足利と新田

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1日本@名無史さん
俺は、足利氏の方が新田氏より家格が上だと思ってたんですが、頼山陽の「日本外史」には新田義重が父義国の跡を継いだと書かれています。
どっちの家格が植えなんですかね?
2日本@名無史さん:01/11/25 17:25
まあ長男は新田なんだけど、鎌倉時代は足利の方が優遇されていたね。
義国は新田荘に住んでいて、それを引き継いだのが義重。
足利荘を継いだ義康はもっと前に独立。
3日本@名無史さん:01/11/25 18:16
新田義重は確か、源頼朝と敵対して干されたんですよね?一方,足利義兼(義康の嫡男)は源頼朝に与して門葉という立場になる。
4倭人:01/11/25 18:19
家格の上下を決めるのは難しいが、源氏の本流が3代で途絶えて関東の武士が
源氏の棟梁と考えていたのは、足利だったのは事実。
当時は長氏相続が当たり前になってなかったし!
5日本@名無史さん:01/11/25 18:21
範頼の子孫の吉見では無かったんだ
6日本@名無史さん:01/11/25 19:02
順当に考えるならば範頼の子孫の吉見氏か
全成の子孫の阿野氏、円成の子孫の愛知氏が
嫡流のはずなんだが。やはり氏の長者に
なれるのは血だけでは駄目ということか。
7日本@名無史さん:01/11/26 01:21
新田は鎌倉時代は無位無冠の一地方御家人にすぎなかったけど、足利は代々得宗家から嫁を貰ってて数カ国の守護を兼ねる有力御家人だもんね。
記憶が確かなら足利義康は頼朝と母方で従兄弟同士だった。早くから頼朝に従って可愛がられたのに対し、新田義重は参陣を渋り、あわよくば独立
も狙っていたからすっかり疎まれてしまった。
8某福島人:01/11/26 01:26
由良家って、新田義貞の末裔なんですよね?
9日本@名無史さん:01/11/26 01:39
自称ね。ほぼ黒に近い。
「上州の戦国大名 横瀬・由良一族」渡辺嘉造伊
が参考になる。著者は医者だけどなかなか的確に史料を読んでいる。
10某福島人:01/11/26 01:43
>>9
そうなんだ・・・・
でも、由良家って江戸時代高家になったよね?
11あしか:01/11/27 22:40
足利が有力なら下野の守護になれそうなもんだが、なんで小山氏が守護だった
のかな? でも三河と下総の守護は足利だったような。足利の本領以上にそっち
に勢力があったのかな?
鎌倉時代に足利一族のうちで「足利」の名字を名乗れたのは、本家と斯波と吉良
だけだったそうだが、なんで? 特別本家と血筋が近いわけでもないのに。
12日本@名無史さん:01/11/27 22:54
新田のが長男ぢゃなかったっけ?
13あしかがね:01/11/27 22:54
鎌倉幕府が定めた「御門葉」には、新田が入ってないのに分家の山名
が加えられてた。山名ってなんか手柄立てたのかな?
14日本@名無史さん:01/11/27 22:57
みんな知っているだろうけど、戦時中、足利出身とはとてもではないがいえなかったらしい。
それより、市の名前を変えようとする動きもあったらしいZO。
15日本@名無史さん:01/11/27 22:58
しかし、徳川市も、織田市も、藤原市も、源氏市もないけど、足利はあるわな。

あれ、北条市ってあるんだっけ?
16日本@名無史さん:01/11/27 22:59
17日本@名無史さん:01/11/27 23:00
>11
吉良は足利宗家が断絶した場合の宗家の継承権を持っていたから
納得できるが、斯波はなぜだろう?
最後に分かれた分家だから?
18日本@名無史さん:01/11/27 23:01
↑サンク
蘇我市もありそうだな・・・。
千葉だっけ?
19日本@名無史さん:01/11/27 23:01
斯波家って、南北朝の頃までは足利姓を名乗ってたんですよね?
20日本@名無史さん:01/11/27 23:04
斯波=司馬=シヴァ

いつも考えてしまふ。
21日本@名無史さん:01/11/27 23:08
>12
父である義国の所領の足利庄を継いだのが足利義康で、
新田義重は新たに新田庄を開拓したことから、
義康=嫡子で、義重=庶長子だと思う。
22日本@名無史さん:01/11/27 23:23
斯波氏は鎌倉時代、足利本宗家当主が幼児だったり、病気の時代理として幕府の儀式に出席する権利を持っていた。
確か斯波氏初代は足利惣領と同腹弟で、兄貴が若死にして甥っ子の後見役を務めたことからそのようになった記憶がある。
2319:01/11/27 23:25
>>22
ありがとうございます。
24日本@名無史さん:01/11/27 23:26
斯波義将は、管領になれと言われて、恥を忍んで泣く泣く就任したとか。あくま
で斯波は足利の一門で、臣下ではないと思ってたみたい。
斯波の子孫の最上や大崎が有力大名になったとこみるとやはり奥州に相当な勢力
を持ってたんじゃあないかな。それこそ本家に迫るくらい。
25日本@名無史さん:01/11/27 23:29
>>22

斯波の初代の家氏は、惣領の頼氏の異母兄じゃなかったっけ?
26日本@名無史さん:01/11/27 23:35
家紋は新田家が一引(鍋ぶた)、足利は二引(釜ぶた)?
2719:01/11/27 23:37
>>26
新田の家紋は大中黒でしょ?
28日本@名無史さん:01/11/27 23:46
足利軍が京で新田・北畠軍にメタメタにやられた時、足利軍は二引き両の家紋を大中黒に見せかけて難を逃れたとか・・・
29日本@名無史さん:01/11/27 23:58
>28
>二引き両の家紋を大中黒に見せかけて
味方が裏切ったんじゃなかった?
30日本@名無史さん:01/11/27 23:58
>>29
そうでしたっけ?
31日本@名無史さん:01/11/28 00:20
真ん中を塗りつぶして新田軍に投降した
32日本@名無史さん:01/11/28 00:34
ところで、岩松氏は足利流?それとも新田流?
33日本@名無史さん:01/11/28 00:39
足利畠山氏から出戻った新田の娘の連れ子の子孫。
岩松氏は始終新田を名乗っているから新田で良いんじゃない?
3432:01/11/28 00:41
>>33
ども。
あと、姓と苗字の違いって知ってます?
35石橋尾張守:01/11/28 12:47
>>1さん
そうです。足利家の方が家格が上。

>>17さん
も少し詳しく教えて!

>>24さん
義将の兄が執事を命じられたが、
「執事なんて家の名折れ。仁木・細川のすべき仕事。」
といって出家してしまった。
そこで高経が、僅か13歳だかの義将を執事に推し、
自らは後見役として幕府の実権を握ったのです。
(実は、家の名折れ云々は後世の創作で、
義将を偏愛する高経のシナリオ通りだったとの説も。)

>>25さん
そうです。
長男 足利家氏(斯波・石橋家祖): 母は名越氏
次男 足利兼氏(渋川家祖): 家氏と同腹
三男 足利頼氏(尊氏曾祖父): 母は得宗家の女
36日本@名無史さん:01/11/28 22:01
信長が若い頃、斯波義銀だったっけ? に尾張を返上したと思ったけど、あれは
どうゆう事情があったんだろ? いつのまにかポイされちゃったみたいだけど。
37日本@名無史さん:01/11/28 22:07
足利は北条と仲良しで、相当優遇されていたのは、三河の守護を持っていたことでもわかる。
東海道筋は基本的にどの政権も譜代しかおかない。

徳川も足利もそう。
豊臣も譜代を軒並み東海道に置いたが、清洲の福島、掛川の山内、など軒並み裏切られてしまった。
38日本@名無史さん:01/11/29 14:11
鎌倉時代、新田義重の長子・山名義範は「門葉」という位置にあってということは、山名氏は鎌倉時代は本家の新田氏よりも家格が上ということなんですか?
39日本@名無史さん:01/11/29 14:12
「門葉」というのは、准一家ということなんでしょうが、どういう待遇がなされてたんですかね?
40日本@名無史さん:01/11/30 15:14
あげときます
41 :01/11/30 15:17
江戸時代
新田(義貞の子孫)を名乗る大名かはいなかった?
42 :01/11/30 15:28
北条市って瀬戸内海側四国になかったけ?
43日本@名無史さん:01/11/30 16:12
>41
岩松氏が新田義貞の子孫を名乗ってるけど、かなり怪しいと思う。
44日本名無史:01/11/30 17:02
>35
もしかして遼一さんですか?
ちなみにわたしは杞堂です。
45日本@名無史さん:01/11/30 17:14
私の本家は、新田一族の大館氏の子孫で、江戸時代は2000石の藩士でした。
46日本@名無史さん:01/11/30 17:15
>>43
岩松氏は新田氏の一族だが、義貞の子孫ではない。
義貞よりはるか前から新田氏から分れている。
47 :01/11/30 17:34
新田藩ってなかったのか
山名さんは徳川幕府旗本になったけど
義貞直系じゃないし
義貞子孫は全滅か・・・。
48日本@名無史さん:01/11/30 20:39
>>47
嫁いだ娘はいないの?
49 :01/12/01 12:18
義貞の首塚が平塚にある?
50日本@名無史さん:01/12/01 14:04
>>47
新田義貞後裔を称する、由良(横瀬)氏が江戸時代、高家となったけど信憑性あるのかな?
51日本@名無史さん:01/12/01 23:02
>>46
足利義兼の長男の義純が、新田義重の孫娘の婿になり、
その長男の時兼が岩松氏の初代となったのは知っています。
>>43で書いたのは、室町期の岩松満国が新田義宗の子を養子にして
満純と名乗らせ、家を継がせたと言う説があるからです。(私は信じていませんが)
現に岩松氏は維新後は新田男爵家と名乗りました。
52日本@名無史さん:01/12/03 14:20
>50
横瀬家は本姓藤原かなんかだとおもったけど、
飛騨の三木氏と同様に主家を乗っ取ったんでしょう。
53日本@名無史さん:01/12/03 18:54
>52
乗っ取られたのは、岩松家だよーん。
たしか新田庶流として由良に名字を変えたよーん。
54日本@名無史さん:01/12/04 00:28
>>50
ここを見ろ>>9
家の本家が自称義貞の子孫。ほぼ黒。
55日本@名無史さん:01/12/12 11:15
今川氏は、吉良氏の分家なんでしたっけ?
56日本@名無史さん:01/12/12 12:26
新田義貞の子孫と称する家は、

・堀江新田(義貞嫡孫貞方の嫡子貞政が祖)

・新田中村(義貞嫡孫貞方の子貞長が祖)

・筑後佐田新田(義貞庶長子義顕の子義一が祖)

・岩松(義貞嫡子義宗の子満純が祖)

・横瀬由良(義貞嫡子義宗の子貞氏が祖)

とりあえずこんなものかな。はっきり言ってどれも詐称でしょうがね。
57 :01/12/12 13:00
>>56
この中で江戸時代大名となった人いますか?
58日本@名無史さん:01/12/12 13:52
新田義重(1135-1202)
  足利義国の子。母上野介藤原敦基女、室 大和源氏下野権守頼広女
  大炊助、左衛門尉、九条院判官代。
  花山院忠雅領、上野国新田庄下司。
  号新田大炊助入道。

足利義康(1127-1157)
  足利義国の子。母信濃守有房女。
  室 藤原南家、熱田大宮司季範女(源義朝と相婿)
  鳥羽院北面、蔵人検非違使右衛門尉
  保元の乱の時、功により叙留(五位の判官)、昇殿を許される。
  安楽寿院領(美福門院→八条院伝領)下野国足利庄下司。

どうみても足利の方が格上、のみならず足利の方が兄です。
どうして新田が長子だという俗説が生まれたのか、不明。
59日本@名無史さん:01/12/12 13:58
>58
元ネタは何?
60日本@名無史さん:01/12/12 14:17
ネタ?
尊卑分脈、吾妻鏡、兵範記、その他。
61日本@名無史さん:01/12/12 15:05
足利義康生年は確定はしとらんぞ諸説入り乱れ
62日本@名無史さん:01/12/12 15:27
しかし、新田より年下だとすると、
仮に一歳違いで1136生まれとしても
康治元年(1142)わずか数え7歳で父から足利庄を譲られ(安楽寿院古文書)
仁平二年(1152)数え17歳のとき、すでに検非違使右衛門尉(兵範記)
21歳で従五位下、22歳で死んだことになる。
かなり不自然だと思うのだが。
親父の義国も式部丞どまりで、京都で徳大寺家の郎党・葉室家郎党と乱闘を
繰り返し勅勘を受けた身で、出世が早すぎるyo
63日本@名無史さん:01/12/12 15:28
64日本@名無史さん:01/12/12 16:18

織田は福井県織田町
65日本@名無史さん:01/12/12 17:09
天下取った足利さんが家祖を脚色したんとちゃうか?
66nanashi:01/12/12 22:09
>>65
あるあるある
67日本@名無史さん:01/12/12 22:16
どっちが長子かはともかく、嫡子が足利義康なのは確かでしょう。
68日本@名無史さん:01/12/12 22:23
源氏のある世代の兄弟が兄→新田、弟→足利を名乗ったんじゃなかった?
よって家格は新田>足利
69日本@名無史さん:01/12/12 22:35
>>68
兄だから価格が高いと思ってる時点で間違ってるよ。
7069:01/12/12 22:36
×価格
○家格

人のこと言えねえや。
71日本@名無史さん:01/12/12 23:48
足利と新田というと
市VS町
コジマ電気VS山田電気
ステーキ宮VSステーキどん
その他多数…など栃木南部企業と群馬東部企業の販売合戦が頭に浮かぶ
72日本@名無史さん:01/12/13 00:08
足利は偉大、新田は悪党
73歴史の勉強:01/12/13 01:02
まとめてレス。

新田義重と足利義康は、お母さんが違います。
で、源義国は、もともと藤原姓足利氏の婿でしたが、晩年は新田郡に移りました。
嫡流の問題ですが、この両家は惣領権は別々に持ってるので、別の家と考えるべきでしょう。
一夫多妻が当然の時代ですし、義国は嫡子から外されていましたので。

山名氏と里見氏は、頼朝決起に際して、義重より早く頼朝に応じています。
そのせいで、嫡流より優遇されました。
新田の方が足利より早くから分家が進み、そのせいで惣領たる新田家に力が弱かったのです。
これは南北朝争乱期に、新田氏が分裂したことにも直結しています。

岩松氏は新田の庶流で、かなり複雑な出自を持っています。
新田義重の娘が、畠山義純(源姓畠山氏始祖)と結婚していて、
その息子が岩松氏の始祖です(名前は忘れた)。
ですから、新田氏の中でも最も足利寄りの家で、中先代合戦時、惣領が戦死しています。
その後、鎌倉公方の権力が確立するころに、新田嫡流に任じられ、
新田ノ庄の領有権を認められています。
74日本@名無史さん:01/12/13 01:20
>73
お見事。
ついでに書くと、岩松氏の始祖は、時兼。
75日本@名無史さん:01/12/13 01:36
>で、源義国は、もともと藤原姓足利氏の婿でしたが

ちょっと違うよ、義国は婿じゃなくて、孫。
源義家が秀郷流藤原氏の足利基綱女との間にもうけたのが、義国です。

義国の妻は、>>58 のとおり
信濃守源有房女(有房は村上源氏、為平親王流、右馬頭資貞の子)と
上野介藤原敦基女(系図よくわからん)
二人おりました。
祖父から伝領の足利庄を譲られた足利が、嫡流でしょうな。
76日本@名無史さん:01/12/13 06:35
てか、よく知らんけど山名って鎌倉期には優遇されてたの?
個人的には難太平記の記述(「ウチは昔は百姓みたいなもんだったYO!」ってやつ)の印象が強いんだけど。
77日本@名無史さん:01/12/13 14:47
ところで、新田流の岩松満純って新田義貞の3男義宗の子って本当ですか?
78徳川家康:01/12/13 14:50
と言う本に新田系源氏の記述が前に長々ある。新田は徳川に行く系統です
79きしの:01/12/13 14:55
知識のネタ情報源教えて
80日本@名無史さん:01/12/13 15:01
>76
鎌倉初期のことしか知らんけど
元暦2年(1185)8月、山名義範は源頼朝の推挙により、伊豆守従五位下となっている。
この年3月壇ノ浦で平家が滅亡し、義経と頼朝がいよいよ不仲となった時期の任官。
ちなみにこのとき、新田義重の子のなかで任官したのは山名義範だけ。
義範の甥にあたる里見義成の伊賀守任官が1204年4月。
義範の弟にあたる新田義包はついに任官なし(父と同じ大炊助どまり)
足利義兼の上総介任官と同時で、実は義範は義重の嫡子として扱われていたらしい。
のちに山名氏が新田につかず、足利につくのも、新田の部下となるのをいやがったためらしい。
ただし、父の新田義重は義包に新田庄を譲っているので(1172年4月)、
一族の中でと鎌倉幕府の中でと、山名一族の扱いは違ったらしい。
81日本@名無史さん:01/12/13 15:22
岩松泰家の女(満国の妹)が新田義宗の妻で、辻王丸(満純)の母
岩松満国が甥にあたる辻王丸を養子とした、と言われている。
でも真偽は不明。
82日本@名無史さん:01/12/13 15:46
>81
時期的にみて岩松氏が新田宗家の子を養子にするのは、
リスクが高すぎる。
83日本@名無史さん:01/12/13 16:11
自分がせっかく書いたレスが、アズマの駄スレageのお陰で
誰の目にも触れる事無く沈んでいって悔しい思いをした経験
ありませんか?
84日本@名無史さん:01/12/13 19:40
>>80

「義包」だっけ?
「義兼」では?
85日本@名無史さん:01/12/13 19:44
>>76
山名家は鎌倉初期は優遇されていた。幕府の儀式なんかにも名前がちらほら見える。中期に名越氏かなんかに関係してそれ以来失脚。
86日本@名無史さん:01/12/13 22:30
>84
どっちでも「よしかね」
同時期に足利義兼がいたせいか、「義包」の字をつかったらしい。
史書ではどちらの字も使っている。
87歴史の勉強:01/12/14 01:18
新田氏の一族を研究しても面白そうだなあ。
足利氏は有名過ぎて、あんま面白くないよね?
新田氏は小さい庶流がけっこう重要だったりする。
大館氏ってその典型でしょ?(京都で文筆官僚やってて、貴重な資料を残してる)

それにしても、岩松氏が新田義貞の末裔を養子にするこたないでしょ。
たぶんそれ、岩松氏の実権を奪った横瀬氏のことだと思うんだけど……

山名時氏は山陰でのし上がった、ある意味「下剋上」の典型だから、
わざと大げさに言ってるっぽい。
もちろん、今川了俊の作為も感じるけど。
でも、山名氏は足利寄りなんですよね、常に。
明徳合戦の時だって、「我らは御所さまに取り立ててもらったからこそ…」
なんて言ってるわけで(それに比べると足利義満は……)。
奉公衆になってる家ですしね。
88日本@名無史さん:01/12/14 02:00
>>85 が言ってる「名越氏かなんかに関係して」って、
名越光時が伊豆流罪になった1246年のことかな?
それとも二月騒動で名越教時が殺された1272年のときかな?
二月騒動のときは世良田頼氏も佐渡に流されてるんだよね。
誰か、詳細を知ってたら、教えてください。
89日本@名無史さん:01/12/14 02:12
維新で再興?した岩松が箔をつけるために、
詐称したんでしょうよ。
新田嫡流名乗っといて、足利流じゃまずいと思ったんでないか?
足利が悪者wの時代だしさぁ。
横瀬由良の祖、貞氏は義宗三男やら、政義の子を称してますなw
涙ぐましい努力ですことw
90日本@名無史さん:01/12/14 02:21
一応江戸幕府のお墨付きを貰ったはずだぞ岩松家は。江戸時代に新田氏の子孫を詐称すると大罪だった。
91日本@名無史さん:01/12/14 09:54
>90
江戸幕府のお墨付きって言っても徳川氏自身が新田系を詐称してるし。
92日本@名無史さん:01/12/14 14:57
自称新田義貞の末裔由良家は、明治時代の爵位は子爵でしたっけ?
93日本@名無史さん:01/12/15 00:03
新田の系図に「得川」義季の名をハケーンした奴は、しこたまご褒美に与ったんだろうな。
94歴史の勉強:01/12/15 00:12
違う違う、岩松氏は鎌倉公方の時代(1352〜1455)に、
ちゃんと新田ノ庄の領有を認められているんだって。
嫡流かどうかはご当家の問題でしょうけど、足利氏と上杉氏はそれを認めてるんですよ。

新田氏と足利氏、双方の親戚で、どっちに属してたのか不明瞭な武家は他にもいます。
たとえば、桃井(もものい)氏とか。渋川氏も、本貫の地は上野だしね。
足利・新田はやはり親戚で、争ったのは新田宗家に味方したものとその他ってとこでしょう。
95日本@名無史さん:01/12/16 10:23
新田の一族・山名時氏は、かなりの変節漢。
96日本@名無史さん:01/12/16 10:29
この時代の武士って、かなりアナーキーだな・・・
97日本@名無史さん:01/12/18 00:38
ま、この時期は文字通り「勝てば官軍」だからねえ。
9897:01/12/18 00:57
ごめん、ちょっと考えたら負けても官軍だった。
99日本@名無史さん:01/12/18 11:33
渋川氏って足利党の中でも地味な一族ですね。室町時代は九州探題だったそうだけど、特に事績も無いし・・・
100日本@名無史さん:01/12/19 00:31
応仁の乱の斯波義廉が渋川義鏡の子だなぁ
101日本@名無史さん:01/12/19 01:25
渋川義鏡というと、九州探題の渋川義俊の子ですね?
ずいぶん遠縁から養子を選んだものだ・・・
最初に養子になった斯波義敏は誰の子なんでしょう?
102歴史の勉強:01/12/19 01:27
渋川氏は、享徳の大乱に際して関東に来てる。
でも、同じく京都から派遣された東常縁(とうのつねより)に比べても地味だし、
犬懸上杉氏が今の東京都で戦死してるのと比べてもパッとしないなあ。
渋川氏で一番有名なのは、もしかして中先代合戦で死んだ渋川義季?
103日本@名無史さん:01/12/19 01:37
地味といえば、桃井氏も地味だね。
桃井直常と、幸若丸くらいしか知らないな。
子孫は絶えたのだろか・・
104日本@名無史さん:01/12/19 01:56
嘘だと思うが、本家の系図に、先祖として新田一族の大館政氏の名前があった。
戦前までは男爵だったらしい。
105日本@名無史さん:01/12/19 02:00
義敏は持種の子
106石橋尾張守:01/12/19 12:10
>>62さん
なるほど。目から鱗です。
嫡子が義康様であることは間違いないとして、
義康様が長子である可能性も極めて高いのですね。

系図(尊卑分脈だったかな)によれば義国様の子は義重殿と義康様の間にもう一人
いて、つまり義康様は三男だというのですが、そもそも義国様から頼氏殿に至る
まで、歴代の足利家当主が皆三男というところに若干作為を感じるというか、
義国様が義家様の三男であったことに因み、以降頼氏殿までの歴代当主を
"系図上"三男に位置付けた(実際は三男ではないかも知れない)、
義康様も系図上は義重、義○(名前失念)に次ぐ三男のように表記されているが、
実際には義重より年長であった可能性は高いと言えましょう。
107日本@名無史さん:01/12/19 22:04
尊卑分脈を書いたのは北畠だろ?
確か、吉野で作ったとか、聞いたことがある。
だとしたら、足利の上に新田をおきたくなるかも・・・
108日本@名無史さん:01/12/20 12:41
新田義貞は、旧タイプの武士だったようですね。
時代の変化に対応出来ず、それ故哀れな最期を迎えた・・・
109日本@名無史さん:01/12/20 12:43
>>104
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/odate_k.html
おい、どこにつながる系図かおしえれ
110日本@名無史さん:01/12/20 15:20
111日本@名無史さん:01/12/20 23:32
>>106

「分脈」では義康は次男。あと三男に季邦。
「群書類従系図部」では、上から義重、国康、義康、季邦の四兄弟で、
こっちの説が正しければ義康様は三男になります。
112日本@名無史さん:01/12/21 14:12
新田というのは鎌倉時代、まったく冴えなかったんだなぁ。
ただ、平氏政権のときは、よかったみたい。
新田義重の室(義包の母)は、大和源氏親弘の娘で、この姉妹に
伊予内侍(1139-1175)という女性がいる。
平治の乱のときには二条帝の内侍で(愚管抄に出てくる)、その後六条帝にも仕え、
高倉帝が即位すると勾当内侍となった(山塊記)
その縁からか、山名義範は右馬助、新田義包は大炊助、義重の孫里見義成は平家家人(吾妻鏡)、
その間足利義康は無位無官だったようだから。
一時的にしろ、父を早く失い、後見の源義朝が敗死したあとで、新田の庇護をうけた時期が
あったのではないか。その間、義国流の総領は、新田義重だったから。
新田は平家寄りであったことは間違いなく、頼朝の挙兵を平清盛に書状で知らせているほど。
(山塊記、治承4年9月8日条)
それが仇となって、鎌倉時代の新田はまるきり無視された存在となったけど、
本来ならば新田が総領のはず、という足利に対する異常なまでの対抗心は残り続けた気がする。
113日本@名無史さん:01/12/21 14:56
横瀬氏ー武蔵七党系
→長楽寺文書に得宗被官として登場の三浦(大谷)道海の縁者として登場
利根川の対岸の横瀬も当時は新田荘の域内だったらしい・・・。
114日本@名無史さん:01/12/21 17:38
足利(畠山)義純
 新田義兼の女と婚姻したが、畠山重忠が乱死し、
その後家であった北条時政女と再婚し源姓畠山氏の祖となる。
 新田義兼女との間に2子あり、岩松時兼(室は徳川義季女)、田中時朝となる。
 よって、新田義重→新田尼→徳川義季と伝領されてきた
新田荘「空閑地」の大部分は岩松氏の支配を受けることになる

下って、新田政義出家事件の後は、
御家人役を世良田氏が、新田荘総領を岩松氏が勤め(岩松氏は非御家人)、
霜月騒動後は岩松氏が新田荘の代表権者となる。(御家人化)。

このほか、上野守護比企氏の没落後、
得宗勢力が新田荘内に所領を持つようになり、
義貞が登場する頃には、分割相続の進んで、
新田氏本宗は無論のこと、
世良田(徳川)・岩松・里見・山名など御家人支族も
新田荘内の所領は細分化されてそれぞれの総領家も弱体の一途を辿った。
ゆえに、義貞の倒幕行動は得宗支配に対する抵抗であるとともに、
所領を他所へ求めなければこれ以上の生活が困難であったことが新田一族のエネルギーであった。
115訂正:01/12/21 19:01
>>112 です。
  × その間足利義康は無位無官
  〇 その間足利義兼は

書き間違えました。のみならず、1184年の時点で「足利蔵人」と呼ばれているので、
どこか女院御所の蔵人に補されていたらしいです。
どうもすみません。
  
116日本@名無史さん:01/12/21 19:59
>>114  同意します。
ちょっと調べてみたので、鎌倉時代の足利・新田の氏族の所領分布を書きます。

足利氏 下野国足利郡足利庄
仁木氏 三河国額田郡仁木
吉良氏 三河国幡豆郡吉良庄
今川氏 三河国今川庄
細川氏 三河国細川郷
一色氏 三河国吉良庄一色
斯波氏 陸奥国紫波郡紫波郷か?
石塔氏 下野國石塔?岩城国北会津郡石堂?
畠山氏 武蔵国男衾郡畠山庄
渋川氏 上野国群馬郡渋川庄
桃井氏 上野国群馬郡桃井
矢田氏 上野国多胡郡矢田郷(梁田庄?)
岩松氏 上野国新田郡新田庄内、岩松(但し岩松氏は母系の新田氏傘下)
田中氏 上野国新田郡新田庄内、田中

新田氏族
新田氏 上野国新田郡新田庄
世良田氏 上野国新田郡新田庄内世良田
江田氏 上野国新田郡江田
山名氏 上野国多胡郡山名 (但し山名氏は足利寄り)
里見氏 上野国碓氷郡里見
大井田氏 越後国中魚沼郡大井田
117日本@名無史さん:01/12/21 20:38
書き忘れ
大館氏 上野国新田郡新田庄大館
118114:01/12/24 00:27
>>116
新田町史第4巻特集編新田荘と新田氏
が詳しいよ。
119日本@名無史さん:01/12/24 21:40
>118 ありがとう
岩松・世良田2氏が「半分の惣領」になったというのは聞いたことがありますが
御家人としての役割まで失っていたんですね
新田氏というのはつくづく不運な一族だな〜と思います
義重、政義、義貞と、不運というか要領悪いというか・・・。
120日本@名無史さん:01/12/24 22:58
>>117
『新田氏根本史料』は基本史料。絶対外せない。古本屋で3〜5万ぐらいで売っていたな。県立図書館クラスなら常備しているだろう。
新田氏は南朝方だったために戦前に関係史跡や史料の保護がだいぶ行き届いている。
121歴史の勉強:01/12/25 00:34
新田氏の一族で、南北朝以降、特にさかえた家は
山名、岩松、大館
の3つかな?
山名氏は言わずもがな山陰の大大名、岩松氏は上野の有力武家。
大館氏はちょっとマイナーですが、京都の幕府の文筆官僚やってたんですよ。
この家は幕末まで残り、非常に貴重な資料を残しています。
ご先祖が男爵さまだったなら、おそらく足利時代の業績によって高家になったか、
徳川氏にも重宝されたのでしょう。
まあ、二階堂、長井、伊勢、と並ぶ名家です(小さかったみたいだけど)。
122歴史の勉強:01/12/25 00:44
当時、長幼の序列は兄弟間にあまり適用されませんでしたから、
新田と足利の「宗家」のあいだに対抗意識は無かったと思います。
あえて言うなら、親戚だけど、「別の家」だと思ってたんじゃないでしょうか?
少なくとも、鎌倉にはそう登録されてたはずだから。
一族がどこで分家するかは、まったく偶然によるものですから、
義重の息子の代から分裂が始まっていてもおかしくはないでしょう。
結城と小山も。もとは同族だったけど、御家人としては別の家だったし。
(八田氏だった)小田氏と宍戸氏がどこから「別の家」になったかもハッキリしません。
千葉氏は鎌倉草創の段階で、6つの家に分かれています。
足利氏と新田氏の婚姻を見ていると、親戚、という印象を受けます。

新田氏を足利氏と比較して考えるのは、いかにも後世の人間のやることで、
当時の実情に即しているとは思えません。
足利も、たしか渋川氏は鎌倉時代に独立の分家になったと思います。
斯波と吉良は、足利宗家から独立していなかったか、宗家と別の足利家を興していたか知りませんが、
吉良満氏が守護になったことがあるそうです。
123日本@名無史さん:01/12/25 12:23
>122
正しい見解だと思うんだけど・・・ただ、足利と新田の場合はちょっと特殊じゃないかな?
源頼朝の子孫が絶えた時点で、新田と足利は「八幡太郎義家の嫡流」を争ったわけでしょ?
あの時代、八幡太郎の血を引く、ということには特別な意味があったと思うんだけど。
足利の方は、官位や鎌倉幕府内の地位から、自分が嫡流となったと思っていただろうし
新田はそれに対抗したかった。と、思うんだが。
現に鎌倉幕府体制が崩れたとき、明らかに嫡流を争っているわけだし。
124歴史の勉強:01/12/25 17:14
どうなのかなあ?
鎌倉幕府が倒壊した時、
新田氏は関東御家人の中でも特に優位に立ってたわけじゃないし、
その後、後醍醐天皇に従った行動から察しても、
「武家源氏」の嫡流になろうとは思ってなかったんじゃないかなあ?
源氏の「氏の長者」は久我氏が持ってたはずだし(足利氏に奪われるのは義満のころだとか)。
足利氏が武家の頂点に立つ際に、その根拠としたのはたしかに「源氏の嫡流」だろうけど、
新田氏がそこまで考えていたかはすこぶる疑問。
第一、当時は関東を見ても、小山氏や宇都宮氏のほうが新田氏より遙かに有力だったわけで。
新田宗家が南朝に身を投じたのも、
足利氏のように政権を維持する能力がなかったからじゃないか?
125日本@名無史さん:01/12/25 23:48
足利は京都で六波羅軍と、新田は鎌倉で幕府軍と戦い、功績は五分五分
しかし尊氏のほうが官位も恩賞もよかったし、
幕府攻撃の総大将が尊氏の幼児の息子(義詮)だったようにいわれて頭にきた?
とにかく新田義貞という人は、後醍醐天皇に忠義というよりは、尊氏に対抗するために
南朝を奉じたように見えるんだな。
太平記なんか読んでても、危なっかしい感じばかりするんだが。
126日本@名無史さん:01/12/26 00:08
いや、後醍醐は尊氏を牽制するための当て馬として義貞を重く用いたんだよ。功績は同じぐらいだし、系図的には尊氏と対抗できるしね。尊氏は挙兵したとき、義貞を敵としたから新田氏は武家方に着くことが出来なくなった。
義貞は自分の意志で南朝方に着いたというより、周りの状況からそうせざるを得なくなったといった方がいいよ。
127日本@名無史さん:01/12/26 00:22
>126
当て馬・・・ 絶句!
新田義貞って本当に不運だよな
後醍醐に裏切られて叡山を落ち延びて、
木の芽峠越えするあたりなんか、泣けてくる。
せめてもの保障に、皇太子を連れて行くんだが、後醍醐はその直後に
別の皇子を皇太子にしちゃうし。
北朝・南朝の正統性はさておいて、個人的には後醍醐天皇って好きになれん。
どうにも人が悪すぎる
128日本@名無史さん:01/12/26 01:54
遠く故郷を離れ、異境の泥田で蛭の餌となった・・・。可哀想。せめてもの救いは歴史に名を残せたことかな?本人は家名を残したかったんだろうけど。
129日本@名無史さん:01/12/26 03:40
>127
まあ、天皇から見れば自分以外の人間は
文字通り「駒」に過ぎないんだから
許してやっておくれよ。
130日本@名無史さん:01/12/26 23:05
伊達家の足軽に新田義貞の末裔がいた気がするが・・・
131日本@名無史さん:01/12/27 00:34
でも新田義重・義兼父子は、頼朝に殺されなかっただけましかも?
132歴史の勉強:01/12/27 00:50
新田氏も、足利氏と比較しちゃうから哀れに見えるだけで、
ああいう武家はいっぱいいたと思いますよ。
南朝に属したからって、全部亡んだわけじゃないし。
南部氏・諏訪氏みたいに、得宗被官で残った連中もいたわけで。
133 :01/12/27 05:14

         おにぎりワッショイ!!
     \\  おにぎりワッショイ!! //
 +   + \\ おにぎりワッショイ!!/+
                            +
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      ( ´コ`∩(´ニ`∩)( ´田` )( ´コ`∩
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       ヽ  ( ノ ( ノ  ) ) )   ヽ  ( ノ
       (_)し' し(_) (_)_)   (_)し'
134 :01/12/27 05:15

         おにぎりワッショイ!!
     \\  おにぎりワッショイ!! //
 +   + \\ おにぎりワッショイ!!/+
                            +
.   +   /■\  /■\  /■\ /■\   +
      ( ´コ`∩(´ニ`∩)( ´田` )( ´コ`∩
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ (つ   ノ  +
       ヽ  ( ノ ( ノ  ) ) )   ヽ  ( ノ
       (_)し' し(_) (_)_)   (_)し'
135nanasi:01/12/27 06:06
         足利ワッショイ!!
     \\  足利ワッショイ!! //
 +   + \\ 足利ワッショイ!!/+
                            +
.   +   /(=)\ /(=)\ /(=)\ /(=)\   +
      ( ´コ`∩(´ニ`∩)( ´田` )( ´コ`∩
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ (つ   ノ  +
       ヽ  ( ノ ( ノ  ) ) )   ヽ  ( ノ
       (_)し' し(_) (_)_)   (_)し'
136nanasi:01/12/27 06:08
         新田もワッショイ!!
     \\  新田もワッショイ!! //
 +   + \\ 新田もワッショイ!!/+
                            +
.   +   /(-)\ /(-)\ /(-)\ /(-)\   +
      ( ´コ`∩(´ニ`∩)( ´田` )( ´コ`∩
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ (つ   ノ  +
       ヽ  ( ノ ( ノ  ) ) )   ヽ  ( ノ
       (_)し' し(_) (_)_)   (_)し'
137日本@名無史さん:01/12/27 18:53
>>131

足利義兼の方は自殺説なんかあったりしちゃってね。
関係ないが、子供の頃「一休さん」を見ていたら、義満の甥の「ヨシカネ」
という子が出てきた。

誰だろう?満詮の子?
138日本@名無史さん:01/12/28 15:22
age
139日本@名無史さん:01/12/28 15:29
nanasiよ、ちゃんと二両引になってるところがイイ!
140日本@名無史さん:01/12/28 21:43
実の弟である範頼や義経も頼朝に殺されたわけだから、足利義兼も内心、戦々恐々としていたことでしょうね。
141日本@名無史さん:01/12/29 07:07
>>125
>足利は京都で六波羅軍と、新田は鎌倉で幕府軍と戦い、功績は五分五分
>しかし尊氏のほうが官位も恩賞もよかったし、
>幕府攻撃の総大将が尊氏の幼児の息子(義詮)だったようにいわれて頭にきた?

