大日本帝国憲法を硬派に語りたい

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601日本@名無史さん
>>598
ご丁寧なご教示、ありがとうございます。 ぺこりん m(_ _)m
早速『西園寺公望伝』を確認させていただきます。ただ、手元にないので週末に図書館で調べます。

今のところ私の主張は変わりません。軍令1号の制定の経緯をを考えると、「軍令ノ副署及公布ノ形式ニ就イテ」の陸軍の主張は筋が通っておらず、したがってこれが「公式」な見解とは思えません。
いずれにしても、詳しくは「軍令ノ副署及公布ノ形式ニ就イテ」を確認したうえで後日お返事させていただきます。佐々木説との関連もその際に。

取り急ぎ御礼まで。
602日本@名無史さん:02/04/12 00:48
昭和天皇も、けっこう国体に拘ってますよ。
弁解の書「独白録」にもそう書いてあるのでたぶんホントでしょう。
該当箇所をちょっと探してきます。
603日本@名無史さん:02/04/12 00:59
見つけたので貼りつけます。
「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬと思った」(昭和天皇独白録)

・・・。
私はアンチ天皇ではありません。どっちかというとウヨです。
でもね。この一節を読むとあっけにとられてしまいます。
国体はともかく、神器なんてもっとどうでもいいだろ〜。
沖縄は神器が置いてなくて国体に関係ないから犠牲になったのか。
哀しくなるね。とほほ。
604日本@名無史さん:02/04/12 23:06
国体護持age
605日本@名無史さん:02/04/12 23:23
だいぶ古くなったが、

>577
>国務に関する詔勅は、憲法上の裏付け(55条2項)あり、
>大臣副署がモロに必要です。

元老に与えられた詔や勅(これが元老であることの御墨付きとなる)には
親署もなければ、国務大臣の副署もない。
 形式的には憲法上の「国務に関する詔勅」たりえない。にもかかわらず、
これによって実質的に元老は総理大臣候補者の推薦権を獲得できる。
総理大臣の任命はもっとも重要な国務であるはずだが、天皇の大権行使を
実質的に助けるのは、憲法上の国務大臣でもなく、憲法上の手続きによら
ずして天皇から指名された元老であった。

575が

>憲法の裏付け無しに天皇が勝手にキング
メーカーを指名し出来るなら立憲君主じゃ]>ないでしょ?

と言ったのは、その意味。

なお、総理大臣の任命辞令(官記)に副署するのは、公式令により他の国務
大臣または内大臣となっている。他の国務大臣の場合、副署するのは国務大
臣であるから憲法上の問題はないが、その人物は元老でないので、総理大臣
候補者の選定にはまったく関与していない。
 自分の関与していない件に副署するのだから、この副署は単なる形式にす
ぎない。この場合、責任副署の実質をともなっていないことになる。

 内大臣が副署する場合は、候補者選定に関与しているので実質がともなう
が、しかし内大臣は国務大臣でないので、この副署は憲法上の副署とはいえ
ない。つまり、この場合の総理大臣の任命は憲法の裏づけをもたないことに
なる。
606日本@名無史さん:02/04/13 06:45
>沖縄は神器が置いてなくて国体に関係ないから犠牲になったのか。
戦後沖縄が米軍統治下に置かれることになったのも天皇のイニシアティブだと聞くが戦後憲法公布後なのだから勝手にそんなイニシアティブを使うのは憲法違反だろ
やっぱり天皇は憲法に束縛されない習性があったんだろう
607日本@名無史さん:02/04/14 00:30
戦後の日本の株式会社の取締役会が形式だけのものであることは有名である。
なぜ形式だけになるかと言えば取締役はほとんど社長によって任命される社長の部下だからである。
自分を任命してくれた社長にはよほどのことでもなければ逆らえない。

副署バカは二言目には大臣副署を言うが大臣は誰のおかげで大臣になれたのか?
総理大臣が天皇に組閣名簿を見せてその了承を経て大臣になれたのだろう。
つまり大臣は総理大臣と天皇には逆らえない。
だが総理大臣は誰のおかげで総理大臣になれたのか?
元勲の推薦を得て天皇が認めて総理大臣になれたのだろう。
つまり総理大臣は元勲と天皇には逆らえない。
だが元勲は誰のおかげで元勲になれたのか?
天皇が一筆与えて元勲にしたのである。
結局全部天皇の部下、天皇には逆らえないではないか。
608日本@名無史さん:02/04/14 01:11
で、天皇に逆らった大臣っているのか?
609帝國海軍兵学校生徒:02/04/14 01:16
おお、ここがこんなに盛り上がるとは思ってもみなかった。荒らしが多い中
投稿したらこんなになるとは思ってもみなかった。

607氏
元老は天皇陛下の個人意志で任命されるのではないでせう。元老自身も元老
からの推薦でせう。
610結局、hiroにはケツをまくる覚悟が無かった、つーことでしょ:02/04/14 02:35
元海軍侍従武官・山澄貞次郎氏談
 「陛下のご政務には閣僚の奏上をうける、つまりお会いになるということも中心の一つですが、そ
 れから奏上書といいますか、陛下にご覧にいれる、認可を受ける書類がたくさんあるんです。それ
 は侍従次長が毎日十五センチから二十センチくらいの高さにまで積まれたのを持って上がりまして
 御政務室に差し上げておくわけなんです。
  そして陛下がご覧になって、こう、ご納得のいく書類だけに『可』という印があるんですが、そ
 れを自分でお押しになる。ご允裁ですね。(中略)
  このご允裁も、納得のいかないものには『可』とお押しにならないで、ご自分の別の引き出しに
 入れておしまいになるんです。すると下の方に下がっていかないわけですね。それが二日なり三日
 なりたつと、何かおかしいぞ、というようなところですね。そこでその書類の担当の陸軍なり一般
 の政務のほうから侍従長を通して、『この前の書類はちょっと訂正を要すべきところがありますの
 でお下げ願います』といってそれを下げてもらって直して再度提出する」
  (読売新聞社 編『昭和史の天皇 24』(読売新聞社 1974)所載)

