「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
300GET
昔みたムーとかでは南米は台湾になっていたが
おれも樺太のほうじゃないかと思っていた。
裏返ってんじゃないの?
>>298 似ている
単純化すれば両方とも三角形
左辺がlで右辺が>
>>299 佐渡島(国内4位)=マダガスカル島(世界4位) まあ似ている
沖縄島(国内3位)=カリマンタン島(世界3位) 似ていない 致命的
奄美大島(国内5位)=スマトラ島(世界5位) まあ似ている
対馬(国内6位)=バッフィン島(世界6位) 非常に似ている
対馬:北と南に分かれている 北部:南部=2:1
バッフィン島:北と南に分かれそうになっている 北部:南部=2:1
>>298 琵琶湖(日本一の湖)はカスピ海(世界一の湖)
紀伊半島(日本一の半島)はアラビア半島(世界一の半島)
一番の半島の北部に一番の湖がある
100%偶然
伊豆半島はプレートに乗って北上し、本州に衝突した唯一の異地性地塊の半島
インド半島はプレートに乗って北上し、ユーラシア大陸に衝突した唯一の異地性地塊の半島
北上し衝突した異地性地塊の半島の北部に一番の山がある
必然?
>北上し衝突した異地性地塊の半島の北部に一番の山がある
ぶつかって捲れあがったら山ができる、これは当たり前
ああ、山脈と火山の違いか
>>303 カリマンタン、ニューギニア等は五島列島に似るという。
誰が言っていたんだっけ?忘れたが・・・。
308 :
日本@名無史さん:04/07/16 09:29
富士山は噴火による噴出物が堆積して出来た成層火山。
エベレスト山を含むヒマラヤ山脈はインドプレートがユーラシアプレート
衝突して出来た褶曲山脈。
ちょっと違うような気がするが。
そこまでそっくりになれば、はっきり日本と世界の地図は=になる。
違っている所も当然、これはある。
>>308 そーなると、畿内がアラビアあたりで九州説がエジプトになるんか?
邪馬台国にそっくりさんなる国がそこの外国になければならぬこと
となる。まさか?千夜一夜のハールーン・アルラシード国が邪馬一国で
ピラミッド(卑ラ弥ッド)が卑弥呼の国とあわせるようになる?
これは完全なやりすぎ、その必要なし。そこまで似ちゃ〜いない。
電波になっちゃう。
畿内はイスラエルじゃないの?
そしてユダヤの失われた10氏族(天皇家)がたどり着く…。
ああ、大電波…。
民族・神話学のスレはここでつか?
>>311 ペルシア湾=伊勢湾
チグリス川ユーフラテス川=木曽川揖斐川
尾張(熱田神宮)はシュメール?
伊勢(伊勢神宮)はメッカ?
メッカがアブダビ辺りにあれば。。。
伊勢神宮が和歌山の田辺辺りにあってもいいが、
それならメッカはむしろ熊野神社のほうだろう。
ローマ、パリ、ロンドンはどこ? ニューヨークや北京は?
サハラ砂漠らしいところは九州にないぜ? 逆に阿蘇山はどこに当たるの?
無理矢理似てるところばかりつなげてない?
>>310 で言ったが、そこまで似ちゃいない。
そんなに似てれば誰にでも地球の大陸、島々の関係の秘密が
もう簡単に分かる。そうなっていないのがいいところ。
はぐらかしてあるわけさ。
ローマ帝国→邪馬台国連合
発祥地はローマ→発祥地は吉備
ガリア→出雲
クレオパトラ→卑弥呼
クレオパトラがいたのはアフリカ北部の東→アレキサンドリア
卑弥呼がいたのは九州北部の東→宇佐
卑弥弓呼はカエサル?アントニウス?オクタウィアヌス?
ポンペイウス
320 :
日本@名無史さん:04/07/24 18:37
いや、クラッスス。
ガリア、ゲルマニア→出雲
クレオパトラ→卑弥呼=天照
ガリア人、ゲルマン人→八岐大蛇
カエサル→卑弥弓呼=素戔鳴
アテネは? マケドニアは?
カルタゴは? シュラクサは? ヌミディアは?
パルティアは?
323 :
日本@名無史さん:04/07/29 04:46
あーあスレ止まっちゃったよ。
オカルトネタ、ムーネタも悪くないと思う、
そこから興味わいて学問の世界に入る人もいるからね、
でも、そろそろ戻りましょ。
カルタゴ→アフリカ北部=九州北部→伊都国
ヌミディア=熊襲
フェニキア=住吉
325 :
日本@名無史さん:04/07/29 05:39
邪馬台国は下関あたりじゃないの?
つうかこっちはネタスレ
〈中略〉
翌朝
この日もホテル種発直後白鷺が舞う。
寒波曇天の中恐る恐る臼杵周りで山間部を抜け、宮崎県に入るとなんと快晴になる。
クイーン「ほら晴れたでしょう」と喜ぶ。
男狭穂塚古墳=ニニギノミコト御陵とされている実は「卑弥呼」古墳を参拝。
もともとこれは前方後円墳では無く円墳であるものを後から偽造し尻尾をつけたものと思われる。
女狭穂塚はその子孫のものと思われる。 しかし宮●庁は、これを隠す為に年代をごまかしその上、前方後円墳に整形しようとしたのであろう。どうせ作るなら途中でやめるなよ・・・と言う方もいる。 しかし、あまりにも不自然な配置がそれを物語る。
328 :
日本@名無史さん:04/08/18 21:29
隼人の一部が天皇家になった可能性はあるね
もしかすると隼人は、あの国として記述されてるのかも。
329 :
日本@名無史さん:04/08/24 05:05
水行十日陸行一月とは
船で海を行くなら10日かかる
陸路なら1月かかると言う意味です
船で10日進んでそこから1月歩くなんて馬鹿な話しではありません
船から降りて1月も歩くなら船でもっと目的地に近づいてから歩けば良い
>>329 アホ・・・
これは「郡より倭に至るには・・・」で始まる行程文だろ。
つまり帯方郡から倭(邪馬台国)に至るまで、陸路の総計が1月、水行の総計が10日、
ということだ。
332 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:08
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸
333 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:09
水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。
これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。
334 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:16
倭人伝の『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』と言う標記は、三国志に先行する史書である魏略倭人条の
冒頭部分『倭在帯方東南大海中依山島以国度海千里復有国皆倭種』からのコピー。
魏略のこの部分は、北部九州のみとの通交であった漢代の倭人感に基づいていると思われます。
倭人伝は、基本的に魏略のような先行史書が踏襲している古い地理感の標記と
張政等魏代の新規知見による資料を組合せた内容となっています。
大雑把な表現の記事ととても詳細な記事が並存しているのは、新旧資料を編集し直した結果であり、
その標記どおりの路程では、邪馬台国の所在を現在の日本列島内に押し込めることができない原因でもあります。
335 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:23
魏志に記述されている国だけが「倭国」ではないのだよ。
倭人伝を、よーく見て見ろ。「狗奴国」の人口は、どれだけあったのだ?
女王国側と戦闘を起こし(記述から、攻撃を仕掛けたのは狗奴側のようである)、
魏側の詔書まで引きずり出させている。この強勢ぶりを見ても、女王国側に匹敵する
大国であることは間違いない。
狗奴国の人口が魏志に書かれていないのは、この国が「魏」に朝貢していなかったから。
勢力、人口共に 狗奴国>女王国 を証明する資料はどこにもないのだよ?
336 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:31
九州(とくに北九州)には有力な豪族が沢山いて、
それぞれが遺跡を残しているので、九州説でも
女王国と想定される土地は沢山ある。
ただし、倭人伝に書いてある通りに進むなら、
(東へどんどん進んで、渡海せず南へ水行したのだから)
九州東岸と考えるのは妥当だろう。
また、数万戸という大人数が稲作をしていたのだから、平野は必要だろうし、
投馬国、邪馬台国の順に書かれているのだから、
邪馬台国が南の平野に当たるというのも無理の無い推論だ。
そして、その地には最大級の古墳群があり、
地名が日向(ヒムカ)の国の斎殿原で、卑弥呼の斎殿を彷彿させ、
日向は日本の古い伝承の舞台となっている土地でもある。
更に倭人伝のつづき、すなわち、
東渡海の先、遠絶21国、その先の別王朝の倭人の国、
すべてがピッタリと説明できる点も心強い。
ただし、女王国が南九州でも、邪馬台国の中心地は北九州です。
有力豪族のほとんどは北九州にいて、首都機能は伊都国にありました。
(それゆえ、北九州を女王国としてしまう間違いが多いのです。)
>>336は、類似スレに私が書いた内容ですね。
どういう意図でコピペされたのか分かりませんが、
コピペするなら、なんらかの説明をされた方が良いかと思います。
338 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:46
>>337 もしかして、その南九州の女王国って、西都原ですか?
とすると、大隅隼人がちょうど狗奴国ってことになるでしょうか?
339 :
日本@名無史さん:04/08/24 11:57
海を渡って東方にある名前省略の国々ってやつが、四国??
340 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:02
あるサイトによれば、中国には
日にちと距離を対応させる考え方があって、
水行1日は約8km、陸行1日は約6kmを指す
とのこと。(現在、裏付け調査中。)
すると、投馬は、水行160km?
邪馬台は、水行80km+陸行180km?
北九州の東端からの女王国への全行程が420km?
九州は南北300kmくらいの長さだが、
東岸はL字で500kmくらいあるし、
420kmは、ちょっと長すぎるものの
無理とはいいきれない距離だな。
女王国の正確な位置を知られないように
ちょっと回り道を歩かされたか?
341 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:08
>>340 > 水行1日は約8km、陸行1日は約6kmを指す
> とのこと。(現在、裏付け調査中。)
これだけしか動けないって幼児かよ ( ´,_ゝ`)
342 :
日本@名無史さん :04/08/24 12:08
>>336 >ただし、女王国が南九州でも、邪馬台国の中心地は北九州です。
>有力豪族のほとんどは北九州にいて、首都機能は伊都国にありました。
俺もそう思う。政治的指導者の男王では治まらず、宗教的指導者の
女王で治まったというのも、女王国と政治・行政を行う国との分離を
思わせる。
343 :
日本@名無史さん :04/08/24 12:11
>>340 里数を知る魏使が一緒に行ったのならなぜ里数で表現しないのか不思議だ。
344 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:12
>>340 最遠部の距離日程は、意味がないことは、
元記事編集時の政治派閥状況と月氏への距離日程の関係から
既に分析で明らかになってるでしょう。
つまり、政治的背景で修飾された数字なのだから、
細かい距離日程を、今時、比較議論しているのは素人くらいですよ。
どうしてそういう数字になったのか、など、まずはもう少し勉強しましょう。
345 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/24 12:23
>>333 >不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
>投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、
>吉備→摂津→大倭と考えるのが極めて自然でしょう。
当時は、大阪辺りは海でした、瀬戸内海を船で行くのでしたら
何ゆえ、吉備〜大和まで陸行しなければいけないのか、
大和の近くまで、そのまま船で行けばよい筈です。
1月も陸行するのは、極めて不自然でしょう。
陸行したのは、船では行けなかったからと
考えた方が良いと思います。
>外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
>陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。
まったくその通りではありますが、当時、大阪辺りは海でしたので
大和の超至近まで船で行けたのです。
万が一魏と縁が切れたり、中国の王朝が交代したりして敵対した場合
の事も考えているだろうから、国都の超至近まで船で簡単に行ける
(船で簡単に攻め込める)という情報を中国側に安易に知らせる筈は
ないのです。
ゆえに、瀬戸内海ではなく山陽道(日本海)を通りわざわざ遠回りを
したルートを伝えたと思われます。
346 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:30
>>338 そういう説も有力だと思いますが、私は別解釈です。
「其餘旁國」21ヶ国は、「遠絶」にあると書かれています。
「絶」という中国語には複数の意味があり解釈が分かれるのですが、
「交流が絶えている」という解釈には私は賛成できません。
なぜなら支配下にあるのですから。
倭人伝内には、他に「絶」の字が3箇所登場し、
全て「陸地と陸地が切れている」という意味に用いられています。
つまり、遠絶21国は海の上にあるのです。
南西諸島は宮崎の南端から始まり、20前後の島があります。
そして最後にある沖縄には、当時から「別王朝の倭人の国」がありました。
(日本語と琉球語が分離したのは、およそ1800年前とのことです。)
これが狗奴国です。
東渡海の先は四国が妥当と思います。
347 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:34
>>345 遠浅だから大きな船は難破する危険がある。
時代が下った万葉集に収められた遣新羅使の歌でも
武庫の浦から船旅をしている。
348 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:36
>>345 > (船で簡単に攻め込める)という情報を中国側に安易に知らせる筈は
はぁ?陸行1ヶ月と時間を掛けているのだが。
349 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:54
だから、1ヶ月という記述自体が、意味無いんだってば。
ちゃんと、編集当時の事情分析がなされている今となっては、
そんなことで、うだうだもめるのは、厨房素人くらいだぞ。
350 :
日本@名無史さん:04/08/24 13:18
船がガンガン進めると思ってるヤシは痴呆か?
ずっと後代の延喜式には大宰府〜平安京で約30日と
決められているぞ。これが1日も遅れてはならない過酷な
日程だということは解るか? 生ではないが海産物を
運ぶんだからな。
ちなみに薩摩・大隅・日向〜大宰府でも約12日なんだぞ。
351 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/24 13:41
>>348 >はぁ?陸行1ヶ月と時間を掛けているのだが。
伝えられた情報をもとに、実際に魏使がそのルートを通って来たら
どうなりますか?
わざわざ歩かなくたって、船でも行けるって事がばれちゃうでしょ。
352 :
日本@名無史さん:04/08/24 13:46
>>351 意味不明。摂津→山城→大倭と移動すれば
使節には海で行けるとは思わないだろ
353 :
日本@名無史さん:04/08/24 13:55
だから、1ヶ月という記述自体が、意味無いんだってば。
354 :
日本@名無史さん:04/08/24 14:44
もう有名な分析とともにほぼ通説になっているとおもうけど、距離日程については、
親魏大月氏王との釣り合いを持たせたかったがための修飾に過ぎない。
それも知らず、書かれた背景や、他国の距離描写とか、基本事項も学ばずに、
ここで意味のない距離や日程で遊んでる連中は、本質議論の邪魔とも言える。
355 :
日本@名無史さん:04/08/24 15:15
356 :
日本@名無史さん:04/08/24 15:29
いや、
>>354の解析結果は既に古い。
距離だけでなく、戸数についての分析でも、
金印を与えた両国の対応関係が見いだされている。
それらのベースが晋での政治勢力関係だな。
まず、倭人伝を執筆するに当たって、陳寿が「資料」としたものは何か?
と言うことを考えろ。
邪馬台国が狗奴国と交戦した時、帯方郡から塞曹掾史(軍司令官のようなもの)張政という
人物が詔書と黄幢を持って倭国に赴いている。そして約20年間倭国に滞在している。
張政の任務は、倭国大使兼駐在武官といったもので、倭国の情勢を収集し、帯方郡そして朝廷に
報告する使命があったわけである。
軍事上大切なことは、帯方郡から倭国に至るまでの行程を把握することである。当然だ。
いざ倭国に軍隊を送るとなると、この情報を基本に糧秣その他の装備を手配し
軍団を形成することになるわけである。
また、倭国内のどの国に人口がどれだけあるか、ということも、食料を現地で
調達できるかどうか、にかかわる。
對馬國……土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活
一大國……多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食
末盧國……有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺
これなど、軍事行動を起こす際に重要となる資料であることは言うまでもない。
「無良田」「差有田地、耕田猶不足食」など細かいことまで書いてあるのは、
軍事資料として「食料の現地調達が困難」であることを述べているのである。
「郡より倭に至るには・・・」の行程文の最後が「水行十日・陸行1月」であるから、
これは「帯方郡から倭に至るまでの日数」である。軍事報告書としても、それが
記載されていないとおかしい。これを基本に、糧秣その他の軍団としての準備を整え
なければならないからである。
358 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:55
単なる、修飾にすぎない戸数や距離に基づいて、
詳細な議論は意味がないよ。おおざっぱにはともかく。
一番基本は、大月氏国と邪馬台国の同格化。
洛陽からの距離はどちらも約一万七千里など。
書かれた背景まで踏み込めば明白との見方がほぼ主流。
>>357 軍隊をおくる?
そんな警戒も領土的野心も無いと思いますよ。
近隣の蛮族(東夷)が朝貢して臣下の礼をとっているんです、
魏の国は偉大だから、その足元に侍らせて下さいってね。
皇帝に拍手をおくる客が欲しいだけじゃないですかね。
360 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:28
>>358 卑弥呼の「親魏倭王」の称号が、ガンダーラ文化を
生んだ西方の大国クシャナ朝のヴァースデーヴァ王と同格である
のは事実。大月氏国と邪馬台国の同格化は推論。
361 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:29
なんで、大月氏国と邪馬台国の戸数や距離をほぼ一致させたんだっけ?
>>359 邪馬台国vs狗奴国の紛争は、ただの倭国内の内乱ではないのだよ。
これは魏(晋)vs呉の戦争でもあるのだ。
(狗奴が呉と通じていたかどうかは資料にはないが、可能性は大。というか
そうでないと魏(晋)を後ろ盾とした邪馬台国に対抗できない)
もしここで邪馬台国が負けることにでもなれば、少なくとも東夷諸国の間では
魏の威信が失墜してしまうのだよ。
また、倭人伝にも、「計其道里、當在會稽、東冶之東」とある。
倭を経由した対呉戦も、当然考えただろうし、逆に呉が倭を攻撃することも
警戒していただろうな。
363 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:35
>>359 そんな警戒も領土的野心も無い
↑
勉強不足。3国時代の魏・蜀・呉は、後漢時代の終わりに失った
漢民族の支配圏を取り戻すために、周辺の「蛮族」の支配地に
積極的に介入する拡大策をとっていた。軍事侵略・懐柔策
いろいろ取り混ぜて。
>>362 >邪馬台国vs狗奴国の紛争は、ただの倭国内の内乱ではないのだよ。
>これは魏(晋)vs呉の戦争でもあるのだ。
にしては、狗奴国に関する記述が少なすぎる。
そんな軍事的緊張を背景に持ったうえで魏から使節が来たのなら、
狗奴国の実体も詳細に調べて報告書に書き加えた筈だ。
魏が東夷の地域紛争としか見なかったからこそ、邪馬台国と敵対している国があるとしか
書かなかったのでは?
365 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:43
>>362-363 いいところまで突いているのに、詰めが甘いね。
軍事的な意味合いは十分あった、ここまでは正しい。
しかし、陳寿が晋王の命を受けて始めたのは呉の滅亡後。
したがって、記録としては、呉の残党などまで考慮して
実際より南にあるようみせかけた東の大国として見せるところまではOKで、
ただしさらに加えて、祖先の司馬氏の功績をライバルと同等にまで上げるために、
西の親魏大月氏王の大月氏国と戸数や距離などの規模を併せた記述にした。
シルクロードという実利の絡む大月氏問題と、単なる辺鄙な島国を、
どう突き合せれば同列に扱えるのやら。
367 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:13
>>366 倭国ごときが金印をもらっているのも知らないのかしら?
つまり1段階目としては、既に魏の時点でも、東の大国と位置付けられていたこと。
そして、最大のポイントは、陳寿に魏志を書かせたのが晋王であることね。
つまり、2段階目として、晋としては祖である司馬懿の功績の最大化、
すなわち、司馬懿の政敵の曹爽一派が西方の大月氏に金印を与えて西方を把握したのに対し、
司馬懿が東方にて公孫氏を討って倭国までの東方を把握したことが当事者には最重要。
この2段階目によって、大月氏国と倭国の戸数と距離のほぼ同一化がなされたわけなの。
368 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:21
>>366 だから邪馬台国の卑弥呼は、大月氏国どころか、
ガンダーラ文化を生んだ大国クシャナ朝のヴァースデーヴァ王と同格
に扱われたという事実がまずあるでしょう。
まず事実を検証してそれを受け容れること。
倭人は古代から、個々の国というより、倭人という総体として
大きな勢力だったので、不思議じゃないんだって。
あなたに「辺鄙な島国」とかいう頭ごなしの偏見があるから
事実さえ見えていないと思われ。だいたい当時は大陸にあっても、
殆どの辺境地は「辺鄙な所」というのは同じ。
369 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:40
>>367 陳寿に魏志を書かせたのが晋王であること
晋としては祖である司馬懿の功績の最大化
↑
そうでしょう!おお、ついに中華系の物知りそうな人が現れた!
それで自分は、ずっとそういう人に聞きたかったのだが、
(==ここからは妄想==)
「邪馬台国」が最初「魏志倭人伝」で「やま・い国」と漢字表記されたのは、
司馬懿(しば・い)の(い)と関係していると思いますか?
伊都の(い)は、「懿(い)の都」を暗示していると思いますか?
うがちすぎでしょうか?
>>365 三国志にそのような執筆意図があった、などと誰もいっていない。
陳寿が倭人伝を書くにあたって依拠した「資料」が、帯方郡から洛陽にもたらされた
「軍事報告書」だったはずだ、といっているのだ。
詰めが甘いのは、アンタの方だね・・・
371 :
日本@名無史さん:04/08/25 01:36
第三次ソロモン海戦は伊勢日向山城扶桑を投入すればよかったのでは?
>>364 >狗奴国に関する記述が少なすぎる。
370にも書いたが、「魏志」そのものの執筆に関しては、軍事的な意図はなく
魏朝の正当性を天下に示すための、「正史」の執筆である。
したがって魏に朝貢してきた「倭国の代表」として邪馬台国を詳細に記述しているわけで、
その邪馬台国に敵対した「狗奴国」などは、倭国としては認めていないのである。
374 :
日本@名無史さん :04/08/25 10:09
>>359 >そんな警戒も領土的野心も無いと思いますよ。
皆さん難しいこと言ってますがね、単純に子分の土地が荒らされたら
親分が助けるという中華思想によるものなんですよ。
375 :
日本@名無史さん:04/08/25 11:50
今、執筆の背景を詳しく論じているのは、
距離に信憑性があるか否かを決めるためですよね。
実際問題として、記載されている里数は、
現実の距離とよく比例しているんですよね。
(帯方郡、韓国南岸、対馬、壱岐、松浦の間など。)
だから、距離は全く適当なことを書いているのではない。
政治的な意図で、倭国を大きく見せるために、
「全体的に5倍にした」とかはあるかもしれないが。
だから、「書いてある距離などが参考にならない」というのはおかしい。
「1里435mと考えるのは間違い」と結論付けるべき。
実際、帯方郡から松浦あたりまでの実際の距離を
里数で割ってみれば、1里は60〜70mくらいで、
一貫して実際の距離と良く比例した里数が書かれている。
距離の比は非常に参考になる。
ところで、もし「全体的に5倍にした」みたいなことが
水行や陸行の日数にも掛かっていたとしたら、
たった数日の移動となり、九州説が圧倒的に有利になるのでは?
376 :
日本@名無史さん:04/08/25 12:44
>>375 誰も説明しないと思うから、ヒマな私がしたげる〜。
>(帯方郡、韓国南岸、対馬、壱岐、松浦の間など。)
↑
あのね〜、ここの間(帯方郡から北九州・伊都まで)は、
魏の使いが、実際に旅行していて、自分で里数を使って測っていたの〜。
それで距離の比率が、かなり確かなの〜。
研究者が迷っちゃうのはね〜、伊都から後の記述。
そこから先、魏の人は自分で旅行してなくて、
邪馬台国側の人からの、聞き取り調査で書いてるの〜。
で、邪馬台国の人は、たぶん魏と同じ里数計算をしてなかったから
旅行日数を使って、距離を教えてるの〜。
だから伊都より前と後を、同じ倍率で調整したくても、
前提条件が違うので、できませ〜ん。
377 :
日本@名無史さん:04/08/25 12:52
倭人にとって距離表現は時間であらわすものだった。
海は海流に逆らえば時間がかかり、陸は藪だと時間がかかる。
畿内説はこんなこともわからないから、
>>375-376で簡単に倒される。
378 :
日本@名無史さん :04/08/25 13:13
>>376 375ではないけど、
伊都国から後の記述にも里数で表記されている箇所があります。そこは
おそらく同じ倍率で日数を里数に変換できたのだと思う。
日数で表記されているのは伊都国以後では水行を含む箇所だから
聞き取りだけでは海流を考慮できず里数に変換できなかったために
日数表記になったのだと思う。
379 :
日本@名無史さん :04/08/25 13:18
>>378の追加
ですから里数に変換可能なものは変換したが不可能なものは
日数で表記した。ということは里数の「比率」はほぼ正確と考えて
良いと思う。
380 :
日本@名無史さん:04/08/25 13:53
>>377 はぁ?意味不明。長期間水行するのは古代から近世まで瀬戸内海だぞ。
=====
水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。
これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。
381 :
日本@名無史さん:04/08/25 15:12
奴国だけは福岡で良いのかな?
