165 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:32:54
166 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:42:26
>>163 >>164 御目見えできる将軍の直臣を旗本、
御目見えできない将軍の直臣を御家人という。
勝家は御目見えできるので旗本。
167 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:34:46
確かに勝小吉は旦那でなく殿様だとあったから
旗本にはちがいないが・・・・
それでなぜ勝家=御家人説がひろまったんだ。
168 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 03:34:47
>>167 それは勝家の家禄から。
44石くらいだよね。
一般的に旗本と御家人の差は200石で分かれると誤解されているので。
169 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 08:12:18
すると勝吉は家督相続の時にお目見得をしたのかね?
どうもそれらしい話しがないんだが・・・・。
170 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 01:17:26
もとは按摩の家だよね。海舟は諸大夫に列するが、、、
171 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 03:59:36
ah
172 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 01:23:30
へえ
173 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:19:15
検校やろ
174 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:14:42
検校の息子男谷平蔵は旗本、その息子の男谷彦四郎は代官をつとめた。
流鏑馬武田流のHPに
小笠原流は肥後細川に仕えていたとあるが、
当の小笠原流弓馬術のHPでは幕臣とある。
互いが自らが流鏑馬の保守本流といわんばかりだ。
176 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:10:59
・旗本の家臣
用人
給人
近習
中小姓(若党)
他に何がある?
7千石とか8千石の大身旗本は職制的には小大名並では?
多分家老とか番頭とかも居たと思う。
>>177 サンクス
そうだね、三千石の池田家には家老が居たし。でもこの家は富裕だったようだから
他の数千石クラスの大身旗本のも家老とかいたのかな?
世襲の旗本家臣でも六両(=約十五表?)二人扶持の家とかあるんだよな。
池田家は備前池田家の分家だけど、3000石の軍役が56人に対して
明治3年の時点で38人の家臣を抱えてるから富裕ぶりは窺える。
幕府崩壊前には更に家臣が居たようだから。
軍役中から3分の2を雑兵とすると、抱えている侍の数38人は多いと思う。
6400石の戸田家だと約40人前後の家臣が居たらしいけど、軍役から計算すると
ちょうど侍身分の人数には合うな。
上級家臣の神崎湊は、40俵4人扶持で役職は「用人、側用人兼帯、給人以上支配」、
でも、この上に家老クラスの家臣があったらしい。
後に男爵になる交代寄合の新田(岩松)120石、
こんなところで家老と称する家臣が居たらしい。
どうやって対面を維持したのか疑問だけど。
渡辺崋山が家禄百石、家老になって20石プラスと主君が同等。
なんでも殿様は絵を書いて生計の足しにしていたらしいけど。(これも崋山と同じだ)
正直弾佐衛門のところの家老のほうがはるかに裕福じゃなかろうか?
「江戸幕府役職集成」だと、個別の例じゃないけど、
8000石で家政・家老・給人・中小姓・側用人・奥用人・納戸役・近習役・勘定方・
祐筆・医師・絵師・徒士・足軽・中間とある。
>>180 岩松といえば、猫絵の名人岩松満次郎だよね。あだ名は何だっけか?
岩松氏は清和源氏新田流の嫡流だけど、下剋上で家臣の横瀬(由良)氏に実権を奪われて没落。
岩松家にも家老職があったんだね。
由良氏は金山城を本拠として、小戦国大名として君臨したけど、これも小田原北条家の滅亡により
本領を没収され、子孫は大身旗本として残る。
由良氏は小野姓猪俣党(武蔵七党)の出自だが、新田氏を称して幕府高家。
猪俣党も名族だけどね。
旗本が雇う中間の給金は、年2両〜3両に一人扶持が付くぐらいかな??