木戸幸一氏談
 「天皇が内閣の上奏事項に御意見のあるときは、陛下から内大臣に御相談遊ばされる。私が内大臣
 になつてからも、陛下の御意を承けて総理や外相と連絡して、相手の説明を聴き陛下に申し上げた
 ことは縷々であった。
 陛下の御性格にもよることであるが、天皇が御納得されない場合は、概ねの場合問題はそのままサ
 スペンドされて決定が延ばされるか内閣のほうが考え直すのを例としたが、これは今上陛下が大体
 そんなご無理を仰せられることもなかつたし、内大臣としての私がその間に立つて調整を図り舵を
 とつて行けば処理することが出来たし、戦時中軍事の問題でもそのような仕事は随分あつた。また
 このような役目こそ内大臣としての重要な仕事でもあつた。どうしても御納得されぬときは内閣が
 引き退るのであるが、それよりも公算がの多いのは所管大臣が強硬なため内閣不統一という理由か
 ら内閣の総辞職が考えられる」
  (木戸日記研究会 編『木戸幸一日記』(東京大学出版会 1980)より)
611日本@名無史さん:02/04/14 14:50
age
612日本@名無史さん:02/04/14 14:57
>>607
天皇は元勲のおかげで権力者になれたので、
天皇には逆らえません。
613訂正:02/04/14 14:57
>>607
天皇は元勲のおかげで権力者になれたので、
元勲には天皇では逆らえません。

614日本@名無史さん:02/04/14 23:52
>613
それなら元勲専制国家じゃん
しかもその元勲って憲法に明記なし
最強の政治プレーヤーに言及してない憲法って、やっぱ欠陥憲法
615日本@名無史さん:02/04/15 19:43
明治憲法は元勲の存在を前提に作られていたように思う。
実際に法を運用し国を動かす人達が居た間、日露戦争前後までは
上手く日本という国が回していけていたのはその為ではないかと。
元勲専制というが維新からの日本の大目標が「植民地にされないこと」
だったことを考えればそれが最善だったのではないだろうか。
もちろんその後もっと民主主義的な方向に行ければ更に良かったと思うが
(実際大正デモクラシーとかの頃はそんな雰囲気があったが)。
まぁ、その後の世界と伍していく為には明治憲法は力不足だったかもね。
それは思う。でも欠陥憲法呼ばわりはあまりに歴史を考えないセリフだよ。
616日本@名無史さん:02/04/16 00:12
明治憲法が本当に元勲の存在を前提に作られていたのなら
元勲が死に絶えないように随時補充する必要があったろう

元勲補充が不可能なら元勲なしでも統治が可能なように
憲法の方を変える必要があるよね

元勲の存在を前提にして憲法が出来ていて
しかしそのことが憲法に明記されていない

元勲の存在を前提にしていてその元勲が死に絶えても憲法を変えない変える事ができない

これでは欠陥憲法ではないか?
617日本@名無史さん:02/04/16 00:19
>明治憲法は元勲の存在を前提に作られていたように思う。

それって法治ならぬ人治ってことですか?
それなら明治日本は近代立憲国家ではなかったことになるけど、、、
618日本@名無史さん:02/04/16 01:40
【マネ知識】元老が死滅した後に、重臣会議なるものができました。
619日本@名無史さん:02/04/16 07:15
>618
元勲が死んだ後も法治に移行しないで人治のままだったんだね
620日本@名無史さん:02/04/16 08:07
日本は今だって半分くらい人治国家だろ。
法律は守られてもその条件を支える社会意識が
封建的ないし部族レベルだから
すべてとはもちろんいわんがたいていのことは
恩情とか人情がらみでなんとかなるじゃん
621日本@名無史さん:02/04/16 08:30
>>616
えー、まぁ、問題点であったとは思いますけど
「欠陥」というほどでもなかったろうと思いますよ。
現行憲法に当てはめれば、
米国の存在を前提にしていて改正不能、
ってことになりますけど、別にそれは
国民がなんとかしようとしてないだけですし、
当時も同じで元勲(的なもの)の廃止ではなく
元勲(的なもの)の復活に傾いただけでしょう。
まぁ、実際はそれが上手くいかなかったんですけど。
それを憲法のせいにするのは無責任過ぎるでしょう。

>>617
いえ、元勲も憲法には従っていたはずですし
一応法治国家の体は保っていましたよ。
法律を作る際に元勲の意向が色濃く反映されていたってだけの話です。
人治とは言えません。
622日本@名無史さん:02/04/16 18:12
>元勲が死んだ後も法治に移行しないで人治のままだったんだね

憲法は、極めて政治的な法体系であって、法学者の頭の中に存在するようなものじゃない。
条文に書いてある事が全てと言うなら、憲法典の存在しないイギリスなんかどうなる?
慣習法と成文憲法に、君主(天皇)はおろか、政党も議会も軍部や元老、官僚も縛られていた体制を、どうして人治と言えるんだ?
623日本@名無史さん:02/04/16 21:17
このような新刊本を本屋でみつけました。
ここのスレにぴったりな本のようです。みんなで読みましょう。

八木秀次『明治憲法の思想―日本の国柄とは何か』PHP新書201 ¥780
624日本@名無史さん:02/04/16 21:25
明治憲法はプロイセン憲法の系統なんですか?
それとも英国憲法の系統なんですか?
625日本@名無史さん:02/04/16 23:33
おまえらな、元勲が何か分かっているのか?
元勲というのは天皇が紙切れ一枚で作れるようなものではないのだぞ

戦場で格段の武勲を挙げ、その後引き続いて政治の中枢にいること、
これが元勲の条件だ。
626日本@名無史さん:02/04/17 00:49
age
627日本@名無史さん:02/04/17 02:22
憲法撮要
美濃部 達吉 (著) 単行本 (2000/08/01) 有斐閣
在庫切れ

ホスィ
628童門です:02/04/17 03:12
>>624
二院制・立憲君主を採用している点ではイギリス。
立憲君主が統帥権を持ち軍部が直隷している点ではプロイセン。
まあ、当時の日本に合う形を上手く作ったと思うけど。
629日本@名無史さん:02/04/17 03:56
美濃部達吉は戦後、憲法改正に反対だったそうですね。
630日本@名無史さん:02/04/17 20:54
>美濃部 達吉 (著) 単行本 (2000/08/01) 有斐閣
>ホスィ

東京在住ならば。。。
神保町の三省堂本店にあったよ。
それと水道橋の丸沼書店(法律専門書店)にもあったよ。
定価1万円。高くぁい。
631日本@名無史さん:02/04/17 21:20
>>625 全然ちがーう。
元勲とは、孝明天皇毒殺の大陰謀に関わった犯罪集団のメンバーのことだよ。
632日本@名無史さん:02/04/17 21:25
>美濃部達吉は戦後、憲法改正に反対だったそうですね。

ドサクサで改正するのは反対だったようです。
『私は民主主義の政治は現在の憲法(註:明治憲法)の下においても十分に可能であり、憲法改正は決して現在の非常事態の下において即時に実行しなければならぬほど切迫した問題ではないと確信する。』
『憲法の即急な改正に反対する』
(美濃部達吉「憲法改正問題」『朝日新聞』1945.10.20〜22 による)

