「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか6)

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949日本@名無史さん:02/05/29 21:43
>>947
外交ってそういうもんだろう?
江戸幕府だって平戸経由にしようとしたり領事を三浦にやったりしたさ。
950日本@名無史さん:02/05/29 21:45
>>949
そういうことばかりでもないでしょう。
天日槍の渡来ルートを見ても山陰経由が一般的だったということが言えるんではないかな。
951日本@名無史さん:02/05/29 21:48
>>950
魏使に視察目的もあるなら、大国である投馬国を経由するためじゃないのか?
952日本@名無史さん:02/05/29 21:50
>>947
>海上の場合、航海した日数で計算したと思いますが。

日数で計算して7千余里とか渡海千余里という数字がどうやって出たのでしょう?
説明していただけますか?
953日本@名無史さん:02/05/29 21:55
>>942
>隋の時代に日本に使節が来たという記載があったのですか?

え? オレの聞き違いか?
まさか隋の時代に日本に使節が来ていないと言うんじゃないよな?
954日本@名無史さん:02/05/29 22:31
>>953マデ ナンカまた自演ラシイのがイルゾ、ミットモナイ、ヨセ。

>>931 ジャやっぱり低脳ダ(w サンスウできない人ネ。(w
目が悪いのカモ(w チャント図れば7/12、3/12になるダロ。
低脳ニハこれ以上ツキアエンナ(w バカが伝染ル (w
955日本@名無史さん:02/05/29 22:48
答えられなくなると荒らして逃げる九州説
956日本@名無史さん:02/05/29 22:51
>>954
はからずも 測らず図る 九州説
957日本@名無史さん:02/05/29 23:49
座布団一枚
958日本@名無史さん:02/05/30 00:40
>>938 941も同人だな。これは妄想だな?文献ではないんだな?あんま紛らわ
しいもの書くなよな。
それと>>916あたりからの一万二千里の件。なにがおかしいって?
比でいけば変な数字はでないと思うがな。納まらないとはどういう意味かな?
959日本@名無史さん:02/05/30 00:46
合理的な推定に反論できないから「妄想」の一言で逃げるわけだな。
960931:02/05/30 00:55
>>954

 いや〜 そんな、アナタほどじゃないですよぉ。
961日本@名無史さん:02/05/30 01:01
>>958
最初から「論証」だと言って「文献」だなんて誰も言ってないのに
紛らわしいと感じるのは論理的思考ができない証拠ですね。
それに「比でいけば」という発想じたい辻褄合わせのニーズから生まれたのだから
「変な数字ではない」というのは循環論法です。
962日本@名無史さん:02/05/30 01:18
>>954

「チャント図れば」って語るに落ちてるが、どこからどこまで“図った”の?
963日本@名無史さん:02/05/30 01:25
      \∧_ヘ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、逝くぞ!    ,,、,、,,,
    /三√ ゚Д゚) /   \____________  ,,、,、,,,
     /三/| ゚U゚|\      ,,、,、,,,                       ,,、,、,,,
 ,,、,、,,, U (:::::::::::)  ,,、,、,,,         \オーーーーーーーッ!!/
      //三/|三|\     ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ∪  ∪       (    )    (     )   (    )    )
 ,,、,、,,,       ,,、,、,,,  ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ,,、,、,,,       (    )    (    )












