1 :
ロニー:
鯖に負荷がかかる行為をしてすみません
議題は、ジェンダー論におけるある者の主張
「『真理が一つである』という立場こそ男社会の産物ではないか、『それぞれがそれぞれにとって真理である』のではないか」という言明を吟味するということです
それに対して「相矛盾する言明の両方が真であるということは間違っている、『真理』とは『一つである』という性質を持つ」というのが僕の立場です
参加者:チキンリキン氏、亡霊氏、燕雀氏、そして、わたくしロニーです
前スレ ジェンダー論
http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1036505170/l50 なるべくsage進行でお願いします
2 :
ロニー:03/04/13 18:20 ID:DpUImR8C
チキンリキン氏
>
http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1036505170/716 >「人間を殺してはならないこと」と「殺してよい人間がいること」、どちらを採用しても(両者をいっぺんに
>採用しても)私自身の殺人に対するスタンスは変化しないようです
>両者には状況や条件などの限定が付随するので棲み分けが可能になっているのだと思います
いえ、これは論理的には全く異なる問題に属するので、棲み分けは可能です(と言うよりも論理的には共生が不可能)
ヒュームの自然主義的誤謬は事実命題と当為命題の混同を誤謬としましたが
「〜いけない」(ought to)は当為命題、「〜いる」(be)は事実命題に属します
それらは論理的には無関係ですので、決定的に間違いであるとすることはできません
しかし、それを理由に正しいとすることもできません(当然ですが)
おそらく、わたくしの解釈では「人を殺してはいけない」はパラダイムになるはずです
ですから、クーンの立場では「人を殺してはいけない」が「人を殺してもよい」より正しいとは言えないと思われます
>なるほど、それぞれが設定するということですね
ええ、そうです、それを同意と見なすこともできますが、「同じ」と言う方がより正確でしょうね
>未だに「真理」へのアレルギーがあるのでしょうかなかなか素直に肯定できません
「真理」という言葉には宗教的なもの、信仰的なもの、そして、絶対的なものを匂わせますからね
表現としては「真」でも事足りうると思います
それは僕の感覚としてはゲーデルが、証明できる真、真、偽、証明できる偽、と区分けしたときの「真」というものに近いです
「真」ではなく「真理」とするのは、ただ「間違いのみを回避する」という態度を避けるための表現です
タルスキについて少し調べてまとめました
・理論とか命題は、その理論によって記述された事態が実在と一致するとき、真である
・一義的に定式化されたすべての言明(自己言及のパラドクスを除く)は、真か偽である
そして、それが偽である時には、その否定は真である
・したがって、偽なる命題と同数の真なる命題が存在する
・こうした一義的なすべての言明は、(それが真であるかどうかを確実には知れないとしても)、真であるか、あるいはその否定が真である。
3 :
ロニー:03/04/13 18:39 ID:DpUImR8C
続き
>
http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1036505170/717 >「豊饒な仮説」の射程がそんなに広いものだとは考えていませんでした
僕の立場もその対象となる理論そのものはポパーとさほど変わらないと思われます
ポパーはその合理性について多くを語らなかったですが(そのための批判も数多い)
僕はポパーの真理観からポパーの合理性を解いてみただけです
ポパーは合理性について
「理論の選択においてもっとも(多種の)テスト(批判)を受け、そしてテストに絶えた理論を選択すること、
これが私の知る意味で最も合理的と言えることがらである」と語ってます
対してバートリーは
「わたしは、わたしが誰とでも合理的議論ができると信じる点で、それが合理的であると信じる」と語ってます
他にワトキンズやポストを見ると、合理性に対する解釈は様々です
批判的合理主義が理論の選択における合理性を問題とする背景には「帰納の否定」があります
帰納がない世界(何も確実でない世界)において、いかにして知識の暫定的信頼性を保つかということと思われます
4 :
ロニー:03/04/13 19:07 ID:DpUImR8C
続き
>バークリーは何らかの効果を期待してこのように主張したのだと思いますが、この主張するという行為が
>実在の設定にあたるとはどのような意味でのことなのか私にはピンときませんでした
僕は、言明が必ずしもその発言者の価値判断に影響されているとは思いません
また、僕はバークリも(そしてクーンに対しても)、それが間違っているとも非合理的だとも主張してはいません
彼らは自らの理論を主張しながら(それが正しい可能性もあるが)、実践において自らの理論の規則を破っている、ということです
仮に素朴観念論が正しいとするならば、素朴観念論が他の者にも言えるとも限らないということです
バークリは「実在は存在しない」と言うことで、他ならぬ実在に対して言及してしまったということです
そして僕はそれを指摘して、「バークリですら実在を設定している」と説明していることになります
>正しいという基準ではなく、(パラダイム外では)個人的で不正確な美的考慮を基準に判断するという主張は
>クーンの問題意識に沿うものだと思うのですが・・・
しかし、それを「正しい」と表記することはできないはずです(ここでは、僕はクーンを間違っているとは主張していません)
他にもクーンは「わたしは科学が進歩していると信じる」とも語ってますね
しかし、クーンの立場ではパラダイム転換はその前と後で進歩したかどうかを言うことはできないはずです
ただ、僕のクーン理解は甘いですので、チキンリキン氏からの新しい解釈があればお願いします
5 :
ロニー:03/04/13 19:41 ID:DpUImR8C
続き
>実在(仮説実在論)
>・実在とは論理でありルールである
論理(最小演繹)は議論におけるルールとして必要不可欠でしょう
また、合理性との関係性もあるでしょうね
クーンはポパーのことを「カール卿は合理性を論理の意味として使用している」と批判しています
僕が考える合理性「知識拡大のための同じ方法の除去」も「誤りを排除する」という矛盾の否定と言えますし
何より「過去に海水を飲んでのどが渇いた」→「また海水を飲んでのどがかわいた」における
「海水を飲む」を同じとする「現実に対する論理の適用」も論理を知識獲得の前提としています
しかし論理が間違っている可能性もあります
うそつきのパラドクスと同じように論理そのものが矛盾を引き起こす可能性が残されています
ですから論理ルールを採用するのも一つの信仰に過ぎないでしょう
しかし、それは論理にパラドクスが発見されたことを意味しません
僕は論理を採用した方が知識を拡大できる(排除できる誤りにさらに多く言及できる)ため、
論理を採用し議論に参加するのは合理主義的採択である(ポパーはそれを非合理的な信仰とした)、と主張します
>以前、言語のコミュニケーションでは参加者の善意が必要だということが議題になりましたが
>それとリンクしているのでしょうか?
そうですね、善意というよりは「議論をしようとする意思」みたいなものですね(コミュニケーション論とははずれますね)
それを導くことが困難であるように思えます
議論から逃避して自分のタコツボ的世界に閉じこもる行為が、「真理への接近」(知識拡大)を導かない、ということを論証せねばならないのですが
この点は前に僕が610で語った壁ですね
未だ壁を乗り越えられない模様です
6 :
ロニー:03/04/13 20:29 ID:DpUImR8C
>フェミニズム
>しかし、効果的に叩きたいと思う者であれば自分の主張に「正しさ」を組み込むでしょう
それができないのは、批判者もまた正当化主義の影響を受けているためと思われます
ポパーが提唱した批判的合理主義による倫理は「誤りを犯すことを恐れるな、誤りを修正することを求めろ」というものです
対して、ポパーが現在汚染されているとする倫理は「絶対に誤りを回避しろ、誤りの要因となるもの(不確実さ)は回避しろ」というものです
この「誤りを恐れる」という倫理は、時に批判者に多くを語らせないことを使役します
批判者は自らが「<確実に>正しい理論」を提出することはできなくても、
批判する理論が「正しさ」でなくそれ以外の基準で語られることを感じるため憤りを感じるのだと思います
しかしかわりに「絶対に正しい理論」を提出することはできません(<絶対>な理論はない)
ですから誤りを指摘されることを恐れて「正しい」理論を提出できないのだと思います
フェミニズムを含めた虚無主義に対する一番の批判は、まじめに応対して不確実な批判を提出することと思われます
完全論破を目論むならば、逆に返す刀で斬られるでしょう(相対主義とはそのようなものですね)
不確実な批判に対しての応対は2種類あるでしょう
A「完全論破されていない」、と自らの殻に閉じこもるか
B批判に耳を傾け、議論を行うか
意味のある内容であるならばそれは参加者の知識の発展に役立ちますし
そうでないならば、それが批判する価値がないと分かっただけでも少しは有意義です
タコツボ世界に閉じこもるならば、残念ながら放っておくしか方法はないでしょうね
>政治思想は解りませんが、思考停止と感じるものに対してロニーさんが嫌悪感を抱くであろうことは想像できます
僕がそれに嫌悪を感じるのは今までの議論の中で
>暫定的などと言ってたら「永久に女性は苦しめ」ってことですか!
>「正しさ」なんて誰も問題にしない、本人にとって利益のある言説を「正しい」とするだけだ
>男と女は理解し合えない、それを無理やり理解させようとするのはイスラム教とキリスト教を同じところに押し込めるようなものだ
>議論をしない自由もある
などの言葉があったからでしょうね(意外と根にもってますね、僕は)
7 :
ロニー:03/04/13 20:33 ID:DpUImR8C
続き
そして権威主義を感じるのは、虚無主義が「正しさ」は全く存在せずすべてが権力によって作用されるもの、という発想があるからでしょうね
彼らは既存の権威に敵対的であるのですが、彼ら自身、権威の奴隷となってしまっているのです
しかし>ゼミの先生が「難しく語ることは能力じゃない、能力の欠如だ」と言っていた事を思い出します
の言葉は世の中には権威以外の力があることを示唆してくれます
>本を読むたびに混乱してしまい自分の主張に自信が持てません
自信なんて必要ないと思います
もちろん僕も自分の主張が誤っているとは思いませんし、現時点では、その正しさを確信しています
しかし、同時にそれが「誤りの可能性も持つ」という疑念もまた持っています
そのような疑念を持たない者は自信ではなく過信しているのでしょう
これは僕に限らないでしょう、おそらくすべての理論家と科学者、そして多くの技術者もまた、
そのような自信と疑念、そして、信念をもっているのだと思います
前スレは僕の長文で書き込めなくなってしまいました、少しは自戒せねばと思っています
と言いつつ、やってることは違いますね(僕もまた、理論と実践が伴ってないです)
では、長文失礼しました
このスレを氏が発見することを願って
ロニーでした
8 :
ロニー:03/04/13 21:06 ID:DpUImR8C
個人的なことを一つ
桜花賞が本命シーイズトウショウで的中しました、馬連+ワイドをGET!
今日は都知事選でしたね、候補者が前回に比べて少なかったですが、いい傾向だと思います
政治が安定していて大きな問題を感じないということでしょうから
ワイドの配当はどっかに寄付することにします
あげ
>ロニーさん
>1
スレを立てて頂いてありがとうございます
私も、前スレを一杯にしてしまったことに気が付いた後でスレを立てたのですが
スレタイを変えてしまっていたので非常に不便でした
お手数をかけてしまい、申し訳ありません
さて、私の立場も短く述べておきます
相矛盾する言明の両方が真であるということは間違いだと考える
しかし矛盾を問題にする為にはある決まったルールから複数の言明を検討する必要がある
従って複数の異なるルールからでは言明の矛盾を問うことは困難である、というのが私の立場です
>2
>「〜いけない」(ought to)は当為命題、「〜いる」(be)は事実命題に属します
私は、この二つの命題が両立し得ない物であると感じていましたので、混同しているかもしれません
これを、「殺してはいけない人間がいる」と「殺してよい人間がいる」と表現した時には
命題の種類が違ってきたりするでしょうか?
私は、「人間を殺してはならないこと」と「殺してよい人間がいること」をこのまま受け入れる
ことはできない、そしてどちらかを排除することもできないと考えていましたのであのような
答えになりました
自分のなかで勝手に変換していたのかも知れません
クーンは「パラダイム」という概念を限定して使用されることを望んでいたようなので、このような
使い方が適当なのか解りませんが、私はどちらもパラダイムのようにも受け取ってしまいました
混乱させて申し訳ないです
幸運にも見つけたら時間を作ってここら辺の本を読んでおきます
>2
>ええ、そうです、それを同意と見なすこともできますが、「同じ」と言う方がより正確でしょうね
以前私は、各々が設定した基準の重なり合う箇所を「同意」と表現していました
ロニーさんはその重なり合いを「同じ」と表現する
そしてその「同じ」が議論を可能にする
この理解で間違っていないのであれば、異論はありません
同時に、混乱を招くので「同じ」という概念を使って議論したいと思います
>「真理」という言葉には宗教的なもの、信仰的なもの、そして、絶対的なものを匂わせますからね
そうなんです
そして「真」と言い換えてもあまり受け入れやすくはならないみたいです
「真理」や「真」は私にとって非常に魅力的な言葉で、かつ危険な言葉であるという認識があります
この危機感のようなものは、前スレの私が書き始めた頃から主張していますので繰り返しませんが
「真理」という言葉に対して過度に慎重である私の態度の一因となっています
自分自身では、このことをあまり否定的に捉えてはいないのですが・・・
>タルスキについて少し調べてまとめました
ありがとうございます
解るふりすることすらできない分野ですので、勉強したいと考えています
>3
>批判的合理主義が理論の選択における合理性を問題とする背景には「帰納の否定」があります
>帰納がない世界(何も確実でない世界)において、いかにして知識の暫定的信頼性を保つかということと思われます
同意します
>「理論の選択においてもっとも(多種の)テスト(批判)を受け、そしてテストに絶えた理論を選択すること、
>これが私の知る意味で最も合理的と言えることがらである」と語ってます
ここも私は同意します
ただ、この主張がフレームワーク間における合理性のあり方に指針を与えているのか?については
疑問があるのですけれど
>4
>バークリは「実在は存在しない」と言うことで、他ならぬ実在に対して言及してしまったということです
これは、バークリーが設定したルールに忠実ではない、実在を否定するのであれば「沈黙」少なくとも
説得的に語る努力をしない態度のほうが忠実と評価できる、ということでしょうか
>しかし、それを「正しい」と表記することはできないはずです(ここでは、僕はクーンを間違っているとは主張していません)
クーンがこのような主張をする意図は、個人的で不正確な美的考慮に訴えるためと考えることはできないでしょうか
自説をパラダイム外に向かって「正しい」と主張できない事と、自説をパラダイム外に向かってアピールする事とは
区別できると私は思います
同時に異なるフレームワーク間であっても、翻訳は可能です
私には英語を母国語とする作家が、自分の物語が英語以外を母国語とする読者には理解不可能だと考えるとは思えません
作家の主張は正確には伝わらないかもしれない、しかし何らかの効果は期待できる、というように
私には、クーンもこの作家と同じように考え、行動していると思えるのです
>5
>論理(最小演繹)は議論におけるルールとして必要不可欠でしょう
仰るとおり、何らかのルールは議論に不可欠だと思います
>718は、実在という概念についての自分の理解の確認のつもりでした
私が問題としているのは、異なるフレームワーク間においてどのようなルールがどのように採用されるべきか、ですので
私としては、議論において論理ルールを採用することへの異論は全くありません
ただ、若干戸惑う箇所があります
それは、「論理」ルールという表現です
私は論理を議論で採用せざるを得ないことには同意しますが、論理は一つではないと思っています
つまり様々な論理が存在しており、論理を採用する時には論理の選択の必要もあると考えているのです
>議論から逃避して自分のタコツボ的世界に閉じこもる行為が、「真理への接近」(知識拡大)を導かない、ということを論証せねばならないのですが
>この点は前に僕が610で語った壁ですね
私に対してであれば、この部分の論証は不要です
完全に同意することはできませんが、少なくとも議論は知識の拡充や洗練に有効だと感じています
これは、ロニーさんの論証に興味が無いことを意味しません
可能であれば、拝見したいと思っています
>6
>フェミニズム
>それができないのは、批判者もまた正当化主義の影響を受けているためと思われます
>ですから誤りを指摘されることを恐れて「正しい」理論を提出できないのだと思います
なるほど、そういうことかもしれませんね
>フェミニズムを含めた虚無主義に対する一番の批判は、まじめに応対して不確実な批判を提出することと思われます
そのような態度は、何に対する批判であっても効果があるように思います
しかし・・・労力に見合う利益が見込めるのか・・・
時間と気力は限りある資源ですので、資源が枯渇ぎみな私はとくに慎重になってしまいます(リスクもあるわけですが)
>>暫定的などと言ってたら「永久に女性は苦しめ」ってことですか!
>>「正しさ」なんて誰も問題にしない、本人にとって利益のある言説を「正しい」とするだけだ
>>男と女は理解し合えない、それを無理やり理解させようとするのはイスラム教とキリスト教を同じところに押し込めるようなものだ
>>議論をしない自由もある
ここまで極端でなければ、肯定できる箇所もあるのですが・・・
>7
>そして権威主義を感じるのは、虚無主義が「正しさ」は全く存在せずすべてが権力によって作用されるもの、という発想があるからでしょうね
「正しい」ことを問題にできないと仮定するのであれば、もうパワーゲームしか残っていません
そしてそれは、とても不幸な状況なのでしょう
なぜなら、自説の変化がより強い権威によってしか引き起こされない事態になってしまうからです
権威自体は毒にも薬にもなると思うのですが、上の仮定では毒の部分が目立ち過ぎます
私も人事ではありませんが
>7
>もちろん僕も自分の主張が誤っているとは思いませんし、現時点では、その正しさを確信しています
正しさすら揺らいできていますw
とはいえ、過渡期に不安定になるのはむしろ当然
むしろ喜ばしいとすら思えたらいいのですけれど・・・
ただ、消化できてないだけという説も有力です
>前スレは僕の長文で書き込めなくなってしまいました、少しは自戒せねばと思っています
長文ということであれば、私にも半分は責任があります
一応簡潔にまとめる努力をしてきましたが、以後もより精進するつもりでいます
>8
神奈川県知事選の立候補者は、7人でした・・・
神奈川県民は問題を感じすぎている現れかもしれません
麻雀しかやらないのでよく解らないのですが、「寄付」は理解しました!
落ちが自分への寄付だったら得心するのですがw
16 :
山崎渉:03/04/17 09:03 ID:jZFD0CUg
(^^)
保守sage
保守
19 :
山崎渉:03/04/20 03:54 ID:3Woy+MV9
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
20 :
ロニー:03/04/20 17:19 ID:kj0ZLn4+
今日は私用のためレスをお休みさせてください
次回は来週末に書き込む予定です
近況
現在は論理について調べなおしています
複数の論理の可能性とその意味について知るために、論理の定理を吟味しています
今のところ、複数の論理は形式主義と直観主義の2種類しか思い当たらないです
次回の書き込みは直観主義の論理と実在論の関係についてまとめたいと考えています
>チキンリキン氏
>神奈川県知事選の立候補者は、7人でした・・・
>神奈川県民は問題を感じすぎている現れかもしれません
7人ならさして多くもないと思いますよ
僕は4年前の都知事選も経験しているので余計に少なく感じたのかもしれません
前回のレスの趣旨は民主主義は正当化とは無関係であるということです(僕は民主主義の意義を大きく認めますが)
>麻雀しかやらないのでよく解らないのですが、「寄付」は理解しました!
>落ちが自分への寄付だったら得心するのですがw
保険で買った配当が安いワイド馬券も当たったのでそれを寄付に回そうと思ったのですが
皐月賞がはずれたので(1着−4着)半分だけ寄付することにしました
残りは自分への寄付ということにします(考えもつきませんでした)
危ないのでageておきます
>ロニーさん
>20
>形式主義と直観主義
この辺を優先して勉強しておきます
私の考える論理とは、思考のフォームのようなものであるので
かなり広く、曖昧な使い方をしています
>7人ならさして多くもないと思いますよ
今回の様によーいどん!といっせいにスタートするのであれば私も
問題は感じないですね
私は行政の長が多数決で決められた、ということが長のふるう権力を
(ある程度)正当化する、と考えています
しかしこれは民主主義の意義と重なるので、レスとして適当ではないかもしれません
>残りは自分への寄付ということにします(考えもつきませんでした)
自分への寄付という表現が妥当ではないからだと思いますw
ごめんなさい、もう一度・・・
23 :
(´д`;)ハァハァ :03/04/22 06:19 ID:jJlq2RLo
24 :
気ままに提案くん ◆iTFReNT4nw :03/04/28 17:26 ID:Qg9r0Waw
真面目なスレが落ちるのは、ここの板の宿命?
25 :
名無しさん 〜君の性差〜:03/04/28 17:29 ID:+Soqe/ud
なんか難しい話してるみたいだけど、それくらい学問に習熟してれば
フェミニズムの正当性くらいわかるもんじゃないの?
>>25 学問的見地からみるとフェミニズムがいかに不当であるかを
指摘しているわけですが、何か?
27 :
俺様:03/04/28 17:51 ID:WZ4msreM
フェミニズムの一番の問題点は、学問に特化した部分と、
それをフィードバックしてフィールドワークに取り入れた部分とが
乖離してしまっている点。
そもそもの原因は、フェミニズムが政治に関わって
しまったところにあると思うけどね。
学問に政治性を帯びさせたことにより、骨子の部分で齟齬が生じている。
派生にマルクス主義が無関係でなかったことも一因なんだけど、
今一般に認識されているフェミニズムというのは、マルクス主義の悪癖を
そのまま継承してしまっているよ。
28 :
ロニー:03/04/28 22:00 ID:zEKYYLiB
遅くなってすみません
GWを利用して何回かに分けてレスしますね
>>25 僕に言ってるのですか? ならばギャグにもなりません
僕は、「なにものも批判を免れ得ない(絶対的正当化は不可能である)」と主張しています
絶対的な正当/不当にこだわることこそ、「正しさではなく確実さを追求する」と呼ばれる無謬を求める態度であり、
逆説的に、それは不毛である、と考えると表明しています
学問における流れから言うならば伝統的な近代思想の流れを汲むものであり
それは昨今に流行となっている現代思想とは合わないものです
しかし、現代思想が指摘する近代思想の欠点を克服したものであると考えますし
何より僕はマルクス主義、フロイト主義の理論構造、そしてポストモダンや虚無主義などの悲観主義の氾濫には嫌悪を抱いてます(マルクスは尊敬するのですが)
僕が本を読んだ限りではフェミニズムもその類を抜け出ないものでした(ご丁寧にあとがきにカント批判まである始末)
それでもフェミニズムのすべてを問答無用で受け付けないわけではありません(絶対的正当性が不可能ということは翻って絶対的不当性も不可能)
正しさを問題とする、意味のある理論をフェミニズムが提供できる可能性は依然として残っていると思いますよ
29 :
ロニー:03/04/28 22:34 ID:zEKYYLiB
>チキンリキン氏
>・事実と価値
>私は、この二つの命題が両立し得ない物であると感じていましたので、混同しているかもしれません
>これを、「殺してはいけない人間がいる」(A)と「殺してよい人間がいる」(B)と表現した時には命題の種類が違ってきたりするでしょうか?
AとBのどちらの命題も事実命題です、もちろん「人を殺してはいけない」(C)を価値命題と扱うならばそれは全く異なる性質に属するものです
ただCの命題(「いけない」という規範)を事実命題として解釈するという方法もありますので、一概に言うこともできません
しかし一般には「人を殺してはいけない」は「人を殺すべきではない」という価値に対する強調言及と解釈するものでしょう
事実命題として解釈すると「『人を殺してはいけない』という規範がある」となります(それでも両立は可能だったと思いますが)
>私は、「人間を殺してはならないこと」と「殺してよい人間がいること」をこのまま受け入れることはできない、
>そしてどちらかを排除することもできないと考えていましたのであのような答えになりました
>自分のなかで勝手に変換していたのかも知れません
一般的な解釈(価値判断との解釈)をするならば両立は可能です
チキンリキン氏の発言(「殺してはいけない」は「人間」が持つ性質と切り離せない関係)も事実と価値の区分けを明確にするための方法と言えるのではないでしょうか
しかし、この二つ、事実と価値を論理的に全く無関係だからと言って、いかなる理由付けにすることもできない、というのも誤りです
価値は事実を導くものです、ある価値のもとでは事実は批判の対象となります
また、「当為(価値)は可能を含意する」という言葉が古典にある通り、我々は不可能なことを価値として設定することを不合理と感じます
したがって、ある事実のもとにはその価値が問われる状況になります、ある事実の前では価値は批判の対象となります
このように事実と関係は相互批判的な関係にあると言えるでしょうし、互いに修正可能であると言えるでしょう(事実の修正とは未来を何らかの価値に沿って変更するということです)
30 :
ロニー:03/04/28 22:48 ID:zEKYYLiB
>クーンは「パラダイム」という概念を限定して使用されることを望んでいたようなので、このような
>使い方が適当なのか解りませんが、私はどちらもパラダイムのようにも受け取ってしまいました
クーンは後に「専門母系」と言い換えてますね(英語表現をど忘れしてしまいました)
何でもかんでもパラダイムと言うのはクーンの意に反しているでしょう
クーンが問題としたかったのは科学者集団同士の共有する基礎前提でしょうから
しかしその言葉が一人歩きして社会学でも頻繁に使用される現在ではクーンの意を超えて使用してもいいと思います
事実と価値の二元論ですが、僕はこれを数学的なものと同じように見ています
・三角形の内閣の和は二直角である
・現実の三角形は・・・
という関係と同じようなものと見ていますし
そして
・三角形の内閣の和は二直角より大きい
・現実の三角形は・・・???
このような関係が価値と事実にもあてはまり、そしてこれはパラダイム論にもあてはめることができるでしょう
31 :
ロニー:03/04/28 23:19 ID:zEKYYLiB
>「真理」という言葉に対して過度に慎重である私の態度の一因となっています
ええ、確かに「真理」という言葉はカルト宗教など社会では問題のある使われ方をされます
しかし、ここではそのような体裁ではなく、言葉の示す内容について吟味してみます
「真理」とは「絶対に確実な正しさ」度のような使用のされ方をしますが、これは二つの概念が組み合わさってます
それは「確実さ」と「正しさ」の二つです
このような「私は真理を知っている」と語る者は大変うさんくさいものです(人物X)
しかしタルスキのまとめを見るならば「真理」とは「記述と実在との一致」(
>>2)です
これは「正しさ」の方に分類されるものではないでしょうか
「昨日雨が降った」という言葉が真かどうかを我々は考えることができます
仮に「『昨日雨が降った』は「真理」である」としましょう・・仮定P
仮定Pのどこにうさんくささを感じるか、
仮に昨日雨が降っていた場合(仮定P1)・・それは「真」であると言えます
仮に昨日雨が降っていなかった場合(仮定P2)・・・それは「真」ではないと言えます
仮に「昨日雨が降っていたかどうか分からない場合(仮定P3)・・・それは「真」か「偽」か分からないということです
先に挙げた人物Xの発言はそれ自体正しいか間違っているか分かりません
さて、この人物Xのうさんくささとは何か、僕はそれは確実性に対する言及であると主張します
「私は不確実ではあるが正しい」という言葉にはうさんくささはありません(多くの新理論を提出した科学者はそのような立場でしょう)
「私は確実に正しい」という言葉には大いにうさんくささを感じます
結論を言います
・「真理」という言葉が持つドグマティズム(独断)はその確実さの確信に由来する
従って「真理」という言葉から「「正しさ」と確実さ」の概念を分断し、そして「確実さ」の概念を追放すべきである
我々は「確実さ」ではなく「正しさ」を問題とすべきである
「真理」を問題としない時にもドグマティズムは確実さの確信に由来する
「私は正しくも間違ってもいないが、私は確実である」という発言もまた、うさんくささをもつものです
なぜならば、いかなるものも、いかなる条件においても、その確実さを証明することはできないからです
32 :
ロニー:03/04/28 23:33 ID:zEKYYLiB
>ただ、この主張がフレームワーク間における合理性のあり方に指針を与えているのか?については疑問があるのですけれど
これについては次回に書き込みます
僕の考えを軽くまとめるならば、「指針を与えている、ただし、それはおそらく不満の残るものであるだろう」というものです
先の「正しさ」と「確実さ」に対する言及と関わってきます
先送り問題1「通訳不可能な関係における合理性の指針」
>これは、バークリーが設定したルールに忠実ではない、実在を否定するのであれば「沈黙」少なくとも
>説得的に語る努力をしない態度のほうが忠実と評価できる、ということでしょうか
バークリの態度、直観主義は、「正しさ」ではなく「確実さ」を問題としています
しかし「確実さ」を問題とすることが、すでにして不確実な事柄なのです
これについては>論理は一つではないと思っています(
>>13)と関連させて明日書きます
僕の立場を軽く提示します
・直観主義論理は論理の一種である、従って複数の論理が存在するというのは正しい
しかし直観主義の論理では「正しさ」を問うことも、「合理性」を問うことも、「真理」を問うこともできない
それは知識のさらなる成長を得ることができないとする立場となり、徹底するとタコツボ的世界に閉じこもることになる
詳細は後日にアップします(かなり長くなると思います)
先送り問題2「論理、直観主義と実在」
今日は残り時間が少ないのでメインの議題はこの辺で次回に持ち越します
33 :
ロニー:03/04/28 23:53 ID:zEKYYLiB
>民主主義
僕が数年前に読んだ本には
「民主主義という言葉は二種類の使われ方をする、その用法の違いから来る混同を避けねばならない
一つ目は理念としての民主主義、全会一致を持って動く民主主義
もう一つは現実の民主主義、多数決を持って動く民主主義
民主主義を考えるにあたってこの二つの違いを意識を持って扱わねばならない」と書いてありました
そこで「民主主義」という言葉を僕は「全会一致主義」と「民主主義」に分けることにします(「多数決主義」は「民主主義」ともまた異なります)
そしてこう主張することにします
・民主主義は極めて素晴らしい妥当な政治スタイルであるが、多数決をもって何らかを正当化することはできない
そう言えば、日曜のテレビでどなたか外人がこのように言ってたのを思い出しました
「(イラクにおいて)大勢の意見だから通るというのが民主主義なのではない、少数意見を尊重するというのが民主主義なのだ」
>正当化
僕の使用する「正当」という言葉で誤解が生じている可能性を防ぐために遅ればせながら言葉の定義をします
ポパーは「わたしがここで使用する『正当化』という言葉はすべて絶対的な正当化を意味する」と書いてあり
僕もその影響を受けて「正当」を絶対的正当化として使用してきました
そこで混同を防ぐために、絶対的ではないが暫定的に「正当」と扱ってもよいと思われるもの、として「妥当」という言葉を使用することにします
たいへんすみませんでした
では、今日は時間がもうないので、
長文失礼しました
34 :
ロニー:03/05/02 16:44 ID:Vew6feIh
>チキンリキン氏
前回は時間がなくて乱雑な文ですみませんでした
>>31では仮定を二重に繰り返してますね、修正します→「昨日雨が降った」の真偽を問う
>パラダイム解釈の文章について若干の補正
「僕の解釈では・・・」と書いたのは「僕のクーン解釈では・・」という意味ではなく「僕の道徳解釈では・・」という意味です
道徳や規範をポパーの言う第三世界の産物として解釈しているということです
>・クーンの「正しい」という言葉
>クーンがこのような主張をする意図は、個人的で不正確な美的考慮に訴えるためと考えることはできないでしょうか
>自説をパラダイム外に向かって「正しい」と主張できない事と、自説をパラダイム外に向かってアピールする事とは区別できると私は思います
できるでしょうね、それらを区別できないと見なす必要性はありません
しかし、ここでクーンは単一の言葉に二つの意味をのせていることになります
・正しい1→ある共通のパラダイムを土壌とした優劣
・正しい2→異なるパラダイム間におけるゲシュタルト的な転換
問題は、なぜクーンは「正しい2」と「正しい1」を区別し、「正しい2」は「正しい」と発言できないと主張するのか、ということです
(クーンは一度その禁を破って「正しい」と表記しました)
個人的で不正確な美的考慮を基準とした「正しさ」(クーンはそう表記した)はなぜ「正しい」とは言えないのでしょう?
僕が想像するに、クーンの答えは一つしかないのではないかと思います
また、僕は今回の議論からポパーの立場をさらに深く吟味することができました
「ポパーは相対主義に最小限の譲歩をすることで合理主義の信仰主義的決断を引き出している」と確かハーバーマスの言葉にあったと思いますが、おそらくはそうではないでしょう
ポパーは相対主義者です、ただし、それは「確実さ」に関して限定されます
そして「正しさ」に関しては客観的真理の存在を認める合理主義者なのだと思います
35 :
ロニー:03/05/02 18:13 ID:Vew6feIh
続き
ポパーの言葉に次のようなものがありました(うろおぼえで不正確な引用です)
>客観的な確実さと言うものはない、確実さは常に主観的なものにすぎない
>しかし、客観的な正しさというものはある
>これは陪審員制度の「疑わしきは被告人の利益に」という言葉からもうかがいしれる
>「疑わしさ」というものは主観的なものに過ぎない、裁判で問うのは被告がどのような行為をしたのかという客観的真理が問われている
>・先送り問題1「通訳不可能な関係における合理性の指針」
・異なるフレームワーク間における議論において「もっとも多様な批判に耐えた理論を採択する」という方法が合理的議論の方法である
という主張は正しいと僕は考えます
では、それは具体的に議論に解決の指針を与えているのでしょうか
僕は間違いなく与えていると考えます
理由1、多くの批判を乗り越えた理論を間違っていると見なす必要がない(もしかしたら正しいかもしれない)
理由2、仮に間違っていたとしてもより明確に欠点を見直し修正できる(合理性の知識拡大理論)
理由3、そのような批判と修正の繰り返しにより、われわれは問題を解決しつつ変化しながらより良く前進できる
理由3が最も大きな要因です
すなわち、全員を問答無用に何らかの絶対的な解答に収束する必要性がない
科学においてもそうです
現在でも、ゲーデルを否定しヒルベルト・プログラムの成功を信じる数学者もいますし
アインシュタインは間違っていると主張する物理学者もいれば、空間を満たす物質としてのエーテルの存在を説く科学者もいます
彼らの理論は、彼らが批判を乗り越えない限り社会的に通用しません
それは彼らの理論が他の理論に優れることを示す新しい理論と実験観察があれば逆転は可能ということです
36 :
ロニー:03/05/02 18:15 ID:Vew6feIh
ポパーはコペルニクスに対して批判的です
それはコペルニクスが盲目的に地動説を唱えているに過ぎないからと言ってます
地動説は出現した当初は批判を乗り越えられなかった、それは、もし地動説が正しいとしたら物体が静止し続けることができるのがおかしい、という批判を超えられなかったからです
その批判を分類するなら、「対象と一致していない」という批判と言えるでしょう
しかし、そのような批判を乗り越えて、地動説は対象との一致をなしとげ、天動説よりもずっとスリムな惑星の動きを描き出しました
それは地動説は天動説より合理的であるという一つの指針になります
しかし、それを理由に天動説をすべて破棄する必要もありません
地動説が批判を乗り越えたように天動説が再度世界をより合理的に表現する可能性は依然としてあるからです
そして、天動説がその可能性を未だ成し得ていないという事実が、われわれが地動説を正しいと扱う妥当性を社会的に保障してくれるのです
われわれは世界に対して無知です
宇宙人がいるかどうか、未知の生命がいるかどうか、幽霊がいるかどうか、神がいるかどうか、それらを確実には知ることができません
しかし、非合理的な信仰や非合理的な存在の可能性まで否定する必要性はありません
この国には信仰の自由が保障されてます、また、仮に認められてない国であってもそれは認められるべきです
そして、議論においてそのような信仰にまで立ち入って否定する必要性はありません
ただ、議論の世界、すなわち客観的世界において否定すればよいのです
議論は様々な知識を深めることができます、それは非常に有用であり、また、われわれが責任ある生き方をしようと思うなら捨ててはならないものです
しかし、議論は個人の信仰を問答無用に決定することはできません、それは言葉の力を過信しているということです
別スレで過去に僕はこう書きました
言葉(理論の正しさ)だけで独裁者の統治を覆せると主張する者は嘲笑されるだけだろう
しかし、言葉(理論の正しさ)が政治に何の影響もないということはない
あのヒトラーでさえ、自らが政権についた後に、言語統制や学問の統制に気を配ったのだから
37 :
ロニー:03/05/02 18:29 ID:Vew6feIh
言葉が何もなしえないというのは虚無的です
言葉によってすべてが決定されるというのもまた不合理です
それら二つは共にある共通点を持っています、それは決定論です(非決定論の擁護は長くなるので割愛)
間違いを犯すことを恐れ、確実さを求め、そして確実な結果が出せなければ不毛だと考える
それこそ井上氏の語る「受験生根性」であると考えます
まとめます
僕は「ポパーの提案は一部の者には不満の残るものとなるだろう」と書きました
しかし彼らが求めているものは「現実にどうなのか」ということではない、「それが確実なのか」ということでしかない
それはどのような人間相手をも確実に説得できるのか、ということでしかない
しかしそれは不毛である
なぜならば客観的な理論の正しさと個人的な理論の選択は論理的には無関係な間柄だからである
論理的に無関係な二つの間柄を論理的に結び付けようとするのは、「不可能を可能とせよ」という命令と同じである
「当為は可能を含意する」という言葉が正しいならば、それは非合理的な命令である
>民主主義
民主主義については今日は書きませんが、僕が民主主義を尊ぶのもこのような思考からです
民主主義は正当化思考ではなく非正当化思考においてはじめてその効力を発揮する
僕はそう考えています
確か病院の株式経営の参入に対して、政策の実行を「議論をもっとする必要がある」という理由で先送りを唱えた議員がいましたが、彼は間違いを犯しています
彼も正当化思考に囚われているのでしょう
彼がいかなる理由であれ(献金目的であれ)、政策を先延ばしたかったら、その政策を導入することで生じるだろう問題点を提起して議論を開始せねばならないということです
それが民主主義というシステムなのです
38 :
ロニー:03/05/02 19:17 ID:Vew6feIh
>先送り問題2「論理、直観主義と実在」
先に結論を書きます
直感主義と実在とは、排中律に対する問題です
排中律に関しては次回(また引き伸ばしですみません)に書き込みますので
今日は論理の定理として矛盾律と同一律について吟味することにします
>異なる複数の論理 (混同を避けるために¬AをnotAと表現)
>矛盾律 定理1 ¬(A∧¬A) (AかつnotAではない)
定理2 (D∧¬D)⊃P (DかつnotDならば任意のP)
議論における論理の採択として矛盾律の採用は必要不可欠である
それが僕の主張です
矛盾律を採用しないとします(定理1を採用しない)、
すると定理2より、(DかつnotD)から任意のPを導いてよい、となります
矛盾(定理1)を許容すると定理2よりいかなる定理も導出できます
これではすべての論理式は定理と化します
これは議論において矛盾を許容すると何でも正しくなってしまうということです
何でも正しいならば議論はもはや行う意義を失うでしょう
>同一律 A⊃A (AならばA)
同一律は論理の必要条件ですね
同一律がなければ論理そのものが破壊されます
しかし同一律の採用は表現の仕様がありませんね
とりあえずこの2点は問題ないと思います
排中律、二重否定除去に関しては次回にまとめます
(僕は排中律がない論理はあると考えてます、排中律を採用しない議論は不毛であるという主張です)
39 :
ロニー:03/05/02 19:19 ID:Vew6feIh
予定より時間がかかってしまいました
後半の乱雑さをご容赦ください
今週末は書き込みできないです
長文失礼しました
>ロニーさん
ここしばらく資料を読み書き込む時間がとれないので、
私の返事はかなり後になってしまいそうです
ごめんなさい
ここまで読んでみて思ったのですが、反論する必要を感じる所は
あまりみつかっていません(解っていないところも多いですが)
もちろん温度差も感じますけれども
今日はこれで終わりです
>40を若干訂正します
>ここまで読んでみて思ったのですが、反論する必要を感じる所は
>あまりみつかっていません
この文は、論点全体に占める反論の量としては多くないという意味です
10の論点があると仮定すると、1とか2の反論があるくらいだ
ということです
失礼しました
>>1 お疲れ様です。
凄まじい忙しさからようやく一段落。
あららっ?
いつの間にやら新スレが・・・。
前スレ全部見ていないのに・・・。見れない・・・。ガックシ。
43 :
名無しさん 〜君の性差〜:03/05/06 02:55 ID:qbInuofr
sagd
44 :
名無しさん 〜君の性差〜:03/05/06 03:21 ID:e91VM+lK
オナニースレ?学問的に通用するなら論文発表すればいいのに。
>>44 何を難癖をつけているの?
フェミニズムの不当性(虚無主義)や、それへの対処などについての話だよ。
中教審は「国や郷土を愛する心」を教育基本法に盛り込むと言ってはおるが、
それを実現するためには男女平等を目指す
新しい公共心とやらの上になりたっていなくてはならないようだ。
つまり、つまらぬジェンダーフリー思想を強制させており、
社会的性そのものの違いと役割を崩壊させようとしている。
売国奴政治家福田康夫とやらはこれを『結果の平等』ではなく
『機会の平等』だとかいって肯定し、中途半端に、結果と機会の
違いをしたった馬鹿どもにうけのよいようなことをいっている。
売名行為をしてるようである。
郷土を愛する心には、日本人の場合、女人禁制的名所は各地に
ありそれを敬い、サンクチュアリーだとしている者が多いわけだし、
土地や田舎で一番の楽しみであるものは、やはり『男』の躍動たる
祭りである。
『いつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
女子供は、すっこんでろ』的なものが一番の楽しみであることが多いのではない
だろうか?
中教審の言うような歪められた愛国心の上では勇ましき日本男児が生まれるわけはなく、
美しき大和撫子が生まれるわけがない。
47 :
ロニー:03/05/10 00:17 ID:7vdGx/ZM
>>42 >燕雀氏
前スレは書き込み量の多さから1000に達する前に落ちてしまいました
僕もかちゅーしゃは持ってないのでDAT落ちのスレは読めません
このスレから読み始める人のためにもできる限りわかりやすいように表記していくことにします
燕雀氏も気楽にご参加ください(と言ってもペースが遅いのでストレスを感じさせるかもしれませんが)
>>46 おもしろい意見ですね
愛国心の育成には土着的な慣習や伝統と接することが必要という意見は至極もっともに思えます
われわれは良きにしろ悪しきにしろ様々な伝統なくして生きていくことはできませんし
そのような伝統を、伝統という理由だけで破棄してよいはずがありません
しかし逆に、伝統という理由だけで破棄してはいけない理由になるわけでもありません
確かアインシュタインの言葉には次のような言葉があったと思います
>常識とは偉大なものである、先人たちの知識の賜物であり、それはとても大事に扱わねばならないものである
>しかし、常識を常識であるという理由だけで何の疑いも持たずに受け入れるなら、我々は何の進展もしないことになる
>先人たちのつくりあげた偉大な常識もまた、既存の常識に疑念を抱き、思推することにより産み出されてきたものなのだ
「伝統」もまた「常識」と同じような性質を持つと思われます
ポパーの研究によれば、西洋文化は伝統的なまでに伝統に固執せずにそれを改良しようとしてきた文化であるそうです(教会は除く)
祭りの復古、伝統文化の復古、女人禁制の復古、いたって問題ないと思います
気をつけるべきは、聖域があることではなく聖域を正当化の理由付けにすることでしょう
思えば、最近は特に祭りを見かけませんね
僕が子供のころは神社ごとに祭りがあり、夏休み中、遠くの祭りにまで参加しに行ってたものです
48 :
ロニー:03/05/10 00:57 ID:7vdGx/ZM
>>44 ・個人として軽い返答
このスレの僕の文章を論文として提出するとしたら先生から怒られることでしょう
まず論点が広がりすぎてまとまっていないという点
そして他人の本の切り売りで独自の理論がまったく無い盗作論文として注意されることでしょうね
表現や引用も徹底していません
それでも内容は決してまったく通用しないものではないと考えてます
何度か自分の思考を先生に話したことがありますが、正統的で正当な研究課題(テーマ)として評価してくれました
また、僕の主張は学問としては通用しない理論に過ぎないかもしれません
しかし、それでも僕のようなミスのある主張を受け入れるからこそ学問という場が成立するのです
学問という場が通用しないものを受け入れないならば、それはもはや学問の名に値しません
いかなる学会でもどんなひどい主張の論文でも(論点をまとめるなどの最低限度の礼儀は必要だが)、
それを受け取り、批判し、どこがダメかを指摘し、つき返すことで、学会は生計を立てているのです
それはこう言い換えることができるでしょう
学問はそれとは異なる主張を受け入れる土壌があってはじめて学問足りうる
少なくとも僕は、発表をするとしたら、何でも通る学会よりは内容を吟味してつき返してくれる学会で行いたいと思います
もっとも、この言葉ですら学問で通用しない僕の語る言葉ですから
44から言わせればオナニー主張に過ぎないのかもしれませんね
49 :
ロニー:03/05/10 02:41 ID:7vdGx/ZM
>>44 ・44の発言の内容を吟味
さて、44の言葉ですが
>学問的に通用するなら論文発表すればいいのに。
という言葉を裏を読まないならば、
a「2ちゃんねるで書き込むのは学問として不適切である」という主張になります
反語としてとるならば、
b「論文発表しないのは学問として通用しない」という主張になります
さらに解釈して
b'「論文発表して学問に通用する結果を残せないとそれはオナニーに過ぎない」という主張も吟味の対象としましょう
(ふと僕は学問で通用するかどうかを問題としたかどうか疑問に思ってしまいましたが・・)
>a「2ちゃんねるに書き込むのは学問として不適切である」
まず、それはチキンリキン氏に失礼です
僕は自らの理論を提出するには、それをつき返してくれる相手に行いたいと書きましたが
チキンリキン氏は僕の理論の甘いところを指摘してくれます
彼のおかげで僕は自らの理論を一段高いところに引きあげることができました
このスレにおける彼との議論は僕にとって非常に有用なものです
また、学問に関する議論が学会でなければ不適切であるとも思えません
というのも議論には、異なる2つの主張と2人以上の人間以外に必要なものがあるとは思えないからです(「議論」という言葉を問題視する立場は除く)
議論は剣も甲冑も必要としない、少なくとも議論をする際に相手に拳銃を向け同意しないと撃つというのは僕には議論とは思えません(同意のテロルでも指摘したいのでしょうか?)
議論は学問に所属する人間がいないとできないものでしょうか?、ならば議論をする必要がありません
我々は疑問を持たずに学問界における偉人を教科書のように信仰していればいいということになります
そこには、僕のみにとどまらず世界中のありとあらゆる議論を否定する思考があります
50 :
ロニー:03/05/10 02:41 ID:7vdGx/ZM
>b’「論文発表して学問に通用する結果を残せないとそれはオナニーに過ぎない」
学問に通用する結果を残す前と後でその正しさが変わるということはありません
つまり、44氏は正しさを問題としてないということです
例を挙げましょう
・気象庁の天気の発表で、梅雨入りの時期が変更になった
気象庁の発表前は梅雨に入ってなかったが、気象庁の発表後に梅雨に入ったということではありません
(世界には言葉による謎しかないと考える者ならばそう答えるかもしれませんが)
言葉が変わったところでその日の雨の量や湿度や気温が変化するわけではないからです
もしそのような主張をするのなら、その者は過去の非決定論を主張せねばなりません
他にも例を挙げましょう、
コペルニクス以前には太陽が地球の周りを回っていたことになります
しかし、そのようなことに対する反証はいくらでも出せます
アインシュタインの相対性理論がまだ批判されていたにも関わらずエディントンによる日食の観察による星の位置のズレが観察された
ガリレイにはアリステレスほどの権威は無かったが、ピザの斜塔から落とした同じ比重の球は同時に着地しました
アインシュタインが相対性理論を発表する以前ならば星は見えなかったのでしょうか?
ガリレイが産まれてなければ同じ比重でも重さによって落下速度は変化したのでしょうか?
