えた、ひにんってどういう人達だったの?2

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1もっこす ◆ZM08EeniEM

 江戸時代、士農工商の中に入らなかった、えた・ひにん。
そして、水平社運動をえて後の部落問題まで繋がった。

 ここで、えた・ひにんとは、どういう人達だったのか?
確か、犯罪者をえた・ひにん、扱いしたと習ったが、何故
それが、部落問題まで発展したのでしょうか?差別される
って、部落側の方に差別される要因が有ったのでしょうか?
 自分の地方にも、「部落」という言葉はあるが、あくまでも
〜村や集落と言う意味でしか有りません。


前スレ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1049172009/

前スレは、荒らしも現れず、実り多い成果が得られました。
今回も、よろしくお願いします。
2日本@名無史さん:03/05/11 23:14
2
3日本@名無史さん:03/05/11 23:19
いつの間にか、もっこすにスレ乗っ取られちゃったよ〜。
4日本@名無史さん:03/05/11 23:22
567 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/15 17:10 ID:gOK39ys1
有力起源一つに秀吉の文録・慶長の役がある。
あの時に、出兵日本兵は耳塚で有名だが、敵軍の耳を大量にそいで戦果の証明と
していたが、それだけでなく、大量の朝鮮人を日本に連行した。
それは、日本にない産業の従事者を必要としたからで、沈寿官を始めとする、
陶工は有名だ。他にも多数の職種があった。部落が西日本に多い理由の説明にもなる。
当然、東北以北にはないことになる。
徳川時代になって朝鮮通信士が連行朝鮮人の帰国を申し入れたが、
彼らは既に日本に定着していたため、自身が断ったらしい。
何かの記録に残っているはず。また、連行数や職種等の一致から蓋然性のある説みたいだ。
不合理な差別が歴史的に正当化される背景には、被差別者自身の他者との相違の認識が
前提として必要になってくる。なぜなら、土地に由来する差別は引越せば消滅するから。
彼ら自身が差別を必然と認識したからこと制度は磐石に保全されてきた。
その後、部落には歴史的被差別者以外も併合して拡大していったが・・・。
5日本@名無史さん:03/05/11 23:22
580 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/15 17:50 ID:gOK39ys1
被差別部落が歴史的に皮革や牛の解体等の職種についてる理由は
秀吉が騎馬民族のモンゴルに服属して受け継いだ食肉文化の朝鮮人達の
技能を求めて奴隷として大量に連行したことにあります。
秀吉に同調して兵力を拠出した地方藩主が、それぞれ独自に連れ帰って、
自分達の領土に定住させたようだ。
だから、出兵前に存在していなかった職業が、その後存在し、
それは、出兵の破綻と豊臣政権の崩壊→徳川政権樹立・幕藩体制確立の中で
体制を維持する上で必須の身分制度として固定化されていった。
数世代経つうちにその出自は忘却され、中世からの餌取等の歴史的な被差別民
の記録と結び付けられることによってその歴史が古来から連綿と続く、
土着の賎民と誤解して位置付けられるようになったのである。
6日本@名無史さん:03/05/11 23:25
586 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/15 18:07 ID:gOK39ys1
被差別部落異民族起源説というのは昔から根強く存在していて、
その世界ではある種タブーとさててきた。
なぜなら同じ日本人なのに・・という論理で部落差別解消に取り組んでいるのに、
その論理が破綻するからです。
それに部落の所在地は明らかに西日本に偏っていて、本来もっと多くないと
おかしい東日本、ことに関東には極めて少ないことを公の理論では説明できない。
徳川時代に制度化されたなら、江戸が最も多くないとおかしいですから。

それと源流=白丁ではないですね。白丁も入っているけど、
陶工など、日本に存在していなかった朝鮮で盛んな便利な職人達を連れ帰ったんです。
秀吉連行説の文章に職種が詳しく書いてあったが、失念してしまった。
特殊技能の持ち主だったが。
7日本@名無史さん:03/05/11 23:36
677 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/17 02:07 ID:rsvWpiLE
豊臣秀吉の文録・慶長の役と被差別部落との関係について言及したが、役によって日本
に連行された朝鮮人はどの程度に及んでいるのだろうか?別名、「陶器戦争」「ひと
さらい戦争」と呼ばれた戦争で、実数は諸説あるが、数万人以上、10万人弱というと
ころだろうか。
徳川幕府成立後、日朝間に通信士の往来があったことは知られているが、12回に及んだ
朝鮮通信士の訪日の内、最初の3回が、回答兼刷還使というものであって、それが連行
朝鮮人を取り戻す使命を負った使節であることはあまり知られていない。回答兼刷還使
というのは、朝鮮側がまず徳川にまず国書を送れと要求し(実際は将軍は送るはずもな
く、現地が捏造したものと考えられている)それに回答すると同時に、捕虜の回復を求
める使節という意味である。通信使の中には白丁も含まれていて、通信使の為に肉牛を
飼育し、肉料理を調理していたと広島藩の文書に記録されている。
http://blhrri.org/info/book_review/book_r_0003.htm
8日本@名無史さん:03/05/11 23:36
678 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/17 02:09 ID:rsvWpiLE
このように朝鮮出兵が大量の朝鮮人を日本に連行したことは確実な歴史的事実であり、
回答兼刷還使の職務からみて徳川時代にあっても彼らが大量に日本に留まっていたこと
は明白である。そしてその職務は実際には成果を上げることができなかったと考えられて
いる。というのも既に日本で定着してしまっていたからである。
ところでこうした連行朝鮮人は日本の民衆史においてどう位置づけられているだろうか?
陶工達は例の沈寿官などの存在で高名ではあるが、彼ら日本社会で皮肉にも“芸術家”
と見なされた特異な人々は別として、他の大多数の朝鮮人の存在はなぜか歴史の中に
埋没しているのである。数万人と言えば、今の人口から換算すると数十万以上にも相当
する。おそらく彼らは閉鎖的な村社会である日本で一般の日本人と交流することは
なかったはずだ。言語的にもしばらく意思疎通できなかったはずである。
社会的にその存在を無視されたに違いない朝鮮人達が非人間的な存在として、
劣悪な環境の土地に追いやられて日陰の存在の部落民としてその命脈を保ったであろうことは
想像に難くない。一般に我々は海に囲まれた日本列島には海外からのいかなる外国人の流入も
無かったものだと考えがちだが、実際には古代のころより頻繁に往来があったのである。
新たにやってきた外国人達は民族意識のまだ確立していない古代にあってもその容貌の特異さ
から被差別者と位置付けられることもあったに違いなく、その時代時代、その時々の異国人が
排撃の対象となる特殊部落を形成して一般民衆と一線を画するという歴史を繰り返し、
それは太古の昔から続く謎の土着被差別者として歴史化されていったものと考えられる。
従って、連行朝鮮人達も数世代の後にはその出自は不明のものとなり、いつの日か
中世よりの伝統的な部落民と同じルーツを持つものとしてその存在の謎は消化されることとなった。


9日本@名無史さん:03/05/11 23:36
強制連行で連れてこられたと思い込む理由(1)

呉:在日の人たちにしても、植民地時代に自分の意志で積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃ
  ないですか。強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。
崔:そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。ところが、そうであるにもかか
  わらず、意識としてはそうじゃなくなっているんです。自分も植民地のときに強制的につれて
  こられたのだと、これはアイデンティティとしてそうなってしまっているんです。
呉:なるほど、意識と実際は違うということですね。
崔:実際は強制されてきたのではなくても、我々は強制されてきたんだという、そういう物語をつ
  くってそれを自分の意識としてもつんです。ここが在日韓国・朝鮮人を考える場合のかなり大
  きなポイントです。(中略)それで一世たちはそういう物語を二世、三世に懸命に教えるんです。
呉:なんのために教えるんですか
崔:民族意識を守り、それを子孫に伝えるためです。
10日本@名無史さん:03/05/11 23:36
古来から連綿と続く土着の賎民だと思い込む理由(1)

呉:部落の人たちにしても、秀吉の朝鮮出兵で強制的に連れて来られた人がほとんどじゃ
  ないですか。中世よりの伝統的な部落民たちは極少数なわけですから。
崔:そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。ところが、そうであるにもかか
  わらず、意識としてはそうじゃなくなっているんです。自分も古来から連綿と続く土着の
  賎民なのだと、これはアイデンティティとしてそうなってしまっているんです。
呉:なるほど、意識と実際は違うということですね。
崔:実際は土着の賎民ではなくても、我々は縄文からの土着の賎民なんだという、そういう物語をつ
  くってそれを自分の意識としてもつんです。ここが部落の人たちを考える場合のかなり大
  きなポイントです。(中略)それで怪童はそういう物語を部落の子供たちに懸命に教えるんです。
呉:なんのために教えるんですか
崔:選民意識、部落利権を守り、それを子孫に残すためです。

呉○花、崔○城『これでは困る部落』1997年より
11日本@名無史さん:03/05/11 23:37
649 名前:権兵衛投稿日:2001/03/09(金) 00:30
多少話題がずれるかもしれないんですけど。
解放同盟っていうのは端的に言えば「出自によって人間を判断するな」という
団体な訳ですよね。その解放同盟が被差別部落の異民族起源説に対してことさらに
同じ民族間での問題であると主張するのは話の辻褄が合わないような気がする。

と前々から思ってました。

12日本@名無史さん:03/05/11 23:40
もうコピペはいいよ。
自分の意見を言いな。
13日本@名無史さん:03/05/11 23:42
>>4-6
つーかさ、被差別部落民が異民族としてよ、
そのアイディンティティが「職業と差別を受けたこと」だけ、
てのはどーよ?
民族とは「身体(人種)的特徴、宗教、言語、文化を一にするグループ」
でしょう。被差別部落民のどこが日本の中で異民族的なのさ。
先祖が渡来系でも、異民族とはいわねーぞ。
14日本@名無史さん:03/05/11 23:47
異民族起源説は学界ではまともに相手にされず、
素人の歴史ヲタだけに熱烈に支持されているという点では
江上某の騎馬民族国家説とまったく同じ。
ようするに天皇・部落民を特殊な血が流れている特殊な存在として
「賤化」=「聖化」したいというロマン主義的感情がその根底にあるのだろう。
ということで一件落着。

=============ス レ 終 了===============



と、言いたかったのだがいつのまに新スレに移行してた。
15日本@名無史さん:03/05/12 00:00
>>14
まともに反論できないのはカコワルイぞ。
16日本@名無史さん:03/05/12 00:04
異民族起源説が出てくると、
まともな反論ができずに
「ヴァカ」「逝け」などの罵倒か、
「厨」「ヲタ」「トンデモ」などの
レッテルを必死になって貼るだけ。
いかに彼らがあせってるかがよくわかるね。
17日本@名無史さん:03/05/12 00:08
自説に絶対の自信があればコピペも無視するんだろうけど、
異民族起源説が一番説得力があり、有力な説であることが
彼らもよくわかっているから、無視ができないのだろうね。
これからもコピペが貼られるたびに即座に反応すると思うよ。
18もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/12 00:10
論争をなぞるだけだから、資料さがせばいいだけだよ。
19日本@名無史さん:03/05/12 00:22
>>15-17
被差別部落民が、身体(人種)的特徴、宗教、言語、文化のいずれかに関して、
いつの時代にどのように日本人と比して「異民族」的なのか、
ソースつきで答えよ。
20日本@名無史さん:03/05/12 00:35
明治・大正期は異民族説による棄民政策だが、
昭和初期には日韓同祖論による総力体制強化策で、
戦後には騎馬民族国家説による半島人への媚が入る。
で、最近では縄文/弥生文化圏説による多民族国家説。
これはアメリカ合衆国を意識しているんだろうな。
梅原猛に乗せられて被差別部落民=縄文人説を唱えて
四国に被差別部落民による独立政権樹立という
トンでもない事を言い出したのがご存知中上健次。
21日本@名無史さん:03/05/12 01:26
被差別民は自分達の文化や伝統を頑なに守ろうとするものだ。
在日がいつまで経っても半島文化を捨てようとしないものそうだね。
部落もやはり自分達の伝統・文化を頑なに守っていく傾向があるのだが、
そこに半島色は感じられない。
半島起源説ならば、部落民は、なぜいまの在日のように半島文化を守ろうとしないで、
そのくせ半島色のない独特の文化をあそこまで頑なに守ろうとするのでしょうか?

ちなみに部落独特の文化を頑なに守ろうとするのが、
差別がなくならない理由のひとつなんだがね。
22日本@名無史さん:03/05/12 03:29
半島って何時代の半島よ。
23日本@名無史さん:03/05/12 06:12
ここは所詮出自で線引きして否定し合うしか能がないか。
部落側は一般人側の疑問に反論があるなら明確に言うべきだし、
一般人側も部落側の新たな疑問に明確に答えてやれよ。

まずは半島人起源説を前提に弾左衛門体制と歌舞伎の関係を論じてみよう。
24日本@名無史さん:03/05/12 08:14
前提にする前に異民族の証拠が要るだろ(w
25日本@名無史さん:03/05/12 09:23
いずれにせよスレの趣旨がかなり変わっているぞ
26日本@名無史さん:03/05/12 12:27
異民族説に条件反射する人の内心をソース付きで説明してくれ(w
27日本@名無史さん:03/05/12 12:48
新天地を求めてやって来たわけではないのだから、迎えに来たら帰っただろう。
頭に頼んで部落に封じ込めたケースもなくはないとは思うけどね。
28日本@名無史さん :03/05/12 13:00
大正の頃の都道府県別部落人口と全人口を比べてみると結構面白かった。
やはり、関西・中国・四国が中心地帯。
東日本では、埼玉・群馬が他を圧倒している。
部落民比率では奈良が6%近くで首位。高知が5%にせまり4%以上は兵庫・和歌山・鳥取・愛媛。
これに三重・滋賀・京都・岡山・徳島・福岡が続くという具合。大阪は2%未満と全国的にみても比率は高くない。
東京・愛知・大阪で比率が思った以上に低いのは都市化が進んでいたからだろうか?
長野が同和地区が多いのがいつも疑問であったが、大正時代は総人口で神奈川よりも多く全国8位。
当時は先進的な地域だったようだ。
やはり西日本が部落の先進地域で、次に群馬・埼玉・長野・静岡あたりが続いている。
もちろん大正時代は既に相当の人口移動が起こっているはずだから、江戸期にはまた違っているだろうが、
現在の県別の部落問題の強弱と人口・経済のイメージをそのまま江戸時代に当てはめると、少しずれが生じると思った
(日本史専攻の方にとっては、これらのことはあたりまえのことだろうけど)。
29日本@名無史さん:03/05/12 15:36
http://www.kiwi-us.com/~selasj//jsc/japanese/bulletin/no98/bu_ja982.htm
を見ると部落の隣に強制連行された朝鮮人の集落があったようだね。
おそらく全国的にそうだったのではないかな。
それなら時代が経つにつれ部落に吸収されてしまうことも考えられる。
30日本@名無史さん:03/05/12 16:16
>>29
1、この資料は、長崎の一つの村だけの話。高麗村などめったにない。
(埼玉の高句麗神社は古代の渡来人関係で部落と関係ない開拓者集団)
2、全国に秀吉出兵での朝鮮人が散らばって、無数の各部落それぞれの
隣に朝鮮人部落があったとは考えられない。ものすごい数の朝鮮人が必要。
3、「何百万人もが今も部落差別に苦しんでる」とあるが、そんな事実はない。
31もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/12 20:22
>>30
そうだよね。
実数は92万人だもん。
血統論を採用したら、何百万人では効かないぞ。数千万人単位だ。
32日本@名無史さん:03/05/12 21:43
>>31 もっこすさん
現在や過去の県別の実数ないし%のわかるサイトはありますでしょうか?
33日本@名無史さん:03/05/12 21:52
博徒って何?
江戸時代の警備や十手持ちの延長?
戦前の右翼と暴力団とも関係あるの?
34日本@名無史さん:03/05/12 21:58
最近、アイヌ人や沖縄人、縄文人、弥生人とかDNAレベルでの研究が
進んでいるだろ。ミトコンドリアDNAで日本人のルーツ解明とか。
生きている日本人のDNAサンプルを採取している。関西人は他地域の日本人
とはだいぶ違うとかも判ってきている。
それなら、異民族起源説について、同和地区の住民を対象にした検査をしたら
どうだ?同和団体は、人種差別にも反対しているし、部落の起源解明にも取り組んで
いる。
てっとり早い方法じゃないか。
起源も解明しようとせずに、「天皇制は差別の根源」などとほざくのは卑怯じゃないか?
35もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/12 22:06
>>32
これなんかどう?
解同千葉県連のサイトだが、データがあるんで使ってる。
http://members.tripod.co.jp/trotzdem/data.htm
36日本@名無史さん:03/05/12 22:14
>>34
ハイハイ、「民族」と「人種」を混同してるヴァカはさっさと回線切って寝てね。
「ユダヤ人」なんてのもDNAレベルじゃ存在しないよ。
もう少し勉強して出直して来るように。
37日本@名無史さん:03/05/12 22:22
>>33
博徒とは、ばくち打ち。
中世では博打(ばくち)で、特別技能集団。さいころの目は神の意思と
して聖なる価値を持った。のちに差別されていく。
江戸時代前期はカブキ者の集団。迷惑者で当局につぶされた。
しかし、都市でも農村でもバクチは人気があり、続く。
いい訳をつけて、武士以外禁止の長い刀を差したりし、アウトロー的。
組織ができ、親分子分ができてくる。
近現代では暴力団が資金稼ぎに行い。暴力団は右翼を名乗り、隠れ蓑とする。
38日本@名無史さん:03/05/12 22:23
宗教、宗派と戦争って関係あると思うんだけどな。
実際、大逆事件の頃、明治以降の新興宗教に転向した
人は多いでしょ。
軍部との癒着とか、その関係の産業周辺とか。。。
困窮化は明治以降なんて最近いわれてるけど、
江戸時代の差別を強調したのは、そのあたりの複雑な
関係をうまく戦後に持ち越さないためであると思う。
完全に空想ですが。
39人権板住人:03/05/12 22:25
もっこすよ、ここでは知ったかぶりはやめとけよ。
40日本@名無史さん:03/05/12 22:29
>>36
だけど、ミトコンドリアDNAの研究では、日本人は韓国人や中国人に多い
遺伝子がどうのこうのと出てきているだろ。
その配分というかバランスが同和と非同和の住民とで共通かどうか、判明
するはず。
調べるのが怖いのか?
41日本@名無史さん:03/05/12 22:47
>>35 もっこすさん
ありがとうございました。データに北海道・東北がないってのは少ないからで
いいんですよね。

>>40
同和地区の部落民の割合は3割ほどしかいないそうです。
普通地区に住んでる部落民を追跡調査は不可能。
結論。できない&意味がない。
42日本@名無史さん:03/05/12 22:56
>>40
あのね、そう言う科学的分析は結局、
ある一定の”傾向”を証明するだけで、全てを立証しないの。
導き出そうとする”傾向”が偏見に満ちた論点に立脚していると、
ナチの優性思想と同じになっちまうの。

因みに俺的には、同和と非同和に有意の差は見られないと思う。
日本人と韓国人とタイ人を比較すると、日本人がもっとも単一民族に
近かったそうだから。
43日本@名無史さん:03/05/12 23:04
>>41
できないなんて通らんぞ。もちろん真実を恐れる勢力が妨害するだろうが。
>>42
資料のひとつとしてデータを採るべきだ。
解放運動の目指すべき方向性がはっきりするんだから、いい事じゃないか。
44日本@名無史さん:03/05/12 23:07
>>43
だーらよ、人の気持ちを踏みにじって調査して、
「違いました」の一言でお前はすます気か?
調査には莫大な金が掛かるんだぞ。
その前にてめぇの足を使って地道に文献調査しろ!
45日本@名無史さん   :03/05/12 23:08
>>34は「ユダヤ民族」が「ユダヤ人」にされてしまったことが
ホロコーストの悲劇に帰結してしまった歴史にまったく無知なのだろう。
日本史板だけでなく、たまには西洋史板、哲学板、社会学板あたりも
のぞいてみて少しは視野を広げてくれよ。
46名無し :03/05/12 23:27
哲学板に行って最初に目に入ったスレは
「何故和田アキ子はカメラの事を「キャメラ」呼ぶのか?」でした(´Д`)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1052222656/l50
47日本@名無史さん:03/05/12 23:43
>>44
人の気持ちって、それじゃあ、解放運動としてやってる起源の研究自体やめろよ。
特定個人のデータではなく、集団としてのデータを集めるんだろ。
そんなのミトコンドリアなんとかでも、一般の日本人に協力を求めてやってることだろ。
48日本@名無史さん:03/05/12 23:55
>>37
三河や上州では容認されていたようですが?
徳川家と縁の深い土地なので代官所を置かず
警察行政を委託していたそうです。
そんな彼らの権益が剥奪され一斉検挙されたのは
明治初期、警察行政近代化の時期です。
同時期に旧社領の警察行政を司っていた香具師も弾圧され、
こういった勢力が初期民権運動に合流したのです。
隠れ蓑どころか本家本元ですよ。
伝統的右翼団体や博徒が戦中・戦後に解体されて、
その後形成された広域暴力団が騙り右翼をやっているだけの話で。
49日本@名無史さん:03/05/12 23:57
>>47
自分でそう言え。信条の違う他人を頼るな。
50日本@名無史さん:03/05/13 00:12
はっきり認識しないといけないのは過去の”えた、ひにん”と現在の同和問題で
対象となる人々は別の存在だということ。
明治以降の被差別と中世以降の伝統的な被差別には継続性が薄い。
マルクス史観を意識的に悪用して同和をビジネスにしたい連中が天皇制が悪いとか
資本家が悪いとかプロバガンダしたため、長い間歴史的な考察がねじれて
しまった。部落の歴史も被差別者の側にしか語る権利を認めない風潮もあった。
臭い物にはフタをする日本の習慣も同和の歴史を語りにくくしている。
20年ほど前の左翼が跋扈していた時代の大学キャンパスでこのスレみたいな
レスを公言した日には必ずボコボコにされたもんだ。
51日本@名無史さん:03/05/13 00:23
田舎のほうだと結構昔から住んでる人が多いと思う。
言葉(方言?)も独特のものがあるね。道一本隔てたところで
言葉が違うよ。
昔ながらの信仰も残ってるところもある。
52日本@名無史さん:03/05/13 01:01
俺の先祖は明治に戸長で政府が警官に無職士族使おうとしていて
斡旋したが「長吏の仕事ができるか!」って大抵断られたらしい。
差別意識そのものは近世近代で繋がってると思う。
警官の社会的地位が向上したのって、かなり時代が下る気がする。
53日本@名無史さん:03/05/13 01:26
>>50
人権板からのコピペはやめてくれ・・・
54もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/13 05:39
>>50
確かに。
「新しい部落」問題に見られるように、幕末前後発生の「特殊部落」もあるしね。
起源が、賎民ではない「部落民」もいるから。
このスレの趣旨は、中世賎民の解明だから、別にスレを立てる必要があるが、調べている人も資料も少ないので、盛り上がることはないだろうけど。
5550:03/05/13 10:39
>>53
コピペじゃねーよ。そういう条件反射はやめてくれ。
それから何が君にそう反応させるのか心理を解説して欲しいね。
56日本@名無史さん:03/05/13 10:54
50は中立的な見解と思うが。
57日本@名無史さん:03/05/13 11:00
>>52
警官の社会的地位なんて江戸時代からそう変わってないでしょ
やっぱり親戚には持ちたくないよ。(キャリアとかは別だが)
警官とヤクザの違いは、公営か私設の違いでしかない。
イザという時には、どっちも役に立たないしぃ
58日本@名無史さん:03/05/13 11:14
親戚に警官とヤクザがいますが、何か?
59日本@名無史さん:03/05/13 15:21
その警官とやくざは親しく親戚づきあいしてますか。
60日本@名無史さん:03/05/13 20:09
会いません。
61日本@名無史さん:03/05/13 21:17
安政六年の地図だと、江戸の新由原町に「非人小屋」というのがある。
江戸にもいたんだね。
62日本@名無史さん:03/05/13 21:26
>非人小屋
江戸時代に加賀藩が設けた非人小屋(1669)は,施設や作業場を設け,乞食や
浮浪者とともに刑余者を収容し良民への更生をはかったもので,日本最初の
更生保護施設といえる。1790年(寛政2)に作られた石川島人足寄場は,無宿者
や入墨または敲(たたき)の刑に処せられた者を収容して職業補導,授産,教養
訓練等を行ったもので,いわば幕府による更生保護施設であった。
63日本@名無史さん:03/05/13 21:51
そういや大阪冬の陣の市街地図に穢多崎ってのがあったな。
塙直之が陣取っていた所だが。
64日本@名無史さん:03/05/13 22:29
木津川と尻無川の合流点にの穢多崎砦ですね。
これどうなんだろうね、生活地なのか、「えたさき」への当て字なのか?
崎は、川の近くだからだろうけど。
65日本@名無史さん :03/05/13 22:30
>>63
信長と一向宗が戦った「石山本願寺合戦図」の間違いでは?
大阪の例の渡辺村の祖先と言われる。
これがかつては一向一揆起源説の根拠の一つとされていた。
66日本@名無史さん:03/05/13 22:51
江戸の街中にはあちこちに非人小屋があった模様
67日本@名無史さん:03/05/13 22:52
いや、大阪冬の陣の話で出てくる。
6865:03/05/13 23:22
>>67
うーん、漏れの手元にある文献では「石山本願寺合戦図」(大阪城天守閣所蔵)で
「エツタ崎の砦」と記載されてる。
同じ連中だとしたら、
信長に反抗したり、家康の手先になったりと色んなことしてたんだなw
69日本@名無史さん:03/05/13 23:36
不浄役人等見るに
非人=犯罪者及び犯罪者の子孫、かわら者
ともとれるかも知れんな。
穢多は、四足と共に生活するもの、ささら者、死体の処理業者等が挙げられるかも知れん。
あくまで私感だが。

ところで丹下左膳はどっちになる?
70日本@名無史さん:03/05/14 00:05
非人の子は非人なのかなー?

非人は都市的な感じがするけど、農村にもいたんでしょうか?
71日本@名無史さん:03/05/14 01:25
江戸時代には男女が心中未遂を起こした場合、しばらく道端で晒し者にされた
後、女は飯盛女郎(最底辺の売春婦)、男は非人身分へ落とされるという刑罰が
あったんだよ。
72日本@名無史さん:03/05/14 07:50
> ・ 江戸・無宿人問題史
>
>  そもそも江戸は大阪や京都のような伝統的な都市ではなく、武士階級の
> 移住によって突如成立し、その市場経済力によって近郊農村などからの大
> 量の流入人口を抱え込んだ都市である。荻生徂徠が「江戸は諸国の掃き
> 溜め」「いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきとなった」と嘆き、都
> と農村の境界を築くよう将軍に進言したよう、あれよあれよという間に武士
> より町民の数が膨脹し、棟割長屋に住む地方からの出稼ぎ人などが、車力、
> 行商、屑買い、飯炊きなどの都市雑業に従事しながら定住していく雑多な
> 都市として発展してきた。
>
> 昔から江戸っ子気質を「宵越しの金はもたない」などと言うが、これは明日
> の貯蓄すらできぬ下層町人の負け惜しみ的表現が原形だと言われている。
> 事実、江戸、中後期、町民の8割は窮民層といわれ、不安的な裏店の店借
> 人としてその日暮らしの生活を余儀なくされ、彼・彼女らは頻発する火災や
> 疾病などで流民=無宿へ転落することも多くあった。
>
>  周知の通り、当時は封建的身分制度の世、無宿化したとしてもそのまま
> 放置されることはなく、家を追われ、故郷に帰るあてもなく都市を野宿しな
> がらさまよう人々は野非人と呼ばれ、取締の対象、見つかれば、即お縄。
> 非人身分に編入され、非人集団の統制化におかれるという制度であった。

http://www.d9.dion.ne.jp/~rojuku/kasaiFolder/ronnbun1.html
73日本@名無史さん:03/05/14 10:14
>>72
確かに、西日本の部落地区は平安時代くらいからの歴史的
記録があるところあるけど。
同じ賎民でも定住者と非定住者がいるし。非人も定住者がいるでしょ。
何か学校で習うのは定住者の部落だと思う。
低地や湿地に住んでるのを強調してるし。(←でも、これもおそらく平安時代くらいから
                     確認できるよね。
移転の自由を禁止したのは江戸期だけど。
それ以前も、河川を利用して木材を運び築城したりする人々
や産鉄民同士の移動はあるから、何か特定のグループによる
ネットワークがある気がする・・・
74日本@名無史さん:03/05/14 10:17
それはそうと、2ちゃんねるで叩かれてる部落解放系の諸団体って
GHQの指導で出来たってホント?
75日本@名無史さん:03/05/14 10:24
GHQの指導って戦後の民主化を意識してたと思うのだけど・・・
76日本@名無史さん:03/05/14 11:36
1946年(昭和21)2月,松本治一郎,朝田善之助,北原泰作ら旧水平社運動と,
武内了温,梅原真隆,山本政夫ら旧融和運動の各指導者が発起人となり,
両者の大同団結の下に全国水平社の伝統を受け継いで部落解放全国委員会
(解放委員会)が結成された。解放委員会は,財閥資本に奪われた産業の
奪還と部落産業の全面的振興を訴え,また日本国憲法の制定にあたり,
華族制度の廃止と身分差別の撤廃などを積極的に主張した。
1955年、部落解放同盟と改名。当初は、革新の統一ばかりでなく、保守
からも支持されていた。
その後、まず自民党系が抜け、後に共産系が抜けた。
77日本@名無史さん:03/05/14 11:40
>>70
非人
平安時代いらい普及し,江戸時代になってからは,賤民身分の一部を
さす呼称として,公式に江戸幕府・諸藩で採用され定着した。
江戸時代に,いわゆる士農工商の諸身分の下に〈えた〉とともに賤民
として位置づけられた非人は,親子代々の〈非人素性〉のものがその中心
をなしたが,ほかに,犯罪や,心中の仕損じを理由として非人身分に
落とされて〈非人頭(がしら)〉の配下に入れられた〈非人手下(てか)〉,
生活困窮のため乞食浮浪の身となった〈無宿非人〉〈野非人(のびにん)〉
があり,その内容はさまざまであった。彼らは江戸幕府のひざもとで,
歴代,〈穢多頭(えたがしら)〉の地位にあった弾左衛門(だんざえもん)の
統轄下に置かれたが,直接的には江戸浅草の車善七(くるまぜんしち)
に代表されるような各地の非人頭,もしくは非人頭に該当する役職の者
(たとえば,京都ではそれを悲田院年寄といっていた),さらには非人頭
に属する多数の小屋頭たちの支配を受け,町外れや河原の非人村の小屋
に住み,物乞い生活を基本としながら,大道芸,犯罪者の市中引廻し,
処刑場での雑役などで,日々の暮しをたてていた。江戸では,罹病の囚人
や15歳未満の罪人たちは,浅草・品川の非人頭のもとで非人が管理していた
非人溜(ひにんため)に収容され,そのことを非人小屋預(あずけ)といった。
また,前記の無宿・野非人については,天保〜嘉永年間(1830‐54)に
浅草に非人寄場(よせば)が設けられていた。非人身分は,1871年
(明治4)8月23日の太政官布告により廃止されたが,非人の集住していた
非人村の多くは,〈えた〉の集落と同様に江戸時代をつうじて深刻な差別
の対象となっており,現代における被差別部落の一源流をなした。
78日本@名無史さん:03/05/14 12:19
物乞い生活を基本・・・・・これは貨幣経済が発達してからも
             そうなのかな?
79bloom:03/05/14 12:20
80日本@名無史さん:03/05/14 12:26
非人って77の言ってるようないわゆる生活困窮のため乞食浮浪の身となった
もいるけど、死穢に関連する職人や呪術師もそうなのかな?
開墾者は無職の職業斡旋なの?
81日本@名無史さん:03/05/14 14:12
>>78
お金の乞食。日本橋などに等距離間隔で座っていたとか。過当競争の防止かな?

>>80
死穢れ関連は穢多の職能でしょう。処刑関係は非人のようですが。
呪術は穢多職能かな?
シャーマンは実は地方より、大都市に大きい力を持ってたそうです。
開拓者は地元農民のかり出しと、小作の進出と、日雇い雇用と様々では。

82m:03/05/14 14:30
83日本@名無史さん:03/05/14 15:48
>>80
81追加
>開拓
陰陽師集団が、たたりがないように開拓に使われたと聞いたことがある。
84日本@名無史さん:03/05/14 16:59
>>20
> 戦後には騎馬民族国家説による半島人への媚が入る。

それは違うよ。
江上の騎馬民族征服王朝説ってのは、戦前から構想されたもので、
日本の東北アジアにおける植民地政策と深い関係がある。
天皇を中心とする大和民族国家の満蒙起源説を、建国神話と考古学を
ごっちゃにしならが展開することで、日本およびその植民地全体における、
大和民族の指導民族としての優越性を学問的に裏付けようとした試みなんだ。
江上説をよく検討してみると、「古代から満蒙および半島諸国家の宗主国は
日本だったんだぞ」というところに重点がおかれている。
江上って人はアマチュア歴史家たちによく誤解されてるんだが、
本人もその誤解を自説の流布にうまく利用してきた。なかなか狡猾な人だった。
8550:03/05/14 18:30
>>84
人間の傾向性はみごとに2チャンネラーだったわけだ。(w
86yuis:03/05/14 18:30
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87日本@名無史さん:03/05/14 18:51
>>84
そんなオヤジに文化勲章とはね
88日本@名無史さん:03/05/14 19:59
>>84
江上氏の中国人(やインド人など、彼のいう「農耕民族」)蔑視は
凄まじいものがあったからね。
佐原眞氏との対談などを読むとよくわかる。
89日本@名無史さん :03/05/14 20:05
>>84
蛇足だが、江上の説の原型が戦前の喜田貞吉の日鮮同祖論であることは
江上本人が認めてる。
(喜田は南北朝並立の歴史記述で袋叩きにあった人だが、もちろん反天皇主義者などではない)

つーか、江上も死んだ時にこの板にスレ立ってその電波ぶりはさんざん叩かれずみだ。
90日本@名無史さん:03/05/14 20:35
>>89
喜田貞吉/日鮮同祖論→日韓併合
江上波夫/騎馬民族王朝征服説→満州国
ってことになるのか。
きっと大学の先輩を見習ったんだね。

#スレを脱線させてごめんなさい。
91日本@名無史さん:03/05/14 21:10
で、穢多崎の語源は?
92日本@名無史さん:03/05/16 01:12
宿場の掃除をしてた人とか、用水の水番をしていた人って
非人系の人なんでしょうか??
93日本@名無史さん:03/05/16 16:22
今でも生活用水組合を組織し、行政の定めにも無い使用料を
一般民から搾取している連中は用水を管理していた非人系の流れなのかしら?
94日本@名無史さん:03/05/16 17:51
>>93
どういう組合の事を言ってるのかわからんが、
農業用水の水利組合などは非人とは関係なく、
ただの地区住民の集まりで溜池や水路の管理にかかる金を徴収してるだけ。
95日本@名無史さん:03/05/16 20:11
江戸には非人小屋の他に、「溜」や「穢多村」、「乞食小屋」もあったよ。
「けいせい(傾城)町」も被差別部落。
穢多は足ぬけできない世襲身分だったけど、
非人には足洗い制度があって、身分的に抜け出る道もあった。
渡船従事者や、乞胸・猿飼といった遊芸者にも、
多くの被差別者がいたよ。
96日本@名無史さん:03/05/16 21:33
>>94
関西にはマフィア化した水利組合がある。農業用水とは関係なく
宅地業者が造成する時や個人が棟上を始める頃合を見て
法外な金銭を要求する。請求された人は役所で確認するが行政的には
何の根拠も無い請求とわかる。で断れば水道業者や左官屋がなぜか
おびえて工事を受けたがらないので、たいがいの人は仕方なくお金を払う。
そんなことが今でも続いているよ。
97日本@名無史さん:03/05/17 00:15
>95
遊郭は部落じゃないでしょう?
大名に見受けされた花魁もおるよ(伝説かもしれないが)
遊郭の経営者に対する蔑視はあったようだけど、
部落とはまた違う次元の話と思われ。
98日本@名無史さん:03/05/17 00:20
(97の補足)
明治時代に、窮乏した部落の住人が、娘を遊郭に売る、ということは
あったらしい。(幸徳秋水のルポだったかな?)

江戸時代どうだったかは知りません
99日本@名無史さん:03/05/17 01:23
http://www.sotozen-net.or.jp/oshie/jinken/bn0007.htm
「差別戒名」に関する未改正寺院数一覧
100みな鉄:03/05/17 02:03
おいおぃおぃ?気がついたらみな鉄が>>100ゲットしちまったZE?勘弁してyo!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               |\_/ ̄ ̄\_/|
          /\ /\\_| ▼ ▼  |_/
          / /\  \ \ 皿  /
        ())ノ__ ○二○二⌒/../
       / /||(二ニ) (___/../ 几l  ドノレノレノレノレノレノレ
   γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0
   l| (◎).|l |((||((゚ )/⌒/||三三三・) ||  (´⌒(´
__ ゝ__ノ     ̄(___) ̄  ゝ__ノ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;;
みな鉄は神!みな鉄は神!みな鉄は神!みな鉄は神!みな鉄は紙!
私 IS GOD!私 IS GOD!私 IS GOD!私 IS GOD!私 IS PAPER!

>>99は早すぎたな!
>>100をゲットしたみな鉄さまはもはやネ申!
>>101は残念だったな!
>>102は極悪違法2ちゃんねるメンバーズ!
・・・以下全員極悪違法2ちゃんねるメンバーズ!
101日本@名無史さん:03/05/17 02:10
>99
>1979年の第三回世界宗教者平和会議における差別発言事件
ってちと気になりますね。何だろう?
102日本@名無史さん:03/05/17 05:10
松っちゃん政治家3位か。
103日本@名無史さん:03/05/17 11:08
小泉の祖父はどうだったの?
実家は港湾労働者の元締めみたいなことをやっていたようだけど。

> 「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎は、慶応元年にトビ職の次男として
>大道に生れた。又次郎が小学校に入学するころ、小泉家は文明開化の流れに
>乗り急速に発展する横須賀に移住し、まもなく港湾一の請負業・小泉組になった。

ttp://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/59/
104日本@名無史さん :03/05/17 13:02
>>102
松本治一郎の孫のあの人ね。
(正確には甥の息子だが)
105もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/17 14:53
>>98
江戸時代の遊郭への女性を斡旋していたのは、女衒という専門家でした。
あたしが知る限り、未解放部落には、一人は女衒を商売にしている人がいましたね。
まだ、例外が見つけられない。
106日本@名無史さん:03/05/17 15:07
>>103
一時期2chで言われてた小泉サンカ説はそれが原因かよ。
107日本@名無史さん:03/05/17 16:30
>>103
山口組と似たような勃興の仕方だな>小泉家
108もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/17 16:37
港湾労働か。
伝統的な部落の人の職場だな。
知ってる人はいないけど。
109日本@名無史さん:03/05/17 20:39
関西の地方自治体にはB枠がある。
清掃、交通局はなどは成績が良くてもイパ〜ン人は入れない。(w
110日本@名無史さん:03/05/17 22:01
成績のいい奴が清掃・交通局等へは行かないだろ。
111日本@名無史さん:03/05/17 22:35
吉原千束→小塚原
品川→鈴が森

刑場と非人溜は関わりが深い。
関連スレ
「日本各地の処刑場跡、仕置き場跡について」
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1036584055/l50
112日本@名無史さん:03/05/18 01:35
>105
今でも女衒の末裔の方が住んでいるんですか?
113もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/18 01:43
>>112
あたしの知人の家が、女衒の家系だそうだ。
おじいちゃんが最後の女衒とか。
114日本@名無史さん:03/05/18 08:12
明治以前にはいまで言う人権派みたいなのはいなかったのか?
大塩平八郎なんかがそうかな。
115もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/18 09:30
明治以前の思想家では、吉田松陰とか、あとは、安藤昌益くらいかな。
116日本@名無史さん:03/05/18 12:07
被差別側がしつこく言ってる以上、民主化は難しいね。
知らない世代にも差別してくれーー!!といってるようなもんだし。

知人の話だが。結婚しようとした男がたまたま被差別部落に住む人だったらしい。
女の親は大反対し、縁談話を反故にした。
数日後、被差別部落住民たちが集団で押し寄せたのだと。それこそ縁談断ってよかったと
女の親は後々まで言っているそうな。
117日本@名無史さん:03/05/18 12:54
どうして日本史板で歴史に関係ないことを書くかな。
118日本@名無史さん:03/05/18 16:41
>>116
 ここは、どうしてそのような事になったかを論ずるところだ。
 
119日本@名無史さん:03/05/18 17:01
>>117
よく聞く話だが実際に体験した人の話でなく、知人なのが特徴。
120暴力新妻:03/05/18 17:30
瀬島龍造と報道特集
121日本@名無史さん:03/05/18 17:41
>>112
忘八ですな。
122もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/18 18:13
>>121
女衒と忘八は違います。
人材斡旋と管理の違いね。
123日本@名無史さん:03/05/18 22:11
根拠はないんですが、
江戸時代だと、部落の女性が遊郭で働くことは
できなかったのではないかな?
(少なくとも表向きには)
という気がしているんですが....
124日本@名無史さん:03/05/18 22:23
前期の吉原などに限ればそうかも知れんが、後期にはそうでもないんでないかい?
125日本@名無史さん:03/05/18 23:37
職場での女同士の派閥争いを見てると、差別はこうやって発生したんだろうな
と思ってしまうのは私だけ?
126日本@名無史さん:03/05/19 00:20
>>125
小さな小さな狭量の心が、どんどん逞しく大きくなっていくんだね?
そして個人では止められないほどに勢いを孕んで行く。

小さな人間がつくった大きな壁、だね。
127日本@名無史さん:03/05/19 00:36
非人は戸籍に載らない人。だから税金もなかった。そういう人間は自然の一部とみなされていた
とする説がある。

128日本@名無史さん:03/05/19 01:07
非人頭や穢多頭に現金で納めていました>税金
郷村制を建前とした幕藩体制下では“化外の民”として扱われていましたが、
同じ身分内でも上下、職種による棲み分けや仕来りはありました。
それに「自然」というか彼らの存在抜きで
江戸時代の都市文化、経済、宗教は語れません。
129日本@名無史さん:03/05/19 01:13
素人問答で申し訳ありませんが、木地師の身分は何だったのでしょうか? 
130日本@名無史さん:03/05/19 01:42
士農工商以外の職業。
医者、学者、宗教家、芸術家、技術者、公務員・・。
今なら立派な職業ばかり。
131日本@名無史さん:03/05/19 08:09
>木地師
漆塗りや木材加工ですよね。中世は非農業の漂流民でしたが、
近世では手工業を行う農民身分ではなかったかと思うのですが。
132日本@名無史さん:03/05/19 20:00
>>131
職人じゃないのか?工の身分に入るのじゃないのかな?
133日本@名無史さん:03/05/19 21:25
木地師やサンカは人別帳に載っていたんですか?
134日本@名無史さん:03/05/19 21:47
>>132
あ、ごめん。武士>平民>賎民のつもりで、農民と書いちゃった。
そっちの分類では工です。ただし、次のレスも参考にして。
どこにも入ってないかも。
135日本@名無史さん:03/05/19 21:48
>>133
人別長には入ってないかもしれないですね。穢多身分は別冊の人別帳ですが。

>木地師
彼らは大陸渡来の秦氏の末裔として祭祀していた八幡神信仰に,中世時宗の聖
が唱導した小野神信仰を習合し,職祖惟喬(これたか)親王流寓伝説の縁起書を
つくり,ついで2種の偽作綸旨を案出し,時の武家政権の免許状を調整した。
それを背景に身分保証の印鑑,宗旨,通行手形を発給して全国的な座的統制を
行った。これらを〈木地屋文書〉と呼び,統制のための点検活動を〈氏子狩(うじこがり)〉,
小椋谷を〈近江の木地屋根元地〉という。今も各地の山中には,惟喬親王ゆかり
の16弁の菊の紋と,〈江州渡木地師何某〉という文字を彫った木地屋墓が残っている。

>山窩(さんか)
なかには九州のミツクリカンジン(箕作勧進)のように,戸籍を持たぬ者が多く,
集団から脱落して平地におりた者がはじめて戸籍を持った例もある。
集団ごとに統一的組織があって,頭目とか親分のようなリーダーが統率し,
掟も強固であったようで,それが平地の人間に奇異な印象を与えた。
平地の者と交渉するのは,物々交換のときや病人の出たときなどで,継続的に
深い交際を持つことはなかった。
136日本@名無史さん:03/05/19 22:23
>135
成程、集団なりの統率があったんですね
137日本@名無史さん:03/05/19 22:45
もうちょっとネタありますが、載せますか?山窩?木地師?
138日本@名無史さん:03/05/19 22:47
>>137
是非とも相宜しくで申し候
139日本@名無史さん:03/05/19 22:50
また「えた、ひにん」の話から脱線してきてるな。
140日本@名無史さん:03/05/19 23:05
いや、穢多・非人も関連するよ。

>山窩 (さんか)
日本の山間部を生活の基盤とした,漂泊性の強い少数集団であったが,
第2次大戦あたりを境にして不明となった。サンカは散家,山稼,山家
などとも書かれてきたが,民間ではポン,ノアイ,オゲ,ヤマモンなど
と呼んでおり,とくに平地の住民からは異端的に見られていた。
その生活の実体は十分につかめてはいないが,現在までによるべき民俗
学的研究は,柳田国男《“イタカ”及び“サンカ”》(《人類学雑誌》
第27巻第6号,第8号,第28巻第2号。《定本柳田国男集》第4巻所収,1967),
後藤興善《又鬼と山窩》(1940),三角寛《サンカの社会》(1965)などであろう。
その種族的系統については,渡来人説や落人(おちうど)説,中世の傀儡(くぐつ)
の後裔説などがあり一定していない。生産技術や社会関係,信仰といった
生活様式が平地民とやや異なるために,そのいくつかの要素には注目すべきものがある。
141日本@名無史さん:03/05/19 23:06
>山窩・2
まず住居は山では洞窟に住み,移動のときには小屋とかテントを張って
家族単位に生活し,その住居をセブリと呼んでいた。言葉のいくつかは
集団固有のものを用い,それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。
サンショとは中世の散所(さんじよ)にあたり,芸能や宗教などにたずさわった
者と根をひとつにすると推定されている。生産物としては細工物が多く,
箕,籠,簑や笠,下駄などを作り,里におりては食料その他と交換した。
移動には冬は南の暖かいところ,夏は北の涼しいところに居をかまえた
といい,川漁にたずさわる集団も多かったようである。
第2次大戦後に急に姿を消したのは,日本経済の工業化にともなって
彼らの生産物の需要が減少したことと,山間部の開発が進んだためらしい。
しかし今日にいたるまで山窩の生活の本拠であった山間に,その墓場
らしいものも見いだされておらず,また宗教的施設も確認されていない
が,中国地方の山地のように,箕作(みつくり)の末裔と称する者が墓に
石塔を立てないで,平たい石を1枚ほど置くのみという伝承もあるので,
平地の生活に混入した山窩の文化要素の追究は可能であろう。また医療
にしたがう人のなかには,山窩に請われて病人を助けた経験や伝承を持つ
者もあり,その結果として山の幸を恵んでもらったとか,医術が急に
上達して名医になったとかの話もあるので,異郷人としての山窩を通して,
日本人の異人観をさぐるいとぐちとなりうる。
142日本@名無史さん:03/05/19 23:12
>木地屋(きじや)
木地は,(1)木の地質(木目),(2)細工物の粗形,(3)とくに指物・漆器など
に漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち(3)を製作する
ことを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。
それも大別すると,(a)指物などの板物細工に従った角物木地,(b)円形
木器の恐物(ひきもの)細工に従った丸物木地,(c)杓子・檜物(曲物)など
雑多な木地細工に従うものがあった。その中で(b)の丸物木地は,工具
に原始的な手びきろくろとろくろがんなを操作して,いわゆる挽物の
日用食具(椀,盆,丸膳など)を主に生産して庶民生活にとりわけなじみ
深いものであったからか,木地屋といえばもっぱらこの種職人の代名詞
のようになっている。挽物を作るので木地挽ともいい,そのほか轆轤師
(ろくろし),木地師,狛屋(こまや)などの呼名がある。
143日本@名無史さん:03/05/19 23:13
木地屋・2[木地屋の生活習俗]  
木地屋は都市に集住する者もいたが,もともと土地に依存しない非農民で,
中世諸職人と同様の漂泊生業者であった。その生活習俗のあらましは
《斐太(ひだ)後風土記》に,〈彼らはトチ・ブナ・ケヤキなどの木を伐って
椀形にくり,深い奥山の山小屋でろくろを使い椀木地をひく。付近に用材
のある間はそこにいて近くの市町(いちまち)の卸店・仕入商人に製品を送り,
その代価で生活に必要な米・塩と交易した。そして用材を伐り尽くすと
また他の山に移り一生を同じ山で果てることがなかったので,俗に
“木地屋の宿替え”といわれたりした。山小屋の座仕事のため日光に
当たることも少なくて,自然男女とも色白で尻腰が大きい者が多かった。
昔は親の代替りに,必ず近江の支配所で烏帽子着(えぼしぎ)の儀式をして
免許を受けたものという〉などと記している。その彼らの漂泊を会津付近
では〈飛(とび)〉といい,近江の支配所の記録には〈渡(わたり)〉という
言葉が使われている。
144日本@名無史さん:03/05/19 23:17
生き馬の皮を剥いだ日本武尊はエタですか?
145日本@名無史さん:03/05/19 23:18
木地屋・3
[木地業の移ろい]奈良県唐古(からこ)の弥生時代の遺跡出土の遺物
からみて,すでにそのころ日本にもろくろによる恐物技術が存在した
ことは確かである。著名な法隆寺の百万塔も7世紀の恐物である。
文献では正倉院文書の関連記事が古いのであるが,それは8世紀のこと
になる。また宮城県多賀城遺跡や滋賀県鴨遺跡から9〜10世紀のろくろ
軸の鉄爪条痕の認められる木盤や木器の断片も出土して注目されている。
これらの挽物工人は古代の律令国家では轆轤工として宮廷,大社大寺
の公的機関に隷属した。しかし律令体制の崩壊で解放され,しだいに地方
に分散して庶民の需要に応じ,古代末期〜中世は轆轤師に,近世は木地屋
と名を変えつつ木地業に従った。日本の漆器工業の陰の力となった功績は,
大きいにもかかわらず知られていない。しかし明治の変革で過去の木地
屋社会は消滅した。現在観光産業化した東北のこけし人形は,いわばその
数少ないなごりといってよい。
 諸地方に残るろくろや木地に関連する地名のほとんどは,轆轤師・木地屋
の漂泊の軌跡である。他の諸職人にも先例があるが,彼らの社会でも中世
末期から近世にかけ仲間の木地業権益の自衛を画策する者が現れた。
近江(滋賀県)小椋(おぐら)谷の轆轤師集団を率いた大岩氏で,はやく都
の四府駕輿丁座(しふのかよちようざ)に上番し白川神梢伯家から大工職口銭
を徴収される関係にあったらしい。

散所(さんじょ)・傀儡(くぐつ)、などはいらない?もし、希望なら明記してくれれば、
明日にでも載せとくけど。
146日本@名無史さん:03/05/20 01:03
>144
江戸時代なら弾さんに訴えられてるかもしれないな
147日本@名無史さん:03/05/20 01:08
>>141-145
有難う御座いました。
148日本@名無史さん:03/05/20 17:06
鋳物師は?
六角(佐々木)氏と甲賀忍者は?
149もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/20 18:43
>>148
それなら、人権板の百済女史の専門分野だね。
ご先祖が鋳物師だったそうです。
150日本@名無史さん:03/05/21 00:48
151日本@名無史さん:03/05/21 02:00
152もっこす ◆ZM08EeniEM :03/05/21 05:41
>>148
なお、質問に際しては、礼儀正しくお願いします。そうしないと、こんなになる。
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/rights/1052892671/83-85
153日本@名無史さん:03/05/21 09:22
>>152
ワラタヨ。

>>148 長レス失礼。被差別というより活躍が感じられるが。
>鋳物師(いもじ)
鉄,銅の鋳造を職能とする職人。銅鐸・銅鏡などの鋳銅は,弥生時代以来,九州,
瀬戸内海沿岸,畿内などの鋳工によって行われたが,鋳鉄は古墳時代以降のこと
と見られる。飛鳥時代以後,造仏の盛行により鋳造技術も著しく進歩した。
鋳工は畿内を中心に山陽道,大宰府等の各地に散在していたが,律令制下,
大蔵省被官の典鋳司および鋳銭司,諸寺院の鋳物所などに組織された。しかし
典鋳司は実質的には機能せず,728年(神亀5)内匠寮に併合される。762年(天平宝字6)
の《正倉院文書》にみられる山城国相楽郡岡田鋳物師王広嶋は,鋳銭司に属する
人とみられるが,これが鋳物師の初見で,818年(弘仁9)鋳銭司に鋳物師2人が置かれている。