964日本@名無史さん:02/05/30 01:27
きたー
965日本@名無史さん:02/05/30 01:33
おー
966日本@名無史さん:02/05/30 02:08
一応、これは九州説の傍証にはなると思うのだけど…
>邪届伊都、傍
【廣志曰:「倭國東南陸行五百里、到伊都國、
>又南至邪馬臺國、自女王国以北、其戸數道里、
>可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、
>案倭西南海行一日、有伊邪久國、無布帛、以革爲衣、蓋伊耶國也。】
967日本@名無史さん:02/05/30 02:28
>>961 君は論証をどこで述べているのかね?ありもしない文献を論証してなに
が論理的思考なのか。君が行った行為は、虚偽とそれに対する理屈であって、歴
史を考証してゆく上で行なわれるべき行為ではないという認識くらいは君自身に
もできるだろう。紛らわしいどころか混乱にも繋がりかねないこの件について君
は謝意すべきだ。
968日本@名無史さん:02/05/30 06:47
倭人伝記述の成立過程に関する作業仮説ってのは沢山ある。
そういう研究法があることを知らないのは無知そのものだな。
畿内まで陸路で一月という記述がありえないという論理の破綻が論証されているのだ。
混乱したのは無知で非論理的なきみの頭だけだ。シャイになりたまえ。
969958:02/05/30 14:32
>>961 968もだな。何が言いたいんだ?妄想は妄想だろーが。(w
そんなもんいちいちコピペしてくんなと。いい加減なヤツラがまねするんだよ。
ついこの前までコピペだらけだったろ?おまえがそんな事したらまた連中出て
くるだろーが。2ch素人か、あんた。それに数字については実証だろ。論証
じゃねーよ。計れよ、ちゃんと。(w
今の大阪〜名古屋間200キロを「論証せよ」と言われてもねえ。(w 実証できりゃ
それでよかろうが。詰らん事考えすぎ。論語読みの論語知らず。(w
970日本@名無史さん:02/05/30 17:48
地殻変動で四国が九州の南から今の位置に移ったとか無いのかね?
971日本@名無史さん:02/05/30 22:16
俺、こういう発想大好き。何を言おうとしてるのかな?
日向勢力が黒潮に乗って四国から紀伊へ拡販していったとでも言いたいのかな?
縄文時代の流れがそのまま弥生時代の流れとでも・・・?
呉越、台湾、沖縄、日向、四国、紀伊、東海という文化のながれを今一つ考えてもいいかなって・・・。
972 :02/05/30 22:30
>>938
ところで、あなたは魏志倭人伝を読んでいないんですか?
魏の使節(軍?)はなんども邪馬台国(伊都国?)に行って
るんじゃないんですか?
金印を仮授したり、檄を飛ばしたり、卑弥呼の葬式を目撃した
りしているんじゃ?
だったら、そういう大幅な間違いをすると思えないんですがね。
973 :02/05/30 22:31
>>952
何がいいたいんですか?
他に、距離を測る方法があるとでも?
974 :02/05/30 22:33
>>950
神武天皇は難波から侵入してますよ。
天日槍も神武天皇も信頼性という点ではどっちもどっちだな。
975 :02/05/30 22:40
結局、山陰ルートを取らざるを得なかったのは、中国・四国が敵対勢力だったから
じゃないの?あ、そういうこと言うと、「3世紀において大和朝廷が大和から吸収まで
支配していた」という畿内説の前提条件が崩れちゃうのか?
976日本@名無史さん:02/05/30 22:41
で、九州説では邪馬台国はどこになって、
壱岐からあとは、どういう経路で到着するんだ?

やましいところがないなら、いいかげんに答えてみたら。
977 :02/05/30 22:47
>>976
それより、まず、畿内説が論理的にありえないことを証明することが
先です。数学で言う背理法みたいなものです。
978日本@名無史さん:02/05/30 23:13
>>977
それは根本的に間違い。畿内説を否定したところで九州説が立証されるわけじゃない。
九州説は『九州説』そのものが正しい事実認識の上に立っているか、
その論理に破綻がないかという事のみによってその説としての存続が担保されます。

このスレもずいぶんと長く続いていますが、残念ながら、
九州説を語っているのは『サイト君』だけです。

この意味で、私は九州説というものは存在しないといってよかろうと思います。
前にも書きましたが、今存在しているのは九州説ではなく、
『畿内説なんか死んでも認めるもんか』説だけです。
979書き忘れ:02/05/30 23:15
今のところ、九州説はその論証はおろか、
邪馬台国がどこになるのかという結論さえ書かれていません。
『サイト君』という例外を除いて。
半島〜対馬〜壱岐〜末盧の海上距離は三角法なんかで測定できるだろう。
倭地の距離、末盧から不彌までの距離は比較的短いし実際の歩側であろう。