382 :
日本@名無史さん:04/08/25 16:44
>>380 どんどん広げるなよ。魏志倭人伝のはなしだろ。
瀬戸内海と勝手に決め付けるなよ。
唐津湾と有明湾が近接していたから、瀬戸内海ばかりではないだろう。
383 :
日本@名無史さん:04/08/25 16:52
375です。
ええっと、ちょっと言葉足らずだったかな。私が言いたかったのは、
1.里数と日数で記述されているところがあって、
里数は割と良い比で書かれている。
2.しかし、魏の1里は435mくらいだが、上の1里は何故かもっと小さい。
3.1つの可能性として、政治的理由で里数が一律に5倍(?)されたと考えられる。
4.その場合、日数による距離も同じ比率で拡大されたかは、意見の分かれるところ。
という前提で考えた場合、
「日数は拡大されなかった」と考えて畿内説を主張するのも、
「日数も同じ比率で拡大された」と考えて九州説を主張するのも
ほぼ同じくらいの確かさしかないのではないだろうか、ということ。
もし仮に日数も拡大されてるという条件の下なら、九州有利になる。
つまり、現段階で「水行の日数が掛かり過ぎているから九州はない」
という主張はおかしいということ。
ところで、帯方群から女王国までの総里数1万2千里を考えると、
女王国は北九州から遠くないんですよね。
日数も拡大されてたと考えると、非常に都合が良いですね。
384 :
日本@名無史さん:04/08/25 17:52
>>383 2はあってるが、3が誤り。
政治的に5倍に増やしたのではなく、魏の1里が約76mだっただけのこと。
>>384 いや、魏の1里は435mくらいですよ。
1里76mくらいである理由は別にあるんじゃないですか?
ある地方(例えば韓国南岸)では、そうだったとか。
政治的な理由で大きくみせたというのは
あくまで「1つの可能性として」です。
386 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:14
政治的な理由で大きくみせたというのはあくまで「1つの可能性として」
でなくて、実際に、そうする必要があったので、行なわれた、と推測されてるわけですよね。
それらの各説は、
>>367 >>365 >>358 >>354 >>344 などを参照。
距離や戸数が大月氏国とほぼ同じ数値にされていることと、
陳寿に魏志を書かせた晋王の祖である司馬懿による東方経営の功績重視
(つまり司馬懿の政敵の曹爽一派による西方経営の功績との同格化)という
自然かつ否定できない要因があるので、偶然ではないですよ。
387 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:23
>>386 じゃあ、「一つの有力な可能性として」でどうでしょう。
私も拡大はあったんじゃないかと思っているのですが、
問答無用に押し付けると逆に説得力を欠くと思うので、
あくまで可能性だが、全てについて辻褄が合う
という態度で臨んでいるんです。
あと、戸数も大きくしているなら、日数だけ大きくしてない
という可能性が低くなってきたと思います。
388 :
日本@名無史さん :04/08/25 18:38
>>385 ある一部分だけってのは有りえないと思う。ある理由で大きく見せるのだと
すれば全体についてでしょう。上にもありますが軍事報告書の一面も合わせ
もっていると考えられるので異なる里数の存在は混乱のもとになると思う。
倭人が日数つまり時間で距離を表しているのだから魏側は、その速度が
わかれば「里」に変換できるはず。陸行については道の良し悪しはあっても
凡そ一定の速度だと考えて「里」に変換できたが、。水行については速度が
一定でないと考えられる場合は変換できないので倭人の言う通りに記載した。
ですからまったく里数の検討がつかない日数を里数と同じ比率で拡大した
とは思えないです。
それと総里数1万2千里は意味のない数字だと思う。二点間の距離を
比率で表し、トータルで1万2千里になるように整えたのではないですか。
>>269さん
>「邪馬台国」が最初「魏志倭人伝」で「やま・い国」と漢字表記されたのは、
司馬懿(しば・い)の(い)と関係していると思いますか?
>伊都の(い)は、「懿(い)の都」を暗示していると思いますか?
この答えは私には答えられないのですが、確かに魏志倭人伝では「やま・い国」「壱」
と書かれているし、伊都国の伊も、私は同じ民族を表していると思います。他には漢委奴国王
の「委」、一大率の「一」、親魏倭王の「倭」。すべて同じ民族を表していると考えていますが、
もしそうだとしたら「イ」と考えられると思います。それで伊都国が首都と考えています。
自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国とあるのですが、
女王国が一大率を置いて諸国を検察し伊都国が治めるのですから、
伊都国が女王国で、一大率が置かれた場所とわかります。
世有王皆統属女王国とあります。これは伊都国を説明した文ですが、
伊都国には世有王(歴代伊都国王)がいた事がわかります。
其国本亦以男子為王佳七八十年倭国乱相攻伐歴年及共立一女子為王名曰卑弥呼
とあります。最初の「其国」は卑弥呼の国を表すのは当然ですが、
七八十年間王がいたわけですから、其国は世有王がいた伊都国を指すと思います。
三国史で其国と表現するのですから、其国は三国史の中で紹介された
国の一つと考えるのは自然ではないでしょうか。
もちろん一大率が伊都国に置かれたのは間違いないですが、
一大率の役目は使いを送る、使いが来たとき送られた物を間違いなく
女王の所に届ける。
一大率の役目からすると首都に一大率が置かれるのは当然かと思います。
郡から女王国まで、一万二千里ですが、北部九州の時点ですでに一万里以上です。
距離と日数、水行十日陸行一月を足しても、距離一万二千里にはなりません。
伊都国女王卑弥呼
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
391 :
日本@名無史さん:04/08/25 18:52
>>388 >>それと総里数1万2千里は意味のない数字だと思う。二点間の距離を
>>比率で表し、トータルで1万2千里になるように整えたのではないですか。
大月氏国への距離もほぼ1万2千里なので、
トータルで一致するように整えたのはほぼ間違いないでしょう。
残る問題は、どのような拡張方針で数値を整えたか、つまり、
全体を間延びさせたとか、終端部だけ伸ばしたとか、そのへんの比較です。
392 :
日本@名無史さん:04/08/25 19:44
>>386 話が逆で、北部九州に押し込めるために邪馬台国を矮小化して
憶測に次ぐ憶測で無理をしなければなくなる。
かつての根拠のない年代観ではなく、AMS・年輪年代・銅鏡などから導かれた
弥生〜古墳時代の編年だと、卑弥呼は古墳時代の人物であり
墓も箸墓を考えれば済むわけだし、下らなさすぎる。
無理は畿内説の方でしょう。
たとえば南→東とか・・・
大月氏と距離をあわせた云々言ってる人いるけど、
そうする意図がよくわからんのだけどな。
そもそも大月氏国には倭人伝のような詳しい行程文は存在しない。
どうしても「合わせた」とするなら、誇張は大月氏国の方である、とする
可能性も追求するべき。
395 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:11
>>394 魏志の編纂を命じたのは誰なのか、という初歩から説明が必要なの?
もう何人かが説明してくれている通りで、
今までの議論をちゃんと読んでる人なら、
『誇張は大月氏国の方である』なんて無茶なこと言い出さないと思うんだけど。
で、ブッ飛んでる人はおいといて、話を戻すと、
戸数や距離や方角はおおざっぱには意味あるけど、
詳細データとして見るのは意味がないというのはほぼ合意されつつありますよね。
参考データとして見つつ、考古学的な観点から判断すれば、
畿内説が一番しっくりと来ると思います。
396 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:15
>>395 はあ?畿内にもっていけるなら、地球のどこだっていいでしょ?
>>395 だから、「正史」を編纂するにあたり、それが「司馬氏」の功績になるとは
とても思えない、ということを言っているのだがな。
もし「誇張」があったとしたら、その後、倭国に赴く人物はその「ウソ」に
気づかなかったのか? という問題も発生する。
ようは、「すぐばれるウソ」など、晋朝が正史に記述してもしょうがない、ということだ。
誇張説の人は、古代の中国人が正史を執筆する、という時の姿勢を知らないか、
故意に忘れている人たちなのだろう。
司馬遷、班固、陳寿・・・・どれもこれも硬骨の精神の持ち主なんだけどな。
399 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:40
誇張説っていう表現が合わないだけで、
単に『1万2千里という数値には意味がない』というだけでしょう。
この数値を信じてる人は、各説に対する根拠反論してください。
郡から女王国まで一万二千里をどう計算したら畿内になるのでしょうか。
従郡至倭と書きだしているのですから、郡(ソウルあたり)から見て南は
九州ですけど。(南至邪馬壱国)
考古学では畿内説ではよく前方後円墳を比定されますけど、前方後円墳は
卑弥呼の墓にしては新しいのではないでしょうか。
私は卑弥呼の登場によって古墳時代がはじまったと考えていますけど、
古墳時代の最初は最初から前方後円墳が作られたわけではなくて、
方形周溝墓、墳丘墓、円墳等が作られた時代の後に前方後円墳が登場するの
ですから、卑弥呼の時代に前方後円墳があったとは思えません。
また前方後円墳には石室がありますが、これも三国志の其死有棺無郭
(郭にはキヘンがつきます。)棺はあるけど、郭はない。郭は石室の事。
なので、前方後円墳は卑弥呼の墓には当てはまりません。
書いてある数値をそのまま扱うことに、どうして証明しなけりゃならんのか、わからんけどね。
倭人伝の行程・里程が「軍事報告書」を元にして書かれている以上、
一万二千里、という数値がリアルなものでなければ意味をなさない。
倭人伝の行程文をよく読んで見るがいい。総里程、そして陸行と水行の日数、
倭国内の国の間の距離と、国の人口や食糧事情・・・
どれをとっても、これは「軍事報告書」を元にしているのである。
当然、この「軍事報告書」は晋朝が保管しているものであり、しかるべき地位の人は、
誰でも閲覧できたはずである。
ようは、「正史」が倭人伝の里程を誇張して執筆したとしても、すぐ「ばれる」のである。
また、陳寿は蜀の滅亡、魏→晋と王朝が交代した様を目の当たりにした人物でもある。
晋朝がずっと永久に続くなどと、信じてはいなかったはずである。
ウソがすぐにバレ、後世の王朝に嘲笑されるような正史の執筆など、
到底許されることではないのである。
402 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:02
>>400 これだけ、みんなが、12000里に意味がないと言っているのに、
ここまで来て、12000里を根拠に、各説を否定するかね?
403 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:09
意味が無いと断定してるのは、一部の人間だけだろう
ようするに自説にとって、「一万二千里じゃ困る」からそれを否定しようと
躍起になっているだけ。
「自説に困るから」という理由でその数値を無意味なものとして扱うのは
どうかしてると思うぞ。
そのまま読んだら一万二千里は北部九州になります。
議論するとしたら、短里か長里かという問題でしょう。
しかし実際の距離、例えば対馬から壱岐等から、短里でしか考えられません。
長里にすると北部九州どころか、太平洋に行き着いてしまい。畿内はかすりもしません。
誇張して記述・・・などより、「偶然の一致」とする方がはるかに説得力があるわな。
まあ、「偶然」というほど不思議な数値でもないし。
考古学でも伊都国の平原遺跡は女性の墓です。
発掘当時から武器が少なく、ブレスレット等の装飾品が多く女王として
認められています。方形周溝墓であり、三国志の其死有棺無郭
(郭にはキヘンがつきます。)棺はあるけど、郭はない。郭は石室の事。
にも当てはまります。何しろ日本一の大鏡五枚、総数40枚は日本一です。
これらを女性が持っています。これだけでも卑弥呼の墓と云ってもいいすぎでは
ありません。
伊都国には世有王皆統属女王国と書かれていて、歴代の伊都国王が
いた事は間違いありません。卑弥呼は歴代の伊都国王の一人と考えると
すべてうまく説明できます。
伊都国女王卑弥呼
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
>>407 それは「伊都国王」が卑弥呼と別の女性だったとは考えられないのかね?
409 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:44
漢書西域伝だと、『大月氏国、国王は番兜城に治す。長安を去る万一千六百里』
となってるので、長安〜アフガニスタン北部が11600里となるね。
これって、何Kmくらいなんだろう?
邪馬台国までの12000里を、作為でなく、偶然ほぼ一緒で本当だとすると、
長安〜アフガニスタン北部の距離が参考になります。
里単位がちがうんでしょう。
魏志韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」となっているから、「方〜里」の用法から、
1里が80Mくらい、と算定できます。
411 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:56
後漢と魏では、里単位は一緒です。
てゆっか、違うという説があるならば、魏志全体の大問題になりそうですので、
なにがどう違うのかきっちり根拠を述べて説明してください。
ちなみに、魏志韓伝の数値は、いわゆる司馬懿問題によって、
魏志倭人伝の数値と同じ意味しか持たないので、例としては意味がないです。
>>411 その「いわゆる司馬懿問題」なるものは、すでにこのスレでは崩壊しています。
>408さん。
>>389-390読んで下さい。
三国志には女性は壱与と卑弥呼が登場します。
私の説があっているという前提で卑弥呼と解釈しています。
ということは壱与の墓は私には今のところわかりません。
しかし伊都国が首都であり続けたのであれば当然
伊都国に壱与の墓はあるでしょう。
>>413 いや、私の言っているのは、あなたの説の否定ではなく、
平原遺跡がなぜ「卑弥呼」の王墓と比定されるのか、の根拠が知りたいのです。
その王墓が「女性」であることの根拠はわかりましたが、別国である伊都に
なぜ「邪馬台国」の女王の王墓が? という疑問について、あなた自身は
どう解釈されるのですか?
415 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:09
康居国(キルギスタン)までは万二千三百里だって。
これって、ほぼ邪馬台国までと一緒だね?
邪馬台国というのは卑弥呼とほぼ同じ時代の三国志には邪馬壱国となっています。
南至邪馬壱国女王之所都はよく、邪馬壱国が女王の都と解釈されてきました。しかし
私は邪馬壱国が国全体を表し、女王の都が女王国=首都と解釈しています。
邪馬壱国の「壱」も伊都国の「伊」も同じ民族名ではないかと考えているのです。
女王国というのは女性が王なのはわかりますが、地名などとは違う表現です。
他に別の正式な国名があるのは当然ではないかと思います。
それが各国の行程を説明した中に不弥国までが詳しく説明しているのは
邪馬壱国の首都を含む主要国が説明されているのではないでしょうか。
三国志に首都の部分が書かれていて当然です。
伊都国女王卑弥呼
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
417 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:41
邪馬薹國と書かれたものと邪馬壹國と書かれたものが現存しているので、
『薹(台の旧字)』と『壹(壱の旧字)』のどちらかが写本ミスでしょう。
>>416 あなたが邪馬壱国だと主張する根拠はなんですか?
418 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:47
邪馬臺國と邪馬壹國ですね
まあ良く似た字なので写し間違えたのでしょう
邪馬臺國(=邪馬台国)が正解
>>416 「伊都」という字義について考えたことはありますか?
「イト」という音韻に、なぜこの2文字を当てたのか。
中国の資料には「伊闕」という地がよく出てきます。「闕」とは天子の宮殿のことで
後には天子その人を指す用語にもなっています。「伊闕」とは朝廷に至る人たちの
交迎し接待する地なのです。
これを踏まえて「伊都」という字義を考えてみましょう。倭人伝には、
「郡使往來常所駐」とあります。当然、交迎を受ける所でもあるべきで、
これからすると「伊闕」という熟語を元にして、「伊都」という字が「イト」に
当てられたのは明らかなのです。では「都」とはどこでしょうか?
「…南至邪馬壹國、女王之所都」 これで明かです。
両方あるのはわかります。しかし私は
邪馬台国というのは卑弥呼とほぼ同じ時代の三国志には邪馬壱国となっています。
これが最初の根拠です。
邪馬壱国の「壱」、伊都国の「伊」、一大率の「一」、親魏倭王の「倭」、
漢委奴国王の「委」はすべて同じ民族名だと考えています。ですから「イ」です。
民族名が「イ」であるならば邪馬壱国ですし、伊都国が首都だと説明できます。
421 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:54
>>417 大嘘つくなよ。現存三国志はすべて邪馬「壱」国だろ。
>邪馬薹國と書かれたものと邪馬壹國と書かれたものが現存しているので、
現存する魏志倭人伝で、「邪馬薹國」とするものはただの一つもありません。
423 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:59
邪馬薹じゃなくて邪馬臺だよね。(≠邪馬壹)
このスレも、『邪馬台国はどこですか』だし。
委(倭)の音韻は「wi」だからなぁ・・・
「伊」では無理があるだろ・・・
425 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:05
後漢書の東夷列傳の倭人条では、邪馬臺國(=邪馬台国)となってますよ。
本当は邪馬壱国だったのだ、と主張する人たちは、
後漢書において邪馬台国となっているのは、どういう理由と考えているの?
>>425 後漢書の写し間違い、でしょ?
そもそも後漢書の執筆された時代は南朝劉宋で、魏晋の資料をストレートに
継承することは出来なかった(西晋の滅亡による)。
後漢書が依拠した資料は「コピー」であり、誤写は当然起こりうることなのである。
427 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:16
とりあえず、妄想ではなく、当時の文献に記録されてることを列挙です。
各説のみなさんは、以下の状況について、資料や根拠を含めて説明してみてください。
・唐から何度も来る使者はすべて筑紫止まりで長期間滞在も何度もあり
・当時は平壤の安東都護府の下に各地に都督府が設置されている
・劉仁願が熊津都督府の司馬法聰等を筑紫都督府へ遣し、境部連等を送致
・唐から郭務宗が率いる47艘も来ている
(当時の遣唐使は300人で2艘、白村江の全唐軍は180艘)
・天智天皇崩御が、郭務宗等がいる筑紫に伝わったのは3ヶ月後
・郭務宗へ布綿などだけでなく甲冑弓矢まで届けられている
・この白村江後の混乱期に国号が日本へ変更
・唐書に、日本国はもと小国で倭国の地を併せた、との説が掲載
・筑紫君薩夜麻は白村江後に8年間唐にいた
>>425さん
ですから三国志(魏志倭人伝)は「壱」です。後漢書は五世紀です。
後の時代の正史が三国志を手本とした時に間違ったのでは。
>>424さん
「倭」は漢字辞典には「ワ」「イ」どちらでも読めます。
430 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:26
>>428 隋書でも『邪靡堆を都とす。すなわち『魏志』に邪馬臺というところのものなり』と、
邪馬臺(=邪馬台)となっていますよ。
邪馬壱だと主張する人々は、隋書のこの記述をどう解釈してるのかな?
431 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:29
大和朝廷と九州王朝の両者は並行して存在してたのだよ。
そして、両者はおのおのが近似的対応があって2つの地域に
別々に、呼応するかの如くに、線路の並行のように存在していたんだよ。
例えば、崇神と帥升。神巧と卑弥呼とがおのおのがその対応なんだよ。
九州のほうは大和で云えば、文武の御世のころまで実在したのだ。
文武の世で九州のほうは滅亡に至ったのだ。だいぶ本物を教えてしまったな。
432 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:30
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
>>430 隋朝は「魏晋朝」の資料をストレートに継承することは出来ませんでした。
したがって、誤写は起こりうることなのです。
434 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:31
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)
>>429さん
先ほどの民族名がすべて同じだとしたら、「イ」です。
>>430さん
伝言ゲームと同じなんですよ。誰かが間違えると後の人はみんな
間違えてしまいます。三国志が「壱」なのはほぼ卑弥呼と同じ時代に
書かれた物だから、「壱」のままでいいのではないかと考えているのです。
後の時代の正史は文面から三国志を手本としているのはあきらかなのですから、
三国志と後の時代の正史が違うのは単なる間違えです。
436 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:37
とりあえず、妄想ではなく、当時の文献に記録されてることを列挙です。
各説のみなさんは、以下の状況について、資料や根拠を含めて説明してみてください。
・唐から何度も来る使者はすべて筑紫止まりで長期間滞在も何度もあり
・当時は平壤の安東都護府の下に各地に都督府が設置されている
・劉仁願が熊津都督府の司馬法聰等を筑紫都督府へ遣し、境部連等を送致
・唐から郭務宗が率いる47艘も来ている
(当時の遣唐使は300人で2艘、白村江の全唐軍は180艘)
・天智天皇崩御が、郭務宗等がいる筑紫に伝わったのは3ヶ月後
・郭務宗へ布綿などだけでなく甲冑弓矢まで届けられている
・この白村江後の混乱期に国号が日本へ変更
・唐書に、日本国はもと小国で倭国の地を併せた、との説が掲載
・筑紫君薩夜麻は白村江後に8年間唐にいた
437 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:41
・後漢書では『邪馬臺(邪馬台)』となっている
(ちなみに後漢書の成立は魏志よりあとで、作者は魏志を参考にしている。)
・隋書では『邪馬臺(邪馬台)』となっている
(もちろん隋書の成立は魏志よりあとで、作者は魏志にある邪馬臺と書いている。)
・三国志(魏志)では『邪馬壹(邪馬壱)』となっている
(現存する三国志で最も古い写本は、12世紀の紹熈版である。)
以上は、意見ではなく、事実です。公正中立に。(間違いがあればご指摘を。)
邪馬台の部分については、後漢書と隋書は、三国志からの写しとなっていて、
それら両者は共に『邪馬臺(邪馬台)』としています。一方、
それよりずっと後の12世紀に写された紹熈版では『邪馬壹(邪馬壱)』です。
賢明なみなさんは、これらの事実を見れば、理解できますよね?
>>437 なんで「後漢書」「隋書」は執筆時点を問題にして、
「三国志」だけ写本の時期を問題にするの?
後漢書、隋書の写本は、いつなの?
>>438さん
まだ気づかないの。
三国志はほとんど卑弥呼の時代からずっと「壱」のままなんですよ。
440 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:54
三国志を改竄したい畿内厨が粘着してうざいね。
委奴国→邪馬壱国→邪馬台国→タイ国ときているのに
なんで邪馬台国だけとりあげて、「ヤマト」と読ませてご満悦なのか。
441 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:01
後漢書(唐の李賢の注付)にはこう書かれてるよ。
『其大倭王居邪馬臺國【案、今名邪摩堆、音之訛也】』
つまり、5世紀に書かれた『邪馬臺』に対して、
それは7世紀の『邪摩堆』であり、音の訛りだと注している。
たしかに微妙な音の差があるがほぼ一緒なので、李賢がコメントを付けたわけです。
一方、三国志のほうは古い写本でも12世紀であり、
さらに新しい時代と見られる写本になるほど間違い率が高くなってるという分析もあります。
朝廷の「蔵書」としての資料が、そのまま現在に伝わる写本の元とは限らない、
という問題があるのだ。
宋朝・唐朝の蔵する資料が「臺」と誤写されてしまっていたら、それ以後、
誤写を元にした執筆が続くわな。
つまり、後漢書・隋書の執筆者は、朝廷の所有する「臺」と誤写された三国志を
参考に、執筆を進めた可能性は比定できないのである。
>>441 じゃ、3世紀が「邪馬壹」 5世紀が「邪馬臺」で問題ないですね。
後漢書・隋書の執筆者は、「今、ヤマダイ」と発音されることを知っていて
そう書いたんでしょうね。
444 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:07
むりやり「邪馬壱」にしようとすると、
後漢書や隋書が書かれたときだけ「邪馬台(邪馬臺)」という誤写があったことに…
唐の李賢が後漢書に注をつけたときには、出回っている三国志も見れているはずで、
もしもそこに「邪馬壱(邪馬壹)」なんて書かれていれば
あのようなコメントではなく、邪馬壱(邪馬壹)に言及しますよ。
つまり、唐の時代においても、「邪馬台(邪馬臺)」だったわけです。
445 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:11
>>428 古田爺さんの信者は、江戸時代の研究者でも当たり前のようにやっていた
校合と言う作業を理解していない池沼だな。書き写すうちに間違いが増えるのは
当然のことで、元の形を復元するために多数の写本・刊本を参考にする。
隋書を編纂した時代が三国志の現存する最古の刊本よりずっと古いのに。
>>444 後漢書の李賢注には、「案:今名邪摩惟、音之訛也」とするものも存在するのですが?
このことについて、どうお考えですかな?
447 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:16
>>446 現存する刊本の書写ミスだろ。大宰府にのみ残る「翰苑」とか呆れるほど間違っている。
いい加減に校合を理解しろよ。
448 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:16
まとめましょう。
・後漢書・隋書・後漢書の李賢の注により、
少なくとも5世紀・7世紀には『邪馬臺(邪馬台)』と記述されたものがあった。
・三国志の紹熈版により、
少なくとも12世紀には『邪馬壹(邪馬壱)』と記述されたものがあった。
現代の我々が知ることができる事実は以上となります。
>>447 じゃ、現存する「隋書」「後漢書」の書写ミスの可能性も存在するわけですね。
>>448 ちがうでしょ?
5世紀・7世紀に『邪馬臺(邪馬台)』と記述された資料など現存していないでしよ?
>>446 つまり、7世紀の段階で、「邪摩惟」だって可能性もあるわけですね。
ってか、5世紀、7世紀の段階で「邪馬壹」とする三国志が存在しなかった
という証明には、まったくなってないと思うんですけど?
後漢書・隋書の依拠した資料が、そうだった、というだけのことで。
>>446の事実が本当なら、余計にそう思いますが。
453 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:25
>>450 後漢書に対する李賢の注により、
7世紀には三国志と後漢書で『邪馬臺(邪馬台)』であったことが判明しています。
現存する三国志の書写者が、ずーっと代々、「後漢書」「隋書」を知らなかった、
とは考えられない。
最初に「臺」→「壱」を書き誤った人は、誰からも指摘されなかったんですかね?