鎌倉の倒幕軍の大半は、義詮(足利の嫡男)に馳せ参じたんだよ。
実際に指揮したのは新田だが、明らかに足利が格上だった事が分かる。
142日本@名無史さん:01/12/29 12:44
総勢百数十人の新田軍などに馳せ参じた武将などいませんでした。
新田も足利の嫡男に従った御家人の一人。
鎌倉攻めで目覚しい働きをしたのは事実だが。
143日本@名無史さん:01/12/29 16:47
う〜ん・・・足利の嫡男が反幕府軍にいればこそ、坂東の武士たちも馳せ参じた。
実際には3歳だか4歳だかの幼児に指揮が取れるはずもなく、
新田義貞が事実上の総大将。
新田の悲劇はここから始まった。。。
足利は新田をどう思っていたんだろうね?
山名や斯波、細川、といった連中と同じように尊氏の惣領権のもとにある
一族郎党のひとりと見なしていたんだろうか?
144日本@名無史さん:01/12/29 22:02
尊氏は、鎌倉崩壊は時間の問題だと思っていた。
誰かが倒幕を唱えれば、それで終わり。勢いだけだった。
但し、それには幕府に対抗するべく強力な御旗が必要。
新田では関東の武士は動かない。だからこそ自分の嫡男を
旗頭にした。自信が無ければとても出来ない行為。
かと云って、指揮官が無能では負け戦もあり得る。

ある程度、新田が立った時点で尊氏は鎌倉での勝算を感じ得たと思う。
145歴史の勉強:01/12/30 02:22
小山も千葉も倒幕軍を組織している。
彼らが新田義貞に呼応したとも思えず、
また足利氏に対しても「名目上のボス」ぐらいにしか見てなかったんじゃないかな?
南北朝以降の諸武家の態度見てても、足利氏に対して特別な敬意払ってるとは思えない。
名門、でも俺らの代表者、ぐらいじゃない?
だいたい、義貞の功績は「鎌倉一番乗り」ぐらいじゃないの?
東北からも鎌倉攻めに参加した武士がいたって聞くし。

新田義貞にしたって、尊氏と後醍醐天皇の対立が表面化した時点で
初めて「まつりあげられた」観がある。
もし義貞が中先代以前に病没していたら、
かれは「鎌倉を滅ぼした武将」としてのみ名が残り、
あの非業の最期はなかったかも……
146日本@名無史さん:01/12/30 02:55
山名は準諸侯ということで男爵
147144:01/12/30 03:17
>>145
尊氏が動いたからこそ、全国規模の倒幕運動に結びついたワケでしょう?
で、鎌倉に関しては倒幕軍を一つにまとめる大将が必要になる。
それが俺の云う『御旗』。「名目上のボス」でいいんだよ。
だから幼年の義詮でも、それが勤まったワケだし。

同じ行為で、尊氏と義貞に開きがあるのは「名目上のボス」に
なれるかなれないかの違い、結局は家格の違いだと思う。
148日本@名無史さん:01/12/30 12:55
いくら新田義貞の家柄が低いとはいえ、
血筋はいい方だろう。御家人のなかでは。
いくら名目ボスとはいえ、
足利に対抗できるは新田しかいないとおもう。
149日本@名無史さん:01/12/30 12:59
>148
新田より、吉良や斯波の方が羽振り良いのでわ?
150日本@名無史さん:01/12/30 22:04
江戸時代の譜代大名・板倉家は、足利一族である渋川流です。
151日本@名無史さん:02/01/01 18:41
新田を正統とするのは、明治からじゃなくて江戸時代からなんですね。徳川は新田の子孫を称しているから、新田を正統としたほうが何かと都合がよいんです。
152日本@名無史さん:02/01/02 20:19
age
153日本@名無史さん:02/01/04 02:08
足利忠綱?
154日本@名無史さん:02/01/04 06:32
>>130
足軽ではない。伊達家の家臣であり、伊達家家臣のなかでも名門中の名門です。
後に華族かもしれん...
155日本@名無史さん:02/01/04 18:25
自称新田義貞の子孫って本当に多いな。
本物が滅んでいるからクレームも来ないのか?
156日本@名無史さん:02/01/04 18:31
>>155
新井満子も新田義貞の子孫だよ。
157日本@名無史さん:02/01/04 19:12
>>156
誰、その人
158日本@名無史さん:02/01/05 09:01
ところで、
奥富敬之「清和源氏の全家系 6 新田諸族と戦国騒乱」新人物往来社 1991年
は読んだの??
信用するシナイは別として、
峰岸純夫以外ではコレしかないのでは??
159日本@名無史さん:02/01/09 21:30
あげ 
160歴史の勉強:02/01/09 22:58
どこまで新田氏と定義するかによって、ずいぶん変わってくるのでは?
岩松、桃井は足利と新田の中間みたいな武家だし。
161日本@名無史さん:02/01/09 23:41
源新田朝臣岩松某ということで
岩松は新田。
162日本@名無史さん:02/01/09 23:45
>>120
チチワミゲル父編「新田氏根本史料」は現在群馬県史資料編中世、新田町史資料編で
大丈夫だよ。
163日本@名無史さん:02/01/09 23:47
>>130
新田義綱は城主だよ。
164日本@名無史さん:02/01/10 00:04
>>123
鎌倉幕府成立以前においては、嫡子相続すら危うい状況にあった。
結果として義家流が棟梁になったわけだが、
義家以後は特に血で血を洗う骨肉の争いの勝者(生き残った者)が相続した。
従って、義国流の本宗は成立期にはどちらでもないということ。
実朝が滅亡した後は、足利氏が頼朝や政子の縁者ということで幕府に重用される。
まぁ、江戸時代でいえば、
「越前家の本家は津山(忠直系)だが石高では福井(忠昌系)が上」
みたいなとこでは…?
秀郷流の本宗で考えるとわかり易い。
藤姓足利氏滅亡後は小山氏が勢力拡大するが、
それ以前に支族が分立してるから最早そういうレベル(どっちが本宗か?)は
考えることもなかったのではと思われる。
165日本@名無史さん:02/01/10 00:08
>>160
位官任官の際にどっちで奏上してるかで、
どっちを名乗るかじゃない?
岩松時兼は生物学的には畠山一族だが、
系図ではそうならないので、新田岩松を名乗る。
実際、新田尼の継嗣として伝領してるし。
166日本@名無史さん:02/01/10 01:16
>161
新田朝臣なんていうの?
167日本@名無史さん:02/01/10 02:08
やっと全部読みました。
良スレですね。大変勉強になりました。
俺自身は上杉の台頭と、鎌倉公方あたりが気になっています。、
何故上杉が幅を利かせたのか。元々武士ではなかったのにナンか生意気。
執事高氏もいたのに、他の新田・足利の分家も顔負けです。
168日本@名無史さん:02/01/10 02:09
>>167
 尊氏・直義兄弟の母親が上杉家の出だったからではないか?
169日本@名無史さん:02/01/10 02:13
高師直より嫁の兄弟様様だったの?
170日本@名無史さん:02/01/10 02:14
>167
何といっても外戚だからね。
それに元公家ってのは意外にプラスポイントなんだよ。
171日本@名無史さん:02/01/10 02:20
>>169
 母の一族というのは権力をもちやすい。摂関政治なんかその典型だし、
鎌倉幕府における北条氏の台頭も、おおもとは将軍の母である北条政子の権威からだ。
172日本@名無史さん:02/01/10 11:01
子供の頃「新田義貞」を読んで新田次郎も義貞の子孫とか言ってる友達がいたが、
あれは本当だったのだろうか?
173日本@名無史さん:02/01/10 11:11
>172
本人が否定されてます。
174日本@名無史さん:02/01/10 20:32
新田次郎は山梨の新田村出身の次郎だから、新田次郎。と本人があとがきに書いていた。
175日本@名無史さん:02/01/10 20:52
難太平記に足利義兼は源為朝の子とありますが、本当でしょうか?
176日本@名無史さん:02/01/10 21:03
多分嘘でしょう。
保元の乱で敵だった為朝の子を、義康が引き受けるのは考えにくいです。

自分の実子たち(義清、義房、義長)を差し置いて義兼に相続させているのも何か変。
要は熱田大宮司季範を通じて、義朝―頼朝家と関係がある義兼が嫡男に選ばれたわけですし。
177日本@名無史さん:02/01/10 21:08
>>167
二階堂氏と同じく、実務派の公家だから重宝された。当時の武士では読み書きできない人も結構居たみたいだからね。
178日本@名無史さん:02/01/10 22:53
>176
やっぱりそうですよね。
すると、了俊は何のために為朝の子孫を名乗ったのでしょうか?
より宗家に近い血筋だからですか?
179日本@名無史さん:02/01/10 23:01
そのころ了俊はグレていたから・・・。
180日本@名無史さん:02/01/10 23:19
>179
ワラタ
181日本@名無史さん:02/01/11 00:54
>>167
上杉氏について、レスします。
尊氏の母が上杉氏だったのは周知のことですが、尊氏の祖父足利家時も、
母は上杉氏初代である藤原重房の娘です。
足利頼氏には北条時房の娘が正室としておりましたが、男子できず、家女房だった
上杉氏の腹である家時を嫡子としたのです。
ちなみに貞氏の正室も北条(金沢)顕時の娘でしたが、上杉頼茂の娘、清子の産んだ
尊氏が嫡男となっています。
田中義成氏の足利時代史によると、

そもそも元弘の初にあたり、尊氏に勧めて義兵を挙げしめしは(上杉)憲房なる事、難太平記に見ゆ。
故に憲房は足利氏においては所謂佐命の功臣ともいうべき人なれば、その子孫に権力の移れるはもと
より偶然ならず。而して憲房は建武2年四条河原の合戦に討死せり。その子重能以下三人も皆尊氏・
直義に重く用いられたり。中にも憲顕尤も信任せられたり。
初め直義の鎌倉に鎮せし時、憲顕は既に当時より執事職として関東の政務に預かれり。その後、義詮
鎌倉に居るに及び、憲顕執事たること旧の如し。ついで基氏が鎌倉を治むるに及び、憲顕は更に之を
補佐せり。基氏卒して氏満立つに及び、憲顕は又もや執事としてこれを輔けたり。
此の如く直義以下四代の主に仕えて東国の政務を取りたりければ、その勢力の関東に扶植せられしこ
とは非常なり。

とあります。また憲顕は直義派だったので、一時越後に逼塞しますが、基氏は鎌倉で幼少より憲顕に
育てられたので、しきりに書状を遣わし、呼び戻して執事に再任したそうです。
182日本@名無史さん:02/01/11 01:09
なるほど。いや事細かく解りやすいです。
183日本@名無史さん:02/01/11 01:48
田中義成の足利時代史とか、竜粛の鎌倉時代史とか
三上参次の江戸時代史とか、今でもじゅうぶん読めるよね。
もちろん最近のほうが研究が進んでるのは分かるし
最近の本もいいけど、でもこれらのほうが読みやすいんだよな。
184日本@名無史さん:02/01/11 22:27
>178

了俊はあれだ、「九州の覇王」たる自分の幻影に酔ってたワケよ。特に晩年は。
だからかつて九州を武力で制圧した為朝に、自分を同一化したかったんだな。
185歴史の勉強:02/01/11 22:52
「通史」について。
歴史の本は、「通史」と「論文」に分けられる気がする。
たとえば、中公の「日本の歴史」や
講談社が現在刊行している「日本の歴史」は通史だと思う。
それに対して、学術書に掲載されている文は論文だと思う。
僕が思うに、通史の本である程度まで歴史を極めると、
そっから先は論文を読むしか無くなる。
論文は、ハッキリ言ってマニアックな内容だから、
よっぽど興味、かつ知識がある人じゃないと読んでも理解できない。
だから、一般論で、読んで面白いのは通史に決まってる。
論文は通史に感じられるダイナミズムがない。
太平記を読んでも、南北朝の通史を読んでも、
歴史が動いてゆくダイナミズム……動態が感受できる。
そりゃそうだ、通史の中から一カ所を選んで、
深く掘り下げるのが論文だろうから。
だいたい、単独の論文は分量もあまり多くない。
あまり長くすると、結局はテーマを絞った通史になってしまう気がする。

僕が推薦する通史は、戦前に渡辺世祐先生が書かれた
「関東中心足利時代之研究」。
今でも、鎌倉府の時代の研究には欠かせない。
186歴史の勉強:02/01/11 23:15
鎌倉時代の上杉氏の実態・実力は
どれくらい解明されているのでしょうか?

関東中世史屈指の碩学・湯山学先生(湘南物語の著者でもある)は、
京都にいた上杉氏が嫡流だったと書いておられました。
関東足利氏の執事(便宜上、管領とする)は、
もともと複数の家で相伝されていました。
上杉憲顕と同時期に、高師冬(師直のいとこ)も任命されています。
二人の没落後、畠山国清が就任しています。
次が高師有(師秋の息子。師秋は師直のいとこ)。
彼の後に上杉能憲(山ノ内家出身で、宅間家の養子)が任命されて以来、
上杉氏に相伝されて、長尾景虎を養子に迎えるに至ります。
187日本@名無史さん:02/01/11 23:37
なるほど。
188日本@名無史さん:02/01/12 00:05
重房は1252(建長4)宗尊親王の鎌倉下向に従って御家人となった
御家人なの? 高氏は?
189歴史の勉強:02/01/12 07:07
御家人じゃないでしょ。
登録されないと御家人じゃないから(防長の大内氏も御家人ではない)。
足利氏との関係から察するに、足利氏の被官じゃないでしょうか?
高氏のばあい、ちょっとわかりません。
でも、尾藤氏や南部氏のように、
御家人であるにも関わらず有力御家人の被官になってる家もありますから、
その可能性も否定できません。
190日本@名無史さん:02/01/13 01:57
>>189

> 足利氏との関係から察するに、足利氏の被官じゃないでしょうか?

上杉氏が足利被官であるか、外戚として一門にカウントするかは結構説が分かれる
みたいですが(私は被官だと思ってます)。少なくとも御家人では無さそうですね。

> 高氏のばあい、ちょっとわかりません。

『高階系図』に、「刑部丞惟重」という高氏の人物が承久の乱に際して討ち死にした事を
受けて、息子義定が賜った近江国粟田(太)郡内の辺曽村を、弟重氏に相続する際の
安堵を「政所御下文」によって賜ったり、和泉国放光寺領を「相伝之処、正嘉三十一月
相代々御下文并手継証文等、奉寄附源頼氏畢」といった様に足利頼氏に献じたり
しているのが見えます。単なる被官の土地なら、御家人をコントロールするための
機関である政所が安堵する事も無いんじゃないかと思いますので、高氏は御家人の
身分を有していたのではないかと考えます。
191 :02/01/13 03:31
等持院の寺領の年貢の取立人が、我が先祖なのですが、
等持院は足利尊氏と関係があるので、我が先祖も足利と関係あるのかなあ。
分からない。
192 :02/01/13 11:34
193歴史の勉強:02/01/13 12:07
「時宗」でも、得宗時宗が居並ぶ御家人を前に、
「幕府が壊れても構わん」(爆弾発言)
とか言ってましたが、
御家人制度はかなり早い時期に破綻しつつあったんですよね。
それこそ、もう北条泰時の時代には危機が顕れつつあった。
尾藤氏も南部氏もれっきとした御家人ですが、得宗家の被官となっていた。
御家人制度最大の矛盾点は、他の御家人の被官になっても、
規定の「税」は幕府に納めなければならず、
所領を売却しても課せられた「税」は納めなければならなかったこと。
新田氏は、新田義貞の時代には所領を売らなければ、勤めが果たせなかった。
大番役や鎌倉番役なんかも自費ですからね。
だから、御家人はもともと貧富の差が非常に大きかった上に、
「富める御家人はますます富み、貧しい御家人はますます貧しく……」
っって悪循環がかなり早い時期には顕在化していたことになりますね。
全然不公平なくせに、名目上は公平なんだからさ、御家人て。
モンゴル襲来によって幕府が衰退したという言説はプロパガンダに近く、
実際には御家人制度の矛盾が御家人の離反を招いたと考えるべきでしょう。

高氏のばあい、御家人と認定されるくらいの実力があったのでしょうが、
もともと足利氏の縁戚ですから(初代が足利家から入った養子)、
実質的には被官(執事)として公認されていたのでしょう。
鎌倉末期に足利氏が有していた兵力の40%は高氏のものだったと言うから、
並の御家人以上の実力は持っていたのでしょう。

くどいようですが、御家人は「登録されなければ」御家人ではなかった。
だから、肥後の菊池氏は承久合戦以後やっと御家人になれたわけで。
そういう経緯を見ると、松浦党のほうが由緒ある御家人なんだよね。
鎌倉後期、北条氏が勢力を異常拡大していった背景には、
御家人になれないけれど、
政治的に重要だと考えられた諸勢力を傘下に加えていったから、
と僕は考えるのですが、いかがでしょうか?
194歴史の勉強:02/01/13 12:20
曽我兄弟は、もともと伊豆の河津家の生まれでした。
でも、父親が伊豆の豪族と争って殺されたため、
母の連れ子として、小田原市あたりにいた曽我氏の養子となりました。
当時の感覚としては兄弟は河津と称されていてもおかしくないのですが、
御家人としては曽我を名乗らざるを得ませんでした。
河津氏が御家人として登録されていなかったからです。

鎌倉の根拠地に近い伊豆の河津の武家でさえ登録されないことがあったのです。
とすると、よっぽど特別な条件でも無ければ、
上杉氏が御家人になれた可能性はなかったでしょう。
御家人制度は非常に排他的で、幕府はもともと特権保護集団でした。

僕が思うに、北条氏が勢力拡大していったのは、
御家人になれない有力者を配下に組み込まないと、
社会がうまく回転しないようになっていったからではないでしょうか?
鎌倉幕府はもともと関東武家の連合機関という側面が強かった。
ですから、京都の公家や寺社領には原則として手出ししない……
というより、最初はそんな実力がない政権だったわけです。
でも鎌倉はどんどん成長していかざるを得なかったわけで。
永仁の徳政令だって、本来はそういう政策そのものが問題ある。
だって、貨幣問題に介入すると、公家や寺社と衝突しますから。
そういう中で、北条氏は結局勢力を拡大していかなければならばかった。

北条泰時/時頼/貞時の名政治家伝説も、
そういう時代の苦しみの産物だと思うのですが。
195 :02/01/13 15:40
196日本@名無史さん:02/01/14 00:07
>足利氏が有していた兵力の40%は高氏のもの
まぎらわしいな(w
197日本@名無史さん:02/01/14 20:25
新田陽子
198 :02/01/15 11:46
 
199徳川満腔:02/01/18 16:48
新田義貞は男前、足利尊氏はブサイク
200歴史の勉強:02/01/18 23:03
まったくまったく。足利尊氏が「高氏」のままだったらどうしよ?
ただまあ、去年の「時宗」で右大将頼朝公以来の御家人が居並ぶ中で
高師氏が異彩を放っていたのは注目。
高氏は御家人だったようだし、高階氏の系統だから名門には名門。
だから経済力は並の御家人よりあったと思う。
大河「太平記」では、尊氏が篠山で決起した時10,000の兵力としていた。
とすると、高氏の兵力は3〜4,000。
古典「太平記」では5万騎としていたが、実際にどれぐらいいたか?
だから高氏は名門だけど、足利氏と主従の関係を結んでいたんでしょう。

けっこう気になるのは、
細川氏や仁木氏のような末流と高氏はどっちが身分高かったか。
実力で言うと圧倒的に高氏が強かったと思うんだけど……
201日本@名無史さん:02/01/20 21:38
高氏は室町期に滅亡してるから・・・
観応擾乱の時点である程度家格が確定したのでは??
202日本@名無史さん:02/01/21 02:05
師泰の子孫って生き残っていなかった?
203名前:02/01/21 02:07
この時間帯にまだ寝ずにおきて2chやってる人間いるんだね!
204日本@名無史さん:02/01/21 03:07
こんな時間序の口だよ。
4時5時はもちろん、8時9時までずっと居るよ。
もちろんその後もね。
205源頼朝:02/01/21 08:35
>>202
安芸の国司氏がそう。
206歴史の勉強:02/01/21 20:54
安芸の国司氏か。勉強になる。
しかし「太平記」で旧制度をぼろくそに叩く役だった師泰の子孫が「国司」とは……

まあ、家格ってのは南北朝に確立されてる観はあるね。
細川だって、もともとは仁木と大差ない程度の家格だったはず。
南北朝初期から細川氏の活躍は目を引くけど、
仁木義長の兄・仁木頼章が執事だった可能性もあることと、
仁木義長が九州探題(1336年ごろ)に任命されたとこを見ると、
仁木氏の方が高かった可能性もある。

石堂、桃井、高、等々の一族が没落したこと、
畠山が関東で勢力を失ったこと(近畿の畠山氏は畠山国清の弟の子孫)、
家格は高かったはずの渋川氏がその後もぱっとしなかったこと、
吉良氏も一地方武家で終わったこと(家格は斯波に次ぐ)、
上杉氏が関東で有力になったこと(しかも関東上杉家は庶流らしい)、
これ全部南北朝の遺産かも知れない。

細川の隆盛は、結局、南北朝期に四国で勢力を広げたことにある。
渋川氏なんかがパッとしないまま終わったのは、
おそらく南北朝期に有力な武将が出ず、勢力を扶植できなかったからだろう。
皮肉な話だが、南北朝にどれぐらい有力な祖先を輩出したかで、
足利時代いっぱいの勢力程度が決定された観がある。
207日本@名無史さん:02/01/21 21:35
みなさん、今川をお忘れでは??
208日本@名無史さん:02/01/22 00:17
>>207
吉良、斯波が没落した戦国時代では
家格がNO.1だったね・・・。
209歴史の勉強:02/01/22 09:14
No.1てこたないんじゃ?
だって管領家は細川、斯波、畠山だったし。
まあ、足利一門で唯一戦国大名化した家だったけどね。
今川氏は基本的に関東を押さえるための守護家だったから、
家格はあまり意味がないと思うけど。
210日本@名無史さん:02/01/22 20:51
>>209
戦国大名:最上、大崎・・・
211日本@名無史さん:02/01/23 01:24
斯波氏は、義銀以降はどうなったの?
212名無しさん:02/01/23 03:23
>>210
康暦の政変で細川頼之にとって変わった斯波義将の叔父家兼が大崎姓を名乗り、さらに最上や相馬氏など分家だったような・・・
 
 最上や相馬などは、奥州では新興勢力だったんですね。
213名無しさん:02/01/23 03:32
>>186
 関東管領上杉氏ですが、鎌倉公方が滅亡後に古河公方や堀越公方など足利氏を鎌倉に入れていなのですが、当時の上杉氏は足利氏を主君としては見ていなかったのでしょうか?(足利宗家に対する細川政元みたいな?)
 詳しく分からないので、よろしかったら教えてください。
214日本@名無史さん:02/01/23 04:03
>>213
やはりここ等の大河ドラマが見たいよ。
215日本@名無史さん:02/01/23 11:28
>>212
相馬は平氏だよ。
216名無しさん:02/01/23 12:47
 うわあ〜...(汗
 相馬の先祖は高望王...名門だった...勘違い...
217日本@名無史さん:02/01/23 19:19
>>211
津川系でどっか残ってなかったっけ?
あの辺系図がぐちゃぐちゃで良く分らんけど

義良は義敏、義廉どっちの子なんでしょう?系図によって違うんだが・・・
218日本@名無史さん:02/01/23 19:55
>>217
義良は義敏の子です。別名義寛。
義敏・義良と対立した越前朝倉氏は、義廉の子を名目上の主君として
越前に迎え、その子孫は朝倉氏と婚姻を重ね、鞍谷氏と名乗ったそうです。
219日本@名無史さん:02/01/23 20:05
>>211
山に逃げ込んだ。そこで信長は近隣の老人をかき集めて山狩りをした。それが元になり昔話のお爺さんは山に「斯波」刈りに逝く。
220歴史の勉強:02/01/23 23:12
>213
古河公方は上杉氏と対立してたわけで、鎌倉に入れないのは当然だと思います。
足利政知(堀越公方)を鎌倉に入れなかった理由はよくわかりません。
「鎌倉大草子」の説明が当を得たものとも思えないし、
足利義政が政知に鎌倉へ入ることを禁止したとも……。
ハッキリした理由はわかっていないというのが現状です。

上杉氏が足利氏を主君と考えなかったとは、ちょっと考えがたい。
もともと、足利氏の権威で関東を支配したような家だし、
古河公方を征討するのも、京都の支持あってのことですから。
だいたい、伊豆はずっと上杉氏(山ノ内家)の領国だったわけだし。
まあ、足利義政は上杉氏を警戒してたと言いますが(ホントかな?)。

もともと、鎌倉公方復活を支持したのは管領・畠山持国だそうです。
彼が1454年に引退するんですが(55年から畠山氏の内紛が始まる)、
それが足利成氏を爆発させる一因になったらしい。
なぜ、持国が関東公方復活を支持したのか(望んだのか?)、
上杉氏が京都の誰とどういう関係を結んでいたかが問題でしょうね。
221名無しさん:02/01/24 01:33
>>220
なるほど...詳しい解説有難うございました。

 畠山持国って、6代将軍義教に疎まれて更迭されたんでしたっけ...
 足利政権って、初期は南朝(さらに後南朝勢力)や鎌倉府など内紛が多すぎた・・・
 政権を磐石なものにする事は、とても大変な事なんですね。
 徳川のようにできなかったのは、何が原因だったのでしょうか?
 義満や義教あたりががんばってたら・・・と思うのは私だけでしょうか?
222日本@名無史さん:02/01/24 09:40
>>218
どうもどうもです。鞍谷氏は知らなかったなあ。
鞍谷氏はどういった本に載ってるんでしょうか?

やはり義寛は義良と同一人物ですか。系図によって、同一だったり
分れてたりしてるんですよね・・・

他には、義雄(義維)と義延が義敏、義寛のどちらの子か系図によって
違ってますね。義良の子の義達が津川義近と同一人物なんて系図もあった
し、義統と義純が同一だったり、もうさっぱりです。
223日本@名無史さん:02/01/24 10:54
>>218
鞍谷氏って足利義嗣の子孫では?
224日本@名無史さん:02/01/24 22:27
>>223
足利義嗣−鞍谷嗣俊−嗣時−嗣友(嗣知)
だよな?
225日本@名無史さん:02/01/24 22:32
>>218 223 224
松原信之著「越前朝倉一族」には、斯波氏の子孫が鞍谷殿と呼ばれたとあるが…
どっちが正しいのじゃ?
226日本@名無史さん:02/01/24 23:08
案外、鞍谷氏=足利氏というのは、朝倉が箔をつけるために流した噂では?
朝倉は代々鞍谷氏と婚姻を結んでいるからね。足利一族斯波氏というのを
ちょっと繰り上げて足利義嗣の末だということに。鞍谷氏自身もそう吹聴
したかもしれない。
>223,224さん
足利義嗣の末というのは、何が典拠となっています?調べたいので教えてください。

浅井・朝倉スレで語るべきだったか?
227日本@名無史さん:02/01/25 11:51
>226
朝倉氏と鞍谷氏との婚姻って誰と誰?
義景と鞍谷刑部少輔(?)の女とのことしか知らないけど。
228日本@名無史さん:02/01/25 12:25
>227
貞景の四女(義景のおば)が鞍谷氏に嫁いでいるよ。
229日本@名無史さん:02/01/25 14:57
>228
その鞍谷氏ってだれ?
230228:02/01/25 18:23
>229
私のネタ本も>225と同じ「越前朝倉一族」ですが、巻末の朝倉氏系図には、
女 鞍谷殿妻 と書いてあり、誰それの妻とは書いてありません。
231日本@名無史さん:02/01/25 18:34
すると婚姻を重ねているというほど密接というわけでもないんですね。
232228:02/01/25 18:40
他の系図では、2代氏景の姉も鞍谷に嫁いでいるということになってます。
こちらは 形(刑)部大輔副知室 武衛之末流 と添え書きしてあります。

本当かどうか正直、よくわかりません。
233日本@名無史さん:02/01/25 18:58
なるほど、たしか刑部大輔の娘が義景の愛妾ですね。
234224:02/01/25 20:35
>>226
とりあえず、「系図纂要」の第10冊、足利将軍家を見てくだされ。
235226:02/01/25 20:38
>234
ありがと、勉強します。
236日本@名無史さん:02/01/27 19:40
武衛斯波系では、牧家がありましたね。
牧長義が信長に仕えていたかと。その後は知りませんが。
237日本@名無史さん:02/01/30 22:14
>>234

「系図纂要」かあ。消防の頃、図書館で必死になってコピーしたな。
とにかく他の系図にはない名前がここにも!あそこにも!という感じだった。

今になって考えてみると、随分怪しい部分もあったけどね。
238日本@名無史さん:02/02/03 12:24
石橋家は超よわ!
239日本@名無史さん:02/02/07 19:09
石橋氏て奥州総大将じゃなかったっけ??
240石橋尾張守:02/02/09 03:12
>>238さん
石橋和義(尊氏公の再々従兄弟)の戦功は等閑視できませんぞ。

>>239さん
そうです。
石橋棟義(和義の子息)が奥州総大将に任じられました。
241日本@名無史さん:02/02/09 07:36
石橋家って足利一族中じゃ家格高かったんでしょ
242日本@名無史さん:02/02/09 08:18
石橋棟義って義幸の子じゃないの?
243日本@名無史さん:02/02/09 22:26
石橋家は大内に城を乗っ取られた。
244日本@名無史さん:02/02/10 17:20
>>243
その頃は秩序もなんも無い時代だから、
そんな頃に足利一族で食ってけるのって
将軍家・古河公方・小弓御所・細川・今川・畠山くらいでは??
245日本@名無史さん:02/02/12 18:43
何故だ…。
徳川氏譜代で新田流を名乗るのが多い…。
246日本@名無史さん:02/02/12 20:55
ほとんど詐称だよ。
247日本@名無史さん:02/02/12 21:07
>>245
多いのか?新田流は酒井ぐらいじゃなかったっけ?
248   :02/02/12 21:35
>>247
酒井は、大江姓も使用。
大江→海東→酒井
という系譜。
249日本@名無史さん:02/02/12 23:08
松平も酒井も下賎、カス、ゴミ
250日本@名無史さん:02/02/12 23:09
>>249
貴様はボウフラじゃ!
251日本@名無史さん:02/02/12 23:21
室町時代新田一族は地下に潜ったから詐称しやすかった。
252日本@名無史さん:02/02/12 23:43
世良田氏のいた信州伊那と三河松平郷はどう繋がるんだろう?
253石橋尾張守:02/02/12 23:55
>>241さん
そうです。石橋家は吉良・渋川と並び
将軍家御一家衆に列せられました。

>>242さん
石橋義幸の子という説もありますね。

>>243さん
そうです。大内許し難し。
254日本@名無史さん:02/02/13 00:01
>>253
そういや福島には大内姓おおいや
255日本@名無史さん:02/02/13 00:01
全然つながらない。捏造だから。
256日本@名無史さん:02/02/13 11:09
>>243
乗っ取った大内は伊達の重臣。
257日本@名無史さん:02/02/13 13:11
>>256
その大内は、大内義隆の大内とは別。
258日本@名無史さん:02/02/13 16:54
>257
一応一族ということになっているよ。
259日本@名無史さん:02/02/13 17:36
>>258
多分、江戸時代に詐称したのでしょう。
260日本@名無史さん:02/02/13 18:03
新田一族って滅んだか、足利氏に従ったかどっちかだね。
新田本家−滅亡
脇屋氏 −滅亡
大館氏 −足利氏に従う
岩松氏 −足利氏に従う
横瀬氏 −足利氏に従う
など。

261日本@名無史さん:02/02/13 18:10
>>259
江戸時代よりも前からだよ。
262日本@名無史さん:02/02/13 20:50
>>260
滅ぶってどういう状態をさしてるの?
新田氏本宗(新田荘支配権者+新田一族代表権者)は新田岩松氏が継承したし、
生物学的には新田堀江氏が相模で生き残ったのでは?
263日本@名無史さん:02/02/13 22:10
>>260
横瀬も詐称だよ。確か武蔵七党の秩父氏だかが本姓じゃなかった?
264日本@名無史さん:02/02/13 23:33
後は佐田新田や新田中村もあるがなぁ
堀江も含めて全部疑わしいさ
265日本@名無史さん:02/02/13 23:47
>>260
没落して一所懸命の地どころか重代の宝物などを失い、継続した「家」として社会的に認知されなくなった状態。
例:武田勝頼自刃後も生き残った武田一族は各地に散ったが武田家は滅亡。
例:足利義昭は信長に京から追放された後も征夷大将軍であったが、室町幕府は実体が無くなったため足利将軍家は滅亡。
266日本@名無史さん:02/02/14 18:40
>>260、263
横瀬由良氏は貞氏が入嗣してから新田横瀬に。
岩松は最初から(新田尼から相続した時点で)新田岩松。

>>265
平氏は?
甲斐源氏本宗の逸見氏は??
やっぱ滅亡って言ってるね。
ということは、
名跡継承や大名→改易→交代寄合も滅亡ってこと??
山名・里見・最上・・・
267日本@名無史さん:02/02/15 19:34
江戸幕府には1万石以下に格下げされた家は家と見なさない慣習がありましたので。
ちなみに滅亡ではなく、断絶。
268日本@名無史さん:02/02/24 22:18
>>267
そのために交替寄合があるのでは??
269日本@名無史さん:02/02/28 00:48
>>73

>で、源義国は、もともと藤原姓足利氏の婿でしたが、晩年は新田郡に移りました。

異説ありぬる。
義国の母が藤原基綱女ということにはかわりないが、この人の父には官位がある。
藤姓足利氏は、もと締めの淵名太夫家綱や、「平家」の「橋合戦」に登場する足利俊綱も無位無官なのに、
一族が官位を得ているというのはありえないというもの。同時期の別人だとか。
ソースは手元にないが、要望があれば図書館でも一度見てくる。
270日本@名無史さん:02/02/28 00:49
あげ
271日本@名無史さん:02/02/28 20:25
>>269
相撲人って渕名氏だったっけか?
272日本@名無史さん:02/02/28 21:47

そのとおりです。でも
さがみにんの写しまちがいという説もあって……
どちらか自分は判断できないが、相撲人のほうが面白いとは思う。
273日本@名無史さん:02/02/28 21:51
藤姓足利氏と源氏足利の関わり具合が詳しく知りたいよ。
274日本@名無史さん:02/03/01 20:00
>>273
藤姓足利氏・新田氏:平氏の家人
源姓足利氏:院の家人
275272:02/03/01 21:57
>272

逆でした。相模人と書かれた史料があって、淵名氏は相模から流れてきた一族なのだろうという推測があったところ、
「それは相撲人の誤記」と指摘されていたようです。
276素人:02/03/01 22:12
結構メジャーなことでも、実はよくわかってないことが多いんだな
277日本@名無史さん:02/03/02 18:25
園田御厨どうよ?
278日本@名無史さん:02/03/02 20:29
足利学校では、武士にとって軍事的な関心事である、
易学を教えていました。
279日本@名無史さん:02/03/03 00:02
平賀氏ってどなったの?
280日本@名無史さん:02/03/08 00:08
源内
281日本@名無史さん:02/03/19 21:36
優良あげ
282日本@名無史さん:02/03/22 21:37
松平元康が徳川(得川)なんかを名乗ったのは、足利である今川家への決別なんだろうな。

徳川の祖、徳阿弥という名前はうそくさいが、全くのでたらめとも思えない。どうなんだろう。

ところで平賀氏って?
283日本@名無史さん:02/03/23 00:39
>>282
義光流嫡流:平賀氏→北条時政女婿の平賀朝雅の平賀氏
284日本@名無史さん:02/03/23 01:43
285日本@名無史さん:02/03/23 01:50


五日、三河国鳴瀬村(原注:今の成瀬村)に到着。里人が疑い、
村に入れなかったため、満政(訳注:満昌の間違いかも)の所領の坂井郷に行って、正行寺を頼る(原注:作手の正行寺村へ入御という説もある。
もしそうなら、坂井郷ではないかもしれない)。

酒井与四郎忠則
三州鳴瀬に住んだ後、大浜の下宮に蟄居。
成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に住む。
この三人は兄弟で、新田一族、大館の末裔、大館太郎兵衛親氏の子である。

永享八年二月十一日、公方家の命を奉じて、
平井加賀守広利が三千の兵を率いて京都から三河、
遠江に下向し、新田の余族を捜索する。故右京亮政義の二男、
万徳丸政親が、この時三河松平に隠れ住んでいたのを生け捕り、
梅原肥前守に預ける

永享十一年、洞院大納言実熈が三河国に流され、
大河内に滞在する。嘉吉三年、帰洛して内大臣に任ぜられる。
実熈が帰洛の時、富貴の者であった松平太郎左衛門尉泰親が金銀を貸し奉って供奉する。
泰親の娘は、実熈の妾であった。この妾に男子が一人おり、富永五郎実興と称した。
三河国の富永御所というのは、実興殿の事である。三州山本の祖である。
また、尾崎、山崎らも、この子孫である。
286日本@名無史さん:02/03/23 02:01
287日本@名無史さん:02/04/01 22:25
288日本@名無史さん:02/04/02 07:31
良すれあげ
289日本@名無史さん:02/04/03 22:55
「永昌記」 嘉承元年(1106年)6月10日条

 (前略)
 常陸合戦事、又宣下春宮大夫、義光並平重幹郎党、仰東国国司可召進之、義国令親父義家朝臣召進之
 (後略)


 「中右記」永久2年(1114年)8月16日条

 (前略)
 為義義国相論郎党家綱、依上野国司訴召何之處、本主両人相論候如何、
 仰云、為義非我郎等之由申、甚非常也、雖誰人従者、
 所推取之雑物可糺返也、付為義可召出之由、仰明兼了、
 (後略)


 「本朝世紀」 久安3年(1147年)7月24日条

 今日仙院御覧武士。如日来儀也。佐渡守平盛兼。平盛時。源親弘。散位源義国。主殿助同時光。
 各渡御前。義国以男義康為代官。自身不参云々。


 「本朝世紀」 久安5年(1149年)1月30日条

 今朝散位源義国郎等与后宮職大炊女夫並男童闘乱。権弁光頼小舎人云々義国郎等被殺害了。
 義国発郎従等追捕其家。事及天聴。被召下手輩云々。
 (後略)


 「米良文書(熊野那智大社文書)」1083号文書「源義国祈願状寫」仁平元年(1151)2月25日

 敬白 熊野山 御宝前
  奉供
   御幣帛
   御花米
   御燈三万三千燈
  右、奉祈息災安穏、増長福寿、心中所願皆令満足之由也、敬白、
 仁平元年二月十五日    源義国敬白


 「米良文書(熊野那智大社文書)」1084号文書「源義国寄進状寫」仁平元年(1151)2月25日

  美作国稲岡南庄熊野本山之御師職高坊範助法印御坊所申付也、
 可抽御祈祷精誠之由、所被仰下也、仍執達如件、
 仁平元年二月十五日    源義国(花押)

 この熊野那智大社文書2通は、偽作の疑いが濃いと言われる。


 「尊卑分脈」清和源氏

 源義国
 式部丞、帯刀長、加賀介、従五位下、足利式部大夫、母中宮亮藤原有綱朝臣女、
 義家朝臣三男、今世相続源氏流正嫡也、
 或記云、久安六年、月日、参陣之時、不測而於路次参会大炊御門右大臣于時右大将、実能公
 被称為狼藉、以侍随身等被打落、仍郎従等即含憤馳向本所、焼払畢、依之勅勘、蟄居下野国畢、
 仁平四年三十六出家 号荒加賀入道 久寿二六廿六卒 蟄居下野国足利別業


290日本@名無史さん:02/04/03 22:56
ゆつるこかんのかうかうの事、をうなつか、をしきり、せらた、かみひらつか、みつき、しもひらつか、こせんのこかんなり、
たのさまたけあるへからず、このむねをそんして、百さうさたのものあんとすへし、たしかにたしかにゆつりおハぬ、
  仁安三年六月廿日
 (花押:新田義重) 源(花押)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
譲る空閑の郷ゝの事、女塚、押切、世良田、上平塚、三木、下平塚、御前の空閑也、
他の妨げあるべからず、この旨をそんじて、百姓さたのものあんとすへし、たしかにたしかに譲りおハぬ、
  仁安三年六月廿日
 (花押:新田義重) 源(花押)


 「正木文書3号・長楽寺文書123号」「新田義重置文」

下 (花押:新田義重)
こあまたあれと、らいわうこせのハゝの事をゝもヘハにたのみさうハゆつりたるなり、ハゝの事らいわうこせんをろかにあるへからす、
それにとりてもこかんとてハ、らいわうこせんかハゝにみなゆつるなり、ハハかためニおろかニあるへからす
こかんのかす
をうなつか、えたかみしも、たなか、おゝたち、かすかハ、こすみ、をしきり、いてつか、せらた、みつき、かみいまい、しもいまい、
かみひらつか、しもひらつか、きさき、丁ふくし、たこう、やきぬま、このかうかうしたいにゆつりわたす、たのさまたけあるへからす、
あなかしこかしこ、
  仁安三年六月廿日 (花押:新田義重)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
下 (花押:新田義重)
子数多あれど、らいわう御前の母の事を思へば新田の御荘ハ譲りたるなり、母の事らいわう御前疎かにあるべからず、
それにとりても空閑とては、らいわう御前が母にみな譲るなり、母か為に疎かにあるべからず
空閑の数
女塚、江田上下、田中、大館、粕川、小角、押切、出塚、世良田、三木、上今井、下今井、
上平塚、下平塚、木崎、長福寺、多古宇、八木沼、この郷々次第に譲り渡す、他の妨げあるべからす、
あなかしこかしこ、
  仁安三年六月廿日 (花押:新田義重)

291日本@名無史さん:02/04/03 22:59
よく、「源氏将軍滅亡後は足利氏、或いは新田氏が源氏の嫡流として見なされていた。」とか、
「本来は新田氏が兄の系統なので嫡流であり、足利氏は弟なので庶流であるが、
鎌倉期に新田氏が源頼朝に嫌われたために、足利氏にその地位を奪われた」、
などと言う文章を目にすることがあるが、
果たしてこれは事実と言えるのだろうか?
 結論から言ってしまえば、これは事実ではない、と言える。
 源義家の三男義国の家督は、新田氏の祖となる長男義重ではなく、
足利氏の祖となる二男義康が継いだのである。

 まず「本朝世紀」久安3年(1147年)7月24日条に、
鳥羽法皇が北面の武士を参集させたという記事がある。
 今日仙院御覧武士。如日来儀也。佐渡守平盛兼。平盛時。源親弘。散位源義国。主殿助同時光。各渡御前。義国以男義康為代官。自身不参云々。
 とあることから、義国が鳥羽法皇の北面の武士であり、
義康が、義国の「代官として」鳥羽法皇の元に馳せ参じていることが分かる。
何故、義国本人が参向しなかったかは不明だが、
この時点で義国は66歳であったと思われ、
後継者として義康を披露したとも考えられないだろうか。
なお、この時点で義康は21歳だったと考えられる。
 義康はこの後、

 仁平2年以前    (1152) 大膳亮                (26)
 仁平2年1月28日 (1152) 右衛門少尉、             (26)
 仁平2年6月22日 ( 〃  ) 検非違使               (〃 )
 保元元年7月11日 (1156) 検非違使、左衛門尉、昇殿、      (30)
 保元元年7月30日 ( 〃  ) 検非違使、六位蔵人          (〃 )
 保元元年8月6日  ( 〃  ) 従五位下、蔵人、検非違使       (〃 )

と順調に昇進していく。
 一方、義重の昇進はどうだったのだろうか?