もちろん侍ではない。素行は悪い・・・。
貧乏旗本の家臣で、若党(中小姓)と呼ばれる下級の侍だと4両一人扶持程度の
給金で仕えていたようだね。
>>179、戸田家の中小姓だと6両2人扶持というから、6400石だけあって待遇が良いな。
でも、戸田家中の用人でも8両3人扶持程度の家臣が居るから、旗本家臣の懐は厳しいね。
>>181 ちょい判り難かったな。
戸田家中の身分は、
側用人(1人)⇒用人(約3人)、大目付(約3人)⇒納戸⇒近習(約10人)
⇒中小姓(10人以上)⇒徒士(1人)
みたいな感じだけど、役職を兼帯してるし調練、勝手、給仕、右筆などの
役職もみられるね。
側用人、用人以上の家臣もあったようだけど、その部分は不明のようだ。
それが家老身分の家臣だろうな。
183 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 17:41:05
age
1794年に鳥取藩へ国目付の副使として派遣された新見又八郎(1165石)が連れてきて家臣は、
家老・用人・目付・取次・書役各1名、近習3人、中小姓3人、勝手役人1人、徒士3人、計15名
おそらく全員少なくとも中小姓以上の12人は侍身分、外に留守番も居るはず。
ちなみに1100石の軍役は23人(内侍5人)、1200石は25人(内侍6人)で、
普段からこんなに侍を抱えていたとは思えず、どうも任務のために家臣を雇ったと推測されるので、
普段から家老が居るのかどうかは怪しいが、1000石程度でも家老と称することもあったようだ。
185 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:55:35
江戸幕府の格式の序列ってどうなってるんでしょう?
例えば、鷹匠頭ー鷹匠組頭の席次から、山吹の間席>焼火の間席。
大番頭ー大番組頭の席次から、菊の間席>躑躅の間東御襖際席。
小姓組番頭以下の席次から、菊の間席>菊の間南御襖際席>紅葉の間席。
書院番頭以下の席次から、菊の間席>菊の間南御襖際席>虎の間席。
勘定奉行・勘定吟味役・勘定組頭、芙蓉の間席>中の間席>焼火の間席。
などいくらか推定できるのものはありますけど、いくつくらい席次があってどういう序
列になってるんですか?
>167
先祖の1人が材木石奉行に昇進、旗本に列されたけど
吉宗公のおかげで家禄はそのまま。
187 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:09:31
旗本の最高ポストって
町奉行と勘定奉行となんだっけ?
188 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:34:18
>>180 >>181 岩松家の猫絵は鼠を追い払うとされ高額で買われた
120石なんてのはあってもなくてもいいようなもの
189 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:01:34
新田はさ貴族みたいなもんなんだから他の収入もあったのでは?
考えてみたら代官所ってすごいよな。
本社採用の総合職だけどエリートコースとは縁のない支店長(代官)の他は、
現地採用のパート(手代)とアルバイト(足軽・中間等)だけで構成された支店。
その後本社から余剰人員の一般職(手附)が数人派遣されてきた。
でも実権は相変わらずパートが握ってることが多い、ってところか。
いや、ロードサイドの青山とかはるやまだろう。
>>187 側とか大目付とか留守居とかが格はたかかったような。
藤井譲治著「江戸時代の官僚制」青木書店によると、
格式はともかく昇進の実態は、
側>>留守居>>大番頭>書院番頭>小姓組番頭>>新番頭
側>>留守居>>大目付>町奉行>勘定奉行>>作事奉行
勘定奉行>>京都町奉行>大阪町奉行>長崎奉行他
といった感じらしい。>>は昇進の序列、>はほぼ同格中の序列。
「代官の日常生活」って本を読んでいたら、布衣は従六位相当って何度も書いてありました。
六位相当と理解していたのですが、従六位相当と限定した根拠はなんなんでしょう?
