「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)

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本スレです。立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
荒らしは徹底無視の基本方針でお願いします。

過去スレ:
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1064621137/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか11)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1055945631/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか10)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1036881177/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか9)
http://academy.2ch.net/history/kako/1031/10312/1031263845.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか8)
http://academy.2ch.net/history/kako/1026/10267/1026730130.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか7)
http://academy.2ch.net/history/kako/1022/10227/1022789816.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか6)
http://academy.2ch.net/history/kako/1002/10027/1002714692.html
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか5)
http://mentai.2ch.net/history/kako/994/994297399.html
「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか4)
http://mentai.2ch.net/history/kako/989/989770230.html
邪馬台国はどこですか2
http://mentai.2ch.net/history/kako/983/983026206.html
邪馬台国はどこですか?
http://mentai.2ch.net/history/kako/979/979141322.html

西都である証拠。>>2

21:04/06/22 14:31
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
  9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
 政治的にある意図が感じられるのである。
31:04/06/22 14:34
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
  コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
  記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
  コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
  一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)

まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。


4日本@名無史さん:04/06/22 14:42
前スレでも書きいたが
陳寿が三国志を書いていた時、まだ晋と邪馬台国の交流は続いており、
邪馬台国の情報は(少なくても政府の要職にある)晋人の中で常識だった。
倭人伝が一人や二人のいい加減な情報を元に書かれたなどと推測する事は
愚の骨頂。
したがってそれほど間違った情報がある筈もなく、魏志倭人伝の記載は
大筋において正しいと言う事を前提に議論すべきである。
大袈裟とか、勘違いとかはほとんどない。ただし、写本を幾度も繰り返した
ために多少転写ミスがあった可能性は排除できないが。

間違いが多い事を前提に話をしては青森やエジプトが邪馬台国になってしま
う。
倭人伝の記述は非常に省略されていて、現代の我々には理解に苦しむ事でも
当時の人にはちゃんと理解できる事で決して間違った記載ではなかった。
5日本@名無史さん:04/06/23 02:29
邪馬台国は西都原じゃないの?
6日本@名無史さん:04/06/23 18:53
西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
>当時日本の都だった出雲からみて『西の都』だよ。そもそも西洲の西はどこから見て西なのか考れ。

「魏志倭人伝」と日本の文献を合わせて考える。


スサノヲを中心とする出雲王朝が建国される。

スサノヲが日向王朝(邪馬台国=やまと国)に進行。合併>倭国大乱

スサノヲの第五子、大歳、現在の大和に進入、
ナガスネヒコの妹を娶り大王位に就く。「饒速日」と名乗る。(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命=大物主)
その地域を日ノ本と名づける。(日本書紀)>『饒速日命、天磐船に乗り、太虚をめぐりゆきて、
この郷をおせりと天降りたまうとき、名づけて虚空見日本国という』

饒速日の死後、日向王朝が独立を宣言。女王、大日霊女貴命(オオヒミコ<現在の天照大神>)、立つ。>倭の女王、卑弥呼
出雲王朝、日向王朝により占領される。>いわゆる出雲の国譲り

日向と日ノ本、膠着状態が続き合併論が出る。
日向側、大日霊女貴命の孫、イワレヒコを日ノ本に送り、饒速日(大物主)の娘を娶る。イワレヒコ(神武天皇)即位。(古事記)

倭(和)に美称の大を付けて「大和」でやまとと読ませたり、日本と書いてやまとと読ませるのはここらへんの事情から。

>神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
彼らの祖がどこから来たかはわからないが、彼ら自身が朝鮮から来たのではない。

>卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
日向王朝は円墳。出雲王朝は方墳。合併王朝である大和朝廷が前方後円墳である。
7日本@名無史さん:04/06/23 23:11
<旧唐書、日本伝>
日本国は倭国の別種なり。
その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
 
 >日本と倭国(邪馬台国)は合併した。

  結論:魏志倭人伝の邪馬台国は九州(日向)地方。
      後に邪馬台国(やまと国)の名前は近畿圏へ移動。大和(やまと)朝廷発足。
8日本@名無史さん:04/06/24 00:02
>記紀を天皇制に結び付けたい気持ち
これは全く逆、記紀は持統天皇と藤原不比等によって大幅に改ざん
されてはいるもののある程度、真実を語っている。

その日本の『歴史・史実』を『神話』の中に封じ込めたいから発掘調査を禁止している。
(天皇の威厳が損なわれないよう曖昧なままにしておきたいため)

 日本という国が天皇の祖先でなく物部氏の遠祖、饒速日命によって建国されたこと。
 神武天皇の大和入りは武力制圧でなく婿入りであったこと。
 本来の日本の太陽神・天照神(アマテル)は饒速日命であること。
 現在の天照女神が持統天皇(女帝)による創作であること。
 皇祖神(卑弥呼)が魏に朝貢していたこと。
 などなど数え上げたらきりがないね。
9日本@名無史さん:04/06/24 00:40
もうなんて言うか、邪馬台国が半島にあったとしても驚かないね。
建国神話に半島のことが出てこないのは(出てこなかったよね?たしか)
半島が普通に日本の一地方にすぎなかったからで、意識的に隠蔽したのでは
なく単に取り上げる必要がなかっただけだろうと。
渡来人?在半島「日本人」が「国内」で引っ越しただけ。
ビザもパスポートも必要なかった。でどうよ?
10日本@名無史さん:04/06/24 01:29
>>9
>もうなんて言うか、邪馬台国が半島にあったとしても驚かないね。
驚くでしょう?倭人伝の水行二十日などの記述などから判断して半島はありえない。

>建国神話に半島のことが出てこないのは(出てこなかったよね?たしか)
残念・・・ありますね。
『日本書紀』によると「スサノヲが高天原を追放されたとき、
我が子の五十猛神を連れて新羅の国に天降った。
曽尸茂梨という所にいたが、そこには居たくないと言って、土で舟を造り、
それに乗って東の方に渡った。そして、たどり着いたのが出雲の国の簸川
の上流にある鳥上の山だ。」とある。

よってスサノヲを新羅から出雲への渡来人とする説もあるが、
この記述は、日本書記の編纂当時に敵国視していた新羅を挿入したとの見方もある。
(古事記には書いてない。)
島根県平田市平田町にスサノヲを祭った「宇美神社」があるのでスサノヲは
そこで生まれた可能性が高い。スサノヲの祖が新羅から来たのかも知れない。

>渡来人?在半島「日本人」が「国内」で引っ越しただけ。
>ビザもパスポートも必要なかった。でどうよ?
たしか半島南部に倭種がいたとの記述を見たように思ったが
邪馬台国の『場所』とは関係ないんじゃない?

全体的に何が言いたいのかわからない。
11日本@名無史さん:04/06/24 02:04
またか








西都馬鹿か
12日本@名無史さん:04/06/24 02:05
西都くんは













単なる嵐
13日本@名無史さん:04/06/24 02:06
年間100スレ立てて















西都宣伝
14日本@名無史さん:04/06/24 02:07
もう要らん












西都スレ
15日本@名無史さん:04/06/24 02:07
対話のない

















西都マンセースレ要らん
16日本@名無史さん:04/06/24 10:49
マキムクよりサイトのほうが有望だと思う。

よってage
17日本@名無史さん:04/06/24 14:08
同感。どっちが荒らしでどっちが議論してないかは見ればすぐわかるしな。 自分の意見とあわないからと理由も述べずに荒らしてsageるのは良くない。
18日本@名無史さん:04/06/24 14:11
同感。それに議論なしの荒らしがどちらかなのは明らか。
19日本@名無史さん:04/06/25 19:30
邪馬台国=西都(九州)の確認

倭人伝の最後に出てくる中国の張政という人が邪馬台国を訪問したのはそれから40年も前の事である。
陳寿という人物は、一回も倭に来た事がない。40年前の話を聞いて書いた最初からでたらめな里数や日数である。
日数にこだわって方角を捻じ曲げて邪馬台国を近畿などという輩は脳が腐っているのである。
普段、朝鮮と往来のあった筑紫の国(奴国)付近までは正確であったがそれから南には
中国人も朝鮮人も来る機会はなかった。そもそも距離を日数で正確に示す事など可能であろうか?
その土地土地の事情で1日に移動できる距離は変わってくるし
また同じ陸地内でも歩行したり船で移動したりするのはごく自然な事である。
よって水行(長い)、水行(短い)、陸路という記述は信用してよいと考えられる。
それから方角についてであるがこれは数字と違って正確に伝わるというのは移動という手段の上でも常識である。
昼に太陽の方向を見れば、夜に北極星や北斗七星を見れば間違える事はないのである。
20日本@名無史さん:04/06/25 19:30
「南、投馬国に至る、水行二十日」
その通り進んで行くと中津、宇佐周辺になる。
中津には邪馬台国時代に「豊の国」を治めたと思われる大役人(一大率)を奉ったと思われる
太祖神社があるので若干の見当がつく。もちろんこれは推測の域を出ない。
次に、「水行十日、陸行一月」。西都が邪馬台国であれば水行のみで西都まで行けそうなもんである。
なぜ途中から陸行に変わったか。それは現地と推定される大分県の佐賀関(豊後水道)が
狭く、暗礁があり、海流が速く、船の往来が非常に危険だからである。
次に、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、七万戸ばかり、女王国より以北、その戸数、道里は略載すべきも、
其の余の旁国は遠絶にして、得て詳らかにす可からず」
(女王国に行く過程である女王国より『北』の戸数などを省略する。)
*方向の記述に間違いがない証拠。いくら頑張っても近畿には到達しない。
「次に斯馬国あり、次に己百支国あり、次に伊邪国あり、・・・次に奴国あり、これ女王国の境界の尽くる所なり」
と、二十一ヶ国が国名のみだらだら書かれているがこれは説明の余地もなく奄美二十一島である。
21日本@名無史さん:04/06/25 19:32
                     |
                     |  本州  
                      \__________
              |
              |              東の方のことなんて知らねぇよ。
           (南)↓             「女王国東渡 海千余里 復有国 皆倭種」
            投馬国          _____
              |
              |          | 
              |   |     | 四国 
              |   |      _____
           (南)|   |
              ↓   /
           邪馬台国(西都)=古墳群密集地帯
          ____/

          〇 〇
          〇
         〇  ←奄美二十一島
       ∴∞ 
      ∴〇
       ←女王国境界(現在の鹿児島県の県境に同じ) 
 / ̄/ ← 狗奴国(球磨国)「男子を王となす、女王国に属さず」⇒【琉球王朝】
  ̄ ̄ 
22日本@名無史さん:04/06/25 19:33
狗奴国の説明として「其の『南』に狗奴国あり」
西都からさらに南に南に移動すると現在の自然に琉球に行きつく。何の矛盾も疑問もない!
「男子は大小もなく、皆 鯨面文身す」
鯨面文身は海洋民族と狩猟民族がするものでる。蝦夷には鯨面文身の風習があったとの記述もある。
仮に邪馬台国を近畿とし、狗奴国を近畿以西としても矛盾はなくなる。しかし・・・
「断髪、文身、以って蛟竜の害を避く」

蛟竜とは≪ハブ≫の事である。

もう畿内説がオナニー以外の何物でもないのはおわかりだろう。
ついでに「其の地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし」
仮に狗奴国を東北にまでもっていっても牛、馬、がいないと言うのはありえない。
いや、いなかったと言う畿内バカも
「有無する所、タン耳、朱崖に同じ」(有るものと無いものは、台湾と海南島に似ている。)
もう、説明もいらないと思う。
23日本@名無史さん:04/06/25 19:38
特にお笑いなのが邪馬台国が九州なら近畿の巨大勢力を隠蔽して『倭王の称号』を貰うのは不可能とか言う低脳。
「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、たちまち南したちまち東し、
その北岸狗邪韓國に至る七千余里。」と、女王国への道のりを『倭に至るには・・・』と
倭と女王国(邪馬台国)を同じ物としてとらえているのである。
朝貢してきた倭国(邪馬台国)の女王に倭王の金印を渡した。たったそれだけの事である。何がおかしいのか?
少なくとも邪馬台国は九州の倭国連合の代表国でるから『親魏倭王』の金印を貰ってもなんの不思議も疑問もない。
倭人伝は正直に海の向こうの東にも倭人の国があるらしいが詳しくは知らん。と記載しているのである。
隠蔽もクソも知らないのだから知らなのだ。魏にとって当時、辺境の倭などその程度のもんである。
それ故の『倭人伝』ではあるまいか。


とにかく畿内厨は魏史倭人伝を読んでない!!


大和で遺跡が見つかると何の根拠もなしに「ここが邪馬台国だ〜!!」と、オナニーを始めるのである。
もう、どうしようもない。言うなれば邪馬台国畿内説教徒とでも言うべきだろうか?
中には真面目に議論している(論理的で感情的でなく尊敬できる)人もいるが、大抵の者が九州説(西都説)に
反論の余地がなくなると掲示板を荒らすという行為しか行えない。
やはり自分の出身地や出身校の所在地にこだわってるのだろうか・・・そんな者に歴史を語る資格なし!!!
何かしらの政治的思想がからんでいるのだろうか・・・。いわゆる工作員の臭いがする。
24日本@名無史さん:04/06/25 19:39




さぁ畿内厨は反論してみよう!それとも また 荒らすのかい?プッーーーーーーーーーー!


25日本@名無史さん:04/06/25 20:10
仮に邪馬台国を近畿とし、狗奴国を近畿以西
>誤記 仮に邪馬台国を近畿とし、狗奴国を近畿以東
あたしゃ九州説に賛同ですがw
27日本@名無史さん:04/06/25 22:31
いわゆる邪馬台国は

北九州糸島や熊本菊地、甘木、大宰府と、何回か遷都した。

                            一回も西都に遷都したことはないが。
28日本@名無史さん:04/06/25 23:31
>>27
その根拠のない自信に乾杯w
29日本@名無史さん:04/06/26 01:41
南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行十日。陸行一月

「水行+陸行」 ではとんでもないところに行き着くが、
「水行なら十日、陸行だと一月」
であればどこへ行ける?
まさか西都?
30日本@名無史さん:04/06/26 10:51
畿内説でも色々ありますからね。
北九州から畿内は行く航路は複雑なので「東」と「南」を
間違えたんじゃないかと思います。
「全体的に東を南と間違えている」みたいな、畿内説はおかしいと思う。
ましてや、狗奴国が東海地方というのは、考古学的に見ても成り立たない。
31日本@名無史さん:04/06/26 13:16
ちょっと質問なんですけど、九州説の人は短里をもちいてとりわけ原文改定などせずに
邪馬台国を九州としているわけですけど、近畿説の人はどうやって邪馬台国を近畿に
もってくるんでしょうか。僕は約5倍に誇張してると思うので、1/5にして九州にもって
くれば良いと思います。近畿説のひとはどうやるんですか?

32水行10日+陸行・・・(省略)総計1月:04/06/26 13:20
船で水行10日で熊本。そこから陸行17日で西都。
つまり伊都国から西都まで総計1月。
これこれジョンイルさんよ、
西都の「都」の字が首都を示すというなら、
「伊都」はどうなるなるんだえ?
34日本@名無史さん:04/06/27 00:21
西都馬鹿によれば、都で終わる地名は、必ず首都だったんだそうだ w
35日本@名無史さん:04/06/27 00:28
倭人伝に見る里数の解釈
>>普段、朝鮮と往来のあった筑紫の国(奴国)付近までは正確であった

七千余里。千余里。方四百余里。千余里。千余里。

陸行五百里にして、伊都國に至る。
百里。
東行して不彌國に至ること百里。
水行二十日
水行十日
陸行一月


筑紫の国あたりまでは正確に○○ ”余” 里の記述が多数あり
正確に里数を把握していたものと思われる。

それ以降はかなり適当。
水行二十日
水行十日
陸行一月
全て区切りのいい数字ばかりである。もし『正確』に記述されてるなら
水行十七日、水行九日、陸行二十一日など半端な数があってもおかしくはない。
>>40年前の話を聞いて書いた最初からでたらめな里数や日数である。





36日本@名無史さん:04/06/27 00:32
倭国にて実体験できた地理は距離としてかなり正確だが、
倭人から伝聞した地理は、倭人流「所要時間」単位となった。
37日本@名無史さん:04/06/27 00:33
1はスレ立てしていなくなってしまったが・・・

伊都国と西都の決定的な違いは

京都
西都
=====
超えられない壁
=====
伊都国
宇都宮

最後に「都」という文字がつくのがポイントだってさ。
西都派の俺もどうかと思うが・・・。
38日本@名無史さん:04/06/27 00:47
私も、西都派なのだが、
>>3 に、西都だと記紀に結びつかない
みたいなこと書いてあるけど、逆じゃね?

記紀の冒頭の舞台って、思いっきり日向じゃね?
39日本@名無史さん:04/06/27 00:57
卑弥呼(女王国)時代の邪馬台国が西都
神々の高天原が展開された時代の邪馬台国は日向
と、解釈出来ない事もない。
邪馬台だって大和朝廷のように国王の宮を少し移動させてても不思議はないと思う。
・・・厳しいか?
40日本@名無史さん:04/06/27 01:01
>>39
いやいや、西都って日向にあるんだよ。
何も修正する必要が無い。

近くには、高千穂山とか
思いっきり記紀の舞台そのまま。
41日本@名無史さん:04/06/27 01:10
高千穂って西都内なの?そのズレの説明と思って勘違いしてた。1の言うのは賛同できない。
やはり神々の高天原が展開されたのは日向方面で記紀の裏づけになりますね。
42ものしり:04/06/27 01:17
「西都原」はもともとは「斎殿原」(サイトノハル)と呼ばれていた。
「斎殿」とは「心身を清め神に仕える祭司儀礼を行った神殿」の意であるから、
卑弥呼が居住した場所として最適なのである。
43ものしり:04/06/27 01:24
日高正晴によると、西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚の東側にある広い平坦地に「斎殿」があったのではないかと言っている。
44日本@名無史さん:04/06/27 01:27
おお!それは初めて聞いた。
たしかに西の都より説得力あるな。
>>卑弥呼が居住した場所として最適
近畿にはこんな名前ないな・・・きっと。
45日本@名無史さん:04/06/27 01:30
しかしこうなると、卑弥呼=日霊女が信憑性を持つと思わないか?
46日本@名無史さん:04/06/27 01:43
俺、男狭穂塚か女狭穂塚のどちらかが、卑弥呼の墓だと思うんよ。
ニニギとコノハナサクヤの墓って事になってるらしいけど
神代紀には「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」
って書いてるもんな。なんらかの政治的隠蔽が感じられる今日このごろ。
なんだか厳重警備みたいやし。
47日本@名無史さん:04/06/27 01:56
>>38

「筑紫の日向の高千穂のくしふるだけ」というのは
福岡県内ですが何か?

>記紀の冒頭の舞台って、思いっきり日向じゃね?
48日本@名無史さん:04/06/27 02:05
記紀の時代に日向と呼ばれていたんならそれでいいんでない?

でもやっぱニニギは筑紫の日向で死んで河愛山に埋葬されたんだよー!!

男狭穂塚か女狭穂塚は卑弥呼(今に言う天照大神)の墓だーーー!
たぶんでかい方>男狭穂塚
49日本@名無史さん:04/06/27 02:08
邪馬台国と伊都国が合併して大和
>>48
それはあなたの思い込みです50げと
51日本@名無史さん:04/06/27 02:20
そうだな・・・たしかに男狭穂塚の被葬者が、ニニギではないという証拠があったにせよ
勝手に卑弥呼の墓にするのはいかんな。近畿厨と同じだよね・・・反省。
52日本@名無史さん:04/06/27 02:21
>>47
取りあえず、今、宮崎県の
日向の高千穂町にも串触(くしふる)峰はあるよ。

卑弥呼の墓は(宮崎県の)天岩戸神社とかじゃないのかな。
神社なのに、妙にコンモリしてたりしない?(>地元の人)
>>51
あらま西都馬鹿じゃなかったんでしたか・・・こりは失敬。
54日本@名無史さん:04/06/27 02:28
いや、西都馬鹿だよ。
邪馬台国は絶対に近畿にはない。断言していい。
北九州も苦しいと思う。やはり日向方面と思う。
ただ、一応道筋は立てて発言してるつもりだよ。
55日本@名無史さん:04/06/27 02:31
邪馬台国は岩手だって
56日本@名無史さん:04/06/27 02:36
お?畿内厨いるのか?
今更マキムク厨が馬鹿とか中傷してても焼け石に水だろ
つか、サイトが憎いなら一度サイトを真面目に掘り下げて議論してみれば?
ボロボロ穴は出てくると思うぞ。
まあ、マキムク厨は掘り下げる知識も能力も無いだろうが(だから中傷や荒らしに走る)
おーし、じゃあ邪馬台国は畿内にあったと仮定してみようか。
58age:04/06/27 12:37
>>「西都原」はもともとは「斎殿原」(サイトノハル)と呼ばれていた。
「斎殿」とは「心身を清め神に仕える祭司儀礼を行った神殿」の意であるから、
卑弥呼が居住した場所として最適なのである。

↑お見事!
59日本@名無史さん:04/06/27 12:43
とりあえず卑弥呼の墓が円墳であることに異議なし。
240年代死去となれば卑弥呼は少なくとも弥生時代の人。
畿内説は卑弥呼の墓が前方後円墳であるというがそれでは古墳時代の人になってしまう。
しかも大規模な前方後円墳(例 箸墓)なら古墳時代中期!
畿内ばかが卑弥呼が古墳時代の人であったと主張するのはおかしい。
畿内の東に海なんかあっただろうか?
60日本@名無史さん:04/06/27 12:47
俺的・西都が有利な点

・倭人伝と距離方向風俗など完璧な一致
・記紀伝承の異常な宮崎偏重
・充実した古墳群、卑弥呼の墓と規模が一致する円墓もあり
・当時の人口分布では九州北部中部と並んで宮崎が異常に人口が多い
61日本@名無史さん:04/06/27 12:55
伊都国のボスが神武天皇といえばウヨはキレるか?
まあ、鹿島に加担はしないが伊都国と熊本のタラバ国と日向の安羅国(西都の邪馬台国)
が「邪馬台国連合」を組んだのが正直なところ。

日向地方全部が邪馬台国なら戸数から人口30万人が推察されるが東に海があるしドンピシャだな。
62日本@名無史さん:04/06/27 12:57
俺的・邪馬台国の概要

・連合は「筑紫」「豊」「日向」を基盤にし「薩摩」とは戦争状態に無いか同盟
・「肥」とは戦争状態
63日本@名無史さん:04/06/27 12:59
>>九州北部中部と並んで宮崎が異常に人口が多い

古墳の密度から日向が九州島のなかで当時一番人口密度が高かったと
推察されるけど。
64日本@名無史さん:04/06/27 13:02
>>ボロボロ穴は出てくると思うぞ

大体西都はどうして宮内庁が発掘調査(1割以下は調査されたらしいが)させないの?w
65日本@名無史さん:04/06/27 13:07
>>64
天皇家の墓は簡単に調査さててくれないよ
つまり
調査させない事が図らずも
西都=卑弥呼=アマテラス=天皇家 
ということを物語っている
66日本@名無史さん:04/06/27 14:42
卑弥呼≠天照 ぐらい気付けよ

天照の孫(ないし子)がニニギの命であり、
その300年ぐらい後の首長が卑弥呼。
だから生まれた年が350年以上違うと思われる。
67日本@名無史さん:04/06/27 14:56
>>60
西都の可能性はない

・倭人伝と距離方向風俗など
 完璧に一致をしてるのは、北部九州だけ
・記紀伝承は異常な宮崎偏重をしていない
 異常偏重してるのは都督府や大宰府など北部九州のみ
・充実した古墳群は全国にあり決め手とならず、
 装飾古墳こそ邪馬台国仕様と考えるべき
・当時の人口分布では九州北部中部と並んで
 熊本や佐賀も人口が多く、宮崎は少ない
68日本@名無史さん:04/06/27 15:00

卑弥呼=天照で、卑弥呼とトヨには血の繋がりは無い
後世神武と卑弥呼には100%血の繋がりは無い
大和朝廷が古代権威の卑弥呼の伝説をあたかも天皇の先祖とでっち上げたのが記紀
でっち上げと言っても権力は委譲されてきたが、血は繋がってない。
69日本@名無史さん:04/06/27 15:06
>>67
・北部九州は近すぎる、よって一致しない
・高千穂など偏重している
・倭人伝には装飾古墳の記述が見当たらない
・九州北部中部の次に宮崎は多い
70日本@名無史さん:04/06/27 15:38
邪馬台国は九州でいいよ。
中国に朝貢していた負け犬王朝が機内にあるわけない。
機内の王朝はもっと偉大なんだ。
邪馬台国なんて所詮雑魚ですよ雑魚。
71日本@名無史さん:04/06/27 15:44
博多にあった邪馬台国、簒奪された。カワイソウ。
72日本@名無史さん:04/06/27 15:52
>>70
やっぱり皇国史観があったんだね(プ
負け犬だろうがなんだろうが卑弥呼は卑弥呼で場所は西都
後の大和朝廷は、その負け犬王朝の子孫であると誇り高く記紀で謳いあげましたとさ
73日本@名無史さん:04/06/27 15:55
>>71
博多=那国は邪馬台国連合の北限です。
74日本@名無史さん :04/06/27 15:56
麻原ショウコウが阿蘇の生まれなのでそれにつなげなくてはという考えだろう。
古田とか安本とか言うのも結局は麻原教団のサリン役と同罪だな。
75日本@名無史さん:04/06/27 16:03
>>74
当時の状況

九州=先進国家群
マキムク=未開の原野
76せいじ:04/06/27 16:19
僕は女王国は伊都国だと思うけどな     http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku   
77日本@名無史さん:04/06/27 16:35
>>76
でも伊都国千戸だよ
それに卑弥呼と卑弥呼の前の70−80年分の男王の墓を平原遺跡で探さないと・・・
78せいじ:04/06/27 16:54
記憶は確かじゃないけど後の記録には万だったと思うけど記録があるよ。
平原遺跡の近くには奴国にも劣らない遺跡がありますよ。
もちろん平原遺跡より古い甕棺をともなったものです。
79日本@名無史さん:04/06/27 17:46
そういえばなんか特別な書き方だな
疑問点
伊都国で邪馬台国とは別に官説明してる事はどうする?
それと伊都国の次に那国を説明しているのに
女王の衛星国は遠いので詳しく書けないとしている事も

王様が代々女王国に属していて軍使が往来してると、
王様はどういう関係なんだろ。
80せいじ:04/06/27 18:54
官が別なのは特別だからだよ。例としてはヘンだけど。東京にも天皇陛下、総理大臣、都知事がいるんだから。
それに官の名前が伊都国だけ違うのは気づいた?対馬国、一大国、奴国、不弥国なんかには卑奴母離がいるでしょ。特に奴国なんか二万余戸あっても卑奴母離なんだよ。

伊都国、奴国は地理でいえば山に囲まれているんだ。南に行くには今の地名でいえば水城を通るしかないからそこまで行かなかっただけじゃないの。水城は奴国の南だから伊都国ではないよ。

最後の質問は僕の意見とはちがうよ。HPよく見てね
僕がいいたいのは代々の伊都国王の中の一人の王が女王卑弥呼なんだ。
81日本@名無史さん:04/06/27 19:53
>>68
天照と卑弥呼は350年の時差がある。
神武と卑弥呼の時差は120年ぐらいだろう、血のつながりはない。
日本書紀は卑弥呼を推古と同一人物に錯覚させようとしているが
他の天皇に仕立てようとはしていない。
82日本@名無史さん:04/06/27 20:01
>>65 正解。
>>66 勝手に思わないで根拠なり推論なりを述べて欲しい。まじでお願いします。

>卑弥呼≠天照 ぐらい気付けよ           ×
>天照の孫(ないし子)がニニギの命であり、     ○
>その300年ぐらい後の首長が卑弥呼。        ×
>だから生まれた年が350年以上違うと思われる。 ×

欠史八代の天皇について・・・この人数は信用できる。
記紀がその時代を古く威厳を持たせるために123歳などのとんでもない年齢の天皇を
記しているのは人数を増やすことをせずに正しく伝えたからである。

33代推古天皇(西暦592)〜48代・称徳天皇(770)  平均在位 11年
17代履中天皇(西暦399)〜32代・崇峻天皇(592)  平均在位 12年
初代神武天皇(西暦???)〜16代・仁徳天皇(399)   平均在位 ○年

平均在位○年には10〜12年であることの予想は容易。
神武天皇の即位は辛酉の年であるのは多くの文献に散見されるし
嘘をつく理由がなく一応信用するもとすれば・・・

神武天皇が、大物主に婿入りし、大和朝廷初代天皇に即位したのは
西暦241となる。


*卑弥呼=日霊女(現在の天照大神)としても矛盾はない。
83日本@名無史さん:04/06/27 20:02
>>69
・北部九州以遠には届かないから、西都は遠すぎる
・高千穂は福岡県の高千穂に天孫降臨したのであり、
 宮崎県のほうは後世つけた地名
・倭人伝には当たり前だが北部九州時代の古墳記事(三国時代)の記述のみ
 熊本遷都後に邪馬台国の古墳が発達し、福岡県再遷都後に続いている
・全国で古墳の数は宮崎が最多ではないし、この時代は薄葬時代だったから
 古墳が盛大であるほど、邪馬台国ではない証拠となる
84日本@名無史さん:04/06/27 20:07
>>82
証拠なく卑弥呼≠天照と断定するなら、先に証拠を出して欲しい。
記紀が否定しているんだから、何を証拠に断定するか?

記紀同士が天皇在位年代に矛盾しているわけで、
日本書紀に狙いは「女帝」卑弥呼と「女帝」推古をイコールで
結ばんがためのいんちきでしょう。
8582:04/06/27 20:15
訂正

○証拠なく卑弥呼=天照と断定するなら、先に証拠を出して欲しい。
×証拠なく卑弥呼≠天照と断定するなら、先に証拠を出して欲しい。
86太国:04/06/27 20:24
例外はあるが、
だいたい A=B の人物特定は、まず間違い。
卑弥呼は日神にあらず。
よくあるのは
崇神=応神 だとか 日神=イエスキリスト だとか、これ外れ!
87日本@名無史さん:04/06/27 20:33
面白そうなスレですね
88日本@名無史さん:04/06/27 20:34
>>84
卑弥呼=日霊女(現在の天照大神)としても矛盾はない。

矛盾はないと言ったのだ!断定などしていない。
近畿厨と同じにしないでいただきたい!!

でも回答入れとく

@日本書紀は{天照国照大神饒速日命<男神>を格下げし}
日霊女(卑弥呼)を天照女神に仕立て上げる事によって
日本最初の女帝の誕生(持統)を正当化しようとした。

Aなぜ天子降臨神話ではなく、天「孫」降臨神話にしたのか?
それは、藤原不比等の大陰謀であり、
持統女帝→(孫)軽皇子(文武天皇)と言う
ありえない皇位継承を正当化しようとしたため。

推古なんて関係ないよ・・・どっから出てきたの?


89日本@名無史さん:04/06/27 20:34
>>85
証拠?何を言っても証拠にはならないだろ。物証を求めてるのか?(藁
平均在位の推定も証拠とはいえないし、天照の息子が〜とかも推測
個人的に考えたのは
岩戸伝説と日食と関連があるかもしれない
その他天照のイメージが卑弥呼に類似する
初期政権には権力は簡単に手に入るが権威はなかなか手に入れ難い
天皇の権威付けのために伝説の女王卑弥呼を天照という形で持ってきたと考えている。
90日本@名無史さん:04/06/27 20:39
>卑弥呼は日神にあらず。
そのとおりで日神に仕える巫女である。日神は饒速日命である。
91太国:04/06/27 20:43
>>90
2行目前段はいささか合ってますな(w  後段は、う〜ん?
92日本@名無史さん:04/06/27 20:46
日本『最初』の女帝の誕生(持統)<これに関しては俺の見解だ。

推古>アメノタリシヒコの存在から考えて怪しい。
皇極・斉明>宮の場所がおかしすぎる。

ちょっと飛躍があるので誤解しないでいただきたい。(スレ違いなのでここまで)
93日本@名無史さん:04/06/27 21:45
>>92
おっ、私も同意見!!

持統天皇は「日本国」初の女帝で、この時代、則天武后と並んで
大改革を行った。なにしろ、九州邪馬台国の残党狩りをしながら、
邪馬台国系勢力と畿内土着勢力を和合させて、西日本の安定と
大和朝廷の基盤を作ったのだから、すごい。
94日本@名無史さん:04/06/27 21:47
>>89
いや、違うのさ、自説に根拠なく、他人にのみ証拠を求めるのは、矛盾だと言ってるの。
95日本@名無史さん:04/06/27 21:50
>>88
@べつにそんな意図があった必然性はない
A天「孫」降臨神話にした理由は、「天照の孫」を「天孫」と表記したに過ぎない
 こんなこと、当たり前すぎて、誰も論争したことはないだろう
96日本@名無史さん:04/06/27 21:54
つーか、いいかげんスレ違いだろ。
97日本@名無史さん:04/06/27 22:24
>>96
西都馬鹿が暴れているときに言えよ
98日本@名無史さん:04/06/27 22:41
>>95
天之忍穂耳を天子降臨させてもよかっただろう?
なぜ、わざわざ『孫』の邇邇芸を天孫降臨させなければならなかったのか?
記紀には理由もなにも書いてない。意図的であった可能性がないとは言えない。


  持統「女」御門 祖母
     ↓        |
草壁皇子(早死)    |*明らかに過去の皇位継承に矛盾した継承*
     ↓        ↓
軽皇子(文武天皇)  孫


そもそも女帝は臨時の天皇。
軽皇子より皇位継承順位の上の皇子
大津皇子 >ぶっ殺す
有馬皇子 >ぶっ殺す
弓削皇子 >ぶっ殺す
高市皇子 >暗殺?

天照女神を持統と重ねる事によって、正当性を主張したのでは?
天武朝?の王朝交代を伺わせるような大惨事!!!

>>93
あなたは、天武=九州邪馬台国残党ですか?
私は、天武=出雲王朝(蘇我大王家)残党と見ていますが
激しくスレ違いなので終わりましょう。

>>96
おっしゃるとおりです。おわり。
9993:04/06/27 23:47
>>98
天照の子は、対馬や出雲の統治に余念がなかったでしょう。
孫の邇邇芸には、農業=稲作で豊かな博多湾岸を征服させたわけです。
天照の対馬には、ほとんどマトモな農業がありませんでしたし、米作は無理。
天孫降臨=博多湾上陸、これは、体力勝負の侵略、戦いですから、若い方がいい。

持統天皇は当時、最近の天皇だから「神話操作」など不要でした。
日本列島で女王は珍しくないわけです。

天武から持統へは夫婦禅譲ですから、持統天皇は天武に敵対したのではなく
天武の畿内遷都後の邪馬台国を、天武から引き継いだのですが、
天武は九州邪馬台国の残党を制圧し切れずに、絶命したわけです。
そこで持統天皇は吉野ヶ里に30回以上行き、大分勢力も味方につけ
無事、薩夜麻邪馬台国を平定したわけです。
100日本@名無史さん:04/06/28 00:07
卑弥呼は天照
101:04/06/28 00:09
記紀は否定してますが
102日本@名無史さん:04/06/28 00:49
>>99
>天孫降臨=博多湾上陸、これは、体力勝負の侵略、戦いですから、若い方がいい。
いいですか?高天原は天国でもなんでないんですよ?現実の西都及び日向方面なんです。
それにすでに邪馬台国は成立している(博多湾周辺も含む)のですから
侵略の必要などありません。彼らは女王の後をついで『統治』していたのです。
天之忍穂耳だって西都及び日向方面生まれているのだから若い時はありますよ。
侵略を言うならイワレヒコのみにそれが言えるわけですよ。
私はこれも侵略とは見てません。イワレヒコが大和の大物主に婿入りしただけです。

>持統天皇は当時、最近の天皇だから「神話操作」など不要でした。
伊勢に初めてお参りに行ったのは持統です。それ以前の天皇は完全無視です。
三輪朝臣高市麻呂の話はご存知ですよね?
崇神天皇をはじめただただ出雲神(大物主)のご機嫌を伺っていたわけです。
これが神話操作でなくて何なのでしょう?

これは、書記を読めば一目瞭然ですね。

ちなみに神話操作したのは藤原不比等です。
それ以下は激しくスレ違いなので書き込みを自粛します。
103日本@名無史さん:04/06/28 00:55
>>102

残念でした。高天原は壱岐です。とんでもない勘違いをされていますね。

持統天皇と天照をダブらせて、当時の読み手から得られるものはありません。
生身の持統天皇のはなしが、微細に伝わっているからです。
当時の人にとって、持統天皇は現代人。神秘性などありません。
104日本@名無史さん:04/06/28 01:13
>残念でした。高天原は壱岐です。とんでもない勘違いをされていますね。
俺の言う高天原ってのは天上界って意味で言ってるんだ。
これは、誤解される書き方だったかもしれない。天照女神(卑弥呼)のいたのは西都。

>持統天皇と天照をダブらせて、当時の読み手から得られるものはありません。
たしかにない。別人の話だからだ。あたりまえ。
ただ、高天原(天界の意味)から天降るのがなぜ「孫」なんだと言ってるんだ。

>当時の人にとって、持統天皇は現代人。神秘性などありません。
それを言っちゃぁ万世一系にこだわる天皇制自体の否定じゃん。
天皇いらないよ。幕府とか天皇殺しまくり。もう、論理が破綻してますよ。
時代は下るが菅原道真の怨霊に恐れおののくのとかどう説明すんのさ?

伊勢に初めてお参りに行ったのは持統です。それ以前の天皇は完全無視です。
三輪朝臣高市麻呂の話はご存知ですよね?
崇神天皇をはじめただただ出雲神(大物主)のご機嫌を伺っていたわけです。
これが神話操作でなくて何なのでしょう?

