1 :
日本@名無史さん:
知恵伊豆が好きっです。
2 :
日本@名無史さん:03/07/28 23:24
老中 ろうじゅう
江戸幕府の最高職で、国政全体を統轄した。はじめ年寄・宿老(しゅくろう)などとよばれ、寛永期(1624〜44)ごろ老中が定着した。
定員は4〜5人。江戸後期には外様大名も数人任命されたが、ほぼ、3万石以上12万石以下の譜代大名が就任している。
1634年(寛永11)にはじめて職務がさだめられ、62年(寛文2)若年寄と管轄職務をわけたことにより、大目付・町奉行・遠
国奉行らを指揮監督し、朝廷・公家(くげ)・門跡(もんぜき)および大名、外国に関する事柄、大規模な土木工事や知行
(ちぎょう)割りなどをとりしきった。
1680年(延宝8)に財政だけをあつかう勝手掛(かってがかり)老中がおかれたが、ほかに職務分担の規定はなかった。
在任期間の長い者や徳川家の親族である家門(かもん)出の者が老中首座として全体を統括した。35年に採用され
た月番制により、1カ月交替で1人ずつ責任者となって政務をさばき、重大な事柄は全員の署名できめられた。
幕末の幕政改革で1867年(慶応3)に月番が廃止。各老中には専任分野がきめられ、国内事務・外国事務・会計・海軍・陸軍の5総裁となった。
(^^)
4 :
日本@名無史さん:03/08/02 06:42
女中
老醜
6 :
日本@名無史さん:03/08/09 12:48
松平定信は老中になるために白河藩から飢饉の時に餓死者を出さないようにして
藩の領民から慕われて老中になったそうだ。
今も昔も政治家にとって地元は大切なんだな。
7 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:20
老中は譜代大名が任命されるんだよな?
松平定信って譜代大名か?思いっきり一門と思うんだが。
8 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:25
親藩(家門)から老中になったのは定信と幕末の松平定昭(松山藩主)。
どちらも久松系松平なので、譜代とのボーダーラインが微妙。
9 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:27
あと、越智家の松平武元。
10 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:31
そうか。定信は血統上吉宗の男系の孫だから思いっきり親藩と思ったが、
家としては久松系松平か。
う〜ん、家康の父違いの弟の家系か。
確かに親藩と譜代とのボーダーラインが微妙だな。
11 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:35
白河=桑名松平家は、幕末にも定敬が京都所司代になってるので、
越前家とか連枝よりは譜代に近いね。
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14 :
日本@名無史さん:03/08/09 14:04
大給松平は譜代大名です。
松平姓で親藩なのは、家康の男系子孫である越前家や御三家の分家などで、
久松系の他、奥平系(家康の外孫)や鷹司系(家光夫人の弟)は例外です。
15 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:41
幕末期の老中の入れ代わりは異様に激しいな。
16 :
日本@名無史さん:03/08/09 15:44
幕末の老中も就任のために賄賂使いまくったんだろうか?
そのわりには、すぐ辞めてる人が多いけど。
17 :
日本@名無史さん:03/08/09 17:16
井伊直弼は老中経験あるのか?
18 :
日本@名無史さん:03/08/09 17:19
>>17 ない。彦根の井伊家は大老以外の役職にはつかない。
その代わり、代々「溜間詰め」として将軍の相談相手をつとめる。
19 :
日本@名無史さん:03/08/09 17:20
そうだったのかちきしょー
20 :
日本@名無史さん:03/08/12 06:02
老中って今でいうと大臣?
つーと大老は総理?
つーと将軍は今でいう天皇?
つーと、アレ??今の天皇は??????
21 :
日本@名無史さん:03/08/12 08:57
京都のおっさんだな。
22 :
日本@名無史さん:03/08/12 09:11
>>20 老中=総理大臣でしょ。
大老というのは常置されていた職ではないしね。酒井忠清とか井伊直弼の
イメージが強いので、何となく独裁者的な印象があるけど、むしろ彼らの
方が例外。
実際には歴代大老のほとんどは、大した権力をふるう機会はなかった。
23 :
日本@名無史さん:03/08/12 10:10
本多忠勝家や榊原家からは老中はでたの?
24 :
日本@名無史さん:03/08/12 10:19
>>22 老中はどちらかというと無任所の各大臣だな
総理大臣にあたるのは職掌では存在せず
将軍か老中首座が状況に応じてまとめていたという所
25 :
日本@名無史さん:03/08/12 16:19
>>23 漏れの記憶によると双方とも出た!
詳しい人よろしく↓
26 :
日本@名無史さん:03/08/12 22:21
老中首座は最古参の老中が自動的につくんでしょうか?
それとも、老中の中から適任者が特に任命されるんでしょうか?
27 :
日本@名無史さん:03/08/12 22:38
>>23 本多忠勝家からは、忠良と忠民が老中になっていますが
榊原家からは老中は出ていません。
28 :
日本@名無史さん:03/08/12 23:13
老中に限らず、大名が就任する幕府の要職は無給だと
聞いたことがあるのですが 本当ですか?
だから幕府の要職に就任するのがイヤだった大名も
いたと聞いたことがあるのですが?
29 :
日本@名無史さん:03/08/12 23:18
>>28 老中などに就任すると加増されることが多いですが。
特に所司代とか大坂城代になると
経済先進地帯の畿内に役知を与えられることが多いので
これは悪い話ではないと思うのですが。
加増されるのですかあ。確かに領地が増えるのは、
おいしいかもしれませんね。
31 :
日本@名無史さん:03/08/13 02:02
>>14 鷹司系って譜代だろ。
幕府の役職は基本的に家格にあわせるために加増して体裁を整えることが多かったが
後には「足高の制」が用いられた。日本史の教科書読んだら?
まあ老中は譜代の諸侯であることが絶対条件だけど。
32 :
日本@名無史さん:03/08/13 02:16
>>31 足高制の対象は旗本の勤める役職。
大名の勤める老中などは対象外。
33 :
日本@名無史さん:03/08/13 02:25
ごめんごめん
釣るつもりは無かったんだけど…
よく文章を読んで見て…
34 :
日本@名無史さん:03/08/13 22:03
老中首座が総理大臣。その他の老中は大臣というところ。
35 :
日本@名無史さん:03/08/13 22:07
>>31 吉井藩は親藩。官位も一般の譜代より高い。
途中から紀伊家から養子が入って、鷹司系と紀州系が交互に藩主になっている。
家格としては紀伊藩の連枝みたいな扱いになっている。
36 :
日本@名無史さん:03/08/13 22:27
鷹司松平の家格は老中とは関係ないのだが。
37 :
日本@名無史さん:03/08/14 01:13
真田氏が外様なのに、老中になってたよね?(将軍の血を引いた人物だったと思うけど。)
譜代に変わったんですか?
38 :
日本@名無史さん:03/08/14 08:12
過去すれにもあるけど
真田は願譜代、とくに願って譜代格にしてもらった。
忠臣蔵で有名な脇坂家などもそう。
39 :
日本@名無史さん:03/08/14 15:03
>37
真田幸貫。
父親は白河楽翁こと松平定信、要するに八代将軍吉宗の曾孫。
40 :
日本@名無史さん:03/08/14 19:39
吉井松平は松平長七郎の子孫です。
忠長に「長七」なる男子がいたという説を
「徳川諸家系譜」は俗説としているがねえ。
まあそれにそもそも吉井松平の件はスレ違いだと思うが。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
43 :
日本@名無史さん:03/08/19 10:02
age
44 :
日本@名無史さん:03/08/19 10:06
いつ見てもあっさりしたスレタイトルだ
45 :
日本@名無史さん:03/08/19 15:37
外様の松前家からも幕末老中が出てるね。
姫路藩には大老が六人いた。
いいのかな、大老なんて名前を使って。
47 :
日本@名無史さん:03/08/19 17:46
>>46 大老という職名は他の藩(福岡藩や島原藩)にもありますし
寺社奉行・町奉行など幕府の職制と同名の職制をもつ藩はたくさんあります。
48 :
日本@名無史さん:03/08/19 17:56
>>46 姫路藩って酒井家だよね。
ということは、藩主が幕府の大老で、その家来にも大老がいた時期が
あったということか。
49 :
日本@名無史さん:03/08/30 10:58
あげ
>23
日本史辞典の中には、本多忠勝・榊原康政も老中としているものもあるね。
開幕直後の「年寄」職を老中と同一視しているようだが、両者は同じ物だと
考えて良いのだろうか?
本多忠勝は関ヶ原合戦の時の家康の名代だから老中扱いもわかるが、
榊原康政は確か「腸が腐った」といって寝込んでいたはず。
彼は幕政に関与していたのだろうか?
51 :
日本@名無史さん:03/09/03 12:04
>>50 徳川四天王家からは老中がほとんど出てないね。庄内藩から一人だけ
かな。井伊は大老だし。
「老中のような事務官よりも格上の軍事貴族」という位置づけだったのかな?
52 :
日本@名無史さん:03/09/03 13:24
>51
>27を参照せよ。
庄内藩には恐らく北方警護という大任があるから老中が出ないんだと思う。
53 :
日本@名無史さん:03/09/03 14:37
>>50 1634年に家光が出した老中宛法度によって
定まった役割をもった職としての老中が成立したと考えられるので
それ以前とは区別した方がよいと思う。
54 :
日本@名無史さん:03/09/03 18:52
>>51 徳川四天王などと称されますので
どうしても注目してしまうのかも知れませんが
彼らは部将であって、家康の政策決定にはほとんど関与していません。
政策は側近(出頭人)や奉行によって遂行されており
彼らが後の老中に相当する機能を果たしています。
したがって彼らの子孫から老中がそれほど出ないことは不思議なことではないと思うのですが。
55 :
日本@名無史さん:03/09/04 09:35
小泉純一郎と水野忠邦の容姿が微妙に似ている気がしてならないのだが・・・。
56 :
日本@名無史さん:03/10/20 23:58
誰か歴代老中首座を教えてください!
57 :
日本@名無史さん:03/10/21 00:27
58 :
日本@名無史さん:03/10/21 00:47
>>57 さんくす!
首座というのは老中の最古参が
なるものなの?
59 :
日本@名無史さん:03/10/21 01:25
60 :
日本@名無史さん:03/10/21 01:36
>>59 土井利位・阿部正弘・松平信明等も
家格が高いわけですか?
通常の家格とはどのような家柄?
61 :
日本@名無史さん:03/10/21 07:26
>60
溜間詰めの譜代大名。
62 :
日本@名無史さん:03/10/21 11:26
>>59 老中の席次は原則的には着任順で決まる。
ただし酒井雅楽頭家は老中に任ぜられると直ちに首座となり
酒井左衛門尉家は直ちに次座となるのが慣例。
63 :
日本@名無史さん:03/10/22 00:12
老中首座制度はいつ頃から存在したの?
最初に就任した人は?
64 :
日本@名無史さん:03/10/26 21:44
松平定信以降はよく聞くけどそれ以前はほとんど聞かないよな
阿部正弘が堀田正睦に首座を譲ったという話を読んだことがあるんだが。
老中にはどうやってなるの?
立候補するとか、あるいは適齢期の大名がリストアップされているとか。
タイミング的には欠員ができたとき?
>>64 田沼の時も形式的な首座がどうのという話があったような。
最後の老中首座は板倉勝静だったよな。
69 :
日本@名無史さん:03/10/28 01:01
堀田正睦辞任後の老中首座の変遷が気になるな
老中自体が頻繁に変わってるのでつかみづらい
板倉勝静は2回老中になっているけど、老中首座であった時期は
いつだったんでしょうか。一回目も首座?それとも別の人?
70 :
日本@名無史さん:03/10/28 01:23
水野忠邦→土井利位→水野忠邦→阿部正弘→堀田正睦
この順番は合ってるかな?
久世広周も首座だったような気がする。
松平定信・松平信明・松平武元等も老中首座
として知られてますな。
というか、老中首座一覧表みたいなものはないのか?
71 :
日本@名無史さん:03/10/28 02:10
井伊直弼死後から坂下門外の変までの老中首座は
久世広周でいいんだっけ
72 :
日本@名無史さん:03/11/18 22:46
幕末期に分野担当決まったと書いてあるが
各分野の初代とは誰ですか?
小笠原長行が世子ながら外国担当だった記憶はあるんですが
73 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:02
>>72 分野担当というのは慶応3年の5局制のことでしょうか?
これは以下のような陣容でした。
国内事務総裁 稲葉正邦
会計総裁 松平康英
外国事務総裁 小笠原長行
海軍総裁 稲葉正巳(老中格)
陸軍総裁 松平乗謨(老中格)
>>73 ありがとう 稲葉正邦が寝返ったのは
慶喜にとってはショックだったかもしれませんな
小笠原以外は人となり良く知らないけど
75 :
日本@名無史さん:03/11/24 23:29
>>72 松平康英
天保元年陸奥棚倉藩松井松平家の分家松井信濃守康功の子として生まれる。
同じく分家で5000石の旗本松井康済の養嫡子となり、弘化4年家督を相続。
嘉永元年駿府加番、安政2年江戸火事場見廻役、安政5年11月寄合肝煎、同年12月講武所頭取をへて
安政6年12月外国奉行兼神奈川奉行となり、石見守に叙任、康直と名のる。
万延元年9月神奈川奉行専任となるが、文久元年4月再度外国奉行を兼任、
同年8月英仏露など6ヶ国との交渉使節の副使となり、12月出帆、
開港延期や樺太の境界決定などを交渉して、文久2年2月に帰国。
文久3年8月勘定奉行勝手掛、同4年正月将軍上洛の御供掛・道中奉行を兼務、同年6月江戸町奉行。
元治元年11月本家棚倉藩松平康泰の養子となり、棚倉藩を相続、同2年正月周防守康英と改め、寺社奉行兼奏者番。
同年4月老中となり、10月辞任するも11月に再任。
慶応元年宇都宮への転封を命じられたが、10月に差し止め、天狗党の乱追討の功により2万石加増、
同2年6月陸奥白河への転封を命じられたが、同年10月川越に転封となる。
大政奉還後の慶応4年2月老中を退き、朝廷に恭順の意を示したが許されず
近江の領分2万石を没収のうえ謹慎を命ぜられる。
同年5月謹慎を赦免され、翌明治2年4月隠居家督を許可される。
明治37年7月没。
明日は朝早いので今日はこれで寝ます。
他の人物についてはまた後日。
松平康英ってさー
切腹した長崎奉行と同じ名前だよねー?
77 :
日本@名無史さん:03/11/24 23:46
老中って譜代しかなれないの?
外様じゃなれないの?
なんで?
80 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:17
1 大名の数
江戸初期はかなり変動す。18世紀以降は260程度。
2 大名の種類
将軍との親疎で3つ分ける。親藩、譜代、外様である。
(1)親藩 ・・・ 御三家など徳川一門
(2)譜代 ・・・ 三河以来の家臣。関ヶ原以前は37家。後に信任のあつい大名を取り立て、
幕末には145家までになった。
基本的に小規模(5万石程度)が多かった。
井伊家の35万石は例外的の大規模。
大老、老中、若年寄りなどの要職に任じられる。
(3)外様 ・・・ 関ヶ原以降、臣従した大名。大規模な大名が多い。
例:加賀の前田家、薩摩の島津、陸奥の伊達など
3 大名の配置
親藩・譜代は要地である江戸周辺の関八州、東海道、中山道、京・大坂周辺の近畿地方。
外様は九州、東北、四国など辺境。
>>79 昔敵だった家の子孫を政府の要人にはしたくないだろ。
ただ外様でも老中になった例はあるよ
真田幸貫とか、松前崇広とかね
幸貫は松平定信の子っていう血筋もあったからね
82 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:45
本丸政権(家光政権) 西の丸政権(大御所秀忠)
酒井忠世 土井利勝
酒井忠利 井上正就
稲葉正勝 永井尚政
阿部正次
酒井忠勝
内藤忠重
秀忠死後の家光政権
老職 六人衆
酒井忠世 松平信綱
土井利勝 阿部忠秋
酒井忠勝 堀田正盛
稲葉正勝 三浦正次
内藤忠重 太田資宗
井伊直孝 阿部重次
83 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:46
綱吉政権 下馬将軍酒井忠清罷免
大老 堀田正俊
側用人 牧野成貞
側用人 柳沢吉保
家持政権
将軍
側用人 間部詮房
侍講 新井白石
吉宗政権
有馬氏倫 御側御用取次
加納久通 御側御用取次
大岡忠相ら3奉行
老中 水野忠之
老中 松平乗邑
家重政権
側用人 大岡忠光
84 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:46
家治政権
老中 松平武元
田沼意次 側用人→老中
田沼意知 若年寄
家斉時代
老中 松平定信
老中 松平信明
老中 水野忠成
一橋治済
御側御用取次 水野忠篤
若年寄 林忠英
新番頭格 美濃部茂育
家斉死後
老中 水野忠邦政権
水野三羽烏
目付 鳥居耀蔵
天文方見習兼書物奉行 渋川六蔵
御金改役 後藤三右衛門
代官 羽倉筒堂用力
江川太郎左衛門
85 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:47
阿部正弘政権
老中首座 阿部正弘
勘定奉行 川路聖謨
目付 永井尚志
目付 岩瀬忠震
目付 大久保忠寛
大目付 筒井政憲
勘定奉行兼長崎奉行 水野忠徳
下田奉行 井上清直
ちょっと誤植が 家持って・・・
87 :
日本@名無史さん:03/11/25 07:50
阿部正弘こそ幕府を潰した張本人です。
彼がいなければ今でも江戸幕府は存続していたかもしれない。
>>87 そのお話の根拠をまったりと聞きたいので
仕事から帰宅したらカキコしてくれw
89 :
日本@名無史さん:03/12/02 21:54
hage
90 :
日本@名無史さん:03/12/02 22:03
溜間詰めについて詳しく知りたい
91 :
日本@名無史さん:03/12/03 07:07
>>87 外国に対して日本の総力を結集せんとした彼の政治姿勢は正しかったと思う。
結果的に幕府は滅んだが日本は生き残れた。彼の功績かな。
92 :
日本@名無史さん:03/12/03 22:32
上廊下の間詰めってのもなかった?
93 :
日本@名無史さん:03/12/03 23:09
ときどきは皇居に行って、本丸跡に立ち懐古してみるのも一興。
94 :
日本@名無史さん:03/12/03 23:17
諸大名は登城すると、殿中席で控える。
殿中席は、
譜代大名は溜間詰め。
御三家、御三卿は上廊下の間詰め。
という風にランク付けされている。
で、いいの?誰か教えて。
95 :
日本@名無史さん:03/12/03 23:33
96 :
日本史@名無史さん:03/12/07 21:57
>>94 ちゃんと調べろ。
詰めの間は他にも何種類もある。
97 :
日本@名無史さん:03/12/07 23:00
どういう方法によって老中は選ばれるんですか?
人物評価とか、党争みたいなものとか・・・・
候補は沢山いるわけでしょ?
98 :
日本@名無史さん:03/12/07 23:19
どこに封ぜられるかで老中になる確率も違う。
(と言うか、重要な譜代が封ぜられるところがある)
延岡藩内藤家は、磐城平の時代には老中を出した。
しかし、延岡に移封されてからは老中は出していない。
磐城平藩はその後も老中を出している。
99 :
日本@名無史さん:03/12/07 23:23
老中になったら、やっぱ家に箔がつくんですか?
100 :
日本@名無史さん:03/12/08 00:05
当時の立法・司法・行政の三権を握るんだから、ハクどころではない。
101 :
日本@名無史さん:03/12/08 00:10
102 :
日本@名無史さん:03/12/08 19:52
103 :
日本@名無史さん:03/12/08 22:54
>>102 サンクスコ!