ちょっと考えられないなぁ・・・ 翰苑は日本での書写だと考えれば、大量の間違いは
理解できるけど、三国志だもんなぁ・・・
455 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 00:30
ヤマト=邪馬台はすでに定説です。
台与=とよ と読むのでヤマト=邪馬台で通じますw
>>453 邪摩惟とする写本をスルーしてもいいのですか?
457 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:36
>>454 > 最初に「臺」→「壱」を書き誤った人は、誰からも指摘されなかったんですかね?
東夷のことなんて注目する香具師は少ないからな。
現存する「隋書」の刊本では、本紀では「倭」となのに東夷伝では「イ妥」だもんな。
関心のない記事はこんなもんだ。
458 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:36
邪馬壱を主張する人たちの説明は、
・後漢書や隋書や唐書など諸々のもの及びそれらへの注などは、
すべて誤写である『邪馬臺(邪馬台)』を元にした、あるいは後に全て誤写された。
・そして誤写である『邪馬臺(邪馬台)』の三国志写本はすべて消え去った。
・12世紀の紹熈版の三国志は『邪馬壹(邪馬壱)』なので3世紀からずっとそう。
ただし、後漢書執筆者や注釈者の目には、誤写のほうしか入らなかった。
となっていますが、どれもこれも、かなり無理があるように見えます。
459 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:37
>>456 お前が校合を理解していない大ばか者なだけ
邪馬臺を「ヤマト」と読む可能性はどうなんだろう。
臺の字に「ト」の音は存在しない、と聞いたが?
459 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/26 00:37
>>456 お前が校合を理解していない大ばか者なだけ
↑ 頼むからお前だけは氏んでくれ。お前一人でどれだけ腐るか。
462 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:43
邪馬台を主張する人たちの説明の方は、
・12世紀の紹熈版の三国志が『邪馬壹(邪馬壱)』と誤写しただけ。
すごいすっきり自然に見える。
463 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:45
>>461 校合を理解してから言え、恥を知れよヴァカ者。
464 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:51
きょうごう けうがふ 0 【▽校合/▼合】
(名)スル〔「きょう」は呉音〕写本・印刷物の文字や記載事項を、他の本と照らし合わせてその異同を知ること。
また、それによって訂正したり相違を書き記したりすること。校書(きようしよ)。こうごう。<大辞林>
きょう‐ごう 〔ケウガフ〕【▽校合・×合】
[名](スル)二種以上の写本・刊本などを比べ合わせて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること。校書。こうごう。<大辞泉>
465 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 00:53
みなさんお堅い方々ばかりですねw
例えば地名で、ナゴ○とくれば入る文字は
まあ「ヤ」だと誰もがわかることでしょ。
それと同じですよ。ヤマ○までわかってれば
まあヤマトで間違いないでしょw
466 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:55
>>465 ば〜か、委奴国の後継国だから、ヤマトに関係なし。
467 :
日本@名無史さん:04/08/26 01:05
>>465 名古屋などという地名は珍しいが、ヤマト/大和という地名は、珍しく
も何ともない。日本中のあちこちに存在する。
そもそも「山のある所」という意味なので、ほぼ日本中が該当する
のだ。
名前からの推測には無理があります。
468 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 01:09
畿内邪馬台国説様にたてつく
捻くれ者が集まるスレはここですか?w
463 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/26 00:45
>>461 校合を理解してから言え、恥を知れよヴァカ者。
↑ お前は社会を理解しろ。史ね。
470 :
日本@名無史さん:04/08/26 01:16
>>458 その通り。かなり無理がある。
中国には、現在の皇帝の名前と同じ文字を使うのは、皇帝に対して無礼
だから、やってはならないというルールがある。
12世紀の紹熈版の三国志は、当時の皇帝の名前に「臺」があったので、
その字が使えなかっただけ。
そして、くり返すが「ヤマト/大和」という地名は、日本中にあふれて
いるので、邪馬台=ヤマトであったとしても、それが大和盆地の地名
であるとは断定できない。
新井白石は、福岡県山門郡であると考えていた。
>>470 皇帝の名に「臺」があったのではなく、皇帝の宮殿を「臺」と呼び、さらに皇帝自身を
「臺」と呼ぶようになった。
で、ドサクサにまぎれて「臺」に「ト」という音があるかのように
述べている人がてるんですけど・・・
臺にトという音はありませんよ。
473 :
日本@名無史さん:04/08/26 01:33
臺は上古音でトに近くないか?
474 :
日本@名無史さん:04/08/26 01:33
>>472 当時の中国語の発音では「邪馬臺」は「ヤマダ」または「ヤマダイ」
(正確には、それに近い音。中国語の発音は、日本語での正確な表記は
不可能)になります。
475 :
日本@名無史さん:04/08/26 02:07
>>472 御存知のように、記紀万葉の時代には、甲類『と』・乙類『と』がありました。
それぞれを表わす万葉仮名と、その上古音・中古音を示すと、
甲類『と』 屠(dag/do) 渡(dag/do) 都(tag/to)
乙類『と』 苔(d∂g/d∂i) 騰(d∂ng) 登(t∂ng) 得(d∂k)
といった具合いに異なることが分かります。ここで、
邪馬臺(邪馬台)の臺(台)は、d∂g/d∂iですから、乙類『と』であるのは自明です。
>>470 >>新井白石は、福岡県山門郡であると考えていた
山門の場合は甲類『と』となりますので、
上代特殊仮名遣の発見後、新井白石の説は否定されることになりました。
476 :
日本@名無史さん:04/08/26 02:13
>>474 >>当時の中国語の発音では「邪馬臺」は「ヤマダ」または「ヤマダイ」
たしかに、臺は「d∂g/d∂i」なので、一見そのように感じるかも知れませんが、
それらと同様の発音でである苔(d∂g/d∂i), 騰(d∂ng), 登(t∂ng), 得(d∂k)が、
万葉仮名にて、乙類『と』を表わすのに用いられたという事実があります。
したがって、「邪馬臺」は、「ヤ マ ト(乙)」と自然に解釈なされています。
>>475 ちょっと待て!
「臺」と「台・苔」は別字だぞ。
478 :
日本@名無史さん:04/08/26 02:35
萬葉集や記紀において、ヤマトの万葉仮名表記は、
「夜麻登」「耶麻騰」「也麻等」など色々ありますが、
「ト」の部分は「登(t∂ng)」「騰(d∂ng)」「等(t∂ng)」と一貫して「乙類ト」です。
そして、魏志倭人伝にある邪馬臺も「臺(d∂g/d∂i)」であり「乙類ト」です。
このように、萬葉集や記紀と、魏志倭人伝の間にもきちんと整合性があります。
>>478 だから、
>魏志倭人伝にある邪馬臺も「臺(d∂g/d∂i)」であり「乙類ト」です。
これの根拠が知りたいんだってば。
「臺」と「台・苔」は別字でしょう?
>>477 「台」は単なる我々の便宜のための表記であって、関係がない。
「臺」の発音がどうであるかだけが重要であり、
「臺」の上古音と中古音は明らかに乙類の「と」を示している。
481 :
日本@名無史さん:04/08/26 02:52
>>479 ・「臺」の上古音は「d∂g」、中古音は「d∂i」とされている
・万葉仮名で「甲類ト」を示す漢字とその上古音/中古音の例は、
「屠(dag/do)」「渡(dag/do)」「都(tag/to)」など。
・万葉仮名で「乙類ト」を示す漢字とその上古音/中古音の例は、
「騰(d∂ng)」「登(t∂ng)」「苔(d∂g/d∂i)」「得(d∂k)」など。
以上が、邪馬臺論と無関係に判明している事実。
これらにより、魏志の「邪馬臺」は「ヤ」「マ」「乙類ト」と言える。
さらに、以下の事実とも整合性がある。
・万葉記紀において「ヤマト」を示す万葉仮名による表記は多数あるが、
どれも「ト」の部分は「乙類ト」の漢字が用いられている。
なんでーーー
「臺」と「台・苔」は別字でしょ!
「台・苔」の音が「ト」だといくら言っても、「臺」が「ト」である証明には
まったくならないでしょうが!
>>482 てゆっか、既に何度も説明されているような。
たとえば、
>>481 の説明のどこがわからないの?
ちゃんと指摘して、根拠とともに反論すれば、いい議論になる思うよ。
臺=ト を証明する材料は一切ありません。
485 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:04
>>482 池沼は恥ずかしくないのかよ。「台」など関係なくて「臺」の音が問題だ。
この期に及んでも、邪馬台(ヤマト)国が畿内だと認識できない連中は池沼が多すぎる。
>>486 臺に甲乙共「ト」音を示す資料は、あなた自身が示せてないじゃないですか。
甲類『と』 屠(dag/do) 渡(dag/do) 都(tag/to)
乙類『と』 苔(d∂g/d∂i) 騰(d∂ng) 登(t∂ng) 得(d∂k)
この中にも「臺」はありませんよね?
488 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:18
おいおいw
臺=ト(甲乙どちらであれ)を示す資料を上げたらいいのですよ。
それを私が調べますから。
「臺」の上古音は「d∂g」、中古音は「d∂i」とされている
乙類『と』 苔(d∂g/d∂i) 騰(d∂ng) 登(t∂ng) 得(d∂k)
この事実から、
>魏志の「邪馬臺」は「ヤ」「マ」「乙類ト」
ということは証明されないってことが言いたいんですよ。
さっきから無茶言ってからんでる
>>487 はもしかして本物の(略)…?
この分野に興味を持つ小学生かもしれないから、丁寧に書いてあげると、
・日本書紀では「臺」は「ト」の音を表す万葉仮名として用いられている
・「臺」の上古音は「d∂g」であり中古音は「d∂i」である
・「ト」を表わす万葉仮名のうち「屠(dag/do)」「渡(dag/do)」「都(tag/to)」などは「甲類ト」と分類されている
・「ト」を表わす万葉仮名のうち「登(t∂ng)」「苔(d∂g/d∂i)」「得(d∂k)」「臺(d∂g/d∂i)」などは「乙類ト」と分類されている
・分類されている理由は、各単語に現れる「ト」は、必ずどちらか使い分けが一貫しているため
・さらに加えて、「甲類ト」と「乙類ト」ではその用いられている漢字の発音が、上古音/中古音で区別つくほど異なる特徴がある
これで、わかるかな。小学生にはちょっと理解難しいかも知れないけど・・
491 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:35
>>486 人をペテンにかけるようなことは言うな。
臺の字が「ト」を示す資料はないよ。
492 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:38
こらこら、万葉仮名に「臺(d∂g/d∂i)」はないって・・・。
日本書紀にも、臺=ト の用例は存在しない。
493 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:43
日本書紀には出てくるよ
494 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:44
日本書紀には「臺」は「うてな」という一例のみ。
495 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:48
記紀万葉における、トの万葉仮名(訓読み系を除く)の一覧
ト(甲) = 刀 斗 土 杜 度 渡 妬 覩 徒 塗 都 図 屠
ト(乙) = 止 等 登 騰 縢 臺 苔 澄 得
496 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:56
だから、「臺」にト(乙)の音はないって・・・
497 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:57
>>495 その一覧がどこからの引用かは知らないが、臺は「ダイ」「うてな」という
使用例しかないよ。
498 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:01
ダイ?
499 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:02
もっと詳しく知りたい人は、橋本進吉の「古代國語の音韻に就いて」を読みましょう。
ちなみに、附録として萬葉仮名類別表がついてきて、一部抜粋すると、
ト〔清音〕 刀斗土杜度渡妬覩徒塗都圖屠・外砥礪戸聡利速門 甲類
ト〔濁音〕 度渡奴怒 甲類
ト〔清音〕 止等登[登邑]騰縢臺苔澄得・迹跡鳥十与常飛 乙類
ト〔濁音〕 杼縢藤騰廼耐徳 乙類
です。ちなみに「・」より右は訓読みによる用法ね。
で、このような上代特殊仮名遣いの分類研究と別個に、
漢字の上古音や中古音という当時の発音の研究があって、
組み合わせることで、例えば乙類トを表す漢字はt∂・d∂系で特徴づけられることがわかったわけなの。
そして、臺もd∂g/d∂iなので、乙類トを示すことに整合性があるわけね。
500 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:04
501 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:41
ってか、臺=ト の用例を上げた方が早いって・・・
どういう使用例なんだよ
502 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:44
分類表とか、一覧ばかり引用するが、使用例がなけりゃどうにもならんがな。
503 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:46
臺=ト の実例はない、ということでいいですね?
504 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:48
今索引が手元にないからこんど探してくる
505 :
日本@名無史さん:04/08/26 04:48
うむうむ、よろしく。
粘着狂人は史ねよ
507 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 09:38
ここのやつらみんなヲタくせーw
508 :
日本@名無史さん:04/08/26 10:00
509 :
日本@名無史さん :04/08/26 10:05
>>407のせいじくんへ
あなたは伊都国に卑弥呼が居たとしているようですが、倭人伝の一大率の
くだりに「文書・賜遺の物を伝送して女王にとどけ」とありますが、
これは伊都国に女王がいなかったことを示しているのではないですか?
510 :
日本@名無史さん :04/08/26 10:06
511 :
日本@名無史さん :04/08/26 10:14
>>401 私も軍事報告書としての一面は認めるけれども一万二千里がリアルだとは
思えない。行程文の最後、邪馬台国にいたる部分が「里」で表示されていないのに
総行程の「里」がリアルに成りえるのですか?
512 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/26 13:02
ここの人らはいったい何してる人らだよ?
定年退職して悠悠自適の歴史マニアか?
514 :
日本@名無史さん:04/08/26 17:48
邪馬臺の読み方に関してWEB検索してみたところ、
> 漢・魏以後の発音では、日本語のト(乙類)に当てて
> 使うのが普通であるから、耶馬臺はYamadoに当てたものと見られる。
> 奈良朝以前の例では、マ・ミ・ム・メ・モの音の下の音は清音が濁音化することがあるから、
> このヤマドという表記はヤマトの音を写したものと見てよかろう。
なんて論がHitした。
マ行音の下だから、「ヤマド」と濁って「邪馬臺」と書いたっていう意味かな。
今の教科書には、(ヤマタイ・ヤマド)と読みが振られている
みたいな書き込みが昔あったから、「後のヤマトにつながるヤマドである」
というのは広く支持された説と見てよいのかな?
515 :
日本@名無史さん:04/08/26 18:23
>>514 駄目だね。皇国史観の人間が、ヤマト音で読ませたいがために、委奴国・邪馬壱国・タイ国を無視し、ヤマト音にふさわしい国名だけ取り上げてきた、というのが実際のところだろう。
516 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:12
>>515 基地外だな。「隋書」に「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」
と書いてあることから目を逸らすなよ。
517 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:15
>>515 タイ国って ( ´,_ゝ`) 現存する隋書の刊本によると
帝紀では「倭国」と書かれているけど、東夷伝では「イ妥国」になっているだけ。
よくある書写ミスで校合で正すべきもの。
>>509さん
いい質問だとおもいます。一大率は伊都国にありました。一大率には郡使がやってきました。
もちろん船でやってきました。船は伊都国に停泊し、郡使も伊都国までです。
女王に届けられる物はここで降ろされ女王に届けられました。現代に例えると
迎賓館が適当だと思います。これらの事実は
伊都国が首都であることを証明できるものです。もし卑弥呼が伊都国以外にいるのであれば
伊都国以外に一大率が置かれたはすです。
また三国志は首都を書かないはずはありません。三国志に必ず首都が説明されている
はずです。不弥国までが詳しく書かれているのはそのような理由ではないでしょうか。
特に伊都国は特徴的な書き方をしています。一大率がある。
世有王、歴代の伊都国王がいる。其国には七八十年男王がいた。などです。其国の
王は三国志の中の国を表すはずですから、其国は伊都国が適切だと思います。
其国の七八十年男王と伊都国の歴代の王は同じと考えるのです。
この様に伊都国が首都だとはっきりわかります。
伊都国女王卑弥呼
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
519 :
日本@名無史さん:04/08/26 20:59
>>518 女王が統べる倭国の首都機能が伊都国にあったのは確かだが、
(魏志倭人伝に記載されている状況の時点では、)
女王は伊都国にはいません。
首都機能があるから女王がいたというのは推論として誤りです。
たしかに、男王は伊都国王でしょう。
しかし、男王ではまとめきれないので、別の女王を共立したわけで、
男王がいたから女王も同じ所にいたという推論も間違いです。
(墓などの存在から考えて)女王が伊都国に居た時代は
あるのかもしれません。その可能性は否定しません。
しかし、少なくとも魏志倭人伝に記載されている状況では
女王はもっと南に居ます。
女王が伊都国にいたことがあることと、
魏志倭人伝に記載の状況で、女王が伊都国に居た
ということは別問題です。その点をハッキリ認識してください。
520 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:15
>>511 >邪馬台国にいたる部分が「里」で表示されていないのに
>総行程の「里」がリアルに成りえるのですか?
この上の行から、下の行の結論は導き出せない。
軍事的には、帯方郡からの「総里程」こそが重要であって、それに付属して陸行・水行の
各日程も述べている。海の向こう側の倭国へ軍隊を派遣するための、最低限の情報は
有含しているのである。
極論すれば、行程文の最後、邪馬台国に至る里程などは枝葉なのである。
私自身は、最後の部分、里数が書かれていないのは、「すぐ近くだから」
「隣接しているから」「行政区画として別国なだけで、実際は混在」などの理由で
書く必要もなかっただけなのだろう、と思う。
不彌國の場合、「有千餘家」であり、魏の行政単位である「戸」とは別の記載法が
とられている。つまり「魏の配下と認められない倭人」が、邪馬台国と分けられて
生活していた可能性も示唆されよう。
521 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:18
>>518 「迎賓館」が首都にあるというのは、あまりに現代的な考えである。
古代の中国でも、「迎賓館」に当たるものは宮殿近郊にはない。
そんなものが京の内部に出来たのは唐代以降である。
522 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:38
>>516 ば〜か。それは隋書の時代の話だろ。卑弥呼の時代は違うってことに気付けよ。
523 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:40
524 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:41
>>522 校合を理解できないお前が大バカ者。
きょうごう けうがふ 0 【▽校合/▼合】
(名)スル〔「きょう」は呉音〕写本・印刷物の文字や記載事項を、他の本と照らし合わせてその異同を知ること。
また、それによって訂正したり相違を書き記したりすること。校書(きようしよ)。こうごう。<大辞林>
きょう‐ごう 〔ケウガフ〕【▽校合・×合】
[名](スル)二種以上の写本・刊本などを比べ合わせて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること。校書。こうごう。<大辞泉>
525 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:43
>>523 池沼か、現存する「隋書」の刊本を見ると、帝紀では「倭国」と書かれているけど、
東夷伝では「イ妥国」となっているのは、書写ミスなのは明白だ。
526 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:44
>>524 隋書だけを妄信しちゃった時点でアウト!!
527 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:46
>>525 明らかなのは、原典批判できないで隋書を信じちゃった馬鹿。
隋書より今日の科学的研究のほうがう上でしょ。
528 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:50
529 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:51
>>527 意味不明。帝紀と東夷伝で国名が違っているのは
書写ミス以外には説明が付かない。
>>519さん
>女王は伊都国にはいません。
首都機能があるから女王がいたというのは推論として誤りです
このようにお考えなのはどうしてでしょうか。私はすべて三国志の部分を
引用しながら説明しているのですが、上記は結論だけをおっしゃっているので
どのような理由から上記の結論になるのかがわかりません。
>男王がいたから女王も同じ所にいたという推論も間違いです
其国の男王が伊都国の男王と認めてらっしゃるんですよね。
其国が卑弥呼を共立したのも認めてらっしゃるんですよね。
これらは共通認識なのはわかりますが、男王がいたから女王も同じ所にいたという
推論も間違いな理由は何でしょうか。これも説明がないのでわかりません。
>少なくとも魏志倭人伝に記載されている状況では女王はもっと南に居ます。
この理由は何でしょうか。おそらく南至邪馬壱国のことだと思いますが、私は
邪馬壱国は北部九州全体を指すと考えていますので、南至は帯方郡から南と解釈しています。
>女王が伊都国にいたことがあることと、
魏志倭人伝に記載の状況で、女王が伊都国に居た
ということは別問題です。その点をハッキリ認識してください
これも意味がよくわかりません。説明を入れて下さい。
私は先ほども、三国志は首都を必ず書いたはずで、首都の説明がない三国志は
ありえないと書きましたがその通りだと思います。伊都国の南に女王がいるのであれば
何という国にいたのでしょうか。伊都国より女王が居そうな国が三国史の中の
何という国に居たと伊都国より詳しく説明をしているのでしょうか。そんな国は
でてこないです。
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
533 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:32
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
九州説=小邪馬台国説
畿内説=大邪馬台国説
535 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:44
大のほうがロマンがあるな
536 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:57
>>530-531 >其国が卑弥呼を共立したのも認めてらっしゃるんですよね。
これは違います。
卑弥呼を共立したのは倭国を構成する複数の国によってです。
この中に伊都国も含まれますが。
あなたの論には色々つっこみどころがありますが、
まず「世有王皆統屬女王國」の解釈が間違いです。根本的に間違っています。
狗奴國について「不屬女王」と書いてあることからも明らかでしょう。
あなたの解釈によれば、
伊都国は女王が属している国
狗奴國は女王が属してない国
ってことですよね。
これが内容として変であることは判りますよね。
さらに中国語としても間違っています。
屬女王 = 女王に属する
不屬女王 = 女王に属さない
という意味にしかなりません。女王が属するなら、
女王屬伊都国
の順に書きます。あなたの解釈は、ありえない解釈なのです。
ただし、女王が統べる倭国の首都機能が伊都国にあるというのは正しいです。
537 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:03
まあ、今時邪馬台国九州説唱える電波がまだいるとは驚きですな。
伊都国が重要なのは確かだが。
538 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:13
一大率に治めさせてたのはどこだっけ
539 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:18
今どき三角縁神獣鏡魏鏡説を唱える学者がいることにも驚きなんですが?
鏡だけでなく、倭綿・倭絹・中国絹・矛などが同時期に同一地域から
大量出土するところが邪馬台国でしょ?
540 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:22
>539
無知だね。考古学者は基本的に畿内説しかいないが、△魏鏡説は、
そのうちほんの一部の考古学者が唱えているにすぎない説だよ。
541 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:25
>>540 九州説の考古学者あんまりいないのになんで九州では遺跡と邪馬台国を結びつけたがるの?
542 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:29
>541
「あんまり」じゃなくて全くいないんじゃないの。
九州の考古学者が口やかましく言っているのは、終末期でも奴国、伊都国の
衰退は全くないとか、弥生期の九州の文化と古墳文化の継続しているじゃないか
という話だわな。
543 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:31
マキムク遺跡みれば、どう考えても邪馬台国は大和にあったとしか思えないな。
九州説の人はマキムクや箸墓古墳、黒塚古墳などの成果をどうとらえるわけ?
544 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:35
>>543 東遷後の邪馬台国の遺跡。
それより古い畿内の遺跡は、
東遷前にあった勢力(銅鐸を使う勢力)の遺跡。
545 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:37
東征と東遷・・・・・。似ているようで、偉い違いですよね。
東征は、要するに領土拡張戦争で、東遷も軍事的意味合いは同じです。
どちらも、畿内を征服支配するだけの軍事・政治能力が九州にあったという点は共通します。
ただ、東遷とは要するに遷都、或いは国替えなわけで、そんな事が実際にあったとしたら、
それだけで十分日本の古代史に大変な問題提起です。それこそ電波クラスのw
明治維新は遷都と言うことになっています。しかし、江戸時代270年間、実質首都であり、それ
抜きにはあり得なかったでしょう。また、無理に京都に戻したり大阪に持っていくのも大変だった
わけで、まあ形式だけのことです。
近畿天皇家の遷都については、離れてもせいぜい大阪や大津程度で、その時代でも例えばい
きなり蝦夷に遷都が出来るものでしょうか。北陸や東海でさえ実質的に不可能だと思われます。
以上、「東遷説」などあり得ないことは明らかだと思われます。よく言われるマキムク遺跡ですが、
当然というか、最近はプレマキムクの存在も予想されています。それは、あれほど有利な条件の
土地で降って湧くはずがないw 何せ奈良盆地で耕作できる場所自体限られていたわけで、あの
場所が無人であったわけがないですよね。
ようするに、邪馬台国=畿内では不利なので、東遷した事にすれば畿内ヤマト一元論ができると
いう妄想の産物といって良いでしょう。木に竹を接ぐとはこのことで、こんな事が可能ならそりゃ何
でも有りだ罠
546 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:41
遷都はあり得ると思うが
547 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:47
東遷がなかったと言ってるのは九州王朝説だけで、
九州説も畿内説も、基本的には東遷を認めているのではないでしょうか。
(東遷という言葉が気に食わないなら東征でも良いですが。)
九州説と畿内説の違いは、東遷の時期です。
九州説では、3世紀半か、それ以後。
畿内説では、3世紀初頭か、それ以前。
九州説の場合、出雲、吉備、四国などと
婚姻などを通して和合した後、畿内を攻めたことになる。
畿内説の場合、出雲、吉備、四国などと和合する前に
いきなり畿内に移ったことになる。
プレマキムクは、東征のよって滅びた銅鐸勢力のものでしょう。
一つ質問ノシ
なぜ東に移動する必要があったんだ?当時の情勢を考えれば、九州と朝鮮
半島南部は同一文化圏でありその両方を統べるのであれば九州の方が便
利でしょ?何故わざわざ東遷?
