陸軍の統制派と皇道派について

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
陸軍の統制派と皇道派について教えてください。また、海軍にはそんな派閥があったんですか?
2日本@名無史さん:02/06/17 05:30
海軍で近いといえば艦隊派と条約派かねえ。
いや、通りすがりで詳しくないのだ、失敬。
3日本@名無史さん :02/06/17 06:16
明治維新後に創設された日本軍は、各藩自前の軍隊や軍艦を統合したものだった。
陸軍の中核は長州、薩摩、土佐、佐賀などの近代化に成功した各藩の部隊であり、
海軍については更に限られ、主に幕府と薩摩が持っていた軍艦が、そのまま海軍となった。
明治維新以降、政府部内で意見の食い違いが起こり、各藩出身の有力者が抜ける度に、
彼らに従って出身地に帰る兵士も数多く、明治14年の西南戦争に至るまでに、
陸軍には新たな将官や兵士の募集などもあり、各藩出身部隊の寄せ集めという色彩は、
急速に薄れていった。
この間、終始近代的陸軍の創設と拡充といった軍政分野に傾注した山縣有朋は、
派閥を好む悪弊もあり、あたかも陸軍は彼の派閥であるかのような観を呈した。
殊に西南戦争に際して、薩摩出身の有力将校が陸軍から多数抜け出した事は、
彼の出身地である長州の影響力が殊更に強くなったような印象を与え、
ここから陸軍は長州閥に牛耳られているとの認識が広まるようになった。
同時期に、西南戦争の首領として人望の厚かった西郷隆盛の弟である西郷従道は、
長期にわたって海軍大臣を務め、日本陸軍と戦った薩摩出身者の多くも海軍に進み、
山本権兵衛のような薩摩出身者によって初期の海軍が形作られたこともあって、
長州は陸軍を、薩摩は海軍を牛耳っているとと世間では見られるようになり、
この時期の自由民権運動に関連する藩閥政府打倒の働き掛けもあって、
こうした認識が、世間一般のものとなっていった。
4日本@名無史さん:02/06/17 06:22
皇道派
荒木貞夫 真崎甚三郎 山下奉文 山岡重厚 小畑敏四郎 秦真次
統制派
永田鉄山 東条英機 小磯国昭 武藤章

艦隊派
東郷平八郎 大角岑生 加藤寛治 末次信正 高橋三吉
条約派
加藤友三郎 財部彪 岡田啓介 小林躋造、野村吉三郎 山下源太郎 山梨勝之進
左近司政三 堀悌吉 米内光政 山本五十六 井上成美


詳しい方フォローよろしく
5日本@名無史さん:02/06/17 06:40
>>3
事実は陸軍将校の試験による登用や徴兵制を導入したのは山縣有朋であり、
海軍も同様で山本権兵衛は日本海軍強化の為には同郷の者も容赦無く切り捨てた。
日清日露戦争時には大将や中将はともかく、現場で直接戦闘に携わる将校は、
試験による選抜を経た将校養成学校の出身者で特定の地域に偏るような事はなく、
従って陸海軍の主流派を長州閥や薩摩閥と呼ぶのは正確には誤りであり、
これらは専ら主流派に対する蔑称の意味合いが強い。
陸軍においては山縣有朋の影響を受けた主流派は長州閥と呼ばれたが、
それに対抗し得る反主流派は西南戦争後も陸軍に残った薩摩出身者である、
黒木為禎を中心としたために、薩摩閥と呼ばれる。
6日本@名無史さん:02/06/17 06:54
第一次世界大戦が終わり、国際的軍縮会議が開催されるようになると、
政府側の要請に応えて軍縮に努めようとする主流派と反対する非主流派の争い、
いわゆる海軍部内における条約派と艦隊派という争いが生じた。
主流派はワシントン条約の交渉に当った上記の加藤友三郎や財部彪、
それに対して反主流派は、日露戦争の英雄である東郷平八郎を担ぎ出し、
これらの政府側要請に抵抗した。
同時期に陸軍においても師団増設などに関して、政府側の意向に従う主流派と、
反主流派の争いが起こる。
7日本@名無史さん:02/06/17 07:04
やがて世界恐慌が到来し国民の政党政治への信頼が揺るいで行く中で、
貧困に喘ぐ国民に同情し、違法な手段を用いてまでも政党政治を打倒し、
改革を実現しようとする急進的軍人が現れる。
彼らは天皇を中心とした改革を武力によって成し遂げた明治維新を理想とし、
昭和維新の実現を目標とした為に、皇道派と呼ばれる。
8日本@名無史さん:02/06/17 07:10
問題は、こうした急進的軍人を、上記の主流、反主流の争いの中で、
利用しようとする動きが起こったことである。
上記の荒木貞夫、真崎甚三郎などは、その最たるもので、これら急進的な軍人に対して、
同意と支持と受け取られるような無責任な言動を繰り返し、擾乱の芽を摘み取る事を遅らせた。


9日本@名無史さん:02/06/17 07:34
クーデターを伴う改革を指向する皇道派は陸海軍を跨って存在し、
最終的には226事件の失敗によって壊滅する。
統制派と言われる主流派は、最後まで厳とした態度を取り、
東条英機は226事件の大陸への波及を阻止したと言われている。
しかしながら国民の同情は反乱者であるはずの自己犠牲的な皇道派の軍人へ流れ、
これ以前の政府による政策の失敗などから政党政治への信頼は地に落ち、
最終的に軍人に政治を委ねようとする機運が高まってしまう。
陸海軍の派閥争い=統制派と皇道派の争いでは無く、
誰がどの派閥にいたと断言することも出来ない。
従って、4のような派閥による色分けは正しいとは言えない。
むしろ皇道派と呼ばれる軍人は派閥争いに利用されただけとも言え、
軍部内の派閥争いは最後まで存在し続けたと言われている。
10日本@名無史さん:02/06/17 08:15
先ごろ、93歳で亡くなった歌人の斎藤史さんは皇道派の斎藤瀏退役少将の娘さん。
小学校の同級生、下級生には処刑された栗原安秀や酒井直もいた。父も禁固5年
11日本@名無史さん:02/06/20 01:05
これよいからあげとこ。
もっともっと説明求む。
12日本@名無史さん:02/06/20 02:08
相沢中佐って、新聞の顔写真が川津祐介(漢字違うかも)に似ているな。
13日本@名無史さん:02/06/20 14:46
バーデンバーデンの密約で藩閥解消を誓いながら
自分たちが新たな派閥争いを繰り広げてしまった
というのは皮肉だね
14【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:02/06/20 15:19
荒木貞夫は東京の出身ですが、
彼の父親は武士だったのでしょうか?
15日本@名無史さん:02/06/21 14:06
age
16日本@名無史さん:02/06/21 18:55
>>2でいいんじゃない
17日本@名無史さん:02/06/25 06:06
>>16
そうだね。

>>9の言うように(あれは陸軍の話だけど)一括りに出来るものではないかもしれないが、
取り敢えずの理解ということで。

蛇足するなら海軍は最後まで艦隊派のほうが根強かったというところかな…
18日本@名無史さん:02/06/28 08:30
東京裁判で最初に証言台に立った荒木貞夫大将は言った、
「平和・人道に対する罪は、荒木の70年生涯にわたる誇りを奪うものであり・・・」
19日本@名無史さん:02/06/28 08:43
荒木は「皇軍」「聖戦」の名付け親。露国通で奇抜な修辞の雄弁家。
出所後も派手に動き回り、s41.11奈良県十津川のの講演先で長広舌
2時間の後、旅舎で急死。89歳。
20日本@名無史さん:02/06/28 09:08
荒木陸相時代には軍備の近代化が進まなかった。理由は荒木の精神主義
陸相時代、彼は来日したバーナード・ショーとの対談で、日本の兵隊が勇敢
なのは、日本は地震が多く、胆力を鍛えられているからだと述べて、ショー
をケムに巻き、竹槍による戦争がもっとも経済的だと述べショーを驚かせた。
21中¥某:02/06/28 09:16
ちなみに辻政信は統制派。
5,15と2,26との間にあるはずのクーデターを水際で防いだ。
22日本@名無史さん:02/06/28 09:18
士官学校事件のことかい?
23日本@名無史さん:02/06/28 09:25
北一輝、西田税らが、青年将校に国家社会主義と私有財産制度の否定を吹き込んで、急進化させたんじゃないの。
24日本@名無史さん:02/06/28 09:36
>23
青年将校が北の理論を理解していたのかどうかは疑わしい。また、北は東郷平八郎
の腰巾着、小笠原長生中将のところに出入して、日蓮宗や法華経について講義して
おり、他にも三井財閥からもばく大な資金援助を受けており、本心はどこか不明
ちなみに北の弟は、自民党代議士、北玲吉。
25日本@名無史さん:02/06/28 09:49
2.26事件の直接の動機は、陸軍派閥争い。行動派が劣勢になったことからの
焦りから皇道派上層からの教唆などあり暴発した。国家改造、農村の疲弊などは
後講釈。まさか派閥争いが動機です、とは陳述できんからね
26日本@名無史さん:02/06/28 09:55
ついで言えば、戦時中の日本の経済システムはまさに国家社会主義。
資本主義らしきものはどこにも見られない。
27 :02/06/28 10:00
1956/05/08 衆議院 文教委員会 で、高津正道なる議員が、
巣鴨から出所後、文化放送出演の際の荒木貞夫・橋本欣五郎の発言を紹介している。
http://kokkai.ndl.go.jp/
28日本@名無史さん:02/06/28 10:15
多摩美大初代校長・杉浦非水に関するサイトでこういう記述がある
「多摩美大の創始者、北玲吉の兄、北一輝の影響もあり、多くの自由主義者の
左傾と異なり右傾化して行く」 これを見ても一般には一輝の思想は左とは
見られていないし、事実、影響を受けた者は右傾化している。
29日本@名無史さん:02/06/28 11:33
北一輝の略歴(1883〜1937=m16〜s12)
国家主義運動の理論的指導者。新潟県佐渡の海産問屋に生れる。本名輝次郎
1906年、「国体論及び純正社会主義」を自費出版するが発売禁止。国竜会に参加。
後に「国会改造法案大綱」発表。内容は天皇大権の発動でクーデターを行い、国家
改造を実施し、海外膨張を達成しようとしたもの。大川周明の猶存社に参加したが
大川と対立してこれを解散。小川平吉、平沼騏一郎らと結び、朴烈怪写真事件など
を起こし政界の裏面で暗躍。ロンドン条約での「統帥権干犯」は北の造語と言われる。
大川周明、権藤成縁らと並ぶ国家改造運動の中心的人物の地位を占めたが、三井財閥
から多額の活動資金を入手していた。2.26事件で西田らと銃殺刑(世界大百科事典)
30日本@名無史さん:02/06/28 12:48
西田税は陸幼、陸士と進み、t11年34期生として卒業、同期の秩父宮との接触が
深かった。その縁で後年、秩父宮が北に密かに会見する仲立ちになった。
陸士では頭脳明晰、成績抜群、朝鮮羅南の騎兵27連隊付少尉に、その頃から国家革新
への情熱を燃やしていた。広島の騎兵5連隊に転任後、健康を害し、依願予備役となり
自由の身となり、かねてからの希望通り、国家革新運動の実践に乗り出した。
大川周明、安岡正篤、満川亀太郎の行地社に入り、猶存社で北と知り合い合流・・・・・
31酔生夢死ジーモン三等兵@香宋我部家中:02/06/28 13:48
東京裁判の時も荒木貞夫一人は「これで欧米人にも八紘一宇の精神を
解ってもらえる」と意気揚々としていたそうです。
32日本@名無史さん:02/06/28 13:59
いまの日本は見事に八紘一宇してまんなぁ。
33日本@名無史さん:02/06/28 15:45
「・・・正月とか祭日になると、少尉、中尉が、千鳥足で泥靴のまま陸相官邸に現れ、
“荒木はいるか”と怒鳴りつつ奥に通る。それを見ながら、“若い奴は元気がいいのう”と
歓迎するから「荒木閣下、荒木閣下」である。いやしくも陸軍大臣を捉まえて、酔っているとは
いえ呼び捨てにするとは、何処の国の軍隊にも見られない奇現象であった」(軍国太平記)
34日本@名無史さん:02/06/29 08:22
若者に対して、オトナたるものがその過激な姿勢をたしなめようとはせず、
「元気がええのー」とか「ワシもすこしは見習わなきゃならんのー」などと
嘆息するような時代っつうのは、つまり乱世だ。
まあ、乱がいけないとは言わない。
明治維新のときの長州の場合も似たようなものだった。
ただし、万が一自分が生きている間にそういう時代になってしまったら、、、
全財産引っ担いで山奥に隠遁することをおすすめする。
35日本@名無史さん:02/07/02 22:28
私は、33さんが挙げておられる『軍国太平記』の中で、軍事参議官会議の時に
(真崎が教育総監を首になった直後)、荒木・真崎が3月事件関係の書類を出して永田を
首にしようとしたとき「そういう書類を軍事参議官となった今日まで所持しているのは、ひとえに永田を陥れようと
しているためだ。これは軍紀漏洩だ!」といって、彼らを黙らせた渡辺錠太郎教育総監が
かっこいいと思いました。けど、渡辺大将のことについて書かれた本があまり
ないようです。誰かご存知でしたら教えて下さい。
36日本@名無史さん:02/07/03 22:20
学者肌の軍人だったようですね>渡辺錠太郎大将
37日本@名無史さん:02/07/03 22:58
>36
そして天皇機関説支持者だった。
38日本@名無史さん:02/07/28 03:13
あげとく
39日本@名無史さん:02/08/19 08:34
 
40日本@名無史さん:02/08/21 15:29
>35
真崎(陸士9期、陸大19期)が首になった後の教育総監が渡辺(陸士8期、陸大17期)。
陸軍少将昇格から2・26事件までの二人の歩みは

真崎:大正11年陸軍少将・歩兵第一旅団長−士官学校本科長−同教授部長−士官
学校長(少将5年間)−陸軍中将・第八師団長−第一師団長−台湾軍司令官※渡辺の
後任−参謀次長兼軍事参議官−(中将6年間)陸軍大将・軍事参議官−教育総監−
昭和10年7月軍事参議官※更迭され、後任が渡辺。

渡辺:大正9年陸軍少将・歩兵第29旅団長−参謀本部第四部長−(少将5年間)陸軍
中将・陸大校長−第七師団長−航空本部長−台湾軍司令官−(中将6年間)陸軍大将
・航空本部長−軍事参議官−教育総監※真崎の後任

と、真崎のほうがやや華々しい印象がある。ここらへん詳細な人の解説キボン。
真崎は陸軍省軍務局軍事課長や近衛歩兵第一連隊長等の比較的目立つ職を歴任して
陸軍少将に昇進しているが、渡辺は山県有朋の副官を務めたり、参謀本部外国戦史
課長が目立つ程度で、あとは在外公館付武官。経歴から判断すれば、欧州通で国際的
な視野のある人間ということになるのだろうが。

41日本@名無史さん:02/08/24 11:18
統制派も皇道派も
社会主義的傾向を有していた?
42日本@名無史さん:02/08/24 22:16
さまざまな留保付きになるけど、社会主義的なのは統制派。
荒木など軍中枢にいた皇道派は、完全に反社会主義。
43日本@名無史さん :02/08/29 14:30
ゴーストップ事件も荒木だったか
横紙破りに若い者をチヤホヤするわでダメ軍人の一人

真崎は腹黒い男だし
44日本@名無史さん:02/08/31 11:14
杉山さんはなんであんなに出世されたんですか?責任はとられましたが、各場面の判断は
いま一つ納得がいきません。他の人だったらなあとどうしても考えざるを得ません。
45ハンニバル:02/09/02 17:37
すばらしいほど、充実してますね。感動です
46日本@名無史さん:02/09/12 11:41
「マッカーサー参謀」堀栄三の養父堀丈夫第一師団長は2・26の責任を取って辞任しましたが、
有識者の方、この経緯とか経歴を教えてもらえませんか?
47日本@名無史さん:02/09/12 17:07
>>43
真崎は腹黒いなんてレベルじゃない!
被害妄想激しすぎ。日記読むとよくわかるけど、初めは仲間だと思っていた林銑十郎
が教育総監の真崎を更迭しようとすると、「土蜘蛛」と罵るし、永田鉄山が惨殺された
時も、「神罰が下った」と喜んでるくらいだから。
そのくせ、東京裁判では、自己弁護のみに終始するだけだし。

こんなヤツが一時は陸軍のトップだったんだから、戦争に負けるはず。
48日本@名無史さん:02/09/12 17:16
「近衛上奏文」読んでみたら、サイトで検索できる。
49日本@名無史さん:02/09/12 17:41
昭和6年12月の犬養内閣で荒木貞夫が陸相になったのが皇道派の全盛の始まり。
際立った人事の不公正で、まず真崎甚三郎(参謀次長=総長が皇族なので実質的総長)
翌年、軍務局長(山岡重厚)、人事局長(松浦淳六郎)、憲兵司令官(秦真次)、
軍事課長(山下奉文)、参本三部長(小畑敏四郎)、作戦課長(鈴木率道)など自派に
近い人物で固めた。不自然、且つ、強引な人事が目立ち過ぎたという。
50日本@名無史さん:02/09/12 17:44
このため、離反する者も多く、没落も早かった。
51日本@名無史さん:02/09/14 11:47
>44
杉山は陸大22期。陸大同期に畑俊六(元帥)、小磯国昭(大将)。
1つの期から元帥を2人出したのは陸大60期の歴史でもこの代だけだし、
大将3人というのも、ここと17期(渡辺錠太郎、林銑十郎、南次郎)28期
(山下奉文、木村兵太郎、板垣征四郎)だけ。
一応将来を嘱望された世代だったとは思われる。

特に持論があるというタイプではなく、部下の提案をよく採用したらしいので
受けはよかったようだよ。
52日本@名無史さん:02/10/03 19:35
保守 
53日本@名無史さん:02/10/03 19:56
保守上げ
54日本@名無史さん:02/10/03 20:59
>>42 北一輝の私有財産の制限などというのは、明らかに社会主義。
経済に対する国家の過剰な関与、国民への富の分配への国家による
過大な配慮をするのが社会主義であるなら皇道派の精神的主柱北一輝は
立派な社会主義者。現に国家社会主義という。
例えば、金正日の北朝鮮は、社会主義ではあるが、金日正を
昭和天皇・ヒトラーに置き換えれば、何らの違和感は無い。
この辺は非常にこんがらがっており、スターリンの一国社会主義という
マルクスの想定したものとは似ても似つかぬものが社会主義の祖国と
なってしまったことに端を発する。
5542:02/10/03 23:53
>>54
>皇道派の精神的主柱北一輝
42に書いたように、皇道派の定義にもよるが、本来の皇道派を
真崎や荒木とするなら、彼らにとって、北は精神的支柱ではないし、
国家社会主義者でもない。明らかに反社会主義。

当たり前だが、北自身も皇道派ではない。

青年将校も、どれだけ、北の国家社会主義的部分に
共感したかは必ずしも明かではない。

非常に大雑把にいうならやはり、
皇道派が反社会主義、統制派が社会主義的。

56 :02/10/06 06:02

今夜の実況は こちらで

NHKアーカイブス ◆ 横井庄一 ・ 張本勲
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1033849902/
57日本@名無史さん:02/10/06 06:08
統制派=モダニスト=国家主義
皇道派=反近代派=天皇主義
58日本@名無史さん:02/10/06 09:36
荒木大将戦犯被告の時牢屋が汚くて「バカモン」とmpに大喝したらしい(天皇と東條
英機の苦悩」塩田道夫) やるっすねー
59日本@名無史さん:02/10/06 10:09
↑ 房内のトイレの窓ガラスが破れ、臭気が室内に充満するので紙を貼ったが
 看守兵がはがしたので支給されたボール箱のふたをかけたがそれもダメ、
 将校を呼んで事情を話すが、ルール違反だからノー。切れた荒木が「するガラスは
 文明のためにあるのだ、日本の武士は雪隠の中で暮らすほど野蛮ではない」と
 ボール箱を房の外に放り出した(小島襄=東京裁判)
60日本@名無史さん:02/10/06 10:11
↑ 「するガラスは ⇒「すりガラスは
61日本@名無史さん:02/10/06 12:05
荒木大将実は親米派らしくペリー記念碑を壊すのを反対したり対米戦にも批判的だったと
聞いたがホントかな 先頭にたって戦争を鼓舞するイメージがあったけど
62日本@名無史さん:02/10/06 12:52
皇道派と大本教の関係について情報キボン
63日本@名無史さん:02/10/06 17:44
陸軍急進派、桜会の橋本欣五郎らが計画した10月事件では、同士の将校百余名が
指揮下の各連隊から十数中隊を出動させ、首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部などを
襲撃、首相以下は斬殺し、他の反対派は捕縛。その後、東郷元帥が参内して荒木中将に
大命降下という筋書きだった。他に霞ヶ浦の海軍爆撃機や大本教の出口王仁三郎が信徒
40万人を動員して支援に立つ約束もできていた。だが、後に大本教は強烈な弾圧をくう。
64  :02/10/06 18:36
肥前佐賀派対長州派
65日本@名無史さん:02/10/06 18:36
>>1よ。
このスレの>>1よ。
駄スレを立てた>>1よ。
そう、お前だ。
今でも毎日このスレをチェックしているだろうか?
流石に見ていないよな。それはこのスレの下がりっぷりを見れば分かる。

現在、このスレは一覧の最下段にある。あと一人、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
たった一人、おまえのように駄スレを立てる奴がいるだけでdat落ちする。
人間で言えば虫の息ってやつだ。気になるか?ならんよな。

初めてスレを立てたとき、掲示板に書き込んだときのことを、お前は憶えているか?
言いたいことは解るな。まさに今、お前の一部は死に往こうとしている。
それは駄スレを立てたお前自身の責任であり、罰だ。

正直、今だから言うが、このスレの>>7>>11は俺だ。>>100のキリ番は今更ながら地味に嬉しかった。
他にもいくつか書いたし、自作自演もした(番号は勘弁してくれよ)。
ここまで伸びたってことは、俺よりも大切に見守ってきた他の参加者もいたに相違ない。

何がいけなかったのだろう?粘着を相手にしたこと?議論のループ?
違うな…もうこのスレは寿命だったんだ。ネタ切れってやつ。

もし、このスレを倉庫で見つけて、今読んでいる君がいたら憶えていてくれ。
パート10まで続き、各所で紹介される名スレがある一方、
志半ばで堕ちるこの>>1のようなスレが山のようにあることを。そして、君は名スレを育ててく欲しい。

さぁ、時間だ。最後の記念カキコ(sage)を送ろう。

クソスレ立てるなッ!>>1……ッ!!
66 :02/10/06 23:08
今夜の実況は こちらで

NHKアーカイブス ◆ 横井庄一 ・ 張本勲
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1033849902/
67日本@名無史さん:02/10/08 21:56
皇道派のDQN相沢三郎に斬殺された永田鉄山は陸士、陸大を首席で卒業した秀才官僚で、
家庭でも口数が少ない気難し屋だったが、酒は2升も平らげるほどの酒豪。酔えば、得意の
裸踊りや外国で覚えたダンスも踊るという、はしゃぎ屋だったらしい。長年の大酒で胃を
こわし、徳利にゲンノショウコを入れて来客の相手をして、対談中に苦痛を訴えることも。
胃がんではないか、と心配していた人もいた。
68日本@名無史さん:02/10/09 03:38
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」


余談だけど現代中国で東条の次に知名度のある
日本軍人は岡村寧次らしい。今年の調査では10位に入ってた。
69日本@名無史さん:02/10/12 09:25
支那で有名て事はどうせ嫌われモンなんだろう 岡村さんの様に立派な軍人までそういう偏見で
みるんだから困ったもんだよ ああやだやだ
70日本@名無史さん:02/10/13 13:01
軍閥のお薦め本ってありますか?
71日本@名無史さん:02/10/13 14:24
陸軍における軍閥形成の流れは、先ず、ドイツ留学中の永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎
の3少佐が会合して、長州閥に壟断されている軍部内に「大きな窓を開けよう」という動きを
これを「バーデンバーデンの会合」という(大正10/10/27)。会合には東条も参加したとも。
s3/11/3、無名会の会合(石原莞爾、鈴木貞一、村上啓作、根本博、武藤章ら9名)
s4/5/19、これらの会を発展解消させて一夕会が誕生(河本大作、山岡重厚、永田鉄山、小畑、
岡村、板垣、土肥原、山下奉文、石原莞爾、鈴木率道、根本、武藤、田中新一など後年の皇道、
統制両派のメンバーが混在していた。
72日本@名無史さん:02/10/14 10:28
>68
岡村が有名なのは、終戦時に支那派遣軍総司令官として南京での降伏文書に
調印したから。つか、中国での戦犯裁判で無罪でしょ、この人。
勝手に悪人にしちゃいかんですよw
73日本@名無史さん:02/10/14 13:41
>>68
>余談だけど現代中国で東条の次に知名度のある
>日本軍人は岡村寧次らしい。今年の調査では10位に入ってた。

そもそも何のランキングなの?
他9名の方が知名度あるんじゃないの(w
74日本@名無史さん:02/10/14 21:22
>>73
「知っている日本人を挙げよ」みたいな調査だよ。
イチローや中田、昭和天皇がランクインしてた。
理由は>>72の通り
75日本@名無史さん:02/11/04 17:23
あげ
76日本@名無史さん:02/11/19 14:40
あげ
77日本@名無史さん:02/11/19 22:41
>>21
2月事件と10月事件
78日本@名無史さん:02/11/19 22:48
>>25
高橋なんとかという学者さんの本に寄れば、

青年将校(隊付将校)は兵士としてやってくる農村青年達の指導に当たる。
隊付将校達は兵としての教育だけでなく
人格形成にも教師として大きな側面を持っていた。
また、農村青年の個人的な相談
例えば、農家ではもう生計が立てれない等の
を受けていた。
隊付将校は若い兵士達の教育をしている間に、
社会問題(特に農村疲弊)に深刻な危機意識を持った。
将校達は政党政治では農村を救えない、
救えるのは「天皇の子たる」兵士のみだと考えた。
その為、政治家や財閥党首を暗殺しようとする事件が頻発。
それだけでは政治が変わらないのでクーデターにまで及んだ。

そんな感じだったけどな。
79日本@名無史さん:02/11/19 22:54
>>41
社会主義というよりは全体主義。
国家による計画統制経済といったほうが正しい。
企画院などはその象徴だった。

>>70
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/412100194X/qid=1037714012/sr=1-3/ref=sr_1_0_3/249-1198688-6329100

>>77
3月事件と10月事件に訂正。
スマン。
80日本@名無史さん:02/11/20 02:04
辻が防いだのは陸軍士官学校事件所謂11月事件じゃないの?

3月事件は橋欣たち桜会が、クーデターを起こし宇垣を首班とした
軍部独裁内閣を作ろうとした事件。最初は乗り気だった宇垣が最後の最後で
変身して御破算。
10月事件は同じメンバーが今度は荒木を担ごうとして失敗した事件。
81日本@名無史さん:02/11/20 02:12
ちなみに士官学校事件は片倉、辻が仕掛けた謀略
磯部と村中はそれにはめられた
82日本@名無史さん:02/11/20 02:22
近衛は統制派をアカと毛嫌いして皇道派を信頼してたから
荒木を文相にしたり柳川を司法相にした。
83日本@名無史さん:02/11/20 02:30

皇道派は経済や政治に関して非常に荒っぽい理解しかしておらず、
戦中、「統制派=アカ論」というトンデモ電波を流し続けた。

統制派は共産主義者で、わざと日本を負けさせて、共産国家にする
つもりだ、という電波説。

あまりに熱心に言うものだから、それなりに影響力が出てしまった。

近衛が終戦工作(東条下ろし)するとき、皇道派を中心に次の政府を
考えたものだから、まとまるものもまとまならなくなった。
皇道派政府なんていう空恐ろしいものを考えず、素直に近衛政府に
すれば、さっさとまとまったのに。このあたり、近衛のヘタレセンスの
真骨頂。

皇道派のあの激しい電波ぶりは、新興宗教あたりとの関連を感じるの
だけど、そういう研究をしている研究書はないかな?
84日本@名無史さん:02/11/20 03:39
85日本@名無史さん:02/11/20 07:27
>>84
1935年には、日本経済は高度成長(名目成長率6.8%)に向かって進み、
農村の困窮もほぼ解消していた。

農村困窮説は実態を反映していない。
86日本@名無史さん:02/11/20 07:31
>>84
ありがとう。調べてみる。
87日本@名無史さん:02/11/20 07:42
>>85
なるほど成長率で見るとそうなんですね。

>農村の困窮もほぼ解消していた
農村の状況を示す具体的な資料はありませんか?

手持ちの資料に小作争議発生に関するものがありますので紹介しますね。
1917年の米騒動から発生件数が徐々に増え、1936年がピーク(6824件)です。
参加した人数で14万人となっています。

これらのことを合わせると、
「1935年時点では、都市部での経済状況は回復したものの
 農村部では困窮が続いていた。
 都市部と農村での所得格差が広まっていた」
ということになるでしょうか?

88日本@名無史さん:02/11/20 08:07
>>85
日本資本主義の強靱性ってやつか。
だけどあれは農業の分析が欠落しているからね。
この時期に農村を見て回った,猪俣都南雄「窮乏の農村」でも読んでみ。
岩波文庫で出てるから。
その上で農村困窮説批判を改めてどうぞ。
89日本@名無史さん:02/11/20 08:17
>>87
私は玄洋社をルーツとする民権運動が1930年代に既得権益組織化・
暴力団化した動きがあって、それが皇道派とつるんで日本の政党政治を
壊したんじゃないかな、と思ってます。

米騒動に関しては
「あれはヤクザがやったのです。まじめなものはやりませんよ」と農村で
返答されたということが「石母田著作集14巻」378頁にあるそうです。
小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)348頁の記述ですが。
90日本@名無史さん:02/11/20 08:33
>米騒動
やくざが何万人もいたのか?西日本では被差別部落が大いに関係してるが。
91日本@名無史さん:02/11/20 08:48
これを見る限りでは成長率を引き上げていたのは満州だったようです
ただこれが何年のデータなのかわかりませんが
農村における負債額は年収の4倍ほどあったようです
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-11.htm

これを見ると農村が回復傾向にあると出ていますねぇ
ただ、こちらは首相の国会演説ですから自分の政策が上手くいっていることを
強調しているかもしれません
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/19360121.SWJ.html
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/19360506.SWJ.html

農業で生活していけなくなった人達は朝鮮・満州へ渡っていたんですね
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/gr00/kk/02.html
http://www.gens.niigata-u.ac.jp/~editor/PDF/21LHf.pdf

農村の歴史を手短にまとめてあります
http://www.asahi-net.or.jp/~GA2A-MYZK/incentive/incetive-011.html

高橋財政とその結果の分析、二次産業の成長についての言及がほとんど
http://ai.rku.ac.jp/underg96/keiichiro/zemi.html
http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/watanabe/lectures/gendai/gendai03.html

個人のHPでしょうか、この方は農村困窮と2・26事件を関連あるものとして考えているようです
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhy1010/niniroku.htm
http://www.d7.dion.ne.jp/~anneh/hasesan.htm
9287:02/11/20 08:57
>>90
>>89は私ではないですよ


>>89
玄洋社そのものがもともと農村出身者によって構成されていたので、
深いかかわりがあった可能性は高いでしょうね。
93日本@名無史さん:02/11/20 18:30
三月事件では大川周明のほかに無産党の亀井貫一郎、赤松克麿、
麻生久らも関わってた。
94日本@名無史さん:02/11/21 07:17
一品会
同衾会
95日本@名無史さん:02/11/21 09:58
>>91さん、どうも。

>なぜなら東北の窮状は新聞などのマスコミでも大々的に報じられ、
>そしてその結果、天皇を国体(こくたい:くにそのもの)とする思
>想がそれによって脅かされるのではないかと危惧した右翼や軍部な
>どが、東北の窮状を救う『名目で』軍需生産を増大させたからである。
名目でがポイントだね。

>しかしその軍需産業の発展は東北などの農民に就業機会を与える
>ことになったから、その結果1937年には農産物価格は恐慌以前の水
>準にまで回復した。

>言ってみればそれはアメリカのTVAや、ドイツのヒトラーの軍
>拡による景気回復と同じ「ケインズ政策」の効果であったのだが、
>そうして東北や北陸の農民は武器を大生産することで救われたのだ
>った。
軍需景気と統制経済だね。
左翼の一部は、これを社会主義への一歩と見誤った。

> 参照:授業のノート
>「日本農業100年のあゆみ」
>(暉峻衆三・てるおかしゅうぞう、有斐閣ブックス2800-)など

96日本@名無史さん:02/11/21 10:55
終戦直前のあたりは、このへんの派閥はどう関わってるの?
97日本@名無史さん:02/11/21 11:09
皇道派が、統制派を赤路線と非難し、政府内部と組もうとしたような気がしたが。
ちょっと、自信ない。
講談社の「帝国の昭和」に書いてあったかも。
98日本@名無史さん:02/11/21 19:26
五・一五事件「檄文」

日本国民に檄す


 日本国民よ!
 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。
 政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と…
 日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる。革新の時機!今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。
 国民よ!武器を執つて立て(、)今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何者もない、国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ!
 而して、
 陛下の聖明の下、建国の精神に皈り国民自治の大精神に徹して人材を登用し朗らかな維新日本を建設せよ。
 民衆よ!
 この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!
 偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。
 吾等は日本の現状を哭して赤手に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの。
 素より現存する左傾、右傾の何れの団体にも属せぬ、日本の興亡は吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起[蹶]する国民諸君の実行力如何に懸る起て!起つて真の日本を建設せよ!

