島津維新入道義弘について語るスレ
2ゲトズサー
3 :
日本@名無史さん:03/02/05 18:07
ふ〜ん。
4 :
日本@名無史さん:03/02/05 18:10
島津家の系図が詳しいサイトありませんか?
( ´_ゝ`)フーン
島津維新入道義弘←ワロタ
8 :
日本@名無史さん:03/02/05 19:50
こりゃ、龍伯。兄貴なら弟の名前間違えるな。
9 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:49
>>8 きっと、秀吉が「醍醐」の字を思い出せないでいた祐筆に、「大五」と書い
ておけと言った心に通じているのでしょう(w
島津義弘入道惟新が正しい。
島津惟新入道と表記したければ、名前の義弘は付けない。
法号と並びの表記は正しくしましょう。
11 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:14
惟新
維新
12 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:18
島津維新
島津氏の家臣による近代化の改革
13 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:22
幕末薩摩の志士たちは、島津維新の志を継いで明治維新を成し遂げたのだ!
ってのはどうよ?
( ゚д゚)y-~~ツマンネ
15 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:44
16 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:51
島津義弘公に助けられた小西行長や加藤清正その他大勢の武将は
義弘公に足を向けて眠れないよな。
関ヶ原でも島津義弘公の軍勢に攻撃を仕掛けたのは朝鮮の役に出陣していなかった
武将ばかりだったそうだ。←無礼な若造どもめが!
また三戦厨か・・・
18 :
日本@名無史さん:03/02/06 00:00
>>16 つーか徳川の陣へ攻撃掛けたんだからそりゃ出陣してない武将ばかりだろ
19 :
日本@名無史さん:03/02/06 00:05
「維新」の法号は、祖父・忠良の法号「日新」に肖ってるんだよね?
20 :
日本@名無史さん:03/02/06 00:12
↑1ハケーン
21 :
日本@名無史さん:03/02/06 07:32
いろいろと取り沙汰される関ヶ原のあとなぜ島津家はお咎めがないのか?むしろ琉球を加増に交渉し得たのか? 単に朝鮮の役の手柄や精悍や最南端などの理由や龍伯が実権を握ってたとはいいがたいのでは、作家の池宮氏の見解は買いかぶり過ぎだと思うし! いかがでしょうか?
22 :
日本@名無史さん:03/02/06 07:53
>>21 ・いざとなったら明を味方に付けて一戦することを外交カードにしたから(?)
・秀頼が島津の保護下にあったから(?)
…両方ともデムパかもな(w
23 :
日本@名無史さん:03/02/06 08:00
>>21 なんの論文かは忘れましたが、島津義弘が島津家の当主でなかったから、
お咎めなしですんだ可能性も捨てきれないと書いてありましたね。
ここは島津を、しまずで変換しようとしてた人のスレですか?
>>21 家康(というか徳川政権)にそこまでの力がなかったから
西軍の大名の領地だらけの西日本を通って九州まで行ったあげく攻めあぐねたりすれば他でも乱がおこりかねんし
27 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:32
そういえば大河ドラマ「琉球の風」では島津義久が
「家康が薩摩を取り上げるなら、島津は一族をあげて海賊になって海を荒らしてやる。
交易などできなくしてやる」
といきまいていたように記憶してます。
でも、島津は海軍力が強かったとは思えないし、あれはドラマのセリフでしか
なかったんだろうなぁと。
28 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:34
海軍力ってなんでつか?
ゲーム開始5年で島津貴久が死に、後を継いで登場した石藤道尚って誰でしか?
全国版より
30 :
日本@名無史さん:03/02/11 01:23
>>26 こういうこと言うやつに限ってなんの解説もしない罠
しかし3万8千の首級はすごい。
>>30 俺の事をやつなんて呼ぶ人間に、解説はせんよ。
ひとつ質問するが、君はあの時実際島津攻めが行なわれようとしていたか、否か
ご存知でつか?
自意識過剰で知ったかですか
>30
>こういうこと言うやつに限ってなんの解説もしない罠
解説しようにも解説に必要な最低限の知識すら垣間見えなければ
解説する気も起きないのでは。
>>35 いや、質問してきたら教える気はあったのだが、俺の事をヤシ呼ばわり。
それでも調べる糸口を、33で与えているのに調べようともせず、感情的になって
根拠のない人格攻撃。こういう向上心のかけらもない人間と、話しをしても無駄。
放置するよ。
>>36 「こういうこというやつ」というのは一般論じゃないの?
2chじゃ煽るだけ煽って書き逃げなんていくらでもあるし
「俺の事をヤシ呼ばわり」って、ネット上で誰かもわからないのに…
余程プライド高くて思い込みの激しい人だな
それを受けて34が煽ってるんだと思う(まあそれもどうかと思うが…)
>>32 押し寄せたのが3万8千であって首級は違うよ。
正確には大半は住民の首。
そんなに取ってる状況じゃないわな
>>36 >教える気
随分大きく出たな。おまい思い込み厨の伊達遠江守家中だろ?(w
どうせまた「それは全部あなたの思い込みです」の集中砲火で凹まされるだ
けだから、あまり大きなことは言わない方がよいと思われ。
41 :
日本@名無史さん:03/02/16 01:15
おまえら、歴史群像シリーズの島津戦記でもよんで勉強しなおすさ。
義弘は当主では無かったし、義久と仲が悪かったから、所領安堵だったのか?
水軍力wwwwwwwww
44 :
日本@名無史さん:03/02/16 11:59
45 :
日本@名無史さん:03/02/16 13:09
ここ随分とハイレベルだねw
48 :
日本@名無史さん:03/02/16 22:19
そうか、もともと島津家は水軍が強かった家だったんだ。
だから朝鮮の英雄である李舜臣を海戦で破るなんて離れ業が出来たんだな。
戦国時代にも海戦での活躍があったら面白かったのに
49 :
日本@名無史さん:03/02/16 23:38
島津家は和冦の残党を吸収したとか、どっかで言われていたと思ったけど
貿易が盛んだったろうから、船の扱いには慣れてるものが多かっただろうね
村上水軍みたいな「いかにも海賊」みたいな感じかどうかはわからんが
51 :
日本@名無史さん:03/02/17 22:52
島津義弘公が渡海するまで日本軍が手も足も出なかった李舜臣を打ち破った島津義弘公は
日本軍最強の武将といってもいいのでは?
ところで朝鮮の役で日本軍はへたに快進撃しないで沿岸部を確実に占拠して
朝鮮の水軍に補給路を絶たれる可能性が100パーセント無くなってから
内陸部に進軍しておいたら、日本軍はあの戦争に勝てたんじゃないか?と思ってしまうのですが
53 :
日本@名無史さん:03/02/18 00:06
以前予備校の先生が、自分の祖先が薩摩の人で、たばこを最初に日本に
もたらした人だということで銅像が建っていると言っていた。
そして、海賊でもあったそうだ。
>51
それは過大評価過ぎ。李舜臣を葬ったのは島津の鉄砲の数と錬度、そして
たまたま釣り野伏せの海版がたまたま奏効したに過ぎない。
この戦いで島津側の被害は甚大で、実質上は負け戦だ。
55 :
日本@名無史さん:03/02/19 11:13
しかし島津の水軍(?)が強かったと言っても、朝鮮征伐で生かされたかどうかはわからんな
義弘は船が無くて出陣が遅れ、何度も本国に手紙を送ってるし、
同じ第四陣の毛利勢からも遅れてる
薩摩の地侍達のなかには自前で船を用意して朝鮮に渡った者が結構いたようだ
56 :
日本@名無史さん:03/02/19 11:17
義弘の船も雇ったやつじゃなかったっけ?
57 :
日本@名無史さん:03/02/19 11:17
五島の倭寇の中に、薩摩王(島津)の弟を名乗る者がいたらしいんだけど詳細知りませんか
58 :
日本@名無史さん:03/02/19 14:36
飛鳥昭雄の最新刊で島津家は秦氏とあった。
島津家の家紋丸に十の字は深い意味のようだ。
島津のとんさーはただのお人ではなく神様だったでごわす。
59 :
日本@名無史さん:03/02/19 15:16
>>日本@名無史さん :03/02/19 11:17
>>五島の倭寇の中に、薩摩王(島津)の弟を名乗る者がいたらしいんだけど詳細知りませんか
大隈の国の弟 となのったやつ違うの?王直の勘違いだと思うけど?
大隈の国は鹿児島の右側のことね。
>>島津のとんさーはただのお人ではなく神様だったでごわす。
なにべん?
60 :
日本@名無史さん:03/02/19 19:19
>飛鳥昭雄の最新刊で
あーあのトンデモで有名な(w
61 :
日本@名無史さん:03/02/20 13:55
>>56 そうだったっけ
自前で船を調達〜と言うのは正規兵(?)とは別に恩賞目当てで参加した兵農未分離の層ね
刀狩やってるからモロ農民はいなかっただろうけど
これは太閤検地で出た加増用地をもとに設定されたが、500石の約束で朝鮮に行ったものの、帰ってきたら250石しかもらえなかったという例があったようだ
しかし朝鮮役といい、関が原といい、義久はやたらと出し渋って義弘が苦労してるが、
よほど余裕がなかったのかね?
62 :
日本@名無史さん:03/02/20 15:25
>>59 王直とは別
「薩摩王の弟」は他称だったようです
>38
それはウソだな<住民の首
撤退戦と追撃線の間に3万8千もの住民が踊り出てくることがあるかいな。
資料出したまへ。
>>63 面倒だから、この板の過去スレ見ろ。
どのスレでも全部否定されてる。
日本の恥になるからウソはつくな。
お前ら島津ファンだけだぞ、自分に都合のいい捏造を堂々と主張するのは。
65 :
日本@名無史さん:03/02/20 20:49
>>63 押し寄せてきた敵兵が3万8千人
首の数はまた違う
で、その首のなかには住民のものも多かった
整理するとこれでいいか?
66 :
日本@名無史さん:03/02/20 20:54
住民というと無抵抗な市民のようなイメージだが
朝鮮征伐の映画なんか観てもわかるが女、子供までが日本兵と戦っていた
例えるなら朝鮮の役は日本のベトナムみたいなもので
住民=ベトコン=敵だった
それは秀吉が慶長の役では皆殺し令を出していることでも分かる
67 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:03
847 : :03/02/08 23:54 ID:p/XE3bEU
>>824 17世紀初頭の半島人口は300万人だったそうデツ。
因に、その頃、日本の人口は3,000万人。
中国はあの大きさでたった6,000万人。
日本は1000万〜1500万人です。
3000万は、間違いなくいない。ていうかありえない。
江戸時代の資料と石高の資料がまじってないか?
69 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:43
>>66 一向一揆みたいなもんか。まあ、あそこまで激しいかどうかは知らんが
あと、武士同士だけが戦争やってて住民はなあなあな日本と違って、
大陸では異民族に攻め込まれたら皆殺しにされちゃうから危機感が違うんだろうな
食料とかも隠してくし、国内戦でよく現地調達してた日本軍は苦労しただろう
ロシアに攻め込んだナポレオンとかもそれで負けたわけだが
70 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:46
ところで、朝鮮民族が怒りっぽい原因とも言える(w 唐辛子は、
日本軍が寒さしのぎに当時南蛮から伝わってた唐辛子を藁靴の中に入れてたのが伝わった、ってのを聞いたがほんとかねえ?
だとしたら我々の先祖は自ら種をまいてしまったわけだが(w
71 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:55
唐辛子が日本に伝わって、朝鮮に伝わってないと考える方が難しい
72 :
日本@名無史さん:03/02/20 22:11
朝鮮人は自分達は日本人よりも先進国だと思っていたので
自分たちよりも先進国である中国人に支配されるのは構わないが
自分たちよりも下の存在であるはずの日本の野蛮人に支配されるだけは
プライドが許さなかったという。
そういう理由からも朝鮮人は日本人に死に物狂いで戦ったそうだ。
74 :
日本@名無史さん:03/02/23 15:31
>>61 朝鮮の役は加藤清正以外どこの大名も無謀な戦争だし、迷惑なことだと思っていたんじゃない?
関ヶ原の合戦も西軍に味方してしまった大名のほとんどが本当は乗り気じゃなかったと思われ。
75 :
日本@名無史さん:03/02/23 15:49
なんで無謀だったんだ?
76 :
日本@名無史さん:03/02/23 15:54
海外侵略の経験の無い日本人がいきなり日本よりも大国の明国を侵略しようということが
無謀ではないと?
77 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:49
おいおい、そんなこといったら世界中無謀な戦争だらけだ罠。
徳川家康は特に無謀だと思ったらしいね。
ていうか、それまでの秀吉の戦い方は家康以上に奇抜かつ用意周到な
感じだったのに、朝鮮出兵は秀吉のハデ好き部分しか見えてこない。
相談役の秀長が弱ってたんだろうなぁ。
79 :
日本@名無史さん:03/02/24 15:10
家康先鋒にサル吉自ら行きゃあよかったんだ。
80 :
日本@名無史さん:03/02/24 15:15
>>78 羽柴秀長 1591年病没
文禄の役 1592〜93年
慶長の役 1597〜98年
81 :
日本@名無史さん:03/02/24 21:15
島津義弘も朝鮮の戦争には反対だった。
しかし豊臣政権下に組み入れられた島津家としては
秀吉の命令に逆らうわけにも行かない
兄・島津義久はのらりくらりと言い訳して兵を送ってこない。
慶長の役では島津義弘は5000ほどの兵しか集まらなかったが朝鮮に渡ったそうだ。
そして名高い泗川の戦いで明軍に大打撃を与え、日本軍の退路を保った。
その後、明軍に包囲されていた小西行長を助けるために李舜臣の常勝水軍と海戦。
見事に李舜臣を討ち取り、小西行長の救出に成功する。
逝ったり来たり
大変大変w
>80
だから、図ったように秀長の死後出兵してるでしょ。
弱った秀長の変わりに誰かが秀吉に吹き込んで計画を練っていたんだと
思うよ。たぶん光成だろうなぁ。
84 :
日本@名無史さん:03/02/25 19:05
はい?
85 :
日本@名無史さん:03/02/25 20:57
>>83 三成って反対していたんじゃないの?
朝鮮の役も何とか講和しようとしていたフシがあるし。
逝ったり来たり
大変大変w
87 :
日本@名無史さん:03/02/25 21:29
88 :
日本@名無史さん:03/02/26 03:22
けど思うのだが関ヶ原の帰途でくわしたのが立花宗茂で本当によかったと思うよ。
これが黒田・鍋島父子だったら間違いなくその首はタヌキじじいの前に運ばれて
いただろうな〜。
89 :
日本@名無史さん:03/02/26 03:33
もしも関ヶ原で義弘が井伊&忠吉に首取られてたら
そのあとの島津家の体制はどうなったと思う?
>85
それは戦局が悪化しはじめてから(現地の大名から講和の薦めの通達があってから)じゃ
なかったっけ。
91 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:16
>89
琉球が薩摩領にならなかったかも。
93 :
日本@名無史さん:03/02/27 07:28
だから、何度も言うように李瞬臣戦死の件は鉄砲のマグレ当たりだってば。
別に島津というか日本の水軍が沖田畷や桶狭間の戦いみたいに朝鮮水軍を押しまくって、
李瞬臣(当て字)を追い詰めて討ち取ったわけではなく、
戦闘が始まって初期の趨勢が決してない段階で彼は撃たれて倒れたわけだからね。
正確に言うと李瞬臣は味方を鼓舞するために先頭の船のてっぺんの台で太鼓を叩いている所を狙撃されて死んだわけで、
島津の狙撃手も彼がまさか李瞬臣だとは思っていず「太鼓を叩いている奴」程度にしか思ってなかっただろう。
しかしこの戦いでの李瞬臣は確かに不可解なところがあった、
まず、小西が撤退するための使者を朝鮮の役人が通過を許可したと聞いた彼が「
倭軍の援軍が来るのは必定、何と言う事を」と誤解してしまったのと、
一介の将たる彼が上記のような目立ちすぎる行為をして撃たれてしまった点だ。
何故、名将たる彼がその時に限って、そんな愚劣な行動をしたのかは良くわからない。
ある軍事学者が言っていたが「名将が名将たりえるのは20年程度」の法則からすでにボケてしまっていたのか。
彼はこの戦に全てをかけて始めから死ぬ気でいたのかもしれない。
94 :
日本@名無史さん:03/02/27 07:49
>>93 まあ上杉謙信にも弾丸の雨の中、悠然と床机に腰掛け茶を飲んでた話しもあるし。
島津義弘もある城の攻略で、なぎなたを持ち先頭に立って撃した逸話もあるし(そのため負傷したんだったかな)。
徳川家康も対一向一揆戦で、鉄砲が二発も具足に当たった話しもあるし。
結局、死んだのは運が無かったんじやないの?