>>548 大八島の政を行うのに適した場所を探してたみたい
>548
南九州に気をつかったんじゃないか?
半島系なら真っ先に滅ぼさなきゃならん場所だと思うがなぜか野放し。
疑問も多い。
551 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:02
>547
そりゃ違うな。
邪馬台国=倭王権は、弥生期の畿内勢力が成長したという説が学会主流派。
君の言っているのは原田大六、森浩一など傍流の考えだ。
アンカー野郎は黙ってろ、チンカス。
553 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:15
鏡だけでなく、倭綿・倭絹・中国絹・矛などが同時期に同一地域から
大量出土するところが邪馬台国でしょ?
親魏倭王の金印が出土とか?
555 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:20
>>550 貴方もご指摘の通り、狗奴国を九州南端と考えると
不合理なことが多いんですよね。
魏志倭人伝には、女王国以後に書かれている
21国と狗奴国は「遠絶」にあると書かれています。
「絶」の意味には様々な解釈がありますが、
よく言われる「交流が絶えている」という解釈は間違いでしょう。
狗奴国とは交流が絶えているかもしれませんが、
21ヶ国は女王の支配下です。もし交流が絶えているなら、
狗奴国や東渡海の先にある国と同じく、単なる別の倭人の国でしょう。
倭人伝内には、他に「絶」が3箇所登場し、
すべて陸と陸が切れているという意味で用いられています。
この意味に基づいて考えれば、21国と狗奴国は海の上にあるということになります。
つまり21国は南西諸島で、狗奴国は更に南の沖縄本島です。
ここには、別王朝の倭人の国が当時からあったと考えられています。
日本語と琉球語が分離したのは1800年前、西暦200年ごろなのですから。
琉球の海底遺跡のことかあああ?
557 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/27 00:22
今日、京都の占い師に邪馬台国と金印の場所を
3000円で占ってもらったところ、邪馬台国は
風のたどり着く場所にあるんだそうです。
風の谷のことかあ?
559 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:27
>>553 ちなみに、邪馬台国の時代において、絹は北九州からしか見つかって
いない。近畿での出土はゼロ。
鉄器の出土も、北九州が圧倒的で、近畿ではほとんど出土していない。
魏志倭人伝に描かれている、宮室、楼観(物見やぐら)および城柵跡の
3つがそろって発見されているのも、北九州の遺跡のみ。
近畿の遺跡には3つがそろっているものは無い。
560 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:32
>559
「邪馬台国の時代」の範囲について君の信奉しているらしい安本ビテンは普通の考古学者と
違う取り方をしているんだよ。考古学者の言う弥生終末期までなら全く君の言うとおりだけどね。
561 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:36
今は市街地となり発掘もままならない博多近郊から、絹、鉄器、鏡などが
大量に見つかっていることを考えたら、これは決定的。
今でもド田舎で発掘が自由自在の奈良から、絹、鉄器、矛などがまるで
出土しないのは致命的。
562 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:44
>>561 そうそう。
畿内説の考古学者は、発掘やり放題の奈良で、新しい発見があるたび、
魏志倭人伝の記述や他の地域とろくに比較もせずに、邪馬台国の証拠だと、
わめいているだけ。
563 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/27 01:09
もはやスタンダードな研究ではらちがあきません。
私は超能力や占い、占星術といったオカルトチックな
ジャンルから邪馬台国の場所を特定して見せます。こうご期待。
564 :
日本@名無史さん:04/08/27 01:16
>>559 卑弥呼の時代は古墳時代だから
近畿でも絹や鉄器が出土しているし
銅鏡に至っては九州より遥かに多い。
565 :
日本@名無史さん:04/08/27 01:19
>>564 おーい・・ 絹は出土してへんって・・・
566 :
日本@名無史さん:04/08/27 01:40
>>564 近畿で大量に出土する銅鏡は、邪馬台国の時代より新しい(4世紀)
ものだよ。
567 :
日本@名無史さん:04/08/27 02:43
捏造までしないと、近畿に邪馬台国を持ってくることが不可能だと
これでわかったわけだが・・・
568 :
日本@名無史さん:04/08/27 03:30
だから金印と阿蘇山が邪馬台国のキーワードだろ
569 :
日本@名無史さん:04/08/27 04:56
白村江敗戦後の唐軍進駐も筑紫でとどまっており、
天智天皇とは面会せずに、崩御の連絡を聞いて儀礼すら筑紫で行なっている。
倭国への使者も筑紫でとどまっていて、女王とは面会していないようなので、
描写が阿蘇山や九州の気候風土であるのは当然と言える。
つまり、これをもって邪馬台国は、畿内説とも言えないし九州説とも言えない。
570 :
日本@名無史さん:04/08/27 05:06
>>566 正しい
特に近畿は日本製の三角縁まで弥生時代の舶載鏡と言い張るしまつ
(近畿からいっぱい出土してるから)
弥生の遺跡からはまったく出てないのにw
571 :
日本@名無史さん:04/08/27 05:55
僕は思うんだけどさ。
4世紀制作の鏡に「景初三年」と書いてあるってことはさ、
この鏡の制作者って、「年号」の意味も概念も知らなかった。
ばかりか、「文字」すらも理解してなかったんじゃないかなって、思うんだよね。
卑弥呼は魏に使いを送って「上表文」を魏朝に渡しているし、また
天子からは「詔書」をもらってるわけだから、文字を知らなかったってことは
考えられないもんね。詔書には魏の年号も書かれていただろうから
「年号」の概念を知らなかったとも考えがたい。
三角縁神獣鏡の銘文に「景初三年」とあり、それが古墳時代の近畿の遺跡から
出るってことは(しかも大量に)、その時代の近畿には
「文字を理解しない」
「年号の概念を理解しない」
という勢力が存在したってことになると思うのだけど?
572 :
日本@名無史さん:04/08/27 06:16
>>571 景初四年まで出土してるんだからそれは違うんじゃない?
そこの勢力(大和朝廷?)が何らかの意図を持って作った感じ
573 :
日本@名無史さん:04/08/27 07:09
>>564 卑弥呼の邪馬台国は魏と交流があったんだから弥生時代だろ
古墳時代は中国で言えば唐の時代だろ
574 :
日本@名無史さん:04/08/27 07:38
>>573 おいおいおい・・・・・
古墳時代は、中国で言えば、南北朝時代だって・・・
575 :
日本@名無史さん:04/08/27 08:35
そうか・・・
唐の時代の怪獣葡萄鏡が古墳からいっぱい出土してるから
思い違いをしてた
576 :
日本@名無史さん:04/08/27 09:13
まじで、このスレに、景初四年の経緯をしらないやついるの?
年号がなぜ変わったのか、どのように変わったのか、
基本的なことを知っていれば、景初四年の存在は理解できると思うんだが。
577 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/27 09:53
皇帝死んだことしらんかったからさw
578 :
日本@名無史さん :04/08/27 10:23
>>520 夜に来れないので遅レスになりますが。
あなたの結論はおかしいです。総里数が判明しているなら例え計算上で
あっても邪馬台国までの里数が算出できるので記入するはずです。
>邪馬台国に至る里程などは枝葉なのである
違うと思いますよ。どうでもいい国なら後段の21国みたいに名称のみ
記載すればよい。苦労して水行や陸行で示す必要はないだろう。
ですからどうしても記載したいが正確な里がわからないから倭人の
表現そのままを用いたというこでしょう。
579 :
日本@名無史さん:04/08/27 10:29
景初四年の経緯をしらないやつって誰?
580 :
日本@名無史さん :04/08/27 10:39
>>518のせいじくんへ
夜に来れないので遅レスになりますが。
「文書・賜遺の物を伝送して女王にとどけ」は同一国内での行為だと解釈
されているのですね。私はそんなことは書く必要のないことだと思います。
国が違う、距離があるなどの理由があって伝送となるのだと思います。
あなたは国王と首都が一緒でなければならないと考えているようだが
必ずしもそうとは限りませんよ。例えば江戸時代では政治の中心は
江戸だが天皇は京都にいたことがあるでしょう。私は上にも書きましたが
政治・軍事・行政の中心は伊都国で邪馬台国には倭国をまとめる象徴
が居たと考えています。
581 :
日本@名無史さん :04/08/27 10:54
>>518のせいじくんに追加質問
質問1.もし伊都国に卑弥呼が居たなら伊都国以後の国の行程など
書く必要がなくすべて略すればよかったのではないですか?
なぜ邪馬台国まで書く必要があったのですか?
質問2.一大卒の機能をもった組織が魏にもあるのに、あえて詳細に
一大卒のことを書いているのは首都のある国と倭を束ねる女王国が
別だったからではないですか?
質問3.平原遺跡から殉葬者百余名の奴婢は発見されましたか?
質問2.は畿内説にも言えることだが殉葬者がみつからなければ卑弥呼の
墓とは言えないと思いますよ。現在発掘されている日本の古墳からは
殉葬者が見つかったものは一つもないでしょう。つまり倭人伝の記述が
嘘か発掘されたものの中に卑弥呼の墓が無いかどちらかでしょう。
そして卑弥呼より確実に年代が下ったものからも殉葬が見られないと
すれば、この風習を持った卑弥呼系の王朝は滅亡あるいは断絶したの
ではないですか?宋書や隋書の倭国は邪馬台国の後裔かのように書いて
あるが実際はまったく別王朝ではないですか?
582 :
日本@名無史さん :04/08/27 11:01
>>581の訂正
質問2.は畿内説にも言えることだが
↓
質問3.は畿内説にも言えることだが
583 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/27 11:03
ここは学者様のしゃべり場ですか?
平日の昼間からこんな専門的なこと
話してる人たちっていったい・・
584 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:11
>>581 倭人伝記載時の女王国が伊都国だというのは、明らかな間違いだが、
「ヒラバルが卑弥呼の墓である」というは、おそらく正解だと思う。
年代、女性、鏡の量と大鏡など、他の人とは考えにくいので。
どうして伊都国に作られたのかはハッキリしないが。想像で言えば、
・一大事業として人の集まるところでやった
・住んでいるところの北に作る習慣があった
・晩年は伊都国に移っていた
など幾つかありそうな理由は考えられます。
殉葬者は、無いことが明らかになった訳ではないので、
まだ何ともいえないのではないでしょうか。それに、
どのような形で殉葬されたのかというのも考える必要がありそうです。
人柱として土に埋めたのか、周囲の小古墳に入れたのか、
などなど様々な可能性がありそうです。
土台に埋めていたとするならば、調査が困難かもしれません。
585 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:24
586 :
日本@名無史さん :04/08/27 11:36
>>584 想像でかきますけど、もしヒラバルが魏志倭人伝記載の関係者だと
すればむしろ壱与(台与)ではないですか?
倭人伝には壱与がどこに居たか書いていないし、ヒラバルの鏡が割られて
いることを考えると攻められて滅亡した可能性もあります。
攻められて滅亡したとすれば殉葬者は出てこないと思います。
587 :
日本@名無史さん :04/08/27 11:41
>>585 今後の可能性は否定しませんが、倭人伝には「奴婢」と記載されています
ので生贄が出てこないとなんとも。。。
逆にいうと殉葬者がでてくることが重要なポイントになるでしょう。
588 :
日本@名無史さん:04/08/27 11:43
>>585 > 箸墓は、生贄の代わりとなる埴輪が出てきますから、
違う、古墳時代中期〜後期に盛んとなる形象埴輪だ。
巨大な特殊器台・円筒埴輪はその中に人を入れていた可能性がある。
590 :
日本@名無史さん:04/08/27 12:47
>円筒埴輪を2 個合わせて棺桶(かんおけ)として使用したもので
瓶棺墓の流としても、安価に作った石棺とも理解できそうですね。
単純推理で、三十余国を束ねるためには相当強力な軍事力と
資産(食料)が必要なはず。とすれば冷涼化していた弥生時代
においては近くを対馬海流が流れていて、通年比較的温暖で
稲作に有利な北九州地方のほうが妥当なヨカーン。また、船が
偏西風の影響を受けて西に流されたと考えれば、上陸してから
東へ歩くという行為も合点が行くような希ガス。まさか真冬に凍死
や難破の危険を冒して渡来人が日本海を渡ってくるとは考えにくいし。
>>592 >軍事力と資産(食料)
それは三十余国に君臨する者が所有する必要は無い。
矢印が逆なのだ。王のカリスマ性が高ければ、物は周囲から集まる。
594 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/27 13:27
>>584 >「ヒラバルが卑弥呼の墓である」というは、おそらく正解だと思う。
>年代、女性、鏡の量と大鏡など、他の人とは考えにくいので。
魏志倭人伝には、伊都国王については「世有王」と記すのみで
性別が記されておりません。
と言う事は、伊都国王が女性だった可能性も有るわけです。
ですから、僕は、平原の女性は、卑弥呼でも台与でもない
伊都国女王ではないかと考えています。
>>593 でも集まるだけの富を生産する必要はあるから、気象
条件に恵まれ、生産力に優れた北九州ではないか?と思う。
富が集まるのは全国からではなく、周辺国だから、周辺国
自体も相当な生産力を持ってたという結論に達するを得ない。
それを考慮すると近畿では厳しいかな…。
596 :
日本@名無史さん:04/08/27 13:52
597 :
日本@名無史さん:04/08/27 14:00
>>595 はぁ? 北九州の生産力は特に高くない。
哀れな妄想は恥ずかしいな。
598 :
日本@名無史さん :04/08/27 14:29
>>594 それはないでしょう。女王だから特筆したのであって男王なら
わざわざ書く必要がないのですよ。
>>597 そうなのか?別に妄想しているわけではないが。
暖流の影響で比較的気温が高いから生産力も
あると思ったのだが、違うのか?
600 :
日本@名無史さん:04/08/27 14:53
>>586 台与は、年代的にちょっとだけ厳しい。
ヒラバルの成立は200年〜250年と考えられているので。
247年頃没の卑弥呼ならありうる。
台与は少なくとも266年には生きていたので、
ややアウト気味でしょう。
今後年代の推定が動けばトヨの可能性が出てくるかもしれない。
ただ現在の年代推定ではトヨ説は成り立たないと思う。
>>587 ええっと、
>>585によると
ヒラバルからは「殉葬者が出てくる」んですよね。
何人出てきたのかは知りませんが。
>>594 その可能性は完全には否定できない。ただ、大鏡は
ヤタの鏡ですからねぇ。伝説通りなら、ヤタの鏡は
弟を軍事を任せた太陽を祀る女性の最高指導者のもの。
すなわち卑弥呼が適当。従属した王の持ち物ではない。
伝説のみに基づいて考えるのは間違った方法だが、
他の証拠からありうる可能性を検討した結果、
それが伝説通りだったというのなら、
伝説も1つの傍証になるのではないかと思います。
601 :
日本@名無史さん:04/08/27 15:02
602 :
日本@名無史さん:04/08/27 15:35
603 :
日本@名無史さん:04/08/27 15:36
>>600 平原弥生古墳の年代は発掘者の原田氏が銅鏡などから
2世紀前半を下らないとしている。
604 :
日本@名無史さん:04/08/27 15:59
605 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:06
>>602-603 材料の年代からは、
○○年より古くないとは言えるが、
○○年より古いとは言えない。
勝山古墳は、西暦200年以降のものなんでしょう。
平原古墳は、西暦100年以降のものなんでしょう。
それより古く見積もる考えは否定できます。
ただ、それだけです。
606 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:11
>>603 2世紀前半てゆうことは、卑弥呼の時代よりも1世紀も昔ですね。
と言う事は、平原の埋葬者が卑弥呼の可能性は零ですねw
607 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:13
>>606 それは明らかに間違った考え方です。
物事の考え方から直したほうが良いと思います。
608 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:17
>>602 邪馬台国が畿内か九州かは知らんが
魏と交信のあった卑弥呼を古墳時代にずらすような
見苦しいまねはやめれ
609 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:33
>>608 三国時代の銅鏡は古墳時代の墓からしか出土していない。
昔の編年がDQNだっただけだ。
卑弥呼の墓が直径140m余りと記されているのも、箸墓なら納得が行く。
610 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:38
>>608 前方後方墳研究のリーダー赤塚氏の発表を読め。
●新たな歴史観に向けての可能性(プレゼンテーションの内容)
1)山中I式が遅くても西暦一世紀中頃にはじまっているとしたら・・・
この時点で流入した象徴する出土遺物としては、濃尾平野最古の鏡である名古屋市
高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の内行花文鏡などが存在する。
今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がないことになる。
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる
倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が
高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。
最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に
造営が終了している墳墓と想定することができた。すると239年に卑弥呼が魏に使いを
派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
ttp://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
611 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:50
>>609 > 卑弥呼の墓が直径140m余り
そうは書いてませんね。
径(さしわたし)100余歩ですね。
1歩というのは長さの単位で、1里の300分の1と解釈すれば、
20m前後でヒラバル有利。
1歩というのを長さの単位と見ず、歩いた歩数(両足で1歩)とすれば
140m程度で箸墓有利。
この件は、総合的に見て、どちらが有利ということもない。
612 :
日本@名無史さん:04/08/27 16:55
>>611 基地外か。中国の長さの単位だと歴史時代を通じて1歩は120-140cmだ。
歩測では身長170cmで140m余り、160cmで120m余り。
613 :
日本@名無史さん:04/08/27 17:01
>>609 はあ?
卑弥呼の時代の漢鏡じゃないと意味がないんだけど
614 :
日本@名無史さん:04/08/27 17:10
615 :
日本@名無史さん:04/08/27 17:23
>>612 > 1歩は120-140cmだ。
違います。一貫して「1歩は1里の300分の1」です。
確かに中国では1里は400m程度なので、1歩が1m強であった訳です。
しかし、魏志倭人伝の1里は
明らかに100m未満で、60〜70mが適当です。
もし、あなたが100歩を
「歩測して両足で約100歩だから、箸墓のサイズは丁度良い」
と主張されるなら私はそれを否定するつもりはありません。
「100歩は1里の3分の1だから、箸墓が丁度良い」
と主張されるなら、それは簡単に否定できます。
箸墓は1里の3分の1としては大きすぎます。
1人の3分の1として相応しいのは平原の方です。
訂正
誤 : 1人の3分の1として相応しいのは平原の方です。
正 : 1里の3分の1として相応しいのは平原の方です。
617 :
日本@名無史さん :04/08/27 17:35
>>600 >ヒラバルからは「殉葬者が出てくる」んですよね。
このページを読みましたけどはっきりとは言ってませんね。
壱与は成り立ちませんか。いずれにせよ殉葬者は重要ですよ。
卑弥呼は軍事力で王になったわけではありません。鬼道という
宗教指導者として倭国を統合したのです。墨子にも鬼道は身分の
上下を問わない尚同主義で民族の大同団結を目指すとあります。
卑弥呼はこれで倭を統合したのでしょう。そうだとすれば鬼道の生贄
というのは非常に重要な宗教的儀式となり簡単に埴輪に変えたり、
あるいは取りやめたということはないでしょう。
618 :
日本@名無史さん:04/08/27 18:10
>>617 >生贄というか、一緒に従者も埋められてます。
>これが、後の古墳時代の埴輪につながるのです。
って書いてありますよ。
従者とみられる生贄が出てくるようですよ。
まだハニワには置き換わってない時代の古墳のようです。
619 :
日本@名無史さん:04/08/27 18:19
>>615 基地外か。中国の度量衡の原器となる物差・分銅・枡が数多く出土している。
長さの場合は尺から5尺→1歩、360歩→1里と換算していく。方向が逆だ。
ありえない前原弥生古墳を卑弥呼の墓と言う妄想を満足させるために
改竄に次ぐ改竄を繰り返す醜態は見苦しい。
620 :
日本@名無史さん:04/08/27 18:22
>>618 何度も言っているように、それは古墳時代中期〜後期に盛んとなる形象埴輪だ。
特殊器台・円筒埴輪は棺に使われている。
621 :
日本@名無史さん:04/08/27 18:47
>>619 どちらから換算しようが同じことです。
倭人伝の1歩が140cmと主張されるなら、結果として
魏志倭人伝の1里が400m以上になってしまいますから。
魏志倭人伝の1里は確実に100m以下です。
あなたは確実に間違っています。
622 :
日本@名無史さん:04/08/27 18:54
>>621 > どちらから換算しようが同じことです。
全然違うぞ、度量衡の基本が分かっていない。
あくまでも尺→歩→里の方向で換算する。
卑弥呼時代の日本にはまともな道がなかったと書いてあるから
魏の使者には正確な距離など分からなかっただろうな。
分かったのは倭人同様に日数のみ。
623 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:00
>>622 残念ながら、貴方は理解力が乏しいと言わざるを得ないです。
貴方は長さの単位として1歩140cmを主張している。
すると、1里は400m以上となる
貴方の主張は間違いだと判明する。
1里は100m以下なのだから、1歩は140cmにはならない。
貴方は長さの単位として1歩140cmを主張している。
貴方の主張は間違いだと判明する。
このように、どちらから換算しようが同じなのです。
里と歩は1対1対応なのですから。
とにかく貴方はハッキリと間違った主張をしています。
624 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:11
>>622 そうだね
仮にアマゾンを移動するなら距離でなくやっぱり日数だ
625 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:21
>景初四年まで出土してるんだからそれは違うんじゃない?
魏の明帝の崩御は景初三年の一月。
つまり、「景初四年」がありえないことは、12ヶ月も前に予測できたわけなのだ。
こんな状況で「景初四年」の銘文入りの鏡を制作したとしたら。
それは、ますます「年号」の概念を知らない集団の制作物だと言うしかない。
つまり、三角縁神獣鏡=卑弥呼と無関係 が証明されることしになる。
626 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:23
>>623 > 貴方は長さの単位として1歩140cmを主張している。
主張ではなく中国では各時代の物差が出土しており、1歩=5尺から長さが判明している。
基地外なことを言うなよ。
627 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:34
>>626 各時代で長さの基準は異なる。
周代は一里=約70m
秦の始皇帝が、強引に六尺=1歩と決めたため、300歩=1里の長さも変わってしまった。
漢朝はこの秦制を採用したが、魏朝は周の古制を採用した。
したがって、魏代の1里=約70mが正しい。
628 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:39
>>625 その前にあなたは概念の意味を知りなさい
年号の概念すら解らなければ景初3年の次ぎは
景初4年であるということすら解らないんですよ
629 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:46
始皇、終始五徳の伝を推し、以為らく、「周は火徳を得、秦は周徳に代わり勝たざる所に
従わん。方今は水徳の始めなり」と。改元の始め、朝賀、皆十月の朔よりす。衣服、旄旌、
節旗、
皆上黒。数は六を以て紀と為す。符、法冠、皆六寸。而して輿は六尺、「六尺は歩と為し」
六馬に乗ず。(史記・始皇帝本紀・第六)
これにより、六尺=一歩 が「秦の新制」であることがわかるのである。
630 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:47
>>627 基地外は根拠もなくデタラメを言っているんじゃないよ
631 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:49
>>628 皇帝が変われば、年号は変わる。
これが年号の概念の「初歩」なのである。
「景初四年」がありえないことは、景初三年の一月に明帝が崩御した時点で
わかるはずなのである。
それがわからなかった「景初四年」の銘文入り銅鏡の制作者集団は、
「年号の概念」がわからなかった輩、と判断せざるを得ないのである。
632 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:50
633 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:57
>>630 まさか、この始皇帝本紀のこの記事を知らずに、里単位について語ってたとか?
ちょっと信じられないな・・・・
634 :
日本@名無史さん:04/08/27 20:11
というわけで、
三角縁神獣鏡=年号の概念もわからぬ輩の制作物(畿内天皇家勢力とは言っていない)
魏朝の1里=約70m
で問題ないですね。
635 :
日本@名無史さん:04/08/27 20:21
そもそも、「古制」とは、咎繇らが舜・禹と共に語り合って作り、「夏制」となった。
また周公が配下の人々と語り合って作った制度、これが「周制」となった。
三国志には「…伏して惟るに、陛下(武帝)古聖に邁蹤し…」
というくだりがある。
すなわち、西晋の制度は「夏・周の古制と同じ」だと記述しているのである。
>>635 その「古制」なるもので、1里=70mとする根拠は?