美濃部達吉は、その後、幣原内閣の憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)の顧問になっている。
松本委員会は明治憲法を手直しする程度の憲法改正案を作ったのだが、GHQに没にされた・・・。
633日本@名無史さん:02/04/17 22:16
法制・帝国憲法 清水澄/謹撰 原書房 \18,000 1997/11
↑コレ、昭和天皇の憲法教科書。ホスィ。けど高い!
634日本@名無史さん:02/04/17 22:37
>元勲とは、孝明天皇毒殺の大陰謀に関わった犯罪集団のメンバーのことだよ。
孝明毒殺説が囁かれる岩倉・西郷・大久保らは元老(元勲)とはされないよ。そうなる前に死んだ。
普通、元老とされるのは、
1)伊藤博文(長)=若くして暗殺・放火の経験。後にエロ爺。
2)黒田清隆(薩)=酔っぱらって奥さんを殺しちゃった。
3)松方正義(薩)=ケチケチ財政家。他に何かした?
4)山県有朋(長)=陸軍のドン。司馬遼太郎に嫌われる。
5)井上馨 (長)=暗殺されかかったが死なず。汚職が大好き。
6)西郷従道(薩)=西郷ドンの弟。兄の七光り。
7)大山巌 (薩)=同じく従兄弟。ご存知、満州軍総司令官。
8)桂太郎 (長)=山県の子分。やっぱり司馬遼に嫌われ。
9)西園寺公望(公家)=若いころはサヨク。
の9名でしょう。
635日本@名無史さん:02/04/17 22:43
>で、天皇に逆らった大臣っているのか?
伊藤博文ほか。
636日本@名無史さん:02/04/17 23:07
>八木秀次『明治憲法の思想―日本の国柄とは何か』PHP新書201 ¥780
を読んだよ。なかなかよくマトマっている。妙な偏向も少ない。良書と言えましょう。
厨房は、まずこの本でも読んで基礎知識をつけなさい。安いし、お小遣いで買えるっしょ。
637日本@名無史さん:02/04/17 23:13
>で、天皇に逆らった大臣っているのか?

明治時代の大臣のほぼ全て。
638日本@名無史さん:02/04/17 23:29
内大臣・三条実美は逆らいませんよ。ハンコ持ってるだけ?
639噛締め:02/04/18 00:07
五箇條の御誓文(明治元年三月十四日)
一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公論ニ決スヘシ。
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ。
一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其ノ志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス。   
一、舊来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。
一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕、躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ひ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此趣ニ基キ、協心努力セヨ。
640日本@名無史さん:02/04/18 00:13
>>639
なんの意図があってそれを出したのか?
公論→天皇親政の原則と矛盾
陋習を破る→復古スローガンと矛盾
智識を世界に求める→日本を世界の最高峰とする立場と矛盾

不統一、矛盾ばかりが目に付くぞ。
641日本@名無史さん:02/04/18 01:31
>天皇親政の原則
>日本を世界の最高峰とする立場
それって、どっから出てきたの? デムパ?


642日本@名無史さん:02/04/18 01:58
>それって、どっから出てきたの? デムパ?
尊攘倒幕というデムパです
643日本@名無史さん:02/04/18 01:59
>>641
>不統一、矛盾ばかりが目に付くぞ。
つまりはだ。
>>641 の頭の中にある戦前日本のイメージ」と「五箇条御誓文」とが一致していないということだね。
君の脳内で生じている妄念がワシらと何か関係あるのかね?
644日本@名無史さん:02/04/18 11:26
>>640
> 公論→天皇親政の原則と矛盾

岩倉の「国事意見書」なんかにもあるが、維新は「天下の公論」によって行われた、という認識があった。
これからも天皇は、「天下の公論」を尊重しなければならない、という事。
「天皇親政」というのは、幕府の否定の事。

> 陋習を破る→復古スローガンと矛盾

「陋習」というのは鎖国の事。
復古スローガンというのは武家政治や摂関政治の否定。

> 智識を世界に求める→日本を世界の最高峰とする立場と矛盾

尊皇攘夷論の中で、「大攘夷」論というのがあった。
知識や技術を西洋から学び、その力で外国の脅威をうち払おうとするもの。
津和野派の学説じゃ、天皇は「万国の総帝」だから、諸外国人が日本に来るのは神意。
更に、中国や西洋からものを学んで大攘夷を行うのも神意とされた。

> 不統一、矛盾ばかりが目に付くぞ。

何も矛盾してない。
当時の人間が考えた事をそのまま書いただけ。
645日本@名無史さん:02/04/18 12:43
>>625
>おまえらな、元勲が何か分かっているのか?
>元勲というのは天皇が紙切れ一枚で作れるようなものではないのだぞ

 たしかに、天皇だからといって、どんな人間でも元老に指名できるわけではない。
元老たりうるには自ずから条件があった。しかしながら、どんなにその条件を満た
していても、「天皇の紙切れ一枚」がなければ元老になれないことも、厳然たる事
実だね。
その天皇の権限行使がはたして明治憲法の裏打ちがあるといえるかどうかが、もと
もとの問題だったはずだ。

 その「天皇の紙切れ」には、大臣の副署も奉勅の対署もない。すなわち天皇の元
老指名は明治憲法第55条の国務大臣輔弼の対象ではなかったのだ。
 
憲法第一章の天皇の大権行使にはかならず国務大臣の輔弼を要すると解釈するの
が憲法解釈として正しいとするならば、このような形式による天皇の元老指名は、
憲法に基づかない行為となる。つまり、この場合の天皇は立憲君主とはいえない。

 反対に、天皇の大権行使には必ずしも国務大臣の輔弼を要しないとの立場に立つ
なら、この行為は合憲といえるが、天皇は誰の輔弼もなしに大権を行使できる余地
を憲法が容認していることになる、あるいは憲法に明記されていない機関が天皇を
輔弼することが認められているということになって、明治国家の統治体制が憲法だ
けで律されるものではなかったと結論せざるをえない。
すなわちその立憲主義には大きな限界があったことになる。

 同様のことが、総理大臣の任命というもっとも重要な天皇の国務大権の行使につ
いてもいえるわけだ。

646  :02/04/18 12:53
>>645
>「天皇の紙切れ一枚」がなければ元老になれないことも

西郷と大山は「紙切れ」がなくても元老になっている
(大山は大正天皇即位の際に元老の地位の追認として「紙切れ」はもらっている。
西郷は明治時代に死去したので、結局追認の紙切れをもらわなかった)

大隈は大正5年に元老待遇とも言える御沙汰書(宮内大臣がその旨を認めている)をもらっているが、元老とはみなされない

647日本@名無史さん:02/04/19 00:14
結局憲法の外側で何となく最高権力者が決まっていたんですか?
648日本@名無史さん:02/04/19 00:26
>結局憲法の外側で何となく最高権力者が決まっていたんですか?

