1 :
日本@名無史さん:
立憲同志会や、立憲国民党(革新倶楽部)、政友本党、無産政党も可。
政民両党を中心とした20世紀の戦前政党に関するスレッド。
2 :
日本@名無史さん:01/12/09 18:18
age
3 :
日本@名無史さん:01/12/10 08:41
期待age
4 :
日本@名無史さん:01/12/10 09:11
この板には近代政治史に興味がある奴がいないみたいだね。
歴史ヲタはやはり低脳だな。
5 :
日本@名無史さん:01/12/10 11:39
長期的視点に立った外科手術的な痛みと一時的景気後退を辞さない抜本的構造改革か、
赤字国債も含む積極的な財政出動で景気をとにかく浮揚させ、健全財政化は長い目で見るか、
タイミングや大恐慌という外的要因はとりあえず省き、井上財政と高橋財政のどちらが正しかったのか。
これは今日にもつながる問題ですよ。
6 :
日本@名無史さん:01/12/10 13:00
日本政治外交史が専門なので興味持って覗いたが、
>>4 >歴史ヲタはやはり低脳だな。
こういうアホがいるのを見て参加する気無くした。バイバイ。
交通政策(特に鉄道)は真っ向から対立していたね。政友会はローカル線の建設。憲政会は幹線を広軌に。といった具合に。そのため、内閣がころころ変わるたびに方針も変わったみたいだけど。
8 :
大学では日本政治史を専攻:01/12/11 18:26
政友会と憲政会・民政党の違い。
★政治理念
政友会→保守
憲政会・民政党→リベラル
★支持基盤
政友会→農村地域の有力者、地主。財閥では三井。
憲政会・民政党→都市ブルジョワ、特に三菱財閥。あとインテリ層。
★米国の2大政党でいえば…
政友会→共和党
憲政会・民政党→民主党
★古代の日本の氏族にたとえたら(あくまでもイメージです)
政友会→桓武平氏
憲政会・民政党→清和源氏
>>4 近代日本政治史に興味のある者は政治金融板で、
近代東洋政治史・近代西洋政治史に興味のある者は国際事情板or世界史板でカキコするのでは?
9 :
日本@名無史さん:01/12/11 18:42
>>5 圧倒的に高橋財政マンセーだと思うがどうよ?
うーん、かなり広いテーマになるから、結構カキコ増えると思ったんだけどな。
11 :
日本@名無史さん:01/12/12 23:07
民政党マンセー
ドキュソ政友会がたいした見識もないくせに民政党の協調外交
に対抗しようとして積極外交路線をとったせいで大日本帝国は滅亡しました。
12 :
日本@名無史さん:01/12/12 23:18
>>11 広いテーマになるからと言って浅くなるのもね・・・。
>>11 オラの外交こそ真の協調外交じゃ。
もちろんイギリスとの協調じゃが。
14 :
日本@名無史さん:01/12/13 03:56
日英同盟を破棄したのは根無し草の理想主義にかぶれた民政党系の幣原。
日英同盟があれば日米戦争も起きなかっただろうに。
15 :
日本@名無史さん:01/12/13 10:25
>>14 逆に日英同盟を切ったから日米戦争が延長されたのでしょう。
当時アメリカはフランスと共謀して日英同盟破棄工作していたみたいだし、
開会時の新聞なんか「ジャップを殺せ」なんて平気でかいたのもあったが
終盤になると対日妥協しない政府批判一色だった。
16 :
日本@名無史さん:01/12/13 10:37
犬養は恥ずかしかった!
ロンドン海軍軍縮条約の枢密院精査で
濱口内閣と枢密院とがもめているのを
見て,倒閣近しと,内閣打倒大会を開
いたら,翌日問題なく枢密院を通過。
>>16 確かに、犬養毅と東郷平八郎は、これで晩節を汚したね。
でも、晩節を汚したからといって、それまでの功績は消えないと思う。
18 :
日本@名無史さん:01/12/13 19:55
232 :ぁゃιぃアズマ人 :01/09/30 03:37 ID:lUVjK8qY
削除人さんへ
「皇国史観で東日本人を侮辱するな」のスレは、今後いかなる削除依頼が
あっても決して削除されないようにお願い申し上げます。
ウヨクに占拠されている板が多い2ちゃんねるにあって、反ウヨクが多数派
を占めているのは日本史板ぐらいのものです。
これはひとえに「皇国史観〜」スレを拠点にしたアズマ派の活動の成果だと
思われからです。
2ちゃんねるにも良識があることを世間に示す為にも、「皇国史観〜」スレを
今後とも温かく見守って下さい。
見るに堪えないアズマの卑劣なカキコ
from削除依頼板
19 :
日本@名無史さん:01/12/19 00:49
1930年代の政友会について、最近何か論文ある?
20 :
232と233の自作自演がばれた反アズマ:01/12/19 00:53
232 :ぁゃιぃアズマ人 :01/09/30 03:37 ID:lUVjK8qY
削除人さんへ
「皇国史観で東日本人を侮辱するな」のスレは、今後いかなる削除依頼が
あっても決して削除されないようにお願い申し上げます。
ウヨクに占拠されている板が多い2ちゃんねるにあって、反ウヨクが多数派
を占めているのは日本史板ぐらいのものです。
これはひとえに「皇国史観〜」スレを拠点にしたアズマ派の活動の成果だと
思われからです。
2ちゃんねるにも良識があることを世間に示す為にも、「皇国史観〜」スレを
今後とも温かく見守って下さい。
233 :ぁゃιぃアズマ人 :01/09/30 03:41 ID:lUVjK8qY
削除人さまへ
まあ、しょせん2chですし、11も続いたスレの内容などみな
コピペのコピペでございます。
正統と異端についてユーモラスな実験として、ま、ぼんやり様子見も
一興でございます。
なーに、内容など、いずれもあやめ、カキツバタでございますよ
234 :ぁゃιぃアズマ人 :01/09/30 09:29 ID:B7Ah1yH2
232 233は、人のハンドルを騙った偽者です。このように人の名前を騙って
スレッド立てたり、コピペしたりしてるわけです。すみやかな妨害スレッドの
削除をお願いします。どちらが、偽者かは表題をみればわかるでしょう。
昭和初期の政党の衰退とはなんだろう。
汚職や党内抗争なんて、どこの国でも、いつでもやってるのに。
22 :
日本@名無史さん:01/12/19 23:06
>>21 敵がいなくなったら、今度は内部で争う。
歴史の必然。
23 :
日本@名無史さん:01/12/20 00:44
原敬こそ日本近代史上最強の政治家だと思う。
何しろ、あの山県有朋をついに屈服させたのだから。
24 :
日本@名無史さん:01/12/20 01:13
戦前のほうがちゃんと政権交代もあり、健全だったかも
25 :
日本史@名無しさん:01/12/20 20:24
日本の政治システムはどうもうまく出来てなくて、総理大臣と
いっても自分の思い通りにならない。戦争の時は非常に困る。
大政翼賛会とはそのための苦し紛れの工夫かな?あまりうまく
いかなかったけど。
26 :
日本@名無史さん:01/12/20 20:28
独裁時代のほうが日本は良い方向に進む気が・・・・
27 :
日本@名無史さん:01/12/22 23:51
戸川猪佐武によると、伊藤博文〜池田勇人までの総理大臣に点数を付けると、
1位 伊藤博文&吉田茂 3位 原敬 4位 大隈重信&犬養毅
だそうです。
28 :
日本@名無史さん:01/12/23 14:59
>>27 1〜3位は納得できるが、4位の2人は納得出来んな。
結局口先だけの人物だったような。政治家としての業績だったらもっと優れた人がいると思う。
(口先「だけ」というのは多少酷かもしれんが・・・ 力強さに欠けてたのは事実)
29 :
日本@名無史さん:01/12/23 15:20
ローカルルール案、そろそろ決めるのが
いいかと思います。
とりあえず、どの案が良いかを投票して下さい。
30 :
日本@名無史さん:01/12/23 21:10
>>28 27です。やっぱり、そう思いますよね。
6位以下が、山県有朋、西園寺公望とつづきます。
どうゆうこっちゃ?
31 :
日本@名無史さん:01/12/23 21:17
>27
原敬は学者人気がとにかく高いよね。
消防厨房の頃は、たんなる「平民宰相」というイメージしか持たされなかったからなあ。
ホントは盛岡藩の家老の家柄で、伊藤山縣なぞ足元にも及ばぬ出自なんだけどね。
32 :
日本@名無史さん:01/12/23 21:29
27&30です。
原敬は、家老の孫といえども薩長に破れた朝敵藩の出身ですから。
33 :
日本@名無史さん:01/12/23 21:38
伊藤こそ平民宰相なのにね〜。
34 :
日本@名無史さん:01/12/26 22:44
age
>>31 日記を残したから。マジで史料を残してくれた人には甘くなるのは
研究者の人情。
おそらくこれからは佐藤栄作の評価もうなぎのぼりと思われ。
36 :
日本@名無史さん:01/12/27 22:50
>>35 あの原敬日記は、凄まじいね。
佐藤栄作の評価は、数十年後はともかく今は上がらないでしょう。
彼のノーベル平和賞はやっぱりインチキだ、っていう記事が朝日新聞に載ったから。
それとも、これは朝日新聞の奸策ですか?
37 :
日本@名無史さん:01/12/27 22:52
政治家の評価はノーベル平和賞できまるのかYO!
38 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:20
憲政会の加藤高明はドーヨ
政権を軍部から民衆の手に移した護憲三派のリーダーである意味最初の民選首相
井上馨、岩崎弥太郎から認められた超秀才
総理大臣復帰を狙う高橋是清に途中で造反されても選挙で憲政会単独過半数をとって
圧勝した強運
>>36 でもこれから昭和中期の政治史の研究者はみんな佐藤栄作日記
にお世話になるのだから、数年後にはかなり株が上がると思うなぁ。
もっとも芦田均は日記が公開されて研究は増えたけど評価はそれ
ほどあがっていないみたいね。
藤原実資、花園天皇、新井白石、松平定信なんかは、「後世の歴
史学者のために史料を残した」ということで上げ底評価されている
人たちかもね。
>>38 単独過半数とっていないよ(^_^;)。相対多数だよ。
41 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:35
大学で近代日本政治史をやろうと思ってるんですが文学部史学科じゃなく
法学部政治学科のほうがいいですかね?
やる気があればどっちでも出来るんでしょうか…
42 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:37
原敬日記見て、原敬凄いと判断する学者は痛いな。
都合の悪い事を、書く訳無いじゃん。
43 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:46
>42
それは東大名誉教授の三谷太一郎に言ってくれ。
44 :
日本@名無史さん:01/12/28 21:37
>>42 都合の悪いことは書かないのか?そういやそうかもしれん。
誰かこの中で、原敬日記をちゃんと読んだ奴はいないのか。
あげとくか
46 :
日本@名無史さん:01/12/31 21:59
両者で潰し有ったんだっけ?
47 :
日本@名無史さん:02/01/04 10:26
あげ
48 :
日本@名無史さん:02/01/10 20:52
age
age
1に頼まれ保全age
50 :
日本@名無史さん:02/01/12 22:25
平沼騏一郎はどうよ?
51 :
日本@名無史さん:02/01/21 04:41
この二つの政党を見ていると
組織ってつくづく人が大事だと思うよ。
別に漏れは原マンセーではないけれど
原あぼーん後の政友会はグチャグチャで、もう見てらんない。
民政党も途中までは良かったが、浜口あぼーんを皮切りに
安達バイバイ、井上&江木あぼーんでアウト。
正直、政党に有能な人材がいなくなった(減った)のが
衰退の一因ではないかと思われ。
52 :
日本@名無史さん:02/01/21 10:44
そこそこ順調に育っていた日本の政治を駄目にしたクソウヨが憎いね
53 :
日本@名無史さん:02/01/21 12:06
外交評論家の岡崎久彦氏は政友会の重鎮岡崎邦輔の孫らしい。
54 :
日本@名無史さん:02/01/22 12:13
>>53 まじかYO!
道理で陸奥宗光とか書いてるわけだ。
邦輔の史料とか持ってたら面白そうなのに。
55 :
日本@名無史さん:02/02/01 23:22
保全age
56 :
日本@名無史さん:02/02/12 00:17
坂野先生の民政党史観についてどう思います?
>>56 例えば
>>52 のように、右翼が政治を壊した、といった理解しかできない人々が、先生の本を読んでると思いますか?
58 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:09
永井柳太郎、中野正剛、山道襄一、斉藤隆夫、桜井兵五郎、小山松寿、由谷義治
民政党の方がスターが多くないか? もっとも中野や山道は国民同盟に行ったが。
59 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:17
戦前の政党なんてろくなもんじゃないね。
党利党略のことばかり考えて、本当に国のことなんて考えて無いだろ。
もちろん、一部の有志者を除いてね。
政党が堕落したから、右翼がのさばりはじめたんだよ。
60 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:19
岡崎久彦の書いてるのなんてクダラナイネ。
学術的には価値ゼロ。
だいたい、あいつ、なんであんなにアングロサクソンに追随したがるんだ?
アメリカにぺこぺこする必要なんてないんだよ。
61 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:23
>59
床屋政談の典型。こういう連中が訳知り顔で語るから、
日本の政治評論のレベルは上がりませんし、引いては日本の政治も向上しません。
62 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:37
>>61 じゃあ、ひとつレベルの高い政治評論をお聞かせください。
63 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:49
64 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:09
浜口が東京駅で遭難し、幣原が臨時首相代理をひきうけた。
高校で机を並べて以来、同窓生が首相と首相代理を引き受けるという奇しき
因縁である。
「議会開会前まで便宜的に事務代理を務めるだけならばともかく、
わたしはいわゆる兼摂首相代理をひきうけるつもりは毛頭ありません」
この約束も事実上反故にされた。
内閣不信任案は衆議院で多数派を占める民政党によって直ちに否決され、
幣原ははじめて所信表明演説と外交演説とこなした。
無事一人二役をこなした。
せめる政友会側も一流の論客が一通り質問を終え、
質疑応答に蒸し返しが多くなり、論戦も低調になってきた。
○○議員 「ロンドン海軍軍縮条約は統帥権干犯ではありませんか」
この質問自体、目新しい点はない。新聞記者もあくびを噛み殺して聞
いている。幣原はうんざりした表情で答弁に立つ。何度同じ質問をする
のかと顔に書いてある。不用意に言葉を吐いた。
幣原喜重郎君(外務大臣、臨時首相代理) このロンドン海軍軍縮条約は天
皇陛下は現に御批准になっています。(発言する者あり、速記とれず「幣原、
幣原、取り消せ」と呼ぶ者あり)それは・・・(「天皇陛下に責任を帰し奉
るとは何事か」と呼ぶ者あり)
予算委員長 これにて暫時休憩致します。
幣原は逓相の小泉らに守られて委員会室をでる。室外には政友会の院外団が
待ちうけている。
「鼠大臣、くたばっちまえ」
備え付けの痰壷を投げつける者もある。刀を振り回す者もいる。
怪我人も続出した。
65 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:13
山縣と伊藤の対決は中々面白かった。
66 :
日本@名無史さん:02/02/23 00:24
>>63 58です。ご丁寧にありがとうございます。スレ違いですが、田渕豊吉に関する評価
を聞かせていただければ幸甚です。
67 :
日本@名無史さん:02/02/23 18:53
>天皇陛下に責任を帰し奉るとは何事か
これを叫んだのは森恪だ、という話を
どこかで見たけど本当かな。詳しい人解説キボン。
ちなみに、この逓相小泉(又次郎)が
純一郎のじっちゃんというのは、ガイシュツ?
68 :
日本@名無史さん:02/02/23 21:55
原って長州閥(伊藤井上派)だったんだね。
最近知ったよ。
厨房の頃は、野党からだんだん力をつけ、
山縣を倒したと思ってたのだが、
世の中そんなに甘くないんだな。
69 :
日本@名無史さん:02/02/23 22:24
原敬は長州閥というより陸奥宗光の子分でしょ?
で、陸奥が死んでから伊藤、井上にくっついたと理解しているが。
財閥関係も、伊藤・井上の三井財閥ではなく
古河財閥で社長をしていなかった?
70 :
日本@名無史さん:02/02/24 00:01
>>69 そうかな?
井上の親類の娘もらっているし、
最初に職に付いた時も、井上の斡旋だよ。
彼自身は使えるものは何でも使う主義なので、派閥はあんまり関係ないかもしれない。
71 :
日本@名無史さん:02/02/24 00:03
原たんは山縣懐柔に随分と神経を使ってるよね。
72 :
日本@名無史さん:02/02/24 00:26
それに比べると浜口たんには東郷を懐柔する気は全くなかったみたいだね。
目的の実現より理念が先行するタイプだったのかしら。
>>64 「○○議員」って、後に政友会総裁になった中島知久平でしょ。
もっとも総裁と言っても、久原房之助と並ぶ分裂総裁だけど。
>>67 それを叫んだのは森恪だ。幣原喜重郎「外交五十年」(中公文庫)に詳しく出ているよ。
幣原はこの本で、政友会の院外団に襲われたけどとっさの機転でそいつの額を蹴り倒した、と自慢しています。
飛びます!飛びます!
76 :
日本@名無史さん:02/03/21 16:41
昔の議会って今の議会なんて目じゃないほど低レベルだったんだね。
こりゃ国民が呆れて軍部を支持したのもわかるわ
政友会の院外団に比べたらムネオなんて可愛いよ(藁
おい!みんな。一方的に左にやられっぱなしでいいのか?あの朝日でさ
え本当は右なんだぞ!エッ!嘘だって?嘘じゃない!朝日の旗を見て見ろ!
海軍旗をいまだに使っているでしょう。朝日はジャーナルとして国内に関
心あるのは政局転覆だけ。その後、元海軍関係者の台頭。それは自由党の
拡大!歴史を調べろ!日本を戦争に導いたのが陸軍。これが自民党と民主党
の先代!そして敗戦を知りながら国民を煽ったのは朝日!敗戦すると朝日の
天下になる予定が、よもや!これから自民党を潰し、自由党の天下に向けて
頑張れば、朝日の天下だ!バンザイ!
アカイ アカイ アサヒ
79 :
日本@名無史さん:02/03/21 19:13
西にレーニン、東に原敬…
81 :
日本@名無史さん:02/03/27 12:44
レベルが低いなら低いで台湾並みに殴り合いとかしてくれたら面白いのに。
そういうエピソードないのかなあ。戦前の議会。
82 :
日本@名無史さん:02/03/28 01:36
>>81 初期の院外勢力なら、たくさんあるよ。
自由党の壮士なんか、暴力団だからね。
83 :
日本@名無史さん:02/03/28 01:48
不平士族に博徒に自由民・・・
84 :
宰相 幣原喜重郎:02/04/02 18:58
再開議会はスタートから荒れ模様となった。与党の政友会は内閣の施政方針演説の前に
緊急動議を提出して揺さぶりをかけた。
「政党内閣の首班たる者は、長期にわたって政務を全うすることができない場合は、
憲政の常道に従って進退を明らかにするべきだ。臨時事務代理をもって議会に臨むのは
憲政の大義を蔑視するものである。代理たるものが党外者たる場合はなおさらである」
政友会の鳩山一郎が衆議院の本会議場で決議案の趣旨説明に立った。
決議案は、議会で多数派を占める与党の民政党によってただちに否決された。首相代理兼
外相の幣原は、貴衆両院の本会議場にたって、生まれて初めて施政方針演説を行った。
小太りの短躯をゆすりながら登壇する。58歳の幣原は人生の分別盛りである。髪も
黒々とし、両方の頬ははちきれんばかりに太っている。渋々ひき受けた首相代理とはいえ、
58年余の人生の頂点に立ち、覇気満々であった。
引き続き外交演説も行なう。無事一人二役をこなした。
85 :
宰相 幣原喜重郎:02/04/02 19:00
政友会は、1年前に実施された金解禁や4月に調印されたロンドン条約の問題を
積極的に取り上げる。去年から繰り返し議論されて論じ尽くされた感があった。
政友会は、それを何度も持ち出した。
87 :
日本@名無史さん:02/04/13 21:22
塩田潮の「最後の御奉公 日本国憲法を作った男 宰相 幣原喜重郎」を読もう。
88 :
日本@名無史さん:02/04/16 20:38
>>85 最終的には若き日の田中角栄の出世の踏み台になってちゃえらそうなことは言えまい。
原敬が出てきていてまだ星亨が出てないのはなぜだ。
陸奥系列では星が兄弟子なのに。
やっぱり「とっちゃん坊や」ヅラは嫌われる?
押し通る〜
>>89 もともと書き込む奴がほとんどいないからだと思われ
>>91 なるほどね。
高校の教科書でも星亨が出てくるのは大同団結運動だけだし。
暗殺されなかったら、平民宰相と言われたのは星だったろうに。
93 :
日本@名無史さん:02/04/17 09:48
いちおう「めざまし新聞」だって出してたしね。
新聞に関して、星は因縁深い。
自由党入党後、初めにしたのが新聞発行の仕事。
その後、自由党の資金不足を補うため新聞事業を売却。
売却先は大阪毎日新聞。
その後、東京市会において党の基盤作りをするために企業家たちと結びつく。
伊藤博文と組んで立憲政友会を与党とする内閣を組織し、
星は逓信相として入閣するが
市会での企業家たちとの癒着が新聞によって暴露され辞職。
辞職後は東京市役所で市長らと歓談中に伊庭想太郎に斬殺される。
星の死後、立憲政友会は元大阪毎日新聞社社長原敬を中心に
本格的政党内閣組織に向けて動き出す。
松田正久と、原敬が初期政友会(西園寺総裁)の主力だな。
尾崎行雄の自伝に、星亨の部下の川上行義というやつが、伊藤博文に小便をかけたという逸話があるが。
>>95 もともと自由民権運動に参加したのは新政府で主流になれなかった
士族が中心だからそういった事もあったかも。
学校で「自由民権運動を政府が弾圧した」と習う。
もちろん事実。
一方で民権運動をしていた人たち同士でもグループごとの抗争があった。
選挙になると刀や火縄銃を持ち出して敵対関係にあるグループ同士で
ゲリラ戦が展開されたらしい。
警官や軍が出動して和解させる場面も多かったそうである。
民権運動は、不平士族から貧農まで、急進論者から穏健派まで様々な階層が参加した運動でしょ。
寄り合いだから、容易に分裂しやすい。
もっとも、運動の自壊だけでなく政府も弾圧と懐柔、分裂工作で影響力を弱めようとしたし。
民権運動の指導者はみんな大臣病ですから、政府は工作を掛けやすかったのでは?
>民権運動は、不平士族から貧農まで、急進論者から穏健派まで様々な階層が参加した運動でしょ。
私の文章は誤解を与えたようだ。
自由民権運動と書いておきながら土佐系グループのみを念頭に置いていた。
あなたのおっしゃる通り民権運動全体を見ると貧農ももちろん参加している。
大井憲太郎ら関東系の運動は特に一揆的要素が強い。
元々異なる要求をしていた勢力同士が反政府という要素のみで結合した
↓(に続く)
>寄り合いだから、容易に分裂しやすい。
となるわけだな。
>もっとも、運動の自壊だけでなく政府も弾圧と懐柔、分裂工作で影響力を弱めようとしたし。
>民権運動の指導者はみんな大臣病ですから、政府は工作を掛けやすかったのでは?
全くその通り。
実際、板垣・後藤・大隈らが政府に引き抜かれたことで、
全国的な知名度を持つカリスマがいなくなり大合同は破綻した。
また、隈板内閣で政党員たちは閣僚・次官・局長ポストをめぐって対立した。
彼らの激しい猟官運動に藩閥系官僚たちも辟易したそうだ。
山県も官僚組織に政党人が入る(それによって起こる混乱)を避ける為、
文官任用令を施行した。
もちろん山県自身の権力を維持する目的もあったが。
ネット代がやばそうで、家でなく大学の図書館から繋いでいます(w
2ちゃんに接続している俺を、周りの人は白い目で見ているんでしょうな(w
元老(特に山縣)の首相指名のやりかたは面白い。
不都合な強力な反対政党ができて内閣が倒れると、そこでその党首に大命降下。
当然猟官運動・寄り合い所帯の内輪もめ、内閣は半年前後しか持たない。
隈板内閣、第4次伊藤博文政友会内閣はこれで吹っ飛んだ。
まあ、それだけ猟官運動はすさまじいわけですな。
これが後々、昭和に入って軍部が進出する原因となるわけだが。
>>99 学生さんか。
大学の図書館ならたくさん本があるだろうから、
読みたい本を借りることができていいな。
私も学生時代にもっと本を読んでおけば良かったと思う。
卒業したらわざわざ大学まで借りに行けなくなるから
今の間に思う存分利用する事をオススめ致す。
レス遅れm(。。)m。
漏れは、横浜市立中央図書館によく通っておりました。
まだ入学したてなので、大学の図書館は、まだよく分からないです。
下がりすぎ…
103 :
日本@名無史さん:02/05/08 22:59
学習スレあげー
104 :
日本@名無史さん:02/05/13 23:15
dat落ち断固阻止!!
105 :
日本@名無史さん:02/05/13 23:24
私も協力しやう!
幸徳秋水の「自由党を祭る文」は目も眩むほどの名文ですね。
いうまでもなく、自由党は立憲政友会の前身。
107 :
日本@名無史さん:02/05/14 18:21
幸徳は、自由党のどこがよいと思っていたのであろうか。
108 :
日本@名無史さん:02/05/14 19:29
師匠がいたから。
109 :
名無し地蔵:02/05/14 20:24
110 :
日本@名無史さん:02/05/17 12:38
でも、伊藤が政友会を作り、桂が同志会を作って、
政党は政権担当能力を備えたといえるね。
111 :
日本@名無史さん:02/05/18 22:37
>>110 結局、元勲と政党が結び付くというか
どこかで折り合う必要があった、ということかな。
少なくとも、明治憲法のもとでは。
112 :
日本@名無史さん:02/05/20 19:18
age
113 :
日本@名無史さん:02/05/23 22:53
>>111 皮肉な関係。
違憲な存在である元老が支えなければ、
合憲な存在である政党政治は成立しなかった。
114 :
日本@名無史さん:02/05/24 00:18
>>113 揚げ足を取るようで悪いが、
元老は別に違憲ではないだろう。
政党だって、別に憲法上の規定があるわけでもない。
現実に政治力を維持している元老の支持がなければ、
政党政治がその力を拡大できなかったのは皮肉ではなく、
極めて常識的な成り行きだと思うよ。
115 :
日本@名無史さん:02/05/24 00:33
>>115 ありがとう、知らなかった。
今日はもう寝るので、明日読んでみます。
117 :
日本@名無史さん:02/05/24 11:25
>>68,〜70
原敬はさまざまな勢力のバックアップを受けていたけど、政友会内では明治34年、暗殺された星亨の政友会関東派を引き継いでいた。
こういう派閥を原は持ってた。
118 :
日本@名無史さん:02/05/28 16:29
>>117 原と並ぶ初期政友会の領袖、松田正久はどうなんだろ。
119 :
日本@名無史さん:02/05/29 01:52
>>118 松田と星・原はかなりタイプが違うのではないかと思う。
松田は当事者たちの調整役。
星・原は当事者集団の先頭に立ち現実を鋭く見極めつつ、
自分の所属する集団をリードする典型的な政治家。
初期の政党活動には松田のような調整役が最も重宝されるが、
政党が実際の政治に臨む際には星・原のような政策を持った政治家が不可欠。
星・原のような主張のハッキリした二人が暗殺されたのは興味深い。
初期政友会には、地名のついた派閥が存在していたことは近代史の文献に明記されてる。
けど、その領袖等には触れてるものは少ないですね。
僕は以前、国際関係史のレポートで原敬を扱ったことがあり、原の資料を収集する過程で原のみに関してこの事実を知っただけです。
ほかの事は知りもはん。対不起。
原は一年生代議士ながら政友会関東派を率いたそうです。
121 :
日本@名無史さん:02/05/30 17:02
>>120 原は関東派を率いていたのか? もしそうだとすれば、彼は星の政治的遺産をほぼ継承したことになるのかな?
(逓相の後任も原だしね)
でも、どちらかといえば原は伊藤博文の引きで新聞社社長を辞めて入党した元官僚だから、
星とつながりが深かったとは思えないんだけど。情報きぼん。
122 :
日本@名無史さん:02/05/30 19:19
原は陸奥との繋がりから元老と比較的接触する機会が多かった。
また、彼は政友会入りしてからも元老との合意を重視しつつ
安定した政権作りを行った。
一方、星は元老との合意の形成よりも政友会が政策を単独で出し
行っていく事を重視し衝突が多かった。
星は関東に基盤を置き関東派を自分の派閥に取り込み、
市長としても実績を残した。
原は彼自身の派閥を明確には持っておらず、
政友会のオピニオンリーダーから党首になっている。
123 :
日本@名無史さん:02/06/01 12:06
原の政友会入りは、星の暗殺の翌年の話。
頭のいなくなった関東派が、高名な原を仰いだ形だったんじゃないか?
それもしばらくの話で、そのうち122のようになったという。
ちょうど、戦後、頭のいない改進党が重光葵を探し出してきて党首にしたみたいに。
あれも明確な派閥がないといえばいえるが、大麻派を持っていたといえばいえる。
推測オンリーの話でスマソ。
124 :
日本@名無史さん:02/06/01 17:58
原の政友会入りは星の存命中。
原が星暗殺の一年後、関東派を率いたというのは、毎日新聞「一億人の昭和史」の総理大臣を扱った巻の原のとこに書いてありました。
ネタ元はそんだけです。
125 :
日本@名無史さん:02/06/11 12:13
age
まだ残っていたとは驚きだ。上げておこう。
127 :
日本@名無史さん:02/06/26 23:08
原って、政友会の結党時には党員でなかったのか?
「そのとき歴史が動いた」でこの間、原敬をやっていただろ。
誰か、それを見ていたやつはいないのか。
俺は見ていないから、誰かどんな感じだったかレスしてくれ。
128 :
日本@名無史さん:02/06/26 23:39
あれは特番かなにかに潰されてやってなかった。
ビデオテープまで用意して待ってたのに。
129 :
日本@名無史さん:02/06/26 23:40
何度も書き込んで何だが再放送の日を知ってるやつ居たら教えて。
もう終わっちまったのかな・・・。
そうだったのか!NHKよ、再放送きぼんぬ!
>>130 だからまだやってないんだって。
原因は鈴木宗男逮捕。
再送は7月3日の予定。
132 :
日本@名無史さん:02/06/27 10:14
おお!ありがとな!
133 :
日本@名無史さん:02/06/30 18:57
原の入党は、明治33(1900)年9月の結党時。
その年末には、党総務と党幹事長の両方に就任しているから
これは間違いないと思う。
最初、原は第四次伊藤内閣に入閣を求めていたが
すぐには実現せず、星逓相の死後に後任となることで入閣している。
ただ、星の派閥を受け継いで関東派を率いたというよりは
関東だけでなく、全国の地方組織と良好な関係を作っていったと
見た方が良い気がする。当時、政友会には八つの地方派閥があったが
そのうち特定のどこかと原がくっついた、という形跡は見られないし。
134 :
V(‘∀’)V ◆NOGdAaKc :02/06/30 21:01
>>134 そうでした。
星の暗殺は逓相辞職の半年後でした。
「辞職後」が正しいです。
136 :
V(‘∀’)V ◆NOGdAaKc :02/07/06 08:46
そのとき歴史が動いた「原敬」をまた見れなかった。内容に関するレスきぼんぬ。
理想主義者として描いており、極めて一面的。
見る価値なし。
138 :
V(‘∀’)V ◆NOGdAaKc :02/07/13 21:54
板垣退助の政界への影響力がなくなったのは、いつ頃のことだろう?
やっぱり憲政党内閣のゴタゴタからでは?
