927 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/27(火) 08:38:10
東夷絶遠三十余国とは後漢書東夷伝倭の「使駅漢に通ずる者三十許国」であろうから、
晋書武帝紀の東夷三十余国の東夷とは、倭国のことである。
また、「義煕起居注」倭国、チョウヒ、人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。(『太平
御覧』香部一、麝条)とある。ここで倭国は人参(朝鮮人参?)を献じている。これこそ
周の時代に貢したという暢草であろう。つまり倭人はかつて半島南部に居住し、周に人参を献じたことが
あり、それをもとに、晋に人参を献じたのである。
白雉を献じた越裳とは晋書の西南夷のことであろう。
そしてその二十余国とは、後漢書東夷伝にある「会稽海外に東テイ人あり、分れて二十余国となる。」の
東テイ人であろう。
東テイ人に楽浪云々としなかったのは、この地が越の本拠である会稽の向いであり越人が住み、江南と通交していたからである。
928 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/27(火) 08:53:04
思えば、今から三十年前、古田武彦氏の著書で東テイ人を知り、今ここに東テイ人を
発見することができた。実に長い道のりであった。
929 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:22:43
257 :日本@名無史さん :2005/12/28(水) 01:08:54
●土器と貿易●
琉球で確認されている最古の土器は、爪型紋土器と呼ばれ、約7000年前のものである。
爪型紋土器は九州の縄文文化が伝わってつくられたもので、藪地洞窟遺跡、渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡で発掘されている。
また、縄文時代前期に本土でつくられたと見られる土器が出土していることから、この頃は九州と行き来があったようである。しかし縄文時代中期になると、
九州では山岳系の人々が権力を
握ったため海洋貿易は行われなかったらしく、輸入品らしきものは出土しない。後期は南部の影響力が強かったが、晩期には九州の影響は色濃く見られる。
山岳系の人々が権力を
山岳系の人々が権力を
山岳系の人々が権力を
258 :日本@名無史さん :2005/12/28(水) 01:17:01
というわけで、黒潮インドネシア文化圏は
ここでも崩壊っと。ボロボロだなあいつの説。
930 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:29:10
王朝・・・・・・・・・?
琉球王朝・・・・・ほか仮説があるのか?
立証できる仮説を称えた学者がいるのか?
931 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:53:32
要するに琉球は縄文前期に九州人が移住して先住の
湊川原人駆逐、融合した。
中期は交易がなされず、
晩期から弥生期に九州地域と交易再開したってことでは。
琉球の交易品から九州あるいは本州の権力動向が垣間見える気がする。
中期は山岳系が力をもち狩猟に精を出し、シカなどを乱獲し
生産力が低下。
その後、漁労系や商人の権力が増し内陸部では農耕に以降していった
というような感じじゃなかろうか。
シカ崇拝やシカ骨占いは縄文中期頃の風習の名残なのかもしれない。
932 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:58:46
立案できるだけのソースがあるのか?ないのか?どっち
933 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/28(水) 12:37:16
あのう、東テイ人馬韓南部説はいかがなのでしょうか?
934 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 13:46:30
現在そのあたりは未消化な部分でコメント出来かねます。
935 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/29(木) 19:54:06
世界歴史地図を見たら、漢が朝鮮をほろぼして置いた四郡のうち真番郡は、馬韓南部になっていました。?がついていたけれど。
秦韓の秦は真番郡の真からきたのか?
936 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/11(水) 20:04:03
937 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/11(水) 20:10:36
938 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:27:27
漏れは東日流外三郡誌の一件以来古田が出した九州王朝説には懐疑的
ガイシュツだがこんな話もあるしね
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm これは漏れの想像だが当時大和朝廷以外にも九州にも東北にも
大王はいたと思う。そして大和朝廷は九州の大王の一人が一旗上げようと
近畿に東征した。これが神武東征。先住民の協力を得て近畿の大王であるナカスネヒコを倒し
王朝を作った。これが大和朝廷の始まり。九州の大王はおそらく地理的条件から
中国とか半島と交流できたのだろう。ところが磐井の乱やらなんやらで
衰退して結局畿内王朝に併合されたのだろう。名前は忘れたが道後温泉の
石碑は道後温泉にいた大王の事を指しているのでは?