これは、書記を読めば一目瞭然ですね。

この書き込みは無視かい?ソースのある話をして頂けないだろうか?
105日本@名無史さん:04/06/28 01:22
それから、神武天皇が大物主の娘を皇后にした事も付け加えておこうか。

神話操作は「大物主神」(出雲勢力)との決別なんだよ。

当時の天皇家にとっての大イベントなんだよ。
106日本@名無史さん:04/06/28 01:34
ちなみに出雲勢力を追い出すのが藤原氏。
追い出される出雲勢力とは物部氏。三輪氏など物部氏族。

三輪氏=大神神社(おおみわ)の大物主神。(オオミカミと書いてオオミワと読ませるのに注目)

天照国照大神饒速日命は物部氏の遠祖。大物主と同一とみなしてよい。

天照大神の改ざん、大物主神との決別。



                      神話操作なんだよ。
107日本@名無史さん:04/06/28 01:35
伊勢はどうでもいいので、他の人にどうぞ。

高天原に、当時天上界という意味はありません。
壱岐島の意味しかありません。

万世一系は文武天皇に言わせた、持統の「貴種血統+王統宣伝」にすぎない。
ニニギの血統と神武の王統を、我こそ継承しているという宣伝。
この、天孫族の血統+神武の王統=天皇の皇統として自慢、君臨した。
だがようく考えると、ニニギ以下、ずっと王様ではない家系だし、
神武は畿内最大の王様ではなく、数ある弱小君主の一人だった。
「万世一系」は最大に飾り立てた文武天皇の「正統性」のキャッチコピーだった。
108日本@名無史さん:04/06/28 01:46
神話操作の前に、記紀はそもそも純粋な歴史記録じゃないんだが。
>>104-106は一体なにを証明しようとしてるんだか、さっぱりわからん。
東南アジアの神話と比較神話学を始めようとしているのか?
109日本@名無史さん:04/06/28 01:54
壱岐島から天降り?一応、神話って形をとってるんだからよ。
これじゃ意味わかんねーよ。

>伊勢はどうでもいいので、他の人にどうぞ。
逃げないでね・・・ROMってる人に笑われますよ。

>万世一系は文武天皇に言わせた、持統の「貴種血統+王統宣伝」にすぎない。
>ニニギの血統と神武の王統を、我こそ継承しているという宣伝。
>この、天孫族の血統+神武の王統=天皇の皇統として自慢、君臨した。
>だがようく考えると、ニニギ以下、ずっと王様ではない家系だし、
>神武は畿内最大の王様ではなく、数ある弱小君主の一人だった。
>「万世一系」は最大に飾り立てた文武天皇の「正統性」のキャッチコピーだった。

何を根拠に言ってるの?てか、そんな事を論議してたか?




「記 紀 神 話 に 神 話 操 作 が あ る か な い か?」




もう一度、記紀を読み直そうね。
ソースのない与太話(妄想)はやめていただきたい。じゃ!
110日本@名無史さん:04/06/28 03:06
壱岐から九州博多湾に上陸したことを「天孫降臨」といっているわけだが
何で空中から人間が飛来するわけ?アホですか?

比較神話学のスレはここじゃないから民話・神話板でやってくれ。
ここは日本史板だ。
111日本@名無史さん:04/06/28 04:10
>何で空中から人間が飛来するわけ?アホですか?

神話にまじめにつっこんでる藻前の方がアホだろw
112:04/06/28 07:36
古事記には、その冒頭に
「天地の初発の時、高天原に成りませる神の御名は天之御中主神」
とあり、その後の国生みで
「壱岐島を生みたまいき。」
と、壱岐島の記述が国生み前にすでに存在した高天原の後にあること
から、高天原と壱岐とは同一ではない。
とりわけ、第2次的に高天原を天地初発の高天原にちなんで命名したの
であれば、壱岐=高天原 となることもありうるが、本来的には
壱岐≠高天原 が正解であるな。
113日本@名無史さん:04/06/28 07:37
壱岐島=高天原?


おまえはどういう所でそう解釈したのか?
114:04/06/28 08:15
>>113
余のことか?
日本国中、高天原の地名の付いた所があるだろう。しかし、それは真の
高天原ではない。後代にだれかがつけた地名だよ。そういう意味だ。
余は 壱岐島≠高天原 を支持している。
115霹靂:04/06/28 08:29
高天原は頭が高で始まるのがミソかと思ってんだけど必ず天から始まる言葉が多いなか高天原は特別な感じがしています、天より上か別の意味か違う国を表してる気がします
116日本@名無史さん:04/06/28 08:44
どちらにしろ
壱岐なんて異説を出してるんだから
まず定説を否定しうる根拠を提示して
その後、自分の新説の論拠をレスしないと
今のままでは壱岐=高天原?ハァ??だよ。
117:04/06/28 09:23
ついでに邪馬台国と高天原との関係についてもちょっと言及しておこうか。
国生みの、その国の上に邪馬台国があったとなれば、国生み前には高天原が
存在したことを古事記は冒頭(>>112)で述べているんだから、
国生み前    存在の  高天原      と
国生み後の国の上存在の  邪馬台国     とは
前と後との差の違いで、両者は別物、異なる存在だということだよ。

118日本@名無史さん:04/06/28 09:51
言及しなくていいって
スレ違いだしおまえの妄想域を出ていない
119:04/06/28 10:08
止めな。所詮ここのところは本音をだせば、いずれ余の天下。
神道関係の大学の教授連、神社の神官、日本古代史研究家を
束になって集めても、余には勝てぬぞ。まあまだ本格論を
やらぬから、少しにしてるが、あきらめろ。それでも云うか?
ならば、貴殿の邪馬台国、高天原論を述べてみるんだな。
120日本@名無史さん:04/06/28 10:21
どうやら本物のキチガイみたいだな

死ねよ、キチガイ
121:04/06/28 10:32
分かった。分かった。君達は吉外とか電波とか亡想とかDQN、アホ
とかしか云えんのか、すこしばかりでも論を述べてみて意味が通るの
ではないのか?指し手0では君らの負けではないか。余は君らに吉外
等の言葉は一度も言ったことはないぞ。
122日本@名無史さん:04/06/28 10:46
スレ違いの話題について「指し手」したらスレ違い荒らしのおまえと同じになるだろボケ
おまえの勝ちでいいから
今から小学生国語を勉強して日本語を理解できるようになれ。

123日本@名無史さん:04/06/28 10:49
普通に考えて吉野ヶ里に決まってるのだが
あそこじゃ都合の悪い連中が裏で圧力をかけて
年代をわざと違うようにしている。

公明正大な年代の測定をやりなおせ。
124日本@名無史さん :04/06/28 11:03
倭人伝のヒミコは弥生時代1200年の歴史が終わる頃のある瞬間をとらえた高速スナップ
写真であり、それをもって一切の歴史を判断するのも何かと思うがヒミコというのは火の
巫女 http://www-ku.magma.ne.jp/~ark/sub15.html
であり、その考えの根本は日嗣、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3111/Seimei/hinokimi.html
すなわち九州伊都国平原古墳被葬者のオオイルメムチの死に伴いこれを再生する意味で
高千穂で再生儀式を行なった後、箸墓に葬った。
その祭礼を今に伝えるのが繞道祭 http://hp1.cyberstation.ne.jp/asuka-miwa/nyodosai/nyodosai.htm と考えられる。すなわち、九州邪馬台国の女王のお墓を大和纒向墓地に
建設したということ。こんな可能性もあるかな。
125霹靂:04/06/28 11:25
高天原の天って女のことですか?原って腹のことですか?壱岐を産んだ高ってなんですか?太陽のことですかね?高級な女の腹のことですかね?
126日本@名無史さん :04/06/28 11:26
これがヒミコ的↓

火焚き神事 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 阿蘇の早い秋の訪れは、阿蘇町役犬原の霜宮で八月十九日に始まる
「火焚き神事」によって告げられる。社記には、健磐龍命が阿蘇に下ったとき、
寒霜早降りて五穀が熟さなかったので、民人の苦しむことを憂え、天津神を祀り、
寒霜の順降を析ったことに起源するとなつている。六十日間が火焚き期間とされ、
本殿から東一町ばかり離れた御火焚き殿に移られた御神体は、割り竹を張った
天井に安置され、その下の土間で乙女が絶え間なく火を焚き続ける。火焚き乙女
は十五歳末満の少女。この忌み小屋は乙女以外にとっては禁足の地だ。ただ
付添人が食事の世話をしたり、乙女の仮眠中、火勢の様子を外から見守るに過
ぎなかった。

127日本@名無史さん :04/06/28 11:27
また、天の御中主の命的な礼拝物もある。これ↓

御神体はずっしりと重たい石ぴつの中に納まっている。火焚きのほぼ
なかばの三十二日目、神主が御神体を真綿で包む「ぬくめ入れ」の儀式があるが、
なかをのぞくことは神主とて許されていない。ところが、阿蘇町文化財保護委員長
の大和勇さんが、同町小倉の阿部家に伝わる圧屋文書を調べていたところ、面白い
個所に出含った。天保十年(1839)、この村を訪れた幕府の巡見使に霜宮の起源
について問われた渡辺子八郎という人物が「北斗七星を祀ったのが本当らしい」と
答えているのだ。確かに調べてみると、霜宮の天津神は七柱祀られており、祭壇にも
七本の御幣が立てられ、お供え物も七つずつ。「御神体はイン石らしいという人もい
ましてね」と大和さんは話す。この北斗信仰は、中国では天帝の乗り物、一切の人民
の生死禍福をつかさどる神とされ、陰陽五行思想の中核をなすものだが、日本の
天皇家でもいち早くこの思想を取り入れている。なぜなら、この北斗思想ほど天皇家
の絶対化に都合のいいものはなかったわけで、古事記に登場する神世の七代の神
も実は北斗七星の雌雄の神に対応させたものだ、と説く学者もいる。とすれば、霜宮
に祭られている七つ神も天皇家の斎く神々を阿蘇氏が勧請したのではなかったのか、
といった考えも浮かんでこよう。火焚きの最終日の十月十六日の朝には「乙女上げ」
を行い、火をとめ、その晩に御神体は本殿に帰られるが、その季節は北斗七星が
西北の空にもっとも低くかかり、人の世に触れるばかりに近づくころである。ともあれ、
宮中で深く信仰された北斗信仰がこの地に残っていることは、かなり早い時期から
朝廷との関係を強め阿蘇君の性格を反映しているように思える。
しかし、土地の人々にとっては「霜害は
健磐龍命に首、手足を切られた鬼八法師の遺恨のなせるわざ」というストーリーが
ずっと親しめ、おさまりがよいらしく、「なぜ、火であたためるかって。それは鬼八法師
が悪さをしないようにキンタマをぬくめてやるとタイ」と古老の一人は健康そうに笑い
とばした。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Higo.html#anchor677475
128霹靂:04/06/28 11:28
天岩戸って 女のアレのことかな?そんじゃ女を差し出して自分は隠れて国を渡して命ごいしたのかな いいな岩戸
129霹靂:04/06/28 11:33
それは北斗何拳になりますかね?金玉拳とかですかね?
130日本@名無史さん :04/06/28 11:43
オオヒルメムチ、天の御中主ともに志賀島周辺の信仰であろうがなぜ肥後まで
落ち延びたのかが不思議だ。出雲方面からなにか圧力があったのか。いずれにせよ
大和に向かったということはニギハヤヒなどが引っ張ったものか。
131日本@名無史さん:04/06/28 11:47
事実から神話を推察するのは可能
神話から事実を導き出すには証拠が必要。
132日本@名無史さん :04/06/28 11:51
天岩戸とは割れ目、裂け目もあるが、アマテラスの場合は室(霊安洞窟)に安置された
死体を歌劇アイーダの反対でオープンするような儀式を鏡を割れ目に差し入れ、日光を
手渡し、それに日光を充電してもらうという呪いで、岩石の扉を開くということでアマテラス
を復活さすということみたいだぜ。
133日本@名無史さん:04/06/28 12:39
筑紫から肥後に移ったのは、半島諸国が軍国主義になったため、
博多湾では急襲されたときなど、海軍の隠れる場所がない。
有明海なら、よそ者からすればさながら迷路であり、隠れ場所として最高だ。
海流から考えて、半島に急行しやすいのも美点だ。
134日本@名無史さん:04/06/28 12:56
>筑紫から肥後に移ったのは

根拠は?
135日本@名無史さん:04/06/28 13:02
>>108 東南アジアがどこからでてくるんだ?真偽はともかく>>104-106の説明は日本書記からの考察でとくに矛盾した点も見当たらないしおもしろいと思う。それに比べて>>110は…プ
136日本@名無史さん:04/06/28 13:03
考古学的状況証拠
137日本@名無史さん:04/06/28 13:05
>>135
神話学なら日本史板でやるなよ
138日本@名無史さん:04/06/28 13:13
>>136
それではわからん
周溝が無くなっていった事指してるのか?
139日本@名無史さん :04/06/28 13:23
公孫と倭奴国の関係が悪化し、倭国全体の対外政策を練り直す必要があったのかも
しれない。戦略的には首都を安全な場所に移動さす必要があったのではないか。
140日本@名無史さん:04/06/28 13:26
数百に及ぶ民俗学的考古学的検証の集大成ですから、
たった一つや二つの「根拠」を求められてもねぇ〜。
まあ、ここは日本史版なわけで、九州の神社を
総なめにしその祭られているものの姿を明らかにし、
古墳の変遷と分布を見据え、出土物の全容と変遷、
王朝の変遷とアジアの歴史などを横断的に見ていく
必要があるわけだが、日本史版から
逸脱するような話はやらない。
141日本@名無史さん:04/06/28 13:30
>>139
国内でクナ国との戦いしてる時既に邪馬台国は存在してるの
安全な場所の肥後はまだ敵地
どっちが勝ったかさえ分からない
142日本@名無史さん :04/06/28 13:39
畿内文化は日向、宇佐の両面から九州に流れ込み肥後、筑後は畿内文化を吸収、畿内も鏡矛文化を吸収したがその代償に銅鐸の廃棄を行わざるを得ず、これに対する不満が出雲から関東地方に狗奴国勢力を生んだ。
143日本@名無史さん:04/06/28 13:43
>>142
5〜6世紀の話か?
144霹靂:04/06/28 14:06
鹿児島県霧島町に親戚がいるんですが同町のホームページに岩に割れ目があってのぞくとなかに字が書いてあるそうですがなんでしょ
145日本@名無史さん :04/06/28 14:20
神武というのは大和による日向制圧伝説だから邪馬台国のできる少し前かな。
146日本@名無史さん:04/06/28 14:33
そのころ大和盆地は原生林の中に広がる沼(藁
日本猿くらいしかいない
神武=日本猿説?猿の軍団が九州を制圧したのかな。
147霹靂:04/06/28 14:36
なんだよ いろいろくっちゃべってるけど どこぞの本に書いてあるようなことばかりで結論は同じじゃん 決定打無し 偽死ワジンがとんでもなんじゃねえの?わかんないとこ船で遠くに行きましたって
148日本@名無史さん:04/06/28 14:55
>>147
倭人伝は結構正確に書いてるよ
船で10日行けば西都に着いちゃうし
歩いて一月いけば西都に着いちゃう
疑問の余地も無いほど正確記述だよ。
149日本@名無史さん:04/06/28 14:58
もっと正確に読むと、博多湾周縁だけどね
大分・宮崎は後世栄えるところ
150日本@名無史さん:04/06/28 15:02
>>149
ありえないね
151日本@名無史さん:04/06/28 15:06
西都原は、極東の戦乱を避けた逃避政権でしょ。
あんなのが邪馬台国だったら、
中国側に記録が残っているはずがない。
国交なしですから。
152日本@名無史さん:04/06/28 15:10
>>151
魏と国交してるし中国側の記録には邪馬台国として残ってますよ、
残ってるのに残ってるはずは無いとは、これいかに?
153日本@名無史さん:04/06/28 15:14
理由は、俺がそう思うから…だろ?このスレもうダメポ
154日本@名無史さん:04/06/28 15:17
>>153
立証できるから、そう思うんですよ。
これ以上どうしろと?
155日本@名無史さん:04/06/28 15:21
西都原に関してこれほど主張しても
誰も反論できない事実
もう疑う余地は無いと思うよ。
156日本@名無史さん:04/06/28 15:22
しかし、ひょっとしたら邪馬台国を示すかもしれない金印の
ようなモノがまだ埋まってるかも知れないとするとドキドキしますね。
157日本@名無史さん:04/06/28 15:28
西都原に関してこれほど主張しても
誰も立証できない事実
もう疑う余地は無いと思うよ。

西都原は単なる地方ムラ。
158日本@名無史さん:04/06/28 15:31
>>157
うん、邪馬台国は
7万戸を有する地方村って良い表現だと思うよ。
159日本@名無史さん:04/06/28 15:33
西都原に、大陸との交流がなかったのは残念だったね。
逃避政権だからね。

邪馬台国はバンバン外交や国際戦争をやっているが
西都原はいっさいなし。

これで西都原だけは、絶対邪馬台国じゃないとハッキリしたね。
160日本@名無史さん:04/06/28 15:35
邪馬台国≠西都原だけは疑いようがないな

邪馬台国は、西都を除く全国各地から選ぼうね
161:04/06/28 15:36
>>122 
そーだろう。君は何の論も手無し。古事記の冒頭からよく勉強しろ。
162日本@名無史さん:04/06/28 15:36
金印は志賀島から出土したから、西都じゃないことはハッキリしたね
163日本@名無史さん:04/06/28 15:36
意味が通じない
邪馬台国=西都
さっきも言ったように外交やってるって、何度も同じ事言わせるなよ。
164日本@名無史さん:04/06/28 15:38
>>162
金印は那国王の金印
検索して反論してね、レベルが低すぎるよ。
165日本@名無史さん:04/06/28 15:39
魏志を読んで、西都にたどり着いた人は、ほっとんどいないが
相当な誤読に気づかない人のうち、重症な人だけが西都に行っちゃったんだね。
166日本@名無史さん:04/06/28 15:40
邪馬台国≠西都原だけは疑いようがないな

邪馬台国は、西都を除く全国各地から選ぼうね

西都は外交しない国だから、無視されたんだね

まあ、逃避国だからしょうがないけどね
167日本@名無史さん:04/06/28 15:41
>>165
誤読の具体的個所を出してね
それが君に出来ないうちは「重症」って言葉は中傷なだけなんだが。
168日本@名無史さん:04/06/28 15:42
>>166
意味が通じない
邪馬台国=西都
さっきも言ったように外交やってるって、何度も同じ事言わせるなよ。
169日本@名無史さん:04/06/28 15:45
多分今居る連中では西都は覆らないと思う。
知識や考察力が無さ過ぎ、誰かの受け売りでも使って噛み付けばよいのに
それさえ出来ない所を見ると、頭悪すぎ。
170:04/06/28 15:46
>>103
高天原は壱岐島ではないが、>103氏はおそらく邪馬台国を邪馬壱国
と観たことからの結論だと感じる。この着眼点はなかなかいい。
171日本@名無史さん:04/06/28 15:46
里程論の根本を間違えると、宇宙のどこにでもたどり着く。
ひどいのが例えば西都。教育は自習で。

西都はせいぜい3世紀から。邪馬台国の前身は周の初期から
つまり弥生時代の初めBC1000ごろから。

まあ、西都の歴史には1200年足らないってことです。
172日本@名無史さん:04/06/28 15:49
>>171
水行10日だよ
短里だろうがなんだろうが10日ね
里程論の出る幕無し
173日本@名無史さん:04/06/28 16:47
すごいね、方角関係なしの西都里程論か。
世界のでこでもOKってワケね。
174日本@名無史さん:04/06/28 17:07
知能障害起こした香具師(>>173)が一人居るだけで結局反論無し・・・(藁
175日本@名無史さん:04/06/28 17:16
もう要らん



















西都スレ
176日本@名無史さん:04/06/28 17:18
全国 おらが村=邪馬台国 連合

代表 西都馬鹿 に栄えあれ!!
177日本@名無史さん:04/06/28 17:27

自説が完全に否定され反論できる知能が無いからといって自暴自棄になるなよ
論理立った反論には丁寧にレスする

自暴自棄になっても(>>176>>175)無駄だよ、レッテル貼るのがうまくても馬鹿は馬鹿
これから恥をかかないように勉強して議論に加わる事をお勧めする。

じゃあね(藁
178日本@名無史さん:04/06/28 17:32
勉強するよか発掘して見つけたほうが早いな。
畿内説のお方は年寄りが多いから頑固やねんな。
九州説によって自分自身が否定されたように思ってしまうねんてw
論より証拠、頑張れ九州説。
179日本@名無史さん:04/06/28 17:35
畿内説はもう無理だが、
西都も年代からいって、倭人の中心国ではないね。
中心は筑紫・肥後でしょう。
180霹靂:04/06/28 18:52
西都原が耶馬台国ですか都という字が耶に似てるのは偶然ですか?都馬台でトマトかな?西耶でスーパー西耶人とかだったかな?自分は西都原は一部だと思う
181霹靂:04/06/28 18:57
細かな地名を追うと けっこう西都あたりは見つかるんだよね だから西都周辺だと思ってた時期があるけど畿内をつぶせなかったので固まってしまい富山経由 東北八幡平電波論を推奨しようかとも思う
182日本@名無史さん:04/06/28 19:01
>>880
皇婿族に三種の神器を譲る手はあるな。国費の無駄もなしかな。
183せいじ:04/06/28 19:04
水行十日は対馬海峡でしょう 陸行一月は帯方軍から朝鮮半島南下だよ
これが一万二千里じゃないかな
184霹靂:04/06/28 19:09
まつら国あたりまでは皆さんOKなんですよね?問題は伊都あたりからですよね そのあたりこまやかに陸を移動する目的が疑問、港を目指したのか?
185日本@名無史さん:04/06/28 19:09
ところで、西暦230年に呉皇帝の孫権が
将軍の衛温、諸葛直を派遣して
夷州、亶州(台湾〜九州辺りか?)を征伐させ
住民数万人を連れ帰ったらしいが、
その話と邪馬台国の関係はどうなんだろうか?
もし邪馬台国が九州ならば、多大な影響があったはずだが。
186日本@名無史さん:04/06/28 19:13
>中心は筑紫・肥後でしょう

その通り、人口分布や遺跡をみても明らかな事
そして那国が筑紫にあり狗奴国が肥後にあった、北部と中部は戦争していた

当時の状況
・肥後は筑紫より水稲能力が高い(食料=人口・国力)
・筑紫は肥後より交易能力は上だが水稲能力は若干下がる(情報通・交易の富)
・九州で圧倒的優位にあった那国は漢滅亡により金印の権威喪失(倭国大乱・狗奴の反逆)
・当時人口第3位は日向
地政学的には
・狗奴国は南を投馬(薩摩)西を山脈に抑えられているので出口は筑紫方面だけ
 (狗奴国が大分宮崎方面に向かうには山脈超えが必要になる)
・交易国家北部は宮崎方面とも船行可能
・筑紫と肥後の間は平野で難関は筑後川程度しかない

この結果
北部諸国が日向の巫女を頂点に迎える事で九州統一に王手をかけたのが邪馬台国です。
187せいじ:04/06/28 19:18
伊都国から移動する必要ないよ。伊都国が女王国の都だから
188せいじ:04/06/28 19:31
原文で伊都国まで距離を足したら一万五百里にしかならないけど、これは国と国の間の距離だから国の中の距離が入ってないんだ。
だから一万二千里と誤差があるだけで、伊都国までの総距離は一万二千里と解釈できるよ
189日本@名無史さん:04/06/28 19:52
>せいじ

せいじ、そろそろ西都に転向する時だ、そんな苦しい解釈から開放されるぞ。
190霹靂:04/06/28 19:56
国と国との距離で中が…じゃあ連タン図ということですか、じゃあ伊都国は北九州で先の男国とはどこなんですかねえ?
191せいじ:04/06/28 20:09
連たん図は意味がわからないよ。
前の男王は其国本亦以男子為王佳七八十年とあるからこれは伊都国の事だと思うよ。
伊都国には世有王皆統女王国とあるから僕は伊都国の代々の王の中に女王がいると解釈したけど。
詳しくはホームページ見て下さい      http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
192霹靂:04/06/28 20:18
なるほど僕は伊都国は貿易の中心地で後にトヨが出ただろうと 大分あたりのタタラの貿易 で耶馬台は西都の近くだと思う付近の地名を拾うとかなり酷似してるよ 薩摩は別国だと思うな男国かな 西都は都の西なのかな?西都東都南都北都があったと思う
193霹靂:04/06/28 20:31
なぜ西都周辺かと言うとやはり最初は高千穂なりに住んだのでしょう!人が増えると街が必要です山がわからないとタタラもダメですから国が乱れたのは桜島の噴火でしょう!卑弥呼のせいになったのでしょう
194せいじ:04/06/28 20:55
伊都国にはくしふる山があるよ。地図には載ってないけど高祖山の隣。
またそばには日向峠があって天孫降臨はこのくしふるだと思うけど。
195日本@名無史さん:04/06/28 20:57
******ここまでのまとめ******
〜邪馬台国スレッド勢力図(2004/06/28)〜

【九州西都派】
なぜそのような考えに至ったかなど、推論、書物による出典などが明確に
説明されており納得されやすい。>>7 >>20-21 などこのスレの主流派。
一部、卑弥呼=アマテラス派も含まれる。 >>82

【九州西都以外派】
現在は、九州西都派と九州西都以外派との争い。
無茶苦茶な理論展開をするものはここに含まない。83 などこのスレの第二派

【DQN派】
なぜそのような考えに至ったかなどの説明は一切なく自説を展開するイタイ人たち。
>>103 >>119 >>146 >>151 など
名言 『高天原は壱岐です。』

【畿内派】
DQN派はより知識はあるが皇国史観など歴史考以外の思考を捨てられない集団。
九州説に反論できないので荒らし行為のみ行う。
彼らを支えるのは学会が畿内派主流と言うことのみ。
マキムク厨も含むが九州西都派によって完全に駆逐された。 11-15 >>175-176

【(・∀・)カエレ!!】
もしかしたら釣りかもしれない・・・理解不能。>>162
196日本@名無史さん:04/06/28 21:13
>伊都国は貿易の中心地

貿易の中心は戸数2万の那国だろう
伊都は女王国からの王が女王国の直属で軍使が往来してたのだから
税関と迎賓館的な場所だろう。
197日本@名無史さん:04/06/28 21:14
******ここまでのまとめ******
〜邪馬台国スレッド勢力図(2004/06/28)〜

西都派・・・信仰の世界だけで生きている化石

西都派以外・・・まじめに論じている理性派
198日本@名無史さん:04/06/28 21:18
出土物から考える邪馬台国

まず、いえることは、西都は邪馬台国とは考えられません。
まだ、南極のほうが可能性があります。
199日本@名無史さん:04/06/28 21:21
>>198

今のところ、全国のあらゆる古墳から卑弥呼に確実に関連している物は出てきていません。
200霹靂:04/06/28 21:24
くしふる山は知りませんでした。卑弥呼は山の奥に居たと思います高千穂あたりの連山 天孫コウリンの伝説があります降臨とは天に近いところに降りるので山の上でしょう 伊都も重要な一大卒。耶馬台=みゃんまいたい=宮崎=宮前=みやまい どうじゃ
201日本@名無史さん:04/06/28 21:30
絹の出土を見ても、西都は邪馬台国の可能性0%
202日本@名無史さん:04/06/28 21:32
ぶっちゃけ今は西都を押してるけど
八女辺りも捨てがたいんだよね
ただ八女辺りなら倭人伝の記述を捻じ曲げないとたどり着かない。

203せいじ:04/06/28 21:37
自女王国以北特置一大率   これは普通100以上といえば100,101,102と数えるでしょ。これと同様女王国以北は女王国以北の中に女王国も入ってると思う。
だから女王国である伊都国に一大率があって当然だとおもうよ
204日本@名無史さん:04/06/28 21:38
>>201
出土どころか西都は碌に発掘させてもらえないんだよ
男狭穂塚・女狭穂塚の巨大古墳とか
宮内庁が御陵墓参考地になってるんだよ
つまり、天皇の先祖の墓だから掘ったらだめだってさ
何故宮崎に天皇の墓があるんだろー?(w
205日本@名無史さん:04/06/28 21:41
倭人伝に出てこない、前方後円墳が多いのが、西都の特徴
倭人伝に出てくる鉄の鏃や絹が多いのが福岡・佐賀

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm

西都が邪馬台国ではないのが、よく理解できます
206日本@名無史さん:04/06/28 21:45
>>204

明治時代に、あわてて決めたのが、歴代天皇の墓
実は根拠がなかったのに、宮内庁がエイヤッと決めちゃった。
デタラメに宮崎県も入れときました。良かったですね。

>何故宮崎に天皇の墓があるんだろー?(w
207せいじ:04/06/28 21:45
伊都国にある上町遺跡だったと思うけど太刀がでてきてる119.5センチ。これは卑弥呼がもらった五尺刀二口の
一つだとおもうよ。
魏の時代の一尺=24センチだから、24カケ5は120センチ、これはどこかのサイトで見たけど。
208日本@名無史さん:04/06/28 21:47
>>205

前方後円墳はいくら多くても卑弥呼とは関係ないよ、問題は円墓
福岡佐賀も西都邪馬台国に含まれるよ、連合国家なんだから北限が福岡
絹が多い事は邪馬台国は貿易などで潤ってたんだろうね
209日本@名無史さん:04/06/28 21:52
>>206
宮内庁がデタラメかどうかは根拠がないと名誉毀損だねー。
210日本@名無史さん:04/06/28 21:59
漏れもサイト派に転向しまつ。
211日本@名無史さん:04/06/28 22:20
>>209
おいおい、大マジメに決めたのは確かだが、
デタラメじゃなかったといっている人間はいないぞ。

しかし、西都=日本全土なんて言い出すんだろうね、西都馬鹿は。
212日本@名無史さん:04/06/28 22:22
結局、邪馬台国の特徴である、絹や鉄の鏃は
西都にはほとんど出ないの!!

ということは、西都の可能性はゼロ。
213日本@名無史さん:04/06/28 22:23
******ここまでのまとめ******
〜邪馬台国スレッド勢力図(2004/06/28)〜

【九州西都派】
なぜそのような考えに至ったかなど、推論、書物による出典などが明確に
説明されており納得されやすい。>>7 >>20-21 などこのスレの主流派。
一部、卑弥呼=アマテラス派も含まれる。 >>82

【九州西都以外派】
現在は、九州西都派と九州西都以外派との争い。
無茶苦茶な理論展開をするものはここに含まない。83 などこのスレの第二派

【DQN派】
なぜそのような考えに至ったかなどの説明は一切なく自説を展開するイタイ人たち。
>>103 >>119 >>146 >>151 など
名言 『高天原は壱岐です。』

【畿内派】
DQN派はより知識はあるが皇国史観など歴史考以外の思考を捨てられない集団。
九州説に反論できないので荒らし行為のみ行う。
彼らを支えるのは学会が畿内派主流と言うことのみ。
マキムク厨も含むが九州西都派によって完全に駆逐された。 11-15 >>175-176

【(・∀・)カエレ!!】
もしかしたら釣りかもしれない・・・理解不能。>>162
214日本@名無史さん:04/06/28 22:30
>>212
邪馬台国に対して根本から間違った考え方をしている
まずひとついえる事は中央集権国家ではないんだよ
各地から富を貪り集める首都ではないんだよね、わかる?
圧倒的なカリスマを持つ女性を各地の王が推戴した形
卑弥呼の時代は権力無しの権威有りなんだよ。
215:04/06/28 22:32
>>213
余は簡単ながら説明してるじゃないか。じゃぁ、お前さんも説明しな!
216日本@名無史さん :04/06/28 22:38
安本のHPというのを生まれて初めて見たが邪馬台国と思しき伊都国奴国近辺の
鏡が後漢鏡の2世紀出土の内行花文鏡と小型倣製鏡(朝貢国への下賜用の小型品)
のようで金印との関係がよくわかる。ヒミコ時代と思われる画像鏡は全く出ていないよう
であり、ヒミコ時代には安本邪馬台国には鏡の配分がさほどなかったのではないかと思われる。これは安本が未整理のその他の鏡に入っているのかもしれないが。
217せいじ:04/06/28 22:39
伊都国の平原遺跡はまちがいなく女性の墓だよ。なんといっても日本一の鏡46.5センチ。ガラスは地中海産。弥生、古墳時代においてもこれだけのものはないよ。
これだけでも卑弥呼の墓だと思うよ。
218日本史@名無しさん:04/06/28 22:41
西都原の人勘弁してください、祝詞にもちゃんと「筑紫の日向(ひむか)の」って今でも残ってるわけだし。
219:04/06/28 22:42
>>213
何がDQNだい!余は知的所有権を幾つも保有している。
科学技術とは一寸ズレあるようだから、特許などは高価なことも
あり、やらないが、知的所有権をとるならばもっと数をふやせる。
まあこっちも金がかかるから、増やすとなると高価になってくる
んでこの位にしてるんだ。DQNが重要な知的所有権を持つわけ
がなかろう?いい加減にせい。
220日本@名無史さん:04/06/28 22:47
西都馬鹿って、未だに「天孫降臨」を
天=空中から人が降りてきたと思ってるんだねぇ〜>>213

すごいぞすごいぞ、古代スペースウォー物語でも創作するつもり?
221日本@名無史さん:04/06/28 22:48
>筑紫の日向

邪馬台国の経済中枢と政治中枢を表している、あるいは権力と権威か?
実にめでたいね
222日本@名無史さん:04/06/28 22:49
西都馬鹿は、めったやたらに、西都糞スレ乱立させて、ホントに迷惑!!
223日本@名無史さん:04/06/28 22:51
倭人伝に出てくる邪馬台国特有の文物が
ほとんど出てこない時点で、西都はアウト!!

      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
224日本@名無史さん:04/06/28 22:53
>邪馬台国特有の文物

具体的に何?
225日本@名無史さん:04/06/28 22:55
>祝詞にもちゃんと「筑紫の日向(ひむか)の」って今でも残ってるわけだし。

高天原に  神づまります 神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の 命以(みことも)ちて
皇親神(すめみおやかみ)伊邪那岐(いざなぎ)の 大神。
筑紫の 日向(ひむか)の 橘の 小門(をど)の 阿波岐原(あはぎはら)に
禊祓(みそぎはら)ひ 給ふ時に 生坐(あれま)せる 祓戸(はらへど)の 大神等(おほかみたち)
諸々禍事罪穢(もろもろまがことつみけがれ)を 祓(はら)へ 給ひ清め給ふと申す事の由(よし)を
天つ神  地(くに)つ神  八百万神等共(やほよろづのかみたちとも)に
天の 斑駒(ふちこま)の 耳振立(みみふりたて)て 聞食(きこしめ)せと 畏(かしこ)み 畏み申す。


おいおい、生誕地に一生いなくてはならんのか?
ちょっとね〜君おかしいよ。
226せいじ:04/06/28 22:55
筑紫はどう考えたって福岡でしょ。地元では「ちくし」や「つくし」って読むんだよ。
日向は「ひなた」。 
227日本@名無史さん:04/06/28 22:56
倭人伝に一切出てこない、邪馬台国以外の特徴の
前方後円墳ばかりが突出して豊富な時点で、西都はアウト!!

      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
228せいじ:04/06/28 22:57
小戸は福岡市西区の小戸だと思う
229日本@名無史さん:04/06/28 22:57
「ちくしのひなた」が宮崎県だと思う人、日本史やめなさい!!
230日本@名無史さん:04/06/28 23:00
北部九州は57年に金印をもらったが

西都は3世紀をさかのぼれない時点でアウト!!


      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
231日本@名無史さん :04/06/28 23:01
安本邪馬台国の地名論には説得性がある。あれだけの一致はホホデミの東遷
無しには考えられない。
232日本@名無史さん:04/06/28 23:03
>>227
前方後円墳は後の時代の物、常識だよね
方墓も円墓も出てきてる、縄文時代からいろいろ出てきてるよ
俺は船方埴輪なんか特に注目してるんだ。
233日本@名無史さん:04/06/28 23:03
>>227
【西都原古墳群】
前方後円墳32基、方墳1基、円墳277基、他地下式横穴墓

はぁ?偽証はやめて下さい。
234日本@名無史さん:04/06/28 23:04
>>230
だから縄文時代からの歴史があるんだって。
235日本@名無史さん:04/06/28 23:04
おらが村こそ邪馬台国の会 代表 西都馬鹿 いわく

おらが村には、村おこしの材料がないから、古墳で一発金もうけ
西都原古墳群をごまかして邪馬台国とうそぶいて、
吉野ヶ里の観光客を呼び寄せよう

・・・こんな時点で



      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
236日本@名無史さん:04/06/28 23:06
円墳277基なんて、ちょっとした市町村にはだいたいあるが
書き立てる時点で


      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
237日本@名無史さん:04/06/28 23:07
 ┌─────────┐
 │ 基地外警報!!!  |
 │   基地外警報!! |
 └―――──――――┘
      ヽ(´ー`)ノ
         (  へ)
          く

                     |\
┌──────────┘- \
│  気の触れた方が          \
│                     /
└──────────┐- /
      ヽ(´ー`).ノ       |/
        (  へ)
        く
                  - = ≡三                    |\
               - = ≡三  ┌──────────┘- \   >>223
               _ = ≡三    │                     \  >>227
                ̄ = ≡三    │     いらっしゃいます       /  >>230
               - = ≡三  └──────────┐- /    >>235
        (´ー`)        - = ≡三                     |/     >>236
      ( ヽ ヽ)
       /  >
238日本@名無史さん:04/06/28 23:08
魏志倭人伝に出てくる文物が
一番出てくるのが、福岡・佐賀・熊本

・・・・この時点で

      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
239日本@名無史さん:04/06/28 23:09
西都にも縄文時代があったと騒ぐ時点で


      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
      西都はアウト!!
240日本@名無史さん:04/06/28 23:11
>>235
中傷だけの論無しレスにはさすがに反論できないな
>>236
円墳277基の都市なんて他に聴いたこと無いぞ、
それに問題は割合じゃないかな、畿内には何千も前方後円
があっても無駄、卑弥呼と関係ないし無駄に多いだけ
241日本@名無史さん:04/06/28 23:12
なんだこのスレ

   >>1見ると

    

     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね

                         道理で西都の連呼なんだね
242霹靂:04/06/28 23:12
なんだ?殺すぞ こら
243日本@名無史さん:04/06/28 23:12
傍目に見て荒らしが正論を述べる事がないのは明らか。
自説に自身があるなら質問に答えましょう。

>円墳277基なんて、ちょっとした市町村にはだいたいあるが

どこだよ?
244日本@名無史さん:04/06/28 23:13
>>238
だから、具体的に上げろって
>>239
縄文土器出てきてるよ
245日本@名無史さん:04/06/28 23:15
そうかそうかわかったぞ

ここは

     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
246日本@名無史さん:04/06/28 23:16
>>245
なぁ・・・何か悲しい事でもあったのかい?虚しくないかい・・・。
247日本@名無史さん:04/06/28 23:17
どうも変だと思ったよ

1 名前:1 投稿日:2004/06/22(火) 14:31
本スレです。立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
荒らしは徹底無視の基本方針でお願いします。

過去スレ:
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1064621137/

邪馬台国はどこですか?
http://mentai.2ch.net/history/kako/979/979141322.html

西都である証拠。>>2


           最後のひとことは、西都である証拠>>2だってさ

ここは

     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね


248日本@名無史さん:04/06/28 23:17
>>245
中傷だけなら答えようが無い、西都を知識知能で打ち負かしてみろよ
249日本@名無史さん:04/06/28 23:18
アンチ西都が荒らせば荒らすほど
西都説が正しく思えるのは俺だけじゃないはずだ。
250西都馬鹿の偽装スレ:04/06/28 23:19
2 名前:1 投稿日:2004/06/22(火) 14:31
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
  9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
 政治的にある意図が感じられるのである。
251西都馬鹿の偽装スレ:04/06/28 23:19
3 名前:1 投稿日:2004/06/22(火) 14:34
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
  コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
  記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
  コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
  一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)

まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
252西都馬鹿の偽装スレ:04/06/28 23:20
4 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/06/22(火) 14:42
前スレでも書きいたが
陳寿が三国志を書いていた時、まだ晋と邪馬台国の交流は続いており、
邪馬台国の情報は(少なくても政府の要職にある)晋人の中で常識だった。
倭人伝が一人や二人のいい加減な情報を元に書かれたなどと推測する事は
愚の骨頂。
したがってそれほど間違った情報がある筈もなく、魏志倭人伝の記載は
大筋において正しいと言う事を前提に議論すべきである。
大袈裟とか、勘違いとかはほとんどない。ただし、写本を幾度も繰り返した
ために多少転写ミスがあった可能性は排除できないが。

間違いが多い事を前提に話をしては青森やエジプトが邪馬台国になってしま
う。
倭人伝の記述は非常に省略されていて、現代の我々には理解に苦しむ事でも
当時の人にはちゃんと理解できる事で決して間違った記載ではなかった。
253日本@名無史さん:04/06/28 23:20
>>247
俺は西都荒らしではないぞ
以前は北九州説だった
けど、西都をじっくり検証してみると西都が最有力候補だと考えるようになった
254日本@名無史さん:04/06/28 23:20
このスレの最初の方の人達は 1 を否定してから
西都説に持って行ってるのに・・・今更 1 がどうこう言われてもなぁ・・・。
255日本@名無史さん:04/06/28 23:20
そうかそうかわかったぞ

ここは

     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね
     西都馬鹿の偽装スレだね

256日本@名無史さん:04/06/28 23:22
結論は西都なわけね、このスレは?