154日本@名無史さん:03/05/21 09:24
[中世鋳物師組織の成立]  
10世紀以後,内匠寮などの鋳物師は蔵人所に統轄されるようになったと推定され,
1079年(承暦3),殿上の鉄灯炉を調進する蔵人所鋳物師が現れる。そして1165年
(永万1),蔵人所小舎人惟宗兼宗が年預となり,河内国日置荘(狭山郷)の鋳物師
を番頭とし,諸国散在の鋳物師に短冊をくばってこれを番に編成,天皇に灯炉
などの課役を調進する蔵人所灯炉以下鉄器物供御人(くごにん)(通称,灯炉供御人)
が成立する。つづいて1168年(仁安3),河内,和泉,伊賀の辺で活動する広階姓鋳物師
を惣官とし,おそらく蔵人所小舎人紀氏を年預とした別の灯炉供御人が組織される。
前者が右方作手,土鋳物師であり,後者は左方作手,廻船鋳物師といわれた。
さらに80年(治承4)に平氏に焼かれた東大寺大仏が再建されたとき,勧進上人重源
の下でこの事業に携わった草部姓鋳物師が東大寺鋳物師といわれる別の集団を形成する。
諸国の鋳物師はこの3集団に組織され,蔵人所牒によって諸国の往反自由,津料等
の交通税および課役免除の特権を保証されて売買交易に従事,1212年(建暦2)
幕府による特権の保証も得た。中世の鋳物師組織は,こうして軌道にのった。

155日本@名無史さん:03/05/21 09:24
[各地の鋳物師とその活動]  
平安末・鎌倉期,鋳物師たちは打鉄(うちてつ)・熟鉄(じゆくてつ)等の原料鉄,
鍋・釜・鋤・鍬等の鉄製品,さらに絹布,大豆,小麦等まで持ち,広く諸国を遍歴
し交易を行った。とくに左方廻船鋳物師は,堺を起点に九州,山陰,北陸を通り,
琵琶湖,淀川を経て起点に戻る広域的な活動をしている。鎌倉中期,この左方惣官
となった中原光氏は東大寺鋳物師(大仏方)惣官を兼ね,河内,長門などの鋳物師を
組織する右方と競合しつつ,いったんは大宰府につながる鎮西鋳物師もその支配下
に入れた。このころ3集団の年預も紀氏に統合されたと推定されるが,一方では幕府
や守護と関係を強め,東国,北陸に移住する鋳物師も増えてくる。北条氏と結びついた
物部姓鋳物師,鎌倉大仏を鋳造した新大仏鋳物師,佐野天明の卜部姓鋳物師
などは東国に新天地を求め,大宰府と鎮西鋳物師のごとく,諸国守護につながる
地域的鋳物師集団の独自性も強まってきた。おのずと年預・惣官の統制も困難
になり,加えて各地の津泊に設定された多くの関は鋳物師の遍歴を妨げ,年預・惣官
の統合の努力にもかかわらず,全国的な灯炉供御人の組織は解体に向かう。
鎌倉末期,左方に代わって右方の支配下に入った鎮西鋳物師は,南北朝期には
大宰府の補任する宰府惣官に統轄され,室町期にかけて,長門国大工,備後国
大工のごとく,守護によって補任された1国ないし数国の大工,惣官も現れる。
鎌倉後期には確認される各地の鉄屋=金屋(かなや)は,鋳物師の集住する作業場
であり,諸国鋳物師はそこを根拠に,1国ないし数国を商圏とし,守護の保証
の下に生産,交易に従事するようになった。1413年(応永20)の越中国鋳物師は
棟梁20宇,寄人を合わせて250宇であったが,これはかなり大規模な集団であろう。
諸国鋳物師は守護の課役・棟別銭の免除を得るために,なお京の年預の力を必要とし,
河内,和泉の鋳物師も本座の立場から諸国の新座の鋳物師に統制を加えており,
紀氏を年預とする左方,右方,大仏方の供御人組織は形骸化しつつも,室町期を通じて維持された。

156日本@名無史さん:03/05/21 09:25
[戦国期・近世――真継家の支配]  
しかし戦国期に入り,戦国大名は武器・鉄砲等の生産を把握すべく鋳物師をその
支配下に置いたので,供御人組織は解体,紀氏も借銭のため没落寸前となったが,
柳原家の家臣真継久直(真継家)は紀氏の家を乗っ取り,1543年(天文12)後奈良天皇
綸旨を得て鋳物師組織再興にのり出す。今川氏を手始めに,久直は49年以後,
大内氏の領国を遍歴,鋳物師公事役徴収を保証された。そのさいの鋳物師たちの
要求に応じ,久直は蔵人所牒を偽造,裏菊の紋とともに鋳物師に配付,真継家
との関係を固めることに努めた。久直は孫康綱とともに,さらに上杉氏,北畠氏,
畿内の鋳物師,89年(天正17)には関東の佐竹氏,江戸氏などの工作を推進,織豊政権・
江戸幕府の保証を得て,全国的な鋳物師組織の近世的な復興を達成した。
しかし江戸初期,真継家の鋳物師支配は精彩を欠き,江戸,名古屋,京,大坂など
幕府,親藩の直轄下の鋳物師はもとより,各地の鋳物師との結びつきも弛緩する。
貞享・元禄(1684‐1704)ごろ,真継珍弘の代以後,真継家は鋳物師職許状,大工
職充行状,偽牒写等を各地の鋳物師に給付,組織強化を推進し,宝暦〜安永
(1751‐81)ごろの量弘はあらためて全国鋳物師支配の承認を求め,ともあれ
既得権を再確認された。真継家はその代替り,鋳物師の代替り,年頭・八朔に
鋳物師からの礼物を受け取るかわりに,鋳物師の営業許可,受領官途の取次,
鋳物師の商圏にかかわる紛争の調停を行った。寛政(1789‐1801)ごろ,康寧
は多くの文書を発給してさらに組織の形をととのえ,公家の職人支配の一典型
であった真継家の鋳物師支配は1870年(明治3)まで継続している。一方,鋳物師
の中には江戸後期,蘭学を学んで技術の発展を模索する動きもみられ,幕末・明治
の変革に当たって,大砲鋳造にその技術が生かされたことも,最近,明らかにさ
れている。
157日本@名無史さん:03/05/22 00:44
>123
遊郭では、武士が野暮だと言って町人に笑われたり、
身分社会から一歩離れていた場所であったかもしれないなあ。
158山崎渉:03/05/22 02:39
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
159日本@名無史さん:03/05/22 02:55
>157
遊郭は寺社が経営主体だったりもするからそうとも言えないんだけどね。
江戸詰めの武士は門限厳守(6時)で芝居の観賞もご法度だったから、
一般町人はおろか百姓にも馬鹿にされただろうね。
塾通いでテレビも見せてもらえない子供がガリ勉と馬鹿にされるのといっしょ。
でも女太夫は武士にも人気があった。
160日本@名無史さん:03/05/22 13:01
特に江戸期の前半には、遊郭に大名も行ったようだよ。門番に武士も詰めてる。

初期の遊郭が大名や公家や豪商らを上客とし,相手を勤める遊女に高い教養を要求し,
遊興には社交場的要素が介在した。遊女の最高位である太夫(たゆう)となるには,
容色のほかに広範な技芸と知識をもつことが要件であった。そこに,有名な古歌
を暗誦したり,座敷に源氏物語を備えるなどの,中世貴族的古典文化の継承を
重視している点が目だつ。しかもこれらの教養は,当時の一般女性のための儒教的
教訓作法書の内容をはるかにこえており,いわば男性本位に作り上げた理想像
であったといえる。
これは遊郭設置の政治的意図にも反し,遊里を悪所(あくしよ)と呼んで遊女を蔑視
した社会通念とも矛盾するが,その点にこそ江戸時代文化の特質を認めるべきであろう。
これと並行して作り出された粋(すい)の美学は,やがて中期には〈いき〉や〈通(つう)〉
の美意識となって生活全般に及ぶことになる。〈いき〉や〈通〉は必ずしも遊郭が
全面的に育成したとはいえないが,根幹部分で関与していたことは疑いない。
同じように,演劇,三味線音楽,文学,絵画などの主要な文化は,遊郭を無視
してはその存在価値を失うほどに密接な関係をもつのである。それはこれらの
諸形態の文化に多くの素材を提供しているだけでなく,遊郭自体が文化を創出する
能力をもっていたからにほかならない。すなわち,演劇の題材を遊郭にとり,
美人画のモデルに遊女が利用されたのにとどまらず,洒落(しやれ)文学が遊郭
を契機に実践され,遊興を通じて文化を形成していた。このような土壌があった
から,遊郭内の茶屋が売春なしで会合に使用されえたのであって,ほかに適当な
場所がなかったという理由だけではなかったはずである。吉原細見(細見)が毎年出版
されていたことは,すこぶる異常といわねばならないが,それだけ遊郭が身近
な存在であり,各種の文化を介在させることにより,遊郭の社交場的性格を保持
し,その地位を高めることができたといえる。明治以後の遊郭にはこの機能はまったくない。
161日本@名無史さん:03/05/22 13:09
>>159
寺社経営なんですか?どのような寺社でしょうか?
162日本@名無史さん:03/05/22 13:18
医者は神話では外来者で医学を伝授すると神の国へ去っていき、
歴史では半島からの特別技能集団からはじまったらしい。
江戸時代でも身分外の人間として、身分を越えて将軍や天皇と話し、体を触った。
被差別民となる要素がたくさんあるが、必要だし、金もあり、頭も良いから
割と上流階層だなぁ。

ちなみに、医者と患者のイスにすごい差があるのは、特殊日本的現象らしい。
カリスマ性の演出らしい。確かに、少しはカリスマ性ないと心配だけどねw。
163日本@名無史さん:03/05/22 22:55
>159
経営してるかどうかはわからないけど、門前町に
岡場所があったよ。
寺社奉行の管轄だから、売春取締りを行う町奉行が
手を出しにくい、というのも理由の一つだったらしい。

(お伊勢まいりのように、社寺参りが娯楽の一つでもあった)
164日本@名無史さん:03/05/22 23:55
あまり個人の出自暴きはやりたくないんだけど、
勝海舟は結局賤民の出ということになるの?
165日本@名無史さん:03/05/23 00:06
>>164
オマエの基準だと武士以外はみんな賤民になるのか?
勝家は賤民出の華族だとでも言うのか?
166政治家にはだまされるなー!!有事法制反対!!:03/05/23 00:12
有事法制(戦争法)は必要ありません!!!

有事法制ができて、得する人たち(その理由)
1、日本政府  ―軍事的にアメリカ政府に良く思われる。市民の行動を監視し、命令どおりに従わせることができる。
2、アメリカ政府―アメリカが気に入らない国を攻撃するときに、日本に軍事的、経済的支援してもらえる。
3、政治家   ―アジアに対する軍事的支配を実現させる。愛国心をあおって、政治家としての地位を確実なものにする。
4、自衛隊   ―有りあまる武器を実戦で使うことができる。戦争ができる。

有事法制ができて、損する人たち(その理由)
1、日本国民  ―市民は日常生活における自由を制限され、財産は国家の所有物と化す。
           戦争に協力しなかったり、反対すると犯罪になり、懲役や罰金が科せられることもある。
           自分の家が軍事戦略的に邪魔なときは、没収、解体される。
           医療現場では兵士が優先的に治療され、市民は後回しにされる。
2、アジア    ―軍事大国である日本が、軍事的にアジアを威嚇することになり、アジア全体に軍事武装強化の動きが強まる。
3、世界     ―9.11以降、世界的に軍事的な緊張が高まるなか、さらに戦争やテロに依存する傾向が強まる。
4、平和にとって―話し合いによって進めてきた過去の平和外交を大きく否定することになる。

どちらでもない
1、北朝鮮   ―日本を攻撃する理由はない。戦争するための軍備も金も、資源も食糧もない。
            有事法制は北朝鮮に対して、軍事的に大きく刺激してしまうことになる。   

有事法制ができてしまうと、市民の人権や、生活の自由は大きく制限される。
有事法制は、国を守って市民を守らないものだという事を政治家が言っている。
北朝鮮は全然、戦争する気はないのだが、
北朝鮮問題を利用して、知らないに国会では、政治家や日本政府、アメリカ政府や
自衛隊などの権力者のための法律を作ろうとしています。
(武力に頼らない)本当の平和のために、市民の自由のために
有事法制は反対だ!と声を上げていきましょう!!!!!!!
もう、政治家にダマサレていてはダメ!!
167日本@名無史さん:03/05/23 03:29
>>161
朱印地や門前地は大体そうで、
どこの宗派でも多かれ少なかれやっています。
ただ、中でも大っぴらにやっていたのが浄土真宗本願寺派。
168日本@名無史さん:03/05/23 05:58
>>165
座頭は平民ということ?
169日本@名無史さん:03/05/23 07:56
吉原の所領は上野寛永寺であった。
170日本@名無史さん:03/05/23 08:24
徳川家康はよく賤民身分の出といわれるが、どういう系統の出自なのか知りたいです。
東海道や三河あたりに乱波の集団が多かったらしいけど、同じ系統なのでしょうか?
神代文字みたいなものが、賤民身分で使われていたようなのですが、それを研究
している人はいるのでしょうか?また、それはどの程度研究されているのですか?
あと百済と賤民はどのような関係があるのでしょうか?
どなたか教えていただければ幸いです。
171日本@名無史さん:03/05/23 14:44
>>164
>>165
勝家は下級幕臣と思ってたが違うの?

>>170
>家康の祖先
あっちこっち渡り歩く僧で、学識を買われ三河に住み、土豪の主になったと
聞いたが。

>神代文字
一応、学会では今は存在自体が完全否定されてるようです。
1、漢字移入の必要がない。
2、かなは音節文字であるのに,神代文字は一種の単音文字。かな以前の文字が
かなより進化してるはずはない。
3、47〜50音しか書き分けられない。当時はもっと多音だった。万葉仮名はもっと
書き分けている。
奈良朝以前の文字なら万葉仮名より書き分けられてなければならないはず。

>百済と賎民
どういう観点がわかりませんが、百済亡命帰化人の上層部は天皇家と婚姻関係を
結んで政界上層部に入ってます。
一般渡来人も特別職能集団が多く、大切にされたようです。
古代の城郭は、ほとんどが百済亡命人の指導で作られてます。
関東開拓団になった渡来人集団も、今でも神社に皇子が祭られ、地元では尊重されてます。
ただし、賎民制度というのは、中国・半島の影響とも言われてます。
朝鮮半島では、古代から奴婢制度があり、日本の古代のそれと似てます。
また、高麗時代に15世紀から白丁(ペクチョン)という、奴婢より差別される
日本のえた身分のような階層が制度化されました。
日本では13世紀にえたという言葉がありましたので関連はないと考えられます。


172日本@名無史さん:03/05/23 15:34
勝海舟の祖父は按摩さんだよ
173日本@名無史さん:03/05/23 15:36
坂本家と同様に、金で御家人の株を買ったんだよ。
174日本@名無史さん:03/05/23 17:30
>>171
家康については祖先の親氏の出自ではなく、家康自身が賤民で
松平家の若君と入れ替わったという説がある。デムパだがな。

勝海舟の曽祖父は米山検校(1704〜71)。男谷検校とも言う。
越後国三嶋郡長島村平沢の農民山上徳左衛門の子で、幼時から盲目。
12歳で江戸に出て石坂検校に杉山流の鍼道を学んだ。
江戸幕府は盲人保護のため高利貸しを認め、米山検校もこれで財を成した。
盲人は当道座(琵琶や琴などの芸道組織)に加わることを得ており、
座の位階は金銭によったが、最上位の検校だけは音曲の実技試験があった。
姓があったこと、江戸に出られたことを考えると出自は豪農だろう。
高利貸しも元銭がなければできない。一説には水戸藩に70万両貸したと。

米山検校は娘を旗本男谷家に縁付かせたが子はなかったようで、
三男の平蔵に男谷家を継がせた。その子に剣豪男谷精一郎が出た。
平蔵の妾腹の子小吉は7歳で旗本勝家の婿養子となったが妻は5歳。
妻の両親は既に亡く鬼のような祖母との3人暮らしで出奔したことも。
勝家は小普請(無役)で猟官運動も上手くいかず無頼の生活を送り
随筆「夢酔独言」を著した。その子が海舟。
175日本@名無史さん:03/05/23 17:38
156 名前:16 投稿日:01/12/02 13:29 ID:r+j/tMjS
>>155
> 勝海舟も賎民のヤクザか何かだったはずだ

勝海舟の父、勝小吉は旗本男谷平蔵の三男ですよ。
少々型破りな人だったことは確からしいけど、「賤民」とはひどい。(w
まあ、家康も賤民の内に含める人がいるくらいだから、関西人にとって
「江土人」などは、みんな「賤民」なのかもしれないですね。

> なぜ等々力に不動があるの?

知らないです。わかるんだったら教えてほしいくらい。
だけど、お不動さんって真言宗じゃなかったですか?
「真言宗:サンカに関係あり」というのは初耳のような気がしますけど。
満願寺のホームページ→http://www02.so-net.ne.jp/~kukai168/

「いもあらい」は、夏場の海水浴場などが混んでいる様子を「芋を洗うような」と
いうように混雑を表す言葉です。それに「一口」という字を当てているのが
面白い。醤油を紫と言ったり、米を舎利と言ったり、一昔前のジャズマンのように
逆さ言葉を使ったりするのがサンカだと読んだので、「一口」もサンカ語かと
思ったんだけど、「いも→鋳物→野鍛冶」ですか。なるほど。
176日本@名無史さん:03/05/23 17:39
157 名前:僕ってそこ 投稿日:01/12/02 16:00 ID:MbgGqkpZ
156>勝海舟。矢切止夫『勝海舟』をご覧あれ。言葉だけで行くとカツは
差別的接頭辞とあり、男谷をオヤと読むなら賭博師や賭博の胴元かも。
十手持ちで博打打で慶安で、とくればお分かりであろう。家康は『疑徳川
家康』によれば「一富士、二鷹、三茄子」を彼は好んだ。茄子を最もご馳
走とするのは賎民の証だそうだ。徳川末裔は各地で久松などと名乗るから
、百済系賎民という説に賛成だ。他にも理由がある。
ジャズマンなどで何か感性豊かで迫力ある者は多分農民出身ではない。
自由な豊かな自然の中でしか育たない。音楽には無知だが、尾崎豊も
渡り筋かもしれない。だから共感を呼ぶ。
 不動はホト=女陰が語源で地形がソックリ。滝で修験姿で寒ごりをと
るのが禊ぎ。サンカ系は水浴の習慣が今でも続いている。轟もサンカ語
かもしれない。芋地、芋面は他にも意味があるが、鋳物師が多い。一口
は隠語にないから、鋳物用語にあるのかもしれない。
 ただ現場で確かめて下され。本や掲示板には偽りも多いから。
177日本@名無史さん:03/05/23 18:08
>>171
ありがとうございました。
実はそれってすべて三河で長吏関係の先祖を持つ人から聞いたことなんだけどね。
変な文字が書かれた文書が倉にあったって。でも学会では否定されてるんだね。
先祖は百済から来て〜天皇とか家康の親戚だとか。小田原で聞いた別の人もそんなこと
言っていたから似ていると思った。
その三河の方ではやはり谷あいの場所で、修験道との関わりがある場所だそうだ。
林業で栄えたらしいけど、今は過疎になっているそうな。
戦前は戦中は、朝鮮人がそこで砂利採掘の仕事をやっていたとも言っていた。
サンカ系って三河が多いと三角寛の本に書いてあったな。
三角寛はサンカだけ特別に取り上げているけど、みんな他の非人身分も
調理系も繋がっているのにね。
178日本@名無史さん:03/05/23 18:42
>>177
分からないことがあったら博士に訊いてごらんよ?

      ↓ ↓ ↓ ↓
http://acdemy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052236771/150
179日本@名無史さん:03/05/23 18:43
ガイシュツかも知れないが矢切止夫の野史辞典が復刊しててびっくりした。
180日本@名無史さん:03/05/23 21:10
勝の爺さんは検校で金融業者だ。
当時の検校は非人身分とはいえ、
幕政にも深く関与した実力者で与力なんかも多く輩出している。
例えば同じ非人で芸者に分類された儒者、医者なんかを想起すれば良い。
賎民というのは郷村制から見た場合の「賎」であって、
穢れというのとはちょっと違う。
飽くまで名分論から見た化外の民程度の意味だ。
江戸中期以降の幕府による反動的改革や明治期の近代化の過程での弾圧で
ダーティーなイメージがついただけで実際は都市的で文化的な存在だ。
彼らがいなかったら本当に極東の土候国止まりだっただろうね。
181日本@名無史さん:03/05/23 23:21
盲人は、古来は悪霊のたたりとされ恐れと蔑視があったが、同時に畏敬かつ貴
なる存在でもあった。
次第に仏教輪廻思想で前世の報いとなっていった。
塙保己一などを見ると、盲人=被差別民・賎民とは一概には言えない感じも受ける。
一族の歴代の職能集団ではないからね。ポンと出現するって感じだから。
意味不明スマソ。
182日本@名無史さん:03/05/24 00:27
>>178
ご親切ありがとうございました。
でもこれ繋がらないですよ。
183日本@名無史さん:03/05/24 01:27
>169
>吉原の所領は上野寛永寺
日本語が変だけど本当?
184日本@名無史さん:03/05/24 18:52
家康賤民説は“史疑 徳川家康”が発端ではないだろうか?
徳川家の歴史書“徳川実記”に「自分は金で売られた」という箇所があるが、
竹千代を織田信秀に引き渡した何某(名前失念、ゴメン)は金銭の受け取り
を否定しているため矛盾する。
金で売られた=非人と容易に連想できる。
これらの事象から「影武者徳川家康」が生まれたという。
185日本@名無史さん:03/05/24 21:08
三河松平家の遠祖は流浪の僧で
その出身は新田領得川氏だったという系図からして怪しい。
当時の僧籍は比叡山や高野山から授与されたもので、
それ以外の僧は身分的にかなり賎しい者とされていた。
だから清和源氏末流といった系図を引っ張り出したわけで。
まぁ、徳川に限らず出自のはっきりとした戦国大名なんて
殆んどいないのだから、別にどうでも良い話だ。
というか、清和源氏自体が中世の賎民身分なんですが。
清和源氏やその嫡流が任官された征夷大将軍が
武家の棟梁と目されたのは室町以降の話だ。
186日本@名無史さん:03/05/24 22:45
六本木ヒルズに行ったら大きな江戸の地図が床に書いてあった。
それによると竜泉寺町は寛永寺所領だった模様。
(吉原は不明)
それと吉原の近くに非人溜 車善七と堂々と書いてあったけど
大丈夫なのかっ?
187日本@名無史さん:03/05/24 22:59
>>185
平安後期に源義家が「武士の長者」(=武家の棟梁)と呼ばれていたようです。
(中右記に記載あり)

>>186
新吉原の西南の隣接地に900坪の非人頭の広大な敷地があったのは歴史的事実。
隠すことはない。
あと、非人溜とは病人用の監獄と少年院。監督者が非人頭。
六本木ヒルズ偉い!
188日本@名無史さん:03/05/24 23:17
>>187
>平安後期に源義家が「武士の長者」(=武家の棟梁)と呼ばれていたようです。
それは頼義・義家父子が鎮守府将軍だったからです。
征夷大将軍が鎮守府将軍よりも上になったのは頼朝公の奥州征討以降で
これによって板東武者の覇権が確立しました。
で、この時期に中世の暴君陽成天皇嫡流の系図が改変され、
清和源氏になったわけです。
189日本@名無史さん:03/05/25 00:30
>>188
いや、「室町以降まで武士の棟梁はいなかった」が主張かとの印象を受けたので。
誤解なら失礼。

ところで、清和源氏の系図は諸説ありますが、「清和源氏は賎民」とは、
どういうことを指すのか具体的に教えて欲しいのですが。
武士が特別技能集団として差別されてたとの意味ですか?
190日本@名無史さん:03/05/25 00:36
去年は大河ドラマの影響か前田利家賤民説が出てたな。
なんか野中みたいなフィクサー的存在だったと。
191日本@名無史さん:03/05/25 00:41
>>187
車善七が居住してた所と、非人溜があったところは厳密には別だよ。
少し場所離れてる。
現ソープ街に隣接してたのは前者の方。
192日本@名無史さん:03/05/25 01:21
>>189
>武士が特別技能集団として差別されてたとの意味ですか?
公家=清浄/武家=不浄というのは中世の常識ですよ。
だから臣籍降下や昇殿の禁止があったわけです。
その中でも陽成天皇嫡流である清和源氏はかなり賎しい身分であった、と。
一般的に武家の棟梁の代表格と言われている清和源氏ですが、
東国に地歩を築いたのは頼義・義家父子以降ですからね。
また、武家の地位が上昇したのは院政期以降で、
鎌倉板東武者政権の誕生によってその独自性が確立されたわけです。
こういった事は江戸期の名分論でも議論されていたと思いますが。
193日本@名無史さん:03/05/25 16:56
>>191
つまらんことで言い返して本当にスマン。性格なんで許してくれ。

>厳密には別
>>187には一緒だとは書いてない。屋敷があった。そして次に非人留の説明
を書いただけ。

つくづく本当にスマン。スルーしてくれ。逝きます・・・。
194日本@名無史さん:03/05/25 17:10
>>192
失礼ながら、「武家の地位向上は院政後期」と「武家=不浄は中世の常識」
は、矛盾するのでは?
院政は、古代後期。その後地位向上なら、中世には地位向上してたはず。
さらに、近年の講談社シリーズなどの武士の発生解釈は、中級武家貴族
(特別技能集団)が発生の中心と特に西日本ではされてると記憶しているが。
ということは、中世の武家不浄説には疑問がつく。

確かに、武士発生時は殺人集団として不浄とされたが、遅くとも鎌倉期には
価値の逆転が起きてたと思える。源義家などは、夜は天皇の眠る部屋の番に立ち、
天皇がうなされると、弓を弾き鳴らし、「義家はここに」と安心させて寝かせた。
ここからは、すでに平安後期に、武家が悪霊や怨霊を退散させる聖または貴なる
力を持っている事を、武家も公家もミカドも認めていたと考えられるが。
195日本@名無史さん:03/05/25 18:30
徳川慶喜は、世の不条理を嫌う。

御典医の松本了順の献策を受け
そのような身分が存在する事実に驚くとともに、
即決で、江戸市中のエタ身分を開放した。

ヨシノブ個人は新政府の連中より開明的だった。
196日本@名無史さん:03/05/25 18:39
195のソースは?
197日本@名無史さん:03/05/25 22:02

   λ_λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( `ー´) < 司馬遼じゃネーノ?
   /    ;つ \________
  (人_つ_つ

198日本@名無史さん:03/05/25 22:23
漏れも江戸幕府が続いてたら、今頃は部落差別はなくなってたと思うよ。
199日本@名無史さん:03/05/25 22:25
>弾差衛門と松本了順と徳川慶喜
第13代弾左衛門は,歴代と同様に幕府に忠節を尽くし,第2次長州征伐(1866)
に際しては,幕命を奉じて500余名の配下を軍夫として大坂に急派したのみならず,
みずからも独断で摂津の被差別部落におもむいて〈鉄砲組百人〉の編成と幕府軍
への提供を勧めたりもしたほどであった。
しかしながら,過酷な身分的差別に対する被差別部落住民の不満は,すでに集中的
に高まってきており,幕府・諸藩の意に反する行動に出る人々も目だっていたし,
そのうえ,〈えた・非人〉の人数や実力に着眼して特別の軍隊を編成する藩(長州藩)や,
江戸市中の攪乱工作に利用しようとして弾左衛門に誘いをかける藩(醍摩藩)など,
倒幕をめざす諸藩の動きもみられたから,幕府としても弾左衛門の志向に神経を
立てざるをえなくなった。弾左衛門はみずからの身分呼称の〈えた〉を〈醜名〉
とみて深く恥じており,その除去,すなわち身分の格上げを願ってやまなかったから,
将軍家侍医松本良順をつうじて〈醜名除去〉を請願するにいたった。この件は
政情多端のなかで一時紛れはしたが,大政奉還・王政復古(1867)のあとに起こった
鳥羽・伏見の戦(1868年1月)の直後,第15代将軍徳川慶喜の命により,長州征伐での
功績を理由にしてようやく実現し,〈えた〉身分から〈平人(へいじん)(平民)〉
身分に転じ,あわせて弾内記(のち直樹)と改名することも許されて〈海陸軍付病院御用〉
を申し付けられ,医学所頭取の松本良順の配下に入れられた。内記はすぐに
〈譜代手下(ふだいてか)〉65名についても格上げを請願し,認可された。
また彼はこの件に関連して幕府に建白書を上呈,そのなかで,積年の差別を
〈数百年の流弊(因習による弊害)である〉と断じ,〈天地の間に生をうけた
人種(人間)にかわりないにもかかわらず,人倫の交わりも成り立たぬとは,
まことに陸かわしい極(きわ)みである〉と述べて,配下にあったすべての
〈賤〉,および直接管轄外にあった西日本各地の天領(幕府直轄領)・譜代大名
領内の〈賤〉の身分格上げを強く要望した。
だが,これの実現は,維新政府による1871年(明治4)の〈解放令〉をまたねば
ならなかった。(某大百科事典よりコピペ)
200日本@名無史さん:03/05/26 02:52
家の近くの被差別部落のもともとの生業に興味を持って、
どんな仕事を昔(俺的には江戸末〜明治)はしていたのか親父に聞いてみたんですよ。
「ノラ犬の始末とか(今で言う清掃業と産廃業みたいなの?)していた。
とにかく貧しくて、汚かった」
・・・・・・・。昭和20年ごろの記憶です。

やっぱり、江戸時代の生活の名残は、今となっては
文献から調査するしかないんでしょうかねぇ。
201日本@名無史さん:03/05/26 08:43
>>200
野良犬の始末は、保健所の外部委託だったのではないかな?
漏れの近所では、保健所が直接に野良犬狩りをしてました。昭和40年代でも
やってたなぁ。電話一本で割と早く飛んできて、変な長い道具で捕獲してた。

江戸の生活の名残は文献からの方が逆に正確かも。
今、100歳の人でも、明治生まれだもんね。
それに、言葉を濁したり、かくしたりも、昔の観念引きずってる人なら、
止むを得ないでしょう。強制暴露も失礼だし。場合によっては、取り返しのつかない
迷惑をかけることもあるからね。

うちの祖先は江戸時代の大商業資本の店員。出世したが、年とって病気で動け
なくなり、退職金代わりに、その大商店の墓の近くの土地をもらい小農民に。
子孫は農民になった。身分移動できたのかな?平民内なら割とできたのかな?
大商店の墓の管理清掃も頼まれていたので、「墓守」と、親父は差別的にからかわれたそうです。
墓守は、行基系の聖などが多かった墓管理者の職能集団。全国組織がある。
賎民的身分といえば言えないこともないが、一応、仏教者。
うちは、大商店の墓掃除だけ頼まれていたので、厳密には違うが、からかう奴も
いたそうだ。親父は頭が良くて、級長とかしてたんで、実力で言わなくさせたそうだ。
昔の級長(学級委員)て、権力がすごく強かったらしい・・・。
今は、墓はこじんまりと縮小し違う場所に移し、サラリーマン家庭です。
墓の管理は実家の本家が今もやってるのかな?今度聞いてみるか。
一応、土地持ち自営農民になった由来として一族に誇り高く伝承されてます。
漏れもガキの頃、教えられた。
202_:03/05/26 08:44
203日本@名無史さん:03/05/26 10:07

非人はともかく、エタとされた人たちは、皮革をあつかっていた。つまり
武士が政権を握っていたときには、彼らは「軍需産業」の中核だったわけ
でしょ。鎧なんかの修理をもっぱら引き受けて。武家を背後で支えていた
のは、彼らで、だから武家が動くときは一緒に動いた。源氏のまわりには
エタの集団が必ずいる。鎌倉の由比ヶ浜みたいにさ。
204戦国〜江戸:03/05/26 12:22
土佐の長宗我部等、各地方に居た豪族・家臣達も時代の流れで部落民に
なったんですか?
誰か知ってたら、教えて下さい。

205日本@名無史さん:03/05/26 17:17
>古代後半〜室町前半の皮革業
荘園制のもとでは,従来の官営工房から流出した技術者たちがその技能をもって
荘園領主に抱えられたり,技能を受けついだ河原者たちが斃牛馬(たおれぎゆうば)
の解体処理を生業の一環としたりして,皮革生産が行われ,高まる需要に応じていた。
また,皮革の直接生産者から製品を集め,それを用途に応じて適当に裁断したもの
を商う切革(きりかわ)(切皮)職人の同業組織である切革座(きりかわのざ)も12世紀
なかばの京都で出現し,後世の皮屋・切革屋の源流をなした。皮革の直接生産者は,
狩猟民・山人を含めて多様であったとみられるが,その主たる部分は賤民的存在の人々で,
社会的地位はきわめて低かったと推察される。ただし,なめし革を直接生産者から
収集し,これを商った皮屋・切革屋も同様であったとみるのは早計であり,今後の
研究にまつべき点が多い。

>戦国時代の皮革業
皮革の需要は戦国時代に急速に高まったが,各地の戦国大名は競って熟練工の
確保に努め,彼らに特権(職業と販路の独占)を付与することと引替えに,城下町
の周縁地域に緊縛して身分・職業・居住地ともに一般民と隔離する政策をとった。
206日本@名無史さん:03/05/26 17:27
>長宗我部氏
盛親は関ヶ原の戦で西軍に属し,領国を没収され長宗我部家は滅亡。
その後,盛親は大坂の陣に再起を図るが敗走して捕らえられ,刑死。

>長宗我部の家臣団
2流武士の郷士となりました。
土佐藩における郷士は,1600年(慶長5)新藩主山内氏入封時における,
旧国主長宗我部氏家臣団の積極的・消極的抵抗に端を発している。
山内氏は彼らを懐柔するため13年に長宗我部氏遺臣の中からいわゆる
慶長郷士を登用した。その後百人衆郷士,百人衆並郷士を取り立てた。

>各地
新統治者に召抱えられる者、浪人になる者、農村へ戻るものなどがいたと
思われます。賎民層に入れられたとはあまり聞きません。
207戦国〜江戸:03/05/26 20:35
有難う御座います。
結論は部落民に直行という、政策は無かったという事ですね、しかし落ちぶれて
何時の間にか仲間入りはあったのかな?
208日本@名無史さん:03/05/26 20:47
埼玉は多いよ。

     ____
   /      \ 
  /__ 駄災玉|
  /   /\____\
 | /  _____| 
  (6――|      | 
  | \ )|      |<うるせー馬鹿
  \  ̄|____/
    \____/  
209戦国〜江戸:03/05/26 21:08
結構、現在部落地区の姓で戦国時代は当時の権力者って姓があるんだけど
それは、落ちぶれた一族?明治以降?知ってたら
お願いします。
210日本@名無史さん:03/05/26 21:15
アゲ
211日本@名無史さん:03/05/26 21:30

ささらは、芸能民、今(江戸期)は差別されてません。
たたらは、職能民、今(鎌倉期)は差別されていません。
212日本@名無史さん:03/05/26 21:34
>>209
解同ボスの○杉さんだったら、越後の謙信とはなんの関係もないよ。
213日本@名無史さん:03/05/26 22:09
例えば、滅亡した武田信玄の家臣団は、武田という姓でない家臣がほとんどですね。
(武田の家臣団は多くが徳川に仕えました。家康は信玄を尊敬してたからですが)
つまり、徳川家に仕えたもと武田の家臣団が、もともと武田姓でないのに
武田を名乗ることは、あまりありません。
一方、他家に仕えず農村に戻った場合、江戸時代には原則的には姓が
なくなります。
かつ、上位の家臣団は、豪農や富農が多いと思われます。
よって、被差別指定地域に、戦国大名と同じ姓があったとしても、
一族の末裔とは考えずらく、明治以降につけた姓と考えられます。

>>208
埼玉の同和率は21位で、全国平均以下です。
214日本@名無史さん:03/05/26 23:19
北条氏の子孫は、八王子千人同心になったり、
新田開発のときに名主になったりしているよ。
215日本@名無史さん:03/05/26 23:24
率は関係ないんじゃ?
指定地区が多けりゃそれだけ対策費もかかるし・・
216日本@名無史さん:03/05/26 23:29
>>194
>院政は、古代後期。その後地位向上なら、
>中世には地位向上してたはず。
何か勘違いをしておられるようですが、
中世史研究家の間では中世は10〜15世紀の間とされていますが?
起源においては多元国家論の観点から一括りにはできません。
なぜなら同じ武士でも所属官庁や地域によって形態が違いますから。
というか、近世においても武士=御家人ではありません。

東国が源氏の勢力下に置かれたのは義家以降で
西国が平氏の勢力下に置かれたのは忠盛以降。
他にも秀郷流藤原氏がいますね。これは宇都宮氏や奥州藤原氏が代表格です。

>確かに、武士発生時は殺人集団として不浄とされたが、
この発言は
>中世の武家不浄説には疑問がつく。
と矛盾していませんか?まぁどうでも良いですが。
217日本@名無史さん:03/05/26 23:31
>>216(続き)
>遅くとも鎌倉期には価値の逆転が起きてたと思える。
>源義家などは、夜は天皇の眠る部屋の番に立ち(中略)安心させて寝かせた。
元々が聖なる存在で宮中警備にあたったのが武士です。
朝敵討伐等は付帯的なものであって。
例えば寺社所属の長吏も行列の先頭に立って道穢を払うような事をやっていますし、
“穢多”に属したとされる清目等も
宮中清掃や祭典準備にあたった掃部守所属の役人ですよ。
掃部守は平安期に発生した官職で“井伊掃部守直弼”でも分かるように
維新期まで続いた立派な官職です。
祭政一致時代の穢れ観を現代的視点で捉えてはいけません。

>すでに平安後期に、武家が悪霊や怨霊を退散させる聖または貴なる
>力を持っている事を、武家も公家もミカドも認めていたと考えられるが。
ほう、そうですか。
だとしたら、武士として初めて昇殿が許された平忠盛が昇進を嫉む公家に闇討ちされそうになり、
事前に察知した忠盛が竹光を振り回した古事をどうお考えになるのですか?
これは1132年の事で「中右記」や「平家物語」にも記載されていますが。
218くだら:03/05/26 23:41

ほほほ、伊勢の平氏は眇目なり、
ってやつですか?

しかしね、平国香は上総に下向してますが、もともとは朝廷官吏。
つまり国司であり、今の県知事。

武士が不浄とされたのは、殺人につきまとう血穢ですよ。
この認識は、応仁の乱あたりでしょう。まあ、仏教伝来の時期まで遡るのは無理。
火野富子の時代を勉強なされ。
219日本@名無史さん:03/05/26 23:48
あはははは、

 百済はんも出張ですか?
220日本@名無史さん:03/05/27 00:11
>>215
地区数では6位。1位の某県の半分だね。埼玉は補助金打ち切りが多い方じゃないかな?
どうなんだろ。え、板違いですか?わかりました、逝きます。
221日本@名無史さん:03/05/27 00:19
○○氏が滅んで落ちぶれたって言うのと賎民はそれなりに関係
あると思う。
上野長尾氏に保護されていた長吏が(江戸期には弾家小頭)
長尾子孫が使えていた大名の古河に転封時わざわざ旧恩により
挨拶に出向いたと言うのがある。
これは極端な例かもしれないが中世の旧主に対する臣従の名残は
あったと考えられ、それが○○家残党等なったのではないかと思う。
222日本@名無史さん:03/05/27 00:25
対策費打ち切りは全国同じ。
しかし実態は普通予算などに名を変え品を変え組み込んでる。
223日本@名無史さん:03/05/27 00:48
>>216-217
最近は10世紀から15世紀が中世なんですか・・。頭が古いもので・・・。
では、10・11世紀の藤原摂関政治(最近は荘園領国制に立脚した王朝国家
って言うんでしたっけ?)は古代でなく、中世なんですか?
16世紀に今川や武田が分国法を制定した戦国時代後期は近世なんですか?
長篠の戦(1575)以降が近世となるのでしょうか?それなら少しは理解できますが。

>矛盾するのでは?
私の古い区分での、平安中期(まだ古代)には武士は不浄視される部分もあったが、
遅くとも鎌倉期(中世前半)には、価値の逆転が起きてたのではという意味です。

>平忠盛
彼の件は、嫉妬と、新時代に適応できなかった古い観念に縛られた公家が
まだ存在したのが理由ではないかと。彼は12世紀ですよね。
昇殿を許されたということは、実力で持って、すでに朝廷(天皇・公家)
に、公式に、武士は賤でないと表明させたことと思われます。
白河上皇に彼の父も寵をうけてたかと。これは11世紀ですね。
源義家が後冷泉天皇?の寝室の前で弓を鳴らし、怨霊を退散させ、
天皇の心の支えとなっていたのも11世紀です。
で、古い区分では古代の11世紀には価値の逆転が始まっており、
12世紀の中世には、すでに武家は賎民扱いはされてないと考えます。
もっとも、朝廷貴族の内心は別かもしれませんが、承久の乱以降は、
朝廷は有名無実と極論すれば、歴史の大勢に影響なしということです。

>起源においては多元国家論の観点
これは、大賛成で、西国と東国の武士の発生経緯は違うと私は考えます。

理解しにくい文で失礼。議論が苦手なものでご容赦を。
被差別民の歴史スレなので、御返答いただいたあとは、スルーしましたら、
お許しを。
224日本@名無史さん:03/05/27 00:53
>>222
それについてです。埼玉は教育現場で同和教育という名称が一斉に
消えました。
普通予算に名を借りた癒着的予算も、西日本より少ないのでは?
「同和は終わった」勢力が割と強いですよ。知事も毅然としてるし。
22550:03/05/27 02:25
さあもうすぐ「スレ違いだゴルァ」がやって来るころだが。
226日本@名無史さん:03/05/27 02:58
埼玉は和銅で有名である。
渡来人の官吏が鉱脈のある武蔵国に下向し、その後、武士化した経緯がある。
そのことと、同和というのが結束するとは思えない。恐らく、関西の意向が意図的
に流入している。

227日本@名無史さん:03/05/27 03:08
>>226

百済王族末裔の集合地とあるが、実は棄民政策でもある。
228百済@人権板:03/05/27 03:14

1959年の帰還事業も生活保護費の支給に困った日本正負の共同正犯である
という噂が当時の風聞だったよね。
229日本@名無史さん:03/05/27 03:15
>>228

日本正負 - 日本政府
230日本@名無史さん:03/05/27 03:21
「差別戒名」に関する未改正寺院数一覧
http://www.sotozen-net.or.jp/oshie/jinken/bn0007.htm

埼玉多すぎ
231日本@名無史さん:03/05/27 06:30
>>221
これはあります。
ですが、あくまで一族の伝承としてですが…
嘘や捏造が多いですが、それを拠り所にしている部分もありますので、大目に
見るしかないです。
多くは平家の落ち人、戦乱中の武士が預かってくれといって赤ん坊を託した、それが先祖だ、
京都から来た武士だの、政敵に破れた武将だの、中には明智光秀の末裔だの、
熊沢天皇だの、色々と偽の家系図などで伝承されています。
でも、中には戦乱を逃れたり、年貢が払えなくて逃げ出したり、など様々な理由が
あったようです。
2ちゃんねるなどの民度を見てもわかるように、皆警戒してしまう問題なので、
調べてもなかなか本質を話してくれる人は少ないです…
232戦国〜江戸:03/05/27 08:52
色々な解答有難う御座いました。
現在の部落地区には戦国時代に城があり、歴史文献等を拝見して見ると
その地区でその姓なら確実に虐げられた民の姓がその地区の戦国時代で
は、家臣の姓だったりするのは、やはり落ちぶれて仲間入りコースで
しょうか?知識のある方お願いします。

233200:03/05/27 14:24
>>201
>野良犬の始末は、保健所の外部委託だったのではないかな?
あぁ、そんな話も聞いた覚えがあるなぁ。
うちの地方って、語らないことで差別をなくす、って傾向が強いので。

>江戸の生活の名残は文献からの方が逆に正確かも。
>今、100歳の人でも、明治生まれだもんね。
>それに、言葉を濁したり、かくしたりも、昔の観念引きずってる人なら、
>止むを得ないでしょう。強制暴露も失礼だし。場合によっては、取り返しのつかない
>迷惑をかけることもあるからね。
そうですねぇ。
祖母がぎりぎり明治生まれだけど、問題発言の多い人なので、
聞きづらいな(^^; 娘(うちの母)に、放言を厳しく咎められているし。
部落が単なる被差別集団ではなく、「特殊技能集団」であったと言う話は、
差別を解消するためにもいい話だと思うから、生き証人がいるうちにと思ったけど、
時すでに遅しか。今後のまじめな研究を待ちます。
234日本@名無史さん:03/05/27 17:07
>>233 そうだね。俺も隆慶一郎からの流れでアミノ式を読んだ一人だが歴史観と
いう大前提を崩す事には大いに役に立つだろう。
ただ、彼らが持つアイデンティティーと言う事は消えないので、我々日本人が存在
する限り彼らとその差別は残るだろうね。
我が郷土も「触らぬ神に祟りなし」状態だが、生きた神として利用すれば面白いが・・・
235弾差衛門:03/05/27 17:18
236_:03/05/27 17:18
237日本@名無史さん:03/05/27 17:21
>>218
>この認識は、応仁の乱あたりでしょう。

面白くなかった大河ドラマだったけど、このスレ読んでて見たくなった。
確かに、応仁の乱あたりって、国が疲弊し、かなり人口が減少している。
サバイバルの時代の中で、行く抜く力をもった農民や技術者、特に武器
関係の技術者、武芸者らは夜盗と化し、集団を作ったかもしれん。

あんまり人気のない時代だけによくわからんけど。
238弾差衛門:03/05/27 17:48
さて、現代では「弾左衛門」というと、まるで乞食の親分のように考えている人が多い。だが古い文献を調べてみると、
<落薄集>にあるように、「日本橋あま店という辺りの茨原の中に地高の所在り、弾左衛門の屋敷なり」
つまり現在の麹町平川町の左岸。常磐橋から室町以西は彼の地面であって、最初に日本橋をかけたのも、彼の祖先の「室町弾左衛門」なのである。浅草鳥越に引越したのは天正十八年に家康が入国したとき、その土地を譲ったからである。これについては、
<御府内備考>に寺社奉行へ文政年間に書き出した<東光院文書>がある。
それにも、「右常磐橋御問北之方に有りし処、御用地と相成り、日本橋小伝馬町に替地を下し置かれ、その節、武蔵国豊島郡江戸の内にて十五石の寄進を天正十九年十一月付けにて賜る」という記載が残っている。

この東光院は家康の臣の内藤清成の書いた<天正日記>にも弾左衛門屋敷内とあり、のち牢の刑場近くの小伝馬町へ移されたが、明暦の振袖火事で焼けた後は、浅草の新寺町へ移って「医王山薬王院東光寺」となって、今ではお寺である.

239弾差衛門:03/05/27 17:49
さて、宝永年間の<岩舟琵琶検校町奉行申上書>というのに、弾左衛門のことを明確に「彼の者の先祖は、頼朝公の御代には三千町歩の領主にて侍所の旗本武者」といい、また三田村鳶魚著<芝と上野浅草>の中にも、

薩摩人が「汝の先祖は鎌倉右府の遺子ではないか」と弾左衛門に言ったと明記されている。つまり幕末までは、弾家は頼朝直系と認識されていたものらしい。
240240:03/05/27 17:59
241日本@名無史さん:03/05/27 19:01
国初から紀元1340年(AD644年)の大化の改新まで刑法は国法中最古
のもので如何なる未開社会でも刑法をゆうしないものはない。
わが国でも大払いの祝詞でも天津罪と国津罪あり、前者は畔放ち 溝埋め
樋放ち 頻蒔き 串刺し 生きはぎ 等あり 後者には 生きハダ断
死にハダ断 白人 胡久美 己母犯罪 己子犯罪 母と子犯罪ーー
等あり その刑罰に死刑 流罪 追放 刺青 杖ーーーー貶姓ーー
があった。
242日本@名無史さん:03/05/27 19:24
古代部落の定住者は『記紀』に挙げられる先住民ではないだろうか。
急速な勢いで同化してゆく中にも、独自の文化や血統を貫く輩もいた。
そういった輩を保護する施策として、部落を作ったとは考えられないだろうか。

やがて、部落民は独自の文化や血統を失い、被差別されてゆく。
更には政治的背景もあり、戦犯者や思想犯までもが一緒にされた。
時代的な背景とマッチしないかな?
243日本@名無史さん:03/05/27 20:09
記紀のような古史古伝をもとに話をすんなや。
続日本紀から後は資料として認めるけどよ。
244日本@名無史さん:03/05/27 21:53
そんな事はないだろう。
ニニギノミコトにしたってサルタヒコにしても考慮の内だろうよ。
245日本@名無史さん:03/05/27 22:16
朝鮮人は黒い。
黒くて長い。
黒くて長くてノッペラぼうで石ヤキイモのよう。
黒目の寄った細いヨリ目、薄いハの字眉。
そう、あれは土人。ヒラメ土人。
ちょーキモキモ顔の朝鮮ヒラメ土人。

この顔を見た瞬間に不快指数1000%になる。
そう、あれは人ではない。差別されてあたりまえの奴隷人種だ。
246日本@名無史さん:03/05/27 22:56
>>245
あ〜あ、ちゃんと進んでいたのに嫌韓厨来ちゃったよ。
世が世ならこういう輩が差別したんだろうな。
このスレに最も来て欲しくない人種だよ。
マジこのスレに来ないでくれ、頼むマジで。
247日本@名無史さん:03/05/27 23:21
それよか、懲りずにまた現れた古代史起源厨の方がウザい。
248日本@名無史さん:03/05/27 23:31
>>223
50年以上も昔の石母田正の時代から中世=10−15世紀説ですよ。
この見解を前提にした上で9−11世紀の過渡期を王朝国家だとする説もありますが、
当然の事ながら王朝国家=古代とはされません。
だいたい9世紀を境に古代律令国家から別のステージへの転換がなされたというのが、
中世史研究者大多数の意見ですから。
古代=貴族社会/中世=武士という対立軸で捉える発想は最近(といってもここ15年)
では殆ど聞きませんが?

