952 :
日本@名無史さん:03/03/04 03:30
中世の人物評価に引き合いに出される政治家先生もたまったもんじゃないな。
歴史ヲタ真性厨房の発想は・・・しかし、感動した!!
953 :
日本@名無史さん:03/03/04 03:34
>家格の違いといってよい。新田は無位無官の一御家人だからね。
が、後醍醐政権下では左中将に任命されている。
このポストは征夷大将軍と同格若しくは上。
官位的には尊氏より上だったりする。
954 :
日本@名無史さん:03/03/04 03:42
>953
鎌倉陥落直後のことです。説明不足スマソ fr951
955 :
日本@名無史さん:03/03/04 03:50
>>953 ・後付けの官位、加えて武士には意味の無い南朝方のもの。
・官位が高いのに不人気
どう解釈しても「官位的には尊氏より上」は、
>>950氏のいう
>新田擁護派の意見を見ても、彼の有能さを示す根拠が無いよ。
>せいぜい勇敢だったとか、かっこいい程度でさ。
の枠を越えるものでは無い。寧ろ義貞が大将だった事が南朝の不幸とも取れる。
956 :
日本@名無史さん:03/03/04 04:03
尊氏・・・尊皇だったにもかかわらず、その家柄から武士の長に祭られ、
意に反する事をしなければならなかった悲劇。
義貞・・・家格から武士の支持を受けられず、その家柄から公家に
南朝の大将に祭り上げられ、実力に反する事をしなければ
ならなかった悲劇。
957 :
日本@名無史さん:03/03/04 04:40
盛り上がるなぁ
パート2キボンヌ
958 :
日本@名無史さん:03/03/04 06:41
>>953 尊氏は建武政権期に正三位、参議となっているので、
義貞の左中将より上だよ。
加えてこれは余り意味がないかもしれないが、
中先代の乱で関東に下向した時には、
従二位、参議、征夷大将軍となっている。
959 :
日本@名無史さん:03/03/04 07:59
960 :
日本@名無史さん:03/03/04 10:27
鎌倉時代にしくじり、南北朝でしくじり、江戸でしくじり
徹底的に非運だな。新田は
961 :
日本@名無史さん:03/03/04 10:32
鎌倉幕府滅亡後の恩賞ベスト10とかわかるサイトないかなぁ
やっぱ、足利、新田の順なの?
3ヶ国くらいもらったんだっけ…足利家の家臣も別途もらったんだっけ?
まあ、でもさ、悲運に亡んだ武家・公家・豪族は新田だけじゃないからさ。
足利だって、将軍の半分は非命に泣いたのだから。
むしろ、島津・熊谷・南部みたいに、運よく藩政時代まで続いたのが希有の僥倖だよ。
963 :
日本@名無史さん:03/03/04 11:32
>>950 ヘンな例えだなぁ。
しかしこの例えにならうなら、無位無冠の1御家人というポストでしかなかった新田義貞が、
よくぞ鎌倉攻略なんて離れ業ができたってことになるわな。
この時点での義貞は、凄え有能ってことにはならんか?
964 :
日本@名無史さん:03/03/04 12:36
>>963 このスレに何度も書かれている事が理解出来ていない様だな。
・新田の旗揚げに集まったのは150騎程度。
・千寿王(足利義詮)が加わると、義貞はその旨を加えた軍勢催促状を出す。
千寿王に従う形で数万騎が集まる。(催促状には千寿王が大将と明記されている)
・鎌倉を攻略した時点で、誰もが「足利千寿王が一門の新田を率いて鎌倉を攻めた」
と思っていた。思っていないのは新田だけ。
逆に千寿王がいなければ、緒戦の小手指辺りで惨敗していた筈。
その後の千寿王の挙兵で足利一門に加わるか、北条に恭順するかは不明。
どちらにしても太平記の表舞台には現れなかっただろう。
>>910 あのー‥‥しつこいようだけど、どんな学者の本を読んで新田義貞しょぼいと思うようになったのか、
まだ教えてもらってないんですが。
「いろんな学者の本を読んで」というのは嘘なのですか?
