1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:08
2ゲット
4 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:11
さっきまでのもパート7だったのにいいんですか?
5 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:14
なんでこうしなかったのでしょう?
↓
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART78
7 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:19
日本書紀で690年10月に、白村江で捕虜になった者が27年ぶりに帰国した話において、
『671年に土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝の児の4人が
唐の日本侵略計画を知らせようと思ったが、渡航する旅費が無く困っていた。』
と、あります。結局、この人は旅費代りに奴隷として売られて4人は無事日本へ。
これはちょうど日本書紀の671年11月の、その月2日に対馬の代官所へ
沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝裟婆・布師首磐の4人が唐の都からやってきた、
というのに、人物名の相違がややあれど、対応すると考えられますよね。
そこでの4人の報告は、唐国の代官郭務宗等600人および送使沙宅孫登等1400人が
船47隻でやって来ているのを先に知らせることだったわけですが、
持統記のところに、これは日本への侵略であると書かれているわけで、
当時の人たち(少なくとも捕虜になった人たち)の認識はそうであったのは確かです。
8 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:19
>>6 アホ
PART 78にして、どうするきだ??
つくりなおせ!
9 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:21
済州島の歴史 (耽羅国=済州島は韓国領ではなく日本領になるべきである)
661 耽羅国,日本に使臣を派遣。
666 耽羅,日本に使臣を派遣。
667 耽羅,日本に王子である故如を派遣,貢献する。
669 耽羅,日本に掾磨を派遣,貢献。
帰国の時に錦,纈,紺布,桃染布,斧,月子等を得てくる。
674 耽羅,日本に久麻伎王子等を派遣して貢献。五穀種子を得てくる。
676 耽羅,日本に王子である久麻芸,都羅,宇麻等を派遣,朝貢を捧げる。
日本に調使として久麻伎を派遣。
677 耽羅王姑如,日本で難破(大阪に到着)。
678 日本,耽羅の客人に船一隻を遣る。
679 耽羅,日本に都羅王子を派遣,朝貢を捧げる。
耽羅人(都羅王子),日本から帰国。
685 高句麗と耽羅に派遣されていた日本の使臣が帰国。
686 日本,使臣を耽羅に派遣。
688 耽羅に派遣されていた日本の使臣帰国。
耽羅王,左平職の加羅を日本に派遣,朝貢する。
693 日本,耽羅の使臣たちに宴会を開く。
(以下略)
10 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:23
たしか倭語で解釈できる高句麗語地名は、安本美典氏の地名比定によると、
「半島中部だけに分布し、北部や南部には存在しない」はずですが、
娜々志娑无氏は安本氏よりもはるかに多くの語句を検討しているように見受けられます。
少なくとも倭人あるいは倭人と同言語系を話すものが朝鮮中部に居住し、
それらが名付けていたと思われる地名(県名など)を高句麗が採用していた。
我々日本人としてはこの驚くべき事実にすごく興味が持たれる。
11 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:27
>>958 >>「旧唐書」によると、白村江の戦いがあった年に唐は新羅を鶏林州都督府と
>>しているように、征服していなくても命名している。
とすると、日本書紀に明記されている筑紫都督府というのは、
唐が形式上で筑紫都督府の設置と命名を行なったということでしょうか?
12 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:29
>>964 >>まったくの戦闘状態で、唐から倭に2000人やってきたのではありません。
>>最高位の薩夜麻以下が捕虜としてやってきたのです。
筑紫君薩夜麻が唐から戻ってきたのは671年ですが、
いったい白村江から8年間ものあいだ、唐でなにをしていたのでしょう??
13 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:32
>>975 >>例えば磐井の乱。継体と同時代ですが、火、豊を領有しており、
>>しかも大和に朝貢せず半島諸国は磐井に遣使している。
>>継体は「社稷の存亡、是に在り」と叱咤して、しかも勝ったあとの
>>グランドデザインを「長門より東は天皇が取る、筑紫より西はそなたが取れ」とか言\\
ってる。
これって、長門より東は天皇が取るということは、
九州どころではなくて、長門より東にも、大和政権の非支配地があったわけですね。
で、結局、筑紫より西は依然として大和政権の支配地にならなかったのでしょうか?
14 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:36
>>996 >>俺は東遷だけど、九州王朝を暫く静観して勉強する事にした。
九州王朝説と東遷説は、両立できないものなのですか?
あ、もしかしたら、東遷説って言葉だけだと、
東遷の時期が示されていないから、
時期によって、事実上根本的に異なる説となってしまうのですね。
なんとなく九州王朝説さん。釈日本紀の記述って、
>磐井が、単身、豊前国・上膳の県に逃れて、南の山の険しい峰で死んだ。
>官軍は磐井を追跡したが見失った。兵士たちは憤懣やるかたなく、
>石人の腕を叩き折り、石馬の頭を打ち落とした。
>古老はいい伝えて、上妻の県に重病人が多いのはおそらくはそのせいではないか?
>といっている。
のことか?
お前の方こそ、ちゃんと釈日本紀を読めって。
変なバイアス、持たずにさあ。
いやあ、古田氏とは意見が真っ向から対立していたので助かりました。
とても氏の信者になることは出来ませんでした。
>>15
19 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:45
>>16 百済本記に書かれていた天皇が皇太子と皇子とともに3人同時に死んだ、というのは、
その磐井の乱のことを示しているのですか?それとも継体のことですか?どっち?
>>18 はあ?
>しかも大勝利して不具者が10人中7、8人出た
の記載の有無について話しているのだが。
お前は、重病人のことを、磐井の乱の傷病軍人だと思っているのか?
>>20 はあ?そんな話はしてませんが何か?
だいいち古代の戦争で、重病患者が増えるってどんな戦争ですか?
22 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:52
老人が伝え聞いた話しでは
大和朝廷が継体天皇のとき、筑紫君磐井は豪強暴虐で大和朝廷に従わなかった。
ほどなく、大和朝廷軍は動員を発令して磐井を攻撃した。
磐井の軍は勢いが無く、負けたことを悟り、大分県宇佐地方に逃げ、山中で没した。
大和朝廷軍は磐井の後を追撃したが見失った。
大和朝廷軍の兵士は磐井が逃げたことを怒り、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち壊した。と。
『八女地方では10人中7〜8人は手、足がない不具者だ』これは大和朝廷軍の兵士が暴れた為だろう。と。
23 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:58
筑後風土記逸文には、筑紫君磐井の墳墓に関する記述があります。
この墳墓には石人と石盾が並べられ、東北の隅にある衙頭という区画には、
「解部」と「偸人」の石人、石猪、石馬、石の殿、石の倉と、石で作られた造形物があることがわかります。
福岡県八女市の岩戸山古墳にはこの記述通りの区域が存在し、ここから石人・石盾・石馬が出土されております。
この記述によって、筑紫の磐井の墳墓は岩戸山古墳に比定することができました。
皇族以外での被葬者の確定は、飛鳥朝以前では筑紫の磐井唯一人です。
24 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:00
また、その石人石馬が破損した由来において、「磐井の乱」について言及しています。
書紀で磐井が斬殺されたのに対し、筑後風土記逸文では豊前国上膳(不詳)へ逃亡し、よその土地で死亡したと記述してあります。
それに激怒して兵士が石人石馬を破損せしめたがために、この地で重病人が多く発生したというのが話の筋です。
磐井に関わる造形物の破損によって、呪いまたは祟りが発生しています。
25 :
>21,18:04/08/03 00:00
ええと、念のためですが、石人・石馬を壊されたのは上膳縣、多き篤疾があるというのは上妻縣です
28 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:05
直接筑紫の磐井に関係はありませんが、筑紫君という姓の一族にまつわる呪術めいた物語が、釈日本紀に引用されてます。
筑紫の名前の由来について語っており、筑紫君の祖先である甕依姫(みかよりひめ)が登場しています。
その語りの中では甕依姫が巫祝となって、旅人に祟りをなす荒ぶる神を調伏することに成功しています。
前述の磐井が祟りの原因となるのと同様、「筑紫君」が呪術に対して関係の深い一族であるという理解が可能となります。
卑弥呼との関係も感じさせられます。
29 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:08
>>15、
>>25 お前いい加減にしろよ、スレ立てしたかなんかしらんが、一番の荒らしじゃねえか。
お前もアク禁にしてもらおうか?
氏ね。
ここの話題は二世紀からせいぜい四世紀。
それ以外はスレ違いだといいかげん気づけ。
31 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:10
磐井の墓とされる岩戸山古墳は、前方後円墳です。
筑紫が独立国家であれば、なにゆえ対立していた大和の政権と同様の葬送様式である必要があるのでしょうか??
>>30 私は、白村江(663)の敗戦国は大和朝廷ではなくて、九州王朝だと考えております。
33 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:12
日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬに該当するのは磐井の死亡を報じた記録である。
すると、磐井は外国(魏、新羅、百済)から日本の天皇と認められていたことになる。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>21 お前、前スレの982で
>>しかも大勝利して不具者が10人中7、8人出たというのに、
>こんな記述、あったっけ?
に対して、「釈日本紀に引用されている筑後風土記でしょう」って、
はっきり書いてるだろ。お前の釈日本紀の読み方はどうなんだ?
>>22 そういう解釈でも構わんが、あくまで「解釈」だから。
その辺りを混同しないで欲しい。
石人・石馬が壊されて以来、その地方の人々は…という昔話としても解釈出来る。
ていうか、そのまま読んだだけなら、そうなるんだが。
それと、なんとなく九州王朝説さんは、頼むから早く押入れの中から
日本書紀を引っ張り出してくれ。
39 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:15
ワカタケル大王は、雄略天皇に比定して問題はありません。
そして、雄略天皇は継体天皇の皇后の祖父にあたります。
であれば、継体天皇の2世代前の時点で、すでに関東から九州まで大和の政権による支配がなされていたことになります。
あぼーん
41 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:19
「磐井の乱」とは九州の民衆が大和朝廷に対する反乱であった
大和政権によるたび重なる朝鮮出兵のため、直接負担を強いられた九州地域の人々が不満を爆発させ、「磐井の乱」とよばれる反乱となった
>>38 全体としてのストーリーを指していますので、ご指摘の意味がまったくちがうでしょう。
口語訳のような文の、一言一句の記述が筑後風土記に書いてあると断言するつもりなどまったくありませんが。
43 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:23
『外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致す。』
と、日本書紀では、磐井のもとへ各国が朝貢していたとの記述があるが、
大和政権の立場はいったいどうなるんだ??
44 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:26
「三国史記」の「新羅本紀」における、各世紀毎の「倭」の侵攻の記事件数は、以下のとおり
一世紀以前:3件
二世紀: 2件
三世紀: 7件
四世紀: 5件
五世紀:16件
六世紀: 0件
>>42 自分の間違いを認めるのも、人間の度量の一つだよ。
平日の昼間の書き込みが多いみたいだから、夏休み中の学生さんなんだろうけど、
そのあたりの事を、これから学んでいって欲しいな。
この話題は、ここまでにしましょう。
46 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:29
6世紀に倭の侵攻が0件になっているが、
これはちょうど磐井の乱で九州朝廷が滅びたからではないか?
>>45 おききしたい。
>しかも大勝利して不具者が10人中7、8人出た
という該当箇所が漢籍に一切ないとして、何か論理が変わったのですか?
それを思うと、単なる粘着さんでしたね。
48 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:33
魏志弁辰伝における三世紀の任那地域の記述は、
「国は鉄を出し、韓・穢・倭、皆従いてこれを取る。諸の市買には皆鉄を用い、
中国の銭を用いるが如し」と、任那が鉄の一大生産地であったとともに、
倭からも進出して鉄を取得していたことが分かります。
これは、邪馬台国なのでしょうか?
畿内の大和政権なのでしょうか?
49 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:41
981いい加減にしろ。お前こそ社会人ならキモスギ
営業周りなんかしたことねえだろw
>>43>>48 まことに重要なご指摘だと思います。
とても大和朝廷唯一王朝史観では、解釈が厳しいと思います。
匿名を良いことに相手を罵り、
2chだから良いだろうと相手を貶め、
相手にレッテルを貼って愉悦に浸り、
挙げ句の果てには相手が馬鹿なんだから当然と正当化。
2chのような何でもアリの状況でこそ、その人の品性が行動に現れる。
誰とは言わんが、見苦しいからやめてくれんかね?
あぼーん
>>12 亀レスすいません。
唐としては生きて捕虜にした薩夜麻を、最大限に利用したいと思ったことでしょう。
彼に都督としての教育をしたと思います。玄奘の持ち帰った経典の話、則天武后の
人材登用制度の話など、唐の文化や政治の優位性を説いたことでしょう。
もしかすると薩夜麻は、唐の泰山での封禅の儀に参加したかもしれません。
54 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:02
嘆息…
>>54 君、いいかげんにしないかね、何か話したいなら話なさい。
57 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:15
白村江の敗戦後の時期に、日本書紀においても、なぜ筑紫都督府が登場するのか???
58 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:17
筑紫君薩野馬が唐から戻ってきたのが671年11月10日で
天智天皇が死んだのが671年12月3日
なんか、このへんのタイミングが微妙
59 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:21
唐の郭務宗らが何度も日本を訪れしかも長期滞在などしており、
またその各規模も数千人など尋常でないという状況がまずあります。
一方、唐からの使者や軍が何度も日本へ訪れているにも関わらず、
近江政権は臨戦態勢で備えをしています。
唐が和平のために何千人も送り込んでいるのならば、
水城を造ったり遷都をするなどの必要があるでしょうか?
あぼーん
61 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:27
磐井の乱FAQ
Q: 筑紫君磐井の子が粕谷の屯倉を献上して許してもらってるけど、
屯倉ってもともと天皇のものではないの?
A: 磐井天皇の屯倉であったから。
大和朝廷の屯倉であったならば、返して当然で、献上にすらならない。
62 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:30
磐井の乱FAQ
Q: 継体天皇が物部麁鹿火に、筑紫より西はそなたが取れ、
長門より東は私が統括しよう、と言っているのはどういうこと?
A: 当時、長門や筑紫はまだ大和朝廷の支配領域でなかったから。
削除依頼しますた
あぼーん
65 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:53
日本書紀や唐書によると以下のようになっていますが、
百済滅亡直前の大事なときに、なんで呑気に蝦夷遠征大派遣をしているのでしょう?
656年 阿倍比羅夫の第1回東北蝦夷遠征
658年 阿倍比羅夫の第2回東北蝦夷遠征
659年 遣唐使が蝦夷を連れて唐の高宗に謁見
660年 唐と新羅の攻撃により百済滅亡
九州王朝説だとどういう解釈になりますか?
66 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:13
蝦夷遠征とか、筑紫遠征とか、日本が1つにまとまったのは何世紀なのだーーー
7世紀でやっと筑紫〜尾張
68 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:45
そういえば、白村江のあとに、あちこちの国から帰化人が増えるけど、
なぜか、関東に入植しているよね。
69 :
日本@名無史さん:04/08/03 02:57
>>65 蝦夷は百済の敵だったから、もしくは敵と同盟・援助していたから
っていうのは?
なんだか面白くなってますね。
だれか小林恵子信者さんはいませんか?
>>65 畿内王権は恐らく新羅と同盟していたと思います。
だから新羅の敵、粛慎を攻撃します。
半島戦争から何かと逃げていた畿内王権は、経済的に富んでいました。
粛慎と交易している日本列島の東北地方も侵略します。
このように畿内は、間接的に九州王朝の足を引っ張っていました。
新羅と同盟した唐に対しても密約かもしれませんが同盟していたようです。
九州王朝に無理やり半島に従軍させれれた畿内軍は、戦意がなかったでしょう。
これらは九州王朝に間接的に敵対しているようなものでした。
白村江以降、新羅が唐に反逆します。ここで困ったのは畿内王権です。
唐に本土上陸されたら、新羅=畿内連合は、敵対国になりますから危機です。
これで初めて畿内王権は激しい緊張感を覚えるのです。
71 :
日本@名無史さん:04/08/03 03:19
>>65 659年の遣唐使は唐の高宗に謁見後、
なぜか日系唐人の韓智興の部下の足島の密告で長安にて幽閉されている。
翌660年に唐と新羅が百済を攻めていったん滅びるわけだが、
日本の遣唐使が帰国を許されるのはちょうどこの直後。
あとは推してはかるべし。
72 :
日本@名無史さん:04/08/03 04:46
>>70 では百済の亡命者が畿内に多く住んでいるのはなぜ?
そんなに九州倭国と百済が仲良かったふうに思えないんだけど……
イワイは新羅や隼人と組でしょ。宇佐に逃げて消えた。
宇佐は文化的に新羅系と思ってたんだけど、隼人を討伐してるのはナゼ?
なんか、まだあるんだよ。きっと。
天皇とその周辺しか知らないような事実が……。
それがわかればきっと人権問題的究極の謎も……。
石人、石馬は別に岩戸山だけにあるものではありません
北九州一体に分布します
そしてこの石人、石馬の文化は磐井が破れたあとなくなってしまうのです
これは磐井の勢力がここで潰えたと考えるのが自然でしょう
なお前スレで少し失礼なものいいがあったことをお詫びします
>>72 想像でお答えするしかありません。
畿内王権は政治的に新羅と組んでも、各部族が個々の百済人・新羅人と利害があるのではありません。
半島の人間が東に移住すれば新羅人、西に移住すれば百済人という事もありうると思います。
また、磐井は隼人でなくて熊襲が味方だったと理解しています。
「九州勢力と畿内勢力の関係性は明らか」
「九州時代に大型鏡や鏡の大量埋葬はあり、卑弥呼以前の早期東遷も無理筋」
いわみさん、では、葛子と和睦して屯倉ひとつもらったって言うのは?
継体記にも磐井勢力を滅ぼしたとは書いてないけど。
77 :
日本@名無史さん:04/08/03 12:10
筑紫君葛子の子孫が筑紫君薩夜麻でしょ?
さらに筑紫君薩夜麻が重要人物でなければ記録に残らないはずだし
薩夜麻と薩摩は何か関連があるのかな?名前が似ているが。
79 :
日本@名無史さん:04/08/03 15:24
筑紫君の磐井〜葛子〜…〜薩夜麻による政権は、
筑紫国風土記の筑紫君の伝承などから5世紀以前に遡ると考えられる。
しかし、3世紀の邪馬台国との間のギャップはまだあり、
継続しているのかどうかという点では真だ疑問がある。
また、熊襲や隼人との関係も未詳であり、
少なくとも九州全域を支配していたとは考えられない。
薩夜麻以降の北部九州の状況はどうなったのか?
80 :
橿原一派 ◆6nwWcMTsiU :04/08/03 17:10
邪馬台国(読みはヤマト国)が大和朝廷になった。
これが自然な解釈と思います。
私は邪馬台国畿内派です。
しかし、古代史において、九州の重要性を無視して論を重ねても、真実への到達は遠いと感じます。
そういう意味では古田氏の説を議論の場から排除するのは、とうてい学問的態度とは思えません。
根気よく議論を進め、論破することが重要かと思います。
私が「唐による筑紫都督府設置」に納得できない点は「なぜ唐をはじめ外国の文書にそれが残ってないのか」
につきます。
それが事実なら、唐はもちろん「外国である畿内政権」も、そのことを書き記してもおかしくありません。
わざわざ占領された傀儡政権の歴史を盗む必要はないと思うのです。
また、クナ国東遷も魅力的な説ではありますが、朝廷が「ヤマト朝廷」と名乗っている以上、成り立たないと思います。
クナが「もとより和せず」の邪馬台(ヤマト)を名乗るでしょうか。
九州説諸氏のご意見をお聞きしたく思います。
81 :
日本@名無史さん:04/08/03 18:18
>>80 > しかし、古代史において、九州の重要性を無視して論を重ねても、真実への到達は遠いと感じます。
弥生時代はともかく、卑弥呼の時代からの古墳時代では九州を特別視するのはおかしい。
吉備は畿内に次ぐ巨大前方後円墳が建造され、円筒埴輪を伝播させており
日本書紀でも吉備系の活躍が多く記述される。
古墳時代前期前半の東日本は、東海から広がった前方後方墳体制を形成しており
これも同様に重視すべき。
> そういう意味では古田氏の説を議論の場から排除するのは、とうてい学問的態度とは思えません。
まともな学問的態度を取らない連中は荒らしと同じであり
別の専用スレでやってもらいたい。
>>81 記紀では神武東遷が述べられています。
史実かどうかは議論の余地がありますが、古代史解明において九州を重要視してしかるべきでしょう。
まして、邪馬台国が大和朝廷になったかどうかを検証するのには避けて通れません
>まともな学問的態度を取らない連中は荒らしと同じであり
まったくもって同意します。異説を検討せず排除するやり方は、学問板にはふさわしくありません。
>私が「唐による筑紫都督府設置」に納得できない点は「なぜ唐をはじめ外国の文書
にそれが残ってないのか」につきます。
前スレの最後あたりからみんな言ってる、「屈辱的だから」っていうのではだめ?
当時すでに安定期にあったとは言え、隋が高句麗遠征の失敗で倒れたこともあるし。
大軍を派遣して、準備万端整えて、うまくいきすぎるぐらい完璧に倭軍を崩壊させた
のに、救援を求めていたはずの新羅にあっさり高句麗の故地まで取られては、大失
敗だよね。
84 :
日本@名無史さん:04/08/03 18:58
ここでウダウダ言ってる方々へ。
偽者のヤマタイ国の存在も忘れないでね。
クニは遷都することも忘れないでね。
連合国家の存在も忘れないでね。
>>83 中国の正史において「前政権の屈辱」を理由に黙殺された例は他にあるのでしょうか?
それと、唐の屈辱なればこそ唐以外の国の文献にありそうに思うのです。
しかし、残念ながら文献にはありません。それなりに整合性のとれた説だとは思いますが、以上2点で私は全く賛同できません。
まあ外国での活動の全てが記録されていたわけではないし、都督府といってもすぐに
百済の征服地を失って、活動の実体もなかったと思われますし。高宗に報告が言った
ときには既にもう終わっていたとかw
確かに記録に無いことは事実なので、実際置かなかった可能性もある。
では橿原一派(笑)さんは、以下の点についてどう思われますか。
1 郭務ソウの来日理由。3、4度も来た理由。
2 2000人って何?
3 その年(ふつーに読めば天智10年のはず)が何故天智8年に書かれているのか。
4 なぜ天智の死亡報告が3ヶ月も遅れたのか。
5 筑紫都督府そのものの名称と実体は、誰がいつ置いたものか。
(その言葉自体編集者の誤記とか修飾とかいうのは無しねw)
何事も反証、傍証は必要だよね。
87 :
日本@名無史さん:04/08/03 19:30
>>82 > 記紀では神武東遷が述べられています。
> 史実かどうかは議論の余地がありますが、古代史解明において九州を重要視してしかるべきでしょう。
史実としても邪馬台国以前の弥生時代の話でしょう。
邪馬台国時代は畿内と吉備と東海が勢力が強大で重視すべきと思います。
>>81 >>1 すると、古田氏本人が書き込むと荒らしになるのか?排除するのっか?
古田氏は学問的態度をとっていないのか?
90 :
日本@名無史さん:04/08/03 19:52
>>88 オナニー野郎は相手にするな。
>>89 お前は自分のホムペ作ってやれ。コピペは削除対象だ。
つか氏ね
古田氏はオナニー野郎なのか?
92 :
日本@名無史さん:04/08/03 19:59
お前のことだ。さっさと氏ね
>>76 筑紫君の勢力が独自性を失いヤマトに服属したと考えています
磐井の勢力がついえたと書いたのは間違いです
なんでこんな書き方をしたんだろと反省しています
>>80 畿内説では狗奴国の位置、方角の問題、東の海の向こうに倭種あり
の記述はどう解釈されるのですか
ちなみに私は邪馬台国は北九州にあり
そして大和政権に吸収されたという説をとります
>>89 大和と九州を別個に論じるというのはうまくないんじゃないのか?
お互いにいささかでも、論を張る上で関り合う性質のものだろうが?
問題はまったく単独の意味で九州を張るならば、その9とやらのスレ
へ行ってもらうのは当然だ。真面目な九州論者が大和に対する論を
述べるのは多少九州論が入ろうともかまわぬではないか?
珈琲専門の喫茶店でも紅茶は置いてあり、注文できるよ。軽食だってある。
珈琲専門だから、紅茶は出て行けでは、これはまずい。
>>94 だからそいつは放置だって・・・・・。
どうせ無内容なコピペはっつけるだけだし。
>>92 ここはセックスのことを話すスレではない。立ち去ってくれ。
97 :
日本@名無史さん:04/08/03 20:35
>>86 >1 郭務ソウの来日理由。3、4度も来た理由。
日本の敗戦後の体制として、属領化とまでいかないまでも属国化を求めるため。
何度も行き来をしているのは唐の本国との調整で難航したため。
日本側が属国化を拒否してのぎりぎりの交渉が続いたと思われる。
>2 2000人って何?
2000人の記述については、669年12月の郭務宗が率いてきた記事と、
671年11月の既に比知島まで600人+1400人の大船団が来ている記事の二つがある。
>3 その年(ふつーに読めば天智10年のはず)が何故天智8年に書かれているのか。
たしかに解釈の仕方によっては、後者の天智10年11月の事前の知らせのあと、
前者の天智8年12月の本土到着という組合わせで記述年のずれ指摘説もありうる。
しかも、次の4の天智の死亡に影響する重要事項と思われる。
98 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:02
>4 なぜ天智の死亡報告が3ヶ月も遅れたのか。
まず、天智の崩御については、671年(天智10年)12月3日と書かれている。
3における671年11月の唐の大船団、あるいは、12月到着とすればますます、
唐軍がやってきて天智崩御した、と自然に見えてしまう。
よって、3の問題点である2年ずらして書いたという説も排除はしない。
どちらにせよ、唐軍がやってきたタイミングで天智崩御は避けられない事実。
次に、天智崩御の報告が3ヶ月遅れた件について。たしかに、
『内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務宗等に告げた。』の記事は、
翌672年3月となっており、崩御の671年12月から3ヶ月もたっている。
まず3ヶ月遅れの問題よりも、672年3月時点で、なぜ、
郭務宗などの唐軍が筑紫にいたのかという点が最重要。
11月あるいは12月に到着していれば3月には畿内や近江に十分入れているはず。
これは次の5の問題がやはり大きいとしか解釈しようがない。
やあ。約一名以外それなりに論争っぽくなってますねw
>>80さん
>しかし、古代史において、九州の重要性を無視して論を重ねても、真実への到達は遠いと感じます。
そういう意味では古田氏の説を議論の場から排除するのは、とうてい学問的態度とは思えません。
これって大事ですよね。ともすればその隠蔽体質を批判される橿原研や京大学派ですが、別に一子
相伝の伝統芸でもないし、当たり前に論争することが何故できないんでしょうか。情報の小出しもせこ
いw
私は別に古田信者でもなければ、古田氏の会に所属もしてません。
ただ、日本の古代がどうなっていたのかについて興味があるだけです。
その結論は、国民全体の共有財産だと思います。
ところで、天智の話が出ましたが、生死不明、墓も死体も不明というのはどういうことだと思われますか?
宮内庁などは恥ずかしげもなく数少ない正確に墓が比定できる天皇だと言ってるそうですが。沓が落ち
ていたと言うだけなんですけどw (「殺害」って書かれた資料は何でしたっけ?)
私はやはり何らかの形で殺害された=政変だと思うのですが。
やはり郭務そうが進駐していたと言うことは一大衝撃で、同時にまだ新羅が唐を追い出すとは予想外だ
ったので、強行派の天智を反対派がつぶしにかかったと思うのですが。
100 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:26
>5 筑紫都督府そのものの名称と実体は、誰がいつ置いたものか。
まず、4にて立証したように、少なくとも671〜672年の2000人の唐軍を率いた
郭務宗は、少なくとも数ヵ月間以上、筑紫に滞在していたことになる。
そこで、それ以前の郭務宗や劉徳高や司馬法聰など唐からの使者たちの来日で、
かれらが日本のどこへ来たのかが重要なポイントとなる。
白村江敗戦の翌664年からすぐに郭務宗たちが何度も来ているが、
これら多数ある中で、日本の地名が出てくるのは3件。
1つ目は、665年の劉徳高(郭務宗も付随したとの注釈あり)の来日で、
7月28日に対馬、9月20日に筑紫、23日に表函を進上、とある。つまり筑紫止まり
であると思われる。筑紫で対応した日本側の者は?(次へ続く)
高句麗・百済・新羅すべてに都督府がおかれているのをみると
唐軍によって筑紫都督府が設置されたことは間違いないでしょう。
しかしながら、安東都護府が新羅に攻撃され、数回にわたって退転している状況ですから
唐の皇帝から伝令が逐一届いているようにはとても見えない。
しかも極東総司令部たる安東都護府を設置した年に唐の極東軍最高位である百済鎮将劉仁願は
高句麗制圧に時間がかかりすぎたことが原因で雲南省に配流されている。
その上高句麗の遺臣と組んだ新羅に半島全土を盗られた完敗報告を皇帝には出しにくい。
ですから皇帝の許可なく現場の判断で都督府を設置した可能性があります。
こうして筑紫都督府樹立計画は無残に失敗してしまった。安東都護府も遼東に大きく退転しました。
一連の極東失政は「現地軍の勝手な判断」「武韋の禍」として切り捨てられているようです。
百済鎮将劉仁願の更迭などは、やっと後世の資治通鑑に記載されているだけですし、
極東の各都督府の設置から廃止までの経緯もハッキリしません。
102 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:39
(
>>100の続き)
2つ目は、667年11月9日に、司馬法聰が筑紫都督府に来たとあるもの。
11月13日すぐに帰国している。ちなみに司馬法聰は熊津都督府から来ている。
3つ目が、さきほどの671年末の郭務宗の2000人を率いてきたもので、
12月の天智崩御の件を、672年3月に筑紫にて聞いている。
以上の他にも地名が出てこないものがいくつかあるが、
唐からの使者はすべて筑紫までで、そこで日本側は対応していることになる。
私は九州王朝説否定派であるが、これらの情報から見ると、
白村江で敗北したのは九州王朝で、唐とのやりとりも九州王朝であり、
隣国の大和朝廷の天智崩御の知らせが遅れた理由も説明できてしまう。
あぼーん
105 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:51
古田なんかが学問なわけないじゃん。
まともな雑誌に論文載ったこともないよ。
だいたいこんな偽書オヤジ片棒かつぐような奴だしね。
あぼーん
107 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:55
(
>>102の続き)
とはいえ、九州王朝説に無理矢理持っていくのはあんまりで、
ここは素直に、九州に筑紫都督府が設置されただけと見たい。
しかし、なぜ近江や畿内へは唐の使者は行っていないのかは疑問として残る。
また、筑紫都督府と日本書紀に明記されている667年は、
ちょうど近江遷都の年でもある。遷都の意味も深く追求し直すべき。
ちなみに、これらの合間に、665年や669年など、遣唐使を派遣している。
これも、筑紫都督府が設置されたのは敗北した九州王朝で、
危機感を持った大和朝廷が何度も唐へ朝貢とみることもできるのがつらい。
みなさんの御意見をぜひ伺いたい。
橿原一派さん(
>>80)
委奴国→邪馬壱国→邪馬台国→(人偏+妥)国
のうち、「邪馬台国」だけを取り上げて
>邪馬台国(読みはヤマト国)が大和朝廷になった。
>これが自然な解釈と思います。
と判断される理由・必然性を教えてください。
109 :
日本@名無史さん:04/08/03 22:03
質問です。
九州説では筑紫都督府を重視しているが、吉備都督府と同類にすぎないものだったのではない?
>>109 百済にも複数置いていますから、当然でしょう。
畿内にも都督府を置きたかったことでしょう。
そこで壬申の乱が起きたわけです。
郭務そうが九州(太宰府?)に止まった理由について、畿内派の人はどう説明できる?
まあ九州が中・新・日三国の接点で、距離的にも大和より遙かに近いと言うことはあるよね。ただ、倭国=日本を制圧する
には九州にいてもしょうがない。部分的占領から領地拡大というのも、戦闘の記録がないし、兵数、兵站とも無理。
一方で、天智の使いやその逝去の報告も天皇家側が行ってるわけだから、郭務そうらが正式に認められた唐の代表とし
て扱われていることは間違いなさそう。
「郭務宗らは再拝して、唐の皇帝のの書函と信物とをたてまつった」というが、畿内に行ってなかったとしたら、誰にたてま
つったのか?
