942 :
日本@名無史さん:04/07/08 15:23
源家康
従一位 源氏長者 征夷大将軍
藤原になったり源になったり 忙しい奴だな
戦国のビジネスマンですなあ
945 :
日本@名無史さん:04/07/12 11:25
川西って甲子園球場がある市だよな。みんな大阪だと思ってるけど。
要は、官名もそうだが、ある程度実力がついたら氏も源平藤の
中から好きなのを名乗って良かったのかも知れない ていうか、
名乗るのが当たり前だったのかも
たとえば、本当は忌部姓で通称を太郎と名乗っている某が、国主
並の実力が付いたら、氏を源氏に変えて、通称も美濃守・内匠頭
などに変えるとか
>945
えっ! 西宮市では?
948 :
日本@名無史さん:04/07/13 09:31
>>947
w
949 :
日本@名無史さん:04/07/18 21:49
ところでこの14松平か16松平が
その後どうなったかご存じの方いますか?
三河には松平家は一つも残ってないようですが。
幕末に活躍した会津松平や桑名松平は
違いますか
950 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:18
>>940 世良田は清康の当時から名乗ってたんでしょうか。
あとから付け加えた話でなく。
951 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:19
952 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:25
三河の16松平とかってホントはあまり研究されてないのでは。
忠輝は三河松平を継いだとあるが
具体的に三河のどの松平なのだろうか?
16(14、18?)松平の研究はひょっとしてタブーなのか?
(徳川家の圧力とか)
953 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:32
松平家忠
一、弘治一〜慶長五 三河深溝の人
二、天文17〜天正10 三河形原の人
三、忠吉は天正10年三河東条の松平家忠の後を継ぎ・・
954 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:49
>>950 清康が直筆で「世良田清康」と署名している史料がある。
日本中世史をやっている人なら結構常識。
>>949>>952 普通は「十八松平」という。
まれに「十四松平」という言い方をするが、これは俗にいう「十八松平」のうち、どの家を指すのかはっきりしているものが14家だから。
逆に言えば、残りの4家はどの家を指しているのか、明確な根拠がなく、説によってバラバラというわけ。
但し、「十六松平」などという言い方は、このスレ以外で見たことがない。
なお、家康の子供のうち、4男の忠吉が東条松平家を、6男の忠輝が長沢松平家をそれぞれ継いでいる。
幕末の会津藩主家は、徳川秀忠の庶子である保科正之の子孫。
幕末の桑名藩主家は、久松松平家(伊予松山藩主家)の分家。
以下参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/a¾a13a°#.E6.9D.BE.E5.B9.B3.E5.AE.97.E5.AE.B6.E3.81.AE.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E5.BD.93.E4.B8.BB.E3.81.A8.E8.AB.B8.E5.88.86.E5.AE.B6
955 :
954(間違えた):04/07/18 22:52
956 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:54
>954
ありがとうございます。清康が世良田を
名乗っていたのなら
家康はなぜまた得川を名乗ったのでせう
957 :
日本@名無史さん:04/07/18 22:59
会津松平は秀忠の庶子だから
松平を名乗ったのでしょうか?それともどこかの松平を継いだ形になっているのでしょうか?
久松松平は三河の松平とはまったく別の松平ですか?
958 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:13
>>957 会津は幕府から松平姓を許されただけで、どこかの松平家を継いだわけではない。
久松松平家は、家康の異父弟(父方は久松氏)を祖先とする。
但し、幕末の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、いずれも美濃高須藩(尾張徳川家分家。但し養子関係によって幕末期には血縁的には水戸系)の出身の養子。
さらに言えば、この2人は実の兄弟。
ついでに言えば、この当時の尾張藩主徳川慶勝も兄弟。
959 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:34
会津の松平が姓を許された家ですか、ああそうですか。
松平姓を許されたのは島津や毛利etcの徳川家から嫁を迎えた大名家だろ。
960 :
日本@名無史さん:04/07/19 00:55
いわゆる18松平や親藩大名(三家・三卿等を除く)も、松平姓を許されて(というか強要されて)いますが・・・。
>>960 元々松平姓の家と名乗りを許された家の違いがわかりますか?
