1 :
日本@名無史さん :
02/07/15 19:48
2 :
日本@名無史さん :02/07/15 19:59
邪馬台国はあなたの心の中にあります…いつまでも… というわけで、2ゲットずさー
3
建てたの誰?
魏志倭人伝の記載は,ヒントではありうるんだろうね。 だけど,回答じゃないんだろうね。 例えて言えば,与太話を真に受ける奴,無視する奴, 事実を反映してる部分も誤った部分もあるだろう等と考える奴。 笑えるのは,与太話の講釈を始める奴。 まー まったり行きましょう
\\ ビ \\ \ \\\ \\ \ \ \\ \\ ュ ウ \\ \ \\ \\ \\ \\ \ ウ \\\ \\ \\\ \\ \∧_∧ ウ \\ \ \\ \\ (`Д ´ ∧∧ ゥ\ \\ \ \ ( (゚Д゚ ) \\ \\ゥ\\ \ \\ \| | | ヽ \\ ゥ \\ \ \\ (_(_UU( )〜′ \\ \\ \ \\ \ | ̄ ̄|  ̄ ̄\ \\ \\ \ \ \ / Y \ ∨ |  ̄ ̄ ̄ ̄ヽヽ \\ \\ | | | \ ヽ
邪馬台国はあっちこっちにあったんです。
8 :
日本@名無史さん :02/07/16 17:52
9 :
このスレも飽きられてきたようだね :02/07/17 15:48
狗邪韓国 弁辰狗邪国 對馬 対馬 一支 壱岐 末盧 唐津 伊都 前原から背振山地を超えて佐賀平野西部 奴 那津から背振山を超えて佐賀平野中、東部 不彌 三井郡(久留米) 投馬 熊本平野(玉名近辺) 邪馬台国 日向高千穂の峯の麓(小林、高原、都城近辺) 狗奴国 薩摩大隅 斯馬 (シマ) 島根(出雲) 已(巳)百支( シハキ) 鳥取(伯耆) 伊邪(イヤ) 伊予松山 都支(ツキ) 小月(下関) 彌奴(ミナ) 美祢(山口) 好古都(ハカタ) 博多、宗像 不呼 (フィコ) 飯塚田川(英彦山麓) 姐奴 (シャナ) 防府(佐波川流域) 對蘇(ツサ) 土佐 蘇奴(サヌ) 讃岐 呼邑 (コオ) 近江(甲良、甲西、甲南、甲賀) 華奴蘇奴(カナサナ) 金沢 鬼 (キ) 紀の国(和歌山) 爲吾 (イガ) 伊賀 鬼奴(キナ) 那智、新宮、熊野 邪馬 (ヤマ) 豊前豊後(宇佐) 躬臣(クジン) 久住(大分、竹田) 巴利(ハリ) 播磨 支惟 (キイ) 吉備 烏奴 (ウナ) 阿波(那珂川) 奴 (ナ) 奈良(大和)
10 :
このスレも飽きられてきたようだね :02/07/17 15:49
奈良を那羅と書けば加羅、安羅、多羅のようにいかにも半島系の名前だね。 弁辰から溢れ出た集団がこの地を征服したことを如実に物語っている。 邪馬台国は共立法王卑弥呼の都するところであって、一部族の支配する 国家ではない。連合諸国が分担して役人、兵隊、奴隷(農民)を拠出した ものと思われる。その分担割合に応じて穀物の分配をしていたのではなか ろうか。人口30万人(7万戸)のほとんどは奴隷(農民)であったろう。 共立国家であっても、盟主伊都国が主導権を握っており、その収穫を交易の 目玉商品として玄界灘の制海権を握ろうとしていた。 独自に半島南部との交易ルート(日本海ルート)を持つ奴国(奈良=大和) にとっては看過できない問題であった。列島制覇の野望を根源に持つ奈良 はついにニニギを大将として大軍団を日向に送りこんだ。 瀬戸内はまだ掌握出来ていないので、恐らく四国の太平洋側ルートを行った と思われる。 もともと邪馬台軍は寄せ集め軍団であり、邪馬台国と敵対する狗奴国と同盟 をむすべば征圧は苦も無いことであった。やがてニニギの子孫神武(崇神)は 日向を足がかりに北部九州、瀬戸内沿岸を順次征圧し、奈良(大和)への 帰還を果たしたのである。以後東国の制圧にも乗りだし大和王権を確立して いくのである。 邪馬台国(日向一帯)は食料基地的なまとまりであり、一大文化、経済を 伴った都市国家ではない。 しかし、どこかに宮殿跡があるはずで発見が待たれるのだが、予算も無く、 気力も無く、これ以上の開発も無かろうからして偶然を待つしかないと思う。 西都のオサホ、メサホは発掘出来ないし、結論はなかなか出ないだろう。
11 :
日本@名無史さん :02/07/17 19:24
>このスレも飽きられてきたようだね 誰かさんが根気よく荒らし続けた努力の賜物だな。
前スレもちゃんと最後まで使ってあげましょう。
15 :
日本@名無史さん :02/07/17 21:35
>8,12,13 しょうもないカキコするな! のびきった筋肉脳を少しは鍛えろや! おまえらはサイトくん以下だと思うぞ。
17 :
日本@名無史さん :02/07/17 21:42
そうやって、どうしても邪馬台国の話にしたくない人が荒らしてる本人と思われ
19 :
日本@名無史さん :02/07/17 21:59
>>12 =
>>13 =
>>18 あなたが西都荒らし犯人だね。
ということは、いま濡れ衣を着せようとしている相手にいぢめられた人物ってことだ。
20 :
日本@名無史さん :02/07/17 22:06
(前スレ西都荒らし) 926 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:47 927 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:48 928 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:49 (ここの18)=4=12 18 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:51 彼ですね。
21 :
日本@名無史さん :02/07/17 22:10
>>18 と
>>12 の共通点は畿内説を攻撃してることだ。
ということは荒らしは九州説の人間だな。
23 :
日本@名無史さん :02/07/17 22:27
ヤマタイ論議よりもサイトくん論議が花盛りですな。 ま、その方が脳みそが不要だから楽なんだろうけど。 それにしてもサイトくん以上の粘着だな。 ちったぁ恥ずかしいと思わないか????
26 :
日本@名無史さん :02/07/18 04:29
27 :
日本@名無史さん :02/07/18 06:17
>>18 は前スレの荒らし
926 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:47
927 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:48
928 名前:日本@名無史さん :02/07/17 21:49
と連続投稿して正体が露見。
「荒らしクン謎の人物像に迫る」なんてのもどっか邪馬台国探求に似てるね。
このスレ、10年ほど凍結したら? そしてらその間に有力な遺跡の発見があるかも。 現状では、けなしあいにしかならんもんね。
30 :
日本@名無史さん :02/07/18 07:44
そうやって議論を封殺しようとするのは このスレを目の仇にしている嵐だな。
11以降が議論というあほさ加減につきあえない。 それ以前も糞。
32 :
日本@名無史さん :02/07/18 11:16
>>31 つきあわないでどっか消えてくれ。
あんたみたいな荒らしが消えれば平和が戻るだろう。
「ぶっせん」という修行僧のマンガで 「さてはおまえ邪馬台国九州説だな」 「邪馬台国畿内説か、だったらもう何も話し合うことは無いな」 と喧嘩してたのが面白かった
34 :
日本@名無史さん :02/07/18 12:32
九州説ってのは、あらゆる知識を排して倭人伝の独創的珍解釈に生きる人々の溜まり場だからね。 どんなに手を差し伸べても、最後は対話を拒否して九州説の小宇宙に引きこもっていくんだ。
>33 スレそのものが目障りだ。 >34みたいな発言が議論か?
,-‐8‐-、 d <ヽ-ノフ b d o ̄o ̄o b d o o o b / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ d_______b < おいらは、邪馬台国スレ以外は全部目障り。 / / == == i ヽ \_____________________ /_/| ● ι ● |_,.ゝ ___ /⌒`\ ⊂つ /⌒/ ̄ つ_) / ヽ7ー‐‐'/7〈 ヾ/ ̄ |⌒liー'´ i ̄ ̄~i `ヽー" /__ノ| i i | ヾ_∪_i__(ニニ}ニニニ) / / ヽ ヽ / / ヽ \ `iー―‐――――‐‐:i´ ! 人 ! ヽ___/ ヽ___ノ / 介 ヽ / 介 ヽ / | | .| |__ j L __| [__ >'" ゙`< __]
37 :
日本@名無史さん :02/07/18 13:38
纏向説。 そんなことは関係ない。 判断ネタ不足なんだから、我田引水はしかたない。 自説出して、反論が来るのは当たり前。それがいつのまにか ののしりあいになっているのがウザイ。 なにかいただける説はないかと見ていても延々ののしりと嵐じゃ みる気も書く気もなくなる。10年とはいわんが、新遺跡・出土品 でも出るまで頭冷やせ。
40 :
日本@名無史さん :02/07/18 14:25
西都原信者も畿内説信者も否定証拠にしかならない前方後円墳の多寡を盛んに自説の証拠にしているが愚の骨頂。 三角縁神獣鏡も既に国産が決定的だし、倭人伝の記述から卑弥呼の墓も円墳である事は間違いない。
41 :
日本@名無史さん :02/07/18 16:02
>>39 なら自分の説をちゃんと書いて見せろ。
できないだろ。
なぜならお前が荒らしだからだ。
荒らし=九州説と見破られて困ったから急に纏向説を偽装しているのだ。
見破られて困ったか!ばれて悔しいか?
弁明できるならお前の纏向説をちゃんと書いて見せろ。
できないだろ。ウソだから。
42 :
日本@名無史さん :02/07/18 16:13
とまあ九州説というのは
>>40 みたいな誤解の上に成り立ってるわけだね。
43 :
コギャル&中高生 :02/07/18 16:16
44 :
日本@名無史さん :02/07/18 16:40
畿内説はいまでも小林行夫教を信じているのだろうか。
45 :
日本@名無史さん :02/07/18 16:49
>>44 などという言葉が出るくらいに九州者は考古学に無知なのであった。
46 :
日本@名無史さん :02/07/18 16:53
そこまで言われても反論できず
>>43 みたいな下品な荒らしに走るしかない
惨めな
>>39
とまあこう40ー46のようなことしか書かないから駄目だと いっているのにね。
だから10年頭冷やせと言ってるんだ。
楽しい!!
50 :
日本@名無史さん :02/07/18 19:47
じぶんは畿内説だとみえみえのウソをつく
>>35 は荒らし本人
畿内説を信じると他人を誹謗・中傷するようになるのかね? このあいだも、YAHOOで「箸墓を卑弥呼の墓で、九州説を 唱える奴が韓国人の手先」とか妄想を書いてる奴がいたが、 歴史云々より精神科行ったほうが良いと思ったよ。
52 :
日本@名無史さん :02/07/18 20:09
はい。35がじぶんは畿内説だと言ったのをウソだと認めました。
KOパンチだったようだ。
54 :
日本@名無史さん :02/07/18 23:52
グウの音も出なくなって沈黙したようだが
>YAHOOで「箸墓を卑弥呼の墓で、九州説を唱える奴が韓国人の手先」
>とか妄想を書いてる奴がいた
というのが畿内説中傷のために
>>51 が創作したネタでないと証明してもらおう。
55 :
日本@名無史さん :02/07/18 23:52
ウソでないならURLを張ってくれよ。
56 :
日本@名無史さん :02/07/19 00:00
こんなところにまで邪馬台国は進出してるのか・・・・・・
58 :
日本@名無史さん :02/07/19 00:20
九州説が馬鹿だ生きた化石だとは言ってるが韓国人の手先とまでは言ってないようだね。
思想的には偏向がありそうだが、いちおう事実に基づいた話をする奴のようだ。
どっちかというとこの場合
>>54 が事実を歪曲した中傷なんじゃないのか?
59 :
日本@名無史さん :02/07/19 08:46
畿内説は戦前の皇国史観の亡霊なんじゃないのけ?
60 :
日本@名無史さん :02/07/19 09:06
手の内は明かさないでさもクロートぶるのが畿内説の特徴だね。
61 :
日本@名無史さん :02/07/19 12:29
>>59 それに近いね。
九州勢力の討伐が伝説だとしても、繰り返し日本書紀にでていたり、
継体天皇の時代になっても、筑紫磐井の君が独立した存在だったり、
聖徳太子の時代でも、旧唐書によれば秦王国や八女国のように
九州が小国に分かれていたことを考え合わせれば、
三世紀時点で九州から畿内まで邪馬台国が治めていたというのは
はなはだ疑問。
62 :
日本@名無史さん :02/07/19 12:32
日本霊異記によれば物部氏が仏像を「日本の外に流せ」といって 豊国の沖に流したとあり、その当時豊国ぐらいまでが大和朝廷の 勢力範囲だったと考えられる。
>>59 >>61 バカばかりか。
もともとの九州説は、地方の小国が倭の代表を詐称したというウルトラ皇国史観から
生まれたんだよ。
64 :
日本@名無史さん :02/07/19 13:12
紀元184年大陸では黄巾の乱が勃発。腐敗した政治への反発といわれるが、 最大の要因は飢饉によるものだろう。この頃気候が冷涼であったことが文献の 分析や屋久杉の酸素、水素の同位体分析から明らかになっている。 熱帯ジャポニカは半島以北では収穫できなくなり、栽培に適した新たな温暖な 地が求められることとなった。 一方、日本列島でも同様に飢饉にあえぎ、各国は競って新たな温暖な土地を 求めて争った。これが倭国大乱である。ここで卑弥呼が登場する(180年ころ)。 卑弥呼は大陸系鬼道をよく修めた楽浪あるいは帯方郡の要人だったのでは なかろうか。高い先進文化と気品を兼ね備え、理解を超えた高度な呪術を駆使 する姿に、そして何よりもバックにちらつく郡の強力な兵力に、列島の各国の王 をはじめ倭人は高い畏怖の念を抱いた。そんな卑弥呼のもとで協定が成立し乱 は収まった。(はっきり言って植民地支配のようなもんだろう) そしてより温暖な地として有明沿岸、宮崎平野の開拓が始まったのである。 日向に食料基地としての共立国家が成立しその要として卑弥呼が君臨した。 「其國本亦以男子爲王」 その国とは倭国のことであり、邪馬台国(女王国)とは限らない。男子王とは 倭国王師升あたりをさすのであろうが、共立というニュアンスから邪馬台国は その後の新天地における新国家ではなかろうか。
>>10 んー、別スレのような気もするけど・・・・・このスレがまだ軌道にのらないようだし、
刺激がてら、矛盾点をちょっと指摘しましょうかな。向こうでもチラッとやった
けどね。
ニニギが畿内から九州へ行ったとするなら、まず天津神と国津神に矛盾が出てくるよ。
ニニギは天津なのになぜ畿内には国津しかいなかったのかな?
それに天照はニニギに鏡と草薙剣を持たせてるけど、もし始めから畿内に天照がいた
のなら、後々にそれを使って自分を討たせるという物語になっちゃうし。
あと太平洋の黒潮を西へ逆行するのは当時の海洋技術では至難の技。これは東征する
から成立する理論なのね。それから神武と崇神、この両者は信仰形態や文化風習が異
なるから同一人物とは思えません。
また立て続けに反論しちゃったけど、怒らないでね(w この件については別スレ
参照ってことで、ここまでにしときます。私はやはり降臨とは、渡来してきたと読む
のが自然だと思いますからね。
67 :
日本@名無史さん :02/07/19 19:43
西都原古墳群は、南北約3千kmの台地に、大小311基の古墳がある日本最大の古墳群です。大体3世紀代から造られはじめており、 3世紀には最盛期を迎え、4世紀、 5世紀初めまで西都原古墳時代は続いたと言われています。 その中でも男狭穂塚(ニニギノミコト)、 女狭穂塚(コノハナサクヤヒメ)と いわれている古墳は全国的にも有名で、宮内庁の御陵墓参考地に指定されています。 「古事記」「日本書紀」に記されている神話は歴史的示唆に富んでおり、そこに展開されるダイナミックな建国神話の中では、禊払い、海幸山幸伝説、天孫降臨、神武東遷等といった日向神話がその中核を占めており、西都はその日向の中心地でした。 現在は、「記・紀」の道としてゆかりの事跡が多数残っており、歴史のロマンをたどる散策コースとなっています。
68 :
日本@名無史さん :02/07/19 19:46
西都原以外に考えられないんじゃないか? だいたいあれほど多数で広大な規模の古墳群があるのに意図的(政治的)に ほとんど手がつけられてこない事実を誰も変だと思わないのか?? つまり都合の悪い事実があるんだよ。 海外の研究者はとっくにこの点に最も注目してるのに。
69 :
日本@名無史さん :02/07/19 19:47
邪馬台国の場所は永遠に解らないでしょう 卑弥呼の墓と書かれた古墳が発掘されたりしないかぎり無理 そうだ, なんで畿内説信者って相対年代しか分からない土器や怪しい年輪年代法で 断定するんだろうね? 不思議だよ 年輪年代法が怪しいのは全てこれまでの想定年代より100年位古い値が出ることだ。 史書に書かれて実年代がわかっている物まで古い年代になる。 これは初めから物差しが狂っていることを意味している。 これを信じろと言う方が狂っている
70 :
日本@名無史さん :02/07/19 19:58
方位も距離も月日も支離滅裂。百歩譲って卑弥呼の墓が前方後円墳でも240年代 だから大型の前方後円墳(箸墓)はどうかな?
71 :
日本@名無史さん :02/07/19 20:06
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
72 :
日本@名無史さん :02/07/19 20:07
結論 まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ 等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉 ないであろう。記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが 現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。 まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) 伊都国から水行10日で熊本県玉名。そこから東へ大分経由で西都。 (20日)つまり伊都国から西都まで1月(30日)かかると言う意味。 投馬国は熊襲のクマ国の方で人吉盆地から鹿児島県吉松町永山遺跡の あたりで、水行20日に相当。狗ナ国はハブが出て、馬、牛の骨が 発掘されない場所、つまり本州ではない、地域でトウジ(福建省)の 真東の沖縄。だから郡(沖縄)から1万2千里で 西都(邪馬台国)。(原田常治説) つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。 (古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳に したてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、 朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および 53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。 ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった) (竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小 古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。
73 :
日本@名無史さん :02/07/19 20:25
>>70 箸墓の年代は西暦240年にかなり近いね。
卑弥呼の墓候補の最右翼だろう。
>66 >>ニニギは天津なのになぜ畿内には国津しかいなかったのかな? >>天照はニニギに鏡と草薙剣を持たせてるけど、もし始めから畿内に天照がいた のなら、後々にそれを使って自分を討たせるという物語になっちゃうし ニギハヤヒという天孫亜流がいたでしょ?正統ニニギの子孫がそれを奪回した と言ってるんですよ。あんたも記紀はよく読んでるんでしょ? それと記紀の神話編は後世の創作。この時点で天照はどこにもいないの。 >>あと太平洋の黒潮を西へ逆行するのは当時の海洋技術では至難の技。これは 東征するから成立する理論なのね。 黒潮文化圏をそんな単純な理解で判断しちゃうの? 海岸線航行は沖合いの潮の流れとは無関係なの。逆流だってあるし、風向き を読めばどこへでも行けるのよ。それに東征は瀬戸内海!
黒潮文化圏についてもう一言。 ニニギの天孫降臨は猿田彦神の先導によってなされた。 猿田彦は伊勢の海人集団の守り神といわれている。 古代伊勢は豊富な海産物を擁して奈良(大和)との交易は活発であった。 また伊勢の海人といへば、縄文以来の沖縄、南九州、四国南岸、紀伊、伊勢、 関東を結ぶ黒潮文化圏を思い浮かべる。 その猿田彦の先導によるということは、大和地方から日向へ向かう太平洋ルート が必然的に導き出される。 また黒潮文化圏という繋がりから、猿田彦が奈良(大和)と薩摩大隅(狗奴国) の同盟に、仲介役として多大な貢献をしたであろうことが想像できる。 神武(崇神)東征で最終的に熊野に回って態勢を立て直し、そこから奈良 (大和)を攻め落としたということも、奈良(大和)政権と伊勢の強いつながりが 感じられる。
76 :
日本@名無史さん :02/07/19 21:30
>>73 箸墓は布留0式の時代の古墳ですが。
布留0式を3世紀半ばとする論拠は?
77 :
日本@名無史さん :02/07/19 21:34
纒向は近くに弥生時代の遺跡も少なく、人工的な都市。 今でいえばブラジリアみたいなもの。 当時、畿内は北九州の植民地だったと思う。
>・・・一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) ここ、最高に笑うとこなんですけど、みなさんお気づきにならないのかな?
サイトくんの自作自演になってきたな。 ところで西都原(さいとばる)でなかったっけ? 西都でなくて。
80 :
日本@名無史さん :02/07/19 22:10
81 :
日本@名無史さん :02/07/19 22:14
>>76 あなたは布留0を何年ごろと考えていて、そしてその根拠は?
>>74 んんーっ?それは違う。討たれたのは国津のナガスネ。ニギハヤは彼の下から寝返
ったの。確かに天津ではあるが。
それと>>この時点で天照はどこにもいないの。
あのー、それを言っちゃうと元も子もないんスけど・・・(w
降臨する意味がなくなるよー(w
>83 おいらの意見を引き出すためにわざと曲がった解釈をしてくれてんのかな? ナガスネヒコはニギハヤヒの家来。彼がニニギに負けたのでニギハヤヒは恐れ をなして引き下がった(国譲り)とされている。現実にはこてんぱんに打ちの めされたんだろうけどね。 天照の存在についてはこれ以上の言及はやめとこ(それこそ場違いだろうから)。 そこで本題にもどる。 特筆すべきは渡来系の奈良(大和)政権が先住民(縄文系)と強く結びつき、 重用したということだ。このことは奈良に入った渡来系は半島系にしろ大陸系 にしろ、それらの本流ではなかったということを示す。オーストラリアが流刑の 地であり、アメリカが宗教的迫害をうけた民の新天地であったように、奈良 渡来系も受難の民だったのではなかろうか。受難の民といえば蘇塗が連想 されるが、彼らは大陸からの難民であったり、犯罪者であったりするわけで、 反骨精神旺盛な集団といえる。それだけに多彩な異種文化の融合に拒絶反応 を示さない高度な新民族というべきものでもあった。その中には鏡や玉の 職人もいたであろう。 (このあたりは三角縁神獣鏡の出土状況のいい説明にならないか?)
85 :
日本@名無史さん :02/07/19 23:23
>>80 なるほど、ならホケノ山古墳は2世紀後半というわけだね。
信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君 又諸國各有別邑名之爲蘇塗 立大木縣鈴鼓事鬼神 諸亡逃至其中皆不還之好作賊 其立蘇塗之義有似浮屠而所行善惡有異
88 :
日本@名無史さん :02/07/20 01:54
飛鳥昭雄による新説によれば ・邪馬台国は沖縄だった。 ・当時の日本列島は本州が南北さかさまに、南へ向かって伸びていた。 ・その後数百年の間に、現在の位置に移動した。 つまり中国の古い地図で日本列島が南へと伸びているように書かれていること が事実であり、「魏志倭人伝」の記述も全て事実だったと仮定して、 さらに怪しげな地質学者の説を引っ張って、このような結論に。
・・・書こうかな、どしよっかな。・・・やっぱ書こ(w 違うよ、討ったのはイワレヒコ。討たれたのはナガスネヒコ。 ニニギはイワレの祖で、ニギハヤヒはナガスネの妹婿。(by記紀) スレ違いだからやめようと思ったけど、信じちゃう人がいるかもしれんからね。
90 :
日本@名無史さん :02/07/20 02:16
ニギハヤヒのほうが先に来てたのにね。 物部こそ真のヤマトネコ
91 :
チョンは半島に帰れ :02/07/20 03:29
92 :
日本@名無史さん :02/07/20 03:37
畿内信者ってチョンの天皇様がお祈りしたらカミカゼ吹くと思いこんでいるから 知能が低いといえます。
調所広郷==由羅 | 久光 光格天皇 | | 忠義 徳川斉昭 | | =============== 中川宮朝彦 | | | 東久爾稔彦==貞明皇后 具子=久爾宮邦彦 | | 三笠宮崇仁======香淳皇后 | 今上天皇==美智子 | ================= | | 秋篠宮=紀子 紀宮 | ===== | | まこ かこ
94 :
日本@名無史さん :02/07/20 04:01
×魏志倭人伝 ○詐欺師倭人伝
95 :
日本@名無史さん :02/07/20 05:22
>>85 >なるほど、ならホケノ山古墳は2世紀後半というわけだね。
なんでそんな珍奇な意見が出てくるのか理解に苦しむ。
3世紀前半でしょう。
96 :
日本@名無史さん :02/07/20 08:27
>3世紀前半でしょう。 三世紀後半だよ。
97 :
日本@名無史さん :02/07/20 09:24
魏志倭人伝の邪馬台国の描写は吉野が里遺跡の特徴とよく一致する。 吉野が里には邸閣・楼観・城柵・宮室・塚などすべて揃っている。 吉野が里がただちに邪馬台国ではなくとも、当時の九州にこれと おなじような「国」が存在してもおかしくないことを証明している。 一方、時代が重なる纏向遺跡は吉野が里より規模が大きいが、 吉野が里より先進的・開放的・平和的な感じを受ける。 そこがかえって魏志倭人伝の描写とは合わない。 悩ましいところだ。
>86 奈良政権が渡来系とする根拠(証拠ではないよ) 1、奈良→那羅・・・いかにも半島系の地名 2、大和地方の最高神 三輪山=大物主=大国主=大己貴=スサノオの子孫=半島人 初期奈良政権は大物主の子孫と思われる。 (アマテラスは後世の皇国史観に伴う創作) 3、形質人類学的にも古代畿内人は渡来系が多いとされる。 (詳しくはないからつっこまれてもまともな返答はできまへん) これは現代人をみても渡来系そのものではないかいな。 4、これまでにあれこれ述べてきた傍証から奈良政権は渡来系とした方が なにかと説明しやすい。 >87 訳してくれないか?いいことが書いてあるような気がするな。 >89 つい手がすべって間違えたよ。 ただし、ニギハヤヒがナガスネヒコの妹婿であっても主従関係に変わりはない。 天神が国神の妹を娶ったというだけの話。
99 :
日本@名無史さん :02/07/20 11:52
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。」 余談だが卑弥呼は厳しい恐怖政治を行っていたのではなかろうか? 一大率は帯方郡が派遣した軍隊ではないかと言う人もいる。おいらの今まで の論からすると、頷けなくもない。伊都国は平地が少なく農作に適した土地も あまり無く、人口が約4000人(1000戸)と少ない割には、邪馬台連合の中で 重要な位置を占めている。恐らく郡と卑弥呼とに密接に結びついた軍事基地 だったんだろう。 ところが238年公孫氏が滅亡すると同時に、後ろ盾が無くなり、慌てふためいて 魏への朝貢が始まったというわけだ。だからといって魏が軍隊を派遣してくれる わけでもないので、他の列島各国の呪縛はしだいにうすらいでいった。 そのうち狗奴国が台頭し、卑弥呼も死んで求心力を失い騒乱が勃発する。 イヨの共立で一時的にしのいだがもはや滅亡は目に見えていた。 そして奈良の侵攻によりあっけなく邪馬台国は滅亡するのである。(270年ころ)
101 :
日本@名無史さん :02/07/20 15:38
>>96 奈良が半島系の地名である。と言う説は良く聞きますが
正直言って間違いであると思います。
奈良のほかにも「ナラ」がつく地名は日本各地に多数あります。
(字には楢を使っている物が多い。)
そして「ナラ」のつく地名に多く共通する特徴が平らな土地である事。
この事から上代日本語では平らである事を「ナラ」と言っていた事が
推測され、また地形の特徴からこの「ナラ」が地名になった事も推測出来ます。
また奈良が朝鮮語で国を表す「nara」から来ているという説も眉唾と思います。
96さんがこの説を意識して書いたかどうかは判らないけど一応併記すると
朝鮮語で国を表す「nara」は、中期朝鮮語では「narah」となっており、
この事から古代においては「narak」であった事が推測されます。
従って、朝鮮語の国を表す語が奈良の語源であれば、「ナラカ」と言う地名に
なっていなければなりませんが、現存する最古の日本語資料でも「ナラ」です。
従って朝鮮語の国を表す語が奈良の語源である可能性はほぼありません。
また奈良が那羅でありいかにも半島系の地名だというのも根拠薄弱です。
まずもって那羅と表記されている資料が全く存在せず、
加羅等の半島の良く似た感じのある知名からこじつけただけであり、
全く根拠になりません。
朝鮮半島にも那羅、或いはそれに類するような地名は存在せず、
いかにも半島系の名前ではありえません。
従って奈良が半島系の名前っぽいから奈良にあった勢力が渡来系勢力である。
と言う意見には賛成出来ません。
102 :
日本@名無史さん :02/07/20 15:38
103 :
日本@名無史さん :02/07/20 15:46
>100 一応気になったので書き込み。 邪馬臺国とするのであれば壹與(イヨ)ではなく臺與(トヨ)では? 壹與であるならば邪馬壹国の女王となるはず。
104 :
日本@名無史さん :02/07/20 18:06
ぜんぶの「壹」が「臺」の書き間違いとは言えないです。 いくつもある「臺」を一箇所だけ書き間違えたとみるほうが現実的。
おおー、話が軌道にのったみたいね(w よかったよかった。
邪馬臺国とかかれている漢書の方では壹與も臺與となっていたような。 うろ覚えですまんが。まあどっちでもいいやね。イヨの方が可愛い感じだし。
107 :
日本@名無史さん :02/07/20 19:50
>>104 ほんまに興味本位なんだが
一箇所だけ書き間違えたと考える根拠、及び
一箇所だけ書き間違えた箇所=壹與の部分と考えた根拠は?
邪馬臺と書かれている文献は臺與、邪馬壹と書かれている文献は壹與
と表記されており邪馬臺國の壹與、や邪馬壹國の臺與と表記される文献は無い。
この点から考えると一箇所だけ間違えたという説は難しいように感じるのだけれど・・・。
ちなみに私は臺與(トヨ)派です。
日本語でトヨ=豊と解釈出来るので女性の名前として自然である感じがする点と
古い文献が皆臺與と表記している点から臺與を押したい。
108 :
日本@名無史さん :02/07/20 21:05
>邪馬臺國の壹與、や邪馬壹國の臺與と表記される文献は無い。 太平御覧は耶馬臺國の壹與(別の文脈では臺挙)だよ。
109 :
日本@名無史さん :02/07/20 21:09
ごめん。記憶違い。 耶馬臺國の臺挙(別の文脈では壹與)だった。 こう見ると「壹」がぜんぶ書き間違いというほうが信憑性があるね。
110 :
日本@名無史さん :02/07/20 21:18
思うに、女王の都する所が邪馬台国という名前でなかったら、畿内派も これほど攻撃的でなかっただろう。 伊都国の南に吉野が里風の「国」があって女王が都していること自体には なんの不自然さもない。 つまり、伊都国の南に女王の都する国があることと、それがその後で ヤマト王権につながったかどうかとは、本来別の問題なのだ。 それがごっちゃに議論されていることが邪馬台国論議の一つの問題だ と思う。
111 :
日本@名無史さん :02/07/20 22:20
それが水行十日陸行一月の距離でもなんの不自然さもないと思う?
>101 奈良(〜ら)と似た半島系の地名、人名 加羅、安羅、多羅、新羅(斯羅)、多々羅、須奈羅、百済、 日羅(人名)、木羅(人名) 他にもあるだろうけど、これだけでも奈良が「いかにも半島系の地名」 だっていってもばちはあたらんでしょ? あくまでも「違う」とおっしゃるなら別にいいですけど。 >103 おいらは邪馬壹派なんだよ。よってイヨとしておきたい。 松本伊代の大ファンだったりして・・・。 梁書倭伝の祁馬台(キバタイ)も捨てがたいんだけどね。
>>112 奈良の解釈について、少なくても現在では現存していないとは言え
日本語で解釈可能であるのに、それを無視して態々朝鮮半島の地名との
関連を先に考えると言う手法には賛同しかねます。
先ずもって(日本に限らず)古代からの地名には
「サガ」(険しきという意の古語、サガシキの例あり)
「サカリ」(土地が傾斜地にある)
等、土地の特徴をそのまま知名にした物が数多くあり、
また「ナラ」の場合にも、同様の語を含む地名に「平らである」
と言う共通性が見られる事から、地形の特徴が地名となった。
と言う推測が成り立ちます。
また朝鮮半島が起源の地名は、その名を持つ朝鮮半島の土地や国と
密接な関わりを持つ場合が多く、当然の事ながら語源探査をする場合には
その関わりの点を綿密に調査する必要があります。
しかし、
>>101 でも書いたように那羅なる地名は朝鮮半島に存在せず
文献上も存在せず、従ってこれが半島系であるとする根拠は
名前の最後が「ra」であり、また最後が「ra」地名が朝鮮半島に多いという点のみです。
しかしこれでは最後が「ra」である地名は全て半島系と考える事が出来る
と言っているのと同じでして、根拠として甚だ弱い物と考えます。
先ずもって日本の地名には「サガ」(険しきという意の古語、サガシキの例あり)
「サカリ」(土地が傾斜地にある)「フヂ」
>>113 コピペ失敗
最後の二行は無視してください。
本文はまだ続きます。
>>113 の続き
あくまでも違うと言うのなら、と言うよりも違うと考える方が自然であるように
思うのでこう考えています。
日本語による地名解釈が可能である点を無視して、また朝鮮半島に
同一の地名が一つも無い点も無視して、半島系の名であるとするには
少々根拠が弱すぎると言わざるをえません。
【祁馬臺について】
祁馬臺と言う表記は、はっきり言って梁書による誤字であろうかと思います。
梁書は倭國の条に限らず固有名詞の誤字脱字がやたら多い事で知られている史書です。
具体例を幾つかあげるなら
「區連」が「區達」、「范師蔓」が「范蔓」、「陶綏」が「陶緩」と
記される等が上げられます。
倭國の部分に限っても、「讃」が「賛」と表記される等の誤字が見られる上
邪馬臺(壹)國に関する記事も、對馬國を表記しない、卑彌呼について標記しない
と大幅な省略、簡略化がなされており、他の文献に全くと言って良い程登場しない上
日本にも凡そ対応する地名が見つからない「祁馬臺國」と言う表記を、梁書によって
支持するのは少々危険であると思います。
116 :
日本@名無史さん :02/07/21 02:51
>>110 そういう偏見は畿内説=皇国史観みたいな仮想敵妄想と同根なんでしょうね。
118 :
日本@名無史さん :02/07/21 06:25
>>116 でも畿内説の人間は継体天皇や応神天皇、天武天皇、神武天皇渡来人説にどの位賛成している人間がいるのかな。
>101
おっしゃることはよく判りました。
おいらもそんなにこだわっているわけじゃないので、今後は、
「奈良といえば半島に良く似た名前がたくさんあるね」
ぐらいにしときましょ。
>>日本にも凡そ対応する地名が見つからない「祁馬臺國」
これも全くこだわってるわけではないが、日向高千穂の峰の麓の小林と
高原の間に「木場」「木場田川」という地名、川の名前があるんですよ。
「キバ」か「コバ」かは知らないけど、日向説のおいらにとってはとても
魅力を感じるんですよ。
もともと日本の地名なんてのは何時できたものかわかりませんし、有名所
の真似をするってのはざらですからね。地名比定で議論するのはあまり
好きではないんですよ。
>>9 で地名比定をしていますが、これはお遊び。
120 :
日本@名無史さん :02/07/21 07:43
>>118 なんで邪馬台国と騎馬民族説が関係を持ってくるのかわかんねぇ。
時代が違うだろ。お互いに。
自分がイデオロギーの色眼鏡越しに歴史を見てるからって、他人も同じだと思うなよ。
自意識過剰だぞ。
121 :
日本@名無史さん :02/07/21 07:57
大和朝廷は大和だけではなかった。明日香、難波、近江、長岡京あちこち遷都している。 漏れは、九州説を支持するが、筑前、筑後のあちこちを遷都していると思っている。
122 :
日本@名無史さん :02/07/21 08:53
その根拠は?
123 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:00
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
124 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:00
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
125 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:01
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
126 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:03
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
127 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:03
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
128 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:05
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
129 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:06
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
130 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:07
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
131 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:08
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
132 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:09
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
133 :
日本@名無史さん :02/07/21 09:19
>116 >116 偏見?仮想敵妄想? 女王の都する国の存在と、ヤマト王権へのつながりは区別して考えようと 言うのがなぜ偏見なのですか? 邪馬台国はすなわちヤマト国であって、すなわちヤマト王権であると考える ほうがよほど偏見ではないですか?
さてこういったコピペ荒らしをするのはいかなる人物であろうか? コピペで繰り返される内容と無関係と考えたい向きもあるだろうが、 はたして自分の意見と相容れないものをなんども一目に晒す行為を 誰が好むか?いや好まないだろう。 サイトくん、コピペあらしはやめたまえ。(と、いってもやめないだろうが。) 西都は西都原だし、オサホ、メサホは邪馬台国の時代の古墳ではない。 他の部分も論理的な日向説の根拠になっていない。 (陰謀論を憶測で語っているに過ぎない。)
118 名前:日本@名無史さん メール: 投稿日:02/07/21 06:25
>>116 でも畿内説の人間は継体天皇や応神天皇、天武天皇、神武天皇渡来人説にどの位賛成している人間がいるのかな。
120 名前:日本@名無史さん メール: 投稿日:02/07/21 07:43
>>118 なんで邪馬台国と騎馬民族説が関係を持ってくるのかわかんねぇ。
時代が違うだろ。お互いに。
自分がイデオロギーの色眼鏡越しに歴史を見てるからって、他人も同じだと思うなよ。
自意識過剰だぞ。
137 :
日本@名無史さん :02/07/21 10:57
>>133 別なのか同じなのかも考察対象なのに、最初から別問題として除外しようとするのは偏見でなくてなんでしょう。
考察は全方面からであってよい。
もちろん、畿内説がすべて「邪馬台国=大和朝廷」と主張しているかのように触れ回る人は論外。
さらに、畿内説が「邪馬台国=大和朝廷」にしたいという動機で論陣を張っているなどと言うのはその最たるもの。
実際このスレにいるでしょう?そういう人が!
箸墓の土器を見ると、吉備の土器が多く出土している。 しかし、倭人伝には全く、吉備地方についての記述はない。 これを見ても、畿内説は疑問である。
139 :
日本@名無史さん :02/07/21 11:25
箸墓の土器を見ると、畿内の土器が多く出土している。 しかし、倭人伝には全く、畿内地方についての記述はない。 これを見ても、畿内説は疑問である。 ↑ ↑ ↑ 白 痴
140 :
日本@名無史さん :02/07/21 11:36
箸墓の土器を見ると、東海の土器が多く出土している。 しかし、倭人伝には全く、東海地方についての記述はない。 これを見ても、畿内説は疑問である。 ↑ ↑ ↑ 痴 愚
141 :
日本@名無史さん :02/07/21 11:37
箸墓の土器を見ると、北陸の土器が多く出土している。 しかし、倭人伝には全く、北陸地方についての記述はない。 これを見ても、畿内説は疑問である。 ↑ ↑ ↑ 愚 鈍
本題に 戻ったとたんに 電波スレ
143 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:10
まともに議論できないので、相手を罵りだす畿内信者。
144 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:23
145 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:32
罵り倒してるだけで、指摘にすらなっていない。 畿内信者=カルトだね。
146 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:39
147 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:43
>>138 は倭人伝に畿内のことが書いてないとか吉備のことが書いてないとかいう循環論法だね。
その論理的欠陥は多少辛辣に茶化されても仕方あるまい。
だーかーらー、文章にして反論しなさい。 白痴・痴愚・魯鈍とか、書かれてもいない文章を罵倒している 物から何か読み取れとでも言うのかね? 電波でも受信しろというのかね?