溜間詰め>大廊下の間詰めだったのかぁ
104 :
日本@名無史さん:03/12/08 23:04
いや、大廊下の方が上のはず。
105 :
日本@名無史さん:03/12/09 14:06
>>102 7つの殿席のうち
大廊下・大広間・帝鑑間・柳間に控える「表」大名は
江戸城の表玄関から出入りする、いわば「お客様」であり
溜詰・雁間・菊間縁頬に詰める「詰」大名は
勝手口である中之口門から出入りする「内輪」の人間である。
したがってこの2系統を1つにまとめてランク付けするのは間違いであると思う。
106 :
日本@名無史さん:03/12/09 15:32
>>105の訂正
溜詰→溜間
なお溜間は
井伊・高松松平家・会津松平家が常詰だったほかは
老中経験者などから選ばれた者が1代限りで詰めた。
常詰三家以外は先代が溜詰を許されていても、跡を継いだ者は本来の殿席に戻るので
したがってこれらの諸家については家格の指標とはならない。
また老中・若年寄は御用部屋に詰めて執務を行うので
>>102のリンク先の説明はおかしいことを合わせて指摘しておく。
107 :
日本@名無史さん:03/12/09 15:40
>>99-100 大広間や溜間の大名は原則として幕府役職に就かない。
溜間からは大老にはなったが老中は出していない。
松尾美恵子氏は
格式の高い大名ほど役にはつかない、つまり優遇されているとしている。
108 :
日本@名無史さん:03/12/09 21:31
>>106 あの酒井家も常詰ではなかったのか。。。
109 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:00
大老経験者一覧 計13人
酒井忠世 1636年 家光
土井利勝 1638〜1644年 家光
酒井忠勝 1638〜1656年 家光・家綱
酒井忠清 1666〜1680年 家綱・綱吉
井伊直澄 1668〜1676年 家綱
堀田正俊 1681〜1684年 綱吉
井伊直該 1696〜1700年 綱吉
柳沢吉保 1706〜1709年 綱吉 ※正式には大老格
井伊直該 1711〜1714年 家宣・家継
井伊直幸 1784〜1787年 家治
井伊直亮 1835〜1841年 家斉・家慶
井伊直弼 1858〜1860年 家定・家茂
酒井忠績 1865年 家茂
井伊家 6人 酒井家 4人 土井家 1人 堀田家 1人 柳沢家 1人
110 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:15
>>109 酒井家は、細かくすると、
忠世、忠清、忠績の雅楽頭系が3人
忠勝の讃岐守系が1人。
111 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:20
>>109-110 井伊家は譜代の頭領とはよく言ったものだ。
圧倒的な存在。
でも、こうみると大老ってほとんど飾りだけのが多いな。
112 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:22
>>111 酒井家は例の宮将軍事件で将軍家に忌諱される存在になったのでしょう。
江戸時代は将軍独裁で、大老も将軍に疎んじられれば、かくのごとく。
113 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:47
一応、老中は十万石以下の譜代で、
大老は十万石以上の譜代(井伊・両酒井・堀田・土井)
から決められるという事らしいが、
15万石を領する本多家(忠勝系)や、榊原家が選ばれてないのは、切ないな…。
114 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:21
>>113 榊原って確か吉原の女郎を買うとか買わないとか言って問題起こさなかった?
115 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:39
>>114 榊原政岑だっけ?
質素倹約ヲタの吉宗に逆らって、
吉原の女郎を買ったり、酒色に溺れたりして、
幕府に隠居させられ、越後高田へ転封。
116 :
日本@名無史さん:03/12/11 13:39
家光や綱吉の代に大老が多い、ということは将軍本人が無能ということ
だろうか。
117 :
日本@名無史さん:03/12/11 15:20
決定権は大老や老中のほうがあったが、実際、
幕府のブレーンとなっていたのは、大学頭でしょ。
118 :
日本@名無史さん:03/12/11 17:56
柳沢は凄い出世したんだな。
一介の旗本が井伊らと肩を並べるとは。
119 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:02
柳沢は、家宣を将軍に推挙してさっさと隠棲したから、
家宣の代にも決して冷遇されず、減封もされずに大和郡山15万石が幕末まで続いた。
吉宗の代に失脚した間部詮房とは対照的だな…。
120 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:16
やり方が上手かったんかね。
今でも柳沢家って茶道かなんかの金持ちだよね。
121 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:29
>>119 間部家は家継の没後、高崎から村上、鯖江と転封になるが
石高は5万石のままで減封はされていない。
柳沢家も綱吉の没後、甲府から郡山に転封となり
甲府にあった菩提寺は郡山に移され、吉保の墓所も塩山市の恵林寺に改葬されている。
また両家とも、転封後は幕府中央での活躍が見られないことも共通している。
したがって両者を対照的と見るのは、いかがなものかと思う。
122 :
日本@名無史さん:03/12/12 06:21
>121
あなた間部詮勝を知ってますか?
>>122 幕末期は、いろいろ異な点でそれまでとは異なるので考慮から省いた。
その点を断らなかったのは申し訳ない。
124 :
日本@名無史さん:03/12/13 23:12
>>121 詮房生前は村上転封だけだが、詮房死後、弟の詮言の代で移った鯖江は、
減封としか言えんだろ…。
表高は変わらなくとも、実高が違う。
しかも、鯖江なんてもともと何にもない漁村だった為、当初は屋敷さえない有様。
城なんてもっての他で、老中になった詮勝の代にやっと鯖江城を建てる事を許可されたのに、
実現されずに終わってる…。
柳沢家と対照的かどうかは別として、何か間部家の扱いは悪いな…。
125 :
日本@名無史さん:03/12/14 13:31
間部なぞ甲府宰相綱豊の側用人の出なんだから、子孫は旗本程度でも文句
はいえまい。
126 :
日本@名無史さん:03/12/14 18:42
やっぱ人徳の違いか?>間部と柳沢
127 :
日本@名無史さん:03/12/14 21:49
>>125 柳沢も、館林宰相綱吉の小姓→側用人上がり。
しかし間部と違って、吉保死後の柳沢家は、
大和郡山十五万石の本藩の他に、越後三日市、越後黒川に一万石の分家もある。
吉保は、あの時代にしちゃあ、考えられない程の破格の出世だな。
松平姓を許されたという点が大きいと思うが。
129 :
日本@名無史さん:03/12/14 22:10
>>128 そう言えば、吉保と吉里は綱吉から「吉」の一字と松平姓を許されてたな。
綱吉死後も譜代の嫉妬で藩を潰すことなく、家を温存させたのは吉保の人徳か…。
↓バカ年寄
>>128 徳川一門と同格だってことだもんな。
たしか甲府城主も徳川一門しかなっちゃいけないって決まりだったんだよな。
まさに希有の人事。
132 :
日本@名無史さん:03/12/15 22:10
>>98 水野忠邦も唐津藩は長崎の押さえだったから実高は高くとも、
老中にはなれない為、わざわざ唐津から石高の少ない浜松に転封したそうだ。
その上、当時の幕閣にかなりの賄賂を贈ったようだから、
家臣にとっては、たまったもんじゃないな…。
しかも最後は失脚してる支那
バカ丸出し(ワラ
134 :
日本@名無史さん:03/12/15 22:24
>>105 おお。正しい認識!
まさに「内輪」と「お客様」なんだよな。今も田舎の旧家で冠婚葬祭があ
るとそういう感覚が蘇るはず。
江戸幕府というのはまさに庄屋仕立て。上層農民〜小領主あたりの生活
実感が制度のベースになっていることを如実に物語っている。
辞典類によく乗っているランク表はミスリードの元でよくないと漏れも思う。
135 :
日本@名無史さん:03/12/15 22:52
>>133 そうは思わない。
歴史に名を残したのだから。
>>135 歴史を支えているのは、名も無き人の営為だ。
なるほど己の人生を考えるときには
名を残したいと思う気持ちがあるのは当然だろうが
歴史家としては、名を残したかどうかというのは
さして重要なファクターではないように思う。
>>135 しかし行ったのは小泉並みのDQN政策・・・・・
と書けば、どっちに失礼なのだろうか?
138 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:22
>>105 大廊下って御三家とか御三卿とかめっちゃ身内じゃん。
139 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:36
>>138 御三家などは気心の知れた「内輪」という感覚ではないと思います。
例えば小学校の頃からの友人と
遠くに住んでいる、しかも少し年の離れた従弟と
どちらに親近感を感じますか?
140 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:47
141 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:51
>>132 小笠原長行は唐津藩で老中になったけど?
142 :
日本@名無史さん:03/12/16 00:57
>>141 長行はずっと世子のままだったので、長崎警備の義務はない。
>>140 大廊下に控える大名は、儀式の時以外は登城しないので、やはり「お客様」。
血縁の近さとか、そういう分類ではないのです。
144 :
日本@名無史さん:03/12/16 19:58
厨な質問で恐縮ですが、西の丸老中ってなんですか。
145 :
日本@名無史さん:03/12/16 20:43
大廊下、大広間、帝鑑間の諸侯と溜詰、雁間、菊間の諸侯の違いは、
言ってみれば一族と使用人の違いみたいなものかな。
146 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:18
三卿は家族扱いだったはず。
本丸御殿に裏口から入れたと聞いた。
147 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:26
っていうかさ、「内輪」と「お客様」などという言葉であらわすのが間違ってる。
148 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:31
>>145 親藩や松平姓を許された外様大名=一族
大部分の譜代大名=使用人
>>147 堀新氏や松尾美恵子氏におっしゃって下さいな。
150 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:40
>>149 知り合いじゃないので無理。
わざわざ連絡先調べて手紙書く気にもならん。
代わりに頼むわ。
「2ちゃんの引きこもりがいちゃもんつけてましたよ〜。馬鹿ですね〜」って。
>>151 わかりました。
今度お会いしたときに伝えておきます。
>>152 お、わざわざすまんねぇ。
んじゃ、ちょっくらハロワにでも出かけるか。
154 :
日本@名無史さん:03/12/17 11:18
>「内輪」と「お客様」
正しいよ。「外様」というのは、本来「内輪の人ではなく、
よその人」という意味だから。
155 :
日本@名無史さん:03/12/17 11:19
正式には、「外様大名」ではなく「表大名」だけどね。
156 :
日本@名無史さん:03/12/17 11:30
違うよ、「表大名」=「外様大名」+「帝鑑間の譜代大名」だよ。
帝鑑間の譜代大名の方が雁間詰の譜代大名よりも、かりに石高は
同じでも格式は高い。実は厳密な意味での譜代大名は帝鑑間の
(+溜間)の譜代大名のみ。雁間詰め以下の譜代大名は正式には
詰衆と呼ばれていた。
ただし、雁間詰の方が老中をはじめとする役職につく機会が多く、
加増などのチャンスが多かった。それで、帝鑑間の譜代大名が
雁間詰への変更を希望する傾向があった。それで、吉宗は
帝鑑間の格式の高さを強調する政策を打ち出している。
このスレ勉強になるぜ
江戸大名の格式はなかなか奥が深いな。
誰か
>>144の質問答えてやれよ。
って、漏れは西の丸が隠居した先代将軍や世子が住んでた事ぐらいしか
知らんから、詳しい香具師頼む。
>>145 溜詰の会津松平と高松水戸松平は一族じゃないの?
160 :
日本@名無史さん:04/01/05 14:35
松平で最も格式が高いのは越前ですか?
あぼーん
162 :
日本@名無史さん:04/01/16 19:34
大老が実際に権限を持つのは将軍継嗣でもめたときくらい?
163 :
日本@名無史さん:04/01/16 23:34
小説から入ってきたが
久世広之と土屋政直が好きです。コレといって意味はないが
164 :
日本@名無史さん:04/01/16 23:59
>>135 同感。
ただ賄賂を使わなければ老中になれない、
そんなシステムに堕していた時点で問題があったのかもしれない。
結局は同僚に足を引っ張られて改革も挫折してる。
165 :
日本@名無史さん:04/01/17 06:49
最年少老中は誰でつ?
166 :
日本@名無史さん:04/01/17 07:51
>>165 んんっ! 稲葉正則、酒井忠清、松平定信あたりが結構若いよね。
特に阿部正弘なんかは25歳くらいで寺社奉行から老中に昇進してるけど、
正弘より若い人っているのかな?
167 :
日本@名無史さん:04/01/17 12:33
確か阿部が最年少、最長記録だったはず
168 :
日本@名無史さん:04/01/17 12:42
>>167 最長は稲葉正則の39年。
阿部正弘は13年9ヶ月、歴代10位以下。
169 :
日本@名無史さん:04/01/17 14:19
長さでは、土屋政直、松平武元も長いですな。
阿部正弘は25歳の時点で寺社奉行なら、いったい何歳で奏者番になったんだ!
170 :
日本@名無史さん:04/01/17 14:34
>>169 『三百藩主人名事典』によれば
阿部正弘は文政2年10月16日生まれ
天保7年家督を相続(数え18歳)
天保9年奏者番(同20歳)
天保11年寺社奉行(同22歳)
天保14年9月老中(同25歳)
171 :
日本@名無史さん:04/01/17 17:32
老中ってのは大坂城代や京都所司代を経てから就任するものだと聞いたようなきがするが、ちゃった?
172 :
日本@名無史さん:04/01/17 18:43
>>170 阿部正弘ってすごいエリ−トだな・・寿命は短かったけど
>>171 確かに定番コ−スは奏者番−寺社奉行−大坂城代−京都所司代−老中だけど
阿部は寺社奉行時代に大奥がらみの事件で手腕を発揮し認められたと、
(中山法華なんたら寺事件・・忘れた)あと水野失脚にも関わってたけ?
久世広之などは若年寄から昇進してるし、いきなり老中になる人や色々あるでしょう。
他に適当な例があると思う方、教えてちょ!
>>172 板倉勝静は奏者番兼寺社奉行から老中になっている。
174 :
日本@名無史さん:04/01/18 13:09
側用人から老中は反則だよね。
175 :
日本@名無史さん:04/01/18 17:46
>>172 脇坂安董も大奥絡み等厄介な案件を幾つか捌いて、寺社奉行から願い譜代で
最初の老中になったんだよね。
っていうか寺社奉行からして珍しかったんじゃなかったかな?
176 :
日本@名無史さん:04/01/18 22:52
25歳で老中かよ!
25歳で番組プロデューサーになるのとどっちが凄いやろ??
177 :
日本@名無史さん:04/01/18 23:19
水野忠邦失脚後の老中首座は阿部正弘でよいのかな
27歳でトップの座にまでのぼりつめたことになりますね
今の世では考えられませんな
178 :
日本@名無史さん:04/01/18 23:45
阿部正弘の屋敷が文京区西片にあって、今も直系末裔がその地に
住まわれているが、肩書きは「町内会長」である。
179 :
日本@名無史さん:04/01/19 05:54
老中の写真見たいです。無いでしょうか?
阿部正弘も絵ですよね??
180 :
日本@名無史さん:04/01/19 05:59
>>177 こんな感じかな? 複数の資料を見たのでズレたりダブってる可能性あり。訂正よろしく!
水野の罷免の前年(天保十三年・1842年)
・水野忠邦(浜松)、土井利位(古河)、真田幸貫(松代)、堀田正篤=正睦(佐倉)
井上正春(館林)、間部詮勝(鯖江)
水野罷免後再任前(天保十五年・1844年)
・土井利位(古河)、真田幸貫(松代)、阿部正弘(福山)、牧野忠雅(長岡)、戸田忠温(宇都宮)
、堀真宝シゲ=老中格(飯田)
水野再任後辞職後(弘化二年・1845年)
・阿部正弘(福山)、牧野忠雅(長岡)、戸田忠温(宇都宮)、青山忠良(篠山)、松平乗全(西尾)
日米和親条約締結時(安政元年・1854年)
・阿部正弘(福山)、牧野忠雅(長岡)、松平乗全(西尾)、松平忠優(上田)、久世広周(関宿)
、内藤信親(村上)
下田条約締結時 (安政四年・1857年)
・堀田正睦(佐倉)、阿部正弘(福山)、牧野忠雅(長岡)、久世広周(関宿)、内藤信親(村上)
、脇坂安宅(龍野)
この年、阿部、牧野老中退任、松平忠優再任、同年6月阿部病死、
翌年4月井伊直弼大老となる。
181 :
日本@名無史さん:04/01/19 20:26
酒井雅楽頭は老中ですか?大老ですか?
182 :
日本@名無史さん:04/01/19 20:27
>181
中老
すごい勉強になるスレだ
184 :
日本@名無史さん:04/01/20 02:12
マジで?
おいらは「日本各地の仕置場跡・処刑場跡」とこのスレ、勉強になるよ
186 :
日本@名無史さん:04/01/20 08:20
閣老、老中どちらが正式な呼び方なのでしょう
187 :
日本@名無史さん:04/01/21 02:53
老中
188 :
日本@名無史さん:04/01/22 06:29
>>186 閣老とか老中といういいかたよりも、御老職という言い方のほうが
一般的だったらしい。
189 :
日本@名無史さん:04/01/22 06:42
佐藤雅美氏によれば、茶坊主が給仕をしてくれるわけでもなく、営中では名門の溜詰大名と
いえども茶は自分で汲みにいくべしということだったらしい。
>>186 旗本などは古称の御年寄衆と言っていたらしい。
普通には御老中、御老職、、など
個人の場合は名前を出すのが憚れる時には屋敷、領地、紋所を言って
意味したりもしていた。 厩橋さま、白河公って具合かな
192 :
日本@名無史さん:04/01/24 04:41
「老」は分かるが、「中」は何を意味するの?
194 :
怒涛のデブ@志位和夫委員長:04/01/31 22:31
老中とか若年寄という名称は三河の百姓組織の名称をそのまんま幕府の公的名
称に導入したといわれている。「幕府組織は百姓仕立」といわれるのは
そのゆえんだと指摘されていた。
195 :
日本@名無史さん:04/02/01 01:55
庄屋仕立 じゃないの
196 :
日本@名無史さん:04/02/19 05:49
側衆に負けるな!
197 :
日本@名無史さん:04/02/19 06:24
>>192 「オトナ(老)の皆様」→老中
英語で言えば複数形のsみたいなもの。
「連中」とか「御中」とか現代語にもその名残がある。
>>138 >>139 田舎の葬式で、近くの親戚や町内会の顔役が控え室でお客様(大広間
の外様大名)にお茶を出したりするような感覚だろうなあ。溜間詰というのは。
大廊下の御三家は「都会で就職した息子」という感じ。一応接待する側の
はずだけど実家を離れて勝手がわからないからお客様のようになっている。
御三卿は「受験勉強中の子供」。まだ一人前じゃないから家の行事に責任を
負わない。
198 :
日本@名無史さん:04/02/25 19:26
大廊下に因州池田や阿波蜂須賀も座っていたって本当?
199 :
zつゆだく:04/02/29 15:44
あげ
阿部幕閣に関する一考察
名前: 茶坊主A
E-mail:
内容:
阿部正弘(1919-57 従四位下侍従、備中守→伊勢守。
備後福山藩10万石→11万石)は、奏者番兼寺社奉行から、異例の抜擢により、弱冠25歳で老中首座に起用され、
その後、ペルリ来航、日米和親条約、朝廷対策、官僚育成などを
し、38歳の若さで病没し、その後を堀田正睦に託した。
■初期阿部内閣
首座 阿部伊勢守正弘
次席 戸田山城守忠温
牧野備前守忠雅
真田信濃守幸貫
堀 大和守久太郎
>大和守久太郎
官渡名と幼名を並べて書くのはおかしい。
それに堀親しげは久太郎を名のったことはないはずだが。
松平忠固と松平乗全を更迭したのは何でですか?
203 :
日本@名無史さん:04/02/29 18:37
>>200 首座になったのは老中就任の翌年じゃなかった?
それから死ぬ2年前に首座を堀田に譲ってたような
204 :
日本@名無史さん:04/03/04 13:56
age
205 :
日本@名無史さん:04/03/16 18:16
長岡藩からも老中が出ていたのですね。
206 :
日本@名無史さん:04/03/17 00:18
松平周防守康任・・・抜け荷奨励老中
207 :
日本@名無史さん:04/03/17 00:42
老中って大体何歳くらいから老中なの?
若年寄は?ふけてないと駄目なの?
209 :
日本@名無史さん:04/04/01 23:28
age
210 :
日本@名無史さん:04/04/08 11:37
>>176 老中になるほうがあきらかに凄いです。
25歳にして内閣総理大臣になるようなものですからね。
出世の早さでは井伊直弼が最速?
212 :
日本@名無史さん:04/04/24 19:08
結局、老中とか大老の制度が倒幕につながった
213 :
日本@名無史さん:04/04/27 10:36
結構功績があった割にめだってない印象の有る鳥居家、
吉安以降の柳沢家って老中を出していますか?
214 :
日本@名無史さん:04/04/27 13:49
鳥居家については、田沼時代に鳥居忠意が老中になっている。
しかし田沼にゴマを擦って擦ってようやく実現している。
柳沢家にいたっては全然ない。
215 :
日本@名無史さん:04/04/27 20:16
早速の回答ありがとうございます。
どうも鳥居家は武功派から吏僚への転向を失敗した感じを受けます。
柳沢の方は警戒されたのか歴代当主が無能だったのか。
はたまた領国経営に精を出して幕政に関心がなかったのか。
あるいはそれも警戒されないためか。どうなんでしょうね。
216 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:19
100%断言できないが、ひとつには、鳥居家も柳沢家も老中を輩出する為の条件
がうまくマッチングしなかったことが考えられまいか。
つまり、老中は譜代大名なら誰でも良いというわけではなく、原則として
ある程度の石高水準(5万石〜10万石、よくて11、12万石あたりまでが
限度か)あたりが圧倒的に多い。極小すぎても老中の退任は果たせないし、
大大名に老中をやらせると権力と財力を併せ持たせることになる。
この点、鳥居家は、祖先の武功のおかげで幕府初期に山形22万石を得たが、
御家騒動の内紛で自滅して一旦改易されかかったのを、なんとか幕府をなだめて
近江水口→下野壬生3万石で再スタートしている。この時点で譜代大名とはいえ、
祖先が築いた徳川からの信用を全部食い潰してしまっていることになる。
しかも3万石の極貧大名だし。
柳沢の場合は、15万石で逆にでか過ぎたか。新規取立ての大名でもあるし。
やっぱり、鳥居も柳沢も当主が余程の人物か、将軍や実力幕閣とのコネクション
がないと老中就任は不利なポジションにいたことは否めない。
実際、2〜3万石で老中になった例は数えるほどしかない。
天保の改革時に堀チカシゲという2万数千石の貧弱大名が老中格になっているが、
これだって堀自身がある程度能力があり、改革の主役の水野忠邦の縁戚だったことが
幸いしている。
217 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:21
側用人で正式の老中になったのは田沼意次が最初、と書いてあるのを
読んだことがあるけど、柳沢吉保は正確には老中格だったの?