信仰の世界なのか
257日本@名無史さん:04/06/28 23:24
>>256
つーか、おまえ何説よ?
258日本@名無史さん:04/06/28 23:24
>>1-4  西都マンセースレか・・・・これじゃ論議もできないねぇ〜

























誰も信じない西都説
259日本@名無史さん:04/06/28 23:25
信仰から入る西都説





















宗教板でやってほしい
260日本@名無史さん:04/06/28 23:26
>>258
おまえの論聞くから、言ってみ
261日本@名無史さん:04/06/28 23:31
>>1-4 のとおり、ここは西都馬鹿の偽スレです

マジメな学術論議は、なじみません。
いいえ、不可能です。

なぜなら本来、西都信仰の人が集まる西都スレです。

スレタイに騙されて、入ってきた人は全員裏切られます。


     蟻地獄をしかける西都馬鹿に注意しましょう!!

     蟻地獄をしかける西都馬鹿に注意しましょう!!

     蟻地獄をしかける西都馬鹿に注意しましょう!!
262日本@名無史さん:04/06/28 23:33
>>1-4
はスレ住人によって否定されてるんだよ。

>>6-10
>>16-25
は無視かい?
怖いんだろ・・・怖いんだろ・・・認めるのが・・・いいよ・・・もう無理しなくても・・・プ


ま、すでに >>24 に予測されてる事を恥も感じないでやれる君はある意味すごいけどね。
263日本@名無史さん:04/06/28 23:36
>>261
同じ西都説でも枝葉はそれぞれ違う
西都同士でもクナ位置で大論争になったりする
決して信仰ではないぞ。
264日本@名無史さん:04/06/28 23:38
畿内厨は誤りだと思うが、いくらなんでも西都スレにカキコしないほうがいい。
西都スレは際限なく見てきたが、相手は信仰だから話は不可能だ。
265日本@名無史さん:04/06/28 23:42
>>264
なら新スレ立てろよ
俺も西都に変に有利なスレで議論したくないし
それにしてもどうして畿内説は議論自体を拒否するんだ?
266日本@名無史さん:04/06/28 23:45
ま、すでに >>24 に予測されてる事を恥も感じないでやれる君はある意味すごいけどね。
 
                 ↑ 効いたらしいw

これで大人しくなった荒らしの>>261
>>264で信仰だから話は不可能だ。 と論議を逃げております。
そんなに見たくなかったら来るな!
で、また荒らすの?
荒らせば荒らすほど不利になるのがわからないのかい?
真面目な近畿説論者に失礼だよ。
267日本@名無史さん:04/06/29 00:02
おい、誰か近畿説スレを立ててやれよ。
近畿が有利なように。何かあるだろ。近畿が有利なの・・・あ
あるって!考えたらなんかあるって!きっとあるよ。あるってば!

例えば前方後円墳が大量にあるとか。
南と東を間違えたら近畿に着くとか。
マキムク遺跡が発見されたとか。
九州説は書き込み禁止とか・・・w
268日本@名無史さん:04/06/29 00:05
マジレスすると、西都馬鹿はずいぶん長い間、とっちめた。
だが、対話にならないので、また追及した。
しかし、人の話は全然聴かないで、突然
「ここまでのスレの結論」と称して
自説をとうとうと述べるばかりである。

ここもそういうこと。
私は九州博多→甘木→佐賀→菊地→大宰府遷都説だが
べつにこの土地に住んだこともなく、親戚もいない。
だから否定されても、真実がわかればいいのだが、
西都馬鹿は全然違うのだ。>>213を見るがいい。

>>213をみて、袋叩きにするのが、良識というものだが
だれも落ち着き払って、当たり前のようなレスである。
とても付き合いきれないね。他スレに移動するよ。
269日本@名無史さん:04/06/29 00:13
>>268
俺もマジレスすると甘木朝倉周辺30%西都70%で新しい有力な説が出たら変わる
わざわざ>>213を叩く必要性は感じ無い、人を叩くより鋭い反論を待ち望み期待していたから
荒らしている人間も荒らすより>>213を叩けばよかったんじゃないの?
270日本@名無史さん:04/06/29 00:20
移動するのかい?それは残念だね。俺は、君の説を聞きたかったよ。
文章をためて一気に書き込んで読ませてみたらよかったんだよ。
良識あるやつは、ちゃんと読むぜ。全員をそういう奴だと決め付けるなよ。
>>213はたしかにやりすぎかもしれないが、これ書いた人がいいたいのは、
【なぜそのような考えに至ったかなど、推論、書物による出典などが明確に】
書いて欲しいという事だろう。
事実、わけのわからん書き込みで論議を混乱させてる人もいるじゃない?
それにだからと言って、荒らしていいと言う事は絶対にないぞ。反省して欲しい。




俺は、君の説が読めなくて大変、残念だよ。また会えたらいいね。
271日本@名無史さん:04/06/29 00:22
>>226
古事記上巻
『於是詔之、此地者向韓国、真来通笠紗之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也、故此地甚吉地、
詔而、於底津石根、宮柱布斗斯理、於高天原氷椽之多迦斯理、而坐也。』
【訳】是に詔りたまはく。「此の地は韓国に向かひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ、此の地いと吉き地。」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて坐しましき。

韓国の対岸みたいな表記だから、北部九州ぽいね。
272日本@名無史さん:04/06/29 01:00
>韓国の対岸みたいな表記だから、北部九州ぽいね。
それはどうだろう?対岸と言えるだろうか?

「この地は韓国に向かって、笠沙(かささ)の岬を住むべき所をもとめて通る、
朝日が直接さす国、夕日が照り輝く国である。だからこの地は非常によい土地である。」
と言って、地底の岩に届くように宮柱太く掘り立てて、
高天の原に届く程に垂木を高く上げて鎮座なさった。

日向の高千穂は判断が難しいけど
笠沙の岬に鹿児島県の西方野間岬以外の異説はないだろ?
(俺が知らないだけだったらごめんね。)

韓国がどうのこうのここでも言ってるぜ。
霧島山のもう一つの主峰『韓国岳』ってのも気になるところだな。
273日本@名無史さん:04/06/29 01:15
>>46

俺、男狭穂塚か女狭穂塚のどちらかが、卑弥呼の墓だと思うんよ。
ニニギとコノハナサクヤの墓って事になってるらしいけど
神代紀には「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」
って書いてるもんな。なんらかの政治的隠蔽が感じられる今日このごろ。
なんだか厳重警備みたいやし。

鹿児島県川内市神亀山に河愛山(えのやま)陵ってのがありますな。
現実に。ここも宮内庁の役人付きの厳重警備。
ニニギが眠ってるのここなのではないでしょうか?

いかがでしょう?
274日本@名無史さん:04/06/29 01:38
邪馬台国の墓制から卑弥呼の弟や豪族なども小規模な円墳に埋葬されていたと考える
卑弥呼以外に小規模な同じ形式の円墳が沢山出ているのは西都原古墳群。
275日本@名無史さん:04/06/29 01:42
女王と同じ古墳をたくさん作るのは不自然だから、むしろ西都以外でしょう。
276日本@名無史さん:04/06/29 01:49
邪馬台国の墓制は円墳、
女王様の墓が大きいのは当然として、墓制から弟や配下の豪族貴族なども小規模な円墳。
277日本@名無史さん:04/06/29 01:57
倭人伝に、女王様の弟や配下の豪族貴族の墓に記述はないから、根拠にはならない。
278日本@名無史さん:04/06/29 02:04
なんども言う

※邪馬台国の墓の制度が円墳※

一人一人別の方式で埋葬する国など聞いた事が無い
規模の大小の違いはあっても同じ時代で同じ国なら同じ形式の墓
279日本@名無史さん:04/06/29 02:12
倭人伝にはそんな記載はありません
280日本@名無史さん:04/06/29 02:12
筑紫の日向について

筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りましき。(古事記 上巻)

候補地
1、福島県糸島高祖山
2、鹿児島県霧島山
3、宮崎県高千穂

1、福島県糸島高祖山
高祖山の高祖神社は彦火々出見尊を奉ってある。ニニギの伝承は全く見られない。
問題外。よって候補から外れる。

2、鹿児島県霧島山
霧島神社 祭神・天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
でも文明十六年に作ったらしいので伝承の裏づけにはならない。

3、宮崎県高千穂
天岩戸神社があり旗上げ神話のクシフル神社がある。ただ高千穂峰がないが痛い。

そもそも山奥で旗上げなんかしたんだろうかね?
隼人町の鹿島神宮近くに「神代聖蹟高千穂宮跡」って石碑があるけど
案外ここがそうかもしれない・・・。

とりあえず 筑紫の日向 は【南九州】だな。
281日本@名無史さん:04/06/29 02:15
神社の祭神は、時代によって変遷するので、決定的なことは言えません。
太宰府天満宮は菅原道真の生まれる前からあったわけです。
282日本@名無史さん:04/06/29 02:17
規模の大小の違いはあっても同じ時代で同じ国なら同じ形式の墓
という常識が分かれば良い。


これ以上議論のレベルを落とせない。
283日本@名無史さん:04/06/29 02:17
>>278
通常、たしかにおっしゃるとおりなんですが
スサノヲなどの出雲神族の流入で邪馬台国にとって
『異文化』が急激に流入した点は見逃してはいけませぬぞ。
284日本@名無史さん:04/06/29 02:20
>出雲神族の流入

これは他説、自説に出雲の流入など無い。
285日本@名無史さん:04/06/29 02:26
>>282
自説に都合のよい論から逸脱するために、はずせないだけでしょう。

>>280
すでに>>271で引用されているような、ストーリー全体に矛盾がなければ
失格でしょう。「ごろあわせ」で考察していくと、決め手に欠けるでしょう。
286日本@名無史さん:04/06/29 02:29
魏志倭人伝に、倭人が多数の円墳を作ったなどと、どこにも記載されていません。
多数の円墳=邪馬台国などという結論は、無理でしょう。
287日本@名無史さん:04/06/29 02:31
では邪馬台国はどんな墓なのか?
288日本@名無史さん:04/06/29 02:34
愚問です。邪馬台国の墓の外形一般について、書かれていない、ということです。
あなたが決めることじゃない。
289日本@名無史さん:04/06/29 02:35
其死有棺無槨封土作冢始死=墓制の説明 

卑彌呼以死大作冢徑百餘歩=卑弥呼の死

大小以外にどこが違う?
290日本@名無史さん:04/06/29 02:36
墓の外形一般について、書かれていないでしょう、わかりましたか?
291日本@名無史さん:04/06/29 02:38
規模の大小の違いはあっても同じ時代で同じ国なら同じ形式の墓
という常識が分かれば良い。
292日本@名無史さん:04/06/29 02:40
>>258
「この地は韓国に向かって、笠沙(かささ)の岬を住むべき所をもとめて通る、
朝日が直接さす国、夕日が照り輝く国である。だからこの地は非常によい土地である。」
と言って、地底の岩に届くように宮柱太く掘り立てて、
高天の原に届く程に垂木を高く上げて鎮座なさった。

日向の高千穂は判断が難しいけど
笠沙の岬に【鹿児島県の西方野間岬】以外の異説はないだろ?

韓国がどうのこうの
霧島山のもう一つの主峰『韓国岳』ってのも気になるところだな。

神代紀には「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」
鹿児島県川内市神亀山に河愛山(えのやま)陵ってのがありますな。
現実に。ここも宮内庁の役人付きの厳重警備。
ニニギが眠ってるのここなのではないでしょうか?

よって南九州を押す付随として書いたんだが付随の方だけ評価されてもなぁ・・・。
笠沙の岬に【鹿児島県の西方野間岬】以外の異説はないだろ?
北九州なんてありえるのか?
293日本@名無史さん:04/06/29 02:40
>>285
だった。
294日本@名無史さん:04/06/29 02:42
>>290
正直に言ってください
君は卑弥呼の墓は径百余歩の円墳と考えてるんじゃないですか?
それともそれ以外の何かを想定されてるのですか?
295日本@名無史さん:04/06/29 02:42
卑弥呼の墓として、徑百餘歩の冢があるだけです。
たくさんの円墳があったなどと書かれていません。
なんでも西都原の現況にあわせて解釈していく習慣をやめねばなりません。
296日本@名無史さん:04/06/29 02:46
>>295
これだけは理解しておいてください
規模の大小の違いはあっても同じ時代で同じ国なら同じ形式の墓。
これ以上君には何も言いません
そのうち卑弥呼の墓について話題が出てきたら話します。
297日本@名無史さん:04/06/29 02:47
西都原にはたくさんの円墳があるから、西都原こそ邪馬台国だ、
というのは誤りですといっているのですが、おかしいですか?
298日本@名無史さん:04/06/29 02:49
>>285

>>292
そもそも山奥で旗上げなんかしたんだろうかね?
【鹿児島県隼人町】の鹿島神宮近くに「神代聖蹟高千穂宮跡」って石碑があるけど
案外ここがそうかもしれない・・・。

笠沙の岬に【鹿児島県の西方野間岬】以外の異説はないだろ?

とりあえず 筑紫の日向 は【南九州】だな。

韓国の文字のみで北九州の方が説得力ありますか?
299日本@名無史さん:04/06/29 02:49
円墳がいくつかあるだけでも、卑弥呼がいた条件が揃うわけです。
たくさんあることを要しない。だから比定は怖いんです。
300日本@名無史さん:04/06/29 02:51
>>297
論拠が違います

1・規模の大小の違いはあっても同じ時代で同じ国なら同じ形式の墓。
      ↓
2・邪馬台国の墓制から卑弥呼の弟や豪族なども小規模な円墳に埋葬されていたと考える 。

1から2を導き出した結果の西都原であって、まず西都原ありきではないのです。


301日本@名無史さん:04/06/29 02:55
>>300
円墳がいくつかある土地が候補です、という以外、この論点からの結論は出ないです。
あくまで西都原という前提があって、結論にあわせて引きずった話でしょう。
302日本@名無史さん:04/06/29 02:58
>円墳がいくつかある土地が候補です

これが分かってくれたら満足、もはや君の質問はスレ違い
もうこれ以上何も言うまい。
303日本@名無史さん:04/06/29 03:05
レベルの低い質問で流れが分からなくなったので
最後にもう一度主張します。


邪馬台国の墓制から卑弥呼の弟や豪族なども小規模な円墳に埋葬されていたと考える
卑弥呼以外に小規模な同じ形式の円墳が沢山出ているのは西都原古墳群。
304日本@名無史さん:04/06/29 03:10
それは、西都原が邪馬台国だという思い込みから出た結論

つまり、円墳の数が多いから西都原こそ邪馬台国  という話
305日本@名無史さん:04/06/29 03:11
>>285
韓国の文字のみで北九州の方が説得力ありますか?

この土地は韓国岳に向かって笠沙の岬に【鹿児島県の西方野間岬】住むとこを求めて通る、
朝日が直接さす国、夕日が照り輝く国である。

矛盾はありませんね。

この土地は朝鮮半島に向かって笠沙の岬に【鹿児島県の西方野間岬】住むとこを求めて通る、
朝日が直接さす国、夕日が照り輝く国である。



こんなところが北九州のどこにあるんですか?




306日本@名無史さん:04/06/29 03:15
>>305
ここでは触れませんが、ニニギがどこからやってきたか
そもそもなぜ、この土地に侵入したかったのか(天照の考えも含め)

ということも大事だと思います。

なぜなら、朝日・夕日・韓国というキーワードは陳腐すぎるからです。
307日本@名無史さん:04/06/29 03:36
>>306
あんた285?そうだったら相当の馬鹿。違ったらごめんな。

ニニギはアマテラス(卑弥呼)の孫(俺的には子)で、どこからもやって来ません。
南九州で生まれてそこらをを統治したり隼人などを攻めて攻略したり、
大きいのは出雲に対する反撃を企てた事かな。

308日本@名無史さん:04/06/29 03:48
畿内説の人は邪馬台国が畿内ではないと気が付いたかのな?
309日本@名無史さん:04/06/29 03:49

訂正
畿内説の人は邪馬台国が畿内ではないと気が付いたのかな?
310日本@名無史さん:04/06/29 03:54
畿内説というのは仮説に合うように史料を解釈し
遺跡や、その出土品を当てはめてるだけなんだよな。
だから「学術的には・・・」とかなんとかいう屁理屈だけは立派に整っている。

あたりまえの常識で考えるとアホらしくて疲れるだけ。
311日本@名無史さん:04/06/29 04:17
312日本@名無史さん:04/06/29 04:18
>>307
おやおや、奇説ですな。記紀に書いてないことを主張されるわけですか?

>ニニギはアマテラス(卑弥呼)の孫(俺的には子)で、どこからもやって来ません。


313日本@名無史さん:04/06/29 04:58
サイトの人に聞く








狗奴国はどこ?
314日本@名無史さん :04/06/29 05:37
AD240年代の磐越から鹿児島までの範囲を考える。倭人伝の人口分布を頭に入れる。
その当時の巨大古墳、鏡の分布の中心を考える。倭人伝と照合する。狗奴国とはそうして
割り出した邪馬台国の東部に隣接する国。ポイントは倭人伝の方位は絶対的ではないこと。
あの方位にはそれなりの理由のあることも考えておくように。
315霹靂:04/06/29 06:37
狗奴国は熊本あたりかな
耶馬台なんて たかが九州のあたりの話 畿内はもっと大きな国なんじゃない?みゃおんまい=宮尾すすむ
316日本@名無史さん :04/06/29 06:56
昨年、出雲で桃、梨を入れた甕を十の字に埋めた遺跡が発見されており、
安本地名図を基にすると大和飛鳥大極媛(ヤマトトトビモモソ(桃十)ヒメ)
という初代倭国女王
ヒミコの倭名が復元できる。ヒミコの死にあたり出雲荒神谷の埋蔵銅剣の上
で強い火を燃やした遺跡があるという。これはヒミコが火の国の鬼道に通じ
神武東遷の経路で大和に入ったと考えると説明がつく。安本の九州地方の
人口の分布図が物語るのは、はからずしも、プロト邪馬台国は筑前の安本
邪馬台国ではなく筑後肥後であったことを物語り、これはヒミコが火巫女で
あったことを裏付けるのではないか。安本の人口分布図は邪馬台国以前に
既に伊都国奴国が衰退、プロト邪馬台国が勃興すると共に日向から倭国統合
の波が押し寄せていたことを物語っているのではなかろうか。倭国は統合に向
けて始動を始めていた。
317霹靂:04/06/29 06:57
狗奴=クミャ=玖摩=熊
318霹靂:04/06/29 07:01
狗奴国=くにゃ国=玖摩国=熊本=火の国
319日本@名無史さん :04/06/29 07:04
安本の地名図は銅鐸にあるT字型の架と剣の形を横にした飛ぶ鳥
の形をしているからこれをトトビと解釈する。
320霹靂:04/06/29 07:06
卑弥=ヒイミャ=火耶
321日本@名無史さん :04/06/29 07:09
安本の人口図から狗奴国は当然出てこないが球磨辺りは全く火の気配のないところだし、
熊本が反乱するのは磐井とか西南の役。クガチヒコに相当するのは紀伊、丹後、北陸、
狗奴に相当するのは近江、遠江、関東にやたらと多い。
322霹靂:04/06/29 07:17
耶馬=ミャンマイ
みや=
秋篠宮
お宮さん
宮国家
323霹靂:04/06/29 07:34
耶馬台=ミヤオ族=天皇家 神宮VS神社アンド大社 伊勢神宮=あまてらす では天照は誰じゃ? 全国の神社は601年あたりに空海により改修されました 仏教祭りです 国分寺ができた頃各家にも社を造るよう国が通達しました 宮は消えていきました
324日本史@名無しさん:04/06/29 07:59
漏れも九州説だけど、流石に西都はつらいなあ・・・・・。県の調査でも、盗
掘にやられてもないのになんも出てきてないからな。

筑紫の日向がどうして南九州になるのか、だれか子供でもわかるように
説明キボンヌ。
325日本@名無史さん :04/06/29 08:03
神武というのはヒミコ東遷と読み替えると早い。道理で戸畔という名のヒメを殺しているが
早い話商売敵だ。神武が男性ならば仲良くしたはずだが女性だからしょうがない。女軍
を備えているというのが多国籍軍じゃーないが一寸変だと思っていたが、これが武装した
大奥のようなものだったのか。するってーとイザナギの追っかけられた話はこの辺から
行ったのか。
326日本@名無史さん :04/06/29 08:18
熊野縦走を女がやれるはずがない。チャレンジはしたがへたばった。そこで
神がかりを行い八咫鏡でカラスを呼び、つまり太陽を指針として北に進むよう
にとの指示を与え、日臣命がヒミコの代理シャーマン、ピンチヒッターとなり、
久米の戦闘部隊を率いて縦走、ヒミコの本陣は海路伊勢辺りから大名行列を
組んで入洛したという次第か。
327日本@名無史さん :04/06/29 08:21
オリジナルの神武記を書き換えたのはどうも文才のある女帝であり、中国に国書的な
ブリーフ会社案内を出す際に自分で加筆訂正したような感じだ。
328霹靂:04/06/29 08:34
一大卒とは今でいう軍隊でしょうから やはりロードオブザリングの野獣のような大軍が伊勢に向けウォーッと走ったのでしょう えっ?おぞろじい耶馬台国、その間ババアが活火山に向かい呪文を唱えたのか…えーと
329日本@名無史さん :04/06/29 08:35
ヒミコにくっついてきた出雲野郎のタギシミミ、ウザインダヨナー。切れたぜ。兄貴が
がたがたしてるんなら俺がやるぜ。と、上越辺りの出身のカミヌナカワミミがばっさり
タギシミミを切り殺した辺りで九州色が消えるのだろう。ヒミコの顔ににしわが
増える間に欠史八代時代は次第にすすみ、ヒミコが成仏する頃に崇神が始めてまっとうな
国を建てる。
330日本@名無史さん:04/06/29 09:27
>>324神代記が筑紫の日向に可愛山があると記し、実際にあるのが鹿児島。子供でもわかるかな?宮内庁の役人まで警護付きの御陵。こんな明確な根拠を示されて北九州など言うなら自説の根拠になるようなもの出せよ。根拠なしの主義主張はやめようぜ。
331日本@名無史さん :04/06/29 10:04
安本の筑紫・大和の地名配置が飛ぶ鳥の形をしている。飛ぶ鳥はアスカという。
鳥の信仰は徐福の故郷、山東半島の習俗。南米ペルーのイカ空港の先にナスカ
の地上絵がある。山東半島から真直ぐ太平洋に出ると海流はカリフォルニア・メキ
シコに当たる。上陸して南下をすればアンデス山中のナスカにいたる。この航海は
太陽に向かって進むと霊山に至るという宗教を信じない限り絶望的である。又、
吉野ヶ里の近くには金立神社
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htmhttp://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
があるが、キンGoldenタツDragonheadと解釈すれば中国のドラゴンボートのような
船ということで、その稚拙な表現は竜の概念のない時代の伝承とも考えられ信憑性
が増す。吉野ヶ里にいた、ヒミコと共に東遷する集団に徐福の伝承、アスカ/ナスカ
の地上絵が示す鳥の文化を持った要素があったのではないか。甕棺は鳥の卵、
支石墓は二本足の鳥に生みなおしてもらうこと、天地開闢を卵の中身のように
とする日本書紀、三韓の卵伝説などに共通のものが感じられる。
332日本@名無史さん :04/06/29 10:30
安本の筑紫・大和の地名配置が飛ぶ鳥の形をしていることの驚きはその測量技術が
伊能忠敬の頃とかわらないことで、特に角度の計測が正確なこと。これは天体観測、
鏡、矛、のろし等を駆使した測量が行われていたことを匂わせる。それは緻密に計算
された前方後円墳、地質学的構造帯、破砕帯に沿った金属露頭の探査などと軌を一に
するもので日本にも暗黒の中世の前にギリシャ・ローマ時代にも似た知的レベルの
時代的逆転のあったことを物語るようだ。
333日本@名無史さん:04/06/29 11:05
>>313
狗奴国=熊本の理由

「女王國東渡海千餘里復有國」=東の倭種(四国)の説明
「又有朱儒國在共南人長三四尺去女王四千餘里」=朱儒國(沖縄)の説明

以上の事から女王国の東には四国、南には沖縄があったとされる

「共南有狗奴國」=狗奴国の説明

説明の前に「自女王國以北」の女王諸国が説明されており
女王国の南と解釈するのは間違い、女王の勢力若しくは那国の南と解釈するのが自然。
334日本@名無史さん:04/06/29 11:27
普通に鹿児島とか大隅あたりでいいじゃん
335日本@名無史さん:04/06/29 11:32
>>334
鹿児島は投馬
336日本@名無史さん:04/06/29 11:44
語呂合わせは、主観が根拠だから、聞いていて疲れるよね。
語呂合わせ同士では対話にならないから、言いっ放し。
違うアプローチじゃないと、対抗できないぞ。
             ↓
http://inoues.net/yamataikoku/waj.html
337日本@名無史さん:04/06/29 11:49
>>336
完璧だろ、説明に何か破綻がある?
338日本@名無史さん:04/06/29 13:06
339日本@名無史さん:04/06/29 13:17
    ↑
理由無い自説無い典型的否定厨
340333:04/06/29 13:53
>>333
の否定論が出せないところを見ると完璧な論理という事。
この読み方では北九州説も否定しきれないが倭人伝を素直に読めばこうなる。
狗奴国は
女王国の南とは記述されていないんだよ
女王国以北の諸国の南なんだよね。
341日本@名無史さん:04/06/29 13:59
>>339

馬〜鹿!理由無い自説無い典型的否定厨は>>337だろ!!
342333:04/06/29 14:05
>>337=俺
自説有り有り

低脳過ぎて手応え無い、橿考研出てこいや。
343日本@名無史さん:04/06/29 15:10
>>邪馬台国≠西都原だけは疑いようがないな

>邪馬台国は、西都を除く全国各地から選ぼうね

だ   か   ら

もはや、邪馬台国は沖縄か西都を含む大日向か宇佐か北九州(山門?)のどれかに
絞られるのよ。

344日本@名無史さん:04/06/29 15:12
ヒミコというのは日(太陽)の
巫女という意味で卑弥呼のイメージピタリ。 http://www-ku.magma.ne.jp/~ark/sub15.html
345日本@名無史さん:04/06/29 15:17
なにはともあれ京都・奈良あたりは全部ひっくり返したい。
346日本@名無史さん:04/06/29 15:19
>西都も年代からいって、倭人の中心国ではないね

奴隷史学では平気で100年〜150年年代を吊り上げるなんて話よくあるから
信用できない。たとえば仁徳稜に築年が公にされてる年代より100年後に
作られたという話はとっくにガイシュツ? w
347日本@名無史さん:04/06/29 15:22
西都からは三角縁神獣鏡もザクザク出土。w
348日本@名無史さん:04/06/29 15:30
つーか、皇国史観的にも

箸でマンコ刺されて死んだ女の墓が始祖より

日に向かう高千穂の峰に降り立つ天子のほうがカッコイイと思わない?
349日本@名無史さん:04/06/29 15:31
>>243
円墳の量から西都は卑弥呼の時代3世紀中期の都であると断定できますね。
350日本@名無史さん:04/06/29 15:35
 ↑
否定厨必死だな(w
351日本@名無史さん:04/06/29 15:40
>>350
だって西都馬鹿だもんw
352日本@名無史さん:04/06/29 15:41
>>261
kiki こそ信仰。西都はそれなりに古墳が多数存在する。東に海があり
気候も温暖。そもそもkikiには邪馬台国の記述が存在しない。
353日本@名無史さん:04/06/29 15:43
 ↑
希少生物マキムク厨釣れた!!

馬鹿はおまえだよ、魚釣りさ(w
354日本@名無史さん:04/06/29 15:44
近畿説を唱えてるのはジジイが多いからね。
自分の生涯すら否定されたとでも思ってるんだろ。
しかも業界の上層部に多いわけだしタチ悪い。
火病ですよ。
355頭を冷やせ!畿内説信者:04/06/29 15:45
畿内説のかたは倭人伝の記述に大袈裟とか、
勘違いとかはほとんどないことにはやく気がつくことです。
356基本的に西都にも投馬国にも7世紀国府がおかれた:04/06/29 15:53
>中心は日向(西都)でしょう

その通り、人口分布や遺跡をみても明らかな事
そしてナ国が吉野ヶ里にあり狗奴国が馬や牛の骨が出てこない沖縄にあった、北部と中部は戦争していた

当時の状況
・日向は水稲能力が高い(食料=人口・国力)
・日向は交易能力は上だが水稲能力は若干下がる(情報通・交易の富)
・九州で圧倒的優位にあったナ国は漢滅亡により金印の権威喪失(倭国大乱・狗奴の反逆)
・当時人口密度第1位は日向
地政学的には
・交易国家北部は宮崎方面とも船行可能
・筑紫と肥後の間は平野で難関は筑後川程度しかない

この結果
北部諸国が日向の巫女を頂点に迎える事で九州統一に王手をかけたのが邪馬台国です。


357日本@名無史さん:04/06/29 16:10
>>356
ワラタ、微妙に変えてるし
これからは九州内での論争になるだろうね

北九州説A・・八女、山門周辺
北九州説B・・湾岸説
北九州説C・・伊都国
西都説A・・クナ=沖縄
西都説B・・クナ=熊本

今在る論説
358日本@名無史さん:04/06/29 18:21
カチャ
  ;y=ー( ゚д゚)・∵. ターン
  \/| y |)
359日本@名無史さん:04/06/29 18:54
>>356
そこまでウソ並べて、恥ずかしくない?
一行一行、全部ウソだから、反論する気も起きん。
360日本@名無史さん:04/06/29 19:15
邪馬台国は九州で決まりみたいだけど
古代畿内も重要なので邪馬台国とは関係なくスレ立てました
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088503997/

畿内説の人は大いに古代日本を語ってください。
361日本史@名無しさん:04/06/29 19:52
>>330

>子供でもわかるかな?宮内庁の役人まで警護付きの御陵。こんな明確な根拠を示されて
               〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

                       ↑      
             この時点で歴史と関係なくなってるなw
362日本@名無史さん:04/06/29 20:21
>>281
おいおい、菅公を持ち出すのか?まさかコレの説明をさせられるとは・・・
天満宮・天神と言えば「高皇産霊(高御産巣日)・高木神」に決まっておろうが。
嘘だと思うなら本殿を天満宮にしてない別の神社の摂社・末社にある
社(自動販売機くらいの大きさの)を見て見ろ。
半分くらいは【知恵の神・高木神】になってるぞ。
藤原氏が菅公の怨霊を恐れて「本当はあなたは天満さまと同じくらいの尊い人でした。
怒りをお鎮め下さい」と天満宮に合祀してそのうち祭神が入れ替わったものではないか。

神社伝承学は「藤原氏は本当に菅公の怨霊など信じたのか?」
>天満宮を調査>本当に祭神が菅公に入れ替わってる>歴史の裏づけ。
こういうもんだ。

ついでに言っとけば、高祖神社>名前から天皇の先祖神であるのは明白
>祭神は彦火々出見尊>矛盾無し
>祭神が彦火瓊瓊杵尊から彦火々出見尊に書き換えられる理由はあるか?
>特に考えられない。
また、いつ、誰が、何のために、誰を祭ってを、歴史的考察するもんだよ。

もちろん、祭神のすり替えや伝承を書き換えさせられる危険もある。
特に記紀成立以降の神社に多い。
それは認めざるをえないがそれを見抜く事で歴史の真相がより明白になる事もある。

>>323
>宮は消えていきました
どのように?全国の神社が空海に屈したってこと?逆の伝承しかみあたらない。

空海が東寺を作るとき、稲荷の山の木を勝手に切り出したため稲荷の神が怒って害を
なしたため、空海が謝って、その後逆にこの神社をよく崇敬し、空海の人気が全国に
広まるとともに稲荷神社も全国に広がったとも言われます。
363霹靂:04/06/29 20:42
耶馬台はたいして重要ではないと思ってるけど今の日本っぽい天皇象徴と将軍以下平等のような二重式平和国家なのかな?と関心を持つ 皇居と将軍家があったら拠点は説明しずらいだろし卑弥呼の下に一大卒みたいな
364日本@名無史さん:04/06/29 20:55
>>331
神社をこんな説明に使うのか・・・_| ̄|○
神社伝承を持ち出したらバカにされる理由がわかったよ。

飛ぶ鳥の明日香     とぶとりのあすか
春の日のカスガ<漢字忘れた  はるひのかすが
日下の草加   ひのもとのくさか

これの説明かい?