あと怨霊退散というのは仏教思想の普及による「魔」の思想で
時間・空間的な清浄さの確保を重視した9世紀以降の発想ですね。
これによって武士が誕生したのです。
中臣神道のハレ/ケガレ観とは全然違います。
こういった武士の聖性や社会秩序に動揺が起こるのは保元の乱以降で、
きっかけは源義朝による為義の斬殺といった死刑の復活です。

ところで、大阪最大の被差別部落である西浜部落が摂津源氏発祥の地である事や
中世武士の末裔である島津氏が代々義家と同様に宮廷警備を任ぜられ、
幕末に同胞のよしみとして長吏浅草弾左ェ門に協力を要請していた事について
どうお考えなのですか?
249日本@名無史さん:03/05/28 00:38
>西浜部落が摂津源氏発祥の地

単に武家の家来だったんじゃないの?
250日本@名無史さん:03/05/28 01:23
>>248
日本の近代史学史のなかで,中世という時代区分が定着したのは,西欧の封建制
と日本の鎌倉・室町・戦国時代の社会との酷似を見いだした原勝郎,福田徳三,
中田薫らによってであり,そこで中世は,近世と規定された江戸時代とは異なる
一個の時代としてとらえられたのである。この見方は第2次大戦後,封建制を
農奴に対する領主の支配(農奴制,領主制)に基礎をおく社会とする石母田正ら
のマルクス主義史家に継承された。やがてそのなかから江戸時代をも農奴制に
基づく社会とみなすことによって,中世・近世をあわせて封建社会=中世社会
とし,中世をその前期,近世を後期とに区分しつつも全体として領主制の形成
から崩壊までの過程を考えようとする永原慶二らの見解が生まれた。一方,中世
と近世との差異を本質的とみて,中世を家父長的奴隷制社会,近世を農奴制社会
とする安良城(あらき)盛昭の説も現れた。こうした安良城による中世社会の規定
については異論も多いが,中世を近世社会と区別された独自な社会とする見方は
最近では広く認められるようになっている。

これだと、やはり中世は1167年〜1573年がスタンダードな基準と思えるが。
前期封建制を中世と定義してる人が多いようだが。古い?
「藤原摂関政治が中世で戦国時代最盛期が近世」、というのはどのような本を
勉強すれば理解できるのでしょうか?
251日本@名無史さん:03/05/28 01:25
>武士の誕生
本質原因は、時代の要求でしょう。清浄さの確保のためより、暴力装置の
必要性のために誕生したのでしょう。下部構造の要求ですよ。

>摂津源氏
貞純親王流清和源氏の嫡流。《尊卑分脈》によれば,貞純親王の皇子源経基に
満仲・満政ら数子があり,その満仲が摂津守となり,摂津国多田地方に本拠を
おいて豪族的武士としての在地支配を開いた。満仲のあとは嫡子頼光が継承し,
その子孫が摂津源氏を称するに至る。頼光は藤原摂関家とくに兼家・道長に臣従し,
〈都の武者〉としてその武名を高めたが,その武的活動は都の治安維持の範囲を出ず,
むしろ受領を歴任して巨富を蓄えた。頼光の子頼国・頼家は中級貴族として京都に生活し,
頼国の子頼弘・頼資・頼実らも検非違使あるいは蔵人として京都で活躍した。

部落との関連性はみられません。

>弾差衛門への要請
薩摩藩の江戸におけるかく乱戦法の一手段。幕府に先に手を出させるため。
長州は穢多軍隊を使用。
弾差衛門は幕府に忠誠を示し、数100人の穢多軍を幕府軍に参加させる。
その功などで、弾差衛門だけ、穢多身分を脱却する。50名ほど続く。
252日本@名無史さん:03/05/28 01:34
ちょっと復習したが、文部省検定教科書は、中学・高校ともすべて、
中世は、「鎌倉〜室町滅亡」になっている。
学界の定説が、10〜15世紀が15年以上前から中世なら、教科書が変わっても
よさそうなものだが。
年表に斜線をつけて、部分的に時代区分移行というなら理解できなくはないが。
例えば、東国では土地所有形態は、10世紀に封建型に移行しつつある、
ただし、原則的租税形態は古代律令の変形型。
マルクス主義歴史学?
253249:03/05/28 01:45
検索したら出てきたよ

ttp://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/watana_k.html
ttp://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/u_ryu.html

渡辺氏は嵯峨源氏の後裔である。(略)
(渡辺)綱は、源満仲の婿である仁明源氏敦の養子となり、
摂津国西成郡渡辺村に移って、渡辺を称するようになった。

その後裔からは、毛利氏に属した渡辺氏、徳川家康に仕えた
渡辺守綱、肥前の国に広がった子孫からは、戦国大名松浦氏
をはじめ、宇久・波多・佐志などの諸氏が出ている。
254249:03/05/28 01:48
補足:
だからと言って、武家が穢れてるから、
差別されるようになった、とは言えまい。
255日本@名無史さん:03/05/28 01:54
江戸市中で、えた系の部落は浅草の囲い内だけですか?
256日本@名無史さん:03/05/28 01:58
法制史、部落史の大家だった故石尾芳久氏の近世は封建ではなく
専制というのがあるが、あくまで徳川専制により上手く使われただけの
存在が、えた・ひにん。
257 :03/05/28 03:16
工藤
夕貴
258山崎渉:03/05/28 10:41
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
259日本@名無史さん:03/05/28 11:29
>>248さん
250です。最新版の教科書を見てみました。
中世開始期の先端部は10世紀の将門の乱になってました。%でいうと10%前後。
11世紀の院政時期から中世%が50%前後です。100%は13世紀の承久の乱・
御成敗式目前後。
中世終了期は、16世紀中ごろですね。戦国中期から安土桃山にかけて漸増的に
移行してます。
あなたの、中世10〜15世紀説は、多分、土地所有形態に観点を置いたものですね。
地域的には、中世は東日本(いわゆる後進地帯)から始まって、次第に全国化
してきている。で、全国をおおったのが13世紀です。マルクステーゼとは反するが、
マルクス主義的歴史段階分析ですね。嫌いではないです。
下部構造を重視した学派が10〜15世紀説なんでしょうね。あなたのいうとおりでした。

ただ、上部構造や、政府の政策・財政を重視する学派は、中世12〜16世紀説の
ようです。こっちだと、摂関政治や西国武士は律令やその変形の荘園領国制に
制約されてますので、古代に入るようです。いくつか、説がわかれてるようですね。

で、スレ違いなんで、中世議論に関しては、もうやめますか。サンクス。
260日本@名無史さん:03/05/28 11:49

弾家は江戸前島、つまり円覚寺領の神人か供御人か、徒党だろう?
261日本@名無史さん:03/05/28 12:05
>>255
品川区や足立区への一部移転もあったようです。
被差別民は10数種類にも分けられてましたから、浅草の囲いの中だけではないと
思われます。
明治政府により、郊外部への強制移転命令が出て、散らされたようです。
彼らは反対しています。浅草地区集団生活にメリットがあったのですかね。
素人考えでは、散れば差別は薄まる気もしますが。
262日本@名無史さん:03/05/28 12:10
江戸期以前は、まだ、不明なようです。
江戸期は以下のごとく。

江戸に本拠をおいた〈穢多頭(えたがしら)(長吏頭(ちようりがしら))〉で,
関八州と伊豆の全域,および甲斐,駿河,陸奥の一部の被差別部落を
統轄するとともに,触頭(ふれがしら)として全国の被差別部落に号令する
権限を幕府からゆだねられていた。その後、非人頭の支配にも成功してます。
263日本@名無史さん:03/05/28 12:14
>>260

歴史に出てこない部分だ。東京の古地図からも削除されているようだし。
確かに弾ちゃんは円覚寺領の権力者だろうね。つうか、この時代、江戸
と言えば、前島の繁栄をどう理解する?諸君。
264日本@名無史さん:03/05/28 13:24
田舎もんでスマン。前島って現在の地名だとどこなの?何区?他の呼び名は?
265日本@名無史さん:03/05/28 13:28
>>264
はっきりしたものはないのだが、
「江戸前島」存在説によると今の有楽町から東京駅付近、八重洲口から神田駅近く
までの地域を「江戸の前島村」と呼んでいたようである。

握りずしの発祥は前島村が埋め立てなどで消えた江戸元年から200年たった頃、
江戸湾(東京湾)では漁業が盛んで、江戸湾、つまり江戸城の前の海で捕れた魚を
江戸前の魚と言っていた。
江戸以前から「江戸前島」説のように「江戸前」という言葉は存在していたが、江戸
湾で捕れた魚を材料にした寿司だからというのが一番妥当なようだ。
266日本@名無史さん:03/05/28 13:30
267日本@名無史さん:03/05/28 19:31
家康入府以前のえた頭は実は弾左衛門ではなかったという説を読んだことがある。
弾は家康にうまく取り入って大頭に引き立ててもらったのであって、
落ちぶれた旧えた頭は鎌倉か小田原の地域の者だったとか。
前者だとしたら、北条か足利に関係がある可能性が高いだろう。
だとしたら、弾の由緒書(偽造)に「源頼朝」の署名がある理由も納得がいく。
「俺のお墨付きの方がもっと古いんだぞ!」ってことで(w。
268日本@名無史さん:03/05/28 20:21
>摂津源氏
摂津源氏の拠点である「摂津国河辺郡池田領」多田庄はかつての俘囚の居留地である
火打村に隣接しています。この村が多田源氏の軍需基地だったようです。部落との関連性
は?
269日本@名無史さん:03/05/28 22:03
多田満仲って?
270日本@名無史さん:03/05/28 22:15
どうでもいいけど改行汁
271日本@名無史さん:03/05/28 23:07
>261
品川や足立は江戸ではありませぬ
非人はあちこちに散在していたようです
272日本@名無史さん:03/05/28 23:09
>>268
最近の説だと、各地の俘囚は結局、手なづけられなくて、関東東北にもどしてる
ようだが。火打村は俘囚の定着に成功したとの根拠文書か何かあるの
273日本@名無史さん:03/05/28 23:12
>>269
源満仲 ?‐997(長徳3)
みなもとのみつなか
平安中期の武将。源経基の長子。摂津源氏の祖。藤原摂関家に接近し,
摂関政治確立の端緒となった969年(安和2)の安和(あんな)の変をしくん
だといわれる。この変で平将門追討に功のあった藤原秀郷(ひでさと)の
子千晴が連座し,摂関家と結んだ満仲は武人としての地位を確立するに
至った。986年(寛和2)の花山天皇出家事件では満仲が警固に当たったと
いわれ,994年(正暦5)の大規模な盗賊追捕(ついぶ)でも満仲とその一族
が中心になっていた。摂津守となって摂津多田を本拠とし,ここに多田院
を創立したことから多田満仲(ただのまんぢゆ)と呼ばれた。この本拠地に
多くの郎等を養っていた様子が《今昔物語集》に記されているが,これは
物語が成立した12世紀ごろの武士団の投影と思われる。しかし満仲の代に
武人としての基礎が確立したことは確実である。なお生年について《尊卑
分脈》は912年(延喜12)あるいは913年と伝えるが,満仲の父経基の生年を
917年としている点で問題が残る。      
274日本@名無史さん:03/05/28 23:32
>>259
12−16世紀説は古代学派で中世史学派ではありません。
で、10−15世紀説を唱える中世史学派多数派には
マルクス主義者が多いというだけの話です。
これは論の正否は別にして学会の主流で教科書にも記載されるくらいの常識です。
ただ、東西二元論や王朝国家説は古代派との論争過程で出てきたものなので、
これを鵜呑みには出来ません。

あと、9世紀に成立した殿上制は中世武士や
寺社領荘園発生と密接に関わっているので無視する事は出来ません。
従来的式内社が稲荷・八幡・天神・熊野に変貌し
全国に分散していったのはちょうどこの時期ですね。
武家との関わりでいえば貞永式目第一条で
「神社を修理し祭祀を専らにすべき事」とされているくらいですから。
えーと、源氏の氏神は八幡神社で三大八幡宮の一つである
石清水八幡の宮司を務めていた氏族といえば…。

摂津源氏については中世後期の事も調べてみましょう。
というか、ワザと人名をぼかして記述しているのに
実名を挙げてはいけません。

マルクス主義に関しては古典的な経済決定論や階級闘争史観ではなく、
衛生管理思想等で重要な研究が出てきているでしょう?

>スレ違いなんで、中世議論に関しては、もうやめますか。

それをやると中世起源説や延喜式問題、荘園部落問題
について語れなくなりますよ。
かつて江戸政治起源説を唱えていた解同だって最近ではそう言いません。
まぁ、現在の差別は明治以降の近代差別で政治的なものだ、
という主張ならば同意できます。
ただそれでも、異民族説を邀撃するためには考察が必要だと思うんですけどね。
275日本@名無史さん:03/05/28 23:40
>>274

応仁の乱あたりですか?やはり。
276276:03/05/29 10:57
あのー質問ですが、網元って えた・ひにんになるんですか?
277日本@名無史さん:03/05/29 11:27
なわけない
278276:03/05/29 11:35
>>277どういう身分でしたのでしょうか?
279別人:03/05/29 19:18
>>278
若干あるかも知れない。
金子いすゑが詩であげている様に
「海の中では 鰯の弔ひ やるだろう」
かな、網元は直に手を下さないにしても漁民は
賤民的身分と捉える事も可能だろう。
280日本@名無史さん:03/05/29 23:15
>漁民
古代〜鎌倉期
神社・皇室・公家等に直接つかえる立場・身分。

室町期以降
商品生産・流通の拡大により、現実的職業化してくる。

秀吉以降
戦国時代から近世初頭の争乱,とくに豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に全国の漁村
に水手役が賦課される中で,この動向は頂点に達する。そこでは,荘園制的な
浦の上級領有権が解消し,その下に潜在していた共同体的水面領有が村中総入会
の形をとって純粋に現れ,神人・供御人などの特権的漁民身分も特定の場合を
除いて消滅した。領国権力に対して水手役を負担するもののみが漁民身分と
して公認され,水手役を負担する浦浜のみが,浦方・浜方として村方・地方から
区別されて漁業権を認定される近世的漁業制度が成立するのである。

最近は、漁業や山林生活者も百姓に入れられてるのではないかな?網野さんとか。
281日本@名無史さん:03/05/29 23:30
>>279
金子いすゑではない。金子みすず。

賤民的身分とは捉えられない。

282日本@名無史さん:03/05/30 00:14
だから改行し
283日本@名無史さん:03/05/30 00:22
神社に魚をお供えするくらいだから、
魚自体は穢れているとは思えませんが
284日本@名無史さん:03/05/30 02:43
       ____
     /      \ 
    /__ 駄災玉|
    /   /\____\
   | /  _____| 
    (6――|      | 
    | \ )|      |<うるせー馬鹿
    \  ̄|____/
      \____/  
 / (__))     ))     
[]_ |  |    titibu  ヽ   
|[] |  |______)     
 \_(___)三三三[□]三)   
  /(_)\:::::::::::::::::::::::/      
 | 農協 |::::::::/:::::::/      
 (_____);;;;;/;;;;;;;/      
     (___|)_|)  
285日本@名無史さん:03/05/30 15:39
「科学的認識」というならDNA鑑定を部落差別の起源解明に役立てろよ。

http://www.ocec.go.jp/shidoubu/project/kyoikushishin.htm
 部落差別をはじめあらゆる差別に対する科学的認識を育てるには、さまざまな生活体験を通して、
身のまわりにある不合理や矛盾に気づく感性を育て、それらの問題の本質をとらえ、自らの生活と
のかかわりにおいて主体的に解決しようとする態度を養わなければならない。そのため、副読本
「にんげん」等の内容を有効な資料として活用することが大切である。

■■日教組の副読本「にんげん」を使わせるな!■■
http://school.2ch.net/test/read.cgi/edu/1054144833/l50
286日本@名無史さん:03/05/30 16:04
居合を見て知ったのだが、
刑場や試し切りなんかで
刀についた血を拭うのは「ひにん」と
呼ばれる人達の役割らしいね、
同じ意味の「ひにん」かどうかはわからんが
287日本@名無史さん:03/05/30 20:07
>>285は笑い者のドキュソだな。
DNA鑑定は「個」体の遺伝子を識別する技術であって、
人種など集団レベルの属性を特定するものではない。
不満があるなら、日本史板などでブーたれてないで
生物学板で堂々とスレ立ててみい。
「部落民って、一般人とDNAが違うんですか?」
http://science.2ch.net/life/
「氏ね!」で一巻の終わりだろうw。
288日本@名無史さん:03/05/30 20:40
人種をグルーピングするDNAの研究もあることはあるがな。
289日本@名無史さん:03/05/30 21:13
>>286
その非人です。江戸時代の非人の仕事の一つです。

>町外れや河原の非人村の小屋に住み,物乞い生活を基本としながら,
>大道芸,犯罪者の市中引廻し,処刑場での雑役などで,日々の暮しをたてていた。

>>285
「にんげん」って、街道の圧力で教育委員会が作ってるものでは?
290 :03/05/30 21:16
ルーツは「エミ氏」?
291日本@名無史さん:03/05/30 22:11
蝦夷のこと?
蝦夷俘囚起源説は、最近は消えたみたい。
俘囚って、手に負えずに、後日に東北に戻されたようです。
292日本@名無史さん:03/05/30 22:44
>>287
最近、ミトコンドリアDNAとかで日本人のルーツを解明しようという研究が
活発になっているだろ。
NHKでも放送したが、日本人と韓国人、中国人の違いや共通点が明らかになって
きている。
293日本@名無史さん:03/05/30 23:47
>俘囚って、手に負えずに、後日に東北に戻されたようです。291

結構たくさんの俘囚が関西四国九州に移(うつ)されているけれど
みんな東北へかえされたって、なににでてる? 資料を教えて。
294日本@名無史さん:03/05/31 02:37
>>292
>>34さん、お久しぶり。君自身はDNA研究のスキルも知識も全くない
ずぶずぶの土素人とお見受けするが、君がDNAにこだわるのは、
君が父上の本当の子息かどうか検査されたときのトラウマかね?
295日本@名無史さん:03/05/31 10:21
>>293
「日本の歴史」07巻(武士の成長と院政)講談社・2001年。
p40と、索引によれば十数ヶ所。

p40の概略
群盗検挙のための俘囚が、諸要因で各地で群盗化。
政府・受領は俘囚を陸奥の国に帰す政策に転換。
寛平7年(897)政府は陸奥の国に戻れば、租税免除と生活基盤を保証、仕事は
辺境警備と荒田再開発との申請を出させる(「類聚三代格」)
おそらく、多くの俘囚は、陸奥へ帰ることを決断した。
その推測理由は、ミクロでは、見島の俘囚集団は、10世紀初頭に忽然と姿を消す。
マクロでは、それまで様々苦労してた俘囚問題での法令・政策が、10世紀以降
発見できない。
陸奥帰還で長らく政府・受領を悩ませていた俘囚問題は決着したと考えられる。

あと、ここ最近の「蝦夷の歴史」「東北の歴史」系統の本は、この説を多く見ます。
こっちは、図書館人生なので名前は失念。探してみてください。古い本はダメよ。
296日本@名無史さん:03/05/31 20:52
えた=ネタも作れない香具師
ひにん=決して認めないヤシ。否認
297日本@名無史さん:03/05/31 21:03
いずれにせよ、遺伝子操作ができるようになったら最後の逆差別として
優先的に遺伝子操作してもらったほうがいいだろうな。
無論、そのコストは有利子で貸与ね。
人権板では相変わらず伝染病を例示列挙して、
「遺伝病が怖い」と差別を正当化する人を見掛ける。
遺伝学で言う劣性遺伝子を社会的に身分の低い人の遺伝子と
勘違いしてる人も少なくないしな。
それに遺伝子操作で、仮に部落の民度が上がるのならば、差別も激減するだろう。
遺伝子操作で民度が上がるかどうかは知らないけどね。

ところでこの遺伝病保有説はかなり根強く語られてるけど、歴史的に根拠のあるものなの?
人権板では盲人が賤民扱いされたことが根拠になってたことがあったけど、
このスレを見ると盲人の賤視は一代限りのようだし、本当のところはどうなんだろうか?
298日本@名無史さん:03/05/31 22:28
京都の清水坂や奈良の奈良坂などは、平安期頃の身体障害者・ライ病者・盲人
などが集まり、興福寺などの直属民でした。
いずれも、遺伝しない病気ですし、聖なる力を持つ人々として援助を受けていました。
盲人はシャーマンなどにも多くなりました。
盲目やライ病やダウン症は遺伝しませんからね。

遺伝病では色弱が有名ですが、天皇家に嫁げたくらいですからねぇ。
問題はないと思います。
江戸時代までは、障害者が出ると「福の家」と呼ばれ、家が豊かになると考えられていました。
村の中で「福の家」と呼ばれてたのですから、差別は受けてません。
豊かになるのは、その子のために家族が一生懸命働くからだと思います。
よって、遺伝病による賎民視は、記録にないと思われます。

そもそも、遺伝する病気って何ですか?
部落内では血が濃いとか言われますが、もうここ20年以上前から、
部落内結婚は、3割以下くらいです。
そもそも、部落指定地域に住んでる部落民は、もう2〜3割しかいなく、
あと20〜30年で、0%の予定だそうです。
高校進学率も90%後半で、一般地区とほとんど差がありません。

低所得者層の集まる地域はありますが、実態として、もう部落はなくなったに等しいと
いえると思います。
299徳川家康:03/05/31 23:26
じゃあ解同も解散だな。
300日本@名無史さん:03/05/31 23:28
>>298
当時の人はライ病は遺伝すると思ってたよ。 盲目もトラコーマ(昔は多かった)
なんかは家族間の伝染が殆んどなので、家系(遺伝)と結びついていた。
また現在で視力を失う最大の原因は糖尿病であるが、これは九割は遺伝性で
ある。 だから遺伝的に盲目が現れるというのは、あながち誤りではない。
ダウン症は子供をつくることは実際上ないが、遺伝子異常であるから
子供が出来たとすれば遺伝する。
差別が合理的な理由がないことを主張したいのは判る。 しかし誤った理屈に
基づいた主張をすれば、本来の正当性も疑わせてしまう。
301日本@名無史さん:03/06/01 00:25
>>300
「本当の正当性」って何?
意味ちょとわからないんだけど。
302日本@名無史さん:03/06/01 00:36
遺伝病とは疾患へのなり易さが遺伝することらしいけど、
ダウン症の人同士が結婚すれば、かなり高い確率で発症するよ。
ただダウン症や糖尿病が、部落にだけ特別に多いとは聞いたことがないな。

動物を扱ってたんだから職業病としての伝染病はあったと思う。
ただ、他板で明治以前の部落民に狂牛病が流行ってたようなことが
書かれてたのを見たことがあるけど、いくらなんでもそれはないだろう。
303日本@名無史さん:03/06/01 01:09
>動物を扱ってたんだから職業病としての伝染病はあったと思う。
動物の死骸を扱うのと
生きた動物といっしょに寝起きするのとでは
どちらの方が伝染病感染の危険があったと思いますか?

また、すべての穢多が日常的に解体作業に従事していたと
思っているのでしょうか?
だいたい被差別民の特徴として肉体の頑健さが挙げられ、
その結果として異民族説が唱えられた経緯についてどうお考えですか?

まぁ梅毒等の伝染病に感染した遊女なんかが寺領に捨てられた事例はあります。
だからこそ、明治以降に国立病院が建設されたり、
医療従事者を多数輩出したりしているわけですが。
304日本@名無史さん:03/06/01 01:23
>>301
本「来」と書いてある筈だが。 「差別が不合理なものだ」という主張は
正しい、そのことを298の本来の部分は正当だという意味でつかった。
しかし298の主張の付加的な要素(理屈)は正当性がないということ。
今の人にとっては遺伝病ではなくとも、当時の人にとっては遺伝するもの
と考えられていたことを認めて話をしないと誤魔化しになる。
>>302
ダウン症は年齢に比例するから、比較的晩婚であった上流に多かっただろう。
部落と遺伝的疾患は基本的に無関係。
ただ上の298がライ・盲目などが当時から遺伝病と捉えられていなかったと
いうような主張をしたから、それは誤りだといったにすぎない。
部落は一元的ではないから、盲僧などの集団では糖尿の因子が高かった可能性
があるし、ライ病に関しては罹患しやすい因子があるので、ライ病患者の
集団ではそういった因子は高かったのは間違いない。 それが一層遺伝病と
いう錯覚を増幅させたと考えられる。
皮革業や警吏のような集団では、もちろん関係はない。
305日本@名無史さん:03/06/01 10:37
盲目が遺伝病ととらえていたら、その家族・一族ごと、賎民化されるのだが、
そういう事実はない。盲人を出した家族が差別された記録もない。塙保己一
などみると、盲人自身でさえ、家族の援助と能力があれば差別されてない。

当時、「盲目やライは前世の報い」と考えられていた。
「ライは天刑。不治の業病」と言われていた。やはり天の罰との認識で、遺伝する
と思われていた認識の記録はない。
ライを出した一族・家族がデメリットを受けた記録もない。

糖尿病は貴族の生活習慣病で、一般民がなることはまずなかった。
貴族の盲目者が多かったどうかの記録はわからないが、その一族がデメリットを
受けた記録はない。

ダウン症は厳密には遺伝子病ではなく、染色体の問題。遺伝子には何の問題もない。
当時は10歳前後で死んでただろうから、遺伝云々は全くなかったと思う。
また、ダウンと推測される病気の子を出した家や一族がデメリットを受けた記録はない。

梅毒は遺伝すると認識されていたと思うが、その家族・一族がデメリットを受けた記録はない。

トラホームは、盲目の原因となりうるが、遺伝病との認識はなかったと思われる、
というのは、貧困層や都市スラムに爆発的に伝染流行し、それが原因で差別されるなら、
下層平民がいなくなってしまうほどの規模の全国くまなく発生した不衛生病。

足利室町将軍家や一部の細川氏は、神経疾患者が多く、遺伝と思われていたろうが、
差別された記録は一切ない。
306日本@名無史さん:03/06/01 13:51
>305
「あそこの家は家筋が悪い」とか「憑き物の家系」だとか
言われることはあったらしい。
ただ、部落差別とはちょっと違うかな
307ぽちくん:03/06/01 15:03
座頭市はめくらなのに強いな
308日本@名無史さん:03/06/01 15:42
ところで「ダウン症」って日本では本来何と呼ばれてたんよ?
309日本@名無史さん:03/06/01 16:15
転び病
310日本@名無史さん:03/06/01 20:48
日本では呼び名がなかったもよう。
ヨーロッパでも蒙古症とか言ってたが、ダウン症とはっきり分類されたのは、
19世紀。
>1866年,J. L. H. ダウンが特異な顔貌をもつ精神遅滞として記載し,
>この名がある。
311日本@名無史さん:03/06/01 21:22
>305
>ダウン症は厳密には遺伝子病ではなく、染色体の問題。遺伝子には何の問題もない。
 染色体はいわば遺伝子の集合体だから、もろに遺伝子の問題だよ。一般に遺伝子
疾患として語られるものとは趣が違うけどね。
 また、正常人の、特に高齢者からダウン症児が生まれることも多いけど、
ダウン症の親からは正常人とは比べものにならないくらいに高い確率で
ダウン症児が生まれる。
あと、ダウン症児が早逝するってのも確率の問題。循環器などに先天性奇形を
伴うことは多いけど、そうでない場合も結構あるわけで。
312日本@名無史さん:03/06/01 22:20
>>311
ダウン症は染色体が過剰にある状態であり、「遺伝子の病気」ではありません。
染色体の中には遺伝子情報が詰まっていますが、遺伝子レベルでの問題とは異なっ
ています。これについてはJDSNが提供していますUP-SHOPのページをご覧下さい。
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/UPSHOP/upshop.html

ダウン症同士の結婚による遺伝は、見かけ上は3分の2。確かに多いです。
ただし、ダウン症の第一子が生まれた場合、第二子もダウン症の確立は
約700〜1000分の1で、健常者と変わらぬ割合です。

ただ、問題は、ダウン症患者の出産の対健常者比率はいかがでしょうか。
0%が近似値ではないでしょうか。
今後は増加が予想されますが、話題となっていた、古代・中世・近世では
ダウン症者の出産は0%といっても良いかと思われます。
よって、元ネタに戻れば、ダウン症の子が生まれた家・一族が賎民化された記録は
ないと思われます。

また、ダウン症者の主な合併症には,先天性心疾患(40%),点頭てんかん(10%),
環軸椎不安定性(2-3%),白内障(2%),急性白血病(1%)などがあります.
近年の、ダウン症者の長寿化は、心臓疾患手術の進歩によるところが多いです。
よって、古代〜近代までは、ダウン症者は早逝であることが多かったといっても
良いかと思われます。
勿論、貴殿の言われるように確率の問題でもありますが。
313あぼーん:あぼーん
あぼーん
314日本@名無史さん:03/06/01 22:22
足利や徳川の将軍家でダウンその他精神疾患はいなかったの?
以前NHK大河「吉宗」に出てきた家重はあきらかに異常だったけど。
315日本@名無史さん:03/06/01 22:23
今、自分の胸にタコが出来てるんだけど
その表面がイソギンチャク状になってて
___
/ ◎◎◎\
|◎◎◎◎◎|
|◎◎◎◎◎|
\◎◎◎ /
 ̄ ̄ ̄
上から見ると↑のような状態になってる・・・。
しかもその粒を引っ張ったら一本ずつ抜けていきます。抜いた後は穴がぽっかりです。
怖いです。
ttp://www.gazo-box.com/wara/img-box/img20030601200909.jpg

316日本@名無史さん:03/06/01 23:08
>>306
何が何でも遺伝病なら賎民化された筈という公式を
305は崩したくないんでしょ
「遺伝病なら賎民化(部落化)される。
(盲目糖尿など)病気は偶発的なもので、差別対象でない。
だから部落と遺伝病は関係ない。」
しかしライ病や失明などは、個人的な天罰でなった場合もあるし、
代々の祟りによるものや血筋によると考えられていた。
これらは遺伝疾患と錯覚されていたけど、それ自体が差別の対象
ではなかった。 だから財産や地位をもっていれば差別されなかった
に過ぎない。 305の例や大谷刑部のように大名であれば問題ない。
食べるために集団生活をした人たちが、保護や差別の対象になった。
遺伝病なら賎民化という図式が、片手落ち(w
306のいうように病気と血筋は深い関係をもつと昔は思われていた。
いまでもガンの家系とか、中風の血筋とかいうしね。
317日本@名無史さん:03/06/01 23:14

316には一部不適切な表現がありました。 お詫びします。
318日本@名無史さん:03/06/01 23:16
人獣一体の感染症の多くはインコ・オウムとチュッとやったり
室内で飼ってる犬猫と食卓共有するのが原因。
普通に現代病。
319日本@名無史さん:03/06/01 23:21
血統(=遺伝)というよりは「家」というトポスだ。
憑き物という概念は人を介して場所から場所へと
移動するものだと考えられていたわけで、
血統がどうという考えが広く普及したのは
近代に入ってからの事だろう。
320日本@名無史さん:03/06/01 23:38
>295

調べてみる。897年といったら「俘囚」という言葉が使われはじめて
200年近くたっている。この200年間に移(うつ)された俘囚たちの多くが
陸奥に帰ることを決意したとはとても思えない。陸奥といっても、ひろ
かったから、きっと渡島蝦夷との緩衝地帯にもどされたのだろうけれど。

帰された俘囚たちはどうなったんだろう?
321日本@名無史さん:03/06/02 03:12
遺伝病云々はこのスレを読んでから
http://mentai.2ch.net/rights/kako/960/960800019.html
意見を述べよう。
もっとも、ここは歴史スレだからそれも考慮の上でね。
322日本@名無史さん:03/06/02 09:05
盲人といえば、杉山検校。。。
323日本@名無史さん:03/06/02 09:54
>>320
俘囚の人たちは、農民化する指導を受け、いざというときは反乱鎮圧部隊となり、無税
だったそうです。

ところが、何代たっても農業はせず、山や草原での採取生活を好み、
あげくは故郷に返せとか、待遇をもっと上げろとか国司に迫る。
一方、公民は無税で食わしてやってるのにと、俘囚民に反感と差別感を持つ。
公民の要求で、俘囚の特別待遇を止めようとすると、既得権益を守れと暴れだす。
どうにもこうにもならなかったようです。

帰還地は、福島・宮城・山形あたりじゃないかな?
帰れば、無税と山地を含む生活圏の保証を政府は提示してます。
公民からの差別はなくなり、軍人も辞めてよくて、好きな仕事で無税なら、帰るのでは?
324日本@名無史さん:03/06/02 09:59
305は、遺伝病賎民発生説を否定してるようだが?何度、読んでも・・。
325日本@名無史さん:03/06/02 10:10
>>314
室町足利将軍家と、親類筋になった細川家は鬱傾向の気質者が多いので有名。
細川何とかは、天気が曇りだと意欲がわかず、仕事場にも行かなかったそうだ。
鬱傾向は、遺伝もあるだろうが、親の養育態度やストレスが誘因となる心因反応。
鬱や躁鬱は神経疲労で発症するが、精神病とは少し違う気がする。
今、サラーリーマンに何百万人単位で通院者がいる。
チャーチルやリンカーンも鬱症状をもつ有名人。
ダウン症とはまったく違う。

天皇家や将軍家は虚弱体質が多いが、これは生活習慣病かも。
精神的にも弱い人が多いような。
ドメスチックバイオレンス天皇や、儀式中にお付の女性を犯し始めてしまった天皇が
「平安王朝」(岩波文庫)かどこかに出てた気が。

すれ違いスマソ。
326日本@名無史さん:03/06/02 10:56
佐々木氏とかは自ら古代賎民制の賎民の出だけど俘囚や乞食にはじまって
政治上層部にまで佐々木氏の息のかかった者が多かったみたいだね。
武力で領地の安全を守ってやるかわりに漏れの言うこときくようにというやつ。
傘下に入れば、領内で乞食する権利も保障していたりしていたらしい。

方丈記に武士は猛禽の道だから素人が単なる憧れで真似しちゃいけないみたいなの
が書いてあったけど。なんか、任侠さんみたいだな。
327日本@名無史さん:03/06/02 12:37
西郷隆盛が性病を患っていたってホント?
328日本@名無史さん:03/06/02 12:46
>>327
睾丸の肥大化は遠島中の風土病によるものでは?
329日本@名無史さん:03/06/02 14:04
この佐々木氏の事?

近江の古代・中世豪族。孝元天皇の皇子大彦命の子孫,狭々城山君を祖と
伝える佐々貴山公氏(以下佐々貴氏と略称)は,沙沙貴神社を氏神とし,
近江国蒲生郡を中心に栄え,奈良・平安時代には蒲生郡,神崎郡の大領など
に就任した。
一方,宇多天皇の皇子敦実親王の子の雅信は936年(承平6)源の姓を賜って
臣籍に下り,その孫成頼は近江に土着して宇多源氏系佐々木氏の祖と
なり,孫の経方は蒲生郡佐々木荘小脇の館に住んだ。
こうした佐々貴氏の北に接して宇多源氏系佐々木氏が土着し,両者の同化
も進んだ。清和源氏の勢力が伸びてくると佐々貴氏は源為義に結びつき,
宇多源氏系は為義の子義朝と結んだ。
保元・平治の乱に宇多源氏系は義朝に従ったが,平治の乱で義朝が敗れると
佐々木秀義は平氏に佐々木荘を奪われて坂東に下り,相模の渋谷氏の庇護
を受けた。
1180年(治承4)義朝の子の頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,秀義は子息
たちとともに頼朝を助けて勲功を挙げ,本領佐々木荘を安概されたうえ,
その5人の子息は十数ヵ国の守護に任ぜられた。
この間,佐々貴氏は平氏全盛時にも近江で威を振るっていたため頼朝の
不信を買い,頼朝は宇多源氏系を佐々木荘総管領とし,佐々貴氏はそれ
に従うように命じた。
佐々貴氏と宇多源氏系とは本来別個の豪族であったが,この結果,前者
は後者の庶子家として位置づけられるに至った。
330日本@名無史さん:03/06/02 14:30
>古代賎民制の廃滅
奴婢身分も,律令制から荘園制へという時代・社会構造の大きい転換のなかで,
10世紀初めの延喜年間(901‐923)にいたり全面的に廃止され,日本の賤民史上
に特筆される画期をなした。
これ以後,律令制にもとづく身分制・賤民制の仕組みは急速にくずれていった。

律令制の解体,荘園制の時代の到来は,律令制下の官司に隷属していた各種の
〈賤〉身分の人々や〈品部〉〈雑戸〉らを国家的組織から解放した。
331dsHuoshVS YahooBB219001164144.bbtec.net:03/06/02 14:45
332326:03/06/02 16:59
武道が猛禽の道っていうのは徒然草でした。しったかでゴメンナサイ。
333日本@名無史さん:03/06/02 17:58
>帰還地は、福島・宮城・山形あたりじゃないかな?
>帰れば、無税と山地を含む生活圏の保証を政府は提示してます。
>公民からの差別はなくなり、軍人も辞めてよくて、好きな仕事で無税なら、帰るのでは?

で10.11世紀に大規模な陸奥征服がおこなわれて、みんな根こそぎにしちゃうわけね
334日本@名無史さん:03/06/02 21:16
根こそぎというか、鎌倉に先駆けて奥州政権が誕生しているからね。
335あぼーん:あぼーん
あぼーん
336日本@名無史さん:03/06/02 21:22
>>334

奥州藤原氏のミイラってエミシの特徴を有していたよね。
エミシというか、この頃の朝廷と違う人種ってことが証明されたんじゃなかった?
で、京の公家どもは奥州藤原氏を嘲笑してたわけだが。おほほ
337日本@名無史さん:03/06/02 21:41
>334

藤原蝦夷氏の前に、日高見国の安部一族(安倍忠良+ 頼良+ 良宗 +貞任)
がいるよ。この一族は、源氏が追い詰めた俘囚のなれの果てだろう。
安部一族と部落を軍事組織として使っていた源氏の関係は、興味あるね。
338日本@名無史さん:03/06/02 21:46
1987(昭和62)年、埴原和郎は、鈴木が遺体から直接計測した頭骨のデータを用い、
多変量解析法と呼ばれる一連の統計モデルを応用した分析を行い、奥州藤原氏が
アイヌであることはほぼ完全に否定されること、藤原氏は元来東北に土着していたのではなく、
もともとは京都出身である可能性が相当に高いことを公表した。
また同時に、頭骨の計測値に基づく主成分分析の結果から、蝦夷(エミシ)についても言及し、
蝦夷(エミシ)はアイヌかそれとも和人か、という議論は日本人の形成過程を無視したもので、
古代史上のエミシは、現代的な意味でのアイヌでも和人でもない、と述べている。
339日本@名無史さん:03/06/02 21:51
>>337
源氏って部落じゃん。
340日本@名無史さん:03/06/02 22:13
>>337
>源氏が追い詰めた俘囚のなれの果てだろう。
俘囚の長ね。
守→俘囚の長→俘囚といった間接統治から
自治組織へと変貌したのがこの時代の特徴。
清原氏や安倍氏はともかく、藤原経清を遠祖とする奥州藤原氏は
中央から下向した武家貴族の末裔でしょう?
だから裏切り者として鋸引きの憂き目にあったわけだ。
341日本@名無史さん:03/06/02 22:19
>阿部氏
蝦夷の大酋長と、よく言われている。アイヌ系じゃないかな?
後裔と言われる安東氏は津軽十三湊で〈日之本将軍〉
〈下国(しものくに)殿〉と称してるね。

>俘囚
前九年とかででてくる俘囚とは、服属した蝦夷のことで、
西国から帰った俘囚とは限らないんじゃないのかな。
それで、服属した蝦夷の指導者が俘囚長。
賎民制や部落とは関係ない。
342よねこ:03/06/02 22:25

・俘囚説
・関が原戦の敗軍(守護大名の配下)説
・古代帰化人説
・ライ説

以上が、明治時代に挙げられた説です。
343日本@名無史さん:03/06/02 22:35
>源氏って部落じゃん。

ういえばそうだな。白山さまを東国に祀っているし。源氏とエタはどういう関係に
あるのかな?
344よねこ:03/06/02 22:37
白山の神はくくり姫、これって高句麗のことです。
源氏の白旗でぐぐってみて。
345日本@名無史さん:03/06/02 22:40
某県では古代帰化人や俘囚の末裔が支配層になっていたりするからね。
武士の系統でも神職に就いて明治期に没落した者もあれば、
御家人制度に組み込まれて上士になった者もいる。
幕藩制度成立まで身分間の流動はかなり激しかったから、
古代・中世の事を言ってもあまり意味がない。
346日本@名無史さん:03/06/02 22:47
>古代・中世の事を言ってもあまり意味がない。

差別によって人々を支配するシステムは古代中世から今日まで続いてる。
いつの時代の差別について語っても、今の差別につながっているんじゃな
いのかね。誰が誰を差別するという問題ではなく、それをシステムとして
利用しているわけだから。どの時代のことを言えば、意味があるわけ?
347よねこ:03/06/02 22:48
>>346
そのとおり
348日本@名無史さん:03/06/02 22:49
源氏は白旗,平氏は赤旗で,源氏の旗は清浄無垢を示す白地に,
源氏の守護神とされ後に軍神とされた八幡神の神号を書き記したもので,
家人(けにん)もそれにならい用いた。

源氏と言えば八幡信仰だろう。
近所(関東)にも義家が東北へ出陣した時に祈願した白旗神社がある。
地下には、刀が埋まってるとの伝説。

349日本@名無史さん:03/06/02 23:03
保元・平治の乱あたりから、武家が政治に介入してきたの?
崇徳のタタリかもしれないけど。
350日本@名無史さん:03/06/02 23:05
>>346
>差別によって人々を支配するシステムは古代中世から今日まで続いてる。
>いつの時代の差別について語っても、今の差別につながっているんじゃな
>いのかね。
社会に内在する差別というシステムの歴史について
研究する場合にはそれでもいいけどね。
ただ、質的に通時的に連続したもだという確証はないのね。
だから、現代の差別を考える場合には却って障害になったりする事もある。
古代や中世の一時期において異民族排除の原理が存在したとしても、
近世から近代にかけて異民族排除としては機能していなかった部分もあるし、
近代以降においては国民国家成立や
衛生観念の発達によって変容した部分があるからね。
死穢についての観念も宗教や政治的な事情からかなりの変動があるからね。
一言でいえば通時態に対して共時態という
断層への注意を促しているわけさ。解かったかい?
351よねこ:03/06/03 00:53
>>350
ふむ。明日、書くわ。
352よねこ:03/06/03 00:53
え?
353日本@名無史さん:03/06/03 01:17
別に現代の差別と繋がってなくてもいいじゃん。
354日本@名無史さん:03/06/03 09:58
ただ、
江戸幕府権力の強制的階級制度による差別発生説が、研究の進歩によって
中世発生説及び江戸期の差別は中期・後期と激しくなったへの変更。
江戸期はわりと経済的に優位性を確保してた部落も多く、人口増加している。
などの事実によって、
現在の部落差別に対する見方が変わった気がしないこともないが。
特に差別形成には民衆自身がからんでいるとの事実には、
差別解消には民衆の意識変革が必要との結論が出る。

ま、個人的には近現代部落差別は、もうなくなった、との意見だが。
355御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/03 12:00
『差別戒名とは』人権ブックレット25 松根鷹 部落解放研究所 を読書中ですが

『貞観政要格式目』の中に「三家ノ者」については、藁履作り、怦(坪)立、絃刺し等
中世非人の職業をあげ、日本では「坂の者で瓦の者」とも呼ばれるとしています。
これらの人は「燕丹」と呼ばれ「牛馬ノ死骸ヲ食トシテ世間ヲ渡ル」としています。
最後に「三家」の末孫の類例として、「渡守・山守・革作り・筆結、藁履作り、坪立て、
弦指し、墨子、傾城、癪者(かったい)、伯楽等、皆連寂衆ト云ウ」としています。
「燕丹」と示された「穢多」(屠者=旃陀羅の意か)がもっとも強く差別された。

「穢多」(屠者=旃陀羅センダラの意か)・・仏教用語か?
356日本@名無史さん:03/06/03 12:32
人口増加は、餓死するか賤民になるかしかないところまで追いつめられた人が
部落に逃げ込んだのもあると思うな。
357よねこ:03/06/03 13:13
だから応仁の乱だと。
358日本@名無史さん:03/06/03 13:24
今と一緒で、おいしいから似非童話が増えたのかもしれんよ。
農民や今のリーマンと違ってほぼ無税というのはおいしすぎる。
昼間からぶらぶらして世間に白い目で見られても、パチンコ三昧
できたらいいってのが昔もいたんでしょ
(もちろん辛い労働している童話もいたろうけど、博徒もいたし
経済的には平均的農民より稼げたし。独占事業はなんといっても
昔から旨みがあった)
359日本@名無史さん:03/06/03 13:47
>>357

 中世後半、守護大名同士が争った応仁の乱(1467年)をきっかけに、戦乱 の世は
100年ものあいだ続き、その中で豊臣秀吉が全国を支配するにいたりました。
 また、戦乱の中で団結を強めていった民衆は、土一揆や一向一揆を幾度となく起
こし、民衆を思うままに支配しようとした武士などとたたかいました。
 こうした民衆の抵抗を恐れた秀吉は,民衆が再び武器を持って立ち上がることが
ないような仕組みをつくろうと、全国的に検地や刀狩りを行い、百姓を土地にしばり
つけて年貢をきびしく取り立てました。同時に、身分統制令によって武士・百姓・町
人という身分を定めました。こうして、近世身分制の原型がつくられ、徳川幕府に引
きつがれたのです。
 そのとき、中世社会で賤視されていた人びとの一部が、被差別身分に位置づけ
られました。特に西日本一帯では、秀吉が行った検地で、農業を営みながら皮革
の技術をもち「かわた」とよばれていた人びとが、近世の被差別身分の母体とされ、
江戸時代の初期に「穢多」と呼ばれるようになりました。

確かに。しかし、この100年の期間って文献とか、あんまりないね。蹉跌の時代かな?
360よねこ:03/06/03 14:03
原田伴彦著『被差別部落の歴史』は、戦国時代をくぐりぬけた中世賤民について、次
のように整理しているが、

(1)古代の賤民という法制上の身分は平安時代に消滅してしまい、中世にもいやし
  められた底辺の人びとが生じましたが、それは国の法律や制度として正式につ
  くられたものでないこと。
(2)これらの人びとの血筋や身分が連綿として世襲的につながったものでなく、こ
  れらの一群の人びとは個人的にはたえず交替していたこと。また一定の地域に
  しばりつけられたまま、移動の自由や職業をかえる自由を奪われたものでなかっ
  たこと。
(3)応仁の乱から戦国の時代に、大名やその家臣団や地主たちが中下層の地位
  から上昇したように、賤視された人びとも下剋上の時代に、解放されていったこと。
(4)戦国時代は社会の大きな変動期で、これまでの家格や門地の高い支配層が転
  落し、中下層の人びとが上昇するなど、これまでの社会の上下のちがいがまった
  く混乱してしまい、それにともなって、賤民的なものがほとんど消滅に近い状態に
  なった。
361日本@名無史さん:03/06/03 14:11
 要するに中世賤民と近世の賤民は、戦国時代の動乱で切断されており、
集団のレベルでも個人のレベルでもつながりはほとんどない、というわけだ。
 しかし、ここ30年間ほどの部落史研究の成果によれば、中世賤民集団が戦
国時代の動乱の中で完全にまぜかえされ、近世の幕藩体制成立の中でゼロか
ら作られたような話は、まったく事実とは異なる。
 たとえば足利義昭を奉じて京都に進軍した織田信長が、1568年(永禄11)
四条天部に対して軍勢による乱暴狼藉や放火を禁ずるいわゆる「禁制」を発
給した。自分の軍にたいし、天部村に手を出してはいけないと厳命している
のである。
 天下統一をめざして京都に戦国武将が入ってきた時、そこには以前から住
んでいる河原者たちのうやうやしく頭をさげる姿があったのである(なお、
豊臣秀吉も1582年に信長に準じた禁制を四条天部に発給)
 この天部村は、京都でももっとも古い河原者の村で、慶長年間(1596〜16
15年)に制作されたとされる「洛中洛外図」にも明瞭に描かれており、1296
年頃制作の「天狗草紙」に描かれている「穢多童」も天部村の前身であった
可能性がある。
 徳川家康の場合も同じで、もともとは三河や駿河を根拠地としていた彼が、
秀吉の命令で江戸に移ったとき、まだほんの片田舎に過ぎなかった江戸には、
すでに弾左衛門が根をはっていた。そこで、家康は弾左衛門に関東の穢多の
統率をまかせることにしたのである。以上は、やや大河ドラマ風に全国統一
に向かう戦国大名と河原者たちの出会いをのべたが、もう少し実証的にいっ
ても、近世に穢多村と称された地域の成立は、江戸時代から相当さかのぼる。
山本尚友氏の「近世部落寺院の成立について」によれば、山城・丹波・播磨
という関西の部落の寺院の開基は、1321〜1428年に7ヵ所、1429〜1500年に1
ヵ所、1501〜1572年に39ヵ所、1573〜1614年に57ヵ所、1615〜1670年に57ヵ
所、1671〜1692年に12ヵ所とあり、江戸時代をまたずに相当数のお寺が成立
している。そして、寺がなりたつためには、それを支える集団が村として成
り立っていることが前提であるので、由緒ある中核的部落の成立は、鎌倉末
から室町期ということができる。
362日本@名無史さん:03/06/03 16:10
 
 なんだか、>361 が総括したので、もうお終いかな? 361も、よねこ?
363日本@名無史さん:03/06/03 16:57
>>361
徳川家康に関しては違うよ。
確か関東は北条氏に仕えていた別のえた頭がいたはず。その人を退けて家康は
弾左衛門を登用したはず。
364よねこ:03/06/03 17:01
>>363
江戸前島=円覚寺領について言及してませんが、これは史料がないのでしょうか?
前島はかなり繁栄していたという説もありますね。
365363:03/06/03 17:13
もちろん弾座衛門は一地方の頭ではあったろうが関東全体の頭は北条氏に仕えていた
なんたら氏(失念)だったと記憶している。
で秀吉がそのなんたら氏が謀反を起こすのを期待していたとか、家康が
それを避けるためどうのこうのしたとか、記憶しているが違ったら詳しくおせーて。

鎌倉円覚寺の荘園についてはあまり詳しくないです。
366日本@名無史さん:03/06/03 17:16
>>356
>人口増加は、餓死するか賤民になるかしかないところまで追いつめられた人が
>部落に逃げ込んだのもあると思うな。

>>358
>今と一緒で、おいしいから似非童話が増えたのかもしれんよ。

江戸時代被差別民の人口増加は、流入によるものではなく、被差別村自体の
人口増加と、すでに多くの資料から実証されてます。
367日本@名無史さん:03/06/03 17:24
>戦国時代のカワタ
軍備の確保のために不可欠であった皮革を安定的に保持すべく,皮革生
産者たちに対して特別の保護と統制を加えた。保護とは,領国内での皮革
生産・商売の権利を他者の侵害から擁護し,屋敷地(住所)を保障し,領民
一般が賦課される諸役を免除されることであった。その代償に,他の職業
に転ずること,指定の住所を移ることは,固く禁じられた。このようにして
皮革生産者は,支配領域は領国に限られるとはいえ強力な軍事力をもつ
大名権力に直接的に把握され,従属することとなった。そして,〈河原のえた〉
もやはりそうであったように,時と場合によっては,刑吏的任務をも課せ
られたとみられる。さらには,これも重要な点であるが,その住所として
特定されたのは,概して城下町の周縁部,交通上の要衝,河原の地であったらしい。
このような事情は,駿河の今川氏,伊豆の後北条氏,甲斐の武田氏などの
例で推察されているが,いずれの場合でも該当者は〈かわた〉の呼称で呼ばれていた。
368日本@名無史さん:03/06/03 17:28
戦国時代に被差別民は消えてません。
民衆自体が差別民を固定化しようとしています。穢れ意識でしょう。

中世農村では、惣村の自治が進み、惣村自体が、被差別民を枝村として、
身分を確定し差別しています。
それを、秀吉が検地帳にカワタと記載し、江戸時代から検地帳は賎民は
別冊とされ、差別の固定がさらに進んだ。
369日本@名無史さん:03/06/03 17:33
>>355
>えたの語源
〈えた〉の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永〜弘安年間(1264‐88)
に成立したとみられる辞書《塵袋(ちりぶくろ)》の記事が名高い。
それによると〈一,キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多〉とあり,
おもに清掃を任務・生業とした人々である〈キヨメ〉が〈エタ〉と称されていたことがわかる。
また,ここでは〈エタ=穢多〉とするのが当時の社会通念であったかのような表現
になっていたので,特別の疑問ももたれなかったが,末尾の〈穢多〉の2字は
後世の筆による補記かとみられるふしもあるので,この点についてはなお慎重な
検討がのぞましい。〈えた〉が明確に〈穢多〉と表記された初見資料は,鎌倉時代
末期の永仁年間(1293‐99)の成立とみられる絵巻物《天狗草紙》の伝三井寺巻
第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり,〈穢多〉〈穢多童〉の表記
がみえている。これ以降,中世をつうじて〈えた〉〈えんた〉〈えった〉等の語
が各種の文献にしきりにあらわれ,これに〈穢多〉の漢字が充当されるのが
一般的になった。この〈えた〉の語そのものは,ごく初期には都とその周辺
地域において流布していたと推察され,また〈穢多〉の表記も都の公家や僧侶
の社会で考案されたのではないかと思われるが,両者がしだいに世間に広まって
いった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を
公式に採択・適用し,各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。

〈えた〉の語源は明確ではない。前出の《塵袋》では,鷹や猟犬の品肉の採取・
確保に従事した〈品取(えとり)〉の称が転訛し略称されたと説いているので,
これがほぼ定説となってきたが,民俗学・国語学からの異見・批判もあり,
なお検討の余地をのこしている。
370日本@名無史さん:03/06/03 17:40
>>365
張り合って、弾差衛門が頼朝由来書のおかげで勝ったんじゃなかったかな?
くぐれば、あたるんでないかな。
371TAKA:03/06/03 17:40
家康の祖先は乞食坊主であり、ルンペン生活をしていたとのこと。
家康がえた・ひにんの身分を作ったのはまちがいでしょう。
このことについて意見ください。
372日本@名無史さん:03/06/03 17:48
>江戸前島
鎌倉時代,江戸は円覚寺領 前島と呼ばれる鎌倉円覚寺の荘園だった.
この地を最初に開拓した江戸氏は,桓武平氏の高望王の末裔といわれる.
埼玉平野の水利を活かした商取引で稼ぎ,土地の大福長者のような存在になっていた.
http://www.tokaido.co.jp/lab/wada/tour38.htm

江戸前島が鎌倉円覚寺の荘園であったのなら、当然そこには荘司がいた
はずである。著者はその荘司を躊躇無く鎌倉時代以来の矢野氏、尼店
(日本橋室町)にいた後の穢多頭弾左衛門とする。弾左衛門が尼店から
鳥越へ移ったのは家康江戸入り後、間もなくといわれ、さらに正保二年
(1645)には浅草山谷へ移された。家康の江戸と江戸城はこうした先住者
の追い立てと横領によって建設された。
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/data/hon/h004.htm
373よねこ:03/06/03 17:53
江戸前島は現代の神田あたりでしょ?
そーすると、妙に江戸期の被差別部落と重なる。
浅草より古い居住地って思うけど。
374日本@名無史さん:03/06/03 17:57
>>365
>弾差衛門と争った太郎左衛門
弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起
こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移
り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。
やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、
鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配
の特権を与えられた。
実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位
にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権
の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の
「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―
 
この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、
弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。
おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に
か消極的にかは分かりませんが「許容」されたということでしょう。
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/
375日本@名無史さん:03/06/03 18:04
>>374


出典がイマイチ。
376日本@名無史さん:03/06/03 19:13
>>366
野非人とかいるじゃん。
377日本@名無史さん :03/06/03 19:53
「矢野藤原弾左衛門」の「藤原」は何に由来してる?
やっぱりあの名氏にあやかった?
378日本@名無史さん :03/06/03 20:02
>367
皮革産業だけではない。中世において、文化財クラスの刀を製造
した鍛冶屋集団をはじめとする武具製造集団がのちの被差別部落
へと変貌した痕跡もある。
379よねこ:03/06/03 20:27
>>378
もっと詳しく教えて。
380日本@名無史さん:03/06/03 21:47
>>376
野非人は、特に大阪や江戸の大都市への流浪民。
地方では、地方部の町への流浪民。
農村部の被差別村の人口増加の説明にはできないのでは。
信州の影響による間引きの厳禁や経済力の優位やらが要因とされています。
381日本@名無史さん:03/06/03 21:49
頼朝落胤伝説は鎌倉権五郎景正を祭った
御霊神社の非人面行列由来があるな。
景正の目を貫いた矢が祭られているのは「矢の根不動尊」。

あと、関東で有名な藤原氏といえば秀郷と
宝治合戦で鎌倉を追放された頼経・頼嗣父子で
後者は頼朝公ゆかりの者である。

そういえば千葉氏や三浦氏といった関東有力御家人は
宝治合戦で滅ぼされたんだよな。
で、北条執権体制が確立された、と。
382日本@名無史さん:03/06/03 21:54
>鍛冶屋
近世,さらには中世以前ともなれば,一般農民にとって鍛冶は,いわば
遠来の〈まれびと〉であり,常人にはできない神秘な技術を伝承する聖職者
でさえあったわけである。事実彼らと農民とのあいだには少なからぬ習慣
の違いがあり,信仰の違いもあった。農民が田の神をまつるのに対して,
彼らは火の神,鉄の神である〈金屋子神(かなやごがみ)〉をまつるが,
この神は清浄をもっぱらとし,血の穢(けが)れを極端に嫌う一方,
死の穢れはいとわぬという奇妙な伝承があった。そうしたことから一般農民
は鍛冶を一面では気味悪がり,他面では頼りにするという気持ちをもった。
鍛冶とは縁組をしないという反面,火が穢れたときには鍛冶屋にたのんで
清めてもらうという習慣をもつところも少なくなかった。
383日本@名無史さん:03/06/03 22:03
北条は平貞盛、清盛が祖というが、そうなると伊勢平氏と同根である。
どこかで読んだが、伊勢国と関東の地名が重なるのはそういうことからか?
ま、後北条の早雲は伊勢氏ではないが。
384日本@名無史さん:03/06/03 22:29
関東でのかつての海岸部には、愛知文化圏から来たと思われる土師器などが
よく掘り出されます。古墳時代から交流は強かったようです。
385日本@名無史さん:03/06/03 22:31
>382
南北朝から室町にかけ勢力拡大で富を得た者が鍛冶屋集団を
他地域から呼び寄せた。刀は当時需要が多くあったが、敗戦
後は需要もなくなり、刀鍛冶は移住をした。農具の野鍛冶、
あるいは皮革産業がその場に残り、現在に至る。
このような仮説は立つでしょうか?