昭和七年五月
海軍青年将校
99日本@名無史さん:02/11/21 21:25
>>4
超亀レスだが、山本五十六は条約派か?
条約派と艦隊派が生まれたロンドン会議で山本少将は海軍の次席随員だったが、
山本は海軍随員の中で強硬派のリーダー格。
大蔵省の随員だった賀屋興宣が財政面から妥協案を支持したときには
「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴りつけたほどだ。
100武装共産党 ◆WE7QmhAn86 :02/11/21 23:16
100
101日本@名無史さん:02/11/21 23:48
>>96
終戦当時現役だった皇道派は山下奉文第十四方面軍司令官、
村上啓作第三軍司令官、土橋勇逸第三十八軍司令官。
あと牟田口廉也も一応現役か・・・
世渡り上手の鈴木貞一は企画院総裁などを歴任。貴族院議員にまでなった。

102日本@名無史さん:02/11/21 23:52
統制派と長州閥は関係ないと思われ。
あの頃は長州閥はすでに壊滅してた。
103日本@名無史さん:02/11/21 23:54
>>92
>玄洋社そのものがもともと農村出身者によって構成されていたので、

その説は初めて聞いた。
箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満の「玄洋社三傑」や、
その先輩格の武部小四郎、越知彦四郎にしても、
旧黒田藩の不平士族だよ。
で彼らは西南戦争に呼応して挙兵。
西南戦争後に生き残った連中の作ったのが玄洋社じゃないの?
104日本@名無史さん:02/11/22 00:03
最後の陸相阿南はどっち派?
105日本@名無史さん:02/11/22 00:10
>>103
玄洋社は西南戦争に参加できなかった世代が中心になって結成された。
西南戦争後、反政府勢力は自由民権運動という形で
政府の打倒もしくは政権奪取を試みた。
玄洋社はその最「右翼」。
藩閥打破とか自由民権とか勤皇とか色々な要素を
含めることで活動を広めた。
元武士などはホワイトカラー層になっていた場合が多く、
さほど過激ではなかった。
自由民権運動とかでも過激だったのは江戸期に農民・町民だった
ブルーカラー層。
最右翼である玄洋社がこのブルーカラー層を取り込もうとし、
また実際に取り込んだ。
106日本@名無史さん:02/11/22 00:10
>>102
思想とか政策とか無視して人の流れだけみたら

長閥⇒宇垣閥⇒統制派
薩閥⇒上原閥⇒皇道派

まあかなり強引だけど


107日本@名無史さん:02/11/22 00:11
>>104
中立
108日本@名無史さん:02/11/22 00:21
長閥⇒宇垣閥
ここまでは繋がっているけど、
⇒統制派
これはちょっとね、そもそも統制派って派閥自体明確なものではないし。。。
109日本@名無史さん:02/11/22 00:32
>>108
まあね。永田鉄山自身”統制派なんて派閥はない”と言ってる。
だだ統制派の上のほう、南、杉山、小磯、二宮あたりは宇垣の側近だったし。
110暇人:02/11/22 02:01
統制派と皇道派の入門書程度の解説
重要人物だけは名前を挙げたが、人名はできるだけ排除した。
ちょっと長いけど興味のある人は読んでみて。
間違いがあればそこは訂正しちゃって下さい。



111暇人:02/11/22 02:02
統制派と皇道派は当初共通の目的があった。
それは長州閥による歪な陸軍人事の矯正と大規模な戦争に向けた
全体統制国家への変化。

まず、非長州閥は広く結束し陸軍から長州閥を締め出した。
これが第一段階。

第二段階は全体統制国家への変化を目指すと同時に
政府内における陸軍の発言力を強化する。
この路線に従って満州事変〜満州国独立までが行われた。
同時にマスメディアを巧に利用し、陸軍に対する国民の支持を取り付けることにも成功する。
しかし、このころから陸軍内に変化が現れた。
政党・議会・政府に対しては陸軍が団結して行動していたものの、
陸軍内では永田系(のちの統制派になっていくグループ)と
非永田系(のちの皇道派になっていくグループ)が生まれた。
永田系は合法的手段(統帥権を持ち出したり、
陸軍大臣の進退を独自の判断で決定)によりを間接的に国政をコントロールしようとした。
非永田系はクーデターにより政府を倒し軍人が首相となって、
直接的に国政を行おうとした。
非永田系の中でも特に尉官クラスの将校は実際に部隊を率いている立場で、
直接行動を起こすことを上層部に要求するようになる。
永田系(以下、統制派)と非永田系(以下、皇道派)は微妙なバランスで
拮抗しながら、陸軍としては徐々に政府内で発言力を強化することに成功した。
112暇人:02/11/22 02:03
第三段階、長州閥がこれまで支配してきた人事権を巡っての主導権争い。
統制派が人事を握り重要ポストを占拠していく一方で皇道派が徐々に主流から離れていく。
このまま放置すれば統制派が陸軍主流になり
「第二の長閥」になると皇道派の青年将校が危機感を感じる。
皇道派の中佐が永田を斬殺する。
これにより統制派のまとまりが弱まる。
一方で皇道派の青年将校は更に暴力的路線を進み2・26事件まで起こす。
ここに至り統制派は再び結束し2・26事件を政治的解決し皇道派を主流から完全に
排除する。

第四段階、統制派が支配する陸軍が組閣から介入を行い内閣をコントロールし始める。
2・26事件後組閣した広田内閣は陸軍の要求により、
ドイツとの提携を進め日独防共協定を締結。
また、この頃から各省を横断しての企画統制経済・大規模戦争準備を本格的に行い始める。
陸軍はこのように徐々に対米英、対ソ戦争への準備を整え始める。
広田内閣が倒れた後、宇垣一成が天皇から大命降下を受け組閣準備を始めるが
石原莞爾により阻止され組閣に失敗。
石原は様々に策動し自分の息のかかった林銑十郎内閣の組閣に成功。
事実上の石原内閣であったが、組閣時の強引な手法がたたり議会・宮中の
反発にあい短命に終わる。
石原は統帥部から現地参謀へ左遷され、陸軍は再び統制派が実権を握る。
113暇人:02/11/22 02:03
石原は統制派とも皇道派ともとれるような行動を取り続けていた。
旗色を鮮明にしないことで上手く立ち回れた面もあったが、
周囲からは常に不可解な男として見られており浮いていた。
石原は自分が中心になって国政をコントロールすることを欲していた為、
そのチャンスがあれば統制派でも皇道派でも構わないと思っていたかもしれない。
114日本@名無史さん:02/11/23 15:32
>>79
しかし経済的平等に対する志向がまったく無かったとは言えないのでは?
115日本@名無史さん:02/11/23 19:24
>>112
山本内閣が軍部大臣現役武官専任制から現役を除いたとき、
軍事課長だった宇垣は大反対して、怪文書まで流して左遷された。
広田内閣で現役大将中将専任制が復活したとき、宇垣は日記で
「誠に結構至極である。余が過去において、身命を賭して争いし問題も、
時代の力によりて、安々と解決したのは、祝うべきである」
と書いている。まさかこれが自らの死命を制するとは、夢にも思ってなかっただろう。
116日本@名無史さん:02/11/24 03:45
>>114
平等という考え方よりは、国策会社を多数作ったことからも
明らかなようにやはり統制・計画を目的とした経済政策だったと思う。
平等を実現しても戦争に勝てる国家は作れない。
戦争に勝つためには国家の持つ力を管理し、
効率的に分配し・投資する必要があると考えていた。
117日本@名無史さん:02/11/25 07:58
今日の新聞に、25日から公開される故迫水久常(当時岡田首相秘書官)氏の生前の
2.26事件に関する証言(録音テープ)が公開される、とある。証言の内容は
「川島陸相は呆然とするのみ」「首相救出を依頼した大角海相は、聞かんことにしておく」
と、まったく頼りにならない人ばかりだった」また、彼らの背景について、「いわゆる
『皇道派』とか『統制派』とかいう理論が先に出来て、その理論を信奉する者が集まった
んじゃなくて、人間の心理的な派閥関係、あるいはライバル的な関係が一つの徒党を組んだ」
事件の背景には国家革新を目指す青年将校を中心とする皇道派と、総力戦体制の維持を図る
幕僚を中心とした統制派による理論的な対立があったというのが定説だが、氏の見方は、
対立は主義主張より、むしろ感情的なものだったことを示している、と新聞は結んでいるが…。
118日本@名無史さん:02/11/25 08:17
>>117
>>111
>永田系は合法的手段(統帥権を持ち出したり、
>陸軍大臣の進退を独自の判断で決定)によりを間接的に国政をコントロールしようとした。
>非永田系はクーデターにより政府を倒し軍人が首相となって、
>直接的に国政を行おうとした。
この路線対立と人事対立が頂点に達したというのが真相かと思う。
119日本@名無史さん:02/11/25 08:24
若手を甘やかす爺と、それを苦々しげにみてる中堅
120日本@名無史さん:02/11/25 17:05
経済界とのつながりはどうだったんだろ
121日本@名無史さん:02/11/25 19:36
皇道派青年将校の黒幕(と言われている)北一輝は三井財閥から多額(年2万円)の
援助を受けていた。もっとも、これは北だけでなく大川周明も三井から月額二千円、
石原広一郎から3万円調達するなど、右翼を名乗る連中は財界から金を調達している。
122日本@名無史さん:02/11/25 20:44
>>120>>121
新興財閥と関東軍の関わりもあるね。
日産系、日窒系は満州での新規事業に、
自分達の活路を見出そうと色々してるね。
123日本@名無史さん:02/11/25 20:54
117 の迫水久常氏は終戦時の内閣書記官長、終戦の詔勅を起草した人物としても
知られている。迫水氏は終戦前夜、同盟通信の長谷川才次海外局長より「海外放送に
よると、ソ連が日本に対して宣戦を布告したらしい」という電話を受け、「立っている
大地が崩れるような気がした」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』)、と回想。
124日本@名無史さん:02/11/28 03:57
age
125日本@名無史さん:02/12/01 09:17
age
126日本@名無史さん:02/12/01 19:43
>>121
けど、その自称右翼の主張は、まさしく左翼なんだよな。
はっきりいって理解できん。
127日本@名無史さん:02/12/01 19:53
だから、戦前、日本を分析したヒュー・バイアスは「敵国日本・・・・・」の中で
日本陸軍について「これは軍国主義にマルキシズムの衝撃が加わって生まれた
奇妙な東洋的混血児だといえる。かれらはマルクス主義を民主主義的なものと
して忌み嫌っていたが、その財産国有化論には魅せられていた。彼らは国有化論
に、・・・・彼らの夢見る広大な帝国の使命を実現するための無尽蔵の軍備を持つ
『国防国家』を形成する手段を見いだしたのだ」と書いている。
128日本@名無史さん:02/12/01 19:57
戦前の政府高官曰く、右翼はコミュニストに操られている、だそうだ。
右翼が、労働組合つくっちゃ不味いっしょ。
129日本@名無史さん:02/12/01 20:21
昭和20年2月の上奏文でも近衛が似たようなことを書いている。軍人中には
比較的中級以下の家庭出身者も多く、そうした思想に影響受けやすい環境にあり、
本土決戦などを叫ぶものも共産思想を持った者に操られている可能性がある。
なんて書いたもんだから、戦後、彼は旧軍人からボロクソ(まあ、彼も失策ばかり
だから人のことを言えた立場じゃないが)。
130日本@名無史さん:02/12/01 20:29
>>127>>128>>129
共産主義的な思想は皇道派に濃く、
ドイツ的全体主義は統制派に濃いね。
終戦工作にあたっては統制派は比較的協力的で、
皇道派は徹底抗戦を主張し譲らなかった。
131日本@名無史さん:02/12/01 20:32
一切の既成秩序をぶち壊せ!
こういうことを言う人間を右翼と呼んでいいのか?
132日本@名無史さん:02/12/01 20:36
終戦時の統制派と皇道派の色分け(誰が何派なのか)、よく分からんのだけど。
近衛は以前から皇道派寄りだったので、余計分からんようになった。
133日本@名無史さん:02/12/01 20:53
>>132
統制派一色。皇道派はほとんど予備役。
134日本@名無史さん:02/12/01 20:58
>>132
元々は同じグループにいたからね。
方向性が明確に違ってきたのは1935年ぐらいかな。
永田鉄山斬殺事件、2・26事件は両者のギャップが対立となって
表面化したと言える。

終戦工作については色々あるけど、
ドイツの敗戦が濃厚になった時点で統制派は
徹底抗戦することをそれ程主張しなくなってるね。
開戦からずっと主流だった統制派が敗戦が濃厚になることで
凋落していきそれまで主流から外れていた皇道派が相対的に
立場を強めた。
統制派の力が強いうちに終戦工作が軌道に乗っていれば、
沖縄・広島・長崎の悲劇は回避できたかもしれないけど、
停戦後皇道派がクーデターを起こす可能性は高かったかも。
135日本@名無史さん:02/12/01 21:02
2.26事件以後、皇道派とその同調者は東京を中心に半径何キロ以内には
絶対、近づけてはいけない、という内規を梅津美治郎が作った。
136日本@名無史さん:02/12/01 21:17
でも、終戦時の陸軍主流は、陸相:阿南惟幾(無派閥)、総長:梅津美治郎(統制派)
で有力な旧皇道派は山下奉文ぐらいで、彼は比島に飛ばされているし、誰が皇道派なんだろ?
137日本@名無史さん:02/12/01 21:21
>>136
国内の隊付将校かな。
直接部隊の指揮をとる彼らが徹底抗戦を訴える中で、
終戦工作を進めても彼らによるクーデターが起きる可能性は高かった。
そういうことだと思う。
138日本@名無史さん:02/12/01 21:31
纐纈厚の「日本海軍の終戦工作」によると、
「東条内閣打倒工作・運動の過程で形成されていく、いわば終戦工作グループ
には、岡田啓介や米内光政らを中心とした海軍出身の重臣っちのほかにも、陸軍の
主流派であった統制派系の軍事官僚に対抗する真崎甚三郎や小畑敏四郎らの皇道派系
の将軍たち、それに海軍側にも小林躋造海軍大将のような人もいた」とあるけど。
139日本@名無史さん:02/12/01 21:36
>>138
その本では海軍は優等生になり過ぎてない?
本当はもっと陸軍との間に厳しく汚い駆け引きがあったと思うんだけど。
140日本@名無史さん:02/12/01 21:39
いや、別に海軍を持ち上げた内容ではないけど。
141140:02/12/01 21:58
それどころか、自著ではリベラル派と思わせる記述をしていた高木惣吉海軍少将の
戦前の言動や文書を紹介し、彼が基本的には親独的な認識に立ち、欧州でのファシズムの
時代潮流こそ、大戦後の新秩序を形成する、と予測していたことを証明し、高木が海軍内
の良識派、あるいは穏健派とされる戦後の評価に疑問を呈している。
142日本@名無史さん:02/12/01 22:23
終戦間際に統制派だ皇道派だ云うのはあまり意味がないと思うけど
森師団長殺したキチ○イ連中は統制派よりじゃないの?
古賀少佐の岳父は東条だし。
143日本@名無史さん:02/12/02 03:55
で 戦後の流れはどうなの?

やはり瀬島龍三は統制派?
144日本@名無史さん:02/12/02 22:19
統制派、皇道派というネーミングは両派を識別するため、便宜上、付けたのでは?
皇道派の方は派の重鎮荒木貞夫が皇という言葉が好きで皇軍とか皇道とやたら使い
精神主義的な側面が目立ったが、国体とか、対外膨張主義に対する認識は両派同じ。
やはり、ホンネは今の官庁や大企業と同じで、どの派閥に入ることで自分に有利かと
いう打算の産物。
145日本@名無史さん:02/12/02 22:48
統制派も皇道派も、無天組にはほとんど関係のない話でしょ
146日本@名無史さん:02/12/02 23:02
皇道派の隊付き将校はほとんどが無天組。
147日本@名無史さん:02/12/02 23:20
統制派の方が陸大出てないような印象もあるが将官は大体出ている。
荒木貞夫は19期のトップ、真崎甚三郎も同じ19期の中では上位。山下奉文は28期。
小畑敏四郎、23期。柳川平助、24期。川島義之は皇道派寄りだったと思うが20期。
統制派の大物(昭和史で知られている人物)はまず出ている。
148日本@名無史さん:02/12/02 23:26
統制派の方が陸大出てないような印象もあるが将官は大体出ている
スマソ、皇道派も方が・・・の間違いだす。
149日本@名無史さん:02/12/02 23:42
軍政、軍令に関わる連中は、派閥に関わらずほぼ全員天保銭組だよ。
150日本@名無史さん:02/12/02 23:48
皇道派は、若干出身地閥の名残を、残してる。
牟田口や土橋は佐賀出身じゃなかったら、皇道派に属したかな?
151昔の226ヲタ:02/12/02 23:50
青年将校の間では天保銭組を軽蔑するような風潮があった
と見たような気がするよ。226関連の本で。
しかし決起した将校の中にも陸大出はいるけどね。
152昔の226ヲタ:02/12/02 23:57
蹶起だつた
153日本@名無史さん:02/12/03 00:07
大企業なんかでも最近まで、学校秀才の文系の連中が管理部門に配置され
将来の出世約束されたコースを歩いた。一方、現場や営業の一線で汗流す者は
その連中を支える下積み。軍部でも同じことが行われていたわけで、一天、二図
と言われ能吏型の秀才軍人が出世コースを駆け上り、無天組は連隊長止まりという
現象が普通でこうした連中の不満が嵩じたのが2.26の一因とも。キャリアとノンキャリの差か。
154日本@名無史さん:02/12/03 00:08
>>151
村中は、革新運動が目的で、陸大に進んだと云われてるね。磯部や安藤は無天組。
しかし、いくら気張っても、陸軍では、陸大を出たか出てないかでまず振り分けられ
それから、中学か幼年学校かで区別されたり、出身地で区別されたりするわけで・・・・
2・26事件のときの山下等の反応を見ると、同じ皇道派でも無天組と天保銭組では、
まるっきり別人種だと思う。

155日本@名無史さん:02/12/04 02:23
永田死後、東条は統制派の出世頭になった。
能力ではなく天皇に気に入られていたから。
しかし、東条は人望がなく敗戦が濃厚になってくると
重臣・宮中グループからだけでなく
陸軍内からも倒閣運動をする者が現れた。

東条内閣は東条によって支えられたのではなく、
真珠湾攻撃の成功によって支えられていたことが明らか。

天皇がなぜ東条を気に入っていたのかは謎だ。
156日本@名無史さん:02/12/04 05:42
>>155
>天皇がなぜ東条を気に入っていたのかは謎だ。

東条は、作戦などをマメに天皇に上奏し、可能な限り天皇の意向に沿うよう
繊細に気遣いしていたから。

東条以外の首相は、天皇は単なる承認マシンだと見なして天皇の意向を
考慮しなかった。田中義一とか近衛文麿とか。

東条はマメマメしく天皇に「臣下」として仕えたから、天皇は戦後も東条に
同情的だった。
157日本@名無史さん:02/12/04 05:44
158日本@名無史さん:02/12/04 07:38
2.26事件のあとの陸軍は東条と梅津によってつくり変えられた、という
研究家の説読んだことあるが、誰だったかたな?
159日本@名無史さん:02/12/04 23:39
梅津は、永田亡き後の統制派のナンバーワンのはずなんだけど、
三長官の座に就くのは、戦争も終わりかけの昭和19年なんだよなあ。

160日本@名無史さん:02/12/06 10:46
鉄拳・田中新一と黙れの佐藤賢了はともに統制派?
161日本@名無史さん:02/12/06 12:37
>>160
当然。
162日本@名無史さん:02/12/08 00:15
戦時中の陸軍中枢には寺内寿一以外の長州人はもういない。
殆ど、東北人(板垣、東條、小磯・・・)。
163日本@名無史さん:02/12/08 01:10
>>162
粛清人事後はそうなったね
でも戦後になると政界は再び…
164日本@名無史さん:02/12/08 09:48
162 は陸軍中枢の構成員を強引にに東北人を持ってきた感じ。
2.26事件後から終戦までの名の挙がった陸軍軍人。板垣征四郎(岩手)、梅津美次郎(大分)、
小磯国昭(栃木)、佐藤賢了(石川)、鈴木貞一(千葉)、杉山元(福岡)、田中新一(新潟)
寺内寿一(東京父が長州)、土肥原賢二(岡山)、東条英機(東京、父が岩手)、富永恭次(長崎)
畑俊六(大分)、松井石根(愛知)、武藤章(熊本)、下村定(高知)以下は略。
165日本@名無史さん:02/12/08 10:14
小磯は父親が山形藩士、任地の関係で栃木生まれ。
166日本@名無史さん:02/12/08 10:19
軍人の出身地は、将官総覧などに出てる出生地、本籍地に統一すべきだと思う。
167日本@名無史さん:02/12/08 12:47
畑俊六は福島。
出世街道まっしぐらの最中に急死した兄も同様に。
168日本@名無史さん:02/12/08 14:12
↑ 阿南のこと考えながらカキコしてたので間違った、スマソ。
漏れの事典によると、兄英太郎は福島、俊六は東京になってた。なんでやろ?
169辻政信:02/12/08 14:31
先輩、人気ないですなー。
170日本@名無史さん:02/12/08 14:33
スレ違った
171日本@名無史さん:02/12/08 15:35
梅津って、巣鴨で死んでいるんだね、陸大23期のトップも獄中死とは哀れ。
172日本@名無史さん:02/12/08 15:59
皇道派の中心だった佐賀は中央から一掃されたね。
173日本@名無史さん:02/12/08 16:04
誰っだったか忘れたけど、一夕会で、長州差別と中学差別を止めようと云ったら
長州に恨み骨髄の東条が、烈火のごとく怒ったって読んだことがある。
174日本@名無史さん:02/12/08 16:48
二葉会、一夕会のメンバーの特徴は陸士、陸大の成績が上位者であることと殆んどが陸幼
卒業者(中学出身者は3人のみ)。将官への進級条件である隊付勤務2年の内規を満たす
ための連隊長職時以外は、省部、教育総監部など中央勤務か在外公館勤務など中央勤務
で固めている。山口県出身者が一人もいないのは、これは一夕会、発足時から意識的に
反長州閥を掲げていたから。
175日本@名無史さん:02/12/08 16:50
というより、長州出身者を陸大に入れないように、二次で全員落していたらしい。
自業自得かもしれんが、長州だってここまで露骨にはしてないよなあ。
176日本@名無史さん:02/12/08 18:59
皇道派の前身に当る、ともいえる?佐賀閥というのがあった。長閥の田中義一と
対立した上原勇作は自派を結集したのが佐賀閥。佐賀出身の宇都宮太郎は田中義一に
対抗したが破れ、中央の要職にはつけなかった。宇都宮を中心に集まった佐賀出身者に
武藤信義、村岡長太郎、安満欽一、真崎甚三郎、柳川平助、香月清司、隣接の福岡出身の
秦真次、香椎浩平、これに東京出身の荒木貞夫らが加わり、宇都宮の死後、上原が引き継いだ。
この後の多数派の宇垣派と少数派の上原派がしのぎを削っていた時期、一夕会はこれらの
抗争とは一見無関係の動きをしていたが、第1回の会合での取り決めの項目には、荒木、真崎、林
の三将軍を守り立てる、というのがあった。だから、この時期、統制、皇道の色分けはなかった。
177日本@名無史さん:02/12/08 19:26
>>174
中学出身で思いつくのは、建川美次、今村均、柴山兼四郎くらいかな。

東条の親父は陸大主席の俊才だったけど、寺内に疎まれ、左遷に次ぐ左遷。
中将でバッサリ予備役。長州への恨みは深い。
178日本@名無史さん:02/12/08 19:28
磯部浅一は長州。世が世ならどうなってたか・・・・
179日本@名無史さん:02/12/08 20:27
英機の父、東条英教は南部半藩出身で下士官から出発し、西南の役で功があり将校へ特進。
陸大1期ではただ一人の陸士非卒業生だったが陸大では3人の恩賜組の1人。ドサ周りが
ドサ多かったのは長州閥に敬遠されたという話もあり中将で終わり。真偽は不明だが、
英機は父の憎悪を受け継いだという。長州閥の寺内正毅の息子、寿一が太平洋戦争時には
元帥になったが終戦後にシンガポールで病死、一方、東条は巣鴨で刑死。これも因縁か。
180日本@名無史さん:02/12/09 12:42
著名な陸大首席卒業者
・荒木貞夫
・松井石根
・今村均
・畑俊六
181総督:02/12/09 13:51
佐治さんの本を読んで皇道派VS統制派と争いは2・26事件でおわり以降、
石原VS杉山みたく解釈していたけどどうも皇道派は連綿と続いていたようだね。
182日本@名無史さん:02/12/09 14:06
佐治は満州事変をマンセーしてるような奴だからな
石原は天才!なんで政府は石原の言う通りにしなかったのかと
怒ったりかなりの電波を莞爾ます
183総督:02/12/09 14:14
>>182
はは、言い得て妙だ
184日本@名無史さん:02/12/10 20:46
陸大一期では、さほど成績はよくなかった秋山好古と井口省吾が大将。
首席の東条英機の父親、英教は歩30旅団長で終わり中将昇進を花道に退役。
185日本@名無史さん:02/12/14 18:04
>>179
南方軍総司令だった寺内のぼんぼんが、内地に帰りたがってたのを
東条が阻んで、結局シンガポールで死ぬことになったという話もある。
186名無し:02/12/14 18:32
>182
英教の軍人としての実績はどうなん。
軍人としての功績が西南の役だけなら、陸軍も当初は学歴優先主
義でなかったことになるのかな。
187日本@名無史さん:02/12/14 18:32
近衛は統制派を、本人たちが意図しないながらも日本を共産化する危険分子と
見ていた(統制派=共産主義思想にかぶれた者が混じっている)。これらの
危険性を指摘して天皇に上奏している。また、政府や天皇がソ連を頼って講和を
考えていることに対しても否定的で、ソ連は機会があれば対日参戦するだろうと
予言している(20年2月時点で)。だが政府や軍部は8月9日までソ連に期待していた。
188日本@名無史さん:02/12/14 19:03
>>186
戦史家としては抜群だった。ただ実兵指揮能力はよくわからん。
表向きには、それが理由で左遷されたわけだけど、ホントのところは
長閥に反抗的だったからでしょう。寺内のほかに長谷川にも睨まれてたらしい。
189日本@名無史さん:02/12/14 19:24
司馬の「坂の上の・・・」に英教の記述が少しあったが、どの巻だったか見つからん
何でも上司(児玉?)が東条でなく別の者(好古?)を選んだとか、いう内容。
190日本@名無史さん:02/12/14 20:02
「陸大首席物語」(甲斐克彦)によると、陸大1期生上位の3名がドイツに留学。
日露戦争下、いずれも旅団長で出陣したが、東条は実兵指揮能力を、山口は戦場
での怯懦を問われ、不本意な退職を強いられたという。大将の器と見られていた
仙波太郎も中将の師団長で終わった。東条の対人哲学は勝つか負けるかの世界
だったらしい。彼はすぐに青筋立てて他人の欠点にかみ付くヘキがあったという。
191日本@名無史さん:02/12/14 20:08
東条、やっぱ下士官の器だったのだ。倅が上等兵と石原から呼ばれたのも納得。
192名無し:02/12/14 20:30
>190
ありがとう。
やはり、軍人としての能力での評価が第一だったわけですね。
安定期に入ってから、客観評価の基準が学生の時の成績に変わったわけですか。
確かに実戦がなければ軍人の能力なんて判らないでしょうね。
193日本@名無史さん:02/12/15 19:18
川上操六の死後、川上系の人達は山縣に徹底的に
弾圧されたと聞いたけど、東条英教もその一人じゃないの?
194日本@名無史さん:02/12/17 16:35
誰か、昭和維新の歌うたってくれ。
195日本@名無史さん:02/12/17 16:44
>>193
両方でしょ。長派よりなら、少々実兵指揮能力がなくても、
軍政方面だけでいけるけど。

大将の器と目されながら、中将で終わった人は、陸海軍ともに多いね。
英教の場合は、その中将すらお情けだけど。
能力だけでいけるのは中将までということかな。
196日本@名無史さん:02/12/20 11:45
age
197日本@名無史さん:02/12/21 10:41
孫引きになるが、村上兵衛氏が「桜と剣」で石光真清の『望郷の歌』を引用している。
『(前略)これだけ機動力に隔たりがあると、机上の戦術は活用できなかった。
従来戦術の大家として軍界に重きをなしていた東条英教、山口圭蔵、須永武義の
三少将が戦役中にもかかわらず左遷されたのは、このような事情があったからである(後略)』

飽くまで一側面だが。
198日本@名無史さん:02/12/26 04:29
日露戦争は列強が争って俊英を観戦武官を送ったほどの近代戦。
(その当時のね。死亡する武官も出たほどののめり込みよう)
兵力の規模も破格。
ナポレオン以来の戦史を更新することは間違いないと誰もが思う。
そんな兵器も兵力も最先端な戦争だからこそそれまでの専門家は
現実についてゆけず落第の烙印。派閥の理論もあるだろうが、
東條が首にされたのは戦争そのものの苛烈さを考えてみると判るのでは。
昨日の名論卓説も明日の一戦に通用する保証はどこにもない。
199日本@名無史さん:02/12/28 13:16
何か、歩兵戦でロシアに勝っちゃったから、その後の陸軍の方針は、
機械化もあったけど、原則は歩兵白兵戦で、それで太平洋でぶっとんだ
と聞いたことがあるが。
200日本@名無史さん:02/12/28 15:06
200
201日本@名無史さん:02/12/28 16:49
そもそも昭和陸軍=極端な白兵重視という前提自体偏見と聞いたことがある
202日本@名無史さん:02/12/28 17:50
でも、相手が自動小銃なのに、せいぜい99式じゃ、何言われても仕方ない。
203日本@名無史さん:02/12/28 17:57
貧乏だったんだよ・・・
204日本@名無史さん:02/12/28 18:11
>自動小銃
WW2中に主力兵器として行き渡らせたのはアメリカだけだぞ
それに旧陸軍は確かに白兵戦では強かったという評価があるが
だからといって必ずしも白兵戦重視というわけでもない、
ある程度の火力も考慮している
ただ戦争は相手があってもことで
アメリカと比べるとどこの国でも物量では劣るし
ましてや日本の場合は海軍に予算を取られて
まともな装備に見えなかったのは事実ではあるが・・・
それでも開戦前は世界でも5本の指に入る大陸軍だったんだよなぁ・・・
205日本@名無史さん:02/12/28 18:15
予算が限られている以上、装備の近代化を図るためには、人員の削減しかない。
だが、軍縮には現役職業軍人の反発が大きい。そこで、国力不足のため、長期戦に
耐え得ない、という理由をつけ短期決戦のためには人員を多く抱える必要がある、
という論理で軍縮を避け、近代化を遅らせた側面も。
206日本@名無史さん:02/12/28 18:19
>204
敗戦後、満州に入ってきたソ連軍は、日本人が通称「マンドリン」と呼んでいた
自動小銃をもっていたよ。自分は小学生の時、満州にいたから実物を見ている。
丸い形をした弾倉のついたやつ(マンドリン)。
207日本@名無史さん:02/12/28 20:29
それは自動小銃じゃなくて短機関銃
208日本@名無史さん:02/12/28 20:31
「マンドリン」PPsh41はトカレフ拳銃の弾を連射する短機関銃。
コンバットのサンダース軍曹が持っているトミーガンの同類。
ライフルの弾を連射する自動小銃より威力は弱く、
接近戦でしか使えない。
厳密にはアメリカ陸軍でさえ、WW2では自動小銃は分隊に1挺ずつ。
コンバットでカービーが持っているBARがそれ。
主力のM1ガーランドは正確には半自動小銃で、朝鮮戦争でもまだ使われている。
209日本@名無史さん:02/12/28 21:47
例えば、戦車だが、敵の砲弾に貫通されないことを前提に設計するが、
日本軍はなぜか、移動の速さやエンジン馬力の関係で、敵の砲弾が貫通する
鉄板の戦車を大量生産した。かつ、自分の砲弾も軽い大砲のせいで、
相手の戦車を貫通できない。初期日中戦争では通用したが。
戦車に乗り込む時は、死ぬつもりで乗り込んだと言う。
ここら辺かなと思う。設計に人命尊重というか、打ち勝つ計算が入ってない。
穴に埋めて、打てばよいとの上層部の回答だったそうな。