その可能性を完全に否定することはできませんが、そのような思考は何も産みません
アリストテレスは何度でも「明日からは俺が正しい」と言えばいいのです
しかし、そのような態度は何も産みません、彼を成長させないでしょう
理論は間違いを認めることと間違いを直そうとうする姿勢からその成長を期待できるのですから
自らのタコツボ的世界に閉じこもることにより一切の誤りから回避することは可能です
しかし、ポパーの言葉を借りるならば、そのような態度はその時点で間違っているのです
ただ自らの目を覆うことで色めがねをはずした気でいるだけなのです
51 :
ロニー:03/05/10 03:03 ID:7vdGx/ZM
44の言葉に対して、最後にポパーの擁護をします
ポパー自身、権威主義を嫌悪していたので、ポパーに権威を付けて語るのはその思想に反するかもしれません
僕自身は44氏の言う通り、学問では通用しないでしょう、しかし、ポパーの研究の成果は偉大です
ポパーは様々な分野で様々な理論を提出しましたが、その一つに「確率の傾向性解釈」というものがあります
この解釈は量子力学の多世界解釈に一つの根拠を与え、ポパー自身コペンハーゲン解釈と対立して論争を起こしました
それはコペンハーゲン解釈の「実在の動きを知ることはできない、量子力学において物理学の研究は限界に達し、もうこれ以上の研究は無意味である」
という物理学に対する排斥に対抗して活動したものです
現在では量子力学では多世界解釈の方が力をもってます(多世界解釈がコペンハーゲン解釈の結果と異なっている実験結果が見れるまでは多世界解釈が正しいとされる)
また、ポパーの非決定論は規範研究や法律学などの分野でも評価を得ています
現代思想の名に甘んじてる閉ざされた思想よりはずっと通用していると思いますよ
・・・・・・・・ちょっと大人気なかったかな
52 :
ロニー:03/05/10 04:44 ID:7vdGx/ZM
>チキンリキン氏
遅くなってすみません
僕はもともと議論において理論を厳密に下から積み上げていくことに意味を感じてません(それは確実性の探求となるため)
ですので最初に結論とそれへの道のりを提出した上で好きなところを好きなように批判するのが僕なりの議論のやり方です
チキンリキン氏のやり方に沿わないかもしれませんが、お好きなように批判していただいて結構です
そこからまた議論が発展していくと考えてますので
>「論理、直観主義と実在」
チキンリキン氏の指摘どおり、複数の論理というものは存在します
正確に言うならば、論理の定理は何らかの公理系を取るので、複数の論理的な公理系は存在します
そして前回は、矛盾律と同一律に関してはそれを定理としない公理系は議論に適さないという主張をしました
これに関しては同意いただけるものであると考えます(まことに勝手ですが)
そして今回は僕の趣旨のメインとなるであろう
「議論をするにあたって排中律の採用は議論を実践する際の必要条件である」という主張を吟味します
>排中律 A∨¬A (AまたはAではない)
この問題は僕がチキンリキン氏と議論をはじめた際にも話題にあがりましたね
また、排中律を拒否すると二重否定除去も使用できなくなります
二重否定除去法則(P⊃¬¬P および ¬¬P⊃P)(Pならば[notP]でない および [notP]でないならばP )
この排中律と二重否定除去の拒否を掲げるのがバークリやブラウアーに代表され直観主義ですね
直観主義はラッセルのパラドクスを解決するために考え出されたようなものですが(余談ですが「無限に対する二つの見方」というのが僕の卒論でした、当時の理解はだいぶ甘かったですが)
無限に関する考察は置いておいて、直観主義の実在に対する考え方をまとめることにします
>直観主義とは観念論である
>「存在する知覚されることである」というバークリーの有名なテーゼを数学の場面にあてはめて言うならば、
>直観主義にとって、「存在するとは構成されること」なのである
(野矢茂樹『論理学』第4章序)
53 :
ロニー:03/05/10 05:02 ID:7vdGx/ZM
排中律(AまたはnotA)とは「Aが真であるか、または、<Aでない>が真である」ということです(
>>2との関連)
つまり、排中律は我々の認識とは独立した世界(真理)を想定しています
排中律は我々の認識とは独立に世界があることを受け入れる態度、実在論的態度をとってます
対して直観主義は、我々の認識、構成に内在した概念を中心(真理)としています
それは「証明可能性」です (ここまで『論理学』参照)
すなわち、直観主義者は「証明可能性」と「真理」を混同しているのです(彼らから言わせれば僕の方が間違っているのでしょうが)
これは前に僕が展開した「真理」の「正しさ」と「確実さ」の分離に関わってきます
ポパーから言えば、直観主義者は「真理」と「確実さ」を混同しているのです
そして、そのために相対主義に陥っているのです
しかし、ここで一つの問題があります
それは直観主義が「真理」を問題としており、僕が誤謬を犯している可能性です
もちろん、その可能性は十二分にあります、
僕は自分が正しいことも、直観主義が間違っていることも証明することはできません
僕は形式主義の正しさをあくまで暫定的に保有しているに過ぎません
それは場合によっては信仰と言われるでしょう、ただでさえ、認識と独立した存在を設定することはナイーブと評するのが流行です
しかし、僕は次のように言うことができます
彼らは「証明」と「真理」を同一視しているが、彼らのそのような立場自体は、彼らの流儀に反して、証明されていない(不確実である)
井上氏の言葉を借りるなら、
「確実さを多い求めることが真理を求めることである」という彼らのテーゼ自体が不確実である
彼らは間違っているか、もし正しいとしたら自らの言ってることとやってることが一致していないかのいずれかである
もちろんそれを理由に彼ら(直観主義者)を間違っていると結論づけることはできません(その推論は論理的ではない)
54 :
ロニー:03/05/10 05:47 ID:7vdGx/ZM
さて、「論理としては直観主義論理も決して間違ってない」
それが僕の主張です
直観主義を否定する数学者や論理学者は多くいますが、それは論題とはずれるので置いておくことにします
問題は、「直観主義論理の採用(排中律の拒否)では有意義な議論が不可能である」という僕の主張です
理由をいくつかあげまず
1形式主義ではある命題Pが間違っているということから「Pでない」が正しいことを導出できる
また、逆に「Pでない」が間違っていることから命題Pが正しいことを導出できる
それは議論によって誤りを発見することが真理への接近につながるので、議論が有意義なものとなる
対して、直観主義ではある命題Pが間違っていることを証明せねば「Pでない」が正しいことを導出できない
また、逆に「Pでない」が間違っていることを証明しても命題Pの正しさを証明することにはならないので、Pの正しさを導出できない
これでは議論は不毛な結果となる、お互いが相手のことを「確実に正しいとは言えない」と非難し合い、
「正しいものはない」と絶望に陥るか、「どっちも正しいのだ」とお互いの殻に閉じこもる結果となる
2ある経験命題が確実に正しい、もしくは確実に間違っているかどうかを判断する術を我々はもたない
理論を一切捨てて、知覚要素を集めることで確実さを蓄積しようとする考えもあるが
彼らは不確実さを犯している
それは観察者が常に同一な性質を持つとは限らないということである
アイデンティティ(自己同一性)もまた不確実なものに過ぎない
3したがって、何らかの確実さを共有するそれぞれのコミットメントに退却する結果となる
彼らにとって議論とは彼らがそれぞれ確実だと考えるもの(現実に確実かどうかは分からない)を蓄積していくだけのものに過ぎない
もしくはパズルが解けなくて困っている人間にそれを解いてあげる程度のものとなる
4確実さを追い求める言明は不確実さを排除する結果となる
それは誤りを犯す可能性を排除する結果となる
結果、世界についてではなく、可能性についての議論となる
しかし言明はそれが排除する言明の量だけ世界に対して言及している(反証可能性)
確実さを追い求めることは何も語らないことにつながる
55 :
ロニー:03/05/10 06:18 ID:7vdGx/ZM
直観主義者は二重否定除去法則を拒否します
しかし、二重否定除去法則を拒否するならば
ある命題Pの正しさを証明するには「Pでない」を仮定した時に矛盾を起こす必要があります
逆に言えばそれを起こさねばその命題の正しさは語れません
そして次のようなセリフが飛び出るのでしょう
「『この部屋にロバがいない』とは言えない」
我々は彼の顔を見ながらそしていすの下を覗き込みこう答えるしかありません
「どこにロバがいるのだい?」
彼は一通り、この部屋にロバがいる可能性を排除しきれないことを説明し終えるともはや議論を続けようとはしないでしょう
それ以上の言明は全て不確実な領域なのですから
ただ火かき棒を投げ捨てて部屋を出て行くだけなのです
(W研究者の方ごめんなさい、軽いジョークです 僕はウィトを尊敬しています)
結論を修正してまとめます
直観主義が議論をできないということはない
彼らも議論は可能である
しかし直観主義者にとっては自らと同じタコツボに潜む者との議論しか有意義ではない
なぜならば自らと異なるタコツボとではどちらも不確実だからである
また、形式主義と直観主義との間で議論は可能かどうか、という問いがある
これに関してはイエスであり同時にノーである
「議論において排中律を採用すべきかどうか」というテーマで形式主義者と直観主義者が議論をすることは可能である
しかし、その議論の際には排中律の採用が必要となる
排中律を採用するならば、議論は、原理上、終わり無く続くだろう
排中律を拒否するならば議論は1秒とかからずに終わるだろう
付け加えるならば、原理上結論が出ないとしても、我々は現実に議論をすることによって一つの結論に達することもある
不毛な議論とは結論の出ない議論ではない
議論をすることで何も学ぶことができない議論こそ不毛である
56 :
ロニー:03/05/10 06:39 ID:7vdGx/ZM
このような問題はどこにその問題を発するか
それは「論理はどこに存在するのか」という問題へのアプローチによって生じた差であると僕は考えます
そしてポパーの悪名高い(誉める声もありますが)三世界論はそのような問題を解く一つの理論であると思われます
長くなりましたが
とりあえず努力して分かりやすくまとめたつもりです
議論における論理の採用に関して、多くの疑問点やおかしいところがあると思いますので、指摘してください
自分勝手に走ってしまった感がありますが、ご容赦ください
大雑把に全体を見ていただいた方が批判しやすいのではないかと思ったのです
それでは長文失礼しました
>25
「学問に習熟していると、フェミニズムに説得力を認める傾向にある」
という意見には現時点ではなかなか同意できないものがあります
できれば理由も説明していただけるとありがたいです
意図が把握し易くなると思いますし、私の>25に対する立場も明確になるからです
>俺様さん
>27
学問に特化した部分とフィールドワークの部分が乖離している(しすぎている)
という印象は私ももちました
ただ、私はフェミニズムが政治運動から始まったと読んだ記憶がありますので
>学問に政治性を帯びさせた、という表現にはすこしとまどいを感じます
これは現在の状況ということでしょうか?
>ロニーさん
大変遅くなってしまい、申し訳ありません
またこれ以後も、スローペースが予想されます
ご容赦ください
>29
>・事実と価値
やはり、私が勝手に変換して理解していましたね
価値判断として捉えたり、事実として考えたりして混乱してしまいました
申し訳ない
私には価値と事実の区別が曖昧なのでしょう
以前、当為と可能についての区別がぼやけていたように
価値が事実を導き、事実が価値を問う、仰る通りだと思います
>30
>パラダイム
パラダイムという表現の射程はかなり長いと私も思います
また私の合意癖がでてしまいました
>事実と価値の二元論
事実と価値の緩やかな対応関係、ということでしょうか
私の意見はちょっと保留させてください
>30のように表現する自信がありません
否定する自信もありませんが
>31
>我々は「確実さ」ではなく「正しさ」を問題とすべきである
恐らく、同意できるものだと思います
私が思う「真理」とは、特定のルールに従って導き出されたもので
そのルール内では「真」と言えるもの
わたしが胡散臭いと思う「真理」は、ある特定のルールを超えて全てのルールに
おいて「真」だと主張するもの
ここら辺はなかなか埋まらない溝なのですが、「確実さ」ではなく
「正しさ」を問題にする態度というのは私の考えに抵触しないと思います
>なぜならば、いかなるものも、いかなる条件においても、その確実さを証明することはできないからです
同意します
>33
>民主主義
民主主義は便利に使われる概念ですが、その内容は様々な捉え方をされています
私のイメージでは、治められるのが民ならそれを治めるのも民、というかんじなのです
一般的に社会が民主主義に対して持つ良いイメージは、民主主義自体に対して私にはありません
かといって、悪いイメージがあるわけでもありません
>少数意見を尊重するというのが民主主義なのだ
というのは、私にとって至極もっともだと思えるものではあるのですが
私の民主主義に対するイメージから必然的に導かれるものでもありません
>・民主主義は極めて素晴らしい妥当な政治スタイルであるが、多数決をもって何らかを正当化することはできない
同意します
>正当化
言葉に対して十分に自覚していない所がでてしまいました
もちろん、ロニーさんの主張から「正当化」が絶対的なものを指すことくらいは
理解するべきで、私のミスです
意識してはいませんが、混乱させるのを意図しているのでは?と自分を疑います
ごめんなさい
>34
>しかし、ここでクーンは単一の言葉に二つの意味をのせていることになります
たしかに、クーンはもっと概念の使用の仕方に慎重になるべきだったかもしれません
そこは責められてしかるべきですし、指摘があればクーンは撤回したと思います(勝手な想像ですが
>僕が想像するに、クーンの答えは一つしかないのではないかと思います
よろしければ、その答えを教えていただきたいです
>ポパーは相対主義者です、ただし、それは「確実さ」に関して限定されます
私がポパーに対して得た印象は、知識に関しては悲観的で、意思に関しては楽観的
というもので、かなりバランスが良いと思いました
それは、私の望むスタンスとも重なります
客観的な真理というと、やはりタルスキの真理概念を把握しなければならないと
思いますが、パッと見た感じでは何も表現していないように思えてしまいました
これについては、(というか、も、ですが)後で書き込みたいと考えています
トリップを失くしてしまいましたが、とりあえずこのままトリップ無しで続けるつもりでいます
今日はこの辺で終わります
61 :
ロニー:03/05/16 23:59 ID:Lw2BR7wY
今週は土曜に書き込もうと思ってたのですが
ちょっと用事が入って書き込めないかもしれません
来週は土曜まで忙しいので
次の書き込みは明日書き込めなければ来週の土曜になると思います
>チキンリキン氏
トリップはなくても問題ありません(僕もトリップをつけてませんし)
もし騙りが出るなどしたらその場に応じてトリップを要請します
逆にトリップがあれば便利であれば言ってくれれば僕もつけます
62 :
山崎渉:03/05/20 04:48 ID:LzrfvgVP
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
>ロニーさん
とりあえずこちらから・・・
>61
>トリップ
これまでの経験から、私にはトリップ必要ないと思います
ロニーさんにトリップがないのも不便ではありません
問題が起こるまでこのままでいきましょう
>35
>「疑わしきは被告人の利益に」
ということが、客観的な正しさとどのようにつながるのか
わかりませんでした
裁判では被告人の(客観的)行為が問題になっているとして、
その行為を立証(被告の主張に反論)できないことが
客観的真理を問うていることになる、ということでしょうか?
質問すらしっかりできないです
ごめんなさい
>・先送り問題1「通訳不可能な関係における合理性の指針」
理由・1・2・3 すべてにおいて私は同意するものです
私が自分の判断を信用するとしたら、その理由は私が間違いを犯さない
からではありません
私が間違いを修正できると信じるからです
ごめんなさい、ここら辺はあとでまとめて書きます
>36
>ポパーはコペルニクスに対して批判的です
私に、異議はありません
全く同感です
>ただ、議論の世界、すなわち客観的世界において否定すればよいのです
議論の世界が客観的か、はさておき、ここら辺もあとでまとめて書きます
>37
>言葉が何もなしえないというのは虚無的です
>言葉によってすべてが決定されるというのもまた不合理です
そう思います
ただ間違いは不可避であると私は考えているのですが、それでも不毛だとは
考えていません
>まとめ
私が求めているものは「それが確実なのか」ということなのでしょうか・・・
う〜ん、わからないw
って、自分でわからなくっちゃしょうがないですね
>なぜならば客観的な理論の正しさと個人的な理論の選択は論理的には無関係な間柄だからである
なるほど・・・しかしそれでは信仰あるいは倫理の話になってしまいそうですが・・・
私がもともと予想していた議論の形は、義務倫理と・・・度忘れしましたが・・・功利主義
の対立のようなものになる(私が功利主義)ということでしたが・・・
理解間違ってしまいました?
>民主主義
彼が正当化に囚われているというよりも、選挙民やその他支持母体が正当化思考に
囚われているからだと思います
政治家はパフォーマーですから、聴衆の望むパフォーマンスをする必要があります
それと、ロニーさんの考える民主主義は、反証主義とリンクしているのですか?
私の考える民主主義は、〜主義とはあまり結びつかないのです
さて、
>先送り問題2「論理、直観主義と実在」
ですが・・・まだあまり理解していません
ごめんなさい!
これは更なる説明を催促しているわけではないです
論理学の本は買ったのですが、なかなか・・・
しかし、ここを越えないと私の返事のまとめが書けないですし、
前に進まないと!!
今日は終わります
65 :
ロニー:03/05/21 20:26 ID:OodFFjta
時間ができたので少しだけ
>チキンリキン氏
>>58 >>30のように表現する自信がありません
>否定する自信もありませんが
>>30の文章は僕にとってとても重要な部分です
というのも、何人かの著名な学者を含めて、彼らは勘違いをしていると僕は考えているからです
事実と価値がそれぞれ独立しているだけならば混同しにくいでしょう
しかし、事実と価値の掛け橋となりうる第三世界が存在します(マッキー『倫理学』より)
全てが単一な世界において論理的に成立する関係にあるというのが重大な誤謬であり
論理が適用できない関係があるのだと思います(事実と価値もまたその一つ)
それは論理そのものに対する誤謬です
>私が思う「真理」とは、特定のルールに従って導き出されたもので
>そのルール内では「真」と言えるもの
>わたしが胡散臭いと思う「真理」は、ある特定のルールを超えて全てのルールに
>おいて「真」だと主張するもの
なるほど、確かにそのような意見もあります
しかしそれは対応説とは異なりますし、僕はその意見は間違っていると思います
理由はこうです
・その言明が指摘するものは常に「真理」そのものではなく「真理」の言葉です
・しかし、上に反してその主張をする者は自らに対してだけはそのルールを適用できない(これは論理的に間違っていることを意味しません)
・それはその言明を支持する十分な理由はないということです
・ポパーの言葉を借りるならば「何も語ってない」という言葉が適切でしょう
>客観的な真理というと、やはりタルスキの真理概念を把握しなければならないと
>思いますが、パッと見た感じでは何も表現していないように思えてしまいました
とありますが、対応説の真理観についてまとめることにします
66 :
ロニー:03/05/21 20:48 ID:OodFFjta
・対応説の真理観
>・理論とか命題は、その理論によって記述された事態が実在と一致するとき、真である
というのが最も簡潔に語っているでしょうが、これでは何を言っているか分かりません
そこで、ポパーの「言明の語る内容はその言明が排除する言明の量によって図ることができる」というもので見てみることにします
対応説の真理が排除するものはこうです
それは整合説の真理、すなわち「つじつまがあってれば真理である」という考え方を排除してます
それは「論理や数学ですら真理としては不十分である」というのが対応説の立場です
このような言葉は数学者から幾ばくかの抵抗を受けるので大々しく言うのは僕は抵抗がありますが
僕の先輩もまたはっきりとこのような言明をしていましたし、著名な数学者もまた理解していることなのです
それは「数学的真理」と「真理」は異なる、ということです
さて、ここで一つの批判を受けたいと思います
それは数学的真理が「真理」でないならば、それは間違っているのか、という批判です
答えは違います、数学的真理は「真理」でも「真理でない」でもありません
しかし、それは前回に僕が言った拝中律に反しそうなものです
しかし、これは拝中率に反しません、というのもその言明の語る領域が異なるからです
すなわち論理がどこに存在するかという点で批判者は誤りを犯しているということです
では、仮に対応説がそのような数学的真理を排除しているならば、何をもって「真理」とするのか、と質問されるでしょう
それは言明と事実の対応です
端的に表現するならば実験です
「今雨が降っている」という言明は「今雨が降っている」という事象と合致する限り「真」なのです
「ある実験をすると結果はこうなる」という言明はその実験が失敗しない限り「真」なのです
では数学はどうでしょうか?
僕は簡単に反例を挙げることができます
「ユークリッド幾何平面に描かれた三角形の内角の和は180°である」という言明が正しいかどうかを分度器を使って調べる数学者はいません
分度器を使用して証明に成功したという数学者が出現するまでは、僕の主張は批判に耐えていると言えそうです
67 :
ロニー:03/05/21 21:17 ID:OodFFjta
さて、このような対応説の主張には次のような反論があるでしょう
>それが「真理」であるとどうして分かるのか、全ての人間は何らかの期待をもつ(期待をもたない人間はいない)
>そして期待は観察を阻害する、中立的な観察などありえない
この批判はそのとおりです、我々は中立的な観察は達しがたいものですし、仮に達したとしてもそれが確実に中立かどうかを知る方法はありません
それはそれが「真理」であるかどうかは<確実には>分からないということです
しかし「真理かどうかが確実には分からない」ということと「真理がない」ということは異なります
それを同じだと解釈するものは「正しさ」と「確実さ」を混同しているのです
とりあえずこのように言うことができます
その実験が成功したならばその実験への言明(理論への言明ではない)は「真」である、と言うことができます
さて、このような対応説の主張がチキンリキン氏の真理観に飲み込まれないように少しだけ権威付けをします
このような対応説の主張はどのような者が行ったか
当然ながら、数学者アルフレッド・タルスキー、そして、僕の敬するK・R・ポパー
思想史の流れとしてはカントからと見ています(「わたしは言明がその内容と一致する時に真であると言おうと思う」と書いてあります)
ほかにも数学者ヒルベルト(直観主義論理に対する形式主義の主張の際の言明は彼が対応説であることを窺い知れます)
そして数学者ゲーデル(不完全性定理の証明の際の区分けから)
また、物理学者マッハ(彼は「理論の正しさは実験によって証明されたものを基本としなければならない」と言ってます)
そして物理学者アインシュタイン(マッハの弟子の彼も実験を重んじています、もっとも彼の理論の方法論はマッハの方法論とは反するのですが)
そして、おそらく多くの科学者、物理学者がこのような立場をとることでしょう
2ちゃんねるの理系板でもありましたね
文系からの書き込みで「理系のテストの『ただし糸の重さは無視する』という文章を見てなんていい加減な分野なんだと思った」というレスに対して
理系から「それが正しいか間違っているかは実験をして判断しなさい」というレスがありました
68 :
ロニー:03/05/21 21:32 ID:OodFFjta
ゲーデルとヒルベルトの対立は有名ですし、マッハとポパーは実在論で、アインシュタインとポパーは決定論で
マッハとアインシュタインは物質の構成要素について、対立し、数々の議論をしてきました
彼らは議論を通じてお互いに批判しながらも、彼らが「真」であるかどうかを判断する根拠は同じであったと思われます
と、とりあえず対応説の真理観についてまとめてみました
加えて、
>私がポパーに対して得た印象は、知識に関しては悲観的で、意思に関しては楽観的
という文章にレスをさせてください
僕はポパーは知識について楽観的であると思います
しかし、チキンリキン氏が「知識とは実証的知識である、すなわち確実な情報を意味する」と思うのならば、チキンリキン氏の解釈も正しいと思います
ポパーは「確実な知識」に対してはどこまでも悲観的です
我々は確実な知識を手にすることはできない、もし杞憂に悩まされている人がいるとすれば我々は彼を立ち直らせる手段を持たない
そうポパーの文章にはありました
しかし、ポパーはそれでも科学的知識は確実ではないが(間違えているかもしれないが)十分に信頼するに値する
むしろ、科学的知識は間違えているかもしれないからこそ、信頼に値するのだ、それがポパーの主張です
確かに我々の手にする知識は不確実なものかもしれません
もし間違いを恐れて、二度と不確実なものを手にしたくないと思う者からすれば、それはとても悲観的な事実です
しかし、我々の知識が間違っているかもしれないからと言って、それが間違っていることを意味するわけではありません
もしかしたら正しいかもしれません、未来においてもずっと世界と合致し続けるかもしれません
また、仮に間違ったとしても、われわれはその間違いから、さらなる理論を合理的に導き出すことができます
それは間違っているかもしれませんが、絶対に間違っているわけではありません
もしかしたら正しいかもしれませんし、未来においてもずっと世界と合致し続けるかもしれません
69 :
ロニー:03/05/21 21:32 ID:OodFFjta
間違っているかもしれないということと現実に間違っていることは違います
次のような言葉があります
想像の中の千円札と現実の千円札は異なる
現実の千円札はものを買うことができるが、想像の中の千円札では何も買うことができない
時間がないので今日はこの辺で
次回は土曜に書き込みます
それでは失礼しました
70 :
山崎渉:03/05/21 22:58 ID:0vKh+CM2
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
71 :
ロニー:03/05/23 23:28 ID:QensypWB
今日は民主主義について軽くまとめます
>民主主義
チキンリキン氏の指摘するとおり、僕にとって(またポパーにとっても)民主主義と反証主義はリンクしています
>私のイメージでは、治められるのが民ならそれを治めるのも民、というかんじなのです
これが民主主義に対する一番の誤った理解だと僕は思います
いかなる民主主義を表明する国家も民が政治を治めている国家は一つもないからです
この日本もまたそうです
この国では僕が(あるいはそこを歩いている若者が)政治を治めているでしょうか?
僕は具体的な提案を議会に提出することもできなければ法案の可決に一票を投じることもできません
緊急事態に国家の行動を決定することもできなければ不信任案の提出もその可決に投票することもできません
これは僕に限られたことではありません
政治を治めるのは国民ではなく政治家です
我々国民が現実に政治に携わる上で実行可能なのは政治家を罷免することだけです
72 :
ロニー:03/05/23 23:30 ID:QensypWB
ここでポパーの言葉が重要になります
>「誰が政治を治めるべきか」、そういった質問は私にはとても意味がないことのように思える
>「民が治めるべきである」という言葉ですら
>重要なのは「どのような政治システムにすれば我々は最悪の事態を回避できるのか」ということである
民主主義というシステムは、誰が政治家となり、首相、大統領となろうとも、
それが独断に傾いたときに暴力の必要なくそのような権力者を罷免できるシステムです
民主主義は時として多くの不満を残す現状となるかもしれません
しかしそれでも我々は天国を目指そうとして地獄をつくってしまうケースが多々あります(『開かれた社会〜』のポパーのユートピア主義批判より)
ドイツのアドルフ・ヒトラーも民主主義によって正当に選ばれた首相です
そして彼は民主主義的に民主主義の理念を否定する法律(緊急時における議会の承認なしの法案可決)を通しました
レーニンのロシア革命も、中国の文化大革命もまた(同列に扱うのは好ましくありませんが)
多くの、ほとんどすべての国民の支持を受けながら、それらは残虐な血の歴史を歩んだのです
それらに参加した者は皆地獄をつろうとしたわけではありません
戦争を、あるいは貧困を望んだわけではありません
それでも、我々は幸福を追求しようとして不幸に陥ることは多々あるものです
ポパーは『西側は何を信じるのか』という講演で、
我々が誇っていいのは「資本主義が共産主義より優れている」とか「東側は間違っていて西側は正しかったのだ」などといったことではない
我々が誇るべきは我々が一つの思想をユートピアとしなかったこと
良きにしろ悪しきにしろ多くの思想があることが許され、良きにしろ悪しきにしろ多くの発言が許されることなのだ、と述べています
(ここで注意すべきは多くの意見がただ存在することではなく、「良きにしろ悪しきにしろ」と付け加えられていることです)
73 :
ロニー:03/05/23 23:54 ID:QensypWB
我々は一つの意見を正当化してその他を排除すべきではない
一つの主義、システム、法案を多くの意見の中からより良い意見として採用すべきなのです
もちろんそれは予想とは裏腹に失敗に終わるかもしれませんし、悪い結果を引き起こすかもしれません
(しかし、失敗したわけではありませんし、必ず失敗するわけでもありませんし、もしかしかたら未来に渡ってずっと失敗しないかもしれません)
そして仮に失敗に終わったとしても、それでもなお一つの思想に固執することなく時と場合によっては手段を変更できる
それを非暴力的に行えるのが民主主義というシステムであると思います
ふとあるプログラマーの言葉を思い出しました
「全ての生命はexperience(経験、実験)である」
民主主義とはexperienceによって政府をより良く治めていこうとするシステムであり
それは反証主義、科学主義のような非正当化合理主義によってその意義を十二分に引き出せると思います
ですから民主主義において少数意見を尊重するというのは何よりも重大なことです
いかなる意見でも議論の場においてはそれらの意見は「一つ」という同じ数の意見です
そして議論の場において批判という吟味にかける
それが少数意見を尊重するということです
少数意見を尊重することと少数意見を採用することは異なります
少数意見を尊重するとはその意見を批判にかけることです
そして意見は投票によって決定されるのが良いでしょう
その際にはある数学者(名前は忘れました)が主張した投票の原理に反しないことが重要であると思います
74 :
ロニー:03/05/23 23:59 ID:QensypWB
時間がないので多数決の原理に言及することができませんでした
もしチキンリキン氏が多数決原理よりも優ると考える採用原理があれば提出してください
それでは今日はこの辺で、続きはまた明日に
失礼しました
>燕雀さん
>42
前スレ見られないのは、残念ですね
私も見返せないので、自分の記憶を頼りにする以外にないのですが
それも十分に正確ではなく、困っています
議論のペースを遅くしているのは私ですが、よろしければ議論への参加を
お願いします
>44
学問として通用しない理屈を主張することがオナニーであるのなら、
普段私たちの接する主張はその殆どがオナニーだと思います
そうであるのなら、私のオナニーへの罪悪感や恥ずかしさは幾分
減じる方向に向かうことでしょう
これで気兼ねなく理屈を主張できるようになるかもしれません
ありがとうございます
>擬古侍さん
>46
私は日本人男性ですが、勇ましき日本男児だとは思わないので居場所が無くなってしまいそうですね
さて、「愛国心」を押し付けられるのは中教審であれ政治団体であれ遠慮したいと思うのですが
伝統に根ざした「愛国心」は尊重されるべきだと思います
ただ私は、伝統とは何かという問いに対して明確な答えを用意できません
擬古侍さんは、例えばどのようなものが伝統(歪められていない愛国心)であると
考えていらっしゃるのでしょうか?
私自身は、伝統というよりは継続させること、保つことについて日本人は非常に積極的(妙な言い方ですが)
であると思います
丸山真男はこのことを、日本文化の執拗低音と表現していたように記憶しています
>ロニーさん
お待たせしてしまい申し訳ありません
今日も間に合わなかったみたいですし・・・
>52-56
>「論理、直感主義と実在」
まず、この論点についての数々の配慮を大変感謝します
理解する上で、多くの後押しをしていただきました
すこし直感主義のことを学び、調べてみましたが、私の採る立場とは違うようです
これは、議論する上での立場としても、真理観としてもです
矛盾率と同一律、排中律と二重否定除去が私の考える議論には必要であろうことも
同意します
二重否定除去については、かなり解っていなかったりしますけど・・・
さて、私とロニーさんは議論をする上で必要だと考えていることについて
多くの重なりがあるようです
これは、議論における矛盾等のことがらについて私達の意見が一致することが
多いであろうことを意味しているのでしょう
そして、ロニーさんは(例えば)排中律を採用しない者との議論はできないと
主張しています
それにも、私は同意します
>52-56
私は、同じ立場(論理)内でその主張の矛盾を問い得るという立場でした
立場(論理)を跨いでの議論において、ことなる論理に従う主張の
矛盾を問うことは非常に困難だと考えていたのです
つまり主張の矛盾を問うことが、私とロニーさん間での議論と
私と排中律を採用しない者との間の議論では、前者のほうで
より容易であるといえることになります
ある意味では、排中律を採用してもしなくても構造としては蛸壺(風)
だと私は考えているのでしょう(相対主義者らしく)
誤解がないように言っておく必要がるかもしれません
私は自分の採用する立場は、自分の考える問題を解決するのに
ベストだと信じています
また、私の採る立場は多くの人に受け入れられている妥当なものであるとも
信じるものです
私は、排中律を採用することのメリットに異議があるわけではありません
ただ、排中律を採用しないことにメリットを見出すものを否定しにくいということなのです
グダグダと書いてしまいました
申し訳ないです
>65
>30について
>事実と価値の二元論ですが、僕はこれを数学的なものと同じように見ています
>・三角形の内閣の和は二直角である
>・現実の三角形は・・・
>という関係と同じようなものと見ていますし
>そして
>・三角形の内閣の和は二直角より大きい
>・現実の三角形は・・・???
>このような関係が価値と事実にもあてはまり、そしてこれはパラダイム論にもあてはめることができるでしょう
重要な点であるということなので、理解を明確にする為に質問することを許してください
上の三角形の例えが三角形の概念と事実の対応を指し、
下の三角形の例えが価値と事実の対応を指していると理解してもよろしいのでしょうか?
仮にこの理解が正しいとしても、ピンときてはいないのですが・・・
>しかしそれは対応説とは異なりますし、僕はその意見は間違っていると思います
>理由はこうです
>・その言明が指摘するものは常に「真理」そのものではなく「真理」の言葉です
はい、そう思います
>・しかし、上に反してその主張をする者は自らに対してだけはそのルールを適用できない(これは論理的に間違っていることを意味しません)
これは、クーンがパラダイム外に向かって「正しい」と主張するようなことでしょうか?
これ以降のステップは、とりあえず保留させてください
>66-67
>対応説の真理観
うーん、私は語る領域がないからこそ数学や論理は真理を語れると
思っていたのですが・・・
これは、正しさではなく確実さを問題にしているからでしょうか?
やはり、私はロニーさんの真理の概念を把握しているとは言えないようですね
>しかし「真理かどうかが確実には分からない」ということと「真理がない」ということは異なります
「真理かどうかが確実にはわからない」は、確実という言葉を付けることの意味を量りかねています
勿論「真理かどうかがわからない」と「真理がない」とは異なることには同意します
同時に、私自身は「真理がない」と主張しているのではなく、
「真理かどうかは問題にしない」という立場を採用しているつもりです
>その実験が成功したならばその実験への言明(理論への言明ではない)は「真」である、と言うことができます
ここで、以前ロニーさんがクワインを論点として出された時の事を思い出すのですが
クワインについて読むうちに「これは塩を送ってもらっているのだろうか?それとも
自分の理解が間違っているのだろうか?」と悩んだものです
というのも、クワインは実験(あるいはそれ以外の方法)による仮説に対する反証というものの効力に疑問を
投げかけていたからです
そして、それは正しいと思うのです
この答え方で正しいのか、については自信がありませんが・・・
>68-69
>僕はポパーは知識について楽観的であると思います
前スレでロニーさんが、「ポパーはいやになるくらい悲観的だ」ということを
仰っていたのが頭にあったのでしょう
ごめんなさい、撤回させてください
>むしろ、科学的知識は間違えているかもしれないからこそ、信頼に値するのだ、それがポパーの主張です
そのとおりだと思います
>確かに我々の手にする知識は不確実なものかもしれません
私は、確実な知識しか手にしたくない!と望むかもしれません
しかし、それは不可能だと感じます
では、不確実なら知識は必要ないと思うでしょうか
どうも私はそのようには思わなかったようです
自分の信じる基準(その多くはロニーさんの基準と重なると思いますが)によって
不確実であることを知りながら自分の立場を選択し、知識を得てきたのです
そして、それらの多分に不確実な知識は、私の問題を解決する大きな助けとなりました
私が「真理」を問わないとするのは、いままで「真理」を問わなくても
不確実な知識で問題を解決してきたと信じるからです
そして、「真理」を問えば問題解決が上手くいくという見通しもまだありません
私は間違うことを恐れているかもしれません
しかし、これは私の採る立場とは無関係であると主張します
>現実の千円札はものを買うことができるが、想像の中の千円札では何も買うことができない
うーん、私は物を買っていると信じていますが、それは想像しているだけかもしれません
いまのところは、不都合は感じていないとしか言えないでしょうね
>64の修正
>私の考える民主主義は、〜主義とはあまり結びつかないのです
というところを
私の考える民主主義は、どんな主義とでも結びつくのです
に、変更させてください
>71
>これが民主主義に対する一番の誤った理解だと僕は思います
これは、民主主義の定義のようなものを示したかっただけなので
現実の政治は念頭になかったのです
ごめんなさい
ただ、民主主義という概念がどのような主義とも結びつくという意味で
中立であるという主張は妥当だと考えています
今回で追いつこうかとはりきってみましたが、限界ですw
うさぎとアキレスみたいですが、この場合アキレスが前にいるので追いつくのは
厳しいですw
実際まだ、後回しにしてしまっているところも多いですから・・・
私にしては、かなり頑張って急いでしまったので
いつもにもまして、解りにくい文になっていることを恐れています
不明確なところの指摘をお待ちしています
今日はこれで終わります
と思いましたが、やはりこのままでは寝つきが悪くなりそうなので
形だけでも追いついてしまいましょうw
>71
には基本的に同意なのですが
>我々国民が現実に政治に携わる上で実行可能なのは政治家を罷免することだけです
のところは、重箱の隅をつつくようですが、我々のできる主なことは政治家の任免だと思います
>72-73
>我々が誇っていいのは「資本主義が共産主義より優れている」とか「東側は間違っていて西側は正しかったのだ」などといったことではない
>我々が誇るべきは我々が一つの思想をユートピアとしなかったこと
>良きにしろ悪しきにしろ多くの思想があることが許され、良きにしろ悪しきにしろ多くの発言が許されることなのだ、と述べています
まさにその通り!
このような、多様性がシステムの硬直化を防ぐのでしょう
もちろん、思想の弾圧はいつの時代でも無くなりはしないのですが・・・
>我々は一つの意見を正当化してその他を排除すべきではない
同意です
しかし、ここの件は知識のところと(>68あたりの)似ていると感じましたが
構造として重なっているということでしょうか?
いや、恐らく重なっているのだとは思うのですが
>その際にはある数学者(名前は忘れました)が主張した投票の原理に反しないことが重要であると思います
差し支えなければ、その原理の内容を教えていただけないでしょうか
>74
>もしチキンリキン氏が多数決原理よりも優ると考える採用原理があれば提出してください
思いつかないです
全員一致は、多数決の最たるものですし・・・
異議はありませんが、ロニーさんの多数決の原理というものに非常に関心があります
これも、差し支えなければ教えていただきたいです
今日はこれで終わりにします
83 :
ロニー:03/05/24 20:29 ID:uMeJWDl4
>チキンリキン氏
レスありがとうございます
容量が多くなったのでまた整理する必要がありそうに思います
とりあえずはチキンリキン氏のレスにいくつかの返答をつけることにします
そしてそのあとにいくつかの項目に分けて整理しようと思います
>>60 ・>クーンについて
>たしかに、クーンはもっと概念の使用の仕方に慎重になるべきだったかもしれません
>そこは責められてしかるべきですし、指摘があればクーンは撤回したと思います(勝手な想像ですが
ええ、クーンは撤回したかもしれません、しかしそれは言葉のみの撤回だったでしょう
クーンの心情はおそらくはその言葉どおり、彼は科学の発展を信じていたのだと思います
しかし、なぜクーンは自らの心情と自らの言葉を分離せねばならなかったのか
その理由はクーンの職業的な配慮であると思われます
クーンは科学者ではありません、科学史家すなわち歴史家に属する者です
クーンは自らのパラダイム論とは異なり、自らの言葉はそのような科学的営為とは離れた中立的視点に立って記述すべき立場なのだと思います
対してポパーの理論は反証可能性を含めてそれらは科学的であることに常に焦点を当てています
ポパー自身も数学や物理学を進んで学び教員を志した科学者の一人です
クーンは記述者、観察者であるのに対して、ポパーは探求者なのです
それがクーンが「正しい」と発言できないと僕が考える理由です
84 :
ロニー:03/05/24 20:57 ID:uMeJWDl4
>>63 >裁判では被告人の(客観的)行為が問題になっているとして、
>その行為を立証(被告の主張に反論)できないことが
>客観的真理を問うていることになる、ということでしょうか?
裁判における立証とここで問題となっている実証とは異なるということです
裁判の立証において問題としてるのは、「現実に世界で何が起こったのか」ということです
対して「疑わしさ」が問題にするものは「我々の脳の知覚の不正確さ」の問題です
客観的世界をそのまま知覚できるほど我々の脳は正確ではありません
客観的世界を考察しようとする限り、我々が問題にするのは脳ではなく世界なのです
脳が不正確だから客観的世界の考察に意味がないと主張する者がいたとしたら、その者は脳と世界とを混同しているのです
そして脳における問題を世界における問題と誤って思い込んでいるのです
(もちろんこの僕の主張には「現実世界が真理である」という一つの思い込みがあります
以前は僕はこの点を確実と思い混同していましたが、チキンリキン氏との対話で態度を変更した箇所です
現在では論理的な構造は異なり現実や真理に対する見方がより区別できるようになりました)
>議論の世界が客観的か、はさておき、ここら辺もあとでまとめて書きます
議論の世界は客観的か、は面白い問題です
僕は議論の世界は客観的なものであると考えます、なぜならば議論は誰の主観でもないからです
「いや誰の主観でもある」という批判もあるかもしれません
それには次のように答えることができます、
・議論は確かに主観なくしては成立しないかもしれない、しかし、議論が属する世界はいかなる主観からも自律している
チキンリキン氏の言葉は僕の幻想ではありません、その言葉を僕の脳が勝手に作り出したと思うほど僕は自分の脳が偉大だとは思いません
また僕はそのようなチキンリキン氏の言葉から何かを学ぶことができます
それはチキンリキン氏の主観であるかもしれません
しかし、チキンリキン氏の言葉から僕自身の思考をより洗練することができた今、
それはもはやチキンリキン氏の主観とも僕の主観とも、そのどちらとも自律しているものだと言うことができます
85 :
ロニー:03/05/24 21:28 ID:uMeJWDl4
修正
>そのどちらとも→そのどちらからとも
>>64 >ただ間違いは不可避であると私は考えているのですが、それでも不毛だとは
>考えていません
>私が求めているものは「それが確実なのか」ということなのでしょうか・・・
ええ、確かに「誤りから逃げる者はすでにして誤っている」というポパーの言葉に僕も賛同します
しかし、間違いは不可避ではないです、間違いの可能性が不可避なのです
この点を混同することは「確実さ」と「正しさ」の混同を呼びかねません
>なるほど・・・しかしそれでは信仰あるいは倫理の話になってしまいそうですが・・・
形而上学と科学の区別です
「個人として何かを正しいと信じること」と「それを正しいとするのが妥当であること」は異なります
これは倫理としても語ることができると僕は考えています
というのも倫理もまた今回の議論の焦点となった三世界の関係による誤謬可能性を多いに孕んだものであると僕は考えているからです
(サールの自然主義的誤謬批判などはその誤謬の一つ)
>私がもともと予想していた議論の形は、義務倫理と・・・度忘れしましたが・・・功利主義
>の対立のようなものになる(私が功利主義)ということでしたが・・・
僕はロールズを好みますし、ロールズと同じくカンティアンなので義務倫理的でしょう
ポパーはどちらかと言えば功利主義的です
しかし、ポパーの功利主義は他の功利主義とは大きく異なります
まずJ・S・ミルへの大きな批判があったのですが、内容を忘れてしまいました
しかし、それ以外にも功利主義の題目「最大多数の最大幸福の追求」に関してポパーは批判的です
ポパーの功利主義テーゼはおそらく次のようものになるでしょう「最大多数の最大不幸の除去」
しかし、これらの論争はたいてい論理的な問題へと移行するのが大半なので、おそらくは別の大きな問題の副次的なものなのではないかと考えています
86 :
ロニー:03/05/24 22:10 ID:uMeJWDl4
>>77 >私は、同じ立場(論理)内でその主張の矛盾を問い得るという立場でした
>立場(論理)を跨いでの議論において、ことなる論理に従う主張の
>矛盾を問うことは非常に困難だと考えていたのです
僕は、自らの理論の中で矛盾した言明を主張するほど無茶な思考回路をする人は少ないと考えます
そして何より論理的に正しいことはその言明の正当性を一切保証しません
これは論理は何も語らないからです
ドイツの学者ハンス・アルバートがミュンヒハウゼン・トリレンマを主張するように
論理の中にすでにして正当化の限界が内包されているのです
論理の多くの功績の中で、我々は論理は世界について何かを語るとか何かを正当化するとか考えるようになりましたが
しかし、それがすでに間違いであり、論理は世界について何も語らない、一つの形式的な道具に過ぎないのです
論理的に正しいということはおそらくは何も意味してません
しかし、論理的に矛盾しているということはそれが可能世界にすら存在しないということ(=その可能性がないということ)を意味します
論理は正しいものを探す上では何の役にも立たないが、しかし間違いを探す上では非常に有用な道具です
正確に表現するならば、両立不可能な関係を探す上では非常に有用な道具です
ここではチキンリキン氏がクワインを例に挙げたような問題がありますので、次の書き込みに繰り越すことにします
87 :
ロニー:03/05/24 22:47 ID:uMeJWDl4
>>77 >ある意味では、排中律を採用してもしなくても構造としては蛸壺(風)だと私は考えているのでしょう(相対主義者らしく)
僕もそう考えています、どちらも論理ですから構造は同じです(僕は直観主義論理もまた論理であると主張してます)
しかし排中律の採用はタコツボとはなりません
なぜならば排中律を採用する者は自らへの批判者と議論できるからです
それは排中律の不採用を主張する者とも議論できるということです(その議論が排中律を採用する限り)
対して、排中律を採用しない議論ではその両者は議論不可能です
つまり、排中律の採用者は別のタコツボにのりかえ可能なのです(それはもはやタコツボと呼ぶ必要がありません)
自らのタコツボに閉じこもる者と何らかのツボを切り離すことができないと分かりながらもそれを自己批判できる者
両者をどちらもツボがついているという理由で同じとする必要性は全くありません
なぜならばそのような主張をしている者ですらツボがついているからです
もっとも、これは極端な相対主義批判のためのただの詭弁だという批判もあるでしょう
僕もまたそのような目的への配分は大きいと思います
これは次のような関係に比喩できると思われます
A:宗教的な独断に引きこもり「すべては宗教だから誰も私を批判できない、私を宗教と指摘する者には『お前こそ宗教だ』としっぺ返しすればいい」と主張する者:これがタコツボに閉じこもる者
B:そして「私もあなたも確かに宗教だが、私はあなたの宗教よりわたしの宗教の方が現状では正しいのではないかと考えてこちらを選ぶ、
しかし、私は実際はあなたの方が正しいかもしれないと考える、だから批判を受けてその時点で良いと思う方を選ぶ」:このように主張する者
これらを共に同じ宗教だと言う必要はありません
またそれをさらにメタ・レベルで言及するというのなら同じメタ・レベルでの議論に永遠に付き合うことができます
88 :
ロニー:03/05/24 23:06 ID:uMeJWDl4
原理的には科学もまた宗教の一部であるかもしれません
しかし、科学はその科学という方法や批判的態度を取るという態度にも批判を受けることを原理的に行うことができます
それは科学の正しさを一切示すことはできませんが、しかし、独断に陥らない努力をしていると言えるのではないでしょうか
もはや、すべての宗教を同じ宗教に過ぎないと見なす必要性はありません
我々はアメーバと人間とを同じと見る必要はないのです
アメーバは行く道を間違えたら死にます、だから道を選べません
しかし、人間は間違えたら引き返すことができます、アメーバへと引き返すことすらできます
言ってることは無茶苦茶ですが、このような態度を取ることで相対主義を批判することができます
>私は自分の採用する立場は、自分の考える問題を解決するのにベストだと信じています
ええ、自分が何かを考える際にはそれでいいでしょう
我々は「宇宙人の存在」も「幽霊の存在」も「神の存在」も自分でそう思うだけなら問題ありません
それは宗教として、時には形而上学として、認められるべきものです
しかし、それらが自らの脳を越えて−言葉を通して−外の世界に発せられるのであれば、それらは批判に耐えねばなりません
誰かの本で、
>我々は死ぬと葬式やら何やらで家族や親族、周辺の地域にも何らかの影響が出る
>もはや死ぬことすら個人の領域ではない時代なのだ
という言葉がありました、
我々が一切の批判を受けずに自由に行えるのは脳から出す指令による我々の身体の管理だけなのです
89 :
ロニー:03/05/24 23:32 ID:uMeJWDl4
>>79 >上の三角形の例えが三角形の概念と事実の対応を指し、
>下の三角形の例えが価値と事実の対応を指していると理解してもよろしいのでしょうか?
いえ、どちらも同じ、事実と概念の対応です
どちらも同じであり、見方によっては共約不可能です(下が上を飲み込むという見方もありますが僕は好みません)
>同時に、私自身は「真理がない」と主張しているのではなく、
>「真理かどうかは問題にしない」という立場を採用しているつもりです
井上達夫氏の『共生の作法』でも言及されてますね、
井上氏は概念的相対主義は「その主張を認めたとしても〜」とそれへの批判を繰り出してはいません
僕はそのような立場は個人の立場としては認められてよいと思います
しかし、それは議論や客観性が問われる空間では認められるべきではないでしょう
なぜならば「真理」を問題にしないということはそれが正しいかどうかを問題にしないということです
間違ってもよいならば何でも論理的に導き出すことができます
「真理」は問題にせねばならないと思います
「真理」だけを問題とはしないとする立場は議論に有意義さを与えることはあっても
「真理」を問題とはしない立場は議論を混沌とさせるだけのように思います
もちろんそれは違うかもしれませんので議論によって吟味したいと思いますけどね
90 :
ロニー:03/05/24 23:33 ID:uMeJWDl4
>ここで、以前ロニーさんがクワインを論点として出された時の事を思い出すのですが
>クワインについて読むうちに「これは塩を送ってもらっているのだろうか?それとも
>自分の理解が間違っているのだろうか?」と悩んだものです
いえ、クワインはポパーの意見とは対立しないのです
それどころかクワインの意見はポパーのそれを後押しすらしています
>というのも、クワインは実験(あるいはそれ以外の方法)による仮説に対する反証というものの効力に疑問を
>投げかけていたからです
ええ、疑問が投げかけられる余地は十二分にあります
その点は次回に繰り越すことにしましょう
しかし、ここで僕が問題としているのは、対応説の真理
すなわち、実験への言明と実験との対応です
例えば「今、これからこのピザの斜塔の上から二つの比重の異なる球を同時に落下させると着地も同時である
多少の誤差はあるかもしれないが、その誤差は〜秒以内である」
このような言明は実験によって誤っているかどうかをテストすることができます
この点に関しては対応説の真理を問うことは可能です
それ以外でも「今、このキーボードのKを叩けば画面に『K』が出る」
このような言明も実験によって誤っているかどうかをテストすることができます
対応説の真理を否定するならば実験を語る言明を我々は持ちえなくなってしまいます
確かに我々は何らかの経験世界への言明を正確に表現することは不可能に近いです
また、そこに言語が介入することでいかようにも解釈することができます
言葉だけを見る限りその解釈は特定しようがありません(「これ」とか「今」とか「K」とか)
しかし、それは現実的にそのような実験への言明と実験の対応を比較することが不可能であることを意味しません
91 :
ロニー:03/05/24 23:48 ID:uMeJWDl4
>>80 >そして、それらの多分に不確実な知識は、私の問題を解決する大きな助けとなりました
>私が「真理」を問わないとするのは、いままで「真理」を問わなくても
>不確実な知識で問題を解決してきたと信じるからです
不確実な知識で問題を解決してきたのであれば、それは「確実性」を問うてはいないのです
「真理」を問わないならば、間違った知識で問題を解決してきたということが必要です
>そして、「真理」を問えば問題解決が上手くいくという見通しもまだありません
ええ、「真理」を問えば問題解決が上手くいくという見通しはないでしょう
しかし、問題解決が上手くいかなかったならば、それは何が原因であるのでしょうか
再度、主張します
「真理」と「確実性」は区別すべきです
理論の「正しさ」とその「確かさ」は区別すべきです
>私は間違うことを恐れているかもしれません
>しかし、これは私の採る立場とは無関係であると主張します
そうかもしれませんね、チキンリキン氏の主張を読み、そう思いました
>うーん、私は物を買っていると信じていますが、それは想像しているだけかもしれません
>いまのところは、不都合は感じていないとしか言えないでしょうね
しかし、想像の千円札で現実の物を買うことはできません
現実と想像は簡単に定義することができます
・押したら押し返すものを「現実」と名づけることにする
これはいくらでも例外を見つけることができますが
しかし、言葉でなく、想像と現実が異なる性質を持つことを我々は理解することができます
時間がないので今日はこの辺で
残りへのレスは明日にでも書きます
まとめは来週ぐらいになると思います
それでは長文、失礼しました
>ロニーさん
レスをありがとうございます
私からの返事は、ロニーさんが必要だと考えることを全て書き終えるまで
待たせてください
今回は、自分のレスとそれに対するロニーさんの反応を読んで思ったことを
少し書いてみます
それは私のレスが、私の居心地の良い蛸壺へ引っ込むことを印象付けているのでは
ないか、ということです
前回の私の主張は、内面を強調しすぎる傾向にありこれは議論における返事としては
望ましい方向だとは考えていません
私は議論においてある大きな蛸壺に入っていることは認めますが、私個人の蛸壺に
逃げ込むつもりはないのです
以後注意する努力をします
93 :
亡霊:03/05/25 16:43 ID:O6N/R053
【決定実験の「不可能性」】
科学は複雑な関係に立つ無数の命題の集合により成り立つ。ある事態に
対応して、いかなる命題を対応させるかは、複数のパターンがある。その
複数のパターンのうちのどれを選ぶかの段階で、規範的考慮が入らざるを
えない。
また、観察には、理論負荷的(theory-laden)である。
よって、対応説には難点がある。≠不可能。
94 :
ロニー:03/05/25 17:19 ID:DLHw8teW
>>93 >亡霊氏
対応説は可能です
観察の理論負荷性があっても対応説は実験によってテスト可能です
例を出すならば
「この実験の結果はAではなくBの結果となる」
この言葉は実験によってテスト可能だからです
クワインのホーリズムは対応説の真理そのものを否定することはできません
ホーリズムが否定しているものは別の関係だからです
もしクワインが実験の言明と実験の対応の一致が不可能という立場であるならば
クワインはホーリズムを主張することができなくなります
95 :
ロニー:03/05/25 17:40 ID:DLHw8teW
決定実験の不可能性と実験と言説の一致は問題としている点が異なります
ポパーは決定実験の不可能性には半分同意していますが、実験と言説の対応への批判は激しく否定しています
ポパーはクワインの言葉を否定しませんが、ウィトゲンシュタインの言葉は否定します
この点はとても重要です
実験と実験への言明との対応は可能です
それどころかテストできないというケースの方が想像できません
もし、そのようなケースがあるとするのなら、僕は嘘をつくことも間違った予言をすることもできなくなります
96 :
ロニー:03/05/25 18:29 ID:DLHw8teW
>亡霊氏
ごめんなさい
≠不可能を見落としてました
亡霊氏は対応説は不可能ではないと主張しているのですね
>チキンリキン氏
>>81 >私の考える民主主義は、どんな主義とでも結びつくのです
>に、変更させてください
この点は僕もそう思います
民主主義はいかなる主義とも結びつくものでしょう、それは正当化主義とも結びつくことがあります
しかし、民主主義が独裁に優ると考えるには正当化主義を捨てねばならないと思います
正当化主義では多数決の原理を採用できないと思われるからです
>>民主主義は民が政治を治める
>これは、民主主義の定義のようなものを示したかっただけなので現実の政治は念頭になかったのです
いえ、それは僕のミスです
確かに民主主義は独裁と対比されてそのシステムを問われるものです
>重箱の隅をつつくようですが、我々のできる主なことは政治家の任免だと思います
まったくもってその通りですね、撤回します
しかし僕は、任せる者を決定することにさほど意味はないと思います
>しかし、ここの件は知識のところと(>68あたりの)似ていると感じましたが
>構造として重なっているということでしょうか?