帝国憲法下の総理大臣は最高権力者ではないよ。
形式上の最高権力者はもちろん天皇だけど、実質的には最高権力者は「不在」だ。
諸機関は互いに拒否権を持ちあっていて、どの機関が「最高」ということはない。
この点が帝国憲法の最大の欠陥だ。
すなわち「権力の割拠性」(鳥海靖)が強すぎたことが欠陥だよ。
(「帝国憲法は天皇独裁の絶対主義」などという見方はコヴァ。)
649日本@名無史さん:02/04/19 00:58
>結局憲法の外側で何となく最高権力者が決まっていたんですか?

あのな、最高権力者は元勲で、そのことは憲法には書いてない。
どこにも書いてない。書く必要がないから書かない。
元勲の中で誰が一番力があるか、とか、元勲の具体的権限は何か、とか、
そういうことも憲法には書いてない。書きようがないから書かない。
ただし憲法上の機関が元勲の地位を脅かすと困るから各機関が互いに牽制して
互いに身動きが出来ないようにして、その点だけはちゃんと憲法に明記した。
650日本@名無史さん:02/04/19 01:59
>>648
何いってるの?ここの右翼こそ、デムパでコヴァじゃないか。
ttp://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835209&tid=bebcobe79da4nc0uga4&sid=1835209&mid=1&type=date&first=1
揚げ足ばっかりとりやがって。最低の奴だよ。
651日本@名無史さん:02/04/19 08:37
文句があるならヤフBBS逝って直接言ってくれば?ここは2チャンネルだよ。
652  :02/04/19 14:56
>>647
第4次伊藤内閣までは最高権力者は一応首相ということでよいのではないか
(松方も含まれるが、首相=元老と強引に単純化)
653童門です:02/04/19 18:36
憲法では内閣は天皇に対し輔弼責任をもっている。
しかし、首相には国務大臣を更迭する権限は与えられていない。
また、陸海相は慣例として現役武官しか就任していない。
予備役の軍人も就任できるように法改正された時期もあったが
結局戦前期を通して全て現役武官のみが採用されている。
陸軍はこれを利用して内閣に圧力をかけた。

首相は元老及び首相経験者の合議によって天皇に推薦されたものに
「大命降下」という形で任命された。
この点だけを見れば確かに最高権力者は元老となる。
しかし、議会(この場合は特に衆議院)での承認がなければ法案は通らない。
議会では政友会や憲政会が多数の議席をもっていたので、
首相は議会工作をする必要があたった。
しかし、衆議院が否決を繰り返し法案が通らない場合「緊急勅令」という形で
法案を通したケースもあった。
しかし、「緊急勅令」は日本が戦争準備・戦争中など正に緊急に対処すべき時にのみ
行われ常態ではなかった。

また、政友会が地方利権と結びついたことで議会での
発言力も増した(安定的に多数を占める)ことで元老(特に山県)も
議員(特に原敬)らと協議するようになった。
原敬が組閣するに及んで政党、議会の力は元老に並んだと言って過言ではない。


654童門です:02/04/19 18:37
↑「しかし」が多い。
655日本@名無史さん:02/04/19 20:22
日本史板的ifを言えば、山形が原より先に逝ってれば軍の暴走は無かったかも。
なんてね。
656童門です:02/04/19 22:26
>>655
それはどういった見解で?
山県は外交政策の頓挫によって原の外交政策を試そうと
原との協議を繰り返し可能な限り譲歩しています。
また、田中義一も原の政策に乗り陸軍を原の政策に合うように転換した。
田中と対立関係にある上原を山県は影から支援しようとしていましたが、
それも大した効果はなかったように思う。

657日本@名無史さん:02/04/19 23:18
>「しかし」が多い。
実はそれが最大の問題だーたりして
658童門です:02/04/19 23:26
>>657
憲法の解釈範囲が広すぎる。
確かにそれが「統帥権」というミラクルな解釈の元。
659日本@名無史さん:02/04/19 23:27
>>655
どうして?
原曰く山県が存命している限り、対米戦は有得ない、
と言ってますよ。
660655:02/04/19 23:38
山形自身に文句はないよ。
でも、山形が先に逝ってたら参謀本部は原が潰してたと思うから。
661童門です:02/04/19 23:42
>>660
確かに原は参謀本部を陸軍省の下部組織に
軍令部を海軍省の下部組織にそれぞれしようとした。
高橋是清に至っては参謀本部を廃止することを提案したが、
「さすがにそこまではやり過ぎだ」という事で原が退けた。

662日本@名無史さん:02/04/20 12:16
>>653
概ね同感です。「しかし」が多いのが帝国憲法の特徴。
ただ、事実関係で異論があります。
>しかし、「緊急勅令」は日本が戦争準備・戦争中など正に緊急に対処すべき時にのみ
>行われ常態ではなかった。

緊急勅令は常態化していたと思います。
「緊急勅令は、明治憲法下では、ほぼ毎年発令され、常態化していった。
…具体的には、大津事件に始まって、日清戦争、日露戦争、日比谷焼討ち事件、
 韓国併合、 米騒動、第一次世界大戦、関東大震災、金融恐慌、
 治安維持法改正、金兌換停止、満州事変、上海事変、二・二六事件、
 ポツダム宣言受諾、戦後処理、があげられる。」
(増田知子『天皇制と国家』青木書店)

うーむ、憲法義解では緊急勅令の乱用を戒めていたのだがなぁ。
緊急勅令の乱用は憲法違反だよな。

「しかしながら、歴代内閣がこうまでして『議会の公議を回避する』ことに努めていたという事実は、
 その裏返しとして、明治憲法下の議会が独立した権力機関として、
 内閣に対する相当の牽制力を保持していたことを意味していた。」(同書)

という見方もありなん。
ちなみにこの参考文献、題名と出版社がサヨっぽいけど、内容はいたってマトモですので。
663童門です:02/04/20 13:23
>>662
>ちなみにこの参考文献、題名と出版社がサヨっぽいけど、
>内容はいたってマトモですので。