謎が多いですねw
112 :
日本@名無史さん:04/08/03 22:14
(
>>107の続き)
次に、670年(天智9年)9月の阿曇連頬垂を新羅に遣わすという記事であるが、
この年、新羅は政策変更により唐との戦いをちょうど開始している。
ちなみに、この阿曇連頬垂は657年に西海使として百済より帰国とあり。
新羅が唐に反旗を翻した中で、新羅へ派遣しているなど、
唐からの圧力をかえられている中で、抵抗して外交努力を続けていたのだろうか。
ちなみに、665年や669年の遣唐使のあと、
669あるいは671年の唐の大船団が来たというタイミングで、
しかも、遣唐使はこのあと33年後の702年まで断絶することになるのも要注意。
あぼーん
115 :
日本@名無史さん:04/08/03 22:38
古田・和田・安本の関係。
はじめ安本、疑いつつも古田に親近感。
やがて危ないな、と思い出す。その頃古田も、安本をやや嫌う。
和田という詐欺師、トンデモ本を出版。
詐欺の無意識片棒担ぎ、古田にトンデモ本を進呈。
古田「おお、わたしの説の資料が出た」と狂喜。全面指示。
古田ドンドンどきゅそ化。安本怒って攻撃。
古田ますますドキュソ化深刻。一部信者もあいそつかす。
安本、いいかげん嫌になる。トンデモ本、一部の狂人以外は見放す。
和田古田キティ連合、ますます意気軒昂。
和田、生意気にも天寿まっとう。のこされた古田もう手遅れ。
こんなとこです。
…あのう…誰とは言いませんが、約1名ほどアク禁になってもらいたい人がいるんですが、何処にどうやってお願いすればいいんですかね?
>>86 >1 郭務ソウの来日理由。3、4度も来た理由。
2 2000人って何?
3 その年(ふつーに読めば天智10年のはず)が何故天智8年に書かれているのか。
4 なぜ天智の死亡報告が3ヶ月も遅れたのか。
5 筑紫都督府そのものの名称と実体は、誰がいつ置いたものか。
1勝者としての戦後処理でしょう
2確かに威嚇としては多すぎますね。不明です。
3.4.不明です。
5後の太宰府のようなもので、大和朝廷が設置
>>87 私も神武東遷は史実で、邪馬台国以前と考えます。ただ、後の天皇家が宇佐八幡を異様に重視してるのと同様に、我々も重視しなければ見えない何かがある、とも思います。
>>93 狗奴国の位置は吉備に比定します。方角の問題は苦しい所です。東の海の向こうに倭種ありは東海です。
>>99 前半部は完全に同意です
天智天皇については、天武によって紀では隠された部分がかなりあると思います。
愚見では、両帝は兄弟ではないと考えます。
娘(や后)を娶るのは王朝交替時によくあることです
>>101 貴説には理論の破綻ないように思います。
しかし、大和朝廷が唐を真似て、筑紫や吉備に都督府をおいた、という解釈はできませんか
>>107 鋭い視点ですね。
少なくとも外交の全権を筑紫都督に委譲していたことになります。
近江を逃亡政府とみることも可能です。うーん、時間を下さいw
>>117 >しかし、大和朝廷が唐を真似て、筑紫や吉備に都督府をおいた、という解釈はできませんか
たいへん無理があると思います。まず、唐軍は高句麗・百済・新羅に都督府を置いているのです。
唐軍が日本列島側に、都督府を置かない理由を探せません。
またそんなときに大和朝廷が、唐の行政府名称で、自らの行政機構に名前をつけないでしょう。
続きです
都督府があれば、それを統括する都護府を大和朝廷が置いているか否かという問題になりますが
日本列島を含む極東には、唐の行政府たる安東都護府しかありません。
120 :
日本@名無史さん:04/08/04 00:35
大和朝廷と高句麗との関係も見てみましょう。
まず概要状況は、663年の白村江のあと、666年に高句麗の泉蓋蘇文が死去、
そして668年9月に高句麗は滅びてしまうというときです。
この直前、天智7年(668年)7月に、高句麗が越路から遣使してきており、
風浪が高く帰ることができなかったという記事が日本書紀にあります。
越路つまり北陸経由と、わざわざ荒れる日本海経由でやってきています。
これは、いくら九州王朝説が成立しても、近江政権への遣使でしょう。
滅亡寸前の時ですから、助けを求めたと思われます。
しかし、なぜ通常かつ安全な九州経由ではなく北陸経由なのか。
九州には唐の勢力下の筑紫都督府があったのでやむを得なかった!?
>>108 邪馬壱国の壱は誤字だと考えています。
漢籍には×利カミタフリ○和カミタフリなど明らかな誤字もあります。
ヤマトという言葉が(畿内、九州どちらにも)あるのに、また邪馬台国とかかれた文献があるにも関わらず、誤字を認めない姿勢はいかがなものかと。
ただし人ベンのダイ国については私の勉強不足により記述を省きました。
申し訳ありません。
>>116 運営スレでコピペ連続投稿を報告すれば、アク禁処置してくれます。
(受け付けるのはあくまで「報告」であって、アク禁依頼はダメらしいですw)
しかし、完全スルーが良いようですよ
>>121 先に出ている「邪馬壱国」を誤りとし、後で出てくる「邪馬台国」を正しいとし
「壱は台の誤り」と判定された理由を教えてください。
123 :
日本@名無史さん:04/08/04 00:50
>>117 :橿原一派 ◆6nwWcMTsiU :04/08/03 23:50
>> 少なくとも外交の全権を筑紫都督に委譲していたことになります。
>> 近江を逃亡政府とみることも可能です。うーん、時間を下さいw
橿原一派さんが、なんとか、九州王朝否定を成立させつつ、かつ
この時期の日本書紀の様々な記載を今後説明してくれることに期待age
しかし、近江を逃亡政府とみるとは大胆ですね、ぜひぜひ
124 :
日本@名無史さん:04/08/04 01:08
『671年(天智天皇10年)4月 筑紫で8本の足を持つ鹿が発見されたとの報告が入る』
この頃の、天智天皇と筑紫との関係って、本当に謎ですね。
当時、近江朝廷にとっては、筑紫は域外の謎の世界であったということでしょうか。
125 :
日本@名無史さん:04/08/04 02:25
五行思想で、そのような多足動物は、奸臣の存在を意味するらしい。
そのような予兆記事のあとには、対応する記事が通常出てくる。
しかし、筑紫にて奸臣の存在を意味する該当記事がその後も見当たらない。
おそらく筑紫でなにか異変があったのであろうが、
いわゆる日本書紀での都合の悪い記事を載せない方針に引っかかったのであろうか。
>>125 郭務そうに連れられて、唐に魂を売ってしまった、薩夜麻が帰ってくるのです。
127 :
日本@名無史さん:04/08/04 06:41
>>122 古田爺さんに洗脳された香具師は、まだそんなことを言っているのか。
現存する最古の「魏志倭人伝」は宋の時代の刊本に過ぎない。
一方「隋書倭国伝」には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とある。
「隋書」が編纂された唐初に利用できた「魏志」と照合して
邪靡堆と邪馬臺の同一性を示しており「堆」と「臺」の音が似ていることを示す。
古田爺さんは江戸時代ですら真剣に行われていた校合作業を知らない振りをして
池沼を騙してデンパ説を流布しているだけで全く意味がない。
128 :
日本@名無史さん:04/08/04 07:45
671年に近江朝の新体制がスタートしたことは間違いない。その年の11月、唐の郭ムソウら二千人が再び来日した。
彼らは天智の死に哀悼の意を表し、天武元年5月に帰国したとあるが、書紀のストーリーでは天智は671年12月に「病死」だから、
11月に来日しているのは天智の葬儀のためではありえないし、見舞いだったとしても二千人は多すぎる。
彼らは、やはり今回も大海人のクーデターに加勢するための軍隊であった。もちろん唐の正規軍ではなく、郭ムソウの蓄えた私兵である。
12月、天智の病死を伝える記事があるが、670年に行方不明になった天智の死がこのとき公表されたとするならば、
大友が正式に即位式を挙行したのは明けて672年、壬申の乱の年だったと思われる。
天武が即位したのは天武2年(673年)の2月となっている。普通は即位した年が元年のはずだから、
その前年を元年としている理由は、第一に、弘文朝を抹消するためである。672年は、本当は弘文元年だったのだ。
第二に、郭ムソウらが帰国したのを「天武元年5月」としているのは、彼らが天智の葬儀のためにだけやって来て、壬申の乱には介入していないかのように
見せかけるためである。しかしこの「天武元年」は、文字通り天武が即位した年(673年)という意味で使われているのである。
郭ムソウの率いる唐人の軍のみならず、新羅軍もまた壬申の乱に介入し、筑紫太宰府や吉備地方を押さえ込み、
吉野軍の勝利と天武の即位を見届けてから帰国したというのが真相である。
>>127 スレ荒らさないでね。
それと、邪馬臺、邪馬壱に付いても、文字、読み、背景などいろんな説があるから、
それを語ってくれ。お宅のは、「那珂通世がこういったから」「本居宣長がこういった
から」とかいうレベル。明治時代の大学者の権威主義と、それがどれほど政治的に
利用されたかと言うことも学んだ方がいいよ。そういう体質が今でも色濃く残ってい
ることも。
130 :
日本@名無史さん:04/08/04 08:33
>>129 スレ荒らしはまともな頭を持っていない古田爺さん信者の池沼だろ
131 :
日本@名無史さん:04/08/04 08:35
>>129 おまいはマジで校合も知らない池沼らしいな
デンパ九州王朝スレに逝ってよし
132 :
日本@名無史さん:04/08/04 08:42
( ´,_ゝ`)プッ
133 :
日本@名無史さん:04/08/04 09:57
>>921 :なんとなく九州王朝説 :04/08/01 22:37
>> 筑紫の君、薩夜麻=薩野馬は、白村江の敗戦ごろ、唐の捕虜になりましたが
>> 671年に唐に連れられて帰国します。半島にあった都護府の管轄で、
>> 都督府の王として生き延びることを強要されたようです。
>> 半島を統一した新羅側についた九州王朝の天武は、傀儡政権の樹立を
>> 懸命に阻みました。
たしかに、671年11〜12月に筑紫君薩夜麻が、47艘2000人とともに筑紫入りし、
12月3日に天智が亡くなり、翌年に壬申の乱が起きるというタイミングなのですが、
薩夜麻が壬申の乱の勝利者の天武なのですか?
134 :
日本@名無史さん:04/08/04 10:23
135 :
日本@名無史さん:04/08/04 10:30
>>931 >白村江の後の戦後処理、と普通に考えていたが。
>47隻って多いか? こんな数では倭国制圧は出来んだろ。
例えば、遣唐使における1隻あたりの平均人員数は120程度なので、
47隻ならば6000人程度の可能性がある。
また、倭国制圧に来ていたのではなく、戦闘はなく交渉のみの記録から、
あくまでも属国化をせまる政治交渉のみだと考えられる。
そして、47隻数千人、さらに背後に大唐帝国の威圧力としたのであろう。
滞在が長期に渡るのは、倭国の抵抗で交渉が長引いたからであろうし、
何度か行き来しているのは唐本国との調整指示なのであろう。
136 :
日本@名無史さん:04/08/04 11:15
>>134 今やっている白村江後の話など日本統一とは全く関係ない
遥か後世の話で、飛鳥時代スレでやればいいだろ
137 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/04 11:26
138 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/04 11:39
甘木朝倉と大和の類似地名プロットから東に飛ぶ鳥のような都市計画が彷彿とする。
ヤマトトトビモモソヒメのトトビ(これは十字の骨組みの凧)について鳥瞰する(空みつ)
大和の国の百磯(無数の磯城の王たちの上に君臨する)姫、すなわち多数の国々の
首長の上に立って共立された邪馬台国女王と解釈する。
>>127 いやあ、全然理由になっていないですね。
隋書に載っている邪靡堆とは都の話でしょ。国名じゃありませんよ。
倭国はむかしの委奴国のことだと隋書に書いてありますよ。
刊本だから誤植があるという論理も大きな誤りです。
また、金印が発見された「委奴国」を軽視して邪馬台国=大和朝廷とする理由は何でしょう。
最も時代が後の(人偏+妥)国を無視して邪馬台国=大和朝廷とする理由はなんでしょう。
倭国を、無理に畿内にもっていきたいから、ころころと読み替え・改竄をしてしまうわけです。
140 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/04 11:58
則ち箸に陰(ほと)を撞(つ)きて薨(みまか)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、
時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、
大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相(あい)踵(つ)ぎ
て、手逓傅(たごし)にして運ぶ」
この賦役は大和に参集した倭国各国首長に配分され、各国はキャンプを造営し
本国から糧食の補給を求め箸墓古墳建設に当たったのであろう。この時代石の
数が勢力の大きさを表したのだと思う。今でも神社の石柱に名を刻して献納する。
ミマカキというのは崇神、ナカタというのは吉備の氏族にある。ナシメというのは
生部で鏡、産銅関係者、トシゴリというのは十市凝ということで皆鏡作のプロ。
ミナシなんてのは現代日本語「御座」、ミマツとは「王の港」。
141 :
日本@名無史さん:04/08/04 12:00
>>139 古田爺さんに洗脳されている基本の基本も知らないデンパ頭だから
そんな妄言を臆面もなく吠えるわけで、単なる校合の範疇に過ぎない話。
こんなデンパが荒らしているから有益な議論ができない。
142 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/04 12:11
本来なら伊都国、奴国が大和に遷都すれば全て終りだったのだが、吉備などの瀬戸
内海に半島系の積石墳が流入し纒向が建設されるいきさつはまことに不可解。吉備では
ウラという異族を征伐している。この辺が波乱万丈。弁辰から半島駐留の倭国集団と
外国系集団の混在したものが瀬戸内海、山陰に入ってきて戦乱が起こり、吉備の孝霊が
平定し大和に新都を建設したとしたい。勿論大和には先住の唐子鍵の住人もいたであろ
うし、九州南部を含め倭国全域が集中してきたのであろう。
>>133 薩夜麻≠天武だと思います。
なぜなら天武が8年間唐軍の捕虜になった様子はありません。
天智と天武と薩夜麻は、こんな流れになろうかと思います。
畿内に「唐が攻めてくるうわさが流れる」⇔同盟国新羅からの情報と照合
天智天皇が九州王朝系の大海人皇子に皇位継承を打診、本人は出家して辞退。
大海人皇子は倭軍の旧軍港に近い有明海の吉野に隠棲
唐郭務そうが、薩夜麻ら2千人を連れてやってくる
薩夜麻以下が都督府=唐の属国を樹立しようとしているのを確認して大海人皇子は還俗、畿内へ
天智天皇崩御(殺害?)
壬申の乱の後、大海人皇子が天武天皇になる
天武、九州傀儡政権つぶしに奔走(宇佐神宮が協力か・・・軍神の由来?)
薩夜麻敗北(殺害?)、列島代表国としての九州はなくなるが、天武が畿内で九州王朝を引き継ぐ
144 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/04 12:21
犬は歩兵、猿は山岳兵、雉は凧部隊ということで、孝霊の配下には凧を操る
鳥取部というのがいたのではないか。鬼ガ城攻略などで山城に火を放つのには
効果的であったと思われる。これがモモソヒメの配下で鬼道の一部を担当していた。
145 :
日本@名無史さん:04/08/04 13:02
>>142 伊都国に比定される平原弥生古墳(2世紀前半)を発掘した原田大六氏は
三種の神宝を有するこの勢力が東遷して邪馬台国になったと考えていますね。
吉備の特殊器台(埴輪の前身)や畿内の前方後円墳と北九州の三種の神宝が
古墳の葬送に共通したものとなっており、それぞれに重要な役割があったのでしょう。
話の展開に割り込んで失礼します。スルーしてください。
>>136 今やっている白村江以後の話こそ、日本統一前夜のハイライトであり
スレタイに大変深く関係したところです。
>>134>>141 深入りしませんが私は各種古田説に反対しています。
例えば、(古田氏⇔私)
陳寿を信じつくす⇔陳寿を疑いぬく
和田氏を信じつくす⇔和田氏を疑いぬく
また、リンク先の古典研究のイロハはデータが多い割りに、弱い論理です。
魏志倭人伝の肝心な結論はズレています。
天武って何者だったんだろうね。どうも記紀にごまかしがあるのは確かだと
思う。
148 :
日本@名無史さん :04/08/04 18:48
古田嵐に塩を撒こう。
149 :
日本@名無史さん:04/08/04 19:17
天武十四年十一月二日 筑紫大宰が太絹100匹・糸100斤・布300端・庸布400常・鉄10000斤・矢竹2000連を要求してきたので送付した。(日本書紀)
九州経営って大赤字だったんですかね?
あるいは貢物??
150 :
日本@名無史さん:04/08/04 19:38
>>146 古田爺さんに洗脳されたデンパ限定だろ
デンパ九州王朝スレでやれや
枚聞神社の、天智とコノハナサクヤ姫が夫婦であるという伝承はなんなんだ?
>>149 原文ではなんて書いてあるの?「要求してきた」とは偉そうだけど。
それにそんなにたくさん何に使ったんだろうね?
153 :
日本@名無史さん:04/08/04 20:58
九州が鉄の輸入国だったこともわかるね
154 :
日本@名無史さん:04/08/04 21:13
請ふだから、請求してきた、だけ。
九州王朝説が電波に思えるのは、余りに根拠が薄弱なんだからだけど(文献上でも)、
九州王朝説を信奉する人からすれば、記紀は後世の権力者の都合の良いように捏造
されているから当然という論理になる。
水掛け論だな。
ただ、日本書紀は唐に見せることを意識して書かれているし(事実、後の中国史書は
日本書紀を読んで書かれていると思われる)、あまりにもバレバレな嘘は書けないのでは?
と素直に思ってしまうのですが。
>>153 そりゃ半島利権も足場も全て無くしたからだろ?
新羅がそれを独占することで唐も追い出すことが出来たぐらいだから、やっぱり
当時の鉄の意味って大きかったんだろうね。
弥生末頃までは、筑紫・出雲が鉄を独占していたようだけど、それがいつまでどのような形で
続いたのかと言うことも、重要なテーマだと思う。
畿内説は死んでいるから、連続粘着の空回り・・・・
158 :
日本@名無史さん:04/08/04 21:31
>>155 狭義の九州王朝は完全否定系の中立派ですが、
少なくともこのスレで出てきた記紀の記事の話題で、
あなたがおっしゃるような捏造を指摘するレスはなかったと思いますが。
むしろ、記紀の記事を素直にちゃんと信じてつなぎあわせると、
従来の通説では矛盾があまりにも多いという話ばかりだったと思います。
あるいは、筑紫都監府の件のように、日本書紀の記事を信じる限り、
唐からの使者は何度も来ているのになぜか筑紫止まりで奏上しているとか、
滞在中の使者に天智崩御が伝わるのがなぜか3ヶ月後とか、
記事をそのまま信じれば2000人級を率いてきたのが少なくとも2回とか、
半島各地に都監府が設置されてる時期に限って、筑紫都監府も明記されているとか、
捏造を指摘しているのではなく日本書紀を信じるからこそ真実追求しているのです。
>>158 いや、書いている意味が分からないのですが。
例えば、聖徳太子の弟・来目皇子が新羅征討の将軍として筑紫に赴任した
記述や、斉明天皇が新羅遠征のために筑紫の朝倉行宮に移った記述は、
九州王朝説では、日本書紀の編纂者の捏造とする以外に、どう解釈するの?
白村江〜天武までの解釈は面白く読ませてもらいましたが。
160 :
日本@名無史さん:04/08/04 22:01
>>151 枚聞神社ってどこにあるかと調べたら、鹿児島県指宿郡じゃん。
なんでこんなところに、天智天皇の陵という大石があるの??
今日は粘着君は、昨日よりましですかw
>>158 >捏造を指摘しているのではなく日本書紀を信じるからこそ真実追求しているのです。
古田説の方法論がそれです。文献に忠実に、疑う場合はどの方法論も明確に&傍証も。
つまり弁証法的に証明する。
もちろん私も流石に全部その通り!という訳ではないです。
ただ、方法論がガラス張りなのと、他の学者より「〜だろう」「〜らしい」が圧倒的に少な
い。
名は記しませんが、大学者と言われる人でも本読むの正直嫌になることがあるw
>他の学者より「〜だろう」「〜らしい」が圧倒的に少ない。
これは、美点なのか? 学者として、謙虚な態度を持ち、
いい加減な断定を避けるというのは、ひとつの見識だと思うが。
>>159 ご本人ではありませんが、
>>158氏の話を、私はこういう意味に理解しました。
日本書紀は編者の捏造記事も含めて、十分に事実の反映が含まれており、
原典批判の対象足りうる。
>>163 大先生の無根拠論理展開に良く出てきますよ、権威による多重仮説や
学閥に支えられたアンタッチャブルな仮説。読んでいて「?」だらけです。
また枝葉末節主義?のため、グランドデザインが出来ていないので、
読んでいるこちらには、チンプンカンプンというのもあります。
166 :
日本@名無史さん:04/08/04 22:58
>>166 お前、伊都国東遷説のアンカーか?
気持ちは分からないでもないが、このスレの少数意見みたいだぞ。
なるほど。あのアンカー野郎か。
なら放置でいいわけだな。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
172 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:05
反論できなくなった電波君が、粘着カキコはカコワルイ
あぼーん
古田信者と議論するなんて時間の無駄じゃん。
ダメなヤツは何をやってもダメ
東北偽書オヤジを担ぐのはもっとダメです。
177 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:29
古田とか安本ってどうやって生計をたててるんだろ。
178 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:33
万葉集に収録された歌から、意外な歴史的事実が浮かび上がる・・・という古代史ファンには見過ごせない一冊。
万葉集の和歌を古代朝鮮語で読み解く・・・という試みは以前から知っていたが、この著者はさらにそこから大胆な自説を繰り広げる。
例えば章題こんな文字が躍る。
【持統天皇は高市皇子だった!?】
【斉明天皇を暗殺したのは大海人だった?!】
ダメな176は何をやってもダメ
180 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:37
古田は何をやっても学会に無視されます。
バ〜カ!別スレだやれ!!
182 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:47
古田爺さんに洗脳された香具師は、まだそんなことを言っているのか。
現存する最古の「魏志倭人伝」は宋の時代の刊本に過ぎない。
一方「隋書倭国伝」には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とある。
「隋書」が編纂された唐初に利用できた「魏志」と照合して
邪靡堆と邪馬臺の同一性を示しており「堆」と「臺」の音が似ていることを示す。
古田爺さんは江戸時代ですら真剣に行われていた校合作業を知らない振りをして
池沼を騙してデンパ説を流布しているだけで全く意味がない。
ダメな182は何をやってもダメ
184 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:54
古田爺さんに洗脳されたデンパ限定だろ
デンパ九州王朝スレでやれや
あぼーん
ついに発狂したか。越抜けめ。
187 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:56
このスレッドを小林恵子vs古田信者スレッドに指定します。
あぼーん
ダメな186は何をやってもダメ
190 :
日本@名無史さん:04/08/05 01:01
ダメな189は何をやってもダメ
あぼーん
192 :
日本@名無史さん:04/08/05 01:08
古代史4珍の古田と安本と遠藤美津夫と小林恵子ってどれが一番アホですか?
あぼーん
192 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/05 01:08
古代史4珍の古田と安本と遠藤美津夫と小林恵子ってどれが一番アホですか?
↑ 一番アホはお前
氏ね
やれやれ。ひどいもんだ。こりゃ泥仕合だな。
もう手を引く。
明らかに重複なPart8を立てたやつ。とっとと削除依頼しろ。
さかんに荒しをしかけてるのもおまえだろ。やめれ。
九州王朝の話をしているやつ。
ここは邪馬台国と大和朝廷の関係を議論するスレだ。
>>1に一貫して書かれてきたとおり、
>3世紀日本列島の状況とは如何なるものか?
がメインテーマだ。
白村江他、新しい話がしたいなら、九州王朝スレで存分に。
テーマごとにスレを分ける。これが2ちゃんねるのルールだ。
どんな主張をしようが勝手だが、ルールには従え。
以上。
196 :
日本@名無史さん:04/08/05 03:11
九州王朝信者が関係ない話で荒らして不毛な論争に陥り
スレが機能しなくなるの繰り返しだな
197 :
日本@名無史さん:04/08/05 03:54
枚聞神社由緒記より、要約文
『天智天皇御巡幸伝説=瑞照姫又は大宮姫といい、2歳で上京して鎌足に育てられ、
13歳で宮中に召され天智天皇の妃としてご寵愛を受けたが、他の女后等に嫉まれ逃げ帰る。
その時大甕を持ち帰る。其の後、姫を慕って薩摩に来て余生を送り御79歳で崩御』
らしいです
198 :
日本@名無史さん:04/08/05 04:25
>>159 :日本@名無史さん :04/08/04 22:01
>
>>158 > 例えば、聖徳太子の弟・来目皇子が新羅征討の将軍として筑紫に赴任した
> 記述や、斉明天皇が新羅遠征のために筑紫の朝倉行宮に移った記述は、
> 九州王朝説では、日本書紀の編纂者の捏造とする以外に、どう解釈するの?
158ですが、わたしは九州王朝説否定派です。
>>158冒頭で宣言しています。
単純に、どちらにも片寄らずに、まずは記紀の記事を素直に信じてつなぎあわせると、
従来の種々の通説(九州王朝説も含む)では矛盾が多いので、
ここは一つ、みんなで心を0にして、各当時の日本の状況を見直しましょう、です。
> 白村江〜天武までの解釈は面白く読ませてもらいましたが。
なんにんかがそれぞれ特定の解釈を導き出していましたが、
根本は、それら種々の新たな解釈をせざるをえない日本書紀の記述です。
様々な指摘があったように、見過ごされている重要記述が多いと感じます。
そのうち、このスレでは、古代における、日本統一の過程あるいは政権交替などが
どのように行なわれたかを、純粋に見直しましょうということです。
199 :
日本@名無史さん:04/08/05 04:37
>>159 > 例えば、聖徳太子の弟・来目皇子が新羅征討の将軍として筑紫に赴任した記述
大和朝廷一貫派においても、内部豪族間権力闘争のからみで、
なぜか、聖徳太子自身の存在否定説も多く見られるようですがここでは略。
来目皇子が新羅征討ですが、602年3月に征新羅将軍に任命され、
4月に筑紫に到着しているようですが、6月に病に臥しているようです。
そして、翌603年2月に、来目皇子は筑紫にて病死しています。
以上が日本書紀の記載されている状況ですが、
なぜ1年近くも筑紫に滞在しているのか、本当に病死なのかといった点で、
様々な解釈があるようです。特に、磐井の乱のときの状況との連想もありそうですね。
200 :
日本@名無史さん:04/08/05 04:48
九州王朝信者は飛鳥時代の話をこのスレでせずに
九州王朝スレか飛鳥スレでやれよ。
いい加減に荒らすのを止めろ!
201 :
日本@名無史さん:04/08/05 05:04
>>159 >> 例えば、聖徳太子の弟・来目皇子が新羅征討の将軍として筑紫に赴任した記述
この件、603年2月に来目皇子が筑紫で死亡したあと、すぐに、
4月に当麻皇子が征新羅将軍に任じられており、
7月に難波より出発し、播磨に到着で、妻の舎人姫王が明石で死亡。
妻の死は深刻ですが、これだけのことで国家の大方針である新羅征討が
完全に中止となってしまうのです。不可解としか言いようがないです。
591年11月にも筑紫に2万人派遣していますし、
595年7月に筑紫駐屯の将軍らが大和に帰るとなっています。
この4年弱のあいだ筑紫駐屯でなにをしていたのでしょう。
202 :
日本@名無史さん:04/08/05 06:31
大和朝廷って、任那復興・任那救援と関係が深いわけですが、
邪馬台国と、任那との関係はどうだったのでしょう。
邪馬台国の時代から大和朝廷の時代へと移る過程において、
日本がどのように任那との関係を生じていったのかは、重大事項かと思います。
地理的にも政治的にも、任那・九州・畿内でどのような関係が進んだのか、
うまく説明できることが、各説において必要ですね。
203 :
日本@名無史さん:04/08/05 06:37
>>202 金官加羅に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土しています。
卑弥呼の時代に畿内・吉備連合が西日本を制圧し
日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのでしょう。
204 :
日本@名無史さん:04/08/05 06:48
>>203 そこなんだけど、〜時代のゆらぎのある昨今、
せめて何世紀の前半か後半かくらいが、その変動の時期わかるとうれしいな。
205 :
日本@名無史さん:04/08/05 07:22
>>204 韓炳三・前韓国国立中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)
によると、当時の韓国の年代観では3世紀末以降が大和の影響としています。
206 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 07:48
>>204 非常に面白い。倭国では佐紀盾波古墳群の始まる頃まで金海は伊都国、奴国
の勢力下にあったということになる。すると魏との交渉に当たったのは邪馬台国ではなく
伊都国、奴国又は宗像海人族(北部九州)ということになるんだろうか。倭人伝でも奴国
辺りが突出してるね。狗奴国の乱につきセシオエなるものを呼んで事情を聞いたとある
あたりは大使を召喚し事情を聴取した感じがし、金海に駐在していたんじゃないかと思う
んだけどね。佐紀盾波時代には大和の直轄支配に入ったということか。或いは又九州
北部に大和文化が浸透したことなのか。
207 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 07:55
金官加羅国が倭国の支配下にない限り安全な鏡等の輸送はできなかったであろうし、
鉄原料等の流れもあったはず。リトル倭国があり、各大規模首長国が自給自足で
鉄鉱採掘作業、輸出業ができるだけの基地がなくてはならない。いちいち倭寇をやっ
ていたんじゃおかしいよね。
208 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 08:08
スサノオがS+S+N+O、セシオエがS+S+O+E、鼻音Nは母音と似ている。出雲方面
から弁韓に出稼ぎにきた国・・・ソソマなんてのを聞いた覚えがある。
210 :
日本@名無史さん:04/08/05 08:14
391年には確実に起きている半島進出(再進出?)が、
九州邪馬台国と大和朝廷あるいは東遷政権のどれが起こしたのか興味ある。
大和朝廷の歴代政権が任那復興にあれほど御執心なのも気になる。
プレ邪馬台国時代からの、半島での鉄利権との関係は絶対あると思う。
白村江での救援の熱意と理由は、当時の状況だけでは説明できなく、
古代日本のあり方や成立過程に基づくものだと考えられる。
>>205 え?4世紀でなく3世紀なの?自分の考えを修正せねば。
211 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 08:15
このリトル倭国に瀬戸(<陶津)という狗奴国の代表も参加していたのか、或いは
摂津だったのか、そういうのもあるがね。
>卑弥呼の時代に畿内・吉備連合が西日本を制圧し
日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのでしょう。
前半はわかるけど、だからって土地や生産拠点をすてて大引っ越しする理由は?
これまでは弥生末からいきなり7世紀にとんでしまう遺跡年代比定だけど、最近の年代測定では、
4世紀以降も続いていたという結果が出だしているけど。
なら九州は衰退という前提が崩れていると思わない?
213 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 08:25
>>210 半島進出に仲哀は反対した。神功/建内 は多分九州の勢力を糾合し外難に
対処することで倭国の統一を図る政策を採った。結果白村江、日露戦争のごときもので
好太王碑にまで恥をさらしたものの国内的には三韓を征伐した。日向などが中央政界に
名を見せる、つまり、神武神話、天照神話などの始まるのもこの辺と違うか。
214 :
日本@名無史さん:04/08/05 08:28
>>212 そんな4世紀とか7世紀とかでなくてさ、
筑紫君磐井の前後(5世紀後半〜6世紀前半)の考古学的状況は?
>好太王碑にまで恥をさらしたものの国内的には三韓を征伐した。
意味不明。歴年相攻伐した結果だし、恥といってもそれが致命的だったかどうかは
わからない。
国内的には三韓を征伐した。って何?
216 :
日本@名無史さん:04/08/05 08:38
>>213 半島進出って言うけどさ、
魏志韓伝には、倭人も既に鉄を入手しに3世紀には半島へ行っているわけで。
もちろん、半島南端には、縄文人の足跡が多数あるように、
半島進出は縄文時代後半から行なわれていたのだろうけど。
すると、日本のどの集団が、どの時期に、半島進出かを言わないとダメってことか。
例えば、任那地区のうちの日本直轄領部分は、いつ確立した?
6世紀には、アホなことに、大伴金村が百済に次々と譲渡しちゃうわけだけど。
217 :
日本@名無史さん:04/08/05 08:52
>>206 魏志倭人伝には伊都国に楽浪郡の使いが駐在したと書かれています。
当時の邪馬台(ヤマト)国は東海を拠点とする狗奴国と対立しており
東日本の前方後方墳(東海系の壷を並べる)体制が突如として消滅し
東北南部に至るまで前方後円墳(吉備発祥の円筒埴輪を並べる)に変わっています。
日本列島をほぼ統一してからヤマトが本格的に半島に勢力を伸ばしたのでは?
宋書倭国伝に載っている倭王武の上表文にもその状況が書かれています。
218 :
日本@名無史さん:04/08/05 08:56
>>217 >>日本列島をほぼ統一してからヤマトが本格的に半島に勢力を伸ばしたのでは?
Q1. 日本列島をほぼ統一したのは何世紀の前半後半いつですか?
Q2. 本格的に半島に勢力を伸ばしたのは何世紀の前半後半いつですか?