95 :
日本@名無史さん:03/02/27 12:31
96 :
日本@名無史さん:03/02/27 12:36
島津はうんこ
97 :
日本@名無史さん:03/03/04 19:20
義弘が島津家の当主じゃなかったというのはホントなの?
うそ
99 :
日本@名無史さん:03/03/04 20:23
小早川隆景が最強です!?
>>93 ほんとだね。この場合はマグレとは言えないね。
太鼓は鼓舞の意味もあったろうけど、進退や陣形の指揮手段
なのだから、狙われるのは当然。戦場に「流れ弾」など無い。
102 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:47
>だから、何度も言うように李瞬臣戦死の件は鉄砲のマグレ当たりだってば。
>正確に言うと李瞬臣は味方を鼓舞するために先頭の船のてっぺんの台で太鼓を叩いている所を狙撃されて死んだわけで、
>島津の狙撃手も彼がまさか李瞬臣だとは思っていず「太鼓を叩いている奴」程度にしか思ってなかっただろう。
矛盾
103 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:55
関ヶ原の前進退却が島津義弘の足腰が弱ってたからしという説を聞いたけどソースがあれば教えてください。
104 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:57
>>101 細かいツッコミだが「戦場に流れ弾などない」と言えないだろう。
本当に他の奴を狙った弾とか大外れの弾がたまたま誰かに当たる事もあるだろうし。
105 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:14
>>104 つうか流れ弾を主張している人は何をソースにそんなことを書いてるわけ?
「誰それを狙った弾が外れて、李舜臣に当った」などという文が残っている?
わけないよなあ?そんな文書。
>>104 流れ弾など無いよ。狙って発射されたタマが当る。
タマタマ当るというのは無視出来る程の確率でしかない。
戦場での常套句。仮に兵が密集しているところに撃ちこんで
死傷者が出てもそれはマグレ当たり、流れ弾とは言わない。
みんな流れ弾だのマグレだの、狙って撃ったなどなんでそんなどうでもいいことに
そんなにエネルギー費やして議論しさなきゃならんのか、さっぱり解らん。
島津が李舜臣を倒した事実は、変わらんのだろ?
李舜臣が、この時死ななかったつーんなら議論する価値有るけど・・・
108 :
日本@名無史さん:03/03/20 21:19
朝鮮の人か朝鮮半島出身の親から生まれた者には
英雄である李舜臣が負けたとは思いたくないのでしょう。
だからこそ戦場では無意味な「流れ弾」とか「マグレ当り」
とか負け惜しみとしか思えない解釈して自分を慰めているのだろうと思う。
109 :
日本@名無史さん:03/03/20 21:47
関ヶ原の時、義弘はそもそも最初から西軍につくつねりだったの?
訂正
につくつねりだったの?
↓
につくつもりだったの?
113 :
日本@名無史さん:03/04/05 16:07
肝付家が薩摩を制す
>113
大隅の人たちにそんな意識あるの?疑問だ。
116 :
日本@名無史さん:03/04/05 18:26
九州征伐後の1588年辺りから秀吉は大陸出兵を目的とした朝鮮との交渉を対馬宗氏に命じているよ。
秀長はもちろん反対しただろうが、九州征伐時に秀吉の勘気を被っているので発言権は縮小していたと考えられる。
朝鮮出兵は秀長死後だから、秀長は最期まで兄秀吉に諫言しつづけたのかもしれないね。
>116
ちょっと気になったんだが、
秀長の配下って関ヶ原の時に
徳川方になったり曖昧な態度示してない?
118 :
日本@名無史さん:03/04/06 01:38
>117
誰のことか挙げてくんないと困るのだ。
119 :
日本@名無史さん:03/04/10 20:47
>>118 筆頭の侍大将(若年だが宿老筆頭でもある)が藤堂高虎。
120 :
日本@名無史さん:03/04/10 22:11
なんで関ヶ原から逃げ帰るとき、途中の武士や土民などに殺害されなかったのかな?
明智光秀も土民に殺害されている
121 :
日本@名無史さん:03/04/10 23:23
どこだったか失念したが、大和の某寺に匿ってもらって落ち延びているはず。
南の端の大名だが、近衛家との永年の間柄から、畿内にもそれなりのネットワークは
持っていたと思われる。
合戦後の領地仕置では、近衛前久を使って本領安堵を勝ち取っているね。
近衛家だけではなく、細川などとも親しかったことも落ち延び成功には関係あるかも知れんな。
122 :
日本@名無史さん:03/04/10 23:24
それから、1600名から80名に激減したとはいえ、統制の取れた一団だったということもある。
123 :
日本@名無史さん:03/04/11 00:11
>>81 > 島津義弘も朝鮮の戦争には反対だった。
「島津氏」としてではなく、島津義弘本人が朝鮮戦争に反対だったという根拠は?
小早川隆景や黒田如水も賛成派だったし(秀吉の怒りに触れたくないだけなのかも
知れないが)、知将ことごとく反対派ってわけじゃないでしょ。
むしろ京屋敷にいた戦争好きの義弘は積極的ではないにせよ出兵賛成派で、
国元の兄貴は国衆の困窮ぶりを分かっていただけに反対していたという説もある。
124 :
日本@名無史さん:03/04/11 01:10
>119
藤堂は曖昧どころか東軍側だが。
主君の秀長は秀吉の不興を買うし、継嗣秀保没後も大和大納言家の名跡を誰かに継がせることも可能であったにも関わらず秀吉は断絶させた。
そういう秀吉=豊臣方の肩を持つ筋合は藤堂に無かろう。
藤堂の過去の経緯を考えても、曖昧であったとは思われん。
>123
そういう123も義弘が朝鮮征伐に賛成していたという根拠を挙げてくれ。どちらも根拠を明かしてこそ議論も成立する。
もっとも、船は集まらんは行軍も遅れがちだは、といった状態で義弘が賛成派だったとは思いにくいけどね。
賛成派なのに兵を送る算段もしていないってのは、どう考えてもおかしい。
兄義久の干渉も考えられるが、その辺の交渉も済んでいなかったのであればなおさらだ。
反対派だったとは言わんが、賛成派だと肯ずることはできん。穏健・慎重派といったところだと思う。
そうそう、「戦争好きの義弘」って個所の根拠を挙げてくれ。
125 :
日本@名無史さん:03/04/11 07:16
それ以前に義弘は、朝鮮半島いくだけでも大変だったのにいきたいと思うかよ。
華々しくいくなららまだしも、船も家来達も嫌がってたぞ。
126 :
日本@名無史さん:03/04/11 21:55
>>124 >徳川方になったり
とちゃんと書いてあるが何か?
127 :
日本@名無史さん:03/04/11 22:02
後の大坂夏の陣では、大和の旧国人衆が相当大坂方についているが何か?
うちの先祖も秀長公の直参衆で可愛がってもらったらしいが、男という男は夏の陣で討死している。
>126
ちょっと待ってくれ。
徳川方確定の代表が藤堂で、他の奴らは曖昧なんだが、そいつらについてどう思うってことか?
曖昧ってのは「どっちつかず」ってことだろ? 東西両軍のどっちにつくか旗幟鮮明にした藤堂及びその他を曖昧って呼ぶわけにはいかんと思うが。
一応「藤堂は秀長の家臣だったんだから西軍につくべきなのに態度を変じて東軍につきやがった」ことを119は「曖昧」と解釈したのだと思ってレスしたんだ。
秀長の家臣に東西両陣営を天秤に図ったほんもんの「曖昧」野郎なんていたっけ?
話の際中に腰を折るようでなんだけど
藤堂は秀長生前中にも秀吉直臣として独立してなかったっけ?
130 :
日本@名無史さん:03/04/12 19:23
島津義弘は「戦うが朝鮮に一寸の領土も要らない」と言った何かで読んだことがあるが
131 :
日本@名無史さん:03/04/12 23:34
>>130 もしホントなら、領土にするより貿易して利を上げたほうがいいと思ったんじゃないのかな?
132 :
日本@名無史さん:03/04/13 10:46
いや異民族を治める苦労を考えたら朝鮮の領地なんて百害あって一利なし
ということなんじゃないかな?
佐々成政の二の舞になるのは目に見えてる
133 :
日本@名無史さん:03/04/13 14:04
秀吉が佐々成政を嵌めたことが朝鮮征伐で日本の武将の士気が上がらなかった
遠因なのかも知れんな。
134 :
日本@名無史さん:03/04/13 22:09
島津はうんこ
135 :
日本@名無史さん:03/04/17 23:07
ここは島津を、しまずで変換しようとしてた人のスレですか?
136 :
日本@名無史さん:03/04/17 23:23
氏間図?
137 :
日本@名無史さん:03/04/18 14:05
島津兵庫頭義弘
松齢維新
義は義昭の諱
羽柴侍従豊臣
>>111 最初は東軍につくつもりだったんでしょう。
伊集院忠棟を息子・島津忠恒が手打ちにした事件でお家騒動になりかけたときに
徳川家康が仲介に入り収まってる件もあり、家康に恩があったし。
それで、家康が上杉景勝を攻めにいってるときに義弘は伏見城に入城して留守を
守ることになっていたらすぃのだが、どこで連絡ミスがあったのか、すでに伏見
城留守居役になっていた鳥居元忠に入城拒否されてしまった。そこに他の西軍軍
勢がやってきて、どさくさに紛れてやむなく。。。と言う事情。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>138 そう言う話は、よく聞きますが、
>城留守居役になっていた鳥居元忠に入城拒否されてしまった
といのは、江戸期になってつくられた話という説もありますね。
142 :
日本@名無史さん:03/04/23 18:13
池宮の「島津奔る」は盗作という事でよろしいですか?
143 :
日本@名無史さん:03/04/23 18:15
>>138 ま、「死人(=鳥居元忠)に口なし」っていうからな
144 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:08
というか西軍についた大名の中で最初から西軍につくつもりだったのは
少数派だろう?
もともとは上杉討伐のために家康と合流しようして上方にやってきたら
石田三成らに足止めくらわされたんだから、
彼らにしたら、ハタ迷惑な話だよな。
だから本番の関ヶ原では裏切りが続出するのも仕方が無い。
島津義弘は名門なので、土壇場で裏切りはプライドが許さなかったのだろう。
とても苦しい立場だっただろうなと同情を覚える。
>>144 『島津義弘の賭け』(山本博文著)では、そのような考え方に則って書いてあるよ
うに見える。つまり、、、
徳川家康(5大老筆頭)から「上杉征伐すっから兵隊もってこい。これは五大老筆
頭のわしがいっているのだから秀頼様の命令も同然だぞ」
島津義弘(うーん、文禄慶長の役から、去年の庄内の乱まで戦争ばっかりしてて
こっちは疲れてるんだが、と思いつつ、庄内の乱では調停もしてもらってるしな〜)
「、、、とりあえずその方向で考えてみます、後日返事します」と回答
<これは記録に残っているので事実>
↓
国元の兄・島津義久や息子・島津忠恒に軍勢を催促するが、先述の事情もあってか
兵が集まらない
<これも記録に残っているので事実>
↓
義弘の準備が整わない間に、家康会津へ出発<これも事実>
↓
取り残された大名達に
石田三成(元5奉行筆頭)が「家康を打て!これは(元)5奉行筆頭のわしが言っ
てるんだから、秀頼様の命令も同然だぞ!」とかいう
<これも事実>
島津義弘(ここでもし兵を出せなせなければ、万が一三成が勝ったときに、島津の
家はお取りつぶしだ、、、)
「分かりました。三成様に味方しましょう」
<このへんは正確な記録がないので、前後の関係から考えた山本氏の推測>
と言うきびちい事情があったようだ。まあ、諸般の事情があって西軍についてしま
ったわけで、ほんとうなら東軍についていたはずなのにね。>義弘
>>97
『島津国史』など島津家の公式見解は島津義弘を第17代目当主とする。
が、当時の島津家内や、ご家来衆は島津家全体の当主=義弘とは見ていなかった
ようだ。そのため文禄・慶長の役や関ヶ原の合戦での兵力動員に齟齬を来した
と思われる。
形式的には島津家の当主継承は 義久→忠恒(後の家久) とする。
148 :
日本@名無史さん:03/05/11 16:08
おそるおそるage
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
本日は島津義弘様が豊臣秀吉に降伏した日(1587年)という事で
記念age、、、ヤパーリsageだな(汗
しかし、何でこんな閑散スレにまで山崎が。。。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
152 :
日本@名無史さん:03/07/08 17:20
153 :
日本@名無史さん:03/07/08 19:49
まぁ、運の強さもこの人の場合、かなり味方してるが、それも実力のうちかもしれない。
妙円寺参りまでスレ持たないと困るのであげ
妙円寺参りっていつ?
155 :
日本@名無史さん:03/07/12 12:26
秀吉が豊臣政権に非協力的な兄のヒッキー義久を嫌っていたから、
島津家の領土を義久、義弘、久保→忠恒の3つに分割するような
形で、その権力を削ごうとした。次に島津家の軍事権を義弘に認める
ような形を取り、義久には三成を通じて養子である忠恒に家督を委譲
するよう強く要求(義久は拒否)。秀吉の死の直後あてつけのように
家督を忠恒に譲っているのは笑える。
朝鮮出兵にも応じず(代わりに義弘がわびの書状を書いている)
秀吉の死後最初に公式に家康と親交を結ぼうとした義久は関ヶ原の時点
では東軍派といっても良いのでは。成り行きとはいえ、勝手に西軍に
ついた義弘については穏やかでなかったものと思われ。
もし薩摩まで辿り付けなかったら見殺しにしたであろうし、(想像だが)
「龍伯様御一筋」の旗印で軍団を統括していた義弘としてはそうなる
事も覚悟の上だったと考えられる。
といってみるテスト
歴史にifは言ってはいけないお約束なんだが
それでも
「万が一関ヶ原の合戦で西軍が勝っていたら島津家はどーなってたんだろうか」
と考えるテスト
・・・どっちみち忠恒が跡継ぐから、結果かわんねーのかw
ところで、義弘がどーやって薩摩に帰ろうか大坂で考えていた頃、
九州では小西行長からの援軍要請を受けて宇土(もしかしたら八代だったかな)
に島津さんは出兵しているのですが、小西って三成側だしなあ。。。
何で援軍出したんだろう?
そのころは西軍が負けたと言うことぐらい、いくら田舎でも風の便りには聞いて
たと思うのだが。
島津さんの考えてる事って、分かりもは〜ん
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
158 :
日本@名無史さん:03/07/22 23:47
sage
>>156 島津義久は関ヶ原とかの対立関係を良く理解してなかったフシがある。
戦後の再三の上洛命令を拒否し続け「本領安堵」の家康の直筆の書状を見ても拒否し、
見兼ねた忠恒が独断で上洛したが「親不幸の極みである」と罵ったくらいだ。
あれは高度な政治判断とかではなく、どうも義久は中央政府を理解してなかったようだ。
161 :
日本@名無史さん:03/07/23 09:35
今日義弘の誕生日らすぃからageとくか
>>160 向こうにもお書きになられてませんでしたか?
162 :
日本@名無史さん:03/07/23 09:52
くだらんこと行ってないで、チンポでもしごけや
>>159 リンク先には義久は思いきり「反秀吉」と書かれていますが...
義久の場合、中央政府を理解しなかったというより、もとより
消極的な反秀吉であり、豊臣政権の内乱に加担するいわれは、
はじめから皆無であったと考えた方がいいのでは。
東軍についても西軍についても加贈される可能性は低いし、
領土内の天領も家康から返還されているので、現状維持を
目論むなら中立。しかし領土侵犯されるようなら徹底抗戦
を辞さず、という方針。これが戦後も一貫されたからこそ
本領安堵されたと思われ。それを義弘やら忠恒やらが勝手
な真似されれば怒るわなぁ。
そりゃ、理由も無く国を分断させられそうになったら不信に陥る罠
>>155 >朝鮮出兵にも応じず(代わりに義弘がわびの書状を書いている)
ソースだせやゴルァ!
・・・って冗談です(w)。あ、でもこのネタのソースは希望しまつ。
「周りはみんな立派な軍勢なのに、それに比べてうちときたら・゚・(ノД`)・゚・」
と言う義弘の愚痴手紙は見たこと有るんですが、義久が朝鮮出兵に応じなかったというのは初耳なんで。
サボタージュしてたのは義久と言うよりは、家臣団が、でしょうけどね。
まあ、『イエズス会年報』などによると
「九州大名使って朝鮮出兵じゃ!