ウヨ・サヨの話は不毛。
意見が真実に迫っているかどうかのみが評価の対象になるべきで
問題はないでしょう。

>うーむ、憲法義解では緊急勅令の乱用を戒めていたのだがなぁ。
>緊急勅令の乱用は憲法違反だよな。

緊急勅令は文字通り「緊急」事態に対処するために
行われるべきなので米騒動、第一次世界大戦、関東大震災、金融恐慌、
金兌換停止、満州事変、上海事変、二・二六事件、ポツダム宣言受諾、
戦後処理などでは正当な使用だと思われる。
ただ、政府が普段から現実に適合した政策を行い
緊急の事態を出来る限り避けるようにしていれば、
緊急勅令の使用をもっと減らすことができたのも事実。
政府及びその周辺での政治的駆け引きが多く、
安定政権がなかなか生まれなかったのは悔やまれる。

>「しかしながら、歴代内閣がこうまでして『議会の公議を回避する』ことに努めていたという事実は、
>その裏返しとして、明治憲法下の議会が独立した権力機関として、
>内閣に対する相当の牽制力を保持していたことを意味していた。」

その状態が顕在化したのが原内閣成立となった。
664童門です:02/04/20 13:25
↑訂正
×「その状態が顕在化したのが原内閣成立となった。」
○「その状態が顕在化し原内閣成立となった。」
665童門です:02/04/20 13:30
政党についてのスレ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1007783170/l50

私の発言はむしろこちらで行われるべきか。
666日本@名無史さん:02/04/20 14:30
美濃部達吉『憲法撮要』第5版 P267
「国務に関する詔勅が常に国務大臣の副署を要するの原則に対し唯一の例外を為すものは、内閣総辞職の場合において内閣総理大臣を任命する官記なり。」
内閣総辞職ってホントは憲法違反なんじゃん? 慣習法では当然に認められるけど。
667日本@名無史さん:02/04/20 18:17
>>666

>内閣総辞職ってホントは憲法違反なんじゃん? 慣習法では当然に認められるけど。

 正しくは、「内閣総辞職」ではなくて、「内閣総理大臣の任命」だね。
ただし、1907年以降は、慣習法ではなくて実定法である公式令が根拠となっている。

公式令第14条
 内閣総理大臣を任するの官記には他の国務大臣又は内大臣、宮内大臣を任するの官記には内大臣年月日を記入し之に副署す。

 天皇の国務大権の行使である内閣総理大臣の任命に、国務大臣ではない内大臣の副署が認められている。
これは憲法第55条第2項の事実上の修正といってよい。

 明治憲法第55条と公式令との関係は、現憲法第9条と自衛隊法との関係と等しいといえるかもしれない。
668日本@名無史さん:02/04/20 22:09
>正しくは、「内閣総辞職」ではなくて、「内閣総理大臣の任命」だね。
ちゃうちゃう。僕がいいたかったことは。
国務大臣が全員辞職しちゃうと、大臣を任命できなくなっちゃう。
そのような違憲状態を招来するような、総辞職は本来認められない。
国務大臣本人が辞職を希望しても許されない。少なくとも一人は残らないと。
残らないと、責に任じたことにならないから。
・・・ということです。後は同意。

この総理大臣任命の副署の問題は、憲法を制定した後に気がついたのかな????
669日本@名無史さん:02/04/20 22:43
☆注目☆
ハン板の下記スレッドにて、1.慰安所の経営者が日本人であったこと、2.日本軍
が慰安所の運営に積極的に関与していた事、などが明らかにされました。しかし
ハン板住民はこの事実が広く認知される事を恐れ、当該スレをdat落ちさせよう
と、ひたすら黙殺を続けています。
良識ある市民の皆さん、このスレを保全し、歴史歪曲を続けるハン厨に日韓の真
実を教えてやりましょう。

アジア歴史資料センター
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/korea/1017064524/l50
670日本@名無史さん:02/04/21 01:02
>>669
スレ違い。
671日本@名無史さん:02/04/21 01:14
669はスレ違いだけど
アジア歴史資料センターのHP
http://www.jacar.go.jp/
日本の帝国時代からの政府の資料が
そのままの形で、検索できるHP
何か面白い資料をみんなで探そう。

これは良さそう♪
672日本@名無史さん:02/04/21 15:06
>ちゃうちゃう。僕がいいたかったことは。
>国務大臣が全員辞職しちゃうと、大臣を任命できなくなっちゃう。
>そのような違憲状態を招来するような、総辞職は本来認められない。
>国務大臣本人が辞職を希望しても許されない。少なくとも一人は残らないと。
>残らないと、責に任じたことにならないから。
>・・・ということです。

 これはすまん。完全に誤解をしていた。あやまるよ。
 
 明治憲法の起草者の中には連帯内閣制を最後まで嫌った井上毅が入っていたから、
たしかに憲法は内閣総辞職などという事態は想定していなかったのかもしれない。
 実際、総理大臣の辞職にともなって、他の閣僚が一人も留任せずに、総辞職した
のは、5代目の第2次伊藤内閣が最初。ただし、この時も前の内閣で逓信大臣だっ
た後藤象二郎が農商務大臣になっているから、メンバーが完全に入れ替わったわけ
ではない。
 前内閣とメンバーがまったく重複しないのは、1914年の第二次大隈内閣がはじめ
て。しかも、それ以降も断続的にしかあらわれない。

 ただ、この問題は、形式的には次のようにして解決できる。

 まず、内閣が総辞職となると、総理大臣が閣僚の辞表をとりまとめて天皇に提出
する。天皇はすぐにそれを受理しても、ただちに免官を命じることは普通せず、追
って沙汰のあるまで、内閣の業務を続けるよう命じる。つまり、後任が決まるまで
は辞表をあずかっておくわけだ。

 そのあと、天皇は内大臣に下問し、内大臣は元老に候補者の選考を命じるように
進言する(この過程は省略されることもある)。元老が候補者を決めると、天皇に
推薦し、天皇がそれでよいとなったら候補者をよんで、内閣組織の大命を降下する。
 
 候補者がそれを受諾すれば、次に閣僚の選考をおこない、閣僚名簿を天皇に奉呈
する。天皇がそれを是認すれば後継内閣が決まるわけだ。

 あとは任免の手続きだが、まず後継総理大臣に官記がわたされる。この時、まだ
前内閣の大臣は現任であるから、その官記に副署するのは可能なはずだ。現憲法下
では小泉純一郎の「任 内閣総理大臣」の辞令に副署するのは「内閣総理大臣 森
喜朗」ということになっている。
 戦前でもそれができたはずだし、内閣総理大臣がまずければ他の国務大臣でもい
いはず。