966 :
日本@名無史さん:03/03/04 13:27
967 :
日本@名無史さん:03/03/04 13:39
>>964 そのくらい理解しているよ。
北畠親房ですら神皇正統記にそう書いている>千寿王が大将
ただ、新田の軍勢催促状に千寿王が大将と明記されていたなんてのは初耳だがな。
いずれにせよ、あんたは結果至上主義なんだろ?
どういう形であれそれで結果を出したんだから有能ってことじゃないか。
まぁ何が何でも新田を無能ということにしたいのであれば、そうやって細かくケチはつけてくるのもわかるがな。
968 :
日本@名無史さん:03/03/04 15:22
>>950 誰かが新田義貞を「軍人として無能」とか「無能な武将」とか言いだしたから
いわゆる新田擁護派(?)は、そんなことはないと反論した。
そうすると今度は「どういうポストにあったかが問題」とかって言い出してくる。
‥‥なんだか論点のずらし方がビミョ−に従軍慰安婦論争のサヨクを思い出すな(W
あんたも書いているが、人物評価は過去に歴任したすべてのポストを総合したうえでくだすべきだろう。
だとすれば、例えば森喜朗が無能という断定的な言い方をするのではなく、総理としての実績はこれこれこうだった、
だから評価はこうなる、というような言い方をすべき、ってことにならんか?
ましてや、戦争っつーのはどちらかが勝てばどちらかは負けるもんなんだから、
細かく過程をみないで、最終的に勝てなかったからといって、あっさり無能で片付けてしまう短絡ぶりがおれにはわからん。
あんたの理屈でいうと山本五十六も無能ってことか?
ちなみに、アドルフヒトラーはあんたにとって有能?無能?
ハンニバルは?河井継之助はどうよ?
もちろん武田勝頼なんかも無能と言うんだろうね。
でも、そういう短絡的な決めつけ方は歴史好きの思考とはとてもいえないよ。
969 :
日本@名無史さん:03/03/04 17:00
971 :
日本@名無史さん:03/03/04 18:33
足利千寿王か後醍醐の皇子か、いずれにせよ関東の御家人連中から見て
新田よりネームバリューのある人が鎌倉攻めの指令を出していたのではないか。
972 :
日本@名無史さん:03/03/04 18:34
岩松って尊氏の子分のようなもの?
>>968 >細かく過程をみないで、最終的に勝てなかったからといって、あっさり無能で片付けてしまう短絡ぶりがおれにはわからん。
>そういう短絡的な決めつけ方は歴史好きの思考とはとてもいえないよ。
まぁ気持ちはわかるが、歴史ヲタにそんなモラルみたいなもん期待してもしょうがない。
それにいちいち腹たつんだったら、もうこの板には来ないほうがいいよ。
974 :
日本@名無史さん:03/03/04 19:48
>>950は、天皇が一番有能で他は無能と言いたいんだろ。
975 :
日本@名無史さん:03/03/04 20:14
>>968 いわゆる新田擁護派(?)は、そんなことはないと反論した。
とりあえず、新田が有能だった、という立証をしたらどうだ?
新田無能派は鎌倉陥落はフロックって主張しているから、それ以外でも彼の有能さを示す
論証をするのが先では?
理屈をだらだらこねるより。
976 :
日本@名無史さん:03/03/04 21:08
>>964 >千寿王(足利義詮)が加わると、義貞はその旨を加えた軍勢催促状を出す。
>千寿王に従う形で数万騎が集まる。(催促状には千寿王が大将と明記されている)
確かに千寿王に従うつもりで集まったのかも知れん。
が、新田が千寿王の名を出して軍勢催促したなどという証拠は何処にもない。
主張するのは構わんが、ソースはあるんだろうね?