そうですね、それは確実さを問題としてはいませんし
民主主義的な手続きを踏まえた政治であろうとも、それを絶対的正当化の理由付けにすることはできません
(もちろん現実社会では正当化できますが、それは論理レベルでの正当化を招かないということです)
これは「全員が賛同しているわけではないこと」から「全員が賛同していること」を論理的に導き出すことはできないからです
(黒いカラスをいくら数えたところで・・・という例と同じく)
97 :
ロニー:03/05/25 18:56 ID:DLHw8teW
>差し支えなければ、その原理の内容を教えていただけないでしょうか
この本は知り合いに貸したままなので、うろ覚えですが
確か5つの原則から成立し
第一原理が優先の原理:A>C>B、C>A>B、A>B>Cなどすべての投票の中でA>Bならば、その最終順序は常にA>Bが満たされねばならない
第三原理が全会一致の原理:全会一致の結果は採用せねばならない
残りは忘れました
しかし演繹によって成立していたと思います
次回までに調べてきます
>ロニーさんの多数決の原理というものに非常に関心があります
>これも、差し支えなければ教えていただきたいです
僕に限らず多数決の原理は
「投票によって最も得票の多かったものをとりあえず採用することにする」という原理だと思います
多数決の原理は投票の原理から論理的に導き出すことはできません
なぜならば、それは全員が賛成したわけではないものを全員が賛成しているものとして扱っているからです
>>92 >私は議論においてある大きな蛸壺に入っていることは認めますが、私個人の蛸壺に
>逃げ込むつもりはないのです
もし、僕の言葉がチキンリキン氏個人を攻撃しているように思われてしまったのならごめんなさい
そのような意図は全くありません
僕が批判するのは相対主義の論理です
僕は、相対主義の主張は少なくともいくつかの点では間違っており、いくつかの点では悪い結果を招くと考えています
もちろん、それは僕がそう思っているだけの可能性をぬぐいきれませんが、
先のような立場に立って批判することにより、僕が相対主義を批判する意義を、翻って自らの主張をする意義を持つことができます
ご気分を害されたならご容赦ください
98 :
ロニー:03/05/25 19:22 ID:DLHw8teW
議題が広がりすぎた感じがするので軽くセンテンスをまとめることにしました
・三世界論
A客観的世界
B論理が示す領域と正当化の限界
C実在論
・真理
D真理の意義(相対主義批判)
E真理と確実性の分離について(正当化主義批判)
Fクワインは何を否定しているのか
・民主主義
G民主主義の意義と正当化
自分の過去レスを振り返っていくつかの項目に分けてみました
チキンリキン氏から見て抜け落ちている点や加えたい点があればいくらでも挙げてください
99 :
ロニー:03/05/25 19:58 ID:DLHw8teW
>Fクワインは何を否定しているのか
これについてまとめたいと思います
チキンリキン氏と亡霊氏から批判がありましたが、クワインは対応説を批判していません
実験への言明と実験との対応は可能であり、その一対一対応も可能であると思われます
クワインが否定しているのは理論と実験の一対一対応です
実験と実験への言明との一対一対応が可能ならば、クワインが問題としているのは理論と実験言明との関係です
それは現実世界の問題ではなく論理における問題です
ですからポパーの「論理的な反証は可能である」と語ることができると思われます
クワインの言うとおり、ある仮説のみからは論理によって何らかの実験を導き出すことはできません
例えば「宇宙人は存在する」という仮説からはいかなる実験を導き出すこともできません
その仮説は「宇宙人は地球に来ている」とか「宇宙人は地球人から目視できる」といった言明を含意しないからです
それどころかその仮説が「宇宙人は存在するが、宇宙人が存在しない世界と何ら変わらない」という主張であるならば
それはもはや科学的な仮説ではなく形而上学的仮説にとどまります(科学と形而上学の語は定義的に使用)
もしその者が科学的な主張をしたいと思うのならば何らかの主張をすることとなるでしょう
マイケルソンとモーレーの実験を例にとります
仮説「エーテルが存在する」
→実験「円形のテーブルに90°の角度をつけて光を出したとき、鏡に反射されて戻ってきた光は発射地点に同時には到達しない」
この実験は彼らの意に反して失敗に終わりました
この時点でマイケルソンとモーレーの実験は反証されました
そしてその実験を導き出すための言明は全体論として論理的に反証されています
この後、別の科学者が補助仮説「エーテルは光の速度だけでなく、その移動距離、テーブルをも縮める」という仮説を出しました
この補助仮説を採用する限り、エーテル理論は反証から論理的に救うことができます
しかし、翻すならば、その補助仮説が導入されない限り、エーテル理論は反証から救うことができないのです
100 :
ロニー:03/05/25 20:16 ID:DLHw8teW
ここで
>>86、ハンス・アルバートの指摘を見るならば、論理は正当化としての道具性を持ちはしないのですから
それは単一な何かが不当であることを示す道具ともなりません
論理は常に両立不可能な関係を指摘するために使用されます
つまり論理を導入するならば、
補助仮説を導入しないか、または、初期条件に対して別の条件を提示しない限り、
問題となる仮説は実験と両立しないのです
「補助仮説を導入する限り両立可能である」と語ることはこの仮説を救うことにはなりません
なぜならば想像上の補助仮説と現実に提出された補助仮説は異なるからです
これは『共生の作法』p72〜にもあるように、何かを述べるということはそのことに論理的にコミットしているということです
決定実験が不可能であるということはある意味では正しいでしょう
単一の形而上学的仮説の成否を決定できるほど我々の能力は優れていません
しかし全体論としての決定実験は可能です
つまり両立不可能な関係を実験によって決定することは可能です
それらが何とも両立不可能とならないような言明は実際には何も語っていないのです
ポパーは次のように言ってます
「予測における我々の合理性には限界がある。もしそのような限界がなければ真摯な議論はありえないし、真摯に見えてもそれは幻想に過ぎないものとなるであろう」
そして次のように続けます
「批判における我々の合理性には限界がない。もしそのような限界があれば真摯な議論はありえないし、真摯に見えてもそれは幻想に過ぎないものとなるであろう」
議論に予言者は必要ありません
実験によって単一の仮説を決定することは最初から必要ないのです
101 :
ロニー:03/05/25 20:55 ID:DLHw8teW
ポパーは科学の境界設定基準を反証可能性としましたが
ポパーの本を読むうちに僕はこの基準はポパーの意図に適していないのではないかと考えるようになりました
ポパーの考え方としては科学の境界設定基準は「算出可能性」(accountability)とした方が適切であるように思います
形而上学的命題と科学的命題に原理上の境界はなく、その議論と実験との関わり合いの中で科学的か形而上学的かが左右されるからです
むしろ反証実験への言明とその反証が提出された際に反証可能性を満たす補助仮説を加えるなりの修正を提出する責任を果たしているかどうかが問われているように思えます
ポパーの科学的決定論の反駁は形而上学的領域には一切足を踏み入れないものでした
個人が決定論を信仰することには一切批判を述べず、科学的に決定論を主張する者に対してはそれが算出可能性を満たしていないというものです
マイケルソンとモーレーの実験への補助仮説ですが、すぐに消えました
というのも、その補助仮説「エーテルの風によって観測装置まで影響を受ける」というものは
エーテルがあろうがなかろうが世界に対する変化を与えないものでした
それは見せかけの解決しか与えなかったため、相手にされなかったのです
真摯な議論は問題に向き合うことで保たれます
問題を失した補助仮説は前スレの「問題をうまく解決していない」という合理性の基準にひっかかる不合理なものと思います
102 :
ロニー:03/05/25 21:14 ID:DLHw8teW
「真理」を問うとは、その「確実性」を問うこととは異なります
「それが正しいかもしれない」ということは、それは正しいということを意味しません
しかし、「それは不確実だが正しいだろう」ということは、「それが正しいかもしれない」ということを含意します
また「それは間違っているかもしれない」ということを含意します
長文失礼しました
次回は来週の木曜もしくは日曜になるかと思います
103 :
亡霊:03/05/26 00:12 ID:Ua/RUMr7
>>96 正確には、対応説の範囲とその限界を示そうとしているといったところで
しょうか。
クワインが対応説を批判していないということですが、しかし、その主張
とは独立に、クワインの「@命題の複数性、A検証・反証の対象となる命題
の複数性、よってB棄却における規範的考慮の侵入」ということは扱えます。
もしBの段階をもう少し、方法論的に精緻化しようとするならば、対応説
に加えて、整合説的視点をとりいれるべきことと思われます。個人的には、
この「対応説+整合説」が、現在の(理想と言われる)科学の営みにも大体
あっていると思います。
もっとも、「科学の営み」の範囲の設定自体で、見方は変わると思います
が・・・。例えば、『科学論の現在』(金森修ほか編)の科学社会学的視点
を取り入れるのも面白いですし。
104 :
名無しさん 〜君の性差〜:03/05/26 00:48 ID:bNTixIMw
>>75 >>75 そうですね・・・。議論に参加したいのですが・・・。
前スレからの傾向なのですが、このスレは引用が多くて、
その分野の本を読んで理解しないといけないようです。
それらの本を購入したり、図書館で調べるなどの方法が考えられるのですが、
私の住む街の図書館は酷いものでして・・・。
それに、私は経済的にも困難な状況にありますし、
体に障害を持つ身でもあります。
私は、2つの身体障害を持っていますが、
一つは経済的理由により、
もう一つは、医学的に身体障害と認められていないことにより、
ともに身体障害として認められておりません。
経済的困難はこの障害に拠るものです。
障害を隠して職を得ることも出来ますが、
死か利益かと選択を迫られたとき、
皆さんはどちらを取りますか?
私は生きる道を選びました。
明日には死が訪れるかもしれませんが・・・。
私など、まだ幸せな方です・・・。
ですので、このスレのように学問的な引用が多いスレで、
継続して議論に参加するのはとても困難な事なのです。
と言いつつも、
>>1の「ある者の主張」については私なりの答えを持っています。
話題がその方向へ向いたときに参加するかもしれません。
また、その方向へ向かずとも、興味のある話題には可能な限り参加するつもりです。
p.s.
以下は意味の読み取れる人だけが読んで下さい。
現実を認識するとは、
朝が来ることを認識し、
夜が来ることを認識することである。
そして、夜も明けることを認識することである。
その事実をどう受け止め、
どう位置付けるか・・・。
我々には少しばかりの課題が残されているようだ・・・。
私は腹痛のなか今年の初日の出を見ました。
それは、とても熱く奇麗でした・・・。
107 :
亡霊:03/05/27 01:11 ID:v6QL4FAy
>>105-106 個人的には、その本を読まずとも理解できるよう要約してきたつもりですが、
しかし、わかりにくいことは確かでしょうね。
ただ、この分野の本を読まずとも、批判はできます。自分について考えれば
よいことです。自分がモノをみるとき、なんらかの視点(偏見)が入っていな
いか、などなど。自分に問い尋ねることです。
108 :
亡霊:03/05/27 01:41 ID:v6QL4FAy
>>106 >p.s.
>以下は意味の読み取れる人だけが読んで下さい。
意味が読みとれる者ではないですが、返答・解釈を試みます。
とはいえ、まず、言わなければいけないことは、我々のコミュニケーションは常に誤解がつきまとうものです。これは、理論的なものです。なぜ
なら、コンテクスト(文脈)が意味を規定するならば、同じコンテクストに属さない我々(我々は違う人間でしょう)にとって、意味が異なるのは
当然だから。したがって、意味がとれない者でも、なにがしかのことを言っても許されると思われます(語る資格の限定の不可能性)。
>現実を認識するとは、
>朝が来ることを認識し、
>夜が来ることを認識することである。
>そして、夜も明けることを認識することである。
朝・夜・夜明けが来ることを認識することが現実を認識することであれば、現実に認識することとは、生きていることでしょう。
生きている者に朝が来るから(あなた自身が105において言っていますね)。逆に、死とは何も認識しないことになるのでしょう。
しかし、ある者の認識が誰か(友人・家族)によって受け継がれるとき、その認識はそのある者と共に亡くなるのでしょうか。
私ならば、イエスであり同時にノーと答えるでしょう。一方において、認識が受け継がれることがあり、他方において、その認識は純粋に受け継
がれることはない。
しかし、あなたの答えはノーなのでしょう。なぜなら、この前スレッドであなたは、人により世界は異なるとしていたのだから(もし、前スレッ
ドの燕雀がこの燕雀であるならば)。
しかし、それに対し、前スレッドにおいて既に私は異論を述べたはずです。私と他者が互いに規定し合う関係にあるがゆえに、世界は人により閉
じることはない。とはいえ、完全に開かれることもない。よって、私の答えは上記のようになります。
付け加えるならば、たとえ誤解であろうとも、このように返答しあなたに何らかの影響を与え得るならば、人により世界が完全に閉じることはな
いです。
気力のあるうちに返事をする必要性が高いと感じる箇所から
書いていきます
>ロニーさん
>97
ごめんなさい!
>92は、前スレであまりにも卑屈に謝ってしまったこともあって
今回はあえて謝罪の言葉を入れずに、前向きな姿勢をシンプルに
表現しようと試みたものです
不機嫌さの発露ではありません
・・・でも、>92の周りで謝っているのに、>92でだけ謝っていなかったら、
意図とは違う理解をされても当然ですよね、申し訳ない
>92は、排中律を採用する議論にふさわしいレス(?)を返すことを
今まで以上に意識します、という内容の宣言だと思っていただけると
ありがたいです
>燕雀さん
>105-106
レスをありがとうございます
議論に参加する上で、様々な困難があるみたいですね
負担の大きすぎない参加をお待ちします
>以下は意味の読み取れる人だけが読んで下さい。
>106のようなスタイルでの記述は、表現内容を効果的に示すという目的があるのだと思います
私の解釈としては、スフィンクスの質問のように朝〜夜までが人(生物)の一生を指し
夜明けが新たな一生へのつながりを指しているように思えました
輪廻転生ですね
しかし、このこと(輪廻転生)が事実と表現されているので若干迷うところです
そして、腹痛と綺麗な初日の出が並列(?)されているところは、
一切皆苦や四苦八苦などの仏教用語が連想されます
世界を構成するものは全て苦(執着)である、という意味らしいのですが
かなり相対主義っぽいですねw
さて、私の意見ですが・・・難しいです
色々試しに書いてみましたが、どれもこれもピンときません
前半に関して言えば、我々に残されているのは非常に大きな課題だと思います
位置付けをどうするか、の前にその前提から考えたいと思います
後半は、その状況にいないとリアルに感じられない事柄なのでしょう
少なくとも想像力に乏しい私には、特殊な状況のなかでの
当たり前の出来事の訴求力は、普段の状況におけるそれとは
違う、という風にしか受け取れませんでした
そしてこれについては、全く同意します
>ロニーさん
スローペースになると宣言したのに、(私にとって)未曾有のハイペースになってしまっている
ことに驚いています
ロニーさんにまとめていただいた論点にそって議論するまでは
軽めに書き込んでいこうと思います
>83
>ええ、クーンは撤回したかもしれません、しかしそれは言葉のみの撤回だったでしょう
なるほど!
みずからの心情と言葉を分離させたと・・・
このクーンの態度は「確実さ」に囚われた行動なのでしょうか?
この論点はあとから出てきますので、その時にでもまた書きます
>84
>客観的世界を考察しようとする限り、我々が問題にするのは脳ではなく世界なのです
うーん、思考や知覚などが意味を持つ為には、なんらかの限定(言葉あるいは脳)が必要
だと思うのですが、私達がそれらの限定のなかでしか世界を解れないとすると
私は脳や言葉の問題が世界の問題だと考えます
ロニーさんが、言葉や脳の外に出るべきだ!と主張している可能性は殆ど無いと思いますが
やはり、あとから出てくる論点ですのでその時にまとめて学ぶことにします
>議論の世界は客観的か、は面白い問題です
誰の主観でもないから客観、というのは説得的ではあります
しかし、議論が私達から自律しているのか・・・
反証はみつかりませんw同意します
>85
>しかし、間違いは不可避ではないです、間違いの可能性が不可避なのです
たしかにその通りです
ただ、間違いでないことは確定され得ないので間違いである可能性という
言葉の意味も変わってくるとは思いますけれど
>形而上学と科学の区別です
ここは、三世界を学んでから見直してみます
この間三世界論について読んだときは、なんのことやら・・・
というか、理解することを放棄していたかもしれません
>僕はロールズを好みますし、ロールズと同じくカンティアンなので義務倫理的でしょう
>ポパーはどちらかと言えば功利主義的です
調べてみたのですが、義務倫理と価値倫理の対立でした
一杯一杯でなければ、倫理的な対立専門の論点を組み入れたいところではありましたが
それは、またの機会にしたいと思います
どの、論点にしても多かれ少なかれ倫理に絡むと思いますし・・・
>86
>論理は正しいものを探す上では何の役にも立たないが、しかし間違いを探す上では非常に有用な道具です
>86には基本的に同意します
>87
>なぜならば排中律を採用する者は自らへの批判者と議論できるからです
私が思うに、排中律を採用する者が批判者と議論できるのは
批判者が排中律を採用した(同じ蛸壺にはいってきた)からであるので
ロニーさんが以前仰ったように、直感主義者同士での議論が可能であるのならば
直感主義者の立場からも同じように言えるのではないかと思います
つまり、直感主義者も批判者が直感主義の土俵に上がるのなら、議論可能である、と
>88
>もはや、すべての宗教を同じ宗教に過ぎないと見なす必要性はありません
私も、同じだとは主張しません
私が言いたいのは、科学とそうでないものの境界線が
曖昧に見えるということです
>しかし、それらが自らの脳を越えて−言葉を通して−外の世界に発せられるのであれば、それらは批判に耐えねばなりません
>77の>私は自分の採用する立場は、自分の考える問題を解決するのにベストだと信じています
という箇所は、私が排中律の採用を支持している、という立場を明らかにしたものです
その理由は、ロニーさんと私の間に争いが無さそうなので割愛しましたが必要でしたら書きます
>もはや死ぬことすら個人の領域ではない時代なのだ
その意味で、死ぬことが個人の領域であった時代は存在しなかったのではないか、とも思えます
>我々が一切の批判を受けずに自由に行えるのは脳から出す指令による我々の身体の管理だけなのです
身体の管理がなにを指すのか、私にはそれほど明らかではないのですが同意します
外部に現れる思考というようなものには、批判が加えられることを覚悟すべきです
>89
>いえ、どちらも同じ、事実と概念の対応です
なるほど、そのような話を聞いたことがあります
おそらく基本的な事柄なのだと思いますが、私には知識が欠けているようです
時間をいただけたらありがたいです
>井上氏は概念的相対主義は「その主張を認めたとしても〜」とそれへの批判を繰り出してはいません
概念的相対主義というのですか・・・
以前「真理」と「問題解決の有効性」を同じ意味で使っているのではないか?ということが
議論の流れのなかで出てきたことがありました
私はその2つを区別していないようです
実際ロニーさんから私に対して「真理をどう捉えるか?」という質問があった時に
「真理という言葉をあえて使うなら、それは問題解決の有効性」と答えた記憶があります
説明を加えると、私は「問題解決の有効性」をかなり限定的に考えています
>「真理」を問題とはしない立場は議論を混沌とさせるだけのように思います
従って、議論においては「真理」の代わりに「問題解決の有効性」を問えば十分なのではないか
と思っています
>90
>しかし、ここで僕が問題としているのは、対応説の真理
これは、タルスキの真理観のような理解だということでよろしいでしょうか
このことが真理を扱っているのか、私には疑問があります
これも、後で提出すべき疑問ですね
>91
>不確実な知識で問題を解決してきたのであれば、それは「確実性」を問うてはいないのです
>「真理」を問わないならば、間違った知識で問題を解決してきたということが必要です
私の立場では「真理」は問わないが、「問題解決の有効性」は問うことになります
「真理」に対しての間違った知識ということであれば、特に異議はありません
>再度、主張します
>「真理」と「確実性」は区別すべきです
>理論の「正しさ」とその「確かさ」は区別すべきです
以前この部分に同意していたのですが、残念ながら理解が間違っているようです
「共生の作法」を、買う必要が高くなってきてます・・・
>しかし、言葉でなく、想像と現実が異なる性質を持つことを我々は理解することができます
現実を知っていれば、ということになるのでしょう
今日はこれで終わります
116 :
山崎渉:03/05/28 13:53 ID:+8i8eLFc
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
>>107 『理由』
既存の哲学的思考について批判するつもりはありません。
ただ、このスレに出てくる用語や論理は他の誰かが既に考え出したものですので、
それらの用語や論理を正しく理解しないことには
何を言っているのか解らなくなることもあると思います。
また、同じ概念に対して異なることを言っている人もいます。
そのどちらが正しいのかは、そのもとになっているものを参照しないことには解りようがありません。
或いは、そのどちらもが正しく、「他方がもう一方の単なる言い換えである」ということもあるかもしれません。
Aさんが、Bさんの書き込みに対して「それは違う!こうだ!」とレスを付けることがあるのですが、
しばしば、それは単なる言い換えに過ぎないことがあるのです。
実際にどうなのかを知るためにも該当する本を読んだりすることは必要だと思いましたので。
それから、その用語や論理の全体を知りたいということもあります。
例えば、文章からの文の引用を考えてみると・・・、
文章が全体で意味をなしているとき、その文章から一つの文を引用したとします。
それは、文としては意味が通じるかもしれませんが、
それでは文章の意味は通じてこないでしょう。
私は部分を知りたいのではなく、全体を知りたいのです。
「議論に挑むのならその全体を知ってからにしたい」というのが私の考えです。
ただ、それを行うことは今の私には困難ですので、解らないことには沈黙するのです。
掲示板で議論に参加するかどうかは個人の自由であると思いますが・・・。
また、無知の状態では偏見は生じないと私は考えます。
ここで言う「無知」の「無」とは、まったくの無であることを意味します。
脳に情報が無い状態で偏見があるかどうかと問われても困ります。
これは、思考の対象が存在していない状態ですので、
「何々と思う」と言うことすらも出来る状態ではありません。
>>108 『語ること』
>意味がとれない者でも、なにがしかのことを言っても許されると思われます
(語る資格の限定の不可能性)。
「語るな」とは書いていないですし、そう考えてもいません。
『問について』
>「しかし、ある者の認識が誰か(友人・家族)によって受け継がれるとき、
その認識はそのある者と共に亡くなるのでしょうか」
この問には、私は「YES and NO」です。
正確には、
「ある部分は完全保存され、ある部分は不完全保存され、
ある部分は完全に失われ、ある部分は変化を受ける」
といったところでしょうか。まだ何かあるかもしれません。
「NO」は不可能です。人間は機械ではありませんから。
「YES」とすれば、保存も発展も無いでしょう。
ただ新しいもの(それは既にあったものかもしれません)が生まれては消え、
生まれては消えするだけであると私は考えます。
>>108 『前スレ』
>「もし、前スレッドの燕雀がこの燕雀であるならば」
これは少し気になりますね・・・。
私はトリップを付けていますので、私と同じトリップなら私でしょうね・・・。
偽トリップなら私ではないでしょう。
前スレは716までしか見ていませんし、書き込みもしていません。
私が持つログに残っているのも716までです。
これ以降に私にレスを付けていたとしても、私はそれを読んでいませんので、
話しは過去ログを得てからと言うことになります。
『影響』
>付け加えるならば、たとえ誤解であろうとも、
このように返答しあなたに何らかの影響を与え得るならば、
人により世界が完全に閉じることはないです。
何の事を言っているのか解りませんが、
私に影響を与えたとしても、世界は何も変わらないでしょう。
私は学者でも、総理大臣でも、独裁者でも、テロリストでも、神でもありませんので・・・。
それはそうと、「人により世界が完全に閉じる」と書いた覚えが無いのですが・・・。
実際、ログにもありませんし、そういった意味の文章を書いた覚えもありません。
それとも、前スレで私が「集合」という言葉を用いましたので、
亡霊さんが「それは閉じている」と解釈したのでしょうか?
もしそうなら、それは明らかに誤りでしょう。
集合は必ずしも閉じているものではありませんから。
これは数学的にも正しいことです。
負数全体の集合を考えればすぐにわかると思います。
それにしても、「人により世界が完全に閉じる」はいろんな意味に取れますね。
それから、できれば呼び捨てはやめて欲しいのですが・・・。
>>107 >>110 レスありがとうございます。
>>106は、ほとんど独り言のつもりで書いたので、
レスが付くとは思っていませんでした(スレ違い&板違い)。
あれは「時間」についての表現で、「朝」と「夜」には特別な意味を含めていません。
レスしようかと書いたのですが700文字以上になってしまって・・・。
さすがにこれはヤバイなと・・・。
スレ違い&板違いなので、これ以上のレスはやめておきます。
>>118 の訂正です。
誤
>「YES」とすれば、保存も発展も無いでしょう。
ただ新しいもの(それは既にあったものかもしれません)が生まれては消え、
生まれては消えするだけであると私は考えます。
正
>誤
>「YES」とすれば、保存も発展も無いでしょう。
もし「YES」であるならば、ただ新しいもの(それは既にあったものかもしれません)が生まれては消え、
生まれては消えするだけであると私は考えます。
122 :
ロニー:03/05/29 20:47 ID:ebSn3EAD
論点が広くなりそうですね
亡霊氏にもいくつかのレスを返したいと思いますので
とりあえず三世界論については議論をcloseすることにします
僕はチキンリキン氏との間に「真理と有用性の問題」
そして亡霊氏との間に「科学的方法論の問題」があると考えますので、議論はその点を中心に行いたいと思います
>燕雀氏
僕も軽く燕雀氏との議論に参加します
>>106のような文章はたいてい読み手の思考に沿って理解されます
ですから僕はあなたの言葉を僕の立場に沿って解釈しました
そこにはとてもニヒリスティックでありながら現実を生きていこうとする強い意思を感じました
さて
>>105における燕雀氏の言うことはもっともだと思いますが
それでも議論に参加すればいいのではないでしょうか?
別に間違えようと誤解しようと見当外れの発言をしようと構わないと僕は思います
中立的な人間はいないというのなら、中立的に語らねばならない理由もありません
また、(これは僕の立場ですが)、間違える行為と間違えない行為では前者の方が利益になると思います
そして燕雀氏は偏見がないという状況があると言いますが、僕はそう思いません
なぜならばどんなに無知な人間でも問題意識はあるからです
そして我々は問題意識を持たないべきではない、つまり、僕は「人間は偏見を持つべきである」と主張してます
「夜がいつか明ける」と考えるのはそこに何らかの問題を持つからです
>「しかし、ある者の認識が誰か(友人・家族)によって受け継がれるとき、
>その認識はそのある者と共に亡くなるのでしょうか」
僕が思うに、認識は残らないと思います、しかし知識は残ります
中学の理科の教科書を開けば、そこにはフロギストン説が書いてあります
僕は酸化説を信じるにも関わらず、フロギストン説の知識を持っているのです
123 :
ロニー:03/05/29 21:10 ID:ebSn3EAD
>チキンリキン氏
まず宿題にしてた投票の原理を書きます
記憶と全然違う・・・・、記憶はあてにならないものですね
・二人以上の審査員が3人以上の候補者について順位を決定するとする
・第一原理(自由の原則)
投票者は好きな順番で選考してよい、それがいかに不合理なものであっても
・第二原理(部分集合の独立性)
特定の候補者の集計における順位が全体の候補者の集計においても守られている
・第三原理(全会一致の尊重)
全会一致は可決とする
・第四原理(非独裁制)
集計の結果がただ一人の選好順序と一致していて、他の人がどのような投票をしても変わらないという事態が生じない
・第五原理(推移律)
AがBより上位でBがCより上位なら自動的にAはCより上位とする
ちなみにこの投票の原理を二人の時に適用すると矛盾が生じるそうです
124 :
ロニー:03/05/29 21:33 ID:ebSn3EAD
>チキンリキン氏
>>109 誤解してすみませんでした
ただ僕はチキンリキン氏への返答と関係なく相対主義への批判も行っているようなものです
ですから、このスレでの僕の主張も個人への批判などと深刻に受け取らないでください
僕がこのような相対主義批判をするには理由があります
それは僕の方法論に関わってきます
僕は懐疑主義の方法論をとりません、代わりに批判主義の方法論をとります
懐疑主義は基礎付け主義です、下位から順に証明して導き出す方法です
対して、批判主義は自らの主張の否定への否定性を示す方法です
僕が相対主義を否定する理論展開を行うのは、それによって自らの理論の妥当性を示そうとしているのです
僕が読んだ本で(名前は忘れましたが)このようなものがありました
>日本での議論の分野を見る限りでは、皆日本人特有というなのか生真面目すぎるように感じる
>議論はもっと気楽にやるものだ、
読んだのはかなり昔なので多分間違った引用だと思いますが
125 :
ロニー:03/05/29 22:09 ID:ebSn3EAD
>>111 >>ええ、クーンは撤回したかもしれません、しかしそれは言葉のみの撤回だったでしょう
>みずからの心情と言葉を分離させたと・・・
>このクーンの態度は「確実さ」に囚われた行動なのでしょうか?
ポパー学会会長の蔭山泰之はクーンの正当化主義としての論理実証主義を指摘したらしいですが・・
僕は読んでないので・・
とりあえず、クーンが自らの心情と自らの意見が異なることは間違ってないと思います
というのも、クーン、ポパー、ファイアアーベントが集まった対談で
クーンはポパーとともにファイアアーベントの相対主義を否定しているからです
クーンは自ら「私は相対主義を否定する、また、私は科学は進歩してきたと信じる」と述べています
ただカルナップが「クーンは相対主義を否定していながら自らは相対主義を語っている」と言うように
クーンの理論は相対主義的なものと思います
先の僕のクーンの引用も、その実クーン自身を指していたのかもしれません
>うーん、思考や知覚などが意味を持つ為には、なんらかの限定(言葉あるいは脳)が必要だと思うのですが、
>私達がそれらの限定のなかでしか世界を解れないとすると私は脳や言葉の問題が世界の問題だと考えます
僕は、認識とは切り離された世界を設定します
というのも言葉あるいは脳の限定(≒直観)だけを世界とするならば、世界に排中律が適用できなくなると考えるからです
>ロニーさんが、言葉や脳の外に出るべきだ!と主張している可能性は殆ど無いと思いますが
僕は脳の中に脳の外の世界をつくることができると考えます
例えば、コーヒーの入ったマグカップの底が見えないからといって、「底がないだろう」とは思いません
マグカップの底は脳内の妄想に過ぎないかもしれないが、「ある」のです
そして、それはコーヒーを飲み干した後に確認できます
もちろん、それは妄想ですから間違っているかもしれません
しかし、それが間違っているかどうかはコーヒーを飲めば分ります
126 :
ロニー:03/05/29 22:42 ID:ebSn3EAD
>>111 >誰の主観でもないから客観、というのは説得的ではあります
>しかし、議論が私達から自律しているのか・・・
もちろん、「主観でなければ客観」という意見にはいくつかの批判ができます
まず主観と客観以外の可能性があります
しかし、その可能性はそれを指摘してはじめて効果があります
ですから、批判者は主観と客観以外の何かを定義せねばなりません
また、その何かとして「間主観」を挙げることもできます
僕はこの批判は受け入れます
僕の主張した「客観」は「間主観」かもしれません
しかし、「客観」を「間主観」としたところで僕の主張は特に変わりません
議論が主観から自律しているかについては、完全には自律していないでしょう
というのも、我々は自らの主観に従って自由に議論に書き込めるからです
それは主観と少しつながっています、しかし、主観そのものではない、
なぜならば、議論から我々はまた何かを学ぶことができるからです
ピタゴラスが図形を描くことから三平方の定理を発見したように
>>112 >ただ、間違いでないことは確定され得ないので間違いである可能性という
>言葉の意味も変わってくるとは思いますけれど
そうですね、しかし、その言葉の意味は「間違い」ではなく「可能性」にかかってくると思います
>この間三世界論について読んだときは、なんのことやら・・・
僕も最初は理解できませんでした
多分、チキンリキン氏との対話のはじめのほうでも理解してませんでしたね
三世界論は完全な形而上学ですので好き嫌いが分かれると思います
「三世界論はポパーの醜悪な理論の中でもとりわけひどい理論」
「客観的知識がどこに属するかを指摘したところで客観的知識を指摘したことにはならない」という言葉もあります
ちなみに僕がこれを理解するきっかけとなったのはサールとマッキーの論争です
127 :
ロニー:03/05/29 23:22 ID:ebSn3EAD
ショック!・・長文が消えました
128 :
ロニー:03/05/29 23:38 ID:ebSn3EAD
とりあえず放心状態なので簡潔にレスします
>>112 >価値倫理と義務倫理
僕は正義の原理は純粋な形式の形をとると考えます
ただし実際の行動は価値倫理的に映るでしょう
これは僕に限らずカントもそうであると考えます
>私が思うに、排中律を採用する者が批判者と議論できるのは
>批判者が排中律を採用した(同じ蛸壺にはいってきた)からであるので
>ロニーさんが以前仰ったように、直感主義者同士での議論が可能であるのならば
>直感主義者の立場からも同じように言えるのではないかと思います
>つまり、直感主義者も批判者が直感主義の土俵に上がるのなら、議論可能である、と
多くの論理式を書いたのですが・・・(二重否定除去の不成立など)
不躾かもしれませんが簡潔に、かつ、比喩を用いて、要点をしぼって書きます
それは大きな勘違いを生みかねませんので気をつけてください
直観主義は「真=証明されたこと」です
そして証明されたことのみを証明の道具にして良いという、確実さの累積をとる立場です
この立場に立つと二重否定除去が成立しなくなるので、証明に二重否定除去を使用する排中律も証明できません
二重否定除去は「¬¬A証明されている」→「¬Aは証明されてない」(×→「Aは証明された」)
()内が導けないので二重否定除去は証明できません
直観主義論理のルール下においては排中律は証明できません
そして直観主義は「証明されたものを真とする」という立場です
排中律は直観主義論理内において成立することはできません
ゆえに直観主義論理のルール下において、排中律の採用、不採用を議論することはできません
129 :
ロニー:03/05/29 23:48 ID:ebSn3EAD
気がぬけたので今日はこの辺にします
続きは明日に1時間ほど、それと日曜に書き込みます
、
残りの議題
・科学とそうでないものの違い(論理的な違い)
・科学とそうでないものの違い(現実的には)
・「真理」か「有用性」か(問題がどこにあるか、言葉?それとも実在?)
・「真理」か「有用性」か(実在と考えて、真理を問う)
・「真理」か「有用性」か(言葉と考えて、有用性を問う)
130 :
ロニー:03/05/29 23:58 ID:ebSn3EAD
追記
残りの議題
・ユートピア主義
それと決めゼリフを忘れてました
長文失礼しました
131 :
亡霊:03/05/30 02:57 ID:7ztorLz5
>>117 【オリジナル】
燕雀さん。前スレッドでは、あなたは「人により世界は異なる」と記しました。
しかし、その記述(とそれに対する批判)は私の記憶の中にあり、今だ前スレッ
ドが見られない以上、このことはもう確かめようがありません。いわば「オリジナ
ル」は確認しようがないわけです。
なお、あなたの「集合」概念は、前レスにおいて考慮していません。
【全体を知る】
そして、この不可能性は、いつも我々につきまといます。現在読まれるソクラテ
スの本もその弟子プラトンによって書かれている以上(ソクラテスは書かない人だ
から)、厳密にはソクラテスの「オリジナル」を読むことはできない。我々に与え
られているのはその痕跡のみである(→記憶の痕跡説に類似)。
それゆえ、全体を知ることはそもそも不可能なのです。
132 :
亡霊:03/05/30 03:14 ID:7ztorLz5
>>118 >p.s.
>以下は意味の読み取れる人だけが読んで下さい。
【語る資格の限定性】
語る資格の限定性を意味するのでなければ、この言葉は何を意味をするの
でしょうか。
私は、これがあなたの自分の意図を徹頭徹尾理解してもらいたい欲望だと
分析しました。つまりあなたには「全体化への欲望」がある。
しかし、私の立場は、それは不可能だというものです。もちろん、知るこ
とそのものを否定するわけではありません。十全に知ることが不可能なので
す。
もう少し別な言葉で言うと、解釈哲学の伝統では、作者の意図を重視する
立場があります(ハーシュ)。この立場は、解釈とは、作者の意図を再現す
ることとします。ここにあなたの立場を位置づけ、私は批判しているわけで
す。つまり、言葉を発した途端、それはあなたの手の下を離れ、裏切りもす
る。無論、暴力的な解釈が何でもゆるされるということが言いたいわけでも
ありません。
なお、別の問題系へ(あるいはロニーさんへ)つなげておくと、私はクワ
インをしばしば参照していますが、彼の「全体論」の「全体」概念には極め
て批判的です。とはいえ、クワイン自体全体概念を厳密に使っているとはい
えないので、この点批判しても「のれんに腕押し」といったところでしょう。
>>122 うーん。どうも皆さん難しく考えすぎているのではないかと思えてきました。
私は「もう議論には参加しない」とは書いていないのですが・・・。
「自分の意見が無いときには書き込みませんよ」という程度に解釈してもらえたら良いと思います。
>なぜならばどんなに無知な人間でも問題意識はあるからです
それは「無」の状態ではないと思います。
「問題意識」というものが頭の中にある状態です。
あまり人間を機械で例えるのは私の好みではないのですが、
例えて言うなら、「無」の状態とはソフトウエアの入っていないコンピュータのようなものです。
更に言うならば、BIOSも無い状態です。
「コンピュータは思考するのか?」とか突っ込まれそうですが、
ここでは「無知」から「知」を抜いています。
私が
>>117で敢えて「無知」から「知」を抜いて「無」と表現したのにはこういった理由からです。
まったく何も無い状態ならば、「知」をそこに含めるのはマズイかなと思ったわけです。
まあでも、とりあえず、何かを書くとしたら「科学的方法論の問題」についてですかねぇ。
さっき、「科学的方法論」を検索してみたのですが、なにやらゾロゾロと出てきました。
ふむふむふむと・・・。
>>131 記憶をもとに書いていたのですか・・・。
それなら仕方ないですね・・・。
>>132 >以下は意味の読み取れる人だけが読んで下さい。
余り難しく取られても困るのですが・・・。
この文は、「スレ違いの独り言を書きますよ」という意味です。
正直に言うと
>>106は、
「たまには遊びがあってもイイんじゃないかな」と思って書いたのですよ。
モナーのコピペみたいなものです。
深い意味はないです。
>>131 >【全体を知る】
>>117の「全体」の意味とはまったく違うので、誰へのレスかと思いました。
最初読んだときに私へのレスだとは気付きませんでした。失礼しました。
そのような全体を知ることが不可能なことは私も同意します。
しかし、任意に取ったある部分を全体として扱っているばあいには必ずしもこれは正しくありません。
答えは何を全体とするかで変わってきます。
「全体」という言葉を用いたからと言って、
それは必ずしも
>>131で用いられているような「全体」を意味するものではありません。
対象となった「全体」を説明しておきます。
>>131での「全体」と
>>117で用いた「全体」の意味は違います。
>>131での「全体」は記録として残っていないものまでを含めて「全体」とされています。
それに対して、
>>117で言う「全体」とは、
あることについて書かれた本の全体のことです。
このばあいには、その本の全体を知ることは可能です。
本を読んで、不明な点が出て来ると思いますが、
その本に書かれていないことは問題にしないとすれば、
その本に限定してその全体を知ることが出来ます(理解云々は別として)。
例えば、九九の表に書かれている全部の式を暗記するようなことです。
このばあいの「全体」は九九の表です。
そういった意味での「全体」です。
>>131の【全体を知る】関連することなので、ちょっと説明しておきます。
私が掲示板で文章を書くときには、段落を明示しなかったり、
書き込みの長い範囲に及んで文章を作ったりしますので解りにくいかもしれません。
できるだけ重複を避けて文字数の節約をしている訳です。
「改行が多いぞ」と突っ込まれそうですが・・・。
それに何度も同じ内容の事を書くと文章もくどくなりますしね。
このようにして書いた文章ですので部分を抜き出して議論するのは容易ではないと思います。
仕方ないと言えば、仕方ないです。
読む側はかなりの労力が必要かなと思います。
今回対象となっている範囲は現時点では
>>105と
>>117です。
同じ事に対してのレスのやり取りが続けばこの範囲はもっと広がります。
>>120の訂正です。
誤>
>>107 >>110 正>
>>108 >>110
137 :
ロニー:03/05/31 03:49 ID:IP9ni9zj
今日は現実社会で嫌なことがあったので落ち込んでます
現実における議論はどうもうまくいきません
「僕は間違ってるかもしれない、でも、こうなんじゃないか?」と切り返したら、議論が頓挫してしまいました
彼の内面の怒りに気づかなかった僕にも原因の一抹はありますが、おおよそfoundation理論は議論を破壊する結果を招くとしか思えません
悔やみはこのくらいにしましょう、
>>133 >燕雀氏
「無」の状態とありますが、およそ人間に「無」の状態というのがあるでしょうか?
僕はないと思います
何らかの文章を書いている時点で、何らかの形式を採用していることになります
それはすでにフォーマット済なのではないでしょうか?
>>136 >それに何度も同じ内容の事を書くと文章もくどくなりますしね。
確かに僕の文章は同じ内容の繰り返しが多いですから、くどいですね
論理だけでなくかなりのレトリックも意識的に使用しています
それでも「結論は簡潔に、吟味は深く、なるべく具体例を二つ以上は書きなさい」という先生の言いつけを守っているつもりです
誇張表現は減らした方がいいでしょうね、反省します
科学的方法論については以降で・・
138 :
ロニー:03/05/31 04:05 ID:IP9ni9zj
>チキンリキン氏
>ユートピア主義
ユートピア主義への否定に関して、僕とチキンリキン氏は互いに同じ結論となりました
しかし、僕とチキンリキン氏との間には相違があります
ユートピア主義同士での議論では「私こそユートピアである」「いや、私こそユートピアである」という罵倒につながりかねませんが
僕とチキンリキン氏との間でも「お前こそユートピア主義だ」「いや、お前こそユートピア主義だ」という争いになりかねません
そこで、僕とチキンリキン氏がそのような争いを起こさないためにユートピア主義の定義をします
「ユートピアとは何か」という定義をしたところで、それはとてもボンヤリとした空虚な定義となってしまいます
そこで、・ユートピア主義(唯美主義)とは「ユートピア以外は全て、大して変わらない」とする立場である、と定義します
この定義はその中にすでにして相対主義への攻撃が含まれてますが、いかがでしょうか?
139 :
ロニー:03/05/31 04:24 ID:IP9ni9zj
>亡霊氏
>・クワインの理論
>彼の「全体論」の「全体」概念には極めて批判的です。とはいえ、クワイン自体全体概念を厳密に使っているとはい
>えないので、この点批判しても「のれんに腕押し」といったところでしょう。
この点はクワイン自身も言及しています
まずクワインは、「私はホーリズムを主張する際にあまりにもその全体性を強調しすぎてしまった。
現実の科学は論理全体ではなく、ある種の実験可能な理論のまとまりに焦点をしぼっている。
私は穏健なホーリズムを主張すべきだった。」と語ってます。
クワインは過激なホーリズムではありません
また、デュエム・クワイン・テーゼにおいても
「私が、デュエム・クワイン・テーゼを『論理だけでなくトリヴィアルでない意味においても通用すると主張するか?』と聞かれたら、
私は『デュエム・クワイン・テーゼはトリヴィアル(論理的)な意味に制限される』と答えるだろう」と語ってます
クワインは現実の科学においてはポパーの方法論を支持しています
そしてデュエム・クワイン・テーゼが論理的な意味にのみ限定されるのならば、それはポパーの理論を否定していません
また、論理的でない意味において、《必ずしも》成立するわけでないならば、それはポパーの理論を後押ししていることになります
140 :
ロニー:03/05/31 05:12 ID:IP9ni9zj
>・科学と形而上学の境界
ポパーへの誤解を見て思うのは、<科学>と<非科学>の境界線と<科学的に正しいとされる>と<科学的に正しくないとされる>の境界線は異なるということです
この点、<反証可能性>と<反証>を混同している方がポパー批判者に多いように感じます
ニュートンの理論は反証されました、反証されたということは反証可能性があったということです、つまり、ニュートンの理論は科学的です
1、科学的命題を論理的に定義することは可能か
僕は不可能であると主張します
なぜならば科学(経験科学)は経験世界に対しての何らかの理論であるからです
科学は論理を対象として何かを語りません、論理は経験ではないからです
「科学的命題はその内容として経験世界について言及しているもの」それが科学の内容となります
しかし経験命題を含んだ理論はそれが経験世界について語っているかどうかは単純には分かりません
というのも我々の経験世界への知覚には限界があるからです
もちろん亡霊氏の指摘する命題の複数性もあります
2現実に科学と形而上学の境界を設定することは不可能か
ポパーは方法論的な要請として科学と形而上学の境界を設定しています
つまり、反証可能性はそれを科学的問題として考える時に方法としてつくるものなのです
それは簡単な方法です
「コインを投げて、表が出たら私の勝ち、裏が出たら私の勝ち」という方法をとらないことです
「コインを投げて、表が出ても私の負けではない、裏が出たら私の負け」という方法をとることです
これが科学と形而上学の違いです
しかし、デュエム・クワイン・テーゼがありますので、論理的には裏が出ても即負けにはなりません
けれども、ここで「裏が出ても負けではない」という態度をとることは形而上学への後退を招きます
「裏が出ても負けではない」という主張をする際にはその理由を説明して別の理論か実験を提出する必要があります
別の理論とは<補助仮説の導入>か<初期条件への訂正>もしくは<問題となっている理論の放棄>のいずれかです
ここで、相手は「問題となっている理論を放棄してはいけない」というルールをもってはいません
つまり理論は反証可能です
141 :
ロニー:03/05/31 05:13 ID:IP9ni9zj
続き
また、別の理論を提出する時には、それを詳しく説明し、かつ、それもまた反証可能な態度をとる必要があります
それがポパーの指摘する「算出可能性」(accountability)です
しかし、この言葉もいらぬ誤解を招きかねないと思いますので、僕は科学と非科学の区別を簡略化して次のように主張します
それは「アカウンタビリティ」である
反証可能な態度は実験による手段以前に形而上学レベルで行うこともできます
マッハの絶対空間批判に使用されたアメンボとバケツの例
量子力学の異なる解釈において使用されたシュレディンガーの猫の例
それらを方法としてテスト可能な条件に引き下げるのが演繹論理、すなわち整合説的なものです
ここで僕は亡霊氏の「対応説+整合説」を批判します
論理は実際にテストを行うための道具であり真偽を判断する基準にはなりません
僕は「対応説+整合説」の替わりに「対応説+実在論」を主張します
142 :
ロニー:03/05/31 05:43 ID:IP9ni9zj
このような方法にはいくつかの批判があるでしょう
まず、この方法では理論を一つに絞り込むことができないという批判です
というのも実験の成功は常に負けでないことしか示しません
ある理論の勝ちは証明できません
Aまず、それが形而上学的レベルに入ってまで一つに絞る必要はありません
信仰の自由はあります、現実においてもその時点では非科学的と言われる理論を支持する科学者は現在でもいます
B特定の理論の勝ちを示すことはできませんが、多くの理論の中でどれが一番負けから遠いかは予想することができます
それは多種多様なテストに耐えた理論です
散々コイン投げで失敗した理論と多くのコイン投げに成功した理論で前者の方が正しいと考えるには「理由がない」とポパーは言ってます
(ここはポパーの理論の欠点と言えるのかもしれません、しかし人間の合理性が悪魔による洗脳でない限りその選択はあまりにも非合理的です)
また、中立的なテストは行えないという批判もありますが、中立的なテストでなければならない必要はありません
それは異なる二つの理論が問題とする点を明確にするテストであればいいからです
(例:ピザの斜塔から球を落とす者はアリストテレスでもよい、「それが落とした人による」という批判が出たら落とす人を換えればよいのだから。
誰かが恣意的に球を離す時間に差をつけて、それをもって「ほら見ろ」と言う者を我々は一笑にふすことができる
もちろん、そのような意見が出たら、また別の方法で反証実験が可能となる、それもまた決定的ではないとしても)
143 :
ロニー:03/05/31 06:26 ID:IP9ni9zj
続き、若干の修正
さらに上の例で「同時に球を離す」という点に着目して
片方の球を上に投げるという行為で、同時に球を離して落下に差をつける者も出てくるかもしれません
(この者こそ一笑にふすべきですね、僕は笑う相手を間違えてしまいました、いかなる者でも正当な批判者を笑うべきではありません)
そのような行為はもはや問題を見失っています
このような単語を使うのは嫌なのですが、ことの本質を見失っているのです
Cまた、「勝ちがないと分かっているのも関わらず勝ちを求めるのは不毛である、勝ちがないんだから負けもない」という批判もあります
「ある理論が将来に渡って正しいと分かりはしないものを求めることは不毛だ」と主張する者は
個人としてそう思うのは自由ですが、議論に参加するならば、不毛でないものを指摘する必要があるでしょう
当然ながら、それはその批判者の「不毛」の定義「将来に渡って正しい」に反してはいけません
議論するという行為は論理にコミットしていることだからです
Dそれは合理性信仰や経験信仰でしかない
全くその通りです、科学も原理的には信仰と変わりありません
合理性や経験が嘘をついていないという根拠もありません
科学を信じている限り、我々の目には何らかの異物が入っていることでしょう
それでも「私の目には異物が入ってない」と語る者の言葉を信じる気にはなれないのです
144 :
亡霊:03/05/31 14:21 ID:kcOJc6sm
クワイン自身が「デュエム・クワインテーゼ」を論理的な意味に制限したと
言ったことと実際に「デュエム・クワインテーゼ」が論理的な意味に限定され
るかの問題は異なります。
つまり、クワイン自信がそう言ったから、という反論は、強いて言えば反証
可能ではないですね(クワインの言説が正しいことを前提にしている)。
論理的な意味に制限して記述していないし、どこにその制限があっただろう
か。
一つの事象に対して検証するべき命題が複数あり、それゆえ、どの命題がテ
ストされるべきかを反証可能性のみでは判断できない。そこで、クーンならば
その当時の学者共同体のパラダイムに従って、命題を棄却するかを決定する。
つまり、そこに規範的考慮が入らざるを得ない。それゆえ、それを含めた上
で「反証可能」と言い換えたところで、科学と形而上学を区別することはでき
ない。
なお、「対応説+整合説」は真偽を判断する方法として主張したのではなく
「科学の営み」が現実にはそのあたりで落ち着いているという経験的な話です。
ロニーさんは科学は原理的には信仰と変わらないというが(143)、なら
ば科学と形而上学を原理的には区別できない(140・141の否定?)とい
うことになる。
それとも141で示された「アカウンタビリティー」というのは、プラグマ
ティックに科学と非科学を区別する基準でしょうか。
そもそも「アカウンタビリティー」は説明責任という倫理的な問題を含んだ
ことばです(倫理的な態度により区別しようとするとき形而上学を廃棄するこ
とが可能か)。
私は、形而上学それ自体なるものは存在しない。しかし、形而上学はいつで
もそれと知らず「帯びる」という見方で、科学と形而上学を論理的に区別しう
るという立場ではないです。当座のところ、チキンリキン氏の実用性に近いと
と言った方がよいですが。
145 :
ロニー:03/05/31 14:35 ID:IP9ni9zj
>>144 規約主義を主張するには、
現実において問題となる理論が反証不可能であることを示す必要があります
立証責任は規約主義側にあります
例えばニュートン力学は水星の公転周期運動の解決としてヴァルカン星の存在を主張しました
そして、現実にはヴァルカン星の確認はなされなかった
それはテストに失敗したということです
ニュートン力学はそのような反証に対して、前提条件の修正も、補助仮説の導入も行えなかった
ニュートン力学はヴァルカン星の予測の失敗によって「もしかしたら間違っているかもしれない」という当時の風潮をつくりました
クーンは「反証不可能性」こそ科学たる証であると言ってます
ならば、この時点でニュートン力学は補助仮説を導入するか、前提条件を修正するかしなければならなかった
しかし、歴史としてそうなってはいません
問題となる仮説そのものが反証の論点とされることはありえます
現実には反証を全て前提条件の修正、もしくは、補助仮説の導入で回避することはできません
現実的に問題となる仮説が反証を受けることはありえます
それを現実社会において常に回避できることを示す責任はクーン側にあります
これだけで規約主義の主張は退けることができます
146 :
ロニー:03/05/31 14:53 ID:IP9ni9zj
続き
この例でも分かるように、理論を打破するのは必ずしも理論ではありません
理論は実験によって打破することもできます
いえ、理論はその正しさの関係としては本来的には実験によって打破されているのです
それが一見、理論が理論によって打破されているように見えるだけです
ポパーが唱えた、演繹とテスト、と、理論の採用、という二つの方法が、一見して帰納法に見えるようにです
ポパーはその方法論を「帰納」と呼ばれることを嫌いました
帰納が意味することはそれが絶対に変化しないということだからです
規約主義が意味するところもそれは絶対に棄却されないということです
しかし、現実には新しいものにとってかわられる可能性はありますし、現実に科学史において新しいものにとってかわられてます
なぜ棄却しうるものを「棄却されない」と言わねばならないのか僕には理解できません
それは議論において意見が一致しうるにも関わらず「一致しえない」と言ってるようなものではありませんか!