637 :
日本@名無史さん:04/08/27 21:40
別に古制でなくとも、三国志自体が短里=約70mだろ。1里が400mじゃむちゃくちゃだ。
638 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:12
>>625 >> 魏の明帝の崩御は景初三年の一月。
>> つまり、「景初四年」がありえないことは、12ヶ月も前に予測できたわけなのだ。
この625のひと、めちゃくちゃ、頭わるいね。
景初三年の正月に崩御したから、こそ、
だれもが、これで来年は景初四年で確定だと思ったんだよ。
もちろんその1年後に、後十二月の逆転劇が起きるわけで。
まずは基本から勉強してください。
639 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:43
640 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:44
>>631 > 「景初四年」がありえないことは、景初三年の一月に明帝が崩御した時点で
> わかるはずなのである。
違うって。
景初三年正月に明帝が崩御した時点で、景初四年が確定したわけ。
で、だれもがそう思ったまま景初三年の時が流れていった。
ところが、このまま改元できないのはまずいということになって、
ドタンバ直前になって、景初三年を延長することに決定した。
で、いきなり直前なので伝わってないものにとっては、
てっきち景初四年正月になったとおもっていたのに、
景初三年の十三ヶ月目に突入していたわけ。まずはこの事実を知るべき。
641 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:06
要するに、景初四年は短期だが1ヶ月存在したのだ。
景初四年は存在しないというのが間違い。
昭和64年は1月7日まで存在した。
>>638>>640 元号について基本すらわかってないのか、それとも無理に景初四年を正当化するために
そんなことを言っているのか・・・・
>>640 >景初三年の十三ヶ月目に突入していたわけ。まずはこの事実を知るべき。
そのような事実はまったくない。
644 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:20
>>638 >景初三年の正月に崩御したから、こそ、
>だれもが、これで来年は景初四年で確定だと思ったんだよ。
どうしてもそう言い張るなら、それを論証してみなさい。
むろん、実例も挙げて。
絶対に出来ないから。
645 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:22
>>642 景初四年は存在していないが、
誰もが存在すると思い込んでいたため混乱が生じたというのが実態。
>>643 まずは景初三年がどのように終わったのかという基礎からやり直してください。
646 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:24
>>644 てゆっか、改元が可能なのはどういう場合か御存知ですよね?
647 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:35
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立爲皇太子。是日、即皇帝位、大赦。
(景初三年)十二月、詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、
其復用夏正;雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、
其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」
斉王即位の記事と、改元の詔を挙げた。何ら不思議なところはない。
ということは、やはり明帝の崩御の時点で、景初が三年で終了することは
予定通りだったわけなのである。
>>646 皇帝が変われば改元するんだよ。
新帝即位とともに改元、というケースは簒奪のやり方なので
通例は年末まで待って改元する。
649 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:40
>>647 そこまでちゃんと引用しておきながら、
なんでデタラメな説明をするのか激しく疑問なの。
失礼で申し訳ないけど、
そこに書かれていることを本当に理解しているのかしら?
>>648 半分正解だな。そこまでは合っている。
しかし、改元できない期間の存在を忘れている。
正始への改元はその例外ケースにあたったために例外処置をとっているのを思い出せ。
>>650 正しい説明は既に行なわれてるやん。
二人ほど厨房が「景初四年がありえないことは12ヶ月も前に予測できた」などと、
事実と異なる嘘を言い張っているから荒れているんやろ。
>>651 例外処置、とする「説もある」というにすぎない。
しかし、その説は「景初四年」の銘文入り鏡が出土してからにわかに
論じられたもので、論議自体が熟成されていない上に反論も非常に多い。
>>652 現実に「景初四年」など存在しないではないか。
あったのなら実例を挙げて欲しい。
655 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:53
三少帝紀をいくら見ても、「景初四年」などは出てこないのですが・・・
>>536さん
>卑弥呼を共立したのは倭国を構成する複数の国によってです
其国本亦以男子為王佳七八十年倭国乱相攻伐歴年及共立一女子為王名曰卑弥呼
ここにでてくる倭国は卑弥呼より約200年前から続く委奴国の事だと思います。
私は最初の其国は伊都国と説明してきましたが、其国と委奴国の戦いの結果が卑弥呼を共立
になったと考えています。伊都国がある前原市と志賀島のある福岡市は隣です。
ご存知のように志賀島の金印をもらった国は漢に使いするを送りました。一方卑弥呼は魏に使いを
送りました。これらが関係するのは間違いありません。よく考えられている内乱ではなく、
国と国の戦争が卑弥呼を共立することになったと思います。
ご指摘の「世有王皆統屬女王國」についてですが
>伊都国は女王が属している国
狗奴國は女王が属してない国
ってことですよね
そうではなくて私は女王国を伊都国としています。また世有王も歴代の伊都国王としています。
この関係は歴代の王は複数の王、時代を表しています。一方女王国は
女性が王だから女王国と書かれています。
つまり過去から現代(卑弥呼の時代)まで続く伊都国王と卑弥呼が女王の
女王国は同じ国なんだと説明していると思います。
657 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:57
景初四年問題を語る上での、基本事項を把握しているかの確認をしましょうよ。
Q.正始元年正月の12ヶ月前は、何年の何月ですか?
まずはこれに答えてみてね。
「景初四年がありえないことは12ヶ月も前に予測できた」と言ってる人たちは、
おそらく、この基本事項からして把握できてないため誤ってるんだと思うの。
古代史の学者の多くは、「特別処置」説は支持していない。
ただ考古学分野でなおかつ三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説を唱える人が
強くそれを主張してる。。。
>>657 かはは・・・ どうしてそう「もってまわった言い方」をするのかね?
ま、反論されることがわかってるから、直球勝負が出来ないんだろうけれど(笑)
どっちにしろ、「景初三年」で終わることは12ヶ月前から予測出来たやん。
実際に「特別処置」をとってまでして景初を三年で終わらせたんだし。
661 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:06
>>660 まあ、そんなところですね。「景初四年」が「年号の基本的概念」としてありえないからこそ、
特別処置で景初三年で終わらせたわけです。
「年号」の概念の基本から逸脱しないように工夫されたわけですね。
>>657が「直球勝負」をしないのも、自分でそのことに気づいてるからですよ。
まずは、
>>659 は基本事項に答えられない厨房決定か!?
>>660 も『「景初三年」で終わることは12ヶ月前から予測出来たやん。』
と書いているので、当時どのように改元されたのか基本事項を知らないのが判明。
たぶん、この二人(あるいは一人?)が、
景初三年について勉強しようともせずに、自説を唱えているだけの状況のようだが、
一般論として、大人のとる態度ではないと思うのだが。夏休みなのだろうか。
そういや坂元義種氏、景初四年がありうる、とした説は、今も主張し続けているのかな?
結局、反論されて、再反論できなかったんだよね。
664 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:09
>>661 さんに質問です。
正始元年正月の12ヶ月前は、何年の何月ですか?
666 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:12
>>665 さんに質問です。
正始元年正月の12ヶ月前は、何年の何月ですか?
667 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/28 00:12
古代史の学者になるにはどうしたらいいですか?
「景初四年」が「年号の基本的概念」としてありえないからこそ、
特別処置で景初を三年で終わらせた。
これが正解。
つまり、年後の基本がわかっていれば、誰も「景初」が4年目も続くなどとは
思わないのである。
>>581さん
>質問1.もし伊都国に卑弥呼が居たなら伊都国以後の国の行程など
書く必要がなくすべて略すればよかったのではないですか?
なぜ邪馬台国まで書く必要があったのですか?
福岡の地形をご存知であれば分かり易いのですが
少なくとも不弥国までは(宇美町としたら)伊都国と奴国と不弥国は同じ
平野だと考えてください。実際には国の境には小さな山がある。今もそうですが
この平野は海と山に囲まれた平野です。これらの国は他の国とは高い山によって離れています。
ですから伊都国を説明するのであれば不弥国まで説明するのは自然なことです。
邪馬壱国は北部九州全体を表すと考えているので、首都とは別です。
>>668 あなた、言ってることが支離滅裂ですよ。
それは手順前後というもんです。
念のため確認ですが、
あなたの言う『特別処置』とは何ですか?
そもそも「年号」の基本的概念は、「皇帝」と大いにかかわることなのだ。
皇帝が変われば年号も変わる。
「変わらなかったケース」が異常として語られるくらいなのである。
中平六年のケースなど異常事態だからであろうが、それでも改元は一応された。
(二度繰り返したあげくに元の中平六年に戻された)
皇帝が崩御しても年号がそのまま、など、年号の概念からしてありえない。
「ありえない」からこそ、魏朝は苦悩し、「特別処置」でもって切り抜けたのである。
つまり、「年号の概念」に逸脱することなく、景初を三年で終わらせたのである。
皇帝が変われば改元される。これは「年号」の基本的概念の初歩である。
初歩であるからこそ、魏朝は悩み、特別処置をとったのである。
>>581さん
>質問2.一大卒の機能をもった組織が魏にもあるのに、あえて詳細に
一大卒のことを書いているのは首都のある国と倭を束ねる女王国が
別だったからではないですか?
三国志が書きたかったのは首都についてだと思います。首都の説明がない三国史
はありえないと思います。よく女王国という言葉がでてきますが、女性が王の国と
わかりますが、女王国が首都を表しているのだと思います。
自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国とあります
女王国が一大率を置いて諸国を検察します。それを伊都国が治めるのですから
伊都国が女王国で一大率が置かれた場所だとわかります。
っていうか、景初四年が当然、と主張する人たちは、
「皇帝が変わっても年号がそのまま」、というケースを挙げてみてくださいな。
>>671 うーむ・・・
それが正しいとすると、景初四年鏡は・・・
「今年は景初四年のはずだ鏡」ってことか・・・
679 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:37
>>656 せいじ氏
倭国大乱の主役が、伊都国VS(委)奴国という想像は良いでしょう。
そう考える人も多いと思います。
(細かい所は間違っています。倭国に1国を充てたりしてるところなど)
だからこそ、それを収めるべく共立された女王は伊都国王ではないのです。
卑弥呼は、伊都国王でもなければ、(委)奴国でもないのです。
その両国が妥協できる立場の人だったのです。
後半は単純に中国語としてありえない解釈です。
狗奴國、不属女王
伊都国、属女王国
これで全てが明らかです。あなたの論は完全に間違っています。
680 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:41
鏡の話から離れて、事実と当時の状況だけを公平に見ましょう。
だいたいさ、年が暮れる頃になって、突然、1年の長さを変えます、って、
いくら皇帝による詔だとは言え、異例すぎて、多くの人は予想つかなかったのは間違いないわけよ。
で、その前代未聞の異例事態が発生しなければ、
翌月には景初四年にせざるをえなかったことも事実で、
そのような状況では多くの人が混乱してしまったのは、さすがに否定できないと思うよ。
なので、景初四年は結果的に存在しなかったが、
景初四年になったと混乱した人たちがでてきてしまう複雑状況であった、が正解。
>>662 老婆心ながら忠告しておいてやるわ。
自分の信じる説が書かれた本を読むのも結構だが、その反対説もよく読めよ。
この論争は、すでに在野の研究家の間で行われたことだ。
簡単に言うなら、「年号の基本的概念」の論争だった。
景初三年に明帝が崩御した。この時点で、「景初四年」はありえない、ということだ。
これは「年号」の基本的概念なのだよ。おそらく「どの王朝の」「どの皇帝も」
この基本的概念から逸脱した「改元」などは行っていないはずだ。
もしそういうケースがあったとしても、改元を決定した本人が「これは異常なケースだ」と
認識していなかったことなどありえない。
それくらい、「常識中の常識」の基本概念なのだ。
>>581さん
>質問3.平原遺跡から殉葬者百余名の奴婢は発見されましたか?
平原遺跡についての今までの記憶の中にはないです。
平原の主体の王の箱式木棺の中も骨は溶けてありませんでした。
しかし考えると奴婢という身分から考えると本当に墓(棺)等に
すべての人が葬られたのか疑問に思います。
また平原は周溝によって他の場所と区別されていますから
同じ場所に葬られたかも疑問です。
百余人が死んだことは書いてありますが墓を作る為の結果であって
一緒に葬られるとは必ずしも書いてないです。
>>680 >景初四年になったと混乱した人たちがでてきてしまう複雑状況であった
ということは、「景初4年」の銘文入り鏡は、「魏朝」とは通じていなかった勢力の
生産物というわけですね。
684 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:00
>>681 あなたはまだ当時の状況を理解していないのでしょうか? では、説明するよ。
明帝は景初三年正月に死去した時点で、12ヶ月後の一周忌には前例(というか常識)により改元できないことが確定した。
(実際に、12ヶ月後には改元できなかった。これは史実。)
とすれば、特殊な異例事態であるので、例えば、「景初四年の途中で改元する」(年の途中での改元前例あり)とか、
「景初四年を終えて、翌年に改元する」などの種々の例外処理が必要なことを誰もが予想していたわけ。
そして、何の発表もなく、景初三年の12月になってしまった。
とすれば、常識的に考えて、上述したような例外処理をするのだろうと多くの者が思ったことは、さすがに避けられない事態であろう。
結果的には、『12月の翌月は、景初四年にならずに、景初三年のまま。』
という、想像を越えた、斜め上を行く例外処理がなされた。混乱必至であろう。
685 :
25歳♂職業;邪馬台国研究家:04/08/28 01:02
私は実は都市牛利の子孫です。
言い伝えによりますと、狗奴国王の
子供が、イヨと結婚して東遷したとのこと。
卑弥呼は張政に殺されたとのこと。
魏志倭人伝の記述は、張政が邪馬台国を
のっとるためにわざと嘘の報告をしたとのことです。
だからいくら後世の人が倭人伝から邪馬台国の
場所を特定しようとしても無理なんだそうですよ。
>>684 だから、わかってないのは、アンタの方だって。
>明帝は景初三年正月に死去した時点で、12ヶ月後の一周忌には前例(というか常識)により
>改元できないことが確定した。(実際に、12ヶ月後には改元できなかった。これは史実。)
これはその時の「状況」にすぎない。
しかし「年号の概念」は、どの王朝のどの皇帝にも共通する「不変の制」なのだ。
これから逸脱することは、どの朝廷であれどの皇帝であれ、絶対に「不可」なのである。
したがって「景初」が4年目も続くなどと、「年号の概念」を知っているかぎり
誰も考えたりはしないことなのである。
687 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:11
つまり、皇帝が景初三年に崩御した以上、「景初」は三年まで。
これは「年号の概念」からして、「絶対に曲げることのできない」ことなのである。
たとえ「12ヶ月後の一周忌には前例(というか常識)により改元できない」状況だったとしても
「年号の概念」からの逸脱は許されないのである。
当然だろう。その時の「都合」などより、どの王朝も守らなければならない
「不変の制度」が優先されるのは当たり前。
特に当時は「三国時代」なのである。そのことを証拠として、敵対勢力から
「偽朝」のレッテルを貼られかねない。
それくらい、「景初四年」が続くことは異様で無様なことなのである。
689 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:21
年号問題だが・・・・
どう考えても「景初三年の正月に皇帝が逝去したから、次の年は
景初四年になるだろう」と考える事ができる人間は「ものすごく
頭がいい。年号について豊富な知識がある」という事にならんか?
そして、そのような人間が、朝廷からのお達しを知らず、うっかり
ミスで景初四年の鏡を作ってしまうというのは、あり得ない話だと
思うのだが。
690 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:29
>>686 改元は、例外だらけだという史実を忘れるな。
当時のすぐ直前の189年は、中平六年→光熹元年→昭寧元年→永漢元年→中平六年、という例すら経験したばかりの時期。
で、いくら皇帝が改元を最終的にするつもりだったとしても、
庶民としては、それまで何の発表もなく、景初三年の12月になってしまって、
しかも12月の翌月は『1周忌のため改元できない』という状況では、
・12月の翌月は景初四年正月とし、年の途中で改元する
・12月の翌月は景初四年正月とし、翌年に改元する
どちらかしかありえないと思うのは避けられない状況であろう。
皇帝自身ですら他の方針決まらずにずるずると12月まで来てしまったくらいなのだ。
誰もが、12月になって翌月は正月だと思っていたところへ、
「翌月は景初三年13月(正確には当時の詔では『後12月』)とする」と急に発表されても、
斜め上すぎて、混乱が起こって間違いが生じてもやむをえない事態であろう。
691 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:30
もう一度説明するよ。
>>684 明帝は景初三年正月に死去した時点で、12ヶ月後の一周忌には前例
(というか常識)により改元できないことが確定した。
普通の工人に、そんな高度な年号の知識が、あるのでしょうか?
あったとしたら、すごく頭が良くて、知識のある人ですね。
普通の人だったら、そんなややこしいルールの事なんて、考えすら
およばず、
「皇帝が死んだから、来年は年号が変わるな」
と考えるのが、普通ではないですか?
「来年は景初四年」と予測できるような賢い人ですから・・・
>結果的には、『12月の翌月は、景初四年にならずに、景初三年のまま。』
という、想像を越えた、斜め上を行く例外処理がなされた。混乱必至であろう。
そういう処理がなされたと知って、「なるほど。そういうテがあったか!」
ってな訳で、混乱はしないでしょうねえ。
だから、「景初四年」の鏡を作るようなミスは、決してしないでしょう。
朝廷からお達しがある前に作っちゃったとしても、後で直す事くらい、
やるでしょう。
そもそも「景初四年」の鏡がそのまま使われていることが、変なのだ。
いくら多弁を要しても「景初四年」が存在しなかったのは事実。
「誤って制作した」と強弁したところで、「それが誤り」であれば
廃棄されるのは当然。なのに遺跡から出土した。つまり廃棄されずに
使用されたわけである。
つまりこの鏡の制作者と政権、使用者ともに「景初四年」が実在しない年号であることを
知らなかった、としか考えられない。
・・・ということは、三角縁神獣鏡の制作者は、「魏朝」とは無関係。であるばかりか、
その後の西晋朝とも無関係、ということになりはしないか?
693 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:34
>>690 へ? 改元が例外だらけだというなら、普通の人なら、来年は何年に
なるかわからず、混乱するのが当たり前でしょ?
>・12月の翌月は景初四年正月とし、年の途中で改元する
・12月の翌月は景初四年正月とし、翌年に改元する
どちらかしかありえないと思うのは避けられない状況であろう。
そんな事を予想できるのは、とても頭のいい、賢い人間だと思うのですが。
そういう賢い人が、朝廷からのお達しを知らずに、うっかり「景初四年」
の鏡を作るようなミスは、決してしないでしょう。
694 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:36
>>691 ちゃうちゃう。
改元の発表がないまま、景初三年は12月になってしまったわけよ。
で、当時の素人としては、「なにも発表ないし、景初四年になるんだな」とか、
あるいは1周忌であることに気付いた人は「1周忌なので、改元できないな」やね。
前代未聞の、「翌月を景初三年13月とする」は、プロですら想像できないっしょ。
695 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:40
>>694 当時の素人なら、
「なにも発表ないんなら、景初四年になるんだろうか? それとも新しい
年号になるんだろうか?」
と思うんじゃないですか?
「景初四年になるんだな」と断定して、鏡まで作っちゃうってのは、
すごい決断力のある人ですね。
そんな決断力のある人が、実際予想が外れちゃったとき、鏡を作り直す
決断が、できないのでしょうか?
>>690 「例外だらけ」というのであれば、
「皇帝が崩御しても、改元されなかった」という実例を挙げるべき。
中平六年のケースは私もさっき挙げたが、「中平七年」は存在しない。
つまり「光熹・昭寧・永漢」はなかったこととして「中平六年」に戻され、
翌年改元された。
これは「年号の概念」としては、何ら逸脱しないものである。
697 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:45
>>694 さらに言ってしまうと、あなたの言う通りだとすると、「景初四年」の
鏡が作られたのは、「景初三年の12月」と決定できてしまいそうですね。
しかも、年が変わる前(鏡を作り直す前)に、魏国外に持ち出して、
日本に行っちゃったと。
何で年が変わる前に、来年の年号の鏡を作る必要があったのか?
何であわてて国外に持ち出しちゃったのか?
もしかしたら、こんなフライングをしちゃった関係者が、処罰された
のかもしれませんね。
いろんな新事実が、浮かび上がって来そうです。
もしかしたら、中国史を塗り替える発見があるかも・・・?!
・・・何で、邪馬台国が畿内にあった事にするために、中国史まで
書き換えないといけないんじゃ!!
698 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:45
なんかみんなキモいんっすけど。
ヲタ臭くて寒気がしてきた。
700 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:48
>>695 『翌月を景初三年13月とする』という詔が、ぎりぎりに発されて、
国土の隅々まで行き渡って庶民が把握するには時間差が絶対ありそうだ。
おまけに、12月の翌月だから、元号はともかく、正月になったと全員思ってるはず。
そこに、『13月とする』という詔がぎりぎりに伝わってきて、
情報が間に合い、かつ、突然の異常処置を庶民が理解できたと思えん。
改元自体はまだなのは確実なので、
13月を知らない、あるいは、理解できない人たちが多くいて、
正月になった、つまり、景初四年正月になった、と勘違いした人続出まちがいなし。
>>700 じゃあ、あなたは「景初4年」の鏡は、「中国の民間人」が日本列島に持ち込んだ、
と主張するわけですね?
>>695 そうですね。皇帝は「正しい暦を奉じさせるもの」なのだから、下賜する物品に実在しない
年号を書いたままで放置するというのは、何としても不自然。
他に、存在しない先走り年号の実例がいくらでも残っているなら別ですが。
703 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:53
俺もその状況で生きていたら、
景初3年13月になったと思わずに、景初4年1月になったと誤解したと思う。
おまえら、景初3年13月になったと理解できる自信あるかー?
的確に情報入手できてしかも優秀なやつなら間違えなかっただろうが、
当時のぜーいんが、景初3年13月になったと理解できたとは、思えん。。
704 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:54
>>700 すごいなあ。
邪馬台国に贈る鏡を作るのに、どこぞの農具でも作っている民間の
鍛冶屋さんに任せっぱなしにした上、ノーチェックで邪馬台国に
贈っちゃった訳ですね!!
魏は邪馬台国に謝罪汁!! 賠償汁!!
>>690 > 混乱が起こって間違いが生じてもやむをえない事態であろう。
お膝元で何でそんな混乱が起きる可能性があるんですか?
>>690 中平六年→光熹元年の改元が、年号の概念から「逸脱」というほどではないけど、
ちょっと抵触するケースだったから、中平六年に戻されたんだよ。
つまり霊帝が崩御したあと即位した少帝(弘農王)は、霊帝の息子であるから、
「この改元はイクナイ」ということになったんだろうね。
707 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:59
>>703 そうですね。
俺もその時代に生まれて、魏の役人になっていたら、景初3年13月に
なったと思わずに、景初4年1月になったと誤解したと思う。
で、実際には景初4年にはならなかったのに、
「もしかしたら、鍛冶屋も同じ誤解していないか?」
とは、夢にも思わない。
「鍛冶屋はきっと俺より頭がいいから、年号を間違えてはいないはずだ。
大丈夫!」
と、思うはずだ!!
脅威の新事実!! 実は魏においては、役人より鍛冶屋のほうが、頭が
良くて、改元の情報もしっかり入手できていた!!
・・・でも実際は、馬鹿な鍛冶屋がいて、そいつが邪馬台国に贈る鏡を
作ってしまったのが、間違いの元。
>>703 「景初4年にだけはならない」という確信は、あっただろうね。
709 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:01
>>703 皇帝の命令で、担当の役人か何かが専門の職人に作らせるわけでしょ?
誰が何で間違えるの?
> 的確に情報入手できてしかも優秀なやつなら間違えなかっただろうが、
すなわち「的確に情報が入手できなくて、しかも優秀ではない者が作った」ということで
決まりですね?
710 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:03
鏡の問題とは全く独立に、
景初4年正月になったと誤解した奴が当時少なからずいたのは間違いない。
鏡の問題とは切り離して、これは確定。
自分は景初4年鏡国内製造説が正しいと思うが、
その鏡の問題とは独立に切り離して、景初4年正月になったと思った奴らが大勢いたであろうことは認めるべき。
感情的になって無茶を言ってるほうが、中立的に見て、トンデモに見える。
(反って、国内製造説の足を引っ張るので、切り分けできない厨房には反省してもらいたい。)
711 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:05
>>710 だから、邪馬台国に贈る鏡を作る人が、それを統括する人が、そんな
間違いをしていいの?
間違いをしちゃったとして、それを放置しておいていいの?
>707
> 俺もその時代に生まれて、魏の役人になっていたら、景初3年13月に
> なったと思わずに、景初4年1月になったと誤解したと思う。
暦のような重要なものをアバウトに捉えるようないい加減な者は、役人になんかなれるはずが
ないから関係ないでしょう。
713 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:06
>>708 >> 「景初4年にだけはならない」という確信は、あっただろうね。
じゃあ、景初3年12月の翌月を、庶民は、何年何月になったと思ったの?
あたしは、景初4年1月になったとしか、思えないと、思うんだけど・・
>>710 それはありえない、と何度も説明した。
年号や改元は「詔勅」で通達されるが、「年号の概念」というものは、
詔勅でどうにでもなるようなものではないからである。
715 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:09
>>714 だから、庶民は、景初3年12月の翌月を、当時、何年何月になったと思ったの?
>>713 「どういう処置が為されるのか?」
という興味で朝廷からの詔を待っていただろうね。
その処置が「景初4年」などというものだったら、仰天するわ・・・
>>710 必 死 だ な
「景初四年の鏡」が、魏で作られてないという事実は認めても、
「景初四年と勘違いした人が存在した事は間違い無い」という事実だけは、
何としても通したいのですね。
「景初四年と勘違いした人が存在した」という事実は、最初から誰も
否定していませんよ。
現に、「日本にはいたのだ」と主張している訳ですし。
魏にもいたって、おかしくは無いでしょうね。
718 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:10
>>716 庶民は、景初3年12月の翌月を、当時、何年何月になったと思ったのかしら?