それがうまく行ったら九州の大名はみんな朝鮮へ転封するんじゃ!」
と言う噂が飛び交っていたので、動揺した家臣団がサボタージュする気持ちはよく分かる。
今時の日本の会社でいきなり明日から
「悪いけど四川省に長期出張してくれるかなあ。で、期限は無期限だから。」
と言われるのと同じ様な状況かと思われ(w)
ほっしゅほっしゅ?
あの時期の島津本家は、「三殿様体制」で内部分裂状態だからなぁ。
島津で一番権威のある義久、豊臣体制が島津の代表者として扱ってる義弘(義久は島津
が降伏したときに剃髪しちゃってるから豊臣政権から見ればやや過去の人)、まだ政治的
には未知の存在である忠恒がそれぞれに領地と家臣団を持っていた。
企業で例えると対外的には社長が代表権を持っているはずなのに、内部では社長より会
長の方が影響力がある。しかも、血縁的には社長寄りのはずな若社長も国許にいるので
会長の影響力にあって社長のコントロールが効かない。
だから、関が原に集まった島津勢は、豊久の佐土原勢を除くとほとんど義弘の直臣だけだ
そうな。
内部分裂… かね?
>>168 内輪で一番権威のある人が、ある意味「武装中立論者」だからな。
義弘は大分焦って国許へ増援を呼びかけていたにもかかわらず、義弘の直臣たちがそれ
こそ脱藩同然に三々五々上洛してやっとあれだけの人数になったそうな。
むしろ、義久は豊臣・徳川の両者共倒れを願っていたのかもしれない。
ただし、義久の行動パターンからすれば、黒田如水のように直に天下を目指すと言うよりは
伊達政宗のように豊臣政権に奪われた領地の奪回程度が目標ではなかろうか。
(^^)
なるほどねえ。
と言うことでsage保守。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
mL( ^∇^ )グッチャー!
mL( ^∇^ )グッチャー!
キタ━━━(^▽^)━( ^▽)━( ^)━( ;)━(^ )━(▽^ )━(^▽^)━━━シナイヨ!!!!!
本日は義弘公が関ヶ原から鹿児島に生還した日(1600/10/3)
正確に言うと、この当時は「鹿児島」というと今の鹿児島市のみをさすので
居城の帖佐に帰った日と言った方がいいらすぃが
ほほほう保守。
179 :
島津奔るについて:03/10/15 15:48
とりあえずあの池宮って爺さんのひいきはすごい
島津が朝鮮で七千で三十万を撃退したとか、史書の額面どおりに、書いているくせに、家康について貶しまくり、読んでて不愉快だった
実際朝鮮では明のウゴウの衆三万を撃退しただけなのに
山岡荘八が家康をひいきしまくったけど、あれはとてもすがすがしいものだった
180 :
日本@名無史さん:03/10/15 16:32
あなたに必要なのは島津義弘の知略だ!!
退くな、敵の意表をつくのだ!!!
池宮の爺さんは確か『大将論』とかいう本で、イスラーム史の山内昌之先生と対談して、
島津義弘を褒めちぎっていたなー。
彼は、光成みたいな文官・官僚や、加藤清正・福島正則みたいな軍人を“官僚馬鹿”“戦争馬鹿”といっていたし、
徳川家康を自民党の大派閥政治家みたいに、バランス感覚にだけすぐれ・ケチ・凡人の中の凡人として描いているとおもう。
島津義弘だけが真のビジョンを持った、救国の政治家だといいたいんじゃないかな?
あくまでもモーソーですが。
181 :
日本@名無史さん:03/10/15 22:16
>>179 俺も読んでみて、あまりの贔屓っぷりにひいたよ。
まあ、これを書いたのが盗作するような人物だからしょうがないか。
182 :
日本@名無史さん:03/10/16 02:44
盗作作家池宮の妄想暴走小説は問題外としても
彼の人生で最大の失態である関が原の潰走をいまだに
「関ヶ原のクライマックス」だの「薩摩兵の強さを天下にしらしめた」だの
言ってる輩が多いのが不思議
逆に九州平定戦での活躍はあまり知られてないと思う
池宮なんぞ参考にならんし。
義弘についての文献なら東大の山本博文たんがオススメ。
やはり島津の関ケ原の行為は逃げ遅れて、破れかぶれになった・・・それだけ?
山本たんの例の本によると
「大垣城に向かい、東軍に対抗して籠城する」
のが目的だったのではないか?と推測されていたと思う
ところがその頃大垣城では(ry
もはや陥落?
>>186 大垣城は西軍側の武将がほっしゅほっしゅしていましたが
「関ヶ原で東軍勝利」
の一報が伝わると、大垣城保守隊は東軍への寝返りを決議、
唯一反対した武将を惨殺して、その首を家康に差し出し
証拠品としたそうです。
ちなみに大垣城守備隊は九州の中小大名がほとんどだったと記憶しています。
188 :
日本@名無史さん:03/10/25 06:25
チョソも「シーマンチュー(島津厨)」と呼んでバカにしたらしいね
189 :
日本@名無史さん:03/10/25 06:48
何ともない親父。
190 :
日本@名無史さん:03/10/25 09:25
島津日新斎
191 :
日本@名無史さん:03/10/25 17:26
維新?明治維新?
当時の文書には「維新様」と書いてあるのもあるんだ罠 鬱
島津義弘関連の書籍って、
『島津義弘のすべて』三木靖・新人物往来社
『歴史群像シリーズ 戦国セレクション・裂帛 島津戦記』学研
『歴史群像シリーズ12・戦国 九州軍記』学研
『島津義弘の賭け』山本博文・中公文庫
『島津義弘―関ヶ原・敵中突破の豪勇』加野厚志・PHP文庫
『島津奔る』池宮彰一郎・新潮文庫
『島津義弘』徳永真一郎・光文社文庫
『鬼戦記―島津四兄弟の夢』岸信洋・近代文芸社
『島津義久 堂々日本人物史―戦国・幕末編』筑波常治 坂本玄・国土社
ほかに何かありますかね?
特に研究書の類があればご教示いただきたいのですが。
194 :
日本@名無史さん:03/10/26 13:09
>>187 唯一反対したじゃなくて何人もいたからだまし討ちにした。
しかも生き残った福原直高は本丸を守って関が原本戦の3日後まで頑張ってた。
だから大垣城に行くのは出来なくもないが、行ったら一緒にあぼーんだったろうな
>>193 3冊とも義弘専門ではないが
『戦国大名島津氏の領国形成』福島金治 吉川弘文館
戦国時代の島津氏の家臣団構成や権力基盤などについてのおそらく唯一の専門書。
既に絶版なので図書館で借りるか古本屋で入手汁。
『薩摩島津氏』三木靖 新人物往来社
戦国時代の島津氏を知るのに基本的な入門書。
これも既に絶版なので図書館で借りるか、古本屋で購入を。
『戦国大名論集 島津氏の研究』吉川弘文館
島津氏を論じた重要性の高い代表的な論文を収録。
おそらく絶版かと思うが、購入できたとしても非常に高価な本なので
図書館で借りた方がよいと思われ。
>>194 福原は三成の娘婿(妹婿だったかな)といわれているね
最後まで粘ったのも当然かも
>>193の提示した本のうち
『島津義弘―関ヶ原・敵中突破の豪勇』加野厚志・PHP文庫
『島津奔る』池宮彰一郎・新潮文庫
『島津義弘』徳永真一郎・光文社文庫
『鬼戦記―島津四兄弟の夢』岸信洋・近代文芸社
は小説
『島津義久 堂々日本人物史―戦国・幕末編』筑波常治 坂本玄・国土社
はお子さま向けの伝記
『島津奔る』が盗作騒ぎで絶版になったのは、何回も既出だから知ってるよね?
この中では『島津義久』が案外侮れない内容。いかんせん書かれた時期が古いのと、
筑波さんが思いこみで突っ走っているところはあるけど(w)戦国時代の島津氏の
だいたいの流れがつかめる。
ただ義弘は余り出てこないので注意。
>>195>>197 情報サンクス。
島津ものはただでさえ少ないうえに研究書の類は絶版・品切がほとんど。
『島津義弘のすべて』でさえ今は品切じゃない?(俺は13年前に注文して買ったが)
島津氏の研究者自体が少ないのかな?著名なのは三木靖教授とか原口泉助教授(氏は幕末薩摩史が専門でしょ)ぐらいしかいないし。
>>198 福島金治さんも鎌倉史に鞍替えしたモナー
職場の関係(金沢文庫勤務だった)ので致し方ないのだが。。。
山本博文さんも本来の専門は江戸時代だし
あと五味克夫さんとか でも五味さんも三木さんもいい年だ罠・゚・(ノД`)・゚・
うむぅ。
13年前の当時、歴史学者になるのが夢だったのだが、体を壊し大学受験に失敗して挫折。
島津氏研究者が少ないだけにそのまま進んでいたらなぁ・・。
余談ですが、
小学校のとき島津宗家末裔(次期当主)と同期生(隣のクラス)ですた。
武の島津氏らしからぬ痩身色白の人でしたが、さすがに頭は良く特に社会科(歴史)は強かった。
その後、聞くところによれば鶴丸高校(旧制鹿児島一中)→慶応義塾大(?)と進み、
東京で働いたあと、現在は来春開業の肥薩おれんじ鉄道社長に就任しているようです。
更にトリビアですが、
島津家現当主は中央大学法学部卒で、現在は鹿児島県公安委員と照国神社宮司でもあります。
小学校のとき見た印象では長身痩躯の銀行員的なイメージでした。
奥様は西郷隆盛の次男の孫で、結婚式の仲人は大久保利通の孫だったそうです。
>>193=
>>200 島津氏を専門としている研究者は少ないでしょうが
研究自体は戦国大名では進んでいる方かも知れないですね
早くから五味さんとか地元の学者が『鹿児島中世史研究会報』など
地道に論文集を出し続けていた成果でしょう
戦国時代を生き残ったこともあって、史料もまとまって残ってますし
ところで、ふーむ。忠裕さん、お国に帰ったのね。。。
お父上の修久さんはちょっとぐぐると写真の載ってるHPにあたる
ご親戚の近衛さんところが「いかにも華族」という顔なだけに写真を見ると
ちょっと驚きますが
プライバシーにふれるかも知れないのでこれにて
(島津さん所はプライバシーはあって無い物かも知れないが・・・)
>結婚式の仲人は大久保利通の孫だったそうです。
故・大久保利鎌さんのことだね。日本近代史の研究者として有名だった人です。
うわ、はずかし。
回線切って逝ってきまつ
>>200 鶴丸か。。。やはりラ・サールはoutだったんだろうな
宗教がからむし。。。
義弘に関係ないネタなのでsage
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1070104561/ ↑
むこうの方が正常化されてしまったよお(w
では、むこうのほうで
「義弘だけどうして”久”が付かないの?」
というぐっじょぶな質問があったので、こっちの方に保全兼用カキコ(苦藁
義弘は当初「忠平」というなまえでした。
島津氏は「久」か「忠」を通字としているので、これは別に普通。
ところが天正15年頃に「義珍」(「よしたか」というらしい)に突如改名する。
「義」は足利義昭の偏諱をもらった物。
が、「義珍」時代は短く、天正16年頃からは有名な「義弘」に改名する。
この改名が島津の秀吉への降伏がきっかけになった物であることは、時期から見て推測できる。
しかし、何故に「義弘」という名前を選んだのかは、寡聞にして良い史料を知らない。
実はここに島津氏の大きな謎があるのかも知れないし 元からないのかも知れない(苦藁
久光製薬は島津久光が創ったってホント?
209 :
日本@名無史さん:03/12/17 13:09
ほしゅあげ
210 :
日本@名無史さん:03/12/17 14:14
こんなスレあったんだ
義弘の関が原が最大の失敗だったてのは本当なの?
もっと早く撤退しとけばよかったという話?
あと、池宮のじいさんが小泉と週刊誌で対談しているのを読んだことあるけど、
なにも進言できていなくて、こいつはニセモンだなと思ったことあり。
211 :
日本@名無史さん:03/12/17 18:22
>>210 >義弘の関が原が最大の失敗だったてのは本当なの?
質問の意味がよく分からん
212 :
日本@名無史さん:03/12/17 19:30
>>205 島津一族で、ラ・サールOBがいる。
有名どころの支配人をしている。
>>212 >有名どころの支配人
有名どころ・・・鹿児島にはドメスティック資本の大型ホテルはなかったはずだし
もちろん外資の大型ホテルも無し
フェニックスは宮崎だし(w)
となると、どこかのゴルフ場か・・・
ゴルフ狂の父親に聞いてみるか。
214 :
日本@名無史さん:03/12/18 00:38
>>211 182 :日本@名無史さん :03/10/16 02:44
盗作作家池宮の妄想暴走小説は問題外としても
彼の人生で最大の失態である関が原の潰走をいまだに
「関ヶ原のクライマックス」だの「薩摩兵の強さを天下にしらしめた」だの
言ってる輩が多いのが不思議
逆に九州平定戦での活躍はあまり知られてないと思う
確かに、潰走を失敗と言っている。
あれは潰走なんかい(藁
215 :
日本@名無史さん:03/12/18 01:32
216 :
日本@名無史さん:03/12/18 02:02
弘兼憲史の漫画「加治隆介」はラサール出身になっているけど、
誰かモデルいるのかな?
弘兼自身は長州出身なんだけど、なぜ加治を薩摩人の設定にしたのだろう?
217 :
日本@名無史さん:03/12/18 02:25
218 :
日本@名無史さん:03/12/18 05:23
>>213 もしかして清宮貴子様の御主人のこと?
ん、でもあそこは支配人じゃなくて確か常務取締役だったから違うか・・・
220 :
日本@名無史さん:03/12/18 10:08
>>216 自民・鹿児島2区
ラサール→東大出身だからより漫画に近い。
保守系無所属・鹿児島5区
これもラサール→東大。
誰だろうね。島津さんとも関係あるのかな。
221 :
日本@名無史さん:03/12/18 22:48
>>220 鹿児島5区ってもしかして
徳 之 島 が入っていました?
>>220 ラサールではなく、ラ・サール。
La Salle
224 :
日本@名無史さん:03/12/19 15:19
>>214 潰走ではなくて、家康本陣への突撃戦とそれに続く退却戦だな。
その証拠に、組織的な殿戦をして相手に追撃を断念させている。
225 :
日本@名無史さん:03/12/19 15:25
>>223 ラサールと書くと、ラサール石井のことになっちゃうか。
ラ・サールでござーるな。
お坊さんの名か。
>>221 宮之城島津かあ。『さつまの姓氏』見ると判明しそう。
その部分はコピー持ってるので探してみよう。
228 :
日本@名無史さん:03/12/20 16:50
>>224 弟の遺児ほか多数の家臣を死なせて自分だけ逃げ
帰ったんだからどう考えても壊走だろ。
いたたたたw
230 :
日本@名無史さん:03/12/20 21:59
島津氏の九州制圧の際肥前や豊後は完全に薩摩の制圧下に置かれたの?
231 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:44
232 :
日本@名無史さん:03/12/20 23:19
>>231 ちがうというのか?ならソースを示して先鋭的かつ論理的に考証してくださいお願いします。
>>232は、多分、通りすがりの楽しい釣りだとは思うが、釣られてみるか。
ちゃんと、レスを読みなさい。二者択一の意味わかるよね?
>>230 肥前は島津配下の龍造寺氏の支配下という形
豊後は府内城下など一部地域を大友氏が保持という形
あと筑後で立花+高橋(紹運一族のほう)が頑張っていたけどね
235 :
日本@名無史さん:03/12/21 15:33
236 :
日本@名無史さん:03/12/21 15:57
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
島津厨と薩摩オタのスレ乱立にうんざり
237 :
日本@名無史さん:03/12/22 01:46
≫193
島津修久『島津義弘の軍功記』島津顕彰会
集成館で買ったよ
80歳以降の義弘の人生が知りたいのですが
何をやったのでしょうか
>>240 おいおい
但し、実際隠居していて政治的にはほとんど影響力はなかったようですね
(しょっちゅう息子の家久に説教はたれているが)
80の時には誰も乗れなかった暴れ馬を乗りこなしたなんて言うエピソードもあるようです。
83を過ぎる頃から病気がちで臥せがちとなり、元和5年7月に病死しました。
まあ、当時の平均寿命からすると妖怪みたいに見えた最後であったとは思われますが。
あぼーん
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1070104561/882 に関して
>ほかの土地のように「今の殿様に比べて維新公はよかったよなあ」ということを討論することも
>ありませんでした
実は、鹿児島藩で義弘のことが禿禿しく追慕された時期が
あった。
【補足】
島津重豪の時代
重豪はほとんど幼少期を江戸ですごし、養育したのは義理の祖母の竹姫(京都の公家出身)
だったため、成長後、薩摩の異国風俗には興味を示したが、鹿児島弁は大嫌い
(重豪のしゃべり言葉は京都弁という逸話をどこかで聞いたことがある)
重豪が藩主になった後、命令で薩摩藩の風俗にいろいろ規制が入り、江戸風、或いは
上方風にするように徹底された。
当然こんなブッシュJrのイラク政策並(苦藁)の重豪に反発する国元の藩士は多く、
「下手に上方の習俗に染まることなく、薩摩の風俗を守るように」と遺言したとされる
島津義弘に対する密かな人気が高まり、「明赫記」など義弘賛美の伝記が書かれたりし
た。
あぼーん初めて見た。よくあるもんなの?