せめて、100年単位、できれば50年単位くらいで、示してくれなければ意味なし
219 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:03
>>213 > 好太王碑にまで恥をさらしたものの
高句麗の大本営発表だから、現実とは大きくかけ離れている部分があるでしょう。
倭国が百済・新羅を臣民として、奥深く攻め入られたことは高句麗の失点なわけで。
近代で言えば、戦前の日本軍部はノモンハン事件の失敗を極力隠そうとし
戦後はソ連とその工作員が大勝利と宣伝したものの
ソ連崩壊後に公開された秘密文書で、ソ連側の人的被害の方が大きいと判明し
これも誇大宣伝で嘘だったことが判っています。こんなものです。
220 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:10
>>219 別に、好太王碑の時代出なくても、その後の半島情勢は、
全ての国が押しつ押されつで、やられたことがない国なんてない。
論点はそんなことではなくて、わざわざ日本から半島へ兵を派遣できている
ということは、国内での生産力や人口という後背力と、
兵を半島へ派遣しても日本列島内で揺るぎない安定を確保していたということ。
そのような状況になったのはいつなのか、および、
どういう過程を経てそのような状況になったのかを語らないと、素人の妄想止まり。
221 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:16
>>218 > Q1. 日本列島をほぼ統一したのは何世紀の前半後半いつですか?
西日本は早くから前方後円墳体制に組み込んでおり(出雲を除く)
箸墓古墳=卑弥呼の時代にはほぼ統一がなされたと見れます。
東日本は前方後方墳体制に統一されていたのを、前方後円墳体制に
組み込んだ時期で、およそ4世紀中頃でしょう。
> Q2. 本格的に半島に勢力を伸ばしたのは何世紀の前半後半いつですか?
韓炳三・前韓国国立中央博物館長によると、畿内の影響力が強くなるのは
3世紀末から。
> せめて、100年単位、できれば50年単位くらいで、示してくれなければ意味なし
土器編年を暦年代に換算するのに不確実さがあることに留意すること。
>>221 そんな早期というのは考えられない。
ずっと下る継体の頃でも政情不安に陥ったりしている。
というか、古墳と勢力扶持、征服とそんな簡単に一致するとも思えない。
223 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:21
土器編年の歴史的経緯は思い込み政治的意図での対応付け
しかし土器編年にたよらないといけない苦しい事情
年輪年代法はちょうど3〜4世紀はダメ
C14法も濃度変動期のため1対1対応できない時期
なんかついてないなあこの時期
224 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:45
>>222 律令国家も、奈良時代には日本中に約10m幅の高速道路網を建設し
国府・国分寺などを整備したのが、次第に中央集権力を失って
平安時代後期には地方にまで勢力が及ばなくなったように
継体朝に同様の現象が起きていたと見ればいいだけでしょ。
中央では権力争いが起こり、地方では任那の領土を失い、磐井が反乱を起こした。
225 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:49
>>223 14Cも年輪年代のように年輪に沿って数多く測定して
変動曲線とのマッチングさせれば精度が上げられるけど
土器に付着する煤ではそうも行かないのが辛いところ。
226 :
日本@名無史さん:04/08/05 09:54
天武11年(682年)以降、阿多隼人、大隅隼人といった諸部族が朝貢している。
その後、隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを
正当化するための造作を加えたものが記紀の日向神話。
日本統一への道程は険しい。
227 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:26
>>226 「翰苑」に引用された「魏略」逸文や「晋書」倭人伝などには、
倭王の使者が呉の太伯の後裔と自称したと書いてあります。
華南から出発すれば、最初に南九州に拠点を作ったとしても自然だから
そんな捻くれた解釈をする必要はないね。
228 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:28
大宝2年(702年)には薩摩と多根の隼人、
和銅6年(713年)には大隅国の隼人が日本と対立し、
日本側は征討軍を派遣してようやく鎮圧する事態に。
しかし、日本による支配に徹底反抗で、
養老4年(720年)には、隼人が大隅国守陽侯史麻呂を殺害。
日本は大伴旅人を征隼人持節大将軍として派遣したが、
戦いは1年数か月間続くことになる。
そして、隼人からの朝貢は9世紀に入って中止。ようやく日本の一部となった。
隼人民族を滅亡させた日本人はこのことを忘れるべきではない。
229 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:37
>>228 池沼か、南西諸島の最南端まで日本語の方言を喋る人々だぞ。
薩摩隼人も日本語の方言を話す人々だったのは間違いないだろう。
230 :
邪馬台国=古墳発生地:04/08/05 10:40
オオビコ軍とタケヌナカワワケ軍が会津で合流したという伝承こそ倭国北方国境
確定を意味しているのと違うだろうか。
231 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:47
言語分布には、地理的な割り込みが見られるのが一般的。
九州に限らず、日本各地に非日本語地域は多数あったと思われる。
そもそも、土蜘蛛も蝦夷も隼人も熊襲も、言葉が通じていない。
言語に加えて、それぞれ生活形態や風習まで異なり、
現代における定義を適用すれば、異なる民族ということになる。
それにしても、九州の完全支配はようやく8世紀になってからということは、
大和朝廷としては、南九州への進出より、半島への進出を優先したんだろうな。
232 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:59
>>230 古墳時代初期に宮城県南部まで前方後方墳が広がっていました。
それを前方後円墳体制に組み込み、古墳時代中期後半には
日本最北端の岩手県角塚古墳まで広がりました。
ここが当時の倭国の北側の前線だったのでしょう。
233 :
日本@名無史さん:04/08/05 11:03
>>231 今でも鹿児島方言は殆ど分からないぞ。
さらに名護方言・首里方言・八重山方言となると尚更。
首里方言と八重山方言相互の差も著しく
3年住まないと満足に話すことができないと言われた。
234 :
日本@名無史さん:04/08/05 11:03
薩摩国ができたのなんて白村江よりもあとで、8世紀だもんなあ。
702年(大宝2年)に、日向国から分離して唱更国が設置されたのがようやくスタート。
隼人の朝貢も682年が最初で白村江よりもあとだな。
隼人支配が進められるのが、ちょうど偶然に記紀の完成の時代だ。
235 :
日本@名無史さん:04/08/05 11:13
>>232 アイヌ語に基づく地名が普遍的に見られる地域の境界ははっきりしていて、
ちょうど宮城県北部部分を含んで北だそうです。微妙ですね。
>>233 異なる言語か方言かというのは、御存知の通り、境界はなく政治的なもの。
ほとんど同じ言語でも、各国の意思で異なる言語としている現状をみましょう。
例えば、首里方言は明らかに日本語と同言語系統ではありますが、
音韻的変異も激しく、分岐後2000年近くたっているとも言われ、
客観的には通常別言語とみなされますが、政治的には、
日本語の方言ということにしてあります。中国での中国語も似たような例です。
したがって、隼人の言葉が仮に日本語と同系統のものであったとしても、
それを方言と見なすか異言語と見なすかは、政治的な意思でどちらも成立します。
236 :
日本@名無史さん:04/08/05 11:22
>>235 室町幕府の公式外交文書でも明と朝鮮には漢文なのに
ひらかなを国字にしていた琉球には日本文で送っている。
琉球が最初に明に使者を送った時は、おたまじゃくしのような文字で書いてきて
読めなかったと明側の記録にあり、ひらかなの文を出したらしい。
南西諸島は明らかに日本語の世界だった。
237 :
日本@名無史さん:04/08/05 11:54
>>236 あなたアホですか?
日本語と琉球語の分岐は確実に1500〜2000年前で、
ひらがな成立の数百年も前ですよ。
14世紀に琉球で表音文字としてひらがな導入したのは、
ひらがな成立の数百年も後ですよ。
分岐して2000年たっているので、欧州での同言語系の各言語くらい離れており、
例えば、ちゅらさんの「ちゅら」が元は清らかの「きよら」だとは、
音韻変異対応関係に熟知している人でないと、さっぱりわからないでしょ。
九州も大和も、なんで隼人にはそんな長らく手を焼いたんだろうね・・・・・。
>>223 でもサンプル量がみみかき一杯ぐらいになったから、検査自体が同じ異物で
何回もできるようになって、精度も上がってるよ。>c14
>>237 あふぉ、奄美を飛ばすなや。
>238
手を焼いたんじゃなく、放任した気配があるそれに、逆らった阿多なんかの
扱いも待遇がよすぎ辺境に追いやればいいものを。
241 :
日本@名無史さん:04/08/05 12:51
>>237 そんなに古くないだろ。万葉の言葉で本土では使わなくなった用語が
南西諸島の方言に残っている例がいくつも知られているし
その後も相互に交流しており、単純な推定過ぎる。
242 :
日本@名無史さん:04/08/05 12:55
>>237 南西諸島では日本語の方言だからこそ、ひらかなの導入が上手く行ったわけで
アイヌ語のような子音で終わる単語が多い異なる言語では上手く行っていない。
何とかして南西諸島を別物としたいようだけどナンセンス。
243 :
日本@名無史さん:04/08/05 13:25
記紀のわけワカラン登場人物の名前とかは南西諸島の
方言で読むとどうなるんだろう。
245 :
日本@名無史さん:04/08/05 15:42
南西諸島の琉球方言(=琉球語)をどうしても日本語と一緒にしたいひとがいるようだけど、
言語の実体も言語学的にも別に区分され、ともに同言語系統とされます。
言語とするか方言とするかは表現の問題だけでどちらでもよく、
方言の場合でも、全体を本土方言と琉球方言という大きな括りで大別されます。
前者を日本語、後者を琉球語と呼ぶこともあるというだけです。
少なくとも奈良時代以前の分岐とされ、琉球語の各方言のなかに、
原始日本語(あるいは原始琉球日本語)の痕跡も見つかるなど、重要です。
他の言語での分岐の統計的な分析結果を元に、日本語と琉球語に適用すると、
だいたい2000年前ではないかという推定が出ているのみです。
明治仕上げの日本語と一緒にされちゃかなわんよ。
それに、沖縄本島のことばは、この辺で中心性をもたんよ。
247 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:04
>>245 その話だと、だいたい一緒ってことになるような気が・・
248 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:13
・琉球語例
サリ!
イメンシェービティ ウヰーリミシェービリ!
ヌーシェー メンシェービーガヤー?
ナマー ウンジミショーチ、イメンシェービラン
・日本語訳
ごめん下さい。
よくお出でになりました。 おかけになって下さい。
ご主人はいらっしゃいますか?
今はお出かけになって、いらっしゃいません。
249 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:28
>>245 分岐時期と言うのはインドヨーロッパ語族の研究から出てきたもので
ユーラシア大陸で民族大移動を起こしてお互いの接触が少ない時に成り立つ話。
その係数を強引に日本語の方言に適用したわけだけど
本土と名護・首里・八重山などは相互に行き来があって
分岐時期と言う概念を適用させるのはおかしい。
単純化させすぎないで、もっと地道に方言の分化について検討すべきだろう。
250 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:30
比較言語学が当然なくて比較分析も進んでいなかった
江戸時代の学者は、琉球語を中国語が訛ったものと考えたらしい。
英語とドイツ語の方がよっぽど似てる。
251 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:39
>>250 その学者が池沼なのか、あるいは例によって支那人の歴史捏造か? ( ´,_ゝ`)
室町時代に日本語で琉球国と外交文書をやり取りしていた事実も知らないとは呆れる
252 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:44
日本語と琉球語での会話は他の方言と異なりどうやっても無理です。
「室町時代に『日本語で』琉球国と外交文書をやり取りしていた」のをお忘れなく。
日本語⇔琉球語の対応は山のようにあり、母音変化(e⇔i,o⇔u)、口蓋化(ki⇔chi)、
日本祖語pに遡るwやhのうち母音ではさまれたものの消失の差(-awa-⇔-aa-)などなど。
例1: 沖縄(おきなわ)= okinawa ⇔ uchinaa = うちなー
例2: 清ら(きよら)= kiyora ⇔ chyura = ちゅら
といった初歩例までは素人でもなんとかなるのですが、
大和言葉の失われた古形を推定したりかなり頑張らないと、対応関係を見いだせないので大変です。
古文の知識をさらに想像で古く戻して、それをさらに経年変化させるという具合いです。(もちろん、おおざっぱん表現です)
253 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:55
>>247 日本語と琉球語がだいたい一緒だと、まじで思うんなら、例えば、
>>248の琉球語の例を解読してみてくださいな。
ちゃんと日本語との対応関係をもって説明できたら、日本語と琉球語はだいたい一緒であるとしましょう。
254 :
日本@名無史さん:04/08/05 16:58
江戸時代初期に琉球初の正史「中山世鑑」を編纂した向象賢(羽地朝秀)が
自然物の呼び名が本土と琉球の言葉で一致することを指摘したのが
現在知られている最古の言語学的研究で、明治になって本土にも
この研究が知られるようになった。
明治になってチェンバレンが類似性の高さを確認して、世界的に認知された。
日本語のハ行はp→F→hと変化してきたことが、万葉仮名などの研究から
指摘されていて、八重山ではpが色濃く残り、首里ではF、名護ではFとhが混在と
日本語の変化の過程が保存されているようで興味深いと言われる。
255 :
日本@名無史さん:04/08/05 17:15
>>254 江戸時代の日本人が、琉球語は全く異なる外国語だと思っていたのもしょうがないですな。
>> 八重山ではpが色濃く残り、首里ではF、名護ではFとhが混在と
これより、日本琉球祖語が八重山に広まったのは、確実に、p時代であると推測されるわけで、
それが何世紀なのかが難しいところなわけですな。
万葉仮名の「は行」の大陸音はp音なのだが、これの適用時期からして、まだ難しい。
256 :
日本@名無史さん:04/08/05 17:24
>>252 > 例1: 沖縄(おきなわ)= okinawa ⇔ uchinaa = うちなー
鑑真の伝記「唐大和上東征伝」に現地の言葉を聞き写したと思われる
「阿児奈波」(あこなは)があり、現地音もかなり変化していることになる。
257 :
日本@名無史さん:04/08/05 17:32
>>255 江戸時代の学者も様々で池沼としか思えないのもいるからな。
室町時代の日本と琉球を記録した李氏朝鮮の申叔舟「海東諸国紀」によると
琉球の習俗は日本と大同小異で衣装なども似ていると書いている。
ところが明や清に朝貢し冊封される期間が長くなって漢文化の影響が強くなり
その風俗を見て単純に漢語に近いと思った池沼もいたかも知れない。
ちゃんと言語的考察をすればそんな間違いをするはずがない。
258 :
日本@名無史さん:04/08/05 17:34
>>256 専門じゃないのであくまでも推測だけど、
『なわ』が古代日本語あるいは日本・琉球祖語で、napa だったのかな?
だとすれば、琉球では、napa→naFa→naha→naa と消失したとすれば、
その鑑真の時代には、naha(なは)だったとすると整合性ありそう。
例えば日本語で貝は、kapi→kaFi→kahi→kaiと変遷してますよね。
259 :
日本@名無史さん:04/08/05 22:54
古田信者は、本スレッドに帰ったな。
260 :
日本@名無史さん:04/08/05 23:38
日本書紀によれば筑紫都督府が九州にあったのだから、
当然その上には則天武后が実権をにぎる唐国の安東都護府(668年〜平壌)があった。
その時期、筑紫の君は捕虜から帰還した薩夜麻だったから、彼は都督であったことになる。
唐の軍隊組織は府兵制といい、辺境防衛のため農民を「防人」として
3年間兵役させるのが、ひとつの特徴だ。
唐の行政を行う筑紫都督府は、半島全土を占領した新羅に対して
「親新羅」の畿内地方でなく、東国の農民を徴兵し、防人と号した。
のちに王家や高級官僚の歌を除いて、世に伝わったの歌集を万葉集という。
261 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:04
>>257 >ところが明や清に朝貢し冊封される期間が長くなって漢文化の影響が強くなり
>その風俗を見て単純に漢語に近いと思った池沼もいたかも知れない。
>ちゃんと言語的考察をすればそんな間違いをするはずがない。
比較言語学や音韻学の研究が進んでなかった江戸時代には、
ちゃんと言語的考察をしても、琉球語が日本語と同系統だとは誰も気付かないですよ。
江戸時代の学者が琉球語を中国語が訛ったものと考えたのは、やむをえないでしょう。
>>254氏が書いているように、明治時代にイギリスの言語学者チェンバレンが来日し、
沖縄にも1ヶ月滞在して言語調査を行なった結果、その後の明治28年に
日本語と琉球語は姉妹語(=同系統)であるとの発表を行なっています。
262 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:31
>>260 >日本書紀によれば筑紫都督府が九州にあったのだから、
>当然その上には則天武后が実権をにぎる唐国の安東都護府(668年〜平壌)があった。
筑紫都督府も安東都護府も存在はしていましたが、
半島から日本にかけて全ての属国化を狙った唐は、
半島での新羅による思わぬ反抗にあうとともに敗北し、
677年に安東都護府は遼陽へと撤退しています。
唐から日本への使者(見方によっては進駐)は、
日本書紀の記載では壬申の乱の直前の672年で終わっています。
天智崩御で唐とケリをつけたという考え方もあるでしょうし、
唐が壬申の乱にも関与したのではないかという考え方もあるでしょう。
どちらにしても677年後の都護府の撤退時点では唐の影響はなくなってるはずです。
263 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:34
>>260 >その時期、筑紫の君は捕虜から帰還した薩夜麻だったから、彼は都督であったことになる。
これはちがいますね。薩夜麻の帰還は、671年11月とあります。
仮に重複記事とも推測される669年のほうが正しいとしても、
筑紫都督府は既に667年11月9日の記事に見られます。
まあ、その間は別の者が都督だとすることも可能なのでしょうが。
>唐の行政を行う筑紫都督府は、半島全土を占領した新羅に対して
>「親新羅」の畿内地方でなく、東国の農民を徴兵し、防人と号した。
親新羅になったのは壬申の乱以降でしょう。
しかも壬申の乱での功労者は畿内よりも東国です。
そこまでいくとデンパですね。
264 :
日本@名無史さん:04/08/06 01:04
都督府は唐が設置するもので、薩夜麻はそこに据えられたので、前後は逆になる。
新羅軍に対して、倭軍の中の大和軍だけ攻撃してこない状況があったから
電波どころの騒ぎではない。
265 :
日本@名無史さん:04/08/06 01:26
>>264 倭王 珍も、都督自称したように(宋書)、都督府の、名称を
自称する可能性も有りうる。
新旧唐書にない、傀儡政権説より、可能性高い。
266 :
日本@名無史さん:04/08/06 01:32
>>265 日本側の自称の可能性はあるが、日本書紀には、
667年11月9日に、司馬法聰が熊津都督府から筑紫都督府に来たとある。
つまり、唐の属領支配拠点である熊津都督府を意識しつつ、
筑紫都督府と明記しているわけで、
仮に日本側が勝手に呼んでいただけだとしても、
筑紫も同様に唐の支配下にあったことを指してそう呼んだことになる。
百歩譲って、白村江後に筑紫が一時的に唐の支配下に置かれていたのだ
としても、なぜそれが九州王朝説とかになるのかが、理解できない。
飛躍、あり過ぎだろ。
268 :
日本@名無史さん:04/08/06 02:18
>>266 司馬法聰,11月13日に帰国。占領行政していると、とても思えないが?
269 :
日本@名無史さん:04/08/06 02:47
>>267 九州王朝説否定派ですが?
>>266 司馬法聰は単に筑紫都督府へ、大山下境部連石積等を送還してきただけなので、
11月13日に帰国でなにか矛盾しますか?
水城【みずき】
664(天智3)に唐・新羅の侵攻に備え築かれた土塁の防衛施設。
福岡県太宰府市・大野城市・春日市。主体は全長1.4km,幅80m,
高さ約10mの人工の盛土で,前面に濠を掘る。
周辺の土塁や大野城・基肄きい城とともに,大宰府防衛のための羅城を構成。
国特別史跡。
[株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]
>>265 敗軍の将である薩夜麻と、倭の5王とは立場が違うと思われる
>>267 それがどうして、大和朝廷唯一王権説の証拠になるんだ?おまえ馬鹿だろ。
273 :
日本@名無史さん:04/08/06 03:09
熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等とありますが、
この人はどういう位置付けなのでしょう。
どちらにしても送還役だったようで4日後に熊津都督府へ戻ったのでしょう。
>>270 ちなみに水城をつくったのは日本人ではないですよ。知ってますか。
275 :
日本@名無史さん:04/08/06 04:36
>>261 江戸時代初期に琉球初の正史「中山世鑑」を編纂した向象賢(羽地朝秀)が
自然物の呼び名が本土と琉球の言葉で一致することを指摘したのが
現在知られている最古の言語学的研究で、きちんと調べた人は分かっていた。
池沼が口から出任せを言ったようなものは無視していればいい。
276 :
日本@名無史さん:04/08/06 04:38
飛鳥時代の話は飛鳥スレでやれよ。
弥生時代後期から古墳時代中期くらいまでに限定すれ
277 :
日本@名無史さん:04/08/06 04:44
>>275 『自然物の呼び名が本土と琉球の言葉で一致することを指摘』っていうのは、
その当時の人々の認識の背景として、全く異言語であるはずの琉球において、
なぜか本土(日本語)と一致する言葉があるぞー、と、
摩訶不思議な大発見という状況なわけです。
つまり、その指摘の存在こそが、
江戸時代までは琉球語を完全な外国語と認識していた証拠なのです。
278 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:02
>>277 池沼か、琉球国はひらかなを国字として制定し
室町幕府は琉球国と日本語で外交文書をやり取りしていたぞ。
「中山世鑑」には琉球王は源為朝の末裔と記しており
日本人の一派であることは疑いのないものと認識していたのだろう。
279 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:10
南西諸島の言葉も話せず、単語を収集して検討することもなかった
学者ともいえない池沼の妄言など無視していけばいい。
280 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:15
とすると、どうして、現在つかわれている琉球語は、
>>248 >> サリ!
>> イメンシェービティ ウヰーリミシェービリ!
>> ヌーシェー メンシェービーガヤー?
>> ナマー ウンジミショーチ、イメンシェービラン
と、あたしたち本土側の日本人には、さっぱりわからないのかしら?
他の本土内の方言ならば、一部の地域独特表現とナマリがある程度で、
おおざっぱには日本語としてわかるのに。
>本土内の方言
薩摩方言やら南部方言のことか?
282 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:32
>>280 福島の山間部や鹿児島で話している言葉も
全く聞き取れなかったのだが
283 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:32
とりあえず、隼人と蝦夷は異言語だったそうなので、その地域は除こうぜ!
284 :
日本@名無史さん:04/08/06 05:44
鹿児島県では、日向に近い大隈半島側には前方後円墳が分布しますが
西側には見られず、この地域が熊襲→隼人の拠点だったとされています。
285 :
日本@名無史さん:04/08/06 06:04
鹿児島県人のことを、薩摩隼人と言いますが、
元々の隼人は阿多隼人・大隈隼人などのことで、
薩摩隼人は、後世に出てきた言葉です。
286 :
日本@名無史さん:04/08/06 06:07
大石龍門は、阿多隼人の移住地に一つで、
滋賀県大津市の南部に位置する山間の地で宇治川水系にあります。
当地には南国の植物バナナの木等も自生しており、
冬は非常に寒い土地柄だけに、このような植物が自生する不自然さを感じます。
また、竹林も多く竹林のなかに椰子が不自然に自生しています。
287 :
日本@名無史さん:04/08/06 06:17
740年の藤原広嗣の乱では、広嗣軍は勇猛をもってなる隼人を先鋒とした。
朝廷軍は従軍させていた隼人を出し、隼人言葉で広嗣軍の隼人に
「抵抗すれば罪は妻子に及ぶ」と帰順を呼びかけさせた。
結果、隼人の中に投降する者が出始め、戦いの経過は不明ながら、
広嗣軍は総崩れとなったと記録がある。
288 :
日本@名無史さん:04/08/06 06:24
鹿児島県の大隅の国風土記に記されている「隼人は海中の洲を必志(ヒシ)という」
というのが、アイヌ語で磯浜を意味するピシ(pis)と類似することは
知里真志保氏や谷川健一氏などの研究者が指摘しているとおり。
なお、沖縄の宮古島ではさんご礁の洲をヒシといって、
春の大潮に出現する八重干礁(やえびし)は有名。
五島隼人とは、壇ノ浦の源平合戦で敗れた平家盛が五島の宇久島に逃れ、
やがて島を統治する以前からの原住民のことであるが、
肥前の国風土記には「容貌は隼人に似て馬弓を好み、違う言語を使う」と記録がある。
長崎県五島全島に伝わる念仏踊りの歌詞には、
なぜかアイヌ語と思われるものが含まれていることも指摘されている。
289 :
日本@名無史さん:04/08/06 06:46
>>288 南西諸島の言葉はいずれも日本語の方言だけど
アイヌ語は明らかに別の言語なわけで。
縄文人が使っていた単語が南西諸島に残り
一方で日本語が多くの漢語を借用語としているように
樺太・千島・北海道に分布するアイヌ人にも伝わったのでは?
290 :
日本@名無史さん:04/08/06 07:14
ある古文書に、縄文系が東に逃げたってあるな
291 :
日本@名無史さん:04/08/06 07:48
縄文語=弥生語=大和言葉なの?
アイヌ語との関係は??
>>288 平家盛が武者落ちで五島に来なければ、
今もそのまま違う言語を使う原住民の隼人が残っていたかも知れないのね。
12世紀末には確実に隼人がいたということみたいだけど、
そのあとはどーなったのかしら。
>>291 >縄文語=弥生語=大和言葉なの?
おまえ、縄文・弥生がいつごろで、日本の言語が書きとめられた最古の記録は
いつごろだとおもってんだ。
気違い思想家以外のだれも答えようがない質問してるんじゃねぇよ。
アイヌ人・アイヌ語は北方からの侵入民族との混血というのが定説だけど。
でも、言語面での共通性とはまた相対的に別の事柄になるから。
294 :
日本@名無史さん:04/08/06 09:02
295 :
日本@名無史さん:04/08/06 09:07
アイヌ人について書かれた古文書も少なく、樺太・千島の考古学研究も少ないから
アイヌ人は良く分かっていないことが多いな
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3100.html その頃、樺太あるいはアムール河下流域に原郷土をもつ別の文化が六世紀頃に
北海道に上陸し、新たな展開をみせて北海道オホーツク海沿岸部に定着する。
これが「オホーツク文化」であり、十世紀頃までまったく異なる文化の花を咲かせるのである。
その後、このオホーツク文化は擦文文化の中に一部は吸収される形で「トビニタイ文化」を形成し、
やがて消えていくのであるが、擦文文化の後は、考古学上の「アイヌ文化」の時代に代わっていく。
296 :
日本@名無史さん:04/08/06 09:26
>>295 >>別の文化が六世紀頃に北海道に上陸し、
なんと6世紀なのですね。
658年4月に阿陪臣が180艘を率いて秋田と能代の蝦夷を討ったとき、
渡島の蝦夷たちも招集して饗応した、との記事があります。
渡島は函館など含む北海道の渡島半島でしょうから、
少なくともその附近の蝦夷と秋田の蝦夷は強い交流があったことになります。
この一帯の蝦夷は、そうすると、アイヌとは無関係のままだったことになるのでしょうか?
日本の黒曜石が、シベリア、沿海州から沢山出てくるそうだね。
安東氏も、大陸と関係があったとも言われてるし、西日本にすんでる俺なんかが思ってるより
遙かに北海道、東北と大陸って近いんだろうな。
そういえば昔、特命リサーチかなんかで「秋田美人は、北欧から来たから」っていうのがあった
ぞ。犬も人も、遺伝的に共通点が発見されたとか。
298 :
日本@名無史さん:04/08/06 09:54
>>297 なるほどね。
同じ658年なのですが完全に別の記事として、
越の国守阿陪引田臣比羅夫が粛慎を討って、
生きている羆(ひぐま)2頭と羆の皮70枚を献上との記事もあります。
当時の羆の生息地はわからないですが、
この粛慎は、ほぼ確実に北海道とみなしてもよいのでしょうか?
それともまさか、沿海州とかの想定はありますか?(さすがに、なささそう…)
299 :
日本@名無史さん:04/08/06 09:55
粛慎>民族名との説もあるし、北海道と確定してないと思ったが・・・・・。
301 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:10
302 :
天之御名無主:04/08/06 10:32
303 :
天之御名無主:04/08/06 10:35
粛慎ってのは樺太のことだろうね。
304 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:44
斉明5年(659年)3月に阿陪比羅夫がまた蝦夷征伐に行っていますが、
蝦夷側からの申し出で後方羊蹄(しりへし)に郡領を設置しているようです。
これって、北海道のニセコの隣の後方羊蹄山のことでしょうか?
九州の隼人征伐がまだであるこの時代に、北海道へは到達していた??
305 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:55
中国史書では古くから「粛慎」が登場するが、
それと日本史書の「粛慎」との関係は不明。
こんな記事があった。
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho106.htm 森田悌著『日本古代の駅伝と交通』
評者・永田英明 掲載誌・国史研究109(2000.10)
一方「粛慎」を北海道に比定する立場から、同じく「アシハセ」と訓じる「靺鞨」との関係に
ついて論じたのが、第二節「粛慎と靺鞨」(初出一九八九)である。「粛慎」が七世紀以前、
「靺鞨」が八世紀にみられる用語であることから両者を連続的に捉える理解があるが、
著者は八世紀初頭段階では渤海国の情報等に関連して大陸の靺鞨族に関する情報が
将来されていたはずであるとの前提から、靺鞨を中国大陸北東部の靺鞨にあて、
「アシハセ」という訓は「境外の蛮族」という一般的な意味に過ぎないとする。粛慎(靺鞨)に
ついては、考古学的な成果をもとにこれをオホーツク系文化集団にあてる説もあり、
評者もこの点について定見を持たない。ただ天武五年(六七六)に新羅使に引き連れられて
来日した「粛慎人」の事例(『書紀』天武五年十一月条)などは、「粛慎」を著者のように
列島内部(北海道)にあてる際不利とならないか。
306 :
日本@名無史さん:04/08/06 10:56
307 :
日本@名無史さん:04/08/06 11:00
尻別川の語源は、シリ・ペッ(上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)で、
後志や後方羊蹄の語源も同じらしい。
阿陪臣の遠征軍がアイヌと同言語系の民族を服従させていたことは確実だね。
308 :
日本@名無史さん:04/08/06 11:38
309 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:01
>>299 その多賀城碑文は安倍遠征軍のちょうど1世紀あとですね
762年ということは既に渤海からの朝貢も行なわれた後ですが
靺鞨国というのは靺鞨族主体の渤海との関係はどうなっていますか
310 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:05
311 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:20
>>310 なるほど。しかしそれは8世紀後半〜9世紀中頃ということで、
白村江の前の7世紀半ばに遠征した阿倍比羅夫よりも100年あとですね。
とはいえ、古墳群まであるとはすごいですね。
北海道の余市町の大川遺跡からは7世紀の鉄刀などが出て
和人の渡来ないしは交流があったようですので、
こちらが658〜660年の阿倍比羅夫遠征に対応しそうです。
それにしてもその100年後に古墳群を作った人々はいったい誰なのでしょう?
312 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:23
>>311 東北の古墳終末期の群集墓と似ているから
その系統の人々でしょう。
313 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:30
その時代(8世紀後半から9世紀中頃)の記録一覧
(しかし安倍比羅夫の海軍と異なり、厳しい内陸戦で、北海道どころか青森県にも入れず‥)
760年、天平宝治四年、雄勝城造営
760年、天平宝治四年、桃生城造営
767年、神護景雲元年、伊治城造営
774年、宝亀五年、海道蝦夷の襲撃で桃生城焼失
774年、宝亀五年、駿河麻呂遠山村(登米郡)の賊を討つ
776年、宝亀七年、山海二道の賊を二万人の兵士で討つ
776年、宝亀七年、出羽国:雄勝・志波両地方の賊を討つ
780年、宝亀十一年、伊治公柴麻呂の叛乱:伊治城・多賀城焼失
789年、延暦八年、胆澤巣伏村の戦い(阿弖流為との戦い)
794年、延暦十三年、十万の大軍で蝦夷を攻撃
801年、延暦二十年、四万の大軍で夷賊を討伏した
802年、延暦二十一年、胆澤城造営
803年、延暦二十二年、志波城造営
811年、弘仁二年、二万の軍で爾薩体・幣伊の蝦夷を討つ
314 :
日本@名無史さん:04/08/06 12:51
なんか大変だなと思うのは、これだけの大戦争を半島と東と両面作戦でできた
のかな?と思ってしまう。防人=東国の兵士というけど、それこそ前線にいるの
にわざわざはるばる西の方に持っていくかな?