> なお、「対応説+整合説」は真偽を判断する方法として主張したのではなく
>「科学の営み」が現実にはそのあたりで落ち着いているという経験的な話です。
ええ、僕も亡霊氏が何かの概念を間違っていたとは思いません
それは用語上の問題に過ぎないと思います
ただ整合説は「真理はつじつまがあっていることである」という立場です
僕は対応説とは「整合説は真理ではない」とする立場だと言ったので、「対応説+整合説」は何も語ってないことになってしまうのです
論理は実験の代替とならないことに注意を与えたかったのです
147 :
ロニー:03/05/31 15:18 ID:IP9ni9zj
>亡霊氏
>>144 > ロニーさんは科学は原理的には信仰と変わらないというが(143)、なら
>ば科学と形而上学を原理的には区別できない(140・141の否定?)とい
>うことになる。
そうです、「原理的」という言葉もどうかと思いますが、「その境界線は恣意的なものに過ぎない」という批判を免れえません
ある命題が形而上学か経験科学かを明確に区別することは不可能です
それを区別しているのはポパーの定義に過ぎません
しかし、ポパーの定義により、現実にそれを区別することは可能となります
それは科学的営為をはじめるための定義なのです(方法論的要請)
> それとも141で示された「アカウンタビリティー」というのは、プラグマ
>ティックに科学と非科学を区別する基準でしょうか。
いえ、それは決して実用性と関係しません
アカウンタビリティーは算出可能性です
それは予測のための数値提出責任です
例えば、「確率論は反証不可能だ」という批判がありますが
サイコロの目の確率が1/6ならば、それはサイコロを振る回数を繰り返すことで1/6に収束するはずです
そこで、「サイコロを1000回振ったら1の目が出る確率は1/6に収束する、誤差があったとしても、その誤差は〜ぐらいの範囲におさまる」と発言することが可能です
このような予測に対する数値的な責任、そして、仮にそのテストが失敗に終わった時に、その失敗を認める責任
それが算出可能性です
それは具体的に求めることができます
148 :
ロニー:03/05/31 15:25 ID:IP9ni9zj
ポパーは科学的決定論批判において、
決定論を主張する者は「全ての現在の情報が揃えば、未来のことは全て予測できる」と言うが
現実にそのような情報が揃った状況を説明する責任を果たしていない(いつになったら揃うのか)
また、具体的な予測に関しても「彼が何を行うか(例えばジャンプする)」を予測することができると言うが
そのジャンプが何cmか、とか、その角度は、といったことを算出する責任を果たしていない
と批判しています
それは亡霊氏の指摘する通り倫理的な態度に近いものですが、プラグマティックなものではないです
そしてポパーは形而上学の廃棄を唱えてません
ポパーは形而上学をテスト前段階における方法として、積極的に容認しています
科学史を見れば、科学が形而上学と不可分なことは見て取れます
ニュートンの重力概念も、マッハの相対原理も、シュレディンガーの猫も形而上学です
量子力学のパラドクスに実質的解決を与えたのはポパーの反証主義です
量子力学の解釈問題はベルの定理によって反証可能性が与えられて、それは科学的に議論可能となったのです
>>137 「無」の状態はあります。
だだそれを科学的に検証するのは難しいです。
しかし、医学方面での臨床例などではあります(引用はやめておきます)。
日常的な例としては、メガネやコンタクトレンズを始めて使用したときにそれは起こります。
>>146 >現実に科学史において新しいものにとってかわられてます
これは少し違うなと思いました。
実際、最先端の科学では古いことを引きずり出して利用している場面もあります。
誤解されるようなことだと思いますので、少し説明をお願いします。
遅くなりまして、申し訳ありません
私の決め台詞が謝罪なのは、少し情けないですね
>ロニーさん
まずこちらから、
>122
議題の広がりもそうですが、ロニーさんの負担が大きすぎる事も懸念します
私側の処理の問題もありますので、とりあえず「三世界論」については議題から
外すことに賛成です
>96
>しかし、民主主義が独裁に優ると考えるには正当化主義を捨てねばならないと思います
>正当化主義では多数決の原理を採用できないと思われるからです
同意します
>しかし僕は、任せる者を決定することにさほど意味はないと思います
立候補者に関する情報が何もない初めての任命に、意味はあまりないと思います
しかし、その後任命するか否かは信任と同時に解職の意味も持つので
意味はあるのではないでしょうか?
>これは「全員が賛同しているわけではないこと」から「全員が賛同していること」を論理的に導き出すことはできないからです
なるほど、ありがとうございます
>97
>多数決
たしかに、多数決は恣意的に決められたルールだと思います
>98
まとめていただいて、ありがとうございます
>99-100
>Fクワインは何を否定しているのか
>実験と実験への言明との一対一対応が可能ならば、クワインが問題としているのは理論と実験言明との関係です
実験と実験への言明との一対一対応とは、
「大小の鉄球を同時に落としたらほぼ同時に着地する、は真理である」は
実験で大小の鉄球を同時に落としたら、ほぼ同時に着地したというときに正しい
というようなことでしょうか
この行われた実験に限定するのであれば、上のようなことを肯定できるのですが
これが真理だと表現することにはやはり抵抗があります
いずれにしても、クワインは実験・(実験言明)・理論の関係を問題としていた
印象がありましたが・・・
>続き
思うに、クワインは決定実験について主に二つの点で疑問を提示しています
1.実験による、仮説全体に対する反証の効果
2.実験結果に完全に適合する、仮説の複数存在可能性
(文の意味として1は2を含むのだとは思うのですけれど)
さて、現在の論点は1です
私は「エーテルが存在する」という仮説を救うということのみを考えるのであれば
例えば実験機器の精度を永遠に問題にすることもできると思っています
あるいは、太陽のフレアとの因果関係を設定することも可能でしょう
実際そのようにして、「エーテルが存在する」という仮説を
救っている人もいるかもしれません
私はこのような態度を受け入れることはできませんが、
論理的には上の仮説を救うことができるのではないでしょうか
>単一の形而上学的仮説の成否を決定できるほど我々の能力は優れていません
>しかし全体論としての決定実験は可能です
ここでは、仮説を命題に類似した意味で使われているのでしょうか・・・
決定実験を、仮説ではできないが全体論ではできるということの説明を
もう少しお願いしてもよろしいでしょうか?
>101
>ポパーの考え方としては科学の境界設定基準は「算出可能性」(accountability)とした方が適切であるように思います
形而上学と科学の区別として「算出可能性」のような考え方は、
私の好みにも合致します
私的な基準として採用するのならば、という限定がつきますが
>102
>しかし、「それは不確実だが正しいだろう」ということは、「それが正しいかもしれない」ということを含意します
>また「それは間違っているかもしれない」ということを含意します
同意します
>燕雀さん
>120
レスをありがとうございます
そしてごめんなさい、>110は半ば以上違うと確信しながら書きこんでいました
700字のレスが見られないのは残念です
燕雀さんの都合が良いのであれば、こちらのメアドまで送っていただけない
でしょうか?
その全部に返事できるかは、解りませんけれど・・・
>ロニーさん
>123
ありがとうございます
私はこの原理を初めて見ましたので、勉強になりました!
>124
>対して、批判主義は自らの主張の否定への否定性を示す方法です
了解しました
基本的に、議論ではその参加者に対する関係で主張の輪郭が浮かんでくる
という考えが、私を支配しているので混乱してしまいました
ごめんなさい
>議論はもっと気楽にやるものだ
生真面目に議論しようとしても、結局ルーズになってしまう私としては
そういっていただけると有難いですw
もともと気楽な人間で、気楽な議論しか経験してこなかったもので・・・
>125
>とりあえず、クーンが自らの心情と自らの意見が異なることは間違ってないと思います
>というのも、クーン、ポパー、ファイアアーベントが集まった対談で
>クーンはポパーとともにファイアアーベントの相対主義を否定しているからです
私の受けた印象では、クーンがファイアアーベントの相対主義を否定することから
彼の主張と心情が乖離しているとはならないようです
ここは、図書館でクーンの主張を補給した後で書き込みを試みます
>というのも言葉あるいは脳の限定(≒直観)だけを世界とするならば、世界に排中律が適用できなくなると考えるからです
これは、議論に排中律を採用することと同じ意味なのでしょうか
世界には排中律を適用できないこと(少なくとも、排中律を適用しないことで
説明が単純になる)も存在すると思いますので・・・
>僕は脳の中に脳の外の世界をつくることができると考えます
う〜ん、「ある」とは信じるわけですが、「ある」ことを議論に
乗っけることができるのか・・・
裁判においても、コーヒーカップの底があると説得できなければ
コーヒーカップの底があるという事は認められないわけです
「疑わしさ」というのは立証が不十分だという意味で私は捉えているのでしょう
裁判では、客観的真理を問題にしているということには疑問が残ります
>126
>もちろん、「主観でなければ客観」という意見にはいくつかの批判ができます
>まず主観と客観以外の可能性があります
>しかし、その可能性はそれを指摘してはじめて効果があります
いえ、「主観でなければ客観」を批判する意図はありませんでした
実際間主観(間間主観?)としても、主観と議論の関係は変わらない
とも思いましたから
私の疑問は、どちらかといえば議論の主観からの自律という方向に
向けられていましたが、それを主張する自信もありませんでした
>127
直接会って話している時には起こりえない現象で、残念です
>128
>多くの論理式を書いたのですが・・・(二重否定除去の不成立など)
論理式を書いてくださったことには感謝していますし
理解の助けにもなったと信じています
>112への誤解があると思いますので、補足の説明を試みたいと思います
>112
>私が思うに、排中律を採用する者が批判者と議論できるのは
>批判者が排中律を採用した(同じ蛸壺にはいってきた)からであるので
>ロニーさんが以前仰ったように、直感主義者同士での議論が可能であるのならば
>直感主義者の立場からも同じように言えるのではないかと思います
>つまり、直感主義者も批判者が直感主義の土俵に上がるのなら、議論可能である、と
この箇所は直感主義者が議論において排中律を採用するしないということを意味しません
直感主義者の土俵とは、直感主義者の議論のルール内という意味です
そして、以前ロニーさんが直感主義者同士の議論は可能だと書き込んでいたと
記憶してましたので、批判者が直感主義者の議論のルール内にはいってくるならば
議論は可能、という意味で書き込んだものなのです
今日はこれで終わります
157 :
ロニー:03/06/01 18:43 ID:hV13HukM
>チキンリキン氏
早急にいくつかにレスを
>>156 >論理式を書いてくださったことには感謝していますし
>理解の助けにもなったと信じています
その文章はチキンリキン氏への言葉ではありません、ごめんなさい
二重否定除去に関して論理式と証明を書いたのですが、こちらの不注意で書き込む前に消してしまったのです
バックアップはとっておかないといけません
その作業をもう一度行う気が起きなくて放心状態のまま書き込んだので、あのような言葉になってしまいました、失礼しました
(論理式の記号は変換で出すのが面倒すぎるので)
とりあえずは二重否定除去法則は証明できません(もちろん形式主義の立場からは証明できます)
これを直観主義の立場で言うとおそらく次のような立場と言えるでしょう
・世界とは私にとっての世界である
・「真」とはその世界において構成されるものである(証明されるもの)
・「〜でない」はその否定を構成すると矛盾が生じる時に証明されるとする(その可能性がない時にはじめて言える)
158 :
ロニー:03/06/01 18:44 ID:hV13HukM
続き
>直観主義者のルールでの議論
直観主義のルールですと、「真偽」の問題はそれが証明できるかどうかです
証明できないとそれは「真」ではないので、形式主義者がそのルールに入ると「真でない」の烙印を押されて追い出されるのです
形式主義者が「この部屋にはロバがいない」と言うと
直観主義者は「『この部屋にロバがいない』とは言えない、なぜならば『この部屋にロバがいる可能性』は排除しきれないからだ」と返します
形式主義者がイスの下を覗いたところで、直観主義者にとってはそれは「イスの下にロバがいる」という可能性を排除したに過ぎません
そして形式主義者があきらめずに具体的な例を提出し続けると、3回目ぐらいで火かき棒を投げ捨て立ち去るのです
形式主義者が提出する部分集合から問題となっている「この部屋」を導くことができれば聞く耳もあるでしょう
直観主義者にとっては自分たちが構成できることをもとにそこから証明できるかどうかを考えることが議論なのです
これでは議論になりません
自らが偽であることを認めることが議論のルール内に入る条件であるというのならそれはもはや議論に値しません
>この箇所は直感主義者が議論において排中律を採用するしないということを意味しません
>直感主義者の土俵とは、直感主義者の議論のルール内という意味です
直観主義にとって「真」とは証明されることです
証明には証明されていないものを道具として持ち込むことを禁じています
二重否定除去は証明されてません、従って、二重否定除去による証明は証明されたことにはなりません
「真」とは構成されることというのが直観主義の立場だというのなら、直観主義者に自らと異なる他人は必要ないのです
結論を言います
直観主義のルールに形式主義が入ったところで「不確実なものは採用できない」と追い出されるだけである
直観主義とは端的に言えば不確実なものを認めない立場である
直観主義にとって論理は世界そのものである
形式主義のルールでは排中律を採用しなければならない理由はない
(公理系の無矛盾性はそれだけでは証明できないので形式主義は自らが確実に正しいことを主張できない)
形式主義にとって論理は不完全かもしれない道具である
159 :
ロニー:03/06/01 19:12 ID:hV13HukM
>燕雀氏
>>149 >「無」の状態はあります。
>日常的な例としては、メガネやコンタクトレンズを始めて使用したときにそれは起こります。
しかし、それは常に「無」であり続けるわけではない
我々はメガネを日常的にかけることができるわけですから
それは我々がメガネをかけた上で何かを認識しようとしたからではないでしょうか?
どのような状況かは分かりませんが、その者が目をつぶってない限り「無」とは言えないと思います
>実際、最先端の科学では古いことを引きずり出して利用している場面もあります。
>誤解されるようなことだと思いますので、少し説明をお願いします。
科学の理論は新しいものにとって変わられたということです
アリストテレスからガリレイに
ニュートンからアインシュタインに
規約主義の立場では、ピザの斜塔から同じ比重の玉が同時に落ちても「アリストテレスの理論は反証されてない」と<現実に>主張できると言わねばなりません
さて、科学では古い理論を持ち出して・・とあります
具体的には我々は科学の実験においてにいちいち相対性理論の方程式をひっぱってきません
我々は理論を道具として使用する時にはそれが信頼に足りてなければなりません
そしてニュートンの運動法則は反証されました
ニュートンの理論は運動速度が光速に近づくほど現実と大きくズレることが分かったわけです
だからこそ、日常的世界では我々はニュートン理論を安心して使用することができるのです
道具は、その道具としての限界を知ることでその限界内で安心して使用することができるのです
ばねばかりが地球上でしかその道具としての効果を発揮しないことが分かってるからこそ
地球上はばねばかりで十分なのです(もっとも緯度で重さの度合いが変化しますけど)
160 :
ロニー:03/06/01 19:36 ID:hV13HukM
チキンリキン氏
>>156 >立候補者に関する情報が何もない初めての任命に、意味はあまりないと思います
>しかし、その後任命するか否かは信任と同時に解職の意味も持つので
>意味はあるのではないでしょうか?
そうですね、現実の選挙では不信任という項目はありませんから任命も意味がありますね
発言を撤回します
>多数決
>たしかに、多数決は恣意的に決められたルールだと思います
恣意的に決められてないルールなどまずないでしょう
あるとすれば全会一致を行っている時だけです
しかし、全会一致のルールの方が議論以外の圧力が強まると思います
誰か一人が反対すればそれが採用されないならば、その一人にはまず間違いなく圧力がかかるからです
イラクのフセインの支持率などは端的な例ではないでしょうか
支持率100%は論理的にはフセインの正当性を示すはずです
にも関わらず、その数字は、フセインが民主主義をないがしろにしていることを理解させたのですから
民主主義社会においては支持率が100%に近づけば近づくほど民主主義が危ういと考える社会です
(低すぎても困りますが)
161 :
ロニー:03/06/01 19:47 ID:hV13HukM
>>151 >この行われた実験に限定するのであれば、上のようなことを肯定できるのですが
>これが真理だと表現することにはやはり抵抗があります
もちろん僕もこれを真理だと胸をはるつもりはありません
また、このようなチープな真理にしがみつくつもりもありません
しかし、これは「真」です
>いずれにしても、クワインは実験・(実験言明)・理論の関係を問題としていた
>印象がありましたが・・・
もちろん、その通りです
クワインもポパーも理論の真偽を問題としていました
ただ、僕は対応説の真理観を説明していました
対応説の真理とは言明(理論)が現実と一致していることですが、それは<不確実>です
しかし、それをもって対応説の真理を否定することはできません
実験言明と実験との対応は可能だからです
・求めるもの→理論と現実の一致 (対応説の真理)
・手元にあるもの→実験言明と実験の対応 (対応説の真理)
この2つをどうやって結びつけるか、それがポパーとクワインの問題だったのです
弁解をするならば、僕はクワインの批判をしたのではなく
クワインを持ち出すことはそのコンテンツの問題への批判になってないと主張したのです
162 :
ロニー:03/06/01 20:08 ID:hV13HukM
>>152 >私はこのような態度を受け入れることはできませんが、
>論理的には上の仮説を救うことができるのではないでしょうか
ここまでくるともはや問題は言語上の(我々の言葉の問題)に過ぎないと言えるでしょうね
まず理論を次のように定義します「理論体系」=「初期条件」+「問題となる仮説」+「補助仮説」+「その他」
エーテル仮説への反証実験(マイケルソンとモーレーの実験)に関して
チキンリキン氏の言う「機械の精度」も「太陽のフレア」も論理的にエーテル仮説を反証から救っています
しかし、逆を言えば「機械の精度」か「太陽のフレア」か「その他の何か」を導入せねばエーテル仮説を反証から救うことはできないのです
これがポパーの言う論理的な反証です
論理的な反証は理論体系全体へとかかってくるので「ホリスティックな反証」と呼んでもかまいません
これが論理的な意味でのデュエム=クワイン・テーゼへのポパーの反論です
それとどうでもいい話ですがマイケルソンとモーレーの実験は原理的には機械の精度を問わないものと思われます
テーブルとライトと鏡とハーフミラーで可能です、鏡を使用して距離を稼ぐ必要があるので、同距離を図る誤差が生じるかもしれませんが
問題となる結果は光が同着かズレるかなので、誤差を考えてもそれが大きく結果に左右されるとは思いません
あの実験の誤差を考えると実験言明と実験の対応すら問えなくなってしまいます
163 :
ロニー:03/06/01 20:36 ID:hV13HukM
>論理的でない意味でのデュエム=クワイン・テーゼ
まずポパーは決定的な反証はもとから認めていません
論理的でない意味でのデュエム=クワイン・テーゼは、
論理的でない意味で必ず反証回避を取ることができるかどうかが争点となります
「必ずできる」と主張するのが規約主義であり、「それが必ず行えるわけではない、反証可能である」というのがポパーの立場です
以下、グリュンバウムより
>理論T1(主要仮説H1+補助仮説A1)から実験結果の予測P1がなされ、
>他方、理論T2(主要仮説H2+補助仮説A2)から実験結果の予測P2がなされ、P2ではなくP1が確認されたとしよう。
>理論T2の主要仮説H2を反証から回避するためには、A2に反証の原因を帰し、A2の代わりにA3を考案し、しかもそこからP2ではなくP1を導出できなければならない
>確かに(H2∧A3)⊃P1を満足するようなA3は、トリヴィアルな意味(とるにたらない意味)では存在する。
>(例えば、P1をA3だとみなせばP1を導出することが可能だからである)
>しかし、A3はトリヴィアルでない意味では常に存在することが決まっているわけではない。
>またA3は主要仮説H2とは独立にテストされる可能性があり、その結果、反証される可能性がなければならない。
>このような補助仮説A3を必ず見つけ出せるわけではない。
>したがって、理論T2の主要仮説であるH2が実際に反証される可能性がある。
これを受けてクワインはデュエム=クワイン・テーゼが論理に限定されるものであることを認めました
164 :
ロニー:03/06/01 21:03 ID:hV13HukM
上に追記するのを忘れてました
科学者は自らの理論体系が反証に直面した時に、主要仮説が間違っていない可能性を指摘するだけで事足りるでしょうか?
ぼくは科学がトリヴィアルな(とるにたらない)作業であるとは思いません
科学者は反証を回避するために新しい補助仮説を考える必要があるのです
>「太陽のフレアとの因果関係」という補助仮説にはどう対処するか
A太陽のフレアがエーテル仮説と独立に生じている場合
太陽のフレアを考えた上で実験を行うことで問題は解決します
フレアの周期によって実験を行う、または、テーブルの角度を変更するなど
(もとよりマイケルソンの実験はエーテルの風の角度が45°であると結果が出ないので何度も行う必要がありました)
B太陽のフレアがエーテル仮説と因果をもって生じている場合
この場合はまずどのような因果を持っているかを説明する義務が主要仮説を救う者にはあります
「何かの因果があるかもしれない」という指摘では意味がありません
それがアド・ホック(こじつけ的なもの)であるならば、その補助仮説は主要仮説を救うことができません
(例、太陽のフレアによってエーテルの風は常に相殺される関係にある)
反証は、こじつけ的な補助仮説を防げば、主要仮説の反証か、別の反証実験、もしくは、新しく意味ある理論展開のいずれかを導くことになります
>ここでは、仮説を命題に類似した意味で使われているのでしょうか・・・
>決定実験を、仮説ではできないが全体論ではできるということの説明を
>もう少しお願いしてもよろしいでしょうか?
理論体系=<初期条件>+<主要仮説>+<補助仮説>なので、ある実験である理論体系を反証することはできます
「光は直進する粒子である」という仮説は光の干渉や回折といったもので反証できます
今日はこの辺で
長文失礼しました
165 :
亡霊:03/06/01 23:47 ID:JlYWllWD
【観察の理論負荷性】
観察は理論負荷的である。つまり、「ある事態」があっても、いかなる理
論をとるかにより、説明が異なります。これを拡張すると、すでに「理論」
なくして「ある事態」はないことになります。
別の言葉で言うと、現象的与件が単なるそれ以上の或るものals etwas
Mehr単なるそれ以外の或るものals etwas Anderesとして意識されるという
問題があります。
このとき、対応説に言う「一致」という概念はいかなるところに定位され
るか。純粋な一致ではなくなる(純粋→写像的)。それは純粋な一致の不可
能性。不確実ではなく、純粋性の不可能性。
アフォッフェミの女・子供に言っとくわ俺。
こんなクソ板なんか必要ないんよ。
この一言で全面解決。
____ ? ? ? ?
/∵∴∵∴\ ? ? ? ? ? ?????????
/∵∴∵∴∵∴\ ???????? ? ? ? ?
/∵∴∴,(・)(・)∴| ? ? ? ? ?
|∵∵/ ○ \| ? ? ? ? ?
|∵ /. ミ | 彡 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|∵.| \___|_/| < 女のくせに生意気だぞ!
\| \__ノ / \__________
\___/
>>154 うーん。どうしようかな。
いくつか問題があるのですが、1つはチキンリキンさんがトリップを付けていないので、
今の時点で154さんがチキンリキンさん本人かどうか確認できないということです。
書き込みの内容からすれば、本人だというのはだいたい見当がつくのですが、
それを確かめる方法は私にはありません。しばらく様子を見ます。
とりあえず保留ということで。
チキンリキン(154さん)さんのところにMailが送られているかも知れませんが、
それは私ではないので。
>>159 レスありがとうございます。
>その者が目をつぶってない限り
簡単に言うとその状態なんですけどね。
しかし、メガネをかけたとき、かける前に認識しようとしたもの以外のものが見えたりして、
それで初めてそこに何かがあることを知覚するということもあると思います。
これと同じような事が「定義された用語」に対しても起こるのではないかと私は考えます。
他はほぼ同意します。
「ほぼ」と言うのは、やはり情報として得ていないものがあるようですので。
でも、これはここのスレの議題ではありませんので、この話題はここで終了とします。
168 :
ロニー:03/06/04 21:59 ID:T2G0JQHD
>>165 >亡霊氏
>観察の理論付加性
観察の理論付加性についてはポパーは『科学的発見の論理』ですでに語ってます(クーンの二番煎じではない)
まず「理論に先行しているとでもいった『純粋な』観察などというものはないし、ありえない。」
「理論は常に観察に先行する」という言葉は有名です
これをポパーは「バケツ理論」と「サーチライト理論」という立場で説明しています
「バケツ理論」とはベーコン的な立場です
観察者の知識はバケツに水をためるように何もしないことでその知識を蓄積するといったもの
対して「サーチライト理論」は光を当てることではじめて問題を浮き彫りにすることができるといったものです
サーチライトによって光が反射されてはじめて観察が可能となるのですから観察は常にサーチライトの影響を受けます
議論や科学的思考においては先行する理論が必要である、というのがポパーの発想です
そして、観察が理論付加的でないならば、我々は反証に固執する必要はないのではないでしょうか?
それこそ、テストでうまくいけばそれが真であるという結論を帰納的に出しても大きな問題はないはずです
しかし、観察が理論付加的であるからこそ、うまくいってるように見えるものが実は事実を問題をしているのではなく理論そのものの問題であるかもしれない
だからこそ、観察を検証ではなく反証として理解する必要があるのではないでしょうか?
僕は「観察の理論付加性」や「決定的反証の不可能性」がなぜポパーへの批判になるかが理解できません
というのも、それらはポパーの理論の後押しをすることこそあれ、その逆はないと思われるからです
それらの批判は常に何らかの終着点「科学的知識が世界の全てを解明する」といったような幻想を抱いているように思えます
そしてそれらが満たされなければ無意味だと考えているように思えます
169 :
ロニー:03/06/04 22:52 ID:T2G0JQHD
>>167 >燕雀氏
>しかし、メガネをかけたとき、かける前に認識しようとしたもの以外のものが見えたりして、
>それで初めてそこに何かがあることを知覚するということもあると思います。
それでも、認識しようとして目を開かねば何も見ることはできません
しかし、最近の流行として「目を閉じれば、中立的な観察が得られる」といった風潮があるように思えます
彼の者は目を閉じる前に自分の口を閉じるべきなのです
歴史上の偉大なる科学者はいつだって目を開いていたのです
愚痴になってしまいましたね・・・
>チキンリキン氏
今日はレスができないことを許してください
次回は今週の日曜になると思います
失礼しました
170 :
亡霊:03/06/06 01:30 ID:36uv08kb
>>166 まず検証可能性がある。しかし、検証は、常に特殊で、反証可能性がある。ゆ
えに検証では駄目。
その次に、観察の理論負荷性があり、検証であれ反証であれ、「証」というこ
とが批判される。
観察の理論負荷性は、事実/理論の二項対立そのものを相対化する。したがっ
て事実問題から理論問題へ移行したかすら、わからない。ということでは?
と批判を差し向けといて何なんですが、しばらくこの板に来ることができませ
ん(二ヶ月ぐらい)。しかし、そのとき、チェックします。
>>169 いえいえ、目を開けていてもそれは起こるのです。
それはさて置き、私は「無の状態」にはそういった宗教哲学的意味は含めていません。
これは科学であり、仮定の一部分であり、またそれが対象となるものではありません。
ちょっと失礼します・・・
>>172 買って読みたい気も非常にしますが、出来れば破綻の道筋を簡単に説明してもらえると嬉しいです。
積みすぎた方舟、という題から、およその想像はつきますが。
スレでも指摘されていた、「社会と言うパイには限界があるのに、多様性を盾に無制限の
要求を出すフェミニスト」の破綻の話かな・・・なんて想像してます。
174 :
ロニー:03/06/08 17:38 ID:Bk+gRZaE
>>170 >亡霊氏
僕へのレスと判断し返答します
> その次に、観察の理論負荷性があり、検証であれ反証であれ、「証」ということが批判される。
「証」という言葉に批判を向ける者は、その実、実証主義に脳を犯されているのです
彼は彼が最も嫌う実証主義者その人です
>観察の理論負荷性は、事実/理論の二項対立そのものを相対化する。したがっ
>て事実問題から理論問題へ移行したかすら、わからない。ということでは?
ええ、分からないでしょうね
しかし、事実と理論を便宜上定義することはできます
定義は唯名論的なものですからそれにまで批判する者はいないでしょう
そしてそのように定義し、批判的アプローチをとることで
事実を通して理論を、理論を通して事実を、問うことができるのではないでしょうか?
「純粋」を問題とし相対化する者は、何か別の「純粋」な理論を提出する必要があります
でなければ彼自身の言葉が「純粋」ではないことになってしまうからです
批判的合理主義にとって批判は重要な武器ですが、唯一禁止されている批判があります
「それは正当化されてない」という批判です
「純粋さ」や「確実さ」や「正当化」を問題とする者はユートピア主義に脳を犯されているのでしょう
純粋な観察がありえないからと言って、同じ問題を共有できないとは僕は思いません
観察対象は同じであると、誰もが唯一無二の世界を共有していると、僕は信じているからです
175 :
ロニー:03/06/08 17:53 ID:Bk+gRZaE
>亡霊氏
>しばらくこの板に来ることができません(二ヶ月ぐらい)。しかし、そのとき、チェックします。
それはとても残念です
『共生の作法』を教えて頂いたのも亡霊氏からですし、議論の端々でポイントを指摘して頂きました
前スレにも書きましたが、亡霊氏にはたいへん感謝しております
二ヶ月度に会いましょう
176 :
ロニー:03/06/08 18:04 ID:Bk+gRZaE
>>171 >燕雀氏
>いえいえ、目を開けていてもそれは起こるのです。
もちろん、理解しております、「目をつぶって・・」の下りは一つの比喩と相対主義への一つの皮肉です
>それはさて置き、私は「無の状態」にはそういった宗教哲学的意味は含めていません。
>これは科学であり、仮定の一部分であり、またそれが対象となるものではありません。
確かに、燕氏の語る「無の状態」とは科学的なものですが
それが出た下り
>>105から察するに、それもまた燕雀氏の比喩なのだと思います
結論は一つ、好きなように議論に参加していいということだと思います
現にもう、僕と燕雀氏との間に議論が行われています
177 :
ロニー:03/06/08 18:24 ID:Bk+gRZaE
>チキンリキン氏
遅くなってすみません
>>114 >・「真理」か「有用性」か(問題がどこにあるか、言葉?それとも実在?)
さて、僕とチキンリキン氏との間には相違があります
これは言葉だけの問題なのか、それとも具体的に指す内容が異なるのか、この点を問いたいと思います
チキンリキン氏は>私は「問題解決の有効性」をかなり限定的に考えています、とあるように
それはひどく僕が「真理」と呼ぶものと近似すると思われます
僕もまた「真理は有用性のために設定される」と言われても反論するつもりはありません
しかし「真理は有用性ではない」というのが僕の主張です
まず具体的に僕とチキンリキン氏で違いがあるのかを探すことにします
僕は以前に挙げた例を出すことにしましょう
・裁判で被告が自らが罰せられないよう虚偽の申告をし、「これは私にとって有用であるから真理だ」と述べるのは明らかに間違っている
これが僕の意見であり、それに対し、チキンリキン氏は「私もそれを『有用』とは認めない」と返しましたね
僕がチキンリキン氏との差異を示すには、「有用でない真理」を提出する必要があります
「(絶対的ではないにしても)真理を知る」という行為は、翻せば「虚偽を知る」ということです
ですから、「ある記述が間違ってたことが公の知れることとなった、これによって、我々の知識はまた出発点に戻らされた、これは『有用』ではない、しかし間違いは『真理』である」
これが僕が提出する有用でない『真理』です
しかし、僕は
>>159で「道具は、その道具としての限界を知ることでその限界内で安心して使用することができるのです」と書きました
これもまた、一つの『有用性』を映し出すでしょう
また、チキンリキン氏からは「有用な虚偽」を提出していただきたいと思います
178 :
ロニー:03/06/08 18:57 ID:Bk+gRZaE
>・「真理」か「有用性」か(言葉と考えて、有用性を問う)
さて、僕とチキンリキン氏との間に見解の相違が全くなく、その上で「どちらの言葉を使用するのが有用」か、という問いを立てることにします
つまり、それを「有用性」と呼ぶことがそれを「真理」と呼ぶことよりも「(僕が言う)真理」を求める結果となるのか、ということです
科学者が「真理」を問題としなくなる行為、例えば理論の探求を捨てて自己正当化に走った科学者は僕とチキンリキン氏のどちらにとっても棄却されるものと思われます
では相対主義(チキンリキン氏)と合理主義(僕)のどちらの言葉がその結果を与えるのか
なおここでは便宜上求める結果を「真理」と表現することにします
179 :
ロニー:03/06/08 18:57 ID:Bk+gRZaE
1「有用性」という言葉が「真理」の探求への動機付けの力を持つならば、相対主義はその力を「真理」の理念に負う
チキンリキン氏は「有用性」の言葉を狭い意味で使用すると言いました
しかし、それは「真理(正しさ)」という一つの価値観が浸透しているからこそ通用するものです
「有用性」という言葉が浸透し「真理」という言葉が無い社会では、「私にとって『有用』である」という主張に一つの理由付けが生じます
もし「真理(正しさ)」という観念が無い社会では
「客観的知識など存在しない、私が知識を創造する、私の知識はそれが客観的に妥当するからではなく、まさに私が『有用』であることを選び取ったものであるがゆえ、他を排除する絶対的権利をもつ」という主張を互いに突きつけあう社会となります
そのようなエゴイストの世界の発生を食い止める力は「有用性」という言葉にはありません
もちろん相対主義者は「真理」という言葉を使用する社会は
「私の理論こそ『真理』である」というエゴイズムの到来が訪れると主張するでしょう
しかし、その理論がそれ自身の力によって真であることを証明することはできません
誰もが「真理」を持っていません、仮に持っていたとしてもそれは「真理」であることが分からないのです
我々はそれが誤っていた時に、「それが真ではなかった」と理解することができるだけなのです
誰もが自らの理論を「絶対的真理」と称することはできません
「真理」はその言葉の内に普遍主義要請があります
「有用性」という言葉には普遍主義要請がありません
ゆえに、他者に対する寛容さを引き出すのは「真理」という言葉であり、寛容さを破壊するのは「有用性」という言葉です
180 :
ロニー:03/06/08 19:47 ID:Bk+gRZaE
続き
>相対主義と寛容
加藤新平の『法哲学概論』では
>寛容の原理は相対主義と論理的に結びつかず、両者の間には単に一定の心理的な関係があるにすぎない
>心理的にも寛容の最も確かな保証は相対主義にではなく「人間尊重を核として保持した上での人間的共感」である
と書いてあるそうです(引用の引用です、読んだことないです、すみません)
そして井上達夫氏はさらに「人間的共感」を寛容精神の基礎に置くという論理は、その実、寛容精神を保てないと論じています
というのも「人間的共感」の無い者には寛容しない、という論理になるのですから
共感する者に寛容の態度をとることは簡単なことです
自分の理論を支持する人間に対して寛容さを持ち、その意見に耳を傾けるのは誰にでもできることです
しかし、その逆、自分の理論を批判する者に寛容さを持ち、その批判に耳を傾ける行為は難しいものです
「真理」の探求者は「私とあなたは違う、あなたの基準で私を裁くことはできない」という言葉で批判者の言葉を切り捨てることはできません
寛容の原理について井上氏はこう書いています
>共感の不在においてなお寛容を可能にするものは何か。・・・
>私は答えを「我々は誤りを犯しうる存在である」という自覚、可謬性の自覚に求めたい。
>もちろん、相互理解の成功の確実な保証はどこにもない。
>ここでは自己の信念の可謬性の自覚は他者との相互理解の成功を保証するがゆえに寛容を基礎付ける、などと主張しているわけではない。
>このような主張は共感の壮絶が寛容の存在理由をなすという観点と両立不可能でさえある。
>・・・共感し難いものに対してなお我々が自己の精神を開きうるのは、我々が我々の信念体系の可謬性・有限性を自覚し、
>異質な他者との対話がたとえ充全な相互理解をもたらさないとしても、我々自身の信念体系を再組織化しその地平を広げる貴重な契機を与えてくれるものであることを承認するときである。
181 :
ロニー:03/06/08 20:24 ID:Bk+gRZaE
以下は少し議題とズレますが、井上達夫氏の相対主義批判です
>相対主義は価値判断が客観的妥当性を持ち得ることを否定するというまさにそのことによって、我々の価値判断が可謬的であるという観念をも破壊してしまう。
>実際、相対主義者たちは証明不可能であるだけでなく、それが内的整合性さえ有していれば反駁不可能であることを強調する。
>相対主義者にとっては「整合化された価値観もなお可謬的である」という主張がそもそも意味を持たないのである。
>我々は首尾一貫した価値観に従っている限り、「あるいは私は間違っているのかもしれない」という不安を持つのはナンセンスであり、
>他者からの批判に耳を貸す必要はなく、ましてや共感できない対立者に自己の精神を開放する必要などないということになる。
>実存主義者が「神を殺害する」ことにより自ら神に成り代わったように、
>相対主義者は客観的価値を否認することより、個人を一切の価値の主権的創造者の地位に祭り上げ、
>我々の有限なる判断能力を超えた客観的価値の想定から生まれる謙虚さと、それに根ざした寛容精神を
>しばしばそれとは知らずに、腐食させるのである。
>相対主義は無謬性を僭称する独断的絶対主義を否定する点でリベラルな外観をもつが、これは外観にすぎない。
>相対主義は客観的価値に関する絶対的認識の標榜を退けるだけでなく、客観的に妥当する価値の存在そのものを否定することにより、
>自己の価値の選びを不可謬のものとみなす権利を再び人間に与えてしまったのである。
>絶対主義と相対主義との間には、根拠を所有していると標榜するか、「根拠などなくてよい、我が意思こそ根拠である」と囁くかの違いしかない。
>絶対主義が己の恣意性を隠蔽する独断であるとするならば、相対主義は己の恣意性に開き直った独断であり、
>いずれも対立する他者との果てしない対話的緊張関係から退却して、自己の快適な独断の城に引き篭もろうとする衝動を内包している点で
>同じ穴のムジナである。
182 :
ロニー:03/06/08 20:58 ID:Bk+gRZaE
井上氏は価値相対主義に対しての批判を行ってますが、それを理論としたところで大きな変更はないでしょう
相対主義は、絶対的なものが我々の手の内には入らないことを指摘し、論理の正当化の限界を説くことで逆説的に論理的な断絶を飛び越えているのです
「有用性」という言葉もまたそうです
「有用性」は論理によって批判不可能です。対して、「真理」は論理によって批判できます
いかなる論理的な矛盾や論理的な飛躍をも正当化(絶対化)してしまうものが「有用性」です
「真理」は常に論理の批判にさらされます
ある理論に「矛盾してる」という批判がよせられたら、その理論は真理性を保つために矛盾を回避せねばなりません
矛盾を回避するために何らかの処置を取る必要があります
しかし「有用性」という言葉では、その理論が有用であるならば、回避する必要はありません
「有用性」という言葉がもたらすものはその言葉を使用する意図とは反して、自己を絶対化する頑ななまでに保守的な態度です
「相対主義」の標榜、もしくは「有用性」の標榜、そういったものはその名に反して、絶対主義の氾濫、そして有害な結果を招く
それが僕の主張です
いささか厳しい言葉になってすみません
長文失礼しました
次回は水曜か、木曜ぐらいに書き込む予定です
183 :
ロニー:03/06/08 21:08 ID:Bk+gRZaE
失礼、主張だけ述べて自己批判を忘れてました
これも「有用性」を問うたため、というのは言い訳でしょうか
相対主義からは次のような反論が予想されます
>「相対主義は『あらゆる価値観は原理上恣意的である以上、そのために闘って死ななければならないほど重要な価値などどこにも存在しない』
>ということを我々に教えることによって、対立する価値観との<妥協>による共存へと導くのである。
>共感の不在において寛容を可能にするのは可謬性の自覚ではなく、この相対主義的妥協の精神である。」
「有用性」を標榜することで相互妥協を引き出せる、という反論です
反批判は次回に繰り越します
失礼しました
アメリカでは、Microsoftとかでも結構若い世代が第一線の仕事をしているのだ。
日本の若者がバカなのではなくて、単に、第一線の素材とリンクしていない教育
など無意味だ、という話ではないのかと思う今日この頃。終わった問題や2番煎
じのプロジェクトをそうとは知らずに(誰も言ってくれないので)苦労してやっ
てたりしないか?終わった問題であるからして、自分勝手に脳内でその作業の意
義をでっちあげないとやっていられないのだが、これはかなり有害であり、そう
いうのを続けていれば気が狂うのが当たり前だ。
>>176 相対主義?何だろう。
その定義を教えて欲しいのですが・・・。
>それが出た下り
>>105から察するに、それもまた燕雀氏の比喩なのだと思います
すみません。ここの部分の意味が読み取れませんでした。
p.s.
科学的方法論のページを幾つか見てきましたが、これについては何も書くことが無いですね。
どうしてこのようなものが出てきたのかという疑問はありますが。
>>184 大学教育への批判かな。誤爆ですか。
>ロニーさん
返事が遅れてます、ごめんなさい
>137
現実での議論は、議論とは関係の無い要素の影響が強いことが多々あって
満足のいく議論というのはなかなかできないですね
そして質問をしたいのですが、foundation理論というのは基礎理論という意味
なのでしょうか?
>138
>ユートピア主義
>そこで、・ユートピア主義(唯美主義)とは「ユートピア以外は全て、大して変わらない」とする立場である、と定義します
ユートピア主義というものがよく解っていないので、定義自体についてのコメントは
ありません
この定義のなかに、相対主義への攻撃が含まれている、ということについては
自分の視点を若干調整する必要があるかもしれません
というのは、私が考える相対主義というものが、以前出てきた非正当化主義に
近いと思うからです
同じ趣旨の書き込みもした記憶があります
従って私の相対主義観への攻撃はそれほど含まれていないようです
>157-158
>直観主義者のルールでの議論
私も排中律を議論のルールとして採用しない者達との議論
をしたいとは思いません
排中律を採用するかに関わらず(形式主義では排中律を採用しなくとも
よいようですが)、議論の構造が蛸壺になってしまうのは自然である
と主張したかったのです
>160
>多数決
>民主主義社会においては支持率が100%に近づけば近づくほど民主主義が危ういと考える社会です
同意します
>161
>もちろん僕もこれを真理だと胸をはるつもりはありません
なるほど、真であると認めることに問題はないようです
しかし、このような意味での真であるのなら
>99
>実験と実験への言明との一対一対応が可能ならば、クワインが問題としているのは理論と実験言明との関係です
という「実験と実験への言明との一対一対応」に意味を持たせるためには
理論との関係抜きには語れないと思うのです
>ただ、僕は対応説の真理観を説明していました
たしかに、そうですね申し訳ない
>162
>ここまでくるともはや問題は言語上の(我々の言葉の問題)に過ぎないと言えるでしょうね
その通りだと思います
しかし、このような無茶な理論の救い方もできてしまうということは
反証が提出されても、理論の完全な放棄をうながす力は小さいと言えるのでしょう
もちろん、ポパーが完全な放棄を期待していると考える必要はないのですが
>それとどうでもいい話ですがマイケルソンとモーレーの実験は原理的には機械の精度を問わないものと思われます
精度を問わない実験でも、精度を問題にして理論を救えると思います
>163
>「必ずできる」と主張するのが規約主義であり、「それが必ず行えるわけではない、反証可能である」というのがポパーの立場です
では、私は規約主義ということで・・・
>以下、グリュンバウムより
>このような補助仮説A3を必ず見つけ出せるわけではない。
>したがって、理論T2の主要仮説であるH2が実際に反証される可能性がある。
私が以前>152で>論理的には上の仮説を救うことができるのではないでしょうか
と「論理的には」という形で書き込んだのもこのようなことが頭にあったからなのですが
それを考慮してもなかなか難しいです
というのも、
>しかし、A3はトリヴィアルでない意味では常に存在することが決まっているわけではない
このトリヴィアルである、という判断に困難があると思うからです
私は因果関係があると信じることができるのなら、関東に生息する猫の分布
との因果関係だって構わないのですが、
>163の「トリヴィアルでない」という表現の意味が
「信じるに足る」と同じ意味で使われていると思えてきます
私は、トリヴィアルであるものとそうでないものを分かつ線が示されることを
期待しているわけではありません
仮にその線があるとしたら、それは反証可能性でしょう
>164
>科学者は反証を回避するために新しい補助仮説を考える必要があるのです
私も必要を認めます、義務もあると思います
>「太陽のフレアとの因果関係」という補助仮説にはどう対処するか
>反証は、こじつけ的な補助仮説を防げば、主要仮説の反証か、別の反証実験、もしくは、新しく意味ある理論展開のいずれかを導くことになります
こじ付け的という言葉が説得的なのは、視点を共有するものに対して
だと思いますが・・・
>理論体系=<初期条件>+<主要仮説>+<補助仮説>なので、ある実験である理論体系を反証することはできます
>「光は直進する粒子である」という仮説は光の干渉や回折といったもので反証できます
ありがとうございます
反証は両立しえない関係を指摘することだと思うのですが、
粒子であって波であることは両立し得ないのでしょうか?
>燕雀さん
>167
それは、残念です
現時点では、チキンリキンのいままでの同一性を
認めることができるのですが・・・それほど大きな意味
を持つわけでもないですからねw
では、気分が乗ったときにでも送ってみてください
今日はこれでおわります
191 :
ロニー:03/06/12 18:35 ID:wQlagDmI
>>185 >燕雀氏
>相対主義?何だろう。
>その定義を教えて欲しいのですが・・・。
相対主義について説明しますが、その前に一言、
定義によって何かを知ることはできません
というのも定義はそれ自体唯名論的なものでしかないからです
ポパーも批判していますが、正確な理解のためには定義をしっかりせねばならないという発想は馬鹿げています
もちろんポパーは物事をわかり易く理解するには定義はとても役に立つとも言ってますが
理解において必要なことは、定義が何かという点ではなく、定義から何が述べられているかという点にあります
定義は競争におけるスタート地点みたいなものです、それ自体はゴールを意味しません
また、皮肉を言うならば、スタートとゴールは離れてなければなりません(これはフェミニズムへの批判ですね)
相対主義もまた多くの種類があります、井上氏は3段階の分岐、4つの種類に分類していました
それらを一まとめにして、相対主義を定義するというならば
「客観的な正しさは存在しない」と主張する立場、それが相対主義である、と定義します
論文の中では特定の指示がない限り、相対主義は一般に狭義の相対主義、つまり主観主義的な相対主義を意味します
主観主義⇔客観主義という対立、これが相対主義の問題に大きく関わります
マッキーが「重要なことは主観主義か客観主義かということではなくどういう解釈をするかだ」と言うことに僕も賛成し
相対主義の中でも特に一部の主観主義的なものを僕は強く非難しています(僕自身の主張も実は相対主義に近いものがあります)
また、相対主義の反意語ですが、相対主義の反意語は絶対主義ではありません。合理主義です。
192 :
ロニー:03/06/12 19:00 ID:wQlagDmI
続き
また、このスレで僕とチキンリキン氏との対話は常に相対主義と合理主義という点で行われてきました
1に書いた「真理が一つである」というのが客観主義、「それぞれにそれぞれの真理がある」というのが主観主義的な立場ですね
そして「絶対的な基準がある」というのが絶対主義
「絶対的な基準はないが真理に対して接近できる」というのが合理主義
「そんなものはないし、接近できない、個々が個々に対して絶対である」というのが相対主義です
(チキンリキン氏は狭義の相対主義とも少し違うようです、どちらかと言うと懐疑主義に近いように思えます)
このスレでの対話は常に相対主義と合理主義の問題を中心に行われてきたので
機会があれば過去レスを覗いてみてはいかがでしょうか?