秀吉の命令だったんでしょ虎狩り。他の大名は獲ったのかな、トラ。
>>246 加藤清正の虎狩りが一番有名
戦前は教科書にも載っていたらすぃ
虎狩の内実
島津義弘=槍刀のみ使用
加藤清正=鉄砲使用
さすが・・・と、言いたい。
>>248 確かこれを主導しておこなったのはこの後急逝する島津久保(義弘の次男)で
「頼むから無茶しないでくれ」
と言う内容の義弘→久保の手紙が残っている。
久保は自分の息子でありながら、島津家の次期当主に予定されていたので
傷一つつけられないと言う責任が義弘にかかっていたことを思わせますな。
でもこの後病死してしまうんだが>久保
話は変わるが、滋賀県の鴨猟では
一本釣り(っていうのか?)の鴨>鉄砲で捕った鴨
だそうな。鉄砲猟では鉄砲玉の金属臭が肉に移る+肉の鮮度が宜しくない等の理由らしい
長浜の鴨食ったことがないので、ほんとにそんなに違うかは分からないがw
251 :
日本@名無史さん:04/01/12 20:36
俺の先祖は義弘公に苗字付けて貰ったぞ。
久保が生きてたら歴史が変わってただろうな
253 :
日本@名無史さん:04/01/12 22:40
>>248 それは島津隊が、鉄砲で使う煙硝も玉も不足していただけですよ。
朝鮮の役でも、島津隊は物資のとぼしく、特に鉄砲やその玉薬の不足に
かなり苦しんだそうです。
254 :
日本@名無史さん:04/01/12 22:45
>>251 ということは、それまで苗字のない農民かエタヒニンかその辺の野武士もどきで
島津軍に雇われて功を立てたので正規軍に採用してもらったってことだね?
255 :
日本@名無史さん:04/01/12 22:50
>>250 単に親バカでしょ。
ちなみに鉛玉が体内に入り、その時点で死なずに血液の循環などがあると
鉛が体内に溶け出します。
これが悪化すると鉛中毒になるため、最近では鉛玉の使用に確か規制が
かかっていたと思います。
ちなみに鉛のオモリや環境ホルモンが溶け出すルアーを使う釣り人も
また海洋汚染・魚介類汚染の一躍を担っています。
256 :
日本@名無史さん:04/01/12 22:57
>>254 穢多・非人って江戸時代以前に存在するの?
>>254 違うねバ〜カ。
苗字を付けて貰う以前も以後も只の豪農。
>>253 他大名と比較できる確かなソースプリーズ
>>251 島津スレには暇人ヒッキーのアンチ島津厨房が居着く傾向がありますので反応しないのが一番の薬ですよ
259 :
日本@名無史さん:04/01/13 20:20
394 :日本@名無史さん :04/01/13 20:12
もともと犬を食う習慣は日本全体にありました。
イエズス会のルイス・フロイスも「ヨーロッパ人はニワトリや鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。
日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などを喜ぶ」と書いています。
寛永12年(1643)刊の『料理物語』には、犬の料理法として吸い物と貝焼があげられており、
17世紀頃の兵法家大道寺友山の「落穂集」で「自分の若い頃には、江戸の町方には犬はほとんど
いなかった。というのも武家方・町方ともに下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、
冬向きになると、見つけ次第に打ち殺して食べたから」と書いています。
しかし、伊勢安濃藩・尾張藩・会津藩など各藩で犬殺しの禁令が出されるようになり、生類憐み令や
犬肉は鷹飼育の餌だったこともあって、犬は次第に食べられなくなり、薩摩だけが犬を食べるようになると、
次第に薩摩の犬食いは野蛮な風習として笑いものになるようになりました。
「品川と麹町とに入れあげる(「品川」は薩摩屋敷から近かった品川の遊里、「麹町」は獣肉屋をあらわす)」
「大部屋に赤犬などのあらがあり」「酒盛にきゃんと言わせる御国柄」「『赤犬が紛失した』と芝で言い」
「『赤犬は喰いなんなよ』と南女言い(「南女」は品川の遊女のこと)」などといった、薩摩の犬食の
習慣を嘲った川柳が残されています。
「えのころ飯」がどういった料理かというと、大田南畝(蜀山人、1749-1823)の『一話一言補遺』には
「薩摩では犬の子をとらえて腹を裂き、臓腑をとりだしたあとの腹内へ米をかしいでおさめる。
その跡を針金でかたくしばり、竈の焚き火にいれて焼く。腹内の米は黄赤色のよく蒸された飯となる。
これを「えのころ飯」という」とあり、代々の島津藩候も食べたという薩摩の有名な郷土料理です。
大戦中は日本兵も食ってたらしいし
赤犬が一番美味いんだったっけ?あ、うろ覚えすいません
とにかく薩摩人だけじゃないと思うぞ
別のスレから持ってきたw
また話戻るけど、薩摩藩の武士階級内の差別はいわれるほど酷かったんでしょうか?
城下士と外城士(郷士)を差別化したのは斉彬の祖父の重豪からですよね。
この間、2〜3代で強烈な差別意識が出来るものなのでしょうか?
差別化以前は城下士も鹿児島衆中と呼ばれて、他の外城衆中と同じ位置付けであった
と思うんですが(家老とかの上級藩士は違うと思います)?
それに、江戸初期に重要外城に配された家臣はそこそこの家格の者であり、城下に住んでいた
一族もいたことでしょう(実際、私の母方の家も郷士であったが、城下の一族の者と何十年か
前まで親戚付き合いというか交流があったらしい。苗字は伏せますが江戸後期に家老職の家に
養子を出している。その後、明治期にも活躍している)。
近年になって、土佐藩の郷士制度とごっちゃになってるような気がします。
階級闘争とかの題材は小説とかでも面白いですもんね。
どなたか詳しい方がおりましたら教えて下さい。
262 :
日本@名無史さん:04/01/25 02:53
犬を食うって
それは東アジアの文化だ
気にする必要はない
263 :
日本@名無史さん:04/01/25 02:58
犬・猫・猿を常食にしてた日本人
今の感覚で歴史を見ないように!!
ヤコベッティの映画「世界残酷物語」にでてきたのは,
台湾の犬料理でしたしねえ・・・.
あの〜維新公の話はどこへ?
惟新公は、自分の奥さんの実家が裏切ったので、
奥さんと侍従を人里離れた山中に置き去りにして餓死させ、
その崇りを恐れて阿弥陀寺建てたって話を聞きました。
家久公は、自分の奥さんの化粧する姿を笑って
それを苦にした奥さんが自殺してしまい、
その崇りを恐れて阿弥陀寺建てたって話を聞きました。
嘘ですよね?嘘だと言ってくださいな。
島津って供養系の話多い?いくさ後とか建ててるんでしょ。
死者に対する・・・、で上の話はあってもおかしくなさそう。
詳しい人を待つ。
このスレをageたくて仕方ないのだが、
ageると義弘・家久親子の未確認醜聞が
日本史板住人に晒されてしまうのでageられない。
誰か、この件に関して詳しい方、
sage進行でレスをお願いします。
>>267 後半の話は嘘だけどあながち間違いではない。
容姿に優れない正妻(先代当主の娘)を、
先代の死後「徳川家への忠誠の証」という名目で
江戸へ人質に出し、その隙にこれまで持てなかった
側室を抱えまくって32人の子供をこしらえたという
事実はある。
>>270 そうでしたか。
家久公は、てっきりDQNかと思ってましたけど、
なぜかどこか憎めない人ですね(w
関が原の戦後処理で両殿の反対を抑えて
上洛して家名存続の確証を得たのも家久公・・・でしたよね。
272 :
日本@名無史さん:04/02/03 17:00
コーエーでの九州武将ヒイキは本当にすごいね。
スタッフに九州人が多いのかナ
じっさいは薩摩など土地が火山灰でやせていて人口も東北や北陸よりすくなく田舎。
武将も弱いし、豊臣秀吉の九州征伐のときは先鋒の堀(三流武将)に
「島津弱すぎ!もうちょと、手ごたえが欲しいでござる」と笑われてる。
まあ、長曽我部も黒田如水におなじようなことをいわれてたしね。
あのとき、秀吉が取り潰しにしていたら(長曽我部の土地を取り上げて薩摩に
加増というかたちで転封して息子の戦死に報いる案もあった)
結果として島津義久は家を潰した朝倉義景なみの能力値だったんだろうけど・・・
まあ長曽我部は断ったから葛西・大崎と同じにならなくて良かったねw
だから今川氏真や朝倉義景の不当に低い評価とゆうのもわからなくはない。
だって浅井・朝倉は織田信長を何十年も苦しめ
秀吉だとか堀だとか三流武将は一撃だった実力なのは天下の認めるところですわ
実力を買われて石田三成など秀吉の部将は旧浅井系だったし
いかに浅井・朝倉が強かったかの証明。徳川家康は今川氏真の家臣だし
朝鮮征伐で強かったというけどチョンなんて誰でも勝てる。
装備の悪い貧乏丸裸の九州大名が苦戦しているが、伊達政宗が出たときは騎馬突撃で
一撃だったじゃん?
関が原でも田舎モノが笑われて逃げただけだし(笑
たまたま講談で美化されてるに過ぎない。
上杉謙信に比べたら、島津義弘なんか「ドッギャ−ン」で一撃でしょw
まあ、冷静に比較すれば戦国最強なのは織田・朝倉・今川・上杉・武田の5強でしょう。
織田・朝倉は斯波の家老で、斯波氏の旧領土を2分した形だけどね
このどれか一角が崩れると将棋倒し、天下を取れる形勢にあった。
>>272 三戦板の島津義久スレからのコピペですか。
>>270 亀寿様は江戸には行ってないですよ〜
『島津家文書』等に出てくる「(家久)御簾中様」は薩摩藩2代目藩主島津光久の母・心応夫人のことを指していると思われ
といっても亀寿様も家久の御簾中様なんですけどね
・・・って、正室二人同時存在ってどういうこと?!
ちなみに心応夫人は寛永2年没で亀寿様は寛永9年没
>>267 スレタイの島津義弘関連の話題にようやく戻れそうw
縁起でもない話題だが (((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
『島津氏正統系図』で知られる義弘の妻は
・北郷忠孝(島津忠親の弟)の娘
・広瀬氏娘(実は園田清左右衛門の娘)後に「宰相殿」の呼称で知られる
の2人だけ
なのだが、政略結婚で相良義陽の妹と結婚していたという説がある。
相良義陽は当初島津氏と対立、後に島津氏に降伏し、島津氏に見殺しにされるような状態で
戦死した肥後南部の戦国大名。義弘の妻となった義陽の妹は将来を悲観して自殺したという
話が伝わっているらすぃ。
、、、というこの話。
『加治木物語』など信憑性の些か薄そうな史料に載っている話なので何処まで信じていいか
という問題は残るが。。。
>>267 ん?小説で出てたな、津本陽の「薩南示現流」(文春文庫)。
以下、無許可で抜粋してみる。(まずいかな?)
======================
・当時の薩摩は人命は薄紙一枚といわれた。
城中でも手討ち、死罪がおこなわれるのはめずらしくない。
・ある年の夏、鹿児島の城にいる義久のもとへ、弟義弘の使者が来た。
使者は、いなか侍で、素肌に十徳を着て、袴もはかず褌をあらわしていた。
用件を言上しているあいだ、その侍はしきりに尻を動かす。
小姓がみると、褌がゆるみ、尻の穴に蠅がたかっている。
かゆさに堪えかねているのであろうと見るうち、
小姓は思わず忍び笑いをもらした。義久はその場で小姓を死罪に処した。
・また殿中で短冊を隠し持っていた侍女が、重臣にそれを見せよといわれ、
即座にのみこみ、その場を去ることなく腹を裂かれ、
短冊を読まれたことがあった。内容は恋文にすぎなかった。
・島津義弘は、自分の最初の妻の父相良氏に敵対されるや、
妻とその侍女十六人を山籠に乗せ、深山に棄てた。
女たちは籠から出られないままに主従ともにもがき死に、
その崇りが強いために、殺害の場所に阿弥陀寺を建てたという。
======================
・・・てな感じ。
「薩南示現流」が漫画雑誌上で漫画化されている関係で
原作を読んだマンガヲタ無知不逞の輩が
>>267を書込んだに違いない。
なまじ学術的な史書よりも、軽薄な歴史剣豪小説の方が
世間の眼に触れてしまうしな。
「阿弥陀寺」・・・検索しても出てこなかった。
鹿児島のお寺は廃仏毀釈であらかたやられたからなあ。
奥さんを殺してしまった島津の殿様といえば、義弘の義理の曾祖父に当たる
島津運久が有名だね。
>当時の薩摩は人命は薄紙一枚といわれた。
戦国時代は薩摩じゃなくても人命は薄紙一枚だよね(汗
但し、江戸時代に入ってからの薩摩藩は異様に切腹率の高い藩だったことも事実らすぃ
(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
そのお陰で伊作島津家が大きくなったから・・・
と、言ってしまうと何が良くて何が悪いんだか。
ともあれ現代なら通用せんな。恥を知るってのは大事かもしんないけど。
義弘が密教好きだって読んだことあるけど、その密教の教えってのは
妻殺しも寺建てたらOKなもんなんですかね?
279 :
日本@名無史さん:04/02/05 16:37
戦国無双に義弘出ないんだね。出てれば買ったのに…
石川五右衛門はね〜だろ。肥えのアホ。
前田慶次も納得いかん。
肥えのゲーム作ってるやつらって、隆慶一郎の本しか読んだこと無いんだろうね。プッ
三国板でなくて、三戦板
>>281 「島津は三国人」という都知事もビックリなネタ発言でつか?(w
「薩摩藩の歴史」スレが消滅したようなんで、こっちをsage保守しておこうか。
285 :
日本@名無史さん:04/02/21 00:12
義弘の「その時歴史が動いた」見たけど凄いっす。
木崎原の戦いなんて凄いの一言。伊東が無能だとか言われてるけど
あんな戦い方されたら誰だって負けちゃうと思う。
島津の退き口もすごい。真田の特攻より全然こっちの方がすごいよ。
興味出たから義弘の事、調べてみたんだけど戦歴すごいですね。
なんかいつも何倍もの敵に勝ってる。
しかも、李舜臣まで倒してるじゃないですか。
これは知らなかった。てっきり和平したもんだと思ってたよ。
教科書はただ秀吉が死んで、朝鮮から撤退したとしか書いてないけど
「秀吉の死を知った明・朝鮮軍は猛反撃に出るが、島津義弘の活躍もあり朝鮮から撤退できた」
の一言ぐらい書いてもいいんじゃないかな。
てか、あれだけの戦歴を誇る人が何故無名なのか不思議だ。
>>279じゃないけど、コーエーさん。義弘出してよ。
幸村政宗義弘のファンてこんなんばっか
>>285禿同
大河化でもすれば一気に知名度もあがるんだろうけどね。
そういえばコンビニで「乱ツインズ戦国武将列伝」っていう
戦国雑誌売ってたけど読んだ?
義弘出てるよ。木崎原の戦いの場面だった。興味あるなら読んでみそ。
>>287情報どうもです。買ってきました。
めっちゃ面白かったです。
槍の達人を一騎打ちで倒してるのスゲー(゚∀゚)
三国志みたいだ。
いつも陣頭に立っててよく死ななかったなと思ったけど
義弘個人も強かったんですね。
289 :
日本@名無史さん:04/02/22 01:03
島津義弘または義久を描いたお薦めの小説があったら教えてください。
>>289 津本陽
・「夢のまた夢」の後半
・「乾坤の夢」の前半
朝鮮出兵に力が入れてある。
かなりリアル。方言が臨場感あり。
リアルであるにも関わらず、義弘が(・∀・)カッコイイ!!
ん、義久?
出てたかな・・?