962 :
日本@名無史さん:04/07/19 01:10
18松平は、松平宗家から分家した時点で、分封地の地名を姓にしていたが、家康の時代にすべて松平姓を名乗らされた。
だから、明治維新後、18松平のうち、大給・滝脇・形原・藤井等の松平家は、松平姓を捨てて元の姓に復した。
会津松平の場合は、元々保科姓であったが、正之が秀忠の庶子であるため、幕府から松平姓を許されていた。
しかし、正之存命中は、これを固辞し続け、3代正容の代になって、松平に改姓した。
963 :
日本@名無史さん:04/07/19 20:33
竹谷氏はまだ在住
964 :
日本@名無史さん:04/07/19 20:56
竹谷松平家の家紋は、何故か新田惣領家と同じ大中黒。藁
965 :
日本@名無史さん:04/07/19 21:19
竹谷氏は三河の竹谷にいるってことですか?
18松平のうち東条氏なんですが
東条吉良氏と関係あるのでしょうか。
昔、あのあたりに行った時、東条城というのを発見したことがある。 城というより砦って感じだった。
966 :
日本@名無史さん:04/07/19 21:23
それから、時代劇なんですが
桃太郎侍の松平鶴千代殿は
どういういわれの松平かご存じの方いますか?
たしか、岡山とかあっちのほうの藩だったような。
967 :
日本@名無史さん:04/07/19 22:45
>966
関係ないけど、徳川鶴千代なら水戸家の世子の幼名ですね。
969 :
日本@名無史さん:04/07/19 23:48
>>1 なんでもいいけど、次スレ立てるなら「十八松平」にしろよな。
970 :
日本@名無史さん:04/07/20 00:04
>952 直近だと2年前に新人物往来社刊 平野明夫著 「三河 松平一族」
を読まれると良いでしょう。ただし、この本は松平嫡流の研究書で、傍流
については、後日・・・と冒頭著者言にあります。
18松平か14松平かについては、学説上もまだ結論出てないみたいです。
皆さんご自分の先祖調査をやってみるとわかると思いますが、簡単じゃないですよ。
色々複雑な人間関係や、政治状況、その他諸々の経緯が絡んで、「ネットで検索」みたいには
とてもいきません。
971 :
日本@名無しさん:04/07/21 01:14
質問だけれど
【徳川家】徳川家康嫡流の家、及びその相続権を持つ家
【松平家】徳川家の一族と見なされた家(ただし徳川家の相続権を持たない)
という分け方でいいの?
972 :
日本@名無史さん:04/07/21 02:08
現在の徳川宗家の当主は、会津松平家出身の養子です。
尾張徳川家には、明治時代に越前松平家から養子が入っている。
973 :
日本@名無史さん:04/07/21 07:37
>>972 >現在の徳川宗家の当主は、会津松平家出身の養子です。
母親が宗家の血を引いているから、養子にもってきたんだろ!
974 :
日本@名無史さん:04/07/21 12:20
>>973 そんなこと言われなくても知っているが。
>>971が当然男系での話をしていることは明らかだから、あえて触れなかっただけだが。
975 :
日本史初心者:04/07/21 14:30
あのーー、初歩的質問で申し訳無いんですが、江戸時代に出現した丹後宮津の本庄松平、大和郡山の柳沢松平、上野吉井の鷹司松平、
も十六松平としてカウントしているんですか???