386よねこ:03/06/03 22:37

一族が鋳物師です。1568年に禁裏特権を受けています。
やっぱり、1467年応仁の乱から織田政権までの、きっちり100年に何かがあったと
思います。室町政権の中期はあまり紹介されていないのが残念。
387日本@名無史さん:03/06/03 22:44
>>386


ほほう、興味深いですな。詳細を教えてほしいものですな。
388日本@名無史さん:03/06/03 22:47
>386
織田軍により落城したのちはどうなったのでしょう?
389よねこ:03/06/03 22:50
>>388
織田攻めは1570年でした。大正時代まで継続しておりました。
390日本@名無史さん:03/06/03 22:58
しかし明治になって
どうして矢野や藤原を名乗らずに
わざわざ「弾」なんて厄介な苗字にしたんかな?
この辺の事情について考察した研究は見かけたことがない。
391よねこ:03/06/03 23:16
明治になって矢野直樹になったじゃないの?
392日本@名無史さん:03/06/03 23:22
>>391
「弾直樹」だよ。
ちなみ車善七は「車」を名乗っていない。
393日本@名無史さん:03/06/04 03:02
三条京阪の近くに木地師、竹細工の立派な店があるね。被差別部落に隣接。
394あぼーん:あぼーん
あぼーん
395預金者:03/06/04 07:20
396日本@名無史さん:03/06/04 11:54
>>385
>南北朝から室町にかけ勢力拡大で富を得た者が鍛冶屋集団を
>他地域から呼び寄せた。
戦国時代は領国内での移動も制限されてたから(軍需産業)。
鍛冶屋集団地域はあったと思う。

>刀は当時需要が多くあったが、敗戦後は需要もなくなり、刀鍛冶は移住をした。
>農具の野鍛冶、あるいは皮革産業がその場に残り、現在に至る。
>このような仮説は立つでしょうか?
明治期から、需要は落ちて、軍国時代はすでに工場制大量生産かと。
上手くその波に乗れたのは産業資本となり、多くは日雇いか小作になったのでしょう。
鋳物にのりかえたりもあったかも。
新部落は、幕末〜明治初期、戦後にできた新部落は聞かないかなぁ。

>>391-392
弾左衛門→弾内記(のち直樹)→矢野内記→矢野直樹みたいだけど。
397あぼーん:あぼーん
あぼーん
398日本@名無史さん:03/06/04 13:49
鍛冶と鋳物師の違いは? 内容は分かるが、身分差はあったの?
399日本@名無史さん:03/06/04 14:33
http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20020725.htm
 先ず読め。
>>398
 分からんね。
400日本@名無史さん:03/06/04 19:04
>>398
佐野の天明鋳物とは
   
全国にその名を知られる天明鋳物は、歴史は古く伝承では939年(天慶2年)
に藤原秀郷が平将門を征伐の軍器鋳造のため鋳物師発祥の地河内の国丹南郡佐山
郷日置荘(今の大阪府堺市日置町一帯といわれる)から5人の鋳物師(椎名伊予
守・小沼播磨守・太田和泉守・正田又右衛門尉・大川伊賀守といわれている)が
移住されたのが始まりとされてる。

その技術者は、統率され鋳物師職免状等がなければ鋳物業ができない制度とな
っており、免許状を取得すれば、子々孫々に存続できるという特権が与えられて
いた。天明鋳物師は史実では1167年(仁安2年)の「蔵人所牒」で源頼朝より河
内の国から全国に散った109人の鋳物師に特権が与えられたとされる末裔とし
て認められている。

その後も京都の公家「真継家」が全国の鋳物師を支配する証明書を発している
が、天明鋳物師14名は全国の鋳物師で最も早くこの証明書(1582年・天正10年)
を取得していることは、当時は東国最大の鋳物工業都市であったと思われる。そ
の後の徳川幕府も鋳物師の特権を認め、江戸時代初期には各地で城下町の形成の
ため天明鋳物師達が全国に移り住んだと言われる。
401日本@名無史さん:03/06/04 19:45
>>396
「弾直樹」は死ぬまで「弾直樹」だったよ。
(浅草のお寺の墓石にはたしかに「矢野氏」と刻まれてるんだが)
10年ぐらい前、『東京部落解放』誌だったか、
直樹の四男・「弾慎平」さんに関する大正頃の話が載ってた。
「弾」という名跡はその後途絶えたというのが定説。
402日本@名無史さん:03/06/04 19:55
「直樹」ってオイラの名前だ・・・
モダンな名前だと思っていたが、けっこう古いんだなあ。
「内記」をもじったのかな。
403よねこ:03/06/04 21:25
中世史の先生が、供御人や神人を被差別民というから
ややこしくなった。職能民の中で、美学として残らなかった職業のみが
近代以降にも差別の影を落としたんじゃないの?

しかし、源頼朝って、いろいろやってるね。ま、嘘も多いけど。
404日本@名無史さん:03/06/04 21:38
>>401
これ見ると、明治に矢野直樹と呼ばれてる感じなんだが。
http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0219-2.html
405日本@名無史さん:03/06/04 21:45
>中世の時代区分
「日本の中世」全12巻?網野善彦/編集・中央公論新社
では、11世紀からが中世との区分でした。
後三条天皇、院政で区分。荘園制の全国展開は11世紀だそうな。
406日本@名無史さん:03/06/04 21:46
で、優秀な技能集団はいつ頃からただのDQNになったんだ?
407よねこ:03/06/04 21:47
大江卓、大江氏というのは古代より嘘つきが多いね。
408日本@名無史さん:03/06/04 21:54
>散在神人
出身階層は,各地の在地の武士,荘官・名主,手工業職人・商人等々に
わたるが,そのほかに〈非人(ひにん)〉系の神人集団があり,とくに
〈犬神人〉〈つるめそ〉と呼ばれた京都梢園社直属のそれがよく知られている。

>供御人
早くから京に住むものもあったが,南北朝時代以降遍歴の範囲は狭まり,
京都,諸国の国府,市津などに定着,居住し,商工業者として都市民に
なるものが増加した。業種の分化も著しく,供御人組織はしだいに解体,
なかには種々の理由から卑賤視される人々もでてくる。

被差別民化した部分もいたということかな。
409日本@名無史さん:03/06/04 22:28
>大江卓 1847‐1921(弘化4‐大正10)
明治の政治家,のち実業家。土佐幡多郡宿毛(すくも)に生まれる。名ははじめ
斎原治一郎,のち土居卓造と称す。1867年(慶応3)土佐陸援隊に入り倒幕運動
に参加。68年伊藤博文の推挙により兵庫県判事試補となる。
71年〈穢多非人廃止建白書〉を民部大輔大木喬任に提出。
72年神奈川県権令となり,外務縁副島種臣の命をうけて,横浜に寄港したペルー
国汽船マリア・ルース号の中国人苦力虐待問題の裁判長となり,奴隷売買は人道
に反すと判決して苦力231名全員を本国に送還さす(マリア・ルース号事件)。
74年大蔵省に出仕したが翌年辞職。77年土佐立志社の一員として西南戦争に
呼応しようとして林有造らとともに捕らえられ禁錮10年の刑に処せられ,
84年出獄。87年大同団結運動に参加,90年立憲自由党創立に参画して代議士に当選。
92年選挙に落選して政界を退き実業界に転ず。1909年まで東京株式取引所会頭,
京釜鉄道株式会社重役などを務め,09年実業界も退き,14年僧籍に入り天也と号す。
同年帝国公道会を創立して未解放部落の融和事業に専念。                       後藤 靖

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
410日本@名無史さん:03/06/04 22:43
えた・ひにんは、生活に苦しむ農民に、自分よりまだ下がいる
と思わせる家康の得策だったといえるだろう と歴史の先生がいって
いた。でも、どういう人がえた・ひにんに選ばれたかは謎です。
だれか教えてください。
411日本@名無史さん:03/06/04 22:48
>>403
>中世史の先生が、供御人や神人を被差別民というから
>ややこしくなった。

世紀の電波ジジイ(藁)こと網野善彦が諸悪の元凶。
網野の「非農業民はみんな差別されてた云々」は
学界内向けのレトリックとしてはそれなりに有意義だが、
素人相手には誤解を招く発言で、きわめて有害。
そういや先日の歴研大会全体会では
石井寛治大先生が実にウィットに富んだ網野批判をやって
会場で大受けしてた。
412よねこ:03/06/04 22:51
>>409
林有造って、改名して安保海軍中将よね。
大江氏の系譜は阿保親王から始まっているという嘘系図が有名。
413日本@名無史さん:03/06/04 22:52
供御人や神人ってどういう人?
414日本@名無史さん:03/06/04 23:31
>網野の「非農業民はみんな差別されてた云々」は

そんなこと言ってるか?
415日本@名無史さん:03/06/04 23:37
>>410
> 「 蟻の街の奇跡」 松居桃棲著 より抜粋
>
> 「浮浪者」という言葉は、天智天皇の時代から、「戸籍」という言葉ととも
> に、公の政治用語として使われはじめたもので、そのころは「うかれびと」
> と発音していた。その意味は、今のような「一定の住所も職業もなく働く
> 意欲もない人生の落伍者」ではなく、貴族たちよりも、逞しい生活力をも
> ち、堂々と広大な田地や山林を所有していた人々だった。そういう人々を、
> なぜ、時の政府が「浮浪者」の烙印を押して追放しようとしたか? そこ
> が大事なところだ。そのころ、天智天皇と藤原鎌足を中心とする政府は、
> まず「戸籍」を作って自分たちの仲間だけ登録しておき、つぎに例の「班
> 田収受の法」によって戸籍に登録していない、政敵や異民族や賤民たち
> が開拓した土地を「浮浪者が不法占拠している土地」と称してどんどん没
> 収した。こうして、山に追いこまれたのが山窩となり、河原の荒地に追わ
> れたのが河原者、すなわち穢多になった。

http://www.kumanolife.com/guestbook/spare.html
416日本@名無史さん:03/06/05 00:09
>415
ずいぶん古い本(それもバタヤ部落の話)を引っぱり出してきたな...
図式的で面白い
417松金米吉 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/05 14:15
サンカだけは別にしといてくれヨン。
418あぼーん:あぼーん
あぼーん
419よねこ:03/06/05 14:22
平安末期(中世ね)
サンカは僧迦(釈迦に帰依した集団。自由意志に基づく組合を運営)
童子(堂子)や神人は、力(武力と財)を持つようになり、やがて僧兵となる。
サンカの成立は近代、近世とも言われるが、如何なものか?
420日本@名無史さん:03/06/05 15:00
>>403 名前:よねこ[sage] 投稿日:03/06/04 21:25
>職能民の中で、美学として残らなかった職業のみが
>近代以降にも差別の影を落としたんじゃないの?

一番説得力があるように思える!
421日本@名無史さん:03/06/05 15:15
422日本@名無史さん:03/06/05 15:30
>山窩(さんか)
日本の山間部を生活の基盤とした,漂泊性の強い少数集団であったが,
第2次大戦あたりを境にして不明となった。サンカは散家,山稼,山家
などとも書かれてきたが,民間ではポン,ノアイ,オゲ,ヤマモンなどと
呼んでおり,とくに平地の住民からは異端的に見られていた。
その生活の実体は十分につかめてはいないが,現在までによるべき民俗学
的研究は,柳田国男《“イタカ”及び“サンカ”》(《人類学雑誌》第27
巻第6号,第8号,第28巻第2号。《定本柳田国男集》第4巻所収,1967),
後藤興善《又鬼と山窩》(1940),三角寛《サンカの社会》(1965)などであろう。
その種族的系統については,渡来人説や落人(おちうど)説,中世の傀儡(くぐつ)
の後裔説などがあり一定していない。生産技術や社会関係,信仰といった
生活様式が平地民とやや異なるために,そのいくつかの要素には注目すべき
ものがある。まず住居は山では洞窟に住み,移動のときには小屋とかテント
を張って家族単位に生活し,その住居をセブリと呼んでいた。言葉のいくつ
かは集団固有のものを用い,それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。
サンショとは中世の散所(さんじよ)にあたり,芸能や宗教などにたずさわった者
と根をひとつにすると推定されている。生産物としては細工物が多く,
箕,籠,簑や笠,下駄などを作り,里におりては食料その他と交換した。
移動には冬は南の暖かいところ,夏は北の涼しいところに居をかまえたといい,
川漁にたずさわる集団も多かったようである。なかには九州のミツクリカンジン
(箕作勧進)のように,戸籍を持たぬ者が多く,集団から脱落して平地に
おりた者がはじめて戸籍を持った例もある。集団ごとに統一的組織があって,
頭目とか親分のようなリーダーが統率し,掟も強固であったようで,
それが平地の人間に奇異な印象を与えた。平地の者と交渉するのは,
物々交換のときや病人の出たときなどで,継続的に深い交際を持つこと
はなかった。
 
423よねこ:03/06/05 15:51
竹細工を賎とするのもおかしいね。
 もともと竹は神の宿る木で神聖視されていた。
  浄と不浄の境に結界を張るが、その囲い木は竹です。
   竹は祓いの聖木であったので竹を作るもの、細工を施すものが
    後の世に賎視されたのは、他の現象と同じく、キヨメ、職能民への
 蔑視とよく似ている。朝廷が作為的に行ったような政策に思える。
 一方、僧兵の権力は公家を脅かしている。

 ここら辺がポイントかな?
424日本@名無史さん:03/06/05 15:59
結界の外に居る人々

ケガレ(=結界の外)の空間に住居する人々は平安時代に寺社、貴族に従って都と
その周辺に集まるようになってきた山僧、神人、駕輿丁、娼婦など非農業的生産(狩猟、
漁労、商工業、金融など)にも携わっている人々である。彼らはまた「童子」と呼ばれ共
通して童形であり、「童」の語源や歴史的なこの言葉の見解を考察することも必要である。

さてそれでは、童形をした「童子」とはどのような人々で、社会のなかでどのような役割
を担っていたのであろうか。「童子」は垂髪、乱髪で表されており、「京童」、「鬼童子」、
「穢多童」などの他、「八瀬童子」、牛車を扱う「牛飼童」、寺院、神社やなどの下働きを
する「堂子(「童子」、「童男」または「堂童子」)」、「神人(寄人)」なども童形である
425日本@名無史さん:03/06/05 16:03
このスレ、興味があって見てますが、レベル高すぎて難しいよ〜
426日本@名無史さん:03/06/05 16:10

歴史学を学ぼうとすれば、被差別民に触れざるを得ないのです。
だから、古代から現代まで包括的に歴史を理解しないと駄目なんでしょうな。
そういう意味で難しい学問領域です。
427日本@名無史さん:03/06/05 17:27
>>424
平清盛の密偵といわれる“かむろ”も童子の仲間なの?
おかっぱの少年だったと聞いたけど。
428日本@名無史さん:03/06/05 17:42
>1
ひにんっていう位だから、元々人ではなかったのではないか?
先祖が狼男とか、オリバー君とかさあ、昔のことだから、人間と馬の間の子とか
もいたかもしれないしね。
429日本@名無史さん:03/06/05 17:57
禿(かむろ)

清盛を始め平家一門の急な栄進は、当然の事ながら従来からの貴族の反感を買い、
平氏の横暴さは庶民まで巻き込まれて、批判の言葉を口にするようになった。
 これに対して、清盛は一種の弾圧政治をとった。「平家物語」に見える話であるが、
清盛は雑用に使う十四歳から十六歳までの少年ばかり三百人を目付役として京中を
巡回させ、平氏の悪口を言う者を摘発させた。
 これらの少年はすべて髪を禿(かむろ)といって短く切りそろえ、赤い直垂を着せられ
ていたので、六波羅殿の禿と呼ばれた。彼らは京の市中を徘徊していて、誰かが平氏
の悪口を言ったり、政治批判を口にしたりしているのを耳にしようものなら、すぐに仲間
を呼び集めて口にした者の家に乱入し、家具や衣類などを壊したり、破いたりして乱暴
した上、六波羅へ引き立てていった。
 そして散々なめにあわせたので、人々は恐れて平家のことはどんなに酷いと思っても、
口に出す者はいなくなったという。
430日本@名無史さん:03/06/05 18:03

  「平家にあらずんば人にあらず」
    人非人は「にんぴにん」と読む。人でなしの意。

差別発言ですね。
431日本@名無史さん:03/06/05 18:03
柳田国男『にが手の話』から
「蝮取りのニガテは蝮を怖れず、手を出しても咬まれず、或はまた
これに逢うと蝮は動けなくなって、安々とつかまるとまで信ぜられて居る。
・・・その手には特徴があるように言われている。たとえば蝮指といって、
手の指の端の関節だけを曲げて、次の節を突き張ることが出来る。
蝮指の人は五本揃えて熊手などのように、たやすく上だけを屈められる。
・・・現に白状すれば自分などもその一人だった・・・

このニガ手の特質を持つ家または一まきを、
カジハラとかフジワラとかいって居る地方があった。
・・・もう一つ変わったことに耳たぶに穴のある人というのが折々あって、
中国の某地ではそれをもまたカジハラと呼んでいる。」

柳田国男『にが手と耳たぶの穴』から
「蛇を怖れない素質の人があって、
それには耳たぶに窪みがあるということを、方々で言い伝えている。
・・・現にこの春亡くなった娘なども、私がその話をすると笑い出して、
自分にも小さい窪みがあるといった。
それでは遺伝はどうだろうかと、そのまた子になる女児を見ると、
これにも燐寸のさきほどの浅い窪みがあるのであった。」
432日本@名無史さん:03/06/05 18:09
433資料屋・御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/05 20:20
>山窩(さんか)
宮下文献には父神・高皇産霊神と国狭槌尊は蓬莱山、つまり太古の富士山麓に神都を開き
・・・ウガヤ王朝は51代続き、摂政が22代あって合わせて73代になる。

上記(うえつふみ)には神武天皇以前にウガヤフキアエズノミコトの名を世襲する72代に
およぶ古王朝の存在を伝えている。
記された豊国文字はサンカ文字とほとんど同一である。

(富士山は今でこそ日本一の山になってますが噴火する前は三つの山だった)
御嶽山を信仰し一番えらい神は小名彦です。国常立とか大国主とかは役職名らしい。
434>433追加・御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/05 20:40
富士山の噴火で王朝は滅び全国に散りサンカの元になる
蝦夷とも共同生活していて山人と呼んでいた。
435日本@名無史さん:03/06/05 21:10
>>423 なかなかいいところ付いているね。

「堂子」は寺院に仕え、寺院全体の警備、管理、保全、生活に関わる必需品の確保、
仏供灯明の管理の他、領地の管理など僧侶の掌握の及ばない仕事を行った。特定の
仏教行事で、法会の進行を担い「鬼役」を務めるなど、行事には重要な役割を果た
していた。東大寺や四天王寺の法要では「堂童子」の下に「堂子」が置かれ、火祭
りの火を持ち、穢れを払う役や「堂童子」を持ち上げ、鐘を打たせる役を果たして
いる。

「神人」は律令制のもとで「神奴、神賤」と呼ばれた人々で、平安時代末期から現
れ、本社に属する「神人」を「本社神人」、末社に属する「神人」を「散所神人」
という。彼らの役割もまた「堂子」と同じで、領地や領民の管理や把握なども行っ
た。京都の祇園社の「犬神人」などが特に有名である。

>>433 ウガヤ王朝

サンカの起源は幾つもあるね。耶馬溪というのもある。
436435:03/06/05 21:19
 平安時代以降、寺院の組織は、貴族や地方の豪族出身で裕福な主に学問を学ぶ
「学生、学僧、学侶」などと呼ばれる勢力と、「行者、行人、禅衆、堂衆」などと
呼ばれる学生の召使いの「童子」、仏に献花する「中間法師」などの下級僧侶で、
主に修行によって仏に仕える勢力に二分化されていた。

 延暦寺では、平安時代末期、両勢力の対立が顕著化し、彼ら「行人」が高利貸し
などで富を蓄積し、発言力が増したために起こった対立だと分析している。彼らの
中には、荘官に任命され、荘園の実質的な経営にも関与する者もいた。

 東大寺でも中世、黒田荘の支配に大きな役割を担ったのは、「堂衆」と呼ばれる
勢力であった。こうした集団は、合議制が中心となっており、多数決による意志決
定が普通である。これは元来「僧」が「僧伽」と呼ばれる釈迦に帰依した弟子の集
団「サンガ」の略語であり、「サンガ」の伝統を受け継ぎ、「一味和合」の精神に
従っていたからかもしれない。またこの「サンガ」は自由意志に基づく共同目的の
ための組合でもあった。
437日本@名無史さん:03/06/05 21:26
>>372
>江戸前島
>鎌倉時代,江戸は円覚寺領 前島と呼ばれる鎌倉円覚寺の荘園だった.
>この地を最初に開拓した江戸氏は,桓武平氏の高望王の末裔といわれる.
>埼玉平野の水利を活かした商取引で稼ぎ,土地の大福長者のような存在になっていた.

桓武平氏の高望王の末裔って平国香とか将門じゃないですか? その後裔は
直系ではないが北条氏でしょ? 江戸氏は、つまり北条氏で、弾さんは北条の末裔?
つうか後北条?
438日本@名無史さん:03/06/05 23:54
>江戸氏
武蔵,常陸で活躍した中世の武家。

(1)武蔵国豊嶋郡江戸郷を本領とする武家。桓武平氏秩父氏の流れをくみ重継
が江戸に住して江戸を称したのに始まる。武蔵国南西部の雄族で,重継の子
重長が源頼朝の麾下(きか)に参じてから重用され,重長は武蔵国衙の指揮を
任されている。畠山氏が滅んだ後は武蔵国随一の武家となり,嫡庶流が武蔵国
各地に分領して自立したほか,承久新補の地頭として重持が出雲国安田荘に
下向している。その後,幕府滅亡に前後して足利氏に従い,さらに関東公方
の支配下に入ったが,1368年(正平23‖応安1)の平一揆の乱に参加して処罰を
うけ,惣領家は没落する。しかしその後も庶流の木田見(喜多見)流江戸氏は
吉良氏家臣として活躍し,後北条氏滅亡後徳川氏に仕えて御家人となり,1689年
(元禄2)罪を得て収公されるまで武蔵国喜多見を領した。他の庶流では,享徳の
大乱で衰えながらも後北条氏の臣下に加わり,近世まで残った蒲田流江戸氏
などが知られている。

(2)常陸国江戸郷を本領とする武家。藤原秀郷の末流で同国那珂郷に住んで那珂氏
を称した一族のうち,南北朝時代に北朝佐竹氏に従った通泰が江戸郷を恩給され,
その子通高が江戸を称したのに始まる。上杉禅秀の乱による大掾氏の没落や佐竹・
山入両氏の抗争に乗じて勢力を伸ばし,佐竹領を侵し南郡にも進出した。1510年
(永正7)すでに山入氏を滅ぼして佐竹領国を統一した佐竹義舜との間に結ばれた
いわゆる一家同位の盟約は,南北朝以来の江戸氏の発展を集約的に示しているが,
佐竹・江戸両氏の対立もこのころから顕在化し,47年(天文16)最初の武力衝突をおこす。
4年後和しその後の北条・上杉対立期にも佐竹氏旗下にあったが,豊臣秀吉の関東
進出に際して佐竹氏がいちはやく秀吉に参じたのに対し,江戸氏は常陸にとど
まったため,佐竹氏の攻撃をうけ居城水戸城は落城する。しかし当主の重通は
結城に落ちのび,末流は水戸を称して結城氏に仕えた。  
439日本@名無史さん:03/06/05 23:55
>古代文字
現在では、完全否定されてるようです。
440日本@名無史さん:03/06/06 01:58
>>423「ささら」は竹製じゃなかった?
441日本@名無史さん:03/06/06 07:01
竹細工というよりは竹林が問題だったのでは?
風葬が行われたのは竹林でしょう?
胞衣が埋められた場所には松が植えられていますね。
生(松)/死(竹)というサイクルの中で考えられるのかもしれません。
あと、竹製品は普通の道具ではなく
祭祀における清めの儀式に使われていますね。
何れにせよ宗教的意味合いが濃厚です。
まぁ、一般化は出来ないのですが。
442よねこ:03/06/06 12:06
>>440
ささらって、芸能民のことでは?
443日本@名無史さん:03/06/06 14:28
「神人」や「童子」が「神奴」・「仏奴」と称されることで、歴史学が彼らを奴隷
や従属民と見なし、差別の対象であったとしていることである。「童」の語源は農
奴や作男を指した。しかし、古代国家が良民と婚姻を禁じている人々には、特殊な
技術職人集団もおり、技術の独占のため、一般への普及を恐れた可能性も否定でき
ない。またそのような人々は、神との交流があるため、特殊な技術の才能を持ち、
普通の人々と婚姻を結べない状態であったのではないかとも考えられる。

 彼らは、神との交流が可能のため、神聖さと共に穢れも併せ持つ存在と見なされ
ていた。つまり「ケ」の場所以外の異空間に居住していたからである。「神人」や
「童子」に関しても、「女性」と同じように、神に従い、神の依代となる存在と認
識される存在であるなら、神と同一化した、両義性を持つ存在として考えられる。
尊敬される存在であると同時に、畏怖の対象でもあったのだ。

『八坂神社文書』(文和二年、1353年)犬神人等申状によれば、清水の感神院「犬
神人」が「職掌人」であると主張している点も重要である。彼ら「堂子」や「神人」
は自立して職業に従事していることは、確実であり、「キヨメ」という行為も職能
の一つと考えていた可能性も高い。
 また荘官として活動する「堂子」「神人」も多かった。「寺奴」として差別の対
象となっていたなら、東大寺の修正会において、「学生」と「堂子」が対等の役割
で一つの集団を作り、重要な儀式を取り行うことは不可能であったのではないか。
従って、彼らが、奴隷・従属民という考えは再考に値すると思われる。
444日本@名無史さん:03/06/06 14:31
>>424

「堂子」や「神人」が童形でいることは重要な要素を持っている。現代でも、児童
(童)が「七歳までは神の子」というように神の「尸童(よりまし)」としての役割を有し、
神社などの祭りなどで重要な位置を占めるように、大人になっても童形でいることが、
神仏との交流を現実に表し、人々の敬意を受ける要因になっているのではないだろうか。

彼らは共通して別の世界との交流を明示または暗示しており、
この世のものではない霊力、呪能を身につけた存在として認識されていた。
古代の風刺・予言の流行歌は「わざうた」とよばれ、「童謡」とも表記された。

445よねこ:03/06/06 14:58
>>441
平安初期まで、風葬といえば、横死か伝染病者を棄てた埋葬。
普通の人達は、家の渕などに土葬していた。
そのうち、風葬処理を専門とする民が現れたのか?
被差別民を草の者とも称するし。
446日本@名無史さん:03/06/06 15:39
>>441
竹が呪具=祭器に用いられた例証は「万葉集」にもみえている。
ただ、あくまでごく一部の階層の物。
宮廷文化では、竹は中国文化への憧憬の一つでもあった。
竹が広く民衆化したのは、中世後期〜近世初頭。

胞衣が山林に捨てられたのは西日本文化。
東日本文化では、家の入り口に埋められた。

>>442
「ささら」は竹の楽器。「ささらこじき」は、舞い踊る芸能民。

>>443
犬神人は、平安後半から神通力を失い、それまでは暴れて要求を通してたのが、
武家から討たれ始め、おとなしくなっています。
童の髪型の子ども?が天狗を殺してる場面がどこかの絵図にありましたね。
平安後半で価値が逆転しはじめてようです。

>>445
本来の風葬は日本では南西諸島の文化。
遺棄された死体は、念仏僧集団が火葬するようになった。
10世紀に入ると阿弥陀聖(あみだひじり)の徒が遺棄された遺体に念仏を唱えて
まわるようになった。
さらに阿弥陀聖たちは放置された遺体や骨を集めて荼毘(だび)(火葬)に付した。
447日本@名無史さん:03/06/06 18:09
>>446 >>440です。「竹箒」の意味で書いたのですが、取り合えず辞書で
調べて見ました。
簓【ささら】先が細かく割れた状態(のあるもの)三省堂 だそうです。
それと「ささら電車」ってご存知だろうか?これはローリングする竹箒で
雪を掻き分ける車両で、その車両の竹箒を「ささら」といいます。
「竹の楽器」よりも「竹箒」も方が歴史が古いのではなかろうか?
448よねこ:03/06/06 18:57
ささら(簓)

70センチ程の途中まで割った竹を、
同じくらいの長さの刻みを入れた木の棒にこすりつけ、打鳴らし、
自らの語りや唄を伴奏する。
中世に「ささらすり」という芸能があったが、
(「ささらすり」は「説教語り」であるとも言われる。
「ささら」は二つに大別され、木片を多数繋いだ「びんざさら(編木)」と、ニャンコ
のつかう「すりざさら」がある。後者はまた、ささら竹、ささらこ、とも呼ばれる。
いずれも「説教語り」の他、田楽、獅子舞にも用いられた。

山椒大夫などは、ささら説教で伝承された。
伊勢地方では、神宮前にて、ささら芸を行う盲目の二人の女性が有名になり、
これが後の浪花節に繋がる。
449日本@名無史さん:03/06/06 21:46
>>448
東海地方もササラと言いますが
450日本@名無史さん:03/06/06 23:33
>箒
箒は、古事記にも生死に関する呪具としてでてきます。ただ、竹かどうかわかりません。
ただし、竹が広く民間にいきわたったのは中世末期から近世初期です。

>簓説経
簓をすりながら語る説経。《慎庭(いんてい)雑考》(1843成立)巻三に簓説経の
絵があるが,能の《自然居士(じねんこじ)》の説経僧が簓を使ったことからすると,
その歴史は古い。絵はむしろの上に大きな傘を立て,その下で羽織を着た俗形
の男が,立姿で簓をすりながら説経を語っており,そのまわりに男女数人が首
をうなだれて聞き入っている。江戸期の説経(説経浄瑠璃)が簓にかえて三味線
や操り人形と結びつき,かんたんな小屋掛けで演じられていたのに対し,これは
大道芸であり,中世末期ころの古い説経の姿をよく示している。ロドリゲスの
《日本大文典》(1608)には,日本で最も下賤な者として軽蔑されていた七乞食をあげ,
その一つに簓説経を入れている。
451日本@名無史さん:03/06/06 23:43
>>450
ゴトシやね。
452日本@名無史さん:03/06/06 23:57
>>451
御殿山さん?

ゴトシって漢字わかりますか?あるいは、別名。
453日本@名無史さん:03/06/07 00:55
事師だけど。日本ではエロ事師かな。中国の文献にはあるね、いぱーい。
454日本@名無史さん:03/06/07 00:56
ゴトシ

  シゴトのこと。芸能民とかサンカの使う言葉かな?
455資料屋・御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/07 01:53
七乞食は奈良興福寺にいた猿樂・歩き白拍子・歩き巫女・歩き横行(陰陽師の一種)・
鉦叩き・鉢叩き・猿飼(猿廻し)

これが正解なら陰陽道→芸能→能楽や狂言・・・・呪師(じゅし)?
456日本@名無史さん:03/06/07 04:31

もう言いなや!
457日本@名無史さん:03/06/07 06:20
竹楽器といえば虚無僧の尺八がありますね。
虚無僧の所属した普化宗は明治政府によって大弾圧を加えられ、
戦後、臨済宗東福寺の一派として復活しました。
竹林の七賢人でも分かるように竹が神聖視されたのは
中国の老荘、禅宗系ですか?
禅宗の伝来は鎌倉時代ですね。
458日本@名無史さん:03/06/07 11:31
>>457
日本での竹が呪具=祭器に用いられた例証は「万葉集」にもみえている。
民衆生活と結びついたのは室町期。竹林は人工林。

中国での竹の神聖視は古代から。
竹は節目正しく,まっすぐに生長し,冬にも青々としていることから,俗気の
ない君子の植物とされ,此君(しくん),君子,抱節君,処士などの異名をもつ。
唐画では,梅,蘭,菊とともに〈四君子〉と称され,気品ある植物としてしばしば
画材とされてきた。
また,冬の寒さに屈しない植物として,松,梅とともに〈歳寒三友〉に数えられる。
一説には,山水,琴酒,松竹を〈三友〉と称し,退廃した世に友とするものとして,
その気品がめでられている。
459日本@名無史さん:03/06/07 11:35
>門付芸人
節季候(せきぞろ),万歳(まんざい),春駒のように一年中の定まった季節
にやって来るものと,説経,祭文,歌比丘尼などのように時を定めぬ者と
がいた。
いずれも,もともとこじきだったわけではない。むしろ季節を定めて祝福
に訪れてくる神々への信仰に源流をもち,神の姿をした祝福芸人〈ほかい人〉
の末裔にほかならなかった。だから,《万葉集》巻十六に〈ほかひびと〉の
歌がおさめられていることからもわかるように,その起源はきわめて古いといってよい。
しかしこれら祝福芸がたとえば能や狂言などのように社会の上層に上昇転化
するきっかけを失い,また近世に入ってからは,これらの芸をになった人々
のほとんどが,差別視された身分におとしめられるにつれ,かつての巡遊芸人
たちもこじきと同様にみなされるに至った。
460日本@名無史さん:03/06/07 16:32
>呪師猿楽(しゅしさるがく)
平安時代,寺院に属し,法会の際に呪師の役を代行した猿楽。東大寺,興福寺
等の大寺では,春を迎え,新しい年の太平を祈る修正会(しゆしようえ),修二会
(しゆにえ)の勤行の際,法呪師(呪師)と呼ぶ役僧が,仏法守護の神々を勧請して,
結界,鎮壇,鎮魔,除魔等の密教的な行法を受け持った。行法の動作は激しく,
鈴を鳴らし,太刀を振り,足早に小刻みに走り回った(走り)らしい。本来行法
であるものが,芸能的に賞専(しようがん)されるようになり,はては貴族が自邸
に法呪師を招くようになった。そうなるにしたがい,法呪師のしごとである
追儺(ついな)や四民安楽の祈裳的歌舞を,寺院に属した猿楽者に代行させ,
もどきをさせて,一層の芸能化が促進されるようになった。これを〈呪師猿楽〉
という俗称で呼び,その芸を〈走り〉と称したらしい。
世阿弥の《風姿花伝(ふうしかでん)》に,〈伊勢,主司(しゆし)二座〉(4巻本は三座)
とあり,主司は呪師のことで,伊勢猿楽が呪師猿楽の系統であり,〈走り〉の芸
を演じていたことを示している。〈走り〉は舞楽の走り物の系譜に立つと思われる芸
が京洛貴族に迎えられ,宮廷や六勝寺の法会では〈昼呪師〉の芸が行われて,
一般の猿楽より高く遇された。〈走り〉の芸はまた〈延年〉にも流れこんで
いる。興福寺の薪能(たきぎのう)で行われる《式三番》をとくに〈呪師走り〉
と呼ぶのは,呪師が《式三番》を勤めたことを推定させる。
461日本@名無史さん:03/06/08 12:37
部落差別って本当はもうないんじゃないのか?
462日本@名無史さん:03/06/08 15:46
>>461
あるよ。
例えば宅間容疑者。
彼は自分が望む地位を獲得できないのは部落差別のためと考え
差別があるのはエリート社会があるからだと思って
エリート養成機関と位置付けた国立大付属の小学生を殺した。
463日本@名無史さん:03/06/08 16:27
>>462
情報ソースを明らかにしてください。
464日本@名無史さん:03/06/08 16:42
部落差別は、部落地域の住人自身が部落問題を作り出している以上、続くだろうね。
同和教育を学校に強要し、国や地方自治体には公共事業の特別配慮を求め、
同和系団体が企業を恫喝して金を脅し取る。
昨今の不景気で、いろんな福祉団体・福祉事業への出資は削られているのに
同和地区には相変わらず金がつぎ込まれ、豪華な公共住宅は「家賃も払えないほど
貧乏」だがベンツやBMWは所有している部落住民に占領されている。

>本予算案に反対する第五の理由は、同和行政の問題であります。
>昨年12月、同和行政終結の市会決議が採択されましたが、市長のいう
>「特別の同和施策はなくなる」という来年3月をまつまでもなく、
>部落解放同盟にたいする一泊研修旅行などへの補助金は即刻廃止すべきであります。
>一方で難病団体への補助金をカットするようなひどいことをしながらのこうした
>補助金支給は許されるものではありません。
>また、同和地区施設の一般利用や改良住宅空家への一般入居もただちに取り組むことを
>もとめるものですが、いずれにしても特定の地区や団体を対象とする施策はこれ以上
>予算措置をすべきではありません。
(2001/2京都市議会での共産党市議の発言より)

つい最近も、阪神道路公団を脅して莫大な工事を受注していた同和系建設
会社が摘発された事例があったよね。

まあ、彼らは「部落であることを売り物」にうまい汁を吸っているので、
その売りである部落問題を消滅させることは絶対にないと断言できます。
465:03/06/08 17:02
 >>462
 宮崎勤は?
466 :03/06/08 17:03
 >>1
467日本@名無史さん:03/06/08 17:05
>>464
本当の事書くと、同和燃焼系アミノ式の人たちに「そんな運動」されちゃいますよ!!
468日本@名無史さん:03/06/08 17:31
竹取物語。
469日本@名無史さん :03/06/08 19:33
また日本史板の人達にかまってほしくてほしくて仕方がない
人権板厨が張り付いてきたな。
スレ違い板違いなので帰って下さい。
470もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/08 20:40
ここは、部落問題の日本史分科会です♡
パート2やでぇ
ピントのずれたことゆうなよ。
472日本@名無史さん:03/06/08 23:02
関東某県では、同和教育が廃止され(人権教育となった)、
童話特別加配教員が廃止されたと聞きます。
西はまだまだなのかな?
473日本@名無史さん:03/06/08 23:07
>竹
竹は,歳寒(さいかん)の三友(さんゆう),すなわち,〈松竹梅〉の一つ
として,日本では慶事に用いられるので,日本人と竹との密接なかかわりは
よほど古い時代にまでさかのぼるかのように考えられがちであるが,
その〈松竹梅〉の取合せが文献に登場するのは室町時代のことでしかなく,
竹が庶民生活と離れがたく結びつくのもその時代以後のことである。

もちろん,竹は古代日本にも存在していた。竹の類を用いたと思われる
遺物が発見されているし,マダケの日本自生説もある。しかし,古代の
文献や古典において竹がどのように表現されているかをみる限りでは,
竹はもっぱら貴族支配層によって占有され,賞美されていたものと考えざるをえない。
474日本@名無史さん:03/06/08 23:16
>竹取物語
評価高いんだね。これ。
伝統説話の形式をとり、身近な題材と見せつつ、貴族の腐敗社会を
批判している風刺作品で、物語文学の開祖で、源氏物語にもそう評価されてるらしい。
さらに、風刺物語だけと見るのは一面的で、そのなかに俗悪社会に押し流されない
人間的美しきもの(姫と翁,嫗,あるいは帝と姫とのあいだに流れる人間的な愛情の美しさ)
を描き、ラストシーンでは、清純にして永遠なる物を読者に提示してるらしい。
475日本@名無史さん:03/06/08 23:23
南北朝の頃、大和手掻の刀工達が伊勢の地に移住し、代表工として4名
ほどあげられている。3代〜4代続いた刀工であるが、天正8年(1580)に
織田勢により家臣が滅びた後、絶えてしまっている。末期の刀工達は安芸
の国へと移住したものもいるらしい。しかし、現在まで続く子孫の屋号を
みると、初期の刀工の「包」をとったものが見受けられる。
近代においてほぼ鍛冶屋は存在しなかった(推測1軒程度)が、皮革、草履
は昭和40年代前半まで続いていた痕跡が見受けられる。
彼らの半数はは歌舞伎御三家の姓を名乗っている。その他2姓が多数を占める。
1580年から現代にいたるまでの道程を解明できる方はみえないでしょうか?
476日本@名無史さん:03/06/09 00:05
>>475
難しいですね。地元の教育委員会歴史編纂質や、部落史研究団体などは
取り組んでませんか?
あとは、寺院での過去帳しかないかもしれませんね。
大和物や日本刀の歴史資料ならありますが、ちょっとずれますよね。
地元公共機関か研究団体または部落問題研究所や解放同盟を訪れてみてはいかがでしょうか?
477日本@名無史さん:03/06/09 00:16
地元の教育委員会編集史でも限界です。各種団体も教委編集史を
元にしていると思いますね。
寺の過去帳はどんな内容なんですか?家系図みたいなの?
資料がないゆえ、現代にまで不可思議とされるんでしょうね。
478日本@名無史さん:03/06/09 00:44
西の人間ですけど童話教育受けませんでした。
ついでにエタ、ヒニンもそういう人がいたという事を
教科書で読んだだけでした。
479よねこ:03/06/09 01:58
>>386を書いた者です。>>475-477 の記述を興味深く読みました。
私の親戚筋は、天正6年に真継家109家として「真継文書」に掲載されてます。
近江からの移住者という過去帖の記載がありますが、もとは河内鋳物師だった
とされています。簡単な過去帖は大正時代まであるそうです(郷土史などに
記載されてます)
天正6年といえば、伊勢国への織田攻めの前になりますが、実際の移住は元禄
期だと記されてます。戦もおさまって時期でしょう。どうしてそんな時代に
近江から伊勢に移ってきたのでしょうか?だいたい「真継文書」はどこまで
信頼できるものなのか? 偽書部分を知りたいです。
我が先祖は、確かに、幕末に量産で砲台や弾薬を製造しており、長崎にも留学
しております。

>南北朝の頃、大和手掻の刀工達が伊勢の地に移住し、代表工として4名
>ほどあげられている。3代〜4代続いた刀工であるが、天正8年(1580)に
>織田勢により家臣が滅びた後、絶えてしまっている。

伊勢国といえば桑名の村正が有名ですがね。1580年で断絶しているとのこ
とですが、我が先祖の屋号(苗字)は北畠重臣と同じです。もしかすると、
地元の鋳物師だったのですが、織田に寝返った北畠系ではないか、そうい
うふうに思えます。伊勢国の鋳物は、茶釜とかが有名ですが、この一門は
断絶し、その後、我が先祖が藩お抱えの鋳物師として採用されてます。

確か、明治天皇もおいでになったとされてます。厳密には、禁裏御灯櫨作
り手御鋳物師、というのが正式名称です。多分、近くにある真宗本山や
伊勢神宮の灯櫨などを作っていたのかなあ、と思います。伊勢国の殆どの
鋳掛を支配していたと記録されてます。と、まあ、ここまで当該自治体等
に打診中ですが、全く返答は貰ってません。ついでに、鳥羽伏見の大砲と
弾薬を供給したのも我が一門だと書かれてます。しかし、親戚一党、誰も
蛤のように口を閉ざし、また誰も知らないと言ってます。
480よねこ:03/06/09 02:04
>>475
我が先祖の苗字が特化して多いのは芸州です、それも某地域にかたまって
ますね。苗字(屋号)は結構珍しい部類だと思います。ま、大江氏と
関係がある苗字です。同地域では少ない苗字ですが、珍名に属するので
悩んだ方から情報を戴いたのですが、その方も教師から、天皇家の薬師
なので恥じ入るな、と言われたそうです。

被差別民と天皇、公家の、そして武家の関係がドラマの様に展開されて
いるので、ビックりしてます。中にはトンデモ妄想家と笑われることも
ありますね、やはり。
481日本@名無史さん:03/06/09 02:09
>>1
今現在と大して変わらないんじゃなかったのではなかろうかと。
いろんな意味でね。(藁
まあ、もっこすさんにはあんまり無理しないで頑張って欲しいでつね。(w
482よねこ:03/06/09 02:22
禁裏御灯櫨作り手御鋳物師
灯櫨とは灯籠のこと。確か、織田政権以前までは灯櫨と表記することが
明らかにされてますので、、、しかし先祖は嘘つきかもしれません。

芸州と書きましたが、そこには天明期に我が先祖と似通った名前の鋳物師
が同時期に真継家に組み込まれてますね。天明期1780年代には、我が先祖
のは大工の称号を得てます。関係あるのでしょうかね? 苗字屋号は
発祥地区名と同じで、名前は同じ。我が祖は、代々、ある一字を継承して
まして、それが同じですね。先に書きましたが、我が祖の苗字は、備後の
小さな地域にとりわけ多い苗字です。なにか因縁、いや関係を感じます。
すみません。なんかとりとめがなくて。スレ汚し、すみません。
483日本@名無史さん:03/06/09 02:28
>>386
室町中期って、もののけ姫の時代背景。
えぼし御前じゃないの、先祖って?
484よねこ:03/06/09 02:40

なお、祖先の苗字は、葛井氏と関係があり、
坂東では丹党の武将として有名だったみたいです。
伊勢国では丹生の地の中世城主と同姓です。

丹党の武将は、京より下向した草臥れ貴族なんかかもしれませんが、丹荘の
郷土史では伊賀・伊勢国発祥の武将と記載されてます。

ああ、妄想とはいえ、これだけ材料が揃うと、、、なんだか、ねー。
百済帰化族とされている系列ですが、備後と同様、同姓が特化して多いのが
東北です。エミシかも。エミシって好きだけど。
485日本@名無史さん:03/06/09 10:43
>>477
過去帳では家系がわかると思います。職業もわかるかもしれません。

>>よねこさん
的外れでしょうが・・・。大工と鋳物氏は関係が深いようです。

鎌倉末期,左方に代わって右方の支配下に入った鎮西鋳物師は,南北朝期には
大宰府の補任する宰府惣官に統轄され,室町期にかけて,長門国大工,備後国
大工のごとく,守護によって補任された1国ないし数国の大工,惣官も現れる。
鎌倉後期には確認される各地の鉄屋=金屋(かなや)は,鋳物師の集住する作業場
であり,諸国鋳物師はそこを根拠に,1国ないし数国を商圏とし,守護の保証の
下に生産,交易に従事するようになった。

江戸初期,真継家の鋳物師支配は精彩を欠き,江戸,名古屋,京,大坂など
幕府,親藩の直轄下の鋳物師はもとより,各地の鋳物師との結びつきも弛緩
する。貞享・元禄(1684‐1704)ごろ,真継珍弘の代以後,真継家は鋳物師職許状,
大工職充行状,偽牒写等を各地の鋳物師に給付,組織強化を推進し,宝暦〜安永
(1751‐81)ごろの量弘はあらためて全国鋳物師支配の承認を求め,ともあれ既得権を再確認された。

一方,鋳物師の中には江戸後期,蘭学を学んで技術の発展を模索する動きもみられ,
幕末・明治の変革に当たって,大砲鋳造にその技術が生かされたことも,最近,
明らかにされている。
(網野氏の文章より抜粋しました)
486モyネUテ^テJテR:03/06/09 12:09
アイヌ民族は徳川家康によって「平民」身分に寓するお墨付きを貰ってる
から えた ひにん ではない。
487日本@名無史さん:03/06/09 14:40
>アイヌ民族
松前藩復領後,同藩は蝦夷地全域を藩主の直轄とし,各場所の経営を場所請負人
にほぼ全面的に委任したため,場所請負人は各場所の実質的な支配者と化した。
その結果,場所請負人によるアイヌの酷使がいっそう顕著になっただけでなく,
和人出稼人によるアイヌ女性に対する強姦が日常的な現象となり,同一場所請負人
の場所間ではアイヌの強制連行も行われた。
55年(安政2)以降の幕領期にあっても,こうした事態は基本的に変わることがなかった。
18世紀後半から幕末にかけてアイヌの人口はしだいに減少し,とりわけ鰊(にしん)
漁業のさかんな西蝦夷地における人口減が著しかった。
1807年2万6256人(うち西蝦夷地1万3064人。以下同じ),
22年2万3563人(8938人),
54年1万7810人(4384人)。

本格的な民族の危機は明治以降だけどね。
488日本@名無史さん:03/06/09 14:54
>和人出稼人によるアイヌ女性に対する強姦が日常的な現象となり,

見てきたようですね。
489とも:03/06/09 15:01
490日本@名無史さん:03/06/09 15:11
>>よねこ さん

葛井氏、大江氏、武蔵丹党、北畠重臣、近江−伊勢(藤堂)ですか?

ふーむ。古代、中世、近世、確かに大河ドラマになりそーですな。
491日本@名無史さん:03/06/09 15:19
問題は、鋳物師の例をとってみても分かるのだが、
 職能民は寺社や公家、朝廷の供御人や神人(寄人)という範疇の民で、
 歴史を経て、身分が変遷していることですな。
 
 皮革を扱う現代(近代)の穢多も神人であったわけで、戦にも生活にも
 必要不可欠な職能民であったことだと分かる。
 しかし、鋳物師などと同様にして、身分を昇華しなかったか?
 そこんとこが問われる。

 よねこ氏が、穢多は、職能の成果物が美術品に成り得なかった、という
 のは分かり易くて一考である。
 勿論、仏教思想が多いに反映しているし、近世に農民の疲弊と反比例して
 富んだ家が多かったことが、近代の夜明けを見なかった理由とも言えないか?
 現代に至っては、由緒在る云々はいい加減というわけだ。
492 :03/06/09 16:36

>穢多は、職能の成果物が美術品に成り得なかった

検証してみてください、諸先輩殿
493日本@名無史さん:03/06/09 17:49

>>492
近世は、雪駄、畳表など。
現代は、サンダル、靴、バッグ、毛皮、革製品、グローブなど。

しかし、昔の武具馬具、鎧甲冑刀剣の部位に使われる皮革は誰が作ったのか?
えたは、原料供給のみだったのか?

494日本@名無史さん:03/06/09 18:29
>>493
近世都市の城下町で「革屋町」という地名をよく見かけるが、
そこが現在被差別部落になっているという例は聞いたためしがない。
この辺がヒントになるのでは?
495よねこ:03/06/09 18:43
>>492

彼らは、第一次産業種でしょ。農民と同じじゃないですか、職業の範疇は。
どうでしょう?
496日本@名無史さん:03/06/09 18:44
ttp://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/cyouri.html

長吏たちの主な仕事は、斃牛馬の処理、その結果手に入る皮などの加工、太鼓や武具など様々な革製品の製造販売

て書いてあるで。
497日本@名無史さん:03/06/09 18:49
>太鼓や武具など様々な革製品の製造販売

これは美術工芸品でしゅかね? なんかそういう目録とか在るんですかね?