岩松は家康にお目見えした時何か失礼な発言があって追い返されて、
新田の名乗りを禁じられ禄高も20石、後100石加増でやっと120石。
譜代の家臣がいて生計が苦しく、寄付を募って歩いたとか。
例の絵も寄付の口実でホワイトバンドみたいなものかも。
正確には交代寄合に准ずる家柄のようだ。
久能門番の榊原家は交代寄合筆頭で唯一従五位下(他の家は無位無官)
まあここの初代は神官兼務で旗本唯一の従二位だけど。
交代寄合中山名は格別の家。
無役の高家=表高家ではなく、寄合になることもあったそうだ。
松前家はもと交代寄合。
最上は大名→高家→交代寄合
元大名の某家は席次は大名と同じだったが、無位無官のため服装が異なり浮いて
しまうので席次を下げてもらったそうだ。稀にはそんなこともある。
よく高禄の御家人として紹介される正田隼人家500石、
得川の家来筋で地元に土着していた家、岩松と対照的に家康に気に入られて旗本取り立て
の話もあったが、お断りして地元に留まり縁の寺の面倒見ていた。
正確には御家人ではなく郷士で、領地も170石くらいらしい。
以上主に原書房「旗本人名辞典別巻」小川恭一著より。
図書館で読んだだけだからうろ覚えだけど。
197 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 09:06:35
御家人から中途半端に出世すると子孫に迷惑だよね。
布衣役まで昇進すれば100俵までは加増されるし、後継ぎは両番入できるから出世に有利だけど、
ただのお目見え以上ではそんな特権もないし。
50俵以下で旗本なんて惨め過ぎ、体面上御家人より金はかかるし、名目上の身分が上なだけでいいとこなし。
勤務中だけならともかく、永世お目見えなんかなるもんじゃないな。
198 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 15:13:58
改易された旗本ってどれくらいいたのだろう・・・
多かったのかな・・・。
>196
その正田てもしかして「館林の粉屋」のご先祖様ですか。
200 :
弐百:2005/12/03(土) 17:06:20
粉屋ってなに?
醤油屋だったんか・・そこと正田隼人家とは?
由良家(高家)は大身旗本ではなかったなw千石くらいか。
>>184 亀サンクス
>>187 高禄の大身旗本は大番頭、書院番頭、小姓組番頭が定番なんだろうな。
7500石の三枝氏とか。
>>195 無紋の狩衣(礼服)を着た。六位相当の階級名。
>>196 >久能門番の榊原家は交代寄合筆頭で唯一従五位下(他の家は無位無官)
まあここの初代は神官兼務で旗本唯一の従二位だけど。
榊原照久(1800石)だね。
204 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 19:31:30
高家は従五位下で侍従になれた。
この場合大名の単なる従四位上より上とされたそうだ。
つまり、従四位下侍従>従五位下侍従>従四位上>従四位下
位階より中将>少将>侍従>その他という官職の序列のほうが重要ということ。
5000石超の旗本は家格相応の職がなく(役高は5000石高までしかないから)
すべて引き下勤めになる。
5000石以上と以下とで昇進コースに大きな違いが有ったらしい。
5000石以上はほとんど番士にはならず、無役かいきなり頭クラスになるらしい。
3000石くらいだと、昇進の上では普通の両番筋とあまり変わらないようだ。
本田正純の子孫で3000石の旗本が長崎奉行になっていて、任期が終わって江戸に帰るときに
家来が遊女と仲良くなってしまって関所破りをさせたために処分されたことがあるそうだ。
そのとき家老や用人が監督責任を問われている。
3000石以上は小大名と組織的には変わらないらしい。
それでなぜ3000石以上かと考えるのに、3000石以上が一部隊ということで馬印を与えられる。
3000石以上が寄合と言うのも予備隊・遊撃隊を構成するからだろう。
つまり3000石未満は武士とその補助者として戦闘に参加するのに対して、
3000石以上は部隊として行動するためなのだろう。
207 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 15:17:03
age
208 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 00:27:50
外様の小大名と外様の大旗本どちらが一番役得多いんだろう?
一度つぶされた外様大名が復活すると譜代になれるんだよな
なんか計画倒産みたいw
209 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 01:13:12
>>208 旗本に外様はないよ
朽木なんか外様大名→分家が旗本(譜代)→譜代大名
柳川の立花さんちて譜代?
211 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 01:15:02
そうなん?
万石未満がみんな旗本になるんなら
生駒とかも旗本になっちゃうわけで
まぁここに限らずその地方の郷士や小領主だって
万石未満なら旗本で
こいつらは関が原以後に従ったことになるから外様じゃないの?
400年目前に大久保彦左衛門殿がそう嘆いておられたな。
実態として外様系の旗本はいるけど、基本的に旗本は外様も譜代も区分されておらず、
同じように幕府役職に就くこともできる。
高家なんて出自から言えば全部外様だし、交代寄合もほとんど外様系。他に外様大名の
分家で旗本と言う例もある。
大名の場合、外様は正確には表大名=お客様、逆にいうと譜代大名=家臣、つまり旗本
は全部家臣だから出自はどうあれ外様ということは有り得ない、と言うことなのだと思う。
214 :
日本@名無史さん:
age