218 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:25
いや、國史大辞典を見ると老中の項目に柳沢保明=松平吉保 出羽守→美濃守
と掲載されているな。老中格どころか大老格の老中首座とされている。
219 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:40
牧野成貞は綱吉のあまりの人格障害ぶりについていけなかったようだが、
吉保は小姓からみごとに出世したな。
221 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:45
庄屋仕立て、百姓仕立て。
すれ違いだけど町奉行なんかも岡崎とか駿府の民政そのまま持ってきたようなかんじ
するね。
死刑にいちいち将軍の決済仰ぐとことかさ。
>>216 外様でありながら幕末時に松前崇広が老中になっているが、表高わずか一万石で、
辛うじて大名の末席に滑り込む家柄。
こういうのも超レアケースだったのですか?
>>222 超レアケースだわね。
しかし、なんであの段階で松前が老中になったかは不明だが。
対ロシア交渉を担当させようとでもしたのだろうか。
松前は条約調印において勅許獲得に失敗し、阿部豊後守と一緒に
老中を辞めさせられている。
224 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:58
改めて見て思ったんだけど、老中の上座(大老格)という席次と
正式な老中とは違うのかな?
225 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:01
酒井家のような名門とかはともかく、5〜10万石から外れる譜代大名が
老中になったり、外様大名が老中になるのはなんらかの特殊事情が
あるとみていい。
龍野藩の脇坂安董なぞは、「入譜代」、外様から願い出て譜代格になった
とはいえ、彼は非常に能吏だった。庶民に人気もあった。
226 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:03
>>224 基本的には一緒なんじゃないですか。
老中のことを、「加判之列」「宿老」とかいったそうですが、
老中首座は「加判之列の上座」といったそうですから。
ありがd。
そうすると今度は老中首座と大老格の違いが気になってきたw
228 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:30
老中(首座も含め)は、幕府公文に、最終的に連署をする
(ゆえに加判〜)といわれるが、大老は、加判しない。
また、老中は、勝手掛、海防掛という形でなんらかの専属部署
を担当するが、大老は、勝手掛、海防掛といった専属部署は、
ない。つまり、いるだけ。
井伊直亮なんか、典型的バカ大老で、御用部屋にいるだけ。
水野忠邦などの実力老中からは邪魔物扱いされるし、
早いはなし、老中首座らは首相兼蔵相あるいは、首相兼外相
大老は、花あって実がない無任所国務相。
井伊直弼とか酒井忠清などは、将軍が幼少病弱だから将軍権力を代行し、
実権があったまで。
229 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:40
勝手掛老中は綱吉時代の堀田正俊が最初で
以後延べ48人が任命されたが、必ずしも常置ではない。
また海防掛は寛政4年(1792)松平定信が海辺御備御用掛となったのが最初だが
常置となったのは弘化2年(1845)。
230 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:50
しかし大老って盲腸ですやろ。
231 :
日本@名無史さん:04/04/27 23:04
幕府最後の老中は立花種恭。これは種次系?なんでも有りだな幕末。
232 :
日本@名無史さん:04/04/27 23:12
幕府初期には関ヶ原で清洲までの使者を務め、福島正則を罵倒した怪人村越茂助が旗本のまま老中になったみたい。
233 :
日本@名無史さん:04/04/28 00:24
とすると柳沢が側用人のまま老中格だったというわけだが、
235 :
日本@名無史さん:04/04/28 00:56
老中格として一覧に名前がある人もいるのに…
そんなに微妙なポストだったのかな>柳沢
236 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:13
大老なのに、老中でないって、論理的にそんなことあり?
237 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:22
なにしろ執拗で、えこひいきの激しい偏頗な御気性であられる(酒井忠清談)
徳川綱吉が行った人事ですから、こうえいうこともありうると思いますね。
238 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:28
大老は老中とは違うということでつな。
現代でいえば、蔵相、外相、官房長官を経験していない小泉がいきなり総理になるようなものか。
239 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:28
240 :
日本@名無史さん:04/04/28 01:40
そういえば、柳沢が大老格になる前まで大老をしていた井伊掃部頭直興
は、隠居して、再び召し出されて大老(名も、直興から直該に改めている)
というケースがあったが、老中やら大老が一回辞職した後、再び
帰り先というケースは比較的稀なんですか?
241 :
日本@名無史さん:04/04/28 02:14
242 :
日本@名無史さん:04/04/28 02:22
確かに。
小笠原長行、松平康直など三度もだぞ。
243 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:37
>>243 水野殿が復帰なされたときは、さすがの某もアワを食ったわ。
245 :
日本@名無史さん:04/04/29 16:17
西の丸老中ってどのくらい権限があったのかな。
幕府の職制について書かれた本を読んでも、老中については詳しく紹介されて
いるけれども、西の丸老中についてはほとんど書かれていない。
246 :
日本@名無史さん:04/04/30 20:43
「江戸幕府役職集成」(雄山閣:笠間良彦)
のも西の丸老中についての記述はないみたいですね。
そもそも西の丸老中って西の丸勤務の老中?
それとも西の丸の主(大殿or若君)の側近を名誉老中にしたもの?
その辺が良くわかりません。
なにか大殿付きの場合は大殿しだいで権限が変化するような気も。
247 :
日本@名無史さん:04/05/01 05:06
老中と大将ってどっちの方が偉いの?
>>247 基本的には幕府は”近衛大将”の陣なので、大将の方が老中より上
250 :
日本@名無史さん:04/05/01 16:46
>>245 西丸老中ですが、将軍世子付きの場合、その世子の養育掛を担当するわけだから、
その世子が将軍就任の暁には、本丸の首座として将来のエリートコースとみていいのでは?
享保〜元文期の西の丸老中の本多忠良は、剛直の聞え高い男で、自堕落な家重の
養育をと、徳川吉宗が西の丸に送りこんだのです。本多の養育ぶりがどういう
内容だったかは不明ですが。
251 :
日本@名無史さん:04/05/01 17:27
西丸老中というのは、正規の老中の中から世子付きになってるのでしょうか?
それとも、正規の老中とは全く別の独立した役職なのでしょうか?
252 :
水野忠成(西丸付経験あり):04/05/01 17:42
西の丸が世子や大御所が住む場所なわけだから、必然的に
業務内容も世子や大御所がらみになってくる。少なくとも勝手掛
を担当する事はないな。勝手掛は、本丸老中の古参がやるものだから。
西丸老中が担当はしないだろうな。
西丸老中は、老中になる者が一歩手前のポストだよ。
本丸老中が西の丸老中になったなんて話は嘉聞にして聞かない。
253 :
日本@名無史さん:04/05/05 05:59
老中って武士?
大名。
255 :
日本@名無史さん:04/05/05 11:37
>>252 はて?
貴殿の御同僚酒井讃岐守殿は文政2年9月に西の丸老中に移られたはず。
256 :
日本@名無史さん:04/05/10 04:29
老中って殿様だったんだぁ・・・
じゃあ格好は、志村けんみたいだったんだろうね。
今でいう知事に該当するのが老中と考えればいいのかな?
取り巻き異常な人が多すぎるよ?
気をつけて
尻ぬぐいはあなただから。
258 :
日本@名無史さん:04/05/10 20:53
老中と知事ってどっちが偉いの?
260 :
日本@名無史さん:04/05/10 21:00
>>258 老中を現代に置き換えれば国務大臣クラス。
知事を江戸時代に置き換えれば奉行クラス。
よって老中の方が格は上。
261 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:02
知事は、大名でしょ。
国持大名レベルだよな。
1万石程度の大名は、今なら市長ってとこか。
262 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:16
263 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:33
最後の上総一宮藩主加納久宜
判事→鹿児島県知事→大日本農会会長→一宮町長(兼務、週1出勤)
264 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:37
↑
判事って、知藩事のこと?それとも、裁判官のこと?
266 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:43
263は何が言いたかったのか。
267 :
日本@名無史さん:04/05/11 04:34
新手の荒らしが登場か?
今の大臣、当時の大臣どちらでしょう?
当時の大臣なら、将軍家世子が内大臣、老中は普通侍従せいぜい少将で、
格式上は大臣の方が絶対に偉い。
当時は内大臣ー大納言ー中納言ー参議ー中将ー少将ー侍従の順。
ただし、公家の大臣より老中の方が裏では威張っていたんじゃないですか?
今の大臣は老中より人数多いし、議会に遠慮しなきゃならないし、
老中の方が実権は上じゃないでしょうか?
老中になるには家柄も必要だろうけど
それなりに頭のいい人材から選ばれたのかな。
バカ殿じゃ国政は任せられないし。
272 :
日本@名無史さん:04/05/12 16:45
>>270 柳沢や間部を例に考えてみるがよろし。
知恵伊豆の子孫が代々老中をやったわけじゃない。
松平伊豆守信綱 幕初の老中
松平伊豆守信祝 享保改革時代の老中
松平伊豆守信明 寛政改革時代の老中
松平伊豆守信順 化政期の老中
松平刑部大輔信古 幕末の大坂城代。溜間詰格として幕府顧問
274 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:35
老中の子孫て今何やってるの?
275 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:36
あっ一人思い出した!
阿部正弘の直系当主の子孫が文京区西片で町内会長やってた。
TVで観たよ。
276 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:37
直系当主の子孫て言い方変だね。あはは。ごめんちゃい。
277 :
日本@名無史さん:04/05/24 23:45
老中って年収いくらですか?
278 :
日本@名無史さん:04/05/24 23:48
老中をはじめ、幕閣は基本的に無給だと聞いたが。
279 :
日本@名無史さん:04/05/25 03:12
手当てないの?長崎奉行は、かなりいい手当てと聞いたが・・・。
手当てじゃないよ。長崎町民から上がってくる賄賂だよ。相当な金額で、
2000両使って長崎奉行の猟官運動したとして、充分もとが取れたんだよ。
281 :
日本@名無史さん :04/05/26 18:48
>>724 俺の知り合いの小藩老中の子孫の家は、未だに殿様に仕えてるよ
なんでも、明治に主家が事業を始めて、そのまま藩の偉いさんはその会社に入ったそうで
いまでも、領地(ビル)内で封建的社会を営んでるよ…
282 :
日本@名無史さん:04/05/26 20:54
>>280 .長崎奉行には幕府から3000両の役金が出る。
284 :
日本@名無史さん:04/05/27 04:17
長崎の庶民は裕福だったのか?
『長崎犯科長』もそんなストーリーだったが。
「カステーラにござります」受け取ったら
箱の下から小判なんて本当にあったっぽい。
285 :
日本@名無史さん:04/05/27 04:18
○犯科帳
「執権」「管領」とかと比べると「老中」「若年寄」ってほんまにダサいな
なんで「老」の字にこだわったんだろ
288 :
日本@名無史さん:04/06/13 06:59
元老とどっちが偉いの?
289 :
日本@名無史さん:04/06/21 21:53
ういろうと(rty
290 :
日本@名無史さん:04/06/21 21:57
老中格って微妙な存在じゃない?
291 :
日本@名無史さん:04/06/21 23:46
>>282 それは「足高の制」といって、長崎奉行は何千石格と決まっているが、
それより石高の少ない旗本が長崎奉行に就任した場合は不足分を役料として
幕府からもらえることになっているのだけど、その額がたまたま3000両ということでは
ないかい?
基本的には役職は自腹だったと思う。
それでも賄賂というか、いろいろ副収入があったから、トータルでみると
役持ちは増収になるのだけど。
長崎奉行がそうだったかどうかは覚えていないけど、役金がでる職は
確かにあります。
役高がある職もあります。確か大阪城番とか、1万石か5千石でたはず。
基本的に役職は自腹は間違いないですが、例外もありますよ。
火消しとかは火消人足の食い扶持を支給されていましたし、いろいろ
実情に応じて給付がありました。
雄山閣の江戸幕府役職集成によると
長崎奉行は千石高で諸太夫、芙蓉の間席、四千四百ニ俵一斗がお役料とあります。
その他に正規に認められている貿易品の優先割引購入特権や地元貿易関係者からの献納金などですね。
294 :
日本@名無史さん:04/06/22 04:36
長崎犯科帳の平松忠四郎は800石だよ。史実に忠実でないってこと?
295 :
日本@名無史さん:04/06/22 05:53
老中(ロウジュウ)
江戸幕府の一般最高職。大老と異なり常設された。幕政全般を統括し、
町奉行、勘定奉行、大目付などを監視した。4〜5名任命され、
月番制で任務に当たった。老中就任のための資格は、2万5千石以上の譜代大名であること。
江戸幕府成立直後には年寄と呼ばれた。
296 :
日本@名無史さん:04/06/22 06:02
原敬とどっちが偉いの?
298 :
日本@名無史さん:04/06/25 18:27
女中より偉いことは分る
300get
301 :
日本@名無史さん:04/06/25 23:47
300
このスレ「老中」とどういう関係があるのか?
295
では「老中格」は?
302 :
日本@名無史さん:04/06/26 00:22
>>301さんへ
>>295だけど自分で調べろ!
老中は、江戸幕府の職制で、将軍に直属して国政に当たる官僚最高位である。
老中という名称は3代将軍家光の頃からだが、もともとは、徳川家康に仕えた
軍団指揮官である老名「年寄衆」である。しかし徳川家の全国政権が確立していくと、
政務執行者として将軍の側近へあがってきた出頭衆が加わり、以降、老中は年寄系統の家と
出頭衆系統の家の両方(譜代25000石〜10万石)から代々輩出した。
また例外的に老中格としてこれ以外の家から出ることもあった。
老中は定員4〜5人で、そのうち家格の高い者や先任者が老中首座となった。
通常の職務は月番制で1人が担当したが、重大時には老中が揃って検討し、
連署して執行した。幕末には月番制をなくし、国内・外国・会計・陸軍・海軍の五局専任制となった。
>>301へ
では「大老格」とは?
302
老中首座とあるが老中上座という言い方もある。違いがあるのか?
304 :
日本@名無史さん:04/06/26 21:39
>>303 老中首座と老中上座どちらも同意。
普通4〜5人で構成される老中の座頭(ざがしら)格。
“筆頭老中”ともいうが、とくに任命されたものではない。
合議制のため責任の所在を明確にするために選ばれたと思われる。
305 :
日本@名無史さん:04/06/27 06:16
田中より偉い?
どの田中?
真紀子よりは偉いし、角さんよりは偉くない。
その他有象無象の田中(ヨシタケとか)よりは偉い。
あくまで主観では。
307 :
日本@名無史さん:04/06/27 21:14
角さんは老中首座と言うより大老と言ったイメージだな。
308 :
日本@名無史さん:04/06/27 22:22
>>307 違うな角さんは闇将軍。
大老や老中といった家来じゃないな。
>>307 角さんはただの老人のお供だと思うが・・・・
角さんより達磨だろ。
311 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:43
>>307 角さんは左ピッチャーだったとはずだが・・・・
312 :
日本@名無史さん:04/06/30 09:15
305〜311
このスレの主題「老中」とどういう関係があるのか?
主題に戻れ。
304
更に老中勝手掛も説明して。
313 :
日本@名無史さん:04/06/30 18:39
老中勝手掛
老中の中で幕府の財政面を主に担当した老中のこと。
今日の財務大臣に当たる。
314 :
日本@名無史さん:04/06/30 19:32
313
老中勝手掛と老中首座(上座)とは基本的に兼務なのか?
無知が仕切るな
316 :
日本@名無史さん:04/06/30 22:47
315
このスレの主題「老中」とどういう関係があるのか?
主題に戻れ。
317 :
日本@名無史さん:04/07/01 00:14
>>313 今の財務大臣にあたるのは勘定奉行では?
318 :
日本@名無史さん:04/07/01 08:54
317
奉行という意味を再考する必要がある。
訓読みして欲しい。
319 :
日本@名無史さん:04/07/03 07:02
>>317-318 奉行(ほうこう=上の者の命令に従って事を行うこと)
勘定奉行は老中支配下にある。
また石高3千石の旗本が選ばれる。
勘定奉行は財務大臣にあたらないだろう。
320 :
日本@名無史さん:04/07/03 08:25
奉行の訓読みは、うけたまわりおこなう
であろう。
321 :
日本@名無史さん:04/07/03 08:27
たてまつりおこなう
322 :
日本@名無史さん:04/07/03 11:20
奉り行なう
一発で変換できた
承り行なう
違うぞ!
323 :
日本@名無史さん:04/07/05 07:14
老中 a senior shogunal councilor
324 :
日本@名無史さん:04/07/05 19:50
323
では、大老や若年寄は?ついでに勘定奉行も聞こう。
325 :
日本@名無史さん:04/07/05 20:18
老中と老後ってどっちの方が幸せなの?
326 :
日本@名無史さん:04/07/05 20:22
>>325 年金問題の今後の行方しだいだろう としか、現段階ではいえないな
327 :
日本@名無史さん:04/07/05 20:34
>326
あっ そう。
328 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:58
329 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:04
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330 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:13
>329
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徳川血族(男系)の老中は下記の通り(まだ他にもいるかも)
松平武元(水戸→府中→越智)
戸田氏教(松平武元の子)
松平定信(田安宗武の子)
真田幸貫(松平定信の子)
板倉勝静(松平定信の孫)
本多忠民(水戸→守山→高松→本多)
水野忠誠(紀伊→西条→本多→水野)
大坂城代
松平周防守康任−水野左近将監忠邦−松平伯耆守宗発−太田摂津守資始−
松平伊豆守信順−土井大炊頭利位−堀田備中守正篤−間部下総守詮勝・・・・
この頃で既に優秀だったとか評判が良かったって人いるのかな
333 :
日本@名無史さん:04/07/06 08:28
水野忠誠は明治維新後、神主となる。
松平容保(←一発変換できた)も神主やらなかったっけか?
老中じゃないが。
335 :
日本@名無史さん:04/07/06 12:08
老中スレなんだから老中に限定しようぜ。
稲葉侍従美濃守正邦も明治維新後、神主になった。
336 :
日本@名無史さん:04/07/06 22:27
阿部伊勢守より堀田備前守の方が度胸も西洋知識も格が上だったんですよ。
338 :
大河の見過ぎ:04/07/10 00:51
>>337 阿部伊勢守=阿部正弘
堀田備前守=堀田正睦のこと?堀田家は備中守が一般的でないかい?
阿部正弘の推挙により老中首座となり,翌年外国御用取扱.
58年にアメリカ駐日総領事ハリスの出府・将軍謁見を実現.
日米修好通商条約を審議し,条約勅許を求めて上京するが失敗.
直後,井伊直弼が大老に就任し,無勅許調印を行い,
正睦は責任転嫁されて罷免。
>堀田家は備中守が一般的でないかい?
正睦は備中守を名乗ったが
歴代当主は相模守を名乗ることが多かったように思う。
相模守といえば、全然関係ないが
土屋相模守政直を思い浮かべる
土屋家って政直の代でなんだかんだ石高倍増してるな
341 :
日本@名無史さん:04/07/10 07:01
老中阿部正弘の直系子孫は、町内会長になった。
342 :
日本@名無史さん:04/07/10 09:02
堀田正盛(まさもり) 従四位下 出羽守 侍従
堀田正信(まさのぶ) 従五位下 上野介
堀田正俊(まさとし) 従四位下 筑前守 侍従
堀田正仲(まさなか) 従四位下 下総守
堀田正虎(まさとら) 従四位下 伊豆守
堀田正亮(まさすけ) 従四位下 相模守 侍従
堀田正順(まさなり) 従四位下 相模守 侍従
堀田正時(まさとき) 従五位下 相模守
堀田正愛(まさちか) 従五位下 相模守
堀田正睦(まさよし) 従四位下 相模守
堀田正倫(まさみち) 従五位下 相模守
343 :
日本@名無史さん:04/07/10 10:50
>>342 だから正睦は備中守を名乗った方が多かった。
大老になった正俊も筑前守を使ったのは大老になった頃(それまでは備中守)。
人のHPをコピーするだけでなく、コメントをつけろよな!
344 :
日本@名無史さん:04/07/10 17:42
とりあえずコピー貼っといたら頭のいい物知りがコメントするじゃん
俺はただの検索代行屋さ
人それぞれに役割がある
老中も、2ちゃんねらも
346 :
日本@名無史さん:04/07/10 22:27
>>342-343 正確にはこうかな。
堀田正篤 従四位下 相模守 → 従四位下 備中守 侍従(後に正睦)
ついでに言うと、初代の堀田正盛は出羽守から加賀守になっていて、長男の系統
(近江宮川藩)は豊前守、出羽守、加賀守を名乗っている事が多い。
佐倉藩ってなんだか怖いイジ-ジがある 漠然としているケド・・・
348 :
日本@名無史さん:04/07/11 01:31
幕末の老中ってよく改名してるというイメージがあるけど(堀田正篤→正睦、
松平忠優→忠固、安藤信睦→信正)、なんでだろう。
349 :
日本@名無史さん:04/07/11 04:20
ソニーの土井って老中末裔でしょ?