 仁平3年1月22日 (1153) 内舎人                (40)
 平治元年1月29日 (1159) 大炊助                (46)
 仁安3年1月6日  (1168) 従五位下               (55)
 と、義康に比べても極端に遅く、また最終官職も大炊助(六位相当官)であった。
義重と義康の年齢差を考えても、その差は歴然としている。
 また、義康は義国の本領足利庄と梁田御厨を伝領しているが、
義重が領したのは、新たに開発した新田庄などであった。
 新田庄が立券された保元2年当時、その領家は藤原忠雅であった。
忠雅は左衛門督兼検非違使別当であり、検非違使であり左衛門尉となっていた義康の直接の上司であった。
新田庄の立券には、義康の中央へのパイプをもってしてなされたのだった。
 これらを考えると、義国の家督は、義康であったことが分かるだろう。
 ただし、保元2年5月に義康が31歳で没した後、
義重が一時的に義国流源氏の頭領的地位にあった可能性はある。
義重が、義康没後に大炊助に任じられ、義康と同じ従五位下に叙されており、
治承4年(1180)9月、東国に下向するまでは平氏に仕え、
在京していることが分かる。これが、基本的に在京していたのか、
それとも上野国の所領と京を往復する生活だったのかは不明だが、
仁安年間(1166〜1169)には平氏によって一時足利庄の領主職を与えられているのである。
この時期の足利氏の動向は殆ど分かっておらず、
292日本@名無史さん:02/04/05 19:24
足利義昭の子孫って絶滅したの?
293歴史の勉強:02/04/05 23:03
いやほら、昔は長男絶対じゃなかったからさ。
嫡子はどーやって決まったかというと、お母さんの家格で決まった。
んでなきゃ、お父さんが最終決定者。もちろん、絶対ではない。

それに、惣領と庶子は平等って感覚が非常に強かった。
足利と新田のばあい、嫡流争いって感覚は無かったと思う。
もし両家の分化がもう少しおそければ、新田が足利の庶家となった可能性もあるだろう。
両家は御家人としては全く別の家とされたが、どっちか不分明な家もあった。
岩松や桃井は両家の中間あたりにいたような家だったし。
たまたま頼朝直系が断絶したから、足利が何となく「源家の嫡流」となったのでしょう。
勝手に自称してただけかも知れないよね。公家にも源氏はいたから。

ちなみに、足利義康と新田義重は母親が違った。
だいたい、この両家のばあい、全く別の家を養子で嗣いでる観もある。
294日本@名無史さん:02/04/06 04:01
862 名前:7紙ニダ :02/04/06 03:46 ID:bUBax1jP
http://english.chosun.com/w21data/html/news/200204/200204031021.html

足利尊氏も 在日認定です。
そんな説が、ポピュラーだったなんて、、、無知な私

the popular theory that Takauchi Ashikaga, an early
14th-century tribal lord of Japan, came from Korea,
the Ashikaga region is said to have been vaguely friendly
toward the Korean Peninsula.
295日本@名無史さん:02/04/06 11:42
>294
ネタはいいよ
296日本@名無史さん:02/04/06 12:59
>>294
無知と言うより馬鹿だろ、お前。
297日本@名無史さん:02/04/06 20:26
>>294
また歴史を捏造してるな。
しかし、余りにも単純なんでワラタ
298日本@名無史さん:02/04/08 02:16
捏造してるのは足利銀行の人なのでは
299日本@名無史さん:02/04/08 02:21
新田義貞の後裔が幕末の討幕運動に担がれたそうだけど
何という人物なのかな?
300日本@名無史さん:02/04/08 02:37
>>399
そんなことも知らないのか?
301日本@名無史さん:02/04/08 02:45
新田義貞の子孫なんて全部自称だよ。
302日本@名無史さん:02/04/08 02:50
いや、自称でもニセモノでも構わないけど、そういう事件があったのは事実なの?<討幕運動
303日本@名無史さん:02/04/08 03:30
>>302
聞いたことねえよ!
304日本@名無史さん:02/04/08 03:47
>>303
「新田官軍」事件のことだと思われ。
305日本@名無史さん:02/04/08 14:38
岩松家だっけ?
306日本@名無史さん:02/04/08 14:56
新田男爵だろ?
307日本@名無史さん:02/04/08 20:36
新田官軍って何?誰か教えてくれよ
308日本@名無史さん:02/04/08 22:05
>>299
岩松俊純
岩松氏は新田一族だが、義貞の子孫というのは自称。
>>307
検索すれ
309日本@名無史さん:02/04/08 22:23
金井之恭(かないゆきやす):(1833〜1907)上州佐位郡島村に生まれる。父烏洲は画家であると同時に勤王家で高山彦九郎・高野長英・頼山陽らと親交があり、之恭もこの父の影響を受けた。
慶応3年、上州で新田義貞の後裔新田満次郎を擁立し挙兵しようとするが事前に露見して上州岩鼻陣屋の獄につながれた。
翌年3月、東山道総督府に救われ改めて新田官軍を編成し関東奥羽に転戦した。
明治元年9月、市政局に出仕して以来諸官を歴任。7年、大久保利通の書記官として渡清。
西南戦争には総督参謀として従軍。15年、内閣大書記官を経て、21年に元老院議官。
24年、貴族院議員。金洞・錦鶏と号し書家として有名。
310日本@名無史さん:02/04/08 22:25
新田官軍
にったかんぐん
■上州の草奔隊。
■慶応元年三月十二日、上州新田、山田両郡の郷士を中心に結成。
中心人物は新田義貞の末裔と云われる新田満次郎(俊純)。
きっかけは東山道鎮撫総督府が新田一統に与えた令書であった。
「新田満次郎、その方儀、祖先左中将(新田貞義)の意志を継ぎ、国家の為忠勤仕りたき趣、再三歎願に及び候に付き、中軍(東山道官軍)に随従申し付け候条、無用の冗兵を除き、精選の士を率い、勉励尽力候べき事」
結成に奔走した有志は、郷士の桑原五郎、大館兼三郎、橋本多賀之助、佐々木英之助、石川熊武らで、側面から薩摩藩の中井弘蔵らが尽力した。
■隊長新田満次郎、隊員八百名。隊士は「新田陣営班」と「江戸御本営御玄関番」とに分け、陣営班の屯所を上州太田の大光院に置いた。
■三月十八日、新田官軍は東山道総督府から上州一帯の百姓一揆の鎮撫を命ぜられて出動、使命を果たした。
そして江戸に到着後、因州屋敷で大隊旗を授与され、このあと会津攻めの別働隊として上州戸倉口へ赴き。この方面で奥羽越同盟軍と戦った。
八月、江戸に帰還、市中の警備にあたり、十月十三日、明治天皇の東京行幸に際しては沿道の警固役を拝命し、「隊士一同感激・・・」と隊の記録にある。
■明治元年十二月解散。

311日本@名無史さん:02/04/08 22:30
桃井可堂【ももい・かどう】 1803〜1864 62歳
 榛沢郡北阿賀野村(深谷市北阿賀野)の生まれ。
東条一堂に学び、一堂門の三傑と称された。
その後備中庭瀬藩板倉家に仕えながら、徐々に尊皇攘夷の思想を固めていった。
61歳の時中瀬村(深谷市中瀬)に居を構え、新田氏の末裔岩松俊純を盟主とする慷慨組を結成、挙兵を画策したが密告などにより失敗。
可堂は川越藩に自首し、自ら食を断って翌年獄死した。
312日本@名無史さん:02/04/08 22:33
岩松守純・豊純父子は慶長12年(1607)徳川家康に対面し、20石を与えられました。
豊純の子義純(のち秀純)は寛文3年(1663)に100石を加増され、
120石と少禄ながら、その由緒をして、大名並みの格式を持つ交代寄合(こうたいよりあい・交替寄合とも表記する)格の旗本に取りたてられ、
新田郡下田島村(太田市下田島町)に広大な屋敷を構えていました。
幕末に、岩松俊純は新田氏を称するとともに、「新田勤王党」を組織し、勤王倒幕活動をしています。
この功をもって、後に新田俊純は明治政府から男爵に叙せられています。
313日本@名無史さん:02/04/08 22:35
新田満次郎(にったまんじろう)
別名:岩松俊純 南北朝時代からの名家新田家の嫡流で、新田義貞の後裔。
尊襄派によってたびたび擁立されるが固辞しつづける。

314日本@名無史さん:02/04/08 22:36
慷慨組というのは北武蔵の豪農たちが集まり
勤王のシンボルとして新田義貞を立てその末裔の岩松俊純(新田満次郎)の擁立をもくろんでいた。
また、長州藩の尊攘派・大楽源太郎らも加わり、
・沼田城を襲撃し体制を整えて横浜洋館を焼き討ちにするという計画であった
315日本@名無史さん:02/04/08 22:38
本名は金井文八郎。諱は之恭。
天保4年9月18日、上州佐位郡島村の豪農金井烏洲の第三子として生まれる。
新田氏支族の家柄であり、また父烏洲は画家であると同時に勤王家でもあった。
烏洲は高山彦九郎・高野長英・梁川星巌・頼山陽・渡辺華山らと親交があり、
来り投じる同志の庇護のために家財の殆どを尽くしたという。
之恭もまたこの父の影響を受け、高山彦九郎に私淑した。
文久3年頃、桑原悟楼の変名で、当時村上四郎と名乗っていた相楽総三と交流を深め、
相楽と信州の国学者や尊攘派の志士らとの橋渡しをする。
文久3年11月12日の赤城山挙兵が潰えた直後、
之恭は相楽らと再度新田満次郎を擁立しての挙兵を計画するが実行には至らなかった。
また、元治元年の水戸天狗党の上野国通過の際に藤田小四郎と会見し、これを支援している。
慶応3年、相楽らの野州挙兵に呼応し、再々度新田満次郎を擁立して上州での挙兵をするため、
薩邸から訪れた権田直助・金輪五郎をはじめ同郷の太田稲主・黒田桃眠らと謀り新田勤王党を結成するが、
野州隊が壊滅したため頓挫。事露見して上州岩鼻陣屋の獄につながれた。
翌慶応4年3月、東山道総督府が上州に入るに及び、救われて新田官軍を編成。
総督府の旗下に属し関東奥羽に転戦した。
明治元年9月、市政局に出仕して以来諸官を歴任。西南戦争に総督参謀として従軍。
15年、内閣大書記官を経て、21年に元老院議官。24年、貴族院議員。
長年の同志であった相楽の霊を弔い、明治12〜3年頃に相楽の姉木村はま子が下諏訪を訪れ、
弟のために祭礼を行った際も後見人として同行。
また、野州出流岩船の戦死者の靖国神社合祀の請願などにも尽力している。
明治三書家の一人。
316日本@名無史さん:02/04/08 22:39
1863,文久3.秋、上州赤城山に於いて、桃井可堂を主領とする慷慨組が尊攘"義挙"を図った。
可堂らは新田義貞の後裔、岩松俊純(別名:新田万次郎)を擁立しようとするが、
11/22,新田家と懇意だった元同士湯本多聞之助が江戸南町奉行所に自首、
続いて岩松も自訴、12/15,可堂も覚悟を決め、武州川越藩に自首。
挙兵計画は失敗に終る。
相楽総三(当時の名は村上四郎)は父小島兵馬から引き出した金五千両の大部分を費消したと言われている。
317日本@名無史さん:02/04/08 22:45
318日本@名無史さん:02/04/08 23:02
319日本@名無史さん:02/04/08 23:30
おいおい、転記する際には、出典文献名も記すようにしてくれよ。
せっかく長文をUPしても信頼性に欠けてしまうじゃないか。
320日本@名無史さん:02/04/08 23:32
>>319
手の込んだネタだよ。幕末にそんな事件はない。
321日本@名無史さん:02/04/08 23:42
>>320
そうかな。でも俺も新田の子孫を祭り上げて挙兵したという話は
聞いた覚えがあるけど・・詳しくは知らないが。
322日本@名無史さん:02/04/09 00:00
>>321
恐らく慷慨組のことと思われ
323日本@名無史さん:02/04/09 05:09
>>321
桃井可堂の「慷慨組」が新田一族を擁立して挙兵しようとしたんだよ。
324日本@名無史さん:02/04/09 05:12
たぶん新田義貞とは無関係だろう。
325日本@名無史さん:02/04/09 09:12
いわゆる馬に乗った足利尊氏画像について教えてください。源頼朝画像とともに、最近
「伝」が付くようになりましたが、信憑性に疑問が出ているのですか?  
326:02/04/09 09:47
>>325
最近は足利家執事の高師直じゃないかと
言われてますね。
327日本@名無史さん:02/04/09 10:44
神護寺の伝源頼朝像が足利直義像で、
伝平重盛像が足利尊氏像という説もあるね。
328義兼:02/04/13 14:48
義重は義康とは母親の身分が違っていたから長男でありながら
父親の後を継げなかった。
よって、新たに荒地を開き新田庄を作った。
329義兼:02/04/13 16:49
>>206 「国司」は「くにし」と読みます。
「こくし」では有りません。
330_:02/04/13 18:23
契] 城内スタッフ、領地管理、大名候補

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資格:年齢不問、禄高100石以上の家柄であること
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征夷大将軍目指して頑張ろう!

331日本@名無史さん:02/04/13 21:30
本物の新田一族って地味だね。
332日本@名無史さん:02/04/14 00:28
javascript:openWin('ikariya.html')
333日本@名無史さん:02/04/14 07:29
後まで残った、確実視できる新田一門は山名、大館くらいしかおらんしのう
334日本@名無史さん:02/04/15 23:09
社] @奥女中、A腰元・側女候補
給与:@A当幕府規定により優遇
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応募:当幕府大奥総取締り当てに飛脚にてご連絡ください。追って面接日時を連絡致します

335日本@名無史さん:02/04/16 04:10
>>333
脇屋がいる
武士じゃないが、江戸時代も苗字帯刀らしい
士分取立ての際は、脇屋を名乗ると藩主より家格が上に成るので
脇屋を名乗らず脇○としていたらしい
家紋は一引きに桐を使っている
友人脇屋氏の談話
336日本@名無史さん:02/04/16 10:20
>>335
脇屋は非常に怪しいような・・・
337日本@名無史さん:02/04/16 12:52
>>335
室町幕府の四職家の山名氏や奉公衆の大館氏よりは、
信憑性が格段に落ちるね。
338日本@名無史さん:02/04/16 13:03
>>337
格段に落ちるどころか、まともな子孫なんて居ないと思われ
339日本@名無史さん:02/04/16 14:11
>338
???
340日本@名無史さん:02/04/16 17:46
はっきりいって、最後まで南朝方だった武家の子孫なんて、
ほとんどが戦国〜江戸時代になってからの自称。
室町幕府が安泰な時は知らん顔してたやつらが、
急に「実は当家は○○の子孫を密かに養子にして・・・」と、
本物が滅んでるのをいいことに子孫を詐称したにすぎない。
341日本@名無史さん:02/04/16 18:15
何を根拠で言っているのだろう。
342日本@名無史さん:02/04/16 21:07
室町幕府が健在な頃は新田一族は逆賊だから見つかり次第捕縛されて斬首された。
343日本@名無史さん:02/04/16 21:07
>>340
北畠
井伊
伊達
どう??
344日本@名無史さん:02/04/16 21:15
北畠と伊達は結局幕府にしたがっている。
井伊も最終的には今川家臣になった。
最後まで南朝方というのは南朝とともに消えた武家のこと。
345日本@名無史さん:02/04/16 21:17
ウチの先祖も自称新田義貞。かなり疑わしい。戦国末の領主が足利一門で、そこが滅ぼされる時自分は新田の子孫だからといって裏切ったみたいだ。
346日本@名無史さん:02/04/16 21:21
尊氏が挙兵するとき、新田討伐を名目としたから他の氏族の帰参は認められても新田氏はできなかったしね。
347日本@名無史さん:02/04/16 22:46
新田残党自体は足利公認の新田宗家岩松家の岩松一揆に編入されただけで
戦国末まで結構残ってる。岩松の義貞の子孫を迎えたというのは?でも岩松自体
主要新田一族なことは確か。鎌倉時代宗家がこけた時、一族を束ねたのが世良田と岩松。
また貞方没後の新田残党処理として足利とも繋がりのある岩松に義貞の子孫が入って
いたとしても有りとも思える。
348歴史の勉強:02/04/16 23:06
新田の没落と言っても、惣領家が歴史から消えちゃっただけで、
庶流は生き残ってるんですよね。
岩松は関東史でも重要武家でしたし、山名は言わずもがな。
忘れちゃいけない、京都の大館。

南北朝の動乱は新田氏にとって、骨肉の相剋だったという面がありますね。
惣領家とそれに反抗する庶家。
結局、鎌倉時代末期に先鋭化した嫡庶の争いの延長だったんでしょうね。
皇国史観が耄碌死しそうな現在、新田庶流の再評価もあってよいかと思います。
349日本@名無史さん:02/04/16 23:17
大井田も奉公衆で生き残ってなかったっけか?
350日本@名無史さん:02/04/16 23:20
結城
名和
菊地
北条
諏訪
351日本@名無史さん:02/04/16 23:25
352日本@名無史さん:02/04/16 23:30
新田一族では、大島、大井田(大島)、田中なんかも残ってるけどね

でも、まあ、山名、大舘以外はどうにも疑わしい
353日本@名無史さん:02/04/16 23:49
千家は新田氏だろ?
354日本@名無史さん:02/04/18 00:26
>>340
ねたですか
355日本@名無史さん:02/04/18 00:55
新田系は一部(山名、大館など)を除いて極端に衰退していたので、
後世に家系を捏造する余地が多かったのだろう。
356日本@名無史さん:02/04/18 11:27
>>353
千家は出雲国造家だよ。
357日本@名無史さん:02/04/19 00:01
新田田中氏末裔が宗易
358日本@名無史さん:02/04/19 00:54
足利義康が徒然草にでてくるが、非常に大人なので読んでみると良い。
359日本@名無史さん:02/04/19 01:05
足利という土地と新田という土地、住みやすさでいえば断然足利だろうな。
後ろには日光に続く山があり、南には渡良瀬川、その南には広い関東平野。
経済的には足利のほうがあっただろうし義国も現に住んだ。

そもそも義家が奥州攻めに向かう途中に陣をはったのが足利。
(今も八幡神社がそこにはあり、「借宿(かりやど)」という地名もある)
義国が隠居して新田に引っ込んだ後に足利を継いだのが次男の義康、
新田は長男義重。兄弟でも器が違ったのではないか?
義国が家督を譲りたかったのは次男義康なのでは.
360日本@名無史さん:02/04/19 01:08
源氏の棟梁、要は経済力。経済力を継いだのが足利義康。
361日本@名無史さん:02/04/19 01:09
庄田、鶴田てのは新田庶家じゃなかった
362日本@名無史さん:02/04/19 01:13
喜連川氏というのは足利だよね。
足利市と同じ栃木県には喜連川という街もあるし。
363日本@名無史さん:02/04/19 01:15
自称新田氏出身の徳川家が足利学校を保護
364日本@名無史さん:02/04/19 01:19
〔平頼綱略系図〕 『系図纂要』関氏系図による

 平清盛─重盛─資盛─盛国─盛綱─┐
 ┌───────────────┘
 │  平左衛門尉
 │  杲円 ┌宗綱
 └┬頼綱─┤
   │     └助宗(頼盛とも記す)(飯沼)
   │       安房守
   └光盛─光綱─高綱─高資─高重(長崎)
365日本@名無史さん:02/04/19 01:24

16両毛と上州諸街道
 峰岸純夫・田中康雄・能登 健編  4-642-06216-5

浅間・榛名・赤城・日光白根などの火山屏風を背に、
渡良瀬川を挟む足利・新田両氏発祥の地=両毛。
この地域は、旧石器発見の岩宿、日本のポンペイ=黒井峯遺跡、
新田荘の開発、天明の浅間山大噴火と続く、
人と火山災害との苦闘の舞台である。日本最初の足利学校、
大動脈利根川舟運の発展、養蚕王国の誕生、足尾鉱毒事件など、
光と影の織りなす歴史を解明。
366日本@名無史さん:02/04/19 01:30
新田氏と足利氏は、源義家の子・源義国を共通の祖とする。
平安末期に下野国足利(栃木県足利市)に移住した義国の長男・義重は、
渡良瀬川の対岸の上野国(群馬県)東南部の開発を進め、新田氏を称した。
異母弟の義康は、下野に残り足利氏を称することになった。
ところが新田義重は、1180年に挙兵した源頼朝に対抗しようとしたために、
鎌倉政権からは冷遇されることになった。
新恩を給与されなかったばかりか、一族で八幡荘(現高崎市)に土着していた山名、里見氏が切り離され、
彼らは幕府に直属することになった。
対して義康の子・足利義兼は、逸早く頼朝に従った上、
北条時政の娘を娶ったこともあり、以後同氏は重用されることになった。
さらに鎌倉初期には、男系で足利、女系で新田の血を引く岩松兄弟に新田荘東部が分与され、
新田本宗家の力はますます弱まった。
 1221年の承久の乱では、里見氏が恩賞として
越後妻有荘、波多岐荘(新潟県十日町市、川西町、津南町など)などを獲得した。
が、本宗家の勢力は伸びず、かえってこの後、新田政義(義重の曾孫)の時に自由出家や大番役の放棄が咎められ、
惣領としての権限が削減された。一族の世良田氏や岩松氏に、
惣領職の一部が分与されたと言われる。ただしこの後、
世良田氏も罪を受けて力を失うので、鎌倉末期の新田本宗家は、
岩松氏との競合が大きな課題だったことになる。
 新田義貞はこのような状況の中で生まれたわけだが、
実はその生年はよくわかっていない。『新田由良系図』『新田横瀬由良正系図』では、
1338年に39歳で死んだことになっているので、
それが数え年なら1300年ということになる。また、
『筑後佐田新田系図』は1300年生まれで1337年に38歳で死んだとする。
1337年というのは明らかに誤記だが、死没時の年齢からすると1301年生まれだったという計算もできる。
一般にはこの1301年説が通用しているが、それぞれ信憑性の低い史料であり、
実際には確実なことはわからないのである。が、義貞が確実な史料に現れるのは1318年のことで(長楽寺文書)、
それを一人立ちの証とするならば、1300年頃に生まれたというのもおかしくはない。
367日本@名無史さん:02/04/19 01:31
大体両毛(上野・下野)は縄文人弥生人が多く住んでたんだから、イノシシはいるし魚や貝はいるし
田畑ができる土地はあるしそして重要なのが気候が良くて災害が少ないしってことで、
住みたくなるのは当然な土地だろう。古墳も多いしな。

渡良瀬橋で詩が浮かぶのも当然かと。
368日本@名無史さん:02/04/19 01:41
369日本@名無史さん:02/04/19 01:43
370日本@名無史さん:02/04/19 01:46
>>367
足利は沖積地が狭まく、ほとんど藤姓足利氏領だった。
そこで目をつけたのは、浅間テフラBの降灰によって荒廃した新田の地。
371日本@名無史さん:02/04/19 01:50
天慶2年(939)に起こった平将門の乱の後、
これを討伐した藤原秀郷の流れを汲む一族は、
足尾山地南麓から赤城山南麓にかけて勢力を広げ、
各々その本拠地の地名を名字として名乗った。
−平安時代末期、律令制度が形骸化する中で、
天仁元年(1108)浅間山の大噴火により、
上野国(群馬県)は未曽有の大災害に見舞われ、
厚い火山灰に覆われた農地は著しく荒廃した。
−このような火山災害からの復興を進める中で、
太田市域にも荘園が形成されていった。
−中世の上野国の代表的な荘園である新田荘もその一つである。
都での失態により勅勘に触れ、下野国足利荘(栃木県足利市)
の藤原姓足利氏の元に流されていた源義国(源義家の第三子)は、
藤原姓足利氏の没落により、足利荘を確保し、源姓足利氏の元を作った。
−義国長子の義重は、隣接の新田郡に進出し、浅間山大噴火により荒廃し、
「空閑の郷々」と呼ばれていた新田郡南西部の大間々扇状地扇端に広がる
沖積地を開発し、保元2年(1157)に花山院藤原忠雅家領新田荘の
下司職(現地管理者)に補任された。その後、十数年の内に、
新田荘は新田郡全域(太田市西部はその東半を占める)に拡大していった。
また、義重は子を山名(高崎市)・里見(榛名町)にも配して勢力を広げた。
−なお、史料から、源義国は晩年義重とともに新田荘の開発にあたっていた
と見られている。冠稲荷神社は源義国創建の社伝を持つ。
−一方、久寿3年(1156)、太田市の北東部から桐生市南部にかけての
地域には薗田御厨(藤原秀郷流薗田氏が厨司)が成立しており、
承安2年(1172)には新田荘域を拡大し勢力伸張を進めていた
新田義重と争ったことが知られている。
−また、太田市東部の龍舞・内ケ島では、伊勢神宮の所領として
寮米御厨が成立し、また隣接地の下小林では朝廷の所領として
大蔵保(後伊勢神宮の所領となる)が成立した。
372日本@名無史さん:02/04/19 01:52
源頼朝の挙兵に際して、源義家の嫡孫を自認する新田義重は
自立の志を示したため、鎌倉幕府が成立すると、
新田氏本宗家は御家人の一画は占めたものの、幕府の中では冷遇された。
一方、庶子家のなかかには、山名氏や里見氏のように重用される一族もいた。
−惣領制を背景に、新田氏一族は新田郡全域にその勢力を拡大し、
一族は新田荘内の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗り、
仏教を受容しながら氏寺として円福寺・正法寺などの
真言宗寺院を建立(中興)した。
−新田荘の外では、山名・里見に加え、越後国妻有荘・波多岐荘(新潟県中魚沼地方)にも
進出した。しかし、北条氏による専制支配や庶子家の分立により、
新田荘内における本宗家の地位は低下し、庶子家の世良田氏や岩松氏の
勢力が増大していった。
−一方、薗田氏の勢力範囲である薗田御厨と須永御厨(桐生市川内付近)では、
浄土信仰を背景とした、この地域特有の名号角塔婆が造立されている。
−また、太田市東部から邑楽郡の地域にかけては、藤原秀郷流の佐貫氏や
その一族舞木氏による佐貫荘が成立していた。
なお、この地域は現在の長良(長柄)神社の分布と重なる。
373日本@名無史さん:02/04/19 01:55
元弘3年(1333)、新田氏本宗家8代の新田義貞とその一族は、
後醍醐天皇の子護良親王の令旨を受け、鎌倉幕府を倒し、
建武の中興のきっかけを作った。建武政権で新田氏一族は中枢を占めたが、
その後新政府から離反した足利尊氏らと対立した。南北朝の並立により、
新田義貞を中心とする新田氏一族の多くは南朝方に立ち、全国各地を転戦したが、
その多くは敗死した。
−こうした間、建武2年(1335)足利尊氏は重臣上杉憲房を
上野国守護に任じ、太田地域の多くは北朝方に立った岩松氏(その祖岩松時兼の父足利義純・母は新田義兼の女)の所領になるに及んだ。
−岩松氏は新田氏一族の惣領的地位を確立し、太田市域を支配、
新田氏とも称した。しかし、東国の戦乱の中で、
岩松氏は京兆家(岩松流)と礼部家(新田流)の二流に分裂し対立した。
−文明元年(1469)、礼部家の岩松家純(新田義宗孫といわれる)は
家宰横瀬氏に命じて金山城を再築し、岩松氏一族の統合を図り、
東毛の一大勢力となった。管領上杉氏の勢力下にあったことから、
古河に拠っていた古河公方(足利氏)と対峙することになり、
戦国時代へと突入していった。
−戦国時代の乱世の中で金山城は、
上杉氏・古河公方足利氏・武田氏・後北条氏らの狭間で、
戦況が変化するたびにその帰属を変えていった。
そして小規模な攻撃を受ける中でこれを撃退し、
戦国時代を巧みに生き抜いていった。こうした経過の中で、
享禄年中(1528〜1532)に城主岩松氏は横瀬氏に
下剋上により退けられた。横瀬氏は威勢をはり、
永禄6〜10年(1563〜1567)頃には新田本宗家直系と称し、
由良氏を名乗り、小戦国大名として両毛地域を支配した。
小野姓横瀬氏から源姓由良氏への改姓は足利氏御一家たる
新田岩松氏の家宰という国人層から、大名層の地位を得るに至ったことを意味する。
天正元年(1573)由良成繁は桐生柄杓山城を攻略し、桐生氏を滅ぼしている。
−一方、岩松氏は「新田屋形」と称され、名目のみの存在となった。
−由良氏とその一族は、菩提寺として金龍寺・恵林寺・霊雲寺・妙英寺を
始めとした曹洞宗の寺院を建立した。
−天正元年(1573)の武田信玄、天正6年(1578)の上杉謙信の逝去は、
関東地方の情勢に大きな影響を与えた。さらに天正10年(1582)武田勝頼が
滅び、ついで織田信長も倒されると、上野国は後北条氏の勢力下となった。
由良国繁は、天正12年(1584)後北条氏の謀略にかかり、
金山城を明け渡すところとなり、桐生城へ退いた。金山城は、
後北条氏の支配するところとなった。このころ金山城では、
大規模な改修が行われたと考えられている。
−天正18年(1590)豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされると、
金山城も廃城となった。秀吉による小田原攻略の際、
由良氏の一部は豊臣方に従い後北条氏攻撃に加わったため、
桐生から常陸国(茨城県)牛久に5,400石で移封され余命を保った。
しかし、家臣のほとんどは浪人となり、一部他氏へ再仕官したものを除き、
桐生・新田地方に土着帰農し、のち江戸時代には農村支配者層たる
有力農民(名主など)に位置づけられていった。
−金山城廃城と由良氏移封を以って太田地方の中世は幕を閉じる。
−岡見氏跡の牛久城に入る。関ヶ原・大坂両役ともに徳川方として勲功があり、
加増を受ける。その後、嗣子なく一時断絶するが、
功績により1,000石で再興される。
寛文5年(1665)その功績・由緒をして高家となる。
374日本@名無史さん:02/04/19 02:02
天正18年(1590)徳川家康は、関東に入部すると、
館林に榊原康政を配置した。
−市域の大部分は、館林藩領となった。その後、寛永20年(1643)
榊原氏が奥州白河(福島県)に移封されると、市域の館林藩領の大
半は幕府直轄領となるが、のち甲府宰相徳川綱重・館林宰相徳川綱
吉の厨料に編入されている。寛文元年(1661)綱吉が館林藩主
になると、市域の大半は再び同藩領となる。延宝8年(1680)
館林領の解体により、市域の大半は旗本領となり、以降江戸時代を
通して大きな変化は見られなかった。文政10年(1827)にお
ける市域の村数68カ村、石高54,472石に対し、旗本知行所
は全体の82%を占め、その他が幕府直轄領・大名領・寺社領とい
うように細分して支配された。これらの村々の相給数は226給に
及び、モザイク状に分割統治された。
−なお、由良氏移封後浪人となっていた岩松氏は、慶長12年(1
607)、家康により召し寄せられるが、対応の不首尾により御家
人身分取り立てがかなわず、屋敷地20石のみ拝領となった。しか
し、天海大僧正や大老阿部忠秋らの計らいを得て、寛文3年(16
63)禄高120石の旗本に取りたてられ、下田島に屋敷を構えた。
岩松氏は小禄の旗本でありながら、徳川将軍家と同族とされる由緒
から、交替寄合と同列、大名に準じた格式を持ち、年始江戸城登城
(柳の間詰)を行なった。
−この間、先祖を新田義重とした家康は、慶長18年(1613)
蓮門関東十八檀林の一寺に数えられた大光院を創建し、御朱印地3
00石を与えた。開山呑龍上人は、寺領を割いて、貧民の子供を養
育したことから「子育て呑龍」と呼ばれ、大光院は子育て祈願の寺
として近郷・近在からの参詣者を集め、賑わいを見せた。
−正保3年(1646)4月、日光例幣使道が創設されると、太田
宿はその宿場町として、脚光を浴びるようになった。以後、毎年4
月になると着飾った勅使の公卿や門跡などが日光東照宮に奉幣する
ために通行し、太田宿は華やいだ雰囲気に包まれた。また、宿から
は近郷に道が通じ、生産物の集積地として、3日・8日の六斎市が
開かれ活気を見せた。追分の道しるべ・石地蔵は太田宿東方の例幣
使道と古河道との分岐点に建てられたものである。
−太田宿の背後に聳えている金山は幕府直轄林として御林守が置か
れた。金山の赤松から取れる松茸は、寛永6年(1629)3代将
軍の頃から将軍御用の献上松茸として、江戸城まで運ばれた。これ
は明治に入っても天皇家へ献上され続けた。
−また江戸時代の人物として、延享4年(1747)細谷村の名主
の家に生まれた思想家の高山彦九郎がいる。全国各地を遊歴する中
で、公家・学者・武士・大商人・農民など各層の人物と交わり、思
想と情報を伝える役割を果たし、幕末の尊王運動の先駆けとされる。
他に、江戸時代後半の百観音信仰を背景に、特異な建築建造を持つ
曹源寺さざえ堂が建立されている。
−下田島の岩松氏は幕末に勤王思想が高揚するようになると、新田
一族の棟梁として新田官軍を率いて倒幕運動に加わった。のち岩松
氏は明治16年(1883)にこの功績をもって華族(男爵)に列
せられている。
375日本@名無史さん:02/04/19 02:04
社] @奥女中、A腰元・側女候補
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勤務地:@A江戸城内大奥
時間:@A交替制、1日約8〜12時間(早出・残業・夜勤・休出・A夜伽あり)
資格:@12歳〜20歳までの健康で口の堅い女性(経験者厚遇)
   A年齢17歳以下、処女に限る。出自が卑しい方は応相談。こちらで養父を手配致します。
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待遇:@当幕府規定による完全年功序列・終身雇用制。A出産によりお部屋貸与。男児誕生の暁には更に厚遇。
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376日本@名無史さん:02/04/19 02:15
藤原秀郷は足利の隣、佐野の生まれでその子孫が足利に土着(渡良瀬川以北)、
のちに源家が足利にやってくる(渡良瀬川以南)。
藤原足利氏没落後、そこに源氏が入るってわけだね。
そんで「ばん阿寺」ができるわけ。
377日本@名無史さん:02/04/19 02:20
まぁだ、機種依存文字を使うやつがいるんだな・・・
378日本@名無史さん:02/04/19 02:22
足利の南って東京までずっと平地だから田んぼだらけだよ。関東平野でかすぎ。
渡良瀬川と利根川(館林あたりまで)の間なんかかなり肥沃な土地だよね。
379日本@名無史さん:02/04/19 02:41
あも辺の田は伊勢神宮の御厨とかになってたんじゃ?
380日本@名無史さん:02/04/19 16:12
足利には御厨(みくりや)っていう地名あるよ。南の方に。
381日本@名無史さん:02/04/19 16:50
足利には梁田御厨あり。
根本被官?の簗田氏の出身地?
382日本@名無史さん:02/04/19 18:52
もしかして足利の方多いのここ?漏れ一中。
383日本@名無史さん:02/04/20 21:16
基氏の子氏満は将軍職への野望をもち、
康暦元年(一三七九)に将軍足利義満にたいして謀反を企てたことがありました。
そのとき鳥山・世良田・額田・大島・大館・堀口・桃井といった新田一族は
氏満に帰属できたのです。もちろん里見姓の者もいました。
氏満は自分の支持勢力を広げるために、
流浪していた新田一族に仕えていたものたちも許し、
上野国や武蔵国でわずかとはいえ所領を与えたのです。
室町時代に里見氏の一族から山本氏や仁田山氏などが分かれますが、
山本は八幡荘山名郷(群馬県高崎市)のうちにあり、
仁田山は現在の群馬県桐生市にある地で、
里見氏は元の領地から遠くないところに所領が与えられたようです。
384日本@名無史さん:02/04/22 17:44
山名は百済滅亡の数年後に関東北部に入植した百済遺臣を祖とする一族で、
後に新田から入り婿があったことによって源氏に属するようになった、
と聞いたのですが本当ですか?
385日本@名無史さん:02/04/22 18:09
うそじゃない?
386林田外記:02/04/23 22:32
足利義昭の子孫って会津藩士になってたのね。
387日本@名無史さん:02/04/24 11:48
それもうそ。
388日本@名無史さん:02/04/24 12:08
あれ?喜連川藩主って足利義昭の子孫じゃないの?
389日本@名無史さん:02/04/24 22:03
>>388