 この手続きで内閣総理大臣の親任が終われば、その新総理大臣の輔弼により、旧
内閣閣僚の免官と新内閣閣僚の親任の手続きをとればよい。
 
 こうすれば、かたちのうえでは、内閣総辞職の場合でも、内閣総理大臣以下の国
務大臣任命の官記の副署については、憲法第55条2項の規定を逸脱することはな
い。

 問題は、総理大臣の後任の選考と推薦が国務大臣でない内大臣と元老によってお
こなわれるところにある。

 こう考えると、公式令がことさらに内閣総理大臣の官記の副署者を「他の国務大
臣又は内大臣」としているのは、かえって奇妙に思える。形式的なことだけであれ
ば、戦後憲法下ではそうしているように、やめていく内閣総理大臣が副署したって
よさそうに思えるからだ。

 勘ぐると、公式令のこの規定は、やめていく内閣総理大臣には、実質的にも形式
的にも自分の後継者人事にタッチさせないことを狙ったものでないかと、疑いをか
けることもできそうだ。
673  :02/04/22 23:43
>>635
>>637

これは臣下の戦争であり、朕の戦争にあらず(明治天皇)
674日本@名無史さん:02/04/23 07:19
>673
日本が戦争やってる時に随分無責任な言い方ですね。

これは選手の野球であって、監督の野球にあらず(原達也)
675日本@名無史さん:02/04/24 03:13
西国人のテロ国家を作った連中こそ
天皇を殺害した極悪人
676童門です:02/04/24 14:44
>>673
昭和天皇の責任回避に対する鋭い批判は大江志乃夫が得意としているな。
『聖断』(中公新書)での指摘は素晴らしい。
677日本@名無史さん:02/04/29 15:10
小室直樹
『日本国憲法の問題点』(集英社)によると、

日清戦争開戦のとき、明治天皇の反対にもかかわらず、政府は戦争を決定し、
これに対して明治天皇は拒否権を行使しなかった。このことにより、明治憲法は
「事情変更の原則」により事実上の変更がなされ、日本は専制国家から立憲君主国家に
なった。

678    :02/04/30 19:58
小室直樹
『日本国憲法の問題点』(集英社)によると、

昭和天皇は立憲君主だから大東亜戦争の「戦争責任」はないと言っていた。
679日本@名無史さん:02/05/01 17:08
>>674
ま、明治大帝とて生物学的にはヒトですから自分の考えというものはお持ちでしょうな。
680日本@名無史さん:02/05/03 01:05
>>『聖断』(中公新書)での指摘は素晴らしい。
とういうのは、
『御前会議 昭和天皇十五回の聖断』大江志乃夫/著 中央公論社 \621 1991/02
のこと? 品切れ中だそうです。残念無念。
681童門です:02/05/03 04:08
>>680
大きな本屋で探せば置いてる所が多いと思う。
大江氏の本では
『張作霖爆殺 昭和天皇の統帥』中公新書
『日本の参謀本部』中公新書
等が手に入り易い。

682日本@名無史さん:02/05/03 09:20
>>677

>日清戦争開戦のとき、明治天皇の反対にもかかわらず、政府は戦争を決定し、

>これに対して明治天皇は拒否権を行使しなかった。このことにより、明治憲法は

>「事情変更の原則」により事実上の変更がなされ、日本は専制国家から立憲君主国家に

>なった。

 フムフム、この理屈でいけば、昭和天皇が拒否権を発動して、田中義一内閣を総辞職
においこんだことによって、「事情変更の原則」による事実上の変更がなされ、日本は
また専制君主国に戻ったことになるね。
683童門です:02/05/03 15:10
>>682
>昭和天皇が拒否権を発動して、田中義一内閣を総辞職
>においこんだことによって、「事情変更の原則」による事実上の変更がなされ、日本は
>また専制君主国に戻ったことになるね。

そういうこと。
所謂「統帥権」は内閣の輔弼事項に含まれない。
つまり、「統帥権」は天皇に属し執行権は参謀本部が握っていた。
張作霖爆殺に始まる満州事変は、
当時の憲法下では首相・陸相・内閣では厳重な処罰はできなかった。
参謀本部の責任追及は天皇でなければできなかった。
張作霖爆殺事件の調査とその結果に対して
昭和天皇は田中首相を叱責したがそれは筋違いだった。
叱責されるべきは参謀総長だった。
昭和天皇の処置の誤りはここから始まった。


684日本@名無史さん:02/05/03 15:25
>昭和天皇が拒否権を発動して、
>田中義一内閣を総辞職
>においこんだことによって

「拒否権を発動して」とは言い過ぎではないですか?
田中の上奏が二転三転するので昭和天皇は田中が大嫌いになった。
それが田中の知るところとなり田中が総辞職しただけで、
別に昭和天皇が田中を更迭したわけではないだろう。
そりゃテキトーな事ばっかり報告されたら誰だって不信感は抱くと思うよ。
責任というなら田中にあるような気がするが。
685童門です:02/05/03 15:30
>>684
>>683を読んで
686日本@名無史さん:02/05/03 16:55
>>683を読みました。
少々、気に掛かる点が。

>張作霖爆殺に始まる満州事変は、
満州事変の始まりは柳条湖事件では?

>当時の憲法下では首相・陸相・内閣では厳重な処罰はできなかった
てか陸相白川義則はもろに厳罰反対を表明してますね。

>参謀本部の責任追及は天皇でなければできなかった
「参謀本部の責任追及」ではなく「関東軍の責任追及」では?
張作霖の爆殺は関東軍高級参謀の河本大作が勝手に練って実行したものでしょう。
責任を追及されるべきは参謀本部ではなく関東軍だと思うが。

>張作霖爆殺事件の調査とその結果に対して
>昭和天皇は田中首相を叱責したがそれは筋違いだった。
>叱責されるべきは参謀総長だった。
参謀総長って鈴木荘六大将のこと?
いや、むしろ田中首相の厳罰方針を潰しにかかった白川陸首と上原元帥及び彼らを突き動かした陸軍部内の派閥「双葉会」と「一夕会」が叱責されるべきなかじゃないですか?
ちなみに「双葉会」と「一夕会」をあわせると物凄い勢力みたいですよ。