あぁ、「夢のまた夢」にちょこっと出てきた。
292 :
日本@名無史さん:04/02/22 10:23
昨日コンビニに「乱!戦国武将列伝」とかいうタイトルの漫画雑誌が売っていて
その中に島津義弘の名前を発見したぞ
島津義弘って、けっこうメジャーなんだなと思った
もう一回見に行って面白そうだったたら買ってみようかな
294 :
日本@名無史さん:04/02/23 01:14
「薩南示現流」が漫画雑誌上で漫画化されている関係で
原作を読んだマンガヲタ無知不逞の輩が
・・・・・あれ凄いよね。あれ見ていると薩摩隼人は全員北京原人かゴリラみたい。
知能が無く殺し合いぱかりしている馬鹿。
特に薩摩の軍政が凄く、5人一組で連帯責任の班を作って、合戦に出て一人が
敵の首を一つ以上取らないと連帯責任で5人とも死刑。誰か一人でも逃げ出したら
5人とも死刑、大将旗だか取られて取り返せなかったら、その配下の班は全員死刑とか・・・・
どこまで本当か知らないが、これじゃあ強くなる前に全員死刑で人が居なくなるだろうが・・・
と思った。
本当に薩摩は知能指数が低いと思った。
示現流そのものは、稲妻のように撃つ!とかやたらかっこいいんだけど、いかせん
主人公以外が全員北京原人だから始末が悪い。
あれじゃあ馬鹿にされるし、読んだ人皆が薩摩を軽蔑するだけだと思うが。
>>294 5人一組の班は、ひょっとして、捨てガマリの最小単位かな?
捨てガマリも5人一組だった気がする。
(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
「薩南示現流」、他の時代の示現流のエピソードも出てたね。
自分が一番好きだったのは、「桜田門外の変」かな。
あの描写はすごいとオモタ。
映像化する必要がないくらいに臨場感があった。
読んでるだけで、頭に鮮明な光景が浮かぶ感じだった。
西南戦争中と西南戦争後の2つの章も良かった(´∀`)
・・・しかしですな、
(・∀・)カッコイイ!!と自分は男なので素直に思ってしまうのだが、
女性から見たらどうなのかな?・・・ってのは確かにある。
>>289 「小説」とは言い難いが
『島津義久』(筑波常治 国土社)
というのがありまつ。
これ、小学生以下のよいこのための伝記シリーズの中の1冊なんですがw
戦国時代の人物では豊臣秀吉をあえて取り上げず、
島津義久とか足利義昭とかを取り上げた、かなり異色のシリーズです。
297 :
日本@名無史さん:04/02/23 13:04
>>295 無意味にキンタマをブラブラさせる描写が多いところが素敵ですわ。
298 :
日本@名無史さん:04/02/23 23:20
俺の中では、示現流って田舎剣法のイメージしか無いんだよな。
なんか、キエー!とか変な声出して馬鹿みたいに突進してくるだけとか能が無い
みたいな感じ。
どうせなら、柳生新陰流みたいな方がかっこよくねえ?と思える。
スマートさに欠ける。
使い手の粗暴な人格が結果として剣術までも粗暴なものとして認識させている
という巣感じがするけどね。
>>298 >なんか、キエー!とか変な声出して馬鹿みたいに突進
それは自顕流のほうをイメージしているのだと思う。
>>289 今でも手に入る島津義久関連の本なら
高城書房「大将 島津義久の苦悩」がお勧め。
本としてのまとまりはないが、義久への愛着は
沸くと思われw。義弘が思慮浅い人間にかかれている
箇所もあるので、堪え性の無い人は止めたほうが
よいかもしれんが
301 :
日本@名無史さん:04/02/24 01:09
>>299 いや、幕末の薩摩藩の風評だから間違いではないでしょ。
猿みたいな奇声を発してってあるし。
>>301 発声にも個人差はあるだろうし。
うちの親父の発声は「タァー!!」だった。張りのある声はしていたが。
>92
どうしてですか?
>100
その通りだ。
304 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:21
ヤター!その時に義弘出てる
305 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:31
これで島津の外交力が凄いことが証明されたな。
違うんじゃないか・・・?
中国とのパイプだあ?訳の判らん事を・・・。
307 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:35
徳川家康も真っ青な
島津義久って強かな外交家だな
308 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:35
>中国とのパイプだあ?訳の判らん事を・・・。
お前が無知なだけ。
309 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:38
311 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:42
明との貿易を握っていたんなら、余計に邪魔だろ(w
312 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:50
>>311 邪魔というか家康は島津を窓口にして明との貿易を考えていたようですな
313 :
日本@名無史さん:04/02/25 22:13
「家康は秀吉からの業務引継を意識していた」
っていう大事な視点が欠落してるよね。
家康は、関が原直前に小さな大名の離合集散を
「草のなびき」と呼び、どっちについてもどうでもいいと考えていた。
島津は大大名だが参戦した戦力が過少だった事もあり、
家康はかなり早い段階から島津を安堵するつもりでいた。
天下人の業務引継という意味でも、
島津に厚遇を与えるべき道理があると家康は考えていた。
秀吉死後、朝鮮出兵での活躍に対して
五大老の連名で手付けの加増があったが、
折りを見て更に加増する意向だったようだ、本当は。
314 :
日本@名無史さん:04/02/25 22:22
「もし島津を取り潰すなら海賊になって暴れてやるっ!」て言う説もあったよね。
島津の海軍力は凄かったみたいだから、かなりビビッたんじゃない?
315 :
鹿児島県人:04/02/25 22:37
水戸黄門じゃ、薩摩は藩ごと悪役だった。
いつも、悲しい思いをしてたよ。
>>313 >家康は、関が原直前に小さな大名の離合集散を
>「草のなびき」と呼び、どっちについてもどうでもいいと考えていた。
それで思い出したが、大河ドラマの宮本武蔵開始前に、
NHKのクイズ番組で宮本武蔵を取り上げてた。
あるアナウンサーが、「宮本武蔵が西軍だったので仕官しずらかった。」
とかどうとか言ってた。
・・・んなわけ、ねーだろ(w
と心の中で、TVにツッコんでた。
あまりにも家康の関が原戦後処理を偏狭に考えすぎだな、NHK。
317 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:02
>>313 今日のその時でも言っていたし、よく言われている
西軍側で領地を減らされなかったのは島津家だけ
というのは嘘なのか?
その他大勢の小大名は西軍側でも領地は減らされなかったのか?
>>298 実戦なんてそんなものだ!
道場で1対1で試合するのと違って、小難しい技はやくに立たないのだ!
319 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:14
家康がかけた島津討伐令で九州各地の大名の軍勢が島津軍と睨み合っていた最中に
なぜ家康は撤退命令を出したのかな?
その時では固まっていない天下のことを考えて、ここでもしも精強な島津軍相手に苦戦した場合
家康の天下取りの障害になるからとか説明していたが
もしもそんな理由だったら、最初から討伐令なんてかけないと思うけどなあ
320 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:23
様子見だろ。睨み合いながら九州の大名の動きやら島津の動きを
観察し隙があれば薩摩に攻め入るが、九州の大名の動きが鈍かったり
島津が強かだったら諦めて撤退しようという事だろ。
将軍だからとれる戦略
321 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:25
島津って南北朝時代もかなり不穏な動きしてたよね。
322 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:29
>>319 薩摩の戦争準備と家康の討伐令ってどっちが
先だったの?前者が先なら西軍薩摩とは未だに
戦争状態と判断した上での判断かもしれないし
後者なら討伐令出せば、降伏してくるだろうと
たかをくくってたか。どっちにしろ家康には
薩摩の真意がわかりかねたんじゃないかな?
323 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:35
>>322 島津家の戦争準備が先だったみたいですね
島津義久は表向きは恭順しながら、上洛を拒否し続けて
国境を閉ざし、城の守りを堅くして戦争準備をしていたそうです
・・・で、藻前ら、NHKが主張するように、
明船襲撃は島津にとってプラスだったと思うか?
漏れの場合、( ゚Д゚)ハァ?だったが。
325 :
日本@名無史さん:04/02/25 23:47
>>324 どうして?>( ゚Д゚)ハァ?と思った?
納得いかなかった理由は何ですか?
家康は明船襲撃事件で島津家に明貿易ルートを潰されると怖れて
討伐軍を撤退させたのじゃないかな?
んな訳ねー
外交問題になってしまうと島津が圧倒的に不利になると思う。
それとも、この当時の薩摩の対明貿易って、
薩摩領内だけの生産・消費で成り立ってたの?
また、明には上方や博多の交易ルートを犠牲にして、
島津氏と単独貿易するメリットがあったの?
大きい交易規模があったのであれば家康が恐れたってのは正しいかも。
言い換えれば、島津氏を滅ぼせば大変美味しい事にもなるのだが・・・。
自分は、家康が義弘でなく義久・家久の上洛要求する事で、
「関ケ原でのいさかい」と「加増」の話を切り分けて
島津氏に持ちかけようとしたと思う。
間違いなく義弘自身は蟄居させられたとは思うけど。
島津氏が過剰に抵抗の姿勢を示すので
家康が戸惑ってしまったって感じでは?
家康は西軍大名への私的制裁だけに
うつつを抜かしていた訳ではない。
疲弊した九州諸大名への優遇策を打ち出している。
家康は、大老筆頭として朝鮮出兵で極東で孤立状態になった
日本の外交を修復する必要もあった。
329 :
日本@名無史さん:04/02/26 02:36
>家康は明船襲撃事件で島津家に明貿易ルートを潰されると怖れて
>討伐軍を撤退させたのじゃないかな?
根本的な問題として、島津に明との正式な貿易ルートがあったとは思えない。
何故なら原則として明は地方政権とは対等に付き合わないはずだから。
島津の場合は無許可の私貿易でしょ、単に。そんなルート潰したとこで大した
影響も無いよ。
そもそもさー、豊臣政権の時に明と大戦争しているのに明が正式に貿易するわけ
ないじゃん・・・・・お前ら馬鹿なのか?
単にこの段階では豊臣家という大大名が健在であり、家康が九州に出陣しなければ
ならないほど戦争が長引くと背後を突かれる恐れがあったからだけでねーの?
西軍の旧領地を突っ切って九州の果てで戦って、その時、自分の領地を背後から
突かれても帰りようが無いからね。この段階で無理してもしょうがないから見逃しただけ。
島津過大評価しすぎ。現実の島津の戦いって動員兵力も近畿とは桁違いに
低いしょぼい戦いだけじゃん・・・・
それを気合だ伝説だで何かとんでもないようなものに見せているだけ。
現実に秀吉が責めてきた時はなす術も無くボロ負けの連続だったじゃん。
何か一度でも勝ったか、この時?
>>329 弱いとは思わんが、この時期の対外交渉が不可解だ。
島津氏は、みすみす和議・安堵・加増のチャンスを逃したように思える。
家康は、島津氏の事を正当に評価していたように思う。
むしろ家康には、連絡不足の後ろめたさがあったかもしれない。
義弘の方も畿内滞在中の、ある段階で甘い話に踊らされた感がある。
つまり、双方が後ろめたさを抱えた状態。
この時期の薩摩人からは何か病的な被害妄想のようなものが感じられる。
何か騙されたと深く信じきっているような。実際はどうなのだろう?
騙された・勘違いした事に大きなショックを受けて、
「羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)」
の心境になったのではなかろうか?
なんにせよ、少なくとも明船襲撃で加増のチャンスを失ったと思う。
これは明らかに外交上の失点だ。NHKの言ってる事、訳わかんね。
331 :
日本@名無史さん:04/02/26 05:21
西軍についた島津が加増されたと本気で思っているの?
伊達なんか悲惨じゃないの。
ちゃんと味方についたのに、
領地は据え置きでおまけに自腹で工事はやらされるし。
普通にありえないでしょ。領地↑なんて。
333
334 :
日本@名無史さん:04/02/26 21:21
>>330 NHKよりもお前の言ってる事の方が訳わかんねw
335 :
日本@名無史さん:04/02/26 22:35
義弘って鹿児島では英雄なんだろうけど、義久はどうなの?
やっぱ嫌われてるの?
336 :
日本@名無史さん:04/02/26 23:28
>>330 俺もさっぱり言いたいことわかんない。
どういった理由で加増されるのか教えて欲しい。
337 :
日本@名無史さん:04/02/27 00:42
亀レスだが・・・。
>>322 そもそも関ヶ原での本戦前後に、日向国内では東軍と島津軍との間で戦闘行為が行われていた。
「戦争準備」以前に東軍と実際に戦っている訳だから、家康としては討伐令を出さざるを得ないだろう。
ただ、島津側が積極的に東軍側を攻撃したのではないのだが・・・。
>>329 >「根本的な問題として、島津に明との正式な貿易ルートがあったとは思えない。
確かに「正式な貿易ルート」は存在しなかったかも。
ただ、1590年代、秀吉の明征服計画があったころ、明の福建軍門が秘密裏に使者を南九州に送り、
島津氏を秀吉から離反させようと工作していたことが明らかになっている。
裏の外交ルートが、明と島津氏の間にあったのは間違いない。
現在の日朝交渉での「ミスターXと田中氏」のように、外交での裏ルートは付き物じゃないだろうか。
339 :
日本@名無史さん:04/02/29 01:41
その時歴史が動いたの島津家かっこ良かった
340 :
日本@名無史さん:04/02/29 06:59
>>335 知名度低いよ。
島津義弘も義久も。
一番の英雄なのは西郷さんであり次いで大久保だ。
島津家ならナリアキラ公だな
341 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:04
日露戦争で、大量に日本兵を死亡させたので有名な東郷平八郎は薩摩の剣豪の子孫。
薩摩内で何をやってもいいが、他の地方の人に迷惑をかけないで欲しい。
>>341 乃木じゃない?あの白襷隊というキチガイ部隊で
尊い人命をムダに浪費し、しまいにゃ作戦ミスを
認めたくないばかりに自分も志願した馬鹿将軍のことでしょ?
343 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:13
344 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:50
乃木は長州出身だろ
東郷平八郎は日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた
批判しどころの無い名将だろが!
345 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:58
軍人としての才能は
薩摩閥>>>>長州閥
だな、歴史が証明している
346 :
日本@名無史さん:04/02/29 13:24
長州の軍隊=陸軍=精神主義
薩摩の軍隊=海軍=合理主義
陸軍って長州主導だから悲惨だったよな。
死者が何人出ようとおかまいなし。
349 :
日本@名無史さん:04/02/29 18:21
いつから長州人は精神主義的傾向が強いのだろうね?
戦国時代はどうだったのだろう?
逆に戦国時代の薩摩、つまり島津家は精神主義が強かったような気がするが
一方では最新兵器の鉄砲を武士の得物として使用するなど他家にはないような
進取の気風もある
そこが薩摩人の強さの理由だろう
350 :
日本@名無史さん:04/02/29 19:29
鹿児島県は沖縄県に賠償すべきだ。
薩摩による侵攻で殺された命は帰ってこないが、
賠償はできるはずだ。
>>350 お前か?加賀スレを煽ってたのは?
キモイよ、お前。
352 :
日本@名無史さん:04/02/29 20:05
薩摩藩が栽培してた金竹(キンチク)と言う竹に付いて教えて下さい。
それと上記の竹の名前と金竹(キンチク)と言う苗字の人は関係有るんですか?
353 :
日本@名無史さん:04/02/29 22:40
この前の「その時歴史が動いた」で観た島津家と徳川家の暗闘は面白かった
島津の大河ドラマ化スレがあったけど、その時は島津家は地味みたいな意見が多かったけど
その時を観て、感想が大きく変わった
大河ドラマにしてみても飽きないドラマ性がある
島津家の逞しい外交戦術には感心した
今の日本の外交も島津家くらいの逞しさを持って欲しいものだ
薩摩の外交はその武勇と地政学的優位を基盤とした
ものだからね。「こっちからは何もしないけどやるん
ならやるぞゴルァ!」って感じで武力に裏打ちされた
ものがあるから外交が上手く出来る。
それがない今の日本外交にそれは無理ぽ。
平和な島沖縄を侵略した悪魔を未来永劫ゆるさない!
356 :
日本@名無史さん:04/02/29 23:48
>>355 悪魔って沖縄を侵略したアメリカ軍のことだね
357 :
日本@名無史さん:04/02/29 23:57
残忍で凶悪な日本兵だYO!
358 :
日本@名無史さん:04/02/29 23:57
日本兵は沖縄なんぞ侵略してないぞ
島津に惨殺された人々の命をかえして!
おい聞いてくれ!
今、太閤立志伝4の1598年島津義弘でプレイしてるんだが
なんと、島津の退き口に似たイベントが発生した。
俺感動しちゃったよ。しかも義弘鉄砲隊だからメチャクチャ強いの。
コーエーよくやった!
361 :
日本@名無史さん:04/03/01 01:03
太閤立志伝XまもなくPCで発売!
これで税別9800円は安い!
信頼と誠実のkoueiは21世紀も
休まず世界を平和に導くべく運動します
ok.
362 琉球は元々中国に朝貢してたんじゃなかったかな?
365 :
日本@名無史さん:04/03/02 19:51
>>363 自国民を虐殺する中国共産党の支配を受けたい共産主義かね?君は。
どっちにしろ、大国の論理が動き出すんでないか?
367 :
日本@名無史さん:04/03/02 22:11
島津義弘っていつも先頭に立って戦っていたんでしょ?
カリスマあったのに、兄を立てて逆らうことなく一致協力して
家をもり立てる。
武人の鑑だよなあ
義弘の「その時」ゲットしたんだが、ホレた(゚∀゚)
カッコよすぎる!
島津の退き口の場面の曲もイイ(゚∀゚)
もっかい見てくるわ。
関ヶ原の島津なんてほめるとこないだろ。
>>370 関ヶ原で不戦だったのは三成のせいでしょ。
墨俣の戦いで島津隊置き去りにして逃げた奴のために
何故戦わなければならない?
しかも島津の意見は無視ときてる。
俺だったら三成が島津陣営を訪れた時に斬り殺してるよ。
それをしなかった義弘は大人だと思うぞ。
だから誉めるところが無いんじゃないか?↓このあたり?
>俺だったら三成が島津陣営を訪れた時に斬り殺してるよ。
>それをしなかった義弘は大人だと思うぞ。
三成が義弘の意見を無視しなかったら、
それこそ「歴史は動いた」に違いない。日本の国際化も早かったろ。
関ヶ原で西にも東にも一泡吹かせた島津が好きだ。
374 :
日本@名無史さん:04/03/06 15:18
この前の「その時」にも島津の退き口あったね。
いや、かっこよかったわ。
座禅陣で、井伊の赤備えと直政が見事に撃たれた所なんかもう最高。
NHKこってるなぁ。
もっかい見てくるわ。
375 :
日本@名無史さん:04/03/11 03:03
島津義弘を映画化してほしいなぁ。
・・・黒澤明監督にぜひとも映画化してほしかったよ。
あの巨匠なら映画館で男泣きさせてくれるはず。
たしかに大河化は無理っぽいけれど映画化は有りだな
377 :
日本@名無史さん:04/03/17 15:46
いま、九州旅行の途中で福岡にいるんですが、次は熊本経由で鹿児島を予定しています。
で、島津家ゆかりの地や遺跡に行きたいんですけど、ガイドブック見ると西南戦争関連のものばっかり…
やっぱり伊集院かな
>>377 マルチはいかんよマルチは。
で、向こうの方で答えておいたから参照すれ。
太閤Xにて島津の退き口発生。
コーエーさん。今回もありがとう(´Д⊂
>>379 しかし向こうの方が2スレ目に入ってたりするw
>>380 一応こっちは学問板なんで、ゲームネタは三戦史板でね
上位スレに嫌薩摩スレがずらり
おまけに重複ネタや板違いのスレまで立ってるし。
春だねえ。。。w
383 :
日本@名無史さん:04/04/01 02:00
島津厨の巣はここですか?
385 :
日本@名無史さん:04/04/07 12:33
質問させてください。
島津奔るを読んだんですが、
題名にもなっている、島津の兵が個々に走って義弘のもとに参じる話は
実際にあった話ですか?
お願いします。
386 :
日本@名無史さん:04/04/07 15:10
本当です
「その時」でもやってたね。
あれ見て義久嫌いになったよ。
義久って上方情勢わかってるの?て感じ。
太閤検地には逆らうわ
朝鮮出兵に兵は送らないわで、取り潰されてもおかしくなかったんだよね。
さらに関が原の後、何度も上洛するよう命令されても無視。
忠恒がこれはヤバイと自分が上洛して、領土安堵されて来たら
義久に恨まれるしまつ。
実際義久って、大した活躍無いけどなんであんなに評価が高いんだろ?
陰険ジジイにしか思えない。
>太閤検地には逆らうわ
そりゃ朝鮮出兵に兵を出させるために実質減収されたんだから怒るだろうよ
>朝鮮出兵に兵は送らないわで、取り潰されてもおかしくなかったんだよね。
勝ち目のない戦いに兵は出したくない罠
>さらに関が原の後、何度も上洛するよう命令されても無視。
家康は当初島津攻めをしようと兵を集結させてますが何か
>忠恒がこれはヤバイと自分が上洛して、領土安堵されて来たら
>義久に恨まれるしまつ。
義久の娘・亀寿との夫婦仲が悪くてこのままだと家督相続が
あやうくなりそうだったので自分が先に上洛して
島津の当主として家康に認めてもらい
権力基盤を奪取しようと言うのが忠恒のもくろみだったらすぃ
>そりゃ朝鮮出兵に兵を出させるために実質減収されたんだから怒るだろうよ
>勝ち目のない戦いに兵は出したくない罠
これで領地没収されてたらほんとアホだよな。
よかったね。義弘がうまくやってくれて。
>家康は当初島津攻めをしようと兵を集結させてますが何か
ハァ?だから何?
その後でも上洛命令されてんのに一向に上洛しなかった只のアホじゃん。
家康は取り潰す気なんかなく、本領安堵しようとしてたのに。
390 :
日本@名無史さん:04/04/07 19:23
>家康は取り潰す気なんかなく、本領安堵しようとしてたのに。
最初は軍(といっても中身は徳川直属ではなくて鍋島とか黒田だが)を展開して島津を攻め滅ぼそうという高圧的な姿勢だった。
1年経ったところで何故か軍勢を引き上げた。ここから家康の態度が急に軟化したように見受けられる。
上洛命令無視し続けて2年経ってる。
疑心暗鬼にもほどがあるぞ。
もし忠恒が上洛してなかったら取り潰されてたと思うよ。
392 :
日本@名無史さん:04/04/07 20:14
福島正則、井伊直正が島津を穏便に済むようしてくれたのは有名だけど
立花宗茂まで島津を助けようとしてくれてるんだよな。
宗茂エライ。
親父殺した相手を助けるなんて男の中の男や。
ありがとうございました。
あと立花宗茂が合戦に際して1万5000を託されたと書いてあったのですが、
極少の島津に割かずに1万5000を立花に託したのはなぜでしょうか?
戦後の島津の大きさを考えてのことですか?
それとも初期に家康方になびいたからでしょうか?
それとも個人的に立花宗茂と石田三成に親交があったとかですか?
島津義弘って過大評価されてるな。
島津の退き口とかほめている奴はアホ。
394は誰が好きなのか是非教えて欲しいな。
396 :
日本@名無史さん:04/04/07 22:42
>>393 託した主語は誰で、それはいつのことだったのか詳細に書いてくれるか?
(・∀・)オモシロイ!!
>>396 島津マンセーぶりが鼻につくからオススメできない
というか義弘マンセーなわけだが
別に島津ファンじゃないが
義弘は戦に関しては天才だろ。
野戦で一気に決着つけるから侵攻速度がめちゃくちゃ早い。
15年で九州のほとんどを制圧なんて凄いことだと思うぞ。しかも相手は雑魚じゃない。
むしろあれだけ活躍しながら過小評価だろ。
>>400 マンセーぶりが鼻につくってアンタ、歴史小説なんてみんな主人公マンセーだろ。
>>403 それをわかったうえで、あまりにもマンセーが鼻につくから
言ってるんだが?
毛利は大友に負けてるから、その大友に勝った島津は西国No1ですよね。
しかも日本水軍が勝てなかった李舜臣を倒してるから水軍は日本1ですよね。
\)
O )←
>>405 (ヽ┐ ☆ /O|
◎彡 ◎
>>405 九州の蛮族が毛利をさしおいて西国NO1て冗談だろ。
そりゃ西国ナンバー1と言えば
戦では勝てなかったのに口先三寸でその毛利を手玉に取った大友
・・・
回線切って逝ってくるわ
>>405 えっ!?冗談じゃないですよ。
毛利なんて大友に負けたヘタレでしょ。
しかも戦った相手が雑魚ばかり。
大内義長に尼子晴久?
これじゃあ誰でも勝てるよ。
ホントに凄かった尼子経久、大内義興にはへ〜こら。
毛利最強なんていったらこの二人に失礼ですよ。
毛利は何で大友にチョッカイ出したんだ?
貴重な時間と金、無駄にしただけだろ。
大友なんざ相手にせず東に行ってれば天下取れたものを。
ていうか毛利って、天下とる機会何回もあったのにことごとく見逃してるよな。
んで関が原で色気出してアボンだから笑える。
>>411 毛利ごときが天下をとれるわけないだろw
毛利って好きになれない。
石見銀山の領主、降伏すれば領有権を認めるとか言って
降伏してきたら殺してるし。
隆元が死んだとき無実の奴(名前忘れた)殺してるし。
鳥取城に後詰送らないで見殺し。
高松城も後詰を送りながら見てるだけ。
関が原では最大兵力を持ちながら不戦。
はっきし言って毛利ってどこが凄いのか不思議だ。
>>405 実際に戦闘を行ったのは、島津義弘・宗義智・高橋統増・立花統虎・寺沢正成ら。
これは、小西行長らが撤退開始中に順天城を不意に包囲されるという
突発事件に対処するための、緊急的な九州連合軍だった。
最年長者である島津義弘の卓越したリーダーシップと前線指揮官としての能力が
発揮された出来事だったとは思うが、島津水軍単独の成果とは言えないと思う。
それは知ってるけど、島津の活躍で勝てたようなもんでしょう。
島津義弘の賭けによると
薩兵がバタバタ敵兵を撃ち落して、敵船に体当たりして分捕るという
凄まじい戦いをしてたみたいだよ。
帰陣後に浅野長政に
「日本の軍勢10万余が無事に帰陣できたのも義弘殿の大功のゆえです」と言われ、
大阪に入った時も五大老に同じ事言われて加増されてる。
そりゃ『島津義弘の賭け』の合戦のネタは
「征韓録」
という江戸時代に薩摩藩が義弘と忠恒を賞賛するために書いた史料
からもってこられてるからなあ。。。
、、、
とはいってもその後加増されたのは島津家だけだから、
他の大名も認める功績があったのは事実だろうが。
どいつもこいつも島津の資料は価値がないだの言いやがって
そりぁ確かに敵の数を増やしたりしてるけど
島津程ちゃんとした資料が残ってる所は無いと「その時」で言ってるぞ。
だったら「甲陽軍艦」「絵本太閤記」なんか三国志演戯なみのフィクション本だよな。
武田に秀吉、竹中半兵衛なんか過大評価もいいところだ。
川中島、墨俣一夜城、7顧の礼、稲葉山城奪取、牛に乗って戦っただの、
嘘だらけじゃねぇか。
川中島で疑問あるんですけど
謙信が武田本陣に突入した時、背後に武田の別働隊が来たじゃないですか。
その後、謙信はどうやって本国まで帰ったんでしょうか?
そのまま突破したら武田領内ですよね。
反転したら別働隊に殺されますよね。
銀河英雄伝説のアムリッツァで、ヤン・ウェンリーはどうやって同盟まで帰ったのかと
同じぐらい不思議なんですけど。
あと、車がかりの陣なんてホントにあったんでしょうか?
キルヒアイス提督曰く
疲れさせないで敵を疲労させる戦法らしいですが、余計疲れそうな気がするし、
兵力が優ってるなら持久戦なんかせず一気に攻めた方がいいと思うんですが。
最後にもう一つ。
アムリッツァでキルヒアイス艦隊はヤン艦隊の4倍ってありますけどこれ変じゃないですか?
1艦隊1万5千として6万になっちゃいますよ。
帝国軍10万で同盟軍17万なのに、これだとキルヒアイス艦隊だけで全軍の半数以上になっちゃいます。
でもウランフ提督は自分の艦隊より、ビッテンフェルト艦隊の方が多いいと言ってます。
帝国軍は艦隊を湧き出す魔法のツボでも持ってるんでしょうか?
確かに銀英と川中島似てるな。
バーミリオンなんかそのまんまじゃんw
>>418 疑問に思うなら自腹で人を集めて、軍事演習をヤッテクレ。
その結果をこのスレにうpすること。
以上
>>417 ちゃんとした資料で捏造してるんだから救いようがない。
422
どの辺が捏造なのか教えてくれ
ついでに君の好きな武将も教えてくれ
424 :
日本@名無史さん:04/04/09 21:13
真田幸村だが何か?
幸村だって?
幸村の方が捏造だらけじゃん。
幸村なんてほとんど後世の創作。
幸村ファンなんかに島津の資料が捏造だなんて言われたくないな。
426 :
日本@名無史さん:04/04/09 21:37
なんだと!証拠を出せ!!
い ま す ぐ に だ !
せめて史料と言ってくれ…
今すぐニダ!
幸村と言ってる時点で捏造w
ここでハーフタイムショー
こんな手紙でも読んでマターリしる
「さてまた東山あたりを援助交(ry)なんて浮かれ歩いたりしてる話 義弘はんの耳にまで入っちゃったようだけど、そんな事してる人って 聞いたことねーよヽ(`Д´)ノ
・・・僕たちは昔、皇室から古今伝授ゆるしたげるよ、といわれた際、
不審なことやおたずね事が多かったので、よく京都を出ていたんだけど、
年寄りだから筋肉痛に悩まされて、
若い兄ちゃん(*´д`)にさすってもらったりしたこともあったよね。
「それは何よりの薬でございます」
なーんて医者も言ったから稚児若衆を2人呼んでさすってもらったんだけど
そのことが人の噂に挙がって、何かといわれるし(´・ω・`)
けれど、僕たちって、若衆にお手手ひかれないと身動きも取れないもんねー( ̄^ ̄)
僕たち新参者の年寄りだから足下もおぼつかないし、
合点( ・∀・)つ〃∩ ガッテン! ガッテン! ガッテン! して若衆の所に夜這いもしたじゃん。
なのに義弘さんの気に合わなかったのか、義弘さんてば
と う の た っ た 女中軍団に捕まってやんの
さてさてこれはまろは義弘さんという人を思い違いしてたのかしらん?
義弘さんって天下に隠れない 武 功 一 辺 倒 の人だと思ってたのに
女に絡まれたなーんて、武功の名折れですね(゚∀゚)アヒャ
…なーんて、いろいろ話す事はあるけれど、
また義弘はんがお聞きになられたことはまろも聞くぞえ。おほほほほ。
(以下略)」
『薩藩旧記雑録 後編4』文書番号8
近衛前久から島津義弘へ慶長10年頃の手紙より
(ノ∀`)アチャー
|⌒ヽ
|=゚ω゚) =3
| / むはっ?
|ノ
|
|
/⌒ヽ
/ =゚ω゚) =3
| U / むっはー
( ヽノ
ノ>ノ ヒタヒタ
. 三 しU
/⌒ヽ
/ =゚ω゚=)
| U / むはっ?
( ヽノ
ノ>ノ ピタッ
しU
>>430 それにしても上杉謙信といい、島津義弘といい
衆道ネタの影に 近衛前久あり ということか
うほっ
|⌒ヽ
|=゚ω゚) =3
| / うほっ?
|ノ
|
|
/⌒ヽ
/ =゚ω゚) =3
| U / うっほー
( ヽノ
ノ>ノ ヒタヒタ
. 三 しU
/⌒ヽ
/ =゚ω゚=)
| U / うほっ?
( ヽノ
ノ>ノ ピタッ
しU
ゴゴォオオオオ
_ /lミ
l /| ̄ l
| |. | |
|_| .|__|
.::|/彡
結論
秀吉>島津>竜造寺>大友>長宗我部>毛利
ってことでよろしいですか?
(・A・)イクナイ!!
加野厚志の島津義弘(σ´∀`)σゲッツ!!
これだと伏見城入城拒否は家康の策略で
家康はこれを機会に島津を処分しようとしてたって描かれてる。
いろんな説があるけどなんかこれっぽい気がしてきた。
だってさ、家康ってアメリカそっくりじゃん。
島津がイラクに思えちゃうんだよな〜
島津に石油みたいな重要物資があったら絶対攻めてたよ。
薩摩は貧乏で助かったな。
ん?イヤ、これだと島津=北になるかな?
ズドドドドドドドドドド!!!