かっこいい
350 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 07:19
松平乗邑だっけ?散々働かされて吉宗に使い捨てにされて可哀想
351 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 07:28
>>347 佐倉藩は規模の割には家臣の数が多く、そのため年貢が高かった。
そのため、佐倉惣五郎の一揆が起きた。
352 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 15:48
>>341 :老中阿部正弘の直系子孫は、町内会長になった。
女の子(松平茂昭養女)しかいなかったでしょ。
354 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 20:05
西片町内会長ね。
ちなみに江戸時代は、西片一帯全てが阿部家の敷地だった。
>>350 そういや松平乗邑も一時佐倉を治めてて
結局山形に飛ばされたんだっけ・・・
そんで交替で佐倉に入ったのが堀田正亮で
この時堀田正亮は既に老中に就任してたかな???
堀田正亮 老中 延享2年11月〜 佐倉藩主 延享3年1月〜
>>356殿
恐れ入りました〜
こうあからさまだとコリャ報復人事なんですかね
358 :
日本@名無史さん:04/07/12 18:57
山形へ飛ばされたのは松平乗邑の子の乗佑だね。
延享2年10月から佐倉藩主。
佐倉は堀田が定着するまで要人が入れ替わり立ち替わり移封される藩だった。
359 :
日本@名無史さん:04/07/12 20:04
老中の末裔って今どんな職に就いてるんですか?
例えば酒井雅楽頭の末裔の故酒井美意子さん
ハクビ学長兼皇室評論家でしたね。
その酒井さんですが、出は前田家。はじめは嫁入りによって
格が落ちたなと思ってましたが、そんなこと全然ありませんね。
なんせ老中の家系ですから。
実は私は昔、美意子さんをオナニーのオカズにしたことあるのですが、
魅力的ないいお嬢さんでした。
360 :
日本@名無史さん:04/07/12 21:00
359よ。最後に何言っているんだよ。
不埒不届き者め。出て逝け。
老中の後胤の中には社団法人霞会館に
加入している者もいる。近代に爵位を
有するつまり華族になっている者が
いたからである。
361 :
日本@名無史さん:04/07/12 22:07
だから?
362 :
日本@名無史さん:04/07/12 22:14
前田から老中じゃ格落ちだな
363 :
日本@名無史さん:04/07/12 22:36
でも前田は老中になれないよ
364 :
日本@名無史さん:04/07/12 23:04
そりゃそうさ 一諸侯だぜ 幕府の政治なんてつまらん仕事するかよ
365 :
日本@名無史さん:04/07/13 01:04
その堀田正時ですが、豊前小倉の小笠原家から姫君を迎えたが、堀田家の貧乏ぶりに驚いて実家に逃げかエッって本当ですか?
366 :
日本@名無史さん:04/07/13 04:37
>365
それは知らんが、堀田正時は老中じゃないよ。
息子が正睦だよな。藩政改革を成功させてる。
367 :
日本@名無史さん:04/07/13 06:33
俺の知り合いの堀田さんは、スナック経営だが、
やはり老中末裔かな。オマエどう思う?
368 :
日本@名無史さん:04/07/13 23:03
俺の知り合いにも堀田さんはいるが、関係ないだろうな・・・たぶん
369 :
日本@名無史さん:04/07/14 04:41
堀田という苗字の人はそんなに珍しくないからねー。
堀田正○とかいう名前だったら、直系末裔の可能性アリかもしれないけど。
370 :
日本@名無史さん:04/07/14 23:08
下馬将軍は?
371 :
日本@名無史さん:04/07/15 05:54
堀田と書いて「ほりた」という人もいるよね。
酒井も土井も普通にいる名字だけど、江戸時代においては
恐れ多い名前だったんだろうな。
372 :
堀田相模守:04/07/15 13:36
真っ暗になってしまいましたなあ。
373 :
日本@名無史さん:04/07/15 22:53
酒井左衛門尉の老中就任は異例なのか
375 :
日本@名無史さん:04/07/16 18:14
さかいまちゃあきでごじゃいます
376 :
日本@名無史さん:04/07/16 19:28
377 :
日本@名無史さん:04/07/16 19:53
このスレでは堀田や酒井あるいは阿部正弘が人気だが
吉宗以降ほとんどの時期、幕府の中枢部にいたのは水野だ。
378 :
日本@名無史さん:04/07/16 20:19
水野あおい って言うぐらいだ
水野より松平
380 :
日本@名無史さん:04/07/16 20:28
水野忠邦も本当は浅野さんなんだよな。
381 :
日本@名無史さん:04/07/16 20:47
382 :
日本@名無史さん:04/07/16 20:52
383 :
日本@名無史さん:04/07/16 21:29
>>382 老中や若年寄になるのは家康の母於大の兄信元の一族。
松平諸氏ほど「いろいろ」ではなかろう。
>>383 その信元の一族がいろいろ分かれてるわけだが。
>>376 酒井左衛門尉忠寄.寛延2年〜明和元年まで老中
郡上一揆、金森兵部少輔頼錦の改易騒動で名前が出てくるが他何したかよく知らない
ちなみにご存知かと思うが、この百姓一揆が発端の事件で
金森の他、酒井より先任の老中、本多伯耆守正珍(駿河田中)の罷免逼塞をはじめ
沢山の人々がお仕置きされたそうな・・・
386 :
日本@名無史さん:04/07/17 00:48
>>385 サンクス!
にしても、何でこの人だけ老中になったんでしょうね?
387 :
日本@名無史さん:04/07/17 01:38
老中って偉いの?
遠山の金さんよりは、偉いらしいよ。
マツケンほどではないけどね。
389 :
日本@名無史さん:04/07/17 06:12
遠山の金さんなんて浅草の寄席程度しか実際の功績ねっていうし
比べちゃ老中さんが可哀相でしょ。
390 :
日本@名無史さん:04/07/17 09:43
>>384 松平諸氏は松平信光から分かれていくわけだが
信光は14世紀の人間、家康の6代前。
水野がいろいろと分かれていくより100以上年早い。
「いろいろ」の度合いが違うというのは、そういう意味なのだが。
そりゃ松平ほどじゃないが水野がいつくつか系統に分かれているのは事実
>>391 「分かれてない」と主張したことはない。
というわけで水野より松平
394 :
日本@名無史さん:04/07/17 12:03
しかし登下城の際
あれだけ駈け足だと駕籠もユッサ、ユッサ、揺れて
乗ってるほうも酔ってキモチ悪くなりそう
397 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:07
老中って強いの?
398 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:16
>397
この場合の強いの定義は?
399 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:38
剣に長けてるかどーかだろ
こわ・い 〔こはい〕【▽強い】
--------------------------------------------------------------------------------
[形]こは・し[ク]《「怖い」と同語源》
1 容易に言いなりにならなくて頑固である。強情である。「情の―・い子供」
2 かたくて扱いにくい。ごわごわしている。「―・い御飯」「髪が―・い」
3 力が強い。たけだけしい。
「力―・くして能(よ)く角を毀(か)き」〈垂仁紀〉
4 かたくるしい。
「この文の言葉、いとうたて―・く憎げなるさまを」〈源・若菜上〉
hクイズです。兄弟で老中になったケースをのべられい
402 :
日本@名無史さん:04/07/20 22:02
>>401 たしか、幕末の酒井忠績と酒井忠惇は兄弟だったよね。
御明察。さすがです。因みに西尾藩主松平乗全と長岡藩主牧野忠恭も兄弟です。
>>403 そうか、牧野忠恭が忠雅の養子だったのを忘れてました。
405 :
日本@名無史さん:04/08/14 23:38
ところで
元禄14年の老中首座は阿部正武でいいのかね?
406 :
日本@名無史さん:04/08/15 19:12
元禄14年の老中首座は阿部侍従豊後守正武である。
なお、麗澤大学紀要 美和信夫著「江戸幕府老中首座就任者に
関する考察」を参照されたし。
>>406 かたじけない
やっぱり、この頃の老中は影が薄いな
松平信綱以降の老中首座については、
酒井忠清⇒堀田正俊⇒大久保忠朝⇒柳沢吉保⇒阿部正武⇒土屋政直
⇒水野忠之⇒松平乗邑⇒堀田正亮⇒松平武元⇒松平輝高⇒松平康福
⇒松平定信⇒松平信明⇒牧野忠精⇒青山忠裕⇒水野忠成⇒大久保忠友
⇒松平康任⇒松平乗寛⇒水野忠邦⇒土井利位⇒阿部正弘⇒堀田正睦
⇒太田資始⇒松平乗全⇒久世広周⇒安藤信正⇒板倉勝静⇒酒井忠績
⇒板倉勝静
という順番でいいよね?
409 :
日本@名無史さん:04/08/26 02:15
松平信綱以前は?
410 :
日本@名無史さん:04/08/28 12:17
411 :
日本@名無史さん:04/10/04 22:20:01
あげとく
412 :
日本@名無史さん:04/11/05 04:42:57
>>408 意外に本多家からは老中経験者は居ても、首座にはなっていないんだな
413 :
日本@名無史さん:04/11/07 02:37:26
>408
うちのご先祖様の名前発見。記念カキコ。
祖母が亡くなる前にご先祖様について教えてくれました。
それまで何も知らなかったし、今現在はどちらかというと貧乏なほう。
維新後、爵位とかあったら金持ちだったんじゃないのって聞いてみたら
曾爺さんが大酒のみだったから貧乏になったんだそうです。
414 :
日本@名無史さん:04/11/10 04:01:37
415 :
日本@名無史さん:04/11/10 04:29:05
老中って、御三家の藩主も江戸城内で呼び捨てにできたってホント?
416 :
日本@名無史さん:04/11/10 18:59:10
>>415 そんなことはないだろ。
尾張藩主には「尾張殿」、紀伊藩主には「紀伊殿」と呼んでいたし。
もしくは官職で呼んでいた。
例外は老中が将軍の使いとして、藩主に「上意」を伝える時。
417 :
日本@名無史さん:04/11/12 13:17:16
418 :
日本@名無史さん:04/11/12 19:36:32
老中首座と大老ってどっちが偉いんじゃいボケ
419 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:23:53
たぶん、身分的には
御三家御三卿(含む前田?)>大老>老中>その他の親藩譜代外様大名
じゃないのかな?
420 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:27:22
大老>将軍>老中首座>平老中>>>>
尾張・紀州が権大納言で水戸・加賀は中納言だから官位だけなら
譜代連中より上。江戸での作法も朝廷の名による官位に基いたものだったのだろうか。
422 :
日本@名無史さん:04/11/13 00:47:01
江戸城内では、老中って、御三家に道を譲らなくてもよかったってホント?
423 :
日本@名無史さん:04/11/13 01:47:01
ほんと
424 :
日本@名無史さん:04/11/13 02:06:15
4万石の老中でも70万石級の尾張なんかに対しても?
425 :
日本@名無史さん:04/11/13 02:15:55
426 :
日本@名無史さん:04/11/13 11:40:01
水野出羽守忠成
427 :
日本@名無史さん:04/11/13 14:31:54
老中が偉いとはいっても尾張とか御三家は主筋として扱うんじゃないの?
紀州は主筋として敬われていたが、水戸は謀反の府として警戒されていた。
尾張は難物として敬遠。
429 :
日本@名無史さん:04/11/13 22:21:33
ドラマとか見ていると水戸黄門に対して大老格?の柳沢吉保は
「ご老公様」とかって「様付け」で呼んでたような記憶があるが
やっぱり御三家は越前や会津とは全然別格にえらいんじゃないかな
430 :
日本@名無史さん:04/11/13 22:39:56
昔は幕府役職より、官位官職で序列が決められていたから。
431 :
日本@名無史さん:04/11/13 23:51:31
水戸光圀は、人格と学識の双方で多大な尊敬を集めていたことも背景にある。みんなに一目置かれていた。
関係ないが、里見浩太朗は、榊原主計頭役が一番ハマリ役だった気がする。
義公光圀や烈公斉昭には没後に権大納言の官位が追贈されたが幕府の意向と朝廷の意向のどちらが強かったのだろうか。
434 :
日本@名無史さん:04/11/16 05:58:34
ソニーの土井常務が老中土井大炊頭の末裔って話は本当か?
435 :
日本@名無史さん:04/11/16 08:28:38
>>433 単なる慣例だろ。
征夷大将軍が死んだら、太政大臣が追贈されるのと一緒だろ。
436 :
日本@名無史さん:04/11/17 17:09:35
このスレ的には
保科正光
あたりの例外物は、どう扱ったらいいのでしょうか?
若年寄が響き的にすき
438 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:06:56
生前に太政大臣をもらって将軍・大御所は、
秀忠
家光
家斉
で間違いない?
439 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:13:05
家康
秀忠
家斉
家光は左大臣
440 :
日本@名無史さん:04/11/19 00:22:12
家康は生前に太政大臣!今でいう、大勲位菊花大綬章ほどの栄誉だな。
ちなみに、老中の権威をまさに思い知る瞬間って、どんなシーンがあるかな。
441 :
日本@名無史さん:04/11/19 01:18:47
>>440 やっぱり御三家の当主を下座において上意を伝える瞬間だと思われ。
442 :
日本@名無史さん:04/11/25 16:34:01
江戸城内では御三家、国持大名であっても、老中と行き交う時は道を譲って
礼をしなければならない、とか、あとは上にもある通り将軍名代として
上意を下座の大名に伝えるのです。威権すこぶるありんこ。
443 :
日本@名無史さん:04/11/25 17:33:45
大老と筆頭老中ではどっちが威厳ありまんこ?
444 :
日本@名無史さん:04/11/25 23:21:41
445 :
日本@名無史さん:04/11/25 23:23:33
一般には、大老だが。
人によっては大老=お飾りって言うことも無きにしも非ず。
446 :
日本@名無史さん:04/11/26 01:49:08
大目付は、老中が不正などをしていたら、直に将軍に告発する
権限を持っていたようだが、大目付の告発で罷免になった老中は
いるのかな?
447 :
日本@名無史さん:04/11/26 02:37:27
大老って筆頭老中がなるんじゃないの?
だから大老在任中は筆頭老中はいないとうちの教授が申しておりました
448 :
日本@名無史さん:04/11/26 13:54:11
>>447 そうかぁ?
ところで
大老vs
・水戸光圀
・徳川秀長
・保科正光
・柳沢
・間部
の場合は?どっちが道を譲るんだろ
449 :
日本@名無史さん:04/11/26 16:11:21
>>446 寺社奉行の告発が引き金になって罷免になった老中ならいます。
厳密に言うと、(ちくりルート)評定所留役寺社奉行所吟味物取調役の
川路弥吉⇒寺社奉行の脇坂中務大輔安董⇒老中の水野越前守忠邦⇒公方(家斉)
というルートで、老中首座松平周防守が免職、国替に
450 :
公方@江原真二郎:04/11/26 16:13:51
徳川秀長って誰よ?
忠長の間違いでしたスマソ
保科正光?
正之って書きたかったんでないの?
光圀>大老
忠長>大老
正之<大老
(以上は本人の性格の問題として・・・)
柳沢<大老
間部<大老
でないの?
454 :
日本@名無史さん:04/11/26 20:14:03
柳沢は大老格だろ?
ってか、そもそも大老格って何?将軍から任命されるの?
それとも「老中だけどあたかも大老の如く権勢を振るっている」って意味?
456 :
日本@名無史さん:04/11/26 21:45:49
>>453 大老は将軍の代理者だから将軍以外全員、江戸城内では道を
譲ると思うが。
457 :
日本@名無史さん:04/11/26 21:47:08
老中首座って、どういう基準で決まるの?
458 :
日本@名無史さん:04/11/26 22:51:55
459 :
日本@名無史さん:04/11/26 23:12:44
折れ土井っていうんだけど、やっぱ大老の末裔だと思う。
460 :
日本@名無史さん:04/11/26 23:57:56
>>458 458 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/26 22:51:55
>>455 >大老格って何?
既出。
全然外出じゃないと思うんだが・・・。
461 :
日本@名無史さん:04/11/27 02:04:57
>>455 大老は井伊、酒井、土井、堀田の譜代大名筆頭四家から
しか出せないものだから、家格が低い柳沢を大老にすると譜代大名から一斉に
総スカンを食う恐れがあったから正式な大老にはすすめず、老中の上席にあるように、
という命令で実質的大老=大老格ではないのかね?
柳沢は老中首座大老格というポストだったから、455の認識どおりで
正しいのではないのかね。
じっさい、保科は将軍補佐役、久松定信も将軍補佐役、越前慶永・
川越直侯は政事総裁職というポストにはなれたが、大老にはならなかったところを見ると、
やはり大老は譜代筆頭の井伊、土井、酒井、堀田の四家オンリーという
決まりごとでもあったということであろうか?
>>457 老中首座は、先任順をもってこれにあてている。
但し、姫路の酒井雅楽頭が老中になった場合は、新任であってもこれをただちに
老中首座とし、荘内の酒井左衛門尉が老中になった場合は、新任であっても、
同じくこれを老中次席扱いとするという特権的決まりがあった。
>>459 その論法でいくと、おたかも大老の末裔になるみたい
462 :
日本@名無史さん:04/11/27 04:03:56
姫路の酒井家は、老中にも大老にもなれる家格ですが、やはり大老になれれば、その藩主は勝っていると思います。
老中になったらマナカナだとおもってる
463 :
日本@名無史さん:04/11/28 00:04:44
揚げ
464 :
日本@名無史さん:04/11/29 06:44:00
俺は老中の末裔だからお前達より偉いという事でよろしいか
「人種、信条、性別、社会的身分、または門地によって、差別されない」(憲法14条)
>>461 保科・久松は親藩扱いですから。
越前も親藩。
っていうか幕末はそれどころじゃないし。
そうだそのとおりだ。
じっさい、松平(久松)定信が老中に就任した時も、御三家と一橋治済の強力な
後押しが無ければとても実現しなかったはず。なぜかというと↑にあるように、
白河の松平家は譜代ではあるが、家臣としてより、家門としてのそれだから、
老中を出す家格ではない。
じっさい、田沼失脚後の老中首座に、当初御三家は奏者番の秋元但馬守永朝をば推薦する予定だった。
468 :
日本@名無史さん:04/11/29 22:50:13
老中って御三家が推薦するの?
幕政(将軍権威)がぐらついたら支える。
それが御三家の仕事じゃん。
「御三家連名推薦」の老中なんて
・幕閣もさすがに断れない
・強力な後ろ楯がある=強力な支柱になる
470 :
日本@名無史さん:04/11/30 14:06:48
筆頭老中が井伊、酒井、土井、堀田の時に大老と呼び名が変る
オマエラそんな常識も知らないの?
>>467 どちらかと言えば、血筋的には将軍候補にさえなりうる定信を
御三家と一橋卿が組んでムリヤリ家臣としての立場を明確にしたんじゃ?
久松に入る経緯とかもなんかあやしいし。
472 :
日本@名無史さん:04/11/30 21:03:48
473 :
日本@名無史さん:04/11/30 22:22:49
474 :
日本@名無史さん:04/11/30 23:09:49
475 :
日本@名無史さん:04/11/30 23:54:55
>>474 どこにも「筆頭老中が井伊、酒井、土井、堀田の時に大老と呼び名が変る」などと書かれていないが。
476 :
日本@名無史さん:04/12/01 02:54:15
井伊と酒井はともかく、土井、堀田は譜代筆頭というより、中堅どころじゃないか。
譜代筆頭は、井伊、酒井、喜連川、鷹司だろ。
大老よりういろうの方が美味いよ
譜代とは何ぞや、ということについて考えていました
479 :
日本@名無史さん:04/12/01 22:25:41
↑
結論は?
480 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:03:27
>>478 高校の日本史で関が原以前よりの徳川の家臣や味方と習ったが。
外様の老中もいたってね
483 :
日本@名無史さん:04/12/02 17:11:00
厳密に「外様」の老中はいない。
外様の老中はいますよ。幕末の松前伊賀守崇広(蝦夷松前1万石)
元外様でその後「入譜代」、外様から願って譜代格に家格を直してもらった
播州龍野10万石の脇坂中務大輔安董、脇坂中務大輔安宅親子を想起せよ。
485 :
日本@名無史さん:04/12/03 01:21:37
「譜代格」だから外様じゃないでしょ。
脇坂も。
過去レス読め。
486 :
日本@名無史さん:04/12/03 03:13:57
なんだ過去スレって
オマイのソースは2ちゃんかよ>485
↑
反論があるんならどうぞ。
488 :
日本@名無史さん:04/12/03 04:18:35
>>484 脇坂とか松前ってのは、直系が絶えてしまい、譜代だか親藩の人が
養子に入ったから、譜代になれたんじゃなかった?
藤堂あたりは家康をして「譜代同然」とまで言わせたけど、
それでも外様であり、老中などになった人はいない。
489 :
日本@名無史さん:04/12/03 04:49:35
ミスター老中といったら諏訪忠誠
そして忘れてはならない間部詮勝
のイメージだな
490 :
日本@名無史さん:04/12/03 05:34:16
>>483 厳密に譜代格は譜代ではない。あくまで外様。
>>488 藤堂は老中になるにはでかすぎたのでは?
492 :
日本@名無史さん:04/12/03 06:11:15
何が?ちんぽ?