316 :
日本@名無史さん:04/08/06 13:17
>>315 半島方面で戦って敗れて唐に進駐されたのが邪馬台国後継の九州王朝らしい(w
半島方面の情勢が緊迫している時代に、
のんびり東北・北海道遠征を行なっていたほうが大和朝廷
660年に半島ではついに百済滅亡
同じ660年には大和朝廷側は水軍200艘をひきいて第3回蝦夷・粛慎征伐
317 :
日本@名無史さん:04/08/06 13:44
>>315 海を隔てた西方には中原を支配する大国があったけれども
北方には強大な勢力はなかったから別に不思議ではない。
応神・仁徳朝の頃には関東の住居遺跡が少なくなっているそうで
朝鮮半島での戦闘や巨大古墳築造のために徴用したのでしょう。
318 :
日本@名無史さん:04/08/06 13:45
あぼーん
320 :
天之御名無主:04/08/06 14:03
二面からの攻撃は背後関係を疑いたくなる。唐が蝦夷・粛慎をけしかけることもあろうが
粛慎が半島で得た情報に基づき蝦夷をけしかけ大和を攻撃することもありえる。
321 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:10
322 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:15
>>318-319 両派共に、そういう情報や議論や有意義な意見のない発言は控えましょう。
>>317 いいえ、違います。まず、その時代(7〜8世紀)の兵員配置を勉強しなおしましょう。
元は
>>315が言う東国の兵士を西に、というのが単純に間違っていて、
蝦夷征伐の最前線へは西国からも人を北へ移動させているのです。
とはいっても、板東8カ国からは一般住民移動や、一般兵の調達ですが、
全国的、特に畿内や西国などからは、罪を犯した人を最前線へと移しています。
謀反などの罪で賤民に落とされた人も、最前線の柵に移して良民としてます。
というわけで、蝦夷征伐時代の最前線はそのように調達していたようです。
九州が首都で、中国、四国地方の人が防人になったという説もあるな。
だから「東国兵士」だと。
関東や東海から九州、半島は遠すぎ。自分の手弁当で移動したと言うし。
当時の食糧事情や通運、平均年齢、医学などを考えると、兵の損耗率が高すぎて
役に立たなかった気がするな。
324 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:32
>>320 唐と粛慎の間には、まだ白村江時点では、高句麗などがいるので連絡困難でしょう。
たしかに、遠征軍と粛慎が戦った年と、唐が百済を滅ぼした年は一緒なのですが。
663年白村江で百済の復活戦敗北後は、高句麗が挟み撃ちで狙われ始めますが、
高句麗は日本海経由で北陸へと日本に直接使者を派遣しています。
しかし日本側はもはや助けに動いた形跡なしですね。
ちなみに、この高句麗使者は北陸経由で来ているので、
たとえ九州王朝説の場合であっても、大和朝廷へ来たことになります。
325 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:34
>>321 赤塚氏の図に示された新しい年代によると
前方後方墳体制は180-340年頃に対応します。
卑弥呼の時代を挟んで、朝鮮半島への本格出兵をする前に
東日本を前方後円墳体制に組み込んでいることになります。
326 :
天之御名無主:04/08/06 14:37
いや、この高句麗、ますますもって怪しい。粛慎とは相当深い関係があったのでは。
327 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:38
>>322 日本+渤海VS唐+新羅でパワーバランスが取られ
海を隔てて攻められる可能性が少なく、
日本も半島利権を断念したあとはそうでしょう。
そんな後世のことはどうでもいいわけで、
弥生時代後期から古墳時代前期を中心に議論しましょう。
「後方羊蹄」の後方は明治になって北海道後方支庁が出来たんだろ。
羊蹄山も近世になって付いたはずだし。
どっちも書紀をもとにした後付地名じゃん。
万葉の中には、九州と瀬戸内海の出身者が作った歌がないのは有名な話。
ただし、他の出身者で、九州と瀬戸内海の地で作った歌はたくさんある。
330 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:52
>>325 赤塚氏は東海地域における弥生時代後期〜古墳時代前期をこう見直しています。
弥生集落を代表するいわゆる「環濠」集落の解体
三遠式銅鐸の製作が開始されている
巴形銅器・韓半島製の袋状鉄斧など
新しい金属製品がまとまって流入
↓
西暦一世紀中頃前後
(濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がない)
弥生景観としての環濠集落が次々に終焉を迎え、
集住的な集落景観からより散在的な小集落単位に分解・移行
景観として残っていた環濠には、多量の土器を捨てる現象が普遍的に見られる。
↓
二世紀第三四半期 「倭国大乱」
三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの
前方後円墳や前方後方墳が数多く存在する
奈良県のホケノ山古墳は239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高い
箸墓古墳の築造終了は248年前後に死亡した倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期
331 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:52
>>327 渤海(当初の国名は震国)の成立は698年で、まだこの時点では日本は全然統一されていない時期ですよ。
702年から隼人との戦争が始まりますし、
709年からは蝦夷との大戦争が始まり最終決着は811年です。
筑紫の状況も、
>>149 にもあるように、
『筑紫が太絹100匹・糸100斤・布300端・庸布400常・鉄10000斤・矢竹2000連を請求』
と、それだけのすごい量をいったいなにに使うのか謎な情勢のようです。
>そんな後世のことはどうでもいいわけで、
弥生時代後期から古墳時代前期を中心に議論しましょう。
そういわれてもな。古墳時代が卑弥呼と大和の架け橋というのも確定ではないんだよな。
例えば九州王朝一派は、最終的に7世紀ってこと言ってるんだろ?
まあ弥生も最近曖昧だし、幅広でいいんでねえの?じゃなきゃまた荒れるし。
Σ (゚Д゚;) もしかして
>>327が・・・・・
333 :
日本@名無史さん:04/08/06 14:58
>>329 なるほど。とすると、つまり、万葉集は、
九州王朝説を仮に仮定すると、畿内王朝側で作られたものということなのね。
そのため、九州王朝側の人々の歌は収録されていなくて、
そちらへ畿内王朝側の人々が行ったときの歌のみがある、と。
う〜ん、九州王朝説を否定して、うまく説明できないでしょうか。
334 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:00
>>329 デンパは直ぐに分かる嘘で荒らさずに「九州王朝スレ」に移動しろ!
万葉集はテキストファイルが提供されているから検索が簡単だ。
一例を示しておく。ネット情報時代には捏造は簡単に潰せる。
003/0381D01筑紫娘子贈行旅歌一首 [娘子字曰兒嶋]
03/0381H01家思ふと心進むな風まもり好くしていませ荒しその道
あぼーん
336 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:04
>>333 古田爺さんは、自分で原典に当らない素養の低い連中を騙していただけで
ネットで膨大な情報が手に入る今では、新たに騙すのは極めて困難でしょう。
ネットを使わない老人とともに消え去る運命だけど、断末魔が荒らしになってウザ過ぎる。
337 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:06
>>329 >>333 自演かよ ( ´,_ゝ`)
そうでなければ333は簡単に騙される信じがたいほどの池沼になる。
>>333 むしろ反対の結論。
中国の歌謡集との比較で見れば、主要部を失った歌集。
339 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:18
>>338 デマカセを言わずに、安価な文庫本を買って、電子テキストを入手してみろよ。
他の地域と同様に、大宰府の官僚から筑紫の住民の歌まで収録している。
ネットでデータを調べられる時代に捏造は通用しない!
340 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:22
>>328 >> 「後方羊蹄」の後方は明治になって北海道後方支庁が出来たんだろ。
>> 羊蹄山も近世になって付いたはずだし。
>> どっちも書紀をもとにした後付地名じゃん。
後方羊蹄山と後方羊蹄(しりへし)を結び付けたのは近世にはいってからのようですが、
だからといって、日本書紀の後方羊蹄の地と後方羊蹄山が関係ないわけじゃないようなのです。
後方羊蹄山のふもとをぐるっと半周して流れているのが、尻別川なのですが、
この尻別川の語源は間違いなくアイヌ語で、
シリ・ペッ(上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)です。
そして、後方羊蹄山のすぐ東には、尻別岳があります。
341 :
日本@名無史さん:04/08/06 15:23
(つづき)
つまり、後方羊蹄(しりへし)が後方羊蹄山を含むこの地であった可能性が非常に高いのです。
また、後方羊蹄山や尻別川がある倶知安と、7世紀の鉄刀が出土した余市町は
すぐ近くですので、文献上・考古学上・アイヌ語すべての整合性が合うのです。
したがって、阿倍比羅夫がこの地に来た蓋然性はかなりの確度で高いと思われます。
342 :
日本@名無史さん:04/08/06 17:22
>>321 > 前方後方墳研究のリーダー赤塚次郎氏が、最近のAMSや年輪年代に基づいて
年輪年代で最近は、3〜4世紀分もちゃんと確定確認できたのでしょうか。
おおざっぱでよいので、なにか教えていただけませんかー。
343 :
日本@名無史さん:04/08/06 17:30
>>342 紹介した記事のリンクを読んでください。
いくつか重要な年代が得られるようになってきました。
>>339 全国津々浦々の歌謡ではなく、倭国王の歌など主要部を除いて、編纂しなおしたのが万葉集。
345 :
日本@名無史さん:04/08/06 18:20
>>344 捏造しまくりのデンパは「九州王朝」スレに行けよ。
このスレに出てくるときは、最低限捏造はするな!
336 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 15:04
>>333 古田爺さんは、自分で原典に当らない素養の低い連中を騙していただけで
ネットで膨大な情報が手に入る今では、新たに騙すのは極めて困難でしょう。
ネットを使わない老人とともに消え去る運命だけど、断末魔が荒らしになってウザ過ぎる。
337 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 15:06
>>329 >>333 自演かよ ( ´,_ゝ`)
そうでなければ333は簡単に騙される信じがたいほどの池沼になる。339 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 15:18
>>338 デマカセを言わずに、安価な文庫本を買って、電子テキストを入手してみろよ。
他の地域と同様に、大宰府の官僚から筑紫の住民の歌まで収録している。
ネットでデータを調べられる時代に捏造は通用しない!
345 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 18:20
>>344 捏造しまくりのデンパは「九州王朝」スレに行けよ。
このスレに出てくるときは、最低限捏造はするな!
ウジ虫。氏ね
347 :
日本@名無史さん:04/08/06 19:31
>>346 > ウジ虫。氏ね
捏造してスレを荒らすお前は失せろ。
347 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 19:31
>>346 > ウジ虫。氏ね
捏造してスレを荒らすお前は失せろ。
↑ ウジ虫、氏ね
荒らしてる奴も、相手してたしなめるでもなく品のないレスしてる奴も、どっちもウザイ。
勿論どっちがよりウザいかと問われれば荒らしてた方だが、やはりどっちもウザい。
350 :
日本@名無史さん:04/08/06 19:54
二人とも夏休みの小中学生かなにかだと思うのですが、
たとえどっちかが正しい主張をしていたとしても、
そんな書き方していては、同じ低レベル争いとしか周りは見てくれませんよ。
>>343 >> 紹介した記事のリンクを読んでください。
>> いくつか重要な年代が得られるようになってきました。
リンク先の記事を読んでみたのですが、専門外なので質問です。
まず、3世紀の年輪年代法での正しさの検証がいまだにないようなのですが、
記事中で基準定点としているヒノキによる247年は大丈夫なのでしょうか?
もう一つ質問です。その時代のAMS14C年代法は実年代へ1対1対応に
ならない時期だったように思うのですが、どのように確定したのでしょうか?
記事中の発表では、それらを全てすっ飛ばして完全に正しいと仮定して、
その上での土器編年の微修正しか書かれてないように思えます。
詳しい方、ご指導お願いできますでしょうか。
土器編年は、もう全国の教育委員会とか文化財保護課などの発掘のテキストになって
しまってるから、簡単にはいじれないんだよ。
どうするんだろうね、ほんと。
352 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:17
353 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:21
ただ九州の研究所は比定して、従来説が正しいっていってたね。
どっちにしても、公立施設ほどなかなか資料出さないから困る。
500年遡るってのも、大激論したらしい。
そんなの、税金で調べたら公開するのが当たり前なのに。
355 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:37
>>352 >> ↓のデータを見れば分かるように、それは130〜240、430〜540年頃です。
>> この時期は年輪を多点で測定しない限り、誤差は非常に大きくなります。
なるほど。しかし、該当記事中の以下の169年の部分はどうなのでしょう?
> 石川県金沢市大友西遺跡の井戸SE18からは、
> A.D.169年(スギA)という暦年代が確認されており、
> ここから出土した甕試料の名古屋大学によるAMS14C年代値においても矛盾が見られない。
356 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:45
>>354 > ただ九州の研究所は比定して、従来説が正しいっていってたね。
韓国に近い怪しい学者が韓国で発表したもので、朝鮮捏造歴史に迎合していると
疑われています。先ずは日本国内で発表して賛否を受けるべき内容でしょう。
> どっちにしても、公立施設ほどなかなか資料出さないから困る。
歴博はリンク先のように詳しい資料を一般公開しているぞ。
ちゃんと読んでから言えよ。
357 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:46
>>355 > なるほど。しかし、該当記事中の以下の169年の部分はどうなのでしょう?
> > ここから出土した甕試料の名古屋大学によるAMS14C年代値においても矛盾が見られない。
矛盾がないと言う抑えた表現なら、別に論理破綻はないでしょ。
356 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 20:45
>>354 > ただ九州の研究所は比定して、従来説が正しいっていってたね。
韓国に近い怪しい学者が韓国で発表したもので、朝鮮捏造歴史に迎合していると
疑われています。先ずは日本国内で発表して賛否を受けるべき内容でしょう。
> どっちにしても、公立施設ほどなかなか資料出さないから困る。
歴博はリンク先のように詳しい資料を一般公開しているぞ。
ちゃんと読んでから言えよ。
↑ ブタ。氏ね
359 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:50
>>355 これについての返事をください。
======
>まず、3世紀の年輪年代法での正しさの検証がいまだにないようなのですが、
>記事中で基準定点としているヒノキによる247年は大丈夫なのでしょうか?
もっと詳しく説明してください。できれば文献のリンクが欲しい。
360 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:52
>>358 > > どっちにしても、公立施設ほどなかなか資料出さないから困る。
> 歴博はリンク先のように詳しい資料を一般公開しているぞ。
> ちゃんと読んでから言えよ。
> ↑ ブタ。氏ね
捏造して貶める嘘を指摘されたら、逆切れする低能児はどうにかなりませんか?
361 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:54
>>356 なんで捏造とか出てくるのかよくわからんが。定期的にやってて、順番が
韓国だったってことだが、お前のヒステリックな主観には吐き気がする。
荒らしは消えろよ。
360 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 20:52
>>358 > > どっちにしても、公立施設ほどなかなか資料出さないから困る。
> 歴博はリンク先のように詳しい資料を一般公開しているぞ。
> ちゃんと読んでから言えよ。
> ↑ ブタ。氏ね
捏造して貶める嘘を指摘されたら、逆切れする低能児はどうにかなりませんか?
↑ 糞が。氏ね
>>356 >韓国に近い怪しい学者が韓国で発表したもので、朝鮮捏造歴史に迎合していると
>疑われています。
これは(ニュー速あたりが出どこの)デマでしょう。
歴博のデータの方が、朝鮮半島の放射線炭素年代と一致しています。
これは、歴博の発表このころから曲解が解消されないままたれ流されている誤情報の一つですが、
問題になっている弥生早期の実年代というのは日本側の実年代だけが上がるわけではありません。
北部九州と半島南部は、供伴関係により交差編年が確立していますから、
九州の弥生早期の年代が上がれば、それに併行する朝鮮半島の年代も一緒に上がるのです。
どちらに有利に働くとかなんとか、そういう性格のものでは全くありません。
364 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:58
365 :
日本@名無史さん:04/08/06 20:59
なあ、
>>365よ。ここは歴史板であって、イデオロギー板ではない。
お前一人浮いてる。悪いことは言わない。出ていってくれ。
368 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:08
>>364 これについての返事をください。
======
>まず、3世紀の年輪年代法での正しさの検証がいまだにないようなのですが、
>記事中で基準定点としているヒノキによる247年は大丈夫なのでしょうか?
もっと詳しく説明してください。できれば文献のリンクが欲しい
> をみると、何度か交差して行きつ戻りつする年代だし、
> 元データを何ら示してくれていないので評価をどうすれば。。
嘘を言わないでください。歴博のAMSは元データのBPが出されています。
> はっきりいって、年輪年代を構成した各複数資料で、
> 年輪全てに対してASMC14のデータを測定するくらいして欲しいよね。
AMSは世界中にあるから相互比較も容易だけど
日本の年輪年代の学者はもっと育てる必要がある。
> もしかしたら両者ともに地域補正の詳細データの存在が見つかるかも知れないし。
AMSの補正曲線は、大気の循環が早いから日本と欧米に年代値に影響するような
有意な差は出ない。自然科学サイドの人間なら直ぐに分かることです。
ちなみに、大気核実験の影響を調べるために世界各地で14Cの測定をしており
それを裏付けています。(ただし大気循環から取り残された南極には遅れがある)
369 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:10
>>367 それって、時代を追う毎に、家族の誰と誰が一緒に埋葬されるかが
変化していくことを発見した論文のやつですか?
370 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:10
>>366 > お前一人浮いてる。悪いことは言わない。出ていってくれ。
歴史捏造工作に都合が悪いから必死だな。
こんな場末でやっても仕方ないと思うけど
371 :
日本史@名無しさん:04/08/06 21:16
370 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/06 21:10
>>366 > お前一人浮いてる。悪いことは言わない。出ていってくれ。
歴史捏造工作に都合が悪いから必死だな。
こんな場末でやっても仕方ないと思うけど
↑ キモ豚氏ね
372 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:21
>>367 「埋葬された人骨の歯を計測・分析し,被葬者の埋葬時期,埋葬順位,年齢,性別等の
データを総合し,親子,兄弟等の親族関係を解明。考古学と自然科学が見事に結合した
研究成果は佐原眞氏をして「世界的に注目をひく偉業」と絶賛せしめた。 」
DNAを抽出したのなら分かるけど、これって自然科学サイドで信用されている研究ですか?
旧石器問題で脂肪酸の研究がイカサマだと、医学部の先生が噛み付いた話がありますが
>>370 ブタとか糞とか、そんなレベルの争いだから、言われるんだ。
>>361 藻前もだ。そんなレベルの争いだから、言われるんだ。
>>372 本一冊の内容をここで説明しろといわれても無理です。
図書館なりで、ご自身で確認してください。
図書館になくても、結構、古本屋に出まわってますから、入手は難しくはありません。
執拗な粘着が、論理についていけなくなると叫ぶ言葉
古田爺 九州王朝
だれもそんな論点で語っていないのにね。本人の思い込み。
376 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:34
>>368 > AMSの補正曲線は、大気の循環が早いから日本と欧米に年代値に影響するような
> 有意な差は出ない。自然科学サイドの人間なら直ぐに分かることです。
> ちなみに、大気核実験の影響を調べるために世界各地で14Cの測定をしており
> それを裏付けています。(ただし大気循環から取り残された南極には遅れがある)
放医研の調査結果を紹介します。
http://www.nirs.go.jp/report/nenj/H8ki/nenj-27.htm#TAG-02 2.10.10 環境中の14Cの濃度調査
自然生成および核実験起源の14Cの環境レベルを把握する目的で、1960年代初頭より
現在に至るまで、主に日本産の植物精油と発酵アルコ−ルを測定試料として 14C濃度
(比放射能、dpm/gC)を測定してきた。
・・・測定誤差を考慮すると、14C濃度の地域差は認められず、日本の14C濃度は
工業地帯を除いてほぼ均一に分布していると考えられる。
1980年から1989年までの10年間の14Cの濃度は、年減少率、約0.20dpm/gCで
低下してきた。その後、1990年から1996年の最近7年間は、15.6dpm/gCから
15.0dpm/gCと緩やかな減少傾向を示した。1980〜1996年の間の14C濃度の
減少傾向は、炭素循環モデルに基づく対流圏の14C予測濃度(NCRP)と良い一致を示した。
377 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:40
>>374 > 本一冊の内容をここで説明しろといわれても無理です。
単に形態を測っただけなのか、遺伝学的なデータを収集したのかだけでいいので
教えてください。
この人は文学部卒で土器の研究をやっていた人のようで
自然学的に意味のある研究なのでしょうか?
年輪年代で孤軍奮闘しているひとは農学部の出身で専門を生かしたもので
AMSを測定している人は分析化学か核物理の専門家が大半でしょう。
378 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:55
マキムク古墳群にしても純粋に年輪年代法とかC14だけだと、今以上にさかのぼります。
土器編年も本当はもっと上げてもいいわけです。
ただ、さすがに布留期の始まりは卑弥呼の死より後だろうというところで歯止めが
かかって260+−10年くらいに落ち着かせています。
後、庄内期の始まりは、さすがに平原遺跡(200年前後)より後だろうとかもある
でしょう。
>土器編年は、もう全国の教育委員会とか文化財保護課などの発掘のテキストになって
>しまってるから、簡単にはいじれないんだよ。
だよね。畿内とか九州はいいけど地方編年なんて大丈夫か。
だれか検証してんのかね。
380 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:12
>>378 年輪年代が古すぎるって、何のことか具体的に示してください。
纒向石塚古墳の周濠から出土したヒノキ板の年輪年代は177+α(〜200)年だと
ずっと昔に発表されましたが、長い間無視されたままでしたが
最近になってようやく妥当な年代だと認識されるようになりました。
土器編年から纒向石塚古墳より若干下ると見られるホケノ山については、
赤塚氏は以下のように述べています。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html 最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に
造営が終了している墳墓と想定することができた。すると239年に卑弥呼が魏に使いを
派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
381 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:19
>>379 > だよね。畿内とか九州はいいけど地方編年なんて大丈夫か。
> だれか検証してんのかね。
東海地方は日本で最初にAMSを始めた名大があり結構データもあって
前方後方墳の赤塚氏も暦年換算の変更に動いています。
東大は関東のデータを測っているでしょうか?
那須の前方後方墳とか銅鏡との年代差が異常に大きい編年だったけど
東海から類推すると100年くらい繰り上がりそう。
382 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:23
西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であった。
383 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:26
>>378 > 後、庄内期の始まりは、さすがに平原遺跡(200年前後)より後だろうとかもある
平原弥生古墳を発掘した原田大六氏は、銅鏡などから2世紀前半と見積もっており
巨大な鏡を含め全ての銅鏡の鉛同位体比は、前漢〜後漢初期の華北タイプのみだし
こちらの年代の方がいいのでは?
最近は魏志倭人伝の年代に近づけるためにか、根拠薄弱に遅らせると言う
先祖返りしたような年代観を主張する人がいますが...
いやそれのことですよ。
他にもマキムク勝山古墳では随伴する木材が年輪年代法では3世紀初頭と古いが、
土器は布留0が随伴している。
通常、布留0は260年前後と見る人が多いわけで、土器編年と年輪年代法が
齟齬を来しているわけですね。
385 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:30
よく知らないけど、九州説だと当時既に衰退傾向になっちゃうとかいうやつですか?
386 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:32
布留0は動かせないのかしら
そうですね。ただ、最近柳田康男氏の再調査による弥生終末期の200年前後
という説が一般化しています。
平原とマキムク型古墳群が並立するというのはあまりありえない想定でしょうかから、
マキムクの年代が大幅に上がれば、平原も上げるのが適当でしょうね。
388 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:39
>>381 > 那須の前方後方墳とか銅鏡との年代差が異常に大きい編年だったけど
> 東海から類推すると100年くらい繰り上がりそう。
具体的に紹介すると、栃木県立なす風土記の丘資料館の展示図録を見ると
前方後方墳は350〜400年に立てられ、前方後円墳は少し開いて450年頃です。
多くの古墳で中国製と見られる銅鏡が出土しています。
赤塚氏による最新の前方後方墳体制の年代は180-340年頃と重なりがありません。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html 前方後方墳は東日本で一気に終焉して前方後円墳体制に変わったと考えられ
関東〜東北南部の年代が大きく変更されそう。
389 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:43
>>384 >土器編年と年輪年代法が齟齬を来しているわけですね。
土器は相対年代しか示さないから論理的に齟齬はありえません。
山内清男が歪んだイデオロギーで日本の土器の年代を中国より新しくしたい
願望から醜態を晒したときに先祖がえりする発想です。
>最近は魏志倭人伝の年代に近づけるためにか、根拠薄弱に遅らせると言う
>先祖返りしたような年代観を主張する人がいますが...
遅らせるって?
箸墓を卑弥呼の墓にしたがる人はむしろ早めたがる傾向がありますが。
動くんじゃないの。みんな早めたいみたいだしね。
392 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:50
石野博信が講演で、布留期に巻向古墳で一斉に祭祀を
おこなったんじゃないかと言っておったそうだ。
だから、土器編年と古墳の年代が合わないじゃないかってさ。
393 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:51
>>390 箸墓の土器が卑弥呼以降なことを示す根拠はないでしょ。
卑弥呼を弥生時代にするために、古墳出土の銅鏡をことごとく異常に長い年代ギャップを
仮想せざるを得なかったのが、今では完全に破綻したと見るべきでしょう。
赤塚氏も新しい年代観では、西暦一世紀中頃前後
(濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がない)
と示しています。
394 :
日本@名無史さん:04/08/06 22:56
>>388 赤塚氏は東海の土器が畿内の古墳でも出土する例から、東海の編年を近畿に広げて
以下のように述べています。ここでも銅鏡の年代とのギャップが小さくなっています。
「箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が
眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の
墳墓から発見されてはいない。」
まあ、考古学的にはそうですね。
もともと伝世鏡説というのは根拠が非常に薄弱なわけですから。
396 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:10
今になって思うと、山内一派による14C年代利用を妨害する害により
現在、縄文時代・弥生時代・古墳時代が始まる年代のブレが大きくなっており
早くからAMS・年輪年代を積極的に導入していたら
こんな失態で研究が大幅に遅れることはなかったでしょう。
397 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:37
とりあえず、これまでの倭王権がどうやって成立したのかの議論を整理しようや。
今んとこ、論外な九州王朝とかはともかく、考古学的に生き残っている学説
ってこんなもんだろ。どれをとるか言ってから議論しようや。
(邪馬台国畿内説)
1.畿内ジモピー勢力拡大+α説
(昔の定説:小林行雄、佐原真、都出比呂志、白石太一郎、石野博信等)
→唐古鍵遺跡が吉備勢力など東瀬戸内地域と連合し、北九州の鉄交易ルートを奪取し(倭国大乱)、
倭王権が誕生した。
【根拠】銅鐸圏の方が広い、終末期の北九州遺跡の衰退、富の集中がなかったからこそ協力な王権を
生み出した、畿内の鉄器は再利用して消えたor腐ってなくなった
2.筑紫+吉備+讃岐+東海?が話合って平和に連合した説(寺澤薫、北條芳雄等)
→土地を提供しただけ(or卑弥呼がいただけ)の畿内以外の各勢力が談合し、
平和裏に倭王権が誕生した。
【根拠】古墳文化には各勢力の特性の混合が見られる、弥生期の畿内はショボイ、庄内期までの北九州
の鉄器の圧倒
3.北九州旧倭王権拡大説(原田大六、柳田康雄等)
→単に弥生期の旧倭王権が拡大しただけであり、大きな断絶はない。
【根拠】古墳文化には北九州の特性が継承されている。鉄器、遺跡の庄内期までの圧倒。
既に終末期の倭王権は広域化している。
(邪馬台国九州説)
4.卑弥呼時代北九州→台与時代畿内東遷説(大和岩男、森浩一??等)
→卑弥呼時代に伊都国に行宮を置き、台与時代に東遷都して倭王権が誕生。
【根拠】3.のとおり。 *ただし、庄内期の成立を下げる。
398 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:43
布留0が諸悪の根元だろ。ひろすぎんじゃないか?
>>397 電波な4以外は、みな畿内説じゃないか。
マトモな九州説も載せろよ。
4.以外は今の考古学では無理。
まあ、文献にはまだいるから、出しとこうか?
5.邪馬台国筑後平野説(安本美典)
無理無理、古墳時代の上限はこれからもまだまだ上がるよ。
九州説が成立する余地は全くないね。
402 :
日本@名無史さん:04/08/07 00:27
とりあえず諸悪の根元=布留0粉砕委員会を作ろう。
403 :
日本@名無史さん:04/08/07 00:35
あほの西都厨とマキムク厨も厳しく取り締まってくれ!!
404 :
日本@名無史さん:04/08/07 00:43
わけわからずに、「古田」とか「九州王朝」呼ばわりして
粘着アラシする馬鹿も立ち入り禁止にしてくれ。
>>397 九州東遷説でも、基本的には2を含むよ。
トヨ時代に東進し、出雲や四国の和邇と婚姻などを通じて和合した。
吉備とも良く判らんが(おそらくちょっと戦って)和合した。
本格的に殺しあったのは、旧畿内勢力(銅鐸の勢力)との戦いだけ。
つまり、4+2かな。
吉備や東海との和合の理由はよく分からんが、
東海と吉備が古墳作りに多く借り出されている感があるので、
婚姻ほどは円満なものではなさそう。
406 :
日本@名無史さん:04/08/07 00:57
>>367 旧石器の周辺で露呈したように、考古学会だけでしか通用しない
エセ自然科学研究があることが外野にも知れ渡った。
韓国で歴博の弥生年代を否定する発表を行った田中良之と言う人物は
文学部出身で土器研究をやっていたのが、突然人類学的研究(もどき?)を始めて
骨のサイズを測ったようだけど、現代的なDNA研究と違ってこんなものが
国際的な人類学会で通用するのだろうか?
文学部の人間を煙に撒いただけの、鳥なき里のコウモリではないかと疑いが満ちてくる。
407 :
日本@名無史さん:04/08/07 01:13
とりあえず、勝山、ホケノ山、椿井大塚山が全部布留0ってどう考えても
ありえねえよ。単に雑多なのをかき集めて布留0と言ってんじゃないの。
九州の土器はマキムクにはほとんどありません。
だから倭王権への関与もありません。
この時期北九州は衰えています。
409 :
日本@名無史さん:04/08/07 01:18
銅鐸は鏡とか玉みたいな権力者の威信材じゃないよ。村落共同体レベルのもんだよ。
と考えると「考古学的に畿内に権力があった証拠があるのか」という命題につきあたっちゃうよな。
東海も同じだけどな。
410 :
日本@名無史さん:04/08/07 02:05
>>409 > 銅鐸は鏡とか玉みたいな権力者の威信材じゃないよ。村落共同体レベルのもんだよ。
銅鐸は墓に埋葬しないからその通りだな。どちらにしろ100年頃には終わった風習だ。
卑弥呼時代の漢式鏡は、畿内などの初期古墳で大量に埋められている例があるから
魏志倭人伝の記述とよく合います。
>>410 西暦107年の倭国王師(帥)升等が終わらせた?
412 :
日本@名無史さん:04/08/07 02:48
近畿と東海は、弥生時代の集落祭祀は近畿式銅鐸と三遠式銅鐸
古墳時代初期の権力は前方後円墳体制と前方後方墳体制と
似て非なるもので、両者の微妙な関係が窺えます。
>>411 銅鐸文化の権力者は160人の生口になった
414 :
日本@名無史さん:04/08/07 06:02
57年のは九州北部で、107年の倭国王師升は畿内?
銅鐸って完全に107年時点で消えてる?
415 :
日本@名無史さん:04/08/07 06:37
吉野ヶ里ですが、素人向けの本にはどれを見ても300年頃まで存続とあります。
これだけ見ると、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代も繁栄していた」、
「纏向遺跡が180年頃から340年頃だから東西で共に同じ時代に繁栄していた」という事になります。ところが、そうは問屋が卸さないのです。
後期の吉野ヶ里は解体・分村化の段階にあり、集落規模は縮小の一途をたどります。この間、首長墓に比せられるようなお墓もありません。
環濠内には庄内期の遺構が全くと言っていいくらい無く、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶します。
一方、纏向遺跡が繁栄を始めるのが庄内式期の始めですから、この二つの遺跡はほとんど共存していないのです。
しかも、九州の柳田編年にしても畿内の寺澤、あるいは石野・関川編年にしても庄内期の開始を200年頃としていますから、
これらの年代観を当てはめれば、吉野ヶ里は邪馬台国の頃には完全に衰退していたことになるのです。
これがなぜ300年頃まで継続していたことになるのでしょう。
実は、発掘責任者である高島氏(佐賀県教育委員会)は、庄内期の始まりを300年頃とする年代観の持ち主だったのです。
弥生の終末が早くなっている現在の流れからはかなりかけ離れた年代観ですが、完全に否定も出来ず、300年という年だけが独り歩きしていたのでした。
ちなみにこの高島氏は、「ここ(吉野ヶ里の物見櫓)から邪馬台国が見える」と言った方です。
416 :
日本@名無史さん:04/08/07 06:43
寺澤編年の概要
「須恵器の登場を400年とし、弥生の終末を200年と見て、その間を土器の種類で均等に割ると・・・」
一体どのくらいの誤差が見込めるのかすら分からない
寺澤曰く前後一世代(20年ほど)の誤差があるとかなんとか
この畿内編年の信頼性は低くすぎて寺沢編年は年々変化・・・
417 :
日本@名無史さん:04/08/07 07:29
>>368 > AMSの補正曲線は、大気の循環が早いから日本と欧米に年代値に影響するような
> 有意な差は出ない。自然科学サイドの人間なら直ぐに分かることです。
> ちなみに、大気核実験の影響を調べるために世界各地で14Cの測定をしており
> それを裏付けています。(ただし大気循環から取り残された南極には遅れがある)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/doki/rekihaku.html#jpcal04 に、日本の木材による暦年較正データ(仮称JPCAL04)を
INTCAL98の該当部分を差し替えて試作したものによる評価があります。
なぜか微妙にデータが異なるところもあり、
INTCAL98では従来の通説と大きくずれる結果となったものが、
JPCAL04においては誤差の範囲内で説明できる結果となったものもあります。
この結果についてはどういうお考えでしょうか?