977 :
日本@名無史さん:03/03/04 21:12
>>959 スマソ。確かに征東将軍。
足利家官位記には、何故か征夷大将軍と書いてあって、
そのまま書いてしまった。
979 :
日本@名無史さん:03/03/04 22:36
>>976 何が何でも新田は無能ってことにしたいんだろ。捏造してでもね。
この情熱には正直呆れ‥‥いや、感動した!!
楠木正成は軍略家の印象が強い。
腕力ではなく、頭で敵をねじ伏せる感じ(煙に巻く、かな?)。
足利尊氏は政治家って感じ。
単に担ぎ上げられた以上のセンスがあったように思える。
まあ、直義や高兄弟のような部下を得たからだろうけど。
それに対し、新田義貞は「アピールポイント」が少ない。
と言うより、無い。
太平記を読んでも、義貞クラスの英雄(扱いがね)は幾らもいる。
北畠顕家も、死んだ時の所感で誉めている(正成並み)。
義貞は哀れだ。
981 :
日本@名無史さん:03/03/04 23:38
>>980(700)さんへ
それよりも、
>>937であなたが言ってた、稲村ヶ崎突破が学術的に否定されたって話の詳しいソースはまだでつか?
982 :
日本@名無史さん:03/03/05 00:05
新田義貞のアピールポイント:純朴、誠実
生真面目一本の人柄ではなかったか。
冷飯食いの貧乏御家人から一躍左中将に栄進だから、
大感激して後醍醐に心底奉仕したんだろうて。
983 :
日本@名無史さん:03/03/05 00:19
>>975 なんだかなぁ。あんたも相当粘着な人だね。
新田無能派とかいってるけど、妙な煽りみたいなのを除けば、
今や無能とまで断言しているのはあんたくらいのもんだろ。
どんなに義貞大したことないといっている香具師でも、
鎌倉攻略がフロックとまで言ってるのもあんただけ。
だったら、あんたこそそれがフロックという根拠をきちんと書くべきじゃねーの?
千寿王がいたからじゃなんの説明にもならんよ。
むしろ、独力では鎌倉を落とせないという分をわきまえていればこそ
千寿王の集兵力を利用した、ともとれるわけで、それは無能とはむしろ正反対。
しかも実際の戦闘では、誰が何といっても新田軍が中心になっていたのは間違いないわけだろ。
それから、どうやら今このスレで中心になっているのはあんたのようだから、
やりやすいレスにばかりレスつけるんではなく、
>>968の質問とか
>>947とか、さかのぼるけど
>>841,
>>849,
>>850,
>>929あたりにもレスをつけてくれや。
だいたい、現代の議員先生まで出してきて、妙な理屈をダラダラこねたのはあんたじゃねーか。
984 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:10
>>983 アタマ冷やせや。
新田批判する奴は同一人物に見えるらしいな。
>むしろ、独力では鎌倉を落とせないという分をわきまえていればこそ
>千寿王の集兵力を利用した、ともとれるわけで、それは無能とはむしろ正反対。
こういうのは意見としては真っ当だが、
全体に揚足取りに終始して、義貞の有能さは一向に語らずにいるのは何故だ?