水行、陸行の日数を距離換算するのは愚の骨頂。
倭地においては魏使といやあ神様みたいなもの。行く先々で盛大な歓迎をうけ、
飲めや歌えの大騒ぎ、温泉にも漬かりながら一所での長逗留もございましょう。
風も吹けば雨も降る。時化のときは身動きがとれりゃーせん。
道程での戸数表記も各地をゆっくり視察してきた証拠。
魏使は当然倭国調査の任務を担っており、聞いただけのことを報告するようないいかげんな
ことは許されないのである。

末盧は唐津でいいだろう。

弥生後期は冷涼であったらしく海岸線が後退し、前原や那の津はそんなに良好な港では
なかったのではないか?
玄海灘沿岸の前原伊都や奴とされる春日市や早良地区が全盛だったのは、温暖で海進の
進んでいた前漢〜後漢までであって、魏の時代では良港な港を持たず、交易の表舞台から
はずれていったのではないかと考える。
好古都(ハカタ)は博多から宗像にかけて繁栄し、半島との交易で勢力は強大だった。
そのため奴国との間で志賀島、那の津の領有権をめぐって長く対立関係が続いたであろう。
志賀島の金印の不自然な出土状況はこの抗争を物語るものではないか。

しかし好古都も緩いながらも一応は邪馬壹国との連合関係にある。というよりも後漢や魏を
バックに持つ奴、伊都、邪馬壹に対して、おとなしくしていただけのことである。
4世紀以降温暖化が進み海進もあって那の津は良好な港として復活するが邪馬壹の滅亡と共に
奴国に変わって、好古都の支配下となり、やがては大宰府の外港として長く繁栄を続ける
ことになる。一方、宗像も独自に半島との交易の重要拠点として発展していった。

東南へ500里、伊都に至る。1000戸。

伊都は多久市 (イタ→タク)であるが前原(イト郡)でもある。
天山、背振山系も含めてひとつの国をなしていたと考える。
前原にも同じ多久と多久川が有るのを皆知ってるか?
発生は今の多久市であるが、弥生中期以降、伊都は前原を中心に繁栄する。
しかし卑弥呼の時代では前述のように経済の表舞台からはずれ、軍事基地(一大率)として
のみ存在感を示すのであったが、そのことにより後世、前原が怡土とされている。
しかし倭人伝における伊都は方向、距離の記述通りあくまでも多久市なのである。
魏使が来るときは王も多久にてお出迎えをする。末盧から邪馬壹国まではその最強軍隊の
一部が護衛として随行したであろう。
多久は旧石器(縄文早期・・・1万5千年前)から古墳時代まで連続して繁栄しており、
特に牟田辺遺跡があり、有力首長と思われる装飾品を伴った甕棺や環濠などが出ている。
半島と有明沿岸との交易上交通の要所であったことは地図上からでもうかがえる。
上陸が前原伊都でなく唐津である理由がここにある。
戸数が1000余りと比較的少なく示されているのは、その魏使は前原伊都には行ってないの
であり、根拠の無い数字を報告する訳にはいかなかったためである。
これは倭人伝に示される道程、方角、距離、戸数が魏使の実地調査によるものであること
を示すものであり、信頼性の高さを物語っている。
さらに松浦川、厳木川に沿っての陸行も全く無理が無い。

そもそも古代においては、道路は全くといってよいほど整備はされておらず、基本的には
小船による移動が主体であっただろうことは疑う余地が無い。そして陸行の場合は川沿いが
基本であろう。飲み水の心配が無いし、食料の確保も比較的容易であっただろうから。
また、海岸沿いの陸行も橋の無い河口をいくつも横断しなくてはならず、かなり無理がある。
その観点からしても唐津へ上陸して陸行で前原へ移動するなんてのは、100%考えられない。
外洋船の前原への寄港が難しくても、唐津で小舟に乗り換えて水行するはずである。
要するに前原伊都が目的地ではないのである。
次は奴国

東南へ100里、2万戸。奴国の西の境界(三日月町あたり)に至る。
奴国は佐賀平野一帯である。
弥生前期は長江下流域あたりから直接有明沿岸への文化移入があったと思われ、大陸系の
文化が先住民と融合して先進して繁栄していたと考える。弥生中期になると楽浪郡が置かれ
半島が重視されるようになり、那珂川沿いに玄海灘沿岸(春日、那の津)にまで勢力を伸ばす
と共に拠点も移してていった。
そしてやはり伊都と同様に弥生後期以降は衰退していくのである。
那珂、那の津という地名がその名残を示す。
福岡の那珂川町と佐賀の中原町が背振山系をはさんで隣り合わせだっていうことを知ってるか?

次は不彌

東へ100里、1000戸 不彌(久留米(三井郡、御井)・・・ピミ→ミイ?)
久留米近辺は、筑後川水系の要であり倭国同士の交易の重要なポイントといえる。
わざわざここに立ち寄るのは、それほどの魅力があった(市が盛大)に違いない。
ここからは小さな丸木舟(或いはイカダ)で筑後川を下っていくのである。

次は投馬

南へ水行20日、5万戸、投馬 (ヅマ→ミヅマ、タマナ、トジマ?)
投馬は大牟田、玉名、熊本(戸島)、宇土の菊池平野から熊本平野一帯と考える。
投馬については水行で20日ほどかけてゆっくり見聞(調査)した。
台風時期と重なったかもしれない。
筑後川から有明海の東沿岸を小舟(イカダ)で南下するのは、橋のない河川をいくつも横断する
陸行に比べてまったく無理が無いし、浅瀬であっても小回りが効く。

そして邪馬壹国へ、南へ水行10日陸行1月

さらに投馬から宇土半島を迂回南下して八代に到着、球磨川を遡るのであるが水行と陸行
を繰り返しながら進んだであろう。
人吉から峠を超えて、えびの、小林、高原へと進む。
小林と高原の間に「木場」とか「木場田川」という地名、川の名がある。
「邪馬台」は「祁馬台(キバタ)」の間違いだという説を受け入れるとすれば、
未だ大した遺跡は無いが、地名比定という淡い証拠になり得る。
(この近辺にはニニギ伝説や神武伝説が色濃く残っている)
水行10日陸行1月としてもなんら矛盾は無いし、投馬からはほぼ南であり、
もののみごとに魏志倭人伝に符号する。
ここは女王(卑弥呼)の都する所であり、宮廷を営む所である。
遺跡が必ずあると確信している。(宝くじで2億円当たったら俺が発掘調査してやる)
但し、卑弥呼の墓は西都のオサホ塚であろう。(宮廷と斎殿は違うだろうからね)