ゼロ式にしても同じ。編隊決戦より単機決戦用で作られている。
当然、鉄板は薄い。アメの戦闘機には「この鉄板は貴方を守ります」と書かれてたらしいが。

白兵戦重視と、人命軽視と、機械化軽視、防護鉄板軽視は同じベクトルの気がする。
210日本@名無史さん:02/12/28 22:34
>>209
それは少し一面的な見方がすぎると思いますな
零式戦の防弾装備欠如ですが
設計当時、世界ではまだ防弾装甲を戦闘機に装備する思想は主流ではありませんでした
戦車とはチハをさすのでしょうがこれも当時としては
それほどスペック的に劣ってるわけではありません
もちろんその後の思想や用兵、技術の進化についていけずに
完全に旧式化したのは事実ですし
他国に比べて人命を尊重してたかといわれれば
(ソ連を除いて)尊重していたとはとても言えないですが
211日本@名無史さん:02/12/28 23:17
当時の日本のエンジン性能と資源の問題から、重装備の部隊なんぞ作れません。
重くしたら、とろくなり、敵機や敵戦車の的になるだけです。
後期防弾装備されたゼロ(52型だったかな?)
でも、遅くなると言って、防弾装備を、自主的に除けるパイロットがいたそうです。

同じベクトルというより、選択肢がなかっただけだと思われますね。
212日本@名無史さん:02/12/28 23:27
編隊内の交信に必要なアンテナも、
速度向上のために切り落とした乗組員がいた、という話も聞いたことがあるです。
213日本@名無史さん:02/12/29 00:10
>>212
撃墜王として有名な坂井三郎氏にも同じような逸話がありますね
まぁ実際使い物にならないような無線機
ならおろしたほうが軽くなって
その分性能向上すると考える人がいても不思議ではないですね
214日本@名無史さん:02/12/29 17:46
いつから軍事技術について語るスレになったのか
215日本@名無史さん:02/12/29 18:10
>>214
ある意味、一般兵士の軍事思想な気も。。。。
216日本@名無史さん:02/12/29 20:33
ヨーロッパ並みの重戦車が日本の橋の上を通ると落ち、雨が降ると未舗装の砂利道は泥濘になるんだよ。
重戦車を開発配備しても、日本国内のインフラではとても使える兵器では無かった。
関東軍が満州で使うだけという、局地兵器にしかならなかったろう。
中国軍相手ではむしろ稼働率の高い軽戦車の方が便利だし。
だがシャーマン戦車程度ならなんとか撃破できる駆逐戦車や、ドイツ軍が持っていたような多様な歩兵用対戦車兵器の開発配備は積極的に進めるべきだったと思う。
貧乏国を自覚していたなら、これこそ貧乏国向けの兵器だと思うんだが。

ところでうちの会社にやたらハイスペックなパソコンを使えもしないのに抱え込んでいるオヤジがいる。
インターネットはADSLじゃないと遅くて駄目とか、わかったようなことをほざいている。
オレはWIN95マシンでダイアルアップ接続(笑)別に不自由は感じない。
どういえば良いか、この世代のオヤジはやたらとマシンのスペックにこだわる。使えもしないのに。
日本陸軍にもこういう将官がいっぱいいたんじゃないかなと思う。
217日本@名無史さん:02/12/29 20:58
>>216
>スペック重視
実戦でないならそういう考え方もあり
先行技術開発になるしそういうものは抑止力として働くこともある
まぁ前半部分ははげしく同意ですね
兵器というのはどういった運用をされるのか決まってから開発されるわけですから
218日本@名無史さん:02/12/30 23:37
殺られた渡辺錠太郎大将は第一次大戦に鑑み、
新時代の戦略、兵器の実施を考えていた。
陸大校長時もその方針でいたら石頭どもににらまれて左遷。

いよいよ大臣の座が近いと思われていたときに無念の横死。
兵制改革のチャンスを逃した。皇道派め・・・
219ふん:02/12/31 01:25
皇道派の連中は、国難をなんども救った高橋是清や日本軍を政府の
管轄のもと統制しょうとした秀才、永田鉄山を殺すなど日本を破滅
に追いやった連中だと思う。
 2.26事件を美化しようとするドラマをみると、腹立たしいこと
この上ない。

220日本@名無史さん:02/12/31 09:12
渡辺錠太郎は「天皇機関説」問題で穏健な意見を説いたということで皇道派から
マークされた。永田鉄山も、真崎解任を「天皇機関説排撃運動の抑圧」のために
橋本次官と共謀したと村中(一味)から指摘されていた。また、海軍の斎藤実も
西園寺公望の「雨声会」という会合に出席するなど、親英米の君側の奸と見られていた。
221日本@名無史さん:02/12/31 09:30
統制派の基本的戦略は兵器の近代化による総力戦を考えていたという、だが統制派に
属した辻政信などの戦術を見ると奇襲や夜襲、肉薄攻撃といった、皇道派の主張した
精神主義の傾向が強く見られる。こうした事実をみると、やはり、迫水久常氏が言って
いるように、自分達に有利な派閥に属しただけで論理は後知恵のような・・・。
戦争末期の竹槍戦術など皇道派、荒木貞夫の発想と同じ。
222日本@名無史さん:03/01/01 00:45
話はそれるが、昭和期陸軍には眼鏡をかけた将官が大勢いるのに、
海軍にはほとんどいない(有名なのは野村吉三郎くらい?)のは何故?
試験成績重視なのは陸軍も海軍も同じだったはずだが。
海軍は兵学校出身者にも見張り能力を要求するとか、
視力低下にうるさかったのだろうか?
223日本@名無史さん:03/01/01 00:58
帝国陸軍は元々重火力主義なんだけどな。
大村、山縣、大山、川上、児玉、桂、田中、寺内、宇垣などなど
陸軍の創立者および、大正までの実力者はみんなそうだった。
なのに昭和陸軍は、、、
224日本@名無史さん:03/01/01 01:19
>>223
 日露戦争まで火兵戦重視だったけど、
 戦後の歩兵操典改正で白兵戦重視になったとか。
 で、その時の教育総監は、旅順戦で第九師団を率いていた大島久直。
 白兵の脆さを知ってる筈なのに・・・
みたいな本があったと思ったけど、読みかけでどっかにいってしまった。
てか言いたかったのは、既に明治末期には昭和陸軍の思想の元となるものができちゃってた
ってことです。
225日本@名無史さん:03/01/01 01:29
けどそれを意味が違うかもしれないけど、
宇垣が、改革しようとしたんじゃなかったっけ?




そういや大島って秋田だったよね、旧官軍とはいえ、
藩閥でもないのによくここまで出世したもんだ。
226日本@名無史さん:03/01/01 01:36
東北や北陸の人達は根性があるというか、精神主義者(ソフト重視)が多いですから。
それに対して西国の人達は、ハード重視の人達が多い。

なお文豪は東国に多く、科学者は西国に多いという俗説をどっかで聞いた事がある。
227日本@名無史さん:03/01/01 01:47
>>226
出身地というより、西日本と東北で社会環境が違ったのかな?
この辺り詳しい人いないかな。
228224:03/01/01 02:16
>>225

確かに、宇垣が目指したのは「質」の向上で、そのためには「量」の低下も厭わないという感じ。
そのため4個師団削減と引き替えにして、飛行機や戦車・機関銃などの整備を行った、と。

一方、日本は工業力も科学技術も欧米に比べて低いんだから、「質」の向上などたかが知れている。
ゆえに、あくまで「量」を優先すべきである、と考えた人たちもいて、
それが上原勇作、福田雅太郎、武藤信義など。
 皇道派の系譜を見てみると、上原や武藤は皇道派の源流。
 といっても、彼らが皇道派なるものを作り上げたわけではないのだが。

現在のような経済・技術大国に住んでいると、自国の国力や技術に裏打ちされた思考が出来るけど、
戦前日本のように、必ずしも豊かとは言えない状況の中では、
今と同じ思考が出来るとは言い切れないはず。

つまり、今の日本人の感覚で考えると、
そりゃ軍の近代化を進めた方が良いに決まってるんだけど、
大正時代の日本人は、果たして自国の工業力や科学技術を信頼していたのかな?と考えると、
必ずしもそうではないと思うし、実際に上原閥の将校はそうじゃなかった。
だから「質」より「量」を、近代化よりも頭数を求めるという思考をしても、
しょうがなかったかな、と、思わぬでもない。

あと、陸軍大将の一覧なんかを見てみると、
ちょうど大島が大将進級を果たした頃を境にして、
薩長以外からもどんどん大将が出てくるようになってまつね。
229日本@名無史さん:03/01/01 12:31
第一次世界大戦後、大国が一気に
機械化していく。
戦争は、技術革新の大きな機会。
日本は、ヨーロッパでの陸戦に参加してないから、 指導者の考えからして、革新できなかった。
230日本@名無史さん:03/01/06 04:16
軍事思想
231日本@名無史さん:03/01/06 07:21
貧乏国が背伸びすればロクなことにならん。
232日本@名無史さん:03/01/06 08:47
>>226
確かにノーベル賞受賞者には京大卒が多いしな。
(現代でも理系と言えば京大というイメージがある。)

>>231
当時貧乏でない国ってのは、ほんの一握りだったのではないか?
233日本@名無史さん:03/01/06 09:11
東大は、元々官僚養成校でしたさかい、創造性とかは必要おまへんのや、
暗記力とか、文章作成能力に秀でていればよかった。
234日本@名無史さん:03/01/06 13:08
東大は高級官僚
慶応は政治家
早稲田は在野
一橋は経済
京大は先端技術

物凄く適当に観念化。
235日本@名無史さん:03/01/06 22:56
>>228
量で質の差を補うのは短期的には有効でも
国力が貧弱な日本には長期的にはかなりの重荷となる
むしろ積極的に人員削減して人件費を削り
浮いた予算と労働力を産業育成にまわしたほうが
当時の日本にとってはよかったと思う
ただたかが軍人である連中にそんなこと期待できないんだよなぁ・・・
236日本@名無史さん:03/01/07 20:59
陸軍はガダルカナルまで対ソ戦の訓練をしていた
雪中行軍とか
237日本@名無史さん:03/01/08 02:33
雪隠行軍だったら凄いけどな
238日本@名無史さん:03/01/08 07:37
米軍と戦う訓練をしていなかった陸軍が対米戦を強硬に主張したのはケシカラン話だ!
239日本@名無史さん:03/01/08 10:14
冬服もって南方にいったらしいね
240日本@名無史さん:03/01/08 12:08
ゲ!冬服で南方戦線行ったのか!そりゃ、マラリアの薬も少ないわけだわ。
ネタとして楽しみたいのでソースがあったらアップしてくれ。
241日本@名無史さん:03/01/08 12:43
昭和16年10月1日、大連港を出航。行き先は全く分らない。多分、南の方だろうと想像するだけで、誰も分かりませんでした。着ているのは支給されたラシャの防寒服のままです。
10月7日、台湾高雄港に入港。当時の台湾の防衛体制は、内地とまったく同じに扱われていたので、上陸前の船中で防寒服から下着まで蒸気で消毒されました。
消毒を終え、ぽっぽと湯気があがる防寒服を着て、上官の許可がなければボタン一つ外せない軍律の中、高雄から屏東市まで徒歩行軍です。


http://www.soken.net/plaza/onore/onore9.htm
242日本@名無史さん:03/01/08 23:16
>>238
対米戦は海軍主導。
243日本@名無史さん:03/01/09 01:03
山下奉文は2.26事件での行動が最後までたたった。あれがなく昭和天皇に嫌われなかったら
敗戦当時、比島なんぞにいなくて別なポストにおり死刑は免れたろうに。方面軍総参謀長の後
時の山脇陸次官が山下を某軍司令官にする案を持ち昭和天皇の御充裁を仰いだ、ところが、
天皇から、彼をそのような高い地位につけるのはどうか、というお言葉があり中止になった。
また、東条退陣後、陸相の声もかかったが、これも様々な方面の反対で実現しなかった。
244日本@名無史さん:03/01/09 02:29
山下将軍は、東條とそりが合わず、と言うか、東條が山下将軍を敵視していた。
マレーの虎が死刑になったのは、シンガポールのYESかNOか?
連合軍の報復と見せしめだと思う。
245日本@名無史さん:03/01/09 09:24
山下大将の死刑求刑の表向きの理由はマニラその他における日本軍の残虐行為。
大将は、彼や他の被告のために証人(弁護)になる者が少なかったことを嘆く風で、
日本人としての責任観念を植え付ける教育が必要、と言っていた(浜本通訳)。
246日本@名無史さん:03/01/09 10:54
↑東京裁判で南京事件などにの被告に対して弁護もせず、ほとぼりが冷めてから
虐殺ははなかったと言い出す旧軍人と同じ構図。
247日本@名無史さん:03/01/09 11:24
>>241
ありがとうございました。
上が馬鹿だと、下は大変ですね。ほっぺたって殴られると硬くなるんですね。
参考になりました。m(_)m
248日本@名無史さん:03/01/09 23:08
>>226
出身者別の部隊で
勇猛なのは、東北・九州部隊で、
最弱は大阪だってのを読んだのは
軍板だったかお国自慢板だったか・・・?
249日本@名無史さん:03/01/09 23:37
最強は八甲田山の青森第八師団歩兵第五連隊でしょう
最弱は大阪第八連隊
250日本@名無史さん:03/01/10 01:01
大阪人ってめちゃめちゃケンカ強そうなのに…。
251日本@名無史さん:03/01/10 01:08
山下にしろ天皇にしろ
結局死刑か無罪かはアメリカの判断でどうにでもなるってこと
命令で動いていた山本がもし生きていたら確実に死刑になってただろうし
252日本@名無史さん:03/01/10 01:09
>>250
個性が強すぎる人が多そう。
だから、部隊としてまとまりにくいのかも?
253日本@名無史さん:03/01/10 01:32
江戸時代に大阪には武士は代官所の数十人しかいなかった
残りはみな商人
だから他人の命令で命を落とすなどもってのほか
やばいと思ったらすぐ逃げるらしい

青森第八連隊は満州で軽装で雪中行軍し、握り飯が凍り付いて飢えながらでも上官の命令に従った

254日本@名無史さん:03/01/10 01:33
>>250
っていうかヘタレが多いと思う。
弱いヤツにはめっぽう強いが、強いヤツには・・・
255日本@名無史さん:03/01/10 01:44
まあ阪神みたいなもんか
256日本@名無史さん:03/01/10 01:52
>>253
青森は第5連隊、弘前は第31連隊。

>>255
ヒデェ・・・。
俺は阪神ファンなのに・・・。
まぁ諦めが早いというのは否定できないか。
257日本@名無史さん:03/01/10 02:09
大阪の人は利益がないことには消極的
258日本@名無史さん:03/01/10 02:26
「兵隊やくざ」は何処の連隊ですかw
259日本@名無史さん:03/01/10 07:15
西南戦争時の賊軍の罵り文句に始まり、その後、大道商人の口上に利用されて
全国に広まった“またも負けたか八聯隊”の戯れ歌があたかも事実であるかの如く
今の世にも流布し信じているヤシがいるとは、実に口コミとはげに恐ろしいものよ。
260日本@名無史さん:03/01/10 10:26
司馬遼太郎は弱かったと言ってたような気がするが
261日本@名無史さん:03/01/10 12:49
>259他
たまたまいくさ運がなかったってのもあるかもしれない。他の部隊がみな勝ってる時にたまたま負けると凄く目立っちゃったりして。
といってる漏れは夜襲で名をはせた第二師団管区でよかったと思ってるが(w
でもガダルカナルで・・・泣
262日本@名無史さん:03/01/10 13:00
スレとなんかずれてないか?
263日本@名無史さん:03/01/10 14:26
大阪出身の将軍というと、童貞将軍くらいしか思いつかないなあ。


軌道修正
確かに山下の2.26のときの対応は卑劣と言われてもしょうがない。
「岡田なんてブッタ斬るんだ」なんて言っておいて、あの様だから。
しかし、政党政治をつぶして軍部内閣をつくるのは、両派共通の願いだから、
クーデターに乗っかって旨いことやろうと思ってた奴は、皇道統制を問わず
たくさんいたはず。事件後、態度を鮮明にした師団長は、梅津と谷寿夫の2人だけ
という話も読んだことがある。まあ、名指しで罷免や逮捕を要求された連中は、
必然的に討伐に傾くだろうけど。
264日本@名無史さん:03/01/10 17:02
個人的武勇を誇ったりすることなんかだと積極的そうだけどな、大阪人は
イタリア人に近いかも(笑
265日本@名無史さん:03/01/10 17:54
地方地方で住む人の性質がバラエティーに富むのは日本の大きな資産だろう。
古く言えば、土佐人は自由を重んじる人が多く自由民権派の人間を多く排出し
長州人は規律在る組織を作るのに長け強力な官僚機構を作った
薩摩人には大戦略の眼があり将や長になった人間が多かったとか。
他にも佐賀の官吏は優秀で中央に大量に送り込まれたって言うし。
大阪の特徴は商いなんでしょう、たぶん。

…ここからなんとか本題に向けようと思ったけど力不足ですた。。
266日本@名無史さん:03/01/11 01:31
山下将軍=悲劇の将軍
267日本@名無史さん:03/01/11 10:01
山下奉文はシンガポール陥落の後、満州に新設された第一方面軍に転補されたが
この際も日本に寄らず現地に直行する日程だった。このため、恒例の参台しての
軍状奏上も、陸軍部内の祝賀会もなし。これを知った後任の第25軍参謀副長渡辺大佐は
「戦功に報いるに北辺の職を以てす、而も上京せしめざる中央の方針余りにも狭量
ならずや」と日誌に憤激の文字をつらねたという。満州から比島へ渡る際は、さすがに
2日間在京日程を取ってあったが、流石の山下も激怒したので4日に延ばされた。
268日本@名無史さん:03/01/11 10:14
山下将軍が比島へ行く昭和19年末は、南方転属は一般兵士にとっても
死を意識したぐらい危機的な状況。そうした中でこうした冷遇は確かに
狭量というより非情。東条も退陣したのに、まだ影響力残してたのか?
269日本@名無史さん:03/01/11 10:15
所詮、出世争い。
270日本@名無史さん:03/01/11 10:19
国家崩壊の寸前でも出世争いとは、いやはや・・・。
271日本@名無史さん:03/01/11 10:20
出世争いって、山下と誰の出世争いなの?
272日本@名無史さん:03/01/11 10:39
 小磯 阿南 寺内ーーーーー東条去って1年も経ってから終結とは?
273日本@名無史さん:03/01/11 10:43
↑ どういう流れ、というか関係?陸軍軍人ではあるけど。
274日本@名無史さん:03/01/11 10:52
>>271
大将ともなればポストの数も限られてくる。
昭和天皇に嫌われている山下奉文は冷遇しやすいから、
他の大将たちの総意に近いものだったのでは?
この時期に皇道派で現役の陸軍大将は山下以外に残ってた?
275日本@名無史さん:03/01/11 11:01
もうそのころは、統制/皇道と言うより、東条か、反東条か、じゃないの?
276日本@名無史さん:03/01/11 11:08
木戸孝一日記には、しばしば、岡田啓介や陸軍某将官からの情報として
山下大将、陸相説が上ってきていたことが記述されている、という。
277日本@名無史さん:03/01/11 11:16
近衛文麿は皇道派寄りの統制派嫌いだったし、
岡田啓介と並んで東条内閣倒閣運動の黒幕の一人で、
真崎内閣擁立運動もあったくらいだから、
その筋の動きなら山下陸相説があっても不思議はないね。
ただ、皇道派を追放した陸軍本流とは全く相容れなかっただろうけど。
278日本@名無史さん:03/01/11 11:33
でもね、参謀本部戦争指導班、種村佐孝大佐はこんなこと書いている。
「八月末梅津総長は山下大将を満州から支那派遣軍参謀総長に転用し、
朝香宮を総司令官に戴いて対重慶工作を徹底的にやるハラで内奏したところ
陛下からお許しがでなかった」こうした事情から判断してもうこの時期、
統制、皇道のこだわりはないと思うが。小磯首相も陸相候補のトップに上げた
がこの案もどこからか拒否されて、ご破算に、やはり昭和天皇の意思としか・・。
279日本@名無史さん:03/01/11 11:40
そういや〜、山下の大将昇進が経歴、功績のわりに遅れたのは、
大将昇進予定者の上奏名簿が天皇の手元に届いた際、山下の名が
あると、無言で名簿を伏せ御璽を押さなかった、というウワサが
陸軍部内にあったらしい。
280日本@名無史さん:03/01/11 11:42
小磯首相自身が昭和天皇から嫌われていたしね。
米内は予備役から現役復帰して海相になったのに、
同期の杉山陸相が第1総軍司令官に転出した後、
現役復帰して陸相になろうとして昭和天皇に蹴られたはず。
基本的に昭和天皇は人物に対する好悪の感情が強かったようだね。
宇垣一成も昭和天皇にかなり嫌われている。
281日本@名無史さん:03/01/11 11:49
近衛も皇道派に好意的だといって、
天皇に嫌われていたのではなかった?
第3次内閣退陣の後は、例の近衛上奏文のときまで、
天皇に会って貰えなかったと記憶する。
282日本@名無史さん:03/01/11 11:49
たしかに、「昭和天皇独白録」にも、あのような者は首相にしてはならぬ、
といった意味のことが書かれている(宇垣)。
283日本@名無史さん:03/01/11 11:53
皇道派は秩父宮を担ぎ上げて皇位簒奪を狙った、と思い込んで
いたからね。昭和天皇。ああいう人たちには千年前も現在も同じ
感覚が行き続けているというから。
284日本@名無史さん:03/01/11 12:01
もともとは、
永田、小畑、岡村のバーデンバーデン会議に始まる。

総力戦への体制切り替えのため、陸軍改革運動の密約とされるが、

実際は、
当時、優勢だった長閥打倒を意味している。
285284:03/01/11 12:08
続き

彼等を中心に、
若手の中に広がりをみせていく。

人が増えていきなかで、
人間同士の好き嫌いや
行動的なタイプがどうかで
グループができる。
286日本@名無史さん:03/01/11 12:11
天皇の覚えがめでたかった陸軍軍人って誰?
287日本@名無史さん:03/01/11 12:14
東条でせう。
288日本@名無史さん:03/01/11 12:19
侍従武官上がりの畑俊六、阿南惟幾もお気に入りでしょ。
畑の陸相就任は、三長官会議を無視した天皇のご指名人事。
あのとき、天皇は畑の他に梅津の名前も挙げていたっけ?
289日本@名無史さん:03/01/11 12:21
東条はたしか、皇室から御下賜金、五千円だったと思う、
これは、用賀の自宅購入に充てたと読んだ記憶があるが?
290日本@名無史さん:03/01/11 12:23
畑は昭和天皇お気に入り?の米内内閣を倒した張本人なのに、解からんお人だ。
291290:03/01/11 12:26
陸相就任の結果ではあるが。
292日本@名無史さん:03/01/11 12:27
昭和天皇は、満州事変以降の陸軍の独走をよく思っていなかった
とか云う割りに、その軍閥の中心だった東条を寵愛したり
首尾一貫してないところがある。
293日本@名無史さん:03/01/11 12:31
『西園寺公と政局』にも『昭和天皇独白録』にも、
天皇が梅津美治郎か秦俊六を陸相にするよう命じ、
三長官会議が他の人間を推しても認めないと言ったとある。
畑は自分から進んで米内内閣を倒したわけではないからね。
米内自身も、東京裁判で畑をかばっている。
294日本@名無史さん:03/01/11 12:36
天皇は内閣や軍部の内奏案に反対しなかった、承認するだけで田中義一と
2.26事件の時だけ自分の意思を通したという伝説は違ってたのか?
295日本@名無史さん:03/01/11 12:47
時々釘は刺してた。杉山に向かって
「太平洋は中国の奥地より広いぞ」とか。
296日本@名無史さん:03/01/11 13:22
8月14日、天皇が3元帥を呼び寄せて意見を聞いたところ、
畑だけが「自信がございません」と率直に言ったというが、
それも信頼関係のなせるわざかな
297日本@名無史さん:03/01/11 13:49
天皇は阿部に組閣を命じた際、陸相には畑、梅津の中から選ぶこと、と
条件つけてる。、畑は陸相就任直後には「陸軍は行動を慎み陛下のご信任
を得る努力をする必要が・・・」などと、挨拶していたが、後の米内内閣時に、
米三国同盟問題が再浮上すると、「徒に、腐儒の言葉に惑い千載一遇の機会を
逃すおそれがある・・・」と部内で演説して、米内首相の姿勢を批判している。
陸相辞任は彼独断の意思によるものではないが、示唆した人間と彼も同じ考えで
三国同盟には賛成だった。
298日本@名無史さん:03/01/11 13:51
米三国同盟問題が再浮上すると→米削除
299日本@名無史さん:03/01/11 16:30
畑や阿南は、
皇道派でも統制派でも
ないだろう。
300山崎渉:03/01/11 16:35
(^^)
301日本@名無史さん:03/01/11 17:23
阿南も三国同盟に賛成だった(当時の陸軍はほとんどが賛成か)。
阿南は7月8日、木戸内府を訪問して「近々に政変を見るに至るやも知れず。・・・
米内内閣の性質は独伊との話し合いを為すには極めて不便にして、ともすれば
手遅れとなるおそれあり、この重大時機に対処するには内閣の更迭もやむを得ず」
と述べている(木戸孝一日記)。こうして、米内は7月16日に退陣。
302日本@名無史さん:03/01/11 18:10
阿南は、あまり外交がわかる人じゃなかったみたいだけどね
303日本@名無史さん:03/01/11 18:36
山下将軍の唯一の中央勤務(2.26以降)である航空総監のポストにつくさいには、
参謀次長沢田茂中将が画策、何とか山下中将の中央復帰を願い、畑陸相に働きかけて
非常手段をとったという。畑陸相が後任に東条を内奏するさい、山下の航空総監も
合わせて奏上した。天皇は手続きが間違っている、と木戸に注意したので、木戸は畑
に連絡して事情を聞いた。その結果、山下中将の総監就任は畑はむろん、武藤軍務局長
沢田参謀次長、杉山元参議官ら陸軍首脳の一致した推薦であることを聞き、天皇に事情を
説明したという。これで、総監には就任できたが、天皇が承知したのは、信任厚い畑の
推挙のためと思われる(児島襄本による)。だが、山下の中央官衙勤務はこれが最後。
304日本@名無史さん:03/01/11 20:24
>>279
話の前提となってる「山下の大将昇進遅延」だけど、これって事実かな?
山下は陸士18期。で、同期の大将昇進者には阿南惟幾、岡部直三郎、
藤江恵輔、山脇正隆がいるけど、この5人の大将昇進の日付を比べてみると

山下奉文 昭和18年2月10日
岡部直三郎 昭和18年2月10日
藤江恵輔 昭和18年2月10日
阿南惟幾 昭和18年5月1日
山脇正隆 昭和19年9月22日

ttp://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun4.html より)
というわけで、陸士18期の先頭を切って大将昇進を果たしている。
また、他の期と比べてみても、陸士18期の将校だけ、
特別に大将昇進が遅れていたという感じもない。

なんか山下の大将昇進にまつわる話って、
ミッドウェーの五分間と同じように、単なる俗説なのではないかな?と思わぬでもないっす。
305日本@名無史さん:03/01/11 20:35
↑ これは山下が中将に進級したのは、昭和12年11月、本来ならば、
昭和16年11月にも大将になってもよく、少なくともシンガポール攻略
直後には昇進するのが自然だと、みなされていたから、こういうウワサが
たったという。中将進級から後の進級が通常より遅かったという意味らしい。
306日本@名無史さん:03/01/11 20:58
2.26事件の時、青年将校が「決起趣意書」とともに川島陸相に手渡した「陸軍大臣要望事項」
の中に、左ノ諸官ヲ速ニ逮捕サラレ度シ。(1)南大将(2)宇垣総督(3)小磯中将とある。
行動派から忌避された小磯が昭和天皇に嫌われたというのも皮肉な話(レスなあったので)
307日本@名無史さん:03/01/11 21:02
行動派から忌避された→皇道派から
308日本@名無史さん:03/01/11 21:12
>>306
根本大佐、武藤中佐、片倉少佐の罷免も求めていた。

しかし、青年将校ばかりでなく、北や西田も何であんなに
真崎を信頼してたのかな?「人なし勇将真崎あり」とか・・・
荒木が人気あるのはわかるけど。
309304:03/01/11 21:13
>>305
陸士18期の中将昇進を調べてみますた。すると

氏名     陸士  中将昇進     大将昇進    中将在任期間
山下奉文  18期 昭和12年11月 昭和18年 2月 5年3ヶ月
岡部直三郎 18期 昭和12年11月 昭和18年 2月 5年3ヶ月
藤江恵輔  18期 昭和12年11月 昭和18年 2月 5年3ヶ月
阿南惟幾  18期 昭和13年 3月 昭和18年 5月 5年2ヶ月
山脇正隆  18期 昭和12年11月 昭和19年 9月 6年10ヶ月

やはり、特別に山下が遅れていたとは言えない気が。
で、比較のため、他の著名な将校とも比較。

寺内寿一  11期 昭和 4年 8月 昭和10年10月 6年2ヶ月
畑俊六    12期 昭和 6年 8月 昭和12年11月 6年3ヶ月
梅津美治郎 15期 昭和 9年 8月 昭和15年 8月 6年
板垣征四郎 16期 昭和11年 4月 昭和16年 7月 5年3ヶ月
岡村寧次  16期 昭和11年 3月 昭和16年 4月 5年1ヶ月
東条英機  17期 昭和11年12月 昭和16年10月 4年10ヶ月
今村均    19期 昭和13年 3月 昭和18年 5月 5年2ヶ月
木村兵太郎 20期 昭和14年 3月 昭和20年 5月 6年2ヶ月

つまり、中将から大将までの「5年3ヶ月」は、別段長くないと思われ。

まぁ、シンガポール攻略(昭和17年2月)の武功はあるけど、
もし昭和17年2月に昇進となれば、東條の4年10ヶ月を凌ぐ4年3ヶ月のスピード出世になる。
一応、大将になるには中将在任期間が4年以上あれば良いんだけど、
4年で大将に就任できるのは皇族ぐらいなもの。
東條の中将在任期間4年10ヶ月も、確か、首相就任に箔を付けるための異例の措置だったはず。
それすら上回るスピードで進級ってのは、皇道派統制派以前の問題として、
人事に硬直な陸軍ではあり得ないだろうと思われ。
310日本@名無史さん:03/01/11 21:15
戦功があれば1先抜で進級というのが常識の社会で、たしかに、
シンガポール攻略という勲章がある山下の進級は遅いような。
311日本@名無史さん:03/01/11 21:17
>309
陸軍部内のウワサなので、真偽のほどは関わった当事者でないと。
312日本@名無史さん:03/01/11 21:19
ていうか、そもそも山下が忌避されていたなら、
シンガポール攻略すら任されていないと思うのだが。
313日本@名無史さん:03/01/11 21:29
山下は一度も大本営直属の軍司令官にはなってないんだよな・・・・
そこに天皇の意思が介在したかはわからないけど。
314日本@名無史さん:03/01/11 21:30
陸軍の将官の昇進は、
役人と仕組み同じなので、
前レス通り、
内規で年数が決まってる。
山下の場合、
最短組。
(皇族と東條の大将除く)
戦効での年数短縮は、官僚組織では、無理。