498日本@名無史さん:03/06/09 19:00
文化革命時代でもあった安土桃山時代は、海外との交流も盛んで、朱印船によって
中国や東南アジアから生糸、絹織物、皮革などが輸入され、南蛮船(特にポルトガル
やスペインの船)によって、キリスト教に代表されるヨーロッパ文化(自然科学の知識
や日用品など)が伝わりました。このことは手工業の分野にも大きな刺激を与え、生
活用具の中には南蛮工芸と呼ばれるヨーロッパ的な意匠を表したものも作られました。

http://www.kougei.or.jp/
499日本@名無史さん:03/06/09 19:06
>>498

上のサイトの業種別一覧には該当業種がありませんでした。

ttp://www.kougei.or.jp/crafts/bytype-index.html

500日本@名無史さん:03/06/09 19:10
これだけですね。↓

印伝革(応帝革)を略した呼び名です。
ヒツジやシカの革を肌柔らかくなめしてから漆などで模様を描いたもので、
袋物などの材料に使われます。
501日本@名無史さん:03/06/09 19:27

 国学者の本居内遠【もとおりうちとお】−本居宣長の養子だった本居太平
の女婿−が著した『賎者考』に、19世紀後半の紀伊国内の52種類の賎民がリ
ストアップされていました。差別されていた人たちですね。

 古令良賎差別(雑戸、官戸、家人、官奴婢、私奴婢、陵戸)、夙【しゅく】
(「宿」とも書く。守戸【しゅこ】の弁)、陰陽師(西宮)、神事舞(代神楽、
獅子舞、千秋万歳)、猿楽(四坐喜多、幸若【こうわか】、狂言、四拍子、地
謡【じうたい】)、今時色目(用逹、陪臣、被官、家子、賎職、数色)、散所
【さんじょ】(他屋)、梓巫女【あずさみこ】、田楽法師(祭俄【まつりにわ
か】、坐敷俄【ざしきにわか】)、放下師【ほうかし】(品玉【しなだま】、
綾織【あやおり】、軽業【かるわざ】、籠抜【かごぬけ】、手妻【てづま】)、
遊女(遊行女、婦芸子)、傾城夜発【けいせいやはち】(女郎、立君【たちぎ
み】、辻君、船娼、太夫【たゆう】、新造、禿【かぶろ】)、飯盛女【めしも
りおんな】(茶汲【ちゃくみ】女、出女【でおんな】)、願人僧【がんにんそ
う】(住吉踊、戯開帳、戯経、ちょんがれ、祭文)、浄瑠璃芝居、観物師(機
関【からくり】、畸疾【きしつ】、異物類)、術者(飯縄大神、使狐)、高野
聖【こうやひじり】、偽造師(山師、マヤシ、呼売、読売、拐児)、免堂(風
呂)、刑殺人(牢番)、肝煎【きもいり】(町役、夫役【ぶやく】、夜番、番
子、辻番、番太郎)、白拍子(舞子、踊子)、傀儡女【くぐつめ】(傀儡師、
西宮夷下、淡路人形、簓与次郎【ささらよじろう】)、越後獅子(軽業)、俳
優(お国かぶき、素人狂言、身振物まね、声色、女かぶき、猿狂言、小児芝居、
茶番狂言、俄茶番、乞食芝居)、踊(盆踊、かかひ歌垣、ここね伊勢音頭)。

つづく
502日本@名無史さん:03/06/09 19:27

舌耕【ぜっこう】(軍書読、落噺【おとしばなし】)、弦売僧【つるめそ】
鉢叩【はちたたき】)、事触【ことぶれ】(鹿島踊)、狙公【そこう】(猿芝
居)、俑具師【ようぐし】(土師【はじ】)、青楼【せいろう】(亡八、女衒
【ぜげん】、幇間【ほうかん】、仲居、引舟【ひきふね】、まわし男、軽子
【かるこ】、花車【かしゃ】、槍手【やりて】、女髪結い、芸者、風呂屋、密
会宿)、勧進比丘尼【かんじんびくに】(巫女【みこ】、お寮【りょう】)、
犬神(出雲狐持、妖僧、聖天【しょうてん】、供僧【ぐそう】、尻穢【しりえ】)、
髪結【かみゆい】(一銭剃【ぞり】)、伯楽(馬子、牛子、曲馬、芝居、女曲馬、
曲鞠【きょくまり】)、放免(犬猿合壁【がつぺき】、間者俘囚【かんじゃふ
しゅう】)、妖曲歌(長歌、小歌、木やり音頭、説教、祭文【さいもん】、船
うた、馬子歌、国々童謡、ちょんがれ)、行乞【ぎょうこつ】(袖乞【そでご
い】、六十六部、納経、西国巡礼、四国遍路、善光寺詣、念仏踊、鉢開【はち
ひらき】、雲水僧、抜参宮【ぬけさんぐう】、大社巡【たいしゃめぐり】、金
毘羅詣、二十四輩巡堂房、勧化【かんげ】)、番太(非人番、ハチヤ)、穢多
【エタ】(餌取【えとり】、皮田、二十八ヶ条)、男色(冶郎【やろう】)、
盲目(配当積塔会瞽女【はいとうしゃくとうえごぜ】、三弦弾、町芸子、琵琶
法師)、浄瑠璃語(女太夫、アヤツリ、釣人形師、仙台浄るり)、浮浪(やど
なし、雲助、逃亡、追放)、乞食(片居【かたい】、癩疾、物吉【ものよし】、
畸疾、癡狂)、伎丐【ぎかい】(諸伎数種)、丐頭【かいとう】(長吏、ハイ
タ、散在)、難渋町(棄児【すてご】)、温房【2字ルビ・おんぼう】(ハチ)、
革細工。
503日本@名無史さん:03/06/09 19:31
>>500

白モノとされ、他のモノと区別してるようなことを聞いたか読んだけど。
504 :03/06/09 20:01
本居さんとか、谷川さんとか、伊勢国の国学者って
 ケガレ学が好きですね。やっぱ、天皇制と絡むのかな?
505日本@名無史さん:03/06/09 22:10
>皮革製品
戦国時代は、各大名がきそって熟練工を呼び集めている。
戦国後期から江戸時代前半にかけては、鎧などの皮革製品は見た目も大いに
意識し、芸術度も高かったと思われ。
ただ、各農村の枝村のカワタたちは死牛馬処理と雪駄作りだったろう。

>>503
鹿さばきは、カワタ以外の職種?
しかし、鹿はどの時代にも、わりと食用・薬用にされているからなぁ。
506日本@名無史さん:03/06/09 22:29
東北のマタギなんかは生け捕った動物の皮剥ぎ自分でやってるからな。
東北の農村部に被差別民が存在しない理由は納得できる。
507日本@名無史さん:03/06/09 22:57
大型の哺乳類である熊やカモシカ,猪,鹿などをとった場合には,
その毛・肉・内臓の特定の一部を山の神に捧げて感謝すること,
ならびにその解体を一定の作法によって行い,定まった儀式と唱えごと
によって野獣霊を慰める狩猟儀礼も,1920年代までは全国で多少形は
異なるが伝承されてきた。

>東北地方では狩猟は特定の業に従う人であるが,アイヌでは狩猟は一般
>人の生業であったからである。
この文が気になった。
東日本にアイヌに連なる文化が色濃く残ってるとすれば、
東日本で狩猟にかかわる穢れ意識が西と違うのもうなづける。
508日本@名無史さん:03/06/09 23:48
>505
>ただ、各農村の枝村のカワタたちは死牛馬処理と雪駄作りだったろう。
戦で大名を失った熟練工達の行く末と重なるのでは?
農村において野鍛冶の不足を懸念した武将の命令により一部が移住した
との記録もある。
死牛馬処理は皮革の技術を持っていたが故のことでは?
雪駄製造はどうしてか不明。誰かおしえてくださいますか?

509日本@名無史さん:03/06/09 23:58
雪駄ってそもそも皮革じゃないじゃん。
それから住井すえの「橋のない川」のモデルになった水平社発祥の部落は
柏っ葉が生業じゃなかった?
510日本@名無史さん:03/06/10 00:17
>雪駄ってそもそも皮革じゃないじゃん。

ぞうりに皮を張って耐水性を高めたのが雪駄でしょ。
511御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/10 00:26
安物の雪駄しか知らんのと違うか?
一般には表は畳表で裏は牛革やろ
昔のヤーさんは蛇皮の表なんか履いとった。
512日本@名無史さん:03/06/10 01:51
えたと呼ばれる要因ってホントになんだろうなぁ・・・・・
自分の学校じゃ、そう言われた人々は非はないように言われた気がする。
動物の皮を剥いでイロイロな道具の材料にするって事で、血のせいで穢れが多い=穢多となったと・・・・・・・。
でも大元の根源はどうしてそんな職につく人々ができたか、ってことだが。
貧富の差のせいかな?
とにかく呼び方がいいモンじゃないね。
こんな呼び方を作る奴がいるのが問題だ!
513よねこ:03/06/10 09:01
>>512

 穢多が恵多にならなかったのは、侍が武士になった理由の反対でしょうか?

514日本@名無史さん:03/06/10 09:12
>>512
動物の処理は、古代は聖職。普通の人間がやると「たたり・穢れ」がつくので、
特別に皮処理特別職能集団にやってもらっていた。
彼らは、朝廷や公家・大寺社の直轄民だった。
が、それらのオーナーのカリスマ性がうすれてきた鎌倉時代に、商品経済の発達
による民衆の合理精神の進化とともに価値の逆転が起こり、穢れた職能集団と
見られるようになった。

鎌倉時代中期には、まだ「きよめ=えた」の言葉の使用法があるが、
鎌倉後半にはえたに、「穢多」の字が当てられはじめた。
「えた」は最初は都と周辺の言葉で、「穢多」の漢字は公家内部や僧侶内部で使われていたが、
じわりじわりと広まり、江戸幕府が身分確定で決定打を与えた。
秀吉時代までは、公式文では、カワタが使われていた。
この、漢字の「穢多」表現が及ぼした影響力はかなり無視できないものらしい。
515よねこ:03/06/10 09:20

古代は、斎忌(いみ)、浄不浄、キヨメ・ケガレ、みたいな二律背反するモノが
一体化して畏怖されつつも敬われていたから。
中世から応仁の乱以降にかけては、日本は野党百鬼の跋扈する時代であった。
生きるためにはナンでもする。死体処理からカワハギまで。
農家は疲弊し、侍は流離い。そして実利を貪るか、宗教に来世を期する。

なんだか、時代は巡り巡っている。

516日本@名無史さん:03/06/10 09:33
穢多 非人というと白土三平の「カムイ伝」思い出す。
517日本@名無史さん:03/06/10 10:19
室町時代は経済の大躍進時代。
戦国時代にも大躍進している。

戦国期の時代動向の特徴は,顕著な経済発展とそれをふまえた都市の発達
である。農業生産の面では,領国経済力の強化をめざす戦国大名の新開
(しんがい)の奨励,治水灌漑事業の推進によって新田畠の増加が顕著になるとともに,
木綿栽培が開始され,その需要が急速に拡大した。
鉱工業面では,これも大名の富国強兵策とのかかわりで金銀山の開発が各地
で進められるとともに,中国地方を中心とした砂鉄=たたら生産が飛躍をとげた。
またそれと不可分の関係で,武器生産を主とする鍛冶・鋳物業も発展した。
さらにそうした生産諸力の発展にともない商業も急速な発展をとげ,
大名に結びついた特権商人が,軍事物資調達のため中央地帯と領国との
あいだを活発に往復するとともに,堺,尼崎,兵庫,淀,大津,小浜,
敦賀,桑名などをはじめとする交通拠点は,大名城下とともに都市として発展し,
隔地間取引を主とする商人群がそこを中心に活動するようになった。
518日本@名無史さん:03/06/10 10:22
室町農業の躍進

この時代は〈下剋上〉と呼ばれるように庶民の成長と台頭が著しく,
支配層の脅威とさえなった日本史上最も躍動的な時期といえる。
平安末より始まった二毛作は全国に普及し,運河網の発達,揚水車の発明普及,
番水の整備などによる水利灌漑の進展があって,15世紀前半には畿内で
三毛作が出現し,朝鮮通信使を驚嘆させるに至った。
なお牛馬耕,人糞尿使用,鳥獣駆除などの技術も見逃せない。このような
農業技術の改良による生産力の発達は,加地子と呼ばれる剰余を農民層
に蓄積させ,古い荘園制を支える名は解体して,各地に惣と称される農民
の自治的村落共同体が簇生(そうせい)した。

飢饉で数万人が京都で死んだりもあるが、総じて成長期。
519よねこ:03/06/10 16:28
>>518

経済の飛躍と貧富の差。もしくは分業の成立、こういうのは無し、ですか?
そもそも部落の発生をみるに、惣村の歴史は意味在るものと思います。
農村自治において、自ずから、排泄物や死牛馬の処理、葬送の専門職家
が作られた、と思ってました。

http://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html
下戸の分布ですって。
520日本@名無史さん:03/06/10 19:39
>>518
つうか、室町前期は一揆なんかが登場してきてるわけだから、応仁の乱くらい
までは、かなり庶民=農民は疲弊していたんでないの?
521日本@名無史さん:03/06/10 19:57
>>519
分業の成立・進展=賤業の析出ってのはたしかに部落の分布状況をみると
説得力あるんだよな。
(東北・西南九州に少なく、また北関東に異常に多い)
網野の「百姓」(農民のことじゃないよ)論なんかも思い出されるし。
ただ定住や太閤検地の問題もあるからやっぱり中世より近世以降の問題だと思う。
522よねこ:03/06/10 21:44
>>521
検地では、寺社地は除外。室町の名残として、寺社領民とされ、免税された専門職能民
がいたとは考えられないでしょうか?
一里塚は決して4キロではないと聞きますが。
523日本@名無史さん:03/06/10 22:09
>>519
農村に不可欠な存在としての職能集団の存在(死牛馬処理など)→惣村自治の発達
→惣村の自治で、農耕民中心の本村と、職能集団の死牛馬を扱う枝村野の農民を区別・差別
→民衆自身による差別の確認→秀吉の検地帳へ差別身分の記載
→江戸時代になり、被差別民は別冊の検地帳となり差別の確定の公的承認
524日本@名無史さん:03/06/10 22:14
>523
なるほど、これを中世から結びつけると江戸、近世へと辿りつけるような。
525日本@名無史さん:03/06/10 22:17
>>520
土一揆と呼ばれる以前から,惣村に拠る農民は,領主に対して年貢や公事
の減額や免除,あるいは代官の罷免を要求して集団的な訴訟・強訴をくりかえした。
要求が容れられなければ逃散つまり耕作放棄という非常手段で闘った。

1441年(嘉吉1)の嘉吉の土一揆は,将軍足利義教の暗殺された嘉吉の乱に
乗じて起こされ,土一揆史上最大の規模に達し,幕府の徳政令をかちとった。
京都へ入る道の口々を占拠して市中を制圧し,見物人を追い払ったうえで
土倉にせまって私徳政を行い,幕府との交渉では,土民に限った徳政令を公家,
武家にも及ぶ一国平均の徳政令に改めさせるなど,この徳政令は統制力と
政治判断の高さを示す内容をもっている。

土豪・地侍を中心とした民衆の既得権益擁護闘争です。
経済先進地域の畿内が中心で起きてる点から、一揆はある程度、
自治能力の発達した力量のある民衆集団しか起こせないようです。
鎌倉時代中期ごろから二毛作や綿作が西日本から始まっています。
農業生産力の第二段階的発達ですね。
526どーでもいいが:03/06/10 22:24
深谷克己門下生の方ですか?
52792257:03/06/10 22:25
528日本@名無史さん:03/06/10 22:35
出展は忘れたが、江戸時代の大阪近郊の穢多村が、連合組んで、
大阪の大商人と原料の仕入れや製品の価格で何度も交渉している。
経済主体として、両者は対等に交渉している。
身分が下だから、経済外強制で搾取されてる様子はない。
当然、大資本だから大阪商人が有利と言うのはあるが。

それに対し、近くに住む農民ほど、差別意識やいやがらせ的対応は
多かったらしい。
529日本@名無史さん:03/06/10 22:41
熊野神領って南朝なのですか?
530モソーリ:03/06/10 22:42
うおー、こんなスレがあったのか。
記念カキコ
531御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/10 23:02

いらっしゃいましぃ〜
色々啓蒙して下さい。
532日本@名無史さん:03/06/10 23:12
>>529
こんなのならありました。

現実の阿波の情勢は、はっきり平野部が北朝方に、また山間部が南朝方に
味方していたというような、単純な勢力分布では決してなかった。
平野部でも紀州の熊野神領である板野郡の日置在(現上板町)や、
阿波郡朽田(くちた)荘(現阿波町)などでは南朝方の反撃があり、
また山間部の名主たちは、それぞれ自己の名田経営を強化し、武力を蓄えて、
いつでも配下の名子(なご)・下人たちを兵力として動員できる体制を
整えておく必要から、政策的に仮想敵国を隣接地域につくって、名(みょう)
全体に緊張関係をみなぎらせ、そのために、あるときは南朝、あるとき
には北朝に味方して揺れ動いていた。
http://www.ne.jp/asahi/taniyan/castle/html/kiso/awa-sengoku.htm
533日本@名無史さん:03/06/10 23:13
現在、同和地区と認識されて運動に参加している地区
って戦前国家社会主義(右翼)支持ですか?
これは、差別や貧困と関係あるの?
534533:03/06/10 23:16
差別や貧困から逃れるために、戦争で活躍することを
要請された・・・・という意味です。

535日本@名無史さん:03/06/10 23:24
戦前の共産党とは関係ある?
536日本@名無史さん:03/06/10 23:34
どーも、戦前、戦中と戦後昭和時代の何かがつながってる気がするんだよね。
537日本@名無史さん:03/06/10 23:36
それは、一般人には、はかりしれない。
戦前の右翼と政治。
左翼とは対立してたの?
538日本@名無史さん:03/06/10 23:47
よねこは、百済と書き改めよ。
539日本@名無史さん:03/06/11 08:41
>戦前の部落解放運動
水平社は、労働組合戦線と小作組合戦線で鉄の三角形を組み、団結を目指しました。
その労働者・小作関係から共産党と連携関係に入ってます。
共産党の下部組織で、部落組織はあまり聞きません。
朝鮮解放や民族差別賃金反対を訴えてましたから、朝鮮人下部組織は団結してました。
その後、戦争への歩みの中で、労働組合・小作組合は国家体制に飲み込まれ、
戦争推進側に転向し、水平社も戦争反対をスローガンから下げ、軍隊内差別反対へ
運動方針を移行しました。共産党は弾圧と転向で打撃を受け、非転向者は刑務所に入れられました。

540日本@名無史さん:03/06/11 08:55
>>538
HNも2チャンの楽しみの一つだから、なんでもいいよ、別に。
誰にも迷惑かけてるわけでもないし。
541御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/11 10:58
日本史板のサンカスレでは別HNやったに
勢州・藤原の話しやったな・・順子もあったしぃ。
542よね子:03/06/11 14:19

平安時代から守護大名の時代の武士と、職豊政権との武士とは概念が違うようにさえ
思う。朝廷・公家とセットであった職能民、武士とセットであった職能民、この組み合わせ
も同様に違うと思うし。勿論、徳川政権で身分制が固定されたのは頷けるけど。
543日本@名無史さん:03/06/11 15:31
平安武家は、西日本では軍事貴族出身が多かったもよう。
ある意味での殺人を仕事とする特別職能集団。
それらが在農村の土豪武士層のリーダーとなり武士団となった。
東では土豪武士層が発達が早く、軍事貴族から貴種を迎え活性化した。

信長までは、武士団の家臣団は農村が本拠地の土豪層。
信長から、農村から家臣を引っこ抜き、城下町居住を命じた。安土居住など。
朝倉氏もかな?
秀吉はさらに、その方向を進め、独立戦闘集団を確立し、検地と刀狩で
兵農分離を図り、土豪層を壊滅させた。
そして、武士は農村から分離した階級として自立した。

天皇家,摂関家,仏神と結びつき,供御人,殿下細工,寄人,神人などの称号
を与えられて奉仕するかわりに,平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか,
交通上の特権などを保証され,その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられることもあった。
天皇・公家との由来・免税特権を持つ職能民は、各地を移動することが多く、
それが平民に違いや畏敬の念をもたせる側面でもあった。
西国と東国ではかなーり違う。

戦国武家とのセットの職能民は、軍需産業民として居住地の指定は厳しかったようです。
これは、かなり全国的な共通がある。
544日本@名無史さん:03/06/11 15:53
じゃー、やはり川の近くに住んでるのは、水を必用とする
職業に携わってたからかな。
昔は、水道もホースもないし。
それと河川の氾濫などに悩まされていた地方では、治水事業
も関係あるのではないの?
産鉄民は赤土など鉄分を豊富に含む土の取れる場所を探して住んだとか?
農業に適していない土地ではあるが、それは職能民の仕事上
必用とするものがそろっていたからかもしれないですね。
中世〜江戸期は。
545日本@名無史さん:03/06/11 15:56
松本治一郎は大金持ちだったし
今でも松本龍は国会議員で3番目の高額納税者だし
部落差別って何?
546 :03/06/11 16:02
>>543
>戦国武家とのセットの職能民は、軍需産業民として居住地の指定は厳しかったようです。
>これは、かなり全国的な共通がある。

よね子説の「武士とセットであった職能民」は、関が原後は、江戸より西国遠国の外様藩
に永住ってことですかね? 
 
「朝廷・公家とセットであった職能民」は、その後、どうなったんでしょうか? 

穢多民の定住は江戸時代初期(1670年頃)だと、どこかに書いてありましたが、それは
「朝廷・公家とセットであった職能民」のことではなかったのでしょうか? 混同がある様に
思えますがね。
547御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/11 18:07
外出ネタですが・・俘因の移配先

http://maoda.hp.infoseek.co.jp/ihaisaki.html
548 :03/06/11 18:13

松本くん、早く降りてこいよ! 君のネタだろ?
忍者の話もここではマジで論議できるからさ。
こっちなら、君の理論も聞ける余地あるからさ。

ということで、人権板にも通知してくれ。
549日本@名無史さん:03/06/11 18:14
だから、戦争とかその周りの産業とか満州の開発とか戦後の反共対策とか
そーゆーのと関係があるっぽい気する。
今、運動してるところ。

550日本@名無史さん:03/06/11 18:19
しかし、なんで明治期に部落民というアイデンティティーを喪失
した人とそうでない人がいるんだろう?
551_:03/06/11 18:21
552日本@名無史さん:03/06/11 18:29
>>546
外様藩の軍需産業民が特別規制されたのでは?
553日本@名無史さん:03/06/11 18:33
外様藩の軍需産業民を特別規制&産業構造の移行?
鉄砲産業がさかんだった藩と被差別部落の多い都道府県は
重なるし。
554おすすめ:03/06/11 18:43
☆キレイな娘のH画像はこちらです☆
http://endou.kir.jp/moe/linkvp.html
555 :03/06/11 19:15
>>553
鉄砲産業がさかんだった藩ってどこよ。
556 :03/06/11 19:34
>>553
鉄砲って織田政権後、幕末までは陽の目を見なかったっていうけど。

 江戸時代の日本人は積極的に鉄砲を排除した理想的社会であったとする説や、
徳川幕府は銃火器を非合法化した、特定の大名だけしか銃火器の所持が認めら
れていなかったなどと、これらはとんでもない誤認・誤解から来るものまである。
実際は、武士階級はもちろん庶民の手にも江戸時代を通じてたくさんの鉄砲が
存在していた。その理由は明白で、当時の大名・旗本には必ず軍役が課せられ
ていたからである(軍役というのは武士が主人に対して提供を義務づけられてい
る軍事的な負担のことで、石高に応じて日数・人数・武器が課せられ、譜代・外様
に関係なく、例外もない)
 当然大名は規定された数の鉄砲を常備しており、予備の鉄砲もかなりの数にの
ぼっていた。では民間ではどうであったのか。江戸中期の鉄砲調査記録をよると
仙台藩3984挺、尾張藩3080 挺以上、長州藩4158挺という具合に、民間に大量の
鉄砲が存在していたことが判る。つまり鉄砲は、太平の世には鮮明な形で世に現
れなくなっただけのことである。
 しかし、そんな鉄砲も幕末維新の動乱期には再び世に鮮明に現出する。

*刀も江戸時代は美術品だったしね〜
557 :03/06/11 19:55
鉄砲といえば、国友でんがな。
 彦根藩伊井家。譜代。35万石。大老。

あとは堺かね? ここは岸和田藩か?
 
558日本@名無史さん:03/06/11 20:10
>>557
意外と知られてないところで、阿波、土佐、仙台とか。。。
559_:03/06/11 20:11
560よね子:03/06/11 20:19
>>556
>当時の大名・旗本には必ず軍役が課せられていたからである(軍役というのは武士が
>主人に対して提供を義務づけられている軍事的な負担のことで、石高に応じて日数・人
>数・武器が課せられ、譜代・外様に関係なく、例外もない)

ということからすると、大大名藩ではないの?
大大名藩とは大概が外様ということ。
561石高ランク:03/06/11 20:30
1 金沢藩 (加賀)
2 仙台藩 (陸奥)
3 名古屋藩(尾張)
4 鹿児島藩(薩摩)
5 萩 藩 (長門)
6 熊本藩 (肥後)
7 福岡藩 (筑前)
8 和歌山藩(紀伊)
9 広島藩 (安芸)
10 高知藩 (土佐)
11 岡山藩 (備前)
12 鳥取藩 (因幡)
13 徳島藩 (阿波)
14 久保田藩(出羽)
15 會津藩 (陸奥)
16 久留米藩(筑後)
17 米沢藩 (出羽)
18 福井藩 (越前)
19 弘前藩 (陸奥)
20 水戸藩 (常陸)
21 安濃津藩(伊勢)
23 盛岡藩 (陸奥)
24 佐賀藩 (肥前)
25 松江藩 (出雲)
26 庄内藩 (出羽)
27 姫路藩 (播磨)
28 彦根藩 (近江)
29 高松藩 (讃岐)
30 前橋藩 (上野)
562西日本の外様大藩:03/06/11 20:38

鹿児島藩(薩摩) 鹿児島
萩 藩 (長門)   山口
熊本藩 (肥後)  熊本
福岡藩 (筑前)  福岡
広島藩 (安芸)  広島
高知藩 (土佐)  高知
岡山藩 (備前)  岡山
鳥取藩 (因幡)  鳥取
徳島藩 (阿波)  徳島
安濃津藩(伊勢) 三重
佐賀藩 (肥前)  佐賀
姫路藩 (播磨)  兵庫
29 高松藩 (讃岐)



563日本@名無史さん:03/06/11 23:34
>>546
皮革軍需関係の職能民は、江戸時代期もその地で定住。
移住した記録はない。
西と東の文化の違いで、差別の発生環境が違かったと推測。
軍需産業関連の皮革職能民は、戦国時代から生活地を厳しく制限されてます。

それ以外の、いわゆるカワタ(穢多)村の定住地確定は、室町時代の惣村の
発達した地域から、自治的に行われています。

一部の漂白民は、江戸時代後期になっても漂白しています。
村の共同財政から彼らを迎える費用を出したりしている。
564日本@名無史さん:03/06/12 09:14
移転の自由を禁止されたのが中世〜江戸期の軍需産業の
取り込み故というのは、理解できるけど、
結構、大規模なところは平安時代末期には既に記録があって人が存在してるよ。
平安時代末期、保元・平治の乱や源平合戦の頃。
貴族社会から武家社会への変化の中でそれまで貴族社会から見て下賎だと
思われていた者が武力で台頭してくる頃に、軍需産業の需要が増えてきたから?
でも、この頃は白拍子とかはまだ差別されてなくて貴族社会に近いところに
存在してたみたいだね。もちろん、貴族に比べれば賎視されたみたいだけど。
565よね子 :03/06/12 10:38

では、あくまでも、カワタ(えた)の起源ということで分析しましょう。

他の職能民と異なった歴史をとってしまった経緯は、惣村に拠るところの
枝村から、室町時代より発生しているということですね。
これは網野説でしょうね。

  エダムラ→エタ というのは無し、ですよね(笑

西日本は惣村が発達してましたが、東日本はそうではないので、徳川入封後、
在地の親分に領地一括を支配する特権を与えた。

そういうことでしょうか?
566よね子 :03/06/12 10:41
>>564
>結構、大規模なところは平安時代末期には既に記録があって人が存在してるよ。

源氏も平氏も滅びていますよね。もちろん、貴族も武家の台頭をくらってますし。
彼らに囲まれた人達は、どうなったんでしょう?
567日本@名無史さん:03/06/12 11:42
>>547

俘囚の偏在。ブロック別一覧

九州 6国:328,348
関東 8国:363,600
近畿 3国:181,000
中部 4国:7,100
四国 3国:62,688
中国 6国:49,340
北陸 5国:36,000

568日本@名無史さん:03/06/12 12:34
>>564
平安中期頃から徐々に需要が出てきたでしょうね。早いのもありえると思います。
何か聞くところによると、職能集団における西日本の特徴は「世襲制」だと言うことらしいです。
逆から推測すると、ある時期には、東日本では職業選択の自由があったのかもしれません。
それが、西と東の違いの一要因かも?

>遊女
10世紀頃までは、遊女の出身も下層民とは限らず,上層階級出身の女もあり,
招かれれば朝廷貴族や武将のやかたに出入した。もっともこの風習は近世初期
まで続き,江戸城の評定所で会議のときに遊女が3人ずつ給仕人として出仕した
と伝えられる。

569日本@名無史さん:03/06/12 12:42
>>565
惣村は、年貢の村請負制度への移行にともない全国的に発達したようです。
ただし、畿内は一揆を起こせるほど自治力が強く、関東・東北は大名の領国支配権
が強かったですが。
ですから、東日本でも、本村とカワタの枝村の区別は自治的に行われたようです。
しかし、東の穢れ概念は西と違うので、枝村は北関東の一部以外は一般に少ない。
東北などでは本村の農民が平気で死牛馬処理とかできたのかもしれません。

郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる
村落であった。
これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。
草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成
された場合は惣村に発展しやすい。
領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の
公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的
な惣村に発展しにくいが,
その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。
その組織が領主側の支配組織に吸収されている点で違いがあっても,
百姓の生活の場が村を基礎単位にしている点では惣村と共通している。
だから領主型の村も惣村型の村も近世の村の原型となり,村名も近世以降
へ継承されることが多い。
570御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/12 12:46
『今日の部落差別』 第三版 解放出版社から抜粋
93年の総務庁の統計、未指定地区は91年の解同の調査
人口(指定地区のみ、地区の同和人口のみ)千人単位切り捨て
 1位兵庫 11万
 2位福岡 11万
 3位大阪  8万
 4位奈良  5万
 5位岡山  4万
 6位和歌山 4万
 7位京都  4万
 8位三重  3万
 9位滋賀  3万
10位高知  3万
指定地区数
 1位福岡606
 2位広島472
 3位愛媛457
 4位兵庫341
 5位岡山295
 6位埼玉274
 7位長野254
 8位群馬164
 9位京都142
10位鳥取107
最小同和人口
 長崎292人、山梨293人
 最小地区数
 長崎3、福井6、山梨6
571御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/12 12:48
未指定地区数
 1位愛知 29
 2位神奈川25
 3位千葉 23
 4位栃木 20
 5位三重 19
 6位鹿児島17
 7位茨城 16
 8位埼玉 10
 9位山口  8
10位長崎  7
572よね子 :03/06/12 12:48
>>568
既出のとおり、我が先祖も世襲制です。鋳物師ですが。
そして、鋳物師は歴史とともに変容してます。最初は寺社の梵鐘、戦国時代は武具、
江戸時代は茶釜や灯籠などの仏具。美術民としての刀。軍事訓練のための鉄砲。
鋳掛では鍋釜。我が史料によりますと灯籠、梵鐘、寺院建築が多く、幕末で大砲と
弾薬を鋳造。そして藩銭までも造っていたようですね。

ま、いろいろやってますね。
ですから、特に鋳掛などの鋳物師は、どうして被差別民として残らなかったのか、
カワタなどの穢多はどうして、現代まで現代語として残ったのか、そういうことだと思いますが。
573日本@名無史さん:03/06/12 12:51
>>567
外出ですが、俘囚は朝廷の政策変更により、多くが東北へ帰還したようです。
無税・生活地の保障・職業の自由をエサにして、帰ってもらったようです。
同化政策と武力装置として使用する目論見がはずれ、各地の不安定要素と
なってしまい、各地の国司からの苦情が絶えなかったようです。
574よね子 :03/06/12 13:57
穢多は製販一体ということが指摘されていましたが、
小規模な部落では、やはり酪農みたいな範疇の農業ではないでしょうか?

また、製販一体、といった特に江戸後期の在り方に着目すべきとか思います。
製販一体とは、粗利益は多いわけで、そのような貨幣経済の様相が、特に隣
接する農家などの妬みや賎視につながったというふうに思えます。

もはや、幕藩体制の崩壊、資本主義経済の萌芽期にあった、庶民の心情と
古代より連綿と異質に継承されてきた職業差別、仏教史観が伴って、幕末
を経ても、差別が残った。

鋳物師の配下である鋳掛も被差別民と言われていましたが、これは製販一体
ではなく、基本的にボスの縄張りで働き、辻などの道端で修理を行っていたと
思います。

鋳物ではないですが、刀鍛冶について面白い風俗もあります。江戸時代では、
刀鍛冶家は正月あたりに近隣の子供達に菓子などを二階家から投げています。
子供達は、そのお菓子が欲しくて、
「やーい、やーい、鍛冶屋の貧乏、貧乏!」と騒ぐのが、お菓子を蒔く前の合図
だったらしいです。これは面白い風俗と思ってます。
575日本@名無史さん:03/06/12 14:11
>>ですから、特に鋳掛などの鋳物師は、どうして被差別民として残らなかったのか、
 カワタなどの穢多はどうして、現代まで現代語として残ったのか、そういうことだと思いますが。

 そでつね。これは、明治以降の問題なのでしょーか・・・


576日本@名無史さん:03/06/12 14:33
ここらで近世・江戸時代〜近代に入りませんか?

江戸時代のエタ(カワタ)の仕事って何ですか?
いわゆる酪農分野がエタなんでしょうか?
ヒニンは葬送関係と警備関係なんですか?

ヒニンは、エタ職分みたい残らず、明治の公務員の仕事に吸収されたんでつか?
逆に言うと、ヒニンが公務となって、エタは民間となったわけでつか?
577日本@名無史さん:03/06/12 15:10
>>575
穢多・非人以外の被差別民は数世帯程度の単位。
穢多村などは数十から百近い世帯規模。この規模差は大きいと思う。
あと、前に出てたように仕事の内容に対する生理的感覚も大きい感じがする。
「穢多・非人」という漢字の持つインパクトも大きい。

578日本@名無史さん:03/06/12 15:10
>>576
>江戸時代の穢多
穢多村の中にも階層分化が進み、本村に稼ぎに行く手間稼ぎ農民もいれば、
自作農で雪駄作りなどをなすものもいれば、雪駄づくりなどで財を成すものもいて、
死牛馬処理も当然、行う。
わりと豊かな階層も多かったらしい。

>江戸時代の非人
町外れや河原の非人村の小屋に住み,物乞い生活を基本としながら,
大道芸,犯罪者の市中引廻し,処刑場での雑役などで,日々の暮しをたてていた。
岡引は、犯罪者の仕事で非人の仕事ではないようです。

>明治期
皮革の特権を失い、大資本に圧倒されたため、ほとんどが、小作貧農か
低賃金労働者になったようです。

東京都の警察官の三分の二の2000人は鹿児島士族です。
579日本@名無史さん:03/06/12 15:29
>岡引は、犯罪者の仕事で非人の仕事ではないようです。

同和教育で銭形平次は部落だと習ったけど、こんなことまで嘘だったとは。
580よね子 :03/06/12 15:43
>>578

穢多村で、わりと多かった豊かな階層でも、年貢免除の替わりに
死牛馬処理を行っていたのですか?
そして、死牛馬処理によってもたらされる富(皮革の原材料がタダ)
も加わっているのですか?
ダブルの儲けって思われていたのかもしれませんね。

明治期に皮革特権を失って土地地券も売り飛ばしてしまったのですか?
明治政府は、地租改正により年貢に代わる地券を農家等に購入させています。
しかし、インフレが凄くて、大資本家(大地主)が二束三文で地券を買いしめた
わけで(金融業経由で)、
大地主は某県内の4割の土地を所有するに至った(併合下の韓国と同様に)
と聞いてます(読んでいます)

では、穢多村の地主には大地主が現れなかったのか?
江戸時代に富める穢多家が互助として同身分の人達を救済などしなかったのか?
という率直な疑問がわいてきます。幼稚ですが、教えて下さい。
581日本@名無史さん:03/06/12 15:56
>東京都の警察官の三分の二の2000人は鹿児島士族です。

弾ちゃんの女将さんが、薩長に盗られるぐらいなら馬にくれてやれい!
と言ったとか。そういう意味だったんね。
582御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/12 16:54
よね子妃、和田勉氏と5分ほどですが面談してきました。
愛知県に未指定が多いのは非人職の人が穢多職を兼任してたからやとのこと。
四日市の部落史まとめて今松阪の部落史のまとめ作業中らしいです。
583日本@名無史さん:03/06/12 17:18
江戸時代、寺社所属の非人ってどうだったのでしょう?
とくに神社は・・・・。
なんか、江戸時代は神道はあまり支持されてなさそう。
584日本@名無史さん:03/06/12 17:21
>>わりと多かった豊かな階層
 明治期には被差別部落民で銀行業を営んでいた人もいるのでは?
 ただ、大資本というわけではないので、恐慌などで潰れてしまった
 ようですが。
585日本@名無史さん:03/06/12 17:29
恐慌時、財閥や軍関係は国と結託してたから破産しなかったけど、
大規模な民間資本で、それ故に大きく商売に投資したり、運用したり
してたところは、恐慌で軒並み破産した民間商売人はいたみたいですよ。
大きく商売やってたところほど手痛い目にあったみたいです。
ほどほどの資本力しかないが故に、そこそこの投資しかしなかった
人は生き残ったようですが。
586日本@名無史さん:03/06/12 17:49
587日本@名無史さん:03/06/12 17:53
>>585それって大正バブル(一次大戦景気)
のツケってことなのかな。
588日本@名無史さん:03/06/12 17:59
>ほどほどの資本力しかないが故に、そこそこの投資しかしなかった
人は生き残ったようですが。

だな。今の数々の大手企業の原点もこれだな
589日本@名無史さん:03/06/12 18:00
>>587
多分・・・
他、関東大震災であぼーんした商売とかもあるんじゃないかな。
破産した商売人の家屋敷が競売に出されたりしてたみたいですよ。
590日本@名無史さん:03/06/12 18:03
>>588
財閥、軍関係などは別ですけどね。鈴木商店レベルの大商社でも
結局、国に救ってもらえなかったのでしょう。
つまり、当時、破産した大商売人の不動産物件購入した
そこそこの金持ちはいるでしょうね。w
そうして、現代に至ると。
591よね子 :03/06/12 18:11
昭和恐慌は1928年。第一次世界大戦は1915年。
韓国を併合したのは1910年。日本と半島で、大規模な資本家による搾取が行われ、
主に土地の買取と米の買占めが集中した(米騒動)
いわゆる「資本(富)の集中」という経過を辿っている。
第一次大戦は大正期であるが、政府と政商の意図を感じる。
軍閥と財閥が形成された由縁だ。
昭和の2.26、5.15事件は、農家の疲弊や社会の貧困に嘆く右翼や青年将校が
起こしたわけだが、逆にいえば、日本の軍国化(資本化)に利用された。

 満州へと、貧富の差を謳いつつ、自ら国民が歩いた。

おっとと、行過ぎましたね。
592日本@名無史さん:03/06/12 18:13
でも、鈴木商店のような商社が安価な輸入品を
大量に仕入れたから、勝てなくなった国内産業もあるみたいだけど。
593日本@名無史さん:03/06/12 18:23
>>580 :よね子さん
>穢多村で、わりと多かった豊かな階層でも、年貢免除の替わりに
>死牛馬処理を行っていたのですか?
>そして、死牛馬処理によってもたらされる富(皮革の原材料がタダ)
>も加わっているのですか?
権益地内での死牛馬が出たら、該当部落に連絡することと、奉行所で
確認の訴えを出したりしてます。
豊かな階層には、土地がほとんどなく、皮革生産で財を成した層が多いようです。

>明治期に皮革特権を失って土地地券も売り飛ばしてしまったのですか?
>明治政府は、地租改正により年貢に代わる地券を農家等に購入させています。
地券は地主及び自作農に配られました。小作人はもらえません。
皮革で潤ってた村は、土地所有が少なかったのが打撃となりました。

>では、穢多村の地主には大地主が現れなかったのか?
>江戸時代に富める穢多家が互助として同身分の人達を救済などしなかったのか?
>という率直な疑問がわいてきます。幼稚ですが、教えて下さい。
穢多村の豊かさは、土地所有というより皮革産業収入だったので、
大地主は現れにくかったと思います。
穢多村では、代官とかも放任の地域が多く、村内の犯罪や懲役を自治的に行っていた所も
ありました。自治的に牢屋を建設したりしています。
その観点からと、穢多村の人口増加の原因に信仰心による間引きの禁止と、
助け合いの精神がよく引き合いに出されますので、相互扶助の精神は、
強かったと思います。
本村への日雇い農民稼ぎなどでは、貧農が働けるように、本村が手間賃引き下げ
などの差別嫌がらせをすると、奉行所に訴えて既得権益を確認してもらったり
しています。
594日本@名無史さん:03/06/12 18:24
鈴木商店の大番頭  
  金子直吉[かねこなおきち] (1866〜1944)  
高知県生まれ。明治19年、神戸にあった鈴木商店に入る。
店主・鈴木岩次郎の死後、未亡人・鈴木ヨネの下で大番頭に抜擢されたがその直後、
樟脳(しょうのう)の相場に失態を演じて店を倒産寸前に追い込んだことがある。
しかし、その後、第一次大戦で鈴木は飛躍的な発展を遂げ世界的商店へと発展。
大正から昭和初期にかけて三井・三菱をしのぐ大商社となる。昭和二年、金融恐慌の
渦中で放漫な貸付を行っていた台湾銀行と、その最大の融資先である鈴木商店との
関係が政治問題化し、倒産。鈴木商店は倒産後「日商」となる。
595日本@名無史さん:03/06/12 18:30
>>584
明石さんの柳原銀行ですね。皮革工場も作ったようですが、こっちは
倒産してしまったようです。この銀行がいつまで続いたかはわかりませんでした。

1898年(明治31)明石民蔵ら11人が合資会社柳原銀行設立認可を大蔵省
に出願したのに対し、翌1899年(明治32)6月15日、大蔵省より認可された。
資本金22,000円(現在の4億4000万円ほど)、頭取・明石民蔵、営業担当・
桜田儀兵衛、明石周次郎、見村喜三郎。

柳原銀行は当初、設立者を中心に町内の資産家の資金をもとに営業を始めたが、
次第に多くの人々の預金を得て、明治40年代頃には25万円(現在の約50億円)
ほどの資金量があった。そして、これを同じ町内の事業者や起業をめざす人に、
運転資金・事業資金として融資していた。この融資をもとに、多くの人々が
町内での事業にとどまらず、より広い商圏を求めて京都市中へと進出していったのである。

柳原銀行の設立は、町内の産業の育成・振興をはかり、そうすることで、
明石の言葉をもって言えば「世の進運に遅れず、外は舊来の陋習を破り、」
いわば部落の解放を成し遂げようとの強い意図が根底にあった。

http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yanagin/tenji1.html
596日本@名無史さん:03/06/12 18:30
「日商」は日商岩井のこと。
597日本@名無史さん:03/06/12 18:34
わかりました。昭和の金融恐慌で倒産してました。
わりと健闘したと言えるのでは?
この明石さんは立派な人ですね。

柳原銀行は地元産業の振興や教育の向上に大きな役割を果たし、大正期
には山城銀行と改称し営業も拡大しましたが、金融恐慌など時代のうねり
の中で1927年(昭和2)に倒産し、明石もまた晩年には自らの志の中で
全財産を失うこととなります。
598日本@名無史さん:03/06/12 19:19
>>593
こういうの、ありましたが、


 えた、ひにんは一般的に貧しいイメージがあるが、本当に生活は苦しかったのだろ
うか?次の表は今の・・市にあたる・・郡のある百姓村とそれに付属した「えた」
身分の人たちの土地所有(石高)を比較したものだ。その平均石高は、以下のように
記されている。

百姓身分…12.25石/人 
えた身分…17.18石/人

 百姓は30石以上の裕福な庄屋と4石以下の貧しい人まで幅が広いのに対して、えた
身分は20石前後でほぼ同じで、貧富の差がない。
 えた身分は普段は一般の百姓と同じく、自分の土地を耕して生活をしていたが、固
有の職業として死牛馬や皮革の処理があり、それを役負担として役所に納めたり、
刑場や警察、掃除の仕事をすることによって収入もあった。すなわち、えた身分は、
差別はされていたが、決して貧しさにあえいでいたわけではないことがわかる。
599日本@名無史さん:03/06/12 20:22
>>598
593です。
興味深い資料ですね。穢多村では階層分化が発達しなかったんですかね。
江戸農村の階層分化は、金肥や商品経済の流入による現金の必要化からですから、
穢多村は、現金収入の道が確保されていたので、土地を担保にした借金の
必要度が少なかったのかもしれませんね。
ただ、穢多村の中に指導階層がいたのは事実と思われます。
また、地方によっては,被差別部落をまるごと別の土地へ移転させることも強行
されるようになった。一般民との分離策である。
さらに、人口増加が穢多村では続いていますが、土地の拡張は困難と予測されますので、
江戸後半期には、手狭になって行ったかもしれません。

江戸時代の、穢多村の生活が貧困にあえいでいただけではないことは、
近年の多くの研究者が指摘していますね。
江戸後半の差別政策は露骨なものが多いですが。

明治以降、部落民の困窮化が深まったと思われます。
学校も最初は別でした。平民の学校に部落民は入れなかったんですね。
これは、行政も関係しますが平民の要求が強かったようです。
国家命令で、学校を同じにしても、旧穢多の子の席は床をはがして一段下げたり、
ついたてで平民の目にふれぬようにしたり、学校内差別は強かったようです。
600よね子 :03/06/12 21:10
>>593さん (以降、ゴクミさんと呼ぼうかな?)

>豊かな階層には、土地がほとんどなく、皮革生産で財を成した層が多いようです。

ということは、貧しい階層にも土地所有者が居ない。つまりは、当該村には地主が
殆ど居なかった、ということですね? 農業に適さない土地で居住したのであれば、
所有していても価値は無いに等しい、ということでしょうか?
それとも、教科書的にいえば、えた・ひにんは土地の所有は許されなかった、とか
いうような法度があったのすか?(なんか初歩的な質問してますが)

>地券は地主及び自作農に配られました。小作人はもらえません。
>皮革で潤ってた村は、土地所有が少なかったのが打撃となりました。

小作農(水呑み百姓)の半分くらいがエタであった、という地方史を読んだことがあ
りますので、では、水呑み=エタ、という図式があったにはあったのですが。
ここのところは、田舎では非常に問題になる点で、例えば、差別語の一つとして、
「水呑み百姓」という言葉があったと思います。それは地租改正以降のことかと思
ってました。基本的知識不足でした(恥^

>その観点からと、穢多村の人口増加の原因に信仰心による間引きの禁止と、
>助け合いの精神がよく引き合いに出されますので、相互扶助の精神は、
>強かったと思います。

信仰心による間引きの禁止とは、農村全体のことでしょうか? それともエタ村の
独自な信仰心によるものでしょうか? 飢饉の間引きは一般的によく聞きますから、
ちょっと気になりました。
601日本@名無史さん:03/06/12 21:34
柳原銀行のような銀行は、他にもあるの?
それから、大正時代にも融和住宅ってあるみたいですけど、
これは何?
602日本@名無史さん:03/06/12 22:17
>>600
593(ゴクミ)ですw。
いいえ、そういう意味ではなく、土地がほとんどなくても土地耕作以外
の収入で豊かな階層がいたとの事です。
穢多村でも地主ー小作関係がありましたが、平民農村よりは階層分化して
なかったようです。
農業に適した土地かどうかは、地域差が大きいので一概には言えませんが、
辺鄙なところに強制移住とかされた例もあるようです。
穢多にも土地所有権はありました。検地帳に載っています。
非人は職業の特徴上、土地所有がなかった人が多いと思われます。

水呑み百姓は穢多ではありません。江戸時代の地主制農村を支えた土地なし労働者です。
村の共同体や寄り合いから排除され、厳密には百姓ではありません。
江戸や大阪へ流入してったのはこの階層の人たちです。

信仰心とは、穢多村では一般に浄土真宗の熱心な信者が多く、穢多村の
人口増加の要因の一つに、この熱心な信心からの間引きの禁止が言われます。
私は、個人的には、人口増加の要因は、差別者に対抗するための共同体扶助精神
の強さと、さらに最大要因は経済的余裕と思いますが。
603日本@名無史さん:03/06/12 22:36
>>601
部落資金による部落内の銀行は、柳原銀行だけのようです。

融和住宅は、はっきりとはわかりませんが、以下の文のような融和政策の
一環だと思います。

部落民の不満が反政府の動きに向かうことを政府は恐れた。はじめは部落民に
差別される原因を無くすよう働きかけたが、効果はなかった。
明治末期からは被差別部落外の国民にも部落差別の反省を促し,被差別
部落出身者への同情融和を求める融和政策がとられはじめた。
とくに1918年の米騒動とその後のデモクラシー運動の展開,さらに部落住民
の差別撤廃の動きの高まりの中で,融和政策は治安対策としても強化されていった。
政府は20年度の予算に初めて地方改善費5万円を計上し(1921年度21万円,
23年度は49万円に増額),各府県には長野県の信濃同仁会,広島県の共鳴会
のような融和団体がつぎつぎと設立されていった。さらに22年に全国水平社
(水平社)が結成されて自主的な部落解放運動が活発化すると,融和政策は
いよいよ本格的となり,27年,中央融和事業協会(中融協,1925年内務省
社会局に創設)の指導の傘下に,全国各地の融和団体を統合した。
中融協は翌年から,水平社運動の停滞に乗じて,部落住民を直接に組織
しようとはかり,内部自覚運動を進めた。

水平社による自覚的運動を恐れ、上から丸め込もうと言う政府の動きですね。
604日本@名無史さん:03/06/12 22:41
ちょと近代史の立場から言わせてもらおう。
明治末の地方改良運動(報徳運動)の流れで、大正期に内務省主導で
「模範村」が全国から選出・表彰されているが、
その中には静岡浜松の某被差別部落が含まれている。
東日本でも丸ごと行政村=旧本村の穢多村が存在したのだ。
605日本@名無史さん:03/06/12 23:28
水平社運動への参加を拒んだ部落民ているの?
宣言を見ると、獣の皮を剥ぐ代わりに・・・・
とかエタを思わせる内容だけど。
また、水平社運動は、金で雇われた右翼によって鎮圧された
らしいけど。。。いつしか差別から逃れるために戦争で活躍
することを要請されはじめたのは
なぜ?
606日本@名無史さん:03/06/13 00:21
同巡回ってどうよ?
607初心者ですが、:03/06/13 00:25
>>604
最初は警察主導じゃないか?
もうさ、部落もヘチマもないと思うよ。
出自なんかも問題にならないほど経過しているし。
なのに、そういうのを利用しようとしているのは、日本史板でいえば、
家系図偽作を似ていると思う。
608御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/13 00:45
>>605
‘23年(大12)、奈良県で水平社と国粋会との衝突事件がある。

‘26年、共産主義の影響下で、左派が部落解放を無産者階級の開放に直接に従属すべき
ものとしたり、‘31年には水平社という身分組織は部落労農大衆の階級的自覚を妨げる
として水平社を解消しようとしたため運動は衰えたが、のちに左派は自己批判した。
以降、身分闘争と階級闘争を結合した戦術をとることによって再び組織は発展するが
‘37年、日中戦争勃発後、政府の圧迫で運動は衰え、‘40年8月第16回大会を最後に
自然消滅した。
609日本@名無史さん:03/06/13 00:50
>愛知県に未指定が多いのは非人職の人が穢多職を兼任
もう少し詳しく教えてください〜
610御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/13 01:13
詳しくは知りません・・穢多村は二箇所だけと言われました
尾張藩は他と違った政策取ったんですかね
愛知県はダントツに未指定が多いので前から疑問に思っていた
指定地区では全国30位くらいと思た
今日は地区数とか同和率の一覧表の書いて有る本借りに逝った
私見ですが非人は人に非ずで置いてけ放りくらったと解釈
三重県では鈴鹿が多いとのこと。
611日本@名無史さん:03/06/13 09:23
>>604
穢多村がまるごと本村と言うのも、たまにありますよね。
珍しいことらしいですけど。

>>605
年配者や、政府主導の融和団体の影響が強かった地域ではさけられた部分もあったようです。
奈良の穢多村が発祥地かな?穢多主体の解放団体ですね。
最盛期には全国部落民の60%を影響下に置いたそうです。
軍隊内差別廃止闘争では、あの帝国陸軍に約束させてますね。
戦争協力は、共産党以外は、みな翼賛体制になってしまったから・・・。
彼らの主目的は政治闘争ではなく、差別撤廃闘争だからね。
612日本@名無史さん:03/06/13 09:24
>御殿山さん
指定と未指定の基準てなんだったんでしょうか?
613御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/13 10:04
非人は村の形態が無かった?昨日の話では穢多では無かったからやと取れたけど
7月にセミナーが有るので聞いて置きます (サンカが多いのは伊勢)
昨日は偶々学校教育の前打ち合わせが終わったとこで本探していたら
アチラから話掛けてみえて帰られてからどちらの方か聞いたらビッグな人やった。
下記事項から何か見えて来ます?
『今日の部落差別』 第三版 解放出版社から抜粋
未指定地区数
 1位 愛知 29
 2位 神奈川25
 3位 千葉 23
 4位 栃木 20
 5位 三重 19
 6位 鹿児島17
 7位 茨城 16
 8位 埼玉 10
 9位 山口  8
10位 長崎  7
614日本@名無史さん:03/06/13 14:15
未指定地区数が多い理由。仮定として、

金があったから。
幕府天領が多かった。
神領が多かった。
615日本@名無史さん:03/06/13 16:22
>同和地区指定について=指定部落について(どういう方法で指定したか) 
 
<<同和対策事業特別措置法の第1条は、「歴史的社会的理由により生活環境等の
安定向上が阻害されている地域」を「対象地域」とし、その地域における
「経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上等に寄与する」ことを
同和対策事業の目的と定義づけています。

そこで各自治体では、この法にもとづく事業を実施するにあたって、この
「対象地域」を定める必要があり、これを一般に「同和地区指定」と称しています。

「地区指定」の手続としては、まず沿革的にみて「部落」といわれる地域の範囲
について、地元の各種団体・個人と行政当局とが協議して「線引き」を行ない、
その範囲内の地域の実態調査を実施し、その報告にもとづいて国が「対象地域」
と認定することになります。

しかし特別対策を実施する対象を確定するための措置であるとはいえ、
一定期間以上にわたって「地区指定」を継続するならば、同和地区を
周辺地域から法的・行政的に分離・固定化することになり、逆に部落問題の
解決を妨げることになりかねない問題を含んでいます>>

「同和対策事業特別措置法 指定 部落」でくぐってみました。
歴史的に明らかに被差別部落であることと、部落解放団体と行政が話し合って、
線引きを決めたようです。
未指定地区は、差別が弱いとか、豊かであり差別実体がないとかが、
関係してのではと推測されます。
対策事業中にも、もういいからと、部落指定を返上した地域もあったようです。
616日本@名無史さん:03/06/14 00:35
>非人は村の形態が無かった?