ネタですか?sageます。
390日本@名無史さん:02/04/29 14:17
足あげ
ニター
391日本@名無史さん:02/04/30 00:57
源義家の奥羽出兵へのキャンプ地が足利
392日本@名無史さん:02/04/30 02:58
>>391
紅白戦とか1000本ノックとか・・・?
393日本@名無史さん:02/05/02 22:52
英語じゃベースキャンプと訳すんだろうなあ
394日本@名無史さん:02/05/03 20:08
>>393
幕府ってこと??
395日本@名無史さん:02/05/08 22:50
新田絵梨はなにしてるのかな、今
396日本@名無史さん:02/05/08 23:13
新田恵美はなにしてるのかな、今
397日本@名無史さん:02/05/09 11:37
>>395 396
新田恵利だろ?
ちゃんと源氏嫡流を継承してるよ!
398日本@名無史さん:02/05/09 18:56
新田は嫡流じゃないよ。
399日本@名無史さん:02/05/09 20:52
>>397
この間旅番組に出ていた。おばさんになってた。
400日本@名無史さん:02/05/09 20:58
>>397

新田恵美は新田恵利のパチモンAV女優の名前だ。
また懐かしい名前を。。。
401日本@名無史さん:02/05/10 00:48
>>398
セーラー服を脱がされても源氏嫡流だyou!
402日本@名無史さん:02/05/11 08:44
新田純一は?
403日本@名無史さん:02/05/11 10:37
新田家には清和源氏の秘宝、鬼丸、鬼切が伝わっていたでありんす。
よって嫡流でなくとも、源氏の名門には変わらないと思うのです。
404日本@名無史さん:02/05/11 10:44
今どこにあんの?
405新田恵利:02/05/11 16:54
>>404
ウチにあるよ。
406新田恵美:02/05/11 18:58
>>405
なによ!ウチにあるのよ!!
そっちは偽物よ!!
407新田恵利:02/05/11 21:24
>>406
アンタは存在そのものがニセモンyo!
408日本@名無史さん:02/05/12 00:48
>>402

新田純一はマッチのパチモンですな。

「新田」という言葉には何かそういう
「本来のものと違う亜流」的なものを呼び込むオーラでもあるのだろうか?
409>n:02/05/12 00:51
新田と足利
新田恵利
410wa:02/05/12 19:33
お〜いネタがずれてるで〜
411日本@名無史さん:02/05/12 19:43
>>408
いや、バチモンとかじゃなくて、
本物に成れなかった敗者。
新田:その当時は並列的に存在したが、
   後世の目から見ると一発屋だったと言われてしまう、
   悲しい苗字。
足利:権力者の阿り、遂には権力を手中して一世を風靡したが、
   その存在基盤が徽弱なために長続きせず、
   過去の栄光に縋って何時までもダラダラと続いてしまう苗字。

といったとこかな?
412日本@名無史さん:02/05/12 22:05
結局どちらも悲しいんですね。
413日本@名無史さん:02/05/12 23:17
>>403
新田家の鬼丸・鬼切は義貞が鎌倉攻めで手に入れたもの。義貞戦死後尊氏の手に渡ったはず。
414日本@名無史さん:02/05/13 23:46
age
415日本@名無史さん:02/05/14 03:59
童子切り安綱は太宰府天満宮にある。
416日本@名無史さん:02/05/14 04:43
>>408
新田純一に会いたければ百合ヶ丘の松葉湯に行けばたまに来る
417日本@名無史さん:02/05/20 21:07
新田岩松は純の字を伝えてるから、純一も由緒正しい。
418日本@名無史さん:02/05/20 21:36
岩松氏の純は家祖である足利義純の純なのか?
419日本@名無史さん:02/05/21 00:26
貞純の純かと思う
420日本@名無史さん:02/05/21 03:39
貞純親王からですか?
かなり昔の人からですね。
421日本@名無史さん:02/05/21 11:41
新田貞純
422日本@名無史さん:02/05/21 14:15
新田経基
423日本@名無史さん:02/05/21 14:18
新田義重→→→徳川家康
という真っ赤な嘘。
424日本@名無史さん:02/05/22 15:57
>>417
でも本宗じゃないね。
通字が上にきてる。
425日本@名無史さん:02/05/22 21:36
新田義重→→→里見浩太郎
という事実
426日本@名無史さん:02/05/23 23:28
神武天皇→→→源義家→→新田義重→→→徳川家康→→→松平健
      →平清盛→→→平幹次郎
427日本@名無史さん:02/05/23 23:30
神武天皇→→→源義家→→新田義重→→→徳川家康→→→松平健
            →足利義康→→→細川忠興→→→細川たかし
428日本@名無史さん:02/05/24 00:26
源氏の名家、それは里見。
現当主の里見浩太郎が、騙りの家柄である松平長七朗長頼を演じる悲劇。
429日本@名無史さん:02/05/24 15:40
>>428
傍流松平健の宗家吉宗は松平健の野心を露呈…。
ところで松平健て美濃高須の松平(尾張)氏出身??
430日本@名無史さん:02/05/24 16:07
もうネタはいいよ。
431日本@名無史さん:02/05/24 17:12
桃井若狭之助→→→桃井かおり
432日本@名無史さん:02/05/25 14:16
桃井も不思議だよね
岩松テイストあるし
433日本@名無史さん:02/05/25 16:14
てか、桃井こそ経歴詐称疑惑が。
ほとんど知られてない。
434日本@名無史さん:02/05/28 23:10
桃井氏系図キボンヌ
435日本@名無史さん:02/05/29 10:39
>>434
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikagakeizu.htm
これくらいしか見つからなかった。しかも義胤をクリックしたらnot foundダタヨ。
桃井直常で検索すると、それなりにヒットするんだが・・・
436日本@名無史さん:02/05/31 03:18
age
437日本@名無史さん:02/05/31 18:31
新田義綱
438日本@名無史さん:02/05/31 19:28
>>434
                  ┌─頼氏─胤氏─満氏─尚義─義通
                  │
足利義兼―義助―桃井義胤┴─頼直─貞頼─直常─直和─直詮                       
439日本@名無史さん:02/06/01 01:57
>>438
新田氏との関係は??
婚姻関係もキボンヌ
440筑後守護蒲池子孫:02/06/01 06:32
我が家は嵯峨源氏である!!
頭が高い控えよ!!!!
441日本@名無史さん:02/06/01 18:26
嵯峨源氏って誰だっけ?
古我氏??
442日本@名無史さん:02/06/02 00:11
我々取材班は謎の生物、嵯峨源人の調査の為に京都府に赴いた。
しかし!驚くべき事実が我々を直撃したのである!
443日本@名無史さん:02/06/03 17:01
>>442
川口浩が生き返ったの?
444日本@名無史さん:02/06/03 17:19
このスレって忘れた頃にあがるよね〜〜
新田義貞の研究書ってあるんでしょうか?
せめて新田次郎の書いた小説くらい、復刊してほしいっす。
445日本@名無史さん:02/06/03 17:21
>>444
捨てきれないスレってどこの板にも1つくらいあるよね
2年くらい掛けてやっとパート2とか
446日本@名無史さん:02/06/03 20:20
>>444
グーグルで調べろ、アホ!!
447日本@名無史さん:02/06/03 21:16
>>444
「新田氏根本史料」は基本史料。ほぼ手に入らない。
「新田町史」は峰岸氏が書いた良書。今では入手困難だが、上書ほど高価ではない。
448日本@名無史さん:02/06/03 21:20
>>439
桃井氏は名字の地が上野にあり、本宗家より新田氏との関係が深く、南北朝期も関係が続いたようだ。
449日本@名無史さん:02/06/03 21:27
>>438
桃井尚義は新田氏について、桃井直常は足利氏についたんだっけ?
450日本@名無史さん:02/06/03 21:39
新田町のジョイフル本田は一日中いても飽きないね。
451日本@名無史さん:02/06/03 22:13
>>447
新田氏根本史料は群馬県史に収録

>>439
根本所領はどこ?
新田氏とはどういう関係なの??
452日本@名無史さん:02/06/04 00:06
>>451
上野国桃井郷(現:榛東村)
453日本@名無史さん:02/06/04 00:09
>>450
禿同。
あのホームセンターははじめていったとき度肝を抜かれた。さすが田んぼの真ん中だなと。
で、でけえ〜。足利に住んでるとああいう巨大なのはあんまり考えられない。

近くに義貞挙兵の地があるね。
454日本@名無史さん:02/06/04 00:18
桃井といえば桃井幸若丸直詮。
幸若舞の創始者だったよね。
455日本@名無史さん:02/06/04 01:01
信長も幸若舞の当主に会った時はハァハァ(;´Д`)(;´Д`)ハァハァしちゃったらしいよ
456日本@名無史さん:02/06/04 13:42
新田一族と親戚関係にあたる名門名家っているの?
457>456:02/06/04 14:12
山名家は新田一族。
足利時代には全盛期を迎えた。
戦国時代には大名としては没落したが、家康により高家として復活。

あと、得川家。
徳川家のご先祖とされている(うそ率90%)。

世良田家。
家康が関が原の合戦で戦死したあと、元影武者だった世良田二郎三郎が初代将軍になった。
その後、徳川家康の実子秀忠に2代将軍を大政奉還(うそ率99%)。
458日本@名無史さん:02/06/04 15:05
>>456
姻戚でいうと、
足利氏、安藤氏、小田氏(八田氏)、相馬氏…
459日本@名無史さん:02/06/04 16:12
里見家
鎌倉初期に遊女職という売女の元締に任ぜられる。
俺もなりたい。
460日本@名無史さん:02/06/04 17:07
新田義貞の曽祖父の政氏は足利義氏の外孫だったな。

     新田政義
         ‖─政氏─基氏─朝氏─義貞
       ┌ 女
       │
 足利義氏┴泰氏─頼氏─家時─貞氏─尊氏
461日本@名無史さん:02/06/04 17:24
>>458
千葉氏
462日本@名無史さん:02/06/04 19:47
漏れの住んでるあたりは新田氏に嫁いだ相馬氏の化粧料地だよ。
既に衰微していた山名氏の某が代官として住んでたそうだ。
某としたのは地元の歴史の本でも名前を特定できなくて、山名某しか書いて無いんだよね。
南北朝の頃、山名なんとかが「俺は昔は農民みたいなもんだった」と言ったそうだけど、
なるほどなと思った。
463日本@名無史さん:02/06/04 21:43
>>462
氏清です。
新田氏の比較的早く分家した一族は本宗家からかなり自立し、鎌倉幕府からもそれぞれが御家人として公認されていた。しかし鎌倉末期にはどの家も没落していた。
464日本@名無史さん:02/06/04 22:28
>>463
徳川家以外は。
465日本@名無史さん:02/06/04 23:00
>>464
は?意味不明。
466日本@名無史さん:02/06/05 08:32
>>464
「どの家も没落」→世良田氏、徳川岩松氏は新田荘惣領職を獲得
467日本@名無史さん:02/06/05 21:18
世良田氏も惣領権持っていても没落していたよ。得宗家が新田庄を侵略してきたから。
足利氏と結んだ岩松氏だけがおこぼれを頂戴していた。
468日本@名無史さん:02/06/05 21:28
鎌倉末期に官位を持っていた新田一族は岩松と里見ぐらいじゃなかったけか?
469日本@名無史さん:02/06/07 17:42
>>467
惣領権ってなに??
470日本@名無史さん:02/06/07 17:45
岩松は新田義貞とほとんど関係ないのに新田に改姓して
忠臣の子孫だってことで男爵になれたんだよな。
471日本@名無史さん:02/06/07 17:58
>>469
サーチエンジンをご存知ですか?
472469:02/06/07 23:02
>>467,471
おいおい惣領「権」だぞ!!
そもそも惣領は「職」じゃないのか??
出典だせ、ゴルァ!!!!
473469:02/06/07 23:04
>>470
新田岩松義純は義貞の孫にして岩松経家の孫でもある。
岩松氏が新田を称したのは家純から。
474日本@名無史さん:02/06/08 01:00
>>473
泰家
475日本@名無史さん:02/06/09 18:27
>>473
岩松義純では無く岩松満純では?
正直、義貞の孫というのは自称くさいが。
476日本@名無史さん:02/06/10 16:16
>>475
わざわざ義貞孫を自称するヴァカはいないと思われ。
だからマジで孫なんじゃない?
477日本@名無史さん:02/06/10 18:21
>>473
岩松義純=新田尼養子の父
478日本@名無史さん:02/06/10 21:17
>>476
義純が自称したのでなく、子孫が詐称したのだ。
479日本@名無史さん:02/06/11 09:00
>>476
その通り!
義純の子の時兼、時朝は新田岩松を名乗ってる。
480日本@名無史さん:02/06/11 12:27
足利義純は足利義兼の庶長子で、新田義重の孫娘の婿となって
岩松氏、田中氏の祖となった。
後に北条時政の娘(畠山重忠の後家)と再婚し、
源姓畠山氏の祖にもなっている。
481日本@名無史さん:02/06/11 13:39
>>480
義純の長子、次子はその時に母方に引き取られ、
母方の祖母の養子となる。
482日本@名無史さん:02/06/11 19:20
 新田義重の孫娘
   ‖    
   ‖────┬─岩松時兼
   ‖       │
 足利義純    └─田中時朝
   ‖
   ‖──────畠山泰国
   ‖
 北条時政の娘
483日本@名無史さん:02/06/11 20:47
足利上総介義兼の嫡男太郎義純は父の勘気を蒙り上野國新田荘に至る、
新田大炊介義重朝臣之を愛で嫡男大炊介義兼の女を配し二子を儲け、
長子を太郎時兼次子を田中次郎時明と云う。時兼は祖母新田尼を嗣ぎ
新田荘岩松郷に住し新田岩松氏と称す

『寛政重修諸家譜』

484日本@名無史さん:02/06/11 20:50
将軍家(実朝)政所下、上野國新田荘内十二箇郷住人可令早々、
源時兼為地頭職事、田島郷、村田郷、高島郷、成墓郷、二児墓郷、堀口郷、
千歳郷、薮墓郷、田部賀井郷、小島郷、米沢郷、上今居郷。
 右件郷々 任蔵人義兼後家所進之注文、補任彼職。於有限之年貢課役者 
任先例可致沙汰之状所仰如件。
 建保三年(一二一五)三月廿三日


譲り渡す上野國新田御荘内屋敷、岩松郷並に春原荘内万吉郷問事源時兼。
右両郷譲り渡す事実也。
 但し子々孫々まで全く他の妨げあるべからず、仍譲渡事如件。
  貞応三年(一二二三)正月廿九日         新田尼


485日本@名無史さん:02/06/11 20:51
譲り奉る土用御前の所知の事
行方郡千倉荘加比草萱定、御厨のうち布施、藤意、野毛崎以上五箇所也。
右の所は土用御前の領地として女房の沙汰得べき事実也、
嫡子嫡男といふ妨げをいたすにおきては、
いかなる権門にもよせて女房の沙汰たるべし。
依て後日の沙汰の為譲状を奉る事如件。
  嘉禄三年(一二二七)十二月    平 能胤
486日本@名無史さん:02/06/11 20:56
経家、建武二年(一三三五)戦死、女影原、経家子泰家年猶幼、
経家弟直國、依祖父政経命、執家事、近侍足利基氏、従干巌殿山軍有功、
賜兄義政缺地、及泰家長、譲与新田本領



新田義宗の歿後遺児容辻丸が越後に隠れ住むを哀れとし、
岳父満國は窃に生母と共に容辻丸を襁褓の内から邸内で養育せしむ。


満國は一子満氏早世するや容辻丸を実子として披露し、
長じて満國の跡を継ぎ治郎大輔岩松満純と号す。


将軍義教は永享十年(一四三九)源慶の還俗を許し、
新田治郎大輔岩松太郎家純と名乗らせ、
永享十二年(一四四〇)の結城合戦には幕府方総大将として勲功を樹てた。 
長禄元年(一四五二)将軍義政の弟政知が堀越公方となるや、
関東諸豪の結束を促すため持國の所領を割き家純に分与せしめ、
これにより岩松氏二流となり将軍方として新田荘に併立し、
世に家純方を礼部家、持國方を京兆家岩松氏と唱へた。
 



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500日本@名無史さん:02/06/11 22:37
これってどんな論文?読んだ人居たら内容希望
>>http://www.nii.ac.jp/sokuho/articles/ncid/AN10363245/19980300_8.html
本郷 <史料紹介>新田義貞麾下の一部将と室町幕府のある右筆について
501あぼーん:あぼーん
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506日本@名無史さん:02/06/13 00:57
正木文書2号・長楽寺文書122号 「源義重譲状」

  

ゆつるこかんのかうかうの事、をうなつか、をしきり、せらた、かみひらつか、みつき、しもひらつか、こせんのこかんなり、
たのさまたけあるへからず、このむねをそんして、百さうさたのものあんとすへし、たしかにたしかにゆつりおハぬ、
  仁安三年六月廿日
            源 義重(花押)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
譲る空閑の郷ゝの事、女塚、押切、世良田、上平塚、三木、下平塚、御前の空閑也、
他の妨げあるべからず、この旨をそんじて、百姓さたのものあんとすへし、たしかにたしかに譲りおハぬ、
  仁安三年六月廿日
            源 義重(花押)
507日本@名無史さん:02/06/13 00:59
 正木文書3号・長楽寺文書123号「源義重置文」

下 (花押:源 義重)
こあまたあれと、らいわうこせのハゝの事をゝもヘハにたのみさうハゆつりたるなり、ハゝの事らいわうこせんをろかにあるへからす、
それにとりてもこかんとてハ、らいわうこせんかハゝにみなゆつるなり、ハハかためニおろかニあるへからす
こかんのかす
をうなつか、えたかみしも、たなか、おゝたち、かすかハ、こすみ、をしきり、いてつか、せらた、みつき、かみいまい、しもいまい、
かみひらつか、しもひらつか、きさき、丁ふくし、たこう、やきぬま、このかうかうしたいにゆつりわたす、たのさまたけあるへからす、
あなかしこかしこ、
  仁安三年六月廿日 (花押:源 義重)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
下 (花押:源 義重)
子数多あれど、らいわう御前の母の事を思へば新田の御荘ハ譲りたるなり、母の事らいわう御前疎かにあるべからず、
それにとりても空閑とては、らいわう御前が母にみな譲るなり、母か為に疎かにあるべからず
空閑の数
女塚、江田上下、田中、大館、粕川、小角、押切、出塚、世良田、三木、上今井、下今井、
上平塚、下平塚、木崎、長福寺、多古宇、八木沼、この郷々次第に譲り渡す、他の妨げあるべからす、
あなかしこかしこ、
  仁安三年六月廿日 (花押:源 義重)
508あぼーん:あぼーん
あぼーん
509日本@名無史さん:02/06/13 13:40
このかげしいコピペはいったい何のために?
510あぼーん:あぼーん
あぼーん
511あぼーん:あぼーん
あぼーん
512あぼーん:あぼーん
あぼーん
513あぼーん:あぼーん
あぼーん
514あぼーん:あぼーん
あぼーん
515あぼーん:あぼーん
あぼーん
516あぼーん:あぼーん
あぼーん
517日本@名無史さん:02/06/13 21:08
ここまで来たら嫌がらせだな
518日本@名無史さん:02/06/13 21:14
レス削除依頼した方がいいかも。
519日本@名無史さん:02/06/13 21:22
文献名を上げれば十分。中身は自分で調べさせろ。
520日本@名無史さん:02/06/13 21:25
なんか怨念じみたものを感じるんですが・・・・・。
521あぼーん:あぼーん
あぼーん
522日本@名無史さん:02/06/13 21:30
>>517〜520
いや、内容的には興味深い。
勉強になる。
このままでいいのでは??
ただ、目がチカチカする。
523日本@名無史さん:02/06/13 22:36
この程度の知識は奥富敬之の『清和源氏の全家系六 新田諸族と戦国争乱』1991新人物往来社
にも書いてある初歩的なもの。わざわざひけらかすほどのことではない。
524日本@名無史さん:02/06/14 02:56
知識のひけらかしには見えんが…。
上から通して読んだが、
今までの愚問に全て答える内容。
525日本@名無史さん:02/06/14 23:25
岩松家は松平家と井上馨の親戚なんだね。
単なるペーペー旗本としか思っていなかった。
526日本@名無史さん:02/06/15 12:13
>>525
一応交替寄合だから、
120石でも外様大名待遇。
腐っても男爵だから、井上馨家に嫁がせられる。
527日本@名無史さん:02/06/18 14:21
>526
違うよ。新田義貞の裔ということで、華族になっただけ。
交代寄合=外様大名待遇
ではない。
528日本@名無史さん:02/06/18 21:52
>>526
過去ログ読めや
529日本@名無史さん:02/06/21 19:52
あげ
530日本@名無史さん:02/06/22 20:09
age
531日本@名無史さん:02/06/22 21:09
俺、名字が岩松ですが実家は九州…。
532日本@名無史さん:02/06/23 00:57
>>531
新田岩松の一族かもね?
533日本@名無史さん:02/06/23 21:04
あげ
534日本@名無史さん:02/06/25 09:11
来年4月。
足利市と太田市は合併し、新市名を「源市」と致します。
535日本@名無史さん:02/06/25 10:02
536日本@名無史さん:02/06/25 11:25
30年前の太田なんてただの平坦な田んぼの田舎町だったのにね。
大手企業の製作部門を積極的に誘致したお陰で人間も増えカネも落ちて
今じゃ相当でかい街になったな。若い労働者が多いから風俗街も発達したね。
足利は風光明媚で伝統がやたらとあって保守的なので、そういうことをせずに落ちこぼれた。
太田は足利なんかと組みたかないだろう。
537日本@名無史さん:02/06/25 20:22
>>536
中島飛行機は戦前からある。
538日本@名無史さん:02/06/25 21:46
中島飛行機って今どうなったんだ?
洋次郎の最期以降…。

539日本@名無史さん:02/06/25 22:03
♪さらば スバルよ♪
540日本@名無史さん:02/06/26 12:19
>>538
富士重工
541日本@名無史さん:02/06/26 12:39
笑っていともに足利氏後裔を名乗る者が出演
542日本@名無史さん:02/06/26 12:40
足利義徳様であらせらる
543日本@名無史さん:02/06/26 12:42
前にも足利の末裔出てたよね。
544日本@名無史さん:02/06/26 12:43
>>540
プリンス自動車>日産という流れも
545日本@名無史さん:02/06/26 12:43
ほんとだ…
喜連川系じゃ無そうだけど…偽者?
546日本@名無史さん:02/06/26 12:44
でもいまの兄ちゃん今川義徳じゃないだろか
547日本@名無史さん:02/06/26 12:59
>542
       〃───、
      / _____)
      / /´ (_  _)ヽ
     ||-○-○-|
     |(6   ゝ  | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |ヽ   θ ノ< 呼んだ?
      ヽ|\_/   \_____________
   ______.ノ    (⌒)
 //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/ /:::::::::::|  /:::::ノ__ | .| ト、
| /:::::::::::::::| 〈 ̄   `-Lλ_レ′
レ::::::::::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
548日本@名無史さん:02/06/26 14:00
549日本@名無史さん:02/06/26 14:03
550日本@名無史さん:02/06/26 14:41
8CHでたのは家系からみると堀越公方みたいよ
551日本@名無史さん:02/06/26 15:06
ヒントとして系図がでたが、「有名すぎてわかってしまう」という
理由で義光と義政は隠されていたが、義輝と義昭はでたまんま…。

しかも、系図の中に女子正園寺室(うろおぼえ…)というのがでて
いたが、番組出演者は「変な名前!」だとか「部屋が産まれたの?」
だとか…。
552日本@名無史さん:02/06/26 15:12
茶々丸ピッコロぽ〜ろり〜♪
553日本@名無史さん:02/06/27 00:38
>>550
堀越公方の末裔って??
伊勢宗瑞に殺されたのでは??
554日本@名無史さん:02/06/27 03:10
>>553
堀越公方政知の子がダレだか知ってるか?
555日本@名無史さん:02/06/27 14:24
>554
将軍足利義澄
556日本@名無史さん:02/06/28 00:16
>>553
だから平嶋公方だろ!
アホか!
557日本@名無史さん:02/06/28 04:13
      <堀越公方>
足利義教──政知─┬─茶々丸 ┌─義晴  ┌─義栄
             │       │      │           <平島公方>
             └─義澄──┴─義維─┴─義助──義種──義次─(以下略)                                                               
558日本@名無史さん:02/06/29 06:01
今出川系は誰も残ってないのかね?
559日本@名無史さん:02/06/29 08:18
堀越学園=万引きの温床
560日本@名無史さん:02/06/29 13:49
笑っていいともに出演していた平嶋公方の末裔って華族?
561日本@名無史さん:02/06/29 20:50
>>560
新平民
562日本@名無史さん:02/06/29 23:04
平嶋公方は大名では無いので華族にはなっていません。
>>551
出演者全員が己の無恥を晒してた

女子西園寺室を西園寺の部屋で生まれたのか?だの
茶々丸だけ名前がオカシイと馬鹿笑い
誰か抗議メール出してみたら?
幼くして殺された可哀想な子を笑いものにするなんて非常識だって
564日本@名無史さん:02/07/01 09:31
age
565日本@名無史さん:02/07/10 02:52
age
566日本@名無史さん:02/07/11 00:16
>小田原の役後、関東に徳川家康が入国すると守純は家康に面接しましたが、
>その応対が家康の意を得ず、わずか二十石を与えられたに過ぎませんでした

どうせ家康が新田宗家譲れとか恫喝してきたのを断ったんだろうな。
まあ似非新田には譲れんがな。
567うんこ♯nittayosisada:02/07/12 21:07
age
568日本@名無史さん:02/07/15 21:07
>>522-524
他サイトからのコピペ
リンク貼れ(直リンはダメよ)ばすむこと

http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1017225782/382-383
にも同じとこからのコピペがある
569日本@名無史さん:02/07/15 21:57
>568
一ヶ月以上前のことを蒸し返すなよ。
570日本@名無史さん:02/07/17 00:01
削除依頼は出てる?
読みにくいから邪魔なんだけど
571日本@名無史さん:02/07/20 19:18
あげ
572日本@名無史さん:02/07/21 08:41
>>563
>幼くして殺された可哀想な子を笑いものにするなんて非常識だって

茶々丸の事? いい年なのに一向に元服しなかった大人だよ。
お家騒動で一族殺した極悪人じゃなかったっけ?
573日本@名無史さん:02/07/21 11:01
そおいやぁ〜、テレビで足利尊氏の末裔と言う爺さんを見たことあるな!
足利尊氏の末裔と言う事で金閣寺をただで見物らしい(うろ覚えだけど)
金閣寺をただで見物できるなんて正直うらやましい。
574日本@名無史さん:02/07/21 11:11
足利は悪より
新田は正義より
575日本@名無史さん:02/07/21 16:33
>>574
平泉澄ハケーン!!
576日本@名無史さん:02/07/24 15:26
sage
577日本@名無史さん:02/07/24 15:48
足利って天皇(後醍醐天皇)に逆らったから、損したよね。
578日本@名無史さん:02/07/24 15:52
>577
誰かがやらなきゃならない役回りだったと思われ。
579日本@名無史さん:02/07/25 15:53
>>578
北条と足利ってさ、天皇家に逆らったから評価悪いのかな?
あの時代はちょうど公家と武家という2大勢力の転換期といえる。
580日本@名無史さん:02/07/28 17:50
あげ
581歴史の勉強:02/07/28 21:43
足利茶々丸に関しては、正確な年齢がハッキリしないので何とも言えないが、
将軍・足利義澄にとっては逆賊(だって母と弟の仇だから)だったために、
成人してからの名前を認められなかったのかな〜?
なんて考えたことがあります。

似たような例に、1380〜97年に鎌倉公方と対立して一時廃絶された下野の小山氏。
小山義政の息子・小山若犬丸は確実に成人していたと考えられるにも関わらず、
1397年に会津で自殺するまでずーっと「若犬丸」という幼名で呼ばれた。
常陸の小田氏の下で庇護されたらしく、成人名は「隆政」と推測されてる。
若犬丸の子供が二人、六浦(横浜市金沢区)で沈められたと記録されてるから、
成人していたのは間違いないのですが。

茶々丸の逆賊性を強調したかったからこそ、彼を幼名で呼んだって可能性はあるんじゃない?
足利将軍家が没落して以降も、
北条早雲を書いた軍記もののたぐいでは茶々丸は悪役(やられ役)だろうしね。
582日本@名無史さん:02/07/30 07:24
>>581
俺もどうして足利茶々丸の名前が伝わってないのか疑問だったけど、
その考えは蓋然性があるね。参考になった。
583563:02/08/03 23:05
爆笑バカにするつもりが自分で無恥晒してる(w
茶々丸って成人してたのか
元服前の子供が弟殺す(?)なんてとんでもねえなって勘違いしてたよ
584日本@名無史さん:02/08/05 20:35
age
585日本@名無史さん:02/08/08 15:37
あげ
586ガッツ!杜の石松:02/08/11 15:57
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1006670909/l50
487〜499・501〜505が
ttp://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikaganenpyou.htm
ttp://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikaganenpyou-2.htm
ttp://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikaganenpyou-3.htm
ttp://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikaganenpyou-4.htm
516・517もおそらく同サイトから
参考ttp://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/yosikuni.htm
508・510〜514・521は
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/iwamatu.htm
からのコピペです
非常に読みにくいうえ、内容は元サイトの丸写し。削除願います。

>>483-486 >>506-507は解からなかったけど
これで削除依頼出してOK牧場?