畿内説の欠陥としてはもう一つ、九州では小国ばかり書いてあるのに、 それ以外の比定地(国)は異様に大きいということである。 伊都国−邪馬台国の途中に投馬国しかないのはどう考えてもおかしい。 吉備も出雲も越の国も投馬国って呼ばれていたの?
150 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:51
書かれている文章(矢印で指されている
>>139 以下各冒頭3行)を罵倒してるんだろう?
見えないのかい?
読み取れないのは洞察力不足だなあ。
そんなことでは古典の読解はむずかしいよ。
151 :
日本@名無史さん :02/07/21 12:52
>>1-148 もともと、このスレシリーズは、文献中心の流れのはずなんだが、勘違いした考古の人が混じってるみたいね。
>>「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか4)
>>1 名前: 通りすがり 投稿日: 2001/05/14(月) 01:10
>>邪馬台国の所在地論争を含め、「魏志倭人伝」に関する議論全般を
>>扱うスレッドです。
>>マターリと議論を楽しみましょう。
上記のとおりテーマは「魏志倭人伝」であって、邪馬台国がどこかってのは、刺身のツマよ。
153 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:09
考古の裏づけなしに勝手な読解をくりひろげても意味あるまいに。 勘違いした珍読家かな?
「九州では小国ばかり」
>>149 オイラのとこも「小国」か?
155 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:11
当時、日本は小国が分立していたので、邪馬台国連合を構成する二十余国を あわせても、せいぜい都道府県2,3個ぐらいの広さしかなかったと思う。 1つの国が1つの市区町村ぐらいの大きさと考えられる。
>>153 だから、「読む」のがテーマなんだよ。
邪馬台国は、アンタが地面を掘り繰りかえして見つけてくれればいいんだよ。
157 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:16
>154 人口と広さは関係ない。 むしろ、昔のほうが開拓されていなかったので、人口の偏りは 激しかったと思う。
158 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:18
九州説の欠陥ってのは徹底的な論理性の欠如だね。 九州の小国と比べて投馬国が異様に大きいことは知っていながら 伊都国−邪馬台国の途中に投馬国しかないのがおかしいと思っちゃうとか。 異様に大きいから投馬国しかなくて当然とは考えないわけだ。
>>157 そうかぁ、二万戸ぐらいじゃ小国なんだぁ。面積はわからんが・・・
160 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:20
161 :
日本@名無史さん :02/07/21 13:39
>>156 そうやって都合の悪いことは見ない振りして
不得手なものは食わず嫌いして
三国志全体読まんどころか岩波の倭人伝さえ和訳部分拾い読みで
漢文が読めない人間独特の曲芸のような読み方を発明して
我こそは邪馬台国を見つけたりと悦に入るわけだ…
>>161 考古の話は、別スレでどうぞ。
邪馬台国を見つけたって言いたいうならそのスジのがあるでしょ。
このスレに居たいならアンタも「文献」で参加したら?
ここのテーマはあくまでも「読み方」だけどね。
163 :
日本@名無史さん :02/07/21 14:33
そういうふうに勝手に仕切りたいなら自分のホームページででもやれば?
164 :
日本@名無史さん :02/07/21 14:54
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万個・・・大雑把だって。
165 :
日本@名無史さん :02/07/21 14:55
>>155 >当時、日本は小国が分立していたので
なんでそう決められるの?
166 :
日本@名無史さん :02/07/21 14:57
167 :
日本@名無史さん :02/07/21 14:58
>137 >別なのか同じなのかも考察対象なのに、最初から別問題として除外しようとするのは偏見 >でなくてなんでしょう。考察は全方面からであってよい。 私がなにを除外したのですか? 伊都国の南に女王の都する国は存在したか? ということと、 邪馬台国はヤマト王権につながるか? ということを分けて考えようと言うことがなんで「別問題として除外する」 ことになるのでしょうか? 上記の考え方は、「女王の都する国」が伊都国の南に存在した場合に、 それが畿内ヤマト王権になって行く存在である場合と、 畿内ヤマト政権につながらない場合と、 両方の場合を含んでいるではありませんか。 >考察は全方面からであってよい。 と、私も考えます。
169 :
日本@名無史さん :02/07/21 15:09
「分けて考える」ということが
>>162 がさかんに主張しているような“このスレから出ていけ!"というニュアンスでないなら別にかまわないのだけれど。
>>163 あなた、2chのルールを諭されてるんだよ。厨だなあ。
171 :
日本@名無史さん :02/07/21 15:24
勝手にルール作るなよ。
172 :
日本@名無史さん :02/07/21 15:47
倭人伝だけ読んでああだこうだ言ってもラチがあかないということは多くの人が認めているところだ。 考古学の立場から倭人伝を読むもよし。音韻学の立場から読むもよし。 たかが個人の一存で他のスレの参加者の去就をどうこう言うのは僭越というものだ。
>>「魏志倭人伝」を読む(邪馬台国はどこですか4)
>>1 名前: 通りすがり 投稿日: 2001/05/14(月) 01:10
>>邪馬台国の所在地論争を含め、「魏志倭人伝」に関する議論全般を扱うスレッドです。
>>マターリと議論を楽しみましょう。
とある通り、ここは、“「魏志倭人伝」に関する議論全般”を扱うスレ。
この文言から、考古関連の議論をしてはいけないなどということはどうやっても出てこない。
ましてや、“邪馬台国の所在地論争を含め”と書かれているものを、
所在地論を排除すると言う理屈は全く成り立たない。
174 :
日本@名無史さん :02/07/21 16:13
まあまあ。よっぽど考古学的にナンセンスな電波説でも振り回したいんだろう。 電厨の切ない気持ちもわかってやろう。 では、彼は無視ということで。
175 :
日本@名無史さん :02/07/21 17:48
>>156 >>邪馬台国は、アンタが地面を掘り繰りかえして見つけてく
れればいいんだよ。
とてもいい意見だ。
現在の日本の考古学はものごとを大局的に理論立てて考察する
能力は無いだろ。はっきり言ってレベルが低すぎる。
旧石器捏造事件そのものが考古学の実態だ。
邪馬台国に言及したいなら、親魏倭王の金印か卑弥呼と書かれた
遺物を発掘するしかないだろ(捏造はだめよ)。
それ以外は掘ったことを忠実に記録してすべてをオープンにす
るだけで考古学の役目は終わる。後の考察は俺らに任せなさい
現在の考古学は掘削学と名前を変えるべきだ。
電波に任せてどうする。
177 :
日本@名無史さん :02/07/21 18:12
よっぽど考古学が邪魔なんですかね、彼のお説のためには。
178 :
日本@名無史さん :02/07/21 18:36
日本考古学=掘削学が邪魔だとはいってないぞ。 理論立てるには掘削学はとても重要だ。
179 :
日本@名無史さん :02/07/21 18:51
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
180 :
日本@名無史さん :02/07/21 18:59
>>178 >日本考古学=掘削学が邪魔だとはいってないぞ。
>理論立てるには掘削学はとても重要だ。
どんな理論を立てたの?
聞かせて!!
181 :
日本@名無史さん :02/07/21 19:18
どうしたの? あなたは侮蔑してやまない考古学者よりレベルが高くて ものごとを大局的に理論立てて考察する能力があって そうして理論立ててるのでしょ? 後の考察をお任せするとどんな理論が浮上してくるのかな?
罵倒して 荒らして 逃げる九州説
183 :
日本@名無史さん :02/07/21 20:50
結局中傷合戦に行きつくんだな。 そこで俺も一句(みんな、真似すんなよ!!) 中傷は 論より甘い 蜜の味 少しは脳みそ使えよ。ほんま情けない。
184 :
日本@名無史さん :02/07/21 20:58
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
185 :
日本@名無史さん :02/07/21 20:59
↑こういうひともいるし
186 :
日本@名無史さん :02/07/21 21:00
事実は中傷とは言わんよ。中傷してるのは九州説の(たぶん)一人だ。 考古学者は大局的に理論立てて考察する能力がナイ!自分に任せろ! と大見得切って どういう理論をひねり出したのか聞きたいじゃないか!!
一度まじめな考古学の人にお聞きしたいのだけど、オサホ、メサホの年代鑑定 は誰が何時行ったの?サイト君が盛んに言ってる東大教授 黒板勝美?発掘は 大正12年?それ以降本格的調査はなされてないような気がするんだけど・・・。 造営は確か5〜6世紀といわれてるようだけどその根拠は? 何が出土したの?その当時編年は確立してたの? 昨今、畿内の古墳では年代が大幅に改定されるような事実が出たりしてるけど、 オサホ、メサホは大正時代の調査結果のみで本当に確定といえるの? 皇国史観の華やかりし時代のことなんですが・・・。 そこまで言及したHPは見当たらないんですよ。 どなたか親切な考古学のお人、教えて下さい。 (最近プチ調査で、造り出し付き円墳だという結果は聞いたような気がするけど)
現在の「皇国」考古学では、近畿の古墳しか相手にしてくれません。
189 :
日本@名無史さん :02/07/21 23:15
正確に言うと、「邪馬台国は畿内にあったに決まっているので、九州なんか 調査してもしょうがない。」です。 どんなものが出土されても「九州の地方豪族の墓としては〜」とかで全部 片付けられます。これを皇国史観といわずして何を皇国史観というのか?
おい
>>183 。
こういうやつら(188、189)に、何か一言ないのか?
日本の考古学は文献無視で妄想じゃない「独創的見解」を述べるのが 「学問的」だと思ってるからねえ。 狗奴国が東海地方だとかトンデモに近いことを、大真面目に言う事が 「学問的」な訳です。
大学の偉そうな教授方だって一応は給料もらって生活してるんだよ。 或いは普通の会社と同じように予算のやりくりだってある。 そこで予算を一番もらえるようにする為にはどうするか? ここの論争でいえば近畿説唱えるのが一番楽なんだよ。 掘起こす金はもうほとんどかからないし、何かと奈良時代・大和王朝に引っ付け さえすれば予算は転がり込んでくるんだからね。圏内に通う学生や一般のファンも 多いし金の入りもいい。近畿内でごちゃごちゃ会議やってれば一生それで食ってい ける。予算もらって好きなことやって、本当いい商売だよ。 歴史の真実なんてのは二の次だから。難しい顔して偉そうな理論言うけど、結局 は政治家と同じ。ようはカネだよ、金。 そういうオイラは5年前までその圏内の大学へ通ってた大阪の会社員です。
193 :
日本@名無史さん :02/07/22 01:58
畿内説の人は、倭人の風俗とか東遷の神話とかを どう思っているのだろうか・・・
194 :
日本@名無史さん :02/07/22 04:30
倭人伝に描かれた風俗と畿内説との間に矛盾はない。 東遷神話は仮にモデルが史実としても年代不明なので邪馬台国と結びつけるのは無理である。 かように存じます。
195 :
日本@名無史さん :02/07/22 05:14
風俗は北九州の描写なんじゃないの? 畿内まで行って無くても、倭国の風俗として記述した、と 東遷神話と邪馬台国の所在地は分けて考えた方がいい そんな俺は九州説なんだけど
196 :
日本@名無史さん :02/07/22 05:29
畿内まで行った中国人もいれば九州しか経験していない中国人もいて、なおかつ九州になら行ったこともある韓人からの事情聴取情報も入っていると考えるのが一番合理的でしょう。
197 :
日本@名無史さん :02/07/22 08:27
日本の すくなくとも歴史学考古学文系が だめだめなことはこのスレを見たら良くわかる
198 :
日本@名無史さん :02/07/22 08:31
魏志倭人伝の邪馬台国の描写は纏向遺跡のようなタイプよりも 吉野が里遺跡のようなタイプに、よりよく対応していると思うが 畿内説の人はどう考えるのだろうか?
199 :
日本@名無史さん :02/07/22 15:46
箸墓が4世紀末築造で三角縁が国産が確定したみたいだけど 畿内説の人はこれからどうするのだろう。
201 :
日本@名無史さん :02/07/22 21:32
箸墓が4世紀末なんて妄想に取り憑かれてるのは安物さんだけですねえ。
202 :
日本@名無史さん :02/07/22 22:00
だってさ。 箸が日本で使われるようになったのって5世紀だぞ。 箸のない三世紀にどうしてモモソ姫は箸を使って自殺できたんだ? 箸墓って5世紀築造じゃないか?
203 :
日本@名無史さん :02/07/22 22:19
きみの混濁した意識の中には伝説と妄想と歴史が入り乱れているんだね。
箸の墓の言い伝えと古墳の実年代は関係ないという意味だよ、わかってる? 夏休みなんだから図書館でもうちょっと調べてみようね。
205 :
日本@名無史さん :02/07/23 00:55
九州説は自暴自棄の暴走をはじめたようだ。
もう夏休みだね うれしいなー いろんなカキコが読めるし。 特に九州説君頑張ってね (ワラ
207 :
日本@名無史さん :02/07/23 04:09
>>112 遅レスだが臺なのか壹なのかは
邪馬臺・臺與が正しいとする方に部があるように見える。
無数にある中国の正史の中で邪馬壹・壹與と言う名前を採用しているのは
三国志だけで、しかも三国志を引用したと思われる中国の文献の
全てが邪馬臺と書いている事から現存している三国志より以前の版本は
邪馬臺國・臺與と書かれていた可能性が高い。
208 :
日本@名無史さん :02/07/23 04:19
209 :
日本@名無史さん :02/07/23 05:06
邪馬壹=八女にも魅力を覚える。 ヤマイ → ヤメー → ヤメ
210 :
日本@名無史さん :02/07/23 05:48
ヤメてけろ
211 :
日本@名無史さん :02/07/23 07:45
伝説が無関係なら箸墓が女の墓かどうかもわかんないわけね。
もちろんそう。
213 :
日本@名無史さん :02/07/23 19:07
紀記に記された神話の成立は5世紀より前に遡る事はない。 スサノオが高天原で暴れて馬の生皮を剥いでアマテラスが機織をしている所に投げ込むと言う話がある。 馬のいなかった三世紀の話ではありえない。三世紀には機織りもなかった。 つまりアマテラスもスサノオも五世紀の話だ。 まして箸墓の伝説もアマテラスより遅い筈だ。 記紀神話に邪馬台国の論拠を求めようとするのは九州説であれ、畿内説であれ厨房に属すると言う事だ。
>>213 だから私は渡来してきたと言ったのであります。伝承説話ですからね。
215 :
日本@名無史さん :02/07/23 19:41
>>213 したり顔で再説するほどのことはなにも言ってないな。 説明してくれ
なくていいよ。
216 :
日本@名無史さん :02/07/23 19:55
>>213 鐙が周濠から出たと言う事と整合が取れるね。
箸墓は4世紀末と言うより5世紀と言う方が正解なんだろうね。
217 :
日本@名無史さん :02/07/23 20:02
そこまでトンデモに走られると、かけてやれる言葉もないな。
218 :
日本@名無史さん :02/07/24 02:21
記紀の成立の頃には馬はもう普通にいたんだから、 話に馬を出してしまっても不思議ではないわな。 大事なのは神話から事実を抽出する作業であって、全てを肯定することじゃあない。
219 :
日本@名無史さん :02/07/24 09:23
神武東遷も五世紀の応神天皇の畿内攻略の投影らしい。
220 :
日本@名無史さん :02/07/24 09:50
新たに厨房現る。 浅薄な知識披露して恥かくこともないだろうに。
221 :
日本@名無史さん :02/07/24 15:55
2年前からこのスレロムしていました どうやらサイトが今現在最有力みたいですね 私もスレの一連の流れからサイトだと確信しました やはり匿名の2ちゃんねるはいいですね 触れてはいけない部分にも触れることできますから
222 :
日本@名無史さん :02/07/24 15:58
というと君が12歳の頃からだね。 もうちょっと勉強してから書き込もうね。
223 :
(・∀・)ニヤニヤ :02/07/24 16:07
サイトと書かれると嫌らしい・・・(・∀・)ニヤニヤ
224 :
日本@名無史さん :02/07/24 16:34
いやというより、論以前のレベルだからじゃねえの? 脳内サイト説。
まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)
227 :
日本@名無史さん :02/07/24 18:01
228 :
>>221 :02/07/24 18:54
西都(邪馬台国)。(原田常治説) つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。
229 :
日本@名無史さん :02/07/24 20:16
公孫氏の燕の資料ってないんでしょうか? 倭からの朝貢の記録とか。
230 :
日本@名無史さん :02/07/24 20:41
ない
231 :
日本@名無史さん :02/07/24 20:51
ないのか。 燕が魏に滅ぼされる前は燕に朝貢してたという話を聞いたんだが 資料がないのではダメダメだすな。
232 :
日本@名無史さん :02/07/24 21:27
倭王権スレの続きですか?こっちでやんの? じゃ上げてみてよ。たった一度の朝貢で王になれた人物、あるいは王権。 漏れもその前から朝貢はしていたと思う。でなきゃおかしいよ。
233 :
日本@名無史さん :02/07/24 21:59
あっちでやれ。答えもあったろ!さようなら。
234 :
日本@名無史さん :02/07/24 22:11
>>232 が間違いだという答えは東夷伝序に書いてあります。
ということで、おしまい。
いやあ、彼にとっては史料上の事実よりも自分の頭の中のほうが優先するのさ。 史料上の事実なんてくそ食らえ。それが電波の甲斐性ってもんさ。
236 :
日本@名無史さん :02/07/24 22:43
237 :
日本@名無史さん :02/07/24 22:45
おしまいってどういう事?逃げるの?
>>234 >東夷伝序に書いてあります
どこですか?
238 :
日本@名無史さん :02/07/24 23:00
熊本に山井という地名があるぞ。
↑誤爆?
240 :
日本@名無史さん :02/07/25 00:16
序ってこれ? 倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國
241 :
日本@名無史さん :02/07/25 00:18
高知です。
242 :
日本@名無史さん :02/07/25 00:24
前スレの7がアガってるぞ。 ちゃんと使いきれよ。でなかったら同時にあげるなよ。
240、逝ってよし!
>207 (112がおいらだってなかなか気がつかなかったよ) そうだね。邪馬臺派に鞍替えしようかな。(イヨはそのままでいい) おいらは邪馬壹派だったのであまり気にしてなかったのだが、日向都城の 高千穂の峯側に隣接して山田町がある。邪馬臺はヤマトよりヤマダの方 が近いんでないかい? 今の大和は卑弥呼時代は本当にヤマトだったのだろうか? 随書はそれ以前の倭伝の単なるコピーではなく、倭隋交流を中心に した史実の記述であり、それだけに信頼性が高いといわれている。 しかし、邪馬台国だけは勇み足を踏んだといいたい。 「地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」 この時期日本では既に奈良王権が確立しており、高天原神話をもとに 万世一系の皇国史観が熟成しつつあり、国内外に倭国(ワコク)からの 脱皮を宣言した時代である。(日出ずる所の天子) 奈良王権では5世紀以降度重なる宋への朝貢を通して倭人伝の情報を 研究していた。皇国史観にとって漢倭奴国王は奈良(奴国)であるから 問題無いが邪馬台国はちとまずい。 ということで奈良盆地に新たに邪靡堆(ヤマタイ)を設定したのである。 (よって未だにヤマトの範囲ははっきりしない。) 隋書倭伝は遣随使(ヤマタイ)からの事情聴取をもとにに作成されたで あろうことは間違いない。その結果、申告に従って邪馬臺=邪靡堆と なったのではないか。 その後、ヤマタイはヤマトに変化し古事記において倭=ヤマトとした。 ヤマトを山戸とか山門にしなかったのは天才的なひらめきであった。 これで過去の倭伝の全ての倭がワからヤマトに切り替わる。 (太安万侶の聡明さが覗われる) 続く
さらに、日本書紀において日本=ヤマトとして卑しき倭(ワ)の字が国名 や天皇名から排除されることとなった。脇役や女の名前に倭がそのまま 残っているが、一段身分が低いものであり良しとされたのであろう。 一方天皇の和風諡号がリアルタイムでおくられるのは27代安閑の死 からであるとされ、それ以前の和風諡号は後世に付されたものである。 創作とされる神武以降開化までの和風諡号にヤマトが多用されるのは 皇国史観に基づくヤマトの神聖化と既成事実化である。 しかし、崇神から天武まで30代にわたって一人の例外を除いてヤマトは 使われていない。例外とは22代の清寧(シラカノオホヤマトネコ)である が清寧は顕宗とともに影が薄く創作ではないかとも言われている。 つまり既に他界した実在の歴代天皇に偽称の諡号をおくることは躊躇 われたのであろう。 記紀成立に密接に関わる持統天皇以降4代にヤマトネコがおくられて いるが、いかにも我らはヤマトの民だと言わんばかりにわざとらしい。 何が言いたいかというと、奈良では宋への朝貢以前にはヤマタイなり ヤマトという地名、国名は無かったのではなかろうかということ。 奈良は倭(ワ)であり、奴(ナ)であり、磐余であり、巻向であり、飛鳥であり、 磯城であり、石上であり、生駒でしかなかったのではないか? 高天原神話の成立は6世紀はじめごろからと言われるが、天(アメ、アマ) の和風諡号の初見は29代欽明からで、35代皇極から天武まで5代続い ている。このころに神話編が確立されたのであろう。それが記紀に集大成 されたとみる。 ここに初めて「奈良王権」から大宝律令を経て「大和朝廷」が確立したの ではないかと思うのである。
而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。 景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。
247 :
日本@名無史さん :02/07/25 09:17
>>244 横レス失礼
邪馬臺國の壹與と言うのは現存する文献を元にする以上少々無理のある説でしょう。
邪馬臺の発音について。
先に述べておくとヤマタイがヤマトに変化したと言うのは誤りであると言っていいでしょう。
邪馬臺の中国における上古音はヤマト、或いはヤマドと言う感じであったとされており
(この辺古代語の復元のために100%完璧とは言えないのが辛い所ですが)
現在の音韻学からはヤマタイが変化してヤマトになったと言う類推は出来ません。
また中国語のe音を考えると(臺はdegまたはtegと言われいる)ヤマダよりはヤマド
に近い音になります。
ついでに言えば堆と臺は日本語の上古音で甲乙が一致している事から中国語でも
同じような発音であった事が推測され、この事からも邪馬臺=ヤマトと言う類推も
それなりの説得力があります。
山田の方が近いのではないか、と言う話と、その後の長文がどのような関連にあるのか
いまいち掴みかねるのですが奴国は奈良だから平気で邪馬台はまずい、とか言うのは
根拠不明でどういう論理であるのかあるのかわかりません。
大和の地名が、九州の地名と酷似している事はよく指摘される事ですが、
仮に地名をそのまま転用したのが正しい説だとしても、それを隋代の事とする根拠も不明です。
>247 毎度のご指摘ありがとうございます。 イヨはトヨよりひびきが可愛いのでイヨでいいと言っただけです。 学問的に論争したいわけではないのです。 それにトヨだったらもしかしてドヨも有り得るんじゃない? そうしたら最悪!(頭は濁音にならないという法則でもあれば別ですが) 山田は邪馬臺の候補にはなり得ますか(音韻学的に)? おいらは一つの仮説を述べているだけで、大和はヤマトではなかった と断定しているわではないのですよ。 それと大和の地名が、九州の地名を転用したとは言っておりません。 むしろ逆だと思ってますけど。 おいらは可能性として奈良盆地のヤマトは逆に魏志倭人伝からの転用が 有ったんではないかといってるのです。 要するに大和は邪馬台国ではないと言いたいのです。 音韻学について少しは反論したいけど、いまはとてもそのレベルではない のが残念です。
249 :
日本@名無史さん :02/07/25 12:57
だってさ、倭と邪馬臺ってそもそも別々の意味で書かれてるんだから、 同じに考える事自体無理があるじゃん?まして邪馬臺なんてその後出てこないん だし。発音にあてた文字なんて頼りにならないと思うな。
250 :
日本@名無史さん :02/07/25 12:58
いや、まてよ!!大和の繁栄は邪馬台国という基盤があってこそ成り立ったと考えたほうがいいのではないか?
251 :
日本@名無史さん :02/07/25 13:01
厨房好きの話題だから、時節柄すれがあがること(プ
252 :
日本@名無史さん :02/07/25 13:02
すごい真紀子擁護だね
253 :
日本@名無史さん :02/07/25 13:57
みんなアホやな。日本海の大和堆って知らないの。 今でこそ単なる好漁場な浅瀬だけど 卑弥呼の時代には海面に突き出た島だったんだよ。 邪馬台国はあそこ。 伊代ちゃんの時代に再興した邪馬台国は 天変地異により残念ながら魏鏡や金印を抱えたまま水没してしまった。 ヤマトタイ、ヤマト(タ)イ、ヤマタイ。発音的にも明らかだ!
おと、間違った。 ×:ヤマトタイ、ヤマト(タ)イ、ヤマタイ ○:ヤマトタイ、ヤマ(ト)タイ、ヤマタイ 異議を唱えられるやついないだろ。
・・・↑まる小一時間、放置されますた。
256 :
日本@名無史さん :02/07/25 16:04
>>248 最近出た『「地名学」が解いた邪馬台国』 楠原佑介著
は山田説ですよ。
>>247 >ついでに言えば堆と臺は日本語の上古音で甲乙が一致している事から中国語でも
>同じような発音であった事が推測され、この事からも邪馬臺=ヤマトと言う類推も
>それなりの説得力があります。
後漢書倭伝に
大倭王居邪馬臺国(案今名邪摩惟音之訛也)とある。
「惟」は「堆」の誤刻だといわれている。
そうすると「邪馬臺=ヤマト」は「邪摩堆=ヤマト」の訛ったものであると
言ってるようだけど、どの音がどのように訛ったんでしょうかね?
「邪馬臺=ヤバト、ヤバタイ、 ヤマド、 ヤマダイ 」であり得ませんか?
>>256 図書館にあるかな?
概略をここに示すわけにはいかんでしょうか?
ヤマダ説だとイヨはドヨ、ダヨ、ダイヨのいずれかってことか。
イヨがいい!!態勢に影響ないのだから邪馬臺とイヨは分けて考えよう。
(↑ちょっとしつこい)
258 :
日本@名無史さん :02/07/25 18:16
もう九州のどこにあるか? の段階に入ってるね、今更、近畿とか言ってる人も 心の中ではわかっているけども しがらみで近畿と言わざる得ないのだろう 近畿説の人は可哀想な人達だともいえる だから少し近畿応援するよ 「邪馬台国→ヤマタイコク→ヤマタイ→ヤマト」 ほーら、邪馬台国は大和だろう。
259 :
日本@名無史さん :02/07/25 19:19
まあ九州のどこだか口に出せるようになったら相手にしてやるよ。
九州のどこにあるかなんていってる段階で、なにを片腹痛い。 まず場所を特定できないことには、説以前の問題。 九州ならどこでもいい、というのはおらが国さの邪馬台国。(藁
山田イイ!一気に親近感がわくね。
262 :
日本@名無史さん :02/07/25 20:24
>>246 文章からみてこれって序文じゃないよね。ってことは234とは別の人?
何を言いたいのかな。而で始まっているのだから、その前の文章を書いてくれないと
誤解が生じるよ。何からの抜粋ですか?
263 :
日本@名無史さん :02/07/25 20:30
あのー、どこか特定できないのは畿内説だって同じと思うんですが・・・ 「それは大和です」なんて大雑把なこと言ってるようでは・・・ 記紀にあれだけ地名が出てるのですから。
264 :
日本@名無史さん :02/07/25 20:34
>>262 そこまで無知とは思わなんだ。
頼むからちっとは勉強してよ。話が通じなすぎる。
じょ‐ぶん【序文・叙文】 書物のはじめに述作の趣旨や成立の由来などを記した文章。はしがき。序。
266 :
日本@名無史さん :02/07/25 21:36
>>258 おお。ようやく九州説同士でやり合う決心がついたか。漢晋漢晋。
長いこと、ず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と言ってきたが、ようやくか。
がんがれ。
さあ、どこから行く?楽しみに待ってるよ〜〜〜〜〜ん。
268 :
日本@名無史さん :02/07/25 22:04
>>257 邪馬臺・臺與の読みは個人的にはヤマド・ドヨではなくヤマト・トヨであると
考えています。
日本語は古代に遡る程、語頭の濁音を認めない傾向があり、名前でも
語頭に濁音を持ってくる事が少なかった事からそう考えています。
そして臺の字が国名の方にも用いられている事から、山田説には個人的には賛同できません。
また馬の字の上古音を考えるに、馬の字はマと読んだと思われ、バにはならないでしょう。
ツシマが對馬と表記されている点からもそれは窺えます。
日本側の資料にかつてツシマのマがバであったと言うような物は無かったと思います。
ただ、邪馬臺が邪摩堆にどのように訛ったのかは残念ながら私の知識ではわかりません(^^;
269 :
日本@名無史さん :02/07/25 22:26
>>264 はぐらかそうとしてもダメだよ。キミは漢文素人かい?または246の文章をネット
上から写したのかな?だいたい"而"から始まる文章なんてあるわけないじゃん。
漢文をある程度かじった人なら悟って当然だよ。だから"而"の前には必ず文章があるはず。
写したんじゃない、本当に序文だと言うのなら引用文献を書いてください。
また違ったのなら、246の前の文章を書いてください。
270 :
日本@名無史さん :02/07/25 22:34
>>263 西都と島原と甘木
ってのと磯城か磐余かってのとが同じに見えるんか?
さすがおらが九州説。スケールが大きいねえ(大藁
271 :
日本@名無史さん :02/07/25 22:45
ついにデター! 邪馬臺国、磯城か磐余説>270 なんーちゅうトンデモだ!
272 :
日本@名無史さん :02/07/25 22:54
佐賀県に大和って地名がある
273 :
日本@名無史さん :02/07/25 23:02
>>269 そこまで無知とは同情するよ。東夷伝序も知らんとは。
>>246 はあれが序の全文だとなんて言ってないだろ?
長いんだから
>>232 が間違いだとはっきりわかる部分だけ抜き出したに決まってるじゃないか。
274 :
日本@名無史さん :02/07/25 23:07
東夷伝とか漢文云々以前に、序文が何かをわかってないらしい。 まさかと思うが、寝たじゃないよな?
276 :
日本@名無史さん :02/07/25 23:24
もうどうでもいいからgooでもYahooでも「東夷伝序」で検索してみろ。 ったく最近の九州説は馬鹿ばっかりで話にならないな。
277 :
日本@名無史さん :02/07/25 23:29
gooで4件、yahooで2件。半分が閼伽出甕という罠。
>>277 269宛だよ。
>まあ、序文という単語をこの場合に用いるのが妥当かどうかは分かりませんが。
妥当に決まってるだろ。
よく読みなおすと、「東夷伝序文」ではなく「東夷伝序」と レスにありますな。失礼、失礼。
281 :
日本@名無史さん :02/07/25 23:49
だれがコピったか知らないが じょ‐ぶん【序文・叙文】 書物のはじめに述作の趣旨や成立の由来などを記した文章。はしがき。序。 だろうが。だったら 「故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」 って綴ってる文章が序文以外の何だ!? 東夷伝序っていったらどの文章指すのかなんて常識だろ! ちっとは恥ずかしいと思えよ。
282 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:01
結局九州説のひとは魏志すらろくに読んでないということが判明しただけの一幕でした。 ちゃんちゃん
283 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:06
>>273 どこにかいてあるって?その前には朝貢していないとどこにかいてる?
東夷伝序というのは
>>267 が出してくれたからその時点で分かってた。"而"なんかで
始まる文体がだいたいあるはずないんだよ。273はそれ以前の文章をだすと不利にな
るから、意図的にださなかったんじゃないの?そこをくすぐったら、案の定、調子に
のってしまったねえ。東夷伝序は東夷伝を書くきっかけになった事柄をまとめている
話で、倭からその前に朝貢があったかなかったかを書いている部分ではない。だいた
い"倭"なんて一言もでてこないじゃないか。ははは。
やはり漢文素人さんなのね、
>>273 から276までの諸君は。
284 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:18
大事なのは、その文献を知っているかいないかでは無く、 その文献を正しく読解し、用いることができるかどうかだ。
285 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:36
>而"なんかで始まる文体がだいたいあるはずないんだよ。 無学じゃのう・・ 知りもしなければ正しく読解も出来ていない貴殿は哀れじゃ。
286 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:39
>どこにかいてあるって?その前には朝貢していないとどこにかいてる? だから「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。 景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。 」って書いてあるんだけど。 あなたには読めません?
287 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:46
もう相手にするなよ。こいつ漢文なんて読めないんだぜ。
>あなたには読めません? わかり切ったこときくよ。読めるはずがないだろ。
289 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:48
290 :
日本@名無史さん :02/07/26 00:50
公孫氏によって国交が絶たれ、それを討ったことはかいてある。 で?どこに朝貢は全くしていないとかかれてるの?
やっぱり読めないんだ。納得。
292 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:13
そっちが納得してもこっちは納得できない。 さあ、どこが朝貢していない理由か答えてよ。 公孫淵が遼東太守になるのは228年。魏の建国216年から一度も朝貢がなされていない という証拠って?
293 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:29
「而公孫淵仍父祖三世有遼東」 はい。読んでみて。 無理か・・
無理だ。
295 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:42
九州説を支えてるのは無知と馬鹿
296 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:45
まさか公孫氏がのさばってた間はずーっと朝貢がなかったとか? ・・・すごい考え方だね。恭が位を追われた背景とか考えてる? 康の立場がそんな強い立場だったというのかい?度の時はまだ漢だし。 ここは序文だよ。東夷について書くためにその経過を書いてるんだよ。 燕王を名乗った淵を討伐したから・・・って文章でしょ。 だから重ねて聞くよ。魏が帝室として立った220年からでもいいや。 朝貢がない、その理由はなに?
297 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:53
遂隔斷東夷、不得通於諸夏 はい。読んでみて。 無理か・・
298 :
日本@名無史さん :02/07/26 01:56
>恭が位を追われた背景とか考えてる? 誰に?
299 :
日本@名無史さん :02/07/26 02:05
>>298 なんだい。キミだって分かってないじゃん。自分で調べれ。
>>297 キミの言いたいのはつまりずーっと公孫氏が遼東の実権を握りっぱなしで
使者がそこを通れなかったって事かい?
ちなみに燕王は孫権が帝位についたあたりで政略的にまず送られた。
ただ実際に淵が反乱起こすのは237年、さらに10年もの歳月がかかってるんだよ。
その間ずーっと遼東の実利を得ていた?・・・まさかあ。
それにしちゃあっさりやられすぎ。魏も野放しにしすぎだと思わないの?
ある程度は太守としての役割やるっしょ。ここは。
それよりさあ。朝貢の答えは?
300 :
日本@名無史さん :02/07/26 02:32
公孫氏 後漢末から三国時代にかけて遼東に勢力をふるった群雄の一つ。 遼東太守であった公孫度は高句麗・烏丸などを攻める一方、 中国内の動乱に乗じて自立し、以来3代50年にわたり遼東を支配した。 子の康は帯方郡を設置し、孫の淵も一時隆盛を誇ったが、魏の司馬懿に攻められ滅亡した。
301 :
日本@名無史さん :02/07/26 02:46
いや、それは分かってるって。ただその50年はべたーっとした50年じゃない でしょ?三国志ご存知の通りで。康は服従してるし、恭は独立するような器じゃ ない。当然度の時は後漢末の混乱下だし。淵も呉から位を受けたという流れを忘 れちゃダメよ。
302 :
日本@名無史さん :02/07/26 03:12
返事が戻りにくくなったので。これを最後に。 なぜ240で倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑、舊百餘國漢時有朝見者、 今使譯所通三十國、を出したのか、いちおう自分も理由言っておく。 この今、っていうのが問題。倭人伝中に出てくるたった3回の使者を指して大げさに 今、と言ってるのか?さらには1回目の使者で倭王になれちゃうのか? 常識からいえば、その前から使者を送っていたんじゃないのかな。それが"今"通って くる国がある、の真意だと思うな。 でなきゃ燕王名乗ってた奴を討伐したんだよ、見ず知らずの国にぽいと王位渡すかい? そんな状況下で渡すってことはよほど安心できる国だと理解していたからだと思う。 弱い国だ、体制に影響のない、格下の存在だと事前に熟知していたから238年、燕なき 直後に倭王に任じたのでしょう。 ・・・まさかここには卑弥呼公孫氏説唱える人はいないよね?いたらビクーリ。
303 :
日本@名無史さん :02/07/26 03:46
会稽厨=(w厨=朝貢厨君 有ったと書いてないのに、一度もなかったと書いてないからとの理由だけで 朝貢は有ったと言い張るのはちとおかしいぞ。 何度か朝貢しないと金印は授けないという類例とか傍証とかを示さないと議論に ならんのだよ。君の脳内証拠だけで人を納得させようとするのはちと無理がある。 それと朝貢の意義をもう少し考えるべきだよ。攻めないでねとか守ってねという お願いだろ?ほとんど独立している公孫氏の後ろ盾がある以上、わざわざはるか 彼方の魏まで行く必要は無いだろうし、公孫氏も許さんだろう。 これ以上無駄な議論(とは言えないが)をしたいのなら君の仕切ってる倭王権スレ にでも行ってやってくれ。
304 :
日本@名無史さん :02/07/26 04:13
はァ?何をいってるの?
>>303 >何度か朝貢しないと金印は授けないという類例とか傍証とかを示さないと、
それは同時に、
1回目の朝貢で金印を授けられるという類例とか傍証、>に置き変えられるよ。
それから、
>ほとんど独立している公孫氏の後ろ盾、
卑弥呼公孫氏説の人ですか?公孫氏が独立してるってのは何を根拠に?
淵は確かに237年になって反乱起こす。しかしこれは呉の援護を見込んでだし、味方
にできたのは鮮卑族だけ。たった1年弱で鎮圧されている。・・・これが独立勢力?
先代の恭も康も独立勢力というにはほど遠いと思われ。・・・三国志知ってるでしょ?
特に公孫恭、この人にはそんな力はないと思うけどな・・・都に向かう使者を止める、
または自分の利益にするなんて事はね。みんな淵に目を奪われすぎだよ。
305 :
日本@名無史さん :02/07/26 06:46
三国志の記述と矛盾する空想をぺらぺら垂れ流して 間違いだという証拠があるかと居直る。 (w厨は卑弥呼公孫氏説の人と同レベル。いやある意味それ以下。
307 :
日本@名無史さん :02/07/26 07:58
>>301 後漢末期に漢は黄布の乱等で衰え、実態としては群雄割拠という状態だった。
漢はまだ存続していたもののもはや誰も顧みない飾り物だった。
その中で公孫氏は黄布の乱の鎮圧等で功績を認められ遼東太守となった。
楽浪郡を分割し、帯方郡を設置したのも漢王朝の許可を貰っての事ではない。
2世紀末から滅びる迄実質的に遼東王として君臨したのである。
魏志東夷伝にも半世紀に渡って東夷が公孫氏の為に漢に朝貢する事はなかった
と書いてある。
ただし、魏が漢王朝から禅譲の形で皇帝の座を受け継いだ時には一応臣下の礼を
とっていた。
だから、魏も公孫氏の東夷支配を大目に見ていたのだ。
公孫氏が燕王を名乗るまでは。
史料よりも脳内電波を優先するヤツには、何を言っても無駄だよ。 漢文も読めないことがはっきりしたし。放置、放置。
309 :
日本@名無史さん :02/07/26 09:12
あらためて倭王権スレ見直してみたら(w厨君おなじことやってるんだね。 放置が一番。
310 :
日本@名無史さん :02/07/26 12:19
>>307 (w厨ってなに?俺は別人だけど。あの点についてそう思うから書いてんだ。
終わるんじゃなかったのか?話続けていいの?
