264 263 sage New! 03/12/31 17:42
逆に島津は、中央政権に敗れ領国は縮小したものの、没収されたのは経営期間が短い占領地であり、むしろ
略奪・暴行の負のイメージが残っていただけでした。また、それらの領国縮小に伴って武士から帰農したのも、
島津に敗北して降った者たちで、当然ながら島津をたたえる話を子や孫に残したりしません。さらに関ガ原敗戦
でも領国は減らず、武士階級が定着してしまいました。
そのうえ、過酷な税制をひき農民を奴隷化したので、「島津の名君・名将」について武士階級の間で語られる
ことはあっても、庶民に親しみを持って語られることはありませんでした。また、薩摩は国を閉鎖していたので、
近隣の諸国に島津についての悪評は出ても好意的な話が伝わることはありませんでした。
そのうえ、その武士階級の間ですら、城下士(上士)と郷士(下士)の間に強烈な差別意識・階級制度があり、
虐げられた郷士の城下士に対する憎悪が西南戦争の一因にもなったぐらいですが、これら郷士階級には「上の
者が言うことについてとやかく言わずに従う、主家のやることについてあれこれ批評しない」という風習が
あったため、ほかの土地のように「今の殿様に比べて維新公はよかったよなあ」ということを討論することも
ありませんでした。西南戦争は主に城下士階級が賊軍に回り、差別もあって軍にいれてもらえず警察官に
なった郷士階級は主に官軍についたので、当然残ったのは郷士階級のほうが多い状態でした。
それもまた、島津忠良・貴久・義久・義弘という戦国期の当主の印象をあまり強く残さなかった原因のひとつかと
思われます。