493 :
日本@名無史さん:04/12/03 20:58:41
>>488 養子が効いたといえば真田氏だろう
あと、松前氏の養子は全て一族から
江戸後期の真田の養子ってすごいよな。
井伊直幸の息子、松平定信の息子、伊達宗城の息子・・・。
495 :
日本@名無史さん:04/12/03 22:19:49
近所に老中末裔が住んでるよ。すごいでしょ。
すごいか?
じゃあ俺の近所には天皇が住んでるよ。すごいでしょ。
497 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:36:17
うちの辺りは貧民窟で、女中とか住んどる
498 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:44:03
貧民窟で思い出したが、文京区ってのはスゴイ所だ。
尾根と谷が交互に走ってて、尾根筋は元は大名屋敷、今高級住宅地。
谷筋は元は貧民窟、今は貧乏人が住む町。
499 :
日本@名無史さん:04/12/04 00:01:16
文京区で思い出したが、西片に阿部正弘の直系当主が住んでる。
江戸当時は、西片一帯が敷地だったとか。
500 :
日本@名無史さん:04/12/04 00:09:42
厳密な意味で譜代とは到底いえないが、幕末の老中の松前伊豆守崇広は、北辺に領地があり、対ロシア条約締結や朝廷の説得のために老中格に起用されたのか?
江戸後期の脇坂中務大輔安董は、寺社奉行時代に破戒坊主の検挙や仙石騒動裁挙で辣腕を振るったため、将軍家斉の御声がかりで老中に起用され、
天保改革時の真田信濃守幸貫は松平定信の血筋ということで、改革に泊をつけたい水野越前守忠邦の引きで老中に起用されたという、いずれも例外的な措置だ、という認識でよろしかったでしょうか?
501 :
日本@名無史さん:04/12/04 00:38:23
老中在任中は国元へは、帰れないの?
大老になれるのは井伊と酒井雅楽頭家だけなんでしょ?
土井利勝や堀田正睦は個人的な業績で特別にってことだよね
503 :
日本@名無史さん:04/12/04 17:14:00
>>喜連川、鷹司
喜連川は外様、もっと言うと幕府は喜連川は将軍家の家来筋であると
見なしてなかった。鷹司というのは吉井の松平のことか?
これは、親藩。譜代ではない。
>藤堂あたりは家康をして「譜代同然」とまで言わせたけど、
>それでも外様であり、老中などになった人はいない。
藤堂は国持大名であることを理解していない発言だな。
504 :
日本@名無史さん:04/12/04 17:20:38
>藤堂あたりは家康をして「譜代同然」とまで言わせたけど
藤堂が松平姓や将軍の一字を与えられなかったのは、そのせいなのか?
505 :
日本@名無史さん:04/12/04 22:12:47
506 :
日本@名無史さん:04/12/05 15:28:31
小知恵伊豆と言われた老中松平侍従伊豆守信明
を調べているんだけれど、なんかいい史料ないかな?
507 :
(・(ェ)・):04/12/05 16:41:16
>501
老中じゃなくても役につけば任期中は参勤交替が免除されてずっと任地(大抵は江戸)に常駐です。
参勤交替経費の節約というのは幕府の役に就任するメリットの一つでした。
508 :
日本@名無史さん:04/12/06 02:36:49
松平信明って松平定信の政治上の仲間だった人だよね。定信失脚後、老中首座を引き継ぎ、定信ほど教条的ではなかったにしても、路線的には倹約倹約で やりくりする主義で、
家斉の父一橋治済を二の丸に入れて大御所待遇にしたい話が蒸し返されたときも断固はねのけた。
家斉の不況をかい、一時、三河吉田に帰国していたが、閣内に人がいないため、家斉はやむなく信明を老中首座に再任し、亡くなるまで老中務めたというところまではわかっているんです
かれの死後、家斉は待ってましたといわんばかり側近の水野忠成、阿部正精を老中に起用した
509 :
日本@名無史さん:04/12/06 04:20:49
甲子夜話には信明を賞賛する逸話が多い。
信明の史料はやはり甲子夜話になろうか。
知られているように信明は元々定信と考えが近い友人で、家治死去後、定信が老中首座に就任したが、
旧田沼派と定信派の暗闘はいぜん繰り広げられていて、、新将軍家斉の周辺は
御用御側の田沼意明、稲葉正明で固められていて定信の意見が家斉に通じなかったので、
まず信明を側用人にして将軍家斉への連絡通路を確保した。
ついで、定信が意明、稲葉正明、老中水野忠友、松平康福を解任したとき、
晴れて信明は老中に栄転し、松平和泉守乗完、戸田采女正氏鉄、本多弾正大弼忠一
らとともに松平定信政権の中核を担った。
ただ、家斉の実父の一橋治済への警戒として点では田沼も定信らも同じ。
家斉を将軍にするにあたり、「大御所然として振舞うことのないように願う」
という約束をしていたにもかかわらず、治済は、家斉を通じて
「西の丸に入って大御所格に」
と言い出し、定信・信明らはこれを諌めた。
定信失脚後も定信の仲間たち、寛政の遺老たちは引き続き幕政を引き継ぎ、
定信の基本政策は維持された。
信明と治済の対立は興味深く、式日や三日で一橋家当主が登城する時、
どうしても水戸藩の登城行列とかちあうことが多く、人数から言っても、勢い水戸に
押されっぱなしだった。
治済は、「それがしは大納言、水戸(治保)は中納言、それがしのほうが格が
上だから、水戸は一橋の行列に譲ってしかるべし。水戸治保に意見していただきたい」
と老中首座だった信明に泣きついたところ、信明はにべもなく
「官位の高低は禁裏でのこと。ここは江戸。水戸殿は天下の副将軍、御自身は御部屋済。
御遠慮あってしかるべし」
とはねつけた。
511 :
日本@名無史さん:04/12/06 15:40:52
又、治済はその後も家斉を通じて
「西の丸に入りたい」
だの
「左大臣又は右大臣に」
とデムパぶりを発揮したが、そのつど跳ね除け、
家斉と激突し、家斉が
「そんならもういいわ」
と信明との面会に応じず、信明もばかばかしさを覚え、辞任した。
ただ当時北方ではロシア船の出没が頻繁で、老中も世代交代が始まったばかりで
閣内にこれといった人物がいなくなり、
一度閣外に去った人間を老中に再任するのは将軍家の沽券にかかわるものではあったが、
三年後に老中首座に再任され、信明は路線の似通った青山下野守忠裕を老中次席
として再び倹約路線、反治済路線をひた走った。定信失脚後ら水野忠成が老中に
就任するまでの間の対露政策、蝦夷政策は信明の意向が相当明瞭に反映されておる。
信明が57歳で病に倒れた時、家斉は宰相の病を気遣うどころか、逆に嬉々として、
側近の水野出羽守忠成を側用人兼務のまま老中格にあげ、つづいて寺社奉行の
阿部備中守正精を大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。
512 :
日本@名無史さん:04/12/06 23:21:08
とすると松平伊豆守信明が小知恵伊豆と
称されるようになった謂れは何なのだろうか。
第一、だれが言い出したのだろうか。
513 :
日本@名無史さん:04/12/07 01:50:44
昭和まで生きた元老中がいるらしいね
514 :
日本@名無史さん:04/12/07 03:03:38
大政奉還前夜にわずかな期間老中を務めた久松定昭か酒井忠惇あたりかな?
515 :
日本@名無史さん:04/12/07 03:52:56
親藩→尾張、紀伊、水戸、田安、一橋、清水
家門(一門、連枝)→結城(越前、美作、明石、出雲)、久松(伊予、桑名)、奥平(忍、中津)、御三家の支藩(高松、西条、守山)、保科会津、吉井の鷹司松平
譜代→筆頭に井伊、次に姫路の酒井、荘内の酒井、小浜の酒井、岡崎の本多、高田の榊原、唐津・小倉の小笠原、小田原の大久保、
516 :
日本@名無史さん:04/12/07 03:56:39
>>512 いやいや、かなり頑張って&権勢誇ってるじゃん<信明
「古の知恵伊豆ならば、今は小知恵伊豆」
と言われてもしょうがない。
517 :
日本@名無史さん:04/12/07 06:33:10
林正之助の昭和15年は別格としても、明治後期〜大正まで生きた
老中や上級旗本などの重鎮は結構いたらしい。
どういう思いで生きていたのだろうね。
518 :
日本@名無史さん:04/12/07 06:39:03
○林昌之助(鎮西藩主)
×林正之助(吉本興業会長)
519 :
日本@名無史さん:04/12/07 20:03:31
鎮西藩主って(w
520 :
日本@名無史さん:04/12/07 22:18:52
で、参州吉田侍従松平伊豆守信明をば、小知恵伊豆といわしめた理由は
521 :
日本@名無史さん:04/12/08 00:37:21
522 :
日本@名無史さん:04/12/08 00:39:07
すみませんが、「老中」の英訳ってなんですか?
old guy
524 :
日本@名無史さん:04/12/08 01:33:04
マジレスすると
senior shogunal councilor
525 :
日本@名無史さん:04/12/08 01:50:55
若年寄は、Deputy Senior Shounal Councilorだとして、大老は?
526 :
日本@名無史さん:04/12/08 02:20:20
大老は Chief Minister
527 :
日本@名無史さん:04/12/08 03:24:44
>>525 若年寄は、young old boys だろ。
528 :
日本@名無史さん:04/12/08 22:57:19
松平信明の文献は?
小知恵伊豆という理由は?
529 :
日本@名無史さん:04/12/09 00:50:12
>>527 違う。若年寄は、
WAKA-HAGE boys
530 :
日本@名無史さん:04/12/09 00:54:30
外国語書くと荒すぞ!
531 :
日本@名無史さん:04/12/09 01:11:08
ミカド、タイクーンとロージュー、ダイミョー、ブギョー、ハラキリ、フジヤマ、ヨシワラ、幕末外交交渉はこれで十分通じた(魔痔レス)。
532 :
日本@名無史さん:04/12/09 05:13:33
大老>将軍>老中>大学頭
533 :
実際は:04/12/09 07:07:18
勘定所下僚陣のサボタージュ>勘定奉行>将軍>勝手掛老中>大老
534 :
堀田備前守:04/12/10 16:19:01
松平信明以後の老中首座は誰ですか?
535 :
日本@名無史さん:04/12/10 19:00:07
老中首座と大老ってどっちが偉いの?
536 :
日本@名無史さん:04/12/10 19:05:16
大老だな。
老中首座は老中の第一人者にすぎないが、大老は一段上の立場。
537 :
日本@名無史さん:04/12/10 20:29:37
結局、松平信明についてこれ以上知っている者は、
このスレにはいないということなんだな。
538 :
日本@名無史さん:04/12/10 21:41:07
>>535 Great Roju > Chief Roju
539 :
日本@名無史さん:04/12/10 23:23:41
大老の決断は将軍でも覆せなかった。
540 :
日本@名無史さん:04/12/11 04:07:49
だから綱吉は若年寄稲葉石見を教唆して堀田備前を暗殺させたわけか
541 :
日本@名無史さん:04/12/11 04:55:50
ほう、知らなかった
542 :
日本@名無史さん:04/12/11 10:10:49
543 :
日本@名無史さん:04/12/11 10:28:05
人権板から来ました老中等柳営の職制が好きなリーマンです。
ここは目の保養になりますね。感激です。
主殿守意次・山城守意知親子が大好きです。
太田備中守、久世大和守も好きです。
また来ます。
544 :
日本@名無史さん:04/12/11 11:23:27
ちなみに三州吉田の伊豆守信明ですが、たしか田沼家移封後の相良城破却に動員された四家の筆頭だったと記憶しています。小者の印象しかありませんが何かわかりましたら書き込みます。
545 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:23:01
546 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:34:46
547 :
日本@名無史さん:04/12/11 16:39:21
久世大和守広周の子孫で、やはり久世広周が健在だ。
太田備中守とは太田備中守資始のことか。
堀田備前とは堀田筑前守正俊のことか。
548 :
日本@名無史さん:04/12/11 16:55:59
松平侍従伊豆守信明は二度老中首座をつとめる。
寛政5年7月23日より享和3年12月22日まで。と
文化3年5月25日より文化14年8月29日まで。
同日58歳で没す。
初めての首座での後任者は、戸田侍従采女正氏教
因みに前任者は、松平侍従越中守定信
二回目の首座での後任者は、土井侍従大炊頭利厚
因みに前任者は、牧野侍従備前守忠精。
549 :
日本@名無史さん:04/12/11 19:31:37
>544
いや、相良城破却に動員された主力は和泉岸和田五万石の岡部駿河守正備だよ。
550 :
日本@名無史さん:04/12/11 19:34:42
つまり、
松平定信→松平信明→戸田氏教→牧野忠精→松平信明→土井利厚→
551 :
日本@名無史さん:04/12/11 19:40:30
その通り。
552 :
日本@名無史さん:04/12/11 23:55:31
ところで、なんで相良城まで破却しちゃったの?
田沼への懲罰ならば、お取り潰しにするなり、もっと辺鄙な所に飛ばすなりすればよかったのに。
確か改易になった沼田真田家の沼田城もやられてるよな。
553 :
日本@名無史さん:04/12/12 00:05:16
田沼家なら、57000石のうち、47000石を収公され、相良から越後剄城、奥州梁川併せて10000石の痩地に左遷されていますが、何か?
554 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:08:17
老中の久世大和は何人かいるが、ここで話題になっているのは
多羅尾 半蔵に殺害された久世広之のことかね?
555 :
日本@名無史さん:04/12/12 10:53:10
松平乗邑ってどうよ?
あと、最後の老中首座は誰?
556 :
日本@名無史さん:04/12/12 11:49:37
岡部は城受け取りの正使でしょ。
557 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:53:28
松平侍従左近衛将監乗邑も
老中首座になっている。
幕府最後の老中首座は
酒井侍従雅楽頭忠惇である。
558 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:56:16
松平左近将監乗邑の邑の字の読み方だが、
のりさと。それとも、のりむら。
いずれかわからない。
559 :
日本@名無史さん:04/12/12 15:01:04
たしか「のりさと」
560 :
日本@名無史さん:04/12/12 15:07:21
よく慶喜時代の老中首座は板倉勝静と言われているが、
慶応3年秋に一ヶ月だけ伊予松山の松平定昭が老中上座に就任し、
酒井忠惇は慶応3年暮に老中に任命されている。
この二人は家格が高いので首座になったんだろうが、板倉の立場は?
昔の人の諱の読み方なんて
あってないようなもの
562 :
日本@名無史さん:04/12/12 17:19:24
俺は久世広周が好きだ。大老に面と向かって反発出来た人間は
人類史上この人だけだろう。
563 :
日本@名無史さん:04/12/12 17:23:24
最後の大老酒井忠績って、何か業績あったの?
564 :
日本@名無史さん:04/12/12 17:59:01
酒井雅楽頭って重鎮のわりには影薄いね。
565 :
酒井忠清:04/12/12 18:11:59
なんだと?
566 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:14:23
さえ文のじょうのほうがかげうすい
567 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:49:55
さかいまちゃあきでござりまする星3ツ!
568 :
日本@名無史さん:04/12/13 00:02:12
松平左近衛権少将伊予守定昭は
珍しく少将で老中になっている。
しかも、伊予国松山藩の藩主だが
領国の国司にもなった。
老中真田侍従信濃守幸貫(信濃国松代藩主)
以来のことだ。
569 :
日本@名無史さん:04/12/13 00:37:32
歴代の老中首座教えて!
↑頑張ってググって!
571 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:01:31
訂正です
田沼主殿守→主殿頭
また来ます。
松平周防守康福も好きです
572 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:16:52
人気ないが、俺は土岐丹後守頼稔が好きだな。
理由は・・・ガクガクブルブル
573 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:19:44
在任半年という短命老中だが、松平周防守康直は好きだ。
棚倉脱出に成功させたからですか
575 :
日本@名無史さん:04/12/13 02:11:17
560
定明や忠惇が老中首座なったとしても連中は就任したてで右も左も
良くわからなかっただろうから実質板倉が首座と見ていいのでは?
562
いや。延宝期の老中の堀田備前を忘れてもらっては困る。
宮様擁立を主張する酒井雅楽守に抵抗して、反発して、大老の座をもぎ取りました。
詳細は、村井国夫に訊け
563
全然ないですな。彼が老中首座だったことすら意味不明なのに。
573
松井松平家は、仙石騒動と密貿易がばれた一件で浜田から棚倉に国替えされていたが、
彼の活躍のお蔭で棚倉⇒白河⇒川越に出れて、二万石加増を受けたからですか?
576 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:14:20
最後の老中立花出雲守種恭
577 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:16:19
×最後の老中立花出雲守種恭
○最後の老中大河内豊前守正質
578 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:21:37
最後の老中 稲葉民部大輔正巳
579 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:35:17
稲葉兵部だろ?老中格の。
大河内より一週間早く退任してるよ。
最後の若年寄近藤勇
>>580 正確にいうと、このスレ板によく出る「格」がつく。あと改名したので、
若年寄格 大久保大和
582 :
日本@名無史さん:04/12/13 09:36:38
違う。若年寄並 大久保大和である。
583 :
日本@名無史さん:04/12/13 09:41:53
いやそれも違う。柳営補任では、近藤勇義宜こと大久保大和なる
人物が若年寄、若年寄格、若年寄並何れにも補任された記載が無い。
史料的根拠は乏しい。
584 :
日本@名無史さん:04/12/13 09:52:56
最後の老中は
老中稲葉侍従美濃守正邦である。(慶応4年2月21日退任)
老中格立花出雲守種恭の退任は、慶応4年2月5日
老中格稲葉兵部大輔正巳の退任は、慶応4年2月3日
老中大河内豊前守正質の退任は、慶応4年2月9日
585 :
日本@名無史さん:04/12/13 13:12:40
鳥羽伏見の戦いで幕府軍を裏切ったのにですか。
586 :
日本@名無史さん:04/12/13 17:32:21
ヘタレ近藤なんてどーでもいい
587 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:09:44
>>585 稲葉正邦はずっと江戸にいたから、淀藩の裏切りとは無関係である。
とはいえ、退任までの二ヶ月は針のムシロ状態だったかも。
588 :
日本@名無史さん:04/12/13 23:02:28
針のムシロって何だ?
この人は単に慣用句を知らないだけなのかレスに迷うな
590 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:06:56
老中稲葉侍従美濃守正邦は
明治時代になって神主になった。
591 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:11:08
神主系は多いね
592 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:11:59
あいず(←なぜか変換できない)の松平かたまり?とかいう香具師も落ちぶれて神主にならなかったっけ?
593 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:15:38
あいづ だろ?
594 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:20:02
595 :
日本@名無史さん:04/12/14 14:10:27
老中諏訪侍従因幡守忠誠も
神主になった。
596 :
日本@名無史さん:04/12/14 14:34:09
地主になったのもいるね。
597 :
日本@名無史さん:04/12/14 15:06:34
久松少将伊予守定昭の子孫は知事ぞ。それも日共支持の。
598 :
日本@名無史さん:04/12/14 16:53:18
諏訪は元々神主、大祝だろ?
599 :
日本@名無史さん:04/12/14 16:55:28
×あいず
◯會津
600 :
日本@名無史さん:04/12/14 18:16:27
諏訪因幡は元老中が神主になったというより、神主が老中になったといったほうが妥当ですな。
601 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:15:50
宮津の本庄伯州は桂昌院の弟が取り立てられた家だが、なんでも元は黒鍬者だったそうですな。
602 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:17:31
603 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:56:46
八百屋だろ
604 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:56:35
605 :
ハズブラートフ最高會議議長:04/12/14 22:09:15
幕末に、沿海五ヶ国(加賀藩、仙台藩、薩摩藩、土佐藩、備前藩)の藩主を老中にし、挙国一致幕閣を作るという計画があったというが、本当どすか?
慶喜を将軍にして斉昭を後見職にして春嶽を大老にし
その下に雄藩諸侯の会議を置くとかいう橋本の構想のことか?
607 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:50:42
いや、徴収の何とか言う下級武士の起草した案に老中の久世大和と内藤紀伊が乗ろうとした案だと聞いたな。
608 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:16:36
安藤侍従対馬守信正、本多侍従美濃守忠民、松平侍従豊前守信義は不支持か。
609 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:30:37
いや、その当時、磐城平侍従安藤対馬は坂下門外で重傷を負って、失脚していた。
610 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:31:28
安藤和津あげ
結構仰せ付けられて有難く存じ奉る
612 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:55:36
磐城平の安藤対馬守は、失脚寸前には備中松山の板倉伊賀守に押されっぱなしだったし、和宮様御降嫁の件で水戸浪人に襲撃されて老中次席から溜詰に左遷されたのち、政治影響力の一切を封じられ、
久世も失脚。
板倉政権へ動き出す。
613 :
日本@名無史さん:04/12/15 03:58:41
アンカツって老中末裔なの?ほんと!?