>キンGoldenタツDragonheadと解釈すれば中国のドラゴンボートのような
>船ということで、その稚拙な表現は竜の概念のない時代の伝承とも考えられ信憑性
>が増す。

立→竜と解釈→竜の概念のない時代→竜を知らないなら立とか関係ない 破綻_| ̄|○

中国のドラゴンボートのような >金船とか金蛇とかになるんではないだろうか・・・

【それからさんざんこのスレで言われてること!!】

>安本の筑紫・大和の地名配置が飛ぶ鳥の形をしている

そうかもしれないけど文章みただけじゃ納得できないよ。
>>21みたいなAAを書くとか
君が地図書いて画像うpローダに上げるとか
この説のホームページのリンクを書くとかしてくれないと・・・

365日本@名無史さん:04/06/29 21:01
>>331
カスガ(春日)大社とはどうなるんだ?
366日本@名無史さん :04/06/29 21:27
>>364 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm
>>365 何かありそうだけどね。お手上げ。
367せいじ:04/06/29 21:28
おっ 福岡県高祖神社がでてきていたので補足するよ。ほかの祭神は神宮皇后と玉依姫(神武天皇)の母。
この神社を降りてまっすぐ行ったところに細石神社(さざれいし)があって祭神はイワナガヒメとコノハナサクヤヒメ。この二人はニニギノミコトの妻。
近くに二人の墓と思われる古墳がある。この地が神武東征の出発地じゃないかな。くしふるも日向も目の前だよ。
368日本@名無史さん:04/06/29 21:32
>>367
神武は後の世代の人
ニニギはどこかの国の官
現実世界の卑弥呼とは特別に関係は無い
神話上は子孫となっている。
369日本@名無史さん:04/06/29 21:35
>>366
邪馬台国の会のホムペが2chのデータベース化してるな(藁
370日本@名無史さん:04/06/29 21:41
魏志倭人伝の邪馬壱国は九州北部にあった訳だな。
しかし、当時、既に九州は落ち目で、日本列島の最大の繁栄地域はヤマト。
ヤマトの支配者はニギハヤヒの一派だった訳だが、
九州の神武さんが、何故、ヤマトへ行ってニギハヤヒの一派に受入れられたのか、
何故、神武一派は根絶やしにされなかったばかりか、ヤマトの地で受入れられたのか、
それが不思議だな。
371日本@名無史さん :04/06/29 21:49
>>364 最初に金属製の舳先の龍頭の飾りをこの神社に飾ってあった。そのうちに辰という言葉とか、龍という言葉が定着しカネタツ神社なんて言った。そして現代の金立に至った。
こんなことがありえるんじゃないかってことさ。
372せいじ:04/06/29 21:53
僕は卑弥呼がいた女王国は伊都国だとおもってるし、卑弥呼=アマテラスだと思ってるよ。
373日本@名無史さん :04/06/29 21:54
>>370 大和はひと昔前の韓国見たいなもので九州の技術系シャーマンにはキーセン
パーティーで大歓迎ってなもんとちゃーうか。
374せいじ:04/06/29 22:05
ニニギはどこかの国の官はないでしょう。天孫降臨の当事者だよ。
375日本@名無史さん :04/06/29 22:05
>>372 倭人伝は伊都国とは別に女王国の説明にがんばっているんだからそれは
失礼な解釈でないか。
376日本@名無史さん:04/06/29 22:17
>>372
邪馬台国勢力も九州各地に遷都している可能性もなくはない。
しかし、このスレの邪馬台国は女王国はどこかってことだからな。

卑弥呼=大日霊女貴 (西都)

後に伊都国あたりに移動と考えるとすっきりするかもしれない。

377日本@名無史さん:04/06/29 22:25
魏志倭人伝の邪馬壱国は九州北部な訳だが、
西都にも大きな勢力があったことも確かだろうな。
神武さんたちは、西都の一派のような気もする。

ニギハヤヒのおじさんたちは天孫族で神武さんと同族ということになっている訳だが、
奴らは一体どこから来たのやら。
378日本@名無史さん:04/06/29 22:26
>>370
俺が思うに出雲でタケミナカタなどの反抗はあったにせよ
大和の侵入した出雲勢力の主流(ニギハヤヒ)と邪馬台国勢力の主流は
本来、敵対関係でなかったのではないかと思う。
スサノヲがアマテラス(卑弥呼)に子供生ませてるし。

まぁイワレヒコの大和入りにもニギハヤヒに大和を奉ったナガスネヒコは反対していたようだが。
まぁニギハヤヒに奉った国なのに勝手に九州から大王つれてこられたら腹も立つわな。

>>377
出雲じゃないか?ガイシュツやけど。
379日本史@名無しさん:04/06/29 22:36
卑弥呼=大日霊女貴 (西都)
                ↑
              この部分がイラネw

>>370

漏れの意見では、ニギハヤヒは純粋に祭司として招聘されたと思う。
それに対して、神武の方は、王家の血を引いており、九州からの物質的支援が
望めるのと、とにもかくにも自前の兵力で侵入出来たので、神武の方が初代とし
て名前を残されたのだと思う。

さらに、母国・九州での政治的立場も違っただろう。そして、ビギハヤヒの母体の
方は、後々に権力闘争に敗れていったということかもしれない。
380日本@名無史さん:04/06/29 22:41
>>379
いや、彼は物部氏の遠祖だよ。
持統天皇までは絶大な権力を持ったと思われるね。

『古事記』によると、イワレヒコ(神武天皇)は「大物主」を娘を娶る話が記載されている。
書記は事代主の娘としているが、どちらにしても出雲神であるのは注目すべき点である。
すなわち、神武以前に大和は出雲(大和の外部)の影響を受けているのである。
2〜4代天皇の皇后が全てニギハヤヒの子、宇摩志麻治(ウマシマジ)の子、
磯城県主から出ている事を 考えるとニギハヤヒ=大物主との推論も成り立つが、
大和朝廷が合併王朝であるのは疑いにくいようである。
ちなにみにニギハヤヒは物部氏の遠祖である。

これ俺のコピペだけど。いかがかな?
381370=377:04/06/29 22:44
>>378
過去ログ知らずにスマソ。

まあ、イズモやろかなあ。
382日本@名無史さん:04/06/29 22:46

神話上、卑弥呼=天照

ニニギは邪馬台国連合の北九州のどこかの国の官
トヨあたりに命令された軍事官僚ニニギ系神武が畿内遠征

神武の子孫は卑弥呼トヨ系の子孫であると記紀で謳いあげましたとさ。
383日本@名無史さん:04/06/29 22:51
>>382
神話(記紀)上は、卑弥呼=神宮皇后?
だよ〜ん。
384383:04/06/29 22:52
漢字ミスでスマソ
神功皇后
385日本@名無史さん:04/06/29 22:57
卑弥呼=神宮皇后のイメージ+天照のイメージ

でいいじゃん、どうせ史実ではないんだし
386日本@名無史さん:04/06/29 23:03
天照大神を「アマテラスオホミカミ」と読むのは間違いだな。
「アマテルオオカミ」だろうぜ。誰かの本にもそう書いてあった。
大神神社(オホミワジンジャ)とか、天照国照・・とかいうもっと
すごそうな神もいたようだし。
387日本@名無史さん:04/06/29 23:04
>>383.
神功皇后=卑弥呼にみせかけようとしたんだよ。
記紀は魏志倭人伝を知ってたからね。

なぜそんな事をするかと言うと。>>8

論証として記紀はアマテラスと卑弥呼の時代を意図的に
合わさらないようにしているふしがと思われるから。>>82

>>385
今時そんなこと言う人がいるなんてね。
そういや出雲は神話に織り込まれた仮想敵とか言うのが学者の主流やったな。
人の住めるようなとこじゃないとか・・・。
出雲からガンガン遺跡出てきてからあの学者たちはどうしたんだろう???
388日本史@名無しさん:04/06/29 23:08
神功皇后ってのも謎だよな。どう見ても卑弥呼ではないし、その割に
朝鮮関係、九州関係の説話も多い。

>>387

そうそう。漏れも高校で出雲神話は架空のおとぎ話って習ったんだが。
別に教師があやまってくれるわけでもないよな。こんなことでいいのかよ?
はっきり言って、学校で垂れ流せるネタじゃなかったんだよな。

漏れは学校で教えていいのは、せいぜい平安時代からでいいと思う。それに、小学校は
古代から線で教えること自体必要ないと思うな。
389日本@名無史さん:04/06/29 23:12
>>387
まったくだ。
しかし、何で、ニギハヤヒ一派はイワレヒコを受入れたんかね。
390日本@名無史さん:04/06/29 23:15
超人3人衆
神功皇后、聖徳太子、日本武尊
391日本@名無史さん:04/06/29 23:16
エロイ人教えて

トヨは神話上誰にあたるんだ?神功皇后?
392日本@名無史さん:04/06/29 23:17
>> 388
俺としては真実が知りたいね。
宮内庁に知る権利を冒涜されてるわけだな。
日本に知る権利があるかどうか知らないけど(法律に詳しくないのでw)

>>389

>>378
じゃダメ?九州は出雲にやさしかったと思うよ。
なぜか一基のみある出雲式の方墳・・・
あれ、スサノヲについていった将軍の誰かじゃないかな?
393日本@名無史さん:04/06/29 23:18
記紀は魏志倭人伝を知ってたってことは
大和をヤマトと読むのも邪馬台国からきてるのかなぁ。
394日本@名無史さん:04/06/29 23:19
>>391
トヨは伊勢の豊受大神って説があるね。
俺は確信してないけど。
395日本@名無史さん:04/06/29 23:21
396日本@名無史さん:04/06/29 23:27
>>395
日本や和、大和、倭をヤマトって発音したのはどうして分かってるの?
邪馬台ならなんとなく分かるけど。
夜麻登とかってもっと後だよね。
397日本@名無史さん:04/06/29 23:33
>>392
やさしかったと言われてもなあ、
なんせ、国譲りとかいって無理やり奪った訳やし・・・。
398日本@名無史さん:04/06/29 23:34
大日本国魂神社とかね。それらを示すものはいっぱいあるよ。
「おおやまとくにたまじんじゃ」って読むんだよ。
まぁ発音までは正直言うとわからないけど。
399日本@名無史さん:04/06/29 23:36
口伝え?
400日本@名無史さん:04/06/29 23:40
>>392
合併なんて事になると、どんなんでも反対派はいるもんですよ。
勝手に敵対関係にしたのは、藤原不比等と思われますね。私の勝手な推論ですけど。

神話操作の疑いに関して・・・
>>98 >>102
記紀は天照女神を持統に重ねたわけです。
さらに言うと天武天皇をスサノヲに重ねたわけですね。私の勝手な推論ですけど。
401日本史@名無しさん:04/06/29 23:42
九州が出雲に優しかったって言うのはありえねえよな。
やっぱり地域の主権を巡る争いだし、平和的委譲なんてあり得ないと思うよ。古代で。

ただ、卑弥呼の時代も連合体だし、その後も出雲の力は馬鹿に出来ないから、懐柔策
はあったと思うけど。それに、ずっと古代からの出雲のネームバリューは無視できない
し。

漏れは、天神さんというのも実は、出雲神社というのがあって、それの強制的宗旨替え
の結果そうなったんだとおもう。なんたって、八百万の神が集まっていたんだから。全国
各地にあっても全然おかしくない。柱立てたらいいだけだしw
402日本@名無史さん:04/06/29 23:45
>>399
そこまで聞かれると降参だわ。ならわしでしょ。

これなんて読む?「大王」

歴史に興味のある人なら答えは二つ
普通に「ダイオウ」
もう一つ、「オオキミ」
どうがんばっても今の漢字からはオオキミは出てこないよね。
それと似たようなもんでないかい?
403日本@名無史さん:04/06/29 23:48

神武は韓国に流されたりしてるわけだから
弱い神武が出雲に妥協的に謙っていたとか?
九州邪馬台国から半独立勢力になるために出雲に泣きを入れたとか?
404日本@名無史さん:04/06/29 23:49
>>401
懐柔策か・・・そうかもね。
古墳や社、それらからは彼らの足跡は確認できても
心まではわからないもんね。
405日本@名無史さん:04/06/29 23:50
謙っていたとか? =へりくだっていたとか?
406日本@名無史さん:04/06/29 23:53
とりあえず持統天皇までは出雲(物部)の方が一枚上なのはわかるね。
記紀に見る大物主に対する気の使いようは尋常じゃないな。
407日本@名無史さん:04/06/29 23:54
鎌倉幕府は将軍を京都から代々よんでたよね。
そんな感じで貴種信仰みたいなのがこの時代にすでにあったんだろうね。
それで、神武の婿入り。
後代の関東と関西のような関係が九州と畿内であったのかもね。
で、いつの間にか力関係が逆転と。

408日本@名無史さん:04/06/29 23:54
隋書にあり。

「・・・開皇二十年,倭王姓阿毎,字多利思北孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。・・・」

この中で、「阿輩雞彌」は「アハキミ」⇒「オホキミ」=「大王」って感じで、
奇しくも、発音が分かるってこともある。
409日本@名無史さん:04/06/30 00:08
当時まだ父系が確立されていなかったとすれば、
婿は遠来の方が珍重されたのかもしれん。
特に美しければなおさら。
イワレヒコさんは美男子だったのかもしれんぞ。
410日本@名無史さん:04/06/30 01:03
本スレはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50

ここは>>1のとおり、西都スレです
411日本@名無史さん:04/06/30 01:04
物部は北条氏みたいなもんかもな。
412日本@名無史さん:04/06/30 01:37
>>410
荒らさないで反論しましょうよ。どうぞ!
413せいじ:04/06/30 09:19
375>>さん。あなたがいってることはわかります。でもそれは今の常識でしょう?僕は根拠なくいってるわけじゃなきからもっと原文見てほしい。
414せいじ:04/06/30 09:34
其国本亦以男子為王佳七八十年倭国乱相攻伐歴年・・・。其国=女王国でしょ、じゃあ倭国は? 倭国はあの志賀島のあの国だよ。だから戦いその結果共立されたんだ。
つまり其国と倭国は別の国だったんだ。卑弥呼の時代になって福岡市は奴国(ヤツラの国)の意。これはでき過ぎかな。その上で伊都国の世有王皆統属女王国を読むと女王(国)は伊都国歴代の王の中の一人の王が女王と解釈できるんだ。
415せいじ:04/06/30 09:44
伊都国(前原市)と奴国(福岡市)は隣同士。卑弥呼の時代より古い時代の甕棺からは武器がささったままの人骨がでてくるし、三種の神器をともなった墓は吉武高木、井原、三雲、スク岡本、平原。など福岡市と前原市からでてくる。
416せいじ:04/06/30 10:26
417日本@名無史さん:04/06/30 12:39
>円墳がいくつかある土地が候補です

いくつかではダメ!300基以上最低限なければ
418日本@名無史さん:04/06/30 12:47
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm
kinai が4位でワロタ。古事記を出すまでもなく邪馬台国は九州島のどこかだな w
419日本@名無史さん:04/06/30 12:48
其国=倭国
420日本@名無史さん:04/06/30 12:49
其国本亦以男子為王佳七八十年倭国乱相攻伐歴年・・・。其国=倭国
421日本@名無史さん:04/06/30 12:54
伊都国から水行20日といえば川内の投馬国のことだね。ここは後に西都と同様に
人口が多いから国府がおかれたわけだしね
422日本@名無史さん:04/06/30 12:59
俺もそう思う。隼人の国である種独特だったんだと思う。
423せいじ:04/06/30 13:09
伝には墓の形は僕の知るところでは書いてありません。関連するところは、其死有棺無郭(最後のカクは正確にはきへんがある)変換できません。
なので棺はあるけど、郭(棺を収める石室)はないのです。前方後円墳のような横穴式石室を持つものや、宮崎県の地下に穴を掘って横穴を空け石室を持つものもこれにあたりません。
平原遺跡のように箱式木管墓を直接土に埋める方法が有棺無郭です。
424日本@名無史さん:04/06/30 13:15
>せいじ

ではコレは何のことを言ってるの?
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸
425せいじ:04/06/30 13:32
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月は邪馬壱国=女王のいる伊都国まで帯方軍(ソウルあたり)から朝鮮半島を南下(陸行)し
対馬海峡を十日渡る。
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸は邪馬壱国=伊都国だけど伊都国は首都なので、ここの邪馬壱国は北部九州(七萬餘戸)を指す。
たとえはヘンだけど東京には天皇、総理大臣、都知事がいるでしょう。
426せいじ:04/06/30 13:38
投馬国も帯方軍から水行二十日して、南九州(薩摩)に行くので卑弥呼とは別の国。
427日本@名無史さん:04/06/30 14:18
納得いかないなー
松浦との関係は?
遠くて周辺国省かれてるのに松浦は周辺ではないのか?500里だよ。

428せいじ:04/06/30 14:39
松浦は伊都国、奴国、不弥国と同様海に面しているから(不弥国だけ内陸)だけどいづれも南は山に囲まれている。
つまりその他の国は山の反対なんだ。唐津なんか海と山がくっついていて海岸線を伊都国に行くしかない。唐津の隣(南)には七山村があって文字どうり七個山がある。
429日本@名無史さん:04/06/30 15:06
奴国が福岡としたら南は平地だよ
それに山の南に周辺国があるなら、こう記述するんじゃないかな
女王國以北特置一大率⇒女王國以南特置一大率
430せいじ:04/06/30 16:34
僕は福岡市出身です。福岡の南には背振山地があり南の佐賀までは山なんです。唯一平地で南に繋がっているところは現在の水城です。ここは現在でも南に行く高速道路、JR,私鉄、国道3号線等が通るところです。
水城といっても狭いところです。唐津からこの水城まで南側は山なんですよ。九州北岸の国だけ詳しく書いているのはこのような
地形が関係している。
100以上といえば100,101,102と数えるでしょう。それと同様女王国以北の中に女王国が入っているんです。だから一大率が伊都国にあるんですよ。
431日本@名無史さん:04/06/30 18:08
【伊都国=邪馬台国】 絶対無理だわ。

倭国ってのは九州邪馬台国の連合国の総称だろう。
連合国が男子王の時代に乱れた。

伊都國に至る。世王有るも皆女王國に統属す。
>伊都国には特別に王がいますが、女王国の支配下です。
(略)
南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。
(略)
奴國有り。これ女王の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。


⇒女王国の勢力圏は對馬國?から副都伊都国、首都邪馬台国を経て奴國までです。
  奴國の南の狗奴國は女王国の勢力圏外です。



どうして普通に読めないのかな?
432日本@名無史さん:04/06/30 18:38
こっちの境界はわかりませんわ。たぶん対馬(對馬國)
↑ (現在の日本国の国境に同じ)

|             *陸行     *水行
|         伊都国 奴国
|           ↑(世王有るも皆女王國に統属す)           

|                       ヽ _
|                  投馬国 レ |*水行
|                         /
|                         L       
|                          ヽ  佐賀関(豊後水道)が 狭く、      
倭国(女王国権力内)           /  |  暗礁があり、海流が速く、
|                      /  /   陸行に切り替え
|                 *陸行| /       
|                     ||     
|                     ||     
|                (南)  ↓|
|                      /
|                  邪馬台国(西都)=女王の都する所
|              ____/

|               〇 〇
|               〇
|              〇  ←奄美二十一島
|            ∴∞ 
↓           ∴〇
             ←女王国境界(現在の鹿児島県の県境に同じ) 
       / ̄/ ← 狗奴国(球磨国)「男子を王となす、女王国に属さず」⇒【琉球王朝】
        ̄ ̄
433せいじ:04/06/30 18:53
以前は同じような意見でした。時間の経過とともに変わっていったのです。狗奴國については同意見です。
伊都國に至るのいたるは「到」です。伊都国だけ使い分けてあります。どうしてでしょう。
女王国勢力圏については従郡至倭 ー略ー 到其北岸狗邪韓国とあるから、韓国の一部も女王国圏だったのです。
434日本@名無史さん:04/06/30 18:57
こっちの境界はわかりませんわ。たぶん対馬(對馬國)
↑ (現在の日本国の国境に同じ)

|             *陸行     *水行
|         伊都国 奴国
|           ↑(世王有るも皆女王國に統属す)           

|                       ヽ _
|                    レ |*水行
|                         /
|                         L       
|                          ヽ  佐賀関(豊後水道)が 狭く、      
倭国(女王国権力内)           /  |  暗礁があり、海流が速く、
|                   /  /   陸行に切り替え
|            狗奴国  山脈 *陸行| /       
|                     ||     
|                     ||     
|                (南)  ↓|
|                      /
|          投馬国     邪馬台国(西都)=女王の都する所
|              ____/

435日本@名無史さん:04/06/30 18:58
うまくいかないな
436日本@名無史さん:04/06/30 19:20
伊都国→那国→→フミ国→→→→→→→→→→→→→→↓
     ↓  ↓陸行一月又水行10日      ↓水行20日
 女王諸国↓  ↓(途中女王国以北の諸国)    ↓
     ↓  ↓                ↓
    狗奴  ↓                ↓
        ↓                ↓
  投馬    西都→→→→東の倭種(四国)   ↓
   ↑    ↓                ↓
   ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←↓
        ↓
        ↓
        ↓
       朱儒国(沖縄)
437日本@名無史さん:04/06/30 19:28
なるほど。目に付きませんでした。
でも「到其北岸狗邪韓国」の到はどう解釈するのですか?
伊都国だけではありませんね。
438日本@名無史さん:04/06/30 19:29
>>436
すまん。ものすごくわかり難い。
439せいじ:04/06/30 19:39
伊都国だけじゃなかったね。
お詫びに伊都国説のナンバー2にしてあげる。
440日本@名無史さん:04/06/30 19:44
なんだよそれ!いらないよw

でも、気になるのは確か。中国人に聞けば「至」と「到」の違いがわかるだろうか?
俺は訳文ばかり見てたからな新しい事に気づかされてうれしいよ。
それに、伊都国の根拠が一つ消えた訳やね〜。
441日本@名無史さん:04/06/30 19:51
↑狗邪韓国(朝鮮半島南部) (任那日本府につながる???)


|             *陸行     *水行
|         伊都国 奴国
|           ↑(世王有るも皆女王國に統属す)           

|                       ヽ _
|                  投馬国 レ |*水行
|                         /
|                         L       
|                          ヽ  佐賀関(豊後水道)が 狭く、      
倭国(女王国権力内)           /  |  暗礁があり、海流が速く、
|                      /  /   陸行に切り替え
|                 *陸行| /       
|                     ||     
|                     ||     
|                (南)  ↓|
|                      /
|                  邪馬台国(西都)=女王の都する所
|              ____/

|               〇 〇
|               〇
|              〇  ←奄美二十一島
|            ∴∞ 
↓           ∴〇
             ←女王国境界(現在の鹿児島県の県境に同じ) 
       / ̄/ ← 狗奴国(球磨国)「男子を王となす、女王国に属さず」⇒【琉球王朝】
        ̄ ̄
【訂正版】 決定版かもね!
442せいじ:04/06/30 19:54
チャンスだったのに!たまにはHP寄って行ってね。
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
443日本@名無史さん:04/06/30 20:03
おや。HP作ってんだ。
俺も西都説のHP作るかな・・・
でも西都を主張するとすぐ西都馬鹿とか言って荒らされるんだよな。
俺は根拠を示してから話してるのにな。反論して欲しいよ。論破してあげるからw
それに俺、近畿の人間だし。村おこしとか関係ないし。

本当のこの国の成り立ちが知りたいだけさ。

で、今は西都有利でいいんかい?なんちって!?
ありがたくHP読ませて頂きますね。
444日本@名無史さん:04/06/30 20:18
論破してあげよう

九州島には末盧国 伊都国 奴国 不弥国 投馬国 狗奴国 の6つしかないの?

関門海峡通過できて豊後水道通過できない理由がわからん。
445佐賀県佐賀市十七歳:04/06/30 20:26
>>443
なんでしたら本当の西都馬鹿(大室寅之スレ=鹿島f狂信者)の作ったHPを
紹介しておきましょうか?
446日本@名無史さん:04/06/30 20:40
>>443
せいじさん。読みました。あまりの短さにビツクリしました。

俺は邪馬台(やまと)国→大和(やまと)朝廷を主張してるのでなんとも・・・
記紀に九州の勢力が奈良に移動した記事もあるしね。
質問したいのはこの大勢力の【ヤマイ国】はその後どうなって行くのかな?

でも、これを「ヤマイ」と読むとか「ヤマト」とかの論争は空しい。

なぜなら外人が『被差別文字を多く』を使って記した文献に発音がどうのとか言うのはナンセンスだから。
君も認めてる狗奴国【くな】 は 球磨国【くま】でいいんだろ?
(クマ族とソウ族は後に朝廷にまつろわぬ者としてあわせてクマソウ>クマソ
と呼ばれるようになるんだよね。)
はっきり言ってニュアンスくらいの参考にしかならんわな。
日本人もあれやし。ミシンはマシーンから。ぜんぜん意味違うし。
メリケン粉はアメリカ粉って・・・もう笑うしかない。

平原遺跡>たしかに伊都国は邪馬台国連合の重要拠点(たぶん外交)だから
それらの遺跡が発掘されてもおかしくはないね。金印が出たら認めざるをえないけどね。

伊都国はたぶんそれなりの勢力を持って王族として反映したが
女王国連合に屈したと考える方が自然だね。
しかし、他の属国と同じにするのはかわいそうだから王の名前だけは許されたと。(懐柔政策)
もしくは副都としてたかもね。まぁ重要であるのは認めるけど女王国とイコールは曲解かも。
こんなところかな・・・。
447日本@名無史さん:04/06/30 20:40
魏志のいう南ってのは実際には「東南」だろ
448日本@名無史さん:04/06/30 20:51
>卑弥呼の墓の描写
大きさ・円墳であることの記述はさりとて、棺はあるけど槨なし、
というのは説明が詳しすぎないか?
魏の使いが着て見たのか?
倭人が説明したとなると、魏の役人が聞きただしたのだろうか?
449日本@名無史さん:04/06/30 21:24
九州説の誰か、>>185に答えてくれよ
九州説を唱えるにあたり、呉服だの漢字の呉音だの
今でも残ってるぐらいだから、呉の影響は何かしらあっただろう
しかし、このスレを読んでる限り、魏や国内ばかり見てるレスばかりで、
呉を完全無視ですか?
450日本@名無史さん:04/06/30 21:35
451日本@名無史さん:04/06/30 21:38
>>449
まず、そのソースを明らかにし

夷州、亶州が九州であることを論証(証拠は出せない、論証で結構。)
してからまた来て下さい。
452日本@名無史さん:04/06/30 21:45
>>450
孫権は部下を種子島や遼東まで使いを遣したり、遠征させたりしている
呉の人間が普通に九州を訪れてもおかしくないだろう
しかし、邪馬台国と呉に接点はあまり感じられない
何故なんだろうか?
453日本@名無史さん:04/06/30 22:02
亶州がもし九州だとしたら
呉からならば薩摩か宮崎につくな

孫権に反感を持っていた下級武将は西都の地で呉に離反し
西都勢力の強力なブレーンとなった

ソースは脳内。
454日本史@名無しさん:04/06/30 22:06
漢末に、一時的に周辺国までの統制力が薄れたため、公孫氏などの独立勢力が
跋扈していた。それに対して三国時代は、分裂していたために、少しでも国力を拡
大するために、積極的に周辺国への侵略や略奪を推進した。
実際、人口や兵数の少ない呉は、海を渡って奴隷狩りに行ったと記録にある。失敗
したそうだが。一方で、魏の方は、間に高句麗勢力、そして三韓がある。遠交近攻
政策を採る限り、魏にとっては倭国の朝貢は貴重であった。故に、倭国が直接的な
脅威となりつつあった呉から守るために魏に臣従したのは当然の成り行きであった。

実際、その頃の吉野ヶ里でも、何故か海側からの攻撃に備えるような形で作られて
いる。謎と言えば謎だが、このような国際情勢を鑑みれば、むしろよくわかるのでは
ないか。
455日本@名無史さん:04/06/30 22:14
ソースは脳内。 はやめてくれよw
このスレではさんざん言われてるじゃん。よろ。
456日本@名無史さん:04/06/30 22:16
邪馬台国=魏
狗奴国 =呉

でいいじゃん。

べつに邪馬台国や狗奴国がどこにあってもこの構図が成り立つかどうかとは
また違った次元の問題だろう。
457449,452:04/06/30 22:17
>>454
レスありがとうございます。ある程度判りました。
自分は、呉と邪馬台国にあまり接点が感じられないので、
邪馬台国は呉の影響の受けにくい土地、例えば大和(現在の奈良)
にあったと推測していたのですが。
458日本@名無史さん:04/06/30 22:41
暇なので >>445
でも、読んでみようかなぁ〜と、言ってみるテスト。
どこかしらん?
            (西都説主張している443より)
459日本@名無史さん:04/06/30 23:02
畿内説の場合は、齟齬があるのは方角の問題くらいで、それ以外は非常に調和的で、
総合的に見て、動かすことは出来ません。ちょっと、まとめてみました。

水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。

これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。

卑弥呼の墓は、径百余歩(直径140m余り)であり、箸墓古墳(後円部の直径160m)は、
オオヤマトに位置し、年代は調和的であり、巫女の墓の伝承を持つなど、
非常に調和的です。
九州は、弥生時代後期以降はさびれています。

伊都国に一大率を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示唆します。

投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸と、魏志東夷伝の朝鮮半島諸国と比べると、
規模が大きい。

魏から金印を賜ったのは、大月氏(クシャナ朝)と邪馬台(ヤマト)だけで、
重要視していることが分かる。

古墳時代に入って、銅鏡の出土は畿内・吉備に移っていいます。

これら、いずれも九州のショボイ国では説明が付かず、畿内説で初めて理解できる。
460日本@名無史さん:04/06/30 23:14
俺はやっぱり畿内説。
もとは九州説信者だったんだけど、ここ10年ほどは畿内説に乗り換えている。

「邪馬台国への道のり」は「奴国」で方角を間違えてしまえば、問題ないと思う。

「奴国」=「那の津」で物資に溢れ、九州でもとりわけ栄えていたのだろう。
この機能が後の大宰府に引き継がれているんだと思う。
ここから船に乗ったとすると、途中で船はぐるっと旋回しなければ関門海峡を通
れない。この時に海外の人が方角を間違えてもおかしくはない。また、日本人に
とっても正直に言わないでおく方が何かと好都合なので黙っていたんだろうね。
461鈴屋メカトロニクス:04/06/30 23:26
462日本史@名無しさん:04/06/30 23:30
「ソースは土器編年」はやめてくれよw

年代の客観的な測定してくれ、先に。話はそれからだ。
463日本@名無史さん:04/06/30 23:34
当時、日本列島で一番繁栄していたのは畿内だろうが、
そのことと、魏志倭人伝の邪馬壱国とは直接関係ないよ。

言い古されたことだろうけど、一応重要なことなので言っとくよ。
464日本@名無史さん:04/06/30 23:46
巫女の支配する程度の国ならば
大国呉の侵略受けたらひとたまりもないな
465日本@名無史さん:04/06/30 23:57
ん〜地理に関しては水掛け論になるのでやめときます。

箸墓古墳です。無理ですね。
三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する【前方後円墳】
三輪山の麓と言うだけで「大物主」の関係者であると推測するのはたやすいですね。
実際、倭迹迹日百襲姫命とされていますね。これを無理に卑弥呼の墓にしますと矛盾が発生します。

〜箸墓古墳の解釈の流れ〜
箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。
>百襲姫に符合
卑弥呼が死んだのは3世紀前半(248年)
>卑弥呼はお呼びでない。
平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表
>卑弥呼はお呼びでない。
平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表
>邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠となる。
 ⇒そうかなぁ?女王国の東の海の向こう国の倭種の墓かもしれないのにね!!

出土した土器のなかに、「布留0式」と言われる様式の土器が含まれている。
布留0式期が西暦で何年頃にあたるのかは当面確定しようもないが、
この土器の実年代は、学者によって説が分かれるものの三世紀後半〜四世紀とするのが一般的。
以前の調査でも同様式の土器が出土しており、築造時期もほぽ確定した。
しかし、これを無理矢理3世紀前半から4世紀にかけて使われたという人が現れる⇒苦しいなぁ・・・
これこそ我田引水である。つまり、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると、3世紀前半に死んだ卑弥呼と供に、
4世紀の土器かもしれないものが埋葬されているという事になるのである。
>箸墓古墳を3世紀前半とする根拠がなくなるのです!

よって卑弥呼の墓などとする事は到底できないのである。

 **************************
 ***それになんか無理やりこじつけ臭すぎなのです。***
 **************************
466日本@名無史さん:04/07/01 00:06
< `Д´> 天孫の故地、加羅が実質邪馬台国に決まってるでしょ!!!!
467日本@名無史さん:04/07/01 00:11
最新の学説では布留0式期は2世紀後半まで遡れるとされている。
468日本@名無史さん:04/07/01 00:14
正直、近畿説の学者は、なんだかイカレっぽいなぁ。
一般的な解釈を曲げてまでも近畿説を無理矢理無理矢理・・・
469日本@名無史さん:04/07/01 00:14
古事記記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとにすると、
祟神天皇は258年に亡くなった。
卑弥呼が没したのは、248年ごろと考えられるので、
祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代である。
祟神天皇の時代に巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼のことである。
また、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が、卑弥呼の墓である。
470日本@名無史さん:04/07/01 00:34
孫権はもともと倭人なんだよ。
縄文倭人の海賊出身。
だから碧眼なんだよ。
縄文人だから。
自分か自分の先祖の出身地で兵を集めようとしたんだな。
熊本の熊襲あたりだろうな。
471日本@名無史さん:04/07/01 00:43
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説・・・イタいよ。目にしみるくらい。






     倭迹迹日百襲姫は女王(女帝)ではない。
472日本@名無史さん:04/07/01 01:16
            【近畿説】         【九州説】

卑弥呼=   百襲姫・神功皇后      大日霊女
        そもそも女王じゃない    皇祖神=しかもオオヒミコと読める。   九州説

場所 =      奈良桜井         西都or北九州                引き分け
          方角が合わない      距離が合わない                

狗奴国=       不明            球磨国                   九州説
                        牛馬無し・四季を知らず

墓   =     箸墓古墳 他      男狭穂塚 平原遺跡 他           引き分け
           時代確証なし       発掘不可

記紀との符合=   ない。          ほとんど符合。                九州説



九州説3 近畿説0 引き分け2

こんな感じでいいのかな?
473日本@名無史さん:04/07/01 02:38
日本ではないわが国は東方君子国として論語にも出ている
ジャワか琉球辺りだろう
474日本@名無史さん:04/07/01 11:53
どのみち近畿はありえね。人並みの脳で考えたらよ。基地外の近畿説学者が土器とか捏造しないかまじで心配やわ。箸墓の事を考えたらやりかねんわ。まさか、金印作ったりしてたりして…ガクブル
475日本@名無史さん:04/07/01 11:56
近畿じゃないと色々困るんだよ!
って一回言われた。
伊都国→那国→→フミ国→→→→→→→→→→→→→→↓
  (女王諸国)   ↓陸行一月又水行10日         ↓水行20日
      ↓      ↓途中女王国以北の諸国        ↓
     ↓      ↓                       ↓
    狗奴     ↓                       ↓
            ↓                       ↓
  投馬      西都→→→→東の倭種(四国)      ↓
   ↑       ↓                        ↓
   ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←← ↓
           ↓
           ↓
           ↓
           ↓
           ↓
           ↓
           ↓
          朱儒国(沖縄)
477日本@名無史さん:04/07/01 17:32
近畿にしろ九州にしろ百年以上探して邪馬台国が見つからないのは変だろ
見つからないという事実が両説が誤りであることを証明しているよ
したがって邪馬台国は東北
478スカトロの歴史:04/07/01 18:28
>>477
畿内説は政治
九州説は妄想
東北説はウンコ
479日本@名無史さん:04/07/01 19:00
>477
邪馬台国は見つかっているけど、異論が多いから正解率が低いだけ。
480日本@名無史さん:04/07/01 19:06
お前ら、邪馬台国が決着したら誰が困るかよく考えてみよう。出版業界にはドラスティック
なメディアの革命が進んでいるし、いわゆる邪馬台国○○論者はポストが危うくなる。邪馬台国○○論で生計を立てている集団があるんだな。それに学閥というのかヒエラルキーがある。この論争はいまやオールスターゲームなのだ。つまり、勝敗のないダンスなのだ。
481スカトロの歴史:04/07/01 19:11
確かに邪馬台国スレも九州で決着が付いた途端過疎化し始めたように感じる
482日本@名無史さん:04/07/01 19:17
延々と謎のままにしたいという意思を感じる時はあります。
学会内での話ですが。
483日本@名無史さん:04/07/01 19:28
吉野ヶ里遺跡の古代史における位置づけ研究も弱いのではないか?
484日本@名無史さん:04/07/01 19:48
>>483
吉野ヶ里クラスの集落って当時どのくらいあったんだろうね。
ゴキブリは一匹見つけると100匹はいるというかが。
485日本@名無史さん:04/07/01 21:05
いまだに吉野ヶ里って・・・w
鳥取のド田舎にもそれを凌ぐ規模の弥生遺跡(妻木晩田遺跡)
が見つかっていますが?
486日本@名無史さん:04/07/01 22:16
妻木晩田遺跡も、古代史における位置づけをすればいいことでしょ。
妻木晩田や吉野ヶ里もあわせて、未だに古代史の全体像が組み立てられないなんて
臆病か怠慢か洞察力の欠如か学会の内部都合としか思えない。
487日本@名無史さん:04/07/01 22:43

吉野ヶ里程度の古墳でも
あんまり解明しすぎたら消去法で邪馬台国が浮かびあがってくるからなんだね。
488日本@名無史さん:04/07/01 23:03
>>476
狗奴国=熊本説を言いたいのはわかったから解説してくれよ。

で、電車の路線図みたいなのはなんだ?
伊都国駅から西都駅までは2000円くらいでいいのか?

冗談はおいといて、当時の熊本には牛も馬もいなかったんだな?

「断髪、文身、以って蛟竜の害を避く」
蛟竜は、ウミヘビ か サメ か ハブ あたりだろ?確証はないが・・・
熊本説で 『蛟竜』 を説明してくれ。文身で害を防げて竜を想像できるような物だぞ。
489日本@名無史さん:04/07/01 23:12
>>480の言うとおりかもしれない。
それに皇国史観とかもからんでるんだろうなぁ・・・。
どう考えても○○はありえないし、◇◇とするとうまく説明できるのに・・・。
邪馬台国は故意に隠されてるような気がするな。
490日本@名無史さん:04/07/01 23:43
>>488
馬はまだ日本にいない、蛟竜は鮫だ、西日本沿岸にウヨウヨいたろう
というか、あんた読み間違いしてる
刺青は倭の風習だ、理由は鮫避けと言われている。

491日本@名無史さん:04/07/02 00:20
>>490
やっぱ、ヤマタイは畿内ではないよな、大和朝廷は、サメよけの刺青
なんてしないよなあ。
山幸彦が畿内勢力で海幸彦が九州ヤマタイ勢力なんだろうか。
492日本@名無史さん:04/07/02 00:24
古代では今より温暖で海抜も高かったかもよ
493日本@名無史さん:04/07/02 00:26
>>490
というか、俺ここ一ヶ月、畿内説を攻撃しすぎて凄く後悔している
相手はジイサンだし・・・
邪馬台国は謎だから夢がある、もう九州説を強く押す時代じゃないと思う。
494帰ってきた24歳無職:04/07/02 00:41
邪馬台国はネオアトランティスの
バベルの光で滅びたんだよ
495日本@名無史さん:04/07/02 00:53
奈良県桜井市です
496日本@名無史さん:04/07/02 01:00
東京都東大和市ニダ
497せいじ:04/07/02 11:44
狗奴国=熊本県でいいと思うけど。菊池だと思う。菊池川流域(菊池市、玉名市)かな。女王国の南で遺跡が多いから。また
狗奴国には狗古智卑狗がいるから、無理して(きくちひこ)とも読める。
福岡佐賀では弥生時代甕棺が使われますが。弥生の終わりになると急に箱式木棺墓、石棺墓が使われるようになります。この時こそ卑弥呼の時代となり
古墳時代の始まりと思うのです。平原遺跡は方形周溝墓の中に箱式木棺を埋葬している。まさに有棺無槨
498日本@名無史さん:04/07/02 12:44
真実の上に日本の国体を築こう
盛りあがってきましたね。
明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデムパと言われますが
この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。
鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば
はでっち上げではない様です。
自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
鹿島本の引用要約
・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎
 毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」
 刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)
 他 アーネスト・サトウ
・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎
 → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)
 → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」
 → etc...
・明治天皇の変身ぶりについての謎→ 中山忠能日記→ 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)→ etc...
・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」
 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)→ 長島銀蔵/「皇統正史」
・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?→ 原敬/「原敬日記」
個人的には2chで書き込みがあった次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。
2chオンライン上で大いにもり上げましょう。

499日本@名無史さん:04/07/02 12:54
邪馬台国は故意に隠されてるような気がするな w
500日本@名無史さん:04/07/02 12:56
マルタイなら福岡にあるよ
501日本@名無史さん:04/07/02 13:22
>山幸彦が畿内勢力で海幸彦が九州ヤマタイ勢力なんだろうか。
両方宮崎日向の話だよ
海幸彦が山幸彦に釣り針を貸したばっかりに山幸彦が
隼人、わたつみと手を組み九州で勢力拡大した
だから今でも現地では他人に針を貸さない風習がある
まあそのおかげで孫の神武帝の頃には一代勢力になった訳だが
502日本@名無史さん:04/07/02 14:08
>>499
謎のまま論争してたほうが経済効果が高いからだろう
決着付いたら各地の古墳公園は寂れるだろうし
新しい発見も「卑弥呼か?」が付かないとマスコミは取り上げない
503日本@名無史さん:04/07/02 15:19
マルタイ福岡
504日本@名無史さん:04/07/02 16:10
そういえば(株)マルタイ棒ラーメンの工場は糸島(伊都国)にある!!!
505日本@名無史さん:04/07/02 22:06
>>472

墳丘出土の埴輪の相対編年によって

箸墓古墳=古墳時代前期
女狭穂塚古墳=古墳時代中期

であることは確定している。
よって墓の項目は畿内説優勢。

また,魏志倭人伝の記述と記紀の記述は,
編さん目的も成立年代も全くことなる次元のものであるので
無批判に比較すること自体ナンセンス。

506日本@名無史さん:04/07/02 23:33
>>470
ワラタ
507日本@名無史さん:04/07/02 23:44
508日本@名無史さん:04/07/02 23:53
サントリーの佐治敬三社長は、「東北なんか熊襲の産地、文化水準はきわめて低い」と
無知を晒して、東北地方で不買運動を巻き起こしたことがあった。

2chでもここまでアホはいないと思いますが、一時期、熊本が邪馬台国だったでしょう。
佐治さんは本物のアホだと思いますよ、悪気はないんでしょうけど。
509日本@名無史さん:04/07/03 00:57
>>505

>>465 について詳しく解説してくれんか?
510せいじ:04/07/03 11:37
伝には其死有棺無槨とあるんだから(槨は棺を収める石室。)前方後円墳を卑弥呼の墓にするのは無理だよ。一般的に立派な前方後円墳であればあるほど立派な石室があると思うけど。
箸墓古墳はヤマトトトヒモモソヒメでまちがいないでしょ。彼女は吉備の出身じゃなかったっけ。だから吉備独特の特殊器台がでてくるんじゃない。
以上の2点からも箸墓古墳が卑弥呼の墓とするのは考えられない。
511日本@名無史さん:04/07/03 12:01
>>510
槨は棺を収める外箱のことだよ。
日本の考古学用語にいう『槨』は中国文献にいう『槨』とは別物なんだ。

これにレスする前に、(できるだけ大きい)漢和引いてね
512せいじ:04/07/03 13:28
正直「槨は外箱」は初耳です。槨が外箱だとしても棺の外にあることは間違いないわけで、棺の外側に空間があるという意味においては
外箱も石室も同じです。
513日本@名無史さん:04/07/03 14:12
漢和辞典を作ってる人は、
考古学者や漢籍文献学者より
知識がないわけで
その時点でアウト。

514日本@名無史さん:04/07/03 18:48
>>512
だからね、漢和引いてね。違うんだよ。

中国では槨にたいして結構細かい規定があってね、
皇帝や王侯の身分によって何重まで許可するかとか決まってるのよ。
中国人の書く『槨』っていうのはそういうモノなの。

>>513
誰が漢和作ってるか知らないんだね。憐憫・・・・
515日本@名無史さん:04/07/03 20:31
>>514の持っていない
諸橋と康煕字典で引いて、悪かったな
516日本史@名無しさん:04/07/03 22:12
なあ、>>505よ。
埴輪編年なる怪しげなものをもって「であることは確定している。 よって墓の項目は
畿内説優勢」みたいな事いうの、もうやめないか?土器のように大量に生産された生
活必需品でも怪しいのに・・・・・。

それに、

>また,魏志倭人伝の記述と記紀の記述は,
  編さん目的も成立年代も全くことなる次元のものであるので
  無批判に比較すること自体ナンセンス。

未だにこんな事いってる方がナンセンスだよ。要するにあんたは、倭人伝、記紀双方
に対するアプローチを放棄したと言うことだろ?無批判に比較してるのはあんただけ
だってw
517日本@名無史さん:04/07/03 23:23
>>515
正解!持ってない。
けど図書館でいつでも見られるから別に不自由はしてない。

で、なんて書いてあったのかな?