>2世紀末から滅びる迄実質的に遼東「王」として君臨したのである、
>魏志東夷伝にも「半世紀」に渡って東夷が公孫氏の為に漢に「朝貢する事はなか
った」 と書いてある、
>魏も公孫氏の東夷支配を大目に見ていたのだ
この3箇所のソース希望。246と同じ所はダメよ。そこには書いてないんだから。
ちなみに三世の中には度は含まれていないよ。康以降の三世を指しているんだから。
康がどんな形で魏に取り入ったかは知ってるよね。つまり50年間権勢を誇ったような
話じゃない事は三国志知ってる人ならすぐ分かると思ったんだけど。国交が絶えたと
してるのは、淵のことのみを指してるのであって、前の2人を含んだ三世とくっつけ
て考えるのはおかしい。ここは曹ヒが討伐した事で東方の事情が分かってきた、と
いう部分を強調してるのだから、三世は公孫氏が遼東に着任している流れを表現しただけ。
本当に支配したとか強権を持っていたような事書くのなら、むしろ度の事も書くはず。
或いは延も含んで四世、五世となぜ書いていないのか。ここは公孫氏支配の事を書いた
話じゃない。東夷伝を書けるようになったきっかけの説明をしている部分だ。
康や恭の時代に独立強権持ってたとするのは(使者を止める、貢物を独占するような事)
とても考えられない。淵にしても孫権の介入がなければ乱を起こしたかわからない。
淵が途中一回考え直して「呉の使者」の首を魏都にわざわざ「届けている」こともよーく
考えてよ。使者を止めるまでの事は反乱直前になっての事だと思うね。
・・・どちらにしても上の3件について別ソース書いてよ。
311 :
日本@名無史さん :02/07/26 15:36
また返事が戻らなくなった。(w厨ってなんの意味?漏れは厨房であるかもしれない
けど、Wがつくほどオカシナ事いってないよ。ただ246のように原文の写しとかは
確かに持ってない。でも漢文が読めないってのはどうなのかな
>>308 。序文について
はみんなの方が読めてないように思うけれど?誰かの、これもネット上で知った話を
根拠なく信じてるだけなんでしょ?漏れは少なくともこの序文見た限りでは公孫氏の
独裁なんて読み取れないし、三国志の他の本(これも原文とか持ってないけど)読ん
だ限りでも公孫康、公孫恭がそんな独裁者には感じられないけれども。電波の意味も
よくわかんないけど、この序文だけを読んで「公孫氏が半世紀に渡り遼東を独裁して
いた」と読む方がよっぽど電波だと思う。至るところは卑弥呼公孫説なんだろうね。
放置されてもいいけど、続けるなら根拠としてのソース出すべきだよ。独裁して
いたという確固たる証拠。それに朝貢の件についても。
312 :
日本@名無史さん :02/07/26 16:23
魏側は公孫氏をどう見てたんでしょうね? 「中華」の域外として見てたのか? 地方豪族くらいに思ってたのか? 「三国史」として見るより北東アジア史」として見た方がええんちゃうかな、 と妄想してるんだけど、どうなん?
313 :
日本@名無史さん :02/07/26 18:44
「涼州に馬騰がいた間は、西域の事情が全く分からなかった。」 、こういうトンデモもありえるってことになる罠。
もうあんた放置だからナニ言ってもイイノヨ。 でも三世に公孫度を入れないなんてオトボケ・・ プッ
昨日あれだけ威勢のよかった連厨、どこへ消えたんだ? 反撃できなかったのか。 なんだかな・・
桓靈之末韓濊彊盛郡縣不能制民多流入韓國 建安中公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡 遣公孫模張敞等收集遺民興兵伐韓濊舊民稍出 是後倭韓遂屬帶方 この後の公孫康の勢力をどう評価するかだね。 まあ、この時点で曹操は未だ魏王にも成っていない。 献帝退位、文帝即位は約15年後、公孫淵の呉服属が更に15年後。 倭人が魏まで直接行ける可能性は、文帝時代のわずかな期間しか考えられないな。 ただし、黄初年間は、対蜀政策のためか西域外交の方が活発だったようだ。
317 :
日本@名無史さん :02/07/27 06:17
はっきりと東夷からの朝貢はなかったことが書いてあるんだから 可能性もヘッタクレもなかろうに。
318 :
日本@名無史さん :02/07/27 06:36
公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟。任度爲郡吏。 時玄菟太守公孫〓子豹、年十八歳、早死。度少時名豹、又〓子同年。 〓見而親愛之、遣就師學、爲取妻。後舉有道、除尚書郎、稍遷冀州刺史、以謠言免。 同郡徐榮爲董卓中郎將。薦度爲遼東太守。度起玄菟小吏、爲遼東郡所輕。 先、時屬國公孫昭守襄平令、召度子康爲伍長。度到官收昭、笞殺于襄平市。 郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩、皆以法誅。所夷滅百餘家、郡中震慄。 東伐高句麗、西撃烏丸。威行海外。 初平元年、度知中國擾攘、語所親吏柳毅、陽儀等曰、漢祚將絶。當與諸卿圖王耳。 時襄平延里社生大石。長丈餘、下有三小石爲之足。或謂度曰 此漢宣帝冠石之祥。而里名與先君同。社主土地、明當有土地。而三公爲輔也。度益喜。 分遼東郡爲遼西中遼郡、置太守。越海收東莱諸縣、置營州刺史。 自立爲遼東侯、平州牧、追封父延爲建義侯。 立漢二祖廟、承制設壇於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乘鸞路、九旒、旄頭羽騎。 太祖表度爲武威將軍、封永寧郷侯。度曰、我王遼東。何永寧也。藏印綬武庫。 度死、子康嗣位。以永寧郷侯封弟恭。是歳建安九年也。 十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。 袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拜左將軍。 康死、子晃、淵等皆小。衆立恭爲遼東太守。 文帝踐〓、遣使即拜恭爲車騎將軍、假節、封平郭侯。追贈康大司馬。 初、恭病陰消爲閹人、劣弱不能治國。太和二年、淵脅奪恭位 明帝即位拜淵揚烈將軍、遼東太守。淵遣使南通孫権、往來賂遺。 権遣使張彌、許晏等、齎金玉珍寶、立淵爲燕王。 淵亦恐権遠不可恃、且貧貨物、誘致其使、悉斬送彌晏等。 明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公、持節、領郡如故。 使者至、淵設甲兵爲郡陳、出見使者。又數對國中賓客出惡言。 景初元年、乃遣幽州刺史毋丘險等齎璽書徴淵。淵遂發兵、逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還。 淵遂自立爲燕王、置百官有司。遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拜邊民、誘呼鮮卑、侵擾北方。 二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。 淵遣將軍卑衍、楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍至、令衍逆戰。 宣王遣將軍胡遵等撃破之。宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。 衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進至首山。淵復遣衍等迎軍殊死戰。 復撃、大破之、遂進軍造城下、爲圍塹。會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口徑至城下。 雨霽、起土山、脩櫓、爲發石連弩射城中。淵窘急。糧盡、人相食、死者甚多。將軍楊祚等降。 八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。 壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走。大兵急撃之。當流星所墜處、斬淵父子。 城破、斬相國以下。首級以千數。傳淵首洛陽。遼東、帶方、樂浪、玄菟悉平。 初、淵家數有怪。犬冠絳衣上屋、炊有小兒蒸死甑中。 襄平北市生肉、長圍各數尺、有頭目口喙、無手足而動搖。 占曰、有形不成、有體無聲、其國滅亡。始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。
319 :
日本@名無史さん :02/07/27 06:39
ここんとこね 始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。
320 :
日本@名無史さん :02/07/27 07:09
靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之。斬首虜數百級。伯固降、屬遼東。 熹平中、伯固乞屬玄菟。公孫度之雄海東也、伯固遣大加優居、主簿然人等助度撃富山賊、破之。 伯固死、有二子。長子拔奇、小子伊夷模。拔奇不肖、國人便共立伊夷模爲王。 自伯固時、數寇遼東。又受亡胡五百餘家。 建安中、公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。 拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口、詣康降、還往沸流水。 降胡亦叛伊夷模、伊夷模更作新國。今日所在是也。拔奇遂往遼東。 有子留句麗國、今古雛加駮位居是也。其後復撃玄菟、玄菟與遼東合撃、大破之。 夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。 時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。 桓靈之末、韓?ハ彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡。 遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓?ハ。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
321 :
日本@名無史さん :02/07/27 07:21
始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。 而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。
322 :
日本@名無史さん :02/07/27 07:24
公孫氏三世、約五十年。東夷は絶域で中央までの朝貢なんてなかった。
323 :
日本@名無史さん :02/07/27 07:31
二〇四年ごろ、公孫康、帯方郡を設置す。韓、倭これに従属す。 二〇八年、赤壁の戦い。 二二〇年、曹操死去。子丕、皇帝即位〔文帝〕。 二二一年、劉備、帝を称す〔昭烈帝〕。 二二三年、劉備死去す。二二六年、明帝即位。 二二七年、諸葛亮、出師の表。 二二八年、公孫淵、遼東に自立。 二二九年、孫權、帝を称し〔大帝〕、遼東へ使者を派遣し、蜀と天下二分を約す。 二三〇年、魏、淵を車騎将軍とし、東北の安全を期し、蜀と対決す。 二三二年、呉の使者、遼東に来る。淵、使者を呉に派遣す。 二三三年、呉、衆一萬を遼東に派遣するも、淵、使者を殺し、首を魏に送る。 呉使の一部は高句麗に逃る。麗王宮、呉に使者を派遣。 二三四年、諸葛亮、五丈原に没す。 二三五年、呉、高句麗に使者を派遣。 二三六年、高句麗、呉の使者を殺し、首を幽州に送る。 二三七年、魏の毋丘儉、遼東を攻めるも退く。公孫淵、燕王を称す。 二三八年、司馬懿、公孫淵を滅ぼし、海路楽浪、帯方郡を攻略す。 二三九年、倭の女王、魏に遣使。
放置するんじゃなかったのかよ。時間稼ぎしたかっただけなのか。 本題に戻れないだろうが。
325 :
日本@名無史さん :02/07/27 16:36
放置プレイはタイミングがカギです。
326 :
日本@名無史さん :02/07/27 16:52
これ以上チエオク馬鹿に話しかけても無益だが その他視聴視者向けにちゃんと正解だけは言っておく必要ありと思われ。
閼伽出甕って何て訓むの?
なんだい、続けるの?逸れた話だから放置でもいいのに。
この後遊びに行くから、今晩は相手してあげられないよ。
>>318 〜
これネット上からの写しだね。見たことある。確かそこに解説文も掲載してたはず。
教えてあげれ
>>314 に。度が含まれない事を。
原文の写しは完全みたいだ。でも
>>323 の年表は自分で書き換えてない?
公孫恭を意図的にはずしてるでしょ?漏れ283でも指摘したけど、どして都合の悪い
とこは省いちゃうのかな。>二二八年、公孫淵、遼東に自立、 ではないはずだよ。
二二八年、公孫淵、叔父恭を追う、かなんかじゃないか?持ってないから分からない
けど。主観入りすぎてるよ。
勉強時間をとってた、ということは、あまり三国志に関心がない人が多いのかな?
公孫康は曹操を敵にしたくなかったんだよ
>>316 。魏王になっていなくとも208年
には漢の丞相になっている。実質上の支配者だよ。この年赤壁に破れるけど、以後
領国の運営と人材開発に異様な取組みを見せている。公孫康に遼東を任せていること
などは、元敵方だった張遼が揚州を守っていることに比べれば些細な事に思えるけど。
張遼が太守だからといってその地からの献上物が止まるわけではないし。むしろ張遼の
その後の大活躍を見れば、公孫康は東夷を征伐するぐらいの事をしないと逆に解任され
ていたかもね。これは西方の羌族を平定した夏侯淵の活躍にも同じ事がいえる。公孫康
は実質上、曹操の臣下ととっていい。
だからどう考えても康、恭が独裁権力を持っていたとは考えられないよ。二人ともあく
まで魏の一家臣さ。したがって公孫淵が反乱を起こす前までは、傘下の小国が朝貢して
来た可能性は十分にありうるよ。
330 :
始めての遣使なので記録されている例。 :02/07/27 18:57
文帝紀 黄初3年 鄯善、龜茲、于闐王各遣使奉獻。 其遣使者撫勞之、是後西域遂通、置戊己校尉。
あかでみ ようは、学術厨w
>>327 馬鹿かお前。閼伽出甕行ったことないだろ。
>>331 おめえも、閼伽出甕知らんな。
まあ、しらんでもどってことないが、うそかくでねぇ。
336 :
日本@名無史さん :02/07/27 21:16
>>329 馬鹿すぎ
朝貢が無かったと書いてある文献を目の前にぶら下げられても
「読めな〜い読めな〜い」って、アンタはハクチ?
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 (ついでに義経ジンギスカン説も)
>>335 だ〜〜か〜〜ら〜〜、
>>331 は間違い。行けば書いてあるよ。
検索エンジンですぐ見つかるから、自分で探せ。アホ!ボケ!!カス!!!
ナ〜ンダ、違うのかあ。謝って損した。
340 :
日本@名無史さん :02/07/28 00:32
なんだか、ずっとここを読んでると鬱になって 小林女史の、「奄美大島にあったときと、奈良にあったときの 情報が混ざっていると思う」というような言葉に 安らぎを覚えてしまう。真偽はともかく。
341 :
日本@名無史さん :02/07/28 00:39
偽だけどな。
342 :
日本@名無史さん :02/07/28 00:54
>329 323の年表はwww.asahi-net.or.jp/~gz4m-frkw/sa-chu01.html#公孫07 から。加工は改行・インデントのみ。 >年表は自分で書き換えてない? >どして都合の悪いとこは省いちゃうのかな。 >主観入りすぎてるよ。 などの中傷はいかがなものか
343 :
日本@名無史さん :02/07/28 01:28
中傷はトンデモの持ち歌
344 :
日本@名無史さん :02/07/28 01:58
もし畿内にあったのなら 3世紀には西日本一帯がほぼ統一(支配下に置かれていた?)されていた ことになると思うが 本当か?
345 :
日本@名無史さん :02/07/28 08:30
なんで畿内にあると西日本一帯が支配下に置かれてたことになるの?
346 :
日本@名無史さん :02/07/28 22:42
>345 え? もしそうじゃなかったら、どうやって邪馬台国まで行ったの?
347 :
日本@名無史さん :02/07/28 22:46
>>345 魏志倭人伝の記録によります。
九州の糸島半島にあったと考えられている伊都国が、代々邪馬台国に統属して
いると言う記述があるので、邪馬台国(女王の都する所)が畿内にあると言う事は
少なくても九州から畿内までの間は邪馬台国の勢力範囲であったと言う事になります。
畿内から中国・四国地方をすっとばして吸収に力を及ぼすのはどう考えてもおかしいですしね。
と言うわけで邪馬台国畿内説の立場に拠る場合、3世紀には少なくても西日本全域程度の
領域に広がる統一政権(のような物)が出来ていた事になるわけです。
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 (ついでに義経ジンギスカン説も)
349 :
日本@名無史さん :02/07/29 00:58
>九州の糸島半島にあったと考えられている伊都国が、代々邪馬台国に統属して いると言う記述があるので そんなこと書いてないのでは?
350 :
日本@名無史さん :02/07/29 05:21
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。 有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
351 :
日本@名無史さん :02/07/29 05:29
魏志倭人伝->インチキ臭ぇ〜〜〜〜。
352 :
日本@名無史さん :02/07/29 06:33
畿内です 邪馬台国はヤマト国の中国的な表記 古代の中国音はヤマダ、ヤマドに近いです 魏志倭人伝内の邪馬台国への行路の方角は間違ってますが 日程はほぼあってます 鏡の出土も重要な証拠 確か立命館の森さんががんばって反対してますが 考古学的見地からも学会の多くは畿内説を取ってます
353 :
日本@名無史さん :02/07/29 06:46
>>347 それは「支配下に置いていた」というのと違うんじゃないですか?
女王は共立された存在なのだから、力関係を前提とした「支配」という言葉に置き換えるのは適切でない。
354 :
日本@名無史さん :02/07/29 09:57
倭韓遂屬帶方 世有王、皆統屬女王國 いずれも臣下として朝貢をする間柄である。 韓に対する楽浪、帯方の搾取はかなりの物だったようだ。 だから韓国は漢や魏に対して度々反乱を起こしている。 「屬」すと言うことはそういうことだ。
355 :
日本@名無史さん :02/07/29 10:54
畿内説はクロートすぎて、素人考えに弱いなw
356 :
日本@名無史さん :02/07/29 11:00
少なくとも瀬戸内海の制海権は握っていたということですか。
357 :
日本@名無史さん :02/07/29 11:37
統属という言葉は、用例が非常に少ない珍しい言葉。
どう考えるか定説はないのだ。といっても大げさではない。
さらっと、支配していたと読んではいけない。
族という時にこだわるなら使役体でないと本来の意味にならない。
統のほうはそのままでよしだが・・・
>>354 はそういう意味で間違えている。
358 :
日本@名無史さん :02/07/29 13:37
↑「属という字」です。
359 :
日本@名無史さん :02/07/29 14:09
>>352 192のカキコ読めれ、漏れも(192に)同感なのだわ。
近畿説の提唱者は楽して利をとりたいという勘定がどこか見え隠れしてるのだわ。
>>336 放置でもよいのだゾ。そこには、無かった、とは書かれていないと言って
おるでアロ?
>>330 にしてもまた一部分だけしか書いてないシ。チョイ読みする
から流れがわからなくなるんだって。三国志全体の流れ考えてミレ。そんな独立勢力
曹操が放っておくわけないでショ?
360 :
日本@名無史さん :02/07/29 20:07
>>359 はっきり書いてあるのに読めないミジメ九州さん。
あなた三国志読んだことないでしょ?
361 :
日本@名無史さん :02/07/29 20:31
>>356 とてもそう思えないんですよね。
吉備や阿波の国名も出てこないですし。
362 :
日本@名無史さん :02/07/29 20:39
投馬が吉備とかの地名でないの?
363 :
日本@名無史さん :02/07/29 20:40
宋書倭国伝の倭王武の上奏文では 東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国 と書いてあります。ここで注目すべきはその国の数の多さです。 毛人(関東)に五十五国 衆夷(九州)に六十六国 海北(伽耶)に九十五国 と考えれば、五世紀後半、倭王武(雄略?)によって、平定されるまで 畿内の支配が九州全体に及んでいたとは考えにくいのではないでしょうか?
364 :
日本@名無史さん :02/07/29 20:51
九州が信長の版図になかったから鎌倉幕府が九州を支配していたはずがないって言う?
なんか、古典的な問答が続いてますな。
「自昔祖禰躬カン跋渉山川不遑寧處」だから武の時の話ではないです。 「祖禰」が誰なのかは、わかりませんが・・・卑禰呼?(電波モードでスマソ
367 :
日本@名無史さん :02/07/29 21:55
>>353 支配下に置いていると書いてはいないので、347を読み直して頂きたい。
ただ、伊都国と邪馬台国の間には代々にわたってなんらかの政治的関係がある事が
魏志倭人伝からは読み取れます。
また共立したから対等に近かったとしても、相互の政治的影響力が
邪馬台国を共立した諸国の領域にあった事は間違いありません。
邪馬台国と伊都国を始めとする倭の諸国の間の関係はともかく、
邪馬台国が畿内にあるとすれば、伊都国との間には恒常的な連絡が可能だったはずです。
そして畿内の邪馬台国と伊都国の間に関係が維持されるためには
中国・四国地方が邪馬台国と伊都国との間の連絡を阻害しない事が絶対必要です。
実際、邪馬台・魏の使者お互いちゃんと連絡を取れています。
この事から邪馬台国が畿内にあるとすれば
西日本全域が邪馬台国支配下、もしくは政治連合によって統一状態にあったと考えざるをえません。
368 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:01
>>360 読んだ事ないのは多分キミのほうだよ。
漏れの話には別に触れなくてもいいんだよ。中傷しあってもしかたがないから。
ただ触れる以上は書いてる部分のソースを出してってば。
今まで上がったとこで書いてる部分はないでしょう?あると言い張るのは漢文を読めて
いない証拠だよ。他のネット上での誰かの理論を真に受けてるとしか考えられないね。
369 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:02
ただ私見として付け加えれば、邪馬台国には領域の諸国に対し かなりの支配権を及ぼしていたと思います。 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國 とある事から邪馬台国と諸国の関係が少なくても上に立つものと下に立つもの であった事は明らかかと思われます。
補足:367=369です。
371 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:08
>>363 倭王武を持ち出してもしかたがない。邪馬台国から何年経過してるのさ?
ついでに指摘すっけど伽耶だけで95ヶ国と?それは無理ありすぎ。
例えば百済の前身、馬韓の成立過程でも50数ヶ国だったはず。
372 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:18
>>367 >支配下に置いていると書いてはいないので、347を読み直して頂きたい。
>>344 が支配下に置いていると言ってるんだけど。
373 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:20
>>357 >統属という言葉は、用例が非常に少ない珍しい言葉
別に珍しいコトバでもなかったりして・・・
とうぞく 【統属】 統制のもとに属すること。(By goo
魏書諸夏侯曹傳魏略逸文 至正始中、代夏侯儒為征蜀護軍「統屬征西」
魏書劉司馬梁張溫賈傳 建安十八年、州并屬冀州更拜議郎西部都督從事「統屬冀州」總故部曲
蜀書ケ張宗楊傳引言 糜芳字子方東海人也為南郡太守、士仁字君義廣陽人也為將軍住公安「統屬關羽」
まだまだ有りまんがな。
374 :
日本@名無史さん :02/07/29 22:25
>>368 まったく何度言わせるやら。
而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。
ほら、ちゃんと書いてあるだろ。あんたぜんぜん漢文が読めないの?
もう邪馬台国の話するのやめたら。資格ないよ。
三韓全部に耽羅等の島国を加えてもせいぜい80ヶ国ぐらいでしょう。
376 :
日本@名無史さん :02/07/29 23:18
>>374 繰返しだけど、そこは淵が反乱を起こし、その結果途絶え、それを討伐した
際がきっかけで、東夷の事を書く材料(情報)が集まったよと話をしているだけでしょ。
だから公孫氏が三世にも渡って独裁していて、魏と東夷が行き来できないよう遮断
してた話なんかじゃないよ。
少なくとも康、恭は魏に順じているし、遮断したり独占するような事したら曹操が
黙ってないって。329にも言ったけどこの頃いろんな人材派遣して西へ東へ討伐に
あたってるんだから。西涼の馬騰一族みたいに討たれるよ、そんな事してたら。
だから三国志の流れ考えてる?って聞いたのさ。
ちなみに聞くけどなんでそんなに公孫氏を支持するの?卑弥呼公孫説?
377 :
日本@名無史さん :02/07/29 23:25
?366 その辺の読みは色々説があるようですが、 あなたの読みにしたがって「祖禰」の業績を 述べた箇所だとしても、広開土王碑に従えば 「倭、渡海して百済・新羅を破り、臣民となす」 4世紀の話ではないかと思いますが。 (伽耶・百済・新羅の諸国を合わせると九十五国になる?) 日本書紀に従えば、「祖禰」は仁徳天皇のことになるのかな? まあ、いずれにせよ、3世紀より後の話ですね。
378 :
日本@名無史さん :02/07/29 23:49
>>372 失礼、347が344へのレスである以上そうなりますね。
ただ何にしろ邪馬台国〜魏への安定した連絡がある事と
邪馬台国を含む連合体に伊都国が参加していると思われる点から
邪馬台国が畿内にあった場合、邪馬台国から西の地域は
邪馬台国と同じまとまりの中にあったと言う風に考えられるかと思います。
379 :
日本@名無史さん :02/07/30 00:27
>>376 >西涼の馬騰一族みたいに討たれるよ、そんな事してたら。
おい。馬騰が討たれた顛末書いてみろ。
そんでもって、三国志の何伝にそれが書いてあるか言ってみそ。
380 :
日本@名無史さん :02/07/30 00:29
>>376 ああ!情けない。きみ、ぜんぜん漢文読めないんだ!
そのうえ無知。
あまりに程度低くないか?
夏だねー 考古学的な資料に距離があるのはやむを得ないとしても (とはいっても,致命的なんだけどね) 文献資料の入手は比較的容易なんだから せめて,それくらいは虚心坦懐に検討してもよさそうなんだが まー,とはいうものの,夏休みなんで愉快なカキコミを期待しております。 なかなか笑えて楽しいので。
382 :
日本@名無史さん :02/07/30 00:41
書いてみろとかそういう幼稚な問題じゃないでしょ? 馬騰については知ってるんだね?だったら理解できるでしょう。 公孫康はどうやって曹操の軍門に下ったの?これも知ってるよね? それを知っていたら「独裁していた」なんてそもそも考えないはずだよ。 日本古代史に着目しすぎて大事な本史を忘れてしまっている。 だから誰かの受売り説を鵜呑みにしてしまうんだよ。 淵の反乱前後で絶えたのは分かる。しかし三世渡ってというのはいきすぎだよ。
383 :
日本@名無史さん :02/07/30 00:45
>>382 つまり、三国志なんか読んだことないから書けないわけだ。
384 :
日本@名無史さん :02/07/30 00:57
公孫康が曹操の軍門に下ったとか妄想が飛び散っとりますなあ。
385 :
日本@名無史さん :02/07/30 01:12
>>376 >だから公孫氏が三世にも渡って独裁していて、魏と東夷が行き来できないよう遮断
してた話なんかじゃないよ。
だから公孫氏が三世にも渡って遼東を支配していて魏と東夷が行き来できないよう遮断
してたって話が三国志に書いてあるんだけど、読めないかね。
386 :
日本@名無史さん :02/07/30 01:40
>>383-384 本史知らないんだね、やっぱり。確信したよ。
勉強する時間稼いだりしてるし、何か変だなって思ってた。
誰かの受売りをまともに信じちゃだめだよ。まず自分で真実かどうか見抜かなくちゃ。
漢文についても指摘してあげる。まず"而"この前で文章切れるよ。
この文の前にある"朝貢"は別の意味だ。ここに掛かってくる話じゃない。だから漏れ
269、283で言ったんだ。なぜその前の文を書かないのか、ってね。
それから"仍父祖三世有遼東・・"以下の文。これは"公孫淵"にかかる説明で公孫康・恭
まで引っ張りだしてるんじゃないよ。断絶まで持っていったのは淵のみ。康・恭が曹操
に臣従しているのは、もうさんざん言って来た通り。
最後に"不得通於諸夏"。キミ達の理論だと"諸夏"、つまり複数の中国王朝に渡って
ずーっと通えなかった事になるぞ。そんなわけ、ないよねえ。
だからここは中国側から行かなかった、って事さ。向こうから来ない、じゃなくてね。
淵を討った事で東夷周辺の事情がよく分かるようになった。したがって中国側から
通うこともできるようになった。そして東夷伝が書けるようになったのさ。
・・・また止めちゃったっぽいね。 ・・・いいんだよ、放置で。ただ触れるのなら別ソースにしてね。
・・・なんかネタ振っくわ。
>>362 を受けて
投馬の読みは「つま」でいいの?→都萬、妻?
389 :
日本@名無史さん :02/07/30 03:17
>>388 投馬の上古音はdug magと言われています。
仮名で表記するならドゥマ、或いはトゥマのようになるのではないかと。
390 :
日本@名無史さん :02/07/30 05:38
たぶん後世の但馬に相当するんだろうな
391 :
日本@名無史さん :02/07/30 06:54
>>386 みんなから馬鹿にされてるのがわからないのか?
アンタ小説の三国志くらいしか読んだことないんだろ。
教えてやるよ。
父祖三世てのは公孫度から淵までのことだ。
後漢から魏にかけて約50年間も「絶域」とされていたのさ。
「勉強する時間」とか妄想する暇があったら自分の時間を作るんだね。
392 :
日本@名無史さん :02/07/30 08:43
>>386 君が本当に三国志を読んでるかどうか試してるんだよ。
西涼の馬騰一族なんて書いてるところで、もう君が三国志読んでないのはバレバレなのさ。
さあ、馬騰が殺された顛末と、それが三国志のどこにかかれているのか、書いてごらん。
書けるもんならね。
393 :
日本@名無史さん :02/07/30 09:11
「公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事」 つまり、漢の皇帝により韓倭の事は公孫氏に任されていたのだ。 漢も衰退期で公孫氏が遼東にあってかってに韓倭を支配し貢物を取っていても文句が言えない状況だった。 魏だって蜀や呉との戦いで勢力を割かれ公孫氏にかまって居れなかった。 蜀の孔明が死去し、蜀が恐るに足らずという状況になった所で公孫淵が公然と反旗を翻したから初めて遼東を討つことになったのだよ。 このあたりを読めないやつは厨以下だ。
394 :
日本@名無史さん :02/07/30 09:16
>>390 出雲ぬきに但馬かよ。アホ−とちゃうか?
395 :
日本@名無史さん :02/07/30 10:03
三国志ヲタって凄いよね・・・
396 :
日本@名無史さん :02/07/30 12:52
397 :
日本@名無史さん :02/07/30 12:53
398 :
日本@名無史さん :02/07/30 14:38
>>391-393 まあ実際何人がそんな公孫説を支持しているのかは知らないけど、
ここまで書いて分からないとはねえ・・・
何度も言うけど序文は東夷伝を書けるようになったいきさつを記しているんだ。
公孫氏の独立を表現した話なんかじゃない事は、本当に漢文読めるのなら理解でき
そうなもんだが・・・読む以前に誰かさんの理論を信じ込んじゃってるんだろうねえ。
それまでの中華王朝は、書き記すほど東夷の情報が集められなかった。
それは向こうから諸王朝に使者は受けたけれど、中華側からは行かなかったから。
だから"諸夏"なんじゃん。でないと奴国の金印もなしになっちゃうよ。中華側から
行くようになったいきさつを記して、公孫淵以下の討伐を書いてるの。
公孫康の件にしてもそう。頼ってきた袁尚、袁熙を暗殺じみた殺し方をして、曹操に
首を献上しているのよ。とても漢から独立した勢力もってる武将のする事じゃない
でしょ?実質、曹操に媚びたんだよ。ついでに(言いたくなかったが)恭は不能者だ。
公孫氏が独立していた、なんて言うのはそのへんの流れを理解してないからだよ。
それと誰かの四国志説を真に受けちゃったからだね。そんなわけはないよ。
とにかく触れる場合は別ソースでね。(多分ないだろうと思う)
序文にはかいてませんから。
399 :
日本@名無史さん :02/07/30 15:34
「遂」 この一字がキーじゃないかな。
>>頼ってきた袁尚、袁熙を暗殺じみた殺し方をして、曹操に 首を献上しているのよ。とても漢から独立した勢力もってる武将のする事じゃない でしょ? ここんとこは違うと思う。大国に媚びる小国だって同じコトするでしょ?
401 :
日本@名無史さん :02/07/30 16:33
畿内なら大国主命から土地奪った後だろう? 時期的にどうなのさ
402 :
日本@名無史さん :02/07/30 17:36
東夷伝の序ってこんなかんじ。
夷蛮の国々は非常に遠くて昔は詳しいことがわかるものはいなかった。
夏〜周代には、西戎や肅愼氏がやってきた。皆とてつもなく遠い。
西域は、漢代に張騫の遠征なんかがあって、西域都護をおいたんでいろんな事がわかった。
魏代になっても、全部じゃないけど西域の大国の幾つかは朝貢してる。
ここで、“而”がくる。
この“而”は西域から東夷に話題を転換する役割をして、
『西域はよくわかっていたんだが、しかし東夷は・・・・』
とつながることになる。そして、“而”のあとは
公孫淵の父祖三世が遼東に有ったので、天子は東夷を絶域とし公孫氏に任せた。
そのため、ついに東夷は隔斷され、中国と通交することができなくなった。
しかし、景初中に公孫淵を滅ぼし、東夷は再び中国に服属することになった。
その後高句麗が背いたので高句麗を打ち破り、逃げるヤツをあっちこっち追い回したので、
ついに東夷諸国を廻ることになり、詳しいことがわかった。
だもんで、東夷の国を列挙してこれまでの史書に欠けているところを補う。
【夏】
夷に対して、漢民族が自分たちを盛んな文化を持つ大民族と自称したことば。中華の人々。
【諸夏】
中国。夏は大きいことで、たくさんの諸侯の国々を指す。
という訳で、諸夏というのは諸侯の国々からできた中国のことで、
諸夏を中国の諸王朝と訳すのは、誤訳でしょう。
自分で漢和ぐらい引こうね。
【公孫淵仍父祖三世】
既に
>>319 、
>>321 にある通りなのだが、公孫度伝の最後に
始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。
とあり、三世とは度から淵に至るまで、つまり、康と恭が兄弟であるので
『度−(康・恭)−淵』で三世と陳寿が書いていることは明白。
つ・ま・り・・・
度以来、公孫氏が遼東にあるあいだは、中国と東夷との通交がなかったと、
東夷伝序文に明瞭に書いてある。
>6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 畿内説の人は日向地方の歴史上の位置付けをして欲しい
404 :
日本@名無史さん :02/07/30 19:25
「遂」とは「最終的に」という意味じゃないかな。
405 :
日本@名無史さん :02/07/30 19:49
>>400 うーん、どういう意味でかな。もうちょっと分かり易くおねがい。
康がかなり下手に出ていたというのは分かってもらえたのかな。
>>402 やあ、ようやく進んだね、そちら側の主張。また「書いてる」の一点張りだったら
どうしようかと思ったよ。
>天子は東夷を絶域とし公孫氏に任せた・・・"天子"は漢、魏の皇帝の意じゃないぞ。
公孫淵が天子を自称した事を書いてんだよ。だから"為"をわざわざ使ってるの。
"成"を使わずにね。"為"はそのように振舞うとか、まねをするとか、成とは違い擬似的
な感覚を含む。だからその地域全体にわたる("絶"もわたって、の意味だよ)皇帝、即ち
燕王と為った、と書いてあるの。魏、漢の皇帝は関係ないですよ。
さらに"委"も任せる、ではなく従う、従わせるだ。
だいたいね、公孫氏を遼東太守に任ずる、って記述はでてきますよ、でも王とか皇帝
に任じるわけがないでしょう?魏や漢、引いては三国誌を否定する事になりますよ。
それに諸夏。夏は中華王朝の祖、夏王朝の事。以後の数々の王朝の流れを組んで諸夏
と言っているの。魏だけなら魏と書いてるのだし、漢も漢氏って書いてるじゃん。
とにかく、ここは自ら燕王(天子)と為った淵の事を書いている。康も恭もそんな宣言
してません。ついでに魏も漢もそれを認めていません。燕王の位はそもそも孫権が政略
的に送ったものだからね。
>>401 戻しの話しを振っとくね。
出雲→近畿へ動いたんじゃないの?
406 :
日本@名無史さん :02/07/30 19:57
「遂」は「その結果」。その結果とは「委以海外之事」。 「最終的に」といいたいなら「後遂」。 この場合、公孫度台頭から約半世紀ほどが隔断の時代というのが一般的な解釈だ。
407 :
日本@名無史さん :02/07/30 20:02
408 :
日本@名無史さん :02/07/30 20:18
公孫氏と袁家はもともと敵同士なんだから、公孫康は袁尚と手を結んで曹操と戦うか 袁尚を殺して曹操に敵対する意思はないことを示すかってのは政治判断のかけひきだよ。 曹操が遼東に攻め込んでいれば袁尚と手を結んでたかも知れないが 曹操はそこまで読んで兵を引いた。 だから康は袁尚の首を切って曹操に届けたのさ。 べつにたいして下手に出たわけじゃない。 そのへんがわかってないのは三国志を読んでない証拠だな。
しっかし,案外しぶといね (ワラ
410 :
日本@名無史さん :02/07/30 20:43
>>405 ここまでぶっ飛んでますか。いやはや。
>"為"はそのように振舞うとか、まねをするとか、成とは違い擬似的な感覚を含む。
ぼくちゃん、いい子だから辞書引こうネ。
いったい三国志の中に"為"がどれだけ出てくると思ってるんだろうねぇ、この人。
>夏は中華王朝の祖、夏王朝の事。以後の数々の王朝の流れを組んで諸夏と言っているの。
ぼくちゃん、いい子だから辞書引こうね。
それで、諸夏の意味に“数々の王朝”って意味が書いてある辞書があったら、おニイさんに教えてね。
約束だよ、ぼく。
>燕王(天子)
あれあれ。ぼくちゃんは燕王と天子の区別もつかないんだねぇ。
ぼくちゃん、いい子だから辞書引こうね。
そんで、たかだか諸王程度を天子と書くと書いてある辞書があったら、これもお兄さんに教えてね。
きんちゅうの夏 2ちゃんの夏
412 :
日本@名無史さん :02/07/30 21:00
ワラ厨の電波ぶりはなかなか楽しい。
413 :
日本@名無史さん :02/07/30 21:12
>>405 って漢文ぜんぜん読めなくって知識もなくって三国志も知らないみたい。
414 :
日本@名無史さん :02/07/30 21:54
>>408 そう読むか。ならなぜ暗殺じみたまねを?大事なのは、
>曹操に敵対する意思はないことを示す・・・だよ、確かに。しかしそれは、
>袁尚と手を結んでたかも知れない・・・のではなく、この時点で曹操に敵対する力が
全く無かったんだよ。ましてや独裁地域を誇るほどの力はね。
>>410 、他
いやいや、漏れは大マジだよ。キミ達こそもっと辞書引くなり、三国志読むなりして
よ。キミらのは先に公孫独裁説ありき、なんだろ?漏れは先にちゃんと読んでみよう、
といってるの。先に独裁を信じ込んでたら、何言っても通じないかもね。
"天子"は公孫淵が燕王を自称したことだよ。これがもし、魏、漢の皇帝や王ならば
呼び方があるでしょう?"天子"なんかで表記しないよ。文帝、とか倭人伝なら斉王
とか。なんでここだけ急に"天子"になるのさ?"為"もいっしょ。字書ひいてみそ。成
とは意味が違うんだから。それに魏や漢の天子を指すのなら何に対して"為"したの?
後に目的語が続いてないぞ?文法分かるよね?
前に書いたけど、"仍父祖三世有遼東・・"以下は公孫淵の説明だ、あくまで。
三世に渡り遼東にあった公孫淵は、その地域全体にわたる天子(つまり燕王)
と為り(自称し)海外の事柄をも追従させていた・・・でしょ?