ビックリしたなぁもお〜
614 :
日本@名無史さん:04/12/15 10:59:38
でもよ、失脚とはいえ、溜間詰なら、いいじゃん。
615 :
日本@名無史さん:04/12/16 05:21:38
いろいろ名が上がってますが、将軍家の老職では、やはり田沼主殿頭意次が一番魅力的です。
才能・実力は他を圧倒しているように思います。
結局は門閥の前に押し潰されましたが…
616 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:54:00
老中を一番長くつとめたのは
阿部侍従豊後守忠秋 33年
617 :
日本@名無史さん:04/12/16 14:42:25
小笠原長行はどうでしょう。
よく言って波瀾万丈、悪く言えば何を考えているのか判らない、行動力がある
のかただのへたれか判断に迷うところが、慶喜にも似ててなかなか魅力的w
618 :
日本@名無史さん:04/12/16 15:15:28
ベビーフェイスした総入歯のおじいちゃんの写真が残っている
図書頭長行
619 :
日本@名無史さん:04/12/16 16:32:59
壱岐守長行
620 :
日本@名無史さん:04/12/16 18:06:22
主殿頭長行
621 :
日本@名無史さん:04/12/17 05:32:14
最後の大老酒井雅楽頭忠績のその後(明治の職業や生活ぶり)をご存知の方お教え下さい。
622 :
日本@名無史さん:04/12/17 07:36:37
>>621 維新後も徳川家への忠誠を貫くが、この経緯については、あまり研究されておらず、現在、姫路市史編集室が解明を進めている。
あのう、榎本武揚共々蝦夷まで落ち延びた小笠原長行と板倉勝静は、一体何を
していたんでしょうか。
蝦夷共和国の閣僚選挙では候補にすら選ばれず、何の役職もない。
部屋の隅でニートしていたんでしょうかw
函館戦争中は二人で酒飲んでたとか。
624 :
日本@名無史さん:04/12/17 11:17:51
625 :
日本@名無史さん:04/12/17 17:29:26
えぞ共和国は実力主義で高官を決めたから幕府時代は家柄で老中が務まった板倉伊賀、小笠原壱岐両閣老は黙って脇役に徹したものと解されます。
まあ、稲葉正邦の澱藩や彦根藩、藤堂藩、大目付滝川播磨のへたれっぷりに比べれば良い方だと思いますがね。
ところで徳川家に駿遠二ヶ国七十万石安堵に伴って関東にずれた老中を出す家格の浜松の井上、掛川の太田、横須賀の西尾、相良の田沼、沼津の水野は迷惑だったろうな
626 :
日本@名無史さん:04/12/18 10:21:22
酒井左近衛権少将雅楽頭源忠績朝臣
1827(文政10)-1895(明治28)
627 :
日本@名無史さん:04/12/18 10:36:35
628 :
日本@名無史さん:04/12/18 16:28:09
白林院殿直指宗心居士
これはある老中の戒名ですが、現在の相場で500万円以上です。
さすが上級武士は違いますね。
629 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:11:37
以前に老中首座=大老
という書き込みがあったが、それは違う。
大老は原則、井伊、酒井、例外堀田正俊、土井利勝だけです。幕末の堀田備前守の場合も老中首座にすぎない
630 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:07:35
,:::-、 __
,,r::::::::::::〈:::::::::) ィ::::::ヽ
〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
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631 :
日本@名無史さん:04/12/20 21:03:18
堀田備中守正篤=老中首座
632 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:30:34
>>625 >徳川家に駿遠二ヶ国七十万石安堵に伴って関東にずれた
>老中を出す家格の浜松の井上、掛川の太田、横須賀の西尾、
>相良の田沼、沼津の水野は迷惑だったろうな
老中関係ナシでも、この辺の顛末って面白そうですね。
633 :
日本@名無史さん:04/12/22 23:16:21
ちきい
634 :
日本@名無史さん:04/12/31 06:45:43
あげ
>>632 いやあ本当、掛川の史料が掛川にないんで困るっす
636 :
日本@名無史さん:05/01/06 20:44:45
637 :
日本@名無史さん:05/02/03 12:29:32
老中の屋敷ってどれ位の大きさだったの?一万坪くらい?
638 :
日本@名無史さん:05/02/03 15:47:38
639 :
日本@名無史さん:05/02/03 16:08:15
いや
>>637は多分、西の丸下に支給された老中の公邸の広さのことを聞いているんじゃ?
切絵図で見ると西の丸下は並みの大きさに見えるが・・・
それに比べると大名小路の方は若干狭い目かいのう。
御門は外桜田の彦根様はそれこそ赤門だけど、大手前の姫路酒井様の方が
案外立派に見えたりして・・・・
641 :
日本@名無史さん:05/02/06 22:10:28
>>197 将軍、三家・三卿、大老・老中の微妙な関係を、うまく説明されています。
幕藩体制に興味を持つ者として、たいへん参考になりました。
642 :
日本@名無史さん:05/02/06 23:36:48
一橋治済の海千山千ぶりはとても御三卿の当主とは思えん。
643 :
Gくん641:05/02/07 20:54:20
>>642 一橋治済(11代家斉実父)、オレも興味がある人物です。
彼は、権謀術数の人だと思います。松平定信が、まだ田安家にいる頃、田沼意次と組んで
彼を白河松平家へ養子に出し、自分の息子が将軍に就任し目的を達すると、田沼を裏切り
定信を老中に向かい入れ、田沼失脚を図った人物。
元将軍でもないのに「大御所」になろうともした。とにかく面白い人物です。
644 :
新参者:05/02/07 23:14:14
みんな、歴史に詳しいねぇ〜^^
645 :
642:05/02/08 23:02:50
佐藤雅美「主殿の税」を読んだのですが、一橋治済は、十代将軍家治の一回だけ手のついた
側室を貰い受け、その後治済とその側室の間に生まれたのが一橋豊千代(家斉)なわけですが、
家治は、一橋豊千代が自分の実子ではないかとずい分悩んだそうです。
治済は家治のそういう弱みを巧みに利用して豊千代を将軍家御跡目に押しこんだと書いてあります。
また、一橋豊千代西城入に際し、田沼意次から大御所然として振舞われないようにと
強く念を押されていたのに、家斉を通じて松平定信、松平信明に
「大御所待遇にして欲しい」
「西の丸に入りたい」
などと無茶な要求を出し、松平伊豆守信明はあきれて老中を辞任する始末。
ちなみに治済の要求はその後もエスカレートし、水野忠成の代になって
「則闕の官」、つまり太政大臣や左大臣、右大臣のポストがつかえていて大臣に
なれない人のための「准大臣」という官位に任官し、ここに、
本丸の将軍家斉=太政大臣(大相國)
西の丸の将軍世子家慶=右大臣(右府)
部屋住みの一橋当主治済=准大臣(儀同)
という形で祖父父子三代で朝廷の大臣ポストを軒並み掻っさらうような異例なことをしている。
いずれにせよ、この小説は、田沼失脚から松平定信政権樹立までの暗闘がリアルに記述されているので
おすすめです。
646 :
Gくん641:05/02/12 12:06:11
>>645 早速、その佐藤雅美「主殿の税」読んでみようと思います。
647 :
日本@名無史さん:05/02/12 23:30:02
老中は重要なことを密談する時には外部に聞こえず記録にも残らないように灰の上に文字を書いて密談したらしい。
648 :
日本@名無史さん :05/02/26 09:38:52
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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日 ∨ U A V | そりゃ禁句です!
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649 :
松平伊豆守信明:05/03/14 10:45:47
三河吉田より→八万石
650 :
日本@名無史さん:05/03/14 13:58:56
老中より中老ってがいしゅつか?
653 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 02:18:01
特に浜松の井上主計頭なんか悲惨だよ。井上正甫が押して不義(強淫)に及んだのが
ばれて浜松から棚倉に転封され、25年ぶりにようやく浜松に戻れたと思ったら
上総鶴舞とかいう聞いたことの無いところに飛ばされている。
東海道筋で物成も良かったのに
654 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 19:51:50
ん?それは子孫の井上河内守正直のこと?その後廃藩置県で鶴舞藩知事になってるはず。
主計頭正就の方は刃傷沙汰で絶命したことで有名だけど…
655 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:43:52
× 藩知事
〇 知藩事
656 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:54:43
正式な官名は「知藩事」だが、上に藩名がつくときは鶴舞「藩知事」でよい。
657 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:02:08
知鶴舞藩事
659 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:19:38
藩制一覧で藩知事って書いてなかったかな
叙爵内規にも旧大藩知事なんて用語あるし
660 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 22:56:27
>>656 たぶん…鶴舞「藩知事」じゃなくて鶴舞藩「知事」なんじゃないかなー
この場合の「知事」は「知藩事」の省略形みたいなもんでさー
662 :
キッコーマン:2005/04/24(日) 19:01:15
1は知恵伊豆が好きだそうですが、私は幕末の堀田備前守がよいと思ふ。
663 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 05:51:59
老中って今いう官房長官だろ?すげーばい
老中って、昔三河の1豪族に過ぎなかった松平家の役職名だったのが、
徳川が幕府を開いたので、そのまま幕府の中の1つ役職名になったんだよね?
いや、官房長官は御側御用取次。
常に官邸に詰めており、首相と話す機会も多い。
667 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 19:46:18
>>666 御側御用取次は首相秘書官じゃないの?
旗本クラスの役職だけど、将軍の側近ゆえ権勢は強い。
668 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:02:07
天皇=天皇
内閣総理大臣=征夷大将軍
副総理=大老
国務大臣=老中
官房長官=筆頭老中(官房長官は閣議の司会兼事務次官会議議長)
副大臣(もしくは事務次官)=若年寄
て、ところか。
669 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:06:16
官房長官でも、首相秘書官を通してから首相に会うのが
原則だから、首相秘書官が側用人もしくは御側御用取次に同意。
670 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:11:39
旧憲法的な天皇=征夷大将軍
内閣総理大臣=老中首座
国務大臣=老中、若年寄
旧憲法下の内大臣、侍従長=側用人、御側御用取次
事務次官は官僚なので旗本役の町奉行、勘定奉行、大目付
671 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:15:43
江戸時代の幕府は朝廷から独立した完全に別個の政権なんだから、
現在の天皇に相当するのは将軍。
ただ、制度や権限がちがうんだから単純に同一視はできないがな。
672 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:17:14
財務大臣=勝手掛老中
財務事務次官=勘定奉行
だろ?
673 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:18:01
>>670 征夷大将軍は形式上、天皇に任命されるし、将軍職を辞職する場合も
天皇の勅許が必要だから天皇=将軍は無理がある。
旧憲法下の天皇も首相に行政権を委任していたし、幕府も
形式上天皇が将軍に政を委任している形になっている。
674 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:21:36
首相、将軍ともに天皇に任命される。
天皇=将軍は天皇の任命権を否定することになり、おかしい。
675 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:50:36
だから、違う時代の違う制度をピッタリ同一視することはできないと書いた。
江戸時代の天皇や朝廷は幕府と別物で、幕府は将軍をトップとする政権であり、
世襲の将軍が傀儡で実権は幕閣が掌握していることが多いのだから、
今日の日本国政府に無理やり比較するのなら、やっぱり天皇=将軍だよ。
676 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:55:56
将軍は朝廷から任命された官職というのは、あくまでタテマエであって、
実際には家康の創始した徳川王朝。
天皇は、いわば旧王朝の末裔かローマ教皇的な伝統的権威のようなもので、
徳川政権の外の存在にすぎない。
世襲的王権としての徳川王朝の王は将軍であって、将軍が国家のトップ。
首相、宰相的ポジションは老中首座や大老だ。
非常時大権と軍政的行政府開設権がある点でまったく首相と比べられないよな
しいて言うと将軍は大統領に似ているとか
スルタン・カリフ制のスルタンに似ているとか
教皇・皇帝制の皇帝に似ているとか
678 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:18:01
首相に国務大臣に任免権があるが老中首座に老中任免権があるか?
将軍に任免権があるだろ。首相=将軍だよ。
江戸時代の天皇と現在の象徴天皇のほぼ同じポジションだろう。
679 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:36:01
江戸時代の天皇は京都に隔離され、幕府機構の外にあるのだから象徴天皇以下の存在。
好意的に解釈すれば、武家政権と別個に存在する教皇的存在。
徳川将軍は象徴天皇ではなく明治憲法下の天皇に近い。老中首座は戦前の首相同様、
同輩中の首席。
680 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:45:16
象徴天皇は権力はなくても日本国政府の一機関であり、形式的な元首である。
近世天皇は、全国政権である幕府から一応独立しており、部外者的存在。
江戸幕府を儀礼的、形式的に代表するのは将軍であり、朝鮮その他との外交上も
近世国家を代表していたのは将軍=日本国大君。
乱暴な比較ではあるが、現在の象徴天皇に無理やり比定するのなら将軍になる。
まあ、将軍は儀礼上も実質上も日本を代表する君主だったわけだが。
681 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:46:11
>>679 現在の日本国憲法下では?
そもそも将軍や老中は現在では何にあたる?が議論の始まり
なんだから、旧憲法下の話をされてもなあ。
現在なら首相=将軍でしょ。
682 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:50:04
そもそも、時代も制度も違うのだから個々の権限だけ抜き出しても仕方ない。
幕府が全国政権であり、将軍が名実ともにそのトップであった事実を考えれば、
将軍は近世における日本国の王だよ。
天皇は京都に押し込められた旧君主あり、アッバース朝カリフのなれの果てに近い。
683 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:50:04
>>680 将軍の朝廷の一機関でしょ。
そもそも制度上は京の太政官が日本の政庁で幕府は天皇から
委任された行政立法司法を円滑に遂行するための私的機関でしょ。
684 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:52:25
現在なら、該当なし。
将軍の機能は象徴天皇と内閣総理大臣に分割されてるし、
厳密なことを言ったら国会まで持ち出さなければならなくなる。
685 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:55:13
現在の政府(全ての機関)は法的には朝廷を継承している。
686 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:58:47
幕末に朝廷の発言力が強まり、幕府との力関係が逆転したことや
現在の日本国政府が王政復古後の維新政権の延長上にあることと、
全盛期の江戸幕府と現在の政府の比較はまた別問題だろう。
687 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 23:05:43
明治以前は、朝敵=逆賊=国賊。
どんなに幕府が強かろうとも一番恐れたのは朝敵になることだった
からなあ。
天皇の権威は無視できないよ。
他国なら自分の力で王朝ができたが、日本は天皇の臣下の形を
とらないと、日本を治められない特殊な国。
歴史上の天皇の権威を無視はしないけど、過大に評価するのもどうかと思う。
あと、セルジューク朝やティムールなど、旧君主の権威を利用した王権の例はある。
別に日本だけが特殊だったわけではない。
690 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 00:26:17
>>689 古代の日王たちも中国や韓国の皇帝におもねって国内での権威を高めようと必死になっていたね。
かかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか韓国の皇帝???
宗主国様を差し置いて皇帝を名乗るなど片腹痛し
693 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 20:50:50
新井君美の描いた国際関係像
清朝天子←削封・朝鮮国王
日本天皇←叙任・徳川将軍
徳川将軍と朝鮮国王は対等。大君という表現は、朝鮮国王の臣下であるから、これを国王に改める。
雨漏報酬の描いた国際関係像
694 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 21:47:39
秀吉は多分、明帝の臣下としての日本国王という自覚はあったんだろうな。
半島南部割譲とか明の皇女降嫁とかの条件が認められれば、素直に冊封を受けただろう。
695 :
林 大炊頭:2005/05/05(木) 23:01:14
冊封って言葉の、もともとの語源や意味について詳しい方いらっしゃる?
>>695 冊立&封建じゃないんですか?
なんか、どんどんスレタイから外れていっているような…
元に戻して・・・
大奥vs老中って ほとんど老中の負け?
まあネタ振りなんでスルーでもかまわんが
>>697 老中評定の負けがほとんど。
慶喜が将軍になった時ぐらいしか勝ってないんじゃないか?
699 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 04:05:18
改革に躍起になった、正徳の治の新井筑後守、間部越前守も、大奥には手がつけられなかったし、
徳川吉宗も月光院はじめ実力者には手当て増額をむしろ強いられている。
松平越中守も就任当初は、ある、お局を追放したが、やがて大奥が家斉に罷免を要求。
水野越前守も同じ。
700 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 04:11:55
>>694 秀吉は明を滅ぼして天皇を北京に遷し
自分は寧波に城を築いて東亜を支配する構想
701 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 04:27:22
>>695 冊立封爵のこと.。中国王朝の皇帝が国内の貴族や功臣に
王・公・侯などの爵位と封地を賜与する行為。漢代以降これを
中国の外延部にも及ぼし、皇帝が周辺の諸国・諸民族の首長に
爵位や官号を与えて臣下とし、皇帝を中心とした身分秩序の
なかに組入れた。これにより中国と冊封された諸国とは宗主国と
藩属国の関係になり諸国の首長はその領域の支配を認められ
庇護を受けるとともに、皇帝に対する定期的な朝貢や中国の
暦を使用することが義務づけられた。冊封にともなう朝貢と回賜
(皇帝の返礼)を基本として行なわれる通交は,前近代の中国を
中心とする東アジア地域における国際関係の一形式となり
国際秩序として一定の役割を果した。1960年代に,日本を含む
東アジアの歴史を理解する上で冊封関係を重視すべきとする
冊封体制論が提唱され、その有効性をめぐって議論がある。
702 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 04:33:50
日本では,紀元57年に奴国王が漢から冊封されて印を賜与されたのを
初見とし、239年卑弥呼が魏から親魏倭王に封じられ5世紀の倭の
五王は中国の南朝から冊封され、武の場合使持節・都督倭新羅任那
加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍 ・倭王の官爵を授与されている。
隋・唐代にはいずれも中国側には倭王・日本国王に冊封する意識は
あったようであるが、正式に冊封された形跡はなく、日本は遣隋使や
遣唐使を派遣して不臣の外客として朝貢を続けた。唐の後,中国では
五代十国の分裂の時代を経て宋・元の統一王朝が現れたが、従来ほど
国際関係に冊封を重視しなかった。次の明は冊封を基調とする国際
関係の復活をこころざし、朝貢以外に貿易を認めない方針をとり、
建国後まもなく諸外国に朝貢を促す招諭の使節を派遣した。日本では
足利義満が1401(応永8)明に書を送り、翌年源道義を日本国王に冊封
したことを伝える詔書がもたらされると、日本国王臣源にはじまる
上表文を進めた。国内の地位・権威の強化莫大な利益をもたらす貿易
の独占をはかって自ら望んだものでこれまで天皇(公家政権)のもと
にあった外交権を武家政権の実力者(将軍)が掌握することにもなった。
義教・義政ら室町幕府の将軍も冊封を受け、盛んに勘合貿易を行なった。
その後1596(慶長1)に豊臣秀吉を日本国王に封ずる文書(誥命)を明使が
もたらしたが、秀吉は拒絶し、この後,日本が冊封を受けることは
なかった。なお琉球は明・清と冊封関係を結び、明治初年のいわゆる琉球処分まで続いた。
703 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 04:40:42
第1章 弘前だけァえンたドゴァ何処ねも無のセ!
第2章 変わったものと変わらないもの
第3章 こころの旅路
第4章 歳月
第5章 サムライの末裔たち
704 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 10:03:22
age
705 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:42:39
>>702 まあ、秀吉の場合は朝鮮南部の割譲だけでも認められてたら、
明の冊封を受け入れてた可能性は高い。
706 :
本多中務大輔忠良:2005/05/20(金) 09:27:30
本多中務大輔忠良
707 :
溜間詰同格の堀田備中守:2005/05/22(日) 16:47:50
老中あげ
708 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 15:09:59
ちょっとage
709 :
老中格大和高取の植村駿河守家長:2005/05/25(水) 17:06:11
あげ
710 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 17:56:24
老中
板倉 重種
711 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 09:47:50
江戸幕府の松平定信や水野忠邦の老中による寛政や天保の改革って厳しかったらしいけど今に例えるとどんな感じだったの?
教えてエロイ人。
712 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 10:30:04
>>711 強いて例えるならこんなとこか?
浮世絵・洒落本・人情本等の禁止→エロ本・エロビデオ・週刊誌・ゲーム・マンガの禁止 2ch禁止 インターネットは官公庁や学校
大手企業など堅気の所以外の閲覧禁止
歌舞伎の取締→芸能人の行動制限、テレビはNHK・民法問わずニュース・教養のみ ドラマやバラエティーは大河ドラマ以外禁止
贅沢な食べ物・服装の取締→ブランド品の取締、料亭、高級レストラン、ホテルのレストランなどへの出す料理の取締
華美な服装の取締→お兄系、お姉系ファッションなどへの取締
遊戯施設取締と綱紀粛正→ゲーセン・映画館・カラオケ・ボーリングなどなどの取締 ラブホ廃止
こんな感じかな?まあもしも今の時代これだけ禁止禁止にされたら国民はキレるだろうね。
当時の町人がキレタのもよく分かる。
水野忠邦なんて老中首座解任後怒り狂った町人が屋敷の周辺で暴動起こしてすごい罵声を浴びせていたらしいからね。
>>711 エロ画像、エロ動画UPしたら逮捕。
20万円以上するPCを買ったら現品没収の上罰金。
714 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 10:33:48
少しずれていたし訂正
インターネットは官公庁や学校、大手企業など堅気の所以外の閲覧禁止
715 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 13:43:20
松平薩摩守 との
西尾隠岐守
松平右近将監
堀田相模守
板倉佐渡守
牧野越中守
716 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 02:32:15
ついに判明!