アンタだけがヒステリックになってる。
985 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:23
>>984 ヒステリックには見えないけどな。
歴史に名を残した人物を無能呼ばわりするのは、イッちゃってる人にしか見えないよ。
羽柴誠三秀吉みたいな人なのかな、とか思いながら見てますた。
986 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:40
>>983 俺は義貞を無能とは思わないが、尊氏に匹敵する程ではないと思っている。
政治家の要素はその立場もあって特にこれといって見当たらない。
但し鎌倉占拠後に総大将の座を千寿王と争い、周囲を見渡せば大半が足利派、
しかたなく千寿王に従い念書まで書かされた−これは義貞の政治力の敗北だと思う。
武将としては戦略に長けた正成にくらべ地味。各戦を勇敢に戦っているが、
これは北畠や足利方の高兄弟も同じ。多くの勝ち負けは勢いや兵力があるから
なんともいえないが、赤松の白旗城攻めと湊川の合戦、これらは明らかに
義貞のミス。指揮官の資質を疑われても仕方ないと思う。
987 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:52
>>985 無能というのは言葉のあや程度に流していましたが。
イッちゃってる人っていうのもね。
私は975氏ではありません、念のため。
988 :
日本@名無史さん:03/03/05 01:56
>>982 というより尊氏から敵に指名された時点で新田氏は足利氏と戦い続ける宿命を背負った。実際室町幕府が元気な頃は義貞の子孫と言うだけで殺されているからね。
>>986 湊川は正成が言うように勝ち目はなかったんだから義貞に責任を問うのは酷だよ。正成は義貞を逃すために囮を買ったんだろう。楠木氏は家格と身分が低くて宮方の総司令官にはなれないからね。
>>987 985ですが、言い過ぎだったかもしれん。スマソ(´・ω・`)
990 :
日本@名無史さん:03/03/05 02:29
>>988 湊川で正成は陸路の直義軍と、義貞は海路の尊氏軍と対峙する事になった。
ここでの正成の作戦は、義貞が尊氏を上陸させなければ致命的な敗北には
ならないと見込んだ。
しかし義貞は尊氏軍の上陸を許すばかりか、囮に騙され正成の陣から
遠く離れてしまう。最悪の結果となり、正成は尊氏・直義両軍の挟み撃ちで討死。
これは明らかに義貞のミス。自陣から遠く離れる義貞を正成は憾んだと思う。
>>989 気にせずマッタリやりましょう。
多少の言葉遣いやソースの有無を気にしてたら楽しく話が出来ません。
992 :
日本@名無史さん:03/03/05 02:47
>>990 兵力差から上陸阻止は不可能。背後に上陸されて新田・楠木両軍壊滅よりずっとましな結果。義貞こそ直義軍に惑わされて主力尊氏の動きを考慮に入れずに小勢なのに陣を動かない正成を憾んだと思う。
堅固な陣地戦でなく、野戦で小勢が大軍に勝つには常に動いて相手を翻弄しないとダメ。移動しながら戦った義貞の方が正解。正成は死に走ったとしか言いようがない。たぶん
>>988が言うように義貞を逃す為じゃないかな?
993 :
日本@名無史さん:03/03/05 03:12
>>992 >>990にも書いた通り、義貞は「移動しながら戦った」のではなく、
囮にひっかかり陣を移動してしまい、そのまま上陸を許してしまった。
湊川の合戦が義貞を逃がす為の合戦であれば、正成の忠臣を披露する話。
しかし陣を動かない正成に非はあるのか? 軍議で互いの陣や戦略を
練ったのではないか?
湊川に限らず、戦略や意図が義貞には欠如している。
勇猛な武将も単なる勢い任せの猪武者と揶揄されても仕方がない。
994 :
日本@名無史さん:03/03/05 03:55
>>992 そもそも正成が湊川で戦死するのは義貞の責任が多分にあるのではないか?
尊氏追討を受け、義貞が大将になるも赤松の白旗城などに関与し兵も時間も消耗。
この間に尊氏は勢力を増し、東上を開始。その勢力に義貞は撤退。
これを受け召還された正成が見捨てられるとは....
白旗城攻め前に顕家軍の帰国を認めた事も失敗。
すなわち義貞は九州落ちした尊氏を脅威には思っていなかった。
京を追い払った事で慢心していただけに過ぎない。
湊川の敗北で、義貞は追われる様にして北陸に逃げた。
これは正成が義貞を「逃がした」とするなら最悪の結末であった。
995 :
日本@名無史さん:03/03/05 04:07
>>992 「兵力差から上陸阻止は不可能」とするなら、本来は正成がそちらに当たり、
メインである義貞軍が直義軍にあたるべきだろう。しかし逆なのは何故?
それは陸路の直義は戦下手とはいえ主力軍、これに義貞を充てても勝ち目がないから
ではないのか? この分担が義貞・正成の実力を表わしていると思う。
996 :
日本@名無史さん:03/03/05 04:20
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