で、魏使はここで年を越すのであるが、冬でも温暖を実体験するのであり、日向一帯を
くまなく散策し、東方海上1000里余りのところに四国があるのを認識するのである。
982日向説(結論):02/05/31 02:12
日向でいいんじゃないか? 遺跡の数も考慮し神話伝書の類も考慮したら。。。
榎説にしても伊都国から水行10日陸行・・・1月だから伊都の周辺(北九州の周辺)
のどこかにあるはずだとなるわけだが、考えてみたら、少なくとも北九州あたり
にあるわけない。東京駅から新幹線に乗って2時間半の場所が目的地だから
最終目的地は東京の周辺にあるはずだといってるわけで論理的に矛盾してる。
北九州説で国を当てはめて行くと半島に近すぎる。距離が3分の1になる。
畿内説なら距離が3倍になって遠すぎ。伊都からナ国まで東南100里30キロ歩いて
2日といってるからまあ吉野ヶ里しかない。
南へ水行20日で投馬国。伊都国から南へ水行10日陸行・・・1月で邪馬台国。
だから話は南九州地方に向いてる。
しかし、このとおりに行けば種子島あたりの海の上を歩いてしまう事に
なる。九州島を出ることはないのだから、漢文は結論だけしか書かないと鹿島が
いうとおりで、伊都国から水行10日で熊本のタラバ国玉名。(そこから歩きで東へ大分方面まで出てから南へ下って
日向地方。玉名から日向まで坂道考慮し20日)つまり伊都国から日向まで1月かかると言ってる
わけ。(   )の部分が省略されとる。だから正確には南へ水行10日陸行・・・・総計1月。
と読むべき。こうしないと九州島を出てしまう。
じゃあ、オマエなんで玉名で水行から陸行に変える必要があるんだyo!
船のほうが乗っているだけで楽だし(坂道歩くしつようもないし)物資も船の方が
大量に運べるだろ。何で伊都から時計と反対周りに船で日向までいかねえのかよ!
と怒られそうだがこたえは簡単。伊都から時計と反対周りに日向まで船だけで行くと
したら40日もかかってしまう。つまり少しでも目的地まで早くいけたほうがいいわけさ。
時計周りで船と陸行あわせて伊都から日向まで行くとしたらもう1月どころじゃ行けないよ。
983 :02/05/31 08:07
>>978
君が論理的能力が無いのは良く分かったよ。
背理法も知らないのか?(W
984 :02/05/31 08:10
推理小説では「消去法」とも言うかな?
実際ありえる可能性を一つづつ消去していけば
残ったものが真実であるということ。
985日本@名無史さん:02/05/31 13:59
>>984
それが実はうそなんだ。
容疑者の中に真犯人がいない可能性を忘れてるよ。
これが冤罪を生むのさ。あんた、推理小説の読みすぎ。

裁判じゃあ、他の容疑者はすべて無罪だから、こいつが犯人なんてのは通用しないだろ。
残る一人についてもきちんと捜査をして、公判に耐える証拠固めをする必要があるのはいうまでもない。

こういう論法はね、不適切な二分法で詭弁家の弄する手口なんだよ。
言ってみれば詐欺師の手口だな。

背理法っていうのは、対象となってる要素の和集合が全集合になることが保証される必要があるんだよ。
今の場合は、この部分の立証が欠けているんだ。

何回も書いているとおり、魏志倭人伝の場合は、『解なし』なんだよ。
魏志倭人伝のとおりならどこにもつかないのさ。
『実際ありえる可能性を一つづつ消去していけば』、空集合が残るだけなんだ。

九州説の人はやる気ないみたいだから、九州を調べていくつか消してみよう。

末盧を唐津付近に比定するのはおそらく異論はないだろうから、ここから始めよう。

ここから次の伊都までは【東南】500里だから、【倭人伝に忠実】なら南下して佐賀市近辺に行きつくしかない。
その先の東南100里の奴、さらに東100里の不彌も有明海の北の佐賀市周辺しかないだろう。

この段階で、前原を伊都、福岡を奴とするタイプの九州説は消える。

この先は、南に水行20日だから有明海を南下するしかない。

したがって、この段階で北九州説は全滅。残るは南九州。
しかし、宮崎などの東海岸に到達するためには途中で東に方角を変えないといけないからこれもだめ。
残るのは熊本から鹿児島西部の南九州西海岸か、さらに南方の西南諸島〜沖縄しか残らない。

不彌国からさきは、水行20日で5万戸の投馬、さらに水行10日陸行一月で7万戸の邪馬台がなければいけないのだが、
有明海から南下するとしてこれを満たす候補はない。

したがって九州ではありえない。
986日本@名無史さん:02/05/31 14:50
>>985倭人伝にある情報なら倭人伝に沿って考察しろってんだ。

畿内説信者は、やれ誤字だとか、数を間違えてるとか、方角を書き間違えてるとか、
勝手に倭人伝を都合いいように改造するんじゃねー。バカタレが。
ウゼえ。畿内説
987日本@名無史さん:02/05/31 14:52
西都である証拠。 (邪馬台国の東に海があるだと。。。冬でも温暖で、生野菜食って生きてただと!!!)
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。
「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
 西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
 だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。(ただし、畿内で作られサイトに輸入されたことになってるが。。。)
3、どうして21世紀になっても西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
  9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
 卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
 場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
 仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
 だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
 政治的にある意図が感じられるのである。
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
  コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
  記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
  コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
  一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)

伊都国から水行10日で熊本県玉名。そこから東へ大分経由で西都。(17日)
つまり伊都国から西都まで1月(27日)かかると言う意味。
投馬国は熊襲のクマ国の方で人吉盆地から鹿児島県吉松町永山遺跡のあたりで、
水行20日に相当。狗ナ国はハブが出て、馬、牛の骨が発掘されない所、つまり本州
ではない、地域でトウジ(福建省)の真東の沖縄。だから郡(沖縄)から1万2千里で西都
(邪馬台国)。つまり九州で一番大きな古墳群遺跡が邪馬台国の跡。(古墳300基確認)
で九州で一番大きな円墳だったオサホヅカが女王卑弥呼の墓。
※伊都国・・・前原。
※※ナ国・・・吉野ヶ里
※※※唐津・・・マツラ国
※※※※宇美・・・不邪国
※※※※※・・・狗邪韓国(宇佐と半島南部両方に縄張りがあった)(竹村さん)



988日本@名無史さん:02/05/31 15:03
>>986
>勝手に倭人伝を都合いいように改造するんじゃねー。

だから何度もいってるじゃない。
これが改造だとしたら、改造じゃない読み方ってヤツをきちんと示してくれよ。

さあさあ、早くしてよ。ずいぶん長いこと待ってるんだからさ。
『改造』じゃない読み方をしたら、どういう経路をたどってどこに到着するんだい?
989969:02/05/31 16:09
>>980 の不弥辺りまでの考えは悪くない。
しかし俺は北九州説派。(w 正直なー、九州地理に詳しい人ともっと話した
かったよ。(w まず倭人伝まともに読めんヤツの多い事・・・
末盧が松浦〜唐津、伊都が前原〜博多ってのはだいたいOK。
奴と不弥は話しだすと多論でてくるだろうな。筑紫野〜鳥栖〜久留米辺りで
議論したかったなあ。個人的には豊前地方の理論なんかも聞きたかった。
南九州説との差は投馬の解釈にあると思う。水行の考え方もか。
ORで考えると投馬はヤマタイより南になければならない。それにヤマタイ
不存在説や畿内説に突っ込まれるように、投馬の南にヤマタイだと座標に大
きく無理が生じる。豊前・豊後論を聞く前に結論出したくないんだが、肥後
球磨に至る手前、北緯33度前後、筑後〜大牟田〜玉名ラインを仮候補として
上げたい。
あとどうしてもヤマタイと大和王権をドッキングさせたい方々へ。(w
先にも言ったが、大和王権と南九州の関わりは認めるのよ。でもなぜ直かと。
ヤマタイが衰退した後、南九州勢が実権を握っていったとも考えれるでしょう?
ヤマタイの記述はその後姿を消しちゃうんだから。始めから大和王権だったら
この衰退は何なんだと。或いは九州南部にいた事との矛盾にも発展するぞ。
だからまず大和王権は横に置きなさい。そこへの過程を説明するならば「倭
王権スレ」をお勧めします。
990日本@名無史さん:02/05/31 16:32
>>989
>末盧が松浦〜唐津、伊都が前原〜博多ってのはだいたいOK。

つまり、末盧〜伊都が『東南』という原文を改訂するってことね。

>奴と不弥は話しだすと多論でてくるだろうな。筑紫野〜鳥栖〜久留米辺

そこから南に『水行』するわけね。
水行の基点はどこで、どこに到着するのかな?
991日本@名無史さん:02/05/31 16:47
邪馬台国は日向にあったにきまっとる。
その国の東海にも島があると記されている。
多分四国や本州のことだろ。

992日本@名無史さん:02/05/31 17:29
水行20日でいける距離はどの程度かが実証されなければ
永遠に謎である。
993日本@名無史さん:02/05/31 17:31
大和説の比定地 比定地 提唱者 場所・地名 卑弥呼は誰? 著書・論文