先夜放映された宝暦(ほうりゃく)の治水工事を、薩摩藩に押し付けた老中連
西尾隠岐守忠尚
松平右近将監武元
酒井左衛門尉忠恭
堀田相模守正亮
秋元但馬守涼朝
↑
それあってる?
718 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 22:35:08
あたってる
手元にあるやつによると宝暦3年の老中は
堀田正亮
松平武元
西尾忠尚 と、
本多正珍(延享3、10、25〜宝暦8、9、2)
酒井忠寄(寛延2、9、28〜明和元、5、25)
ちなみに
酒井忠恭 (延享元、9、18〜寛延2、1、15)
秋元涼朝 (宝暦10、4、1〜明和元、3、24)
となってた。
720 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 02:08:29
榊原主計頭忠之は財務省主計局長に相当ですか?
721 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 22:10:53
「ほうれき」でないの?
岐阜育ちだが「ほうれき」って言ってたぞ。
「ほうりゃく」では変換できんし。
でも延暦「えんりゃく」だしな。
722 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 01:33:59
NHKで堂々とテロップにも、松平の説明にも、「ほうりゃく」って言明してぉったぞ。
723 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 19:16:45
まとめ。
西尾隠岐守忠尚
松平右近将監武元
酒井左衛門尉忠寄
秋元但馬守涼朝
本多伯耆守正珍
※西尾は遠州横須賀藩主、若年寄あがり。帝鑑間席。
※松平は越智。陸奥棚倉藩。水戸家より養子。雁間席。
※秋元は上野館林6万石。雁間席。
※酒井は羽州荘内15万石。帝鑑間席
※本多は帝鑑間席。弥八郎正信の血筋
724 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:58:36
あげ
725 :
源頼範:2005/06/08(水) 13:28:56
726 :
西尾忠尚:2005/06/08(水) 23:12:03
首席老中
西尾隠岐守忠尚 あげ
727 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 23:57:49
宝暦3年
征夷大将軍 徳川家重 正二位内大臣兼右近衛大将
将軍後継者(西丸)徳川家治 従二位権大納言
老中首座 堀田侍従相模守正亮 従四位下
老中次座 酒井侍従左衛門少尉忠寄 従四位下
老中 本多侍従伯耆守正珍 従四位下
老中 松平侍従右近将監武元 従四位下
老中 西尾侍従隠岐守忠尚 従四位下
西丸老中 秋元侍従但馬守涼朝 従四位下
728 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 23:58:05
西丸老中田沼意次
729 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 17:31:26
威勢を張った田沼侍従主殿頭意次と雖も
終ぞ老中首座には就けなかった。
老中首座の先任順の仕来りを覆すことは出来なかったということ。
逆にいうと、意次が老中在任中、老中首座になった
松平侍従右近衛将監武元、松平侍従右京大夫輝高、
松平侍従周防守康福等が踏ん張ったということか。
730 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 22:41:21
一橋民部卿が定信だけじゃなく、御三家尾張宗勝、紀州治貞、水戸治□を後ろから操り、定信に老中首座だけじゃなく、将軍・一橋豊千代の補佐役というポストに納まってしまったことが田沼にとっては致命傷だった。
老中首座というだけでは、通常、人事権は行使できないのに。
731 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 12:22:44
老中って食べれるの?
732 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:51:44
老中は食物ではありません!
734 :
山下 ◆bQg3/4yBRg :2005/06/13(月) 18:54:05
一橋民部卿あげ
735 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 01:26:48
筆頭老中
736 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:08:15
263 :日本@名無史さん :04/05/11 02:33
最後の上総一宮藩主加納久宜
判事→鹿児島県知事→大日本農会会長→一宮町長(兼務、週1出勤)
この子孫である加納久朗は、1962年に千葉県知事に当選するも急死
737 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 15:28:34
戦前の例とは言え、知事やってから町長って珍しいね
>>737 この場合は旧藩主だからちょっとずれるけど、
戦前は市町村長に元官選知事などの官僚OBが迎えられることが珍しくなかった。
市町村会が中央に睨みの利く首長を求めたんだよ。
739 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 03:42:21
すみません、歴史初心者のリアル厨房です。老中ってお手当いくらですか?
家の父が課長になって手当200万円と言ってましたので、400万円くらいでしょうか?
ていうと50石くらいですか?
740 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 08:57:06
手当てはありません。
741 :
太田道醇:2005/06/17(金) 03:24:20
一応マジレスしますが、老中は一応役料というのが極くわずか付いたようですが、
焼け石に水で資金は持ち出し一方です。
(正し隠居した人間や大名家家督前の世子を老中に起用した場合、役料三万俵がつく)
譜代大名は老中になりたいかというと賄賂で食えるからなんですよ。
水野忠成のような実力老中となれば大金が入る
742 :
739:2005/06/17(金) 05:23:57
リアル厨房にマジレスいただき有難う御座います。
あまりおいしくないんですね。旗本で長崎奉行あたりやってるのが
武士としては一番優雅であったように思えてきました。
父から老中は譜代からしか選抜されないと昨日聞いたのですが、本当でしょうか?
外様差別ってやっぱあったんでしょうか?
743 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 05:29:18
庄内藩・左衛門尉酒井って、「就任すれば次席決定」の名門なのに、なんで職になかったの?
15万石という石高・(一揆はともかく)ずっと居座ったことも異常だけど。
「アンタッチャブル」度合いでは井伊なみだ
744 :
739:2005/06/17(金) 05:34:41
あっすみません。読み返してみたらやっぱおいしいですね。老中いいかもしれません。
先日、父が言ってたのですが、100石は今に換算し、800万円だって言い張るんです。
これは本当でしょうか?「俺は100石取りのサムライよ」って煩いんです。
だいたい会社員は庶民でしょ?って思うんですけど、まっいいかな?なんて思ってます。
サムライなら刀差せよって感じですが・・・w
>743
庄内藩には北方警備(特に佐竹)という任務があるから、基本的に老中になれなかったのだと
思う。
しかし、庄内藩からも一人だけ老中が出た事がある。
746 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:53:00
老中酒井侍従左衛門少尉忠寄は、
老中次座から老中首座になった。
747 :
中野石翁:2005/06/17(金) 15:32:03
まとめ。
江戸時代は構造的に賄賂をはびこらせやすい仕組みになっていて、
老中の場合、「対客日」というのが月に何日かあって、門を
あけっぱなしで「登城前御逢い」、朝の登城前に自由に来客を迎えて良いとされていた。
ここにおいては、猟官運動にかけつける旗本御家人、公共事業受注をめざる商人
、幕府からの各種手伝普請をかわすことを目的とする大名家江戸留守居役などが
ひっきりなしに訪問して金子の献上を。
老中は忙しいから面談の予約を取りつけること自体に賄賂が使用された。
逆にいうと、この制度で賄賂を受け取らないと役得など雀の涙だから老中は財政的にやっていけないでしょうな。
つぎに100石が現在に換算して800万円というのは無いはずです。知行どりで100石
とすると、五公五民でも50石、1石=1両とすると年間てどりは40万円相当であり、
それこそ長崎奉行のようなよほど身入りのいいポストにでもつかない限り800万円には遠く及びませんねえ。
748 :
本間光丘:2005/06/17(金) 15:37:03
荘内藩の場合、山形の鳥居左京亮忠政改易後、対佐竹シフトの拠点として重要になったのは事実だけど、
むしろ蝦夷地警備を理由に幕府老中への登用は原則免除だったと思われる。
749 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/06/17(金) 23:39:17
750 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 23:40:46
老中を10年以上も続けたら、かなりの財を得られそうだ。
その恩恵で生きてる末裔が今も存在しそう。
>>747 ヲイヲイまて、50石で40万ていうのは、明らかに少ないだろう
1石が1人の人間が1年間で消費できる量で約150キロと言われてるだから、
単純に現代の物価に換算しても5万以上になる
当時の物価を鑑みれば、それ以上の価値はあるだろ
尤も武士の家計は支出が多く窮乏していた
ですので今日の年収800万の生活水準だと、
長崎奉行までとは行かないが比較的裕福な中級以上の旗本クラスが妥当かもしれない
752 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 05:18:06
743
実は彦根藩井伊家も移封の話がもちあがったことがあってね
文政のころ越前藩松平家との交代が検討された、とある
753 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:04:57
以前、河井継之助特集の番組では100石=750万円で換算してた。
754 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 23:55:10
最年少老中は誰ですか?
755 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 03:19:20
長期在任期間ベスト5を教えて下さい
756 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 04:03:11
退任後溜詰格になった老中を教えてください
757 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 04:04:41
子沢山の老中ベスト3を教えて下さい
新納忠元
川上久朗
最も腹筋が割れていた老中を教えてください
760 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:27:37
老中という言葉の由来を教えて下さい
761 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 01:12:07
「老人連中」の略
762 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 03:27:42
有難う御座いました
763 :
間部詮房:2005/06/21(火) 21:18:04
心配には及ばん。われらの政治改革を支持された秋元喬朝どのは先年閣老の位置を去られたとはいえ、なお閣内に隠然たる影響力を残しておられるし、
また明年老中にのぼると噂されている久世重之どのは、知っての通りそこもとの学問の崇拝者だ。釣り合いはとれておる。
764 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 03:41:19
765 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 13:03:02
調べていてわかったんですが、遠州掛川五万石の太田資始(摂津守→備後守→備中守)は三度老中を務めている
766 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:47:34
しかも、太田道醇は二回も老中首座になっている。
767 :
間部詮勝:2005/06/22(水) 20:34:44
一回目は文政、天保のときであり、水野忠邦と意見が対立して更迭されてる。
二回目は安政四年。道醇と名乗って隠居していたのを彦根が引っ張り出し、老中首座兼勝手掛老中になるが、討幕志士の処罰を巡って彦根と対立し、また辞めさせられている。
三回目は政治総裁の松平慶永のときだが、わずか一ヶ月で老中首座を辞めている。
で、おかしいのは、板倉勝静、井上正直、松平康直が四度、また老中に引っ張り出そうとしたということだ。そうこうするうちに道醇が死去したため実現はしなかったが
768 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 16:01:40
先任順が老中首座の原則。
しかし、太田侍従備後守資始を再任させたとき、
先任順の原則を破って老中首座にしたのは、
やはり、幕閣としての存在感があったということであろう。
769 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:46:21
中臈
770 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:50:29
太田備後入道道醇は政策通だったんですか?
771 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 19:21:38
長期在任No1は松平定信ですか?
772 :
松平和泉守乗寿:2005/06/24(金) 19:45:16
在任一位は幕初の阿部豊後守忠秋だろ。三十五年らしい。
引退後も溜詰(忍藩阿部家の定席は雁間詰)として大老酒井忠清に苦言を呈したというから、貫禄bPであろう。
773 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 01:01:41
歴史の表舞台には出ていないが、
政策通と同時に調整力も長けていたのであろう。
太田道醇は。だから、再任させたときに、直ちに
老中首座に押し上げたということであろう。
774 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 05:44:42
老中が若年寄とすれ違う時ってお互いどんな様子だったの?
「やらないか?」
「ウッホ良い男」
776 :
船越英一郎:2005/06/25(土) 12:52:14
頭をさげるだけ
777 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 03:03:01
老中ベスト5は誰?
778 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 03:20:32
1松平定信
2阿部正弘
3土井利勝
4久世広之
5田沼意次
779 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 22:41:08
田沼意次はいいけど阿部正弘はあんまり評価高くないよね。
780 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:24:13
阿部正弘は改革で荒んだ人心を和らげるため、敢えて何もしなかった。
781 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:08:55
意次も賄賂政治でいまいちだな。
782 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 06:28:51
田沼意次(←なぜか一発変換)は金儲けを蔑視する人心を改めさせるため、敢えて賄賂を奨励した。
783 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 20:54:02
老中田沼主殿頭意次
784 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:52:56
松平信綱は?
785 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:19:09
知恵伊豆はあんまりパッとしないね。田沼と比べたら地味だな。
786 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 18:13:12
幕初に老中がまだも年寄と言われていた頃の大久保石見守の鉱開発能力こそ抜群だと思うがな
787 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:43:12
脇坂安董あげ
788 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:25:48
あだ名はワッキー
789 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:42:06
ヴィ〜ン ヴイ〜ン
790 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:35:02
松平康任あげ
791 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:20:21
松平侍従左近衛将監乗邑
青山侍従下野守忠裕
土井侍従大炊頭利位
792 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:11:24
質問があるのですが、徳川幕府というのは譜代大名による連合政権という捉え方であってますか?
793 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:35:52
間違いです
794 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:46:08
そうですか。すいません。
795 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:36:14
老中本庄宗発あげ
796 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 08:42:18
老中と老中格どこが違うのだろうか。
韓国人と和田サンくらいの違いじゃね?
実質は同じなんだけど、韓国製の純正品と日本製のばったもんみたいなもの。
798 :
越智武元:2005/07/05(火) 14:15:44
親藩から老中になった越智武元あげ
799 :
酒井忠惇:2005/07/05(火) 15:43:14
兄貴!八百をとりな
800 :
酒井忠績:2005/07/05(火) 20:29:18
大老だったのに男爵かYO!!
801 :
松平忠優:2005/07/06(水) 00:29:36
酒井本家を継げただけでも感謝してほしいものでござる
802 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 05:10:59
酒井雅楽頭は伯爵ですか?
803 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:32:24
老中の定員以外で、老中と等しく、
同じ資格で政務に参画させるために老中格を設置した。
また、老中は、通常5万石以上の譜代大名が就任する規定があったが、
3万石以下の大名でも、老中同様に参画させるために老中格とした。
老中格は老中の発する奉書に加判、自書はしないが、
他実務は何ら変るものではない。
804 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:23:42
老中就任規定の一環としては
2万5000石以上で、小禄の大名は
加増し禄を規定にあわせたが、
加増できない処置として
老中格を使ったとも考えられる。
805 :
老中格シリーヅ:2005/07/06(水) 12:39:50
老中格
植村駿河守家長
老中格
水野出羽守忠成
老中格
松平右京亮輝貞
老中格
堀 大和守親寶
老中格
脇坂中務大輔安董
老中格
小笠原図書頭長行
老中格
稲葉兵部大輔正巳
老中格
松平縫殿頭乗模
老中格
本多弾正少弼忠涛
806 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:19:42
老中格、ほかにもいるよ。
田沼主殿頭意次
水野出羽守忠友
堀大和守真宝
諏訪因幡守忠誠
松前伊豆守崇広
稲葉兵部大輔正巳
立花出雲守種恭
807 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 07:38:52
酒井忠績&酒井忠惇兄弟閣老あげ
↑
なぬ?そいつら兄弟だったのか!?
うちの系図では親子になってたーよ・・・
809 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:11:32
酒井雅楽頭忠績、酒井雅楽頭忠惇は兄弟。忠惇が忠績の養嗣子になって播州姫路15万石を継いだ。
810 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:47:20
酒井雅楽頭忠惇は最後の老中首座。
811 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 17:04:24
酒井雅楽頭直系子孫が故酒井美意子(前田家出身)の嫁ぎ先だろ?
江戸時代じゃありえねえ組合せだぜベイビー
812 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 00:52:35
政府軍に越後で真っ先に寝返った高田藩榊原式部大輔に嫁いだ、目立ちたがりの馬鹿嫁・喜佐子が
「徳川慶喜の子ども部屋」なるアホくさい本を出版しか
813 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:03:18
最年少閣老が判別しました
@伊豫松山15万石
溜詰より・松平(久松)伊豫守定昭・22歳
A備後福山10万石→11万石
奏者番兼寺社奉行より・阿部伊勢守正弘・25歳
最年長老中
@大和高取2万5000石
若年寄より・植村駿河守家長・72歳
A播磨龍野5万1000石
奏者番兼寺社奉行より・脇坂中書安董 68歳
814 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:56:32
植村家長あげ
815 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 18:41:42
植村侍従駿河守家長が老中になるということは
破格な就任であり、家名にとってはこれ以上の
名誉はないという感覚であったろう。
しかし、なぜ就任できたのだろうか?
816 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:38:57
そのことなんですが、確かに大和高取25000石の植村家は若年寄が上限の家格なんですが、
家長は47歳から若年寄を勤続すること25年に及び、これを家斉公より賀され、
とくに大坂城代、京都所司代を飛び越えされて老中に抜擢されたとのことです。長生きはしてみるものです。
817 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:53:24
818 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:53:56
若くないのになぜ若年寄?
819 :
川合伸旺:2005/07/09(土) 01:25:14
七十歳にして老中栄転か。勤めが限界にかかるもっと前にあげてやればよかったのに。
820 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:23:22
高齢老中
植村駿河あげ
821 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:36:21
長く老中を勤めた一人に
青山下野守忠裕がいる。
どうして長く勤められたのか?
素朴な疑問である。
822 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:54:51
なるほどね。ただ篠山の青山侯は水野忠成の影に隠れがちで目立たないな。
823 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 03:56:23
一番の権力亡者は誰ですか?
824 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 04:41:04
やはり悪名高いのは幕末の老中・松平伊賀守(上田藩五万三千石)。阿部伊勢守の足を引っ張り、開明派老中・堀田備中守を操り、最後には朴念仁の彦根牛を引っ張り出して堀田を引きずり降ろそうとしたら自分まで失脚した幕末版熊谷弘。
825 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:33:55
青山下野守忠裕には次のような逸話がある。
死刑執行の決定書には老中の署名が必要であったが
野州は死刑執行に違和感があったらしく
わざと判を袂から出しにくくして
時間をかせいだりして抵抗したとか、
執務終了時間の合図である大太鼓が鳴ると
さっさと帰るものだから、部下の役人たちは
右往左往したそうだ。
826 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 05:35:46
老職青山野州はアンチ津軽だったそうだな
827 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:18:45
何で津軽越中守家系を目の敵にするんだ。
野州は。
828 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:50:08
直接津軽にアンチパシーがあったわけじゃないが、野州は老中首座だったのに
同列の水野羽州が、普通は首座が兼務するはずの勝手掛を担当し、貨幣改鋳を
家斉が高く評価し、その分、割りを食ったりして野州は羽州にいい感情を抱いていなかった。
一方、津軽越州は水野羽州の実懇大名の一人で、そんなことで津軽にもいい感情を抱いていなかった。
じっさい相馬大作事件が起こったとき、野州は一方的に南部の肩を持つ判決を出し、
大作贔屓にさせたというらしい。
829 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:24:34
青山下野守忠裕が老中はそのままで勝手掛を免ぜられたのは
文政2年(1819)4月25日。
水野出羽守忠成が老中とともに勝手掛に就任したのは
前年の8月2日。
勝手掛が複数以上いたことになる。
複数以上の勝手掛なら、主導権争うがおきるのは容易に想像できる。
因みに、水野出羽守忠成が老中とともに勝手掛に就任したときの老中名簿は
首座 土井大炊頭利厚 勝手掛
次座 青山下野守忠裕 勝手掛
阿部備中守正精
大久保加賀守忠真
水野出羽守忠成 勝手掛兼奥勤め
(西丸老中)
松平能登守乗保
酒井若狭守忠進
この布陣だと、どういう派閥が形成されたのであろうか。
830 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:26:56
どうして松前志摩守は老中に就任することができたのですか?
831 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:11:59
公方の台慮があったから
832 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:47:15
歴代老中首座の一覧表ってないんですか?
歴史事典などを見てもただの老中一覧しかなくて、誰が首座なのかわかりません。
また、西丸老中についてですが、これは○○掛のような単なる役割分担にすぎず、
同じ老中の中で本丸詰と西丸詰に分かれているだけなんでしょうか?
それとも老中と若年寄のように、全く別の役職なんでしょうか?
大老井伊直弼の下で猛威を振るった紀伊藩家老の水野忠央は、老中より
格上ですか? 陪臣の分際でなんで権力を持てたのですか?
慶福が紀伊藩主でその後将軍になったからだろう。
吉宗が将軍になった時も小林ネンジ連れてきてたろ?
835 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 09:17:02
紀州光貞の四男頼方の官房相有馬兵庫頭がすまけいと官房相加納遠江守が小林年次はともに大名に
836 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:56:27
老中首座 土井大炊頭利厚の立場は微妙だね。
老中格であった水野出羽守忠成が
老中に昇格したのだから勢いがあるし。
837 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:52:06
>>835 田之倉孫兵衛は大名になれなかったのですね。
838 :
追加:2005/07/15(金) 10:42:11
川越侯秋元喬知と佐倉侯戸田忠真も兄弟で御老職でした
穴兄弟の老中っていないの?
840 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 09:20:14
841 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:02:33
ビッグペニスで痛がられた老中は誰ですか?