それで私の意見ですけど、つまり何ですか?
張作霖爆殺事件の主要メンバーを厳罰に処すことは内閣では無理なので天皇がすべきだったというわけですか?
こりゃ、ちと変ですね。
もろに天皇の政治関与ですやん。
それに処罰とはつまり「人事」ですね。
天皇に人事の実権はありませんよ。
張作霖爆殺メンバーに対する人事権が具体的に誰にあったかは存じませんが、陸軍自身にあったことは事実。
たしかに首相は口出しできない。
しかし、そこをうまくまとめるのが首相たる者の役目では?
それでもなお、河本大佐らの厳重処罰を首相が断行するのは絶対に無理というのであれば、それはもう権力分散型憲法の欠陥というより他はないのでは?
687日本@名無史さん:02/05/03 19:07
>>683

>所謂「統帥権」は内閣の輔弼事項に含まれない。
>つまり、「統帥権」は天皇に属し執行権は参謀本部が握っていた。

正確に言えば、軍部大臣も「統帥権」の執行権は有していた。人事(補職)権や
軍令の奉行権、軍政に関する区処権など。

>張作霖爆殺事件の調査とその結果に対して
>昭和天皇は田中首相を叱責したがそれは筋違いだった。
>叱責されるべきは参謀総長だった。
>昭和天皇の処置の誤りはここから始まった。

 これは大江志乃夫氏の『張作霖爆殺』の見解だよね。でも、これはとんでもない
珍解釈。大江さんは軍事史の専門家なのに、戦前の軍制について初歩的な誤りをし
ている。それで、大恥かいてしまった。

 陸軍軍人の人事、犯罪の処分についての責任者は参謀総長ではなくて、陸軍大臣
だよ。
688日本@名無史さん:02/05/03 19:26
>>684

>それが田中の知るところとなり田中が総辞職しただけで、
>別に昭和天皇が田中を更迭したわけではないだろう。

  だって、当のご本人がこう言ってるんだよ。

「そこで田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬り
たいと云ふ事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は
田中に対して、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか
と強い語気で云った。
 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えてゐるが、
とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は
総辞職した。」(『昭和天皇独白録』p.22)

 少なくとも昭和天皇は、田中を辞めさせたのは自分だと考えていたわけね。

>「拒否権を発動して」とは言い過ぎではないですか?

 『昭和天皇独白録』の別の箇所には、

「田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、「ベトー」を行ったのでは
なく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふ
が、「ベトー」は云はねう事にした」(同書、p.25)

と、回想されている。
 つまり、彼の主観では、「ベトー」すなわち「拒否権を発動」したつもりは
なかったのだが、しかし、結果的に拒否権発動とおなじことになったと理解し
ていたわけだ。

 まあ、この回想がほんとうに事実を正確につたえているかどうか、検討のよち
があるが、昭和天皇自身の解釈にそくして言えば、「拒否権発動による更迭」は
言い過ぎとはいえない。
689童門です:02/05/03 20:51
>>686
>満州事変の始まりは柳条湖事件では?

確かに満州事変の始まりは柳条湖事件(一発変換できないな)だ。
しかし、参謀本部の参謀が独断で大陸での権益拡大を計画し実行した始まりは
張作霖爆殺事件だ。
「満州事変」という事件そのものより、「参謀の独断」という要素を重視し
張作霖爆殺事件を始まりとした。
誤解を与え申し訳ない。

>てか陸相白川義則はもろに厳罰反対を表明してますね。

貴方は陸軍内部の派閥についても詳しいようなので、
知識の乏しい私が答えるのは差し出がましいことになるが一応。
白川は田中との関係が深い。
彼らの関係は田中が陸軍に入るために愛媛で勉強していた頃からのもの。
原敬内閣で田中が陸相に就任すると山梨半造が次官に、
白川はそれ以前に就任していた人事局長に留まった。
田中が病気を理由に辞任すると、山梨が陸相に白川が次官に起用された。
その後、田中が組閣する際に白川が陸相に就任。
ここまでの関係を見ると白川は田中の「子飼い」と言って良い。
田中は白川を通じて陸軍に影響力を行使できると考え、
昭和天皇もそのように考えたのではないか?
しかし、田中と対立する上原らの圧力により優柔な白川は厳罰反対を表明する。
白川の厳罰反対は白川自身のものというよりは陸軍の意志であった。

690童門です:02/05/03 20:52
続き
>「参謀本部の責任追及」ではなく「関東軍の責任追及」では?
>張作霖の爆殺は関東軍高級参謀の河本大作が勝手に練って実行したものでしょう。
>責任を追及されるべきは参謀本部ではなく関東軍だと思うが。

確かに事件を計画・実行したのは河本である。
しかし、事件後陸軍軍人の関与が噂される様になり事件の調査が行われることになる。
調査報告では「陸軍軍人の関与はない」とされた。
陸軍中央部は満州における張作霖の存在を疎ましく思っていた。
事件により張作霖が死亡したこと自体は喜ぶべきことであったが、
陸軍軍人が関与していたとなると大問題である。
河本が行った張作霖爆殺事件を刑法に照らし合わせると、
第126条「人の存在する…(中略)…顚覆又は破壊したる…
罪を犯して因て人を死に到したる者は死刑又は無期懲役に処す」、
爆発物取締罰則第一条「人の身体財産を害せんとするの目的を以て
爆発物を使用したる者及び人をして之を使用せしめたる者は
死刑又は無期若くは七年以上の懲役又は禁錮に処す」という重罪だそうだ。
これほどの犯罪者を陸軍内部から出せば、
「世論も陸軍の批判を強めるのではないか」という懸念もあり当然の調査報告となった。
田中はこの報告を受けてもそれを信じず調査を他の機関に依頼する。
調査については経緯・結果が相当複雑なモノなので私がこれ以上述べるのは差し控える。
詳しくは『張作霖爆殺』を読んで頂きたい。
691童門です:02/05/03 20:53
さらに続き

>むしろ田中首相の厳罰方針を潰しにかかった白川陸首と上原元帥及び彼らを突き動かし>た陸軍部内の派閥「双葉会」と「一夕会」が叱責されるべきなかじゃないですか?

確かにその通り。
しかし、二葉会などは陸軍の公式な組織ではなく将校たちが私的に作った「勉強会」に過ぎず処罰の対象にするのは難しい。
また、昭和天皇自身も軍人に対し甘い面が多く厳罰を下すとは思えない。

>ちなみに「双葉会」と「一夕会」をあわせると物凄い勢力みたいですよ。

重要なポストに彼らが就きはじめ影響力を増していたのは事実。
しかし、彼ら自身中央部が事件後に満州への作戦(派兵といったほうが正確か)を
計画・実行することを当てにしておりまだ歯止めは掛けられる段階だった。


>もろに天皇の政治関与ですやん。
>…(中略)…
>それはもう権力分散型憲法の欠陥というより他はないのでは?