>科学的方法論のページを幾つか見てきましたが、これについては何も書くことが無いですね。
>どうしてこのようなものが出てきたのかという疑問はありますが。
これについても少し説明します。
歴史的には論理に対する研究が前進し、数学界にラッセルとホワイトヘッドが登場し、物理学界においてエルンスト・マッハが登場した時代、
彼らの影響を受けて、1920年代にオーストリアのウィーンに論理実証主義という学団ができたのが発端です。
彼らは当時の流行となる実証主義の先駆けとなったのですが、ポパー、クーン、クワインによってその息の根を止められたといったところでしょうか。
論理実証主義の崩壊と同時に言語分析に興味が移り、構造主義と合わさって、相対主義の流行が起きたのですが、この点はおいておくとしましょう。
ポパーは論理実証主義の(本人が言うには)最初の批判者であり、「論理実証主義を殺したのは自分だ」と自称してますが
そのポパーもウィーン学団と個人的親交が深かったために論理実証主義の一人と見なされて、「終わった理論」の烙印を押されてしまったのです。
現在ではクーンの影響を受けた新科学哲学と呼ばれる学派が力をもっています。
193 :
ロニー:03/06/12 19:48 ID:wQlagDmI
>論理実証主義
論理実証主義で有名なのはカルナップですね。
論理実証主義者はイギリス経験論の伝統を持ち、ウィトゲンシュタインの「学問の課題は言語の明晰化にある」という教説に影響を受けて
形而上学的言明を無意味として排斥する方向に走り、科学を他のものと分けて有意味性基準を立てました。
それが検証可能性であり、検証可能性を持たない形而上学を弾劾排斥したわけです。
論理実証主義に対しては有名な逸話があります。
論理実証主義は検証不可能なものに対して、常に「無意味だ」と答えていたのですが
ある論理実証主義者が妻との会話でいつも「その言明は無意味だ」と言ってたので愛想をつかされて出て行かれたというものです。
論理実証主義が行き詰ったところは何点かあります
1ある理論が実験と一対一対応をしていない→実験によって理論を検証できない(クワイン)
2論理における同一性認識批判(内容は面倒なのでパス)(クワイン)
3理論が関与しない純粋な観察言明というものはない(クーン、正確にはハンソン)
4帰納は存在しない(ポパー)
デュエム・クワイン・テーゼ(1)や観察の理論負荷性(3)がポパーへの批判となるのも、ポパーが論理実証主義の一人と扱われているのが原因です。
しかしポパーの掲げた批判的合理主義(あるいは批判的多元主義)は
カント哲学を伝統とし、知識の妥当性を問題とし、知識の発展メカニズムを分析対象とし、
哲学的には非正当化主義という立場をとる、れっきとした論理実証主義とは異なる思想です。
ポパーの立場は、論理実証主義と、論理実証主義と実はとても似通っている新科学哲学をも批判するのですが
それが「ポパーは論理実証主義の中の異端者」というレッテルの元に切り捨てられるのです。
194 :
ロニー:03/06/12 20:02 ID:wQlagDmI
>新科学哲学派
新科学哲学派とはクーンの思想を受けて出てきた集団です、しかし、そこにはウィトゲンシュタインの思想が強く出ています。
内容は端的に言うならばこうです。
・事実によって理論を検証したり(反証したり)することはできない。
・そのため理論を倒すのは理論である。理論は常に新しい理論が出てはじめて否定される。
・競合する二つの理論的枠組み(パラダイム)のどちらが正しいかを判断する方法はない。(正確には「正しい」とは言えない)。
・それらはゲシュタルト的な改宗でしかない。
僕が問題とするのは下の2つということになります。(上の2つは解釈次第でしょうから)
以下クーンの言葉からいくつか
>反証は確かに発生はするものの、変則事例や反証事例の発生にともなって起きたり、たんにこれらにともなって起きたりするのではない。
>そうではなくて、それらは結果として起こる別の過程である。
>これは古いパラダイムに対する新しいパラダイムの勝利からなるのだから、検証と呼んでもいいだろう。
>わたくしは、論理はたしかに科学的探究のための強力な道具であり、究極的にはそのための本質的な道具ではあるが、
>論理がほとんど適用できないようかたちでも健全な知識を得ることができるということを言いたい。
>同時にまた、論理的な解析は、それ自体価値あるものではなく、事情がそれを要求する時だけ、要求する程度に応じて企てられるべきだと言いたい。
クーンはポパーのことを「論理的と合理的とを同一視している」と批判しました。
しかし、ポパーは帰納論理は存在しないという立場です。
論理に対する認識がポパーとクーンで大きく異なっているのでしょう。
以上が、このスレの議題となっている科学的方法論の問題とその時代背景です。
自分の知識で書いたのでかなり適当です。
燕雀氏から質問があれば次回までに調べて正式に記述します。
疑問があれば気軽に書いてください。
195 :
ロニー:03/06/12 20:19 ID:wQlagDmI
>燕雀
>すみません。ここの部分の意味が読み取れませんでした。
軽く対話がどのような経過を辿ったのか振り返ってみましょう
>>107の亡霊氏
> ただ、この分野の本を読まずとも、批判はできます。自分について考えれば
>よいことです。自分がモノをみるとき、なんらかの視点(偏見)が入っていな
>いか、などなど。自分に問い尋ねることです。
に対して
>>117で燕雀氏が
>また、無知の状態では偏見は生じないと私は考えます。
>ここで言う「無知」の「無」とは、まったくの無であることを意味します。
と返したことが発端です
ここで僕は「そもそも無という状態があるのか」と問うたのが発端ですが
それにて返されたのが、「メガネをかけた時」という返事です
燕雀氏は亡霊氏の文章をメガネをはじめてかけて読んだわけではないと僕は推察したので、それが比喩であると思考したのです。
どんな人でも何かを観察したり何かの本を読んだりすれば偏見が入ります。
本の全体を読んだところで、目を見開いて観察したところで、偏見は拭いきれません。
僕は、偏見が入ることは仕方がないことだと考えます。
しかし、偏見にとらわれない方法はあると考えます、そして、そのためには偏見をもつことが必要と考えます。
偏見を恐れて、目をつぶって「私は偏見をもってない」と叫ぶ者に僕は冷ややかな視線を送ると皮肉ったわけです。
196 :
ロニー:03/06/12 20:42 ID:wQlagDmI
>燕雀氏
>>195にて敬称を忘れてしまいました、すみません
>チキンリキン氏
>>186 >現実での議論は、議論とは関係の無い要素の影響が強いことが多々あって
>満足のいく議論というのはなかなかできないですね
フォローありがとうございます。
彼との件は個人的な事情がもとであり、彼も議論や理論とは無関係な者だったので、議論というには少しおこがましいかもしれません。
>そして質問をしたいのですが、foundation理論というのは基礎理論という意味なのでしょうか?
訳するとそうなってしまいますね、ごめんなさい、僕はそのような意図では言ってません。
僕は「基礎付けを問題視する理論展開や議論方法」を総称してfoundation理論と呼ぶのです。
僕は先生より「理由を二つ以上挙げよ」という言いつけを受けましたが、論理的思考をする人間ならば理由は一つで十分だと考えるのではないでしょうか?
ある一つの理論で上位の理論を絶対的に基礎付ける、そのような方法が議論を頓挫させると感じたのです。
基礎付け主義はそれぞれが独断的な何らかに後退するだけです。
そのようなものはユートピア主義同士の罵倒という結末を迎えるだけです。
彼は自らの言葉が公正か中立であることを確信するかのように言葉を続けてました。
「公正な意見」と評されものは、それが内容としては吟味に値するものではなくとも、発言者は公正な権力を与えるものです。
つまり、僕は亡霊氏が前スレで批判した反基礎付け主義と呼ばれる立場をとることになります。
ポパーもまた反基礎付け主義を表明しています。
しかし、このような言葉は基礎付けを逆手にとるポストモダンを想像させますので、
僕は「非基礎付け主義」と呼称を変更しようかと考えています。
197 :
ロニー:03/06/12 21:25 ID:wQlagDmI
>というのは、私が考える相対主義というものが、以前出てきた非正当化主義に近いと思うからです
>従って私の相対主義観への攻撃はそれほど含まれていないようです
チキンリキン氏が不快に思わなかったのは僕にとってとても良い結果です。
うーん、僕が非正当化的合理主義ですから、ということはチキンリキン氏は非正当化的非合理主義ということでしょうか、
それは信仰主義に後退しかねないと思います。またチキンリキン氏は信仰以上のものを語っていると僕は考えています。
主義というよりは実在論の問題と論理の問題に関していくつかの差異をチキンリキン氏との間に僕は感じています。
僕はチキンリキン氏にウィトゲンシュタイン的なものを感じています。
>>187 >排中律を採用するかに関わらず(形式主義では排中律を採用しなくとも
>よいようですが)、議論の構造が蛸壺になってしまうのは自然であると主張したかったのです
失礼、議論の構造とはどのようなものですか?
実践的な議論に何らかの構造があるとは思えません。
しかし、議論は議論に参加しない者がいなければそれを「議論」とは呼びません。
それを指して蛸壺になってしまうと評しているのですか?
それとも議論は常に何らかの異なる他者を排除する構造を持つということでしょうか?
それは論理的にはそうかもしれません。
論理的に何も排除していない言明はトートロジーとなり何も語れないからです。
しかし、現実の議論ではそのようなことはないと思います。
論理的に排除する言明を主張する者が議論の中にいなければ、議論は成立しないからです。
ふと相対主義に対する次のような言葉を思い出しました。
>宇宙空間から来た生物にはわれわれへの危害を控える理由が少しもない。
>ヒトラーにはユダヤ人殺しを命令しない理由はまったくなかった。
>食人種には捕虜を食べない理由はまったくなかった。
(ギルバート・ハーマン)
>ヒトラー自身は、宇宙から来た生物や食人種と一緒にされることを望むだろうか。
>宇宙から来た生物とヒトラーは違う。
>腹いせにレッテルを貼っているだけだ。
(ハーマンの言葉への批判)
198 :
ロニー:03/06/12 22:03 ID:wQlagDmI
>187
>なるほど、真であると認めることに問題はないようです
同意、ありがとうございます。
正確に表現するならば「偽と考えるにはあまりにも理由が無い」ということですが、これが偽だと主張されると僕は議論のしようがないからです。
>しかし、このような意味での真であるのなら
>>実験と実験への言明との一対一対応が可能ならば、クワインが問題としているのは理論と実験言明との関係です
>という「実験と実験への言明との一対一対応」に意味を持たせるためには
>理論との関係抜きには語れないと思うのです
もちろん、その通りです、理論との関係を抜きには語れません。
しかし、とりあえず何らかの言明の真偽の判断は場合によってはできるということです。
それは少なくとも我々が人間と宇宙生物ほど違うのではなく、同じ形式を共有可能ということを意味するはずです。
>しかし、このような無茶な理論の救い方もできてしまうということは
>反証が提出されても、理論の完全な放棄をうながす力は小さいと言えるのでしょう
>もちろん、ポパーが完全な放棄を期待していると考える必要はないのですが
ええ、ポパーは完全な放棄を期待してはいません。
ポパーは自ら、相対主義批判として、代わりに「多元主義」を提出し、
多元主義の語が幾ばくかの誤解を与えたためそれを「批判的多元主義」と修正しています。
ポパーは一つの理論以外が放棄されることを期待していません。
誰にでも信仰の自由はあり、形而上学において個人の理論は保護されるべきだと考えているでしょう。
また、それらは常に科学として逆転の可能性を保証されねばならないと考えているでしょう
しかし、逆に言えば、「逆転できない理論を『正しい』と扱う理由は無い」と考えていることになります。
199 :
ロニー:03/06/12 22:16 ID:wQlagDmI
>>188 >精度を問わない実験でも、精度を問題にして理論を救えると思います
個人の信仰レベルでなら可能でしょうね。
しかし、そんなものは「悪魔の洗脳」と同じくらい意味が無いことです。
「精度を問わない実験」でも精度を問題にして救える理論なら、その理論が絶対的であることになります。
次のような言葉があります。
>すべてを説明できる理論などはない。
>あるのはすべてを説明しようとする態度をとる人である。
わざわざ装置の精度を問題とせずとも「私は私以外を信じない」と言えば事足りることです。
しかしエーテル実験の装置の精度も絶対的なものではありません。
その精度を問うには、別の代替を出す必要があります。
もちろん、それはエーテル実験と無関係なものでも問題ありません。
問うているのは「精度の問題」だからです。
そして代替となる理論を提出したら、それが批判の対象となる装置とどう違うかを説明する義務があります。
それが問題に論理的にコミットするということです。
ついでに、絶対的な精度を誇る装置は不可能です。
というのも誰も厳密な1cmや1g、厳密な1秒や厳密な同時を指摘できないからです。
「これは1,0000000000cmだ」と言う者がいても「それが1,00000000001cmである可能性」を指摘すればいいからです。
以上の理由により、絶対的な精度を問題とされても科学的に理論を救うことはできません。
200 :
ロニー:03/06/12 22:33 ID:wQlagDmI
先にこちらに返答
>反証は両立しえない関係を指摘することだと思うのですが、
その通りです、反証は原理としては「両立し得ない関係を指摘すること」になります。
しかしそれは批判的合理主義の議論方法ですね。
>粒子であって波であることは両立し得ないのでしょうか?
結論から言うならば両立しえません。
というのも、粒はその性質として空間を直進し、波はその性質として媒介がなければ移動できないからです。
この問題はアインシュタインがノーベル物理学賞をとった『光の粒とその性質について』という論文で解決を見ました。
アインシュタインは「光は粒でありながら波の性質を持つ」と結論付けました。
最終的に光は粒子ということになりました。
この回答は一見両者を足したようですが、この回答に至るまでには多くの解決すべき問題がありました。
それらは多くの反証を前にそれらを乗り越えて生み出された理論ということになります。
安易に「粒でありながら波であることが両立する」などと結論づけるなら
宇宙空間にエーテルがあるのか、エーテルの風で対象が影響を受けるのか
はたまた、光がエーテルの風によって速度変化を受けるのか、時間の流れに逆転が生じるのか
こういった問題が山積していたことでしょう。
そしてまた、僕が例を出した「光は直進する粒子である」というのも反証されているわけです。
「光は波の性質を持った粒子である」というのが現状の結論です。
もちろんこれは間違いかもしれませんし、もしかしたら「光は粒であり、同時に波であるのかもしれません」
201 :
ロニー:03/06/12 22:54 ID:wQlagDmI
>チキンリキン氏
補足:上で「光は粒であり、同時に波である」という表現は一般的には通用しますね。
物理学において厳密には光は波ではないということです。
>トリヴィアル
トリヴィアルとこじつけ的(アド・ホック)はほぼ同じ問題です
>このトリヴィアルである、という判断に困難があると思うからです
これは僕のミスで「トリヴィアル」という語を誤訳させてしまったようです。
「トリヴィアル」は「論理的に」という意味です。
それを訳者が批判精神をこめて「とるにたらない」とつけたのでしょう。
僕も調子にのって「とるにたらない」と書いてしまいましたね。
具体的には次のような事例がトリヴィアルになります。
「ネプチューンが怒ると海が荒れる。だって海が荒れている時はいつもネプチューンが怒っているじゃないか。」
それが論理だけに言及して現実世界について何も語っていないものを「トリヴィアル」と言います。
「論理だけのとるにたらない理由付け」ということですね。
>私は因果関係があると信じることができるのなら、関東に生息する猫の分布との因果関係だって構わないのですが、
猫の分布とエーテルは論理的には無関係です。
ですからそれはトリヴィアルとは言えません。
しかし、理由付け如何によってはトリヴィアルになります。
これは太陽のフレアでも同じことが言えます。
それがエーテルと独立に実験できるならば、トリヴィアルではありません。
しかし、エーテルの風を常に相殺するような因果関係が語られるならば、それは論理的なためにトリヴィアルです。
トリヴィアルなものがとるにたらないのは「トートロジーは意味的な内容を持たない」と言う語で表現可能でしょう。
202 :
ロニー:03/06/12 23:07 ID:wQlagDmI
>こじ付け的という言葉が説得的なのは、視点を共有するものに対してだと思いますが・・・
おそらくは問題を共有する者の間に対してのみ説得的でしょうね。
また、「ある種の人間同士は同じ問題を共有できない」という立証はされてません。
そのような主張は通訳不可能性を主張することになり独断的と批判されるだけでしょう。
>>163の「トリヴィアルでない」という表現の意味が
>「信じるに足る」と同じ意味で使われていると思えてきます
信じるに足らなくていいです。
というよりも議論において相手の批判を信じる必要性はありません。
同じように科学においても新しい補助仮説を信じる必要性はありません。
かといって絶対に信じない必要性もありません。
それが信じるに足らなくても実験できればいいわけです。
実験するには論理的に真でも偽でもない必要性があります。
203 :
ロニー:03/06/12 23:13 ID:wQlagDmI
今日はとても長く書いてしまいました。
長文失礼しました。
次回は日曜に書き込みます。
最後に保全アゲ
フェミよ! 何故あなた方は仲良く出来ないのか? だからダメなんだよ!
205 :
てふの夢:03/06/14 13:42 ID:vOnX+7jb
なんか、すごそうなとこなんで 記念書きコ
人にはSっけとmっけがあってどの人間も、両方持ち合わせていると結われる。
s=支配欲 m=被支配欲 わたしがおもうに
男性のほうが体力があり、支配できる可能性がおおきく、支配欲もつよい
女性はできるだけ優秀な遺伝子を求めるため、自分より優秀なものに
惹かれなきゃいけない。よって被支配欲が強い。
ロマンに対する感性も異なる。
男性→自分の手の内にあるものを自由にできるのが好き、
自分の支配できる領域を広げて行くのが好き。 フィギュアとか戦争ゲームとか
女性→自分の手のとどかないものに憧れる。自分の現時点より常に
上をみている。 海がすきとかロマンチックラヴストーリーとか。
男性は支配的な意味での神 になりたがるが、人からこの世の神にはなれない。
女性は人為を超えたものに憧れ少しでも近づこうと人間を曲げる。
結局のところ女性も男性も両方を併せ持って人間として成立しているのだろう。
女性は上を目指すため、いろんな世界に出ようとする。男性は陣地が侵されて
いるように感じているのかもしれない。
女性が結構だれとでもセックスをするようになり、男性の体力も弱くなっている、
この状況下ではジェンダーは推進せずとも、薄れていくのかもしれない。
ははは。おじゃましました。
206 :
ロニー:03/06/15 14:34 ID:C8rDvtbs
>>204 僕は「フェミが仲良くできないのが悪い」とは言いません。
しかしフェミニズムはその理論の性質上、蛸壺的構造をとり、さらにそれを肯定すると僕は見ています。
また口では「他人を尊重」と言いながら現実には他人を尊重できないとも見ています。
それらは自己同一性を絶対的な教義に高めてしまうところにその所以があるのではないでしょうか。
>>205 SとMは両方持ち合わせてるということではなく同一のものの裏返しの関係です。
Sの人は「こうすればより苦痛を感じるはずだ」というMの想像がなければできません。
Mの人もそれを外から見る目があってよりM気が強まります。
・・・これは支配欲とは異なりますね。
さて、支配欲と被支配欲ですが、一般に♂♀と呼ばれる属性は「拡張性」と「保存性」と呼ばれる性質で語れます。(というか、僕が別スレでそう名づけたのですが、)
♂が遺伝子をより広げる拡張性、♀が優秀な遺伝子を残す保存性という区分けですね。
この立場から見ると205の区分けとは逆になります。
「拡張性」はまだ見ぬものに対する侵略であるのに対し、「保存性」は既存のものを残す保守的な態度です。
そしてこれらの複合が自然淘汰もしくは進化と呼ばれるシステムを構成しています。
進化は2種の異なる性質の複合です、それを一つと見なすのはダーウィン以前の進化論に逆戻りです。
きっと「フェミニズム」というのは「女性主義」という名のとおり、拡張無き保存、淘汰無き保存なのでしょう。
207 :
てふの夢:03/06/16 14:28 ID:7zMRKL1t
S=相手に恥辱感をあたえること+自分の意のままに他人が操れることによる快感
M=自分のモラルが他者によって破壊されること+自分が誰かの命令に従順にしたがうことによる快感
だとわしはおもいますがね。お邪魔しました。
208 :
てふの夢:03/06/16 17:07 ID:lzER1QYB
おまけ 基本的に男性拡張性 女性保存性 というのを否定しているのではなく内包している。
ただし女性の保存性というのは、よりすぐれたDNAを獲得するため、推進力を持っているとおもふ。
>>191-195 レスありがとうございます。
今のところ質問はありません。
>>191 >理解において必要なことは、定義が何かという点ではなく、定義から何が述べられているかという点にあります
同意。
>>192 >このスレでの対話は常に相対主義と合理主義の問題を中心に行われてきたので
機会があれば過去レスを覗いてみてはいかがでしょうか?
ひえ〜。読むの大変そう(w
また忙しくなってきましたので、しばらく読めそうにありませんスマソ。
>「終わった理論」
これに絡めて考えると
>>184はこのスレに対する批判とも読めますね・・・。
>>193 >論理実証主義は検証不可能なものに対して、常に「無意味だ」と答えていたのですが
ある論理実証主義者が妻との会話でいつも「その言明は無意味だ」と言ってたので愛想をつかされて出て行かれたというものです。
かなり徹底した人ですね(w
>>195 ロニーさんにはそのような思考の過程があったわけですね。
>>195のロニーさんのレスで思ったのですが、
もしかして、ロニーさんは、私が亡霊さんの書き込みを全部読んでいると仮定していませんか?
あそこで私が用いた「無の状態」とは、簡単に説明すると、「読んでませんよ」ということです。
実は前スレとこのスレのほとんどを私は読んでいません(ゴメン)。ザッとは見ましたが。
文字情報として認知すらしていないのですから、この状態では偏見が入り込む余地はありません。
つまり、読んでいない文章に対しては何の意見も持てないということです。
それから、ロニーさんは誤解されているようなのですが、
何らかの「情報」が得られた時点で対象に対しての偏見が入ることには同意です。
実際に私は「私は偏見をもってない」とは書いていないですね。
問題は私が何について書いているかです。
>>117より、
>また、無知の状態では偏見は生じないと私は考えます。
ここが重要です。
>>205 いらっしゃーい(w
何かここは人が少ないので適当にカキコしてくださいな。
>>207 定義の上ではそれで正解です。
私はあまり詳しくないのですが、
究極的にはSもMも同じものを求めるみたいですよ。
以下引用です。
「苦痛と性的興奮との結びつきは、最初はマゾヒズムにおいて現れるのであり、
マゾヒズムが、自分自身への方向転換を伴って、サディズム反転を構成する。
苦痛を加えることがサディズムの狙いの一つとなるのは、そうなった時だけである。
すなわち、逆説的にも、そこにおいて主体は、苦痛を被っている対象との同一化によって
マゾヒズム的な仕方で享楽する」
>>208 人間の場合の性淘汰は雌雄ともにかかります。
212 :
てふの夢:03/06/18 07:02 ID:mnt62wpY
ああ、来ていいんですか・・・。よかった。支配性と被支配性の話ですが
両方を併せ持つというのは、支配者も、特定のルールに従わなければ支配性を保つことができず、
そのため支配者も 被支配性をおび、被支配者はルールに従うという点で自己を率しているのだと思います。
男性の場合、支配性が高く、テリトリーを広げていくという意味での、拡張性をもち
女性の場合、被支配性が高く、よりすぐれた支配者を求め、行動するとおもいます。その場合、支配者により、ルールは
異なるため、支配者をかえるごとに絶えず自我の崩壊を伴います。とすると支配されることによって、特定の自我にとらわれない
自由を得ることができるという妙が発生します。
213 :
てふの夢:03/06/18 07:06 ID:mnt62wpY
現在は環境ホルモンの影響だかなんだか知りませんが、自我崩壊によって、自由を求める
いわば女性的な人が増えているような気がします。
214 :
ロニー:03/06/19 00:31 ID:bqZ+js4Q
>燕雀氏
>>209 >レスありがとうございます。
>今のところ質問はありません。
あの拙文ではありますが少しでも役に立ったなら幸いです。
>かなり徹底した人ですね(w
多分、現実にそのような人はいなかったのだと思います。
論理実証主義を皮肉ってそのような揶揄をしたのでしょう、僕もこういう風刺は好きですね。
>もしかして、ロニーさんは、私が亡霊さんの書き込みを全部読んでいると仮定していませんか?
>あそこで私が用いた「無の状態」とは、簡単に説明すると、「読んでませんよ」ということです。
勘違い尾しておりました。失礼しました。
>問題は私が何について書いているかです。
>>また、無知の状態では偏見は生じないと私は考えます。
その言葉に取り立てて異議を唱える気はありませんが、その言葉が何を問題としているかについてはよくつかめておりません。
確かに、指摘どおり、ある問題を全く気にかけてない人間がそこに偏見を抱くことはないでしょう。
僕は自らの知識内においては偏見を持っているでしょうが、僕の知らない宇宙人には偏見を持っていない、まさにその通りです。
215 :
ロニー:03/06/19 00:42 ID:bqZ+js4Q
>てふの夢氏
>>212 >両方を併せ持つというのは、支配者も、特定のルールに従わなければ支配性を保つことができず、
>そのため支配者も 被支配性をおび、被支配者はルールに従うという点で自己を率しているのだと思います。
この点は特に異論はないです、進化論における誰か(名前を忘れました)の仮説に
強者は常に弱者を抑える必要があるならば、弱者は常に強者に抑えさせる淘汰圧がかかっている、というものがあったからです。
しかし、ルールという言葉はとてもあいまいな語であるため、理解に苦しみます。
それと淘汰圧は常に個人にかかってくるわけではないと考えます。
てふの夢氏は個人と自己同一性を切り離せないものとして見ているのではないでしょうか?
216 :
ロニー:03/06/19 01:43 ID:bqZ+js4Q
>チキンリキン氏
レスが遅くなってすみません
相対主義に対する反批判ですが、しばらく保留にして、
その前にポパーの語る「非合理」についてまとめます。
先にチキンリキン氏は>ポパーは反証による理論の放棄を求めてはいなかったかもしれないが・・
とあるようにポパーは確かに反証にも関わらず理論にしがみつくことを認めてはいます。
>したがって、個々の科学者がお気に入りの理論を偏愛していても、必ずしも科学への大きな障害となるわけではありません。
とあります。しかし、この分の後には次のように続きます。
>とはいえ、クロード・ベルナールが、「自分のアイデアに過度の信頼をおく者は、発見には向いていない」と述べたとき、
>かれは非常に賢明であったと思います。
217 :
ロニー:03/06/19 02:02 ID:bqZ+js4Q
以下はポパーの「非合理」に対する言葉ですが、ポパーは全く別のことに対する論説を行っています。
引用としては不適切です。
>・・・。しかしもしこれが本当なら、合理性と非合理性の区別はどうなるでしょうか。精神の健全さと病気の違いはどうなるのでしょうか。
> これは重大な問いです。
>そのおもな区別は、わたくしが言っているように、健全な人の信念は訂正不可能ではないということです。
>健全な人は、自分の信条を訂正する準備ができています。
>もっとも、しぶしぶ訂正するかもしれませんが、
>それでも彼は出来事の圧力のもとで、ほかの人が支持する意見の圧力のもとで、批判的討論の圧力のもとで自分の見解を訂正する準備ができています。
>もしこれが本当なら、決定的に固定した見方をもつ人や「コミットした」人の精神は、狂人の精神に近いと言えます。
>こういう人の固定した意見のすべてが、そのときの利用できる最良の意見とたまたま一致しているという意味で「適切」だということがあるかもしれません。
>しかし、コミットしているかぎり、こういう人は合理的ではありません。
>かれはいかなる変化にも抵抗するでしょうし、いかなる訂正にも抵抗するでしょう。
>そして、正確な真理を所有できない(誰も所有できない)のだから、野蛮なまでに誤っている信念を合理的に訂正することにも抵抗するでしょう。
>たとえそうした訂正がかれの生涯のあいだに広く受け入れられるようになったとしても、それに抵抗するでしょう。
> このように、コミットと非合理主義信仰を賞賛する人々たちを非合理主義者(あるいはポスト合理主義者)とするならば、わたくしは彼らに同意します。
>たとえ推論ができたとしても、かれらは非合理主義者です。
>なぜならかれらは、自分たちの殻を打ち破れなくすることを誇りに思い、自らの偏執狂の囚人となることを誇りに思っているからです。
>彼らは行為によって自らを精神的に不自由にしています。
>そして、かれらがそうした行為をとったことは合理的に理解可能なものとして説明できます。
>・・・・・・・・・・・・
>ロニーさん
いつものことですが、遅くなって申し訳ありません
>177
>「有用な虚偽」
ここは、有用、虚偽と真理についての理解を確認しながら
説明を試みたほうが良いでしょうね
まず、以前ロニーさんが提出された「実験と実験結果の一対一対応」
「言明と事実の一対一対応}という概念を基準に考えてみます
これは、
>「大小の鉄球を同時に落としたらほぼ同時に着地する、は真理である」は
>実験で大小の鉄球を同時に落としたら、ほぼ同時に着地したというときに正しい
という関係を指すという理解なのですが、
この概念を真理であると認めることには既に同意しています
さて、この関係においての虚偽とは外が雨天の状況で
「外は晴れている」と言うようなものだと考えます
このような虚偽が有用である場合とは、私の思いつく限り
倫理的、政治的な場合が主です(嘘も方便)
科学的な意味でこのような虚偽が有用になることはないでしょう
>続き
>有用性
さて私の考える科学的有用性とは、予測・制御可能性とでも
表現すべきものです
この予測・制御可能性はその性質上、理論(モデル)を使っての事実(?)
とのすり合わせが不可欠だと思っています
従って、この予測・制御可能性について何も語らない
実験結果と実験結果についての言明(一対一対応)は真理であるかもしれないが
私の考える有用性の基準を満たしていないと言えそうです
真理だが有用ではない例を提出してしまいました・・・
では、有用だが虚偽の例を考えてみることにしましょう
・・・と思ったのですが、この場合の虚偽とは真とは言えないということで
宜しいのでしょうか?
真理を問わない立場としては、真理という基準から虚偽を扱うことに
とまどってしまいます
>178
>・「真理」か「有用性」か(言葉と考えて、有用性を問う)
恐らく、私とロニーさんの間で何を真理・有用とするのかを判断
する際の基準は大きく違うことはないでしょう
便宜上もとめる結果を「真理」としましょう
>179
>1「有用性」という言葉が「真理」の探求への動機付けの力を持つならば、相対主義はその力を「真理」の理念に負う
たしかに真理なき社会で、「有用性」のみを基準とした時に
>179
のような状況になる可能性はあります(有用性の意味にもよりますが)
そして、個人に留まるかぎりではそのような状況でも問題はないと思います
しかし、真理がない(問わない)として、「有用性」を基準とするばあい
(先に書いた予測・制御可能性)「自分に有用だから」という主張が
社会に通用しないとしても、それが「真理」の理念に負っていることの
現れだとは言えないと思うのです
予測・制御可能性が「真理」であるとするのならば、それはそれで構いません
(私がそれを真理と呼びたくないだけなのでしょう)
>続き
>ゆえに、他者に対する寛容さを引き出すのは「真理」という言葉であり、寛容さを破壊するのは「有用性」という言葉です
普遍主義要請があるほうが、他者に寛容であるというのは興味深い意見です
このことについては、少し考えてみる必要がありそうです
私は「有用性」という言葉が寛容を必ずしも破壊するとは思いません
これは、「有用性」に寛容を引き出すという主張ではありませんが
同時に「有用性」という言葉を使ったとしても、他者に寛容になれないと
考える必要もないと思うのです
私はエゴイストです(反証は不可能ですが)が、私に利益があるのであれば
他者に寛容に振る舞います
「有用性」という言葉を使うエゴイストの私であっても、私に利益が
あるのであれば寛容に振舞えないとする理由は無いと思いますし
そうであるのなら、現状がエゴイストだらけであっても寛容な振る舞いは
あちこちで見かけることができるでしょう
「真理」が寛容さを引き出すと仮定しても、「有用性」も寛容さを引き出す
可能性があることを考えると(「真理」「有用性」には不寛容を引き出すこともあるわけです)
その違いがよくわかりません・・・とここまでは外見上の話です
>180-183
>相対主義と寛容
>寛容の原理は相対主義と論理的に結びつかず、両者の間には単に一定の心理的な関係があるにすぎない
そうかもしれません、論理的に結びつく必要があるとも考えてはいませんけれども
>というのも「人間的共感」の無い者には寛容しない、という論理になるのですから
共感できない存在に対して寛容になれ、ということは非常に難しいですし
では、共感していないのに寛容であるとはどのようなことか?と問われたときに
どのように説明できるのでしょうか
>共感する者に寛容の態度をとることは簡単なことです
>「真理」の探求者は「私とあなたは違う、あなたの基準で私を裁くことはできない」という言葉で批判者の言葉を切り捨てることはできません
仰るとおりです
私が考える最大のメリットもここにあります
つまり、ロニーさんの採る立場が批判に開かれているように思える
というところです
裏返せば、普遍的なルールを仮定することになりますので
そのようなことが私には説得的でないので採用しませんが・・・
>寛容の原理について井上氏はこう書いています
異論はありません
私もこのように思います
この記述は(私の考える)相対主義と矛盾しないようです
>続き
>以下は少し議題とズレますが、井上達夫氏の相対主義批判です
3つに分かれていますが、1つ目はよくわかりませんでした
2つめ、3っつめは概ね理解できますし、同意できる箇所も
多いのですが
同じ穴のムジナだという表現も、一応納得できますし
>「相対主義」の標榜、もしくは「有用性」の標榜、そういったものはその名に反して、絶対主義の氾濫、そして有害な結果を招く
>それが僕の主張です
論理的な断絶を飛び越えている、というのが妥当するのは
相対主義者が相手に(普遍的な)ルールを強いている場合だと思います
ただの説得や圧力の場合には妥当しないでしょう
>続き
「真理」が論理によって他者より批判可能だと考えるには、そこに普遍的な
ものを仮定することが不可欠です
そしてこのことは、決定的な反証を認めているような印象も受けます
>続き
私は「真理」を否定しません
ただ、普遍的な意味のものは認めないだけです
文脈に依存しない「真理」を仮定することには抵抗があります
そして、私はこのような立場をとることで保守的になっている
かもしれません
しかし文脈に依存しない真理(客観的事実)のようなものを設定する
ことは自分への欺瞞と考えます
そのような態度(立場)で議論に望むには、信仰心が足りないようです
確かに、有用性という言葉を使うことによって私を対話へと追い立てる
圧力はいくぶん減じるかもしれません
それが有害だと主張するロニーさんの気持ちも理解できます
>相対主義からは次のような反論が予想されます
どうも、私の考える相対主義は一般的な理解からズレているみたいですね
相対主義的妥協も必要だとは思いますが、何故可謬性の自覚によっては
寛容が可能とならないのか・・・以前の3っつの記述の1つ目の記述のも
ここと絡みそうですし・・・うーん
今日はこれで終わります
225 :
ロニー:03/06/20 19:34 ID:n6NwZi5G
失礼、前回は途中で書き込みできない状況になり、レスが途中で終わってしまいました。
>チキンリキン氏
チキンリキン氏と僕との間で、言葉以上の何らかに対して大きく異なるところはないでしょう。
チキンリキン氏は「私はエゴイストです。」と言いましたが、これを受けて次回にエゴイズム批判を行うことにします。
問題は相対主義か否かではなく、「客観主義にコミットしているかどうか」だと思われます。
そして、チキンリキン氏は客観主義に対し非常に理解を示してくださいますが、主観主義の立場をとっています。
そこで僕は相対主義批判の前段階として、「合理的な態度(個人的倫理)、また、非合理的な態度」についてまとめます。
>>217の引用から
ポパーは、個人的態度としての合理性を「信念を訂正する準備ができている態度」としています。
自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができている、
これが合理的態度となります。
対して、非合理的な態度とは、その逆、自らの信念を絶対に訂正しないという態度です。
これは進化論的に解釈することもできます。
進化に優れているということは環境に応じて自らを変容できることであり、
進化に劣っているということは環境が変化しても自らを変容できず、場合によっては死滅するということです。
226 :
ロニー:03/06/20 21:30 ID:n6NwZi5G
ごめんなさい、今日は少し疲れたので、書き込みはこれで終了します。
最近時間にも余裕ができるようになり、別スレにも書き込みをはじめたのですが、疲れることばかりです。
僕は、論理を、真偽を図る際には何よりも有用な道具だと考えていますが、
論理に対する異常な信仰が氾濫しているように思えます。
道具はその限界を知ることで道具としての有用性を確保できる、と僕は考えますから、
議論において論理の限界をもっと意識する必要性を感じます。
消え行く実在論者の愚痴になるでしょうか、
次回の書き込みは日曜になります。
失礼しました。
227 :
ロニー:03/06/22 19:26 ID:kbjGx7hz
>チキンリキン氏
>>218-219 >有用性と真理
>・・・と思ったのですが、この場合の虚偽とは真とは言えないということで
>宜しいのでしょうか?
>真理を問わない立場としては、真理という基準から虚偽を扱うことに
>とまどってしまいます
おそらくは相対主義と合理主義の一番の違いは真理と虚偽に関する考察の違いであるとも言えるでしょう。
チキンリキン氏は虚偽を「真とは言えない」と言いましたが、そうではありません。
言える/言えないと真偽、主観的確実性基準と客観的真理基準とを区別するのが批判的合理主義の立場です。
ですからチキンリキン氏が
>>218で語った
>さて、この関係においての虚偽とは外が雨天の状況で「外は晴れている」と言うようなものだと考えます
というのが虚偽になります。
ポパーは真偽において
>真なる命題の否定は常に偽である。ゆえに真なる命題と同数の偽なる命題が存在する
と言ってます。
「雨が降っている」の言葉は、雨が降っていた時に真であり、雨が降っていなかった時に偽であることになります。
ある理論の真偽は、それが現実世界と合致する限りで真であり、合致しない限りにおいて偽です。
もちろん、理論が真であることを確実に知ることはできませんので、ある理論が偽であることもまた確実に知ることはできません。
しかし、真偽の検討をつけることはできます。
228 :
ロニー:03/06/22 20:04 ID:kbjGx7hz
>>270 >たしかに真理なき社会で、「有用性」のみを基準とした時に
>そのような状況になる可能性はあります(有用性の意味にもよりますが)
>そして、個人に留まるかぎりではそのような状況でも問題はないと思います
僕はそれを問題ある状況であると考えます。
個人にとって個人が絶対に正しいという状況は、−少なからずその解釈はー、全ての個人を狂人とする解釈です。
それは開き直りを許容する解釈です。
僕が僕自身の解釈を唱えたところで現実には変化がないでしょう。
「あなたたちの声は悪魔の声です。」と言いながら自らの耳を塞ぐ者に対して我々はとる手段を持ちません。
「全ては狂人である」という解釈を受け入れることは現実には可能であり、
個々人が個々人にとって絶対であるという原則は個人の選択に絶対的な正当化をもたらします。
しかし、僕はそのような行為が愚かな行為であり、逆に批判的討論に率先して参加する行為はより良いことだと考えます。
「全ての人間が狂人である」という解釈を受け入れると、そのような批判的討論に参加する行為も狂人の行為の一つとして正当化できてしまします。
>(先に書いた予測・制御可能性)「自分に有用だから」という主張が
>社会に通用しないとしても、それが「真理」の理念に負っていることの
>現れだとは言えないと思うのです
何かがその異なる理論間の真偽(もしくは有用性)を統制しているならば、
それは「有用性」ではなく「真理」という言葉もしくは理念でしょう。
ほかに考えられる解釈は「権力」や「偶然」といった要素でしょうか。
しかし、そのような解釈は理論をよりよく洗練していく力を失うように思います。
229 :
ロニー:03/06/22 20:04 ID:kbjGx7hz
失礼レスを忘れてました
>>269 >さて私の考える科学的有用性とは、予測・制御可能性とでも
>表現すべきものです
>この予測・制御可能性はその性質上、理論(モデル)を使っての事実(?)とのすり合わせが不可欠だと思っています
予測や制御は原理上、不可能ではないでしょうか?
だからこそ事実とのすり合わせが不可欠となるのでしょうが、
事実とのすり合わせをいくら行ったところで、それは予測可能性を一片足りとも増加させません。
なぜならばポパーが否定したように帰納論理は存在しないからです。
それはヒュームが指摘した蓋然的な知識の限界であり論理的な限界であるからです。
230 :
ロニー:03/06/22 20:06 ID:kbjGx7hz
鯖が不安定で書き込みが不安定になりそうです。
途中で書き込めなくなるかもしれません。
そのときはご容赦ください
231 :
ロニー:03/06/22 20:46 ID:kbjGx7hz
>>220 >予測・制御可能性が「真理」であるとするのならば、それはそれで構いません
>(私がそれを真理と呼びたくないだけなのでしょう)
予測・制御可能性は「真理」ではありません。
「真理」と「真理の判断」は異なります。
それは主観と客観という大きな違いがあるからです。
その二つを混同する限り、論理実証主義が「形而上学」と排斥したものを「無用」と排斥することになります。
ポパーは反証可能性を科学の方法論的基準としました。
その原則は「検討のつけようのない真偽について大きく注目しない」と言えると思われます。
しかし、ポパーは形而上学も科学の前段階として積極的に容認しています。
「観察の理論負荷性」を出すならば、形而上学なき科学もまた空虚であるからです。
232 :
ロニー:03/06/22 20:52 ID:kbjGx7hz
>>221 >「有用性」という言葉を使うエゴイストの私であっても、私に利益が
>あるのであれば寛容に振舞えないとする理由は無いと思いますし
>そうであるのなら、現状がエゴイストだらけであっても寛容な振る舞いは
>あちこちで見かけることができるでしょう
このような解釈に対して僕が必ず持ち出すのが「囚人のジレンマ」です。
エゴイストは「囚人のジレンマ」的状況においてすら、なおエゴイズムを称するでしょうが、僕にはそれはとても楽観的過ぎるように思えます。
僕が別スレに出した「囚人のジレンマ」の一例です。
http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1055480429/103 http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1055480429/111 一見、自らの有用性に従って合理的に行為することが自らの不利益を招くという結果になります。
ここで利益を最大限に得ようと考えるならば非合理的思考をせねばなりません。
たいていエゴイストはこの場合、利他的行為をとる方が合理的だと言いますが、
井上氏は「利害衝突を調整するための共有された基準が何もないという状況では、やはりこれが合理的なのです。」と書いています。
エゴイストが「囚人のジレンマ」的状況において合理的に利益を求めることが自らの利益を招くことが「正義」の理念に負うように、
科学においてもその合理性の統制手段として「真理」という理念が必要になります。
結論を言います。
「有用性」という語が寛容を合理的に引き出すのは、それが「真理」という理念に統制されている限りです。
233 :
ロニー:03/06/22 20:58 ID:kbjGx7hz
>共感できない存在に対して寛容になれ、ということは非常に難しいですし
>では、共感していないのに寛容であるとはどのようなことか?と問われたときに
>どのように説明できるのでしょうか
寛容であるとは「無条件に相手に賛同する」ことではありませんし、「絶対に相手を批判しない」ということでもありません。
真偽を問う際に相手に対して寛容な態度をとるという行為は、「相手にも正しい可能性が存在する」ことを認める行為になります。
端的に言えば、寛容とは「相手と同じ議論のテーブルにつく」ということです。
そして議論を行うということです。
相対主義は自らが共感しない者と同じテーブルにつくことができない。
それも自らが独断的な絶対者となって議論のテーブルを叩ききる。
相対主義は独断主義を非難するにも関わらず、自らが独断的絶対主義として自らを正当化している。
僕はそう主張していることになります。
>つまり、ロニーさんの採る立場が批判に開かれているように思える、というところです
>裏返せば、普遍的なルールを仮定することになりますので
>そのようなことが私には説得的でないので採用しませんが・・・
普遍的ルールを仮定しない限り、自らを批判に開くことはできません。
自らのルールが自らに対して絶対であるならば、誰も自らを省みたりなどしません。
普遍的ルールは、−井上氏の言葉を借りるならば−、真摯に問いと向き合うために我々が設定する仮定なのです。
そして「普遍的ルールの存在を仮定してはいけない」という普遍的ルールの存在は証明されていません。
234 :
ロニー:03/06/22 21:21 ID:kbjGx7hz
>>223 >論理的な断絶を飛び越えている、というのが妥当するのは
>相対主義者が相手に(普遍的な)ルールを強いている場合だと思います
僕は相手に対して普遍的なルールを強いない相対主義者は見たことがありません。
相対主義者がよく主張する「共約不可能性」は普遍的ではなく主観的なものに過ぎないのでしょうか?
井上氏は、
・ある対象について何かを述べる際、述者はその対象と重要な点で類似したあらゆる対象について同じ術定をなすことに論理的にコミットしている。
と説明しています。
あらゆる言明は普遍化可能性を持っているのです。
コミュニケーションとして相手に対して放たれた言葉が、発言者の個人的領域にとどまるものであるならば、
その発言者は狂人と思われて当然でしょう。
井上氏はこれに対して次のような例を出しています。
もしある者が「このリンゴはAである」「このリンゴはAでない」と言ったなら、発言者は二つのリンゴの相違を説明しなければならない。
その際「これはこれで、あれはあれだから」という答えでは説明にならない。
発言者はその発話により「これはこれで、あれはこれではない」以上のことを言おうとしたのであり、
それが説明できなければ、自分の二つの発話が論理的に矛盾していることを認めねばならない。
時間なので今日はこれで
次回は来週末に書き込む予定です。
長文失礼しました。
>ロニーさん
相対主義の反意語は絶対主義だと思ってましたw
>196
レスをありがとうございます
反基礎付け主義(非基礎付け主義)を亡霊さんが批判していた
記憶が消えてしまっているようで、若干の保留はありますが
理解できたようです
>197
>チキンリキン氏が不快に思わなかったのは僕にとってとても良い結果です。
不快になる理由がみつかりませんでしたw
それに感情は守るべき利益ではありますけど、振り回されるのは御免です
心拍数を普通に保って議論できるのは、私にとっても良い結果です
>うーん、僕が非正当化的合理主義ですから、ということはチキンリキン氏は非正当化的非合理主義ということでしょうか、
私なりの合理はあると信じているのですが・・・
>失礼、議論の構造とはどのようなものですか?
議論にはなんらかのルールが必要であって、その必要なルールを
採用しない者の発言は、そのルールの採用が期待される議論内では
意味がない(少ない)というものです
例えばロニー・チキンリキン間の議論で、排中律の採用が必須であるように
>腹いせにレッテルを貼っているだけだ。
うーん、むしろレッテルを貼っていないと思いましたが
>198
>それは少なくとも我々が人間と宇宙生物ほど違うのではなく、同じ形式を共有可能ということを意味するはずです。
人間も宇宙生物では、という茶々はさておき
>しかし、とりあえず何らかの言明の真偽の判断は場合によってはできるということです。
に同意します
>しかし、逆に言えば、「逆転できない理論を『正しい』と扱う理由は無い」と考えていることになります。
妥当なように思います
>199
>わざわざ装置の精度を問題とせずとも「私は私以外を信じない」と言えば事足りることです。
しかし、それでは論理的に救っていることにはなりません
現実には同じことであっても
>ついでに、絶対的な精度を誇る装置は不可能です。
科学的に理論を救えないというのは、論理的とは違うということでしょうか
前に例として精度の他にもフレアの影響、猫の分布との関係まで
持ち出していますので、妥当かを問うてはいません
>200
>しかしそれは批判的合理主義の議論方法ですね。
それは、私の立場での採用は矛盾であるという意味でしょうか?
>最終的に光は粒子ということになりました。
ありがとうございます
>201
>物理学において厳密には光は波ではないということです。
なるほど、ありがとうございます
>「トリヴィアル」は「論理的に」という意味です。
ありがとうございます
>202
>また、「ある種の人間同士は同じ問題を共有できない」という立証はされてません。
「ある種の人間同士は同じ問題を共有できる」は、反証可能なのでしょうか
難しく思えるのですが・・・
>信じるに足らなくていいです。
失礼しました
これは、考慮に値する、と言い換えたいと思います
「トリヴィアルでない」という意味の表現が
「考慮に値する」と同じ意味で使われている、と
>205
仲良くできたらいいですよね
ただ私は、仲良くできないからダメだとは言いません
和をもって尊しとなす、はいつもそうだとは限らないと思います
>てふの夢さん
ようこそw
>205
>s=支配欲 m=被支配欲
支配欲が強いということから、現実に自由にできるものを支配する傾向にある
ということが言えるのか疑問です
男性は空想的、女性は現実的などと一般的に言われるようですが
(言われなかったら、無視してください)これは男性の支配欲の
強さの表れだといえるのかもしれません
つまり支配できないが、現実を越えた支配欲があるために代替として
空想するというわけです・・・とこれは現実に支配している例であるかも
しれませんね
しかし、男性が人為を越えた意味での神になりたがるような印象はあります
被支配欲については、支配されることによって相手を支配しようとする
「コ・ディペンデンシー」のケースについてどのように考えるべきなのか
悩ましいところです
>ロニーさん
>216
>とはいえ、クロード・ベルナールが、「自分のアイデアに過度の信頼をおく者は、発見には向いていない」と述べたとき、
>かれは非常に賢明であったと思います。
私もそう思います
>217
>以下はポパーの「非合理」に対する言葉ですが、ポパーは全く別のことに対する論説を行っています。
この部分についても概ね同意します
>225
>ポパーは、個人的態度としての合理性を「信念を訂正する準備ができている態度」としています。
これは、自分では解りづらいですね
勿論、訂正する準備ができているとは信じているものの
結果として訂正されたときに、しかも準備ができていた、と過去系での
言及をせざるをえません
>これは進化論的に解釈することもできます。
遺伝子に圧がかかるとすると、
変異が起こりすぎる因子は、遺伝子の同一性
を脅かします
環境に適応できないことが劣っていると表現することに
ついては異議無しです
>226
>最近時間にも余裕ができるようになり、別スレにも書き込みをはじめたのですが、疲れることばかりです。
ですが、その疲れを上回る利益を見込めるわけです
もしくは、疲れを下回る利益を見込まないということでしょうか
楽しく議論できれば、なによりですけれど
>議論において論理の限界をもっと意識する必要性を感じます。
その通りだと思います
実在論者としてのロニーさんが消え行くのか、
実在論者が消え行くのか、
いづれにしても悲観的になる必要はないでしょう
私も個人的には実在論者です(おそらく)
議論にのせることができないと考えているだけで
追いつくために駆け足できてしまいましたので
不明な点などへの質問等ありましたら歓迎します
今日はこれで終わります
>>211で引用したものです。
「精神分析事典 R・シェママ編 p.109 弘文堂」
>>1 議題は、ジェンダー論におけるある者の主張
「『真理が一つである』という立場こそ男社会の産物ではないか、『それぞれがそれぞれにとって真理である』のではないか」という言明を吟味するということです
『男社会の産物』
いらない書き込みだと思いますが、たぶん誰も述べていないと思いますので1つ。
ここにいる常連さんは知っていると思いますが(皆さん大学で哲学を学んでいたのですか?皆さん詳しい・・・)、私の知る限りでは直感主義論理はブラウワーの直感主義数学から始まり、
その弟子であるティンクが直感主義論理を始めたそうです。もともと数理論理学の道具として始まったようです。男性社会や社会というものには関係なさそうです。
>ロニーさん
>227
>おそらくは相対主義と合理主義の一番の違いは真理と虚偽に関する考察の違いであるとも言えるでしょう。
なるほど、ではそのような客観的真理基準において虚偽ではあるが
有用なものの例を挙げる努力をしてみたいです
うーん、運動の計算をするときに面積の無い点を使って
いると思うのですが、面積の無い点というものは存在
しないので虚偽になります
これは、有用な虚偽の例になるでしょうか?
>228
>僕はそれを問題ある状況であると考えます。
>個人にとって個人が絶対に正しいという状況は、−少なからずその解釈はー、全ての個人を狂人とする解釈です。
>それは開き直りを許容する解釈です。
以前ロニーさんは、自分の考えを表現したのであれば
その考えにたいする批判を覚悟すべき、という趣旨の
主張をしていた記憶があります
同意した記憶もあります
これは、その考えが公になり他人への影響
などの力を持つ状態にある場合は、その考えへの
影響も甘んじて受けるべきだ、と考えたので同意したのですが
これは、逆に他人への影響がない場合にまで
他人からの影響を受ける責任を負う必要が無い
と考えるからです
>続き
また、全ての個人を狂人とするとありますが、
狂人とは健常な精神状態(とされるもの)からの
判断基準ですので、全ての個人が狂人の状態で
あるのなら「狂人」というカテゴリーは存在しないでしょう
>しかし、僕はそのような行為が愚かな行為であり、逆に批判的討論に率先して参加する行為はより良いことだと考えます。
私もそう思います
私自身ある思想が批判に開かれていない場合、
それはその思想が死んでいるも同然だと思うのですが
(勿論私の考える批判に対して開かれて、ですが)
他人が自殺する自由を奪うつもりはありません
勿論その「思想の死」という考え方が公になった
と判断したときにまで放置するつもりはありませんけれど
>229
>予測や制御は原理上、不可能ではないでしょうか?