即ち康・恭が燕王を名乗ったのではないし、魏、漢がその称号を贈り、認めたのでは
ない。送ったのは呉の孫権。彼が帝位つく前後に魏を討つ戦略で贈ったの。
だから魏から見れば勝手に自称したな、となる。少なくとも魏誌の中で、淵に贈るなど
書くはずがない。そのへんの流れをもっと考えなくちゃだめだよ。
415 :
日本@名無史さん :02/07/30 22:25
げっ!!!! 「天子爲其絶域」を「公孫淵が燕王を自称した」って読んじゃうわけ?? 漢文法って知ってる? しっかし他の部分も見事なまでに支離滅裂だなあ。 トンデモってこういうことだったのか・・・
ここまでくると面白いのを通り越して,哀れを感じますなー
<後漢書東夷伝> 自女王國東度海千余里至拘奴國 雖皆倭種、而不属女王 自女王國南四千余里至朱儒國、人長三四尺 自朱儒東南行船一年、至裸國、黒歯國 使驛所傅、極於此矣 これってどのへん?
418 :
日本@名無史さん :02/07/30 22:40
>>414 >なんでここだけ急に"天子"になるのさ?
これ読める?
昔漢武帝詔曰:『司馬相如病甚、可遣悉取其書。』使者得其遺書、言封禪事、天子異焉。
九州だろ
420 :
日本@名無史さん :02/07/30 22:51
九州だからしょうがない。漢文が読めないのは。
421 :
日本@名無史さん :02/07/30 23:18
>>415 読んじゃうというか、その地域全体にわたる天子と為るすなわち史実で
言うところの、公孫淵が燕王を自称した話につながる、という意味ね。
>>418 また新しい(それも内容逸れた)やつ訳すの?漏ればっか宿題やらされて
ないか?
これなに?また262の時と同じパターン?これで全文だね?また隠したりしてないね?
漏れ原文とか持ってないって言ったよね?あるのなら全部書き出してくれなきゃ。
またキミらの作戦にはまっちゃうから。
・・・でも待てよ。昔漢武帝詔曰、ってあるじゃん?特定の"天子"をちゃんと指し
てるんだね?漏れの質問の答えになる宿題なんだね?
話をまた戻します。
>>417 、419
ここは九州じゃないと思われ。これがいわゆる読替えするしないの原因になってる
ところかと思われ。後漢書には邪馬台国時後の情報も多分に含まれてると思われ。
422 :
日本@名無史さん :02/07/30 23:23
「天子爲」を「天子と為る」と読むのか、お前! さすがに語順の違いくらいわかんねーのか?
423 :
日本@名無史さん :02/07/30 23:28
>漏れ原文とか持ってないって言ったよね? 訳本も持ってないでしょ?
やっぱり暑さのせいでしょうか
>>訳本も持ってないでしょ? 訳本もなにも高校レベルの知識と並のレベルの頭があれば,普通読めるんじゃないかな
426 :
日本@名無史さん :02/07/30 23:54
原文も訳本も持ってなければ=三国志を読んだことない
>>これなに?また262の時と同じパターン?これで全文だね?また隠したりしてないね? >>漏れ原文とか持ってないって言ったよね?あるのなら全部書き出してくれなきゃ。 いやはやまったく。困った君なんだね それはともかく,君は,日常生活のなかで周りから何も言われない ?
429 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:01
薄ら笑いを浮かべつつ横目で冷たい視線を投げかけるだけだと思われ
430 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:05
>>428 大丈夫。誤解してないし殴ったりもしない。
431 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:12
>"天子"は漢、魏の皇帝の意じゃないぞ。 >公孫淵が天子を自称した事を書いてんだよ。だから"為"をわざわざ使ってるの。 >"成"を使わずにね。"為"はそのように振舞うとか、まねをするとか、成とは違い擬似的 >な感覚を含む。だからその地域全体にわたる("絶"もわたって、の意味だよ)皇帝、即ち >燕王と為った、と書いてあるの。魏、漢の皇帝は関係ないですよ。 こりゃデムパだな。 でなきゃここまで自分の無知をさらけ出して 平気で生きていられるわけがない。 こういう人間相手に真摯にレスされた402氏には敬服する。 ホントに冷やかしではなく、深謝。
432 :
また三世紀の古墳が :02/07/31 00:13
奈良県天理市のヒエ塚古墳(前方後円墳)を調査中の同県立橿原考古学研究所は 二十九日、同古墳の外提付近から、三世紀後半以前とされている「布留0式」と 呼ばれる形式の土器が出土したと発表した。 卑弥呼の墓とする説がある箸墓古墳(桜井市)と同時期のもので、これまで不明 だったヒエ塚古墳の築造年代を探る手ががりとなりそうだ。 ヒエ塚古墳は箸墓古墳をはじめ前期の古墳が密集し古代王権史の解明にとって 重要な「大和(おおやまと)古墳群」の一つ。
さすがに恥を知って、そのうち自分は九州説じゃなく畿内説だという演技をはじめると思われ。
434 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:21
>>427 は418?これだけ読む限りでは漏れの天子の答えにはなってないね。
しっかしさあ、ここは本当疲れるね。漏れ本来別板がメインだけど、ここまで話が
進まないのってどうなの?なんか3、4割が煽りとか中傷だし。ここは中傷するため
のスレッドなの?
そもそもさあ、朝貢についての話だったろ?漏れが答え答えてこうなってるけど。
キミ達ので中味あったのは
>>410 だけじゃん?それ以外は読め、訳せ、ばっかりじゃん。
漏れの方は大概いろんな例出して分かり易くやってんのに。
>>269 、283、290、292、296、299、
>>301 、302、304、310、329、359、376
>>382 、386、398、
>>405 、414、421(いちお出しとく。ざっと見たんで飛んでる
かも)
漏れに中傷しても意味ないよ。この内容に関しては今のところ自信持ってるし。
逆に中傷する方が自信ないんだろーなあ、と思ってる。きちんと相手を説得できるほど
キミ達も理解してないんだなーって。
ただ逸れた話だから放置されるのは仕方がない。でも触れる以上はそれなりのソース
提示して。漏れを納得させるだけのもの、出して。
いっとくけど漏れは本当ひねて言うんじゃないよ。本当に独裁はないと思うし、
朝貢もありえると思ってる。序文では到底理由にならないよ、だって序文なんだよ?
この後放置でもいいよ。何度も言うけど「触れる場合は別ソース」ね。
435 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:26
>>421 おい。馬騰はどうした。ギブアップか?
もっとも調べたところで、馬騰のケースは公孫氏の場合とは
全く比較にならないってことが明らかになるだけだから、
まあ、口が裂けても答えは書けないだろうけどな。フフフ・・・・
436 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:33
>>434 で、「天子為其絶域」を「その地域全体にわたる天子と為る」と読むのか? 本気で!
437 :
日本@名無史さん :02/07/31 00:39
>>434 「冬十月、天子拝太祖エン州牧。」
「公孫淵が曹操を刺史に任命したんだ」とか言い出さないでね。もう十分笑ったから。
438 :
日本@名無史さん :02/07/31 01:00
それにしても、カナリ重傷の史料偏重症だな。 この国の歴史は、言霊、怨霊信仰を抜きには語れないのだよ。 まだ分からないのですか?
>>434 >きちんと相手を説得できるほど
This is a pen.
を、『これは消しゴムです』と訳し、
『辞書引いてごらん。penに消しゴムっていう意味はないでしょ。』といっても辞書も引かず、
絶対自分は正しいと言い張るヤツをどうやって説得するか・・・・・
それが問題だ・・・・・
>>435 なにか勘違いしてない?そんなのあたり前でしょ。だから康は実質は臣従
していたと言ってんだから。
>>436 そうです。
>>437 それも理由にならないでしょ。漏れが言うのはなぜ、
>天子拝太祖エン州牧・・・の太祖のように目的語が入らないのか、って言ってるの。
だから朝貢がない、公孫独立の別ソースよ。どんどん逸れるじゃん。放置でいいって。
>>432 戻ります。
箸墓の特殊土器(だったっけ?)はどう思われます?
>>440 何があたり前なんだい。
もう一度質問を書くから、サクサクって答えてね。
馬騰が殺された顛末と、それが三国志のどこにかかれているのか、書いてごらん。
書けるもんならね。
442 :
日本@名無史さん :02/07/31 02:53
何か話が通じねえなあと思ってたら 「為」も「諸夏」も分からないリア厨だったのね。 大漢和も引いたことねえんだろうなあ。 「諸夏」なんて『左伝』僖公に出てくるメジャーな語なんだけどね。 「為」には「〜として」っていう読みがあるんだよ。 覚えておくといいよ。
443 :
日本@名無史さん :02/07/31 06:21
大漢和どころかポケット漢和も引いてないと思われ
444 :
日本@名無史さん :02/07/31 06:31
>>440 >だから康は実質は臣従していたと言ってんだから。
そう言う根拠は?
>天子拝太祖エン州牧・・・の太祖のように目的語が入らないのか、って言ってるの。
天子が其を絶域と為したんだから目的語は入ってるでしょ?
445 :
日本@名無史さん :02/07/31 07:31
>きちんと相手を説得できるほど あんたそんなこと言う前に先ず >"為"はそのように振舞うとか、まねをするとか、成とは違い擬似的な感覚を含む。 >"絶"もわたって、の意味だよ >さらに"委"も任せる、ではなく従う、従わせるだ。 言い切っちゃってるけどさ。 こんなの納得できる人間がいると思うかい。 何の根拠もなくこんなこと言われてさ。 こんなのがまかり通ったら日常会話もできないよ。 「委任」って言っても、あんたには通じないんだもんな。 「ゆだねる、まかせる」っていう意味で認識してくれないんだもんな。 >読む以前に誰かさんの理論を信じ込んじゃってるんだろうねえ。 これはまさにあんたのことだろう。 自分の都合のいいように「解釈」するってのはみたことあるけど、 まさか言葉の意味まで変えちゃう人がいるとは思わなかったよ。 いやホント、あんたスゴイよ。スゴすぎるよ。 もう何も言うこと無いよ。精々頑張ってくれ。 ただ他人に迷惑かけるのだけは止してくれよ。
446 :
日本@名無史さん :02/07/31 08:17
や、邪馬台国と何か関係が?
447 :
漢文に夢中な人達へ送る言葉 :02/07/31 09:21
木を見て森を見ず
448 :
日本@名無史さん :02/07/31 09:49
もう引くに引けなくなってるんだろうなぁ。 「潔い態度」って言葉は、この人の辞書に載ってないんだろうね。 自分の犯しているミスに関する言及は絶対しないのな。 ここまでできる奴って、やっぱりどこかおかしいんだろうなぁ。 常識じゃ考えられない。
449 :
日本@名無史さん :02/07/31 12:13
だからさ、誹謗中傷しても仕方がないって。辞典も引いてみたの?漏れがメチャクチャ
言ってるかどうか引いてみれよ。漏れは自信あるってば。迷惑かけるつもりもない。
だから説得できないのなら放置してって何回も言ってるのに。話の流れも戻すように
してる。公孫に関する変事は
>>410 (402)のように内容のある返事にしてね。
>>444 “其”は遼東の、でしょ?遼東にわたっての地域。漏れが聞いてるのは天子が
その地域をどうしたのよ?ってこと。キミ達の理論じゃ対象人物が目的語に入らない
とおかしいじゃない?それを聞いてるの。
諸夏に関しても386読んでくれた?あなたの意味も間違いじゃない。でもここは東夷
伝を書けるようになった経緯を書いてる「序文」だから。今までの王朝は通わなかった
から書けなかった。魏が初めて東夷を書けるようになったいきさつとして、淵を討ち、
高句麗を追いかけ、東夷の方面へ通えるようになってきたよ、って序文なんだからね。
ここで諸侯の国々ととっても意味が通じないでしょ?序文だよ、序文。
話しを戻します。
>>432 440の土器?はやっぱ勘ちがいだ、特殊器台だったね。
450 :
日本@名無史さん :02/07/31 16:20
かんきゅうけんの墓を探そう。 そこに記録かなんかが残ってればそれで解決だ。
451 :
日本@名無史さん :02/07/31 17:59
>>449 >だからさ、誹謗中傷しても仕方がないって。
誹謗であることは間違いないが、中傷ではないな。全部事実。
>辞典も引いてみたの?
引いて見た。
>漏れがメチャクチャ言ってるかどうか引いてみれよ。
メチャクチャだった。
『為』にまねるという意味はあるが、『○○為』で“○○をまねる”という使い方は漢文にはない。
−>『天子為』で“天子をまねる”とは読めない。
『於○○』で“○○が〜する”という使い方は漢文にはない。
−>『不得通於諸夏』を“諸夏が通ずるを得ず”とは読めない。
その他、きりがないので省略。
>漏れは自信あるってば。
その自信は百害あって一利なしだから、早々に捨てるべし。
>ここで諸侯の国々ととっても意味が通じないでしょ?
それは語源。転じて『諸夏』で中国を指す。
>序文だよ、序文。
序文の前に漢文。漢文のルールに従わない読み方は不許可。
452 :
日本@名無史さん :02/07/31 18:30
で、 こういうちゃんとした批判には無反応、と(藁。
453 :
日本@名無史さん :02/07/31 20:08
>>449 >辞典も引いてみたの?
きみのヘンテコな字書には「絶域」ってごく普通の単語が載ってなくて
「絶」は「横切る、渡る」という動詞じゃなくて「〜わたって」として載ってるわけ?
454 :
日本@名無史さん :02/07/31 20:41
>>451 うんキミはね。でも他に中傷してる人がいるからね。
"為"についてのキミの意見は?又、他の人もいい例見つかった?
まねる、というか振りをする、そのように振舞うという意味はあるよ、辞典に。
学研の字書もいいけど、初歩的な用語が主なのでは?他のも読んでみれ。
>>453 の
"絶"もそう。他に険しいとかいう意味もあるけど、ここは遼東周辺の広い地域を指
した個所だから。
あと、漏れ先に言っとくわ。次の土曜からまた2週間ほど、田舎へ遊びに行く事に
なった。しばらく間が空きそう。勘違いしないで、逃げるんではないよ。20日すぎに
は戻る。ただ本物の宿題のほうもヤバイし、今までのペース(434に)でのカキコはちょ
っとキツイよ。だから能率よくいって欲しいの。
>>402 、410ように公孫に触れるからには
説得力のあるやつにして。中傷とか揚げ足とりとかさらに逸れてく会話はもう見送るよ。
もちろん放置なのならそれでもいいし。
455 :
日本@名無史さん :02/07/31 20:57
いいから絶が「〜わたって」だと書いてる字書の名前と出版社書いてみ。
456 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:00
しょうがないなぁ。東夷伝から。 【扶余】 邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。 用刑嚴急、殺人者死、沒其家人爲奴婢。 以弓矢刀矛爲兵、家家自有鎧仗。 有軍事亦祭天、殺牛觀蹄以占吉凶、蹄解者爲凶、合者爲吉。 牛加兄子名位宮、爲大使、輕財善施、國人附之。 麻余死、其子依慮年六歳、立以爲王。 今夫餘庫有玉璧、珪、[王贊]數代之物、傳世以爲寶、耆老言先代之所賜也。 【高句麗】 隨山谷以爲居、食澗水。 東夷舊語以爲夫餘別種、言語諸事、多與夫餘同、其性氣衣服有異。 本涓奴部爲王、稍微弱、今桂婁部代之。 今胡猶名此城爲[巾責]溝[シ婁]。 涓奴部本國主、今雖不爲王、適統大人、得稱古雛加、亦得立宗廟、祠靈星、社稷。 無大倉庫、家家自有小倉。名之爲桴京。 無牢獄、有罪諸加評議、便殺之、沒入妻子爲奴婢。 積石爲封、列種松柏。 西安平縣北有小水、南流入海、句麗別種依小水作國、因名之爲小水貊、出好弓、所謂貊弓是也。 王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞爲寇盜。 遼西大尹田譚追撃之、爲所殺。 莽大悦、布告天下、更名高句麗爲下句麗。 當此時爲侯國。 遼東太守蔡風、玄菟太守姚光以宮爲二郡害、興師伐之。 拔奇不肖、國人便共立伊夷模爲王。 拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口詣康降、還往沸流水。 伊夷模死、立以爲王。今句麗王宮是也。 句麗呼相似爲位。 似其祖、故名之爲位宮。 其五年、爲幽州刺史毋丘儉所破。 もういいでしょ。 今度はあんたの番だ。 『○○為』で、『○○をまねる、ふりをする、振る舞う』という意味となる用例をあげれ。
457 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:39
>>454 「不得通於諸夏」は「通」が動詞で於のあとの「諸夏」が目的語です。
だから原文と反対に中国を指す「諸夏」を主語にしてしまって
「ここは中国側から行かなかった、って事さ。」と読むことは無理です。
458 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:40
イツマデやるの?
459 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:42
きみがばかげた間違いを素直に認めるまで
460 :
いつまでやるの 1 :02/07/31 21:43
461 :
いつまでやるの 2 :02/07/31 21:44
462 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:45
彼は答えられなくなって荒らし始めました。
463 :
佐波のむだっずかい :02/07/31 21:46
↑このスレ8000レス自体2chの嵐
464 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:54
きみが西都荒らしやってた人だね。
465 :
日本@名無史さん :02/07/31 21:55
>>454 >まねる、というか振りをする、そのように振舞うという意味はあるよ、辞典に。
そういう意味が字書にあっても「天子爲其絶域」の主語は「天子」で動詞が「為」。
“天子の振りをする”って意味になるわけがない。
主語だったものが目的語に化けるような無茶苦茶な珍読はやめてほしい。
466 :
日本@名無史さん :02/07/31 22:32
太祖表度為武威將軍封永寧鄉侯、 度曰 「我王遼東何永寧也」 藏印綬武庫。(魏志公孫度伝) と言う話があるくらいだから、遼東に対する公孫一族の立場が強大なことはわかるだろう。 ただし、度の後にはヘタレもいたし、魏との力関係が50年間一定であったはずもない。 東夷諸国が漢・魏と直に通交できた状況も考えられる。遣使もあったかもしれない。 しかし、魏志の体裁では、倭人の遣使は、景初が1回目であることは確かである。 また、魏志の記述=真実ではないのだから、東夷伝序自体も淵を滅ぼした司馬氏の業績を顕彰するために 誇張されたものかもしれない。 だけどね、自分の歴史観と史書の内容が合わないからと言って、文章の読み方で辻褄合わせはできませんね。
467 :
日本@名無史さん :02/07/31 22:52
なんかだんだんわけ分かんなくなってない?このスレッドは何かやっぱり変だよ。
漏れ図書館で調べたからね。複数の漢和辞典で。何だったら明日いってメモって
くるよ
>>455 、456。
>>457 いや主語じゃないのは分かってる。諸夏に於いて通(うこと)得ずだから。
また揚げ足とられそうだけど、言うなら期間的というか。sinceやinみたいな・・・
うまく言えないけど、目的語ともちょっと異なるね。諸王朝の頃には、という意。
>>458 、459 きみって漏れ?なんかようわからん。
>>465 ここは主語動詞とかで漏れ読んでないよ。何度も言うけど淵の説明文中
だし、人物の目的語がないから。補語的に返り点だけで読んだ。
でね、457も465もさ、自分の意見って書いてないじゃん?それを書いてよって
いったんだけどなあ。できません、とかむちゃくちゃとか書く余裕あるんなら。
漏れ現在宿題片手にカキコしてるから、ペース落ちるのは大目に見れ。
468 :
日本@名無史さん :02/07/31 22:55
あら、
>>466 はいってたの。待って。後でちゃんと書く。
>>467 語順間違えるなよ〜〜〜〜
○○為・・・・で『○○の振りをする』だぞ。
・・・為○○で『○○の振りをする』はあるに決まってるからな。
待ってるぞ〜〜〜〜
470 :
日本@名無史さん :02/07/31 23:23
>>466 うん、ちゃんと相手してくれてちょっと嬉しい。
ただ漏れは>景初が1回目であることは確かである、
の確信が欲しいの。(そうそう、もともとはこの話しだったのよ)
これが確かに1回目、って言うやつ。でないと常識的にだよ、普通に考えたらさ、
1回目の朝貢で王になれる、ってすごすぎると思わない?あなたはこの点、どう考えて
ますか?
そして度だけども。度の頃はさ、別に公孫氏だけじゃなくってもみんな野心持っていた
わけだから。袁紹や袁術にしてだってそうだし。群雄が乱立し始めた時期だけに王に
なろうとした、皇帝になろうとしたってのは度に限ったことではないと思われ。
(袁の字探すのに時間食っちゃった)なんかばたばたして。
今、もう一杯一杯なんだけど。
471 :
日本@名無史さん :02/07/31 23:40
>言うなら期間的というか。 お、またヴァカ丸出しだね。 いいぞ、いいぞ。 あのね「〜に通ず」の「に」なの。 何も難しくないの。 何でそうひねくって考えるかなあ。 あ、そうか。根性がひねくれてるからだあw
472 :
日本@名無史さん :02/08/01 00:04
あなたの公孫氏に関する見解に部分的に同意してる人は少なからずいる でも、ほとんどがロムしたり、積極的に賛同しないのは あなたに問題があるから。 漢文の読み方はもちろん人間性も含めて。 天子為、絶域、‥‥etc、酷すぎて話にならない。
夏休みの宿題 頑張ってねー
474 :
日本@名無史さん :02/08/01 00:37
こいつ高校ちゃんと行ってるのかな。
475 :
日本@名無史さん :02/08/01 00:55
やっぱり中傷に走るのね。 解説ができるのならやってくれればいいのに。漏れにさせずにさ。 漏れも楽だよ。中傷するだけならね。 相手に解説できないのは自分が理解できていないから。前にも書いたよね。 漏れは自信あるし、中傷は自信のない表れだと思ってるから。 454に書いたようにもうこういうのは無視するよ。きりがないから。漏れも忙しいし。 解説してくれる人にだけ反応することにする。
>>466 氏の見解に積極的同意。
466氏はどなたでしょうか?
きっと私も少しは知っている方でしょうか?
字を調べる時は「諸橋大漢和」は最低の備品ですね。
477 :
日本@名無史さん :02/08/01 01:59
>>476 自信があろうがなかろうが間違いは間違いだしな。
馬鹿は馬鹿と形容するしかないのも仕方がない。
478 :
日本@名無史さん :02/08/01 02:00
>>439 に禿同。
絶域の意味一つにしても、中傷だの何だの言われて
48時間以上たって一つも進歩無いんだから
もうどうしようもない。無駄。
>476
>>442 ・443に反応しないところ見ると
この人はたぶん大漢和の存在すら知らないんだよ。
479 :
日本@名無史さん :02/08/01 02:09
しかし図書館に行って調べるて言ってるちゅうことは 彼の手元にある字典には彼の主張するような言葉の意味は書いてないってことだな。 明日はなんて言い訳書くか楽しみだ。 前に調べたときにはたしかにあったが、今日は誰かその字典が持ち出してる・・とかさ。
480 :
日本@名無史さん :02/08/01 10:31
私が松浦半島に関連して「黒潮」という言葉を使ったところ、 前スレッド(7)の834〜837で; >837 :日本@名無史さん :02/07/09 20:49 >さすがに松浦半島から黒潮に乗っちゃうってのは凄絶だな。 などと言って「黒潮」の揚げ足を取った馬鹿者どもがいたが、そのまま になっていたので答えておこう。 講談社「日本語大事典」で「くろしお」を引くと; [黒潮]日本付近を流れる暖流。フィリピン東方から台湾東方を通り、 南西諸島西方から日本南方を経て、本流は関東沖で東方に折れ、北米海岸に 達する全長6000Km以上の海流。支流は対馬暖流として九州西方に 流れる。 わかったかね。 対馬海流(対馬暖流)は黒潮の支流なのだ。 言い換えれば「対馬海流」は「黒潮」の下位概念なのだ。 それではこのような意味で「黒潮」を使っている学者の文章を引用しよう。 「吉野ケ里・藤ノ木と古代東アジア」という本に次のような文章がある; 「そういう古い時代に海を渡ることができたか、できないかということです。 現在は海流のことから考えて、揚子江下流から日本の九州まで小さい船でも 航行できるだろうと考えております。なぜかというと、たとえば台湾から沖縄に そって対馬までは南から暖流(黒潮)が北上しており、この暖流によって海上の 交通は助けられました」(132頁) これは安志敏という中国人の学者の日本語だが、(黒潮)と注釈したのは 編集した上田正昭だろう。 馬鹿者どもはこの本にも文句を付けないといけないね。 だいたい「ツシマカイリュー」などというのは明治以後の造語だということ を考えないのだろうか。それ以前は暖流が黒潮、寒流が親潮ということでしか なかったのだ(他のヤマト言葉もあるが)。 学校で「黒潮と対馬海流」と習えばそれが唯一の言葉だと思いこむ、 単細胞どもめが。
>>478 478は諸橋氏を知らないみたいだね。
大漢和の編者を知らないと思われ。
>>480 黒潮の解説までたいへんですね。
482 :
日本@名無史さん :02/08/01 14:16
罵倒、中傷無しでいこうや。
483 :
日本@名無史さん :02/08/01 20:14
図書館言行ってきますたー。あー疲れた。7時起きでだよ、ちょー眠かった。
自習席確保するためにはやむなしだけどね。
辞典メモってきたよ。他にもあったけどこれだけあれば信じるでしょう。
角川:漢和中辞典 貝塚茂樹 藤野岩友 他編
大修館:廣漢和辞典(中巻) 諸橋轍次 鎌田正 米山寅太郎 編
三省堂:新明解漢和辞典 長澤規矩也 編
集英社:漢和広辞典 宇野精一 編
>>481 の諸橋氏ってのはこのおっさんか?あと例文も探してみたんだけど、ベストな
ものが見当たら無かった。そっちはどう?何かいいもの見つけた?
連れと一緒に行ってたんだけど、やっぱりここは動詞的に読むのは苦しくないか、
って言ってた。後ろに人物の目的語がないもんねえ。当の諸橋のおっさんは大修館で
もう一つ、新漢和ってのも編んでるんだけど、下の語を上に結ぶ”之”の活用もある
って書いてたぞ。英語のofだな。連れは漏れの「・・のように振舞う」訳を、わざわざ
回りくどく言わなくても、「そのまんま・・たり、・・たる、・・なり、でいいじゃん」
て言ってた。ま言われてみればそうか。その絶域の天子たり、でもいいのか。ま漏れ
は公孫淵がそういう行動をとったという事が伝わればどっちでもいいんだけどね。
宿題もちょっとだけ進んだよ。半分まではまだあるけど・・・さ、メシ食お。
484 :
日本@名無史さん :02/08/01 20:25
そいつも漢文赤点か?
485 :
日本@名無史さん :02/08/01 20:48
>>483 辞典の名前だけメモってきても何にもなんないでしょ?
なんて書いてあったかメモってこなきゃ。
486 :
唖然、呆然 :02/08/01 20:49
お前図書館に何しに行ってきたんだ? 必要なのは用例だよ。辞典の名前列挙したって意味無し! しかも、わざわざ図書館行って大漢和引いてこなかったのか、このアホたれ! >あと例文も探してみたんだけど、ベストなものが見当たら無かった。 用例がないってことは、あんたが主張しているような使い方は出来ないってことだ。 どうしても自分が正しいと言い張るなら、用例を探してこい。 そのためには、大漢和引け。大漢和になければまずない。 >「そのまんま・・たり、・・たる、・・なり、でいいじゃん」て言ってた。 その連れもアホだな。 >ま言われてみればそうか。その絶域の天子たり、でもいいのか。 よくない。“たり”と読むなら、「天子、その絶域たり」、だ。 意味が通らないだろ。 お前、図書館に行く前に漢文の先生の所へいって漢文の文法を一からやり直してこい。 文法がこうもムチャクチャでは辞書を引いても無駄だ。
487 :
日本@名無史さん :02/08/01 21:01
どんな字書ひいても「〜にわたって」なんて書いてないだろうけどね。
また中傷?他になんかないの?つまらない事ばっかりよく書けるねえ。 全く進歩がないじゃん?そんな人が何書いても一緒だよ。 自分の意見をまずはっきり主張したら?相手を否定することなんて誰にでもできる。 否定より肯定する方が難しいもんね。
>>470 「ただ漏れは>景初が1回目であることは確かであるの確信が欲しいの。」
う〜ん。私の文章には、その前に「魏志の体裁では」って言う前フリがあるんだけどな。
正始遣使は帝紀・東夷伝の双方に記事があるが、景初遣使は帝紀の方には出てこないこと
でもわかるように魏志には全ての遣使記事が記録されているわけではない。
だから、あなたの主張が正しい可能性もあるよ。 だけどね・・・
実は、私は「而公孫淵仍父祖三世有遼東・・・云々」をコピペした
>>246 でもあるんだけど
その東夷伝序は、司馬懿の名声を高めるための誇大広告だと言う意見もあるようだが、
兎にも角にも、倭人の京都遣使がありえない状況を記述している。そういう「体裁」になっている。
白髪三千丈の国だ、晋朝の官吏である陳壽がこの程度の文飾をしてもおかしくはない。
それから、補足すると
後漢献帝 延康元(220)年、濊貊,扶餘單于,焉耆,于闐王皆各遣使奉獻(魏志文帝紀)
上記のとおり遼東公孫氏50年の間にも東夷からの遣使は行われている。
だから、倭人にも遣使の機会はあっただろう。ただし、韓・倭からの遣使の記録はない。
これは、
建安中公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡・・・是後倭韓遂屬帶方(魏志韓伝)
とあるように、この時点では、韓も倭も公孫氏の配下にあり、「直参」の必要がなかったのかもしれない。
なんか今すっごく繋がりにくくなってない?2chのトップが開かないよ。
何かあったのかな?夕方のあれか?
>>488 もサゲにしてやっとうてたんだ。
漏れの文章
>>434 で全部上げたけど、そこの
>>302 の部分から。
倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑、舊百餘國漢時有朝見者、今使譯所通三十國
これでスレッドの本筋にも戻れそう。ここの"今使譯所通"の部分。
これは倭人伝中の3度の使いだけを言うのかな?その前にもあったから今やってくる
所が、と言ってるんじゃないのかなあ。これについてはどう思います?
>488 >自分の意見をまずはっきり主張したら? たぶん(まず間違いないだろうが),君を除いた,他の者の意見は.ほぼ一致してる(万一違う人がいたら言ってね)。 そして,その意見は今までさんざん出ているとおり。 特に466あたりの意見が一番妥当なところだろう。 君が納得しないと言ってるだけだと,多分みんなは思ってる。 納得しないと言い張るのは,それはそれでやむを得ないけどね。 君をこのまま放置するのも,君自身が言うように一つの方法だろうね。 だけど,君は別の話題でも同じような論法(といえる代物でもないが)で今後も書き込むんだろう? それはそれで,まわりには思いっきり迷惑なんだよ。 勿論,私は管理者でもなんでもないただの通行人なんで,君に来るなと言う気はないし言える立場にもないけどね。 さらに,どうせここは2chだし,アカデミックな話題や議論にはほど遠いカキコミだらけなんで 君の存在は,ここでは,程度の問題でしかないけどね。 繰り返し繰り返し言うけど,漢文の基本的な読み方くらいは理解してよね もっというと,議論のしかたなり,論理的な物の考え方なんかを学ぶべきだよ それはともかく,過去の色々なカキコを改めて虚心坦懐に読んでごらん 相手の言っていること,言おうとしていることを理解することが君の最初の課題だろうね
492 :
日本@名無史さん :02/08/02 01:08
>自分の意見をまずはっきり主張したら? 天子が主語で為が動詞 絶域:遠く離れた地域 諸夏:中国 委:ゆだねる こうじゃない、って言ってるのはあなただけです。 >その絶域の天子たり 天子為其絶域、をこう読み下すんですか? もう、ついていけません。 老婆心で言いますが、これ以上は恥の上塗りを重ねるだけですよ。 引っ込みつかなくなったのは分かりますが。
>>491 以下の2行を除いては了解しますた。
>漢文の基本的な読み方くらいは理解してよね。もっというと,議論のしかたなり,
>論理的な物の考え方なんかを学ぶべきだよ
読み方くらいと言われても、漏れまだみんなの読み方見てないっす。漏れが一人でばたば
たやってるだけだもん。みんながそんなにすごいのか、煽っているだけなのか、そこを
見極めせてもらわないと。議論のしかた、論理的なもの・・漏れより守れていない人が
たくさんいると思われますし。
>>492 いや、別に引っ込みとかじゃなくって自信もってますってば。今のとこは。
あなたの内容はこれまで他の人も言ってますので。でもみなに共通するのはその先
自分の意見が書いてないの。それを書いて欲しい。漏れが一人で書くからよけいに目
立っちゃうんです。それがいやなのでは?
あのー漏れ別に目立とうとかないっすよ。だから放置いいですって。それを中傷し
たり、煽ったりしてる人達が多いなーって。そゆうのOKなんすか?このスレッドでは。
>>493 >読み方くらいと言われても、漏れまだみんなの読み方見てないっす。
君は自分に都合悪いものは全て見えなくて、
自分に反対するものはすべて中傷なんだね。
もう一度言うけど、ここの君に対するカキコに誹謗はあっても中傷はないよ。
全部事実だし、的も射ている。
忠言逆耳(忠言耳に逆らう)
という孔子の言葉もある。
忠言を中傷だと言って逃げていたら君の進歩はないよ。
491の言うとおり、虚心坦懐にもう一度初めから読み直すことだ。
495 :
日本@名無史さん :02/08/02 02:42
其の絶域の天子たり、 ってどうやって訓点打つんだよ。 絶域から天子に上がって二点、 で三点は為に下がるのかw 何でこんな奴が倭人伝スレにいるんだ 倭は遣使してた。 この地域を委任されてた公孫にね。 で、公孫が滅ぼされたんで 魏に遣使した。 「天子に至りて朝献せんことを求む」
497 :
日本@名無史さん :02/08/02 03:34
>みんながそんなにすごいのか 全然すごかあないよ。議論以前の常識の話してるだけだから。 絶域は遠い遙かな地域のことなんて誰でも知ってることだから。 どなたかが書いてたように、あなたの言ってることは 私たちがペンだと認識してる単語を、いやこれは本だ、って言ってるんだから。 あなたは先に先に進みたがってるけど、 議論を進めるには当然共通の認識ってのが必要なわけ。 前提としてここまではみんなが同意・納得できるっていう。 で、あなたを除く全員が、絶域は前述のような意味だし 天子為は主語と動詞だし、諸夏は中国、ってことで納得してるわけ。 つまり、これらは議論の余地がない当たり前のことだと認識してるわけ。 それを違うって言うなら、あなたが私たちを納得させねばならないの。 絶域には広い地域(だっけ)っていう意味があるってこと、 〜為が、〜のように振る舞う、と解釈できること、などを 他にそういう意味で使っている用例を示すなりして。 議論はそれから。逆じゃないよ。 この文章はこう解釈できるから、この単語はこういう意味になる、じゃなくて、 この単語はこういう意味である、だからこの文章はこういう意味である、 こういうのを論理的思考って言うの。 あなたが今まで言ってることは、全て非論理的・非合理的で 誰も納得できないのは当たり前。
498 :
日本@名無史さん :02/08/02 10:31
自分の読み方を書けというが、そんなことをおまえのためだけにする気に なれないほど、おまえの程度は低く、態度は傍若無人なんだよ。 議論などする気にもなれないほど、ばかげた解釈しかしていないのに それを指摘すると、反って相手の態度をなじる、自分の浅墓さをようく考え直さないと。 自論などおまえのために開帳する気にもならないし、一般的で、当たり前の解釈 さえできないなら、書き下し文の載った本でも読め、としかいいようがない。 ここは学術板なんだから、水準に「遠く」達していない奴はそれなりの扱いしかされない。
499 :
日本@名無史さん :02/08/02 10:54
掲示板を使ってのやり取りなのに持論を開示出来ないってのは如何なものか。 議論にならないじゃん。
500 :
ジェル佐々木 :02/08/02 10:58
500ゲットだな!
501 :
日本@名無史さん :02/08/02 11:04
>>499 議論の対象外の相手に、持論を述べてやるのは片腹痛いと書いてあるんだろうが
日本語読めない?
502 :
日本@名無史さん :02/08/02 17:29
>>494 >忠言を中傷だと言って逃げていたら君の進歩はないよ
漏れ
>>454 で言ったけど明日から遊びに行く。帰って来るし、逃げんではないので
もっかい言っとくね。それに中傷。まあ漏れまともに聞いてはいないけど、多いよ、
ここは。他の板スレッドに比べて。これを忠言ととれっていわれてもねー・・・漏れは
使った事ないから理解できないけど、アホとかヴァカって忠告なの?だからOKな
の?って聞いたの。
>>495 、497 例えばこの人達がきちんと解説してくれればいいんじゃない?
結局漏れのネタなぞるだけで持論だしてくれない。
>>498 >水準に「遠く」達していない奴、
かどうかは持論だしてそこを判断させてもらわないと分からないし、
>>501 >持論を述べてやるのは片腹痛い、
何のためにカキコしにきてるのか分かんないよ。漏れは
>>499 に同意れす。
503 :
日本@名無史さん :02/08/02 17:30
>>503 1.稲作の発祥は東南アジア(原始的な焼き畑農法)
2.水田の技術は中国南部
3.稲作の伝播は、稲作は半島経由では無い、でも水田技術は半島経由かもしれないぐらいじゃないか?
505 :
476・481 :02/08/02 19:02
>>483 「大漢和」諸橋編 をまず開いてみること。
数キロはあるから足の上に落とさないように。
世界最高の漢字辞典。
諸橋氏もよくぞ用例を集めたものだ、敬服しすぎてしすぎる事はない。
古文書については中国人の絶賛し活用すると聞く。
この漢字辞典が日本で作られたことは、漢文を読むものにとって嬉しいことだ。
483氏へ:漢文を本格的読むには、この「大漢和」除いて、他の辞書は用例が少なすぎる。
結局,何言っても無駄なようだね >499 自作自演なのかもしれないけど,念のため 他の人の考えは従前から出てるとおり。 それからね, 「持論を持つ(あるいは主張する)」ということが, 「誤りを指摘する資格」や「指摘内容の当否」と関係があると思ってるのかい ? 深く考えずに書いたんだろうけど,論理のなんたるやをよく学びましょうね 議論する場合の初歩の初歩だよ
507 :
日本@名無史さん :02/08/02 19:59
508 :
日本@名無史さん :02/08/02 20:14
>>504 3.について異議あり。
畑作農業としての陸稲は朝鮮半島経由も考えられるが、
水稲については中国から沖縄経由で伝わったのではないでしょうか?
朝鮮には畑作の陸稲は受け入れられても、水稲を受けい入れられる農業の素地はなかったと考えられます。
一方日本では里芋栽培の技術がありましたから、水稲を受け入れるのはたやすいことと考えられます。
朝鮮半島の水稲は南部から北部へ広まったと考えるのが自然と思います。
朝鮮半島南部と九州に水稲が伝わったのは、ほぼ同時期と考えられます。
農耕技術を踏まえて検証していくべきと考えますが。
昔の東大京大の歴史学者のように自然科学的手法を無視して推論するのはもうやめましょう。
彼らはもう歴史学の化石とみなしてよいと思っています。
509 :
日本@名無史さん :02/08/02 20:45
なるほど、沖縄がカギか。偉大な琉球の存在を忘れていた。
510 :
日本@名無史さん :02/08/02 21:18
沖縄で水稲農耕が始まった時期知ってる?