年代で言えば明治31年。2年後には政界から引退してるし。
>曾て自由神の化身として、憲政の天国を建設す可く
>藩閥の悪魔と健闘したる老英雄も、今や其の屠龍縛虎の手を収めて
>平和にして且つ女性的なる社会活動に老後の慰籍を求むるの人となりぬ。
これは、ジャーナリストの鳥谷部春汀が
明治35年に書いた板垣評だそうで。
多年の同志に見捨てられて、自由党を辞めてからは
政界からすっかり身を引いて、社会事業に専念したらしい。
>>136 >>137の言うとおり
改革を目指す首相と抵抗勢力という現在の状況を無理矢理はめ込んだクソな内容だった
あの番組の内容は常にクソだというのは厳禁
>>138 元々担がれた形で政治参加したような人だから彼がいなくなっても大きな影響はなかったと思う
みんなが従わざるを得ない声望を持っていたことは否定しないが政治家としての資質は
皆無に近いだろうね
141 :
日本@名無史さん:02/08/03 10:57
保全上げ
143 :
日本@名無史さん:02/08/03 12:38
>>142 リンク先は朝日平吾の斬奸状ですね。
昔から植民地経営には「阿片」が付き物です。
大正八年の大みそかに、関東州で阿片取引の摘発があったんですが
それに原敬の側近である平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)が
関与してたことから、政友会系の資金調達源だった疑いがあるとして
議会でも野党の憲政会が追及し、大きな問題になりました。
朝日が殺害したのは、安田善次郎ですが
政友会はむしろ三井系との繋がりがあったとされています。
三菱系は憲政会だから「岩崎控エ」になるわけです。
144 :
日本@名無史さん:02/08/19 18:52
145 :
日本@名無史さん:02/08/19 19:13
146 :
日本@名無史さん:02/08/20 22:02
>>144 言われる通り、西園寺と住友の関係は確かに深い。
公望の弟である友純が、第十五代目住友吉左衛門その人だし
友純の後継者、厚も西園寺八郎の娘と結婚している。
西園寺が住んだ東京駿河台の屋敷も、京都百万遍の清風荘も
興津坐漁荘も全部、建てたり買い取ったりしたのは住友で
秘書の原田熊雄も身分上は住友の嘱託。給料は全部そっちもちだ。
ただ、その原田の言葉によれば、西園寺は住友に対して
「絶対に政治の渦中に入ってはいかん。どこまでも中立に。」
と、かなり厳しく釘を刺していたらしい(ソースは西園寺公と政局)。
当時の住友総理事(小倉という人)も、その言い付けを
かなり忠実に守って、政党に金は出さなかったみたい。
どこまで信用して良いのか判らんが、住友が攻撃対象から外れたのは
住友の「政治的中立」というポーズが、その筋では有名だったからかも。
上戸彩ネタは残念ながら知らん。
誰か補完してやってくれ(藁)
147 :
日本@名無史さん:02/08/22 22:36
50年体制まで議員でいた以下の人物の党派について教えてちょ
林 譲治、川島正次郎、益谷秀次、牧野良三、船田中、
あと、安倍晋太郎の父親寛
148 :
日本@名無史さん:02/08/23 17:40
拙者は、前田米蔵が知りたし。
もっとも、52年以降に一番関心があるんだけど。
149 :
日本@名無史さん:02/08/23 22:25
誰か、戦後保守党史スレを作ってあげたら?
前田米蔵、1954年、日本民主党結成に参加。
150 :
日本@名無史さん:02/08/23 23:45
前田米蔵なら数年前に、
伝記だったか、前田に関する論文集が出たけどそれじゃだめなの?
151 :
日本@名無史さん:02/08/24 13:39
50年代自由党における、前田米蔵とその一派のスタンス、およびどの程度の勢力だったかを知りたいんだけど乗ってますかね?
米蔵についての文献は、ほとんどが戦前、および大日本政治会のことばかりなんで。
羽田ブシロウなど、前田派でありながら、日本民主党にいかず、自由党に残ったわけなども。
152 :
日本@名無史さん:02/08/24 13:40
×「乗る」、○「載る」
>>151 誠に申し訳ない、大麻唯男、町田忠治と間違えてました。
前田に関しては、1961年に伝記が出版されてますね。
見たことはないので内容は分かりませんが、
亡くなった後の伝記なので、多少は載ってると思うんですが。
もうご存知かとも思いますが
前田米蔵伝記刊行会『前田米蔵伝』
です。
重ね重ね申し訳ない。
153は 149 となってますが 150の間違いです。
149さん、すいません。
155 :
日本@名無史さん:02/08/24 20:40
156 :
日本@名無史さん:02/08/24 20:42
そういや大麻唯男は伝記が出たんだな。
全三巻のごっついやつ。まだ見てないけれど。
それまで関連文献というと『人間大麻唯男』しか知らなかった。
あれはショボすぎる。書いてあるのは、民政党幹事長時代に
カネ使いが派手だったことくらい。
>>147 牧野良三は政友会のはず。
民政党時代の中野正剛をアカ呼ばわりする一方で、
国家総動員法や斎藤隆夫除名決議に反対票を投じた。
後藤新平の秘書だった川島正二郎も、党派は政友会。
政友会分裂後は中島派に属して党総務をやり
日政(大日本政治会)でも総務の地位に就いている。
あと船田中も政友会。他はよくわからんが
吉田御三家はやっぱり政友会のような気がするな。
>>147 >>156さんの補足になりそうですが…。
林譲治:戦前は政友会鳩山派、戦後は自由党吉田派→自民党池田派(林は吉田の又従弟)
川島正次郎:戦前は政友会森恪派→中島派、戦後は自由党→日本民主党→自民党岸派→川島派
益谷秀次:戦前は政友会森派→中島派、戦後は自由党吉田派→自民党池田派→前尾派→大平派
牧野良三:戦前は政友会鳩山派、戦後は自由党鳩山派→日本民主党→自民党(1958年落選し、政界を引退)
船田中:戦前は政友会鳩山派→中島派、戦時中は護国同志会、戦後は自由党吉田派→自民党大野派→船田派
安倍寛:戦前は無所属、戦後は日本進歩党(1946年死去)
なお安倍寛は尾崎咢堂とともに三木武夫が師と仰いだ政治家として知られる。
158 :
155=157:02/08/24 20:59
おっと、吉田御三家の話題が出てるから
もう1人の「伴ちゃん」こと大野伴睦についても触れておこう。
戦前は政友会鳩山派、戦後は自由党吉田派→自民党大野派
益谷、林、伴ちゃんの3人とも戦前は政友会。
『政治家人名事典』(日外アソシエーツ)によると、益谷秀次の経歴は、
政友会に入り、政友本党発足で、鳩山一郎と行動をともにし、以来の鳩山派、
となってますが、ということは中島派ではなく、久原派でしょうか?
取り敢えず手持ちのものではこれ以上確認できないのですが、
如何でしょう?
ちなみに、阿部寛は、翼賛選挙で非推薦で出馬、当選。
毎度毎度申し訳ない。
阿部寛じゃ俳優だな、安倍寛でした。
161 :
日本@名無史さん:02/08/24 22:50
>>144 前田米蔵派は、岸派、鳩山派とともに、自由党を離脱、日本民主党結成に参加してたんでは?
あと、だれか政友会、民政党の派閥表作ってもらえませんかね。
益谷は、私も詳しいとこ知りたいですね。
162 :
日本@名無史さん:02/08/24 22:56
立正佼成会は?
教祖の秘書久保木が日本統一教会の教祖になった大カルトだよ
163 :
日本@名無史さん:02/08/25 19:25
>>155-158 大野伴睦、林譲二は、戦後しばらく吉田内閣下でも、鳩山派と言われていた。
特に、伴睦は吉田体制に歯をむきっぱなし。
抜き打ち解散で、鳩山派と吉田派の分裂選挙になったときも、伴睦は鳩山派に拠っている。
伴睦が吉田派に変わったのは、その後。で、バカやロー解散後の第5次吉田内閣に入閣。
皆さん、ありがとうございました。
船田中が政友会出身だとは知らなかった。
76年の[三木おろし」の時、挙党協の代表世話人だった船田に三木が[君は40年来の友人ではないか、手荒なマネはしないでほしい」といったらしい。
三木周辺は民政党出身者が多いから、あまり接点がないのでは?
165 :
日本@名無史さん:02/08/26 02:46
船田中、赤木宗徳ら、護国同志会の面々は、日本協同党に参加したが、三木武夫も参加した、協同民主党に改組する46年5月の4ヶ月前、46年1月に追放にあってる。
船田、赤城は追放中であったものの、三木武夫を含む小会派を糾合すべく何らかの活動を行い、そこで三木との接触もあったとかかもね?
166 :
日本@名無史さん:02/08/26 04:06
age
167 :
日本@名無史さん:02/08/26 08:33
政友会系議員は結構戦後も活躍してますが、民政党系の議員は芦田、大麻、松村ぐらいしか思い浮かばない。
そういえば桜内義雄元衆院議長の父親幸雄は民政党の大物だったらしいのですが、戦争中に亡くなったのですか?それとも松野鶴平の様に公職追放受けたんですか?
168 :
日本@名無史さん:02/08/27 15:21
>>167 桜内幸雄は民政党の初代幹事長。
ただし、その前歴は政友会→政友本党で床次竹二郎派。
第二次若槻内閣で商工大臣をした後、農相や蔵相を務め
後に翼政や日政の総務を歴任して、終戦時は枢密顧問官をしていた。
自伝『蒼天一夕談』によれば、戦後に公職追放されて
二年後に亡くなるまで、政治の表舞台には出なかったらしい。
桜内がマッカーサーに宛てた建言書が自伝に載せられているが
幣原喜重郎の助言に従い、結局提出されなかったということだ。
169 :
日本@名無史さん:02/08/28 02:56
>>167 芦田均は政友会。
三木武吉を忘れてるよ!
170 :
日本@名無史さん:02/08/28 17:52
民政党系は、三木武吉を除けば基本的に、改進党系だから。
吉田自由党系が主軸の戦後10年では、main actorにはなりえなかった。
でも、新政クラブは皆、旧民政党。
鶴見俊輔、堤康次郎、小泉首相の親父、宮沢胤勇・・後の大麻派→岸派、松村派の議員にはけっこういるよ。
>>161 前田米蔵は日本民主党が結成された年に永眠しました。
>>170 鶴見「祐輔」では?
ちなみに俊輔は祐輔の長男で哲学者。
172 :
日本@名無史さん:02/08/28 20:34
大野の伴ちゃんは鳩山派だったらしいが、三木武吉が鳩山を担ごうとしたため吉田派に転じたらしい。
もともと三木は憲政会、鳩山が政友会なんだから、三木は民政党系の人物を担げばいいのに。
173 :
日本@名無史さん:02/08/28 21:31
>>170 うーん、そうだねえ。
でもmain actorにはなりえなかったと言うけど
民政党系が戦後に進歩党として再結成した時には
所属議員数も多かった。GHQが公職追放で狙い撃ちしなければ
自由党に匹敵する程度の勢力を保ちつつ、
戦後の保守中道を担った可能性もあったかも??
ちなみに進歩党は273名中260名も追放処分を受けている。
総裁の町田忠治も、幹事長の鶴見祐輔も処分をくらい
残った党幹部は、斎藤隆夫一人だけだったという。
>>172 三木武吉は、政友会の鳩山や鈴木喜三郎と関係が深い一方で
民政党の中では、若槻や大麻と仲が悪かったりして浮いていた。
仮に三木に「もう一度担ぐ人間を選べ」と言ったとしても、
やっぱり彼は鳩山を選ぶと思うな。
174 :
日本@名無史さん:02/08/29 02:42
>>171 富森叡児「戦後保守党史」に岸系(前田系)は日本民主党に参加とあり、また、自改両党にまたがる新党協議会に「前田派」があったので、それを盲信してました。
自由党から新党協議会に参加したうち、前田派と同声会は脱落し、後緒方派に入ったということか・・・。
いや、すみませんでした。
175 :
日本@名無史さん:02/08/29 12:47
>>173 発足直後の進歩党は大日本政治会の構成員をそのまま継承したもので、戦時中の自由主義者が結集した自由党、東條に反旗を翻した岸系の護国同志会が参加した日本協同党にくらべきわめて保守色、軍国主義的色彩の濃い政党でした。
戦争中の主流、というかほぼ単一の政党であったため、自由党、協同党にくらべ、発足直後は圧倒的な議員数を抱えていました。
大量追放で存亡の危機に立った進歩党は、そこではじめて、戦前のリベラリスト、幣原首相を迎え、自由党よりも中道色を出すことで生き残りを図ったわけです。
そしてさらに、自由党のリベラル勢力、芦田均グループを迎え、またその後の選挙では、中道的議員を増やし(新進会)、中道政党、民主党に改組していったのです。
176 :
日本@名無史さん:02/08/30 23:52
宮沢喜一の父親ってやはり政友会なの?
177 :
日本@名無史さん:02/08/31 03:54
傍観あげ
178 :
日本@名無史さん:02/08/31 20:59
>>176 その通り。
宮沢喜一の父・宮沢裕は政友会。
政友会の大物政治家・小川平吉の女婿で(従って喜一は小川の外孫)、
1928(昭和3)年の初の普通選挙による総選挙で広島3区から政友会公認で初当選。
以降連続6回当選。
1939年の政友会の分裂に際しては中島知久平率いる政友会革新同盟に参加。
翼賛選挙では推薦候補だったため戦後日本進歩党結成に参加したものの公職追放。
解除後1952年の総選挙に自由党から出馬したが落選し政界から引退。
本来なら翌1953年の総選挙に長男・喜一が後継者として出馬するはずだったが、
広島2区の池田勇人の地盤と広島3区の裕の地盤を合わせれば参院選に出馬できるとの
池田の薦めもあり喜一は1953年の参院選に広島選挙区から自由党公認出馬して初当選。
2期務めた後、1967年にようやく喜一は衆議院に移った。
179 :
日本@名無史さん:02/09/01 05:48
>>117-135 ちょっと前の話題に戻って申し訳ないが、西園寺は政友会総裁を引退するにあたって、九州派を率いる松田と、関東派、東北派を率いる原のどちらを後継とするか悩んでいたそうです。
それで逡巡しているうち松田が死んだので、原を後継としたと。
昭和30年ごろの本に書いてありました。
180 :
日本@名無史さん:02/09/01 05:51
おそらくですが、その後原の指導力が強まったために、地域に根ざした派閥は消滅してしまい、政友会内の対立は、専ら、原総裁派と反総裁派という風に変わったんじゃないでしょうか。
181 :
日本@名無史さん:02/09/03 22:22
>>174 前田米蔵は、木暮武太夫と三木武吉、河野一郎の仲介により、死の直前、政友会時代からの仇敵、鳩山と和解し世間を非常に驚かせたそうです。
前田派二十日会(木暮、太田正孝、船田中、西村茂生、川島正次郎、中井一夫、南条徳男)は鳩山自由党には参加しなかったものの、前田の死後は岸を推戴し、民主党に参加したようです。
174は、旧政友会中島派の面々が前田派に継承されたと誤解してるんでは?
182 :
日本@名無史さん:02/09/03 22:25
>>180 旧派閥がフェイドアウトして、総裁派と反総裁派の対立構造に変わる?
現在の状況に似てる気が・・・・。
183 :
日本@名無史さん:02/09/05 04:39
大正ー戦前は資金供給源が限られてたから、総裁の力が強かったわけで。
小泉は、自前の派閥も持ってないでしょ。
銀行業界からいくらか献金もらえてもネ。
184 :
日本@名無史さん:02/09/07 14:43
>>181 前田米蔵派(59年1月東京新聞、加藤リョウ五郎、羽田、小笠原三九郎、船田中、南条徳男、中井一夫、上塚司、小林(金奇)←一文字、藤枝泉介)
>>155と併せて考えると、民主党に行った人もいれば、155にある理由で行かなかった人も。
概して、石橋、岸政権より以前の派閥は結束がゆるく、個々人が勝手に抜けたり、ちょっとした政争で四分五裂。
その後を組織的に網羅するなんてことは、とても難しい。
185 :
日本@名無史さん:02/09/07 17:31
芦田政権後「山崎猛擁立騒動」というのがあったけど、山崎って政友会出身だと思ったが、大野、三木、鳩山に比べ影が薄い。どんな人物だったのか?
186 :
日本@名無史さん:02/09/07 23:51
>>185 戦後保守党史、歴史版に作らっし。
そこで議論しよさ。
187 :
日本@名無史さん:02/09/08 21:08
>>181、
>>184 中井一夫、西村茂生が前田派というのは初耳。
1939(昭和14)年の政友会分裂に際しては中井、西村は
鳩山派(鳩山一郎、安藤正純ら)や久原派(久原房之助、津雲国利ら)とともに
正統派に属していたから…。
ちなみに太田正孝は中立派(金光庸夫、犬養健ら)に属していました。
でも戦前の政友会中島派が戦後の前田派になったという説は(
>>174の主張?)正しいのでは?
なお1937年に政友会の鈴木喜三郎総裁が引退し4人の総裁代行委員が置かれましたが、
鳩山派の鳩山一郎以外は3人とも中島派(中島知久平、前田米蔵、島田俊雄)でした。
戦後中島と島田は公職追放中に死去したので、
旧中島派の面々が前田を中心に集まったと考えるのが自然なように思われます。
あと、藤枝泉介は戦後派(初当選が1949年)。
上塚司も戦後政界入りしたのでしょうか(私はよくわからない)?
188 :
日本@名無史さん:02/09/08 23:11
こう見ると、いわゆる「保守本流」が政友会系であることは明白だね。
189 :
日本@名無史さん:02/09/08 23:39
田中正造はどこの会派にも所属してなかったの?
190 :
日本@名無史さん:02/09/10 09:48
田々宮英太郎著「吉田鳩山の時代」によれば前田派三羽烏とは、太田正孝、船田中、木暮武太夫とのこと。
このスレであがった、前田派のその後をリサーチすると、民主党へ行ったものは岸派に、自由党に残ったものは、緒方ー石井派と大野派にいってますね。
私事ながら、どーも近現代史では五・一五事件以降、軍ばかりで政党に関する知識が少ない・・。
191 :
船田元@政界失楽園:02/09/10 15:39
>>189 古くは立憲改進党から…。
あとは補完よろしくキボン。
192 :
西国のアズマ帰依者:02/09/10 15:52
>大正ー戦前は資金供給源が限られてたから、総裁の力が強かったわけで。
これ良く耳にするんだけれど(『自民党』など)、実際そうなん?
たしかに三井金融資本、三菱産業資本の線に沿って、それぞれ政友会と憲政会
に区分けされていたのは確かなんだけど、日産日窒、朝鮮銀行系エトセトラの
中小財閥は、政治に金を出していなかったのか?という疑問が沸くんだが。
どなたかご教示キボンヌ
193 :
日本@名無史さん:02/09/11 11:56
日産は久原房之介。
財閥にのし上がって、政会に殴りこみ、銭の力で政友会正統派総裁に!
中島も銭ができて革新同盟総裁。
大正時代の日本は、悲しいかな、産業未発達で銭のあるとこというのは限られていた。
なにしろ主幹産業が「米と繭」。
新興財閥の発達も満州事変以降ですがな。
194 :
日本@名無史さん:02/09/11 19:58
>>190 佐藤洋之助と浜地文平は戦前は政友会革新同盟(中島派)に所属していたので
戦後は自由党前田派だったはずですが、
佐藤は最後まで自由党に残り(1955年の総選挙では落選)保守合同後は佐藤栄作派に属しました。
また浜地は日本民主党結成に参加しましたが保守合同後は河野派に属しました。
大半は
>>190さんのおっしゃる通り民主党結成に参加→岸派、自由党に残る→石井派or大野派でしたが。
政党解消直前の政友会の流れは:
★鳩山派(正統派)
政友会で比較的自由主義的なグループ(反軍or反東條、議会政治擁護)。
戦後は自由党→鳩山自由党→民主党。保守合同後は河野派、石橋派、岸派。
但し伴睦や林譲治らは最後まで自由党に残り、保守合同後は大野派、池田派。
★久原派(正統派)
石井光次郎が久原房之助の女婿なので(但し政界入りは戦後)、自由党→保守合同後は石井派。
但し政友会の親軍派は大半が中島派に行ったので、数的には少数。
★中島派(革新同盟、革新派とも)
戦後は前田派として再結集。その後は
>>174、
>>181、
>>184、
>>187、
>>190を参照。
★金光派(中立派)
数的には少数。戦後生き残ったのは金光庸夫、犬養健、太田正孝くらいか?
金光、太田は前田派、犬養は吉田派→無派閥→大野派(少し不確実だが)。
というところでしょうか。
195 :
日本@名無史さん:02/09/11 22:05
濱口あげ
196 :
日本@名無史さん:02/09/12 23:15
「腹切り問答」でおなじみの浜田国松は民政党なの?
197 :
日本@名無史さん:02/09/12 23:25
「鉄ちゃん」の神様、宮脇俊三氏のお父様の宮脇長吉氏も政友会。
サトケンに議会で「黙れ!」って怒られた。
198 :
日本@名無史さん:02/09/13 03:35
>>197 元陸軍軍人だったから顔見知りであったのかもしれない。サトケンと。
元蔵相三土忠造の兄。
199 :
日本@名無史さん:02/09/13 03:46
宮脇は予備役大佐の顔も持つ。
サトケンとの有名なやりとりも顔見知りだったかもしれないな。
ちなみに宮脇の実兄は元蔵相の三土忠造。
200 :
日本@名無史さん:02/09/13 10:56
子供向けの漫画では宮脇議員(らしき人)はいかにも軟弱そうで、サトケンに怒鳴られて、へなへなって感じだけど、
実際はとても声がでかい元気な人のようだったらしい。
宮脇氏によれば、「父はとにかく声のでかい人だったから、たくさんの野次があったのに、父が怒鳴られたのだろう」とか書いている。
201 :
日本@名無史さん:02/09/13 11:03
宮脇議員は陸軍兵学校の先生をしていたそうだから、サトケンは教え子。
教え子に怒鳴られた宮脇先生の心中やいかに。
(´-`).。oO(陸軍兵学校…)
203 :
日本@名無史さん:02/09/13 21:04
>>196 浜田国松は政友会。
政友会が分裂した1939(昭和14)年に亡くなりましたが、
政友会分裂の原因となった鳩山一郎vs中島知久平の対立では勿論鳩山支持でした。
>>197-201 宮脇長吉は陸軍軍人出身なのに反軍の立場を取り、
政友会分裂に際しては鳩山や久原房之助らとともに正統派に属し(但し久原は宮脇や鳩山と異なり親軍派)、
斎藤隆夫の除名決議に際しては反対投票をした7人のうちの1人でした。
もっとも棄権・欠席した議員も大半は除名反対の立場をとっていましたが…。
204 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:42
宮脇議員は推薦選挙で落選したらしいけど、推薦選挙で当選した政友会や民政党(元だけど)一覧ってないかな。
205 :
日本@名無史さん:02/09/14 01:20
>>194 >★久原派(正統派)
> 石井光次郎が久原房之助の女婿なので(但し政界入りは戦後)、自由党→保守合同後は石井派。
> 但し政友会の親軍派は大半が中島派に行ったので、数的には少数。
石井派は、保守合同後の初代総裁選挙直前に緒方竹虎が急死したため、
緒方派を引き継いだものと読んだ記憶があるが。
久原派は緒方派を経て石井派になったの?
石井光次郎はブリヂストンの石橋を通じて鳩山一郎とも繋がっていたから、
自由党時代から曖昧なポジションにいたようだけど。
206 :
日本@名無史さん:02/09/14 19:59
近代政治史ってまるで疎いのだけど、桂太郎って評価上がってるのね。
「第二の伊藤であり、憲政の功労者」(「明治人の力量」)
「(明治天皇が生きていたら)十年以上早く、二大政党時代が開幕した可能性」(「政党政治と天皇」)
「憲政の破壊者」ってイメージしか持ってなかったんで、なんか意外。
207 :
日本@名無史さん:02/09/14 21:09
>>205 石井派は確かに緒方派を引き継いだものです。
ただ戦前政友会久原派で戦後も生き残った津雲国利が
自由党→自民党石井派だったので
>>194もあながち間違いではないと思います。
おそらく緒方派の結成に旧久原派の面々も加わったのでしょう。
ちなみに津雲は1928(昭和3)年の総選挙で初当選してから通算8回当選(戦前は連続6回当選)。
戦前は終始久原房之助と行動をともにしました。
戦後は旧鳩山派(戦時中は同交会)が中心の日本自由党の結成にも、
大日本政治会の流れを汲み、とりわけ旧民政党、旧中島派、旧金光派が結集した日本進歩党の結成にも参加せず、
無所属倶楽部に入りました(久原派の岡田忠彦、東条貞も無所属倶楽部入り)。
追放解除後自由党に入りましたが(但し1952年の総選挙は落選、翌1953年にようやく当選)、
緒方派の石井光次郎が久原の女婿だったので石井を頼って緒方派入りしたものと思われます。
1955年、1958年の総選挙には落選しましたが、
1960年の総選挙で返り咲いたときは石井派でした。
津雲は1963年落選して政界を引退、1972年に78歳の生涯を終えました。
208 :
日本@名無史さん:02/09/15 03:37
>>206 最近の同志会(憲政会)系研究は
めざましい進展だからな。
党を結成した桂の評価も、自然とあがるのだろう。
もっとも、昔あまりに政友会マンセーの研究が
多すぎた反動もある。その頃の本を読めば
桂は護憲運動最大の仇敵で、ただの哀れな失敗者だ。
209 :
日本@名無史さん:02/09/15 04:49
山縣は桂・寺内に捨てられたのか捨てたのか
政友会の内情は日本史の授業で習うのと全く異なる一面もあった
結局真相を知っているのは当事者だけだが判断を誤るのも当事者
難しいね世の中は
210 :
日本@名無史さん:02/09/16 23:25
>>207 マイナーすぎるんで、もしわかれば・・ですけど、
52年8月の抜き打ち解散直前の派閥表に久原派(2名)「生田和平、坂本実」とあります。
これは、どうなんでしょう??
無所属倶楽部を経ての自由党入りなんですかね??
この両名は私の資料では、ほかにヒットしない人名なんで。
211 :
V(‘∀’)V ◆DrUFOdGk :02/09/17 20:39
>>208 桂の評価、確かに低すぎる。桂の限界(長州藩閥の非立憲政治)を糾弾した
尾崎行雄が評価されるのと同じように、桂新党(後の立憲同志会)を組織して
自らの限界を打ち破ろうとした桂の態度も評価されるべき。
212 :
日本@名無史さん:02/09/17 21:38
それが、それまでの親分、山県に逆らうことになっても、という点も、プラスポイント。
桂が第二の伊藤というのはわかるが憲政の功労者というのは
誉め過ぎに聞こえる。
伊藤は政友会を作ったが憲政に理解を持っていたとはあまり思えない。
伊藤の出世方式は権力基盤を
ころころかえて広い層に薄く支持を取るもので
内務省や貴族院のように政友会も捨てられていた可能性は高い。
政友会の低迷は伊藤失脚が原因ではあるが
後継者を決めないで飛び出すのは伊藤のよく使う手。
桂も同様に膨張した桂派が山縣派に対抗するための
一時的措置という要素が強い。
英国帰りの加藤が急にNO2に選ばれたのも
信頼や能力というよりつなぎ役の政党人として
都合がよかっただけだろう。
214 :
日本@名無史さん:02/09/17 23:11
まあ、桂は「憲政の神様」の敵役だかんな。
神様の反対語は悪魔だし。
そういや、「悪魔ちゃん」どうしているかな。
215 :
日本@名無史さん:02/09/18 09:55
話題が明治大正期に戻ったな
216 :
日本@名無史さん:02/09/19 17:30
尾崎行雄って改進党、憲政本党の流れだったのに、政友会に参加しているんだよね。
なんか不思議な気がする。
217 :
日本@名無史さん:02/09/20 00:47
院外団について語ってもいいのかな?
218 :
日本@名無史さん:02/09/20 19:04
>>217 今はレスがあまりついてないしいいんじゃない?
政党の話が盛り上がってきたら自重すれば良いだろうし。
219 :
日本@名無史さん:02/09/21 17:11
党員数はどちらが上だったの?
220 :
日本@名無史さん:02/09/22 03:25
>>219 「どちらが」というのは政友会と憲政会の事?
時期はいつ頃?
221 :
日本@名無史さん:02/09/22 18:15
暴力団という言葉は元々院外団を指すものだったようだ。
222 :
日本@名無史さん:02/09/22 19:23
院外団の武勇伝の持ち主と言えば、やはり大野伴睦だろう。
223 :
日本@名無史さん:02/09/22 20:39
頭山満及び玄洋社も院外団になるのか?
226 :
日本@名無史さん:02/09/23 01:11
幣原失言事件では大野意外にも後の自民党副総裁川島正二郎、吉田の盟友林譲二あたりも活躍してたね。
占い師の細木数子の父親が民政党院外団で、伴睦とも交友関係にあったようです。
みんな大野伴睦について知ってるとはさすが日本史板だ。
浅い知識で意気揚揚と乗り込んできた俺はカエルトスルカ…
228 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:58
>>210 生田和平は1877(明治10)年4月26日徳島県に生まれた。
徳島県石井町議から同町長、名西郡議、徳島県議を経て1917(大正6)年衆議院議員に初当選。
戦前は政友会、戦後は自由党に属し通算8回当選。
衆議院選挙法改正に関する特別委員長、政友会総務等を歴任。
坂本実は山口県出身(久原房之助と同郷)で戦後政界入り(自由党)。
生田は1949(昭和24)年の総選挙でも当選しているので公職追放は受けていないような…。
おそらく戦時中は議席がなかったのではないだろうか…?
坂本は久原と同郷なので久原派に入ったのでは?
結論としては、生田、坂本とも無所属倶楽部を経ての自由党入りではないと思う。
そもそも無所属倶楽部は戦後政党が再結成されたとき、
日本自由党および日本進歩党のいずれにも入党することを快しとせず、
というより敗戦日本の政治家が、
自らの政治責任を明らかにしないで早々と政党組織に進む事は妥当ではない、
むしろ衆議院議員は敗戦の責任を負って総辞職を行うべきであるとの考えをもった人々を主として、
1945(昭和20)年11月26日に院内会派として結成された。
無所属倶楽部のメンバーを分類すると:
★旧政友会久原派
岡田忠彦、津雲国利、東条貞、肥田琢司、松浦伊平、西村茂生ら
★旧護国同志会
船田中、井野磧哉、中谷武世、赤城宗徳、永山忠則、小山亮、今井新造、中原謹司、
池崎忠孝、池田正之輔、鈴木正吾、橋本欣五郎、浜田尚友、有馬英治、高岡大輔ら
★旧翼壮議員同志会
蝋山正道、菅野和太郎、稲葉圭亮、永野護ら
★その他
尾崎咢堂、三木武夫、川島正次郎ら
なお旧護国同志会系の二十数名と黒沢酉蔵らは院外で日本協同党を結成。
旧久原派の西村茂生は公職追放解除後は何故か前田米蔵派(
>>181、
>>187参照)。
230 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:31
昨日NHKアーカイブスでやってた「男子の本懐」見た人いる?
浜口と井上の話。
231 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:37
>230
小泉又二郎が目立ってたな。
浜口雄幸や井上準之助って、研究者の人にはどう受け止められているんでしょう。
もっと長く内閣が続けば、その後の日本も少しはいい方に・・・というような、
あのドラマのような評価ってあるんですか?
もし満州事変の時の首相が浜口だったら、
あるいは関東軍の暴走をもう少し抑えられたのかも、と言う気がする。
若しくは、十月事件のようなクーデターが本格的なものになったり、
五・一五が前倒しになっただけかも知れないが。
しかし、何れにしても、若槻よりは、
果敢に事態の解決に取り組んでいただろうにと思わざるを得ない。
234 :
日本@名無史さん:02/09/24 02:05
>>232 浜口内閣の課題とその対策そしてその結果を考えれば浜口内閣の評価ができる。
課題
1.不況の克服
2.世界的な軍縮路線に参加できるかどうか
3.中国大陸への侵略を露骨に示すようになった陸軍をどう抑えるか
大雑把にくくるとこんなもんかな。
235 :
日本@名無史さん:02/09/24 02:29
対策
1.緊縮財政、デフレ政策で国際競争力をつけ金本位制度を復活させる
2.ロンドン海軍軍縮条約に調印
3.政治家への転身を狙う宇垣を陸軍大臣に据え政党主導の内閣を目指す
1.の緊縮財政と絡めての陸軍予算の押さえ込み
1.緊縮財政は財政の均衡化には役立ったが不況を更に悪化させた。
金本位を実現したものの世界的には兌換制度の復活はなく円高になり
貿易収支は悪化。
2.3.軍縮路線は財政の面では成功したが、軍人の危機感を煽り浜口は暗殺未遂、
井上は暗殺される。それまで比較的穏健とされていた海軍の一部にも
「過激な」将校・兵士が表に出てきた。
狙い自体は間違ったものではなかった。
しかし、内閣の対策によって国民・軍人・官吏は「割りを食った」。
国民・軍人・官吏が世界的な軍縮路線や世界同時不況といった状況を冷静に
捉えることができていれば浜口内閣の対策にも理解を示すことができたが、
実際には目の前の「不況」「圧迫感」という大きな問題を解決できない内閣へ
不支持となった。
そこへ右翼系・左翼系の思想化が国民・軍人を扇動しに現れ
見事に混乱を大きなものにした。
そして「五族協和」「一君万民」という非現実的な妄想を実現するために
動き出した。
浜口内閣は現実を捨てた人々に捨てられ、妄想に負けた。
浜口内閣の登場がもう少し早ければ、内閣の対策は実を結んだかもしれない。
しかし、歴史にIFはない。
現実を厳しく受け止めなければならない。
戦前の人々が幻想を抱き、現実の前に大きな失敗と悲劇を生んだことを
我々は忘れてはならない。
236 :
日本@名無史さん:02/09/26 01:29
西鹿児島駅の前に床波竹次郎の胸像がある。しかしほとんど人、何者か知らない。
鉄道大臣したからだつて。へんなの。そばに若き薩摩の群像て大きな像があるので
肩身狭そう。他の場所立ててやればといつも思う。これも右往左往した報い。
237 :
日本@名無史さん:02/09/26 01:36
↑大日本国粋会を作った人?
