ttp://homepage2.nifty.com/airman/hayato/hayato_04.html このページにある
>忠久が頼朝公の命で薩摩に下向される途中で京に入った際、
>法皇は院に招かれ「あはれ、よくも故高倉宮に似たるかな、
>只管、朕が所縁の者と思ぼすに、今暫く京に留まれ、故宮の形見と思し召すに」
>と仰せられると薩摩下向を留められ、只ならぬご様子で、高倉邸に長く留めさせられたとのことです。
>その後、関白近衛基通卿は、忠久を近衛家の猶子とされ薩摩下向を上奏されたとなっています
というくだりなんですが、出典はなんという文献かわかる方いらっしゃいますか?
これだけ読むと島津忠久は近衛家関係者というよりも後白河法皇の、というよりも以仁王の忘れ形見と
いうように読めますが