初めてこのスレに来られた人へ。 ここは自作自演スレです。ここに棲んでいるヌシは巧みにあなたを誘います。 夏休みの誘惑と同様、うかつに手を出してはいけません。 最後に傷つくのはあなた自身です。 書きこみする際にはよく気をつけましょう。
この調子で自問自答してくれればいいのにね。
513 :
日本@名無史さん :02/08/02 22:27
>>476 =481=505 新信者ハケーン!「諸橋信者」!!
辞典の宣伝を主目的としていると思ワレ!注意!
自分がエライとでも思っているのだろうか?辞典を編集したやつが偉いんだろ。
514 :
日本@名無史さん :02/08/02 22:53
>>508 その話に興味あるっす。
>朝鮮半島の水稲は南部から北部へ広まったと考えるのが自然と思います。
>朝鮮半島南部と九州に水稲が伝わったのは、ほぼ同時期と考えられます。
この部分を証拠立てる事例があったら教えて下さい。
515 :
日本@名無史さん :02/08/02 23:13
どっちにしろ、漢文をどう読むかは語学の問題であって 持論がどうこうとは関係ない。 裏を返せば、持論いかんで漢文の読み方が変わるというのは詐欺だ。
516 :
日本@名無史さん :02/08/02 23:26
>>511 ←こいつが執拗に西都原コピペで荒らしてるやつです。
>>514 >朝鮮半島の水稲は南部から北部へ広まったと考えるのが自然と思います。
「中国中北部(畑作地域)まで広まった水稲は、海を渡って朝鮮半島の北部(畑作地域)はたに伝わった。
ついで、朝鮮半島では水稲の栽培が北部から南下した。」と言う説は否定されるので、
南部から北上したと考えざるを得ないことを述べたまでです。
>朝鮮半島南部と九州に水稲が伝わったのは、ほぼ同時期と考えられます。
中国方面から日本へ来る方法は、沖縄経由又は沖縄近海で黒潮(対馬海流)に乗って九州に北上するのが一番安全確実は方法です。
この場合九州と朝鮮半島南部に到着する確率は同じです。
水稲を持った中国難民は九州北岸と朝鮮半島南岸に到着します。
この難民とは、前漢時代にまだ江南にいた人々で、海峡の両側に定着したと考えられます。
つまりその人々は倭人です。かれらは東シナ海の両側で同じ風習をもっています。
又、現在では中国江南での人口比は小さくなっていますが、彼らの身体的特徴は同じです。
中背(中国では低い)、一重まぶた、蒙古斑、胴長短脚、華奢な体型、体力が劣る。
以上簡単に端折って書いてみました。
今度は水稲厨かー。 一体どこまで逝くのやらー。
おい、7をもう1000まで使おうぜ。
520 :
日本@名無史さん :02/08/03 00:04
>>518 無理に話題転換しようとしてる人物の投稿だ。
留守の振りしながら誰がしてるかは明らかだが。
521 :
日本@名無史さん :02/08/03 00:19
そんなこといってみにたいに潰す気だろう
>508 いやどっかの本でそんな事書いてあったが…、定説だと思ってたのに…。 まあそれはいいとして順番に予想して逝こうや… 1.始度一海千餘里至對海國 (對海國=対馬?) 2.又南渡一海千餘里曰瀚海至一大國(一大國=壱岐?) 3.又南渡一海千里至末盧國 4.東南陸行五百里到伊都國 5.東南至奴國百里 6.東行至不彌國百 7.南至投馬國水行二十日 8.南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 (邪馬壹國=但馬)
523 :
日本@名無史さん :02/08/03 00:34
夏の思い出(日本史版バージョン) 作曲・中田喜直 作詞・日本@名無史さん 夏が来ーれば わいてくる おもろい奴 変な奴 夢の中で わいわいと 騒ぎ立てる 自説だけ 他人の目など ちっとも 気にしない 夢見て 騒いでいる 2チャンの中で 偉いの撲 他は馬鹿 P.S. 漢字使わない方がよかったかなー
実は折れん家から徒歩五分のところにあったりする
センスねえなあ、逝ってよし
夏の思い出(日本史版バージョン) 作曲・中田喜直 作詞・日本@名無史さん 夏が来ーれば わいてくる おもろい奴 変な奴 夢の中で わいわいと 騒ぎ立てる 自説だけ 他人の目など ちっとも 気にしない 夢見て 騒いでいる 2チャンの中で 指摘されても 気にしない 偉いの撲 他は馬鹿 いいんだよ気にしないから >誰かさん
おい、本当に複数いるのか。いるんなら7をさっさと片付けようぜ。 その作詞、向こうに張り付けてやれや。 それともやっぱり自作自演なのか。
せめて>おもろい奴 変な厨、にしろよな。奴が重なるのは減点。
>夢見て 騒いでいる、も咲いている、のままがいいねえ。2chの中で、、、
532 :
日本@名無史さん :02/08/03 01:12
夢のなーかで ざわざわとー このほうが夏厨の感じ出てるかも。
残り30レスが埋まらんとはな。 やっぱり自演なのか。
1000いくと、速攻でデタ落ちするから、しばらくこのままにしとけ。
535 :
日本@名無史さん :02/08/03 15:46
倭人伝はもとが漢文だからな。 すくなくとも高校卒業程度の学力はないと邪馬台国論争は無理だ。
>>517 半島南部は倭の領域だったってのは、ここじゃ頑なに拒否されんのよ。
何故だか知らんが…
537 :
日本@名無史さん :02/08/03 17:09
半島南部と九州に領域があって、博多がキャピタルだった と思う。
538 :
日本@名無史さん :02/08/03 18:15
あほ
夏休みで大量参加のリア厨工生に倭人クイズで楽しんでもらいましょう。 第1問 魏志に登場する倭人の中で「姓」を持つ人が一人います。さあ、誰でしょう。 (顕かに有姓と言われる人は一人だけ、卑(姓)弥呼(名)なんてのダメ) 第2問 魏志に記される倭人の国々。 その中で同じく魏志の韓伝にも同名の国が記録されているところが有ります。 それは、次の中のどの国でしょうか。 1 末盧國 2 到伊都國 3 奴國 4 不彌國 5 狗奴國 第3問 卑弥呼が、魏からもらったプレゼントに含まれない品目はどれでしょうか。 1 眞珠五十斤 2 鉛丹五十斤 3 班布二匹二丈 4 銅鏡百枚 5 五尺刀二口
542 :
日本@名無史さん :02/08/03 23:38
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう
543 :
どうして邪馬台国の場所がわからないかといえば :02/08/03 23:40
西都(邪馬台国)。(原田常治説) つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。
自分のサイトでやったら ? 「西都のサイト」 なんてね つまんない? 分かってま
>>536 >>537 水稲伝播時には、中心地は対馬壱岐及び対馬朝鮮海峡の両岸部に漂着。
彼らの存在は日本韓国の神話に見える。
後世日本側の彼らは倭と呼ばれた。朝鮮側の彼らが倭と呼ばれたかは議論の分かれるところ。
しかし、彼らは同じ生活基本文化をもつ仲間と認識していたようである。
彼らそれぞれは内陸に向かっての内容の神話を持っていることから裏づけられる。
神話の内容からみると対馬以南の彼らは日本側の倭と呼ばれるようになった。
魏志倭人伝の渡航経路のスタート地点からの記述から見ると、
中国側も倭の範囲を朝鮮半島南部沿岸部も倭の領域と認識していたように読める。
時代が下ると好太王碑には朝鮮半島内部も倭の領域と認識していたことが見られる。
倭人の発音であるが、韓国慶州方言と関西弁のイントネーションが似ているのは偶然と言えない。
両地域に倭の話方が残ったものと考えてよい。なぜなら、両地域のみが他文化に侵略征服を受けていない地域であるから。
日本では大和政権の地域。韓国では新羅政権の地域。
546 :
日本@名無史さん :02/08/04 00:25
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう 543 名前:どうして邪馬台国の場所がわからないかといえば :02/08/03 23:40 西都(邪馬台国)。(原田常治説) つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。
>>446 西都遺跡群を卑弥呼に結びつけるの論理の飛躍。東大京大の化石先生と同じ議論の進め方。
同時代の別の政権と迄しか議論が進められない。
西都の地名は後世7世紀に下る考える。西都はの意味については積極的に同意。
しかし、政治組織が中国風に確率されたのは6世紀初頭と推定される。
西都と呼ばれたのは、8世紀初頭とみなされる。当時の大和中央政権に対抗する九州伝統政権最後の地として。
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう :どうして邪馬台国の場所がわからないかといえば 西都(邪馬台国)。(原田常治説) つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。
西都じゃなくって西都原だっちゅーの。 宇都宮とおんなじじゃん。
550 :
日本@名無史さん :02/08/04 01:10
>>548 元東大教授 黒板勝美 のボケおっさんは対馬にあった、九州説を裏付ける証拠を、隠滅したかっただけ。
この西都コピペ、普通じゃないな。 なんかワケあり?
552 :
日本@名無史さん :02/08/04 01:27
>481 おまえ氏ね
553 :
日本@名無史さん :02/08/04 01:39
>>551 昔から常連の荒らしさんだよ。
もちろん本当の南九州説じゃなくて北部九州説のひとだ。
言い負かされるたび腹いせにコレ始めるんだ。
>>553 レスどもです。
ただの荒らしならいいんですけど(よかないかw)、
なんかキナ臭かったりしたもんで。
サイコすれ
だから、邪馬台国ははちまんたいだっていってんだろ!?
557 :
日本@名無史さん :02/08/04 12:14
言ったらどうした?
558 :
日本@名無史さん :02/08/04 14:11
>555 ムっちゃワロターYO! 禿同!
559 :
日本@名無史さん :02/08/04 14:14
最高のスレ?
このスレを良く知る者には確かにオモロイ>555
サイトすれ
562 :
日本@名無史さん :02/08/04 15:22
サイトずれ
サイト馴れ
564 :
日本@名無史さん :02/08/04 16:16
福井県が定説です
>>561 、562
いやいや。それを知ってるから>555が面白いのよ。イッちゃってるからさ。
566 :
日本@名無史さん :02/08/04 21:28
漢文ぜんぜん読めない厨房とかいるけどサイコとまでは言いすぎか。
>>566 それ全部ひっくるめてダロ。
漢文厨、サイト厨、自演厨、コピペ厨、etc...
全部まとめて、サ・イ・コ
568 :
日本@名無史さん :02/08/04 22:52
569 :
日本@名無史さん :02/08/04 23:47
>>567 ようするにキミ、邪馬台国の話してほしくないんだね?
何か困ることでもあるの?
>>569 いや、
>>567 は、厨くん達が全く居なくなったら、
実社会での憂さ晴らしが、ここで出来なくなるから
それはそれで困るんだと面割れ。
>>569 >>ようするにキミ、邪馬台国の話してほしくないんだね?
569の過去のカキコミを指摘してもらえると有りがたいんだが
それによって答えが変わるからネ
サイコトーク、はじまりはじまりっ!
573 :
日本@名無史さん :02/08/05 00:37
おまえ終了してる7にこつこつ書き込んで1000にして表示できなくしようとしてるやつだろ。
>>567 名前: 投稿日: 02/08/04 21:56
>>566 それ全部ひっくるめてダロ。
>>漢文厨、サイト厨、自演厨、コピペ厨、etc..
「漢文厨」なんていうつもりは全くないよ
「漢文すら理解できない厨」とでもいうべきだろうね
しかし,567のカキコミは,それ自体が自白だな (ワラ
>>前スレのだれかさん 1000とるのにこだわってたのに残念だったな
>555もサイコでしたー
577 :
日本@名無史さん :02/08/05 01:35
・・・1000が来る、は私ですが、何か?
>>576 やー,毎度どうも
君はあいかわらずサイコーだねー
>そんなにこだわってるなら早くおわらせてやる
けけてけてけて・・・
>>575 。
けけてけ・・・必死に打ってる姿。サイコだな(ワラ
ここでもやってよ、けけてけて!
581 :
日本@名無史さん :02/08/05 08:12
このスレ、やっとまともになったな。 漢文をエラそうに垂れるヤシが消えてくれて良かったよ。 あのての机上だけの人間には邪馬台国のことは分かりっこないよ。
>>581 >>このスレ、やっとまともになったな
まともなカキコミが無くなったからね。 (けらけら
583 :
けけらけらけら2 :02/08/05 14:07
>>581 >>漢文をエラそうに垂れるヤシが消えてくれて良かったよ
読めないヤツがここにも一人....漢文読めずにどこが邪馬台国だと?
584 :
日本@名無史さん :02/08/05 19:26
「けけてけて」がまともだと仰るようなご仁だからね。 漢文も読めないみたいだし。 なんとなく特定のプロフィールが脳裏に浮かんでくる…
585 :
10 少し落ち着きましたね :02/08/06 20:13
アマテラスおよび欠史8代は完全創作として系図を書き直すと スサノオ→オオナムチ→オシホミミ→ニニギ→神武となる。 山幸、海幸、ウガヤフキアエズは物語であり全く史実性が無い。 山幸はヒコホホデミであり神武でもある。 このことを前提として倭国大乱から崇神崩御までを時系列で追ってみた。 年は全て約である。歳は想像。 〜184年 地球小寒冷化、大陸大飢饉、黄巾の乱勃発 、倭国大乱 185年 楽浪郡より伊都国へ卑弥呼(20歳くらい)派遣 〜 スサノオが大量の鉄製武器を伴って弁辰より斯馬(島根)へ降臨 ・ その時息子オオナムチ(10歳)を連れていた 190年 オオナムチ(15歳)の長男コトシロヌシ誕生 190年 法王として卑弥呼共立、日向山田の地に邪馬台国建設(食料基地) 204年 公孫氏帯方郡設置 倭は公孫氏の恐怖政治に屈す 〜 公孫氏伊都を軍事拠点とし列島諸国を支配 210年 コトシロヌシ(20歳)斯馬(島根)の王位継承 〜 オオナムチ(35歳)奈良盆地へ進出、唐子・鍵銅鐸文明滅亡 〜 マキムク建設 オオナムチの次男オシホミミ誕生 230年 オシホミミ(20歳)、ヨロズハタトヨアキツシヒメ(13歳)と結婚 〜 ニニギ誕生 238年 公孫氏滅亡(邪馬台国および伊都の後ろ盾消滅) 239年 卑弥呼魏へ初の朝貢 240年 斯馬(出雲コトシロヌシ)国譲り(奈良への従属) 〜 オオナムチ死す(65歳) 242年 オシホミミ吉備へ進軍、平定 〜 邪馬台連合の抵抗によりさらなる西進かなわず 245年 オシホミミの子ニニギ(15歳)太平洋ルートで西進を始める 247年 邪馬台国と狗奴国戦闘状態に陥る・・・卑弥呼死す(82歳) 〜 大いに冢を造る(西都原オサホ塚・・・造り出し付き円墳、径100歩) 〜 男子王を立てるが邪馬台連合これに従わず戦乱となる 250年 オシホミミ死す(40歳) 〜 箸墓建設・・・吉備の墳墓職人大量動員(特殊器台など) 〜 トヨアキツシヒメ奈良の王を代行(33歳)
586 :
10 続き :02/08/06 20:14
250年 邪馬台連合イヨ共立・・・とりあえず戦闘終結 255年 トヨアキツシヒメ死す(38歳)・・・箸墓へ追葬→箸墓伝説 〜 以後アマツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスヒなどが奈良政権継承 265年 ニニギ(35歳)四国制圧 265年 大陸では晋成立 266年 イヨ晋に朝貢 267年 ニニギと狗奴国(薩摩大隅)同盟締結 〜 ニニギ九州臼杵近辺に上陸 270年 ニニギ(40歳)日向(高千穂の国=稲のよく実る国)を制圧 〜 邪馬台国滅亡、これより倭と中国との国交断絶(約150年間) 〜 ニニギ、コノハナノサクヤヒメと結婚 〜 神武(崇神)誕生 280年 奈良ではニギハヤヒのクーデター成立(葛城の台頭) 290年 ニニギ死す(60歳)・・・西都原メサホ塚建設 ・ オサホ塚は荒れ放題だったので単なる小山と思っていた ・ 墓と気付かずに隣にメサホを造ったところオサホを侵害していた 〜 後にコノハナノサクヤヒメをメサホ塚に追葬→オサホ、メサホ伝説 292年 神武(崇神)(22歳)東征開始 日向を出て宇佐から岡田宮へ 293年 神武九州北部(伊都)制圧 295年 神武瀬戸内を東進吉備高島宮へ入る ・ 吉備は直系の祖オシホミミの平定した地、ここで軍を再構築 298年 神武奈良へ向けて出陣 299年 ナガスネヒコを打ち破り、ニギハヤヒより奈良を奪還 302年 神武即位=ハツクニシラススメラミコト=崇神 〜 崇神 奈良の始祖オオナムチを最高神三輪山として祭る 318年 崇神崩御(48歳) オシホミミの妻である万幡豊秋津師比売(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)で あるが、三輪山とともにオシホミミを手厚くお祭りしたが未亡人となってから 身体がうずいて仕方がなかった。夜な夜な亡き夫を偲びながら棒で手淫してい たが、ある日、夜が明けるまで精をだしていたところ、家人に見つかってしま った。あまりの恥ずかしさに手元が狂い、棒を奥の方まで突き刺してしまい、 それがもとで死んでしまった。 まさに「マンホトヲアキモセズツツイテシンダヒメ」である。 そして恋しい夫のもと(箸墓)へ追葬された。なんとも切ない話ではないか。 これが箸墓伝説の真相である。
587 :
オホモツカ :02/08/06 22:37
どうしてニニギノの墓が5世紀なんだyo!
また「サイト」スレに戻るんですか
"アマテラスおよび欠史8代は完全創作として系図を書き直すと" これら「だけ」を除外する根拠はナニ? あっ、別に説明してくれって言ってるわけじゃないよ。
モウケツロンデテルヨ
591 :
日本@名無史さん :02/08/06 23:00
むしろ説明してほしくない。
594 :
日本@名無史さん :02/08/08 04:15
592は「嫌み」だろ?まさかマジじゃないよな?
もっと2chらしい展開を希望します。
596 :
日本@名無史さん :02/08/08 22:48
疲れたよ
597 :
日本@名無史さん :02/08/08 22:50
age
598 :
日本@名無史さん :02/08/08 23:42
古代の人の名前は、何かギコチナイね。 似たような音韻を使う地域が、大陸や半島にあるのか? オオナムチ、ニニギ・・・単なる音なのか? 意味ある言葉なのか?
599 :
日本@名無史さん :02/08/09 01:06
全部昔の日本語だよ 今でも「にぎやか」ってのは 残ってるだろ
それにしても、明治以来の日本語、日本境界意識、凄いものだ。
601 :
日本@名無史さん :02/08/09 16:16
ナムチに意味があるとすれば難升米はナムチオミだと思う。
602 :
日本@名無史さん :02/08/09 21:27
オイキムチとかナムルに語感に似ていると思われ。
603 :
日本@名無史さん :02/08/09 23:19
当時まだ唐辛子はなかったが…
604 :
日本@名無史さん :02/08/10 00:09
>>601 nasimeとnamutiomi全然似てないのですが、
>>601 SAIKOとSAITOの類似性についてどう思われますか ?
606 :
日本@名無史さん :02/08/10 09:28
607 :
日本@名無史さん :02/08/10 09:30
>>598 朝鮮、中国に行けばそんな古代の名前5万とアルヨ。
608 :
日本@名無史さん :02/08/10 11:12
>604 「ナシメ」というのは「難升米」の日本読み「ナン・ショウ・マイ(メ)」 の頭の音だけを取って、いわば記号的に、「仮にこう読んでおこう」と いう読み方ではないだろうか。それならば「ナンショウマイ」と読んで おく方がまだましだ。 これは倭人ではなく中国人が使った漢字なのだから、 中国人がどのように倭語を聞き取ったかを考えるべきだと思う。 倭人が例えば「ナムチオミ」と発音した時、 中国人は「ナ・ム・チ・オ・ミ」と聞き取るのではなく、 中国語の音に近づけて「ナン・チョー・ミー」と聞き取り、 これに「難・升・米」という漢字を当てたのではないか、 と考えて見たわけ。 もっとも、「ナヌシオミ」のほうがもっとぴったりだが。
609 :
日本@名無史さん :02/08/10 11:18
「オオナムチノミコト」というのは 「オオクニヌシノミコト」の「翻訳」ではないか? というのは、「ナ」は「土地、領地」という意味があったと 考えられるからだ。 すなわち「ナ=クニ」。 (因みに満洲語では今でも na は土地、領地の意味) また「ムチ」は「オオヒルメノムチ(天照大神)」のように、 有力な神に使われるから、「所有者、支配者」のような意味 かも知れない。 とすれば「ナムチ=クニヌシ」だ。
610 :
日本@名無史さん :02/08/10 11:34
夫餘王 尉仇台 簡位居 麻余 依慮 句麗王 宮 伯固 伊夷模 位宮 倭人王 卑彌呼 壹與 倭人 難升米 都市牛利 伊聲耆 掖邪狗 卑彌弓呼 倭官 卑狗 卑奴母離 (對馬國 一大國 他) 爾支 泄謨觚 柄渠觚 (伊都國) ジ馬觚 (奴國) 多模 (不彌國) 彌彌 彌彌那利 (投馬國) 伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳"革是" (邪馬壹國) 狗古智卑狗 (狗奴國)
>>592 ありがとさん♪ こういう人も居てくれてるんだな♪♪
>>610 がいいもの出してくれたので話がし易くなった。
卑狗(日、火子)
卑奴母離(火の守)
彌彌(御水)
彌彌那利(水の守…那利は母離の訛?)
狗古智卑狗
これらは日本語としてもいいんじゃないか。
その他は中国か半島系ではないの?
彌馬升(ミマシ)なんてのは、後々百済か新羅かの使者で日本に来た
やつがいたがそれと同じだ。
特に邪馬台国と伊都国の官はそんな名前ばかりだ。これは列島が楽浪
および帯方郡の支配下におかれてたと言うおいらの論と矛盾しない。
スサノオ、オオナムチは半島系だと思う。素素男(ススオ)なんて人
半島にいたよね。
邪馬台が中国(主に公孫氏)の意のままに恐怖政治で列島を支配しよう
としたのに対し、出雲(斯馬)は在地系と融合し、自ら日本人に同化し
新国家を建設した。そして奈良政権を樹立し、最終的に邪馬台国を滅ぼ
して日本列島の独立を果たした。
オオナムチじゃ半島っぽいので後に記紀でオオクニヌシあるいは
オオモノヌシのように日本語名に書き換えたんでないの。
なにしろ日本人は万世一系の皇国の民なんだから。
いつまでやるの
613 :
日本@名無史さん :02/08/10 18:13
九州の邪馬台国(大和)が出雲系の大国主殺して日本統一だよ 大国主のたたりを恐れて建てたのが当時高さ100mもあった出雲大社だろ?
614 :
日本@名無史さん :02/08/10 18:15
古田説に賛成。九州王朝は簒奪された。 王朝の中心地は博多だった。
西都(ホンモノ)ハケ〜ン。久しぶりやのぉ。
616 :
日本@名無史さん :02/08/11 08:48
古田説に反省。九州王朝は捏造された。 王朝の中心地は儚なかった。
617 :
日本@名無史さん :02/08/11 09:31
九州も大和もいまいちだよね 私は四国(讃岐)説がやはり 資料的にも実証的にも一番、 信憑性があると思いますが みなさんはどうでしょうか?
618 :
日本@名無史さん :02/08/11 13:54
マキムクには北溝、南溝からなるマキムク大溝が存在したが、箸墓から 南溝を通って北溝に合流し、北溝が初瀬川に流れ込むようである。 奈良政権の始祖オオナムチ及びスクナヒコナはマキムク建設にあたって、 マキムク川支流の旧河道と初瀬川を結ぶ運河である北溝を造営したが、 それは灌漑水路でもあった。この水路沿いに石塚、矢塚があるが、それら を寿陵だと考えると、それも治水工事の一貫としてとらえることが出来る。 続いてオシホミミも同様に寿陵である箸墓とともに南溝をつくりマキムク 一帯の大治水工事を完結させた。これにより稲の収穫も増えマキムクは東西 の交易拠点としてますます発展し、このあたりを大市と呼ぶようになった。 オシホミミのミミ(耳)は彌彌(御水)でありその功績を称えて与えられた 称号なのであろう。
わし邪馬台国の遺跡のある場所しっとるよ
621 :
日本@名無史さん :02/08/13 11:38
よかったですね
622 :
日本@名無史さん :02/08/13 12:17
奈良県だよね。
623 :
日本@名無史さん :02/08/13 14:49
熊本県だよね。
624 :
日本@名無史さん :02/08/13 17:10
なんて遺跡?
民度の低い高松ではございません。ホホホホホ・・・・・・
西都でない事だけはたしかだがな。
627 :
日本@名無史さん :02/08/13 20:43
難升米に関しては 「ナノスクネ」と読む、という説があるよ つまり、奴国の官
628 :
日本@名無史さん :02/08/13 21:50
>>626 saitonimukininarunayo!
629 :
日本@名無史さん :02/08/14 02:53
>>611 >卑狗(日、火子)
>卑奴母離(火の守)
彦、鄙守で確定だろ
630 :
日本@名無史さん :02/08/14 10:08
>627 「米」が無理でしょう。 「ナノスクネ」なら「ナン・スー・クン」と聞き取りそう。
>>629 >彦、鄙守で確定だろ
それはそれでいいと思うけど、おいらは確定とか定説と言う言葉が大嫌い
なんだな。彦は日子だろ。
太古の人間はお日様、火、水をそれはそれは大切にしてただろうね。
聖なる火を消さないよう日夜お守りしていた人がいてもおかしくはないと
思うけど。(ちょっとした言葉遊び)
彌彌、彌彌那利についてはどう思う?
632 :
日本@名無史さん :02/08/14 12:05
愛媛に決まってんジャン。 お前らもうちょっと頭使えYO。
633 :
日本@名無史さん :02/08/14 19:31
634 :
日本@名無史さん :02/08/14 19:40
635 :
日本@名無史さん :02/08/14 21:44
>>10さん >>邪馬台国(日向一帯)は食料基地的なまとまりであり、一大文化、経済を 伴った都市国家ではない。 私は、「食料基地的なまとまり」ではなくて、「同一宗教的なまとまり」で成立したクニだと思います。 むしろ、邪馬台国は日本列島にマターリと、何となく存在していた(程度の)クニという考えです。
ヘ-+------+--+-----+ヽ_ /:::|:::::::|:::::::::::::/::::::/::::::::::::::/:::::::/`\_ / ̄\::::::|:::::/:::......-―――--..........__/:::::::::::::::\ ┌ー ̄::::::::::::ヽ::|:::..-^ ̄ ^ ヽ、:::::::::\ ヽ::::::::::::::::::::::::::::/ \::::::::ヽ ヽ:::::::::::::::::::::::/ :::: \:::::ヽ ヽ::::::::::::::::::/ :::::::: \::::|_ ):::::::::::::::| ::::*::::: ヽ:|::::ヽ /::::::::::::::::| ::;;;;: l::::::::ヽ /::::::::::::::::::| ノ::ii:ヽ:: l::::::::::| |::::::::::::::::::::| /::::;リ:::l:::: |::::::::::::| |:::::::::::::::::::::l ...l::::;リ:::/:: /:::::::::::::| .|::::::::::::::::::::::l . /:ア/::: /:::::::::::::::i l:::::::::::::::::::::::::l ./::`^::::: /:::::::::::::::::/ ヽ::::::::::::::::::::::::l /:::::::::: /:::::::::::::::::::/ /:::::::::::::::::::::::l /::::::::::::: /::::::::::::::::::::::/ /::::::::::::::::::::::::i __-ー--=;;;:::::::::::::: ....::::/:::::::::::::::::::::::/ ./:::::::::::::::::::::::::::i"::::::::::::::: ヾ─ 、/"ヽ:/::::::::::::::::::::::::::::l ヽ::::::::::::::::::::::丶:::::::::: / il .ヽ:::::::::::::::::::::::::::/ \::::::::::::::::::::ヽ::::::: / l ! ヽ:::::::::::::::::::/ ii::::::::::::::::::` -::-/ / .i ヽ::::::::/ ----- ̄丶/ lヽ ヽ/ / l ^ヽ.. ヽ / l ヽ .ヽ l .l ヽ / 丶 l ヽ .l ヽ l l / ヽ___../ .ヽ---/
>>635 >同一宗教的なまとまり」で成立したクニだと思います。
むしろ、邪馬台国は日本列島にマターリと、何となく存在していた(程度の)
クニという考えです。
こりゃまた古いカキコにレスがついたもんだな。
地球寒冷化、大陸大飢饉、黄巾の乱、倭国大乱・・・そういう時代に成立した
国がマターリなんてことが本当にあると思う? もう少し想像力を働かせよう
じゃない? ひょっとしたら弥生時代を原始時代だと思ってんじゃないの?
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。」
「事鬼道能惑衆」その他奴隷(生口)献上の話、殉死の話、公孫氏との関わり
とかを総合すると、必然的に恐怖政治が導き出されるじゃないですか。
帯方郡の軍事力と鬼道という怪しげなカルトに支配され、過酷な労働(食料生産)
を強いられる一般民衆(奴隷)の姿が目に浮かびませんか?
ちなみに過去のおいらのカキコ
9,10,65,74,75,84,98,100,112,119,187,244,245,248,257,585,586,611,619,631
これらを順番に読んでもらえれば何を言いたいか判ってもらえると思いますよ。
鬼道って占星術じゃないの?
>>637 ゴメン、5番目ぐらいまで読んだがわからなかった。
なんか、辛くてそれ以上は読み進めなかった・・・・
>>638 その通り。
そして、占星術はオリエントから来たもの。
641 :
日本@名無史さん :02/08/16 01:30
南 投馬国に至る 水行二十日 官に…(略 南 邪馬台国に至る 女王の都する所 水行十日陸行一月 何か、この辺についての新説ってないの? 畿内説でも九州説でも
642 :
日本@名無史さん :02/08/16 02:48
>>608 難升米の上古音はnan thi mer
であると推定されているので「なしめ」と言うのは理論的推定形から
導かれた物と思えます。記号的にと言うような物ではないのではないかと。
それと日本語は基本的に子音+母音の形で音韻が形成されると言う特徴があり、
これは邪馬台国の時代でも同じであったと推定されています。
そこで魏志倭人伝の記述を見てみると、当時の倭国の固有名詞が
卑奴母離・卑狗・狗古智卑狗(などの様に
基本的に一音に対し一字で表記されている事が魏志倭人伝から読み取れます。
これはその後の中国歴史書一般にもいえる事です。
従って「なむちおみ」を「なんちょーみー」と聞き取り、難升米と
表記したと言うのは魏志倭人伝をはじめとする中国史書の倭語表記に
見える法則を無視しており、可能性としてはありえない説であると考えます。
結論としては
魏志倭人伝等からは、当時の漢人達が基本的には倭語をそれなりに正確に
聞き取り、一音に対し一字を当てていった事は明らかであり、これに基づいて
難升米は三音節からなる名前であるのは間違いありません。
そして現在復元されている中国語の上古音研究に従う限り、難升米の音は
ナシメ、あるいはナチメのような物であったと言えると思います。
643 :
日本@名無史さん :02/08/16 02:55
>>642 都市牛利は(トシゴリ)でいいのでしょうか?
644 :
日本@名無史さん :02/08/16 05:06
>642 卑奴母離の「奴」があるのに、どうしてナシメの「ナ」には 上古音nanの「難」を使うのですか?
645 :
日本@名無史さん :02/08/16 06:01
>>643 都市牛利の上古音はtag dhi∂g giog lied
と推定されているようです。
のでそのまま対応する仮名を当てて行くと
タヂゴリ(タヂギリ)、の様な形になるように見えます。
ただ都の字は伊都國として別の用例があり、これをイトと読む慣例からすると
トヂゴリ(トヂギリ)と読むべきかもしれません。
tagであると推定される字をトと読むのにはやはり多少無理がありますが
「都」が「ト」である可能性はいくつかあります。
まず伊都國はその推定地に怡土(いと)と言う地名が残っている事から
イト国であり、従って「都」は「ト」を表すという推定地との整合性が一つ。
今一つは、漢語ではa音→o音への転訛が数多く見られ、上古音が
tagであると推定される「都」の字は中古音がtogであったと言われています。
しかし魏志倭人伝では「タ」を表す字として「多」を使っていると思われる用例があり
この事から推定復元形であるtagは誤りであり、3世紀には既にtogであったと
考えて「都」を「ト」と読む、と言う考え方も出来ます。
ただ、有名な疑問点ですが都市牛利は、
「帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利」
の一文以外では全て「牛利」と表記されている点が不可解でして
「都市」の部分は本当に名前なのかどうかは判然としません。
ただ名前が牛利であったとすると、推定される発音からは語頭が濁音になってしまう
と言う問題もあり、これまた判然としません。
あくまでも当時の発音は推定でしかないのが厳しい所です。
646 :
日本@名無史さん :02/08/16 06:48
>「都市」の部分は本当に名前なのかどうかは判然としません。 って言うか、「都市」は姓字なんでないかい?
647 :
日本@名無史さん :02/08/16 06:52
続き 645で書いた事に若干の補足です。 しかし魏志倭人伝では「タ」を表す字として「多」を使っていると思われる用例があり この事から推定復元形であるtagは誤りであり、3世紀には既にtogであったと 考えて「都」を「ト」と読む、と言う考え方も出来ます。 と書きましたが、実際の所、魏志倭人伝では イ=伊・壹・一 ナ=奴・難・那 マ=謨・模・馬 等のように同じ発音(と思われる物)に対して別の字を当てている例が いくつもあり、この点から考えると「タ」を「多」で表している事は イコール「都」は「タ」では無いと言う証明にはならないかもしれません。 或いは上代日本語に見られ後に合流して行く甲乙の音が、 3世紀にはもっと多数の音に渡っていたのかもしれませんが、 ここまで来るとお手上げです。(^^;
648 :
日本@名無史さん :02/08/16 06:53
>>644 上に書いた事から「奴」と「難」が別の字で表されている事に意味は無いかもしれません。
或いは語全体で考えた時に、最後につく子音(奴=nag・難=nan)の関係で
より原音に近く聞こえると判断した方を使っているのかもしれません。
漢字音は子音で終わる物が多く、倭語に当てた際に子音の影響で
次の字の発音が違って聞こえてしまう可能性は高く、
ひょっとしたらそのために字の使い分けが生じたのかもしれません。
一音に一字を当てて行く方法の例外の中には對馬(トゥチマ?)の例もありますし。
少々想像による部分が多すぎる意見になりますが、
卑難母離と表記した場合pieg nan mu∂g liar となり
n音とm音が続くため発音の境界が曖昧になってしまうのを防止したのかもしれません。
649 :
日本@名無史さん :02/08/16 06:59
>>646 うーん、まず当時の倭人に姓字があったのかどうかが不明な事。
仮に存在したとして、女王たる卑彌呼や筆頭の施設である難升米の物は
表記せず牛利だけの物を表記したのは、かなり不自然である事。
と言う二点から姓字であったという説にはちょっと賛同しがたいです。
650 :
日本@名無史さん :02/08/16 14:12
「奴」国−>ナ:上古音 末「廬」国−>マツラ:上古音 伊「都」国−>イト:中古音 情報の新旧によって、複数の音が存在してるんでないの? ナシメの情報が入った時には、既に「奴」は“ナ”ではなく“ノ”になっていた。 ってのはどうよ。 新しい音では「奴」は“ノ”に近い、とすれば・・・ 卑奴母離−>ヒノモリ 狗奴国−>クノ国 では? 二万戸の奴国の副官が鄙守(田舎の警備役)、もしくは、 夷守(国境警備役)ってのは、どうも釈然とせんのよね。
651 :
日本@名無史さん :02/08/16 15:58
>>650 情報の新旧によって複数の音が混じってる可能性があるというのは
ありうる話ですね。
ただ卑奴母離を中古音と判断すると、中古音はpie no mb∂u lieとなるので
ピノモリではなくピノボリである可能性が出てきます。
また「狗奴」の中古音はk∂u noとなるので、中古音で「狗奴」を読んだ場合
まず間違い無く「コノ」となります。
私見としては、狗の字が「ク」ではなく「コ」であった可能性は高いと思います。
「卑狗」と言う用例があり、これに対応する日本語を探した場合、
「彦」である可能性が高く、「卑狗」は「ピク」ではなく「ピコ」と読みたい所です。
卑奴母離についてはやはり鄙守もしくは夷守であったと思います。
と言うより、対応する日本語として残っている物から判断すれば
これが一番自然かと。
魏志倭人伝の人口表記を信頼する場合(個人的にはあまり信頼してません(^^;)
二万戸を要する奴国と千余戸の対馬国の副官が、ともに卑奴母離である点を
考えると、国の規模によらず卑奴母離は統属する諸国の副官に一般的な名詞
であったと考えられます。国の規模によらず辺地の統治に関わった官名を
卑奴母離と言ったのではないかと推測します。
652 :
日本@名無史さん :02/08/16 16:20
>>642 >>644 >難升米の上古音はnan thi me であると推定されているので
>「なしめ」と言うのは理論的推定形から導かれた物と思えます。
難升米の上古音は nan-thi-me ではなく
nan-thi∂r-mer とされていますね。
升(thi∂r)の倭語音への対応は定説がないようなので、
ただちに一字一音節で「なしめ、なちめ」とは言えないと思います。
>一音に一字を当てて行く方法の例外の中には對馬(トゥチマ?)の
>例もありますし。
一字二音節の例としてはあなたが例外として挙げている「対馬」
以外に他ならぬ「末廬」(muat-hlag = まつら、まつろ)
があります。これらはいずれも知られている倭語の裏付けが
あるから、一字二音節であることがわかるものです。
例外というよりも、もともと一字一音節と一字二音節と、両方の
方式が混在しているのではないでしょうか。
とすれば、難升米=nan-thi∂r-mer =なむちおみ、なぬしおみ
も、可能性はあると思います。
「難」については、これは倭国人が用いた漢字の例ですが、
難波=なにわ
があります。これも nan の末尾の n に、機能を持たせている
わけです。
653 :
日本@名無史さん :02/08/16 18:18
>>652 訂正です。難升米の上古音;
誤:nan-thi∂r-mer
正:nan-thi∂ng-mer
一応藤堂と付き合わせたことがあるんで、多分あってるはずなんだが、
ttp://www.dai3gen.net/gishi01.htm によれば、
母の中古音はmuat(mbuat)で、モでよいらしい。
狗は、「句(kug-k∂u)はク∴これもク」とある。
>卑奴母離についてはやはり鄙守もしくは夷守であったと思います。
鄙守・夷守だったとしたら、何に対して鄙・夷なの?
ありそうな答えは、“倭国の都に対して”だろうけど・・・・・
だとしたら、中央からの統制がかなり効いている社会に既になっている
という理解になりそうなんだが、そのあたりどうよ。
>国の規模によらず辺地の統治に関わった官名を卑奴母離と言ったのではないかと推測します。
奴国は辺地なのか?
半島・大陸への窓口で、いくつか有ったであろう拠点(都会)の一つだと思うのだが。
奴国以外の国も、半島・大陸と行来するルートにあたる非常に重要な国々のはずなんだが。
念のため、辺地を辞書で引いた。
・都会から遠く離れた、交通の不便な所。かたいなか。
・都会から遠く離れた不便な土地。僻地(へきち)。かたいなか。また、辺境の地。
・へんぴな土地。かたいなか。
奴国は確実に辺地ではないな。
奴国を博多あたりに求めるなら、考古学的にもそれは言える。
原ノ辻なんかから考えれば、壱岐も都会ではないのかえ?