>219を読んだとき、ロニーさんが苦笑したり呆れたり
または憤慨したであろうことが想像に難くありません
申し訳ありません
しかし、どのように説明したら効果的なのか・・・
不躾ながら逆に質問することを許して頂きたいのですが
ロニーさんの考える「科学」とはどのような目的を
どのような方法で達成しようとしているのでしょうか
特に方法に関しては散々聞き倒していて大変恐縮
なのですが、説明いただけると有難いです
>231
>予測・制御可能性は「真理」ではありません。
>「真理」と「真理の判断」は異なります。
了解しました
私が表現したかったのは、
私が客観主義のようなものにコミットしていると
するのなら、それは「予測・制御可能性」になる
ということでした
>232
>このような解釈に対して僕が必ず持ち出すのが「囚人のジレンマ」です。
>井上氏は「利害衝突を調整するための共有された基準が何もないという状況では、やはりこれが合理的なのです。」と書いています。
上の井上という方の主張に同意します
非常に限定的かつ仮定的な「囚人のジレンマ」ですが
(またそうでなくては扱い辛いです)
個人の合理的な行動を超えたところに、全体の利益を
最大にする可能性を示唆する点で大変興味深いです
しかし、この「囚人のジレンマ」に幾つかの条件を
付け足して、我々の現実に近づけると私の主張が
通りやすくなってきます
それは、
1.繰り返し行われること(終わりは知らされない)
2.ゲーム参加の候補者を複数にすること(ゲームは一対一で行う)
3.ゲームの相手を特定できること
の3点です
>続き
書いてしまった後で気がついたのですが
ロニーさんの「囚人のジレンマ」の例が
私の予定していたもの違いました
ロニーさんには申し訳ないのですが
イメージし易いように黒→裏切り、白→協力、石→カード
と記述を変更させてください
・このゲームは二人一組で行う
・参加者は協力と裏切りの2種類のカードを持ち、
参加者は開始の合図と共に協力か裏切りのどちらかのカードを出す。
・相手がどのカードを出したかをこちらが前もって知ることはできない、出すのは相手と同時である。
・配点は以下の通り
双方裏切り→両方、共に1点
双方協力→両方、共に5点
片方が裏切り、片方が協力→裏切りを出した者は10点、協力の者は−1点
・これを何回か行い、最も総得点の高い者を勝者とする
>続き
付加する条件を挙げてはみたものの
現実に近づけるために要らない条件もあると思われる方
もいるかもしれません
例えば条件の3番目ですが、匿名掲示板では
相手を特定できないことが多く匿名掲示板でのゲーム
について検討するのであればこの条件を付加する
必要は少ないかもしれません
しかし、匿名掲示板においてのゲームを私は
一般的ではないと判断しました
あくまでも、私の考える現実に近づける試みであることを
先にお断りしておきます
さて、提示した3つの条件を付加すると
どのように変化するのでしょうか
まず、勝負が一回限定ではないので合理的であるのならば
複数回行われる勝負全体における利益を最大に
しようとするでしょう
つまり将来への視点が発生します
次に、ゲーム相手候補が複数存在しますので
ゲームごとに相手が変わることがあります
これは、自分の態度を相手によって変える選択
が可能になることを意味します
最後に相手を認識できることで
過去のプレイスタイルから、その相手に対する
自己の利益を最大限にする態度を決定することができます
>続き
では私はどのような態度を採用することが
私の利益が一番大きくなるのでしょうか?
(現在利益が最大になるような指針が存在しないと仮定して
相手が初回に裏切る性格である可能性は50%であるとします)
このゲームでは私が裏切り、相手が協力したときに
私の利益は最大になりますので(相手は最低の利益)
これを狙ってみるべきかもしれません
そうすると、私の選択は常に裏切りになります
この場合、ゲーム初回の相手にはなかなか大きな
利益を上げられそうです(10回で+55)
しかし、再度プレイする相手は私の裏切りを覚えていますので
おそらく協力はしてくれないでしょう
つまりお互いに裏切ることになりますので
利益もどんどん少なくなっていくことでしょう
(ゲーム相手の候補者の数と行われるゲームの回数にもよりますが)
では、お互いに協力して得る利益を狙って
私は常に協力の態度を選択してみましょう
初回の相手には、そこそこ利益を得られるでしょう(10回で+20)
再度プレイする相手が私が常に協力をするということを
認識してしまった場合、私に対して裏切りの選択をする
相手が続出し得られる利益は更に減ります
相手に私が常に協力すると認識されないのであれば
初回と同様の利益を得られるでしょう
>続き
他に利益を大きくする方法はないでしょうか?
ひとつの方法は既に少し書きましたが
相手の以前の態度によって、自らの態度を決定する
方法です
協力には協力、裏切りには裏切りで返すという具合です
初回だけは、相手についての情報がありませんので
協力すべきでしょう
なぜなら初回に裏切った後で再度プレイするときに
もともと協力的な相手の態度を裏切りに固定してしまう
可能性が高いからです
この方法で面白いのは、試合ごとでみてみると
負ける可能性が高そうだけれども(相手のマネを
するわけですからいつも後手にまわります)
ゲームの繰り返しのなかではそれなりの
利益を得ることができるであろうことです
少なくとも前の二つの方法よりも多く利益を得られそうです
このように、個々のゲームでは不利であるにも関わらず
最終的に利益を多く得るという可能性もあると思うのです
>続き
このことは、試合で絶対に負けることのない
「常に裏切る」方法が上のような状況では必ずしも合理的
とは言えないということを意味しています
そして、上の状況は私たちを取り巻く状況に
より近い(条件を付加する前よりも)と考えています
長くなりましたが、以上が利己的であっても
私に利益があるのであれば寛容に振舞うと
いうことの説明です
この例は仮定だらけで大雑把で誤っている
ものですが、上に挙げた3つの条件を付け足すと
私の主張が通りやすくなるという説明になっていると
期待しています
補足として、
4.ゲームの相手を選べる
5.ゲームしたことのないプレイヤーの態度を知ることができる可能性がある
などの条件を付加するとより現実っぽく
なりそうですね
そして、これらの条件は更に私の主張を
通り易くすると思います
>233
>端的に言えば、寛容とは「相手と同じ議論のテーブルにつく」ということです。
>そして議論を行うということです。
相手と同じ議論のテーブルについて議論をする
ということが、共感に基づいていないと言うことは
難しいのではないでしょうか
>普遍的ルールを仮定しない限り、自らを批判に開くことはできません。
それは、フレームワーク間に共通する
論理的なアルゴリズムのようなものが仮定
されない限り、自らを批判に開くことができない
と理解するべきなのでしょうか
それとも、もっと緩やかなものなのでしょうか
>そして「普遍的ルールの存在を仮定してはいけない」という普遍的ルールの存在は証明されていません。
証明されることはないでしょう
>234
>僕は相手に対して普遍的なルールを強いない相対主義者は見たことがありません。
>相対主義者がよく主張する「共約不可能性」は普遍的ではなく主観的なものに過ぎないのでしょうか?
確かに普遍的な性質はあると思うのですが、
私の考える「ルール」とは違います
フレームワーク間の「協約不可能性」は、
フレームワーク間に共通する論理的アルゴリズム
のようなものが成立しないことだと私は思っています
そして私の言う「ルール」とは「論理的アルゴリズム」のようなもの
を意味しているのです
>コミュニケーションとして相手に対して放たれた言葉が、発言者の個人的領域にとどまるものであるならば、
>その発言者は狂人と思われて当然でしょう。
狂っているのか判断はしませんが
コミュニケートしようとする意思とは矛盾しているとは
思います
>井上氏はこれに対して次のような例を出しています。
この例が含む意味の方向は解りますが、力の強さが解りません
文字どおりの意味でしたら同意はできると思います
このことについては度々同意していますし
ロニーさんの別スレでの議論を見させて
いただきました
興味深い論点もあり、展開が楽しみ
ではあるのですが、仰るとおり
疲れそうな議論進行のように思えます
議論が軌道に乗ることを祈っています
(上手くかみ合うの意味です)
>燕雀さん
>241
直感主義と形式主義の対立は
真理をどのように捉えるかという文脈で
提出されたものです
私は不勉強ですので、ロニーさんの説明を
待ちますが社会や男社会との関連は無いのではないか
という指摘にはその通りであると思います
やっと、追いつきました!
今日はこれで終わります
253 :
ロニー:03/06/26 20:26 ID:bo8gAbsh
>チキンリキン氏
>やっと、追いつきました!
なんか変なところで気苦労をかけてしまったようですね。
全部にレスをつけることは大変でしょうから、興味があるところだけで構わないです。
重要なことは問題を共有することです。それが僕の持論ですから。
>直観主義と形式主義
これに関しては男社会とはまったく無関係でしょう。
しかしフェミニズムと無関係なわけではないと僕は考えています。
フェミニズムは「真理」を設定するような行為が男性的と捉えているフシがあります。
「真理」は思考のために排中律の採用という形をとります。(カントのアンチノミー)
それはフェミが指摘する「ジェンダー」と言う二項対立と非常に似ているために、フェミの理論から直感主義に流れるものがいるのでしょう。
それだけではなく、ウィトゲンシュタインの流れを汲んだ正当な直感主義フェミニストもいます。
(もっとも、彼女は議論で自分の説を通すためにあえてウィトゲンシュタインの論法を真似ているだけかもしれませんが)
僕がここで形式主義と直観主義について触れたのも、議論における一つの詭弁対策でもあります。
直観主義の思考が蔓延するかぎり、それは知識の衰退を招くだけだと僕は考えますし、
直観主義の思考を経由して一大流行となった「ポストモダン」に対しても、
それを「青年特有の熱病的思考」「酩酊者のたわごと」「オブスキュランティズム」などと呼んで相手にしない行為が
他ならぬポストモダニズムの流行を招いたと考えています。
だからこそ、そのような直観主義という思考を相手にしないことではなく、真摯に相手にすることでポストモダニズムの流行に何らかの変化を与えることができると考えています。
文章を読んで頂ければ分かるように、僕もまたソーカル側の伝統的学問の流れを汲む人間です。
僕がソーカル派と少し異なるのは、ソーカル事件を経典にしてポストモダニズムを批判はしないということです。
254 :
ロニー:03/06/26 21:10 ID:bo8gAbsh
>>241 >燕雀氏
> ここにいる常連さんは知っていると思いますが(皆さん大学で哲学を学んでいたのですか?皆さん詳しい・・・)、
まぁ学問はたいてい多種多様に密接に関わってくるものです。
現状だと哲学と社会学の垣根はとても低いですね。
ポパーもまた社会学でも多くの論文を残しています。
ポパーとアドルノとの有名な実証主義論争は社会学における論争ですし、
ポパーはマックス=ウェーバーの理論を改善して再提出したりもしています。
僕はもともとは理系の人間ですが、数学基礎論や物理学にはまった結果、ここに至るという形です。
個人としてはマッハの影響が大きいと思います。彼のおかげで物理学から形而上学の世界にひっぱりこまれましたから。
そしてマッハとの対立で有名なポパーを知り、論理実証主義を学び、現在に至るという形ですね。
学生時代に科学史をアリストテレスの時代からやらされていたこと、そして科学哲学としてヒュームとカントを学んでいたことが、
ポパーを知った後でのポパーの良き理解の手助けとなったと思います。
その点では厳しかった教授に感謝しなければなりません。
255 :
ロニー:03/06/26 21:11 ID:bo8gAbsh
続き
>私の知る限りでは直感主義論理はブラウワーの直感主義数学から始まり、
>その弟子であるティンクが直感主義論理を始めたそうです。もともと数理論理学の道具として始まったようです。男性社会や社会というものには関係なさそうです。
数学では1920年代にラッセルのパラドクスの問題をどう解決するかという一つの難問があり、
ブラウアーの直観主義はそのようなパラドクスを解決するための一つの方法として提案されました。
(これは数学的な問題が数学者にとってはパズル以上のものであったといういい一例になりますね)
直観主義が有名になったのは僕はウィトゲンシュタインにその由来があると考えます。
彼は天才でした。ウィトの立場に反発する僕でも認めざるをえないほどの天才です。
僕の尊敬するラッセルに「数学的な問題はウィトゲンシュタインによってすべて解決されるだろう」と予言し
ラッセルの情熱を削いでしまうほど頭の良い人間でした。かの有名な『論理哲学論考』が学生時代の作品と考えるとおそろしいです。
彼はどこまでも論理的に思考をしていった結果、実証主義から神秘主義へと陥っていったのです。
これは数学的なものの限界を理解していなかったのでしょう。
実証主義者は「証」という言葉が示す通り、数学的なものと他の自然科学との違いを意識しないことにより、
それどころか数学への完全性を信仰するあまり、神秘主義に陥いるのでしょう。
ショーペンハウアーが数学の不完全性をとうに指摘していたにも関わらず。
そしてリオタールがウィトゲンシュタインの理論から
「もはや正当性、進化、そういった古い知識観は死んだ」と宣言して「ポストモダン」を打ち立てたわけです。
ポストモダンにおいて学問とは「何も語らずに現実を語ること」です。
それは目をつぶって世界を語るようなものです。(おっと皮肉が入ってしまいましたね)
256 :
ロニー:03/06/26 21:39 ID:bo8gAbsh
>チキンリキン氏
今日は時間もないので軽く、あまり足早にならないようにレスするつもりです。
>>235 >相対主義の反意語は絶対主義だと思ってましたw
よくあることです。絶対主義を否定するあまり相対主義に陥るということは。
僕もまた相対主義に陥りかけたことはあります。
そうならなかったのは僕が知る相対主義が極度な価値相対主義であったということ、
そして僕が尊敬するマッハの相対原理ですら相対主義からすれば切り捨てられるものであったということです。
相対原理も絶対空間も同じ形而上学と切り捨てる相対主義に僕は一つの疑問を思ったわけです。
そこに、相対主義はその名に反して「相対的」ではない理論となっていると考えるきっかけがありました。
>>うーん、僕が非正当化的合理主義ですから、ということはチキンリキン氏は非正当化的非合理主義ということでしょうか、
>私なりの合理はあると信じているのですが・・・
そうかもしれません、いや、おそらくそうでしょう。
バートリーの立場から考えるならば「チキンリキン氏に合理性がない」とは言えないでしょうね。
>議論にはなんらかのルールが必要であって、その必要なルールを
>採用しない者の発言は、そのルールの採用が期待される議論内では
>意味がない(少ない)というものです
うーん、そうでしょうか
確かに、実在論者の議論において実在を否定する言語分析学者が参加したところで議論にはならないでしょう。
しかし、それは実在論者の議論であるからではありません。
それが、その議論の問題とするところに沿わないからでしょう。
その根拠として、「実在論者と言語分析学者が言語分析の有意味性について議論することができる」というのを僕は挙げます。
>例えばロニー・チキンリキン間の議論で、排中律の採用が必須であるように
直観主義は採用することがたいてい独我論に後退することを招きます。(これは有名なテーゼです)
独我論について独我論者と実在論者が<実在論的に>議論することは可能ですが、
独我論について<独我論的に>議論することは難しいでしょう。
もし議論のルールとして「人間」が「宇宙人」を排除するのと同じような構造を取るというのでしたら同意します。
257 :
ロニー:03/06/26 21:53 ID:bo8gAbsh
>うーん、むしろレッテルを貼っていないと思いましたが
では「レッテルをはられない」というレッテルを貼ってあるのでしょう。
わざわざ個称を限定して語るならば「理由がある」例があるはずです。
もし「理由がある」とする個称を挙げることができないとしたら、
彼の発言の否定は何も語ってないことになります。否定が何も語ってないならば、彼の言葉も何も語ってないのです。
以上がレッテル貼りの根拠です。
何にもレッテルを貼らないとして理解すると、当の言明は無意味な言明になる、そう僕は主張します。
>>わざわざ装置の精度を問題とせずとも「私は私以外を信じない」と言えば事足りることです。
>しかし、それでは論理的に救っていることにはなりません
>現実には同じことであっても
ならば論理的に救うことは現実に救うことにはならないという主張をすればいいだけです。
デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」は論理的には間違いです。
超越論的基礎付けが論理的なミスを犯していますから。
>科学的に理論を救えないというのは、論理的とは違うということでしょうか
「デュエム=クワイン・テーゼはトリヴィアルなものに限定される」とクワインが発言したということは
クワインは科学をトリヴィアル(論理的)な作業のみにとどまるとは考えなかったということです。
クワインはポパーの方法を支持していましたしね。
>前に例として精度の他にもフレアの影響、猫の分布との関係まで
>持ち出していますので、妥当かを問うてはいません
論理が語るものは可能性です。
ですから僕はこう答えるしかできません。「その可能性はある」
つまり論理的に理論を殺すことはできません。
逆を言えば論理的に理論を救うことはいつでも可能である。
(もちろん救うことが可能と言うことはある条件<全体論的には>殺すことが可能であるということです。)
258 :
ロニー:03/06/26 22:11 ID:bo8gAbsh
>それは、私の立場での採用は矛盾であるという意味でしょうか?
いえ、そのようなことではありません。それどころか、それは矛盾しません。
それが矛盾するという発想は超越論的基礎付けによるものです。それは非論理的です。
僕は超越論的基礎付けが論理的ではないことを指摘するために以前によく(それは論理的には矛盾しない)というレスを多用したのです。
僕が言いたかったことは、その方法は批判的合理主義の方法ではあるが、科学の方法としては広すぎるということです。
「科学」が正しいと信じる理由はまさにその点にあるのですが
「科学」という語は我々の日常的言葉としてもう少し小さい範囲を指します。
それに「批判的合理主義が科学の境界である」という言葉はあまりにもおこがましすぎます。
259 :
ロニー:03/06/26 22:12 ID:bo8gAbsh
>>237 >「ある種の人間同士は同じ問題を共有できる」は、反証可能なのでしょうか
>難しく思えるのですが・・・
今日はこのレスをメインに据えたいと思います。
このレスを読む限り、チキンリキン氏は何らか(僕の意見、論理、ポパーの理論、その他)の中の何か一つ以上について誤解していることになります。
しかし、僕はチキンリキン氏が何に対して誤解をしているのかを特定できません(情報不足)
そこでいくつかの意見を述べ、返答を待ちたいと思います。
まず結論から言うならば、チキンリキン氏が挙げた言明は反証不可能です。
しかし、立証可能です。
また、僕の主張するものは反証可能です。
僕は「Aは立証されていない」と語りました。
つまり、僕はnotAを主張していたわけですが、
この形式を見る限り、僕の主張するnotAは明らかに反証可能です。
というのも、他ならぬAで反証可能だからです。
では反証可能な理論を否定するとどうなるでしょうか
仮説P(反証可能)→仮説notP(???)
答えを言うと、反証可能な命題を否定すると反証不可能になります。
これが反証可能性が有意味性基準ではない根拠です。有意味性基準は否定しても有意味性を持たなければなりません。
対して反証可能性は否定すると立証可能性にその姿を変貌します。(論理的には当然の形式ですね)
ですから反証可能性は有意味性基準ではありえないですし、それが科学の方法論的基準となるのはそのような扱いからなのです。
つまり、僕は「すべての(種の)人間は同じ問題を共有可能である」という主張をし
その否定は「ある種の人間は同じ問題を共有不可能である」という立証可能な命題となるのです。
また、チキンリキン氏が語った「ある種の人間同士は同じ問題を共有可能である」は
否定すると「すべての(種の)人間は同じ問題を共有不可能である。」という反証可能な命題になります。
ちなみに「ある」の否定は「すべて」です。
260 :
ロニー:03/06/26 22:38 ID:bo8gAbsh
>>237 >これは、考慮に値する、と言い換えたいと思います
>「トリヴィアルでない」という意味の表現が
>「考慮に値する」と同じ意味で使われている、と
チキンリキン氏は論理的に正しいものを考慮に値すると考えるのですか?
僕は論理的に正しいものは考慮に値しないと考えます。
恒真と恒偽は検討する必要を感じません。
それは僕が論理を正しいと信じているからであり、チキンリキン氏がそれをもって僕の信仰を指摘するのならその通りです。
>これは、自分では解りづらいですね
>勿論、訂正する準備ができているとは信じているものの
>結果として訂正されたときに、しかも準備ができていた、と過去系での
>言及をせざるをえません
僕がどう返答するか予想されているんじゃないですか?
「過去形での言及しかできない」というのなら、僕はこう言えばいいだけです。
未来系での言及はなぜできないのか?
Yes.僕の答えは反証可能性です。
バートリーはポパーの立場を(科学的ではなく形而上学的ではあるが)次のような形で反証可能にしています。
・世界はあらかじめ決定されている(未来はどうあがこうと変わりようがない)
・論理が論理的矛盾を内包する
・論理的に正当化可能な命題が存在する
他にもいくつかありましたが、これらの中でたった一つでも証明されればバートリーは立場を捨てざるを得ないと表明しています。
もちろん、証明できなくとも「おそらくそうであるだろう」と思考する十分な根拠があれば態度を変更すると言ってます。
261 :
ロニー:03/06/26 23:03 ID:bo8gAbsh
>>239 >遺伝子に圧がかかるとすると、
>変異が起こりすぎる因子は、遺伝子の同一性
>を脅かします
すべての遺伝子(一つの発現形質)が同一性を保つならば、いかなる遺伝子(遺伝子の同一性)も残らなかったでしょう。
僕は絶対的な存在を信じないですから、同一性を保つ遺伝子(一つの発現形質)があるとは考えません。
デュエム=クワイン・テーゼにはその擁護に対しておもしろい批判があります。
全体論的な反証にかけられた理論は理論のどこか一部を修正すれば生き延びれる
→(どこか一部を修正しなければ生き延びれない)
補助仮説か初期条件のいずれかを変更すれば生き延びれる
→(問題となる理論には変更の可能性はないのか、問題となる理論を変更することも選択肢の一つである)
>ですが、その疲れを上回る利益を見込めるわけです
>もしくは、疲れを下回る利益を見込まないということでしょうか
>楽しく議論できれば、なによりですけれど
おそらくはそのスレを見ていただいたでしょうが、
あれは別スレが発端でして、別スレでの道徳の否定があり、それがあのスレで同じ話題になり、僕の怒りが爆発したという結果です。
放っておいても良かったですし、一時は放っておいたのですが、あの種の発言には怒りを感じるのです。
僕は別に道徳を否定されても何とも思いませんが(所詮、単語の用法だけの問題)
理論の虚無主義、言葉に何の力もないとする思考には憤りを感じるのです。
まぁ議論と言うにはおこがましいものですね。
262 :
ロニー:03/06/26 23:11 ID:bo8gAbsh
>>240 >実在論者としてのロニーさんが消え行くのか、
>実在論者が消え行くのか、
僕は消えても構いませんが、実在論は消えずに残ることはできます。
非実在論という形で。
チキンリキン氏が狂人がいなければ「狂人」という言葉はないと言う通り
逆説的に、非実在論があれば実在論もまたあるのです。
>いづれにしても悲観的になる必要はないでしょう
>私も個人的には実在論者です(おそらく)
>議論にのせることができないと考えているだけで
実在論とはただ「主観の外に物体の存在を信じる」というだけではないでしょう。
それは理論の経験への優位性を信じる態度です。
観念論だろうが、実在論だろうが、独我論だろうが、名前のみからでは大きな変化はありません。
僕が実在論者だと自らを名乗るのは、僕自身がそのような理論の優位性を信じ、そして何よりも先に理論を展開することにあるからです。
>追いつくために駆け足できてしまいましたので
>不明な点などへの質問等ありましたら歓迎します
大きな迷惑をかけてすみませんでした。
少しずつ問題をまとめながらやっていくことにしましょう。
今日はこのへんで、
次回は日曜に書きこむ予定です。
長文失礼しました。
>>241の訂正です。
>ティンク
ハイティンク(Heyting)
>>254 ロニーさん自身のことを語ってくれて感謝します。
私も大学で数学基礎論の講義を受けてから哲学が気になりだしました。
今は応用数学を勉強しているのでこの分野から離れていますが。
>>252,
>>255 >数学では1920年代にラッセルのパラドクスの問題をどう解決するかという一つの難問があり、
ブラウアーの直観主義はそのようなパラドクスを解決するための一つの方法として提案されました。
この辺りの歴史的順序について、少しまとめておきます。
1902年:ラッセルのパラドクス
1908年:論文「論理学の原理への不信」(ブラウワー)
これは古典論理学への批判であったようです。
直感主義と形式主義の対立はここからですね。
1912年:ブラウワーの立場を直感主義と自ら名づけた。
1919年:「数理哲学入門」でラッセルのパラドクスを引用(ラッセル)
>>255で書かれているのは、この辺りからですね。
1923年:論文「排中律」(ブラウワー)
この中でブラウワーは数学に対して批判的な意見を述べています。
1927年:論文「形式主義についての直感主義的反省」(ブラウワー)
これは形式主義と直感主義の妥協の提案であったようです。
1934年:「数学基礎論、直感主義、証明論」(ハイティンク)
この中でハイティンクは明確に数学というものを述べているようです。
詳しくは『ゲーデルの世界』(廣瀬健・横田一正著 海鳴社)を参照してください。
265 :
ロニー:03/06/29 18:51 ID:h44Bw1a9
>>263 >燕雀氏
>私も大学で数学基礎論の講義を受けてから哲学が気になりだしました。
数学畑ですと、数学基礎論には「不毛」という言葉がついて回るのではないでしょうか?
僕の知り合いに数学基礎論には否定的な数学者がいましたので。
僕はとても面白い分野だと思いましたし、直観主義の目指すところも気持ちはよく分かります。
>歴史的順序について、少しまとめておきます。
ありがとうございます。
歴史的な流れやその内容までは詳しくは知らないのです。
個人として思うに
まず一点目、直観主義の数学(排中律の排除)は数学としてはあまりにも不便すぎる。
そして二点目、直観主義の論理をもって自らの知的営為を論理づけようとする者(このスレでのいわゆる直観主義者)は論理の限界を理解していない。
そのために「論理的でないものを論理的に扱う」という非論理的行為を行っている。
これが僕が直観主義に対して思うところです。
266 :
ロニー:03/06/29 19:19 ID:h44Bw1a9
>チキンリキン氏
>>242 >うーん、運動の計算をするときに面積の無い点を使っていると思うのですが、
>面積の無い点というものは存在しないので虚偽になります
「面積のない点」は存在はしませんが仮定になります。(「実在しない」とは言わない、むしろ「実在する」でしょう)
「真実」とは「言明と対象との一致」です。「虚偽」とは「言明と対象との不一致です。」
虚偽とはそのまま「うそ」です。それは不確実だとかどっちか分からない、といったものを込みません。
タルスキの理論を持ち出すなら「雪は白い」は真であり、「雪は緑(雪は白くない)」は偽です。
チキンリキン氏の例からはチキンリキン氏が「真理」に関して、相対主義的な見方をしていることがうかがえます。
偽とは「真とはいえない」ではありません。「真ではない」です。
チキンリキン氏は単純に有用な「嘘」の例を挙げていただければいいのです。
僕は挙げることができます。「被告が自らの刑罰を軽くするために法廷でつく嘘」
彼は「これは私にとって有用なので私にとって真理である」と述べればいいのです。
>これは、その考えが公になり他人への影響などの力を持つ状態にある場合は、
>その考えへの影響も甘んじて受けるべきだ、と考えたので同意したのですが
>これは、逆に他人への影響がない場合にまで他人からの影響を受ける責任を負う必要が無い
チキンリキン氏がそのような考え方をするのに対しては僕は批判する気はありません。
僕はそう考えない、そして多くの科学者もまたそう考えないだろう。それだけです。
ポパーが「合理主義の非合理性」を説いたように、合理主義信仰への批判は合理主義者たちのためにあるべきです。
僕が合理主義の主張をするのは、合理主義を合理的に思考する限りです。
チキンリキン氏が「私は非合理主義を信仰する、これは私の問題でありあなたには関係がない」と言う限り、
僕はチキンリキン氏に対して批判をすることができません。
僕が独我論者に対して言葉をもたないのと同じように。
267 :
ロニー:03/06/29 19:45 ID:h44Bw1a9
>>243 >また、全ての個人を狂人とするとありますが、
>狂人とは健常な精神状態(とされるもの)からの
>判断基準ですので、全ての個人が狂人の状態で
>あるのなら「狂人」というカテゴリーは存在しないでしょう
ならば、こう言えるでしょう。
そのような思考は「狂人」というカテゴリーを追放しようとしている、と。
それは人間の文化の歴史をまったく省みずに行う言葉狩りである、と。
>他人が自殺する自由を奪うつもりはありません
(理論が)自殺する自由を奪わなくとも、(理論の)自殺に関しての議論はできます。
「議論したくない」と主張する人間とも議論することはできます。
僕はフェミではないにも関わらず、フェミ側の理論に立って議論を成立させることはできます。
言葉と実践は異なることは誰でも分かります。
裁判所で宅間被告を「死刑にすべき」と求刑した検事は人を殺したのでしょうか?
弁護士が自らが「死刑になってほしい」と望んでも、仕事として弁護をすることはありえないでしょうか?
(昨今の結果ステータスばかりを求める動きは悲しいですね)
僕はその者の行為のために議論をする気はありません。
合理主義者は非合理主義を反駁するために(もしくは非合理主義者を改宗させるために)議論するのではありません。
合理主義者は合理主義を合理的に採用するために、非合理主義との議論の競争に合理主義をかけねばならないのです。
合理主義は、自らの間違いを発見し、修正するために議論を望んでいるのです。
268 :
ロニー:03/06/29 19:55 ID:h44Bw1a9
>>243 >>219を読んだとき、ロニーさんが苦笑したり呆れたり
>または憤慨したであろうことが想像に難くありません
いえいえ、むしろ微笑ましく思いました。
というのも、科学については(何についてもですが)「語れない」というのが主流ですから。
それが道具主義的解釈であろうとも、何かを語るということはそれだけでとても意味があるものです。
>ロニーさんの考える「科学」とはどのような目的を
>どのような方法で達成しようとしているのでしょうか
もちろん、僕もそれを述べたいと思います。
しかし、その前に一言、「科学の目的、方法」などと銘打つと、それだけで切り捨てる者がいますので
ポパーの言葉から
>科学的活動の「目的」について語るなど、いささかナイーブに聞こえるかもしれない。
>それというのも、あきらかに、科学者が異なれば目的も違うだろうし、科学自体(そもそもこれがなにを意味するかにせよ)にはいかなる目的もないからである。
>こうした点は認めよう。
>それでも、科学について語られる時には、多かれ少なかれ、あきらかに科学的活動には固有の特徴があると感じられるように思われるし、
>科学的活動が合理的活動であるのはまちがいないようにも思われる。
>合理的活動は何らかの目的をもつはずだから、科学の目的を記述しようとしても、あながち無駄というわけではないだろう。
269 :
ロニー:03/06/29 20:25 ID:h44Bw1a9
>科学の目的
ここはポパーの言葉を借りずに僕の言葉で語ります。
僕は科学の目的には二種類あると考えます。
一つ目は、世界についてよく説明された真実の追究
二つ目は、一つ目の探求の副次的産物として我々の世界をより良く改善していくこと
この二点です。
科学が求めるのは世界に対しての説明です。
さらに踏み込むならば、科学が求めるものは説明されることを期待される事象に対する説明です。
そのような説明は科学的方法を通して、新たなる説明を期待される事象をもたらすでしょう。
そのように、科学はそれ自体が、問題を見つけ、探求し、一つの解決を与え、それによりまた新しい問題を見つけるという知的発展をしていく営為です。
そのような探求を通して、我々は世界を改善していくことができるのです。(この行為は科学的営為とは別次元)
ですから、科学の目的とは新しい問題の探求とも言えるかもしれませんね。
>科学の方法
一言で言えば「トライアル アンド エラー」すなわち試行錯誤です。
我々の知識はその原理として「発見の原理」を所有していません。ですから、科学的発見の方法は存在しません。
しかし、吟味は可能です。あるのは科学的吟味の方法です。それは「吟味の原理」(批判の原理)です。
科学が求めるものは真なる説明です。「真理」とはあやふやなものです。我々は真理に見当をつけることができません。
しかし、間違っていそうなものの見当をつけることはできます。その間違ってそうな箇所の見当をつけることはできます。
科学的吟味とは「間違い(不確実ではない)」を排除することがその方法です。
ですから、科学的吟味にかけられないものを科学は扱うことができません。
それ(吟味にかけられないもの)は正しいかもしれないが、科学で扱うことはできないのです。
その方法は仮説演繹法の形をとります。
A問題をうまく解決できるような仮説を考える。
Bその仮説を間違いだと判断できる事例をつくる。(ここで論理や数学を使用)
Cその事例でどのような結果になるかを調べる。
Cの結果から、またA,Bを行っていくのが科学的吟味の方法です。
270 :
ロニー:03/06/29 20:46 ID:h44Bw1a9
>>244 >私が客観主義のようなものにコミットしていると
>するのなら、それは「予測・制御可能性」になる
「予測・制御可能性」がどのようなものかは理解しにくいものがありますが
それでも「予測・制御可能性」にはいくつかの問題点があります。
例えば、それらは形状上学としての「決定論」「非決定論」「傾向性」、
こういった概念いかんによって変化しうるものです。
それらに結論を出さずに「予測・制御可能性」について語れるものなのですか?
(ポパーは確率の傾向性について難解で長い解釈を行ってます)
上の科学的吟味の方法ですが、
2ちゃんねるの他の板で行われているのを見てうれしく思いました。
昨今のプログラム研究の発展によって、プログラムの仕組みに見当をつけたり、その問題点を見つける際にも
この仮説演繹法が使用されているように思います。
ポパーはこの方法を人間の(生命の)唯一の知識獲得法と言ってます。
今日はこの辺で、次回は来週の水曜、もしくは木曜に書き込みます。
次回は「囚人のディレンマ」ですね。
先に書くならば、「前回に相手が出した札を出す」というプログラムでも
結果としては、たいてい最悪の「共に裏切り」の結果になるそうです。
それでも、僕が別スレで意図したところはチキンリキン氏に通じた模様です。
長文失礼しました。
271 :
ロニー:03/07/02 21:52 ID:Jw182QBi
>チキンリキン氏
>>244 >1.繰り返し行われること(終わりは知らされない)
>2.ゲーム参加の候補者を複数にすること(ゲームは一対一で行う)
>3.ゲームの相手を特定できること
ええ、僕も同意しますよ
特に最も重要なことは1です。
「囚人のディレンマ」はそれが「継続して行われる」という点に着目しなければなりません。
>イメージし易いように黒→裏切り、白→協力、石→カード
>と記述を変更させてください
別に構いません、黒と白としたのは「裏切り」や「協力」という言葉に対して相手が必要以上に感情を持つと予想したからです。
それとトムの例はマッキーの『倫理学』のトムとダンの例からもってきてます。
しかし僕はチキンリキン氏の設定に一つのミスを見つけることができます。
>これを何回か行い、最も総得点の高い者を勝者とする
この設定では「囚人のディレンマ」は生きてきません。
むしろ、そのような設定のもとでは「囚人のディレンマ」はディレンマを引き出して終わるだけです。
272 :
ロニー:03/07/02 22:28 ID:Jw182QBi
>囚人のディレンマについて
チキンリキン氏の主張には続きがあります。
前スレにも書きましたが、そのようなプログラムをつくったところで結果は最悪の「共に裏切り」が続出するということです。
それでも、チキンリキン氏の方法はチキンリキン氏が主張した通り、常に協力、常に裏切りを出すよりはずっと良い効果を持つでしょう。
まず僕はチキンリキン氏の方法がチキンリキン氏の前提に反するという点を指摘することにしましょう。
チキンリキン氏のプログラムは次の二点で表現できます
1最初に出すカードは50%
2二回目以降に出すカードは前回に相手が出したカード
しかし、この方法はチキンリキン氏の意図に反して合理的ではありません。
それは>・これを何回か行い、最も総得点の高い者を勝者とする
とチキンリキン氏が設定した目的に合ってないからです。
このプログラムでは相手に優位に立つことはできません
そしてそれはチキンリキン氏が設定したゲームの目的(おそらくはエゴイズムの目的)とも合わないものです。
仮に考えてみましょう、
ここに2人のエゴイストが出会ってゲームをしたとします。
考えられる結果は3パターンしかありません。
1共に最初に「協力」を出した→常に協力しつづける 25%
2共に最初に「裏切り」を出した→常に裏切りつづける 25%
3片方が「裏切り」片方が「協力」を出した→裏切りの交互がずっと続く 50%
チキンリキン氏のプログラムはうまくいく可能性は25%しかなく、
しかもその25%も、共に最初に協力を出すという一つの非合理的な行為が選ばれる確率に運をまかせるしかありません
また、同じ25%の確率で共に裏切りという最悪のパターンが待っています。
もっとも確率が高い50%の裏切りの交互が続くのはあまりにも愚かなシーソーゲームです。
ましてや、目的として「最も利益の高い者」という設定をする限り(この設定をせざるをえないのが主観主義の悲しいところです)
「協力」のカードは相手より多くの点を取る手段がなく、「裏切り」のカードは相手より多くの点を取る手段があるという点で
「裏切り」が合理的なのです。
273 :
ロニー:03/07/02 23:27 ID:Jw182QBi
失礼、別スレで熱くなってこちらを疎かにしてました
さて、チキンリキン氏は僕に対して、どのようなプログラムを立てるのかと質問するでしょうが
上手くいくプログラムを知ってしまっている僕が意気揚揚と語るのも忍びないものです。
そこで僕は分析に終始することにします。
僕はまず最初に客観主義らしく前提を起きます。
「仮に相手が僕と同じ思考をするとする。、また、僕は利益を求めたいから相手も利益を求めるために合理的に思考するだろう」
ならば僕が「裏切り」を出す時に相手は「裏切り」を出し、「協力」を出す時に相手は「協力」を出すはずだ。
しかし、僕が利益を求めるならば、相手が「協力」を出した時に僕は「裏切り」を出すのが最も効率が良い
しかしそれは、僕が「協力」を出す瞬間に「裏切り」を出さねばならない
これがディレンマの正体でしょう。
僕はここで発想を変えることにします。
僕の利益は合理的に考えれば「裏切り」が最も合理的である。(自分の利益が相手の「協力」のカードに依存しているのがこのゲームです)
ならば、僕の利益は合理的に考えれば相手の「協力」が最も合理的である。
思考は相手に「協力」を出すにはどの方法がもっとも良いか、という思考になります。
ここで何点か考えるならば
・相手が「協力」を出した時に「裏切り」を出すと相手は「協力」を出さなくなるだろう。
少なくとも、相手が「協力」を出した次のケースにおいては「裏切り」を出すべきではない
・相手が「裏切り」を出した時に「協力」を出すと相手は「裏切り」を出すようになるだろう。
相手が「裏切り」を出した次のケースにおいて必ず「協力」のカードを出すのは得策ではない
3点目は伏せておくことにしましょう
このように考えることができるのではないでしょうか?
274 :
ロニー:03/07/02 23:30 ID:Jw182QBi
今日はこの辺で、
次回は日曜になると思います
>>265 『数学基礎論』
数学基礎論が不毛ということは、たまに聞きますね・・・。
でも私の知る数学の先生ではそのようなことを言う人はいませんでした。
たまたま言う機会がなかっただけかもしれませんが。
でも、それが不毛であると決定付けるのは結論を急ぎすぎているかもしれませんね。
『直感主義論理』
>まず一点目、直観主義の数学(排中律の排除)は数学としてはあまりにも不便すぎる。
同意ですが、
排中律を排除したところで、結局は決定不可能な命題が出てくることが証明されたわけですから、
今特に直感主義論理について深刻になる必要もないと思います。
ブラウワーはもともとパラドクスへの対処として「直感主義」を考えたようですが、
結局それがうまくいかなかったというわけです。
つまり、パラドクスへの対処がパラドクスを生じさせるという皮肉な結果になったわけです
(たぶんこの辺りの詰めがあまくて、私は数学基礎論で減点をくらいましたから保証はできませんよ)。
この辺りのことを考え出すと数学基礎論は不毛であるという考えも出てきますが・・・。
>二点目
私は命題の立て方の誤りが気になりました。
276 :
ロニー:03/07/06 20:00 ID:YwEe3Eup
>燕雀氏
>>274 >数学基礎論
>でも、それが不毛であると決定付けるのは結論を急ぎすぎているかもしれませんね。
何が不毛であるかということに対する見方は二種類あります。
ひとつは、それが証明不可能なもの、絶対的結論不可能なものならば思考するのは不毛である、という見方、
もうひとつは、それが証明可能なもの、絶対的結論可能なものであるならば思考するのは不毛である、という見方、
「実証主義」と呼ばれる者の思考方法は前者であり、僕を含む批判的合理主義の思考方法は後者になります。
これが僕が直観主義に対して行う二点目の批判になります。
>排中律を排除したところで、結局は決定不可能な命題が出てくることが証明されたわけですから、
>今特に直感主義論理について深刻になる必要もないと思います。
>つまり、パラドクスへの対処がパラドクスを生じさせるという皮肉な結果になったわけです
これは知りませんでした。
燕雀氏のあげた『ゲーデルの世界』は僕ももっていますが、読んだのは3年前なので内容を覚えてないですね。
数学において直観主義の立場をとることには何の意味もないと僕は考えます。
というのも、数学は公理系の内部での関係式を思考する学問であり、正しい公理系を追求する学問ではないと考えるからです。
これは数学的実在が人間の脳の内部においてのみ存在するという思考にのっとっています。
>>二点目
>私は命題の立て方の誤りが気になりました。
そうですね、それを論理的でないというのは不適切な表現ですね。
僕の主張は簡単です。
数学は人間の脳の中だけのものです。(正確に表現するならば、人間が共有する仮定世界の内部においてのみ成立するもの)
「脳の外も数学的でなければならない」という思考は端的に誤りです。
科学や物理学の業績は「世界に存在する数学的法則を発見する」のではなく「世界を数学や論理を使用することで上手に説明する」ということです。
直観主義者は論理や数学に対しての限界を意識しないことにより、むしろ論理や数学のもつ多くの有用な道具性を捨て去る結果となるのです。
277 :
ロニー:03/07/06 20:01 ID:YwEe3Eup
失礼、今日は書き込む予定でしたが、私用が入ったので次回になります
ちょっと今週は忙しくなりそうです
次回の書き込みは来週の日曜を予定しています
良スレ。
279 :
ロニー:03/07/11 21:54 ID:6F4r0KF8
時間ができたので軽くレスをします
>チキンリキン氏
>>250 >相手と同じ議論のテーブルについて議論をする
>ということが、共感に基づいていないと言うことは
>難しいのではないでしょうか
僕はそうではないことを主張することにします。
それは僕が前スレのはじめのほうでチキンリキン氏について主張し同意を得た件、
「同意があったとしても何らかの問題に対して議論をすることでよりよい解決をもたらすことができる」という点を主張することにします。
少なくとも論理的には同意することがまったくない状況であっても議論を行うことはできます。
チキンリキン氏はどのような要因でそのような議論が不可能であると主張するのでしょうか?
心理的な要因でしょうか?はたまた、言語上の要因でしょうか?
心理的に共感できない主張に対して議論ができないということはまずもってないでしょう。
なぜならば、(直感主義や基礎付け主義の方法を除けば)ある理論の主張はその理論を仮に否定することにより理論の内容が語られるからです。
自らの理論を仮に否定することができないならば、その者は推論を展開する能力に欠けると言えます。(また、否定できないならばそれは推論ではない。)
もし、ありうるとするならば、心理的に共感できない人間に対して議論ができないという可能性です。
280 :
ロニー:03/07/11 22:00 ID:6F4r0KF8
>それは、フレームワーク間に共通する論理的なアルゴリズムのようなものが仮定
>されない限り、自らを批判に開くことができないと理解するべきなのでしょうか
>それとも、もっと緩やかなものなのでしょうか
論理的なアルゴリズムではありません。
あなたは「犬に対して議論をできるとは思わない」と以前に言ってました。
しかし、いかなるレッテルをも排除するならば、一匹の犬と一人の人間にいかほどの違いがあるでしょうか?
いかなる普遍的な仮定も許さないならば、その者は独我論に陥るだけです。(独我的に行動するとは限らないが、)
僕は犬に対して議論ができるとは思いませんから、犬が僕を批判できるとも思えません。
犬の批判に耳を傾けることができないのです。
同じように、独我論者が(例え誰の口から発せられたものにせよ)批判に耳を傾ける理由はまったくといっていいほどありません。
むしろ、批判の前に耳をふさぐことの方が多いでしょう。(批判の重要性は客観主義とコミットしているため)
批判が客観的真理の接近への唯一無二と言える方法であるにも関わらず、
普遍的ルールを設定しないという行為は、自らのルールを自らの範囲内で正当化することを招くだけです。
そしてそれは「より良きものを探求する」という努力や改善といった行為を腐敗させ、堕落を招くのです。
>>そして「普遍的ルールの存在を仮定してはいけない」という普遍的ルールの存在は証明されていません。
>証明されることはないでしょう
ええ、それは証明できないでしょう。また、そのようなルールを求める必要性もありません。(→真理と確実性の分離、求めるものは真理すなわち正しさである)
ただ権威を求める人間がいるだけです。
281 :
ロニー:03/07/11 22:23 ID:6F4r0KF8
>>251 >確かに普遍的な性質はあると思うのですが、私の考える「ルール」とは違います
なるほど、「普遍的な性質」の存在をチキンリキン氏は認めるのですね。
>そして私の言う「ルール」とは「論理的アルゴリズム」のようなものを意味しているのです
いまいち理解しきれません。
多くの「ルール」は「論理的アルゴリズム」の形をとるのでしょうか?
具体例を示唆していただくとありがたいです。
>狂っているのか判断はしませんが
>コミュニケートしようとする意思とは矛盾しているとは思います
ならば、対話の流れから次のような結論が言えると思われます。
「自らの領域を超えて普遍的な言明を行わない行為はコミュニケートする意思と矛盾する」と言える。
↓
「コミュニケートする意思を行為にあらわすならば、何らかの普遍的な言明をしそれを自分の範囲を超えて提出するというものになる。」と言える。
少なくとも、「議論においてまず必要なことが事実でも観察でもなく仮説の提出である」ということが僕とチキンリキン氏との間の議論において結論できた、と言えそうです。
そして、この仮説の相互批判によって我々が議論から何かを学ぶことができるのか、議論を通じて仮説をより良くしていくことができるのか、
僕らの議論はこういった問題に集約したと言ってもいいでしょう。
もちろん、議論を通じて仮説を良くすることができるというならば、仮説の良し悪しに見当をつけるという行為ができるはずです。
ならば、議論によってより良い(合理的な)理論と、より悪い(非合理的な)理論とについて、見当をつけることができると言えそうです。
両立不可能な事例があまりにも多いにも関わらずその問題となる当の仮説を救う行為は、非合理的(狂人的執着)と我々が暫定的に扱う理由があります。
(少なくとも議論においては、−逆転するためにも−、問題となる当の仮説と両立可能な事例による体系を提出せねばならない)
282 :
ロニー:03/07/11 23:12 ID:6F4r0KF8
チキンリキン氏へのレスはこの辺で、少し自分のことについて語ります。
僕はこのスレでの議論をとても自分にとって有意義であると感じていましたが、
私用により8月は書き込めません。
おそらくは書き込みは9月の下旬ごろとなるでしょう。
(場合によってはそれ以降になるかもしれません。)
7月中にあと3回ほど書き込もうと考えています。
もしよろしければ、僕がこの男女板に帰ってきた時にまた相手をしていただけると幸いに思えます。
亡霊氏にはあいさつができないことを非常に残念に思います。
最後の書き込みには恒例のコテあて書き込みをしたいですね。
ポパーが科学について提出したテーゼもまとめたいですね、
そしてフェミニズム、男女板との一年の付き合いでもまとめたいなどと考えています。
(ポパーは無理かな、時間の余裕がちょっと)
僕がこのコテを名乗りだしたのが去年の9月頃でしたから、ちょうど一年ぐらいになります。
はじめは雑談コテのつもりが、いつのまにやら堅いキャラと丁寧語の口調になってしまいました。
ポパーについて述べる気もなかったのです。科学についての話題で少し口を出したのがきっかけですね。
ポパーを論理実証主義と一くくりにされて批判されて、いつのまにやらポパー信者のポパー正当化になってしまいました。
2ちゃんではシークレットにするつもりだったのですが・・
それでもこの男女板でポパーについてクダをまいてチキンリキン氏と会い、
チキンリキン氏との議論を通じて、僕の理論はより洗練されたと確信しています。
チキンリキン氏と議論ができたことをとても喜ばしく思います。
あと数回の議論をおつきあいください。
>>276 『数学基礎論と直感主義論理』
数学基礎論は証明可能なものや証明不可能なものについて議論するものではありません。
数学基礎論において問題にされたのは、
「パラドクスを回避できるような公理系を用いて、無矛盾な集合がつくれるか」ということです。
ここで問題になっているのは、ある公理系を含む集合の無矛盾性の証明です。
ゲーデルの第2不完全性定理によれば、
自然数論の公理系を含む集合を証明された無矛盾なものだけで構成したとしても、
その集合の無矛盾性というのは、その集合のなかでは証明できないというものです。
ゲーデルはメタの立場に直感主義論理を用いてこれを証明したわけですから、
大騒ぎになったということです。
つまり、ブラウワーの直感主義はパラドクスの回避の方法として失敗したことになります。
ならば、メタの立場に何を用いればよいかということになってきますし、
そもそもどんな集合論をつくればよいのかということも考えられるでしょう。
この方向で量子集合論や3値論理学などの多値論理、
ファジー論理などいろいろ考えられているわけですから、不毛ではないと思います。
今敢えて直感主義論理を取り出して数学基礎論のメタの取るべき立場をそれに固定し、
現代の数学的視点から過去の数学基礎論を見るということを行えば、
確かに数学基礎論は不毛に見えますが、実際には現代の数学基礎論で用いるメタの立場は、
直感主義論理のみに固定されているわけでもありませんし、
上に挙げたような論理学や集合論を考えることが出来るというこに焦点を当てて考えてみますと、
今の数学基礎論(数理論理学)はそれほど不毛なものでもないと言うこともできます。
>これは知りませんでした。
燕雀氏のあげた『ゲーデルの世界』は僕ももっていますが、読んだのは3年前なので内容を覚えてないですね。
たぶん、あの本にはズバリとは書いていないと思います。
ゲーデルの行った証明とそれに用いたメタの立場、ブラウワーとヒルベルトの対立、
そしてカントールやラッセルのパラドクスを考えての私の見解ですので。
>>276 『直感主義論理・二点目〜』
>「脳の外も数学的でなければならない」という思考は端的に誤りです。
私は数学は人間が用いる一つの言語であると考えます。
失礼な例えではありますが(お許しください)、
ロニーさんの文を少し変形してみます。
『言語は人間の脳の中だけのものです。(正確に表現するならば、人間が共有する仮定世界の内部においてのみ成立するもの)
「脳の外も言語的でなければならない」という思考は端的に誤りです。
科学や物理学の業績は「世界に存在する数学的法則を発見する」のではなく「世界を言語を使用することで上手に説明する」ということです。』
何も違和感がないと思いますが、どうでしょうか?
ここから、「そもそも、認知とは何か」ということも議論できますが、
残念ながら、ロニーさんはしばらくここに来られないそうですね。
>>282 まるで、一生ここへ来ないようなことを示唆するような書き込みですね(w
まあでも、9月の下旬ごろでしたらそれ程長い期間でもなさそうですね。
しかし、うーん。スレ主が不在になるのですか・・・。
となると、ここもdat落ちするかもしれないですね。
保守を行うのも不可能ですか?