842 :
松平(本庄)伯耆守宗発:2005/07/18(月) 09:16:42
おはようございます。丹後宮津8万石、雁間席の松平宗発です。大坂城代時代に無尽講やったのがバレました
↓↓↓うちの家紋↓↓↓
◆◆◆
◆◆◆
◆◆◆
843 :
本庄伯耆守宗秀:2005/07/18(月) 17:59:11
◆◆◆
◆◆◆
◆◆◆
844 :
京極備中守高久:2005/07/18(月) 19:40:41
■■
■■
845 :
黒田筑前守長政:2005/07/18(月) 21:59:32
●
846 :
間部越前守詮房:2005/07/19(火) 22:40:23
「老中らと議する時はわしは阿部正喬どのの上座に座り、本多どのは阿部老中の下座に座る。
わしは何ほどのものでもないが、本多どのは名門だ。先代様はこのわしと本多どのに上様の甫育をゆだねられた。
老中諸侯もわしと本多どのの組み合わせには御遺命でもあり一目おかざるを得ぬだろうて」
これにそこもとが加われば、先代様在りし日のごとく政治をすすめることは決して不可能ではない、と述べたうえで
「閣内もみな敵というわけではない。われらの政治改革を支持された秋元喬知どのは、先年閣老の位置を去られたとはいうものの、
なお閣内に隠然たる影響力を残しておられるし、また明年にも老中にのぼるとうわさされる久世重之どのは知ってのとおりそこもとの学問の崇拝者だ。つりあいはとれておる」
847 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:27:48
タクシー運転手を蹴っ飛ばした松平アナって老中の末裔だったよな。
848 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:19:57
キック松平越中
849 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:26:51
松平キック守
850 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 16:30:16
また、いい加減なことを。
松平アナは大名でも華族でもなく、久松系松平の旗本の子孫。
久松系は桑名以外は、久松姓に復姓したから名字でわかるだろ。
確かに久松松平家の一族ではあるが、大名の子孫じゃない。
何度でも言うが、松平アナは大名の子孫じゃなくて、旗本の子孫。
851 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:40:44
そうだ。町奉行の末裔だったな。>松平キック守
852 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:34:09
伊予松山藩主である老中松平定昭の子孫と聞いたが違うのか
853 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:42:24
伊予松山の松平家は維新後、本来の姓である久松にもどしている。
その子孫は戦後、愛媛県知事をつとめた久松定武氏。
854 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:45:26
老中とは今で言うと
内閣官房長官?
855 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:50:00
国務大臣全般
>>850 キミは相手してあげるから偉いね。
あちこちのスレで同じ話題ばかり目にするのでスルーしたよ。
857 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:39:28
ちなみにバレーボールの松平の先祖はどこの松平?
858 :
松平キック守定知:2005/07/22(金) 23:51:44
松平キック守、運転手に暴虐に及ぶに至り、上の御聴に達し、御不興に思し召されるに因り、職免せされ、雁間席此仰せつけらるる
859 :
↑:2005/07/23(土) 00:06:47
出典・「続々徳川実記」「また又徳川実記」
860 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:34:58
なんだあのオッサン旗本かよ。従兄弟の磯村ってのも旗本だっていってたな。
861 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 01:58:26
磯村裸体大輔尚徳、知事選に落選
862 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 04:40:06
磯村は御家人だっけか?
863 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 09:15:35
御家人どころか御目見以下の御徒(一代限りの臨時雇い)ではないのか?
864 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 09:42:42
「なに、心配はいらんさ。大名の子などには政治はわからんのだ。ごく一部の出来物をのぞいてはな。
筑州も見たろう。荻原が御金蔵は空だと脅しをかけたときの老中らの驚きぶりを。あんなものなのだ」
「先代様は一昨年本多忠良どのを御側とし、翌年に侍従にあげ席次は老中に次ぐべしと定めされた。賢明なご処置だった。
この本多どのが若いのに似ず稀に見る出来物なのだ」
「それは祝着にございました」
「老中らと議するとき、わしは阿部正喬どのの上座に座り、本多どのは阿部老中の下座に座る。先代様はこのわしと本多どのに上様の保育を委ねられた。
わしは何ほどのものでもないが、本多どのは名門だ。老中諸侯もわしと本多どのの組合せには、御遺命でもあり一目おかざるを得んだろうて」
これにそこもとが加われば先代様在りし日のごとく政治を進めることは決して不可能ではない、と述べたうえで詮房は語気を強め、
「閣内もみな敵というわけではない。われらの政治改革を支持された秋元喬知どのは、先年閣老の位置を去られたとはいえ、なお閣内に隠然たる影響力を残しておられるし、また明年老中にのぼると噂される久世重之どのは知っての通り」
田舎の町内会レベルの会話にうんざり
866 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 12:50:23
ネタが無いから井戸端会議になるのだろう。
867 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:11:42
age
真田幸貫は血筋の良さで老中になったの?
869 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:36:17
リクトウの軍書の中に、カラスの飛翔する如く、雲の変化するが如き戦備えというのがある。このウウンの陣形をとるのは最後の力攻め。
柳生の草がこの陣形を取るのは、既に火薬も尽き、最後の総力を挙げんとする証左であった。
870 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 13:01:15
真田信濃守幸貫は信州松代10万石の当主であるが、実は松平楽翁(越中守定信)
が血筋なりて、松代に養嗣子す。真田信州は外様にて幕職に就けぬうえ、
真田信州は幕閣の登竜門といふべき寺社奉行、大坂御城代、京都所司代をへずして、
白書院(帝鑑間席)より突如、宰相水野越前の推盤にて入閣す。
按するに水越、天保改革を実行するに当たり閣内異分子の井伊掃部、太田備後
を放逐し、堀田備州、真田信州を入閣せしめたが、これ皆水野派にして、
寛政改革の公方様補佐の松平越州の血筋を入閣させることにより、
越前守が正当な改革推進者にして、内外に印象ずける狙いがあったのであらう。
871 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:33:23
俺の先祖若年寄なんだけど、老中とかいったって
ここの連中に老中の子孫はいねーんだろ?プッ百姓が老中語るなよ藁
872 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 08:08:08
どうでもいいことだ。
873 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 08:39:40
>>871 自称ならなんとでも言えるから2ちゃんは便利だな。
どうせ嫡流でもないだろうし、おまえの代で不祥事やらかして絶家だろ。
874 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 11:04:00
相手するなよ
>>871の祖先は、六代将軍家宣に付け届け送ろうとして断られた加藤明英。
若年寄だけの家系なら、だいぶ特定できそうだな
877 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:23:59
加藤越中守/鹿内孝。悪役俳優。元東久留米市民・瀧山団地在住。
878 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:53:18
田沼主殿頭意次
879 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 01:02:47
小笠原主殿頭
880 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 02:06:36
井伊掃部守、土井大炊守、田沼玄蕃守、酒井雅楽守、藤堂大学守、阿部主計守、建部内匠守、小笠原図書守、本多上総守、本多上野守、奥山常陸守
881 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 18:30:51
山拓みたいに変態チックな老中は誰ですか?
882 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:02:16
松平美濃守吉保によるスワッピング
883 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:43:36
閣内もみな敵というわけではない。われらの政治改革を支持された秋元喬知どのは、先年閣老の位置を去られたとはいえ、なお老中の間に隠然たる影響力を残しておられるし、
また明年にも老中にのぼるとうわさされる久世重之どのは、知ってのとおりそこもとの学問の崇拝者だ。釣りあいはとれておる。
884 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:03:24
老中はナンて呼ばれてたの?
御前様?御老中様?旦那様?殿様?貴様?
885 :
加藤出羽守:2005/07/30(土) 00:04:22
今、評定所にて審議されし幕臣飛脚屋法案が成立しなければ、奏者番以上の大名は全て御役御免じゃ。外様のやつらが幕閣を組閣するやもしれぬ。今から国元へ
886 :
二階紀伊守:2005/07/30(土) 01:39:11
私が総奉行、山崎筑州を副奉行として渾身をふるったが全部あぼんだ。
887 :
土井大炊頭:2005/07/30(土) 02:03:23
がんこに平和
げんきに福祉
土井大炊頭孝子
福島左衛門大夫瑞穂
横光豊後守
東門琉球守
>>884 時代劇では「ごろうじゅう」ってよく呼ばれてるな。
手紙ではに名前に様を付けて呼ばれていたか、
官職名に様や殿を付けて呼ばれていることが多い。
あだ名が付いていた人はそれで呼ばれることも。
889 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 11:55:23
890 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:01:17
江戸時代、老中は、「(御)老職」と呼ばれていた。
891 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:14:15
週刊誌によると土井大炊頭は隠退です
892 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:52:25
一番有能だった老中やっぱり田沼意次だな。田沼以外は無能だ。
893 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 20:22:43
いや。幕末の鯖江侍従ではないのか?
894 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 20:30:16
脇坂はワッキーって呼ばれてたんだろ?
895 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 20:54:07
知恵伊豆が島原の乱を鎮定したのも不思議だな。
初陣みたいなもんだろ。
896 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:22:40
ワッキー@龍野中書侍従
897 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:52:07
老中ってなぐらいだから老人が就く職だと思ったよ。
若年寄はトッチャンボーヤが就く職だろう?
898 :
信州坂木の板倉甲斐守:2005/07/31(日) 23:28:54
あげ
899 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:03:38
老中だった人って明治時代は何やってたの?
900 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:42:30
物乞い
901 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:50:28
★まとめ★
老中首座は
酒井雅楽頭忠清→稲葉美濃守正則→堀田筑前守正俊→大久保加賀守忠朝
→土屋相模守政直→水野和泉守忠之→松平左近将監乗邑→堀田相模守正亮
→酒井雅楽頭忠恭→堀田相模守正亮→松平右近将監武元→松平右京大夫輝高
→松平周防守康福→松平越中守定信→松平伊豆守信明→戸田采女正氏鉄
→松平伊豆守信明→青山下野守忠裕→水野出羽守忠成→松平周防守康任
→大久保加賀守忠真→水野越前守忠邦→阿部伊勢守正弘→水野越前守忠邦
→阿部伊勢守正弘→堀田備中守正睦→太田備後入道道醇→間部下総守詮勝
→松平和泉守乗全→久世大和守広周→松平備前守信義→酒井雅楽頭忠績
→本多美濃守忠民→板倉伊賀守勝静→松平伊予守定昭→酒井雅楽頭忠惇
という順番でよかっただろうか。
902 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 18:19:34
俺の先祖は老中だけど、明治時代は農園を経営してたよ。
903 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 23:57:51
老中はすごい勢いで開拓が進んでいます
904 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:29:39
(歴代老中首座一覧)
本多佐渡守正信→酒井雅楽頭忠世→土井大炊頭利勝→
松平伊豆守信綱→酒井雅楽頭忠清→阿部豊後守忠秋→
稲葉美濃守正則→大久保加賀守忠朝→阿部豊後守正武→
土屋相模守政直→井上大和守正岑→戸田山城守忠真→
水野和泉守忠之→松平左近衛将監乗邑→酒井雅楽頭忠恭→
堀田相模守正亮→酒井左衛門尉忠寄→松平右近衛将監武元→
松平右京大夫輝高→松平周防守康福→松平越中守定信→
松平伊豆守信明→戸田采女正氏教→牧野備前守忠精→
松平伊豆守信明→土井大炊頭利厚→青山下野守忠裕→
大久保加賀守忠真→松平和泉守乗寛→水野越前守忠邦→
土井大炊頭利位→水野越前守忠邦→阿部伊勢守正弘→
堀田備中守正篤→太田備後守資始→間部下総守詮勝→
松平和泉守乗全→久世大和守広周→脇坂中務大輔安宅→
松平豊前守信義→太田備後守資始→松平豊前守信義→
酒井雅楽頭忠績→水野和泉守忠精→本多美濃守忠民→
水野和泉守忠精→板倉伊賀守勝静→松平(久松)伊予守定昭→
板倉伊賀守勝静→酒井雅楽頭忠惇
905 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:33:05
できれば出典も教えてほしい。
大老がいる時期の老中首座ってなんかかわいそう。
907 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 20:24:49
大老に実権がなければ老中のほうが威権が上だったりする。
田沼意次政権下の井伊直幸、水野忠邦政権下の井伊直亮など。
とくに直亮は水野忠邦にバカにされていてこの場合は大老のほうが肩身が狭かったりした
908 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 00:29:12
いわゆるお飾り大老ということだね。
909 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 06:36:52
老中首座小泉純一郎
910 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 08:25:35
ネタがなくなるとお決まりのつまらん書き込みが出てくる。
911 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 03:50:10
名前が一番かっこいい老中は誰?俺的に久世広之
912 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:03:44
久世侍従大和守広周
913 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:27:18
脇坂侍従中書安董
914 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:22:21
老中なんてダセーよ
大老にペコペコだったんだろ?
将軍もダセーよな
大老にペコペコだったらしいな
大老マンセー!
脇阪って外様大名なのに老中になれたんだ。
916 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:41:29
願い譜代にしてもらったから。
917 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:01:29
譜代格
秋田信州、相馬長州、堀大州、有馬遠州、脇坂淡州、加藤越州
918 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:09:50
何でも州をつければいいという問題ではないだろう。
大州?和州だろう。
そういや真田も外様だけど水野忠邦のときに老中やってるよな。
あれは松平定信の子が養子に入ってるからってことでの特別扱いなのか?
それとも当時はもう願い譜代だったのか?
920 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 04:10:52
真田も願譜代だよ
922 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:52:43
923 :
間部詮房:2005/08/16(火) 00:10:16
閣内もみな敵というわけではない。われらの政治改革を支持された秋元喬知どのは、先年閣老の位置を去られたとはいえ、なお閣内に隠然たる影響力をのこしておられるし、
また明年老中にのぼると噂される久世重之どのは、知ってのとおりそこもとの学問の崇拝者だ。つりあいはとれておる。
924 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:39:31
木の芽時とか酷暑になるとわけのわからない
書き込みが出てくる。ネタ切れのようだ。
老中になると大名の付け届けが凄かったろうなあ
何とか寺の修復のお手伝い普請は勘弁してくれとか
926 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:40:46
歴代老中首座一覧だけど、結局、
典拠資料はなんなのだろうか。
誰か知っている人はいないのだろうか。
927 :
阿部越前守正外:2005/08/17(水) 22:38:58
典拠は麗沢紀要 歴代老中首座の考察
「江戸幕府老中首座就任者に関する考察」が正しい題名かと。
引用は正確に。
929 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 03:12:03
前々から呈されて居たが改めて。
西之丸老中と本丸老中の権限や業務内容の違いについてお聞きしたい
930 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 08:00:05
西丸老中についてですが、これは○○掛のような単なる役割分担にすぎず、
同じ老中の中で本丸詰と西丸詰に分かれているだけなんでしょうか?
それとも老中と若年寄のように、全く別の役職なんでしょうか?
931 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:01:54
ようやく見つけた。25年前に発表された論考。
「江戸幕府老中首座就任者に関する考察」
美和信夫(麗澤大学紀要第30巻)1980年12月
因みにこれを覆す論考はその後、無いと考えてよいのであろうか。
932 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:24:00
>>931 その論文は質、量ともにボリュームある内容なんですか?
933 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:28:14
行け!老中卓球部
934 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:35:20
論より証拠ではないが、入手して自分で
確認することです。美和論考を。
935 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 04:57:00
老中の陣笠は裏金だったの?
936 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:01:34
937 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:03:22
裏金の陣笠も知らないのか藁
938 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:05:09
大身旗本の陣笠は裏金である。
939 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:50:21
江戸時代初期の元老と老中はどう違うんですか
940 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 04:51:21
老中格は老中と何が違うわけ?権限?役料?ちょっと教えてくれよ
941 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 19:50:21
本来、老中になれない家格・石高の者が老中に準ぜられた場合が老中格?
ヒント:25000石
本多弾正なんかそうだったよな。老中にはなれないけど年齢や識見では
定信政権中NO1だった。
ところがねえ。
陸奥泉侯・本多弾正が老中在任中、貨幣改鋳が行われたが、
改鋳前と後の貨幣相場の変動を見越してインサイダー取引を行い、
これを町奉行の初鹿野河内守に指摘されたら逆切れして初鹿野に嫌がらせをした結果、
初鹿野は頓死してしまったという何とも陰惨な記録も残っている。
945 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:13:02
人生いろいろ 老中もいろいろ
1〜2万石の小大名は殿様育ちでも、こすっからくてやり手なのか。
947 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/08/27(土) 21:59:23
初鹿野は武田家遺臣だよね。
24将だっけ。
検索したら子孫らしき人が。
949 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 19:00:21
川中島合戦で討ち死にした初鹿野伝右衛門の子孫
緊急あげ
あがってないぞ
緊急あげ
あげ
その方ども気合いを入れて上げよ
955 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 22:03:50
956 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 06:13:17
老中の持ってた刀の銘柄を教えろ 大至急!!
957 :
光国暗殺を目論む堀田備前:2005/09/05(月) 12:39:41
光国暗殺を目論む堀田備前
958 :
956:2005/09/12(月) 16:51:28
ケッ誰もシラネーのか・・・
シケタ野郎どもだぜプッ
緊急あげ
960 :
戸田采女正氏鐵:2005/09/17(土) 20:04:50
緊急あげ
961 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 07:37:33
老中と事務次官てどっちの方がなるの難しいの?
現在、あるレベル以上の家に生まれれば、事務次官になれる可能性はゼロではない。
しかし老中の場合は、大名家の嫡子に生まれても、限られた家でなければ老中にはなれない。
だから老中になる方が難しいと思う。
まあ、そもそもこういう比較は学問的にはあまり意味があることとは思えないが。
963 :
青山下野守忠裕:2005/09/18(日) 14:31:52
全くだ。全然意味を感じないな
964 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 00:02:24
ネタ投下質問
「老中になれる家」ってのはまあ文書として家格として規定されてるわけではないとは思うんだが
どれくらいみんなその意識していたもんなんだ
年齢・能力・血筋なんかを加味されるんだとは思うんだが
その 上級譜代みたいな連中同士は同士で昇進レースみたいなのしてたの?
「うわ あいつ俺より3歳若くて 当主になったのも5年遅いのにもう○○奉行かよ」みたいな?
別に酒井家とか大給松平家とか稲葉とか阿部とか水野とか
そういう家で生まれて別に知障・病弱でもなければ当然老中になれるってもんでもないと思うが
いや酒井・井伊ぐらいだと 当然老中ぐらいにはなれるもんなんか
なんか質問の焦点もないんだが まあなんか教えてくれ
965 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 00:31:47
なぜ、徳川家光は保科正之を老中にしなかったのだろうか?
当時は老中になる家格なども定まっていなかったからできただろうに。
966 :
寒:2005/09/20(火) 04:50:25
>>965 その「老中になる家格」を決める過程だったから、じゃないですか?
幕府の権力を固める最中でしたし、御三家(特に尾張あたり)なんか、
虎視眈々と幕閣に食い込むことを狙ってたみたいですし。
・養子入りしてるから、一応「譜代」
・でもなんたって「将軍実子」だから・・・ちょっとそれはダメっしょ。
・つまり親藩でも幕府の要職に就任するのはかなり難しいですよ。譜代家臣の役職ですよ。
・当然「親族」「御三家」なんか論外ですよ。
そんな感じ。
保科正之の場合、権勢を持てば「将軍実子が権力を持つ」ということになり、
権力の二重構造や、場合によってはお家騒動にもなりかねません。
その辺を正之自身も、家光も理解していた、ってことなんでしょ。
正之があんな感じだからよかったようなものの、
・家光生前に正之が老中筆頭(大老)に定着する。幕府権力完全掌握。
・家光の言に乗って「松平」、場合によっては「徳川」へ復姓する。
・正之が後継者に恵まれる
・正之が生前から、自分の子供に権力の委譲を行おうとする
・家光死亡。正之親子、幕府実権を我が物にする。
・そして家綱、早々に死亡、、、
・・・なんてことになっていたら、「将軍家お家騒動」だったかもしれませんね。
養子に行こうが認知されない子供だったであろうが、”将軍家の直系”ですからね。
「将軍の近しい親族=将軍後継者資格あり」→「そんな奴は公権力を持ってはいけない」→「公式な閣僚には就任できない」
これを確立するために「あの保科正之でもダメだったんだから、尾張家でも無理無理!」という風にしたのでは
ないでしょうか?
それでも、保科正之への、当時の将軍&幕閣面々からの”個人的信頼=暗黙の権力”は揺るがないのだし。
967 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 11:51:42
>>966 将軍実子でも原則、養子に行っている時点で将軍継承資格は消失
しているから問題ないでしょ。
親族がだめなら吉宗の孫の松平定信もだめでは?
968 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 13:24:07
>>967 家光が一生懸命、”俺の弟”扱いしてるから。
そんな待遇を正之自身が固辞する、というパターン。
家光「お前、俺の弟なんだから、せめて松平になれよ、な?」
正之「すんません勘弁してください兄貴・・・」
もし正之が「松平復姓」したら、越前をも凌駕して”将軍家から一番近い松平”になってしまう。
それがましてや天下の執権・将軍後見人となったら・・・という前例を残すのはよくないかと。
定信は、所詮は分家の孫→久松松平。
969 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 15:37:12
老中の陣笠は裏金だったの?
970 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 20:44:55
川越藩の野火止用水は知恵伊豆が作ったことになってますが、
幕政を見ながら藩政も見られるものなんですか?
971 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 22:08:57
土井利勝がすごく微妙
972 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 17:43:14
エッチ大好き老中は誰ですか?
973 :
松平周防守康爵:2005/10/05(水) 18:17:57
語れ
974 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:01:45
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975 :
日本@名無史さん:
江戸時代最高最強の老中は誰ですか?