多分半分ぐらいアンカー野郎の自演だろうが・・・・・。
こいつって自分の気に入らない意見には平気で暴言はくのが嫌だよね。
関係ないレスは無視かスルー、それがスレを健康的に保つ基本なのに、
そんなこともできないようでは、社会生活も創造できる。
厨かもしらんが、それにしてはおやじ臭えし。
419 :
天之御名無主:04/08/07 08:29
銅鐸というのはマックを使っていたところにウィンドウズが入り込んだようなもんだと
おもうんだ。この場合ウィンドウズというのはホウ製鏡、いわゆる、偽ブランド商品メーカー
のことだがな。技術屋間で相当派手なこともあったとは思うが、トップに立っていた
コンセプトを作るシャーマンにおいては血で血を洗う戦闘があったと思う。結論として
銅鐸は突然のように使用禁止になり、代って銅鏡が使用される時代に入った。
その時代とは環濠集落の終焉、庄内式土器にみられる近畿の広域文化圏の始まり
の頃じゃないかね。
420 :
天之御名無主:04/08/07 08:37
共産主義国家では党史に記述することで法的、社会的に大義名分を与える
という原始的な慣わしがあるが、記紀に冶金、窯業の神、カグツチが大きな
原罪を負わされて穢れの内に類別される。その他穢れのある関係を注意して
見るとイザナギ時代に相当の整理が行われている。共産党党史でいう反党
グループの粛清(血の粛清)っていうやつだな。神武も相当の虐殺をやっている。
これが倭国乱のころの史実を反映しているとも思える。
421 :
日本@名無史さん:04/08/07 08:44
それコピペかよw
ネームも古代史板そのままw
422 :
天之御名無主:04/08/07 08:48
偽ブランドの銅鏡を作ることも、銅鐸を作ることも鋳型が違うだけで同じことなのに
カグツチだけが攻めを負わされるというのは、カグツチは銅鐸と関係の深いとされる
賀茂族ともつながりがあったんじゃないかなと思うんだが、この辺詳しい方の続投
キボンヌ。
423 :
天之御名無主:04/08/07 10:13
終末期の見る銅鐸のデザインが斬新なものに急変したあとに、銅鐸が消滅する
ということであるが、これが鏡作族の到来を意味するのなら、製造レベルでは
在来の設備、技術の上に製品だけが変わったということもありえるか。
424 :
日本@名無史さん:04/08/07 10:56
>>417 > に、日本の木材による暦年較正データ(仮称JPCAL04)を
> INTCAL98の該当部分を差し替えて試作したものによる評価があります。
その発想自体が自然科学を分かっていないナンセンスなことです。
北半球中緯度のアメリカ・ヨーロッパ・日本は、極めて近い値になるはずで
標準曲線を作る際の測定誤差・年輪の狂い・炭素の拡散とか技術的な問題で
微妙な食い違いが生じているに過ぎないと思われます。
恣意的に自分の望みたい結果を求めるのは、14Cを軽視した
古いタイプの考古学者の悪い姿勢ですね。
425 :
日本@名無史さん:04/08/07 11:20
INTCAL98と整合性があわないといことは、
年輪年代法での現在のデータに何らかのエラーがあるという可能性はありますか?
426 :
日本@名無史さん:04/08/07 11:43
>>425 変動パターンは相互に良く似ていて、年代的な系統誤差もほとんどなさそうで
その可能性は少ないでしょう。
測定誤差や炭素の拡散(試料の保存状況の問題)から微妙な差を生じているのでは?
ともあれ、北半球中緯度では事実上同じになるはずです。
427 :
日本@名無史さん:04/08/07 16:51
あれ、白村江前後の事情を語り合っていた人達はどこに
行っちゃったんだろ?九州スレも上がってないし。確かに邪馬台国スレで
話すには時代が飛びすぎてたけど、結構面白かったのに。。。移転先教えて。
_、_
( ,_ノ` )y━・~~~ .。oO(荒らしがうざいから、ちょっとお休み・・・)
執拗に
「古田は電波」 「九州王朝説は電波」
と叫ぶ粘着がいるから、当分休もう。
反論できなくなると、電波電波と連呼を始める香具師が
うじゃうじゃいるので、もううんざり。
>>429 休む必要はないが、スレタイにあった場所で活動しろよ。
「九州王朝」「飛鳥」など関連スレに移動してやってくれ。
ここは反論できない虚弱説が集うスレ。
432 :
日本@名無史さん:04/08/07 22:58
430 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/08/07 22:32
>>429 休む必要はないが、スレタイにあった場所で活動しろよ。
「九州王朝」「飛鳥」など関連スレに移動してやってくれ。
↑ お前はahoo にでも逝け。お前が一番うざい。
九州王朝説の人が、このスレで白村江の時代の話をするのは、明らかなスレ違い。
ここは邪馬台国の時代から4世紀にかけての、倭国胎動の時代を語るスレだ。
九州王朝説の人は、自説の立場で、3〜4世紀の事を語る努力をした方がいい。
7世紀ではなくて。
九州王朝説は、個人的には、結論が先にありきの根拠薄弱な説だと思うが、
面白いと思う人はいるみたいなので、他のスレで白村江の時代の頃を存分に
やった方が良さそう。
はあ?そんなスレじゃね〜ぞ。
邪馬台国は大和朝廷になったかどうかを語るすれだろが!!
ってゆっか、その頃の邪馬台国がどうのこうのだけなら、
邪馬台国はどこですか?っていうスレが昔からありますよー。
ここは、邪馬台国や大和朝廷などが、その後どうからんで
各地域がどのように日本に統一されているのかまでの総合的なスレだと思います。
1 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/02 23:08
↓
邪馬台国は何処? 大和朝廷との関係は??
3世紀日本列島の状況とは如何なるものか?
西日本に統一政権はあったか? 高地性集落の実像とは?
倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ??
倭人伝の信憑性や如何に?
記紀伝承はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!
なお、このスレッドには古田信者の立ち入りを禁止します。
(古田信者専用スレッド)>
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257/l10
>>434 だからさあ。倭人伝に記録されている邪馬台国は3世紀だし、3〜4世紀にかけて、
列島で様々な変動や権力の争奪戦があったというのは、お前も思うだろ?
その頃の激動の時代を語ろうというのが、このスレの主題だと思うのだが。
3世紀の邪馬台国は、お前の思うように九州王朝になったのかもしれんが、
7世紀から何百年離れていると思っているんだよ。その数百年を扱うスレでは、
テーマが絞り切れない、議論が噛み合わないと素直に思わないか?
ていうか、九州王朝説の人も3〜4世紀を無視している訳ではないだろ?
自説に立脚して3〜4世紀を語っていれば、揉める事もないと思うのだが。
438 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:33
とりあえず、蝦夷・粛慎・隼人・琉球語日本語同系統問題、といったところは、
話題から避けられないでしょう。むやみに排除するのは荒れるだけですし。
>>435 同意。
急ごしらえに
>>1みたいなウソついて、
反論の難しい論客締め出して、オナニースレにしようとしてる。
あぼーん
こいつが数十回粘着しても懲りない、反論できなかったアホです。
444 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:50
(邪馬台国畿内説)
1.畿内ジモピー勢力拡大+α説
(昔の定説:小林行雄、佐原真、都出比呂志、白石太一郎、石野博信等)
→唐古鍵遺跡が吉備勢力など東瀬戸内地域と連合し、北九州の鉄交易ルートを奪取し(倭国大乱)、
倭王権が誕生した。
【根拠】銅鐸圏の方が広い、終末期の北九州遺跡の衰退、富の集中がなかったからこそ協力な王権を
生み出した、畿内の鉄器は再利用して消えたor腐ってなくなった
2.筑紫+吉備+讃岐+東海?が話合って平和に連合した説(寺澤薫、北條芳雄等)
→土地を提供しただけ(or卑弥呼がいただけ)の畿内以外の各勢力が談合し、
平和裏に倭王権が誕生した。
【根拠】古墳文化には各勢力の特性の混合が見られる、弥生期の畿内はショボイ、庄内期までの北九州
の鉄器の圧倒
3.北九州旧倭王権拡大説(原田大六、柳田康雄等)
→単に弥生期の旧倭王権が拡大しただけであり、大きな断絶はない。
【根拠】古墳文化には北九州の特性が継承されている。鉄器、遺跡の庄内期までの圧倒。
既に終末期の倭王権は広域化している。
(邪馬台国九州説)
4.卑弥呼時代北九州→台与時代畿内東遷説(大和岩男、森浩一??等)
→卑弥呼時代に伊都国に行宮を置き、台与時代に東遷都して倭王権が誕生。
【根拠】3.のとおり。 *ただし、庄内期の成立を下げる。
5.邪馬台国筑後平野説(安本美典)
ロクな説が無いな
あぼーん
>>434 お前の「大和朝廷」の定義は?
九州王朝の天武が皇位を簒奪したという説でもいいが、少なくとも大和朝廷
と言えば、崇神以降、応神、仁徳、雄略、継体、欽明らの歴代の大王が畿内を都に
倭国(九州は除く、でもいいよ)を統治していた政治形態のことで、
7世紀の天武以降だけを特別に指すものではない。
つまり、このスレは3世紀の邪馬台国が、マキムク頃から始まる畿内政権(大和朝廷)
になったのか?というのがテーマな訳。
何度か大王家の交替はあったかもしれないとは思うがな。応神や継体など。
天武も怪しいと言われれば、確かに怪しい。
450 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:00
ここは反論できない虚弱説が集うスレです。古田さんの学説を検討してみようとも
しないのはぜんぜんフェアじゃない。
453 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:03
邪馬台国のあと、その後の九州がどうなったか、大和朝廷との関係は、ってことだから、
筑紫君磐井とか、筑紫都監府とか、無理に排除することないんじゃないかしら。
そこも西都キチガイに荒らされちゃってるよ。
あぼーん
>>454 スレ主西都厨をたたき出したから、安心です。
458 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:06
ここは反論できない虚弱説が集うスレです。古田さんの学説を検討してみようとも
しないのはぜんぜんフェアじゃない。
あぼーん
いや、別に、九州王朝説の人を締め出そうとは思っていないよ。
このスレのメインテーマは3〜4世紀くらいまでにしましょう、という提言なわけよ。
7世紀はやめて、せめて好太王の碑文や倭の五王くらいまでに、してくれんか。
そりゃおかしいでしょ?大和朝廷の関係文献は7世紀のほうが充実してる。
463 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:15
自分が7世紀を嫌いだから、このスレでとりあげるなというのは、単なるわがままでしょう。
464 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:17
>457
そいつがこっちに荒らしまくっている古田信者です。
あぼーん
あぼーん
468 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:21
>462
いいから、早く出ていけよ。誰も西都馬鹿となんか議論したくないの。
あぼーん
470 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:22
安倍比羅夫の遠征の話題がずっと行なわれていたときは、
妨害とかなかったみたいだけど、そこまでは認められるってことかしら?
あぼーん
472 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:26
>470
話題というより簡単にいうと「なんとなく九州王朝」がうざすぎるということですわ。
474 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:29
>>472 うざければスルーしてあげてくださいね。
うざいからといって、このスレを事実上荒らして、みんなに迷惑をかけないで。
同意も反論もできないなら、傍観してればいいだけ。
476 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:30
>473
いやそれが荒れちゃって議論にならんのですよ。
九州王朝用のスレッドがちゃんとあるんですけどね。
あぼーん
478 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:32
>>476 「なんとなく九州王朝」がときどき突拍子もない意見を書いているとは思うけど、
事実上のスレ妨害をしているあなたよりはまし、なの。
480 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:51
なぜ古田氏の見解は異端視されるのかというとそれは真実だからでしょう。
真実が弾圧されることは歴史の常です。いつか古田説は定説になります。
隔離スレッドがあるのにわざわざ出てきて他スレを破壊しようとする など
482 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:57
大和朝廷の日本統一の方針はどんな感じだったと推測されるのでしょうか?
例えば、660年に百済が滅亡というときに、
大和朝廷は北海道遠征を行なっているようですが、
やはり日本列島内の統一を優先したということでしょうか?
483 :
日本@名無史さん:04/08/08 03:02
統一されたばかりの時期です。
484 :
日本@名無史さん:04/08/08 03:16
>>483 日本列島の本土ですら、そのころまだ統一されてないんですけど…
隼人との一連の戦争が始まるのが702年
蝦夷との一連の戦争が始まるのが709年
どちらにしても、そのような状況の時に、
任那とか百済のほうが重要だったみたいですよね
ところが、その百済が滅亡のときに、安倍比羅夫の北海道遠征って・・
485 :
日本@名無史さん:04/08/08 06:07
三国史記の新羅本紀によれば、文武王10年(670年)12月の記事に、
『倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出るところに近いと言って名とした。』とあります。
この670年の頃はどういう時代かというと、日本書紀では、
664年から672年がちょうど唐の郭務宗らが日本を出入りしたりしている時期で、
例えば667年に筑紫都督府の記事などがあるという状況のときです。
このタイミングで、国号を変えるということは、
国内外情勢でかなりの激変があったと予想されます。
486 :
日本@名無史さん:04/08/08 08:02
>>43 >> 『外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致す。』
>> と、日本書紀では、磐井のもとへ各国が朝貢していたとの記述があるが、
「誘り致す」ってのは、磐井の元へ朝貢に来るよういざなったのか、
それとも、他へ朝貢に行く船を拉致したのか、どっち?
前者だとすると、筑紫君朝廷かなにかがあって、
半島とやりとりをしていたのはその筑紫君朝廷ということなのかな?
筑紫君磐井の子が献上した粕谷の屯倉というのも、
本来ならば屯倉は天皇のものであるはずなのに、
献上したら許されたということは筑紫君がそれまでは所有していたことの証明?
また狂人が湧いてるな・・・・・orz
そもそもスレ立てを勝手にやって、勝手にテンプレ捏造した時点で削除依頼
出しておけば・・・。
つうか、こいつの削除依頼通ってないけど、最近削除人もいい加減だな。
手抜き大杉。
投稿時間とか数見ても、これに人生掛けてるのかどうか知らないけど、哀れ。
そもそも「邪馬台国」は、場所とともに、その履歴も不明。いつまで続いたのか
もわかっていない。それに、大和が何世紀に天智系列までに至ったのかも、
まだまだ不明な点が多すぎる。>>1の馬鹿が言ってるのは、「古墳時代」という
問題の多い時代区分に基づく物で、それが大和政権とどうシンクロするのかも
不明の時点で議論を狭くしようとしている時点でこの馬鹿の意見の誘導スレに
堕している。
>>1よ、悪いことは言わない。鏡に写った自分の顔を見れる人間になってくれ。
488 :
日本@名無史さん:04/08/08 09:13
507年 継体天皇が即位
509年 百済が日本に任那の百済人返還を要求/日本は了承
512年 百済が日本に任那の上多利と下多利と娑陀と牟婁を要求/日本は了承
513年 百済が日本に任那の己文と帯沙を要求/日本は了承
514年 伴跛が帯沙と子呑を占拠
515年 物部連が帯沙を取り戻しに行くが伴跛に敗北
516年 百済が物部連を子呑へと助け出し日本へ送還
522年 加耶国王が新羅から嫁をもらう
524年 百済の聖明王が即位
527年 新羅にから任那の南加羅と碌己呑を奪還するため毛野臣が出発
527年 妨害する筑紫君磐井を討伐するため物部麁鹿火が出発
528年 筑紫君磐井が敗北
529年 百済が任那の多沙津(帯沙)を再び要求/加羅王は反対するが日本は了承
自分の王権も確保出来てないのに、半島利権もないと思うが>継体
490 :
日本@名無史さん:04/08/08 10:02
いや、そこには二つの説がある
一つは、継体紀〜欽明紀のほとんどは百済資料を参考に作られているため、
そこを割り引いて考えなければいけないということから、
百済が要求してきて割譲したというよりも、百済は自力で確保し、
日本側はせいぜい事後承認するしかなかったとする説。
つまり、日本側が百済に割譲を許可したという形で書かれているのは、
日本側のメンツを保つための日本書紀の編集であるというもの。
この場合、筑紫君は新羅と結ぶことでその状況に応対しようとしたことになる。
極端な見方の場合、割譲の形式許可は事実を伴わなってなくてもよいことから、
継体天皇あるいは畿内政権は、半島情勢に無関与という解釈するのも成り立つ。
491 :
日本@名無史さん:04/08/08 10:27
韓炳三・前韓国国立中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると、
金官加羅(狗邪韓国)に比定されている金海大成洞古墳群の古い時代の遺跡からは
北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が出土し、
3世紀末の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が
出土しています。
半島に直接関わる主体が、北部九州→畿内に移ったことに対応しているようです。
>>490 4C末、高句麗の広開土王と戦った倭については?
あぼーん
494 :
日本@名無史さん:04/08/08 10:51
>>491 デンパはこういうまともなデータには反論がないからな
古田史観はまともなデータを無視して初めて成立する珍説です。
496 :
日本@名無史さん:04/08/08 11:14
ここは反論できない虚弱説が集うスレです。古田さんの学説を検討してみようとも
しないのはぜんぜんフェアじゃない。
497 :
日本@名無史さん:04/08/08 11:43
すっかり九州王朝の是非を議論するスレッドになってしまいましたね。
次回からスレッド名を変更し、古田学説を本格的に議論すべき。
あぼーん
499 :
日本@名無史さん:04/08/08 12:13
>学問がどうのこうのという以前の、
掲示板を利用する上でのモラルの問題だ。
( ´,_ゝ`)プッ
人としてのモラルは? ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧η∧ < 500だ、コゾウ!
(,,・Д・) \__________
ミ__ノ
501 :
日本@名無史さん:04/08/08 21:51
502 :
日本@名無史さん:04/08/08 21:57
著者はこのような運動の中で、東北人としての誇り
を大事にしようとする多くの人々と接触してきた。
そして、その中で誇り≠声高かに叫ぶ人々の一部
に共通の欠点があることに気づいた。彼らは、みずか
らの判断力を養おうとする努力を放棄していた。手近
な本を読みすぐにわかった気になり、資料批判など全
く眼中にない。このような人々はいずれも古田武彦氏
のフアンであったり、偽書「東日流外三郡史」(ツガ
ルソトサングンシと読む)を本物と信じているのである。
彼らはロマンがあるといって荒唐無稽な話を喜び、地
味な発掘調査などの結果を学ぼうとしない。彼らは妄想
の世界に遊び、現実を直視しない。広く研究成果を学ぶ
こともせず、殻に閉じ込もってしまう。
このような傾向は、歴史を生かしたマチづくりに大変
な弊害になるというのが著者の意見である。著者は今後、
偽書にだまされないようにと、そのからくりを明かし、
教訓としてだまされた自治体の実例なども紹介している
503 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:02
和田喜八郎は単なる詐欺師で、騙そうと思ってつくったわけだが、竹内巨麿なんかは騙すためにやったわけじゃないんだよな。
504 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:03
すっかり九州王朝の是非を議論するスレッドになってしまいましたね。
次回からスレッド名を変更し、古田学説を本格的に議論すべき。
505 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:25
( ´,_ゝ`)プッ
古田が偽書オヤジを担いでモラルだとよ? ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
506 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:25
九州王朝の是非ではなくて、日本統一の困難なみちのりを、
(妄想禁止で)ちゃんと文献上や考古学上の根拠を示しながら議論するスレですよ。
>>506 同意。
偽書問題など関係なし。誰の説だろうと良いものは良い。
508 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:30
「大朝鮮帝国史」 1994年 東亜出版社
韓国陸軍授業、「民族史教育」にて同内容が採択。
http://members.tripod.co.jp/koreawatcher/docs/jushin.htm 第1巻
* 我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。
* 我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て不咸山に移動、定着した。
不咸山に到着した我々の先祖はそこを中心に集団定着、文化を発達させ、
紀元前6000年頃には紅山文明を、続いて黄河文明を起こした。
* 我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族である中華族を制圧し、
大帝国を建設していた。
以下略
509 :
日本@名無史さん:04/08/08 22:41
日本書紀で690年10月に、白村江で捕虜になった者が27年ぶりに帰国した話において、
『671年に土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝の児の4人が
唐の日本侵略計画を知らせようと思ったが、渡航する旅費が無く困っていた。』
と、あります。結局、この人は旅費代りに奴隷として売られて4人は無事日本へ。
510 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:07
唐の侵略計画は許せない
こうなってくると憎い新羅と手を結ぶしかなさそう
511 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:08
大伴部博麻呂の奴隷生活は悲しいが、帰国後歓迎されたのが幸い。
薩夜麻が歓迎されなかったのに比べて・・・
512 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:10
そうなの??
どうして待遇に差が出たの?
513 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:39
倭語で解釈できる高句麗語地名は、安本美典氏の地名比定によると、
半島中部だけに分布し、北部や南部には存在しない
少なくとも倭人あるいは倭人と同言語系を話すものが朝鮮中部に居住し、
それらが名付けていたと思われる地名を高句麗が採用していた
514 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:43
>>グランドデザインを「長門より東は天皇が取る、筑紫より西はそなたが取れ」とか言ってる。
これって、長門より東は天皇が取るということは、
九州どころではなくて、長門より東にも、大和政権の非支配地があったわけですね。
で、結局、筑紫より西は依然として大和政権の支配地にならなかったのでしょうか?
九州王朝が7世紀まで大和朝廷と並立していたという説は、
はたして4世紀の対高句麗戦を九州勢力だけで行い得ることが出来たのか、
という点で、納得出来ないものがある。
当時の大和朝廷にとっても、半島の鉄・先進技術は咽喉から手が出る程
欲しい筈で、半島政策を九州勢力だけに任せていたというのも疑問。
共同して外敵にあたったと思うが。
筑紫君は大和朝廷の傘下に加わっていたが、7世紀まで、ある程度の
政治的独自性を有していたという解釈でいいのでは?
九州王朝説は、「義経がジンギスカンになった」とか「光秀が天海になった」
とかと同じで、ロマンは感じるが、根拠が無さ過ぎる。
それでも、完全否定は出来ないんだけどね。それも、義経や光秀と同じ。
あきれたね。
>>516みたいな畿内一元説は、きょう日流行らないんだよ。
畿内は九州の傘下だから、九州の命を受けて援軍させられて
>>515みたいに半島戦の後方支援か何かやってる。
じゃ無きゃ、神功なんかいちいち九州に来るかよ。
>>517 感情的な反論はやめてくれ。
九州王朝説の根拠が薄弱だから、もっと述べてくれと言ってるんだよ。
それと、畿内一元説って何? 7世紀まで九州王朝が畿内政権に拮抗していたという
説に、異議を言っているだけです。
>畿内は九州の傘下だから、九州の命を受けて援軍させられて
>
>>515みたいに半島戦の後方支援か何かやってる。
>じゃ無きゃ、神功なんかいちいち九州に来るかよ。
この妄想はどこから生まれたのですか?
>>513 北部にもあるよ。安本は三国史記地理志の本文しかみてないんだから
北部がでてこないのは当たり前。
520 :
日本@名無史さん:04/08/09 04:10
>>519 すると、日本語名と思われる地名が分布していたのは、
朝鮮半島の北部と中部ということになるのですね。
しかし、縄文人にせよ倭人にせよ、半島北部まで勢力圏としたのは、
ちょっと信じがたいです。
日本語と高句麗語の共通祖語を話す人々が、
広く分布していたと見るべき?
521 :
日本@名無史さん:04/08/09 04:25
蝦夷って、新唐書で、『類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。』
と3種類いることになってるけど、都加留って、津軽なのかな?
全員、今の日本人になったんだよね?
522 :
日本@名無史さん:04/08/09 04:42
倭武尊は、おおきな鏡を王船に懸けて葦浦(千葉県江見町吉浦)から
玉浦(九十九里浜)を経て蝦夷の境に至っている。
竹水門(宮城県七ヶ浜町湊浜 or 福島県原町 or 茨城県多賀郡)にて、
蝦夷の賊首の嶋津神・国津神等を従えた。
このへんまでは雄略以前と考えていいのだろうか。そのあとは、
200年後の阿倍比羅夫遠征までないのであろうか?
とすると、半島で百済滅亡の危機である状況下において、
阿倍比羅夫が蝦夷粛慎征伐に行ったというのは関連がすごくあることに??
523 :
日本@名無史さん:04/08/09 07:10
>>520 しかし、縄文人にせよ倭人にせよ、半島北部まで
勢力圏としたのは、ちょっと信じがたいです。
↑
「政治的支配圏」と「文化・交易・居住圏」を混同していませんか?
最近では、大陸で発見された日本産の黒曜石の科学的分析により、
縄文人または和人の交易圏は、一万五千年以上前から、
ロシア沿海州や朝鮮半島南部および北部
(ピョンヤンより北。むしろ中国東北部と言った方がいいエリア)
にまであったことが明らかになっています。
だからと言って縄文人か和人が、その地域全体を統括する
政治的な絶対権力を作り、支配していたということではありません。
単なる交易や、それに伴った居住の可能性が高い、ということです。
524 :
日本@名無史さん:04/08/09 07:15
(
>>523続き)
ただ、そうした交易や居住により、
縄文人または和人と、
華北の5胡や沿海州にいた各民族との
接点が、太古からあった、
という事は、非常に注目されると思うのです。
後世になって、高句麗が滅亡の前に、日本海経由で
大和朝廷に援軍を求めにきたことにもつながる
関係の始まりだったのかもしれません。
525 :
日本@名無史さん:04/08/09 10:58
>>524 どうして安全に九州経由で使者を送ってこなかったの?
日本海経由のせいで、海が荒れて大変だったみたいですが。
526 :
日本@名無史さん:04/08/09 11:02
また飛鳥時代の話をしようとしているな。
すれ違いだから、適切なスレ(なければ立てる)でやれよ。
527 :
日本@名無史さん:04/08/09 11:31
>>526 あなたはスレ妨害する前に、下記それぞれにちゃんと納得行く説明してみなよ。
>>525 高句麗の使者が荒れる日本海経由でしか援軍要請使者を派遣できなかった件
>>522 百済滅亡間近の状況で200年ぶりに蝦夷粛慎征伐で北海道まで大軍遠征した件
>>514 筑紫より西と長門より東の支配分割案が出た件
>>509 捕虜が唐から抜け出て日本侵略計画を伝えに来た件
>>488 継体が百済の無茶な要望をすべて叶えて半島利権を失った件
>>486 単なる返却でなく粕谷の屯倉を献上することで筑紫君が許された件
>>485 唐の郭務宗らが日本を出入りする状況下で国号が倭から日本へ変更になった件
>>331 筑紫から鉄10000斤・矢竹2000連など大量の請求があった件
528 :
日本@名無史さん:04/08/09 11:32
>>226 天武体制になってようやく九州南部の隼人との朝貢や征伐が始まる件
>>201 新羅征討といいつつ途中断念や筑紫駐屯ばかりで終わった件
>>100 唐からの使者は何度も来たり何ヵ月も筑紫都督府駐在のままである件
>>98 天智崩御の知らせが3ヶ月遅れで筑紫に届いた件
529 :
日本@名無史さん:04/08/09 11:39
>>525 半島にも列島にも、同じ和種の人々の中に、中国漢人王朝との
連携を重くみる人々と、それに反対して、反・漢人王朝である
高句麗などと手を組みたい人々の両勢力がいて、海を越えて
共闘しあっていたからでしょう。
白村江の頃は、それが九州勢力 対 大和勢力、という
対立軸で表われた。だからといって、別に両方が
全然違う外国同士だった、というわけではないのですよ。
>>526 そうですね。スレ違いというか、カバーする時間軸が広すぎるかも。
詳細にデータを検証することが、結果的に白村江前後の
話しばかりになってしまうことは認めます。
530 :
日本@名無史さん:04/08/09 12:06
531 :
日本@名無史さん:04/08/09 12:36
文化的に先に発展した北九州だが次第に縄文系の出雲に
宗教的、文化的にも追い越され畿内にも出雲の別派閥が出来た
そこから北九州にちょっかいを出していたのちのトヨ勢力は
北九州で山門(?)と結びついて朝鮮にも踏み入ってたが
それが畿内勢力の逆鱗に触れ戻れなくなり次第に居場所を失い
南九州に逃げ落ちた、だから天孫は南九州なんかに降臨している
これが事の真相だろうね
532 :
日本@名無史さん:04/08/09 12:52
だから邪馬台国は北九州ですよ
トヨ勢力に取って代わられてしまったが
当時既に北九州勢力が衰えをみせていた証拠でもある
出雲も時代の波に乗れず時代は次第に畿内に移って行く
でトヨの末裔の神武勢力はどさくさ紛れに権力を掌握した訳で
533 :
日本@名無史さん:04/08/09 12:53
>>531 王国の盛衰史としては、むしろこうではないか。
繁栄していた出雲に、鉄の入手しやすさから対馬が下克上して
出雲を押さえ込み、出雲の宗主権は奪われる(紀元前1C?)。
対馬はさらに北九州に侵略・殖民し繁栄、4Cには熊襲系政権が主流派となり
糸島系政権は非主流派に。熊襲系は隼人とも和合しつつも、唐が侵入した
7C末ごろには、熊襲・隼人地域は旧来九州王権の「かくまい場所」となる。
534 :
日本@名無史さん:04/08/09 13:22
あまり弥生人が侵略!とかは関係無いと思うんだよね
出雲が栄えたのは宗教的に縄文系の出だからで
遠くは関東方面まで行き渡った
畿内に最初に降りた神も出雲系でしょ?