゜ヾ´ ″
マックノーウチ ! =―≡ ̄`:∵∧_∧´‘
_ Λ_≡―=', ( )∴∵゛、゜¨
, ≡ ) ( ゜Д゜r⌒) _/ / ̄ _
´∴‘≡く / ∧ | y'⌒ ⌒ ヽ _Λ( ≡―=‥、,、
″″ \/ Λ_| / | | ゜Д゜ )`=―≡―
“ ( ゜Дー' | |ヾノ //
=―≡ ̄`:, | , | ( ̄=―≒‥,,
,゛“=―≡―=',/ ノ )∵`=≡―=
∴/´/ / | | ,'ゞ マックノーウチ !
゛〃/ / / \| | ヾ
/( | ( |
/ | | |\ \
/ / | | | ヽ/⌒〉
(_ 「 _) (_〈_/
島津家が捏造したファンタジーを語るスレか。
443 :
日本@名無史さん:04/05/02 13:43
∧_∧ダレモイナイ・・・・
/⌒ヽ )
i三 ∪
|三 |
(/~∪
三三
三三
三三
444 :
日本@名無史さん:04/05/02 14:02
島津義弘が伏見城入城を拒否されて、やむなく
西軍についたというのは、関ヶ原の戦いの後で
の弁解。そもそも、捨石であり全滅することが分かり
きっている伏見城への入城を申し出るはずがない。
当初から西軍方だったという証拠は書状等で残っている。
鳥居元忠など伏見城を守っていた連中が全滅したので、
死人に口なしということで、「伏見に入城するつもり
だったが、鳥居元忠に拒否された。」という話を
でっち上げて、「最初から家康様に敵対する気は毛頭
ありませんでした。」と弁解したわけだ。
445 :
日本@名無史さん:04/05/02 14:11
>>444 実際見てきたわけじゃないのに決め付けるなボケ
徳川の汚さをオマエは知らない。
だったら証拠見せろボケ
島津の資料以外載ってないとかいうのは無しな。さぁ教えろ。
447 :
日本@名無史さん:04/05/03 00:00
>>446 7月15日付けの義弘から上杉景勝宛の手紙が残っている。
「今度内府貴国へ出張につき、輝元、秀家をはじめ、
大阪御老衆小西、大刑少、治部少仰せ談ぜられ、
秀頼さま御為に候条、貴老お手前同意然るべく候由に
候あいだ、拙者もその通りに候」
とある。要するに7月15日以前に西軍に付くことを
決めていたわけだ。
島津では鳥居元忠に伏見城入城を申し出て断られたのを
7月19日としていて、上の書状と明らかに矛盾する。
島津の作り話は明らかだね。
その手紙残ってるならUPキボン
>>448 実物は別に
>>447が所蔵しているわけじゃないからUPできるわけないじゃん。
とりあえず、公刊されていて普通に図書館で閲覧可能な書名を挙げてもらえばいいじゃん。
ただし、啓蒙書じゃなくて研究書や史料集で。
んじゃ、それでいいからキボン。
そういう手紙が残ってるなら、「その時」は気づかなかったのかな?
「その時」で2回島津の伏見城入城拒否された場面流れてたよ。
つい最近の西軍生き残りの放送でなんか鉄砲撃たれてた。
451 :
日本@名無史さん:04/05/03 17:04
>>450 > 「その時」で2回島津の伏見城入城拒否された場面流れてたよ。
何にせよ、価値判断の基準がテレビなんですかあなたは?
> つい最近の西軍生き残りの放送でなんか鉄砲撃たれてた。
えっ、西軍の生き残りに最近取材した番組なんですか!? それならかなり正確かも。(w
揚げ足はいいからとっとと証拠だせボケ
どうせ
>>447のソースは小説かどっかのHPなんだろうな
家康はね鳥居元忠がウザかったんだよ
使えないくせにいちいち諫言してくるからこの機会に殺そうとしてたらしい。
島津については、家康は島津に好意を持っていたんだけど
徳川家臣達は嫌ってたみたいでさ。
ついでに島津も消してしまおうという本多正信の策略だったらしいよ。
456 :
日本@名無史さん:04/05/04 04:27
>>453 自分は
>>447と同じものを小説で見た。
津本陽の「乾坤の夢」にも出てたよ、その手紙。
文書の名前は出てなかった。
まさか津本陽の脳内ソースなのかな?
津本ヲタと池宮ヲタが「先にソース出せ」と泥仕合しているスレは、ここでつか?
>>447ではないが
その話は
『島津義弘の賭け』山本博文
で出てくる。義弘の手紙も紹介されている。
手紙の原文は「薩藩旧記雑録」か「大日本史料 島津家文書」のどちらかで
読めたとうっすら記憶している。
ちなみに島津義弘に伏見城入城の話が家康から持ちかけられたことについても
義弘の手紙が残っているが、
義弘の方があまり乗り気ではなかったのではないかというような話も『島津義弘の賭け』で出てくる。
山本博文氏は義弘を高評価するが為に『島津義弘の賭け』というタイトルにしたようだが、義弘自身は三成を高評価しすぎて賭けにコケた様に見える。
>>459 へー。
自分も
>>447ではないです。上杉家の所有する文書だったので、
島津家にとって都合の悪い文書を隠滅し切れなかったのかな?
『島津義弘の賭け』に載ってたっけ?
見落としたかな。何ページに載ってます?
>>447 のソース発見。
『鹿児島県史料 旧記雑録後編』2の1126号文書。
国立大学の附属図書館か、県立図書館クラスなら置いているかも。
冒頭に「御案文」とあるので、島津家でわざわざ出した手紙の複本を作って、保存していた模様。
「案文」の意味が分からん奴は辞書を引け。
463 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:11
いわゆるドラフトですな。>案文
作成者がWORD使いならバックグラウンドに
大きな薄文字で「DRAFT」とななめに出力されているはず。
ドラフトときいてプロ野球しか連想できないヤシは(ry
464 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:12
津本陽・最強伝説はまだ終わらない。
始め、東軍につこうと思ったら、拒否されたんでしょ。>>明治維新
案文ってどういう意味?うち辞書ないからわからない
>>466 『広辞苑』より
あん‐ぶん【案文】
(アンモンとも)
1,文章を考えること。
2,したがきの文書。一つの案として作った文章。「演説の―」
3,文書の写し。複本。
468 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:59
ここは三戦板?
. /ヘミミミ/ ``'ー-.、,ヽ丶)ヽ、
、. レ"ヾヘミミ/ ヽソノ;、ヾi
_ヽlヾミミミン -zュ、、 ´ ';ソ:|
i A;ヽミミゾ ,__゙ヾヽ |ノ!
| | iミミソ ヽィ;:i゙! ` ,,,,,,,__ |/
| ヽiミソ ` /,,,,,_~`ヽ/
゙iー:ソ ,、-' |ヽ,r;_i /
ノソ ` = _, | ./
. "! ,.r===;-、, ` '′ ,'
ハ. / ヽ、 ヽ,) ノ
,r'イ ', l!、 ゙i ./ ,.' ハゲは
. i | ', iゝヽ..ノ,イ / すっこんろ!
. !│ ヽ ゝ.二 '´ /.│
. ! | ヽ / !、
. | | >‐‐ァ" | \
| | ,、r'" ,、r''" / \
>>467ありがとう
ようするにネタってことですね。
その手紙がホントだったら島津を取り扱った本はみんなそう書くだろ。
全然取り扱わないって事はネタなんだよ。
信玄は鉄砲で死んだとか謙信は女だったと同じレベルの話ってことだ。
>>470 >>471 ネタではないな。
手紙を相手に送ると手許に残らないから、事前にコピーして置いたという意味。
「案文」に偽文書もある場合だってあるだろうけど、その判断は非常に難しい。
ソース見てから判断すべし。
>その手紙がホントだったら島津を取り扱った本はみんなそう書くだろ。
>全然取り扱わないって事はネタなんだよ。
島津を取り扱った本の90%は、まともに史料を読むことすら出来ない素人が書いたものだから、
「旧記雑録」に収録されているような史料を見つけることが出来なかっただけ。
ただ、ちゃんと史料を読める研究者だって、自分に都合の悪い史料は意図的に触れないこともある。
旧記雑録って島津家文書だろ。
NHKのその時、島津家文書をソースにしてたぞ
オマケに島津義弘の専門家もゲストに出てるんだから素人はないだろ。
伏見城入城がNHKや資料にどう都合悪いんだ?
わけわからん
>>473 >旧記雑録って島津家文書だろ。
こんな程度の知識しかない奴はだまってろ。
せめてぐぐったらどうだ。
>NHKのその時、島津家文書をソースにしてたぞ
>オマケに島津義弘の専門家もゲストに出てるんだから素人はないだろ。
NHKに出てれば専門家なのか?
作家だって出演してるだろ。随分いい加減なコメントしてるぞ。
島津家文書は国宝に指定された分だけでも1万5千点はある。
旧記雑録等を含めると数万点の史料があるから、専門家といっても全部内容まで把握してる奴はいない。
>>475 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない。必死過ぎ(w
>>476 >君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない。
じゃあ何聞いてるの?
478 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:50
訂正。
>>462の出典が間違ってました。
『鹿児島県史料 旧記雑録後編』3の1126でつ。
お詫びに原文のせときます。
「御案文」
雖未申通候令啓候、今度内府貴国へ出張ニ付、輝元・秀家を始、
大坂御老衆小西・大刑少・治部少被仰談、 秀頼様御為ニ候条、
貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治より
可被申候、以上、
羽兵入
七月十五日 惟新
景勝
人々御中
これでくだらない論争にもけりがついたな。
462氏乙。
>450
あの映像は大河ドラマ「葵徳川三代」の使い廻しで史実とは無関係。大体伏見城天守が
大手門の近くにあるように描かれていること自体がおかしい。伏見縄張り図を見れば見当ぐらい付かないかな?
あの番組は島津文書を取り上げていたにもかかわらず、考証が甘かった。
義弘が伏見城に入城しようとしていたことにしないと都合の悪い香具師がいるらすぃな フーン
484 :
日本@名無史さん:04/05/07 19:39
要するに「島津=言い訳名人」ということで良いという
ことですね。
485 :
日本@名無史さん:04/05/07 22:23
西軍につこうとしていたのは義弘だけ?
国元では中立、どちらかといえば東軍派だったという話だけど
もしもそうだとしたら義弘はなぜ西軍に拘ったのだろうね?
>>485 >国元では中立、どちらかといえば東軍派だったという話だけど
「東軍派」とは言い難いのでは?
黒田如水の指揮下で行動していた伊東氏と合戦してるし。
やはり基本は「中立」で、どさくさ紛れに攻撃してくる奴には反撃するという方針だったのでは?
伊東はかつて自領だった佐土原をどさくさ紛れに奪い取ろうとしただけ
島津豊久領である佐土原は攻撃したが、薩摩や大隅などは攻撃していない
ねぇちょっとコーエーってひどすぎない?
島津豊久の能力値が40代っておかしいと思いません?
40って平均より下ですよ。
小田原、朝鮮、関が原と活躍してる豊ちゃんが40代ってどう考えてもオカシイ。
朝鮮の時なんか600の手勢で6万の大軍から城を守りきったりしてるのに40はひどすぎる。
どう考えても80代後半以上はあるよ。
ついでに親父の家久も低すぎる。
どう考えても90後半代はあるでしょ。
野戦で大名3人も討ち取ってる程の戦上手ですよ。
野戦で大名討ち取ったの他には信長と元就ぐらいなもんですよ。
中立の佐竹が減封で敵対した島津が本領安堵(後に琉球加増)
戦に負けて外交に勝つってコレの事だね。
ホント島津ってすごいよな。
>>488 コーエーへの苦情は三戦史板へgo!
>>489 琉球もどさくさ紛れに占領したと言えないこともないかも知れないが(ニガワラ
佐竹は可哀想だね 東義久を徳川方に派遣していてもあの扱いなんだから
関東に領土があったというので転封はやむを得なかったのかも知れないが
それでも義宣が京に上洛して家康に挨拶している最中にいきなり
「常陸へ帰るな 秋田行け」
それはないだろうと
島津ネタじゃないのでsageとく
>>488 武将風雲録では
義久 政治 79
義弘 戦闘 83
家久 戦闘 89
で
福島正則 戦闘 86
佐々木小次郎 戦闘 96(だったかな?)
だもんな・・・
島津不利にできてるんだよね
>>487 確かに薩摩・大隅は攻撃していないが、穆佐城(宮崎県高岡町)など日向国諸県郡に侵攻している。
ちなみに諸県郡は豊久領ではなく、本家の所領。
関ヶ原から帰還した義弘が、さっそく歴戦の郷士を配置して「高岡郷」を設置したことは地元では知られている。
>>491 剣豪の強さと兵を率いる能力は別だと思いますけどね。
肥えはその辺、分けてもらいたい。
まぁそれはともかく
豊久は生き様がかっこいいから好きです。
豊久の子孫がその後どうなったか知ってる方教えてください。
494 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:21
豊久は童貞のまま氏んだと聞いたが
>>493 >豊久の子孫がその後どうなったか知ってる方教えてください
直系の男子はいなかったような・・・。
確か弟の系統が「永吉島津家」として続いたはず。
永吉は、現在の鹿児島県吹上町。家久や豊久のお墓もあって、
関ヶ原400年の時は盛大なお祭りがあったと聞いています。
子供いなかったんですか。
あんまり領地にいなさそうだから奥さん貰う暇なかったのかな
島津豊久の妻は島津忠長の娘です。
二人の間に子供はなく(豊久が小田原や朝鮮出兵にかり出されて国元をほとんど留守にしてたからだと思う)
豊久の死後、彼女は再婚することなく36歳でなくなっています。
永吉島津家は家久(=忠恒)の子供が養子にはいって再興された物です。
つまり家としては豊久の子孫が続いているという形にはなっていますが
血統は絶えているようですね。
ありがとうございます。
奥さんはいたんですか。
再婚しなかったって所がまた美談っぽくてイイですね。
ってことは一応童貞は捨ててたってことか。
まあよかったんじゃない?
500 :
日本@名無史さん:04/05/09 01:26
500
501 :
日本@名無史さん:04/05/09 02:11
島津家が、源頼朝の血を引くと言うのは、伝説だろう?
源氏の宗家の血を引く者が何故、薩摩の田舎に身を寄せなければならんのかね?
まともに考えればおかしな話だよ。頼朝とは何の関係もないのでしょ?
清和源氏自体が嘘の塊のようなものだから、捏造されやすいのかね?
子が親よりも先に生まれたのが、清和源氏の始祖だからな。困ったもんだ。
502 :
日本@名無史さん:04/05/09 10:05
>>501 >源氏の宗家の血を引く者が何故、薩摩の田舎に身を寄せなければならんのかね?
吉良吉見
504 :
日本@名無史さん:04/05/09 11:18
関ヶ原で西軍についた九州の旧賊大名では、島津に
限らず、鍋島、相良が本領安堵いるね。
立花は(一時的に)潰されているけど、これは
秀吉が大友から独立させたので豊臣が取り立て
た大名に近い。
島津の場合、家の当主でもない者が小勢をつれて
参加しただけというのも取り潰されなかった
大きな理由だったと思う。
いるね→されているね
>>501 の問題は激しくがい出。
放置ということでお願いします。
惟新は加治木に隠居したんですよね。隠居城ってありましたでしょうか?
城郭らしい遺跡ってなかったような・・・
509 :
日本@名無史さん:04/05/16 18:12
age
510 :
日本@名無史さん:04/05/24 04:13
四兄弟のうちなんで彼だけ「久」の字を与えられなかったんですか?
実にいい質問だ!感動した!
が、これに関する確かな学説はないはずだ_(。_゜)/
ちなみに兄の義久も最初から「久」がついていたわけではなくて
忠良→義辰→義久と改名しています
義弘は忠平→義珍→義弘だったかと
>>495 吹上町総合運動公園で、子供の野球の試合があり
ちょっと時間があったので、そこら辺を散歩してたら
島津家のその墓地を、偶然に見つけて、感慨深かった。
513 :
日本@名無史さん:04/05/24 18:40
上杉謙信と島津義弘。
この2人の武将は最強。
>>513 一部2ちゃんねらから「サイア人」と称されているね、この2人。
加治木に隠居し後そちらにできたのが加治木島津家でしたか?
元当主でも隠居して別家を立てた場合、庶家扱いでしょうか。
516 :
日本@名無史さん:04/06/02 23:52
「島津義弘のすべて」をブッコフで100円ゲットした。
517 :
日本@名無史さん:04/06/03 00:01
九州戦国史を知りたいです。
518 :
日本@名無史さん:04/06/03 02:26
立花道雪・高橋紹運・立花宗茂の三人も忘れちゃいやん。
特に宗茂は秀吉から直々に本多忠勝と並び称されたんだからな!