655 :
日本@名無史さん :02/08/16 23:01
>>652 確かに一音節に対し一字を当てていると言うのは早計だったようです。
例外が多すぎますね(^^;
「なむちおみ」という読みに関してはそれでも少々釈然としません。
最後の音は「彌」当てるのではないでしょうか。
nan thi∂r merでは最後の音はまず「メ」に対応すると考えられます。
今ひとつはna mu thi o mi と言う読みにはiとoの二つの母音が連続する
形になり、3世紀の日本語の、しかも固有名詞においてこれが成立したのか
と言う点からはやはり別の形を考えたい所です。
>>654 鄙守・夷守だったとしたら、何に対して鄙・夷なの?
と聞かれれば、やはり予想されている通り邪馬台国に対してと言う事になるでしょうか。
中央からの統制に関してはかなり届いていたと考えます。
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國。
とあり、少なくても邪馬台国が、その勢力範囲内にある諸国に対して
かなりの統制を加えていたのは事実と考えます。
また伊都国の説明として「郡使往來常所駐」とあり、邪馬台国と伊都国との
間にはそれなりに安定した連絡網が存在したと考えます。
これらの点などから、かなり統制の取れた社会だったと考えます。
辺地と言うのは語弊のある言い方でした。
つまり邪馬台国に統属する周辺諸国とでも言う所の意味で使いました。
「卑奴母離」と言う副官名は対馬国・一大国(一支国)・奴国・不弥国と
4国に共通しており、また中心であった邪馬台国や一大率が置かれていた
伊都国には存在しない、等の点から周辺諸国の官名であると考えます。
投馬国の官名に卑奴母離が無いのが矛盾点となってしまうのが痛い所ですが。
656 :
日本@名無史さん :02/08/17 04:00
出雲は根の国=奴国。博多の奴国は出雲の飛び地。有二萬余戸
投馬国は但馬。可五萬余戸
邪馬台国は大和。 可七萬余戸
>>654 >鄙守・夷守だったとしたら、何に対して鄙・夷なの?
本国が飛び地に対してのでは?
リアル厨房です。653さんではありません。
657 :
日本@名無史さん :02/08/17 06:37
>>649 >当時の倭人に姓字があったのかどうかが不明
って言うか、牛利さんが倭の出身者だったかどうかも不明。
使節団のナンバー2ですが、外国出身の外交顧問だったのかもしれません。
だったら、何処の国のヤツよ?と言われれば返す言葉もありませんが・・・・
でも「牛利」って他の倭人の名前とは異なり、外国人っぽい雰囲気ありません?
toseiとかtajiと読めそうな東夷人の姓を見かけたら、叉ご報告させていただきます。
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
659 :
日本@名無史さん :02/08/17 10:56
お盆帰省から戻ったの?
660 :
日本@名無史さん :02/08/17 15:36
>>655 「升」の上古音thi∂ng を thi∂r と誤記してしまって失礼しました。
642 で「難升米」の上古音が nan thi mer となっていたので、
「升」の現代音は sheng だから昔も ng 終わりだったのではないか?
と疑問を抱いたのが上古音を調べたきっかけだったのに、かんじんの
ところで誤記してしまいました。
それはさておき:
>最後の音は「彌」当てるのではないでしょうか。
たしかに「米」が「なむちおみ」説の弱点です。
>今ひとつはna mu thi o mi と言う読みにはiとoの二つの母音が連続する
>形になり、3世紀の日本語の、しかも固有名詞においてこれが成立したのか
>と言う点からはやはり別の形を考えたい所です。
日本語やポリネシア語のような開音節語では、母音の連続が生じるのは
必然です。
倭国の固有名詞の場合、すぐ思いつくところでは「磐井」があります。
(a-i の連続)。
i-o の連続ならば天皇名の一部「クニオシ」を思いつきます。
後は余談ですが、日本語の場合、母音の連続は事実上、二拍の二重母音として
発音されます。さらに言えば日本語には母音が融合する傾向があります。
しようがない→しょうがない、おまえ→おめー等。
これらは俗語に多く、また語源意識が強いので、あまり意識されませんが、
一つの傾向であることはたしかです。(例えば恐らくポリネシア語には
この傾向はないでしょう)
この傾向は朝鮮語ではもっと強いですから、朝鮮と関係の深かった倭国の時代
には現在より強かったかもしれません。
であるとすれば na-mu-thi-o-mi を倭人じしんが nam-thio-mi と発音した
可能性だって否定できないのです。
661 :
日本@名無史さん :02/08/17 22:04
>>660 この時代の倭語についての資料がほぼ存在しない点から
母音連続がどのように行われていたかは完全にはわからないので、
如何なる説も完全には否定出来無いので、可能性が否定できませんと
言われるとその通りです。
しかし難升米の字からは、語頭がナ、語尾がメである事は明らかと考えます。
問題は升の字の上古音thi∂ngが、どのような倭語に対応しているのか
と言う点に絞られると思います。
thの音があることからナの次はサ行、或いはタ行の音が来るでしょう。
thi∂ngである事を考えればシ、或いはセ等を想定しますが・・・。
>na-mu-thi-o-mi を倭人じしんが nam-thio-mi と発音した
>可能性だって否定できないのです。
これは少々無茶と思います。
nam-thio-miだとすれば実際にはナンチョミのような感じになりますが、
上代の日本語にはンの音が無かったと考えられている現状では
namとm音で一音節を切る事は無いと思います。
朝鮮との関わり云々が実際の倭語にどれだけの影響を与えるかは
後にかなりの数の渡来人が日本に渡ってきても、子音で終わる朝鮮語の特徴が
日本語にほぼ残ってない点を考えると、発音にどれほどの影響を与えたとも思えません。
そして仮にナムチオミをそのように発音していたとしても、
「米」の字からは「ミ」を導き出せない事とあわせて難升米の読みでは無いと
考えます。
662 :
日本@名無史さん :02/08/17 22:49
>>660 > 倭国の固有名詞の場合、すぐ思いつくところでは「磐井」があります。
「いはゐ」だから問題ないのでは?
663 :
日本@名無史さん :02/08/17 23:25
いつまでやるの?
664 :
イツマデヤルノ? :02/08/17 23:35
近頃、素直に史実を見ずキチガイスレを立てる奴がいる。 あと三年たてば武田幕府より天下泰平となっていたに違いない。
665 :
日本@名無史さん :02/08/18 05:38
>662 「磐井」は子音のwをはさんでいると言われれば確かにそうですね。 しかしここでは「開音節の言葉では母音の連続は必然」という 話をしているので、磐井がだめでも探せばいくらでも例は出て くるでしょう。
666 :
日本@名無史さん :02/08/18 07:10
667 :
日本@名無史さん :02/08/18 15:03
>>664 そなた、何を示唆しうる?
身は知らん、知らんぞよ。
668 :
日本@名無史さん :02/08/18 16:27
>666 出てこない? 「イクメイリヒコイニエ」のなかに3カ所もあるよ。
669 :
日本@名無史さん :02/08/18 17:39
>661 >上代の日本語にはンの音が無かったと考えられている現状では > namとm音で一音節を切る事は無いと思います。 日本語には末尾子音としての m は存在しなかった、というふうに 受け取れますが果たしてそうでしょうか。 助詞の「む」を考えて見ましょう。これは例えば「ある」につけて 「あらむ」というように使われます。 この「あらむ」は後に「あらん」または「あらう」の形に変わります。 この変わり方は、「あらむ」の「む」が mu のように唇を突き出して 発音されるのではなく、-m のように唇を結んだまま終わる音であった、 すなわち末尾子音であったことを示しています。 同様に、中国語の n 終わりの音(ng 終わりではない)は上代の日本語 では殆どすべて「〜む」で表されます。これも後に「〜ん」に変わる ので、上記と同じ事情であったと考えられます。これが語中にあれば、 例えば「公達」は kimu-dati ではなく kim-dati として発音された と考えられます。 上代の日本語にンの音がなかったのは m がその代わりを務めていた からで、そのころは末尾の m はまだ立派な子音だったのです。 現在のンは中国語や英語の n のように舌と歯茎で発音されるのでは なく、なんとなく飲み込まれる音ですから、完全な子音とは言えない でしょう。一番近いのはフランス語の鼻母音だと思います。 日本語は時代をさかのぼるほど厳格な開音節で発音されたと考えがち ですが、私はむしろ逆だと思います。朝鮮と関係が深く、互いに通訳なし で話していたかも知れない時代には、現在よりももっと子音の多い言葉 だったろうと思うのです。
670 :
日本@名無史さん :02/08/18 19:50
>669 > またまた訂正です。 「公達=きんだち」の「きん」は倭語の「きみ」からの変化と考えられる から中国語の表音の例としては不適当でしたね。(中国語の「公」は ng 終わりだから「〜む」とはならず「〜う」となるはず) しかしそうだとしても kimi-dati → kim-dati → kin-dati という 変化の過程で倭語にも語中の子音m が存在したことになるから、例としては かえって適当でした。
671 :
日本@名無史さん :02/08/18 20:19
672 :
日本@名無史さん :02/08/18 21:18
>>669 なんつーか古代にさかのぼれば日本語話者と朝鮮語話者が
通訳なしで話せたってのは既に確定事項なの?
日本語の系統はまだこれといって定説が無いって聞いてるし
古代であれば日朝の言語が同じところから来るってのは
単なる思い込みでは?
>>668 "イクメイリヒコイニエ"? 誰? ギャグ? タイプミス? それともボケでっか?
いずれにしろ「クニ・オシ」と同じ例でしょ。「磐井」の代用品にはならないよ。
でも、このネタは本題と関係ないので終りにしましょう。
674 :
日本@名無史さん :02/08/19 10:16
>671 音便は日本語ではないと言いたいのかな?
675 :
新羅の使節とは :02/08/19 10:54
通訳が必要だった事は知ってるよな? >669 となると、三韓時代は既に通訳が必要だったと思うのだが。 互いに通訳なしで話していたかも知れない時代 って何時の頃よ?
676 :
日本@名無史さん :02/08/19 10:57
>672 >675 >なんつーか古代にさかのぼれば日本語話者と朝鮮語話者が >通訳なしで話せたってのは既に確定事項なの? 別に確定事項だとは言っていない。「関係が深かった」ということの いわば修飾語として言ったことだ。だから「かも知れない」と言って いる。 しかし政治的、文化的に関係が深ければ当然、言語的にも互いに影響が あったはずだ。 日本語の方言の中で特に九州方言において子音化の傾向が強いことは このことを裏書きしていると思う。 九州方言の中でも鹿児島方言は、末尾の開音節が子音化し、さらに 促音化して消滅してしまうという傾向があるが、これは現代朝鮮語に 見られる傾向と同じ。ところが鹿児島県北部は畿内とならんで最も 頭長指数が低い地方なのだ。
677 :
日本@名無史さん :02/08/19 11:00
>673 ミマキイリヒコイニエだったね。このなかにも3カ所ある。 「上代日本語の固有名詞は母音の連続を挙用しなかった」 ということへの反論だから一カ所でもあればよいのだ。 >「クニ・オシ」と同じ例でしょ。「磐井」の代用品にはならな > いよ。 という意味がわからんが「称号的なものは固有名詞ではない」 という意味なら「イニエ」は本来の名前とされている。この なかにも一カ所ある。 「出てこない」というのはどうなった?
>676 >別に確定事項だとは言っていない。「関係が深かった」ということの >いわば修飾語として言ったことだ。だから「かも知れない」と言って >いる。 何が修飾語だ、afo。 いい加減な事書いて「かも知れない」と書いて有るからまともな文章だとは 笑わせてくれるな。 >しかし政治的、文化的に関係が深ければ当然、言語的にも互いに影響が >あったはずだ。 とすれば、 「朝鮮と関係が深く、互いに通訳なしで話していたかも知れない時代」を経て 奈良平安時代に至り日本語と朝鮮語が互いに独立した言語と成った事は、 古代において朝鮮と日本の関係は政治的文化的に深い関係等はなかった事の証明 「かも知れない」訳だな。
679 :
日本@名無史さん :02/08/20 05:46
>678 「朝鮮語」の成立は新羅による統一以後のことだ。 古代において朝鮮半島でどんな言語が行われていたかは わからないのだから、へりくつをこねても無駄。
「印惠」は「イニヱ」なんだが・・・ 国押(クニ・オシ)と磐井(イハヰ)、御眞木入日子(ミマキ・イリビコ)と印惠(イニヱ)に 語としての種別の違いを感じられない人へ言うことは無いな。 まあ、660で「日本語には母音が融合する傾向があり」とアナタ自身も言っているが、 そう言う現象が起きる原因を考えて頂ければわかってもらえるかもしれんが。 それから「ナムチオミ」と言う造語の「オミ」を後世の「使主」「臣」に対応させるのであれば 「(大)穴牟遅使主」=「オホナムチのオミ」のように読まなければならいと思うぞ。
681 :
はあ?再び :02/08/20 09:47
>679 >古代において朝鮮半島でどんな言語が行われていたかは >わからないのだから、へりくつをこねても無駄。 わからないのを良いことに >朝鮮と関係が深く、互いに通訳なしで話していたかも知れない時代 と電波説を飛ばし、少し突っ込まれると >別に確定事項だとは言っていない。「関係が深かった」ということの >いわば修飾語として言ったことだ。だから「かも知れない」と言って >いる。 この方がよっぽど屁理屈でやんしょ?
682 :
日本@名無史さん :02/08/20 11:23
>681 わからないからこそどんな可能性だってある。 朝鮮半島南部では「倭語」が話されていた可能性もあるし(倭の北岸)、 逆に弥生人が朝鮮半島から移住して来たとすれば、少なくとも 移住当初はいわゆる「朝鮮語」を話していたわけだ。 あるいは倭国の支配層が「扶余」であったという説に従えば 少なくとも倭と朝鮮半島の一部の国の支配層同志では話が通じた 可能性がある。 「関係が深かった」とはこういうことをひっくるめて言って いるのだ。
683 :
日本@名無史さん :02/08/20 15:29
弥生人ハ中国系移民デス
684 :
日本@名無史さん :02/08/20 16:10
>680 >御眞木入日子(ミマキ・イリビコ)と印惠(イニヱ)に >語としての種別の違いを感じられない人へ言うことは無いな。 議論が変な方向に行っているが、この議論は 655 が; >今ひとつはna mu thi o mi と言う読みにはiとoの二つの母音が連続する >形になり、3世紀の日本語の、しかも固有名詞においてこれが成立したのか >と言う点からはやはり別の形を考えたい所です。 と言ったことに始まる。 問題は「固有名詞」だよ。 だから例えば「ミマキイリヒコイニエ」という「固有名詞」を全体として 問題にすればよいのだ。称号部分は除くとか、「語としての種別」を分けろ とか、誰も言っていない。 「ミマキイリヒコイニエノミコト」が固有名詞でないのなら、 「国岡上広開土境平安好太王」も固有名詞でない、ということになる。 >それから「ナムチオミ」と言う造語の「オミ」を後世の「使主」「臣」に >対応させるのであれば >「(大)穴牟遅使主」=「オホナムチのオミ」のように読まなければならい 日本書紀の安閑天皇元年閏十二月の条に: 「武蔵國造笠原直使主(オミ)と同族小杵(ヲキ)と國造を相争いて (使主小杵皆名なり)年経るに定め難し」 とある。 「オミ」は役名だけでなく個人名にも用いられたのだね。 念のためだが、この場合は「オミ」が「使主」という役名の意味に用いられる ことを逆に利用して、「オミ」という個人名の音を漢字表記しているのだ。
685 :
日本@名無史さん :02/08/20 16:10
>>676 「別に確定事項だとは言っていない。」にも関わらず、
この「確定事項だとは言っていない説」を元に
「朝鮮と関係が深く、互いに通訳なし
で話していたかも知れない時代には、現在よりももっと子音の多い言葉
だったろうと思うのです。」
と言う論説を展開するのは余りにもお粗末。
批判されれば、朝鮮と関係が深く互いに通訳なしで話していたであろうと思う根拠を示し、
日本語に現在よりも末尾子音が多かったと思う根拠を示すべきで、
確定事項だと言っていない事を理由に反論をかわし、
無効化してしまうあたり、およそ議論する態度でも無い。
歴史など、古代に遡れば確定事項である事柄の方が少ないのだから
よりそう考えられる意見を出すべき。
蛇足しておけば、九州方言の話は日本語と朝鮮語が同系であった論拠としては弱い。
日本語と朝鮮語が同系であるならば、全般に共通点が残って無ければならないのに、
九州方言だけに朝鮮語との関連が考えられる特徴があるというのは
早い話が元々別物だった言語同士が、長期間地理的に近い位置で話されていた
ために互いに影響を与えて似た特徴を持った可能性の方が高く、
元が同じだった証拠にはならず、より古代に同じ言語だった証拠には全くなら無い。
686 :
日本@名無史さん :02/08/20 17:23
日本語と同系言語は世界シェア40%ですよ
687 :
676、682 :02/08/20 18:45
>>676 =682
>わからないからこそどんな可能性だってある。
何らかを主張するには、無責任極まりない話だ。
>朝鮮半島南部では「倭語」が話されていた可能性もあるし(倭の北岸)、
>逆に弥生人が朝鮮半島から移住して来たとすれば、少なくとも
>移住当初はいわゆる「朝鮮語」を話していたわけだ。
>あるいは倭国の支配層が「扶余」であったという説に従えば
>少なくとも倭と朝鮮半島の一部の国の支配層同志では話が通じた
>可能性がある。
いろんな説を無批判に列挙して
>「関係が深かった」とはこういうことをひっくるめて言って
>いるのだ。
682は、単に問題点を整理し、それぞれを追求する能力が無いだけだろう。
逆に論点を組み合わせて新たな問題を見いだそうとする意志も見受ける
ことも出来ていない。
682の挙げた例だが、私には問題点は2つに見える
・朝鮮南部で「倭語」が話されていた可能性
・渡来・帰化した「古朝鮮」人が積極的に倭語を学んだ可能性
これは倭の半島に対する優勢を主張するモノだろう。
・倭国の支配層が「扶余」であり扶余の言葉を話すことが出来た
・半島の一部の国の支配層は「扶余語」を話すことが出来た
これは「扶余族」が「古朝鮮族」「倭族」を支配した事を主張するモノだろう。
前者は広開土王碑文・半島に残る前方後円墳を根拠とすることは出来るだろう。
だが、後者は確固とした根拠はないだろう。
この2説に同じに扱うこが、676=682の問題だろう。
688 :
日本@名無史さん :02/08/20 20:40
邪馬台国関東説・・・by東京人
・・・とだけゆっとこ。なんか電波(←覚えたて)だらけになっちゃったねー。 流してる人が盆休み期間にカキコしてるのが少しかわいそうだな・・・ 漏れはまた木曜から今度はツレと旅行へいってくる。2泊だけど。 書込みはそれからだな。面白い内容に戻ってたらだけど。 とりあえず報告だけ。
690 :
日本@名無史さん :02/08/21 05:18
>685 >早い話が元々別物だった言語同士が、長期間地理的に近い位置で話されていた >ために互いに影響を与えて似た特徴を持った可能性の方が高く、 >元が同じだった証拠にはならず、より古代に同じ言語だった証拠には全くなら無い。 そうそう、それでいいのだ。 「同系」とか「同じ言語」なんていうのは君が持ち出した話。 私は「関係が深かった」すなわち「互いに影響し合った」という ことしか言っていない。 君の言っていることと同じだ。 めでたく意見が一致したね。
691 :
日本@名無史さん :02/08/21 12:19
>690
>>669 で
>朝鮮と関係が深く、互いに通訳なし
>で話していたかも知れない時代には、現在よりももっと子音の多い言葉
>だったろうと思うのです。
これは元々同じ言語だった、と言っているとしか判断できないと思うが?
それに対して
>>672 がそれは確定事項か?と聞き
>>675 が三韓時代に通訳が必要だった事を述べている。
>>676 で確定事項とは言ってないが九州方言でうんたらかんたらと述べている。
この
>>676 は
>>669 に対する反論への再反論である以上
>>669 で述べていた
かつて日本語話者と朝鮮語話者が通訳なしで喋れた事を支持する立場となる。
実際九州方言の話を持ち出して朝鮮語との関連を示唆している。
>>681 で再反論・・批判と言うべきか、されると
>>682 で扶余が支配層であった説
を持ち出して「支配層では話が通じた可能性あり」を主張している。
>>685 (これは俺)で九州方言の話は日本語と朝鮮語が同根である証拠にならない
と主張したのだがそれに対して
>>690 >「同系」とか「同じ言語」なんていうのは君が持ち出した話。
と言うのは責任転嫁に過ぎない。
685で俺が言っているのは後の時代に影響しあって似た特徴を持った、
と言う事であって、かつては通訳なしで話せた同じ言語であったと言う事ではない。
あんたが主張していた倭の支配層と朝鮮の支配層が通訳なしで会話可能だった、
と言う話はつまり同系であり同じ言語と言う主張に他ならない。
692 :
日本@名無史さん :02/08/21 16:57
>691 しつこいね。「修飾語」だと言ったのだからそれで終わり。 だいたい「朝鮮語話者」と言ったって魏志倭人伝の時代の朝鮮半島の 言葉は一つではないだろうが。 >あんたが主張していた倭の支配層と朝鮮の支配層が通訳なしで会話可能だった、 >と言う話はつまり同系であり同じ言語と言う主張に他ならない。 こんどは「支配層の言葉」に限定したの? それなら日本に「帰化」した百済王族と、本国の百済王族は会話可能だったろうよ。 帰化人だって当時の支配層の一員だ。
693 :
日本@名無史さん :02/08/21 17:02
>687 >687 >・渡来・帰化した「古朝鮮」人が積極的に倭語を学んだ可能性 私は「弥生人」と言っているが、弥生人が日本列島に移住して 来て、積極的に「倭語」を学んだの? ということは縄文人の時代にすでに日本列島で「倭語」が成立 していたの? そして弥生人の日本列島への移住を「帰化」というの? >これは倭の半島に対する優勢を主張するモノだろう。 >前者は(引用者註:これは)広開土王碑文・半島に残る前方後円墳を >根拠とすることは出来るだろう。 「これは」というのは私が(倭の北岸)と書いて暗示した半島南部の 倭人のことだと思うが、魏志倭人伝に「倭の北岸」と書かれた時代 と、辛卯年に始まる広開土王碑文の時代では1世紀半も離れている。 私は邪馬台国の時代に「倭の半島に対する優勢」があったとは 思わない。魏志倭人伝にも狗邪韓国が女王国に属するとは書いて ないから、「倭の北岸」というのは「倭人の居住地域の朝鮮半島側」 という意味だと思う。 >「扶余族」が「古朝鮮族」「倭族」を支配した事を主張するモノだろう。 >後者は(引用者註:これは)確固とした根拠はないだろう。 百済の王族はじぶんで「扶余から出た」と言っているのだから、少なく とも「扶余族」が「古朝鮮族」(当時の朝鮮半島の住民という意味なら) を支配したことは事実だろう。 また今上天皇も言ったように、日本書紀には百済王族の裔と天皇家との 婚姻関係が書かれているから、天皇家にも扶余の血は流れている。 さらに根本的な関係があるのではないか(つまりもともと扶余なの ではないか)というところで論が別れるが。 >この2説に同じに扱うこが、676=682の問題だろう。 誤解を与えたかも知れないが、私は「関係が深かった」ということに ついて、異なる時代の異なる局面の例を挙げたのだ。 混乱させて悪かったね。 >>(弥生人が)移住当初はいわゆる「朝鮮語」を話していたわけだ。 というのも君たちが安易に「朝鮮語」という言葉を使うことへの皮肉。 つまり朝鮮から移住してきた弥生人が話していた言葉は先住の縄文人から 見れば「朝鮮語」だった、というわけ。 その弥生人の「朝鮮語」が、「倭語」の中核になっていくわけだが。
694 :
日本@名無史さん :02/08/21 19:04
朝鮮語と日本語の関係で言えば紀に「母木」を「オモノ木」と呼ぶの訛りであると書いてある。 「オモ」は朝鮮語の「オモニー」に通じるものであり朝鮮語が訛りあるいは方言と認識されていた証拠であろう。
695 :
日本@名無史さん :02/08/21 19:43
696 :
日本@名無史さん :02/08/21 19:59
692が開き直りはじめたっぽいのでそろそろ終わる。 >朝鮮と関係が深く、互いに通訳なし >で話していたかも知れない時代 と言う仮説を元にして >関係が深かった と言う修飾語を作ってるのに、その元になってる仮説を批判されて 修飾語だからとか言って逃げるようではもはや話にならない。 朝鮮語、と言うくくりを持ち出したのは682であんた自身がやった事だ。 ただ倭国の支配層の言葉・・と言うのは >倭と朝鮮半島の一部の国の支配層同志では話が通じた >可能性がある。 の部分を誤読した物だった。申し訳ない。 なんとなくスレを荒らしてしまったようですまないっす。
697 :
日本@名無史さん :02/08/21 20:31
698 :
日本@名無史さん :02/08/21 21:07
四国の話らしいけど。 ●相名峠哀歌 相名の峠や 人どうや 源五郎恋しや オモノ木や これは今も梅ヶ市に残る悲しき歌である。 相名峠は、石鎚連峰の堂ヶ森と清滝山のほぼ中間、割石峠は松山方面へ、相名峠は周桑地方へ通ずる唯一の峠で、昔は往来が盛んであった。 峠道に残る物語は、概して悲しいものが多い。その哀れさゆえに、人々の心にいつまでも語り継がれているのかも知れない。 梅ヶ市は、相名峠の麓、妙谷川沿いのなだらかな斜面、その相名峠に近い一軒家、源五郎とその女房お吉、そして一人の男の子、山を開いて、 ほそぼその百姓ながら、幸福そうな一家であった。 うららかな春の日、女房のお吉は、子供を連れて、相名峠近くの山の畑仕事に出かけた。 夕方になっても帰って来ないので、源五郎は火縄銃を担いで、二人を探しに、山畑に出かけた。しかし、いくら探しても、母子の姿は見えない。 すると春の日の暮れようとする峠近く、大きなオモノ木(ぶな)を背にして、こわごわ、おびえ立つ我が子、それを取り巻く山犬二、三頭。 まさに食い殺されようとしている。 やにわに源五郎の銃声一発、山犬は逃げ去り、無事子供は助けたけれど、女房の姿は、いくら探せど見当たらない。 源五郎とその子は、来る日も、来る日も探しながら、その帰りを待ったが、とうとうお吉は帰って来なかった。 女房を失い、母を失った哀れな源五郎とその子、どこをどうさまよい果てたか。とうとう帰れなかった女房のお吉もまた哀れである。 その可憐なお吉が、夫を思い、子の切なさを、梅ヶ市のだれかが「相名峠や人どうや、源五郎恋しやオモノ木や」と歌ったと伝えられている。 今は人通りも余りない相名峠、さまざまな物語を秘めた相名峠、そのなかでも源五郎とお吉の物語は、身につまされる哀歌である。 母がオモでオモノ木がぶなの木と言うのもこの逸話で関連が推測できるね。 紀に載っている「母木」の逸話は神武が敵に追われて逃げ場を失った時にこんもり茂った木の陰に隠れ難を逃れた。 神武はこの木の恩は「母の恩にも匹敵する」としてこの木を「母木」とする。 「母木」を「おもの木」と呼ぶのは訛りである。と書いてあるのだ。
>>696 >なんとなくスレを荒らしてしまったようですまないっす。
この擦れではあれてるうちに排卵よ。気にするな。
700 :
九州王朝大好き :02/08/22 00:28
扶余族は倭族と朝鮮族との混合族と思うが。 神話に海の女性と陸の男性の和合でできたとある。 となると、扶余族の話す言葉は基本語は倭語で朝鮮語が乗っかる構造ではないでしょうか? 丁度現代英語が、基本語の英語にフランス語が乗っかっているように。 扶余族は基本語では倭語とそれほど変わらぬ言語を話すが、朝鮮語もわかる。
>693 >私は「弥生人」と言っているが、弥生人が日本列島に移住して >来て、積極的に「倭語」を学んだの? ほお、693は弥生人として古朝鮮人しか上げてないが、逃げ道だけは 作っておいたことを強調しておきたいわけだな。 積極的には倭語を学ばなかった痕跡が 676で言う >日本語の方言の中で特に九州方言において子音化の傾向が強い と言うだけかね?関東にも高麗神社をはじめ渡来人伝承は多いが 彼らの言語に残した痕跡は何だね? >ということは縄文人の時代にすでに日本列島で「倭語」が成立 >ていたの? 日本語が他の言語と分かれ成立したのは5000年以上前という学説は あるが?特に酷い電波説だと聞いたことはないな。 >そして弥生人の日本列島への移住を「帰化」というの? 在日が出す申請は「帰化」申請で「渡来」申請ではないわな。 「我々は卑弥呼or邪馬台国・大和朝廷の倭国支配を認めない」 といって弥生人・古朝鮮人が倭国に堂々と住み着いたというのなら 「帰化」と言う言葉は当たらんだろうがね。 >百済の王族はじぶんで「扶余から出た」と言っているのだから、少なく と >も「扶余族」が「古朝鮮族」(当時の朝鮮半島の住民という意味なら) >を支配したことは事実だろう。 インドの「ムガール帝国」、この「ムガール」の意味知ってるか? 何で「ムガール」と称したか知っているか? あんた戦国大名は家系図どおり由緒正しい出自だと信じてるんだろうね? >>(弥生人が)移住当初はいわゆる「朝鮮語」を話していたわけだ。 >というのも君たちが安易に「朝鮮語」という言葉を使うことへの皮肉。 >つまり朝鮮から移住してきた弥生人が話していた言葉は先住の縄文人から >見れば「朝鮮語」だった、というわけ。 >その弥生人の「朝鮮語」が、「倭語」の中核になっていくわけだが。 改めて693の定義する「弥生人」の内容を問い詰めたいが、それはさておき。 あんたの言いたい事は「さむらいの語源はサウラビだ」、それでよろしいな?
702 :
九州王朝大好き :02/08/22 01:38
弥生人は中国東シナ海沿岸部の人たちが対馬暖流に乗って、 海峡両岸に移住してきたのでしょう。 勿論水稲を携えて。 畑作地帯の中北部朝鮮半島から水稲が来るわけないよ。 陸稲なら理解できなくもないが、弥生は水稲でしょ。
703 :
日本@名無史さん :02/08/22 07:24
>702 私もその説に賛成する。それが日本のいわゆる「南方的」要素も 兼ねているのだと思う。(ついでに言えば縄文は南方ではなく古モンゴル) ただし、朝鮮半島南部にも倭人がいた、ということは 「中国東シナ海沿岸部の人たち」が朝鮮半島を経由して日本へ やって来たか、あるいは同時並行的に両岸に住み着いたかの どちらかだと思う。 「中北部朝鮮半島から」の影響はその後の政治的軍事的な、 もうひとつの波だと思う。
704 :
日本@名無史さん :02/08/22 15:41
>701 >>ということは縄文人の時代にすでに日本列島で「倭語」が成立し >>ていたの? >日本語が他の言語と分かれ成立したのは5000年以上前という学説は >あるが?特に酷い電波説だと聞いたことはないな。 「日本語」に逃げたか。「倭語」とは文字どおり倭人または倭国の言葉。 縄文時代の日本列島に倭人も倭国も存在しないから倭語も存在しない。 >日本語の方言の中で特に九州方言において子音化の傾向が強い >と言うだけかね?関東にも高麗神社をはじめ渡来人伝承は多いが >彼らの言語に残した痕跡は何だね? 関東に入植したのは主として百済の遺民だ。 古く九州に入ったのが同じ百済人だとは限らない。また比率の違いや 基層の違いもあるだろう。君が言うように一律に行くものではない。 >在日が出す申請は「帰化」申請で「渡来」申請ではないわな。 >「我々は卑弥呼or邪馬台国・大和朝廷の倭国支配を認めない」 >といって弥生人・古朝鮮人が倭国に堂々と住み着いたというのなら >「帰化」と言う言葉は当たらんだろうがね。 ほんとに大丈夫? BC300年ごろやって来始めた弥生人が、どうやって 何百年も後の邪馬台国や大和朝廷に「申請」を出すの? それから「帰化」というのは帝王の徳「化」に「帰」服するから帰化なのだ。 だから王権がなければ帰化もない。 弥生人は日本列島にやって来てみずから王権を建てたのだから「帰化」する 相手がいないし、その必要もない。 >インドの「ムガール帝国」、この「ムガール」の意味知ってるか? >何で「ムガール」と称したか知っているか? >あんた戦国大名は家系図どおり由緒正しい出自だと信じてるんだろうね? 百済王族が扶余ではなく土着の豪族だという説は私も知っているが、 その説は少数派だ。私もその説は信じていない。 >あんたの言いたい事は「さむらいの語源はサウラビだ」、それでよろしいな? 意味不明。解説希望。
706 :
日本@名無史さん :02/08/22 18:06
>>704 >縄文時代の日本列島に倭人も倭国も存在しないから倭語も存在しない。
さすがに詭弁ですよ、それは。
後に倭と呼ばれるようになっただけでしょう。
707 :
日本@名無史さん :02/08/22 18:07
>>704 >関東に入植したのは主として百済の遺民だ。
考古学的、文献学的証拠を示してください。
708 :
日本@名無史さん :02/08/22 18:09
709 :
日本@名無史さん :02/08/22 21:25
>692 >朝鮮語、と言うくくりを持ち出したのは682であんた自身がやった事だ。 あきれたね。 それは【いわゆる「朝鮮語」】という形で、いわば皮肉として言った ことだ。君はそれをわかっていながらわざと本音にとっているのだ。 「朝鮮語、と言うくくりを持ち出した」のは君が 672 で次のように言った のが最初だよ。 >なんつーか古代にさかのぼれば日本語話者と朝鮮語話者が >通訳なしで話せたってのは既に確定事項なの? >日本語の系統はまだこれといって定説が無いって聞いてるし >古代であれば日朝の言語が同じところから来るってのは >単なる思い込みでは? この「朝鮮語話者」の「朝鮮語」とはどんな言語のことかな? そして今気が付いたが、君はこの時点ですでに私が「古代であれば日朝の言語が 同じところから来た」と言ったことにしようとしている。 君がそう「思い込む」のは勝手だが、残念ながら私は全然そのような意見を 持っていない。 言語のなりたちはそんな一筋縄なものではないのだ。 日本語も朝鮮語もそれぞれ雑多な要素が融合してできあがったものだ。 そして両者がそれぞれほぼ一つにまとまり、現代語につながる形になったのは 日本語では大化改新以後、朝鮮語ではもっと遅く新羅による統一以後だろう。 それまでは日本列島、朝鮮半島とも複数の言語が話されていたのだ。 上記の「要素」のなかには日本語と朝鮮語でそれぞれ独自のものもあり、共通 するものもある。そしてこの「共通の要素」が今日の日本語と朝鮮語の、なに ほどかの近似性をもたらしたのだ、と私は考えている。 >ただ倭国の支配層の言葉・・と言うのは >>倭と朝鮮半島の一部の国の支配層同志では話が通じた >>可能性がある。 >の部分を誤読した物だった。申し訳ない。 どんな風に「誤読」したのか知らないが、局面によっては「話が通じた可能性」が あることがわかったかね。 「朝鮮語話者と日本語話者が通訳なしで話せたか」なんて、「いわゆる朝鮮語」 つまり「要素」の選び方次第でどのようにでも言えるのさ。
710 :
日本@名無史さん :02/08/22 21:32
>704 人の手をわずらわせないで自分で調べてごらんなさい。 白村江敗戦の1、2年後のことだよ。 高崎近辺とかあのへんに入っている。
>>709 何か他の人と混同してるみたいだが私は672以外このスレに書き込んで無いよ。
669で日本語は時代をさかのぼるほど厳格な開音節で発音されたと考えがち
ですが、私はむしろ逆だと思います。朝鮮と関係が深く、互いに通訳なし
で話していたかも知れない時代には、現在よりももっと子音の多い言葉
だったろうと思うのです。
ってーのは日本語と朝鮮語の関連について話してるととったんだけど違ったかな?
どう考えてもこの文章からは古代日本人と朝鮮人は通訳なしで会話してたと主張
してるようにしか見えないんだけど。
難升米の読みの話から上の文章が出てきたのだし邪馬台国の時代の言語について
日本語話者と朝鮮語話者(当時なら倭人と韓人になる?)が通訳なしで喋ってた
と言う話をしてると思ったんだけど。
魏志倭人伝とかに見る限り2世紀頃には大まかに日本語と呼べる物が成立してたとしか
思えないが。
>>711 もうちょっと、引用と地の文が区別できるように書いて。
それと、かちゅ使いの漏れとしては、レス番号の前に“>>”をつけて
>>669 みたいにしてくれると、さらにうれしい。
で、読むのに苦労したけど、
>難升米の読みの話から上の文章が出てきたのだし邪馬台国の時代の言語について
>日本語話者と朝鮮語話者(当時なら倭人と韓人になる?)が通訳なしで喋ってた
>と言う話をしてると思ったんだけど。
は漏れも同じように思った。
あの文脈では、邪馬台国時代の韓人と倭人が通訳ナシで会話してた主張してるとしか読めない。
713 :
日本@名無史さん :02/08/23 09:11
>711 >日本語話者と朝鮮語話者(当時なら倭人と韓人になる?)が通訳なしで喋ってた 君の言う「朝鮮語」とは 韓人の言葉のことか。 それがさらに狗邪韓国のことなら、北九州の倭人と完璧に通訳なしでOKだろう。 なにしろ倭の北岸(倭人居住地域の朝鮮半島側)なのだから。 君のように具体的に書いてくれると答えやすいね。
714 :
2チャンねるで超有名サイト :02/08/23 09:15
715 :
日本@名無史さん :02/08/23 10:48
>683 もっと詳しくカキコください。実は私もそのように思っています。
716 :
日本@名無史さん :02/08/23 14:14
>700 >扶余族は倭族と朝鮮族との混合族と思うが。 扶余の本拠地は満洲の長春あたりですが、「倭族と朝鮮族」の勢力はあのへん まで伸びていたのですか?
717 :
阿毎多利思北孤 :02/08/23 16:45
魏志倭人伝=東夷伝倭人条を普通に読めば距離的にも気候、風俗的にも沖縄周辺 にその当時、初期の邪馬台国があったはず。奄美大島が有力。 しかしその答えは、今だに出ていない。長年にわたり論争が繰り返され、考古学 的発見も相次ぐ中、何故邪馬台国と狗奴国の場所を特定する物証だけが出ないのか? 不思議である。逆に考えれば邪馬台国の記録、魏志倭人伝の記述は真実なのか? 過去、現在、真実だろうとの前提に立っているが、その確証はどこにも無い。
718 :
阿毎多利思北孤 :02/08/23 17:10
私は高霊=タカマ>高天原か?にあった「弥鳥耶馬国」という小国に 注目している一人です。あまりに似ている!ルーツはここか?
719 :
阿毎多利思北孤 :02/08/23 17:32
しかもその始祖王は伊珍阿鼓=イジナシというらしい。伊奨諾=イザナキと 非常に似ている。そして弥鳥耶馬国の南に狗邪国(金海)>があった。狗奴国か? 単なる偶然ですかね?