ヤマトの名前も神話上にいきなり登場するのは
元々畿内と何の関係も無いからで
北九州勢力と手を組んだ新興畿内一派だが
亀裂が生じ二つに分かれ片方がトヨ勢力の天孫族かと
535 :
日本@名無史さん:04/08/09 15:53
>>529 >半島にも列島にも、同じ和種の人々の中に、中国漢人王朝との
>連携を重くみる人々と、それに反対して、反・漢人王朝である
>高句麗などと手を組みたい人々の両勢力がいて、海を越えて
>共闘しあっていたからでしょう。
なるほど。確かにおっしゃるとおり、7世紀までの日本の歴史は、
国内だけ見ていてもさっぱり分からないし、流れや動きを読み間違う可能性があり、
国際事情を考慮した上で国内各地域・各勢力の動向を議論すべきですね。
九州王朝派も反九州王朝派も、どちらもそのように決めつけることなく、
両者の中間状況のような、様々な国際含めた駆け引きと動きを考慮して、意見や疑問や議論のやりとりをして欲しいですね。
どちらの従来の通説にも、
>>527-528 のような国際状況を説明し切れてないと思います。
536 :
日本@名無史さん:04/08/09 17:34
【社会】小惑星に「ヤタガラス」−群馬の天文家が命名、登録
群馬県大泉町のアマチュア天文家小林隆男さんが、1997年に発見した小惑星を
「ヤタガラス」と命名、9日までにスミソニアン天文台(米国)の小惑星センターに登録された。
ヤタガラス(八咫烏)は7月、世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」にある
熊野三山の守り神。3本足の伝説の霊鳥で、サッカー日本代表のユニホームにも採用されている。
小林さんは97年1月に発見した小惑星について、新宮市在住の知人から「世界遺産に
登録される熊野にまつわる名を付けたら」と勧められ「Yatagarasu」と名付けた。
今年1月、スミソニアン天文台小惑星センターに登録を申請をしていた。
小惑星は16・5等と暗く、肉眼では見えない。直径は2キロから3キロ(推定)。
火星と木星の間に位置し、3−5年の周期で太陽の周りを回っているという。
http://www.sanspo.com/sokuho/0809sokuho063.html
>>523 黒曜石やヒスイが大陸で見つかるのは確かだけど
それだけで縄文人の交易範囲というはどうかと思う
縄文人は途中まで運んだかもしれないが
その後は違う民族が運んだかもしれないし
アフガニスタン原産のラピスラズリがエジプトや中国で見つかるんだけど
それはアフガニスタンの人が全て運んだわけじゃないでしょ
九州王朝派の方にききたいんですけど石上神宮で見つかった七支刀を
どう解釈されます
私は当時、高句麗に押されていた百済が大和政権に接近するために
おくったものだと思うんだけど
ちなみに七支刀銘文
(表)泰和四年十一月十六日丙午正陽 造百練銕七支刀 出辟百兵宜供供候王
囗囗囗囗囗(作)(押)
(裏)先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖音 故為倭王旨造 伝示復世
538 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:05
>>533 >>対馬はさらに北九州に侵略・殖民し繁栄、4Cには熊襲系政権が主流派となり
>>糸島系政権は非主流派に。熊襲系は隼人とも和合しつつも、唐が侵入した
>>7C末ごろには、熊襲・隼人地域は旧来九州王権の「かくまい場所」となる。
熊襲は中心地が九州の中南部であり、景行天皇・倭武尊・神宮皇后が平定しているのに対し、
主な隼人の居住地は大隈・薩摩半島方面であり、初見は天武11年(682年)と200年以上時期が異なる。
隼人が舞う隼人舞は、琴・笛・手拍子などで囃す上代歌舞の一つとして
奈良時代から中世にかけて宮廷でしばしば行なわれるなど、未開民族視ではない。
鹿児島国際大の中村明蔵教授は、日向神話の舞台が熊襲や隼人の地域であり、
内容的にも南方系の要素が強いことに注目し、「日向神話はもともと隼人が伝承していた神話」とみている。
539 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:19
違うでしょ。大和政権なんてどこにも書いてない。倭王「旨」の為に造る、って書いてある。
369年といえば、好太王碑にある戦争(390〜404)の少し前、倭の五王はこれに続く時代。
文面では、百済は「下賜」でもなく「献上」したのでもなく、微妙な対等関係になっている。
いまの石油資源じゃないが、百済から鉄と軍事協力のバーターがあったように読める。
>>527 >高句麗の使者が荒れる日本海経由でしか援軍要請使者を派遣できなかった件
新羅が半島南部を完全に押さえていたからだろ。
遣唐使船も、新羅との関係悪化以降は、奄美大島からの危険な直通ルート
(南・南島路)を選ばざるを得なくなっている。
541 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:25
>>538 景行天皇説話は、日本書紀中でも最大級の盗作部分でしょう。
神宮皇后は九州王権に命令されてきただけでしょう。
こんな時期に、九州完全征服など言語道断、
>>527-528 で気付くべき。
また、邪馬台国より隼人のほうが先進地域だったろうから
何で隼人未開論が出てくるのかさっぱりわからん。
542 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:43
>>537 七支刀の時期は日本書紀的には神宮皇后の朝鮮出兵期にあたると思われるが、
九州王朝説なんていうデンパではなく、
単なる応神天皇の東遷説や新王朝説でも、当時は九州が舞台だったとする説明もある。
石上神宮に納められたのが当然いつかわからない以上、
七支刀が贈られた時期の舞台が大和だったかどうかは全くどちらも言えない。
また、その銘文の文字の読み取りも、それだけでなく諸説あります。
>>539 奈良県の石上神宮から見つかったのだから
大和の政権におくられたものだとするのが自然だと思うが
>百済滅亡間近の状況で200年ぶりに蝦夷粛慎征伐で北海道まで大軍遠征した件
よく分からない。決戦に向けた、兵士の徴発が目的だったのかもしれん。
>筑紫より西と長門より東の支配分割案が出た件
磐井の乱の時のことか? 継体がアラカビに、後世の征夷大将軍のような
軍事大権を与えられたという解釈で良いのでは?
>継体が百済の無茶な要望をすべて叶えて半島利権を失った件
これが、どうして九州王朝説になるんだ?
半島の権益を守るために、百済に肩入れしたという事だろう。
545 :
日本@名無史さん:04/08/09 20:57
>>540 >> 遣唐使船も、新羅との関係悪化以降は、奄美大島からの危険な直通ルート
>> (南・南島路)を選ばざるを得なくなっている。
それは正しいが、南路も南島路も、8世紀以降の話だぞ。
高句麗の使者が日本海経由で援軍要請に来たこの件は7世紀の話。
7世紀の遣唐使船は北路(=半島沿いに山東半島に上陸して長安へ)である。
白村江で唐・新羅に敗北した状況で、北路を取る事ができている。
546 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:05
>>543 戦利品を石上神宮に納められたとも考えられるし、
東遷後に祭祀用として用いなくなってから納められたとも見ることもできるので、
例えば、応神東遷説、応神新王朝説など、七支刀が九州時代に贈られたとしても全く問題がなく成立する。
そもそも、七支刀には他にも山のように問題と各諸説があるものであるので、
それをもって当時は大和政権と必ずしも見ることはできないし、また、
当時の王権が九州と畿内を同時に勢力下においていたかどうかは何も言えない。
>>541 ある時期まで隼人は先進地域だったと見る点には同意。
>>527 >単なる返却でなく粕谷の屯倉を献上することで筑紫君が許された件
「単なる返却」って何?
筑紫に限らず、安閑〜宣化の頃に全国各地に屯倉は設置されているが。
大和朝廷が強大化した時代なんだろう。
>>485 唐の郭務宗らが日本を出入りする状況下で国号が倭から日本へ変更になった件
恣意的な解釈だな。日本という国号成立が7C後半なのはそうなんだろうけど。
>>547 大嘘つくなよ。
>安閑〜宣化の頃に全国各地に屯倉は設置されているが
全国各地って、大和王権が全国各地に屯倉設置した証拠は無いだろ。
デタラメも休み休み言え。
549 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:20
>>544 >>継体が百済の無茶な要望をすべて叶えて半島利権を失った件
>これが、どうして九州王朝説になるんだ?
>半島の権益を守るために、百済に肩入れしたという事だろう。
>>527-528 の我々が解決すべき課題をまとめたのは俺だが、俺は九州王朝説派ではないぞ。
九州王朝は電波系だと思っているが、逆に、
少なくとも4世紀以降はずっと大和王朝が九州を含めて支配というのも
無条件に前提とすべきでないという考えだ。
また、半島の権益を守るために百済に肩入れ、とはどういう意味か説明を求む。
百済だけ重視したため、加羅諸国が離反していって、任那は滅亡という結果が起きているんだぞ。
仮に百済に肩入れが良策として、なぜ継体朝になってからその政策に変わったのかも説明を求む。
>>545 だからさ、「高句麗は半島沿いの航路を取れなかったから、日本海経由で
援軍要請に来た」ということを言ってるんだ。
それが、遣唐使のルート変更の場合と同じ理由(つまり新羅との対立)ってこと。
553 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:50
>>544 >>>百済滅亡間近の状況で200年ぶりに蝦夷粛慎征伐で北海道まで大軍遠征した件
>>よく分からない。決戦に向けた、兵士の徴発が目的だったのかもしれん。
蝦夷や粛慎を兵士として徴発ですか??
もちろん200人ほど連れ帰っていますが、饗応して官位を与えて返しています。
決戦に向けた、ってなんですか?
北海道遠征している年に、百済は滅亡してしまっているんですよ。
656年には180艘、百済滅亡の660年には200艘という大規模遠征をしてますので、
これを百済救援に振り向けていたら歴史は変わったでしょうね。
ちなみに白村江は、百済滅亡後に、百済残党とともに復活を目指した戦い。
ここでようやく戦力投入するくらいなら、660年にするべきでしたね。
九州事情など含めた何らかの国内事情や国際事情があったのでしょう。
>>551 たしかに、544は重症かもしれませんが、
あなたのような書き込みは、スレを乱しているだけです。
もっと建設的に議論をしましょう。
>百済だけ重視したため、加羅諸国が離反していって、任那は滅亡という
>結果が起きているんだぞ。
結果的にはね。百済の協力無くして半島権益の維持は難しいと考えたのかな
と思う。つまり、加羅より百済を優先したのだろう。
>仮に百済に肩入れが良策として、なぜ継体朝になってからその政策に
>変わったのかも説明を求む。
良策かどうかは分からないが、継体の時に外交政策が大きく変わったのは
確か。これが、磐井の乱の直接の原因では、と思う(紀では新羅の所為にしているが)。
継体が北陸からきた新大王で、親百済のブレーンによる大きな政策転換が
あったのでは、と推測。
>>544 安倍比羅夫の遠征は新羅への牽制だろう。当時新羅領はかなり北方まで
のびて、高句麗はおされてた。
それ以外の2点については544のいってるとおりで正しいと思う。
百済に肩入れしたのは九州と見て、東北侵略してる畿内は、親新羅と見たほうが
当時の国際情勢の動きがよく説明できる。
やあ、やっとスレが落ち着きましたね。
議論は熱いけど、大いに結構なことで。
私が思うのは、継体の東方経営、大和盆地攻略と平行しての百済との頻繁な政治・軍事的交渉は
ふつーに考えて無理があると思うのですが。
そもそも継体自身大和の真の王としての権限と権威を確定するまでに相当長期の時間を要してい
るわけで、いくら半島利権が急を要していたとしても、自分の足下を固めるのが先かと。
それに、古志から来たから半島とつながりが深いと言っても、出雲が交易の中心だった頃はもとより、
鉄器を独占したと言われる時期からもすでに相当時日が経っており、同様に更に遠方の日本海沿岸
もそれほどつながりが深かったのかどうかよくわかりませんね。
少なくとも北九州のほうが遙かに人的・物的交流は深かったことは明らかでしょう。
それと、「継体」という名前も気になりますね。西に兵を出した目的が、半島経営のためか、当初より筑
紫王・磐井打倒のためか、それとも半島出兵要請に偽装してのだまし討ちか、ともかく大軍を派遣した
のは事実ですが、それももしかしたら自分の不安定な政治基盤を強化する目的だったのかとも思えま
す。それほど正統の系譜からははずれていたと言うことでしょう。事実上の断絶ということで。
もし当初の決意通り山口以東の支配権を確定できていれば、大和入りももっと早期に実現したかもしれ
ない・・・・・と思います。
>>553 だから、お前も「重症かもしれません」とか書くなってw
「決戦に備えた」というのは確かに言い過ぎたかもしれないが、
大和朝廷が東国経営に拘った大きな理由は、人的資源だったと思うぞ。
それは否定せんだろ?
天智も本心では大唐帝国とは戦いたくなかったと思う。唐から戻った人々から
唐の強大さは伝え聞いていただろうし。鉄の国内生産も始まり、半島権益の旨味も
減っていた。
ただ、百済が滅ぼされ、余勢をかって列島まで侵略されるのではという恐れから、
百済復興・救援に兵を出した。明治政府の朝鮮出兵みたいなものか。
半島は日本の生命線で、半島を大国(唐やロシア)に支配されるのは、国土防衛上、
阻止したかったのだろう。
>ただ、百済が滅ぼされ、余勢をかって列島まで侵略されるのではという恐れから、
百済復興・救援に兵を出した。明治政府の朝鮮出兵みたいなものか。
半島は日本の生命線で、半島を大国(唐やロシア)に支配されるのは、国土防衛上、
阻止したかったのだろう。
近代史と混同するのはイクナイ(´・ω・`)
まあ確かに水際作戦で防ごうとしたのは事実としても、やはり無謀な行為だったでしょうね。
で、事実軍事顧問団らしき連中が大挙押し寄せたりして、危急存亡の秋という危機感が支配
層にはもの凄かったでしょう。
それが天智の失踪に繋がったのだと思います。死体も不明ですからw
いわゆる「九州王朝説」では、この辺りの事情について、
九州王家・・・主戦派 → 敗北して唐の傀儡に
天智天皇・・・主戦派? → 親中国派に暗殺
大海人皇子・・・親中国派(薩夜馬?)
ということだそうです。
どうもこの辺り、作業仮説としてももう少し整理は必要かと思われますね。天智の末路につい
ても然り、各豪族と百済系、新羅系の関係など・・・。
560 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:40
>>558 >大和朝廷が東国経営に拘った大きな理由は、人的資源だったと思うぞ。
>それは否定せんだろ?
大和朝廷は、蝦夷征伐のあと、むしろ、開拓のため人を大勢送り込んでいます。
また、この安倍比羅夫の時に、蝦夷を大量に連れ去るなどしていません。
したがって、660年の蝦夷征伐は、人的資源が理由ではないと言い切れます。
>>559 前半はまともなことを言っているが、後半からもの凄い電波が
出てるな…
>>560 じゃあ、目的は何だったの?
俺は、もっと長期的な目的のことを言ってるんだけどな。
>>561 指摘・批判は具体的に。荒れる元です。
私の立場は何度も言うようにall古田説オンリーではありません。
とりあえず古田説を整理して書いただけですが、実際それらの説の書かれた本を
読まれての感想でないと、批判にもならないでしょう。一応それなりの論証をしてあ
る本なので。
それ抜きにはあなたの方が電波でしょうね。
>>561 根拠挙げんで、電波呼ばわりしたら、自分がアウトだろ。
>>558 新羅はアンチ九州だったが、親畿内。
だから、畿内は九州への対抗上、東の航路を確保して北方経営したがった。
畿内が粛慎を討ったりしてそれが、新羅の国防にもなっている。
表面的には九州に逆らえない畿内は、搦め手で九州に対抗していた模様。
>それが天智の失踪に繋がったのだと思います。死体も不明ですからw
>いわゆる「九州王朝説」では、この辺りの事情について、
>九州王家・・・主戦派 → 敗北して唐の傀儡に
>天智天皇・・・主戦派? → 親中国派に暗殺
>大海人皇子・・・親中国派(薩夜馬?)
根拠を挙げて欲しいのは、こっちなんだが…
>>559 白村江以前→以後はこんな感じ・・・
九州王家・・・もと親百済派 → 敗北して唐の傀儡に(薩夜馬のこと)
天智天皇・・・もと親新羅=親唐派 →親新羅=反唐になってしまい、
新羅・唐中立派に暗殺か?(大海人皇子?)
大海人皇子・・・もと親百済派 → 新羅・唐中立派 反九州傀儡派
>>565 脳内妄想は止めてくれ。
新羅がアンチ九州とか言ってるが、筑紫君磐井を支援したのは新羅
じゃなかったか?
畿内が親新羅なら、なぜ新羅に対する国防をしなけりゃいけないんだよ。
>>568 高句麗・新羅・百済の合従連衡の凄まじさを知らないだろ?
>>569 代案というか、紀に書かれていることで大筋は合っているかと思いますが。
>>571 はあ?逃げるのか?この場で言ってみろよ。
>>572 九州王朝なんか想定せずに、紀に書かれている内容で大体いいのでは?
と言っているわけです。紀を読んで下さい。
>はあ?逃げるのか?
お前、こんな精神年齢の低い書き込みをして、恥ずかしくないのか?
>>573 紀に箇条書きなんかしてないぞ。自分で抽出しないで、紀を見ろとはなんだ?
>>574 あなたは「一応九州王朝説」さんだと思いますが、粘着ですね。
大勢を占めている学説に対して、異論・異議を申し立てるなら、
そちら側に説明責任があるかと思いますが。
>>575 はあ?どんな学説?
>大勢を占めている学説
「私の説は、紀のとおりです。」
>>576 >はあ?どんな学説?
>>大勢を占めている学説
九州王朝説以外の学説です。
>>577 少なくとも、応神以降は、記紀の記述に信憑性を感じるがな。
流石に、全てが正しいとまでは言わんよ。
九州王朝説の根拠の無さよりは、マシだと思うが。
575 名前: 561 [sage] 投稿日: 04/08/09 23:47
>>574 あなたは「一応九州王朝説」さんだと思いますが、粘着ですね。
大勢を占めている学説に対して、異論・異議を申し立てるなら、
そちら側に説明責任があるかと思いますが。
うとうとと寝てしまったら、人を別ハン呼ばわりですか。 (#゚Д゚)ゴルァ!!
油断も隙もないですねw
とにかく「大勢を占めている学説」についてあなたの言葉で語って貰いましょう。
もちろん天智の最後についてもw
出来なければただの(ry
>>578-579 ほっ、ほっ、結局根拠無く他人を電波呼ばわりしてたんだね。
自分のほうがよっぽど電波だったな
>>561 もっとしっかり考えてちゃんと自説を披露できるようにしてから来い。
一応九州王朝説氏にお詫びしとけ!
583 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:22
急にスレが伸びたと思ったら、また飛鳥時代の話かよ。
いい加減にすれ違いの話で荒らさずに適切なスレでやるか
新スレを立ててそこでやれよ。
584 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:33
『東日流外三郡誌』についても、それを真実だと言いくるめることで
多額の利潤を得てきた出版社や著者がいる。そもそも和田氏にとって
『東日流外三郡誌』は何よりのメシのタネなのである。それは明らか
に詐欺行為なのだ。それだからこそ、学界とジャーナリズムにはそれ
を追及する責任があったはずである。
585 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:35
さて、古田氏の謀略好きと偽証癖については、先述の出版物にすでに指摘
されたところだが、それが昂じると、自説の裏付けとなる偽の「証拠」を
握造するまでになる。
『東日流外三郡誌』裁判の最中には、古田氏は当時広島在住の古物商に
依頼し、江戸時代のものに見えるような「古文書」を偽造しようとさえし
た。その古物商は古田氏の目的を怪しんで、古田氏の筆跡の依頼状と古田氏が支払
った200万円の受取コピーを週刊誌に持ち込んだため、ことが公になったのである
(「昭和薬科大学“有名教授”に噴き出した“古代史偽造スキャンダル”」
『アサヒ芸能』1994年9月29日号、他)。
あんまりスレタイと関係ないな、粘着君よ!!
587 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:51
謀略好きは安○美○、偽証癖は原○実でしょ
やれやれ。人を荒らし呼ばわりしている癖に、やっていることはこれですか・・・。
もう、目が冴えてしまったよ。明日もあるのにどうしてくれんだよヽ(`Д´)ノウワァァン!!
まあ、結局
根拠を提示できないで、自説に凝り固まっているワルが
他人を電波呼ばわりしたり、無関係な人物を攻撃して
ささやかな抵抗してるんでしょう。
>>561は反論できなくなって、ついに
>>583-585に化けました。
浅ましいですね。
590 :
古田信者は隔離スレッドに行け:04/08/10 23:26
馬鹿だね、スレ違い。古田氏も和田氏も無関係です、さようなら。
592 :
日本@名無史さん:04/08/10 23:33
和田がしょんべんで文書を偽造したって原田実が書いてたが本当か?
原田が和田の家に行ったら屋根裏に腐ったしょんべんがおいてあったとかさ。
後、古田が偽書を依頼したら裏切られて、告発されたなんて書いてあったな。
あぼーん
九州王朝説の人は、誹謗中傷にめげず、自説を語ればいい。
悪口にいちいちヒステリックに反応するのではなく、スルーする技術を
身に付けた方が、と老婆心ながら思います。
だから、精神年齢が低いとか言われるんだよ。
あぼーん
596 :
日本@名無史さん:04/08/11 00:10
>587
安本は学者としては全然ダメで、学会には全く相手にされてませんが、
少なくとも偽書づくりに荷担したりはしないですよ。
古田と一緒にするのは失礼です。
詐欺師和田への荷担が古田の最大の汚点。これを無視して、九州王朝説の
可否を語ることなどできない。徹底的に追及すべき問題だ。
598 :
日本@名無史さん:04/08/11 00:40
599 :
日本@名無史さん:04/08/11 00:51
過激な両派による共謀妨害が続いていますが、
中立議論派のみなさんの方が人数的には多いので幅広く議論を再開しましょう。
>>447 >>九州王朝の天武が皇位を簒奪したという説でもいいが、
天武の主力はあくまでも、鹿深(甲賀)、伊賀、美濃、尾張などでしょう。
たしかに壬申の乱での西国の話は吉備と筑紫しか出てこず、
しかも単に暗殺成功と失敗という2事件のみで戦闘とは無縁なので、
なにかが隠されている可能性はあるでしょうが、資料が少なすぎます。
筑紫君磐井から筑紫君薩夜麻までの動向もよくわからないので、
当時の国際事情とやりとりなどを中心にもっと探求されるべきところと思います。
600 :
日本@名無史さん:04/08/11 01:07
>>485 >>三国史記の新羅本紀によれば、文武王10年(670年)12月の記事に、
>>『倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出るところに近いと言って名とした。』とあります。
善隣国宝記で引かれている海外国記逸文(733年作成)においては、
664年(天智3)の筑紫都督府にいる唐の郭務宗への応対において、
『日本鎮西筑紫大将軍の牒を授けて帰す』とあります。
もしかすると、これが大和朝廷が日本と名乗った初出の可能性があります。
どちらにしても、倭国という名を避けたくなった事情が当時にあります。
ある意味、ここから真の日本統一の動きが始まるとも言えるでしょう。
601 :
日本@名無史さん:04/08/11 01:15
あぼーん
603 :
日本@名無史さん:04/08/11 01:17
日本の古代史学会は、カルトだから。
未だに土器編年とか言ってるし。偉い人でも「だろう」「らしい」「思われる」「そう考えても
無理ではない」とかの連発だし。放射性同位体測定馬鹿にしてるし。上下関係きつすぎ
だし。学問つうよりイデオロギーだし。学閥きつすぎだし。言ったことに責任とらねーし。
違う意見には頭がはげ上がる程批判する癖に、身内に甘いし。ウヨだし。
わかってもいないことを無理矢理に学校で教育して洗脳する手法は、かの国と同じだな。
大化改新だって用語から何から捏造なのに。聖徳太子だって伝説と本人の実像が分離
できないのに、教えるなよ。
精神年齢が低いから古田にだまされるのです。
605 :
日本@名無史さん:04/08/11 01:23
あら、原田さんこんにちは。
606 :
日本@名無史さん:04/08/11 01:24
>>601 ここには、古田氏の九州王朝説を唱えている者は見かけないし、
そういう話はこのスレと関係ないのでやめませんか?
中立議論派としては、反古田派やその更に反対派によって荒れるのを避けたいです。
>>486 >>筑紫君磐井の子が献上した粕谷の屯倉というのも、
>>本来ならば屯倉は天皇のものであるはずなのに、
>>献上したら許されたということは筑紫君がそれまでは所有していたことの証明?
元々、継体天皇が筑紫まで支配下にいれていたとすれば、
その屯倉は継体天皇(あるいはその皇族)の者であったはずなので、献上とはならないと思います。
筑紫君の支配下にあったことになりますが、いつ頃からなのかを考古学的、他の文献などから探求する必要があります。
609 :
日本@名無史さん:04/08/11 06:13
>>488 > 507年 継体天皇が即位
> 509年 百済が日本に任那の百済人返還を要求/日本は了承
> 512年 百済が日本に任那の上多利と下多利と娑陀と牟婁を要求/日本は了承
> 513年 百済が日本に任那の己文と帯沙を要求/日本は了承
この継体朝に変わってからの大変化はどういう国際/国内事情なのでしょう?
P. なんらか百済が強気に出られる変化があった
P-1. 継体朝になって日本の国内事情で力が弱まった
P-2. 継体朝の実現にあたって何らか百済の協力があった
P-3. 継体朝はずばり百済分家である(デンパっぽいけどあらゆる可能性を一応)
610 :
日本@名無史さん:04/08/11 06:14
Q. 継体朝の国際方針が従来よりも変化した
Q-1. 親百済べったりへと大きく方針を変えた
Q-2. 加羅諸国との仲が悪くなりつつあった
Q-3. 継体朝は半島事情にそれまでよりは大きな興味を持たなかった
R. 継体朝で国内事情が大きく変化した
R-1. 継体朝と従来の畿内豪族とでしばらくもめて任那どころでなかった
R-2. 畿内豪族間での派閥争いなどでもめて任那どころでなかった
R-3. 九州などとの関係が大きく変化して任那どころでなかった
R-4. 任那の利権を持つ国内勢力との関係がこじれた
それぞれのどれ(とどれ)かを根拠とともに詳細意見をお聞かせ下さい
611 :
日本@名無史さん:04/08/11 10:35
継体天皇がようやく大和入りできた磐余玉穂宮遷都が526年であり、
筑紫君磐井と大和朝廷との戦いはちょうど翌527年から528年12月である。
つまり、継体天皇は526年にようやく畿内における支配権を確立し、
翌527年からようやく西国における支配権の確立のための戦いが始まり、
九州平定が528年12月であるとみるのが自然な見方と思われる。
近江毛野臣が失敗したのが527年6月、物部麁鹿火の出発が527年8月であり、
九州平定に1年半近くも要している。また、
>>486などにあるように、
毎年の半島から朝貢船も自分で受けていたあるいは拉致していたとあり、
火の国と豊の国まで領有していたと記述されているので、
507年の継体天皇即位前後の時点でも九州支配権を確立していた可能性もある。
百済からの任那要求と継体朝の言いなり状況の根本的原因の可能性もありうる。
612 :
日本@名無史さん :04/08/11 11:00
捏造とか色々言われてますが、書紀にある「三カ国の領有権」が問題ですね。
完全な統一王権ならそんなもの認めるわけがないのだが、実際にそう書いてあるからには、
隠しようのない、隠す必要もない事実だったということでしょう。
で、その戦いの前に、勝てば長門より東の領有権、実際は屯倉ひとつ。
これを素直に解釈すれば、それまでは長門より東も権利がなかった、ということになります
が、従来はどう解釈されていたのでしょうか。
そもそも大和の履歴さえいまだに良くわかっていない元、磐井王が新興勢力じゃなくて、弥
生末の三種の神器を備えた王国の後継者としてはなぜいけないのでしょうか。現代の首都機
能移転になぞらえるような珍説を、適用しにくい古代にむりにでっち上げてまで九州王権を
否定するのはどうしてなのかよくわかりません。まあ阿蘇の大噴火でもあったら話は別です
が、九州の農業生産力や鉄器などの生産技術が消えてなくなるわけでもないし、私が権力者
なら、部下を東方に送り込むことはあっても、自分自身がその地を手放すよりむしろしがみ
つくと思いますが。まして、中国の柵封という大変なアドバンテージがあれば、東方=大和
より力的に劣勢になってもまだ半島経営も含めて最後までしがみつくと思いますw
613 :
日本@名無史さん:04/08/11 11:17
当時の情勢は、のちに発生した国境や国家という概念を取り払って考える必要がある。
すなわち、対馬海峡(の北側)を境とする日本という領域の概念はなかったと思われる。
当時の日本以外の状況を見ても、半島では日本直勢力下と思われる任那の周囲に加羅諸国があり、さらに百済と新羅があり、
そして高句麗がある。さらに、大陸を見ても、五胡十六国のあとの南北朝時代である。
また、日本列島においても、蝦夷や隼人征伐は更に100年以上のちのことである。
このように確実に日本列島内でも別勢力が存在している状況下において、
常にそれ以外の地域のみをずーっと大和朝廷が支配し続けたとするのは奇特である。
だからといって、すぐに邪馬台国〜九州王朝だと決めつけるのも同様におかしく、
例えばこれも極端な一つの見方の一例と断っておくが、雄略天皇の征圧のあと、地元の筑紫君が勢力拡大をしたと見ることもできるし、
大和朝廷としても、圧倒的な力がなければ、敵対しないかぎり筑紫君の存在を許してきたと思われる。
のちの概念である、国家という概念による明確に線引きを、当時の状況に適用するという間違いを犯してはならない。
614 :
日本@名無史さん:04/08/11 11:56
>>613 > また、日本列島においても、蝦夷や隼人征伐は更に100年以上のちのことである。
> このように確実に日本列島内でも別勢力が存在している状況下において、
> 常にそれ以外の地域のみをずーっと大和朝廷が支配し続けたとするのは奇特である。
収益が上がらない地域に余り強大でない相手が存在しても
放置して儲かる地域に勢力を伸ばすのは世界史でも日常茶飯事。
フェニキアは本拠地のレバノン周辺での勢力を伸ばすことをせずに
カルタゴを中心としてイベリア半島などに勢力を伸ばした。
イングランドはスコットランドやアイルランドを併合するずっと以前から
世界中に勢力を伸ばしていた。
そのほか、ギリシア・ベネチアなど海洋国家は同様の例が多い。
日本でも徳川幕府が北海道を直轄領にしたのはロシアの南下に危機を感じた
江戸後期になってのこと。それまでは松前藩に任せて放置していた。
こういった古今東西の例を見れば何ら不思議なことではない。
615 :
日本@名無史さん:04/08/11 13:15
近肖古王や近仇首王なんて偽造した人や信じている人は電波として、
次の世紀の継体天皇即位直前までには、百済の状況は以下のような感じ。
475年 高句麗が百済の首都漢城を落とし百済滅亡 → 百済は南方の熊津を首都とし復活
(百済の蓋鹵王は漢城で殺される → 子の文周王が熊津で即位)
478年 文周王が臣下に殺される → 子の三斤王が13歳で即位
480年 三斤王が亡くなる → 倭国から帰ってきた東城王が即位
481年 高句麗と靺鞨が新羅に侵攻 → 百済・加耶との連合軍によって撃破(新羅本紀)
501年 東城王が臣下に殺される → 倭国生まれの武寧王が即位
507年 継体天皇が即位
百済は475年に一度滅亡し、南方の地で復活し、次々と王が殺されている不安定な時代です。
倭国に縁がある王が連続即位です。そんな中、継体朝になって、百済が任那領を要求しています。
616 :
日本@名無史さん:04/08/11 13:23
>>615 > 近肖古王や近仇首王なんて偽造した人や信じている人は電波として、
その表現には語弊がある。
百済系資料に見える倭女王を、三国志・晋書の卑弥呼+台与に比定しようと
日本書紀の編者が干支を2運(120年)繰り上げたとするのが定説でしょう。
後世に朝鮮正史「三国史記」の編者が、半島資料と日本書紀の記述を照合したら
百済の肖古王・仇首王の年代だけ異常に食い違っているのに混乱したのか
半島資料にあった方を近肖古王・近仇首王として、両方を採用したようです。
ところがここで勘違いがあったようで日本書紀よりさらに1運繰り上げて
計180年のタイムスパンとなってしまいました。
617 :
日本@名無史さん:04/08/11 13:59
>>610 別人ですが、継体は、武力の弱い畿内を乗っ取り、王になった人物でしょう。
畿内を収めたあと、半島戦で消耗している九州の要人暗殺したのが
いわゆる「磐井の反乱」で、これは実際には「継体による磐井暗殺事件」。
磐井の九州における身分は王族の一人と思われるが不明。
この九州内での混乱により、百済経営の力が弱まって、十分に百済をリード
出来なかったのではあるまいか。
618 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:04
>>615-616 >475年 高句麗が百済の首都漢城を落とし百済滅亡 → 百済は南方の熊津を首都とし復活
> (百済の蓋鹵王は漢城で殺される → 子の文周王が熊津で即位)
日本書紀だと、雄略20年冬に高句麗が百済を滅ぼしたとあるわけですが、なんと、
雄略21年3月に、雄略天皇は熊津を文洲王に賜わって百済復活へと救ったそうです。
このへんの日本側の言い分や百済王名の微妙な違いなどは、どうでしょうか。
日本書紀の編者がいじっているとすれば、王名はちょっと謎ですが、
熊津を賜わったというのは、もともと百済領だったり、あるいは、
任那領だったのを百済に盗られたり、あるいは、ほんとうに任那領を賜わったり。
もうこの段階では、2運のずれはないのですよね?
619 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:40
>>618 2運のずれがあるのは肖古王・貴須王(仇首王)だけです。
雄略5年条(461)に百済新撰を引用して蓋鹵王の弟を倭国に出したとする
記事からはズレはありません。
なお雄略2年条(458)の記事は干支があっておらず書写ミスか。
620 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:44
結論的に可能性が一番高い
邪馬台国の場所はどこ?
621 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:47
>>620 釣りは止めて、レスを読んでどこの可能性が高いと思ったか
その判断材料を示して語ることを期待します。
622 :
日本@名無史さん:04/08/11 16:54
とりあえず時代的にも大和の一元支配の確立する1〜2世紀前のことでもあり、磐井を
九州の王と言ってもいいだろうな。白村江で死んだ上野の君も関東の王。
大王天皇という言葉があるが、地方覇者−王−大王−帝という序列があったと思う。
誰も答えてくれないが、この一戦にありと奮い立って企図したことが長門以東の割譲
であったとすれば、磐井王は継体と同格か上位に位置する存在だったと考えるのが自
然だろう。それを差し置いて半島の経営権について独自に交渉したり、戦争をするの
もあり得ない。
半島と北九州との関係は、それこそ縄文、弥生の昔から始まって鉄の利権でその当時
も骨肉の争いを続けていたわけで、そこに大和よりさらに遠方から出た継体が割り込
むことは、それこそ磐井を滅ぼすぐらいでなければ困難だろう。半島南部と北九州、
それに長門、出雲あたりは広義には同じ国の内部抗争といってもおかしくない。
結局磐井を捕縛することも出来ず屯倉一つ得たに止まったという事は、大勝利という
ことは到底言えず、最大の要求である中国地方の領有権も確保できなかったというこ
とだろう。そうとしか読めねえよ・・・・・。
624 :
日本@名無史さん:04/08/11 19:12
625 :
日本@名無史さん:04/08/11 20:12
>>624 天文学者による有名な研究成果で
雄略以前の日干支は唐の「儀鳳暦」で計算した創作と見破られました。
宋の「元嘉暦」は雄略より前に出来たもので、時期的に矛盾はありませんが
引用している百済系史料なども年干支だけで日干支は付いておらず
推古朝に百済から暦が伝わったという記載や、天文現象を記載するのも
推古朝以降であることも、それ以前の日干支は計算上のものに過ぎない
可能性が大きいと思います。
巻によって暦で計算した人が別だったから、違う暦を使っているのでは?