抜擢人事の仕組みがない仕組み。

だだ、戦争終了後、
爵位がもらえたりする。
315日本@名無史さん:03/01/11 21:33
支那事変初期、杭州湾上陸作戦に起用された皇道派の柳川兵助第10軍司令官も
覆面将軍として名を公表されなかった。山下中将も当初覆面将軍として実態が
隠されていた。人材活用したいのだが、色々な思惑があったと思われる。
316日本@名無史さん:03/01/11 21:36
進級云々の話しはあくまで陸軍内のウワサだが、
他の事実については証人もあることだし。
317日本@名無史さん:03/01/11 21:48
>>315
司令官の名がわかれば、麾下の兵力や編成が知られることになるし、
そういう防諜上の観点から、司令官の名を秘したともいえるのでは?
318日本@名無史さん:03/01/11 21:51
>313
その通りで、山下はいわゆる番号軍と呼ばれた数字だけの軍司令官のみ。
支那派遣軍などの名称のついた軍司令官(大本営直轄)はやっていない。
だから、最後の14方面軍の兵力は23万だが、このうち10万はセブ島の鈴木宗作
中将の第35軍に属し、他の部隊も14方面軍の指揮下にはなかった。だから、
第南方軍の指揮を受けるだけの立場に過ぎなかった。
319日本@名無史さん:03/01/11 21:54
>317
他にも覆面将軍と言われた人物がいれば、、そうも言えるかも。
だが、ほかに誰かいた?
320日本@名無史さん:03/01/11 22:03
>>319
杭州湾敵前上陸の柳川平助と
第一方面軍司令官として満州に飛ばされた山下
この2人しか知らない。

しかしなんだかんだ言いながら皇道派も、柳川みたいに再召集されたり、
小畑みたいに近衛に起用されたり、そこそこ復活してる。
本当に冷遇されたのは、多田駿や石原莞爾のような、シナ事変不拡大派
じゃないかな?
321日本@名無史さん:03/01/11 22:08
>319
第十軍は新設された部隊ですね。
だからその司令官の階級、職歴から、麾下の戦力を秘匿するという防諜を施しても何ら不思議はないですね。
なお、他に「覆面将軍」の例は知らない。むしろその方が重要。
つまり、皇道派にもかかわらず「覆面将軍」でない例など、ごまんとあるということ。
322日本@名無史さん:03/01/11 22:11
多田駿は支那事変当初、政府(首相、陸、海相)が蒋介石との交渉を
打ち切る、と決めたのに対し、泣いて抗議したというからね。
323日本@名無史さん:03/01/11 22:12
>321
ごまんとあるなら、戦後、名前が上がらないはずないが?
324日本@名無史さん:03/01/11 22:13
>>323
?どゆこと?
325日本@名無史さん:03/01/11 22:17
つまり、皇道派にもかかわらず「覆面将軍」でない例など、ごまんとあるということ。

この部分がよく理解できないので、もう一度説明してもらいたい。
それとも、当たり前のことをいってるだけ?
326325:03/01/11 22:20
(わかった)皇道派の現役将官って、他にいたっけ?
327日本@名無史さん:03/01/11 22:24
行動派だから、覆面将軍になるとは、
限らないと言いたいのでは。
328日本@名無史さん:03/01/11 22:29
戦前戦中の報道って、師団や聯隊の番号を隠すことがままあったのでは?
司令官の氏名じゃないけど。。。
329日本@名無史さん:03/01/11 22:34
>>322
事変拡大で最も得したのは中共でしょう。
多田が退けられたのは、全く惜しい人事だと思う。

柳川の覆面は理屈に合うけど、山下の場合は
東条の嫌がらせと取られてもしょうがないと思う。
330日本@名無史さん:03/01/11 22:38
↑ それはほとんどじゃないの。○○方面を攻略セル我が○○師団○○大隊は
なんて伏字だらけの記事は普通。でも、将軍の名前など隠すのは、あまりないような?
331日本@名無史さん:03/01/11 22:50
>>330
うーん・・・ワカラン。
部隊名を秘して将軍の名前も秘すのが普通なのか、
部隊名は秘すけど将軍の名前は秘さないのが普通なのか。

たとえば、杭州湾上陸の報道はどんなだったんだろ?
「杭州湾ニ上陸セル我ガ第十軍ハ」なのか
「杭州湾ニ上陸セル我ガ第十軍(司令官○○○○)ハ」なのか
「杭州湾ニ上陸セル我ガ第○軍ハ」なのか
「杭州湾ニ上陸セル我ガ第○軍(司令官○○○○)ハ」なのか。。。
332日本@名無史さん:03/01/12 00:33
山下将軍 貧乏くじ。
333日本@名無史さん:03/01/12 00:37
予備役に回されるよりかはマシだけど
334日本@名無史さん:03/01/12 00:42
予備役にまわされれば当初は不名誉と感じたかもしれないが
民間で何らかのポストはあるし、戦犯で刑死することもなかった。
335日本@名無史さん:03/01/12 01:00
朝鮮総督くらいにはなれたのではないか
予備役の南次郎、小磯国昭もなってるし
336日本@名無史さん:03/01/12 01:07
このスレって水野晴郎がいる?
337日本@名無史さん:03/01/12 01:13
予備役になるとすれば、2.26直後で少将だから、そこまでは無理かと。
反乱参加者を出した歩兵1、3、近歩3、野重7の4連隊の解体が論議されたが
山下は自分が連隊長を務めた歩兵3連隊が廃止されると聞いて、歩3の軍旗奉還日
を退職と思い定めていたという。だが、存続が決まり、軍務継続を決意したとか。
338日本@名無史さん:03/01/13 01:55
陸士の中では、幼年学校卒と中学出身者って仲が悪いらしい。
そして 皇道派と統制派 
派閥は、大変だ。
33950周年:03/01/13 01:58
その皇道派と統制派は、以下を参照のこと

http://homepage3.nifty.com/mstck/page019.html
340日本@名無史さん:03/01/13 02:30
結局は
現代の官僚の
東大卒と非東大卒
みたいなもんか?
341日本@名無史さん:03/01/13 02:57
まぁ、226で予備役にすべきだった。
同情した将官すべて、予備役。
満州事変も発生せず。


但し、石原があぶない。
中央で使うべし。
342日本@名無史さん:03/01/13 08:07
↑ どういう意味?2.26事件は昭和11年、満州事変は昭和6年。
343日本@名無史さん:03/01/13 15:51
>>341
シナ事変の間違いかな?満州事変と関わりがあるのは十月事件。
344日本@名無史さん:03/01/13 16:08
支那事変の時には、石原は中央(参本第一部長)にいて事変不拡大派だった、
拡大派は武藤章(部)や田中新一(省)などで、山下はこの頃、少将で朝鮮軍に
属する第20師団第40旅団長という閑職。
345日本@名無史さん:03/01/14 01:22
眞崎っていい奴?悪い奴?
346日本@名無史さん:03/01/14 23:50
山下軍司令官 皇道派
武藤章参謀長 統制派
フィリピンで上手くやって行ったのだろうか。?
347日本@名無史さん:03/01/15 00:12
>>346
山下が武藤を希望したとよく書かれてますね。

ただ、額田中将の回顧録には、
山下は額田を希望したが、
すでに武藤に決まっていたとあります。

348日本@名無史さん:03/01/15 02:23
>>347 よりによって、敵対派閥から参謀長を望むなんて。
山下奉文 すげ−人。
349日本@名無史さん:03/01/15 04:00
>>348
派閥の違い、人間の好き嫌いよりも、能力の有無を優先することができたの
だろう。
できそうでできないことだが、それでも辻〜んにはムカっ腹立ってたらしい。
350日本@名無史さん:03/01/15 05:11
↑ 辻は、マレー半島でもこき下ろしていたものな。
351日本@名無史さん:03/01/15 10:51
此男、矢張り我意強く小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり

だそうな
352日本@名無史さん:03/01/15 11:02
>>351
辻タンのこと?それとも晴郎?
353351:03/01/15 11:04
>>352
晴郎の辻評
354日本@名無史さん:03/01/15 11:16
>>353
やっぱり。

晴郎も、外見とは裏腹に、神経の細かい人だったらしく
「YesかNoか」の件では、同期にまで言い訳して回ってたらしい。
遺言では、「女性の教育こそがこれからの日本には一番大事」
と言い残すなど、世間のイメージとはだいぶかけ離れた人だったようですね。
355日本@名無史さん:03/01/15 20:16
個人曰く
内柔外剛ってやつですな
356日本@名無史さん:03/01/15 20:38
武藤という人は常に積極派で、日本を戦争に導いた一人であるには
違いないんだけれど、軍人としての能力は抜群だったようです。
軍政家としては、永田鉄山と2人、2大軍務局長と称せられることもあるし、
フィリピンにおいての作戦指導も的確なものだったし。
ただ対米戦に関する彼の考え方は、よくわからない。
戦後すぐに出た田中隆吉の「敗因を衝く」では、武藤は田中に対して
開戦決定の直後に「これで東条は英雄になった」と言ったらしいんだけど・・・
357日本@名無史さん:03/01/15 21:04
山下が北支那方面軍参謀長(s13・7)の時、武藤は参謀副長として山下の下で・・・。
武藤は山下と対立する統制派の領袖だったが、たちまち、山下の人物に傾倒し
信者の一人になったという。やはり、統制派で2.26の時、磯辺に撃たれた片倉哀
は山下が関東防衛軍(満州)司令官になった時、武藤章と富永恭次(人事局長)に
「今度、君を山下につけてやる、君は2.26のときは反対の立場だったが、山下も
なかなか立派な将軍だ、そのうち陸相になるだろうが、そのときは君も内地に戻り
山下さんを補佐してくれ」と言われた。その後、腹を割って話し合った結果、肝胆
相照らす仲に」(片倉氏直談)。
358日本@名無史さん:03/01/15 21:09
武藤章は旧姓井上。舅は陸軍大将尾野実信。
(なぜ尾野の娘と結婚して武藤になったのかはわかりません)
尾野は皇道派の源流となる上原閥の人。
359日本@名無史さん:03/01/16 00:06
>>356
軍人としての能力?

(役人としての能力)が抜群としてならわかるが。
360山崎渉:03/01/16 08:42
(^^)
361日本@名無史さん:03/01/16 13:07
age
362日本@名無史さん:03/01/16 13:11
>>361
空age(・A・)イクナイ
363日本@名無史さん:03/01/16 22:05
荒木貞夫は偉大だった・・・
364日本@名無史さん:03/01/16 22:08
いきなり、荒木とは。。
365日本@名無史さん:03/01/16 22:30
荒木が教総本部長になって上京してきたとき
東京駅は出迎えの青年将校でごったがえしたそうだ
366アラーキー:03/01/17 20:57
作戦の鬼と言われるほど、小畑敏四郎の戦術・戦法はすごかったんですか?
367日本@名無史さん:03/01/17 22:06
対露戦だろ?
どのみち勝てんやろ。
368日本@名無史さん:03/01/18 00:56
「謀将」とか「作戦の鬼」とか、日本人はそういう三国志や戦国時代チックな
言葉好きだけど、近代戦においてそれらがどういう人を指すのかは、もうひとつ
よくわからないねえ。
ちなみに皇道派にそう呼ばれる人が多いのは偶然かな?
369日本@名無史さん:03/01/18 01:48
>>356
>武藤という人は...軍人としての能力は抜群だったよう
軍人としてじゃなく、平時の事務官僚としてだろ。戦時に、破滅へ導いた偏狭な陸軍
至上主義者に変わりはない。
370日本@名無史さん:03/01/18 01:54
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

http://www5b.biglobe.ne.jp/~ryo-kyo/osu.html

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
371日本@名無史さん:03/01/18 02:19
陸軍の近代化を遅らしめた最大の理由なんであろう?
372日本@名無史さん:03/01/18 02:23
>>372
金無し
技術力無し
工業力無し。
つまり国力がない。
それが最大の原因かと。
373日本@名無史さん:03/01/18 02:23
自爆した。。。
374日本@名無史さん:03/01/18 11:16
>>371
陸軍の精神至上主義だね。と歩兵系優遇に象徴される狭隘な作戦観だね。
その淵源は、士官学校や陸軍大学の偏った教育課程だろう。
375日本@名無史さん:03/01/18 11:19
乃木が阿呆
376日本@名無史さん:03/01/18 11:58
大川周明、発狂したあと、すぐ平常時にもどったとのこと。
377日本@名無史さん:03/01/18 12:06
>>368
実戦で部隊を指揮すると、確かに統制派より皇道派の将軍の方が強いね。
不敗の将軍、宮崎繁三郎なんかは派閥と関係なさそうだけど。
378日本@名無史さん:03/01/18 20:38
大川は内村裕之東大教授および米軍医の診断で定型的な進行麻痺、すなわち梅毒
による精神障害で、俗にいう脳梅毒と診断された。東大入院中はとくに治療の
効果はみられなかったが、松沢病院に転院するころからマラリヤ(発熱)療法が
効果を発揮、急速に治癒に向かったとか。
379日本@名無史さん:03/01/18 22:19
>>371
やはり予算の問題だろう
380日本@名無史さん:03/01/18 22:36
瀬島龍三は、どっち派に属していたのですか?
381日本@名無史さん:03/01/18 23:04
>>374
どのような教育課程だったのですか?
教育課程のどのあたりに問題があったのですか?
精神主義や狹隘な作戦観を生まないためにはどのような教育が有効だったと考えますか?
382日本@名無史さん:03/01/18 23:04
↑経歴からみると、隊付き勤務は陸大入る前の富山の連隊だけであとはほとんど
参謀勤務だし、それに彼が陸大出たころは2.26事件も終わったあとで統制派
の天下。また、陸幼入学時の保証人が林銑十郎だから、おのずからスタンスは・・・。
2.26の時、岡田啓介の身代わりになって死んだ松尾伝蔵大佐の女婿でもあるが。
383日本@名無史さん:03/01/18 23:09
瀬島は派閥には、属してないだろ。
属さずとも、出世しただろうし。

主義・主張があるわけでもなし。

海軍の岡田大将の義弟の
娘婿ではあるが。
384日本@名無史さん:03/01/19 08:19
>>381
今の北朝鮮みればわかるけど、近代的な兵器がないから精神に頼らざるを得ないし、
世界のビックリ超人ショーみたいなもんを真面目にやらにゃイケンのでしょ?

貧すれば鈍す。これに尽きる。
385日本@名無史さん:03/01/19 14:07
竹槍でB29を突いてたからね
386日本@名無史さん:03/01/19 19:49
金があればそんな事しなくても良かったが
あるもので何とかしなくてはならないので
貧乏国は精神主義に走るしかなくなる
387日本@名無史さん:03/01/20 01:06
貧乏国でも勝てますよ。
ベトナムのように。
388日本@名無史さん:03/01/20 04:46
>>384
えらそうなこと言ってる割に、質問には何一つ答えてねーな。
だからsageなんだろうけど。
389日本@名無史さん:03/01/20 07:37
ドーみても、384より388の方が偉そうなのだが。。。
390日本@名無史さん:03/01/20 10:03
笹川良一が、巣鴨での体験から、生前こんなこと言ってる。
ともかく、みんな助かりたい一心で、上司は部下に責任を押しつけ、部下は上司の
せいにする。こんなことをすれば、両方とも有罪にされてしまうのですが・・・。
391日本@名無史さん:03/01/20 11:40
シベリアはひどかったみたいだね
近衛の息子も左翼に転んで、、、、
392日本@名無史さん:03/01/20 14:45
いちばん、怪しいのは瀬島。
393日本@名無史さん:03/01/20 15:04
投降日本兵をシベリア労働に供出することでソ連に貸しをつくろうとしたら、いっしょに連れて行かれてしまった瀬島。
394日本@名無史さん:03/01/20 16:04
>>391
板垣の息子もそうだったと思う。
395日本@名無史さん:03/01/20 16:06
板垣の倅は、戦後しばらく共産党。その後自民党に転向。
396日本@名無史さん:03/01/20 16:13
アメリカが長崎の原爆と同時に投下した検査装置を原爆の不発弾と勘違いして
ソ連に引き渡しに行った瀬島
米ソに戦争させた後、満州争奪戦をもう一回挑もうとした

しかし壊れた検査装置だったので連れられて〜いっちゃった〜

彼の人生最大の交渉だったんだろうな

397日本@名無史さん:03/01/20 16:50
ネタ? >396
398日本@名無史さん:03/01/20 17:25
終戦直前に日本の作戦計画の要の瀬島がソ連との交渉に満州に飛んだ
満州の投降日本兵の処遇ごときで最重要人物はぶっそうなとこへ行かない
切り札を持って、日本最後の賭に行ったんだ

8/9以降、その原爆と思いこんだモノの遣い道を検討した結果、ソ連に渡すことが最善と軍は決断したんだろう。

399日本@名無史さん:03/01/20 17:28
満州へ渡ったのは7月末なんて本人は言ってるが。
400日本@名無史さん:03/01/20 17:38
戦争中、ずっと奥の院にこもってた奴が、満州に渡ったのには、
それ相応のわけがあるだろうけど・・・
401日本@名無史さん:03/01/20 17:42
竹田宮と交代と言われてなかった、皇族に万一のことがあってはということで。
402日本@名無史さん:03/01/20 17:48
>>401
宮田中佐だね。しかし、そんな殊勝なやつかな?
403日本@名無史さん:03/01/20 17:48
瀬島本人は、終戦直前満州へ渡った理由を、「昔からの慣例が大本営にありましてね、
非常に重大な局面には大本営参謀がそこへ出ていく。その慣例にしたがって、この時も
大本営参謀がそれぞれ第一線に出ました」 と言っている。
404日本@名無史さん:03/01/20 17:51
>402
もちろん、交代させたのは大本営上層部。本人が希望したわけではないと思うが。
405日本@名無史さん:03/01/20 20:37
瀬島は、海軍の岡田大将に連なるとして、
徹底の交戦派から目をつけられたのが実情では?
情報が和戦派に流れるのを嫌われたと。
406日本@名無史さん:03/01/20 20:43
彼は昭和20年には聯合艦隊参謀も兼ねていたんだけど。
407日本@名無史さん:03/01/20 20:55
瀬島以外に陸海軍参謀っている?
彼はかなり特殊な身分だとおもうけど。
408日本@名無史さん:03/01/20 21:10
延びきった戦線を縮小し、米ソの狭間で国体を維持するという役目だったんだからね
当時30代前半か
409日本@名無史さん:03/01/20 21:21
沖縄戦が終わった頃、迫水久常内閣書記官長が瀬島に戦争の見通しを聞きたいと
言ってきた。立場上、作戦の問題を書記官長にいうのはおかしいので迷ったが
五月末、永田町の官舎で迫水に会い空襲下の真っ暗な部屋で二人だけで三時間ほど
話した。終戦を口にしたのはこの時だけだとか。(瀬島は九月までにソ連は参戦
してくる、その前に終戦にもっていくべきだと判断していたとか)。迫水は岡田啓介
の女婿なので瀬島とは親戚になる。迫水は瀬島が、ほんとうの気持ちを話してくれた
ので万難を排して終戦にもっていけたと、後年感謝されたいう。
410日本@名無史さん:03/01/20 21:23
瀬島の証言は、(以下略
411日本@名無史さん:03/01/20 21:29
天皇が名指しで批判してる一人だね>瀬島
412日本@名無史さん:03/01/20 21:32
>411
ホント?どこで独白録?
413日本@名無史さん:03/01/20 21:41
瀬島て中佐でなかった?天皇に直接拝謁できる身分ではないのでは
天皇が瀬島を知っているだろうか?
414日本@名無史さん:03/01/20 21:49
田中清玄が入江侍従長から聞いて書き残してる。

天皇曰く「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った
将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、
開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の
国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている
者である。瀬島のような者がそれだ」

415日本@名無史さん:03/01/20 21:50
独白録では皇道派系への月旦はなかなか厳しい。
416日本@名無史さん:03/01/20 21:56
迫水久常は、先に公開された聞き取り調査の録音で皇道派の山下を強く批判してる
「山下少将は際立って反乱軍的に行動した」「一番けしからんと思った」と
憤慨している。
417日本@名無史さん:03/01/20 21:58
作戦参謀であったにもかかわらず、
臨調の副会長としたことですな。

あげくに、臨教審議会という
教育の分野まで、かかわった。

418日本@名無史さん:03/01/20 21:59
ふ〜ん、天皇は瀬島知っていたんだ。いったい、誰が瀬島の名を天皇にチクッタのか。
419日本@名無史さん:03/01/20 22:00
作戦仕切ってるぐらいだから天皇は知ってるだろ
420日本@名無史さん:03/01/20 22:03
戦後に知った可能性も有る。
有末精三のこともかなり批判してる>独白録


421日本@名無史さん:03/01/20 22:03
天皇は宮中で陸海相・参謀総長・軍令部長その他の
軍関係者に現状の報告をさせたり、
質問したり色々しているから大抜擢を受けるほど
注目されていた軍人に関してもある程度知っていたかと。
422日本@名無史さん:03/01/20 22:05
それよっか、田中て信用できるの?入江侍従長が存命中に書いたなら
ウソも書けんだろうが、話が出来過ぎているようなところも。
423日本@名無史さん:03/01/20 22:05
ただ、独白録が作られた時期を考慮に入れると
独白録での天皇の発言をそのまま受け入れるのは注意がいるかと。
424日本@名無史さん:03/01/20 22:07
東条は事細かに報告してたらしい
ガダルカナル撤退の時にでも報告したんじゃないのか?

425日本@名無史さん:03/01/20 22:34
瀬島が南東方面(餓島)担当になったのは、11月末だとか、12月に突然、
服部課長から真田課長に代わり、翌日、真田とラバウルに飛び陸海共同の
図演を行った後、サイパンで真田に呼ばれ「ガ島をどうしますか、意見を
いって下さい」と言われ撤退を進言したと。それに対し、真田は「同感です
それでいきましょう」ただ一言いったという。だから瀬島はガ作戦に関わった
のは撤退の時だけ。餓島で責められるべきは服部、辻の輩では?でも、オレは
瀬島の支持者ではないけど。
426日本@名無史さん:03/01/20 22:44
425は産経の本?
427日本@名無史さん:03/01/20 22:45
瀬島は、
餓島ではなく、
台湾沖海戦の戦果についての堀参謀の報告をどうしたか?
ソ連に降伏時、
どのような交渉したのか?
428日本@名無史さん:03/01/20 22:53
堀参謀の報告を握り潰したのは瀬島に違いないだろう。
ソ連と捕虜の提供を条件に何やら取引したというウワサは絶えないが。
429日本@名無史さん:03/01/20 23:00
台湾沖海戦の戦果をもとに、
レイテ決戦をしたことを
考えると、、、
430日本@名無史さん:03/01/20 23:01
前レスの笹川の証言にあったように、逆境に弱いのが学校秀才の弱点。
自分が助かるためには卑怯な振る舞いは瀬島に限らないと思う。
兵隊さんだけど、かの国民歌手・三波某も捕虜となりシベリアで
強制労働の時、同胞を売るような卑怯な行為があったらしいが、人気が
出るとそういうウワサはウヤムヤになってしまう。
431日本@名無史さん:03/01/20 23:05
ただ、台湾沖の戦果が怪しいというのは海軍で気がつき、後で再調査して
誇大だとわかったが陸軍には報告しなかったというハナシもある。
432日本@名無史さん:03/01/20 23:17
堀参謀のあだ名はマッカーサー
常に大本営発表には懐疑的だったらしい
「運命の山下兵団」

433日本@名無史さん:03/01/20 23:33
先日の某国営放送で、
台湾沖の話がありましたね。
もちろん、握り潰しは、
詳しくなかったけど。

434日本@名無史さん:03/01/20 23:37
>426
遅くなったが文春の本「完本・太平洋戦争」(下)
435日本@名無史さん:03/01/20 23:41
堀参謀は、回顧録があります。
戦後は、自衛隊で西ドイツ駐在、
大学のドイツ語講師、
村長をされてます。
この世代は、
統制派とかの色わけはないが、
彼は情報畑のため、
主流派(作戦畑)ではないですね。ただ、情報畑は、その職種がら、
合理的な判断をされる人が多い気がします。
436日本@名無史さん:03/01/20 23:47
大本営は虚報を垂れ流すし、南方総軍は頼りないし
海軍陸戦隊は言うこと聞かないし、富永はトンズラこくし・・・
あの状態で第十四方面軍はよく戦ったと思う。
マニラでの残虐行為の責任者は海軍の岩淵少将でしょ
437日本@名無史さん:03/01/20 23:55
マニラについては、
山下、武藤とも、
オープンにする構想があったような?
438日本@名無史さん:03/01/20 23:57
おっ死んでしまったし、岩淵のおっさん。
439日本@名無史さん:03/01/21 00:00
1度出た後また戻ったんだよね、海軍は>マニラ
陸軍はバギオにたいきゃくしたのに
440日本@名無史さん:03/01/21 00:02
レイテに大軍を派遣せず、
また、沖縄から師団を台湾に移動させなかったら、
と考えてしまう。 この当時は、幼年学校
→士官学校
→陸軍大学
の優秀組が仕切りしてました。 これらには、瀬島が絡んでいるのでは?
441日本@名無史さん:03/01/21 00:10
>>440
レイテのころの作戦課長は服部卓四郎かな
442日本@名無史さん:03/01/21 00:11
天皇が瀬島を恨んでいるとしたら、終戦間際かなあ
443440:03/01/21 00:21
>>441
手元に資料ないが、
陸軍大臣秘書官から復活したころですね。
444日本@名無史さん:03/01/21 00:31
>>442
終戦からしばらく、
瀬島はシベリア抑留なので、
その頃の話ではない。
第二臨時行政改革調査会の
副会長として、
国の方針を取りまとめする、立場になったため、
不快感を表したのでは。

当時、旧作戦参謀が、
そのような立場になることについて、 学徒出陣などの戦争従軍者からの批判が、
政府にあったらしい。
天皇発言についての真偽は不明ですが、
その流れに関係したものと考えられます。
445日本@名無史さん:03/01/21 00:49
もしくは、日韓の国交正常化のときの、
秘密特使とか。
時代は、違うが、
湾岸戦争のときも
米に行ったらしいので、
裏面では、いろんなことがあるかも。
446日本@名無史さん:03/01/21 00:56
天皇は、高級軍人の戦後の身の処し方に、かなり関心を持ってた模様
447日本@名無史さん:03/01/21 01:12
東条の子孫は厚遇してるね

阿南のぼんくら息子も
448日本@名無史さん:03/01/21 01:19
阿南の息子は酷いねえ
東郷のところよりは、ましかもしれないけどw
449日本@名無史さん:03/01/21 01:23
外務省に入ったからああなったのか
ああだから外務省に入ったのか
450日本@名無史さん:03/01/21 01:25
内務省官僚は統制派と癒着があったのかどうか・・・
451日本@名無史さん:03/01/21 01:27
東郷のこども?
452日本@名無史さん:03/01/21 01:37
>>447 >>448
阿南の息子は、東洋史の学者である阿南惟敬さんですよね。
ボンクラ息子なんだ。ふーん。
453日本@名無史さん:03/01/21 01:37
>>451
ごめん。孫だった。
454日本@名無史さん:03/01/21 01:39
>>452
惟茂氏のほうでしょう
455日本@名無史さん:03/01/21 01:40
戦後進駐軍の評価

上り坂
外務省:戦前から親米、対米協力
文部省:厚木に真っ先に駆けつけた
厚生省:731部隊のデーターを提出

下り坂
鉄道省:満鉄
内務省:満州利権の恨み?

456日本@名無史さん:03/01/21 01:42
東郷というのは、元帥海軍大将じゃなくて、外相の重徳氏です。
念のため
457日本@名無史さん:03/01/21 04:57
226の後、東久邇内閣に入閣するまで、小畑敏四郎は何してたんですか?
458日本@名無史さん:03/01/21 09:39
畑でイモ作ってました。
459日本@名無史さん:03/01/21 10:14
つまり、畑をホっていたわけですなw
460日本@名無史さん:03/01/21 12:28
瀬島は対韓支援ビジネスで児玉らとつるんで結構上手く立ち回り勤務先の商社に
利益をもたらしたらしい。それで社長に抜擢か? 前レスに田中清玄が入江から
聞いた話として天皇が瀬島を嫌っていたとあったが、侍従長が田中ごときにそんな
キワドイ話するだろうか?親米右翼の児玉と反米右翼の田中ではビジネス上でも
対立するだろうから、児玉系列の瀬島を田中が嫌っていたのは想像できる。もっとも、
入江侍従長が急死した時には、天皇から、あまりに皇室内部のことを書き過ぎると
叱責を受けたので自殺したなんて噂もマスコミで流れていたが。
461日本@名無史さん:03/01/21 12:32
インドネシア大統領にデビ夫人を献上したときも瀬島は一枚噛んでいる
462日本@名無史さん:03/01/21 13:26
児玉ー中曽根、児玉ー瀬島、中曽根ー瀬島
こうした繋がりをみれば、中曽根内閣時以降、瀬島がなぜ重用されたかが想像できる。
463日本@名無史さん:03/01/21 13:31
伊藤忠×丸紅

ロッキード事件の黒幕は、、、
464日本@名無史さん:03/01/21 13:40
ローキード事件には丸紅ルート(角栄に渡った5億円)以外に
児玉ルートもあった。これは21億円だったが、児玉がああいうことになり
誰に渡ったか、遂に解明されないままウヤムヤになってしまった。
渡ったのは、当然○○○ネだと想像されていたが、逃げ切って出身の階段を
上がり、大○○まで貰う身分に。5億円を騒ぎ立て、角栄をスケープゴート
にして大口21億を小さく扱ったマスコミの報道の仕方はエイズ蔓延初期に
厚生省の失政を隠すために、役所のホモ感染源説をタレ流したのと同じ構図。
465日本@名無史さん:03/01/21 13:41
出身でなかったわい 出世 だ。
466日本@名無史さん:03/01/21 14:01
ローキード事件そのものが田中潰しの遠謀だった、なんての読んだことがある。
米国は、賄賂が横行していたのは放置していたが、この時だけ騒いで利用した。
だから、田中さへ葬れば目的達したので、残りは親米派として利用する。
467日本@名無史さん:03/01/21 14:08
まさに瀬島がやっていたのが、戦後補償の賄賂ビジネス。
金の時もあれば、デビ夫人のように女の時もある。
瀬島は軍の人脈があったから、自衛隊の武器買い入れも大手柄をあげた

賄賂は当然今でも当然横行してる
野中、加藤は北朝鮮
ムネヲはアフリカとロシア
、、、
468日本@名無史さん:03/01/21 14:28
ロッキード事件の前から海上自衛隊のPXL(次期対潜哨戒機)の採用を巡り、
国産派(民族派)と米国産派(親米派)とが対立して、マスコミを巻き込んだ
暗闘繰り広げていた。田中は国産派でなかったの?田中清玄も国産派の会社に
ついたのでは?結果はロッキード社のP3Cに決まったが、事件中にはP3Cを
推していた某将官が検察庁に何回も呼ばれたとか。初期の空自FX採用騒ぎを
思い出す事件だ。この時は源田実が渡米して内定していたグラマンからロッキード
のF104に覆してしまったという経緯があった。
469日本@名無史さん:03/01/21 15:19
児玉の戦時利得は30億くらいあったらしい
470日本@名無史さん:03/01/21 15:31
あるサイトでは児玉機関が持ち帰った宝石、貴金属類の額はダイヤだけで
200億、現在の貨幣価値で7兆なんてのもあった。
くすねた金の一部を現在の自民党の創設のため提供したというウワサ話は
むかしから流れていたが、今となっては真偽を確かめるのは困難。
471日本@名無史さん:03/01/21 16:07
政治家が靖国参拝するとどこからかお金を貰えるの?
472日本@名無史さん:03/01/21 16:10
遺族(有権者)が喜ぶでせう。結果、当選すれば税金を自由に使えるので
迂回したお金は貰えるという罠。
473日本@名無史さん:03/01/21 16:11
遺族会は
かなりおいしい集票マシンでしょ
474日本@名無史さん:03/01/21 16:21
そればっかりじゃないと思うが
475日本@名無史さん:03/01/21 16:26
日本遺族政治連盟は自民党支持団体第7位に位置する有力組織、ただ、加入数の
減少は避けられぬ運命。ちなみに、1位は大樹(特定郵便局長会)2位歯科医師連盟
5位が建友会(建設土木)、6位恩政連(軍人恩給)、かの有名な圧力団体の
日本医師会でさへ8位というランキング。
476日本@名無史さん:03/01/21 16:32
昭和天皇は、靖国の宮司を相当嫌ってたね
477□□マジやばいよ□□:03/01/21 16:56
478日本@名無史さん:03/01/21 17:03
宮司て、松平永芳のことかな、彼は前任の筑波藤麿(常治草大教授の父、元侯爵)
が青木某らからA級戦犯を合祀するよう脅かされていたが、先延ばしにしてきたが
松平に代わってから秘密裏に合祀した。松平は軍人上がりで、浩宮の英国留学に
反対したり、高松宮の日記を焼却処分にせよと進言する頑迷固陋の旧人類。
479日本@名無史さん:03/01/21 17:07
クサ大ではなかった、早大ですだ。
480日本@名無史さん:03/01/21 18:53
無派閥派の詳細きぼんぬ
481日本@名無史さん:03/01/21 19:26
田中清玄スレが脱兎落ち・・・助けてやってくれ。
松平芳永宮司なんて「極右」で一蹴。あんたに言われたくねえってか。
482日本@名無史さん:03/01/21 20:03
>>480
無派閥と一口に言っても、意思が弱くて便所のドアみたいにどっちにでも開く人と、
徒党を組まず、ただひたすら軍務に励んだ人と、2種類います。
前者の典型が、2.26事件のときの川島陸相とか古壮次官とか。
後者は、なかなかいないでしょうが、阿南惟幾とか山田乙三かなあ・・・