いわゆる村のような共同体にはなっていなかったような感じがします。

大正時代、東京最大の部落は深川にあった非人系の部落で、一大スラムを
なしてましたが、震災後の不良住宅改良事業で消滅しました
617日本@名無史さん:03/06/14 02:15
福岡の同和地域って700箇所ぐらいになると言われてるけど、
これってやっぱ眉唾もんだよねー?
618参考文献:03/06/14 11:58
619日本@名無史さん:03/06/14 13:42
>>617
平成5年で606ヶ所。部落関係人数111784人。
指定部落内における、部落関係者の人口割合は36,6%。

http://members.tripod.co.jp/trotzdem/data.htm
620筑豊天国:03/06/14 14:38
福岡の指定地域には人が誰も住んでないような荒れ地、さら地もある。
なぜそんなことがあるかというと(以下略)
621日本@名無史さん:03/06/14 18:34
普通に疑問なんだけど、俺は今まで授業でエタ・ヒニンを
習った以外でその言葉を聞いた事がありません。
地域によって差があるのですか?あそこが同和地区だとか聞いたことないし?
ちなみに生まれも育ちも横浜です。
622日本@名無史さん:03/06/14 21:45
地域差は大きいです。東北北海道ではほとんどありません。
関東以北では、部落と言うと、単に集落をさすことが多いです。
一般的に西日本が多いです。
<同和率>
│ │1 │高知 │4.30 │ │ │全国 │0.72 │
│ │2 │和歌 │3.84 │ │20 │熊本 │0.61 │
│ │ │山 │ │ │21 │栃木 │0.53 │
│ │3 │鳥取 │3.83 │ │21 │埼玉 │0.53 │
│ │4 │徳島 │3.63 │ │23 │島根 │0.42 │
│ │5 │奈良 │3.60 │ │24 │鹿児 │0.35 │
│ │6 │滋賀 │2.80 │ │ │島 │ │
│ │7 │福岡 │2.29 │ │25 │福井 │0.32 │
│ │8 │愛媛 │2.18 │ │26 │静岡 │0.19 │
│ │9 │岡山 │2.17 │ │26 │岐阜 │0.19 │
│ │10 │兵庫 │2.14 │ │28 │茨城 │0.16 │
│ │11 │三重 │1.97 │ │29 │佐賀 │0.14 │
│ │12 │京都 │1.56 │ │30 │愛知 │0.13 │
│ │13 │群馬 │1.37 │ │31 │宮崎 │0.06 │
│ │14 │広島 │1.15 │ │32 │千葉 │0.04 │
│ │15 │大阪 │1.00 │ │32 │神奈 │0.04 │
│ │16 │山口 │0.89 │ │ │川 │ │
│ │17 │香川 │0.73 │ │34 │山梨 │0.03 │
│ │17 │長野 │0.73 │ │34 │新潟 │0.03 │
│ │17 │大分 │0.73 │ │36 │長崎 │0.02 │
623日本@名無史さん:03/06/14 21:46
>>621
西日本では普通に部落の友人がいたりすることもある。
だからこそ、差別を煽る団体に腹が立ったりする。

こういう感情も現代だけに限らないと思うな。
身分を超えて友情が芽生えたこともあったろう。
俺の友達が差別されてるのは他の部落民が民度を上げないからだと
考えてた人は江戸時代にもいると思う。
むろん当時の部落民にはそういう人は差別主義者にしか見えなかったでしょう。
そして、歴史の中で差別主義者として語られてる人も中にはそういう人もいるんだろうな、と思うことがあるよ。
624日本@名無史さん:03/06/14 21:47
神奈川県には、いわゆる同和地区は11ヶ所しかないですね。
625日本@名無史さん:03/06/14 22:55
>>623
渋染め一揆とか、農民と穢多が協力してたみたいね。
626日本@名無史さん:03/06/14 22:55
西日本って人口少ない県、結構あるから率で考えたら高いだけだろ。
関東なら人口200万程度の群馬が率高いしな。
で何とか安定して200数万の栃木。
埼玉はこれらの倍以上の人口だから、かなりの人数居るってことだろ。
627日本@名無史さん:03/06/15 00:00
戦前に部落民の共産主義者っているの?
628621:03/06/15 00:16
西日本で差別するような奴らは「あいつ部落出身だぜ!」とか言うの?
神奈川とか東京でそう言う会話を聞いた事が無いから不思議なんだよね。
もちろん東日本の人間が、差別をしない良い人達ってことでは無いですよ。
あんまり部落とか気にして無いって言うか、昔の話って思ってるところがある。
俺の友達なんかでもエタ・ヒニンって言葉じたい忘れてる奴も多いしね。
629日本@名無史さん:03/06/15 04:33
>>628
言うよ、マジで。
うちの市町村合併の話でも「あの町は部落で有名だから合併したくない。
あの町と合併するならこの町出て行く」なんて意見も多いし。
市町村合併自体の是非はともかく、そんな差別意識が反対理由という人もいる。
私は差別も合併も反対だがね。
630もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/15 07:38
>>627
戦前は多いね。
解同を分裂させた朝田善之助氏もそうだし、あたしのお師匠様の北原泰作氏もそうだ。
出自がさむらいとばれて全国水平社を追い出された人も、共産党の幹部で、「特殊部落一千年史」書いてたが。
631もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/15 07:43
>>605
運動一般に参加を拒んでいました。
未指定と呼ばれた部落に多いね。
出自が「えた」ではなく、違う賎民だそうです。
632日本@名無史さん:03/06/15 09:35
>>626
http://members.tripod.co.jp/trotzdem/data.htm
参照しれ。
埼玉の地区住民数122650人、うち部落民人数34946人。
兵庫の地区住民数206156人、うち部落民人数117297人。

633日本@名無史さん:03/06/15 12:48
>>631
江戸時代「えた」のほうが「非人」よりも格が上だと聞いたことがあるが。
 そういうのも、運動への意識の違いに関係があるのでしょうか。
634日本@名無史さん:03/06/15 13:43
出自がさむらいとばれて全国水平社を追い出された
    ↑
  なぜ、こういう風に運動が閉鎖性をもったのでしょう?
  何か政治的意図があるのかな?
  
635日本@名無史さん:03/06/15 13:47
マルクス主義とかと関係あるのかしら。
階層間の闘争とかの影響を受けたから?
それとも、何か政治的意図をもって
組織が閉鎖性をもったのかな?
636日本@名無史さん:03/06/15 13:50
やはり、戦前も反共対策的な意図があったのかな・・・。
637日本@名無史さん:03/06/15 13:59
>>633
非人頭はえた頭に従属していたので、当然非人はえたより格下。
しかし非人の方が一般身分の方に近いとされていた。
つまり一般の町民社会が+(プラス)であるのに対して、
賤民社会は−(マイナス)の世界で、境界線はゼロという風に考えるべきなのだろう。
ゼロのあたりに位置していたのが、歌舞伎はじめ諸芸能民であり、
この連中は身分は町民でありながら、その職業にかんしてはえたの統制を受けていた。
だから芸能関係はもちろん、非人系(夙の者なども実質的には平民だと言われる)が
「水平運動などという憎っき旧えたどもの運動に手を貸す義理はない」
という意識・論理を持ちうることは当然ありえただろう。
638もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/15 14:54
文献では、非人には、武士もいました。
非人なれば、最低限、活きていけたためです。
どうも、救済制度の役割もあったみたいですね。
凶荒の時には、藩からお助け米も出ますし、所払いなどの措置にもあっていません。
639日本@名無史さん:03/06/15 23:34
えたは絶対に平民身分になれないが、非人は平民に戻る可能性が
あったみたい?

>非人には、武士もいました

山田浅右衛門みたいな人ですか?
640日本@名無史さん:03/06/16 00:11
>637
>ゼロのあたりに位置していたのが、歌舞伎はじめ諸芸能民であり
公家に擁護されていた者と、その後武家に擁護されていた者。そ
の差が現代の芸能ではないの?
641日本@名無史さん:03/06/16 00:36
>えたは絶対に平民身分になれないが

これも抜け道があったのでは。
642日本@名無史さん:03/06/16 07:39
エタは皮革加工の熟練労働者だから簡単に他の身分には移れないだろう
非人の方はゴミ溜の管理とか御熟練労働だから身分移動がし易かったのだろ
643日本@名無史さん:03/06/16 10:03
皮革加工の熟練労働者・・・んで世襲でしょ。
歴史的には、平安時代発生かな?
中世にはすでに軍需産業民として存在してるから。
歴史的には長いですよね。
武家の背後にはいるんじゃないかな。
644日本@名無史さん:03/06/16 10:12
歴史が長く、世襲で仕事を行ってきたっていうことは
他の人はエタにはなれないっていうことなのかな?

でも、これだと惣村の分業からっていう説は「?」
中世、戦乱の世においても、被差別民のネットワーク
があるように思えるのもそういう血統主義的なところが
あったからかもしれませんね。
645日本@名無史さん:03/06/16 10:21
非人って寺社非人とかも身分移動しやすかったのかな?
江戸時代は、神社とかお寺とかの領地ってどうなってたの?
646日本@名無史さん:03/06/16 10:32
やっぱ、武家と関係の深い人々
    公家と関係の深い人々
    寺社と関係の深い人々
    都市部で仕事の分業上必要とされた人々
    農村部で仕事の分業上必用とされた人々
    山奥で原始的生活をおくる人々
 など、色んな人々がいたっぽいですね。
 移転の自由が禁止されたのは、軍需産業民が多いのかな。
    
647日本@名無史さん:03/06/16 12:18
ずっと、前のレスで
芸術品っていってたけど
日本の甲冑(鎧・兜)は
芸術品だと思う。
刀鍛冶は賎民ではないそーだけど。
648よね子 :03/06/16 13:58
ヒニンは身分回帰ができます。
男性では的屋。女性では女郎です。
的屋は商人に、女郎は妾となって町人になれます。
これら苦界(公界)に身を置く者は、転生をはかるために、わざと当該業種に
はいる人もあった。江戸時代の身分リサイクルシステムでしょうね。
649よね子 :03/06/16 14:00
>>647
私も鎧甲冑は美術工芸と思ったのですが、いわゆる「指定」は受けてないですよね?
どうしてなのか、答えは立ち消えでしたね。
また、武具を作る人は、どういう人達だったのかイマイチ分からないです。需要は江戸
時代もあったわけだし。
650日本@名無史さん:03/06/16 15:17
しかし、日本の甲冑はどこの影響を受けてるんでしょう?
色彩もカラフルなものもあるし。鑑賞目的でもあるのでは?
特に江戸期は、戦乱もないし。
西洋の鎧は金属でできているのも、革鎧も実用的でもっとシンプルだし。
半島?中国?
651日本@名無史さん:03/06/16 15:24
あの、兜の角みたいなのは、中国にもないっぽいし。
652日本@名無史さん:03/06/16 15:34
ヒニンはいろいろな方法でできます。
男性ではコンドーム。女性ではペッサリーです。
コンドームは陰茎に、ペッサリーは子宮口に被せます。
これら苦界(公界)に身を置く者は、転生をはかるために、わざとナマで
入れる人もあった。江戸時代の身分リサイクルシステムでしょうね。
653日本@名無史さん:03/06/16 17:02
御用達鎧職人とかが居たわけだから。
これらの職人は身分的には刀工(士分)と同じだと思うが。
654日本@名無史さん:03/06/16 17:16
>>653
ということは、組み立てとかではなく、分業での下流の部分
 を担当してたってことかな?皮革など。
655日本@名無史さん:03/06/16 17:25
製販一体といってもさ、原材料と中間品までじゃないのか?
それに主な生産物は雪駄なんだからさ。
皮革は素材(半製品)じゃないのだろうか?
656日本@名無史さん:03/06/16 17:26
ひにんは感じで書くと非人だろ。
人間でないわけだ。きっと猿とか狼とかそういうたぐい。

だから今の差別問題とも無関係だな
657日本@名無史さん:03/06/16 17:35
>>656
神と人間とタタリの関係で、もし、人間が行えば、神は怒り
 タタルが、非人は人間ではないので大丈夫的な発想が昔の
 人にはあるのかも。
 開墾などにたずさわっていた人はそーでは?
658日本@名無史さん:03/06/16 17:39
弾左衛門が鎧を納入してたと、何かで読んだような気がするんだが。
659日本@名無史さん:03/06/16 18:21

人形、兜の老舗ってあるけどな。
660日本@名無史さん:03/06/16 22:25
>鎧職人
なお甲冑の工人は,古くは甲作(よろいづくり),鎧作と呼ばれ,近世には物具
細工(もののぐざいく),具足細工あるいは鎧師,具足師などと呼ばれた。
彼ら工人が銘を刻み,流派を唱えるようになるのは戦国時代にいたってからで,
奈良の岩井派,春日派,紀州の雑賀(さいが)派,京都の明珍派などが隆盛となった。
その中でも徳川将軍家のお抱え具足師となった岩井派の岩井与左衛門や,
刀装具にも手腕を発揮した明珍派の信家などが著名である。

優遇された職能みたいね。
661_:03/06/16 22:26
662日本@名無史さん:03/06/16 22:28
紀州の雑賀(さいが)派って雑賀党とも関係あるのかな?
雑賀党は、鉄砲作りでも有名だけどね。
663日本@名無史さん:03/06/16 22:32
>非人
もとは仏教からでた言葉で,鬼神・夜叉(やしや)など,人にあらざるもの
が人の姿形をかりて現れたものの意味であったが,別に,罪人・世捨人・僧,
最下級の神人(じにん),乞食(こつじき)などをさす語として平安時代いらい普及し,
江戸時代になってからは,賤民身分の一部をさす呼称として,公式に江戸幕府・
諸藩で採用され定着した。
非人は,親子代々の〈非人素性〉のものがその中心をなしたが,ほかに,
犯罪や,心中の仕損じを理由として非人身分に落とされて〈非人頭(がしら)〉
の配下に入れられた〈非人手下(てか)〉,生活困窮のため乞食浮浪の身となった
〈無宿非人〉〈野非人(のびにん)〉があり,その内容はさまざまであった。
町外れや河原の非人村の小屋に住み,物乞い生活を基本としながら,大道芸,
犯罪者の市中引廻し,処刑場での雑役などで,日々の暮しをたてていた。
江戸では,罹病の囚人や15歳未満の罪人たちは,浅草・品川の非人頭のもと
で非人が管理していた非人溜(ひにんため)に収容され,そのことを非人小屋預
(あずけ)といった。また,前記の無宿・野非人については,天保〜嘉永年間
(1830‐54)に浅草に非人寄場(よせば)が設けられていた。
664日本@名無史さん:03/06/16 22:36
雑賀=鈴木=平井孫市って、
終焉の地・墓所がなぜか数カ所あるんだよね。
そのうち三重県熊野市の某所は部落内なんだけど。

あと一向宗の拠点に「エタ」という地名があったという話は
ずっと前の方のレスで出てる。
665日本@名無史さん:03/06/16 22:39
>中性の非人への救済
中世における慈善事業の中心となっていたのは,仏教者が慈悲行・布施行
(ふせぎよう)の実現を目的とする形で,乞食,非人と呼ばれた人々に非人
施行をすることであった。
浄土系を中心とした仏教者の非人救済は貴族にも広がり、
中には、非人を文殊菩薩の生まれかわりとして救済に尽くす派もあった。

ライ病者や障害者も多かったから、神聖さもあったのかな?
666日本@名無史さん:03/06/16 22:46
>>658
陰陽師系の集団が開墾による自然破壊の呪いを払うために、
開墾の先頭に立たされたと聞いたこともあります。
陰陽師系は、歴史とともにだんだん、階層が下がってきたみたいだね。
667日本@名無史さん:03/06/16 23:13
>>662
雑賀党と雑賀派の関連はわかりませんでした。
くぐればどこかにあるかもしれませんが。

>>664
雑賀孫市
さいかまごいち
戦国末期紀伊国紀ノ川下流域に勢力をもった土豪。生没年不詳。海部郡雑賀荘の
土豪鈴木佐太夫の子。名草郡貴志荘平井村が本拠。
鈴木孫市重秀,平井孫市ともいう。
本願寺門徒の勢力の強い地域の中にあって,孫市も道場をもち指導的立場にあった。
石山本願寺一揆では本願寺方の大将として門徒を統轄し,織田信長に抗戦した。
石山本願寺一揆中から雑賀では土豪間の対立があったが,1585年(天正13)豊臣秀吉
の紀州征伐のとき,秀吉方に加わり,対立する土豪を滅ぼした。小牧・長久手の戦
では徳川方に参加し,秀吉の小田原攻めでは150騎を率いて陣立に加わった。
のち水戸藩の家老職につき3000石を給せられた。

家老になってますね。
668日本@名無史さん:03/06/16 23:20
>>667
じゃあ和歌山市の平井孫市、熊野市の鈴木孫市はいったい誰なんだ???
669日本@名無史さん:03/06/16 23:24
>エタの地名
穢多崎のことかな?
語源不明で話が終わってた記憶があるが。
普通はつけないですよね。
秀吉の時代だから、普通の人は、カワタと呼んでいたから、
穢多という言葉は、やや不自然。
それに、各地にない。
670日本@名無史さん:03/06/17 00:02
>>666
陰陽師は治水事業にも携わっていたみたいね。
でも、各種土木事業は、僧侶もかかわってるから。空海とか。
陰陽師は道教で密教つながり?
671日本@名無史さん:03/06/17 00:10
雑賀党は半島まで逃げのびて、一派を滅ぼした
秀吉と戦ったとかいうのはデムパ?
四国には、逃げてきてたみたいだけど。
672日本@名無史さん:03/06/17 00:12
秀吉方に加わったのと、そうでないのがいるのか?
雑賀党。
何か雑賀党って強いけど雇われ兵隊部隊みたいで、
主人はコロコロ変わってたみたいだけど。
673日本@名無史さん:03/06/17 00:45
>641氏
部落内に腕のいい医師がいて、周囲の人が、その医師を何とか平民身分に
してほしいと嘆願したときに弾左衛門は許さなかった、ということがあっ
たそうです。

部落から逃亡すれば確かに抜け道になったかもしれませんが...それでは
無宿になってしまいますね
674日本@名無史さん:03/06/17 01:15
非人って、戦争で負けて落ち武者になった者や都市生活から
はみ出していったものは、ある意味、後世的な非人であって、
聖なるパワーを持った、とか、特殊技能職人と称される人々
とは違う気がする。
675日本@名無史さん:03/06/17 01:36
非人では大した技能はなかろう
676日本@名無史さん:03/06/17 02:08
朝鮮人
677もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/17 06:14
>>671
秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮に降ったサヤカのことですね。
肥後の阿蘇氏配下に雑賀衆がいたそうです。
この雑賀衆が「サヤカ」ではないかという説があります。
サヤカは、鉄砲の使い方と製造を朝鮮軍に伝えていますが、同時期の日本で、鉄砲集団というと雑賀衆ですから。
678御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/17 08:37
『弾左衛門とその時代』賎民文化のドラマツルギー 塩見鮮一郎 批評社 より抜粋
中世において、弾左衛門は「由緒書」(自らは「頼朝御証文」と呼ぶ)で長吏以下二十八座を
支配したといっている・・「鎌倉藤沢長吏弾左衛門頼兼写し」
長吏(ちょうり)穢多、皮多
座頭(ざとう)当道座に属する盲人一般のことで、琵琶、筝曲、四弦の奏。鍼灸、按摩
舞々(まいまい)曲舞、幸若舞。曲舞は南北朝から室町に流行、鼓に合わせ詞章を唄い舞う
猿楽(さるがく)(申楽)、中国の散楽が起源で滑稽なしぐさ芸、物まね芸
陰陽師(おんみようじ)中国発祥の陰陽道占法呪術作法を行う宗教家。卜占、暦算、加持祈祷
壁塗(かべぬり)壁を塗る職人。佐官、泥工
土鍋師(どなべし)土焼きの鍋を作る人、また売る人
鋳物師(いものし)鋳物職人、鐘を作る専門家もいる
辻目暗(つじめくら)寺社や街道で琵琶を弾き語り祈祷。盲目雑芸人で当道座に属さない乞食
非人(ひにん)生業は乞食。抱非人(小屋持非人)、無宿の浮浪者(野非人)とは区別
猿曳(さるひき)猿引・猿飼・猿回し。猿に芸をさせ馬の安全を祈祷する
弦差(つるさし)(弦召・弦女曽・犬神人)木に弦を張って弓を作る職人。
  京都では犬神人と呼ばれ、八坂神社に隷属し、洛中の死屍の始末にあたった
石切(いしきり)石材の切り出し、石に細工する人
土器師(どきし・かわらけし)素焼きの土器を作る人。土器を売り歩く人
放下師(ほうかし)初期は僧形で短冊を笹に吊るし、曲取り芸、物語歌を唄う
笠縫(かさぬい)菅の葉の笠を作る人
渡守(わたしもり)渡し舟の船頭で、川守。初期は河原者の仕事
山守(やまもり)山荒しの監視、山火事の見張り、のちの番非人?
青屋(あおや)藍屋、藍染をする人。上方では江戸中期まで牢屋番、清掃の労役を課す
・・つづく
679御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/17 08:42
>678 つづき
坪立(つぼたて)壺師、壺作・・坪=壺?
筆結(ふでゆい)筆を作る人
墨師(すみし)油煙や松の根を焼いて、すすを出し膠液で練り固めて墨を作る職人
関守(せきもり)関所の番人。河原者にまかされ、渡守が兼任したところもある
獅子舞(ししまい)舞は唐から伝わり舞楽として演奏された
蓑作り(みのつくり)茅や菅、藁や棕櫚を材料にし農具や雨具を作る人
傀儡師(くぐつし・かいらいし)人形を使って今様を唄う遊芸の人
傾城屋(けいせいや)遊女屋
鉢扣(はちたたき)鉢叩・鉢敲。念仏踊りの一種、瓢箪を叩き念仏を唱え踊る
鉦打(かねうち)鐘叩。一遍上人の遊行に従い、蒔水の仕事を務める。埋葬の事にあたる
右の外は数多有之、是皆長吏は其上たるへし、此内盗賊の輩は長吏として可行之、
湯屋風呂屋るい、傾城屋の下たるべし、人形舞は廿八番の外たるべし

上記項目の数は29有るが長吏を外し28種?
680日本@名無史さん:03/06/17 11:42
ずいぶん、いろいろありますね。
筆職人や風呂屋もか。
陰陽師はやはり入ってますね。
681ジョーカー ◆clown/XNVk :03/06/17 11:58
人権板では、真面目なスレッドがありましたが、
現在スレッドが立ち上がっていません。
ココを紹介されました。
よろしくお願いします。
682日本@名無史さん:03/06/17 13:18
>>678

なんだか百姓以外の全部みたいっすね。
683日本@名無史さん:03/06/17 13:42
うちは農業もやってたが、染物屋でもあったらし。
でも、布は作ってなかった。神社ののぼりなどを作ってたらしー。
デザイン(下絵?)と染めのみ。
だから、職能民といっても1つの製品をつくるのに
様々な分業が存在してるのではないかな?
684日本@名無史さん:03/06/17 13:51
紺屋
こうや
〈こんや〉ともいう。現在では染物一般を行う染物屋をさすが,本来は
紺仰(こんかき)屋の略された語といわれ,紺染(藍染)を専業とする者の称であった。
紺仰の名は,藍瓶に溶かした藍が底に沈殿しないように仰きまわして染めた
ことに由来する。
職人としての紺仰の誕生は中世初期にさかのぼるが,近世になって紅師,紫師,
あるいは茶染師といった職人もあらわれた。こうした紺仰以外の染物職人は
中世末期には染殿(そめどの)と呼ばれていたが,やがて染物業者のすべてを
紺屋とも呼ぶようになった。染料は植物性のもので,原料植物によって
その処理や染色のしかたにちがいがあったため,職人の分化が起こったものと思われる。
紅師は紅花(べにばな),紫師は紫草(むらさき),茶染師は黄櫨(はぜ)や
檳古子(びんろうじ),紺屋は初めは山藍,のちには蓼藍(たであい)を使った。
中世の紺仰は山藍の栽培から染色までのすべての工程を一貫して行っていたが,
近世には蓼藍の葉から染料としての多(すくも),あるいは藍玉を生産する藍師(藍屋)ができ,
紺屋はそこから藍玉を仕入れて染色を行うようになった。
都市では業者が集住して紺屋町を形成したところが多く,村落にも紺屋の
定住が多く見られた。
労働は伝統的に女性中心に行われ,中世から近世初期の風俗画にそのようす
が描かれている。
685日本@名無史さん:03/06/17 18:50
陰陽師といえば、安倍清明の母親は化け物として描かれてるけど、
古代賤民とかと関係あるの?
686日本@名無史さん:03/06/17 18:53
          ,.ヘ.
    __,ノ ,::,ヽ,__
    \''::, (,,゚Д゚) ,::''/  <このヒトデナシがぁっ!!
      ヾ ,:' ☆ ':,〃
      |,/|´ `|\,|
        ´  ∪∪  `
687日本@名無史さん:03/06/17 19:00
占い師と医者と学者は、時の権力者に取り入れば
大先生で裕福な暮らしが出来る。
688日本@名無史さん:03/06/17 20:00
>>682
あまりにも有名な網野説だが、
そもそもすべての職業を総括して「百姓」という意味だったのだ。
689日本@名無史さん:03/06/17 21:03
網野説だと、百姓のうち水田耕作農民は6割くらいかな。
あとは、商業や交易や手工業で稼いでいる。
そういう水田耕作民以外も、農村在住だと百姓身分になるわけだ。

>>685
安部清明の頃は、陰陽師は、まだカリスマ性があって社会上層部では。

>初期の活躍
官僚としては684年(天武13)2月,新都選定の卜占に派遣された記事が初見で,
律令制下では陰陽寮に6人の定員がおかれ占筮相地等をなし,地方では大宰府
はじめ東海・東山・山陰・西海各道や陸奥鎮守府に配置された。
平安時代,民間では播磨国に海賊を呪縛した智徳なる名人をはじめ法師陰陽師
の活躍がみられたし,京都一条堀川の戻橋辺では陰陽師団が斯道の達人安倍晴明
にゆかりの伝承を説き,みずからを権威づけるところがあった。

>政府の陰陽寮の落ちぶれ
1127年(大治2),大内裏の火災で陰陽寮も焼け,渾天図・漏刻等は持ち出された
が,他の伝来の器物は多く失われ,平安遷都以来の漏刻の大鐘も焼け,以後
陰陽寮は鰻落の一途をたどった。
690日本@名無史さん:03/06/17 22:25
>689
「農村在住だと百姓身分」ですか?
691日本@名無史さん:03/06/17 22:43
>>689
それは知ってるけど、だからこそ母親が化け物扱いされてるのは何故なんだろう?
692日本@名無史さん:03/06/17 22:58
永原慶二がよく批判して言ってることなんだが、
農村在住なんだから結局は農業が「主」なんだよ。
それを網野は、ちょと色んなことに手出してるからって
鬼の首取ったようにやれ非農業民だ、農村に貨幣経済が浸透してるだ、
と大はしゃぎしている。
このいわば「非農業民特権史観」wが一方で天皇制を一方で賤民制を
歪曲化しながら実体化することにつながっているわけだ。
693日本@名無史さん:03/06/17 23:04
>>690
城下町以外は村にされたから、村の賎民以外は百姓になるのかね?
694日本@名無史さん:03/06/17 23:12
土地がほとんどないけど漁や交易で豊かな海の民とかも百姓なんだよね。
非農業民特権史観とは別の話でないのかな。
特権については、網野の古代や中世の話で、
網野の百姓は農民とは限らないとは、近世の話で無いかい?
江戸時代の検地帳や富裕層家の古文書から分析してるから。
695日本@名無史さん:03/06/17 23:28
>>安倍清明の母親は化け物

白い狐とかっていうけど・・・・
 遊女?
696日本@名無史さん:03/06/17 23:41
城下町で中世の戦乱の世は、馬の世話などもしてたのじゃないかな?
ドラマや映画で合戦の様子を見てると、武具とか旗とかあーゆーの
作ってた人ってクローズアップされないけど、どうなのだろう。
697日本@名無史さん:03/06/17 23:54
>>母親が化け物扱い

 平安時代の書物はほとんどが貴族の視点から
 書いてるから、貴族以外はやっぱり下に見られてるよ。
 平清盛とかも、分不相応だとか言われてるし。
 この頃は、宮中や寺社の地位の方が武家より高いんだよ。
698日本@名無史さん:03/06/18 09:22
>>696
古代では官営の牧舎があった。うちの近くにも、舎人(役人官舎)と遊馬(牧場)
という地名が残っている。
中世では、馬の産地は東北・関東なんだろうけど、世話は武士が自宅で行ってた
もよう。大事な戦闘備品だからね。武家作りの屋敷に馬小屋がよく書かれている。

中世末期渡来してそれを観察したヨーロッパ人の記録は興味ある内容をもつ。
〈武家上層の遠舎は板張りで清潔であり,来客の接待にも用いられた。
馬は出口に向けてつながれ,その右から乗馬するように習慣づけられていた。
体賭(たいく)は小型で貧弱であり,ヨーロッパの当時のような蹄鉄は用いられず,
わらぐつをはかせてひづめを保護した。そのため鞍には予備のくつをつけ馬丁
がわらぐつを担って従う〉という状態であった。

>武具
鎧とかの職人は、だんだん鎧への高級化志向が高まるとともに、社会的存在も
上昇して行ったようです。安土・桃山・江戸初期とか特に。

旗職人はわからなかった。
699日本@名無史さん:03/06/18 09:35
>阿部清明
系図類によれば,8世紀はじめの右大臣阿倍御主人(あべのみうし)
の系譜を引き,益材の子とされる。

阿部氏は、古代豪族で蘇我氏の頃から台頭。684年(天武13)朝臣の姓を
賜っている。御主人は701年(大宝1)右大臣に,宿奈麻呂は719年(養老3)
大納言にまで昇っている。
一応血筋はいい。

母が狐との伝説は江戸時代にできたようです。

道満は陰陽師として晴明と張り合っていた。
この2人の,卜占をめぐる熾烈なる抗争は古浄瑠璃《信田妻(しのだづま)》
(作者不明)や義太夫《蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)》
(竹田出雲作,1734初演)などの名作として,既往の所伝や芸能をふまえつつ
江戸時代前期に結実したが,
そこでは晴明は摂津国の安倍野の武士である安倍保名(あべのやすな)が
和泉国の信田(信太)森(しのだのもり)の狐(白狐)の化身である女と契って
生まれた子だとしている。
700日本@名無史さん:03/06/18 09:42
×阿部
○安倍
701日本@名無史さん:03/06/18 09:56
○阿倍
欝だ、逝きます。。。
702よね子 :03/06/18 15:09
古い言い方だけど、士農工商のなかの、工というのが、網野さんが被差別民とした
身分に多くいるみたいですね。

兵農分離から考えると、兵部がそうなんでしょうかね?

といっても、兵農の兵とは武士なわけで、古代からの被差別民は公家と武家の支配
のもと、主に武家の傘下にあったものがエタ系の人達でしょうか?

江戸時代は武家(幕藩体制)でしたので、武家絡みの被差別民が明治まで残ったと。
そして、明治中ごろからの民権運動とか労働、無産者階級の運動とも繋がり、現代
まで残った、ってことでしょうか?
703日本@名無史さん:03/06/18 15:59
>>702
穢多は、要は構造不況業種だった。その点では士族(後に士族の乱があるが)
と似ているよね?
704御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/18 16:32
初代「弾左衛門」の出自はまったく不明だが、いつの時にも、「武士の最下級」の役を
果たしつづけた、武士社会は斃牛馬の独占権を弾左衛門と長吏(皮田)に与えた。

明治二年、弾内記は士族として、兵部省などに軍靴製作の許可を得ようと務める。
いまひとり軍靴と靴下に目をつけた人物がいる。佐倉藩の士族から平民になった
西村勝三である。兵部省は西村のほうに便宜をはかっている。

弾内記は米国のチャーリー・ヘンニンガーの指導を仰ぎ、明治四年八月、西洋靴用の
鞣し革の日本第1号を製造する。チャーリーにちなんで茶利革といわれ、第二次世界大戦
までその名で呼ばれた。
靴だけでなく、ベルトから弾丸入れ肩帯、革紐など多種多様であった。それは維新以前に
やっていた鎧の札や馬具に必要な革製品供給の延長上にあった。
705日本@名無史さん:03/06/18 16:57
つまりは、てっとり早く言うと職人さんが住んでいたのでは?
半島では、職人さんて差別されてたんでしょ。
製品1つの製造・販売も分業の下流から上流までいて、ダンザエモンなんかは
元締めだから、上流の部分(販売とか管理)担当でしょ。
それに、従来の仏教が定義していた善と悪の価値観で悪に入ってしまうもの。
(それゆえに、戒律の緩い浄土真宗が好まれた)
カーストの要素もある世襲で職業別の差別。
706 :03/06/18 17:01
>>705
工程分業ってやつですね?
707よね子 :03/06/18 17:11
だから、工業なのか、商業なのか、農業(酪農)なのか? と。
つい分類したくなりますが。
家内工業から大量生産への移行(江戸末期)が、現代のE民の存在を残滓
として生み出した、というのはどうですか?
他の分野では、このようなことがあったのか、具体例を挙げて説明しないと。

造船、鉄鋼、石炭、繊維、、、このあたりは古代の賎業(アミノ酸いわく)でしたね。
708よね子 :03/06/18 17:13
>705
>半島では、職人さんて差別されてたんでしょ。

そうなんですか? 初めて知りました。それは近代もですか?
709よね子 :03/06/18 17:14
>>706
>>705 工程分業ってやつですね?

それは、中国が東南アジアとやっている方式ですね。欧州でもそうですが。
ドイツの疲弊の原因の一つとか。
710御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/18 19:51
【安倍晴明】
晴明が正史に登場するのは天元元年(978)57歳の時、以来、天皇や藤原道長に重用される。
没年は寛弘二年(1005)九月二十六日で安倍氏系図に八十五歳とあるので逆算すると出生年
は、延喜二十年(920)になる。
『今昔物語集』
平安後期の保安元年(1120)に書かれたエピソードが晴明の生きた時代に一番近い
父親の謎
 安倍保名(希名)・・阿倍仲麻呂の子孫で大阪安倍野区あたりにて暮らしていた
☆安倍益材・・右大臣安倍御主人から九代目、大膳大夫という役目についた人物
       (安倍氏系図には益材。益材=保名の材料はない)
出生地の謎
☆大阪説・・摂津国東成郡阿倍野(泉州信田森葛葉稲荷と豊能郡能勢町の信田の森)
      (安倍安名なる人物が住んでいたやから?)
 讃岐説・・讃岐国香東郡井原(善通寺の山門にエピソードが残る)
 茨城説・・常陸国筑波山麓猫島(吉備真備の『簠簋抄ほきしょう』)

芸能の『信田妻』では清明。父・保名が狐を救った話しが出てくる。
古浄瑠璃『しのたづまつりぎつね 付 あべノ清明出生』延宝二年(1674)が有名。
(安倍安名なる人物が住んでいたやから?)×
(安倍保名なる人物が住んでいたやから?)○
712日本@名無史さん:03/06/18 20:44
>>707

いわゆる製造業です。
713日本@名無史さん:03/06/18 20:45
>>707
>アミノ酸

ワロタ。 網野さんね、そう呼ぼうか。
714日本@名無史さん:03/06/18 20:47
>>710
安倍も阿倍も同じでしょう。発祥は阿部一族、東北地方の豪族、古代氏族と思いますが。
715日本@名無史さん:03/06/18 22:02
製造業の中でも、死体を扱うので不浄だと思われたんですかね
716日本@名無史さん:03/06/18 22:30
>>715
死穢に関係ないと思われる製造業もあるよ。
 要は、実際、体を使って何かを作る職人さんでは?
 商人は、出来上がった商品を仕入れ、陳列して売買をする人でしょ。
717御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/18 22:38
壁塗(かべぬり)壁を塗る職人。佐官、泥工

大きな声では言えれんけど
集落全部がこれとゆうとこ有る。
718716:03/06/18 22:41
自分で実際製造したものを自分で店舗を出して売るスタイルでは
なかったっていうことかな?
あくまで、製造。
店舗で売買は商人の仕事?
専門家ではないのでわかりませんが。
ただ、お上に税として製造された品物を物納したりもしてるから
このへんの流通がどうなってるのかよくわかりません。
庶民にも販売されてたんですよね。色々な製品。
では、商店で販売されてたっていうことでは?
ただ、軍需産業品は一般人にまで売買されたのかどうか?
また、寺社に関係のある製品はどういうルートで販売されたのでしょう?
719日本@名無史さん:03/06/18 23:27
>半島
中国や半島での差別の文化が、古代に西日本文化に影響を与えたのではといわれてるが。
半島の被差別民の研究は日本の研究に役立つのではとも言われるが。

李朝時代になると社会発展による職業分化の中から,職業と結びついたかたちで
〈七般公賤,八般私賤〉などと呼ばれる多様な賤民が析出され,厳しい差別に苦しんだ。
しかし法的規定と社会通念には多くのずれがあり,社会通念にも幅があって一律
な賤民規定は難しいが,おおむね次の7種が賤民と認められる。
(1)白丁 賤民の代名詞であり,環殺や柳器匠などに従事する被差別民。
(2)才人 白丁から分化し,軽業などを業とする大道旅芸人。
(3)巫覡(ふげき) 男女のシャーマン。
(4)喪輿軍 葬礼の柩かつぎ,墓掘り人夫。
(5)僧尼 李朝の排仏策から生まれ,最下層に在家僧がある。
(6)妓生(キーセン) 官衙に所属し,歌舞音曲や売春などを業とし,針線婢,
医女としても官衙で使役された。
(7)公私の奴婢 賤民の中で最大のものであり,全人口の10%程度が存在したと推定される。
公奴婢は中央・地方の官衙に所属し,私奴婢は両班(ヤンバン)など私人に所属して
売買・譲渡の対象であった。
1894年の甲午改革で賤民も身分解放されたが,偏見は強く残った。
その後,朝鮮戦争と近代化による社会変動の中に彼らも姿を没した。
720日本@名無史さん:03/06/18 23:36
>>716
>死穢に関係ないと思われる製造業もあるよ。
>要は、実際、体を使って何かを作る職人さんでは?

体を使って何かを作るって、なんだかナチスの石鹸作りみたいですねー
721日本@名無史さん:03/06/18 23:40
>>707
>造船、鉄鋼、石炭、繊維、、、このあたりは古代の賎業(アミノ酸いわく)でしたね。

だから網野の言うこと真に受けちゃいかんつーに。
すべて電波とは言わないが、あのジジイは発展史観への懐疑が度が過ぎた結果、
歴史性欠落しちゃって(いちおう歴史学者なのにw)、
現代の差別も古代の差別も同次元で論じちゃってるのだから。
722日本@名無史さん:03/06/18 23:41
> 中国や半島での差別の文化が、古代に西日本文化に影響を与えたのではといわれてる

西日本で差別がきついのはそのせいか?
723日本@名無史さん:03/06/19 00:19





えた>ひにん>とうほくじん




724 :03/06/19 01:07
>>719

韓国というか半島の仏教伝播は日本より早かったし、定着も少なかった。
しかし、半島では被差別民という形態はあり、日本と酷似していますね。

あながち日本の被差別(えた)の起こりが仏教の伝播とは言えないものが
ありますね。

朝鮮通信使は両班かな? あ、もしかしたら、江戸時代の初期、もしくは
室町の勘合貿易のあたりから(李氏朝鮮発祥の頃)、朝鮮からもたらされ
た差別思想かもしれないな。
725日本@名無史さん:03/06/19 01:21
>684

紺屋は弾左衛門の支配を脱したのではなかったですか?
726☆=☆=☆:03/06/19 01:50
>>723
えた>ひにん>とうほくじん

江戸時代から東北にはえた・ひにんがいなかった。そのことから
ヤマトが東北を征伐したときに捕虜にした人たちを
主に関西に連れてきて奴隷のように使ったことから誕生したという説あり。
それを紹介すると、ヤマトは九州から近畿に入り、次に関東、東北と攻め上った。
青森のネブタでは、東北を征伐した坂上田村麻呂などが英雄になっている。
この東北征伐(ヤマトの東北征服)で抵抗したものは殺され、降伏したものは
捕虜となった。そのまま、土地に残る者はいなかった。新たに土地を与えられたものは
ヤマト政権と一緒にきた渡来人たちだ。彼らは土地を与えられ、神社を建て
新政権をあがめた。もとから住んでいた旧日本人たちは関西などのヤマト政権の
固まった地域に送られ、土地は与えられずエタとして差別された。
非人は主に罪人で一時的にエタに預けられた。罪を犯して「江戸ところばらい」
などと判決を受けると、非人となりエタに預けられた、という。
727日本@名無史さん:03/06/19 02:06
>>720
自分の体を動かしてという意味です。
原材料じゃないよ。
728日本@名無史さん:03/06/19 02:09
まー、一言いえることは徳川家康よりもかなーーーーり
昔から存在してることは事実だな。
729日本@名無史さん:03/06/19 02:10
ただ、徳川後期には服装を制限したりして、
差別を強めたみたいだけど。
730 :03/06/19 02:20
徳川初期の生類憐みの令は、あきらかに保護政策でしょ?
731日本@名無史さん:03/06/19 02:24
誰を保護する政策?
732 :03/06/19 02:32
>>731

えた。
733日本@名無史さん:03/06/19 03:05
tyousennjinn
734日本@名無史さん:03/06/19 09:44
>生類憐みの令
被差別をかえって確定してったみたい。

在村鉄砲統制は,前代に夜盗横行対策として,とくに関東地方で強化されてい
ったものを,1687‐88年以降全国に及ぼしたもので,諸大名領への規制のきび
しさにおいてキリシタン対策とあいならび,猟師以外の農民の鉄砲所持を原則
として禁止し,鳥獣害に対する鉄砲利用をおさえたが,その全国への適用は生
類憐みの趣旨をかかげてのことであった。綱吉以後の鷹狩再興,鉄砲規制緩和
までを視野に入れると,人間・自然関係は幕政によって激動をかさねたわけである。

職業としての猟師は禁止されなかったが,野獣肉利用を彼らに限ったことは,
その身分を変化させたにちがいなく,服忌令(ぶつきりよう)での穢観念の公認
等ともあわせて,一連の政策が被差別身分制の強化に果たした役割も注意されてよい。
735日本@名無史さん:03/06/19 09:54
>江戸幕藩体制と差別
17世紀の後半以降,しだいに被差別部落に対する政治的・社会的処遇の
苛酷さがきわだってきた。
たとえば,幕府による寛文・延宝年間(1661‐81)の〈総検地〉実施の際
に〈かわた百姓〉の検地帳への登録のしかたが変更され,〈かわた百姓〉
の分だけをまとめて一般百姓の分の帳面とは別仕立てにする〈別帳扱い〉
が行われるようになった。
また地方によっては,被差別部落をまるごと別の土地へ移転させること
も強行されるようになった。一般民との分離策である。ちなみに,自然
災害,日照,水利等々に関して立地条件の劣悪な被差別部落が少なくな
い現状には,江戸時代における強制移住策が大きく働いているともいわ
れるほどである。
一般民との分離ということでは,神社の氏子組織からの排除,祭礼・行事
における明確な差別,入会権の剥奪も当然のごとく各地で行われだしたし,
風俗面での規制も強化されて,たとえば〈非人〉は斬髪(元結を結わない
で髪を散らす髪風)に限るなどとされた。
こうした賤民層に対するさまざまな措置は,むろんのこと長い年月の間に,
徐々に,かつ執拗に積み重ねられたものであるが,そうしたことが集中的
に表面化していた時期は,幕府・藩による政治の矛盾や社会情勢の変動が
めだっていた時期と,しばしば重なりあっていた点が重要である。
736日本@名無史さん:03/06/19 09:56
>江戸幕藩体制の矛盾と差別の激化
19世紀に入ると,被差別部落に対する差別はさらに深まり,今日では信
じがたいような差別が現出する。1798年(寛政10),伊予の大洲藩では,
〈えた〉身分の7歳以上の男女は胸に方形の毛皮をつけること,また〈えた〉
の家の門口には毛皮をかけること等々が布達された。
1856年(安政3)備前岡山藩で起こった〈渋染(しぶぞめ)一揆〉は,藩による
極端な〈えた〉身分の衣装制限に抗する五十数部落(被差別部落)の抵抗運動
であり,数ヵ月にわたる苦闘の末に被差別部落側は,ようやくにして本望
を遂げた。この闘いは,〈公権力〉との闘いたるにとどまらず,一般民衆
の差別意識との闘いでもあった。
また,19世紀に集中する被差別部落と一般民との訴訟沙汰の顛末は,
あらためていうまでもなく被差別部落の側の不利に終わっている。
法廷である〈お白洲〉に引きすえられるときも,一般民が筵(むしろ)に
座らされれば,被差別部落民は砂上に座を占めねばならなかったのである。
1859年,江戸浅草の〈えた〉一人が山谷の神社の祭礼の日に殺された事件では,
〈穢多頭〉弾左衛門の強硬なる抗議にもかかわらず江戸北町奉行は,
〈えた〉の生命は〈平人〉の7分の1でしかないとして,これを却下し,
弾左衛門ですら〈ほこ〉を収めねばならなかった。
737日本@名無史さん:03/06/19 10:05
               ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              ( ´∀`)/< 先生もろDVDはどこですか?
           _ / /   /   \___________
          \⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\
           ||\        \
           ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||                
           ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||         ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  
              .||          ||         (´Д` )  <  http://www.dvd01.hamstar.jp だ!
                              /   \   \___________
                              ||  ||  
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                       || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  ||
                       || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  ||
                       ||    教卓         ||  ||
                       ||                ||
738 :03/06/19 14:26

このスレの1では、どういう概要なんでしょうか?
知っている人がいたら教えて。
なんだか2で議論が深まっているのか堂々巡りなのかわからんし。
739御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/19 14:33
パート1
http://academy2.2ch.net/history/kako/1049/10491/1049172009.html
自分で勉強シル!予備校の勉強じゃあるまいし
判らん部分の話してるんやから堂々巡りになるわなぁ〜
740日本@名無史さん:03/06/19 16:31
今日のニュースステーションの特集で、
「遺骨のミトコンドリアDNAから解明、琉球王家のルーツ・・・」

同和地区住民やその墓の遺骨などから部落差別の起源を科学的に解明し、反差別運動を正しい
方向に発展させるべきではないか?
741日本@名無史さん:03/06/19 19:17
>>723
えた>ひにん>とうほくじん>>>>(越えられない壁)>>>>>723>>伊達遠江守家中
742日本@名無史さん:03/06/19 19:55
>>740
懲りずにまたDNAバカが現れたな。
ここんところ、せっかく真っ当な日本史議論が続いていたというのに。
743日本@名無史さん:03/06/19 21:21
うちの近くは、皮革工場と、晒し業染物があったが、まったく差別はなかった。
皮革工場は昭和初期に東京から移転、晒し染物業も昭和期に発展。
社会的移動によって、差別が移動してこなかった。
ただし、街道と右翼はついてきた。
両方とも無視されていて、まったく勢力になってない。
今は両方ともつぶれて、普通の住宅地やマンションになった。
744日本@名無史さん:03/06/19 21:56
B=K
745日本@名無史さん:03/06/19 22:26
N議でふざけた野郎をハケーン!

http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news2/1055954690/50

50 :唯法院釈奇知碍蓮華居士 :03/06/19 21:46 ID:DzVyTShR
>>45先日は申し訳ない。植民地は俺が言い出したことではないが、それに則って
言わせて頂けばN議の周りに属国たる専門板を差し従えるとということかな。
     世界史
      ↓
日本史→N議←土木建築
      ↑
     物理          の様な人の往来を盛んにさせ、活性化を図る
                  言葉は他板に失礼であるが、このイメージで
リンクを大義名分を持って貼り、極力こちらに来るよう仕向ける事を実行中だ。
そのリンク先で追っかけに遭っていたので切れて貴方に御迷惑を掛けた。

で、削除振興案を提出審議中。ご意見のある方は削除議論板の方にお願いします。
http://qb.2ch.net/test/read.cgi/sakud/1048115908/l50

746日本@名無史さん:03/06/19 23:21
実は、「生類憐れみの令」によって、困窮化したのではないの?
これが、最初の差別政策だったりして。
理由は仏教に帰依しないことに怒ってらしいけど。
747日本@名無史さん:03/06/19 23:43
>>716
例えばそういう人たちって、非定住民(非差別民)と頻繁に接触する稼業の人ではないでしょうか?
いわゆる「穢れ」って死穢の他に山岳民とかの否定住民は神域(山岳)に定住していないってことで
異界の穢れを負っている人たちって考えもあったような気がします。

自分は関西の同和先進県(w)出身ですが、同和地区って大きく分けると3種類の場所があるんですよね。
一つは河原、高台の不毛地などの耕作に適さない土地、二つ目は古い集落と大道の境界の土地
三つ目は低地集落から山間部(特に神聖とされる山地)に侵入する途中の土地。
製造業って原材料とか燃料とか山岳民や賤民から調達しないとだめでしょ。元にはそういった
関係で穢れを伝染された人たちってイメージもあったんではないでしょうか。
748ついでに:03/06/19 23:54
>>747
で書いた三種類のうち、成立過程については一つ目はおそらく最も新しいグループだと思います。
耕作地や定住地を失った流民集落とか、江戸時代の身分制度で強制移住させられたグループ
刑場など(不毛地が多い)の傍に住わされた非人集落などがそれに当たるのでしょう。
二つ目はおそらく古い宗教的理由でハレの対極にあるいわば荒ぶる神の様な感覚で異界(境界の外)から来る
病気や災いを祓う目的で境界に置かれた言わば節分のイワシの頭とか鬼瓦とかそういったものでしょう。
三つ目も成立は古いと思いますが、山岳民とか異界との境界に自然発生したグループが平地の定住民から
自然に避けられていたものが江戸期の政策で明確に被差別民として位置づけられたと考えてます。
749日本@名無史さん:03/06/20 01:52
精神系身体障害者
750【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守 :03/06/20 01:58
私の先祖はエタの生まれ。
751安東尚美:03/06/20 09:44
   /∵∴∵∴\
  /∵∴∵∴∵∴\
 /∵∴∴,(・)(・)∴|
 |∵∵/   ○ \|
 |∵ /  三 | 三 |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 |∵ |   __|__  | < うるせー馬鹿!
  \|   \_/ /  \_____
    \____/
752日本@名無史さん:03/06/20 10:14
戦国期には、穢多村は枝村として、本村の近くなんだろうけどね。
江戸期には、強制移転されたとの話も聞く。
非人は、河原などに居住してたのは中世からもですね。
山岳民(サンカ)は、穢多とはちょっと違う気がします。差別は受けてたけど。

中世の河原者は以下のようです。
江戸時代に,歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。
河原乞食ともいった。
元来,河原者とは,中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。
河川沿岸地帯は,原則として非課税の土地だったので,天災・戦乱・苛斂誅求
などによって荘園を追われたり離れたりした流亡民たちがここに定住し,
零細な農耕を営む一方,貴族・寺社の社会から賤業と見なされた雑業に
従って生活していた。
彼らが従事した業は,皮革生産・鳥獣環殺・死体埋葬・清掃・細工・染色など,
実にさまざまの種類にわたっていた。

川は、無税であるとともに、生産手段でもあるようですね。
753_:03/06/20 10:15
754748:03/06/20 10:57
>>752
ごめんなさい。ちょっと誤解を生む書き方してしまいましたが
上で書いた成立時期ってのは今も残る被差別部落を過去にたどっていくと..
っていう意味で書きました。
755よね子:03/06/20 13:14
>>754

ご指摘している三番目は、いわゆる結界というものでしょうか?
結界と被差別という観点で前述しましたが、これは古代からの発祥です。
756日本@名無史さん:03/06/20 14:10
結界はインド言語からきたもので、神聖地域をしきるもの。しめ縄の内側とか。

公界は、鎌倉禅宗用語から始まる。

中世前期の職人は鋳物師が布,絹,穀類を,唐人,傀儡が櫛などを交易した
ように,また多少とも給免田畠に依存するところがあったように,職能が
なお未分化であった。
しかし南北朝期以降,商人,手工業者,芸能民,さらにそのそれぞれの職能
の分化が進み,一方では商人を別として,多くの職人は本拠地の津,泊,渡
などに〈屋〉を構えて集住,
あるいは河原・中州などに立つ市・宿に定着し,遍歴の範囲を狭めていった。

こうして,元来アジール(自由地帯)的な性格をもつそのような場に,みずから
を公界(くがい)と称する自治体,会合衆(えごうしゆう)などに指導される自治
的な町(都市)が成長していくのである。
757よね子:03/06/20 15:09
>結界はインド言語からきたもので、神聖地域をしきるもの。しめ縄の内側とか。

自然の結界という場所は、山、川、森なんかの境界線を指すみたいで、
その境界に住む人達が霊験をもっていた。←畏怖と敬いの対象として

それがいつの間にか、文明の発展と共に、霊験要素が朽ちて、山人とか
河原人となった。特に山人は被差別視されていった。

かくして蘇民将来の伝承は玄関に見かけるだけのモノとなった?

