉謙信
でも天才的な政治能力を誇る信長がやっぱり最強だな
458日本@名無史さん:2005/08/11(木) 07:22:27
一切過去ログを読まずに、齋藤道三
459日本@名無史さん:2005/08/11(木) 10:36:20
>>456
今川義元が強かったのは太原雪斎のおかげ。

山本勘助曰く「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」(甲陽軍鑑)

事実、雪斎の死から5年経った1560年、織田信長を見くびった義元は桶狭間にて落命
460日本@名無史さん:2005/08/11(木) 13:20:52
退却戦を戦わせたら、島津義弘が最強かと思います。
461日本@名無史さん:2005/08/11(木) 22:06:59
>>460
退却戦の島津の死傷率の高さは異常だ。弱すぎる。
退却戦で強いのは徳川。金ヶ崎、若神子、幕末の鳥羽伏見。
いずれも追撃側の方が死傷者が多い。
462日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:39:44
もうアレだ、

立花宗茂

でいいよね

463日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:33:40
1対1なら、おそらく
加藤清正
464日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:39:25
福島正則
465日本@名無史さん:2005/08/12(金) 21:06:38
山路弾正
466日本@名無史さん :2005/08/12(金) 21:33:24
毛利ポイント高いが、それにしては城小さいよな・・・。
467日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:02:55
長宗我部盛親、宇喜多秀家、島左近、明石全登、大友宗麟とかは?
468日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:08:21
盛親は納得できん。宇喜多も。


毛利の郡山城だって昔に比べると、かなり拡張されてると思うけど、、 やっぱり小さいかな。
469日本@名無史さん:2005/08/13(土) 01:05:29
実在すれば・・・孫賀孫一。
傭兵のような存在といえば、水軍とこいつらしかいない・・。

正規軍よりも傭兵の方が強い。
ただ・・義理がないので、実際の戦闘ではどうかと思うけどね
470日本@名無史さん:2005/08/13(土) 09:22:11
おれがこのスレに終止符を打つ。

日本最強武将は、
島津義弘と、立花道雪だ。
これで納得いくだろ
 
471日本@名無史さん:2005/08/13(土) 09:54:54
>>470
で?納得いく理由は?
納得いかない人が多いから話しが続いてるんだが・・・
472日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:04:27
落雷に遭ったといえばグーセンではないか!
473日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:52:47
『最強』って何?から始めないといけないね。
腕っぷしの強さなのか、合戦時における指揮の上手さなのか、その両方+戦国の世を生き抜いてきた処世術の巧みさなのか…。
それにしたって最強と名前が挙がる武将達同士は大抵直接競い合った訳じゃないからますます判断に困るし。

全部ひっくるめて考えて、生まれた場所&時代、不遇な幼少期から耐えに耐えて遂には戦国時代に終止符をうった徳川家康こそ本当の意味で最強なのかな。
豊臣秀吉もいるけど、結局家康を除くことができずそのままにした結果、豊臣家は滅ぼされた訳だしね。

474日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:35:33
立花は
雷神を切ったなどと電波を飛ばしている頭の逝かれたアホ、と思う。
或いは、雷落ちたときに打ち所が悪くて逝かれたのか。
475日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:27:27
上杉は毎年のように遠征を行っても金が無くならないというのはかなり凄い手腕の持ち主だと思われる。
476日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:35:07
>>475
関東で三光作戦をしたからねー
477日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:08:22
>>476
三光作戦?
奪うな、犯すな、焼くな、のアレか。
ああ、君は生粋のアカだったな。すまんな
478日本@名無史さん:2005/08/14(日) 22:52:21
最強とまではいかないにしても、最強候補に入るのは毛利元就だと思う。
他は誰を推薦する?
479日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:09:03
北条氏康は?戦だけでなく、戦国時代トップクラスの民政家だと思うが。
480日本@名無史さん:2005/08/15(月) 09:00:24
北条はへたれ
481日本@名無史さん:2005/08/15(月) 10:35:52
>>479
氏康もいいがやっぱり北条なら早雲だな。
何せ戦国の扉を開いた人だから。
前例にないことを行ったという意味では、ある意味信長以上の革命児。
482日本@名無史さん:2005/08/15(月) 10:54:56
>>481
信長より斬新なことした奴なら松永弾正久秀もいるけど
483日本@名無史さん:2005/08/15(月) 11:02:16
氏康も信玄もなかなかの政治手腕と軍事力を持っている。
越後のキチガイ軍神と領土が地理的に隣接していたのが仇。
484日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:19:18
斎藤道三も凄くないか?彼も革命児じゃろ?
485日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:28:52
>>484
ここで上がった連中と比べると、やや小粒な感は否めんな。
戦下手ではないが、戦上手といえるほどでもないしな。
知略という点でも最後が最後なだけに・・・。
486日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:08:38
個人的武勇なら上泉伊勢守かな?
可児才蔵は、弟子の弟子だったような?

総合だと信長だね。経済、外交、新兵器、運、人材登用。
487日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:15:07
太田三楽斎資正
小粒かもしれないが、好きだ。
488日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:09:02
戦略 毛利元就
戦術 島津家久
攻撃力 立花宗茂
城攻め 羽柴秀吉
篭城 真田昌幸
海戦 島津義弘
これで決まりだな。
489488:2005/08/15(月) 21:12:01
>>攻撃力 立花宗茂
攻撃力だとゲームっぽいな。戦闘指揮って言いたかった。
490日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:15:04
海戦で九鬼が抜けてるのが痛いな。義弘が弱いわけじゃないが、
三万の豪族連合軍相手に五百の軍勢で勝ったのは正直凄い。義弘も凄いかもしれんが、より上だろう。
それと城攻めは秀吉より謙信。イメージと違うが70以上の戦の大半は城攻めだから。
それでほぼ負けなし(負けた!と、こじつける輩がいるので、ほぼね)は鬼だ
491日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:55:20
織田有楽斎が最強でしょう!
戦国時代を通して全ての合戦に関わり且つ生き延びた!
有楽斎って、相当波乱万丈な人生の筈なのに、ぜんぜん小説に
ならないのは寂しい限りでございまする。処世術の極み。
492日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:07:39
アマゾンで検索してみたら有楽の小説あったぞ
493日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:08:18
有楽は誰からも全然警戒心抱かれなかったっぽいとこがスゴス
だって織田家ですよ? 信長の兄弟ですよ?
494日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:22:37
>>493
無能だから警戒されない。尾張を失った後の信雄と同じ。
495日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:28:22
のぶおよりは有能だろ
交渉役としてちょろちょろ出てくるし
496日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:56:12
織田有楽並びに故右大臣家一党=とるに足りない存在。
生き延びるだけなら他にいくらでもいる。
497日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:31:47
有楽なんて家康に媚びうりすぎでみっともない
498日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:47:40
媚売りと諜報力は戦国最強でしょう。
499日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:50:18
>>489
情報を集めても、理解する能力はなし。
500日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:51:01

501日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:18:42
古田織部
502日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:22:06
秋田県民じゃないが、安東愛季を推しておく。
503日本@名無史さん:2005/08/18(木) 08:58:16
普通に信長、信玄、謙信、元就あたり。
戦場だけじゃなくて、そこに繋がる政策いれたら、信長か元就が最強だよ。
通ぶって、的外れな武将の名前出すなよ。
504日本@名無史さん:2005/08/18(木) 22:19:43
最強・・・ではないだろうけど
まぁまぁ東北の方ではがんばった方だと思う。
両安東家をまとめ、南部やら小野寺やら戸沢やらと
やんややった上に中央からかなり離れた場所の大名のくせして
中央情勢には適正な判断ができる
というからなかなかのもんだと思う。

アイヌとの貿易は島津のそれに比べたら・・・あれだが。
505日本@名無史さん:2005/08/19(金) 22:18:53
文禄、慶長の役も含めるなら



李瞬臣



これが最強だろ。









何人釣れるかな?
506日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:01:35
伊東美咲だろう。
507日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:02:56
肥謙信
508??:2005/08/20(土) 00:20:51
みなさん、漫画のイメージで語ってない? 実際は、小さいおじいちゃんと思われ。 そいつらの、ボディーガードが強いんじゃないの?ランマルとか。
509日本@名無史さん:2005/08/20(土) 02:08:16
個人→上泉伊勢守信綱

領主としては→織田信長

家臣としては→秀吉

510日本@名無史さん:2005/08/20(土) 08:35:58
やっぱ一対一の真剣勝負じゃ伊勢守かな
511日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:03:39
上泉伊勢守信綱は、弟子の活躍も含めると並ぶ者がいないね。
野戦でまともにぶつかった時の軍の強さは、島津義弘と謙信かな。

謙信は軍で移動中、敵がいきなり真ん中に突っ込んできて、
普通なら二つに分かれるはずなのに、
当たり前のように蛇のようの包み込んで倒した。

512日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:12:21
羽柴筑前守秀吉かな・・・秀吉は強い!
しかし、一番強いのは・・家康か、信玄。信長は、詰めが甘そう。
513日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:33:40
・・・名も無き足軽の皆さん
514日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:28:43
徳川家康で間違いない。
515日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:57:32
>>512
信玄は最強から外れるだろう。戦は下手だ。
正確には最強の軍団の大将だな。
516日本@名無史さん:2005/08/20(土) 20:31:15
>>390
結局、上杉が大軍相手に戦って勝った、というか少なくとも負けては
いなかったことにかわりないじゃん。

>伊達は、鉄砲の猛烈な撃ち合いだけで終了。伊達勢はたった1日で北の目城へ引
き上げている。

ものは言い様で、上杉側から見れば、とりあえず防戦成功。

>同日部下には総力戦をしたいが、大御所の手前できない
のでとりあえず鉾を収めておくという意味の文書を残して兵を退いている。

負け惜しみともとれるわな。既に大挙して手を出したんだから、勝てる
自信があるなら、長期戦とまではいかない位にもう少し粘ればいいと思うが。
517日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:25:27
518日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:19:20
山路弾正よいしょのしょ!
519日本@名無史さん:2005/08/22(月) 00:00:07
豊臣秀長だろ
520日本@名無史さん:2005/08/22(月) 21:20:30
521日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:17:30
どの武将もそれぞれ味があって甲乙
付け難いが「最優秀戦略アイデア賞」は
秀吉が最有力候補だとおもう
522日本@名無史さん:2005/08/23(火) 08:24:25
百姓A
攻撃力 10
防御力 10
知力 10
政治力 0

10段階評価としてこんなのもきっといたはず。
523日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:58:48
>>516
>結局、上杉が大軍相手に戦って勝った、というか少なくとも負けては
 いなかったことにかわりないじゃん

関ヶ原後は、最上に大敗してますが何か? 景勝は奥州では良いところ全くなし。
義光にトータル33万石奪われたのが何よりの証拠だな。戦中は最上にエネルギーを
注ぎ、戦後は伊達の南下に神経をとがらせ……。
『会津陣物語』などは負け犬の遠吠えとして読むと趣がある。
524日本@名無史さん:2005/08/23(火) 13:26:53
戦国最強で検索して一番上に来るやつが最強
525日本@名無史さん:2005/08/23(火) 15:49:42
>>523
論破されるのを恐れあえてココに書き込みをしている藻前は(プ
哀れだなwwwwww
517のリンク先でその発言してみな。無知な厨房君wwwwwww
526日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:02:38
おまえは、馬鹿だなあ。
そのスレでは、上杉厨(約1名)が、史実的にも意味のない、専門家から一顧だに
されていない『会津陣物語』『武辺聞書』への拘りで木っ端微塵に轟沈されたよ。

何せ、内容、期日ともほとんどでたらめwwwwwww いい笑いものになっていたなwwwwwww
しかもそいつの場合、「日本戦史と大日本戦史の区別もつかない」低脳君ということも判明。

恥をさらすな。無知な厨房君wwwwwww

527日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:15:39
上杉必死だなw
528日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:08:05
最上に大敗北喫した上杉が哀れ……

悔しいのぉ〜悔しいのぉ〜プププ
529日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:57:26
一人で大変だなw
530日本@名無史さん:2005/08/24(水) 00:17:07
地味だけど北条氏康・氏政の親子かな。
氏康は関東の旧勢力をほとんど撃破したし、
武田・今川・上杉ともやりあって生き残ったから。
氏政は上杉謙信を関東から完全に撤退させたから。
ま その後、秀吉に滅ぼされたけど。
531日本@名無史さん:2005/08/24(水) 06:29:39
>>529
自演乙
532日本@名無史さん:2005/08/24(水) 07:14:59
>>531
526-528は俺じゃないが?
上杉厨ウザイなw
533日本@名無史さん:2005/08/24(水) 15:42:43
戦術アイディアは信玄、豊臣、信長辺りだろう
最強はこの中じゃないのか????
534日本@名無史さん:2005/08/24(水) 16:47:09
蒲生氏郷に一票
535日本@名無史さん:2005/08/24(水) 20:46:42
信玄は領国拡大が目的だから、兵力を温存して効率よくやろうとするけど、
キチガイ軍神は、戦争オタクだから兵が傷付いても気にしない。
だから堂々と陣を張って戦うことが出来る。
目的が違えば、兵の使いかたが変わるから、後世の評価も変わる。
536日本@名無史さん:2005/08/25(木) 05:55:17
黒田如水です><
537日本@名無史さん:2005/08/25(木) 06:03:54
今川氏真
538日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:27:58
マニアックに長尾高景
539日本@名無史さん:2005/08/25(木) 18:48:17
上杉謙信
540日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:52:33
前田慶次郎と上杉景勝 佐久間盛政(赤鬼けんば)
541日本@名無史さん:2005/08/26(金) 02:02:12
前田利家が助けた武将は 浅野長政(おねの実弟、北の政所)
福島正則 伊達政宗 
542日本@名無史さん:2005/08/26(金) 05:44:14
>>535
領国拡大をしていく中で兵力温存ばかりを考えていたのでは、結局領地安堵を
するだけで実質の支配が出来ていないのと変わりない
そういう意味で積極的に実質の支配勢力を拡大出来ていて、戦闘専任の兵を
増やしていった信長は最強
それが死後も後継者秀吉が瞬く間に全国を統一出来た理由でもあるだろう

543山形の商人:2005/08/26(金) 09:34:03
柴田でしょう。最強は
544日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:45:57
やはり、家康が一番だと思います。
政治も、戦略の一つだし秀吉が死ぬのも計算の
うちだろうし。
その点、秀吉は晩年の暴挙・奇行が彼の強さ・価値をぐっと
下げてしまったし、豊臣の歴史の浅さ自体が弱さであった気がする。

でも、本当は長曾我部が一番すごいと思ってます。
545日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:34:57
個人として強いのか、戦略や戦術が巧いのかどっち?
546山形の商人:2005/08/26(金) 14:08:32
>>544
はっきり言ってありえません。
なぜ長曾我部なんですか?
547日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:19:00
家康じゃないですか
548日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:24:33
>>545
個人として強いとかだったら 最強は本多忠勝!
549日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:36:08
個人なら柴田勝家
550日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:52:22
信長でしょう。ホトトギスを殺しちゃうんだから
551日本@名無史さん:2005/08/26(金) 15:47:22
本多忠勝だろ
552日本@名無史さん:2005/08/26(金) 15:52:36
一番と言うからには最後の戦国時代の武将の家康でしょう。秀吉も信長も信玄も負けたのです。
先に死んだ以上最後まで生き残り更に徳川幕府を築いた家康が真の最強勝者です。
戦略にしても島左近、真田幸村、黒田、竹中も非常にクレーバーで有ったと存じますが
大河の流れの1部分でしかありません。大河を最後に仕上げた家康が最強でしょう。
553日本@名無史さん:2005/08/26(金) 16:00:30
強い武将の定義とは何であろうか。合戦に強いというのもそうだろうが、国を富ませ大兵力を整えるもまたそうではないだろうか。今川義元とはそういうタイプの武将であった。
 今川家というのは元々名門守護大名である。しかし当時は名門であるということだけでは生きてはゆけない時代である。意識変革ができなかった旧来の守護大名は下克上の好餌でしかなかった。
守護大名から戦国大名への脱皮に成功した家は少ない。武田家は成功した好例であろう。
 信玄と義元では一つ共通点がある。それは共に内政の名手であったことだ。これは決して偶然ではない。古い体質から新しい体質へと変革することは容易ならざることだ。
旧来の権利の上にいる国人たちの抵抗を抑えて支配機構の変革をせねばならないのだ。
そこに求められるのは強力なリーダーシップとたぐい稀なる統治手腕である。いくら合戦に強くても体制変革を実行できる手腕がなくてはその家は滅びるしかない。
554日本@名無史さん:2005/08/26(金) 16:01:56
義元を見るとそれが非常にうまいことが分かる。名門であればあるほど家中に反対が巻き起こるのが普通だ。しかし今川家には目立ったそれは見られない。
義元が無理なく「伝統」を打ち破ったことが伺える。これは案外見落としがちだが極めて重要なことだ。
 また義元は先々代の氏親が制定した「今川仮名目録」に大幅な追加をしている。この中で「不入権」の否定を行なっている。
不入権とは足利将軍家により定められた特権であり、これを否定するということは将軍家の権威の否定に繋がる。
これは今川家が名実ともに実力第一の戦国大名にステップアップしたことを意味する。
 さらに民生にも力を入れ、関所の撤廃や検地も行なっている。楽市・楽座なども信長よりずっと早くに実行しているのだ。
 このような優れた内政手腕が二万五千という大兵力を動員できるほどの国力を生み出したのだ。
兵法の鉄則は相手より多数の兵力を整えることである。
ならばそれが出来た義元はまさに兵法に通じた武将だといえるのではないか。奇略で勝つばかりが能ではない。
定石を手堅く実行できるというのもまた優れた手腕なのである。
 軍事侵攻を行なう一方、抜かりなく内政も行なう。国力の充実が兵力の充実に繋がり、ひいては自国の拡大をもたらす。これこそ今川家が大勢力となった秘訣であった。
 信長に劇的な敗北をしたこと、また幼少時代に人質となっていた家康が後世、義元を悪く言い触らしたため不当に低い評価が為されてしまったが、今川義元とは間違いなく名将であったのだ
555日本@名無史さん:2005/08/26(金) 19:40:10
静岡塵乙
ていうのは冗談だが、静岡の人って義元と家康と忠長と
石川知事とでは誰がいちばん好きなんだろうか
556日本@名無史さん:2005/08/26(金) 19:40:33
>>552
その理論だと日本史最強の武将は小泉純一郎になるぞ
557日本@名無史さん:2005/08/26(金) 20:06:10
>>552
最後まで生き残った最終勝利者だろ?
最後に勝ったから最強なら劉邦は項羽より強いのか?アホか。
558日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:36:32
水谷正村とか
559日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:54:16
島津しかいないだろう。義久は九州一円をほぼ統一したし
義弘は20万の明軍を2万足らずで破ったしな。

武田・上杉が戦国最強って認識が当時も強かったようだが
島津がもし中央に居たら形無しだったと思われ。
戦術レベル(合戦)の戦いではやっぱり島津最強だろ。

ちなみに信長・秀吉は合戦弱かったね。兵が弱いんだろうな。
信長の尾張勢は3万の大軍で6000足らずの浅井長政率いる近江勢に
かなり押されまくったしね。最終的には勝ったけどさ。
560日本@名無史さん:2005/08/27(土) 03:15:06
秀吉の前で、頭を剃った当主がペコペコ謝ったのはどこでしたっけ?
島津が最強とは笑止だな。
やはり、最強は秀吉しかないね、家康も秀吉の生前は
ご機嫌取りに汲々としていたし。
561日本@名無史さん:2005/08/27(土) 06:22:40
その理屈で言えば信長最強になるなw
562日本@名無史さん:2005/08/27(土) 12:30:42
大名の統率力、武将の質、兵の強さのトータル=軍団で見ると。

秀吉は譜代の家臣団、兵の質で見劣りする。
信長の遺産を受け継いだので、一から自分で築いたものではない。
秀吉は強さよりも、どちらかと言えばうまさだね。


563日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:58:58
真田だろ
当時生きてた人がいってるんだから
日の本一のつわものだと
564日本@名無史さん:2005/08/27(土) 22:34:31
ばか 最強は義経
565日本@名無史さん:2005/08/27(土) 22:49:38
平知盛
566日本@名無史さん:2005/08/28(日) 00:28:57
>>560 その島津に大将首2つ?もとられたのはどこの誰? 直属の大将ははさっさとトンヅラしたのに
567日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:28:49
仙石君
568日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:31:40
長宗我部と十河、仙石は軍監
569日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:47:47
単なる合戦上手なら上杉謙信・島津兄弟
外交上手なら秀吉
新しい発想・戦略で信長
忍耐力と皮下脂肪で家康か
570日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:48:18
ああ、武田信玄が抜けてたな。
奴は軍団育成上手ってとこか
571日本@名無史さん:2005/08/28(日) 03:16:47
>>561
信長は光秀に滅ぼされたから、武将としては
光秀>信長
そのまま天下人になる可能性のあった(中国大返しがなければ、その可能性もあった)
光秀を破ったので
秀吉>光秀
つまり
秀吉>光秀>信長
なのさ。

秀吉にとっては、仙石が負けようが、池田勝入が死のうが、全体の戦略
からみれば、たいしたことはなく、蚊に刺された程度でしかない。
572日本@名無史さん:2005/08/28(日) 03:27:14
織田や徳川や柴田と戦いながらも本能寺から8年余りで天下統一した秀吉でしょう!
573日本@名無史さん:2005/08/28(日) 03:44:46
本多忠勝
574日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:36:00
>信長は光秀に滅ぼされたから、武将としては 光秀>信長

ワロタ
575日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:48:38
>>571の単純さに脱帽w
576日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:48:09
最強の武将が部下に殺されるわけはないから、信長が最強でないのは確かだ。
577日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:51:01
本多忠勝は家康を倒してないので
家康>忠勝は確定。
578日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:51:27
チョン征伐失敗した秀吉が最強な訳はないw
579日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:52:43
その家康は光秀にビビって逃げたので
光秀>家康>忠勝も確定。
580日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:57:45
武将としては、島津義久でしょう。
位違いの豊臣軍{本州軍?}以外に遅れを取らなかったし
弟の義弘公もすごかったけど、九州制圧での手腕を考えると義弘公より上の気がする。