明日、君がちゃんと引いてるかどうか確認しに行くから、朝までに書いといてね。

>>516
嘘も百回言えばほんとになるを実践中ですか。
がんばってね。
518日本史@名無しさん:04/07/03 23:27
答えになってないね。
流石畿内派w ごまかし、すりかえだけ超一流。
519日本@名無史さん:04/07/04 00:17
>>518
答えの前に反論にも質問にもなってないんだが・・・・・

流石九州派w ごまかし、悪口雑言だけ超一流。
520日本@名無史さん:04/07/04 01:03
>>519

日本列島の槨と
中国の槨のすべての事実が
漢和辞典に載っていると主張するわけね?

そいつはすげーや!!
521日本史@名無しさん:04/07/04 08:13
流石畿内派w ごまかし、悪口雑言だけ超一流。

522日本@名無史さん:04/07/04 16:40
おい、ここに畿内派なんかいるのか?>>521
523日本@名無史さん:04/07/04 18:16
>>522
居ないな。ここは九州派のオ○二ーのスレ。
524日本@名無史さん:04/07/04 19:12
まあ、畿内派から碌な意見が出ないので、仕方がないな。
525日本@名無史さん:04/07/04 19:40
九州説のまともな考古学者は、2人しかいない(高島と森)。
こりゃあ、絶滅寸前の説だね。
526日本@名無史さん:04/07/04 21:10
>>525
可愛いね。
論でなく、数で判断するとは。

考古学者が邪馬壹国を近畿に仮定していることは
常識でしょ。でも、邪馬壹国比定論争の基本は史学
の範囲。九州説の考古学者が絶滅したとしてもさほど
重要な問題では無いと思う。
メンデルは生涯研究成果を学会から無視されたんですよ。

私は日本の考古学者をさほど評価していません。
527日本史@名無しさん:04/07/04 21:44
とりあえず絶滅したとか捏造してる時点で近畿馬鹿学問語る資格ねえな。

でもそれを偉い学者でも言ったりするからたちが悪いわけだが。
528日本@名無史さん:04/07/04 22:15
まあ、ここしばらくのカキコを見るかぎり、
少なくとも2ch内では九州説は論が壊滅してるな。

畿内説に対するビグザグなみの憎悪は強く感じるけどね。

まあ、他の掲示板も似たようなもんだが。

文献史の研究者はほとんど邪馬台国から手を引いてるし、
最後の砦の考古学者がほとんど畿内説の現状では、
学問的にはもう決着したといっても過言ではないだろう。

>>526
旧来の常識と大きくはなれた新規の説と、
かつて有力と見られた説が没落した姿とでは比較にならんよ。
529日本@名無史さん:04/07/04 22:27
まあ、結局金印と阿蘇山で、結論は出ているんだが。
530日本@名無史さん:04/07/04 23:10
邪馬台国が畿内だとしたら、北部九州には何があったの?
でも、最初に弥生文化が発達したのは北部九州なんだよね。
531日本@名無史さん:04/07/04 23:29
やれやれ、また阿蘇吉かよ
532日本@名無史さん:04/07/04 23:42
>>529
不弥国、奴国、伊都国、末盧国があったわけですが、何か疑問ですか?
533日本@名無史さん:04/07/04 23:55
>>532
失格ですね。「倭人の歴代代表国が九州にあった」が正解。
534日本@名無史さん:04/07/05 07:22
>>485 鳥取のド田舎にもそれ(吉野ヶ里)を凌ぐ規模の
   弥生遺跡(妻木晩田遺跡)が見つかっています
   ↑
知りませんでした!!
マスコミの報道のし方って、ムラがあるんだねえ。。
規模とか意義によって、同じ大きさの報道をしているわけじゃないのね。


535日本@名無史さん:04/07/05 13:59

畿内説のマキムクは既に論破されてるんですけど
蒸し返すんなら、どうぞ

美しく華麗に反論してあげるよ
536>530:04/07/05 22:10
伊都国があるだろ。
だいたいなんで、最初に発展したからそこにずっと都があるなんて発想
になるんだよ?
537>535:04/07/05 22:13
また、脳内勝利宣言かよ。
絶滅寸前の九州説なんていまや「騎馬民族説」みたいなもんだ。
538日本史@名無しさん:04/07/05 22:33
まあふつーに考えれば倭人伝に九州の国の名前がずらりと出てきて
いきなり奈良に飛ぶのも不自然だよな。「くな国」なんてのも記紀にも
でてこねえし・・・。
539せいじ:04/07/05 23:15
伊都国が気になるようでしたら
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
540日本@名無史さん:04/07/05 23:51
>>538
いきなり飛んでない
投馬国=吉備
541日本@名無史さん:04/07/06 05:04
>>540
違います
投馬国=薩摩

吉備=東の倭種

畿内説は投馬国を出雲にしたり吉備にしたり
はっきりしないねー。
542日本@名無史さん:04/07/06 15:37
邪馬台国【女王国時代】=西都

男狭穂塚・・・あれが前方後円墳に見えるか?
あれを完全な前方後円墳にしたてあげたら
女狭穂塚と重なってしまうんだよ。
あれがニニギとコノハナサクヤの墓って言うのなら
んなことはありえないんだ!
男狭穂塚が卑弥呼=アマテラスの墓だよ。
瓊々杵の墓は 「天津彦火々瓊々杵尊崩因葬 筑紫日向河愛之山陵」
鹿児島県川内市神亀山の河愛山(えのやま)陵なんだよ。筑紫日向=鹿児島県周辺。
宮内庁が詰めて管理してら。
男狭穂塚=瓊々杵尊なら河愛山陵は被葬者不明なのによ!
もう、ヤツら(宮内庁)は全て知ってるんだよ。だから発掘できないんだ。
皇国史観にかかわるしな。

西都原=「斎殿原」(サイトノハル)

女王国=西都とすれば
>>21にあるように、魏志倭人伝。記紀。古墳遺跡。
全てが矛盾なく説明できるんだ!そんなとこは他にないだろ?
曲解しない限りここしかないんだよ。
543日本@名無史さん:04/07/06 16:34
>>542
だからクナ国は熊本だって!!!!!
544日本史@名無しさん:04/07/06 18:08
西都さん両方のスレに書くなよ。まあ二つあるのも問題だけどw
545日本@名無史さん:04/07/06 18:10
卑弥呼=アマテラス という時点でDQN >西都厨
546日本@名無史さん:04/07/06 18:54
>>542
西都が邪馬台国だったら、邪馬台国は呉が亶州征伐に来た時(西暦230年)に
壊滅的被害もしくは元寇並みのパニックになってるだろうな。

全てが矛盾無く説明できる邪馬台国の説は現在存在しない。
何故なら、当時生きてた人間で今でも生きてる人は皆無だし、
現在残ってる文献資料も質量共に満足できるものではない。
第一、卑弥呼の墓が現在でも無傷で現存してるという根拠は?
例えば、エジプトでもピラミッドの大部分は現存してない(建物建設の為分解された)し、
造られたミイラの大部分も現存しない(江戸時代に薬にされた)。
卑弥呼の墓が現在も存在すると決めてかかるから、視野が狭くなるのだ。
第一、織田信長の遺骨も土方歳三の遺骨も発見されてないのに、
卑弥呼の墓が見つかれば儲けモンぐらいの期待値だろう。
もう少しキャパシティ広げてから考えるんだな。
547日本@名無史さん:04/07/06 19:44
亶州が九州本島であることを論拠してくれんか?
548日本@名無史さん:04/07/06 21:09
>>546
>全てが矛盾無く説明できる邪馬台国の説は現在存在しない。
説明できる説が一つあります。そして過去スレで全て説明されています。
過去スレ忘れたなら疑問点を何度でも質問しなさい、何度でも答えてやるよ。
あんたが邪馬台国を自分のキャパシティの中で整合させようとするから
矛盾が出てくるんだよ、もっと自然に考えなければならないのは君だろう。

見ろ!哀れな畿内説信者を見ろ!見ろ!
彼等は矛盾を指摘され畿内説では解釈解明できなかったから信を失ったのだよ。
畿内説は今や自説を主張するどころか自説を隠して否定する事のみが生き甲斐。
巷では「自説が無い香具師は畿内説と思え」とまで囁かれている。


549日本@名無史さん:04/07/06 22:04
邪馬台国は東北
間違いない
550日本@名無史さん:04/07/06 22:06
>>549
何故、間違いないと断定できるんだ?
551日本@名無史さん:04/07/06 22:58
>>549
「邪馬台国はどこですか?」読み終わったばかりだから
552日本@名無史さん:04/07/06 23:45
これ以上はないだろうという明快な理由だな
553日本@名無史さん:04/07/07 15:52
>>551
じゃあ次は、「邪馬台国はなかった」でも読むがいい
554日本@名無史さん:04/07/08 22:24
>>546
衛温 諸葛直
武装兵一万を率い海を渡り、夷州と亶州を調査するが、捜しあてることができず、
夷州から数千人の住民を連れ帰った。詔にそむいたため獄に下され、誅殺

亶州は何処にあるかわからなかったんだってさ!!

つ〜か亶州征伐ってどこから出てきた妄想?
555>548:04/07/09 17:16
君が叫ぶたびに、九州説は信用を失っていくのでやめてくれんか。
そんなに自信があるのならもっとどっしりと構えていてくれよ。
一部の(しかもカルト)九州説論者みたいに
ヒステリックな畿内説へのネガティブキャンペーンには閉口しているんだ。
556日本@名無史さん:04/07/10 23:29
で、結局、>>2-4の支持が集まらないで終わり。
557名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 12:35
参議院選挙に行きましょう。
魏志もそれなりに散逸していて、宋代に収集されたものですね。
通行本がどの程度オリジナルと重なるかは議論のあるところです。
かといって、一字一句をゆるがせにしていいということにはならないでしょう。
史料は、ひとつの証言としてそこにあるのですから、入念に裏を取っていく作業が必要なわけです。

>魏志もそれなりに散逸していて、宋代に収集されたものですね。

そうなの?
宋の裴松之が原文に注釈を入れたものしか残っていないのは知っているけど
裴松之は原文全て見ていたんじゃないの?

その後散逸して「裴松之注釈入りの三国志」も全文が残っている訳ではないと
聞いているけど。

その中でも紹熙本とか紹興本が比較的よくそろっている方とか。

>>559
私の言う宋は北宋の宋で、興国咸平の頃の話です。裴松之の宋は劉宋ですから、話が500年はすれ違ってしまいましたね
561名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 12:42
畿内信者は自分で距離と日程を細かく示せるか?

どうやって巻向までたどり着くのか検証もせずになんとなく
畿内だと思っているだけだろう。
九州論者がちゃんと根拠を示して論証しようとしているのに
ちゃちゃ入れたりけなしたりするだけで自分達の論拠は出さない。
出せないんだろうが。(ワラ

562名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 15:24
薄葬の魏に朝貢した邪馬台国は、大型古墳を作った記述がないし、作るはずも無い。
大型古墳が特徴のマキムクに比定している時点で、判断に誤りがある。
>>562
魏志倭人伝には径百余歩(〜140m)の墓を
土を盛ってつくったと書いているわけだが・・・・


>>561
>九州論者がちゃんと根拠を示して論証しようとしているのに

早くやってくれ。ながいこと待ってるんだから。
徹底的に九州説同志で議論して、まずは候補地を一つに絞ってくれよ。

>ちゃちゃ入れたりけなしたりするだけで自分達の論拠は出さない。

論証なんだろ?
それに対して反論を含めた意見が出るのはあたり前じゃないか。
564名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 15:40

   ↑
ちゃちゃ入れたりけなしたりするだけで自分達の論拠は出さない。
出せないんだろうが。(ワラ
565名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 15:48
>>563

大古墳が無い中で、王様だけには、
たかだか径百余歩の塚を作った話だから、マクムクでない証拠。
566もも:04/07/11 15:57
邪馬台国の位置を語るには古墳だけでなく鉄器も重要になる。
何故皆、古墳の事ばかり言うのか。鉄器の重要性を無視すると邪馬台国は永遠に
闇につつまれたままだ。
567名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 16:03
鉄も絹もないまま、サヌカイトか何かでがんばったのがマキムク。邪馬台国で無かった証拠。
568日本@名無史さん:04/07/11 17:09
>>566
禿胴。弥生文化は稲と鉄のセットだって習ったぞ
569名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:28
>>566
纏向からは大量の鉄器と鉄製の剣が出土している、周辺からは巨大な水田遺構や鉄製鍬など多数出土
また2002年の年次調査で纏向運河遺構の底から数点の魏銭が発見され、邪馬台国と魏との関係が明らかになってきた
卑弥呼の時代の木棺や魏との通商を記した石室壁画など。
570名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 18:14
邪馬台国の特徴、絹は出ないのか。こりゃダメだ。
571日本@名無史さん:04/07/12 22:21
絹と鉄があろうがなかろうが発掘許可の出る所は邪馬台国ではない。
572とりあえず九州王朝説:04/07/12 23:32
畿内説では、近畿〜九州が邪馬台国の領土だそうだ。
>>571のように、発掘許可が出る場所は邪馬台国でないとすると、
たぶん邪馬台国は地球上じゃないという主張なんだろう。
573日本@名無史さん:04/07/12 23:42
>>572
偽九州説野郎。なんで近畿説で語る?バレバレで滑稽ですよw
574日本@名無史さん:04/07/12 23:49
とりあえず九州王朝説→偽九州説野郎(敗残畿内説野郎)
575日本@名無史さん:04/07/13 00:29
巻向は邪馬台国じゃない方がロマンがあっていいな。
謎の古代畿内政権の巨大都市。
邪馬台国なんて、所詮、しょぼい魏の属国だし。
日本書紀の編纂者もそう思ったから、邪馬台国無視したんでしょ。
機内にこだわることないよ。
576日本@名無史さん:04/07/13 01:03
畿内にこだわって古代史を捻じ曲げてるのが一部のお偉い考古学者とジモト村興し論者。
彼等は金と名誉の為なら躊躇無く古跡の時代を遡らせる。
577日本@名無史さん:04/07/13 01:26
邪馬台国は神々の高天原が展開された場所。
記紀が邪馬台国を神話化した理由は天皇の威厳付けだな。
けっして無視はしてないぞ。たしかに魏の属国ってのもまずかったろうが。

>謎の古代畿内政権の巨大都市
記紀によればそのまま崇神王朝だし。謎でもなんでもない。
応神天皇系が来るまでそこら辺を都にしたんだろ。
578日本史@名無しさん:04/07/13 21:48
とりあえず「だろう」「らしい」「と思われる」「とも考えられる」などと藤村センセイそのものの
妄想を振りかざして学問と言い張るのはやめてくれ、畿内説オタども。

でもって、魏志倭人伝も間違いとかてきとーとか、昔の人だからとか言うのも辞めてくれ。
陳寿はおまいらのほとんどよりよほど優秀かつ気骨のある人物だ。
579日本@名無史さん:04/07/14 00:13
やれやれ。末期症状だな。
そんなに自信があるなら泰然としてればいいのに・・・・・
580日本@名無史さん:04/07/15 17:29
日向の東に海がある。
581日本@名無史さん:04/07/16 01:53
西都君の偽装スレだから、チョト元気ない・・・
582日本@名無史さん:04/07/29 13:39
卑弥呼の古墳を隠蔽した男・黒板勝美
1 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/06/09(土) 23:15

東大教授 黒板勝美。 西都原古墳オサホズカに土を持って変形型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。
それだけにはあき足らず、総督府修史委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。
偽史シンジケートの指揮官 日本の恥 東大酷使学の教授 黒板勝美を考える。

583日本@名無史さん:04/07/29 13:40
今日のニュース報道で、箸墓古墳の年代が、3世紀終期と伝えられました。
出土物からの推定です。ヤマタイ国畿内説の方々は困るでしょうネ。

584日本@名無史さん:04/07/29 13:41
東西1.3km南北3.2km
の日本最大規模の西都原古墳群です
昭和27年に国の特別史跡に指定され
ました。311基ある古墳で代表的なも
のは、ニニギノミコトの御陵といわれる
「男狭穂塚」(オサホツカ)とコノハナサ
クヤヒメの御陵といわれる「女狭穂塚」
(メサホツカ)であります。大勢の人でにぎわいます。
このように西都原古墳郡は謎めいた神秘的な場所です。
330基もある古墳のうちほとんどの古墳がまだ発掘されず、
古代のままの形で残されているのです。これから発掘されるなかで
思わぬ太古のロマンが解明されるかもしれません

585日本@名無史さん:04/07/29 13:45
>>584
>>805
一か所に300基もの古墳があるのはここだけ。
ここに数百年に渡って強大な勢力があったことは疑いようがない事実。

586日本@名無史さん:04/07/29 13:46
西都原以外に考えられないんじゃないか?
だいたいあれほど多数で広大な規模の古墳群があるのに意図的(政治的)に
ほとんど手がつけられてこない事実を誰も変だと思わないのか??
つまり都合の悪い事実があるんだよ。
海外の研究者はとっくにこの点に最も注目してるのに。
587日本@名無史さん:04/07/29 13:51
以前西都原の発掘調査の関係者の方の

「ぼやき」を聞いたことがあります。

「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか

考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない

588日本@名無史さん:04/07/29 16:41
中国の腹の中も読めん、どっちにしろ切り棄てるなり、ネタ仕込むなりしないと
危ないぞ宮内庁。
589日本@名無史さん:04/07/31 12:21
>>583
西暦238年に13歳だったトヨが還暦を迎えるのが285年。
やはりトヨの墓が濃厚。

東遷はトヨの代の事業だったんだろうね。
590日本@名無史さん:04/07/31 14:08
「女王国=日向の斎殿原」となると、>>21の言う通り、
遠絶21国と狗奴国の位置は、南西諸島が一番しっくり来る。

位置がちょうど会稽東冶の東だし、
住んでいる人がやけに長寿だし、
季節感が乏しいし、
遠絶の「絶」の意味が前後の用例と同じで自然だし、
女王国の北以外にあるし、

魏志倭人伝の記述の全てに整合性が出てくる。
不自然な記述が全くと言って良いほどなくなる。
591日本@名無史さん:04/07/31 14:30

こうして西都説は黒潮の流と共に太平洋の彼方まで逝ってしまいました


  〜〜完〜〜
592日本@名無史さん:04/07/31 15:27
〈中略〉


翌朝
この日もホテル種発直後白鷺が舞う。
寒波曇天の中恐る恐る臼杵周りで山間部を抜け、宮崎県に入るとなんと快晴になる。
クイーン「ほら晴れたでしょう」と喜ぶ。
男狭穂塚古墳=ニニギノミコト御陵とされている実は「卑弥呼」古墳を参拝。

もともとこれは前方後円墳では無く円墳であるものを後から偽造し尻尾をつけたものと思われる。 
女狭穂塚はその子孫のものと思われる。 しかし宮●庁は、これを隠す為に年代をごまかしその上、前方後円墳に整形しようとしたのであろう。どうせ作るなら途中でやめるなよ・・・と言う方もいる。 しかし、あまりにも不自然な配置がそれを物語る。


593日本@名無史さん:04/07/31 15:28
>>590
ハブも出るしね。
594日本@名無史さん:04/07/31 16:01
>>593
蛟竜は、現代中国語ではサメのことなので、私はサメと思っている。
大和言葉で蛟(みづち)は蛇型生物のことなんだけど、
魏志倭人伝はあくまで中国語で書かれていると思うので。
595日本@名無史さん:04/08/01 23:34
ログを読んでみたところ、(東遷を前提とした)邪馬台国九州説に対する
批判的意見(の内、建設的なもの)は、「卑弥呼の墓を出せ」だけようですね。

それに関して、お答えします。卑弥呼の墓は、平原古墳です。
いろいろ論点があるのですが、決定的なものは、何と言っても
超巨大鏡「八咫鏡」が出土することでしょう。

伊勢神宮にある八咫鏡のサイズと文様は、神道の文献にあるのですが、
それに記述されている通りのサイズと文様の鏡が出土します。

つまり、八咫鏡は金型が作られ、複数枚製造されているのです。
そのうち何枚かは平原古墳に埋葬されました。

仮に百歩譲って、平原埋葬者が卑弥呼でないとしても、
高度な鏡製造技術は卑弥呼以前には無かったことと合わせて考えると、
「九州勢力と畿内勢力の結びつきを認めない九州王朝説」
「東遷は卑弥呼以前とする畿内説」のどちらも成り立ちません。
東遷は国内に鏡製造技術が確立された後のことなのです。
596日本@名無史さん:04/08/01 23:42
では卑弥呼の墓は包茎周公募ということかな
倭人伝の記述の百四歩よりだいぶ小さいようだが
597ゴジンム:04/08/01 23:46
チンチン??
598日本@名無史さん:04/08/01 23:48
せいじ君の言っていた事には一理あったのか
599日本@名無史さん:04/08/02 00:52
>>596
まず一番言いたいことは、仮に卑弥呼の墓でなくとも
「九州勢力と畿内勢力の関係性は明らか」
「九州時代に大型鏡や鏡の大量埋葬はあり、卑弥呼以前の早期東遷も無理筋」
ということなのですが。これは宜しいでしょうか?

次に古墳のサイズのことですが、
まず、百歩を140m程度と解釈すること自体が問題あります。
なぜなら、その距離換算では他の里数などの記述が
大きくなりすぎるからです。百歩はその数分の一なのです。

また、「百餘歩(中略)百餘人」の表現や、里数の「千餘里」などの記述を見れば、
正確な数値というよりは大まかなオーダーを表していることが分かる。
(魏志でいうところの略載。里数表示においては、同じ千餘里の記述でも、
平気で1.5倍くらい距離に差がある。)正確な数値であると考えるのは難しい。
サイズは「大まかにいうと140mの数分の一である」と考えるべきです。

それより何より、八咫鏡が出てくるのが決定的かと思いますが。
600日本@名無史さん:04/08/03 02:17
平原古墳は、
副葬品がネックレスやブレスレッドの形をした玉の類が多く、
女性が埋葬されていたと言われているしね。

そして、八咫の鏡を含む大量の鏡。
卑弥呼に間違いないだろうね。

方形周溝なのは、大陸カブレの彼女らしいともいえる。
601日本@名無史さん:04/08/03 02:28
「中国」が本来、自国領と考えている地域
(1953年度北京政府発行国定教科書『現代中国簡史』に基づく)

「中国」(満州・内モンゴル・ウイグル・チベット・東カシミール(アクサイチン地区)の占領地域を含む)
台湾(現在、「中華民国」の施政権が及んでいる地域)
朝鮮半島(韓国・北朝鮮)
ロシア極東地域(沿海州・樺太)
外モンゴル(モンゴル国・ロシア領ブリヤート)
西トルキスタン(カザフスタン領・キルギス領の一部)
東南アジア(ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・シンガポール)
南シナ海島嶼群(南沙諸島・西沙諸島)
旧英印領地域(インド領シッキム・バングラデシュ・ブータン・ネパール領の一部)

支那が「潜在的中国領」と考えている地域に敢えて書かなかった地域、それは何と驚く事に、

沖縄

だったのです。いや、より正確には、日台支三国で領有権を係争中の尖閣諸島
(詳しくは、コラム『94.「お宝」目当ての領有権主張 ── 尖閣諸島問題』を参照)を含む琉球諸島全域(沖縄県)・
奄美諸島(鹿児島県)・対馬(長崎県)と言った地域なのです。これらの地域は、今更言う迄もありませんが、
日本国の施政権が及んでいるれっきとした「日本の領土」です。その「日本の領土」迄も、本来あるべき「中国領」と支那は考えているのです。
最早、到底笑って済ます事の出来る話ではありません。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/taiwan3.html
602せいじ:04/08/03 11:18
せいじのホームページ。

伊都国女王卑弥呼

http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
603日本@名無史さん:04/08/03 11:31
じゃあ東遷後九州勢力は消えてしまったのでつか?
そこんとこ詳説キボンヌ
604日本@名無史さん:04/08/03 16:34
せいじ戻ってきたか
君の考え方の一部は後になって評価された
本スレで暴れて来い
605:04/08/03 22:07
漢字のご本家の中国が魏志倭人伝等、古書の重要部分に間違いを起こす
ようなことはま〜ずないんだよ。
だから『邪馬台国は無かった』の主張は正解と観るべき。古田論は合であるな。
台→壱 に戻して研究すると、真に近づけるのだ。
606日本@名無史さん:04/08/04 00:42
>>605
邪馬臺(台)国としている文献(中国の歴史書)がたくさんあることは知っていますか?
中国人が漢字を間違えないとすると、両方正しい訳ですか?
それに、間違えた以外に「わざと変えた」という可能性は無視ですか?(臺には中国中央官庁の意味がある。)

邪馬壹国と邪馬臺国のどちらが正しいかという以前に、考え方の根本から間違っているよ。
607:04/08/04 05:27
壱が正解。君も壱の意味が解っていないわけだ。
それを知れば日本史の秘密の大まかを知悉できる貴点になるか。
あとで教えてあげるか?
608:04/08/04 05:28
>>607
訂正 貴点→基点
609日本@名無史さん:04/08/04 05:45
もう邪馬台国は朝鮮半島で良いよ。マンドクセ('A`)
610日本@名無史さん:04/08/04 08:01
普通に考えたら九州だろ、関西系の学者が無理やり近畿説唱えてるだけだろ
611後村上天皇:04/08/04 08:37
普通に考えたら近畿だ。
612:04/08/04 23:04
>>606
4億の民と睦まじくか?
「わざと間違える」はつっこんで論ずればありうることだ。
そのいい例がこのごろ人名不適切な文字が新聞を賑わせている如くか
『卑弥呼』の『卑』がそれと云えないわけではないからだ。
『壱』は国名で不適切な字にあらず。
他書に『台』の字があるのは、そのわざと、故意にやった方だと思える。
2チャンでスマンをスマソとかアレンジしているようなものだ。
魏志倭人伝の『壱』はストレートに国名に使ったのだ。
他国の女王を蔑むのは『卑弥呼』の人名でやっているが、国名は誤字なし。
誤字ならば倭人伝の他の文字群に多数誤字がでるはずだ。
613:04/08/04 23:50
>>606さん
民俗・神話学板の『天照大御神は人物として実在していたか』の
>176 で『卑弥呼』を参拝してほしい。連れが解説しているから。またそこの
>172 で『日神』を参拝してほしい。
614日本@名無史さん:04/08/05 11:39
>>612
だから、あなたは考え方の根本から間違っているんだって。

> 誤字ならば倭人伝の他の文字群に多数誤字がでるはずだ。

これは、多数あります。
誤字というより意図的な置き換えですが。

魏志の他の伝では、皇帝の諱に使用された「拡」「廓」「郭」が
卑賤なものを指すときなどに、別の字に置き換えられています。

「倭」とか「邪」とかいう字が選択されていることからも判るとおり、
邪馬台国を下と見ているので、臺(台)の字を使わなかったのでしょう。
特に団体名として使うのは問題があります。
中国の中央官庁と字面上とはいえ対等に見えてしまうので。

倭人伝の後半には、中国中央官庁を指して臺(台)という字が出てますので、
単純な間違いというよりは、意図的に置き換えたと考えるのが自然と思います。

ただし、現存する魏志倭人伝は宋代に作られた復刻本なので、
オリジナルには正しい文字(臺)が当てられていた可能性は十分あります。
615日本@名無史さん:04/08/05 11:55
あと、単純な誤字の類もある程度の割合であるようです。

(これも復刻や写本が原因で、
オリジナルには誤字が少なかったと思われますが。)
616日本@名無史さん:04/08/05 12:00
魏志倭人伝の内容自体が又聞きなので、その辺の信憑性はどうなの?
617:04/08/05 12:49
>>614
勉強しているねぇ。『邪』は古事記の伊邪奈伎神、伊邪奈美神の神名に
使用されているから論に入れるのを見過ごしているわけ。
そうだろう。誤字のほうは故意に、意図的にやったものじゃないか。
壱→台に置き換えするメリットはあまりないと思うよ。
だから、壱の置き換えはされてないとみる。他書の『台』は前述のとおり、
2チャンでスマンをスマソの置き換えをいた類だな。
『壱』の数字は重要な意味を持っているのだ。今日はいそがしい。
君は真面目な研究家なようだから、後日教えてやろう。
618日本@名無史さん:04/08/05 15:46
>>617
>壱→台に置き換えするメリットはあまりないと思うよ。

しかし、臺(台)→壹(壱)と置き換えるメリットならある。
自分たちの政府が臺(台)なら、
よその国の政府を臺(台)とは呼びたくない。

もし、おおもとの魏略で
壹(壱)になっていたら、臺(台)に変えるのは不自然だが、
臺(台)となっていたら、壹(壱)に変えたいと思う人はいる。

また、魏志以外の臺(台)としている歴史書も
魏略を直接参照していることが判っている。

以上から、おおもとの魏略の記述が
壹(壱)であったと考えるのは無理でしょう。
619日本@名無史さん:04/08/06 10:39
魏略といえば、
卑弥呼は自分の氏素性を
中国側に伝えているんですよね。

呉の太伯の流れを汲む姫(キ)氏だと。

そうだとすると、
農耕伝来の年代やら
農耕にまつわる言語の類似性やら
鯨面文身などの風習やら
何もかもぴったりくる。
620:04/08/06 14:03
うあっはっはっは!
>>618
「ズルイぞ。日本はNo.1のお国ですか?」か?
こすい競馬で世界1着レースのお国か?解釈の仕方では逆にもなるかな?
国名での台→壱に取り替えたり、さらに>>614さんのいうようにだ。意図的
とかそんなに、誤字脱字が沢山あるならば、長山靖生さん藤原明さんにだ
中国の『古史古伝』だとして、喜んで『偽書』だと云われてしまうよ〜。
ネガティブのメリットになってくるんじゃないのかい。
621日本@名無史さん:04/08/06 16:35
前方後方墳研究のリーダー赤塚次郎氏のサイトは
東海地域の古代史に関して非常に参考になります。
http://agatazin.jp/

最近のAMSや年輪年代に基づいて、以前の年代観を修正して
東日本などの編年について考察しています。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
第5回考古科学シンポ(名古屋大学)発表要旨抜粋および補記
赤塚次郎 2003.11.24

赤塚氏の図に示された新しい年代によると
前方後方墳体制は180-340年頃に対応します。
卑弥呼の時代を挟んで、朝鮮半島への本格出兵をする前に
東日本を前方後円墳体制に組み込んでいることになります。
622日本@名無史さん:04/08/06 16:36
>>621
詳しくは上記のサイトを見て欲しいですが
赤塚氏は東海地域などにおける弥生時代後期〜古墳時代前期をこう見直しています。

弥生集落を代表するいわゆる「環濠」集落の解体
三遠式銅鐸の製作が開始されている
巴形銅器・韓半島製の袋状鉄斧など
新しい金属製品がまとまって流入
 ↓
西暦一世紀中頃前後
(濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がない)

弥生景観としての環濠集落が次々に終焉を迎え、
集住的な集落景観からより散在的な小集落単位に分解・移行
景観として残っていた環濠には、多量の土器を捨てる現象が普遍的に見られる。
 ↓
二世紀第三四半期 「倭国大乱」

三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの
前方後円墳や前方後方墳が数多く存在する
奈良県のホケノ山古墳は239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高い
箸墓古墳の築造終了は248年前後に死亡した倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期
623日本@名無史さん:04/08/06 16:47
>>595
平原弥生古墳を発掘した原田大六氏は、銅鏡などから2世紀前半と見積もり
三種の神宝などを有していることを重視して、その後に東遷して大和に移って
邪馬台国になったと考えました。

巨大な鏡を含め全ての銅鏡の鉛同位体比は、前漢〜後漢初期の華北タイプのみです。
624日本@名無史さん:04/08/06 22:57
箸墓は、卑弥呼の墓じゃないよ。
卑弥呼の墓としてはデカすぎますから。

卑弥呼の墓は、魏志によれば「径百余歩」です。
確かに通常の距離換算では、百歩は約140mで、
約160mの箸墓は候補になるところです。

しかし、この通常の距離換算では、
邪馬台国の位置は日本列島内に入らないのです。

邪馬台国が畿内に入る距離換算なら、
古墳の大きさも、その数分の一なのです。
九州説なら更に小さく推定されます。

つーか、平原だよ。箸墓は台与の墓でした。
625日本@名無史さん:04/08/06 23:21
ところで畿内説の人は、
邪馬台連合の首都機能は伊都國にある
という事実をどう考えているのかなぁ。

これは、九州説なら問題ない。
北九州が都会で、本来なら王を出すべきなのだけど、
互いに牽制しあって、その中から王を出せないので、
南国の女王を共立した。
だから、首都機能と女王の都する場所は異なる。

畿内説だとすでに遷都している訳だけど、それなのに、
軍事・警察の中枢を伊都國に残したままにしておくの?
外交施設を残すのは分かるけどさ。
626日本@名無史さん:04/08/06 23:38
今のドイツなんか、首都をベルリンに移転したけど
行政機能のある程度を旧首都のボンに残してるはず。
まぁ邪馬台国と直接比較できないが。
627:04/08/06 23:40
記紀の伊邪奈伎命、伊邪奈美命には「邪」の文字が使用されている如く、
倭人伝にも邪馬壱国に「邪」の文字が使用されている。
まあ、蔑視の意味とは考えたいのが >>614氏の云いたい所なんだろうが、
記紀の件からしても、「邪」字に関しては、蔑視というより、他の意味
合いが含まれていると余は観ている。
卑弥呼の「卑」字が文字通りに卑賤の意味だから、「邪」のほうもそうだ
とは限らないのだ。
>>618氏からして、『台』が平地の一寸上部に位置できうるからご機嫌
の文字に見えたとしてもだ、『壱』だってNo1の1番をストレートに
表現できる文字だから、『壱』だって国名に使用するには名誉の字となる。
たつまりだ、『台』も『壱』も名誉に使えるので、「邪」字に引っかけて
不名誉の意味に使ったとしてもどちらの文字もまた名誉→不名誉になれる。
すなわち、文字の置き換えは倭人伝のここの国名にてはメリットがあまり
ないわけだ。よって >>618氏の云う台→壱もあまりメリットは少ないのだ。
628:04/08/06 23:58
>>627
訂正 ×たつまりだ→○つまりだ
というわけで、魏志倭人伝のここの国名は邪馬台国ではなく、
古田氏説の云う『邪馬壱国』のストレート読みが正解である。
邪馬台国はなかったわけだよ。
629>595:04/08/07 00:02
平原は200年前後。時代が合わないから却下。
630日本@名無史さん:04/08/07 00:02
すまんが、太氏は
さっさと言いたいこと全部書いて、
出て行ってもらえないか?

存在自体が迷惑すぎる。
631日本@名無史さん:04/08/07 00:06
>>624
> つーか、平原だよ。箸墓は台与の墓でした。

平原弥生古墳を発掘した原田大六氏は、銅鏡などから2世紀前半と見積もっています。
巨大な鏡を含め全ての銅鏡の鉛同位体比は、前漢〜後漢初期の華北タイプのみです。

昔の恣意的な伝世鏡説はありえないと考えられるようになり
若干年代を下げても、卑弥呼の時代には全く無理でしょう。
632:04/08/07 00:06
>>630
余に勝てんからな。
633:04/08/07 00:22
>>630
わかった。迷惑そうだから立ち去ってやるよ。
西遊記のスレでも困った奴がいて、「やめてくれ」旨云われたなぁ〜。
さてそうなると、古代史の本物は知れなくなるよ。西遊記の機密も〜。
634日本@名無史さん:04/08/07 00:26
>>629
最近、年代推定がチョコチョコ動いて信頼が置けないが、
その200年前後という推定もそうだろうね。

私は、200年〜250年と聞いている。
(それを知ってて、わざと200年前後と言ってるとしたら、悪質だな。)
それに、2世紀前半説もあったが、それは否定されたのでは?

つーか、卑弥呼以前にそんな大量の中国鏡を持っている人間が
中国史に載ってないのか?

大量の中国鏡を持っていること自体が、
卑弥呼(やそれ以後の人物)である証拠なんだよ。

八咫の鏡は、中国製でも
被葬者が卑弥呼(またはそれ以後)であるという推論には問題ない。
あるいは、中国鏡を溶かして材料にした日本製という可能性もありそうだ。
635日本@名無史さん:04/08/07 00:47
>>633
別にいてもいいけど、意見の書き方が自意識過剰でうざったいだけ。
マジシャンじゃないんだから、もったいぶって
ちょっとずつ、出したり引っ込めたりするなって。
自分の意見の全てを、史書か考古学のソース添えて素直に書けばいい。
636日本@名無史さん:04/08/07 01:04
>>634
> それに、2世紀前半説もあったが、それは否定されたのでは?

年代的に根拠のある否定論はありませんね。

> つーか、卑弥呼以前にそんな大量の中国鏡を持っている人間が
> 中国史に載ってないのか?