これだけで済むものを長々とコピペすんなよな
587あぼーん:あぼーん
あぼーん
588日本@名無史さん:02/08/15 07:19
age
589586:02/08/18 17:28
反対なさそなんで明日辺り587も併せて依頼出すよ
590日本@名無史さん:02/08/18 19:06
>589
OKPK
591586:02/08/24 22:22
削除依頼通ったようです、削除人さんに感謝
592日本@名無史さん:02/08/27 12:21
あげ
593日本@名無史さん:02/08/30 18:13
斯波家と吉良家って室町時代までは足利を名乗ってたって本当ですか?
594日本@名無史さん:02/09/01 22:20
吉良、斯波両氏とも初代長氏、家氏から吉良、斯波と呼ばれている。でも当時官位が有ると普通「官位+
名前」で名乗ったり、署名するよね。斯波氏は足利一門では一番家格が高く、ついで吉良、渋川、石橋氏であった。
595日本@名無史さん:02/09/01 23:13
>>593
元亨3年の「北条貞時十三年忌供養記」には
斯波高経は足利孫三郎と、
吉良貞義は足利上総前司と書かれています。

南北朝期になっても斯波氏は、
家祖家氏の最終官途が尾張守であったことから、
三代将軍義満の頃までは足利尾張と呼ばれており、
足利庶家の中でも最高の家格を有していました。
高経の尾張守任官も家氏の官途に倣ったものだったのでしょう。
吉良氏も南北朝初期までは、
代々の最終官途が上総介であったことから、
足利上総と呼ばれていましたが、
尊氏が将軍になると吉良氏を名乗ったようです。
596595:02/09/05 17:53
少し間違い。
斯波氏も足利政権成立後は足利姓を名乗れなくなりますが、
名字不記載の特権を得て、尾張〜など官途で呼ばれています。
1336年に高経長男家長が斯波殿と呼ばれていることから、
この時点で斯波氏と名乗っていたと言う説もありますが、
高経孫義教まで、斯波氏と名乗ることはなかったようです。
斯波郡を本領としていたのは間違いないのでしょうが。
597日本@名無史さん:02/09/05 19:26
nencyaku
598日本@名無史さん:02/09/07 20:22
坂本
599日本@名無史さん:02/09/11 12:35
age
600600:02/09/11 20:10
足利学校
601日本@名無史さん:02/09/19 23:13
age
602日本@名無史さん:02/09/24 08:55
塩松尚義あげ
603日本@名無史さん:02/09/24 08:57
大内定綱に追放された後、塩松(石橋)尚義はどうなったんですか?
604日本@名無史さん:02/09/27 18:41
死んだ
605日本@名無史さん:02/09/27 18:43
>604
そんなの言われんでも分かるわ!史ね!!
606日本@名無史さん:02/09/27 18:47
俺アホやから分からんかった
607石橋尾張守:02/10/02 21:05
>>603
石橋家のことなら私に聞いて下さい。
知ってることはお答えします。

私の手元の資料では、尚義歿後大内めが叛旗を翻し、
尚義の子松丸は相馬を頼ったとあります。
608日本@名無史さん:02/10/02 21:38
吉良氏は名門と言われるわりに、とくに活躍していた形跡がないね。
寛政譜を見ても歴代の業績は皆無に近いし、無官の当主も多い。
三河の守護だったわけでもないし、何をしていたのかよくわからん。
609日本@名無史さん:02/10/02 21:43
あと石橋家もよくわからん家だ。
吉良、渋川とともに「一門」だったというが、守護でも探題でもない。
吉良、石橋の当主って室町幕府で何をやってたの?
610日本@名無史さん:02/10/02 22:01
生きて血を残すことが仕事
つまりはセクース
611日本@名無史さん:02/10/03 12:41
石橋は直義党だから没落した。
いわば反幕府方。
612日本@名無史さん:02/10/10 04:14
age
613石橋尾張守:02/10/13 17:43
>>611 これこれ ええ加減なこと言わはるのはおやめなはれ。
直義党で反幕だから没落なんて、まるで石塔頼房か桃井直常みたいやん。

南北朝期の石橋家当主、和義は引付頭人を長く務め、
引付方を管轄する直義との関係も浅からぬものがあったのであろうし、
内訌が直義vs.師直の段階では師直に与していなかったのも事実。
しかし尊氏と直義の抗争がになると様相が変わってきます。
まず、観応2年の直義の北陸落ちには、在京中だった和義は加わりませんでした。
614石橋尾張守:02/10/13 17:46
(承前)実はその直前、近江に出馬した尊氏と呼応して京の直義を挟撃すべく、
義詮は和義に播磨へ同行を命じますが、和義は拒否して出家。
そうまでしていながら直義と行動を共にしなかったのは、
恐らく全て尊氏の指示なのでしょう。
即ち洛中の治安維持、なかんづく天皇を直義に拉致られないための布石であると
私は見ています。
615石橋尾張守:02/10/13 17:56
(承前)勿論、出兵拒否・自由出家という大罪にも拘らずお咎めなし。
更にその後、ある公家の日記で「中国左衛門佐入道」と表現されていますが、
これは直冬追討のため中国地方を転戦したときのもの。
尊氏薨去後の贈官の御礼として、義詮が自らの代理に和義を任じて参内させたり、
斯波を差し置いて、吉良・渋川と共に石橋を「御一家衆」に列したのも
義詮の信任の表われであり、恐らくその信頼は尊氏時代からのものだったのでありましょう。
石橋氏失脚は斯波との抗争の結果です。
私の石橋氏論は身贔屓な面も多分にありますが、それでも良ければまた今度。
616日本@名無史さん :02/10/13 18:02
>>614
和義の京都残留は天皇拉致防止のためで、
出兵拒否・出家は直義方に気取られないためのカムフラージュ
ってことですか。
617日本@名無史さん:02/10/13 18:03
>>615
石橋氏が「御一家衆」として確認できるのは、いつ頃までですか?
618石橋尾張守:02/10/16 21:39
>>616 そうでしょうね。

>>617 義政治世下でも正月五日の将軍との対面等、他家とは別格扱いだった
らしいですが、更に「長享元年常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」等に
「御一家衆石橋殿」とあります。
619石橋尾張守:02/10/16 21:42
>>609
御一家衆の職務内容は未だ不明ですが、足利家当主が幼少でまだ将軍宣下が
ないような時に、一門を代表するような機能があったようです。
620日本@名無史さん:02/10/17 00:50
御一家指定は他にどこがされてたの??
621日本@名無史さん:02/10/17 00:52
あまり関係ない質問でスマソ
我が家の家紋は引両紋で実家は九州です。足利と関係有るのでしょうか。
622日本@名無史さん:02/10/17 00:53
吉良と渋川。
623日本@名無史さん:02/10/17 00:54
↑は>>620へのレス。
624日本@名無史さん:02/10/17 03:16
石橋和義から尚義までの系図はどうなってるんでしょう?
自分の持ってる系図には載ってないんですが
625日本@名無史さん:02/10/17 11:56
>>549
戦後、中島飛行機は数社に解体される。
このうち6社は後に合併し、現在の富士重工になったが、
1社(富士精密工業)が後のプリンス自動車になる。
626日本@名無史さん:02/10/17 23:32
>>625
どっちも日産と関係あるね
627石橋尾張守:02/10/21 21:39
諸本ありますが、当家の系図を勘案すると

和義−宣義(義幸)−棟義−満博−治義−祐義−房義−義衡−義仲−義継−尚義

但し多くは棟義を和義の子としています。
今日で言う代襲相続かも?
628石橋尾張守:02/10/21 21:41
↑は>>624へのレス。
629日本@名無史さん:02/10/22 00:41
はいはい。ご先祖自慢ね。

帰って良いよ。
630日本@名無史さん:02/10/26 01:08
age
631日本@名無史さん:02/11/03 13:21
足利氏には徳川の御三家や御三卿に相当する一門はなかったようですね。
吉良氏は>>619に書いてあるような存在だったらしいが、よくわかりませんね。
632日本@名無史さん:02/11/15 15:15
実際、現在の足利,新田両家の当主ってなにやってんの?(他人事だからどうでも良いけどサ)
足利家も数家あるようだし(喜連川,阿波etc)...
633日本@名無史さん:02/11/15 16:45
将軍家の末裔は坂本家だ!
634石橋尾張守:02/11/15 20:51
>>631
義勝時代に、吉良・管領(細川)・山名の順に書いている文書があり、
その根拠の一つとされているようです。

>>632
正当性から言えば断然喜連川より平嶋公方(阿波)でしょう。
所詮喜連川は将軍に叛逆して滅ぼされた者の末裔。

平嶋系には今も尊氏公の血は流れてるのかな。
喜連川は何人も養子迎えてるからなー。

>>633
坂本? 本当に義昭の子孫なの?
635日本@名無史さん:02/11/15 21:01
>634
義昭の長子・義喬の系統が坂本家。
義喬の孫の義邵が坂本を称して、会津の保科正之の家臣となった。
636日本@名無史さん:02/11/15 21:08
>635
その信憑性は「徳川家は新田氏の末裔だ!」というのと同じくらいだな。
637日本@名無史さん:02/11/15 22:42
>>632
新田の当主は岩松家ということになると思う。
数ヶ月前に猫絵のラフを中心に数百点の史料を群大に寄贈して新聞に載っていたが
今何してるかは分らない。
638新田官軍:02/11/16 00:12
新田町民こそ神に選ばれた民である。
来春、我々選民である新田町民は世界制覇に乗り出すことを宣言する。
集合場所は言うまでも無くアソコだ。
まずは川向こうの足利のクソどもを軍神新田義貞公に捧げることをここに誓う。
639日本@名無史さん:02/11/16 14:52
>>634
はぁ?
関東公方家がいつ滅ぼされたって?
持氏の事を言いたいなら、その後もしっかり再興してるでしょうに。

因みに、喜連川も最終的には関東公方家の分家である宮原家から
養子を迎えてるので、足利の末裔には違いないよ。
640日本@名無史さん:02/11/16 15:34
>>639
宮原家からの養子聡氏のあと、前当主縄氏(水戸斉昭の子)の子が相続している。
その子孫がオリエント学者の故足利惇氏さんなので、徳川の血統である。
641日本@名無史さん:02/11/17 13:41
どっちも似たような田舎豪族だろ。武田は名門。騎馬隊でも有名だな。
642日本@名無史さん:02/11/17 14:05
武田も江戸時代に柳沢家から養子が入ってるし・・・
643日本@名無史さん:02/11/17 14:14
>642
でもその前に、柳沢家と縁組してるんじゃないの?
江戸時代には柳沢家にお世話になりっぱなしだったから、柳沢家にも武田の
血が入ってるなじゃないかな?
644日本@名無史さん:02/11/18 01:22
>>642、643
近世の武田の系図キボン
645日本@名無史さん:02/11/18 05:08
義昭の子孫すか
義喬の信憑性からして怪しいとも思うが、永山九兵衛なんかよかマシかなぁ・・・
確実なのは高山(義尋)と、その子義尊、常尊までかな

柳沢は一応武田一門だし・・・一条系で相当早い別れでマジか怪しいけど
646日本@名無史さん:02/11/19 05:33
>>638
> 来春、我々選民である新田町民は世界制覇に乗り出すことを宣言する。
> 集合場所は言うまでも無くアソコだ。

地元の小学生ですか?

> ◆【鏑矢祭】(かぶらやさい)
> 新田義貞公が鎌倉攻めの旗挙げをしたことにちなんで、
> 毎年5月8日に生品神社の境内で鏑矢祭として氏子により儀式が行われている。
> この行事は古くから神社に伝わるもので、旗挙げの時に鎌倉攻めの吉凶を占ったといわれている。
> 早朝、地元の小6男子たちが一斉に鎌倉の方向へ「天誅!」という叫びと共に矢を放ちます。
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~uncle_oj/uncle's_gdn/ikushina_j.html
647日本@名無史さん:02/11/19 16:02
まあ将軍とか幕府までやった足利がスゴイと。
648日本@名無史さん:02/11/22 13:50
徳川って新田に妙に興味を持ってたんじゃなかったっけ。
家康って新田の末裔ですっていってきたやつを幕臣にした
って逸話が・・・
649日本@名無史さん:02/11/25 05:48
>>648
岩松家と由良家と横瀬家の事だと思うが、由良、横瀬は高家だよね!
足利尊氏の末裔高家の喜連川家は徳川家と親戚関係になんだが、
新田義貞の末裔(自称)由良家と横瀬家も徳川家と親戚関係なの?

650649:02/11/25 05:50
訂正
親戚関係になんだが→親戚関係にあるんだけれど
651日本@名無史さん:02/11/25 13:12
由良、横瀬ってもともとは小野姓の横山党出身だよね。
勝手に岩松家を乗っ取って、義貞の子孫を称しているんだよね。
652日本@名無史さん:02/11/26 16:48
義貞の子孫なんて本物は滅んで自称子孫しかいないよ。
653日本@名無史さん:02/11/26 23:52
すでにこのスレが立って1年が過ぎたわけだが。
654日本@名無史さん:02/11/27 21:17
千利休が新田氏の傍流とかって本当なの?
655日本@名無史さん:02/11/28 23:30
>>654
里見流田中氏出身だね。
旧の名は田中小四郎だった…。
656日本@名無史さん:02/11/29 01:22
>>652
義貞の弟の脇屋系も残ってないんですか?
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/6514/gunji.html
657日本@名無史さん:02/11/29 03:18
義貞も里見家から新田家に養子入りしたような・・・
658日本@名無史さん:02/11/29 18:23
>>657
それは俗説ですよ。
659日本@名無史さん:02/11/30 00:25
木枯らし某こそ義貞の正統なる末裔
660日本@名無史さん:02/11/30 04:03
>>657
俗説というか、なんかの系図に記述があるのは確か
まず信用できんけど
661海東:02/11/30 04:41
私の本家の系図は、新田一族の大館政氏の子孫となっていて、
累代の名前が祖父まで書かれています。
662日本@名無史さん:02/12/09 01:52
>>1
頼山陽は、大の足利嫌い。よってそのような表記になったのです。鎌倉幕府内での待遇、
両家に対する官位の進め方を見れば、足利が家格が上であるのは一目瞭然です。
レスが遅くなり、申し訳ありませんでした。
663日本@名無史さん:02/12/11 21:15
>>661
大館政氏って誰だろ?系図に名前が見えない
大館氏の祖の家氏の兄が新田政氏だけど
664日本@名無史さん:02/12/11 21:59
たしかに大館氏の系図に政氏は見当たらないね、政重って人ならいるけど。

そういえば、大館氏はバリバリの南朝方だったのに新田宗家の断絶後には
室町幕府の近臣として一定の地位を保ち続けたんだよね。
山名や岩松以上に滅んだ新田宗家に近い血筋だったからかな。
665日本@名無史さん:02/12/11 22:12
四番目の弟の子孫です
666日本@名無史さん:02/12/12 00:19
誰の??
667日本@名無史さん:02/12/13 00:09
大館政氏=新田政氏です。不始末により新田家の総領職を分家の世良田家に取られた政義の子が
政氏ですが、死ぬまで総領の地位を回復できなかったので、これを恥じて弟の大館氏を称したで
あろうことは当時の慣習から容易に推測されると、中性子研究者のの兄が言っています。
私は大館氏こそ、いい迷惑だと思うのですが。
なお、新田家の総領になった世良田頼氏とかいう人は、新田頼氏として記録されていますとさ。
(吾妻鏡より)

668日本@名無史さん:02/12/13 06:47
>>667
「総領になれなかったことを恥じて」というより「幕府に遠慮して」新田を名乗らなかったと考えられる。
総領を取り上げられた父親の子が堂々と新田政氏を名乗ると、幕府にすれば「親子そろって懲りない奴ら」
となろう。ひたすら恭順の意を表し、総領回復の日を待ったと解するのが正しい。
669日本@名無史さん:02/12/13 21:14
政氏の子孫となると、国氏(細谷)基氏(新田宗家)知信(下細谷)
快義(安養寺)重氏(西谷)惟氏(今井)貞氏(安養寺)
の子が居ると思うんだけど、誰に連なってるんだろう?
というか、ある程度でいいんで、系図書いてくれると嬉しいです。
670日本@名無史さん:02/12/13 21:44
>>667
由良を名乗ったんだろ??
671日本@名無史さん:02/12/14 23:19
>>670
だね
672日本@名無史さん:02/12/22 01:51
あげ
673日本@名無史さん:02/12/22 03:48
尾島町の高田は新田の傍流と聞いたのですが、
誰かその辺のところ知っている人いますか。
674日本@名無史さん:02/12/22 03:59
>957 958
同じことを表現するにしても、えらい違いがあるもんだw
675日本@名無史さん:02/12/22 16:43
 ↑
誤爆ですか?
676日本@名無史さん:02/12/31 03:51
あげ
677日本@名無史さん:03/01/04 10:13
そおいえば、水戸藩に新田義貞が使ってた言う茶器が伝わってたらしいが、
千利休となにか関係があるのかな?千利休も新田一族らしいが。
678山崎渉:03/01/11 16:59
(^^)
679日本@名無史さん:03/01/12 15:07
 新田町はジョイフルもあり温泉もあり結構便利。でも防御面は悪そう
足利は、北が山で、田沼、葛生を越境するとそこは宇都宮。景色もいいね。

 で、結論
ドライブコースには足利 買物には新田町+太田市
680山崎渉:03/01/16 08:50
(^^)
681日本@名無史さん:03/01/16 23:03
太田市も金山城からの眺めはいいよ
682日本@名無史さん:03/01/19 23:06
       
 
 


683日本@名無史さん:03/01/19 23:34
長男が新田で次男が足利だけど長男が他所行っちゃたので後継ぎ足利と
なってるん。
684山崎渉 :03/01/21 23:43
(^^)
685日本@名無史さん:03/01/23 21:41
弟の義康が京に残って父親の地位を継承し、
兄の義重は父義国とともに下向し、
父とともに新田荘の開発をしていたらしい。
686日本@名無史さん:03/01/29 00:34
漏れら極悪非道のageブラザーズ!
今日もネタもないのにageてやるからな!
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ∧_∧   ∧_∧    age
 (・∀・∩)(∩・∀・)    age
 (つ  丿 (   ⊂) age
  ( ヽノ   ヽ/  )   age
  し(_)   (_)J
687日本@名無史さん:03/02/07 21:34
age
688日本@名無史さん:03/02/09 06:14
>>685
何かで読んだのだが、足利義康の子の義兼って実は源為朝の子供って説があるよね。
京都にいた義康は保元の乱にも参加しているけれど、その時に預かったのかな?
(義康は為朝の敵方だったわけだが、木曾義仲を育てた斎藤実盛の例もあるし案外本当かも、なんて思ったりして)

689日本@名無史さん:03/02/09 12:43
>>688
今川了俊の「難太平記」。
義兼は背が高く屈強だったと言われることから、
為朝伝説にあやかった、ということじゃないかな。
690日本@名無史さん:03/02/09 18:24
ふーん、そんな伝説があるんだ。面白いな。
でも今川了俊の時代じゃいまいち信用できんけど(置文伝説と同じで)
ところで義兼で思い出したけど、兄新田義重のあとつぎも義兼、弟の足利義康のあとつぎも義兼ってことで
従兄弟同士が同じ名前ってのは、ずいぶん珍しくないか?
691日本@名無史さん:03/02/09 18:37
>>690
この時代は、諱で呼ぶことはないので混同することはないでしょう。
692日本@名無史さん:03/02/09 21:38
>691
そうは言っても、新田のほうは「義廉」と表記している文書もあるそうだし
よしか-ね、よしか-ど、音感も似ているから、
混同したり、系図なんかを筆写するさいに誤記したりなど
色々ありそうだ罠。
693日本@名無史さん:03/02/10 14:10
>>692
>よしか-ね、よしか-ど、音感も似ているから、
似てないよ
694日本@名無史さん:03/02/10 15:35
>>689
曲亭馬琴の「椿説弓張月」では、足利義兼(作中では義包と表記)が
為朝の子供ということになってて、馬琴の創作だと思ってたけど、
一応出典になった資料はあったのか。知らなかった。
695喜連川の民:03/02/10 15:40
>>688
地元では信じてるジジヴァヴァ多いぽ
>>692
よしかーね!
よしかーど!
外人みたいだ
696日本@名無史さん:03/02/10 15:54
喜連川では足利マンセーなのかいな?
697日本@名無史さん:03/02/10 21:57
>>691
吾妻鏡での表記は、新田義兼は皇嘉門院蔵人だったので、新田蔵人と呼ばれ、
足利義兼は当初八条院蔵人だったので足利蔵人、
上総介になった後は足利上総介と呼ばれているので、
確かに当時は混同されることは少なかったと思う。
後世の史料では明らかに混同されてるのもあるけどね。
698日本@名無史さん:03/02/10 21:59
>>695
足利では信じてるジジヴァヴァは多いんかね?(藁
699日本@名無史さん:03/02/10 22:08
>>694
へえ、そうなんだ。「弓張月」って面白そうだな。
700日本@名無史さん:03/02/10 23:04
「弓張月」では、大島にいて征討された為朝が、
義兼をくくりつけた(!)大凧を大島から伊豆半島まで(!)飛ばして、
足利郎党「簗田」に託すという展開でしたな。
この出典が「難太平記」だと、「弓張月」内に書いてありますよ。

馬琴は足利に好意的に思えるけど、それが江戸時代一般だったのかな?
701日本@名無史さん:03/02/10 23:10
徳川は新田の一族を称してたから新田の方が人気あったんじゃ
ないの?
702700:03/02/10 23:16
どうかなあ?
足利時代は当然「新田=逆賊」だったし、新田義貞は楠木正成みたいに人気なかったから。
それに、地方で生き残った武家のほとんどは足利に味方してた連中で、
足利が正当だって考え方が強かったというし。
高家筆頭が吉良氏だし、足利の末裔は名家として扱われてましたしね。
まあ、馬琴のばあい、彼が関東出身だったことを考慮すべきでしょうね。
「八犬伝」は関東が舞台で、結城合戦で亡んだ足利持氏の子孫への忠誠がモチーフだし、
「弓張月」は足利氏に好意的な書き方だし。
特に「八犬伝」を考える時、馬琴が関東出身だったことは重要でしょうね。
703日本@名無史さん:03/02/10 23:33
>>699
>足利郎党「簗田」に託すという展開でしたな。
この辺は、古河公方に仕えていた梁田氏を意識してるんだろうね。
梁田氏は、足利氏の根本被官と考えられている一族だということを、
馬琴が知っていたかは分からないけど。
704日本@名無史さん:03/02/11 02:54
>702
>新田義貞は楠木正成みたいに人気なかったから。
>「八犬伝」は関東が舞台で、結城合戦で亡んだ足利持氏の子孫への忠誠がモチーフだし、

正成ほどの人気ではないにせよ、義貞も関東ではかなり伝説的になっていたと思ったが。
うろ覚えだが「八犬伝」の出だしでは、里見義実の父親が「我が家は新田義貞公の末裔で‥‥」
と語るシーンがあった記憶があるぞ。
八犬伝のモチーフは、足利持氏の子孫への忠誠というよりむしろその里見家への忠誠だし。
結局、面白い小説のネタになるんであれば、新田でも足利でも何でも良かったんじゃないの?


705日本@名無史さん:03/02/11 03:04
>>697
すると二人が同名になったのは単なる偶然の一致かな?
それとも当時は烏帽子親の諱をもらうことが多かったそうなので
元服の時に同じ人間が烏帽子親になったとか?
706日本@名無史さん:03/02/11 09:08
里見と言えば、義貞の挙兵の時には
有力な一門だったんじゃなかったっけ?
707日本@名無史さん:03/02/11 09:58
里見や山名は足利寄りだったと思ったんだが。
あと岩松も。
708日本@名無史さん:03/02/11 17:20
>707
里見は新田についた者と足利についた者と一族で別れたはず。
709日本@名無史さん:03/02/11 17:32
で、岩松の子孫は明治になって新田の末裔であることを喧伝し男爵
に叙された。
710700:03/02/11 22:47
>704
えー、そんな科白あったかなあ?
養子に入ったのでなければ、里見氏が新田義貞の子孫てことは有り得ない筈。
里見氏は新田義重の子・義俊から分家してたから。
関東では義貞よりその息子・義興のほうが人気あったんじゃないかな?
平賀源内が浄瑠璃の脚本で書いてるし。

里見氏は微妙ですね。1333の挙兵時ならともかく、
安房里見氏の系譜だって充分には証明されたないし(美濃出身説がある)。
里見氏と山名氏は、新田義重が頼朝に帰属する前から頼朝に従ってたはずで、
山名氏は「ご門葉」に選ばれているから、新田宗家より格式高かったとも言える。
結局、南北朝動乱で生き残った武家は足利与党でしたからね。
山名も里見も、多くの分家を輩出してたと思いますが、
少なくとも足利時代に活躍したのは北朝党でしょう。
711日本@名無史さん:03/02/11 23:47
>>707 709
岩松は足利よりだったけど観応の擾乱で直義側に付き、新田と組んだということも考えられる。
足利は真っ二つに割れたし・・・
新田方に付いた岩松氏の末裔の方が作っているHP紹介します。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/fung/shishi/index.html


712日本@名無史さん:03/02/12 00:27
713日本@名無史さん:03/02/12 01:13
>>710
義興は確かに人気あったみたいね。
結城だったか小山だったかが、北畠親房に従うのはイヤだ、義興を大将にするなら従う、
とゴネたことがあったと何かで読んだ覚えがある。
714704:03/02/12 01:38
>>710
「南総里見八犬伝 巻之一」より里見季基(義実の父)の台詞。
「しらずや足利持氏ぬしは、譜代相伝の主君にあらず。そもそもわが祖は
一族たる、新田義貞朝臣に従いて、元弘・建武に戦功あり。しかりしより
新田の余類、南朝の忠臣たれども、明徳三年の冬のはじめに、南帝入洛
ましまして、憑(たの)む樹下雨漏りしより、こころならずも鎌倉なる、
足利家の招きにしたがい給い、亡父は満兼主に出仕し(以下略)」

‥‥スマソ。義貞の子孫だとは一言も言っていなかったね(W
まぁでも、義貞と共に戦い、南朝の忠臣であったことを誇っているのは確かなので
大目にみてぽ。

>713
>義興は確かに人気あったみたいね。

それもヤパーリ父・義貞の威光がまだまだ残っていたからと思われ。
家格的にも実力的にも足利にはるかに劣っていた新田をあそこまでのし上げたのは、
後醍醐の引き立てもあったにせよ、なんといっても義貞の武勇。
715日本@名無史さん:03/02/12 20:23
>>714
義貞が死んだ直後、何万もいた大軍があっという間にいなくなったらしいね。
高氏も義貞の死を確信した時点で初めて念願の征夷大将軍になることができたし
無位無冠の地方御家人がそこまでの存在になったのはやはり凄いことだと思う。
義貞個人の武勇やカリスマ性が優れていたことは否定できない
716日本@名無史さん:03/02/12 21:36
義貞の嫡男って義宗だよね。
義興って母の身分でも低かったの?
717日本@名無史さん:03/02/13 01:05
>716
うん、そう言われている。
確か上野国の神官の娘だったような。
義宗のほうは諸説あるけどそれなりの豪族(常陸の小田氏説とか)の娘であったみたい。
718700:03/02/13 08:11
いや、冷静に考えて、新田義興の人気は「太平記」で上がったと思う。
生前は足利党に追われて、実像を知ってる人はほとんどいなかったろうから。
この辺は「忠臣蔵」に似てる。赤穂浪士も討ち入りして直後は人気なかった。
楠木正成は生前から「神がかり」(忠臣だからというのではなく)的人気があったけど、
あれは彼の軍略が天才的(一種超人的?)だったから。
新田義貞の名声は、鎌倉「一番駆け」に尽きるんじゃない?
どっちみち、悲劇の大将だ。

安房里見氏が南北朝時代にどうだったかは皆目不明。
そもそも安房里見氏がどういう系譜に属するかが謎のままだから。
719日本@名無史さん:03/02/13 08:16
ギスケの遺児って瓜生と一緒に杣山で滅んだヤシだけか?
ほかに血を残してネーノ?
720日本@名無史さん:03/02/13 09:42
>>715

>無位無冠の地方御家人が

無位無官ではない

揚げ足とりのつもりはないが。スマソ
721日本@名無史さん:03/02/13 18:43
>>720
鎌倉時代の新田義貞は無位無官だったんじゃねーの?
722720:03/02/13 20:04
新田義貞 左中将
新田義顕 越後守
新田義興 左兵衛佐
新田義宗 武蔵守
脇屋義助 右衛門佐
脇屋義治 式部大夫 
723日本@名無史さん:03/02/13 20:21
>>722
だからそれって全部建武の中興後の話じゃん。
>>715は無位無冠からそこまでになったってことを言ってるんだと思われるが
おれの日本語読解力がおかしいのか?
724720:03/02/13 20:45
スマソ

722は

>義貞が死んだ直後、何万もいた大軍があっという間にいなくなったらしいね。
>高氏も義貞の死を確信した時点で初めて念願の征夷大将軍になることができたし
>無位無冠の地方御家人がそこまでの存在になったのはやはり凄いことだと思う。

を読み誤ったものでした。スマソ
725日本@名無史さん:03/02/13 22:26
>718
正成の場合、湊川の壮烈な戦い、およびその最期で敵も味方も禿しく感動。
その後、「太平記」で人気を決定的なものとした。
逆に、生前の人気はそれほどでもなかったんじゃないかな。
せいぜいゲリラ戦の名人といった程度の見方しかされていなかった気がするんだが。
726700:03/02/13 22:38
「太平記」英雄の現役当時、全国的に有名な人物は皆無だったろうから、
楠木正成が知られていたのも関西地区が中心でしょう。
ただまあ、鎌倉幕府が楠木追討を全国に発してたから、
名前は知られていたかも知れない。
ただ実像を知る人は関西地区にしかおらんなかったでしょう。
ただ、楠木氏は得宗被官だった可能性も高いから、
得宗の被官勢力として知られていた可能性も。
まあ、太平記による人気と言っても間違いはないでしょうね。
そうした意味で、太平記は民族叙事詩……三国志みたいなモノかもね。
727日本@名無史さん:03/02/14 01:47
>>725
私もほぼ同意。正成がすぐれた戦「術」家であったのは確かだが、
諸葛孔明のような名戦「略」家であったかどうかは、結局未知数のまま死んでしまったからなんともいえない。
それにこの時代は、直属の部下以外はみんな寄せ集め軍隊なので、
いくら正成でも総大将のような立場になって大軍を率いた場合、あれほど見事な戦いができたかどうかも疑問。
信頼できる少人数の部下ばかりだったからこその赤坂・千早のような戦いは可能だったと思っています。

728日本@名無史さん:03/02/14 18:43
>>727
>諸葛孔明のような名戦「略」家であったかどうかは、結局未知数のまま死んでしまったからなんともいえない。

そうかな?自分が千早で頑張っていれば必ず全国で倒幕の気運が盛り上がるという見通しで戦っていたのは
戦略眼も超一流であった証明だと思うんだけど。
その他については同意。スレ違いsage
729日本@名無史さん:03/02/14 21:38
頼朝や義経や木曾義仲が兵を起こした時、足利、新田両家はどんな地位にいたの?
730日本@名無史さん:03/02/14 23:05
>>729
源(新田)義重:自立(義仲の父、帯刀先生義賢と争った過去がある)後に源家の遺老
(新田)里見義成:頼朝方(頼朝の寵士)
(新田)山名義範:頼朝方(源家受領六人の内の一人)

源姓足利義兼:頼朝方(頼朝の母方の従弟)

731日本@名無史さん:03/02/15 07:20
>>730
>源(新田)義重:自立(義仲の父、帯刀先生義賢と争った過去がある)

なるほど。それで悪源太義平に娘をめあわせて同盟関係になったわけか。
すると、義平が義賢を攻めた時には協力して兵を出したのかな?
732tantei:03/02/15 07:26
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733日本@名無史さん:03/02/15 09:25
源平合戦の話に新田も足利もでてこない(?)から、当時はあまり勢力なかったのか
な。単なる頼朝の親族みたいな感じで。
734日本@名無史さん:03/02/15 10:22
>733
確か山名義範が源範頼の下で従軍していたと思ったが。その功によって伊豆守(?)になった筈。
あと新田義兼は奥州征伐に従軍。
吾妻鏡ではかなり前の方に列記されているので軽視されていたとは思えない。
それなりの人数を出したんだろう
735日本@名無史さん:03/02/15 15:43
>>734
けど物語の中では活躍してないじゃない。
むしろ頼朝や義経の部下のほうが有名
736700:03/02/15 17:19
軍記の中で活躍してるなんて、史実に対しては無意味じゃない?
島津や少弐(武藤)も、後に大勢力となるけど、ヒーローじゃあないでしょ?

足利と新田の命運を分けたのは「運」としか言いようがないんじゃないかな?
鎌倉御家人が封建時代最大の支配層となったのは事実だけど、
彼らは「関東にいたとき有力だったか」とあまり関係なく活躍してる。
伊達も南部も、関東では知名度すらあったか疑問な御家人。
逆に、相当有力だったろうと推測される小山などはあまり地方にいない(支族は別)。
結局、鎌倉幕府の歴史で巧く出世した連中と失敗した連中がいただけだろう。
737日本@名無史さん:03/02/15 18:54
>>735
軍記物は、滅びたものへの鎮魂の意味もあるらしいから、
生き残った足利や新田が活躍しなくて当たり前。

平家物語では、足利義兼の兄、義清が若干出てる。
船が沈んで死ぬというだけだが。
738日本@名無史さん:03/02/15 19:39
島津って源氏だったの?
なんか地理的にすごい不自然な位置にいないか?
739日本@名無史さん:03/02/16 03:09
平家物語といえば、宇治川の合戦(頼政vs平家のほう)で足利又太郎忠綱というのが
新田義重の利根川での武勇を引き合いに出して川を渡るシーンがあったな。
もっともこの足利は源姓でなく藤姓のほうらしいが、
厨房の頃は尊氏の祖先だと思ってた(同じ「又太郎」だし)。

>>737
確かに軍記物って負けた側の奮戦ぶりのほうが詳しいよね。
740日本@名無史さん:03/02/16 04:51
足利の家臣ですが、何か
741日本@名無史さん:03/02/16 15:27
>>739
又太郎というのは、長男(太郎)なんだけど、実際には次男、つまり、
庶子の兄がいるとか、小さいうちに死んだ兄がいたとか、そういう
場合に呼ばれる通称だと思ったが。
742700:03/02/16 17:45
>738
島津氏の本姓は「これむね(惟宗)」。摂関家の家司出身の公家。
惟宗広言という人が比企氏と結婚し、生まれた忠久が家祖。
いつから島津氏を称したかは不明。
島津氏が頼朝後胤というのは単なるでっち上げです。
まあ、出自詐称あたりまえの時代でしたから、大目に見ましょう。
島津氏が薩摩で勢力伸ばしたのは、鎌倉時代に、
薩摩(+大隅、日向。この両国は没収される)の守護に任じられたから。
鎌倉時代前半期は鎌倉にいたんじゃないかなあ?

>737
平家物語っていうぐらいだから、主人公は伊勢平氏一門なんでしょう。
その鎮魂の意もこめて。
でも、「平家」にしろ「源平盛衰記」にしろ、
頼朝にどれだけ近かったかってことも記述量に影響してるんじゃないですかねえ?
別段亡んだ家でもないけど、天野遠景なんかわりと活躍してるし。
たしかに仁田忠常なんか、歴史的にはたいした人物でもないんだろうけど、
関東ではわりと逸話が残ってますね。曽我兄弟も然りでしょう。
これも鎮魂の一種なんでしょうね。
743日本@名無史さん:03/02/16 17:58
>>742
島津忠久が頼朝ご落胤というのは出自の詐称ではないですよ。
まず忠久の母である比企氏出身の丹後内侍は惟宗広言と結婚する前に
安達盛長と結婚していた。
その子・安達景盛が頼朝のご落胤であると噂が立った
(丹後内侍と源頼朝が密通していたという背景があった)
安達家はこれがきっかけで北条家に滅ぼされるのだが、その後惟宗広言と
結婚した丹後内侍の子供である島津忠久も実は頼朝のご落胤だったのではという噂がたったのが始まり
744日本@名無史さん:03/02/16 19:30
細川や今川など名門戦国大名も元は足利の支流なんでしょ。
こいつらの先祖は鎌倉期にはまだ足利から分かれてないの?
しかし薩摩の守護に任ぜられたのってめちゃくちゃ左遷だよな・・・
745日本@名無史さん:03/02/16 20:18
島津は薩摩自生じゃないの?
薩摩にあった、近衛家の荘園を管理していた家柄で、その縁で、ずっと近衛家と親しい間柄。
薩摩のお姫様が将軍家に輿入れしたとき、いったんは近衛家の養女になったのもその縁と思われる。
奥州藤原攻めのときも、頼朝から、参陣を求められ、出陣しているので、その当時から薩摩で勢力をもっていたものでは。
746日本@名無史さん:03/02/16 20:38
>>745
そういう説は無いのではないかなあ?
あったとしても一般的ではない。

ところで島津氏は惟宗氏の出であるとして、惟宗という姓はその後どうしたのだろう?
島津という名前の人は知っているが、惟宗という人は知らない。
747日本@名無史さん:03/02/16 20:59
>>746
九州では由緒ある姓みたいですね。
明智光秀も、日向守惟当に任じられてます。
信長の九州進攻に備えのため。
748日本@名無史さん:03/02/16 21:08
惟宗広言

―略伝―
日向守基言の子。代々大宰府府官の家柄の出。大宰少監を経て、文治二年(1186)、五位筑後守。後白河院に今様の名人として近仕した(梁塵秘抄口伝集)。
俊恵の歌林苑の会衆として活動し、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、文治二年(1186)の大宰権帥吉田経房主催の歌合などに出詠。藤原教長などとの交流が知られる。文治三年(1187)七月の貴船社歌合への出詠が最終事跡。
私撰集『言葉集』を編纂。家集『惟宗広言集』がある。千載集初出(五首)。勅撰集には計六首入集。

749700:03/02/16 22:26
島津氏がいつから薩摩に赴任したかは不明。
ただ、鎌倉時代の守護一般は鎌倉にいたし、島津氏は相当有力な御家人だったから、
鎌倉在住の可能性が高かったと思う。
もちろん、全国に散った庶子たちは知らない。
武藤や大友に比べて早い時期に薩摩に本拠を移したことは無いと思う(同時期以降か)。
鎌倉時代は特に左遷てことはなかった(基本的に鎌倉にいたから)。
守護はけっこう複数の守護職を兼任していて、国より大きい地方の監督をしてたみたい。

>743
いやいや、島津氏が頼朝の墓を建立したころは詐称してたでしょ?
鎌倉健在の頃は口が裂けても「頼朝落胤」とは言えなかったでしょう。
安達泰盛誅殺の口実とされた可能性だってあるような危険な説だから。

>744
細川も今川も鎌倉時代に分家してます。
細川は仁木と近く、かなり早い段階から分家してます。
両氏の名字の地は愛知県岡崎市。
今川氏は吉良氏の分家。
ただ、足利氏のばあい、庶子が御家人として独立していたかが未詳。
新田の里見・山名は独立していたけど(惣領に一応権限はあったらしいが)、
足利のばあい、畠山(もともと別家だから)は独立していた可能性が高い。
渋川はどうなんだろ?
庶流最高の名門・斯波と吉良は足利を称してたから、独立していたかどうか。
御家人の分家がどの程度独立性を有したかは、ケース・バイ・ケースのようです。
750日本@名無史さん:03/02/17 00:23
島津といえば、太平記で新田義貞の鎌倉攻めに北条方として出て来る島津なんとかって武士がいたけど
あれと九州の島津とは関係あるのかな?
はなばなしい身なりで出てきたと思ったら、あっさり降伏したので
さんざんな言われようされた武士だが。
751日本@名無史さん:03/02/17 00:27
話し戻るが
>>733
頼朝挙兵時の対応の差が新田と足利のその後を大きく決めた。母方で従兄弟同士という関係もあり、
足利義兼はいち早く参陣し、頼朝のから信頼を寄せられ、北条時政の娘を娶り、有力御家人となる。
それに対し新田義重は自立を目指して不参陣。しかし息子の山名義範と里見義俊は父と別行動を取り
頼朝に参陣し、「父に似ず殊勝」と誉められる。結局義重は頼朝の軍門に下るが、頼朝の不審を買う。
頼朝は出戻っていた兄義平の妻を人質として出すように要求したが拒否され、ますます不信が募る。
結局新田本家は軍事行動に参加せず、幕府の要職に付くとともなかった。その後新田氏は衰退していく。
752日本@名無史さん:03/02/17 00:31
足利って人は、今はいないなぁ?

新田はいるのに。
スペクトラムの元リーダーとか。
新田恵理とか。
753日本@名無史さん:03/02/17 00:36
確か大友氏も頼朝の落胤とか言ってたな。
偶然かもしれんが、これも九州だ。

>>747
惟澄なんて姓もあったね。丹羽長秀が名乗ってた。
惟宗も惟任も惟澄も、今じゃきかないなぁ。
754日本@名無史さん:03/02/17 00:40
確かに、大友柳太郎はいた。
755日本@名無史さん:03/02/17 00:46
>>753
おれもうろ覚えだが、惟澄じゃなく惟住じゃないか?

>>752
足利?いたよ。元プロ野球選手。ダイエー(だったか?)の投手。
756日本@名無史さん:03/02/17 00:52
最近死んだ足利健亮先生
757日本@名無史さん:03/02/17 00:57
>>751
>結局新田本家は軍事行動に参加せず、幕府の要職に付くとともなかった。

奥州征伐には義重の子の義兼が参加しているよ。
でも、確かにその後の承久の乱には名前が出てこないな。
何やってたんだろう?もしかして、上皇方につくかどうか迷っていたとか‥‥
758日本@名無史さん:03/02/17 03:03
本家は参加しなかったみたいだね。里見は承久の乱の戦功で越後に領地をもらったようだし。
759日本@名無史さん:03/02/17 12:32
>>753>>755
惟宗は氏。惟任、惟住は苗字。
惟宗は他に対馬の宗氏が有名。その他、京の地下にもよく見る。
惟任は、名前と苗字と間違えたらしい。
760日本@名無史さん:03/02/17 12:48
>>759
間違えたって、信長がですか?
信長「明智、お前に惟任の苗字を与える。有り難く思え!」
光秀「(内心で)そんな苗字ねーよ! そんなわけのわからん苗字を名乗る
なんて、教養人の俺には耐えられん……。信長、いつか謀叛してやる!」
761日本@名無史さん:03/02/17 16:59
>>758
「ケッ。頼朝にさえ仕方なく従ったのに、その家来の北条の命令なんてきけるかよ!」
と、ふてくされて参戦しなかった‥‥とすれば、ほんと歴代、要領の悪い家だな>新田本家
762日本@名無史さん:03/02/17 17:10
>>760
いやあれは真実はどうあれ、朝廷から賜ったことになっている。
だから本当は死ぬまで惟任光秀では?
763700:03/02/17 17:30
>750
「太平記」第10巻「稲村ヶ崎干潟となること」に出る島津四郎ですな。
もっとも、本によっては「曽我」だったりもするようなので、
実在したかどうかも非常に疑わしい人物ですが。
ただ、御家人は全国に展開した連中が多いので、島津氏も例外ではないでしょう。
地方史にはけっこう島津って武士が出てくるんですよ。

>753
大友は島津以上に頼朝後胤の可能性はないでしょう。
あれは京都貴族の中原って家の子孫だし。あれが大友の嫁をもらったんだから。
九州は御家人勢力が多く残った地域でしたから(東北はそれ以上に)。
伊達氏は奥州藤原氏の子孫を詐称してましたね。
南部氏みたいに出自がハッキリしていたり、ごまかしようがない家は無理でも、
もうご本家が没落しちゃった家なんかは、そういう伝承が生まれやすいんじゃ?