  ちょと飛躍してますか? また古代に戻してスミマセン。
758日本@名無史さん:03/06/20 16:02
         \      レイープと言えば?       . /ナンダココハ    コワイモナー     ヒイィィィッ
出身は      \        ∧_∧ ∩ヴァカ駄!   /  ∧_∧     ∧_∧      ∧_∧
.早稲田大学だって.\      ( ・∀・)ノ______  /  ( ;・∀・)    (; ´Д`)    (´Д`; )
          ∧ ∧ \    (入   ⌒\つ  /| /  ⊂   ⊂ )    ( つ ⊂ )    ( ⊃   ⊃
         (゚Д゚ )_\    ヾヽ  /\⌒)/  |/     〉 〉\\   〉 〉 く く   //( (
     / ̄ ̄∪ ∪ /| .\  || ⌒| ̄ ̄ ̄|    /     (__) (_)  (_.)(_)  (_) (__)
   /∧_∧ヴァカですか・・・\    ∧∧∧∧ /         『犯罪の巣窟・早稲田』
  / (;´∀` )_/ プッ    \  < 早 ま >早稲田では近年、レイプや恐喝が大幅に増加。
 || ̄(     つ ||/         \< 稲    >学生の実に9割が犯罪予備軍。
 || (_○___)  ||            < 田 た >4年間の犯罪期間に飽き足らず、再入学する者もあるという。
――――――――――――――― .<     >―――――――――――――――――――――
         ∧_∧早稲田で今日も< か   >.    ∧_∧プッ ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ( ;´∀`)またレイープ逮捕… ∨∨∨\   ( ´∀`)  (´∀` )<ソルジャー必死だな(藁
    _____(つ_ と)___       ./       \  (東大 )__(京大 ) .\_______
 . / \        ___ \アヒャ  /   ∧_∧  \∧_∧   ∧_∧  ̄ ̄ ̄/.//|
 .<\※ \____.|i\___ヽ.アヒャ ./γ(⌒)・∀・ )ヴァ .\   ;) (     ;)   / ┃| |
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    \`ー──-.|\.|___|__◎_|_.i‐>/ \  ̄ ̄ ̄ ̄\田     \早稲田生| | ┃
      ̄ ̄ ̄ ̄|. | ̄ ̄ ̄ ̄| / ||ヽ|| ̄ ̄ ̄ ̄|| ! !       \    .|_
759日本@名無史さん:03/06/20 16:03
山は古代は霊験な場所。中世に山と里の間に竹を植えて、結界とした。
サンカは中世の散所の言葉を使っていたらしい。

蘇民将来につけられる晴明判などからみて,この蘇民将来の護符の伝播
には修験者や陰陽師などの宗教者の関与があったことが考えられる。
760日本@名無史さん:03/06/20 17:55
 話の流れがダイナミックにずれるけど、東北とか北海道から
、西の被差別部落問題を見る限り、一種の特権階級としか見え
ないのですが。差別差別と言うが、昔から東北農民が受けてい
る差別と何処が違う?歴史板なので多少歴史に絡めると、226事
件が起こったのは、東北につぎ込むお金で朝鮮半島を開拓したか
らではないのですか?また、方言問題も然り。過去に東北地方の
方言がどのように扱われたのか知っていますか?
761日本@名無史さん:03/06/20 20:02
東北の零細農民は、飢饉のときは人肉食べてたくらいだからな。

762日本@名無史さん:03/06/20 20:14
それはそうと、豊臣秀吉がエタとかいう伝説は、やはり
中世において軍需産業民と武家は関係が深いから出てきたの
ではなかろうか?
両者とも、軍神を崇めてたようだし。
763日本@名無史さん:03/06/20 20:25
徳川時代に入ってからは、エタのほうが非人より身分が上であるが
実質はエタのほうが差別は厳しかったのではないかと思う。。。。。
764日本@名無史さん:03/06/20 20:44
維新後のデフレや産業構造の変化、就職差別などによる
困窮化で産業革命時の過酷な労働を安価で行う労働力や兵力として
利用された?
765日本@名無史さん:03/06/20 20:47
それから、ある鋳物師の人の話を見てると、
戦争で金属類は軍部に差し出さなくてはなら
なかったらしい。そういうので、職を失った人
もいるみたいなんだけど。
766日本@名無史さん:03/06/20 20:52
2・26事件の最大原因は皇道派の英米強調派と統制派に対する主導権争い。
朝鮮への支出は、日本資本の産業基盤整備と満州への軍事基地化のため。
特に日本人の官僚・警官・軍人への費用が大きかった。
関連性はあまりない。
方言は、日本各地で学校教育による強制矯正をうけた。
しかし、高度成長期まで残ったね。東北は今も残っている。
消えてしまった方言も多い。
767日本@名無史さん:03/06/20 20:57
>明治の部落民
政府の施策としては,この解放令にともなうべき具体策,すなわち被差
別部落住民の生活権の保障にかかわる諸施策がまったくなかったために,
急速な近代化の傾向のなかで被差別部落の貧困化を助長し,そのことが
また部落差別をいっそう深刻なものとしていった。

〈一般民〉は,〈えた〉〈非人〉が〈平民同様〉の身分に引き上げられた
ことを喜ばず,逆に,〈一般民〉が〈えた〉〈非人〉と同じ地位へと格下
げされたのと同然であると解し,露骨ないやがらせはいうまでもなく,
とくに西日本各地では〈えた〉〈非人〉の解放に反対する激しい実力行動
(解放令反対一揆)を起こして被差別部落を襲撃し,集団的危害を加えた。

伝統的な身分意識によることではあったが,当時の国内状況においては,
近代化のための諸政策が民衆の生活にもたらしていた矛盾への不満のはけ
ぐちに被差別部落が選ばれ,迫害の対象にされたのである。

また,幕藩制下の部落産業のなかで中心的な位置を占めつづけてきていた
皮革の生産・販売に関する特権も維新によって失われ,〈一般〉に開放され
たため,弾左衛門らの懸命の尽力にもかかわらず,需要の急増に対応しう
るだけの資本力を有した資本家の手にゆだねられていき,そのもとで
被差別部落住民は生活の不安定な低賃金労働者としての道を歩むこととなった。
資本主義社会の成立が,被差別部落の生活基盤をいっそう低劣なものとし,
経済的条件にもとづく生活実態の酷さが,部落差別意識の温存を促しつづけた。
768日本@名無史さん:03/06/20 21:01
学校での差別も酷かった。
最初は部落民だけ別の学校。一緒だと平民の子が登校しない。
政府は強権発動で、学校を統一したが、
床板をはがして穢多の子の席を一段低くしたり、
ついたてを立てて、穢多の子が目に触れぬようにした。
掃除場所も別。
部落民が立ち上がったのに、学校差別への抵抗は大きかった。
わが子のことだから、親としては譲れなかったんだろう。
769日本@名無史さん:03/06/21 13:30
商人と職人の間に明確な区別があったのでは?
今のように、職人が直接自分の作品を自分の店舗で販売し
自分で収入を得ることはできなかったのでは?
そして、やはり直接自分で体を動かして労働するという人々は
一段下にみられていた・・・・・?
ただ、貨幣経済が発展してくると、当然、搾取されるのではなく
自分で商売したいと考える職人が出てきそうなものだけど。
770日本@名無史さん:03/06/21 13:38
ココ・シャネルとかも、元はお針子さんでしょ。
でも、自分で(もちろん一人ではないけど)
デザインから販売までしたから、今のようになった?
771日本@名無史さん:03/06/21 13:56
商人は、すでに平城京や平安京に登場してるし、職人との明確な区別は
あったでしょう。

中世においてひとしく職人といわれた在庁官人,下級荘官と手工業者,
芸能民に共通しているのは,多少とも職能と結びついた〈職〉を保持
すること,平民百姓の負担する課役は免除され,しばしば荘園・公領に
給免田を与えられた点,それぞれの職能に即して自立した集団をなして
いることなどであり,この点から,これらの人々を〈職人〉身分という
ことも可能である。
職人と平民百姓の分化は10世紀以降に明らかになり,11世紀から12世紀
に中世の〈職人〉身分が定着する。これらの〈職人〉の中で,西国の商工民,
芸能民の集団は役次(ろうじ)(加入年数による序列)の秩序をもつ座的な組織をなし,
その職能は多くの場合世襲された。

鎌倉期には、職人を差別する観点で描かれた絵画史料と、差別のない観点で描かれた
史料の両方あった記憶が。(東北院職人歌合)

商工業者への偏見は、農耕文化に基づくのかな?

貨幣経済が発展すると、より分業は細分化されるでしょう。
772日本@名無史さん:03/06/21 17:07
>>鎌倉期には、職人を差別する観点で描かれた絵画史料と、差別のない観点で描かれた
  史料の両方あった記憶が。(東北院職人歌合)

  絵師って幕府お抱えとか貴人じゃなくっちゃなれないんですかね?
職人の絵とか描いてるのって庶民向けじゃないの?
  もちろん、紙とか筆とか絵の具とか高価だと思うのですけど。
  でも、染色の下絵師とかいるから、絵師がいても良さそうなものだけど。
773阿呆に答えたって!:03/06/21 17:56
名前: 名無しさん 投稿日: 2003/06/21(土) 07:16
豊臣時代に朝鮮から連れて来られた
莫大な数の奴隷はどこに行ったのでしょうか?
西日本各地に、朝鮮奴隷の集落があったらしいけど(長崎の文献だったかな。。)
それが部落って呼ばれるようになったわけじゃないのかな・・
私の知人が住んでる県では、
  豊臣時代の朝鮮人=部落
  近代の強制連行、不法入国による朝鮮人=コリアタウン
これが昔から常識になっているそうです(両方Kという意味)
コリアタウンの朝鮮人は今でも民族の誇りを忘れていませんが
部落のほうは、昔、今では考えられないほどの嫌がらせ、脅しを執拗に繰り返すことによって
それは、精神を徹底的にズタズタにするほどだったらしいですが、それによって
民族の誇りを完全に叩き潰されたと聞いて、なるほどなぁと思ったのですが
実際どうなんでしょうか??
自分の中では謎のままなんです。。。
774日本@名無史さん:03/06/21 18:25





えた>ひにん>とうほくじん(オワリ





775日本@名無史さん:03/06/21 18:31
>>773
平安時代ぐらいから人が住んでるとこもあるんだよ。
 
776日本@名無史さん:03/06/21 18:33
でも、結局、色んなところがあるんですね、きっと。
外国人が住んでたとこもあるかもね。
777日本@名無史さん:03/06/21 18:37
豊臣秀吉時代以前にも、やってきた人もいるかもね。
奈良とか平安時代。。。。
778????s??s:03/06/21 18:37
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779日本@名無史さん:03/06/21 18:45
それに、秀吉時代のみなら南北朝の動乱期のは
どうなるの?
きっと、もっと昔の問題があるはず。
780日本@名無史さん:03/06/21 18:48
素朴な疑問なのですが・・・・・職人の絵ってミレーみたいな
いわゆる1つのプロレタリアアート?
だって、宮中人や将軍が好んで鑑賞するとは思えん。
781日本@名無史さん:03/06/21 19:02
古代に官僚の絵師がいたが、中世から民間の絵師が発生してきたようです。

12世紀以降,絵所出仕の絵師は従来の八位から五位へと昇進し,絵所の
預(あずかり)に就任して中級官人の待遇をうけた。
だが,絵巻《絵師草紙》が絵師選任の裏面をしんらつに表現したように,
当時絵師の生活は必ずしも安穏ではなかった。
それでも,宮廷絵所の絵師を規範とし,院,幕府,有力寺社や大名など
を支持層とする中世の絵師は,家系や画系を形成して独自な絵画様式の
確立につとめた。
他方,職人の絵師も中世にうまれ,のちのいわゆる町絵師や絵屋の職工
につらなる。
782日本@名無史さん:03/06/21 19:04
蝦夷の収容地もあったかもね。
783b:03/06/21 19:04
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784日本@名無史さん:03/06/21 19:05
>職人尽絵
貴族の歌会に使われたような感じなのかな?
農業生産の発達を支えた中世の職人の台頭が背景にあるようだ。

各種の職人の生態を一括して描いた絵。職人を描いた絵は,平安時代の
扇面写経や絵巻などに散見されるが,職人の絵がまとまって描かれるの
は鎌倉時代の《東北院職人歌合》からである。これは,職人を左右おのおの
5番に分けて歌を番(つが)わせ,判者によって勝を決する歌合(うたあわせ)
の形式をとり,和歌の間に職人を描く。三角形の安定した職人の構図には
歌仙絵の影響,個性的な容貌には似絵(にせえ)の手法がみられる。
詞書に建保2年(1214)の歌合とあるが,この時期は《新古今集》斤集後で
歌合,物合(ものあわせ)歌合も流行し,一方では農業生産技術の向上を背景
とする職人の台頭期にも符合するため,このような歌仙絵の形式をかりた
職人歌合が成立しえたのである。
室町時代になると《鶴岡放生会(ほうじようえ)職人歌合》《三十二番職人歌合》
《七十一番職人歌合》などがあらわれ,描かれる職人数は急激に増加する。
これは手工業の発達,貨幣流通の増大,都市の勃興等による職業分化をよく反映している。
職人の表現も座像から立像へ,静態から動態へと,伝統的な歌仙像から
離脱し生態の活写が見られるようになる。
785御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/21 20:17
>>782
蝦夷→捕虜→佐伯氏
佐伯部は『 日本書紀 』景行天皇51年条に、日本武尊が東国遠征の際に捕えた
蝦夷(えみし)(東部 北部の原住民)を伊勢神宮に献上したが、昼夜なく騒がしいので
播磨 讃岐 伊予 安芸 阿波に移して住まわせたとみえる。これをそのまま事実とは
認めがたいが、伊予を除く4か国については他の史料より 佐伯部 やその管轄者である
佐伯直 の存在を推測できるので全くの虚構とは考えにくい。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n300.htm
786 :03/06/21 20:18
●●●マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その7A●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1004/10049/1004950940.html

38 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 19:17 ID:/Jozo2co
フジのスーパーニュースを見ていたら、盗聴、盗撮をしていた。
とにかくレポーターとか、テレビ局の人間と話しをする時は、
カメラやマイクで隠し撮りをしていることを、常に念頭に置くべし。
マスコミをとにかく用心するに超したことはない。
取材を受けて、物がなくなったというのもよく聞く。

39 名前: >38 投稿日: 01/11/09 21:33 ID:qM1FVdrM
蛆は自爆か(W
カミングアウトをするより、盗聴を止めろ
置かれた盗聴機はいつ撤去するんだよ?
そんなことを電波に流されたからって、不安で寝れやしない。

40 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/11/09 22:32 ID:GPVrbaOJ
マスコミ相手にしても仕方ないぜ。まじで自分らの生活を死守する方が大事。
テレビ・ラジオは出来る限り無視しよう。ついつい見聞きするから調子に乗らせる。
今後世の中どうなっていくかわからんのだから、必要な情報のみ入手して身の保全を
図れ。いい加減な娯楽メディアは放っておくべし。
787直リン:03/06/21 20:22
788日本@名無史さん:03/06/21 22:48
>>782
>佐伯氏
(1)日本古代の氏族。大伴氏とともに大和政権の伴造(とものみやつこ)として,
代々武力をもって朝廷に奉仕した。中央の佐伯氏(佐伯連)は,所伝では大伴氏
と同祖で,5世紀後半の雄略朝ころの大連大伴室屋(むろや)の後裔とされ,684年
(天武13)には宿衝姓を賜った。元来佐伯氏は,内国に移配された蝦夷で宮廷警衛
の任にあたる佐伯部を管理する氏であったとみられ,中央では佐伯連が,地方では
諸国の国造の一族である佐伯直(あたえ)がこれを管理した。
《延喜式》等によれば,中央の佐伯氏は大伴氏とともに門部(かどべ)をひきい,
大嘗祭や元日,即位などの大儀にさいし諸門の開閉・警衛に奉仕した。
宮城十二門のうち,西面中央の門が818年(弘仁9)に藻壁門と改称されるまで
佐伯門と称されていたのは,佐伯氏が代々朝廷警衛にあたっていたその名を
負ったものである。
645年(大化1)の蘇我入鹿暗殺事件に佐伯子麻呂(こまろ)が中大兄皇子のもとで
活躍し,また元明朝の709年(和銅2)佐伯石湯(いわゆ)が征越後蝦夷将軍に任命
されるなど,7〜8世紀には佐伯氏の武門としての伝統に応じた活躍がみられた。
宮城警衛の任にあたる五衛府の督・佐となる者も多く,律令官人として行政面
に活躍する者もあった。しかし8世紀の後半になると,757年(天平宝字1)の
橘奈良麻呂の変に陸奥守佐伯全成(またなり)が連座して自殺し,785年(延暦4)
の藤原種継の暗殺事件にも関与するなど,大伴氏などと結んで藤原氏の政権に
対して武力による転覆を企てることがしばしばあり,ために佐伯氏はかえって
その政治上の地位を失った。9世紀には武門としての伝統も衰退し,しだいに
上級官人層からは脱落した。
789日本@名無史さん:03/06/21 22:50
>佐伯氏・2
(2)安芸の豪族。厳島社神主家。《日本書紀》景行紀によれば,日本武尊の東征の際,
俘虜として連れ帰った蝦夷を播磨,安芸,阿波,讃岐,伊予などに分置したのが
佐伯部の起りとされている。安芸の佐伯氏は国造に連なる雄族として古くより
厳島神社の祭祀権を担い,律令制下では佐伯郡司に任じられ,代々厳島社神主を
世襲するとともに,一族を安芸国衙に分出させる(在庁官人田所氏)など,勢力を築いた。
平安末期,平氏の後楯を得てかつてない権勢を振るった厳島社神主佐伯景弘は,
同氏を代表する人物であった。承久の乱後,神主の地位は幕府御家人藤原氏に
とってかわられるが,その後も一族は社家として存続をみた。
なお讃岐の佐伯直氏からは,平安初期に僧空海が現れた。   

講談社「日本の歴史07」だと、俘囚は、ほぼ、東北へもどしたようなんだけどどうなのかね。
790もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/22 08:47
>>789
執筆者は誰になってる?
791日本@名無史さん:03/06/22 11:29
>>790
どの文?

>>788は笹山晴生氏。
>>789の佐伯氏は角重始氏。
講談社「日本の歴史07」(武士の成長と院政)は下向井龍彦氏(広島大学大学院
教育学研究科教授。専門は奈良・平安時代の軍制・国制)
792御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/22 13:16
『蝦夷(えみし)』高橋崇 中公新書 によれば
律令国家自体も九世紀から十世紀へと変質していくのであるから、
彼らへの関心も次第になくなっていく。
「六国史」のあとの正史の欠如時代になると、東北は別として、
諸国の俘囚、夷俘などの記録はゼロに近いといった状況になる。

だからといって
俘囚は、ほぼ、東北へもどした・・とは言いすぎや
帰還事業として行なったなら公文書が残ってるはず
佐伯氏は何処へ?
793日本@名無史さん:03/06/22 14:47
空海と桓武天皇って関係深いの?
794日本@名無史さん:03/06/22 14:57
つまりは、最古は大和朝廷統一時まで戻るということ?
落ち武者が非人になったなんていうけど、
戦で負けた人とか戦の難民とかが集団で住まわっていたのかな。
戦は時代を問わず、古代から関ヶ原まで。維新の戊辰戦争の難民も
いるらしいから。
そうすると、エタは?
江戸時代は身分として他の人はなれなかったけど
中世やそれ以前は誰でもなれたの?
795日本@名無史さん:03/06/22 15:13
>>792
寛平9(897)年、宇多天皇政府は全国の陸奥国人を、陸奥に呼び戻し、
租税免除の特権と経営基盤を与え、辺境警備と荒田再開発にあたらせるよう申請させる。
この件は「類聚三代格」に出ている。

各地の受領は、自分の土地の俘囚に対し、特権廃止と公民並み課税を宣告。
その上で、陸奥帰還か残留希望を決定させた。

俘囚が帰還したと思われる観点。
1、留まれば特権は廃止され嫌いな農業と厳しい課税。帰れば無税と生活基盤獲得。
2、ミクロ的には、記録によく出てくる見島(山口県、俘囚古墳多し)の古墳や遺物が
10世紀初頭に忽然と姿を消す。
3、10世紀以降、あれだけ手を焼いていた俘囚に関する法令・政策が一切消える。
政府が俘囚問題の決着に成功したと見るしかない。
796日本@名無史さん:03/06/22 15:14
それから、寺社関係(寺社非人とか)はおそらく平安時代から
政治的に江戸期も別格の地なのでは?
神領なども。
797日本@名無史さん:03/06/22 15:18
しかし、軍需産業民は勝った軍にも負けた軍にもいるだろうし。
負けたら、勝った方に吸収されていくのか?
それとも、軍需産業民は特定の主人を持たず、誰にでも武器を販売するのか?
     ↑
     雑賀衆なんかはこんな感じでしょ。
     頼まれれば、武器と兵隊を出す。
798日本@名無史さん:03/06/22 15:27
戦で負けると職人的な手工業を身に着けようとしたのかな?
農民や農地は財産だからそのまま勝った方に譲り渡し&没収?
799日本@名無史さん:03/06/22 16:24
戦国時代から戊辰戦争までも、武士以外は、勝敗には関係ない。
大いくさには見物に来るし、戊辰では会津農民は薩長に飯を食わせてた。

たんに領主が変わるだけ、農民は農業を続け、職人は職を続ける。
勝った大名は、領民に気に入られようと、割といいところを見せようとしたりする。
百姓の恨みは怖いからね。
武田勝頼の領民も、年貢アップにむかつき、織田に早く滅ぼして欲しいと噂してたとか。
800御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/22 16:28
>793 に答えます。スレ違いかも・・。
空海・母方の阿刀氏は学問に秀でた渡来人系の家柄で母の兄弟には
のちに桓武天皇の皇子伊予親王の侍講となった大学者、阿刀大足がいる。
幼少の空海は学問を習い、その引きで大学に入ったと思われるが
突如大学を去り山に入る。24歳で出家宣言の書「三教指帰」を著す。
ここから七年の空白の時間がある。遣唐使に自費参加する1ヵ月前に
慌ただしく得度する。留学期間20年間の費用は誰が出したのか
空白の七年間は山岳修行者の群れに投じていたと思われるが
山岳宗教者は山の民に鉱物資源の採掘・製錬の技術を指導したと言われる。
空海の膨大な留学費用は水銀や金の採掘者が出し、最新の技術を持ち帰る
ことで答えたのではないか。
801日本@名無史さん:03/06/22 18:52
>>799
でも、住んでるところは明らかに、城下町だけど
 一国一城令でお城がお取り潰しになってるよ。
 いったい何?
 
802日本@名無史さん:03/06/22 18:54
戎(えびす)ってヒルコとかの意味以外になんか意味あるの?
803日本@名無史さん:03/06/22 20:07
>>800
桓武天皇って亡命百済族の人?

んじゃ、スサノオは原住民系?
804日本@名無史さん:03/06/22 20:21
やはり、持統天皇の頃があやすいのか。
805日本@名無史さん:03/06/22 20:22
俺の先祖は東北の水飲み百姓ですが 何か?
806日本@名無史さん:03/06/22 21:26
>>805
どうして、その地域、集落が
隔離されてたのかなーって思いません?
807日本@名無史さん:03/06/22 21:38
前スレ>>1-現スレ>>806=フリチソ大行進参加者


808日本@名無史さん:03/06/22 23:17
>>801
江戸期の領国では、城下町だけが都市で、その他の都市は村と呼ばれた。
809日本@名無史さん:03/06/22 23:22
>>802
えびすの語は〈えみし〉とともに異民族を意味し,夷,戎,辺などの字
が当てられていて,古くは東北地方の蝦夷(えぞ)だけでなく,海辺や島
などの辺境に住む者たちをも〈えびす〉と称していた。大国主命が夷社
にまつられたのは,天孫系と対立した出雲系の神であったためとも考え
られるが,辺境者(海に基盤を有する)の神としての性格にかかわるもの
であろう。《源平盛衰記》剣巻には,生後3年たっても足の立たない蛭児
が海に流し捨てられ,摂津国に漂着して海を領する神となり,夷三郎殿
としてまつられたとされている。海を生活の基盤としてきた海人(あま)
などの信仰によって成立した縁起であると考えられる。また,海の彼方
に死者の国や常世の国を想定してきた,海上他界への信仰にも関連を有
するのであり,漂流物をえびすと称する漁民の信仰によっていると考え
られ,厄を福に転化することのできる力を海上他界に認めたものであろう。
 えびす信仰の伝播には,中世以降の商業の発展との関連が考えられる。
狂言には,えびすをまつって富を得た主題がとりあげられている。
また一方では,百太夫を信仰する傀儡(くぐつ)師によっても広められた
と考えられ,えびすの人形を舞わせて歩く夷まわしは,明治時代まで見られた。
810日本@名無史さん:03/06/22 23:47
なんか、やっぱ宗教差別のような気もしてきた。
拝火教徒とか。
反仏教勢力。
811日本@名無史さん:03/06/22 23:51
拝火教徒はいつごろやってきたの?
812御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/23 08:34
>>802>>809
えべっサンとゆうと西宮やけど、えびす神は事代主命と聞いたことある。
命は大国主命の子で地上を天孫に譲って海の果てに去ったからやと・・。
西宮神社の境内社に百太夫神が祀られている。
漂流してきた神仏はゲンが良いと水害の時は、近隣の民、百姓が取り合いするらしい。
>>803
桓武天皇の生母は高野新笠(和氏やまと)で、その母親は土師真妹で菅原に繋がる。
和氏(やまと)は百済渡来系。土師氏(はじ)は新羅系といわれているが
その中には百済系氏族の存在も多い。菅原の地を含む奈良盆地北部は百済系を
主とする朝鮮渡来氏族が開拓し集団居住した地で土師(菅原)氏もその中にいた。
813日本@名無史さん:03/06/23 08:59
>>812
そうです。事代主命を指すときもあります。2つの意味の神が、室町
時代に一体化したようです。

えびすの神像は,釣竿を持ち,脇に釣り上げた魚を抱えた姿であるが,
このえびすの本社は,兵庫県西宮市の西宮神社(夷社)とされている。
西宮の夷社は夷三郎とも呼ばれ,天照大神をまつる広田社の摂社であった。
広田社には,複数の摂社が置かれていたが,夷社は大国主命もしくは
蛭児(ひるこ)をまつり,三郎社は事代主命をまつるとされた。
三郎殿とされた事代主命は,出雲神話の大国主命の子であり,出雲の美保崎
で魚を釣っていたという古伝承から,魚と釣竿を持った姿で描かれたのであろう。
室町時代には,この2神は混同されて,夷三郎という1体の神と考えられるよう
になり,各地に広まった。
814日本@名無史さん:03/06/23 11:18
>>795

10世紀初頭、三善清行が政府にたいする意見書(「意見封事十二箇条」)の中で
「陸奥出羽両国では、ややもすれば蝦夷の乱があるので、弩(大弓)の射撃を教
える教師を配置せよ」と記した。また同じ意見書のなかで「諸国の百姓のなかに、
課役をのがれたり、租役をのがれる者がおおい。自分で髪を落として、勝手に僧
衣などを着ているが、この手の輩が年々増えてきている。天下の人民の三分の二
がつるつるの坊主頭で、坊主の格好をしているのに家には妻や子がいて、肉も平
気で食らう。坊主なのは形だけで、心は屠児のようだ。どいつもこいつも濫悪の
僧である」と書いている。

このころの陸奥というのは、延喜式では11郡からなり、陸奥といっても現在の岩手
秋田ぐらいまてを占めていたにすぎない。岩手県気仙郡以北の陸中海岸全域、岩手
県の現在の二戸郡以北から青森県にわたる北奥全域、秋田県の北半分から青森県津
軽にかけての地は、いわゆる「白地図」になっていて、別の国扱い。蝦夷の国はまだ
存在していたらしい。同時期に、都人のあいだに、肉を食うのは「野蛮」という認
識が出来上がっていたみたいね。
815日本@名無史さん:03/06/23 11:58
土師氏(はじ)は新羅系なのかー。蝦夷をはじめ、
異民族とその習慣や宗教が仏教を推し進めたい為政者側と対立
したのかな。
仏教を取り入れてから、旧来の宗教に携わっていた人の地位が
低くなったのかな。風葬とか。土師部や遊部とか。
スサノオは何を意味するの?
それから、城の名前が「戎」ってどうでしょ。
816日本@名無史さん:03/06/23 12:00
夷と戎で意味が違うの?
817日本@名無史さん:03/06/23 12:06
最初、蝦夷の収容地だったところに
各時代の反勢力が収容されていったのかな。
818三木勝:03/06/23 16:05
得た避妊?
819日本@名無史さん:03/06/23 16:15
現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。
だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔
した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となった。



 んで、のちのち区別地に異端者が入れられたってことかな。
 区別地が明確になったのは、南北朝の動乱の頃?
 でも、南朝についたのは、既にあったから山の民のネットワークを
 利用してるからなー。
820日本@名無史さん:03/06/23 16:40

白山信仰との関係は?

 http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/hakusan.html
821日本@名無史さん:03/06/23 16:54
蝦夷の宗教ってあるの?
822日本@名無史さん:03/06/23 16:59
宇佐王朝
ペルシャのゾロアスター教の原始アヴェスター経典にある日神信仰が
元となり天照大神に形をかえ八幡神となった。
宇佐島に三女神天降る。京石は邪馬台国以前の都の石。
っていうのあるけど。

 八幡神はゾロアスター教なの??
823日本@名無史さん:03/06/23 20:19
>>821
蝦夷の宗教はロブスター教です。
824日本@名無史さん:03/06/24 00:55
>>805
エミシというのは「蝦衣」=エビの甲羅のような衣服、つまり甲冑・鎧をさした古い言葉。
これを着る人=軍人・武士をエミシといい、のちにエビスと訛って、
褒め言葉としては、勇猛な人・武勇すぐれた人。貶し言葉としては、戦争ばかりしてる粗野な野蛮人。
という意味に広がった。
「野蛮人」から「外国人・異界人・よそもの」に意味がかわり、さらに「まれびと」に転化。
山岳民の世界では、猿、または架空の存在である山人などはエビスと呼ばれ、
海洋民の世界では、鯨、水死体、または海岸の漂着物がエビスと呼ばれた。
ともに異世界との窓口となる存在。異人との交流が、交易=商業の始元であり本質。
そこで富もたらす異人=もれびと=エビスが商業の神となる。
エビスというのは固有名詞ではないので、
蛭子(漂着者)、少名比古那(まれびと)、事代主(託宣=異世界からの声)の
3柱の神々がエビス神とされる。
くしみたま=ヒルコ、さきみたま=スクナヒコナ、にぎみたま=コトシロヌシ、
あらみたま=猿、鯨、山人、外国人、武士、水死体、漂着物など。
825日本@名無史さん:03/06/24 01:27
中世の武将の鎧兜に角(?)触覚(?)のような
ものがついてるのは牛かなんか関係あるの?
826日本@名無史さん:03/06/24 16:40
東京大学教授藤岡信勝氏のレポート
−教科書「ウラ検定が」が「オモテ採択」資料に化ける怪(正論2月号より)−
 1996年に大同協(大阪市・大阪府同和教育研究協議会)から発行されたA4サイズ16
ページのパンフレットに「教科書のあるべき姿」が提示され、それに基づいて「格付」が
行われているそうです。そこでは、取上げるべき歴史的事件を「具体的」に提示しており、
取上げる密度で採点され、得点と「教科書採用度合い」が比例しているというものです。
(大同協資料は、大阪に留まらず全国的な基準?になっている)
売上げを伸ばすには「大同協にどれだけおもねるか」が決め手となっていることが数値に
出ています。
 大阪には「同和問題モデル地区」が多く存在します。
同地区内の小学校を見学すれば「ビックリする」こと請け合いです。教室には冷暖房が完備
され、全生徒が一緒に食できる大食堂が体育館とは別に整備されています。室内プールは
当たり前で、廊下は広く「100m競争」が出来るほどです。
昨日のテーマ「男女平等」同様、逆差別することが問題解決の方法と思っているようです。
自ら「見える形での逆差別」を主張するため、いつまでたっても融和が進みません。
http://homepage2.nifty.com/dogfight/newpage-0101.htm

占領政策の柱をなしたのは徹底した検閲でした。占領軍の検閲基準として、「禁止30項目」
というのがありましたが、それを列記。
 (略)
「裏検定」の実例
現行教科書は以下の指示通りに書かれている!
―大同協の45項目の「チェック基準」―
(『反差別・人権の視点を教科書に−1997年度用中学校教科書検討資料(社会科)』より 
「検討の視点」歴史的分野)
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/syukyu.htm
827日本@名無史さん:03/06/24 22:22
秀吉の鎧には角じゃなくて後光のような線状のものが
ついてるように思うのですが。
これは、信仰の違いも関係あるの?
828827 :03/06/24 22:28
あー、角もついてたや、ごめんなさい。
829日本@名無史さん:03/06/24 22:37
江戸時代の日本には「士農工商」などの厳格な上下身分秩序があり、士農工商の下の
階層に置かれた人々は、とくにひどい差別を受け、みな貧しかった……という定説も
誤りであることが、最近の歴史研究で判明している。
最下層の人々は農民と違って土地に縛り付けられているわけではないので、商工業を
自営して富を蓄えるケースが多々あった。このため「武士の次に偉い」はずの農民よ
りはるかに豊かな「最下層民」は多数実在した。
江戸時代、形式上最下層にあった人々(の村落)が著しく困窮するのは、明治時代、18
81年大蔵卿・松方正義が実施した「松方デフレ」で商品市況が暴落したときだ。これ
以降、多くの最下層民の村落は長い貧困の時代にはいり、差別や偏見の対象となった。

830日本@名無史さん:03/06/24 23:02
>>829

っていうかさー、実際、ケースバイケースでなんで区別地に
 居住するようになったか、なんで区別地になったかの理由
 は多様なんじゃないかと言ってみる。
831日本@名無史さん:03/06/24 23:19
兜は、おしゃれみたいね。室町期が豪勢で、江戸期から手が込んでくる。
宗教とかはあまり関係ないみたい。
832日本@名無史さん:03/06/24 23:28
>>822
宇佐八幡は、外来系の神。秦氏あたりが持ってきたらしい。
「かつて中国を守っていたが、今はこの国を守らん」と言ったとかw。

宇佐八幡の巫女は天皇だけがのれる、紫のかごに乗れた。そのまま都へ来たとか。
権威的にはかなり上だったようだ。
建国神話との関連も??

八幡神は712年(和銅5)創立の鷹居瀬社にまつられ,のち小山田社に移り,
725年(神亀2)現在の小倉山に社殿が造られた。日向大隅の乱の鎮定に協力し,
また古くから対新羅政策などで朝廷の崇敬をうけたとみられ,
奈良時代には鎮護国家の神として厚い崇敬をうけ,737年(天平9)新羅の
無礼を奉告し,740年藤原広嗣の乱の鎮定を祈願した。
東大寺大仏鋳造に際しては八幡神の神託により黄金を得たとされ,東大寺
の守護神として神体は奈良に移され,749年(天平勝宝1)八幡大神は一品,
比黄(ひめ)神は二品の神位をうけた。

新天皇即位の報告を長らくやってるね。南北朝で中断したが江戸時代に復活してる。
833日本@名無史さん:03/06/24 23:35
>>830
穢多・非人は居住地指定ですね。
穢多村は検地帳にも記されている。
経済的に豊かな穢多村や、その内部に富裕層がいた穢多村もあったのは事実。
しかし、江戸中期以降差別は露骨だった。
1、政策としての差別。胸から毛皮の札をぶら下げろとか、家の前に毛皮をたらせとか。
2、民衆自身による差別。平民が穢多身分を共同体の儀式などから排除。
近年は、この2が研究課題らしい。
834日本@名無史さん:03/06/25 00:23

    ttp://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tyanoyu.htm

 ここ見てると、あくまで異民族、異教徒にこだわってるが・・・
 為政者が、信仰の対象を強制的に変えるということは
 実際あったみたいね。
 八切史観っていうのも1つの時代性もあるのかな?
 ときどき、論理的におかしいし。
835日本@名無史さん:03/06/25 00:24
でも、人権板の百済さんもルーツが亡命百済族だとおっしゃってたし。
百済って仏教のイメージがあるけど拝火教もいるの?
836日本@名無史さん:03/06/25 00:32
>833
部落の人はおみこしをかつげなかったのでは?
837日本@名無史さん:03/06/25 00:59
>>835
百済は桓武平氏系で鋳物師でしょうが?
鋳物といえば火ですけどな。
838日本@名無史さん:03/06/25 09:03
>>836
そういう村も、少なからずあったようですね。
死にかかわる仕事をさせといて、死の穢れが縁起悪いとのことでしょう。
今でも残ってるところはあるのかな?完全な人権問題ですね。

>ゾロアスター教
日本に来たとしても、シルクロードのペルシャ関係で、政界上層部
だと思うが。ゾロアスター教の庶民への伝播は何も確証がないでしょう。
東大寺のお水取り(若狭の水と火)とかいわれるが、やはり当時の国家宗教だし。
839日本@名無史さん:03/06/25 09:23
清と穢との分け方で、清の側が士農工商公家神官僧侶で、それ以外の
穢の側の人が穢多非人
840日本@名無史さん:03/06/25 11:55
西日本の人って差別する人多いよね
841日本@名無史さん:03/06/25 12:24
>西日本
事実として、旧被差別部落割合が多いですね。
あと、古代に大陸・半島から来た西日本文化が影響してるともいう。
東日本では埼玉・栃木あたりが部落数が多いが、差別意識は西とはちょっと違う感じ。
842日本@名無史さん :03/06/25 12:32
白土三平の「カムイ」

江戸時代の部落の雰囲気がある。
843日本@名無史さん:03/06/25 13:12
>>日本に来たとしても、シルクロードのペルシャ関係で、政界上層部
だと思うが。ゾロアスター教の庶民への伝播は何も確証がないでしょう。
東大寺のお水取り(若狭の水と火)とかいわれるが、
やはり当時の国家宗教だし。

大和朝廷統一以前のそれぞれの小国家に既に伝播していたという
 ことはないのかな??

844日本@名無史さん:03/06/25 13:13
>>日本に来たとしても、シルクロードのペルシャ関係で、政界上層部
だと思うが。ゾロアスター教の庶民への伝播は何も確証がないでしょう。
東大寺のお水取り(若狭の水と火)とかいわれるが、
やはり当時の国家宗教だし。

大和朝廷統一以前のそれぞれの小国家に既に伝播していたという
 ことはないのかな??

845日本@名無史さん:03/06/25 13:35
>>838
庶民の概念が時代によってちがうから。
特に、武士は下克上で当初古代賎民制の出であっても
源平合戦の頃には、それなりに活躍していたり、中世では
秀吉なんか特にそれがあてはまる。
それに南朝ゆかりの地は?
846日本@名無史さん:03/06/25 13:38
南朝を支えてた人々っていうのはどーゆー人?
847御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/25 17:33
奈良県川上村・金剛寺に自天王像が有ります
「朝拝式」当日は十六花弁の菊の御紋だらけになります
筋目衆と呼ばれる人達が全国から参集いたします
福源寺には自天王の兜が納められています
上北山村・小橡地区の南帝山・瀧川禅寺が自天王最後の地・御所跡。

網野善彦氏は『異形の王権』で悪党・非人まで動員と書いたとか・・。
学研『天皇の本』による。
848日本@名無史さん:03/06/25 17:38
楠正成は悪党なんでしょ。
849日本@名無史さん:03/06/25 19:07
桓武天皇は百済亡命王族政権でそれまでの
書物を焚書しちゃったの?

百済亡命族って宗教仏教じゃないの?

850日本@名無史さん:03/06/25 20:07
>>848
伊賀の出身らしい。滝川氏との縁戚。また芭蕉も縁戚。
851日本@名無史さん:03/06/25 20:44
源氏は新羅系なの?

 桓武平氏・・・百済
 清和源氏・・・新羅
      
852東北人:03/06/25 20:50
東北の方では「部落」っていう言葉を平気で使うよ。
853よねこ:03/06/25 21:00
>>851

八切史観ですね。
 源氏の白旗。平氏の赤旗。

しかし、百済は「白民」という言われ方をしている民族らしいですので、赤というのは
ペルシャ系ではないかと言われています。平氏が自分のことを「オレ!」と叫んだことから
一人称に「俺」が発生しました。これは戦いの掛け声で、ペルシャと同じだという
ことも言われています。

一方、新羅=北方騎馬民族という説と、百済:倭=海洋民族または鉱物資源
(水銀、丹生)をつかさどった民族という説も。産鉄民のカラーは赤ですから。
でも、ペルシャも騎馬民族ですよね?

八切は日本の8割を被差別民としています。それが源平なわけで、藤原氏は
唐(藤、とう)進駐軍であったとしています。


854日本@名無史さん:03/06/25 22:32
>>852
たんに農村集落の意味だね。東日本と、北海道もだね。

>南朝のかきあつめた悪党、非農業民
もともと悪党は非人の格好などをしていた。
悪党の中には,狩猟・漁労,商工業,交通,金融など非農業的生業に主として
携わり,本拠を中心に広く遍歴する人々が多く,供御人(くごにん),神人(じにん),
山僧などの地位を持つ人も少なくない。
畿内とその周辺の武士団も,かなり一般的に同様の性格を色濃く持っており,
御家人で神人を兼ね,悪党といわれた事例も見いだしうる。

後醍醐は南都北嶺に皇子を入れ,みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに,
関所停止令を発して商工民をひきつけ,悪党を組織して討幕を狙う。

ただし、専制君主を目指し、武家ばかりでなく貴族からも大反発を食らう。
855日本@名無史さん:03/06/25 22:47
>>847 御殿山氏
南朝最後の拠点ですか。後南朝?
高師直は南朝を滅ぼせたのに、なぜ殺さなかった。
天皇制は、ここで消えたかもしれなかった。
村人が、意思を守り続ける意識が強かったのはなぜか。
856御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/25 22:56
悪党とは体制仏教に属した坊主の命名やろ
播磨国のある僧侶は「およそ異類異形、人間とは思われない」と語り

「柿帷に六方笠を着て烏帽子・袴を着けず、他人とは目を合わせることなく忍び歩き
戦時には傭兵、平時には博打・盗みで渡世を送る」と描写された。
柿帷(かきかたびら)は非人や囚人のシンボル、六方笠(ろっぽうがさ)は女性のシンボル
これは誇張された悪党のイメージだろう。
857日本@名無史さん:03/06/25 23:03
峯相記(1348)かな。

悪党は山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着て,笠を被
り,面を覆い,飛礫(つぶて),撮棒(さいぼう),走木(はしりぎ)など,
特有の武器を駆使して,博奕や盗みをこととし,荘園などの紛争がおこると,
賄賂をとって一方に荷担しつつ,状況によっては平然と寝返るなど,
奔放な活動を展開した。
当時,山野河海,道路などの〈無主〉の場においては,世俗の秩序から
みて山賊,海賊などといわれた行為を,むしろ当然のこととする慣習が
あり,悪党が山伏のような〈無縁〉の人の姿をしたのも,そこに理由が
あったと思われる。

最初は異形だったみたいよ。
網野本は、一見の価値あり。
858御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/25 23:41
>>855
<南北朝と後南朝哀史> 川上村産業振興課パンフレットより
今からおよそ650年前、後醍醐天皇が足利尊氏と対立し吉野山に朝廷を移し
南北朝動乱が始まりました。その後、後亀山天皇の皇子・小倉宮が川上郷に
住まいを定め、さらにその子、尊義王が三種の神器の一つ神璽を受け三之公に
御所をかまえる。尊義王の皇子・自天王と忠義王は上北山村と神之谷に別れ住み
南朝再興の機をうかがう。しかし、1457年、赤松家の謀略で両方の御所が
襲われ、自天王は18歳の若さで非業の死を遂げました。
川上郷の人々は王の御首を取り戻し金剛寺の境内に葬りました。今も自天王を
追慕する朝拝式が毎年2月5日、500年以上行なわれています。
村内には自天王、忠義王の陵墓や2人を祭る自天王神社、御所跡が残る。

弟宮・忠義王は高原まで逃げ延び、病気で亡くなったと言い伝えられている。
859日本@名無史さん:03/06/25 23:45
体制仏教に転んだ人には、一向宗が多いのかしら?
860日本@名無史さん:03/06/25 23:53
日蓮宗不受不施派、キリスト教、真言立川流、
など弾圧された宗教者が転ぶと体制仏教徒になるの?
拝火教も弾圧されたの?
真言立川流って庶民にも信仰されたの?
 
861日本@名無史さん:03/06/26 00:17
>>860
>真言立川流って庶民にも信仰されたの?
聖天尊、第六天信仰なんかそうじゃん。
862日本@名無史さん:03/06/26 00:20
>>853
やあ、百済さん、お久しぶりですねー

863日本@名無史さん:03/06/26 09:40
>>858  御殿山氏
サンクス。パンフレットまで持ってるとはさすが。後南朝ですね。

昔、吉野の南朝の御所近くの旅館に泊まりました。
驚いたことに、古びた大旅館が多いのです。へんぴな不便なところに。
理由は、戦前戦中期の修学旅行の、桃山明治天皇御陵・乃木神社につぐ、
官制お勧めコースで、一般団体客も多かったとか。今は崩壊寸前。
864日本@名無史さん:03/06/26 09:55
>>859-860
体制仏教って何を指してるのですか?家康の好きだった浄土教のこと?
一向宗=浄土真宗は信者が今も日本一だから、転向しなかったのでは?