その中でも、中国に例を見ない巨大な銅鏡は倭鏡でしょう。
同じく前漢〜後漢初期の華北タイプの鉛同位体を持つ青銅により
近畿や東海ではもっと巨大で大量に青銅を使う銅鐸を作っています。

> 大量の中国鏡を持っていること自体が、
> 卑弥呼(やそれ以後の人物)である証拠なんだよ。

日本では畿内・吉備・東海の初期古墳でも大量の銅鏡を出土した例があります。
魏志倭人伝にあるように、当時の倭人の嗜好を示すものでしょう。
637日本@名無史さん:04/08/07 01:30
>>636
検索してみた限りでは、否定論自体はある。
ただ、根拠は土器の年代によるものなので、近年の土器の年代が
チョコチョコ変わる現状では反論可能な内容かもしれない。

ただし、超巨大和鏡の存在を卑弥呼以前のものと見るのは、無理がありません?

ぶっちゃけ、無理があるでしょう。

畿内・吉備・東海の初期古墳というのも、年代推定が両者で異なるので、なんとも。
昔の年代推定では、古墳に入れるものの九州文化との融合は、東遷の年代と
ダブるんですよね。あなた方はそれは初期だからと言って否定するんだけど、
その年代推定は(チョコチョコ変わるので)まだ信頼できない。
まあ、お互い相手が都合よく年代を解釈していると思っているのだろう。

正直言って、こちらからみると、昔は同じ年代推定でやってたのに、
苦しくなると都合よく年代推定を変えてくるなあ・・・という感じ。
638日本@名無史さん:04/08/07 02:12
>>637
> ただし、超巨大和鏡の存在を卑弥呼以前のものと見るのは、無理がありません?

ほぼ同時期と見られる、同じタイプの鉛同位体比の青銅を使って
もっと巨大な銅鐸を作っているのだから、何も無理なことはありません。
前漢から後漢初期の鉛同位体比を、遥か後世と考える方が
ずっと無理があるでしょう。

> 苦しくなると都合よく年代推定を変えてくるなあ・・・という感じ。

今までの年代観は山内一派による14C年代測定妨害の後遺症で
まともに暦年換算を考えてこなかったもので、最近はAMSや年輪年代による
真っ当な年代換算を追及しているのが違います。
639日本@名無史さん:04/08/07 07:54
太さん気にすんな。
名前欄にアンカーつけてる野郎はあちこちで荒らしてる馬鹿だし、
その周辺のレスも自演やカムフラージュが多いよ。
640日本@名無史さん:04/08/07 12:10
>>638
年代推定が絡む話になると、
どうしても話が平行線になってしまうようですね。
年代推定は、多くの人がまちまちのことを言っているので、
私としては、もう少し待ちたい。

銅鐸ができるのだから、鏡もできるだろうというのはもっともな指摘だが、
実際問題として、卑弥呼は中国鏡を執拗に欲しがっていた(それも大量に)以上、
国内で質の良い鏡を量産することは出来なかったと思われます。
つるつるの平面など銅鐸より難しい技術があるのではないでしょうか。

「箸墓は、卑弥呼の墓としてはデカすぎる」
という件についてはどう思われます?

100余歩を百数十メートルと考えると、邪馬台国は
中国をしのぐ超巨大な版図を持つ国になってしまいますが。
仮に関東から南西諸島全部を持っていたとしても、
距離は半分以下に換算されるでしょう。
九州説に立てば更に小さく、20mくらいに換算されるでしょう。
641日本@名無史さん:04/08/07 12:31
>>640
>九州説に立てば更に小さく、20mくらいに換算されるでしょう。

生口の生き埋めだけでハミ出しちゃいそうだなw
642日本@名無史さん:04/08/07 12:41
>>640
> 実際問題として、卑弥呼は中国鏡を執拗に欲しがっていた(それも大量に)以上、

後世の日本は鉱業が発達して、世界有数の金・銀・銅の産出国になりましたが
当時は青銅原料を殆ど産出しませんでした。

> 国内で質の良い鏡を量産することは出来なかったと思われます。
> つるつるの平面など銅鐸より難しい技術があるのではないでしょうか。

この問題は専門家の鑑定に期待します。

奈良時代の日本は、独自の銅銭を生産して東大寺大仏も自力で作ったのに
平安時代になって日本の銅生産が一時的に低下したようで
銅銭の品質が悪化し製造廃止直前には鉛銭に近いものとなってしまいました。
平安時代末期には平清盛は宋銭を大量に輸入し、源平合戦で大仏が焼けたら
鎌倉幕府は宋から専門家を招いて再建させています。
時代によって、生産や技術は上がったり下がったりしたようです。

> 「箸墓は、卑弥呼の墓としてはデカすぎる」
> という件についてはどう思われます?

えっ?後円部の大きさはちょうど合っているでしょ。

> 100余歩を百数十メートルと考えると、邪馬台国は
> 中国をしのぐ超巨大な版図を持つ国になってしまいますが。

意味不明です。歩測で測れる大きさと違って、行程は日数で計算しており
距離はそこから概数を求めたものに過ぎません。

> 九州説に立てば更に小さく、20mくらいに換算されるでしょう。

だからナンセンスです。
643日本@名無史さん:04/08/07 12:43
いや、周囲の長さは
100人くらい並べるのにちょうど良い長さになるよ。

なんといっても、八咫の鏡が出てくるのがね。

もし100余歩が百数十メートルだったら、
邪馬台国は日本列島には入らないよ。

対馬と壱岐、壱岐と九州本島、それぞれ千余里なんでしょ。
なら、100歩は20〜30mくらいじゃん。
644日本@名無史さん:04/08/07 12:56
>>643
> なんといっても、八咫の鏡が出てくるのがね。

平原弥生古墳は発掘者の原田大六氏が銅鏡などから2世紀前半としており
この年代が妥当でしょう。銅鏡は鉛同位体比からも時代が限定されます。

> 対馬と壱岐、壱岐と九州本島、それぞれ千余里なんでしょ。
> なら、100歩は20〜30mくらいじゃん。

「歩」は文字通り、左右の足で一回ずつ歩いた大きさで、実測で分かるものです。
それを行程日数から憶測で求めた数字と混同させるのはナンセンスです。
645日本@名無史さん:04/08/07 13:18
>>642
円墳部分が丁度良い大きさという主張が生まれたのは、
当時の魏の「里や歩」の長さ換算で、100歩=140メートルだからですよ。

概数であることには同意ですが、
対馬、壱岐、九州本島は、互いに目で見えることもあり、
概数でも1桁近く間違えることはありえません。
そして、その後も一貫して短い距離換算をしています。

約千里とされた、対馬−壱岐間は60km、
壱岐−九州本島間は60km弱です。
1里60m、100歩20メートルなのです。
(魏の千里=四百数十キロと間違えますか?目で見えるのに。)

船の性能が悪くて、日数が数倍掛かったとしても、
せいぜい40〜50メートルでしょ。

畿内説の、都合よい部分は採用して、他説批判に利用し
都合悪い部分は採用しないという態度はいかがなものでしょうか。
「魏の距離換算で丁度よい」という主張は取り下げて、
「歩いて100歩強くらいだから」という>>644の主張なら
倭人伝の距離を全く信じないということで理解できますが。
ただ、歩という長さの単位があるのに、
単位でない歩で物の大きさを説明するのは異常だと思いますがね。

ちなみに、ヒラバルは20mくらいなんですよね。
646日本@名無史さん:04/08/07 13:35
百余歩の歩が長さの単位か、歩幅のことかは平行線になりそうですが、
ヒラバルが小さすぎるという畿内説の主張は、自説の仮定に基づいた
一方的な主張でしかないとは分かっていただけたと思います。

畿内説はこういう「自分の仮定からみると違う」という
一方的な主張が多いんですよね。
箸墓は大きすぎるという主張は、そこを指摘したかったのです。
647日本@名無史さん:04/08/07 13:39
>>645
中国では360歩で1里と言う関係は秦から清まで変わっていないようです。
実測できるものとそれ以外を一緒に扱うのはおかしいでしょう。

前方後方墳研究のリーダー赤塚次郎氏は、最近のAMSや年輪年代による
東海地方の土器編年の暦換算として、以下のように述べています。
箸墓は伝承・年代・規模などからますます有力です。

http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が
眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の
墳墓から発見されてはいない。

以上の暦年代と編年観を前提にすれば、三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域に
かけて40mから60mクラスの前方後円墳や前方後方墳が数多く存在することになる。
例えば千葉県木更津市の高部古墳群や市原市の神門古墳群などは三世紀前葉を中心と
した古墳群となる。三世紀を古墳時代と考える方向性がますます強くなっていくであろう。

最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に
造営が終了している墳墓と想定することができた。すると239年に卑弥呼が魏に使いを
派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
648日本@名無史さん:04/08/07 13:45
>>644
鉛同位体比で、材料の年代や地域が分かったとしても、
それが古墳の年代と考えるのは間違いです。

2世紀前半に中国で取れた銅で作った鏡が
はるばる九州までやってきて、溶かして大鏡をつくって、
生前に使った挙句、埋葬したなら、3世紀半ばで問題ありません。

むしろ、2世紀前半の方がありえないでしょ。
中国でとれたばかりの銅が、すぐ日本の墓に入りますかって。
649日本@名無史さん:04/08/07 13:49
>>646
> 百余歩の歩が長さの単位か、歩幅のことかは平行線になりそうですが、

元々が左右一回ずつ歩いた長さを「歩」と呼んでいたのだから
どちらにしても長さに大差はありません。
身長160cmだと100歩は120m、170cmだと140m程度です。

> ヒラバルが小さすぎるという畿内説の主張は、自説の仮定に基づいた
> 一方的な主張でしかないとは分かっていただけたと思います。

分からないのでは。そもそも発掘者の原田大六氏が銅鏡などから2世紀前半と
しているように時代が古すぎます。

> 箸墓は大きすぎるという主張は、そこを指摘したかったのです。

伝承やサイズや年代が良く合うわけで、ますます蓋然性が高いと
考える人が増えているのが現状でしょう。
650日本@名無史さん:04/08/07 13:58
>>647

> 中国では360歩で1里と言う関係は秦から清まで変わっていないようです。

何を主張されているのか理解できませんが、
「だから」歩が長さの単位だとしたら、
100歩が140mはあり得ないんですよ。

秦から長さの単位として歩をつかっているなら、
古墳の100歩は長さの単位ではないと主張するのにも不利。


> 実測できるものとそれ以外を一緒に扱うのはおかしいでしょう。

対馬、壱岐、九州本島は互いに目で見えて、目測できます。
都市間の方が誤差が大きいのは確かですが、
1桁ちかく誤差はでないでしょう。
2倍くらいになったというなら理解できますが。
651日本@名無史さん:04/08/07 13:59
>>648
> 2世紀前半に中国で取れた銅で作った鏡が
> はるばる九州までやってきて、溶かして大鏡をつくって、
> 生前に使った挙句、埋葬したなら、3世紀半ばで問題ありません。

「八咫鏡」から、漢式鏡まで全て前漢〜後漢初期の鉛同位体の値を示します。
652日本@名無史さん:04/08/07 14:03
>>650
> 秦から長さの単位として歩をつかっているなら、
> 古墳の100歩は長さの単位ではないと主張するのにも不利。

言っている意味が良く分かりません。
元々が左右一回ずつ歩いた長さを「歩」と呼んでいたのだから
どちらにしても長さに大差はありません。
身長160cmだと100歩は120m、170cmだと140m程度です。
653日本@名無史さん:04/08/07 14:11
卑弥呼を弥生時代とするために、古墳から出土する銅鏡の年代との食い違いが
著しく大きくなり、例外なく伝世したとする苦し紛れの妄説で誤魔化していましたが、
AMS・年輪年代による最近の暦年換算だと、矛盾はなくなっています。

赤塚氏は東海などの墓と鏡について以下のように述べています。

弥生集落を代表するいわゆる「環濠」集落の解体を、山中I式期と考えている。
・・・それをここでは西暦一世紀中頃前後と読み替えることができる。・・・
濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する
必要がないことになる。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が
眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の
墳墓から発見されてはいない。
654日本@名無史さん:04/08/07 14:21
>>651-652
お互い、相手の主張が理解できてない状態なのかもしれませんね。

>「八咫鏡」から、漢式鏡まで全て前漢〜後漢初期の鉛同位体の値を示します。

この文で何を主張されたいのかも理解できません。
昔の中国で取れた銅で作られているという主張ですよね。
これが何で古墳の年代を早めるのですか?

むしろ、そのような銅が中国鏡として加工され、
はるばる九州まで来て、大事に使われ、
大鏡に鋳造しなおされて大事に使われ、最終的に埋めたなら、
古墳の年代と銅の年代は大きく離れるでしょ。
葬式用品の銅の年代というなら近いはずですが。
むしろ近いと考える方が間違っているでしょう。

> 元々が左右一回ずつ歩いた長さを「歩」と呼んでいたのだから

もともとはそうですが、1里の360分の1に固定されたと
畿内説の人が>>250で主張されてますね。
1里の長さは時代や地域によって変化します。
魏の単位なら四百数十メートルで箸墓に有利ですが、
対馬、壱岐、九州の位置関係や邪馬台国全体の大きさなどから
その長さであることはありえないのです。

倭人伝の記述は、1里は数十メートルで一貫しているのです。
655日本@名無史さん:04/08/07 14:27
訂正(>>654):
もともとはそうですが、1里の360分の1に固定されたと
畿内説の人が「 >>647 」で主張されてますね。
656日本@名無史さん:04/08/07 14:35
>>654
> 昔の中国で取れた銅で作られているという主張ですよね。
> これが何で古墳の年代を早めるのですか?

正しくは鉛です。日本では和同開珎などを作ったのは山口県の長登銅山とされ
この鉱山では鉛も同時に産出しており鉛同位体もピッタリと合います。
当時の日本では錫の産出が少なかったようで、中国産の青銅に比べて
錫の含有量が著しく少ないです。

原田氏は漢式鏡などから2世紀前半を下らないとしています。
鉛同位体からも支持されると言ったのです。

> むしろ近いと考える方が間違っているでしょう。

> 1里の長さは時代や地域によって変化します。

中国では時代による違いは大きくありません。
657日本@名無史さん:04/08/07 14:37
>>655

>>倭人伝の記述は、1里は数十メートルで一貫しているのです。

横やりみたいで申し訳ないですが、
『至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里』の記述にも適用されるのでしょうか?
658日本@名無史さん:04/08/07 21:43
>>657
はい、そうです。

1里60mとすると、300里は18kmです。
壱岐島は、半径20km弱の円形に近い形の島です。

方可三百里が、300里四方=1辺300里
ということなら、ちょうどピッタリですね。

問題はむしろ対馬の「方可四百里」ですね。
対馬はご存知の通り細長いですから。おそらく、

1.対馬の太さは、ちょうど400里くらい。
海から海まで歩いてみて島の大きさを測って
1辺400里だから400里四方と推定した。

2.あるいは、対馬は中央が切れています。
その南半分だけのことなら、ちょうど
400里四方なので、南の島だけを指す。

・・・のいずれかだと思います。

>>656
あなたは、その書き込みでは何も主張できてないと思いますよ。
間違っているという指摘に何も答えてないじゃないですか。
銅の産出の時期と、古墳の時期は違います。
むしろ大きく隔たっていなければならないのです。
659日本@名無史さん:04/08/07 22:29
>>658
苦し紛れな漢式鏡の伝世説は破綻しています。
発掘者の原田氏が言うように、平原弥生古墳は2世紀前半を下らないと
見るのが妥当でしょう。全く時代が合いません。

その逆に箸墓は伝承・サイズ・年代が調和的で、吉備の特殊器台(埴輪の前身)を
立てるようになった最初期の古墳で、畿内=吉備の連合を窺わせる
巨大古墳であることも非常に興味深いことです。
660日本@名無史さん:04/08/08 01:15
>>659
前段落 : 
まったく説明になってません。
残念ながら、証拠も論理性も見受けられません。
鏡の材料産出の時期から
時代を狭く見積もる考え方は間違いです。
根本的に間違った主張をされていると思います。

後段落 : 
そういう仮説がなりたちうるかもしれないが、
それも、九州説やヒラバル説への攻撃には
まったくなっていません。そこはお分かりかな?
661日本@名無史さん:04/08/08 01:25
>>660
はぁ? 平原弥生古墳を発掘した原田氏自身が述べている年代観であり
現在の銅鏡の年代観から見ても妥当なものでしょ。

弥生〜古墳時代の日本では青銅素材の生産は殆どなく
銅鐸は中国からの輸入品を鋳直して作ったと考えられているけど
佐原編年と鉛同位体比が見事に対応しており
一番新しいものでも前漢〜後漢初期タイプに留まっています。
662日本@名無史さん:04/08/08 01:27
訂正(>>658)

壱岐島は、 [ 直径 ] 20km弱の円形に近い形の島です。
663日本@名無史さん:04/08/08 01:30
>>661

あなたの考えは根本的に間違っています。

鏡の材料算出の年代と古墳の年代は近くないのです。

むしろ近いことはありえないのです。

なぜ、それが分からないのですか?
664日本@名無史さん:04/08/08 01:32
もはや九州説を攻撃しようと思っている人は少ないでしょ。
畿内であることを前提に古代史の再構築を考えているとこでしょう。

従来は畿内と北九州の遺跡ばかりに目が行っていたけど
赤塚氏の前方後方墳研究の進展で、東海を狗奴国に比定させるのが妥当で
古墳時代初期に東日本一帯が前方後方墳体制が広がったことを
もっと詳しく見て行くのが重要になってきたと思います。
665日本@名無史さん:04/08/08 01:42
>>663
卑弥呼を弥生時代としたいと言う恣意的な結論に無理やり合わせるために、
全ての古墳に伝世を適用させると言った妄説が破綻してきたわけです。
後漢中期以降の華南タイプの鉛を青銅器に使うようになったら、そういう改鋳品も
必ず出てくるはずで、特定の土器型式で全く出ないのそれ以前だからでしょう。

赤塚氏の記述を虚心坦懐に読んでみるのがいいですよ。

http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
弥生集落を代表するいわゆる「環濠」集落の解体を、山中I式期と考えている。
・・・それをここでは西暦一世紀中頃前後と読み替えることができる。・・・
濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する
必要がないことになる。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が
眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の
墳墓から発見されてはいない。
666日本@名無史さん:04/08/08 02:08
(邪馬台国畿内説)
1.畿内ジモピー勢力拡大+α説
(昔の定説:小林行雄、佐原真、都出比呂志、白石太一郎、石野博信等)
→唐古鍵遺跡が吉備勢力など東瀬戸内地域と連合し、北九州の鉄交易ルートを奪取し(倭国大乱)、
 倭王権が誕生した。 
 【根拠】銅鐸圏の方が広い、終末期の北九州遺跡の衰退、富の集中がなかったからこそ協力な王権を
    生み出した、畿内の鉄器は再利用して消えたor腐ってなくなった
2.筑紫+吉備+讃岐+東海?が話合って平和に連合した説(寺澤薫、北條芳雄等)
→土地を提供しただけ(or卑弥呼がいただけ)の畿内以外の各勢力が談合し、
 平和裏に倭王権が誕生した。
 【根拠】古墳文化には各勢力の特性の混合が見られる、弥生期の畿内はショボイ、庄内期までの北九州
    の鉄器の圧倒
3.北九州旧倭王権拡大説(原田大六、柳田康雄等)
→単に弥生期の旧倭王権が拡大しただけであり、大きな断絶はない。
 【根拠】古墳文化には北九州の特性が継承されている。鉄器、遺跡の庄内期までの圧倒。
    既に終末期の倭王権は広域化している。
(邪馬台国九州説)
4.卑弥呼時代北九州→台与時代畿内東遷説(大和岩男、森浩一??等)
→卑弥呼時代に伊都国に行宮を置き、台与時代に東遷都して倭王権が誕生。
 【根拠】3.のとおり。 *ただし、庄内期の成立を下げる。
5.邪馬台国筑後平野説(安本美典)
667>661:04/08/08 02:09
横レスだが、平原の年代は柳田が修正し、これが定説化してるよ。
668日本@名無史さん:04/08/08 02:26
>>667
柳田の年代は根拠がなく、当初の原田氏の方が妥当だろう。
669日本@名無史さん:04/08/08 02:28
>668
本当ですか?誰がそう言ってるのか教えて下さい。
670話の腰を折って申し訳ないが:04/08/08 02:35
間違いが定説になるなんてことも、この世界ではよくある。
自分の判断力で、切り分けないと危険。
>>669氏の突っ込み以降に期待。
671日本@名無史さん:04/08/08 02:37
>670
どういう意味でしょうか?
最近だれか柳田説に異論を唱えているのでしょうか?
672日本@名無史さん:04/08/08 02:39
>>669
柳田は年代の決め手となるものを何ら出せていないのに
それを定説と言うほうが非科学的だな。
銅鏡などに基づく原田氏の年代観の方が筋が通っている。
673日本@名無史さん:04/08/08 02:48
>672
いや、だからどういう学者の方がどのような根拠で柳田説に異論を唱えら
れているかが知りたいだけなんですけど。
674日本@名無史さん:04/08/08 02:56
>>665
> 卑弥呼を弥生時代としたいと言う恣意的な結論に無理やり合わせるために、

えーと、言いたいことが良く分からないのですが。
九州東遷説を主張するためには、卑弥呼が弥生時代だと偽装する必要があるの?
ないでしょ。卑弥呼は当然のごとく古墳に入ったのだから、古墳作りは
卑弥呼以前から長くやってきたことに決まってる。九州にも古墳は山ほどある。

はっきり言って、恣意的な部分は何一つ必要ないですよ。

1里を60mとみるのも恣意的ではなく、現実の地理から逆算すると
倭人伝の1里は60mになるというだけです。すると、不思議なことに
100歩が丁度ヒラバルの径(さしわたし)の長さと一致するのです。

恣意的な仮定を必要としているのは、畿内説ですよね。
邪馬台国を畿内に持ってくるために、方向を読み換えたり。
それでも全体的に矛盾といっても良いくらい苦しい解釈に塗れていますが。

> そういう改鋳品も 必ず出てくるはずで、
> 特定の土器型式で全く出ないのそれ以前だからでしょう。

文末が日本語として意味がとれないので、文意が分かりません。
中国に例を見ない大鏡は改鋳品ではないと言いたいのですか?
改鋳品ですよね。なら、材料の年代と埋葬の年代は更に大きくズレますよね。
そうでなくでも、中国で掘ったばかりの材料が
直ちに日本の墓に製品として入るなんてありえないですが。
675日本@名無史さん:04/08/08 03:35
>>673
その前に柳田が決め手になる証拠を一つでも出せたか?
676日本@名無史さん:04/08/08 03:41
>>674
一歩は度量衡でも記録者の実測でも120-140cmになる。
それ以外のことを言っても中国人研究者に一笑されるだけでしょう。

倭鏡の他に多くの漢式鏡が副葬されており、それらから2世紀前半は下らないと
結論付けられた。
677>675:04/08/08 10:45
だから、そんなことを言っている学者がいるんですか?
いなければあなたの個人的意見にすぎないでしょう。
678日本@名無史さん:04/08/08 10:58
>637
>ただし、超巨大和鏡の存在を卑弥呼以前のものと見るのは、無理がありません?

>ぶっちゃけ、無理があるでしょう

ないよ。そんなこと言っている学者いないよ。
発見者の原田大六自体卑弥呼より前としてる。
アマテラスの墓と言っちゃって学会に完全に無視されたことは知らないの。
679日本@名無史さん:04/08/08 11:07
ルーマニアで60歳以上の女性トップレス禁止
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200408/sha2004080803.html
 こちら、黒海のビーチ・リゾートを抱えるルーマニアコンスタンツァ郡の警察当局は
7日までに、60歳以上の女性のトップレスを禁止する意向を明かした。

 理由はズバリ「醜いから」。なぜか若い女性よりも、おばあちゃんのトップレスが増え、
多くの苦情が警察に寄せられていた。他の観光客が気味悪がって近づかないという
状況だそうで、警察署長は「トップレスは許される年齢があるのです。
おばあちゃん方もわかってほしい」と理解を求めた。
680日本@名無史さん:04/08/08 11:07
>659
箸墓は、最初の前方後円墳じゃないと思うが。
その前に庄内期限定でも畿内に4〜5個、九州に2つあるよ。
681日本@名無史さん:04/08/08 11:17
柳田が平原墓の後漢鏡のデカイ奴をホウセイと主張しとる。
仮にそれが正しいとすると平原墓は、従来言われているよりくり下がって3世紀に入ってしまうかもしれない。
畿内説では、纏向型を3世紀前半とする人もいるが、その場合、平原墓と同時期になってしまう。
この辺り畿内説は、どう整合性をとるのであろうか?
柳田説を誤りとするのであろうか?



682天之御名無主:04/08/08 11:19
あれって八咫鏡だよなー。
683天之御名無主:04/08/08 11:25
平原にはオリジナルがあった。それのホー製をつくり神武かなんかがヤマトに持ち
込み、倭国王となった。平原にはホー製のものを残した。
684日本@名無史さん:04/08/08 11:58
柳田の平原年代繰り上げは、耳拿と鏡からの推定です。
土器からすると本来もっと古いはずです。
畿内の土器編年が上がれば平原も上がるだけだと思います。
石塚、勝山と平原が併存するってのはあまりに奇怪ですから。
685日本@名無史さん:04/08/08 12:19
>>684
柳田君は土器から弥生終末だと結論づけておるのだが・・・・
知らんのかね?

>石塚、勝山と平原が併存するってのはあまりに奇怪ですから。

なぜ?別にかまわんでしょ。

もっとも、柳田君の見解では平原のほうが若干早いようだが。
686日本@名無史さん:04/08/08 12:54
畿内説の人、罵詈雑言をはいてるだけで、
具体的な証拠をあげないんだよなー
687日本@名無史さん:04/08/08 13:37
>>681
土器などによる相対編年と暦年換算という基本もわかっていないのかよ
688>685:04/08/08 18:55
さすがに、そりゃないんじゃないの。ありゃ倭国王級だよ。
別に王墓も想定されているしな。
689日本@名無史さん:04/08/08 19:08
九州説のような過去の遺物に証拠を出して反論するまでもあるまい。
ルイセンコ学説に反論する必要がないように。
690日本@名無史さん:04/08/08 19:25
>681
国産説は柳田氏の私説にすぎない。今のとこは。
691日本@名無史さん:04/08/08 21:53
>柳田は年代の決め手となるものを何ら出せていないのに
>それを定説と言うほうが非科学的だな。

じゃあ、君は出せるの?
それから、柳田氏の主張のどこがおかしいのか説明してみなさい。


692日本@名無史さん:04/08/09 02:00
>>691
非常に根拠薄弱。まともに相対年代を決められる土器は発見されていない。
出土状況の不明確な土器片で年代を決めようとかお話にならない。

http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html
発行:前原市教育委員会
平原遺跡発掘調査中間報告
平成10年10月18日

B2号墓からの出土品は確認できていませんが、南側の周溝を壊しているみかんの木を
植えるための溝から土器片が出土しています。この土器と2号墓付近から出土した土器を
参考にすると、墓が作られた年代は弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦200年〜
250年前後)にかけてと考えられます。

1号墓が造られた年代については確実にそれを示す土器が発見されていないため、
銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。
693日本@名無史さん:04/08/09 02:10
「銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。それには
弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と弥生時代後期後半から終末
(西暦200年前後〜250年前後)とする説がありましたが、今回の調査結果から考えると
後者の可能性が高くなったといえるでしょう。」

前者は発掘者の原田氏や漢式鏡の専門家・岡村秀典氏の見解で
後者は柳田が言っていたことで、それに合わせようと出土状況が不明確な土器を
証拠にしようとする自作自演で、自画自賛するというのでは頭が痛い。
694日本@名無史さん:04/08/09 12:31
畿内説の人が言ってることって
まったく根拠になってないんだよ。

根拠になってないことを、
何度を繰り返しているだけ。
何も主張できていない。
695日本@名無史さん:04/08/09 12:55
>>694
根拠のない年代観で卑弥呼を弥生時代としていた頃は
シロートには九州説の方が人気が高かったな。
今では九州説に立つ専門家は殆どいなくなったし
古代史愛好家もどんどん転向しているから
こういうカキコを見ても哀れみを持つだけ。

捻れた心を排して素直になれば楽になれるのに。
696日本@名無史さん:04/08/09 13:00
あはは、いまどき畿内説唱えてる専門家がいるのかね?
街宣車でわめき散らす、自称古代史学者はいるかもしれないがね。
697日本@名無史さん:04/08/09 13:02
>>696
何という学者だろう?
698日本@名無史さん:04/08/09 17:25
ここにいる畿内説論者は本当にバカだね。

>>694が批判しているのは、
>>695みたいな書き込みのことだろ。

自ら>>694の正しさを証明したようなもんだよ。
699日本@名無史さん:04/08/09 17:31
>>698
考古学の編年とか自然科学に全く無知なやつかよ ( ´,_ゝ`)
700日本@名無史さん:04/08/09 19:55
>>699
いや、だから君はバカなんだって。

例えば、>>695でも理由になることを1つでも
書いていればバカにされることもないんだよ。

理由になることを1つも挙げることができないのに
態度だけ偉そうだから
皆から、バカだ、バカだ、と言われているんだよ。
701日本@名無史さん:04/08/09 19:59
>>700
「根拠のない年代観で卑弥呼を弥生時代としていた頃は
シロートには九州説の方が人気が高かったな。」

書いてあるだろ
702日本@名無史さん:04/08/09 20:00
九州出土の土器が、畿内と同形式なら同時代であると長らく妄想されていたので
九州の先進性が否定され、不当に畿内と同レベルにされてきた。
あわてた畿内説は、必死にマキムク妄想を構築して、これにすがって生き抜こうと決意。
703日本@名無史さん:04/08/09 20:28
>>702
釣りかよ ( ´,_ゝ`)
昔は関東は近畿と同じ型式の土器でも50年ほど後とする
変な年代観があったが今はなくなったな。
704日本@名無史さん:04/08/10 23:28
畿内編年が変われば、九州も平行して変わるだけです。相対編年ですから。
705日本@名無史さん:04/08/10 23:30
自分だけの説ね
706日本@名無史さん:04/08/10 23:50
>692
鉄鏃と鉄ノミも終末期だが、知らないのかね。
707日本@名無史さん:04/08/10 23:59
>>701
駄目な説だね。
日本列島に王様といえば大和朝廷の天皇しかありえないという常識から
考古学や漢文なんかワカランチンのドシロウトには、畿内説のほうがわかりやすかった。
708日本@名無史さん:04/08/11 00:21
>>707
邪馬台国畿内説を否定し九州説が広まったのは、江戸時代の国学者たちが
皇室が中国皇帝に朝貢して冊封されたことを認めたくなかったから広まった。

対米戦争で負けてからは、日本弱体化工作で皇室の権威を下げようとした
共産勢力が皇室の祖先の日本支配を遅らせようとしたことで
どちらも学問的な考察ではなく、政治的目的の捏造工作が根底にある。
709日本@名無史さん:04/08/11 00:23
>その逆に箸墓は伝承・サイズ・年代が調和的で、吉備の特殊器台(埴輪の前身)を
>立てるようになった最初期の古墳で、畿内=吉備の連合を窺わせる
>巨大古墳であることも非常に興味深いことです。

箸墓は、最初の古墳じゃないっす。
モモソヒメは、吉備氏ではなく、文献的には皇族(記紀)か、海部氏出身(海部氏勘注系図)です。
710日本@名無史さん:04/08/11 00:38
権力の移動が九州から合ったという話(学会傍流)と邪馬台国九州説(滅亡)は
全然別なのだが、素人は混同しちゃうんだろうな。
711日本@名無史さん:04/08/11 01:13
>>709
そういう意味ではなく、箸墓以前の纒向石塚古墳やホケノ山古墳では
吉備の特殊器台(埴輪の前身)は立てられていなかったのに
最初の巨大前方後円墳の箸墓には立てられたと、言いたかったのです。
形容関係が分かりにくくてスマソ
712>707:04/08/11 01:23
それは逆です。
素人向けの本は圧倒的に九州説。
その逆に学者には九州説はおりません。
713日本@名無史さん:04/08/11 01:24
>>711

つまりは、東遷後の初の巨大古墳と考えるのが妥当だね。

九州説の歴史観では、台与=よろずばたヨトあきつ師姫命が本命。

畿内説の歴史観では、東遷はずっと昔で、合う人がいないのでは?
714日本@名無史さん:04/08/11 01:27
訂正

ヨトじゃなくて、トヨ
715日本@名無史さん:04/08/11 01:40
>712
学者は畿内説しかいないとは、傲慢もいいところ。ウソ八百。
716日本@名無史さん:04/08/11 01:40
>>713
前方後円墳は畿内から広がったものだから
必ずしも東遷後と考える必要はないでしょ。
それより畿内と吉備の連合が成立した象徴と考えます。

吉備では弥生時代最大の楯突墳丘墓が円の両側に突起がある形だったのに
古墳時代になって前方後円墳を採用するようになっているし。
717日本@名無史さん:04/08/11 02:03
>>716
そうか。でも、そうなると、畿内説の場合、

「東遷」が先で「吉備との連合」が後

となり、東遷自体が極めて困難というか、不合理というか・・・
そういう状態になりやしないか?

九州東遷説は、その辺がスムーズというか、伝承通りというか。
718日本@名無史さん:04/08/11 03:12
>>717
日本書紀・古事記の記述を見ても、東遷した直ぐ後は
大和周辺に限定した勢力でしかなかったことになるし
初期の天皇陵の場所には目立って大きな古墳はなく
弥生墳丘墓なのかも知れない。

その後に徐々に力をつけ、吉備と連合して3世紀前半には西日本を制圧し
前方後方墳体制の東日本には手を焼いたものの4世紀半ばまでには組み入れた。
そして朝鮮半島にも本格的な軍事行動に出て4世紀末以降は大きく勢力を広げた。

こんなイメージを持っています。
719日本@名無史さん:04/08/11 03:46
そんなイメージを待ってました。
720日本@名無史さん:04/08/11 11:08
>>718
そうか、また歴史観の相違がハッキリした。

後に天皇と呼ばれる王や大王は、
畿内説だと卑弥呼よりも前から居ると見ているんだな。

でも、そうなると女王が倭国の最高権力者というのは問題では?
卑弥呼死後の266年の朝貢でも、倭国の王は女王だったんだし。

記紀では、神功皇后が200−270年ごろに摂政をしたことにして
これが中国史に載る女王だとしているけど、これは明らかにゴマカシ。
実際、神功皇后の子の応神天皇は、中国の歴史書の卑弥呼記述部を
「日本の古代は神の国だから嘘だ」といって焼き捨てる命令を出している。
卑弥呼は応神天皇から見て相当昔の人であることが判る。
(昔の天皇の在期は、ある理由によって実際よりも前に引き伸ばされている。)
更に言えば、朝貢した女王は複数なんだから、
神功皇后1人と言ってる時点でゴマカシは明らか。

九州説だと卑弥呼より後、台与とは時代が被りそうだけど、
台与が生きていた時代は台与より下の立場で、
台与の次の時代に権力者になるという感じだと思う。
台与以後も女性の巫女を立てていたという考えもあるけど、
実質的な権力はなさそう。その人は斎宮クラス、っていうか斎宮そのもの。
721日本@名無史さん:04/08/11 11:46
>>720
> 後に天皇と呼ばれる王や大王は、
> 畿内説だと卑弥呼よりも前から居ると見ているんだな。

日本書紀には第7代孝霊天皇の皇女が箸墓に葬られたと記載されています。

> 記紀では、神功皇后が200−270年ごろに摂政をしたことにして
> これが中国史に載る女王だとしているけど、これは明らかにゴマカシ。

百済系資料に見える倭女王を、三国志・晋書の卑弥呼+台与に比定しようと
日本書紀の編者が干支を2運(120年)繰り上げたとするのが定説でしょう。

後世に朝鮮正史「三国史記」の編者が、半島資料と日本書紀の記述を照合したら
百済の肖古王・仇首王の年代だけ異常に食い違っているのに混乱したのか
半島資料にあった方を近肖古王・近仇首王として、両方を採用したようです。
ところがここで勘違いがあったようで日本書紀よりさらに1運繰り上げて
計180年のタイムスパンとなってしまいました。
722日本@名無史さん:04/08/11 15:48
傍から見て、>>721は話が噛み合ってないように見える。

>>720の言いたいことは、
吉備などの勢力と和合する前に東遷なんてできないのでは?
ってことだろ。
723日本@名無史さん:04/08/11 15:52
>>722
元々小勢力での東遷だろうから問題ないでしょ。
初期の天皇陵は弥生墳丘墓の可能性が高そうだし
724天之御名無主:04/08/11 17:42
天皇というのは関東から九州までの地域に銅鐸圏、銅矛圏などといった圏が消滅し、
鏡を持つ古墳がこの地域に作られ始めたころの奈良県東南部の大型古墳被葬者
ということでいいのかな。
725日本@名無史さん:04/08/11 17:46
>>724
その時点では間違いないですね。
今後の注目点はルーツを遡って行くことでしょう。
いつ頃から畿内で勢力を確立したのか、東遷したとすれば
原田大六氏が言うように、平原弥生古墳の埋葬者が祖先に当るのか?などなど
726日本@名無史さん:04/08/11 17:56
>>723
小勢力の東遷というけれど、
なんで、そんな小勢力が文化を大きく変えて、
その後指導的な立場に立って行けるの?
なんで、そんな小勢力なのに
平野一帯の地名順列を九州と同じにできるの?