>752
新田宗家が、庶家の里見や山名よりも出世できなかった理由は、
一概に頼朝に応じるのが遅かったからだけではないと思う。
もちろん、鎌倉には早くから呼応した連中が一番出世したけど。
御家人でも特に有力御家人は、ご先祖さまが鎌倉草創期に巧く活躍した人が多い。
島津、大友、武藤もしかりだが、
最も多くの御家人を輩出した武・相・豆三ヶ国の武士たちは
いずれも頼朝決起時にさほど広大な所領を持っていたとは考えがたい。
少なくとも、新田氏(里見、山名を含む)全体より強大だったとは。
新田宗家は、鎌倉時代前半期に出世するのに失敗したとしか言いようがない。
里見と山名は中規模クラスの御家人だったのだろう。
なぜそうなったかは未詳だが、新田氏と足利氏を比べると、
新田は庶子の独立性・独立志向が非常に強かったように思える。
他にも、世良田はかなり有力だったようだし、岩松氏も有力な庶家だった。
結局は宗家の実力が庶家を従わせるに足りなかったからだろうけど。
764日本@名無史さん:03/02/17 21:12
西国の毛利は、相模の毛利庄から苗字を取ったので祖湯。
元来武士は。自己の領地の所有権を明確にするため、その地名を苗字にした。
鎌倉武士で、西国に赴いた御家人は、そこの地名を苗字にすることなく、鎌倉の苗字を名乗った。
鎌倉武士の誇りか。
大友は、確か関東の領地の知名だけど、島津って、どこからの由来?
765日本@名無史さん:03/02/17 21:56
>>760
秀吉に与えた「羽柴」本来は「羽嶋(羽島)」の表音表記であり、
奈良時代、筑後川上流域に勢力を持っていた浮羽嶋(羽嶋)氏から採用した可能性もある。
(作家、羽嶋大介氏など)

浮羽島氏は筑後の浮羽嶋(現在の福岡県浮羽郡浮羽町)を本拠地にした豪族で、
藤原仲麻呂の乱に連座して没落。

さて『浮羽嶋』は時代によって筑前や筑後に編入されたりしているので、
「(浮)羽嶋≒筑前国内の場所/地名」と考えられていたのではないかと思われる。
766日本@名無史さん:03/02/17 23:15
おれの記憶じゃ、足利三郎、足利冠者だったきがすんだけど>>697
読んでる途中に登場人物の名前を拾ってったメモみてみたら
足利判官代義房(兄だっけ)、足利冠者義兼(足利三郎)、蔵人義兼1184年8月8日
義兼が蔵人って呼称は1184年8月8日条が最初じゃないかな
ちなみに新田は新田大炊助源義重入道

間違いっぷりが凄すぎてどうつっこんでいのか分からない>>742
767700:03/02/17 23:50
>764
島津の由来は、薩摩・大隅・日向三国にまたがる大庄園「島津庄」です。
768日本@名無史さん:03/02/18 00:04
ちなみに尊卑文脈では、新田二郎、足利三郎。

さらにちなみに又太郎というのは、太郎の、そのまた、太郎(長男)という意味では?
昔の人は早婚だったから、孫や曾孫の世代とも生活してたのよね。
769日本@名無史さん:03/02/18 01:14
>>768
うん、おれもどこかでそう聞いた気はする>又太郎の意味
でも、足利尊氏の祖父・家時は、尊氏が生まれた頃はもうこの世にいないし、
逆に尊氏に庶子の兄はいないはずだが、早世した兄はいたんじゃなかった?
してみると、又太郎には「太郎、ふたたび」の意味もある、と。

770日本@名無史さん:03/02/18 01:31
>>766
確かに吾妻鏡での初出は足利冠者だね。
足利義兼は反平氏派の温床であった八条院の蔵人として源頼政の挙兵に加わり、
頼政敗死後に頼朝陣営に参加した可能性も指摘されていて、
この説を採れば当初から院蔵人であった、ということになるんだけれども。

新田義兼の場合は、初出時から新田蔵人として書かれているね。

>>768
足利尊氏誕生時には、祖父家時は死亡していた筈。
又太郎という名乗りは家時を意識してのことだとは思うけど。
もっとも尊氏は元服と同時に治部大輔に任官したとされるので、
又太郎という名乗りが実際に使われたのかは不明。
幼名説は論外(w
771日本@名無史さん:03/02/18 05:19
>>768
>元服と同時に治部大輔に任官

15、6才で治部大輔?それってすごいことだよね?
時代は違うけど、あの今川義元が42才でしんだ時が治部大輔でしょ?
ただ、尊氏が北条に反旗ひるがえした時(28才)もまだ治部大輔だった気もするし、
その間、全然昇進していないってのは???だな。

それにしてもライバルの新田義貞は33才になるまで無位無冠。この差はでかいな。
ていうよりも、尊氏にしてみれば、のちにライバルになるなんて思いもよらなかったろうな。
772日本@名無史さん:03/02/18 12:07
>>765
羽柴は信長から与えられたわけではありません。
773日本@名無史さん:03/02/18 12:21
>>765
河内の波志波(はしば)庄じゃないの?
774日本@名無史さん:03/02/18 13:37
>>763
鎌倉時代の新田と足利の差には経済基盤の差もあるでしょう。
この時代出世するには賄賂も必要だったと思う。
足利庄は織物の産地で北條氏に織物を送っていたというから。
それに対して新田庄はこれといったものがなかったのがかなり痛かったね。
775世直し一揆(コピペ推奨):03/02/18 14:13

 <血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、デリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ) 
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
776日本@名無史さん:03/02/18 14:22
足利と新田の勢力は庶流の苗字の地を考えるとよい。
足利の方はかなり広範囲だが、新田の庶流は地名として小さいものが多く、場所も近い。
これはそもそも相続した土地の広さによるものだ。
777700:03/02/18 17:59
足利庶家は三河を名字の地としてる例が多い(吉良、細川、仁木、今川など)。
新田庶家(嫡庶の別も意味ない気がするが)は新田庄由来のものが多い。
新田の分家は初代義重の子供から起こってる。
足利の有力庶家は早い段階ではあまり多くない。
しかし、新田宗家は何故鎌倉時代に所領を獲得できなかったのかな?
俗説の「頼朝に嫁を〜」ってやつも、北条氏の時代には意味なくなったろうに。
足利氏は巧いこと「鎌倉中」になったのに。
得宗専制の最末期、足利一門は新田氏のことをどれぐらい知ってたかな?
NHK大河ではまるで旧知の仲といった描き方をしていたが。
778日本@名無史さん:03/02/18 19:46
>>771
高氏は1年で治部大輔を辞してるので元弘の頃は前治部大輔。
官職は上がってないけど、官位は1332年に従五位下から従五位上に上がっている。
779 :03/02/18 20:36
>>777

足利は三河の国を守護、本領としているだけでも、いかに当時の北条氏から信頼されていたか、ってことだね。
足利の謀反で北条が滅び、明智の謀反で信長が滅んだところを見ても、
部下を信頼しすぎるするのも危険なのかなあ。
780 :03/02/18 20:39
>得宗専制の最末期、足利一門は新田氏のことをどれぐらい知ってたかな?
NHK大河ではまるで旧知の仲といった描き方をしていたが。

多分、眼中に無かったんじゃないの。
北条と同レベルの武力を有していた足利と無位無冠レベルの新田では、いまでいえば
東京三菱、三井住友銀行と、地方の地場銀行くらいの力の差、格の差がある。
781日本@名無史さん:03/02/18 21:22
足利氏は、政子の妹を嫁に迎えていた
782日本@名無史さん:03/02/18 21:24
>>767
お教えくださりありがとうございます。
苗字が、薩摩の荘園由来なら、やはり薩摩自生では。関東出身ではなさそうですね。
783日本@名無史さん:03/02/18 21:29
島津は関東武士じゃないだろ?
惟宗氏は公家だから関西出身だろう?
784日本@名無史さん:03/02/18 22:53
惟宗広言(島津忠久の父)

―略伝―
日向守基言の子。代々大宰府府官の家柄の出。大宰少監を経て、文治二年(1186)、五位筑後守。後白河院に今様の名人として近仕した(梁塵秘抄口伝集)。
俊恵の歌林苑の会衆として活動し、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、文治二年(1186)の大宰権帥吉田経房主催の歌合などに出詠。藤原教長などとの交流が知られる。文治三年(1187)七月の貴船社歌合への出詠が最終事跡。
私撰集『言葉集』を編纂。家集『惟宗広言集』がある。千載集初出(五首)。勅撰集には計六首入集。
785日本@名無史さん:03/02/18 23:02
島津忠久は源頼朝のご落胤である可能性も捨てきれない。
確率50パーセントはあるのでは。
だって丹後局しか知らない事だろ?
惟宗広言の子か、源頼朝の子かは。
786日本@名無史さん:03/02/18 23:25
ループの予感
787700:03/02/18 23:51
鎌倉末期の足利・新田の関係は何とも言い難いものがありますね。
新田義貞の決起に足利尊氏が関与していた可能性もあるんじゃないかなあ?
鎌倉攻めには細川なんかが加わっていたはずですが、
関東の御家人を糾合するのに、遠戚の新田氏を利用した可能性もあるから。
新田一門の桃井や岩松は、足利の一門でもあったわけで。
その辺は新田宗家が没落してしたっまので五里霧中ですね。
よく言われることですが、一介の没落御家人でしかなかった新田宗家に、
関東の御家人が従ったとは考えがたいでしょう。
尊氏との連絡の可能性もあるんじゃないかなあ?

大河ドラマのは演出でしょう。
足利と対立する運命にある新田義貞を早い段階(第1話か)で登場させるための。
「新田の小太郎です。新田義貞……」(尊氏郎党の科白)
ショーケンの義貞は奥州出陣(いわゆる津軽争乱)に際して足利亭を訪問しましたが、
ライバル意識丸出しだったでしょ。
「われら、足利殿と違うて貧乏御家人」
根津甚八にチェンジしてからは、えらく腰の低い義貞になりましたが。

新田義貞の不幸は、なまじ鎌倉攻めで有名になってしまったことにある気も。
あそこで誰かに殊勲を奪われていたら、足利氏と対立しないで済んだかも。
まー、でも守護にはなれなかったかなあ?
788日本@名無史さん:03/02/19 02:17
>>787
>一介の没落御家人でしかなかった新田宗家に、関東の御家人が従ったとは考えがたいでしょう。尊氏との連絡の可能性もあるんじゃないかなあ?

ただ、そのわりには、鎌倉攻めの大将は皆新田一族で占められている。
大館とか堀口とか江田とか。他の連中はみんなよく大人しくその指揮下に入ったなぁ、と思う。
没落御家人ではあっても、血筋的には一目置かれていたから、というのもあるんじゃないかな?
関東では、源氏の嫡流というのはいまだ根強い人気があっただろうし。

>鎌倉攻めには細川なんかが加わっていたはずですが、

え?初耳。細川兄弟が鎌倉にやって来て、幼児であった義詮をたてて恩賞をどうこう言い出したのは、
鎌倉陥落後だったはず。
789日本@名無史さん:03/02/19 02:32
高氏のプランでは六波羅占領後、西から鎌倉を攻めるつもりだったと思う。計算外だった新田の暴発に、気の利く家臣が千寿丸を便乗させ、手柄をさらったんだろう
790日本@名無史さん:03/02/19 06:39
>>774
徒然草に出てくるよね。
時頼は自分の家では味噌を肴に酒を飲むほど質素なのに
足利に接待された時は贅沢に振舞っている。ライバルの経済力を少しでも
減らそうとしたのかなあ。
791日本@名無史さん:03/02/19 10:32
>>788

尊氏は関東の武将に「鎌倉攻めに加わるように」っていう手紙を出しまくっていたはず。
そこで、新田を立てろって、指示したのでは?
尊氏にしてみれば、新田程度なら鎌倉攻めの功があっても、あとからなんとでもなる、と思ったと思われ。
もし、有力御家人、例えば小山あたりだとその後が大変だし。
792日本@名無史さん:03/02/19 20:53
ゴメソ、新田義重じゃなくて義兼だったのな
ただ足利冠者義兼の蔵人、冠者は六位で無官の人物にも使われるそう
しかし疑問、蔵人は「官」じゃないのか?
逆賊行家親子ですら蔵人など官職を正確に記されているのに
親頼朝派の足利が最初蔵人と記されなかった理由も分からない

>743>丹後内侍は惟宗広言と結婚する前に安達盛長と結婚していた。
俺の記憶じゃ、安達盛長と結婚する前に惟宗広言と結婚していた
安達盛長と丹後内侍の娘が範頼の子を産むのは1188〜1192
極端な高齢出産でもない限り、生年は1160〜1170の間として問題はないと思う
これは平治の乱後、頼朝に伴い比企尼母子が関東に下向するのとも符合する
なら惟宗忠久・忠季兄弟は平治の乱以前(頼朝は14歳以下)の誕生でしょう
793日本@名無史さん:03/02/19 21:43
足利に対する反主流を貫いて義重が成功したことが、
その後の没落を決めてしまった気がするな。
子供たちにも同じことを期待したから新田庶流はたちまち独立。

源平合戦における判断ミスや、当主に人を得なかったことで
頼朝や執権の反感を買って領地や権限を削られ、分家への影響力もなくなる。
794日本@名無史さん:03/02/20 01:30
>>791
いや、尊氏は鎌倉がまさかあんなに早く落ちるとは思っていなかったんじゃないかな。
当時は、武蔵・相模の兵だけで日本中を相手にできると言われていたくらいで、
北条の本拠の鎌倉は相当手強いと思われていたはず。
だから西で兵を集め、充分準備をかけたうえで、大挙して攻めのぼるつもりだった。
もちろん、関東の武家には味方になるよう御教書は乱発したろうが、それは
自分が攻めのぼったときの為かと。
だから、もし義貞が鎌倉攻略にてまどって、そのうちに尊氏軍到着となって鎌倉を
落としていたとすれば、足利幕府はもっと簡単に開かれていたと思う。
795日本@名無史さん:03/02/20 01:46
>>794
御教書ってそんな時期から出せたの??
796日本@名無史さん:03/02/20 01:51
蔵人は正確には官ではない
他に本官のある者がなる職
797日本@名無史さん:03/02/20 08:20
>>794
御教書ではなく、軍勢催促状だね。
御教書と呼ばれるようになるのは、
足利高氏が三位となって公卿に列し尊氏と名を改めて以降。

高氏が鎌倉攻めに対し、
何らかの指示を出していた可能性は高いと思う。
太平記には、新田義貞の陣に馳せ参じた
三浦大多和平六左衛門義勝という人物がいたと記すが、
足利氏の執事高師氏の子に、
三浦太田和氏の養子となった太田和与一定義という人物がおり、
高氏からの指示を受けていたとも考えられる気もする。
798日本@名無史さん:03/02/20 20:45
>>797
おれも尊氏は何らかの支持は出していたと思う。
だが、それがいつ頃から出されていたかははっきりとわからない。
あまり早くから出すと、北条に悟られる危険もあったろうし。
「太平記」では、確か三河まで着いて綸旨だかを貰って、一旦六波羅と合流してから、
更に赤松攻めのため丹波まで出陣して、そこで初めてそういった軍勢催促状を出していたよね。
関東の武士団がそれを受け取ってから新田軍に参加するのは、時間的に厳しいかと思うんだがどうだろう。
ちなみに足利の御用史書「梅松論」では、そのあたり何と書いているのかなぁ?
799日本@名無史さん:03/02/21 01:52
>>798
梅松論なんて嘘だらけだろ?
800日本@名無史さん:03/02/21 01:54
>>799
天皇マンセーのウヨですかw

例えば、楠木が後醍醐に「新田と手を切って、尊氏と和睦されたし」と言ったとかいうのは通説じゃん。
801日本@名無史さん:03/02/21 04:24
>800
通説を無条件に信じ込んでるアホは逝ってよし。
全て再検証する心構えもない香具師は日本史板に来るな。
802日本@名無史さん:03/02/21 05:25
>>800
おまえ、日本史板で天皇をクズとか氏ねとか罵るだけの糞スレあげている厨か?
こんなところにまで出てくるな。うぜーんだよ。
803日本@名無史さん:03/02/21 19:08
>>800
軍記物にも、
時の政権者の公的史書にも
文献史料的価値は低いと思われるが…

大体、文献史学なんて小説じゃん…。
804日本@名無史さん:03/02/21 19:15
何かってーとすぐにウヨとかサヨとか、そんな感覚でしか歴史を語れないアフォが最近多いな。
805日本@名無史さん:03/02/21 19:29
梅松論は戦前は足利びいきの史書として天皇絶対制では、うそばかりの史書として
扱われた。
戦後になって、その記事について、検証が行なわれ、真実と思われるものも出てきた。
800のいっている、正成献策の件は検証の結果、事実であろうと言われている(いわゆる通説)。
戦前は大忠臣正成が尊氏と手を結べなんて言うはずがない、というのが通説だった。
806700:03/02/21 22:10
足利と新田の関係って、かなり複雑なんですよね。
桃井は足利の一門でもあり、新田の一門でもある。
岩松も、一応新田系なんでしょうが、畠山義純(源姓畠山氏始祖)の子孫だから、
足利の末裔でもある(南北朝以後、同氏は新田氏の惣領になる)。
そんな感じで、足利・新田両氏は婚姻などで複雑につながっていたようです。
まあ、それが当時の武士としてはごく平凡な関係だったのでしょう。
僕個人としては、新田義貞は数いる鎌倉攻めの大将の「一人」だったと思うのですが、
新田と足利の関係から考えると、尊氏が新田氏を代表にしたと思えなくもない。

足利氏の鎌倉幕府からの離反はかなり早い段階から練られていたと思うのですが、
尊氏はじめ足利一門がまだ鎌倉を出発しない段階で、
ある程度ほかの御家人とも連絡していたのではないでしょうか?
特に小山氏や千葉氏などと(たぶん佐竹氏も)。
とすれば、足利に近い一族である新田氏を大将に押し立てることも可能だったろうと。
足利氏だって、最初っから天皇と対立しようとは思ってなかったろうし、
鎌倉幕府が倒れてからはまた別個の新しい幕府が作られると考えてたでしょう。
で、結局、新田宗家と対立する形になってしまった。
そんな所が実相じゃないでしょうか。
足利氏が武家の棟梁となったのも、必然というより担ぎ上げられたのが実情だから。
実力では中級クラスの御家人に過ぎなかった新田宗家が
足利氏と対立する武士の代表になろうと考えたとも思えないので。

南北朝の動乱に突入しなかったら、新田宗家もどっかしらで所領を得て、
後世に影響を与えた一国人になった可能性もあると思う。
両家の対立を必然と考えることこそ、太平記が造り出した「伝説」だと思う。
岩松氏が惣領権を獲得するため、新田宗家と足利氏の対立を煽った可能性は?
807日本@名無史さん:03/02/21 23:40
新田宗家壊滅した貞方までと言うと義貞死後百年近く反抗を続ける。
新田一族復権する最大のチャンスである家康関東入部の時でも
徳川に媚び売ったのは正田(300石)のみ。
宗家が岩松に移っても、こういう時の対応の不味さは新田の家風と
言えるな。
808日本@名無史さん:03/02/22 01:07
>>807
正田って皇后陛下の??
809日本@名無史さん:03/02/22 01:22
>ある程度ほかの御家人とも連絡していたのではないでしょうか?

高氏が各地の武士に後醍醐側につくように送った軍勢催促状は
四月廿五日付が2,3あるが、廿七日から一斉に送られた。
廿七日は山崎・久我畷の合戦で名越高家が討死、名越軍敗戦の日。
810日本@名無史さん:03/02/22 01:50
>>809
当時、上方から東国までの書状の所要日数はどれくらいなの??
811日本@名無史さん:03/02/22 07:39
>>806
鎌倉出発前の連絡ねぇ。どうだろうなぁ。
でも、そこまで計画的に手回し出来るくらいなら、自分で鎌倉を攻めればいいじゃん、と思うんだよね。
でも、実際には幕府の命令とおり、妻子をわざわざ人質に出すリスクを犯してまで上京している。
尊氏は、この時点ではまだ迷っていたんじゃないかなぁ。優柔不断だしW。
で、実際に上京し、その目で状勢を見極めてから、初めてやっと裏切りを決断できたんじゃないかと。
足利千寿王の新田軍参加にしても、計算づくではなくただ保護を求めてやったことが、後になってラッキーな材料になっただけかと思う。
何せ、長男の竹若なんて脱出に失敗して殺されているんだし、こんな危険なことを初めから計画してできるとは思えんよ。
812岩松:03/02/22 14:25
>506
はい、岩松どす。

中先代殿にあっけなく敗れて岩松経家が死んだとき、そんなことを経家が考えていたとは思えません。
関東廂番第二番の重役は渋川氏(関東執事の足利直義の舅)とほぼ同格です。しかも交通の要衝をいくつも拝領していますね。恩賞は充分でしょう?
当時は新田と足利が仲良くすることが経家にとって最善だったろう、と思いますね。

新田惣領家を競望する必要などありませんでしたし、後代には義貞の子孫をかくまってついには擁立したともあります。
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814日本@名無史さん:03/02/23 16:57
>>811
>でも、そこまで計画的に手回し出来るくらいなら、自分で鎌倉を攻めればいいじゃん、と思うんだよね。

確かに鎌倉さえ落とせば、六波羅なんて後でどうにでもなるもんな。
わざわざ人質出して、京都までいって、先に赤松が頑張っているところに乗り込んでいって、
それも暫く成りゆきをみてから、やっとのことで弱体化した六波羅を攻撃‥‥うーん、卑怯だ。w
それにひきかえ、新田義貞はカコイイ。
初めは、僅かの軍勢でも次第に味方があつまり、そして一緒に戦ううちに、周囲もその武勇を認めていったんだろう。
もちろん義貞個人のカリスマ性も相当あったからだと思う。
先祖以来開き過ぎていた両家の差は、実力的にはともかく、名声という点で、ここで一気に縮まったってわけね。
もし尊氏が、自らの手で鎌倉を落としてやろうという勇気さえ最初に抱いていれば、
義貞もその旗下に馳せ参じるしかなかっただろうし、両者のその後の運命も全く違った展開になったかも。
少なくとも、尊氏はもっと楽に天下を取れただろうし、義貞は尊氏の対抗馬に仕立て上げられることもなく、足利の部将として相応の地位にまで上ったかもね。
815日本@名無史さん:03/02/23 17:59
>確かに鎌倉さえ落とせば、六波羅なんて後でどうにでもなるもんな。
それは無理だな。
足利の第2の本領は三河。
ここで仮に鎌倉攻めをしようとしても、北条もいくらでも準備が出来てしまう。
京都でいきなり裏切って、そのまま六波羅を奇襲したから、成功したんだし。
北条方も、後年の江戸幕府末期の旗本ほどへたれていないことだし。

最後、あそこまで鎌倉で戦が出来たってことは、結構北条高時は名君だったのかも。
816日本@名無史さん:03/02/23 21:31
>>815
>結構北条高時は名君だったのかも
禿同。

最近の研究では、
高氏は4月中旬には後醍醐から最初の綸旨を得て
最初の請文を提出し、帰順の意思を
示していたと考えられている。
817700:03/02/23 22:02
僕は別段南朝絶対の右翼でもないし(今の右翼はそんなじゃないのかな?)、
楠木正成の忠勇を賛美する気もない(魅力は感じますけどね)。
んでも、同じく南朝の一英雄であるはずの新田義貞の世評があまりに悪いので、
ちったあフォローしておこうかな、と思って、思う所を述べたまで。
やっぱ、彼らがああいう末路をたどったのは、「運命」としか言いようがないと。
歴史上の人物を後世の人が勝手に言うのは簡単だ、
しかし、それが人物評として当たっているかはわからない、と。

足利氏が鎌倉より京都を優先したってのは、
1に、京都の人口・経済力が鎌倉を圧倒していたこと、
2に、鎌倉幕府最大の基盤たる関東をそう簡単に攻略できると考えておらず、
最初に畿内を押さえてから鎌倉を攻撃する考えもあったんじゃなかろうか。
乱暴な考えだが、千葉・小山は根拠地を持っていたし、
新田はいざとなりゃ越後に逃げられる(そうすれば海路どこでも逃亡可)。
で、持久戦に持ち込んで、最後は勝つ、とこんな発想だったんじゃないですかね。
当時から、六波羅はともかく、
鎌倉が予期に反して早く滅亡したことは不思議だと考えられていたわけですし。
818700:03/02/23 22:13
拝啓、岩松殿。
御辺の812の仰せは尤もであると、それがしも存ずる。
おそらく岩松経家殿は、まさか新田の惣領を襲おうなどとはご案じなかったろう。
渋川や仁木と同じくらいの所領をいただけば十分満足しておられたろう。
だいそれた望みをいだくのは愚か者だ。
岩松経家殿がそんなバカだったとも思えぬ。
しかし、それがしが思うのは南北朝時代の岩松家の方々だ。
南北朝時代も中盤を過ぎると新田宗家は跡形もなく瓦解し、
最後の望みであった新田義興・義宗も非業の死を遂げた。
また、新田家の有力庶家であられた世良田殿が鎌倉で誅されておる。
岩松殿ご一門が安寧を得るためには、新田惣領を取得するのが最善だったろう。
足利に忠誠を誓って、新田宗家とは無関係であることを主張したかったはず。
よって、それがしは岩松氏の御遠祖が悪いことをしたとは思っておらぬ。
むしろ、かつぎあげらて非業の運命をたどった宗家が愚かだったとも言える。
歴史がああならねば、貴家は宗家と足利殿の友好を望んでおられたと思う。
819日本@名無史さん:03/02/23 22:27
>>818
新田氏の鎌倉末期の積極的な土地売却は、
長楽寺再建のイニシアチブを取ることによって
新田氏内での発言力を高めるためだったと
最新の説では考えられている。

とすれば、新田宗家の立場は、
当時それほど弱かったのだとは考えられない?
820日本@名無史さん:03/02/23 23:10
>>796
蔵人が兼官なのはわかるけど「令外の官」が「官」じゃないってことはないんじゃない
蔵人だったのに冠者と称されていたとすると、六位蔵人だったってことだろうけど
義兼に六位にみあう官職(兵衛尉・衛門尉などが適当か)は伝わってない、と思う
821日本@名無史さん:03/02/23 23:19
>>817
>僕は別段南朝絶対の右翼でもないし(今の右翼はそんなじゃないのかな?)、
10年くらい前だったかな、朝まで討論する番組で、ある右翼代表曰く
「奈良時代が理想ッス」
と言ってたよ...
っつーか右翼代表の皆さんは「奈良時代マンセー」と言ってたよ...
822日本@名無史さん:03/02/23 23:56
義兼の蔵人は朝廷官職の「蔵人」じゃなくて藤原忠通の娘、崇徳上皇中宮皇嘉門院藤原聖子の家政における「蔵人」。藤原聖子は養和元年(1181)に死亡しているから開幕前の拝任。
823日本@名無史さん:03/02/24 03:06
皇嘉門院蔵人は新田義兼。
足利義兼は鳥羽天皇皇女八条院の蔵人。
八条院に関してはここを参照。
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/miya/heian/hatizyou.htm
824日本@名無史さん:03/02/24 04:41
>>817
>んでも、同じく南朝の一英雄であるはずの新田義貞の世評があまりに悪いので、

これも戦前の皇国史観の反動なのかな?
特に司馬遼太郎みたいな超人気作家が「これほど戦の下手な大将はいない」などと決めつけて以来、
すっかりそのイメージが定着してしまった感じがする。
以後、ほとんどの歴史小説家は、義貞を愚将か、せいぜい武勇には長けていても、
知恵の足りない猪武者のような描き方をしている。
でも、忠実な部下や一族はごく僅かで、そのほかは寄せ集めの軍隊を率いて戦わなければならない戦争がどれだけ困難なのか、
ちょっとでも想像してみれば「戦が下手」などと簡単に言えるわけないんだが。
しかもそうした厳しい状況下で、疲れも知らぬように戦い続け、1度は足利軍を西国に追い落とした義貞は、やはり英雄といっていい存在だよ。
825日本@名無史さん:03/02/24 04:45
>「令外の官」が「官」じゃないってことはないんじゃない
だ、か、ら、あ、
蔵人は官じゃなくて職なの。除目じゃなくて宣旨で任じられるの。
官位相当制無いでしょ。
826日本@名無史さん:03/02/24 07:46
蔵人別当は三位、蔵人頭は四位、蔵人は五位、六位蔵人は六位。

・・・じゃないの?
827日本@名無史さん:03/02/24 07:52
>忠実な部下や一族はごく僅かで、そのほかは寄せ集めの軍隊を率いて戦

足利も同じでしたが
828700:03/02/24 11:57
>819
何とも言い難いな。
寺院に土地を寄進することによって支配力を強めようとする動きは
北条氏もやりやしたが、新田のばあい庶子の独立度が高かったのも事実。
従来いわれていたような「没落御家人」は過言にしても、庶子を統制できたかは。

>821
鎌倉時代のことでさえ二転三転するのに、
奈良時代のことなんか、ちゃんと勉強して発言してるんすかねえ?
もし天皇絶対を至高とするなら、極論すれば、原始時代がいいかもよ?
ホントに原始人がちょっと文明化した程度の、原始司祭やってた時代。
その頃は本当に「あらひとがみ」だったろうし。
結局、どの時代も政治は有力者の談合みたいなもんだったから。
天皇は京都貴族すなわち公家の代表、これが僕の持論(右翼さん、ごめんね)。

>824
皇国史観隆盛期に新田義貞の評判がどうだったかは知りませんが
(この辺に楠木正成との人気の差が表れている気も……)、
僕は太平記の叙述によるものって気がしますね。
なーんか、太平記だと義貞って「バカ大将」に見えちゃうんですよね。
死に方が「田んぼで転んで矢が命中」だし。
赤松円心にやられたのだって、別に匂等内侍のせいではなかったでしょ。
個人的な考えですが、太平記作者は義貞が嫌いだったんじゃないかなあ?
僕は太平記作者は鎌倉と密接な関係を持ってた人だと思う。
北条一門被官が太平記では楠木正成以上に好意的に書かれている。
作者は鎌倉を壊滅に追いやった義貞を嫌っていたんじゃない?
義貞が無能だったと僕は思いませんが。鎌倉攻めを見る限りでは。
それを言うなら、乃木大将のほうがよっぽど無能に見えますが、司馬センセ?
829700:03/02/24 12:08
足利・新田一門から離れてしまうので恐縮だが一筆。

>815
北条高時が「名君」だったかは、いかんとも。
名君てのは、結局、政治家としていいことしたかに尽きるから。
北条一門と被官達が高時に殉じたのも、当時の風潮によるものでしょうし。
ただ、ある程度人望ある人物ではあったかも知れない。
吉川英治の「私本太平記」では愚昧だが優しい人って感じでしたね。

南朝の英雄としては楠木正成&新田義貞とともに、
北畠顕家を忘れてはならない。
戦史を見る限り、この人は新田義貞よりよっぽど有能だったと思う。
最後に不破の関を突破できず戦死したのも、兵力損耗によるものだったろう。
顕家の軍は出撃すると必ず勝ったが、あの強さの秘密は何だろう?
奥羽にアンチ鎌倉(足利)の武家が多かったのだろうか?
流動的な時代であったがゆえか?(それにしては義貞が……)
830日本@名無史さん:03/02/24 16:23
>>828
庶子を統率出切るだけの発言力がなかったからこそ、
本来は鎌倉中期には新田氏惣領であった世良田氏の氏寺を
新田宗家が再建することによって、
長楽寺再建を通して庶子家を統率することが可能になったわけ。
新田宗家に発言力がなかったのなら、
鎌倉攻めの際に一族が表面上だったかもしれないけど
一致団結していた理由が分からない。
831日本@名無史さん:03/02/24 17:24
失敗したら最後、一族全滅だから
分からんでもないけどね。
832日本@名無史さん:03/02/24 19:41
>>827
あのー、別に足利が英雄じゃなかったなんて一言もいってないんですが。
ただ、この時代の戦争を、近世以降の戦争のイメージをあてはめて名将とか愚将といった言い方をするのは無意味だし、
ましてや義貞は愚将などではないってことを言いたいだけ。
なお、足利は新田よりもずっと大族です。
所領の規模からいって、直属部隊だけで少なくとも新田の10倍は動員できたと思う。
寄せ集め軍隊を率いた点は同じでも、中核となるべき忠誠かつ精強な軍隊の人数は合戦を大きく左右するでしょ。

833日本@名無史さん:03/02/24 19:50
>>829
>戦史を見る限り、この人は新田義貞よりよっぽど有能だったと思う。
最後に不破の関を突破できず戦死したのも、兵力損耗によるものだったろう。

そうかなぁ。二人とも好きな武将だけど、おれは顕家が義貞より「有能」だったとはとても思えん。
誰だって勢いにのって攻めるときは強いわけで、問題は逆境での戦闘。
顕家に義貞が北陸でやったような粘り強い苦闘が可能だったとも思えない。
本来、指揮官は自軍の兵力の消耗まで考慮して作戦をたてるべきだけど、
どうみても勢いまかせの猪突猛進型武将としか思えんのよ、顕家は。
2度めの上洛時も、新田軍との合流を避けたりとか、疑問符のつく行動が多いし。
勝ち目がなくなっても、ひたすら突き進んだのはかっこいいけど、
でも再起を期して退却するとか、どこぞに潜伏するのが本来の勇気だろう。
破滅型というか玉砕型武将。そんな気がする。

>顕家の軍は出撃すると必ず勝ったが、あの強さの秘密は何だろう?

奥州軍が精鋭だったのは確かでしょうが、奥州軍が通過した後は草木も残らんとか言われたらしく、
略奪暴行おかまいなしだった点も覚えておいていいのでは?
だから、勢いにのっているうちは強いが、一回でも打撃をうけるともろくも崩れ去る。
834日本@名無史さん:03/02/24 20:06
>>833
というより、誰それは誰それより有能といった議論じたいが禿しく無意味な気がするんだが。
それぞれ異なった条件下で戦闘を指揮しているんだし、簡単に比較などできんだろう
835日本@名無史さん:03/02/24 20:16
新田義貞は軍人としては無能だよ。

鎌倉攻めにしたって、別に綿密に計画を立てていたとは思えず、やけっぱちみたいなところがある。
こういう一か八かの戦をする軍人は無能の証拠。
戦前の帝国陸海軍みたいなもんでさ。

それに足利を西国においやった後、それを追撃しなかったこともそう。
さっさと、都に戻って、酒池肉林。
内侍の話が実話かどうかは別として、左中将てのは一番女性にもてる役職だったそうだから、似たような話はあったんだろ。

赤松攻めなんぞで時間を無駄にしたり、湊川で正成を置いてきぼりにしたり、枚挙にいとまがない。

まあ、田舎育ちの純粋な武将だったために、したたかな公家にいいようにされた、って言う意味で気の毒だとは思うがな。
836700:03/02/24 22:21
NHK大河ドラマ「太平記」では、顕家は弓の達人のように描かれていた。
真偽は知らず、もし顕家が弓の名手だとしたら、
それだけで武士の信望を勝ち得たかも知れない。
当時は弓が最大の武器で、けっこう大将の資質が合戦に影響したし、
「勝てば八卦」みたいな要素が強かったから。
まあ、北畠のばあい、究極的には名家だったからなんでしょうけどね、
あれだけ持ち得たのは。浪岡御所なんか、家柄だけで生き残った観あるし。

戦前の旧軍との比較もどんなもんかと。
人間、生きる時代が違えば、要求される能力資質も変化してしまうわけで。
近代軍は将軍一個の有能無能だけでは勝てませんからね。

鎌倉時代の有力御家人を「鎌倉中」と呼ぶ。
足利氏は勿論「鎌倉中」の一員だったけど、新田氏は埒外。
南北朝時代以後も、この「鎌倉中」の末裔は地方の有力者となった。
新田が勢力拡大をもくろんだとしても、ほかの有力御家人末裔が黙認したとも。
万が一足利氏が将軍家となる前に敗亡していたら、
たぶん他の有力御家人が代表(将軍相当の)にかつぎあげられたと思う。
鎌倉末期、新田氏は一介の中流御家人に過ぎなかったでしょうから、
新田宗家の天下は遠かったでしょう。
結局は経済力なんだよね。
837日本@名無史さん:03/02/24 22:56
>>825
まぁ義兼が蔵人だと誰が困るって話でもないからいいけど
便宜的にだけど一応、官位相当表にも載ってるよ
位階は826みたく、蔵人は六位蔵人でも殿上って注釈つきで
令外の「官」なのに「官」じゃないとはこれ不思議
職は官だと思うんだよなぁ「官職」と「位階」だよな確か
838日本@名無史さん:03/02/24 23:10
>戦前の旧軍との比較もどんなもんかと。
人間、生きる時代が違えば、要求される能力資質も変化してしまうわけで。
近代軍は将軍一個の有能無能だけでは勝てませんからね。

時代は違えど、有能な軍人、武将は勝てると判断して戦をやっている。
ある意味では戦場での戦いは本番ではなく、その前に勝負が決まるようにするのが有能な武将であり軍人だよ。
信長の桶狭間、秀吉の金ヶ崎、家康の三方が原は無謀な戦だったけど、それ以外は確実に戦をしている。
義経も奇襲が多いようで、実際は壇ノ浦あたりはきちんと準備して戦に望んでいる。
それに比べて、新田の場合はそういう根回しとか、準備が特に見受けられない。
やはり無能な武将だよ。
839業平:03/02/24 23:22
北畠顕家 公家じゃん。
840日本@名無史さん:03/02/24 23:41
>>835
>>838
あんたみたいな軍事無知が、簡単に歴史上の人物を無能呼ばわりするから歴史ヲタは馬鹿にされるんだわ。
義経の「準備」だって?準備したのは頼朝やその参謀だろ。
範頼軍を動かして平家を海上に孤立させたのも、
熊野水軍にわたりをつけたのも義経の才覚ではない。
義経は現場指揮官でしかなかったわけよ。
義貞も立場は同様。戦略をたてていたのは後醍醐帝(や朝廷)だろが。
ましてや信長や家康と比較するとは‥‥もはや何をか言わんや。
戦場での指揮官として無能であったか否かを論じるならまだしも
根まわししてないから無能とか言ってるのは、戦略と戦術の区別すらろくすっぽついていないアフォと言われても仕方ない。
あまりえらそうなこと言わんほうがいいぞ。
841日本@名無史さん:03/02/24 23:48
>835
誰かが書いているように北国での義貞の最後の戦いは、注目できると思います。
足利(尾張・斯波)高経との新田義貞のその戦いは、義貞の指揮官としての技量(とその上昇)を垣間見れます。
そのときの相手は赤松に劣らない難敵でした。足利における高経の名前の重みは、北条における名越のようでしたし、高経はすぐれた武将でした。

木の芽峠以来の苦戦、ほとんど全滅の憂き目からすれば、足利方の不徹底な掃討のおかげもありましたけど、再起、逆転、
そして相互連環城での中央突破戦術・偽装包囲殲滅戦であわや高経敗死にまで追い詰めたそのときに、
攻城戦監督のための移動時、高経配下の細川・鹿草勢の‘決死隊’(義貞ねらいではなく、偽装殲滅戦にひっかかってあわてて藤島城救援に出たものらしい)に偶然出合ったのが、義貞戦死の状況です。

高経軍こそむしろ敗走を余儀なくされていたときの義貞頓死。生きていたらどうだったでしょうね。
842日本@名無史さん:03/02/25 00:02
鎌倉末期、新田氏は我々が思っているほど名門ではなかったんだよ。あの程度の血筋の御家人なら掃いて捨てるほどいたし。
当時どこの家でも庶子家と本宗家との確執、独立はあったよ。天皇家始め摂関家などの公家でもあったし。
義貞の配下に付くのを潔しとしなかった武将は大勢いるでしょう。特に旧守護クラスは。数年前まで名前も聞いたことがない無位無冠の没落御家人に命令されるなんてね。
そのためか義貞は率先して陣頭にたって範を示すようにしているよね。そうしないと人が付いてこないというのも悲しいが。
名門のオーラみたいのも人望のウチだから義貞は人望が無いというのはあながち間違いではない。人格云々じゃないんだよ。
843日本@名無史さん:03/02/25 00:30
>あんたみたいな軍事無知が、簡単に歴史上の人物を無能呼ばわりするから歴史ヲタは馬鹿にされるんだわ。
というお前みたいな奴を歴史オタっていうんだよ。
君は軍事専門家かねw
ここは歴史好きの井戸端会議場。
納得できないなら普通に反論すればいいだけの話。
こういうレスを書く馬鹿オタがいるとスレが荒れるんだわ。

義経については、一の谷や屋島と比べて、壇ノ浦で慎重に行動してるのは明らかじゃん。
それまでは独断専行でやってたんだからさ。
要するに彼は彼なりに「勝てる戦い」をやっているということ。

それから戦略と現場での指揮官としての行動はこの武将時代は近代戦と異なり、ある程度は一致しているだろ。
別に後醍醐が各論すべてまで戦略を立てているわけじゃないしさ。

馬鹿歴史オタは来るな。
スレが荒れるだけだしさ。

それから君が反論するなら、新田が有能であることを主張しな。
じゃないと単なる荒らしと一緒だぞ。
844日本@名無史さん:03/02/25 01:15
>>837
もう、めんどうくさいなあ。
官職は官と職、位階は位と階なの、わかった?
スレ違いなのでsage
845日本@名無史さん:03/02/25 02:00
古典太平記を通読すれば、義貞に人望が無かったというのが
歴史ヲタの創作だというのはわかるはずなのだが。
846日本@名無史さん:03/02/25 02:43
>>843
横レスだけど、新田が無能ってのはあきらかに言い過ぎだろ。
なんといっても鎌倉幕府を攻めほろぼした武将だよ。
あんたのいう計算ずくの戦いではないにせよ、あれほどの激戦を制した以上、
無能とはとても言えんよ。
それと、計算づくでない戦いは歴史上たくさんある。
あんたの論法だと、負けた側(負ける戦をした側)はみんな無能ってことになりかねないが?
847日本@名無史さん:03/02/25 03:40
>>844
めんどくさがるあまりとはいえそれはないだろう。
「官職は官と職」というのはともかく「位階は位と階」なのか?
「位」はわかるが「位」でない「階」ってなんだ?
848日本@名無史さん:03/02/25 03:57
新田義貞は正々堂々戦って損したな!
楠木正成みたいに戦場のルールを知らないならず者みたいに
卑怯な戦い方をすれば歴史も変わったと思う。
849840:03/02/25 23:21
>>843
>お前みたいな奴を歴史オタっていうんだよ。
君は軍事専門家かねw

はぁ?軍事専門家ではないが、だからこそ、安易にその人物を無能呼ばわりするなんてことは、おれには出来ないね。
君の方こそ「軍人として無能」などと決めつける以上、相当軍事に造詣が深いつもりなんだろ?
でなけりゃ、こんな言い方は出来ないわな。
しかし、それにしちゃ内容にあまりに具体性がなくお粗末だったんで、呆れてしまったわけよ。

>ここは歴史好きの井戸端会議場。
納得できないなら普通に反論すればいいだけの話。
こういうレスを書く馬鹿オタがいるとスレが荒れるんだわ。

君、歴史好きなの?だったら、もう少し言葉に気をつけたらどうよ。
歴史を愛する者なら、基本的なスタンスってやつがあるだろ。
歴史上の人物に対しては、まずその置かれた立場とか状況に配慮もし、相応の敬意もはらった上で、評価を下したいなら下すべき。
批判するなら、もし自分がその立場ならどうしただろうか、そのくらいシミュレーションしてからやるべきだろ。
真に歴史好きとは、基本的にそういった節度あるスタンスをとれる人を言う。
ま、そこまで考えたなら、安易に誰それは「無能」などと決めつける言い方は出来んだろうがな。
だいたい、結果がわかっている現代人が、さもえらそうに「あの時、こうすりゃよかった。それが出来ないなんて、無能というしかない」
なぞと言う態度は卑怯なんだよ。
君みたいに、歴史上の人物をえらそうに断罪したり無能呼ばわりして、自分がそういった人たちよりも高みにたったような錯覚に陥っている姿ってのは、
歴史が好きというより、単に自分がえらくなったような気分になるため歴史を利用しているだけとしか思えん。
だから「歴史ヲタ」だっつーの。

>馬鹿歴史オタは来るな。
スレが荒れるだけだしさ。

同じ言葉をそっくりお返しする。
君が来る前は、別にここは荒れていなかったよ。
850840:03/02/25 23:24
(つづき)
>>843
>それから君が反論するなら、新田が有能であることを主張しな。

まぁこれだけ書いてもわからん香具師に何を言っても無駄だし、もう面倒くさいので、これ以上君と付き合う気はないが1つだけ書いておこう。
確かに、実際の戦闘の前に、謀略や調略によって内応者を作っておいたり、有力武将を寝返らせたりして、勝てる確率を最大限にして戦場に臨めればいうことはない。
だが、問題なのは新田義貞の立場でそれが出来たかってこと。
当時の武将のほとんどは、恩賞目当てで戦っている。内応させるには恩賞で釣らなければならない。
ところが、足利方は全て尊氏の宰領でそれが出きるのに、義貞はそうはいかない。
いちいち後醍醐帝(朝廷)にお伺いをたて、許可を得た上でなければできない立場。
一般にいう義貞の「不人気」の正体はこれ。人格とか人望に問題があったわけではないし、ましてや戦が下手だったからなどではない。
誰だって、「これこれの恩賞がほしい」と言って、すぐに「よろしい。この戦に勝てばそれはお前にやろう」とはっきり言われるのと、
「きっとそうなるよう、お願いしてみよう」などと曖昧なことを言われるのでは、前者に味方したくなるのが人情ってもんだろ。
もし後醍醐帝が義貞に、ある程度恩賞を自由に与える権利を委任していれば、それこそ歴史は大きく変わっただろうが、
後醍醐にしてみれば、そんなことをして尊氏を倒せたにせよ、今度は義貞が第2の尊氏にもなりかねないからできるわけがない
(ただ、後日、九州で活躍した懐良親王には、九州に限っていえばかなりの権限が与えられているけど)。
一般に南朝方の「総大将」というと新田義貞になるので、義貞にも尊氏と同じような大きな権限があったと思い込んでしまう人がかなりいるようだが、それは根本的に間違い。
とにかく、おれはそれだけの強い制約の下にありながら、戦場では常に陣頭にたって戦い、時には優勢な敵を破りもした義貞が無能であるとはとても思えない。
それどころか野戦軍司令官としての義貞は、間違い無く勇猛果敢で、水準以上の武将だと思っているよ。以上。
851日本@名無史さん:03/02/25 23:31
田崎草雲>>>>>>>>>>足利尊氏>>>>>>>>>>>>新田義貞>>>>>>>後醍醐
852日本@名無史さん:03/02/25 23:34
新田義貞ショボイは明治以降も関係有るかもな。
追贈も正成の数年後。
似非一族徳川に持ち上げられてたのが不味かったらしい。
時代が下ろうが貧乏クジってのも新田らしさだな。
853日本@名無史さん:03/02/26 02:15
>>847
あのさあ、ちょっとは自分で調べてよ。ここ仮にも日本史版でしょ。
こんな基礎的なことで質疑応答するの他の人にも迷惑だろうが。
しかも本題と関係ないんだから。
位ってのは三位とか四位とか、階ってのは上下。
854日本@名無史さん:03/02/26 10:03
新田は主君がいて力を発揮できる家。
足利は主君となりうる家。
極端な話し、新田は兵隊,足利は政治家と言う事。
855700:03/02/26 12:12
10年前の大河ドラマ「太平記」で思い出されるのが、
湊川合戦直前の楠木正成の言上。
「戦ってみなければ勝敗がわからぬようでは武門とは言えませぬ」
正確ではないが、こんなことを言っていた。
武人でも、ある程度以上の地位になると、
単に「戦術家」というより、むしろ「政治家」としての力量が期待される。
武田信玄や徳川家康がわりと敗戦しないで済んだのは、
別段かれらが「神がかり」な能力を持っていたからではなく、
政治家として優れていたからだと考える方が適切だろう。

近代ともなると、軍人だけ政治をやるのはとても無理になってくるが、
封建時代は文武が未分離だったから、
武田信玄のように両面に優れた人物が輩出した。

新田義貞に関して言えば、彼は軍事に才はあったかも知れないが、
政治的センスが欠けていたと考えるべきではないだろうか?
もちろん、鎌倉時代150年間も大きい。
島津や大友も、足利が代表なら言うこと聞いたろうが(一応反発してることに注意)、
果たして新田宗家だったらどうだったか?
足利は武家では最も強大だったろうが、足利に抗し得る有力武家はいくらでもいた。
第一、新田も所領をもらえさえすれば、別に武家の棟梁になる気はなかったろう。
そこまで新田一門が自惚れ上がっていたとも思えない。
856日本@名無史さん:03/02/26 12:54
>>853
「令外の官」は官だろ。
それが官でないと、
たとえば「ラクダから落馬する」というお話だ。

857日本@名無史さん:03/02/26 16:36
>新田義貞に関して言えば、彼は軍事に才はあったかも知れないが、
政治的センスが欠けていたと考えるべきではないだろうか?

政治的センスというより、「政治力」が欠けていたというべきじゃないかなぁ。
センスまではわからんでしょ、げんに「政治評論家」とか呼ばれる人は、
政治のセンスはあるんだろうけど、実際の政治力が無いわけでしょ。
で、その政治力を持つには、まず人脈の豊富さとか派閥を構成する力とか、経済力とか、
何にせよ、背景となる強力な力をまず持たないことには、幾らセンスだけあってもどうしようもない。
新田の場合、鎌倉時代の空白の150年があるから、鎌倉攻めの殊勲があるとはいえ、
一朝一夕にそんな力を得ることができないのはあたりまえ。
対する足利は、やはり永年の蓄積がある。上杉とか高のように、宮廷に精通したブレーンがいたことも大きかったろう。
後醍醐の寵姫廉子や文観に賄賂送って親密になり、
情報収集はもちろん、政敵・大塔宮の失脚にまで成功しているんだから、この政治力は凄い。
一方新田のほうは、かりに同じようにやりたくても、手づるもなければ金もなく、ただ後醍醐天皇を背景にするしかなかった、と。
858日本@名無史さん:03/02/26 22:23
山名なんとかが「鎌倉時代のオレっすか?田んぼいじりっすよ。こんな人がましくなれたのは足利さんのおかげっす、押忍!」とか言ってた(かなり意訳)ような・・・
まぁ、独立性だのなんだの言っても・・・ねぇ
ガキどもに言うこと聞かせられなかった義重も・・・ねぇ
政子タンが頼家に「新田の義重さんがあぼーんしたってのに喪前って子は・・・」と言ったのは本当なのかと、吾妻鏡の著者に問いたい、問い詰めたい、小一時間(以下略)
859700:03/02/26 23:47
どうでしょうか?
よく「俗説」(伝説レベルだよ、こりゃ)で、
「頼朝に娘を差し出すのを断った」
云々が新田が冷遇された一因となったと言われるけど。

これも伝説の一つなんでしょうが、
おそらく中小クラスの武士だった楠木正成は時流をよく読んでいたようで。
結局非業の最期を迎えたわけだけど、この人はセンスあったんじゃないかなあ?
楠木と逆の歴史をたどったけど、赤松円心もセンスあったように思う。
この両氏、政治力は皆無に近かったろうが、たまたま惣領がセンスあった。

新田義貞の悲劇は、足利一党によって
「敵の頭目」に祭り上げられてしまったせいじゃないか、と思えてしまう。
義貞自身に、彼個人の意識は別として、一族の惣領の身なんだから、
まさか武家の代表になろうなんて考えはなかったろう。
足利でさえ地方の有力国人を押さえることが困難だった。
新田が将軍になっていたら、更に混迷を極めたような気がする。
860機種依存文字スマソ:03/02/26 23:53
>>844
すんげー怒らしちゃってるみたいで悪いんだけど
「官」と「職」の違い、後学のために教えてくんない
俺が引いてる本には載ってない↓
>>847
正従(>>853)と上下

くゎん【官】@官位。官職。A朝廷。政府。B「太政官」の略。C官人。役人。
くゎん-じゃ【冠者】A六位で、無官の者の称。
しき【職】律令官制の一つ。中宮職・春宮職・大膳職・左京職・右京職・修理職など。
しき-じ【職事】@蔵人頭および五位・六位の蔵人の総称。
ところ【所】F(特に蔵人所、武者所など)役所をさしていう。
む-くゎん【無官】官職のないこと。官職についていないこと。
ろくゐ-の-くらうど【六位の蔵人】六位で五位相当の蔵人所の職員であるもの。

脱線しすぎたんで足利・新田に戻すと、共に平家陣営の藤姓足利と新田の関係は?
861日本@名無史さん:03/02/27 00:11
>>859
最初のやつ、吾妻鏡に載ってる話だけど、
俗説とは知らんかった。
862日本@名無史さん:03/02/27 00:14
>「頼朝に娘を差し出すのを断った」
吾妻鏡に載ってるんだって。
寿永元年7月14日の記事。
863日本@名無史さん:03/02/27 00:20
頼朝のスケベ心で差し出せというのが俗説で
義平の妻だった事が意味有るって事だったと思うが。
新田義重女って元義平室だから年齢的にどうなんだろって話なっかった?
865日本@名無史さん:03/02/27 00:30
なっかった」って、言語が不自由になってきたな

てことは、義平室であったことが重要なんであって、加齢でも問題ないのか
でもそうなると、義平はやはり嫡男だったのかってことになるし
それを頼朝自ら認めたことにもなんね?
866日本@名無史さん:03/02/27 00:32
反抗的な義重に頼朝が人質として要求したら拒否されたというのが真相だろ。
867日本@名無史さん:03/02/27 02:43
>>859
>楠木と逆の歴史をたどったけど、赤松円心もセンスあったように思う。

というより、赤松の場合はきちんと恩賞さえ与えていれば、果たして足利に味方したかどうかわからんよ。
赤松は、足利や新田よりもずっと早いうちから勤王方として活躍し、しかも功績も大きかったのに、
恩賞問題であんまりな扱いをされたよね。
更に、息子の則祐が心酔していた大塔宮までも流刑となってしまっては、
それ以上宮方に忠誠を尽くす理由はどこにも無くなっただろう。
いわば、赤松を足利方へ走らせたのは後醍醐天皇の大失策であって、
赤松の政治センスとはあんまり関係無いかと。
もっとも、赤松を離反させたのも足利の工作ではないか、とする説もあるようだね。
阿野廉子の讒言によって、熱烈な大塔宮シンパと思われていた赤松は、恩賞からホサれた。
で、廉子にそう言わせるよう仕向けたのが足利ではないか、ってやつ。
だとしたら、ほんと足利はしたたかだよなぁ。
自分が讒言したならあとで恨まれるけど、それは他人(廉子)にやらせ、
しかも自分は後から赤松に同情するようなことを言って、その心をとらえる。
恨まれるどころか感謝までされるって寸法だわな。
‥‥なんてこと思うと、赤松の政治センスなんて他愛もないよ、足利の前では。
868日本@名無史さん:03/02/27 02:57
>>866
それは大いにあり得る。
ただ実質は人質でも「おまえは信用ならんから人質だせ」とは言えないだろうし
名目は何だったのかな?
また、他にも人質に相当するものを差し出すよう言われた御家人はいたのかどうか?
更に、当時すでに義重には孫の義房もいたはずなので、
どうせ人質にとるなら、江戸幕府のやったように、正妻及びその嫡男、というのが理想かと思うのだが、なぜ娘?

869日本@名無史さん:03/02/27 06:54
尊氏は政治力にくわえセンスがあったと思う。
恩賞を与える権限が政治力だとすれば、タイミングとか自腹で与えたりがセンス。
寝返りも当時は当たり前の様にいうが、誰でも許されたわけではない。
寧ろそれを当たり前にしたのが尊氏だったんじゃないだろうか?
自らの謀反とこれからの政権作りの矛盾をうまく収拾した感がある。

義貞に時流を見る才覚があれば、とっくに尊氏に恭順していたと思う。
それをしなかった理由が尊皇というイデオロギーであれば、
それはそれで新しい流れを作ったのかもしれないが、正成辺りに
『足利憎し』が源泉と見透かされ、義貞討伐を提案されるのは
その程度の人物と見るのが自然な気がするのだが。
870日本@名無史さん:03/02/27 21:40
>>869
自腹で恩賞、ということで思い出したのだが、
それを尊氏の先祖でタイミングよく敢行した人物がいる。
そう、八幡太郎義家。
源頼朝は、自らを源頼義に例え、
奥州合戦に於いて、事ある毎に前九年合戦の故事を持ち出し、
自分と御家人たちの関係を「演出」したが、
元々他の御家人と(力の差はあれど)同じ立場であった
足利氏は、源氏の祖として義家を持ち出し、
頼朝がやったように事あるごとに義家を意識させた、
と聞いたことがある。
871日本@名無史さん:03/02/27 22:34
義貞は鎌倉を落とした時点で、「北條のどこそこの荘園、キミにあげるよ」と恩賞をやっちゃえば良かったのかな?
>>870の言う、自分を演出する能力が義貞に無いか、思いつかなかったのか・・・
872日本@名無史さん:03/02/27 22:44
 ようするに家格というのは、上下するものだっていうことだと思う。
単純に考えて、宗家が幕府を開いた足利の方が新田より格上だったんだろうけど、徳川が新田の末裔を名乗って幕府を開くことが出来たということは、足利の格が新田と同じところまで落ちてしまったということですね。
 不良債権に公的資金投入すれば、国債の信用が落ちるのと一緒で、徳政令なんかだせば商人の総スカンくって当然。
 室町時代は宗教勢力と結びついた商人が力をつけた時代なので、足利ブランドの凋落もしかたないですね。
 ところで吉良氏のお膝元の三河で勢力を伸ばした松平氏が、常にアンチ足利を標榜していたとは思えませんが、家康の場合お母さんがバリバリの南朝の残党水野氏の出身だし、足利ブランドどころか、朝廷ブランドだってクールに見ていたのでしょうね。
 結局どちらの家格が上かというのは、いつの時代の時に、という制約を入れないと絶対結論でないと思います。

873日本@名無史さん:03/02/27 23:44
>869
>寝返りも当時は当たり前の様にいうが、誰でも許されたわけではない。
寧ろそれを当たり前にしたのが尊氏だったんじゃないだろうか?
自らの謀反とこれからの政権作りの矛盾をうまく収拾した感がある。

それはちょっと褒め過ぎじゃないかなぁ。
気前よく恩賞を大盤振る舞いしすぎて、肝腎の幕府そのものの権力が著しく弱体化してしまったし、
下剋上を当り前の感覚にしたことで、秩序もガタガタになった。
うまく収拾したというより、苦肉の策でそうするよりなかったというべきじゃないかと思う。

>義貞に時流を見る才覚があれば、とっくに尊氏に恭順していたと思う。

そんな義貞はつまらんよ。時流にのるばかりが能じゃない。

>正成辺りに『足利憎し』が源泉と見透かされ、義貞討伐を提案されるのは
その程度の人物と見るのが自然な気がするのだが。

正成が義貞討伐を提案したって話は現代では通説になっているようだけど、
足利の御用史書「梅松論」にしか無い話でしょ?これ、ちょっと信じられないんだよね。
それに、一応その話を事実と仮定しても、そもそも正成が第一に提案したのは足利との和睦。
でも、ただの和睦では足利は承知しないだろうから、
そうなると新田の首くらいは差し出さなくてはならない、
そこまでやって初めて足利も和議に応じてくれるでしょう、という意味であって、
これは当時新田が南朝軍の総大将という立場にあり、
足利もまた新田を君側の奸として除くことを名目に戦争をしていたわけだから、
和睦するなら当然出て来るべき条件というに過ぎず
義貞の人物が優れていようが凡庸だろうが、そんなこととは全く関係ない話でしょう。
だいいちこの和睦、足利にとってのみ都合のいい条件で、後醍醐帝は何も得るものがない。
もし正成がこんな和睦を本気で提案して、しかもそれが受け入れられると思っていたとしたら、
正成の政治センスにも疑問符がつくと思うよ(それもこのエピソードが疑わしいと思う理由の1つだが)

874700:03/02/27 23:56
足利幕府が弱体だったのは、足利氏の責任ではないでしょう。
足利氏自体がもともと有力御家人の一家に過ぎなかったわけで、
あまり極端な恩賞政策や中央集権化を図ったら、
それこそ猛反発でつぶされてしまったと思いますし。

>871
新田義貞に北条氏遺領を配分する資格があったかどうか。
中小御家人に過ぎなかった新田がそんなことしたら、
千葉・小山・宇都宮・小田・佐竹が不満を持ったろうし。
うがった見方すれば、そんなことしたら後醍醐ににらまれたでしょう。

まあ、赤松も楠木も、一介の「国人」レベルの武士。
自分の本拠地近国の情報だけを頼りに生きていたでしょうし、
またそれで十分だったでしょう。
足利は全日本的に政治を見なければいけない条件下に置かれたわけで。
だから結果論ですが、赤松は巧く生き残り、楠木は没落した、と。
でもまあ、天皇家が分裂せんでも、新田が恭順したにせよ、
南北朝の動乱はあんな感じだったでしょうね。
結局、尊皇なんて口実で、地方有力者の勢力争いが本質だもんね。
875日本@名無史さん:03/02/28 01:58
>>874
>足利幕府が弱体だったのは、足利氏の責任ではないでしょう。

同意。誰があの立場になっても、ああするよりほかに道は無かったと思う。

>新田義貞に北条氏遺領を配分する資格があったかどうか。
うがった見方すれば、そんなことしたら後醍醐ににらまれたでしょう。

これも同意。その時点でたちまち潰されていただろうね。

>だから結果論ですが、赤松は巧く生き残り、楠木は没落した、と。

その通りなんだけど、結局赤松も16世紀初頭には家臣に叛かれて滅亡してしまうし、
一方の楠木は栄光ある名を今にいたるまで残しているしで、そう考えると、
どっちが良かったのやら一概には言えない気もするんだよな。

>でもまあ、天皇家が分裂せんでも、新田が恭順したにせよ、南北朝の動乱はあんな感じだったでしょうね。

これも同意。一個人の力量とか才能ではどうしようもない、大きな時代の流れってやつだな。
そして、義貞も尊氏も正成も、そういう激動の中でみんな必死だった。
そんな彼らを、無能だとか臆病とか卑怯とか、おれはやっぱり言いたくないなぁ
(しつこいってか?W)
876日本@名無史さん:03/02/28 02:10
>>873
足利幕府の弱体は、>>874氏に同意。
直義みたいな権威主義者あったら南北争乱はずっと続き、
足利家も新田同様につぶれていたかもしれない。
収拾を計った事は評価すべきだと思うんだけど。

それよりも
>そんな義貞はつまらんよ。時流にのるばかりが能じゃない。
では義貞のどこが面白いのか? 時流にのらない事による生きざまとは?
その辺を語ってもらえないかな?
尊氏との比較では家格も時流を読む力も劣ると思うんだが、
尊氏に無い魅力とは何だったんだろうか。

正成の義貞討伐に関して、「後醍醐帝は何も得るものがない」とは思わない。
義貞さえ捨てれば京都で安定した政権が保てる。梅松論の創作かも知れないが、
本当だとすれば俺は正成の政治センスは高いと思うよ。
確かに大将を捨てるんだから大事でしょう。それを提案するって事は
義貞の能力を計る要素になると思う。関係のない話では無いよ。
877日本@名無史さん:03/02/28 02:20
そもそも義貞の鎌倉攻めの成功は、幼い義詮がいたからじゃない?
もちろん義貞の武功があってこそだけど、あれだけ東国武士が参加したのは
幼いながらも義詮が総大将だったからでしょ。つまり足利に従った。

だから義貞が戦後処理で恩賞を、っていうのは無理な話。
878日本@名無史さん:03/02/28 02:36
優劣で語れないところが歴史の面白いところだと思うけど、
うまくやった(やらない)と、出来た(出来ない)の線引きは難しいよね。

ところで南朝贔屓の人って楠木正儀はどういう評価をするんだろう。
俺には柵(しがらみ)の無くなった正成みたいに思えるんだよね。
長生きしてたら同じ事をしていたんじゃないかなぁと邪推している。
879日本@名無史さん:03/02/28 02:41
>>878
>長生きしてたら同じ事をしていたんじゃないかなぁと邪推している。
漏れもそう思う。
が、南朝贔屓から見れば、
とんでもない話だよな(w
880日本@名無史さん:03/02/28 02:47
>>876
>正成の義貞討伐に関して、「後醍醐帝は何も得るものがない」とは思わない。
義貞さえ捨てれば京都で安定した政権が保てる。

そんなうまい話ある?
げんにこれは後の話になるけど、そう言われて比叡山を降りたらだまされて監禁された罠。
「それはすでに湊川で負けた後だから」って言うかもしれんけど、
いずれにしても、尊氏はすでに北朝の天皇を擁立していたんだよ。
今更、北朝の天皇を退位に追い込んでまで後醍醐を天皇にすると思う?
また、かりにそうしたとしても、後醍醐は結局のところ幕府の存在なんて容認できる人じゃないから
どうせまた争いになるよ。
そうなることがわかっていながら、わざわざ後醍醐をまた天皇にするなんてアフォな真似を足利がやろうとは思えない。
だとすれば、後醍醐は新田を自らの手で抹殺し、挙句に政権も天皇の座も奪われるだけってな最悪の展開
(後醍醐にとっては。足利にとっては最良の展開)を迎える。
何より、この時点まで新田は後醍醐にひたすら忠義を尽くしてきたわけでしょ。
足利を西国に追った功績もあるし。
そういう段階で、いきなりこんな非道なことをやったら、もう後醍醐に従おうとする武家はいなくなるんじゃないかね?
「どれだけ尽くしても、突然手のひらを返すお人じゃのう」と思われるだけで、やっぱり得は無いよ。
はたしてあの正成がそんなことを勧めるかどうか。それじゃまるで足利の工作員と変わらんと思うのだが。
881日本@名無史さん:03/02/28 03:15
>>880
「何でもあり」の時代だったから可能性は無いとは言えないんじゃない?
お互いに何度も騙しあったり和議結んだりしてたでしょ。
正成の話の真偽はさておき、それで決着がつけばお互いにメリットはあると思う。
長くは続かなかったかも知れないけど。

但その際、尊氏は北朝の廃帝に躊躇は無いと思う。
そもそも後醍醐に恭順したのが、成りゆきで北朝を建てたわけでしょ。
武士の統括権さえもらえば、再度後醍醐に従ったと思う。

結局、後醍醐にその気は無かったからこんな仮説も意味は無いけど。
882日本@名無史さん:03/02/28 03:21
それから義貞が尊氏を西国へ追ったという件、
あれは無防備なところへの攻撃で、正成の謀略の方が評価されるべきだし、
無駄な攻略をせず、あえて九州まで下り体勢を立て直した尊氏も
戦上手だったと思う。
883日本@名無史さん:03/02/28 03:25
この前何かのTVで奇跡の生還話があったんよ。
内容は爆弾を抱えた男女が小学校に侵入して、最後は爆弾が爆発するのだけど、科学的に検証して、
普通人質全員が無事だって事は有得ない話しだったわけ。で、人質となった小学生の証言を
聞くと、死んだはずのそれぞれの祖母達が子供達の目にうつったんだって。
しかも、子供の生まれてくる前に死んだはずなのに・・・と言う話し。

尊氏の話しを思い出したよ・・・。版違いで、スンマソ。
884日本@名無史さん:03/02/28 17:46
足利尊氏を褒める椰子らがいるとは・・・・・・
少女売春、世界的なテロ事件、景気低迷・・・・・・日本はどうなってるんだろう??
885700:03/02/28 20:30
歴史上の人物は、その子孫でもない限り、実際には縁がないからなあ。
徳川時代の諸侯の子孫は今でも田舎の有力者だったりしますけどね(東北地方とか)。

>876
足利直義は保守的な人物だったと言われますし、僕もそうだったと思いますが、
その直義でさえ、実際には「管轄外」の裁判も決裁してるんですよ。
これは時代の流れを表していると思います。
原則として、鎌倉幕府は御家人に関係する裁判しかできなかった。
つまり、公家/寺社同士の裁判は本来ノータッチが原則(例外はあれど)。
だから直義の目標とした「義時・泰時時代に帰ろう」も、
ある意味、後醍醐以上の机上の空論だったかも知れない。

でまあ、足利尊氏たち幕府重鎮も、天皇位については干渉したくなかったはずだよ。
よく言われてたんだが、両統迭立は鎌倉幕府の策謀だという説。これは誤り。
たとえば、御家人の惣領を決定する権限は幕府にもなかった。
つまり、「家」の問題はその「家」の者が決定するのが原則だった。
だから、幕府は寺社にも朝廷にも介入するのを嫌った。
ただ、あんまり幕府に不都合な人が天皇になると困るから
(当時、天皇は実権あったし、治天になるためには天皇になる必要があった)、
承久合戦時のような時、後醍醐天皇廃立の時は干渉してるけど。
北条氏はじめ幕閣は「何とかしてくだせえな」が本当の所だったろう。

>884
おおよそ何の関係もないであろうことを強引に結びつけるのは牽強付会という。
884氏の主張は何かわからぬが、少女売春と足利尊氏には何の関係もない。
余談だが、封建時代は北朝正当論が圧倒的に優勢だった。
何より、南朝に与した地方勢力より北朝に与した勢力のほうが多く残ったから、
当然、徳川時代の大名も北朝ゆかりの家が多かった。
天皇自体が北朝の末裔なのだから、南朝正当論は机上の空論に近かった。
太平記恐るべし。太平記なかりせば、南朝天子は歴代に入らなかったろう。
886日本@名無史さん:03/02/28 23:17
新田氏そのものを馬鹿にしたような奴居るが
宗家より山名氏見た方が解り易い。くっ付いたり離れたりしてるが
付けば同根の名族、離れればライバルとなる。
義満の謀略にはまるが結局復活。
徳川が足利将軍に反抗しながら自己の将軍権威確立するのに
世良田後裔とするのが必要だったように足利に並び立つ価値あった。
887日本@名無史さん:03/02/28 23:48
なんか新田オタがずいぶんいるな。
新田のある意味、フロックの鎌倉陥落を過大評価しすぎ。
それを除いてみれば、彼の武将としての器量がわかる。
実際、それ以降彼は失敗ばっかじゃん。
たまたま、一度大成功したから、ってそれで有能ってことにはならんよ(逆もそうだけど)。

太平記が新田義貞を酷評しているのは、太平記の作者は武士かそれに近い人って言われているところからして、
当時の武士達の新田義貞の評価の世論だと思うぞ。
が、後醍醐とか公家のような戦の素人はそれがわからず、新田義貞を過大評価しただけ。
888日本@名無史さん:03/03/01 01:35
>>886
あなたの論旨も意味不明。
「新田氏そのものを馬鹿にしたような奴」とは、誰のどんな意見を指しているのだろう?
山名氏の「付けば同根の名族、離れればライバル」だから新田氏は名族?
徳川は足利将軍に反抗したの? 新田の一族を名乗ったから政権が作れた?違うでしょう。

南北争乱は天皇家同士の争いではないし、後醍醐VS尊氏でもない。
武士の領地獲得、それだけ。
領地がもらえれば、後醍醐でも北条でも尊氏でも直義でも誰でも良かった。
但し、その対象には新田は無い。義貞は南朝の一武将の存在でしかなかった。
存在としては尊氏の部下である高師直か、それ以下。
こういう意見が「新田氏そのものを馬鹿にしたような奴」になるのかな?
889日本@名無史さん:03/03/01 03:26

上総国の守護代伊勢九郎の子孫京都伊勢氏が室町幕府で政所執事を世襲し、
貞宗にいたっては山城国守護職を兼帯するほど権力をもっていたのはなぜ?

南北争乱で名前が出てきてた?
890日本@名無史さん:03/03/01 06:52
>>889
伊勢氏は鎌倉時代からの足利氏被官だったと考えられている。
891日本@名無史さん:03/03/01 12:31
>>889
伊勢貞継は足利尊氏の父貞氏の烏帽子子であったためと
義満が貞継邸で誕生したことから絶大な権力を持った。
892日本@名無史さん:03/03/01 13:35
>>891
>伊勢貞継は足利尊氏の父貞氏の烏帽子子であったためと
これ初耳なんだが、ソースは?
893日本@名無史さん:03/03/01 15:04
894日本@名無史さん:03/03/01 18:38
>>893
感謝。
家伝か。伊勢氏関係の資料漁れば出てくるかな。
895日本@名無史さん:03/03/01 20:33
>>889
乱世から治世に移行すると、武官より事務能力にたけた吏僚、言わば文官が台頭するのは、
足利幕府に限らず、権力の自然な成り行きだよ。
伊勢氏の場合は、日野氏との通交もその勢威の一因じゃなかったかな。
896889:03/03/01 21:53
みなさん、ありがとうございます
勉強なります。
897日本@名無史さん:03/03/01 23:35
>>888さん
意味不明なものに、たくさん質問されてるので一応レスします。
自分が無知で意味不明でした。
もともと南北朝スレとしてレスした訳ではありません。
新田と足利のスレだと思ったんだけどなぁ・・・
南北朝の優劣もって歴史上新田遥かに下としてると思っただけですよ。
>徳川は足利将軍に反抗したの? 新田の一族を名乗ったから政権が作れた?違うでしょう。
そうか織田が敵対しただけなんですね 。
それで政権取れたとは言ってませんよ。自己の将軍権威を確立する為に大いに利用してると
言ったただけで、血統としての価値は山名含めて後まであったと思ってました。
何の価値も無いものをその後裔であると色々やってるという事は徳川は
単なる新田ヲタだったんでしょうね。
888さんの識見には目から鱗落ちました。



898日本@名無史さん:03/03/02 01:24
家康の血筋って義貞の子じゃないんでしょ?
松平信重の娘と結婚したのが源義家の末裔で新田義貞に従ってた
徳阿弥である。よって家康は源氏であると言う話じゃなかった?