285 :
山崎 渉:03/07/12 12:17 ID:m+z5hLiA
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
287 :
ロニー:03/07/13 20:29 ID:kuux57b3
>燕雀氏
>数学基礎論
ご教示ありがとうございます。
僕もまた、そのようなメタ論理について思考することは意味があることだと思います。不毛だとは思いません。
その理由がゲーデルの不完全性定理にあるというのが、僕の立場となるわけです。(ここが僕が直観主義者と異なる点になります)
それらは無矛盾性を証明できないからこそ不毛ではないのです。
直観主義者 証明不可能なものについて考えること→不毛 と思考するのに対し
合理主義者 証明不可能なものを不毛とすること→不毛 と思考します。
(合理主義者という数学者はいませんが、合理主義的な形式主義者は直観主義を排斥する必要がない)
無矛盾性の証明が不可能なことは決して公理系に矛盾が見つかったことを意味しません。
この点を履き違えるために数学基礎論に対する「不毛」という言葉が生じるのだと思います。
さらに言えば、フェミニズムを含めた理論の虚無主義者はこの点を履き違えることにより、
人間の理性的行為にすべて「不毛」という烙印を押してしまっているのです。
ポパーの理論には「開かれた・・」「閉じた」といった言葉が使用されます。
この言葉を意訳するならば「開かれた・・」は不完全であり、「閉じた・・」は完全であるということです。
そして不完全であるからこそ、思考には意味があるのです。
なぜならば、「閉じた系」(完全性)には暫定的な選択というものがありません。(数学的証明で暫定的証明というものはない)
そこには吟味や議論をする必要がないのです。
そして「完全ではない」の一言で思考や議論を破壊する虚無的な思考が氾濫しているのです。
客観的なものを破壊する思考が氾濫しているのです。
288 :
ロニー:03/07/13 20:49 ID:kuux57b3
ここでのチキンリキン氏との議論もこの点が常に問題となっています。
狂人の話は「『完全を求めない』というのも不完全だ」という非合理主義からの反論に対して
「不完全だからこそそれを合理的に思考できるのだ」と返しています。
それは非合理主義を合理主義として扱うことによって、相対主義特有の「しっぺ返し論法」の武装解除を行っているのです。
だからこそ、この批判的合理主義(非正当化主義)のポイントは
・「論理にパラドクスが含まれている可能性があり、まだ見つかってない」
という点にあるわけです。
(まぁこの理論は「相対主義を論破するためだけに生まれた」と評されますが・・)
>私は数学は人間が用いる一つの言語であると考えます。
>失礼な例えではありますが(お許しください)、
いえいえ、それどころか、僕も数学と言語に大きな違いがあるとは思っていません。
どちらも三世界論において第三世界において客観的知識を構成する要素であるからです。
たいていの数学者ならば数学が客観的世界に属するものであると考えるでしょうし、それは言語においても同様です。
(昨今の数学では観察から還元する数学があるようですね、名前は忘れましたが)
>何も違和感がないと思いますが、どうでしょうか?
「言語」をかわりに使用しても問題ありません
もっとも「言語」という単語を使用すると、ソシュールやらクリプキやらと出されて「ナイーブ」と評されるでしょうが、
289 :
ロニー:03/07/13 20:53 ID:kuux57b3
>ここから、「そもそも、認知とは何か」ということも議論できますが、
ここは議論する必要が少ないと僕は考えます。
理由は二点
1「〜とは何か(What is 〜)」という問題は解決不可能な擬似問題の形式をとること(形式が問題であるだけで議論する内容はある)
2全ての人に共通の言語なり記号なりを与えること、もしくは、確定させることはほぼ不可能であること
我々が議論をしたり思考をしたりする時に問題となるものは言語や記号が対応する「何らか」です。
それは仮に「実在」と呼んでおくことにしましょう。
我々は決して言葉や記号だけを見るのではないのです。
これは数学者が目の前の紙に書かれた図や記号ではなく「数学的実在」と呼べるものの問題を扱っていることと同じです。
「数学的実在」が紙の上にあるのではなく我々の脳の中にあり(そうでありながら我々がそれを共有できるように)
我々は議論を通じて相手の言葉ではなく共有する問題とコミットすることで同じ問題を解決可能なのです。
結論は一点、「真理」は個々人にそれぞれあるのではなく客観的に存在するということです。
これがこのスレで僕が展開してきた理論の内容です。
290 :
ロニー:03/07/13 21:04 ID:kuux57b3
>>284 >まるで、一生ここへ来ないようなことを示唆するような書き込みですね(w
>まあでも、9月の下旬ごろでしたらそれ程長い期間でもなさそうですね。
そのつもりはないのですが、ただ最短で9月なのでどうなるかは分かりません。
>しかし、うーん。スレ主が不在になるのですか・・・。
>となると、ここもdat落ちするかもしれないですね。
>保守を行うのも不可能ですか?
2ちゃんにつなぐこともできないと思います。
時々保守を行ってくれるとありがたいですが、DAT落ちするかもしれません。
そのための用意も兼ねてのあいさつです。
>>287 >合理主義的な形式主義者は直観主義を排斥する必要がない
「ない」というよりも「結果としてなかった」と言う方が正しいと思います。
結果的にはそうなったわけですが(形式主義的直観論理)、
実際にはヒルベルトはブラウワーに激怒したそうですよ。
そこにはそれなりの理由があったわけです。
わたしたちは、現在から過去を見るというかたちで結論のみを取り出しがちですが、
そういった行動には少し慎重になる必要があると思います。
>無矛盾性の証明が不可能なことは決して公理系に矛盾が見つかったことを意味しません。
この点を履き違えるために数学基礎論に対する「不毛」という言葉が生じるのだと思います。
たぶん、ゲーデルの証明に出てきた「矛盾」とか「無矛盾」という言葉が誤解を生んでいるのでしょうね。
実際、メタの立場によって結果は変わってきますし、
あくまで、メタの立場を直観主義論理にした場合にそうなると言うことであったわけです。
何がパラドクスを生じさせたかと言えば、直観主義論理の排中律の排除にあったわけですから、
そこを押さえておかなければならないのですが、一般にはあまり気にされていないようですね。
この辺が理解できていないひとも多いのかなとは思います。
ここから、「直観主義論理は誤っている」と考えてはいけませんが。
>>287 >ポパーの理論には「開かれた・・」「閉じた」といった言葉が使用されます。
ポパーについては知りませんが、ここは、ゲーデルの不完全性定理に似ていますね。
数学の中でこれらの言葉を用いるわけにはいきませんが。
>そして不完全であるからこそ、思考には意味があるのです。
同意です。
実は私も数学基礎論を勉強していたときに、そこで言われるようなことを結論しました。
たぶんゲーデルが一番言いたかったのはそこではないかとも思います。
>「論理にパラドクスが含まれている可能性があり、まだ見つかってない」
これはディベート的ですね。
これは「神のみぞ知る」わけですが、そこを議論の対象にするのは科学ではないですね。
これに関係することに「統計の誤用」がありますが、
この板の別スレやジェンダー統計に関するページを見ていて、
どうも統計をわかっていない人が多いなとは思いました。
数字の魔力とでも言いましょうか、
現代人というのは機械や数字に頼りすぎて本質を見落としているように思います。
>(昨今の数学では観察から還元する数学があるようですね、名前は忘れましたが)
これは、たぶん「カオス」だと思います。
>>289 『認知科学・脳科学・心理学』
>ここは議論する必要が少ないと僕は考えます。
そうですか、私は議論する必要は多くあると思います。
事実、上に挙げたような学問領域もあるわけですから。
「認知」を考えることは難問中の難問だと思います。
>>289のロニーさんの書き込みを見て思ったのですが、
「認知、知覚、感覚を混ぜて考えているのでは」と思いました。
『ジェンダー論 vol.2
>>1 のある者の主張』
>結論は一点、「真理」は個々人にそれぞれあるのではなく客観的に存在するということです。
そうですね・・・。
実は私は
>>1の「あるものの主張」に関して、ロニーさんとは少し違った意見を持っています。
そして、ある具体例のもとで直観主義論理を否定することなく
>>1の問題を解きました。
つまり、「ある者の主張」は直観主義論理の否定に失敗したことになります。
そして、「ある者の主張」も否定することなく
>>1の問題が解けました。
つまり、中立的な解法があったわけです。
これに関しては、7月末から8月にかけてここに書き込んでおく予定です(今忙しいので)。
>>290 海外に行くのでしょうか?それはいいとして。
困りましたね。
私もこれから忙しくなりますので、あまりここに来られないと思います。
まあ、たまに来たときには保守をしておきますか。
dat落ちしたらしたで仕方ないとしますか。
山崎渉氏の書き込みが続けば、保守効果があるかもしれないですね。
まあ、あまり当てにはなりませんが。
294 :
山崎 渉:03/07/15 13:22 ID:N9RxX93m
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
>ロニーさん
レスが遅れています申し訳ありません
やっと追いついたというのは、自分で勝手に感じていた
プレッシャーに対するものですので表す必要はなかったですね
>256
>その根拠として、「実在論者と言語分析学者が言語分析の有意味性について議論することができる」というのを僕は挙げます。
ロニーさんの挙げた根拠のような議論は可能なのでしょう
私は議論ができないと主張した覚えはありません
むしろ私の主張は、「議論が成立しているのは、議論のルールを共有しているからだ」
といっているも同然であると非難されるべきものであると思います
>もし議論のルールとして「人間」が「宇宙人」を排除するのと同じような構造を取るというのでしたら同意します。
ルールが共有できないのであれば、宇宙人であろうと地球人であろうと
議論は成立しないでしょう
これは、ロニーさんが以前提示した「同じ」という性質と
似ていると考えています
>257
>では「レッテルをはられない」というレッテルを貼ってあるのでしょう。
レッテルを貼らないといううレッテルというのには同意します
>ならば論理的に救うことは現実に救うことにはならないという主張をすればいいだけです。
その通りです
>258
>いえ、そのようなことではありません。それどころか、それは矛盾しません。
了解しました
>259
>このレスを読む限り、チキンリキン氏は何らか(僕の意見、論理、ポパーの理論、その他)の中の何か一つ以上について誤解していることになります。
一番誤解しているのは、論理であると思います
これについては、謝ることしかできません
ごめんなさい
では、202の>また、「ある種の人間同士は同じ問題を共有できない」という立証はされてません。
にたいしては「できる、できないは立証不可能ではないでしょうか?」とレス
するのが適当かもしれません
少なくとも、私にはどのように立証したものか思いつけませんでした
>260
>チキンリキン氏は論理的に正しいものを考慮に値すると考えるのですか?
そのような意図で主張したものではありません
これは
>163
>しかし、A3はトリヴィアルでない意味では常に存在することが決まっているわけではない。
に対して、トリヴィアルであるかないかの価値判断の基準については
なにも語っていないということを指摘したかったのです
そしてその基準を決めるのは難しいとも
>僕がどう返答するか予想されているんじゃないですか?
私の主張に対してロニーさんがどのように反応するのか
殆どの場合予想しています(その努力も)
>未来系での言及はなぜできないのか?
>Yes.僕の答えは反証可能性です。
ここは良く解りませんでした
なぜ?を問うた言葉に対してYesと返した意図は
どこにあるのでしょうか
>261
>僕は絶対的な存在を信じないですから、同一性を保つ遺伝子(一つの発現形質)があるとは考えません。
不変な遺伝子があるとの主張ではありません
しかし、突然変異の制御をする遺伝子についての言及は
「利己的な遺伝子」のなかにもあったように思います
(必要でしたら調べます、このことだけでなくとも
調べる必要があると思うことがあれば調べます)
>262
>僕が実在論者だと自らを名乗るのは、僕自身がそのような理論の優位性を信じ、そして何よりも先に理論を展開することにあるからです。
仰るとおりです
発言を撤回させてください
眠かった記憶はないのですが・・・
>266
>「面積のない点」は存在はしませんが仮定になります。(「実在しない」とは言わない、むしろ「実在する」でしょう)
仮定を実在であると考えることは、私にはできませんでした
以前ロニーさんは、「真理は理論と世界の一致」と主張していた
記憶があります
私は実在という概念は世界という概念に近いと解釈していましたが
この解釈でもよろしいのでしょうか?
>僕は挙げることができます。「被告が自らの刑罰を軽くするために法廷でつく嘘」
>彼は「これは私にとって有用なので私にとって真理である」と述べればいいのです。
恐らく前と同じような返事で申し訳ないのですが、私の立場からすると
「自分に有用であれば真理である」という合意がなされている法廷でならば
そのような主張は認められるということになります
>続き
>>これは、その考えが公になり他人への影響などの力を持つ状態にある場合は、
>>その考えへの影響も甘んじて受けるべきだ、と考えたので同意したのですが
>>これは、逆に他人への影響がない場合にまで他人からの影響を受ける責任を負う必要が無い
>チキンリキン氏がそのような考え方をするのに対しては僕は批判する気はありません。
>僕はそう考えない、そして多くの科学者もまたそう考えないだろう。それだけです。
ここで私が独我論者かどうかが問題になるとは思いません
私の主張は、他人への影響が認められないのに内心の自由を
奪う必要がどこにあるのか?というものです
いかに危険な考え方であっても、それが個人に留まる限り問題も
個人に留まります
それを矯正する、若しくは議論へと促す必要性が
見出せないのです
私には科学者といえる存在が身内に一人いますが
この件に関してはロニーさんの立場に同意しないでしょう
同時に科学者であるか、ということがこの点の
判断に大きな影響があるとも考えません
>267
>そのような思考は「狂人」というカテゴリーを追放しようとしている、と。
>それは人間の文化の歴史をまったく省みずに行う言葉狩りである、と。
「狂気」や「正気」(に限りませんが)の概念
は相互に依存しあう関係にあると思います
それは「表」と「裏」の関係に似ているでしょう
243を「表」と「裏」で言い換えるとこうなります
また、全ての面を表にするとありますが、
表とは裏が存在するからこその表ですので
全ての面が表であるのなら「表」というカテゴリー
は存在しないでしょう
私は概念の相互依存について述べたつもりでしたが
言葉狩りであるという批判を受け入れるためには
更なる説明をお願いすることになりそうです
>(理論が)自殺する自由を奪わなくとも、(理論の)自殺に関しての議論はできます。
議論の可能性とそのことを欲しない人間に議論を強制
するということは問題が違うと思います
私は他人に影響がない状況で、その人に何かを強いる(促す)
ことを好みません(必要性も感じません)
>合理主義は、自らの間違いを発見し、修正するために議論を望んでいるのです。
このことは支持しますし、私もそうありたいとは望むのですけれども
(そう見えないかもしれませんが)
>268
>それが道具主義的解釈であろうとも、何かを語るということはそれだけでとても意味があるものです。
何も言わないよりもマシということで、ほっとしました
>269-270
>科学の目的
説明をありがとうございます
私はロニーさんの提示した2つ目の目的だけで
十分だと考えていることになります
>科学の方法
丁寧にありがとうございます
試行錯誤「トライアル アンド エラー」という方法について
異議はありません
>予測・制御可能性
さて、>229において
>予測や制御は原理上、不可能ではないでしょうか?
と問われたことについてお答えしなければなりません
私の考える科学の目的は、有用であるということです
その有用性は予測・制御可能性であるとも主張しました
つまり、予測や制御が不可能であるのなら
(私の考える)科学は成立しません
>続き
ここで、解り易くいかにして予測・制御が可能であるのかを
説明したかったのですが結局「信仰」以外の言葉が見つかりません
(毎度のことですが)対話を通じて上手な説明を発見したいです
そこで、予測・制御可能性の例を挙げてみたいと思います
すぐに思いつく例としては砲弾の射出があります
砲弾の質量、射出角度、射出速度、重力、抵抗などから
大体の着弾点の予測ができます
砲弾の質量、射出角度、射出速度、抵抗などを
変えることによって大体の着弾点を制御することができます
そしてこのことにより、目標により正確に着弾させることが
可能になるという有用性があるのです
私の立場は実在を問題にしないというものです
私は、私を取り巻く世界を上手に説明していて有用だ
と思うものを支持します
>「決定論」「非決定論」「傾向性」
>それらに結論を出さずに「予測・制御可能性」について語れるものなのですか?
ロニーさんが必要であると思うのであれば結論を出しましょう
私自身は必要であるとは思っていません
私はそれらについての知識を持ち合わせていないと感じますし
その状態で上の立場を採用することに問題を感じていません
勿論今までの話です
>271-273
>ええ、僕も同意しますよ
ありがとうございます
>この設定では「囚人のディレンマ」は生きてきません。
これは、ロニーさんの設定を借りてきたときに
付いてきてしまったようです
これがミスだとは思いませんが、
そうであるのならば撤回するつもりです
できれば何故ミスなのか説明をお願いしたいです
>続き
>チキンリキン氏のプログラムは次の二点で表現できます
>1最初に出すカードは50%
>2二回目以降に出すカードは前回に相手が出したカード
いえ、50%は相手から出されるカードの仮定です
こちらは、相手にたいする最初のカードを常に協力で固定
するということでした
>仮に考えてみましょう、
>ここに2人のエゴイストが出会ってゲームをしたとします。
このロニーさんの説明では、1試合についてのみの言及を
なさっているように思えます
1試合についてであれば、既に248で
>この方法で面白いのは、試合ごとでみてみると
>負ける可能性が高そうだけれども(相手のマネを
>するわけですからいつも後手にまわります)
と言及しています
>2.ゲーム参加の候補者を複数にすること(ゲームは一対一で行う)
この第2の条件は、例えば100人の参加候補者がいるなかで
ランダムにその内の一人とゲームをするという意味があります
そして、またランダムに選ばれた相手とゲームします
それが繰り返されるのです
解りにくかったかもしれません
結論をいえば、固定された相手とのゲームであれば
ロニーさんの主張は妥当すると考えています
>続き
>上手くいくプログラムを知ってしまっている僕が意気揚揚と語るのも忍びないものです。
現在この「囚人のジレンマ」についての理解に
お互い齟齬が生じていると思っていますので
この点を確認するまで返答は控えさせてください
>279
>少なくとも論理的には同意することがまったくない状況であっても議論を行うことはできます。
>チキンリキン氏はどのような要因でそのような議論が不可能であると主張するのでしょうか?
同意と共感は違うと思います
同意ができない相手との議論が成立しないという主張もしません
私が言いたかったのは、同じ議論のテーブルにつく行為が
共感に基づいていないといえるのか?ということです
私は共感は感情移入できるということだと思います
ロニーさんは相対主義的立場に何の共感も持ち得ない
と主張しているのでしょうか
>280
>あなたは「犬に対して議論をできるとは思わない」と以前に言ってました。
そのとおりです
>しかし、いかなるレッテルをも排除するならば、一匹の犬と一人の人間にいかほどの違いがあるでしょうか?
何もありません
価値というものは恣意です
しかし、私がレッテルを排除することを主張したのでしょうか?
そしてこれは、普遍的なルールの設定とレッテル貼りを
同じに扱うべきだとの主張でしょうか?
レッテル貼りから逃れられる人間は一人もいないでしょう
すくなくとも、何らかの判断をする人間にはレッテル貼りが不可欠だと思います
>続き
しかし、私はそのレッテルが恣意的なものであることを
承知しています
よって、私のレッテルの貼り方が普遍的であると
主張(仮定)しません
普遍的であると仮定すれば、議論が楽に進むかもしれませんが
また、私にはいくつかのルールがあります
これも、普遍的とは仮定していません
普遍的であると仮定すれば、批判により開かれている
と感じられるかもしれませんけれど
>281
>なるほど、「普遍的な性質」の存在をチキンリキン氏は認めるのですね。
何と表現すべきでしょうか・・・
私は言葉というものがコミュニケートの手段として普遍的に
存在するとは思います
ただ、皆が同じ言語を使っているとは思えないのです
>多くの「ルール」は「論理的アルゴリズム」の形をとるのでしょうか?
>具体例を示唆していただくとありがたいです。
ルールは論理的アルゴリズム的な性質を帯びるとおもいます
ですが正確に私が言いたかったことは、ルールが共通でないため
ルールに基づいた論理的アルゴリズムも異なるということです
>続き
具体例ですか・・・
この議論に沿った具体例というものはなかなか思いつきませんが
私が以前見たものから一つ挙げてみましょう
○1
X○○
____
○○○
○○○
_____
9○○○
○は虫に食われていて解りません
1の隣が8であるのならば、最大で81X99=8019
となって答えの千の位が9になりません
したがって、1の隣は9になります
そして、91X98とすると=8918となってしまうので
答えの千の位が9となりません
したがって、91X99である必要があります
答えは91X99=9009になります
これが、私の考えるルールに基づいた論理的アルゴリズムの例です
(この場合は算数のルール)
>続き
フレームワーク間の共約不可能性とは
問題に対するルールが違うためにそのルールに基づいた
考え方もまた違ってくるというものです
先ほど挙げた例は、算数のルールに基づく簡単ものでしたが
実際はデータのとりかたや解釈、概念の意味や使用法
などにおいて違いがあると思うのです(違いがなければ
フレームワークが同じであるといえます)
また、私は科学の説明のなかで
観察できる事柄のみで構成されたものを
知りません
そこには必ず観察できないが、導入する
ことで説明が簡単になる概念が加えられていると思います
そのようなことも、違いを大きくする原因の一つではないかと
考えています
>「自らの領域を超えて普遍的な言明を行わない行為はコミュニケートする意思と矛盾する」と言える。
(言葉で)コミュニケートする意思があるのにもかかわらず、
普遍的な言明を行わない行為は矛盾しているといえます
私は、言葉を使ってのコミュニケーションは普遍性を帯びる
と考えますが、同じ言語で話しているとは仮定しません(特にフレームワーク間)
翻訳してのコミュニケートは可能であるとおもいます
>「コミュニケートする意思を行為にあらわすならば、何らかの普遍的な言明をしそれを自分の範囲を超えて提出するというものになる。」と言える。
そのとおりです
>少なくとも、「議論においてまず必要なことが事実でも観察でもなく仮説の提出である」
>ということが僕とチキンリキン氏との間の議論において結論できた、と言えそうです。
仰るとおりです
このことはかなり前から合意がありましたので
恐らく基本的なことがらなのでしょう
>282
>おそらくは書き込みは9月の下旬ごろとなるでしょう。
私にも有意義な議論でしたので、中断が長くなるのは
残念です
また、戻ってきてその意思がお互いにあったら
議論を続けていただきたいと願っています
>保守
気がついたら保守するように
こころがけたいと思います
>燕雀さん
>293
>これに関しては、7月末から8月にかけてここに書き込んでおく予定です(今忙しいので)。
拝見できる事を願っています
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
保守です
312 :
ロニー:03/07/26 13:52 ID:JDa873JI
今日と明日でしばらく書き込めなくなると思われます。
それと9月中の復帰は無理なようです。
10月からは書き込めるかもしれません。
>燕雀氏
>>291 >「ない」というよりも「結果としてなかった」と言う方が正しいと思います。
>結果的にはそうなったわけですが(形式主義的直観論理)、
細かい語に関してを問題としようとは思いませんが、この場合は過去形ではなく現在形の方が適切であると思われます。
というのも今後の研究によっては排斥する必要が出てくるかもしれません。(立場は逆転しますが、拝中律にパラドクスが見つかるとか?)
現在形の表現は暫定的にその態度を保持する時にも用いることができますので、僕は現在形の方が適切であると考えます。
基本的に何らかを排斥するかどうかはその者が向き合う問題、価値によって変化します。
今回のケースは事実の問題ではなく価値の問題に属し(排斥するべき・・)、事実によって価値を問うことができたために直観主義排斥の必要性がなくなったと思われます。
>実際にはヒルベルトはブラウワーに激怒したそうですよ。
当然だと思います。僕もまたヒルベルトの感情に共感することができます。
僕もまたヒルベルト・プログラムの成功に数学的偉業を期待し、ゲーデルの不完全性定理においてショックを受けた一人です。
しかし、激怒した時に取る手法においてヒルベルトは間違いを犯していたのでしょう。(僕もまた間違いを犯していました)
激怒した相手を論理的に殺す必要性はないのです。
もちろん自らを論理的に正当化する必要性もないのです。
313 :
ロニー:03/07/26 14:18 ID:JDa873JI
続き
>これはディベート的ですね。
>これは「神のみぞ知る」わけですが、そこを議論の対象にするのは科学ではないですね。
そうとも限らないと思います。
というのも、科学においてすらその決定性は証明することができないからです。
(これは僕と亡霊氏、チキンリキン氏との議論を見ると分かりやすいと思われます)
もちろん科学には一つの性質があります。それは経験的な観察、実験を批判の手段として用いるということです。
しかし、科学の合理性の本質はこの「それが間違っている可能性がありながら、それと両立不可能な事例が見つかってない」という点にあります。
多くの実験による吟味で仮説の内容を問い(1)、その中で最も実験を耐えたものを正しい理論として採用する(2)。
これが科学的営為とそれが信頼に値する理由であり、(1)と(2)は異なるレベルの問題となります。
これは「演繹論理は論理として問題ないが、帰納論理は存在しない」というポパーの主張に沿ってなされています。
科学者が数学や統計を使用する時に行う作業は演繹であって決して帰納ではありません。
科学者が言う「客観」とは端的に言えば「自己批判的な視点」です。(自らの主張とは逆向きの主観的な視点)
ジェンダー論や多くの社会学者は「主観を取り除いた視点」を客観的視点と勘違いしているのです。
それゆえに数字や統計がそのまま理論を正当化するというありえもしない幻想を抱いているのです。
(ジェンダー論者の理論は統計と数字だけで内容がないことが多々あります。数字以上のものを語ると客観的ではなくなると考えているのでしょう)
僕は次のように結論づけたいと思います。
ジェンダー論者が欠いているものは「客観的視点」すなわち「自己批判的な態度」である。
>
>>289のロニーさんの書き込みを見て思ったのですが、
>「認知、知覚、感覚を混ぜて考えているのでは」と思いました。
そうかもしれません。
ただ僕が思うのは、記号は媒介するものであって仮説世界を隠喩する以上のことはできないだろう、ということです。
問題を整理する重要性は感じますが、それ以上のものを期待すべきではないと考えます。
314 :
ロニー:03/07/26 14:24 ID:JDa873JI
>つまり、中立的な解法があったわけです。
>これに関しては、7月末から8月にかけてここに書き込んでおく予定です(今忙しいので)。
期待しております。
読むのは2ヶ月後になりそうですが。
>チキンリキン氏
僕の方もレスが遅くなってごめんなさい。
今回でしばらく書き込みができなくなると思われます。
そのために議論も何らかの結論を出して落ち着く方向に向かわせたいと思います。
僕自身一つの主張を言うことで区切りをつけようと思いますが、そのためにはチキンリキン氏の文章を恣意的に曲解する面も出てくるかもしれません。
多くの想像を含めてチキンリキン氏の理論を定式化しかねないと思います。(おそらくそのような誤りをおかしてしまうでしょう)
ご容赦ください。
315 :
ロニー:03/07/26 14:37 ID:JDa873JI
>チキンリキン氏
>>295 >私は議論ができないと主張した覚えはありません
>むしろ私の主張は、「議論が成立しているのは、議論のルールを共有しているからだ」
>といっているも同然であると非難されるべきものであると思います
ということはチキンリキン氏は議論が成立している時には論理的アルゴリズムに同意が得られているからだとお考えになっているわけですね。
では、その議論が論理によって排除しているものとは何なのでしょうか。・・・
>ルールが共有できないのであれば、宇宙人であろうと地球人であろうと
>議論は成立しないでしょう
>これは、ロニーさんが以前提示した「同じ」という性質と
>似ていると考えています
「同じ記号形式を使用すること」と「論理的アルゴリズム」に相似の関係がある。・・・
>>307 >論理的アルゴリズム
説明ありがとうございます。
論理的アルゴリズムに関しては理解できたと思います。
バートリーは議論において最小論理は必須であると主張したと以前書きましたが、
チキンリキン氏も(チキンリキン氏自身の)議論において論理が必須であるということ、
そして(自らへの論理の適用を拒否する者の)議論にとっては別の論理的アルゴリズムが必須であるということと思われます。
これはバートリーのCCRテーゼの意義に沿う面となりますので、非常に好ましい問題と考えます。
316 :
ロニー:03/07/26 15:04 ID:JDa873JI
>>296 >にたいしては「できる、できないは立証不可能ではないでしょうか?」とレス
>するのが適当かもしれません
>少なくとも、私にはどのように立証したものか思いつけませんでした
少なくとも「同じ問題を共有できない関係」を指摘することはできます。(それが間違ってもいいのならば)
その上で「同じ問題を共有できない関係」を指摘するならば、
僕は「通訳不可能な関係」を指摘されれば自らの理論に誤りの烙印を押しましょう。
さらに純粋な私的言語の存在を指摘されれば自らの理論に誤りの烙印を押しましょう。
これらは「問題」ではなく「記号」「同じ」に関わってきますが「同じ」を共有できない限り「問題」も共有できないと僕は考えますので、
そのような関係を指摘することで僕の主張を批判することができます。
317 :
ロニー:03/07/26 15:12 ID:JDa873JI
>>296 >トリヴィアル
>に対して、トリヴィアルであるかないかの価値判断の基準については
>なにも語っていないということを指摘したかったのです
>そしてその基準を決めるのは難しいとも
トリヴィアルかどうかの判断基準は、「その補助仮説の導入の根拠が当の実験以外によるものかどうか」で判断することができます。
当の実験だけであるならばトートロジーとなりトリヴィアルなものとなります。
さらに、トリヴィアルな例には反するがアド・ホックと呼ばれる事例においては、
A理由付けが因果律に即しているかどうか(これは思考の形式として因果律を必要とするため)
B物理学ならば直接的な連鎖があるかどうか(「オッカムのかみそり」安易に形而上学的実体を増やすなかれ)
Cそして問題となるものに即しているかどうか(安易に「本質」などという言葉で逃げたり、具体的な詰めの作業から逃げたりしない)
というのがそれらの判断基準となるでしょう。
318 :
ロニー:03/07/26 15:12 ID:JDa873JI
Cにおける例はニュートンの月の観察とそれと反するアリストテレス学派の例を挙げることができます。
アリストテレス学派の主張は「月は完全な球形である」と主張するために、「月の表面に観察不可能な物質が満ちているため月は完全な球である」という補助仮説を導入したことでした。
それは自らの主張を保護する以上の目的を持たないものです。
Bにおける例はニュートンの苦悩を指摘することにします。
ニュートンは自ら「引力」の存在を主張した時にその魔術的存在に自分の狂気を疑ったと言います。
もちろんこのような「離れている間に直接作用する力」はアインシュタインによって反駁されたのですが、
「形而上学的実体は必要がない限り導入すべきではない」というオッカムのかみそりが常に科学者を見張っています。
ここにおける「必要」とは「そのような実体を用いずに説明する手段を持たない時に限ってそれを唯名的に定義することで使用可能」というものになります。
これ以外にもあるでしょうが、問題に即していない、ある理論を保持するためだけに導入されるものでしょうから判断は難しくないと思われます。
具体的に何らかの主観が入った上での意味ある仮説である限り、それらは吟味にかけられうる資格をもつでしょうし、
そのような仮説で、かつ反証に耐えられるものを見つけ出すことは簡単ではないと思います。
これはニュートン力学における水星の公転周期運動のズレを解決した補助仮説を誰も挙げなかったということを例にとることができるでしょう。
それは現実に難しいでしょうし、口先以上のものを問われるならば、少なくとも僕は実行するより理論を破棄する方を選びます。
319 :
ロニー:03/07/26 15:35 ID:JDa873JI
>>296 >ここは良く解りませんでした
>なぜ?を問うた言葉に対してYesと返した意図は
>どこにあるのでしょうか
これは僕が少しかっこつけたために返ってややこしくしてしまいましたね。
もとは
>>237,チキンリキン氏の
>>結果として訂正されたときに、しかも準備ができていた、と過去系での言及をせざるをえません
という文章です。
僕はこれを見てチキンリキン氏に先導されている気がして「答えがすでに分かっているのではないか?」と返したのですが、
「過去形での言及以外の方法はないのか?」というのがチキンリキン氏の質問となります。
ですから、「未来形で語ることはなぜいけないのか?」という問いがあり、僕の答えは「いけなくない、未来形で語ればよい」となります。(反語表現)
そして未来形で語るとはまさに自らを批判に開くことであり反証可能性と同じ意味ですから、
「Yes.(あなたのご想像どおり)僕の答えは反証可能性です。」と答えたというわけです。
>>297 >しかし、突然変異の制御をする遺伝子についての言及は
>「利己的な遺伝子」のなかにもあったように思います
僕は「自己同一性」の存在を否定していません。「自己同一性」を絶対視することを批判しているのです。
これは「突然変異を制御する遺伝子(確か因子だったと思います)」が変異するかどうかという問題となると思われます。
僕は「突然変異を制御する因子ですら変異を免れ得ることはできない」と主張します。
320 :
ロニー:03/07/26 15:50 ID:JDa873JI
>>297 >仮定を実在であると考えることは、私にはできませんでした
>以前ロニーさんは、「真理は理論と世界の一致」と主張していた
>記憶があります
>私は実在という概念は世界という概念に近いと解釈していましたが
>この解釈でもよろしいのでしょうか?
これに関しては僕に全面的に非があります。
これは僕がチキンリキン氏との対話を通じて自らの誤りに気づき修正した箇所です。
前スレにおける修正に入ってます。
「僕は理論と世界の一致が仮説演繹法によって最終的に達成されると主張しましたが、その信仰に気づかされた」
と書いてあるはずです。
「実在」に関してはチキンリキン氏の解釈で問題なく、僕は少しチャカしたようなものです。
というのも数学的実在を例にとるならば
我々の認識の外に数学的実在は無いにも関わらず、僕は「数学的実在は存在する」と主張しているからです。
理論と外の世界(実在世界と呼びましょう)は完全に一致させることは不可能です。
数学的実在や、面積の無い点は、この理論の世界に客観的存在として実在するものです。
僕は仮説実在論を主張することにより異なる2つの世界に同じ「実在」という名称を与えてしまっていました。
そのために生じた混同を使って意図的に議論にショックを与えたということです。
>「自分に有用であれば真理である」という合意がなされている法廷でならば
>そのような主張は認められるということになります。
それは有用ではあるのでしょうか?
321 :
ロニー:03/07/26 16:02 ID:JDa873JI
>>298 この問題はバートリーが扱っている問題です。
そして非正当化主義がその存在意義を大きく発揮する問題です。
>ここで私が独我論者かどうかが問題になるとは思いません
>私の主張は、他人への影響が認められないのに内心の自由を
>奪う必要がどこにあるのか?というものです
ちょっと待ってください。
僕は他人への影響が認められたとしても内心の自由を奪うべきではないと考えております。
>いかに危険な考え方であっても、それが個人に留まる限り問題も個人に留まります
>それを矯正する、若しくは議論へと促す必要性が
>見出せないのです
矯正とはいかなる行為を言うのでしょうか?
僕は以前に次のような主張をしたはずです。
・いかなる者でも信仰の自由は認められるべきである。
チキンリキン氏は僕の主張が信仰の自由を認めていないと感じたのでしょうか?
まさに問題はここにあります。
これは「合理性と信仰の問題」と呼ばれる問題であり、非正当化主義はこの問題の解決のために提出されたものです。
そして、その内容には理解を示していただいたチキンリキン氏が非正当化主義を保持しないだろうというのは
非正当化主義のこの側面にあると思われます。
と言うのも、非正当化主義は提出と共に非合理主義を大きく批判し、
「相対主義を批判するために産まれた」と揶揄されるほどのものであるからです。
322 :
ロニー:03/07/26 16:12 ID:JDa873JI
>298
>私には科学者といえる存在が身内に一人いますが
>この件に関してはロニーさんの立場に同意しないでしょう
先にこの点に触れておきます。
チキンリキン氏が僕のいかなる立場を問題視しているかは分かりませんが、
おそらくポパーですら僕の立場には同意しないでしょう。
なぜならば、ポパーは「合理主義の非合理性」を主張し、合理主義そのものを非合理主義との間で議論することはできないと言ったからです。
しかし、本当にそうでしょうか?
端的に答えるならばポパーのこの意見はポパー自身の主張とズレています。
その科学者やポパーが僕の言葉に同意しないのは、彼らは合理主義を信仰しているからです。
自らの立場に信仰を与え、問いをもつことを怠っているのです。
厳しいことを言うならば、チキンリキン氏の親族が僕に同意しないのは、科学者として自らの権威を問うのを放棄しているからです。
もし彼が「科学者は自らの権威を疑わないものだ」と言うのならばそれもいいでしょう。
例え科学者の権威を失ったとしても、合理主義者が自らの合理性の権威を批判的に問うてはならない理由はありません。
ポパーはこの論争を通じて、自らの主張を撤回し、合理主義を合理的に選択できるとしました。
それは次のような可能性を示唆します。
・非合理主義を合理的に選択することができる。
323 :
ロニー:03/07/26 16:24 ID:JDa873JI
僕が合理主義であるか、もしくは非合理主義であるか、それは僕が決めることです。
では誰かが「お前は非合理主義になれ」と矯正されたとしましょう。
僕がいかに「非合理主義」のレッテルを張られ非合理主義として扱われようとも、僕が合理主義の立場をとることを変えることはできません。
事実と価値の二元論に立つ限り、いかなる価値も事実によって打倒することができないのです。
そして主義の選択は事実ではなく価値になります。
チキンリキン氏は「理論が事実としてどうか」という点と「価値として何を選択するか」という点を混同しているのです。
それは僕が
>>313で例に挙げた科学の方法の(1)と(2)が異なる問題であるにも関わらずそれを混同しているということです。
これは次のような例で指摘することができます。
「宗教上の理由により輸血を受けない行為」いかに死の危険性を説こうともその選択を矯正することはできません
いえ、それどころか、「人を殺す行為」これもまたいかに法を規制しようともその選択を矯正することはできません
個々人の選択はいかなる事実からも導くことはできないのです。
いかなる言葉からも、いかなる規範からも、そしていかなる事実からも価値を導くことはできません。
我々は「不可能な行為をとるべきである」という一つの価値ですら不合理ながらも選択可能なのです。(デリダの例)
不可能性ですら価値を打破することはできません。
我々は個人の行為を矯正することは不可能なのです。
324 :
ロニー:03/07/26 16:36 ID:JDa873JI
このような思考は実存主義と呼ばれます。
ポパーも実存主義が正しいことは認めています。
しかし、ポパーは実存主義を正しすぎるために意味が無いと答えています。
意味あることとは思考することです。
合理主義とは何かの選択を意味しません。
我々が現実に生きてその中で何らかの選択を行う時、そこには賭けがあります。
我々は賭けねばならない。賭けとは非合理的なものです。
例をとりましょう。
僕がカップラーメンをつくるためにお湯を沸かそうとします。
やかんの中に入った水、これをガスコンロにかけるか、冷凍庫に入れるか、
どちらを選択するにせよ、それらは賭けであり非合理的なものです。
「やかんを冷凍庫に入れて湯が沸くか!」そう言い放つ人もいるでしょう。
僕の答えはこうです。「その可能性を否定することはできない」(熱力学では本当に否定できません。)
しかし、どちらが正しいかどうかを合理的に思考することは可能です。
我々は予測をします。予測によって事実を吟味し自らの選択に責任を与えることができるのです。(「予測の意義」)
我々はやかんを火にかける方がお湯が沸くと考えるに十分な合理的理由をもっています。
それでも、僕が湯をわかすためにやかんを冷凍庫に入れてはならないとはなりません。
その可能性は否定できないからです。
325 :
ロニー:03/07/26 16:54 ID:JDa873JI
我々は、行為ではなく、議論として対象を批判にかけ吟味することでそのものを問うことができます。
もし、選択における合理性を無視するならば、
合理性と信仰の違いは議論を行ったうえでそれを保持するか、議論を行わずにそれを保持するかという違いになります。
さて、本題に入りましょう。
問題は一点に集約されます。
信仰主義「議論を行わずに自らの主張を保持しようとする独断主義」と合理主義との間で議論可能かどうかと言う点です。
議論可能であるならば、合理主義に関して信仰主義と合理主義が議論を行うことは可能であり
議論不可能であるならば、合理主義が信仰主義を批判することはできないとなるでしょう。
ここでカール・オットー・アーペルの超越論的実際論的パラドクスというものを提出することにします。
これは非正当化主義への批判です。
信仰主義は自らの立場を正当化するに「議論をしない」というパフォーマンスに訴えるしかないため、議論できない、というものです。
しかし、この意見は正しいかもしれませんが、論理的ではありません。
超越論実際論的パラドクスは論理的パラドクスを含まないからです。
非正当化主義は合理的に非正当化主義を選択する可能性を認めます。
それは論理にパラドクスが存在する可能性が否定できないように、
合理主義が合理的に考えた後に合理主義を破棄する可能性を否定できないということです。
しかし、現実にそのようなパラドクスなり非合理性が指摘されたわけではありません。
合理主義を批判的に問うためには合理主義と非合理主義という2つの問いのどちらも正当化できないということが必須となります。
我々は問う時においてその選択肢のどちらにも可能性を認めなければならないからです。
チキンリキン氏が僕の立場を正当化できないと批判するまさにそのことが、
僕が非合理主義を批判できる理由になるのです。
そして合理主義、非合理主義というそれぞれのコミットメントから離れて合理主義、非合理主義を問うことができるのです。
326 :
ロニー:03/07/26 17:07 ID:JDa873JI
この件に関しては次のようにまとめます。
・正当化と批判は切り離されるべきである。
・もし、たった一つの事例でも正当化することができるならば、正当化と批判を切り離すことは不可能である。
・我々は合理主義を合理的に吟味してはならないと考える理由は無い
・合理主義を吟味するには非合理主義を吟味する必要がある
・チキンリキン氏は批判と正当化を区別できないと考える点において正当化主義的思考をしている。
・信仰主義とは論理に縛られない者であり、合理主義は論理に縛られる者であるが、
論理にパラドクスが含まれている可能性があるという、論理ですら正当化できないという事実により
論理的に論理に縛られないことが合理的であることを説くことは可能である。
・ゆえに、合理主義者と非合理主義者は議論可能であり、合理主義は非合理主義を批判可能である。
327 :
ロニー:03/07/26 17:23 ID:JDa873JI
>>326 修正します
→・ゆえに、合理主義者と非合理主義者は議論可能であり、合理主義は非合理主義を合理的に批判可能である。
この非正当化主義が、亡霊氏との対話で僕が触れた件
「議論を行わないことを主張する者」に関しては対応できるが、
「議論を行わないことを実践する者」に関しては対応する方法がない
という僕の壁につながるものです。
批正当化主義にあるのはいかなるものも正当化できないという一つの仮定です。(正当化が提出されたなら撤回する)
パラダイムを神聖化し、個々人をコミットメントに退却させ、独断的に議論不可能性を主張する者は、
そのような自らの意見を正当化する責任があります。
「あらゆるものは正当化できない」ということから相対主義を導き出すものには「正当化不可能性」を正当化する責任があります。
それらが提出されない限り、我々は議論や批判を通じて合理性や信仰を問うことをやめる理由はありません。
今日は少し疲れたので続きは明日にします。
駆け足でしたが、バートリーの非正当化主義についてポイントをかいつまんで説明できたと思います。
バートリーの非正当化主義が成立しない可能性が多々あって、それらが現実には見つかってはいない、というのが非正当化主義のポイントになりますが、
もし、この非正当化主義を破棄する可能性に興味があるならば、次回(二ヶ月後?)にまとめます。
続きは明日に返答したいと思います。
長文、失礼しました。
めちゃくちゃ忙しいので、特に気になったところだけ・・・。
>>313 >というのも、科学においてすらその決定性は証明することができないからです。
『宗教哲学的思考』
科学においてその決定性が証明できないのならば、
それを科学の中で議論するのは意味がないと言っているのですが・・・。
そういった議論は科学の外で行うのが良いと思います。
例えば、宗教哲学的に思考することが考えられます(これはアイロニーではないです)。
『近代から現代科学へ』
論理にパラドクスが含まれているかどうかを科学的に見ることができるのでしょうか?
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」としか言えないのでは?
だからと言って、科学者がこれまでにこう言ったことを問題にしなかったわけでもないですが。
現代科学では、いろいろな分野で全数調査は行われていますが、
全数調査がこの問題を解決するわけでもないでしょう。
厳密性なんてどこまでいっても、人間が理想とする厳密性ではないのですよ。
だからこそ、現代の科学者たちは観測されたものだけを議論の対象とし、
理論の範囲の限定を行っているのでしょう(それと同時に統一理論的なものも研究されていますが)。
『結論』
歴史的に見ても遥か昔から、こういったことは度々議論されてきました。
現代科学では、このことについて、その内部において既に結論が出ています。
329 :
名無しさん 〜君の性差〜:03/07/27 19:06 ID:2MyPkGMk
>燕雀氏
>『宗教哲学的思考』
このような思考(科学の境界設定問題)は宗教哲学ではなく科学哲学になります。
しかし科学の範囲内であるかどうかはまったく問題ではないでしょう。
というのもこの問題には「我々はなぜ科学的知識を正しいと考えるのか」という問題が隠れています。
そしてこれが「合理性と信仰」の問題なのです。
科学の境界設定問題には二重の問題があり、バートリーはこれを指摘してポパーとの論争を起こしたのです。(ポパーの指摘は経験や観察に対するものだけであった)
僕がチキンリキン氏との間で行っている論争も同じ問題を扱っています。
>論理にパラドクスが含まれているかどうかを科学的に見ることができるのでしょうか?
>「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」としか言えないのでは?
1、「論理にパラドクスが含まれているかどうか」は科学が扱う問題ではない
2、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という答えは科学の扱うすべての問題において言えるものでなければならない。
なぜならば、<それが科学の問題の境界であるからです。>(強調)
もし、そうでないものが一つでもあったならば、それは批判的合理主義のとる科学に対する見解を否定することができます。
>だからこそ、現代の科学者たちは観測されたものだけを議論の対象とし、
>理論の範囲の限定を行っているのでしょう(それと同時に統一理論的なものも研究されていますが)。
違います、科学の範囲の限定は「観測によって反証されうるもの」という限定です。
「観測されたもの」という限定を科学において成立させることはできません。
これは哲学の段階で言う、「合理主義対経験主義」という一つの問題を含んでいます。
330 :
ロニー:03/07/27 19:07 ID:2MyPkGMk
この問題は知識論に対する一つの論争に由来しています。
「知識とは、経験から得るものか、経験に先んじるものがあるのか」という論争です。
前者が経験主義であり、後者が合理主義です。
そして経験主義はクワインによりその信仰を指摘されています。
経験主義的な科学にはそれを正しいと扱う理由がまったくありません。
というのも、経験主義とは主観主義的な知識観に由来し、主観主義的な知識論は必ず失敗するからです。
彼らは失敗を回避するために議論を放棄するのです。
合理主義とは、経験に先んじる先験的な要素があるとする立場です。(もちろんその要素も絶対ではない)
その先験的要素とは理論であり問題です。
科学者は観察の前に理論をもっています。
そして観察で理論を吟味するのです。
これは科学史を見ていただければ分かりますが、科学者の多くは観察以上のことを言っています。
彼らは理論を先に展開した上で観察によってそれを修正するのです。
であるがゆえに、観察によって理論を修正できないものは科学の扱う問題ではないと相手にしないのです。
失礼、名前を入れ忘れました
331 :
ロニー:03/07/27 19:31 ID:2MyPkGMk
まとめます。
科学は絶対的な答えを出す必要はありません。
はなから、科学は絶対的な答えを求めておりません。
そのような絶対的な答えを求める限り、科学的営為を尊重する精神は腐敗するだけでしょう。
ここまでが、ポパーの科学哲学の理論ですが、これには続きがあります。
・科学を尊重しない人に対して科学はどのような態度をとるのか、ということです。
(ポパーは、それはそれぞれの信仰に退去するだけであるから議論できない、という立場をとっていました)
これに対して、科学は相手にしないという方法をとるのならば、それは権威主義への後退です。
マッハが、アインシュタインが、最も嫌悪した科学への後退です。
しかし、科学は科学自身を批判的に問うことができます。
つまり議論できるということです。
僕の回答はここまです。
それは議論可能であり、批判可能である。
おそらく批判者はこう言うでしょう。
「それに結論を出すことはできない、ゆえに議論不可能である。」
しかし、「論理的に結論を出すことができない」という事実(「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という問題)は、
議論可能であることを意味します。
なぜならば、論理的に結論可能である問題を議論することはできないからです。
そして、合理主義は議論可能でなければなりません。(これが科学、引いては合理主義の限界です。)
332 :
ロニー:03/07/27 19:57 ID:2MyPkGMk
・なぜ、このような問題の混同が起きるのか、
それは二つの異なるレベルの問題を混同しているのでしょう。
我々が、「とりあえず結論を出す」という行為と、「論理的に結論を出す」という行為を同じレベルに見ているのです。
論理によって我々は何らかの問題に対して吟味し(第一の階層)、多くの理論の中から一番適切なものを選びとるのです。(第二の階層)
第二の階層は選択であるため、個々人の信仰レベルになります。
それでも、科学者という社会的な集団は最も吟味に耐えたものを選びとるでしょう。
世界に対して説明不足な理論が、説明できる理論よりも正しいと考えるのは、あまりにも不合理だからです。
(個人が説明不足な理論を保持し改良しつづけることは問題ない)
・第二の階層における合理性の意義
批判者は次のような批判を行うかもしれません
「第二の階層において、個々人が自分の好きな理論を保持できるならば、科学者集団が合理的な選択をする必要はない」
このような批判は問題を見失っています。
というのも、科学の問題は結論を出すことではないからです。
科学の問題は理論を改善することであり、第二の階層における選択の合理性がなければ、誰も自らの理論を改善しないでしょう。
第二の階層における選択の合理性は、科学者が自らの理論を改善しようとするために生じる傾向であり、規範であるわけです。
コペルニクスの例をとりましょう。
コペルニクスが最初に地動説を発表したとき、それは一般的な観察とも整合しないし運動法則の体系化もなされていないものでした。
それは科学としての吟味に耐えられるものではありませんでした。
別の科学者(名前は忘れました)がそれを体系化して多くの批判に耐えられるものとしたとき、地動説は天動説よりも合理的なものとして選択されたのです。
相対主義者はこの事実を指してこう言います。
「地動説という現在では正しい仮説でさえ、権力や権威の前には通じなかった。正しさというものはその時代、その地域によってかわるものだ。」
そして相対主義は自分勝手な理論をつくり(ここまではいいでしょう)、それを吟味にかけずに信仰するのです。(ここが科学的ではありません)
あまつさえ、議論しないことを正当化し開き直るのです。(僕が批判しているのはここです)
333 :
ロニー:03/07/27 20:20 ID:2MyPkGMk
科学について端的に言います。
・科学の本質とは何か、(「本質」という言葉は誤解を招きやすいですが、端的に表現するには適しています)
それは議論である。そして科学は観察を議論の中心に据えているものである。
断じて、科学の本質が観察にあるわけではない。
僕が科学的知識を正しいと信じる理由は、
科学的知識が絶対に正しいからではありません。
むしろ、科学的知識は間違っているかもしれない。(それは推測知の域を越えない)
それでもなお科学的知識を正しいと信じるのは、科学のもつ議論を行うという伝統を信頼しているからです。
そして科学のもつ伝統はそれが批判的議論を行うという合理主義的伝統だからである。
もっとも、これは「古典的見解」というレッテルを貼られるだけでしょう。
というのも、知の専門分化という名のもとに、各個人を各分野へと退去させる思考が蔓延しているからです。
ある者はコミットメントの内部では専門家であるが、その外では非専門家であるということです。
そのような見解は個人をコミットメントへと強制的に退去させ、自由な議論を腐敗させるだけのイデオロギーです。
客観知の腐敗を促進させることはあっても、決して客観知の探求には貢献しないでしょう。
334 :
ロニー:03/07/27 20:42 ID:2MyPkGMk
>チキンリキン氏
>>299 >「狂気」や「正気」(に限りませんが)の概念は相互に依存しあう関係にあると思います
>それは「表」と「裏」の関係に似ているでしょう243を「表」と「裏」で言い換えるとこうなります
ええ、それには同意します。(僕は絶対主義ではありません、相対原理を信じるという意味では相対主義です)
ならばチキンリキン氏の誤解を解くために僕は自分の見解をこう言いましょう。
僕はそのような表裏の関係のどちらかを排除しようとは考えていないし、そのような主張もしていない。
しかし、「良い」と「悪い」を我々が判断できるように、表裏一体であることは同一であることを意味しない。
>私は概念の相互依存について述べたつもりでしたが
>言葉狩りであるという批判を受け入れるためには
僕は意味として語ったのに対し、言葉に対する批判を受けたために、そう言ったまでです。
言語の限界≠認識の限界≠存在の限界、僕はそう主張することにしましょう。
>議論の可能性とそのことを欲しない人間に議論を強制
>するということは問題が違うと思います
そのことを欲しない人間に議論を強制するとはどのような行為を言うのでしょうか?