奈良県(近畿) 舎人親王 大和国(奈良県) 神功皇后 日本書紀
            松下見林   神功皇后 異称日本伝
                伴信友   神功皇后 中外経緯伝草稿
                内藤虎次郎   倭姫命 卑弥呼考
                稲葉岩吉     漢委奴国王印考
                高橋健二   神功皇后 考古学上より見たる

                末松保和     倭国に関する魏志
                 中山平次郎     邪馬台国及奴国
  上代の近畿
  三宅米吉     邪馬台国について
  山田孝雄     狗奴国考
  藤田元春   倭百日日倭姫命 漢委奴国考え
  鈴木俊     倭人伝の史料的研究
  笠井新也 近畿内 倭百日百襲姫 邪馬台国は大和である
  橘良平   倭彦命
  志田不動麿 大和国(奈良県) 神功皇后
  上田正昭     日本古代国家成立史の研究
  直木考次郎     国家の発生
  原田大六 畿内 倭百日百襲姫 邪馬台国論争
  田辺昭三 大和   謎の女王卑弥呼
  由良哲次 大和   邪馬台国と大和
  山尾幸久 大和    日本古代王権の成立過程について
  小林行雄 大和    古墳の発生の歴史的意義
  樋口隆康     邪馬台国問題
  岡崎敬     邪馬台国問題
  浜田敦     魏志倭人伝などに・・
  和歌森太郎   倭百日日百襲姫  私観邪馬台国
  肥後和男 大和三輪山麓 倭百日日百襲姫 邪馬台国は大和である
  三品彰英     邪馬台の位置
  大庭脩     親魏倭王
  鳥越憲三郎 大和郡山 物部氏一族 古事記は偽書か
  新妻利久 飛鳥 神功皇后 やまと邪馬台国
  佐原真    
  坂田隆   倭姫命 卑弥呼をコンピュータで探る
  田口賢三 大和 神功皇后 邪馬台国の誕生
  青木慶一 大和 倭百日日百襲姫 邪馬台の美姫
  山口修     ふたつの邪馬台国
    
     



994日本@名無史さん:02/05/31 19:34
995日本@名無史さん:02/05/31 19:59
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 ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、もう一度逝くぞ!    ,,、,、,,,
    /三√ ゚Д゚) /   \____________  ,,、,、,,,
     /三/| ゚U゚|\      ,,、,、,,,                       ,,、,、,,,
 ,,、,、,,, U (:::::::::::)  ,,、,、,,,         \オーーーーーーーッ!!/
      //三/|三|\     ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
      ∪  ∪       (    )    (     )   (    )    )
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996日本@名無史さん:02/06/01 01:13
>その国の東海にも島があると記されている。

「東海」の島と言えば隠岐とか佐渡島とかっしょ。
997 :02/06/01 01:29
>>985
>容疑者の中に真犯人がいない可能性
その場合も背理法で証明可能です。「容疑者の中に真犯人がいる」
として矛盾を導けばいい。

行程については伊都国を中心に放射線(榎)式に読むのが普通
ですね。直線式に読むなんて、畿内説に都合がいいようにゆが
めているだけでしょう。これはネイティブ(中国人の学者)も放射
線式に読むのが妥当と言ってた。
「水行ならば十日、陸行ならば1月」については、あいまいだが
そうとも読めるといっていた。
998日本@名無史さん
すまんすまん信者は信じ込んでいるから距離が3倍になっても南を東に捏造
しても戸数7万戸人口30万人だから畿内全部が邪馬台国でも東に海があるから
奈良から伊勢湾まで行ってから船に乗ってわざわざ半島まで行ったとしても、遺跡がなくても
円墳の時代に100年後に作られた前方後円墳を卑弥呼の墓だと言い張っても
何も根拠なくて、大和に海なんかないのに海にもぐって貝をとったと妄想してでも畿内に邪馬台国があったんだね。
精神病院紹介してあげるよ。