239 :
日本@名無史さん:02/09/26 01:41
別に院外団ネタでやりたければ畑を耕せば。
240 :
日本@名無史さん:02/09/26 03:51
>>235 第一次大戦後の不景気に対しての対策としては間違ってはなかった。
というよりも欧米各国が金本位制に移行し物価の安定を図っていたことを
真似たのだと思う。
しかし、その実行速度が問題だった、金解禁への議論をはじめた当時は適切で
あっても実際日本がそれに踏み切るまでに時間がかかりすぎた。
丁度日本が金解禁してすぐに暗黒の木曜日が訪れ、株式市場は大混乱を起こし
イギリスをはじめ欧米も金本位をやめたために、
行き場を失った資本は日本の金へと流れ日本からの金の流出はやまず、
結局円高になり日本の輸出産業には致命傷になってしまった。
結果的に彼らの金融政策は失策であったという見方が大半であるのは事実。
ただ、歴史にIFがあれば、迅速な行動が伴っていればどうなったかは
わからんが、未だにこの国はそれがなされてないので無理でしょうな。
浜口内閣期は明治維新からの政策のツケが全部悪い方に出てきたような感じ。
政治家に官僚出身者が多くなり、まあ浜口自身がそうだけど、
普選も実現されていたが一方で有権者と政治家の利益の共有や
軍部が完全な政治勢力となる段階を迎えたりと。
更には「国家改造」のスローガンによる実質的な革命を計画する
右翼左翼と将校の結びつき。
俺なら組閣を断るよ。
242 :
日本@名無史さん:02/09/26 07:30
基本的には浜口内閣の政策は間違っていたとは思わない。
金解禁政策も当時が金本位制である以上、当然だったろう。
今の日本での会計制度とかペイオフとか、世界標準にあわせようとすること自体には反対する人も少ない。
ただ、各論で円の価値を見誤ったのが問題だったのだろう。
これについては歴史家も?で井上が何でこんなことをしたのか、って評価が悪い。
高橋財政がこれと比較して評価されることも多いが、彼の財政政策により軍部がより独走し、
破滅への道を歩んだことを考えると、俺は高橋財政は評価できない。
>>239 院外団だけでスレッド立てるほうが無駄だと思うが。
政党あっての院外団として、ひっそり寄生させてもらう。
244 :
日本@名無史さん:02/09/26 18:28
高橋財政の方が浜口内閣のデフレ政策より評価が難しいだろうね。
確かに公共事業によるテコ入れで景気回復は必要だったけど、
増えた予算を軍に取られないように工夫しなければならなかった。
柳条湖事件に始まる満州事変で陸軍はコントロール不能になっちゃったし、
それに合わせて海軍将校もおかしな動きをはじめるし。
高橋自身は軍部を相手にも簡単に妥協せずがんばったけど、
結局2・26で殺されてしまったし。
浜口のストイックな政治姿勢は評価に値するけど、
その政策には高い評価を与えられない。
高橋の政策にはまずまずの評価を与えても良いけど、
軍事予算を抑えられる陸軍大臣、海軍大臣が不在だったのが残念。
若槻内閣、田中内閣に比べ組閣時点から軍部の政治介入があったから仕方ないか。
245 :
床波竹次郎:02/09/27 18:54
私、政友会分派して、政友本党つくってキャスチングボート握ろうとしたんだけど。
あえなくアボーン。悪評判のみのこりました(泣)田舎者は単純なのね。自民党から新進党、そして何とか党から又
自民党の誰かみたい。皆、歴史。学んでない。保岡○キハル。お前だ。
ここ両スレですね、床波先生
247 :
日本@名無史さん:02/09/27 19:04
248 :
日本@名無史さん :02/09/27 19:19
床次竹次郎
じゃ無かったっけ?
249 :
日本@名無史さん:02/09/27 19:20
>>242 ただ単に遅すぎたというだけではないでしょうか?
250 :
(モトイ)竹次郎:02/09/27 19:46
>>248 諸般の事情により改名いたしますた。
コーソリーーーーーーーーーーーー(打ち間違えた)
政治家は間違えても
ぜつたい言い訳するんです(恥)
床次竹二郎
でなかったっけ?
しつこいのでsage
ま、今じゃ床次を
トコナミと読める人も珍しいわな。
土川信男「政党内閣期における床次竹二郎の政権戦略」
滝口剛「床次竹二郎と平生釟三郎」
くらいが、最近の床次研究。ついでにsage
253 :
日本@名無史さん:02/09/29 22:13
age
254 :
V(‘∀’)V ◆DrUFOdGk :02/09/30 00:34
注意!
床次竹二郎 若槻禮次郎 杉山元治郎
256 :
日本@名無史さん:02/10/01 00:08
小泉内閣改造したな。
まるで
民政党井上準之助緊縮財政(柳沢更迭)から政友会高橋是清積極財政(公的資金投与派塩川・竹中)
に移行したかのようだ。
257 :
日本@名無史さん:02/10/01 01:07
塩川も竹中も別に積極財政論者とは言えないが。
もし政策転換なら亀井とか古賀あたりを入れないとな。
しかし、この経済危機にボケ老人と口先男のコンビに経済の舵取りを任せていいのかね。
258 :
日本@名無史さん:02/10/01 02:18
他に人がいないのよ
ああー悲し
まぁ、方向性はまともになったんだろうな。実行力は知らんが。
260 :
日本@名無史さん:02/10/01 09:56
しかし塩川さん80歳
他に人材いないんかい。
片面だけの200円札刷って急場を凌げた当時とは違うからね。
出来なさそうに思えるってのは同意だが出来ないかどうかは未知数。
どこぞの派閥でもなく「非議員」なのがちょっとナンだけどね。
#と無理矢理このスレ的な話に持っていく。
262 :
日本@名無史さん:02/10/01 16:38
大正期以後は官僚出身の政治家が増えたけど、
これが各政党に及ぼした影響ってどんなもんだろ。
263 :
日本@名無史さん:02/10/01 22:54
>>260 例えどんなに有能な経済対策立てられる政治家がいても
橋本派という理由だけで敬遠されるんだろうな
小泉は意地になってる
石破は橋本派。
265 :
日本@名無史さん:02/10/02 16:16
>>257 亀井と古賀は財政出動が必要という点で一致してるが
その先となると全然違う。
ベースマネーを意識しているのが亀井
意識してないのが古賀。
266 :
日本@名無史さん:02/10/02 21:24
>263
いや以外に橋本派とは裏で手を握っている。
青木の要望を受けて参院枠を増やしたし、お食事券で失脚した額賀を幹事長代理、藤井孝男を予算委員長
といったポストにつけている。
むしろ森派を出て行った亀井派には敵意を持っているらしい。
閣僚は平沼の留任、その他党のポストもほとんどまわしていない。
267 :
日本@名無史さん:02/10/03 22:08
>260
高橋是清も80歳位だったよ。
268 :
日本@名無史さん:02/10/04 02:34
塩爺、生で見たことあるけど、えらい颯爽としてて60ぐらいにしか見えなかったんでびっくりしたことある。
機密費問題で「覚えがありませんなあ」なんて、爺くさく言ってたが、生で見たことがあったんで、「年を取ってる演技をしてやがる」と思ったことあるよ。
269 :
政友本党、床次竹次郎:02/10/05 10:30
スレもお休みか?
保全しとこう
271 :
日本@名無史さん:02/10/08 13:22
あげ
272 :
日本@名無史さん:02/10/08 13:26
273 :
日本@名無史さん:02/10/13 01:48
あげ
275 :
V(‘∀’)V ◆xMNOGdAaKc :02/10/20 15:48
また元の静けさに戻ってしまったね。
>>275 おっ
久しぶりだね。
ここはたまに書き込みが集中するから
内容が濃くていいね。
277 :
V(‘∀’)V ◆xMNOGdAaKc :02/10/21 23:38
>>276 ですね。まぁ、スレを立てた張本人である自分がネタを振るのが一番なんですけど(w
278 :
日本@名無史さん:02/10/23 00:39
五一五事件って
犬養「待て、話せばわかるから撃つな」
軍人「うるせー、問答無用だ、死ね」
と思ってたけど違うのね?
279 :
日本@名無史さん:02/10/23 00:48
原、(高橋)、浜口、犬養とみな国際協調主義者で、暗殺・・・。
田中義一以外の政党主流はみな、国際協調主義だったんだな。
犬養は、満州国承認どころか、返還含みの秘密交渉を息子の健にやらせていたんで殺されたんでしょう。
280 :
日本@名無史さん:02/10/24 01:02
>>279 それでも協調外交の代表格である
幣原は最後までのうのうと生きてるんだがな
暗殺者にとって一番の標的だとおもうんだが
幣原は勢力を持っていなかったからじゃない?
原、高橋、浜口、犬養は勢力を持っていた。
テロリスト達はそのリーダーを暗殺することで勢力そのものの失墜を図った。
これは政治家が標的になったテロだけではなく、
永田鉄山暗殺も同じだな。
282 :
日本@名無史さん:02/10/24 01:44
「憲政の常道 天皇の国の民主主義」読まないと。アセアセ。
283 :
日本@名無史さん:02/10/24 23:50
>>281 それなら原たちよりも
協調路線の超大物の西園寺をやるべきでは
原内閣とか作ってるのも西園寺だし
226で殺されかけたと言っても所詮は計画だけだし
>>283 西園寺は公家で明治から天皇家を補佐してきた。
無政府主義者によるテロなら標的になるが、
天皇制を前提とした体制で権力を握ろうとするなら
西園寺は殺さない方が良かったのでは?
>>282 あれ読んだけど、ストーリーのカギが
小沢一郎『日本改造計画』ってのは、どうよ。
今読んだら、禿しく萎えそう…。
>>284 西園寺の暗殺は、暗殺担当者の中でも
意見が分かれたらしく、土壇場になって中止されたらしい。
生かしておいて利用するという意味で。
287 :
V(‘∀’)V ◆xMNOGdAaKc :02/10/25 12:34
西園寺も幣原も、たまたま天寿を全うしただけじゃない?
全員が刺客にやられるわけではない。
西園寺にしろ幣原にしろ、血盟団の暗殺リストに入っていた。
>>279 犬養首相は萱野長知を密かに現地に派遣して交渉させていたね。
ところが、交渉経過を報告した極秘の電報が内閣書記官長の森恪の手に渡って、
森がその電報を握りつぶしてしまった。そうして犬養首相に電報がわたらず、
そうこうしているうちに5・15事件。
幣原も西園寺も長寿だったな。
西園寺が85歳ぐらいで幣原は80才ぐらいだったかな?
289 :
日本@名無史さん:02/10/25 16:18
要は、政党主流は国際協調主義。
盲目的拡大主義のお馬鹿陸軍や右翼のテロによって、それがゆがめられてしまったということね。
政友鳩山派、民政町田派も最後まで、議会主義、自由主義の灯を護ろうとしたもんな。
290 :
日本@名無史さん:02/10/25 23:48
>>289 ちょっと違うと思うが。
政党の主流派国際協調主義だが、野党は弱腰外交を攻めている。
昭和初期までの軍部も主流派は国際協調派で、非主流派が強硬派。
政党と軍部でわけるのは間違いだと思われ。
291 :
日本@名無史さん:02/10/26 15:11
先年自殺した中島洋次郎の祖父って中島知久平だろう?
>>289の言う通りなら、鳩山と対立していた中島は軍国主義者ということになるが
まあ、軍需産業で財を成したのだから、当然かもね。
292 :
V(‘∀’)V ◆xMNOGdAaKc :02/10/26 23:21
293 :
日本@名無史さん:02/10/27 00:14
中島、久原、民政党でも、安達、永井なんかは親軍派でしょう。
間違いなく、陸軍機密費、および軍需産業による銭で動いてた。
浜口、若槻内閣期の幣原外交に対する、政友会の攻撃は確かにオカシカッタけどね。
タメニする攻撃というやつで、犬養、鳩山もひどかったのは確か。
294 :
日本@名無史さん:02/10/27 02:25
>>293 禿胴。
濱口内閣の時の野党政友会なんてひでえもんだった。
いちゃもんのためのいちゃもんを連発。
ロンドン海軍軍縮会議に反対する軍部の尻馬に乗って
「統帥権干犯」などという可燃性の強い看板をぶつける。
まさに鳩山・犬養がその急先鋒。
党利党略の結果、因果は巡り、犬養が総理になった際に
共闘してたはずの海軍将校に射殺される。ある意味自業自得。
明治時代以来の功績も晩節を汚したことで相殺。
テロはいかんが、犬養だけは同情ではすまない。
鳩山一郎なんてのは文相時の事件も含めてホントに最低の政治家だと思う。
戦後にアンチ吉田茂のカードとして担がれたが・・・
295 :
日本@名無史さん:02/10/27 03:12
>294
全くだな。
鳩山は若気の至りとしても、議会人としての自殺行為。
戦後公職追放のときに、「なぜ自分が?」って思ったらしいが、まるでおばか。
だいたい戦前だって、軍部や東条に睨まれるのがいやでさっさと軽井沢に逃げ込むしな。
中野正剛は自殺に追い込まれ、尾崎は不敬罪でタイ−ホ、吉田茂でさえ刑務所にいったというのに。
所詮、ぼんぼん。
三木武吉がいなければ何もできない無能政治家。
無能でも3代続くと、「名門」になるらしいが、しょうもな。
やっぱりこう言う節操の無さが、宮中派をはじめとした保守層に政党政治家は
ダメだと思わせたんですかね。海軍の井上成美なんかでも政治家を軍部大臣に
置くのは絶対反対しているもんなぁ。当然疑獄事件なんかも関係していると
思うけど。関係ないのでsage
297 :
日本@名無史さん:02/10/27 06:36
鳩山一郎が企んでいた改憲・軍備拡大が(主として吉田茂への対抗政策)
実現していたらとんでもない日本戦後史だっただろう。
朝鮮戦争はもちろん、
無関係なベトナム戦争なんかにおもいっきり兵員提出させられたろう。
(韓国のように)
どうも日本には「名門」に甘い風土があるような。
しょーもない政治家だと思う。鳩山なんて。
298 :
日本@名無史さん:02/10/27 12:02
>>295 爺が爺なら孫も孫、というわけですね。
あの兄弟は単なる政界のゴミクズ。
299 :
日本@名無史さん:02/10/27 12:26
鳩山の日ソ国交回復は評価すべきと思うけどね。
社会党の鈴木茂三郎との友情物語りも俺は好きだ。
300 :
日本@名無史さん:02/10/27 15:32
>299
右と左の友情物語って結構あるよな。
思想政策の違いはあってもおたがいに尊敬できるもんがあるのかな。
吉田茂は共産党の徳田球一を尊敬してしたし、最近では竹下と村山が同い年ということも
あって仲良しだったらしい。
「自分たちが存命のうちは絶対先の戦争のようなおろかな戦争はしない」って約束してたとか。
だから竹下派→橋本派は実は民主党のタカ派よりはるかにハト派だったりする。
301 :
日本@名無史さん:02/10/28 02:13
>>300 犬養毅も右翼の大物頭山満と、左翼(当時ではそう言えるだろう)の星である
中江兆民との熱い三角関係の友情があった。中国問題にのめりこむことで
その絆は強固であった。
橋本派は野中が戦中派として断固ハトの姿勢だね。
若手の「ナントカ戦略会議」とか「愛国心ナントカ会」てのを
潰してまわってる。おかげでタカ方面からウケが悪い。
戦争は悲惨だ、ということで引退した後藤田正晴とも連絡を取って共闘。
まったくキャリアも派閥も違う2人だけど。戦中派にはもう一花希望したい。
302 :
日本@名無史さん:02/10/30 03:33
戦中派の言うこときいとったら、日本経済は破綻するがな。
徳球を吉田が尊敬ってホントか??ありえんだろ
303 :
日本@名無史さん:02/10/30 03:38
あと、鳩山の統帥権干犯問題と滝川事件は言い訳できんが、30年代、40年代に「自由主義者!議会主義者!」との罵られながら(当時はこれが最上級の悪口だった)、軍国主義と徹底して戦ったのは評価すべき。
304 :
日本@名無史さん:02/10/30 05:25
>徳球を吉田が尊敬ってホントか??ありえんだろ
吉田は終戦直前特高に捕まって3ヶ月ほど豚箱にぶち込まれたんだよね。
それが相当応えたらしい。
だから18年も豚箱にいた徳球のことはその意味で畏敬というか尊敬していたらしい。
彼の自伝を読むと、結構徳球評はほのぼのしているよ。
>軍国主義と徹底して戦ったのは評価すべき。
闘ってないっての。
東条や軍部を怖がって、軽井沢の別荘に引っ込んじゃったんだよ。
選挙区は東京なのにさ。
305 :
日本@名無史さん:02/10/30 05:47
そういや浜田国松は政友会で斉藤隆夫は民政党だったな。
>徳田球一
吉田茂の回想録によると
「徳田球一という人物に対しては、私はどういうわけか余り強い反感は持たなかった。
<中略>むしろ稚気愛すべしとも思われた。
私が党の控え室に行ったら徳田君がいるので、君はいつ自由党に入党したんだ、
といってからかったら、きょう入党したという。
そんな冗談をいって笑いあうくらいの親しみができていた。
<中略>
議場の質問などでは、ずいぶんと激しいことをいうが、毫も私事に亘ることは言わない。
他の連中が目の色を変えて、狂犬のような調子で食ってかかるに反して、
徳田君は時々私のほうを振り返ってにっこりするという調子で、
どことなく憎めないところのある人間であった。」
>鳩山一郎
三木武吉という軍師と、河野一郎という切り込み実働部隊がいないと何もできない。
戦前のロンドン条約反対への煽り、文相問題、戦時中の非力さ、
どれをとっても戦後によくもまあ厚かましく復帰できたものだと呆れる。
お坊ちゃまだが、その上をゆく近衛文麿に対しては
「近衛に國を引きまわされるのはかなわん」と日記にある。
近親憎悪的なものであろう。爵位も、毛並みも、政治勢力としても、
自分より上であるものへの憎悪。それまでちやほやされてきた逆恨み。
東條内閣打倒に提携するでもなく、ただ漫然と政界に巣食う。
吉田のように憲兵にぶち込まれていたら政治家として箔がつき、一皮むけたであろうに。
こんな程度の人間は公職追放で頭を冷やして引退するべきだった。
体調もよくないし。
>>306 鳩山由紀夫が全くもって彼の孫なワケですね…
308 :
日本@名無史さん:02/10/31 14:37
とすると、自由主義者鳩山に対して、痛烈な攻撃を行った、非議会主義、全体主義、軍国主義、侵略主義の当時の主流派議員、軍人、新聞とそのもろもろの御子孫たちの評価はどうなるんでしょう?
今も、でかい顔してのさばっとりますよ。た〜くさん。
309 :
日本@名無史さん:02/10/31 15:46
自由主義者ねえ・・・
310 :
日本@名無史さん:02/10/31 16:02
平沼の子孫だなんてよく大きな顔してられるな。
大逆事件といい,検察ファッショといい,枢密院時代の暗躍といい。
おまけに皆から嫌われて。
311 :
日本@名無史さん:02/10/31 16:14
>>310 平沼騏一郎の弟淑郎は法学博士で早稲田大学学長
歴代首相のなかでも妻帯しなかったことで知られる。
現当主の大臣サマは一族からの養子。妻は徳川家から。
・・・さんざん騏一郎は「国家のために!」と軍部と政治行動するも
終戦に際しての行為が祟って、陸軍降伏反対派から自宅を襲撃される。
火をつけられるは、機関銃を打ち込まれるはで、わけわかんない人生というオチ。
松岡洋右の孫も地元山口から国会議員で出てるよな。おめでてーな。
312 :
日本@名無史さん:02/10/31 18:27
平沼騏一郎内閣といえば、「ヨーロッパの政治はわかんないよ〜う、うぇ〜ん」が退陣理由。
統帥権干犯「越境将軍」による「食い逃げ解散」林内閣とか、中学生並の経済政策の阿部内閣
こういうウルトラ馬鹿どもは死刑になったっけ?
313 :
日本@名無史さん:02/10/31 18:30
>>309 ああ、「自由主義者」というのは、昭和10年代の鳩山に対する悪口として、反鳩山陣営が鳩山につけたレッテルなので、ここでは悪口の意味にとってください。
>>312 林は終戦前に亡くなっている。
平沼は戦後東京裁判で終身刑を言い渡され受刑中に亡くなった。
阿部は戦犯の指定を受けるが不起訴。昭和28年に亡くなっている。
死刑にはなっていない。
>>312 阿部自身は特別軍国主義的な人物ではないかったように記憶しているけど。
首相としての能力もなくコントロールしやすい人物だったのかな?
316 :
日本@名無史さん:02/10/31 23:46
鈴木貫太郎ってなんで戦犯じゃないの?
終戦工作内閣て言っても4ヶ月もうやむやにして
空襲→沖縄→原爆→ソ連ってアメリカからしたら大罪じゃないの?
>>316 実行に掛かった時間はともかく実際に降伏したという事実がある。
もし、終戦工作、ポツダム宣言受諾を成し遂げた鈴木を処罰すればどうなるか。
アメリカがそれ以後他国と戦争をしてその終結を図ろうとする。
その国の首脳は「降伏しても我々は戦犯として裁かれる」と思う。
それなら首脳はアメリカ相手には玉砕しかないと考え
アメリカにも多大な犠牲が出てしまう。
鈴木を戦犯にすることのメリットは全くと言っていいほどなく、
戦犯にしないことのメリットは大きい。
まあ、鈴木は満州事変〜太平洋戦争において特別裁かれなければならないような
事もしてないしね。
俺なりの整理
強引にまとめたので正確ではない
あまり突っ込みは入れないでね
明治六年の政変後の主勢力
大久保組…中央政界を掌握し、「富国強兵・殖産興業」を方針とする
組長 大久保利通…西郷と比べ人望では劣るが存在感では互角、駆け引きでは一枚上
相談役 岩倉具視…○クザ系公家、なかなか態度を決めないがその生命力は日本屈指
木戸孝允…愚痴っぽいが世の中を鋭く観察する目は確か、中央政界の重鎮
若頭 伊藤博文…企画力・実行力には疑問が残るが組織の調整役としてはずば抜けた才能を発揮する
若頭補佐 井上馨…モラル面に問題を抱えるが発想と行動力はピカ一
構成員 元幕臣多数
同系早稲田組
組長 大隈重信…中央政界では傍流ながら実務をこなしながら頭角を現す次世代のリーダーの一人
構成員 大隈宅に居候する若者(以後早稲田大卒業生)
西郷組…近代国家と近世的土着心理の狭間で苦悩しながら大久保組と対立
組長 西郷隆盛…あまりにも大きな声望を得るがそれを利用され様々な重荷を背負わされる
若頭 桐野利秋…勇猛果敢な軍人、政治的駆け引きは苦手
若頭補佐 ?
構成員 薩摩隼人
板垣組…中央政界で主流になれなかったが、「民権」を掲げ大久保組打倒を図る。
組長 板垣退助…大隈と同じく主流派になれず苦しむが西郷に次ぐ声望を誇る
若頭 植木枝盛…板垣組のオピニオンリーダーとして影響力を持つ
大久保死後
伊藤組…組織としてのまとまりに欠けるが最大勢力
組長 伊藤博文
相談役 井上馨
若頭 井上毅…憲法だ
若頭補佐 伊藤巳代治…憲法さ
構成員 多数の文官
同系黒田組…実務者が少なく勢力としては惰弱、伊藤組傘下に納まることでなんとか地位の確保を狙う
組長 黒田清隆…酒乱の噂はあるが普段は穏やかな熊
相談役 西郷従道…逆賊となってしまった兄を持つが彼自身の人望は衰えず
若頭 大山巌…西郷の従兄弟として従道同様苦しむが陸軍の重鎮となる
若頭補佐 松方正義…薩摩系には珍しい実務派で財政のエキスパート、一方で天然ぶりも発揮する
構成員 海軍将校および実業家
山縣組…対外戦争に勝利することで勢力は拡大、組織としてのまとまりも強固
組長 山縣有朋…西南戦争により薩摩系が激減したことでに陸軍を掌握、更に内政面にも意外な才能を持ち実務者を好む
若頭 桂太郎…組長である山縣の補佐をしながらも他勢力との歩みよりも、次世代のリーダー候補
若頭補佐 児玉源太郎…参謀として優れた才能を発揮、彼の活躍で参謀府の存在は大きくなるが…
構成員 陸軍将校および内務系官僚
大隈組…大久保組の主流から外れたが次世代の主流を目指す、長州系を向こうに一暴れ、板垣組と連衡も、
組長 大隈重信
構成員 地方出身の若者、富裕層
板垣組…組長は精彩に欠けるが血気盛んな若者多数、中央政界進出も近いが金銭に卑しいものも多く伊藤組による買収も近い?
組長 板垣退助
若頭 河野広中…武闘派だが政治家としての才能には疑問が
若頭補佐 星亨…関東系諸勢力を率いて板垣組の杯を受ける、強引な手法と斬新な手法をとりまぜ一気に飛躍
構成員 土佐系民権論者
320 :
日本@名無史さん:02/11/01 04:46
>>319 明治20年代までだったら「山県組」は伊藤連合傘下だし、黒田組は独立
していると思われ。
321 :
日本@名無史さん:02/11/01 07:24
>318
大隈は大久保組の若頭だと思うが。
大久保生存時点では伊藤より大隈の方がはるかに幹部だよ。
彼は明治のはじめから元勲扱いだし、当時はもっとも権力の大きい大蔵省を握っていたし。
大久保死後は実際は大隈政権。
これを「なんで肥前の大隈が首班なんだ!」という不満を持った薩長組がクーデターを起こし、
大隈追放。
大隈は伊藤の直接の上司だったね、
ま、だけど大久保に可愛がられ(木戸を無視できなかった為)
大久保の亡き後は、ほぼ互角の権力を持っていたから、クーデターと称すほどではないでしょう。
323 :
日本@名無史さん:02/11/01 10:11
山健組?ヤクザの話しですか?
>>320 大久保死後は「明治11年〜45年」までとしてまとめた
期間が長すぎて無理があった?
>>321 確かに大隈は伊藤より参議になったのも先だった。
なので大久保系早稲田組組長にしたけど、そこまで分ける必要はなかったかな
325 :
日本@名無史さん:02/11/01 10:37
>324
だね。
実際は大久保政権っていっても、明治6年から11年までのたった5年だし。
その前は西郷政権。
川路利良はどうなるかな。
参議ではないから幹部ともいえないが、大久保の有力なスタッフだったし。
326 :
bloom:02/11/01 10:40
327 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:52
星亨の書生には後に博徒の親分になった者もいた。
328 :
日本@名無史さん:02/11/01 19:27
>>325 そのたったの5年が大事だったと思われ。
>>328 俺もそう思う。
この時期の試み(失敗も成功も含め)がなければ明治11年〜
大正期の近代国家建設はありえなかった。
特に殖産興業政策による経済面での成果は大きかったと思う。
330 :
日本@名無史さん:02/11/01 21:24
>>325 木戸が忘れられてるYO。
彼って後々が目立たないから忘れ去られているけど、
西郷以上に新政府の実験を握ってたんだよ。
版籍奉還や廃藩置県は彼の手腕だしね。
(元々首相制になる場合は彼は首相だったらしいが、彼が断り西郷が断って参議制に移行された)
331 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:06
木戸は国民の政治参加を要求してたよね。
それを条件に政府に返り咲いたりもしている。
精神的にちょっと気むずかしかったらしいのが残念。
332 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:40
木戸と桂太郎って親戚か何かですか?
おなじ長州だし
333 :
日本@名無史さん:02/11/01 22:48
桂太郎は、貧乏人のせがれ。木戸コウインはええとこの子。
334 :
日本@名無史さん:02/11/01 23:07
桂太郎って馬廻役の家柄だから上士でしょ?
木戸は実家が医者だから裕福だったが、養家は馬廻役のはず。
335 :
日本@名無史さん:02/11/01 23:28
ここは政友会と民政党のスレだったのに、なぜ明治維新期の話になる?
ま、いいけど。
>彼って後々が目立たないから忘れ去られているけど、西郷以上に新政府の実験を握ってたんだよ。
これはかなり無理があると思うが。
確かに彼は長州閥のトップであるが、そもそも明治最初の時期は薩摩の方が圧倒的に力があるし。
彼は一定の構想力を有していたが、実行力はそんなにないよ。
廃藩置県などは完全に西郷が第一功労者。
>木戸は国民の政治参加を要求してたよね。
国民参加といっても、その「国民」というのは士族を指す。
彼の頭にはまだ農民や商人などの平民はあまり入っていない。
板垣も同じ。
板垣が西郷と征韓論で足並みをそろえたのは、「士族」階級への配慮という点で一致しているから。
336 :
日本@名無史さん:02/11/01 23:43
桂太郎7〜14歳 藤田与次右衛門塾
14歳、長州藩洋式操練実施に志願。
17歳、長州藩主敬親の世子、元徳の御小姓に。敬親の信を得る。
20代でドイツ留学。
エリートですな。
>>335 スマン。
俺のせいだ。
維新から政党内閣までの流れを「仁義なき闘い」風にまとめるつもりが
明治だけでおわっちゃった。
338 :
日本@名無史さん:02/11/02 00:54
>彼は一定の構想力を有していたが、実行力はそんなにないよ。
>廃藩置県などは完全に西郷が第一功労者。
廃藩置県は完全に木戸の功績なんだけど、ちなみに聞きますが西郷が第一功労者なんて言っている学者って誰?
俺は一応廃藩置県の本読んでいるんだけど、西郷なんて殆ど出てこないよ。
出てくるのは伊藤木戸そして大久保くらいだよ。
西郷なんて殆どなにもしてないよ。
というより西郷自身あまり政治には関わらないようにしてたんだけどね。
>そもそも明治最初の時期は薩摩の方が圧倒的に力があるし。
えーと木戸は明治新政府の実験を握ってましたよ。
最初はまだ大久保は下っ端で、軍部の実力者西郷文官筆頭が木戸って感じでした。
ただ木戸さん理想家的な人物で、良く言えば先を見ていた人、悪く言えば現状を認識していない人なんで、
実行能力が大久保さんに大きく遅れをとっており、その上飽きっぽい人なんで下野しましたけどね。
(日本史上最高の政治家が相手では、相手が悪いかもしれない)
それに薩摩の方が圧倒的に力があったかな。
何時頃を想定しているのか分からないけど、遣欧使節が出るまではほぼ互角の勢力を誇示したと思われ。
参議の人数や、格ポストなどを見るとそんなに差はないし、官僚も長州系と幕府系が大半で薩摩系は殆どいないからね。
(のちに自業自得とはいえ、肥前に追い落とされたがね)
339 :
日本@名無史さん:02/11/02 01:27
>338
>ちなみに聞きますが西郷が第一功労者なんて言っている学者って誰?
ん?西郷が第一の功労者なんていくらでも出てくると思うが。
中公日本の歴史の明治維新編井上清氏とか。
そもそも廃藩置県はある種のクーデターだから、大久保にしても木戸にしても実行するのは相当ためらっていたんだよ。
薩摩なんて島津久光は反対派の急先鋒だし。
しかし、西郷が御親兵を組織して、そのトップに座して、ゴーサインを出したことから廃藩置県は成立したんだよ。
クーデターは西郷の最も得意とするところだからね。
幕末の長州藩との抗争でもそうだけど。
物事は計画するより実行する方がはるかに大変。
最近の竹中騒動でもそうでしょ。
小泉には西郷ほどの実力は無いけど。
>軍部の実力者西郷文官筆頭が木戸って感じでした。
だから明治最初の時代は武官優勢なんだって。
まだまだ時代は不穏当だし、いわば武を握っている西郷がトップ。
実際に西郷は実務そのものはやっていないけどね。
・三傑・元老・元勲スレ
もしくは
・志士スレ
建ててやらんか?