483日本@名無史さん:03/01/21 20:08
ちなみに、今の政界と同じで、途中で宗旨替えした人もいますよ。
有名なのは鈴木貞一でしょう。軍国太平記に面白いエピソードが載ってました。
484日本@名無史さん:03/01/21 20:16
阿南ね。一死大罪を謝すと書き残して割腹したんだよな。
俺思うに、御前会議での降伏反対は大芝居だったんじゃなかろうか。
もう降伏するしかないことくらいわかってただろ。
しかし当時の東京には徹底抗戦を叫ぶ若手将校が充満していた。
多数決で降伏を決めたら必ず暴動が起こっただろう。
3対3で決着つかずとし、天皇親裁で降伏するしか道はなかった。
485日本@名無史さん:03/01/21 20:56
そもそも軍人には現代国家のような複雑怪奇な代物を取り仕切る能力はないんだよな。
戦前も戦後も日本人は陸士、海兵を過大評価しすぎ。
486日本@名無史さん:03/01/21 20:58
凡才でどちらからもお座敷が掛からなかったのがほとんどでは。
487日本@名無史さん:03/01/21 21:00
派閥なんてのは、天保銭の中のさらに一部の連中以外には
縁のないものだったでしょう。
488日本@名無史さん:03/01/21 21:10
>485
そうです、戦前には中学へ進むことができる家庭さへ少なく、たまたま中学へ
入ることができた地方出身者がたまたま軍学校へ入ると、周囲はまるで末の
大将が決まったような騒ぎ。阿川の作品の中にでてくる話だけど、浦和中学?
だったかで、1、2位を争った平柳育郎と某(名前忘れた)が平柳は海兵トップで
その後、戦死して井上成美を嘆かせたという。一方、某は家庭の事情で就職した
が、後に徴兵されて水兵だった、というエピソードがあったが、こんなものさ。
489日本@名無史さん:03/01/21 22:21
最後の陸軍大臣、
下村定大将は、
無派閥ですね。
遠藤三郎中将も同じく、
駐仏武官経験者。
戦後、吉田茂のアドバイザーの
辰巳栄一駐英武官などは、
有名じゃないですか。
陸軍大学出身にも、
国を指導できるほどの、
かなり優秀な方は、います。

ただ、彼らが主流になりえなかったところが
致命的な問題であった。

現在でも、同じ問題を
かかえてるのでわ。
490日本@名無史さん:03/01/21 22:44
遠藤三郎はちょこっと桜会に顔を出してるはず。
下山定は、石原の後を襲って第一部長になったとき、
次長の多田の不拡大方針に逆らい南京攻略を強硬に主張した。
491日本@名無史さん:03/01/21 22:46
>>490
×下山→○下村ですた
492日本@名無史さん:03/01/21 23:04
遠藤三郎は日記に、特攻兵器の発案を聞き感動したり、731部隊の石井中将の実行力を
感心する記述などしていたが、戦後は一転共産化して、中国を称えるなどの言動で
赤い元将軍などとマスコミの人気あったが、他の軍人の例にもれず再転向したのでは?
493489:03/01/21 23:08
>>490
まぁ、桜会にちょこっと顔出すのは、
付き合い程度だと思う。
当時のエリート?は、だいたい声かかってるし。

下村の南京の件は、
漏れは知らなかった。
作戦部長当時、
病気でほとんど影響力発揮せず、
退任したと思ってた。
そちらが詳しいようで。

多田中将が、東條との争いに敗れたのは、
その後の歴史を決定したほどの事件と思う。
多田が、主流で活躍していたら、
と残念に思う
494489:03/01/21 23:20
>>492
遠藤三郎中将については、
議論が分かれている人物ですね。
戦後は、反戦派なのか、共産派なのか、
よくわからないところあり。
漏れも出版された日記を読みましたが、
現在の価値観では、
判断しずらいところはあります。
彼らを取り上げることで、
陸軍の矛盾などが浮き彫りになれば、
良いかと。
495日本@名無史さん:03/01/21 23:24
下村の変わり身は、“官僚は常にその地位によって言動が変わる”
と言われるが、その典型的な例証。
496日本@名無史さん:03/01/21 23:31
>>493
日華事変ではっきり不拡大を唱えたのは、次長の多田、第一部長の石原、
石原の次の次(つまり下村の次)の第一部長橋本群、
本間の次の第二部長樋口季一郎、第一課長河辺虎四郎、
軍務課長柴山兼四郎(この人がもっとも熱心な和解論者だったはず)


497日本@名無史さん:03/01/21 23:33
495だけど
下村と今村の勘違いだった。今村均は蘆溝橋事件の時、関東軍副参謀長(参謀長は
東条)で、わざわざ上京して強硬論を吐いた。下村については知らない。
498489:03/01/21 23:34
下村や遠藤は、
終戦まで、東條らのように、
声高に主張したわけでない。
彼らが、職務に忠実な
テクノクラートなのか、
その立場ゆえに自身の信念を
主張できずに終わったのか、
関心はあるところです。
499日本@名無史さん:03/01/21 23:38
>>497
今村のそのときの本心はよくわからないねえ。
本当に東条や富永に同意してたのかな?
500489:03/01/21 23:42
>>497
了解。
>>496
樋口も満州で、
ユダヤ人を助けたことで
歴史に名を残してますね。
501489:03/01/21 23:46
今村は、
どこかで人物が変わった印象がある。
きっかけは、わからないが。
502日本@名無史さん:03/01/21 23:50
日華事変当時、東条は関東軍参謀長として、
参謀本部の不拡大方針を無視して、北支まで出動して
”現地指導”していた。その後陸軍次官に栄転、軍人会館で
むちゃくちゃな演説をしてわずか6ヶ月で航空総監に更迭。
しかしこのとき、多田次長も第三軍司令官に転出されてしまう。
後に多田は東条陸相の手で予備役に・・・・
503日本@名無史さん:03/01/21 23:55
今村はやはり戦地や戦後の収容所で苦労している部下将兵を見て
人間としての生き方を悟ったのでは?
504日本@名無史さん:03/01/21 23:56
↑北支じゃなくて内蒙だったかも。
505世直し一揆:03/01/21 23:56
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙されるな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉する(しかも好戦的・ファイト満々でキモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者に弱く、弱い者には強い)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため、性格がうっとうしい(根暗)
●一人では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にし、ものすごく体裁を繕う(「世間体命」、「〜みたい」とよく言う)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度も言う、知障)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をし、ストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(他人をけなして相対的に自分の立場を引き上げようとする等)

それと、O♀はエコヒイキきつくて、冷酷だからな。
A♂の異質排除×O♀の冷酷=差別・いじめ とあいなる。
506489:03/01/22 00:02
今村は、戦後の生き方が印象に残ります。
詳細な回顧録を残してますし、自省されてますね。
漏れは、餓島救出作戦で、
断固として玉砕させなかったのが、今村らしいと思う。
507日本@名無史さん:03/01/22 18:56
陸士、海兵信仰ってなんか今の東大信仰に似てるな。
実際に中でどういう教育が行われているかは知らないのに、名前を聞いただけで
思考停止になっちゃう。
508日本@名無史さん:03/01/22 21:40
世襲制に替わるためには、それなりのありがたみが必要だったんだと思う
509日本@名無史さん:03/01/22 23:45
ガイシュツかもしれないが、統制派、皇道派ともに真のイデオロギーなど
全くなかった。
単純に人間対人間の嫌悪によって、自然できあがった派閥であり、
イデオロギー的な名目など単にこぎつけでしかなく、くっきり
していたのは互いの嫌悪的な感情論だけである。
感情論は現実無視の空想に容易に飛躍する。
こんな組織だったから、軍隊の指揮系統の統制などとれるはずも
なかった。
十月事件や2・26に代表されるクーデター時には、統制派も皇道派
のリーダーも全く役にたたず、頼りにはならなかった。

510日本@名無史さん:03/01/23 02:26
>>507
>>374も結論は教育課程にもって行ってるけど、何も検討してないしね。
ざーっと流し読みしてみたけど、誰か>>381にまともに答えてやれよ。
俺は出来んがな。
なんでこのスレが瀬島ネタになってしまうのかもよくわからん。
511日本@名無史さん:03/01/23 04:45
幕僚ファッショは、西郷型のリーダーの下で興りやすい。
本家の西郷ですら、最後は部下に担ぎ上げられてしまった。
ただ、日本人は大久保型より西郷型をありがたがるから。
多くの小西郷がいて、一人の大久保がいなかった。
512日本@名無史さん:03/01/23 08:21
軍事学に傾き一般教養課程が少ない軍学校で、ある程度偏狭な人物ができるのは
どこの国でも避けられることだと思う。また、軍人が物わかりが良すぎて部下の
立場ばかり気にして、時に必要な苛酷な命令に躊躇していては、強い軍隊は
できない。旧日本で問題なのは、そうした偏った教育しか受けていない人間が
国家の枢要な地位に付き国を動かすことができた制度にある。軍人にも均整の
とれた考えの人間もいることは否定しないけれど。
513日本@名無史さん:03/01/23 08:23
2行目、避けられる→避けられぬ
514日本@名無史さん:03/01/23 11:39
独断専行で日本を破滅に追いやった中堅将校って、大正の軍縮で陸士、海兵のレベルが
滅茶苦茶下がった時期に入学した世代だよね。昭和の軍人が馬鹿ばかりだったのと関係
あるのかな?
515日本@名無史さん:03/01/23 12:05
>>514
血気に逸る中堅幕僚は、明治時代から居た。
しかし、そのころは山県たち元勲がしっかり抑えていたから
問題にならなかった。
516日本@名無史さん:03/01/23 14:14
最近、何かと話題の秋山真之たちこそが、
政治に容喙する中堅幕僚の走りじゃないかな。
517日本@名無史さん:03/01/23 16:14
>>512、良レスだと思う。ワショーイage
518日本@名無史さん:03/01/23 17:21
軍部の良識派と言われる人でも世界情勢をどこまで科学的、定量的に把握してたいたかは
怪しいよね。手記なんか読んでると、外務省や学者の良識派と結論は同じでも論理構成が雑
に感じられる。

519日本@名無史さん:03/01/23 17:22
亀レスだが、>>131
>一切の既成秩序をぶち壊せ!
>こういうことを言う人間を右翼と呼んでいいのか?

ムッソリーニのファシスト党を作った時のテーマが、正に資本家と社会主義者を
走狗して既成秩序を一旦破壊して国家社会主義の元に再生する事を目的とした
事を思いだした。結果としてはバリバリのアンチコミュニスト=右翼集団が
イタリアに出来上がり、その運動がヨーロッパの一次戦後の不安定な情勢と
相まって各地に勃興する訳だが。

ちなみにムッソリーニも元は社会主義新聞社の主幹であったほど一時は
マルクス主義に傾倒していた事実も興味深い。
520日本@名無史さん:03/01/23 20:36
>>518
宇垣とか?
521日本@名無史さん:03/01/23 20:55
>>515
結論は結局そこに行き着くんだよな
トップがしっかりしていて
現場しかわからない軍人が舵取りをしなければ何の問題ない
むしろ現場に明るい軍人が豊富であるほがよい
政治は政治家が行い官僚にやらせてはならないという
今でも分かっていながらやれないところに行き着くわけだ
522日本@名無史さん:03/01/23 21:03
バックミンスターフラーが異ってたけど、通信技術が発達する前の海軍は、グローバルな思想を持つように教育を受けたらしいが、その後は単なる手足としての教育になったと。
帆船の時代の海軍の艦隊の司令官は、国王と同等の判断を求められることもあったからね。

523日本@名無史さん:03/01/23 21:10
軍人や行政官僚が専門家としての意見や助言を国家の指導者に進言するのは
別に問題ないし、指導者が全ての事象に通じているわけではないから、専門家
の意見を聞くことは当然だと思う。だが、その専門家が思いあがり、腐った
政治家には任しておけん、“乃公出ずんば”と乗り出すと、かつての日本みたいな
ことが往々にして起る。戦前は、軍部内の論理を国民全てに押し付けたのが問題。
その意味で、シビリアンコントロールの原則は絶対に崩してはならない。
524日本@名無史さん:03/01/23 22:42
>>520
宇垣は、広田内閣で、軍部大臣現役武官制が復活したとき、
日記で、「いいことだ」と賛成してる。後に、それが自分の死命を制する
ことになるとは、夢にも思ってなかっただろう。
525日本@名無史さん:03/01/24 01:12
>>524
現役武官制の復活を歓迎する一方で
宇垣は中国戦線の不拡大・停戦と対米戦回避の外交路線を
目指してたよね。

「日本の軍備では戦争はできない。
しかし、国政は軍人が行うべきだ」と考えていたのかな〜
526日本@名無史さん:03/01/24 01:22
宇垣が傑出した軍人であることは間違いないよ。
ただ、戦後言われてるような”平和主義者”では決してないということ。
2個師団増師問題で、上原勇作が、単独上奏をして西園寺内閣を
つぶすという、軍部が内閣を倒す先例となった事件があったけど、
このとき、軍事課長だった宇垣は、もっとも強硬に増師を主張し、
怪文書まで流して、一時左遷されている。
527日本@名無史さん:03/01/24 02:42
後世から勝手に評価して悪いけど、一貫して冷静な判断が出来ていた人って
軍部にはいないなあ。
528日本@名無史さん:03/01/24 07:53
宇垣は大正2、陸軍省軍事課長の時、「陸海軍大臣問題に就て」という怪文書を配布した。
時の山本権兵衛内閣が、予備役の将官でも軍部大臣に就くことができるように制度改正
を決めたものに反対したもの。理由は、@党派的思潮を醸成するA軍事上の発展を害する
B命令服従関係を破壊するC神聖な統帥権の作用を害する、等々。
政府の方針を批判する怪文書をバラまくという点で、政治不関与という原則に違反してた。
だが、皮肉にも、後に宇垣に組閣の大命が下った時、前内閣で復活した軍部大臣現役武官制
アダとなり、陸軍が大臣を出さなかったので組閣できなるとは・・・。
529日本@名無史さん:03/01/24 08:23
>>528
そのときの陸相は木越安綱。大将の器と目されていた彼が
中将で終わったのは、軍部大臣現役武官制を廃止したことによる、
と思われる。
530日本@名無史さん:03/01/24 09:28
>>529
木越って、桂の腰巾着ってイメージがあるのだが、有能な軍人だったの?
531日本@名無史さん:03/01/24 09:39
>>530
気骨はあったと思う。日露戦争でもボツボツの働きは見せたし。
532日本@名無史さん:03/01/26 00:36
眞崎は、悪い奴。
それに乗った、青年将校は 哀れ!
533日本@名無史さん:03/01/26 01:04
そうか?

乗ったのが、真崎では?

534日本@名無史さん:03/01/26 01:39
「いま秦がが帰ったところだ。どうも真意がわからぬという。・・・・いや、そうじゃない。
表面は困った、困ったと言っているそうだが、何しろ起訴されて懲役刑の休憩を受け
た言うのだから、それですぐにどうというわけにはいかぬ。・・・・そうだ、そうだ。
裁判が確定したというのではないから秦が手をまわして検事局に調べさせたが、
検事は口が堅くて裁判の見通しについては何もしゃべらぬらしい。
警視庁のほうでは物になると言っているがこれも観測だけだからね。・・・・それに
妙なことには白上と兄弟だということは、世間ではあまり知らないらしい。
けれども、これはすぐ暴露することができる。・・・・それで番町のほうから極力この際は進退を明らかにして、一応辞めたほうがよいということを口説かせている。
それに相当に耳を傾けている模様だ。・・・・ナニ、そうだ、そうだ。ところが秦には
辞めそうな口ぶりは一切見せぬという。・・・・イヤ、秦も随分突っ込んで勧告はしたらしい。
彼のことだから少しアクがきき過ぎて、かえって気分を悪くしたのかも知れぬ。
だが、機会は今だよ、いい機会だ。・・・・ナニ?俺にはそうはいえない。
会えばまあ慰留の言葉になる。そうすればすぐにそれにつかまって来るかも知れぬ。
だから今しばらく俺は会わぬ方がよい。」
535日本@名無史さん:03/01/26 01:40
「ナニ、下落合でもそう言われるのか、こちらからはまだ申し上げてないんだが、
それは困ったな。荒療治だよ、それでなくてもうるさい奴がいるから、
俺ではだめなんだ。それより貴様もう一度出ろ。もう病気も治ったのだし、
従来のことは何でもわかっているんだから、俺よりは貴様の方がよい。・・・・
ハハハ。・・・・まあ、もう少し情勢を見てからにしよう。下落合には貴様から
よく話しておいてくれ、俺より貴様だよ、ハハハ・・・・」
536日本@名無史さん:03/01/26 01:41
かなり長い電話であった。最初は何気なく聞いていたが、
その話の内容は実に重大なことである。林陸相追い出しの陰謀をやってるのである。
いろいろな符牒を使って話しているが、筆者にすぐわかるのは
下落合とは武藤信義、番町とは柳川平助である。先客は憲兵司令官秦真次である。
要旨は説明するまでもないが、林の実弟白上祐吉が疑獄事件に連座している
問題である。真崎らはこれを種に林を辞めさせ、その後任には
教育総監の真崎をすえようとしているのだ。それを真崎は俺は困る、
貴様がいいと言っているところからすれば、電話の相手は荒木貞夫以外にない。

537日本@名無史さん:03/01/26 02:39
眞崎は、「お前たちの気持ちは、ようわかっとる。」と
反乱軍の将校たちに言ったくせに
陛下が反乱軍として鎮定を命じると
手のひらを返したように、態度がかわる。
538日本@名無史さん:03/01/26 16:33
真崎や荒木も陋劣だけど、彼らが去った後に、石原たちに担がれた
寺内や林もひどいからなあ。人材が払底してるとしか言いようがない。
渡辺錠太郎は、殺されなければ、陸相になっただろうな。勿体無い。
539日本@名無史さん:03/01/26 17:10
2.26事件時、皇道派の将官の中では山下奉文の言動が一番ひどかったらしいが、
なぜか、あまり叩かれないのは、やはり刑死したので同情が集まってるからか?
540日本@名無史さん:03/01/26 17:23
>>539
2.26以降一度も中央官衙には戻れなかったし、
なにより天皇の不興を買った。
541539:03/01/26 17:37
書き落としたが、戦後の評価のことだけどね。
542日本@名無史さん:03/01/27 22:16
しかしなんで日露戦争から満州事変〜敗戦まで
30〜40年しかたってないのに
将官の質が落ちてしまうんだろうかなあ。
大正期の陸軍の組織って問題あり?
やっぱ山縣のせい?
543日本@名無史さん:03/01/27 22:20
伊地知参謀により、旅順要塞の機関銃陣に人海戦術で飛び込む作戦が実行されたが、第九師団5万7千名は最初の三日間でその5分の1以上が戦死しました。
おそらくロシア側の損兵はゼロだったと思われます。

これって優秀ですか?
544日本@名無史さん:03/01/27 22:40
宇垣が山縣化すれば良かったのにな
と思わなくもない
545日本@名無史さん:03/01/28 01:44
宇垣が外相のとき、
中国と和平に努力したことを考慮すると、
軍内で権力を把握していれば、
近衛のバカ発言もなかったような。
546日本@名無史さん:03/01/28 15:25
234 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:03/01/28 14:10
「さくら」とか「おとめ」とか名前が悪いんだよな
「皇道派」と「統制派」にしろ
547日本@名無史さん:03/01/29 00:33
山下は、合理的な考えの持ち主
のはずなのに、
226事件で味噌つけた。
無派閥だったら、阿南の代わりだったかも。
梅津は、派閥活動をしてないように見えるが、
言動は統制主義。
東條は、主義主張がないと思う。
単なる、権力主義者。

でないかなあ?
548日本@名無史さん:03/01/29 00:37
(・´з`・)ふにっこ
549日本@名無史さん:03/01/29 08:10
梅津は、ほとんど自分の意見を面に出さない閉鎖的な性格の人で、
党派的行動もあまりしなかったが、近衛や荒木は早くから敵と看做して
恐れていた。近衛は梅津と池田純久をアカとみなして、特に嫌っていた。
2.26では、評判を下げた山下と対照的に第二師団長だった梅津は、いち早く
「即時討伐すべし」と電報を送り、株を上げた。そして、寺内陸相のもとで
陸軍次官となり、粛軍を手がけることになる。
550日本@名無史さん:03/01/29 11:22
阿南も即時討伐を主張したよね?
551日本@名無史さん:03/01/29 15:01
阿南はその頃、陸幼の校長だったから、直接討伐云々に口を出せる
立場にはなかった。個人的な感想はあったろうが。
552日本@名無史さん:03/01/29 15:04
阿南ともあろう者が何で陸幼の校長なんてやってたの?
553日本@名無史さん:03/01/29 15:18
陸大に4回目の受験で受かるほどで、パッとしなかったからでは?
事実、校長時代は、「阿南もぼつぼつ退役か」と噂されていたらしい。
彼が中央に返り咲いたのは、新設された兵務局長に就任のため。新設の際の
粛軍という大義名分をそれらしく見せるために、無色な阿南が登用されたとか。
554日本@名無史さん:03/01/29 15:42
陸幼校長の時に起きた2.26事件については、事件後2週間ほどして、
全生徒を集め、「統帥権の干犯である。政治の改革を叫ぶ者はまず軍服を
脱ぎ、しかる後に行え」などと厳しい訓示を行った、という。
555桐工作を主導したのは参謀次長の沢田茂:03/01/29 15:45
http://www.seinensya.org/sokuho/miyasama.htm
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_07/3t2002071123.html
http://www.asahi-net.or.jp/~tq8r-tnk/020316.htm
長沙で秘密会議をもとうとしたが、阿南陸軍省次官が反対したといいます。
理由は、交渉役の板垣征四郎が捕虜になったらどうするかというものらしいの
ですが、阿南は一貫して和平に反対だったのではないかと思います。
この人物はやや冷静な軍事的判断ができない傾向があり戦争終結には
全て反対ですね。浪花節をやる分にはよいのでしょうけれども。
556日本@名無史さん:03/01/29 15:48
義弟竹内正彦氏曰く「陸軍三大閑職の一つ、と言われたくらいで・・・陸大出の
ポストではありませんでした。能力ではなく人格で選ばれるので、陸幼校長を
務めた人で有名になったのは橘中佐ぐらいなものでしょう」
557日本@名無史さん:03/01/29 15:59
>555
家にいる時は、寝転んで『キング』や『少年倶楽部』を
読んでいたというから、理論的なことは苦手かも・・・。
558日本@名無史さん:03/01/29 16:33
>>550
師団長に限って言うなら、即時討伐を打電したのは
梅津のほかには、第6師団長の谷寿夫だけだそうです。
559日本@名無史さん:03/01/29 16:39
次官時代、蒋介石との和平を唱えた樋口季一郎第二部長を
「君は部隊を指揮したことがないからそんな事がいえるんだ」
とかなんとか怒鳴りつけたそうです。
要するに、”すでに数万の若者が支那で死んでいるのに
いまさら和平なんてできるか”という理屈だったらしい。>阿南大将
560日本@名無史さん:03/01/29 17:45
http://www2.bbspink.com/test/read.cgi/801/1043160092/
ちょっと解釈がわかんないんだけど・・・
561日本@名無史さん:03/01/29 18:02
↑みえみえ
562日本@名無史さん:03/01/29 18:04
↑中尾みえ
563日本@名無史さん:03/01/30 19:04
陸幼の校長で有名人と言ったら、名幼の橘周太くらいかな
どっちにしても、閑職だよな
564日本@名無史さん:03/01/30 23:21
日本人はどうして人材育成を軽視するのか
人材や才能というのはいくらでも湧き出るものではないのに
いい人材が欲しければまず良い教官を育てることが必要である
しかし将来のエリートを育てる場である陸幼が閑職であるなど全くもっと不思議なことである
まぁ名選手必ずしも名監督ならずの例えにあるように
良い軍人が必ずしも良い教官かどうかは別だろうけど(良い教材にはなるだろうが)
もっとも使い捨てるように人材を消費する日本は金と時間をかけた貴重な人材なぞいらんのかもしれんが
565日本@名無史さん:03/01/30 23:27
>>564
>日本人はどうして人材育成を軽視するのか

人口密度の高さがその原因の一つかもね。
566日本@名無史さん:03/01/31 00:24
人材は居るんだ。人材を活用できないシステムに問題がある。
567日本@名無史さん:03/01/31 00:49
>人材を活用できないシステム

>>564
>もっとも使い捨てるように人材を消費する日本は金と時間をかけた貴重な人材なぞいらんのかもしれんが

につながるわけね
結局人材育成も人材のふりわけも力いれんでもでもええという考えになるわけか・・・
そのくせまけたら国力がどうだの技術力がどうだの戦術がどうだのっておかしいよな?
やるべきことをやれずに結果が出ないのに他のせいにしてはいつまでたっても成長しないはずだ
568日本@名無史さん:03/01/31 07:23
このころ、陸士は皇道派の拠点のひとつだった。
皇道派には割合教育系が多い。
569日本@名無史さん:03/01/31 19:12
教育系だから、皇道派なのか?

皇道派だから、教育系なのか?
570日本@名無史さん:03/01/31 19:49
永田鉄山、石原莞爾も佐官時代は教育系ポストが比較的長かったが。
571日本@名無史さん:03/01/31 19:50
陸軍三長官の中でも一番ランクの低い教育総監。
(何度も参謀本部に吸収されそうになった)
そこは名誉職的意味合いと左遷の2つが同居するのでは。
真崎の総監、荒木の本部長、そこらへんにしかポストはあいていない。
特に落日の皇道派には。

陸軍行政をつかさどる大臣に就任した荒木はまるで駄目で
かなり株を下げた。その影響が他のメンバーのポストに響いているだろう。
現地部隊や教育関係が多い。中央は幕僚派・満州帰国組に握られた。
572日本@名無史さん:03/01/31 19:53
将来陸軍を背負って立つような頭がいい生徒なら皇道派も統制派もアポーって
気が付くと思うんだが・・・
東大生が社会主義にかぶれてたことを考えると日本の指導層なんて大した事
ないのかもしれないけど。
573日本@名無史さん:03/01/31 19:53
陸士は無天組のポストだったから、どうしても皇道派よりになるわな

確かに皇道派は不思議と教育関係に縁がある。
小畑は陸大校長、満井は陸大教官、荒木は後に文相w
鈴木率道は教育畑ではないが、統帥綱領を著したし、
真崎が教育総監辞めさせられたことが原因で、相沢事件がおこった。
親玉の武藤信義も、教育総監から参謀総長への横すべりを
宇垣に邪魔された。
574日本@名無史さん:03/01/31 19:54
荒木文相・・・
勘弁してくれ〜
575日本@名無史さん:03/01/31 21:10
真崎の教育総監罷免以降、永田に対する、皇道派の怪文書などでの
誹謗中傷は目に余るものがあった。心配した橋本虎之助次官は、永田に
外遊を勧めるが、永田は謝絶、それなら屈強な憲兵をつけようかと言ったが、
それも「正義にはむかうものはありますまい」と断った。
それでも心配な橋本は、林に相談し、8月12日もう一度永田を
説得するために、有末秘書官を永田の許にに遣わした。
しかし、有末が永田の部屋に着いたのは、永田が斬られた1分後だった。
576日本@名無史さん:03/01/31 21:14
相沢が局長室に入るのと入れ違いに、兵務課長山田長三郎大佐が
軍事課長橋本群大佐を呼ぶために部屋を出た。
このため、山田は相沢を見て逃げたのではないかという噂がたち、
山田を責める者もいたが、山田は一言も言い訳をせず、
永田の百日祭の日に、自宅において作法どおりに切腹して果てた。
577日本@名無史さん:03/02/01 01:11
まぁ、役所の中で、
殺人事件が起きるほどだから、
順法精神があったもんじゃない。

国家公務員だろ?
578日本@名無史さん:03/02/01 01:24
荒木を文相にしたのは、
近衛だろ?
近衛はなぜか、皇道派に近いなぁ。海軍からも、末次を内相にするし。近衛ってやしは、昭和の岩倉になりそこねた男だな。

579日本@名無史さん:03/02/01 01:33
結局、派閥争い?
統制派っで、永田、東條、くらい?
あとは、腰巾着だし。

梅津は、派閥活動してないらしいし。
統制派って、軍官僚だから、
名は残さないんかぁ?
580日本@名無史さん:03/02/01 01:41
>>579
これからという時に永田が斬殺されたのは統制派にとって
大きな痛手だっただろうね。
永田が生きていれば、太平洋戦争は
少し違ったものになったかも知れない。
581日本@名無史さん:03/02/01 01:52
永田は、生きてたら、
対中一撃派?
南仏進駐派?
永田も、反対はできないだろう?

結局は、同じ?
582日本@名無史さん:03/02/01 01:54
>>581
おそらく石原莞爾と同じことを考えていたかと。
対中停戦後、北進。
南進論は陸軍ではなく海軍が中心になって進めた。
583日本@名無史さん:03/02/01 02:20
永田は、良しも悪くも、バランス感覚があったから、
財界が期待する、経済的に果実のある中国には、
手を出したと思う。
純粋に軍事的な視点に立てば、
対露は、海軍力で優位にたてば、
朝鮮半島だけの方が良いはず。
満州の広大な国境戦は、
日本では手にあまる。
南進は、よくわからない。
石川○○のことか?
584日本@名無史さん:03/02/01 11:44
1934年、「たたかいは創造の父、文化の母」ではじまる陸軍パンフレットが配布される。
新聞班長は根本博、実際に作成したのは、新聞班員の清水盛明少佐といわれている。
骨子となったのは、統制経済の信奉者である池田純久少佐が作った「総合国策大綱」。
当然パンフレットでは統制経済をうたっている。これを見た近衛は、統制派は
アカだと思い込み、池田や、その親玉と思われていた梅津を、極度に嫌った。
その反動で、皇道派と接近したんだろう。
585世直し一揆:03/02/01 11:57
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者に弱く
、弱い者には強い)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●一人では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、「世間体命」)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は
個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をし、ストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
586日本@名無史さん:03/02/01 14:18
>>585コピペ厨氏ねや
587日本@名無史さん:03/02/01 14:25
ていうか
>>585=典型的なA型
588日本@名無史さん:03/02/01 17:31
アメリカファイザー社製バイアグラがどこよりも安い1錠900円!
大人気の超強力漢方バイアグラ「威哥王」、「蟻力神」もネット最安値でご提供しています!
漢方だから副作用無し、しかもその効果は驚異的。一晩中女性を悦ばしてみたいと思いませんか?