626 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:31
荒らしてるのは古田信者だろ。
隔離スレッドに出ていけ。
628 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:36
荒らしてるのは論破されまくりのアンチ古田だろ。
他スレッドに出ていけ。
629 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:55
>606
>元々、継体天皇が筑紫まで支配下にいれていたとすれば、
>その屯倉は継体天皇(あるいはその皇族)の者であったはずなので、献上とはならないと思います。
>筑紫君の支配下にあったことになりますが、いつ頃からなのかを考古学的、他の文献などから探求する必要があります。
これが古田の珍説でなくてなんなんだよ。
中立派って信者ミエミエじゃん。
オウム信者の偽装脱会みたいなもんだな。
630 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:58
>628
学会に無視さている古田の信者と議論しても意味ないじゃん。
論破以前の問題だよ。
さっさと隔離スレッドに消えろ。
631 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:59
>>630 バ〜カ、古田信者なんてここにはいないんだよ。
632 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:01
畿内政権一貫統一派の人も、九州王朝派の人も、もめてないで、
それぞれの説では、
>>609-610 のP,Q,Rなどがどうなるのか説明していただけませんか?
小学生みたいな言い合いしていて自分が恥ずかしくないのかしら。
(もし、本当の小学生だったら、ごめんなさいね。)
古田氏は、「邪馬壱国」説当時のように、『三国志』の代わりに「和田家文書」
を信じられているようですが、陳寿は次々に発表された古田説の影響を受けて、
古田説を援護するような文書を新たに作成することはありませんでした(故人な
ので)。そのため、「邪馬壱国」説は現在でも支持者が多いのです。(ま、私は
転向しちゃいましたけど(^_^;))
それに対して、「和田家文書」は違います。古田氏が暗に望めば、いくらでも
それを裏付ける古文書が和田喜八郎氏の手により《発見》されてしまうような、
《現在増殖中の古文書》なのです!
したがって、古田氏が「和田家文書」に関っている限り、私は氏を《「和田家
文書」信者》としか評価できないのです。
635 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:11
古田信者は実はアズマなんですか?
アズマの根本的思想は反大和朝廷、東北会津マンセーですよね。
会津マンセーをアラキバ王朝に変えれば同じじゃないでしょうか。
636 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:15
>633
九州王朝と議論している奴なんかいないじゃん。議論もしてないのに「論破」とは
恐れ入った。偽書オヤジのマブダチ古田師匠なみの恥ずかしい「勝利宣言」だね。
637 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:17
>>634 ここは、和田家文書や、古田氏の話をするスレではありません。
和田家文書に憑りつかれた古田氏がデンパなのは誰でもわかっています。
それよりも、あなたは、本スレに関係ない自明なことを書きなぐって、
みんなの議論の邪魔をしないと精神が安定しないほど深刻な状況なのですか。
様々な事項が議論されているけども、どうしても畿内王権一元史観派が劣性なので、
みなさん、なんとか、協力してすべて論破していき挽回しましょうよ!
とりあえず議論に邪魔な『古田』っていう言葉は禁句で行きましょう!
638 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:32
>637
横レスだが、
畿内王権一元史観は派劣じゃないよ。
アカデミズムでは主流。
2ちゃんねる=アカデミズムじゃないからね。
原田一門とか森浩一の方が傍流だよ。
ちなみに九州王朝説は、黙殺されてます。
当然だよね。
639 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:46
畿内王権一元史観だと、なんで、
>>527-528 や
>>609-610 が説明できへんのやろ。
九州王朝説でも説明できてへんし、どっちも、極端すぎるんとちゃう?
九州をずっと畿内が支配したとか、九州がずっと独立していたとか、
どっちもよほどのことないと、かなり嘘っぽいやね。
妨害厨房を除けば、ほとんどの書き込みって、両者を否定する説の方が正しく見える
ような書き込みがかなり多いし、資料を元にしていて説得力あるやん。
実はどっちもデンパ説なんちゃう? >畿内王権一元史観&九州王朝説
640 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:58
>639
素人には九州説とか古史古伝が受けて、本が売れるってだけでしょ。
学会主流の小林行雄、佐原真、都出比呂氏、近藤義郎、白石太一郎みんな畿内中心史観だよ。
九州王朝唱える古田なんてアマチュアでしょ。ぜんぜん意味ないよ。
641 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:00
>>638 違います。「黙認」の誤り。
>ちなみに九州王朝説は、黙殺されてます。
642 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:02
643 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:03
644 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:05
古田とか弟子ってどうやって生活してんの?
もしかしてツガルなんとかいう偽書販売ですか?
645 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:06
へ〜、古田信者=アズマなんだ?アズマって何?古田信者=アズマの証拠は?
646 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:07
>>644 古田をけなすことで、金儲けしてます>原○実
>古田とか弟子ってどうやって生活してんの?
647 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:08
天井裏の一角には中二階があった。その部屋もよく見たが、物を隠せるような場所はなく、
ただ二十本ばかりのペットボトルが残されていた。同行の斎藤隆一氏や『東奥日報』記者とともに中身を調べると、
強い腐敗臭の液体が入っていた。放置された人尿の匂いだ。
その部屋は生前の和田喜八郎氏がよく籠もっていた所で、文献偽作の作業場と目され
る。古物商の間で伝わる話だが、古書の贋作者は新しい和紙に古色を着けるのに、
腐敗した人尿を用いることがあるという。
648 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:08
偽書オヤジを担いだのは古田。その犯罪行為を暴いたのは原田。
くだらないヤッカミはやめろ。
650 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:12
648の入レス禁止の九州王朝こそ荒らし。
応神、継体の時に、大王家の交替があったと私は思っているので、
畿内王権一元史観ではないですが、流石に7世紀まで九州王朝が畿内と並立した
という説は、どうかなあと思うぞ。
江田船山古墳出土太刀銘と稲荷山古墳出土鉄剣銘から、少なくとも雄略の時には、
西は熊本から東は埼玉まで、大和政権の支配下に入っていたというのを高校の日本史
の授業で習ったと思うが。筑紫を飛び越して、肥後は支配できんだろ。
まあ、支配と言っても、ある程度の自治権を認めた緩やかな支配だったと思うけどな。
652 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:24
653 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:25
>これって大事ですよね。ともすればその隠蔽体質を批判される橿原研や京大学派ですが、別に一子
>相伝の伝統芸でもないし、当たり前に論争することが何故できないんでしょうか。情報の小出しもせこ
>いw
偽書オヤジを担ぐ九州王朝野郎が人のこと「隠蔽体質」なんて批判する権利あるんだろうか。
だいたい九州王朝相手に議論なんて片腹痛い。「神々の指紋」を議論するようなもんだ。
654 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:28
>645
薩摩や長州嫌いの会津命の嵐野郎です。
とにかく天皇や関西が嫌いで、一部では朝鮮人ではないかとの噂もあります。
和田さんや古田さんに思想がにているような気がするのです。
655 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:33
また蛆虫アンカー野郎が湧くとスレが荒れるな・・・・・。
さっさと史ねばいいのに。
656 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:44
自分が荒らしだということに気づいていないとこが痛いな。
658 :
日本@名無史さん:04/08/11 23:53
稲荷山鉄険は雄略ではなく、関東大王からの下賜品という線が通説でしょう。
一階に雄略に結びつけるのには反対だし、畿内中心主義の反射脊椎行為にすぎない。
659 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:05
古田は薩摩贔屓だろ。九州南部を邪馬台国より上においてたと思うぞ。何がアズマだ。
661 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:15
>>658 一般的には土器は最寄産地の土を使うが、初期の須恵器は例外的で
化学組成から大阪陶窯製と判明したものが多い。
稲荷山出土の須恵器もそういう例で、近畿との結びつきが強い。
さらに、さきたま古墳群は稲荷山古墳から唐突に始まっていることも注目される。
ワカタケル大王=雄略天皇=倭王武と対応させて考えるのは、極めて妥当。
662 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:17
663 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:19
古田がデッチあげた足摺岬プロジェクトてのもあったな。
ナンとか岩がピカピカ光る灯台だって珍説。
こんなもんにだまされる自治体も自業自得だが。
どさくさにまぎれて小林恵子説を展開するところなんかアズマっぽくない。
665 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:24
九州大王と関東大王ってどっちが電波ですか。
666 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:28
スレ荒らしはまともな頭を持っていない古田爺さん信者の池沼だろ
667 :
日本@名無史さん:04/08/12 00:37
668 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:17
669 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:26
魏の役人が東を南と間違えていたのは、
北(ニシ)を西(にし)と勘違いしたからでは?
古い大和言葉が残っている沖縄では北(きた)のことを(ニシ)という
北極星のある方角を北(ニシ)という情報を持っていた魏の役人が
北九州で邪馬台国までの簡略な地図を見せられて北(ニシ)はどちらと聞き
地図の西を上(北)にし、北九州の東(ひがし)にある大和は地図の下、
南にあると報告したのではないでしょうか?
670 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:29
論破されっぱなしの、畿内王権一元史観信者が集まって、ワイワイガヤガヤ大騒ぎ
>>670 お前、反論できなくて、また荒らすつもりか。
673 :
日本@名無史さん:04/08/12 04:16
脳内勝利宣言だけは、古田師匠並だな。
676 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:03
640 :日本@名無史さん :04/08/11 22:58
>639
素人には九州説とか古史古伝が受けて、本が売れるってだけでしょ。
学会主流の小林行雄、佐原真、都出比呂氏、近藤義郎、白石太一郎みんな畿内中心史観だよ。
九州王朝唱える古田なんてアマチュアでしょ。ぜんぜん意味ないよ。
別に複数王朝並立とかじゃなくても畿内の実効支配は無きに等しかったとか、
あってもユルユルだったとか、つまり名目上の支配権くらいしか持たなかった、
でいいじゃん。
678 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:09
>677
ウソはよくない。
おしっこかけて偽書を作ることが犯罪であるようにウソも犯罪です。
679 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:15
まあ、大和朝廷なんか、壬申の乱以前に無かったわけだが。
それ以前は「遠の朝廷」=九州しかないな。
680 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:19
九州王朝説って竹内文書とか富士文書と関係あるんですか
681 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:22
都督府・大宰府・太傅府・太保府が九州にあって、畿内にないのはなぜ?
古田信者は、九州王朝があったからと妄想するのだろおう
683 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:27
大和国の仏教初伝は584年。そのとき兵庫県(播磨国)は外国でしたとさ。
日本書紀が断言してるんだからしょうがない。
足摺岬が灯台に見える古田信者は九州が外国に見えるってだけです。
まあ、脳内妄想ですね。
685 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:31
682 名前:>681 :04/08/12 10:24
古田信者は、九州王朝があったからと妄想するのだろおう
684 名前:>683 :04/08/12 10:29
足摺岬が灯台に見える古田信者は九州が外国に見えるってだけです。
まあ、脳内妄想ですね。
蛆虫。氏ね
686 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:43
687 :
日本@名無史さん:04/08/12 11:52
>>679 大和朝廷なんか、壬申の乱以前に無かったわけだが。
なこたあない。2,3世紀から考古学的に九州と同じかそれ以上の
規模の遺跡が、大和にも出雲にも出てるだろ。
断定的に極論を言うから荒れるんだよ。
688 :
日本@名無史さん:04/08/12 11:54
馬鹿は朝廷の定義を知らないようだ。遺跡の規模で朝廷の有無が決まるってか。
689 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:15
>>683 大和国の仏教初伝は584年。そのとき兵庫県(播磨国)は
外国でしたとさ。
↑
これもどうしたら、こういう理屈になるんだ?
魏志倭人伝に書かれた3世紀の邪馬台国の時代だって、
伊都国だの投馬国だの伊邪国だの鬼国だの、いろんな国があったが、
全部「女王国に属する」国々だろ。一国ずつが外国じゃないぞ。
昔の日本で「国」って、今で言う「県」みたいなもんだろ。
それが、なぜ「外国」になるんだ???
中世以降の幕藩体制になっても、各藩ごとにキリスト教に
帰依した藩主がいたり、そうでなかったりしたし、
「一国一城の主(あるじ)」と言うが、その一国ずつが、
外国と見なされることなど、ありえない。
皇国史観厨の粘着カキコはスルー
691 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:19
>>688 壬申の乱以降に、勝手に朝廷を名乗った勢力が始めて現れた、
という意味かよ。大王の存在じゃなくて。
692 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:22
根拠を書かないでレッテルはりする中傷はスルー
693 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:30
皇国史観は畿内説
漢籍・考古学を歪曲し、森羅万象を我田引水、何でもかんでも唯一絶対皇国史観。
反論するヤツには粘着こき下ろし、レッテル貼り、罵詈雑言を吹っかける。
※皇国史観厨はとっとと回線切って、首吊って氏んで下さい
694 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:32
>>693 捏造史観の糞チョン総連かよ ( ´,_ゝ`)
いまどきの極左=チョン=将軍様厨はこいつ
696 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:36
697 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:37
>>695 いまどき生粋の日本人で極左など殆どいないだろ
糞チョン総連の回し者の工作員だな
698 :
日本@名無史さん:04/08/12 12:38
あーあ。こんなになっちゃったよ。
アンカー馬鹿が一日中張り付いては池沼丸出しのことわめくから・・・。
自分の意見ないくせに。
699 :
日本@名無史さん:04/08/12 13:17
671年(天智天皇10年)4月 筑紫で8本の足を持つ鹿が発見されたとの報告が入る
700 :
日本@名無史さん:04/08/12 13:46
シシ神さまだ
701 :
日本@名無史さん:04/08/12 14:04
>>699 北朝鮮では今でもその類のニュースが良くあるよな。
何千年遅れているんだよ
北のはBC兵器が環境に悪影響を与えているとかマッドな
動物実験じゃねえの?
703 :
日本@名無史さん:04/08/12 14:44
685年(天武14年)11月2日 筑紫が太絹100匹・糸100斤・布300端・庸布400常・鉄10000斤・矢竹2000連を請求してきたので送付した。
704 :
日本@名無史さん:04/08/12 16:38
弥生時代末から古墳時代初期に限定して
古田爺さんの信者が関係ない話題で荒らすのは無視すれ
705 :
日本@名無史さん:04/08/12 16:38
>>701 >8本の足を持つ鹿
畸形なら今でも生まれてると思うが…
現代ではあんまりニュースにならない。
706 :
日本@名無史さん:04/08/12 17:10
その671年は、冷静に見れば、筑紫は唐に平和的進駐されていた年なのだが、
なんでそういう重要な年の肝心な筑紫の記事が、足8本鹿なんだか・・・
わざわざそういう記事を入れて編集した意図はなんだ??
何かを隠しつつ暗示させているわけだが・・・
707 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:09
>>703 みかじめ料、ってことはないだろうけども、
筑紫の立場の違いって感じかな。
708 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:31
ばかばかしい。
本当に唐が筑紫に進駐してたら、唐の正史に記述があるだろうが。
中国側が隠す必要なんて全然ないんだからな。
709 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:32
704 :日本@名無史さん :04/08/12 16:38
弥生時代末から古墳時代初期に限定して
古田爺さんの信者が関係ない話題で荒らすのは無視すれ
お前はいいよ。史ね
710 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:38
669年(天智8年)10月16日 大唐が郭務宗ら2000余人を遣わしてきた。
711 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:39
712 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:43
西都厨どこに消えた
713 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:48
九州王朝はデンパでしょ
近江政権が筑紫だけ切り離すことで本州を護っただけ
進駐前に何度も交渉しているので手打ちってところが妥当な解釈
当時の唐は半島などあちこちに進駐拠点として都督府を数多く設置している
筑紫都督府とあるのもその中の一つ
714 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:50
古田爺さんは、自分で原典に当らない素養の低い連中を騙していただけで
ネットで膨大な情報が手に入る今では、新たに騙すのは極めて困難でしょう。
ネットを使わない老人とともに消え去る運命だけど、断末魔が荒らしになってウザ過ぎる。
715 :
日本@名無史さん:04/08/12 19:54
さて、古田氏の謀略好きと偽証癖については、先述の出版物にすでに指摘
されたところだが、それが昂じると、自説の裏付けとなる偽の「証拠」を
握造するまでになる。
『東日流外三郡誌』裁判の最中には、古田氏は当時広島在住の古物商に
依頼し、江戸時代のものに見えるような「古文書」を偽造しようとさえし
た。その古物商は古田氏の目的を怪しんで、古田氏の筆跡の依頼状と古田氏が支払
った200万円の受取コピーを週刊誌に持ち込んだため、ことが公になったのである
(「昭和薬科大学“有名教授”に噴き出した“古代史偽造スキャンダル”」
『アサヒ芸能』1994年9月29日号、他)。
716 :
日本@名無史さん:04/08/12 20:06
旧唐書には、665年(麟徳二年)に次の記事があります。
麟徳二年、封泰山。仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會、高宗甚悦、櫂拜大司憲。
これは、白村江戦後処理の唐の責任者である劉仁軌が、
新羅・百済・耽羅・倭の4国の酋長を泰山に召集した件です。
さて、ここへ出向いた倭の酋長は誰でしょう?
717 :
日本@名無史さん:04/08/12 20:51
>>716 検索したら「列傳/卷八十四 列傳第三十四/劉仁軌」だな。
天智4年条に4人を唐に使わした記事があるだろ。
つーかスレ違いも甚だしい。
718 :
日本@名無史さん:04/08/12 21:09
白村江後の平和会議ですな。
>>717 近江政権の誰が遣わされたのか名前を言えますか?
あっと驚くと思いますが。
719 :
日本@名無史さん:04/08/12 21:20
>>718 日本書紀に名前が載っているだろ。
つーかスレ違いネタは新スレを立ててやれよ
720 :
日本@名無史さん:04/08/12 21:24
旧唐書に倭国を占領したとか、都督府を置いたという記述ないのに、
推量で適当なこと言われてもなw
もし占領や支配の事実があれば、中国側ははっきり書くだろ?
721 :
日本@名無史さん:04/08/12 21:28
>>716 665年に唐の捕虜になっているのは、薩夜麻だね。
唐の天子の重要な国家儀式、封禅に泰山へ行ったのは、
まさか近江朝の天智天皇ってはずはないだろう。
722 :
日本@名無史さん:04/08/12 21:49
665年(麟徳2年)に唐が新羅・百済・耽羅・倭の酋長を泰山へ召集したのに該当しそうな日本書紀の記事はこれですな。
665年(天智4年) 守君大石らを大唐に遣わした。
しかし同じく日本書紀によると守君大石は有間皇子とともに中大兄皇子に歯向かって上毛野国へ流刑になっていますが。
658年(斉明4年)11月9日 謀反計画が露見し、有間皇子・守君大石・坂合部連薬らが捕えられる。
658年(斉明4年)11月10日 有間皇子は絞首刑。守君大石は上毛野国へ、坂合部連薬は尾張国へそれぞれ流刑。
中大兄皇子に敵対して流刑になった人物を、天智天皇はめちゃくちゃ重要な白村江戦後会議へ代表として派遣したのですか??
なにかおかしいですなあ。
723 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:02
そんな断片的な記述で推測されてもなあw
中国側の史書にそのものズバリの記事がないのに、なんだかなあ。
724 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:06
武韋の禍がおわったあと、極東の失政が消されてるね。
ナポレオン後のヨーロッパみたいにね。
725 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:13
少なくとも倭国本土が中国に占領された事実があれば、その記事は残るはず。
それすらないのはそういう事実がなかったってこと。
726 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:20
都合のいいときだけ、漢籍持ち出して、都合の悪いとき、考古学に逃げるのも凄いな。
旧唐書に日本国が倭国を併合したと主張していることが記され、
旧唐書自体がうやむやの記述をしているのは、
武韋の禍の浄化によるものと見るべきだろう。
727 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:33
>>723 >>中国側の史書にそのものズバリの記事がないのに、なんだかなあ。
日本書紀にも何度も出てくる百済鎮将(=占領司令官)の劉仁願は、
対日本も含めてでしょうが戦後の半島政策で結局大失敗となって、
雲南省の姚州への流刑となっています。
そのため、この大失政関連では記録から漏れてることが多数あると推測されてます。
さらに加えて、この劉仁願の流刑の記事自体も含めて、唐書には記載されていません。
資治通鑑の高宗總章元年(668年)のところに辛うじて記載されています。
『八月,辛酉,卑列道行軍總管、右威衞將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。』
したがって、日本書紀には筑紫都督府が記録されているのに、唐書には無い等は、
この当時の他の状況からして別に不思議でもなんでもありません。
728 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:33
>武韋の禍の浄化によるものと見るべきだろう。
その方がよほど都合のいい解釈(ていうか捏造)だなw
729 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:35
一時的であれ日本列島の一部を支配した事実があれば、それまで抹消する必要はない。
730 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:39
731 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:51
>>730 偉そうに。おまえ、何様かよw
大体、
>>727の解釈が正しいとも限らんし、それに対する疑問だってあるだろう。
勝手に回答済みなんて判定すんな。
732 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:22
733 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:24
西都厨はこんなとこに逃亡していたのか。
734 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:26
京香ぴえろ〜
735 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:27
古代史なんてどうせ実益がないんだから真実かどうかより一般受けする方がいいよね。
九州王朝説ってもうセンセーショナルじゃないしね。
また奇をてらった一般受けする説ない??
736 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:34
>729
朝鮮人は、中国、インド、あまつさえエジプトやメソポタミアまで
「朝鮮人が作った」とか言ってるわけで
(参照・「大朝鮮帝国の歴史」=韓国陸軍公式教科書)、
まああんまり相手にしないのが吉ではないかと。
737 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:40
聖徳太子はエフタルの王子。
738 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:43
日本書紀によれば筑紫都督府が九州にあったのだから、
当然その上には則天武后が実権をにぎる唐国の安東都護府(668年〜平壌)があった。
その時期、筑紫の君は捕虜から帰還した薩夜麻だったから、彼は都督であったことになる。
唐の軍隊組織は府兵制といい、辺境防衛のため農民を「防人」として
3年間兵役させるのが、ひとつの特徴だ。
唐の行政を行う筑紫都督府は、半島全土を占領した新羅に対して
「親新羅」の畿内地方でなく、東国の農民を徴兵し、防人と号した。
のちに王家や高級官僚の歌を除いて、世に伝わったの歌集を万葉集という。
739 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:45
聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた
小林 恵子 (著)
仏心篤き聖人聖徳太子は海を渡ってやってきた騎馬民族・突厥の英雄だった。
東アジア史研究の成果が浮びあがらせた聖徳太子の真実第1章 聖徳太子の謎(聖徳太子は倭王だった
17条憲法の真実
浮び上る専制君主の姿
太子前世「達摩説」はなぜすり替えられたか)
第2章 聖徳太子の正体(東アジアの雄、突厥
消えた英雄、達頭可汗
達頭は日本に渡っていた
聖徳太子の正体
夢殿はパオである)
第3章 古代王朝の暗闘
第4章 聖徳太子
740 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:50
古田が進めていた「足摺岬周辺にある巨石群の実験・調査」って、今はどうなってんの?
741 :
本@名無しさん:04/08/12 23:55
赤木山の徳川埋蔵金ってどうなったの?
742 :
日本@名無史さん:04/08/13 00:14
マキムクマンセー厨はどこ逝っちゃったの?
743 :
日本@名無史さん:04/08/13 01:04
だまされる信者も悪い。だます古田が一番悪いが。
744 :
日本@名無史さん:04/08/13 07:44
電波の古田関連はアンチも含めてこのスレッドでは禁止しませんか?
で、
>>716 にある、白村江の戦後国際会議の件ですが、
日本(当時はまだぎりぎり倭となっている)からの出席者は誰なんでしょう?
日本書紀にそれらしきことが触れているのは、
>>722 にあるように、
守君大石らを大唐に遣わしたようなのですが、
守君大石は有間皇子との謀反発覚で上毛野国へ流刑になっているんですよね。
守君大石の唐からの帰国記事はもちろんないですし、いったいどうなっているのでしょう。
745 :
日本@名無史さん:04/08/13 08:19
746 :
日本@名無史さん:04/08/13 09:54
744 名前:日本@名無史さん :04/08/13 07:44
電波の古田関連はアンチも含めてこのスレッドでは禁止しませんか?
↑ わかったわかった。だから史ね。一番の嵐はお前だ。
747 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:10
459 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/06/30 23:02
畿内説の場合は、齟齬があるのは方角の問題くらいで、それ以外は非常に調和的で、
総合的に見て、動かすことは出来ません。ちょっと、まとめてみました。
水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。
これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。
卑弥呼の墓は、径百余歩(直径140m余り)であり、箸墓古墳(後円部の直径160m)は、
オオヤマトに位置し、年代は調和的であり、巫女の墓の伝承を持つなど、
非常に調和的です。
九州は、弥生時代後期以降はさびれています。
伊都国に一大率を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示唆します。
投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸と、魏志東夷伝の朝鮮半島諸国と比べると、
規模が大きい。
魏から金印を賜ったのは、大月氏(クシャナ朝)と邪馬台(ヤマト)だけで、
重要視していることが分かる。
古墳時代に入って、銅鏡の出土は畿内・吉備に移っていいます。
これら、いずれも九州のショボイ国では説明が付かず、畿内説で初めて理解できる。
748 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:10
665年 (天智4年) 唐が劉徳高と郭務宗たち254人を派遣
665年7月28日 対馬に到着
665年9月20日 筑紫に到着
665年9月23日 表函を進上
やっぱりこれも筑紫に派遣されて筑紫が対応しているのでは?
749 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:16
750 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:22
妄想ばっかりやな、このスレ・・・
751 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:28
>>717 > 天智4年条に4人を唐に使わした記事があるだろ。
665年(天智4年)12月14日 唐の劉徳高たちに賜物し、劉徳高たちは帰国した。
665年(天智4年) 小錦守君大石等が大唐に遣された。唐の使者を送ったのだろうか。
との記事が確かにあり、日本書紀編纂者は唐の使者を送ったと推測してるようです。
しかし、唐会要によれば、665年(麟徳二年)の8月に、
唐の劉仁軌が新羅・百済・耽羅・倭の代表を泰山に集めてますから、
日本書紀のように、665年12月に唐へ帰国の劉徳高たちへの使者が守君大石とすれば、
泰山での封禅の儀にはどうやっても間に合わないことになります。おかしいですね。
752 :
日本@名無史さん:04/08/13 10:58
753 :
日本@名無史さん:04/08/13 11:20
泰山の召集の665年8月には、ちょうど以下のような状況です。
665(天智4年)8月 達率答本春初が長門国で築城。達率憶礼福留・達率四比福夫が筑紫国の大野と椽に築城。
この達率というのは百済の官位16階の第2位にあたります。
戦後の唐主催の和平会議と並行して、敗北した倭と百済は、長門と筑紫で築城と、
緊迫な情勢で必死だったのでしょう。実際、この8月の前後の状況は、
665年7月28日 唐の劉徳高と郭務宗らが対馬に到着
665年9月20日 唐の劉徳高と郭務宗らが筑紫に到着
つまり、泰山の召集と並行して、唐から既に派遣されていた、と。
754 :
日本@名無史さん:04/08/13 11:20
>>751 おお、本当だ!!こりゃ間に合わないな。
755 :
日本@名無史さん:04/08/13 11:33
756 :
日本@名無史さん:04/08/13 11:47
>>748 つーか、筑紫で対応するのは、3世紀の邪馬台国時代からずっとそうだと
思うけど。伊都国で外国からの訪問者は全部足留めして滞在することに
なってた。伊都国には「世世、王あれど」で、王(国主)はいたわけよ。
でもその上に、また王を治める和国の大王(ヒミコとか)がいたわけじゃん。
つまり3世紀から支配者は、別の離れた国にいて筑紫を管理していたんだよ。
支配する大王国と伊都国(常に政治する)は、別の国だが外国同士じゃない。
その続きの制度って感じがするけどなあ。
757 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:00
>>756 当時の距離と水運の問題、それに各地の国の群雄割拠状態からすれば、
それは無理。
つうか、ちくしと半島の方が、ちくしと大和よりはるかに近縁国家。
758 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:02
「常に伊都国に治す(魏志倭人伝より)」
つまり、
支配側の和の大王国(邪馬台国=祭祀の場)
披支配側の伊都国(政治の場)
両国は、別の王を抱く地理的に離れた国々だが、同じ和国。
筑紫を支配する和の大王国は、祭祀を司る国である、
という政祭一致の伝統が、和国にあるのだよ。だから
近畿大和に、大きな祭祀場のような遺跡がでてくる。
759 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:17
だから距離の問題は?
いや、神武東征は西の王権の部分的扶持だったとは漏れも思ってるけど、
完全に同格・並立はずっと後だと思う。
それぐらい鉄器と半島・中国との国交・交易の威力は強力だったと思う。
760 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:20
671年11月 唐から郭務宗が率いる47艘が対馬に到着
671年12月3日 天智天皇が崩御
672年3月18日 阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務宗等に告げる
672年5月22日 郭務宗に甲冑弓矢・糸施1673匹・布2852端・綿666斤を賜わる。
遣唐使が300人ほどを2艘で運んでいる時代に、
唐軍は47艘もの大人数をずっと筑紫に常駐させていることになります。
筑紫に天智天皇の崩御を伝えるのが3ヶ月も遅れています。
大和と筑紫が別の国かどうかはともかくおいとくとしても、
筑紫への進駐以外の目的で、唐は大派遣を行なう必要があるでしょうか?
761 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:45
日本側の断片的記述ばっかりだな。これのツギハギで妄想、ご苦労さんw
結果的に失敗に終わったとしても、倭国を占領した事実を隠蔽する必要などない。
隋の高句麗遠征も失敗だし、唐の百済支配も失敗している。
倭国のことだけ抹消する理由などあるまい。
762 :
日本@名無史さん:04/08/13 12:49
>>757 半島から外洋に出て九州と往来するより九州と近畿を
瀬戸内海で往来する方が安全なくらいだよ。小島いっぱいあるし。
裏日本沿岸伝いだって、そう。半島から外洋に出て船で九州と
行来するのと同じようなもんだろ。
だいたい当時列島和国で力を持ってた人達は、華南とも
つながりがある、紀元前から国際交易をしてた人達だよ。
それに群雄割拠って、華北に近い分、半島の和種の国々の
方が、先に群雄割拠じゃん。
自分は大王国(邪馬台国)は、ヒミコの後のトヨの時代に
近畿大和に祭祀の場を移したと思うね。だから考古学的に
あの時代(3C後半)に、近畿で祭祀の大型遺跡が出るんだろう。
763 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:00
>>759 完全に同格・並立はずっと後だと思う。
それぐらい鉄器(略)の威力は強力。
↑
逆だって。古代社会になるほど、交易や戦いの武器より、
祭祀の霊力の方が、結局支配する上での力が上なの。
大王としての支配の正当性を与えたのが、祭祀の霊力。
だからトヨみたいな13歳の小娘に国主がひざまずいて
武器を収め、和国大乱が収まった。
最初は祭祀の場を持っていた邪馬台国(やまと)が伊都国の上
だったんだよ。
764 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:01
>>761 日本書紀に、ちゃんと筑紫都督府との記録がありますよ。
新羅には鶏林都督府など、百済には熊津都督府などが唐により設置されてます。
司馬法聰のように熊津都督府と筑紫都督府を行き来している者もいます。
筑紫都督府に限らず、どのような経緯で設置及び廃止されたかが不明なのは、
これらの都督府の上位機関の安東都護府が半島情勢の変化で平壤で一時廃止、
その後半島から撤退して遼東にて復活など、相当混乱しているためです。
唐書から他に記載が漏れている話は、
>>727 でも説明されてましたね。
よって、『他には記録が色々あるのに、唐書には書かれてないので、他の記録は嘘』
というのは、成立しないと思います。
765 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:03
>>757 瀬戸内海の水運は非常に盛んだから意味不明。
大和と吉備が結束したのはお互いに前方後円墳と埴輪を受け入れたことが
物語っているだろう。
766 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:05
767 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:06
>>757 で、確認のために言うと、魏志倭人伝によると、
和国の大王の国(邪馬台国)は、3C当時から
半島じゃなくて、筑紫の伊都国より南の列島内にあった。
これは第3者の中国の史書が、そう書いていることだね。
768 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:23
769 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:24
>>756 > 筑紫で対応するのは、3世紀の邪馬台国時代からずっとそうだと思うけど。
じゃあ、どうして日本書紀には、難波で饗応したという記事が多数あるのですか?
瀬戸内海を船で来れる難波で大和朝廷が饗応するのは理にかなってると思いますが。
一方、唐からは白村江の翌664年から壬申の乱の672年にかけて、
何度も、多いときは数千人規模で、派遣されていますが、
長期間の滞在にも関わらず、どうしてずっと筑紫なのですか?