>立川流
近世になると,幕府の僧侶の生活規制もきびしくなり,この流は邪教とされて,
その勢力はほとんど絶えた。

>不受不施派
日蓮宗不受不施の信者は表面は、日蓮宗受不施派の寺や他宗の寺の檀家
となって寺請をとり宗門改めをのがれ,内心に不受不施信仰を守った。
日蓮宗のままではいられたようですね。明治に解禁されてる。

>キリシタン
地域の宗派に編入されたのでしょう。宗門改めの都合がありますから。
今も、隠れキリシタン派っているらしい。
865日本@名無史さん:03/06/26 10:17
>拝火教
奈良仏教には影響を与えたが、庶民には広まってないでしょう。
弾圧するまでもないレベル。
866日本@名無史さん:03/06/26 13:18

>源氏は新羅系なの? 851

三品なにがしという人類学者の書いた本で、その昔朝鮮半島で撮影された
新羅花郎の像というのが掲載されていたのを見て、まんま源氏の武者姿
じゃんと、おどろいたことがあります。
867日本@名無史さん:03/06/26 14:56
南朝を支えてた人のイデオロギーって何でしょう?
宗教?
民族?
金?
それとも、悪党や非人でもゴダイゴ(天皇)につかえれるという誇り?
     (ひいては、うまくいけば権力者になれるという野心?)
868よねこ:03/06/26 15:32
>>867
反大和魂でしょう。
869御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/26 15:59
菊水マークの右翼団体はナンなんかね
本部は四条畷?名阪国道沿いに大駐車場が有る
南朝から拝領した家紋やろ?
870日本@名無史さん:03/06/26 17:54
立川流って明日死ぬかもしれぬ戦乱の世では蔓延してたみたいだけど、
弾圧されはじめたらなんとなく隔離されそうな気がする・・・・・
キモイから。でも、信長ゆかりの寺とかにも名残あるんですよね。
871日本@名無史さん:03/06/26 17:57
>>868
なんとなく、今まで南朝=原住民系だとイメージ
してたのですが。。。違うのですかね。
でも、南朝どうこうって明治維新とも関係深いのですよね。
大室なんたらがっていう話。ネット内だけかもしれないけど。
872御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/26 19:56
>大室なんたらがっていう話

明治天皇暗殺して南朝側と入れ替えた話?
たしかに大室寅之祐氏は地元・寺の過去帳に記載無く戸籍簿そのもの行方不明
異端の歴史家・鹿島昇氏が発信源やな・・弁護士で早稲田時代の学生仲間には
共産党・元皇族・右翼の大物と多彩。
『天皇の伝説』主婦の友社 にインタビュー記事有り。
873日本@名無史さん:03/06/26 22:01
>南朝を支えた人
各地では、叔父・甥や兄弟の所領争い。
悪党は所領の安堵。
非農業民は、商工業活動の保証。
みんな実利。
歴史上、何の意味もない無意味な争いを続けた無駄な数十年といわれている。
874日本@名無史さん:03/06/26 22:46
正直このスレって、実り多いというよりは電波レスが多い気がしまつ。
875日本@名無史さん:03/06/26 22:57
>>874
よく読むと玄人らしいカキコも多い。
でもこのところ本題から離れて妙な展開になってる。
まさか御南朝の関係者が賤民に没落したなんて思い込んでる人いないよね?
876御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/26 23:27
>874>875 自ら軌道修正せる。なら後南朝は悪党・非人を動員はどう否定する?
本日、人権センターで借りてきた本なんやけど
『被差別民の精神世界』―部落史観の転換― 上野茂・編 明石書店 の中に
蘇民将来は穢多の祖と書いて有る。

津島神社とか八阪神社なんかも選民の神社のような気がする。
877日本@名無史さん:03/06/26 23:42
>蘇民将来
修験者や陰陽師が、伝説流布に貢献してるようです。
修験者や陰陽師も、中世以降、被差別民化してますよね。

護符の一種。晴明判(魔よけの星象吼)や〈蘇民将来子孫〉などの文字を
記した六角柱または八角柱の短い棒で,房状の飾りや紐をつけて帯に結び
下げるようになったものもある。正月に,牛頭天王(ごずてんのう)と縁の
深い京都の八坂神社はじめ,信濃国分寺八日堂,愛知の津島神社,新発田の
天王社など各地の社寺で配られる。また岩手の黒石寺薬師堂では,正月7日
に蘇民祭といって蛭や数百本の六角形のヌルデの木が入った蘇民袋を裸の男
たちが東西に分かれて奪いあう行事があり,これを得たものはその年幸運であるという。
蘇民将来には,紙や板の札に〈蘇民将来子孫之門〉とか〈蘇民将来子孫繁昌也〉
と書いて,家の戸口に貼って魔よけとしたり,畑に立てて虫よけとする風もある。
《備後国風土記》逸文には,旅に出た武塔神(素戔嗚(すさのお)尊)が宿を請
うたところ,富裕な弟の巨旦(こたん)将来はことわったが,貧しい兄の蘇民将来
は宿にとめ歓待したため,茅の輪(ちのわ)の護符を腰につけるように
教えられ疾病を免れたと語られている。
この説話は旧暦6月の夏越(なごし)祭の茅の輪行事の由来譚ともなっているが,
同様なモティーフは猟師の間で伝えられる磐司磐三郎譚などの兄弟譚に
もみられる。また《刃辛(ほき)内伝》の牛頭天王縁起には,五節の祭に
〈蘇民将来子孫也吼〉と記して,信教すれば無病息災であると記されている。
蘇民将来につけられる晴明判などからみて,この蘇民将来の護符の伝播には
修験者や陰陽師などの宗教者の関与があったことが考えられる。        飯島 吉晴

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.
878日本@名無史さん:03/06/26 23:43
>津島神社
愛知県津島市に鎮座。旧国幣小社。建速須佐之男(たけはやすさのお)命
を主神とし大穴牟遅(おおなむち)命を配祀。古くは牛頭天王(ごずてんのう)
といわれ,俗に天王さんと称す。全国の津島神社の総本社。
式内社ではないが,社伝によると欽明天皇のころの創祀といわれ,12世紀末
ころすでにこの地の大社として崇敬を受け,織田・豊臣・徳川の三家より特別
の尊崇と庇護を受けた。
ことに疫病退散の神として信仰され,寛政年中(1789‐1801)には社家社僧
が32人おり,氷室神主家を筆頭に社坊があって偉容を誇った。
しかし明治の神仏分離で仏教的要素は除かれた。例祭は世に津島祭,
天王祭と呼ばれて有名。
879日本@名無史さん:03/06/26 23:47
>>874
私のせいですかね・・・ごめんなさい。素人なので。

>>875
御南朝の関係者が賤民に没落した

当時、ざわざわとうごめいていた人々が南朝を支援したのかな?
880日本@名無史さん:03/06/26 23:47
>八坂神社
八坂の称は当地一帯がもと山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に属していたことによる。
祭神は素戔嗚(すさのお)命(もと牛頭天王(ごずてんのう))。
草創の時期については確実でないが,《貞信公記(ていしんこうき)》の
延喜20年(920)閏6月23日条に藤原忠平が〈咳病〉を除去すべく〈梢園〉
に幣帛と走馬を奉納したとみえているので,すでに社の原型があり,
信仰されていたことがわかる。しかし当時はまだ,八坂郷の鎮守として
の位置をしめる程度であったと推察される。
その後,御霊(ごりよう)信仰のひろまりにつれて,しだいに人々の信仰
をあつめ,祭礼もさかんとなっていった。
10世紀中ごろまでは,清水(きよみず)寺とともに,南都(奈良)の興福寺
の末寺であったが,959年(天徳3),清水寺とのあいだに紛争を生じ,
これが契機となって天台宗の延暦寺派に帰属,以後ながく南都と北嶺の
確執・抗争の一因となった。
996年(長徳2),臨時奉幣社に昇格。1070年(延久2)の大火いらいたびたび火災
にみまわれたが,そのつど復興した。だが,応仁・文明の乱による罹災ばかりは,
当時の社会情勢により容易に回復できず,正遷宮は1492年(明応1)まで待たねばならなかった。
そののち社運の隆昌は豊臣秀吉によってもたらされ,彼は母の大政所(おおまんどころ)
の病気平癒を願って1万石を寄進,ついで梢園大塔を造営して,当社の威風をたかめた。
徳川幕府もまた堂舎の修造に力を入れるとともに朱印高140石を寄進し,
境内所役を免除して,幕末にいたった。
881日本@名無史さん:03/06/26 23:53
やっぱーり、いろいろなタブーがあるような気がする。
自分の住んでるところは、平安末期の書物にも
登場してる人もいるから、ホントは史実として残ってるのだろうけど。
やっぱりなんか秘密がある気する。
ただ、エタ・非人は徳川以前にも存在している・・・・
882日本@名無史さん:03/06/27 00:07
拝火教っぽい。
これって風葬・鳥葬なんでしょ。

それから百済と関係のある人もやっぱりいると思う。
平安時代頃の聖なるパワーとかいってる非人って渡来人では?
883御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/27 00:19
八坂神社は感神院と言っていたのがキーワードやと思うんやが・・。

津島の方で疫病が流行った話し有る?
国津神やから解からんか・・本神は、オオタノミコトとゆうらしい。
884よねこ:03/06/27 00:37
>蘇民将来は穢多の祖と書いて有る。

蘇民って外国人(異民族のこと)でしょ?
私の義妹の家に掲げてあるみたいすよ。
885日本@名無史さん:03/06/27 00:38
ちなみに場所は、北畠邸宅跡。三重と奈良の境界線にあります。
886よねこ:03/06/27 00:39
885は、>>884 です。
887御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/27 07:27
>884
全部キチッと読んでないけど
奈良でのシンポジウムの辻本正教の論文で
山本ひろ子、吉野裕子論を駆使して
「垂仁天皇御判形之写」の分析
陰陽五行説を駆使しながら豊鐃世界を現出させた。
粟舎利と蘇民将来の謎ー日吉・唐崎のトポスと蛙ーと題されている
白髭神も出てくるし猿田毘古も・・谷冠者(たにのかじゃ)は初めて聞く言葉や
↑新羅の祖やから松本先生の帰化人説になるね。
888日本@名無史さん:03/06/27 08:32
>>884
そりゃ、場所柄、飛鳥とかの京の隠れ家みたいなところだけに、渡来人の
落ちこぼれが住み着いてもおかしくはない。異人とも仲良くしろ=宥和しろ、
という意味なんでしょ?蘇民将来って。
三重あたりは陰陽師のことを今でも被差別民の別称としている場所もある
みたいだし。

吉野とか近畿の山奥は貴賎が同居しているねー、それにしても。
889日本@名無史さん:03/06/27 08:38
>>883
疫病の流行の事実はわかりませんが、蘇民将来・津島・八坂ともに、
牛頭親王や病魔退散が共通項かな?
蘇民の兄弟伝説は、半島よりも南方系の伝説の影響の感じがします。

>帰化人説
秦氏、漢氏などの前期渡来人は、政界の上層部へ。
後期帰化人は以下のような感じ。

その後に渡来した漢人たちは,新しい南北朝文化を伝えたためか,とくに
新漢人と呼ばれ,その多くはやはり東漢氏の指揮下に編入されていったらしい。
彼らはその新知識・技術をもって6〜7世紀の朝廷で大いに活躍したが,
その代表的なものには,初期仏教史に名高い鞍作氏の司馬達等(しばたつと)
や鞍作止利,遣隋留学生で帰国後に大化改新に参画した高向玄理(たかむくのくろまろ),
新漢人旻(みん)などがある。

玄理や旻も、外国人だったんですね。かなり、政界に食い込んでいる。
890日本@名無史さん:03/06/27 19:33
近江朝廷は百済人なのか。
891 :03/06/27 19:57
 えた・ひにんを現在の職業に例えてくれた方が
理解し易い気がする。
892御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/27 20:58
『江戸時代・非人の生活』生活史叢書21 高柳金芳 雄山閣 より抜粋
【非人の起源】
仏教で佛にもあらず、人にもあらぬものとする天童八部衆・夜叉・羅刹を総称すると
『法華経』の提婆品に見えている。

橘逸伊勢が承和九年(842)反逆罪に問われ、その姓と官を剥奪されて非人の姓を賜つたのが
非人という文字のわが国文献に見られる最初であろう・・承和の変。

天保十年(1839)北町奉行・大草安房守高好が浅草非人頭・千代松に答申したことが
『諸向附札』に見えている。
非人名目の儀は、古代京都において悲田院御取り建てこれ有り、飢寒、病難、貧苦の類を
救い遊ばされ候みぎり、寄り寄り集まり候ものは、鰥募・孤独の廃人にて候まま、昔は
悲田人と名付け候處、非人とは右の略語にも御座あるべきにや云々。
893御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/27 21:00
>892 つづき
実際に巷に非人が見られるに至ったのは、大化の改新(645)より平安朝中期(900)までに
多数の浮浪人が全国にわたって蔓延した。わが国最初の戸籍といわれる天智九年(670)に
作られた「庚午年籍」はこの浮浪人を防止するためといわれる。
中央政府は、この「籍帳」によって、班田収受を行なうとともに、当時の課税・課役で
あった祖(そ)庸(よう)調(ちょう)を徴収した。21〜60歳までの男子には、過酷なほど
課税・課役が負わされたので、逃亡して浮浪人となった。京都に流れ込んだものの多くは
鴨川の河原に小屋住まいをし、賎業に従事するようになったので「河原者」と呼ばれた。
一方、国司の苛斂誅求に堪えかね、その課役から脱れるために出家入道して、自ら籍帳か
ら除かれた者も多かった。これを「濫僧」といい、儒者の三好清行(847-918)が延喜十四年
(914)に奉った『意見封事十二ヵ条』の中で「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べ
ている。これら浮浪人・濫僧は、生活のためには職業を選ばず、あらゆる職業に従事した
が、特に京都の町の清掃を業としたところから「浄人(きよめ)」と呼ばれた。鎌倉時代の
『塵袋』に「きよめをえたとゆう」とあるのは、鴨川の河原に小屋住まいをし、京都の清
掃に従事した浮浪人や穢多法師とも呼ばれた濫僧のことである。
894日本@名無史さん:03/06/27 21:43
反逆罪、落ち武者も非人なわけね。
895日本@名無史さん:03/06/27 21:44
>御殿山氏
乙!
仏教用語なんですね。
橘は、伊豆に流罪ですが、文献上の非人は初出でも、存在としての非人階層
は、それ以前からあったのでしょうね。

古代非人は、中世非人と断絶があるような気もしますが。

律令制から荘園制へという時代・社会構造の大きい転換のなかで,10世紀
初めの延喜年間(901‐923)にいたり全面的に廃止され,日本の賤民史上
に特筆される画期をなした。これ以後,律令制にもとづく身分制・賤民制
の仕組みは急速にくずれていった。

非人は、もとは仏教からでた言葉で,鬼神・夜叉(やしや)など,人にあらざるもの
が人の姿形をかりて現れたものの意味であったが,別に,罪人・世捨人・僧,
最下級の神人(じにん),乞食(こつじき)などをさす語として平安時代
いらい普及し,江戸時代になってからは,賤民身分の一部をさす呼称として,
公式に江戸幕府・諸藩で採用され定着した。
896日本@名無史さん:03/06/28 02:53
猿の「エテ公」と「エタ」は同語源だという説をどこかで読んだことがある。
897日本@名無史さん:03/06/28 04:28

稲作などの農業だけをおこなっていたエタは江戸時代にあったのでしょうか?
初心者です。
898日本@名無史さん:03/06/28 09:45
>>896
沖言葉
元来は船乗りや漁師が海上で使用するのを忌んだ言葉をいうが,今日ではその
代りに用いられる言葉をさすことが多い。
主に,死などの縁起の悪い言葉および四足動物や蛇,鯨のような神聖視される
動物の名前が沖言葉とされ,これを口にすると不漁や転覆などの不幸を招くと
信じられている。
“去る”に通じる猿および蛇を忌むのは全国的で,猿をエテコウ,蛇をナガモノ
とよぶのが普通である。その他,猫をヨコザ,牛をタワラゴ,熊をヤマノヒト,
鯨をエビスなどといい,猟師の使う山言葉と共通するものもある。
海上はこの世とは別の世界であるという意識から,言葉も日常とは異なったもの
を用いるのであろう。鹿児島県の喜界島には,サワラ・カツオの魚をはじめ,
やす・包丁・網等の漁具,風・雲・塩・水・きせるといった気象や身近なものまで
特別な言葉でいい表す風習が伝えられていた。
899日本@名無史さん:03/06/28 09:50
>>897
中にはあったかも知れませんが、普通は、多くの被差別穢多部落は、
死牛馬処理や雪駄作りなどの皮革産業をはじめとする多くの雑業を、
農耕とともに行っていたようです。
雑業で、平民農民より経済的に有利だった部落も少なくはなかったようです。
900日本@名無史さん:03/06/28 11:46
>>899
皮革食肉関係よりはまず警察・地域管理業務だったのでは?
だから>>891
現在ではマンションの管理人なんかがイメージとしては近いと思う。
901日本@名無史さん:03/06/28 13:40
江戸時代の警察の非公然下部組織=岡引・目明しなどは犯罪者経験者です。
非人は処刑者や処刑後の死体処理などです。
江戸時代の非人の本来的な職能は、物乞い生活を基本としながら,大道芸,
犯罪者の市中引廻し,処刑場での雑役などです。
江戸時代の穢多は死牛馬処理と皮革産業が本来的職能です。こっちは農地所有者が
多かったです。

江戸時代の長屋の管理人(=家守)は、結構、上層部ですよ。

家守としての地位は,家持の下位にありながら,それに準ずる一種の特権を
もたらすものとなり,営業上の信用の源泉などに転化したり,株として売買
されたりした。
   
902日本@名無史さん:03/06/28 16:12
>>901
差配とかいうのですよね? 武家の役職にもあったような気がする。
903日本@名無史さん:03/06/28 20:39
中世以前のは、壬申の乱の頃が怪しい。
けど、江戸時代はもう場所指定で特定の職業があるようですね。
904日本@名無史さん:03/06/28 20:40
独特の方言の由来を分析すれば何かわかるのでは?
905日本@名無史さん:03/06/28 20:45
死体処理ということはやっぱ保健所職員あたりか。
もっとも人間の場合は警察だが。
どっちにしろ立派な官僚だな。
一昔前、小路田泰直という少し変わった近代史研究者が、
官僚制論で賤民制を説明してたが。
906日本@名無史さん:03/06/28 21:01
方言語割合は、東北と九州南部が高いね。
907日本@名無史さん:03/06/28 21:22
よくわからないのですが、牛を屠るっていうのは
宗教儀式なのですか?
908日本@名無史さん:03/06/28 21:48
斃れ牛馬の処理じゃないの?
生きた牛を屠殺した訳ではないのでは
909日本@名無史さん:03/06/28 21:55
>>853
日本では、氏族は、
源平藤橘などしかないのでしょうか?
苗字と氏族は異なりますよね?
お隣の朝鮮半島では、
金とか、朴というのは氏族部族の事を指すそうですね。
日本では、苗字というのは部族から別れたもので、
中臣とか、久米とか、大伴とかが古い部族なのですが、
平安時代では、源平藤橘にほとんどが収束していますね。
出雲とか諏訪なども古い部族なのですが、
平安時代以降は目立たないですね。
910ジョーカー:03/06/28 21:56
>>853
お久しぶりです。
911日本@名無史さん:03/06/28 22:05
えた・ひにんて犯罪者だったり、そういった仕事しか得られない
最下層の人たちのことを言うのですか?
親から「結婚するときには相手の家を調べてからにしなさい」て言われた。
童話の人たちとは生活レベルが違うからやめなさい、後で苦労するから、て。
今の時代でもそんなに引きずってるものなの?
912日本@名無史さん:03/06/28 22:21
童話でも大金持ちな人も多いですよ。
貧しい人たちもいますけど、今はそういう生活レベルとかが
問題になっているのではありません。
彼らの一部の人が、元童話ということを利用して特殊な階層を
自ら作り出していることが問題なのです。
そういう特権階級と化したグループは、排他的ですし逆に
普通の家庭から入ったら苦労するというだけです。
そういうグループでない元童話の人は一般社会にもう溶け込んで
います。
913日本@名無史さん:03/06/29 09:19
>>907
基本的のは、死牛馬処理ですね。なかには、よぼよぼのを処理もあったかもしれませんが。
平民には、穢れや呪いがつくと言うので、怖くてできなかったそうです。
穢れに負けない特殊能力を持った職能集団が処理を行いました。
彼らは聖なる力の持ち主だったのですが、時代の変化・価値観の変化で
差別を受ける階層となりました。
江戸時代の資料などでは、どことどこの村は、牛馬が死んだら、Aという穢多村に
連絡し、他の穢多村には引き渡さないとか、権益の確認が奉行所などでなされてます。
そのかわり、死体処理後の清掃を完璧にこなすこととか、約束してます。
914御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/29 20:47
【非人の足洗い】
生まれながらにして非人だった者は、平人になることはできなかった。
生得の非人、刑罰で非人手下(ひにんてか)となった者、落ちぶれ非人がある。
平人から落ちぶれて非人となって十年を経たない者は、親類縁者からの申請で
平人になることができた。これを「足を洗う」といった。
『観延政命談』に足洗いの方法が見える。
この非人、足を洗うに作法あり。まず著物は時々の物を二つこしらへ、もっとも
下帯までなり。大だらい二つ・同手桶・はき物・大鍋一つ・剃刀・櫛・油・元結に
至るまで、みな残らず新しき物を求む。
さて町家の者を多分の金銀を出し、まずは三人ほど頼み、時に某小屋をはなるること
五間にして、地に塩をまき、清らかにいたし、ここへ荒ごもを敷き、其の傍らにて
切火にいたし、薪も新たに清めて湯を沸す、すなわち大鍋なり。
さて一つのたらいに水を入れ是へ東六(幕府の下級武士の子として生れたが、放蕩の
ため身を持ち崩し、非人仲間に入った者)を入れ、町家の衆取掛り、頭よりして総身を
清め、其後に湯を外のたらいに汲入れ、またよく東六を洗い、塩をふり、おわりて
髪形をつくろい直す。
しかうして其座を引取る時に、小屋の者みな一統に出て土下座をなす。此時、たとへ
親子兄弟、又は朋友の懇意たりとも、言葉を掛けること決してなり難し、かくいたし
小屋を出るを足を洗うという。

ただしこの場合、非人の女を娶り、生れた子は、その父が足洗いにより平人に立ち
もどっても、子は平人になることはできなかった。
915日本@名無史さん:03/06/29 21:05
>>914
具体的で興味をひかれました。
再生=生まれかわりの儀式なんですね。
「足を洗う」というのは、ここからきたのかな?
車善七か弾左衛門の、許可は必要だったんですかね。
916御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/29 22:14
>915
失礼・・書き忘れました。
明和二年(1765)穢多頭弾左衛門から時の町奉行所に差し出した書付の中で
非人小屋→非人頭→穢多頭へ証文を取り為し、引上候得共・・云々。

それと>>678の書き込みの二十八種の職業のなかには鎌倉時代には無かった
職業が多数含まれているし、治承四年(1180)といえば、源頼朝が伊豆に挙兵し
石橋山の戦に敗れたころで、未だこうした文書を出す力も、余裕もなかった時である。
中世において非人というものの存在したことは明らかであるが、この文章については
古くから疑問とされている。(『江戸時代非人の生活』の著者高柳金芳の見解)
917日本@名無史さん:03/06/29 22:45
プロ野球板にちょと気になるスレが立っています。
「古田の駒田への一言」
http://ex3.2ch.net/test/read.cgi/base/1056870481/l50
918日本@名無史さん:03/06/29 22:58
最近難しくて、ついていけないよ。
せめてレスの半分くらいは素人問答にしてくれよ。
919to ◆ohRSdOXrDQ :03/06/30 00:39
素晴らしいスレ発見!!!!!

>>もっこす
なぜ教えてくれんかったん?
920:03/06/30 00:44
マイナーリーグへ行きなさい!
921 :03/06/30 00:45
白土三平の非人から忍者になるなんてのもありか?
やっぱ、漫画の中だけの話?
922to ◆ohRSdOXrDQ :03/06/30 00:53
>>920
まあまあ、( ・∀・)そう冷たいコト言わずに…
923日本@名無史さん:03/06/30 01:52
出雲族の行方について知りたいのですが・・・
東北まで逃げていったの?
924日本@名無史さん:03/06/30 01:57
神奈川県の学校で「全国」水平社を
教える必要があるのだろうか?
925日本@名無史さん:03/06/30 04:40
こういう事件をみると、異民族の集団から抜け出すのがいかに困難であるかが解る
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1056871630/l50
926日本@名無史さん:03/06/30 08:56
>>923
伝説では、諏訪や関東まで流れていますが、個人的には、伝説であって、
事実としては、出雲から移動してないと思われます。

6世紀後半,蘇我氏の配下を先頭に神門川上流から南下した軍勢と,日本海上
から宍道湖北西に進出した物部氏の軍勢とによって,しだいに制圧された。
出雲に進出したヤマト国家の軍勢は,ついで意宇平野の東の伯太川・飯梨川の
下流域もおさえて,意宇の王を東西から制圧していった。
この結果,出雲地域国家の王はヤマト国家の朝廷のもとの国造(くにのみやつこ)
となった。その服属の時期は,《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみえるところから,
6世紀末ごろであったらしい。律令制下の出雲国は,出雲地域国家を継承したが,
中央から来任する国司とは別に出雲国造が任じられて,出雲大社・熊野神社を
はじめ国内諸社の祭祀に当たりつづけた。この点,出雲国の特殊性を物語っている。
927日本@名無史さん:03/06/30 08:58
>>922 to氏
>>920は、>>918へのレスと思われ。よろぴく。
928日本@名無史さん:03/06/30 09:01
>>924
歴史の授業で扱うのは当然。歴史的事実だし、当時はそれなりの価値があった。
特別活動や道徳や特別人権授業で行う必要はなし。
歴史の専門家でないと、誤った認識を与える危険性がある。
現在の街道評価と当時の水平社評価を、正当に指導するのは至難の業。
929日本@名無史さん:03/06/30 12:05
古代海人族と騎馬民族の末裔が差別されたと八切史観で
言ってるけどそうすると宗教差別じゃないの?
食肉する文化とか。
平安時代の頃に見られるのは、大和朝廷統一時の敗北者とか
異民族とか宗教闘争の敗北者とか。
足利時代に南朝支持者は区別地に隔離されたといってるけど。
でも、下克上の時代はあくまで身分は厳しく固定というものでは
ないだろうから江戸期で固定されたのでしょう。
都市生活の中で職を失ったりして非人になっていく人も
いたのでしょう。
930日本@名無史さん:03/06/30 12:07
室町時代の屠者とか屠家とかいうのは
穢多?
931924:03/06/30 12:13
そうじゃなくって、神奈川にも「全国」水平社って
あったの?<928
932御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/30 13:58
【天皇制の庭先から始まった排除】
平安時代中期に書かれた『延喜式』(927)には、恐るべき命令が記されている。
「式」とは、律令の施行細則で、当時の政治のしきたりを示す。
(「弘仁式」(820)、「貞観式」(871)、その集大成ともいわれる『延喜式』が現存する)
「およそ神社の四至の内・・死人を埋蔵するを得ず。およそ鴨御祖社(みおややしろ)南辺は
四至の外にありといえども、濫僧・屠者等、居住するを得ず」
「鴨御祖社」は、京都の通称・下鴨神社のことで、「四至」というのは境内だろう。
神社の境内に死人など埋葬してはならないが「鴨御祖社」の場合、その近くにいる
「濫僧・屠者」さえ居住してはならない、という命令がなされている。
神道にもとづく「穢れ」観から、死穢が清浄な神社から遠ざけられるべきことは
当然としても、境内の外であっても「濫僧」「屠者」を、なぜ追放したのか
「鴨御祖社」は、天皇家の京都の守護神(産土社)ということである。
鴨川と高瀬川の合流地点に有り中央の三角地帯が南辺にあたり、そこを追いやられ
つつも、のちに清掃事業に位地づけられることで、流民とならずに対岸あたりに
住みつづけ、現実に今も部落がある。

『部落史を読みなおす』上杉聴、寺木伸明、中尾健次 解放出版社 より
933日本@名無史さん:03/06/30 16:09
>>931
この段階まででは、神奈川水平社はないね。
しかし、「関東水平社」というのはある。

1922年 京都府水平社、埼玉県水平社、三重県水平社、東京水平社、奈良県水平社、
大阪府水平社、愛知県水平社、兵庫県水平社、

1923年 高知県水平社、関東水平社、群馬県水平社、静岡県水平社、愛媛県水平社、
全九州水平社、山口県水平社、岡山県水平社、和歌山県水平社、佐賀県水平社、
福岡県水平社、熊本県水平社、広島県水平社、栃木県水平社

1924年 大分県水平社、東海水平社、茨城県水平社、長野県水平社、岐阜県水平社、
香川県水平社、全四国水平社、千葉県水平社、

1925年 山梨県水平社

1928年 長崎県水平社

 

934日本@名無史さん:03/06/30 18:07
追いやられたり移住してきた人は河原や山奥、新たに開墾した土地に住むのでは?
住むとこないし。
中国の少数民族で湖の船の上で生活してた人達がいたけど、
この人たちも追いやられた歴史があるのでは?
一妻多夫制とか文化も変わっていた気がする・・・
935日本@名無史さん:03/06/30 20:41

   ttp://blhrri.org/kenkyu/project/mibun/mibun_0002.htm

   ここ見てると、古代において中国が一番流動的なのかな。
   試験で官僚になれるし。
936924:03/06/30 20:55
「この段階」というのが、どの段階のことか
わかりません。<933

日本史板らしくなってきましたね。
937日本@名無史さん:03/06/30 20:55
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938日本@名無史さん:03/06/30 21:41
>>93
1922年〜1928年の段階。1933年ころの最盛期には神奈川にも支部があったかは
わからない。解放同盟神奈川支部か全開連神奈川支部か神奈川県庁県史編纂室に
聞けばわかるでしょう。

水平社の数は1922年に3府5県約60社であったが,23年末に3府27県300社,
25年には703社と急増した。
身分闘争と階級闘争とを統一した新方針のもとで運動は,1933年の高松
地方裁判所差別裁判糾弾闘争を契機に発展し,関係司法官の免職要求の
成功をとおして,全国の部落の人々の60%を全国水平社の影響下に置く
ほどまでにいたり,組織も拡大した。

しかし,37年7月に日中戦争が全面化するにしたがい,活動を続けること
に困難さを増し,しだいに挙国一致政策に協力するようになり,40年の
部落厚生皇民運動や大和報国運動,41年の同和奉公会に参加する者も出てきた。
しかし,全国水平社の組織そのものは,言論出版集会結社等臨時取締法
による届出をおこなわず,42年1月,自然解消の道を選んだ。
939もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/30 22:23
>>931
ここの「神奈川の部落」になら当時のことが書いてあると思われます。
在庫ありますよ。
http://www.burakken.jp/kankou/kankou04-3.html
940もっこす ◆ZM08EeniEM :03/06/30 22:25
>>919
ここのパート1は、人権板にリンクが張ってあったんだよ。
941ジョーカー:03/07/01 11:50
>>941
もっこすさん。
人権板にはなぜこのスレッドがないのでしょうか?
942日本@名無史さん:03/07/01 12:03
身障とか、罪人の隔離場所
943御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/07/01 12:14
今日は雨がキツイまた水没せえへんか心配やに
>941
人権問題板は過疎板になってしまって盛り上がらん
スレの賞味期限は150日で落ちてしまうし
(過疎板が人多過ぎメッセージ出るのが不思議)
常連がスレ立てれないのでスレ立て代理人が居てる始末や
民族・神話板みてるとダット落ちスレ復活出来るんやね
944924:03/07/01 15:14
938,939さん、ありがとうございます。
945日本@名無史さん:03/07/01 19:01

   ttp://blhrri.org/kenkyu/project/mibun/mibun_0002.htm
各国でも似たような職業の人が、賎とされるのは不思議ですね。
946日本@名無史さん:03/07/01 20:07
>>945
なるほどねですね。
西日本文化をもたらした、大陸・半島の文化が差別構造をもたらした
とも言われてもいますね。

欧州では、職人文化の倫理が確立している気もしますが。
欧州では、大学コースと労働者階級が分化して、労働者階級文化が
認知されてるとも聞く。肉食の伝統も違うしね。
947もっこす ◆ZM08EeniEM :03/07/01 20:28
でも、中学生くらいの年齢で、将来の社会的位置を決められる社会というのも夢がないな。
イギリスみたいな階級社会というのも、なじめないぞ。
948日本@名無史さん:03/07/01 20:35
ヨーロッパも似たようなものでは?

> (1)共同体に属さない異端者
> 大道芸人、乞食、浮浪者、盗賊、ジプシー、宗教的異端、異教徒、ヴェンド人(スラブ人)
>
> (2)共同体とその住民に奉仕する下級吏員と職業
> A.治安維持機構の下級吏員
>    死刑執行人、裁判所下僕、都市下僕、裁判所番人、門番、森林番人、耕地番人、夜警、乞食取締り人
> B.公共サービスに従事する職業 
>   墓堀人、道路、河川・下水清掃夫、皮はぎ人、製粉屋、羊飼い、れんが製造工、陶工、風呂屋、床屋
>
> (3)その他
> 麻織布工
949日本@名無史さん:03/07/01 21:59
我々の間では死刑執行人になる事は最大の屈辱である。
日本ではどんな貴人でも人の死刑を執行する。
そして自らそれを誇りとしている―ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」より

貴人とは武士の事だと思うが、重なる部分があるにしても
時代によって違うと思うな。
と畜や処刑といった生業が蔑視されるようになったのは
幕府の仏化政策が社会に浸透した江戸中期以降だろう。
基本的にヨーロッパでは手でする労働自体が蔑視されていたわけだが。
950日本@名無史さん:03/07/02 01:11
手でする労働っていうか職人が販売までできる(つまり商人も兼ねれる)
っていうのは何らかの許可が必要なのですかね。
搾取のみではなく収入を自ら手にすることができる・・・・

日本の陶工(朝鮮からつれてこられた人達も含めて)も芸術品までに洗練されて
いったのは評価制度や市場原理が働き優れた者だと褒美をもらえたり、
優遇されたりして職人の創作意欲をかきたてるくらいには身分(?)は
流動的だったそうですが。名匠は幕府おかかえとかになってリッチだし。
このヘンが絶対的支配者と奴隷という考えでみると理解不能になってくる
部分ではないかと思われるのですが。
951日本@名無史さん:03/07/02 01:22
つまり身分は存在してるのだけれど、経済的に必ずしも
搾取され続けた人ばかりではないみたいな。
でも、世襲(家)と座・専売の観念はある。
だから頭や一部の職人兼商人は身分的には下だけれど
経済的には恵まれている?
職人兼商人になるっていうのは、どういう人だろう?
分業工程の上流に位置する人達?
でもそれも世襲なんですよね。
952日本@名無史さん:03/07/02 01:41
>>946
>>肉食の伝統も違うしね.
 旧約聖書読んでたら儀式で牛やら羊やら偉い神官(?)が屠りまくり
ですよ。神に捧げるのだそうでつ。宗教的な要素は大きいでしょう。
それから、狩猟民族やモンゴルの遊牧民にもなさそうですけど。
でも、分業の観念がないから特定の人を差別っていうのはないでしょう。
皮はぎとかも家族単位で自分でやってそうだし。むしろ、
神聖な儀式では。

953日本@名無史さん:03/07/02 01:53
つまり身分は存在してるのだけれど、経済的に必ずしも
搾取され続けた人ばかりではないっていうのは、
最後のイギリスのようなかんじかな。
「家」の観念と経済的豊かさは必ずしも一致してないっていうか。
経済的に豊かでも血統は良くないみたいな?
逆に困窮化してても血統はいい。
禁欲を重んじる宗教では、
商人は卑しいとされますよね。
逆に、武士は食わねど高楊枝のような清貧の精神は尊いと考える。
954日本@名無史さん:03/07/02 01:59
>>950
しかし、皿山から出ることができないってのはどうかと思うけどなぁ・・・
955日本@名無史さん:03/07/02 02:54
朝鮮は仏教の伝播は早かったが解体も早かった。
竹細工なんかは白丁と共通する職人芸。

さて、えたの作った農産物は、庶民が口にしなかったのかな?
明治の初期では、穢れ意識が再燃して、食べ物などの直接口にする
ものは分離差別された記録が多いけど。

956日本@名無史さん:03/07/02 02:59

江戸後期になると明治時代みたいな差別が顕在化し、差別意識が深まった。
きっと松方デフレのせいだろうね。

江戸初期、中期のエタの風俗や社会的な扱われ方を紹介してほしい。

死者の処理なんかは、やはり何処の国でも嫌われたのは止むを得ない。
だから特権、世襲には寛容であったんではないの?

やっぱ、貨幣経済と維新から軍国主義が、かなりの捏造を行ったのかも。
さて、お陰参りはえたひにんでも許されたと聞くが、これも近代化への一歩
だったんだろうね。
957日本@名無史さん:03/07/02 03:02

なにせ、明治天皇は南朝を正統とした時点で、意味ありげである。
富国強兵、西洋列強へ一丸となって、日本政府は「負」の風俗を取り込みつつ
宥和をはかったが、いかんせん、庶民感情は、主に経済的疲弊で、特権階級
への憎悪を募らせたんだろう。大正時代の米騒動は、その一例である。

958日本@名無史さん:03/07/02 06:49
>>947
イギリスではイレブンテストは廃止されたそうです。
大部分が中産階級へと上昇した労働者階級だからね。下層という意識がない。
金曜の三時ごろから、パブに行列ができて、日本人から見ると幸せな人生に見える。

>>952
日本で奈良朝ごろまで、雨乞いの願いに牛や馬を生け贄にしてたそうだが、
農民が実は喜んで食べてたらしくて、禁止の命令が出てるそうです。
この頃は、平気で屠殺や解体できてたみたいね。

>>953
禁欲的プロテスタントのカルバン派では、商工業の金儲けを神の使命
(与えられもうた職業=キャリァー)としてる。

>>956
伊勢神宮へは、穢多非人は禁止されてたとも聞くが。
隠して参拝した穢多がばれて罰を受け、宿泊宿がかまどなどの破壊命令を受けたとか。
959日本@名無史さん:03/07/02 06:51
中世においてひとしく職人といわれた在庁官人,下級荘官と手工業者,
芸能民に共通しているのは,多少とも職能と結びついた〈職〉を保持す
ること,平民百姓の負担する課役は免除され,しばしば荘園・公領に給免田
を与えられた点,それぞれの職能に即して自立した集団をなしていること
などであり,この点から,これらの人々を〈職人〉身分ということも可能
である。職人と平民百姓の分化は10世紀以降に明らかになり,11世紀から
12世紀に中世の〈職人〉身分が定着する。これらの〈職人〉の中で,
西国の商工民,芸能民の集団は役次(ろうじ)(加入年数による序列)の秩序
をもつ座的な組織をなし,その職能は多くの場合世襲された。この点では
非人も変わるところはないといってよい。また西国の在庁官人,下級荘官
のうち御家人となった人々は国ごとにこれと類似した組織をもち,南北朝期
以後の国人の組織もこれにつながる。これらの人々は職人的武士として武家
に組織され支配者になったが,商工民,芸能民は公家・寺社にその職能
を通して奉仕する供御人(くごにん),神人(じにん),寄人(よりうど)と
なり,自由通行権等の特権を保証されてその生業を営んだ。南北朝期以降,
商人や各種の手工業者,芸能民の分化が進行し,これらの人々の多くは
京都をはじめとする各地域の都市に集住,都市民となる。前述した語義の
変化はこの動きと対応している。戦国期以後,職人は都市の町組や村落に
組織されるとともに,職種別に大工・棟梁に統轄された国郡別の組織をもつ
ようになるが,なかには鋳物師,木地屋(きじや),陰陽師(おんみようじ)
のように中世以来の伝統を生かして下級の公家の権威の下に全国的組織を
もつ場合もあった。江戸幕府・大名はこれらの手工業者に一定の役を課し,
近世の職人身分を確定した。
960日本@名無史さん:03/07/02 07:34
>>958
イギリスでは、インドやパキスタン、アフリカ諸国など、主に旧植民地からの移民が、
あらたな最下層階級を形成しています。さいきんでは華僑系の移民が多いです。
イギリス=アングロ・サクソンの国という簡単な図式は通用しなくなっている
といってよいでしょう。イスラム人口もかなり多く、さいきんのイラクにおける
戦争にも、イスラム系移民が中心となった非常に規模の大きい反戦デモがありました。
961日本@名無史さん:03/07/02 07:48
アフリカから看護師引き抜いてるしなー
962日本@名無史さん:03/07/02 08:47
>外国人労働者
イギリス=4%
フランス=6%
ドイツ=9%
アメリカ=12%
スイス=18%
963日本@名無史さん:03/07/02 08:55
>>958
伊勢神宮を過剰に神聖視してるみたいだけど、明治政府の宣伝に
騙されてるんだよ。 中世期の伊勢の御師なんてもろそれだし、
伊勢信仰と獅子舞など仏教が拒否した階層と伊勢は強く結びついてる。
(仏教は時宗真宗以外の古い宗派は差別主義)伊勢が奈良に次いで
所謂部落民が多いんだが、それは伊勢神宮と密接に繋がっている。
だから伊勢神宮が反仏教派の拠点だったんだよ。
964日本@名無史さん:03/07/02 09:16
伊勢神宮のまわりなんて部落だらけなのに、知らない人っているんだなぁ
965日本@名無史さん:03/07/02 09:19
天皇の権威が衰退すれば、供御人も朝廷公僕も差別されるんだろうな。
で、現代の被差別民の団体は、天皇制妥当と言っているのか、いないのか?
966日本@名無史さん:03/07/02 09:23

士農工商、というよりも士農職商。兵農分離というのが流行っているが、
どういうものなのか、と思えるな。

で、エタは職人と広義で、言えるものなのか?
また、過去レスの繰り返しになるけど。。。
967日本@名無史さん:03/07/02 09:27
昔、人権板の三重スレッドで、かなり突っ込んで書いてあった記憶が。
伊勢神宮と被差別民についてか、なんだか忘れたけど。もう、そのスレッド
は無いんでしょうな?
968日本@名無史さん:03/07/02 09:49
よねこ嬢(百済妃)が専門やな
勢州スレは専用ソフトがあれば見れるはずやけど・・。
969日本@名無史さん:03/07/02 10:30
>>963
伊勢などの神道も、古代には職能民=非農業民を統率してたが、
中世に穢れとして見捨てた。伊勢に芸人など賎民が多かったのとは別の角度。
各地の神道でも、共同体祭祀に参加させないとかしている。
東大寺、興福寺など差別仏教でも、古代には非人の生活保障支援をしていた。

伊勢参りに関しては、各地の藩が、穢多差別策のひとつとして、
伊勢参りを禁止してたもよう。幕府天領も同様と思われる。

○「解放令」伝達に関する史料
【…今上帝の叡慮を以て穢多の種別を御免ありし上は,<<此度伊勢の御宮
に詣でんも御札をわが家に祭らんも苦しからぬ事なれば>>,最早何をか忌
み何をか嫌うへき,又非人という人でなしといへる文字也,其始まりは
さだかならねど常に食を人に乞ひ人たる自立の働きなかりし故,かくは
名付けて種族の別れしなるべけれども,或は人に雇はれ或は草履雪駄な
ど造り出して,おのれおのれが力に食まんには是又賤しむべきにあらず,
縦令四肢百体はいときよく具はりたりとも,源平なり藤橘なり其姓氏は
正しくとも,人の人たる道を勤めず親に不孝にしてふくろうの行ひあり,
人を害ひ傷ついて豹乱にして禽獣の行ひあらんには,是をこそ人に非ず
とも穢れ多しともいうべけれ,されば人の人たる道を尽すを以て尊しと
し否らざるを賤しとすべき事にて,同じ万物の霊たる人間中に別に賤し
み嫌べき種族はなき筈なれば,此より後は彼此の差別を立ず共に人たち
の道を尽して,朝廷深き御趣意のありがたさに報ひ奉るべき事にこそ。】
『松山藩布告留』
970日本@名無史さん:03/07/02 10:50
>>964
神社に本当に行けなかったのですか?
 被差別部落自体で神社を所有してるところはなんなのでしょう?
 神社は確かに伝統芸能と関係ありますよね。獅子舞など。
 神社=天皇制で賎と相反するものというのは違う気がする。
 寺社所属の賎民なんかは一般的な税制度にも組み入れられないという
 意味で非人かもしれないけど、
971日本@名無史さん:03/07/02 11:18
>>696
伊勢神宮は賎民を切り捨ててないって。それの掠りをとって生き延びて
来たんだから。
それから各地の神道って何だぁ
民間信仰の神社と、領地を持ってたような神社を混同してるんじゃないか。
そもそも神道なんて神学的なことをやっていた神社なんて限られてるし、
そういうとこで共同体に参加も糞も無い。
あと行基なんかの氏族と社会事業の話は、その集団と差別問題が
からんでるし、国家仏教としての側面じゃない。
972日本@名無史さん:03/07/02 11:24
氏神に参拝させないとか、祭りのみこしを担がせないなどは、
場合によっては、昭和まで続いてた地方もあったとか。
それで、部落で神社や氏神を分けてもらい、独自にやってたもよう。
白山信仰もありますよね。

>民間のカミと、神道の神について
カミが神と表現され,神道の枠組に入った段階で,一つの特色が生じた。
それは穢(けがれ)の観念である。
穢は,死穢・血穢で代表されるが,それを極端に忌避するところに,神の
存在を求めようとする。
神道は穢が生ずれば,災厄が起こるという現象を〈枉(禍)津日(まがつび)
神の御霊〉の活動とみて,仏教との異質性を強調しようとした。
〈枉(禍)津日神〉は,記紀に出現する悪神と考えられるものであるが,
解釈の仕方によって,汚穢(おわい)による災厄を除去する力をもつ神で
あり,悪を払う善神だとする見方も成り立っている。神道の神観念の中には,
悪神の存在を否定しようとする志向がある。
これは,神をまつる道としての神道が,汚穢を強調したことに対応している。
したがって,人間の一生の大事である出産儀礼は,出産に伴う血穢があるため,
神道の神は,これを不浄とみなしてタブーの対象とした。ところがウブガミ
(産神)と称される出産時の守護霊は,穢を忌避せず,妊婦と赤児を守護
するカミである。神道の神が,死穢については仏教に,産穢については
ウブガミにそれぞれ機能をゆだねていることがわかる。神とカミの関係は,
神道的な神が,歴史的には神社神道に包括されたのに対し,民俗的なカミは
民俗神道に包括されるという民俗学上の解釈も成り立つのである。

穢れを極度に嫌った平安王朝(天皇・公家)は、神と天皇を結ぶ反穢れの概念があった。
ですから幾つかの天皇や国家護持と結ぶ神社は穢れを極度に嫌う。
民間のカミは、それらを包み込みもするが、ハレの日に差別を行ったりはする。
973日本@名無史さん:03/07/02 11:37
西大寺叡尊や極楽寺忍性(にんしよう)を中心とする鎌倉時代後期の律僧
の宗教的非人救済運動。思円房叡尊は,1240年(仁治1)に大和額田部宿で
非人供養を行ったのを皮切りに,大和・河内・和泉の諸非人宿において非人
に施行をし,彼らに斎戒を授けてその日常生活をも統制することで非人供養を行った。

奈良坂にある癩病患者の収容施設である北山十八間戸も,忍性が建てた
ものであるといわれているが,彼はのちに鎌倉極楽寺に住して極楽寺坂
に悲田院・癩宿・病宿・薬湯室などを設け,病者・孤児を救済した。
とくに彼が87年に鎌倉桑ヶ谷に造立した桑谷療病所においては,20年の
間に病が治った者4万6000人,死者1万0450人と,治療を受けた者の5分の4
が治癒したと伝えられている。
974日本@名無史さん:03/07/02 13:18
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975_:03/07/02 13:22
976日本@名無史さん:03/07/02 13:37
>>962
アジア・アフリカからの移民の大半はすでにイギリス国籍を取得してるのさ。
だから「外国人労働者」の問題ではない。
イギリスは外国人の就労には非常に神経質で厳しい国だよ。
観光や留学等でもEU諸国以外の人間に対する入国審査の厳しさは
ヨーロッパ一だろう。
977日本@名無史さん:03/07/02 14:55
>御師(おし)
特定の社寺に所属して,その社寺へ参詣者を導き,祈祷・宿泊などを取り計らう者。
《源氏物語》《栄華物語》に〈おいのりの師〉,《吾妻鏡》に〈御祈裳師〉と出
ているのが初期の姿で,もと寺院についていたのが,神社を主とするようになった。
中世には熊野三山,石清水八幡宮,賀茂社,日吉社,松尾社などに成立しており,
ことに熊野の場合は,朝廷や貴族をはじめとして熊野詣が盛行するに伴って御師
の活動が顕著になっていった。すなわち参詣の当座だけでなく,御師を師とし
参詣者を檀那として恒常的に師檀関係をとり結ぶことが多くなった。
熊野についで伊勢神宮に御師の慣習が発達し,この方は前者と異なって各地の
先達(せんだつ)を介さず,自身檀家に赴いたり,または代官を檀家回りに派遣
するのを常とした。伊勢御師はとくに〈おんし〉と呼ばれたというが,地方に
赴く際に祈祷大麻のほかに,扇,帯,茶,白粉(おしろい)(伊勢白粉)などを檀家
にもたらして喜ばれ,商人的色彩を帯びるに至った。
応永(1394‐1428)ころには熊野の御師は,尊勝院・実報院などをはじめとして
60〜70家もあったらしく,檀那は全国に分布し,はるかに隔たる陸奥地方にも多かった。
伊勢御師は中世末期に外宮(げくう)だけでも145家に達し,御師にとって檀那株
の所有は財産と考えられ,その株の売買がしきりに行われた。
近世に入ると,熊野御師の勢力は衰えたものの,巨大な組織を基盤として商業
資本化していった。伊勢の御師は繁栄の度を加え,正徳年間(1711‐16)には,
外宮で500家,内宮(ないくう)で240家にも達した。熊野・伊勢にならって御師制度
を発達させた寺社には,出羽三山,相模大山,相模江の島,武州御嶽(みたけ),
富士山,信州善光寺,尾張津島社,越中立山,加賀白山,近江多賀社,高野山,
英彦山などがあり,いずれも講集団の発展と提携しての繁栄が見られたが,
しだいに宿泊の便宜を供するという状態に推移して近代に及んだのである。

彼らは商業資本家に転化してるね。
978日本@名無史さん:03/07/02 14:59
>伊勢神宮の経済基盤
神宮の経済は,古代では封戸と神田によって支えられていたが,その多くは
伊勢国の度会,多気(たけ)の2郡にあったので,両郡を神郡といい,897年(寛平9)
に飯野郡が寄進されると,神三郡と呼んだ。
10世紀以降,律令制の解体がはじまると,神宮にも新しい所領が加えられたが,
神宮の荘園はとくに御厨(みくりや),御薗(みその)と呼ばれた。
しかし,神宮の所領では土地の掌握が弱いことが多かったので,鎌倉時代半ば
以降には在地領主に押領されることが多く,祈祷や奉幣の取りつぎをして収入
を得る神官や御師(おし)があらわれた。
古来,神宮は特別な神社として一般庶民の参詣を認めなかったが,室町時代以降
庶民の参詣がさかんになり,御師の活動も活発になり,門前町が発達した。
豊臣秀吉は神宮の特殊性を尊重し,神宮の土地に対しては検地を免除したが,
その方針は江戸幕府に受けつがれ,1617年(元和3)徳川秀忠の朱印状では3540石
の神領が認められた。
979日本@名無史さん:03/07/02 15:01
>>976
スレ違いで悪いんだけど、イギリス系アジア・アフリカ人は何%なのかな?
オランダでは、有色人種が一割を超えたらしいんだが。
980御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/07/02 18:06
御師(おし)は伊勢の場合だけ「おんし」とゆうんやけどね
オシに通じるから嫌ったとか・・。
伊勢暦は江戸時代発行部数二百万部。
981日本@名無史さん:03/07/02 18:45

伊勢神宮の御厨、御園、神戸、神田などといった地名は全国に散らばっている。
三重県にも多いようだ。そういうところは神領として免税された土地であったのか?

もちろん、時代を経て、地名のみ残った所も多いと思うが。
伊勢湾や伊勢平野なんかは神宮御厨が結構多い。人々は自慢気みたいだけど。

また、寺内町は住民自治を行っていた所も多い。
神領ってナンだろうか? 意味は分かるが、その変遷を知りたい。困難だろうね。
982日本@名無史さん:03/07/02 19:09
免税された土地とは?神領・寺領・軍需産業民・・・他に?
983日本@名無史さん:03/07/02 19:14
>>982

秀吉スタンダードだからねー。
984日本@名無史さん:03/07/02 19:21
中国は科挙の試験で官僚になれたから、比較的公正なのかな?

985_:03/07/02 19:33
986日本@名無史さん:03/07/02 19:42
試験制度ってやっぱり中国は、当時先進国ですね。

日本にそんなものあったのだろか。
987日本@名無史さん:03/07/02 19:46
日本は、武力鎮圧の功労者?
平清盛が武家で最初に太政大臣になったのですよね。
武人がまつりごとに参加していくわけですが。
988日本@名無史さん:03/07/02 19:58
>寺社領
寺院,神社の維持運営のために設置された所領。古代においては国家から
給付される封戸(ふこ)を中心に,8世紀中ごろからの墾田開発によって
出現する初期荘園が寺院経済の基盤であったが,9世紀〜10世紀にかけて
初期荘園の多くは没落し,封戸からの収入も11世紀後半までにはとだえてしまう。
以上の事態に対処するため,中央の有力な寺院は支配組織を再編し,
国家に頼らない自立した経営を目ざして,新たなる中世的な寺領の獲得
をはかる。その中核となったのが,不輸不入権を有する領域性をもった
荘園である。このような荘園では現地に預所(あずかりどころ)を派遣し,
現地の有力者を下司(げし)などの荘官に任命し,荘民を名主(みようしゆ)
に任命して,国衙の支配体制に頼らない自前の荘園経営の体制が整えられた。
寺領荘園の場合,荘園領主権が本家職(ほんけしき),領家職(りようけしき)
に分割されている例は少なく,そうであった場合も,領家職は寺内の院家
が所持していることが多い。寺院の恒例の法会などの行事用途や寺僧の給分
は寺領荘園からの収入によって賄われたが,臨時の造営費用は国家的事業
として国家から給付された知行国や関からの収入によって賄われた。
14世紀ごろになり遠隔地荘園が武士によって侵略されると,その事態に
対応するため,寺院は膝下の寺領の直務支配体制を強化し,田畠の地主職,
作主職等の加地子得分の集積に力を注ぐようになる。
以上のような寺領のあり方は,荘園,御厨(みくりや),御園(みその)等を
社領とする神社においても指摘しうるが,神社の場合,社領が個々の社家
の家領として分割されている例が多い。中央の大寺社の末寺末社となる地方
の有力寺社の場合は,一国規模に展開する荘園や公領の保・名,および荘園
公領内部に置かれた給免田など種々の所領をもっているが,その経営は国衙
の支配体制に依存する場合が多い。
その後室町時代を通じて荘園制が衰退するのにともない,寺社領も減少の一途
をたどった。そして戦国期にわずかに存続した寺社領も,近世では検地に
よって完全に把握され,幕府や諸藩によって朱印地等として一部が恩給されたにすぎない。
989御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/07/02 20:31
神戸は神社に与えられた民戸で、戸口に賦課された租税(祖・庸・調)は、すべて
神社に貢納された。神社にかかわる雑事にも従事した。
神社は租税を自由に処分しうるものではなく、中央の神祇官と所在国の国司の
厳重な管理を受けた。管理が弛緩すると神社独自の支配が進み、口分田は神領へと変質。
神郡についても、平安時代に入ると伊勢神宮は伊勢国神郡の一円的に支配を主張し
他の神郡が有名無実となっていく中で、伊勢国神郡だけは神宮領に変質する。
至った背景は国家の管理から離れ、天皇や貴族から個人的な崇敬を受けるという
国家側の対応の変化がある。そして荘園制度へと・・河海に面し漁業民を中心と
する荘園を特に御厨と呼ぶ。

御厨(みくりや)、史料上確認できるのは、伊勢神宮と賀茂神社のみ。

中世後期に至ると社領荘園は他の荘園と同じく衰退していくが、豊臣秀吉が全国的に
行なった検地によって完全に終止符が打たれるが、代わりに朱印地が給付される。
秀吉の朱印状により所有権が保持されたことから朱印地と名付けられ年貢が神社に
収納された。江戸幕府にも受け継がれ、伊勢神宮は四万二千石に達した。

参考文献:新人物往来社の『日本「神社」総覧』 『日本「神道」総覧』
990よね子:03/07/02 21:07
士農工商とは(高校日本史より)

じっさいには、同じ「士」でも将軍・大名と足軽など下級武士との差は大きく、「商」における大商人と丁稚との差、
「農」における大庄屋と隷属農民との差もまた同様なので、ピラミッドのように身分・階級が積み重なっていたわ
けではありません。
また、天皇・公家、神主・僧侶、賤民身分(穢多・非人など)が含まれないことになるので、必ずしも「士農工商」
という語句は、適切ではありません。

人口比率を考えるうえで、1873(明治6)年における次の統計が参考になります。

 皇族28人、華族(旧大名・旧上層公家)2829
 士族(旧武士階級)−−−−−−154万8568
 卒族(下級武士)−−−−−−−−34万3881
(以上で全体の5.69%)

 平民−−−−−−−−−−−−3110万6514
(全体の93.41%)

 僧尼−−−−−−−−−−−−−−21万6995
 旧神職−−−−−−−−−−−−−−7万6119
 その他−−−−−−−−−−−−−−−−5738
(以上で全体の0.9%)

 総計−−−−−−−−−−−−3330万0672

991よね子:03/07/02 21:11

1871(明治4)年、いわゆる「身分解放令」が出されたときの賤民階級の人口は、

穢多28万311人、
非人2万3480人、
その他7万9095人、

計38万2886人でした。
992よね子:03/07/02 21:14

もうじき1000ですね。
993   :03/07/02 23:53
>>991
今、同和地区住民て俗に「300万」と言われてるけどな。
10倍に増えたのか・・・
994もっこす ◆ZM08EeniEM :03/07/03 00:27
>>992
次行こうか?
995もっこす ◆ZM08EeniEM :03/07/03 00:29
>>993
昨年現在で、92万人だそうだ。
属人属地主義が行政の基本だからね。
ただ、血統主義(異民族説)をとると、概算で2000万人くらいになる。
996日本@名無史さん :03/07/03 02:32
1000?
997日本@名無史さん :03/07/03 02:33
100


998日本@名無史さん:03/07/03 02:46
999↓
999日本@名無史さん:03/07/03 02:47
999
1000日本@名無史さん:03/07/03 02:47
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