法皇とか名乗ってたけど当時大和朝廷以外にも大王はいたわけだから
大王がどう名乗ろうと勝手だったわけだし。もっともここの大王も
大和朝廷に併合されたのだろう
939 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/23(月) 12:17:45
>>938 >漏れは東日流外三郡誌の一件以来古田が出した九州王朝説には懐疑的
東日流外三郡誌の一件については同じくです。
九州王朝説=古田説=東日流外三郡誌説は間違い。
九州王朝説≠古田説=東日流外三郡誌説です。
古田は、「九州王朝」の言葉を作り出した人であり、九州説の有力なone of them。
>九州の大王の一人が一旗上げようと近畿に東征した。これが神武東征。
神武は将来に希望が持てなくなった北部九州糸島の小集団の一員。
>先住民の協力を得て近畿の大王であるナカスネヒコを倒し王朝を作った。これが大和朝廷の始まり。
先住民を騙して、奈良盆地南東部に一画にやっともぐりこんだ。
>磐井の乱やらなんやらで衰退して結局畿内王朝に併合されたのだろう。
白村江戦に敗れ、唐に占領されたことにより、
唐の従属政権となった九州王朝の天武(討伐隊長)が東征。
(天智は九州王朝の反唐派リーダー。対唐敗戦により志賀の海に面した大津に首都移転か?)
>名前は忘れたが道後温泉の石碑は道後温泉にいた大王の事を指しているのでは?
>法皇とか名乗ってたけど当時大和朝廷以外にも大王はいたわけだから大王がどう名乗ろうと勝手だったわけだし。
法皇はタリシホコ(法興の元号を持つ)のこと。
法皇:九州王朝弟王(法で治める実務の大王)
天皇:九州王朝兄王(神により治める宗教的大王)(祭=政:マツリ)
>大和朝廷に併合されたのだろう
九州王朝を併合したのは文武。
古田を弁護も攻撃もする気はないが、
>>939 >東日流外三郡誌の一件については同じくです。
なんでそう思うの?まさか山本弘と同レベルの根拠じゃあるまいね?
941 :
筋違い:2006/01/25(水) 11:29:42
東テイ人馬韓南部居住説について
サガミハラハラ氏は、上記について論衡をひいて説明しているのでそのことについて一言。
周の時代に倭人や越裳が貢献したとすれば、殷の時代にすでに越人は半島に移住していたことになり、時代的にはやすぎるようだ。
漢書王莽伝に
「大后統をとること数年、恩沢洋溢し、和気四塞せり。絶域・殊俗、義を慕わざるはなし。
越裳氏は重訳して白雉を献じ、黄支は三万里より生犀を貢し、東夷の王は大海をわたりて国珍を
奉じ・・・」とある。ここに再び越裳が出てくる。
論衡は後漢の王充の著である。岩波文庫の魏志倭人伝p18に、論衡等をあげて、「これらを周代の倭人に関する知見ちはかんがえられぬから、まず、西暦起源前後に、中国人の倭人にかんする
ほぼたしかな記事があらわれたとみるべきであろう。」とある。
となると、論衡の記事の、成王等の年代はでたらめであり、漢の時代のことであるということに、ならないだろうか?
そうすると、考古的にもピッタリくるようである。
勿論これは年代のみの問題であり、馬韓南部に東テイ人が住んでいたことを否定するものではない。
942 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/25(水) 23:09:22
>>840 伊勢神宮の星マークはユダヤ人がもたらしたものだとは思いません。
943 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:13:34
村上水軍
944 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:07:52
>>942あのマークはある華族(だったか)の方が、面白半分というか深く考えずに奉納し、
神宮は意味がわからず飾ったということです。奉納した方はそのことで上司にこっぴどく叱られたということです。
945 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:47:57
>>939 レスサンクスコ
つまり九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Yさんは古田が言う九州王朝一元説ではなく
朝廷が九州と畿内にがあったと言いたかったわけね。だとしたら九州王朝だと
古田説と混合してしまうから「九州朝廷」という名前にしたらどうだい?
そっちの方がしっくり来ると思うけど。ただオイラは川村氏が言うように
倭国は日本国という別名を持っていたという方を支持するよ
倭国ってのは元々中国が日本を蔑視するための名称なわけだし
あと九州王朝が唐に占領されたってのも支持できないな
こんな話があるわけだし
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/to660/shujyou.html 天武は唐に占領されて傀儡になったと言うより唐の手先だったと
言うのが正しいんじゃない?
>>942 ユダヤ人(セム・ハム語族)と日本人(ウラル・アルタイ語族と
チベット・ビルマ語族、オーストロネシア語族の混合)じゃ文法も
言葉も違うのでその意見には賛成
946 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:59:52
倭の五王と歴代天皇が納得行くように一致させない限り、九州王朝説を
完全に否定すんのは難しくないですか?なのに何でいまいち表舞台にでてこんのやろ?
『武』=神武です
948 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:45:46
五王
関羽 張飛 趙雲 馬超 黄忠
949 :
太国:2006/02/01(水) 19:03:36
別人だから死ぬまで合わせようと骨を折っても一致することはない。
それを試みてずっと続ける事は(王何〜)オナニーの連続と似たもの同士なり。w
950 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:12:56
小国連合で勢力のある中から順次王にしていたかもよ
951 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:20:40
>>950 それは無い
それだったら卑弥呼の時のように、書に記すはず
952 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 14:57:38
953 :
太国:2006/02/09(木) 23:38:37
畿内説はオナニー説。
そのうち、「畿内」は「機内」の字の間違いなどと言い出しかねないぞ。w
954 :
太国:2006/02/11(土) 13:46:34
畿内説の連中は『壱』字をきらうのか?w
そのうち、「九州」は「丸州」の字の間違いなどと言い出しかねないぞ?w
955 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 17:55:45
>>945 664年白村江敗戦以降の情勢
天武は九州王朝の親唐派、宗像君(タリシホコの出身氏族)を支持。
天智は九州王朝の反唐派、対唐主戦派。
畿内在地勢力(奈良)を避け、畿内滋賀に本拠を置く。[大津京第二倭京(大宰府)説有]
九州王朝の実務部隊の分裂です。
九州王朝兄王及び弟王(薩夜摩等)は在九州。
956 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 12:44:05
>>955 実務部隊が分裂してそれで天武が勝利して天武系天皇が九州王朝を
併合したというのはなんかしっくりいかないな。もし実務部隊が
本命を併合するならば九州王朝も抵抗して内戦になるはずだが・・・
それに九州王朝を示す資料が中国の史料しかないというのも気になる
もし九州王朝があったならば必ずなんらかの史料があるはずだ。全て
燃やしてしまったなどという彼の国みたいな話はどう考えてもありえん
これは俺のあくまでも妄想だが畿内王朝(天皇)は宗教上の祭祀を司る地位であり
九州王朝は政治を司る地位にあったのではないかと思うのだが
そんで九州王朝の方は後継者がいなくなって文武天皇の代に併合されたと
957 :
太国:2006/02/18(土) 13:03:01
文武の時代頃に九州王朝は滅亡した。
958 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/18(土) 15:35:31
>>956 持統期から文武期(695〜698年)に畿内王朝は九州に攻め込み内戦状態になった。
畿内王朝は先ず豊に攻め込み次いで、筑紫、肥、大隈へ順次征服を進めている。
九州王朝をほぼ制圧した段階で文武が即位。
残存九州王朝勢力は、薩摩からの反撃を試みるが、隼人の裏切りにより698年崩壊する。
隼人は九州王朝壊滅の功により、当時の畿内の中心地(大阪市北区中央区近辺)の北側(新大阪駅近辺)に招待され、
畿内王朝の歓待を受けている。
なお、九州王朝残党狩りは717年まで続いている。
以上は続日本紀に全て詳細に書かれている。
九州内での戦闘は、政治背景無し事実として、九州王朝の片鱗を示す言葉は抜きで書かれているが。
古事記編纂開始時期は、政治的組織的九州王朝の抵抗が壊滅した時期と符合し、
続日本紀編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
祭政が二重構造となって分離していたのは九州王朝です。
兄王が宗教的に治め、弟王が法に基き実務をした。
弟王であるタリシホコは、法皇と呼ばれ、法興と呼ばれる元号もありました。
959 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/19(日) 17:18:15
>>958上記間違い修正
誤:「続日本紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
正:「日本紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
追記
畿内天武朝が九州王朝領域全体の制圧完了により、
日本書紀編纂だけでなく(九州王朝「日本書」の焼き直し)、風土記も必要となり同時期に編纂開始に至ったわけです。
畿内王朝の「風土記」は九州王朝「風土記」の焼き直しと見えます。
960 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/19(日) 17:21:25
再修正
誤:「日本紀」
正:「日本書紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
961 :
太国:2006/02/25(土) 07:29:06
「青い影」という曲があったな。原題は確か「白真珠の煌き」とかいう曲名
だったと思うが・・・? いささか記憶が薄らいでる。w
当時、宝玉類は九州、本州、四国いずれで産しようと、結局大陸に搬送するのは
北九州を通ってから大陸に向かうのが本筋だから、畿内周辺でそれらを産出して
も、結局はイト、ナあたりを通過することは九州説でも、十歩譲って畿内説だと
しても、いずれも同様に北九州に一時宝玉類が滞在することになる。
だから、九州に採れなくても九州説は否定出来ない。
女王国は九州にあったことは間違いない。w
962 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:20:56
ガイシュツかもしれんが
天智も天武も畿内王朝の天皇と記紀では記されてるいるが
天智の母親はもしかして九州王朝系だったかもな
天智の対唐・新羅強硬路線はアメノタシリホコ(でよかったのか?)の
対隋自立(柵封体制からの脱却)とオーバーラップする
逆に天武は皇極天皇が新羅系だったことから朝鮮系だったかもしれん
ま、両者の祖先の欽明天皇が九州系だから簒奪とは言えんがな
そんで目の上のたんこぶの九州王朝を併合したと
一種の下克上だな。その天武朝も最終的には天智系に奪還されたが
ちなみにこっちのサイトは九州と大和の関係が掲載してておもろいよ
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/index.html ついでに言うと継体天皇は先住民系だったかもしれないね
出自が越前ってのが気になる
>>961 そう言えば九州王朝は女王国ではなく奴国が起源らしいが女王国は
どうなったの?
963 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/27(月) 13:14:33
奴国(金印奴国)はただしくは委奴国で女王国と同一国です。
964 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:15:02
965 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/27(月) 19:30:35
>>964 >「邪馬台国の発祥地は壱岐」新説
新説ではないのでは?
古田武彦氏が30年位前に述べていた様に思う。
委国
対馬が発祥の地
壱岐が発展の地
966 :
太国:2006/02/27(月) 19:39:48
>>962 女王国は畿内での神功世の前後ころ、九州にありました。
九州王朝の系ですな。系の途中でなくなっていますよ。
967 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/27(月) 19:54:51
倭面土国は委前奴国(イマエド国)の意味で前原等の糸島半島から博多湾岸一帯を本拠とする国であると考えていますが、
その王である帥升の墓が前原近辺にあって当然であるとかんがえます。
倭国王帥升の王墓は決定されたのでしょうか?
なに?
イェマド文明?
どっかのファンタジー小説に出てきたフィクションだろ
969 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 08:23:20
そういえば、古田氏はあのあたりに前っ君なる王者がいたといってたっけ。
970 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/28(火) 16:29:28
景行記にでてくる前君は肥の王者(弟王)と思うよ。
九州統一時期には前原糸島は没落している。
971 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/28(火) 21:13:40
行路記事のはっきりかかれている邪馬台国が決定しないのに、史上チョコっとしか出てこない倭面土国
の場所がほとんど糸島半島あたりで異存がないのはなぜでしょうか。
972 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:16:30
九州"王朝”とか妄想もほどほどに
九州に広範囲の統一国家があったなんて証拠があるか?
九州には畿内勢力が及ばない独立国があったとか
九州の一部の国は大和朝廷とは別に中国等と独自に外交を行っていたとか
そういう冷静で謙虚な意見にとどめておけばまだかわいいけど
973 :
太国:2006/03/01(水) 22:36:41
妄想ではないです。ただ「王朝」の文字がまずいというのなら話は別ですがね。
これはおおざっぱに言う名称なんでしょう。
まあ、畿内の王権に従わなかった国があり、
天皇とは別の王を戴いていたという可能性なら高いだろうね。
975 :
通りすがり:2006/03/02(木) 00:41:56
九州王朝の王族は、姫氏(紀氏)ではないかという説がある。
976 :
通りすがり:
倭の五王を輩出した松野連の系図では、姫氏(紀氏)は持統の時代に名を変えられ
たようだが。松は木へんに公。木(=姫=紀)の公(君)