単純な生き残りで考えたら、徳川秀忠あたりが最強になっちゃうよ。政権の安定化・世襲化までさせたし。
581日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:05:02
豊臣秀吉より徳川家康や織田信長というならまだ理解出来るが、島津義久?
スケールが違うんじゃないか。
582日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:07:08
俺的には最強の定義が合戦上手で、それで言うなら上杉謙信か島津兄弟だろうと思う。
島津の武勇談は上げたらキリないくらいあるし、上杉謙信はあの武田軍団を相手に
半分にも満たない兵力で互角に戦い抜いた。

天下取った=合戦ツエーじゃないから信長・秀吉・家康は除く。
大体、信長にしろ秀吉にしろ、寡兵で大軍を破った事がない。
てか尾張兵弱すぎ。

家康は三河兵が強かったし、5000で1万を越える朝倉軍を破ったから
結構強いとは思うが、武田にはコテンパンにのされて糞漏らして逃げたからな。
583日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:12:46
大軍を集めるのも実力の内だ。
島津が豊臣より強いなら勝てば良かった。
584日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:15:40
>大軍を集めるのも実力の内だ。

確かにそうなんだが、そんなのを最強って言いたくないだろ・・・

秀吉は敵の3倍以上の兵力を集める達人
信長は敵の倍の兵力を集めて更に新しい戦略を立てる名人
家康は我慢の達人

これで彼等は天下をとりますた。
585日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:17:39
>>584
それで天下を取った。
島津は負けた。
586日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:13:10
自演
587日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:32:35
戦の話?武勇の話?
588日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:39:59
>>582
三河兵は、そんなに強いとも思えない。
三方が原以外にも、武田の武将相手にころころ負けているし、
勝頼の代になっても、織田の援軍がないと単独では武田とは戦えない始末で、
「いまに織田の援軍が来たらきっと後詰する。織田の援軍はそこまで来ている」
などとウソ八百を言うも、結局は高天神城の後詰もできず、設楽原でも織田軍頼み。
姉川の合戦で徳川が活躍したという話も、近年では怪しくなってきている。
589日本@名無史さん:2005/08/29(月) 01:20:08
>>588
武田の甲州兵が強すぎるんだよ
590日本@名無史さん:2005/08/29(月) 06:24:40
>>582
信長は美濃制圧まで大抵敵より少数で戦ってるのだが
591日本@名無史さん:2005/08/29(月) 06:32:21
>>590
だから美濃制圧に10年もかかったんじゃないか
592日本@名無史さん:2005/08/29(月) 06:36:09
しかも西美濃3人衆を寝返らせて(秀吉がやった)やっとこさ
美濃を手中に収めただろう。更に言えば斎藤義龍には勝てなくて
馬鹿殿の龍オキ(漢字忘れたw)になってようやくだ。
593日本@名無史さん:2005/08/29(月) 07:18:13
スレ違いだが無知な俺に誰か教えてくれ。
信長が武田を破った伝説の鉄砲三段撃ちってネタだったらしいけど
じゃあどうやって武田軍に勝ったんだ?
594日本@名無史さん:2005/08/29(月) 07:48:08
兵数・地形・挟み撃ち
595日本@名無史さん:2005/08/29(月) 07:53:39
>>594
普通に戦って勝ったのか・・・織田軍の被害はどんなもんだったんだろう。
楽勝?な訳はないよな。勝頼は割と合戦強かったみたいだし。
596日本@名無史さん:2005/08/29(月) 13:51:33
>>595は馬鹿かな?
597日本@名無史さん:2005/08/29(月) 13:58:39
>>594
合戦関係の本に出てたのだと、一方からしか攻め入れない地形に陣取り
面に鉄砲隊を配し、鉄砲隊の間から三河兵が出入りできるようにしたらしいよ。
勝頼も結構な名将だったのだけど、騎馬隊が鉄砲隊に勝てるという当時の常識に囚われすぎていたのが敗因だそうだ。
鉄砲隊だけなら如何に多くても武田騎馬隊の突撃を全て防ぐことはできない。
なので、鉄砲で馬が混乱した所に、強兵の三河兵が強襲し次々に倒していったんだって。
実質でいうと、鉄砲で死んだ人数に数倍が三河兵に討たれたんだそうだ。大久保卿の本かなんかにも愚痴で書かれているらしいよ。
織田軍の被害は、鉄砲隊の一部と強襲部隊が壊滅したらしいよ。三河兵については特に書いてなかった。
襲い掛かってみたら強いので逃げ出したというのが事実みたいだけどね。
598日本@名無史さん:2005/08/29(月) 14:00:29
>>596 何で?
599日本@名無史さん:2005/08/29(月) 15:36:13
甲陽軍鑑の長篠合戦は>>597みたいな感じだな。
600日本@名無史さん:2005/08/29(月) 16:57:08
スレを読まずに大内政弘、英林孝景を挙げてみる。
601日本@名無史さん:2005/08/29(月) 20:15:47
上泉信綱だから
602日本@名無史さん:2005/09/01(木) 19:20:55
最上義明だろうな
603日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:17:57
秦の始皇帝にきまっておろう。春秋戦国の中原の覇王。王の中の王、皇帝に
最初に就いたのは、奴が最初だ。
604日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:24:31
直江山城守兼続が、日の本の名将と称えたのが二人いる

旧主君・上杉謙信
元武蔵岩付城主・太田資正

、の二名。
605日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:24:34
中国を出しちゃダメだろう。
それに始皇帝自体がすごいのでなく、周囲の人達がすごい働きをしたからああなれた。
師父達を退けた後の始皇帝の動きをみればわかるよ。
なので、その始皇帝より戦略で勝る真田昌幸!幸村など足元に及ばないし
606日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:52:20
シーマンズ
607日本@名無史さん:2005/09/02(金) 05:47:56
>>604
直江山城は皆に買い被られてるんじゃないか?名将だ名将だって言われる割には
実績が余り無い。むしろ対最上戦なんかでは失態を晒してる訳だが。
608日本@名無史さん:2005/09/02(金) 14:40:37
>>607
内政面の方が貢献が大きいと思うよな
609日本@名無史さん:2005/09/03(土) 21:31:53
直江分水路だったかな?が今も残ってるらしいしな。
もっとも命じてお金を工面した謙信のが大変だったらしいが
610日本@名無史さん:2005/09/04(日) 13:07:26
関東武士は個人戦は強い。
鉄砲主流の戦国の合戦は苦手。
北条氏の兵制は遅れていた。
611大納言:2005/09/04(日) 16:49:22
戦国最強の武将といえば<徳川家康>だと思います。戦国サバイバルを勝ち抜き、武家の棟梁たる『征夷大将軍』に任ぜられた訳ですから…
612日本@名無史さん:2005/09/04(日) 17:43:05
武田にボロ負けしたじゃないか
613日本@名無史さん:2005/09/04(日) 22:11:01
三河だろうが甲斐だろうが兵隊の強さは
どこの地方でも大した差はないと思うが
614日本@名無史さん:2005/09/04(日) 23:16:17
>>612
三倍近い兵を相手にではね(苦笑
615日本@名無史さん:2005/09/05(月) 21:54:38
>>613
関東では1570年頃の合戦でも一騎打ちをしてた。
武士としての伝統と誇りがあるが故に、戦国時代には足枷になったか。
小田原北条氏の軍役に鉄砲は少なかった。

その関東にあって、太田道灌は革新的過ぎる(足軽戦法生みの親)人物だな
616日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:05:20
>>613
関が原の島津の引き口で圧倒的な兵数差の井伊・本多隊がなぜ全滅させられなかった?
三河兵1人居れば、尾張兵3人でも勝てるという戦績は?
美濃兵相手に兵力が多い信長が押されたりしていた理由は?
紀伊の鈴木に織田軍が長年梃子摺っていたのは何で?{鉄砲の総数なら織田の勝ちだが}
617日本@名無史さん:2005/09/06(火) 02:46:20
>>614
確かに織田の援軍を勘定に入れなければ3倍ですが、織田の援軍3千がいる
ので2倍です。
2倍の敵を蹴散らしたなら、賞賛されるかもしれませんが、散々なめにあい、
これにこりたのか、高天神城が勝頼に包囲されて後詰の要請が来ているのに
織田の援軍待ちで結局は見殺し、三河の長篠城が包囲されても織田頼み。
結局、設楽原で武田の武田の大将クラスの将領が軒並み戦死するまでは
ひたすら耐え忍ぶだけ。ぜんぜん華がありません。

まあ、でも、確かにサバイバル術には優れていたのでしょう。
秀吉が、長宗我部、雑賀、紀州を制圧した後で、関東への出陣の陣触れ
(上杉家にも出陣を促す文書などが残っている)を出すやいなや、あっという間に
上洛して臣従するなど頭の切り替えも早いです。
関東への出陣(対北条)としながらも、実際のネライは徳川だったので、びびった
のでしょう。

618日本@名無史さん:2005/09/06(火) 08:43:34
荒木村重
619日本@名無史さん:2005/09/06(火) 12:17:33
山田長政は戦国武将では無いですか?
シャムで王様になった
620日本@名無史さん:2005/09/06(火) 12:41:21
立花宗茂
621日本@名無史さん:2005/09/06(火) 18:20:07
八王子城家老
中山勘解由
622日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:11:17
長野業正も篭城とかさせたらすごい
623日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:22:07
年代によって大名の勢力が違うので単純に比較できないが
野戦では武田の騎馬軍団が最強だろう
また戦術・技能などを抜きにして
根性だけ最強なのは三河衆だろう
624日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:40:10
>>623
根性最強は島津じゃないか?家が動員しなくても
九州から上方まで着ちゃうような連中はいないぞ?w
625日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:00:54
北条家臣団で最強は鉢形家臣団(北条氏邦臣)
その中でも秩父衆が強かった。
でも鉄砲は少ないから騎馬中心の武蔵武士!

>>624
武田は強いよ。でも関東武士と同じで鉄砲主流の時代に遅れてしまった・・・
626日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:07:02
山路弾正よいしょのしょ
627日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:12:01
真田昌幸・幸村父子
628日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:32:38
>>627 生き残った兄貴も強かったよ。結構な武勲を立ててる
629日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:46:05
>>625
いや、俺も武田が強いのは認めるし
武田・上杉が当時でも最強の軍団として認識されてたから。
ただ、根性とか気合いではやっぱ島津かな〜と
武田の強さは騎馬隊とか訓練された強さだと思う。
630日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:52:34
>>610
関東武士は個人的に強いという具体的な例はあるのか?
そもそも関東武士がさほど強かったのか?
そして、その時代はいつのことか?
631日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:06:53
鎌倉期や室町期で出てくる坂東武者が関東武士なのだが・・・・
太平記みたいにその辺の戦記を見れば手っ取り早くわかると思うよ。
戦国期だと、それぞれの戦記を見ないとだからきついかもね
632日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:11:45
>>630
上杉が攻めてくれば上杉に従い、帰ればまた北条に従う。
織田が攻めてくれば織田に従い、帰ればまた北条に従う。
つまり、あまり合戦してませんので強いか弱いかは解りませんが
へたれだと思いますw
633日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:19:31
>>632 北条という関東武士集団が強かっただけだと思うが・・・・・
日和見は普通のこと。
近畿や中国地方、武田の諸領地などみれば一目瞭然だと思うのだが
634日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:27:40
>>631
「太平記」の、どこの戦闘記事から、そう判断されましたか?
635日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:36:24
関東平野がだだっ広いから、武士団も広い平野を駆け回っていたように見えるけど
実際は山地、丘陵地で多くの武士団は派生してる。
有名なのは源平期の武蔵武士団だが、畠山重忠、熊谷直実(私市党)、金子家忠(村山党)、
児玉党、猪俣党・・・個人戦全盛の時代は強すぎ!
でも、南北朝後の動乱で多くの名族は没落していった(河越氏など)。

関東で最高の武人は、平将門と大田道灌かな。でも二人とも悲劇的な最後、、、
戦国後期の太田三楽、佐野了伯も反北条で不遇だったな。
636日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:40:20
>>635
それで、どこの地方と比べて強かったのですか?
平治の乱でも、強かったのですか?
637日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:40:39
>>634
足利勢と新田勢の戦いについて、戦略での劣勢はあるが、個人戦では勇猛さが出ているよ。
鎌倉攻めと幕府の対応での個人戦とかもね
全体では負けても兵の勇猛さは出ていると思うのだけど
638日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:44:49
>>637
その個人戦で、強かったという具体的な根拠はどこにあるのですか?
639日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:48:12
>>638
読んで、戦闘とかの描写とかでそういう感じなかった?
640日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:51:25
>>632
それって上野武士の事だね。
上野(群馬)は長野、由良氏が二大勢力だったけど、勢力が分散してたから仕方ないよ。
上野沼田の真田もあっちいったり、こっちいったり・・・どこも一緒だよ
>>635
とりあえず、小説あたり?
でも司馬遼太郎のは真実じゃない。木曽兵が関東兵より強いなんてありえない。
関東武士も平野だけで馬走らせてた訳じゃない。
木曽義仲も武蔵生まれだし・・・斉藤別当も武蔵武士。
641日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:59:19
>>639
「太平記」の戦闘の描写で、関東武士が強かったのは、どの部分(何巻)
ですか?
しかも個人戦で強かったのは、矢いくさか、打物かいずれでしょうか?
642日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:00:57
>>638 割り込んですまんが
どういう答え方だったら納得する?
どういう根拠を求めているのかがわからないのだが・・・・・
俺も太平記や平家物語読んで、坂東武者って強いなぁと思ったのだけど
643日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:05:24
間違い
>>635>>636
結局のところ、関東の諸豪族は北条と一緒に共倒れした小田、千葉みたいな家も
多かったし、宇都宮なんかは秀吉に睨まれて潰された。
里見、成田も江戸初期に断絶。結城は自然消滅・・・
武蔵、上野の小戦国大名も江戸には生き残れなかった。悲惨すぎる。。。
歴史的な後世の評価も、勝者のものだと言える。
>>641
関東武士で強弓の者が多かったのは、斉藤別当の話がある。
那須与一の子孫も、江戸期のお家騒動(津軽氏絡み)で断絶して旗本千石・・
644日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:20:03
>>642
斎藤別当実盛の言が根拠ですか?
実際にそう思ったかどうか疑問ですが、それほど弓上手であれば、
なぜ、佐藤兵衛尉義清(西行)に弓馬の道を学ぶのですか?
関東が強ければ、都の弓馬の術等学ぶことはないのですが。
645日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:23:02
>>641
研究資料として読んだので、手元には新太平記という小説しかない
また、読んでから何年か経っているので、申し訳ないが細かく答えられないです。
ただ、
・鎌倉幕府相手に鎌倉へ討ち入った際の戦い{矢戦と突撃共に}
・尊氏の九州遁走に入る時の身代わり
・新田の関東への遁走時の身代わり
・新田滅亡
当たりだった筈。確認は新でしか出来なかったので、多少違うかもしれません。
とにかく、壊走時の部分で、私は特に感じましたよ
646日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:26:09
>>644 >>642も言っているがどんな根拠なら納得できるんだ?
資料で製作者の私見が入ってない物など無いと思うのだが。
資料ではダメだというなら、どうすればいい?
このままだと、文句を言いたいだけの輩と判断せざるおえないのだが
それも不本意でしょう?
647日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:50:25
>>646
資料には、私見が入っているでしょうが、それでも根拠となる具体的な
戦闘例が無いので、疑問があり、質問したまだですが、疑問を提示すれば、
文句を言いたいだけの輩となるのですか?
もちろん不本意ですが、ようは関東武士が強かったという根拠が、
どこにあるのか?上方よりも強そうでないし、どこの地方と比べて
強かったのか?ということです。
648日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:56:38
それは頼朝の事ですよね。母は熱田大宮司の娘だから名古屋生まれの筈だけど
頼朝は都の人だから・・・
武蔵武士を始め坂東武士は弓馬の術が巧だった。
>>647
西国武士
649日本@名無史さん:2005/09/07(水) 01:12:37
>>647
疑問を掲示するのは別に良いと思いますし、それだけでは文句にはなりません。
でも、答え方がわかる質問の仕方で無いと解答できません。
それに、答えてくれた話に対し、なんの感謝の意や「どこまで納得できたか」を示さずに一方的に質問を被せるのでは、
本気で聞いているのか読み手がわからず、荒らしと区別が付きません。
学生ならば良いでしょうが、社会に出て、特に悪戯をする人がいる所では、そのような配慮が必要ですよ。

>>648で答えてくれているように、どこがわからないかを具体的に順々に聞いて行くとより求める答えが出ると思いますよ
650日本@名無史さん:2005/09/07(水) 01:20:07
>>649の例
西国武士と関東武士が直接戦ったことはあるんですか?
ある場合、その戦の名前を教えてください
651日本@名無史さん:2005/09/07(水) 01:43:35
>>648
頼朝だけでなく、西行の弓箭談義について関東武士はどう考えて
いたのか?坂東武士が弓術に巧みだったとする根拠は?
西国武士が劣っていたという根拠は?平治の乱はどうですか?
>>649
大ざっぱにいえば、そもそも関東的共産主義史観である
「在地領主制論」にも疑問があります。解らなければ、
書物で調べれば少しは解るでしょう。
652日本@名無史さん:2005/09/07(水) 06:18:35
>>651 
もう完全にスレ違いだよ・・・最後のレス
坂東武士=牧(馬の牧場)⇒乗馬に巧みで騎馬戦の熟練者。いわば戦のプロ集団。
平治の乱では負けてるけど、逆に平山季重(西党)、熊谷直実ら名を高めている。
「在地領主制論」とか難しい事を言うのに、なぜ素朴過ぎる事を聞くのか?
富士川、宇治の合戦・・・・・

これ以上は別スレ建てた方がいいですよ。
653日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:56:06
結論
イナカモノ:強い
シティボーイ:弱い
654日本@名無史さん:2005/09/07(水) 22:49:50
>>652
馬牧場は、西日本の島々にもありました。それで馬牧場がなぜ騎馬戦の
熟練者になるのですか?関東武士の弓馬は、一部のプロ集団を除いて
セミプロクラスでしょう。セミプロゆえ、まともに闘うとプロの平家軍に
勝てないので、非戦闘員の殺害や儀礼(当時の国際法というべきか)を
破るという行為となったのであろうと思います。
関東武士のプロ集団とは、平家の家人であったもの、あるいは将軍家の
弓術師範の下河部行平の様に都で弓馬の技術を磨いた者(下河部行平の
父行義は源頼政の郎従であったことも注目)。セミプロクラス?としては、
佐奈田与一義忠が馬の暴走に御することが出来ず、郎党との距離が離れて
しまい、結局討たれてしまったことがありますね。
平治の乱で義朝側は、三河、信濃、甲斐、相模、武蔵、上総、常陸、上野の
東国武士軍団ですが、清盛側は、郎党のほか伊勢、備前、備中でしたか、
西国武士に負けております。平山氏はともかく、熊谷氏は西国に本貫を
移して後、郷土の歴史や血脈にも関わって来る(他にも鎌倉御家人の末裔
が多い)ので、この部分に関しては矛をおろします。しかし全体的に
関東武士は強くなかったとはいえそうです。
655日本@名無史さん:2005/09/07(水) 23:47:48
>>654
答えになるかわかんないけど、参考までに
関東での馬の生産は上方や西国に比べて格段に多い。風土記だかにあったはず。
また、西国に比べて、関東では騎馬による戦闘が多かった。
将門の乱について調べると、上方兵はまともに戦ってないことがわかるし、
戦い方ももっと激しいのがわかる{配布資料だったので原典は忘れた}

また、源義家に関するのを勉強した時は、弓馬について東国での過酷な訓練について書かれていたよ
そして、西の平家は主に船戦と戦術が旨かったが、騎馬での戦闘は東国に勝るもの無しというのが、平家物語にあったはず。
だから、弓馬による個人戦闘よりも陣形による戦闘が主。
個人同士では戦績が良い武士は少なかったと思ったけど・・・・
知っていたらこの辺、教えてください
656日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:00:28
>>654 平家にも東国武士が多いって言うのは知ってる?
657日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:01:42
>>653
わかりやすくてよいw。義家とかの時代から、ド田舎(白川以北)を攻める
ために、田舎(関東辺り)で兵を募ってったわけだから、戦闘馴れしてる
だろうし、当然訓練も怠りなかったんでないのかね。
658日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:02:57
白河よね、スマソ^^;
659日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:43:46
>>653で当たりだろう。京周辺の兵は弱いってのは
戦国〜の常識だったし、九州・甲斐・東北・四国の辺境の兵は強いからねぇ。
660日本@名無史さん:2005/09/08(木) 01:34:03
>>655
馬の生産量では、東国が多いでしょう。難波の垂水御牧でも東国の牧から
貢納された馬が飼育されております。弓馬の技術は別ですが。関東の
騎馬戦闘は、弓馬技術より、馬上組討でしょう。あとは資料を示して
おられませんので、答えようがないのです。源義家も、「後三年記」から
非戦闘員の虐殺や儀礼の無視という武士にあるまじき汚点を残したのは
有名ですね。
「平家物語」の記述でそう記してあるのは斎藤実盛の言でしょう。それも
鎌倉政権の時のものですが、それなら、鎌倉政権は、北条泰時にしても、
なぜ、北面の武士、西行の弓馬の技術談義に感嘆するのでしょうか。
海戦での合戦の最中平家側は「いくさはこうこそするなれ」遠くは射ち、
近くは打物で闘い源氏方を蹴散らしたが、源氏側の方が非戦闘員まで
殺す集団戦で、手段を選ばなかったといえるでしょう。
>>656
平家の家人のことでしょう。都で技術を磨いたわけで、関東武士が強い
わけではないでしょう。
>>657
妄想するより、どう戦闘馴れしたのか?どのような訓練か?提示して頂け
ませんか。
661日本@名無史さん:2005/09/08(木) 01:41:25
>>659
また、根拠のない妄想が始まったか。具体的な戦闘例を示せ。
人国記みたいな、辺境優越論で語っておるが、辺境農奴、奴隷軍の
強かった点はどこか?
662654おかしいよw:2005/09/08(木) 08:22:09
そもそも頼朝が勢の中に、己れ程の弓勢の物はいか計有なんと問はれければ、実盛をだにも弓勢
の物と思召され候か、おくざまには十二束、十三束、十四そくを射るもののみこそ多く候へ、弓は二人ば
り、三人ばりをのみ持て候、鎧二三領などかさねて羽房までいぬき候もの、実盛覚えてだにも七八十人
も候はん、馬は早走りのきよく進退の逸物なるに、くつきやうの乗尻共が乗おほせて、馬のはなを並べ
て、親もしね、主もしね、子もしね、従者もしね、それをもみあつかはんづる事もゆめゆめ候はず、如
何なる郎等も一人して、強き馬四五匹づつ乗かへにもたぬ者は候はず、京武者、四国の者どもは一人手
おひぬれば、それをかきあつかふとて、先へ退く、馬はばくらう馬の京出四五町ばかりこそ頭も持上候
へ、下りつかれて候はんに、東国の荒手の武者どもに一あてあてられなば、いかでか、面をむかひ候べ
き、坂東むしや十人に京武者二百人をむけられ候とも、こたへ候べしとも覚えず候
663654おかしいよw:2005/09/08(木) 08:38:46
維盛は足柄をこえて関東で戦おうと、はやりたったが、侍大将上総守忠清は富士川の前で味方のそろうのを待つように進言した。
 長井の斎藤別当実盛は関東武者の強さを語ったので、平家の兵は聞いてふるえあがった。
 十月二十三日夜、富士川にいた水鳥が一斉に飛び立つ音に驚いた平氏は逃げた。
 翌二十四日午前六時ごろ、源氏二十万騎は富士川の岸で鬨の声をあげた。

17騎対200騎
源氏が固めていた陽明門・待賢門・郁芳門のうち郁芳門を守っていた
悪源太義平は待賢門が破られたと聞き、17騎の精鋭とともに駈けつけ、
平重盛軍を撃退した。 斉藤実盛、金子家忠、岡部忠澄、熊谷直実、
平山季重、猪俣範綱、足立遠元ら待賢門17騎精鋭と呼ばれる武将たちで
あった。 義朝軍は奮戦空しく、院宣を奉じ統制の取れた清盛の軍に
破れた。 平治元年(1159年)の平治の乱であった。
664日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:29:43
非戦闘員を殺すのが非常識とかいっているけど、当時の場合は、略奪したり、逆らう者を殺すのが普通。
上方の汚れ仕事をしない人たちだけの妄言だよ。木曽義仲はじめ、多々の武将がやってるよ。
それと後三年の役の時の非戦闘民への攻撃とかいうのを非難してるなら、東北兵の供給源であるというのも考慮に入れている?
それに義家は略奪を極力さけているという記述は読んだ?
戦闘の作法を言えるのは劣悪での戦闘をしてない証拠。修羅場をくぐってない証拠だよ
それと上方と不仲、または名声を上げすぎての貶めは常識。
上方の資料だけを盲信するのは頂けないよ。

戦闘訓練で有名なのは、軍団での流鏑馬大会。当たるまで何回もやるし、出来ない者は不面目を受ける
つまり、発言権が無くなり、土地争い等で潰される{風土紀だったはず}

兵の訓練においては、鹿島神宮など地方で武神を祭る神社で兵の訓練を受け、それから上方に行くのしか知らない。
これらは、神宮の資料他、いろいろな文献に書かれている。
いくつも資料を読んだなら一度は見たことあるはずだよ。
上方での訓練については聞いたこと無いので、資料掲示をお願いします{読みたいので}
665日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:37:20
>>660 >平家の家人のことでしょう
平家にも源氏同様、土着した地方ごとにいろいろ家がある。
その中で、桓武平氏で、瀬戸内に勢力ある清盛一族が急激に朝廷で勢力を伸ばしただけ。
だから、家人では無い。遠い親戚であるかも微妙。
将門の乱について、上方以外の資料も読んでみればわかるはず。図書館に行って調べれば幾つか出てくるよ。

逆に聞きたいのだが、なぜ関東兵が弱いと思う?
関東は武術発祥の地とされるほど、戦乱と朝廷の圧力に耐えてきた歴史があるとこなんだけど
666日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:47:06
この辺の話題が気になって一読した程度だけど、
>>660の人は、本当に「東国武士が強いか?」ということについて知りたいの?
いろいろ説得力ある話を皆無視して、ただ否定してるようにしか見えないんだけど
「東国武士は強くない」と主張したいなら、そう言ってから資料掲示する方がいいよ
皆と論点が連れてるように思うから
667日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:57:29
>>660清盛達の平氏は坂東武者という差別を受けてないよ。
関東の武士は皆、坂東人として差別を受けている。
関東の平氏も被差別民として迫害を受けているよ。
関東武士=源氏と思っているなら勘違い。何気に平氏を名乗る人が東関東には多かったよ
それに家の子でも、その人達は平氏を名乗れない、血族じゃないんだし
668日本@名無史さん:2005/09/08(木) 18:06:25
>>623
武田は、野戦に弱いよ。だから、決して平地で戦わず、
山周辺にしか領土を拡大できない。勝頼は、長篠で負けた。
信玄は、川中島で不意を突かれた。騎馬だけでは、ダメだよ。

野戦に強いのは、家康、島津だろ。平原で、寡兵で大軍を殲滅。
家康、姉川の浅井朝倉、長久手の豊臣。
島津、対大友、対竜造寺。

篭城戦では、真田か。山岳戦では、武田。包囲戦では、秀吉。

上杉は、謙信初め、柿崎、直江兼続、前田慶次など、一騎当千の個人の戦闘力が
高い豪傑が多い。軍全体や国家全体で機能してないのが、痛い。
謙信の一騎駆けでの信玄本陣奇襲の伝説や、前田慶次の最上大軍撃退の退き口など、

信長と毛利元就は、罠に誘い込んで、大軍と大将を討ち取る戦いだな。
諜報活動と囮を使って相手を油断させる乾坤一擲の決戦に強い。

桶狭間の信長、厳島の毛利。いずれも、相手は、2万以上の大軍。
669日本@名無史さん:2005/09/08(木) 19:11:06
>>668
面白いよ!
坂東武者も大軍同士の野戦では真価は発揮できないな。鉄砲少ないし・・。
歴史的にも戦略家は道灌だけだから(将門は化け物!)。
道灌は日本史上でも稀に見る名軍師だと思うが、太田家自体は関東で古い家ではない。

戦国時代でも坂東武士らしい武者はたくさんいた。三浦道寸、義意親子は坂東武者らしくていいね。

道寸の辞世が、
「うつものも、うたれるものも、土器(かわらけ)よ、砕けて後は、もとの土くれ」
670日本@名無史さん:2005/09/08(木) 20:57:19
本願寺
671日本@名無史さん:2005/09/08(木) 21:17:09
>>662,663
また、斎藤実盛か?『平家物語』が成立したのは13世紀の源氏の覇権が
成立した後ですよ。
平治の乱は、平家軍3千騎、源氏軍2千騎とあるが、実数は分からないで
しょう。17騎対200騎であれば包囲殲滅することも可能でしょう。
なぜ、しなかったのか?
>>664,665,666,667
当時、略奪、逆らう者を殺すのが普通?武士道のない東国では当てはまる
でしょう。「つはものの道 降人(捕虜)をなだむるは古今の例なり」
後は、いろいろな文献とか、抽象的なので答えようがない。
兵の訓練?近代でなく当時か?冗談で書いとるんか?笑うど。なんじゃ
そりゃ。これこそ資料を提示してもらいたい。
>関東が武士発祥の地?またマルクス史観「在地領主制論」か。
それで、朝廷の圧力に耐えたとか差別というわけか。武士発祥の地は都に
あり、分業化が進んだ西日本では、武士は「武」という芸により他と区別
した(専門家)社会的存在であった。それゆえ東国はセミプロといった。
これは「武士職能論」である。
>説得力ある話がない。『平家物語』にある斎藤実盛の言を何度も
繰り返すだけではないのか?まず「在地領主制論」「武士職能論」
「久米邦武」等で検索し、詳しくは図書館で調べれば良い。
>>669
坂東武士らしい武者とは、武士の情けを知らぬ者ですか?
672日本@名無史さん:2005/09/08(木) 21:27:06
聞く耳持たずの、痛い671はスルーで…すれ違いだしw

徳川四天王では榊原康政が好き。
本多、酒井の方が強いだろうけど。
673日本@名無史さん:2005/09/08(木) 21:34:10
>>671 >>660とかの書き込みと同じ人かわかんないけど、新しいの立てなよ
いくら書いても一読の価値も見出してくれないし、もういろいろ調べて掲示するの疲れた。
悪いが、俺もこれからスルーさせてもらう

>>672 榊原康政の部隊って堅実に強いというイメージがあるなぁ
勇猛だし、駆け引きもできてって理論的な感じがして俺も好き
感覚的な本多忠勝もいいけど、部隊指揮としては榊原が好き

井伊って有名だけど、戦闘的にはどんな戦い方をしたの?
あんまりイメージがないので、知ってる方教えてください!
67420面相:2005/09/08(木) 22:44:04
立花宗茂。
豊臣秀吉に「東の本多、西の立花」と言わしめた智勇兼備の猛将。
675日本@名無史さん:2005/09/08(木) 23:58:32
徳川の武将で、強いのは、弓の達人の内藤正成だろ。
鉄砲がまだ普及してない時代の長距離兵器で、敵を撃退。

織田信長を支援した朝倉攻めでは金ヶ崎殿軍をつとめ、三手の矢をもって敵六
人を倒した。

三河一向一揆や、武田との攻防など、主君の大ピンチにほとんど活躍してる。

戦国時代で、弓の達人はそういないだろ。16神将の1人。
676日本@名無史さん:2005/09/09(金) 00:04:07
まあ、徳川で弱い武将は、いないだろ。
家康の息子も、信康、忠輝と豪傑揃い。
祖父の清康も、5年くらいで、三河を統一したし。
677日本@名無史さん:2005/09/09(金) 02:26:14
長坂血槍九郎信政は?
678日本@名無史さん:2005/09/09(金) 02:36:46
>>672673
聞く耳もたずは、あなたでしょう。根拠もなく坂東武士が強いと。
結局、都合の悪い話はスルーですか。
一読の価値が見出せるものがないでしょう。嘘吐き、捏造、妄想、
プロパバンダの繰り返しただけはないですか。これゆえ頑固な
関東共産主義者は困ると思うのです。関東人は、本貫から離れた
関東武士出身の豪族はどうでもよい存在でしょうが、私自身は、郷土の
歴史と血脈から、そうはいかず関東武士には同情的なのです。しかし
西日本的文化から観ると武士らしさが見当たらない。やはり、関東、
東北が日本と違い、異文化圏であったことによるものでしょう。
スレ違いというのも理解出来ない。我が国の文化領域を設定せず、
地域、風土が生んだ、戦国大名を語っても意味があるのかどうか。
679日本@名無史さん:2005/09/09(金) 03:21:01
>>678
嘘吐き、捏造、妄想、プロパバンダ
680日本@名無史さん:2005/09/09(金) 03:57:07
お前ら何をもって強い・弱いの定義してんだ?
大体、三河兵が強く濃尾兵が弱いなんてのは、
江戸時代の幕府お抱えの学者達が作り上げた妄想だよ。
同じように関東武士は強い勇猛なんてのも、
学者達が作りあげた妄想だぜ。
大体、国が違っただけで似たような物を食ってて
体格差や体力差が出るわけないだろう。
681日本@名無史さん:2005/09/09(金) 04:26:29
兵士つっても全員が戦って、全員が討ち死にするわけではないので、
強弱を語る上でのメインは、「劣勢に陥った状況の中でいかに敗走しないか」ということじゃね?
その点で、殿様をお守りしなければ、という意識の高い三河兵の方が強い。
682日本@名無史さん:2005/09/09(金) 04:30:50
>>680
>大体、国が違っただけで似たような物を食ってて
>体格差や体力差が出るわけないだろう。

久留米編成の師団と、京都や大阪編成の師団の戦闘力が同じだったとでも?
とてもそうは思えん。
まあ硫黄島をみても、指揮官しだいで結構変わるけど。。。

アメリカ南北戦争の南軍の強さを見ても、
生活習慣や文化の違いってのは戦闘力に影響するんじゃないかね。
683日本@名無史さん:2005/09/09(金) 06:53:24
確かに近代戦に於いても関西部隊は極度に弱かった
勇猛果敢に戦ったのは九州や関東の部隊
東北部隊は粘り強かった
全国的に地域差がなくなってきた近代でもそうなんだから
あながち間違いではないと思う
684日本@名無史さん:2005/09/09(金) 12:23:01
松平清康が、守山崩れで家臣に殺されなければ、
尾張の織田家はとっくに終わっとる。
この時点で、斉藤道三は、国盗りできてないんで、美濃も攻略されてる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E5%BA%B7

家康登場を待たずして、徳川家が天下統一。

685日本@名無史さん:2005/09/09(金) 13:40:38
はいはいわろすわろす
686日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:10:17
>>683
いや、最強なのは広島第五師団だ。
第五師団が乃木配下だったら他の師団はいなくても旅順は三日で落ちたし、日露戦争に参戦した師団
が全て第五師団と同じ強さだったら、樺太もウラジオも取れたしロシア軍を満洲から叩き出すことができ
た。
また、太平洋戦争に参加した師団が全て第五師団と同じ強さだったら、ワシントンまで行けた。
それを、鈍重な東北人と口だけ豪傑の九州人とヘタレな関東人・関西人が台無しにしてしまった。
故に、関東武士が強いなんて寝言は信じるに足らない。
687日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:27:53
>>686
時代が全然違うじゃんw
688日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:50:40
毛利氏⇒相模国愛甲郡毛利発祥
児玉氏⇒武蔵国児玉郡発祥
熊谷氏⇒武蔵国大里郡熊谷発祥
小早川氏⇒相模国下足柄郡早川発祥
689日本@名無史さん:2005/09/09(金) 16:58:56
690日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:09:09
>>678 お前以外、読んでいて誰も関東兵が一番強いとか言ってないと思うのだが。
みんな、あんたの「なぜ強いと言われているか?」について答えてるにすぎない。
始めの趣旨からずれて、単なる他者攻撃に見えるんだけど。
それに聞いてて勘違いしてるように思えるのが、西国兵に強兵はいないなんて、あなた以外誰も言ってないよ。
山陰の尼子兵は士気が全体に高く、耐久力では日本一とか言われてるし{各小説家はじめ、毛利関係の資料見ろ}
答えてくれた人を被害妄想から攻撃するのでなく、自分が何を問いとして出していたかをよーく読み返してみな。
俺に文句を書く前にまず、読み返せ。
それでも文句があるなら、好きなだけ書きな。目下、相手するから
691日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:24:10
とりあえず、気になったの書いておくね
>>671 >>関東が武士発祥の地?またマルクス史観「在地領主制論」か。
これは>>665の> 関東は武術発祥の地とされるほど{コピペ} のことかな?
だとしたら、>>665は「武士発祥」とは言ってない。
「武術」という「戦闘法」の発祥であると言っているにすぎない。
だから、貴方が「関東が武士の発祥」と勘違いしてるに過ぎない。そんなこと誰も言っていないよ
で、「武術」という個人戦闘法がなぜ確立されなければいけなかったか?
これについて、考察すれば>>665はじめ、その前後の言いたいことが理解できると思うよ。

それと疑問なんだけど>西日本的文化から観ると武士らしさ これってどういうこと?
知っての通り、武士道の確立は江戸期だよね。治世のために朱子学をベースに作られた道徳概念。
なので、「武士らしさ」=「武士道」でないことは明白。
すると「武士らしさ」の根拠はなんぞや?
検索してみたけど見当たらないので、調べたいからどういうものか教えて。資料掲示はどっちでもいいや{資料にも捏造多いから}

それと、九州兵は西国兵に入れてる?
関東が異文化圏の時代は、九州と四国は異文化圏だよ。中国地方も山陰はまた独特だし

反論と疑問への解答は分けて掲示お願いしますね。読みとりにくいから
692691:2005/09/09(金) 17:38:38
聞きたいのだけど、「反関東兵最強」の貴方は、社会人?大学生?高校生?
それと、京都の人?大阪の人?それ以外の人?
全部教育されることが微妙に違い、歴史観が異なる。
それと、完全に潰すか、諭すか、誤解を解くか、無視を決め込むかという対応が変わる。
大学生でこのような論法で良いと感じているなら、考え直した方が良い。
高校生だったら仕方ないと思うし・・・・将来苦労するけどね{経験上}

一応、俺は「関東兵最強」とは思ってないけど、聞いていて勉強になったから
>>690同様しばし付き合うから、話し方の参考に良かったら聞かせて{嫌なら大学生用で対応するから}
693日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:50:04
>>686 広島第五師団って軍の構成はどうだったの?
近代戦争は知らないので教えてください。
防人みたいにいろんな所から徴兵されるというイメージがあって・・・・
694日本@名無史さん:2005/09/09(金) 19:12:43
671の言う武士って「もののふ=物部」か?・・・・まさかね

三浦道寸を「武士の情けを知らぬ者」と言ってしまう671。。。
695日本@名無史さん:2005/09/09(金) 20:55:34
>>693
参考?までに近代戦だと新潟は最弱。なにせ日本海側は国から軽視されているので今でも装備が貧弱、かつ、
優秀な人間は他の部隊に送られてしまうそうな。戦略上占領しても意味ないんだって。平地だから。
なのでまともに戦える部隊がいないそうな。いても旧式装備の歩兵のみ。合同演習に行くと他の部隊が知らない武器ばかり
装備していて驚くそうな。しかも特殊装備じゃなくて標準装備で。
元自衛官の人の話しでつ。もっとも5年前での話しですが。
696693:2005/09/09(金) 21:10:36
>>695 部隊毎にいろいろあるんですね!
そうすると、大戦時とか部隊によって精鋭とか編纂された可能性もありますね
情報ありがとうございます
697日本@名無史さん:2005/09/09(金) 22:15:11
>>690691
尼子勢は強い。全体的に中国兵は「少勢で城を守り、士気衰えて引くと
いうことはない。我が思い入った一念を晴らすところまで押し詰めず
しては、死んでも後へは引かぬ。このように畿内・坂東より優れた中国勢」
云々と秀吉が云ったと毛利側の資料「陰徳太平記」にあるが、真偽は
ともかく後の近代戦に、最精鋭「広島師団」の性質と符号するので、
筆者はかなりの観察力を持っておったといえよう。が、概ね文化人、
小説家は嘘はきを業としておるので根拠にならん。被害妄想?はあ?
戦闘法?あなたは、関東的戦闘法とは何か?武士道の確立が江戸期?小説家
の意見?671に書いた「つはものの道」を読み直された方がよい。
あなたに敬意を表し平家側が儀礼を破ったことも(武士らしくない一例)
記しておく。「富士川の戦に先だって、平家方は返事もよこさず源氏方の
使者全員の頸を切ってしまったので、頼朝は古今使者の頸を切ることは
未だ聞いたことがないと言った話が延慶本にあるが、むしろ一般的には
平家方が儀礼にこだわったゆえに、合戦で不利を招いた。」と高橋昌明氏
が書いておられる。これは当時の国際法でもあり、後に元寇に先だって、
元の使者を殺した鎌倉政権が、この点からも我が国の歴史に汚点を残し、
外国の方々に武士道(つはものの道)を誤解せしめた罪は重いと、わしは
思うております。以下は後で。
698日本@名無史さん:2005/09/09(金) 22:48:32
しつこい粘着荒らしが、つはものの道・武士道とは笑わせるよ
わしとか言ってるし、広島人か?

中国毛利なんて信長が生きてたら終わってたしw
699691:2005/09/09(金) 22:54:58
>>697 そこまで頑なならいいや。
前言で言っておきながら申し訳ないが、付き合いきれないです。
何言っても、聞く耳もってくれなさそうだからね。
>>671を見直してみたけど、私が読み取ったのと違う印象は受けなかったよ。
結果、個人戦闘法、武術と武道について無知なのがよくわかった。
坂上田村麻呂はじめ、蝦夷討伐や乱平定には、武神の神社で兵の訓練を行うのが習いというのは常識。
まあ、聞く耳がないだろうが、付き合うといった手前、武道関連や武術関連の本も読んだ方がいいよ。
関東はじめ、京にも、奈良にも、西国にもそういう武術という戦闘術を考え編み出した一団があることがわかるよ

それと邪推だけど、>>690の文を読んでいて、小説家の意見を聞けって書いてないぞ。
「小説家の資料」ってことで、小説に使われている資料{巻末参照}を読めって意味じゃないのか?
まあ、私が文系だからそう読めるのかもしれんが

最後に、掲示された文章を先入観と偏見なしに見直してみなよ。
貴方が反論として書いてる意味で書かれている物は極々わずか。
誤字や文の不備が多少あるかもしれないけど、それを切落してしまうような読解法で読むには惜しい意見ばかり。
真に勿体無い。

返す返すも、付き合うと言っておきながらできなくて申し訳ない。
700日本@名無史さん:2005/09/09(金) 22:58:35
700
701日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:01:21
>>698
信長がいきてたら??
手いう話なら、毛利元就の長男も優秀だったので、
信長がいきてても、元就長男が生きてたら、、、
どうなったわからんで。
702日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:06:09
毛利は一族が優秀だからなぁ。
だからこそ、三成とかに目を付けられたんだろうね。
総大将としてうまく殲滅してくれるんじゃないかって
703日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:08:14
>>691692
九州兵について、「合戦における文化対立」で山本幸司氏は、「保元物語」
で当時の価値観で是認しにくい夜襲を進言したのは、後白河方、関東の
源義朝、崇徳方、九州の源為朝である。都を中心とした地域とは異質で
あり、合戦形態は、東国と異なり遠距離での矢戦としておられるが、
後の幕末や近代戦での九州兵団の「立ち射ち」の伝統に受け継がれて
おるかは分からん。明治以降の戦闘では四国兵団は猛攻型で九州に近い
特質があったそうじゃ。中国地方の山陰は実直という特質があったが、
山陽側と極端に違うまでにはない。同じ中国地方であり、広島県は
日本海側に流れる川もあり、神楽等に出雲文化の影響も強い。中世からは、
関東武士の影響も強かった。(広島県の安芸、備後、島根県の石見)近代
広島師団の長所である近距離戦闘や奇襲に関東の影響があるかは不明。
まあ岡山県は、山陽、瀬戸内海地方を主張するであろう。
わし個人に詮索しておられるが、わしゃは、広島人じゃ。ほいでガキ
じゃないど。
704691:2005/09/09(金) 23:11:45
>>703 了解です。
いろいろと納得できました。
705日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:53:02
>>693
広島師団は、郷土出身兵の郷土兵団です。
天聴に達する武勲を残した広島連隊。健脚にして強剛の浜田連隊。
攻めて取らざるなき猛攻の福山連隊。知力に優れる山口連隊。で構成され
ました。
>>699
わしも無知ですが、それを上回る無知なのは、あなたでしょう。
武神の神社で兵の訓練と抽象的表現でごまかす。当時の訓練は狩猟、
巻き狩りであったといえばよいものを。
わしの手元にある関東側視点の資料は、実家で探せばまだあるが、
「鎌倉武士の実像」石井進、平凡社。「武士と文士の中世史」五味文彦、
東京大学出版会。「初期中世社会の研究」戸田芳実、東京大学出版会。
といったところ。在地領主制論、マルクス史観のものが多いが、
批判するにしても、読まんと何にも出来ん。また考えが違うにしても、
軍制史、荘園体制等、知らぬ事実にも遭遇することにもなりますよ。
706日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:54:31
>>703
ここでやらないで新スレ立てりゃいいじゃん。

マッタリとした流れをぶった切ってんの解ります?お父さん。
スレタイは『戦国最強の武将は?』だから!!
707691:2005/09/10(土) 00:02:07
>>705 そう思うなら別に良いです。
私も無知なのを自覚してるから、別の見方があるよと言っていただけですから。
とりあえず、資料掲示には感謝です。
戸田先生のは読みましたが、他の二冊はまだだったので読んでみます。
708日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:09:31
>>705当時っていつのこと言ってるの?
源氏が出る前の話?それとも鎌倉あたり?
>当時の訓練は狩猟、巻き狩りであったといえばよいものを
これは鎌倉期以降だよ
で、>武神の神社で兵の訓練
これは、その前で、有力武士が発現する前
俺の意見も反対されそうだけど、武術家としての常識ですんで書いておきます。

で、最強の武将はやっぱり、平将門
あの不遇さからあそこまで勢力を伸ばしたのはすごい!上方が恐怖するわけだ
709日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:10:28
>>1
浅井久政
710日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:11:43
困難な地で活躍点では真田昌幸も捨てがたいよ
711日本@名無史さん:2005/09/10(土) 02:06:00
>>708
有力武士が出現する以前でも、国司や豪族その郎党らによる狩猟で
しょう。このことは、705で参考にした書物にも出ております。
五味文彦氏は、武士の源流は狩猟民であったとされる。
後の薩摩島津家でも重臣が集まって陣立て人数を集めることを
「狩相談」と呼んだとあり、そもそも戦闘とは、狩猟行為の延長で
あるといえるでしょう。
712日本@名無史さん:2005/09/10(土) 12:15:06
>>708
確かに将門の強さは異常だな!日本史上最強のカリスマ武人だな、人間じゃないなw
個人戦なら九州で暴れた為朝も凄い!
天武も英傑だと思う。
おっと、スレ違いすまん。

戦国だと半身不随の名将・立花道雪なんか良いね。
713名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 21:37:57
立花道雪・・・・すごいですよね
九州を見て、島津家か、道雪かってくらいに存在感もありますし、戦もすごい!
伝記で読み齧っただけですけど、かなり印象深いです!まさしく名将!!

>>711一応だけど、>>708と話が噛み合ってないよ。
>国司や豪族その郎党 これとは違うよ。もっと国家レベルの話。
それと貴方が言っているのは、>>708の時代よりも百年かそこら後だよ。
武神関係のことも読んでから反論しようね。自分でも言ってる事だからね
714名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:23:28
>>713
国家レベルとは何か?当時の国家概念とは?
百年?それは何世紀のことか?

鹿島神宮などとあるが「常陸国風土記」か?どの項に出ておったか?
武士において軍神である八幡神とは何か?
武神関係に詳しい、あなたなら答えられるであろう。
715名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 03:23:04
なんか噛み付き亀がわいてるな
716名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 04:59:12
まぁざっと見させてもらったけど
こういうスレでの『最強』の定義と言うのは
唯一の質問者である1の欲求に見合う答えが正解なんだろうな
そしてここで言う『最強』とは、皆の思う普遍的な『最強』という訳ではない事と
個人的に、『最強』の定義はそれぞれあっていいと思うと最初に言わせて貰う

ということで、あくまで1の質問のレベルにあった答えを分かりやすくガンダムで例えて見た
だが何を定義してと言うのは俺にも分かりかねるから
軍事的なことで言うならアムロ
政略的、軍事的なことを含む最強であるならシャア
をもってその質問の答えとさせてくれ


武将編
アムロ:上杉謙信、島津義弘
シャア:武田信玄、豊臣秀吉

武士編
アムロ:宮本武蔵
シャア:柳生十兵衛
717名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 08:51:10
俺は1じゃないけど、最強を単に天下人とするならいちいち聞かないんじゃないか?
こうゆう論議も含めて最強は誰だろう?って語るスレを望んだんだろう。
718名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 09:57:42
>>717
粘着広島人はこのスレらしいことを、一度も話した事ないな。
全く聞く耳も持たないおっさんだし。

武士道とか言ってるけど中国出身の有名武将って梟雄が多いんじゃね?
毛利元就、黒田如水、伊勢長氏に、暗殺王の宇喜多直家。
719名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 10:04:24
>>718
武士道とか関係ないんだよな。最強について談義しようってのに。

個人的にはガンダム抜きにすれば>>716でFAでいいと思うけどw
720名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:06:49
>>719
悪政を敷いてた信玄でFAはキツイだろ。領内安定のために民を殺しまくった政治が
最強と言われてもな。最凶なら分かるが。
軍事面でも圧倒的な立場でありながら負けがやたら多いのもイタイ。
武田最強は厨じゃなきゃ理解できね。
721名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:07:50
>>716
ガンダムは知らないが、武将編の秀吉は他の3人より劣るだろ。

武士編なら、塚原卜伝=上泉伊勢守>>宮本武蔵じゃないか?
722名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:36:48
>>719
悪政ってそんなに酷かったか?にしても、軍事面での話しだからなぁ。
で、圧倒的有利の軍事で何度も誰に負けたの?信玄在世中に武田と互角に
戦えたのは上杉くらいだろう。上杉が最強って言うなら否定はしない。

確かに上杉も強いからだ。けど、そこでじゃあ島津とかどう?
って話しがこのスレの流れだろう。
723名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:00:32
また、文句を言ってるんですか・・・・自分でももっと調べればいいのに

>>716にならって書くと
武将編
アムロ:立花道雪・上杉謙信
シャア:島津義久・平将門
武士編
アムロ:小野忠明・東郷重位
シャア:塚原ト伝・柳生宗厳{石舟斎}

>>720 悪政って、侵略民に対してということですよね?
昔からの領民には穏やかだったみたいですが、侵略した地の民には厳しかったみたいですから。
まあ、戦国時代、特に僻地出身だとそういう傾向になるようですからね。
724名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:57:54
>>715 うまい!
>>714 質問と文句だけじゃなく、自分の意見たまには言えば。
文句というか、反論は穴だらけだから注意されるんだよ。
その注意を攻撃と思う浅はかは・・・・・まさに反射的な噛み付き亀!
725名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 20:05:10
何だかんだ言っても武田信玄(晴信)は戦国屈指の戦略家だろ。
小笠原を奇襲で破った戦なんかは芸術的だし。

信玄は厳冬の北信濃で大敗を喫したが、村上義清も猛将だな。
地元とはいえ野戦で信玄に勝つんだからな。

上野の土豪連中をまとめて、信玄の侵攻を撃退し続けた長野の御爺ちゃんも凄いよw
726名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 21:06:47
上田原合戦では村上義清に大敗を喫し、板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、
初鹿野伝右衛門などが戦死。
信玄も負傷し、佐久地方、諏訪地方の土豪が武田方を離反。平定に二年を費やす。
今度はと信玄自身も偵察に赴き、万全の状態で望んだ戸石城での戸石崩れ。

対長野業政ともなると、9年間に6回の遠征を行っていが、内容はいずれも、雨宿り中に
奇襲をかけられたり、夜襲で兵糧弾薬焼かれて撤退、背後を突かれて被害を出し、
仕返しとばかりに雉郷城を取り囲み攻めれば空城。鷹留城で反撃を受け撤退。
安中忠政に兵糧を奪われ撤退中に追撃を受け敗北。勝った戦はひとつもない。

対謙信戦でも、二回目の大塚の対陣では夜襲を受け被害を受け、仕返しとばかりに善光寺より
千もの兵で夜襲をかけるも失敗。
四回目の八幡原の戦いでは啄木鳥戦法が読まれ、山本勘助、武田信繁、諸角昌清などが戦死。

武田は強いが信玄によるものじゃないと思う。
総合的に武田家が強かった、んだろう。
727日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:36:06
>>718
おっさんじゃ?関係ないことで罵倒するんはわれじゃろう。
武士道と諜略を持つことが矛盾するんか?
>>724
反論が穴だらけだから?また抽象論か。
どこに穴があるんか具体的にいえいや。
結局、質問に答えられんで、罵倒しか出来んのか。つまらんのう。
728日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:37:36
>武士道と諜略を持つことが矛盾するんか?
こういうことを堂々と言う所
729日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:40:11
武士道云々を持ち出すのはスレ違いというのは感じる。
730日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:43:24
新しく立てればいいのに・・・・そこで存分に言えばいいじゃん。
そんなに自分の話に自信があるなら
731日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:46:55
スレ違いは相手にせずに行きましょうよ。何言っても聞かないんだから

>>726の話を読んでかなり頷けた。
そこからすると、部下を如何にうまく使ったかということも加味されてもいいのかな?
例えば、野戦での徳川家康とか{限定条件入ってしまうが}
732日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:59:07
>>729
道義、情義を持ってこそ、強者であろう。
功利主義に洗脳されとるんか。
>>731
何を言うても答えられん馬鹿たれが多いゆうことじゃ。
733日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:06:49
なんで三浦道寸とか坂東武士を情けを知らぬ者呼ばわりするくせに
中国武将の事になるとムキになるんだろう?まあ、いいかw
>>731
謙信とか家康は戦場での勝負勘みたいなのが優れてたのかな?
なんか天才肌みたいな。謙信は別格だろうけど。
信玄、信長なんかは綿密に作戦を組み立てるタイプだけど。
734日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:26:15
武士道のことを言い出すと「武士道とは何か?」ってことになってしまう。
だいたい、強さには何の関係もない。
元就は確かに強いと思うよ。
ただ、こんな人が薦めるとマイナスだ。
735日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:27:36
>>727
>武神の神社で兵の訓練と抽象的表現
武術と言っているとこにこんな突っ込み。
>戦闘とは、狩猟行為の延長
祭儀にもなっている武術の発生理由は?
>当時の価値観で是認しにくい夜襲
>平家方が儀礼にこだわったゆえに、合戦で不利を招いた。」と高橋昌明氏 が書いておられる。これは当時の国際法でもあり
>この点からも我が国の歴史に汚点を残し、外国の方々に武士道(つはものの道)を誤解せしめた罪は重いと、わしは思うております
この三点から
>武士道と諜略を持つことが矛盾するんか?
>概ね文化人、小説家は嘘はきを業としておるので根拠にならん
ここまでは自論{?}中で

>在地領主制論、マルクス史観のものが多いが、批判するにしても、読まんと何にも出来ん。また考えが違うにしても、軍制史、荘園体制等、知らぬ事実にも遭遇することにもなりますよ。
これに対し、>武神関係のことも読んでから反論しようね
この指摘に対して、
>鹿島神宮などとあるが「常陸国風土記」か?どの項に出ておったか?武士において軍神である八幡神とは何か?神関係に詳しい、あなたなら答えられるであろう。
あんたも近年の教授達の本読んで掲示してるんだから、その辺を探そうとかいう気は無いの?
大き目の本屋や図書館にいけば、日本史コーナーに置いてある。
少し探しただけだが、鹿島神社に関しての販売本「http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4311407173/qid=1126455611/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-9878915-4912366
鹿島神社の古文書関連の販売本「http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797106360/qid=1126455611/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/249-9878915-4912366
八幡神社に関して「http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4835551540/qid=1126455629/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-9878915-4912366
実際の所でならまとまってある
知識があんたより無いであろう俺でもすぐに出せる程度だし、見かけたことくらいあるが

最新50で矛盾してるなと感じたところはこの辺。専門知識については一切入れてない部分で
もっと暇があれば、出せるだろうけど、仕事もあるので、この程度で
736日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:29:09
>>735
読みにくい
人に読ませる為にレスしてるという自覚欲しい
737日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:30:42
>>736 嫌がらせだから別に読ませる気がないので
738日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:36:56
>>733 たぶんあるのだと思う。
家康の言として、「わしにはわからんが、本多忠勝は戦の匂いがわかる。だから怪我をしないのだ」
というのが真偽は別にして残っているくらいだから、やはり勝負勘のある戦の天才。
周到な用意と計画で行う軍略家とタイプが分かれるのかも。
家康は後者に憧れて、その路線を真似し続けた結果、東海道一の弓取りと言わるようになったしね。
739日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:38:50
>>738 訂正 たぶんあるのだと→たぶんそうだと
すいませんm{__}m
740日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:45:04
最初の頃、口調だけは丁寧だったけど
最近は柄の悪い広島人丸出しだなw
特に735さんへ対する敵意は・・・

功利主義の代表格は宇喜多直家
そういえば中国地方山名の祖・山名時氏は上野国山名氏だろ。
741735:2005/09/12(月) 01:49:53
>>740今まで読むだけで書き込みしてなかったんだけど、あまりのことで腹が立って・・・
ま、俺に向けてくれるんなら、本題が進んで面白くなるし、丁度いいかな?
皆さんの話楽しみにしてるんで本題お願いしますね
742日本@名無史さん:2005/09/12(月) 01:59:58
せっかくなので、話を戻して
>>731>>733の意見を考えると
現場で実戦で最強と理論派の最強・・・・うまい言い回しでは無いが、こんなとこなかな?
ちなみに、
実戦派:上杉謙信・本多忠勝・真田昌幸
理論派:武田信玄・島津義久・真田幸村 ってとこかな?
743日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:22:23
真田幸村は実戦派っぽいと思う。
意見が通らないのを臨機応変さでかき回したイメージがあるから
代わりに山口の雄、小早川隆景を推薦
744日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:46:35
立花道雪はどっち?
745日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:48:12
要は「槍働き」の強さを基準にしたいんだろ?
746日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:48:37
>>738
イメージとしてはサッカーの監督に近いような気がするな。
自分のどこの部隊を固め、相手のどこに隙があるかを見極め、どのようにそこを突いていくか、という部分が。
747日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:50:52
それなら最強は小野忠明かな
戦国末期に槍働きから将軍家剣術指南役までいったから
剣でも人間離れしてたみたいだし
748日本@名無史さん:2005/09/12(月) 02:52:58
>>746
匂いや雰囲気でやるか、理詰めで構築して行くか・・・・
確かにわかり易い良い例えだ!
749日本@名無史さん:2005/09/12(月) 03:14:29
武田信玄や徳川家康が監督だったら、
選手としての武将は安心して戦えそうな気がする。
自分がダメそうでも、何とかしてくれそうで
750日本@名無史さん:2005/09/12(月) 03:16:37
>>746 そう考えると、織田信長と豊臣秀吉の元だとなんか働きにくそう。
過剰にこき使われたり、褒められすぎて逆に潰されそうで
751日本@名無史さん:2005/09/12(月) 13:26:39
GM・・・武田信玄
監督・・徳川家康


752日本@名無史さん:2005/09/12(月) 17:13:56
なんか急にマッタリしだしたな。
でも、広島亀の登場が待ち遠しくなってる今日この頃・・・
俺も亀さんに叩かれたクチだがw

上泉信綱の氏姓「上泉氏」の苗字の地は前橋市上泉。
上泉氏の血統はなかなか良い。藤原姓足利流の大胡氏族。

信綱は箕輪長野家中十六本槍の一人だったという。ただの剣豪ではない。
京に出たのは箕輪長野氏の滅亡後らしい。
その長野氏だが、鎌倉御家人の永野氏と同一らしく、
物部流の古代豪族石上氏(ただし上野国石上氏)に繋がる名族らしい。
753日本@名無史さん:2005/09/12(月) 17:36:59
議論になってるなら、刺激としていいけどね。
一方的な文句はちょっと・・・・・

上泉がそこまでの名流とは・・・・前橋出身なのは聞いたことあったけど

そういえば、北畠氏ってどうなのかな?
754日本@名無史さん:2005/09/12(月) 21:47:39
>>753
伊勢の北畠氏の事でしょ?
超名門の国司大名だな。村上源氏の末裔で苗字の地は京都上京の北畠。
戦国時代の具教は、塚原卜伝門下の剣豪大名だそうだ。
赤松氏も村上源氏だが真偽は怪しいという。
755日本@名無史さん:2005/09/12(月) 22:06:56
>>735
>祭儀にもなっている武術の発生理由は?ほう、武士職能(芸能)論に
近寄ったんか?ほいじゃ、関東地方の例を出して祭儀の部分をゆうわい。
平良文は、土着の羊妙見菩薩を自らの守護神として信仰し、また常陸の
佐竹氏は支配地の金鑚神社を氏神とした。源義家は八幡、義光は新羅。
他から来た支配者は、被支配地の土地の神霊の威力を与えられた武器
(弓、剣つまり、ものの具、古代では、もののべ?)を必要とする。

近代以前の社会にあっては、技術と呪術は分離することなく存在して
おる。戦闘が人間にとってもっとも危険な営みである以上、武士に呪術は
つきものである。この点から戦国時代の戦争を近代戦と同じ論理で理解
してはならん。陣形や出陣の日時・方角を易や占いによって決めたり、
戦場に祈祷師がともなわれたことも関連する。武術(武芸)という芸術
(芸能)と宗教の関連については後に。
756691:2005/09/12(月) 22:27:05
>>755
とりあえず、武術について掲示した手前、反応を示しますね。
>>735さんとだと泥沼になって、お互いに良い所が潰されそうなので。

>>735さん、御志{?}ありがとうございます。

まず、ここまでは私の意見と一致です。
異論はありません。また、>戦国時代の戦争を近代戦と同じ論理で理解してはならん
ここには特に同意します。勘違いされる方が多いところなので。

>武術(武芸)という芸術(芸能)
ここで意見が割れそうなので、書き込み楽しみにしてますね
757日本@名無史さん:2005/09/12(月) 23:11:59
民俗学者折口信夫氏の「ごろつきの話」昭和三年と「無頼の徒の芸術」
昭和十一年から引用する。
「中ごろ(中世)武力を宗とする集団と宗教を主とする集団とが、混同し
つつも少しずつ分かれた。彼等が山野を生活の場とし、芸能ことに舞いや
踊りの芸によって農民を祝福することにより、自ら食する芸術売買の徒で
あった。武芸もまた芸術の一種である。その一部は歌舞伎一座に、
あるいは侠客となった。日本の芸能は、低い階級のもの、低い階級の
ものは皆宗教家であり無頼の徒です。土地もなく、祭りの時だけ許されて
無頼が出来ます。社につく神人が御札をくばって歩いたもので、その行動
が無茶苦茶なことが多かったのです。近代の芸能と信仰生活にいる人々の
中にある部分と武家のある階級は、皆一つであったと言うことになり
ます。」
尼子経久の月山富田城奪回戦で、月山山麓に住む芸能民で、武闘集団でも
ある鉢屋賀麻党は、舞の見物に集まった城衆に襲いかかり経久は富田城を
奪回した。経久は自ら負傷兵には薬を与え、領民から慕われた温情のある
人物であったので、賀麻党も協力したのであろう。
758691:2005/09/12(月) 23:17:53
>>757 これにも同意です。
武芸者の分岐などがまとめられてて、異論は全く無しです。
修験者と武芸者は江戸期までは同じ生活を送ってる人が大半ですからね。
良い資料をお持ちですね{^^}

武術の「発祥」に付いてできたら、追加お願いします。
広島なら厳島神社にも武術があったと思うのですが・・・・
759日本@名無史さん:2005/09/12(月) 23:24:15
本多忠勝は槍術という中では下手の部類だったらしい。
でも実戦の槍は滅法強くて上記を知らない人は聞いて皆びっくりしたんだと。

ということで忠勝。
760日本@名無史さん:2005/09/12(月) 23:50:36
>>756 691さん、いえ要らぬお節介だったみたいですね。
なんだか、今日は平和的で良いですね。
良い話は存分に聞きたいので、お願いします。

>>759それは知らなかった!!
槍術がうまいのだと思っていた・・・ということは喧嘩槍であそこまで
確かに最強かも・・・・・
あえて、対抗馬として、加藤清正を押してみる
761日本@名無史さん:2005/09/12(月) 23:54:42
加藤清正って、
竹刀か木刀で、ある剣豪と立会いするも、あっというまに2回も3回も負けてしまう。
「ちょっとお待ちください」
つって間に引っ込み、戻ってきたときは甲冑姿。
その姿の清正が「カーッ!」って気合を発したら、その剣豪は「参りました」と言った。
っていうエピソードがあったよな?
762日本@名無史さん:2005/09/13(火) 00:04:28
>>761その話、はっきりとは覚えてないけど聞いた気がする。
それに、あの清正だったらありそう。
知略も胆力もあってで
士気と現場での戦闘力を加味したら、加藤清正が最強だと思う。
土木工事も神がかってるし
福島正則は強そうだけど、もっと思慮が欠けてそうで・・・
763日本@名無史さん:2005/09/13(火) 00:15:11
虎をシメタというのはホントの話でしょうか?
764日本@名無史さん:2005/09/13(火) 01:01:30
>>758
武術の「発祥」に付いては、伝承では仏教系、神道系と色々ありますが、
年代については難しい。平安期は騎射が中心でしょうが、猪槍のような
ものは室町初期からでしょうか。戦争体験者の語られた言に、戦場で
役にたつのは刀より槍じゃと。槍を持参した将校もおったとか。
戦前の柔術では柔道より空手に近かったそうで、凶器を揮って来る相手を
倒す術が中心じゃったそうです。棒をくぐって受身を修練したらしい。
まあ当時は、全国の兵隊が軍都広島から出兵したので、旧制中学の坊や
でも、他国の兵隊と喧嘩して負けると、家に入れて貰えんかった時代
じゃったそうですから。現在の厳島神社では、全国各地から秋に演舞を
しに来ておるでしょう。地元色は強くないと思います。
765691:2005/09/13(火) 01:44:30
>>764 失礼ながら、もっと偏見などで言い切るのかとドキドキしてました。
いい加減なことを言わない人で助かりました{^^}

厳島神社での演舞会は、奉納行事として、各地の流派が集いますよね。
京都はじめ、武神の所で神事としてあるのですが、見に行くと武術をやる者として見入ってしまいます。
古流武術は、広島はじめ、中国地方にいくつもあるはずなので、調べてみると面白いですよ。

何気に、聞いてばかりで、私の見解を言ってないので、武術の「発祥」について、少し書きますね。
>年代については難しい
これは確かにそうなので、発見された記録上で一番古いとされている、鹿島神社の武術について少し書きます。
正確な年代は忘れてしまいましたが、奈良時代には外形があったようです。
>>755で仰ってるように、古来から武術は宗教と密接に絡んでいます。
武術とみられているのは、神へ奉げる演舞、刀や戟{槍は戦国後期ですので}を使った舞だそうです。
この舞を必勝祈願ということで、兵となる住民{上方から派遣される場合も多々}がそれを習うことで武器の使い方を学びます。
即席の戦闘訓練ですね。それも、集団戦でなく、個人戦用の
専業の武士が発現する前の話なので、その他の訓練は前に述べておられた狩を応用するくらいです。
それだと、陣形など兵法が発達していれば大変有効なのですが、
個人同士の戦いがメインだったころでは、個人の戦闘力を上げるという手段が一般的だったようです。
766691:2005/09/13(火) 01:45:12
自然発生といっても、神社には、「武神が降り立ち、信託を受けた」という記述が多くにあります。
なので、一部の上方人{渡来系か?}が何かしらの理由で逃れ、武器と共に土着したと考えられます。
その一族が、自己保存のために戦闘術{より生き残れる方法}を編み出し、朝廷と繋がったと見るべきだと思います。

そして、坂上田村麻呂の蝦夷討伐の際も、鹿島神社で必勝を誓い、出陣したなど、わざわざ寄っていった記述もあります。
逆に、豪族が私用で使うというのはあまり聞かれません。
また、筑波山神社をはじめ、関東各地の武神を祭る所は、スサノウやアマテラスを祭る他、朝廷の神を祭っており、
出雲や高山のような独自の系列神を持つことはありません。
このことからも、朝廷と密接に繋がっていたと考えられます。

蛇足気味ですが、武術の中心地は現在も京とされています。
京にも戦国期には京八流と呼ばれる多くの江戸期に有名となる剣術の祖が集まっていました。
767691:2005/09/13(火) 01:48:43
すいません。>>765>>766の間が抜けました。

なぜ、このような戦闘の技術が発現したかということについては、
地域が僻地であり、朝廷の威光が届かない地で自衛のために生まれたというのが有力です。
上方ならば、治安等を朝廷が握ってますが、僻地ではルールは存在しません。
なので、中部の山間や関東、九州など、遠い所に自然発生したと考えるようです。

これが入ります。長すぎて編集したので、ミスしてしまいました。
768691:2005/09/13(火) 01:52:57
三つに渡り、長々となってしまいました。
私見が一部入っていますので、疑問等ありましたら、私が答えられる形でお願いします。
資料掲示については、鹿島神宮の資料と幾つかの武神系の神社についての物
武術歴史と古流剣術諸流派の記述としか言えません。
なので、これ以上お答えすることができませんので、信頼できない場合は、その記述を無視して頂いて結構です。
769691:2005/09/13(火) 01:55:37
>>763
朝鮮出兵についての話や人物の伝記の中に出てきますよね。
伝承でもあるようなので、虎を取って秀吉に送っていたのは本当っぽいです。

加藤清正公は、槍でも、戦術・指揮でもすごいので、私も最強に一票投じます!
770日本@名無史さん:2005/09/13(火) 07:50:04
虎狩りは別に加藤清正の専売特許じゃないのだが。
割と多くの武将が朝鮮征伐時に虎狩りをしてる。
771日本@名無史さん:2005/09/13(火) 08:13:45
いまでも、朝鮮半島に虎はいるの?
772日本@名無史さん:2005/09/13(火) 10:41:10
>>762
でも、その話、清正を立てるために剣豪があえて譲った、みたいな説もあるんだよね。
どうなんだろ。
773日本@名無史さん:2005/09/13(火) 14:00:33
>>772
いや、実際ありえると思う。

関ヶ原後に黒田家を出奔した後藤又兵衛を
黒田長政は許せなくて、家中で腕の立つ兵法者三人に又兵衛を
討ってこいって命令したが、その三人は又兵衛を討てずに帰ってきた。

長政は「たかが兵法者ずれに又兵衛が討てるはずもなかった。
逃げずに帰ってきたのは殊勝である」っつーて50石ずつくらい加増したって
エピソードがある。

マジで三人の剣術家が斬りかかれば戦場で鍛えたとはいえ素人が勝てる訳がない。
なのにこの有様は何故かっつーと、やっぱり修羅場をくぐり抜けた格の違いみたいのが
あるんじゃないかな。
774日本@名無史さん:2005/09/13(火) 15:59:33
>>773
黒田家だと思うんだが、流しの武芸者と試合をすることになった時に竹刀を左腕だかで受けて右腕で
相手に胴を決めた武士がいて、武芸者が「それはずるい」と苦情を言ったら「拙者の兵法はこれ、この
とおり」と腕に刀を受けた跡がたくさんついた具足を持ってきて見せたという話を読んだことがある。
道場剣法と、本当にどんなことをしても相手を殺して生き延びれば勝ちという戦場の剣法の違いはこう
いうところなんだろうと思った。
775日本@名無史さん:2005/09/13(火) 16:54:29
>>774
武蔵と小次郎だな
776日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:35:32
>>766
「京八流」に対して鹿島には「関東七流」がありました

武家家伝 鹿島氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kasima.html
777日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:09:07
>>763
朝鮮の書物だと鉄砲で仕留めた絵と伝承が残っている。文章ではなく絵w
もっともこれが一番確実だろうね。わざわざ半島まで来て怪我して帰ったら恥だしね。
銃の腕前も立派に評価された時代だしさ。
778日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:25:56
>>777
秀吉が虎の肝を欲しがっていて、朝鮮滞在武将が争って
虎を狩ったらしいな。勿論銃でw 
779日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:01:05
朝鮮には鉄砲が伝わってなかったから「魔法の杖で虎を倒したニダ!」
とか言われていたんだろ〜〜な〜〜〜
780日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:04:57
例え原始的な火縄銃とはいえ、虎を狩る昔の連中の度胸の良さには脱帽だな。
最新式のライフルだって俺なら(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
781日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:27:23
虎刈りは、陣地の治安維持と食料確保の意味もあったらしいよ。
それと何もしないでいるのも暇だからと訓練として追い込んで捉えたんだって。

虎刈りは、清正の槍に関する逸話で出てくる。
清正の片鎌槍は剛勇だという話からでた話。
清正がその辺を荒らす虎を十字槍で討ち取ろうとしたが、片方を噛み切られた。
だが、業の清正は片鎌になった槍で虎を見事退治したって話。
本物を見ると最初から片鎌の槍だったことがわかるというまさしく逸話
でも、槍でも狩をしたという記述もあるらしいよ。
圧倒的に鉄砲{集団}での狩だったみたいだけど
782691:2005/09/14(水) 00:00:04
>>776さん、情報ありがとうございます{^^}

虎狩りは、秀吉が出兵を鼓舞するために行わせたという話もありますね。
ちゃんと、送り出した部隊は元気で戦争しているという印象を与え、内部の不安を無くそうとしたとか
まあ、これも話半分ですけど
783日本@名無史さん:2005/09/14(水) 02:09:58
>>768
それでは、武具、武器類にしぼって、槍(鑓)は『太平記』に記述が
あり、その時代からのものじゃと思います。
この時代は、異類異形の悪党も六尺棒(サイ棒)を武器とし、
杖・棒を突いて立つ姿も「異形」であり、折口信夫氏によれば、
神の姿、旅行者の姿とされる。
それと、この時代から戦闘も遊撃戦的要素が強くなり、戦国期に受け
継がれる。また関東側(弓馬戦主体)の戦闘儀礼を上方が無視したとも
言える。
784日本@名無史さん:2005/09/14(水) 03:03:54
>>783
それこそ武士道に反するんじゃないの?
785日本@名無史さん:2005/09/14(水) 04:53:36
そもそも武士道なんて江戸時代以降の話だろ
786日本@名無史さん:2005/09/14(水) 06:27:23
万年 東一 
最後の武士
787日本@名無史さん:2005/09/14(水) 06:42:45
やっぱ最狂は田原総一郎だろ
788日本@名無史さん:2005/09/14(水) 08:34:46
>>787
朝日社員には敵わんよw

戦国なら松永久秀か?
789日本@名無史さん:2005/09/14(水) 09:25:37
>>785
必死に持ち出したのは妄想広島人だから

>755戦国時代の戦争を近代戦と同じ論理で理解
してはならん。
 近代戦話を最初に言い出したのは誰だっけw
790日本@名無史さん:2005/09/14(水) 09:32:20
もし戦国時代にアカヒがあって
信長ネガティブキャンペーンしまくったら
信長はどういう反応したんだろ
791日本@名無史さん:2005/09/14(水) 09:52:30
焼き討ち
792信長本人:2005/09/14(水) 09:56:16
>>791
ですよねw
793日本@名無史さん:2005/09/14(水) 12:44:26
天才といえるのは信長と謙信だな。
独自性が強い。
残りは懸命に生きただけ。
794日本@名無史さん:2005/09/14(水) 14:32:05
>>777
> わざわざ半島まで来て怪我して帰ったら恥だしね。

中川秀政は怪我どころか狩りの最中に襲撃されて死んでる罠。
795日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:41:46
恥ずかしいな。それ
796日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:39:25
>>784
関東側の立場でゆうたまで。後世の東西の武士団、社会構成から考えても
関東側を弁護出来んのじゃが。
>>785
武士道という言葉じりを取って、江戸期の儒教的武士観だけで解釈しとる
んか。忠義については儒教的と云うより東日本的価値観であろう。
まあ平安期の武士も呪術に道教の影響があったが、時代ごとの宗教、倫理、
学問の理論を借用したともいえる。じゃが、基本的に、古来つはものの道
(武士道)とは、降人(降伏した者、捕虜)への寛大さ、非戦闘員を殺さぬ
事が、武士の情けであるといえる。それと「古来より、あらゆる文化に
おいて戦闘ルールが、殲滅戦による社会崩壊を防ぐ為の自然発生的
抑制機能を果たしたのは当然のことであるが、異文化間では、しばしば
その作用から逸脱する。」ことも考慮する必要がある。
>>789
近代以前は、技術と呪術は分離することなくと書いとろうがい。
それが、郷土が培った歴史が兵団の性質となる。と違う事と混同しとる
ようじゃのう。よう読みんさいや。
797日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:54:06
降人、非戦闘員を殺している信長には当てはまらないな。
とふと思った。あれ?でもあの人非戦闘員を殺している
のって比叡山延暦寺を焼いた時だけか?

つかアレをやった後って絶対メシなんか食えなさそうだ・・・。
798日本@名無史さん:2005/09/14(水) 22:39:27
>>686-796
関東の人口は中世と近代以降では全然違うのになあ?
まして、昔からの由緒ある関東武士は小地域の特権階級と言えるし(人数は当然少ないはず)、
関東や東国は、先進地の西国よりも身分階層が激しい。
近代人と関東武士を比べるのは無理があると思うのだが?

686では、戦国最強クラスの九州もコケにしてるな、何で?

686 :日本@名無史さん :2005/09/09(金) 16:10:17
>>683
いや、最強なのは広島第五師団だ。
第五師団が乃木配下だったら他の師団はいなくても旅順は三日で落ちたし、日露戦争に参戦した師団
が全て第五師団と同じ強さだったら、樺太もウラジオも取れたしロシア軍を満洲から叩き出すことができ
た。
また、太平洋戦争に参加した師団が全て第五師団と同じ強さだったら、ワシントンまで行けた。
それを、鈍重な東北人と口だけ豪傑の九州人とヘタレな関東人・関西人が台無しにしてしまった。
故に、関東武士が強いなんて寝言は信じるに足らない。
799日本@名無史さん:2005/09/15(木) 01:06:34
>>798
由緒ある関東地方の小地域の特権階級は、熊谷氏が現在の広島市安佐北区
可部に本貫も移住した様に郷土との関係が強いので、関東武士には
同情的に書いとると思う。
近世の東日本的親方子方制度と関東中世の縦型宗族制とは関連が強いと
思うが。
九州を戦国最強クラスと考えるかどうかは別じゃが、686氏はわしじゃ
ない。わしは703じゃ。それも683が関西が弱いじゃと根拠も無く
書くゆえじゃ。大陸打通の衡陽攻略でも関西の部隊(34D、68D、
116D等横山勇軍司令官から感状を授与された部隊を含む)が、
同地を攻略した九州の熊本58Dより劣った戦闘をしたんか?
東北地方が粘り強い?としての防御戦の実績の例も書かず(広島師団は
防御戦闘に、南寧、宜昌と実績がある。)お国自慢板「郷土の英雄 
帝国陸軍師団の歴史」でわしは、九州兵団を概ね弁護して来た。逆に
九州兵団の日華事変等の戦場での蛮行についても述べたが、これは弁護
仕様がない。コケにしとるゆうんは、言いがかりゆうもんじゃ。
800日本@名無史さん:2005/09/15(木) 18:49:58
>>799
直実ら、源平の戦で強さを発揮し全国各地に所領を得て、一族を繁栄させていった
関東武士に同情する必要もないんじゃない?
(もちろん移住するだけでなく、地元の関東にも一族は残った。)
南北朝期に、山陰に所領を得て発展した上野国山名氏などもあるし。

むしろ同情するなら、後北条氏のあまりの膨脹振りと、そのあっけない最後で、
路頭に迷わされた戦国末期の関東土豪武士たちに、同情して欲しいところです。
801日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:29:15
誰が強いかは分からないけど政宗とか信長の部下にはなりたくないて人は多そう。
何仕出かすか分からなくて怖すぎる。
802日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:32:30
そんなやつは別にいらないだろ?
こっちから願い下げってやつ
有能な奴なら自分から売り込むよ
803日本@名無史さん:2005/09/16(金) 12:04:35
戦国最強は真田昌幸信繁親子
804日本@名無史さん:2005/09/16(金) 12:10:28
そうだお
805日本@名無史さん:2005/09/16(金) 12:16:28
戦略 中国共産党
戦術 アルカイダ
謀略 朝鮮民主主義人民共和国
攻撃力 あの国のあの法則
女攻め 朝日新聞社、仙台人
篭城 菅源太郎
海鮮 コミケの徹夜組
運  小泉純一郎
これで決まりだなw
806日本@名無史さん:2005/09/16(金) 12:25:14
はいはいわろすわろす
807日本@名無史さん:2005/09/16(金) 22:50:52
>>800
直実らが、源平合戦強さを発揮したかはどうかは別とし、東西日本の
戦闘には違いもあり、高橋昌明氏の[武芸にかんして]から要約すると、
「貴族の武士と熊谷直実のような存在では、その技能・兵事・軍事に
関する知識のあり方・態度がかなり異なる。『今昔物語集』巻二十五
第九話では、源頼信(河内の豪族)が「未知の地である坂東で、在地の
武士でさえも知らない川中の浅瀬を知って」おり、平忠常(関東化した
豪族)を難なく屈服させる話だが、このような頼信の戦術知識の
豊富さは、関東の在地武士は及ぶものではない。」
つまり武士の技能・芸能が用兵や作戦等の合戦技術が個人技の延長にあり、
また、このような戦術は、>783と関連するが、楠軍(河内の豪族)の
合戦技術である奇策、智謀や遊撃戦、相手の軍糧を奪い補給路を遮断する
戦法等は、時代的変化もあろうが、上方、西国では、戦闘儀礼と矛盾して
おらんかった部分もあると思う。
808ジーモン・ジョーカー:2005/09/16(金) 23:08:06
毛利元就。 漏れの先祖がお仕えした大内氏を事実上滅ぼしたから好きなタイプではないけど、勇猛な武将だけが優れた武将ではない。 元就は「陰険」とされて嫌われ過ぎなような気がする。
809日本@名無史さん:2005/09/17(土) 03:54:53
謙信のどこがすごいのか、
全くわかりませーん。
810日本@名無史さん:2005/09/17(土) 04:58:45
>>809
信玄の知略を尽くした戦略戦術に
本能で互角に対抗してること
811日本@名無史さん:2005/09/17(土) 07:48:08
>>807
同情どころか貶してばっかじゃんw
よっぽど関東が嫌いなんだね。
中国地方は関東武士の末裔多いのに・・・

>>810
だな
812日本@名無史さん:2005/09/17(土) 19:16:40
>>810
的を射た意見だなw

>>809
謙信のした政治について調べれば面白いよ。ノブヤボのイメージと全然違うから
813日本@名無史さん:2005/09/17(土) 21:02:05
ノブヤボ革新のホムペ見たけど、相変わらず日本地図が滅茶苦茶だな
関東、近畿、中国にくらべて東北の城が多すぎだろ

あのゲームの武将データを信じてレスしたらダメだなw
814124:2005/09/17(土) 22:54:10
小早川隆景は?
815日本@名無史さん:2005/09/17(土) 23:34:24
完顔陳和尚
816国史大辞典から:2005/09/18(日) 13:32:26
東国が武士成長の基盤とされるのも、馬牧が多いこの地域が八世紀以来の
蝦夷戦争の兵站基地としての性格に規定されており、騎馬を基本とした
東国武士の登場はかかる事情に由来した

院の北面は本来院の側近にある四、五位の官人・武士を含んでおり、
武士ばかりではなかった。

阿南郡には国衙と厳島神社の結んだ勢力が強く、安北郡には守護武田氏、
地頭熊谷氏など関東御家人勢力が強かった。
戦国時代には全般に大内氏治下に入り、やがて毛利元就によって統一された。
817日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:51:31
>>811816
また、在地領主制論的解釈か。北面の四位、五位の官人と武士の違いは?
上流文官貴族は、昇任の過程で上流武官を兼任することがある。
そういやァ、平将門も『将門記』で、少年の日から「藤原忠平に奉りて
数十年、今に至りぬ」また「武弓の術はすでに両朝を助く」と天皇の
滝口を勤めた過去を誇っておる。やはり技術は都であろう。

鎌倉御家人で、中国地方に土着しその地で生まれ育った者は中国地方人。
源氏や平氏の軍事貴族の末で、関東に土着しその地で生まれ育った者は
関東人。上方から来たゆえに関西人ではあるまい。関東人のなかには、
関西人を貶す者がおるが、よほど関西が嫌いなんかのう。関西人の末裔
が多いのにと思う。
818日本@名無史さん:2005/09/18(日) 19:48:04
>>817
はあ?
図書館で『国史大辞典』を筆写したのを書き込んだだけだぞ
関西の事なんか貶してないのにワロスw

牧の部分はどうした?
ここを無視して将門もないだろうに
819日本@名無史さん:2005/09/18(日) 21:19:12
戦国最強かー…立花道雪や山中鹿之助が好きだけど
最強とはいえないか・・・。
820日本@名無史さん:2005/09/18(日) 21:28:47
>>818
はあ?諸国の馬牧の数(官牧)が、関東に多かったのは認めるとしても、
牧は、瀬戸内海の島々にもあり、牛馬を貢納した記録もある。
東国から貢納された馬は、摂津の鳥飼御牧や宇治川と木津川の美豆御牧
等で一度管理したのであるが。
牧の文化を、東北アジアの農牧文化から見ると、東日本の牧畜文化は、
西日本と違い、牛車等の車文化も無い、牛に犂をつける文化も近世に
おいてもさほど発達せず、西日本と比べても欠落部分が出ておる。
家畜飼育の利用も下手、騎乗も下手であったのか。確かに東北アジアの
騎馬民族から見れば、騎乗技術から見ても、関東の騎馬武者等は、
お笑いの対象に過ぎん。伺いたいが関東の牧文化とは何か?出来れば
東北アジアの騎馬、農牧文化と比較して論じてもらいたい。
NHKスペシャル見よるんで、このくらいにしとこう。
821日本@名無史さん:2005/09/18(日) 22:33:39
>>820
ワロスw
牛車?関係ないだろw
なんで東北アジアと比べなきゃなんねぇの?そんなのシラネw

児玉党の阿久原牧、横山党の小野牧など、馬牧を拠点にして
発展していったんだが、瀬戸内はどうなんだ?
822日本@名無史さん:2005/09/19(月) 00:10:47
>>821
牛車が何で関係ないいんか?東北アジアの文化を知らずに、騎馬文化は
語れまい。あたりまえの事を、そんなのシラネか、われァは馬鹿たれか?

児玉氏は、広島県賀茂郡に移住し、村山党の武蔵金子氏は、温科にも移住
(現広島市東区温品)しておる。横山党は、小野氏(近衛将官の家系)の
子孫で南多摩郡の地で土着し横山を称し、小野牧の別当で氏族は多く
分かれたとされるが、関東西部の畑作地帯の高句麗文化の影響は否定
せん。小川牧、石川牧、由比牧等。神崎牛牧は新羅人と関わりがあるかも
知れんが。瀬戸内海は、備前の小豆島や伊予の忽那島も馬牧の産地で
あったが、近世でも瀬戸内の島々で広島藩、岡山藩は馬牧をしておる。
823日本@名無史さん:2005/09/19(月) 01:41:29
やいおまいら!

>>133>>254が朝倉宗滴って言ってるのに一つもレスが無いって事は
どういう事だ!

他にも、富田 勢源、景政、重政とか真柄 直隆、直澄兄弟とかいるんだ…orz

まあ、俺が言いたいのは朝倉家無視しないでください。お願いします( ´Д`)
824日本@名無史さん:2005/09/19(月) 07:15:37
>>822
田舎に牛車なんかあるかよ
関東を貶す為に東北アジアがどうのとか持ち出したんだろw

>児玉氏は、広島県賀茂郡に移住し、村山党の武蔵金子氏は、温科にも移住しておる。
はい?だからナニ?答えになってませんがw瀬戸内の武士団は?
全国に散っていった児玉党の氏族は他にもたくさんあるけど?

とはいえ普通に地元にも残ったし、児玉党の本宗家は児玉氏じゃなくて庄(本庄)氏だけど、
本庄氏(本庄城主、埼玉県本庄市)は小田原北条氏と(本庄城主、埼玉県本庄市)運命を共にしている。
戦国時代にもなると、武蔵七党の末裔は関東一円に散ってる。
だから江戸時代に大名として、関東で唯一残った那須旧臣の家が丹党氏族。
球場に行かなきゃだからこれでおしまい。

>>823
宗滴は当然名将だろうな。でも時代が古い人物は資料が少ないからね。
松平氏は清康以前も名将がいたらしいな。
825日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:22:53
関東を貶める、とか言ってる奴馬鹿か。

       関 東 が 田 舎 だ っ た

これは当然のこと。もっと堂々としろ。
最近の研究によりただの蛮族ではなく、ちゃんと文明化された田舎だったことが
わかってるだけ。
牧文化・・・っていうか”それぐらいしか産業がなかった”だけです。

なんですかその「ウリナラ半万年!」みたいな態度。
「田舎は田舎。文明も知ってた田舎」
826日本@名無史さん:2005/09/19(月) 15:02:27
おい825よ!
824の二行目読んだのか?田舎だって認めてるぞ!

関東を貶める=田舎だとかは関係ない。坂東武者の話だって。
カミツキガメだって田舎とか言って貶してる訳じゃないし。実際に田舎だったんだから
言われても「どうぞ」って感じだよw
827日本@名無史さん:2005/09/19(月) 18:24:05
>>824
質問に答えとらんのは、われの方じゃろう。
ほう、今度は、宗家ときたか。宗滴は当然名将か。
流石、東日本は、血族、同族的上下序列、長子優先、親方小方の
隷属、縦型社会でこれは、朝鮮半島と社会構造と似ておる。
同じ儒教でも、長子に絶対性が薄い中国の宗族性と違い、朝鮮では
長子絶対制の宗族で、東日本宗族と共通性が多い。
地縁的横関係の重視する西日本からすると、やはり異文化圏じゃ。
828日本@名無史さん:2005/09/19(月) 19:33:04
林崎勘助だろう。否、間違い無い。
829日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:28:58
朝倉宗滴話記って数少ない国産兵法書だよね。
少ししか内容知らないけど、それだけでも名将ってわかる。
830日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:40:39
>>815
完顔陳よりトゥルイの方が強いよ
831日本@名無史さん:2005/09/19(月) 21:19:43
>>827
そんなレスじゃ何とも思わないよ。
日本人同士を比較してるはずなのに、騎馬軍団と比較する意味が解らないし、
そりゃ奴らが強いに決まってるだろ、ガタイも違うし。
庄氏が児玉党の宗家と言われてる事にも文句があるのかい。庄氏は備中にあるだろ?
戦国の児玉党と言ったら武田赤備えの一つ、上野の小幡信貞がいるな。

>817の「関西人の末裔が多いのにと思う」というレス。実際そうなら名誉な事だが、
古代国造などの後裔が大半だな。擬制的な血族関係や貴種との血縁関係もあるだろうけど。
これで言えば上杉謙信は長尾氏(平姓鎌倉氏族)だけど、鎌倉氏が平家の末裔かは疑問だから
相模の古代豪族の裔かもしれない。
でも関東だけに限らず全国で言える事だし(近江源氏⇒阿倍氏族説など)、あまりに古過ぎるが
古代の皇別系豪族の系譜なんかは特に・・・当たり前だが。

>>829
中国地方マンセーで、それ以外は何にでも噛み付いて来る人だからw
832日本@名無史さん:2005/09/19(月) 23:35:47
>>831
日本人同士を比較とゆうても東西日本は異文化圏で、東日本と社会構造が
似ておる朝鮮を例にあげた。
>そりゃ奴らが強いに決まっているだろ、ガタイが違うとは、朝鮮の
ことか東北アジアの諸民族のことか知らんが事大しとるんか?
よほど宗家が好きならしい。宗家を尊重する朝鮮や東日本の考えは理解
し難い。鎌倉氏の影正以降の系図に疑問を持って相模の古代豪族と判断
するのも自由じゃが、平氏の将門や良文は?源氏の義家の末裔は、
全て否定出来るんか?都を中心とした西日本を無視した身勝手の解釈か。

古代国造の末裔が大半の例は?先祖が新羅人等では不都合か?
近江の佐々木氏も地元豪族説があるが、関東へ都から下向した豪族を
否定出来るんか?自身の意見と違えば何にでも噛み付いて来る人か。
そりゃァ先入観いうもんじゃ。
833日本@名無史さん:2005/09/20(火) 00:38:59
>>832
先走りしすぎだよ、一度にあれこれレスできないじゃん。
将門や貞盛は歴とした平家。坂東八平氏と呼ばれる氏族の系譜はどうかな?、とかね。

>古代国造の末裔が大半の例は?
武蔵七党氏族の多くは武蔵国造の後裔といわれてる。
横山、猪俣党は小野氏が同祖だが、この小野氏は中央貴族の小野氏(皇別系・春日氏族)説と、
武蔵国造族の小野氏説がある。『日野市史』は貴族小野氏の説を推してるんだが・・
児玉党は本姓が有道氏で、有道氏は常陸の古代豪族の出身で物部姓なんだが、児玉党は藤原氏の
末裔を称してる。この点(藤原姓)は脚色なんだが、こういう例は菊池、伊達など普通にあるでしょ。

宇都宮氏は藤原姓だが、古くより宇都宮大明神を奉斎した下野国造(下毛野氏)の後裔ともいう超名門の氏族。
新田、足利に佐竹、武田は源家の後裔。
関東以外だと、島津氏は頼朝庶子の落胤を称してるが、本来は惟宗氏族(秦氏族)で朝鮮渡来系とといわれる。

別に関東へ都から下向した豪族を否定してないだろ。系譜ってモノが真偽怪しいだけ。
戦国、江戸時代の武家の系図なんて殆んどでたらめでしょ。

それから、噛み付いてるのは今までのレス見たら誰だかわかるだろうにw
俺が戦国時代で好きな武将は家康だが、これも何か文句ある?
834日本@名無史さん:2005/09/20(火) 01:55:30
>>833
系譜が、怪しいとしながら、東北アジアや朝鮮半島からの関東移住者に
ついて述べて無い。馬牧との関連を語るのであれば。
『続日本紀』にある上野国の新羅人子午足らが吉井連と改姓(766年)
し、甲斐国の百済人190名も改姓(799年)したが、その点からも
地元豪族といえるか。考古学的にも考察するべきであろう。
戦国、江戸期は、寛永系図等信憑性に薄いのは同意であるが。
疑問を噛み付きと解釈しとるんか。家康は東国的後進性の社会が似合う。
東日本文化に家康とは、相性が良いのではないか。
835日本@名無史さん:2005/09/21(水) 07:54:56
別に良いけど家康も叩かれたか。おまいさんらしくていいよw

騎射に巧みな高麗人と武蔵武士の関係は深いと思うよ。
高麗人(高麗国の遺臣)の有力者と在地豪族の姻戚関係も深そうだし。
丹党青木氏(加治氏族)系図には高麗人移住の話も載ってるが、丹党は秩父郡発祥だが
青木氏や加治氏は飯能市(高麗郡)の武士だから、高麗人との関係も密接だろう。

この地には高麗神社が鎮座してて、社家の高麗氏は高麗王の末裔を称し現在に至る名族。
中国きってのの名門大名大内氏は百済王の裔を称してるね。

でもヒロシマさんよ、こういう話はアンチが沸いてくるぞ。アゲてるんだしさ・・・
嫌うのは自由だけど、古代密接だったんだし、諸豪族の系譜だってそうでしょう。
836日本@名無史さん:2005/09/21(水) 22:16:55
>>835

顔射まで読んだ
837日本@名無史さん:2005/09/22(木) 01:07:59
                       γ⌒/^^/^-
                     ,ゝ`/~ /~ /~  /⌒ 
                    〈(_|  | |~  |~  /^ )
                  (/~ /~ /~ /~ ~ /~ /^\
                 ()/)/~ /~ |~    .|~ |~ |~ /)
                 へ^〈,|,,、,,|,,、,,,,,|~,,,,、〈~,, 〈~ /⌒|)\
                   ,iiiiiiiiiiiiiii'' ゛  ゛    `iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii,
                ,iiiiiiiiiiiii!'          `iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii,
                    ,iiiiiiiiiiiii!  _,___    _,,,,.`iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii,
                    iiiiiiiiiiiiii!./∴,,゙・;;\../∴,,゙・,;\`!iii!iiiiiiiiiiii,
                iiiiiiiiiiiiii!.|;,'“●●・∵|.「∴●●.゜,;」`!i!iiiiiiiiii
                iiiiiiiiiii!!..|:,..;●●゙;;.;ノ.i,.;:,,●●;;.,..,i  !!iiiiiiiii
                 iiiiiiiiii|!'...\∵;,o,;:/ \;,,o,;:..,/  '!iiiiiiiii
                 iiiiiiiiii|⌒\ ̄ ̄( ○ ,:○)  ̄ /⌒..'iiiiiiiii
                     iiiiiiiiiii|:  \______/   |iiiiiiiiiii!
                   iiiiiiiiiii'i、ヽ 匚匚匚匚匚匚匚i / ,!iiiiiiiiiii!
                   iiiiiiiiiiiiii'! \         " / /lliiiiiiiiii!
                 iiiiiiiiiiiiiiil\ \匚匚匚匚匚l/ /llliiiiiiiiiii!
                  iiiiiiiiiiiiiiiillllii\:.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/lllllllliiiiiiiiiiiii!
                 iiiiiiiiiiiiiiiillii;;;:: `ー-..............-‐´illlllllllllliiiiiiiiiiii!
                iiiiiiiiiiiiiiiilli;;;:: :           :;;illllllllllliiiiiiiiiiii!
                iiiiiiiiiiiiiiiilli;;:::: :           ::;;;illllllllliiiiiiiiiiiii!
838日本@名無史さん:2005/09/22(木) 05:10:29
のまねこ
839日本@名無史さん:2005/09/22(木) 19:33:45
九世紀末の坂東は俘囚の反乱と、群盗(土着の豪族など)の蜂起で無秩序、無政府状態!
これらが反乱者にも鎮圧者にもなって大混乱!
こういう土壌から生まれた坂東武者が、畿内の武者より弱いわけが無いだろう。
840日本@名無史さん:2005/09/22(木) 22:53:18
>>835
なるほど。高句麗人の影響を見逃してないので、少しは見直したわい。
大内氏についても異論は無い。アンチゆうても、影響が強いもんは
しょうがない。
>>839
>807、820を読め。また北面の武士であった西行の弓馬談に、
関東武士は、なぜ関心したんか?時代は下がって戦国期の北条早雲も、
大和か宇治か備中か定かでないが、西からの流れ者ではないのか。
坂東武者が、畿内の武者より弱いわけ無い時代を知らん。平安期〜
大東亜戦争まで考えても思い浮かばん。
841日本@名無史さん:2005/09/23(金) 00:01:57
瀬戸内の武士団はどうした?スルーかよw
西行、西行、西行、西行・・・・、ってウザ杉!
西行が戦でどんな戦功を挙げたんだ。熱田生まれ、都育ちの頼朝が憧れたんだろ。

早雲は備中伊勢氏説が有力。言う通り、まあ流れ者だな。
同時代の大田道灌が謀殺されなかったら、関東の歴史(北条王国)は違ってたろう。
早雲、氏綱、氏康の三代は傑出してるが。
ただ北条氏の思想(氏康以降)は関東的な独立心があった。
でも氏政が関東の主としては器量が足りなかった・・・

カミツキタソは歴史には詳しくても、関東の歴史を知らなすぎだな。
武士発生以前から戦闘慣れしてたんだから、弱いわけないだろうが。

今まで色々なレスがあったのに、聞く耳持たずで一辺倒な言い分!
野球未経験者が、130キロの球を放れると頑固に言い張るようなもんだw
842日本@名無史さん:2005/09/23(金) 01:09:50
>>841
瀬戸内の武士団について何が知りたいんか?関東との社会構成が違う
事か?西行の影響が頼朝だけと断言出来る根拠は?
西行の弓馬談義は、鎌倉御家人達にとって強烈な印象を与えたと
言えんか?北条泰時は1237年7月19日に何と言うたんか?
三浦義村は如何に?わしが、関東の歴史を知らんのに対し、自らは関東の
歴史に詳しい様なので、答えてほしい。また平家降人を介した(武藤資頼
や兄頼方)の武家故実の導入についても、答えてほしい。

戦闘慣れ?郡党蜂起の事か?掠奪、放火、強盗すると強いんか。
しかも坂東の豪族同士の私闘で強いとは驚いた。関東武士が、もう少し
自ら馬を御する能力があれば良かったのにね。騎馬民族から見れば、
お笑いじゃが、その、お笑い関東武士劇場の第二弾に期待しよう。
843日本@名無史さん:2005/09/23(金) 03:57:13
井脇ノブ子
844日本@名無史さん:2005/09/23(金) 06:39:35
騎馬に長けた蝦夷との戦い、多くの馬の牧場、うち続く騒乱。
そして乱立する武装集団(在地豪族)。この中には「しゅう馬の党」のような盗賊の党(豪族など)もあった。
そして平将門の大乱!!
私闘?意味違くね?普通に戦闘に長けるだろ。いわば殺し合いをしてるんだから。

何で関係ない質問に答えなきゃならない?俺は詳しくないし、自分で詳しいなんて言ったか?
あんたは歴史に詳しいって認めてるだろ。ムキになるなよw
西行のは吾妻鏡だろ。西行の家は代々弓馬の家だが先祖の藤原秀郷は認めないのか?
関東はド田舎なんだし、京風の雅なものは取り入れたがると思うのだが・・・

しつこく大陸の騎馬軍団を持ち出してる意味がわかんね。
それじゃ、畿内の家族思いの武者達は騎馬軍団よりも強いのか?
戦国と関係ないし、他の人に申し訳ないから新スレ立てて下さいな!!!
845日本@名無史さん :2005/09/23(金) 09:40:02
戦国最強の武将が題目なのに坂東武者とか書いてる馬鹿がおるよwあの時代に坂東武者がでても真っ先に死ぬだけだしw
846日本@名無史さん:2005/09/23(金) 17:59:54
>>845
そんなこと堂々と言われても…。
時代の移り変わりによる戦闘方法、使用武器、兵科、合戦規模、思想の変化、新たな階層の戦闘参加…。
847日本@名無史さん:2005/09/23(金) 23:59:28
>>844
戦闘に長けているじゃ、殺し合いをしているじゃ?近代の話になるが
それらの経験豊かな中国国府軍や地方軍は日本軍より全体的に
強かったんか?
歴史には詳しゅうないが、秀郷の子孫下河辺行平は、摂津源氏源頼政の
郎従の家系であり、京都に馴れたる輩ゆえ若君(頼家)に弓馬の芸を慣れ
させ、つまり秀郷も将門も都で技術を磨いた。
武芸についても、「同じ中世武士でも、都の武士が近衛府の武官の系譜を
ひく騎射の芸人(真正な武士、「京畿の輩にこれぞ東国射手の本」)で
あるのに比べ、関東武士の多くは組打を得意とする傍流のセミプロ武士で
あった。当時の相撲の面でも、近衛府の主催する本物の芸(相撲は力に
よらず、技術さえ勝れば力に際だった相手にも勝てるとの認識)と比べ
関東の故実と無縁な力業の間には、明確な差があった。
畿内の騎射と騎馬軍団の違いより、むしろ馬上組打の関東が異質で
あろう。それ故に関東の馬文化には、騎馬民族的なものから見て、
欠落部分が出ておるのではないか、とゆうたんじゃ。
848日本@名無史さん:2005/09/24(土) 03:55:49
そもそも日本に騎馬民族文化は無い
849日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:46:16
おいおい、戦争ならばこのスレの題名通りに日本の戦国を持ち出せよ。
武田の騎馬武者、精強な上杉や島津軍、兵制遅れの関東とは逆の雑賀鉄砲衆など。
近代戦、中国は関係ないだろ。中国とじゃ民族性も違いすぎるし。

>つまり秀郷も将門も都で技術を磨いた。
又、言った者勝ちのレスですか・・・・ソースは?
幼少時に郎党の坂東人に習うだろうよ。京へは弓馬のお稽古に通ったってのかいw
相撲では畠山重忠の話がある。相撲は鎌倉武士のたしなみだったようだ。
広島さんが嫌いな高麗人だと、高麗福信が大和国石上で相撲を取った話が有名。
武蔵に移住した高麗人は高句麗の亡命者で、高麗社家・高麗氏に残る系図には高麗王若光を
遠祖として真偽は疑わしいが、高麗氏の祖はあるいは高句麗王族の一人だったかもしれない。

豊富な馬牧を基盤とした牧文化は全否定ですか?在地領主制も全否定?
それほど畿内人が強いなら、なぜ蝦夷討伐に苦戦して坂東人の力を借り出すのか?
その事を含め戦慣れした坂東人が坂東武士へと繋がると思うのだが?
坂東武士の末裔は名門戦国大名にも繋がるのだが(武門としての精神面を含めて)?
850日本@名無史さん:2005/09/24(土) 16:05:59
>>849
また、人の文を読まず、同じプロパガンダを繰り返す。東西の差から
武田や上杉等強いとは思わんが。秀郷流は関東へ土着した子孫も都と
縁が深い。将門についても>817で滝口についても書いておる。
逆に郎党の坂東人に習うた言う根拠は?関東の相撲は>847に書いた
通り。わしが、高句麗人を嫌い?勝手な解釈をしておられるが、
高麗人は都でも、随身の家柄であった。
>820でも書いた様に関東の牧文化(馬文化も含む)は、流入させた
可能性が高い高句麗人も、牛車があり、犂耕ありで、関東化すると
先祖の技術が欠落するのは、関東土着の習俗にもよる。全否定までは
しておりません。共産主義史観の発展段階を唱えた在地領主制論は、
関東の視点、立場でもあり歴史論として否定と言うこと。
蝦夷討伐も脱走兵が多い士気の低い朝廷軍を根拠にしても意味がない。
我が広島県も関東武士の影響は否定せんが、関東末裔の多い安芸国人が、
傘連判状の様に西日本的横の連合になっとる方が重要じゃと思う。
851日本@名無史さん:2005/09/24(土) 17:45:14
>>735
鹿島神宮宮司・東実著『鹿島神宮』は去年、神保町で300円で買って持ってますw

この防人の制で最も注目されるのは、遠隔の地であるにもかかわらず、再三にわたって東国から選んだという事であろう。
これは他の地方の防人が、東国の防人のように勇武ならずとあって、国辺を守るという重要性から、武勇に優れた東国の兵を充てたのである。
東国からの防人は大変であった。一家の杖とも柱とも頼む主人や息子を送り出し、その防人自身大阪までの道中は自弁であった。大阪の難波津に集合乗船してやっと公費によって賄われるという有様であった。
だから、貧しい家庭にあっては一日も早く三年の任期を終えて無事で帰って貰いたいというのが念願であった。
このような防人の心のよりどころとなっていたのが、東国開拓の祖神と崇められていた鹿島神宮であった。
「あられふりかしまの神を祈りつつ、すめらみくさにわれは来にしを」 那珂郡上丁大舎人部千文

古来鹿島の太刀神妙剣、または一の太刀といい、法を立て剣法を相伝え武道の中心地をなし諸国の武芸者が集まって修業し剣道の大学院ともいえる地であった。
斉明天皇の御代に三韓を放棄され城を築き烽を設けて防備を厳にするや、その守備兵を防人といい、これを鹿島に集め武道を学習させ長途に上らせた。
この事を鹿島立といい、今に至るも長途の旅行に立つ事を鹿島立ちという言葉が残っているのである。
宮司は同時に城主であり、禰宜は家老であった。領主は神領全部を含む以って隠然たる権勢を持っていた。
政元(松本備前守政元、鹿島氏宿老、神陰流の祖)の門下に、上泉信綱、塚原卜伝、有馬乾信等の後の有名剣士がいた。
武家小伝は坂東七流京八流といわれるうち、坂東七流は鹿島七流ともいって、関東の剣法は鹿島の神官に発するという。
852日本@名無史さん:2005/09/24(土) 17:56:24
上杉謙信、武田信玄、いづれにあれ衆道を重んじた武将の率いる
軍が最も強かったことは言うまでも無いゾ!!!

853日本@名無史さん:2005/09/24(土) 20:56:26

上杉謙信や武田信玄は強いと思いますが、軍が強いだけでは最強と言えま
ません。やはり最強武将は外交、合戦、内政、謀略、そして時の運をつかんだ
武将が一番だと思います。徳川家康がやはり最強ではないでしょうか?
皆さんどう思いますか?
854日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:10:06
だからその理論だと日本史上最強の武将が小泉純一郎になると
855日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:12:43
>>852
古代エジプトだったかな?なんかだと最強の部隊はゲイ部隊だったそうだな。
愛する人と供に戦うから、やたら士気が高かったとか。
信玄辺りはそうだろうな。重臣の大半は元愛人だしな
856日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:27:53
>>854 同意
857日本@名無史さん:2005/09/24(土) 23:13:18
>>855

スパルタもそうだよ。
858日本@名無史さん:2005/09/25(日) 01:59:38
>>853
兵力1万5千までなら、上杉謙信が最強だろうね。
あそこまで無茶やって、一度も大敗しないのは大したもんだ。
危険を察知する感覚が異常に優れていたように思える。

5万までなら徳川家康、20万なら豊臣秀吉と織田信長か。

しかし、謙信直率の1万5千なら、秀吉の20万相手でもなんとか撤退できそうだ。。。

>>857
オスマントルコのイエニチェリもだね。
859日本@名無史さん:2005/09/25(日) 12:47:56
>>854
いや、小泉首相は武将じゃないから

なんて冗談はおいといて
上の方で結構支持されてる毛利元就に一票。
860日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:42:13
>>851
全くの関東視点。九州人は反論せんのか。東国から選んだのは、
王朝が支配した異民族を逆に兵士として徴用することで、英国に
おけるインド兵、グルカ兵やオスマントルコのイエニチェリの例に
あり、中央同胞人の反逆と辺境人の忠誠と云う文明的要素であるが、
その例の如く徴発に便利な東国兵を使うた。東国防人に武勲はあった
んか。当時全くの異民族であった蝦夷にも東国兵は苦戦しておらんのか。
武道の訓練とは、弩の扱い等が主であろう。それらは大宰府でも訓練
したが、近代の演習と同一視は出来ん。しかも関東人が自慢する騎馬で
あったと言う根拠にも乏しく歩兵と言うより弩兵ではなかったか。
>>852
上杉の越後弱兵や城攻め下手の武田軍は東国においてのみ強かったわけで、
西国ではどうしょうもない。
861日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:44:07
山中鹿之助
862日本@名無史さん:2005/09/26(月) 07:14:40
1vs1なら本多忠勝や宮本武蔵
863日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:06:28
>>862
戦場の個人戦で最強なら宮本武蔵以前の剣豪。
上泉信綱、塚原卜伝、他など。
864コピペ:2005/09/26(月) 22:07:47
>職能武士論、武士芸能人論
これの拠り所は、武士は戦闘を家職とする「兵の家」の者、「家を継ぎたる兵」であり、そうでなければ当時は武士と
みなされなかったいうことにあります。これ自体は歴史的事実であると言ってよいでしょう。私が1で言及
したような研究では、都の四位、五位クラスの軍事貴族や六位クラスの衛府の官人が元々の武士であり、都が
武士の発生地ということになります。ただ、この説を取った場合には、鎌倉時代の「沙汰未練書」に
「御家人トハ、往昔以来為開発領主、賜武家御下文人事也」とあるように、昔からの在地領主であることが
武士であることの必要条件であると(現代ではなく)鎌倉時代においてさえみなされていたという事実と
整合的な説明を与えなければならない問題があります。詳しい説明を省きますが、どうも、武士の起源として
都を重視するタイプの「武士職能説」はこれに説得的な説明を与えるのを失敗している気がします。
下向井龍彦さんの天慶以降の反乱鎮圧・治安維持のための軍団を重視する「国衙軍制論」の方が説得的な説明を
与えているように思います。

>下級貴族であった初期武士が地方に狭いながらも所領を所有していた
多くの場合そうでしょう。問題なのは下級貴族ではない在地領主ですね。いわゆる「職能武士論」でも、治承・寿永の内乱期(いわゆる源平合戦
の時期)に参加した「武士」の多くは地方の在地領主であり、「職能武士論」で武士とされている、都の衛府の官人や中下級貴族は少数派であること
は認めています。「職能武士」論者は内乱の大規模化により、動員兵力が膨大となり、本来の武士、元々の武士ではない在地領主までが兵士として
動員されたのだと主張しています。このため、鎌倉期においては、在地領主=武士であるとみなされるようになったと訳です。
このへんの史料の扱い、論証に強引なところが目立ち、説得力を弱めているように思います。
865日本@名無史さん:2005/09/26(月) 22:09:12
足利義輝を忘れてはならん
866日本@名無史さん:2005/09/27(火) 03:08:36
>>864
鎌倉期においても、職能は機能しておったのではないか。
『建保六年(1218)文士であった二階堂基行は、「容貌美麗」と
「弓箭の達者」であることが高く評価され随兵に取立てられた。
文士と定められた為、武士と並ぶと恥辱に逢うべき事等有、基行自ら
随兵を所望したいと訴えた。』
下向井氏は、「職能人論に立つ武士論は今日、通説破壊=歴史修正主義の
急先鋒を突き進んでいる」として、読書人に与える影響、社会的責任を
憂慮している。つまり、下向井氏は、共産主義史観以外は、容認出来ん
のであろう。
867日本@名無史さん:2005/09/27(火) 03:23:11
たけ、うざ
868日本@名無史さん:2005/09/27(火) 03:53:18
痛いのが一匹混じってるな
869コピペ釣り:2005/09/27(火) 08:26:57
「武士=芸能人論」
この説は石母田正氏の「武士=在地領主」説に対するアンチテーゼとして唱えられています。
石母田氏は在地領主論は武士を律令制の破壊者、地方からの革命としてとらえ、成立時の武士は有力農民が
古代中央政府の圧政から自己防衛するために武装したものが起源とされ、それらが中央からドロップアウト
した京下りの下級貴族と結びついて武士団となったとするものです。其れに対し、武士と貴族の結びつきが
もっとあるとして登場したのが「武士=芸能人論」説です。それは戸田芳実氏が唱えた
「武士=地方軍事貴族説」から派生したもので、後に軍事貴族説を領がする支持を受ける。それは
中央貴族=退廃しきった打倒されるべき存在、武士=新興の進歩的・革新的存在といった戦前からの常識を
徹底的に批判したもので、佐藤進一氏あたりが唱えはじめたものです。

かいつまんで言うと武士=在地領主ではない。武士は古代地方社会の有力者が武装したり軍事貴族が「家職」
としたもので、農民ではない。彼らは領民支配を法によって理論的に行ったのではなく、武の力で領民を
支配し、他者から自分の権利を守った。と言うものです。室町期に成立した「職能歌合わせ」(だったと思う)
に様々な職業が描いてあり、その中にも「武士」という項目がある。というのがよく引き合いに出されます。
東北大の入間田宣夫氏が集英社の「日本歴史」『武者の世に』にを著してからややセンセーショナルに
取り上げられ「武士の棟梁=広域暴力団組長」などと言われるようになったものです。今学会では旧来の
在地領主説と芸能人説が有力ですが、最近ですとNHKブックス「武士の誕生」で関幸彦学習院大教授が
軍事貴族説にたち両説を批判しております。また講談社「日本の歴史07 武士の成長と院政」で広島大学の
下向井龍彦さんも「軍事貴族説」で書いています。これら新しい「新軍事貴族説」は律令国家の「兵」
(つわもの)と武士をまるで別な物として、律令国家崩壊後の王朝国家の軍制として「武士」が誕生とし、
その構成員は受領層よりさらに下層の貴族であるとするものです。
関氏の著書は学史の流れもよくわかりお薦めです。
870日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:24:24
大軍で押しつぶす奴は最強とはいわん

よって、東は真田昌幸、西は鈴木孫一が最強ってことでFA?
871日本@名無史さん:2005/09/28(水) 04:47:28
そりゃ相手より多い兵力なら勝って当然だからな
圧倒的兵力差を何度も覆したような奴こそ最強
872日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:11:23
その時の戦況も影響するんだがな。真田は確かに凄いが少数で大軍を倒した
例はどこにでもある。守り抜いただけで最強FAは正直キツイな
873日本@名無史さん:2005/09/28(水) 11:38:40
だいたい、その条件だと大勢力に不利。
874日本@名無史さん:2005/09/28(水) 17:11:20
>>871
大兵力で進撃して『少数』が迎撃したって必ずしも勝つとは限らんだろ。

あんた、矛盾してないか?気のせいなら良いんだが。
875日本@名無史さん:2005/09/28(水) 22:13:33
真田幸村でFA
876日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:09:33
幸村は徳川嫌いの民衆の意向で過大評価になってるだけ。
877日本@名無史さん:2005/09/29(木) 00:31:26
幸村(偽名)は名前のかっこよさでだいぶ得しているが
まともに自分が指揮したのって大阪の陣だけじゃん
それで最強にしたんじゃ他の武将の立場が無いよ
878日本@名無史さん:2005/09/29(木) 01:46:39
竹中半兵衛はどう?個人的にはパッとしないけど小野忠明が…僕は負け組?
879日本@名無史さん:2005/09/29(木) 04:27:36
>>874
矛盾はないだろ
勝って当然の相手を逆に打ち破るからこそ強さが引き立つ
880日本@名無史さん:2005/09/29(木) 12:12:35
信長、秀吉、家康なら信長かな。
勝家、清正、忠勝なら忠勝?

竹中とかは逸話は有名でも軍師だしなぁ。
881日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:29:39
>>870
鈴木(雑賀)孫市は実名も定かでない。
孫市は通称。
882日本@名無史さん:2005/09/30(金) 08:23:22
孫市はいっぱいいるど。重秀だっけ?
883日本@名無史さん:2005/09/30(金) 17:33:40
「いるど」か・・・、そういや、妄想噛付き亀はコピペに逃げたのかw

孫市の実名には諸説あるらしいね(重朝など)。
鳥居元忠が伏見で十分戦って、首を打たせたのが雑賀孫一だった。
884日本@名無史さん:2005/10/01(土) 00:17:44
>>883
妄想関東史観信者が何を言うとるんなら。何が悲しゅうて逃げにゃァ
いけんのか。>866に対し、返事の無いコピベ釣り氏の文に、
何か言えいゆうとるんか。ほいじゃ言うたろう。
>869武士芸能人論は、佐藤進一氏や上横手雅敬氏がそれぞれ
昭和40年44年に指摘したものであるが、明治の学者久米邦武氏の
伊勢平氏や河内源氏の上方武士が本物であるといった指摘まで遡って
思考する方が良いと思う。
室町期に成立した「職能歌合わせ」とあるのは、永仁五年(1297)
成立の『普通唱導集』のことであろう。
世間芸能人として、遊女、白拍子、猿楽、歌人、壁塗、蒔絵師、博打、
文士、武士等、芸(技術)によって他と区別された社会的存在。
武士=ごろつき論は、戦前から折口信夫氏が述べておられるのは、
わしゃは以前書いとるが、それを無視してコピベ氏は自論を長々と
述べておられる。これに答え言うてものう。
まあこのスレの戦国期は、武士=野伏、野武士(やし・香具師)論に
関連深いが。
885コピペで拝借:2005/10/01(土) 09:22:28
最近、一部のサヨ系日本史学者の間で、「武士=職業的殺し屋」説てのが唱えられています。
正確に言うと、従来は武士の地方の開発領主から発生したとされてきたのに対し、武士は都から
発生したものであり、発生期の武士は殺しを家職とする貴族やその他の民衆からも恐れられた
職業的殺し屋であり、暴力団のような存在だったということを強調してます。

内容はおいといて、これ唱えているサヨ系歴史家は、「戦争、軍事は いけない」「平和が第一」
というイデオロギーから、武力の担い手 としての武士は卑しむべき存在でなけれなばならない
と考え、 まるで当時の貴族のような差別感情丸出しで、「武士=職業的 殺し屋=卑しい存在」
というキャンペーンを行なってるように 感じられます。サヨ系歴史家いやがるだろうけど、
こういう 貴族の優美な世界の観点から武士を卑しむというの、昔の( 右翼と言われる)
亀井勝一郎とかもやてたんですけどね、

>>基地外じみてる
と思われるでしょうが、これ最近のは武士論の中では結構有力な説なんですよ。
野口実とか、高橋昌明とか著名な歴史学者がこういう立場です。


石母田氏==初期の武士に、来るべき(来なかったけど)共産主義革
命の前衛という幻影を投影していた。

野口実・高橋昌氏ら==武士的なライフスタイルに、近代以降のアジ
ア侵略者にして加害者である日本人の原型を見出している。
886日本@名無史さん:2005/10/01(土) 14:55:13
>>835
笑うた。大嘘・捏造・逆説コピベさん。
>差別感情丸出しで、と言うところや貴族と武士を階級闘争の概念で
捉えているところは、共産史観のイデオロギーらしいと思いますけど。
今度は、もっとうまく作って下さい。
887日本@名無史さん:2005/10/01(土) 18:28:36
>>869の、『武士の誕生』関幸彦(学習院大教授)著から

殺傷の場としての戦争が日常化していた世界に身をおく坂東の武者にとって、結果としての
野蛮さは問うところではない。かれらが自己を主張しうるのは、自らの棟梁を押し立て、それを
牽引力として、権力を浮上させる事にあった。

単純な表現をすれば、「アウトローとしての強さ」、これが坂東武者の気質を形作ったといえる。
戦におけるルール無視の戦法も、勝つための手段にほかならなかった。

集団としての坂東武者団の強さは、個の総和に帰結される。その場合の個とは『平家物語』が
称える世界とは別の意がある。
例えば、一の谷合戦における平山季重にしても熊谷直実にしてもそうだ。かれらの先駆けは、
失敗すれば集団に危険をまねく行いだったはずだ。武蔵武士の強さとうたわれたもう一つの側面
(ルール無視)にも思いをいたすべきではないか。とすれば、こうした坂東武者の個が集合した
ところで展開された内乱の勝利とは、平氏に象徴される西国武士の弱さなのでなく、失うもの
がない東国武士の「もう一つの強さ」の証明といえなくもない。
騎馬に長けた戦闘、技能上の優位とともに、辺境の坂東が育んだ気質がそれを可能にした。

・九世紀以来の蝦夷との戦争で坂東に打刻された兵站基地としての性格。
・この「武の遺伝子」の組み込みが、その後の坂東の歴史的特質を規定。
888日本@名無史さん:2005/10/01(土) 23:03:59
蝦夷って言ったら蛎崎・松前親子だな。
889日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:55:45
>>887
言い訳がましいのう。つわものの道を知らん者。戦闘ルールを無視する。
上方武士は、下人等には手出しせず、非戦闘員の安全を保障し、投降者
には寛大に。戦闘相手が寡兵の場合には戦闘を控える。殺人の中にも
礼あり。「東国の武士は夫(人夫)までも弓箭にたずさいて候へば 
此平家かなひ候はじ」つまり、東国武士は人夫まで弓を持たせ大量の
矢を放つ集団戦が勝因とと言う訳か。
しかし上方側からの視点では、東国側がみじめ過ぎるので、東国側の
視点にたって言うと、敵の強弱は関係無く命がけで対決し、他の感情が
入ってはならん。東国人は「生きて虜因の辱めを受けず」、それは投降
した者(捕虜)にも適応され打ち首とする。
騎馬に長けた戦闘、技能上の優位は、関東より上方が優れておったのは、
西行や源頼信の例でも証明済みであろう。「武の遺伝子」は東国には
あるまい。知・情に欠けた素人集団。鈍重東北蝦夷あたりとええ勝負。
890日本@名無史さん:2005/10/02(日) 02:54:43
四国と三重県と飛騨は弱い。国司大名がのさばっていたから。
891日本@名無史さん:2005/10/02(日) 03:41:21
逆に言えばその地域は比較的平和だったということだな
892日本@名無史さん:2005/10/02(日) 19:18:59
>広島タソ
あんたも噛付きに大忙しだなw
>>850のレスで人の文を読まずとか言ってるけど、何度も読んでるぞ!
読んでも「ハァ〜?」っていうレスが多いだけ。
鈍重東北蝦夷ねぇ・・・、それに(騎馬兵)大苦戦したのは朝廷軍だが?
西行についてはしつこすぎる。

『東鏡』によると、源為朝は九州で育ったので、馬に乗るのが下手だったと言う話が
坂東武者たちの間で有名だったらしい。もちろん為朝の強弓は凄すぎだが。
関東武士達が所領を得て全国に散ったから、後世各地で、騎馬技術も向上したんだろう。

>>890
姉小路氏は京極氏の被官出の三木氏に、北畠氏は剣社社家の分家の分家・・・織田氏に
家を乗っ取られて悲惨だね。
これとは違うけど、近隣の豪族と強引に婚姻関係を結んで、家ごと乗っとる例は多いね。
893日本@名無史さん:2005/10/03(月) 06:05:55
龍造寺隆信と言ってみる
894日本@名無史さん:2005/10/03(月) 23:24:21
>>892
蝦夷の騎馬兵に大苦戦した朝廷軍は、徴発された東国人もおったろう。
朝廷軍は諸郡兵士であり西日本軍では無いし、朝廷側が、蝦夷を狄と
表現した(関東は東夷)のも、漢に対する匈奴のイメージを蝦夷に重ね
合わせ強調して記したもので、その点も考慮して解釈する必要もある。
西行について指摘されると、よほど不都合があるんかのう。
『東鏡』で大庭景能が保元の乱の経験を述べたものを例に述べておる
ものを、坂東武者たちの間で有名だったらしい。とは拡大解釈。
関東武士が全国に散って騎馬技術が向上には根拠も無い。

『武蔵国の都築平太経家は東八ヶ国きっての馬乗の名手で、[平家の郎党]
であったが、源氏側の因人となった。ある時、陸奥より悪馬が献じられ、
誰一人乗りおおせる者が無い。そこで経家を召し出したところ、見事に
御した。頼朝は喜んで経家を厩別当にさせたところ、特別な方法で馬を
飼いならし、狩場にあっては数珠繋ぎにした七、八頭の馬が、人手を
借りず経家の馬の尻について来た。後「その飼けるやう」(騎乗技術)
を知る者も無かったという。』関東武士の騎乗レベルはその程度。
895日本@名無史さん:2005/10/04(火) 00:01:51
民俗学者、宮本常一氏の引用から、『公家達の馬の乗りこなしぶりは
じつに見事なものです。じつは騎馬民族の後裔だったということが
よくわかってくるのです。鎌倉武士の場合一人で馬を乗りこなすという
ことは少なかったようであります。
馬に水を飲ませる馬柄杓をかついだお供がいる。馬に乗ったまま水を
飲ませようとすると乗っている人が落ちるのです。これは乗り方が下手
だからです。その程度の乗馬力しかもっていなかった。
本当に馬に乗る高い技術をもたなかった人達が、東日本にはたくさん
いたのだといってよいのではないか。そのことと田んぼが小さいことは
イコールになる。つまり乗ることも下手、車や犂を引かせることも
下手だったのです。
西日本の方へ行きますと、牛に犂をつけて引かせています。農耕に
使ったのが近畿から西であったということです。騎馬民族の後裔と
いうのは、そのあたりまで分布しているのです。』
896日本@名無史さん:2005/10/04(火) 01:15:34
戦国最強の武将とはあんま関係ないじゃん。
897日本@名無史さん:2005/10/04(火) 01:31:33
最強は武田信玄だと思われ。
軍略、信頼ともに抜群。
898日本@名無史さん:2005/10/04(火) 02:02:20
西日本人=騎馬民族説?
馬鹿?w
899日本@名無史さん :2005/10/04(火) 02:32:17
上杉謙信に決まってる。
戦術に関して右に出るものは無し。
900日本@名無史さん:2005/10/04(火) 03:04:11
       祝! 900get

☆       ∵∴∴☆※☆∴∵∴       ./
     \  ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
        *∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∴*
      ※∴★☆☆*°°|°°*☆☆★∴※
     *.∴☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∴ *
    *∴☆★☆°\°☆☆★☆☆°/°☆★☆∴
   .. ※☆☆*°°★°° 人   ★ °°*☆☆※  *
   ∴☆★☆°°☆     (__)   ☆ °°☆★☆∴
   ∴☆☆*°°☆    (__)   ☆°°*☆☆∴
   ※☆★☆――★  ∩ ・∀・)∩  ★――☆★☆※   ⌒★
   ∵☆☆*°°     〉    _ノ   °°*☆☆∵ *
   ∵☆★☆°°☆   ノ ノ  ノ      ☆°°☆★☆∵
   ※☆☆☆*°°★ し´(_)  ★ °°*☆☆☆※ *
   *∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
      ∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵    うんこーーー!!!
      ※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
      *...☆∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∵☆    .ζ
         ※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※      ☆
            ∴∵∴☆※☆∴∴∵
901日本@名無史さん:2005/10/04(火) 14:07:18
島津



























歳久
902日本@名無史さん:2005/10/06(木) 20:26:48
そろそろ反論

なんで騎馬民族とかしつこく言ってたのか理由がわかったよ。
騎馬民族説を信じてたわけだwww否定されてる説なのにね・・・
宮本常一がいう騎馬民族後裔の公家って誰のことよ?とにかく無茶苦茶。
在地領主制よりも、騎馬民族説マンセーはないでしょw

高橋、川合氏が『盛衰記』の真光故実を基にして、東国武士の馳射の技量を疑問視する説も
『弓矢と刀剣』で近藤氏が否定してる。
又、流鏑馬についても実戦とは無関係と述べている(神事での行事だから)
抜粋⇒「軍陣騎射の稽古の第一は、やはり狩猟であり、そして実戦そのものだろう」
西行クン残念!

和歌山生まれで、京大名誉教授の上横手氏は『源平争乱と平家物語』で
「合戦という事になれば、平氏は源氏に勝ち目は無い」といい、
西国武士を「僧兵や山賊、海賊を相手にしてきた天朝の番犬」と表現し、
東国を「合戦自体が目的であり、日常茶飯事である」という。(そりゃ、そうだ)

ソレカラ!タケダ、ウエスギハツヨイゾ!!!!!!
903日本@名無史さん:2005/10/06(木) 20:49:23
武田最強。徳川タナボタ
904日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:00:56
武将なら剣豪上泉信綱は?武田の侵攻を防ぎ続けた長野業正は?
905日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:14:30
由布雪下

立花道雪・宗茂親子を長年に渡って補佐、立花家筆頭家老・立花四天王筆頭。
小野和泉を見抜き、大友家から立花家にスカウトする。
あまたの戦で鬼神的働きを見せる。 軍才だけでなく行政にも秀でる。
雪下がいなければ、立花家も違う運命を辿っていた。
906www:2005/10/06(木) 23:22:27
上杉謙信。負けたことがないから。
907日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:41:46
五万の北条兵を五千で撃退した佐竹義重。
908名無fvgbht:2005/10/06(木) 23:54:46
やっぱり織田信長。本能寺の変がなければ天下を取っていたと思う
909日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:06:06
1560年代〜1570年代は毛利元就。
1580年代〜1600年代は黒田長政。
910日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:56:04
>>902
わしゃ、騎馬民族征服王朝説に、肯定、否定もしておらん。
王朝と云う権力構造はどうでもええ。じゃが、否定されてる説と
断定出来る根拠も無いが。宮本氏のそれは『年中行事絵巻』から。
近藤氏は関東人ではないんか。高橋氏は、「余興的・興行的な武を
不真面目なものと見なすこうした固定観念こそ、近代武道理念の
形成過程で追求された、意識操作の産物。」とされる。それについての
近藤氏の反論は知らん。近藤氏の云う実戦が、型稽古より役立ったという
実例(剣術においても)もない。
西行の弓馬芸能談に頼った海野幸、北条泰時、三浦義村がさほど残念
なんか?源頼信の例も無視しとるが、東国は私戦の戦闘に過ぎん。
秀吉の言う「東国の習いに、女・童部をとらえ売買し仕る族」と
された東国であるが、上杉・武田は人身売買で潤い郷土では英雄と云う
わけか。上杉の関東遠征(秋から冬に遠征が多く、農業労働力を確保する
為)に拉致され、奴隷の狩場とされた関東人が、奴隷であった事を誇りに
思うとは奇妙な事。越後や甲斐に劣等感でもあるんか?
911日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:59:29
えっ?まだ騎馬民族の話してるの?
いい加減スレ違いと思うんだが…。
912日本@名無史さん:2005/10/07(金) 02:19:52
自分の家臣に殺されるようなヤシじゃ間違っても最強とは言えない
913日本@名無史さん:2005/10/07(金) 02:35:18
もう返しのレスが
とりあえず、兵庫生まれ、京大教授の元木氏『武士の成立』から

頼信の軍5000騎のうち3000騎は平惟基の軍で「常陸国司(頼信)の軍事行動の成否は
事実上惟基が左右していたのであり・・・。

東国で形成された「武者の習い」、「兵の道」は京の軍事貴族の世界はもとより、
西国諸国に浸透していくのである。

東国豪族は著しく高い政治的地位を有しており、長年継続した地力救済慣行の
中で成立した存在。

武士が在地領主である事を否定されるものでなく、職能論との視角の融合を
目指す必要がある。

越後に劣等感なんてないよ。
謙信時代の関東には小領主が割拠していた。長野、由良、成田氏も小戦国大名。
結局、最強武人謙信でも関東においての理想は達成できなかった・・・

全く関係のない話だが、元球児の俺としては新潟に劣等感ないな。広島にもw
914日本@名無史さん:2005/10/07(金) 13:07:07
本願寺顕如
915日本@名無史さん:2005/10/07(金) 16:55:40
ちょっとスレ主旨から外れてスマンが
来年の大河ドラマは「武田信玄」らしいのお。
信玄は嫌いではないが、散々ドラマ・映画化されてるんで
「またか・・」って感じで食傷気味。

信長・秀吉・家康・(義経)は日本史の中で(ドラマ性という意味で)
別格だから大河ドラマが定期的に取り上げるのはやむを得ない。
しかし信玄は、エピソードは多いが結果として甲斐周辺の王で終わった男。
ドラマにすると意外とつまらんと思うのは洩れだけだろうか?

信玄を取り上げるんだったら「島津義弘」・「北条早雲」・「上杉謙信」
の方がおもしろいし、ミステリアスだと思う。

「島津義弘」は猛将のイメージとは裏腹に生涯側室を娶らず妻だけを
大事にしたし、戦が終われば敵味方問わずに慰霊をしている高潔な人物。
数々の戦歴と併せてドラマ向きの人物だと思う。

「北条早雲」は梟雄のイメージとは裏腹に、領民を第一に考えた治世。
(どんなに苦しくても年貢を四公六民より上げず子孫にも守らせた)
人生五十年の時代に戦国武将としてスタートしたのが56歳の時。
(ちなみに初めて妻を娶ったのもこの頃)隠居したのが87歳(88歳没)。
高齢化社会を迎える日本にとって勇気づけられる人物。
ただ前半生が謎なのでドラマ化は難しいのが難点。

「上杉謙信」は個人的に知識が薄いのでミステリアスな魅力がある。
正義の為に戦をするという日本史では希有な人物だし、絶対のカリスマ性とか
も〜ほ疑惑とか興味は尽きない。

大河は過去に「毛利元就」や「伊達政宗」といった(傍流で)名作を制作した
実績があるのだから、これら人物でも十分おもろいドラマに出来る筈。
是非上記人物での制作キボンヌ。
916日本@名無史さん:2005/10/07(金) 17:38:09
来年は山内だろが。しかも再来年は山本勘助。キボンヌする前にちゃんと調べろ。
917日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:59:08
まて、テレビ東京という可能性もあるぞ
918日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:35:07
>>909
 朝鮮出兵の折、黒田長政は立花宗茂と鉄砲と弓とどちらが使えるかという
賭け勝負で負けて墨縄という名銃を持っていかれたんだが


 ちなみに宗茂は、その後の大津攻めの際、早合を用いて鉄砲隊を効率よく使用し、
他家を驚かせたそうな
919日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:16:10
大河ドラマは真田昌幸とか蒲生氏郷とかやってくれないかな

直江兼続とかも見てみたい。
920日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:41:08
碧蹄館、蔚山、安濃津城攻めなど吉川広家もバランスの取れた
武将ではないでしょうか?
最強ではないけど、島津義弘、真田昌幸の次、ナンバー3ぐらいで・・・
921日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:58:08
示現流
922日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:15:25
堀秀政と蒲生氏郷
923歴名無し:2005/10/08(土) 00:21:04
信長じゃないんですか・・・・でもかわいそうですよねー天下統一も
くぜんにして、明智光秀に殺されるなんて・・・・信長の見方だな
924日本@名無史さん:2005/10/08(土) 01:25:52
>>913
兵の動員数を問題としておられるが、しかし源頼信の地形の知識、
情報収集を重視を無視出来まい。>東国で形成された「武者の習い」
「兵の道」とは?非戦闘員を殺すことか?西国に浸透したと言う
根拠は?地力救済慣行とはどの様なものか説明が無い。

上杉謙信の関東においての奴隷狩りは、理想の達成より現実であろう。
関東が、越後に拉致された奴隷供給地であることに変りあるまい。
新潟人の奴隷、隷属小作農民であったことに劣等感が無い?
なれば、なぜ、上杉が強いと言うんか不思議なんじゃが。
まあ西日本でも、島津氏は、大友氏の領民を肥後で売買させ、
朝鮮の役でも「カクセイ」つまり朝鮮人を拉致すること、あるいは
ポルトガル人に売り払うことに懸命であったのは認めるが。
925日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:30:37
>>919
漏れも直江兼続は一度見てみたい。しかし、NHKの大河ドラマは、その時代の政治をやりやすくするための
洗脳の一環として作られてるからな〜。一番最初の作品がマニアックに井伊直弼だったのは日米安保のためだったしさ。
人気が出るかは二の次だからな〜。

来年、山内って事は・・・どういう意味なんだろ?
926日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:30:22
>>925
女性議員が云々
927日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:38:46
>>915
島津は朝鮮で大活躍したからドラマとかにすると嘲賎から言いがかりが来るってほんとですか?
928日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:23:07
今川氏真というところかの
929日本@名無史さん:2005/10/10(月) 15:04:05
>>927 
文句が来るって聞いたことあるよ。
大陸三カ国では自国の汚点は教えず、外敵については誇張して悪く教える。
だから、良い事とかやられると国的に不都合なんだって。

北条早雲の大河を見たい・・・・個人的には氏康が盛り上がりそうだと思うけど
上杉謙信に武田信玄、今川二人も出てくるしね
930日本@名無史さん:2005/10/10(月) 15:21:35
>>924 争論の中申し訳ないのですが、
意見を拝聴していて「武者の習い」「兵の道」がどんな物で、
どこを争点としているのかが、どうしても理解できません。
ですので、時間がある時で結構ですのでご説明よろしくおねがいしますm{__}m

古武術とかやってる視点からだと、最強武将は本多忠勝を押します!
戦場での臨機応変さと進退のさせ方が見事とのことなので
931日本@名無史さん:2005/10/10(月) 16:23:50
>>916
山本勘助か、大河は大名中心だから意外な人選だな。

この分だとこのスレに書かれてるような本多忠勝・加藤清正・島左近
みたいな猛将が大河の主役になるのも近いかもな。
932日本@名無史さん:2005/10/10(月) 16:57:43
安土城築城の時点で信長自身も多くの民衆も事実上、天下統一は実現
していたという見方が最新の学説。
戦闘能力では戦国最強騎馬軍団と恐れられた武田信玄だろう。信長も
最も武田信玄を恐れていたという。
戦略では信長しかない。時代の変化を読み取る力は断トツ。この時代、
信長を越える武将はいない。
933日本@名無史さん:2005/10/10(月) 17:47:23
>>930
将門以前から坂東で培われた「武者の習い」・「兵の道」は、その将門を討った同じ坂東人
(藤原秀郷、平貞盛)で、子孫が貴族(京武者)となって繁栄した氏族にも受け継がれ
広がっていく・・・。
将門の乱で醜態を晒した源氏の祖・経基王も、瀬戸内の海賊相手の戦では活躍し、子孫は
京武者として発展していく・・・。

武士職能論=「関東武士の技量に疑問を持つ」という事ではありません。
>>903の上横手氏や、>>913の元木氏の文章でも解ります。
高橋氏や川合氏が拠り所とする『盛衰記』の真光故実(三浦真光)も、近藤氏の見解によれば
全く成り立たなくなる。
『平家物語』や『太平記』などを完全否定したのは明治の学者久米邦武。久米は旧佐賀藩士で
政治的に見れば反徳川、反関東だからね。広島タソがよく持ち出すお人。

ただ武士には批判的な説ではある。>>885のもあながち間違いでもない。極端過ぎだがw
広島タソは在地領主制否定らしいけど、職能論と融合させて考える必要があるのは歴史素人の
俺でも感じます。

恐らく怒りの広島レスが来るだろうな(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル

氏康の大河なら太田三楽斎も出して欲しいな。個人的には道灌がみたい。
934930:2005/10/10(月) 21:16:59
>>933 ご丁寧にありがとうございます。
なんとなくですが、理解のとっかかりが掴めました!

北条早雲、氏康・・・あのあたりの時代をもっと大河でやって欲しい。
太田道灌始め名将が各地に出てるのに・・・・
935日本@名無史さん:2005/10/11(火) 03:29:52
>>930
>889でも述べた様、戦闘をする者には自己規範が必要です。
しかし『奥州後三年記』や治承寿永の争乱、蒙古の使者を斬る等、
隷属的縦型社会の関東には、少数の例外は別として「武者の習い」
や「兵の道」も無く、横関係の義理・人情も稀薄と思えます。
関東独善史観者は、野蛮性を誇るので異議を唱えとるんです。
>>933
>将門以前から坂東で培われた「武者の習い」・「兵の道」とは何か?
「武者の習い」「兵の道」が関東から都へ伝わったと云う根拠も無い。
秀郷は左大臣藤原魚名(房前の五男)の玄孫とされ元来貴族であり、
源経基の子孫は、関東を支配したと言うことであろう。
関東史観の学者の見解を言うとるが、関東武士に技量はあったんか?
久米邦武氏は、考証史学論から否定したのであって、それに対し
関東独善的史観は反西日本じゃろう。
>885は極端過ぎる間違えで、それは>866にも書いとる。
それで、結局戦国時代関東が越後の上杉に拉致され奴隷となったことは
都合が悪いんで無視かいのう。
936930:2005/10/11(火) 15:46:19
>>935 
ご説明ありがとうございます。御二人の話で争点共に理解できました!
937日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:28:00
越後は関東より近畿からの移民のが遥かに多いんだがなー
ま、いっか
938日本@名無史さん:2005/10/12(水) 01:20:05
>>930
933のレスじゃ解りづらいですね。書いた俺自身が解んないしw

【将門以前の坂東の流れ】
騎馬での戦闘に長けた東北蝦夷の兵站基地としての坂東。

俘囚(服属・帰属した蝦夷※騎馬に長け、朝廷軍の十倍の強さ)を集中的に坂東に移住。

俘囚たちが朝廷に対する怨念から反乱。さらに群盗(富豪の輩※土着国司や在地豪族など)も蜂起。

これを鎮圧するのも富豪の輩(上と同様の連中)。「凶猾党を成し、群盗山に満つる」状態。

上のような状況で坂東で培われた兵としての強さが(蝦夷を通じて)、京で軍事貴族となった源平
両氏などによって、都にも浸透していったという事でしょう。
源氏は都の軍事貴族として成長し、頼信以降、坂東武士との密接な関係を築いていく。
広島さんの説は恐らく荒唐無稽な騎馬民族説+高橋&川合説など色々混じってるんでしょうw

結局この時代の戦闘は騎馬武者が基本となるから、豊富な馬牧を持つ東国武士が西国武士よりも
騎馬技術に長けるのは当然だろうし、古代以来続いてきた蝦夷との戦い(頼義、義家も含め)、
戦続きで焦土と化した坂東一帯・・・実戦に勝るものなしでしょう。
ただ忘れてならないのは、狩猟中心で、騎馬での戦闘に長けた東北蝦夷の存在!
939日本@名無史さん:2005/10/12(水) 01:50:09
>>935
改行多い
読みにくい
940日本@名無史さん:2005/10/12(水) 02:24:55
>>938
蝦夷の騎馬文化とは何か?よほど関東人は、東北鈍重蝦夷に劣等感が
あるんか?都へ浸透したと云う根拠も示さずはあい変わらずじゃのう。
騎馬民族説の荒唐無稽な部分とは?具体的に言えいや。荒唐無稽の説を
言うんはワレの方じゃ。
関東・東北に騎馬文化があったと言うのはどの様なもんか。
高句麗の騎馬文化と云えども、魏志東夷伝にあるよう「其馬皆小使登山」
同族の穢も「能歩戦」「果下馬高三尺」とあり騎馬戦中心では無い。
あんたの説では、東北蝦夷は乾燥ステップ地帯で満洲を飛び越え、
騎馬戦力が中心となったと言う珍説か?蝦夷の社会が狩猟中心であったと
断定出来る根拠は?縄文期でもそう言いきれるんか。
そういえば、東北は時代を下げて近代戦においてもさほど強かった時代が
なかったのう。関東はその東北より下と認めるんか?
鈍重東北に対し劣等感丸出しと言うわけか。
941日本@名無史さん:2005/10/12(水) 03:50:20
「日本刀の原型は、東北の蝦夷の湾曲刀に苦戦した為、それを模し改良して作られた。」
毛抜き型の最初期の太刀についての説明文です。
坂上田村麻呂が東征するまでは、武器に関する資料をみると東北の方が強かったみたいです。
ちなみに、この太刀の開発と鹿島での個人戦闘の技術発展によって、朝廷の兵は騎馬兵を持てたとのこと
東北兵が騎馬戦だったというのは、武器の形状からは上から切り下げるのに適している為、有力視されています。
でも、そのような武器はある程度以上の豪族で無いと持てない事から、「中心だった」とは断定しずらいのが現状です。
ただ、騎馬での戦闘が「兵器」として威力を発していたのは、武器からの考察では間違いないようです。
歴史書には詳しくないんでなんとも言えませんが、とりあえず別視点ということで掲示します。
942日本@名無史さん:2005/10/12(水) 12:16:44
蝦夷って言うと松前さんだな。松前さんより島津さんの方が人気あるよな。
松前さんは藩なのかイマイチわからないしな。

戦国末期の最強だと
立花宗茂・ぎんちよ夫婦かな。
943930:2005/10/12(水) 14:05:29
>>938さん またまた詳しくありがとうございました。
おかげで広島さん{?}の御話共に今までの内容が整理できました!

>>941さんに乗っかって、武器の面からの書きますね。
初期の大和刀剣は直刀で歩兵時に刺殺に用いるもので、構造的に斬撃は不可能。
それに対して、蝦夷は湾曲刀で斬撃に適していた。この場合、騎馬での戦闘が可能となる。
また、西国と箱根以東では平野の面積がことなり、騎馬での部隊移動が戦略として成果を発揮しやすいとのこと。

さらに武器の変遷を追うと、東国では騎乗のまま戦うのに適した馬具や弓が発達が見られ、
西国では騎馬兵を攻撃する長物{大薙刀等の巨大刃物}の発達が特に見られる。
この違いは、鉄の生産と製作技術・ノウハウが上方にあり、東国にはあまり伝わらなかった為とも考えられる。
ちなみにこの説は、戦国期以前の刀匠町の存在から裏づけられるそうです{備前物など有名}
ここで紹介したことは、田中普門氏や牧秀彦氏など、現在も活動中の武術畑の方達の著書からの引用です。
944日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:38:33
>>941
東北蝦夷の蕨手刀に苦戦したと言う文献は知りません。
個人戦闘の技術発展云々も根拠がありません。
朝廷軍は「百姓苦役」「尋即逃去」と云う士気の低い状態でした。
朝廷軍は、白村江の敗戦により防御主体の戦闘形態に移り、機動力の
欠け、迎撃戦に強く、追撃戦に弱い、弩戦を主体にした。また攻撃する
側の朝廷軍は、兵站にも不安があり、蝦夷側は有利な地形を択んで
弓を射ることが出来る利点もありました。
>>943
>直刀が歩兵時にとは、いささか飛躍し過ぎです。
北ユーラシアの遊牧騎馬民族も当時は直刀でしょう。
湾曲刀は西突厥崩壊後8〜9世紀活躍したハザールの遺跡から出土して
おりますが、敦煌壁画から重装騎兵は槍を武器としてます。
高句麗も青銅武器で、突くのであり、青銅武器は斬るものでは無い。
阿部比羅夫の北方遠征で有名な、蝦夷にとって恐るべき敵であった、
オホーツク式(靺鞨)文化人の粛慎は、遺跡から稀に蕨手刀も出土して
ますが、石鏃、石槍等が中心でした。日本の地域による武器、戦闘の
違いは後で。  わしは広島人です。
945930:2005/10/13(木) 00:13:41
>>944 資料になりませんか・・・残念です。
ちなみに、>>943で掲示した内容について著者達がこの部分を参考とした文献がわかったので一応掲示します。
『「馬の文化と船」の文化 福永光司』『雑兵達の戦場 藤木章仁』『稲作儀礼と首狩り 鳥越憲三郎』『鹿島神流 関文威』
『古代海人の世界 谷川健一』『剣道秘要 宮本武蔵』『天剣秘帖 友清歓真』『世界史のなかの縄文文化 安田喜憲』
『大日本剣道史 堀正平』『日本古武道総覧 日本古武道協会』『日本刀の鑑定と観賞 常石英明』等
他には遺跡や博物館の協力とありました。

一応ですが、ここで書いた直刀は鉄剣のことであり、大阪四天王寺に残る丙子椒林剣などの片切刃剣や
布都御魂剣{第十代崇神天皇神庫より明治7年に発掘}・布都御霊剣{鹿島神宮蔵}の物を指していますのでこれも掲示します。
946930:2005/10/13(木) 00:17:51
いい忘れです。すいません
>>943での直刀の使い方は仰るとおり、刺すことしかできないそうです。
なので、御話にある蕨手刀は斬撃ができる為に少数でも恐ろしい兵器だったとありました。
興味深い御話、また楽しみにしてます。
947日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:38:21
東国は馬上組打で、鎧の隙間から急所を刺し後に首をあげる。
組打から落馬後まで連続する。騎射について関東史観の近藤氏によれば
馬静止の騎射で騎馬に巧みなら馬を静止する必要があるんか不思議では
あるが。西日本や九州は、太刀打ちや遠矢でした。
東=近矢、小刀。西=遠矢、長刀。とは言えそうですが、これは河内や
摂津、大和の馬飼い、弓馬の家出身帰化人系等、都近隣の職能武士の
技量を除いてのことです。
戦国時代でも、「東国の武田家の鎧は大掛かりなもので、信長軍団の
ものは、簡素化され、動きやすくなっている。しかも武田軍は、戦術の
差も含め中部、関東だから通用したのであって、西国大名には
通用しなかったんじゃないか。」と笠間良彦氏(日本甲冑武具歴史
研究会会長)は語っておられますね。
>>942
松前氏はアイヌ人に対し、和睦の酒盛りの最中アイヌ人をだまし討ち。
酒盛りといえば、前九年の役でも、源義家が安部貞任に同じ様に
だまされています。だまし討ちは東北蝦夷の習いでしょうか。
948日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:03:53
蝦夷とはなに?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/987989033/

このスレでも同じこと書いてるねw
広島タソ・・・・・・
949日本@名無史さん:2005/10/13(木) 20:57:54
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1071589634/

ここで広島マンセーして突っ込みまくられてる205氏に注目wwwwwww
ここの広島?? なーんかアンチ蝦夷っぽい感じ

950日本@名無史さん:2005/10/13(木) 21:07:10
広島だかなんだか知らんが感情的に成り過ぎててキモイ。
傍から見て蝦夷に劣等感があるのはどう見ても彼一人
あちこちの板で珍説を披露しすぎ。
951日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:23:19
「蝦夷 騎馬」とかで検索してたら、蝦夷スレで東国を叩いてる広島タソ見っけたw
あっちのスレで論破されてるとか言われたので返し。

高橋氏の論文には領主論、職能論とか関係無しに、多くの学者から批判されてる。
これは高橋氏の説が都に偏りすぎたものだから。

「平氏を真正の武士として、地力救済の中で練成された源氏や東国武士を単に
傍流とみなす事には問題がある。」 元木氏
「著しく中央の、しかも京都に偏重した分析視角」 杉橋氏、他・・・

高橋氏が「傍流=セミプロ」と述べているのは、挙兵初期の頼朝配下である
「北条氏傍流の時政、浪人や流人」の事で、「頼朝初期の平氏方坂東武士=
主流・正規の武士」とも述べてる。

九世紀後半〜十世紀前半には「近衛府の武芸が実際の戦闘力を失っていた」
「都の武芸=そのまま戦闘に適応できたかは別のもの」、
「関東武士=武に堪能な在地領主=セミプロ(都から見て)」
、など弱いなんて言ってないじゃん。
自分の都合がいい部分だけを抜き出して書き込むのはどうかと思うよ・・・
952日本@名無史さん:2005/10/14(金) 02:45:36
>>951
>高橋氏が「傍流=セミプロ」と述べているのは、
「頼朝が挙兵した時、主流・正規の武士はほとんど平家に組織されて
いた。東国武士は頼義以来源氏の家人だ、という神話に幻惑されては
いけない。いわば傍流ないしセミ・プロゆえに、初期の頼朝配下の
多くは馬射にこだわらなかった。」を{わざとぬかし、}「この主流・
正規の武士は、挙兵直後の平氏方東国武士をさしている。」
一部の東国武士を除いて、他は傍流であったとされておるのに、
捏造して文を書く「嘘吐きは関東人の始まり」と云われん様、気を
つけんさい。しかも、高橋氏は軟弱な貴族像に疑問を呈しておられる
のは全体の文章から明らかなことであろう。
結局、自分の都合がいい部分だけ抜き出し書いとるんは誰か?
他板で姑息なことをしとるが、お国自慢の「郷土の英雄。帝国陸軍師団の
歴史」を宣伝してくれたことには、感謝する。
あんたが、蝦夷や関東人を奴隷にした越後に劣等感があることには
同情する。奴隷民とはここまで性格がひねくれ、陰湿になるんかと
よう観察出来た。
953日本@名無史さん:2005/10/14(金) 06:37:48
よく分からんが、このまま二人の厨の占拠でこのスレ終わるのかな
954日本@名無史さん:2005/10/14(金) 08:03:48
>>952
感情的になりすぎ。
他板でも異様に蝦夷に粘着してるのは君の皇国史観を否定されるのが嫌だからだろ?
そもそもまともな日本人はルーツの怪しい連中に隷属した憶えはないんだが?
955日本@名無史さん:2005/10/14(金) 08:18:23
これからも評価はあがるでしょう。坂東武者といい蝦夷といい。

だって所詮大和は大陸の中華文明日本支部なんだから・・。
956日本@名無史さん
>>953
同士よ。
蝦夷の話がしたけりゃ安東・蛎崎語れよ。

最強つーか案外強かった武将っているよね。
金吾中納言(性格は置いといて)や秋田城介実季