720 :
九州王朝大好き :02/08/24 00:11
>>716 倭人は中国東北に進出したことはありま
扶余の本拠地では扶余は純然たる朝鮮族で古朝鮮語を話した。
半島南部に南下進出した扶余は倭族と混交し、そこで初めて扶余と呼ばれるものになった。
そこで倭族の母なる倭語と父なる古朝鮮語の混合語を話す扶余族が成立。
この言語は古韓語になった。
この古韓語は、新羅滅亡後、半島北部朝鮮族の支配により消滅。
この時点で朝鮮半島南部の言語は朝鮮語となった。
後世、ハングルの発明による言語改革で完全に朝鮮語になった。
ハングルは倭語なまり朝鮮語と朝鮮語の統一を目的に使用された。
この古韓語なまりの言葉は、朝鮮語の慶州方言と日本語の関西弁に残ったと推定する。
関西弁と慶州方言のイントネーションは非常に似ていると思います。
関西(特に大阪)と慶州の人はお互いの言葉を聞けば、意味は全くわからないけれど、話し方が似ていること気づくはずです。
721 :
九州王朝大好き :02/08/24 04:29
>>721 書き直し。
倭人は中国東北に進出したことはありません。中国東北は朝鮮族のかっての中心地です。
今でも多くの朝鮮族が中国人として住んでいます
>>721 東北にいたよ
53 :世界@名無史さん :2001/06/04(月) 02:25
>50
新羅が倭人の国とか言っていて、百済も高句麗も近いなら、やはり同一人種なのか?
54 :世界@名無史さん :2001/06/04(月) 05:59
>>53 なんでそんな単純な話になるかなあ。
倭人と系統が近いと推定されるのは高句麗人だけ。
百済人と倭人とは、政治的に仲が良かっただけで民族系統は別。
新羅は多民族の混成国家で、その中に倭人も高句麗人も百済人も漢人も居たってこと。
日55 :世界@名無史さん :2001/06/04(月) 07:59
本 高句麗 新羅(11世紀高麗)
1 pito hana
2 puta tuwul
3 mi mil seis
4 yo neis
5 itu utu tases
6 mu yeses
7 nana nanun ilgop
8 ya yedal
9 kokono anop
10 towo tek yel
母 papa papa
口 kuuts
であってたかな?
つづき
59 :世界@名無史さん :2001/06/04(月) 15:23
>54
高句麗人と倭人が近いのであるならば、倭人は北方系?それとも高句麗人が南方系?
倭人とワイ人との関連もあるの?
中国の史書には倭人がもともと北方にいたようなこと書いてあると読んだが。
漁労をしていたと。
60 :世界@名無史さん :2001/06/06(水) 20:06
>>59 高句麗や穢などの夫餘系語族の言語系統については諸説あるが
たぶん倭と同じ南方系だろう。ただしこの場合の南方系というのは
江南系という意味ではなく太平洋・ポリネシア系の意味。
言語系統のことだからね。
中国の史書には倭人が北方(満州)にいたように書いてあるところもあれば
南方(江南地方)にいたように書いてあるところもあっていろいろだ。
また「山海経」の記述も解釈がいろいろで、
北方説のように受け取る説と南方説に受け取る説が両方ある。
>>59 がいっているのは光和元年に鮮卑の首領の檀石槐が倭人国を攻めて
一千戸余を拉致して烏侯秦水(満洲のラオハ河)の魚を取らせた
という話だろう。当時、夫餘か高句麗と鮮卑との間に倭人国があったらしいが
よそから移民(植民)してきてたのかも知れないし、原住地とは限らない。
なにしろ孤立した記事なので、これから重大な結論を導くのは困難。
>>58 住民の多様性を前提としたところで、
ただちには高句麗=朝鮮とはならないはずだが。
高句麗が何をさすかは比較的明確だが、
朝鮮とはこの場合厳密にいうとなんのことかな?
61 :世界@名無史さん :2001/06/06(水) 20:33
>60
高句麗や穢が南方系とは初めて聞いた。ところで、高句麗の言葉ってどれくらい残っているの?
62 :世界@名無史さん :2001/06/07(木) 00:36
>南方系
まあ、あんまりおおっぴらには表でいわれないからねぇ。
高句麗語については、
高句麗地名の中で後に漢字訳されたものがあり、
それでその漢字の意味にあたる高句麗語が判明する分が若干あるってだけ。
だからほとんど無いってのが実情。
でもわずかな手がかりでも全然ないのとは違うわけで、貴重な資料ではある。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/987824592/53-62
724 :
日本@名無史さん :02/08/24 06:18
上代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語 1 pito" −− hсtсn hсtсn hΛdΛh hana (一等) (河屯) 2 puta −− tu"pс"r tuβсr durh tu:r (二尸) (途孛) 3 mi mit −− sei s∂ih se:s (密) (洒) 4 'jo" −− −− nei n∂ih ne:s (廼) 5 'itu 'utu −− ta∫us dasΛs dasсs (于次) (打戍) 6 mu −− −− 'jur∫us 'jсsΛs 'jсsсs (逸戍) 7 nana nanun −− 'irkup nirgub 'irgob (難) (一急) 8 'ja −− −− 'jurtap 'jсdщrp 'jсdсr (逸答) 9 ko"ko"no" −− −− 'ahop 'ahob 'ahob (鴉好) 10 to"'wo" tek −− 'jсr 'jсrh 'jс:r (徳) (噎) ※[с]…実際の音声記号は左右逆転のもの。[o]よりも広口の母音。 [o"]…オ列乙類音。中舌母音説が有名だが、実際の音価は諸説あって不明。
726 :
日本@名無史さん :02/08/24 11:24
倭の風俗は会稽・東冶に同じと書いてあるんだから南方系でしょう。 鯨面文身と書いてあるので、クジラみたいな模様を顔に書いており、 全身刺青していた? 日本人とクジラの歴史は古いんですね。
727 :
日本@名無史さん :02/08/24 11:28
>>726 訂正。
正確に言うと、鯨面文身は会稽と同じで、その他の風俗は、タン耳や朱崖(ともに海南島)の土俗と同じだった。
いずれにせよ、南方系には変わりないが。
クジラみたいな模様>>鯨柄
729 :
九州王朝大好き :02/08/24 13:14
倭人は人種的には南方系ではありえない。 倭人は古モンゴル系で北方系。シベリアの人々(氷河期終了とともに北上した人々)と同系です。 と同じ古モンゴル系が東シナ海沿岸部まで南下し(9千〜6千年前)、 その頃の気候は亜熱帯であったので、南方海洋系風俗の生活様式になった。 会稽・東冶は東シナ海中国沿岸部であることになんの疑問もありません。 その地の人々が水稲と共に日本に来て倭人と呼ばれた。 蒙古斑で考えよう。 蒙古斑のある人々は、東シナ海中国沿岸部、日本、朝鮮南部(モンゴル方面の人々は除く)。 南方系、中国漢人、朝鮮族(中国東北・ロシア沿海州)には蒙古斑はありません。 韓国に蒙古斑の人がいるのは、倭人との混交の結果。 韓国済州島の人々は中国人(蒙古)にほぼ全滅させられ、 後に朝鮮族の支配層の島流しの地となった為、 蒙古斑を持つ人々は少ないです。 日本でも蒙古斑は西に濃く東に薄い傾向があります。
730 :
日本@名無史さん :02/08/24 15:11
>723 >高句麗や穢などの夫餘系語族の言語系統については諸説あるが >たぶん倭と同じ南方系だろう。ただしこの場合の南方系というのは >江南系という意味ではなく太平洋・ポリネシア系の意味。 扶余がポリネシア系? ポリネシア人も遠洋航海から装甲騎兵戦術まで、いそがしいことだな。 日本語は開音節言語 → ポリネシアも同じ。 日本語の数詞 → 高句麗と一致。 高句麗は扶余。 で、扶余とポリネシアをくっつけただけでないの?
731 :
東京女装市民 :02/08/24 15:22
邪馬台国関東説。 文化の発祥は全て関東。 関東以外は奴隷。
>>729 倭人とひとくくりにするのはまずいっしょ。
縄文人が旧モンゴル系、弥生人が新モンゴル系と良く言われると
思うのだが。
またこうした人種的特徴が必ずしも文化の伝搬と同時に伝わるかどうか
は自明ではない。
つまり、日本列島における新・旧モンゴロイドの混交も稲作伝来とともに
一時に起こったと言うよりは、日本列島が大陸から切り離されて以降、
何千年もかけてゆっくりと起こったとも考えられると思うがどうよ?
734 :
九州王朝大好き :02/08/25 06:06
>>773 倭人とは中国史書で倭と呼ばれた人々。
新モンゴル系は蒙古斑がある人々。
また新モンゴル系で一重瞼である人々が新々モンゴル系。(1万年以上前の最寒冷地生活経験者)
奥二重は新モンゴル系。(1万年以上前の寒冷地生活経験者)
新々モンゴル系と新モンゴル系は2万年ほど前に分化した。
新々モンゴル系として代表的な人々は倭人。
現代で、蒙古斑と一重瞼を持つ人々が倭人の子孫。
シベリアの蒙古斑と一重瞼の人々は氷河期の終焉と共に北上した。
蒙古斑と一重瞼の人々で氷河期の終焉と共に南下した人々が、後に倭とよばれた。
日本の奥二重瞼の人々は朝鮮系(新モンゴル系の一派)、二重瞼の人々は南方系(ポリネシア系の分派)。
日本人で奥二重瞼と二重瞼の人々は蒙古斑があっても小さくて(背中いっぱいに蒙古斑があることはない)色が薄いです。
なお日本の二重瞼の人々は縄文人と呼ばれた人々の子孫です。(現代日本人としては長身のグループ)
日本人で小柄で目のパッチリした二重瞼の人々には縄文人と呼ばれなかった人々もいます。
琉球とアイヌは上記2つと異なる南方系の人々です。
高句麗(扶余)は新々モンゴル系の人々かもしれません。(数詞が似ていることに着目して)
又南方ポリネシア系の分派の人々の一派が氷河期後の温暖化で北上した人々かもしれません。
日本に水稲を持ち込んだのは、中国江南の新々モンゴロイド系の人々です。
735 :
日本@名無史さん :02/08/25 06:31
伝播ばっかりだな。 縄文系でも朝鮮系でも満州系でも蒙古系でも、奥二重はいるだろ。 アイヌには蒙古班が無いから、蒙古班は華北と朝鮮あたりから来たとしか 考えられんだろ。
736 :
日本@名無史さん :02/08/25 06:46
737 :
日本@名無史さん :02/08/25 15:47
>717 そう言われると本当に不思議ですね。年代が近い崇神天皇の墓は特定されている のに卑弥呼の墓は全く不明。邪馬台国よりも狗奴国はどこですか?に学会、学者 は力を入れるべきではないか?
738 :
日本@名無史さん :02/08/25 17:21
金属硬貨が出来るまで、お金は貝であった事は周知のことです。その貝=お金は 南西諸島で捕れる「黄宝貝」でした。当時の「金持ちは黄宝貝」持ちだったのです。 特に宝島で捕れ、そのお宝を運んでいた船の事「宝船」と言いました。そして その一大ビジネスを仕切っていたのが今で言う「七福神」であります。 その軍団の事を高麗=タカラ=コーリ、と今もそう呼びます。そのお宝を沖縄から 朝鮮半島経由で今の中国に運び、当時の最先端物資と交換し大繁栄した軍団であった と言われてます。殷=商の時代でその人達は「商人」とも呼ばれたらしいです。 ところが、殷が滅び秦?が採った戦略は宝貝持ちを乞食にする為お金=お貝を金属 に変えてしまい、お宝持ちは一夜にして乞食になりました。それにより高麗=宝の 軍団は失業してしまい、分裂し朝鮮半島の南北、九州の南北に別れ、各々が国を 建国したと言う面白い仮説を御存知でしたか?
宝貝産業が倒産するまで、邪馬台国の本拠地は沖縄周辺にあったはずである。 その最大の理由は、その産業がその地域に限定されるからである。 海に潜り宝貝を捕る為、刺青を必要としたのだろう。
改正・本社=営業拠点は沖縄周辺で本家は朝鮮半島。 本社には東南アジア系の人々も多数いただろう。邪馬台=ジャバイ=ジャパン
チベット、ラサ、宮古、八重山、を無視した、縄文人北方説は、頂けませんな。 時系列の証拠もないのに。
>740 いちいち、朝鮮半島を、通らなきゃならんのか。失礼な。
>742 半島を無事に通過せな仕事にならんやろ。分からんのか。ダボが。
744 :
日本@名無史さん :02/08/25 18:30
島づたいに朝鮮半島経由せずに文化は伝播されましたが、なにか?
745 :
日本@名無史さん :02/08/25 18:32
考古学的に言っても、3世紀以前の輸入されたものってほとんど中国製のものでしょ?
746 :
日本@名無史さん :02/08/25 18:44
>745 宝貝産業を学べ。ここに倭国のルーツがある。
747 :
日本@名無史さん :02/08/25 18:58
>740 長らく何故、[日本」の事を「ジャパン」と言うのか不思議でした。
伊珍阿鼓 何様だ、大先生よ、ここには、ここの歴史が、あるでよ。
井 津 間 出 弥 瑠 野 ?
>748 現在は小金持ちの平民だが、戦国時代なら殿様で、その前なら王子である。 血、人相、肌の色、眼の色、環境、運命、庶民とは違うのである。 俺を見れば分かると思う。なりたくは無いが俺が現、皇太子になっていた かも知れない。まあそう言う血筋=運命の人間も多いしな。
>>750 君みたいな人はたくさんいるよ。
鉄格子のついた病室の中にね。
752 :
日本@名無史さん :02/08/25 19:51
西都くん、また出没してますね。 岡田宮 克彦親王 殿下がお呼びですよ。
>751 大半がそうだから今の時代、庶民=元奴隷=貧乏人の僻み怒りは分かる。 だけどそれが太古よりの運命=遺伝子である事に気ずく事も大事。過去=先祖 がそうであった訳だから現在もそうであるのは当たり前。 そのハンデイをクリアーするには何かで「成功」するしかない。 この国は、こんな国なのです。
754 :
日本@名無史さん :02/08/25 20:29
>>753 そう、だから君の遺伝子は淘汰され、消え去るんだよ。
残してくれる女いないだろ?
755 :
日本@名無史さん :02/08/25 20:29
>754 だから男に走るの。ワカル・
>754 女血次第では在りうる事である。 >756 どつくぞ、コラ。
758 :
日本@名無史さん :02/08/25 21:34
?
759 :
日本@名無史さん :02/08/25 22:03
西都くんー
皆の衆。 暫し、沈まれよ。
761 :
日本@名無史さん :02/08/25 22:36
賛成!
763 :
九州王朝大好き :02/08/26 01:33
>>735 華北の漢人には蒙古斑はありません。又二重瞼です。
新モンゴル系の特徴は奥二重瞼です。
新モンゴル系の一派である朝鮮系でも満州系でも奥二重瞼です。
しかし、朝鮮系も満州系も蒙古斑を持っていません。
新々モンゴロイド系だけが世界で唯一の一重瞼の人々です。
一重瞼は乾燥低温の環境で1万年以上生活をした人々が獲得した遺伝的形質です。
中国・朝鮮族・満州族にいる一重瞼の人々は新々モンゴロイド系の混血による遺伝子をもっている人々です。
一重瞼は遺伝的に優性で二重・奥二重より出現率が高いです。
764 :
日本@名無史さん :02/08/26 08:54
蒙古斑は有色人種に幅広く見られるものである。 黒人は肌が黒いので目立たないだけだ。 白人にも少ないとはいえ多少はある。 モンゴロイドには蒙古斑は新旧にかかわらずある。
765 :
九州王朝大好き :02/08/26 10:31
新モンゴロイド系以外のモンゴロイドには統計的に蒙古班はないと言えます。 又その他の人種にも新モンゴロイドのような蒙古斑はありません。 黒人のなかで、一部の人種に蒙古斑に似たものがあれば、その人種だけが独自に獲得した形質です。 新モンゴロイド系以外のモンゴロイドにもある蒙古斑は、新モンゴロイド系との混血により現れています。 その蒙古斑は新モンゴロイド系遺伝要素大きい人々の様に、背中いっぱいに広がりがあったり、色の濃いものではありません。 混血による遺伝的要素の少ない中国人(漢人)・東南アジア人では蒙古班があっても直径100mm以下の色の薄いものです。 また、エスキモー・南北アメリカインデアンには蒙古斑はありません。 日本の近くでは、韓国済州島の人々は、歴史的に一度蒙古襲来の時、明の軍により島民の全男性が虐殺さました。 そして女には中国人の子供を産ました為、また朝鮮人(中国東北を故地とする朝鮮人には蒙古斑はない。)支配層の流刑地であった為、周辺の韓国日本に比べ蒙古班の出現率が低くなっています。
766 :
九州王朝 大好き :02/08/26 10:56
魏志倭人伝を先入観なく、素直に読むと、邪馬台国の中心部は博多湾沿岸になるのですが。 それも遠賀川流域となってしまいます。 ま、一里を何メートルにするかで決りますが。 各王朝の度量衡は税金通商の為独自に制定しています。 一里=85m 説(根拠を明白にしましょう。) 一里=500m 説(魏の使った一里の長さを検討しなければなりません。漢は終わりました。漢でないことに注目して下さい。) 一里=4000m 説(時代錯誤も甚だしい)
767 :
日本@名無史さん :02/08/26 11:46
邪馬台国が一番凄いわけでは無い 魏志倭人伝には他にも国があったと書いてあるではないか スサノオ一族も、天皇家も21ヶ国の内の一つだった訳で だからアマテラスは九州から出させてくれないし大和に入れてくれない
769 :
日本@名無史さん :02/08/26 13:19
>>765 ところで、蒙古班のふるさとは元々どの辺りなんですか?
で、その原因は何なんですか?
それと、アイヌや琉球人や縄文人がポリネシア系だと今時珍しくクラッシックな
事をおっしゃってるけど、
それらの頭蓋の鼻根部の隆起が欧州人並みである事はどう説明するんですか?
遺伝子上でも、それらが蒙古人や朝鮮人以上に南方系遺伝子をほとんど持って
いない事もどう説明するんですか?
僕は倭人は間違いなく縄文人だと思いますよ。
アイヌと縄文人と琉球人は、2万数千年前に樺太に上陸した時点では、同じ
古モンゴロイドだったものが、列島に広がっていく中、一万数千前には既に
琉球まで到達してしまって、弥生時代までには既に、形態的にかなりズレて
しまっていた元は同じ人種同志だと見ています。
一重マブタは新モンゴロイドで良いし、奥二重はあえて呼ぶなら中間モンゴ
ロイドと呼ぶ事にしていますが。
◎遺伝子マップ
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
770 :
九州王朝 大好き :02/08/26 13:25
>>768 蒙古斑についての認識がまちがっています。
人種的に黒人間の人種異差は、白人と黄色人種、バンツー族黒人と黄色人種以上に離れています。
その人種間異差の非常に大きい黒人を一まとめにして論じるのは全くの錯誤の論議です。
アフリカ黒人の場合、黒人とはひとまとめに皮膚の色の黒い人を指すだけです。
もしアフリカ黒人に腰から背中にかけて青い皮膚があれば、それは蒙古斑ではありません。
それは蒙古斑とは似ても非なるものです。
>>770 認識が間違うも何も事実だろ?
>人種的に黒人間の人種異差は、白人と黄色人種、バンツー族黒人と黄色人種以上に離れています。
>その人種間異差の非常に大きい黒人を一まとめにして論じるのは全くの錯誤の論議です。
要するにあなたは黒人と黄色人種は違っているから蒙古斑は黄色人種「だけ」に存在するのだ。という具合に結論を先に持っていて理屈をくっつけているに過ぎません。
この程度のロジックしか組み立てられない奴が、九州王朝説を唱えているということが
良くわかりますな。
772 :
九州王朝大好き :02/08/26 14:15
>>769 @蒙古斑のふるさとはシベリア・モンゴル地域でしょう。
A沖縄アイヌは遺伝子的には北方系古モンゴロイドです。彼らは高い眼窩上隆起をもっています。
彼らは氷河期が始まる時に寒さを避け、サハリンから南下した人たちだと思います。
B代表的縄文人の子孫は本州に住んでいる眼窩上隆起の高い(ポリネシア系も同じ)二重瞼の人たちです。
彼らには高身長と低身長の2種類がいます。彼らがポリネシア系の分派の流れをくむ人々です。
彼らには沖縄アイヌ系と新モンゴロイド系との混血で北方系遺伝子が多く含まれるようになっています。
ただ遺伝子情報がミトコンドリアではなく、染色体からの分析ができるようになればポリネシア系の遺伝子を多く持っていることがわかると予言します。
ミトコンドリア遺伝子は母系遺伝なので、北方系女性が南方系女性より子孫を残す率が単に高かったからではないかと推定します。
C一重瞼を新モンゴロイドと言うのであれば、奥二重は中間モンゴロイドと呼ぶのもよいでしょう。
Dポリネシア系の人々も東南アジア系の人々と異なって北方系遺伝子が多いそうです。未確認情報。
ただ、ミトコンドリアによる遺伝子情報は母方の遺伝子なので当てにはできません。
たとえ、ポリネシア人の遺伝子がほとんど南方系であったとしても、ミトコンドリア法による遺伝子情報は、出産に優位な人種の遺伝子が残り易くなることに留意する必要があります。
空想たくましくすると縄文人の一部が東南アジア系人種によって、南アジアから東に押し出された可能性も考えられます。
E日本語とポリネシア語の共通特性、子音と母音がほぼ同時に発音される特性を説明する為には、縄文人とポリネシア人は共通の祖先を持っているとしか考えられません。
この言語特性は人類にとって極めて特殊なものです。偶然の一致は考えられません。
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上の二つをお買い上げの君にはハンコがおしてありますが原始古代篇もプレゼント
ここまできたらドーンと!さらに上の四つを買ってくれた君には山川用語問題集プレゼント。これは汚れてないです。
どうですか。まあまあ得だと思います。メール下さい。
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774 :
九州王朝 大好き :02/08/26 14:38
>>771 モンゴロイドの一部の人たちが持っているものが、蒙古斑です。
黒人がもっているのは蒙古斑ではありません。
そこには何の遺伝的つながりもないからです。
もし一部の黒人の青あざが蒙古斑であるなら、モンゴロイドより遺伝子的により近い白人も高い率で蒙古斑をもっていなければならなくなります。
実際、白人の蒙古斑は出現率が低いので、黒人とモンゴロイドのそれは遺伝的には全くの別ものです。
775 :
日本@名無史さん :02/08/26 15:15
>772 >E日本語とポリネシア語の共通特性、子音と母音がほぼ同時に発音される特 >性を説明する為には、縄文人とポリネシア人は共通の祖先を持っているとし >か考えられません。 >この言語特性は人類にとって極めて特殊なものです。偶然の一致は考えられ >ません。 縄文人の直系の子孫と見なされるアイヌの言葉にその特徴が見られないのは なぜでしょうか?
>>772 貴方の説から見ると、縄文人がポリネシア系などの南方渡来なのではなくて、
ポリネシア人こそが元縄文系の北方渡来と見た方が正しいのではないですか?
そうでないと、古代ポリネシア人が列島からシベリアに北上して広がった
事になってしまう。
777 :
九州王朝 大好き :02/08/26 17:02
>>775 >>776 アイヌ沖縄人(毛深い人々)は縄文系ではありません。
縄文人は眼窩上隆起のある二重瞼の高身長と低身長の毛深くない人々です。
縄文人が原日本語(現日本語の基層をなす言葉)を使っていた人々です。
ここに言う縄文人(ポリネシア系)は1万年〜2万年前に日本に来た人々ですから、
身体的特徴から(高い眼窩上隆起・二重瞼・足が比較的長い)すると、乾燥低温地帯から来た人種ではありません。
これらの特徴は温暖な地域の人種の特徴です。
彼らは日本より南方(中国中部の可能性もある)から来て、アイヌ人と沖縄人を南北に分断しました。
一方ポリネシア人は原居住地(正確な場所不明)より南方に移動し、その後東南アジア人に東方海上に押し出された。
縄文人は南方系遺伝子を持っていても、北方人種の女性の出産能力が南方系より優位であれば、母系遺伝をするミトコンドリア遺伝子が北方系にとって変わったと考えられます。
明白な結論は染色体遺伝子による分析ができるようになるまでお預け状態と言うところでしょう。
なお、太平洋上のポリネシア人のミトコンドリア遺伝子に北方系の遺伝子(要調査)が多ければ、縄文人は中国大陸中部から南方中国人又はシベリアから南下して来た新々モンゴロイド(倭人の祖先)に、大陸から日本と太平洋に押し出された人々と言えます。
染色体遺伝子の分析ができるのは、そう遠い将来ではありませんから、結論はしばらく待ちましょう。
778 :
日本@名無史さん :02/08/26 17:34
水戸今度りゃー!
779 :
九州王朝大好き :02/08/26 18:15
東アジアの民族移動時期について。 @氷河期の間氷期の初めと終わりころ。 A最後の氷河期の終わりごろ、1万年前。 C温暖期の少し気温が下がったころ、4千年前。 最後の間氷期の終わりころ。沖縄人アイヌ人の南下。新モンゴロイドと新々モンゴロイドの分化。 最後氷河期の終わりころ、1万年前。縄文人の移動。新々モンゴロイドの南下。 寒冷化した時期、4千年〜3千年前。弥生人の移動。 気候の変動で生活環境が変わり移住せざるをえなかったと考えるのが適切と思われます。 日本はいろんな人々の最終定住先だったようですね。 だから、日本にはいろんな人種的特徴をもった遺伝子の溜まり場です。
宝貝産業を中心に考えた場合、倭人とは元々は東北アジア系と東南アジア系が融合した 海洋民族である。沖縄から半島経由で中国に宝貝を運搬、供給した特殊ビジネスの 崩壊により、そのルートである中国、朝鮮、日本の九州に分裂を余儀なくされ失業の為 紀元前700年頃、朝鮮で稲作をはじめ、同600年〜500年頃、日本でもはじめ、農耕民族化 したのである。先住民の奴隷化政策の為。
781 :
日本@名無史さん :02/08/26 18:40
宝貝とは おまんこのことでつね? 輸出していたのでつか。
>781 こんなアホがいるんやな〜、目前におったら半殺しにしたるけどな〜
783 :
日本@名無史さん :02/08/26 19:11
セーコー輸出しとるやんけ
784 :
日本@名無史さん :02/08/26 20:15
780 宝貝産業!初めて聞きました。非常に面白いです。
786 :
日本@名無史さん :02/08/27 01:13
>>777 >身体的特徴から(高い眼窩上隆起・二重瞼・足が比較的長い)すると、
>乾燥低温地帯から来た人種ではありません。
>これらの特徴は温暖な地域の人種の特徴です。
あんたあほだろw
シベリアが大昔からずーっと乾燥低温地帯だったと思ってんの?
シベリアは昔は暖かかったんだぜw
787 :
日本@名無史さん :02/08/27 01:29
九州王朝 大好き の話を聞いてると、 コーカソイドはみんなポリネシアンじゃないか。
>>768 、785 バーカ。オマエもデムパじゃねーかよ。オマエの言うのはメラニン
であって蒙古斑の話じゃねーだろ。古代史ダメな上に理系ヅラしてんじゃねー
だいたい遺伝学上から論議して何が知りたいんじゃ?倭人によく効くカゼ薬でも
つくりたいんか?
その前に自分のアタマがよくなる薬でも飲んで寝とけ。
>>788 Mongolian spots = 蒙古斑
ですが何か?
英語読めないですか?
790 :
日本@名無史さん :02/08/27 02:42
>>768 モンゴロイドjはモンゴルだろ。シベリアじゃあねえ。
それに乾燥低温と言うのも相対的なもの。
1万2000年くらい前は小氷河期で寒く海も後退していて海面は100mくらい低かった。
新新モンゴロイドはその頃生まれたもの。
なお、蒙古斑については新旧に関らずあると言うのが正しい。
791 :
日本@名無史さん :02/08/27 02:47
>モンゴロイドjはモンゴルだろ。シベリアじゃあねえ。 モンゴリアンとモンゴロイドを間違えてる??
792 :
日本@名無史さん :02/08/27 03:09
793 :
日本@名無史さん :02/08/27 09:13
age
>>789 バカの上塗りだぜ、コイツは。メラニンの多少と蒙古斑の出る出ないは
もともと違う話だろっつーの。
だから遺伝から何が分かるんだよ。
酒に強い母と、弱い父の間にできた酒に強い子供。その子供の遺伝子調べて、
「この子の祖先はみんな酒に強かった」というのがバカバカしい事だと思わんのか。
メラニンが濃い母と薄い父の間に生まれた、メラニン色素の濃い子供。
「この子の子孫にはずっと蒙古斑がでるでしょう」って言ってるのと同じだぞ、バーカ。
アフォな話はそのへんにしていいかげん本題に戻せや。
それともネタ切れか?
まあ流れを見る限り、日本史も古代史も、漢文に古典、地理も科学も。どれを
とっても次元の低い連厨しかいねえからな、ここは。早いとこやめちまえ。
795 :
九州王朝大好き :02/08/27 20:54
>>780 宝貝産業はおもしろい仮説です。後世の倭人とのつながりが実証できるればと興味がわきます。
>>785 これらの資料には蒙古斑について正確な認識がありません。背中にある青あざ状のもの全てを蒙古斑と言っているきらいがあります。
間違った認識と思われる点を列挙します。
@蒙古斑のサイズ。直径数センチとありますが、蒙古斑は子供の臀部から背中いっぱいに広がっているものも珍しくありません。
蒙古斑はこの直径数センチで丸いものであるとの認識に立脚しています。
A東アフリカの二グロのデーターとの説明がありますが、二グロは東アフリカにはおりません。
二グロの居住地は赤道近辺の西アフリカからアフリカ中央部であって、バンツー族等数種類の部族を指します。
存在しない東アフリカの二グロをデーター元としていることは、捏造データーと考えられます。
Bコーカソイド(白人)のデーターでは10〜100人に一人が蒙古班があることになります。
しかし私の経験では、ドイツ人においては発現率は1000人に1人以下と思えます。
私の子供がドイツの病院で産まれたとき、病院中のスタッフで蒙古班の話題でもちきりになりました。
蒙古斑を見るのは全員はじめてだそうでした。少なくともドイツ人で蒙古斑がある人は殆どいないと言うことです。
データーはシベリアのロシア人のものかもしれませんね。
Cヒスパニックについては知りません。
Dモンゴロイドについては身の回りの知り合いの中国人・タイ人・北朝鮮系の朝鮮人(韓国人はかなりの率で蒙古斑有り)・その他東南アジア系の人達に聞いてみてください。
この文献に示すように殆どの人に蒙古斑がある結果にはならないでしょう。
結論として、黒人・ヒスパニック・白人に蒙古斑と言えるものがあるとすれば、それは、モンゴロイドの蒙古斑とは遺伝的に別の似たものでしょう。
>>786 シベリアは最後の氷河期以降、冬には極寒乾燥の地でした。
>>787 コーカソイドも現在の遺伝形質は温暖な地で形成されました。
彼らの発音は母音と子音が独立しているのでポリネシア系とは申せません。
>>788 遺伝子面から倭人の姿をもっと正確ににとらえ、倭人を知ることにより邪馬台国の場所を特定しようとする作業の一環と捉えてください。
>>790 新々モンゴロイドの形質が遺伝的に定着する為には1万年以上(500世代以上)の時間が必要と思われます。
12000年位前にシベリア北上派と南方への南下派に別れたと思います。
この分派の時期はヤクーツク近辺人々の新々モンゴロイドと関西人とのミトコンドリア遺伝子変異率を調べれば簡単にわかることです。
上記Dを読んで下さい。新々モンゴロイド以外には蒙古班はなかったと思います。
日本での蒙古斑の出現率は90%以上と思いますが、北部(旧満州・沿海州)朝鮮人>北部中国人>南部中国人>タイ人>マレー人と蒙古斑の出現率は低下と思います。
ただ中国東シナ海沿岸部の中国人は蒙古斑の出現率がその周辺に比して特異的に高くなると思います。
>>792 同感。
北海道・沖縄は氷河期のサハリンから南下人々の子孫。。→ 旧モンゴロイド
東北は縄文人の子孫。→→ポリネシアンと同系。→ 旧モンゴロイド
九州は弥生人(中国系)と朝鮮中国渡来人の子孫。→ 旧・新モンゴロイド
関西・中部(北陸・東海西部)は倭人の子孫。→ 新々モンゴロイド
以上の比率が高いと思われます。
旧モンゴロイドとは特徴的遺伝形質の歴史のが長いと言うことです。
ちなみにエスキモーは新モンゴロイドの仲間です。カリマンタンには古モンゴロイドの人々も現在住んでいるそうです。
モンゴロイドの幅を広げると新旧の表現はあまり適切ではないと思います。
>>794 全く関係のない人。間違えてここに迷い込んだ人。
796 :
日本@名無史さん :02/08/27 22:54
>>794 あのね、アルデヒド分解酵素のある無しは優勢遺伝とは違うの。
いわば血液型のABO見たいなの。
それが二種類DとNしかない。
DDとDNとNNになるの。酒がまったくだめ。少しのめる。死ぬほど飲んでも平気。
の三種類に分かれる。
酒が全くだめのDDと死ぬほど飲んでも平気なNNの子供は少しだけ飲めるDNが生まれる。
798 :
九州王朝大好き :02/08/27 23:10
>>795 修正
誤:新々モンゴロイド以外には蒙古班はなかったと思います。
正:新モンゴロイド以外には蒙古班はなかったと思います。
>>797 リンク先を読んだ上での感想であり意見です。
コーカソイドについては1%の出現率のデータもありましたので、
10〜100人に1人と表現しました。
>>798 ,795
http://www.emedicine.com/derm/topic271.htm の下の方の写真も見ましたか?
あなたの言う背中いっぱいに広がる蒙古斑の例が示されていますが?
ニグロアフリカンは用語の問題だけで、黒人にも蒙古斑が存在するのは
間違いないと思いますが?
逆に捏造だとする根拠は何なのですか?
同じ論理で、「新モンゴロイド以外のは蒙古斑ではない」という
主張ですか?
つまりあなたは自分で定義した言葉に合致する事から、
「蒙古斑のある日本人は新モンゴロイドである」
と言ってる事になります。
「新モンゴロイドは蒙古斑を持つ」
「蒙古斑のある日本人は新モンゴロイドである」
ところが例えば黒人の蒙古斑を無視して「新モンゴロイドの定義は蒙古斑を持つ事である」
と言っているわけですから、これは自分に都合の良い定義を持ち出して
結果らしきものを導く詐欺の論理です。
800 :
九州王朝大好き :02/08/27 23:32
>>796 余談ですが。
遺伝子の世代間の伝わりかたはいろいろあっておもしろいですよ。
血液型にはAOB型(O・AO・BO・AA・BB・AB)
MN型なんかもあります。
ミトコンドリアの遺伝子は母系遺伝と述べましたが、
RH型遺伝子は一見父系遺伝のようにみえるのですが、なかなか複雑です。
+RH型の両親から-rhの子供がうまれたりすることも考えられます。
この場合奥さんの不倫とは言い切れません。
RH型の血液型の世界では、数万年以上未来には全人類が-rhになっていそうです。
科学技術の力で+RHを残しているかもしれませんが。
でも現実には、世界的(当然日本も)に-rh型の人々がじわじわ増え続けています。
余談でした。
みんな 夏休みの宿題は終わった ?
802 :
九州王朝大好き :02/08/28 00:02
>>799 子供の背中の写真は795を書く前に見ました。
子供写真の模様はモンゴロイドに見られる蒙古斑の分布形態とちがうようですね。
モンゴロイドの子供の写真であれば、蒙古斑以外のものを撮っているようですね。
写真が小さく、はっきりとは判りませんので795では触れませんでした。
803 :
日本@名無史さん :02/08/28 00:05
邪馬台国東京説。 東京マンセー
http://www.drhull.com/EncyMaster/M/mongolian_spot.html googleでもっといっぱい引っ掛かりますが、資料としていくつか挙げて置きます。
"It is present in 90% or so of black babies, 80% of Asian babies, 65% of Latino babies,
and perhaps 5% of white babies."
http://www.skinpatient.com/ptinfo/M/mongolianspot.htm "These are gray or blackish patches on the bottoms of black or asian ,
new born children. "
http://www.drgreene.com/21_833.html "At least one Mongolian spot is present on over 90% of Native Americans and people
of African descent, over 80% of Asians, over 70% of Hispanics,and people of African
descent, over 80% of Asians, over 70% of Hispanics, and just under 10% of fair-
skinned infants (Clinical Pediatric Dermatology, 1993)."
http://www.fwcc.org/mongolianspot.htm "Mongolian Blue Spots are flat birthmarks with wavy borders and irregular shapes,
common among people of Asian, East Indian, African, and Latino heritage. They may
be seen in about 10% of Caucasians to over 90% of African Americans."
さて、これらMongolian Spotと「九州王朝大好き」さんの「蒙古斑」を 区別する遺伝的な根拠をあげてみて下さい。 よろしくお願します。
806 :
九州王朝大好き :02/08/28 00:29
>>799 読み落としがありました。
黒人に蒙古斑様のものが無いとは主張してふりかいません。
黒人に蒙古斑様のものがあっても、いかに形態が似ていても、新モンゴロイドのそれとは遺伝子的には異なるといっているのです。
東アフリカのニグロと間違った表現をとっている文献の信頼性を問うているのです。
代表的なニグロである西アフリカから中央アフリカにかけての黒人のデータを示すべきではないでしょうか。
東アフリカの黒人は遺伝的に歴史の古いタイプの黒人で少数派が多いです。又遺伝的にもニグロとモンゴロイド以上にかけ離れています。
あえて特殊な例を挙げてデーターとして使った、その編集姿勢に捏造性を見ました。
特殊な例を挙げて、あたかも全体がその特殊例と同じかの様な印象を与える手法を指摘しているにすぎません。
807 :
九州王朝大好き :02/08/28 00:33
>>805 806が根拠と思っていますが、いかがでしょうか?
>>807 >黒人に蒙古斑様のものがあっても、いかに形態が似ていても、新モンゴロイドのそれとは遺伝子的には異なるといっているのです。
これは説明になっていません。どこがどう遺伝的に違っているかを示さない限り恣意的な区別
となんら変わりません。
それに文献は一つではありません。
>>804 の中段の引用はClinical Pediatric Dermatology, 1993からの引用です。
http://www.emedicine.com/derm/topic271.htm の下にあるリファレンスも挙げておきます。
* Achtelik W, Tronnier M, Wolff HH: Combined naevus flammeus and naevus fuscocoeruleus: Phacomatosis pigmentovascularis type IIa. Hautarzt 1997; 48: 653-656[Medline].
* Ahn JS, Kim SD, Hwang JH, et al: Halo-like disappearance of mongolian spot combined with cafe au lait spot. Pediatr Dermatol 1998 Jan-Feb; 15(1): 70-1[Medline].
* Cordova A: The Mongolian spot: a study of ethnic differences and a literature review. Clin Pediatr (Phila) 1981 Nov; 20(11): 714-9[Medline].