どっちも興味あるけどここでごっちゃにやられるのはかなわん。
明治政府スレ
342 :
日本@名無史さん:02/11/02 02:05
>>339 俺は全くそのままの名前の本。文庫はたぶん出てなくて高いから、図書館で借りると吉。
(まあ専門書だからね出るわけないか)
だけど井上さんかあ、あの人はちょっとなあ。近代史はついて逝けない所がある。
・・・ま、暇を見つけて確認してみよう。
>西郷が御親兵を組織して、そのトップに座して、ゴーサインを出したことから廃藩置県は成立したんだよ。
あの〜東京を守る御親兵の長ってだけで最大の功労者と思っておられるのですか?
別に西郷である必要もなかった事なのに?
実行者という意味なら、大久保こそ当て嵌まると思うのだが。
ただ治安維持してただけだよ、彼はね。
>だから明治最初の時代は武官優勢なんだって。
けど筆頭参議に任命されてるのって木戸だし、
最初に首相に満場一致でおされたのも木戸なんだけど。。。
明治政府スレ
主に設立当初から大正期ぐらいにかけての明治政府について語るスレ。
----------
建てて良い?
そういや征韓論以前の政治史を扱ったスレってなかったね。
立てても重複はしないと思われ。
だけど、ネタがなあ。
>>342 横レスで申し訳ないが「西郷がゴーサインを出したから廃藩置県が成立」の下りは
長州の代表として山県が西郷と会見して、廃藩置県の了承を得た時の事を指してるのでは?
その後、山県の説明に納得した西郷が大久保のところに行って
廃藩置県の実行を説得しています。
それに当時の不穏分子を内外に多数抱えている弱小政府が、
廃藩置県という大改革を行うにあたって、軍の実質的代表者である西郷の了承は
かなり重要な要素だと個人的にはおもうけど・・・・
347 :
日本@名無史さん:02/11/02 02:36
もう少しお付き合いしよう。
>あの〜東京を守る御親兵の長ってだけで最大の功労者と思っておられるのですか?
別に西郷である必要もなかった事なのに?
おいおい、君の読んでる本はどういう本なんだ?
御親兵はまさに廃藩置県を実行するためだよ。
なんのために大久保や木戸や岩倉が当時鹿児島で隠居していた西郷を引っ張りだしたと思ってるわけ?
西郷が東京にきたのが2月、御親兵発足が6月、廃藩置県は7月という流れがわかっていないの?
廃藩置県は一気に大名から領地や家来を取り上げるために、相当の抵抗が予想されたわけ。
だから、それを黙らせるために武力が必要だったんだよ。
別に俺は西郷オタではないけど、そういう実行するために力がある人がいなきゃどうしようもないでしょうに。
廃藩置県のことについて西郷のことが書いていない学者がいるなら、それははっきりいって学者バカだね。
理屈だけで世の中が動くと思っているらしい。
理屈よりも実際には実行するための人望とか力とか知略とかそういうものの方が重要なわけ。
それができないのが学者大臣竹中でしょうが。
紙切れ1枚でことが済むと思ってたら、自民党の「抵抗勢力」や銀行から袋叩きにあって何も出来なかったジャン。
もう少し歴史の見方を現実的に見ないと。
349 :
日本@名無史さん:02/11/03 22:06
興亜議員連盟、議員倶楽部がどういうあつまりなのかわからな〜い。
国政調査会(後の同交会)東方会、翼賛議員同盟はわかんじゃん。
どなたか教えてください。
351 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:01
ところで田中義一って本当に
天皇の言葉に本当にびびってたのかね
明治天皇とかならともかく、天皇になりたての27歳の若造だぜ
俺には政権を投げ出すためのいいわけにしか見えないが
352 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:04
>351
斎藤実だったかの手記に「田中は涙を流して」ってあったと思うけど。
あの当時は天皇は絶対だし、「顔を見たくない」って結構強烈な発言じゃない?
その後の政友会では「田中が総裁では絶対に政権取れない」って顰蹙の的だったそうだし。
353 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:13
>>352 >あの当時は天皇は絶対だし
昭和3年あたりの元老や陸海の大物たちは昭和天皇に対してそうでもなさそうだが
田中が愚直すぎたんじゃないか?
354 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:16
>>351 田中はかなり老練な政治家だったし、裕仁天皇を最初は若造扱いしてた。
ただ、裕仁天皇が祖父を模範として政治志向を持ってた、
しかもそれなりに政治的能力のある人物だった点に
田中の誤算があったわけで・・・
あと、当時の宮中が田中を嫌う連中で占められてたことが大きい(牧野とか鈴木とか)。
ちなみに斎藤の手記ってどこにあったっけ?
>>351 政友会の総裁になる以前と以降で田中の対外方針はかなり変わってた。
軍人であった頃は「大陸進出すべきだ」と考えていたみたいだが、
政治家に転身してからは「土地ではなく金を得る(経済進出)」という考えに変わったようだ。
満州某重大事件にしても、田中が軍事的進出を行わないことに業を煮やした
大陸にいた将校達が勝手に起こした。
事件の調査、その後の軍法会議に当たった軍中央部も軍事的進出を考えていたので、
処罰は至って軽かった。
また、昭和天皇は将校達に甘く政治家に厳しい姿勢だったので
軍中央部の処罰にも満足していた。
田中としては陸軍は政策面で相容れず、
昭和天皇は軍人よりの立場だったのでどうしようもなかったかと。
田中の政治家としての資質を高く評価しないが、
事件を深刻に捉え真摯な態度で臨んだことは評価する。
満州某事件から4年後、満州事変が起きている。
356 :
日本@名無史さん:02/11/04 01:37
>ちなみに斎藤の手記ってどこにあったっけ
すまん、鈴木だったかも知れない。
当時の侍従長が鈴木だっけ。
鈴木も当時は慣れていなくて、天皇の言葉をストレートに伝えすぎた、ことを後悔したとか読んだ記憶があるんだが。
>昭和天皇は将校達に甘く政治家に厳しい姿勢だったので
軍中央部の処罰にも満足していた。
そうなの?
天皇が軍部への処罰を厳命したのに、田中が陸軍に押し切られてごまかそうとしたから、
天皇は激怒したんじゃなかったっけ。
「田中の云うことはちっともわからぬ」って。
>政治家に転身してからは「土地ではなく金を得る(経済進出)」という考えに変わったようだ。
田中をかばう人がよく言うけどね。
でも積極外交の森にしても、3.15事件などの国内ファッシオ化を進めた鈴木喜三郎にしても
登用したのは田中自身。
当時の評論家の馬場恒吾が「この内閣の政治についての方針転換により我々はもっとも不愉快なる時代を迎えるだろう」
といっていることからしても当時の評価でもかなり無理があったと思う。
個人的には戦前最大の責任を負うべき総理大臣としては近衛文麿についで2番目、東条より上だと思うな。
>>356 >天皇が軍部への処罰を厳命したのに、田中が陸軍に押し切られてごまかそうとしたから、
>天皇は激怒したんじゃなかったっけ。
>「田中の云うことはちっともわからぬ」って。
田中は事件について詳しく調べるように指示しているが、
事件の調査にあたったのは陸軍将校。
陸軍としてはこの事件で国民・天皇からの支持を失いたくないから、
都合の悪いことには蓋をした。
田中は調査報告を受け取ってもそこには
陸軍省・参謀本部にとって都合の悪いことが記されておらず
事件の詳細を知ることができなかった。
その田中が天皇に事件およびその処理の報告をしに行っても…。
358 :
日本@名無史さん:02/11/04 07:04
講談社「帝国の昭和」は天皇が田中総理総辞職にコミットした(というか、昭和天皇が事実上辞めさせた)ことを批判してるね。
んで、統帥権干犯(林「越境将軍」のことをそう呼んでいる)のときの不関与も批判しております。
>>358 講談社の言い分では、昭和天皇はどうこうどうすれば良かったの?
360 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:47
>359
田中首相 「処分終わりました」
天皇 「あっ、そう」
361 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:52
天皇も政治家の一部も軍に甘かった。
それが、昭和帝国の悲劇的悪夢を招いた大きな要因だと思うのだが。
もとをただせば、帝国憲法の統帥権独立が絡んだ構造的欠陥だが。
362 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:59
>帝国憲法の統帥権独立が絡んだ構造的欠陥だが。
よく言われる「通説」だが、これは必ずしも正しくないと思われる。
当時のほとんどの国は立憲君主制だが、それらの国の憲法のほとんどすべては統帥権の独立は認めていた。
イギリス(といっても憲法そのものは不文法だが)でも例外ではない。
だから明治憲法だけがとくに欠陥憲法とはいえない。
ただ、ほとんどの国が議会制の発展とともに事実上軍部を政治の下に組み入れることが出来た。
日本では国民の政治に対する姿勢が甘いため、軍部を政治の下に入れることが出来なかっただけ。
363 :
日本@名無史さん:02/11/04 21:48
>>359 天皇が恣意的に総理を辞めさすのはまずいということと、朝鮮軍司令官が、勝手に軍隊を動かすことは憲法統帥権及び、国際法に対する、しゃれにならない、と〜んでもない違反なので、もう即刻介入し、馬鹿林の責任をとらせなければならなかった事案とのこと。
364 :
日本@名無史さん:02/11/04 22:00
>>362 そこですよ。そこなんですよ。
国民の政治に対する姿勢が甘いと言うより、政治家が軍部に及び腰
だった。
天皇さえ、知らん振り。
国政の実態が、文民統制できぬなら、
文民統制を明文化すべき。
実態が文民統制できず、逆手に取られてるようでは、構造的欠陥
と言われてもやむを得ぬのでは。
議会が軍部の統制を行えなかった理由の一つに
日清日露戦争の勝利があった。
両戦争は大本営の下に遂行された。
大本営には明治帝が国家元首として参加し、
内閣総理大臣を筆頭として大臣軍首脳がこれを補佐した。
総理大臣が伊藤のような維新の元勲であっても、
出先の司令官が同じ元勲であった山縣が大本営の命令を無視するようなところがあった。
山縣は罷免され現地から大本営に呼び戻されたが、
もし総理が伊藤ではなく第二世代の人物であれば
山縣の命令違反は止められなかった。
「元勲」というシステムが近代的・民主主義的であるかは別な話だが、
統帥権を輔弼事項に含まない憲法体制の下でシビリアンコントロールを
維持するために有用であったことは間違いない。
366 :
日本@名無史さん:02/11/04 22:46
有意義だったかどうかは別問題として、
元勲は超法規的存在。元勲に頼るようでは心もとない。
英などの立憲君主制は、市民革命を経ているので、王権神授説を否定した上での、
君臨すれども統治せず。統帥件が王にないことは明白の理。
日本の場合は、神聖にして侵すべからずと万世一系の王権神授説の上にたっての
立憲君主制。
ここに統帥権の独立がくれば、危ういのは火を見るより明らか。
伊藤博文の読みの甘さ。と考える。
薩長閥文官が統治し続けられると予測してたのではないかな。
>>366 >有意義だったかどうかは別問題として、
>元勲は超法規的存在。元勲に頼るようでは心もとない。
そうなんだけど、現実の問題としてあの政体でバランスを保つには元勲に頼らざるを得なかったのでは?
平民宰相と言われた原敬も山縣と協調することで安定政権を確立できたし。
368 :
日本@名無史さん:02/11/04 23:26
>英などの立憲君主制は、市民革命を経ている
国民の政治に対するでたらめぶりは結局ここにいきつくのかも知れない。
欧米は選挙権にしても国民は長年にわたる血みどろの戦いの中で得てきたものでから、
選挙権などの権利に対して崇高なものを持っている。
アメリカの裁判の陪審制度もそう。日本人には理解しがたい制度であるが、かの国は国家を信用していないため
自分達国民が担い手にならないといけない、という観念があるため成立する。
日本のように選挙をサボっても「棄権は当然」みたいなことを言う風潮はやめるべきなんだろう。
369 :
日本@名無史さん:02/11/04 23:29
>>367 それは否定しないんだけど・・・。
ただ、その元勲制度が、帝国憲法の幾つかの構造欠陥を救助したとしても、
結局、話題の入り口となった軍の独走を止められなかったんだから、
やはり、統帥権の独立は、帝国憲法の条文構成からと、政治力からと
構造的欠陥だと思われる。
「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ〜」
軍人勅諭だっけ。一人歩きしちゃったからね。
憲法に止めが入ってなかった。
370 :
日本@名無史さん:02/11/04 23:35
>統帥権の独立は、帝国憲法の条文構成からと、政治力からと構造的欠陥だと思われる。
それは無理。
そもそも統帥権の独立は世界の当然の流れなんだから、日本だけが先進的にそのような規定を入れられるわけがない。
現憲法の9条だって、「押し付け憲法」じゃなければ制定出来なかったように。
ただ、大正から昭和のはじめのデモクラシーも盛り上がりの中で憲法改正があればよかったかもしれない。
それを出来る総理大臣がいたかどうか。
原敬がも薄子氏長生きしていれば、可能だったかも(彼は一応軍縮派だったらしいし)。
>>369 >ただ、その元勲制度が、帝国憲法の幾つかの構造欠陥を救助したとしても、
>結局、話題の入り口となった軍の独走を止められなかったんだから、
>やはり、統帥権の独立は、帝国憲法の条文構成からと、政治力からと
>構造的欠陥だと思われる。
そうだね。
軍(特に陸軍の出先機関に所属する将校)の独断専行が
山縣・原の死後始まったのは何か象徴的だ。
「〜たら」「〜れば」を語っても仕方ないけど、
統帥権を内閣の輔弼事項に含めていれば歴史は少し変わっていたかも。
372 :
日本@名無史さん:02/11/05 00:18
>>370
原敬って、88艦隊案通した人でしょ?
大正時代の内閣では一番の軍拡派だよね?
>>372 どうなんだろう。
基本的には英米との協調路線で
シベリア派兵にも消極的な考え方だったと思うけど。
原は第二次大隈内閣が倒れた後、
首相候補に挙がったが親露派であった山縣が反対して
結局寺内が組閣。
寺内内閣がシベリア出兵と米騒動で行き詰ると
山縣は外交方針を転換する必要性と、
ある程度協調できる点がある事を理由に原を首相に据えている。
376 :
日本@名無史さん:02/11/06 17:55
原敬内閣というのは初の本格的政党内閣のイメージに隠れているが、
かつてない平時最大の軍拡を行った内閣である。
1921年の一般会計国家歳出は14億9千万円のうち、軍事費は7億三千万円。
約49%を費やしている。さらにそのうちの65%は海軍すなわち建艦費。
軍艦建造競争が世界規模で行われている真っ最中であった。
むろん軍艦整備計画などというものは一年二年で完備するわけもなく、
それまでの内閣、軍部の意向を引き継いだ結果の大膨張となった。
リアリストの原は英米協調も重要だが、経済負担の解決にワシントン会議に参加。
同じくリアリストのステイツマンであった海軍大臣加藤友三郎を差し向ける。
バランス感覚のあった原敬だが、この大軍拡の当事者であったことを見逃してはならない。
377 :
日本@名無史さん:02/11/07 08:59
軍拡が「悪」であるという論調に貫かれて書かれてるけど、それは現代のそれも日本だけの価値観。
当時は世界的に軍拡がトレンド(ゲーム理論の教科書的事例ですね。)で、原の意思云々はあまり関係がない。
後に輩出される、非合理的で頭の悪い30年代後半〜45年の内閣、90年代の内閣ならば何をしでかしたかわかりませんが、だれが組閣をしようと当時の「軍拡」は日本のみの事情ではとまりえなかった事象です。
>軍拡が「悪」であるという論調に貫かれて書かれてるけど、それは現代
>のそれも日本だけの価値観。
んなことはないよ。
野放図な軍拡を人智や国際ルールで何とかしようと言うのが、
当時も今も大きな流れとしてあった。
当時で言えば、ワシントン会議にロンドン会議。
今で言えば、核不拡散条約に米ロ核削減交渉。
その流れを変えたきっかけが、日・独・イ・ソの軍拡路線。
九州のドックでムシロでかくして作ってた戦艦大和。
それに対応し、その後の英米の大量生産。
今で言えば、日独ソはイラクみたいな感じか?
元の話題は、
「統帥権の独立」が、
明治憲法の構造欠陥なのか、
大正期あたりで改正できたのか、
人為操作・政治家の力量の問題なのか、
だった気がするが。
ま、原問題でも、どっちでもいいけど。
380 :
日本@名無史さん:02/11/07 11:00
原のときは、世界のトレンドだったことを言いたかったわけで。
ワシントン会議以降は指摘のとおり、軍縮が世界的なテーゼとされてましたね。
30年代の日独伊以外は。
軍縮ムードが出来た要因のひとつに
第一次大戦があった。
たくさんの人が死んだという事はもちろんだけど、
軍需により拡大した経済が戦後には
一気に冷え込んだ事が大きい。
復興には金が掛かるが戦争で疲弊した国内で
税負担を強いる事はできず講和条約で敗戦国ドイツから
少しでも賠償金を多く取ろうとしたのはその為だった。
戦勝国も主力労働者が戦死・戦傷した為
復興するのは容易ではなかった。
その中で再び大きな戦備をすることはできなかった。
それが結果として軍縮ムードを高めた。
アメリカや日本などは戦災が少なかった事と
欧州諸国の力が衰えたことで相対的に国力が高まった。
>>378 今で言えばロンドン会議がNPT条約で日本がインド。
383 :
日本@名無史さん:02/11/07 23:44
田中義一って誰かに似てると思ったら
うちの婆ちゃんだった
384 :
日本@名無史さん:02/11/07 23:55
>>379 統帥権の独立というのは明治憲法の条文からは素直には導けない。
11条は前後の条文と特に区別されておらず55条の「国務大臣の輔弼」
の範囲に入るというのがむしろ素直な文理解釈。
佐々木惣一などはそのような解釈で統帥権独立を否定していた。
統帥権の独立は明治憲法そのものでなく、軍人勅諭や陸軍の内規
慣行などによって実体化していたもの。
美濃部達吉はその現実を認めて統帥権の独立の範囲を厳格に統帥
事項に限定する解釈論を唱えた。
ロンドン条約問題の時の浜口内閣は基本的には美濃部説によったが
微妙なところで統帥事項に編制が含まれるかのような余地を残している。
海軍の条約派が窮地に陥らないようにとの政治的配慮だろう。
>>384 編成権なあ。
難しいよな。
法律なんかは慣習によるところが多いので
憲法発布からわずか5年で日清戦争、
15年で日露戦争が起きたわけだから
軍部の発言権が大きくなり相対的に
議会の立場が弱くなってしまった。
これはもっと注目されるべきことかも知れないな。
387 :
日本@名無史さん:02/11/08 07:24
>>384 >>386 自衛隊をみてもわかるとおり、憲法の運用は解釈論でかなり変えることが
できる。ましてや明治憲法は意図的に曖昧にしている部分が多いから
なおさら。
大正デモクラシー期に政治家がもうすこししっかりしていて、かつ国際情勢に
余裕があったら統帥権独立は事実上骨抜きにできただろう。
388 :
日本@名無史さん:02/11/08 13:08
いや、憲法解釈こそがいわゆる「憲法」なのだよ。
そのことが無学な政友会党員や痴呆な軍人には理解できなかったんだね。
林内閣以降の、中学生並の外交、経済政策をみると軍人の痴呆振りがよくわかる。
まさしく現在の社民党、池田大作党並。
389 :
日本@名無史さん:02/11/08 15:19
>>386 そうですな。
立憲体制ができてすぐに軍部の発言力が増すような出来事が起きた
ことはもっと注目されるべきですな。
390 :
日本@名無史さん:02/11/08 21:58
>>389 逆に言うと、帝国憲法ができたから、近代国家戦争ができたともいえるのでは。
まあ、徴兵令に教育勅語に軍人勅諭と、ぬかりはなかったけどね。
>原の軍拡
軍事費増加は事実。
ただ、山縣と違う点は、山縣は大陸進出軍備を年頭にし、原は列島防御を
主眼としていた。
391 :
日本@名無史さん:02/11/09 17:39
原は山縣にはホントに気を遣ったんだよ。原はあの時代に本気で大日本帝国に民主主義
を根付かせようと努力した。この辺の努力に関しては、中公新書の「原敬と山縣有朋」
に詳しいからまた見てください。原の民主主義観は一言で言うと、本格的な近代的政党
による議会制民主主義。目的はこの一点だった。そのためには、議会内において藩閥的・
非民主的な勢力の駆逐からはじめた。これが、原の選挙法改正で、世間では原は、世論
の普選への高まりに対して、普選の完全実施を先送りし、必要納税額の引き下げに留めた
、と批判的だが、もう一つの側面も無視してはならない。
それは、この選挙法改正でわが国では初めて、小選挙区制が実施され、山縣系の吏党が
壊滅的打撃を蒙ったこと。
386さんの問題提起は今の日本にも通じて言える事で、議会の存在自体が民主主義ではなく
、その議会でどういう議論がなされ、そして(これが議会の機能に関し一番重要だが)集約
できたか、ということ。議会というのは基本的に意見集約がなされねば、ホントに
無力な存在だから、議会機能の強化に着目した原の先見性は瞠目すべきものがある。
392 :
日本@名無史さん:02/11/09 17:54
393 :
日本@名無史さん:02/11/09 18:02
>391
彼は現実的な政治家だったということだな。
確かに某総理大臣のように大風呂敷を広げて、その後妥協と尻つぼみになるよりは
着実な実行が可能になるのだろう。
現実問題として山県に代表される抵抗勢力の巨大さは凄まじいもんがあったろう。
ただ、彼の欠けていた点は本来同志となるべき議会政治家からも理解されなかったことだろう。
犬養毅や永井なんとかが批判しているように。
原が×なのか犬養や永井が×なのかは正直読みきれないけど。
ただ、山県がより長生きしていれば、一気に彼のもとで議会制が発展したかもしれない。
秀吉死後の家康が一気に行動に出たようにね。
ただ、地元に「猿しかのらない」鉄道を作ったのは評価はできない。
394 :
日本@名無史さん:02/11/09 18:15
小沢一郎は同郷の原を尊敬しているようだが、それだったら、もう少し原のような
着実に仕事をするということを見習って欲しかった。
細川政権樹立のときに、当時の社会党を迫害するだけではなく、適当におだてて祭り
上げて実権を握るという形をとっていれば、自民党は与党に戻らず、崩壊し、政界再編も
すすんでいただろうに。
西園寺ボンボン総理の下で内相として山県派に切り込んだように、小沢も自民党の既得権益に
切り込んでいればなあ。
395 :
日本@名無史さん:02/11/09 18:27
ポイントは満州権益を張作霖を介して維持し続けようとするかどうか。
国内の政党勢力はその路線を実現しかけていたのに、関東軍が暴走。
なのに割を食うのが田中義一。
396 :
日本@名無史さん:02/11/09 19:06
>>393 山縣が長生きしてれば→原が長生きしてれば
ではないのかな?
講談社の「政党政治と天皇」では、先を考えぬ一人の青年の行動が(原の
暗殺)、大きな日本の喪失をもたらした的なことが書いてあったな。
>原と山縣
本来的な政敵である山縣に原は協調を見せたりして、
各局は自分のレールに持って言っている。
腹芸も政治的策略も政策手腕も原は山縣を一枚も二枚も上回ってると
見えるが?
>猿しか乗らない鉄道
原は、自分の選挙地盤の公共事業は、後回しにしてたそうだ。
それでも、地元では人気があった。政治屋でなく政治家だったな。
397 :
日本@名無史さん:02/11/09 19:23
>猿しか乗らない鉄道
原は、自分の選挙地盤の公共事業は、後回しにしてたそうだ。
それでも、地元では人気があった。政治屋でなく政治家だったな。
これは今でもある盛岡−宮古間の「山田線」。
とんでもない山中地帯のため、野党議員から「総理は猿でも乗せるきか!」と
非難されたところ、原は「鉄道法では猿は乗れません」としらっと答えたため、
議場は爆笑だったとか。
398 :
日本@名無史さん:02/11/09 21:41
>>397 了解。面白い逸話だね。
それは、原の公共事業の地元での無駄遣いを物語る逸話なのかな?
私の理解だと、原は地元への便宜は最低限だったようだが。
399 :
日本@名無史さん:02/11/09 21:44
福田和也の原敬評はどう?
400 :
日本@名無史さん:02/11/09 21:59
400
>>397 岩手県を走る鉄道で政治と密接な関係のあるエピソードを持つ路線にもう一つ大船渡線がある。
こちらは一ノ関〜盛の路線であり、当初は千厩川と沿うルートで計画されていたが、
政友会の選挙活動に利用され、摺沢を迂回するルートに変更された。
憲政会に政権が移った後もとのルートに戻された。
このため門崎から千厩までは直線で行けば7キロほどの距離を
約4倍の距離で大回りする格好となった。
こうして出来た大船渡線は「なべづる線」と揶揄された。
国鉄民営化で大船渡線を所有することになったJR東日本は
「ドラゴンレール」と名づけ快速列車「スーパードラゴン」を走らせている。
>>397 山田線は携帯のデムパすら届かない山の中です。
列車も、一日に5往復しか走っていません。
403 :
日本@名無史さん:02/11/13 18:35
>>392、
>>393 レスありがとうございます。
暑苦しいヤシ、と思われるかもしれませんが、私は結構本気でわが国の政治について
考えており、戦前はどうだったかな、という発想の下で、原敬に興味を抱いている者
です。ちなみに、原の改正選挙法の下で行われた衆議院総選挙(1920)の結果は
選挙前 選挙後
民党 政友会 162 278 (+116)
憲政会 118 110 (−8)
国民党 31 29 (−2)
吏党 正交倶楽部 32 6 (−26)
新政会 22 2 (−20)
こういう結果になることが分かってたから、山縣は小選挙区制に猛烈に反対し、原は
猛烈に導入を進めたんですね。
>>394さんの意見、激しく同意です。あの時点においては(今もそうでしょうが)、中身は
どうあれ非自民政権を続ける事に意味があると思います。
少し、日本史から離れる事になるので、ここらで止めておきます.
404 :
日本@名無史さん:02/11/14 00:10
原が長生きしていれば、というifを考えるのは
おもしろいな。うまくいけば政友会の一党優位体制による
政党政治の黄金時代を築いたかもしれないし。
政友会と民政党の時代には、まがりなりにも
二大政党が交替で政権担当する慣習ができてた。
しかし、それは二大政党が成長して実現したというより
原が死んでしまって、政友会がメチャクチャになったから
野党が付け入るスキができた、と言うほうが正しいように思う。
405 :
日本@名無史さん:02/11/14 00:55
俺は原敬という政治家の真骨頂は「平民宰相」の原より「内務大臣」の原にあると思う。
とにかく「名を取らせて、実をとる」「骨を切らせて肉をたつ」のがうまい。
西園寺内閣時代は西園寺自身は総理になるのはあまり気がすすまなかったようだが、
とにかく政権につかせて、内相として内務省の山県派をがたがたにしようとしたり、
第一次護憲運動時代も山本総理の下、政友会=議会勢力の力を蓄えている。
今の民主党にこういう人がいないのが残念。
もし原だったら、自由党はもちろん、社民、共産とも手を組んで、これらの政党を適当に
おだてて政権をとり、大臣に祭り上げて、実権を握って自民党の既得権益に切り込むという
形をとるだろう。
>>405 >もし原だったら、自由党はもちろん、
>社民、共産とも手を組んで、これらの政党を適当に
>おだてて政権をとり、大臣に祭り上げて、
>実権を握って自民党の既得権益に切り込むという形をとるだろう。
社民、さきがけとも手を組んで、これらの政党を適当に
おだてて政権をとり、dちゃんを総理大臣に祭り上げて、
実権を握って自民党の既得権益を守り抜くという形をとった
橋龍時代の野中は、原敬ばりの豪腕ということになるかもなw
407 :
日本@名無史さん:02/11/15 09:48
あと、もう一回非自民党政権ができてたら、自民党は終わってだろうって、
自民党の誰かが言ってたね。
細川がもうちょっと、お殿様じゃなかったらなぁ。
惜しかった。
409 :
日本@名無史さん:02/11/15 15:02
近衛も細川もすさまじく無能だった。
石原慎太郎の著書にもいろんなエピソード出てくるが、信じがたいほどお粗末なやつだったな。
日本はあの時、あのバカを担いだために「再生」のチャンスを見逃してしまったわけだ。
410 :
日本@名無史さん:02/11/15 15:15
411 :
日本@名無史さん:02/11/15 16:05
近衛は面白いな。
陸軍からも政党政治家(重臣)からも
「自分達の政策路線を確立するには近衛しかいない」
と思われていた。
結局近衛はどちらの期待も裏切るような結果しか出せなかった。
近衛の父を含めて考えると更に興味深い。
412 :
日本@名無史さん:02/11/15 16:11
思いの外、非自民政権肯定派がいて、私としては嬉しいです。
さて、近衛さんですが、評価が分かれる所ですね。
確実に言える事は、日本を対米戦回避の為に、三国同盟派の松岡を更迭した
(実際は憲法の制約があり、かなり遠回りのやり方でしたが)。
しかし、対米交渉はまとまらず、尻すぼみの形で内閣を投げ出した。
戦後は東久邇内閣の副総理を打診されたが、GHQから戦犯指名を受けて、それを
恥じ、自殺した。因みに昭和天皇は近衛の自殺を聞いて「近衛は弱い…」、と言われた
様です。
政治家の評価という物は、その人の人柄も材料になりますが、やはり政治家としてどういう
実績を残せたか、にあると思います。
その点で私は近衛には減点評価しか出来ません。
414 :
日本@名無史さん:02/11/16 00:09
>413
近衛は戦前最低最悪、最大の責任を負うべき総理大臣だよ。
彼なりの理想はあったようだが、とにかく政治家としてちゃらんぽらんすぎ。
「蒋介石を対手をせず」の声明で日中戦争を泥沼化、国家総動員法で国会を骨抜き、日独伊三国同盟、仏印侵攻で日米関係悪化、
大政翼賛会も理想とははるかに異なった形で発足、日米交渉放り出しとどうしようも無い。
反対勢力にやいのやいの言われると、すぐふらふらして、仕事をめちゃくちゃにして、後任に放り出し。
昭和天皇は近衛に明治天皇における伊藤博文の役割を期待していたようだが、貴族の坊ちゃんと13歳から白刃の中を切り抜けてきた
元勲じゃ、格が違いすぎ。
こういう人を信頼した昭和天皇の責任も否定できないだろうな。
415 :
日本@名無史さん:02/11/16 00:43
>彼なりの理想はあったようだが、とにかく政治家としてちゃらんぽらんすぎ。
>放り出しとどうしようも無い。
>反対勢力にやいのやいの言われると、すぐふらふらして、仕事をめちゃくちゃにして、後任に放り出し。
これは「細川」の評でしょう。あまりに似過ぎてる。
416 :
日本@名無史さん:02/11/16 07:06
近衛と護煕の共通点。
おだてと批判に弱い。
417 :
日本@名無史さん:02/11/16 08:04
>>416 それは政治家としての資質が全くないと言っているようなもの。
そうなんだけどね。
昭和天皇にも、面倒になるとすぐ逃げると言われてる近衛。
頭はいいが意志とか実行力がまったく伴わない人。
でももし初志貫徹したら殺されてただろうね。浜口・井上みたく。
>>418 そもそも、彼の初志って何だろう?
井上や浜口とは明らかに違うよね。目指す方向が。
つーか周囲から買被られ、いいように利用されるタイプ。
貴族院のまとめ役的な存在で終わっていたなら
本人にとっても、日本にとっても幸せだったと思う。
近衛の初志
(1) 天皇制国家の漸進的革新
→ 華族、貴族院の時代にあう地位への緩やかな移行
(2) 「持てる国」と「持たざる国」の格差是正
(3) (1) (2) のために軍部及び、革新勢力の意向を漸進的に実現
貴族院のまとめ役が適していたと思われるが、
まわりがそれ以上の期待をしただけではなく、
本人も中途半端に本気だった。
第一次内閣で陸軍大臣を杉山から、板垣に代えた場合のように、
軍の人事に介入して、自分の意志を貫徹する面もあった。
421 :
日本@名無史さん:02/11/17 17:50
近衛の理想は確かに現代に引きなおしても通用するかも知れないくらいまともなもの。
が、彼には実行力や政治家としての覚悟がないため、結局逆の方向に行ってしまう。
例えば 軍部抑制・政府の権限強化のための国家総動員法 →国会が無力化し、軍部の独走が加速
軍部を押さえるために強力政党・大政翼賛会 → 軍部の下請け機関の大政翼賛会
米の譲歩を引き出すための日独伊三国同盟や仏印侵攻 →ますます米を怒らせる。
と言った按配。
そういえば、どこかの国の総理大臣も似てますな。
税金の無駄使いの特殊法人民営化 →独立行政法人となり、政府の関与が薄れ、ますます税金の無駄使い
郵政民営化によるサービス競争 → 逆に民間が参入しつらくなった関連法案
改革なくして景気回復なし → 「改革」がすすむと、ますます景気悪化。
>>419 近衛はやはり、枢府議長か、貴族院議長、または宮中で内大臣(役不足?)とか、その辺が適任の人だな。
423 :
日本@名無史さん:02/11/18 11:40
>>421 もうひとつ似てる。
国民の変な人気・期待があった。
424 :
日本@名無史さん:02/11/18 15:16
近衛を首相に推した西園寺公望は何を期待したのかね。
近衛が皇道派と接近している事実を知っていながら
敢えて組閣させた意図が分からん。
425 :
日本@名無史さん:02/11/18 18:09
>424
ほかに適当な人がいなかったからです。
一番の期待は宇垣一成だけど、陸軍の反発が強かった。
>>425 大命降下のあった宇垣の組閣を阻止した事で
陸軍に対して処罰がなかったの?