妊娠後49日以内であれば、錠剤を服用するだけで自分1人で簡単に中絶が可能なRU486。
1980年にフランスRoussel-Uclaf社により開発され、現在欧米では既に広く利用されていますが
日本ではまだ認可が下りておらず、国内では入手不可能です。
こちらのRU486を海外からどこよりも安いネット最安値でご提供いたします。

緊急避妊薬(アフターピル)や低用量ピル「マーベロン」、抗鬱剤プロザックも超特価!
女性用媚薬も各種取り揃えています。

http://www.kanpouya.com/
589日本@名無史さん:03/02/01 23:07
近衛はアカに敏感ですね。
590日本@名無史さん:03/02/01 23:10
永田鉄山って評価するひとが 多いですが、
どんな仕事をしたんですか。
591日本@名無史さん:03/02/01 23:15
>>590
国家総動員法
592日本@名無史さん:03/02/02 01:18
>>591
その時には、死んでる。その準備役ではあるけど。
593日本@名無史さん:03/02/02 06:18
>>590
思想的にはDQNなのに実務能力が高かったという
変わった奴だ。
昭和期の軍人に共通してるけど。
594日本@名無史さん:03/02/02 18:40
>>593
官僚であるということだろう
別におかしなことではないよ
人間的にはどうかと思われても仕事は出来る奴なんてのは
君の回りにもたくさんいるんじゃないかい?
595日本@名無史さん:03/02/02 20:05
永田は別にDQNじゃないよ
陸相の地位は最初から約束されてるようなものだから
こせこせしたところもなく、政財界にも顔が広く、合理的な思考の持ち主。
東条も永田だけは、心服してた。
596日本@名無史さん:03/02/03 00:15
林が大臣の時に、
真崎が教育総監を首にして、
派閥闘争が激化しましたね。
永田は軍務局長。
中堅どころが行動に移すきっかけ?
漏れは、永田より渡辺が生きていたらと思う。
彼なら、中国への拡大を止めていたと考えられるのだが、、
597日本@名無史さん:03/02/03 00:49
2.26以降の陸軍派閥といえば、石原、多田、板垣ら満州系と、
梅津、東条ら中央官僚系の対立。これを宥和できるとすれば、
やはり永田しかいないかな。しかし、梅津は永田の1コ上で、
陸大でも首席だったし(永田が2番)、言うこと聞くかな?
598日本@名無史さん:03/02/03 00:59
満州派は、派閥としては弱体では?
中央官僚派が、
満州を利権化していく中で、
歯止めが効かなくなったのでは?
599日本@名無史さん:03/02/03 01:26
梅津も本心では事変不拡大派だったんじゃないかな?
何しろ、数少ない腹心の一人、柴山兼四郎は、絶対事変不拡大派だし。
ただ、それより、石原たちとの対立を優先してしまった。軍律を何より重んじる
梅津にとって、石原みたいな人間はゆるせなかったんだろう。
600日本@名無史さん:03/02/04 00:41
梅津かぁ。
彼は、226の後、次官、最後は、参謀総長として、徹底交戦派、
但し、クーデタには絶対反対。
最後は、降服文書に調印。

226以降の陸軍の象徴的な人物。
なぜ、満州に行ったのか?
も含めて、研究すべき人物である。
601日本@名無史さん:03/02/04 16:53
梅津と石原の対立は、宇垣内閣流産後の、石原による林担ぎ出しに始まる。
石原は、林内閣の陸相に盟友板垣を望んだ。
当時石原は第一部長代理として、事実上参謀本部を取り仕切っていた。
その上、陸相に板垣がきたら、省部は石原一派に支配されてしまう。
板垣は16期。梅津は15期のため、自分も次官を辞めざるを得なくなる。
危機感を感じた梅津は、すばやく動き、石原一派の連合を崩し、
中村孝太郎を陸相に据えることに成功した。
軍人の政治的活動を嫌っていた梅津が、始めて見せた政治的策動である。
602日本@名無史さん:03/02/05 01:47
梅津もまた、権力の罠に落ちるか、
603日本@名無史さん:03/02/05 13:24
梅津は、中村孝太郎が病に倒れたときも、すばやく杉山を後任にして
板垣入閣を避けている。
後に近衛が、内閣改造で杉山をくびにして、遂に板垣を陸相にしたときには、
自分の後任に東条を呼び寄せ、板垣を無力化している。
板垣は石原無しでは、木偶同然だった。
604日本@名無史さん:03/02/05 22:03
梅津って、上手く立ち回ったってこと?
開戦時は満州だし。
605日本@名無史さん:03/02/05 22:11
>>604
本人は、「自分はいつも後始末ばかり」と言ってたらしい。
彼が満州に行ったことで、中央で、東条が独走したとも言える。
もし彼が、中央官衙にいれば、どうなったかは、興味が有るけど、
戦争を止められたとはおもえないなあ。
606日本@名無史さん:03/02/05 22:38
畑俊六や松井岩根は東條の大先輩の大将ですけど、昭和16年ぐらいからは
東條の方が序列が上になってるんですか?
いつのまにか中将の東條が一番偉くなっているようなんですが。
607日本@名無史さん:03/02/05 22:54
>>606
陸相になると人事権を握りますからね。

例えば、清浦内閣の陸相に、元帥上原勇作は、自派の福田雅太郎を据えようとしたが、
田中義一は、現職陸相の強みを生かして、宇垣を後任に指名した。
また、鈴木壮六参謀総長が、停年退職するとき、
やはり上原は、自派の武藤信義を総長にしようとしたが、
宇垣陸相は、またしても現職の強みを生かして、自派閥の金谷範三を、
後任に据えることに成功した。
608日本@名無史さん:03/02/05 23:29
やはり、人事権か!
だた、陸軍大臣でもお飾りが多い。226以降、実質は、次官の梅津、東條が人事を握ったような。
これで、皇道派は、
中央から放逐されたと。
609日本@名無史さん:03/02/06 00:59
梅津人事といえば、町尻軍務局長の解任
というのもあるね。この人は公家出身の軍人。
610日本@名無史さん:03/02/06 13:32
東条タンが後世悪く言われるのは、報復人事と憲兵政治
によるところが大きいだろうね。
611日本@名無史さん:03/02/06 14:39
人事ってみんなの目が輝くよね。
どんな組織であっても。
612日本@名無史さん:03/02/06 23:38
金と地位だからね。
欲望だよ。

その権力の魔力に取り付かれる。
613 :03/02/06 23:40
只今2日間の完全無料お試しサービス中
タダで見れるアダルト動画はここまできました。

http://www12.brinkster.com/nelmaker/tk/index.html
614 :03/02/07 00:48
畑って首相になり損ねた運の悪い男?
615日本@名無史さん:03/02/07 00:58
>>614
基本的に軍令畑の人だから、そもそも首相になろうなんて欲望は無いでしょう。
天皇の信頼も厚かったし、本人としては、特に不満は無いんじゃないかな。
ちなみに、彼の兄英太郎は俊才の誉れ高く、宇垣も大きな期待を寄せていた人物。
関東軍司令官として、在職中に夭折。大将を贈られている。
616日本@名無史さん:03/02/07 03:36
↑夭折ってアンタ、関東軍司令官でしょ、十九・二十歳で若死にしたの?
617日本@名無史さん:03/02/07 07:47
安部内閣が倒れた後、軍が首相に予定していた近衛が強く辞退したので、
陸軍は杉山参議官、畑陸相を押し、一時は畑に大命降下の情報が流れ
朝日などは号外で報じたくらい。武藤章などは、組閣工作にまで取組んだ。
だが、意外にも大命は米内に下った。
618日本@名無史さん:03/02/07 20:57
>>616
まぁ普通に見れば変に見えるけど
もし生きていればあるいは・・・と言う意味で若すぎる死と言う意味なんでないかい?
619日本@名無史さん:03/02/07 22:34
兄弟で大将って、西郷、鈴木、畑以外にいる?
620日本@名無史さん:03/02/07 22:49
親子二代の大将は?
621日本@名無史さん:03/02/07 23:16
親(本人)と娘婿というのはあったとおもたけど。
622日本@名無史さん:03/02/07 23:35
>>620
寺内。ご丁寧にどちらも元帥。
623日本@名無史さん:03/02/07 23:45
叔父、甥だが山本権兵衛、英輔も大将。
624日本@名無史さん:03/02/07 23:51
>>621
野津道貫と上原勇作。
625日本@名無史さん:03/02/08 16:36
騎兵は閨閥が強いと読んだことがある。
森岡守成とか鈴木壮六とか建川美次とか・・

って、ぼちぼち本題に戻ったほうがいいかな
626日本@名無史さん:03/02/09 02:39
統制派や皇道派って派閥なのか?

皇道派は、親玉が荒木と真崎。
理論の小畑は、彼らと近い? どうも、現場派と中央官僚との権力争いに過ぎないような?

それとも、東條の恣意的人事が派閥に矮小化させたのか?
627日本@名無史さん:03/02/09 12:47
皇道派に関しては、その”成り立ち”から、間違いなく派閥。
しかし、統制派は、領袖の永田鉄山からして、その存在を
否定してるからね。
628日本@名無史さん:03/02/10 02:01
法王山縣以下長州閥に対して、川上操六を失った薩閥はなす術が無かった。
上原勇作が孤軍奮闘していたが、薩の人材は払底していた。
そこで、上原が目をつけたのが佐賀閥だった。
629日本@名無史さん:03/02/10 02:07
佐賀出身の宇都宮太郎は、少佐時代から、郷党の後輩を集めて、
佐賀左肩党というグループをつくっていた。しかし、宇都宮は、
三長官になることなく、50代で没する。跡を継いだのは、武藤信義であるが、
この人は純粋な武人型で政治向きではない。上原はそこに目を着け
武藤等を取り込むことにした。
630日本@名無史さん:03/02/10 02:20
上原グループ
宮崎:上原勇作
鹿児島:町田経宇、田中国重、菱刈隆
佐賀:武藤信義、村岡長太郎、安満欽一、真崎甚三郎、梅崎延太郎、原田敬一、
    香月清司、柳川平助
福岡:明石元二郎、秦真次、香椎浩平
長崎:福田雅太郎
熊本:石光真臣、林仙之、筑紫熊七、牛島貞雄
等、大分を除く九州勢に、東京出身ながら、宇都宮に可愛がられていた
荒木貞夫が加わった。
631日本@名無史さん:03/02/10 02:38
一方、永田鉄山ら若手の幕僚たちは、長閥の専横に反感を抱き、
一夕会(二葉会、木曜会)というグループを作った。
彼等は、反長閥という立場から、上原閥に近かった。
例えば、1928年8月の定期異動で、第一師団長だった真崎は、
宇垣派の手によってクビになるところだった。
それを必死に運動して救ったのが、他ならぬ永田、東條、磯谷、岡村
といった連中だった。
632日本@名無史さん:03/02/10 02:54
長州のほうも、閥内に人材がいなくなっていた。
そこで、田中義一は宇垣一成(岡山)に跡目を譲る。
しかし、宇垣は、長州閥を守る気は更々無く、自分の人脈で、
あたらしい派閥を作り上げる。
同期の鈴木壮六(新潟)や白川義則(愛媛)、大分の金谷範三、南次郎、
畑兄弟に阿部信行(石川)、後輩の二宮治重に小磯国昭(山形)、杉山元(福岡)
建川美次(新潟)などが集まり、陸軍に宇垣時代を築くことになる。
633日本@名無史さん:03/02/10 03:15
三月事件で、宇垣が下僚の信任を失い、犬養内閣において、遂に荒木陸相が誕生する。
このあたりで、永田と小畑の間がおかしくなってくる。小畑のほうから永田を嫌い始めた。
感情面だけでなく、対ソ作戦の考え方の違いや、永田の親友東條と、小畑の後輩
鈴木率道との対立もあり、2人の関係は抜き差しならないものになっていった。


634日本@名無史さん:03/02/10 03:43
小畑が可愛い真崎もだんだん、永田や東條を遠ざけ始める。
自分たちが権力の座に着くと、自派の人間を重用し、
報復人事に終始する荒木や真崎たちは、藩閥打倒を悲願とする
永田としても面白くない。ここに両者の対立は決定的となる。

この時代以降の、荒木・真崎グループを、後世、皇道派と称している。
人員的には、上原閥から、上原等年寄りが抜け、
山岡重厚、小畑敏四郎、山下奉文(いずれも高知)、
松浦淳六郎(福岡)、村上啓作(栃木)、鈴木貞一(千葉)、鈴木率道(広島)、
牟田口廉也、土橋勇逸(いずれも佐賀)などの若手が加わった。
ただ、合理主義者の上原から、精神主義者の荒木にリーダーが変わったことで、
その派閥の性質は随分変わったんじゃないかと思う。
635日本@名無史さん:03/02/10 04:03
統制派というのは、明確な派閥とはいえない。
皇道派に属さない人々の寄り合いといった感じか。
領袖と目される永田からして、その目標は、派閥を一掃して
一糸乱れぬ統制の下に軍をおくことであった。
彼は、「陸軍に派閥は一つしかない」と書いている。
しかしもちろん、中には、皇道派と対抗して、派閥意識を持っていた人も
いただろうが。

皇道派は、2.26で自爆したが、結局最後まで、形を変えながらも
派閥争い自体はなくならなかった。
もちろん、どこの国の軍にも、どんな組織にも、派閥は在るだろうけれど・・・
636日本@名無史さん:03/02/11 02:06
軍内の権力闘争に勝利した東條が、
権力維持のため、対米戦に踏み切った?
ってことはない?

最後は、東條も武藤や石井と
対米交渉妥結を
目指したが、
軍内での権力を失うのが嫌で、
開戦したと。
637日本@名無史さん:03/02/11 03:57
「石井」って石井秋穂かな?東條内閣成立以降であればあり得る
かもしれないが、確証を取るのは難しいだろうね。
638日本@名無史さん:03/02/11 03:58
そりゃ無い。
当時の大日本帝国世論は内地外地無関係で戦争で沸き立っていたから。
軍部でも中国戦線でアメリカが中国に武器や人員の供与をしていた事、
あるいは石油などを絶って統制で何とか持っていた日本の経済を、
徹底的に潰すことをアメリカが意図していたことは察知していたろう。
その判断と世論は明らかに間違っていたことは今だから言える。
現在に例えればアメリカが孤立してアフガニスタンのゲリラに、
中国が人員と武器の供与を半ば公然と行って、
金融操作と一方的な貿易制裁で追い詰められつつあったと言えば良いか。
639日本@名無史さん:03/02/11 04:02
帝国の世論→議会の自己崩壊→天皇に突上げ→東条でも押さえ切れず。
これが真相だろう。
だから過度の平和主義の為に全てを犠牲にする事も、
敢えて省みない政治家の考え方も一家言有ると思う。
現実に日本は東アジアに於いて冷戦を熱戦に変える事を防ぎ、
戦争による犠牲者を数十年に渡って出していない。
これは評価すべき。
ただ現状のままでは外からの権利侵害をまともに排除できるか心配。
640日本@名無史さん:03/02/11 13:54
武藤と田中隆吉が、昭和15年ごろ、激しくもめた原因を
詳しく知ってる人いますか?
641636:03/02/11 14:24
各位レスサンクス。
石井は、石井秋穂です。
対米交渉の陸軍担当者=国の担当者。
東條は、内閣を組織するまで、
強硬論者として、
権力闘争を勝ち抜いたわけですが、
何故、東條だったのか、
よくわからないなぁ。
永田も後継者として、
考えていた様子でもないし。
642日本@名無史さん:03/02/11 14:32
> 何故、東條だったのか、
> よくわからないなぁ。
何がわからないの?東條が頂点に上り詰めた理由?

643636:03/02/11 14:56
>>642
スマソ。
そう、東條が登りつめた理由です。それと、それまでの陸相や、
陸軍出身の総理とは、
比較にならないほど、
実権を持っているような。

それまでは、宇垣を除き、
幕僚が実権を持ってたような感じも
するんですが、
どうなんでしょう?
644日本@名無史さん:03/02/11 15:23
若いころは能吏だが、年をとるとボケ老人、下僚に対するイエスマン
という人が多い中で、60を超えるまで、優等生であり続け、
幕僚に丸投げすることは絶対になかったらしい。
そのまじめさから、天皇にも好かれた。

清濁併せ呑む永田と比べて、敵を排除する気持ちが強く、
そのためには、憲兵でも何でも使った。憲兵を使う陸相というと、
一時期の荒木もそうだけど、東條ほど粘着質ではなかった。

東條より先輩で、政治能力が高いのは、梅津くらいしかいなかったが、
これがうまい具合に、満州にいた。

645636:03/02/11 16:02
フムフムなるほど。
東條は、
「努力が人を作る」
みたいなのを座右にしたらしいですね。

ライバルは、やっぱり梅津ですか。
満州に行ってから、
戻らなかったし。参謀総長で、梅津が中央に戻るのを、
東條が反対してましたよね。

東條の代わりに、近衛内閣で梅津が
陸相ならどうなっでしょうか?
646日本@名無史さん:03/02/11 16:11
>>645
いや、東條も梅津を呼び戻しには、賛成してる。
要するに、頭が上がらない相手ではあるが、
石原や多田のように、憎い相手ではなかったと思う。

東條は常に手帳を2冊持ち歩き、1冊に、人の言う事をすべて書きとめ、
夜に、もう1冊のほうに、要点を書き出してまとめてたらしい。
年をとっても衰えない勤勉さは、上原勇作あたりに通じるものがあるけど、
上原と比べると、心がちょっと狭すぎたね。
647日本@名無史さん:03/02/11 16:23
東条得意の文句は「努力即権威」、これを書いた色紙を知り合いに配ったとか。
東大の繰上げ卒業式に臨んだ時「自分も日露戦争で陸士を繰り上げ卒業したが
努力で総理大臣にまでなった、諸君も悲観することはない」と訓示して、学生
たちの失笑を買った。
648636:03/02/11 16:36
そうそう
「努力即権威」
サンクス。

ある意味では正しいんだろうけど、
なんか、視野の狭さも感じますなぁ。
649日本@名無史さん:03/02/11 19:22
東條はね、北部仏印進駐の責任を問うて、
富永恭次第一部長を左遷したのよ。
それをみて木戸あたりが、”東條は、非違があれば、
子飼いの部下すら処分する。陸軍をまとめていけるのは
東條しかない”と思い込んだ。それが首相推薦にも
つながってるんじゃないかな

もっとも、富永は、半年後には、人事局長という栄職に
返り咲いてるんだけどね。
650日本@名無史さん:03/02/11 19:35
皇道派は対ソ戦重視の思想が小畑とかに顕著にあったと思うんだけど、国内体制の
整備とかはどう考えていたんだろう?クーデター起こすだけで計画経済とか総動員
体制にするとかは考えていなかったんだろうか不明だね。

それにノモンハン事件の辻は勿論のこと統制派は、なぜ積極的にストップしようと
しなかったのかが疑問だね。対中国重視ではなかったんだろうか。
651日本@名無史さん:03/02/11 22:35
辻なんて、自分の手柄しか考えてない、、、

かも
652日本@名無史さん:03/02/11 23:40
東條が中央に躍進できた背景には満州国での勤務が大きい。
師団長勤務すらない東條が異常な昇進を掴んだ理由としては
関東軍参謀長として、財閥や政治家、阿片の横流し資金まで関与し、
そのカネを宮中に撒いて、うるさがたに評判がよかったとも。
本人は清廉であったと言われるが。

たしかに能吏であり、それまでの杉山や板垣の酷さに怒っていた
天皇にしてみれば、非常の時局にテキパキやってくれる人材として
好ましくうつった。

富永は・・・結局人事局長兼次官として(実質大臣の権限と変らない)
悪名を残し、さらには敵前逃亡をやらかす。
東條の側近選びはこんな手合いばかり。「三奸四愚」などと揶揄された。
人事のメガネは曇っていたようだ。
653日本@名無史さん:03/02/11 23:51
四方諒二って東京帝大も出たんじゃなかったっけ?
何の役に立ったんだか。
654日本@名無史さん:03/02/12 02:55
>>653
憲兵を有効活用するには大学での外の空気を吸った経験が役に立ったのではw
655日本@名無史さん:03/02/12 12:54
東條は、関東軍勤務のときに、
憲兵の使い方を知った?

656日本@名無史さん:03/02/12 13:11
>>655
憲兵司令官やったからね。
657日本@名無史さん:03/02/12 20:46
東条も欠点の多い人だけど、東条の次の首相の
第一候補に、重臣たちが挙げたのが、寺内寿一
というのはどうなの?東条よりひどいんじゃないの?
658日本@名無史さん:03/02/12 23:51
東條さえ辞めさせれば、
誰でも良かったんでは?

寺内なら、言う事聞きそうだし。
659日本@名無史さん:03/02/12 23:57
東條と寺内は親子2代にわたる犬猿の仲。
東條も寺内だけはダメと、必死で反対した。
結局彼は日本の地を踏むことなく死んだんじゃなかったかな
660日本@名無史さん:03/02/13 01:19
東條の父と
寺内の父は
処遇が全く違いましたね。
東條は、憑かれたように生きてますな。
父のようにはなりたくないとか?

でも、息子は軍人にしてません。

東條と梅津の人生を
対比させて書ける作家はいないですなぁ
661日本@名無史さん:03/02/13 02:06
富永恭次って一般に言われてるほど無能じゃなかったし、
東條べったりで出世した人でもないと思うなぁ。
東條と直接、職を共にしたのは昭和十二年の関東軍第二課長時代が始めてで、
それ以前になんてたって参本作戦課長を経験してる。
鈴木率道に次いで史上二番目の早さだよ。
あれほど若い時から参謀本部に籍をおき続けた人も珍しい。
そもそも選ばれべくして選ばれたエリートでしょう。
662日本@名無史さん:03/02/13 09:51
>>661
平時の軍官僚としては、頭脳もあり、そこそこ剛腹で、
有能に見える人だったんでしょう。ただ先見性がさっぱりなかったですが。

鈴木率道も、陸大では、石原を押さえて首席になったほどの
頭脳の持ち主でしたが、彼が作戦課長に就任したのは、
師匠の小畑の強い引きがあったからで、そのおかげで
今村均がクビになり、この人事は部内で大きな問題になりました。
今村の評価が、当時から高かったことがわかる話ですね。
663日本@名無史さん:03/02/13 12:58
陸大出てるのは、
頭脳明晰でしょう。

ただ、人間性は、わからない。
664日本@名無史さん:03/02/13 13:26
東條の執念深さは凄いよ。鈴木率道なんて、戦争も中盤戦の
昭和18年に呼び戻されてクビだもん。
665日本@名無史さん:03/02/13 13:45
鈴木率道は2航空軍司令官在職中、絹布の横流しで経済統制令違反でクビ。
予備役編入から三ヶ月後に急死。
666日本@名無史さん:03/02/13 13:58
>>665
そんなことしてたんだ。知らなかったなあ。

鈴木が予備役になる1月前に西尾寿造大将も、予備役になってるけど、
これは記者の前で、東條のことを、ゴミ箱あさり呼ばわりしたのが、
東條の耳に入ったかららしい。
667日本@名無史さん:03/02/13 16:16
「努力即権威」って手合いは今でもたくさんいる・・・
特に中小企業の社長なんかに多い。
668日本@名無史さん:03/02/13 18:54
陸軍の人事は東條失脚のあとめちゃくちゃになっていく。
どうして懲罰人事で富永恭次が決戦場であるフィリピンの
第四航空軍司令官なんだよ!
669日本@名無史さん:03/02/13 19:51
東條の後の陸相は、
杉山ですね。
次官は誰だっけ?
人事局長は、額田中将?
東條の時に予備役多かったのと、
前線が激戦になり、
将官クラスも人がいなくなった?
670日本@名無史さん:03/02/13 19:54
唐突で申し訳ないんですが。「学徒出陣」と「学徒動員」て違うんですか??
671日本@名無史さん:03/02/13 20:11
>>669
柴山兼四郎次官
梅津の腹心
672669:03/02/13 21:07
>>671
サンクス。
柴山ってどんなん?
俊才らしいけど。
673日本@名無史さん:03/02/13 21:41
>>672
柴山は異色の存在。中学出身の上、兵科は輜重科。
陸大の席次は31とあまりよくなく、いわゆる支那通の一人。
普通なら中央には縁のない人。
梅津に可愛がられて、軍務課長に抜擢され、支那事変では、不拡大を唱えた。
同期の親友河辺虎四郎の回想録には、盧溝橋事件がおきたとき、
柴山は電話をかけてきて「やっかいなことが起きたね」と言い、
武藤は電話で「愉快なことが起こったね」と言った、というエピソードがある。
674日本@名無史さん:03/02/13 21:47
>670
学徒出陣は、昭和18年の兵役法改正に基づいて二十歳以上で旧制
大学・高校・専門学校に在学中の学生・生徒の徴兵猶予を廃止、召集
令状を発して兵隊として徴兵したことを指す。
但し理工系、医科系、農科系及び師範学校等の教員養成系に在学
している者は入営を延期させた。

学徒動員は、昭和13年成立の国家総動員法及び昭和19年の学徒
勤労令に基づくもので、旧制中学校・高等女学校等に在学中の生徒を
対象に、工場等の労働力として動員したことを指す。


675佐々木伍長:03/02/13 23:59
>668
で、敵前逃亡だもんなぁ・・名誉の戦死か飢餓地獄のはずが・・・・。
なんで、ロスケは収容所で始末しなかったのだと、小一時間・・・。
そう
676日本@名無史さん:03/02/14 00:10
富永恭次、昭和三十年シベリアより帰還
その五年後ひっそりと死去。享年六十八
677672:03/02/14 00:22
>>673
サンクス。
すいぶん傍系ですね。

東條〜富永〜佐藤ラインと

梅津〜柴山ラインが
最後の派閥ですかね。

それにしても、戦争前は、
東條ラインが優勢なのが、悔やまれる。

あと、河辺もまだまともな方ですね。
678日本@名無史さん:03/02/14 00:26
東條 悪者
679672:03/02/14 00:43
東條が悪者って言うか、

何故、東條なのだったかなんだ。よ

当時、いや、今でも、彼のような人物が、

日本のリーダーになってそうでね。
日本人の体質は、
そんなに変わってなさそで。

あいまいな集団の中で、
能吏で、自信ある発言するヤシには
なんとなく引っ張られてしまう。
後から、とんでもない場所に
連れられたのに気づく。

とか、
680日本@名無史さん:03/02/14 00:43
河辺虎四郎ってどうして半年足らずで
作戦課長を移動になったのですか?
681日本@名無史さん:03/02/14 00:43
梅津はどちらかと言えば閉鎖的な性格でしたが、
その梅津が心を許していたのが、今村、柴山。
今村が、関東軍参謀副長時代、田中隆吉や冨永にせっつかれて
内蒙工作費用をねだりに東京までのこのこ来たとき、
珍しく梅津は自分の意見をはっきり述べて、今村に説教をしてる。
今村もそれが相当応えたらしく、回想録に詳しく書き残している。
682日本@名無史さん:03/02/14 00:49
>>680
結局は事変拡大に反対したからじゃないかな。
683日本@名無史さん:03/02/14 00:51
今村は、石原に
拒否されたのでは。

満州事変当時と、中央にいた、
今村が消極的だったから。
684日本@名無史さん:03/02/14 01:07
田中静壱大将はどうよ?
イギリス駐在、
アメリカ武官、
関東軍憲兵司令官、
憲兵司令官、
東部軍司令官、
最後は、自決。
終戦時のクーデタには、
自ら、皇居に乗り込み解決を図ったとされてますが。
派閥には関係ない人のようです。
685日本@名無史さん:03/02/14 01:23
>>684
よくぞここまで閑職高級ポスト歩んできてますよねー
686日本@名無史さん:03/02/14 01:25
>>684
宮城事件の処理は、立派の一言でしょう。
憲兵畑で大将になったのは、藤江恵輔とこの人。
2人とも兵庫出身で、似た職歴ですね。
憲兵というと、秦とか加藤とか四方とか
ネガティブなイメージがありますけど、
この人は武人という感じですね。
687日本@名無史さん:03/02/14 23:39
皇道派は、陸大出が、少なかったから
対立したのかもな。
688日本@名無史さん:03/02/14 23:55
>>687
無天組に派閥も糸瓜もない。派閥作って争ってるのは天保銭。
689684:03/02/15 00:33
戦争中の大将クラスでまともなのは、
下村、今村、田中、多田
ぐらいですか。 あと、岡部直三郎はどうなんですか?

やはり、派閥色のない人が良い気がします。
690日本@名無史さん:03/02/15 00:46
田中さんと同じく自決した吉本貞一将軍も
あまり政治向きの話では出てこないね
岡部大将は日記が出版されてるけど
読んだ人いますか?
691684:03/02/15 01:32
>>690
岡部大将の日記
今日、古本屋で見かけたけど、
買わなかった、、、後悔。
中国勤務が長い人ですね。

吉本大将は、下村、木村、牛島の大将と同期。
三名は、有名ですが、、、

略歴は、フランス駐在、参本庶務課長、中支方面軍参謀長、
関東軍参謀長、
第一軍司令官、東北軍管区司令官。
何故、自決したんだろう?という人物です。
彼の人生観だろうけど。

やはり、岡部も吉本も
中央で将官クラスのポストには、
付いてない。

なんでだろ
692684:03/02/15 01:45
あと同期は、
草場中将、橋本中将。

草場は、東京裁判の証言前に自決。
橋本は、ノモンハンのときの作戦部長と思う。
逸材だったらしい。
ノモンハンの後の人事は、
本来、首にするべき人物が残り、
橋本のような人物が首。
当時から、陸軍の体質が現れてますな。
693684:03/02/15 01:52
阿部大将の内閣で、
多田大将が陸軍大臣候補だったと聞いたことがありますが、
どうなんでしょう?
多田なら、歴史がまた違ったかもしれん。
東條が、その後に陸相になったかという意味。
多田ではなく、
畑大将が大臣になったけど。
694日本@名無史さん:03/02/15 01:53
↑ 陛下が、陸相は 畑は梅津のどちらかにせよと異例の注文を。
695日本@名無史さん:03/02/15 02:07
米内内閣では岡村が候補に挙がり
本人も一応了承したが結局畑が留任。

梅津は考えは正しくても、不言不実行の人。
畑は基本的に軍令畑の人で、陸相には不向き。

多田のポイントは、石原を呼び戻せるかどうか。
多田一人では政治力に欠ける。
板垣は愚図で、結局石原を呼び戻せなかった。

国民政府との和解には岡村がベストだったと思うけど
微妙に皇道派よりだったことが響いたかな?
696684:03/02/15 02:11
みなさんサンクス。
多田は、対中和平で、
参謀次長のとき、
がんばったのに。
天の声か、、、

秩父宮と多田が近かったからかなぁ。
697日本@名無史さん:03/02/15 02:28
秩父宮は、堀場や高島と並ぶもっとも強硬な和平論者。
例の大本営連絡会議の前に、多田に、御前会議を開いて、
陛下の意思をあおごうと進言したが、多田は、申し訳ないが
それは憲法違反になるからできませんと断った。
連絡会議で多田は粘りに粘るが、結局押し切られる。
あの近衛声明が出たとき、影佐禎昭は「多田駿のくそ坊主めが、
あいつはいいんだけれども、あるところまでいったら投げてしまう
ところがあるので、どうにもならん」と嘆いたそうだ。
統帥権を盾にとって蛮勇を奮うようなまねはできない人だったんだな。
ちなみに梅津はちょうどそのとき、柴山を連れて、現地を査察に行っていなかった。
698684:03/02/15 02:38

高嶋や堀場が出てくるのを見ると、
かなりくわしい人とおみうけしまつた
699日本@名無史さん:03/02/15 02:44
堀場は保科?海軍大佐と言い争いになり、
短刀で刺しそうになったぐらいの熱血漢。
支那事変戦争指導史という大著がある。
700日本@名無史さん:03/02/15 02:47
参謀本部もその後、あくまで蒋介石との和解を模索する勢力(堀場等)と
新しい親日政権を樹立する勢力(第二部影佐等)にわかれてしまう。
701日本@名無史さん:03/02/15 03:15
>>685
多田のポイントは、石原を呼び戻せるかどうか。
多田一人では政治力に欠ける。
板垣は愚図で、結局石原を呼び戻せなかった。

東條が邪魔をしたらしいぞ。
702日本@名無史さん:03/02/15 04:01
>>701
梅津の作戦的中だわな
挙句の果てには、
東條を裁ききれず多田まで手放すことになるし。
石原の予備役入り防ぐのがやっとだった。
703日本@名無史さん:03/02/15 23:01
多田と東條は仲が悪い。
石原と東條は仲が悪い。
ついでに東條と山下も仲が悪い。
東條、敵だらけ。
704日本@名無史さん:03/02/15 23:24
同期の後宮大将は一応仲良いはず。
16期と比べると17期は人がいないというのも
東條にとっては不運。
つまらん腰巾着は、いっぱいいるんだけど
705日本@名無史さん:03/02/16 00:23
17期には、
前田利為殿様
篠塚義男中将

18と19期と比較すると、
うーんですね。
706日本@名無史さん:03/02/16 01:04
11期も貧弱
707日本@名無史さん:03/02/16 02:01
11期
寺内元帥
岸本大将、東京市長
安藤中将、内務大臣
四天王中将、宗教研究者

九期が、真崎と荒木です。

10期以降の皇道派って、いますか?
小畑以外にです。

将官クラスには、いきせんよね、
708日本@名無史さん:03/02/16 02:50
>>707
12期の秦と柳川
15期の山岡
18期の山下
ここまでが将官
20期小藤
22期の村上、両鈴木、牟田口 この4人は後に中将になった。
24期の土橋 真崎荒木より、永田東條と親しかったが、佐賀出身ということで
         皇道派と目されていた。
         