770 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:34
どう考えても無理があるよね>筑紫駐屯
白村江で連合軍を壊滅させ、百済を滅亡。隋以来の懸案事項である半島の直接
支配権を獲得できたわけで、連合した倭にも支配権を得ようとするのは当然。
であるにもかかわらず、そのあたりの交渉史がなぜあれだけ書紀で希薄なのか
理解に苦しむ。どころか、冠位十二階制定とか、これ思いっきり笑える。兵士
もどれだけ死んだかわからねえときに、そんなことやってる場合かよw
771 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:52
>>769 だから古代から和国内の国々で別々の役割を持つ伝統があった
ことに沿って、筑紫は戦後処理の政治の場であり、
近畿大和朝廷で饗応したのは大王の祭祀の場だから、
と考えたって、そういう事実と矛盾しないと思うよ。
自分は九州王朝否定者じゃないよ。でも、近畿と筑紫や播磨は
外国だったとかいうのは、もともと和国自体が、複数の国々の
連合形態を取っていた事についての基本認識が欠落しすぎですがな。
772 :
日本@名無史さん:04/08/13 13:59
白村江で大敗北をして唐の進駐を受けた倭国の汚名を嫌って、
ちょうどこのタイミングで、国号を日本と変えたんだよね。
670年(天智9年)12月には、日本と変更したことが新羅で記録されているし、
それより前のどこかのタイミングで変更したんだろうけど、
何度も筑紫へやってきている唐のほうには、記録がないんだよね。
唐書のこの時期に記録がないからといって、新羅の記録が嘘ついてると思えないし。
ちなみに大和朝廷としては、唐が筑紫へ進駐してからなのか、
遣唐使を廃止してしまって、このあと32年間は遣唐使が全くないです。
773 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:00
あはは、じゃあ仏教初伝ってないじゃん。
774 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:01
775 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:04
大体、旧唐書の倭国・日本国読めば、畿内王権一元史観は崩壊だな。
776 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:11
我田引水的な記事の解釈で唐の進駐なんて言ってるんじゃねえよ。
777 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:18
筑紫へ進駐していた唐についてですが、
・天智崩御の知らせが筑紫にはなぜか3ヶ月以上かかった。
・新羅には670年に届いていた日本への国号変更が、
その頃には筑紫にて進駐していた唐はなぜか把握しておらず、
32年後の702年に再開した遣唐使が唐で倭国か日本国かともめている。
・旧唐書では、倭国伝と日本国伝の両方が別々に記載されてしまってる。
『倭国者古倭奴国也。』『日本国者倭国之別種也。』
さらになぜか、『或云、日本舊小国、併倭国之地。』、つまり、
「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり。」との記載。
デンパ説を否定したいけど、この辺の理由をうまく説明できないので助けてー。
778 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:21
無理無理、畿内が都なら、畿内にがんがん行くはず。
吐蕃や南詔なんか陸行でむちゃくちゃ大変だが、
たかが瀬戸内海の船行なんか、楽チンだろ。
779 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:21
中国正史にも書いてないことを、自分の都合に合わせて「抹消」とかいって、
正史の記事より自分の憶測や妄想を優先する人の気がしれない。
780 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:23
こりゃ、九州筑紫が、都だって結論しかありえないな。
781 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:30
1084年の勅撰、資治通鑑に書いてあるんだから間違いないな。
782 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:30
>>779 中国正史での記載が
>>777 という状況なんですよ。
なぜ、唐書でこのような状況になっているのか、説明してください。
783 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:34
784 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:50
すると
委奴国=邪馬壱国=邪馬台国=(人偏+妥)国 ≠ 日本国=大和朝廷
・・・って考えるしかないな、こりゃ!!
785 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:56
>>772 白村江で大敗北をして唐の進駐を受けた倭国の汚名を嫌って、
国号を日本と変えた
↑
そうとは書かれていない。一応突っ込んどくよ。
一次文書読まずに信じる奴らが必ずいるから。
改名理由(旧唐書):
1)「日辺にある(日の出る所にある)から日本を以って名となす」(断定)。
2)(あるいは言う=噂では)
倭国が自ら名前の優美でないのを嫌がり日本に変えた
3)(あるいは言う=噂では)
日本は旧小国、倭国の地を合わせたり
でも一番重要なのは、「日本国は倭国の別種なり(断定)」
要するに、和国は和国。
和国内の国々で、どちらが大王国の位置をとるか、の争いだと思うよ。
786 :
日本@名無史さん:04/08/13 14:57
資料も根拠も示さずに、憶測や妄想だ、と言い続けてるだけの人がいますね。
日本書紀や他の記録などが列挙して示されても、
唐書には載っていないと、文句を言うだけで反論できていないですね。
逆に、唐書に載っている矛盾が示されると、
同一人物かどうか知らないけど、スレ違いだとかいって逃げてますね。
私は九州王朝説否定派ですが、畿内王権完全支配説にも疑問を持っており、
各時代の筑紫の状況などをきちんと理解していきたいので、
逃げや文句だけでなく、資料や根拠を示してきちんと反論しませんか。
787 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:00
788 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:19
さすがに、岩波本注釈史観を信じるのはよそうよ。参考資料としてはいいけどさ。
もちろん、あなたがみんなを説得できる説明ができるならいいけど、
史料や根拠を伴った反論のひとつすら出来てないよね。
789 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:30
790 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:32
さて、古田氏の謀略好きと偽証癖については、先述の出版物にすでに指摘
されたところだが、それが昂じると、自説の裏付けとなる偽の「証拠」を
握造するまでになる。
『東日流外三郡誌』裁判の最中には、古田氏は当時広島在住の古物商に
依頼し、江戸時代のものに見えるような「古文書」を偽造しようとさえし
た。その古物商は古田氏の目的を怪しんで、古田氏の筆跡の依頼状と古田氏が支払
った200万円の受取コピーを週刊誌に持ち込んだため、ことが公になったのである
(「昭和薬科大学“有名教授”に噴き出した“古代史偽造スキャンダル”」
『アサヒ芸能』1994年9月29日号、他
791 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:36
反論できなくなると、デンパの古田氏を持ち出して叩いて逃げる癖、やめようよ
コピペばっかりで、みんなの議論に邪魔だしさ
792 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:37
聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた
小林 恵子 (著)
仏心篤き聖人聖徳太子は海を渡ってやってきた騎馬民族・突厥の英雄だった。
東アジア史研究の成果が浮びあがらせた聖徳太子の真実第1章 聖徳太子の謎(聖徳太子は倭王だった
17条憲法の真実
浮び上る専制君主の姿
太子前世「達摩説」はなぜすり替えられたか)
第2章 聖徳太子の正体(東アジアの雄、突厥
消えた英雄、達頭可汗
達頭は日本に渡っていた
聖徳太子の正体
夢殿はパオである)
第3章 古代王朝の暗闘
第4章 聖徳太子
793 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:39
聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた
小林 恵子 (著)
仏心篤き聖人聖徳太子は海を渡ってやってきた騎馬民族・突厥の英雄だった。
東アジア史研究の成果が浮びあがらせた聖徳太子の真実第1章 聖徳太子の謎(聖徳太子は倭王だった
17条憲法の真実
浮び上る専制君主の姿
太子前世「達摩説」はなぜすり替えられたか)
第2章 聖徳太子の正体(東アジアの雄、突厥
消えた英雄、達頭可汗
達頭は日本に渡っていた
聖徳太子の正体
夢殿はパオである)
第3章 古代王朝の暗闘
第4章 聖徳太子
794 :
日本@名無史さん:04/08/13 15:49
796 :
日本@名無史さん:04/08/13 16:13
凄いぞ。
畿内王権一元史観厨が、反論できなくて、逃げ出しちゃった!!
自説の根拠もなく、打つ手なしと見て、
泣きながら相手を電波呼ばわりするしか、能がなくなっちゃった!!
こりゃ完全敗北だな、畿内王権一元史観厨は。
797 :
日本@名無史さん:04/08/13 16:31
巨人が読売の子会社で、
渡辺が読売の最高権力者である以上、
状況に、なんの変化も無いわけだが
世間の批判を沈静化するための茶番劇だな
798 :
日本@名無史さん:04/08/13 17:04
スカウト不正なんて当事者からのリークしか考えられんから
その大学生を選手会が切り札に使ってナベツネに喧嘩売ったってことじゃねの?
んで肩書きなんてどうでもいいナベツネが自ら辞任でスカされた、と。
799 :
日本@名無史さん:04/08/13 19:36
一部の畿内厨のしてることは吐き気を催すな
反論すら出来なくなって不利になると、
全く関係ないことを書いたりコピペを張ったりし出す典型的な2ちゃん厨房パターン。
801 :
日本@名無史さん:04/08/13 20:19
出た出た出た出た
畿内王権一元史観信者が、反論できなくなっちゃって、
意味なしコピペで、
誤 魔 化 し 戦 術 !!
こりゃ完全敗北だな、畿内王権一元史観信者は。
802 :
日本@名無史さん:04/08/13 22:52
803 :
日本@名無史さん:04/08/13 22:54
804 :
日本@名無史さん:04/08/14 01:57
出た出た出た出た
畿内王権一元史観信者が、反論できなくなっちゃって、
誤 魔 化 し 戦 術 !!
こりゃ完全敗北だな、畿内王権一元史観信者は。
805 :
日本@名無史さん:04/08/14 09:49
806 :
日本@名無史さん:04/08/14 09:50
天皇はホームレスと肩を組みワンカップで焚き火を囲み
酒盛りをして盛りあがるのだ。
※倭国と日本国が並存した可能性を旧唐書から読み取ることは出来ない。
『旧唐書倭国伝』倭国者古倭奴国也
去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中国通
其国居無城郭以木為柵以草為屋四面小島五十餘国皆附属為
其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地
多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯
婦人衣純色裾長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各数枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅
※ここまでの記載は漢書〜隋書から引用及びその要約、以下は新出記事
貞観五年(631)遣使献方物太宗矜其通遠勅所司無令歳貢
又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還至
二十二年(648)又附新羅奉表以通起居
※654 高向玄理遣唐
※663 白村江の戦い
※665 守君大石遣唐
※695 小野毛野遣新羅
※701 粟田真人遣唐
『旧唐書日本国伝』日本国者倭国之別種也
以其国在日辺故以日本為名或曰倭国自悪其名不雅改為日本或云日本舊小国併倭国之地
其人入朝者多自矜大不以實對故中国疑焉
又云其国界東西南北各数千里西界南界咸至大海東界北界有大山為限山外即毛人之国
※「日本国」使者の申述を「不実」として「倭国」との継承関係は各論併記に止まっている。
長安三年(703)其大臣朝臣真人来貢方物
朝臣真人者猶中国戸部尚書冠進徳冠其頂為花分而四散身服紫袍以帛為腰帯
真人好読経史解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿放還本国
開元初又遣使来朝因請儒士授経詔四門助教趙玄黙就鴻臚寺教之乃遣玄黙闊幅布以為束修之禮題云
白亀元年(724)調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏
使朝臣仲満慕中国之風因留不去改姓名為朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去
天寶十二年(753)又遣使貢上元中擢衡為左散騎常侍鎮南都護
貞元二十年(804)遣使来朝留学生橘免勢学問僧空海
元和元年(806)日本国使判官高階真人上言前件学生藝業稍成願帰本国便請與臣同帰従之
開成四年(839)又遣使朝貢
808 :
日本@名無史さん:04/08/14 17:48
畿内王権一元史観(九州を含んで畿内が一貫して完全支配してきたとする)は、
完全に根拠を失いここでは反論すらできなくなったようですね。次は、
九州王朝史観(九州では奴国や邪馬台国以来ずっと別の王朝があるとする)を、
完全に否定するよう根拠を挙げて叩けばよいわけですね。がんばりましょう。
>>807 それだけだと全く併存を否定できてないのよ。
滅びたとされる倭国が記録途中までしかないのは当たり前となるし、
そこにあるように『日本舊小国併倭国之地』と日本国は小国だったとなっちゃう。
更に、肝心な648年から703年までの記録がないのもその疑惑となるし、
安東都護府による一時進駐説と撤収混乱での記録不備説にも整合性があるままに。
809 :
日本@名無史さん:04/08/14 18:04
この程度の記述から唐が日本列島に進駐したなんて主張できるとは、
妄想を通り越して「創作」ですなw
810 :
日本@名無史さん:04/08/14 18:06
文献史料が乏しい→実証しようがない→脳内で妄想→MY正史のできあがり
811 :
日本@名無史さん:04/08/14 18:28
とりあえず、妄想ではなく、当時の文献に記録されてることを列挙。
・百済滅亡の660年に阿倍比羅夫は東北北海道遠征
・当時は平壤の安東都護府の下に各地に都督府が設置されている
・劉仁願が熊津都督府の司馬法聰等を筑紫都督府へ遣し、境部連等を送致
・唐から何度も来る使者はすべて筑紫止まりで長期間滞在も何度もあり
・唐から郭務宗が率いる47艘も来ている
(当時の遣唐使は300人で2艘、白村江の全唐軍は180艘)
・天智天皇崩御が、郭務宗等がいる筑紫に伝わったのは3ヶ月後
・郭務宗へ布綿などだけでなく甲冑弓矢まで届けられている
・この白村江後の混乱期に国号が日本へ変更
・唐書に、日本国はもと小国で倭国の地を併せた、との説が掲載
・筑紫君薩夜麻は白村江後に8年間唐にいた
・築城者が明記されているのは筑紫と長門のみで百済貴族が築城
812 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:04
・白村江後に唐は泰山に新羅・百済・耽羅・倭の4国の酋長を召集している
・唐の劉徳高の帰国を送使したとする守君大石は泰山に数ヵ月間に合わない
・そもそも守君大石は有間皇子謀反に加わり上毛野国へ流刑となっている
・白村江後の高句麗から近江政権への遣使は荒れる日本海経由
・唐から筑紫へ続々訪れる中、天智天皇は近江遷都や大和の高安城を築城
・唐書の白村江後には不備が多く占領司令官の劉仁願の流刑なども全て記録なし
・百済滅亡の年に阿倍比羅夫は蝦夷の要請により粛慎を征伐している
・斉明紀と天智紀には重複らしき記事多数
・斉明4年と天智5年に、指南車を作ったの件
・斉明6年と天智10年に、漏刻で時を知らせた件
・斉明7年と天智7年に、伊勢王が薨去した件
813 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:09
パッチワークの類推にすぎない。却下。
814 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:34
>>813 あなたは、いつもの、根拠も資料も示せない人ですか。
せめて、いろいろ挙げられている項目を、
どういうことなのか納得のいく説明でもしたらどうですか?
唐の大船団はなんのために筑紫に長期滞在しているのですか?
唐による泰山への召集に倭国からは誰が代表として出たのですか?
唐が各地に都督府を設置している時期に、どうして日本書紀は筑紫都督府と明記しているのですか?
815 :
日本@名無史さん:04/08/14 20:03
そのものズバリの記録もないことに、
後世の人間が自分の空想や推測で断定的なことを言うより、
それを批判している側の方が説得力がある。
古代史は自由に想像できる余地が大きい分、
想像が創造になってしまってる論者が多いね。
断片的な記述を恣意的に操作して想像するのは同意しかねる。
816 :
日本@名無史さん:04/08/14 20:11
>>815 ねえねえ、あなたの妄想はいいから、
出ている質問
>>814 とかに答えましょうよ。
あと、どうして百済が唐と新羅から攻められて滅亡っていう時に、
大和朝廷は大船団で北海道へと蝦夷征伐や粛慎征伐に行っているの?
滅亡する前に百済を助けてあげればいいのにね。
↓ ここで狂人・アンカー馬鹿から一言
818 :
日本@名無史さん:04/08/15 01:09
なんかここ読んでると常識だと思っていたことが
あながちそうでもない、ってことに愕然とします。
古田さんって今はあんまり聞かないけど、インパクトのあること
やってたんですね。
819 :
日本@名無史さん:04/08/15 01:19
>>818 んー、ちょっと違う。
ここでの議論展開は、古田氏のデンパや妄想部分を取り除いて、
指摘されてない文献事項などを新たに補強して、
デンパや妄想にならないように根拠明示して行なわれていること。
古田氏と異なって、九州王朝説を前提としていないから、できているのだと思う。
820 :
日本@名無史さん:04/08/15 08:40
あ
821 :
日本@名無史さん:04/08/15 08:42
古田うせい
821 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/15 08:42
古田うせい
↑ お前もな。氏ね
823 :
日本@名無史さん:04/08/15 10:00
825 :
日本@名無史さん:04/08/15 10:43
もう、このスレだめだね。
近畿のみとか、8Cまで九州王朝とか、両極の人しかいないの?
私のように、九州→近畿。後は国内での大王権争い。
という中間論がとりつくしまもありません。
>>825 勝手にスレ立てして自分のものだと思いこんでいるアンカー馬鹿が元凶
その粘着ぶりは狂人としか思えないw
827 :
日本@名無史さん:04/08/15 11:06
>>825 王権が近畿にあり続けたことを否定する有識者は少ないだろう。
古墳時代初期に東海を拠点とする東日本が対立していたこと(前方後方墳体制)
吉備は弥生時代に続き大きな力を持ち、巨大古墳が見られ埴輪が全国に広まった。
単調な脳内でつね。
きっと幸せな人でつね。
829 :
日本@名無史さん:04/08/15 11:17
>>827 吉備については当地発祥の埴輪が広まったことで知られ
畿内の巨大古墳に匹敵する造山・作山古墳まで作られている。
しかし古墳時代中期後半(5世紀後半)から急速に衰退しています。
日本書紀に雄略紀の前後で吉備勢力の蜂起と敗退が記されていることと
調和的だと指摘されています。
>>811 「唐から郭務宗が率いる47艘も来ている」
その内、兵員は何人ですか?
戦後処理の為の来日なのだから、捕虜や亡命百済人の送致も含まれているとは考えないのですか?
>>812 「唐の劉徳高の帰国を送使したとする守君」ってのは、かなり大胆な仮定ですね。
紀の天智称制四年条では、徳高の帰国と大石の渡唐は別項建になっているのに、敢えて結びつけるわけですね。
他にも外洋航海に置ける風待ちの問題とかを考慮してるのかとか・・・突っ込みどころは有りますね。
ま、私は唐の軍事集団が、戦後処理のために一定期間北部九州に駐在していてもよいとは思いますが、
それも何万人規模では無いでしょう。
とにかく、貴方の「仮定」と非・古田史観論者の「仮定」は、何度やってもすれ違います。
時代もこのスレのテーマとはズレますから、このくらいにしておきましょう。
831 :
日本@名無史さん:04/08/15 12:07
おいおい、デタラメもいい加減にしてくれ。
戦後処理とは、まさか唐が大和朝廷に朝貢しにきたわけじゃ無いだろう。
倭の完全敗北なんだから、唐側はそれなりの強硬な態度でやってきたはずだ。
薩夜麻は8年捕虜生活を強いられた挙句の帰還だ。
日中友好使節団みたいな甘っちょろい集団ではない。
俺は古田信者じゃないが、お前もすれ違ってる気がする・・・。
833 :
日本史@名無しさん:04/08/15 12:12
なんか言うだけ言って一方的にうち切るってのもなあ・・・。
>>807苦しすぎw
834 :
日本@名無史さん:04/08/15 12:14
すごく素朴な疑問
唐の大船団はなんのために筑紫に長期滞在しているのですか?
唐による泰山への召集に倭国からは誰が代表として出たのですか?
唐が各地に都督府を設置している時期に、どうして日本書紀は筑紫都督府と明記しているのですか?
どうして百済が唐と新羅から攻められて滅亡っていう時に、
大和朝廷は大船団で北海道へと蝦夷征伐や粛慎征伐に行っているの?
835 :
日本史@名無しさん:04/08/15 12:22
836 :
日本@名無史さん:04/08/15 12:43
そうですね、807氏はそういう基本的な問題には全く答えていないし、
やまほどある項目のうちの一部にだけレスしているけど、
しっかりとした反論になっていないから、もっと頑張って欲しいのよねー。
>>830 = 807
>>「唐の劉徳高の帰国を送使したとする守君」ってのは、かなり大胆な仮定ですね。
>>紀の天智称制四年条では、徳高の帰国と大石の渡唐は別項建になっているのに、敢えて結びつけるわけですね。
是の月に、劉徳高等罷り帰りぬ。
是歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。(等といふは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。)
と、あるので、徳高の帰国と大石の渡唐は、もともと結び付けているようです。
そこを、807氏は『敢えて結びつけるわけですね』というのは、言い過ぎ、あるいは、お勉強不足ですよね。
837 :
日本@名無史さん:04/08/15 13:06
ロクに史料もない時代で妄想する前に、真っ当な歴史を勉強しようや。
839 :
日本@名無史さん:04/08/15 13:32
奈良以前の古代史って、アマチュア感覚で気軽に語れるからねえ。
敷居が低い分、言いたい放題って面は確かにある。
840 :
日本@名無史さん:04/08/15 13:48
>>839 そう、そこが問題。
今までの畿内一元史観や九州王朝史観は、さすがにアマチュア感覚とは言わないけど、
それぞれの史観における願望や思い込みで、言いたい放題なお粗末なものでした。
そこで、このスレでみんなが議論している方法の多くは、
まずは従来の説などの願望や思い込みを捨てて、
原点にもどって資料などを見直そうという動き。
また、従来見過ごしてきた資料内の記事を、他の記事や他の資料と共に見直すことで、
従来の史観では説明できていない多くの事項をクローズアップしてるようですね。
とはいえ従来の各史観でも頑張れば根拠持って説明できるかもしれないので、
妄想や言いたい放題ではなく、根拠をもって反論・議論が行なわれるといいですね。
結構良スレになりそうなんだが、アフォの
>>1が荒らすからなあ・・・。
まあ、こまめに削除依頼する人もいねえし、せいぜいスルーするしかないな。
漏れはNGワード使ってるけど。
パート3の
>>1。
>1 日本@名無史さん [] <04/02/27 18:32> 邪馬台とはすなわちヤマトの事?
>纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
>3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
>倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
>
>最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体をを推理する!
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/ このスレは、一貫して三世紀前後の事を話し合うスレです。
九州王朝を話し合うスレは別にあります。
843 :
日本@名無史さん:04/08/15 16:12
文献は少ない時代だけど、考古的資料は豊富にあるから制約条件は大きい
天皇陵も含め、系統的に調査、かつ弥生末〜古墳時代も古墳編年に頼らず
放射年代測定やれば、十分に立派な資料群がある。ちょっと金はかかるが。
文献を縦糸、出土物を横糸にすれば相当いろいろなことがわかるよ。
845 :
日本@名無史さん:04/08/15 19:54
門脇さんの本に、
継体ー磐井の記事の文章は、中国の歴史書からの切り抜き・張り合わせ
だってあったのを見た。うろ覚えですまないが。
それ以来、史書だからといって
うかつに事実とは言えないと思うようになった。
その世代の欠点は、方法論が無定見なこと。
都合のいいときだけ改ざんとか剽窃とか捏造とか言って、別の時にはそのまま利用したりする。
文献に対するスタンスが定まってないから、どんな大学者と言われる人でも信用できない。
847 :
日本史@名無しさん:04/08/15 23:07
842 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/08/15 15:43
パート3の
>>1。
>1 日本@名無史さん [] <04/02/27 18:32> 邪馬台とはすなわちヤマトの事?
>纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
>3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
>倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
>
>最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体をを推理する!
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/ このスレは、一貫して三世紀前後の事を話し合うスレです。
九州王朝を話し合うスレは別にあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
もういいって。スレ自体が死にかけてるのに。
馬 鹿 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。
848 :
日本@名無史さん:04/08/15 23:12
>>844 > 天皇陵も含め、系統的に調査、かつ弥生末〜古墳時代も古墳編年に頼らず
意味不明。土器による相対編年は使えるもので池沼な発言だな。
また漢式鏡から上限を知ることが可能。
> 放射年代測定やれば、十分に立派な資料群がある。ちょっと金はかかるが。
保存が良い試料しか使えないし、年輪幅が多く最外周まで保存されていないと
AMSを使っても正確な暦年を知ることは難しい。
AMS・年輪年代は土器編年に目盛りを入れるのが役目。
AMS(年輪年代)と土器編年の長所・短所を全く分かっていない池沼は恥ずかしい。
>>848 だからすぐ池沼とかいうのやめろ。
偉そうに言ってるけどやってることは荒らし。
>土器による相対編年は使えるもので
弥生の繰り上がりとの相互検証も手つかずの状態でよくいうよ。
>AMS・年輪年代は土器編年に目盛りを入れるのが役目。
こんなこと平気で言ってるの聞くと、文化財関係者ってつくづくカルトだと思うよな。
上手く洗脳するもんだよ。
>>849 AMSの結果が信用できるとされている理由の一つが、
土器の相対編年とAMSの結果に整合性があるということなんだが知っとるかね?
851 :
日本@名無史さん:04/08/16 00:39
>>849 地質時代を示準化石で相対編年をしておいて(カンブリア紀・ジュラ紀・中新世とか)
層位がハッキリしていて保存状態の良い試料で放射年代を測定して
絶対年代に換算しているのを、考古学に援用したものだ。
この位の事も知らない大ヴァカは黙ってすっこんでいろ。
852 :
日本@名無史さん:04/08/16 00:44
>>850 14C年代測定法を開発したリビー博士は1960年にノーベル化学賞を受賞した。
その翌年に14Cは使えるかどうかで激論をした考古学界はレベルが低すぎる。
しかも反日共産主義者の山内清男一派が14Cを押しつぶしたのだから
救いようがない。反日ブサヨや狂信国粋主義者は池沼と同類の屑。
>>851 土器の編年というのも、多くの場合信用に足る層位資料が元になってるのだが。
いったい何がいいたいのかね?
854 :
日本@名無史さん:04/08/16 01:01
>>853 はぁ? 土器編年に目盛りを入れるには年代測定試料の層位が
ハッキリしていないとお話にならないだろ。
>>854 もう一度、土器の編年を勉強しなおしておいで。
なんのために、良好な層位資料を使って年代の物差しを作ると思ってるんだね?
856 :
日本@名無史さん:04/08/16 01:33
>>856 今の場合、無意味。
なぜかは土器の編年の勉強すればわかるから、勉強してきたまえ。
悪いことは言わないから。
858 :
日本@名無史さん:04/08/16 02:13
>>857 おまいは漏れの発言とどこが違うのかハッキリさせろ
やれやれ。今度は土器馬鹿が湧いたか。
まあこういう連中が現場牛耳ってることがすでに絶望的なんだが。
なんで放射年代測定や年輪法が土器なんぞの物差しなのか説明して欲しいもんだな。
いわば絶対的測定値で、世界中どこ行ってもその二つだけで年代測ってるというのに。
何で土器のための物差しなのか説明してくれ。
何で土器のための物差しなのか・・・・・・・・
何で土器の(ry
860 :
日本@名無史さん:04/08/16 07:30
>>845 > 門脇さんの本に、
> 継体ー磐井の記事の文章は、中国の歴史書からの切り抜き・張り合わせ
> だってあったのを見た。うろ覚えですまないが。
せめて、その中国の歴史書とやらを示してもらえないでしょうか。
せっかくの情報ですが、資料や根拠が示されていないと、
残念ながらデンパな発言とされているひとたちと、変わらなくなってしまうのです。
ちなみに、継体ー磐井の記事の文章のうち、継体21年8月1日の前半部分、
継体と物部麁鹿火のやりとりの磐井が悪いので討てという理由の文章は、
芸分類聚からの切り抜き・張り合わせなのは有名ですが、単なるよくある漢文的修飾です。
それなのに、以下のあなたの文章は、磐井の記事自体を事実とは言えないとまで述べており、デンパと言われても仕方がないでしょう。
> それ以来、史書だからといってうかつに事実とは言えないと思うようになった。
861 :
日本@名無史さん:04/08/16 09:31
>>859 こいつは真性池沼だな。地質調査で年代を知る際も微化石を使うのが
一般的なのと同じで、土器の相対編年を理解できないこいつは低能。
862 :
日本@名無史さん:04/08/16 09:33
527年(継体21年)6月3日の記事に、
磐井は西戎の地を領有している、と、あります。
大和朝廷から見ると、九州は西戎の地という認識だったのでしょうか。
たしかにまだその当時は、五島列島から九州南部にかけて、
隼人の支配地であったことですし、差はあれど、辺境視していたのですね。
863 :
日本@名無史さん:04/08/16 11:22
864 :
日本@名無史さん:04/08/16 12:13
筑前国の初見は698年であり、
672年5月の郭務宗率いる唐軍撤収のあと、
大和朝廷の筑紫完全支配にともない、筑紫を分けて、筑前国と筑後国を設置したものと思われる。
さすがに、すべての各説派にとっても、
これ以降の時代については、大和朝廷一元支配であると認めるのではないか。
865 :
日本@名無史さん:04/08/16 12:27
王国はあったが朝廷の無かった大和に、九州系の天武が初めて大和朝廷を作ったということでしょう。
866 :
日本@名無史さん:04/08/16 13:41
>>863 横穴式石室なんて後世に中国文化が→半島→九州→本州と伝わったもの。
古墳時代前期〜中期の竪穴式石室は日本独自の概念で
巨大な墓は日本以外にエジプト・中国・メキシコでも作られたが
他の地域は石室を地表面以下に置くのに、日本は頂上付近に置くのが違っている。
867 :
日本@名無史さん:04/08/16 13:44
>>865 支離滅裂。ずっと以前に聖徳太子の使者が「日出処の天子」と自称しており
倭の五王を最後に中国から冊封をうけなくなっている。
868 :
日本@名無史さん:04/08/16 14:07
>>867は意味不明
推古天皇は男ではないし、妻もいない。聖徳太子の使者が「日出処の天子」と自称したことは無い。
九州王権は独自年号をもち、朝廷として畿内の上に君臨していた。
869 :
日本@名無史さん:04/08/16 14:16
>>868 古田爺さんの信者は池沼。考古資料も文献資料もまともに読めない。
古墳時代は畿内(中期前半までは+吉備)を中心とした前方後円墳体制が築かれている。
聖徳太子の頃に日本全体で一気に前方後円墳がなくなっており
代わりに中国風の方墳を採用するようになったように、統一的だ。
稲荷山、江田船山鉄剣と大彦伝承の係わりから四世紀の畿内と関東、九州の関係は推定できる。
871 :
日本@名無史さん:04/08/16 14:55
>>869は論理破綻
前方後円墳至高主義だと日本の中心は千葉県か岡山県。
大和なんか中心じゃありませんからそのつもりで。
なお、以下の大嘘が本当である証拠を挙げなさい。
>聖徳太子の使者が「日出処の天子」と自称しており
872 :
日本@名無史さん:04/08/16 15:25
>>871 池沼は話にならない。
巨大な前方後円墳は大和・河内・吉備に集中している。
隋書と日本書紀などの記述が一致している。
古田爺さんに騙されるような池沼には何も分からないようだ。
873 :
日本@名無史さん:04/08/16 15:49
隋書と日本書紀などの記述が一致というのはデンパでしょ。
だからといって九州王朝だと根拠無くいうのもデンパ。
もちろん大和朝廷だと根拠無くいうのもデンパ。
どちらも、きちんと説得力ある説明をすべきです。
874 :
日本@名無史さん:04/08/16 16:09
>>873 不可知論の場外乱闘に持ち込みたいお前がデンパ
「聖徳太子 隋書 日本書紀」でぐぐって各意見を比較してみろ
875 :
日本@名無史さん:04/08/16 16:42
宣化紀に出てくる阿蘇君ってのは、
筑紫君が筑紫の支配者だったから、阿蘇の支配者なのかな?
磐井の乱のあと、協力関係に入ったみたいだけども…
876 :
日本@名無史さん:04/08/16 16:50
>1 日本@名無史さん [] <04/02/27 18:32> 邪馬台とはすなわちヤマトの事?
>纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
>3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
>倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
>
>最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体をを推理する!
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/ このスレは、一貫して三世紀前後の事を話し合うスレです。
九州王朝を話し合うスレは別にあります。
877 :
日本@名無史さん:04/08/16 17:13
878 :
日本@名無史さん:04/08/16 17:56
>>877 「畿内王権一元史観」をデンパと吠えるお前がデンパ
879 :
日本@名無史さん:04/08/16 18:06
白村江の後に九州が唐に占領されたという説は、古田氏じゃないよ。
小林恵子っていう在日のキティガイ女が唱えている説だよ。
昔、「万葉集は韓国語で読める」という本を出した藤本という女が
いたけどこれは、実際は政治活動の一環で総連が4人くらいで
分担して書かせていたとのこと。
これもおおかたその類だろう。
880 :
古田信者うざすぎ:04/08/16 19:49
881 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:55
古田と小林恵子はどっちがアホですか
882 :
日本@名無史さん:04/08/16 19:57
>>881 一方はペテン師で、もう一方は北チョン工作員だろ
883 :
日本@名無史さん: