上杉謙信VS島津義弘どっちが勝つ

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952日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:52:09
龍造寺隆信は宣教師にカエサルに例えられた
つまり島津>>>>>>>>>>>>>カエサル
953日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:02:40
オレ謙信ファンだけどゲームでも謙信の能力値を見直すべきだと思ってる
統率87 武勇72くらいがいいと思う

逆に島津は戦歴を考慮して
義弘、家久共に、統率120 武勇120がいいと思う
954日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:03:48
江戸幕府を倒したのは薩摩藩
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955日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:04:51
http://www.m-network.com/sengoku/sendai01.html
第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。
後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。

島津家は鎌倉以来の名家であったが、室町時代後半には本家と分家の対立が激しくなってきた。
その時分家の伊作島津家に忠良が登場し、彼の策謀から子の貴久を島津本家に送り込むことに成功したのだが、ここから「薩摩隼人」として広く知られている島津の家風が生まれてくるのである。
島津忠良は後に日新斎(じつしんさい)と号し、島津家の心得とも言うべき「いろは歌」を作り家臣たちを教育した。
忠良はこういった功績から薩摩人の間では後に神格化されている。

さて、後を継いだ貴久は政治に力を入れ着々と足場づくりを固めていったが、分家やまわりの豪族たちとの抗争は絶えなかった。
貴久は陣頭に立って果敢に攻め込んでゆくタイプではない。合戦の際は彼の4人の優れた子たちの力が大きかったのである。
長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久とそれぞれ個性的な子たちに恵まれた。

義久は軍政両面、特に統率能力や状況判断力に優れ、義弘は戦国屈指の猛将で無敗の強さを誇っていた。歳久は知謀に富み、家久も勇猛無比な武将として知られ、かの沖田畷の合戦では龍造寺隆信5万の大軍にわずか三千人あまりで戦いを挑み、撃破した上にその首を挙げている。
義久の代になって秀吉軍と衝突するが、彼は家中の反対を押し切り、かなわぬと知るやあっという間に頭を丸めて降伏したのである。
これは臆病卑怯な行為ではない。彼は島津家の存続を第一に考え、最善の方法を瞬時に考えて行動したのである。

後に関ヶ原の際、行きがかり上やむなく西軍についたが、戦後素早く詫びを入れ本領を安堵している。これも義久の判断と指図である。とにかく政治力に優れた人物であった。
義弘の代になっても兄弟仲はすこぶるよく、こういう家は戦国では非常に珍しい。そのおかげで戦国の荒波をうまく乗り切れたのであろう。
剣術においても東郷重位により薩摩示源流が広まり、その強さは後々まで天下にとどろき渡った。
「島津に暗君なし」…この言葉には誰も異論はないと思う。
956日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:07:11
泗川の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

背景
豊臣秀吉が死んで、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていたが明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる20万と称する明軍が泗川城に攻め寄せる。
泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で落とされたら退路を断たれて日本軍が全滅する危機にあったが駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが義弘は何故か断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。

経過
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築き上げてまだ完成していなかった泗川新城の二つがあって、古城に500の兵を置き、義弘忠恒親子は新城に駐屯していた。
明軍は古城に殺到。明軍に5000の損害を出るものの守備隊も150の損害を出して古城から撤退。古城陥落から二日後に明軍は新城を攻撃するが明軍の陣営の中にあった弾薬庫が爆発するという事件がおきる。
鉄砲の流れ弾が火薬にあたって引火したという説と島津兵が火薬庫に火をつけにいったという説があるがどちらなのかはわからない。
(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって籠城戦を断念させて短期決戦にに持ち込むために撤退時に爆破させたという説もある)

いずれにせよ明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その隙をついて島津軍は外に打って出た。
猛烈な勢いの前に明軍は後退するものの1万の別働隊で城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気づいた島津忠長が100騎だけでこれを迎撃。
苦境に陥るものの味方の援軍が間に合って迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵を切り殺すほどの乱戦になるが島津軍の優位のうちに戦況は進み、明・朝鮮連合軍は京城までの後退をよぎなくされた。
この結果、連合軍は島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万あまりの戦死者を出したという。この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」と恐れられた。
957日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:08:17
勝敗の原因
明軍の敗因は短期決戦を選んでしまったことにあるだろう。
島津の軍勢は万にも満たない小勢であり、短期決戦を選んでも勝てると判断したのだろうが相手は日本一の強兵の島津兵であり確実を帰すのなら籠城戦を選択するべきだった。
いくら島津兵であっても食料が尽きれば戦うことができなかった。
ただ、明軍が短期決戦を選んでしまったのは島津軍が短期決戦をさせるように誘導していった節がある。
つまりは島津軍が得意とする釣り野伏せに明軍は引っかかってしまったというわけだ。

その後の影響
泗川を落とされていたら出口をふさがれたことになり、最悪の場合は日本軍が全滅していただろう。明軍を防いで陸路の安全を確保したことは大きな功績になった。
その事は五大老たちから高く評価されて文禄・慶長の役唯一の加増に預かったがそれ以上に重要なのは島津兵の強兵ぶりを天下に知らしめたことである。
後に関が原の戦いで西軍について存亡の危機に立たされたが本領安堵を勝ち取った原因の一つが泗川での戦功にあったことは言うまでもない。

また小林市では戦勝を記念して輪太鼓踊という舞踊が今に伝えられている。
958日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:08:55
関ヶ原で驚異的な強さを見せた島津義弘の年齢は64。
これだけでも島津の強さは伺える。
のちに徳川に恨みを持った薩摩は大久保利通や、西郷隆盛などの偉人達を輩出し、
で徳川幕府を倒すことになるのである
959日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:13:43
をいをい、信玄との一騎打ちは創作だぞ。
江戸時代の講談じゃねえんだから・・・。
960日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:16:35
薩摩最高!
鹿児島最高!
961日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:19:15
あと、明軍20万は島津が捏造したんじゃなくて明軍自体がそう称してたんだよ。
島津厨も上杉厨もひどいな。
962日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:21:11
薩長なんぞ水戸藩のオマケだよ
水戸学の副産物
963日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:23:01
>>959
謙信厨はそれを本当の事だと思い込んでるんですよw
964日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:25:45
天狗党カクイイ!
965日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:26:06
謙信信者は車懸かりの陣を本当にあった陣形と信じている
966日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:28:26
謙信の戦歴って死傷者出しまくりの川中島と
元々戦う気が無かった相手を追撃しただけの手取川くらいしか誇るものが無いね
967日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:30:34
島津には誇るべき薩摩芋があるもんね
薩摩揚げとか
968日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:31:31
いやいや、戦う気のない北条さんを小田原に引き籠もらせて城下で略奪を働いた実績がありますよw
969日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:31:33
島津の相手は雑魚ばかり
武田、北条、織田、一向宗を相手にした上杉謙信様に勝てるわけがない
970日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:33:06
越後にあるのは、ちりめん問屋のみ。
謙信あほ、新潟くたばれ。

島津こそ日本の黎明期を支えた偉大なる藩です。
971日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:33:46
そういや、何で長野氏を見捨てたんだろう?嫌いだから?
972日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:35:37
>>969
武田 長野と村上に兵で勝っていながら大敗した雑魚 ていうか武田に北信濃取られてるし
北条 滅亡寸前の里見に大敗した雑魚 ていうか北条に北関東取られてるし
織田 手取川は戦う気が無かった ていうか能登と越中取られてるし
973日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:37:31
島津が雑魚なら雑魚にボコられた大友を倒せなかった毛利も雑魚、
天下を取りながら雑魚の毛利を滅ぼせなかった秀吉も雑魚、秀吉に従った上杉も雑魚だな。
974日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:37:40
>>969
その辺と同時に相手にしたっていうのが謙信の戦略性の無さと外交能力の無さを証明してるね
975日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:39:10
御館の乱は後継者争いでも最悪の例
976日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:40:15
島津も人身売買してたらしいが「義将」謙信たまも人身売買・略奪・放火を心から愛してましたね。
977日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:41:50
むしろ関東遠征はそれが目的
義将ねえw畠山や越中の豪族から領地を奪ってるのに
978日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:43:27
謙信は北陸にはマジで取り掛かってただろう。
そうでなきゃ北条と同盟を結ぶなんてできない。
979日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:44:03
謙信のオナニー癖は有名。想像していた裸体は・・・
980日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:46:39
今川、北条が塩留めしてるのに塩の交易を止めない協調性皆無の名将
それを「敵に塩を送る」とほざく義将
981日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:47:07
>>972
島津 滅亡寸前の大友家の出城(立花城)を落とせなかった雑魚 
   ていうか立花に追撃されて出城2つ奪われたし

982日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:50:01
そうそう、追い詰めながら城を奪還される島津は雑魚。
戦に勝ちながら領土を取られるという離れ業をやってのけた上杉は神
983日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:50:39
謙信は佐野昌綱の唐沢山城を何回も攻めたけど落とせませんでした
984日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:53:06
謙信が領民から慕われていたという史料が見つからない。
むしろ一向一揆に苦しめられるくらいだから、領民の反発が大きかったか?
985日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:54:27
ていうか、謙信は何で戦争してたの?
北条武田は領土増やしてるけど上杉は減る一方、
お家を維持せしめたのは景勝。
986日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:55:32
自暴自棄になり、何も考えず大名をやめて隠居しようとする自分勝手な男
987日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:56:18
>>985
趣味
988日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:56:53
◆郷土食が支えた最強の島津軍団

戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。

島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。

この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。

また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。

鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にそ、最強の島津郡団を支えたのだ。
989日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:58:38
>>983
謙信に唐沢山城を攻められては、降伏するを繰り返したような・・・。

結局、謙信が家臣の色部勝長を唐沢山城にとどめさせたと思ったぞ。
990日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:18
要するに謙信は馬鹿だった?
991日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:28
いや、
なんかさ
秀吉や家康としては島津とかどうでもよかったの…
秀吉も九州征伐の後は忘れちゃってたし
家康も伏見城守将にするとかいって忘れて帰っちゃったし
992日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:00:32
上杉を評価出来るのは三河武士や薩摩隼人を凌駕する戦馬鹿っぷり。
領民や近隣の民の迷惑を屁とも思わずほいほい遠征する姿勢は見事。
993日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:01:13
上杉謙信は酒飲みまくり、塩分取りまくりの健康の事を何も考えない食生活をしたために、便所で野垂れ死んだ
後継者の事を何も考えてなかったために御館の乱勃発し、家は大きく衰退

島津義弘が86歳まで生きたのと対照的だ
994日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:01:53
あれだけ無意味に攻めまくって潰れなかった上杉は神
995日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:03:28
>>993
長生きしたからって何もしなかったけどなw
もうろく爺になっただけ
996日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:03:59
謙信のアホー
997日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:08
九州を統一寸前まで持っていった島津
どんどん領土が減っていく上杉
998日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:10
>>991
なるほど。
どうでもよかったから秀吉は島津兄弟を交替で上方に滞在させ、家康は接近をはかったんだね。
納得のいく説明だ。
999日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:46
軍神上杉謙信公
毘沙門天の化身
戦国最強
1000日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:05:59
結論

島津>>>>>>>上杉
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