>>715 少なくとも、「景初4年」だとは思わなかったんじゃないか。
「年号の概念」を知らない人は、別だけどね。
720 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:12
>>717 >「景初四年と勘違いした人が存在した」という事実は、最初から誰も否定していませんよ。
ところが、
>>714 は、さっきからずっと、
「景初四年と勘違いした人が存在するわけない」と主張している。
721 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:13
邪馬台国があったのは現在の大分県国東半島。
722 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:14
>>719 >> 少なくとも、「景初4年」だとは思わなかったんじゃないか。
じゃあ、景初3年12月の翌月を、庶民は、何年何月になったと思ったの?
723 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:15
25歳♂職業;邪馬台国研究家は書きこするな!おまえのような低脳は引っ込んでろ
>>720 アホ、あくまで「年号の概念」を理解してる人は、の話だ。
たとえば、漢字を知らない無知識人などは対象外じゃい
>>724 なるほど。すると、13月になった詔を知らないor理解できなかった人々は、
景初三年12月の翌月を、何年何月になったと思ったのであろう?
景初四年正月になったと誤解した人々が、多くいたと推測されるが。
少なくとも、洛陽の貴族や地方の役人などの中で、「年号の概念」を知らぬ者は
いなかっただろうな。
むろん「景初四年」が続くことを想定した人もいただろう。
だが、無意識・無条件に「景初四年」だと勘違いした人など、おらんと思う。
「混乱」したとしても、誰もが「どうなるんだろう?」と思いはしても、
「景初四年が続く」、と「勘違い」することは、まず考えられないな。
>>726 そうそう、景初4年になったと混乱した人もいて、
(その人にとっての)景初4年1月=景初3年13月の間は気付かずに、
景初4年の銘のものを作ったり書いたりしてしまったものもあるだろうが、
景初4年2月=正始元年1月には、改元が明確になって、景初4年は消えたと思う。
なので、魏で作られたとすれば、景初4年の銘のものは、
景初3年13月という1ヵ月間の間にのみ作られた可能性のチャンスがある。
728 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:31
10円玉とかの硬貨製造は、平成元年になったあともずるずると、
昭和64年のものが作られ続けて、国家も認めていたんだよなあ。時代は違うとはいえ。
あーいうものは切り替えに時間かかるのはしょうがないか。
「景初四年? わはは! なんじゃそら! やっぱ宦官の息子の倅が建てた
王朝だけあるわ(爆笑)」 (蜀漢高官の言葉)
「げ・・・景初四年だって?(しばし絶句)…おー恥ずかし・・・」(魏朝高官のため息)
・・・そんなドタバタがあったのだろうか??
>>729 「景初四年? わはは! なんじゃそら! やっぱ宦官の息子の倅が建てた
王朝だけあるわ(爆笑)」 (蜀漢高官の言葉)
「げ・・・景初四年だって?(しばし絶句)…おー恥ずかし・・・」(魏朝高官のため息)
「景初四年? 陛下! 不好、不好! 改元しないとひじよーにまずいです!」(皇帝側近)
「しまった! じゃあ、去年の十二月に改元の詔勅を出したことにしておくか・・・」(皇帝)
・・・かくて景初四年の鏡だけが残されたのであった・・・
731 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:41
年末になって、突然の景初三年13月発表にも、爆笑やら、ため息やら、だったんだろうな。
もうすぐ正月だと楽しみにしていたのに、かわいそうだ。
それよりも、13月ってのを理解できずにドタバタってのもありそうだ。
>>731 そうでもないと思うよ。「閏十二月」のようなものだと思えば、意外にすんなりと
受け入れられたんじゃない?
13月になるとは思わず、あるいは、13月になったと知らず、
職人さんが景初四年のを作っちゃったとしても、
どうせ東夷の女王国が何百枚も欲しいと言ってきてるだけのものであるし、
数多い中に景初四年のが混じっていても、わざわざ破棄もったいないと思う程度だろな。
あるいは、さらに加えて、魏からの景初四年のものをまねて、
国内にて劣化版の製造という可能性も高いだろうな。
734 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:47
>>731 > 年末になって、突然の景初三年13月発表にも、爆笑やら、ため息やら、だったんだろうな。
機械的につながるのが当たり前と思い込んでいる現代日本人ではあるまいし。
735 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:48
>>732 閏十二月の場合は、ちゃんと年の初めに決められているので混乱はない。
さすがに年の終わりになって、今年は13ヶ月とする、ってのは行き渡るの無理。
736 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:53
>>733 なんで「職人が自分の判断で勝手に作る」と思い込むのかな?
737 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:55
>735
> さすがに年の終わりになって、今年は13ヶ月とする、ってのは行き渡るの無理。
「皇帝の威令が行き渡っていない僻地で作られた」ということでしょ。
738 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:00
どっちにしろ「勘違い」説は成立しがたいかな。
739 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:00
だいたいさ、景初3年13月なんていう、史上最大の異常例外の239年に、
偶然にも、卑弥呼が魏に朝貢をスタート、っていう、運がいいのか悪いのか。
まあ、その朝貢で、景初3年正月の明帝の崩御を知っていたわけだからさ、
お手本もなく、景初4年鏡を作るとは思えないわけで。
魏においても起こった混乱で景初4年鏡が一部作られて、
卑弥呼へ大量に渡す中に混じっていても不思議ではないし、
そこに含まれていれば、参考にして劣化コピーを作ったとしても不思議じゃないよな。
740 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:03
>>739 魏で「景初4年」制鏡が制作されたと考えること自体、不思議なんですけど。。。
741 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:07
>>740 それを言うと、
卑弥呼も明帝が死んだことを把握していたわけなので、同様にして、
倭で「景初4年」制鏡が制作されたと考えること自体、不思議なんですけど。。。
むしろ、景初3年13月となった魏において、
「景初4年」制鏡が制作されたと考えるほうが自然。
もちろん、だからといって、全てが魏で製造とは限らず、
倭において模倣したものも多くあるとは思うが。
景初四年鏡は国産だろ。どうしたって。
743 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:22
実際に前年の十二月に詔勅で改元のことが通達されているのであれば、
「景初四年」の銘文入り鏡が魏朝において作られたことは考えがたい。
現代のカレンダーではないのであるから、何も前年から、「翌年の年号入り」鏡を
準備しておく必要性はないのである。
(正月に新年号鏡を用意する、という習慣があったことが論証されれば別であるが)
一方「景初四年」鏡が現実に存在する以上、「現在は景初四年」だと信じて制作していた
集団がいた、と考えるのが筋である。また、その「景初四年」の銘文鏡が廃棄もされず、
埋葬されたということは、その集団が「景初四年」が存在しなかったことを知らなかったか
あるいは、「そんなことはどうでもいい、文字はデザイン」だと考えて
制作・使用しつづけていたことになる。
洛陽から遠く離れた「大和」でこの鏡が制作されたとすると、はなはだつじつまが合うのである。
744 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:24
>>739 > 魏においても起こった混乱で景初4年鏡が一部作られて、
> 卑弥呼へ大量に渡す中に混じっていても不思議ではないし、
その可能性があるということは、当然のことながら、他に、混乱が起こったことがある
という実例が存在するわけですね?
>>742 「国産」というより、「使節団が現地で下賜された現地の真正の鏡とは別の、どこか僻
地で作られたもの」くらいのほうが穏当では?
745 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:24
>>741 だから、この「景初四年」の銘文入り鏡の制作者は、
「邪馬台国」とは別の倭人の制作、ということになりますね。
746 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:26
平原3-4号墓の殉死溝には16人が埋められてたらしい。
>>743 卑弥呼は239年の朝貢において明帝崩御直後だから事情を把握しており、
わざわざ、敢えて景初4年のものを作らせるはずがない。
全然つじつまが合ってないぞ。
748 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:36
「邪馬台国」とは別の倭人が模倣大量生産するならば、
景初3年の鏡を作っておけばいいんじゃないの?
だから、模倣元となる景初4年の鏡があったとしか考えられない。
749 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:36
>>747 だから「大和の勢力は邪馬台国ではない」ということだ。
>>749 やはり、そこにたどり着きますか・・・・
>>745 ???
> 「景初四年」の銘文入り鏡の制作者は、「邪馬台国」とは別
・・・という推論は妥当だと思いますが、「倭人」と断定する根拠は?
>>749 おいおい、さすがにそれは無茶だろ。
魏での製造の可能性を全く否定できていないどころか、
畿内が邪馬台国でない証明にもなっていないし、
妄想とまでは言わないが、自分にとって都合のいい仮定を積み重ねても自己満足にしかならなく無意味だぞ。
>>751 訂正。
だから、この「景初四年」の銘文入り鏡の制作者は、
「邪馬台国」とは別の日本列島に住む人間(勢力)の制作、ということになりますね。
三角縁神獣鏡がそもそも卑弥呼の鏡じゃないんだからさ。
4世紀くらいに流行した国産だろ。
中国の骨董品なんか壷だの皿だのに実在しない年号がよく書かれてるよ
年号入りだと価値があがるんだってさ。
>>749 「景初四年の銘文入り鏡のような奇妙なもの」を残した勢力なら、それは「邪馬台国」とは別系統でしかありえないと。
>>752 「景初四年鏡」が魏朝で制作されたとは考えられない、と、これまでさんざん
述べてきたわけですが?
757 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:49
>>752 > 魏での製造の可能性を全く否定できていない
? 「存在しない先走り年号の刻まれた金属器などの実例がある」んですか???
あるなら、「純正品」の可能性が高まりますね???
758 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:51
>>756 認めると都合が悪い人がいるみたいですね。
>>755 そういうことです。
特に邪馬台国には「塞曹掾史張政等」が派遣されたりしているわけですから、
仮にそんな奇妙なものがあったとしても、直ちに「廃棄」ということが為されたはずです。
760 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:54
>>754 真正の皇室関係品と認められているものにも存在しますか?
761 :
日本@名無史さん:04/08/28 03:58
>>759 事実に照らして妥当な推論としか思われないです。
ただ、「正規輸入ではない並行輸入品に変なものがあった」ということも、あくまで
可能性としては、ありえないではないですね。
また、派遣された者に、所蔵品の検査をする権限があったとは思われないですが。
762 :
日本@名無史さん:04/08/28 04:06
ま、僕は「景初四年鏡」についての専門家たちの学説を読み比べた結果、
三角縁神獣鏡=中国産説 を見限ったクチだからね。
763 :
日本@名無史さん:04/08/28 04:09
>>761 はい、その「可能性」を排除するべきではないと、私も思っています。
所蔵品の検査の権限、についても同意です。
ただし「間違った年号」の存在に気づけば、それを指摘するだろう、
という範囲にとどめておきます。
だから国産の、しかも民間で作ったものだろ。
765 :
日本@名無史さん:04/08/28 04:43
景初3年13月に魏の職人さんが作ったものが卑弥呼に渡されたわけだな
国産だったら既にあるものを模倣すればよいだけで
わざわざ景初4年のものを作る意義も動機も全くない
766 :
日本@名無史さん:04/08/28 04:52
>>765 前年の十二月に詔勅によって改元が通達されています。
したがって、魏朝で「景初四年」鏡が制作されることはありえません。
ちょっと変わったもんを作りたかったんだよ。
珍しい方が価値がでるかと思って。
そんなもんが詔書とともに倭国にもたらされるかいっ(釣られてみたw)
769 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:01
>>766 前年とは景初二年になりますが、
改元の詔勅は出ていません。
そもそもその時点では明帝はまだ生きています。
>>769 そういう詭弁を使わないと正当化すら出来ない論理なのね・・・
>>768 ちがうって。魏からもたらされた鏡じゃなくて国産だっつの。だからアリなの。
772 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:07
>>769 詔書が「景初三年」「正始元年」なのに、鏡が「景初四年」もありうるなんて
ちょっと自説に都合が良すぎじゃありませんか?
774 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:14
もしも倭国であとから製造したものだとしたら、
景初四年、景初五年、と、どんどん更新されるはずだが、
景初三年と景初四年のものしかない。そして、正始元年のものがある。
また、魏志倭人伝においては、景初三年(西暦239年)に百枚、及び、
枚数不明ながら正始元年(西暦240年)に鏡を与えたことが明記されている。
さらに、景初三年は12月になって、突然、翌月を13月(後12月)と決め、
てっきり12月の翌月は正月が来るものだと思っていたところに混乱を生じている。
異常な景初三年13月を理解せずに景初四年正月と誤認があったと思われる。
これらの3点はどれも調和しており、魏において、
景初三年・景初四年・正始元年の鏡が作られたとしか、3つを満たすことができない。
つまり、3つとも魏での製造があり、
それを元にして倭においてコピー品が作られたと考えられる。
>>774 「景初4年鏡」が魏朝製ではありえない、と夜通しかかって論証したわけだが。
>てっきり12月の翌月は正月が来るものだと思っていたところに混乱を生じている。
と考えるのは現代の人間の憶測であって、当時の資料を見ても、そのような混乱が
証明されるような記事は存在しない。
そして大切なことは、「景初三年」「正始元年」の詔書とともに下賜された鏡に
「景初四年」などとありもしない年号が刻まれていたなど、考えられないことだ。
そしてもっと大切なこと、それは、「景初四年」と刻まれた、鏡を含む金石文が
中国には「ただの一例」すらも存在しないことである。
>>775 てゆっか、ここスレざっと読んだら、
「景初4年鏡」が魏朝製の可能性がありうる、って思ってきたよ。
777 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:40
どの王朝にとっても「元号」というのは天子の象徴だもんな。
実在しない年号が刻まれた下賜物なんて、噴飯物もいいとこなんだよ。
むろん「絶対にあり得ない」とは言い切れないけれど、「有り得る」ケースとして
考えられることは、結局「人間のやることだからミスもありうる」式の論理でしかなく、
到底、論証としてなり立ちうるものではない。
むしろ「絶対にあり得ない」とした方が、筋の通った論理である。
779 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:44
情報や意味を知らない倭国においての独自製造だとすると、
景初三年と景初四年だけで、なぜ、景初五年などがないのかが説明できない。
すなわち、倭国においての独自製造ではなく、コピー品であると言える。
つまり、混乱期の景初四年も含めたコピー元の鏡は魏で製造されたと言える。
>>777 まったく同意!
「景初四年鏡」魏朝製の人は、「元号」というものを軽く見すぎている。
少なくとも朝廷からの「下賜物」に、ありもしない年号が刻まれた物が
存在するなど、考えられないことである。
>>779 しかし、あらゆる金石文に「景初4年」と刻まれたものが、
中国からは出ていません。
>つまり、混乱期の景初四年も含めたコピー元の鏡は魏で製造されたと言える。
というのは論証不足の上に、実証もともなわないアイデア倒れですね。
782 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:49
Spring8での放射光を用いた成分分析で、
中国産であるものが存在していることが判明しているんだから、
たいした論拠もなく騒いで国産だと主張するのは、いかがなものか。
783 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:52
というわけで、「魏朝からの下賜物」に「景初四年」年号の鏡があったことは
ありえない、という結論でよいですね?
「下賜物」以外のケースを、考えた方がいいかと・・・
784 :
日本@名無史さん:04/08/28 05:59
239年に卑弥呼に鏡を渡したら、もっといっぱい欲しいというもんだから、
240年に渡すためにせっせと作り始めたんだよ。
239年の12月になるまで改元なんて全く発表ないもんだから、
とりあえずせっせと景初四年で作ったんだよ。
おまけに12月の次は13月だと。なめてるな。
まあ、正始元年だと判明してからは、正始元年で作ったんだけどよ、
それまでに作った分も含めないと数足りないし、
とにかく欲しいというもんだから、景初四年のも含めて卑弥呼に渡したよ。
785 :
日本@名無史さん:04/08/28 06:01
あのさ。国産の鏡作部が貴族の知能レベルをためすために
いたずらで作ったんだよ。景初四年銘鏡を。
そしたらそれがウケて、その貴族が同僚貴族をからかうためにもっと作らせた。
「景初五年鏡や景初六年鏡が続々作られないのはおかしい」
なんて逝ってる椰子はアホ。
景初4年になったと混乱した人もいて、
(その人にとっての)景初4年1月=景初3年13月の間は気付かずに、
景初4年の銘のものを作ったり書いたりしてしまったものもあるだろうが、
景初4年2月=正始元年1月には、改元が明確になって、景初4年は消えたと思う。
なので、魏で作られたとすれば、景初4年の銘のものは、
景初3年13月という1ヵ月間の間にのみ作られた可能性のチャンスがある。
788 :
日本@名無史さん:04/08/28 06:09
>>787 景初三年十二月の詔勅に改元のことが通達されているから、
その説はアイデア倒れ。
789 :
日本@名無史さん:04/08/28 06:15
>>788 じゃあ、景初3年12月の翌月を、庶民は、何年何月になったと思ったの?
だからワザと作った鏡なんだよ!
まちがいなら、そんな恥ずかしいもの職人が気づいた段階で
回収して鋳潰すに決まってんだろうに。(国産でも魏鏡でも同じ)
魏鏡ならなおさらありえない。国家の面子にかけてそんなものを
外国に与えるわけがない。
791 :
日本@名無史さん:04/08/28 06:36
当時の状況と一般民衆の認識についての解説をしましょう。
・記録などの形式上
景初三年12月→景初三年13月→正始元年正月(西暦240年)
・一般民衆などの生活
景初三年12月→景初四年正月→正始元年正月(西暦240年)
さすがに、来月は正月だと思っている民衆に対し、
急遽13月を作ったので正月は延期、というのを強制することはできず、
また、前代未聞の13月ということや、ぎりぎりの発表であったなどが重なり、
景初三年13月であるということは一般民衆には普及しなかったわけです。
1. 景初三年13月のせいで、景初四年との誤認混乱があり、景初四年の銘のものが作成された
2. 景初三年のやりとりで卑弥呼からの要望により、翌240年に渡す鏡を一部先行して作成された
などが考えられます。逆に、景初五年など他の非存在年がないことも、これを裏付けます。
関係ないけどせいじさんってどこの人?
・・・いや、知ってるせいじくんかな、と思ってさ。
県だけでもキボンヌ
793 :
日本@名無史さん:04/08/28 08:14
>>791 馬鹿、三角縁が国産なのはもはや常識
そんな幼稚なとこで止まってくれるな(中国側の学者の見解もそう)
話しが前に進まんだろうが
794 :
日本@名無史さん:04/08/28 08:36
>>782 古いゴミとなった(叉は滅ぼした前勢力の)舶載鏡やその他の金属器を潰して作ってんだから
国産鏡やほう製鏡の一部に中国の金属が含まれるのも当たり前だろ!
795 :
日本@名無史さん:04/08/28 08:57
朝からみなさんご苦労様ですw
1800年も前の永遠におそらく
わかりもしないことにここまで
熱くなれるみなさんがうらやましいです。
796 :
日本@名無史さん:04/08/28 09:05
>>795 なに、所詮文字が出来てから話しだ
下らん利害関係の邪魔が入らなければそう難しくも無い
三角縁神獣鏡はすべてが国産で型が着いているので
次ぎは方格規矩四神鏡の青龍三年のインチキ鏡についても話しをしませう
先週発売の週刊文春で立花隆さんが「これまでの邪馬台国論争のすべてが、ほと
んど児戯に類したものでしかないという印象を受ける」と書かれています。
そう言われればですが、邪馬台国が北九州なら、対馬の次、次の次あたりに
名前が出て来てよさそう。
素人が登場するたびにそう言う言い方するからまた論争が荒れるんだよな
>>795 君は25歳♂職業;邪馬台国研究家でしょう?
なぜコテハンをやめるのだ?
801 :
日本@名無史さん:04/08/28 11:05
>>797 その青龍三年も漢鏡を踏み返した物にチョコチョコっと手を加えた物でしょ
景初三年を作ったような勢力が同じ目的で
卑弥呼の時代の後の古墳時代の遺跡から出土する方格規矩のすべてが
ほう製品でしょう、
本物の漢鏡や舶載鏡の殆どが白銅なのに対して
それらはすべて青銅製なんだから・・・
銘文も陳腐だし、書体も漢代のものじゃないですし
802 :
日本@名無史さん :04/08/28 11:12
>>682せいじくんへ
殉葬とは基本的には同じ場所に埋めること、また殉葬者は身分下級の者
になると思います。
>>746には16人が埋められていたとありますね。本当かどうか知りませんけど。
今後の発掘によっての可能性は否定しませんが、あなたはヒラバルを
卑弥呼の墓にしたいがために伊都国に卑弥呼が居たとしたいのでは
ないですか?それよりも伊都国より南に居たと思われる卑弥呼がなぜ
北の伊都国で埋葬されたかを考察するほうが建設的だと思います。
803 :
日本@名無史さん:04/08/28 11:38
>>782 日本製のアルミ製品も原材料が外国産だ。
804 :
日本@名無史さん:04/08/28 12:17
せいじさん、あなた変です。
魏志倭人伝で伊都国は女王国じゃありません。
両方別の国。
伊都国の戸数は千余戸。
女王が都をおく邪馬壱国は7万戸。
邪馬壱国の方が人口多い。明記されてます。
伊都国は女王国に「統属す」。つまり女王国に統率されてる国。
>>792さん HPみて下さい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/ >>802さん
同じ場所にこだわってらっしゃいますが、僕はそれに関して興味ないです。
同じ場所だとしても棺にはいってなければ骨はとけてわからないでしょうし、
平原の主体の他には2号墳等があり副葬品をともなったそれなりに高貴な人
ですから同じ場所にこだわるのは必要ないと思います。平原の被葬者は(女性)は
マタを朝日が昇る方向に向けられていました。また同じ方向に大柱が建てられ
太陽を意識する構造になっていました。このような神聖な場所に奴碑も一緒というのは
考えにくいです。
>>802さん
>それよりも伊都国より南に居たと思われる卑弥呼がなぜ
北の伊都国で埋葬されたかを考察するほうが建設的だと思います。
僕は三国史を根拠にしています。三国志には伊都国より南という表現はありません。考えられるとすれば
南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月でしょうが、
これは従郡至倭のように郡から南に水行十日陸行一月という意味です。
これは郡(帯方郡)から女王国まで一万二千里と同じです。郡はソウルあたりですから
南というのは九州です。距離も一万二千里で北部九州です。
ですから邪馬壱国という言葉は北部九州全体をあらわす言葉であって
女王の都というのが首都である女王国を表しています。邪馬壱国は
不弥国までの七ヶ国と其余傍国の二十一カ国の合計二十八カ国が
邪馬壱国です。それに対応する言葉が直前の南至投馬国です。
水行二十日というのは郡から南に水行二十日です。
三国志は首都を含めてすべて書かれたと考えているので、
二十八カ国を表す邪馬壱国の首都である伊都国に女王が葬られるのは
当然の結果です。
平原一号墓が三世紀のものだと言う検証が見当たらないのは何故だろう?
>>804さん
>女王が都をおく邪馬壱国は7万戸。
上の書き込みとダブってしまいますが、邪馬壱国の七万余戸は二十八カ国の
合計が七万余戸です。三国史はすべての邪馬壱国の国を説明しているはずです。
同じ様に三国史は首都を書かないはずはありません。
首都は女王国という言葉を何度も使っていますが、首都が女王国と
考えられるので、特徴的な説明をしている伊都国です。
歴代の王がいる伊都国。一大率をおさめた伊都国。
ですから邪馬壱国というのは点ではなく面という意味での邪馬壱国だと思います。
809 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:05
せいじ氏は、
狗奴國、不属女王
伊都国、属女王国
の問題に関しては何か反論することはできないの?
>>807さん
墓の箱式木棺は完全に新しい時代の物といえるけど。
この地域は弥生時代甕棺を使っていたけど、突然箱式木棺だから。
811 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:20
>>808 デンパを発さずに、ちゃんと読めよ。
東南陸行五百里、到伊都國・・・有千餘戸、
東南至奴國百里・・・有二萬餘戸。
東行至不彌國百里・・・有千餘家。
南至投馬國水行二十日・・・可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月・・・可七萬餘戸。
一方、同じ三国志東夷伝でも合計で書いている韓は次の文面だ。「總」が付いている。
馬韓在西。・・・凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。
弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
813 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:33
>>811さん
読んでますよ。よく読んでらっしゃいますね。私は伝の韓は読んでないですけど。倭人伝も合計が
書かれているのではないでしょうか。
南至投馬國水行二十日と南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月・・・可七萬餘戸。
は不弥国までと書き方が違うのはご存知ですよね。不弥国までは詳しく書かれています。
突然、投馬国から何里という表現から、日数に替わっています。邪馬壱国もです。
この二つの国は共に南という表現からはじまっています。この南は
日数という表現から郡からの日数と考えられます。もちろん郡からみて
南は九州です。
815 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:53
>>814 > 読んでますよ。よく読んでらっしゃいますね。私は伝の韓は読んでないですけど。
連続した記述であり東夷伝全体を読んで理解すべき。
そのようなデンパな妄説は全く成り立たないことを認識すべき。
816 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:53
>>812 伊都国〜属女王国
は、絶対にそう解釈できない。
なぜなら、属の用法は、
狗奴國、不属女王
から明らかな通りだと言ってるでしょ。
あなたの論は、完全に死んでるの。
これに反論できないなら、2度と書きこまないでほしい。
>>813さん
ですから平原遺跡は甕棺ではなくその後の時代の箱式木棺です。
>>816さん
すでに何度も説明しています。
>>813さん
>発掘者の原田氏は前原弥生古墳は2世紀前半を下らないと見ている。
これは聞いたことあります。
>発掘者の原田氏は前原弥生古墳は2世紀前半を下らないと見ている
季刊邪馬台国71号9ページに奥野正男氏の「邪馬台国の鏡」を紹介
されていますが、平原出土の日本最大の鏡は後漢鏡が祖形となっている。
原田氏の年代に従えば前漢鏡をモデルにした小型鏡よりもさきに日本最大の鏡があらわれる
ことになってしまうと紹介されています。
季刊邪馬台国参照
819 :
日本@名無史さん :04/08/28 16:15
>>806せいじくん
あなたは伊都国が首都名で邪馬壱国が指摘の二十八カ国だと言いますが、
では、「倭」とはどの範囲を指したものですか?あと同様に投馬国とは?