427 :
日本@名無史さん:02/11/19 00:02
>>426 なんで処罰するわけ?
別に形としては陸軍が妨害したというより、単に宇垣の指名した連中が受けたくないっていただけ。
天皇の命令なら断れないかもしれないけど、天皇はそこまで助けてないし。
大命降下を受けた人物が組閣するのは憲政の常道以前からの常道。
それを陸軍が圧力によって覆し、林が組閣。
憲法は明文化されたものが慣習として行われることで初めて憲法としての効力が
発揮される。
慣習としての大命降下→組閣を阻止すればそれは憲法違反にならんのかと。
429 :
日本@名無史さん:02/11/19 00:20
>>428 憲法は刑法じゃないから処罰なんて出来ないよ。
あくまで政治的責任が生じるだけ。
しかも明治憲法のもとでは政治責任は天皇に負うだけ。
結局、天皇が田中義一のときみたいに叱るくらいでしょ。
実際にはやってないけど。
>>429 その政治的責任が発生すると内閣であれば、
総辞職をしたりするんでしょ?
刑法にって裁かれるだけじゃなくて、
辞職という形で政治的責任を追及される対象には
ならなかったのかなと思ったわけです。
刑事的責任だけが追及されるなら、
犯罪者が出ない限り誰も辞職しないっしょ。
431 :
日本@名無史さん:02/11/19 00:26
>>430 だから天皇が怒らない限りどうにもならないでしょう。
今の政治でもめちゃくちゃやっても、国民が怒らなかったら総辞職しないように。
>>431 昭和天皇は確か宇垣の組閣を陸軍が邪魔したをした時に
かなり批判的なコメントをしていたような、曖昧な記憶なので断言できん。
まあ、別に良いんだけどね。
レス不要です。
つまらんレスにマジレスしてくれてありがとう。
宇垣内閣流産に関しては、宮中(特に内大臣湯浅)も
最後にヘタレてしまった部分があるからなあー。
宮中は陸軍の意向を異常なまでに気にしていた。
宇垣擁立にOKを出したのも、陸軍の中での反宇垣熱が
おさまりつつあると判断したから。
で、推薦してみたら思ったより反発が強いことが分かって
さっさと見切りをつけてしまった。
本当は陸軍の中でも、反発していたのは
ごく少数(石原莞爾ら)の連中だったのだが。
宇垣の組閣には、宇垣が天皇の裁可を得て
予備役から現役大将に復帰するという最後の手があった。
首相が現役大将なら、現役武官制でも陸相兼任できるから。
だが、泣きながらそう訴える宇垣を阻止したのは湯浅だったはず。
「陛下を激流にお乗せするわけにはいかん」とか言ったと思う。
その間、宇垣を支援してたはずの政党も見てみぬフリ。
結局はみんなヘタレてしまったわけだ。
一年前に起きた二二六が相当に効いていたんだね…。
>>433さんへ 2・26は相当効いていたと思います。あと、5・15も。テロの影響は
想いの外あったと思います.結局、時の政治家やマスコミ・官僚等の支配階級は
びびっちゃった、という事だと思います。
思えば、わが国の宿命のような気がしてなりません.つまり、有能な人間が中道
で打ち倒されるのは。
少し、話が飛躍しているように思えるかもしれませんが、坂本竜馬や大村益次郎、
大久保・伊藤・原・浜口・井上・高橋等…。
わが国の現在の沈滞の根は予想以上に深いように思います.
これはうがち過ぎかもしれませんが、細川さんが中途で政権を投げ出したのも、そ
ういう危険性を非論理的な部分で感じ取って、それ故に逃げたのかも知れませんね。
そうでなければいいんですが…。
>>433 宇垣の組閣阻止には石原周辺のみが動いてますね。
石原は北進論者でだったので、広田内閣で防共協定が結ばれたことで
北進への意欲を高め一気にこの準備を進めたかった。
その為には宇垣ではなく林をマリオネットとして首相に置き
事実上の石原内閣を気付きたかった。
当時の陸軍内では北進論(参謀本部)と南進論(陸軍省)に分かれており、
南進論者としては英米との協調路線では困るが石原のような北進路線も困る。
特に北進論者である石原が組閣に参画した場合、
相対的に南進論の陸軍省の発言力は抑えられる。
宮中・重臣―陸軍という対立と参謀本部―陸軍省という対立が、
複雑に交錯した結果陸軍省は静観の姿勢だった。
2・26事件の影響というはあったかと思いますが、
それはむしろ陸軍内での事だろうと思います。
>>436 スマン。
スレ違いのレスを長々としてしまった。
あーいや、面白いし続けて欲しいかも。
同じ史実にしても政党視点から見たのと軍部視点から見たのでは
違う見方が出来るだろうと思いますし。
440 :
日本@名無史さん:02/11/21 11:42
軍部と新進官僚の統制経済に、社会主義の幻を見た社会大衆党。
それに抗したのが政党人という構図かな。
>>440 政党と言ってもひとくくりにするのは難しいでしょうね。
政友会はそうとう統制派との関係が強かったのですから。
国民党は比較的海軍の条約派との提携を行っていますし。
一つ言える事は、余りにも政党同士での政権争いに固執した為に
陸軍による政治介入を招いてしまったという事だと思います。
軍部大臣現役武官制が復活してしまった時には
政党によるシビリアンコントロールは事実上不可能になったと言えるでしょうね。
>>433 宇垣の陸軍大臣現役復帰で内閣が出来ていたら…
事実上の民政党内閣だっただろうね。希望も含めて顔ぶれを予想。
総理大臣:宇垣一成
大蔵大臣:町田忠治←民政党総裁、異論はないはず
内務大臣:斎藤隆夫←内務次官2度の経験あり。可能性大いにあり。ぜひきぼんぬ。
外務大臣:有田八郎←かな???幣原喜重郎は考えにくい。
陸軍大臣:宇垣一成(兼摂)
海軍大臣:米内光政←林内閣の海軍大臣なので、これも異論はないはず
これが出来ていれば、歴史はだいぶましな方向に動いていたはずだ…
>>442 宇垣が陸軍(石原と言って良いと思う)の圧力で組閣できなかった背景は
再考されても良いかもしれないね。
三月事件で陸軍のクーデターの話に一度は乗りながら、
無理だと分かった途端に将校を裏切った。
宇垣日記では国際情勢に関して冷静な判断をしているので、
外交について大きく判断を誤ることはないと思うけど、
「裏切り」は軍人の世界でも政治家の世界でも許されない。
山っ気があり過ぎたという印象。
もう少し慎重な姿勢でクーデターの話に初めから乗らなければ、
犬養の後に組閣できていた可能性は高いと思う。
最後がIFの話ですいません。
>>442 宇垣流産内閣の組閣名簿は、残されていないが
外務大臣は宇垣兼摂、次官に佐藤尚武という布陣を
想定していたことは分かっているよ。
宇垣本人が組閣直前に、側近に語っている資料があるんで。
ちなみに、佐藤尚武は宇垣の後に
大命を受けた林銑十郎内閣の外相に就いてます。
とかく評価の悪い林内閣だが、外交方針に関してだけは
この人のおかげか、再評価が進んでいるらしい。
>>440 その対立の背景として、政党内閣が潰れた後に
統制官僚による予算バラマキが行われたことは大きいね。
予算を地方に持って来るパイプとして重要視されていた政治家が
実は不必要な存在で、官僚支配さえあれば良いということが
バレてしまったから。政党は当然ながら反発するが時すでに遅し。
今でも政治家のセンセイは、ダムや道路を地方に持って来るから
エライということになっているけど、さてどうなんだか…というお話。
宇垣は民政党系だが、田中義一と同じ路線を狙っていたんだろうな。
でも、政治家には総理大臣には向いていないが、
ある特定の分野の平大臣をやらせるとかなりの力を発揮する人っているよね。
昔だと、松方正義、高橋是清、若槻礼次郎、田中義一
現代だと、菅直人あたりか。
448 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:20
よく言われる、「こういう内閣があれば」だけれど、
実は大臣個人の人間的資質と同時に次官や応援代議士などの、
手持ちの人的資源が大きい場合も多いだろうね。
陸奥宗光や高橋是清レベルになると確かに一個人で全てを体現した、
こう言っても言い過ぎじゃないだろうけれど。
同じ意味合いで総理大臣の評価も大きく分かれてしまうのだと思う。
よくは知らないけれど第一次西園寺内閣と第四時西園寺内閣では、
同じ西園寺首相でも大きく異なるように。
そうですなぁ。
特定分野のスペシャリストであった人が、
事情によって総理大臣になった場合が多いですなぁ。
松方・若槻は可哀想な気もする。
彼らは専門分野を任せられている時は、
力を発揮できたけど総理となると他との調整の仕事が
メインになるのでそういった能力の欠如した人達が
総理になった時はほとんど何もできなかった。
高橋などはスペシャリストとして能力だけでなく、
意見を集約して実行に移せる能力も高かったけど、
この人は例外と言えるからなぁ。
結局は人をどう配置してどういう働きをさせるのか、
それが重要なんだなぁ。
450 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:44
>高橋などはスペシャリストとして能力だけでなく、
意見を集約して実行に移せる能力も高かった
高くないって。
彼は職人気質で、駆け引きとか金集めとかそういう政治家的なものは不得手。
だから原のあとの政友会を引っ張っていくことは出来なかった。
菅直人は今の民主党には党首として合っていると思う。
崩壊寸前の組織にはああいう闘う党首じゃないと持たんよ。
451 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:41
菅直人は買かぶりすぎだ。社民党と手を結ぼうとかいまいち大局観を欠いている。
高橋党首は駆け引きに関しては、横田千之助がフォローしてたけどね。
同輩級になる床波や中橋徳五郎は、同格だ〜との思いもあって政友会は紛糾したんだろう。
原は後継者の育成なんてことを考える前に殺されちゃったからね。
452 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:52
個人ではなく政党の性質としては、
政友会は駆け引きに優れているが政策が弱い、
民政党は政策は充実しているが駆け引きが弱いって感じかな。
これは両党の成立過程の中で生まれた性質だろうなあと思う。
453 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:09
>菅直人は買かぶりすぎだ。社民党と手を結ぼうとかいまいち大局観を欠いている。
社民党と手を結ぶのは大局観を欠いているとは思わんが。
政権をとる、ま選挙に勝つには共産党とも手を結ぶべきだと思うけどね。
政策の一致とかそんなものより、政権をとる、つまり数をそろえた方が勝ちだよ。
日本の政治の場合には。
>同輩級になる床波や中橋徳五郎は、同格だ〜との思いもあって政友会は紛糾したんだろう。
まあ、高橋は総裁になったのが不思議とも思える。
実際は内務大臣がナンバー2のはずで、床波としても当然「自分が」と思うのは無理の無いところ。
原、若槻、浜口、みんなナンバー2として閣内に入っているし。
>>448 つまらん事で申し訳ないのだが、
西園寺でなくて伊藤の間違いでは?
できたての内閣制度における第一次と、
できたての政友会がバックの第四次では
意味合いはかなり違うだろうね。
>>453 そういう意味では、民政党も同じだな。
浜口が凶弾に倒れた後に、後を継ぐと思われたのは
自他ともにナンバー2と認める内務大臣の安達だ。
しかし西園寺がウンと言わなかったので、党内がモメにもめる。
けっきょく若槻に落ち着いたが、それまでの間に
党内抗争を繰り返して、結束がガタガタになってしまった。
>>451 >>453 社民党や共産党と手を結ぶことに関してなんだが、
本当のパートナーとして手を結ぶのは危険すぎるな。
仮に手を結んだとしても、連立内閣が出来たあとに
圧力をかけるなりして切り捨てるという戦略をもてれば話は別だが。
菅直人にそれだけの戦略があるかどうか。
さらに、彼に外交を任せるのはかなり危なっかしい。
だから、漏れは菅を「松方、高橋、若槻、田中」と同じ系統と見なしている。
457 :
日本@名無史さん:02/11/25 01:04
由紀夫は無任所大臣ですか?
458 :
日本@名無史さん:02/11/25 01:20
>>456 日本は世界有数の中央集権社会主義国家だから、政権与党にいることが圧倒的に有利。
野党なんて刺身のつまのようなもん。
だからまずは数をそろえて政権をとった方が勝ち。
だいたい選挙で政権交替なんて日本政治史上一度も無いしな。
あとは、自民党は野党になったら、1年も持たずに崩壊する。
あそこは政策というより、「与党」でいることが重要な政党だからさ。
だからその後政界再編でもすればいい。
まずは与党になることだよ。
菅は少なくとも鳩山やそれを支持する保守派よりはわかっている。
そういう意味で大久保、山県、原系統と見ている。
>>458 >選挙で政権交替なんて日本政治史上一度も無いしな。
うーん、確かにそうかもしれないけれど
例えば清浦内閣の解散で成立した護憲三派内閣はどうだろう。
ただ一度だけの例外ということには、ならないかな。
>>458 >だからその後政界再編でもすればいい。
共産・社民と手を組んだ菅に、それだけの構想はあるのだろうか?
さらにあと、この人の外交姿勢にはかなりの疑問符がつく。
歴史問題・靖国問題で揺さぶってくる一党独裁国家・中国に共鳴したり。
文化大革命・チベット問題・言論の自由ナシ・天安門事件など、中共の恐ろしさをわかってないんだよ。
この人、やっぱり理系の東工大出身だから歴史なんかはよくわかんないのかなとか思ったりしてしまう。
でも、この人の経済政策・官僚統制能力は大いに買っているので、
財務大臣など、経済系の平大臣をやらせてみたいところではある。
>>459 そのとおりです。
>455
なぜか党員ではない幣原が首相代理を務める一方で、安達VS江木の派閥争い。
西園寺に忌避された人物一覧でも作ってみると意外と面白いかも。
平沼・鈴木(喜)・安達等々、国本社系や策士型の人物は嫌われたようだね。
>党内抗争を繰り返して
民政党だけでなく、この時期の政友会の迷走ぶりも悲惨だと思います。
462 :
日本@名無史さん:02/11/26 00:57
>例えば清浦内閣の解散で成立した護憲三派内閣はどうだろう。
ただ一度だけの例外ということには、ならないかな。
あの時も選挙前から護憲三派は議会の多数党。
ただし、与党の政友本党が第一党だっただけ。
だから与野党の議席そのものが逆転したわけじゃない。
あとそもそも清浦内閣は西園寺が選挙管理内閣と位置つけていたからね。
ちょうど細川の時と一緒で、自民党もその前の選挙で議席を減らしたわけではないけど、
数で与野党逆転したのと一緒。
つまり日本では政策を掲げて選挙前後で与野党の議席が逆転して、政権交替は無いんだよ。
>460
そこは政治思想の問題でしょ。
別に俺は現時点で別に中国や韓国にそこまで脅威は感じていないし。
むしろアメリカの方が日本の経済政策にちゃちゃを入れすぎていると思うけどね。
463 :
日本@名無史さん:02/11/27 10:49
しばらく中国にいたことあるけど、あの国の言論の不自由、役人の専制ぶりは日本人には怖いものがある。
なんぼ経済がよくなってもこれじゃあ。
やはり共産専制国家というのはイカンよ。
あと現在日本の経済政策はめちゃくちゃ。亡国へまっしぐら。
クリントン民主党政権はともかく、現在のメリケン政権のいってくることのほうが基本的に妥当。
みずほ銀行などいってることやってることはテロ朝鮮並みの支離滅裂さだ。
それを支持してる野中をはじめとする、橋本派、亀井派のばかどもはほんとにオツムが悪いのか、確信的亡国犯なのか・・。
464 :
日本@名無史さん:02/11/27 15:58
>あと現在日本の経済政策はめちゃくちゃ。亡国へまっしぐら。
クリントン民主党政権はともかく、現在のメリケン政権のいってくることのほうが基本的に妥当。
ん?
今の小泉−竹中ラインの経済政策はブッシュの意向を受けてなんですが。
現在の状況だけを議論するなら政治板へどうぞ。
466 :
日本@名無史さん:02/11/27 18:38
「民政党は、立憲同志会結党以来、大成会、国民協会の系譜に連なる吏党と、立憲国民党系の漠然とした派閥があり、幣原、若槻と安達の対立はそれに由来する。」と、某文献にありましたが、後年の町田派V.S.安達派もその構造を引きずってるんでしょうか?
>>466 その某文献というのをぜひ教えて欲しいけれど。
それはさて置き、民政党の派閥としてよく言われるのは
官僚系と党人系だと思う。若槻や浜口なんかは元大蔵官僚だし
国民協会なんかの吏党の流れとは、ちょっと違うのでは。
元田肇とか思いっきり政友会だしさ。
町田と安達の関係は、確かに良くなかったらしいが
総裁に町田が就いたのは、安達が脱党してかなり経った頃の話。
民政党内に隠れ安達シンパは相当いたと思う(復党した山道襄一とか)
が、それを派閥と言えるかどうかはビミョーかもしれない。
468 :
日本@名無史さん:02/11/28 00:31
大成会→協同倶楽部→中央交渉部→国民協会→帝国党→大同倶楽部→(戊辰倶楽部と合同して)中央倶楽部→無所属団(桂新党)、じゃないの?
469 :
日本@名無史さん:02/11/28 05:41
>467
それにしても、なんだかんだ言っても、まとまっているような気がする。
今の民主党の派閥争いを見ていると。
浜口は代議士政治家としてはキャリアはそんなにないのに、あっさりと総裁。
あの当時は当選回数はそんなにものを言わなかったのか。
実力本位ってこと?
470 :
日本@名無史さん:02/11/28 06:05
>>469 戦前の地方名望家議員なんかは議会の会期以外は田舎に住んでいた
りしていたくらいで代議士=プロ政治家という感覚すら確立していなか
った。
だから中央の政治活動に奔走する議員は当選回数とはあまり関係なく
抜擢された。政友会の横田千之助や森つとむなんかは当選三回くらい
で幹事長を勤めているはず(まあ戦前の幹事長は今よりずっと軽いポ
ストだけど)。
国会議員のほとんどがプロの専業政治家になったのは戦後になってか
ら。そして55年体制下で与党議員すべてに平等にポストを分配するため
当選回数至上主義が確立されてきた。
当選回数主義は55年体制で確立したもの。
471 :
日本@名無史さん:02/11/28 17:53
当選回数至上主義は、言い換えれば年功序列制度ということ。
有能も無能も、勤勉もぐうたらも勤続年数でえらくなるという、日本中世、郷村制下の農村で涵養されたシステムです。
中根千枝という社会学者はこれを「タテ社会」と命名しているようです。
ただ、合理性が強く要請される大阪などの商業社会、都市部では、あまりみられない。
また、貴種信仰、「徳」のないものは人の上には立てないなどの要素も当時はありますね。
>>469 浜口の場合は、総裁の加藤高明に認められたのが大きい。
彼は加藤に何度も呼び出されては、口頭試問を受けさせられた。
そこで能力を確かめられた後は、dd拍子に党幹部へ。
総裁としての加藤が認めれば、幹部になれるというのは
当時の憲政会の中枢に、加藤を中心とする固い結束があった証拠だ。
党首にリーダーシップがあったから、そういう人事もできたし
苦節十年と言われる野党時代に、団結を保てたのも同じ理由。
最近の名前がちょっと似た、どこぞの政党と大きく違うのはこの点でしょ。
ついでに言うなら、同志会発足時のメンバーである
後藤新平や大石正巳なんかは、加藤主導の党組織に反発して脱党。
加藤に文句をつける尾崎行雄なんかは、党を追い出されている。
だから桂新党である同志会と、加藤が中心となった憲政会とは
必ずしも単純なイコールでは結べない。忠誠の対象が全く違う集団。
憲政会は、党首に逆らう可能性のある異分子を排除することで
党内での総裁の威厳を確立し、ついに政権を獲得するわけだ。
これも、どこぞの野党の党首辺りに教えてやりたい話だな。
473 :
日本@名無史さん:02/11/29 02:54
>>472 なるほどねえ。
まあ、見ようによっては共産党みたいな気もしないではないけど。
今の志井委員長あたりはバッジが無い時から抜擢されていたし。
しかし程度問題はあるにしても、どこぞの野党はあまりにもだらしないのは事実だな。
>>472 加藤のリーダーシップには、
三菱財閥の圧倒的な政治資金という背景があったことも
書いておくべきじゃないかな。
加藤高明が党内の結束を維持することが出来たのは、
血縁関係にあった三菱からの集金力によるところが1番でしょ。
彼のリーダーシップは否定しないが。
若槻がダメだったのは、集金力のなさ。
また生粋の官僚派であり、党人派の支持を得られなかったから。
浜口が集金力がないにも関わらず良かったのは、
官僚派でありながら衆議院に議席を持ったがために党人派からも一目置かれ、
また彼が希有な人格者であったから。
476 :
日本@名無史さん:02/11/29 20:18
>>470 現在の民主党の凋落で、落選を恐れる民主党の若手(バカ手?)議員どもが
自民党の野中に縋りつく、といった醜態を防ぐためにも、専業の国会議員を
禁止したほうがいいのではないか、とこのごろ愚考していたのですが、
専業議員を禁止すれば、ますます地方の名望家だらけになってしまうので
しょうか・・・・・
>>475 浜口の資金力を支えていたのは
仙石貢との関係もある。若槻は仙石とケンカしたので
三菱の金庫が閉じてしまったという話。
478 :
日本@名無史さん:02/12/01 01:43
名望家でいいんでないかい。
俺があまり評価してない小渕がよく言ってたんであれなんだが「富国有徳」。
すなわち、昔の東アジアでは、あくまでも建前だが、「徳」のある人間でないと、人の上には立てなかった。
今の、ムネヲだの、土井バカ子だの、辻元濁醜だの嫌になる。
東アジアで、モラルを政治家にある程度求めようとするならば、476さんの言うこともありかと。
それにしても、森恪は逝ってよしだな。
480 :
日本@名無史さん:02/12/02 19:58
魂を議会主義を軍に売り渡した方々は、他にもいっぱいおりますがな。
481 :
日本@名無史さん:02/12/02 20:25
土建屋に魂を売り飛ばしているのが、今の政治家。
昔陸軍、今土建屋。
>480
親軍代議士について詳しい方います?
保利耕輔の父・保利茂が秘書をしていた山崎達之輔ってどういう人なんでしょうか?
岡田内閣に入閣して床次、内田共々政友会を除名され昭和会を結成したこと、農林族?だったことしか知りませんがどなたか解説していただけませんか。
>>482 山崎は昭和初期になって頭角を現した政治家。
政調会長や党総務などを歴任している。
田中内閣が倒れた後、山崎は国民的不人気を返上しようと
堀切善次郎や山口義一らと歩調を合わせ、新政策の樹立を図った。
目玉は「産業立国」を目的とした「軍縮」政策(民政党の緊縮政策に対抗)。
もちろん実際は総選挙でボロ負けして、実現を見ることはなかった。
党内では犬養毅や高橋是清に接近する傾向があったようだが、
大正の終わり頃には、平沼騏一郎に近い「辛酉会」にも名を連ねている。
犬養死去後には、鈴木や鳩山と距離を置いて
床次竹二郎や内田信也らに近づき、政民連携運動を展開した。
最初の農林大臣になったのは、この頃(岡田内閣)の話。
二・二六の後、林内閣でも農相に就き、東条内閣で三度目の農相になった。
三回も農相になってれば、それは農林族になるわな。
この人に関しては、どうも内田信也とカブる印象がある。
せめて良い伝記でもあれば、独自のイメージが描けるのだが…。
レスありがとうございます。
東条内閣の倒閣にかかわったりもしてるし、寝業師的な人物だったのでしょうか。
本探してきます。
485 :
余話として:02/12/06 05:51
加賀南部の田舎では、戦前から農家は政友会ー自由党で、商工業者は民政党ー改進、民主党支持。
村では一軒だけ、民政ー改進支持の家があって、今でいう共産党のような扱いを受けていた、とこないだなくなったじいさんがよく言ってたな。
金沢では、民政ー改進が優勢で、小松を中心とする加南は政友ー自由党優勢。
えらく仲が悪かったらしい。
スレッド一周年記念age
487 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:50
山本条太郎と森格
以前にも、戦前政党のスレは何度か立ったが
みなすぐに沈んでいった。そんな中でのスレ1周年を祝賀age。
489 :
日本@名無史さん:02/12/13 12:04
>>489 488はあげてるんだが。名前が青いのが全部sageじゃないよ。
491 :
日本@名無史さん:02/12/13 22:30
満州と関東軍と政友会
492 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:10
大逆事件って
西園寺首相と原内相のコンビだろ
真意がわからん
あと原敬って韓国で伊藤、東条に次いで嫌われてるんだろ?
493 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:13
>>3.1独立運動時の首相だっけ?
そういや三一書房って名前、ここからきてるんだね。最近知った。
494 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:14
大逆事件は西園寺、原との間だけの問題ではなく山縣を中心とする
長州閥との関わりの中で考えて方が良いかと。
495 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:43
でも大逆事件ってGOサインを出したのは西園寺首相じゃないの?
山県って西園寺と原に大きく口出しできる強い影響力をもってたの?
496 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:44
少なくとも擬似長州閥の原にはかなりの影響力を持ってたはず。
497 :
日本@名無史さん:02/12/13 23:47
なんだ原って所詮その程度の政治家か?
結局山県がいたから原が出世できたのか?
ま、いなくても出世したかもしれないが
498 :
世界@名無史さん:02/12/13 23:58
山縣公が居たから出世できたんです。
政治の実権は山縣公、逆らえば消される。
それだけに後を継いだ桂、寺内、山本らの、
議会擁護の姿勢は評価されるべき。
499 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:00
>>497 そりゃ「山県の犬」と罵れないこともないけど、
政党内閣という目的達成の為に手段を選ばなかった
ということじゃないかね?
500 :
世界@名無史さん:02/12/14 00:01
原敬は議会対策、山縣公にとっては手駒の一つに過ぎないはずだった。
結局は原の粘りと手腕で本格的な政党政治が速やかに確立していった。
ただ長期的に見れば議会政治は山縣公が見るように確かに拙速だった。
政治家の質の悪さは、その後の日本政治の迷走に反映する。
501 :
世界@名無史さん:02/12/14 00:03
>>499 と言うよりも、山縣公と折り合える政治家でなければ、
イニシアティヴを持って政党政治を行えなかったと思う。
内務省の選挙干渉もバリバリだったと言うのは左翼の歴史改竄だろうか?
権力の源の軍部、官僚、元老はキッチリ押さえてたしね。
502 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:05
503 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:06
今でも韓国では原を恨んでる奴は多そうだね
504 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:11
山縣と原は互いに利用してたんだろうけど、
先に原が暗殺されちまったのがなんとも…
505 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:16
そういや犬養は
「あやつらも、話せばわかるじゃろう」といってわざわざ自分を殺す奴を招き
結局有無を言うことすら出来ず殺された
間抜けとしか言いようがないよな
俺なら真っ先に逃げるがな。
ていうか普通逃げるだろ?自分の立場と言うものもあるし
>>505 つまり政党政治の闘士ではあっても大宰相ではありえなかったとおっしゃりたいんで?
507 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:31
ていうか
ぜんぜん状況判断が出来てないって事
508 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:33
>>506 政党政治を「自殺」させた張本人なのに、
犬養は「闘士」ですか?
509 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:36
>>508 大正政変の頃は輝いてたじゃん…
その後は、まあ確かに…
510 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:39
政友会が満州利権を食い物にした事は
政友会のみならず民政党を含む政党政治に対する不審を生んだ。
政党政治実現に向けて維新直後から動いていた組織が、
組織維持のために行った行為がかえって組織を腐敗させた。
民政党は?
511 :
日本@名無史さん:02/12/14 00:45
山縣、陸軍、朝鮮
鉄の三角形
513 :
日本@名無史さん:02/12/14 01:13
浜口や犬養が生きていても歴史はそんなに変わらなかったと思うけど
原敬が生きていればその後の大きく変わったと思う・・・
山県のいない原も見てみたかった
>>503 朝鮮は原敬暗殺は天罰らしい
514 :
日本@名無史さん:02/12/14 13:38
原は山縣より一枚上手だったようだよ。
山縣に同情するふりして、おいしいところはいただいている。
(講談社「日本の歴史」政党政治と天皇)
>>513 そうかな?浜口なら5分5分の確率で満州事変を押さえることが出来たと思う。
また、犬養にしても萱野長知工作が成功していれば、ひょっとしたらうまくやれたかもしれない。
森つとむはホント逝ってよしだ。
516 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:12
スレの主旨から外れるが、山縣が生きていれば満州事変は抑えられた筈だ。
517 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:38
>>516 山縣が生きていても無理だろうね。
むしろ田中が政治家へ転身せず陸軍に残っていればと思う。
田中がいれば満州事変の前提となる
統制派・皇道派の実権掌握は不可能だっただろう。
田中が組閣した時点で陸軍中央の出先機関に対する
統制力が失われていた。
満州事変は出先機関と中央の関係が崩れたことを、
示した事件だったので仮に満州事変を防いだとしても、
その原因となる出先機関の暴走を防ぐ体制が整えられないと
同じような事件が起きたと思う。
こっち↓でした方が良い話題かも。
陸軍の統制派と皇道派について
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024259247/
518 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:52
児玉が満州経営をやろうとした時は、あの伊藤と山縣も手を組んで止めていたからなあ。
519 :
日本@名無史さん:02/12/15 01:10
>>518 元老はアメリカの資本導入して
日米の共同事業を南満州でやろうとしてたからね。
ハリマンの提案を断ったことでアメリカはイギリス・中国との
共同で満鉄に対抗する鉄道事業を始めた。
満鉄はこれに危機感を持って権益・事業拡大を進めていくけど、
ことごとくアメリカ・中国と対立していく。
対米戦の遠因とする人もいるけど、
利害対立の構造からすると正確な見方だと思う。
520 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:45
>>519 >対米戦の遠因とする人もいるけど
アメリカが対日感情を悪化させたのはともかく
アメリカとの戦争に到ったのはその後の30年間の積み重ねだろうが
満州独占ならそれなりのやり方をすれば対米戦争は避けられたはず
原因を小村とかにするのはかなり無理がある
521 :
日本@名無史さん:02/12/15 09:42
>>520 519は原因ではなく、遠因と書いてるんだから、
>原因を小村とかにするのはかなり無理がある
と書くのは、519に対してのコメントとしては変だよ。
最後の1行以外は間違ってないと思うけど。
ちょうど、うちの大学の政治学の先生が、
満州に関して講義してたので、そのノートの一部を書きだしてみるね。
満州への米国参入がもたらしたもの
@.満州経営の困難
A.対露安全保障の重圧
B.中国民族運動の単独標的
C.米国の対日不信感、親中感情の助長
D.米国の極東理解深化の妨げ
どうであろうか?これを、憲政会−民政党の幣原外交に絡めて、何か検討してみて欲しいんだが。
>>522 「米国参入拒絶がもたらしたもの」に訂正。
524 :
日本@名無史さん:02/12/15 13:59
>>522 >@.満州経営の困難
資本のこと?
>A.対露安全保障の重圧
日本が単独で対露戦略を取らざるを得なくなったということ?
>B.中国民族運動の単独標的
アメリカとの共同経営であっても反日運動は同じじゃないの?
>C.米国の対日不信感、親中感情の助長
アメリカの中国市場への参入機会を日本が阻害したことを指しているなら、そうだ。
>D.米国の極東理解深化の妨げ
意味が分からない
いずれも見出しだけでその内容が示されないなら検証なんてできないね。
525 :
日本@名無史さん:02/12/15 15:10
>B.中国民族運動の単独標的
>アメリカとの共同経営であっても反日運動は同じじゃないの?
反帝エネルギーが日米に分散するし、日米共同で対処する可能性が
出ることにより、多少楽になるんじゃないの?
>D.米国の極東理解深化の妨げ
>意味が分からない
アメリカの資本が入れば、アメリカ人が現地満州で、軍閥の圧政、
国民党政権と軍閥の微妙な関係などを体験的に知り、
日本の立場をより理解する可能性があった、ということでは?
とはいえ、
>いずれも見出しだけでその内容が示されないなら検証なんてできないね。
という部分は全く同意。
>>524 >>525 スマソ。そういえば、そうだったw
Aは
>>524のとおり。B、Dに関して言えば、
>>525の通りです。
@は、資本ではなく満鉄のこと。
Cは、
>>524で大筋合っているんだけど、「中国市場」には「中国分割」も含まれる。
しょうもない糞レスしてしまってごめんなさい。
527 :
日本@名無史さん:02/12/16 13:22
ハリマンは当時のアメリカでは戦後の小佐野賢治や横井英樹のような
イメージの悪徳資本家で革新主義を掲げるT.ローズヴェルト政権とも
仲がよいわけではなかった。
そんなハリマンを満鉄の共同経営に引き込んでも満州で何かあっても
アメリカ世論や政府は「アジアでの帝国主義に勝手に首を突っ込んだ
ハリマン逝ってよし」になって支援どころか足を引っ張る可能性が高か
ったはず。
『ハリマンと共同経営をやっていれば日本の満州経営はうまくいった
はずだ』というのは単なる伝説に過ぎないと思う。
528 :
日本@名無史さん:02/12/16 20:51
>ハリマンは当時のアメリカでは戦後の小佐野賢治や横井英樹のような
>イメージの悪徳資本家で革新主義を掲げるT.ローズヴェルト政権とも
>仲がよいわけではなかった。
そうなの?
>そんなハリマンを満鉄の共同経営に引き込んでも満州で何かあっても
>アメリカ世論や政府は「アジアでの帝国主義に勝手に首を突っ込んだ
>ハリマン逝ってよし」になって支援どころか足を引っ張る可能性が高か
>ったはず。
アメリカ政府がハリマンの足を引っ張る可能性は低いのでは?
アメリカは中国という市場に興味を持ち「門戸開放」や「機会均等」を求めていたんだから、
南満州という限られた市場だけであっても参入したかったのでは?
ハリマンとルーズベルトの関係が良くないというだけで、
アメリカ資本が南満州という市場を捨てるとは思わないけど。
軍事に関してアメリカ政府が積極的に介入する可能性は兎も角、
投資に関してはアメリカ政府・資本が参加する契機にはなったと思う。
それがのちの対米戦回避に繋がるかどうかはまた別の話だけど。
529 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:08
政党史というより近代日本史のスレになりつつあるね。
良いスレだけど。
530 :
日本@名無史さん:02/12/18 01:10
そうい政友会の指導者ってロクな死に方してないね
西園寺ぐらいか?
531 :
日本@名無史さん:02/12/18 18:47
>>530 初代 伊藤博文 暗殺
2代 西園寺公望 天寿をまっとう
3代 原敬 暗殺
4代 高橋是清 226事件で暗殺
5代 田中義一 天皇陛下に嫌われて頓死
6代 犬養毅 515事件で暗殺
なるほどこう見てみると、非業の死を遂げる人が多いな。
政友会総裁は「宇宙戦艦ヤマト」の艦長席のように呪われた場所だな。
>>531 それでも総裁の椅子を狙って醜い闘争を繰り広げるのだから、不思議なものだな。
いや寧ろ、犬養以降は非業の死を遂げたリーダー・サブリーダーが
いないことの方が不思議。
それだけ政党の地位が低下したことを反映してるんだろうけど。
小物でスマソ。
535 :
日本@名無史さん:02/12/19 00:15
鈴木が内相時代「皇室中心主義」とか言ってたことが
元老に嫌がられて犬養後継を逃したという側面も
536 :
日本@名無史さん:02/12/19 00:29
星亨もそうだっけ
537 :
日本@名無史さん:02/12/19 00:31
西園寺も226で殺される計画があったけど
538 :
日本@名無史さん:02/12/19 04:55
星も暗殺されたけど、星は総裁になってなかった。
国会議員を辞職して東京市長になってから暗殺された。
539 :
日本@名無史さん:02/12/19 11:17
天皇・宮廷派・政党、みんな皇道派を嫌ってたね。
支持基盤て、軍内部と右翼以外にあったの?
540 :
日本@名無史さん:02/12/19 16:19
皇道派の主張は社会主義に近いですから、支持されるわけないですよ。
>540
そう?
たとえば近衛などの場合、むしろ統制派を危険視して皇道派に接近していたわけだけど。
皇道派が宮中・政党に嫌われていたのはただ単に、明らかな電波やドキュソが多かったからではない?
荒木・真崎・柳川・左近司等々、どう?
近衛はこれらの人々を引き立てて陸軍主流に対抗させようとしたのかも。
御し易しとみてね。
542 :
日本@名無史さん:02/12/19 19:23
満鉄を通じて関東軍と政友会は結びついていた。
関東軍は統制派の拠点となっていた。
重臣・宮中は暴力的な非合法手段を取る皇道派よりは
比較的合法的な手段を取る統制派の法がマシと思ってたみたい。
543 :
日本@名無史さん:02/12/23 01:19
age
あげ
545 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:19
皇道派=社会主義か。「右翼と左翼の違いは君主制だけだね」と、
どこかで昭和帝が漏らしてたような・・・。
546 :
日本@名無史さん:02/12/24 16:08
まあ,あの昭和帝は「誰それはファッショだから・・・」とか「誰某は国粋的だから・・・」とかを
よく口にするひとだったけれど,自分自身のことはよくわかっていなかったんだろうねぇ(w
冬厨房な質問をします。
野田卯太郎と野田卯一。石井菊次郎と石井光次郎は何か血縁関係があるのでしょうか。
情けない質問ですがどなたか教えてください。
548 :
日本@名無史さん:02/12/29 17:45
age
549 :
日本@名無史さん:02/12/29 22:34
>547
聖子ちゃんは野田卯一の孫だっけ
550 :
日本@名無史さん:02/12/29 23:15
石井光次郎は久原房之助の娘婿だったね
菊次郎は関係ないのでは.
551 :
日本@名無史さん:03/01/02 19:06
age
552 :
日本@名無史さん:03/01/06 04:15
age
553 :
日本@名無史さん:03/01/06 11:00
原>>>山縣
と、思うが。いかかが?
554 :
日本@名無史さん:03/01/06 11:59
原敬の死後政友会は分裂するなど低迷した
555 :
日本@名無史さん:03/01/06 23:06
2大政党制は暗殺に始まって暗殺で終わった
556 :
日本@名無史さん:03/01/06 23:25
この領域で高名な研究者というとどなただろう?
557 :
日本@名無史さん:03/01/08 12:14
京都大学の伊藤之雄氏はどうかな。講談社の日本の歴史シリーズでも「政党政治と
天皇」を分担している。
558 :
日本@名無史さん:03/01/08 12:19
明治天皇の崩御がもう少し後になれば二大政党政治は
政友会と桂新党(同士会)で始まっていたかもしれない
559 :
日本@名無史さん:03/01/08 14:22
560 :
日本@名無史さん:03/01/09 21:35
>>556 やはり升味準之輔だな。
「日本政党史論」全7冊などを著したパワーは驚異的。
561 :
日本@名無史さん:03/01/10 23:24
「日本政党史論」読みたいけど時間ないし、個人で買って寝る前にちょっとっていうのも4,5万もするとね。
562 :
日本@名無史さん:03/01/11 00:29
『日本政党史論』は研究書と言うよりは
どちらかというと資料集に近い。
最後は、ご自分が書かれてるように、政党史ではなくなってる。
563 :
日本@名無史さん:03/01/11 14:36
ということは、群小政党や派閥の系譜もばっちりってことですか?
(^^)
井上の経済政策を支持してる人がいるのが驚き。
世界同時不況の原因は主要国が金本位制に復帰したせいだと思ったのですが。
戦後もっと酷い株の下落があったけど、世界同時不況にならなかったでしょう。
>>563 そうではないです。資料集と書いたのは、
さまざまな資料や当事者の発言が非常に長く引用されているからです。
最後は、政党史ではなくなってる、と書いたように、
戦時下の記述は政府、軍、官僚中心で、
国際政治の分野にも踏み込んでおり、
>群小政党や派閥の系譜もばっちりってことですか?
という期待とはほど遠いです。
最後になってしまいましたが、『日本政党史論』が、
後学のものにとり、この上なく便利であることは事実です。
パワーというか、継続の意志は本当に凄いと思います。
567 :
日本@名無史さん:03/01/12 12:42
>>561 そんな人のために、同じ内容をコンパクトにまとめた
「日本政治史」という題名の普及版が出てるよ。
全部で4巻ぐらいで、一冊二千円ちょっとだったと思う。
(^^)
569 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:05
少なくとも、『日本政党史論』がたった一人の力で作られたことは称えられるべき。
もちろん実証レベルでは問題が多いが、それは後年の研究者が少しずつ直せばよい。
570 :
日本@名無史さん:03/01/17 03:52
あげ
571 :
日本@名無史さん:03/01/17 18:09
吉田の御三家の一人益谷秀次について教えてください
コンサイス日本人名事典で調べてみたのですが、
大野伴睦・林譲治に比べ記述が少なくてよくわかりません
戦前・戦後どちらでも良いです
572 :
日本@名無史さん:03/01/17 20:42
>>571 石川県に益谷秀次の記念館がありますけど。
573 :
日本@名無史さん:03/01/17 20:48
いいっ石川県!
574 :
日本@名無史さん:03/01/17 21:04
益谷は御フランス語がぺらぺらでした。瓦力が彼の後継者です。
ちょっと詳述しすぎたかな。
>>571 父によると祖父さんが後援会長かなんかやってたらしいっす。
能登の人だよね。
576 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:19
昭和47年まで代議士やってたんだね
後継者は誰だったんだろ
577 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:33
>556
古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)
みると15年線早期でも政党ががんばっていたことがわかりますね。
近衛新党構想は政民合体しようとしていた証です。
578 :
日本@名無史さん:03/01/18 18:16
益谷秀次が池田勇人内閣の幹事長やったのは知ってるが
自由党時代には党三役は歴任したのかな
579 :
日本@名無史さん:03/01/18 23:41
長いこと総務会長やってたがな。
ちなみに益谷は、衆議院議長→岸内閣副総理→池田内閣幹事長と経験した。
今では考えられん順番だ。
580 :
日本@名無史さん:03/01/20 00:17
戦前の幹事長は戦後よりも重要度は落ちるんだよね
総務委員のほうが偉かったんだっけ?
582 :
日本@名無史さん:03/01/20 07:16
>>579 池田内閣幹事長、って?
という突っ込みは置いといて
当時役職と人が一致していたんだろうな。
重要度からすれば、この順番も納得できるしな。
与党第1党の幹事長は実権としては総理の次のポストのはずだが、今の変態幹事長じゃ
とても日本で2番目の実力者とは思えん。
583 :
日本@名無史さん:03/01/20 09:48
>>580 三木武吉も当選3回ぐらいで民政党(まだ憲政会だったかな)幹事長やってるね。
その後で大蔵参与官かなにかになってる。
>>582 「椎名裁定」までは総裁派閥の大番頭が務めたよね
岸の川島、池田の益谷、前尾、佐藤の田中、保利とか
584 :
日本@名無史さん:03/01/20 12:02
田中角栄退陣後は幹事長は総裁派閥とは別の派閥から出すようになった
例外は大平内閣の斎藤邦吉くらいか
浜口雄幸が同志会に入った時、
彼は浪人だったのね。
田中義一の「積極外交」って帝国主義諸国との協調を前提にした対外拡張政策であって、
陸軍や民間の対支強硬派のような無制限の拡張政策じゃなかったんだよね。
幣原外交よりはずっと現実的だったと思う
陸軍部内に自派勢力を持たない田中が何を言ってもねえ。
結局、田中は陸軍に対中強硬路線の言質を与えただけで
天皇からもそっぽを向かれた。
588 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:07
昭和天皇の側近である
牧野伸顕内大臣は田中義一に対して反感を持っていたらしい
そのことが昭和天皇に影響していたと考えられる
589 :
日本@名無史さん:03/01/24 09:20
590 :
日本@名無史さん:03/01/24 12:24
清浦圭吾を知っている人っているかな?
うちにはそれ関連のものがいくつかあるんだけれど。
一応遠縁に当たるので。
尾崎がくどうやらなんか書があったな。
あと、大麻唯男って何党の人?
うちの曽祖父(清浦と関係あり)がこの人の下で熊本県会議員をしていた。
591 :
日本@名無史さん:03/01/24 17:53
戦前は立憲民政党で幹事長、総務などを歴任
戦後は日本進歩党・改進党・日本民主党・自由民主党に所属
592 :
日本@名無史さん:03/01/24 20:54
清浦も大麻も、イメージ良くないでしょ。お気の毒だけど。
593 :
日本@名無史さん:03/01/24 21:31
>>590 戦後の混乱期にあって日本を破滅から救った人。
清浦圭吾は本来もっと評価されるべき人物。
あの時点では政党政治が日本を破綻させつつあった事は明らか。
594 :
日本@名無史さん:03/01/24 21:33
政党政治が日本の舵取りを誤ったので、
清浦が超然内閣という形で組閣した。
自分達が碌でもない政治家を選らんだのに、
国民はただただ文句だけを言いつのった。
最終的に「国民が」陸軍を支持して、
政党政治にピリオドを打たせた。
595 :
日本@名無史さん:03/01/25 00:05
>>588 たしかに『田中義一伝記』は牧野伸顕に対する恨み言がたくさん書かれているね。
596 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:12
清浦のご親戚内での評価は良くわかりましたが、やはり山県の金魚のフン・・・・。
清浦圭吾は何と言っても顔がウケる。
宇宙人かと思った。
おお、皆さんレスありがとうございます。
>>596 そのとおりです。
山県有朋の一の子分としてつねにくっついていました。
しかし学閥、門閥、藩閥などない人ですからそうしないと出世はなかなか厳しいでしょう。
いちおう日田のかんぎえんというところはでているようですが。
内務省、司法省に長くいたようです。
>>597 うちの祖父がこれまた似ているんですよw
あんなかんじのながほそーい顔。
>>592 たしかに清浦圭吾は時の護憲運動に反する内閣として評判悪いですね。
しかし軍部の増大には非常に敏感な人だったようです。
まあああいう過渡期の時代の首相ですからね。
>>591 民政党ですか。
熊本の田舎の清浦記念館は大麻が土地などを提供して立てられたそうです。
ちなみに山県有朋の葬儀委員長を清浦圭吾はしています。
599 :
日本@名無史さん:03/01/25 14:42
大麻っていつなくなったんだっけ?
600 :
日本@名無史さん:03/01/25 14:51
>599
大麻唯男(1889〜1957)
民政党議員の安達謙蔵も大麻唯男も熊本県出身
熊本人は陰謀好きだと風評がたって困ったそうだ。
海軍軍人高木惣吉の回想。
陸軍の武藤章も熊本。
>>599 石橋、岸の総裁選のすぐあと亡くなったね
ちなみに総裁選では岸支持
603 :
日本@名無史さん:03/01/25 17:39
>熊本人は陰謀好きだと風評がたって困ったそうだ。
>海軍軍人高木惣吉の回想。
東条英機暗殺計画の首謀者には言われたくないセリフだな。
604 :
日本@名無史さん:03/01/25 18:03
松野鶴平、頼三親子、園田直、細川のバカ殿も熊本じゃなかったか?
605 :
日本@名無史さん:03/01/26 01:48
大麻は戦後に重光葵を総理にしようと暗躍。
松野鶴平と並ぶ寝業師だったが、重光の政治オンチで挫折。
熊本は西南戦争に参加したものの、理屈ばかりで西郷軍の
役に立たなかった佐々友房(のちに貴族院議員)や、
天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃した
菊地武夫(男爵・貴族院議員・もと陸軍中将)
などを輩出している。
陰湿なばかりでなく、理屈にこだわる形式主義の困った君が多い。
>>590 清浦「奎」吾ですやろ。清浦先生の名前を間違うなんて、ほん
まに親戚の人でっか?
清浦は山県系の中でも平田・大浦・芳川・小松原・田らと比べても独自の活動はあまりしていませんし、策士型の多い熊本出身の政治家たちの中でも例外的存在かと思います。
護憲運動の敵役としても、桂なんかと比べると役不足の感が…
東条首班推薦の重臣会議にも参加していましたが、殆ど発言せず、微温的に宇垣を支持したようです。まあ、90歳の老爺だったしね。
清浦奎吾いいね。
スレタイに引き付けて言うと、同郷のよしみか
民政党(憲政会)の安達謙蔵と仲が良かった。
高橋内閣が倒れた時には、大森駅でブロックサインなんかしちゃって
次の首相を安達にこっそり教えたりしてた。
後に安達が民政党を追い出された時は、手紙を送って
ほとぼりがさめたら復党すれば良いと励まし、協力を約束している。
ま、安達の復党は失敗に終わってしまうのだが。
清浦内閣で選挙に負けた時も、選挙結果なんか無視して
多数派工作して居座ってしまえと勧める西園寺を押し切り、
一度くらい憲政会にやらせれば良い、と言ってスッパリ辞めた。
清浦は反政党のイメージが強いけれど
実は意外と民政系びいきだったのかもしれないね。
609 :
日本@名無史さん:03/01/29 04:26
清浦は冷徹な官僚の思考として
山縣亡き後の政局を推測したであろう。
そして政党との共存を考えたほうが現実的であることを悟ったであろう。
だが、あそこまで軍部が暴走するとは想像の範疇を越えていた。
山縣の統制が強固なものだっただけに、
多くの政官界は予防対策に手抜かりがあった。
610 :
日本@名無史さん:03/01/29 10:43
清浦の評価すべきところは、その諦めのよさ
1 シーメンス事件直後の大命降下も海相を得られずに断念
2 実際に首相になっても総選挙敗北で辞職
本人が首相の座にしがみつきたいのであれば、何とかなった状況にもかかわらずあっさりと諦めた
この引き際のよさは見習ってもよいのでは
611 :
日本@名無史さん:03/01/30 21:34
2.26事件では、数少ないクーデター側の重臣>清浦
>>611 そして昭和天皇を叱責し軍部内閣を提唱
しかし全く相手にされず、憤慨して熱海に帰る>清浦
613 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:46
614 :
日本@名無史さん:03/02/01 18:12
良スレ 上げ
>>613 二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一が
清浦の秘書との連絡ルートを持っていたらしいよ。
だから常日頃から、秘書を通じて皇道派の主張を聞かされていたんだろう。
616 :
日本@名無史さん:03/02/02 20:53
清浦と逆に、もうちょっとで殺されるところだったのが原熊。
名前を聞かれて、しょぼしょぼと答えたのが命を救った。
617 :
日本@名無史さん:03/02/06 03:39
>>615 それは知らなかった。
すごいよ磯っち!
ひさしぶりです。
590です。
皆さん詳しいですね。
私は清浦圭吾の伝記(全2冊、1500P以上、昭和初期発刊)を持っていましたが、
祖父にあげてしまったので詳しいことはあまり知りません(漢字だらけで読むのが困難)。
祖父は猛烈に今それを読んでいると思いますが。
さすがに晩年のことは知りませんので、ここの書き込みを見てなるほどと感心しています
(しかも高校時代の社会選択が地理であったので)。
墓は熊本の寺である明照寺と横浜の総持寺にありますね。
ちなみに熊本のその町の本当に近所からは刑事法で有名な平野龍一元東大総長が
出ており、刑事訴訟法作成に大きくかかわった清浦の影響なのかと思ったりします。
今でも清浦記念館には熊本県警本部長が新しく就任すると私服で見学に来るそうです。
619 :
日本@名無史さん:03/02/14 10:27
age
620 :
日本@名無史さん:03/02/15 00:34
清浦奎吾を支持した床次竹二郎は政友本党・立憲民政党を経て
結局政友会に戻ってきたんだよな
しかもその後政友会から除名されている
政友会に残っていたら総裁になってた可能性は有るのかな
>>620 床次の総裁候補としての器量は誰からも認められていた。
政友本党を作った時も、床次は総裁の芽があるから脱党しないと言われてた。
残ってたら可能性はあったのかもね。鈴木喜三郎に勝てていたらの話だが。
民政党に残っていたら残っていたで、浜口内閣の後がまに
座っていた可能性もなくはない。床次も党顧問の地位にあって若槻と同格だったし
民政党内の政友本党系は、床次を中心にかなりの団結力があった。
政友会に出戻って来た後も、田中義一がもう少し生きていたら
総裁になってたかもしれないし、犬養毅が途中で殺されなければ…
岡田内閣がもう少し続いていたら…とすべてがこんなかんじ。
結局、床次は「可能性の人」だった。そこがおもしろいんだけど。
床波ねえ。
彼自身の政治的能力はともかく、あれだけあっちいったり、こっちいったりの人が総理なんてなれるの?
かつての総理大臣は今の総理よりもはるかに重い。
今で言えば、熊谷が小泉の後継総理になるようなもんでしょ。
623 :
日本@名無史さん:03/02/15 08:11
原が長生きしていれば案外すんなりと原→床次→横田の順で政友会
総裁ポストは相伝されたのではないか?
原の暗殺で世代交代が繰り上がってしまいそのねじれの矛盾がなぜか
床次竹二郎にすべてかぶってしまったような気がする。
横田の病死も結果的にマイナスになった。横田が生きていれば床次は
おめおめと政友会に戻れなかっただろうから民政党一筋で総裁の目が
出たかもしれないのに。
原没後の政友会は床次vs横田だったんだよな。先行していた床次を横田が邪魔
をした。その横田が早死にしてしまったんだけどそれがかえって床次にはマイナスに
働いた。
加藤政局のとき、加藤を床次に、民主党を憲政会になぞらえた人がいたな。
626 :
日本@名無史さん:03/02/17 23:21
>>621 ちょっとどころか、激しく恥ずかしい自己レス。
岡田内閣が続いてたら…ではなくて
床次がもう少し生きてたら…の間違いだな。スマソ。
何の準備もなくて突然首相になった岡田啓介は
政党人としての床次の手腕を誰よりも頼りにしていた。
そもそも床次の協力がなければ、岡田内閣は成立できなかったわけで。
だから床次が死んだときは本当にがっかりしたと、岡田自身が後に語ってるね。
627 :
日本@名無史さん:03/02/20 00:22
女郎より節操のない床次竹次郎上げ
ちなみに息子は徳ニ(大野派)
床次が総裁選で腕の喜三郎に負けた原因はなんでしょうか?
鈴木に比べたら、まだ床次のほうがイメージいいのですが。
一億総懺悔ってある意味ふざけてると思う。
満州事変以来の軍部の暴走と露骨な政治干渉が無ければ
あんな悲惨なことにはならなかったのは明らかだよ。
国民も拡張路線を支持したって言う人もいるけど、支持したのは声の大きい
一部の圧力団体と圧力に弱いマスコミだけで、一般の民衆は戦争なんて
まっぴらごめんだった。ほとんどの人間は満蒙の利権なんてどうでもよかったんだよ。
政党の腐敗にうんざりしていたのは確かだけど、だからと言って威張り散らしてる軍部
に政治を任せようなんて思う奴はほとんどいなかった。
現に民政党の幣原協調外交は国民の間では絶大な人気があった。
2.26事件後の選挙でも軍部とつるんでる政友会はボロ負けして、民政党は大勝してる。
ドイツのように選挙で支持された(といってもかなりの選挙干渉があったが)ナチス
が惨劇を引き起こしたのなら国民全体に責任があると言えるかもしれないけど、
日本の場合は明らかに少数の人間に責任は限定されるよ。
戦後極東裁判とは別に日本自ら裁判を行って責任のある者を裁くべきだったと思う。
スミマセン、板違いですた・・・
631 :
日本@名無史さん:03/02/21 21:39
>>628 ひとことで言えば、床次が「いいやつ」だったから。
鈴木は親分肌のような性格の政治家で、派閥も団結が強い。
そのかわり、派閥外の連中には極端に冷たかったから
利害得失に長けた人間が大勢集まってきていた。
一方で、五・一五事件前後の床次には派閥がない。
そのかわり人柄が良いから、鈴木のエコヒイキ丸出しを良く思ってない連中や
古くから政友会にいた長老達が床次の潜在的支持者になった。
だがもちろん、そいつらに団結といえるような絆はない。
この状態で、総裁選をやったらどうなるか?
床次が負けても政友会はどうもしないが、もし鈴木が負けたら
鈴木派全体が騒ぎ出し、下手をすれば分裂の危機だ。
そこで長老の望月圭介が動いて、床次に泣く泣く辞退を迫り
床次もまた人が良いから、涙をのんで立候補を見送った。
総裁さえキチンと選んでおけば、元老は政友会に政権をくれると思ったからだ。
しかし、政権だけは逃がさないために、鈴木を総裁に選んだのに
鈴木は政権を思いっきり取り逃がしてしまった。
そこで政友会は糸冬了。完全に統制を失って、あとは野となり山となり。
632 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:06
>>629 exactly あんたいいこというね。あっちこっちで書くべき。
633 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:09
鈴木喜三郎ってやな奴そうだな。
松本清張は石田基検事変死事件の首謀者と主張している。
634 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:11
腕の喜三郎
635 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:21
鈴木喜三郎は川崎市川崎区出身
636 :
日本@名無史さん:03/02/21 23:28
鈴木喜三郎って鳩山一郎の義兄だったっけ
637 :
日本@名無史さん:03/02/22 12:16
>>625 日経の田勢康弘論説委員だったかな。
政権を狙って、あちこちの政党を出たり入ったりする床次は
「政界の夢遊病者」と揶揄されていた、加藤を床次に例えるのは失礼だが…
みたいなことをコラムに書いてたね。
638 :
日本@名無史さん:03/02/22 12:19
鈴木喜三郎と鈴木茂三郎が組めば
怖いもの無しだと思うのだが、どうか。
639 :
日本@名無史さん:03/02/22 12:33
一億総懺悔ってある意味ふざけてると思う。
GHQによる占領以来のアメリカの暴走と露骨な政治干渉が無ければ
あんな悲惨なことにはならなかったのは明らかだよ。
国民も隷米路線を支持したって言う人もいるけど、支持したのは声の大きい
一部の圧力団体と圧力に弱いマスコミだけで、一般の民衆は戦争なんて
まっぴらごめんだった。ほとんどの人間はアメリカの利権なんてどうでもよかったんだよ。
政党の腐敗にうんざりしていたのは確かだけど、だからと言って威張り散らしてる隷米派
に政治を任せようなんて思う奴はほとんどいなかった。
現に自民党の川口協調外交は国民の間では絶大な人気があった。
イラク攻撃不発後の選挙でもアメリカとつるんでる民主党はボロ負けして、
自民党は大勝してる。
ドイツのように選挙で支持された(といってもかなりの選挙干渉があったが)社会民主党
が惨劇を引き起こしたのなら国民全体に責任があると言えるかもしれないけど、
日本の場合は明らかに少数の人間に責任は限定されるよ。
日本国憲法とは別に日本自ら憲法制定を行って責任のある裏切者を裁くべきだったと思う。
640 :
日本@名無史さん:03/02/22 18:39
意味不明なのはなぜだ?
641 :
日本@名無史さん:03/02/22 19:25
>>629 おおむね胴衣だが、ここは政友会&民政党スレなので
その線でのツッコミを入れてみる。
>2.26事件後の選挙でも軍部とつるんでる政友会はボロ負けして、民政党は大勝してる。
2.26事件後に行われた総選挙結果は、政友175・民政179でほぼ同数。
事件の直前にあった選挙でも、政友会は174で民政党は205。
浜口内閣や犬養内閣のときほど、目立った議席差はついてない。
もっとも政友会の議席数だけを見れば、
犬養内閣が獲得した300超の圧倒多数から、一気に転がり落ちたのだから
ボロ負けというのは正しいかもしれないけど。
642 :
日本@名無史さん:03/03/02 20:05
テロによる政権交代(原・浜口)の場合、
後継総裁による与党政権の持続が今までなされていた為
犬養の死後、後継の鈴木喜三郎に大命降下するだろうという見方が強かったが
西園寺は政党内閣の継続を選択しなかった
643 :
日本@名無史さん:03/03/02 20:10
2.26の直後、西園寺は近衛を指名したんじゃなかったかな?
近衛は、自分と皇道派の関係から辞退したけど。
644 :
日本@名無史さん:03/03/02 20:48
>>642 鈴木の義弟であり、政治の世界では先輩である鳩山一郎も全くその気は無かったからなあ。
身内にまで相手にされないんじゃとても総理は無理だったと思われ。
645 :
日本@名無史さん:03/03/05 05:45
「腕の喜三郎」ってのは、どっからきたんですかね?
>645
腕を鋸で切り落としたという江戸時代前期の侠客が腕の喜三郎。
そういう人物に比されるということは…
647 :
日本@名無史さん:03/03/05 22:38
>>644 あれ? 鳩山は鈴木政権を期待してなかったのか。
犬養が死んだ後に、森恪が鈴木を見限って平沼騏一郎を首相にしようと
画策したとき、それを知った鳩山は激昂して大喧嘩したらしいよ。
森と鳩山は兄弟分のような間柄で、すごく仲が良かった。
それが喧嘩までするんだから、鳩山は本気で鈴木総理を望んでいたんじゃないかな?
少し気になるから、今度リサーチしてみよっと。
648 :
日本@名無史さん:03/03/15 00:59
age
649 :
日本@名無史さん:03/03/23 11:41
あげ
最近ここの書き込み少ないなあ。
他の近代史のスレに移ったのかな?
ほっしゅ
>>650 もともと書き込みの多いスレじゃないからね。
新しい話題が出るまで、マターリ保守。
653 :
日本@名無史さん:03/04/04 01:50
重臣の若槻礼次郎は後継首班選定においてよく宇垣一成を推薦してた
宇垣は加藤・若槻・浜口内閣期の陸相だったし、
立憲民政党の総裁になる可能性はあったのかな?