やっぱり連合が進んでから東遷
あるいは進めつつ東遷じゃないの?
727日本@名無史さん:04/08/11 17:56
邪馬台国と関係あるかどうかわからんが、
福岡地方の地名の多くは朝鮮語で意味のあるものだったり、
南韓国と同じ地名がついてるところが多いらしく、
朝鮮系の民族が住んでいたことは間違いないらしい。

あと、魏志倭人伝が書かれた時代、東を南と理解していたらしいが、
それを元に魏志倭人伝に書かれた通りに進んでいくと
南九州の下、太平洋のど真ん中にでちゃうとか。
728日本@名無史さん:04/08/11 17:59
天尊降臨の天とは南韓国の高天原のことらしいからな。
729日本@名無史さん:04/08/11 18:25
>>726
北九州と似ているのは鏡の副葬が異常に多いことくらいで
前方後円墳は畿内から広がったものだし。
吉備発祥の特殊器台(埴輪の前身)を並べるのは箸墓の頃からです。

北九州→吉備→畿内と勢力を広げたと考えるよりは
東遷したとしても畿内から小規模で再スタートと考えた方が説明がつきやすい。
730天之御名無主:04/08/11 18:31
黄海・東シナ海周辺は海で結ばれていたのでよく似た文化があっておかしくないんだが
そのうちで韓国だけを高天原にするという理由ってないんじゃないかな。山岳風景は
九州、朝鮮、中国いずれにもいいものはある。
731日本@名無史さん:04/08/11 21:31
高天原とは壱岐の天原(あまばる)(天の原遺跡もある)のこと
732日本@名無史さん:04/08/11 21:47
>718
>日本書紀・古事記の記述を見ても、東遷した直ぐ後は
>大和周辺に限定した勢力でしかなかったことになるし
>初期の天皇陵の場所には目立って大きな古墳はなく
>弥生墳丘墓なのかも知れない。

これは無理。九州は畿内以外で初期前方後墳が一番早く発生するとこで、
庄内式と推定されるものだけでも津古生掛、那珂八幡、布留式0、1ク
ラスならかなりある。
だから巻向の成立が西日本の統一と見るのが定説。
733日本@名無史さん:04/08/11 21:51
>>732
纒向石塚古墳・ホケノ山古墳など100m近い前方後円墳が誕生する以前に
纒向周辺で細々としていた時期もあったと考えられるでしょ。

初期の天皇陵の場所には目立って大きな古墳はないのは
弥生墳丘墓なのではと思っています。
734日本@名無史さん:04/08/11 21:52
>元々小勢力での東遷だろうから問題ないでしょ。
>初期の天皇陵は弥生墳丘墓の可能性が高そうだし

通常、初期の大王墓と想定されている石塚、勝山等は、弥生式墳丘墓とは
言わない。



735日本@名無史さん:04/08/11 22:09
>>734
だからそれ以前と言っているわけです。

日本書紀・古事記・延喜式などの記述に基づいて、天皇陵の比定を進めたものの
神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇については
目ぼしい古墳が見つかっていません。

日本書紀には、天皇陵は初期は大和、続いて河内(和泉が分離するのは後世)に、
再び大和に戻ることが記載されています。
大規模な古墳は古墳時代前期は奈良県、中期は大阪府、後期・終末期は奈良県と
調和的だし、概ね事実に基づいたものと考えられるから、
初期八代の陵墓は弥生墳丘墓と考えているのです。
736日本@名無史さん:04/08/11 22:24
>735
庄内期の弥生式墳丘墓なんて発見されいない。
それより前の弥生期の墳丘墓は家族の墓で王墓ではなく、前方後円墳との
つながりはないというのが定説。

そもそも崇神陵より前の前方後円古墳は10個以上あるので、これらを
天皇陵とすればいいだけの話で、わざわざそんなめんどくさい想定をする
必要はありません。欠史8代を実在で数もその程度と仮定しての話で、
16代を8代に縮めたってなら話は別だが。
737日本@名無史さん:04/08/11 22:35
>>736
> 庄内期の弥生式墳丘墓なんて発見されいない。

庄内期の近畿は古墳時代なんだから、弥生墳丘墓の時代ではありません。
もっと前の時代の話です。

> それより前の弥生期の墳丘墓は家族の墓で王墓ではなく、前方後円墳との
> つながりはないというのが定説。

王と言えるほどの力はなかったでしょう。

> そもそも崇神陵より前の前方後円古墳は10個以上あるので、これらを
> 天皇陵とすればいいだけの話で、わざわざそんなめんどくさい想定をする

日本書紀〜延喜式の時代には、初期八代の陵墓として祭られていたわけで
違う地域の古墳を対応させるのは筋違いでしょ。
と言って、初期八代の陵墓が江戸時代までに悉く消滅したと仮定するのも不自然で
小さな墓が存在したと考えるのが妥当でしょう。
738日本@名無史さん:04/08/11 22:50
>737
日本書紀〜延喜式の時代には、初期八代の陵墓として祭られていたわけで
>違う地域の古墳を対応させるのは筋違いでしょ。
>と言って、初期八代の陵墓が江戸時代までに悉く消滅したと仮定するのも不自然で
>小さな墓が存在したと考えるのが妥当でしょう。

その地域に遺跡はない。だからそんなことを言う学者も当然いない。
安本美典というアマチュア上がりだけ。

だいたいなこと言ったら庄内期から布留0だけで10程度王墓級があるんだ
から、崇神から逆算したら神武より前の天皇がいたことになっちゃうよ。
739日本@名無史さん:04/08/11 23:16
>735
>初期八代の陵墓は弥生墳丘墓と考えているのです。

ほお、おもしろいお話ですこと。
そのようなことを主張されている考古学者はどなたなのか教えていただけますでしょうか。


740日本@名無史さん:04/08/11 23:21
>>738
> >と言って、初期八代の陵墓が江戸時代までに悉く消滅したと仮定するのも不自然で
> >小さな墓が存在したと考えるのが妥当でしょう。
> その地域に遺跡はない。だからそんなことを言う学者も当然いない。

年代観が狂っていたり、初期天皇を抹殺したりする例が多いからでしょ。
再検討すべきだと思う。
741日本@名無史さん:04/08/11 23:36
時代的にはありうるよな。

巨大化する以前の墳丘墓なんて、それこそ日本中に数え切れないほどあるし、
屑の宮内庁の存在が事態を余計にややこしくしてしまっている。
742日本@名無史さん:04/08/11 23:40
>740

一部の文献学者の間に初期天皇は年代引き延ばしのために捏造されたという説は
あるが、縮めているなどという説はいまだかつてない。古史古伝のたぐい以外はな。
だから、再検討が必要という学者もいない。

743日本@名無史さん:04/08/12 00:02
>741
そんなことはない。とりあえず寺澤薫の王権誕生でも読むように。
744日本@名無史さん:04/08/12 01:00
>>729
> 前方後円墳は畿内から広がったものだし。

九州東遷説に立って考えても、前方後円墳は畿内から広がります。
畿内説にとって有利な内容は含まれていません。

> 北九州と似ているのは鏡の副葬が異常に多いことくらいで

これは、九州東遷説にとって有利な内容ですね。

> 吉備発祥の特殊器台(埴輪の前身)を並べるのは箸墓の頃からです。

九州東遷説に立って考えても、吉備や東海と和合した直後です。
畿内説にとって有利な内容は含まれていません。

> 北九州→吉備→畿内と勢力を広げたと考えるよりは
> 東遷したとしても畿内から小規模で再スタートと考えた方が説明がつきやすい。

いいえ。説明がつきやすいというだけなら、
九州東遷説の方が説明がつきやすいでしょう。
なんで、小規模なのに、指導的な立場に発展するのか、
なんで、そんな東遷したのか、畿内説には苦しい点が多いのです。
九州東遷説にはそのような明白に苦しい点はありません。

そして、畿内説有利の証拠として挙げようとしているものも、
全然、役割を果たしていないのです。
九州東遷説でも当然そうなりますよって感じの事柄ばかりなのです。
745日本@名無史さん:04/08/12 01:04
>>744
古墳時代前期前半に当る卑弥呼の時代よりもずっと前に、
九州から東遷した説ならありうるだろうけどね。
746日本@名無史さん:04/08/12 01:05
>>744
年代の議論を全く欠いているのが、何ともかんとも
747日本@名無史さん:04/08/12 01:13
>>746
年代推定は、様々な人が
まちまちのことを言っているので、もう少し様子を見たい。

年代推定がそんな状況なのに、都合の良い年代だけを取り出して
年代推定のみを根拠にして展開している畿内説こそ眉唾ものである。

年代推定が間違っているからこそ、
和合なしの状態で小規模による東遷
などという無理な状況に陥ってるんじゃないの?
748日本@名無史さん:04/08/12 01:15
>>746
逆を言えば、
畿内説が採用している年代観以外の理由で
九州東遷説を攻撃できないでしょう。

つまり、「説明がつきやすい」というのは事実なんだよ。
749日本@名無史さん:04/08/12 01:19
>>747
> 年代推定は、様々な人が
> まちまちのことを言っているので、もう少し様子を見たい。

漢式鏡から上限は抑えられている。
AMSや年輪年代との対比から、副葬まで大きな年代ギャップはないのが
一般的と判明してきた。九州説は終わっています。
750日本@名無史さん:04/08/12 01:20
>>748
箸墓のような卑弥呼の墓に適した古墳が北九州には存在しない。
751日本@名無史さん:04/08/12 01:41
>>750
卑弥呼の墓は、ヒラバルです。

魏志倭人伝では、ソウル−韓国南岸が7000里、そこから対馬まで1000里、壱岐まで1000里
・・・と距離を表す数字と実際の地図上の距離がよく比例しているのですが、
実際の距離を魏志倭人伝の数字で割ると1里は60メートルくらいになります。
(1里60mの場合、女王国も九州に入り、畿内には届かない。)
(1里435mでは、南を東と読み換えても畿内を通り越してしまうことも問題だが、
 それ以上に、韓国、対馬、北九州が異常に巨大化するので、明らかに間違い。)

1里60mなら、100歩は約20メートルとなり、ヒラバルのサイズと丁度良いのです。

こう主張すると、必ず「歩いて100歩なら140mだ」と返ってくるのですが、
これを根拠に「箸墓もサイズとしてあっている」と主張するのは良いのですが、
これを根拠に「ヒラバルのサイズは合わない」と主張するのは間違っている
(そう主張できない)ということには早く気付いてください。

ヒラバルの副葬物は、大量の鏡とガラスや玉のネックレスや腕輪で
鏡にまつわる女性の墓と判ります。そして何より
「ヤタの鏡」が4枚出ているのが重要な証拠となります。

広く知られる年代推定は、200年から250年です。
752日本@名無史さん:04/08/12 01:52
>>751
> 卑弥呼の墓は、ヒラバルです。

何度同じ妄言を書いても意味はありません。
平原の漢式鏡などから年代は2世紀前半をくだらないと言うものです。
なお年代の決め手となる土器は出土しておらず、柳田の主張は説得力がないことは
先日説明しました。

平原は原田氏が言うように、卑弥呼の東遷する前の祖先である可能性はあるでしょう
753日本@名無史さん:04/08/12 02:07
あなた方の年代推定によると、
中国でとったばかりの材料が、すぐに日本の塚に鏡として入る訳ですね。

これから導かれる結論は、
「材料の年代と古墳の年代が一致する」ではありません。
「あなた方の年代推定が間違っている」です。
少し考えれば分かることだと思います。


> ソウル−韓国南岸が7000里、そこから対馬まで1000里、壱岐まで1000里
> 1里は60メートルくらいになります。

これについては、どうですか?

ソウルも、韓国南岸も、対馬も、壱岐も、松浦も・・・・
現在、場所が明らかなところばかりですね。

この数字は実際の距離とよく比例しています。
この一致は偶然ですか? 伊都国には郡使駐在所があり、
伊都国までは、決してあやふやな距離ではないですよね。

そして1里が60メートルならば、
女王国が畿内はありえないことになります。
754日本@名無史さん:04/08/12 02:08
692 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/09 02:00
>>691
非常に根拠薄弱。まともに相対年代を決められる土器は発見されていない。
出土状況の不明確な土器片で年代を決めようとかお話にならない。

http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html
発行:前原市教育委員会
平原遺跡発掘調査中間報告
平成10年10月18日

B2号墓からの出土品は確認できていませんが、南側の周溝を壊しているみかんの木を
植えるための溝から土器片が出土しています。この土器と2号墓付近から出土した土器を
参考にすると、墓が作られた年代は弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦200年〜
250年前後)にかけてと考えられます。

1号墓が造られた年代については確実にそれを示す土器が発見されていないため、
銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。

693 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/09 02:10
「銅鏡を始めとする副葬品などの検討からその年代が推定されていました。それには
弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と弥生時代後期後半から終末
(西暦200年前後〜250年前後)とする説がありましたが、今回の調査結果から考えると
後者の可能性が高くなったといえるでしょう。」

前者は発掘者の原田氏や漢式鏡の専門家・岡村秀典氏の見解で
後者は柳田が言っていたことで、それに合わせようと出土状況が不明確な土器を
証拠にしようとする自作自演で、自画自賛するというのでは頭が痛い。
755日本@名無史さん:04/08/12 02:09
>>753
> あなた方の年代推定によると、
> 中国でとったばかりの材料が、すぐに日本の塚に鏡として入る訳ですね。

665 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/08 01:42
>>663
卑弥呼を弥生時代としたいと言う恣意的な結論に無理やり合わせるために、
全ての古墳に伝世を適用させると言った妄説が破綻してきたわけです。
後漢中期以降の華南タイプの鉛を青銅器に使うようになったら、そういう改鋳品も
必ず出てくるはずで、特定の土器型式で全く出ないのそれ以前だからでしょう。

赤塚氏の記述を虚心坦懐に読んでみるのがいいですよ。

http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
弥生集落を代表するいわゆる「環濠」集落の解体を、山中I式期と考えている。
・・・それをここでは西暦一世紀中頃前後と読み替えることができる。・・・
濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の
内行花文鏡などが存在する。今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する
必要がないことになる。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が
眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の
墳墓から発見されてはいない。
756日本@名無史さん:04/08/12 02:16
>なお年代の決め手となる土器は出土しておらず、柳田の主張は説得力がないことは
>先日説明しました。
いつだれがそんなこと言ったの?
まさか君の個人的意見じゃないだろうね。

757日本@名無史さん:04/08/12 02:18
>>754-755
また理由にもならないことをコピペし始めましたが、
自分の脳みそを使って冷静に考えてみてください。

「中国でとったばかりの材料が、すぐに日本の塚に鏡として入る」

これはありえることですか?

あなた方の方法で、こういう結論が導かれたなら、
あなた方の方法が間違っていたのです。

なぜ、それが分からないのでしょう。不思議でなりません。

あなたの言ってることは、常に、全く理由になっていません。
758日本@名無史さん:04/08/12 02:20
>年代推定は、様々な人が
>まちまちのことを言っているので、もう少し様子を見たい。

なことはない。考古学者の間ではせいぜい20年程度のずれしかない。
ちがうこと言っているのは安本とか古田とかどうでもいい奴だけ。
759日本@名無史さん:04/08/12 02:21
これについての意見はないのでしょうか?

> > ソウル−韓国南岸が7000里、そこから対馬まで1000里、壱岐まで1000里
> > 1里は60メートルくらいになります。
>
> これについては、どうですか?
>
> ソウルも、韓国南岸も、対馬も、壱岐も、松浦も・・・・
> 現在、場所が明らかなところばかりですね。
>
> この数字は実際の距離とよく比例しています。
> この一致は偶然ですか? 伊都国には郡使駐在所があり、
> 伊都国までは、決してあやふやな距離ではないですよね。
>
> そして1里が60メートルならば、
> 女王国が畿内はありえないことになります。
760日本@名無史さん:04/08/12 02:27
葬儀に間に合わせるなら3日あればいいだろう。

>中国でとったばかりの材料が、すぐに日本の塚に鏡として入る
761日本@名無史さん:04/08/12 02:43
>>759
> これについての意見はないのでしょうか?

649 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/08/07 13:49
>>646
> 百余歩の歩が長さの単位か、歩幅のことかは平行線になりそうですが、

元々が左右一回ずつ歩いた長さを「歩」と呼んでいたのだから
どちらにしても長さに大差はありません。
身長160cmだと100歩は120m、170cmだと140m程度です。

> ヒラバルが小さすぎるという畿内説の主張は、自説の仮定に基づいた
> 一方的な主張でしかないとは分かっていただけたと思います。

分からないのでは。そもそも発掘者の原田大六氏が銅鏡などから2世紀前半と
しているように時代が古すぎます。

> 箸墓は大きすぎるという主張は、そこを指摘したかったのです。

伝承やサイズや年代が良く合うわけで、ますます蓋然性が高いと
考える人が増えているのが現状でしょう。
762日本@名無史さん:04/08/12 02:43
459 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/06/30 23:02
畿内説の場合は、齟齬があるのは方角の問題くらいで、それ以外は非常に調和的で、
総合的に見て、動かすことは出来ません。ちょっと、まとめてみました。

水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。

これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。

卑弥呼の墓は、径百余歩(直径140m余り)であり、箸墓古墳(後円部の直径160m)は、
オオヤマトに位置し、年代は調和的であり、巫女の墓の伝承を持つなど、
非常に調和的です。
九州は、弥生時代後期以降はさびれています。

伊都国に一大率を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示唆します。

投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸と、魏志東夷伝の朝鮮半島諸国と比べると、
規模が大きい。

魏から金印を賜ったのは、大月氏(クシャナ朝)と邪馬台(ヤマト)だけで、
重要視していることが分かる。

古墳時代に入って、銅鏡の出土は畿内・吉備に移っていいます。

これら、いずれも九州のショボイ国では説明が付かず、畿内説で初めて理解できる。
763日本@名無史さん:04/08/12 05:14
魏の役人が東を南と間違えていたのは、
北(ニシ)を西(にし)と勘違いしたからでは?
古い大和言葉が残っている沖縄では北(きた)のことを(ニシ)という
北極星のある方角を北(ニシ)という情報を持っていた魏の役人が
北九州で邪馬台国までの簡略な地図を見せられて北(ニシ)はどちらと聞き
地図の西を上(北)にし、北九州の東(ひがし)にある大和は地図の下、
南にあると報告したのではないでしょうか
764日本@名無史さん:04/08/13 01:46
またもや、畿内説の人は答えになってないコピペをしていますね。

あなたの書き込みは何の反論になってないことを早く気付いてください。
自分の書き込みが答えになってるか、なってないかをよく考えてください。

畿内説の距離観では、

帯方郡から韓国南岸
韓国南岸から対馬
対馬から壱岐
壱岐から松浦

などの距離がメチャクチャになってしまいます。
それに、南を東と読み換えただけでは畿内には行くことが出来ません。

はっきり言って、畿内説の論証はメチャクチャなんです。
765日本@名無史さん:04/08/13 07:59
>>764
かつての混乱は著しく不自然な暦年換算をしていたことで
欧米より遥かに遅れてAMS・年輪年代法を本格的に導入したら
漢式鏡の年代と弥生〜古墳の墓の年代との年代差が少なくなり
卑弥呼は古墳時代前期前半に活躍したと理解されるようになった。

前方後方墳の研究が進み、古墳時代前期前半の東日本は
前方後方墳体制にあったことが分かってきたなど
多くの新知見により論争は事実上終焉した。
766日本@名無史さん:04/08/13 09:53
758 名前:日本@名無史さん :04/08/12 02:20
>年代推定は、様々な人が
>まちまちのことを言っているので、もう少し様子を見たい。

なことはない。考古学者の間ではせいぜい20年程度のずれしかない。
ちがうこと言っているのは安本とか古田とかどうでもいい奴だけ。


↑ 銅でもいいのはお前。社会の屑、詞ね
767日本@名無史さん:04/08/13 09:56
群馬県に卑弥呼生誕の地という看板があるときいたが。
768日本@名無史さん:04/08/13 11:38
>前方後方墳の研究が進み、古墳時代前期前半の東日本は
 前方後方墳体制にあったことが分かってきたなど
 多くの新知見により論争は事実上終焉した。

            ↑
    プッ(w  ここ注目ね
769日本@名無史さん:04/08/16 19:52
学者にはもう畿内説しかいないのに、素人がまだ議論しているなんて滑稽ですね。
770日本@名無史さん:04/08/16 20:20
電波学者はもう畿内説しかいないのに、真実を見極めた素人がまだ電波畿内説を議論しているなんて滑稽ですね。
771日本@名無史さん:04/08/16 20:43
「真実を見極めた素人」

おい、西都厨、荒らしはやめろ。
772日本@名無史さん:04/08/16 20:46
【「韓」という名称をめぐる諸問題について】

楽浪郡の遺跡研究は戦前にすでにかなりのレベルに達しており、楽浪郡の住民はほとんど
王氏と韓氏が大部分をしめていたことがわかっています。
このうち王氏というのは山東半島の名族で、王氏を称したのは山東系の移民と思われ、
後漢時代に謀叛をおこし6年間にわたって楽浪郡で独立政権を維持した「王調」、
日本に漢字(と儒教思想)を伝えた「王仁」はともに山東系楽浪王氏と考えられます。
王氏についで多いが「韓氏」で、韓氏は今の河北省に多く、これは西周初期に
ペキンのすぐ南、今の固安に建国された「韓」が、後に河南省に移転した時に
とり残された住民が称した姓だとされ、項羽と劉邦の時代に燕王を称した「韓広」なる人物も
この韓氏と思われます。つまり王氏は山東系、韓氏は河北系の移民ということですね。
で、このことから、楽浪郡のみならず真番郡でも類似の事態、つまり移民の多くは王氏か韓氏
だったのではないか、という可能性が出てくるわけです。
魏略が拾ってきた伝承では箕準(箕子の子孫)が馬韓に入ってきて王になるわけですが
なぜか子姓でも箕氏でもなく(すでにそこは韓だったから)韓氏を称したということになっています。
(箕子到来伝説には史実性はまったくありません)これは中国系の人々が箕子にこじつけた頃には
すでに「韓」の名は自明で韓の由来を説明できなくなっていたということでしょう。
箕準とされた人物は実はもとから韓氏をなのる中国系の人物で、真番郡廃止後、
一時的にせよ現地をとりまとめて王となったのでしょう。
でなければいくら中国系の人々が有力でも韓が真番にかわって地名になりことは考えにくいし
一方、魏略所載の伝承から箕子伝説をさしひくときわめて整合的であるように考えられます。

戦国時代の「韓」というのは河南省に移転した後の韓が
BC757/6に晋に滅ぼされ、その跡地に晋の公室のひとり「姫萬」なるものに
封領として与えられたのがはじまりです。(姫萬すなわち韓萬=韓武子)

773日本@名無史さん:04/08/16 20:48
【「韓」という名称/その他の諸説】

1)君号転化説
旱岐・加・汗みな語源が同じ、王・首長の意味。もと王をさしていたのが転じて国をいった。
2)加羅語源説
加羅[kala]→[kal]→[kan]→[han]韓 ※これだと辰韓や馬韓が説明しにくい。
3)農耕社会由来説
水田の畦を意味する韓国語カンナラ→韓 ※当時の韓国語の実態が不明なので弱い。
4)デムパ説
ハンは檀君以来の韓国固有語。
白、光、大、人、天、王、など全部で22個の意味をもち宇宙の根本原理を表す。

※以上1〜4、すべてハン(かん)という音は説明できても
「韓」という当て字が選ばれたことは説明できない。


774日本@名無史さん:04/08/16 22:35
>>772-773
誤爆か?

それ漏れが大昔どっかのスレで書いた奴のコピペじゃん。懐かしいなー
誰だか知らないがファンがいたようでうれしいよ。
でも誤爆はするなw
775日本@名無史さん:04/08/17 02:00
箸墓はトヨの墓だと思うが、トヨは
2代目「日霊子(日巫女)」として死んだのだから、
ヒミコの墓だと言えなくもないかも知れない。
776日本@名無史さん:04/08/17 11:11
↑日霊子じゃなくて日霊女でしょ。
777初心者:04/08/17 11:25
2世紀〜3世紀にかけて畿内を中心とした
連合国家ができあがっていたということでしょうか?
778日本@名無史さん:04/08/17 19:09
>>751さんのように平原遺跡を卑弥呼とされることはうれしいな。

>ヒラバルの副葬物は、大量の鏡とガラスや玉のネックレスや腕輪で
鏡にまつわる女性の墓と判ります。そして何より
「ヤタの鏡」が4枚出ているのが重要な証拠となります

ただし数年前に大型鏡は4面ではなく5面と訂正されました。合わせて40になると思います。
鏡の大きさも一つの墓からでてくる枚数も日本一です。

平原遺跡の年代は、この地域が弥生時代甕棺の墓を使うのですが、平原は箱式木棺でした。
つまりお墓の習慣から考えると甕棺の時代とは明らかに違います。
甕棺であれば弥生時代といえるのですが、少なくとも平原はその後ですから、
古墳時代の最初と考えていいと思います。
平原が卑弥呼の墓と考えると卑弥呼の登場によって古墳時代が始まったと考えても、
云いすぎではないでしょう。

http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
779せいじ:04/08/17 19:31
>>778はせいじです。
郡から女王国までの1万2千里ですが、あくまでも距離が1万2千里ですから、
距離と日数をたしても1万2千里にはなりません。
距離1万2千里だけで考えると北部九州しか当てはまりません。
水行十日陸行一月は1万2千里の行程日数と考えるのが自然です。

>762さん伊都国に一大率を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示唆します。

これは逆に一大率の役割を考えてください。王の使いを送る、使いが来た時女王に送られた物を
間違いなく女王へ届ける、諸国を検察する等。伊都国が首都で、卑弥呼がここにいると
云ってるようなものです。もし伊都国以外に卑弥呼がいるのであれば
伊都国とは別の場所に一大率が必要になると思います。

伊都国女王卑弥呼
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
780日本@名無史さん:04/08/17 21:19
>>778-779

東遷というのは、福岡の三輪から大和の三輪に都を移したもの
と考えられる通り、三輪という地名には特別な意味がある。
そして九州内には三輪という地名が幾つかある。

つまり、邪馬台国は九州内でも何度も遷都しているのだ。

だから、伊都国に卑弥呼がいた証拠があったとしても、
伊都国=(魏志倭人伝のいう)女王国 にはならない。
伊都国に卑弥呼が居たというのは、ある時期においては正解だが、
魏志倭人伝記述時は違うのでは、ということ。

伊都国は邪馬台国連合の首都機能がある重要地であり、
卑弥呼の墓とみられる墓があるから、
晩年の卑弥呼は伊都国にいたかもしれない。

しかし、書いてある通りに解釈すれば、魏志倭人伝記述時の女王国は
伊都国とは別の国で、その位置は伊都国より南になると思う。

首都機能がある都市と女王国が別であることは別に問題ない。
オランダの首都機能はアムステルダムにあり、
女王はデン・ハーグに住んでいるようなものだ。
781日本@名無史さん:04/08/17 22:48
>>779 伊都国が首都で、卑弥呼がここにいると云ってるようなもの

つか、原典読んだことある?
女王が都とするのは「邪馬台国」で、伊都国より南
とはっきり書いてあるだろ。
なぜ倭人伝が書いていることを貴方が勝手に書き変えるわけ?
782日本@名無史さん:04/08/17 23:10
当時の日本列島が今と同じ形、同じ向き、同じ配列だったという証拠でもあるんですか?
783日本@名無史さん:04/08/18 01:53
>>782
全体的な形、向き、配列は変らんだろうが、
沿岸の平野部はずっと少なかったと思うよ。
大阪平野、濃尾平野、関東平野・・・・。
川が土砂を押し流し海を後退させ平野ができる。
平野ができてずーっと放っておくと、照葉樹林が生えて平野なれども開墾困難になる。
当時は人力で根っ子も掘り起こす訳だし、巨木の森に手を付けるのは大変だ。
弥生後期〜古墳時代は、できたての平野に増えた人口がスーッと吸収されたんだと思うよ。
新たな平野が自然からの贈り物となって、東へ東へと移住が進んだ。
そんなイメージだな、その時期の日本列島は。
784日本@名無史さん:04/08/18 02:37
>>782
そうだ、当時列島は丸くて九州は横向きで
北海道は九州の下という配列だった。
それをゴッドハンドが今のように移動した。。。
はずがねーだろ。
785日本@名無史さん:04/08/18 20:41
>>21にある通り、西都説に基づいて考えれば、
遠絶の周辺21ヶ国は南西諸島になり、
更に南の狗奴国が別王朝の琉球王朝になる。

日本語と琉球語が分化したのは1800年前
とも言われているし、気候や風俗も含めて
何から何まで上手く説明できていると思うのだが、
西都説に不利な証拠って何かあるのだろうか?
(近年の、どんどん遡る年代推定以外で。)
786日本@名無史さん:04/08/18 20:51
>>785
だから、僞スレのほうをageるなって!
ちゃんと >>1 をみて、西都が後から立てた偽スレかを確認しろよ!!
787日本@名無史さん:04/08/18 20:58
伊勢神宮でヒミコに使える斎王の都が西都(さいと)?
788>778:04/08/18 21:16
言わない。
古墳時代は、通常の見解では石塚古墳から。
平原と古墳文化は継続が見られるが、だからといって古墳時代が
始まったとはいわない・
789日本@名無史さん:04/08/18 21:19
>>787
本スレへ移動すべき
790日本@名無史さん:04/08/18 23:50
>>783
あはははははは。
まるで、ある日の朝目覚めたら突然平野ができていたみたいな表現だな。
思い込みもここまで来るとたいしたもんだ。
79125歳職歴なし引きこもり:04/08/19 00:33
素人の意見ですいませんが、
みなさん、なにもかも合理的に答えを
出そうとしすぎてる気がします。
例えば邪馬台国の位置にしたってわざわざ
自国の首都の正確な位置を他国に詳細に
教えるわけがないと思うのですが・・
万が一他国が攻めてくることもありうるわけですし
魏志倭人伝の記述を鵜呑みにして答えを出そうと
するのはどうかと思います。
792日本@名無史さん:04/08/19 00:54
>>790

・・・日本史晩のあおりって郷土芸能のような素朴さがいいでつね。
793日本@名無史さん:04/08/19 01:17
そうかい?罵詈雑言のほうが多いでしょ?
794日本@名無史さん:04/08/19 01:47
>>791

伊都国には、(帯方)郡使常駐所があり、
何度も人が往復しているので、
そこまでの位置はごまかしようがないと思われる。

南にある、投馬国と、邪馬台国は
随分時間が掛かっているし、
位置も(伊都国までと比べれば)あやふやで、
そういう回り道みたいなことはあったのかもしれない。

ただ、参問倭地周旋とかしているし、女王国以北の
大まかな位置関係は理解していたと思われる。
795日本@名無史さん:04/08/20 02:07
伊都国までの方位や距離は、帯方郡の人間が良く知っていたので、
ある程度の確かさがあると見て良い。

つまり、
ソウルから韓国南岸が7000里
韓国南岸から対馬が1000里
対馬から壱岐が1000里
壱岐から松浦が1000里
などなどの記述には有る程度の確信があると見て良い。

実際、地図上の距離とほぼ比例した数値になっている。
実際の距離に対応する1里は60〜70メートル。

結局、ソウルから1万2千里では、畿内には全然とどかない。
畿内説は死んでいる。
796日本@名無史さん:04/08/20 08:11
>>795
「隋書倭国伝」に「夷人不知里數、但計以日」と書かれているように
倭人は中国の里を知らずに日数によって遠さを計ると書かれている。

幻の北九州説を奉じて、事実上確定している畿内説を叩こうと必死なのが虚しいね。
79725歳職歴なし引きこもり:04/08/20 09:15
方角より日数のほうが信憑性が高い気がします。
798日本@名無史さん:04/08/20 11:11
>>796
それは伊都国より先、特に投馬や邪馬台のことでしょ。

伊都国には帯方郡の郡使常駐所があり、
里数を知る人が何度も何度も往復しているのです。
対馬の人は韓国の人たちと交易をしていたのです。

この辺りの里数や方角には有る程度の確かさがあるのです。
そして、現実の位置関係を正しく反映した内容になっているのです。
その場合の1里は、100mよりハッキリ短い60〜70mくらいとなります。

現在では、畿内説も九州からの東遷を認めざるを得なくなり、
畿内説と九州説の違いは、東遷の時期に関して
わずか数十年の年代推定のズレだけで
基本的に同じ考えに基づいていると思います。


>>797
多分、あなたは魏志倭人伝を読んだことがなく、
畿内説の人が言ってることの受け売りをしている
だけだと思います。まずは読んでみてください。

そして、当時の中国の人が船旅をするときに
どうやって方位を知っていたかなどを調べてみてください。
799日本@名無史さん:04/08/20 12:21
>>797
方角を90度も間違えた船旅なんて考えられないね、致命的だよ
羅針盤や天文による方角測定が船旅の方角の重要性から生まれた産物というのを忘れてないかね
800天皇制廃止:04/08/20 14:53
800  西都原
80125歳職歴なし引きこもり:04/08/20 15:50
邪馬台国の原型は九州にあったけど、
卑弥呼の時代の3世紀には邪馬台国は
畿内にあったという結論でよろしいでしょうか?
802日本@名無史さん:04/08/20 16:01
>801
卑弥呼の後の男王(就任したが認められずあぼーん)の
後に共立されたトヨの時代に東に展開したと思われ。
80325歳職歴なし引きこもり:04/08/20 16:07
>>802
3世紀の時点で畿内に大勢力がすでに
あったようなんですが、この勢力を
邪馬台国が駆逐して東遷したと?
その当時、大兵力を九州から畿内に
移動させるだけの能力があったとは
思えないのですが・・
804日本@名無史さん:04/08/20 16:11
80525歳職歴なし引きこもり:04/08/20 16:12


ってたしか邪馬台国の時代の挨拶でしたよね?w
80625歳職歴なし引きこもり:04/08/20 16:18
神功皇后=卑弥呼 だと立ち読みした本には書いてありましたよ。
807日本@名無史さん:04/08/20 16:20
畿内は扶桑の東でしょ。
邪馬台国は常に九州。
808日本@名無史さん:04/08/20 16:25
あqswでfrgthyじゅきぉ;p
あwせdrftgyふじこlp
809:04/08/20 16:29
おい、誰か訳してやれよ
810日本@名無史さん:04/08/20 18:35
25歳職歴なし引きこもり 氏は、
まず、魏志倭人伝などを少しでも読んでみてください。

あなたの言ってることは、簡単に否定されるような
ことばかりだと、すぐに判ると思いますから。

あと、あなた、銅鐸って知ってます?
いやね、それぐらい基本的なことが分かってない人の意見に思えるので。

あと、あなたの言ってることの中に、
畿内説では無理だけど、九州説なら容易に理解できることが含まれますね。
自分で畿内説は無理、九州説は可能といっているようなものです。

あなたの言動には、畿内説の人も迷惑しているんじゃないかな?
811日本@名無史さん:04/08/20 23:06
諸説にほぼ異論のない狗邪韓国から伊都国や奴国や末蘆国などの(于弥国を除く)
国々を地図上にならべると、魏志倭人伝の方角記述は45度かたむいてる。

理由はわからないが、物理的に正確な記述ではないことは確か。
しかしすべてが正確に45度かたむいているということは、逆にいえば
一定の正確さを保ってるともいえる。邪馬台国への南を単純に東に置き換える
のはどうかと思うが、地図上では東南とみていいだろう。

あと日数を距離に換算するにはいろんな考え(三国志の軍行記録、唐六典、日本の律令など)
があり、さらに、実際には短距離移動するにも日数がかかったという説や、短期で遠くまで
いけたという説や、いろいろ錯綜してよくわからない。要するに論者の都合のいい証拠を
もってこれるので伸縮自在な概念。放射状説でも畿内説が成り立つし、直線コース説でも
九州説が成り立つ。あまり役に立たない。
81225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/20 23:50
>>810
魏志倭人伝読めません・・・
中国語なんてわかりません・・
銅鐸ってなんかあの寺にある鐘みたいなやつでしょ?
81325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 00:13
従来の研究方法ではもうらちがあきまへん。
そこで私からの提案なのですが、世界史レベルで
邪馬台国の研究をしてみたらどうでしょう?
魏志倭人伝の中に、後悔で1年かけていく黒歯国とか
いう国とかも出てたじゃないですか。1年もかかるって
ことはハワイかもしくはフィリピンあたりか
そこいらの国でしょうし、邪馬台国と交流があったなら
きっと何か文献なり遺跡なり残っててもいいんじゃないですかね?
814日本@名無史さん:04/08/21 01:52
途中途中で遊んでたから到着が遅れてしまった場合に、皆さんはどう言い訳をつくろいますか?