709日本@名無史さん:03/02/16 17:46
2.26で朝日新聞が襲われたのは、反軍的だから
とか言われてるけど、本当にそうだったんですかね?
本当は、統制派よりだったからじゃないの?
710日本@名無史さん:03/02/16 19:44
堀場の赤貧洗うが如しの「戦後」と瀬島龍三のノー天気な「戦後」。
「支那事変戦争指導史」を書き上げてから自死するようにこの世を去った堀場一雄大佐は偉い。
「本書は通読の書に非ず。透徹思索を尚び、軽浮論議を戒む、魂の文章は魂を以って読むべし。」の序には心底感動する。




711707:03/02/16 21:32
>>708

山下を忘れてました。

2.26のときの言動が、将来を決めましたか、、、
712日本@名無史さん:03/02/16 23:58
将官や省部にいた高級軍人の戦後の生き方は、
数パターンに分かれますな。
市井に生きながら、自省を込め、将来に生かせてほしいと
執筆や真摯に語ろうとした人は、敬意に値する。
今村や堀場、石井秋穂などですね。
ひっそり沈黙を貫く人、
過去を語ることで、世の中に自分を存在を示す人、
権力にかかわろうとする人、


まぁ、沈黙はともかく、
嘘まで語る人もいるんだろうな。
713日本@名無史さん:03/02/17 00:03
東條は、統制派なんだけど、
しきりに皇居で執務をしたがったらしい。


東條は、皇道派でもあるのでは?
思想的には。
714日本@名無史さん:03/02/17 00:09
>>713
天皇を敬う気持ちに派閥は関係ないよ

皇道派というのは、荒木が「皇」の字が好きで
何でも「皇」をつけるというところからきてる。
715713:03/02/17 00:19
天皇を敬うとの意味じゃなくて、

問題は、皇居内で執務しようとしたことだよ。
形式上、天皇親政につながらないかと。

それが、皇道派の思想と関連しないかと。


永田や梅津なら、
皇居で執務すること絶対しないだろう。
716日本@名無史さん:03/02/17 01:08
皇道派の思想って天皇親政?
717日本@名無史さん:03/02/17 01:13
天皇機関説。
718日本@名無史さん:03/02/17 01:20
>>717
皮肉っぽい目で見れば、そういえなくもないな
719日本@名無史さん:03/02/17 06:47
うーーん、皇道派が勝っていたら、2.26事件が成功していたら、逆に無闇に
戦線拡大をしなかったと思う。
天皇親政の面白い政治体制ができたかも知れない。
2.26事件をもっと評価すべきでしょ。
このスレの最初の方で石原莞爾や北一輝を否定するカキコがあったのには失望
したな。
720日本@名無史さん:03/02/17 07:37
天皇親政・・・・
しかし、あの当時はもう政治とか複雑になってたから、大昔みたいに政治を執り行うのは
難しいんじゃないの?
721日本@名無史さん:03/02/17 09:42
皇道派が戦線拡大しないであろう根拠は?あんな穴だらけのクーデターを
どうして評価しろと?
722日本@名無史さん:03/02/17 12:03
2・26事件の裁判で被告になった将校達の証言を
見る限り武力による対外進出を考えていた人は
少なかったと思う。
彼らは「天皇の子」である農村社会(稲作をしているひとを中心に据えた)を
救済しようと考えていた。
その救済の方法はクーデターやテロである。
憲法が存在し、その憲法に基づく議会・内閣によって
国政を執り行っている国家において許される行為ではない。
また、クーデター・テロの後
どのように国家を運営していくのかも決めていない。
2・26事件に代表されるクーデターやテロは心情的なものであり、
政治的なものではない。
事件を利用し実権を握ろうとした良からぬ高級軍人がいたが、
彼らは日和見に過ぎない。

政治のシステムの問題ではなく、
政策について異議があるのであれば
彼らは合法的な活動によって政策を変えれば良かった。
723日本@名無史さん:03/02/17 12:17
安藤や栗原と、真崎や荒木は全く別物でしょ。
724日本@名無史さん:03/02/17 12:21
>>722
>彼らは「天皇の子」である農村社会(稲作をしているひとを中心に据えた)を
>救済しようと考えていた。
彼らの誤算は、天皇は農村搾取側の階層の代理人だったってこと。
725日本@名無史さん:03/02/17 12:41
>>719
その手のif論なら、まだ、永田が皇道派のバカに
刺し殺されなかったらというほうが、まだ現実味があるよ。

後、石原と北は一緒にしちゃだめだろ
726日本@名無史さん:03/02/17 14:38
石原は統制派。2・26は強硬鎮圧の立場。ために反乱軍から撃たれそうになった。
727日本@名無史さん:03/02/17 14:50
石原や馬奈木といった参本の連中は
皇族内閣を主張したが、磯部たちは、
皇族はダメ、真崎か山本英輔だとつっぱねた。
ちなみに荒木はソ連威圧のために関東軍司令官に
というのが、彼らの要求。
728日本@名無史さん:03/02/17 15:17
>>712
同意。軍人の責任論の前提として、軍人の戦後転向論の実証的研究が必要と思われ。
高級将官の戦後転向におけるポジショニングは、戦時中の国策運営、戦略立案、作戦指導などの具体的局面で先行的に現れているはずでしょうから。
729日本@名無史さん:03/02/17 15:21
>>728
それ、いいねえ。そんな本ないかな?
730:03/02/17 15:25
★☆★キラキラお星様★☆★
http://jsweb.muvc.net/index.html
731日本@名無史さん:03/02/17 16:31
竹原
732日本@名無史さん:03/02/17 17:04
今村さんは偉かった……
733日本@名無史さん:03/02/17 17:17
別スレに書いたんだけど、自決した高級将官
陸軍大将
杉山元、吉本貞一、田中静壱、本庄繁、安藤利吉
陸軍中将
岡本清福、篠塚義男、寺本熊市、山田清一、中村次喜蔵、小泉親彦、
浜田平、安達二十三、上村幹男、島田朋三郎、草場辰巳、秋山義允

734712:03/02/18 01:33
>>728
サンクス。
戦後の生き方を検証するのは、
とても重要だと思います。

研究者の登場キボンヌ。

735712:03/02/18 01:58
今村大将は、ある意味異色ですね。
オランダ、ラバウル、収容所、戦後の彼の生き方は、
それまでと全く違うような感じ。

軍内の栄達をのぞまず、
人としての生き方を追求する姿に見える。 膨大な回顧録を自身が書かれたのも、敬意に値する。
まあ、回顧録書けば良いという意味でないよ。
お雇い作家に書かす弁明や、
あげくに、日本のあるべき姿なんて書かせてる人もいるらしいし。

でも、今村は戦陣訓にかかわっているとも。

検証するには、重要な人物ですな。
736712:03/02/18 02:00
あと、
飯田中将って、どうなん?
どちらの派でもないみたいだけと。
たいへんな読書家らしかった。
737日本@名無史さん:03/02/18 23:35
幣原の本を読むと、金谷範三の評価が意外に高いね。
晩年はただの飲んだくれのイメージだけど。
738日本@名無史さん:03/02/19 00:35
金谷大将
5期
日清は、小隊長
日露は、第二軍作戦参謀、
参本作戦部長、
参本参謀次長、
陸大校長、
朝鮮軍司令官、
参謀総長

経歴は、すごい。
宇垣の推薦による総長なので、
統制派?
でも、陸軍省の勤務より、参謀勤務が多い。

ちなみに、
餓島の丸山師団長は、
娘ムコ。
739日本@名無史さん:03/02/19 00:44
740日本@名無史さん:03/02/19 00:55
>>738
自他ともに許す戦略戦術の大家として
次長時代まではブイブイ言わせてた。
ただ酒が異常に好きで、総長就任時に、
宇垣からも、酒を慎むよう説教されてる。
早い段階から真崎や荒木を嫌っており、
真崎をクビにしようとしたり、荒木の陸相就任に
反対したりしてるが、いずれも果たせず、
死ぬ直前まで、枕もとの宇垣の手を握り、
「陸軍を誤るものは上原元帥なり」と
上原を罵ってたそうだ。同郷の南とは仲が良くて、
大臣室で2人で酒を飲んだりしてたそうだ。
741日本@名無史さん:03/02/19 01:04
酒か!

宇垣が、後継者と考えたのは、
渡辺、小磯、金谷など。
いずれも晩年は不遇。 宇垣が、派閥に熱心じゃなかったから。
742日本@名無史さん:03/02/19 01:10
阿部信行も宇垣系でしたっけ?
743日本@名無史さん:03/02/19 11:23
>>742
一応そうですね。

いわゆる宇垣四天王は二宮・杉山・小磯・建川
トップの二宮は荒木の手でクビ、建川は寺内粛軍でクビ
744日本@名無史さん:03/02/19 23:49
四天王って、いまひとつだね。

二宮って、小磯内閣の人だね、、、
745日本@名無史さん:03/02/20 00:14
東宮鉄男は小畑を尊敬してたらしい。
小畑は昭和17年ごろ、もし自分が東條の憲兵に殺されたら、
河本大作を頼るように、家族に言っていたらしい。
ちなみに、河本の妹は多田駿の嫁。
746日本@名無史さん:03/02/20 00:22
軍人同士の親戚が多い
747日本@名無史さん:03/02/20 17:18
皇道派、満州派、宇垣、回りまわって、反東條で結びついてる。

余談になるが、エリオ・グレーシーを破り、力道山と戦った
木村政彦は、牛島辰熊が東條暗殺のために育て上げた
最終兵器だとかw
748日本@名無史さん:03/02/20 18:48
軍人の家族同士の結婚が多いのは、一般社会との交流が少なかったこと、も一つ
大正年代には軍人との結婚を嫌がる意識が中流階級の中に強かったこと。例えば
「偕行社記事」(陸軍将校の機関誌)に大正13年、ある陸軍将校が投稿した論文
に、「日本社会協会による男女結婚傾向に関するデータでは、女性側に“何業でも
よいが軍人だけはお断り”あるいは“実業家か医者か学者の娘が一番であるが軍人
の娘は絶対に不可”、また、この傾向は婚姻縁組だけでなく、“社会生活全般、
「雇用」「求職」「社交交際」方面にまで波及している。だが、社会における公的
関係では軍人が嫌われることはない。ただ、「我が夫」「我が妻とし、我が親族縁戚、
我が主人、我が使用人として苦楽をともにするのはご免蒙る」と分析している。
(この傾向は、満州事変後まで続いたらしい)
749日本@名無史さん:03/02/20 18:53
↑ 日本社会協会≫日本社会教育協会
750日本@名無史さん:03/02/20 22:18
>>748
宇垣が恨まれてるのは、そんな時代に
軍縮をおこない、大量にリストラしたからだね。
751日本@名無史さん:03/02/20 22:53
そのリストラの恐怖から、

満州事変後、

軍備拡大に走った
752日本@名無史さん:03/02/21 02:10
北が池田成彬から援助を受けてたって
本当かな?
753日本@名無史さん:03/02/21 06:10
>>740 同郷の南とは仲が良くて、
大臣室で2人で酒を飲んだりしてたそうだ。
松岡洋右とも飲み友達だぞ。みんな大酒飲みだ。
754日本@名無史さん:03/02/21 08:34
>752
北一輝が三井財閥の池田成彬から、盆暮に一万円(年2万円)をもらって
いたことは事実(北一輝:長谷川義記著)。現在の貨幣価値は当時の5000倍
という試算もあるから、だいたいの額は想像できる。
755日本@名無史さん:03/02/21 08:55
↑ 2.26の後、池田成彬と久原房之助は反乱軍に資金を提供したかどで
取り調べをうけたが不起訴になっている。
756日本@名無史さん:03/02/21 11:57
相沢が永田を斬った理由の一つに
永田が、池田ら財閥や新官僚と
親しく付き合っていることを挙げてるのに
その親玉の北は、金もらってたわけか。
757日本@名無史さん:03/02/22 03:44
保険じゃないのか。
北とか以外にも、
金くらいはやっとるだろ
758日本@名無史さん:03/02/22 17:34
志士気取りでたかってたんじゃないの。
いまなら総会屋。パクられる。
759日本@名無史さん:03/02/22 18:29
自称ウヨク(暴力団、総会屋)は、昔も今も企業の弱味を見つけては、
恐喝まがいの資金提供を強要するのが常套手段。
760日本@名無史さん:03/02/23 00:35
阿南大将は、どちらにも属していないのだ。
761日本@名無史さん:03/02/23 00:39
どちらにも属していない…。
しかし立たない…。
嗚呼、阿南…。
762日本@名無史さん:03/02/23 00:45
梅津とは仲が良かった>阿南
763日本@名無史さん:03/02/23 00:48
どちらにも属していない…。
でも、梅津とは仲が良かった…。
しかし立たない…。
嗚呼、阿南…。







ゴメン。
これで終わるから許して。
764日本@名無史さん:03/02/23 00:49
しまった。
「立たない」じゃなくて「役に立たない」だ。
「立たない」じゃインポみたいだ。
ネタっぽくしたかったのに間違ってるなんて…。
ああ、みんなゴメン。
ホントにこれで最後だから。
765日本@名無史さん:03/02/23 00:51
阿南大将の息子は、中国大使。
766日本@名無史さん:03/02/23 00:54
東郷重徳の孫は・・・・・
767日本@名無史さん:03/02/23 01:19
駐中大使?
768日本@名無史さん:03/02/23 01:37
阿南大将の息子、新日鉄の重役にもいなかったかな?
東條の息子も一流会社の重役だったと思うが。
769日本@名無史さん:03/02/23 01:43
>>768 東條の息子も一流会社の重役だったと思うが。
三菱重工かなんか。肩身狭かったと思うよ。
>>766 双子
一人 駐オランダ大使
一人 ワシントンで記者 
だったが、その後は、二人とも あああ。
親が泣く。
770日本@名無史さん:03/02/23 01:46
東條の次男は三菱。次女の夫は、あの古賀秀正。
771日本@名無史さん:03/02/23 01:48
東郷 茂彦
早稲田大学政経学部卒
朝日新聞記者
1976(昭和51)年5月19日 国会内で見学に来ていた小学生(4年生)のスカートをめくり、
衛士に取り押さえられる
1976(昭和51)年 朝日新聞社を退社
1976(昭和51)年 ワシントン・ポスト紙記者
 北東アジア総局(東京特派員)
1993(平成5)年1月6日 皇太子妃決定をスクープ
1999(平成11)年1月 痴漢行為で懲役4カ月、執行猶予3年の判決を受ける
2001(平成13)年11月13日 東京都迷惑防止条例違反容疑で逮捕される
  11月13日1630ごろ、営団地下鉄千代田線(霞ケ関〜日比谷駅間)の車内で、
隣で寝ていた帰宅途中の女子高生(都立高校3年,18歳)のひざの上にブレザーをかけ、
右手で左太股付近を触った容疑
  その場で女子高生らに取り押さえられ、日比谷駅で警視庁丸の内署員に
現行犯逮捕される
 逮捕は9回目
 1997(平成9)年以降、同種事件で罰金刑3回
 逮捕後、ワシントン・ポスト紙を依願退職
 11月22日 東京地検に起訴される
2002(平成14)年2月4日 東京地裁(加藤学裁判官)で懲役8カ月(求刑懲役1年)の
実刑判決を受ける

772日本@名無史さん:03/02/23 02:12
↑ 親は、終戦に導いた立派な外務大臣だったのにな。
もう一人の息子は、あの宗男と連座して大使を更迭された。
773日本@名無史さん:03/02/23 02:30
↑ 孫だよ

茂徳―文彦――和彦
        |
        |
         ―茂彦
774日本@名無史さん:03/02/23 02:32
>>769>>770
そうだそうだ重工だった。サンクス。
775日本@名無史さん:03/02/23 02:35
>>773
文彦は息子じゃなくて婿
茂徳の嫁はドイツ人

776日本@名無史さん:03/02/23 21:36
>>774

東條 輝雄氏
三菱自動車工業 元社長ですね。
航空機のエンジニアの道を進んだみたい。

確か、プロジェクト×にも、YS11の開発者のひとりとして、
名前が出ていたと思う。

もちろん、出演はしていない。

父、東條英機のことは、公には、一切語らず。

長男(英隆氏)、次男(輝雄氏)ともに、軍人の道を歩んでいない。


777日本@名無史さん:03/02/23 23:27
>>776
三男が、幼年学校は落第したものの、中学から陸士に入って
少尉任官してる。
778日本@名無史さん:03/02/23 23:56
>>776
サンクス。名機開発にタッチしていたとは。Xプロジェクトでチェックしてみます。
東條家は、お母さん(英機・妻)が気丈な人だったから挫折しなかったというような話を読んだことがあるが…。
779日本@名無史さん:03/02/24 00:35
奥さんはカツだったっけ。長男との親子仲は最悪だったようだけど。
780日本@名無史さん:03/02/24 00:59
将官で、奥さんまで自刃したのは、杉山のほか
誰がいたっけ?
781776:03/02/24 01:00
東條カツ
日本女子大在学中に結婚
戦争中は、国防夫人会の会長として、
遺族の家を訪問する活動をしていた。
戦後は、公には出ず。
昭和59年死去
94歳だった。
782日本@名無史さん:03/02/24 01:03
東條家で、唯一、発言している娘がいます。

名前は、失念しましたが、
アメリカに住んでいたと思います。
783日本@名無史さん:03/02/24 01:03
>>782
四女ね。
784日本@名無史さん :03/02/24 02:03
真崎 秀樹
1908(明治41)年4月生
2001(平成13)年11月14日没
東京都出身
父、真崎甚三郎
東京帝國大學法学部卒
1934(昭和9)年 外務省入省
終戦連絡中央事務局総裁官房翻訳課
情報文化局第二課長
アメリカ勤務
イギリス勤務
1959(昭和34)年9月 宮内庁侍従職御用掛
 昭和天皇の通訳を務める
経済局参事官
アメリカ局参事官
大臣官房審議官
785日本@名無史さん:03/02/24 02:08
↓↓↓↓↓★ココだ★↓↓↓↓↓
http://www.pink-angel.jp/betu/index.html
786日本@名無史さん:03/02/25 02:34
松本清張あげ
787日本@名無史さん:03/02/25 03:46
このスレって研究者は
何人くらいいるんだろう?
788日本@名無史さん:03/02/25 04:11
>>787

少なくともオラは素人だけど。研究者じゃないと知らないような話してるかな?
789日本@名無史さん:03/02/25 17:27
明日の「そのとき歴史が動いた」、2.26やるみたいね。
790日本@名無史さん:03/02/25 22:58
真崎甚三郎 悪い奴 226の張本人。
791日本@名無史さん:03/02/26 00:37
まあ、某国営放送は、○坂調書で何度もやってるし、

殿さんアナと一緒に誰が出るんかなぁ。

半藤氏だったら、見るけど。
792日本@名無史さん:03/02/26 06:46
NHKのサイト見てきたけど、今回はゲストなしとの事でした。鎮圧軍の出動状況や
迫水常久の証言テープ(戦後録音か?)が新資料として使用されるらしい。
793日本@名無史さん:03/02/26 07:59
今年もまた二月二十六日がやってきました。
斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、
および凶弾に倒れた警察官の方々のご冥福を祈ります。

また、兵馬の権を私用し統帥権を干犯したる野中四郎、安藤輝三らの
逆賊が、地獄で永遠の火に焼かれることを祈ります。
794日本@名無史さん:03/02/26 08:48
ゲストなしかぁ。
迫水の回顧録読んだから、
見ない
795日本@名無史さん:03/02/26 09:09
>793
松尾伝蔵予備役大佐も加えよ。
796日本@名無史さん:03/02/26 10:09
戦前のプライベートの16ミリフィルムも新発見のものがあるし、
以前からNHKが持ってるニュースフィルムや
「兵に告ぐ」のラジオ放送のプライベートの実況録音もあるからゲストは要らん。
7972やんねるで超有名:03/02/26 10:14
http://asamade.net/cgi-bin/pc_i_j_ez-index.cgi
            ↓
   出会えるサイトはここ出会い率NO1
     http://asamade.net/web/
            ↓
   業界初こんなシステムどこにも無い
    なんたって無料で稼げるサイト
http://asamade.net/cgi-bin/pc_i_j_ez-index.cgi
798791:03/02/26 12:58
>>792 サンクス。
なしかぁ。
半藤さんは、
事件の関係者と会って、
話を聞いてるし、わからやすく解説してくれるから、良いんだけど。
799日本@名無史さん:03/02/26 13:14
河野司氏とか澤地のおばちゃんとか呼ばないのかなあ。
安藤洋裁学校の理事長とか(w
800日本@名無史さん:03/02/26 13:28
河野司氏て、まだ生きてたんかいな?
801金正日主権説/金正日機関説:03/02/26 13:38

@「北朝鮮」ハ純粋ナル「共和国」ナリ、「金正日」ハ完全ニシテ欠クルナキノ統治
者ナリ、我ガ国体法上「金正日」ノ意思ハ唯一ナル統治権ニシテ、国家ニ於ケル凡テノ
意思ハ之ニ服従ス、「金正日」ノ意思ノミ統治権タリ、「金正日」ト統治権ヲ分チ
又ハ「金正日」ト共同シテ統治権ヲ行使スル何人モ存スルコトナシ、「金正日」ノ意思
ハ直チニ統治権ナリ、何人ノ意思ヲモ其ノ成立ノ要件トスルコトナシ、「金正日」ノ意思ハ
最高ニシテ、独立ナリ、絶対的ニ無条件ニ「人民」ハ之ニ服従ス、「金正日」ノ統治
権ハ無制限ニシテ及ハサルノ範囲アルコトナシ
<Sinkiti UESUGI「憲法述義alternative」>

@「 」内は、Sinkiti UESUGI「憲法述義」の変更箇所
大日本帝国(オリジナル、以下略)→「北朝鮮」 君主国→「共和国」 天皇→「金正日」 臣民→「人民」

A「北朝鮮人民」は「金正日」の「人民」なり。「金正日」に服従す
るを以て其の本質たる性格と為す
<sinkiti UESUGI「憲法述義alternative」>

A「 」内は、Sinkiti UESUGI「憲法述義」の変更箇所)
日本臣民→「北朝鮮人民」 天皇→「金正日」 臣民→「人民」
  
注1:俗説にあるように機関説は金正日(天皇)のpowerを否定したも
のではない。そのpowerは肯定されている。
注2:変更した語句を元の語句に戻したものがオリジナルテクスト
参照:2003.3文藝春秋p.432-433
802日本@名無史さん:03/02/26 16:01
栗原安秀中尉は、国士気取りで大言壮語しながら
不倫相手と密会を重ねていた外道。
処刑後にその事実を知った未亡人がどれほど苦しんだか。
803日本@名無史さん:03/02/26 16:18
二、三年前に池田俊彦少尉が亡くなったな。
死刑になってもおかしくないくらいの人だったが(実際には無期禁錮)。

堂込喜市曹長は亡くなったのかな?
下士官としてはあまりに有名になってしまったので、後に姓を変えたらしい。

青木銀次上等兵は、前回の特集の時はご存命だったな。
決起当初は、高級軍人が何人も来て激励されたとか、
握り飯や味噌汁が振る舞われたとか、そんな話してた。
804日本@名無史さん:03/02/26 16:30
堂込曹長って安藤に飛びついて自決を止めた人だったっけ?
805日本@名無史さん :03/02/26 16:55
>これまで事件当時の映像はごく限られたものしか知られていなかったが、
>近隣の住民が撮影した16ミリフィルムが残っていることが最近明らかになった。
>四谷周辺を慌しく行きかう鎮圧軍の装甲車や、何がおきたのかわからず戸惑う市民、
>そして事件が収拾して銃機関銃を運び撤退する兵士たち等々、当時の混乱を生々しく伝えている。

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/
806日本@名無史さん:03/02/26 20:04
わかっとる。


だった?
807日本@名無史さん:03/02/26 20:06
渡辺は有名じゃないけど、
生きでたら、
歴史が変わってかもしれないヤシだな。
808日本@名無史さん:03/02/26 20:50
16ミリフィルム、首相秘書官の証言
既存のニュースフィルム、「兵に告ぐ」の歴史的録音

期待大だな。
809日本@名無史さん:03/02/26 21:44
迫水ってたしか戦後国会議員になって、河野謙三を参院議長に担いだ人物だよね?
松尾もそうだが、岡田啓介の娘婿だよね。
ところで 岡田の孫は何してる?
810日本@名無史さん:03/02/26 22:05
真崎の裁判長は元NHKアナウンサーの磯村尚徳のジッチャ磯村年(大将)。
年の息子は磯村武亮(中将)。片倉衷の言では、荒木が裏で磯村を動かして
真崎を無罪にしたとか(真偽は不明だが)。
811日本@名無史さん:03/02/26 22:18
内容薄かったな。でも67周年なんて記念じゃないし、45分だとあんなものかな。
迫水「こんなこと語ったことないですよ」って新事実なんてなかったよね?
812日本@名無史さん:03/02/26 22:33
陸軍大臣告示を改竄したのは誰?
813日本@名無史さん:03/02/26 23:47
松尾って、岡田の義弟だろ。

松尾の娘婿が、瀬島だったかな。

大臣告示を伝えたのは、山下かなぁ。

山下は、以後、だめぽ。
814日本@名無史さん:03/02/26 23:49
山下はその後、どさまわり。
815日本@名無史さん:03/02/26 23:59
香椎が電話で安井藤治に伝えた>大臣告示
書いたのは、山下と村上。
816日本@名無史さん:03/02/27 00:07
村上啓作は木越安綱の婿。陸軍きっての兵学者で
彼の著作「戦争要論」は世界的に有名だったそうだ。
また、鈴木率道が書いた統帥綱領を、陸大用に書き直した
統帥参考も彼の手による。
817日本@名無史さん:03/02/27 01:34
どうせなら、
有識者を作家や学者を集めて、
ビデオ見ながら、
大討論会を一日中やれよ。
818日本@名無史さん:03/02/27 01:42
半藤さんの昭和史が面白い
読み返した。

先日亡くなった、
池田さんに最後だから、
存分に話ししてくれ
と言う半藤氏。

819日本@名無史さん:03/02/27 01:45
迫水の回顧録の方が面白い。

岡田らしき人がいると兵隊さんは、知っていたとか。
憲兵が、脱出を手伝うとか、
人間ドラマがある。

ドラマ化しる。
820日本@名無史さん:03/02/27 01:47
初歩的な意見なんですが、皇道派って昔は行動派と思っていました。
そのスレ読んで、本読んで勉強してます。お陰で、今日いや昨日の「その歴」の2.26事件は良くわかりました。
821日本@名無史さん:03/02/27 01:52
>>818
それって、岡田の回顧録だったかな?
押入れにいるところを一人の兵隊に見つかって、万事休すと思ったら
その兵隊はそのまま向こうに行っちゃったんだよね。
俺だったら恐怖のあまり失神しそうだ…。
822821:03/02/27 01:58
失礼、>>821>>819へのレスですた。
823日本@名無史さん:03/02/27 02:05
それにしても、迫水氏の勇気はすごいよな。
下手な天保銭よりも、よっぽど肝が据わってるんじゃないか?
この男がいなかったら、終戦工作だってどうなってたことやら。
824日本@名無史さん:03/02/27 02:07
>>823
全く。
今日初めて顔をみたけどなかなかインパクトのある顔で。
825日本@名無史さん:03/02/27 02:16
岡田は風呂場に隠れていたんじゃなかったっけ?
826日本@名無史さん:03/02/27 02:20
迫水さんは、所謂、「阿南腹芸説」を強く訴える一人だね。
827日本@名無史さん:03/02/27 02:23
>>825
最初は風呂場。そこで松尾たちが殺されるのを聞く。
ほとぼりが冷めて、風呂場を出てうろうろしてると、
女中2人と出会い、彼女たちに押入れに押し込まれた。
828日本@名無史さん:03/02/27 03:51
一番の卑怯者は秩父宮。眞崎以上の卑劣漢といってもいい。
こんな獅子身中の虫がいたんじゃあ、昭和帝もさぞ苦労されたことだろう。
ちなみに安藤輝三大尉は銃殺のとき、秩父宮殿下万歳を唱えている。
もっとも、他には誰一人として秩父宮万歳を唱えた者はなかったらしいが。
磯部や北に至っては、天皇陛下万歳すら唱えていない。
まあ、刑死者の中でもこの二人は特別かもしれないが。
829825:03/02/27 08:02
>>827
ありがとうゴザイマス。女中部屋での顛末も思い出しました。
830日本@名無史さん:03/02/27 08:52
兵隊たちも、女中の様子から、
押入に何かあると感じていた。

しかし、上官には報告せず。

憲兵も、現場の人は脱出に協力した。

脱出のところの話は、面白いよ。
831日本@名無史さん:03/02/27 09:31
岡田って東條内閣潰しに関わってるらしい。
832日本@名無史さん:03/02/27 10:00
>>831
関わっていたというより黒幕でしょ。
高木惣吉の東条暗殺計画も黙認していたし。
833日本@名無史さん:03/02/27 10:15
後の統制派による天皇の担ぎ方よりも、
クーデタが成功し、皇道派が北一輝の改造法案を実行に移したとしたら、
そちらの方が、まだ近代的でヨリましな担ぎ方だったと思われ。

http://members.tripod.co.jp/shinmin0/kaizou-1.htm
834日本@名無史さん:03/02/27 10:35
>>833
近代的の意味がわからんが、
ましと思う要素がどこにあるのかは、もっとわからん。
835日本@名無史さん:03/02/27 10:37
2・26事件研究といえば、筒井清忠は例の事件の後、何してる?
836日本@名無史さん:03/02/27 10:47
制限財産制を実行したら、マシもなにも無いと思うんだけど。そこのサイトでも他の
記述部分が載っているでしょう。思想の自由がある軍事重視の共産主義天皇親政
拡張主義国家って・・・。北の考えは当時良さそうに見えた思想のつまみ食いと言った
感じがする。
837日本@名無史さん:03/02/27 12:48
>>835
例の事件って何?
838837:03/02/27 12:56
ネットで調べたらおおよそ分かりました。
26歳くらいで書いた丸山批判は実に見事な論文だったのに・・・
839日本@名無史さん:03/02/27 14:07
「天皇は土人部落の神輿」(北一輝)

…すごい表現だが、思わずうなってしまったよ(w
840日本@名無史さん:03/02/27 14:51
財部彪は偉大だった。
841日本@名無史さん:03/02/27 15:54
北朝鮮の体制って実際の天皇制ではなく北一輝のをモデルにしたようなシステム
ですよね
842日本@名無史さん:03/02/27 18:36
真崎が無罪になったのは、荒木の熱心な活動もさることながら
近衛が首相就任の条件として、真崎赦免を求めたことも大きい。
843日本@名無史さん:03/02/28 01:46
いや荒木や近衛じゃない。

軍人内の派閥抗争を、
北や西田を黒幕にして、
隠したい意図がある。
発生時の上層部を見れば、派閥抗争。
だから陸軍内の意向。


北「若殿に 冑とられて 負け戦」
844日本@名無史さん:03/02/28 01:58
眞崎は、終戦工作に一枚噛んでいたいう話を聞いたことがある。
戦争末期になると、予備役に入れられていたかつての皇道派の方が
むしろ理性的で、逆に参謀本部の若い参謀たちの方は、かつての
皇道派みたいになってしまったとの評もあるな。
845日本@名無史さん:03/02/28 02:02
>>843
>>北「若殿に 冑とられて 負け戦」

若殿とは誰を指しているのか…、実に意味深だ。
846日本@名無史さん:03/02/28 09:17
決起部隊の真の黒幕は眞崎などではなく、本庄繁侍従武官長だったという「噂」
はホントでつか?
847日本@名無史さん:03/02/28 09:24
>>846
本庄は山口一太郎の岳父。当然叛徒に同情的だったが・・・・
848日本@名無史さん:03/02/28 10:35
>>845
若殿=バカ殿=裕仁=「クラゲの研究家」ですな。北さんさすがです。
849日本@名無史さん:03/02/28 12:30
2.26事件は宗教的思想も背景にあるの?
850日本@名無史さん:03/02/28 14:18
5.15事件も。
851日本@名無史さん:03/02/28 14:47
どうやら、ノーコメントらしー。
852日本@名無史さん:03/02/28 15:01
>>846
本庄は叛乱軍に同情的ではあったが、黒幕とまでは言えないと思う。
何か起こるかもしれない、くらいのことは予想してただろうけど。