田中義一も政友会総裁になったし
654 :
日本@名無史さん:03/04/04 08:57
床次
655 :
日本@名無史さん:03/04/04 14:55
>>653 民政党の幹事長をした富田幸次郎なんかは
宇垣を総裁にするために、裏で動いていたらしい。
ただ、宇垣本人がどれくらい乗り気だったのかは疑問。
先輩の田中義一が、政党に入って晩節汚しちゃったのを見てるしな。
656 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:48
東條の代わりに宇垣が首相だったら、
その後の歴史は、かなり変わったんじゃないか
本人も首相に関しては、やる気満々だったし。
657 :
日本@名無史さん:03/04/06 11:57
宇垣は木戸内大臣に嫌われていたから
首相になるのは難しかったのだろう。木戸のイメージでみれば
東条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>宇垣
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
660 :
日本@名無史さん:03/04/20 11:25
あげておく
661 :
日本@名無史さん:03/04/23 20:46
もう一度あげ
662 :
日本@名無史さん:03/04/25 17:20
菅直人は東條の類ひであることが反米、いや判明いたしましたな。
663 :
日本@名無史さん:03/04/26 00:28
じゃあ自決に失敗するんだな。
664 :
日本@名無しさん:03/04/26 01:10
つーか、菅直人は戦犯の市川房枝を国会議員にしちゃった前歴があるし。
公職追放と戦犯は違うぞ
保守
667 :
日本@名無史さん:03/05/07 16:24
立憲政友会→戦後自由党に→1955年民主党と合併して自由民主党に。
立憲民政党→戦後民主党に→1955年自由党と合併して自由民主党に。
結局のところ護憲とデモクラシーな政党政治と戦前にうたわれていた
政友会も民政党も今の自民党の前進にすぎない。
668 :
日本@名無史さん:03/05/07 21:18
>>657 今でこそ先入観や結果論で見ると
東条の方が評判悪いが
当時からしたら天皇に忠誠を尽くす東条のほうが信頼は厚かっただろうね
結局今の価値観で歴史を見てもそれは正しい歴史ではないわね
東条内閣の最後の方なんて
近衛や東久邇や木戸までこのまま東条に最後までやらせて全責任を負わせればいい
とか言われてるけど
>>667 単純に政友会→自由党、民政党→民主党と言い切るのはどうか。
内訳を見ると、かなり違うと思うが。
670 :
日本@名無史さん:03/05/08 12:14
>>668 A級戦犯死刑もモノによるね。
東条・広田のように、失政(と言えばいいのか?)による人と、
板垣・武藤・土肥原のように、本当に日本を破局へ導いた人。
松井のように、「南京大虐殺」なる無実の罪を着せられた人。
>>668 実際に開戦ははじめた以上、ある程度の責任は仕方がないが、開戦責任については東条はさほどでも無いと思う。
ただ、総理になってからの彼の異常な独裁ぶり、権力濫用ぶりは悪名をきせられても仕方がない。
翼賛選挙、憲兵による弾圧政治、批判者に対する報復人事…
672 :
日本@名無史さん:03/05/08 15:51
武藤は、支那事変においては一撃論者だったけど、対米戦には反対だった。
<アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)←脳の機能的疾患(遺伝が要因)>
http://www.autism.jp/l-02-03-aspe3.htm http://www3.ocv.ne.jp/~cochome/kaisetsu.htm#chigai http://www.geocities.co.jp/Beautycare/5917/as/ ●接し方のルールがわからず無邪気に周囲の人に対して迷惑なことをしてしまうこと
がある。人を傷つけるということには鈍感です。年配の先生に向かって「おばあさん
先生おはようございます」と明るい大声で挨拶する生徒もいる。こういった言動をす
る場合にも彼らには悪意はない。
●小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがある。
●融通が利かないことも学校生活で問題になる。時間割の変更や突然の教師の欠勤と
いう事態で不安を感じたりかんしゃくをおこしたりする。あまりに規則に厳格なため
に、遅刻した同級生に延々と注意をしたり、修学旅行などで消灯時間をかたくなに守
り、他の生徒の顰蹙をかったりすることがある。
●行動・興味・活動のパターンが貧困で反復常同的なことも自閉症の特徴である。すな
わち、日常の活動の様々な面にわたって柔軟性のないルーティン(決まった手順や日課)
を押しつける傾向、これを慣れ親しんでいる習慣や遊びのパターンだけでなく、たいてい
は新しい活動にも押しつける。そしてルーティンや個人的な環境の細部の変化(家の中の
置物や家具の移動によるなど)に対する抵抗がみられることがある。
●揺れる木の葉を見続ける子どもは興味のレパートリーが狭いとも言え、視覚的な敏感さ
があるといっても良い。
●精神遅滞を伴うものと伴わないもので大きく分かれる。100%果汁のオレンジジュー
スを思い浮かべてください。それにだんだん水を加えて薄めて行くと終いには水にごく近
くなる。一口飲んで「オレンジジュースだ!」とわかるものは自閉症、水に近いけれどな
にかオレンジの味が混じっているのがアスペや高機能・・。その濃度はさまざま。濃いオ
レンジジュースであったとしても早期の療育や周りの対応によって水に近づいていくこと
は可能。しかし間違えてはいけないのはオレンジジュースが一滴でも落ちている場合は
「純粋な水」にはなれないのです。
これがまともに機能してたら
戦争なかったし、
日本型民主主義が根付いてたのかな?
イギリスみたいになれたのかな?
素人厨房ですまそ。
675 :
日本@名無史さん:03/05/11 22:49
ただ地方の土建屋利権族、抵抗派勢力の起源はやっぱ政友会系でしょ。
政友会・民政党の二大政党にとって、元老制は必要不可缺だったというわけさ
677 :
日本@名無史さん:03/05/13 21:33
>>674 政党政治中、不況と政治闘争に明け暮れた
↓
国民はうんざり、軍人がキラキラ光って見える
↓
軍部暴走、政党政治がテロで潰される
この流れだから結局は政党がまともにというのは無理
顎堂・木堂あたりのDQNが「憲政の神様」扱いされていたのが日本の不幸だった
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
680 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:40
「神様」って安易に使いすぎっていうのはそうかも。
木堂の方はちょっと買ってはいるんだが。
日本史上「神様」といえる功績を残したのは高杉晋作と大久保利通くらいだろう。
681 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:48
高すぎと大久保は「改革マインド」の真骨頂「明治維新」の達成者。
これほどではないけど、浜口雄幸と井上準之助も偉いもんだ。
「不況の脱出は低生産性企業を潰し、高生産性企業を育成すること」=「構造改革」ときめ、徹底してやった。
儲けを出さないのに税金にぶら下がる、あるいは儲けを出さないくせに儲けを出している企業を政治的圧力を持って市場から退出させる、そんな腐った構造を根底から変えようとしたのだ・・。
おかげで殺されてしまったが。
みんな当然今の時代とオ〜バ〜ラップしないとだめよん。
改革マインド(=小泉)と構造温存主義者(=野中、亀井、菅直人)
浜口も小泉もただのDQNだよ。人の言うこと聞かないし
683 :
日本@名無史さん:03/05/25 09:38
土井たか子や野中亀井の言うこと聞いてどうすんだ。
こいつらの面子を立てて足して2で割って、今の腐れ日本の出来上がりなんだよ。
土井と野中は正真正銘のバカだが、亀井は小泉よりはるかにまともだ。
あんまりマスコミを鵜呑みにしちゃいかんよ。
685 :
日本@名無史さん:03/05/26 21:48
亀井は一千兆円使っても、景気浮揚しないのに、まだ、低生産性企業に税金をぶち込めといっている。無茶苦茶なバカか税金に寄生するゲス、売国奴。
とんでもないバカか、腐りきったゲスのどちらかですよ。
すこしは経済を見る目をつけとかないとダメですよ。亀井のいうとおりになれば、日本経済は崩壊するので識者の言うことは聞いたほうがいい。
一千兆円使ったらバカでも景気浮揚しますよ。
識者のフリをするのはやめた方がいい。
687 :
日本@名無史さん:03/05/27 21:20
もうすでに一千兆使ってるんだよ。
亀井新聞読売でもそれくらいは書いてあるだろ。
新聞読みなはれ。
ウーン、自民党抵抗族、
相変わらず「民力休養」を絶叫してるな。
689 :
日本@名無史さん:03/05/28 01:19
井上財政の評価って、随分違うんだな。
690 :
日本@名無史さん:03/05/28 08:37
亀井は外務大臣にでも据えておいて、少し黙らせとけ。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
692 :
日本@名無史さん:03/05/28 15:56
保守
694 :
日本@名無史さん:03/05/30 22:14
開国以来、日本の外交は国家の存亡を賭けたものであり、日露戦後も、(当然なのだが)一歩間違えれば国家の隆盛に直結する、そんなぎりぎりの緊迫感を持って行なわれるべきものだった。
幣原外交、田中外交はもちろんのこと、吉田、鳩山、岸内閣は、そうした「外交」の重要性、緊迫感を一応は認識したものであったといえるかと思える。
しか〜〜し、以降の外交の貧困拙劣さは何たることか!!無能な大臣と無能な官僚が年功序列でポストにつき、国家戦略という視眼はかけらも持っていな〜い。
田中菌などという黴菌が蔓延っておる始末。
安部外務大臣、平沢勝栄法務大臣ばい。
>>677 国民が政党に不満感じてたなら
ドイツみたいに、軍部が新党結成して
選挙を通じて、独裁体制つくるのも不可能ではなかったのですかな?
696 :
日本@名無史さん:03/05/31 01:34
>>682 浜口雄幸は同情できるけど小泉には同情の余地なし。
浜口雄幸の政策は当時の経済学者や経済人の通説どおりのことを
やっただけだけど、小泉は浜口失政の教訓、そして直近の橋本失政
の教訓が目の前にぶら下がっていたのに、まともなマクロ経済学者の
懸念を無視して構造改革(実質的には緊縮財政)を強行した。
小泉の方が罪が大きい。
小泉と浜口の一番の違いは実務ができるかどうかだと思う。
あともう一つ、人望。
ついでに嫁がいるかどうか。
698 :
日本@名無史さん:03/05/31 02:33
>>695 軍人は政党や議会政治そのものの打倒を叫んでた
わけだからそれはムリっぽいな
また仮に軍が新党を作っても、本当に軍部が(・∀・)イイ!と
思ってた国民が、どれほどいたのかはわからないし
二・二六の後になって、宇垣の組閣失敗とか
斎藤の反軍演説とか、軍の横暴がはっきり現れた時には
宇垣や斎藤の側に一般人から応援の手紙が殺到したというしね
国民の側からすれば、腐った政党もゴメンだが、軍部の勝手もイヤだ
でも自分からは何も行動しないというのが、大多数の意見だったんじゃないかな
699 :
日本@名無史さん:03/05/31 03:46
>>697 浜口は官僚
原は叩き上げ、権謀術数の達人
小泉はポピュリズム
今、上記の二人のような経歴は国民に好かれない
700 :
日本@名無史さん:03/05/31 04:12
>>699 現在はマスコミの力が強くて世論を誘導できるから
国民はマスコミを通じて原を見るから
原のような人間をどうしても誤解してしまう
それよりも分かりやすい人物の方が支持する
民主主義の最終形体がポピュリズムだし
小泉、盧武鉉、エストラダみんなそうじゃん
701 :
日本@名無史さん:03/05/31 20:49
>>696 いんや、今小泉がやろうとしていることと、浜口井上がやったことは同じ。
低生産性企業への財政支出は景気浮揚効果なんてない。それは失われた10年を見ればよくわかること。
問題は低生産性企業に市場からの退出を促すこと。
今の財政出動論者は低生産性業種、旧来構造にぶら下がっている、土建、銀行への(乗数効果の出ない)出動をいうとるのよ。
>>698 政党は腐敗していた。しかし、軍部は今でいうと、土井たか子並のオツムでしかなかった。
>>700 大衆紙(無節操)ドクバイ新聞に あれだけ叩かれたらポピュリズムとはいえんだろ。
エストラ〜ダは大統領当選時から「マフィアの親玉」との評がフィリピンでは一般的だったそうです。
なぜ、当選したか?みなさん、マルコスが選挙結果ではコラソン・アキノに圧勝してたことをお忘れでは?投票結果を操作することで。
エストラ〜ダはマルコスの政治基盤を継承しており、投票捜査をフィリピン全土で行なったんですよ。
日本のマスコミの報道がいかにいいかげんかよくわかりますね。
703 :
日本@名無史さん:03/06/05 19:47
>>赤字国債を足す必要があるっぽいね。
これだけでも、亀井の言うことは無理。
高橋積極財政は、井上財政の構造改革後に初めて有効だったと解すべきだと思います。
不良企業に銭をつぎ込んでも消えていくだけでは。まず、優良企業を選別しないと。
704 :
日本@名無史さん:03/06/09 20:42
>>702 軍人でひとくくりにしたのは、まずかったかな。
でも当時の政党に抵抗のない軍人って、いないような気がする。
皇道派も統制派も関係なしに。政党結成しそうな軍人っているかな?
橋キン(大日本青年党)とかは、ちょっとねえ。
ついでに「反軍演説」は、支那事変後のほうを書いたつもり。
激励の手紙が殺到したのは「反軍」の方が有名だし。
ただ文脈からしたら「粛軍」のほうがいいね。スマソ。
>>699 原・浜口と小泉の一番の違いは
自分の手足がないこと。官僚機構のど真ん中で
孤独なポピュリストが政策遂行するのは難しいだろう。
政策の方向性以前の問題として、実行力がないと思うな。
>>701 産業合理化でつか。ついでに国産品愛用運動もキボン。
とりあえずヴィトン・シャネル買う香具師は非国民ってことで。
705 :
日本@名無史さん:03/06/09 23:15
韓国のV字回復、アルゼンチンのデフォルト、バブル期の過剰設備投資→供給過剰(デフレ)、高生産性企業の市場からの退出・・
どう考えても、小泉改革姿勢以外選択はありえない。バシっと構造改革してりゃあ今ごろはとっくに好景気よ。
実行力がないのは確かだが、亀井や野中は何言ってるんだか、正気の沙汰ではない。
大体日本の現今の議員はレベルが低すぎ。
あと大正デモクラシ〜なんかを語るのは好きなんだが、軍閥は嫌いなんだよな。社会党の歴史も嫌い。
「糞溜」のぞくのは好きじゃないんだよね。
小泉の正体は金融・銀行族だぞ。
郵政民営化はその立場から主張してたわけで、改革派などではけっしてない。
だから銀行なんか潰せるわけがない。
竹中も田中真紀子と同様に矛盾感と無力感に苛まれてクタクタだろう。
浜口なんかと較べるのはまったくお門違い。
本当に銀行(金融資本=ユダヤ?藁)を敵視しているのは石原なので、
もちろん石原と小泉が手を結ぶことなどけっしてありえない。
707 :
日本@名無史さん:03/06/12 17:56
ウオルフレンはこの時代を高く評価しています。
そして財閥解体は間違いだと言ってます。
日産コンツエルンとか満鉄
には冷たいです。
皆さん、どう思いますか?
708 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:29
浜口首相がすぐに死んだらやっぱ幣原が首相になってたのか?
709 :
日本@名無史さん:03/06/13 18:45
711 :
日本@名無史さん:03/06/13 23:53
>>704 強いてあげれば、宇垣一成
>>708 民政党のコンセンサスにもよるが、それでも、個人的には若槻の方が有利と見る。
712 :
日本@名無史さん:03/06/14 00:47
安達はやつぱりダメか
713 :
日本@名無史さん:03/06/14 00:47
>>711 結局若槻になったのも幣原が失言なんかで
駄目のレッテル貼られてしまったからじゃないの?
言っても幣原は副総理格だし
軍部はますます暴走してただけだろうけど
714 :
日本@名無史さん:03/06/14 11:48
>>713 幣原は民政党員ではないので、普通に総理大臣はないと思う。
恐らく若槻がなった可能性が大。次に可能性があるのは、やっぱり安達でしょ。
715 :
日本@名無史さん:03/06/19 17:33
age
717 :
日本@名無史さん:03/07/02 15:26
age
718 :
日本@名無史さん:03/07/13 01:07
age
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
720 :
日本@名無史さん:03/07/16 00:07
保全age
721 :
日本@名無史さん:03/07/22 00:58
age
722 :
日本@名無史さん:03/07/25 17:41
age
(^^)
724 :
日本@名無史さん:03/08/07 16:17
山崎渉と、保全age
725 :
日本@名無史さん:03/08/13 03:10
あげ
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
727 :
日本@名無史さん:03/08/16 21:26
宇垣一成と田中義一
あがってない
730 :
日本@名無史さん:03/09/10 16:33
加藤高明は二度組閣したわけ?
>>730 んだな。
憲・政・革の3党連立が第1次で憲政会の単独内閣が第2次か。
ま、もっとも内相は若槻、外相は幣原、蔵相は濱口と
主要ポストは憲政会の党員(あるいはその系列)だからな…
しかし、第1次内閣の顔ぶれは豪華だな。
若槻、幣原、濱口、高橋是清農商務相、宇垣陸相、犬養逓信相…
732 :
日本@名無史さん:03/09/12 03:21
>>731 サンクス!
どうやら政府の見解では加藤高明は一回のみの
組閣ということになってますな、
どうゆう根拠か知らないが。
新聞にも二次組閣のことは出てなかったと記憶してます。
ところで歴代内閣の組閣写真て全部残ってんですか?
>>732 初期の内閣の写真は…残ってないんじゃないか?
734 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:54
立命館大が出した西園寺の伝記は面白い。(全4巻)→ちなみに立命館創始者は西園寺の元秘書で西園寺が公家時代に作った学校の名を拝み倒して戴いた。
西園寺の意中の後継総裁は松田正久だったとか、原は山県に爵位が欲しいと頼み込んでいたが、松田の死で自分に後継の芽が出ると断って、平民をアピールするようになったとか。
その一方、「宮中某重大事件」黒幕は西園寺だったとか、身内とは思えぬ暴露話も多い。
また、政友会結成から崩壊までの西園寺と政友会の関係も詳細に書かれているので一読をお勧め。
735 :
日本@名無史さん:03/09/22 02:07
>>734 別巻2冊もあわせると計6冊だわな。
買って読みたいけど、セットだと古本でも2〜3万はする。
高いとみるか、安いとみるか…。
737 :
日本@名無史さん:03/09/23 08:54
>>734 私は市川の市立図書館で読んだ(記憶違いならゴメン)。
森格
739 :
日本@名無史さん:03/09/29 01:19
恪
741 :
日本@名無史さん:03/10/02 17:24
議会主義の衰退、軍国主義の推進者だからな。実はだいぶん前に死んでるけど。
盲目的に誤った道へのプロモートを、しかも笑止なことに自らは正義と信じて(あるいは利権か)行ったわけで。
卓越してたのは、調整力。
今も昔もこんなバカが跳梁するのが日本の政界。
742 :
日本@名無史さん:03/10/05 11:39
結構破滅的結末になったときにもうあの世に行って責任を取らずに後任とかが責任取らされるケースが多いよな。
743 :
日本@名無史さん:03/10/15 22:40
なんだって田中義一はあんな奴を事実上の外相にしやがったのか…
744 :
日本@名無史さん:03/10/25 03:39
前田米蔵や久原房之助は戦後、議員になれたのかな?
746 :
日本@名無史さん:03/10/25 18:48
747 :
日本@名無史さん:03/10/25 23:41
日本的集団主義の中で力をもつことと、リーダーとしての能力は違うよな。
森喜郎や田中義一は前者の天才だがね。
748 :
日本@名無史さん:03/10/26 00:06
政友会久原派=最リベラルという位置づけで良いのかな?
749 :
日本@名無史さん:03/10/26 18:31
「久原派」を政友会正統派と解するならば。
正統派を久原派、鳩山派と弁別した場合、久原派は親軍勢力。
政党解散にも積極的だったし。
後に同交会を結成した政友会鳩山派が最リベラル。
750 :
日本@名無史さん:03/10/27 00:40
鳩山は「統帥権干犯」を高らかに述べ立てて
政党自滅の道を切り開いた先駆者。
でも、おかげで皆からハミにされ、二・二六後には
義兄で親分の鈴木喜三郎も落選して死に、実質あぼーん。
大政翼賛会にも参加できず。しかしそのおかげで
戦後はリベラルと称され、首相にまで登りつめる。
人生わからんものですね。
751 :
日本@名無史さん:03/10/27 01:08
組閣寸前に公職追放されたり、追放解除直前に倒れたり、
吉田茂に政党乗っ取られたり、かなり苦労したけどね
>>750 >大政翼賛会にも参加できず。
人生わからんもの、というのは同意だが、
大政翼賛会に参加しなかったのは
主体的判断と見るべきじゃないか?
>>752 そうだね。鳩山は翼賛会を憲法違反だとして
攻撃してたわけだから、参加しなかったと言えると思う。
でも、それはどこか便法のような気もするんだよな。
あの時代の「常識的な」政治家は、みんな翼賛会に参加したわけで。
それに難癖つけるのは、鳩山一郎、尾崎行雄、中野正剛みたいに
極右とか極端な自由主義者(極左的イメージ)といった、政界のはみ出し者ばかり。
しかも尾崎や中野といった気骨ある連中と違って、鳩山は軽井沢に引きこもってるだけだし。
なんか自分が主流派になれなくて、クダ巻いてるように思えてしまうわけ。
もし鳩山が政友会内で勢力を保ったままだったら、周囲に推される形で
ホイホイと翼賛会の役職とかに就いていたかもよ。まあこれは多分に偏見だけれども。
754 :
日本@名無史さん:03/10/28 01:17
まあ鳩山一郎はどっちについても公職追放ということになるな
そもそも公職追放の基準があいまいだしな
石橋湛山とかも追放になってるしワケワカラン(AA略)
756 :
日本@名無史さん:03/10/28 23:59
湛山はGHQにタテついたから
757 :
日本@名無史さん:03/10/29 00:26
鳩山は「議会主義」を尊重する立場から一党支配の翼賛会に反対していたわけで、その点に関しては本物と解すべきだろう。
町田忠治が翼賛会に大反対ながら結局は参加したのと似たような状況はありえたかもしれないが。
んでも大体、政友会の一大主流派だった鳩山派は親軍風潮に抗したために少数派になってしまったわけで、その点からして翼賛会は腹の収まらないものがあったはず。
鳩山の公職追放はやはり民政局なんかの政治的な陰謀だろう。組閣当日に追放だぜ。
758 :
日本@名無史さん:03/10/29 01:37
戦前の政友会に鳩山派ってあったのかな。
中島派と久原派なら知ってるけど。鳩山は、久原派だよね。
759 :
日本@名無史さん:03/10/31 14:48
放送大学で御厨貴氏が「日本政治史―20世紀の日本政治」
って講義やってるけど、見てる人いますかー?
760 :
日本@名無史さん:03/10/31 15:16
>>758 鳩山派は、義兄鈴木喜三郎派を糾合して、本来政友会最大の勢力をもってたんですよ。
政友会正統派の総裁に、鳩山派が自派よりも勢力の劣る久原を選んだのは、中島派革新同盟に対抗するための「便宜」ですよ。
河野一郎「今だから話そう」にいきさつが詳しく載ってます。
>>759 (=゚ω゚)ノ
今日は加藤陽子が出てたね。
先週は北岡伸一だったし、なかなか面白かった。
762 :
日本@名無史さん:03/11/01 09:39
763 :
日本@名無史さん:03/11/11 03:44
あげ
764 :
日本@名無史さん:03/11/11 23:01
安倍のじいさんの寛の思想は「政友会」「民政党」のどちらに近いんだろう?
765 :
日本@名無史さん:03/11/12 16:35
>>764 安倍寛の所属変遷は
第一議員倶楽部→衆院倶楽部→翼賛議員同盟→翼政→日政→進歩党
しょっぱなから第一議員倶楽部だからな。既成政党との縁は薄そう。
だが最後に進歩党に入ってるところから見れば、どちらかと言えば民政党寄りかも。
766 :
日本@名無史さん:03/11/16 17:22
戦前の政党の変遷が、マイナー政党まで含めてわかるサイトってないのかな?
あと、貴族院の会派の変遷とかも。
新人物往来社の日本史総覧の近代編でも見たら?
768 :
日本@名無史さん:03/11/19 13:11
文献でもなかなかないのにサイトはないよ。
誰かが調べないと。
それに議員数人のマイナー政党もいっぱいあるから正確に調べるのも相当困難かと。
769 :
日本@名無史さん:03/11/20 20:24
>>766 貴族院の会派だったら、尚友倶楽部あたりから
文献が出てるんじゃないかな。さすがにサイトはないと思う。
貴族院自体がマイナーだからな…。
研究会ですら、どの程度の知名度なのやら。
770 :
日本@名無史さん:03/11/21 00:05
三木武夫夫人の父親って政友会所属だったのか?
昭和電工のオーナだったのは知っていたが。
771 :
日本@名無史さん:03/11/22 15:55
そう。
森 矗昶ね
772 :
日本@名無史さん:03/11/23 16:35
スレ違いかもしれないですが、戦争中に貴族院にあった「無所属倶楽部」について教えて下さい。
広田弘毅、東郷茂徳、石黒忠篤…と、東条とウマが合わなさそうな面子が揃った会派だと聞いたので。
2周年記念age
保全age
うちの近所にあった遊郭調べてたら、設置にあたって
政友会と憲政会の駆け引きがあったようだ。
776 :
日本@名無史さん:04/01/04 23:56
松島遊郭事件か?
>>776 いや、浜松なんだけど。
誘致に名乗り出た地区に、それぞれ政友会と
憲政会がついたそうな。
>>777 そういう話って面白いな。
遊興・娯楽施設なんかの問題と、政党とのからみか。
今でもありそうだけど、戦前の話ならしがらみも少なくて
表沙汰にしても、誰も困らなさそうだし。
勝った政党はどんな利権を獲得したのかな。
遊郭一ヶ月フリーパス券の贈呈とか、そんなんだったら笑えるw
779 :
日本@名無史さん:04/01/11 10:35
>>778 自民・民主やマスコミってこういう戦前の2大政党制の影については全く言わないよな。
780 :
日本@名無史さん:04/01/11 11:08
知らないんだよ、特に民主党は。
戦前に2大政党制の時代があったことを。
戦前と戦後は国家体制が全く違う。比較しても無意味。
>>781 そうでもないと思うけど。
体制はちがっても、政党政治の本質というか
エッセンスは共通してる。それに戦前戦後を通して活躍した
政党政治家だって多いしな。
二大政党制になると、選挙戦がより激しくなる。
討論番組での中傷合戦や選挙資金のばら撒き、
そしてメディアからの情報がステレオタイプ化され実際の政治家の姿や
政策から外れた要素で投票される。
タレント候補がこれまで以上に多くなり、政策についての実のある議論が国会から更に減る。
メディアが充実したことは、より多くの人が様々な情報を様々な方法で得ることに貢献したが
結局受け取る側が整理しきれなくなりステレオタイプ化された情報を望むようになった。
メディアの責任とそれを受け取る側の責任は更に重くなってしまう。
>>783 そこにでてる問題点は、今の一党優位体制でも変わらないんじゃないの。
ただ、選挙戦が禿しくなるというのは胴衣。
選挙に緊張感が出るのは、悪いことばかりではないけど
日本では、アメリカばりに姑息な手段ばかりが横行しそうだ。
さげ
あげとく
age
戦前の選挙はほぼ与党が勝つ仕組みになっていたらしい。
政権交代は、選挙の結果でなくて、主に、非議会勢力により決定されていた。
与党が選挙に負けて勝った側に政権が移った例は、ほとんどない。
選挙権はあったが選挙権が政権選択権になることは巧みに回避されていた。
ポカーン
憲政の常道という言葉を知らないのか?
790 :
日本@名無史さん:04/02/20 00:12
この辺の論文で最近面白いのある?
>>788 半分当たっているが、必ずしもそうとは言えない。
×政友本党(清浦内閣)vs護憲3派(特に憲政会)○ ←第二次護憲運動
△立憲政友会(田中内閣)vs立憲民政党(濱口総裁)△ ←政:217議席、民:216議席でわずか1議席差
ちなみに与党が勝った選挙は、4例。
○立憲同志会(大隈内閣)vs立憲政友会(原総裁)×
○立憲政友会(原内閣)vs憲政会(加藤総裁)、立憲国民党(犬養総裁)×
○立憲民政党(濱口内閣)vs立憲政友会(犬養総裁)×
○立憲政友会(犬養内閣)vs立憲民政党(若槻総裁)×
意外に少ないんだよね。
内務大臣が選挙干渉をしていなければ、戦前の選挙による政権交代の例も増えたかもしれない。
上の例を見ていると、もし鈴木喜三郎内相の選挙干渉がなければ、濱口内閣の誕生が早まって、
ひょっとしたら金輸出解禁政策も成功したかもしれない。歴史に「もし」は禁物だが。
>>789 ちょっと意味の分からないレスだな。
792 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:54
選挙以外での要因での政権交代が多いよね
元老西園寺の掌の上での議院内閣制
>>792 憲政の常道期には選挙で勝った第一党の総裁を
首班候補として奏請してたんだから、別にいいじゃん。
>>793 選挙で勝った→政権ゲット
という流れとは限らないからな。
選挙で政権が動いたのは、清浦→護憲三派のみ。
田中・濱口・犬養の3人も、首相就任時には第二党の党首だったわけで
選挙で勝ったから首相になったわけじゃないのね。
敵党政権を倒して政権ゲット→内務省掌握→選挙干渉で勝利
という流れが戦前政党政治の黄金パターン。
>>ひょっとしたら金輸出解禁政策も成功したかもしれない。
近代経済学者が書いた本を読めばこんなことは有り得ない事が分かるのになー。
いつまで運が悪かったと書かれるんだろうか。
>>795 世界恐慌の影響を考慮しなくても、金解禁は失敗した、と?どういうしくみで?
何を持って成功、失敗というのかよくわからんが、
旧平価で解禁するために物凄いデフレ政策を取ったでしょ。
あれだけでも大きな失政だよ。
799 :
日本@名無しさん:04/03/05 18:17
浜口マンセーage
800 :
日本@名無史さん:04/03/05 18:23
800age!
801 :
日本@名無史さん:04/03/10 15:41
みなさん詳しいですね。
802 :
日本@名無史さん:04/03/27 07:47
あげ
803 :
日本@名無史さん:04/04/05 22:03
>>781 戦後政党史は戦前政党のリバイバルから始まったわけだし。
804 :
日本@名無史さん:04/04/21 11:57
>>803 政友会鳩山派→自由党(鳩山一郎)
民政党(町田忠治)→進歩党(町田忠治)
だったっけ。その間に翼政とか日政とか入ってるから
そのへんのつながりはよくわからんけど。
考えて見りゃどっちの総裁も公職追放くらってるな。
805 :
日本@名無史さん:04/05/01 15:09
漏れら極悪非道のageブラザーズ!
今日もネタもないのにageてやるからな!
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ∧_∧ age
(・∀・∩)(∩・∀・) age
(つ 丿 ( ⊂) age
( ヽノ ヽ/ ) age
し(_) (_)J
806 :
日本@名無史さん:04/05/01 16:47
>>794 そういう意味では、清浦→護憲三派のときは、清浦内閣に分がなさすぎたということか。
あと、林銑十郎→第1次近衛も、一応選挙結果による交代じゃなかった?
807 :
日本@名無史さん:04/05/01 16:48
>>780 学校で歴史教育を受けているわけだし、さすがに知らないことはないのでは?
808 :
日本@名無史さん:04/05/01 16:52
政友会-保守主義
民政党-自由主義
って感じですか?
809 :
日本@名無史さん:04/05/01 17:35
なんか自由党・憲政党時代から入れ替わってるよーな
アメリカの共和党・民主党も入れ替わってるよーな
810 :
日本@名無史さん:04/05/01 21:59
自由民權運動期
自由黨・・・自由民權運動急進派が板垣を擔いで結黨(1881)
改進黨・・・自由民權運動穩健派が大隈を擔いで結黨(1882)
初期議會
自由黨・・・第2次伊藤内閣で板垣が入閣
進歩黨・・・第2次松方内閣で大隈が入閣
第1次大隈内閣(通稱:隈板内閣)の成立(1898)
自由・進歩兩黨が合併し憲政黨結成(衆院定數300議席のうち260議席を占有)
首相:大隈、内相:板垣、4ヶ月で崩潰
明治末〜大正政變期
政友會・・・舊自由黨系議員が、伊藤や西園寺を擔いで結黨(1900)
同志會・・・舊進歩黨系議員が、政府系官僚層と結んで結黨(1913)
第1次世界大戰〜護憲三派内閣
政友會・・・自由主義的、穩健外交、第1次世界大戰參戰消極的
憲政會・・・保守主義的、積極外交、第1次世界大戰參戰積極的
護憲三派内閣崩潰による政界再編後
政友會・・・保守主義的、積極外交、緊縮財政
民政黨・・・自由主義的、穩健外交、積極財政
五・一五事件後
政民兩黨から閣僚を出す擧國一致内閣
兩黨の政策的な違ひが減少(戰後の自由民主黨誕生の土壤)
二・二六事件後
軍部が日増しに臺頭
政民兩黨、解黨して大政翼贊會に合流(1940)
811 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:21
age!
812 :
日本@名無史さん:04/05/02 16:35
>>807 学校で習ったことをちゃんと覚えているかどうかは別。
813 :
日本@名無史さん:04/05/02 16:53
>護憲三派内閣崩潰による政界再編後
>政友會・・・<中略>緊縮財政
>民政黨・・・<中略>積極財政
逆じゃね?
814 :
日本@名無史さん:04/05/02 18:38
民政党浜口内閣・・・金解禁
政友会犬養内閣・・・再度禁止?
>>810 せっかくあなたはハゲの伊×先生の門下生になれたのに、これじゃ形無しだね。
816 :
日本@名無史さん:04/05/02 21:59
817 :
日本@名無史さん:04/05/03 18:17
>>792 西園寺以外の元老だったら、政党政治はもっと前に終わってた
政友会/民政党はそれぞれ英語では何と呼ぶの?
819 :
日本@名無史さん:04/05/03 19:47
今みたいに選挙のたびに総辞職するのがいいとも思えないぞ。
戦後の内閣制度なんて、同じ首相の続投なのに、いったん総辞職して2次3次の内閣をつくって、閣僚ポストたらい回ししているだけじゃん。
選挙結果如何では同じ首相が続投するとは限りませんが?
821 :
日本@名無史さん:04/05/03 21:20
>>820 その場合は別に宜しい。
同じ首相が続投するときに、一々総辞職すんな!