こう考えればよくわかる部分が見えてきませんか?
81525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 08:45
遊んでたって何して遊んでたんでしょうか?魚釣り??
816日本@名無史さん :04/08/21 11:48
畿内説って具体的には奈良だろ。
倭人伝読むとさ海に潜って漁をしてるんだけどさ奈良じゃ無理だろ。
どう考えても。
817日本@名無史さん:04/08/21 12:04
>>811
地図で見る限り、45度というのは言いすぎでは?

http://channel.goo.ne.jp/map/map.php?MAP=E129.33.6.5N33.57.25.1&ZM=0&SZ=1&MT=%BA%B4%B2%EC%B8%A9&sw=&OPT=e0000011&KN=0&COL=1&P=e21E129.33.6.5N33.57.25.1

対馬、壱岐、松浦は東南東くらいの傾きで一直線に並んでいますね。
北九州沿岸部の傾きも30度以下のようです。
ただ、方角にせよ里数にせよ、通常とは違うけど
何らかの一貫性が見られるのは面白いところです。

一貫してこの傾きが出ている理由は、よく
「太陽の昇る方向を東とした」と言われていますね。
(太陽は最大で23.4度北側から出ますので、魏志の
内容が夏っぽいことを合わせると量的に丁度良い。)
それも有力な解釈だと思います。

他に考えられる理由としては、
1.たいした傾きではないので書かなかった。
2.帯方郡でもらった地図は、朝鮮半島が真直ぐ入る地図だった。
(紙は製法の都合で帯状になる。朝鮮半島は縦長で、30度弱左周りに傾いている。)
なども考えられますね。

朝鮮半島から南+30度弱東寄りの方向にある山島は、九州ですね。
818日本@名無史さん:04/08/21 12:06
訂正。

(誤)>対馬、壱岐、松浦は東南東くらいの傾きで

(正)>対馬、壱岐、松浦は南南東くらいの傾きで
81925歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/21 17:10
五丈原で実は諸葛孔明は死んでなくて
ひそかに日本に渡り、邪馬台国を滅ぼし
天下統一を成し遂げた可能性はありますよね?
820日本@名無史さん:04/08/21 17:27
畿内にきまっとる
821日本@名無史さん:04/08/21 19:19
おまいらの解釈を聞きたいのでつが…。
魏の使者は、本当に邪馬台国まで逝ったの?
そして、卑弥呼本人でなくても、弟くらいには会ったんでつか?
82225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 00:15
>>821
たぶんいっていない。
伊都国で聞いたことを
倭人伝に書いただけ。
823日本@名無史さん:04/08/22 03:05
>>821
書いてある通りに解釈するならば、例えば、

「參問倭地 絶在海中 洲島之上 或絶或連 周旋可 五千餘里」

とあるように、参問した倭地と、参問しなかった倭地の両方があることが分かります。
そして参問した部分に関しては、海に囲まれた周旋できる土地です。
(これを畿内であると考えるのは難しいと思います。)
そして参問和地は、対馬(方可400里)や壱岐(方可300里)よりも、一桁以上大きい土地のようです。

詳しく記述できないなどと言っている文脈から、遠絶21国と狗奴国
および東の倭種の国には、参問していないと考えることができると思います。

邪馬台国に関しては、習俗や自生植物などの描写が異常に細かい
(実際見ていなければ書く動機も沸かない、どうでも良いようなことが多い)
などから考えて、実際に見たものを書きとめたと考えられます。

伊都国までしか来てないという考えは、
伊都国までと伊都国以降の表現に変化があることが根拠で、
伊都国以降は伝聞と考えているようですが、それはむしろ逆なのです。

伊都国までの距離は帯方郡の人が知っていたので、
それを聞いていたので、確かさをもって書けたのです。
そこから先は手探り状態なので、大域的に捉えにくい表現になっているのです。
824日本@名無史さん:04/08/22 07:37
>>823
>伊都国までしか来てないという考えは、
>伊都国までと伊都国以降の表現に変化があることが根拠で、
>伊都国以降は伝聞と考えているようですが、それはむしろ逆なのです。

よく分からんが。伊都=邪馬台と言いたいのか?
82525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 09:15
箸墓調べれば、すべて解決するんですが
いかんせん、国が許可を出してくれない・・無念ナリ
826日本@名無史さん:04/08/22 10:36
>>823
100点満点で20点、赤点追試だよ。
827日本@名無史さん:04/08/22 13:11
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
828日本@名無史さん:04/08/22 14:24
>>825
箸墓から阿蘇山は出てこないぞ w
829日本@名無史さん:04/08/22 19:39
マジレスすると、箸墓は盗掘済みなので、たいしたものは出ないかと…。
830日本史@名無しさん:04/08/22 22:09
基本的なことを。

箸墓ぐらいでかかったら、そらもう、間違いなく記録するかと。

後の記録にも、巨大古墳の事が全く出てこないのが不審すぎる。
大仙古墳なんて、書かずにいられないだろう。

もし大阪まで行ってたら。
831日本@名無史さん:04/08/22 22:12
>>830
だから魏志倭人伝には卑弥呼の墓(≒箸墓)の巨大さが書かれているよな
832日本史@名無しさん:04/08/22 22:26
あれは「でかい」と言いたいのか?そうは読めんが・・・・・。
833日本@名無史さん:04/08/22 22:40
>>832
極端に大きいからわざわざ記載したんだろ。
卑弥呼の墓が箸墓であれば説明が付くことが多い。
前方後円墳が超巨大化した最初であること
吉備発祥の特殊器台(埴輪の前身)を並べるようになったことなど
画期と言える事が多い。
83425歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 23:05
水行20日陸行1月と書いてあるのに
九州だと主張する人はいないでしょw
83525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 23:18
井沢元彦氏の「逆説の日本史」を読みました。
日食やアマテラス=卑弥呼説には少し疑問の声を
あげてしまいましたが、宇佐神宮になにか邪馬台国と
かかわりのある秘密が隠されているというのには
同調しました。宇佐に何かあるでしょ?
836日本@名無史さん:04/08/22 23:34
魏志倭人伝の原文を読みましょう。

卑弥呼の時代の魏使は、邪馬台国の外交・政治を司る伊都まで来て
そこで滞在させられています。その伊都の南に「女王国」が
ありますが、そこには行っていません。伝聞を書いています。
83725歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/22 23:49
滞在させていて邪馬台国まで来ていないってことは
邪馬台国は行くには遠すぎるってことですよね。
つまり九州説では説明がつかないw
838日本@名無史さん:04/08/23 00:32
>>837
遠いから行かなかったのではなくて、どの外国人も
伊都でまず滞在させられた。今風に言えば、出入国管理事務所&
外国公館が伊都にあったから。
卑弥呼の後のトヨの時代には、たぶん魏使は女王国まで行っている。

原文を読んで下さい。岩波から現代訳が出ています。短文です。
839日本@名無史さん:04/08/23 00:35
>>834
帯方郡から女王国までが「水行20日陸行1月」だぞ。
840日本@名無史さん:04/08/23 01:05
>>839
そうじゃないだろ。普通に読めば。
841日本@名無史さん:04/08/23 01:14
いんや、「魏志」の読者が中国人を想定して書かれている以上、
起点が中国領の重要ポイント(この場合は帯方郡)であることは当然。
事実、倭人伝は「郡より倭に至るには・・・」という書き出しで里程が
示されている。
842日本@名無史さん:04/08/23 08:16
↑賛同者が多数になる日がくるとは到底おもえんなw
843日本@名無史さん :04/08/23 10:31
大和で真珠なんかとれませんよ。


844日本@名無史さん:04/08/23 10:42
>>843
縄文時代から近世まで、ヒスイは北陸の糸魚川周辺でしか産出していない。
勢力圏に入れていれば無問題。
ヒスイ産地は東アジア全体でも古代は糸魚川のみだった。
845日本@名無史さん :04/08/23 10:57
>>844
大和は「海に囲まれた周旋できる土地」ですか?

846日本@名無史さん:04/08/23 11:11
>>845
記述を改竄するなよ。邪馬台国ではなく倭全体の話だ。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
847日本史@名無しさん:04/08/23 11:18
日本列島全体で5000里でつか?

・・・・・・・東北なんてどうなってるかわからねえのに・・・・・orz
848日本@名無史さん:04/08/23 11:22
畿内説じゃ相当無理があるな
849日本@名無史さん:04/08/23 11:25
>>847
縄文時代ですらヒスイの分布から見て日本列島での広域流通が窺えるのに
海洋民族の倭人を甘く見るなよ。
850日本@名無史さん :04/08/23 11:30
>>846
改竄なんかしてませんよ。
大和を含む倭全体を周旋するとはどの範囲になるのですか?
本州全部?本州を周旋すると五千餘里ということになりますよ。
本州全体が温暖な地と表現するのはおかしいでしょう。



851日本@名無史さん :04/08/23 11:33
>>849
真珠を産出すると記載されてるのですが?
考古学的に真珠が見つかっている(分布している)のとは違うのですが。


85225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 12:38
不毛な議論ですね・・・
みなさんの意見はすべて推論でしかなく
永遠同じことを繰り返し言ってるだけですよ。
唯一真実に迫れる方法といえば、
超能力捜査官にでも頼むしかないですね。
地球の裏側からでもなんでもお見通しらしいんで
邪馬台国の場所も一発で特定です。
ただあの番組がヤラセじゃなかったらの話ですがw
853日本@名無史さん:04/08/23 13:18
はあ?金印と阿蘇山は推論じゃないでしょ。馬鹿ですか?
854日本@名無史さん :04/08/23 14:06
>>852
別に非科学的な超能力に頼らなくても古墳を全部公開調査すれば
今よりは前進するだろ。それをしないのは所謂「アカデミズムの通説
とは違うから」と考えるのが普通なんですが。
あなたは畿内派でしたね。隋書には阿蘇山が見えるとあるのですが
大和から阿蘇って見えますかね?
855日本@名無史さん:04/08/23 14:13
>>850
魏の使節の聞き取りと書いてあるだろ。
「隋書」にも倭人は里を知らずに日数で遠さを示すと書かれている。
あやふやな数字であることは中国史書に示された通りだ。
856日本@名無史さん:04/08/23 14:16
>>854
瀬戸内海で阿蘇の噴煙が見えたとかの話だろ。
857日本@名無史さん:04/08/23 14:20
>>851
「出眞珠青玉。」は倭全体の話だ。
真珠もヒスイも日本国内に産地がある。それだけのことだ。
捏造歪曲で事実上確定している邪馬台国=大和を貶める態度は感心しないな。
858日本@名無史さん :04/08/23 15:03
>>855
あやふやって。。。里数が絶対値でなくとも、里数で表された距離の
比率くらいは合ってるでしょう。倭人は里数を知らないんだから、
里数表記は魏使の実測値か、倭人の日数を里数に換算したということでしょう。
つまりどっちにしても比率くらいは合ってるんじゃないですかね。
ですから全体からみて大和を含む本州が「周旋可五千餘里」はおかしいですよ。
それよりあなたは五千餘里に本州全部を含むと考えているのですか?
まずそれを聞きたい。

>>856
「有阿蘇山」ですよ。海上から見えたなんて書いてませんよ。
岩波文庫でも「阿蘇山がある」と訳されてますが。

859日本@名無史さん :04/08/23 17:02
>>855
おまいさんの>>849の意見には賛成。
ということは倭人の距離・方向感覚は正確だったということですよ。
つまり里を知らないことがあやふやということではない。
そういうことで>>858を読んでくれ。



860日本@名無史さん:04/08/23 19:42
>>858

>「有阿蘇山」ですよ。海上から見えたなんて書いてませんよ。
>岩波文庫でも「阿蘇山がある」と訳されてますが。

何処にあると訳されているのか?
「大和」にあるとでも訳されているのですか?
861日本@名無史さん:04/08/23 19:45
どう考えても、阿蘇山で儀式をやっている様子は、唐側の人間の見聞録だな。
86225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 19:45
邪馬台国が九州だなんて言ってる人は頭おかしいでしょ。
もし、九州だったらいったい九州のどこだと主張するんですか?
わざわざ伊都国を外交上の拠点にしてるのに
その近くにあるとはとてもじゃないが思えない。
伊「都」っていうくらいだから九州では最も栄えたとこが
伊都国だったんじゃないんですか?だとしたら九州には
邪馬台国はないでしょ。
86325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 19:46
なんかじじい臭いな俺・・
若いのにこんなことしてて・・
もっと弾けないといかんわ・・
みなさんは年いくつですか?
864日本@名無史さん:04/08/23 19:47
バチカン市国みたいな特殊小国が卑弥呼の女王国=邪馬壱国。
畿内のどこに阿蘇山と金印があるんだ?馬鹿ですか?
86525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 19:56
水行20日陸行1月でいく
八万戸の大国が九州のどこに
あるとでも?
866日本@名無史さん:04/08/23 20:43
>>862
中国の書物に「伊闕」という地名が頻繁に出てくるのをご存じか?
「闕」とは天子のいる所のことであり、後には天子そのものを指す。
伊闕とは「闕」に至る人たちを迎え入れる交迎の地なるである。
なぜ都でもないのに伊「都」なのか? それは都(この場合は女王国)に至る使節団を
交迎する地であるから、そう名付けられたのである。
867日本@名無史さん:04/08/23 20:59
当時の一里は、75メートルというのは、ガイシュツですか?
868日本@名無史さん:04/08/23 21:04
>>865
それは女王国じゃない別な国でしょ。
869日本@名無史さん:04/08/23 21:05
>25歳♂職業;邪馬台国研究家

まずおまえは自殺しろ、話はそれからだ。
87025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 22:33
ある学説によると死んだら過去がみれるそうです。
死んだら邪馬台国の場所がわかるかもしれないので
生きてるうちはもっと人生楽しみましょうw
871日本@名無史さん:04/08/23 22:38
>>861
隋の版図には活火山とかないのでは?
噴煙が見えて珍しかったから記載したと思われ。

「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。」
872日本@名無史さん:04/08/23 22:44
>>871
火山は珍しかっただろうが、神を祀る儀式が珍しかったとは思えない。
87325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 22:46
畿内で決まりでしょ。
もし邪馬台国=九州連合の本拠地だったら
倭人伝に、畿内のことも書かれてないと
おかしいです。考古学的にも畿内に3世紀に
大勢力があったことが確認されてるわけですしね。
倭人伝には遠くの国々の記述まで書かれているのに
畿内について書かれてないはずがない。
これで決まりでしょ。九州説敗れたり。
874日本@名無史さん:04/08/23 22:46
875日本@名無史さん:04/08/23 22:56
>>873
魏志の夷蕃伝を見るかぎり、その国の「中心国」とその関係する地域にしか
触れていない。
倭人伝で女王国と敵対する「狗奴国」を取り上げているのは、きわめて異例。
これはおそらく卑弥呼の在世中に交戦する事態が起こり、そのことでわざわざ
「詔書」「黄幢」が下されているからであろう。

もし邪馬台国=九州連合の本拠地だったら   という前提で述べるなら、
畿内の政権が倭国とは別の国であり、なおかつ「魏」に朝貢していないかぎり、
魏志に記載されることはないのである。
87625歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:04
航海で1年かけていく国のことまで
書かれているのに、畿内の大勢力に
ついては何も触れられていないと?
一言くらい何か書いてあってもいいでしょw
東に大国あり。とかなんとかさ。
877日本史@名無しさん:04/08/23 23:06
瀬戸内海から阿蘇の噴煙が見えるような状態は、当時既に無いわけだが・・・・・。
878日本@名無史さん:04/08/23 23:10
>>876
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。

ひと言くらいは書いてあるかもよ?
879日本@名無史さん:04/08/23 23:12
>>873
だから、あなたには「魏志倭人伝を読みなさい」と言ってるのに。

あなたの言ってることは、常に間違っています。
女王国の東側に倭人の勢力があることは書かれています。

女王國東渡海 千餘里 復有國 皆倭種

女王国の東には千里の海を挟んで倭人の国があります。
女王の支配下にはありません。
行ってないので詳しいことは書かれていません。

「千餘里」という距離は、
韓国南岸と対馬、対馬と壱岐、壱岐と松浦の距離と同じです。
これは、「九州北部と山口県」あるいは「九州南部と四国」
の距離として相応しいものです。
(また、当時は四国や吉備には倭人の勢力がありました。)

ちなみに畿内説の場合は、東の海ってどこですか?
畿内説は本当に無茶苦茶で、魏志倭人伝を読めば間違いがすぐわかる。
あなたは騙されているだけ。まず、魏志倭人伝を読んでみなさい。
88025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:14
仮に九州に邪馬台国があったとしたら
その後はどうなったの?邪馬台国東遷?
畿内勢力に滅ぼされた?
881日本史@名無しさん:04/08/23 23:14
>女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。

このあからさまな一文で論争も終わってるんだけどなw

これは畿内説の連中は無視するんだよ。都合の悪いことはスルー。
882日本@名無史さん:04/08/23 23:15
>>876
関東にかなり人口があったことも忘れないでくれ。
でも九州の邪馬台国とあまり関係ないだろ、3Cの畿内や関東は。

>>877-878
同意。
88325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:19
東の海は琵琶湖に決まってるでしょうがw
884日本@名無史さん:04/08/23 23:22
>>880
アメリカでネイティブが流入してきた白人にやられたように、畿内も九州系を含めて乗っ取られたとみるべきでしょう。
88525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:28
九州に邪馬台国があったとしたら
卑弥呼の墓はどれですか?
卑弥呼の墓がないと九州にあったという
論拠は全部崩れますよ。
886日本@名無史さん:04/08/23 23:34
>>885
記紀の登場人物全員の墓はどこ?
887日本@名無史さん:04/08/23 23:35
普通、3Cの墓は風化してるだろ。
888日本@名無史さん:04/08/23 23:39
それより、畿内から金印と阿蘇山探して来いよ>>885
889日本@名無史さん:04/08/23 23:39
>>885
近畿に邪馬台国があったとしたら
卑弥呼の墓はどれですか?
卑弥呼の墓がないと近畿にあったという
論拠は全部崩れますよ。

日本に倭奴国があったとしたら
帥升の墓はどれですか?
帥升の墓がないと日本にあったという
論拠は全部崩れますよ。

大和に多利思北孤がいたとしたら
多利思北孤の墓はどれですか?
多利思北孤の墓がないと大和にいたという
論拠は全部崩れますよ。

島根で柿本人麻呂が死んだとしたら
人麻呂の墓はどれですか?
人麻呂の墓がないと島根で死んだという
論拠は全部崩れますよ。
89025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:40
倭人伝によるとさぞや立派なお墓だったとのこと。
きっと金印もその中にあるんでしょう。
はてさていったい九州のどこにあるのやら
検討もつきませんなw
891日本@名無史さん:04/08/23 23:45
>>885
卑弥呼の墓は、ヒラバルです。

勾玉やガラスの首輪や腕輪、大量の鏡が出土し、
鏡にまつわる女性の墓であることが分かります。

サイズも約100歩(1里の3分の1)です。

最大の証拠は、ヤタの鏡が5枚出てきたことです。

ヤタの鏡は九州で鋳造され、伝説どおり、
そのうちの1枚なり何枚かを男に授け
東を目指したのです。その鏡は現在は伊勢にあります。

金印は中国の後ろ盾を示すもので、
東の豪族たちを和合させるのに役立ちますので、
台与が受け継いだと考えるのが自然でしょう。

畿内にある台与の墓から出てくる可能性はあるかもしれませんね。
89225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:48
>>888
飛行機の機内から阿蘇山みてきますw
893日本@名無史さん:04/08/23 23:48
馬鹿を言え。倭人にしては大いに塚を作ったわけだ。
たった径百歩で、別にそびえるような塔を建てたんじゃないし、
1歩は何cmかも、恐らく>>890の考えより小さいと思うぞ。
だから巨大古墳なんか想像したら大間違い。
89425歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/23 23:56
裸国、黒歯国って、ハワイか、ミクロネシア、ポリネシア
っぽいんでこのへんと邪馬台国が交流あったならきっと
ハワイかどっかの文献に記述が載ってるはず。
誰か調べにいってきてください。その当時にあっちに
文字があったかどうかも知りませんけどw
895日本@名無史さん:04/08/23 23:57
【グレート・コリア及び東部諸島連合帝国(大高麗帝国)】

人口:約2億300万人
面積:58万1000平方キロメートル
首都:新開城
人種:高麗人、倭奴人
言語:高麗語、南韓語、倭人語
宗教:仏教34.1% キリスト教23.5% 道教10.1% その他32.3%
識字率:99.9%
体制:立憲君主制 連邦制
元首:金正男国家主席

略史:2010年 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の合併により
大高麗連合連邦民主共和国誕生
2021年 北部金氏一族によるクーデター 国号を大高麗帝国に改名
2024年 高麗・倭人国戦争 勃発
2033年 高麗帝国の勝利 倭人国と終戦条約を結ぶ
2034年 対倭23か条の要求
2035年 倭人帝国を保護国化
2036年 倭人帝国を吸収合併、国名をグレート・コリア及び東部諸島
連合帝国に改名
2040年 中華連邦へ朝鮮族及び自治区の返還要求

統一高麗議会(定数:1000:直選500、北部間選250、南部間選250)
北部議会(定数300:上院200、下院50、軍40、金氏10)
南部議会(定数300:上院200、下院100)
倭奴管理委員会(定数100:官選委員33、コリア委員33、倭奴33、日王1)

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1064348362/l50
896日本@名無史さん:04/08/23 23:59
>>890
ちょっとだけマジレスしてやる。
邪馬台国がどこであれ、「親魏倭王」の金印が日本国内に残っている可能性は
かなり低い。理由は、漢書などの記述から夷蛮国に渡された「印綬」は、中国の
王朝が変わるたびに回収され、新王朝の印綬が新たに渡される。
(この時、印の文字をめぐって王莽と匈奴の間で紛争が起きた)

つまり、魏→晋と王朝が交代した際、晋朝から使者がやってきて、「親魏倭王」の
印は回収され、あらたに晋王朝のそれが渡されているはずである。

では、「漢委奴国王」の金印が、なぜ志賀島から出土したのか?
倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼(魏志・倭人伝)
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主(後漢書・倭伝)
つまり内乱により、「倭国王」が存在しない期間があったのである。
当然「金印」ごと行方不明、と考えるのが筋だろうな。

だからたとえ日本のどこかに卑弥呼の墓があり、発見されたとしても、
そこに金印がある可能性は、きわめて低いよ。
897日本@名無史さん:04/08/24 00:01
>>891は、>>880への答えにもなっていますね。

東征したのです。

伊勢神宮の御神体にして皇室最大の秘宝は、
九州の古墳に5枚も眠っていたのです。

むかし、あなたに「銅鐸を知っていますか?」
と聞いたことがありますが、その質問の意図は、
「畿内にあった銅鐸文化が消滅したことを知ってますか?」
ということでした。多分、ご存知でないのでしょうね。

記紀によれば、伊勢と四国とは婚姻によって和合し、
畿内とは戦ったそうですが、実際にもその後は
中四国とは文化が融合(古墳の埋葬物など)し、
畿内は文化が断絶している(銅鐸など)のです。
898日本@名無史さん:04/08/24 00:03
>>897
訂正
×伊勢や四国
○出雲や四国
89925歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:07
銅鐸・銅剣文化圏のことは少しは知ってますが、
まあそれは邪馬台国の時代じゃなくてもう少し
前の時代の話でしょ。邪馬台国の時代にはすでに
畿内中心の西日本連合国家ができていたと思います。
90025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:16
では、九州説の邪馬台国東遷論のみなさんに
お聞きしますが、東遷と簡単にいいますが、
神武東征のようにいっきに畿内に押し入ったのでしょうか?
それとも周辺諸国を平定しながら徐々に勢力を
拡大していったのでしょうか?3世紀後半ともなれば
畿内にも周辺諸国にもそれなりの勢力はありますし
どちらも補給や街道整備や、大兵力運用の点で
疑問符を投げかけてしまうのですが・・東征があったとしても
もっとだいぶ前のことだと思います。
901日本@名無史さん:04/08/24 00:16
>>899
で、倭人伝に「銅鐸」が出てこない現実について、あなたの見解は?
90225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:20
>>901
きっとたまたま書いてなかっただけでしょうw
そんなこと言い出したらきりがないですよ。
だったら九州に邪馬台国があったとしたら
邪馬台国の近くに阿蘇山ありとでもしっかり書いていてきれたなら
こんな論争もおこらなかったんですしw
903日本@名無史さん:04/08/24 00:21
>>900
おれっちは九州王朝説派だからね。
東遷でも東征もなく、「邪馬台国は7世紀に消滅した」だな。
904にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/24 00:28
>>883
僕も畿内説ですが、琵琶湖は湖ですし
「東渡海 千餘里」は琵琶湖よりも
伊勢湾の方が適切な様な気がしますが。
90525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:31
つまり私の見解では、1世紀後半頃、
朝鮮半島から渡来して九州を平定した
最先端の技術をもった勢力がいっきに
畿内に東征。そこから徐々に勢力拡大。
その際、最も抵抗したのが大国主。
しかし連合国家であるため統治は難しく
倭国大乱。それから我々が知っている
邪馬台国の時代に入るのです。
906日本@名無史さん:04/08/24 00:31
>>902
あんな特徴ある「銅器」をたまたま書いていないとは・・・
あんたの考証ってのはその程度なのね・・・、
907日本@名無史さん:04/08/24 00:32
>25歳♂職業;邪馬台国研究家

おまえ、いつになったら自殺するの?
早く死ねよ(w
908日本@名無史さん:04/08/24 00:33
>>905
妄想はもういい。
あんたに必要なのは、「論証」や「実証」だな。
909日本@名無史さん:04/08/24 00:35
>>900
東征といっても、血を流して戦ったのは畿内だけ。
出雲と四国と吉備は、和合の道を選んだのです。

まず、出雲や四国や吉備と和合して、しかる後に畿内と戦っただけです。
畿内近くまで自由に兵を進めることが出来ますので、
実現が難しいということはありません。

畿内説の場合は、
出雲や四国や吉備と和合する前に東遷しなければなりません。
(まさか、東遷がなかったなんていうつもりはないでしょうね?)
これこそ困難きわまる行為です。
91025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:37
マキムクが学界でも最有力候補地らしいです。
学者様に逆らう不届き者はここにはいないでしょうな?w
911日本@名無史さん:04/08/24 00:40
>>910
だから論証しろ。
「マキムク」が最有力候補地である、という、その根拠をまず示せ。
そしてそれについて、自分の頭で検証しろ。
912日本史@名無しさん:04/08/24 00:42
なあ、無職のおにーさんよ。論証ってどうやるか知ってるか?
91325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:44
考古学的見地、文献的見地、
両面から判断してもマキムクで決まりでしょ。
箸墓もあるし、発達していたという
考古学的資料もでてるし、当時の中国人は
本州が九州の南にあったと思い込んでる地図も
見つかってるし、もう間違いなし。やっふー
914日本@名無史さん:04/08/24 00:44
>>910
あなたは、自分で考える脳を持ってないようですね。

そのような浅はかな考えで「研究家」を自称しているのですか?

あなたのような思慮のない研究家は必要ありません。

あなたは必要とされない人間です。
915日本@名無史さん:04/08/24 00:48
>>913
だから、その「考古学的見地」「文献的見地」が、なぜ
「マキムクで決まり」になるのかを、説明しろっての。

それから地図の件は「混一彊里図」のことを言っているのだと思うが、
あれは四世紀にバラバラだった地図を寄せ集めて合わせたもの。
とうてい論証に使えるシロモノではないのだ。
91625歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:49
だってまだ数冊しか邪馬台国関連の本読んだことないんだもんw
917日本@名無史さん:04/08/24 00:51
あんた、コテンパンにやりこめられてるねぇ・・。
91825歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 00:54
考古学的見地で言えば、箸墓が3世紀のもんだってことは
すでに科学的データで明らかでしょ?三角縁神獣鏡も
出てるし、これ以上の決め手が九州にありますか?
しかもかなり大集落で発達してたらしいし、その当時の
一番の繁栄地と考えていいでしょ。もうこれは邪馬台国としか
思えない。
919日本@名無史さん:04/08/24 00:57
倭人伝の『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』と言う標記は、三国志に先行する史書である魏略倭人条の
冒頭部分『倭在帯方東南大海中依山島以国度海千里復有国皆倭種』からのコピー。
魏略のこの部分は、北部九州のみとの通交であった漢代の倭人感に基づいていると思われます。

倭人伝は、基本的に魏略のような先行史書が踏襲している古い地理感の標記と
張政等魏代の新規知見による資料を組合せた内容となっています。
大雑把な表現の記事ととても詳細な記事が並存しているのは、新旧資料を編集し直した結果であり、
その標記どおりの路程では、邪馬台国の所在を現在の日本列島内に押し込めることができない原因でもあります。
920日本@名無史さん:04/08/24 00:58
>>918
何度も言わせるな!
そのデータから、マキムク=邪馬台国 を示すものは何一つない。

@邪馬台国=一番の繁栄地 と考えるアンタの根拠は何?
Aまた、「三角縁神獣鏡」が出土する地=邪馬台国 とする根拠は?

とりあえず、この2点について、解答してみよ。
921日本@名無史さん:04/08/24 01:00
>>918
そこは、東遷後の邪馬台国の本拠地ではあるんだけどね。

周囲の地名が北九州の夜須川周辺と全部同じで、
大規模移民があったのは明らかな訳だから。

ただし、魏志倭人伝時代の邪馬台国は九州。

箸墓はおそらく トヨの墓です。
92225歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 01:03
@倭人伝の記述から8万戸と示されているのは
 邪馬台国でありこれが最大。九州にマキムク以上の
 遺跡はない。ゆえに邪馬台国=マキムク
A三角縁神獣鏡が出るってことは、その当時畿内と
 魏に交流があった証拠。よって九州説がいってる
 邪馬台国のみの勢力圏しか倭人伝には記述されていないと
 いう論拠は崩れる。

いやあこれで完璧w
92325歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 01:10
>>921
ぷ。北九州が邪馬台国じゃあ水行20日、陸行1月が
証明できませんよ。畿内だったら、南と東が若干の
誤差が生じることはすでに証明されてますがね。
放射説だの苦し紛れの解釈しかできないじゃないですかw
924日本@名無史さん:04/08/24 01:10
>>922
で、金印と阿蘇山は畿内のどこ?
92525歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 01:12
金印はきっと箸墓にあります。
阿蘇山はきっと嵐山のことでしょうw
92625歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 01:22
では結論はでましたね。今日はこれにて。
927日本@名無史さん:04/08/24 01:25
>>922
あのな、魏志に記述されている国だけが「倭国」ではないのだよ。
倭人伝を、よーく見て見ろ。「狗奴国」の人口は、どれだけあったのだ?

女王国側と戦闘を起こし(記述から、攻撃を仕掛けたのは狗奴側のようである)、
魏側の詔書まで引きずり出させている。この強勢ぶりを見ても、女王国側に匹敵する
大国であることは間違いない。
狗奴国の人口が魏志に書かれていないのは、この国が「魏」に朝貢していなかったから。
勢力、人口共に 狗奴国>女王国 を証明する資料はどこにもないのだよ?


ついでに、「三角縁神獣鏡」の件だが、この鏡が「中国製」であることの
論証を、アンタはまったく行っていないな。あれは国産品だよ?
理由・・・中国から一枚も出ていないから。
928日本@名無史さん:04/08/24 01:27
>>926
柔道でいう「かけ逃げ」ですね・・・
指導を取られますよ?
929日本@名無史さん:04/08/24 01:34
>>923
あなたは、魏志倭人伝を読んでないから
そんなことを言ってしまうのです。

彼らは北九州の東端まで達したあと、
南へ水行して投馬国と邪馬台国に行ってます。

帯方郡から伊都国までの記述でも「水行」と「渡海」
は明確に区別されており、帯方郡から韓国南岸まで
韓国の海岸沿いに進んだときに水行と使われています。

後で出てくる「東渡海」こそが本州四国に行ける手段です。
(確かに「東渡海」した先には倭人の国が沢山あります。)
投馬国と邪馬台国へはあくまで「水行」です。
北九州東岸から水行して付くのはどこですか?

九州東岸にはデカイ平野が2つありますね。
より南の方は最大級の古墳群がありますね。
ここが倭人伝記載時の女王国です。
(ただし首都機能は伊都国の方にありました。
 これが夜須川の三輪で、ここの地名がコピーされたのです。)

ヤタの鏡が出てきて、地名がコピーされてて、
東遷が無かったなんてありえますか?
930日本@名無史さん:04/08/24 01:37
>>923
「從郡至倭…」で始まる行程文である以上、「水行20日、陸行1月」が
帯方郡から倭(の首都)に至るまでの日数であることはあきらか。
北九州は妥当なのである。
931日本@名無史さん:04/08/24 02:16
つまり>>926は社会にもスレにも必要とされてない人間
倭人伝さえ読んだこともないのにヤマタイコクとは笑止
己の妄想をぶちまけることで現実から忌避しているのだろう、カワイソウニ
932日本@名無史さん:04/08/24 02:31
>>891
平原弥生古墳は銅鏡などの編年から見て
2世紀前半を下らないと見る発掘者・原田氏などの説が妥当。
933日本@名無史さん:04/08/24 02:35
>>893
> 1歩は何cmかも、恐らく>>890の考えより小さいと思うぞ。

基地外は荒らすなよ。
1歩は左右1回ずつの長さで、全時代を通じて120-140cmに収まっている。
934日本@名無史さん:04/08/24 03:20
伊都国の大型船?弥生時代の船の部材が出土…福岡
http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20040823i316.htm
935日本@名無史さん:04/08/24 03:38
>>933
ば〜か、1里=約76m=300歩だ。無知野郎!
936日本@名無史さん:04/08/24 08:46
>>935
1里=55mじゃないの?
93725歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 08:59
みなさん中国語できるんですか?
よく倭人伝なんて読みこなせますね。
私は訳文でしか読んだことありませんw
938日本@名無史さん:04/08/24 09:01
>>935
古田爺さんに洗脳された基地外は捏造するな。
93925歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 09:04
古田って「邪馬台国はなかった」書いた人のこと?
94025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 09:15
では九州説の人がいう邪馬台国は
西都市にあったということですね?
941日本@名無史さん:04/08/24 10:15
>>940
西都説は少数派。北九州地方が多数派。
942日本史@名無しさん:04/08/24 10:30
福岡から出てくると何でも伊都国にしてしまう狂人ばかりの考古学者
943日本@名無史さん:04/08/24 10:34
>>940
九州(とくに北九州)には有力な豪族が沢山いて、
それぞれが遺跡を残しているので、九州説でも
女王国と想定される土地は沢山ある。

ただし、倭人伝に書いてある通りに進むなら、
(東へどんどん進んで、渡海せず南へ水行したのだから)
九州東岸と考えるのは妥当だろう。

また、数万戸という大人数が稲作をしていたのだから、平野は必要だろうし、
投馬国、邪馬台国の順に書かれているのだから、
邪馬台国が南の平野に当たるというのも無理の無い推論だ。

そして、その地には最大級の古墳群があり、
地名が日向(ヒムカ)の国の斎殿原で、卑弥呼の斎殿を彷彿させ、
日向は日本の古い伝承の舞台となっている土地でもある。

更に倭人伝のつづき、すなわち、
東渡海の先、遠絶21国、その先の別王朝の倭人の国、
すべてがピッタリと説明できる点も心強い。

ただし、女王国が南九州でも、邪馬台国の中心地は北九州です。
有力豪族のほとんどは北九州にいて、首都機能は伊都国にありました。
(それゆえ、北九州を女王国としてしまう間違いが多いのです。)
944日本@名無史さん :04/08/24 10:48
>>943
>ただし、女王国が南九州でも、邪馬台国の中心地は北九州です。
>有力豪族のほとんどは北九州にいて、首都機能は伊都国にありました。

俺もそう思う。政治的指導者の男王では治まらず、宗教的指導者の
女王で治まったというのも、女王国と政治・行政を行う国との分離を
思わせる。


945日本@名無史さん:04/08/24 11:00
これでFA

投馬国…吉備 弥生時代最大の楯築墳丘墓に続いて古墳時代も巨大古墳を築いた。
邪馬台国…畿内 当時最大の古墳・箸墓。
狗奴国…東海 東日本を前方後方墳体制にした。
946日本史@名無しさん:04/08/24 11:02
結論だけはいいから
947日本@名無史さん:04/08/24 11:05
だから、おまえら、西都ヲタが、あとから作った偽スレに書き込むな、って。

ちゃんと、>>1 を見ろよ。

何度でも注意されてるのに、まだ続けるのか?
先に作られて、かつ、>>1に『西都である証拠。』と書かれていないのが本スレだ。

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50

何度でも誘導されて注意されてるんだから、ちゃんと本スレへ移動しろよ。
948日本@名無史さん :04/08/24 11:12
>>947
本スレがオカルト&ムーネタになってますが。
949日本@名無史さん:04/08/24 11:17
>>948
きっと西都厨の妨害ね
950日本@名無史さん:04/08/24 11:21
まあ、西都厨の妨害スレと妨害レスは無視して、先に立てられた以下へ移動。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)

1 :日本@名無史さん :04/06/21 15:33
   本スレです。立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
   荒らしは徹底無視の基本方針でお願いします。
951日本史@名無しさん:04/08/24 11:29
また狂人か
952日本@名無史さん:04/08/24 11:32
951=巨人オーナー
953日本@名無史さん:04/08/24 11:37
954日本@名無史さん:04/08/24 11:51
考古資料からみて3世紀の日本は
畿内・東海・吉備が大きな政治的拠点だと考えられ
邪馬台国・狗奴国・投馬国に対応させるとフィットする。
955日本@名無史さん:04/08/24 11:56
>>954
結論おんりー厨は、要りません。

>>953
次スレ表記が間違ってる・・

次スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50
956日本@名無史さん:04/08/24 14:57
>>954
鉄器も無い国が中心だとは笑わせる。
鉄器は九州。
957日本@名無史さん:04/08/24 15:14
958日本@名無史さん:04/08/24 15:21
>>956
鉄器が少なくても、武器としては讃岐石の鏃があるぞ。
鉄器の量が膨大でなければ焼け石に水。
959日本@名無史さん:04/08/24 15:26
96025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 15:46
邪馬台国が北九州にあるわけないでしょw
倭人伝をどう読んだらそうなるんですか?
水行20日で行くんですよ。帯方群から邪馬台国への
全日程が水行20日だったとしてもありえないでしょw
961日本@名無史さん:04/08/24 15:49
350 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/24 13:18
船がガンガン進めると思ってるヤシは痴呆か?
ずっと後代の延喜式には大宰府〜平安京で約30日と
決められているぞ。これが1日も遅れてはならない過酷な
日程だということは解るか? 生ではないが海産物を
運ぶんだからな。
ちなみに薩摩・大隅・日向〜大宰府でも約12日なんだぞ。
962日本@名無史さん:04/08/24 15:58
だから、おまえら、西都ヲタが、あとから作った偽スレに書き込むな、って。

ちゃんと、>>1 を見ろよ。

何度でも注意されてるのに、まだ続けるのか?
先に作られて、かつ、>>1に『西都である証拠。』と書かれていないのが本スレだ。

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50

何度でも誘導されて注意されてるんだから、ちゃんと本スレへ移動しろよ。
963日本史@名無しさん:04/08/24 20:12
>>962は狂人
964日本@名無史さん:04/08/24 20:28
>>960-961
菱垣廻船の江戸−大阪間は、どれくらいだったんだろ?
ちょっと調べたけど出てないや、教えて君ろ。
逆の行程の方が多かったんですかね。
965日本@名無史さん:04/08/24 20:39
ま、このスレでは
邪馬台国=近畿ではない という結論が得られたんだが。
966日本@名無史さん:04/08/24 21:45
357 :日本@名無史さん :04/08/24 21:32
まず、倭人伝を執筆するに当たって、陳寿が「資料」としたものは何か?
と言うことを考えろ。
邪馬台国が狗奴国と交戦した時、帯方郡から塞曹掾史(軍司令官のようなもの)張政という
人物が詔書と黄幢を持って倭国に赴いている。そして約20年間倭国に滞在している。
張政の任務は、倭国大使兼駐在武官といったもので、倭国の情勢を収集し、帯方郡そして朝廷に
報告する使命があったわけである。

軍事上大切なことは、帯方郡から倭国に至るまでの行程を把握することである。当然だ。
いざ倭国に軍隊を送るとなると、この情報を基本に糧秣その他の装備を手配し
軍団を形成することになるわけである。
また、倭国内のどの国に人口がどれだけあるか、ということも、食料を現地で
調達できるかどうか、にかかわる。

 對馬國……土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活
 一大國……多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食
 末盧國……有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺

これなど、軍事行動を起こす際に重要となる資料であることは言うまでもない。
「無良田」「差有田地、耕田猶不足食」など細かいことまで書いてあるのは、
軍事資料として「食料の現地調達が困難」であることを述べているのである。

「郡より倭に至るには・・・」の行程文の最後が「水行十日・陸行1月」であるから、
これは「帯方郡から倭に至るまでの日数」である。軍事報告書としても、それが
記載されていないとおかしい。これを基本に、糧秣その他の軍団としての準備を整え
なければならないからである。


以上の考察により、「邪馬台国畿内説」は崩壊しました。
方角や距離を間違える軍事報告書など笑止だからです。
967日本@名無史さん:04/08/24 21:49
まあ、西都厨の妨害スレと妨害レスは無視して、先に立てられた以下へ移動しましょ

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)

1 :日本@名無史さん :04/06/21 15:33
   本スレです。立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
   荒らしは徹底無視の基本方針でお願いします。
96825歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/24 23:54
邪馬台国はムー大陸だったと仮定すればつじつまがあいますね。
3世紀後半に沈没したから歴史上から消えたと。
969日本@名無史さん:04/08/24 23:59
とりあえず、荒らし=25歳♂職業;邪馬台国研究家 へは、無視することを進めます。
97025歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/25 00:05
私は荒らしではありませんよ^^
今度、邪馬台国の本でも書いてその名を
とどろかせたいですね。
971日本@名無史さん:04/08/25 00:16
だから、25歳♂職業;邪馬台国研究家は荒らしでないなら、あとから西都厨が作った偽スレに書き込むな、って。

ちゃんと、>>1 を見ろよ。

何度でも注意されてるのに、まだ続けるのか?
先に作られて、かつ、>>1に『西都である証拠。』と書かれていないのが本スレだ。

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50

何度でも誘導されて注意されてるんだから、ちゃんと本スレへ移動しろよ。
972日本@名無史さん:04/08/25 00:59
なんで西都厨は隔離スレッドでおとなしくしないの?
973日本@名無史さん:04/08/25 01:04
次スレ

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/l50
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
974日本@名無史さん
産め