更に「女王国より『以北』、その戸数・道里を得て略載すべき〜」の意味は?
伊都国より東南にある国の戸数と道里が記載されていますよ。
更に「女王国より『以北』には、特に一大卒を置き〜」は?
この場合は「女王国に一大卒を置き」でよいのではないですか?
他の方の指摘通り「属」の用法もおかしいですよ。
>>819さん
倭はこの二十八カ国と女王に属さない狗奴国と私が女王に属していない
と考えている投馬国。ここまで合計三十国です。狗奴国と投馬国についてですが原文は
倭人の三十国についてなので、この場合女王に属するか属さないかは関係ないと
思います。私は邪馬壱国を三十国の中に入れていません。入れてしまうと重複
してしまうからです。このことからも邪馬壱国は点ではなく、面であり
上記の七ヶ国と二十一ヶ国を合わせた国が邪馬壱国だと考えられます。
また女王国の東に海を渡ったところにまた倭種がいるとかいてあります。その
南にシュ儒国。つまり韓国の一部から九州と中国・四国の一部が倭人の範囲です。
倭人の範囲と邪馬壱国の国々がすべて同じ範囲ではないので誤解しないでください。
あくまでも倭人は民族名ですので卑弥呼が治めているかは別です。
狗奴国がよい例です。投馬国は南九州の国。
>>819さん
>更に「女王国より『以北』、その戸数・道里を得て略載すべき〜」の意味は?
伊都国より東南にある国の戸数と道里が記載されていますよ。
自女王国以北其戸数道里可得略載其余傍国遠絶不可得詳。は
女王国より北は女王国を含めた北と考えています。なので、伊都国を含めた
北は対馬や壱岐はすでに説明したので、あらためて書かないという意味で
略載としたのではないでしょうか。
また其余傍国は伊都国、奴国、不弥国の地形を考えるとわかります。
これらの国はそれぞれ小さな山に区切られていますが、広い意味では
同じ平野です。それ以外の国は背振山系によって分かれているので、
その他の国々までは実際遠いのです。
http://www.h6.dion.ne.jp/~itokoku/
>>819さん
>更に「女王国より『以北』には、特に一大卒を置き〜」は?
この場合は「女王国に一大卒を置き」でよいのではないですか?
自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国は
女王国を含めた北に一大率を置き、諸国を検察する。それを伊都国が
治めるのですから、伊都国が女王国であって一大率が置かれた場所だと
わかります。おっしゃる様に女王国に一大率を置いたと考えることも
できます。伊都国が女王国ですから。
823 :
日本@名無史さん:04/08/28 17:31
佐渡の女王
曽我の豚様
824 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:53
>775
> と考えるのは現代の人間の憶測
もっと明確に言うなら、年号など「カレンダーの添えもの」くらいにしか認識していない
現代日本人のずれ果てた感覚に基づいた憶測、といったところでしょうね。
825 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:56
>>775 > そしてもっと大切なこと、それは、「景初四年」と刻まれた、鏡を含む金石文が
> 中国には「ただの一例」すらも存在しないことである。
それなら、「景初4年鏡は純正ではない模造品」で決定。そうなると都合が悪い人がいても、
事実は曲げようがないと。
826 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:58
>>777 その辺が全く理解できない人がいるわけですね。
いや、理解できても、認めると自説のつじつまが合わなくなって都合が悪いから
故意に歪曲しているだけかな。何か似たような人がいたそうですな。自説の都合
で何かを捏造した人。
827 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:01
>>779 > すなわち、倭国においての独自製造ではなく、コピー品であると言える。
> つまり、混乱期の景初四年も含めたコピー元の鏡は魏で製造されたと言える。
ほう。「景初四年鏡」は真正品だから、他に類例など絶無であっても、何が何でも
真正品である、ですか。見事な論理ですね。
829 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:05
>>780 > 少なくとも朝廷からの「下賜物」に、ありもしない年号が刻まれた物が
> 存在するなど、考えられないことである。
ところが、存在するのでないと都合が悪い人がいるらしいです。そういった人には、
一般に認められている事実など、何ほどの価値もないんでしょうね。
830 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:08
九州が魏の元号を使っていても、畿内なんて九州の衛星国だから、
元号改正なんて随分後になって知る。当たり前のこと。
831 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:08
>>781 > というのは論証不足の上に、実証もともなわないアイデア倒れですね。
そうなりますね。もちろん、単に、「現時点までに存在が報告されたり発見されたりして
いないだけ」とか、あるいは、存在したものの「ことごとく鋳つぶされたので現存しない
だけ」とかいう可能性もないではないですが、ちょっと不自然ですね。
832 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:16
>>782 > 中国産であるものが存在していることが判明しているんだから、
「材料が中国産」ね。鋳造がいつどこで行われたかは、全く無関係の別の事柄でしょ。
今日溶かして鋳直せば「現代日本製」に化けさせることもできますよ。
833 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:17
>>783 > 「下賜物」以外のケースを、考えた方がいいかと・・・
そうですね。
そこでやっと「本来のスタートライン」に立ったと。
834 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:23
>>789 > じゃあ、景初3年12月の翌月を、庶民は、何年何月になったと思ったの?
無学文盲の庶民がどう思ったのかなど何の関係もない次元の事柄。
835 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:25
>>793 「三角縁」というデザインも「ダウト」ですね。
そうなると、そういう変竹林なものを、一体、どこの誰が考案して作ったのか?
836 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:27
>>795 > 1800年も前の永遠におそらく
> わかりもしないことに
はあ? 「わかりきったこと」でしょ?
837 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:09
>>817 せいじ氏
一度も説明できてません。
あなたの勝手な解釈なら何度も聞きましたが、
私は「それは絶対に成り立たない」ということを示しています。
「A属B」は「AがBに属している」であることは、
狗奴國〜不属女王
から明らかではありませんか?
この疑問点には1度も答えることができていません。
あなたの論は完全に死んでいます。
838 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:37
景初四年のが魏で作られた可能性があると自説が崩れて困るってこと?
839 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:48
>>838 「魏」で作られたかどうか、という質問は、今現在このスレでは曖昧な表現。
「魏朝からの下賜物」の中にこの「景初4年鏡」があったかどうか、が焦点。
「景初四年鏡」が下賜物でない、とするなら、他のいっさいの三角縁神獣鏡は
下賜物でない可能性が強く、たとえ材質が中国の銅だったとしても、「魏朝製」とは
別のルートを考えるべき、というのが現在のこのスレの流れ。
正直、このスレの討論は、素人の域を超え始めている。
840 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:00
>>839 >>正直、このスレの討論は、素人の域を超え始めている。
だよね。単なる考古学方面の専門家だと、
景初三年後十二月(いわゆる13月)があったことすら知らずに議論してるしね。
とりあえず発掘されたらその十倍はあるだろう鏡が卑弥呼の百枚では
あり得ないことを認めることが出来ない学会のじじいどもは池沼という
事でいいですね?
842 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:08
>>841 なるほど。
景初三年、景初四年、正始元年、それぞれ何枚出土しているのか教えてー。
843 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:09
橿原考古学研究所の中でも、邪馬台国と切り離して考えるべきだという
若手がかなりいるらしいね。
今のトップが退いたら、どうなることやら
844 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:12
>>842 紀年鏡の数はしらないけど、「三角縁神獣鏡」はすでに400枚を越えている。
845 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:15
基本的に、のちの模倣コピー説の場合、
景初四年のも含めて、魏朝製下賜物に混じっていたってことだろうなあ。
勝手に捏造したものと考えると、なぜ景初四年だけ生じたのか説明できなくなるし。
846 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:15
ふんどしと三角縁神獣鏡は、列島製。
847 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:19
>833
いない。若手であろうが、オヤジであろうが、邪馬台国はマキムクという見解の
研究員はいません。
848 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:20
下賜物に「景初4年」がありえないことは、すでにこのスレではさんざん論証されていますよ。
「何らかのミス」で混じっていた可能性は否定できないにしても、「混じっていない」可能性の方が
はるかに高い上、だいいち、そういう形の論を論拠とすることは学問の方法ではない。
「三角縁神獣鏡」は、朝鮮半島で作られた。
チョソであれば、「景初四年」などという間違ったものを作って与えても、
決して日本には謝罪も賠償もしない。
あんな安もん臭い鏡をわざわざ魏が下賜するかよ。
当時三国の分裂、公孫氏もやっと滅ぼしたところだから、倭国の使いはそれはもう
喜ばれたことだろう。実際呉が公孫氏や倭国にまで触手を伸ばしつつあった訳だし。
出土数が400枚なら、実際に生産された数は五桁あるかもしれない。同じ鋳型で量産
しすぎたから表面もぐだぐなのかも。
851 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:25
△が日本製であろうと魏鏡であろうと邪馬台国は畿内だよ。
852 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:28
なるほど、景初四年をふくめて帯方郡で製造って可能性、たしかにありそうですね。
とりあえず△は国産でおわり。畿内説か九州説かには関係ない。
854 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:30
>>848 下賜物に「景初4年」がありうる、っていう説明がこのスレで何度もなされてますよ。
そもそも、でたらめ偽造ならば、どうして疑惑物が「景初4年」しかないのですか?
855 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:38
>>854 だから、「年号」ってのは天子の象徴でもあるわけよ。
天子にのみ許された特権。
ありもしない年号を「下賜物」にするわけがないの。
したがって「景初4年鏡」が下賜物では「ありえない」、の方が正しい。
856 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:41
>>855 景初4年銘は、突然生じた景初3年13月のための混乱のせいでは?
239年に100枚、そして240年にはおそらくもっと多数を下賜しているので、
混乱期の景初4年銘のものも破棄せずに交えて大量に渡したのでは?
857 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:46
>>856 いや、「改元の詔勅」が12月にすでに通達されているわけ。
現代のカレンダーじゃあるまいし、「前年から」翌年の紀年入り鏡を製造する
必要性などないわけだ。
民間で製造されたものが、民間を通して倭国に持ち込まれた、ならともかく
魏朝が正規のルートで製造させ、それを「下賜物」にするなど考えられないことなのです。
858 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:52
>>841 もし「純正品(のうちに存在したもの)」だったなら、後世にくりかえして複製が行われた
可能性も出てくるから、枚数は問題にならなくなります。
> 池沼
白けるからもうちょっと捻るとかしてくれる?
859 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:53
>>857 それよりも、景初四年が日本で作られたものしかない、とすると、
なぜ、日本でわざわざ景初四年のものを作る必要があるわけ?
模倣コピーであるならば、景初三年のままでよいし、
バリエーションをつけるならば、景初四年だけでなく他の疑惑物が生じる。
なぜ、魏において景初三年 後十二月の混乱で生じうる景初四年のものだけが、
景初三年と正始元年に混じって出土しているのかを考慮すべき。
すさまじくループさせてるな。854あたりが。
861 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:56
>>845 > なぜ景初四年だけ生じたのか説明できなくなるし。
そういう謎が生ずるわけですよね。
862 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:03
>>859 > 景初四年が日本で作られたものしかない、とすると、
??? 「日本で作られた」? そういってますか?
「魏で作られて下賜されたものではないと考えるのが妥当」としかいってないのでは?
> なぜ、日本でわざわざ景初四年のものを作る必要があるわけ?
その点は、「創製」と「複製」の両方の意味で、確かに謎。
>>860 ループしても構わないのでは?
わざわざ国内で、「三」を「四」に変えて偽造した、って説、無理があるよな。
三角縁神獣鏡で、他にもそういう偽造したものが存在するなら話わかるけど、
あやしいのは景初四年しかないんだろ?
そして、魏でちょうど景初四年混乱が起きているわけだし、
国内で偽造したっていうより、元々あったので真似してつくって増えたと考える方が自然。
864 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:04
鏡ヲタうぜえ。邪馬台国の話しようよ。
865 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:17
三角縁神獣鏡の出土北限が福島県(会津大塚山古墳)である、ってことが重要。
866 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:22
ようするに、「元号」の概念を理解してないから、話題がループしてしまうんだろうね。
ひと口に「景初4年」って言うけど、こんなの魏朝が下賜したら、魏の皇帝の威厳に
かかわることなんだよね。
867 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:27
下賜なんてありえない罠
868 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:30
>>866 あなたは知らないのかも知れないですが、実際に出土しているのですよ。
出土している景初四年の三角縁神獣鏡は、どうして生じたか説明できますか?
景初三年のものを真似して日本で偽造したとしたら、
どうして景初は「景初三年」「景初四年」のものしか存在しないのですか?
869 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:31
私見をのべるなら、「現在は景初四年」と信じていた集団がいて
この鏡(もしくはこの元になった鏡)を制作していた、とするのが
いちばん理解できる状況なんだけどね。
で、この鏡の使用者たちは、
「景初四年」が存在しない年号であることに最後まで気がつかなかったか、
「年号なんてどうでもいい」と考える集団だったか、
「年号の概念」を知らなかった集団だったか、
のいずれかだったと思うのだけど。
870 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:33
>>868 だから、「魏朝の下賜物」ではない、と言っているのだ。
魏朝の下賜物ではない=卑弥呼が魏朝から下賜された鏡ではない
ということだ。
「景初四年鏡」が作られるはずがない、などと誰もいってはいない。
そうそう。日本で作ったんだよ。
魏で作られたという説の人が、あれこれ理屈をつけて「こういう理由で
景初4年の鏡が間違えて作られてしまった」と主張してるが、実は
それはそっくりそのまま、「何で景初4年という鏡が日本で作られた
のか?」という理由になってしまうんだよな。
魏で作られてはいないという理由は、
>>866の述べた事で十分。
872 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:36
大陸で一切出土しない三角縁神獣鏡は、列島製以外ありえないだろ。
873 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:38
>>869 三角縁神獣鏡には、『景初四年』だけでなく『正始元年』のものもちゃんとあります。
したがって、年号を知らないとか、ずっと景初四年と信じていたとかは、嘘です。
おそらく、景初三年に突然13月が生じたための混乱期に作られたのでしょう。
あるいは、239年(景初三年)に渡したあとに追加製造をあらかじめ始めて
翌240年で改元され、そのまま景初四年と正始元年のを渡しただけではないでしょうか。
874 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:42
列島奥地で、皇帝の死を知っていたり、知らなかったり、畿内という僻地なら当然
景初4年の鏡を日本で間違って作ったのなら、何で景初5年以降も
作られなかったのか?
・・・まあ、単純な話だろ。
魏から卑弥呼が下賜されたという「本物」が存在して、それをパクって
作るのであれば「景初3年」ないし、翌年にするのが、当たり前だろ。
5年以降の分まで作ってしまったら、いくら何でも、
「ん? 景初って、そんなに長かったか?」
と思われてしまう。
魏の人は「景初4年なんて無かった」と知っているけど、日本人だったら、
「景初4年まで続いたんだよな?」ってな間違いを、後々までひきずる
事だって、あり得るだろ。
876 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:44
>>873 だから?
>おそらく、景初三年に突然13月が生じたための混乱期に作られたのでしょう。
百歩譲ってこれが「正しかった」としても、「下賜物に含まれることはありえない」
と、さっきから述べているのですよ。
しかし、「改元の詔勅」によって通達が為されている以上、「混乱による」云々の
論はアイデア倒れだと思うけどね。
何度も言うが、「現代のカレンダー」ではないのであるから、なにも前年から制作する
必要性はないのである。
877 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:45
すごい重大なことがあるよ。
魏で作ったにせよ、倭で作ったにせよ、
「景初三年」「景初四年」「正始元年」があるということは、
後者の「景初四年」「正始元年」は、240年頃に作られた証明になる。
なぜなら、例えば4世紀に捏造されたとした場合、
「正始元年」をそのとき作った人たちが知っているということは
「景初四年」が存在しないこともしっているわけで、
両方が存在することに矛盾が生じてしまう。
つまり、魏で作ったにせよ、倭で作ったにせよ、
「景初四年」「正始元年」の両方の存在は、
まさにその240年頃に作られた証明になっているわけです。
>>873 だから、魏で一時期の混乱があったとしても、その時に作ってしまった
鏡を、正しい年号に作り直さずに下賜するなんて、あり得ない!!
何度同じ事を言ったら、わかるんだ?
日本では後々まで混乱しちゃったから、「景初4年」がまかり通って
しまった。つまり日本製だというのが、自然な考えだろ。
879 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:49
部族社会だから、元号の申し合わせなど畿内で出来るわけがない
880 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:50
そもそも、景初3年から正始元年に改元される時に「混乱した」というけど
それを証明する資料などないんだよね。そう主張している人が
「混乱したんだろう」と勝手に想像しているだけ。
そして、混乱しただろう、の「だろう」がいつの間にか抜け落ちて、
混乱した→だから景初4年の年号もありうる と続け、さらにいつの間にか
混乱した→景初4年の鏡を制作した→それを卑弥呼に下賜した
と続けてしまってるんだよね。論証不足もいいところ。
>>877 いや・・・だから日本だったら、「景初四年」「正始元年」が両方存在
するなどと誤解していたというのは、あり得るだろ。
「お前の所の鏡はパチモンだぜ! 『景初四年』なんて書いてあるぞ!」
「阿呆か! 当時の魏は混乱していて、『景初四年』まで続いているんだ。
何故かというと・・・ゴニョゴニョ・・・」
などという愉快な会話が、4世紀頃の日本の豪族の間で、交わされたの
かもしれない。
>>878 正始元年の鏡がある以上、後々まで混乱したというのは嘘だろ。
正始元年を知っている人は、景初四年が存在しないことも知っている。
したがって、景初四年が後に創造されたという説は成り立たない。
(ただし、元々あって、模倣されたというならば、ありうる。)
たんなる誤植だろ。そういう鏡の方がマニア系貴族の間では価値が高いんだよ。
884 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:57
885 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:58
学者と厨房ばかりで製造業のヤツはいないのか?
製品を製造してから海外の目的地に輸送するまで時間がかかる。
しかも古代は今と比較にならん情報の遅れと輸送時間だ。
ロット番号の調整が間に合わなかったのだ。
>>882 「景初四年まであって、次は正始元年」あるいは「景初四年が途中で
改元して正始元年」という誤解は、あり得る話じゃないのか?
魏や後の中国ではなくて、日本においてなら。
当時の日本人が、中国の年号をしっかり把握できていたと、思ってる?
年号ではないが、北畠親房だって、「後漢書東夷伝に、邪馬台国の
女王卑弥呼の事が載っている」という、とっても恥ずかしい間違いを
やっている。
嘘だと思ったら、神皇正統記見てごらん。
887 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:02
>>877 「景初四年鏡」の存在は、たしかに、「魏代制作鏡」が存在したことの証明に
なることは間違いないね。
三角縁神獣鏡がその現物かどうか、は論議の余地があるとしても、少なくとも
「その元になった鏡」が魏代に、中国か日本か(あるいは朝鮮半島など)で
制作されたことの可能性は高い。
888 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:02
景初四年の三角縁神獣鏡が、魏製か倭製かは、両説とも甲乙つけがたいから置いとくとして、
魏での製造にしても、倭での製造にしても、
景初四年の三角縁神獣鏡は、西暦240年頃の製造なのは間違いない。
正始元年の三角縁神獣鏡の存在が、全てを物語っている。
>>885 あのな、1000枚以上ある三角縁神獣鏡の中で、年号が書いてある
ものは、数十枚。
「景初四年」なんて書いてあるのは、ほんの数枚。
何で混乱している時期において、わざわざ年号入りの鏡を作るんだ?
混乱しているなら、その時期には年号を入れない鏡を作るのが、
当たり前でないかい?
つまり、「景初四年」なんて鏡を作ってしまうのは、一時期の混乱が
あった所ではなくて、後々まで混乱が残った所に決まっているだろ。
890 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:09
>>888 いや、「三角縁神獣鏡」がそれかどうかは、まだまだ論議が必要。
ただ、「景初四年」の鏡がある以上は、「魏代の鏡」が存在したことは間違いない。
(それを元に、三角縁神獣鏡が制作された可能性もあるので)
>>888 だから違うって。
リアルタイムで作ったのなら、「景初四年は間違いでした!」ってのが、
すぐわかるだろ。
後々になって作るから「景初四年」などという大ボケをやってしまった。
>>888 正始元年の三角縁神獣鏡の存在は、その鏡が240年よりかなり後に
作られた事の証明。
240年において「正始元年」を知っている人であれば、「景初四年は
間違いだった」と、気付いていた事になる。
893 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:12
>>886 横だが・・・邪馬台国の話題だからいいだろう
…其大倭王居邪馬臺國。……(中略)……桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、
歴年無主。有一女子名曰卑彌呼……(後漢書倭伝)
載ってるんですけど?
894 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:14
>>891 後々になって、かつ、己未の年が景初三年で、庚申の年が正始元年とわかっている人が、
なんで、景初四年の三角縁神獣鏡を作る必要があるんだ?
景初四年の物は、魏で作られたか物かどうかはともかく、
同時代に作られたものとしか、解釈しようがない。
895 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:15
魏代に、「魏朝以外で制作された」とするなら、景初4年はありうるんだよね。
むろん、邪馬台国は魏朝配下だから、除外
>>892 >> 正始元年の三角縁神獣鏡の存在は、その鏡が240年よりかなり後に作られた事の証明。
意味がさっぱり分からないのですが??
正始元年のも景初四年のもあるということは、
240年(あるいは先行製造説を認めるとしても239年)に作られたのは明らか。
897 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:19
>>895 おいおい、魏朝や邪馬台国以外で、
なんで景初なんていう元号つかうんだよ?
しかもなんで景初っていう元号を知っているんだよ?
三角縁神獣鏡を製造したのは、魏朝か邪馬台国のどちらかであるのは自明だろ。
>>894 あの〜、景初三年、正始元年という年号の存在を知っている人は、
干支まで知っていると、どうして言い切れるので?
日本書紀見てごらんよ。歴代天皇の即位年が、どの干支なのか、
不明の天皇がいっぱいいるから。
何で同時代に景初四年の鏡を作っちゃった人は、正始元年だとわかった
時に、その鏡を直さなかったの?
その質問に答えてよ。
899 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:20
畿内は九州の配下だから、魏の元号使うんだけれど、皇帝死んでも知らないまま製造。
>>896 意味がさっぱり分からないのですが??
正始元年のも景初四年のもあるということは、
240年より遥かに後(景初四年は無くて正始元年だったという知識が
無かった頃)に作られたのは明らか。
901 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:22
>>899 じゃあなんで、正始元年の三角縁神獣鏡が出土してるんだよ?
902 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:24
最近渡来した職人だけ元号が正確
>>899 だから、皇帝が死んだの知らないで(その当時に)製造ってのは、
あり得ないって。
「正始元年」だとわかった時点で、「景初四年」などと大ボケかました
鏡は作り直すから。
「景初四年」「正始元年」と両方の鏡があるって事は、「当時そんな
混乱があったなんて、知らねーや」という時代に作られたんだってば。
904 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:26
部族社会がばらばらで、元号の正確度もばらばら
905 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:26
もし後の時代に作られているとしたら、
景初三年、とか、正始元年、とか、きちんと知識がある人たちが作ってるようなので、
景初四年、のものが作られてしまう余地は当然ないよね。
だから、景初四年のものは、景初三年13月前後の混乱期に作られたんじゃないかな。
ただし、魏で作られたのか、日本で作られたのかは、分からないけど。
906 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:26
魏朝の景初三年がすぎ、改元されて正始元年になった
↓
改元のことを知らず、現在が「景初四年」だと思っている集団(当然、魏朝ではない)が、
「景初四年鏡」を製作した。
↓
その集団は、のちに改元のことを知り、「正始元年鏡」の製作を開始した。
ここからが問題だ。その「景初四年鏡」はどうなったのか。
製作者集団が魏の配下(たとえば邪馬台国)であれば、直ちに回収され、廃棄された
はずである。
が、その鏡のすべてが回収できなかった、とすれば、どうなるだろう?