正にその通り。
元々「統帥権」をめぐっては内閣の輔弼事項であるという解釈があった。
しかし、日露戦争後伊藤博文が国政への影響力を低下させていく中で、
陸軍は参謀本部や軍令に関する法を制定し「統帥権」を不可侵のモノとし
自らの隠れ蓑としていく。

丁寧なレスを付けて頂いたが、それに対する私のレスは答えとして不十分なのはお許し頂きたい。
この問題は余りにも長い期間をかけて生まれ、広範囲にその影響が出ている。
私が挙げた本を読んで頂ければより分かり易く詳しく知ることが出来ると思う。
692童門です:02/05/03 21:05
>>687
>でも、これはとんでもない珍解釈。
>大江さんは軍事史の専門家なのに、戦前の軍制について初歩的な誤りをし
>ている。それで、大恥かいてしまった。
>陸軍軍人の人事、犯罪の処分についての責任者は参謀総長ではなくて、陸軍大臣
>だよ。

そうですか。
私は専門家ではありませんので、
本で読んだ知識をひけらかす事しかできませんので
書き込みに誤りがあると思います。

>>684
独白録に関しては昭和天皇の戦争責任回避に一役買った事と
戦前に重臣達が残した記録との間に食い違いがかなりあるとの事で
何とも。

ところで、この事件の処置に対する>>687さんの見解は?
693686:02/05/03 23:19
かなり初歩的な疑問ですが張作霖爆殺の犯人はどこの国の法で裁かれるべきものなのでしょう?
日本? 中国?
694憲法撮要:02/05/04 00:22
事件の現場は満鉄の附属地帯の中であり、犯人は日本人・河本大作だよね。
それならば、日本の法で裁かれます。
美濃部達吉『憲法撮要』(改訂5版、1932年発行)によると、
「一部統治区域は南満州鉄道附属地帯是なり。
…その地域に在る日本臣民は治外法権条約(日清通商航海条約20条)により、
支那の裁判権に服せず、専ら日本の領事裁判権に服するものなるを以て、
日本臣民に対しては日本が統治権の全部を有するものなり。」
ということです。この場合は犯人が軍人なので、領事裁判じゃなくて軍法会議だろうけどね(たぶん・・・)。
どっちにしろ、日本の法で裁かれるという原則は変わらないと思われ。
695憲法撮要:02/05/04 00:34
ところで幼稚な質問で恐縮だけど、
白川義則って、江川達也のマンガ「日露戦争物語」に出てくる彼ですよね。
696憲法撮要:02/05/04 01:02
任官と補職の違いをご存知の方いらっしゃいますか?

武官における「官」というのは、基本的には大将以下伍長までの階級のことであり、
「任官」というのは、即ち階級に任じられること。
では「職」「補職」というのは何でしょうか?
いまいち分かりません。

参謀本部設置当初の明治11年の参謀本部条例では
「本部長ハ将官一人ヲ勅ニ依テ之ヲ任ス」
となっており、参謀本部長というのは「任」じられる「官」である、という感じがします。
でも、明治41年の参謀本部条例では
「参謀総長ハ陸軍大将若シクハ陸軍中将ヲ以テ親補シ」とあり、
参謀総長は「補」される「職」になっているようです。
両者の本質的な違いは何でしょうか???

以下は仮説です。
二つの参謀本部条例の間には、明治40年に公式令が制定されている。
公式令14条によると、官を任じる官記には内閣総理大臣が副署すると定められている。
武官を任じる官記とて例外ではない。参謀本部長を任じるときも総理大臣が副署することになる。
これを嫌がった参謀本部サイドが、参謀本部総長は「官」じゃなくて「職」であるということにして、
その補職には総理大臣の副署は要らない、という形式にしたのではないか?
「補職」の概念の裏には、統帥部の独立を画策する意図が隠されていたのではないか?

実際のところは、参謀本部総長の補職には誰が副署するのでしょうか???
誰も副署しない???
697童門です:02/05/04 01:12
>>696
本を読んでの私の類推。
大将や大佐などの「官」は経験値。
「職」は各人の経験値に応じて実際にどういった仕事をするかというもの。
例えば関東軍司令官という「職」は大将が就ける。
人事に関しては人事局長に相当な権限が与えられていたようだ。
698憲法撮要:02/05/04 02:13
レスありがとうございます。
「職」=「実際にどういった仕事をするか」という解釈ですが
陸軍省では陸軍大臣は親任官、次官・局長・次長は勅任官は、課長以下は奏任官などであり、
皆「任官」されます。「補職」ではないようです。
陸軍省・海軍省に関しては「どういった仕事をさせるか」を「補職」とする解釈には無理があるように思われます。
699童門です:02/05/04 04:07
>>698
そう言えば、「軍司令官以上は天皇が直々に…」という文章を何かの本で見た。
その本では「親任」ではなく「親補」となってきたような気がするが記憶は曖昧。
「憲法撮要」さんは相当詳しいようなのでこれ以上はでしゃばらないようにする。
700日本@名無史さん:02/05/04 13:19
>>692

>そうですか。
>私は専門家ではありませんので、
>本で読んだ知識をひけらかす事しかできませんので
>書き込みに誤りがあると思います。

 気を悪くしたのなら、あやまるよ。
悪いのは専門家なのに、初歩的な誤りをした大江氏のほう。発表当時、大江氏の見解を
もちあげた日本中世史の大家もいたくらいだったから、あなたに責任はありません。


>ところで、この事件の処置に対する>>687さんの見解は?

 この「事件の「処置」」とは、事件の真相は公表せずに、満鉄の警備上重大な手落
ちがあったという理由で、関東軍の首脳と事件の関係者を行政処分にしたという「処
置」ですよね。

 念のために確認しておくと、当時公表された行政処分の内容は、
関東軍司令官村岡長太郎の予備役編入
関東軍参謀長斎藤恒と独立守備隊司令官水町竹三の重謹慎(ともに監督不行届により)
同高級参謀河本大佐の停職

 童門さんの質問が、上記「処置」の当否に関してこちらの見解を問うものだとした
ら、すまないけど、回答はごく月並。

「この時にきちんと司法処分をして、河本等を処罰しておれば、その後の事態の展開
は大きくちがっていたであろう」。
 
 ただ同時に、どのような政府であれ、できれば闇から闇に葬りたくなるような性格
の事件であったことも否定するつもりはない。つまり、よほどの決断と覚悟がなけれ
ば処分はできなかったであろうと、そうも考えている。

これで回答になっているかな。