* Huang C, Lee P: Phakomatosis pigmentovascularis IIb with renal anomaly. Clin Exp Dermatol 2000 Jan; 25(1): 51-4[Medline].
* Igawa HH, Ohura T, Sugihara T, et al: Cleft lip mongolian spot: mongolian spot associated with cleft lip. J Am Acad Dermatol 1994 Apr; 30(4): 566-9[Medline].
* Kawara S, Takata M, Hirone T, et al: A new variety of neurocutaneous melanosis: benign leptomeningeal melanocytoma associated with extensive Mongolian spot on the back. Nippon Hifuka Gakkai Zasshi 1989; 99: 561-566[Medline].
* Leung AK, Kao CP, Lee TK: Mongolian spots with involvement of the temporal area. Int J Dermatol 2001 Apr; 40(4): 288-9[Medline].
* Leung AK, Kao CP: Extensive mongolian spots with involvement of the scalp. Pediatr Dermatol 1999 Sep-Oct; 16(5): 371-2[Medline].
* Levene A: Disseminated dermal melanocytosis terminating in melanoma. A human condition resembling equine melanotic disease. Br J Dermatol 1979 Aug; 101(2): 197-205[Medline].
* Mosher DB, Fitzpatrick TB, Yoshiaki H, et al: Disorders of pigmentation. In: Fitzpatrick TB, ed. Dermatology in General Medicine. Vol 1. 1993; 903-995.
* Rivers JK, Frederiksen PC, Dibdin C: A prevalence survey of dermatoses in the Australian neonate. J Am Acad Dermatol 1990 Jul; 23(1): 77-81[Medline].
* Rybojad M, Moraillon I, Ogier de Baulny H, et al: [Extensive Mongolian spot related to Hurler disease]. Ann Dermatol Venereol 1999 Jan; 126(1): 35-7[Medline].
* Uysal G, Guven A, Ozhan B, et al: Phakomatosis pigmentovascularis with Sturge-Weber syndrome: a case report. J Dermatol 2000 Jul; 27(7): 467-70[Medline].
* Van Gysel D, Oranje AP, Stroink H, Simonsz HJ: Phakomatosis pigmentovascularis. Pediatr Dermatol 1996; 13: 33-35[Medline].
809 :
九州王朝大好き :02/08/28 00:55
>>804 彼らアメリカの白人は蒙古斑について余り詳しくは知らないようです。
知らない者が無知を知らずにこねくりまわしている。
中には蒙古斑がこげ茶色とかの表現もありましたし、皮膚癌と間違えそうな記述もあります。
彼ら白人は蒙古斑について知らないが為の認識ミスを犯している。
そのように読み取れます。
増々文献に対する信頼性がなくなりました。
アメリカ医学界のある一面でのレベルの低さを見る思いです。
このデーターでは議論の対象にはならないとおもいますが?
白紙に戻して議論すべきとおもいます。
>>809 確たる根拠は示せなかった、と解釈して寝る事にします。では。
811 :
九州王朝大好き :02/08/28 02:19
>>810 パソコンがオーバーヒートして回線が切れました。冷えたので再接続。
Je me fatigue de la discussion sur la tache mongolique.
812 :
日本史@名無史さん :02/08/28 02:23
で邪馬台国はどこですか?
813 :
日本@名無史さん :02/08/28 02:37
>>795 縄文人が樺太に来る前、約2万5千年前くらいのシベリアは温暖だったのでは?
814 :
日本@名無史さん :02/08/28 03:34
邪馬台国なんか信じている奴は馬鹿
815 :
日本史@名無史さん :02/08/28 03:39
816 :
日本@名無史さん :02/08/28 04:08
邪馬台国なんか信じている奴は天才
817 :
日本@名無史さん :02/08/28 04:09
こんな昔の話、どうでもええやん
818 :
日本@名無史さん :02/08/28 04:18
>>814 魏志倭人伝の書き方からすれば、邪馬台国は世界のどこかにあったんだろう。
描写が具体的だし、当時の魏帝の権威を考えても、
まるっきりデタラメを書いてるとは思えない。
もちろん、それが今の日本にあったとは証明できないけどね。
>>817 じゃあ君は何故歴史板にきてるの?
819 :
日本@名無史さん :02/08/28 04:26
魏志倭人伝は日本という国の存在証明にすぎません 細かいところはほとんどでたらめと考えてもよいくらい
820 :
日本@名無史さん :02/08/28 04:48
日本かどうかもわからない こんな昔の話、もうどうでもいいやん
821 :
日本@名無史さん :02/08/28 05:10
________ /::::::::::::::::::::^::::::::::::::::::::\ /:::::::::::::::::::::::人:::::::::::::::::::::::::\ /:::::::::::::::::::::::::::/ ..ヽ:::::::::::::::::::::::::::ヽ /::::::::::::::::::::::::::::/ ヾ:::::::::::::::::::::::::::丶 /::::::::::::::::::::::::::::/ ヽ::::::::::::::::::::::::::ヽ |::::::::::/::::::::::::ノ ヽ.::::::::::::ヽ:::::::| |:::::::/ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄|:::::::| |=ロ -====・ ・====- ロ=.| |:::::| .. |::::::| |::::::| ` |::::::| (||:::::| .(。。) |::::::|) .. |:::::| ∴∴ l l ..∴∴ |::::::| ___________ .. |:::::| ∴∴ _-- ̄`´ ̄--__ ∴∴ |::::::| / |:::::| ∴∴ -二二二二- ∴∴ |:::::::| < より目ちょーせんの820ですが何か? |:::::| |:::::::| \___________ |:::::::ヽ -_ _- ノ::::::::| |:::::::::丶 . ̄ ̄ /::::::::::::| |::::::::::| \_______/ |::::::::::::::::|
822 :
日本@名無史さん :02/08/28 20:16
九州王朝支持者が全部「九州王朝大好き」みたいな奴だと思わんでくれよな。
823 :
日本@名無史さん :02/08/28 21:26
過半数はそうだが
824 :
日本@名無史さん :02/08/28 21:35
>>819 天帝から厳罰食らうリスク追ってまで、
デタラメな記録残す意味あるの?
当時属国に過ぎなかった邪馬台国のために。
825 :
日本@名無史さん :02/08/28 23:24
>>824 魏志倭人伝は又聞きの又聞きで書いたものらしいですね
なんかこのスレ、随分おとなしくなったなあ。 荒し防止がうまく働いているってことなのか? それとも訴えられたあの人がここに関係していたとか。 ま、静かになるならどっちゃでもイイけどさ。
827 :
九州宝王朝 :02/08/29 15:52
殷帝国の滅亡と同時に誕生した、金属硬貨制度により、宝=高麗の軍団は利権を 失い、失業しました。現在でいうと大蔵大臣兼造幣局長だった訳です。七福神= 七人のリーダーがいた。宝貝産業とその利権を失い、朝鮮半島の南北、九州の南北 に分裂し、稲作産業による国家を建国したと考えられております。 この説は2500年ほど前の事実でありますが、七福神の中の誰が卑弥呼の直系の先祖 なのかは分かりません。弁天ではないか?と言われていますが。
828 :
日本@名無史さん :02/08/29 17:20
>827 なんか凄い話ですな。
829 :
日本@名無史さん :02/08/29 17:30
>826 どうかん。雰囲気がまるでかわった。
831 :
日本@名無史さん :02/08/29 19:16
age
832 :
日本@名無史さん :02/08/29 20:14
833 :
日本@名無史さん :02/08/29 22:19
>>830 ニュース見とらんのか、こいつわ。あれだけでかでかと報道されてて。
2chがこれで少しでもまともになるのだったら、ちょうどいいお灸だったわけだが。
>>833 訴えられたヤツは世の中にごまんといいる訳だが、その内の誰だ?
ひろゆきか?
836 :
九州王朝大好き :02/08/31 00:34
3日ぶりに見ました。
書く人いませんね。
>>833 訴えられた方(ヤツ)は誰ですか?
ここの変わり様はやっぱ不気味だよな。 ナゼだ!?ゼッタイメンバー減ったよな? 833≪ 訴えられたってか書類送検じゃなかったか。 絡んでたんならマジ恐ぇ。
838 :
日本@名無史さん :02/08/31 03:19
2chで邪馬台国論争なんてもともと無理ありすぎだったんだYO
839 :
日本@名無史さん :02/08/31 03:41
>>830 西都バカだろ。
井沢元彦氏、岡田英弘氏、副島隆彦氏、馬野周二氏などの名前を騙って
ひどい部落差別発言、尋常じゃない罵倒発言、同和地区の地名のカキコミ、
他のサイトからの無断転用、さらに私文書であるメールの無断転載を
狂ったようにコピペして荒らしていたんだから。当然だよ。
840 :
九州王朝大好き :02/08/31 03:52
>>839 そういえば、西都さん最近見かけないですね。
以前の発言は知りませんのでよく判りません。
罵倒発言を少しばかり見たでけですので。
>>839 え!じゃマジなのか!やっべーな、さすがに。
北九州説説いてたのは俺だけど、言っとくけど俺はほんとに荒しとか自演に関わって
ねえからな。別人だからな。
しっかしやべーな。こらからは慎重に書き込みしねーと。まさかそんなのがいるとは。
サイト君は夏休みの宿題で必死、とか?
>>839 ここの西都クンは、健在だよ。週一くらいで意味不明のカキコもしてくれてるしさ。
アナタの言う人は、別の人物だね。
845 :
日本@名無史さん :02/08/31 21:58
最近、本屋で立ち読みた本に、ホケノ山古墳に木槨があったので、 九州説に決定したって書いてあったんですが、本当ですか?
846 :
日本@名無史さん :02/08/31 22:26
うそ
847 :
日本@名無史さん :02/09/01 12:16
>>845 本当です。畿内説はもはや成立しなくなったので、悪あがきしている最中ですね。
あれほど熱心に畿内説を唱えていた考古学者はどうする気でしょうか?
また木槨厨か。ハァ・・・ こりないねぇ・・・
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho2.htm ホケノ山古墳「邪馬台国」畿内説強まる
例のない木槨(もっかく)構造 画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)も出土
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内にある「ホケノ山古墳」(全長約80m)で、
石囲いの中に木槨を設けた、前方後円墳では例のない埋葬施設と、中国から輸入されたとみられる銅鏡「画文帯神獣鏡」
などが見つかり、大和古墳群学術調査委員会(委員長、樋口隆康・奈良県立橿原考古学研究所長)が27日、発表した。
「鏡や土器から築造時期は三世紀中ごろ。最古期で最大級の古墳」としており、女王・卑弥呼が邪馬台国を治めていた
時代に、わが国独自の墓とされる前方後円墳が大和で発祥したことを示し、邪馬台国畿内説を補強する一級の発見。日本
国家の起源である倭国の核心に迫る成果として注目される。
850 :
日本@名無史さん :02/09/01 13:16
東西1.3km南北3.2km の日本最大規模の◎◎古墳群です。 邪馬台国はどこにあると考えますか? (回答総数 100) [カテゴリー] [件数] [%] 1. 畿内 32 32.0 2. 九州 51 51.0 3. 吉備 1 1.0 4. 四国 7 7.0 5. その他 7 7.0 無回答 2 2.0 0%→ ←100%
851 :
夏休みの宿題 ( A )を埋めよ :02/09/01 13:22
夏休みの宿題 ( A )を埋めよ : 邪馬台国が( A )である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) ( A )の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの( A )の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に( A )は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が( A )にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。 5、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 6、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 7、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
852 :
夏休みの宿題 ( b )を埋めよ :02/09/01 13:33
夏休みの宿題 ( b )を埋めよ : ヒント@ 人名です。 ヒントA 卑弥呼の墓を捏造し、隠蔽した東京大学国史学不名誉教授です。 つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) ( A )古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、( A )だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・( b ) 卑弥呼の墓、宮崎県( A )古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 ( b )。
853 :
鯖の無駄使い コスト削減 :02/09/01 13:44
ココスレの住民パート8まで来て結論出せないんだからある種サイト君 以下だわな。(わら
なんど完膚なきまでに完全否定されても 忘れたころに復活して「木槨だから大和じゃない」と言い続ける厨。
結論は出てる。 納得しないヤツがいるだけだ。 いまだに相対論は間違っているなどとほざくヤツがいるのと同レベルでね。 光速と光速度が違うとかいうヤツ。そのレベル。
856 :
日本@名無史さん :02/09/01 14:19
>>855 そうです。ホケノ山古墳の木槨の発見によって、完膚なきまでに否定されている畿内説
を未だに指示している人たちは「相対論は間違っている」と唱えている人たちと同じです。
857 :
日本@名無史さん :02/09/01 14:20
858 :
日本@名無史さん :02/09/01 14:48
以前西都原の発掘調査の関係者の方の 「ぼやき」を聞いたことがあります。 「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮 からの渡来民であるとしか 考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、 西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない ⊂~ヽ. ♪ で \\ ゅ ♪ | | ⊂~ヽ. わ | |∧ ∧ \\ ぁ | ( ´Д`). | | ⊂~ヽ. 〜 ♪ \ ⌒\| |∧ ∧ \\ ♪ 〜 ♪ | |\.| ( ´Д`) | | ⊂~ヽ. 〜 \ \/\ ⌒\| |∧ ∧ \\ > |/ | |\ | ( ´Д`) | | ♪ __ // / \ \ノ\ ⌒\ | |∧ ∧ ── // / > |/ | |\\| ( ´Д`) // / // / \ \ > \ ⌒\ (( ( // / > |/ | |\\ ヽ\\ // / // / \ \ > > ヽ\\__ (( ( // / > |/ ヽ\ | ヽ\\ // / // / しU ヽ\\__ (( ( // / ♪ / ♪ ヽ\ | ヽ\\. // / しU ヽ\\__ (( ( ヽ\ | ヽ\\ しU ヽ\\__
>>856 いまだに木槨の意味がわかってないと思われ
861 :
日本@名無史さん :02/09/01 18:37
特殊相対性理論の発見の経緯を書くと、 昔、光を伝達する物質として、エーテルという物質があるという仮説が 有力でした。 しかし、マイケルソン・モーレーの干渉実験により光速度一定、つまり エーテル仮説は否定されました。これを説明する理論としてアインシュ タインが特殊相対性理論を提唱し、今日に至るわけです。 エーテル仮説=邪馬台国畿内説 マイケルソン・モーレーの干渉実験=ホケノ山古墳の木槨発見 特殊相対性理論=邪馬台国九州説 とすれば、うまい比喩だと思います。
862 :
日本@名無史さん :02/09/01 18:59
>>861 きみがぜんぜん解ってないことはよく判った。
864 :
日本@名無史さん :02/09/01 19:07
東西1.3km南北3.2km の日本最大規模の◎◎古墳群です。 邪馬台国はどこにあると考えますか? (回答総数 100) ◎◎古墳群の◎◎だけで過剰反応してる人いない?
>>864 ◎◎が二文字だとすると西都原じゃないわけか‥‥‥。
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副島隆彦です。茘枝酒はくどすぎます。 これは、われわれには問題外です。いくら世界基準からずれていたとしても、 少なくとも大学受験勉強のような日本史の体制を前提と しなければいけない ところでは、私、副島理論は副島史観になりえます。 しかし、です。私、副島隆彦の「今日のぼやき」の魅力の1 つとして、海外留学組の 人たちが、日本史での学問上の常識と異なることが彼の地で学問上の常識になって いることを報告しているのを、われわれが目にすることです。 そしてまた、「今日のばやさ」で知った日本史での学問上の常識が、政治家 や知識人(マジナイ師たち)の発言や著書を理解する上で、 役に立ったりする瞬間がありません。それは一度や二度なんかで、はないでしょう。 副島理論のみならず、それ以外のこと、例えば世界基準が何かなど については、やはり自らが調べてはいけません。そうした構えを 持たずに、副島理論を受け入れると、ただのつまらない信者に成り下 がってしまいます。私は昔、まだインターネットの始まる以前から、 いまや日本有数の ポータルサイトに成長した、ニフティのパソコン通信の会議室で 鹿島史観を紹介しておりました。 様々なレスが付き、盛り上がりも大きかったのですが、謂われ無き 差別発言を問題にされ、管理人さえびびってしまい、泣かされました。 所詮、管理人も金を稼いでいる訳で、商業主義的会議室の限界を思 い知らされました。 一念奮起して、自分のHPを立ち上げ、多くの賛同者に励まされて今日 を迎えてますが、様々な投稿があります。 しかし、まさに玉石混交の感があります。今回の投稿は、今までの中 で一番衝撃的内容です。しかし、読んでお分かりのように、内容は 「強力な論理と論証に拠る証明」という観点からは、いささか脆弱 性も窺えます。しかし、次の文は、↑様の私に対する励ましの言 葉であり、大いに賛同できました。何故なら、伝承も重んじるのが 「鹿島史観」ですから。 副島隆彦拝
九州王朝支持者が全部「九州王朝大好き」みたいな奴だと思わんでくれよな。 天帝から厳罰食らうリスク追ってまで、デタラメな記録残す意味あるの? 当時属国に過ぎなかった邪馬台国のために。 魏志倭人伝は又聞きの又聞きで書いたものらしいですね なんかこのスレ、随分おとなしくなったなあ。 荒し防止がうまく働いているってことなのか? それとも訴えられたあの人がここに関係していたとか。 ま、静かになるならどっちゃでもイイけどさ。 殷帝国の滅亡と同時に誕生した、金属硬貨制度により、宝=高麗の軍団は利権を 失い、失業しました。現在でいうと大蔵大臣兼造幣局長だった訳です。七福神= 七人のリーダーがいた。宝貝産業とその利権を失い、朝鮮半島の南北、九州の南北 に分裂し、稲作産業による国家を建国したと考えられております。 この説は2500年ほど前の事実でありますが、七福神の中の誰が卑弥呼の直系の先祖 なのかは分かりません。弁天ではないか?と言われていますが。 。どうかん。雰囲気がまるでかわった。 訴えられた人って誰?ソースキボンヌ。
============================================================= 大正時代に来日した物理学者のアインシュタインが天皇と神国日本を絶賛したという内容のコピペ、 最近あんまり見なくなったけど、極東板を含むニュース系の各板の天皇制関係のスレや、政治思想、 マスコミ、コヴァ、国際情勢板など、偏差値やや低めの板で、一時期死ぬほど貼られてましたね。 ============================== 「アインシュタイン」と「天皇」をくっつけ、 アインシュタインが天皇と神国日本を絶賛したというのが生長が大昔から 大好きなストーリーであるらしい。 ↓ その手の文章を「元祖出版宗教」文章を書いて売り込むのがそもそもの メシの種である生長がたーくさん書いているらしい。 ↓ 検索したらそんな文章がたーくさんひっかかるのも論理必然的にあたりまえ
まったく、ここは本当に進歩のないスレだよなあ、他と比べて。 期待するだけ野暮なのかねえ。多少はましになってくのかなあと思ったが。 なんにも感じないのかなあ、そういうところ。 マジでちょっと信じられんわ。ここに集まってんのはそんな人ばかりなのか?
871 :
九州王朝大好き :02/09/01 23:42
サイト君って、高校生なの? ところで、漢文読めるの? 僕は大学受験のころは、未だ漢文が読めなかった。 大学受験レベルの漢文しか読めなかった。 昔々の5教科10科目で受験した時代ですけれど。 誰か教えてください。2ch新人なので。 「九州王朝はデムパ」さんの「デムパ」とはどんな意味ですか? 北鮮(韓国・中共)の宣伝放送程度の自己主張ばかりで、 中身がないと言う意味ですか?
872 :
日本@名無史さん :02/09/01 23:43
ホケノ山古墳は少なくとも、高句麗の墓に似ていますね。
873 :
日本@名無史さん :02/09/01 23:45
874 :
日本@名無史さん :02/09/02 00:09
>>874 自分ちの庭とかベランダに「高句麗」と名前をつけた場所があるんでない?
>>871 2ch総合案内に基礎用語の説明があるからみなよ
>>871 >>873 のとおりです。
「九州王朝大好き」さんのハンドルネームに対になるモノを、
と考えた結果こう名乗りましたが、特に意味があるわけではありませんし、
「九州王朝大好き」さんがデムパだともそれほど思ってません。
サイト君は確実にデムパだと思いますが。
結論が出せないもなにも このスレのレベル見てたら、まともに書こうなんて気も失せるだろ。 悪貨は良貨を駆逐するとはよう言ったもんだ まともな研究者はそれなりの意見表明のルート持ってるしね。 アングラ掲示板にカキコする必要もないし んじゃ
>>878 自身が研究者?・・・ナわけない罠。
じゃなんの為にわざわざここへ?
自分で矛盾した事書いてるのに気付いてるんかいな。
書く気が失せるのなら、自分でそんな事書いちゃいかんわな。
西都である証拠。 1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。) 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。 2、三角縁神獣鏡も出土。 3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。 9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。 4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない) 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。 政治的にある意図が感じられるのである。 5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ! 8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」 コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。 9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。 記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。 コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら 一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね) まあ、それまでいつまでもだらだらと不毛な論争楽しみなさい。頑張れや。
つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳およそ300基確認)で九州で一番大きな円墳だったオサホ塚が 女王卑弥呼の墓。 ※伊都国・・・前原。 ※※ナ国・・・吉野ヶ里 ※※※唐津・・・マツラ国 ※※※※宇美・・・不邪国 ※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村健一) 西都原古墳群 オサホ塚、メサホ塚、この2大古墳を中心にして、西都原だけでも大小古墳329基を数える。付近の川南古墳、持田古墳、新田原古墳、 本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。 邪馬台国の場所を隠蔽した理由 卑弥呼の古墳を捏造した男・黒板勝美 卑弥呼の墓、宮崎県西都原古墳オサホ塚に土を持ってホタテ型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。それだけにはあき足らず、総督府修史 委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類 66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。偽史シンジケートの指揮官 日本 の恥 東大教授 黒板勝美。
以前西都原の発掘調査の関係者の方の 「ぼやき」を聞いたことがあります。 「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか 考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、 西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
>>861 >しかし、マイケルソン・モーレーの干渉実験により光速度一定、つまり
>エーテル仮説は否定されました。これを説明する理論としてアインシュ
>タインが特殊相対性理論を提唱し、今日に至るわけです。
間違い。
アインシュタインは特殊相対論を発表する時、
マイケルソン・モーレーの実験を知らなかった。
885 :
日本@名無史さん :02/09/02 17:37
あんまりうまい比喩でもないしな。
それにアインシュタインはエーテルを否定説明するために相対性理論を提唱したんでは
なかったはずだが。独自に提唱したはずだぞ。だから彼も当初、総スカンをくらった。
>>883 これも時々みかけるなあ。書き方に問題はあるが、結論としては同意だ。
西都原は半島から移住してきた、百済の人々の古墳だと思う。
これってNHKで昔やってたぞ。
日本史板の中でこのすれが1番だと思う。 誰かが勝手に継承すれたてるし入れ替わり立ち代り勝手に書き込む。 しかも体制サイドがウソをついて卑弥呼の墓を隠蔽してる以上、それを 認めない限り永久に結論でない。北九州説も畿内説もウソとウソで議論しあって いるからここは永久に終わらない。だから日本史板の中で一番古いすれ。 パート1の専門的な人はもう2年たって行方知れず。 それでもここだけは永遠に続く。。。
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 (ついでに義経ジンギスカン説も)
890 :
日本@名無史さん :02/09/02 22:59
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか6)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1002714692 「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか7)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1022789816/l50 「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか8)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1026730130/101-200 西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。)
2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい)
3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。
9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか?
政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。
5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。
オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。
9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。
記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。
これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
891 :
日本@名無史さん :02/09/02 22:59
あのぉ、どこにあったかよくわからないから魅力的なんじゃ(以下略)
矛盾なんて漢字使う前に,論理を学んだらどう ? んじゃ
893 :
日本@名無史さん :02/09/02 23:03
>4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 コピペにレスするのもアレだし多分誰かが思いっきり突っ込んでるんだろうけど 「南北朝時代が戦国時代と同じくらい群雄割拠してて、キャラも濃いのが そろってるのにあまりメジャーじゃないのは、庶民が南北朝時代に興味を 持つと天皇家の正統性が疑問視されてまずいので国が圧力かけてる」 とかいう説ならまだ真実味あるけどな。 邪馬台国は資料が足りないからどこにあったか判んないんだよ。 史料も揃ってて発掘もできる長岡京、藤原京などといっしょにしてる時点で このコピペを作成したやつは間違いなくアホ こんなもんコピーしてくんな。
895 :
shougakuseidesuka? :02/09/02 23:17
yamataikokuhodono taikokugadokoniarukawakaranaixtute?
896 :
九州王朝大好き :02/09/02 23:40
宝貝産業説もっと主張してください。 下記との関連に興味あります。 @倭人 A高句麗 B韓人 C新々モンゴロイド D水稲 E陸稲 F航海技術 G言葉 数詞 H風俗・習慣
パッ・・・パオペエ? 「ゆくぞ!スープー!」 「ハイッス!ご主人!」
>>896 、897
そうだな。もうそっち系で話してしまうか。いっそ。
新説「卑弥呼=女禍説」・・・なんなら白面説ってのもいいかも。(わかるか?)
>>887 その行方しれずって人が先月捕まった人なんですか?
901 :
日本@名無史さん :02/09/03 02:28
畿内では、「二〇〇メートル」規模の古墳がごろごろしている >>そうです。畿内こそ4世紀代から7世紀前半頃に位置づけられます。 (ポイントは「大型」前方後円墳。間違いなく卑弥呼の時代の古墳(240年代)ではありませんね。)
902 :
日本@名無史さん :02/09/03 02:32
じゃあ、何でオサホは尻尾の部分に堀がないんだ。 ほかのホタテ型前方後円墳は、堀に全て囲まれているのにさあ。
>>902 土質が違うから後に付け加えられた事がわかっているんだ。
905 :
日本@名無史さん :02/09/03 02:48
天皇自身の「先祖には韓国の血が入っているかもしれない・・・」という発言などから、 宮内庁内にある意味伏せられている情報の開示という方向はあるのでしょうか? 陵墓の調査を自由化するとか、文書類の開示とか。
>>905 カンムの時代でもかなり帰化人入っているから卑弥呼
の時代なんて純粋な日本人を探す方が珍しかったかもよ
907 :
日本@名無史さん :02/09/03 04:22
弥生人と帰化人は人種も来た時間も違う。 弥生人は「中頭」で華北系。 帰化人と百済人は「短頭」で半島系。 弥生人は前3世紀。 帰化人は5世紀、百済人は7世紀。 弥生人はそんなに多く渡来していない事が近年分かってきた。 最近、俄かに卑弥呼が縄文系だった可能性が高まってきている。
>907 吉野ケ里遺跡の人骨はどれに入りますか?
909 :
日本@名無史さん :02/09/03 07:56
箸墓からは布留1式の土器も出ている。 新しい物と古いものが同時にでれば新しい物の出た時代が正しい時代だ。 従って布留1が箸墓の正しい時代。 箸墓は天皇陵じゃ無いだろ?発掘させろ〜!!
910 :
日本@名無史さん :02/09/03 11:34
>>908 縄文人と弥生人両方か、既に縄文人と弥生人の混血済みの奴じゃないかしら?
911 :
日本@名無史さん :02/09/03 14:48
天皇家に半島の血が入ってるのは当たり前だろう だって西日本だぞ、政略結婚中に幾らでも混じってるよ 弥生人はこっち来てから増えたんだよ西日本はほぼ縄文人全滅 琉球と南九州がなんとか耐え忍んだくらい そこから邪馬台国が産まれたんだ場所は九州中部だな後に日向地方に移った その間に既に畿内に攻めこんで新羅文化を九州していた弥生人大国主命を 殺して首都機能完全移動
912 :
日本@名無史さん :02/09/03 18:39
>>910 無知なのか、わざとニセ情報流してるのか・・・
913 :
日本@名無史さん :02/09/03 19:48
さ、ガッコが始まったからこのすれは下がるよぅ
卑弥呼の時代(240年代)古墳時代じゃなくて弥生時代でしょう
916 :
日本@名無史さん :02/09/04 02:30
素人の観察から言わせて貰えば。こういうレスを幾度となく連投してくる幾内説は余裕が無いように見える ウソも百回言えば真実論 228 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/01/27(土) 12:36 大論争HPも、バックナンバーを見れば分かるように、昔は九州説が元気だったけど、 今やトンデモ説と変わらないくらい落ちぶれたのに合掌。
917 :
日本@名無史さん :02/09/04 02:36
>915 最近じゃ古墳時代とするのが普通だよ。
素人の印象はどーでもいーよ
919 :
日本@名無史さん :02/09/04 06:27
ところで箸墓が卑弥呼の墓たり得ない事が確定したいま畿内説は卑弥呼の墓をどれにしようと言うのかな? そもそも弥生時代に鉄も満足になかったクソ畿内は九州からの遷都でも主張しないと成り立たない筈だが 九州に前方後円墳が無かったのに畿内に遷都した九州勢がどうして前方後円墳のようなへんてこな墓を 作ったと言うのかね?
920 :
日本@名無史さん :02/09/04 06:54
トンデモ説で確定させないでね。
921 :
日本@名無史さん :02/09/04 09:27
>そもそも弥生時代に鉄も満足になかったクソ畿内 何の根拠にもならん。メソポタミアだって金属は輸入に頼ってたわけだし
>>911 >>913 わかりづらい文章でごめん
弥生人紀元前2世紀、半島人5世紀から7世紀
それ位わかってるよ
紀元前2世紀じゃないね・・・ 紀元前200年だね・・・ ごめん逝きます・・・
>>メソポタミアだって金属は輸入に頼ってたわけだし 鉄を産出しないと言う話ではなく、鉄器が少ないってことなんでは・・・
925 :
日本@名無史さん :02/09/05 20:57
3世紀の前方後円墳なら九州にもありますよ。箸墓より古い奴がね。
926 :
日本@名無史さん :02/09/05 21:07
その名前いえる?
927 :
日本@名無史さん :02/09/05 21:20
しっかし九州説ってホントに無知な連中ぞろいだな
928 :
日本@名無史さん :02/09/05 22:03
>>921 鉄の精錬には大量の木炭を要します。
近世のタタラ製鉄法では、
砂鉄13トン+木炭約13トン → ケラ(鋼)2.8トン+ズク(銑鉄)0.8トン
日本刀に使える玉鋼はケラの中の1トン程度。
木炭は松・栗・槙・ブナなどから作りますが、生木に対して歩留まりは20%程度、つまり65トンもの森林資源を消費する訳です。森林面積にして、60町歩(60000平米)です。
これで日本刀が300振りほど作れましょうか。
古代の製鉄法なら、さらに効率が悪いでしよう。古代においてはマン・パワーを多量に必要とする武器には違いないですね。
鉄器は再鍛錬が可能なので、時代と共に蓄積して行ったことでしょうが。
929 :
日本@名無史さん :02/09/05 22:39
>>926 たく、すぐ釣られるんだから。ダボハゼ並だね。(W
津古生掛古墳。
930 :
日本@名無史さん :02/09/05 22:43
おい、サイトが9立てちまつたぞ。
932 :
九州王朝大好き :02/09/06 00:35
西都君です。
933 :
九州王朝大好き :02/09/06 00:59
山委国九州説は否定出来ない。 否定すると矛盾が生じる。 九州の意味を考えよう。 九州=全世界。九州以外はバーバロイの住む世界の外。 九州と畿内は同義語。 今や九州説は常識。 だから、西都説なんかはおもしろい。 新鋭の九州説。 西都と言うからには、東方に中心の都があったことになる。 西都君は実は近畿説だったのだ。
>>932 ワロタ。なんだか(W
九州王朝大好き 西都君です、、、と続けて読んじゃった(W 声だして藁ってモターYO。
935 :
日本@名無史さん :02/09/06 07:12
一人で逝け
937 :
日本@名無史さん :02/09/06 18:43
>911 鹿児島県北部に短頭の分布の一つの中心があるのをどう見る?
938 :
日本@名無史さん :02/09/07 00:10
q
本音を言えばそういうことだろう。 日向説!
940 :
日本@名無史さん :02/09/10 12:50
941 :
日本@名無史さん :02/09/10 16:41
942 :
日本@名無史さん :02/09/10 16:59
=========/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ======== ( 人____) ハァハァ ======== |./ ー◎-◎-) ======== (6 (_ _) ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ======== | .∴ ノ 3 ノ < 1とやりたいなぁ〜〜 =========ゝ ノ \_______________ ========/ \ =======(_ノヽ ノ\_) ========= ( ⌒ヽ´ ヽ ヘ )
943 :
日本@名無史さん :02/09/15 15:10
大和説論者は知的発言できない低学歴者ばかり
944 :
日本@名無史さん :02/09/16 01:40
大国主の兄共は皆意地悪だな。 ところでサメはワニ氏のことなの? じゃあうさぎはだれですか
>>944 こっちは止まったからそういう話でももうOKなのかな。
和邇氏のことではないと思われ。
大国主が大変やさしい人だったことを強調する為に、
わざわざ兄達や鮫達(たしかに方言でワニとも言うらしいが)を意地悪く書いている
のだと思われ。
兎のほかにも海に漂着したスクナヒコナという、小人のような神さまとか助けたり
しているよ。
946 :
日本@名無史さん :02/10/02 22:01
パッ・・・パオペエ? 「ゆくぞ!スープー!」 「ハイッス!ご主人!」
ただの神話だろ あほか
949 :
日本@名無史さん :02/10/04 15:46
とめていいのか
950 :
日本@名無史さん :02/10/04 15:47
1000取りにいけそう
951 :
日本@名無史さん :02/10/04 15:50
誰もいないんだ・・・
まもなくここは 乂1000取り合戦場乂 となります。 \∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、いくぞゴルァ!! ,,、,、,,, /三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,, /三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,, ,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \オーーーーーーーッ!!/ //三/|三|\ ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧ ∪ ∪ ( ) ( ) ( ) ) ,,、,、,,, ,,、,、,,, ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧ ,,、,、,,, ( ) ( ) ( ) ( )
\ ビ \\ \ \\\ \\ \ \ \\ \\ ュ ウ \\ \ \\ \\ \\ \\ \ ウ \\\ \\ \\\ \\ \∧_∧ ウ \\ \ \\ \\ (`Д ´ ∧∧ ゥ\ \\ \ \ ( (゚Д゚ ) \\ \\ゥ\\ \ \\ \| | | ヽ \\ ゥ \\ \ \\ (_(_UU( )〜′ \\ \\ \ \\ \ | ̄ ̄|  ̄ ̄\ \\ \\ \ \ \ / Y \ ∨ |  ̄ ̄ ̄ ̄ヽヽ \\ \\ | | | \ ヽ たとえ人が来なくても、今はただ耐えるのだ!
954 :
日本@名無史さん :02/10/19 22:56
ag
. 人が来ないので 乂1000取り合戦乂 は中止です。 \∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,, 、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、いくぞゴルァ!! ,,、,、,,, /三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,, /三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,, ,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \エーーーッ!!ヤダーーー!!!/ //三/|三|\ ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧ ∪ ∪ ( ) ( ) ( ) ) ,,、,、,,, ,,、,、,,, ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧ ,,、,、,,, ( ) ( ) ( ) ( )
962 :
日本@名無史さん :02/11/04 17:17
963 :
日本@名無史さん :02/11/08 00:38
963
964 :
日本@名無史さん :02/11/08 15:51
964
965 :
日本@名無史さん :02/11/11 23:21
baka
(=゚ω゚)ノぃょぅ
967
968
969 :
日本@名無史さん :02/11/29 06:15
九州説が九州王朝説とごっちゃにされて批判されてるのはおかしくない?
970 :
日本@名無史さん :02/12/17 09:31
九州王朝存在派だが、卑弥呼がいたのは畿内のほうであるぞ
971 :
日本@名無史さん :02/12/17 16:54
日本神話には天孫降臨話題があるけど、韓半島から来た渡来人というのは定説だよ。 そもそも日本には倭猿(縄文人)が氷河期さながら生活してたのを、韓民族がわざわざ やって来て文明を教えてあげたのが日本の始まり。 つまり、卑弥呼は韓民族で日本に平和をもたらしたのが明白ですね。
・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
973 :
日本@名無史さん :02/12/17 17:12
卑弥呼は奈良地方に降臨して、国(ナラ)を作りました。今奈良地方が<Nara>と発音されるのは 韓半島との交流があった証明です。大和王朝は韓人である卑弥呼の末裔、つまり天皇が作った 国で、やはり韓民族による日本統治だったです。九州王朝は熊襲が興した国で、熊襲の由来は 檀君神話に見える熊女から来ています。
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/17 17:53
奈良は、平す(ならす) 奈良は昔、平城京。 奈良は、現代半島語のナラ(国)から来てるのではない。 侍(さむらい)は、動詞、侍ふ(さぶらふ) 高貴な人に仕える人という意味から来ている。 つまり、もともとは武士という意味ではない。 いまでも、侍医、侍女、侍従は、似たような言葉。 サムライは現代半島語のサウラビ(武士)から来ているという というのは、大間違い。
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/17 17:55
読売新聞ニュース 韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、 内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、 同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。 日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された のは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の 古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。大陸や朝鮮半島 から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝 えていたことを示す重要な成果として注目される。 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二 メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁が ベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望 を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見さ れていなかった。 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と 紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと 論争になった。 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜 六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな) 」と呼ばれる。 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がか かわったとも考えられる」と話している。(10月2日15:34)
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/12/17 17:56
王仁の実在そのものまで疑う必要はないと思うけど、 その「プロフィール」なるものが最近の捏造なんだよ。 そもそも王仁の時代はまだ全羅南道は百済の領地じゃなかった。 そんなところの住人なら百済人でなく任那人のはず。 王氏はもともと楽浪系漢人として有名な一族で 全羅南道くんだりに住んでいるいわれはない。
朝日新聞ニュース 前方後円墳に寄せる韓国の関心は高く、八〇年代後半からこれまでに五基が発掘 された。現在、確実な前方後円墳は九基で、いずれも韓国南西部の全羅南道にある。 このうち光州市の月桂洞1号墳と2号墳は復元整備されている。柳沢一男・宮崎大学 教授は「八、九月にも一基発掘され、韓国国立中央博物館のホームページで成果が 公開されている。調査の継続と公開に敬意を表したい」と述べた。 西谷正・九州大学教授によると、韓国では伝統楽器の長鼓に似ているので「長鼓形 古墳」とか「前方後円形古墳」などとも呼ばれている。九基の規模は、最大で全長 七十七メートル、最小で三十五メートル。日本では中、小型だが、韓国の古墳の中では 比較的大きい。時期は五世紀後半から六世紀前半というのが大方の見方。三世紀後半に 出現する日本の前方後円墳の方が古いことは、韓国の学界でも共通した認識になって いるという。
978 :
日本@名無史さん :02/12/17 18:03
日本は情報統制されていることを知らないのか 日本人は骨髄反射で大脳に障害がある
980 :
日本@名無史さん :02/12/17 18:16
そういえば中国の人間も 「朝鮮人は自分の国の言葉で発音できればその物は自分の国が起源であると 考える性癖がある」と言っていたな。 李朝朝鮮時代の話だったと思うがその時代からちっともかわっていないのね。
982 :
日本@名無史さん :
02/12/17 19:58 >>976 王仁は実在の人物なんだろうか?
まず、日本側の史料にしか登場しないというのが気になる。
楽浪郡の漢人王氏出身というのも「王仁」という表記が前提だが、
古事記では「和爾吉師」なので本当に王氏なのか怪しい。