事実は明治十四年松平村誌の松平発祥耽譚でいかなる御縁にか有やらん
とかかれてるから氏素性不明の浪人であったんだろう
899日本@名無史さん:03/03/02 02:11
>>897
あなたの言う「南北朝スレでなく新田・足利スレ」、ごもっともです。
但、最近のスレの流れが義貞と尊氏の南北朝になっているので、
意味不明に感じました。これは私の勘違いでした。

まずスタート時において、新田と足利は共に分家という事で同じ家格に思うが、
厳密に言えば新田は足利の分家なのでこの時点で足利が有利。所領や財力で既に開きがある。
その後、源平合戦や鎌倉幕府での対応で両家はさらに開きが出る。
この辺はこのスレでも語られているので割愛。

あなたの>>886で言えば、同族の山名氏すら一門に出来なかった新田氏と、
同族を足利一門として束ねた足利氏では『家格』が大きく異なるのが明白。
旗揚げの際、新田は同族に挙兵を求めるも集まったのは150騎程度。
それが足利の嫡男千寿王が加わると数万騎にまで膨れ上がった。
これは「南北朝の優劣もって歴史上新田遥かに下」以前の話になります。
私個人は新田氏は寧ろ南北朝で、南朝の総大将になった事が後世の評価を上げたと思っています。
これがなければ家康が徳川の祖を新田氏に改竄する事はなかったでしょう。
もっとも足利氏はそれ以上の評価・家格を南北朝で得ましたが。

誤解があったので再度レスをしてみました。

900日本@名無史さん:03/03/02 03:14
>>887
>太平記が新田義貞を酷評しているのは、太平記の作者は武士かそれに近い人って言われているところからして、
当時の武士達の新田義貞の評価の世論だと思うぞ。

ある程度、当時の世論は反映していたろうね>太平記
ただ、たしかに最期についてはずいぶん酷評されていたけど、
その他は義貞を褒めているところやカコヨク描かれている場面もイパーイあるんだけどね。


>太平記
901日本@名無史さん:03/03/02 04:19
太平記は、法勝寺上人恵鎮を中心に作成された、と言われている。
難太平記に、

この記の作者は、宮方深重の者にて、無案内にて、
押してかくのごとく書きたるにや。まことに尾籠の至りなり。
もつとも切り出ださるべきにや。
すべてこの太平記の事、誤りも空ごとも多きにや。
昔、等持寺にて、法勝寺の恵鎮上人、この記をまづ三十余巻持参し給ひて、
錦小路殿(足利直義)の御目にかけられしを、玄恵法印に読ませられしに、
多く悪しきことも誤りも有りしかば、仰せに云はく、
「これは、かつ見及ぶ中にも、もつてのほか違ひめ多し。追つて書き入れ、
また切り出だすべき事などあり。その程は外聞有るべからざるの由」
仰せ有りし。

とあって、恵鎮が太平記の作成に関わり、
足利直義が改訂を命じていることが書かれている。
更に、太平記が細川頼之の執事就任を最後に記していたりと、
足利将軍家が最終的には検閲・管理していた可能性も指摘されている。

とすれば足利氏激しく対立した新田義貞が余り良く書かれていないのも、
逆に尊氏・義詮に慕われていた楠正成・正行が印象的に書かれているのも
納得できる。
902日本@名無史さん:03/03/02 10:41
>>900
新田義貞について太平記を引用する時は、ネガティブなところしか引用されず、
ポジティブなところはなぜか引用されないね。
初めて太平記を読んだ時は、解説書で読んだ義貞評とのギャップに驚いたよ。
903日本@名無史さん:03/03/02 15:28
清和源氏義国流新田氏・・・新田氏の祖義重は、源義国と側室前上野介藤原敦基の娘との間に義国の長男とし
て生まれる。義国から農耕にもさほど適さない赤土の土地がらの寒村新田の地(現在の群馬県太田市と新田郡
新田)をもらう。それを京都の藤原忠雅に寄進し、忠雅はさらにこれを京都伏見にある鳥羽離宮の金剛心院に
寄進した。ここに金剛心院を本所(本家)、藤原忠雅を領家、義重を下司とする新田荘が成立した。父義国の
墓はこの新田荘にある。義重は、頼朝に挙兵を誘われた時、その配下に入る事を拒否 、頼朝が優勢になった
所で慌てて馳せ参じ、配下に入る事となったが、頼朝の一番苦しい時に拒否した罪は軽からず、その遅すぎる
参陣を叱責されてしまう。これ以降、新田氏は鎌倉幕府から冷遇される事になり、その所領も上野と越後の一
部に限られた。
904日本@名無史さん:03/03/02 15:28
清和源氏義国流足利氏・・・足利氏の祖義康は鳥羽院北面源有房の娘との間の子に生まれる。有名な絹織物の産地「足利の別
業」(栃木県足利市)をもらう。それを鳥羽法皇に献じ、法皇建立の安楽寺院領とし、その代官となった(後に皇女八条院領)。
義康は保元の乱では天皇方に与し、敵将平家弘を討ち取る抜群の勲功を挙げた。この華々しい活躍によって従五位下検非違使
に任ぜられ、内裏への昇殿も許された。
二代目義兼は頼朝が挙兵したとき、頼朝と従兄弟(義兼の母母熱田大宮司藤原秀範の娘は、源頼朝の母の妹の関係)であり、
源姓足利氏は藤原姓足利氏と下野足利庄をめぐって対立していたため、源氏の挙兵にいち早く参陣した。頼朝義兼北条政子の
妹である北条時政の娘時子を、義兼の妻として迎えることになった義兄弟の関係になった。
義兼の子には、義純 義助 義氏 義胤と二人の女子がいた。このうち足利氏の家督を継いだのは、生母が北条時政の娘であっ
た義氏である。義氏は、母の生家(北条)に一貫して協力し続けた。足利氏の所領を見ても数々の合戦による戦功の賞などか
ら、下野国足利荘の他に上野や、上総・三河・美作・陸奥などの諸国に広がり、特に義氏の代には上総国及び三河国守護職に
就いたと考えられる。
905日本@名無史さん:03/03/02 15:29
>>901
だとすれば、後世の人間は(我々もそうだが)足利氏の検閲すみの物語や歴史書ばかりを基礎として
何だかんだと言っているわけか。
実は漏れも新田義貞は、そこそこ戦争はうまいけど、あくまで平原戦での正面突破に秀でた武将であって、
人物としてはそれほどでもないと思っていた口なんだが、こりゃもう1度固定観念をとりはらって考えてみないといかんかも。
改訂前のオリジナル太平記をぜひ読んでみたいものだが、どこかに残っていないものだろうか?
906日本@名無史さん:03/03/02 15:35
>>902
おれはその逆で、太平記を先に読んだ(消防だったので原文ではなく子供向きのやつだが)
素直に、新田義貞ってカコイイなぁ、と思えたよ
もちろん一番カコイイのは楠木正成だったが
907日本@名無史さん:03/03/02 16:00
>>905
勾当内侍との関係はどう評価すればいいだろうか。
908日本@名無史さん:03/03/02 20:04
>>905
作成中に検閲されてたみたいだから、
オリジナルが残ってる可能性は低そう。
むしろ北畠親房の神皇正統記辺りを読んで見たほうが
良いのかもしれないな。
909日本@名無史さん:03/03/02 20:25
海音寺潮五郎が
「正成の死について何も書いていない。
武士は公家のために死ぬのが当然とでもいわんばかり」
と怒っていた。
義貞についてもかいてあるかどうか……?
910日本@名無史さん:03/03/02 20:46
>>905
まあ、少なくとも歴史書は「勝者の記録」だし、それは学者もわかった上で解釈していると思うけどね。
ちなみに俺は最初は新田義貞ってすごい、という固定観念があった。
「幕府を倒した」ってのは歴史上すごい固定観念を与えるものだし。義経、信長、西郷みたいなもんでさ。
でも、いろんな学者の本なども読んでいるうちに、むしろ新田ってたいしたことないな、って思うようになったよ。

>>907
おそらく架空の話だと思うけど、左中将は女性に一番もてる官位だったので、似たような話はあったんだろう。

>>908
新皇正統記は強烈なイデオロギーを持っているから、これも読み方に注意だろうね。

>>909
正成の死を厚く弔ったのは、後醍醐より尊氏。
菅原道真に対する宇多天皇もそうだけど、えらい人は下々のことなんて冷淡。
911日本@名無史さん:03/03/02 20:53
>>904
新田義貞って先祖から不幸なのね(泣
912日本@名無史さん:03/03/02 23:06
>>910
>でも、いろんな学者の本なども読んでいるうちに、むしろ新田ってたいしたことないな、って思うようになったよ。

ちなみにどんな学者の本を読まれてそう思ったのか、ご教示願えないでしょうか?
煽りじゃなく、ほんとに漏れも読んでみたいので。
913日本@名無史さん:03/03/02 23:07
>912
佐藤進一
914日本@名無史さん:03/03/02 23:35
っていうか、結果を残せなかった新田を評価するには過程しかないだろ。
でも太平記は駄目、梅松論も難太平記も駄目、って逆に言えば新田ヲタが何を
参照にしてるかが露呈するな。

俺には新田擁護の理由がわからん。家柄やそれに附随する云々を無視するなら
楠木の方が余程凄いと思うんだけどな。
915ラッキーアイテム:03/03/02 23:35
916日本@名無史さん:03/03/03 00:25
>>914
これも煽りじゃないが、太平記、梅松論、難太平記を抜きにしたら、
南北朝時代史はスカスカになってしまうよ。
新田氏関係の研究書だと、藤井精一「新田氏研究」、千々石実
「新田氏根本史料」あたりが基本文献ですね。
917日本@名無史さん:03/03/03 00:37
>>913
横レス失礼。
佐藤進一先生だと尊氏も躁鬱病の変な奴って思ってしまったが。
918日本@名無史さん:03/03/03 00:55
>>916
それってどっちも戦前の著書じゃん(w
戦後のものだったら、
「新田町史第4巻新田庄と新田氏」
「群馬県史」
「太田市史」
尾崎喜左雄「上野国長楽寺の研究」
辺りは必読。
他にも新田氏関連の著作はあるが、
余りお勧めできないものが多い。
919日本@名無史さん:03/03/03 01:07
>>918
>>916です。どうでもいいけど、最初の2つは持ってる。
後二者は、何か面白い記述はありますか?
面白そうだったら、入手したいです。
920日本@名無史さん:03/03/03 01:24
>>919
「上野国長楽寺の研究」には
例の、新田義重譲状に登場する
「らいわうこせん」を、
岩松女子ではなく得川義季とした論文が
掲載されている。
他には新田義貞の法名「安養寺殿」
に関する論文とか、
「長楽寺文書」の研究など。
「大田市史」は資料編が編年になっていて
使いやすいよ。
921日本@名無史さん:03/03/03 01:30
>>920
どうも。ありがとうございます。
「上野国長楽寺の研究」、面白そうですね。探してみます。
922日本@名無史さん:03/03/03 04:16
>>920
( ´,_ゝ`)プッ
923日本@名無史さん:03/03/03 04:31
新田に詳しい人、義貞の魅力っていうのを披露プリーズ。
ここではアンチ尊氏の煽りしか見ていないから。

>>917
>尊氏も躁鬱病の変な奴
確かに変な奴だと思うが、逆にアンバランスとバランスの紙一重なところが
魅力なんだよね。本人の思想、資質に反する結果になっていく過程での本人の葛藤。
歴史ドラマより映画向きな題材だと思うんだけど。

924日本@名無史さん:03/03/03 04:58
             ∩
        ∧_∧   | |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       (  ´Д`)//  < 先生!こんなのを発見シマスタ!
      /       /    |
     / /|    /      \  http://saitama.gasuki.com/kaorin/
  __| | .|    |         \
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\     \_____________
  ||\             \
  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
  ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     .||              ||
925日本@名無史さん:03/03/03 07:44
>>923
( ´,_ゝ`)プッ
926日本@名無史さん:03/03/03 10:57
>尊氏も躁鬱病の変な奴
なんかの本かなんかで歴史上の偉人と呼ばれる人は、70%だったか以上は
精神病学的には異常人格だったとか読んだことあるよ。
信長なんてどうみてもまともじゃないし、秀吉だとか坂本竜馬だのって平和な時代なら
詐欺師と紙一重って感じじゃん。
927日本@名無史さん:03/03/03 12:08
昔の著名な日本人のIQが書いてある本に新田義貞の知能は高かったと
言うことがちょこっと書いてあった記憶がある。
まぁ、今現在実在する人物ではないんで、正確な知能の判定はできん。
文献とかから知能指数を推測したんだろうが、漏れも新田義貞=愚将ではないと思う。

928日本@名無史さん:03/03/03 13:28
尊氏が躁鬱性の精神病じゃなかったか、
という説は佐藤進一先生が中公「日本の歴史」で言ってたこと。
あまり信憑性はないと思う。
だいたい、昔の人は現代人には想像つかんほど感情の起伏が激しかったから。

最近よく精神病理学者が本を書くけど、
ホントに精神に異常を来たした人がそんなに多かったとも思えない。
三島由紀夫だって、まともにはまともだったろ。
最近の病理学者が根拠としているのものは
典拠が一時代前の学説だったりするから、鵜呑みにしてもしゃーないよ。
この前の「朝ナマ」で見たら、和田秀樹なんかひどかった。
「おまえが頭おかしーんでねーの?」って感じで。
929日本@名無史さん:03/03/03 14:56
>>910
しつこいようだけど、どんな学者の本を読んで新田義貞しょぼいと思うようになったのか、
佐藤進一ひとりだけでなく、「いろんな学者の本を読んで」と書いているんだし、
その他も教えてくだされ。

>>928
精神病とか言い出したら、歴史上の有名人物なんてほとんどがあてはまっちゃう気がする。
歴史学に適用するのは無意味に近い。
930日本@名無史さん:03/03/03 14:57
>>929
( ´,_ゝ`)プッ
931日本@名無史さん:03/03/03 15:39
>>928
確かにあの目つきは常軌を逸していたな >和田
あんな医者にはかかりたくない‥‥
932日本@名無史さん:03/03/03 16:21
>>923
漏れは別に新田に詳しいわけじゃなく、ただの歴史好きだけど
子供の頃に太平記をよみ、新田義貞ってカコイイ!とごく普通に思えたよ。
そりゃカンペキ(に描かれている)な楠木にくらべれば欠点も多い(ように描かれている)けれど
見せ場もまた相当にあるわけでさ。
はっきりいって、楠木についで見せ場が多いのは新田義貞じゃないの?
その他にも、関連する小説やら学者の本やらいろいろ読みかじったけど、
義貞は愚将みたいな言い方する人は、ほとんどみんな太平記のネガティブな記述ばかりを引用し、
ポジティブな部分はわざわざ意図的に無視しているような傾向があることに気がついて、これは妙だなぁと思った。
これは憶測だけど、戦後の学者や作家たちは、戦前の言論統制や忠君愛国思想に恨み骨髄に徹している人が多かったから
その象徴ともいえる物事をことごとくおとしめることに快感を見い出していたんじゃないかと思う。
一時期はあの忠臣蔵までも再仕官が目的の猟官パフォーマンスだった、とか言い始めたり。
学界というところは保守的だから(文系は特に)いまだにその戦前の反動みたいな空気が濃厚に残っているんじゃないかなぁ。
まぁ憶測はともかく、おれは歴史学の専門でもなんでもないから、素直にかっこいいもんはかっこいい、としか言えない。
モヤシみたいな学者先生や作家が何といおうと、勇将とか猛将って大好きだから。
ちなみに木曽義仲とか平将門も好きなんだが、いま気がついたけど、義貞もふくめて、みんな最期は頭に流れ矢が命中して死んでいるなぁ。
この好みというか傾向を精神分析でもすると、何か病名でも出て来るのだろうか?(W
あと、おれは尊氏も結構好きだけど、アンチ尊氏の煽りなんてあったか?
むしろアンチ新田の煽りのほうがここは目立つ気がするんだが。
933日本@名無史さん:03/03/03 20:23
>>932
( ´,_ゝ`)プッ
934日本@名無史さん:03/03/03 20:53
    
935日本@名無史さん:03/03/03 22:06
ま、正成マンセー!でも顕家マンセー!でも尊氏マンセー!でも義貞はsageになる。
事実上宮方の総司令官だった義貞が全ての軍事的失敗に責任を負わされるのは当然だし、尊氏が敵に指名したから武家方からもよく見られない。
この宿命付けられた悲劇が哀愁を呼ぶ。
936日本@名無史さん:03/03/03 22:08
新田義貞って百騎程度の軍勢扱わしたら天才なんだけどナー
稲村ケ崎海岸 越前の破竹の進撃みたいに

937700:03/03/03 23:08
>932
僕は新田義貞カコイイと思ったことはあまり無いなあ。
悲運に泣いた武将、というイメージが一番強い。
まあ、新田宗家そのものが悲運に終始した、と言えなくもないけど。

>936
たしかに、義貞の鎌倉期の生活を推測すると、100騎単位の戦闘が得意で、
逆に言うと大軍の指揮ができたか疑わしいと思う。
何より、大前提なんだけど、当時は「自前の」兵で戦ったから。
だから足利はじめ有力御家人が有利に決まってるわけで、
庶子(特に山名など)の統制もできたかハッキリしない義貞を攻めるのは酷だ。
稲村ヶ崎の突破はつい先年学術的に否定されてしまいました……
稲村ヶ崎を実際に突破したのは新田庶家の大館宗氏で(戦死)、
ほかは霊山を超えて鎌倉に侵入したのが事実だったようです。
霊山とは、今道路でぶち抜かれてる両側の山ね。お寺があったそうで。

個人的に思うことですが、義貞の名声ってのは、
鎌倉攻略後も、すぐには有名にならなかったんじゃないでしょうか?
むしろ、尊氏が後醍醐に反旗を翻した頃から急浮上したのでは?
義貞の遺児、義興・義宗は北条残党とともに戦っているし、
北条氏は義貞をあまり恨んでいなかったのでは?
938日本@名無史さん:03/03/03 23:12
俺は新田次郎の小説読んで見直した。
公家に邪魔された悲運の武将って書き方だったし。
939日本@名無史さん:03/03/03 23:27
>937
北条時行(得宗高時遺児)は、鎌倉を攻めたのはあくまで足利尊氏であると認識して
いたようです。
岩松経家を通して新田軍に指示していたと・・・
940日本@名無史さん:03/03/03 23:30
楠木ヲタには湊川での義貞は醜悪、戦下手の愚将、うんこ。
941日本@名無史さん:03/03/03 23:57
庶子家の統率云々は新田だけの問題じゃなく、当時の社会現象だよ。
942日本@名無史さん:03/03/04 00:02
>たしかに、義貞の鎌倉期の生活を推測すると、100騎単位の戦闘が得意で、
逆に言うと大軍の指揮ができたか疑わしいと思う。

俺は新田義貞無能論者だけど、言いたいのはそれ。
彼個人の武勇は否定しないけど、それはまさに中級士官としてのそれ。
大局観を持った武将とはいえないってこと。
信長の下での滝川一益みたいなもんかな。
まあ、時代に翻弄された気の毒な人ではあると思う。

>義貞の遺児、義興・義宗は北条残党とともに戦っているし、
北条氏は義貞をあまり恨んでいなかったのでは?
青野ヶ原で足利軍を撃破した北畠顕家・北条時行軍が越前の新田義貞と合流しなかったのは、
北条時行が新田と組むのを強行に反対したって見方もあるようだよ。

943日本@名無史さん:03/03/04 00:32
>青野ヶ原で足利軍を撃破した北畠顕家・北条時行軍が越前の新田義貞と合流しなかったのは、 北条時行が新田と組むのを強行に反対したって見方もあるようだよ。

顕家が成り上がり者の義貞の指揮下に入るのを嫌がったからとの説もある。
944日本@名無史さん:03/03/04 01:09
>>939
>北条時行(得宗高時遺児)は、鎌倉を攻めたのはあくまで足利尊氏であると認識して
いたようです。

義貞がもたついてる間に、細川が「鎌倉攻めの総大将は千寿王」とふれまわり、
勝手に恩賞事務を始めたからでは?
945日本@名無史さん:03/03/04 01:18
>北条氏は義貞をあまり恨んでいなかったのでは?

信じていた者から裏切られるほうが憎しみは大きい。
北条にしてみれば代々婚姻をむすび、執権の妹婿が当主で、得宗一門とまで目されてきた足利の裏切りのほうが
はるかに頭に来るんだろう。
新田については、もともと冷遇してきたし、旗揚げも正面から正々堂々だったしで
足利にくらべればずっと許せるんじゃないかね。
946日本@名無史さん:03/03/04 01:34
>>942
でも、そうなると誰が指揮をとれば良かったのかと。
楠木?名和?北畠?結城?どれも無理だろう。
どの道、武家方の支持の少ない南朝軍の指揮なんて、早い話が貧乏くじなんだよ。
誰が総司令官でも結果は同じ。
たとえ名将楠木だって、直属軍以外の大軍を指揮したら、千早でみせたような見事な戦いは不可能。
で、「100騎単位なら天才なのに」とか、下手すりゃあんたみたいな人から「無能」のレッテルを貼られるってわけだ(W
947日本@名無史さん:03/03/04 01:57
>>946
破外道。楠木氏は新田氏より家格も低いし、所領も少なく、一門も少ない。義貞と同じ立場に立ったらもっと酷い結果になったろう。
948日本@名無史さん:03/03/04 02:05
>>937
>稲村ヶ崎の突破はつい先年学術的に否定されてしまいました……

あ、そうなの?それ、詳しく知りたい。ソースきぼん。

>946
つーか、100騎単位だろうが見事に指揮できるんなら全然無能じゃねーだろ(藁
949日本@名無史さん:03/03/04 03:04
>>944
>細川が「鎌倉攻めの総大将は千寿王」とふれまわり

実際に千寿王の名で兵が集まったのだからしょうがない。
鎌倉占拠後、足利と新田で大将はどちらかで揉めたが、
結果として義貞が「千寿王を大将軍とし、これに従う」との
念書を尊氏に提出している。
950日本@名無史さん:03/03/04 03:22
>つーか、100騎単位だろうが見事に指揮できるんなら全然無能じゃねーだろ(藁
全然違うね。
例えば、総理大臣の評価で言えば、最近では森前総理や鈴木元総理あたりは無能だったという評価が多い。
しかし、一政治家とか、もしくは自民党という私的団体での幹部としては有能だったんだろう。
森氏は幹事長始め主要ポストを歴任しているし、鈴木氏は幹事長経験無く総理になった珍しい人ではあったが、総務会長は
10回近く勤め、ミスター総務会長とか言われていたそうだし。
人物評価はその人の現実のポストと切り離して考えることは出来ない。

新田擁護派の意見を見ても、彼の有能さを示す根拠が無いよ。
せいぜい勇敢だったとか、かっこいい程度でさ。
政治家の評価に「あのセンセイは人柄がいい」とか「男前」なんてのは評価の対象にはあまりならないのと一緒で、そんなの大将としての有能さとは別でしょ。
951日本@名無史さん:03/03/04 03:23
結局は関東武士が足利を支持したということだ。
家格の違いといってよい。新田は無位無官の一御家人だからね。
952日本@名無史さん:03/03/04 03:30
中世の人物評価に引き合いに出される政治家先生もたまったもんじゃないな。
歴史ヲタ真性厨房の発想は・・・しかし、感動した!!
953日本@名無史さん:03/03/04 03:34
>家格の違いといってよい。新田は無位無官の一御家人だからね。
が、後醍醐政権下では左中将に任命されている。
このポストは征夷大将軍と同格若しくは上。
官位的には尊氏より上だったりする。

954日本@名無史さん:03/03/04 03:42
>953
鎌倉陥落直後のことです。説明不足スマソ fr951
955日本@名無史さん:03/03/04 03:50
>>953
・後付けの官位、加えて武士には意味の無い南朝方のもの。
・官位が高いのに不人気
どう解釈しても「官位的には尊氏より上」は、>>950氏のいう

>新田擁護派の意見を見ても、彼の有能さを示す根拠が無いよ。
>せいぜい勇敢だったとか、かっこいい程度でさ。

の枠を越えるものでは無い。寧ろ義貞が大将だった事が南朝の不幸とも取れる。
956日本@名無史さん:03/03/04 04:03
尊氏・・・尊皇だったにもかかわらず、その家柄から武士の長に祭られ、
     意に反する事をしなければならなかった悲劇。

義貞・・・家格から武士の支持を受けられず、その家柄から公家に
     南朝の大将に祭り上げられ、実力に反する事をしなければ
     ならなかった悲劇。     
957日本@名無史さん:03/03/04 04:40
盛り上がるなぁ
パート2キボンヌ
958日本@名無史さん:03/03/04 06:41
>>953
尊氏は建武政権期に正三位、参議となっているので、
義貞の左中将より上だよ。
加えてこれは余り意味がないかもしれないが、
中先代の乱で関東に下向した時には、
従二位、参議、征夷大将軍となっている。
959日本@名無史さん:03/03/04 07:59
>>958
征東将軍だよ。
960日本@名無史さん:03/03/04 10:27

鎌倉時代にしくじり、南北朝でしくじり、江戸でしくじり
徹底的に非運だな。新田は
961日本@名無史さん:03/03/04 10:32
鎌倉幕府滅亡後の恩賞ベスト10とかわかるサイトないかなぁ
やっぱ、足利、新田の順なの?
3ヶ国くらいもらったんだっけ…足利家の家臣も別途もらったんだっけ?
 
962700:03/03/04 10:34
まあ、でもさ、悲運に亡んだ武家・公家・豪族は新田だけじゃないからさ。
足利だって、将軍の半分は非命に泣いたのだから。
むしろ、島津・熊谷・南部みたいに、運よく藩政時代まで続いたのが希有の僥倖だよ。
963日本@名無史さん:03/03/04 11:32
>>950
ヘンな例えだなぁ。
しかしこの例えにならうなら、無位無冠の1御家人というポストでしかなかった新田義貞が、
よくぞ鎌倉攻略なんて離れ業ができたってことになるわな。
この時点での義貞は、凄え有能ってことにはならんか?
964日本@名無史さん:03/03/04 12:36
>>963
このスレに何度も書かれている事が理解出来ていない様だな。

・新田の旗揚げに集まったのは150騎程度。
・千寿王(足利義詮)が加わると、義貞はその旨を加えた軍勢催促状を出す。
 千寿王に従う形で数万騎が集まる。(催促状には千寿王が大将と明記されている)
・鎌倉を攻略した時点で、誰もが「足利千寿王が一門の新田を率いて鎌倉を攻めた」
 と思っていた。思っていないのは新田だけ。

逆に千寿王がいなければ、緒戦の小手指辺りで惨敗していた筈。
その後の千寿王の挙兵で足利一門に加わるか、北条に恭順するかは不明。
どちらにしても太平記の表舞台には現れなかっただろう。
965929:03/03/04 13:13
>>910
あのー‥‥しつこいようだけど、どんな学者の本を読んで新田義貞しょぼいと思うようになったのか、
まだ教えてもらってないんですが。
「いろんな学者の本を読んで」というのは嘘なのですか?
966日本@名無史さん:03/03/04 13:27
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967日本@名無史さん:03/03/04 13:39
>>964
そのくらい理解しているよ。
北畠親房ですら神皇正統記にそう書いている>千寿王が大将
ただ、新田の軍勢催促状に千寿王が大将と明記されていたなんてのは初耳だがな。
いずれにせよ、あんたは結果至上主義なんだろ?
どういう形であれそれで結果を出したんだから有能ってことじゃないか。
まぁ何が何でも新田を無能ということにしたいのであれば、そうやって細かくケチはつけてくるのもわかるがな。
968日本@名無史さん:03/03/04 15:22
>>950
誰かが新田義貞を「軍人として無能」とか「無能な武将」とか言いだしたから
いわゆる新田擁護派(?)は、そんなことはないと反論した。
そうすると今度は「どういうポストにあったかが問題」とかって言い出してくる。
‥‥なんだか論点のずらし方がビミョ−に従軍慰安婦論争のサヨクを思い出すな(W
あんたも書いているが、人物評価は過去に歴任したすべてのポストを総合したうえでくだすべきだろう。
だとすれば、例えば森喜朗が無能という断定的な言い方をするのではなく、総理としての実績はこれこれこうだった、
だから評価はこうなる、というような言い方をすべき、ってことにならんか?
ましてや、戦争っつーのはどちらかが勝てばどちらかは負けるもんなんだから、
細かく過程をみないで、最終的に勝てなかったからといって、あっさり無能で片付けてしまう短絡ぶりがおれにはわからん。
あんたの理屈でいうと山本五十六も無能ってことか?
ちなみに、アドルフヒトラーはあんたにとって有能?無能?
ハンニバルは?河井継之助はどうよ?
もちろん武田勝頼なんかも無能と言うんだろうね。
でも、そういう短絡的な決めつけ方は歴史好きの思考とはとてもいえないよ。
969日本@名無史さん:03/03/04 17:00
>>968
板違い
議員板へイキナ
970( ´,_ゝ`)プッ:03/03/04 17:01
>>968
( ´,_ゝ`)プッ
971日本@名無史さん:03/03/04 18:33
足利千寿王か後醍醐の皇子か、いずれにせよ関東の御家人連中から見て
新田よりネームバリューのある人が鎌倉攻めの指令を出していたのではないか。
972日本@名無史さん:03/03/04 18:34
岩松って尊氏の子分のようなもの?
973日本@名無史さん:03/03/04 18:50
>>968
>細かく過程をみないで、最終的に勝てなかったからといって、あっさり無能で片付けてしまう短絡ぶりがおれにはわからん。
>そういう短絡的な決めつけ方は歴史好きの思考とはとてもいえないよ。

まぁ気持ちはわかるが、歴史ヲタにそんなモラルみたいなもん期待してもしょうがない。
それにいちいち腹たつんだったら、もうこの板には来ないほうがいいよ。
974日本@名無史さん:03/03/04 19:48
>>950は、天皇が一番有能で他は無能と言いたいんだろ。
975日本@名無史さん:03/03/04 20:14
>>968

いわゆる新田擁護派(?)は、そんなことはないと反論した。

とりあえず、新田が有能だった、という立証をしたらどうだ?
新田無能派は鎌倉陥落はフロックって主張しているから、それ以外でも彼の有能さを示す
論証をするのが先では?
理屈をだらだらこねるより。
976日本@名無史さん:03/03/04 21:08
>>964
>千寿王(足利義詮)が加わると、義貞はその旨を加えた軍勢催促状を出す。
>千寿王に従う形で数万騎が集まる。(催促状には千寿王が大将と明記されている)

確かに千寿王に従うつもりで集まったのかも知れん。
が、新田が千寿王の名を出して軍勢催促したなどという証拠は何処にもない。
主張するのは構わんが、ソースはあるんだろうね?
977日本@名無史さん:03/03/04 21:12
>>959
スマソ。確かに征東将軍。
足利家官位記には、何故か征夷大将軍と書いてあって、
そのまま書いてしまった。
978日本@名無史さん:03/03/04 21:23
新スレ立てました。こちらへ移動おながいします。

足利と新田 その2
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1046780432/l50
979日本@名無史さん:03/03/04 22:36
>>976
何が何でも新田は無能ってことにしたいんだろ。捏造してでもね。
この情熱には正直呆れ‥‥いや、感動した!!
980700:03/03/04 23:30
楠木正成は軍略家の印象が強い。
腕力ではなく、頭で敵をねじ伏せる感じ(煙に巻く、かな?)。
足利尊氏は政治家って感じ。
単に担ぎ上げられた以上のセンスがあったように思える。
まあ、直義や高兄弟のような部下を得たからだろうけど。

それに対し、新田義貞は「アピールポイント」が少ない。
と言うより、無い。
太平記を読んでも、義貞クラスの英雄(扱いがね)は幾らもいる。
北畠顕家も、死んだ時の所感で誉めている(正成並み)。
義貞は哀れだ。
981日本@名無史さん:03/03/04 23:38
>>980(700)さんへ
それよりも、>>937であなたが言ってた、稲村ヶ崎突破が学術的に否定されたって話の詳しいソースはまだでつか?

982日本@名無史さん:03/03/05 00:05
新田義貞のアピールポイント:純朴、誠実
生真面目一本の人柄ではなかったか。
冷飯食いの貧乏御家人から一躍左中将に栄進だから、
大感激して後醍醐に心底奉仕したんだろうて。
983日本@名無史さん:03/03/05 00:19
>>975
なんだかなぁ。あんたも相当粘着な人だね。
新田無能派とかいってるけど、妙な煽りみたいなのを除けば、
今や無能とまで断言しているのはあんたくらいのもんだろ。
どんなに義貞大したことないといっている香具師でも、
鎌倉攻略がフロックとまで言ってるのもあんただけ。
だったら、あんたこそそれがフロックという根拠をきちんと書くべきじゃねーの?
千寿王がいたからじゃなんの説明にもならんよ。
むしろ、独力では鎌倉を落とせないという分をわきまえていればこそ
千寿王の集兵力を利用した、ともとれるわけで、それは無能とはむしろ正反対。
しかも実際の戦闘では、誰が何といっても新田軍が中心になっていたのは間違いないわけだろ。
それから、どうやら今このスレで中心になっているのはあんたのようだから、
やりやすいレスにばかりレスつけるんではなく、
>>968の質問とか>>947とか、さかのぼるけど
>>841,>>849,>>850,>>929あたりにもレスをつけてくれや。
だいたい、現代の議員先生まで出してきて、妙な理屈をダラダラこねたのはあんたじゃねーか。
984日本@名無史さん:03/03/05 01:10
>>983
アタマ冷やせや。
新田批判する奴は同一人物に見えるらしいな。

>むしろ、独力では鎌倉を落とせないという分をわきまえていればこそ
>千寿王の集兵力を利用した、ともとれるわけで、それは無能とはむしろ正反対。

こういうのは意見としては真っ当だが、
全体に揚足取りに終始して、義貞の有能さは一向に語らずにいるのは何故だ?
アンタだけがヒステリックになってる。
985日本@名無史さん:03/03/05 01:23
>>984
ヒステリックには見えないけどな。

歴史に名を残した人物を無能呼ばわりするのは、イッちゃってる人にしか見えないよ。
羽柴誠三秀吉みたいな人なのかな、とか思いながら見てますた。
986日本@名無史さん:03/03/05 01:40
>>983
俺は義貞を無能とは思わないが、尊氏に匹敵する程ではないと思っている。
政治家の要素はその立場もあって特にこれといって見当たらない。
但し鎌倉占拠後に総大将の座を千寿王と争い、周囲を見渡せば大半が足利派、
しかたなく千寿王に従い念書まで書かされた−これは義貞の政治力の敗北だと思う。

武将としては戦略に長けた正成にくらべ地味。各戦を勇敢に戦っているが、
これは北畠や足利方の高兄弟も同じ。多くの勝ち負けは勢いや兵力があるから
なんともいえないが、赤松の白旗城攻めと湊川の合戦、これらは明らかに
義貞のミス。指揮官の資質を疑われても仕方ないと思う。
987日本@名無史さん:03/03/05 01:52
>>985
無能というのは言葉のあや程度に流していましたが。
イッちゃってる人っていうのもね。

私は975氏ではありません、念のため。
988日本@名無史さん:03/03/05 01:56
>>982
というより尊氏から敵に指名された時点で新田氏は足利氏と戦い続ける宿命を背負った。実際室町幕府が元気な頃は義貞の子孫と言うだけで殺されているからね。

>>986
湊川は正成が言うように勝ち目はなかったんだから義貞に責任を問うのは酷だよ。正成は義貞を逃すために囮を買ったんだろう。楠木氏は家格と身分が低くて宮方の総司令官にはなれないからね。
989日本@名無史さん:03/03/05 02:15
>>987
985ですが、言い過ぎだったかもしれん。スマソ(´・ω・`)
990日本@名無史さん:03/03/05 02:29
>>988
湊川で正成は陸路の直義軍と、義貞は海路の尊氏軍と対峙する事になった。
ここでの正成の作戦は、義貞が尊氏を上陸させなければ致命的な敗北には
ならないと見込んだ。

しかし義貞は尊氏軍の上陸を許すばかりか、囮に騙され正成の陣から
遠く離れてしまう。最悪の結果となり、正成は尊氏・直義両軍の挟み撃ちで討死。
これは明らかに義貞のミス。自陣から遠く離れる義貞を正成は憾んだと思う。
991日本@名無史さん:03/03/05 02:35
>>989
気にせずマッタリやりましょう。
多少の言葉遣いやソースの有無を気にしてたら楽しく話が出来ません。
992日本@名無史さん:03/03/05 02:47
>>990
兵力差から上陸阻止は不可能。背後に上陸されて新田・楠木両軍壊滅よりずっとましな結果。義貞こそ直義軍に惑わされて主力尊氏の動きを考慮に入れずに小勢なのに陣を動かない正成を憾んだと思う。
堅固な陣地戦でなく、野戦で小勢が大軍に勝つには常に動いて相手を翻弄しないとダメ。移動しながら戦った義貞の方が正解。正成は死に走ったとしか言いようがない。たぶん>>988が言うように義貞を逃す為じゃないかな?
993日本@名無史さん:03/03/05 03:12
>>992
>>990にも書いた通り、義貞は「移動しながら戦った」のではなく、
囮にひっかかり陣を移動してしまい、そのまま上陸を許してしまった。

湊川の合戦が義貞を逃がす為の合戦であれば、正成の忠臣を披露する話。
しかし陣を動かない正成に非はあるのか? 軍議で互いの陣や戦略を
練ったのではないか? 

湊川に限らず、戦略や意図が義貞には欠如している。
勇猛な武将も単なる勢い任せの猪武者と揶揄されても仕方がない。
994日本@名無史さん:03/03/05 03:55
>>992
そもそも正成が湊川で戦死するのは義貞の責任が多分にあるのではないか?
尊氏追討を受け、義貞が大将になるも赤松の白旗城などに関与し兵も時間も消耗。
この間に尊氏は勢力を増し、東上を開始。その勢力に義貞は撤退。
これを受け召還された正成が見捨てられるとは....

白旗城攻め前に顕家軍の帰国を認めた事も失敗。
すなわち義貞は九州落ちした尊氏を脅威には思っていなかった。
京を追い払った事で慢心していただけに過ぎない。

湊川の敗北で、義貞は追われる様にして北陸に逃げた。
これは正成が義貞を「逃がした」とするなら最悪の結末であった。
995日本@名無史さん:03/03/05 04:07
>>992
「兵力差から上陸阻止は不可能」とするなら、本来は正成がそちらに当たり、
メインである義貞軍が直義軍にあたるべきだろう。しかし逆なのは何故?

それは陸路の直義は戦下手とはいえ主力軍、これに義貞を充てても勝ち目がないから
ではないのか? この分担が義貞・正成の実力を表わしていると思う。
996日本@名無史さん:03/03/05 04:20
>>995
主力は尊氏の10万では?
997日本@名無史さん:03/03/05 04:25
次ぎスレ使え
998日本@名無史さん:03/03/05 04:25
998
999日本@名無史さん:03/03/05 04:26
999
1000日本@名無史さん:03/03/05 04:27
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