秀吉さんは人をほめるのが得意だからねえ・・・
大田資正も「天下一の名将」とか言われてるし。
花房とか榊原とか直江も褒め殺しにあってるな。
秀吉は自分自身をどう評価してたんだろうか・・・
>>520 >花房とか榊原とか直江も褒め殺しにあってるな。
家中の2番手を褒めて主君との間に亀裂を生じさせる策は、
こと、島津氏に対しては効果テキメンだったみたいですね。
宗茂って親父殺されてるのに
島津と共に戦ったり助けたり、男の中の男って感じがする。
こういう気持ちのいい男好きだ。
学研の戦国時代小説フェアの
「島津義弘」(江宮隆之書き下ろし)を読みました。
なかなかの猛者っぷりで、よろしい出来でした。
歳久、家久の扱いがいまいち地味なのが悲しいところですが…。
ここでの話題で出てないみたいなんで、紹介しときます。
上げます
家久が無名なのはなんでだろうね。
耳川、沖田なわて(漢字出ない)、戸次川と大合戦で勝利してるのに。
九州制覇までは義弘と同じぐらい活躍してると思うけどね。
もっと長生きしてれば朝鮮、関が原と活躍してたんだろうなぁ。
悲しいかな天下を争った信長・秀吉・家康に関わらないとどんな戦国武将でも知名度が極端に低くなる傾向がある。
家久はちょっとだけ信長と秀吉には関わってるんだけどね。
沖田なわて→沖田畷 試しに「しじょうなわて」って打って見なされ
530 :
日本@名無史さん:04/06/25 19:45
531 :
日本@名無史さん:04/07/02 20:50
島津義弘
の面白い小説ってあります?
あったら読んでみたいので教えて下さい
その質問は過去にもあった。
このスレを
>>1から順に読んでいって見なされ。
533 :
日本@名無史さん:04/07/10 04:37
関が原で逃げたのは事実。戦わずして逃げたのはただの腰抜け。
部隊は全滅。自分だけ逃げたのは、恥さらし。
島津の武勇?どこにあるの?
朝鮮人は島津殿に痛い目に会っているからなぁ、気持ちはわかる。
義弘の前に名乗っていた義珍って、どういう読みなのですか?
>>535 よしたか らすぃ。
どこぞの通史(タイトル失念)でそうルビ振ってあった。元ソースは不明。
本日タイトルの主の命日につき保全カキコ
本日タイトルの主の誕生日につき保守カキコ
・・・誕生日と没日が2日しか違わないのか。
義弘の妻って、広瀬氏とかだっけ。随分マイナーな家から嫁もらっている。
義弘レベルなら大友やら龍造寺とかでもよさげなのに、何か理由があったの
でしょうか?不思議です。
>>504 相良藩は西軍だったが、関ヶ原開戦前から家康公ともつながっていた。
この大名は九州三国志時代からこういう綱渡り的外交をやっている。
ある意味すごい
>>539 義弘の兄弟はみんな身近なところから妻を迎えていて、いわゆる政略結婚をしていないように見える。
以前の島津氏は大友など近隣の大名とも婚姻による交流があったんだよね。謎ではある。
ちなみに広瀬氏は養家先の姓で実家は園田氏。
園田氏は中下級の家臣としてのちの島津家の史料にも見え、義弘に比べて身分が低かったために広瀬氏の養女となったようにみえる
が、この広瀬氏というのも島津家の史料に余り名前の見えない一族ではある。
>541
そう言う事になるのか…。解説、ありがとうございます。
>この広瀬氏というのも島津家の史料に余り名前の見えない一族ではある。
園田にしろ広瀬にしろどちらも聞きなれない(小説やゲームでも見ない)姓ですね。
普通に考えたら、自家内に求めるとすれば重臣レベル(本田家や伊集院家)から
迎えそうですよね。、しかし、それによって姻族が強くなるのを嫌ったと言うのもわか
る気もします。
補足
広瀬氏は義弘の2回目の妻。
最初の妻は島津一族の一人・北郷忠孝の娘(島津忠親の姪)で、これは忠親の養子になる代わりの政略結婚だったらしい。
北郷忠孝の戦死+島津忠親の飫肥城放棄でこの養子縁組は解消され、その結果離婚となったようです。
忠孝娘との間には「御屋地」という娘が一人。彼女は成長してから義弘の元に引き取られましたが、
御屋地と他の兄弟との中はかなり微妙な物だったようです。
あと、島津家久(義弘の末弟)は重臣・樺山善久の娘と結婚してますね。
>>543 541さん、度々ありがとうございます。男子に限らず↑レスにある御屋地のような女子の嫁ぎ先も
似たようなものなのでしょうね。
実際、天正年間まで自分の領国統一に勢力を傾けていたと考えれば、遠国の大名との関係より
自分のお膝元の方を優先にもなりますし、当然の選択なのでしょう。
どうもです
ちなみにネタにあげた御屋地の嫁ぎ先ですが
1)”次郎相久”(苗字不明)「事情があり離縁」と系図に説明有り。
2)島津朝久(島津豊州家)
の2人です。島津朝久は「御屋地の母の伯父(島津忠親)の息子」で有り、御屋地から見ると近しい親戚になります。
彼は文禄5年に朝鮮出兵で客死し、御屋地は3人の子供を抱えて未亡人となっています。
>実際、天正年間まで自分の領国統一に勢力を傾けていたと考えれば、遠国の大名との関係より
>自分のお膝元の方を優先にもなりますし、当然の選択なのでしょう。
御屋地の結婚相手はそういう事情がかいま見えますね。最初の一人目がどういう素性の人か分からないのでなんですが。
>>545 そうだったんですね。‘相久’の名前で調べる限り、相手として妥当なのは北郷相久(時久嫡子忠虎兄、
後に廃嫡、父に攻められ天正7年自刃・28歳)のでしょうか。年齢的にもあいそうな気がします。
>>546 いいヒントありがとうございます!
実は御屋地の最初の夫について個人的な興味から気になってまして
しかし、戦国大名の婚姻関係で一番詳しいと思われる『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社)でもこのことについては余り言及されておらず
『島津義弘のすべて』(新人物往来社)でもこの点を深くつっこんでなかったのです。
本日図書館で北郷氏の系図を確認すると、北郷相久の字は「次郎」であることが確認できました。
御屋地の最初の夫が北郷相久である可能性は非常に高いのではないかと思います。
そうであると推測すると、非常に複雑な結婚ですね。
本田薫親女
|――――北郷相久
|―島津忠親−北郷時久 |
| | |
|―北郷忠孝−北郷忠孝女 |
|――――島津御屋地
島津義弘 系図ずれてたらスイマソン
御屋地は義理の兄と結婚したことになりますね。
おまけ 系図を確認した限りでは相久と御屋地の間に子供はいなかったようです。
mL( ^∇^ )グッチャー!
549 :
日本@名無史さん:04/09/05 22:32
550 :
日本@名無史さん:04/09/23 07:40:25
>>393 超亀レスだが、
立花宗茂は1万5千人の大将じゃないぞ
大津の対象は毛利元康だぞ
ここしばらく、はまって読んでいるのが高城書房刊の歴史物です。
日新斎から義弘ら島津4兄弟の関ヶ原までを描いてます。惜しむらくは物語的に平板な観は否めませんが
地元の方が書いたもので、資料として読むには、マイナーな人物も多数登場し興味深いものでした。
『戦国大名島津北上』 西山正徳著
今、南北朝期の島津氏を描く『薩摩守護職』を読んでいますが、時期が時期だけにさらにマイナー武将が
登場し、資料性はさらに高いですw。
552 :
日本@名無史さん:04/11/11 01:07:17
553 :
日本@名無史さん:04/12/02 23:04:56
554 :
日本@名無史さん:04/12/13 19:49:05
だいぶ上の方に「薩南示現流」の話があるけど、小説や漫画はウソばっか。
「鹿児島県史料」の中に示現流関連の話だけ集成したやつがあって、
東郷重位の仕合記録が箇条書きになっていっぱい書いてあったよ。
場所、状況、対戦相手の名前から流儀、技の名称まであった。
睨み合いしただけで相手が手も足も出ず降参したって話が多かった。
島津の殿様の前で仕合した時は相手の木刀の先が折れて庭の池に飛び
こんだとか、唐津から噂を聞きつけて薩摩くんだりまで勝負しにきて
敗れた後一年後に雪辱戦を申し出てまた敗れて帰ったとか。
悲惨なのは指を打たれてその後剣を持てなくなった奴とか、一度打ち
倒されたのに痩せ我慢して勝負を続けてもう一回打たれて死んだ奴。
でも笑える話もあった。 小手を強く打たれたショックで気絶した奴
がいて打った重位のほうがビックリして気付け薬飲ませたとか、
口だけ番長がいて重位怒って自分から勝負しにいったら船に乗って
逃げたとか(ワラ
地方史をあされば面白い話がゴロゴロあんだから、もうちょっと
頑張って調べろよといいたい。
突然どうした?
剣を持てなくなったてな話はゴロゴロあるだろ。
スポーツ医学が未熟な時代だから仕方ない。
西郷隆盛も10代の頃に喧嘩を仕掛けてきた相手を押し倒した際に、
相手の刀が鞘から抜けて右ひじを切ってしまい、
それ以後、武芸で身をたてることを完全に断念した。
後に島津斉彬に側近として引き立てられたのも、
武芸を捨て学問一筋に励んだお陰かもしれない。
西郷は志士のなかでは経理に明るい希少な人材だった。
「人間万事塞翁が馬」の格言はやはり正しいようだ。
557 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:13:17
>>554 ひとつフォローしておくと、「鹿児島県史料」じゃなくて「鹿児島県史料集」。
正式な本の名前は、『鹿児島県史料集34 示現流関係史料』、鹿児島県立図書館の編纂・発行。
ちなみに「鹿児島県史料」は、鹿児島県歴史資料センター黎明館の編纂・発行。
> 地方史をあされば面白い話がゴロゴロあんだから、もうちょっと
> 頑張って調べろよといいたい。
お前ももう少しきちんと調べろよといいたい。
558 :
日本@名無史さん:04/12/25 17:56:59
age
559 :
日本@名無史さん:05/01/02 23:23:43
黎明館って県立なのか
560 :
日本@名無史さん:05/01/03 10:44:22
561 :
日本@名無史さん:05/02/12 21:53:03
age
562 :
日本@名無史さん:05/03/03 00:26:36
怪しいな
何がアヤシイんだろ
∧_∧ +
(0゚・∀・)
>>562さんの返答待ち ワクワク テカテカ
(0゚∪ ∪ +
と__)__) +
かなり前の話ですが(w
別の史料が見つかったので修正・補足
島津豊久の妻だった島津忠長の娘ですが
別の史料で再婚していたことが分かりましたorz スマソ
史料名は『町田氏正統系図』(『鹿児島県史料』所収)です。
慶長10年以降(だから豊久の死後5年)経って
島津家の家老の一人である町田久幸の後妻になっています。
しかし慶長14年に急逝しました。
この史料では没年38歳となっています。
島津義弘は殺さなくてもいい敵まで殺すから好かん。
そりゃ、負けた方が間抜けなんだろうけど・・・
>>565 殺さなくていい正室を山に捨てて事実上餓死させたことは知ってるが、
殺さなくていい敵を殺した話は知らんな。
さっさと教えろ、エロイ奴。
>>567 >殺さなくていい正室を山に捨てて事実上餓死させたことは知ってるが、
それは壮大なネタみたいだぞ。
『戦国大名閨閥事典』の相良氏の所にその疑惑の姫が出てくる。
どうも義弘とはすぐ離婚して相良氏に返された模様。
>>568 むむ?
ということは、妻への仕打ちを反省して
菩提を弔うために寺を建てたというのもネタなのかね。
手の込んだネタだな。誰だ、こんなネタを仕込んだのは。
まさか、伊東残党?伊集院残党?
義弘好きの人はちゃんと巡回してるんですね…。
人がいないと思っていい加減なこと書きました。日本史板に書くようなレスじゃなかった。
すいませんがネタ振りの冗談ってことで勘弁して下さい(´・ω・`)
↑565です
つまり
>>565氏は
「むしゃくしゃして書いた 島津スレなら何でも良かった」
と言うことなのかな?(・∀・)ニヤニヤ
573 :
日本@名無史さん:2005/03/22(火) 12:46:30
たった今、テレ朝のワイドスクランブル見ました。
肝付兼太さん、今までご苦労様でした。
「のび太のくせになまいきだぞ。」の理不尽な決めセリフ、感動的でさえありました。
肝付兼太??
本物の肝付末裔かね?
日本史板でも三戦史板でもさんざんそのネタは既出。
但し肝付の本家じゃなくて島津家家老になったほうの末裔。
世が世なれば男爵だったはずだ。>兼太さん
兼太さんの本名は肝付兼正というらしい。
578 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 00:03:27
へえ
579 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 14:32:00
島津有理子を妻に娶りたい
580 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 22:40:32
島津家は殿様にあまり馬鹿がいないよね。そして徳川家より身分が本当は高い。
馬鹿の定義は何?IQとかEQとか?
薩摩藩初代藩主家久は恐らくDq(ry
>>579 NHK穴の島津有理子氏が薩摩の島津氏とどう関係があるか簡潔に述べよ
塚、マジで知りたいのよ。某スレで「関係アルらしい」という話を聞いたがソースは明示されなかったし。
583 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 05:03:50
日本最初のカメラヲタは島津の殿様でした
584 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 05:31:58
半島に関わらなければ な
age
586 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 16:29:37
>>583 尚古集成館で見たよ。忠義の撮った写真。
>>577 関係ないけど、伴姓肝付氏の通字”兼”が初代以来1000年以上
続いているのって、ギネスブック申請してホスイですね。
欧米人には通字の概念を理解させるのが難しそうなのでムリポ(´・ω・`)
589 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:44:28
まあね
【愛ゆえに】戦国BASARA 五代目【アイユエニー】
http://game10.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1116685131/ 880 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/02(木) 01:06:02 ID:MLhb04d8
◎戦国BASARA
○残りのプレイヤーキャラ二人紹介
・"一刀必殺"島津義弘←←←キターーーーーーーーーーーーーーー
武器・大剣
声・緒方賢一
・"戦国最強" 本多忠勝
武器・巨大槍
声・なし
882 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/02(木) 01:15:37 ID:tv5BqdmO
島津義弘のデザインが早く見たい
885 名前:875[sage] 投稿日:2005/06/02(木) 01:22:36 ID:p/RkqnhY
>>882 白髪ヒゲチョンマゲマッチョ爺。
887 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/02(木) 01:25:24 ID:tv5BqdmO
>>885 渋い爺?
それなら、期待通り!
890 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/02(木) 01:30:40 ID:p/RkqnhY
>>887 渋い。
そして馬鹿でかいノコギリ状の刀をぶん回してる。
ハアハア
r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト ゲームネタは三国志・戦国板で
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ な!
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ ,
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
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::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
::::::::::::::::::::::::::::/ ヽ|;;,, `'' ‐---‐ ''"´_,/
:::::::::::::::/ヽ;/ へ、\;;;;:. ;;;-─ _,.ニ-ァ'´\
::::/7 ) ./ |××| | ;;; ;;;::::| ̄ /×××>、
/ ././ /ニ=、\±L/;;;;:::_;;:」_,/×××/ \
l. l / ー- ゝ |××× /×× ゝ‐''´==
sageで書き込んだのは評価できるけどw
あ?歴史ゲーム板だろ?
無事刊行されるかしら
半島からの横やりで欠ば(ry
595 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:18:19
義弘も薩摩弁使ってたのだろうか。大名家の人って
お国言葉に染まるの嫌ってそうなイメージがあるんだよな
元は関東の御家人だったんだし。
596 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 23:53:15
>元は関東の御家人だったんだし。
誰が?
597 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 00:03:17
34 斎藤道三・義龍と長良川の戦い
>>593 どうせ講談社だから、李舜臣を賛美するだけだと思う。
>>599はネタだよな?
洒落のつもりだよな?
今時、三戦板の素人でさえ(ry
島津スレで関東の御家人と書いてるから
誰が関東の御家人だったのかと思い、そんなのいないはずなので聞いたら
島津厨でさえ言い出さないネタで、散々既出な頼朝落胤話だったから、いまさらネタか釣りかと思ったら
マジレスだったんだ、そりゃ悪かったなw
その程度じゃ揚げ足取りにしか見えん罠w
膝つき栗毛って、ホントに膝ついたのだろうか。
605 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:28:18
はあ?
ひい?
ふう?
へえ?
ホッホッホアーーーーーー!
やることやったらいなくなるのやめろよ
611 :
日本@名無史さん:
維新入道義弘←プ
誰ですかそれはw