>>821 内閣改造は、選挙よりも12月の年中行事。
必ずしも制度的問題じゃない。
>>822 いやいや、これは制度的な問題なんだよ。
日本国憲法よく読んでくれ。
第七十条 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院総選挙の後に
初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
824 :
日本@名無史さん:04/05/03 22:50
>>823 821がいっとるのは選挙とは関係なく行われる内閣改造のことじゃないかな。
総辞職の後の内閣再組織は、内閣改造とはいわないから。
>>821 内閣改造は12月とは限らんぜよ。
>>824 たぶんそうだね。改造しても第一次、二次と数字は増えないけど。
今の純一郎内閣は、第二次になるのかな。
戦前では、伊藤博文の第四次が最高だね。
ヒマだからランキングしてみる。
<戦前>
第四次・伊藤
第三次・桂、近衛
第二次・松方、山県、西園寺、大隈、山本、加藤高、若槻
<戦後>
第五次・吉田
第三次・鳩山・池田・佐藤・中曽根
>>823 閣僚ポストのたらい回しが問題なんでしょ?
選挙による総辞職 → 内閣改造だけだったら、
3年弱に一回ポスト変更するだけだから、大して問題じゃないでしょ。
という意味なんだけど分かった?
>>824 確かに12月とは限らないね。
選挙後も同じ首相の続投なら、内閣は総辞職しなくてもいいじゃんという意味で言ってました。
今の制度では、第1次桂内閣の継続期間5年を超えることはできないので。
>>827 制度っつーても、内閣の継続期間5年については
自民党の総裁再選についての党則を変えれば済むのでは。
829 :
日本@名無史さん:04/05/04 01:12
衆議院は4年に1回は解散しないといかんからな
第一次の内閣の寿命は4年が限度か
830 :
日本@名無史さん:04/05/04 01:41
>>821 あんたは意味が全然わかっていない。今の制度では
五年を超えることは出来ないなどというが、そんなこと憲法のどこに書
いてある?
国会法のどこに書いてある? 内閣法のどこに書いてある?
アホか?
832 :
日本@名無史さん:04/05/04 03:08
833 :
日本@名無史さん:04/05/04 03:14
>>831 日本国憲法
第四十五条【衆議院議員の任期】
衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第七十条【内閣総理大臣の欠缺(けんけつ)又は総選挙後の総辞職】
内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
この2つの条文がある限り、現憲法下では、1つの内閣の継続期間が4年を超えることはありません。
佐藤内閣は7年8か月つづいているわけだが。
836 :
日本@名無史さん:04/05/04 03:45
このスレ、漫才みたいになってきた。w
話が全然噛み合ってない。w
839 :
日本@名無史さん:04/05/04 12:37
>>838 小泉の任期は再来年の9月までと決まってる。
なんかスレの趣旨と離れてきてるな。
>>818 手元にある英文の本3冊とも、(Rikken) Seiyukai, (Rikken) Minseitou
としか記述されてないね。
正式な英語の名称はあるのかも知れないけど。
constitutional politicians partyと
constitutional democratic partyか。
841 :
日本@名無史さん:04/05/04 13:29
政友会系内閣→第四次伊藤博文内閣、原敬内閣、高橋是清内閣、田中義一内閣、犬養毅内閣
民政党系内閣→加藤高明内閣、若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣
842 :
日本@名無史さん:04/05/04 13:33
>>824 12月は予算案が政府内で出来上がって一段落つくからという政局的な理由でしかない。
原敬という男、南部藩の家老の息子だ。御維新の時、長州を中心とした官軍が
盛岡を攻撃、敗戦、一族は支配階級を追われメチャクチャになる。この恨みいつか
はらしてやるという意気込みで東京に出る。そして山縣を長とする薩摩、長州の
門閥との政治の戦いが始まる。平民としたのはこんな制度すぐなくなるといっていた
そうだ。そのかわり官位にはこだわっていた。大正7年デモクラシィーの後押しで
政権を執ると、県令、軍人の幹部は奥羽列藩同盟の幹部から人選している。
エリート意識の強いイヤナやつ。
844 :
日本@名無史さん:04/05/04 19:45
>>841 西園寺公望も政友会総裁として内閣を組織していますよ。
あと、第1次山本権兵衛内閣や加藤友三郎内閣も、政友会が事実上与党の内閣。
また、第2次大隈内閣は、首相大隈自身は政党に属してないが、のちに憲政会に合流する3党を事実上の与党とする連立内閣。
845 :
日本@名無史さん:04/05/04 21:26
立憲政友会 Friends of Constitutional Government Party
立憲民政党 constitutional civil administration party
翻訳サイトの機械翻訳だと、どれでやってもこうなる。
政友会のほうは大文字で出てくるので、ちゃんと固有名詞として認識されているみたい。
846 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:05
>>843 でも、西園寺の後継が松田正久だと言われていた頃、原は爵位が欲しくて山県にも泣き付いた。
だが、松田の急死でポスト西園寺の有力候補に挙がると、平民を貫く方針に転じた。
ソースは西園寺の伝記より。
847 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:06
848 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:49
850 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:58
851 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:33
852 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:37
853 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:58
854 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:25
855 :
日本@名無史さん:04/05/05 01:18
>>731 顔ぶれの豪華さなら、第1次山本内閣もなかなか。
やはり政変の直後の内閣だからか。
856 :
日本@名無史さん:04/05/05 01:58
戦前の政党名には「立憲」という言葉がつくものが多いですが、戦後は皆無なのは何故ですか?
また、戦前にはほとんど非合法の無産政党にしかなかった「日本」がつく政党が、終戦直後に急激に増えるのは何故ですか?
また、同様に戦前には非合法の無産政党にしかなかった「民主」が、戦後は保守本流を自認するような政党にもつけられるようになるのは何故ですか?
>>856 「民主」というコトバは、天皇主権であったために、
不敬に当たるとして使えなかったんじゃない?
民主なんて、「国民主権」を連想させると言うことで。
吉野作造も、わざわざ「民本」なんて言葉をつかっているくらいだし。
858 :
日本@名無史さん:04/05/05 17:10
初心スレでこちらで聞けといわれたのですが・・・
清浦奎吾伯爵の素性と授爵の理由について詳細ギボン
859 :
日本@名無史さん:04/05/05 18:28
戦前では爵位なしの首相のほうが少ない。
戦前の無爵首相一覧
原敬
浜口雄幸
犬養毅
岡田啓介
広田弘毅
林銑十郎
阿部信行
米内光政
東条英機
小磯国昭
戦前の日本は天皇主権じゃないよ。国家主権だよ。
>>843 原敬についてはどんな本を読んでも良いイメージで
書かれているね。
軍、特に陸軍を抑えるように努力していたことが評価されている
のかもしれんね。
ただ気になるのは、政権の支持率自体はどんな状態だったんだろう?
政友会議員による汚職事件はあったようだが。
支持率って概念あったのかね?
あるとしても調査がなさそう。教えてエロイ人。
選挙干渉って具体的にはどんなもんだったの?
864 :
日本@名無史さん:04/05/06 00:51
>>863 自由民権運動の時の選挙干渉で有名なのは、巡査がやってきてやめさせる類の奴だな。
巡査だけでなく対立する候補同士で「壮士」を雇って嫌がらせをやり合ってたが。
>>862 大正デモクラシーのころ(憲政の常道の頃)は
民意を問うという形で解散総選挙を西園寺が薦めて実施された。
あとは新聞・雑誌での政権批判とか財界で政策支持の表明があったとかなかったとかぐらいか。
世論調査というのがいつ誰が始めたものかもあわせ興味のあるところだな。
>>861 岡義武や服部之総は必ずしもそうではないけどね。
「多数決」重視に走り、汚職をはびこらせたり選挙干渉を厳しく行ったり。
理念にとらわれ過ぎて何一つ実行できないのも困るが、
あまりにも「現実的」過ぎて節操のなさを感じるというような批判が共通してるとこかな。
865 :
日本@名無史さん:04/05/06 04:32
歴代臨時首相
黒田内閣のときの三条実美
第2次伊藤内閣のときの黒田清隆
第4次伊藤内閣のときの西園寺公望
原内閣のときの内田康哉
加藤(友)内閣のときの内田康哉
第2次加藤(高)内閣のときの若槻礼次郎
犬養内閣のときの高橋是清
第2次大平内閣のときの伊東正義
866 :
日本@名無史さん:04/05/06 20:15
政友会も民政党も政権を握ると内務省使って選挙干渉して
野党の言論、結社の自由を妨害してるよね。
統帥権干犯問題での政友会の行動といい、戦前の政党は党利党略で
自分の首を締めてるよね。
867 :
日本@名無史さん:04/05/07 07:59
>>865 >黒田内閣のときの三条実美
>第2次伊藤内閣のときの黒田清隆
>第4次伊藤内閣のときの西園寺公望
ここで臨時首相が出た理由は?
黒田清隆は嫁さんぶった斬って拘置所入ってたから
伊藤博文は縁交でちょくちょく夜間の閣議抜け出したので
三条は黒田後に懸案にめどがつくまで山県が固辞してたからじゃないの?
870 :
日本@名無史さん:04/05/09 01:26
ふーん。
871 :
日本@名無史さん:04/05/09 03:00
自由民權運動期
自由黨・・・自由民權運動急進派が板垣を擔いで結黨(1881)
改進黨・・・自由民權運動穩健派が大隈を擔いで結黨(1882)
初期議會
自由黨・・・第2次伊藤内閣で板垣が入閣
進歩黨・・・第2次松方内閣で大隈が入閣
第1次大隈内閣(通稱:隈板内閣)の成立(1898)
自由・進歩兩黨が合併し憲政黨結成(衆院定數300議席のうち260議席を占有)
首相:大隈、内相:板垣、4ヶ月で崩潰
明治末〜大正政變期
政友會・・・舊自由黨系議員が、伊藤や西園寺を擔いで結黨(1900)
同志會・・・舊進歩黨系議員が、政府系官僚層と結んで結黨(1913)
第1次世界大戰〜護憲三派内閣
政友會・・・自由主義的、穩健外交、第1次世界大戰參戰消極的
憲政會・・・保守主義的、積極外交、第1次世界大戰參戰積極的
護憲三派内閣崩潰による政界再編後
政友會・・・保守主義的、積極外交、積極財政
民政黨・・・自由主義的、穩健外交、緊縮財政
五・一五事件後
政民兩黨から閣僚を出す擧國一致内閣
兩黨の政策的な違ひが減少(戰後の自由民主黨誕生の土壤)
二・二六事件後
軍部が日増しに臺頭
政民兩黨、解黨して大政翼贊會に合流(1940)
872 :
日本@名無史さん:04/05/09 08:06
>>858 誰か詳しい方おられませんか?ググってもほとんど分からないんですが・・・
>>872 ちょっと調べてみたけど、確かにちゃんとした伝記もないんだね。
清浦奎吾顕彰会常任理事 編 『清浦奎吾小伝』 清浦奎吾顕彰会
出版年: 1986.10 44p
これは、多分自費出版で、図書館にも殆ど入ってないみたいだけど
(NACSIS Webcatでは一件もヒットしなかった)
国会図書館には入ってるそうです。
874 :
日本@名無史さん:04/05/09 21:43
ずいぶん前に、このスレで清浦の子孫がでてきたことがあったな。
875 :
日本@名無史さん:04/05/09 21:49
明治時代の新聞読むと「三条公の内閣」と書いてて
臨時首相という雰囲気は見当たらないんだけどね
清浦奎吾の伝記はちゃんとしたのありましたね。
後藤武夫著『子爵清浦奎吾伝 』一九二四年 三三〇頁
伯爵清浦奎吾伝刊行会編『伯爵清浦奎吾伝. 上,下巻 』一九三五年
失礼しました。
877 :
日本@名無史さん:04/05/09 23:30
>>876 わざわざ調べていただいてありがとうございます。・・・読んだかたおられますか?詳しく教えてください。
879 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:39
>>878 わざわざありがとうございます。自分で調べた限りでは僧侶大久保了恩の五男ですがHP等で熊本藩士出身と
成ってるのも見受けられます。12才のとき熊本市内の名門浄行寺の養子にいっていますが帰ってきてしまいます。
大久保普寂から清浦奎吾と名前は自分で変えたようです・・・他家の養子に行ったのではないように見受けられますが・・・
僧侶は士族でしょうか?以後司法省に入りますが・・・授爵についてに記述無く、出自もいまいち・・・。
880 :
日本@名無史さん:04/05/11 20:36
岡崎久彦氏の祖父の岡崎邦輔ってどういう人だったの?
881 :
日本@名無史さん:04/05/11 23:41
>>865 小渕入院の時の青木も2日間ぐらい臨時代理首相になってなかったっけ
882 :
日本@名無史さん:04/05/12 05:36
原敬が平民宰相なんてうそじゃ!
本当の平民宰相はわが福岡県の出身で石屋の息子の広田弘毅先生だ!
883 :
日本@名無史さん:04/05/12 06:22
>>882 平民というのは、華族じゃないということなのかな?
884 :
日本@名無史さん:04/05/12 07:39
>>880 和歌山の人だよね。政友会の大物だったらしいが…。
>>880 陸奥宗光とつるんで政友会の主導権を握ろうとしてたな。
陸奥・星亨と絡んで伊藤・井上らと面白い駆け引きをしていた話を何かの本で読んだ。
『明治の政治家たち』(服部之総)だったかな。
岡崎久彦氏の「陸奥宗光」は陸奥伝というより、外交評論と初期議会の本だね。
888 :
日本@名無史さん:04/05/13 02:13
>>883 出身が華族でも士族でもないってことでは?
確かに、そういう意味では広田が最初の平民宰相。
原は盛岡藩の家老の家で、出身は明らかに士族。
原本人は「平民宰相」と呼ばれたいために、わざと分家して士族籍を脱しているが。
ちなみに、士族出身でもない首相は、広田以後は戦後の幣原までいない。
その代り幣原は男爵だったけど
890 :
日本@名無史さん:04/05/13 17:28
一応士族でも、田中義一とか若槻礼次郎も相当しょぼい家の出だったとおもうが。
幣原は三菱の女婿で加藤高明の義兄弟だからハイパーエスタブリッシュメント
891 :
日本@名無史さん:04/05/15 16:28
>>889 近代以降の爵位を基準にしたら、戦前の首相の大半は有爵者。
892 :
日本@名無史さん:04/05/15 16:55
歴代党首をウプキボン
893 :
日本@名無史さん:04/05/15 17:09
伊藤博文は、生まれは百姓身分。
>>892 高校で使う資料集には歴代首相の顔写真があるけど、
政党党首は名前だけで写真がない人も何人かいるね。
鈴木喜三郎はまだ見たことがない。
895 :
日本@名無史さん:04/05/15 19:55
政友会:伊藤、西園寺、原敬、高橋是清、田中、犬養、鈴木喜三郎、久原房之助(正統派)、中島知久平(革新派)
憲政会:(桂)、加藤高明、若槻、
民政党:浜口、若槻、町田忠治
897 :
日本@名無史さん:04/05/15 21:39
>>895 (桂)は要らないんじゃないかな。
桂は同志会の元をつくったけど、憲政会結成の時はとっくに死んでた。
>>893 写真とくらべたら、ちょとカッコよすぎだなあ<鈴木の銅像
町田忠治とかも、ノントウ(ノンキな父さん、当時の漫画)に
似てるとか言われたけど、あまり顔知られてる総裁じゃないよね
899 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:11
>>897 確かに、立憲同志会なら桂太郎を初代総裁とすべきだろうが、憲政会なら初代総裁は加藤高明だな。
立憲同志会の結党が1913(大正2)年2月で、桂の死が同年10月。
一方の憲政会は、第2次大隈内閣崩壊後に旧与党が結集したもので、結党は1917(大正6)年。
900 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:17
>>806 第5次吉田(自由党)→第1次鳩山(日本民主党)も選挙による交代では?
901 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:19
第2次大隈内閣(3党連立)→総辞職後に旧与党が結集→憲政会結成。
羽田内閣(5党連立)→総辞職後に旧与党が結集→新進党結成。
なんだか似てる。w
902 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:51
桂園時代最高
903 :
日本@名無史さん:04/05/16 15:56
>>900 違う。
あれは、「反吉田」で左右の両社会党が鳩山に入れたから。
904 :
日本@名無史さん:04/05/16 20:55
詳しい方に質問です。
帝国議会の会議録に出てくる野次?で、
「ノウノウ」と「ヒヤヒヤ」の意味を知りたいのですが、
教えてください。どちらも同意を示すものかと思ってたのですが。。。
905 :
日本@名無史さん:04/05/16 20:59
no no と here here
906 :
日本@名無史さん:04/05/16 21:07
ヒヤヒヤは hear hear じゃない?
ノーノーのほうは、「(『ノーノー』拍手)」という表現が多く、No No なのかどうか知らん。
帝国議会の演説の方が今の国会の演説より格調高いのが多いな。
>>907 格調が高いというより漢語が多い。
本居宣長が激怒しそうである。
音読みは極力イカンという宣長の「古事記伝」はやっぱり漢語が少ないのかな。
ちょっと前の大平レベルですら、「明眸皓歯」とか「逐鹿」とか当たり前のようにいってたのに。
最近は加藤六月の「過ぎたるは及ばざるが如し」の誤用、田中マキコの「まず隗より始めよ」の誤用が話題になるくらい。
宣長の理想に近づいてる。
教養が零れ落ちてるだけじゃん
というツッコミ待ちでつか?
戦争がなかったら今でも帝国議会だったのかな・・・
「戦争がなかったら」という仮定がどの程度実現性があるのか?
その実現性とほぼ同じ程度の可能性で帝国議会であったといえる。
913 :
日本@名無史さん:04/05/17 17:34
山本宣治暗殺の黒幕は誰?
914 :
日本@名無史さん:04/05/17 23:55
伊藤博文が立憲政友會をつくり、桂太郎が立憲同志會(のちに憲政會、立憲民政黨)をつくつたことで、政黨は政權擔當能力を備えることができた。
それ以前の政黨は、戰後の55年體制下における社會黨と同じで、批判するしか能がない存在だつた。
さういふ意味では、いはゆる「大正デモクラシー」や「憲政の常道」を實現させた最大の功勞者は、伊藤と桂であると言へる。
政友会も民政党も大部分は国際協調主義。
日本陸軍や朝日新聞が荒れ狂った30年代のせいでダークなイメージをもたれるのかもしれないが、大正デモクラシー期は今とそんなに変わらない気がする。
治安維持法などもあり、ちょっと前の韓国みたいな感じが近いか。
もちろん、階級社会であり、軽工業農業中心だったため、貧乏だったが、それは農地解放と高度成長があってのこと。
というか、大正デモクラシーなんてなかった方がもっとうまく大戦中を乗り越えられたような気も。
917 :
日本@名無史さん:04/05/18 14:38
>>915 >>914 政治の民主化→国民の排外主義的本音の顕在化
という点では大正デモクラシーも今の韓国も似ているかも。
民主主義というのは必ずしもいいことではない。
排外主義は教育、マスコミの問題もあると思うけどな。
大半の人間は尋常小学校卒な訳だけど、当時の教科書じゃ
国際的な視野は身につかないよ。マスコミも今のワイドショー以上に酷い。
男子普通選挙制にした時点で中学まで義務教育化すべきだったな。
まあ、大学まで行っても狂信的な国粋主義に染まってる国が隣にある訳だが・・・
日本人は極めて正直なよい人間であつて、自身の利害は、無意識的では
あらうが、棚に上げて、世界平和のために聯盟に居残つて居なければ
不可(いけ)ないといふ考へをもつてゐるお目出度い人もあるやうである。
そんな人間は世界の何処を探しても日本以外には余り居ないやうだ。
平和を不結構と云ぶものはないが、この世界平和を強調する国際主義とか、
聯盟主義とかを日本ほど徹底的に宣伝した国は、不思議にも世界に其の類を
見ない。中学校、小学校の教科書にまで、聯盟や国際主義が書いてある。
実に正直なお人よしの国である。
「世界変局と帝国の地位」 松岡洋右 昭和七年
922 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:24
>>917 韓国は今が日本史でいうなら「憲政の常道」期くらい。
もうしばらくすると、反米時代が来る。w
923 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:52
>>922 女子中学生ひき逃げあたりが統帥権干犯でノムヒョン当選が内田外相
「焦土演説」くらいでは?
この数年は日本もアメリカも民主主義=排外感情の発露になっているから
韓国のことばかり言っていられないけど。
まあ民主主義が如何にくだらなくても北朝鮮よりはましか。なんの慰めにもならんなあ(w
924 :
日本@名無史さん:04/05/19 20:24
排外主義は外国との接触が少ない社会の本音で、中小企業でも中国に工場を持ちアメリカに製品輸出、
女子大生が気軽にヨーロッパに遊びに行く今の日本ぐらい慣れれば、排外主義を民主主義の本音とはいえないのではないか。
イラクの外国人というだけで反感持ったり、開社会間もない中国内陸の病的反日を見るにつけつくづくそう思う。
民主主義は本来病的な賄賂、腐敗の防止策として有効な政体ぐらいの意義しかないが、
民度の上昇があれば向上の望める政体でもある。つっても、変なのいっぱいいるけどね。
松岡のトッツアンは昔海外で日本人として虐められて「歪んだ」んじゃなかったけ?
でも当時、欧州とかでも排外主義はあったけど・・・
今の若者は非常に排他的な上に馬鹿で状況に流されやすい。左翼団体が言うような「右傾化」と
は関係なく、真面目な話全体主義の危険性がある。
この先は暗いだろうな・・・
>>926 全体主義には組織的扇動が必要なので今の和歌者には無理。
別な心配をすべきか
むしろ、純情なくらい。
929 :
日本@名無史さん:04/05/20 10:43
「大隈伯後援会」って、政党の名前なんですか?
930 :
日本@名無史さん:04/05/20 17:51
大隈信常(大隈の息子)を党首とする政党です。
選挙後、交友倶楽部と名を変えました。
のち、憲政会結成に参加したものと公正会に分かれます。
931 :
日本@名無史さん:04/05/20 18:15
>>930 どういう系統の政党ですか?
確か、大正政変後に政友会を離党した尾崎行雄なんかが入っていたように思うのですが。
932 :
日本@名無史さん:04/05/20 20:20
大隈重信系なことは間違いです。
資料ひっくり返すのが面倒くさいんで推測・・で申し分けないんですが、
桂系立憲同志会はともかく、犬養の立憲国民党とも別に結成ですね。
犬養はこのとき、大隈と袂をわかってたんだっけ?
尾崎行雄は政友会を脱党後、政友倶楽部結成→亦楽会と中正会を結成→上述の交友倶楽部が分裂したとき、憲政会不参加者と公正会結成です。
尾崎は公正会ですね。
ちょいと混乱してるね。
大隈伯後援会は、第二次大隈内閣の組閣後に
早稲田のOB連中が集まって、全国各地で結成されたもの。
大正4年(1915)の総選挙では、衆院議員を56名も当選させ、
公友倶楽部と名前を変えた後、第二次大隈内閣の退陣とともに
同志会・中正会と合流して(大隈内閣与党三党の合同)、憲政会になった。
だから大隈伯後援会は、大隈内閣前半期限定の非政友会系政党になる。
一方、犬養・尾崎は同志会→憲政会の加藤高明とソリが合わなかった。
犬養は大隈の組閣時に協力を求められたが、同志会とは犬猿の仲。
また内閣の陣容を見て官僚内閣だと思ったから、参加しなかった。
中正会の尾崎は、大隈内閣に入閣(法相)。憲政会の結成時にも参加しているが
その後の軍縮問題で憲政会を脱党、革新倶楽部に入ることになる。
ちなみに交友倶楽部や公正会ってのは、貴族院の会派だね。
間違えやすいので、念のため。
934 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:42
>>933 >大正4年(1915)の総選挙では、衆院議員を56名も当選させ、
>公友倶楽部と名前を変えた後、
>ちなみに交友倶楽部や公正会ってのは、貴族院の会派だね。
なんかよくわからない。矛盾してない?
>>934 公友倶楽部…衆議院政党・大隈伯後援会の後継党
交友倶楽部…貴族院会派・水野錬太郎らが所属してた
ということね
936 :
日本@名無史さん:04/05/23 01:57
>>935 なるほど。「公」友倶楽部と「交」友倶楽部ですか。
正仮名遣いで書けば、「公友」は「こういう」、「交友」は「かういう」ですから、当時の人は混乱してなかったんでしょうな。
とりあえず第2次大隈内閣の与党3党の系譜関係を整理するとこんな感じでしょうか?
立憲同志会(1913桂太郎結成)→憲政会に合流(1917)
政友倶楽部(1913尾崎行雄結成)→中正会(1914改称)→憲政会に合流(1917)
大隈伯後援会(1914大隈信常結成)→公友倶楽部(1915改称)→憲政会に合流(1917)
>>932 >尾崎は公正会ですね。
尾崎は衆議院議員ですよね?
>>933氏によると、公正会は貴族院の会派ということですが、どういうことでしょうか?
あと、亦楽会ってどういう政党ですか?
937 :
日本@名無史さん:04/05/24 00:05
尾崎が入閣したのって、第1次大隈(文相)・第2次大隈(法相)の2回だけ?
>>936 中正会…衆議院政党・尾崎行雄らが所属してた、政友倶楽部の後継党(亦楽会と合同)
公正会…貴族院会派・茶話会の男爵議員が中心となって設立(大正8年)
ということね。
亦楽会は「えきらくかい」と読むんだろうけど、マニアックすぎてよくわからんです。
>>937 その2回だけです。
939 :
日本@名無史さん:04/05/25 04:02
立憲国民党が革新倶楽部に改称した理由って何ですか?
どっか他の党と合併したとかですか?
940 :
日本@名無史さん:04/05/26 04:49
政友倶楽部って2つあるよね?
941 :
日本@名無史さん:04/05/26 15:47
>>939 無所属倶楽部などと合併し29名から45名に増えてる。
942 :
日本@名無史さん:04/05/26 22:53
政友倶楽部とか政友本党とか、どうして政友会離脱者は「政友」の文字にこんなに拘るのかな?
戦前の二大政党制から我々が学べることは、
・二大政党制も万能薬ではない
・敵失が即政権交代につながりやすく、
スキャンダル捜しや外部勢力(軍部や官僚)
をも利用するが、それは議会制民主主義の自殺行為。
ってことでよろしいでしょうか?
2年以上続いてるスレなんですね。しかもしばらく書き込みのない期間が所々ありながらも生き残り、内容もおもしろい。感銘を受けました。
ところで、現代政治との比較も時々出ているようなので伺いたいのですが、小泉首相については政策や能力がどうこう以前に「強運である」という評価が定着しつつあるみたいですが、
日本憲政史上、政策・外交手腕・政治手腕よりもまず「強運さ」が話題になる首相、あるいは政治家というのはいたのでしょうか。
>>945 やっぱり「強運」ってのは戦後的現象なんですかね。
947 :
日本@名無史さん:04/05/28 19:13
第二次若槻内閣の崩壊について、
もし首相が大臣罷免権を有していたら、
内閣不一致で潰れる可能性は
どうなっていたのでしょうか?
948 :
日本@名無史さん:04/05/30 02:45
だったら第2次西園寺内閣は?
949 :
日本@名無史さん:04/05/31 01:27
901 :日本@名無史さん :04/05/16 03:19
第2次大隈内閣(3党連立)→総辞職後に旧与党が結集→憲政会結成。
羽田内閣(5党連立)→総辞職後に旧与党が結集→新進党結成。
なんだか似てる。w
政権を失った直後というのは特に党勢が衰えるから、
少人数多数野党だと全ての面で不利だから結集に向かうんだろうね。
与野党拮抗状況に戻ると野党に回った側が分裂しやすいのも一緒だし。
「憲政の常道」というルールで、
必要以上に各党の間の離合集散を避けようとした
西園寺の慧眼には今更ながら感服する。
951 :
日本@名無史さん:04/05/31 09:32
>>947 たぶん潰れなかった。
それは第4次伊藤内閣も、第2次西園寺内閣も同じはず。
そういう過去の事例があるから、戦後憲法には罷免権が明記されたと言われてる。
952 :
日本@名無史さん:04/05/31 12:27
ムラ社会は権力の集中を嫌い、「みんなで決めよう」とするからな。
石原慎太郎への憎しみはここからくるんだろうな。
「みんなで決める」とバカの意見も入れなあかん。(慎太郎はバカの言うことはきかない)
明治憲法はこのムラ社会の原理を残した点が崩壊へとつながったね。
ほんでも、東條の首を獲るのに岸信介がつかったのもこれじゃなかったっけ?
違っってたらごめん。
日本人は聖徳太子の昔から独裁が大嫌い。その嫌いな理由も「自由が奪われるから」
ではなく、「何となく面白くないから」だもんな。
民主主義はあるが自由主義はないのが日本。
日本のムラ社会の伝統だろ。どうやら中世起源らしいぜ。
臭いものにはフタ。みんなで決める(=進まない)。
「遥かなる日本人」ってのに詳しいらしい。岩波というのが気になるが・・。
ところで、政友会の派閥に関心があるんだけど、原敬以前が4派、原以降横田だの床波だの中橋なぞに変わる。
ここいらの経緯がわかる本ってないですか?
対外戦争がない限り強力なリーダーシップより是正是正の方がひびは入りづらくて済んだのだろうな。
デアゴスティーニの週刊〜〜みたいな本で戦前の政党政治について書いてある本があったよ。
貴族院の方が衆議院よりも権限が強かったと思うんだけど、戦前政治史ではあまりその動きが語られていないのは何故?
ふと思いつくのは天皇機関説事件の発端が貴族院だったというくらい。
参議院は法案通過には不可欠。衆参不一致で両院協議会を開いて・・なんてやってるとほとんどの法案は審議未了不私立で終わってしまう。
そんな重要な機関なのに、解散もなく6年間もその地位保全。
しかも、投票率が低く、議員はみんな労組だの医師会だの圧力団体の出身。
なのに世間にはその動きは知られない・・・それといっしょじゃないの?
帝国憲法では、貴族院と衆議院は同等。
第一次山本内閣の予算を蹴って、内閣つぶしたりもしてる。
最近は華族や貴族院の研究も多いし
これから、政治史上の動きもわかってくるだろうね。
ドイツの憲法なんて真似するからこんなハメになる。
といっても憲法制定当時は未開国の日本には帝国憲法でもまだ時期尚早だって
海外からは言われてたんだけど。
>>960 ドイツ憲法の何をマネしたの?
それでどんな支障があったの?
時期尚早って言ったのはどういう人達?
962 :
日本@名無史さん:04/06/06 10:01
>>961 完全な議院内閣制にしなかった点とかか?
帝国憲法って伊藤博文たちがオーストリアなどに行って憲法学を勉強した成果なわけですよね?
その伊藤博文のドイツ語力ってどの程度だったんでしょうか。
農家出身の彼ですが、ベルツの日記を観ると、ベルツとちゃんと会話できてるように見受けられます。
伊藤は若い頃、イギリスに藩命で留学してたから英語はぺらぺら。
4国連合艦隊と長州藩代表高杉とパークスとの会談の通訳も伊藤だったくらい。
英語つかったんじゃない?
>>964 でも、ウィーン大学のシュタイン教授?に学びにいったんじゃありませんでしたっけ。
966 :
日本@名無史さん:04/06/07 09:03
>>965 当時のドイツの大学教授とくに憲法学者ならは当然英語スラスラペラペラ。
シュタインの伊藤らに対する特別授業も英語で行われた。
967 :
日本@名無史さん:04/06/07 17:37
次スレが欲しい!
未開国から学びにきた連中を付きっきりで教えてやるなんて、
当時のヨーロッパの学者って心が広いな。
>>966 どうもありがとうございます。英語だったのか・・・。
>>968 もちろん個人差はあるけど、学者ってのは多くの場合、
そういうもんだよ。
三流国だろうが、国から派遣された人物に
自分の知識を教えるのには生き甲斐も感じると思う。
歴史に残るという名誉心もくすぐられるだろうし。
俺も貴重な教えをこの板でずいぶん流しちゃった。
ただ、歴史に残る人物が俺の教えを受けた中から出るかは疑問。
972 :
日本@名無史さん:04/06/08 20:41
973 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:49
戦争中はどうだったの?
中野正剛について語ってくれ
975 :
日本@名無史さん:04/06/12 00:08
大政翼賛会非推薦で当選した議員を語って!
976 :
日本@名無史さん:04/06/12 13:06
>>975 鳩山とか河野とか犬養とか三木武吉とか・・
大野伴ちゃんは落選したおかげで追放にならなかった?
でも三木武夫は軍需省参与官だけど追放されてないね。
参与官クラスは不問だったのかな?
977 :
日本@名無史さん:04/06/13 15:31
『人民は弱し 官吏は強し』を読めばいかに憲政会がドキュソかわかるよ
★新一?
?
。
。
982 :
日本@名無史さん:04/06/18 02:03
そろそろ新スレだね
983 :
日本@名無史さん:04/06/18 02:07
新スレのびねぇだろうな。
自由主義政党であつた筈の民政党では今度「新全体主義」といふものを標榜するに至つた。
三木清 「新全体主義」 讀賣夕刊 S12.6.22 …