非正当化主義が問題とするのはまさにこの部分です。
僕にはチキンリキン氏が個々人をそれぞれの信仰へと強制的に退去させているように思えます。
僕が「議論をしろ」という命令をしたということでしょうか?
>>合理主義は、自らの間違いを発見し、修正するために議論を望んでいるのです。
>このことは支持しますし、私もそうありたいとは望むのですけれども
そして、合理主義自体を合理的に問うことは可能です。
また、合理主義を合理的に問う際には合理主義と非合理主義の両方を批判にかけねばなりません。
また、ポパーが合理主義の一番の方法は、相手を批判することであり相手から批判されることだ、という通り
非合理主義を批判することは合理主義を問う最良の方法です。
>何も言わないよりもマシということで、ほっとしました
「理論は観察に先行する」というのはポパーの言葉です。
何かを言わねば吟味したり改善することはできません。
335 :
ロニー:03/07/27 20:57 ID:2MyPkGMk
>チキンリキン氏の科学観
>>301 チキンリキン氏の科学観には両立不可能な要因があります。
それは物質が完全なランダムであるならば、予測、制御不可能という自体を起こすからです。
ですからチキンリキン氏は、A完全な決定論、B不完全な決定論/非決定論、のどちらかの立場をとることになると思われます。
チキンリキン氏は
>そしてこのことにより、目標により正確に着弾させることが
>可能になるという有用性があるのです
と言ってることからするならば、おそらくはA完全な決定論の立場をとることになるでしょう。
B不完全な決定論の立場をとると、「科学は有用性の目的を果たすことはできない」という結論を出すからです。
完全な決定論以外は不合理な科学信仰の立場をとることになってしまいます。
>私の立場は実在を問題にしないというものです
>私は、私を取り巻く世界を上手に説明していて有用だと思うものを支持します
僕はチキンリキン氏が支持するものについて議論することはできません。
しかし予測、制御可能性を科学と見るならば、量子問題以降はどうも科学の範疇外になりそうですね。
科学史では、「予測こそ科学である」と考える科学者集団が、
予測の限界を前に「物理学は終わった」という排斥を行った過去があります。
これは決定論や傾向性の問題と関連するので、チキンリキン氏と議論したいテーマです。
336 :
ロニー:03/07/27 21:17 ID:2MyPkGMk
時間がないので足早に
>囚人のディレンマ
>できれば何故ミスなのか説明をお願いしたいです
これは僕の設定のミスではありませんよ。
>>244における>これを何回か行い、最も総得点の高い者を勝者とする
が問題です。
この「囚人のディレンマ」は他人との競争に勝つプログラムを求めるとディレンマに陥るのです。
理由は簡単です。
「協力」は相手との競争に勝てないカードだからです。(「協力」を出す限り相手との競争に勝つことはできません)
僕が出したスレでも、僕は一度も「相手より優位になるプログラム」を質問していません。
僕は「取りうる手段の中で最も利益を最大限にあげるプログラムは何か」と質問しています。
今気づいたのですが、チキンリキン氏は複数回行うという実験を、多くのプログラムで複数回行い最も利益の高いプログラムを勝者とするということでしょうか?
ならばディレンマは生じません。
これは「選択の合理性」と同じで、どのプログラムが最適かという問題だからです。
>こちらは、相手にたいする最初のカードを常に協力で固定
>するということでした
なるほど、ならば論理的には問題ないでしょうね。
しかし実験ではうまくいかないでしょう。(そういう報告があります)
このようなプログラムを行うと、ゲームに参加した全員が「裏切り」を出すという最悪の状況が生じる傾向にあります。
原因はどこにあるのでしょうか、
僕はこう考えます。
チキンリキン氏のプログラム(以下、応報プログラムと命名)は、
相手に裏切りのカードを出させずに協力のカードを出させるような方向性がない。
このゲームは相手のカードにより自分の利益が変動します。
相手が裏切りのカードを出す限り自分の利益は見込めません。
このゲームは相手のカードからいかに「裏切り」のカードを出させないかということにポイントがあるのではないか。
337 :
ロニー:03/07/27 21:33 ID:2MyPkGMk
>>304 >共感
チキンリキン氏の「共感」についてとてもよく理解できたと思います。
>私は共感は感情移入できるということだと思います
>ロニーさんは相対主義的立場に何の共感も持ち得ない
>と主張しているのでしょうか
僕の言語感覚においては、僕は相対主義に共感することはできません。
しかし、相対主義を理解することはできます。
また、議論において理解が必要条件であるとは考えておりません。
なぜならば、議論自体が相互理解を深めるという結果をもたらすことがあるからです。
議論はむしろ理解の十分条件でしょう。
>同じ議論のテーブルにつく行為が共感に基づいていないといえるのか?ということです
チキンリキン氏が「『共感』とは議論のテーブルにつく者が必ずもっているものである」と定義するならば、言えないでしょう。
しかし僕は相対主義に共感をもっていませんし、議論において共感が必要だとも考えておりません。
これは僕が主観主義的立場を取らないためと思われます。
>そしてこれは、普遍的なルールの設定とレッテル貼りを
>同じに扱うべきだとの主張でしょうか?
「べき」との主張ではなく、「違いはない」という事実の主張です。
僕にはそこに何の違いも感じません。
レッテル貼りも定義も同じようなものです。名前だけの問題だからです。
ましてや「普遍的ルール」といえども字以上のものを記号にのせることはできないと思います。
レッテルを貼ることにはさほど問題がないと僕は思います。
彼がレッテルを貼ることで消費者の目をごまかそうと考えるならば問題がありますが。
レッテルを貼った後に彼がどう論じるかが問題であり、何をどう呼ぶかはまったく問題がないことです。
これは僕とチキンリキン氏との間での言語観に相違があるためと思われます。
338 :
ロニー:03/07/27 21:38 ID:2MyPkGMk
>フレームワークと言語
僕は言語フレームワーク問題において同じ言語フレームを持つ人間がいるとは思いません。
まったく違うとも思いませんが。
失礼、時間がなくてこれ以上はレスができそうにありません。
次回は10月になると思われますので、議論の途中で間があいてしまうのは残念なことです。
長文失礼しました。
今回は極めて2ch的に短く行きます
(それでも2ch的には長いレスです。事実、私は2chにおいて、1文字で返すこともあります)。
理由は多忙のためです。
>>329 >違います、科学の範囲の限定は「観測によって反証されうるもの」という限定です。
限定の意味が違います。よく考えてください。
>ロニーさん
そろそろ、科学的方法論についてはまとめにかかっても良いかと思います。
その際には、参考文献の列挙をお願いしたいと思います
(以降これをこのスレのルールにしたいと思います)。
>>330 >「知識とは、経験から得るものか、経験に先んじるものがあるのか」
知識は経験から得るものです。知識でないものは経験以外からも得られます。
経験以外から得られたものはやがて知識となります。
ロニーさんが私と共通の科学的認識を持っていない以上、
このことに関しての議論は意味がないでしょう。
認知科学や知覚心理学、脳科学などの勉強をお勧めします。
もっとも、このことに関して教科書等に書かれている以上の議論が展開されることが予測されますので、
私が掲示板レベルで言えるのはここまでです。
>これは科学史を見ていただければ分かりますが、科学者の多くは観察以上のことを言っています。
知っていますよ。私も科学史は少し勉強しましたので。
まあ、科学史を勉強するまでもなくわかることなのですが。
>おそらく批判者はこう言うでしょう。
「それに結論を出すことはできない、ゆえに議論不可能である。」
失礼ですが、文がちょっとおかしくないですか?
「それに結論を出すことはできない、ゆえに議論の意味がない。」ならわかりますが。
こういった指摘は「くだらない」と思われるかもしれませんが、
言葉の選択はとても重要であると思います。実際、上記の2つの文では意味が180度異なります。
そもそも、議論不可能なものなんてあるのでしょうか?
無限にループするような話題は無意味ということは聞きますが、
それは議論不可能であることを意味するものではないことは明らかです。
>>332 >別の科学者(名前は忘れました)がそれを体系化して多くの批判に耐えられるものとしたとき、地動説は天動説よりも合理的なものとして選択されたのです。
これはケプラーの仕事です。
>>329-333を読んでみて、
ロニーさんは何か都合の良い敵を自己の中に創り出してしまっていると感じました。
事実、ロニーさんの私へのレスは、まったく的を得ていないです。
だから、
>>329-333については、書くことがほとんどありません
私はロニーさんとは若干違った意見を持っていますが、
ほとんど同意であると思ってもらってかまいません。
>>312-313については、後日に。
342 :
ロニー:03/07/31 18:10 ID:8B9V30YW
>燕雀氏
今日はあいさつだけですませるつもりでしたが、まさかレスをすることになるとは思いませんでした。
>知識は経験から得るものです。知識でないものは経験以外からも得られます。
知識とは経験のみから得ることはできるでしょうか?(「のみ」という語を付け忘れた不注意は謝ります)
経験のみから知識を得ることはできません。経験は主観的なものだからです。そして知識は客観的なものです。
主観的なものから客観的なものを導くことはできません。
>認知科学や知覚心理学、脳科学などの勉強をお勧めします。
認知科学は研究するにはとても素晴らしい分野だと思いますよ。
しかしこの議論においてはまったく必要ありません。
これは問題を整理すればわかります。
学者の仕事の半分は問題を整理することです。(問題を整理できない科学者は三流科学者です。)
僕は燕雀氏にこの問題を整理することをおすすめします。
論理的に問題を整理してみてください。
必ず価値に対する問題が2つ以上入るはずです。
−無駄口−
つまりウィトゲンシュタインは三流でラッセルは一流ということです。
『論理哲学論考』は「ラッセルの序文」を読むだけで8割読んだようなものだということです。
343 :
ロニー:03/07/31 18:14 ID:8B9V30YW
>「それに結論を出すことはできない、ゆえに議論の意味がない。」ならわかりますが。
>・・・無限にループするような話題は無意味ということは聞きますが・・・
その言明を言う人間は哲学者には一人もいません。科学者でも少ないでしょう。
「それに結論を出すことはできない」は事実命題であり、「議論の意味がない」は当為命題です。
事実から当為を導くことはできません。
このまったく異なる2つの文章をつないでいるものがなければなりません。
それは「結論を出すことができない議論を行うことは意味がない」という一つの当為命題(価値に対する言及)です。
素朴な相対主義者でもない限り、いきなり価値批判を行う者はいません。
燕雀氏の言いたいことはよく分かりますが問題が飛躍しています。
ここで僕は2つに分類しましょう
A実際的に B論理的に
>A実際的に(アイデンティティー論)
「実際的に結論を出すことができない議論を行うことは意味がない」
そうかもしれません。しかしある議論に対して「現実に結論を出すことができない」と言うことは可能でしょうか。
未来が決定されているか、運命論でもない限り、それを主張することはできません。
それかもしくは「私は絶対に何があってもあなたに反対する」とでも態度をとるかです。
344 :
ロニー:03/07/31 18:15 ID:8B9V30YW
>B論理的に
「論理的に結論を出すことができない議論を行うことは意味がない」
ここでさらに2つに分けましょう
B1、前提がまったくない B2、前提を共有する
>B1前提がまったくない場合
論理的に結論を出すことができる議論はありません、ゆえにすべてに対して意味がないと言ってることになります。
>B2前提を共有する場合
論理的に結論を出すことはできます。
しかし、議論は異なる2つの意見がなければ成立しようがありません。
ですから論理的な人間と論理的でない人間の二種類がいることになります。
もし、片方が論理に縛られるならば、もう片方は非論理的となります。
しかし論理に縛られない人間を論理的に批判することはできるでしょうか。
おそらくできないでしょう。
この問題の相対化こそチキンリキン氏の批判です。
これらすべてを倒す方法があります。
「そもそも論理的に答えを出す必要があるのか」
前提がないならば論理的に答えを出すことはできない、また、前提があるならば出せるが、それは前提への信仰回帰でしかない。
「論理的に答えを出す必要がある」と答える人は
議論によって出た答えを議論に参加した人すべてが受け入れるべきという価値に囚われているのです。
ですからチキンリキン氏は僕の主張を「信仰の自由」に反すると非難したのでしょう。
しかしその必要はありません。
議論はとりあえずの結論を出せばいいだけだからです。
議論が示すのは暫定的な優劣だけでじゅうぶんです。
僕は「論理的に思考すること」と「結論を出すこと」の2つの問題を分離したわけです。
345 :
ロニー:03/07/31 18:15 ID:8B9V30YW
これは科学的知識が暫定的に正しいと扱われるだけということです。
それは将来覆されるかもしれない。(ニュートン力学が覆された今、アインシュタインの一般相対性理論が覆されないと誰が言えるでしょうか)
しかし、将来覆されるかもしれないということは、今現在覆されたことを意味しません。
これをもって「権威主義」と叫ぶ人間が「理論の虚無主義」です。
そして僕は自らの理想像としてアインシュタインを出しましょう。
アインシュタインは一度たりとも自分の理論が正しいとは信じなかった。
彼は(その当時の)ニュートンの理論はアインシュタインの理論よりも劣っていることは確信していたが、
それでもなおアインシュタインは自分の理論の改良に努めたのである。
何らかの結論を求める行為、それは答えを求める行為であり、
「答えが出ない問題=意味がない問題」とする「価値」は
井上氏が「受験生根性」と揶揄した知的探究心に欠けた態度です。
ここでチキンリキン氏の最後の批判がきます。
「知的探求心は私も求めるべきだと思うが、知的探究心を持たない人間を批判することはできない。」(チキンリキン氏は「当為」で語ってますが、これは「論理的に可能」かどうかが問題です。)
つまり、「知的探究心を持つ人間と持たない人間が同じ論理的アルゴリズムの中にいるかどうか」です。
そして「いる」と答えることができるのです。
なぜならば「論理にパラドクスが含まれている可能性があり(a)、まだ見つかってない(b)」からです。
(a)(b)のどちらか一つでも崩れたら、批判できなくなります。
ですから燕雀氏が言った「答えが出ない・・」とは、そうでなければ僕が間違っていることになるということなのです。
僕が燕雀氏の言葉に抵抗したのは、燕雀氏の言葉を肯定すると確かに僕は楽になれるでしょう。
しかし、上野千鶴子を批判することはできなくなるからです。
燕雀氏の言葉を肯定すると僕はチキンリキン氏との議論に敗れるのです。
さらに付け加えるならば、僕は燕雀氏と同じ信仰をもっています。
それを議論にのせていないだけで。
346 :
ロニー:03/07/31 18:33 ID:8B9V30YW
>これはケプラーの仕事です。
ありがとうございます。
僕は本を読んでもすぐその内容を忘れてしまいがちなのです。
調べるのが礼儀なのでしょうし多くの本は自宅にあるので調べるのも簡単なのですが、僕の自宅にはネットがないのです。
>ロニーさんは何か都合の良い敵を自己の中に創り出してしまっていると感じました。
これは「問題と向き合う」という客観主義的な態度です。
「言葉の発する相手と向き合う」という態度をとると、主観主義に。
「言葉のみと向き合う」という態度になると、直観主義に陥るだけです。
二人の人間が同じ場所で独り言をつぶやく光景を見ても僕はそれが議論だとは思わないでしょうね。
また論理的には燕雀氏は超越論的基礎付けを行っていることになります。
これは「証明できない真」に分類されます。(燕雀氏への批判にはならないがチキンリキン氏への批判にはなる)
>事実、ロニーさんの私へのレスは、まったく的を得ていないです。
的を射た発言とは問題を整理してはじめて可能になります。
言葉は解釈次第でいかようにも解釈可能です。
これはポパーが言ったことですが、
問題に対するポパーの返答が的を射ていないと批判する者は、複数の問題を混同したまま整理されていないからだ、というのがあります。
このような僕の言葉はチキンリキン氏がとる立場と非常に似ていますが、僕とチキンリキン氏は決定的に異なります。
その違いは「意味」と「真偽」の区別を行ってるか否かという点です。
347 :
ロニー:03/07/31 18:54 ID:8B9V30YW
>燕雀氏への言葉、個人として
僕は燕雀氏の主張は正しいと思います。
しかし、燕雀氏の立場ではチキンリキン氏との議論に勝てないでしょうし、
フェミニズムについても直観主義についても批判することができないと思います。
汚い表現を使うならば、非合理主義は犬です。
手を出したら噛まれ、引っ込めたら傷を負います。
噛ませた上でさらに手を喉に押し込めてやればいいのです。
348 :
ロニー:03/07/31 19:45 ID:8B9V30YW
僕はこの男女板でこのコテをつけて約一年になります。
当時はフェミ批判のスレがありましたが、
そこにおけるフェミ批判には「常識」とか「客観性」とか言う言葉が使用されてました。
僕は彼らの批判は意味があるものだと考えます。
彼らの批判は純粋に合理主義精神からくるものであり、自己満足のためのものではなかったと考えるからです。
そこでこのような概念について軽く論じてみようと思います。
>常識
僕の尊敬するアインシュタインは「常識を疑え」と常々言ってました。
しかし「常識は尊重されねばならない」とも常々言ってました。
ここで僕は分かりやすくするために「常識」を「常識的思考」と「常識と扱われるもの」に分けようと思います。
この時代において常識と扱われるものが未来に渡っても常識であるとは限りません。
ですから「常識と扱われるものが常識かどうか」ということは考える意味があります。
しかし、常識的思考は変化したでしょうか?確かに常識的思考も変わるかもしれないが、歴史を見るに限っては変化してきたとは言えないでしょう。
健康を嫌い不健康を好む部族を見たことはありませんし、一度も雨が降らなかった雨乞いを信奉する部族も見たことはありません。
フェミニズム、特にその中でも僕が批判する上野千鶴子の理論は(僕の見立てではかなりの勢力をもってますが)、
彼らは「常識的なもの」が遷り変わるのを例にとりながら、「常識的思考」の力を奪おうとしています。
(もっとも、この論理のごまかしは特級レベル、僕の見立てでは彼女は直観主義者です)
当時のスレでの批判者の批判はフェミニズムに対する率直なものだったと思います。
349 :
ロニー:03/07/31 19:46 ID:8B9V30YW
では常識的思考とはどのようなものか、ここで僕は次のように言うことにしましょう。
それは二つの異なるものに優劣をつけることです。
・エベレストと富士山のどちらが高いか、といった問題を例にとりましょう。
ここでポイント
Aエベレストだけを見て「高い」「低い」を言うことはできない、同様に富士山だけを見ても言うことはできない。
Bエベレストと富士山は場所が異なるので直接比較することはできない。
C我々はエベレストと富士山を同時に図る絶対的ものさしをもっていない。
おそらくこういった返答がくるでしょう。
しかし、ものさしなんて何でもいいのです。そこらに落ちている木の枝でいいでしょう。
あとは何でもいいから図ればいいのです。何度でも。
絶対的なものさしを探すことは不毛ですし、ないからと言って「どっちもどっち、答えは出ない」というのはもっと馬鹿げています。
つまり上野千鶴子は基準絶対主義であり、僕は基準相対主義です。
そして基準が絶対であるために上野千鶴子は回答相対主義、
基準が相対的であるために僕は回答合理主義となるのです。
また「真偽」についてはどうなるでしょうか?
上野千鶴子にとっては「真」の否定は「真とは言えない」です。(これは直観主義の答え方、まぁ彼女は答えないでしょうけど)
僕にとっては「真」の否定は「偽」です。
僕は「真偽」を相対的に扱っているのに対し、上野千鶴子は「真偽」を絶対的に扱ってます。
僕は最後にこう聞くことにしましょう。
「誰が絶対思考をもっているか?」
350 :
ロニー:03/07/31 20:17 ID:8B9V30YW
>客観、主観
同じように言われたのが、「フェミニズムの統計と理論が客観的でない」という批判です。
ここでフェミニズムは「私たちは客観を問題にしない」と言います。(もしくは「〜は客観だ」と言う)
彼らは「客観はない」とは言いません。(彼らはそう思ってるが、それを言うことができない立場になる)
ここでも必要なものは「相対的思考」です。
「主観」と「客観」の定義を変えてしまうことをすすめます。
一般には「個人の感覚が入ってること」を「主観」と呼び、「個人の感覚が入ってないこと」を「客観」と呼びます。
この定義は絶対思考的です。
そこで「理論に肯定的な見方」を「理論主観的」、「理論に否定的な見方」を「理論客観的」と勝手に定義してしまいましょう。
これで「理論主観的」と「理論客観的」は相対的なものになりました。
これでフェミニズムの「客観」「主観」に対する言葉上の逃げを封じ込めることができます。
>「価値」の問題、ジレンマとファシズム
事実ではなく価値の問題となった時にフェミニズムは「ジレンマ」を指摘する可能性があります。
フェミニズムの解決したい問題の一つに「ジレンマの解決」があるからです。
もし社会規制に対する問題であるならば、「ジレンマの解決」は答えが一つになることを求めますからファシズムと通じます。
「ジレンマがある」とは「ファシズムでない」ということです。
「ジレンマがない」とは「ファシズムである」ということです。
風刺として「次のファシズムは反ファシズムの名のもとにあらわれる」という言葉があります。
これもフェミへの武器となります。
>自由至上主義
アファーマティブアクションに関しては自由至上主義の名を出すことは避けるべきです。
「至上主義」という言葉は絶対思考によるものなので、裏をかかれてしっぺ返しを食らいます。
自由を求めたいならば名前ではなく理論の中身に注意すべきです。
「自由主義」でも自由競争を主張することはできます。
351 :
ロニー:03/07/31 20:45 ID:8B9V30YW
>価値批判
価値観をそのまま批判することはあまり意味がありません。
道徳的な批判はとても正しいですがあまり意味がないものです。
価値を事実と関連させる作業があります。
「価値」は「未来の事実」という形式をとりますから、
「責任」とは「未来においてそれが回避不可能である」時に問うことはできません。
逆に言えば、回避可能である時には責任を問うことができます。(必ず回避できる必要はない)
これを踏まえればフェミの言葉に惑わされずに価値批判できます。
>個人至上主義
この立場を主張する限り、現状の社会に問題点を指摘できないので何も言えなくなります。
発言させて矛盾点を指摘するのが効果的です。
>ポイント
フェミニズムは相対的思考ができないので、どこに絶対的思考ができているかを見抜くのが第一、
そこを相対的思考に修正する。
それだけで議論にはまず勝てます。
何かを主張する時には「絶対にこう」という立場をとらずに「この選択肢が一番いい」という立場をとること。
あとは常識的思考を重んじること、
これが僕が男女板に残すアドバイスです。
>こんなことを書いた意義
僕はこの板の何人かはこのスレをROMしててくれていると感じています。
それはとても感謝しています。
今日、書いたことは僕なりの置き土産です。
「真理」とか「相対主義」とかは専門的な言葉になってくるので、一般の議論で使用するには向きません。
僕の立場は「知の大衆性、非専門性」にあります。
多くの者が自らの理性に沿って議論をしてくれることを望みます。
言葉は自由に使用してOKです、正確な表現ではなく分かりやすい表現を。
一合理主義者である前に一2ちゃんねらーとして、
352 :
ロニー:03/07/31 20:53 ID:8B9V30YW
最後に、僕のお気に入りのコテに
マンガ狂、江田島平七、東八漏、亡霊、燕雀、西尾、桃華
由美子、ARO、もういないけど、おばちゃん(敬称略)
そしてチキンリキン氏
なんだかんだ言っても僕はあなたのことが気に入ってましたよ。
ありがとうございました。
また会えることを楽しみにしています。
>>313 >そうとも限らないと思います。
そうですか?
私は論理にパラドクスが含まれている可能性があるかもしれないことは否定しませんが、
議論が行われている時点では、それを探す方法は無いと考えていますが。
つまり、議論するだけではパラドクスを見つけることはできないと考えます。
パラドクスを見つけることは証明や検証によってのみ可能だと思いますが。
もちろん、
>>313でロニーさんが言われることは理解できるのですが。
『ジェンダー統計』
ジェンダー統計において特に気になる誤りは、
1.多変数で記述される事象に対し、多変数解析を用いていない。
2.相関と因果の分離が行われていない。つまり、(相関=因果)として扱っている。
3.上記2点により初歩的な統計上の誤りがあまりにも多すぎる。
この三つの点です。
『限定』
>>328にて私が書いたことなのですが、
>だからこそ、現代の科学者たちは観測されたものだけを議論の対象とし、
理論の範囲の限定を行っているのでしょう(それと同時に統一理論的なものも研究されていますが)。
ロニーさんは上記について解答することができなかったようですので、少し説明しておきます。
思いつきや、思い込みで書いたものではないです。事実を記述したものです。
上で述べたことは2つことを1つにまとめたものです。
『観測による限定、即ち、限界』
これは観測機器などによる限界を示します。
これら機器にかからないデータや情報は議論の対象にしようがありません。
つまり、いくら理論を作ろうともその観測方法が出来上がっていなければ、
その理論の検証は行えないことになります。
その理論の検証を行うには観測技術の進歩を待ったりすることも必要でしょうし、
いくら、正しい理論であっても、その理論の検証が行えないのだとしたら、
それは仮説の域を出る理論とはなり得ないでしょう。
『理論の範囲の限定』
これは反例により理論の適用範囲が限定されるものです。
流体力学的事象の例では「ストークス方程式」の例があります。
ストークス方程式では円柱のまわりを流れる遅い流れは記述できません。
これは、方程式の線形化により解の存在が否定されたものです。
その対応には方程式の適用範囲の限定の形で行われました。
>>342 >知識とは経験のみから得ることはできるでしょうか?
ええ、経験のみから得ることもできますが、知識は経験のみで構築されたものではありません。
たぶん、ロニーさんはここが良くわかっていないのだと思います。
>学者の仕事の半分は問題を整理することです。
前にも書きましたが、私は学者ではありませんよ(w
それはいいとして、この議論に直接必要であるかどうかはまったく問題ではありません。
たぶん、この辺りの問題の接点はロニーさんには見えていないのでしょうね。
勉強していないのなら、そういった問題の接点が見えてこなくて当然だと思います。
それだけのことだと思います。わからないなら、わからないでいいと思いますが。
>>276において、ロニーさんは、
『数学は人間の脳の中だけのものです。(正確に表現するならば、人間が共有する仮定世界の内部においてのみ成立するもの)』
と述べています。ここで、ロニーさんは数学を特別扱いしているようですが、
実はこのことは数学以外でも言えることです。
つまり、「人間の言語による思考とはすべてがそのようなものである」ということです。
情報やデータは一旦、自己に取り込まれ、そして脳の中で処理されます。
脳の中に取り込まれた情報やデータは言語化されて具体的に扱われることもあるでしょう。
そして、具体的に扱われたそれらの事象は言語により処理されます。
問題は、そこでメタの立場である言語はどこから出てきたかということです。
人間が扱う言語は、我々の存在を無しに自然界に存在するものではありません。
それは我々の脳が作り出したものです。
学者の研究といっても、大きく分けて2つの場合に分けられると思います。
1.論理研究型
2.実証研究型
『論理研究型』
ある事柄のあり方、原因、背景とそれに関するほかの事柄との関連などに既存の理論を検討して、自分なりの理論を提示するのを目的とする研究。
『実証研究型』
資料や調査データ或いは実験データなどを分析して、その結果を報告する研究。
ロニーさんの「問題の整理」とは「論理研究型」にて用いられる方法です。
勿論、「実証研究型」の研究においても問題の整理を行いはしますが、
それが研究の過程の半分であるということはないです。
少なくとも研究の方法には、ロニーさんが考える以外にもあるということになります。
>>343 >A実際的に(アイデンティティー論)
しかしある議論に対して「現実に結論を出すことができない」と言うことは可能でしょうか。
可能でしょうね。それが議論でなければ。
但し、他からの客観的な指摘があれば結論が出ることもありますが。
>>344 >B論理的に〜
しかし論理に縛られない人間を論理的に批判することはできるでしょうか。
おそらくできないでしょう。
論理に縛られない人間を論理的に批判しなくてもよいでしょう。
「相手にしない」、「喧嘩をしてみる」、「相手と同じような態度をとる」・・・など、
いくらでも方法がありそうですが。
馬鹿げていると思われるかもしれませんが、これも一つのコミュニケーションであると思います。
>>346 >また論理的には燕雀氏は超越論的基礎付けを行っていることになります。
少なくとも、ロニーさんにはそのように見えるのでしょうね。
私は今までの自分の議論の中で現代科学は用いましたが、超越論は用いていません。
ただし、それは抽象化された表現によって用いられております。
これは、教科書に書かれていないことを掲示板などで論ずるときの一つの方法です。
そういった表現が超越論的にも見えないこともないですが。
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
>>346 『的を得る』
>的を射た発言とは問題を整理してはじめて可能になります。
敢えて、「的を得る」を使ったのですが・・・。
「的を射る」ではなくて「的を得る」です。ちょっと面白いので説明しておきます。
一般に、「的を得る」は「的を射る」の間違いであると定義されていますが、
少し考えてみる必要があると思います。
結論から先に言いますと、言葉の意味としては、
「的を射る」≠「的を得る」
です(私はこのように考えます)。
国語辞典には、「的を射る」の意味として、
1.的にあたる
2.目的を達する
3.うまく要点をつかむ
とあります。
また、国語辞典によりますと、「得る」という言葉には、
理解する。
会得する。
といった意味もありますので(これは知っている人が意外に少ないのかもしれないですね)、
他者の意見や思考、或いは物事などを「的」と考えたばあいには、
「的を得る」も間違いではありません。
このばあいには、「目標(的)について理解する」となります。
続き。
「弓で矢を放ち、的を射て、的を得る」というところですか。
矢を的にあてただけでは、まだまだということでしょうか(何か意味深いですね)。
たまたま、矢が的にあたっただけかもしれませんね。
諺にもありますね「下手な鉄砲も数うてば中る」と。
例えば、数学において、公式にあてはめて問題を解くことは、
数学を理解していなくてもできるこのとなのですが
(これは要点をつかんだり、答えを出すという目的を達することに対応します)、
その公式がどうして正しいと言えるのかということを理解するのには、
数学を理解していないと難しいことでしょう。
「的を射て、的を得ず」といったところです。
どうやら、「的を得る」と「的を射る」とは言葉の意味が違うようです。
続き。
余談ですが、私は確認していないのですが、最近の辞典には「的を得る」も記載されているようですよ。
たぶん、上記のような定義はされていないと思いますが。
それから、もともとは「的を射る」の方も上記の「3.うまく要点をつかむ」という意味はなかったようです。
長くなりました。余談はここまでとします。
>的を射た発言とは問題を整理してはじめて可能になります。
ええ、ですので、ロニーさんは「的を得て」いないのですよ(少なくとも私については)。
私は前スレの途中から参加しましたし、書き込みも他の人と比べて多くありませんので、
ロニーさんが問題の整理をできていないとしても仕方ないことなのですが。
>>347 >しかし、燕雀氏の立場ではチキンリキン氏との議論に勝てないでしょうし、
フェミニズムについても直観主義についても批判することができないと思います。
それはそうでしょう。私は別にチキンリキンさんとの議論に勝とうとも思っていませんし、
ジェンダー論や直観主義を全面的に批判する気もないですから
(ロニーさんを批判するつもりもありませんが)。
むしろ、ジェンダー論の性というものを中心に考えたものの見方というのは面白いと思います。
ただ、直観主義論理に関しては、既にパラドクスが示されています(下に書いておきます)。
えーと、今回のロニーさんの私へのレスはここまでですね・・・。
>>312 『ヒルベルトのプログラム』
ヒルベルトのプログラムとは、
「論理から始めて、自然数論、集合論、実数論等の公理系を再検討し、
まず無矛盾な公理系を確立し、できればそれらを完全なものにする」
というものです。
これはどこか直観主義的なものであるとは思いませんか。
事実、後に直観主義はこれに同意し、研究しているようです(形式主義的直観論理)。
『ヒルベルトの怒り』
ブラウワーの用いる直観主義数学が、
あまりにも限定的なものであったためにヒルベルトはブラウワーに激怒したということです。
『ブラウワーの主張』
「存在しないと仮定すると矛盾が起こる」という主張はそのまま「よって存在する」
ということにはならない。「存在する」というためには現物を持ってこなければならない。
少なくとも「有限回の操作でその現物に到達する」という保障を示せ。
・・・ブラウワーの主張は実現可能なのでしょうか?
それを以降で見てゆきたいと思います。
続き。
『ゲーデルのパラドクス』
しかし、なぜ直観主義が形式主義と融合してしまったのでしょうか?
それには、ゲーデルの示した不完全性定理が鍵を握っています。
ゲーデルは、上記のヒルベルトのプログラムとブラウワーの主張に対して、
メタの立場に直観主義を用いてで証明を行いました。
その証明が「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれるものです。
ゲーデルはω無矛盾というものを用いているのですが、
これは直観主義論理で用いられる排中律の拒否よりもさらに強い限定です。
そして、ゲーデルが証明した第2不完全性定理とは次のようなものです。
「自然数論の公理系を含む論理式の集合Kが表現可能でω無矛盾とする。
すると、Kが無矛盾であることも、Kが無矛盾ではないことも、Kから証明できない」
証明は省略しますが、これは「ゲーデルのパラドクス」とも呼ばれています。
なぜ、これがパラドクスであるかというと、
メタの立場に直観主議論を用いることによりパラドクスを示して見せることにより、
ブラウワーの主張がパラドクスを生じるものであることを主張しました。
この定理の証明により、直観主義論理をメタの立場で用いるとパラドクスが生じることが示されました。
続き。
これはヒルベルトやブラウワーにとって衝撃的であったでしょう。
もともとヒルベルトもブラウワーも同じ様な主張をしていました。
ゲーデルは過去において、不完全性定理を示して見せることにより、
2人の数学者の論争に終止符を打ちました。
そして、これこそが形式主義と直観主義を一つにした原因でもあったわけです。
もちろん、今後、形式主義的直観論理が、
形式主義と直観主義が分離することが無いとは言い切れません。
しかしながら、ゲーデルという数学者が2人の論争に終止符を付けることができなければ、
その論争は今も続いていたかも知れません。
我々現代人は知識としてこれらのことを知ってはいますが、
それにより過去を見るときには注意が必要だと思います。
それ故、私は「結果としてなかった」という言葉を用いるのです。
現在から過去を見るという行為には謙虚さが必要だと思います。
>>352 逝ってらしゃーい(w
たぶん、ロニーさんに会えるのはこれで最後になると思います。
私は、これから1年半くらい忙しくなりそうなので(残念です)。
>>1の「ジェンダー論におけるある者の主張」については、また後ほど。
>>364の訂正。
>メタの立場に直観主議論を用いることによりパラドクスを示して見せることにより、
ブラウワーの主張がパラドクスを生じるものであることを主張しました。
メタの立場に直観主議論理を用いることによって、パラドクスが示されたからです。
つまり、直観主義論理はパラドクスを生じます。
>>365の訂正。
>形式主義と直観主義が分離することが無いとは言い切れません。
形式主義と直観主義に分離することが無いとは言い切れません。
『1>>のある者の主張』
『はじめに』
さて、
>>1のジェンダー論における「ある者の主張」に話題を移すことにします。
今回私が考えたのは、敢えて『「論理学」を用いてこのことを解決してみる』ということです。
真理を一つであるとして扱う「古典論理」、「直観主義論理」を用い、
そのもとで一つの事柄に対し、複数の真理が成り立つような「方法」を提示することにより、
逆に論理学としての「古典論理」、「直観主義論理」の正しさを示しました。
しかしながら、こういった論理学とはそもそも、論理の妥当性を問うものであり、
真理を問うものではありません。
このことには、予め注意を与えておきたいと思います。
そもそも、真理とは我々人間の存在が無くてもあるものであり、
論理学を用いたとしても、それに到達可能であることは保証されません。
用いる方法を「論理学」ではなく、「科学」、「数学」、「心理学」、「医学」・・・、
としたところで、この問題に変わりがありません。
しかしながら、可能な限りそういった「方法」を慎重に扱えば、真理が見えてこないこともありません。
真理とは、人間が行うことのできる可能な方法によって、近づくことができるものでもあります。
ただし、それは真理への到達ではなく、「近づく」ことのみが可能なものです。
長くなりました。前置きはここまでとします。
今回は「論理学」と「あるものの主張」を救うというかたちで、私なりの考えを述べます。
少し難しいかもしれませんが、とにかく中立的な答えがあったことになります。
もちろん、これは唯一の答えというわけではありませんが、一つの答えになっています。
それでは、始めたいと思います。
『問題』
ここで、「ジェンダー論におけるあるものの主張」とは次のようなものでした。
>「『真理が一つである』という立場こそ男社会の産物ではないか、『それぞれがそれぞれに>とって真理である』のではないか」
[『真理が一つである』という立場こそ男社会の産物ではないか]
前にも似たようなことを書きましたが、先ず、ここから見ていきたいと思います。
『男社会の産物』
>『真理が一つである』
真理値を扱う学問分野は論理学と呼ばれ、
これは、社会というものとは無関係であるようです。
少なくとも直感主義論理については次のことが言えます。
これはブラウワーの直感主義数学から始まり、
その弟子であるハイティンクが直感主義論理を始めたものであり、
もともとは数理論理学の道具として始まったものです。
男性社会というものには関係ありません。
詳しくは数学基礎論を勉強してください
(以下の問題を解くにあたって、関係はなさそうなので省略します)。
『真理が一つである』
一つは、直観主義論理で言うところの排中律の拒否です。
排中律とは次のものです。
A∨¬A
ここで、この論理式に表れるAとは真か偽のわかる任意の文です。
任意の文といっても、それは真偽が「明らかにわかる」ものではなくてはなりません。
今仮に、f(A)=T(Tは真であることを表します)であるとします。
このとき、Aの否定、つまり、¬Aは F(Fは偽であることを表します)となります。
そして、このとき古典論理ではA∨¬Aを真(F)であるとして扱いますが、
直観主義論理では、これを拒否します。
つまり、A∨¬Aを直観主義論理から排除しました。これが排中律の拒否です。
直観主義論理が排中律の拒否を行うのは数学的な理由からです。
このことも詳しくは、数学基礎論を勉強してください
(これも、以下の問題を解くにあたって、関係はなさそうなので省略します)。
そして、もう一つは次の矛盾式
A∧¬A
これは、トートロジーではありません。つまり、Aにどのように真偽値の代入をしようとも、
トートロジーにはなりません。
どちらかと言うと、こちらの方が「ある者の主張」において言われる
>『それぞれがそれぞれにとって真理である』
を表しています。
A∧¬Aは、一つのことに対して、その肯定と否定が同時に成り立たないことを意味します。
もし、
>『それぞれがそれぞれにとって真理である』
であるならば、一つのことに対して、その肯定と否定が同時に成り立たないといけないことになります。
つまり、「ある者の主張」では矛盾式A∧¬Aがトートロジーでなくてはなりません。
上に挙げた矛盾式は、残念ながら多値論理のもとでもトートロジーにはなりません。
矛盾式のトートロジーは、諦めることとし、以降では排中律と矛盾式について考えてみたいと思います。
『準備』
>『それぞれがそれぞれにとって真理である』
次にここを見ていきたいと思います。
もう一度はっきりさせておきますが、
(A∨¬A)
ここに表れるAは、真偽が明らかにわかるものではなくてはなりません。
つまり、古典論理と直観主義論理において、
論理式に表れる記号A、B、C、・・・などというものは、
真偽が明らかにわかるものではなくてはなりません。
それでは始めましょう。先ずは古典論理で考えたいと思います。
『古典論理での考察』
>『それぞれがそれぞれにとって真理である』
表現が抽象的で解りにくいのですが、
ここでは、「ある対象に対しては見る者により、いろいろな見え方がある」としておきます。
そして、その一つ一つを真であるとします。
今ある人aとbが同一の対象に対して何やら議論しています。
aさんはこう言います「この粘土細工は猫を表現したものだ」と。
そして、bさんはこう言います「この粘土細工は犬を表現したものだ」と。
はたして、どちらが正しいのでしょうか。
そして、さらにcさんはこう言います「この粘土細工は豚を表現したものだ」と。
各文を
A:「この粘土細工は猫を表現したものだ」
B:「この粘土細工は犬を表現したものだ」
C:「この粘土細工は豚を表現したものだ」
としておきます。このとき、
¬A:「この粘土細工は猫を表現したものではない」
¬B:「この粘土細工は犬を表現したものではない」
¬C:「この粘土細工は豚を表現したものではない」
となります。そして、
A∨¬A
B∨¬B
C∨¬C
これは、どのようにA、B、Cに真偽値を代入しようとも、どの論理式も真になります。
つまり、トートロジーです。
続き。
ここで、A∨¬Aは、「Aであるか、Aでないか」を意味し、古典論理では、これを真であるとして扱います(排中律)。
そして、A∨¬Aにおいて、Aでないということ、つまり、
¬Aの「真実」は、BかCか、それ以外の何かということになります。
ここでは、¬Aはあくまで、Aの否定でしかありませんので、
¬AをBやCに置き換えることはできません。
これは、B∨¬BとC∨¬Cについても同じ事がいえます。
ここで、これらの論理式を結合してみると、A、B、Cにどのように真偽値を代入しても
(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C)
は真(T)となります。
しかし、ここで注意しておかなければならないことがあります。
それは、(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C)が真(T)であったとしても、
これは、「AまたはAでなく、BまたはBでなく、CまたはCでない」ということが言えるだけで、
『それぞれがそれぞれにとって真理である』が真であることが言えるものではありません。
『直観主義論理での考察(問題の明確化)』
直観主義論理では排中律を拒否していますので、上に挙げた問題はさらに明確になります。
つまり、上記の例のように同じ対象を扱う限り、二値論理ではA、B、Cはいずれか一つが真でなければなりません
(このようにしないと事実との不一致が起こります)。
そして、このとき仮に真理をCとすると、Cのみが真(T)となります。
この例に合うように真偽値の代入を行ってみると、
f(A)=F
f(B)=F
f(C)=T
となります。結合をしてみますと
A∧B∧C
は偽(F)となり、『それぞれがそれぞれにとって真理である』は明らかに偽となります。
それ故、
>>1のある者の主張では『真理が一つである』を否定するのもだと思われます。
『問題の詳細化』
しかし、ここまでの議論では少しおかしなところがあります。
それは、「aさんとbさんが同じ対象について議論しているといえるのか」ということです。
さらに、「A、B、Cは対象が同じであるといえるのか」ということもいえます。
先ずはこれらのことは置いておき、A、B、Cそれぞれの真偽を考えてみたいと思います。
それでは始めましょう。
aさん、bさんはそれぞれ対象物「粘土細工」をみて次のように言いました。
A:「この粘土細工は猫を表現したものだ」
B:「この粘土細工は犬を表現したものだ」
そして、もし仮にaさん、bさんが存在しないとしても、前の仮定により、
C:「この粘土細工は豚を表現したものだ」
は確かな真理です。
このときaさん、bさんが存在してそれぞれA、Bのように言えば、
これは前にみたようにCのみが真で他は偽となります。
そして、これらは明らかに同じ対象物を扱っているように見えます。
しかし、ここで「aさん、bさんが存在しなくても、確かな真理がある」ということを考えると、
aさんの存在があり、Aがある。
bさんの存在があり、Bがある。
ということがいえます。
さらに、仮に粘土細工の作成者をcさんとし、cさんは既に亡くなっており、
この粘土細工についての情報は残していないとします。
それでも、この作者は粘土細工を作成したときにCのように決めました。
つまり、
cさんの存在があり、Cがある。
ということがいえます。しかし、これは同時に
cさんの存在がなくても、Cがある。
もいえます。なぜなら、対象となっている粘土細工は過去のある時点において、
cさんが
C:「この粘土細工は豚を表現したものだ」
として作成したものだからです。つまりこれは絶対的な真理です。
続き。
さて、ここで、aさんと、bさんに話を移してみましょう。
aさんと、bさんはともに対象である同じ粘土細工をみて、それぞれA、Bのように答えました。
しかし、
aさんの存在があり、Aがある。
bさんの存在があり、Bがある。
ということから、A、Bは、aさん、bさん、の存在なくしてはいえません
(もちろん、生前に、aさん、bさんがA、Bのように言っていることもありますが、
このばあいは、「aさんの存在があり」という部分を「aさんの存在があったので」と
読んでください。bさんについても同様。)。
つまり、aさん、bさんが存在してAやBという見方があったわけです。
ところで、ここまで同じ対象である粘土細工についてaさん、bさんがみていたわけですが、
「見る」という行為をおおざっぱに追ってみたいと思います。
物を「見る」という行為は、先ず、目から情報やデータが入り、そして脳にその情報が達します。
そして、必要であれば、それら情報やデータは大脳において処理されます。
そのときに各々の脳内にある「知識」を用いてある結果を出します。
もちろん、このとき用いるものは「知識」ではなくて、
もっと直感的に「ひらめき」でもかまいません。
そうしたプロセスにより、出てきた答えがAやBであったわけです。
このとき、aさん、bさんはそれぞれ自分が述べたAやBを真であると思っているとします。
すると、同じ対象に対する真である答えは複数あることになり、これは矛盾式を導きます。
次に「同じ対象」というものを考えてみたいと思います。
『真偽の考察』
ここで、「aさんとbさんが同じ対象について議論しているといえるのか」ということを考えてみます。
上の議論では確かに、aさんと、bさんは「同じ対象物」である「粘土細工」をみてきました。
しかし、何かが変です。いったい何が変なのでしょうか。
これを詳しく見るために、aさん、bさんの世界に入ってみましょう。
おっと、手を離すとはぐれて戻れなくなってしまいますよ(w
それでは、出発しましょうか。
aさんは対象物「粘土細工」をみて次のように言いました。
A:「この粘土細工は猫を表現したものだ」
そして、これを確かに真だと思っているようです。
同様にbさんも
B:「この粘土細工は犬を表現したものだ」
と思っており、これを確かに真だと思っているようです。
ここで、問題があります「思っている」とはどのようなことかということです。
「思っている」ではなく「感じている」でもかまいませんが、
とにかく各々が自分の考えを真であると思っているようです。
その「思っている」ということは、個人が持つ考えであり、
その個人においては絶対的な真理です。
誰が何と言おうと、そう思っていることは、その個人において確かな真理でありましょう。
そこでは、少なくともその個人において「思っている」ことの真偽の確定ができます。
確かに自分がそう思っているのなら真であり、そうでなければ偽です。
ただし、今まで用いていたA、Bをそのまま用いるわけにはいかないので、次のようにします。
A1:「私aは、この粘土細工は猫を表現したものだと思う」
B1:「私bは、この粘土細工は犬を表現したものだと思う」
となります。そして、aさん、bさんは確かにA、Bのように思っているとし、真偽値の代入を行えば、、
f(A1)=T
f(B1)=T
となります。
続き。
つまり、これはどういうことかと言うと、
今まで同じ対象について議論しているとみえていたものが、
実は異なる対象についての議論であったということが言えることになりました。
ここで、A1の対象になっているのが「私aの考え」であり、
B1の対象になっているのが「私bの考え」です。
それでは次にcさんについて考えてみましょう。
粘土細工の作成者であるcさんは既に亡くなっており、
この粘土細工についての情報は残していないので真偽は不明です。
それでも、
C:「この粘土細工は豚を表現したものだ」
これを確かに真であると仮定します。これはこのまま用いても問題ありません。
Cの対象は「粘土細工」です。このときの真偽値の代入は、
f(C)=T
となります。それでは、これらを結合してみましょう。
A1∧B1∧C
これは真(T)となります。どうやら、
>>1の「ある者の主張」
>『それぞれがそれぞれにとって真理である』
は、救われたことになります。
このように対象物についての情報やデータは目から入り、個人の脳内で何らかの処理を受け、
そして、各々が「思っている」という結果をだしました。
それが、A1であり、B1であったわけです。
このように問題をできるだけ細かく見ることにより、
A、B、Cはそれぞれ対象が異なっていたことがわかりました。
『まとめ』
>>1の「ある者の主張」では、
1.『真理が一つである』という立場こそ男社会の産物ではないか
2.『真理が一つである』の否定
3.『それぞれがそれぞれにとって真理である』
このようなことが言われておりました。
今まで見てきたように「ある者の主張」は1については否定的に解決されました。
しかし、3は『真理が一つである』のもとにおいても成立することが示されました。
つまり、2の『真理が一つである』の否定に失敗したことになります。
上で見たような方法をとることによって、「真理が一つ」であっても問題は解決されました。
そして、これは中立的な解法になっています。
『参考文献』
証明において、「論理学」(東京大学出版会 野矢茂樹 著)を参考にしました。
『証明(上に述べたことを理解するのに特に必要ではありません。おまけです。)』
(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C)
証明1(命題論理の公理系LPを用いました)
(1)¬(A∨¬A) [1]背理法の仮定1
(2)¬(B∨¬B) [2]背理法の仮定2
(3)¬(C∨¬C) [3]背理法の仮定3
(4)(A∨¬A)∧¬(A∨¬A) [1](1)と結合
(5)(B∨¬B)∧¬(B∨¬B) [2](2)と結合
(6)(C∨¬C)∧¬(C∨¬C) [3](3)と結合
(10)¬(A∨¬A)⊃((A∨¬A)∧¬(A∨¬A)) (1)(4)とDR
(11)¬(B∨¬B)⊃((B∨¬B)∧¬(B∨¬B)) (2)(5)とDR
(12)¬(C∨¬C)⊃((C∨¬C)∧¬(C∨¬C)) (3)(6)とDR
(13)A∨¬A (10)と背理法
(14)B∨¬B (11)と背理法
(15)C∨¬C (12)と背理法
(16)(A∨¬A)∧(B∨¬B) (13)(14)と結合
(17)(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C) (15)(16)と結合
証明2(命題論理の公理系LPを用いましたが、二重否定の除去を行っていないものです)
(1)A∨¬A [1]仮定1
(2)B∨¬B [2]仮定2
(3)C∨¬C [3]仮定3
(4)(A∨¬A)∧(B∨¬B) [1,2](1)(2)と結合
(5)(A∨¬A)⊃((A∨¬A)∧(B∨¬B)) [2](1)(4)とDR
(6)(A∨¬A)∧(B∨¬B) [2](1),(5)とMP
(10)(B∨¬B)⊃((A∨¬A)∧(B∨¬B)) (2)(6)とDR
(11)(A∨¬A)∧(B∨¬B) (2),(10)とMP
(12)(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C) [3](3)(11)と結合
(13)(C∨¬C)⊃((A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C)) (3),(12)とDR
(14)(A∨¬A)∧(B∨¬B)∧(C∨¬C) (3)(13)とMP
A1∧B1∧C
証明(直観主義論理の公理系LIPを用いました)
(1)A1 [1]仮定1
(2)B1 [2]仮定2
(3)C [3]仮定3
(4)A1∧B1 [1,2](1)(2)と結合
(5)A1⊃(A1∧B1) [2](1)(4)とDR
(6)A1∧B1 [2](1)(5)とMP
(10)B1⊃(A1∧B1) (2)(6)とDR
(11)A1∧B1 (2)(10)とMP
(12)A1∧B1∧C [3](3)(11)と結合
(13)C⊃(A1∧B1∧C) (3)(12)とDR
(14)A1∧B1∧C (3)(13)とMP
以上です。