「年号の概念を知らぬ者」や「文字を理解せぬ者」、「年号なんてどうでもいい」
とする者の手に渡れば、それらが使用され続け、埋葬される可能性は大きい。
907 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:27
来年用の鏡だったり、過去の記念用だったり
908 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:29
魏の配下の九州倭人国のそのまた僻地の畿内だから、厳格な元号使用など無理
>>905 後の時代だからこそ、正しい知識が無くて「景初四年」「正始元年」
両方正しいのだと、勘違いしちゃったんだよ。
何度もくり返すけど、リアルタイムで「正始元年」を知ってしまった
のなら、すぐ「景初四年」が間違いだとわかる。
>>906 数年経つのなら回収不能だけど、たかが1年経たないうちに回収不能に
なるとは、とても思えないが。
910 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:32
>>897 だから、魏朝の「制式」でない鏡、ということ。
邪馬台国の場合も、「詔書」をもらっているから、「景初四年」という
年号の鏡を作らない。
つまり、「倭国の一国」で、「自分たちは魏朝の配下」と主張している集団が
製作した可能性が大きい、ということ。
911 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:32
>>906 >>直ちに回収され、廃棄されたはずである
そこに嘘、あるいは、ごまかしがあるんだと思います。
つまり、正始元年のものがある以上、たとえのちに作られたとしても、
直ちに回収され、廃棄されたはずですよね。
でも、現実に景初四年のものがあるということは、
どの時代に作られたとしても、回収廃棄してないってことです。
つまり、正始元年のも景初四年のも容認している。
100枚あるいは何百枚も与える中に、工人が銘した年号チェックで、
わざわざ回収なり廃棄なりしないってことだと思います。
>>911 そうそう。その通り。
三角縁神獣鏡を作った連中は、「景初四年」「正始元年」、両方とも
正しいと思っていて、「景初四年」が間違いだとは知らなかった。
これは、リアルタイムで年号の情報を得ているなら、あり得ない事。
かなり遅れて情報を得ているので、誤ってしまった。
913 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:36
後の時代で、「景初三年」も「正始元年」も知っているなら、
「景初四年」がないことも知っているだろ。
つまり、三角縁神獣鏡のオリジナルは同時代の製作ってこと。
(ただし、後の時代に、完全コピー品で増産した可能性はある。)
914 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:39
>>911 >その鏡のすべてが回収できなかった
という可能性を述べていますが?
少なくとも「邪馬台国」は、年号の概念について知識はあったはずだし
それがいかに朝廷にとって重要なものか、という認識も持っていたはず。
邪馬台国にとって、魏朝は大切な後ろ盾なのですから。
存在しない年号の鏡を製作したのが「邪馬台国」だとしたら、ただちに
回収されたはず、と主張するのは、けっして私の勝手な想像ではないのです。
915 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:45
冷静になって、考えてみましょうよ。
後になって作られた(≠模倣ではない)とするならば、
どうして「景初三年」「景初四年」「正始元年」という年号が選ばれたの?
その3つの選択は、239〜240年に作られた以外に説明がつかないですよね。
後になって、かつ、それらに混じって「景初四年」を新たに考えつきますか?
同時代の混乱期に、邪馬台国で作られたのならば、有り得るでしょうけど。
回収もなにも、ばらまく前に気づくだろ。
917 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:48
ただ、邪馬台国で製作された、とするなら、確実に「回収・廃棄」された。
つまり、遺跡から「出土」したのであれば、そこは邪馬台国ではない、ということだ
918 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:51
魏や邪馬台国以外で、なんでわざわざ『正始元年』の鏡を作る必要があるんだよ?
919 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:52
「我々は魏朝の配下」と主張する集団は、なにも邪馬台国だけとちゃいまんがな・・・
福岡県から43枚出土しているので、
福岡県は邪馬台国ではないってこと??
921 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:55
>>919 具体的にどこなの〜?
三角縁神獣鏡を作ったのが魏でも邪馬台国でもないと主張するなら、ぜひ教えてー
922 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:57
>>921 倭国は邪馬台国も含めて30国あったりする・・・
923 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:59
つまり、伊都で作られた、ってことだな。
924 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:03
>>920 「景初4年」が福岡からそんなに出土していたとは・・・
925 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:05
ただ、「製作者集団」が邪馬台国でない、とは述べていないよ?
邪馬台国の可能性は大きい。
が、「景初四年鏡」が出土したところは、邪馬台国ではない、ということだ。
景初4年
景初三年でも四年でも正始元年でも、大差ないよ。鏡は鏡にちがいない。
929 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:10
奈良県の黒塚古墳で見つかった三角縁神獣鏡と、
福岡県の石塚山古墳で見つかった三角縁神獣鏡は、
同笵鏡(=全く同じ鋳型で作られたもの)であることが判明しているので、
奈良県も福岡県も、同じ勢力圏だったのでしょうね。
930 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:12
931 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:14
>>929 同じ勢力ではないな。
だいいち奈良からは「鏡」といっしょに「錦・絹」「矛」「鉄器」などが
出てきていない。
932 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:17
同じ勢力圏でないのに、なんで、奈良県と福岡県で同笵鏡が出土しているの?
933 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:19
例えば、福岡県の石塚山古墳とかは3世紀後半ですよね。
やっぱり、三角縁神獣鏡の製造は同時代と見るべきではないでしょうか?
934 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:20
>>932 そんなら、「魏朝の下賜物」がどこかから出土したら、魏とその場所は
同じ勢力圏になるんかね?
935 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:24
奈良県と福岡県が敵対勢力、あるいは、互いに無関係な勢力だったら、
同じ三角縁神獣鏡がそれぞれ大量に出土しないと思います。
どちらも魏志倭人伝の中に出てくる邪馬台国の関係国のどこかになるのではないでしょうか。
936 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:29
三角縁神獣鏡の出土枚数(20枚以上)一覧
福岡県 43枚
岡山県 24枚
兵庫県 44枚
大阪府 38枚
京都府 66枚
奈良県 99枚
937 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:31
女王のいた邪馬台国は、やっぱ近畿ってことか。
そもそも邪馬台=ヤマトなのだから当たり前すぎる結果だが。
938 :
日本@名無史さん:04/08/29 03:44
三角縁神獣鏡が1枚も出土していない都道府県一覧
長崎県、高知県、
東京都、埼玉県、栃木県、新潟県、山形県、宮城県、岩手県、秋田県、青森県、北海道
あの時代に、これらを除いて全てなんらかの関係を持っていた、ってのはすごいな。
ちなみに関東方面でも、群馬12、山梨3、神奈川2、千葉2、茨木1とある。
また、東北方面でも、福島県で1枚出土していて、これが北限。
近畿以外では、福岡県の49枚と、東海4県の計59枚が目を引く。
(東海4県の内訳は、三重15、岐阜16、愛知18、静岡10)
藻前らいい加減に寝ろ。もうつきあえん
940 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:05
物資的に近似した倭人文化圏だったということだ
941 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:10
>>923 つまり、伊都で作られた、ってことだな。
↑
全く違う。
素直に三国志を読めば、伊都国は邪馬台国に従属する
国々の中で、行政・外交の担当。
よって、邪馬台国の女王が、魏から詔書をうけとり、
「景初四年の鏡は間違い」、と全ての国主に通達し、
確実に鏡を回収・廃棄したなら、
その通達と回収の役目を果たしたのが、伊都国なのだ。
だから伊都国近辺で景初四年鏡が、一番多く
見つかったとしても、
回収を担当した国だからというのが正しい見方。
942 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:12
伊都国で作った(だが、回収・廃棄を拒んだ?)。
この論はありえない。
第一、伊都国が邪馬台国に対抗して
「我こそが魏の臣下」を名乗るなら、
魏の権威に逆らうような、元号違いの鏡など、
判った時点で廃棄するはず。それが魏への忠誠心を
現わす証しなのだから。
矛盾している。
943 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:31
青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土しているのは、
京都府の太田南古墳群と、大阪府の安満宮山古墳ですよね。
やっぱり、邪馬台国は、畿内だと考えるしか、なさそうですね。
944 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:42
錦・絹が出土しない奈良県が、邪馬台国でないのは明らか。
945 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:45
ってか、「錦」「絹」が出土するのは福岡県だけ。
ってことは、邪馬台国の所在地、決定じゃん
946 :
日本@名無史さん:04/08/29 04:48
青龍三年の方格規矩四神鏡は、
卑弥呼が朝貢する239年の4年前のものであることから、
もらった100枚の一部の可能性が高いのではないか?
京都や大阪で出土しているということは、
魏と交渉を持った倭国の範囲が九州内のみではないことを示しており、
既に畿内も九州も女王のもとに統合していたということになろう。
947 :
日本@名無史さん:04/08/29 05:14
そういや、三角縁神獣鏡の形式が中国で全く出土していないことが、
三角縁神獣鏡の国産説の説明とされてきたんだよね。
ところが、張氏車騎神獣画像鏡という全くそっくりなものが
中国でも出土してるらしい。大きさも直系23cmでほぼ一緒。
220年頃と見られている。
これにより、卑弥呼に与えられた鏡が三角縁神獣鏡であり、
当時の魏に既にあった張氏車騎神獣画像鏡をベースとして作られた見ることができ、
三角縁神獣鏡の国産説を支えていた根拠がなくなったと言える。
948 :
日本@名無史さん:04/08/29 05:29
949 :
日本@名無史さん:04/08/29 05:35
Spring8での成分解析による三角縁神獣鏡関連の結果
(1)中国鏡と古墳時代倭鏡の成分は異なる
(2)中国鏡の中でも三世紀の三国・西晋神獣鏡は互いの成分の類似度がとくに高い
(3)三角縁神獣鏡のうち六面はこの三国・西晋神獣鏡のグループに入り、
二面は古墳時代倭鏡のグループに入った
つまり、一部は確実に倭における国産であることが判明し、
一部は確実に魏において作られたことが判明したのである。
950 :
日本@名無史さん:04/08/29 05:42
>>949 「材質が魏晋の物と同じ」であって
「魏の製作」と断定されるには、まだ課題は多い。
鋳型などが出てきたら、確実なんだけどね。そこまでは無理としても、
せめて大量に中国から出土するか、同笵鏡などが出てきて欲しいね。
951 :
日本@名無史さん:04/08/29 05:47
でも、なんで「漢式鏡」や「きほう鏡」が、卑弥呼の鏡の対象から
除外されてんの?
952 :
日本@名無史さん:04/08/29 06:18
卑弥呼が最初に下賜されたのが「漢式鏡」や「きほう鏡」などで、
それを見た卑弥呼たちが、その後、魏晋に鏡の「特注」を依頼したんじゃないのかなぁ?
それなら三角縁神獣鏡が、中国から出てこないことの説明がつく。
「紀年鏡」を、Spring8で成分解析して欲しいなぁ。
「景初三年」「景初四年」「正始元年」の銘文を持つ鏡が、どのグループに
分類されるのか、すごく知りたいよ。
953 :
日本@名無史さん:04/08/29 06:33
>>952 >>三角縁神獣鏡が、中国から出てこないことの説明
張氏車騎神獣画像鏡という全くそっくりなものが出土しているらしい
すぐ直前の後漢時代のもので直径23.2cmとほぼ同じ
>>魏晋に鏡の「特注」を依頼したんじゃないのかなぁ?
おそらく張氏車騎神獣画像鏡をベースにして特注したものと思われます
>>950 >>せめて大量に中国から出土するか、同笵鏡などが出てきて欲しいね。
中国で魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていないらしくて
今後の発掘次第では出土するかもしれなくて
現時点で出土していないことは魏製を否定する判断材料にならないみたい
954 :
日本@名無史さん:04/08/29 08:27
極右の折れとしてみれば
日本は畿内を中心に同心円状に発展していないと嫌だね。
955 :
日本@名無史さん:04/08/29 08:33
三角縁神獣鏡の銘文例(大阪府の国分茶臼山古墳の出土)を見てみると、
『吾作明竟真大好 浮由天下 ■四海 用青同 至海東』
「私は明鏡を作る。まことに良い品である。天下を浮遊し四海に遊ぶ。青銅を用いる。海東に至る。」
ここで、鏡の原料には青銅を用い、鏡は海東に至る、とある点が重要です。
つまり、鏡は青銅を用いられて作られ、(中国からみて)海東すなわち日本へ至るわけです。
魏において製造されたということがわかります。
954 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/08/29 08:27
極右の折れとしてみれば
日本は畿内を中心に同心円状に発展していないと嫌だね。
↑ こういうチンカスが学者にも多いから困る。相対的には九州説が圧倒的に有利なのに、
こういった所で常に一点突破をはかろうとするからいつも議論がおかしな方向に行ってしま
う。要するに近畿説の言うことは全部釣りなんだよ。
昔から日本の歴史学は訓固注釈学と悪口されるが、未だに体質は変わってないよね。
もっと物流や政治学、経済学、神話や文献学と合わせていろんな可能性を吟味し、そこから
議論をする段階なのに、「だろう」「らしい」「と考えてもおかしくない」といった詭弁だけで砂上
の楼閣を組み立ててしまう。頭はいいんだろうが、理系的な意味での弁証法的構造が無いか
ら、結局推測の上に屋上屋を重ねる議論ばかり。
だからすぐに「学会では・・・」とか持ち出すんだよ。まだ定説とか言える状況じゃないのにね。
957 :
日本@名無史さん:04/08/29 08:46
>>956 わざとらしい釣りに反応すんな。あんな事ワザワザ書くの逆に日本人ぽくない。
958 :
日本@名無史さん:04/08/29 08:49
群馬県の柴崎蟹沢古墳の出土の三角縁神獣鏡に書かれた銘文中には、
『銅出徐州 師出洛陽』というのがあります。
「銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ずる。」とあり、
徐州の銅を用いており、鏡師は魏の都である洛陽に住んでいるようです。
つまり、三角縁神獣鏡のオリジナルは確実に魏で作られており、
三角縁神獣鏡の出土分布からみて、邪馬台国は畿内であるとともに、
九州から福島県に至るまでの勢力圏を持っていたことがわかります。
959 :
日本@名無史さん:04/08/29 09:52
大分あたりじゃない。
960 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:05
だれか
>>958のズタズタの意味が通じたやついるか?
ワシが翻訳してあげよう。
↓
鋳造時術の優れた九州が邪馬台国だったが、鉄器が無く、絹も無い
武器といえばサヌカイトしかないド田舎畿内では、鏡をことさら珍重した。
邪馬台国は福島県までを配下においていた。
三角縁神獣鏡は、中国鏡の列島側のパクリであることは間違いない。
961 :
日本@名無史さん:04/08/29 13:27
>>960 ド田舎畿内では、鏡をことさら珍重した
↑
だから卑弥呼の時代においては、鏡や銅鐸や玉(=宗教的な霊力)の方が、
現世的な武器や物質より人の心を動かす力は上なんだってば。
何度言ったら判るんだよ。
962 :
日本@名無史さん:04/08/29 14:13
>>960 >邪馬台国は福島県までを配下においていた。
>三角縁神獣鏡は、中国鏡の列島側のパクリであることは間違いない。
詳しく
963 :
日本@名無史さん:04/08/29 15:28
964 :
日本@名無史さん:04/08/29 16:14
オウムの麻原は卑弥呼の鬼道を崇拝してたらしいぞ。
965 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:52
>>873 > 三角縁神獣鏡には、『景初四年』だけでなく『正始元年』のものもちゃんとあります。
>
> したがって、年号を知らないとか、ずっと景初四年と信じていたとかは、嘘です。
「それらを作ったのが同じグループであると仮定するなら、そのグループは、ずっと景初四年
と信じていたとは考えられない」というべきでしょう。
> あるいは、239年(景初三年)に渡したあとに追加製造をあらかじめ始めて
> 翌240年で改元され、そのまま景初四年と正始元年のを渡しただけではないでしょうか。
だから、「真正の下賜品なのかどうか?」は、本場の中国において、そういう「結果として
存在しない先走った年号を入れた金属器が他にも存在するのか?」が決め手になるでしょう。
他に存在するなら「特に珍しくもないありふれたこと」になるのに対して、他に存在が認め
られていないなら、「極端に例外的なケースが後世に残された珍しい例」であるか、あるい
は、「本場物ではない」か、いずれか、ということになると。
966 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:53
>>964 あんな我利我利亡者の妄言など、歴史とは何の関係もない事柄です。
967 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:57
968 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:00
>>877 仮に「景初三年」が下賜されたオリジナルで、「景初四年」が、それを真似て、ただし年
号を推定ですげかえた模造品だとするなら、何で「待ってましたとばかりにすぐに作れる
の?」という疑問もありますな。
「正始元年」
969 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:02
> あるいは、239年(景初三年)に渡したあとに追加製造をあらかじめ始めて
> 翌240年で改元され、そのまま景初四年と正始元年のを渡しただけではないでしょうか。
もし中国(魏朝)内で「あらかじめ製作」されたとしても(それもありにくい話である)、
そんなものを下賜するわけない。
現代人は、ひとくちに「年号」などと軽く考える悪い癖があるが、当時の人々にとっては
畏れ多くも天子の元号ですぜ。
970 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:08
>>968 日本では大晦日から新年の物を用意して、正月を祝う風習がある。
倭人にとって鏡は「神器」であるから、「景初四年」の鏡が用意され、
正月の祭祀に使われた可能性がある。
この推測の方が「実在しない年号の下賜物」わりもずっとリアリティがあると思うのだが?
971 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:15
>>885 年号は「特定の皇帝の治世であることを世界に知らせるための重要な記述」であって、
「単なる製造年月日の記述の類い」ではないから、そういった類推は成り立たない。
現代人日本なら、詰まらないことにプライドをかけると思うのが普通だけど、キリス
ト教徒でもないくせにキリスト教歴を「西暦」と称して日常的に使って怪しまない
無節操な現代日本人の感覚のほうが異常なだけ。
972 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:16
>>969 現代日本にどっぷりつかって、「現代日本の自分の感覚がすべて」と決めつけている輩が
多い、ということですね。
973 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:17
民国暦を使用し続ける台湾政府は正常である。
974 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:19
>>970 それはすなわち、「見本をもらったらすぐ模造できるだけの技術と材料があった」と
主張するわけですね。
975 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:22
>>973 ですね。歴史を正確に把握したいなら、「現代日本人の感覚は異常」と明確に認識して
おくことが必須と。
976 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:26
>>972 まったくです。
だいたい「景初三年」が十三ヶ月あった、と主張しておきながら、「景初四年」と勘違いした、
という推測がよくわからない。
うっかり勘違いするくらいなら、改元せず景初四年のままでも、不都合はない。
「景初四年」がどうしても不都合だから、景初三年の後十二月なんてのを作ったのだ。
現代人にとって異様な「景初三年後十二ヶ月」だが、当時の人たちにしてみれば、
「景初四年」がそれほど不体裁で無様なものだったのである。
977 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:29
>>974 当時の日本は「銅矛」「銅鐸」を製造する技術があったんですよ?
問題はむしろ「銅の原材料の確保」の方でしょうな。
978 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:35
当時の倭国は【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】というもので、
一年に2回正月があったことは、祝詞によっても証明されています(大晦日も2回)。
つまり、春耕の祭祀(仮名)の時に「景初4年鏡」が用意され、秋收の祭祀(仮名)の時
正始元年鏡が用意された、という可能性もあるでしょう。
むろんこれは、まだまだ推論の域ですが。
979 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:48
ついでに言うなら日本には「鏡割り」の風習もある。
今でこそ「餅を割ってぜんざいを食べる」ようなものだが
今でも田舎では、祭壇に供えた物を、出席者で分けて持ち帰る。
これは「お盆」の時もそうである。
紀年鏡がそのようにして地方豪族にわたった場合、後に「景初四年」が実在しないことに
気づいても、すべてを回収・廃棄することは困難と思われる。
980 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:50
「景初三年鏡」「景初四年鏡」「正始元年鏡」の件については、
まあ、魏でつくられたか、倭でつくられたかは、両説甲乙つけがたいが、
どちらにしても、オリジナル鏡は、239〜240年頃に作られた以外に説明ができない。
加えて、後に、粗雑な模倣品が作られているのも事実。
↑珍説のハイブリットw
982 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:57
>>981 なんで正月にお供えする餅を「おかがみ」と言うのか。
また、なんで「おかがみ」をわざわざ作ってお供えするのか。
そういうことを考えたら、もともと「神器」である鏡が新年の祭祀に使われていた、
という推論が「珍説」などでないことがわかるだろう。
この推論が正しいか誤りかは別としても、「珍説」としか理解できないのは、
アンタの知識・想像力が欠如しているのが原因なのだ。
983 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:58
>>977 当時の日本は「銅矛」「銅鐸」を製造する技術があったんですよ
しかも高い技術であった。
薄く「銅鐸」を製造する技術は、現在の技術者の研究対象にして
学会で報告しているほどだ。そういう職人がいた。
984 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:08
「銅鐸」は何の目的で造られたのか?
風呂を沸かすため?
985 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:10
>>984 祭祀音楽を奏でるための楽器というのが有力だけど、
もともとは軍事用。戦場で味方を鼓舞するため、あるいは
軍事的な作戦や、合図などに使用するのが目的。
986 :
日本@名無史さん:04/08/29 21:22
そうなんです。
畿内政権は既に、あの巨大な銅鐸を作り上げる技術を持っていたんです。
しかし、戦乱の中、畿内政権は卑弥呼の鬼道による収拾をつけ、
銅鐸はすべて山に埋めて、卑弥呼による鏡を用いる政治へと進みました。
>>982 いや、「↑」がさしているのはずっと前のレスなのだが、
書いてるうちに大量のレスがついて遅れてしまったのだよ
なるほど。銅鐸軍事利用説か。
まあ、九州軍も首に鏡と勾玉ぶら下げてただろうし、畿内軍は銅鐸うち鳴らしてたというのも
あり得るな。
だから×をつけて破壊したというなら実によくわかるし。
989 :
日本@名無史さん:04/08/29 22:29
鏡は中国製や韓国製もあるのだろうけど、
銅鐸は日本にしか無いのはなぜか?
990 :
日本@名無史さん:04/08/29 22:32
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡かどうかは
まだ議論の余地があると思うが、仮に卑弥呼の鏡だとしても、
九州説(九州東遷説)は困らないんじゃないかな。
九州説では、東遷は卑弥呼の直後あたりにあると考えているのだから、
邪馬台国は、オリジナル神獣鏡を貰った時代には九州にあり、
コピーを作る時代には畿内にあったと考えられるから。
三角縁神獣鏡のコピーを含む全体は、その分布の広さから、
卑弥呼の時代よりずっと後まで流通していたのは明らか。
オリジナルの位置なら議論の対象になるだろうが、
オリジナルの位置が、仮に九州なら九州説が有利だし、
仮に畿内でも東遷のとき持ってきたんだな、くらいのこと。
991 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/29 22:36
つうか中国にもあるし。
同じ祭器で、形や大きさが違うだけ。
それに、揚子江流域では独自に巨大化したから、完全オリジナルというわけでもない。
むしろ祭器?として巨大化した経緯こそが重要。
993 :
日本@名無史さん:04/08/29 23:36
揚子江にも銅鐸があるということは、邪馬台国の前身は揚子江あたりから渡来して来たのか!
という説を夏休みの宿題(自由研究)にしよう。
994 :
日本@名無史さん:04/08/29 23:43
>>990 九州説では、東遷は卑弥呼の直後あたりにあると考えている、
自分もそう思っていたのだが、下記を読むと、トヨ時代ではなく、
卑弥呼と同時代の鏡が近畿から出土してるので、正直わからなくなった。
まあ鏡は持ち運び出来るから、九州から持って来たのかもしれんが。
ただ違う場所から出ている。家宝として持って来たならバラまくか?
943 :日本@名無史さん :04/08/29 04:31
青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土しているのは、
京都府の太田南古墳群と、大阪府の安満宮山古墳
946 名前:日本@名無史さん :04/08/29 04:48
青龍三年の方格規矩四神鏡は、
卑弥呼が朝貢する239年の4年前のものであることから、
もらった100枚の一部の可能性が高いのではないか?
995 :
日本@名無史さん:04/08/29 23:55
>>994 それらが、コピーか、オリジナルかが
ハッキリしないことには何とも言いにくい。
コピーなら、ばら撒かれて当然。
オリジナルがばら撒かれているなら少々問題ありだが、
それは畿内説でも同様に解釈しにくいことではないだろうか。
あと、コピーをばら撒くという目的があるなら、九州東遷説でも
オリジナルの幾つかは持ってこなければならないということになる。
ヒラバル古墳からヤタの鏡が複数枚出てくることから、
(時期は特定しないが)東遷じたいはあったんだろうなとは思う。
996 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:14
米国で流行したものがソ連でも大流行なんてことはあるだろ。
同等品があれば同じ権力支配だなんてことはない。
前方後円墳だの鏡だの類似物があると、飛躍的に同一権力下と断定するのがおかしい。
所詮は倭人圏という共有文化圏諸国なのだ。
997 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:29
西都厨がいないこのスレッドは建設的な議論が多いですね。
なぜこのスレッドには西都厨がこないのでしょうか。
998 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:38
魏志倭人伝の方位についての説明は不思議だ。
まるで日本列島が九州から沖縄あたりに位置してしまうのだから。
やっぱり、三国志を信じ過ぎるのも良くないのでは・・・
999 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/08/30 00:39
999
1000 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:41
1000! 邪馬台国は九州ということで!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。