黒幕ならむしろ秩父宮だろう。
なんたって、皇位簒奪を目論んでいたんだから。
事件が勃発するや、勝手に所属部隊を放棄して青森から上京、
たちまち憲兵に身柄を拘束された。そこではっきりと兄・昭和帝の
怒りを知って真っ青になり、それ以後は叛乱将校を見捨てて無関係を装う。
あまつさえ叛乱将校に対して自決を強要したので、彼らからは
裏切り者と罵られた。
叛乱鎮圧後は、眞崎一人に裏切り者の汚名をかぶせて知らん顔。
853日本@名無史さん:03/02/28 15:02
>>849
んー、北一輝は日蓮宗の信徒だったらしいが。
いつも南無妙法蓮華経を唱えていたとか。
854日本@名無史さん:03/02/28 15:10
大本教は?
855日本@名無史さん:03/02/28 15:28
どうやら、そのヘンに謎が隠されてるようだ。
856日本@名無史さん:03/02/28 19:41
大本教の信者には大学、高専出が多く活動家の50%は専門学校以上を出たインテリ
だったらしい。また、青年将校や左翼団体構成員にも信者が多かったとか。だが、
昭和10年12月、大弾圧を受け出口王仁三郎以下幹部は検挙され、不敬罪と治安維持法
で起訴され本部はダイナマイトで爆破。戦後まで活動は行えなかった。
857日本@名無史さん:03/02/28 19:59
真崎は教育総監になってから、機関説問題に関し在郷軍人を煽動したり、
機密事項を若い将校に漏らすなどして、天皇以下支配層にも評判が悪かった。
そこで、林陸相は10/8の定期移動で真崎の更迭を決めた。勿論、真崎は猛反発
一度は単独上奏までして阻止しようとしたが、天皇の意を受けた(と思われる)
閑院宮が強く真崎の更迭(将官の人事は大臣、総長、教育総監の三者合意事項)
を主張したことから、真崎は遂に敗れ軍事参議官に転出。これを根にもったのか
真崎は、林のことを日記で「土蜘蛛」と呼び貶めている。人の権力欲とは・・・!!
858日本@名無史さん:03/02/28 22:13
林は、クビになる一歩手前で、真崎に助けられたことがあるからね。
真崎からすれば、飼い犬に手を噛まれたというところだろう。
859日本@名無史さん:03/02/28 22:33
>>852
秩父宮は、東京で拘束された後、皇居に連行され、
昭和帝やら数名に釘を刺されたらしい。

「力をあわせ〜」と言われ、素直に返事したとか。
秩父宮をプッシュしたキーパーソンは誰じゃ?
860日本@名無史さん:03/02/28 22:40
>859
平泉澄博士じゃないの?
861日本@名無史さん:03/02/28 22:57
宗教はわからんけど、北の嫁って霊示を出す巫女まがいの奴じゃなかったっけ?
2.26のときも、電話で村中に伝えてるでしょ。”人なし勇将真崎あり”とかなんとか。
862日本@名無史さん:03/03/01 00:10
>>849
>>853の言う日蓮宗や神道などは基本的にはカルトだと思う。
1920年代後半からとんでもない不況で社会不安が増す中、
カルト宗教が社会的影響力を強めた。
863日本@名無史さん:03/03/01 00:30
http://www.jfss.gr.jp/intro/intro_index22.htm
    ↑
この人はどっち??
864日本@名無史さん:03/03/01 00:32
昭和天皇が事件を知って動こうとしたが誰も助けてくれない。仕方がないから
侍従に電話を持ってこさせ、どこでもいいからとつながせた。そしたら丸の内
署の交番の巡査につながったそうだ。巡査は大慌てで自転車で飛び出したとか。
その後は知らない。
865日本@名無史さん:03/03/01 02:11
>>856
ところが奇妙なことに、叛乱将校たちの供述を読むと
大本教にシンパシーを感じるどころか、むしろ激しく敵視している。
叛乱将校側の認識では、永田鉄山や片倉衷らはひそかに大本教を
信仰していて、昭和帝よりも出口王仁三郎を敬愛している、
ということになっていたらしい。
要するに統制派と仲良くする奴は、みんな悪い奴なんだと(w
つーか、なんで永田や片倉が大本教を信じなきゃならんのかと小一時間(ry
866819:03/03/01 02:41
>>821
それって、岡田の回顧録だったかな?
押入れにいるところを一人の兵隊に見つかって、万事休すと思ったら
その兵隊はそのまま向こうに行っちゃったんだよね。
俺だったら恐怖のあまり失神しそうだ…。

→岡田の回顧を、迫水が自身の回顧録「機関銃下の首相官邸」に書いた。
 ある兵隊が、押入れをあけた。その上等兵は、サッと閉め、
 「わかた」と言い、部屋から出て行った。
 そのあとも将校の見回りがあったが、兵隊は、「異常なし」と報告した。
 ある兵隊は、押入れを少しあけ、手を入れた。岡田の体に触れたにも
 かかわらず、異常なしである。
 翌日、憲兵が現れた。
 「憲兵です、救出にきました。もうしばらくの辛抱です」
 
 後日談。友人の息子の部隊の兵士の話。
 「私は事件に参加した。岡田が生きていることは知っていたが、
  いまさら殺すべきではないと思ったので、報告しなかった。」

  
867日本@名無史さん:03/03/01 02:41
結局、叛乱将校自体は不況の世や財閥による独占資本形態を嘆いて
天皇直訴クーデターを起こしたのだろうけど、結局は議会政治の
破綻を招いたといっていいのでしょうかね。
っていうことは、叛乱将校は陰謀に使われたっていう見方もあるね。
868819:03/03/01 02:43
岡田や鈴木が殺されていたら、終戦工作がどうなっていたか?

終戦における功績は、目をみはるものがある。
869819:03/03/01 02:49
その後の広田が軍部に迎合したのと、
次官の梅津か粛軍の名のもとに、軍部の拡大を図った

結果として、軍部以外に重要な国策を決定する機能が失われた
870日本@名無史さん:03/03/01 02:51
>>859
本人は自覚してなかったかもしれないが、秩父宮の支持がなければ
青年将校は決起していないと思う。
秩父宮と最も親密で、青年将校との連絡役になっていたのは
安藤輝三大尉だった。そして、慎重派の安藤が決意を固めるまでは
他の同志達も先走ることはできなかった。青年将校たちが
いかに秩父宮を後ろ盾として頼りにしていたかが分かる。

そもそも皇道派の領袖たる眞崎大将は、参謀次長時代に
閑院宮参謀総長と不仲になっていたから、教育総監になっても
結局は閑院宮の圧力でクビになったわけだ。
青年将校からすると、閑院宮は目の上のたんこぶだから、
この宮様を凌ぐような後ろ盾がないと、眞崎内閣は実現不可能だ。
となれば、天皇の実弟である秩父宮の他に対抗馬はない。

つまり二・二六事件は、秩父宮の支持があったからこそ起きたのであり、
秩父宮の責任は、眞崎大将よりも格段に重大であると言わざるを得ない。
871日本@名無史さん:03/03/01 02:56
それはない
872日本@名無史さん:03/03/01 02:57
皇道派って名前からして大本教の影響受けてそうだけど、
色々複雑なんだな。
873日本@名無史さん:03/03/01 03:03
きっと、外国からの圧力もあったに違いないね。
丑寅の金神。
874日本@名無史さん:03/03/01 03:11
>>870
なるほどな。
漏れは秩父宮がそこまでの大物とは思わんが、
確かに駒としてはかなり大きいよな。皇道派としては
もっと役に立ってもらうつもりだったんだろうね。
なのにあんなにあっさりと寝返られたんじゃ、やってられん罠。
875日本@名無史さん:03/03/01 04:39
2・26事件とは
軍事利権(統制派と皇道派という2大利権集団)と宗教利権(日本神道と法華経という2大利権集団)
が合体衝突したグロテスクな惨殺戦であった。
876日本@名無史さん:03/03/01 05:07
>>872
出口王仁三郎は、昭和神聖会という青年組織をつくって
軍隊式の教練を行なったり、自らも白馬に跨って閲兵するなど、
天皇を意識した行動が多かった。また、自分は天皇家の御落胤で
あるなどとも吹聴していたから、皇道派にしてみれば許しがたい
「大逆教団」ということになる。
だからといって、大本教が統制派寄りとも思えないけどね。
出口みたいな男は、永田が最も毛嫌いするタイプだろうし。
877日本@名無史さん:03/03/01 08:42
まあ近衛師団からせめて聯隊規模で抽出し、宮城を占拠できるくらいでないと、
クーデターも無理だったろうな。226の失敗の教訓に学んだ陸軍決起組はまさに
昭和20年八月十四日深夜、宮城占拠による最後のクーデターを模索したわけだし。
何といっても岩倉・三条コンビの昔から、「玉」さえ手に入れれば何とかなるものだ。
「玉」が言うことを聞かなければ、「不慮の事故」もありうるわけだし(笑)。
いざとなりゃ、天皇さんは簡単に病死するし(笑)。そのときこそ、秩父宮だろう
が高松さんだろうが御輿をかつげばよいものを。今ひとつ時期尚早だったわけで(哀)。
878日本@名無史さん:03/03/01 09:34

「若王ナクテ叶マジキ道理アラバ木ヲ以テ造ルカ金ヲ以テ鋳ルカシテ生キ
  タル院国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」

 (もし天皇がどうしても必要なら、木か金で作っておいて、生きた天皇
  なんぞどこへなりとも捨ててしまえばよいのに)

高師直・師泰兄弟は、北や美濃部に遥かに先駆けて、十四世紀の天皇機関説
論者だったわけで。反乱将校連中も少しは見習えばよかったものを(藁
879日本@名無史さん:03/03/01 10:14
>>876
皇道派&大本でググると仲いいようだがなー。
このヘン歴史の裏側なのかしら。
880日本@名無史さん:03/03/01 10:18
皇道って天皇さえも道理に従うって意味なんでしょ。
ちゃうのかな?
881日本@名無史さん:03/03/01 10:56
北と王仁はつながりがあった。当然、北の影響下にあった
革新将校たちも大本教の影響を受けた可能性はある。

もっとも、2.26の直接のきっかけは「満州に送られちゃう」ってことだけどね。
相沢の一件もそうだけど、良かれと思ってやった人事異動が、
逆に、キチ○イにきっかけを与えることになった。
882日本@名無史さん:03/03/01 14:25
この事件から、敗戦までいろいろ裏がありそうにょー。
戦前の日本は、今の常識でははかりしれなさそう。
883日本@名無史さん:03/03/01 21:10
この事件により、
合法的に権力を奪取することが考えられた。

陸軍大臣になり手がいなければ、
倒閣になる。
884名無しさん@お腹いっぱい。:03/03/01 22:01
ボケたこと抜かして自爆選挙で逝ってしまった林銃十郎に
大命が下ったこと自体、××がいかれていたことの証明ですよね。
885日本@名無史さん:03/03/01 22:04
>>884
策動したのは石原。いいように操れると思ったんだろう。
梅津は陸軍から首相を出すこと自体に反対だったらしい。
886日本@名無史さん:03/03/01 22:21
梅津って皇道派?統制派?
統制派っぽいが
初心者な質問でスマソ
887日本@名無史さん:03/03/01 22:24
>>886
統制派。
荒木や真崎から目の敵にされてた。
888日本@名無史さん:03/03/01 22:43
>>887
統制派と新統制派は区別したほうがよくないか?
梅津は、旧宇垣派・後に新統制派。
889日本@名無史さん:03/03/01 22:55
統制派と一口に言っても色々だからね。
皇道派ほどはっきりとした派閥じゃない。
命名したのは村中だったかな?
890819:03/03/02 00:27
統制派と新統制派の区別がつかないが、、、

まあ、派閥じゃないからな。

省部、つまり、軍官僚の命令に従えって考えの人たちだな。

石原は、そういう意味じゃ、統制派じゃないと考えてますが。

梅津が典型的な統制派。

東條は、統制派なんだろうけど、
関東軍のときは、中央の指示を軽んじてたと思う。
つまり、権力志向の人物だと。
石原ほど、体系だって物事を考えているわけじゃないし。
891日本@名無史さん:03/03/02 00:39
永田が中心のときが統制派。
2・26後、皇道派が壊滅してから省部の中心を占めたのが新統制派。
892819:03/03/02 01:18
梅津、東條は、新統制派なのか。
893日本@名無史さん:03/03/02 01:59
皇道派が壊滅しなかったら、日本は敗戦しなかったかもしれないね。
894日本@名無史さん:03/03/02 04:52
まあ新統制派といっても、皇道派が退場してしまったわけだから
もはや派閥とは言えないな。総主流派体制というところか?
895日本@名無史さん:03/03/02 07:25
皇道派および同調者の軍人は東京を中心に内径○`・b以内に絶対
近づけてはならない、という内規をつくったのが梅津。
896日本@名無史さん:03/03/02 09:50
敗戦ちゅうか、アジアとの関係も今とは違ってたかも。
そう考えると、5.15、2.26は陰謀だらけだ・・・
897日本@名無史さん:03/03/02 14:45
東條はもともと永田にくっついていたから統制派で、後に新統制派の中心。
永田自身、派閥解消を唱えていたんだから、厳密には派閥じゃないが、
便宜上の区別って話。
永田と梅津・東條の考え方は距離があると思う。
長閥及びその後継と思われた宇垣派に対して、小畑・岡村・永田が派閥解消・
総力戦体制の確立を目的として少壮将校等を糾合したんだが、
対ソ早期決戦か国力の充実の優先かで、皇道派・統制派に分裂。
永田斬殺、2・26後の皇道派壊滅で実質上共倒れ。
陸軍省は梅津、参謀本部は石原が中心となったのも束の間、林擁立で両者対立。
しな(なんで変換しない!怒)事変勃発・拡大で、不拡大派の石原はトバサレタ。
ああ、厳密にいうともっとアレなんだが、無力なワタシを赦して…。
898日本@名無史さん:03/03/02 14:50
2.26がなかった場合、岡村、山下が陸相になった可能性がある。
899日本@名無史さん:03/03/02 15:03
皇道派のほうが現実的だよ。
ネーミングイメージと違うかもしれないけど。
900日本@名無史さん:03/03/02 15:13
でも、統制派もおどらされたのか、結局。
最後に笑ったのは誰だ?誰だ?誰だ?
901日本@名無史さん:03/03/02 15:20
>>900
中国共産党
902日本@名無史さん:03/03/02 15:35
>>881
つながりがあったから影響を与えていたとはいえないのでは?
北に対してだって、日本改造法案を中心とした思想に共感するだけであって、
宗教的に心服していたかどうかもわからんし。

そもそも、青年将校全員が、そんなに北に心服していたかどうかも疑わしい。
昔やってた電話盗聴記録のテープで聞いた安藤と北のやりとりを聞いていると
「安藤は北のこと嫌いだったのかなー」なんて思ってしまったくらい、
安藤の北に対する声がそっけなかったのを覚えている。

あんまり言えないけど、安藤の部下だったという人の
「安藤は北に心服していた磯部などにそそのかされたんだ」なんてことも
聞いたことある(まあ、その人くらいかもしれないけど…)。
遺族や関係者の北に対する見方を見ていると、北の影響力がそんなにあった
ようには思えない。

磯部の関係者のコメントでは、むしろ磯部や村中は血気にはやって起とうとする
若者達を諫めたこともあったということだった。(もちろん革新を唱える将校の
1人ではあったけれど)
それが変わったのは、十一月事件ではめられて捕まって軍人やめさせられてから
ではないかと書いてあったけれど。
903日本@名無史さん:03/03/02 15:42
安藤は最後まで決起を渋っていた。
安藤が起たなければ、2.26は起こってないだろうね。

ちなみに、樋口季一郎は回想録で、相沢が北に
臣下の礼をとっているのを見て、北こそ元凶と断じている。
904日本@名無史さん:03/03/02 22:32
事件に関しては、北を首魁にしたい
力か働たらいはず。

裁判の判決ときは、日華事変が始まっており、
陸軍内の派閥争いでは、都合が悪いのだろう。

真崎を処分すると、陸軍としての責任が発生する。

官僚は、いつでも責任とりたくないから。
内部での処理で済ました。
905日本@名無史さん:03/03/03 02:21
>>901
うーむ。
906日本@名無史さん:03/03/03 03:01
赤VS資本主義構造の構築というのもあるだろうね。
反目しあう国があってこそ利権がある人もいるわけだから。
907日本@名無史さん:03/03/03 21:48
陸軍大臣告示を出した川島陸軍大臣は、かなり無能だったらしい。
908日本@名無史さん:03/03/03 21:55
>>907
人事局長時代は、名局長で鳴らしたらしいよ。
若い嫁をもらってだめになったとか。
909日本@名無史さん:03/03/03 22:24
「その川島が元来だめなんだ。あの男を利用したところに反乱軍の誤算が
あります。才覚も胆力もない」(片倉衷が秦郁彦との対談で語った言葉)。
また、片倉少佐(当時)は天皇の意を受けた杉山元帥が断を下したことで
大勢は決したと言っている。それまでは、一部を除いてほとんどが日和見で
地方の師団長もだいたいがそうだったと言う。
910日本@名無史さん:03/03/03 22:26
杉山元帥ではなかった、杉山元ですた。
911日本@名無史さん:03/03/03 22:32
↑ 後に元帥になったよ。
912日本@名無史さん:03/03/03 22:34
梅津と谷寿夫だけらしい>討伐を訴える電報を打ってきた師団長
石原・梅津・武藤が、叛乱鎮定の3人男

次官の古荘は若いときから大将間違いなしといわれた逸材だったが、
第一部長のとき、脳溢血になって、それから駄目になったとか。

寺内の行動も面白い。一番遠くに居たくせに、宮中に1番乗りしてしまい、
真崎に怪しまれたり、軍事参議官会議では、なす術がなく思わず
「どうすればいいのだ」とつぶやいたり、世間知らずのボンボンっぷり全開。
913日本@名無史さん:03/03/03 22:56
石原の行動については、疑問持っている人も多い。高橋正衛は、26、27日ぐらいは、
心情的に決起部隊寄りではという。決起に参加した常盤稔少尉もそう考えていた。また、
軍法会議の判士を務めた杉田一次(戦後、陸幕長)も、前の晩、石原さんは決起部隊寄りの
満井佐吉、橋本欣五郎と帝国ホテルで会っている。これを見ても石原さんが決起部隊に
好意を持っていたのはたしかだ。最初の命令(決起部隊を認めたような内容)、2回目の
命令(奉勅)を出したときも石原さんが作戦主任です、と言っている。
914日本@名無史さん:03/03/03 23:05
石原と橋本は、皇族内閣で手を打たんかと
磯部にいったんだよね。しかし、磯部は断った。
この場合の皇族は秩父宮か東久邇宮か・・・

ところで、斎藤瀏って、歌人という以外には、どういう人なの?
栗原を可愛がってたらしいけど。
915日本@名無史さん:03/03/03 23:13
斎藤瀏は、皇道派のスポークスマンみたいなことやってたらしい。
予備役の少将では?事件後逮捕され禁固刑でなかったかな。先年、
亡くなった歌人・斎藤史さんの父では。
916日本@名無史さん:03/03/03 23:45
戦闘部隊を指揮していない将官は、何もできない爺さんたちだからね。
保身のため、日和見になる。
ゴルバチョフ監禁クーデターのソ軍も同じように、日和見だったことから、
一概に日本陸軍だけとは思わないが。

石原は、支持していたというより、当初は丸く収めようとしたと思う。
参本作戦部長は、直接は解決を図る立場ではないし。

解決すべき、磯部たちが強硬なのと爺さんや憲兵がどうしようもないため、
途中で自らが解決図ろうとして前面に立ったと考えていますが。

917日本@名無史さん:03/03/04 03:17
>>914
斎藤瀏予備少将は皇道派だね。
叛乱軍は、敵味方を区別するための目印として、軍服に
三銭切手を貼り付けていたのだが、事件後いち早く
叛乱将校を訪ねてきた斎藤は、叛乱軍の歩哨兵に誰何されるや
胸に貼った三銭切手を示しつつ、「陸軍予備少将・斎藤瀏!」と
大きな声で答えたという。
さすがにこれじゃ言い訳できないよな(w
918日本@名無史さん:03/03/04 03:50
石原大佐こそ226事件の黒幕
919日本@名無史さん:03/03/04 04:34
>>918
石原以外にも黒幕はいるね。
でも、それは本当の歴史の裏街道なのだろう。
920日本@名無史さん:03/03/04 08:43
>>912
寺内陸相が、事件後に衆議院の秘密会で行なった答弁。
陸軍首脳が、陸軍大臣告示の形で叛乱軍を賞賛したというのは
事実か?との質問に対して、

「陸軍大臣告示なるものは、無かったのであります」
921日本@名無史さん:03/03/04 10:05
武藤が鎮圧に熱心だったのは、反乱軍が川島に手渡した「陸軍大臣要望事項」
の中で、根本博、片倉衷と共に名指しで軍中央から除くよう望んだため。
皇道派ではこの3名らが省部で実権を握り上司をロボット化していたとみていた。
後年、斎藤瀏が語ったところでは「当時、これらの人たちは階級こそ低いが
重職にあって、上司を躍らせ居、真の元凶と見られていた」という。
922日本@名無史さん:03/03/04 14:31
皇道派と大本教が関係あったとう説もあるが、北は王仁三郎から資金提供されていた
疑いも残るが青年将校は関係あるの?決起趣意書の一節に、「・・・三月事件或いは
学匪共匪大逆教団等陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして・・・」とあるけど
この大逆教団というのは前年不敬罪と治安維持法で検挙された大本教を指している筈。
923日本@名無史さん:03/03/04 20:55
対ソ作戦を念頭においた軍備増強をもくろむ某大佐と政財界の腐敗に憤慨する青年将校は
強力な陸軍主導内閣の出現を望む点では一致していた。
しかし、226事件に対する陸軍首脳部の混乱ぶりと天皇の怒りを知った某大佐はとっさに方針転換し、
自らが描く昭和維新の実現は先送りすることを決め、鎮圧派の旗頭になったのである。
924日本@名無史さん:03/03/04 23:26
昭和維新に関しては、皇道派も統制派も
その必要性を認めていたからね。
925日本@名無史さん:03/03/04 23:40
石原閣下のセイヤングの投稿は、ここで良いですか?
926566:03/03/04 23:52
昭和維新って何?
927日本@名無史さん:03/03/04 23:59
>>926
(当時の)現状じゃない状態。各自の思いこみの理想状態。
928日本@名無史さん:03/03/05 00:11
K:(拳銃を向けながら)昭和維新について大佐殿と我々は考えが違うようですね
I:よくわからん、僕のは軍備を整えれば維新になるということだ・・・
  投降しないのなら軍旗を持ってきて討つ!
929日本@名無史さん:03/03/05 00:13
石原が黒幕とは思わんのだが。
石原と片倉は、満州事変コンビだろ。
青年将校は、片倉を目のかたきにしていたから。
その青年将校と石原が組んでるとは思わんのだが
930日本@名無史さん:03/03/05 00:24
片倉将軍も石原将軍に負けず劣らず、自信満々で個性的なキャラ
心酔者がいる反面、敵も多い
931929 :03/03/05 00:37
青年将校は、片倉と言わず、省部の陸大卒を敵視してたんだろう。
石原と青年将校がつながる話のが、良くわからんのだが。
932日本@名無史さん:03/03/05 00:41
青年将校たちが真崎大将の組閣を希望していたのに対して、天皇の陸軍不信に気づいた石原は
陸軍内閣構想を早々に引っ込め、逆に海軍から首相候補を出せないか軍令部幹部に打診しています。
さすが大佐ともなると、無鉄砲な若い兄ィの集まりである青年将校とは違います。
933日本@名無史さん:03/03/05 00:45
>932
ばぁか。
934日本@名無史さん:03/03/05 00:55
帝国ホテル、橋本、石原、満井、田中弥の会談において
石原は東久邇宮内閣を主張。満井は真崎内閣・柳川陸相を強く支持。
橋本は建川美次を推した。
満井「皇族内閣にはけっ起将校は断固反対の意を持っている。
   建川中将も、大権干犯の元凶としてその逮捕を要求しているので、
   これらを強行することは、事態の収拾にはならない。
   真崎首班は彼らの熱望するところであるが、それが参謀本部側に
   強い難色があるというのであれば、この際は陸軍内部のイザコザに
   関係のない海軍からこれを求めるより途はない。それには、
   海軍軍事参議官の山本英輔大将が適任かと思う」
石原も橋本も満井案に賛成した。
935日本@名無史さん:03/03/05 01:18
青年将校の中の人も大変だ
936日本@名無史さん:03/03/05 01:33
石原は、事件のほとぼりが冷めた頃になって
なぜか渋川善助の実家に焼香しに行ったそうだ。
突然のことで遺族も驚いたらしい。
937日本@名無史さん:03/03/05 04:47
背景にある宗教的かつ社会主義的(なにも国内だけではなく国と国との
関係においても)な思想を分析しないとわからんかも。
938日本@名無史さん:03/03/05 04:51
ああ、それと軍需産業とか宗教とかの利権ね。
北は財閥などの独占資本の解体を要求してたんでしょ
939日本@名無史さん:03/03/05 07:24
しかし、戦前の日本ちゅうのは軍人にしろオカルティックなんだねえ。
このあたりは、現代人からはなかなか想像ができないや。
940日本@名無史さん:03/03/05 08:10
片倉衷は上司の命で非常時の研究をしてくれと言われ服部卓四郎と辻政信を
紹介された。そこで二人と相談して真田穣一郎ら15名のメンバーでs8年11月
から本研究に入り、もし、青年将校が暴発した場合には、この機を利用して
国家革新を陸軍が中心でやることを考えた。・・・世間では、こちらが彼らを
煽動して事件を起こさせたように言う人もいるが、こちらは案を作っただけ
(片倉氏直談)。
941日本@名無史さん:03/03/05 08:32
外国からの圧力ってないの〜〜〜?
942日本@名無史さん:03/03/06 02:54
東條と武藤章は、統制派
武藤章は、東條を見下していた。
943日本@名無史さん:03/03/06 13:59
次スレからは
海軍の艦隊派の条約派(軍政派)について
も語れるようにしてくださ
944日本@名無史さん:03/03/06 19:30
日本軍閥闘争史みたいにするか>次スレ

>>942
見下すってことはないけど、武藤は永田も一目置くくらい
頭が切れて能弁だったからね。東條がアホに見えることはあるでしょう。
945日本@名無史さん:03/03/06 19:50
あんた武藤章にあったことでもあるんかい?
946日本@名無史さん:03/03/06 20:44
カミソリ東条だぞ
947日本@名無史さん:03/03/06 20:47
バーデンバーデンの誓いという言葉に萌え
948日本@名無史さん:03/03/06 20:49
>>946
すぐカッとなる性質で、議論は弱かったらしいよ。
鈴木率道にやり込められては、
永田の部屋に駆け込んで愚痴ってたらしい。
949日本@名無史さん:03/03/07 08:48
あの東條が。驚いた。
950日本@名無史さん:03/03/07 09:11
鈴木は陸大同期の石原を抑えてトップで卒業した秀才官僚。東条みたいな
ガリ勉型(暗記力)には臨機応変の対応はできない。
その意趣返しか、鈴木が不祥事(s18)起こしたとき直ちにクビ。
951日本@名無史さん:03/03/08 03:57
東條は山下の人気を妬んでいた。
952日本@名無史さん:03/03/08 22:01
本庄繁って思想的にも皇道派に共鳴してたの?
彼自身の経歴を見ると、いわゆる支那通そのもので、
真崎や荒木との接点もないし・・・
婿が山口一太郎じゃなかったら、あんなに
けっ起将校をかばう発言したかな?
953日本@名無史さん:03/03/08 22:35
本庄繁
満州事変の時の関東軍司令官。
954日本@名無史さん:03/03/08 23:02
>>222
>話はそれるが、昭和期陸軍には眼鏡をかけた将官が大勢いるのに、
> 海軍にはほとんどいない(有名なのは野村吉三郎くらい?)のは何故?
言われてみればそうですね。やはり視力の悪い人は兵学校の入校試験で
落とされるのだろうか?
955日本@名無史さん:03/03/08 23:07
板垣「ここで軍がぐらついては・・・」
本庄「何を言うか、どういう意味か、それは。よし、参謀長と高級参謀だけ残れ、他は退出せよ!」
956日本@名無史さん:03/03/09 23:58
>>950
陸大は暗記力だけじゃ入れないよ
957日本@名無史さん:03/03/10 00:10
陸大で重視されたのは、議論の能力。
口の達者な奴が、上位になる傾向があった。
958日本@名無史さん:03/03/10 00:47
それと教官が気に入った回答。
軍官僚には必須。
959日本@名無史さん:03/03/10 00:51
東条と石原。
正反対の人物だけど二つの共通点がある。
陸軍軍人である事と雄弁であった事。
960日本@名無史さん:03/03/10 00:57
議論重視はメッケルの弊風だな



次スレは980でいいかな、この流れだし。
961日本@名無史さん:03/03/10 01:13
>>960
少佐の分際で日本陸軍の体質を作り上げてしまった
メッケルマンセー
962日本@名無史さん:03/03/10 01:42
メッケルよりゴルツのほうが良かった。
963日本@名無史さん:03/03/10 02:45
>>947 よって板垣征四郎は、上位になれなかった。
964日本@名無史さん:03/03/10 13:55
>>963 ハァ〜?
965日本@名無史さん:03/03/10 14:07
>>964
963は >>957 の打ち間違いだろ。それぐらい分からない?
966日本@名無史さん:03/03/10 15:10
モルトケはトルコを重視した。
だから、ゴルツはトルコへ、日本にはメッケル。
967日本@名無史さん:03/03/10 15:40
陸大の合格判定基準は、着眼、決心、意思強固の三点だったという。
だが、実態は、思いつきに頼る「着眼戦術」長期的展望の裏付けを欠いた
「決心」独善的な詭弁に貫かれた「意志強固」だったという。
陸大幹事、校長などを歴任した飯村穣は「白を黒と言いくるめる議論達者で
あることを、意志強固なりとして推奨したのではないか」と述懐。
968日本@名無史さん:03/03/10 16:36
「現代の防衛と政略」は俺も読んだ。
飯村と石原の両方から、”我が愛弟子”と
認められていたのが堀場一雄。
969日本@名無史さん:03/03/10 17:54
>>965 あなた板垣の陸大での席次なんて知ってるの?
970日本@名無史さん:03/03/10 18:04
俺は965ちゃうけど、板垣の席次は26番でしょ
971日本@名無史さん:03/03/11 01:26
唐突ですがフジテレビのニュース番組に出てくる
宇垣大成とかいう軍事評論家の人がいますけど
宇垣一成の孫かなんかですかねー? とても頭良いように見えませんが…。
972日本@名無史さん:03/03/11 02:16
陸大席次云々なんて小児的だなあ

973テンプレ:03/03/11 02:57
スレタイ:日本軍閥闘争史
-----------------------------------------------------
主に
陸軍の統制派と皇道派について 語るスレです。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024259247/

海軍の艦隊派と条約派について もOKです。
-----------------------------------------------------
海軍話はピンではツラいだろうしな。こんなんでどうでしょ。
スレ立ては>>980さん。
974日本@名無史さん:03/03/11 11:29
皇道・統制にかぎらず、陸海軍の全派閥についてO.K.にしましょう。
975日本@名無史さん:03/03/11 19:12
関連ぽいスレ

明治政府スレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1036173736/
立憲政友会vs立憲民政党(憲政会)
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1007783170/

薩長関係は上のスレでやった方が良いような。過疎スレだったけど。
976日本@名無史さん:03/03/11 22:19
>>975
このスレと↑のスレの住人て同じなのでは…。
977日本@名無史さん:03/03/12 02:48
陸大 優等卒でも 八原大佐の様に貧乏くじを
引いた者も
いるぞ。
978日本@名無史さん:03/03/12 13:41
じゃあ。大正以降の軍閥を扱うスレにするか

【大正】日本軍閥闘争史【昭和】
979日本@名無史さん:03/03/12 14:14
時期を設定する必要はないんじゃないの?
大日本帝国の陸軍は明治〜昭和20年まであったし。
長州閥、薩摩閥が明治期にあったからこそ、
それに反駁する将校達も出てきたわけだし。
980980:03/03/12 16:03
大正時代こそ長閥全盛期なんだけどね。

ということで、スレ立て挑戦してみます。
981980:03/03/12 16:41
スレタイ:日本軍閥闘争史

------------------------------------------------------
陸海軍の軍閥について語るスレです。

前スレ
陸軍の統制派と皇道派について
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024259247/
------------------------------------------------------

ERROR!
このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。(´・ω・`)ショボーン

ということでどなたかお願いします
982日本@名無史さん:03/03/12 16:49
新スレたてましたよ
983日本@名無史さん:03/03/12 16:51
984980:03/03/12 16:52
>>982-983

ありがとうございます
985日本@名無史さん:03/03/12 17:02
じゃ埋めますか?
986日本@名無史さん
977の八原大佐は自分が陸幼ではなく旧制中学出身だから不当に差別されたと憤慨しておられます。