976 :
日本@名無史さん:04/07/21 16:58
>>975 しているわけがない。
「十八(or十四)松平」というのは、家康以前に松平宗家から分かれた分家一族をいうのだから。
977 :
日本@名無史さん:04/07/21 22:11
>967
たしかそうですよ。
東条。
私の記憶がたしかなら名門!東条吉良家と
関係があったような。
どうやら三河での松平家というのは地元のそれぞれの名家
をノッ取る形で
増えていったようなんです。
だから徳川財団(?)の人も調査したがらないのではないのかと
978 :
日本@名無史さん:04/07/22 00:18
そんなこと言ったって、歴史は歴史。
それに、仮に乗っ取ったのだとしても、そんなことはあの時代には多くの大名が普通にやっていること。
例えば、毛利氏が吉川氏や小早川氏を乗っ取ったからと言って、それで毛利の名に傷が付いたわけでもなかろう。
979 :
日本@名無史さん:04/07/22 13:02
初代 親氏
酒井広親 - 酒井氏
信広 - 松平郷松平家(交代寄合)
泰親(宗家二代)
二代 泰親
信光(宗家三代)
三代 信光
守家(長男) - 竹谷松平家(交代寄合)
親忠(次男) - 宗家四代(安祥松平家初代)
与副(四男) - 形原松平家(丹波亀山藩)
光重(五男) - 大草松平家(断絶)
忠景(七男) - 五井松平家(交代寄合)
忠定(忠景の次男) - 深溝松平家(肥前島原藩)
光親(八男) - 能見松平家(豊後杵築藩)
親則(十一男) - 長沢松平家(断絶)
四代 親忠(初代安祥城主)
乗元(次男) - 大給松平家(三河西尾藩)
長親(三男) - 宗家五代(安祥松平家二代)
乗清(九男) - 滝脇松平家(駿河小島藩)
980 :
日本@名無史さん:04/07/22 13:03
五代 長親
信忠(長男) - 宗家六代(安祥松平家三代)
親盛(次男) - 福釜松平家(断絶)
信定(三男) - 桜井松平家(摂津尼崎藩)
義春(四男) - 東条松平家(断絶)
利長(五男) - 藤井松平家(出羽上山藩)
六代 信忠
清康(長男) - 宗家七代(安祥松平家四代)
信孝(三男) - 三木松平家(断絶)
七代 清康(1524年より岡崎城主、岡崎松平家初代)
広忠(宗家八代)
八代 広忠
家康(宗家九代)
九代 家康→徳川家康となる。浜松へ転出して嫡子信康に岡崎城を譲る。
信康
十代 信康(最後の岡崎城主、切腹)
>979
>親忠(次男) - 宗家四代(安祥松平家初代)
親忠(次郎三郎)は三男では?一番上は、惣領家(岩津)の親長だったかと思います。
982 :
日本@名無史さん:04/07/22 23:22
>>981 確かに通称が「次郎三郎」なら三男だろうな。
でも親忠の通称が「次郎三郎」ってことは、父親の信光も次男だったってことになるね。
983 :
日本@名無史さん:04/07/23 23:23
次スレまだぁ?
984 :
日本@名無史さん:04/07/24 00:15
985 :
日本@名無史さん:04/07/24 06:31
>>979-980 徳川一族って、みんな松平姓を名乗っているのに、広親の子孫だけは酒井姓なのは、どうしてだろう?
\∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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∪ ∪ ( ) ( ) ( ) )
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,,、,、,,, ( ) ( ) ( ) ( )
987 :
日本@名無史さん:04/07/25 12:42
>>979-980 情報ありがとうございます。
これだけの情報を見たのははじめてです。
多くの家が断絶してるのが残念ですね。
他の家も江戸時代の転封でやはり三河には
松平家はもういないのでしょうか。
前レスに竹谷氏はまだ在住とのこと
でしたが本当かな?
988 :
日本@名無史さん:04/07/25 12:44
三河にはもう松平家は残ってないのでしょうか
989 :
日本@名無史さん:04/07/25 13:07
>989
太郎左衛門家は、交代寄合で松平郷にいたはずです。
ずいぶん前、日経の最終面に松平太郎家の後裔の方がいろいろな逸話を書いた
文章が載ったのを読んだ記憶があります。
家来が大勢いるわけでないので、参勤の時は、出立の時と江戸入りの時だけ人
数を集めて行列を仕立て、道中は少人数で行ったとか。後、江戸に屋敷もないの
で、親類の大名の屋敷に泊まったとか、いろいろと面白い話が出ていました。
幕末の当主は陸軍奉行並で榎本軍の幹部を勤めたことで有名ですね。そのご子
息も「松平太郎」を襲名しています。(「江戸時代制度の研究」の著者ですね。)
991 :
日本@名無史さん: